うた子さんは友達に教わって、水仙の根を切り割って、赤い絵の具と青い絵の具を入れて、お庭の隅に埋めておきました。早く芽が出て、赤と青の水仙の花が咲けばいいと、毎日水をやっておりましたが、いつまでも芽が出ません。  ある日、学校から帰ってすぐにお庭に来てみると、大変です。お父様がお庭中をすっかり掘り返して、畠にしておいでになります。そうしてうた子さんを見ると、 「やあ、うた子か。お父さんはうっかりして悪い事をした。お前の大切な水仙を二つとも鍬で半分に切ってしまったから、裏の草原へ棄ててしまった。勘弁してくれ。その代り、今度水仙の花が咲く頃になったら、大きな支那水仙を買ってやるから」  とおあやまりになりました。  うた子さんは泣きたいのをやっと我慢して、裏の草原を探しましたが、もう見つかりませんでした。そうしてその晩|蒲団の中で、「支那水仙は要らない。あの水仙が可愛いそうだ。もう水をやる事が出来ないのか」といろいろ考えながら泣いて寝ました。  あくる日、学校から帰る時にうた子さんは、「もううちへ帰っても、水仙に水をやる事が出来ないからつまらないなあ」とシクシク泣きながら帰って来ますと、途中で二人の綺麗なお嬢さんが出て来て、なれなれしくそばへ寄って、 「あなた、なぜ泣いていらっしゃるの」  とたずねました。うた子さんがわけを話すと、それでは私たちと遊んで下さいましなと親切に云いながら、連れ立っておうちへ帰りました。  二人はほんとに静かな音なしい児でした。顔色は二人共雪のように白く、おさげに黄金の稲飾りを付けて、一人は赤の、一人は青のリボンを結んでおりました。うた子さんはすこし不思議に思って尋ねました。 「あなたたちはそんな薄い緑色の着物を着て、寒くはありませんか」 「いいえ、ちっとも」 「お名前は何とおっしゃるの」 「花子、玉子と申します」 「どこにいらっしゃるのですか」  二人は顔を見合わせてにっこり笑いました。 「この頃御近所に来たのです。どうぞ遊んで下さいましね」  うた子さんはそれから毎日、三人で温順しく遊びました。本を見たり、絵や字をかいたり、お手玉をしたりして日が暮れると、二人は揃って、 「さようなら」  と帰って行きました。お母さんは、 「ほんとに温順しい、品のいいお嬢さんですこと。うた子と遊んでいると、うちにいるかいないかわからない位ですわね」  とお父さんと話し合って喜んでおいでになりました。  そのうちにお正月になりました。  うた子さんは初夢を見ようと思って寝ますと、いつも来るお嬢さんが二人揃って枕元に来て、さもうれしそうに、 「今日はおわかれに来ました」  と云いました。  うた子さんはびっくりしましたが、これはきっと夢だと思いましたから安心して、 「まあ、どこへいらっしゃるの」  と尋ねました。二人は極りわるそうに、 「今から裏の草原に行かねばなりません。どうぞ遊びに入らっして下さいね」  と云ううちに、二人の姿は消えてしまいました。うた子さんはハッと眼をさましましたが、この時やっと気がつきまして、 「それじゃ、水仙の精が遊びに来てくれたのか」  と、夜の明けるのを待ちかねて草原へ行ってみました。  草原は黄色く枯れてしまっている中に、水仙が一本青々と延びていて、青と赤と二いろの花が美しく咲き並んでおりました。  いらっしゃいまし。お珍らしい雨で御座いますナアどうも……こうもダシヌケに降り出されちゃ敵いません。  いつも御|贔屓になりまして……ま……おかけ下さいまし。一服お付けなすって……ハハア。傘をお持ちにならなかった。ヘヘ、どうぞ御ゆっくり……そのうち明るくなりましょう。  どうもコンナにお涼しくなりましてから雷鳴入りの夕立なんて可笑しな時候で御座いますなあ。まったく……まだ五時だってえのに電燈を灯けなくちゃ物が見えねえなんて……店ん中に妖怪でも出そうで……もっとも古本屋なんて商売は、あんまり明るくちゃ工合が悪う御座いますナ。西日が一パイに這入るような店だと背皮がミンナ離れちゃいますからね。ヘヘヘ……。  失礼ですが旦那は東京のお方で……ハハア。東京の大学からコチラへ御転任になった。○○科にお勤めになっていらっしゃる……成る程。コンナ時候のいい時は大してお忙がしく御座んせんで……ヘヘ。恐れ入りやす。開業医だったら大損で……まったく大学って処は有り難い処で御座いますなあ。  実は私もコレで東京生れなんで。竜閑橋ってえ処の猫の額みたいなケチな横町で生れたもんでゲスが、ヘヘヘ。これでも若い時分は弁護士になろうてんで、神田の東洋法律学校へ通いまして六法全書なんかをヒネクリまわしていたもんですが、生れ付きのナマクラでね。小説を読んでゴロゴロしたり、女の尻ばかり追いまわしたりして、さっぱりダラシが御座んせん。両親が亡くなりますと一気に、親類には見離される。苦学する程の骨ッ節もなし。法界節の文句通りに仕方がないからネエエ――てんで、月琴を担いで上海にでも渡って一旗上げようかテナ事で、御存じの美土代町の銀行の石段にアセチレンを付けて、道楽半分に買集めていた探偵小説の本だの教科書の貰い集めだのを並べたのが病み付きで、とうとう古本屋になっちまいましてね。ヘヘヘ。その中に嬶が出来たり餓鬼が出来たり何かしてマゴマゴしている中にコンナに頭が禿げちゃっちゃあモウ取返しが付きやせん。まあまあナマクラ者にゃ似合い相当のところでげしょう。文句はありませんや。  ヘエヘエ。それあ、この××クンダリへ流れて来るまでにゃガラ相当の苦労も致しやしたよ。途中で古本屋がイヤンなっちゃって、見よう見真似の落語家になったり、幇間になったりしましたが、やっぱり皮切りの商売がよろしいようで、人間迷っちゃ損で御座いますナ。だんだん呼吸をおぼえて来ると面白い事もチョイチョイ御座いますナ。ヘエ……粗茶で御座いますが一服いかが様で……ドウゾごゆっくり……。  コンナに降りますと、お客様もお見えになりませんな。いつ来て見ても、お客様が一人立っておいでになる古本屋なら、大丈夫立って行くものです。ですから一人もお客様がお見えにならないと手前が自分でサクラになってノソノソ降りて行きまして、本棚なぞを整理致しておりますんで……これがマア商売のコツで御座いますナ。つまりその一人立っている人間が店の囮になるんで……通りかかりの方が店を覗いて御覧になった時に、誰か一人本棚の前に突立って本を読むか何か致しておりますとツイ釣り込まれてふらふらと這入ってお出でになる。群衆心理というもので御座いますかな……そのアトから又一人フラフラっと……てな訳で……。イヤどう致しまして……先生にお茶を差上げて囮に使っている訳じゃ御座んせん。ハハハ。コンナ大降りの時にはイクラ囮を使ったって利き目は御座んせん。ヘヘヘヘ。恐れ入ります。どうぞお構いなく御ゆっくりと……。  ヘエヘエ。それは面白いお話も御座いますよ。ツイこの間の事……高等学校の生徒さんがゲーテの詩集を売りに見えましてね。ほかの参考書や何かと一緒に十冊ばかりを三円で頂戴いたしましたが、その中でも、ゲーテの詩集が特別に古いようですから、あとでよく調べてみますとドウです。千七百八十年に独逸で出版されたヤツの第一版なんで、おまけにその見返しの処にぬたくっている持主署名をよく見ますと、どうしてもシルレルとしか読めません。それからコチラの法文科で古書を集めておいでになる中江|学長さんのお宅へ持って参りましたらドウデス。七十円でお買上げになりましたよ。……何でもそのゲーテの詩集が出ました千七百八十年の夏でしたか秋でしたかに、詩聖のシルレルが、その第一版を買って読んでいる中に、 「コンナ下らない詩集なんかモウ読んでやらないぞ」  てんで地面にタタキ付けた。それから又拾い上げて先の方を読んで行くうちに、今度は三拝九拝して涙を流しながら、 「ゲーテ様。あなたは詩の神様です。私は貴方のおみ足の泥を嘗めるにも足りない哀れな者です」  とか何とか云ってオデコの上に詩集を押付けたってえ話が残っている。それがこの本に違いない。独逸人に持たせたら十万マークでも手放さないだろうテンデ、アトから中江先生が説明して下さいましたがね。お人が悪うがすよ中江先生は……ハハハ。もっとも私もこの本は東京へ持って行けあ汽車賃ぐらいの事じゃなさそうだ……ぐらいの事はカン付いていましたがね。慾をかわいたって仕様が御座んせん。  ヘエヘエ。今度ソンナのが出ましたらイの一番に先生の処へ持ってまいります。大学の○○科で……ヘエ。助教授室……ヘエヘエ。何卒よろしく御願い致します。  ヘエヘエ。法文科の中江先生ですか。よく手前どもの処へお見えになりますよ。古い本をお探しになるのが何よりのお楽しみだそうですね。いいお道楽ですよマッタク……古本屋てものは元来、眼の見えない者が多いんだが、お前は割合によくわかるから、話相手になると仰言ってね……ヘヘヘ。手前味噌で恐れ入ります。いつも御指導を願っております。  御覧の通り手前共では、学生さんが御相手でげすから、横文字の書物なら全部、大きく原書と書いた貼札をして同じ棚に並べておきますので……ところがこの間ウッカリ、  CHOHMEY KAMO'S HOJOKY  って書いた奴を、何だかよく判らないでパラパラッと見たまんまに原書って書いた札をデカデカと貼って二円の符牒を付けておきましたら、中江先生がソイツを棚の中から引っこ抜いてお出でになって、私の鼻の先に突付けて、お叱りになったものです。 「しっかりしてくれなくちゃ困る」  てえ御立腹なんで……成る程、よく読んでみますと鴨の長明の方丈記の英訳なんで。ハッハッハッ。ドッチが原書なんだか訳がわかりませんや。まったく恐れ入りましたよ。方丈記の英訳の中でも一番古いものだからと仰言って二十円で買って頂きましたよ。ゲーテの詩集の埋合わせをして頂いたようなもので。ヘヘヘヘヘ……。  まったくで御座いますよ。そのまま二円で買って行かれたって文句は御座いません。中江先生みたいなお方ばっかりだったら、苦労は御座んせんが、タチの悪いお客もずいぶん御座いますよ。ソレア……一冊丸ごと立読みなんて図々しいのはショッチュウの事なんで、その又読み方の早いのには驚きますよ。店の本の上に腰をかけて、足の下を吸殻だらけにしいしい一冊読んじゃってから、私の処へ持って来て、 「オイ君。この本一円きり負からないのかい。大して面白い本でもないぜ」  なんて顔負けしちゃいます。大きなお世話でサア……文科の生徒さんなんかは、試験前にチョイチョイ来て、アノ棚の上の大きなウエブスターの辞書だの大英百科全書を抱え下して、入り用な字を引いちゃってから、そのまま置きっ放しぐらいは構いませんが、ノートに控えるのが面倒臭いんでしょう。その一頁をソッと破って持って行くんですから非道うがすよ。よく聞いてみると大学校には修身てえ学科が無えんだそうで……呆れて物が云えませんや。  もっと非道いのがありますよ。丸ごと本を持って行ってしまうんです。つまり万引ですね。しかもその万引の手段てえのが、トリック付きなんですから感心しちゃいまさあ。  自分で一冊か二冊、つまらない別の本を裸で抱えて、如何にも有閑学生か、有閑インテリらしい気分と面構えで飄然と往来から這入って来るんですね。最初から狙っている本はチャントきまっているんですが、直ぐにその本の処へ行くようなヘマは決してやりません。そこが手なんだろうと思うんですが、依然として風来坊を気取りながらアチコチと棚を見上げ見下げして行く中に、如何にも自然に狙った本へ近付いて行く。そこで不承不承のイヤイヤながらの事の序だといった恰好で、その本の包装を引抜いて、気永く内容を読んでいるふりをしているんです。そうなるとこっちだってデパートの刑事さんじゃなし、最初から疑っているんじゃありませんから、ツイ眼を外らしてしまいますと、そこを狙っているんですね。つまらなさそうな顔をしてその本を棚に返す……と思ったら大間違いの豈計らんやでげす。返すと見えたのは包装のボール箱だけ……又は用意して来た、ほかの下らない本を詰めたりしてモトの隙間へ突込んで、入用な本はチャント脇の下に挟みながら……チェッ。碌な本は在りやがらねえ……といったような恰好で悠々とバットの煙を輪に吹きながら出て行くんだから大した度胸でげす。考えたもんですなあ。  ええ……それあ一時の出来心もありましょうが、ズット前からの出来心も御座いましょうよ。何しろ修身の無え学校の生徒さんでゲスから油断も隙もあれあしません。コンナ手を矢鱈に使われちゃやり切れませんや。  しかもソレが脛っ噛りの学生さんばっかりじゃ御座んせん。相当の月給を取っておいでになる修身の本家本元みたいな立派な紳士の方が、時々この手をお出しになるんですから驚きますよ。ヘヘヘ。大学の先生方もチョイチョイお見えになります。こっちの達人の方もおいでにならないじゃ御座んせんが、なかなか鮮やかなお手附のようです。ヘヘヘ。まさかお修身の代りに講義で生徒さんに御伝授になる訳でも御座いますまいがね。どうもお手際が生徒さん達よりも水際立っているようです。第一御風采がお立派ですからマサカと思ってツイ油断しちまいまさア。  もっともソンナのは大抵御本好きの方に限るようですね。珍しい本だと思えば高価そうだし、欲しさは欲しし……店番のオヤジの面ア間抜けに見えるし……てんで、相当お立派な御人格の方がツイ、フラフラとお遣りになるのが病み付きになってダンダン面白くなって来る。そこんとこだけは良心が磨り切れちゃってトテモ人間|業とは思えないくらい大胆巧妙になっておいでになるんですから、お相手を仰付けられた本屋は叶いませんや。……しかし有り難いもので……何度もその手を喰って慣れて参りますと大抵わかりますよ。どうもあの人が臭いってね。丁稚が云うものですから、気を附けておりますと手口から何からスッカリわかっちまいます。しまいには入口からノッソリ這入ってお出でになる態度を見ただけでもアラカタ見当が附いて来ます。……サテはオヤリ遊ばすな……とか遊ばさないナ……とかね。ヘヘヘ。  面白いのはその万引した本を、持って帰って読んでしまってから、ソッと返しに来る人があるのです。御承知の通りこの頃の小説本と来たら、昔のエライ連中が書いたのと違って、一度読んじゃったら二度と読む気になれないものが多いらしいんです。又は持って帰って読んでみると大した本でも珍らしい本でもなかったらしいんですね。ですから何も良心に背反いてまで泥棒して来るほどのシロモノじゃなかった……と思って返しにお出でになるんだか……それとも最初からチョット借りて、中味の減らないようにソーッと読んで、返して下さるおつもりだったのかどうだか、ソノ辺のところがコチラでは何とも見当が附きかねますがね。良心があるんだかないんだか、紳士的なんだか、超特級の泥棒根性なんだか……無賃乗車で行って用を足して引返して来て、乗らない顔をしているみたいなもので、ややこしい心理状態もあればあるものですね。  ヘエヘエそれあ、まったく返って来ないのも随分ありますよ。そんなお顔はコチラでチャント存じておりますがね。そこが商売冥利って奴で、黙って知らん顔をしております。元値を考えたら大したもんじゃ御座んせんしね。ショッチュウ気を付けてケースの中味が在るか無いか調べなくちゃならないのが面倒臭い位のもんでさ。そうして中味が変っているか、抜けているかしている本の前に立っておられた方を、あの方、この方と思い出しているうちに、だんだんお人柄がわかって参りますから不思議なもンで……この間コンナのがありましたよ。これは又物スゴイ、素敵な本でしたが……。  ××医専の生徒さんが夏休みに持込んで御座った本だったと思いますがね。御本人は××の××の方で、先祖代々から伝わって来た聖書だと仰言ってね。一冊三円で頂戴いたしましたが、例の通り店番の片手間にここに座ってよく調べてみますと驚きましたね。チョット見ると活字みたいですが、一六二六年に英国で出来た筆写本なんです。紙が又大した紙でね。日本の百円札みたいなネットリした紙にミッチリと書詰めたもので、黒い線に青と赤の絵具を使った挿絵まで這入っているんですから、それだけでも大層な珍本でげしょう。  ところがソレだけの事なら私も格別驚きません。金さえ出せば日本内地でも、相当にお眼にかかれるシロモノなんですが、肝を潰したのは、その聖書の文句でげす。あれが悪魔の聖書とでもいったものでしょうか……これこそ世界中にタッタ一冊しかないと噂に聞いたシュレーカーのBOOK OF DEVIL PRAYERかと思うと私は気が遠くなって、真夏の日中にガタガタ震え出したものでげす。  ヘエ……先生はソンナ書物の事をお聞きにならない。ヘエ。そうですか。著者の名前はたしかデュッコ・シュレーカーと読むんだろうと思いましたがね。むずかしい綴りの名前でしたっけが……何でも百年ばかり前の事だそうですがね。有名な英国のロスチャイルドってえ億万長者の二男でしたか三男でしたかが十万ポンドの懸賞付きで探したことがあるってえ仲間の無駄話を、東京に居る時分に小耳に挟んでいるにはおりましたがね。マサカその実物に、お眼にかかろうたあ思いませんでしたよ。  ヘエ。表紙はズット大型の黒い皮表紙なんで……HOLY・BIBLEと金文字の刻印が打込んであって、牛だか馬だかわかりませんが、頑丈な生皮の包箱に突込んであります。その包箱の見返しの中央にMICHAEL・SHIROと読める朱墨と、黒い墨の細かい組合わせ文字の紋章みたいなものが、消え消えに残っているところを見ますと、私のカンでは多分天草一揆頃日本に渡って来て、ミカエル四郎と名乗る日本人が秘蔵してたものじゃないか知らんと……ヘエヘエ。その四郎が天草四郎だったらイヨイヨ大変ですがね。  ヘエヘエむろんそうですとも。その学生さんは何も知らずに普通の聖書と思って売りに見えたに相違御座んせん。聖書なんてものは信心でもしない限り滅多に読んでみる気がしないものですし、その本を持ち伝えた先祖代々の人も、それがソンナ本だって事を云い伝える事も出来ずに、土蔵の奥に仕舞い込んで御座ったんでげしょう。そいつをあの学生さんがホジクリ出して……何だコンナ物、売っチャエ。バアへでも行っちゃえテンで、私の処を聞いて持込んでいらっしたものでしょう。聖書なんてものは、今の学生さんにはオヨソ苦手なもんですからね。中味をどこかの一行でも読んでたら持って来る気づかいありませんや。今頃はスッカリ悪魔になり切っちゃって学校なんか止しちゃって、桃色ギャングか何かでブタ箱にでもブチ込まれているでしょうよ。ヘヘヘ……その学生さんの名前とお処はチャント控えておりますから、その中に××のお宅へお伺いしたらキットまだまだ面白い掘出し物があるに違いないと思ってこの二、三日ウズウズしているんですがね。ヘヘヘ。  中味の読出しは、みんな細かい唐草模様の花文字で、途中のチャプタの切り工合から中みだしなんかスッカリ真物の聖書の通りですし、創世記のブッ付けの四、五行ぐらいはヤッパリ本物の聖書の文句通りですから、誰でも一パイ喰わされるのですが、その四、五行目からの有り難い文句が、イキナリ区切りも何もなしに、トテモ恐ろしい文句に変って来るのです。つまり悪魔の聖書と申しますか。外道祈祷書と申しますか。ソイツを作り出したシュレーカーっていう英国の僧侶さんが、自分の信仰する悪魔の道を世界中に宣伝する文句になっているんですね。昔風な英語ですからチョット読み辛ろうがしたよ。チョット生意気に訳しかけてみた事もあるんですが、ザットこんな風です。 「われ聖徒となりて父の業を継ぎ、神学を学ぶ中に、聖書の内容に疑を抱き、医薬化学の研究に転向してより、宇宙万有は物質の集団浮動に過ぎず。人間の精神なるものも亦、諸原素の化学作用に外ならざるを知り、従って宗教、もしくは信仰なるものが、その出発点よりして甚だしく卑怯なる智者の、愚者に対する瞞着、詐欺取財手段なるを認め、地上に於て最真実なるものは唯一つ、血も涙も、良心も、信仰もなき科学の精神を精神とする所謂、悪魔精神なる事を信じて疑わざるに到れり。わが生まれいでし心は親兄弟、もしくは羅馬法皇が自分のために都合よく作り出せる所謂『神の心』には非ず。生前の神罰、死後の地獄また在ることなし。何をか恐れ、何をか憚らんや。  歴代の羅馬法皇、その他の覇者は皆この悪魔道の礼讃実行者なり。万人の翹望する上流階級の特権なるものは皆この悪魔道に関する特権に外ならず。人類の日常祈るところの核心は皆、この外道精神の満足に他ならず。強者は聖書を以て弱者を瞞着し、科学の教うるところの悪魔の力を恣にして恥じざらむとす。  全世界の人類よ。皆、虚偽の聖書を棄てて、この真実の外道祈祷書を抱け。われは悪魔道のキリストなり。弱き者。貧しき者。悲しむ者は皆吾に従え」  といったような熱烈な調子で、人類全般に、あらゆる悪事をすすめる文句がノベタラに書いて御座います。私はそれを読んで行くうちに、自分の首を絞られるような気持になってしまいましたよ。西洋には血も涙もない悪党が多い。生肝取りだの死人使い、奴隷売買、人殺し請負いナンテものは西洋人でなくちゃ出来ない仕事だと聞いておりましたがマッタクその通りだと思いましたナ。  その耶蘇教の僧侶さんは多分、精神異状者か何かだったのでしょう。そんなつもりで、世界中を悪党だらけにするつもりで、一生懸命に書いたらしく、この世界が「悪」ばっかりで固まっている世界だ……神様なんてものは唯、悪魔の手伝いに出て来た位のもんだっていう事を、出来るだけ念入りに説明しているんです。 「神は弱者のためにのみ存在し、弱者は強者のためにのみ汗水を流し、強者は又、悪魔のためにのみ生存せるもの也」 「世界の最初には物質あり。物質以外には何物もなし。物質は慾望と共に在り。慾望は又、悪魔と共に在り。慾望、物質は悪魔の生れ代り也。故に物質と慾望に最忠実なるものは強者となり悪魔となりて栄え、物質と慾望とを最も軽蔑する者は弱者となり、神となりて亡ぶ。故に神と良心を無視し、黄金と肉慾を崇拝する者は地上の強者也。支配者也」 「強者、支配者は地上の錬金術師也。彼等の手を触るる者は悉く黄金となり、黄金となす能わざるものは悉く灰となる」 「黄金を作る者は地上の悪魔也。彼等の触るる異性は悉く肉慾の奴隷と化し、肉慾の奴隷と化し能わざる異性は悉く血泥と化る」  というようなアンバイです。  ですからこの悪魔の聖書では、旧約の処が「人類悪」の発達史みたいになっておりましてね。アダムとイブが、神様を信心し過ぎて肉慾を軽蔑している間は、子供が生まれなかった。それから蛇によって象徴された執念深い肉慾に二人が囚われて、信仰をなくしちゃって、エデンの花園を逐われてから、お互いの裸体が恥かしくなったお蔭で、子供がドンドン生まれ初めてこの地上に繁殖し初めたんだから、トドのつまりこの地上で栄えるものはエホバの神の御心じゃない。悪魔の心でなくちゃならん……といったような理窟で、人類の罪悪史みたような事が、それからジャンジャン書立ててあるのです。  ……エジプトの王様は代々、自分の妻を一晩|毎に取換えて、飽きた女を火焙りにして太陽神に捧げたり、又は生きたままナイル河の水神様の鰐に喰わせたりするのを無上の栄華として楽しんでいた。  ……ペルシャ王ダリオスの戦争の目的は領土でもなければ名誉でもない。捕虜にして来た敵国の女に対する淫虐と、敵国の男性に対する虐殺の楽しみ以外の何ものでもなかった。彼は戦争に勝つ毎に、宮殿の壁や廊下を数万の敵兵の新しい虐殺屍体で飾りその中で敵国の妃や王女を初め、数千の女性の悲鳴を聞いて楽しんだ。そこにダリオスは世界最高の悪魔的文明を感じたのであった。  ……亜歴山大王はアラビヤ人を亡ぼすために、黒死病患者の屍体を荷いだ人夫を連れて行って、メッカの町の辻々でその人夫を一人ずつ斬倒おさせた。これはその極端な悪魔的な精神に於て、近代の戦争のやり口をリードしているのみならず、遥かにソンナものを超越した偉いところがあった。流石は大王というよりほかなかったものである。  ……露西亜の彼得大帝は、和蘭に行って造船術を習ったと歴史に書いてあるが、これは真赤な偽りで、実際は堕胎術と、毒薬の製法を研究に行ったのだ。彼得大帝は、そうして得た魔力でもって露西亜の宮廷を支配して、あれだけの勢力を得たもので、大帝の属するスラブ人種が、六十幾つの人種を統一して、大露西亜帝国を作ったのも、こうした大帝から魔力を授かったスラブ族の科学智識のお蔭でしかないのだ。  ……こんな調子で世界を支配するものは神様でなくてイツモ悪魔であった。一切の科学の初まりは神様の存在を否定し、人間をその良心から解放するのが目的で、同時に一切の化学の初まりは錬金術であり、一切の医術の初まりは堕胎術と毒薬の研究でしかなかったのである。  ……吾々は歴史に欺むかれてはならない。常に悪魔的な正しい目で歴史を読んで行かないと飛んでもない間違いに陥ることがある。元来ユダヤ人というものは人類の全部をナマケモノにしてコッソリと亡ぼしてしまって、ユダヤ人だけで世界を占領してしまおうと思って、昔から心掛けて来た人種だ。骰子だのルーレットだのトランプだの将棋だのドミノだのいうものは、そんな目的のために猶太人が考え出して世界中に教え拡めたものである。しかもその猶太人が、そんな目的のために発明して世界中に宣伝しようとこころみた最後のものがこの基督教なのだから、呆れてモノが云えないではないか。  ……「この世の中の事は何もかも神様の思召ばかりだ。神様に祈ってさえいれば、欲しいものは何でも下さるのだから、人間はチットモ働かなくていいのだ。神様を信ずれば盲目が見え、唖が物を云い、躄が駆け出すのだ。天を飛ぶ鳥を見よ。地を走る狐を見よ。明日の事なんか考えなくともチャンと生きて行けるじゃないか」といったアンバイ式に宣伝して世界中をみんな懶け者にしちまおうと思って発明したのがこの基督教なんだ。  ……そこでその当時ユダヤでも一番の名優であったヨハネという爺さんを雇って来て、この基督教のチンドン屋をやらせてみたがドウモうまいこと行かない。そこでその次に出て来たユダヤでも第一等の美男子のイエスという男優と、ユダヤ第一の美しい女優のマリアというのを取組ませて、この宣伝を街頭でやらせてみたらコイツが大々的に大当りを取ることになった。       ……といったような調子で旧約聖書の文句が済みますと今度は新約でゲス。  ……つまりそのデュッコっていう僧侶が聖書の中で基督に成り代って云うのです。「吾は悪魔の救世主なり。皆吾に従え」ってんで自分が先祖代々から受け伝えて来た悪魔の血すじを、系図みたいに書並べたのがソノ新約の書出しなんで、それから自分が虫も殺さぬ宣教師となって明暮れ神の道を説きながら、内心では悪魔の道を信仰して、女を殺したり、金を捲上げたりして来た恐ろしい悪事の数々を各章に分けてサモサモ勿体らしく書立ててあるのです。人間は神様と良心を蹴飛ばしちまえばドンナ幸福でも得られる。自分の師と仰ぐものはイエス・クリストじゃない、悪魔に魂を売った独逸の魔法使いファウストだってんで、ありとあらゆる科学的な悪事のやり方が、自分の体験と一緒に、それ相当の悪魔式のお説教を添えて書いてあります。       それから一番おしまいの詩篇のところへ来ると、極端な恋歌ばっかりですね。それもマトモな恋の歌なんか一つもないので、邪道の恋、外道の恋みたいなものを讃美した歌ばっかりなんで呆れ返ったワイ本なんですがね……ヘエ……。  ナ……何ですか……その本がどこに在るかって仰言るんですか……ヘヘヘ。それが又面白いんです。  今も申します通り、その聖書は、ちょっと見たところ、古い木版みたいな字の恰好ですからね。蔵っておいたって仕様がないし、そうかといってウッカリ気心の知れないところに持って行ってお勧めする訳にも行きませんからね。困っちゃって、ボクスか何かの古い皮革のケースに入れたまんま向うの棚の片隅に置いといたんです。それを見つけたお客様のお顔色次第で千円ぐらいは吹っかけてもアンマリ罰は当るめえ……と思っていた訳ですが……普通の聖書にしてもソレ位のねうちはあるんですからね。  ところがこの三月ばかり前のことです。驚きましたよ。いつの間にシテヤラレたものですか、その聖書の中味がスッポ抜かれちゃって、箱だけがあそこの棚の隅に残っているのを発見しちゃったんです。  あそこは店の中でも一番暗い処で、私が珍本と思った本だけをソーッと固めて置いとく処ですからね。あそこに来てジイッと突立っておいでになる方はイツモ大抵きまっているんですからね。持ってお出でになった方もアラカタ見当が……。  オヤッ……先生のお顔色はドウなすったんです。御気分でもお悪いんですか……ヘエ。ヘエッ……これは三百円のお金……今月のお月給の全部……私に下さるんで……ヘエッ……あの聖書のお手附け……千円の内金と仰言るんで……これはどうも恐れ入りましたナ。あの本は先生がお持ちになったんで……ヘエ。それはドウモ何ともハヤ……ヘエヘエ……何と仰言る……。  ヘエエ……今年の春から先生の奥様にピアノを教えにお出でになっている音楽学校出の若いピアニストの方が、あの本を偶然に御覧になって、大変に珍しがって借りておいでになった。先生もその時までは普通の聖書と思って何の気もなくお貸しになった。ヘエヘエッ……ド……ドッ……どうぞお落付きになって……お落付きになって……お静かに……お静かに……御ゆっくりお話し下さいまし……ナナ……なる程。ヘエヘエ。  それから一週間ばかり経って、奥様が流産をなすった……妊娠三箇月で……成る程。お医者様の御診察ではその前にお二人で××にドライブをなすったのが悪かった……ナル程。あの国道はこの頃悪くなりましたな。無理は御座んせんよ。自動車が矢鱈に殖えましたからナ。県の土木費はモトの通りなのに……まだある。ヘエ……。  タッタお一人のお坊ちゃんが、牛乳ばっかりで育てておいでになったのが、四、五日前に急にお亡くなりになった。食餌中毒という診断だが、怪しいと仰言るんで……ヘエ。ドウ怪しいんで……ヘエ。あの本を借りて行かれたピアノの教師が、あの本の中の毒薬を使っているに違いない。この頃、貴方様も胃のお工合が宜しくない。胃がシクシクお痛みになる。×××××、×××かも知れない。ヘエ。つまり貴方様はズット前からそのピアノの教師を疑っておいでになったんですね。成る程。そのピアノの教師は芸術家気取のノッペリした青年……奥様は二度目の奥様で、大阪新聞の美人投票で一等賞……アッ……。  ワ――ッ……先生ッ。チョチョチョチョットお待ち下さい。チョットチョット。いいえ放しませぬ。チョットお待ち下さい。血相をお変えになってどこへお出でになるんで……ナ何ですって……。そのピアノ教師をお訴えになる。あの本を取返して使った毒薬を発見してやる……ま……ま……待って下さい。……ト……飛んでもない事です。まあお聴き下さい。落ち付いて……とにかくここへ今一度おかけ下さい。私のお話をお聞き下さい。御事情は私が見貫いております。事件の真相は私がチャンと存じておりますから、残らずお話し致しましょう。急いてはいけません。短気は損気です……ああビックリした……。  飛んでもない事ですよ先生、ソレは……。もし先生がソンナ事をなされますとあの本をどこから手に入れたという事が、警察でキット問題になりますよ。その時に私が警察へ呼ばれまして正直のところを申立てましたら、先生の御身分は一体どうなるんですか。  ハハハ。それ御覧なさい。まあまあモウ一度ここへお掛け下さい。このお茶の熱いところを一服めし上って下さい。私が何もかもネタを割ってお話し致します。モトを申しますと何もかも私が悪いのです。  ソ……ソンナにビックリなさることは御座いません。コレ……この通りお詫びを申上げます。何もかも私が悪いので御座います。ヘエヘエ。この通りアヤマリます。どうぞ御勘弁を……。  何をお隠し申しましょう……只今まで私がお話致しました事は、みんなヨタなんです。出鱈目なんです。根も葉もない作り話なんでゲス。ハハハ。吃驚なさいましたか。ハハハ……。  あの御本はヤッパリ普通の聖書なんです。もちろん一六八〇年度の英国の筆写本なんでゲスから相当の珍本には間違い御座んせん。三百両ぐらいの価値は確かで御座いますがトテモ千両なんて踏めるシロモノじゃ御座んせん。御自身で読んで御覧になれあ、おわかりになります。初めからおしまいまで普通の聖書の通りの文句で、一字一字|毎に狂いのないところを見ますと、よっぽど信仰の深い僧侶さんが三拝九拝しながら写したもんですね。とにかく滅多に出て来っこない珍本ですからドウゾお大切にお仕舞いおき願いますよ。こうしてお代金を頂戴いたしましたからには、惜しゅうは御座いますが、お譲り致します。  実は先生が、大学でも有名な御本集めの名人でおいでになる事を、法文科の中江先生からズット以前に伺っておりました。今度、○○科へ本集めの名人が来たぜ。あの男は東京に居る時分から俺の好敵手で、どうして集めるんだか判らないが、俺の狙っている本を片端から浚って行ってしまいやがる。あの男が来ると俺の道楽は上ったりだ……ってね。よくソウ仰言っておられましたよ。  ……ですから実はソノ……ヘヘヘ。先生があの本をお持ちになった時も私はよく存じておりましたからね。その中に奥様にでもお代を頂戴に行こうかと思っておりますところへ、今日ヒョックリ先生がお見えになる……トタンに今の夕立で御座いましょう。店には格別お珍しいものも御座んせんし、先生も雨上がりをお待ちになっておいでになる御様子ですし、私も朝から店に座っていてすこし頭がボンヤリして来たようですから、ツイ退屈|凌ぎに根も葉もないヨタ話を一席伺いました訳で……若い中にナマジッカな学問をしたり寄席へ出たり致しました者は、ツイ余計なお喋舌りが出て参りますようで……ヤクザな学問ほど溢れ出したがるようでヘヘヘ。……ヘエヘエやっぱりコウして書物の中に埋まっておりましても探偵小説が一番面白いようで……まったくで御座います。どうかするとツイ探偵小説を地で行ってみたいような気にフラフラッとなりますから妙なもんで……ヘエ。思いもかけませぬお代を頂戴致しまして恐れ入りました。全く根も葉もない作り事を申上げまして、御心配をおかけ申しました段は、幾重にも御勘弁を……。  ヘエ。モウ降り止んだようで御座います。だいぶ明るくなって参りました。明日はお天気になりましょう。  ヘイ。御退屈様。毎度ありがとう存じます。ドウゾ奥様をお大事に……。  チエ子さんは今年六つになる可愛いお嬢さんでした。  ある日裏のお庭で一人でおとなしく遊んでいますと、 「ブルブルブルブル」  と変な歌のような声がきこえました。  何だろうとそこいらを見まわしますと、そこの白壁によせかけてあったサイダーの瓶に一匹の虻が落ち込んで、ブルンブルンと狂いまわりながら、 「ドウゾ助けて下さい。ドウゾ助けて下さい」  と言っています。  チエ子さんはすぐに走って行ってその瓶を取り上げて、口のところからのぞきながら、 「虻さん虻さん、どうしたの」  と言いました。  虻は狂いまわってビンのガラスのアッチコッチへぶつかりながら、 「どうしてか、落ち込みましたところが、出て行かれなくなりました。助けて下さい、助けて下さい」  と泣いて狂いまわります。  チエ子さんは笑い出しました。 「虻さん、お前はバカだねえ。上の方に穴があるじゃないか。そう、あたしの声が聞こえるでしょう。その方へ来れば逃げられるよ。横の方へ行ってもダメだよ。ガラスがあるから」  と言いましたが、虻はもう夢中になって、 「どこですか、どこですか」  と狂いまわるばかりです。  チエ子さんは虻が可哀そうになりました。どうかして助けてやりたいと思って、そこいらに落ちていた棒切れを拾って上から突込んで上の方へ追いやろうとしましたが、虻はどうしても上の方へ来ません。うっかりすると棒にさわって殺されそうになります。  チエ子さんは困ってしまいました。どうして助けてやろうかといろいろ考えました。  上から息を吹きこんだり、瓶をさかさまにして打ちふったりしましたが、虻はなかなか口の方へ来ません。やっぱり横の方へ横の方へと飛んでは打かり、打かっては飛んで、死ぬ程苦しんでいます。  チエ子さんは又考えました。  どうかして助けたいと一所懸命に考えましたが、とうとう一つうまいことを考え出しまして、瓶を手に持ったままお台所の方へ走って行きました。  チエ子さんは台所に行って、サイダーを飲むときの麦わらとコップを一つお母さまから貸していただきました。  そのコップに水を入れて麦わらで吸い取って、虻がジッとしているときにすこしずつ瓶の中に吹き込んでやりますと、虻は水がこわいので段々上の方へやって来ました。  チエ子さんは喜んでもう一いき水を吹いてみますと、どうしたものか虻は又あわて出してブルブルと飛ぶ拍子に水の中へ落ち込んでしまいました。  チエ子さんはあわてて瓶をさかさまにしますと、水と一諸に虻も流れ出て、ビショビショに濡れた羽根を引きずりながら苦しそうに地べたの上をはい出しましたが、やがて水のないところへ来て羽根をブルブルとふるわしたと思うと、 「ありがとう御座います。チエ子さん。このおれいはいつかきっといたします」  と言ううちにブーンと飛んで行きました。 「お母さん、お母さん。チエ子は虻を助けました。サイダーの瓶の中に落ちていたのを水を入れて外に出してやりました」  とチエ子さんは大喜びをしながらお母さんにお話しました。 「そう。チエ子さんはお利口ね。けれども虻は刺しますから、これからいじらないようになさい」  と言われました。 「いいえ。お母さん。あの虻は、チエ子にありがとうってお礼を言って逃げて行きましたのよ。ですからもうあたしは刺さないのよ」  とまじめになって言いました。  お母さんはこれをおききになって大そうお笑いになりました。チエ子さんは虻とお話したことをいつまでも本当にしておりました。  それからいく日も経ってから、チエ子さんがお座敷でうたたねをしていた間にお母さまはちょっとお買物に行かれました。  その留守の事でした。  お台所の方から一人の泥棒が入って来まして、チエ子さんが寝ているのを見つけますと、つかつかと近寄ってゆすぶり起しました。  チエ子さんはビックリして眼をさましますと、眼の前に気味の悪い顔をした大きな男がニヤニヤ笑って立っております。  チエ子さんは眼をこすりながら、 「おじさんだあれ」  と言いました。  泥棒はやっぱりニヤニヤ笑いながら、 「可愛いお嬢さんだね。いい子だからお金はどこに仕舞ってあるか教えておくれ」  と言いました。チエ子さんは眼をパチパチさせて泣き出しそうな顔をしながら、 「あたし知らない。おじさんはどこの人?」  と尋ねました。  泥棒はこわい顔になってふところからピカピカ光る庖丁を出して見せながら、 「泣いたらきかないぞ。さ、お前のお母さんはお金をどこに仕舞っているか。言わないとこれで殺してしまうぞ」  と言いました。  チエ子さんは、 「お母さん」  と泣きながら逃げ出しました。 「このやつ、逃げたな」  と泥棒はいきなり追っかけてチエ子さんを捕まえようとしました。  その時ブーンと唸って一匹の虻が飛んで来て、泥棒の眼の前でブルンブルンブルンとまわり始めました。  泥棒は邪魔になるので、 「こんちくしょう、こんちくしょう」  と払い除けようとしましたが、なかなか払い除けられません。  そのうちにチエ子さんは、 「お母さん、お母さん」  と叫びながら障子を開けてお縁の方に逃げて行きます。 「逃がしてなるものか」  と泥棒は一所懸命となって、とうとう虻をタタキ落として追っかけてゆきました。  そうすると虻はタタキ落とされてちょっと死んだようになりましたが、又飛び上って泥棒の足へ飛びついて力一パイ喰いつきました。 「アイタッ」  と泥棒はうしろ向きに立ち止まる拍子にお縁から足を辷らして、石の上に落っこちて頭をぶって眼をまわしてしまいました。  そのうちにチエ子さんは表へ出て、通りがかりのお巡査さんにこの事を言いましたので、泥棒はすぐに縛られてしまいました。  お母さんがお帰りになってこのお話をおききになると、涙をこぼしてチエ子さんを抱きしめておよろこびになりました。  その時にチエ子さんはお縁側を見ると一匹の虻が死んで落ちておりました。 「お母さん、御覧なさい。この間の虻が泥棒を刺したのよ。あたしが助けてやったお礼をしてくれたのよ」  と言いました。  お母さんはおうなずきになりました。そうして晩方お父さんがお帰りになってお母さんがこのお話をされますと、お父さまはチエ子の頭を撫でながら、 「あぶとお話した子は世界中でチエ子一人だろう」  とお笑いになりました。  チエ子さんは虻のお墓を作ってやりました。  お天気が続いて、どこの田圃も水が乾上がりました。  太郎のお父さんも百姓でしたが、自分の田の稲が枯れそうになりましたので、毎日毎日外に出て、空ばかり見て心配をしておりました。  太郎は学校から帰って来まして鞄をかたづけるとすぐに、 「お父さんは」  と尋ねました。  お母さんは洗濯をしながら、 「稲が枯れそうだから田を見に行っていらっしゃるのだよ」  と悲しそうに云われました。  太郎はすぐに表に飛び出して田の処に行って見ると、お父さんが心配そうに空を見て立っておいでになりました。 「お父さん、お父さん。雨が降らないから心配してらっしゃるの」  と太郎はうしろから走り寄って行きました。 「ウン。どっちの空を見ても雲は一つも無い。困ったことだ」  とお父さんはふりかえりながら言って、口に啣えたきせるから煙をプカプカ吹かされました。 「僕が雨をふらして上げましょうか」  と太郎はお父さんの顔を見上げながら、まじめくさってこう云いました。 「アハハハ。馬鹿な事を云うな。お前の力で雨がふるものか」  とお父さんは腹を抱えて笑われました。 「でもお父さん」  と太郎は一生懸命になって云いました。 「この間、運動会の前の日まで雨が降っていたでしょう。それに僕がテルテル坊主を作ったら、いいお天気になったでしょう」 「ウン」 「あの時みんなが大変喜びましたから、僕のテルテル坊主がお天気にしたんだって云ったら、皆えらいなあって云いましたよ」 「アハハハハ。そうか。テルテル坊主はお前の云うことをそんなによくきくのか」 「ききますとも。ですから今度は雨ふり坊主を作って、僕が雨を降らせるように頼もうと思うんです」 「アハハハハ。そりゃあみんなよろこぶだろう。やってみろ。雨がふったら御褒美をやるぞ」 「僕はいりませんから、雨降り坊主にやって下さい」  太郎はすぐに半紙を一枚持って来て、平仮名でこんなことを書きました。 「テルテル坊主テル坊主  天気にするのが上手なら  雨ふらすのも上手だろ  田圃がみんな乾上って  稲がすっかり枯れてゆく  雨をふらしてくれないか  僕の父さん母さんも  ほかの百姓さんたちも  どんなに喜ぶことだろう  もしも降らせぬそのときは  嘘つきぼうずと名を書いて  猫のオモチャにしてしまう  それがいやなら明日から  ドッサリ雨をふらせろよ  褒美にお酒をかけてやる  雨ふり坊主フリ坊主  田圃もお池も一パイに  ドッサリ雨をふらせろよ」  太郎はその手紙を丸めて坊主の頭にして、紙の着物を着せて、裏木戸の萩の枝に結びつけておきました。  その晩、太郎の家で親子三人が寝ていると、夜中から稲妻がピカピカ光って雷が鳴り出したと思うと、たちまち天が引っくり返ったと思うくらいの大雨がふり出しました。 「ヤア、僕の雨ふり坊主が本当に雨をふらした」  と太郎は飛び起きました。 「僕はお礼を云って来よう」  と出かけようとすると、お父さんとお母さんが、 「あぶない、あぶない。今出ると雷が鳴っているよ。ゆっくり寝て、明日の朝よくお礼を云いなさい」  と止められましたので、太郎はしかたなしに又寝てしまいました。  あくる朝早く起きて見ると、もうすっかりいいお天気になっていましたが、池も田も水が一パイで皆大喜びをしていると、田を見まわりに行っていたお父さんはニコニコして帰ってこられました。そうして太郎さんの頭を撫でて、 「えらいえらい、御褒美をやるぞ」  とお賞めになりました。 「僕はいりません。雨ふり坊主にお酒をかけてやって下さい」  と云いました。 「よしよし、雨ふり坊主はどこにいるのだ」  とお父さんが云われましたから、太郎は喜んで裏木戸へお父さんをつれて行ってみると、萩の花が雨に濡れて一パイに咲いているばかりで、雨ふり坊主はどこかへ流れて行って見えなくなっていました。 「お酒をかけてやると約束していたのに」  と太郎さんはシクシク泣き出しました。  お父さんは慰めながら云われました。 「おおかた恋の川へ流れて行ったのだろう。雨ふり坊主は自分で雨をふらして、自分で流れて行ったのだから、お前が嘘をついたと思いはしない。お父さんが川へお酒を流してやるから、そうしたらどこかで喜んで飲むだろう。泣くな泣くな。お前には別にごほうびを買ってやる……」  私は嬉しい。「あやかしの鼓」の由来を書いていい時機が来たから…… 「あやかし」という名前はこの鼓の胴が世の常の桜や躑躅と異って「綾になった木目を持つ赤樫」で出来ているところからもじったものらしい。同時にこの名称は能楽でいう「妖怪」という意味にも通っている。  この鼓はまったく鼓の中の妖怪である。皮も胴もかなり新らしいもののように見えて実は百年ばかり前に出来たものらしいが、これをしかけて打ってみると、ほかの鼓の、あのポンポンという明るい音とはまるで違った、陰気な、余韻の無い……ポ……ポ……ポ……という音を立てる。  この音は今日迄の間に私が知っているだけで六、七人の生命を呪った。しかもその中の四人は大正の時代にいた人間であった。皆この鼓の音を聞いたために死を早めたのである。  これは今の世の中では信ぜられぬことであろう。それ等の呪われた人々の中で、最近に問題になった三人の変死の模様を取り調べた人々が、その犯人を私――音丸久弥と認めたのは無理もないことである。私はその最後の一人として生き残っているのだから……。  私はお願いする。私が死んだ後にどなたでもよろしいからこの遺書を世間に発表していただきたい。当世の学問をした人は或は笑われるかも知れぬが、しかし……。  楽器というものの音が、どんなに深く人の心を捉えるものであるかということを、本当に理解しておられる人は私の言葉を信じて下さるであろう。  そう思うと私は胸が一パイになる。  今から百年ばかり前のこと京都に音丸|久能という人がいた。  この人はもとさる尊とい身分の人の妾腹の子だという事であるが、生れ付き鼓をいじることが好きで若いうちから皮屋へ行っていろいろな皮をあつらえ、また材木屋から様々の木を漁って来て鼓を作るのを楽しみにしていた。そのために親からは疎んぜられ、世間からは蔑すまれたが、本人はすこしも意としなかった。その後さる町家から妻を迎えてからは、とうとうこれを本職のようにして上つ方に出入りをはじめ、自ら鼓の音に因んだ音丸という苗字を名宣るようになった。  久能の出入り先で今大路という堂上方の家に綾姫という小鼓に堪能な美人がいた。この姫君はよほどいたずらな性質で色々な男に関係したらしく、その時既に隠し子まであったというが、久能は妻子ある身でありながら、いつとなくこの姫君に思いを焦がすようになった揚句、ある時鼓の事に因せて人知れず云い寄った。  綾姫は久能にも色よい返事をしたのであった。しかしそれとてもほんの一時のなぐさみであったらしく、間もなく同じ堂上方で、これも小鼓の上手ときこえた鶴原卿というのへ嫁づくこととなった。  これを聞いた久能は何とも云わなかった。そうしてお輿入れの時にお道具の中に数えて下さいといって自作の鼓を一個さし上げた。  これが後の「あやかしの鼓」であった。  鶴原家に不吉なことが起ったのもそれからのことであった。  綾姫は鶴原家に嫁づいて後その鼓を取り出して打って見ると、尋常と違った音色が出たので皆驚いた。それは恐ろしく陰気な、けれども静かな美くしい音であった。  綾姫はその後何と思ったか、一室に閉じこもってこの鼓を夜となく昼となく打っていた。そうして或る朝何の故ともなく自害をして世を早めた。するとそれを苦に病んだものかどうかわからぬが、鶴原卿もその後病気勝ちになって、或る年関東へお使者に行った帰り途に浜松とかまで来ると血を吐いて落命した。今でいう結核か何かであったろう。その跡目は卿の弟が継いだそうである。  しかしその鼓を作った久能も無事では済まなかった。久能はあとでこの鼓をさし上げたことを心から苦にして、或る時鶴原卿の邸内へ忍び入ってこの鼓を取り返そうとすると、生憎その頃召し抱えられた左近という若侍に見付けられて肩先を斬られた。そのまま久能は鼓を取り得ずに逃げ帰って間もなく息を引き取ったが、その末期にこんなことを云った。 「私は私があの方に見すてられて空虚となった心持ちをあの鼓の音にあらわしたのだ。だから生き生きとした音を出させようとして作った普通の鼓とは音色が違う筈である。私はこれを私の思うた人に打たせて『生きながら死んでいる私』の心持ちを思い遣ってもらおうと思ったのだ。ちっとも怨んだ心持ちはなかった。その証拠にはあの鼓の胴を見よ。あれは宝の木といわれた綾模様の木目を持つ赤樫の古材で、日本中に私の鑿しか受け付けない木だ。その上に外側の蒔絵まで宝づくしにしておいた。あれはお公卿様というものが貧乏なものだから、せめてあの方の嫁かれた家だけでも、お勝手許の御都合がよいようにと祈る心からであった。それがあんなことになろうとは夢にも思い設けなんだ。誰でもよい。私が死に際のお願いにあの鼓を取り返して下さらんか。そうして又と役に立たんように打ち潰して下さらんか。どうぞどうぞ頼みます」  これが久能の遺言となったが、誰も鶴原家に鼓を取り返しに行く者なぞなかった。それどころでなく変死であったので、ごく秘密で久能の死骸を葬った。  しかしこの遺言はいつとなく噂となって世間に広まり、果は鶴原家の耳にも入るようになった。鶴原家ではそれからその鼓をソックリ箱に蔵めて、土蔵の奥に秘めて虫干しの時にも出さないようにした。それと一緒に誰云うとなく「あやかしの鼓」という名が附いて、その箱の蓋を開いただけでも怪しいことがある……その代りこの鼓を持ち伝えてさえおれば家の中に金が湧くと言い伝えられた。そのおかげかどうかわからぬが、その後の鶴原家には別に変ったこともなく却ってだんだんと勝手向きもよくなって維新後は子爵を授けられたが、大正の初めになると京都を引き上げて東京の東中野に宏大な邸を構えた。  これと反対に綾姫の里方の今大路家はあまり仕合せがよくなかった。綾姫が鶴原家に嫁づいたたあとで、血統が絶えそうになったが綾姫の隠し子があったのを探し出して表向きを都合よくして、やっと跡目を立てたような始末であった。しかしその後しだいに零落してしまって維新後はどうなったか、わからなくなっているという。  こうして「あやかしの鼓」に関係のある二軒の家が一軒は栄え一軒は落ちぶれている一方に、音丸久能の子の久伯と、その子の久意は久能のあとを継いで鼓いじりを商売にしてどうにか暮らしているにはいた。けれども二人とも久能の遺言を本気に受けて鶴原家からアヤカシの鼓を引き取ろうというようなことはしなかった。  この久能の孫の久意が私の父であった。  私の父は京都にいる時分から鼓の修繕や仲買い見たようなことをやっていた。けれども手職が出来たらしい割りにお客の取り付きがわるく、最初に生れた男の子の久禄というのは生涯音信不通で、六ツの年に他家へ遣るという有り様であった。これを東京の九段におられる能小鼓の名人で高林弥九郎という人が見かねて東京に呼び寄せ、牛込の筑土八幡の近くに小さな家を借りて住まわせて下すったので父はやっと息を吐いたという事である。  しかし明治三十六年になって母が私を生み残して死ぬと、どうしたものか父は仕事を怠け初めて貸本ばかり読むようになった。それから大正三年の夏に脊髄病に罹って大正五年の秋まで足かけ三年の間私に介抱されたあげく肺炎で死んだ。その時が五十五であった。  その死ぬすこし前のことであった。  私が復習を済ましてから九段の老先生から借りて来た「近世説美少年録」という本を読んできかせようとすると父は、 「ちょっと待て、今日はおれが面白い話をしてきかせる」  と云いながらポツポツと話し出した。それが「アヤカシの鼓」の由来で私にとっては全く初耳の話であった。  ……ところで……  と父は白湯を一パイ飲んで話し続けた。 「……実はおれもこの話をあまり本気にしなかった。名高い職人にはよくそんな因縁ばなしがくっついているものだから……東京に来ても鶴原家がどこにあるやら気も付かず、また考えもしなかった。  すると今から三年ばかり前の春のこと、朝早くおれが表を掃いていると二十歳ばかりの若い美しいはいからさんが来て、この鼓の調子を出してくれと云いながら綺麗な皮と胴を出した。おれは何気なく受け取って見ると驚いた。胴の模様は宝づくしで材木は美事な赤樫だ。話にきいた『あやかしの鼓』に違いないのだ。そのはいからさんはその時こんなことを云った。 『私は中野の鶴原家のもので九段の高林先生の処でお稽古を願っているものだが、この鼓がうちにあったから出して打って見たんだけど、どうしても音が出ない。何でもよっぽどいい鼓だと云い伝えられているのだから、音が出ない筈はないと思うのだけど』  と云うんだ。おれは試しに、 『ヘエ。その云い伝えとはどんなことで……』  と引っかけて見たが奥さんはまだ鶴原家に来て間もないせいか、詳しいことは知らないらしかった。只、 『赤ん坊のような名前だったと思います』  と云ったのでおれはいよいよそれに違いないと思った。おれはその鼓を一先ず預ることにして別嬪さんをかえした。そのあとですぐに仕かけて打って見ると……おれは顫え上った。これは只の鼓じゃない。祖父さんの久能の遺言は本当であった。鶴原家に祟るというのも嘘じゃないと思った。  とはいうものの鶴原家がこの鼓を売るわけはないし、どんなに考えてもこっちのものにする工夫が附かなかったので、おれはそのあくる日中野の鶴原家に鼓を持って行って奥さんに会ってこんな嘘を吐いた。 『この鼓はどうもお役に立ちそうに思えませぬ。第一長い事打たずにお仕舞いおきになっておりましたので皮が駄目になっております。胴もお見かけはまことに結構に出来ておりますが、材が樫で御座いますからちょっと音が出かねます。多分これは昔の御縁組みの時のお飾り道具にお用い遊ばしたものと存じますが……その証拠には手擦があまり御座いませんので……お模様も宝づくしで御座いますから……』  これは家業の一番|六かしいところで、こっちの名を捨ててお向う様のおためを思わねばならぬ時のほか、滅多に吐いてはならぬ嘘なのだ。ところが若い奥さんはサモ満足そうにうなずいたよ。 『妾もおおかた、そんな事だろうと思ったヨ。妾の手がわるいのかと思っていたけど、それを聞いて安心しました。じゃ大切にして仕舞っておきましょう』  って云って笑ってね。十円札を一枚、無理に包んでくれたよ。それから間もなく俺は脊髄にかかって仕事が出来なくなったし、その奥さんも別に仕事を持って来なかった。  けれども俺は何となく気になるから、その後九段へ伺うたんびに内弟子の連中から鶴原家の様子を聞き集めて見ると……どうだ……。  鶴原の子爵様というのは元来、お家柄自慢の気の小さい人で、なかなかお嫁さんが定まらないために三十まで独身でいた位だったそうだが、その前の年の暮にチョットした用事で大阪へ行くと、世間でいう魔がさしたとでもいうのだろう。どこで見初めたものか今の奥さんに思い付かれて夢中になったらしく、とうとう子爵家へ引っぱり込んでしまった。するとその奥さんの素性がわからないというので、親類一統から義絶された揚げ句、京都におれなくなって、東京の中野に移転して来たものだった。  ところでそれはまあいいとしてその奥さんは、名前をたしかツル子さんといったっけが……東京へ越して来て鼓のお稽古を初めると間もなく、子爵様の留守の間に、お附きの女中が青くなって止めるのもきかないで『あやかしの鼓』を出して打って見たものだ。それをあとから子爵様が聞いてヒドク叱ったそうだが、それを気に病んだものか子爵様は間もなく疳が昂ぶり出して座敷牢みたようなものの中へ入れられてしまった。それからツル子夫人は中野の邸を売り払って麻布の笄町に病室を兼ねた小さな家を建てて住んだものだが、そうして病人の介抱をしいしい若先生のところへお稽古に来ているうちに子爵様はとうとう糸のように痩せ細って、今年の春亡くなってしまった。  そうすると鶴原の未亡人は、そのあとへ、自分の甥とかに当る若い男を連れて来て跡目にしようとしたが、鶴原の親類はみんなこの仕打ちを憤ってしまって、お上に願って華族の名前を除くといって騒いでいる。おまけに若未亡のツル子さんについても、よくない噂ばかり……ドッチにしても鶴原家のあとは断絶たと同様になってしまった。  おれは誰にも云わないが、これはあの『あやかしの鼓』のせいだと思う。そうして、それにつけておれはこの頃から決心をした。お前は俺の子だけあって鼓のいじり方がもうとっくにわかっている。今にきっと打てるようになると思う。  けれども俺はお前に云っておく。お前はこれから後、忘れても鼓をいじってはいけないぞ。これは俺の御幣担ぎじゃない。鼓をいじると自然いい道具が欲しくなる。そうしておしまいにはキットあの鼓に心を惹かされるようになるから云うんだ。あのアヤカシの鼓は鼓作りの奥儀をあらわしたものだからナ……。  そうなったらお前は運の尽きだ。あの鼓の音をきいて妙な気もちにならないものはないのだから。狂人になるか変人になるかどっちかだ。  お前は勉強をしてほかの商売人か役人かになって東京からずっと離れた処へ行け。鶴原家へ近寄らないようにしろ。  おれはこのごろこの事ばかり気にしていた。いずれ老先生にもよくお願いしておくつもりだが、お前がその気にならなければ何にもならない。  いいか……忘れるな……」  私はお伽噺でも聞くような気になってこの話を聞いていた。しかし別段鼓打ちになろうなぞとは思わなかったから、温柔しくうなずいてばかりいた。  父は安心したらしかった。  その年の秋に父が死んで九段の老先生の処へ引き取られると、間もなく私は丸々と肥って元気よく富士見町小学校へ通い続けた。「あやかしの鼓」の話なぞは思い出しもしなかった。  老先生は小柄な、日に焼けた、眼の光りの黒いお爺さんであった。年はその時が六十一で還暦のお祝いがその春にある筈であったのが、思いがけなく養子の若先生が家出をされたのでその騒ぎのためにおやめになった。  若先生は名を靖二郎といった。私は会ったことがないが老先生と反対にデップリと肥った気の優しい人で、鼓の音ジメのよかった事、東京や京阪で催しのある毎に一流の芸者がわざわざ聞きに来た位であったという。家出された時が二十歳であったが着のみ着のままで遺書なぞもなく、また前後に心当りになるような気配もなかったので探す方では途方に暮れた。一方に気の早い内弟子はもう後釜をねらって暗闘を初めているらしい事なぞをおしゃべりの女中からきいた。 「あなたが大方あと継ぎにおなりになるんでショ」なぞとその女中は云った。  しかし老先生は私に鼓打ちになれなぞとは一口も云われなかった。只|無暗に可愛がって下さるばかりであった。  けれども家が家だけに鼓の音は朝から晩まで引っ切りなしにきこえた。そのポンポンポンポンという音をウンザリする程きかされているうちに私の耳は子供ながら肥えて来た。初めいい音だと思ったのがだんだんつまらなく思われるようになった。内弟子の中で一番上手だという者の鼓の|音〆はほかの誰のよりもまん丸くて、キレイで、品がよかったがそれでも私は只美しいとしか感じなかった。もうすこし気高い……神様のように静かな……または幽霊の声のように気味のわるい鼓の音はないものか知らん……などと空想した。  私は老先生の鼓が聞きたくてたまらなくなった。  しかし老先生が打たれる時は舞台か出稽古の時ばかりで、うちでは滅多に鼓を持たれなかった。一方に私も学校へ通っていたので、高林家へ来て暫くの間は一度も老先生の鼓をきくことが出来なかった。只一度正月のお稽古初めの時に吉例の何とかいうものを打たれたそうであるが、その時は生憎お客様のお使いをしていたために聞き損ねた。  こうして一夜明けた十六の年の春、高等二年の卒業免状を持って九段に帰ると、私はすぐ裏二階の老先生の処へ持って行ってお眼にかけた。すると向うむきになって朱筆で何か書いておられた老先生はふり返ってニッコリしながら、 「ウム。よしよし」  とおっしゃって茶托に干菓子を山盛りにして下さった。それをポツポツ喰べている私の顔を老先生はニコニコして見ておられたが、やがて床の間の横の袋戸から古ぼけた鼓を一梃出して打ち初められた。  その|ゝゝゝ|○○○という音をきいた時、私はその気高さに打たれて髪の毛がゾーッとした。何だか優しいお母さんに静かに云い聞かされているような気もちになって胸が一パイになった。 「どうだ鼓を習わないか」  と老先生は真白な義歯を見せて笑われた。 「ハイ、教えて下さい」  と私はすぐに答えた。そうしてその日から安っぽい稽古鼓で『三ツ地』や『続け』の手を習った。  けれども私の鼓の評判はよくなかった。第一調子が出ないし、間や呼吸なぞもなっていないといって内弟子からいつも叱られた。 「大飯を喰うから頭が半間になるんだ。おさんどん見たいに頬ペタばかり赤くしやがって……」  なぞと寄ってたかって笑い物にした。けれども私はちっとも苦にならなかった。――鼓打ちなんぞにならなくてもいい。老先生が死なれるまで介抱をして御恩報じをしたら、あとは坊主になって日本中を旅行してやろう――なぞと思っていたから、なおのこと大飯を喰って元気を養った。  その年が過ぎて翌年の春のおしまいがけになると、若先生はいよいよ亡くなられたことにきまったので、極く内輪でお菓子とお茶ばかりの御法事が老先生のお室であった。その席上で老先生の親類らしい胡麻塩のおやじが、 「早く御養子でもなすっては……」  と云ったら並んでいる内弟子の三、四人が一時に私の方を見た。老先生は苦笑いをされた。 「サア、靖のあとは、ちょっとありませんね。ドングリばかりで……」  とみんなの顔を一渡り見られた。内弟子はみんな真赤になった。  私はこの時急に若先生に会って見たくなった。――きっとどこかに生きておられるに違いない。そうして鼓を打っておられるような気がする。その音がききたいな――と夢のようなことを考えながら、老先生のうしろにある仏壇のお燈明の間に白く光っている若先生のお位牌を見ていると、不意に、 「その久弥さんはどうです」  と胡麻塩おやじが又出しゃばって云ったので私は胸がドキンとした。 「イヤ。これはいわば『鼓の唖』でね……調子がちっとも出ないたちです。生涯鳴らないかも知れません。こんなのは昔から滅多にいないものですがね」と云いながら私の頭を撫でられた。私もとうとう真赤になった。 「その児はものになりましょうか」  と内弟子の中の兄さん株が云った。吹き出したものもあった。 「物になった時は名人だよ」  と老先生は落ち付いて云われた。みんなポカンとした顔になった。  みんなが裏二階を降りると老先生は私に取っときの洋羮を出して下さった。そうして長い煙管で刻煙草を吸いながらこんなことを云われた。 「お前はなぜ鼓の調子を出さないのだえ。いい音が出せるのに調子紙を貼ったり剥がしたりして音色を消しているが、どうしてお前はあんなことをするのだえ」  私はおめず臆せず答えた。 「僕の好きな鼓がないんです。どの鼓もみんな鳴り過ぎるんです」 「フーン」  と老先生はすこし御機嫌がわるいらしく、白い煙を一服黒い天井の方へ吹き出された。 「じゃどんな音色が好きなんだ」 「どの鼓でもポンポンポンって『ン』の字をいうから嫌なんです。ポンポンの『ン』の字をいわない……ポ……ポ……ポ……という響のない……静かな音を出す鼓が欲しいんです」 「……フーム……おれの鼓はどうだえ」 「好きです僕は……。けれどもポオ……ポオ……ポオ……といいます。その『オ』の字も出ない方がいいと思うんです」  老先生は又天井を向いてプーッと煙を吹きながら、目をショボショボと閉じたり明けたりされた。 「先生」と私はいくらか調子に乗って云った。 「鶴原様のところに名高い鼓があるそうですが、あれを借りてはいけないでしょうか」 「飛んでもない」  と老先生は私の顔を見られた。私はこの時ほど厳重な老先生の顔を見たことがなかった。私はうなだれて黙り込んだ。 「あの鼓を出すとあの家に不吉なことがあるというじゃないか。たとい嘘にしろ他人の家に災難があるようなことを望むものじゃないぞ。いいか。気に入った鼓がなければ生涯舞台に出ないまでのことだ」  私は生れて初めて老先生にこんなに叱られて真青になった。けれども心から恐れ入ってはいなかった。 「あやかしの鼓」が私のあこがれの的となったのはこの時からであった。  それから間もなく老先生は私を高林家の後嗣にきめられて披露をされた。内弟子たちはみんな不承不承に私を若先生と云った。  しかし私は落胆した。――とうとう本物の鼓打ちになるのか。一生涯|下手糞の御機嫌を取って暮らさなければならないのか。――と思うとソレだけでもウンザリした。――老先生の御恩に背いてはならぬぞ――と、いつも云って聞かせた父の言葉が恨めしかった。同時に若先生が家出をされた原因もわかったような気がして、若先生に対するなつかしさがたまらなく弥増した。しかし若先生に会いたいという望みは「あやかしの鼓」を見たいという望みよりももっと果敢ない空想であった。  私は相も変らず肥え太りながらポコリポコリという鼓を打った。  こうして大正十一年――私が二十一歳の春が来た。その三月のなかばの或る日の午後、老先生は私を呼び付けて、 「これを鶴原家へ持ってゆけ」と四角い縮緬の風呂敷包みを渡された。  鶴原家ときくとすぐに例の鼓のことを思い出したので、私は思わず胸を躍らせて老先生の顔を見た。老先生もマジマジと私の顔を見ておられたが、 「誰にも知れないようにするんだよ。家は笄町の神道本局の筋向うだ。樅の木に囲まれた表札も何もない家だ」と眼をしばたたかれた。  私は鳥打に紺飛白、小倉袴、コール天の足袋、黒の釣鐘マントに朴歯の足駄といういでたちでお菓子らしい包みを平らに抱えながら高林家のカブキ門を出た。  麻布笄町の神道本局の桜が曇った空の下にチラリと白くなっていた。その向うに樅の木立ちにかこまれた陰気な平屋建てがある。セメントの高土塀にも檜作りの玄関にも表札らしいものが見えず、軒燈の丸い磨硝子にも何とも書いてない。この家だと思いながら私は前の溝川に架かった一間ばかりの木橋を渡った。  玄関の格子戸をあけると間もなく障子がスーッと開いて、私より一つか二つ上位に見える痩せこけた紺飛白の書生さんが顔を出して三つ指をついた。髪毛をテカテカと二つに分けて大きな黒眼鏡をかけている。 「鶴原様はこちらで……私は九段の高林のうちのものですが……老先生からこれを……」  と菓子箱を風呂敷ごとさし出した。  書生さんは受け取って私の顔をチラリと見たが、私の眼の前で風呂敷を解くと中味は杉折りを奉書に包んだもので黒の水引がかかっていて、その上に四角張った字で「妙音院高誉靖安居士……七回忌」と書いた一寸幅位の紙片が置いてあった。  私はオヤと思った。ちょっとも気が付かずに持って来たが、これは若先生の七回忌のお茶だ。若先生の御法事はごく内輪で済まされていて、素人弟子には全く知らせないことになっていたのに老先生は何でこんなことをなさるのであろう。鶴原未亡人が差し出てお香典でも呉れたのか知らんと思いながら見ていると、書生さんもその戒名を手に取って青白い顔をしながら何べんも読み返している。何だか様子が変なあんばいだ。  そのうちに書生さんはニッと妙な笑い方をしながら私の顔を見て、 「どうも御苦労様です……ちょっとお上りになりませんか……今私一人ですが……」  と云った。その声は非常に静かで女のような魅力があった。私はどうしようかと思った。上ってはいけないような気がする一方に、何だか上りたくてたまらぬような気がして立ったまま迷っていると書生さんは箱を抱えて立ち上りがけに躊躇しいしい又云った。 「……いいでしょう……それに……すこしお頼みしたいことも……ありますから」  私は思い切って下駄を脱いだ。書生さんは私を玄関の横の、もと応接間だったらしい押し入れのない室へ連れ込んだ。見ると八畳の間一パイに新聞や小説や雑誌の類が柳行李や何かと一緒に散らばっていて、真中の鉄瓶のかかった瀬戸物の大火鉢のまわりすこしばかりしか坐るところがない。書生さんはそこいらに散らばっている茶器を押し除けて、奥から座布団を持って来て私にあてがうと、 「私は妻木というものです。鶴原の甥です」  と挨拶をした。  さてはこの人がそうかと思いながら私は改めて頭を下げていると、妻木君はその物ごしのやさしいのにも似ず、私が見ている前で杉折りをグッと引き寄せるとポツンと水引を引き切った。オヤと思ううちに蓋をあけて中にある風月のモナカを一つ抓んで自分の口に入れてから私のほうにズイと押し進めた。 「いかがです」  私は少々度胆を抜かれた。しかしそのうちに妻木君の唇の両端が豆腐のように白く爛れているのに気が付くと、やっとわかった。妻木君は甘い物中毒で始終こんなことをやっているのだ。そのために胃をメチャメチャに壊しているのだ。そうして、かかり合いにするつもりで私を呼び上げたものらしい。用事とはこの事かと思うと私は急にこの青年と心安くなったような気がしてすすめられるままに手を出した。  ところが妻木君の喰い方の荒っぽいのには又|流石の私も舌を捲かれた。初めに四つ五つ私を追い越して喰っているばかりでなく、私が三つ喰ううちに四つか五つの割りで頬張って飲み込むので、見る見るうちに箱の半分以上が空っぽになってしまった。  私はとうとう兜を抜いで茶を一パイ飲んだ。すると妻木君はあと二つばかり口に入れてから、うしろの書物の間から古新聞を出して、その中に残ったモナカの二十ばかりをザラザラとあけてグルグルと包んで書物のうしろに深く隠した。それから杉折りを取り上げるとペキンペキンと押し割って薪のように一束にして、戒名と一緒に奉書の紙に包んだ上から黒水引きでグルグル巻きに縛った。 「どうも済みませんが……」と妻木君はそれを私の前に差し出した。 「これをお帰りの時にどこかへ棄ててくれませんか」  それを私が微笑しながら受け取ると、妻木君の顔が小児のように輝やいた。そうして前よりも一層丁寧に云った。 「それからですね。ほんとに済みませんけどもこの事はお宅の先生へも秘密にしてくれませんか」  私は思わず吹き出すところであった。 「ええええ大丈夫です。僕からもお願いしたい位です」 「有り難う御座います。御恩は死んでも忘れません」  と云いつつ妻木君は不意に両手をついて頭を畳にすりつけた。  その様子があまり馬鹿丁寧で大袈裟なので私は又変な気もちになった。鶴原子爵は狂気で死んだというがこの青年も何だか様子が変である。ことによるとやっぱり「あやかしの鼓」に呪われているのじゃないかと思った。  しかしそう思うと同時に又「あやかしの鼓」が見たくてたまらなくなって来た。しかもそれを見るのには今が一番いい機会じゃないかというような気がしはじめた。 「この人に頼んだらことに依ると『あやかしの鼓』を見せてくれるかも知れない。今がちょうどいいキッカケだ。そうして今よりほかにその時機がないのだ。この家に又来ることがあるかないかはわからないのだから」  と考えたが一方に何だか恐ろしく気が咎めるようにもあるので、心の中で躊躇しいしい妻木君の顔を見ていると、妻木君も黒い眼鏡越しに私の顔をジッと見ている。そうして何の意味もないらしい微笑をフッと唇のふちに浮かべた。私はその笑顔に釣り込まれたようにポツンと口を利いた。 「『あやかしの鼓』というのがこちらにおありになるそうですが……」  妻木君の笑顔がフッと消えた。私は勇を鼓して又云った。 「すみませんが内密で僕にその鼓を見せて頂けないでしょうか」 「……………」  妻木君は返事をしないで又も私の顔をシゲシゲと見ていたが、やがて今までよりも一層静かな声で云った。 「およしなさい。つまらないですよあの鼓は……変な云い伝えがあるのでね、鼓の好きな人の中には見たがっている人もあるようですがね……」 「ヘエ」と私は半ば失望しながら云った。こんな書生っぽに何がわかるものかと思いながら……すると妻木君は私をなだめるように、いくらか勿体ぶって云った。 「あんな伝説なんかみんな迷信ですよ。あの鼓の初めの持ち主の名が綾姫といったもんですから謡曲の『綾の鼓』だの能仮面の『あやかしの面』などと一緒にして捏ち上げた碌でもない伝説なんです。根も葉もないことです」 「そうじゃないように聞いているんですが」 「そうなんです。あの鼓は昔身分のある者のお嫁入りの時に使ったお飾りの道具でね。音が出ないものですから皆怪しんでいろんなことを……」  私はここまで聞くと落ち付いて微笑しながら妻木君の言葉を押し止めた。 「ちょっと……そのお話は知っています。それはこちらの奥さんが或る鼓の職人から欺されていらっしゃるのです。その職人はこの家のおためを思ってそう云ったのです。本当はとてもいい鼓……」  と云いも終らぬうちに妻木君の表情が突然物凄いほどかわったのに驚いた。眉が波打ってピリピリと逆立った。口が力なくダラリと開くとまだモナカの潰し餡のくっ付いている荒れた舌がダラリと見えた。  私は水を浴びたようにゾッとした。これはいけない。この青年はやっぱり気が変なのだ。それも多分あやかしの鼓に関係した事かららしい。飛んでもないことを云い出した……と思いながらその顔を見詰めていた。  けれどもそれはほんの一寸の間のことであった。妻木君の表情は見る見るもとの通りに冷たく白く落付くと同時に、ふるえた長い溜め息がその鼻から洩れた。それから眼と唇を閉じて腕を拱んでジッと何か考えていたが、やがて眼を開くと同時にハッキリした口調で云った。 「承知しました。お眼にかけましょう」 「エッ見せて下さいますか」と私は思わず釣り込まれて居住居を直した。 「けれども今日は駄目ですよ」 「いつでも結構です」 「その前にお尋ねしたいことがあります」 「ハイ……何でも」 「あなたはもしや音丸という御苗字ではありませんか」  私はこの時どんな表情をしたか知らない。唯妻木君の顔を穴のあく程見詰めてやっとのことうなずいた。そうして切れ切れに尋ねた。 「……どうして……それを……」  妻木君は深くうなずいた。悄然としていった。 「しかたがありません。私は本当のことを云います。あなたのお家の若先生から聞きました。私は若先生にお稽古を願ったものですが……」  私はグッと唾を飲み込んだ。妻木君の言葉の続きを待ちかねた。 「……若先生は伯母からあの鼓のことを聞かれたのです。あの鼓はほんのお飾りでホントの調子は出ないものだと或る職人が云ったが、本当でしょうかってね。そうすると若先生は……サア……それを打って見なければわからぬが、とにかく見ましょうということになってね……七年前のしかもきょうなんです……この家へ来られてその鼓を打たれたんです。それからこの家を出られたのですがそのまんま九段へも帰られないのだそうです」 「若先生は生きておられるのですか」  と私は畳みかけて問うた。妻木君は黙ってうなずいた。それから静かに云った。 「……この鼓に呪われて……生きた死骸とおんなじになって……しかしそれを深く恥じながら……自分を知っているものに会わないようにどこにか……姿をかくしておられます」 「あなたはどうしてそれがおわかりになりますか」 「……私は若先生にお眼にかかりました……私にこの事だけ云って行かれたのです。そうして……私の後継ぎにはやはり音丸という子供が来ると……」  私は思わずカッと耳まで赤くなった。若先生にまで見込まれていたのかと思うと空恐ろしくなったので……。  それと一緒に眼の前に居る妻木という書生さんがまるで違ったえらい人に思われて来た。若先生がそんなことまで打ち明けられる人ならば、よほど芸の出来た人に違いないからである。私はすぐにも頭を下げたい位に思いながら恭しく聞いた。 「それからあなたは……どうなさいましたか」  妻木君も私と一緒に心持ち赤くなっていたようであったが、それでも前より勢い込んで話し出した。 「私はこの事をきくと腹が立ちました。高の知れた鼓一梃が人の一生を葬るような音を立てるなんて怪しからぬ。鼓というものはその人の気持ちによって、いろんな音色を出すもので、鼓の音が人の心を自由にするもんじゃない。どうかしてその鼓を打って見たい。そうしてそのような人を呪うような音色でなく当り前の愉快な調子を打ち出して、若先生の讐を取りたいものだと思っている矢先へ伯母が私を呼び寄せたのです。私は得たり賢しで勉強をやめて此家に来ました」 「……で……その鼓をお打ちになりましたか」  と私は胸を躍らしてきいた。しかし妻木君は妙な冷やかな顔をしてニヤニヤ笑った切り返事をしない。私は自烈度くなって又問うた。 「その鼓はどんな恰好でしたか」  妻木君はやはり妙な顔をしていたが、やがて力なく投げ出すように云った。 「僕はまだその鼓を見ないのです」 「エッ……まだ」と私は呆気にとられて云った。 「エエ。伯母が僕に隠してどうしても見せないんです」 「それは何故ですか」と私は失望と憤慨とを一緒にして問うた。妻木君は気の毒そうに説明をした。 「伯母は若先生が打たれた『あやかしの鼓』の音をきいてから、自分でもその音が出したくなったのです。そうして音が出るようになったら、それを持ち出して高林家の婦人弟子仲間に見せびらかしてやろうと思っているのです。ですからそれ以来高林へ行かないのです」 「じゃ何故あなたに隠されるのですか」  と私は矢継早に問うた。その熱心な口調にいくらか受け太刀の気味になった妻木君は苦笑しいしい云った。 「おおかた僕がその鼓を盗みに来たように思っているのでしょう」 「じゃどこに隠してあるかおわかりになりませんか」  と私の質問はいよいよぶしつけになったので、妻木君の返事は益々受け太刀の気味になった。 「……伯母は毎日出かけますのでその留守中によく探して見ますけれども、どうしても見当らないのです」 「外へ出るたんびに持って出られるのじゃないですか」 「いいえ絶対に……」 「じゃ伯母さんは……奥さんはいつその鼓を打たれるのですか」  この質問は妻木君をギックリさせたらしく心持ち羞恥んだ表情をしたが、やがて口籠りながら弁解をするように云った。 「私は毎晩不眠症にかかっていますので睡眠薬を服んで寝るのです。その睡眠薬は伯母が調合をして飲ませますので私が睡ったのを見届けてから伯母は寝るのです。その時に打つらしいのです」 「ヘエ……途中で眼のさめるようなことはおありになりませんか」 「ええ。ありません……伯母はだんだん薬を増すのですから……けれどもいつかは利かなくなるだろうと、それを楽しみに待っているのです。もう今年で七年になります」  と云うと妻木君は悄然とうなだれた。 「七年……」と口の中で繰り返して私は額に手を当てた、この家中に充ち満ちている不思議さ……怪しさ……気味わるさ……が一時に私に襲いかかって頭の中で風車のように回転し初めたからである。この家中のすべてが「あやかしの鼓」に呪われているばかりでなく、私もどうやら呪われかけているような……。  しかし又この青年の根気の強さも人並ではない。そんな眼に会いながら七年も辛抱するとは何という恐ろしい執念であろう。しかもそうした青年をこれ程までにいじめつけて鼓を吾が物にしようとする鶴原夫人の残忍さ……それを通じてわかる「あやかしの鼓」の魅力……この世の事でないと思うと私は頸すじが粟立つのを感じた。  私は殆んど最後の勇気を出してきいた。 「じゃ全くわからないのですね」 「わかりません。わかれば持って逃げます」  と妻木君は冷やかに笑った。私は私の愚問を恥じて又赤面した。 「こっちへお出なさい。家の中をお眼にかけましょう。そうすれば伯母がどんな性格の女だかおわかりになりましょう。ことによると違った人の眼で見たら鼓の隠してあるところがわかるかも知れません」  と云ううちに妻木君は立ち上った。私は鼓のことを殆んど諦めながらも、云い知れぬ好奇心に満たされて室を出た。  応接間を出ると左は玄関と、以前人力車を入れたらしいタタキの間がある。妻木君は右へ曲って私を台所へ連れ込んだ。  それは電気と瓦斯を引いた新式の台所で、手入れの届いた板の間がピカピカ光っている。そこの袋戸棚から竈の下とその向う側、洗面所の上下の袋戸、物置の炭俵や漬物桶の間、湯殿と台所との間の壁の厚さ、女中部屋の空っぽの押入れ、天井裏にかけた提灯箱なぞいうものを、妻木君は如何にも慣れた手付きで調べて見せたが何一つ怪しいところはなかった。 「女中はいないんですか」と私は問うた。 「ええ……みんな逃げて行きます。伯母が八釜しいので……」 「じゃお台所は伯母さんがなさるのですね」 「いいえ。僕です」 「ヘエ。あなたが……」 「僕は鼓よりも料理の方が名人なのですよ。拭き掃除も一切自分でやります。この通りです」  と妻木君は両手を広げて見せた。成る程今まで気が附かなかったがかなり荒れている。  ボンヤリとその手を見ている私を引っ立てて妻木君は台所を出た。右手の日本風のお庭に向かって一面に硝子障子がはまった廊下へ出て、左側の取っ付きの西洋間の白い扉を開くと妻木君は先に立って這入った。私も続いて這入った。  初めはあまり立派なものばかりなので何の室だかわからなかったが、やがてそれが広い化粧部屋だということがわかった。うっかりすると辷り倒れそうなゴム引きの床の半分は美事な絨毯が敷いてある。深緑のカアテンをかけた窓のほかは白い壁にも扉の内側にも一面に鏡が仕掛けてあって、室中のものが涯てしもなく向うまで並び続いているように見える――西洋式の白い浴槽、黒い木に黄金色の金具を打ちつけた美事な化粧台、着物かけ、タオルかけ、歯医者の手術室にあるような硝子戸棚、その中に並んだ様々な化粧道具や薬品らしいもの、室の隅の電気ストーブ、向うの窓際の大きな長椅子、天井から下った切り子細工の電燈の笠――。  妻木君はその中に這入って先ず化粧台の下からあらため初めた。しかし私はその時鼓を探すということよりもかなり年増になっている筈の鶴原未亡人が、こんな女優のいそうな室でお化粧をしている気持ちを考えながら眼を丸くしていた。 「この室も不思議なことはないんです」  と妻木君は私の顔を見い見い微笑して扉を閉じた。そうして次に今一つある西洋間の青い扉の前を素通りにして一番向うの廊下の端にある日本間の障子に手をかけた。 「この室は……」と私は立ち止まって青い扉を指した。 「その室は問題じゃないんです。一面にタタキになって真中に鉄の寝台が一つあるきりです。問題じゃありません」  と妻木君は何だかイマイマしいような口つきで云った。 「ヘエ……」  と云いながら私はわれ知らず鍵穴に眼を近づけて内部をのぞいた。  青黒く地並になった漆喰の床と白い古びた土壁が向うに見える。あかり窓はずっと左の方に小さいのがあるらしく、その陰気で淋しいことまるで貧乏病院の手術室である。隣の化粧室と比べるととても同じ家の中に並んで在る室とは思えない。 「その室に僕は毎晩寝るのです。監獄みたいでしょう」  妻木君は冷笑っているらしかったが、その時は私の眼に妙なものが見えた。それは正面の壁にかかっている一本の短かい革製の鞭で、初め私は壁の汚染かと思っていたものだった。 「その室で伯父は死んだのです。」  という声がうしろから聞こえると同時に私はゾッとして鍵穴から眼を退けた。同時に妻木君の顔一面に浮んだ青白い笑いを見ると身体がシャンと固ばるように感じた。むろん今の鞭の事なぞ尋ねる勇気はなかった。 「こっちへお這入りなさい。この室で伯母は鼓を打つらしいのです」  私はほっと溜め息をして奥の座敷に這入った――この家にはこれ切りしか室がないのだ――と思いながら……。  奥の一室の新しい畳を踏むと、私は今まで張り詰めていた気分が見る見る弛んで来るように思った。  青々とした八畳敷の向うに月見窓がある。外には梅でも植えてありそうに見える。  その下に脚の細い黒塗りの机があって、草色の座布団と華奢な桐の角火鉢とが行儀よく並んでいる。その左の桐の箪笥の上には大小の本箱が二つと、大きな硝子箱入りのお河童さんの人形が美しい振り袖を着て立っている。  右手には机に近く茶器を並べた水屋と水棚があって、壁から出ている水道の口の下に菜種と蓮華草の束が白糸で結わえて置いてある。その右手は四尺の床の間と四尺の違い棚になっているが床の間には唐美人の絵をかけて前に水晶の香炉を置き、違い棚には画帖らしいものが一冊と鼓の箱が四ツ行儀よく並べてある。その上下の袋戸と左側の二間一面の押し入れに立てられた新しい芭蕉布の襖や、つつましやかな恰好の銀色の引き手や、天井の真中から下っている黒枠に黄絹張りの電燈の笠まで何一つとして上品でないものはない。  私は思わず今一度溜め息をさせられた。 「これが伯母の居間です」  といううちに妻木君は左側の押し入れの襖を無造作にあけて、青白い二本の手を突込んで中のものを放り出し初めた……縮緬の夜具、緞子の座布団、麻のシーツ、派手なお召の掻い巻き、美事な朱総のついた括り枕と塗り枕、墨絵を描いた白地の蚊帳……。 「ええ……もう結構です……」  と私は妙に気が退けて押し止めた。しかし妻木君はきかなかった。放り出した夜具類を、もとの通りに片付けると今度は隣り側の襖を開いて内部一面に切り組んである衣装棚を引き出し初めた。 「イヤ。わかりました。わかりました。あなたがお調べになったのなら間違いありません」 「そうですか……それじゃ箪笥を……」 「もう……もう本当に結構です」 「じゃ御参考に鼓だけお眼にかけておきましょう」  と云ううちに右手の違い棚から一つ宛四ツの鼓箱を取り下した。私はそれを受け取って室の真中に置いた。  箱から取り出された四ツの仕掛け鼓が私の前に並んだ時私は何となく胸が躍った。この中に「あやかしの鼓」が隠れていそうな気がしたからである。  この道にすこしでも這入った人は皆知っている通り、鼓の胴と皮とは人間でいえば夫婦のようなもので、元来別々に出来ていて皮には皮の性があり胴には胴の性がある。その二つの性が合って始めて一つの音色が出るので、仮令どんな名器同志の皮と胴でも、性が合わなければなかなか鳴らない。調子皮を貼って性を合わせたにしても、今までとは全く違った音色が出るので、今ここに四ツの皮と胴とがあるとすれば、鳴る鳴らぬに拘わらず総計で十六通りの音色が出るわけである。鶴原未亡人はそれを知っていて、ふだん胴と皮とをかけ換えているのではないか……。  しかしこの考えが浅墓であることは間もなくわかった。妻木君は私と向い合って坐るとすぐに云った。 「私はこの四つの胴と皮とをいろいろにかけ換えてみました。けれどもどれもうまく合いませんでやっぱりもとの通りが一番いい事になります」 「つまりこの通りなんですね」 「そうです」 「みんなよく鳴りますか」 「ええ。みんな伯母が自慢のものです。胴の模様もこの通り春の桜、夏の波、秋の紅葉、冬の雪となっていて、その時候に打つと特別によく鳴るのです。打って御覧なさい」 「伯母さまがお帰りになりはしませんか」 「大丈夫です。今三時ですから。帰るのはいつも五時か六時頃です」 「じゃ御免下さい」と一礼して羽織を脱いだ。妻木君も居住居を直した。  私は手近の松に雪の模様の鼓から順々に打って行ったが、九段にいる時と違って一パイに出す調子を妻木君は身じろぎもせずに聞いてくれた。 「結構なものばかりですね」  と御挨拶なしに賞めつつ私は秋の鼓、夏の鼓と打って来て、最後に桜の模様の鼓を取り上げたが、その時何となく胸がドキンとした。ほかの鼓の胴は皆塗りが古いのに、この胴だけは新らしかった。大方この鼓だけ蒔絵の模様が時候と合わないために、春の模様に塗りかえさしたものであろうが、その前の模様はもしや「宝づくし」ではなかったろうか。  私はまだ打たぬうちに妻木君に問うた。 「この鼓はいつ頃お求めになったのでしょうか」 「サア。よく知りませんが」 「ちょっと胴を拝見してもいいでしょうか」 「エエ。どうぞ」と妻木君は変にカスレた声で云った。  私は黄色くなりかけている古ぼけた調緒をゆるめて胴を外して、乳袋の内側を一眼見るとハッと息を詰めた。  久能張りのサミダレになった鉋目がまだ新しく見える胴の内側には、蛇の鱗ソックリに綾取った赤樫の木目が目を刺すようにイライラと顕われていたからである。私の両手は本物の蛇を掴んだあとのようにわななき出して思わず胴を取り落した。胴はコロコロと私の膝の上から転がり落ちて、横に坐っている妻木君の膝にコツンとぶつかった。 「アッハッハッハッハッ」  と不意に妻木君が笑い出した。たまらなくコミ上げて来る笑いと一緒に、身体をよじって腹を押えて、しまいには畳の上にたおれてノタ打ちまわりながら、ヒステリー患者のように笑いつづけた。 「アッハッハッハッハハハハハ、とうとう一パイ喰いましたね……ヒッヒッホッホッホホハハハハハ。ヒッヒッヒッヒッ……」  私は歯の根も合わぬ位ふるえ出した。恐ろしいのか気味悪いのか、それとも腹立たしいのかわからぬまま、妻木君の黒い眼鏡を見つめて戦いていたが、やがてその笑いが静まって来ると私の心持ちもそれにつれて不思議に落ち付いて来た。あとには只頭の毛がザワザワするのを感ずるばかりになった。  妻木君は涙を拭い拭い笑い止んだ。 「ああ可笑しい。ああ面白かった。アハ……アハ……。御免なさい音丸君……じゃない高林君。僕は君を欺したんです。本当にこの鼓の伝説を知っておられるかどうか試して見たんです。さっきから僕が家の中を案内なんかしたりしたものだから、君は本当に僕がこの鼓を知らないものと思ったのです。ここに鼓があろうとは思わなかったんです……アハ……アハ……眠り薬の話なんかみんな嘘ですよ。僕は毎日伯母と二人でこの鼓を打っているのですよ……」  私は開いた口が閉がらなかった。茫然と妻木君の顔を見ていた。 「君は失敬ですけれど正直な立派な方です。そうして本当にこの鼓の事を知って来られたんです……」 「それがどうしたんですか」  と私は急に腹が立ったように感じて云った。こんなに真剣になっているのに笑うなんてあんまりだと思って……。すると妻木君は眼鏡の下から涙を拭き拭き坐り直したが、今度は全く真面目になってあやまった。 「失敬失敬。憤らないでくれ給えね。僕は君を馬鹿にしたんじゃないんです。出来るならこの鼓を絶対に見つからないことにして諦らめてもらって、君をこの鼓の呪いから遠ざけようとしたのです。ですから疑わぬ先にと思ってこの鼓をお眼にかけたのです。けれども見事に失敗しました。この胴の木目のことまで御存じとすれば君は、君のお父さんから本当に遺言をきいて来られたに違いありません。君はこの鼓を手に入れて打ち壊してしまいたいと思っているのでしょう」  青天の霹靂……私は全身の血が頭にのぼった。……と思う間もなく冷汗がタラタラと腋の下を流れると、手足の力が抜けてガックリとうなだれつつ畳の上に手を支えた。 「今まで隠していたが……」と妻木君は黒い眼鏡を外しながら怪しくかすれた声で云った「僕は七年前に高林家を出た靖二郎……ですよ」 「アッ。若先生……」 「……………」  二人の手はいつの間にかシッカリと握り合っていた。年の割に老けた若先生の近眼らしい眼から涙がポロリと落ちた。 「会いとう御座いました……」  と私はその膝に泣き伏した。それと一緒に誰一人肉親のものを持たぬ私の淋しさがヒシヒシと身に迫って来て、いうにいわれぬ悲しさがあとからあとからこみ上げて来た。  若先生も私の背中に両手を置きながら暫く泣いておられるようであったが、やがて切れ切れに云われた。 「よく来た……と云いたいが……僕は……君が……高林家に引き取られたときいた時から……心配していた。もしや……ここへ来はしまいかと……」  私は父の遺言を思い出した。――鼓をいじるとだんだんいい道具が欲しくなる。そうしておしまいにはきっと「あやかしの鼓」に引きつけられるようになる――といった運命の力強さをマザマザと思い知ることが出来た。けれどもそれと同時に若先生と私の膝の前に転がっている「あやかしの鼓」の胴が何でもない木の片のように思われて来たのは、あとから考えても実に不思議であった。  そのうちに若先生は私をソッと膝から離して改めて私の顔を見られた。 「何もかもすっかりわかったでしょう」 「わかりました。……只一つ……」と私は涙を拭いて云った。 「若先生は……あなたはなぜこの鼓を持って高林家へお帰りにならないのですか」  若先生の眉の間に何ともいえぬ痛々しい色が漂った。 「わかりませんか君は……」 「わかりません」と私は真面目にかしこまった。若先生は細いため息を一つされた。 「それではこの次に君が来られる時自然にわかるようにして上げよう。そうしてこの鼓も正当に君のものになるようにして上げよう」 「エ……僕のものに……」 「ああ。その時に君の手でこの鼓を二度と役に立たないように壊してくれ給え。君の御先祖の遺言通りに……」 「僕の手で……」 「そうだ。僕は精神上肉体上の敗残者なのだ。この鼓の呪いにかかって……痩せ衰えて……壊す力もなくなったのだ」  と云いつつすこし暗くなった外をかえり見て独言のように云われた。 「もう来るかも知れぬ、鶴原の後家さんが……」  私はうな垂れて鶴原家の門を出た。  この日のように頭の中を掻きまわされたことは今までになかった。こんな家が世の中にあろうとは私は夢にも思い付かなかった。何もかも夢の中の出来事のように変梃なことばかりでありながらその一つ一つが夢以上に気味わるく、恐ろしく、嬉しく、悲しかった。  恩義を棄て、名を棄て、自分の法事のお菓子を喰べられる若先生――それを甥だと偽って吾が家に封じこめて女中同様にコキ使っているらしい鶴原子爵未亡人……そうしてあの美しい化粧室、あの薄気味のわるい病室、皮革の鞭、「あやかしの鼓」――何という謎のような世界であろう。何というトンチンカンな家庭であろう。眼で見ていながら信ずる事が出来ない――。  こんなことを考えて歩いているうちに、私はふと自分の懐中が妙にふくらんでいるのに気が付いた。見れば今しがた玄関で若先生が押し込んだ菓子折の束がのぞいている。私はそれを引き出してどこに棄てようかと考えながら頭を上げた。そのはずみに向うからうつむいて来た婦人にブツカリそうになったので私はハッと立ち止まった。  向うも立ち止まって顔を上げた。  それは二十四、五位に見える色の白い品のいい婦人であった。髪は大きくハイカラに結っていた。黒紋付きに白襟をかけていたが芝居に出て来る女のように恰好がよかった。手に何か持っていたようであるがその時はわからなかった。  私はその時何の意味もなくお辞儀をしたように思う。その婦人もしとやかにお辞儀をしてすれ違った。その時に淡い芳香が私の顔を撫でて胸の奥までほのめき入った。  私は今一度ふり返って見たくてたまらないのを我慢して真直ぐに歩いたために汗が額にニジミ出た。そうして、やっと笄橋の袂まで来ると、不意に左手の坂から俥が駆け降りて来て私とすれ違った。私はその拍子にチラリとふり向いた。  黒い姿が紫色の風呂敷包みを抱えて鶴原家の前の木橋の上に立っていた。白い顔がこっちを向いていた。  私は逃げるように横町に外れた。 この間は失礼しました。 私はあの鼓の魔力にかかって精魂を腐らした結果御覧の通りの無力の人間に成り果てました。しかしその核心には、まだ腐り切っていない或るものが残っていることを君は信じて下さるでしょう。私もそう信じてこの手紙を書きます。 二十六日の午後五時キッカリに鶴原家にお出が願えましょうか。御都合がわるければそれ以後のいつでもよろしいから、きめて下さい。時間はやはりその頃にお願いしたいのです。 今度お出での時にはあやかしの鼓がきっと君のものになる見込みが附きました。尚その時に君がまだ御存じのない秘密もおわかりになることと思います。それは矢張り音丸家と鶴原家に古くから重大な関係を持っていることで、君にとっては非常に意外な、且つ不可思議な事実であろうことを信じます。 しかし来られる時に誠に失礼ですが御註文申し上げたいことがあります。奇怪に思われるかも知れませんが是非|左様願いたいと思います。 二十六日までにまだ十日ばかりありますからその間に君は一切の服装を新調して来て頂きたい。鼓の家元の若先生らしく、そうして出来るだけ立派な外出姿に扮装して来て頂きたい。無論誰にも秘密でです。理由はお出になればすぐわかります。東洋銀行の小切手金一千円也を封入致しておきます。鶴原未亡人の名前ですが私の貯金の一部です。私の後を継いで下すった御礼の意味とお祝いの意味を兼ねて誠に軽少ですが差し上げます。尚私たちお互いの身の上は今まで通りとして一切を秘密にして下さい。鶴原家に来られてもです。 あやかしの鼓が百年の間に作って来た悪因縁が、君の手で断ち切れるか切れないかは二十六日の晩にきまるのです。同時に七年間一歩もこの家の外に出なかった僕が解放されるか否かも決定するのです。君の救いの手を待ちます。   三月十七日高林靖二郎  音丸久弥様  私はこの手紙を細かく引き裂いて自動車の窓から棄てた。ちょうど芝公園を走り抜けて赤羽橋の袂を右へ曲ったところであった。  眼の前の硝子板に私の姿が映ってユラユラと揺れている。  三越の番頭が見立ててくれた青い色の袷に縫紋、白の博多帯、黄色く光る袴、紫がかった羽織、白足袋にフェルト草履、上品な紺羅紗のマントに同じ色の白リボンの中折れという馬鹿馬鹿しくニヤケた服装が、不思議に似合って神妙な遊芸の若先生に見えた。ふだんなら吹き出したかも知れないがこの時はそれどころではなかった。  私はこの数日間のなやみに窶れた頬を両手で押えながら、運転手のうしろの硝子板に顔を近寄せて見た。頭を刈って顔を剃ったばかりなのに年が二つ位|老けたような気がする。赤かった頬の色もすっかり消え失せているようである。  自動車が鶴原家に着くと若先生……ではない妻木君が、この間の通りの紺飛白の姿のまま色眼鏡をかけないで出て来て三つ指を突いた。水仕事をしていたらしく真赤になった両手をさし出して、運転手が持って来た私の古着の包みを受け取って横の書生部屋にそっと入れた。それから今一つ塩瀬の菓子折の包みを受け取ると、わざとらしく丁寧に一礼して先に立った。私は詐欺か何かの玉に使われているような気になって磨き上げた廊下をあるいて行った。  奥の座敷は香木の香がみちみちてムッとする程あたたかかった。しかし未亡人は居なかったので私は何やら安心したようにホッとして程よい処に坐った。  室の様子がまるで違ったように思われたが、あとから考えるとあまり違っていなかった。それは室の真中に吊された電燈の笠の黄色いのが取り除けられて華やかな紫色にかわったせいであろう。真中に鉄色のふっくりした座布団が二つ、金蒔絵をした桐の丸胴の火鉢、床の間には白|孔雀の掛け物と大きな白|牡丹の花活けがしてあって、丸い青銅の電気ストーブが私の背後に真赤になっていた。  しずかに妻木君が這入って来て眼くばせ一つせずにお茶を酌んで出した。私も固くなってお辞儀をした。何だか裁判官の出廷を待つ罪人のような気もちになった。  私は妻木君が出てゆくのを待ちかねて違い棚の上に露出しに並んでいる四ツの鼓を見た。何だかそれが今夜私を死刑にする道具のように見えたからである。――「四ツの鼓は世の中に世の中に。恋という事も。恨ということも」――という謡曲の文句を思い出しながら私は気を押し鎮めた。  うしろの障子が音もなく開いて鶴原未亡人が這入って来た気はいがした。  私はこの間のように眩惑されまいと努力しながら出来るだけしとやかに席を辷った。 「ま……どうぞ……」と澄み通った気品のある声で会釈しながら、未亡人は私の真向いに来てほの紅い両手の指を揃えた。  私の決心は見る間に崩れた。あおぎ見ることも出来ないで畳にひれ伏しつつ、今までとはまるで違った調子に高まって行く自分の胸の動悸をきいているうちに、この間の得もいわれぬ床しい芳香が私の全身に襲いかかって来た。 「初めまして……ようこそ……又只今は……御噂はかねて」  なぞ次から次へきこえる言葉を夢心地できいているうちに、私は気もちがだんだん落ち付いて来るように思った。そうして「まあどうぞ……おつき遊ばして……それではあの……」という言葉をきくと間もなく顔を上げる事が出来た。その時にはじめて鶴原未亡人の姿をまともに見る事が出来た。  艶々した丸髷。切れ目の長い一重まぶた。ほんのりした肉づきのいい頬。丸い腮から恰好のいい首すじへかけて透きとおるように白い……それが水色の着物に同じ色の羽織を着て黒い帯を締めて魂のない人形のように美しく気高く見えた。  私はこの間からあこがれていた姿とはまるで違った感じに打たれて暫くの間ボンヤリしていた。ハテナ。自分は何の用でこの婦人に会いに来たのか知らんとさえ思った。  その時未亡人は前の言葉の続きらしく静かに云った。 「それで私は甥を叱ったので御座います。なぜおかえし申したかって申しましてね……若先生が音丸家の御血統で、あの鼓を御覧になりたいとおっしゃったならばこんないい機会は……」  さては私はまだ鼓を見ないことになっているのだな……と思って未亡人の顔を見た。けれどもその長い眉と黒く澄んだ眼の気品に打たれて又伏し眼になった。 「……なぜお眼にかけなかったのか。こんないい幸いなことはないではありませんか。この年月二人で打っていながら一度もそのシンミリとその呪いの音をきいた事がないではありませんか。あの鼓を打ってホントの音色をお出しになるほどのお方ならば私はいつでもあの鼓をお譲りしますと……」  私は又顔を上げないわけに行かなかった。すると今度は未亡人の方が淋しい恰好で伏眼になっている。 「……そう申しますと甥が申しますには、それなら今からお手紙を差し上げよう。いま一度お運びをお願いしようと申します。そんなぶしつけなことをと申しますと、それはきっとお出で下さるにちがいない。まだあの鼓をお打ちにならないからだと申します……オホ……ほんとに失礼なことばかり……」  未亡人は赤面して私の顔を見た。私もその時急に耳まで火照って来るのを感じつつ苦笑した――モナカの事件も存じております――と云われそうな気がして……。 「けれども私もすこし考えが御座いましたので、甥に筆を執らせましてあのような手紙を差し上げさせましたので……まことに申訳……」と未亡人は頭を下げた。 「どう致しまして……」  と私もやっとの思いで初めて口を利くと慌てて袂からハンカチを出して顔を拭いた。途端に頭の上の電燈が眩しく紫色に灯もった。 「何か御用で……」と妻木が顔を出した。未亡人はいつの間にか呼鈴を押したらしい。 「お前用事が済んだのかえ」と云いつつ未亡人はジロリと妻木君を見据えたが、その一瞬間に未亡人の眼が、冷たいというよりも寧ろ残忍な光りを帯びたのを私はありありと見た。私の神経は急に緊張した。嘗てきいていた「美人の凄さ」が一時に私の眼に閃めき込んだからである。そうして同時にその「美しい凄さ」にさながら奴隷のように支配されている妻木君――若先生の姿がこの上なくミジメに瘠せて見えたからである。 「ハイ。すっかり……」と妻木君は女のように、しとやかに三つ指を支いた。 「……じゃこちらへお這入り。失礼して……あとを締めて……それから、その鼓を四ツともここへ……」  その言葉の通りに妻木君は影のように動いて四ツの鼓を未亡人と私の間に並べ終ると、その傍にすこし離れてかしこまった。  未亡人は無言のまま四ツの鼓を一渡り見まわしたが、やがてその中の一つにジッと眼を注いだ――と思うとその頬の色は見る見る白く血の気が失せて、唇の色までなくなったように見えた。  私たち二人も固唾を呑んで眼を瞠った。  いい知れぬ鬼気がウッスリと室に満ちた。  突然かすかな戦慄が未亡人の肩を伝わったと思うと、未亡人はいつの間にか手にしていた絹のハンカチで眼を押えた。  私はハッとした。妻木君も驚いたらしい瞬きを三ツ四ツした。そのまま未亡人は二分か三分の間ヒソヒソと咽び泣いたが、やがてハンカチの下から乱れた眉と睫を見せた。それから小さな咳を一つすると繊細い……けれども厳かな口調で云った。 「わたくしはこんな時機の来るのを待っておりました。こうして私とこの鼓との間に結ばれました因縁を断ち切って頂こうと思ったので御座います」 「因縁……」と私は思わず口走った。 「それはどういう……」 「それは私が私の身の上に就て一口申し上ぐれば、おわかりになるので御座います」 「あなたの……」 「ハイ……しかし只今は、わざとそれを申し上げません。押しつけがましゅう御座いますけれども、それは私の生命にも換えられませぬお恥ずかしい秘密で御座いますから、この四ツの鼓の中から『あやかしの鼓』をお選り出し下すって、物語りに伝わっております通りの音色をお出し下さるのを承わった上で御座いませぬと……まことに相済みませぬが、只今それをお願い申し上げたいので御座いますが……」  未亡人の言葉の中には婦人でなければ持ち得ぬ根強い……けれども柔らかい力が籠っていた。三人の間には更に緊張した深い静けさが流れた。  不意にある眼に見えぬ力に打たれたように恭しく一礼しながら私はスラリと座布団を辷り降りて羽織を脱いだ。そうしてイキナリ眼の前の桜の蒔絵の鼓に手をかけると、ハッと驚いて唇をふるわしている未亡人を尻目にかけた。そうして武士が白刃の立ち合いをする気持ちで引き寄せて身構えた。 「あやかしの鼓」の皮は、しめやかな春の夜の気はいと、室に充ち満ちた暖かさのために処女の肌のように和らいでいるのを指が触わると同時に感じた。その表皮と裏皮に、さらに心を籠めた息を吐きかけると、やおら肩に当てて打ち出した。……これを最後の精神をひそめて……。  初めは低く暗い余韻のない――お寺の森の暗に啼く梟の声に似た音色が出た。喜びも悲しみもない……只淋しく低く……ポ……ポ……と。  けれども打ち続いて出るその音が私の手の指になずんでシンミリとなるにつれて、私は眼を伏せ息を詰めてその音色の奥底に含まれている、或るものをきくべく一心に耳を澄ました。  ポ……ポ……という音の底にどことなく聞こゆる余韻……。  私は身体中の毛穴が自然と引き緊まるように感じた。  私の先祖の音丸久能は如何にも鼓作りの名人であった。けれどもこの鼓を作り上げた時に自分が思っている以外の気もちがまじっているのに心づかなかった。  久能は云った。――私は恋にやぶれて生きた死骸になった心持ちだけをこの鼓に籠めた。私の淋しい空になった心持ちだけをこの鼓の音にあらわした。怨む心なぞは微塵もなかった――と……。  しかしそれはあやまっていた。  久能が自分の気持ちソックリに作ったというこの鼓の死んだような音色……その力なさ……陰気さの底には永劫に消えることのない怨みの響きが残っている。人間の力では打ち消す事の出来ない悲しい執念の情調がこもっている。それは恐らく久能自身にも心付かなかったであろう。無間地獄の底に堕ちながら死のうとして死に得ぬ魂魄のなげき……八万奈落の涯をさまよいつつ浮ぼうとして浮び得ぬ幽鬼の声……これが恋に破れたものの呪いの声でなくて何であろう。久能の無念の響きでなくて何であろう。  百年前の、ある月の、ある日、綾姫はこの鼓を打って、この音をきいた。そうして眼にも見えず耳にも止まり難い久能の心の奥の奥の呪いが、云い知れぬ深い怨みをこめてシミジミ自分の心に伝わって来るのを只独り感じたのであろう。死ぬよりほかにこの呪いから逃れるすべがない事をくり返しくり返し思い知らせられたであろう。  ……そうして百年後の今日只今……  ……私の額から冷たい汗が流れ初めた。室中の暖か味が少しも身体に感じなくなった。背中がゾクゾクして来ると共に肩から手足の力が抜けて鼓を取り落しそうになった。眼の前が青白く真暗くなりそうになって力なく鼓を膝の上におろした。わななく手でハンカチを掴んで額の汗を拭いた。  妻木君が慌てて羽織を着せた。鶴原未亡人は立ち上って袋戸棚から洋酒の小瓶を取り出して来てふるえる手で私に小さなグラスを持たした。そうして私に火のような酒を一杯グッと飲み干させると今一杯すすめた。  私は手を振りながらフーッと燃えるような息を吐いた。 「大丈夫で御座いますか……御気分は……」  と未亡人は私の顔をのぞいた。妻木も私の顔を心配そうに見ている。私は微笑して肩を大きくゆすりながら羽織の紐をかけた。飲み慣れぬアルコール分のおかげで血のめぐりがズンズンよくなるのを感じながら……。 「まあ……ほんとに雪のように真白におなり遊ばして……今はもうよほど何ですけれど……」  と未亡人は魘えた声で云った。妻木君はホッとため息をした。 「けれどもまあ……何というかわった音色で御座いましょう。そうして又何というお手の冴えよう……私は髪の毛を引き締められるようにゾッと致しましたよ……」  と感激にふるえるような声で云いつつ未亡人は立ち上って洋酒の瓶を仕舞うと又座に帰ったが、やがてふと思い出したように黒い眼で私の顔をジッと見ると、両手を畳に支えて身を退けながらひれ伏した。 「まことに有り難う存じました。私はおかげ様で生れて初めてこの鼓の音色を本当にうかがうことが出来ました。あなた様は正しく名人のお血すじをお享け遊ばしたお方に違い御座いません。この上は私も包まずに申し上げます。私こそ……」  と云いさして未亡人は両手の間に頭を一層深く下げた。 「私こそ……今大路の……綾姫の血すじを……受けましたもので御座います」 「アッ」  と私は思わず声を立てて妻木君をかえり見た。しかし妻木君は知っているのかいないのかジッと未亡人の水々しい丸髷を見下したまま身じろぎ一つしなかった。未亡人は両手の間に顔を埋めたまま言葉を続けた。 「申すもお恥かしい事ばかりで御座いますが、今大路家は御維新後零落致しまして一粒種の私は大阪へある賤しい稼業に売られようと致しましたのを、こちらの主人に救われましたので御座います。申すまでもなくこの家にこの鼓が……」  とやおら顔を上げて鼓から二人の顔へ眼を移した。曇った顔をして曇った声で云った。 「……この家にこの鼓が御座いますことは、とっくに承わっておりましたが、その鼓に呪われてこのような淋しい身の上になりまして……その上にこのような不思議な……御縁になりましょうとは……」 「わかりました」と私は自分の感情に堪え得ないで、それを打ち切るように云った。 「よくわかりました。サ。お顔をお上げ下さい。つまるところこの三人はこの鼓に呪われたものなのです。呪われてここに集まったものなのです。けれども今日限りその因縁はなくなります。もしあなたがお許し下されば、私はこの鼓を打ち砕いて私たちの先祖の罪と呪いをこの世から消し去ります。そうしてあんな陰気臭い伝説にまつわられない明るい自由な世界に出ようではありませんか」 「ま嬉しい」  と未亡人は涙に濡れた顔を上げて不意に私の手を執って握り締めた。その瞬間私の全身の血は今までとはまるで違っためぐり方をし初めた。未亡人は両手に云い知れぬ力を籠めて云った。 「マア何というお勇ましいお言葉でしょう。そのお言葉こそ私がお待ちしていたお言葉です。それで私はきょうこの鼓と別れるお祝いにつまらないものを差し上げたいと思いまして……」 「アッ……それは……」と私は腰を浮かした。しかし未亡人の手はしっかりと引き止めた。 「いいえ……いけません……」 「でもそれは又別に……」 「いいえ……今日只今でなければその時は御座いません……サ……お前早くあれを……」  と妻木君をかえり見た。  妻木君は追い立てられるように室を出た。  あとを見送った未亡人はやっと私の手を離してニッコリした。  私は最前の洋酒の酔いがズンズンまわって来るのを感じながら両手で頬と眼を押えた。  頭が痛い……と思いながら私は眼を閉じて夜具を頭から引き冠った。すると今まで着た事のない絹夜具の肌ざわりを感ずると共に、得ならぬ芳香がフワリと鼻を撲ったのがわかった。  私は全く眼が醒めた。けれども起き上る前にシクシクと痛む頭の中から無理に記憶を呼び起していた――さっきあれからどうしたか――。  眼の前に御馳走の幻影が浮んだ。それは皆珍しいものばかりで贅沢を極めたものであった。そのお膳や椀には桐の御紋が附いていた。  その次には晴れやかな鶴原未亡人の笑顔がまぼろしとなって現われた。 「あやかしの鼓とお別れのお祝いですから」  というので無理に盃をすすめられたことを思い出した。 「もうお一つ……」  とニッコリ白い歯を見せた未亡人の眼に含まれた媚……それをどうしても飲まぬと云い張った時、飲まされた「酔いざまし」の水薬の冷たくてお美味しかったこと……。  それから先の私の記憶は全く消え失せている。只あおむけに寝ながらジッと見詰めていた電燈の炭素線のうねりが不思議にはっきりと眼に残っている。  私は酔いたおれて鶴原家に寝ているのだ。 「失策った」と私は眼を開いて夜具の襟から顔を出した。  さっきの未亡人の室に違いない。只電燈に桃色のカバーがかかっているだけが最前と違う。耳を澄ますとあたりは森閑として物音一つない。 「ホホホホホホホホホ」  と不意に枕元で女の笑い声がした。私は驚いて起きようとしたが、その瞬間に白い手が二本サッと出て来て夜着の上からソッと押え附けた。同時にホンノリと赤い鶴原未亡人の顔が上からのぞいてニッタリと笑った。溶けそうな媚を含んだ眼で私を見据えながら、仄かに酒臭い息を吐いて云った。 「駄目よ。もう遅いわよ……諦らめて寝ていらっしゃいオホホホホホホホ」  錐で揉むような痛みを感じて私は又頭を枕に落ち付けた。そうして何事も考えられぬ苦しさのため息をホッと吐いた。  コトリコトリと音がする。私の枕元で未亡人が何か飲んでいるらしく、やがて小さなオクビが聞えた。同時に滑らかな声がし初めた。 「とうとうあなたは引っかかったのね。オホホホホ……ほんとに可愛い坊ちゃん。あたしすっかり惚れちゃったのよ。オホホホホ」  私は頭の痛いのを忘れてガバとはね起きた。見れば私は新しい更紗模様の長|繻絆一つになってビッショリと汗をかいている。  未亡人も友禅模様の長繻絆をしどけなく着て私の枕元に横坐りをしている。前には銀色の大きなお盆の上に、何やら洋酒を二、三本並べて薄いガラスのコップで飲んでいたが、私が起きたのを見ると酔いしれた眼で秋波を送りながら空のグラスをさしつけた。私は払い除けた。 「オホ……いけないこと? 弱虫ねあなたは、オホホホ……でもこうなっちゃ駄目よ。どんなにあなたがもがいても云い訳は立たないから。あなたは私と一緒に東京を逃げ出して、どこか遠方へ行って所帯を持つよりほかないわよ……今から……すぐに」 「エッ……」 「オホホホホ」と未亡人は一層高い調子で止め度なく高笑いをした。私はクラクラと眼が眩みそうになって枕の上に突伏した。 「あのね……」  と未亡人はやっと笑い止んだ。その声はなめらかに落ち付いていた。私の枕元に坐り直したらしい。 「音丸さん。よく気を落ちつけて、まじめにきいて頂戴よ。あなたと私の生命にかかわることなんですから。よござんすか……。あたしね。この間往来でお眼にかかった時にすぐにあなただということがわかったのです。だって若先生の戒名をあなたが落したのを拾ったんですもの。それから妻木を問い訊してあなたと御一緒にお菓子をいただいたあと、それを隠そうとしたことを白状させました。そうしてそれと一緒にあなたのお望みのお話も妻木からきいたんです。ですからあの手紙を書かせたんです。そうしてその時にもう今夜の事を覚悟していました。よござんすか」 「覚悟とは……」  と私は突然に起き直って問うた。けれども未亡人の燃え立つような美しさと、その眼に籠めた情火に打たれて意気地なくうなだれた。 「覚悟ったって何でもないんです。私は妻木に飽きちゃったんです。血の気のない影法師みたいな男がイヤになったんです。あんな死人みたいな男はあたし大嫌いなんです……」  と云ううちに未亡人は一番大きなコップに並々と金茶色の酒を注ぐと半分ばかり一息に呑み干した。それから真赤な唇をチョッと嘗めて言葉をつづけた。 「だけどあなたは無垢な生き生きした坊ちゃんでした。だから妾は好きになっちゃったんです。あたしは、あたしの云う通りになる男に飽きたんです。あの鼓の音にそそられて、そんな男をオモチャにするのに飽きていたんです。私の顔ばかり見ないで気もちを見てくれる人を探していたんです。その時にあなたに会ったんです。私は前の主人の墓参りの帰りにあなたにお眼にかかったのを何かの因縁だと思うのよ。私はもうあなたの純な愛をたよりに生きるよりほかに道がなくなったのよ」  と云いつつ未亡人は両手をあげて心持ち歪んだ丸髷を直し初めた。私は人に捕えられた蜘蛛のように身を縮めた。 「ですから私は今日までのうちにすっかり財産を始末して、現金に換えられるだけ換えて押し入れの革鞄に入れてしまいました。みんなあなたに上げるのです。明日死に別れるかも知れないのを覚悟してですよ。そんなにまで私の気持ちは純になっているのですよ……只あの『あやかしの鼓』だけは置いて行きます……可哀そうな妻木敏郎のオモチャに……敏郎はあれを私と思って抱き締めながら行きたいところへ行くでしょう」  私は両手を顔に当てた。 「もう追つけ三時です。四時には自動車が来る筈です。敏郎は夜中過ぎからグッスリ睡りますからなかなか眼を醒ましますまい」  私は両手を顔に当てたまま頭を強く左右に振った。 「アラ……アラ……あなたはまだ覚悟がきまっていないこと……」  と云ううちに未亡人の声は怒りを帯びて乱れて来た。 「駄目よ音丸さん。お前さんはまだ私に降参しないのね。私がどんな女だか知らないんですね……よござんす」  と云ううちに未亡人が立ち上った気はいがした。ハッと思って顔を上げると、すぐ眼の前に今までに見たことのない怖ろしいものが迫り近付いていた。……しどけない長繻絆の裾と、解けかかった伊達巻きと、それからしなやかにわなないている黒い革の鞭と……私は驚いてうしろ手を突いたまま石のように固くなった。  未亡人はほつれかかる鬢の毛を白い指で掻き上げながら唇を噛んで私をキッと見下した。そのこの世ならぬ美しさ……烈しい異様な情熱を籠めた眼の光りのもの凄さ……私は瞬一つせずその顔を見上げた。  未亡人は一句一句、奥歯で噛み切るように云った。 「覚悟をしてお聞きなさい。よござんすか。私の前の主人は私のまごころを受け入れなかったからこの鞭で責め殺してやったんですよ。今の妻木もそうです。この鞭のおかげで、あんなに生きた死骸みたように音なしくなったんです。その上にあなたはどうです。この『あやかしの鼓』を作って私の先祖の綾姫を呪い殺した久能の子孫ではありませんか。あなたはその罪ほろぼしの意味からでも私を満足さしてくれなければならないではありませんか。この鼓を見にここへ来たのは取り返しのつかない運命の力だとお思いなさい。よござんすか。それとも嫌だと云いますか。この鞭で私の力を……その運命の罰を思い知りたいですか」  私の呼吸は次第に荒くなった。正しく綾姫の霊に乗り移られた鶴原未亡人の姿を仰いでひたすらに喘ぎに喘いだ。百年前の先祖の作った罪の報いの恐ろしさをヒシヒシと感じながら……。 「サ……しょうちしますか……しませんか」  と云い切って未亡人は切れるように唇を噛んだ。燐火のような青白さがその顔に颯と閃くと、しなやかな手に持たれたしなやかな黒い鞭がわなわなと波打った。 「ああ……わたくしが悪う御座いました」  と云いながら私は又両手を顔に当てた。  ……バタリ……と馬の鞭が畳の上に落ちた。  ガチャリと硝子の壊れる音がして不意に冷たい手が私の両手を払い除けた……と思う間もなく眼を閉じた私の顔の上に烈しい接吻が乱れ落ちた。酒臭い呼吸。女の香、お白粉の香、髪の香、香水の香――そのようなものが死ぬ程せつなく私に襲いかかった。 「許して……許して……下さい」  と私は身を悶えて立ち上ろうとした。 「奥さん……奥さん奥さん」  と云う妻木君の声が廊下の向うからきこえた。同時にポーッと燃え上る火影が二人でふり返って見ている障子にゆらめいて又消えた。 「火事……ですよ」という悲しそうな妻木君の声が何やらバタバタという音と一緒にきこえた。  未亡人はハッとしたらしく、立ち上って夜具の上を渡って障子をサラリと開いた。同時に廊下のくらがりの中に白い浴衣がけで髪をふり乱した妻木君が現われて未亡人の前に立ち塞がった。 「アッ」と未亡人は叫んだ。両手で左の胸を押えて空に身を反らすとよろよろと夜具の上を逃げて来たが、私の眼の前にバッタリとうつ向けに倒れて苦しそうに身を縮めた。私は廊下に突立っている妻木君の姿と、たおれている未亡人の姿を何の意味もなく見比べながら坐っていた。  妻木君はつかつかと這入って来て未亡人の枕元に立った。手に冷たく光る細身の懐剣を持って妙にニコニコしながら私の顔を見下した。 「驚いたろう。しかしあぶないところだった。もすこしで此女の変態性慾の犠牲になるところだった。こいつは鶴原子爵を殺し、僕を殺して、今度は君に手をかけようとしたのだ。これを見たまえ」  と妻木君は左の片肌を脱いで痩せた横腹を電燈の方へ向けた。その肋骨から背中へかけて痛々しい鞭の瘢痕が薄赤く又薄黒く引き散らされていた。 「おれはこれに甘んじたんだ」と妻木君は肌を入れながら悠々と云った。「この女に溺れてしまって斯様な眼に会わされるのが気持よく感ずる迄に堕落してしまったんだ。けれども此女はそれで満足出来なくなった。今度はおれを失恋させておいて、そいつを見ながら楽しむつもりでお前を引っぱり込んだ。おれが起きているのを承知で巫山戯て見せた。……けれどもおれが此女を殺したのは嫉妬じゃない。もうお前がいけないと思ったからこの力が出たんだ。お前を助けるためだったんだ」 「僕を助ける?」と私は夢のようにつぶやいた。 「しっかりしておくれ。おれはお前の兄なんだよ。六ツの年に高林家へ売られた久禄だよ」  と云ううちにその青白い顔が涙をポトポト落しながら私の鼻の先に迫って来た。痩せた両手を私の肩にかけると強くゆすぶった。  私はその顔をつくづくと見た。……その近眼らしい痩せこけた顔付きの下から、死んだおやじの顔がありありと浮き上って来るように思った。兄――兄――若先生――妻木君――と私は考えて見た。けれども別に何の感じも起らなかった。すべてが活動写真を見ているようで……。  その兄は浴衣の袖で涙を拭いて淋しく笑った。 「ハハハハハ、あとで思い出して笑っちゃいけないよ久弥……おれははじめて真人間に帰ったんだ。今日はじめて『あやかしの鼓』の呪いから醒めたんだ」  兄の眼から又新しい涙が湧いた。 「お前はもうじきに自動車が来るからそれに乗って九段へ帰ってくれ。その時にあの押し入れの中にある鞄を持って行くんだよ。あれはこの家の全財産でお前が今しがた此女から貰ったものだ。あとは引き受ける。決してお前の罪にはしないから。只老先生へだけこの事を話してくれ。そうしておれたちのあとを……弔って……」  兄はドッカとうしろにあぐらをかいた。浴衣の両袖で顔を蔽うてさめざめと泣いた。私はやはり茫然として眼の前に落ちた革の鞭と短刀とを見ていた。  そのうちに未亡人の身体が眼に見えてブルブルと震え始めた。 「ウ――ムムム」  という低い細い声がきこえると、未亡人が青白い顔を挙げながら私と兄の顔を血走った眼で見まわした。私は何故ともなくジリジリと蒲団から辷り降りた。未亡人の白い唇がワナワナとふるえ始めた。 「す……み……ませ……ん」  とすきとおるような声で云いながら、枕元にある銀の水注しの方へ力なく手を伸ばした。私は思わず手を添えて持ち上げてやったが、未亡人の白い指からその銀瓶の把手に黒い血の影が移ったのを見ると又ハッと手を引込めた。  未亡人は二口三口ゴクゴクと飲むと手を離した。蒲団から畳に転がり落ちた銀瓶からドッと水が迸り流れた。  未亡人はガックリとなった。 「サ……ヨ……ナ……ラ……」  と消え消えに云ううちに夫人の顔は私の方を向いたまま次第次第に死相をあらわしはじめた。  兄は唇を噛んでその横顔を睨み詰めた。  自動車が桜田町へ出ると私は運転手を呼び止めて、「東京駅へ」と云った。何のために東京駅へ行くかわからないまま……。 「九段じゃないのですか」と若い運転手が聴き返した。私は「ウン」とうなずいた。  私の奇妙な無意味な生活はこの時から始まったのであった。  東京駅へ着くと私はやはり何の意味もなしに京都行きの切符を買った。何の意味もなしに国府津駅で降りて何の意味もなしに駅前の待合所に這入って、飲めもしない酒を誂えて、グイグイと飲むとすぐに床を取ってもらって寝た。  夕方になって眼が醒めたがその時初めて御飯を食べると、何の意味もなしに又西行きの汽車に乗った。その時に待合所の女中か何かが見覚えのない小さな鞄を持って来たのを、 「おれのじゃない」  と押し問答したあげく、やっと昨夜鶴原家を出がけに兄が自動車の中に入れてくれたものであることを思い出して受け取った。同時にその中に紙幣が一パイ詰まっていることも思い出したが、その時はそれをどうしようという気も起らなかったようである。  汽車が動き出してから気が付くと私の傍に東京の夕刊が二枚落ちている。それを拾って見ているうちに「鶴原子爵未亡人」という大きな活字が眼についた。 ▲きょうの午前十時に美人と淫蕩で有名な鶴原子爵未亡人ツル子が一人の青年と共に麻布笄町の自宅で焼け死んだ。その表面は心中と見えるが実は他殺である。その証拠に焼け爛れた短刀の中味は二人の枕元から発見されたにも拘わらず、その鞘の口金はそこから数間を隔てた廊下の隅から探し出された。 ▲未亡人は二、三日前東洋銀行から預金全部を引き出したばかりでなく、家や地面も数日前から金に換えていたがその金は焼失していないらしい。 ▲未亡人と一緒に焼け死んでいた青年は、同居していた夫人の甥で妻木敏郎という青年であることが判明した。同家には女中も何も居なかったらしく様子が全くわからないが痴情の果という噂もある。 ▲当局では目下全力を挙げてこの怪事件を調査中……。  そんな事を未亡人の生前の不行跡と一緒に長々と書き並べてある。それを見ているうちにあくびがいくつも出て来たので、私は窓に倚りかかったままウトウトと居眠りをはじめた。  あくる朝京都で降りると私はどこを当てともなくあるきまわった。すこし閑静なところへ来ると通りがかりの人を捕まえて、 「ここいらに鶴原卿の屋敷跡はありませんでしょうか」  ときいた。その人は妙な顔をして返事もせずに行ってしまった。それから今大路家や音丸家のあとも一々尋ねて見たがみんな無駄骨折りにおわった。そこに行ってどうするというつもりもなかったけれども只何となく自烈度かった。  夕方になって祇園の通りへ出たが、そこの町々の美しいあかりを見ると私はたまらなくなつかしくなった。何だか赤ん坊になって生れ故郷へ帰ったような気持ちになってボンヤリ立っていると向うから綺麗な舞い妓が二人連れ立って来た。その右側の妓の眼鼻立ちが鶴原の未亡人にソックリのように見えたので、私は思わず微笑しながら近付いて名前をきいたら右側のは「美千代」、左側のは「玉代」といった。「うちは?」ときいたら美千代が向うの角を指した。その手に名刺を渡しながら、 「どこかで僕とお話ししてくれませんか」  というと二人で名刺をのぞいていたが眼を丸くしてうなずき合って私の顔を見ながらニッコリするとすこし先の「鶴羽」という家に案内した。そうして二人共一度出て行くと間もなく美千代一人が着物を着かえて這入って来たので私は奇蹟を見るような気持ちになった。  その時|仲居は「高林先生」とか「若先生」とか云って無暗にチヤホヤした。私は気になって「本当の名前は久弥」と云ったら「それでは御苗字は」ときいたから、 「音丸」と答えたら美千代が腹を抱えて笑った。私も東京を出て初めて大きな声で笑った。  それから後私は鶴原未亡人に似た女ばかり探した。芸妓。舞妓。カフェーの女給。女優なぞ……しまいには只鼻の恰好とか、眼付きとか、うしろ姿だけでも似ておればいいようになった。それから大阪に行った。  大阪から別府、博多、長崎、そのほか名ある津々浦々を飲んでは酔い、酔うては女を探してまわった。昨夜鶴原未亡人に丸うつしと思ったのが、あくる朝は似ても似つかぬ顔になっていたこともあった。その時私は潜々と泣き出して女に笑われた。  酔わない時は小説や講談を読んで寝ころんでいた。そうしてもしや自分に似た恋をしたものがいはしまいか。いたらどうするだろうと思って探したが、生憎一人もそんなのは見付からなかった。  そのうちに二年経つと東京の大地震の騒ぎを伊予の道後できいたが、九段が無事ときいたので東京へ帰るのをやめて又あるきまわった。けれども今度は長く続かなかった。私の懐中が次第に乏しくなると共に私の身体も弱って来た。ずっと以前から犯されていた肺尖がいよいよ本物になったからである。  久し振りに、なつかしい箱根を越えて小田原に来たのはその翌年の春の初めであった。そこで暖くなるのを待っているうちに懐中がいよいよ淋しくなって来たので、私は宿屋の払いをして東の方へブラブラとあるき出した。すてきにいい天気で村々の家々に桃や椿が咲き、菜種畠の上にはあとからあとから雲雀があがった。  その途中あんまり疲れたので、とある丘の上の青い麦畑の横に腰を卸すと不意に眼がクラクラして喀血した。その土の上にかたまった血に大空の太陽がキラキラと反射するのを見て私は額に手を当てた。そうしてすべてを考えた。  私は東京を出てから丸三年目にやっと本性に帰ったのであった。懐中を調べて見ると二円七十何銭しかない。私は畠の横の草原に寝て青い大空を仰いで「チチババチバチバ」という可愛らしい雲雀の声をいつまでもいつまでも見詰めていた。  東京に着くと私は着物を売り払って労働者風になって四谷の木賃宿に泊った。そうして夜のあけるのを待ちかねて電車で九段に向った。  なつかしい檜のカブキ門が向うに見えると、私は黒い鳥打帽を眉深くして往来の石に腰をかけた。その時暁星学校の生徒が二人通りかかったが、私の姿を見ると除けて通りながら「若い立ちん坊だよ」と囁き合って行った。青褪めて鬚を生やして、塵埃まみれの草履を穿いた吾が姿を見て私は笑うことも出来なかった。  その日は見なれぬ内弟子が一人高林家の門を出たきり鼓の音一つせずに暗くなりかけて来た。  私は咳をしいしい四谷まで帰って木賃宿に寝た。そうして夜があけると又高林家の門前へ来て出入りの人を見送ったが老先生らしい姿は見えなかった。鼓の音もその日は盛んにきこえたけれども老先生の鼓は一つも聞えなかった。  私はそのあくる日又来た。そのあくる日もその又あくる日も来た。しかし老先生の影も見えない。亡くなられたのか知らんと思うと私の胸は急に暗くなった。 「しかしまだわからない。せめて老先生のうしろ影でも拝んで死なねば……」  と思うと私の足は夜が明けるとすぐに九段の方に向いた。高林家の門からかなり離れた処にある往来の棄て石が、毎日腰をかけるために何となくなつかしいものに思われるようになった。 「又あの乞食が……」と二人の婦人弟子らしいのが私の方を指しながら高林家の門を這入った。私はその時にうとうとと居ねむりをしていたが、やがて私の肩にそっと手を置いたものがあった。巡査かと思って眼をこすって見ると、それは思いもかけぬ老先生だった。私はいきなり土下座した。 「やっぱりお前だった。……よく来た……待っていた……この金で身なりを作って明日の夜中過ぎ一時頃にわたしの室にお出で。小潜りと裏二階の下の雨戸を開けておくから。内緒だよ」  と云いつつ老先生は私の手にハンケチで包んだ銀貨のカタマリを置いて、サッサと帰って行かれた。その銀貨の包みを両手に載せたまま、私は土に額をすりつけた。  その夜は曇ってあたたかかった。  植木職人の風をした私は高林家の裏庭にジッと跼んで時刻が来るのを待った。雨らしいものがスッと頬をかすめた。  ……と……「ポポポ……プポ……ポポポ」という鼓の音が頭の上の老先生の室から起った。  私はハッと息を呑んだ。 「失策った。あの鼓が焼けずにいる。兄が老先生に送ったのだ。イヤあとから小包で私へ宛てて送り出したのを、老先生が受け取られたのかな……飛んでもない事をした」  と思いつつ私は耳を傾けた。  鼓の音は一度絶えて又起った。その静かな美しい音をきいているうちに私の胸が次第に高く波打って来た。  陰気に……陰気に……淋しく、……淋しく……極度まで打ち込まれて行った鼓の音がいつとなく陽気な嬉し気な響を帯びて来たからである。それは地獄の底深く一切を怨んで沈んで行った魂が、有り難いみ仏の手で成仏して、次第次第にこの世に浮かみ上って来るような感じであった。  みるみる鼓の音に明る味がついて来てやがて全く普通の鼓の音になった。しかも日本晴れに晴れ渡った青空のように澄み切った音にかわってしまった。 「イヤア……|△……ハア……|○……ハアッ|○……|○○」  それは名曲『翁』の鼓の手であった。 「とう――とうたらりたらりらア――。所千代までおわしませエ――。吾等も千秋侍らおう――。鶴と亀との齢にてエ――。幸い心にまかせたりイ――。とう――とうたらりたらりらア……」  と私は心の中で謡い合わせながら、久しぶりに身も心も消えうせて行くような荘厳な芽出度い気持になっていた。  やがてその音がバッタリと止んだ。それから五、六分の間何の物音もない。  私は前の雨戸に手をかけた。スーッと音もなく開いたので私は新しいゴム靴を脱いで買い立ての靴下の塵を払って、微塵も音を立てずに思い出の多い裏二階の梯子を登り切って、板の間に片手を支えながら襖をソロソロと開いた。  ……………………  私はこのあとのことを書くに忍びない。只順序だけつないでおく。  私は老先生の死骸を電気の紐から外して、敷いてあった床の中に寝かした。  室の隅の仏壇にあった私の両親と兄の位牌を取って来て、老先生の枕元に並べて線香を上げて一緒に拝んだ。  それから暫くして「あやかしの鼓」を箱ごと抱えて高林家を出た。ザアザア降る雨の中を四ツ谷の木賃宿へ帰った。  あくる日は幸いと天気が上ったので宿の連中は皆出払ったが、私一人は加減が悪いといって寝残った。そうして人気がなくなった頃起き上って鼓箱を開いて見ると、鼓の外に遺書一通と白紙に包んだ札の束が出た。その遺書には宛名も署名もしてなかったが、まがいもない老先生の手蹟でこう書いてあった。  これは私の臍くりだからお前に上げる。この鼓を持って遠方へ行ってまめに暮してくれ。そうして見込みのある者を一人でも二人でもいいからこの世に残してくれ。あやかしの鼓にこもった霊魂の迷いを晴らす道はもうわかったろうから。  私はお前達兄弟の腕に惚れ込み過ぎた。安心してこの鼓を取りに遣った。そのためにあのような取り返しの附かないことを仕出かした。私はお前の親御様へお詫びにゆく。  私は死ぬかと思う程泣かされた。この御恩を報ずる生命が私にないのかと思うと私は蒲団を掴み破り、畳をかきむしり、老先生の遺書を噛みしだいてノタ打ちまわった。  しかしまだ私の業は尽きなかった。  私は鼓を抱えて、その夜の夜汽車で東京を出て伊香保に来た。  温泉宿に落ちついて翌日であったか、東京の新聞が来たのに高林家の事が大きく出ていた。その一番初めに載っていたのはなつかしい老先生の写真であったが、一番おしまいに出ているのは私が見も知らぬ人であるのにその下に「稀代の怪賊高林久弥事旧名音丸久弥」と書いてあったのには驚いた。その本文にはこんなことが書き並べてあった。 ▲今から丸三年前大正十年の春鶴原未亡人の変死事件というのがあった。右に就て当局のその後の調べに依ると同未亡人を甥の妻木という青年と一緒にその旅立ちの前夜に殺害して大金を奪って去ったものは九段高林家の後嗣で旧名音丸久弥といった屈強の青年であることがわかった。 ▲然るにその後久弥はその金を費い果たしたものか、昨夜突然高林家に忍び入って恩師を縊り殺してその臍繰りと名器の鼓を奪って逃げた。 ▲彼は数日前から高林家の門前に乞食|体を装うて来て様子を伺い、恩師高林弥九郎氏が何かの必要のため貯金全部を引き出して来たのを見済ましてこの兇行に及んだものらしく、三年前の事件と共に実に功妙周到且つ迅速を極めたものである。 ▲尚高林家では前にも後嗣高林靖二郎氏の失踪事件があったので、久弥の事は全然秘密にしていたのであるが、兇行の際犯人が大胆にも被害者の枕元に義兄靖二郎氏と犯人の両親の位牌を並べて焼香して行った事実から一切の関係が判明したものである。云々。  これを読んでしまった時、私はどう考えても免れようのない犯人であることに気が付いた。この鼓が犯人だと云っても誰が本当にしよう。世の中というものはこんな奇妙なものかと思い続けながらこの遺書を書いた。そうして今やっとここまで書き上げた。  私は今からこの鼓を打ち砕いて死にたいと思う。私の先祖音丸久能の怨みはもうこの間老先生の手で晴らされている。この怨みの脱け殻の鼓とその血統は今日を限りにこの世から消え失せるのだ。思い残すことは一つもない。  しかし私はこんな一片の因縁話を残すために生れて来たのかと思うと夢のような気もちにもなる。  どこかの公園のベンチである。  眼の前には一条の噴水が、夕暮の青空高く高くあがっては落ち、あがっては落ちしている。  その噴水の音を聞きながら、私は二三枚の夕刊を拡げ散らしている。そうして、どの新聞を見ても、私が探している記事が見当らないことがわかると、私はニッタリと冷笑しながら、ゴシャゴシャに重ねて押し丸めた。  私が探している記事というのは今から一箇月ばかり前、郊外の或る空家の中で、私に絞め殺された可哀相な下町娘の死体に関する報道であった。  私は、その娘と深い恋仲になっていたものであるが、或る夕方のこと、その娘が私に会いに来た時の桃割れと振袖姿が、あんまり美し過ぎたので、私は息苦しさに堪えられなくなって、彼女を郊外の××踏切り附近の離れ家に連れ込んだ。そうして驚き怪しんでいる娘を、イキナリ一思いに絞め殺して、やっと重荷を卸したような気持ちになったものである。万一こうでもしなかったら、俺はキチガイになったかも知れないぞ……と思いながら……。  それから私は、その娘の扱帯を解いて、部屋の鴨居に引っかけて、縊死を遂げたように装わせておいた。そうして何喰わぬ顔をして下宿に帰ったものであるが、それ以来私は、毎日毎日、朝と晩と二度ずつ、おきまりのようにこの公園に来て、このベンチに腰をかけて、入口で買って来た二三枚の朝刊や夕刊に眼を通すのが、一つの習慣になってしまった。 「振袖娘の縊死」  といったような標題を予期しながら……。そうして、そんな記事がどこにも発見されない事をたしかめると、その空家の上空に当る青い青い大気の色を見上げながら、ニヤリと一つ冷笑をするのが、やはり一つの習慣のようになってしまったのであった。  今もそうであった。私は二三枚の新聞紙をゴシャゴシャに丸めて、ベンチの下へ投げ込むと、バットを一本口に啣えながら、その方向の曇った空を振り返った。そうして例の通りの冷笑を含みながらマッチを擦ろうとしたが、その時にフト足下に落ちている一枚の新聞紙が眼に付くと、私はハッとして息を詰めた。  それはやはり同じ日付けの夕刊の社会面であったが、誰かこのベンチに腰をかけた人が棄てて行ったものらしい。そのまん中の処に掲してある特種らしい三段抜きの大きな記事が、私の眼に電気のように飛び付いて来た。 空家の怪死体      ××踏切附近の廃屋の中で      死後約一個月を経た半骸骨   会社員らしい若い背広男  私はこの新聞記事を掴むと、夢中で公園を飛び出した。そうしてどこをどうして来たものか、××踏切り附近の思い出深い廃家の前に来て、茫然と突っ立っていた。  私はやがて、片手に掴んだままの新聞紙に気が付くと、慌てて前後を見まわした。そうして誰も通っていないのを見澄ますと、思い切って表の扉を開いて中に這入った。  空家の中は殆んど真暗であった。その中を探り探り娘の死体を吊るしておいた奥の八畳の間へ来て、マッチを擦って見ると……。 「……………」  ……それは紛う方ない私の死体であった。  バンドを梁に引っかけて、バットを啣えて、右手にマッチを、左手に新聞紙を掴んで……。  私は驚きの余り気が遠くなって来た。マッチの燃えさしを取り落しながら……これは警察当局のトリックじゃないか……といったような疑いをチラリと頭の片隅に浮かめかけたようであったが、その瞬間に、思いもかけない私の背後のクラ暗の中から、若い女の笑い声が聞えて来た。  それは私が絞め殺した彼女の声に相違なかった。 「オホホホホホホ……あたしの思いが、おわかりになって……」      大きな手がかり  村長さんの処の米倉から、白米を四|俵盗んで行ったものがある。  あくる朝早く駐在の巡査さんが来て調べたら、俵を積んで行ったらしい車の輪のあとが、雨あがりの土にハッキリついていた。そのあとをつけて行くと、町へ出る途中の、とある村|外れの一軒屋の軒下に、その米俵を積んだ車が置いてあって、その横の縁台の上に、頬冠りをした男が大の字になって、グウグウとイビキをかいていた。引っ捕えてみるとそれは、その界隈で持てあまし者の博奕打ちであった。  博奕打ちは盗んだ米を町へ売りに行く途中、久し振りに身体を使ってクタビレたので、チョットのつもりで休んだのが、思わず寝過ごしたのであった。  腰縄を打たれたまま車を引っぱってゆく男の、うしろ姿を見送った人々は、ため息して云った。 「わるい事は出来んなあ」      按摩の昼火事  五十ばかりになって一人|住居をしている後家さんが、ひる過ぎに近所まで用足しに行って帰って来ると、開け放しにしておいた自分の家の座敷のまん中に、知り合いの按摩がラムプの石油を撒いて火を放けながら、煙に噎せて逃げ迷っている……と思う間もなく床柱に行き当って引っくり返ってしまった。  後家さんは、めんくらった。 「按摩さんが火事火事」  と大声をあげて村中を走りまわったので、忽ち人が寄って来て、大事に到らずに火を消し止めた。気絶した按摩は担ぎ出されて、水をぶっかけられるとすぐに蘇生したので、あとから駈けつけた駐在巡査に引渡された。  大勢に取り捲かれて、巡査の前の地べたに坐った按摩は、水洟をこすりこすりこう申し立てた。 「まったくの出来心で御座います。声をかけてみたところが留守だとわかりましたので……」 「それからどうしたか」  と巡査は鉛筆を嘗めながら尋ねた。皆はシンとなった。 「それで台所から忍び込みますと、ラムプを探り当てましたので、その石油を撒いて火をつけましたが、思いがけなく、うしろの方からも火が燃え出して熱くなりましたので、うろたえまして……雨戸は閉まっておりますし、出口の方角はわからず……」  きいていた連中がゲラゲラ笑い出したので、按摩は不平らしく白い眼を剥いて睨みまわした。巡査も吹き出しそうになりながら、ヤケに鉛筆を舐めまわした。 「よしよし。わかっとるわかっとる。ところで、どういうわけで火を放けたんか」 「ヘエ。それはあの後家めが」  と按摩は又、そこいらを睨みまわしつつ、土の上で一膝進めた。 「あの後家めが、私に肩を揉ませるたんびに、変なことを云いかけるので御座います。そうしてイザとなると手ひどく振りますので、その返報に……」 「イイエ、違います。まるでウラハラです……」  と群集のうしろから後家さんが叫び出した。  みんなドッと吹き出した。巡査も思わず吹き出した。しまいには按摩までが一緒に腹を抱えた。  その時にやっと後家さんは、云い損ないに気が付いたらしく、生娘のように真赤になったが、やがて袖に顔を当てるとワーッと泣き出した。      夫婦の虚空蔵 「あの夫婦は虚空蔵さまの生れがわり……」  という子守娘の話を、新任の若い駐在巡査がきいて、 「それは何という意味か」  と問い訊してみたら、 「生んだ子をみんな売りこかして、うまいものを喰うて酒を飲まっしゃるから、コクウゾウサマ……」  と答えた。巡査はその通り手帳につけた。それからその百姓の家に行って取り調べると、五十ばかりの夫婦が二人とも口を揃えて、 「ハイ。みんな美しい着物を着せてくれる人の処へ行きたいと申しますので……」  と済まし返っている。 「フーム。それならば売った時の子供の年齢は……」 「ハイ。姉が十四の年で、妹が九つの年。それから男の子を見世物師に売ったのが五つの年で……。ヘエ。証文がどこぞに御座いましたが……間違いは御座いません。ついこの間のことで御座いますから。ヘエ……」  巡査はこの夫婦が馬鹿ではないかと疑い初めた。しかも、なおよく気をつけてみると、今一人の子供が女房の腹の中に居るようす……。  巡査は変な気持ちになって帳面を仕舞いながら、 「フーム。まだほかに子供は無いか」  と尋ねると、夫婦は忽ち真青になってひれ俯した。 「実は四人ほど堕胎しましたので……喰うに困りまして……どうぞ御勘弁を――」  巡査は驚いて又帳面を引き出した。 「ウーム不都合じゃないか。何故そんな勿体ないことをする」  というと、青くなっていた亭主が、今度はニタニタ笑い出した。 「ヘヘヘヘヘヘ。それほどでも御座いません。酒さえ飲めばいくらでも出来ますので……」  巡査は気味がわるくなって逃げるようにこの家を飛び出した。 「この事を本署に報告しましたら古参の巡査から笑われましたヨ。何でも堕胎罪で二度ほど処刑されている評判の夫婦だそうです。二人とも揃って低能らしいので、誰も相手にしなくなっていたのだそうです」  と、その巡査の話。      汽車の実力試験 「この石を線路に置いたら、汽車が引っくり返るか返らないか」 「馬鹿な……それ位の石はハネ飛ばして行くにきまっとる」 「インニャ……引き割って行くじゃろうて……」 「論より証拠やってみい」 「よし来た」  間もなく来かかった列車は、轟然たる音響と共に、その石を粉砕して停車した。見物していた三人の青年は驚いて逃げ出した。  あくる朝三人が、村の床屋で落ち合ってこんな話をした。 「昨日は恐ろしかったな。あんまり大きな音がしたもんで、おらあ引っくり返ったかと思うたぞ」 「ナアニ。機関車は全部鉄造りじゃけにな。あんげな石ぐらい屁でもなかろ」 「しかし、引き砕いてから停まったのは何故じゃろか。車の歯でも欠けたと思ったんかな」 「ナアニ。人を轢いたと思ったんじゃろ」  こうした話を、頭を刈らせながらきいていた一人の男は、列車妨害の犯人捜索に来ていた刑事だったので、すぐに三人を本署へ引っぱって行った。  その中の一人は署長の前でふるえながらこう白状した。 「三人の中で石を置いたのは私で御座います。けれどもはね飛ばしてゆくとばかり思うておりましたので……罪は一番軽いので……」  と云い終らぬうちに巡査から横面を喰わせられた。  三人は同罪になった。      スットントン  漁師の一人娘で生れつきの盲目が居た。色白の丸ポチャで、三味線なら何でも弾くのが自慢だったので、方々の寄り合い事に、芸者代りに雇われて重宝がられていた。  ある時、近くの村の青年の寄り合いに雇われたが、案内に来た青年は馬方で、馬力の荷物のうしろの方に空所を作って、そこに座布団を敷いて、三味線と、下駄を抱えた女を乗せると、最新流行のスットントン節を唄いながら、白昼の国道を引いて行った。  ところがその馬力が、正午過ぎに村へ帰りつくと、荷物のうしろには座布団だけしか残っていないことが発見されたので、忽ち大騒ぎになった。 「途中の松原で畜生が小便した時までは、たしかに女が坐っておった」  という馬方の言葉をたよりに、村中総出でそこいらの沿道を探しまわったが、それらしい影も無い。村長や、区長や、校長先生や巡査が青年会場に集まって、いろいろに首をひねったけれども、第一、居なくなった原因からしてわからなかった。  結局、娘の親たちへ知らせなければなるまい……というので、とりあえず青年会員が二人、娘のうちへ自転車を乗りつけると、晴れ着をホコリダラケにしたその娘が、おやじに引き据えられて、泣きながら打たれている。  二人の青年は顔を見合わせたが、ともかくも飛び込んで押し止めて、 「これはどうした訳ですか」  と尋ねると、おやじは面目なさそうに頭を掻いた。 「ナアニ。こいつがこの頃|流行るスットントンという歌を知らんちうて逃げて帰って来たもんですけに……どうも申訳ありませんで……」  二人の青年はいよいよ訳がわからなくなった。そこで、なおよく事情をきいてみると、最前女を馬力に乗せて引いて行った青年が、途中でスットントン節をくり返しくり返し唄った。それは娘に初耳であったので、先方で弾かせられては大変と思って、一生懸命に耳を澄ましたが、あいにくその青年が調子外れだったので、歌の節が一々変テコに脱線して、本当の事がよくわからない。これではとても記憶えられぬと思うと、女心のせつなさに、下駄と三味線を両手に持って、死ぬる思いで馬力から飛び降りて逃げ帰ったものと知れた。  青年の一人はこの話をきくと非常に感心したらしく、勢い込んで云った。 「実に立派な心がけです。しかし心配することはない。私たちと一緒に来なさい。これから夜通しがかりで青年会をやり直します。歌は途中で私が唄ってきかせます」      花嫁の舌喰い  一部落|挙って、不動様を信心していた。  その中で、夫婦と子供三人の一家が夕食の最中に、主人が箸をガラリと投げ出して、 「タッタ今おれに不動様が乗り移った」  と云いつつ凄い顔をして坐り直した。お神さんは慌てて畳の上にひれ伏した。ビックリして泣き出した三人の子供も、叱りつけて拝ました。  この噂が伝わると、そこいらじゅうの信心家が、あとからあとから押しかけて来て「お不動様」の御利益にあずかろうとしたので、家の中は夜通し寝ることも出来ないようになった。  そのまん中に、木綿の紋付き羽織を引っかけた不動様が坐って、恐ろしい顔で睨みまわしていたが、やがて、うしろの方に坐っている、紅化粧した別嬪をさし招いた。その女は二三日前近所へ嫁入って来たものであった。 「もそっと前へ出ろ。出て来ぬと金縛りに合わせるぞ。ズッと私の前に来い。怖がる事はない。罪を浄めてやるのだ。サアよいか。お前は前の生に恐ろしい罪を重ねている。その罪を浄めてやるから舌を出せ。もそっと出せ。出さぬと金縛りだぞ……そうだそうだ……」  こう云いつつその舌に顔をさし寄せて、ジッと睨んでいた不動様は、不意にパクリとその舌を頬張ると、ズルリズルリとシャブリ初めた。  女は衆人環視の中で舌をさし出したまま、眼を閉じてブルブルふるえていた。すると不動様は何と思ったか突然に、その舌を根元からプッツリと噛み切って、グルグルと嚥み込んでしまった。  女は悶絶したまま息が絶えた。  あとで町から医者や役人が来て取調べた結果、不動様の脳髄がずっと前から梅毒に犯されていることがわかった。  この事実がわかると、その村の不動様信心がその後パッタリと止んだ。不動様を信仰すると梅毒になるというので……。      感違いの感違い  駐在巡査が夜ふけて線路の下の国道を通りかかると、頬冠りをした大男が、ガードの上をスタスタと渡って行く。何者だろう……とフト立ち停まると、その男が一生懸命に逃げ出したので、巡査も一生懸命に追跡を初めた。  やがてその男が村の中の、とある物置へ逃げ込んだので、すぐに踏み込んで引きずり出してみると、それは村一番の正直者で、自分の家の物置に逃げ込んだものであることがわかった。  巡査はガッカリして汗を拭き拭き、 「馬鹿めが。何もしないのに何でおれの姿を見て逃げた」  と怒鳴りつけると、その男も汗を拭き拭き、 「ハイ。泥棒と間違えられては大変と思いましたので……どうぞ御勘弁を……」      スウィートポテトー  心中のし損ねが村の駐在所に連れ込まれた……というのでみんな見に行った。  十|燭の電燈に照らされた板張りの上の小さな火鉢に、消し炭が一パイに盛られている傍に、男と女が寄り添うようにして跼まって、濡れくたれた着物の袖を焙っている。どちらも都の者らしく、男は学生式のオールバックで、女は下町風の桃割れに結っていた。  硝子戸の外からのぞき込む人間の顔がふえて来るにつれて、二人はいよいよくっつき合って頭を下げた。  やがて四十四五に見える駐在巡査が、ドテラがけで悠然と出て来た。一パイ飲んだらしく、赤い顔をピカピカ光らして、二人の前の椅子にドッカリと腰をかけると、酔眼朦朧とした身体をグラグラさせながら、いろんな事を尋ねては帳面につけた。そのあげくにこう云った。 「つまりお前達二人はスウィートポテトーであったのじゃナ」  硝子戸の外の暗の中で二三人クスクスと笑った。  すると、うつむいていた若い男が、濡れた髪毛を右手でパッとうしろへはね返しながら、キッと顔をあげて巡査を仰いだ。異状に興奮したらしく、白い唇をわななかしてキッパリと云った。 「……違います……スウィートハートです……」 「フフ――ウム」  と巡査は冷やかに笑いながらヒゲをひねった。 「フ――ム。ハートとポテトーとはどう違うかナ」 「ハートは心臓で、ポテトーは芋です」  と若い男はタタキつけるように云ったが、硝子戸の外でゲラゲラ笑い出した顔をチラリと見まわすと、又グッタリとうなだれた。  巡査はいよいよ上機嫌らしくヒゲを撫でまわした。 「フフフフフ。そうかな。しかしドッチにしても似たもんじゃないかナ」  若い男は怪訝な顔をあげた。硝子戸の外の笑い声も同時に止んだ。巡査は得意らしく反り身になった。 「ドッチもいらざるところで芽を吹いたり、くっつき合うて腐れ合うたりするではないか……アーン」  人が居なくなったかと思う静かさ……と思う間もなく、硝子戸の外でドッと笑いの爆発……。  若い男はハッと両手を顔にあてて、ブルブルと身をふるわした。初めから嘲弄されていたことがわかったので……同時に、横に居た桃割れも、ワッとばかり男の膝に泣き伏した。  硝子戸の外の笑い声が止め度もなく高まった。  巡査も腕を組んだまま天井をあおいだ。 「アアハアハアハア。馬鹿なやつどもじゃ。アアハアアアハア……」      空家の傀儡踊  みんな田の草を取りに行っていたし、留守番の女子供も午睡の真最中であったので、只さえ寂びれた田舎町の全体が空ッポのようにヒッソリしていた。その出外れの裏表|二間をあけ放した百姓家の土間に、一人の眼のわるい乞食爺が突立って、見る人も無く、聞く人も無いのにアヤツリ人形を踊らせている。  人形は鼻の欠けた振り袖姿で、色のさめた赤い鹿の子を頭からブラ下げていた。 「観音シャマを、かこイつウけエて――。会いに――来たンやンら。みンなンみンやンら。……振りイ――の――たンもンとンにイ――北ンしよぐウれエ。晴れン間も――。さンら――にイ……。な――かア……」  歯の抜けた爺さんの義太夫はすこぶる怪しかったが、それでもかなり得意らしく、時々|霞んだ眼を天井に向けては、人形と入れ違いに首をふり立てた。 「ヘ――イ。このたびは二の替りといたしまして朝顔日記大井川の段……テテテテテ天道シャマア……きこえまシェぬきこえまシェぬきこえまシェぬ……チン……きこえまシェぬわいニョ――チッチッチッチッ」 「妻ア――ウワア。なンみンだンにイ――。か――き――くンるえ――テヘヘヘヘ。ショレみたんよ……光ウ秀エどンの……」  振り袖の人形が何の外題でも自由自在に次から次へ踊って行くにつれて、爺さんのチョボもだんだんとぎれとぎれに怪しくなって行った。  しかし爺さんは、どうしたものかナカナカ止めなかった。ヒッソリした家の中で汗を拭き拭きシャ嗄れた声を絞りつづけたので、人通りのすくない時刻ではあったが、一人立ち止まり二人引っ返ししているうちに、近所界隈の女子供や、近まわりの田に出ていた連中で、表口が一パイになって来た。 「狂人だろう」  と小声で云うものもあった。  そのうちに誰かが知らせたものと見えて、この家の若い主人が帰って来た。手足を泥だらけにした野良着のままであったが、肩を聳やかして土間に這入るとイキナリ、人形をさし上げている爺さんの襟首に手をかけてグイと引いた。振袖人形がハッと仰天した。そうして次の瞬間にはガックリと死んでしまった。  見物は固唾をのんだ。どうなることか……と眼を瞠りながら……。 「……ヤイ。キ……貴様は誰にことわって俺の家へ這入った……こんな人寄せをした……」  爺さんは白い眼を一パイに見開いた。口をアングリとあけて呆然となったが、やがて震える手で傍の大きな信玄袋の口を拡げて、生命よりも大切そうに人形を抱え上げて落し込んだ。それから両手をさしのべて、破れた麦稈帽子と竹の杖を探りまわし初めた。  これを見ていた若い主人は、表に立っている人々をふり返ってニヤリと笑った。人形を入れた信玄袋をソッと取り上げて、うしろ手に隠しながらわざと声を大きくして怒鳴った。 「サア云え。何でこんな事をした。云わないと人形を返さないぞ」  何かボソボソ云いかけていた見物人が又ヒッソリとなった。  麦稈帽を阿弥陀に冠った爺さんは、竹の杖を持ったままガタガタとふるえ出した。ペッタリと土間に坐りながら片手をあげて拝む真似をした。 「……ど……どうぞお助け……御勘弁を……」 「助けてやる。勘弁してやるから申し上げろ。何がためにこの家に這入ったか。何の必要があれば……最前からアヤツリを使ってコンナに大勢の人を寄せたのか。ここを公会堂とばし思ってしたことか」  爺さんは見えぬ眼で次の間をふり返って指した。 「……サ……最前……私が……このお家に這入りまして……人形を使い初めますと……ア……あそこに居られたどこかの旦那様が……イ……一円……ク下さいまして……ヘイ……おれが飯を喰っている間に……貴様が知っているだけ踊らせてみよ……トト、……おっしゃいましたので……ヘイ……オタスケを……」 「ナニ……飯を喰ったア……一円くれたア……」  若い主人はメンクラッたらしく眼を白黒さしていたが、忽ち青くなって信玄袋を投げ出すと、次の間の上り框に駈け寄った。そこにひろげられた枕屏風の蔭に、空っぽの飯櫃がころがって、無残に喰い荒された漬物の鉢と、土瓶と、箸とが、飯粒にまみれたまま散らばっている。そんなものをチラリと見た若い主人の眼は、すぐに仏壇の下に移ったが、泥足のままかけ上って、半分開いたまんまの小抽出しを両手でかきまわした。 「ヤラレタ……」  と云ううちに見る見る青くなってドッカリと尻餅を突いた。頭を抱えて縮み込んだ。表の見物人はまん丸にした眼を見交した。 「……マア……可哀相に……留守番役のおふくろが死んだもんじゃけん」 「キット流れ渡りの坑夫のワルサじゃろ……」  その囁きを押しわけてこの家の若い妻君が帰って来た。やはり野良行きの姿であったが、信玄袋を探し当てて出て行く乞食爺の姿を見かえりもせずに、泥足のままツカツカと畳の上にあがると、若い主人の前にベッタリと坐り込んだ。頭の手拭を取って鬢のほつれを掻き上げた。無理に押しつけたような声で云った。 「お前さんは……お前さんは……この小抽出しに何を入れておんなさったのかえ……妾に隠して……一口も云わないで……」  若い主人はアグラを掻いて、頭を抱えたまま、返事をしなかった。やがて濡れた筒ッポウの袖口で涙を拭いた。  下唇を噛んだまま、ジッとこの様子をながめていた妻君の血相がみるみる変って来た。不意に主人の胸倉を取ると、猛烈に小突きまわし初めた。 「……えエッ。口惜しいッ。おおかた大浜のアンチキショウの処へ持って行く金じゃったろ。畜生畜生……二人で夜の眼を寝ずに働いた養蚕の売り上げをば……いつまでも渡らぬと思うておったれば……エエッ……クヤシイ、クヤシイ」  しかしいくら小突かれても若い主人はアヤツリのようにうなだれて、首をグラグラさせるばかりであった。  二三人見かねて止めに這入って来たが、一番うしろの男は表の人だかりをふり返って、ペロリと赤い舌を出した。 「これがホンマのアヤツリ芝居じゃ」  みんなゲラゲラ笑い出した。  妻君が主人の胸倉を取ったままワーッと泣き出した。      一ぷく三杯  お安さんという独身者で、村一番の吝ン坊の六十婆さんが、鎮守様のお祭りの晩に不思議な死にようをした。  ……たった一人で寝起きをしている村外れの茶屋の竈の前で、痩せ枯た小さな身体が虚空を掴んで悶絶していた。平生腰帯にしていた絹のボロボロの打ち紐が、皺だらけの首に三廻りほど捲かれて、ノドボトケの処で唐結びになったままシッカリと肉に喰い込んでいたが、その結び目の近まわりが血だらけになるほど掻き※られている。しかし何も盗まれたもようは無く、外から人の這入った形跡も無い。法印さんの処から貰って帰ったお重詰めは、箸をつけないまま煎餅布団の枕元に置いてあった。貯金の通い帳は方々探しまわったあげく、竈の灰の下の落し穴から発見された。その遺産を受け継ぐべき婆さんのたった一人の娘と、その婿になっている電工夫は、目下東京に居るが、急報によって帰郷の途中である。婆さんの屍体は大学で解剖することになった……近来の怪事件……というので新聞に大きく出た。  お安婆さんの茶店は、鉄道の交叉点のガードの横から、海を見晴らしたところにあった。古ぼけた葭簀張りの下に、すこしばかりの駄菓子とラムネ。渋茶を煮出した真黒な土瓶。剥げた八寸膳の上に薄汚ない茶碗が七ツ八ツ……それでも夏は海から吹き通しだし、冬の日向きがよかったので、街道通いの行商人なぞがスッカリ狃染になっていた。  主人公の婆さんは三十いくつかの年に罹った熱病以来、腰が抜けて立ち居が不自由になると、生れて間もない娘を置き去りにして亭主が逃げてしまったので、田畠を売り払ってここで茶店を開いた。その娘がまたなかなかの別嬪の利発もので、十九の春に、村一番の働き者の電工夫を婿養子に取ったが、今は夫婦とも東京の会社につとめて月給を貰っているとか。 「その娘夫婦が東京に孫を見に来い見に来いと云いますけれども、まあなるたけ若い者の足手まといになるまいと思うて、この通りどうやらこうやらしております。自分の身のまわりの事ぐらいは足腰が立ちますので……娘夫婦もこの頃はワタシに負けて、その中に孫を見せに帰って来ると云うておりますが……」  と云いながら婆さんは、青白い頬をヒクツカせて、さも得意そうにニヤリとするのであった。 「……フフン。それでも独りで淋しかろ……」  と聞き役になったお客が云うと、婆さんは又、オキマリのようにこう答えた。 「ヘエあなた。二度ばかり泥棒が這入りましてなあ。貴様は金を溜めているに違いないと申しましたけれどもなあ。ワタシは働いたお金をみんな東京の娘の処に送っております。それでも、あると思うならワタシを殺すなりどうなりしてユックリと探しなさいと云いましたので、茶を飲んで帰りました」  しかしこの婆さんが千円の通い帳を二ツ持っているという噂を、本当にしないものは村中に一人も居なかった。それ位にこの婆さんの吝ン坊は有名で、殆んど喰うものも喰わずに溜めていると云ってもいい位であった。そんな評判がいろいろある中にも小学校の生徒まで知っているのは「お安さん婆さんの一服三杯」という話で……。 「フフン。その一服三杯というのは飯のことかね……」  と村の者の云うことをきいていた巡査は手帳から眼を離した。 「ヘエ。それはソノ……とても旦那方にお話し致しましても本当になさらないお話で……しかしあの婆さんが死にましたのは、確かにソノ一服三杯のおかげに違いないと皆申しておりますが……」 「フフン。まあ話してみろ。参考になるかもしれん」 「ヘエ。それじゃアまアお話ししてみますが、あの婆さんは毎月一度|宛、駅の前の郵便局へ金を預けに行く時のほかは滅多に家を出ません。いつもたった一人で、あの茶店に居るので御座いますが、それでも村の寄り合いとか何とかいう御馳走ごとにはキット出てまいります。それも前の晩あたりから飯を食わずに、腹をペコペコにしておいて、あくる日は早くから店を閉めて、松葉杖を突張って出て来るので御座いますが、いよいよ酒の座となりますと、先ず猪口で一パイ飲んで、あの青い顔を真赤にしてしまいます。それから飯ばっかりを喰い初めて、時々お汁をチュッチュッと吸います。漬け物もすこしは喰べますが、大抵六七八杯は請け合いのようで……それからいよいよ喰えぬとなりますと、煙草を二三服吸うて、一息入れてから又初めますので、アラカタ二三杯位は詰めこみます。それからあとのお平や煮つけなぞを、飯と一緒に重箱に一パイ詰めて帰って、その日は何もせずに、あくる日の夕方近くまで寝ます。それからポツポツ起きて重箱の中のものを突ついて夕飯にする。御承知の通り、この辺の御馳走ごとの寄り合いは、大抵時候のよい頃に多いので、どうかすると重箱の中のものが、その又あくる日の夕方までありますそうで……つまるところ一度の御馳走が十ペン位の飯にかけ合うことに……」 「ウ――ム。しかしよく食傷して死なぬものだな」 「まったくで御座います旦那様。あの痩せこけた小さな身体に、どうして這入るかと思うくらいで……」 「ウ――ム。しかしよく考えてみるとそれは理窟に合わんじゃないか。そんなにして二日も三日も店を閉めたら、つまるところ損が行きはせんかな」 「ヘエ。それがです旦那様。最前お話し申上げましたその娘夫婦も、それを恥かしがって東京へ逃げたのだそうでございますが、お安さん婆さんに云わせますと……『自分で作ったものは腹一パイ喰べられぬ』というのだそうで……ちょうどあの婆さんが死にました日が、ここいらのお祭りで御座いましたが、法印さんの処で振舞いがありましたので、あの婆さんが又『一服三杯』をやらかしました。それが夜中になって口から出そうになったので勿体なさに、紐でノド首を縛ったものに違いない。そうして息が詰まって狂い死にをしたのだろう……とみんな申しておりますが……」 「アハハハハハ。そんな馬鹿な……いくら吝ン坊でも……アッハッハッハッ……」  巡査は笑い笑い手帳と鉛筆を仕舞って帰った。  しかしお安さん婆さんの屍体解剖の結果はこの話とピッタリ一致したのであった。      蟻と蠅  山の麓に村一番の金持ちのお邸があって、そのまわりを十軒ばかりの小作人の家が取り巻いて一部落を作っていた。  お邸の裏手から、山へ這入るところに柿の樹と、桑の畑があったが、梅雨があけてから小作人の一人が山へ行きかかると、そこの一番大きい柿の樹の根方から、赤ん坊の足が一本洗い出されて、蟻と蠅が一パイにたかっているのを発見したので真青になって飛んで帰った。  やがて駐在所から、新しい自転車に乗った若い巡査がやって来て掘り出してみると、六ヶ月位の胎児で、死後一週間を経過していると推定されたので、いくらもないその部落の中の女が一人一人に取り調べられたが、怪しい者は一人も居なかった。結局残るところの嫌疑者は、この頃、都の高等女学校から帰省して御座る、お邸のお嬢さん只一人……しかもすこぶるつきのハイカラサンで、大旦那が遠方行きの留守中を幸いに、ゴロゴロ寝てばかり御座る様子がどうも怪しいということになった。  若い巡査は或る朝サアベルをガチャガチャいわせてそのお邸の門を潜った。 「ソラ御座った。イヨイヨお嬢さんが調べられさっしゃる」  と家中のものが鳴りを静めた。野良からこの様子を見て走って来るものもあった。  玄関に巡査を出迎えて、来意をきいた娘の母親が、血の気の無くなった顔をして隠居部屋に来てみると、細帯一つで寝そべって雑誌を読んでいた娘は、白粉の残った顔を撫でまわしながら蓬々たる頭を擡げた。 「何ですって……妾が堕胎したかどうか巡査が調べに来ているんですって……ホホホホホ生意気な巡査だわネエ。アリバイも知らないで……」  玄関に近いので母親はハラハラした。眼顔で制しながら恐る恐る問うた。 「……ナ……何だえ。その蟻とか……蠅とかいうのは……アノ胎児の足にたかっていた虫のことかえ……」 「ホホホホホホそんなものじゃないわよ。何でもいいから巡査さんにそう云って頂戴……妾にはチャンとしたアリバイがありますから、心配しないでお帰んなさいッテ……」  母親はオロオロしながら玄関に引返した。  しかし巡査は娘の声をきいていたらしかった。少々興奮の体で仁王立ちになって、ポケットから手帳を出しかけていたが、母親の顔を見るとまだ何も云わぬ先にグッと睨みつけた。 「そのアリバイとは何ですか」  母親はふるえ上った。よろめきたおれむばかりに娘のところへ駈け込むと、雑誌の続きを読みかけていた娘は眉根を寄せてふり返った。 「ウルサイわねえ。ホントニ。そんなに妾が疑わしいのなら、妾の処女膜を調べて御覧なさいッて……ソウおっしゃい……失礼な……」  母親はヘタヘタと坐り込んだ。巡査も真赤になって自転車に飛び乗りながら、逃げるように立ち去った。  それ以来この部落ではアリバイという言葉が全く別の意味で流行している。      赤い松原  海岸沿いの国有防風林の松原の中に、托鉢坊主とチョンガレ夫婦とが、向い合わせの蒲鉾小舎を作って住んでいた。  三人は極めて仲がいいらしく、毎朝一緒に松原を出て、一里ばかり離れた都会に貰いに行く。そうして帰りには又どこかで落ち合って、何かしら機嫌よく語り合いながら帰って来るのであった。月のいい晩なぞは、よくその松原から浮き上るような面白い音がきこえるので、村の若い者が物好きに覗いてみると蒲鉾小舎の横の空地で、チョンガレ夫婦のペコペコ三味線と四つ竹の拍子に合わせて、向う鉢巻の坊主が踊っていたりした。横には焚火と一升|徳利なぞがあった。  そのうちに世間が不景気になるにつれて、坊主の方には格別の影響も無い様子であるが、チョンガレ夫婦の貰いが、非常に減った模様で、松原へ帰る途中でも、そんな事かららしく、夫婦で口論をしていることが珍らしくなくなった。或る時なぞは村外れで掴み合いかけているのを、坊主が止めていたという。  ところがそのうちに三人の連れ立った姿が街道に見られなくなって、その代りに頭を青々と丸めて、法衣を着たチョンガレの托鉢姿だけが、村の人の眼につくようになった。  ……コレは可怪しい。和尚の方は一体何をしているのか……と例によってオセッカイな若い者が覗きに行ってみると、坊主はチョンガレの女房を、自分の蒲鉾小屋に引きずり込んで、魚なぞを釣って納まり返っている。夕方にチョンガレが帰って来ても、女房は平気で坊主のところにくっ付いているし、チョンガレも独りで煮タキして独りで寝る……おおかた法衣と女房の取り換えっこをしたのだろう……というのが村の者の解釈であった。  ところが又その後になるとチョンガレの托鉢姿が、いつからともなく松原の中に見えなくなった。しかし蒲鉾小舎は以前のままで、チョンガレの古巣は物置みたように、枯れ松葉や、古材木が詰め込まれていた。そうして坊主がもとの木阿弥の托鉢姿に帰って、松原から出て行くと、女房は女房で、坊主と別々にペコペコ三味線を抱えて都の方へ出かける。夜は一緒に寝ているのであった。 「坊主も遊んでいられなくなったらしい」  と村の者は笑った。  そのうちに冬になった。  或る夜ケタタマシク村の半鐘が鳴り出したので、人々が起きてみると、その松原が大火焔を噴き出している。アレヨアレヨといううちに西北の烈風に煽られて、見る間に数十町歩を烏有に帰したので、都の消防が残らず駈けつけるなぞ、一時は大変な騒ぎであったが、幸いに人畜に被害も無く、夜明け方に鎮火した。火元は無論その蒲鉾小舎で、二軒とも引き崩して積み重ねて焼いたらしい灰の下から、半焼けの女房の絞殺屍体と、その下の土饅頭みたようなものの中から、半分骸骨になったチョンガレの屍体があらわれた。しかもそのチョンガレの頭蓋骨が掘り出されると、噛み締めた白い歯が自然と開いて、中から使いさしの猫イラズのチューブがコロガリ出たので皆ゾッとさせられた。      郵便局  鎮守の森の入口に、村の共同浴場と、青年会の道場が並んで建っていた。夏になるとその辺で、撃剣の稽古を済ました青年たちが、歌を唄ったり、湯の中で騒ぎまわったりする声が、毎晩のように田圃越しの本村まで聞こえた。  ところが或る晩の十時過の事。お面お籠手の声が止むと間もなく、道場の電燈がフッと消えて人声一つしなくなった。……と思うとそれから暫くして、提灯の光りが一つ森の奥からあらわれて、共同浴場の方に近づいて来た。 「来たぞ来たぞ」「シッシッ聞こえるぞ」「ナアニ大丈夫だ。相手は耳が遠いから……」  といったような囁きが浴場の周囲の物蔭から聞こえた。ピシャリと蚊をたたく音だの、ヒッヒッと忍び笑いをする声だのが続いて起って、又消えた。  提灯の主は元五郎といって、この道場と浴場の番人と、それから役場の使い番という三ツの役目を村から受け持たせられて、森の奥の廃屋に住んでいる親爺で、年の頃はもう六十四五であったろうか。それが天にも地にもたった一人の身よりである、お八重という白痴の娘を連れて、仕舞湯に入りに来たのであった。  親爺は湯殿に這入ると、天井からブラ下がっている針金を探って、今日買って来たばかりの五|分心の石油ラムプを吊して火を灯けた。それから提灯を消して傍の壁にかけて、ボロボロ浴衣を脱ぐと、くの字なりに歪んだ右足に、黒い膏薬をベタベタと貼りつけたのを、さも痛そうにラムプの下に突き出して撫でまわした。  その横で今年十八になったばかりのお八重も着物を脱いだが、村一等の別嬪という評判だけに美しいには美しかった。しかし、どうしたわけか、その下腹が、奇妙な恰好にムックリと膨らんでいるために、親爺の曲りくねった足と並んで、一種異様な対照を作っているのであった。 「ホントウダホントウダ」「ふくれとるふくれとる」「ドレドレ俺にも見せろよ」「フーン誰の子だろう」「わかるものか」「俺ア知らんぞ」「嘘|吐け……お前の女だろうが」「馬鹿云えコン畜生」「シッシッ」  というようなボソボソ話が、又も浴場のまわりで起った。しかし親爺は耳が遠いので気がつかないらしく、黙って曲った右足を湯の中に突込んだ。お八重もそのあとから真似をするように右足をあげて這入りかけたが、フイと思い出したようにその足を引っこめると、流し湯へ跼んでシャーシャーと小便を初めた。  元五郎親爺はその姿を、霞んだ眼で見下したまま、妙な顔をしていたが、やがてノッソリと湯から出て来て、小便を仕舞ったばかりの娘の首すじを掴むと、その膨れた腹をグッと押えつけた。 「これは何じゃえ」 「あたしの腹じゃがな」  と娘は顔を上げてニコニコと笑った。クスクスという笑い声が又、そこここから起った。 「それはわかっとる……けんどナ……この膨れとるのは何じゃエ……これは……」 「知らんがな……あたしは……」 「知らんちうことがあるものか……いつから膨れたのじゃエこの腹はコンゲニ……今夜初めて気が付いたが……」  と親爺は物凄い顔をしてラムプをふりかえった。 「知らんがナ……」 「知らんちうて……お前だれかと寝やせんかな。おれが用達しに行っとる留守の間に……エエコレ……」 「知らんがナ……」  と云い云いふり仰ぐお八重の笑顔は、女神のように美しく無邪気であった。  親爺は困惑した顔になった。そこいらをオドオド見まわしては新らしいラムプの光りと、娘の膨れた腹とを、さも恨めしげに何遍も何遍も見比べた。 「オラ知っとる……」「ヒッヒッヒッヒッ」  という小さな笑い声がその時に入口の方から聞えた。  その声が耳に這入ったかして、元五郎親爺はサッと血相をかえた。素裸体のまま曲った足を突張って、一足飛びに入口の近くまで来た。それと同時に、 「ワ――ッ」「逃げろッ」  という声が一時に浴場のまわりから起って、ガヤガヤガヤと笑いながら、八方に散った。そのあとから薪割用の古鉈を提げた元五郎親爺が、跛引き引き駆け出したが、これも森の中の闇に吸い込まれて、足音一つ聞こえなくなった。  その翌る朝の事。元五郎親爺は素裸体に、鉈をしっかりと掴んだままの死体になって、鎮守さまのうしろの井戸から引き上げられた。又娘のお八重は、そんな騒ぎをちっとも知らずに廃屋の台所の板張りの上でグーグー睡っていたが、親爺の死体が担ぎ込まれても起き上る力も無いようす……そのうちにそこいらが変に臭いので、よく調べてみると、お八重は叱るものが居なくなったせいか、昨夜の残りの冷飯の全部と、糠味噌の中の大根や菜っ葉を、糠だらけのまま残らず平らげたために、烈しい下痢を起して、腰を抜かしていることがわかった。  そのうちに警察から人が来て色々と取調べの結果、昨夜からの事が判明したので、元五郎親爺の死因は過失から来た急劇|脳震盪ということに決定したが、一方にお八重の胎児の父はどうしてもわからなかった。  初めはみんな、撃剣を使いに行く青年たちのイタズラであろうと疑っていたが、八釜し屋の区長さんが主任みたようになって、一々青年を呼びつけて手厳しく調べてみると、この村の青年ばかりでなく、近所の村々からもお八重をヒヤカシに来ていた者があるらしい。それでお八重には郵便局という綽名がついていることまで判明したので、区長さんは開いた口が塞がらなくなった。  すると、その区長さんの長男で医科大学に行っている駒吉というのが、ちょうどその時に帰省していて、この話をきくと恐ろしく同情してしまった。実地経験にもなるというので、すぐに学生服を着て、お八重の居る廃屋へやって来て、新しい聴診器をふりまわしながら親切に世話をし初めた。母親に頼んで三度三度お粥を運ばせたり、自身に下痢止めの薬を買って来て飲ませたりしたので「サテは駒吉さんの種であったか」という噂がパッと立った。しかし駒吉はそんな事を耳にもかけずに、休暇中毎日のようにやって来て診察していると、今度はその駒吉が、お八重の裸体の写真を何枚も撮って、机の曳出しに入れていることが、誰云うとなく評判になったので、流石の駒吉も閉口したらしく、休暇もそこそこに大学に逃げ返った。そうすると又、あとからこの事をきいた区長さんがカンカンに怒り出して、母親がお八重の処へ出入りするのを厳重にさし止めてしまった。 「お八重が子供を生みかけて死んでいる」という通知が、村長と、区長と、駐在巡査の家へ同時に来たのは、それから二三日経っての事であった。それは鎮守の森一パイに蝉の声の大波が打ち初めた朝の間の事であったが、その森蔭の廃屋へ馳けつけた人は皆、お八重の姿が別人のように変っていたのに驚いた。誰も喰い物を与えなかったせいか、美しかった肉付きがスッカリ落ちこけて、骸骨のようになって仰臥していたが、死んだ赤子の片足を半分ばかり生み出したまま、苦悶しいしい絶息したらしく、両手の爪をボロ畳に掘り立てて、全身を反り橋のように硬直させていた。その中でも取りわけて恐ろしかったのは、蓬々と乱れかかった髪毛の中から、真白くクワッと見開いていた両眼であったという。 「お八重の婿どん誰かいナア  阿呆鴉か梟かア  お宮の森のくら闇で  ホ――イホ――イと啼いている。  ホイ、ホイ、ホ――イヨ――」  という子守唄が今でもそこいらの村々で唄われている。      赤玉 「ナニ……兼吉が貴様を毒殺しようとした?……」  と巡査部長が眼を光らすと、その前に突立った坑夫体の男が、両手を縛られたまま、うなだれていた顔をキッと擡げた。 「ヘエ……そんで……兼吉をやっつけましたので……」  と吐き出すように云って、眼の前の机の上に、新聞紙を敷いて横たえてある鶴嘴を睨みつけた。その尖端の一方に、まだ生々しい血の塊まりが粘りついている。  巡査部長は意外という面もちで、威儀を正すかのように坐り直した。 「フーム。それはどうして……何で毒殺しようとしたんか……」 「ヘエそれはこうなので……」  と坑夫体の男は唾を呑み込みながら、入口のタタキの上に、筵を着せて横たえてある被害者の死骸をかえりみた。 「私が一昨日から風邪を引きまして、納屋に寝残っておりますと、昨日の晩方の事です。あの兼の野郎が仕事を早仕舞いにして帰って来て『工合はどうだ』と訊きました」 「……ふうん……そんなら兼と貴様は、モトから仲が悪かったという訳じゃないな」 「……ヘエ……そうなんで……ところで旦那……これはもう破れカブレでぶちまけますが、大体あの兼の野郎と私との間には六百ケンで十両ばかりのイキサツがありますので……尤も私が彼奴に十両貸したのか……向うから私が十両借りたのか……そこんところが、あんまり古い話なので忘れてしまいまして……チッポケナ金ですから、どうでも構わんと思っていても、兼の顔さえ見ると、奇妙にその事が気にかかってしようがなくなりますので……けんどそのうちに兼が何とか云って来たらどっちが借りたか、わかるだろうと思って黙っていたんですが……そんで……私は見舞いを云いに来た兼の顔を見ると又、その事を思い出しました。そうして……どうも熱が出たようで苦しくて仕様がない。こんな事は生れて初めてだから、事に依ると俺は死ぬんかもしれない……と云いますと兼の野郎が……そんだら俺が医者を呼んで来てやろうと云って出て行きましたが、待っても待っても帰って来ません。私は兼の野郎が唾を引っかけて行きおったに違いないと思ってムカムカしておりましたが、そのうちに十二時の汽笛が鳴りますと、どこかで喰らって真赤になった兼が、雨にズブ濡れになって帰って来て私の枕元にドンと坐ると、大声でわめきました。何でも……事務所の医者は二三日前から女郎買いに失せおって、事務所を開けてケツカル……今度出会ったら向う脛をぶち折ってくれる……というので……」 「……フム……不都合だなそれは……」 「……ネエ旦那……あいつらア矢っ張り洋服を着たケダモノなんで……」 「ウムウム。それから兼はどうした」 「それから山の向うの村の医者ン所へ行ったら、此奴も朝から鰻取りに出かけて……」 「ナニ鰻取り……」 「ヘエ。そうなんで……この頃は毎日毎日鰻取りにかかり切りで、家には滅多にうせおらんそうで……よくきいてみるとその医者は、本職よりも鰻取りの方が名人なんで……」 「ブッ……馬鹿な……余計な事を喋舌るな」 「ヘエ……でも兼の野郎がそう吐かしましたので……」 「フーム。ナルホド。それからどうした」 「それから兼は、その村の荒物屋を探し出して、風邪引きの妙薬はないかちうて聞きますと……この頃風邪引きが大バヤリで売り切れてしまったが、馬の熱さましで赤玉ちうのならある。馬の熱が取れる位なら人間の熱にも利くだろうが……とその荒物屋の親仁が云うので買って来た……しかし畜生は薬がよく利くから、分量が少くてよいという事を俺はきいている。だから人間は余計に服まなければ利くまいと思って、その赤玉ちうのを二つ買って来た。これを一時に服んだら大抵利くだろう。金は要らぬから、とにかく服んで見イ……と云ううちに兼は白湯を汲んで来て、薬の袋と一緒に私の枕元へ並べました。私は兼の親切に涙がこぼれました。このアンバイでは俺が兼に十円借りていたに違いないと思い思い薬の袋を破ってみますと、赤玉だというのに青い黴が一パイに生えておりまして、さし渡しが一寸近くもありましたろうか……それを一ツ宛、白湯で丸呑みにしたんですがトテも骨が折れて、息が詰まりそうで、汗をビッショリかいてしまいました」 「……フーム。それで風邪は治ったか」 「ヘエ……今朝になりますと、まだ些しフラフラしますが、熱は取れたようですから、景気づけに一パイやっておりますところへ、昨日、兼からの言伝をきいたと云って、鰻取りの医者が自転車でやって来ました。五十位の汚いオヤジでしたが、そいつを見ると私は無性に腹が立ちましたので……この泥掘り野郎……貴様みたいな藪医者に用は無い。憚りながら俺の腹の中には、赤玉が二つ納まっているんだぞ……と怒鳴りつけてやりましたら、その医者は青くなって逃げ出すかと思いの外……ジーッと私の顔を見て動こうとしません」 「フーム。それは又|何故か」 「その爺は暫く私の顔を見ておりましたが……それじゃあお前は、その二ツの赤玉を、いつ飲んだんか……と云ううちにブルブル震え出した様子なので、私も気味が悪くなりまして……ナニ赤玉には違いないが、青い黴の生えた奴を、昨夜十二時過に白湯で呑んだんだ。そのおかげで今朝はこの通り熱がとれたんだが、それがどうしたんか……とききますと医者の爺はホッとしたようすで……それは運が強かった。青い黴が生えていたんで、薬の利き目が弱っていたに違いない。あの赤玉の一粒に使ってある熱さましは、人間に使う分量の何層倍にも当るのだから、もし本当に利いたら心臓がシビレて死んで終う筈だ……どっちにしても今酒を呑むのはケンノンだから止めろと云って、私の手を押えました」 「フーム。そんなもんかな」 「この話をきくと私は、すぐに納屋を出まして坑へ降りて、仕事をしている兼を探し出して、うしろから脳天を喰らわしてやりました。そうして旦那の処へ御厄介を願いに来ましたので……逃げも隠れも致しません。ヘエ……」 「フーム。しかしわからんナ。どうも……その兼をやっつけた理由が……」 「わかりませんか旦那……兼の野郎は私が病気しているのにつけ込んで、私を毒殺して、十両ゴマ化そうとしたに違いないのですぜ。あいつはもとから物識りなのですからね。ネエ旦那そうでしょう、一ツ考えておくんなさい」 「ウップ……たったそれだけの理由か」 「それだけって旦那……これだけでも沢山じゃありませんか」 「……バ……馬鹿だナア貴様は……それじゃ貴様が、兼に十両貸したのは、間違いない事実だと云うんだナ」 「ヘエ。ソレに違いないと思うので……そればっかりではありません。兼の野郎が私を馬と間違えたと思うと矢鱈に腹が立ちましたので……」 「アハハハハ……イヨイヨ馬鹿だナ貴様は……」 「ヘエ……でも私は恥を掻かされると承知出来ない性分で……」 「ウーン。それはそうかも知れんが……しかし、それにしても貴様の云うことは、ちっとも訳が解らんじゃないか」 「何故ですか……旦那……」 「何故というて考えてみろ。兼のそぶりで金の貸し借りを判断するちう事からして間違っているし……」 「間違っておりません……あいつは……ワ……私を毒殺しようとしたんです……旦那の方が無理です」 「黙れッ……」  と巡査部長は不意に眼を怒らして大喝した。坑夫の云い草が機嫌に触ったらしく、真赤になって青筋を立てた。 「黙れ……不埒な奴だ。第一貴様はその証拠に、その薬で風邪が治っとるじゃないか」 「ヘエ……」  と坑夫は毒気を抜かれたように口をポカンと開いた。そこいらを見まわしながら眼を白黒さしていたが、やがてグッタリとうなだれると床の上にペタリと坐り込んだ。涙をポトポト落してひれ伏した。 「……兼……済まない事をした……旦那……私を死刑にして下さい」      古鍋 「金貸し後家」と言えば界隈で知らぬ者は無い……五十前後の筋骨逞ましい、二タ目と見られぬ黒アバタで……腕っ節なら男よりも強い強慾者で……三味線が上手で声が美しいという……それが一人娘のお加代というのと、たった二人切りで、家倉の立ち並んだ大きな家に住んでいた。しかし娘のお加代というのは死んだ親爺似かして、母親とは正反対の優しい物ごしで、色が幽霊のように白くて、縫物が上手という評判であった。  そのお加代のところへ、隣り村の畳屋の次男坊で、中学まで行った勇作というのが、この頃毎晩のように通って来るというので、兼ねてからお加代に思いをかけていた村の青年たちが非常に憤慨して、寄り寄り相談を初めた。そのあげく五月雨の降る或る夕方のこと、手に手に棒千切を持った十四五人が「金貸し後家」の家のまわりを取り囲むと、強がりの青年が三人代表となって中に這入って、後家さんに直接談判を開始した。 「今夜この家に、隣り村の勇作が這入ったのを慥かに見届けた。尋常に引渡せばよし、あいまいな事を云うなら踏み込んで家探しをするぞ……」  という風に……。  奥から出て来た後家さんは、浴衣を両方の肩へまくり上げて、黒光りする右の手でランプを……左手に団扇を持っていたが、上り框に仁王立ちに突立ったまま、平気の平左で三人の青年を見下した。 「アイヨ……来ていることは間違いないよ……だけんど……それを引渡せばどうなるんだえ」 「半殺しにして仕舞うのだ。この村の娘には、ほかの村の奴の指一本|指させないのが、昔からの仕来りだ。お前さんも知っているだろう」 「アイヨ……知っているよ。それ位の事は……ホホホホホ。けれどそれはホントにお生憎だったネエ。そんな用なら黙ってお帰り!」 「ナニッ……何だと……」 「何でもないよ、勇作さんは私の娘の処へ通っているのじゃないよ」 「嘘を吐け。それでなくて何で毎晩この家に……」 「ヘヘヘヘヘ。妾が用があるから呼びつけているのさ……」 「エッ……お前さんが……」 「そうだよ。ヘヘヘヘヘ。大事な用があってね……」 「……そ……その用事というのは……」 「それは云うに云われぬ用事だよ……けんど……いずれそのうちにはわかる事だよ……ヘッヘッヘッヘッ」  青年たちは顔を見合わせた。白い歯を剥き出してニタニタ笑っているアバタ面を見ているうちに、皆気味がわるくなったらしかったが、やがてその中の一人が勿体らしく、咳払いをした。 「……ようし……わかった……そんなら今夜は勘弁してやる。しかし約束を違えると承知しないぞ」  という、変梃な捨科白を残しながら三人は、無理に肩を聳して出て行った。  勇作はそれから後、公々然とこの家に入浸りになった。  ところが、やがて五六ヶ月経って秋の収穫期になると、後家さんの下ッ腹が約束の通りにムクムクとセリ出して来たのでドエライ評判になった。どこの稲扱き場でもこの噂で持ち切った。しかもその評判が最高度に達した頃に村役場へ「勇作を娘の婿養子にする」という正式の届出が後家さんの手で差し出されたので、その評判は一層、輪に輪をかけることになった。 「これはどうもこの村の風儀上面白くない」と小学校の校長さんが抗議を申込んだために、村長さんがその届を握り潰している……とか……村の青年が近いうちに暴れ込む手筈になっている……とか……町の警察でも内々で事実を調べにかかっている……とかいう穿った噂まで立ったが、そのせいか「金持ち後家」の一家三人は、裏表の戸をピッタリと閉め切って、醤油買いにも油買いにも出なくなった。いつもだと後家さんは、収穫後の金取り立てで忙しいのであったが、今年はそんなもようがないので、借りのある連中は皆喜んだ。  ところが又そのうちに、収穫が一通り済んで、村中がお祭り気分になると、後家さんの家がいつまでも閉め込んだ切り、煙一つ立てない事にみんな気が付き初めた。初めのうちは「後家さんが、どこかへ子供を生みに行ったんだろう」なぞと暢気なことを云っていたが、あんまり様子が変なので、とうとう駐在所の旦那がやって来て、区長さんと立ち合いの上で、裏口の南京錠をコジ離して這入ってみると、中には人ッ子一人居ない。そうして家具家財はチャンとしているようであるが、その中で唯一つ金庫の蓋が開いて、現金と通い帳が無くなっているようす……その前に男文字の手紙が一通、読みさしのまま放り出してあるのを取り上げて読んでみると、あらかたこんな意味の事が書いてあった。 「お母さん。あなたがあの時に、勇作さんを助けて下すった御恩は忘れません。けれども、それから後の、あなたの勇作さんに対する、恩着せがましい横暴な仕うちは、イクラ恨んでも恨み切れません。妾はもう我慢出来なくなりましたから、勇作さんと一緒に、どこか遠い所へ行ってスウィートホームを作ります。私たちは当然私たちのものになっている財産の一部を持って行きます。さようなら。どうぞ幸福に暮して下さい。     月   日 勇作 妻加代    母上様  それでは後家さんはどこへ行ったのだろうと、家中を探しまわると、物置の梁から、半腐りの縊死体となってブラ下っているのが発見された。その足下にはボロ切れに包んだ古鍋が投げ棄ててあった。      模範兵士  御維新後、煉瓦焼きが流行った際に、村から半道ばかり上の川添いの赤土山を、村の名主どんが半分ばかり切り取って売ってしまった。そのあとの雑木林の中から清水が湧くのを中心にして、いつからともなく乞食の部落が出来ているのを、村の者は単に川上川上と呼んでいた。  部落といっても、見すぼらしい蒲鉾小舎が、四ツ五ツ固まっているきりであったが、それでも郵便や為替も来るし、越中富山の薬売りも立ち寄る。それに又この頃は、日ごとに軍服|厳めしい兵隊さんが帰省して来るというので、急に村の注意を惹き出した。何でも立派な身分の人の成れの果が隠れているらしいという噂であった。  その兵隊さんというのは、郵便局員の話によると西村さんというので、眼鼻立ちのパッチリした、活動役者のように優しい青年であるが、この部落の仲間では新米らしく、すこし離れた所に蒲鉾小舎を作って、その中に床に就いたままの女を一人|匿まっている。その女の顔はよくわからないが年の頃は四十ばかりで、気味の悪いほど色の白い上品な顔で、西村さんがお土産をさし出すと、両手を合わせて泣きながら受け取っているのを見た……と……これは村の子守たちの話であった。  それから後西村さんの評判は、だんだん高くなるばかりであった。その女は西村さんの何であろうか……と噂が取り取りであったが、そのうちに、村でたった一軒だけ荒物屋に配達されている新聞に、西村さんの事が大きく写真入りで出た。 ――西村二等卒は元来、東北の財産家の一人息子であったが、十三の年に父親が死ぬと間もなく一家が分散したので、母親に連れられて長崎の親類の処へ行くうちに、あわれや乞食にまで零落して終った。それから七年の間、方々を流浪していると、昨年の春から母親が癆症で、腰が抜けたので、とうとうこの川上の部落に落ちつく事になったが、丁度その時が適齢だったので、呼び出されて検査を受けると、美事に甲種で合格した。しかし西村二等卒は入営しても決して贅沢をしなかった。給料を一文も費わないばかりか、営庭の掃除の時に見付けた尾錠や釦を拾い溜めては、そんなものをなくして困っている同僚に一個一銭|宛で売りつけて貯金をする。そうして日曜日を待ちかねて、母親を慰めに行くことが聯隊中の評判になったので、遂に聯隊長から表彰された。性質は極めて柔順温良で、勤務勉励、品行方正、成績優等……曰く何……曰く何……。  西村さんの評判はそれ以来絶頂に達した。日曜になると村の子守女が、吾も吾もと出かけて、川上の部落を取り巻いて、西村さんの親孝行振りを見物した。西村さんが病人の汚れものと、自分のシャツを一緒にして、朝霜の大川で洗濯するのを眺めながら「あたし西村さんの処へお嫁に行って上げたい」「ホンニナア」と涙ぐむ者さえあった。  そのうちに新聞社や、聯隊へ宛ててドシドシ同情金が送りつけて来たが、中には女の名前で、大枚「金五十円也」を寄贈するものが出来たりしたので、西村さんは急に金持ちになったらしく、同じ部落の者の世話で、母親の寝ている蒲鉾小舎を、家らしい形の亜鉛板張りに建て換えたりした。 「親孝行チウはすべきもんやナア」  と村の人々は歎息し合った。  ところが間もなく大変な事が起った。  ちょうど桜がチラチラし初めて、麦畑を雲雀がチョロチョロして、トテモいい日曜の朝のこと。カーキー色の軍服を、平生よりシャンと着た西村さんが、それこそ本当に活動女優ソックリの、ステキなハイカラ美人と一緒に自動車に乗って、川上の部落へやって来たのであった。  尤もこの日に限って西村さんは、何となく気が進まぬらしい態度で、自動車から降りると、泣き出しそうな青い顔をして尻込みをしているのを、ハイカラ美人が無理に手を引っぱって、亜鉛張りの家に這入ったが、母親はまだ睡っていたらしく、二人とも直ぐに外へ出て来た。  それから西村さんは直ぐに帰ろうとして自動車の方へ行きかけたけれども、ハイカラサンが無理やりに引き止めた。そうして自動車の中から赤い毛布を一枚と、美味そうなものを一パイ詰めた籠を出して、雑木林の中の空地に敷き並べると、部落に残っている片輪連中を五六人呼び集めて、奇妙キテレツな酒宴を初めた。  まず、最初は三々九度の真似事らしく、顔を真赤にして羞恥んでいる西村さんと、キャアキャア笑っているハイカラ美人が、呆気に取られている片輪たちの前で、赤い盃を遣ったり取ったり、押し戴いたりしていたが、間もなく外の連中も、白い盃や茶呑茶碗でガブガブとお酒を呑み初めた。その御馳走の中には、ネジパンや、西洋のお酒らしい細長い瓶や、ネープル蜜柑などがあったが、その他は誰一人見たことも聞いたこともない鑵詰みたようなものばかりを、寄ってたかってお美味そうにパクついていた。  西村さんもハイカラ美人にお酌をされて恥かしそうに飲んでいたが、その中にハイカラ美人はスッカリ酔っ払ってしまったらしく、毛布の上に立ち上って何かしらペラペラと、演説みたような事を饒舌り初めた。それから赤い湯もじをお臍の上までマクリ上げると、大きな真白いお尻を振り立てて、妙テケレンな踊りをおどり出した。それを片輪連中が手をたたいて賞めていた……。  ……までは、よっぽど面白かったが、間もなく横のトタン葺きの小舎から、幽霊のように痩せ細った西村さんのお母さんが、白い湯もじ一貫のまま、ヒョロヒョロと出て来た姿を見ると、みんな震え上がってしまった。  青白い糸のような身体に、髪毛をバラバラとふり乱して、眼の玉を真白に剥き出して、歯をギリギリと噛んで、まるで般若のようにスゴイ顔つきであったが、慌てて抱き止めようとする西村さんを突き飛ばすと、踊りを止めてボンヤリ突立っているハイカラ美人に、ヨロヨロとよろめきかかった。そのままシッカリと抱き付いて、眼の玉をギョロギョロさせながら、口を耳までアーンと開いて喰い付こうとした。それを西村さんが一生懸命に引き離して、ハイカラ美人の手を取りながら、自動車に乗ってドンドン逃げて行った。あとにはお母さんが片息になって倒れているのを、皆で介抱しているようであったが、離れた処から見ていた上に、言葉が普通と違っているので、どんな経緯なのかサッパリわからなかった……という子守女たちの報告であった。 「フーン。それは、わかり切っとるじゃないか」  と、聞いていた荒物屋の隠居は、新聞片手に子守女たちを見まわした。 「西村さんのお母さんが、そんな女は嫁にすることはならんと云うて、止めたまでの事じゃがナ」  子守女たちは、みんな妙な顔をした。何だかわかったような、わからぬようなアンバイで、張り合い抜けがしたように、荒物屋の店先から散って行った。  ところが又、その翌る日の正午頃になると、村の駐在巡査と、部長さんらしい金モールを巻いた人を先に立てて、村の村医と腰にピストルをつけた憲兵との四人が、めいめいに自転車のベルの音をケタタマシク立てながら村を通り抜けて、川上の方へ行ったので、通り筋の者は皆、何事かと思って、表へ飛び出して見送った。その中から一人行き、二人駈け出しして行ったので、川上の部落のまわりは黒山のような人だかりになったが、そんな連中が帰って来てからの話によると、事件というのは西村のお母さんが昨夜のうちに首を縊ったので、昨日のハイカラ美人が殺したのじゃないかと、疑いがかかっているらしい……というのであった。  しかし、それにしても様子がおかしいというので、評議が区々になっていたが、あくる朝を待ちかねて人々が、荒物屋に集まってみると、果して、事件の真相が詳しく新聞に出ていた。「模範兵士の化けの皮」という大きな標題で…… ……西村二等卒の性行を調査の結果、表面温順に見える一種の白痴で、且つ、甚だしい変態性慾の耽溺者であることがわかった。すなわち、その母親として仕えていたのは、実は子供の時から可愛がられていた情婦に過ぎないのであったが、最近に至って有名な箱師のお玉という、これも変態的な素質を持った毒婦が、模範兵士の新聞記事を見て、大胆にも原籍本名を明記した封筒に、長々しい感激の手紙と、五拾円也の為替を入れて聯隊長宛に送って来た。これを本紙の記事によって知った警察当局では、極秘裡に彼女の所在を厳探中であったが、あくまでも大胆不敵なお玉は、その中を潜って西村と関係を結んだらしく、すっかり西村を丸め込んでしまった揚句、二人で自動車に同乗して、贋の母親を嘲弄しに行ったのが一昨日曜の午前中の事であったという。ところが西村はそのまま、隊へは帰らずに、駅前の旅館で服装を改めて、お玉と一緒に逃亡した模様である。一方に西村の贋母親は、憤慨の余り縊死していることが昨朝に至って発見されたので、早速係官が出張して取調の結果、他殺の疑いは無いことになった。しかし、同時に、附近の乞食連中の言に依って、この種の変態的関係は、彼等仲間の通有的茶飯事で、決して珍らしい事ではないと判明したので、係官も苦笑に堪えず……云々……。 「……ところでこの、ヘンタイ、セイヨクの、何とかチウのは、何じゃろか……」 「おらにもわからんがナ」  と荒物屋の隠居は、大勢に取り巻かれながら、投げ出すように云った。 「近頃の新聞はチットでも訳のわからんことがあると、すぐに、ヘンタイ何とかチウて書きおるでナ。おらが思うに西村さんは、やっぱり親孝行者じゃったのよ。それが性の悪い女に欺されて、大病人の母親を見すてたので、義理も恩もしらぬ近所隣りの乞食めらが、あとの世話を面倒がって、何とかかとかケチをつけて、無理往生に首を縊らせたのじゃないかと思うがナ……ドウジャエ……」  皆一時にシンとなった。      兄貴の骨 「お前の家の、一番西に当る軒先から、三尺離れた処を、誰にも知らせぬようにして掘って見よ。何尺下かわからぬが、石が一個埋もっている筈じゃ。その石を大切に祭れば、お前の女房の血の道は一と月経たぬうちに癒る。一年のうちには子供も出来る。二人ともまだ若いのじゃから……エーカナ……」 「ヘーッ」  と若い文作はひれ伏した。その向うには何でも適中るという評判の足|萎え和尚さんが、丸々と肥った身体に、浴衣がけの大胡座で筮竹を斜に構えて、大きな眼玉を剥いていた。  その座布団の前に文作は、五十銭玉を一つ入れた状袋を、恐る恐る差し出して又ひれ伏した。するとその頭の上から、和尚の胴間声が雷のように響いて来た。 「しかし、早うせんと、病人の生命が無いぞ……」 「ヘーッ……」  と文作は今一度畳の上に額をすりつけると、フラフラになったような気もちで方丈を出た。途中で寒さ凌ぎに一パイ飲んで、夕方になって、やっと自宅へ帰りついた文作は着のみ着のまま、物も云わずに、蒲団を冠って寝てしまった。難産のあとの血の道で、お医者に見放されてブラブラしている女房が心配して、どうしたのかと、いろいろに聞いても返事もせずにグーグー鼾をかいていたが、やがて夜中過ぎになると文作は、女房の寝息を窺いながらソーッと起き上って、裏口から、西側の軒下にまわった。そこに積んであった薪を片づけて、分捕りスコップを取り上げると、氷のような満月の光を便りに、物音を忍ばせてセッセと掘り初めたが、鍬と違って骨が折れるばかりでなく、土が馬鹿に固くて、三尺ばかり掘り下げるうちに二の腕がシビレて来たので、文作はホッと一息して腰を伸ばした。  するとその時に、今まで気がつかなかったが、最初に掘り返した下積みの土の端っこに、何やら白いものが二ツ三ツコロコロと混っているのが見えた。文作はそれを、何の気もなく月あかりに抓み出しながら、泥を払い落してみると、それは魚よりすこし大きい位の背骨の一部だったので、文作は身体中の血が一時に凍ったようにドキンとした。ワナワナと慄え出しながら、切れるように冷たい土を両手で掻き拡げて、丹念に探しまわってみると、泥まみれになってはいるが、脊椎骨らしいものが七八ツと、手足の骨かと思われるものが二三本と、わけのわからない平べったい、三角形の骨が二枚と、一番おしまいに、黒い粘っこい泥が一パイに詰まった、頭蓋骨らしいものが一個出た。  文作は、もうすこしで大声をあげるところであったが、女房が寝ていることを思い出してやっと我慢した。身体中がガタガタと慄えて、頭が物に取り憑かれたようにガンガンと痛み出した。横路地から這うようにして往来に出ると、一目散に馳け出した。  文作が足萎え和尚の寝ている方丈の雨戸をたたいた時には、もう夜が明けはなれていたが、和尚が躄りながら雨戸を開けて「何事か」と声をかけると、文作は「ウーン」と云うなり霜の降ったお庭へ引っくり返ってしまった。  それをやがて起きて来た梵妻や寺男が介抱をしてやると、やっと正気づいたので、手足の泥を洗わせて方丈へ連れ込んだのであったが、熱い湯を飲ませて落ちつかせながら、詳しく事情を聞き取るうちに、和尚はニヤリニヤリと笑い出して、何度も何度も首肯いた。 「ウーム。そうじゃろう……そうじゃろうと思うた。実はナ……埋まっているのが人間の骨じゃと云うと、臆病者のお前が、よう掘るまいと思うたから石じゃと云うておいたのじゃが、その骨というのはナ……エエか……ほかならぬ、お前の兄貴の骨じゃぞ……」 「ゲーッ。私の兄貴の……」 「……と云うてもわかるまいが……これには深い仔細があるのじゃ」 「ヘエッ。どんな仔細で……」 「まあ急き込まずとよう聞け。……ところでまず、その前に聞くが、お前は昨日来た時に両親はもう居らんと云うたノ」 「ヘエ。一昨年の大|虎列剌の時に死にましたので……」 「ウンウン。それじゃから云うて聞かすが、お前の母親というのは、ああ見えても若いうちはナカナカ男好きじゃったのでナ。ちょうどお前の処に嫁入る半年ばかり前に、拙僧の処へコッソリと相談に来おってナ……こう云うのじゃ。わたしはこの間の盆踊りの晩に、誰とも知れぬ男の胤を宿したが、まだ誰にも云わずにいるうちに、文太郎さんが養子に来ることになりました。わたしも文太郎さんなら固い人じゃけに、一緒になってもええと思うけれど、お腹の子があってはどうにもならぬ故、どうか一ツ御祈祷をして下さらんかという是非ない頼みじゃ。そこで拙僧は望み通りに、真言秘密の御祈祷をしてやって、出て来た孩児はこれこれの処に埋めなさい……とまで指図をしておいたが……それがソレ……その骨じゃ。エエカナ……ところが、それから二十年余り経った昨日の事、お前がやって来てからの頼みで、卦を立ててみると……どうじゃ……その盆踊りの晩に、お前の母親の腹に宿ったタネというのは、お前の父親……すなわち文太郎のタネに相違ないという本文が出たのじゃ。つまりその、堕胎された孩児というのは、取りも直さずお前の兄さんで、お前の代りに家倉を貰う身柄であったのを、闇から闇に落されたわけで、多分この事はお前の両親も知っていたろうと思われる証拠には……ソレ……その孩児を埋めた土の上がわざっと薪置場にしてあったじゃろう。けれども、その兄貴の怨みはきょうまでも消えず、お前の家の跡を絶やすつもりで、お前の女房に祟っているのでナ……出て来たものを丁寧に祭れと云うたのはここの事ジャ……エーカナ。本当を云うと、これはお前の母親の過失で、お前や、お前の女房が祟られる筋合いの無いのじゃが、そこが人間凡夫の浅ましさでナ……」  という風に和尚は、引き続いて長々とした説教を始めた。  文作は青くなったり、赤くなったりして、首肯首肯聞いていたが、そのうちに立っても居てもいられぬようにソワソワし始めた。和尚の志の茶づけを二三杯、大急ぎで掻き込むとそのまま、霜|解けの道を走って帰った。  ところが帰って来て見ると、文作が心配していた以上の大騒ぎになっていた。  文作が昨日のうちに、軒下から孩児の骨を掘り出したまま、どこかへ逃げてしまっている。女房はそれを聞くと一ペンに血が上がって、医師が間に合わぬうちに歯を喰い締めて息を引き取った……というので文作の家の中には、村の女房達がワイワイと詰めかけている。家の外には老人や青年が真黒に集まって、泥だらけの白骨を中心に、大評議をしている……というわけで……そこへ文作が帰って来たのであったが、女房の死骸を一眼見ると、文作は青い顔をしたまま物をも云わず外へ飛び出して、村の人々を押しわけて、白骨の置いてある土盛りの処へ来た。ジイッと泥だらけの白骨を見ていたがイキナリその上に突伏して、 「兄貴……ヒドイ事をしてくれたなア……」  と大声をあげて泣き出した。  人々は文作が発狂したのかと思った。けれども、そのうちに、駐在所の旦那や区長さんが来て、顔中泥だらけにして泣いている文作を引きずり起こすと、文作は土の上に坐ったまま、シャクリ上げシャクリ上げして一伍一什を話し出した。  聞いていた人々は皆眼を丸くして呆れた。顔を見交して震え上った。うしろから取り巻いて耳を立てていた女たちの中には、気持ちがわるくなったと云って水を飲みに行ったものもあった。  それから間もなく件の白骨は、キレイに洗い浄められて、古綿を詰めたボールの菓子箱に納まって、文作の家の仏壇に、女房の位牌と並べて飾られた。評判に釣られて見に来る人が多いので、文作の女房の葬式は近頃にない大勢の見送りであった。  ところが事件はこれで済まなかった。どうも話がおかしいというので、駐在所の旦那が色々と取調べたあげく、一週間ばかりしてから郡の医師会長の学士さんに来てもらって、件の白骨を見てもらうと、犬の骨に間違いない……という鑑定だったので又も大評判になった。その結果、あくまでも人間の胎児の骨だと云い張った足萎え和尚は、拘留処分を受けることになったが、しかし村の者の大部分は学士さんの鑑定を信じなかった。文作の話をどこまでも本当にして、云い伝え聞き伝えしたので、足萎え和尚を信仰するものが、前よりもズッと殖えるようになった。  文作もその後久しく独身でいるが、誰も恐ろしがって嫁に来るものが無い。      X光線  電車会社の大きなベースボールグラウンドが、村外れの松原を切り開いて出来た。その開場式を兼ねた第一回の野球試合の入場券が村中に配られた。おまけにその救護班の主任が、その村の村医で、郡医師会の中でも一番古参の人格者と呼ばれている、松浦先生に当ったというので、村中の評判は大したものであった。本物のベースボールというものは、戦争みたように恐ろしいもので時々|怪我人が出来る。救護班というのは、その怪我人を介抱する赤十字みたようなものだ……なぞと真顔になって説明するものさえあった。  当の本人の松浦先生も、むろんステキに意気込んでいた。当日の朝になると、まだ暗いうちに一帳羅のフロックコートを着て、金鎖を胸高にかけて、玄関口に寄せかけた新調の自転車をながめながら、ニコニコ然と朝飯の膳に坐ったが、奥さんの心づくしの鯛の潮煮を美味そうに突ついているうちに、フト、二三度眼を白黒さした。それから汁椀をソッと置いて、大きな飯の固まりを二ツ三ツ、頬張っては呑み込み呑み込みしたと思うと、真青になってガラリと箸を投げ出してしまった。奥さんが仔細を尋ねる間もなく立ち上って、帽子を冠って、新しい靴下の上から、古い庭穿きを突かけると、自転車に跨りながらドンドン都の方へ走り出した。  一時間ばかり走って、やっと都の中央の、目貫きの処に開業している、遠藤という耳鼻咽喉科病院の玄関に乗りつけた松浦先生は、滝のように流るる汗を拭き拭き、通りかかった看護婦に名刺を出して診察を頼んだ。 「鯛の骨が咽喉へかかりましたので……どうかすぐに先生へ……」  間もなく真暗な室に通された松浦先生は、白い診察服を着けた堂々たる遠藤博士と、さし向いに坐りながら、禿頭をペコペコ下げて汗を拭き続けた。 「そんな訳で、気が急いておりましたせいか、ここの処に鯛の骨が刺さりまして、痛くてたまりませんので……実は先年、講習会へ参りました時に、先生のお話を承りまして……ある老人が食道に刺さった鯛の骨を放任しておいたら、その骨が肉の中をめぐりめぐって、心臓に突き刺さったために死亡した……という、あのお話を思い出しましたので……」 「ハハハハハ……イヤ。あの話ですか」  と遠藤博士は、肥った身体を反り気味にして苦笑した。 「あんな例は、滅多にありませんので……さほど御心配には及ぶまいと思いますが」 「ハイ……でも……実は、忰が、来年大学を卒業致しますので、それまでに万一の事がありましては申訳ありませんから、念のために是非一ツ……」 「イヤ……御尤もで……」  と遠藤博士は苦笑しいしい金ぶち眼鏡をかけ直して、ピカピカ光る凹面鏡を取り上げた。松浦先生の口をあけさせて、とりあえず喉頭鏡を突込んでみたが、そこいらに骨は見当らなかった。けれども痛いのは相変らず痛いというので、それでは食道鏡を入れてみようという事になった。  松浦先生は食道鏡というものを初めて見たらしかったが、奇妙な恐ろしい恰好の椅子に坐らせられて、二名の看護婦に両手を押えられたまま食道鏡の筒をさしつけられると、フト又青い顔になって遠藤博士を見上げた。 「これが……胃袋を突き通した器械で……」  と云いかけて口籠もった。遠藤博士は噴き出した。 「アハハハハハ、あの話を御記憶でしたか。あれはソノ何ですよ。あれは西洋で初めて食道鏡を使った時の失敗談で、手先の器用な日本人だったら、あんなヘマな事をする気遣いはありませんよ。サア、御心配なく口を開いて……もっと上を向いて……そうそう……」  食道鏡が突き込まれると、松浦先生は天井を仰いだまま、開口器を噛み砕くかと思うほど苦悶し初めた。大粒の涙をポトポト落しながら、青くなり、又赤くなったが、そんなにして残りなく調べてもらっても、骨らしいものはどこにも見つからなかった。  しかし、それでも唾を飲み込んでみると、痛いのは相変らず痛いというので、思い切って今一度|診てもらいたいと云い出した。遠藤博士も苦笑しいしい、今一度食道鏡を突込んだ。  こうして、三度までくり返したけれども、骨は依然として見付からない。しかし痛い処はやはり痛いというので、流石の遠藤博士も持て余したらしく、懇意なX光線の専門家に紹介してやるから、そこで探してもらったらよかろう……と云って名刺を一枚渡した。  X光線によって照し出された鯛の骨の在所を、正面と、横からと、二枚の図に写してもらった松浦先生は、又も遠藤博士の処に引返して来たが、博士はたった今急患を往診に出かけたというので、今度は町外れに在る大学の耳鼻科に駈け込んだ。  そこには若い医員が一パイに並んで診察をしていたが、その中の一人が、松浦先生の話をきくと、X光線の図には一瞥だも与えないで冷笑した。 「……馬鹿な……そんな小さな骨がX光線に感じた例はまだ聞きません。こちらへお出でなさい。とにかく診てあげますから」  といううちに松浦先生を別室に連れて行って、又も奇妙な、恐ろしい形の椅子に腰をかけさせた。しかしその時には松浦先生の食道が、一面に腫れ爛れて、食道鏡が一寸|触っても悲鳴をあげる位になっていたので、若い医員はスコポラミンの注射をしてから食道鏡を入れた。  けれども、ここで又三回ほど食道鏡を出したり入れたりされているうちに、松浦先生はもうフラフラになってしまった。 「もう結構です。骨が取れましたせいか、痛みがわからなくなりましたようで……その代り何だか眼がまわりますようで……」 「それじゃ、このベッドの上で暫く休んでからお帰りなさい。注射が利いているうちは眼がまわりますから」  と云い棄てて、若い医員は立ち去った。  松浦先生は……しかしベースボールの方が気にかかっていたかして、そのまま自転車に乗って大学を出たらしかった。そうして途中で注射がホントウに利き出して、眼が眩んだものらしく、国道沿いの海岸の高い崖の上から、自転車もろともころげ落ちて死んでいるのが、間もなく通りかかりの者に発見された。  その右の手には、X光線の図を二枚とも、固く握り締めていたという。      赤い鳥  村外れの網干場に近い松原を二三百坪切り開いて大きな別荘風の家が建った。海岸の岩の上には見事なモーターボートを納めた倉庫まで出来た。そうして村一番のオシャベリで、嫌われ者のお吉という婆さんが雇われて、留守番をする事になった。それまでの噂や、その婆さんの話を綜合すると、その別荘を建てた人は有名な相場師であるが、その若大将の奥さんが身体が弱いので、時々保養に来るために、わざわざ建てたものだという事である。  村の者は皆その贅沢さに眼を丸くした。誰もかれもその若大将の奥さんを見たがった。 「この界隈で家を建てて、棟上げの祝いを配らずに済ます家は、あの別荘だけじゃろ」  などと蔭口を利くものもあった。しかしその別荘は出来上ってから三箇月ばかりというもの閉め切ったまんまで、若い奥さんは影も形も見せなかった。  ところが真夏の八月に入った或る日の事、鯛網引きの留守で、村中が午睡をしている正午下り時分に、ケタタマシイ自動車の音が二三台、地響を打たして別荘の方へ走って行った。何しろ道幅が狭いので、家|毎にユラユラと震動して、子供なぞは悲鳴をあげながら怯えた位であった。眼を醒ました女房達の中には、火の付くように泣く子供を背中に掴み上げて、別荘の方へ駈け出した者もあったが、そんな連中はすぐあとから来た四五台の自動車に追っ払われて、逃げ迷わなければならなかった。 「別荘の中は殿様の御殿のように、立派な家具家財で飾ってあるよ」 「女中みたような若い女が二人と、運転手が下男みたような男衆が六七人とで、そんな家具家財を片付けながら、キャッキャッとフザケ合っていたよ」 「六七台の自動車は日暮れ方にみんな帰ってしまって、後には若い女中二人と、お吉婆さんと、青い綺麗な籠に這入った赤い鳥が一羽残っているんだよ」 「その赤い鳥は奇妙な声で……バカタレ……馬鹿タレエッて云っていたよ」  というような事実が、その夕方、沖から帰って来た村中の男達に、大袈裟な口調で報告された。それを聞いた男たちは皆眼を瞠った。 「ウーム。そんならその奥さんチウのはヨッポド別嬪さんじゃろ」 「いつ来るんじゃろ。その別嬪さんは……」 「あたしゃ初めあの女中さんを奥さんかと思うたよ。あんまり様子が立派じゃけん」 「あたしもそう思うたよ。……けんど二人御座るのも可笑しいと思うてナア」 「お妾さんチウもんかも知れんテヤ」 「ナアニ……その赤い鳥が奥さんよ」 「……どうしてナ……」 「……どうしてちうて……ウチの赤い鳥でも、毎日のように俺の事を、バカタレバカタレ云うてケツカルじゃないか」  そんな事を云い合ってドッと笑いこけながら、海岸に咲き並ぶ月見草を押しわけて帰る連中もあった。  そのあくる日のやはり夕方近くの事……本物の若い奥さんは、若大将と一緒に自動車で別荘に乗りつけた。そうして着物を着かえると直ぐに、夫婦づれで海岸から村の中を散歩してまわった。  奥さんは村の者の予期に反して別嬪でも何でもなかった。赤い毒々しい色の日傘の中に一パイになるくらい大きなハイカラ髪に結って、派手な浴衣に紫色の博多帯をグルグルと捲き附けたまま、反り身になって村中を歩いて行った。青白く痩せこけた上にコテコテとお化粧をした……鼻の頭がツンと上を向いた……眼の球のギョロギョロと大きい……年はいくつかわからない西洋人のようにヒョロ長い女であった。又、若大将の方は三十前後であろうか、奥さんよりもズット背の低いデブデブの小男であった。派手な格子縞の浴衣に兵児帯を捲きつけて、麦稈帽を阿弥陀にしながら、細いステッキを振り振りチョコチョコと奥さんの尻を逐うて行くところは、如何にも好人物らしかった。中には奥さんのお伴をしに来た書生さんと思った者もあるらしかったが、その二人が広くもない村の中を一通りあるきまわると、夕あかりの残った網干場を別荘の方へ通り抜ける時に、こんな話をした。 「ねえあなた。いい景色じゃないの……明日は早く起きてモーターボートで島めぐりをしてみない」 「……ウウン……凪いでいたら行ってみよう」 「……だけどコンナ村に住んでいる人間は可愛想なものね。年中太陽に晒されて、豚小屋みたいな処に寝ころんで……」 「ウーン。女でも男でもずいぶん黒いね。トテモ人間とは思えない」 「男はみんなゴリラで、女はみんな熊みたいに見えるわよ」 「ハハハハ、ゴリラかハハハ」 「ホホホホヒヒヒヒヒ」  すると、ちょうど網干場のまん中の渋小屋の蔭で遊んでいた子守女が二三人、鳴りを鎮めて二人の会話に耳を傾けていたのであったが、こうした言葉をきくと流石に憤慨したものと見えて、子供を背負い上げながら大急ぎで村へ帰って来た。そうして村の連中が夏祭りの相談をしながら、一杯飲んでいる処へやって来て、口々に忠実めかして報告した。  只さえ気の荒い外海育ちの上に、もういい加減酔払っていた若い連中は、これを聞くと一時に殺気立ってしまった。中にも赤褌一貫で、腕へ桃の刺青をした村一番の逞ましいのが、真先に上り框に立って来て呶鳴った。 「……何コン畜生……ごりらタア何の事だ……」 「……知らんがナ……」  と子守女たちは見幕に恐れて後退りをした。 「……ナニイ知らん……知らんタア何じゃい……」 「何でもええがッ……畜生メラ。この村を軽蔑してケツカルんだッ」 「第一この村の地内に家を建てながら、まだ挨拶にも失せおらんじゃないか」 「……よしッ……みんな来いッ。これから行って談判喰らわしてくれる」 「……よし来た……喧嘩なら俺が引き受けた。モノと返事じゃ只はおかせんぞ」  と云ううちに四五人バラバラと立ちかけた。その時であった。 「……マア待て待て……待て云うたら……」  シャガレた声で上座から、こう叫んだ向う鉢巻の禿頭は、悠々と杯を置いて手をあげると、真っ先きに立った桃の刺青を制し止めた。 「何だいトッツァン……又止めるんか」 「ウン。止めやせんがマア坐っとれい。俺は俺で考えとる事があるから……」 「フーン……そんなら聞こう」  と桃の刺青が引返して坐った。ほかの連中もドタドタと自分の盃の前に尻を据えた。 「……ドンナ考えかえ……トッツァン……」 「考えチウてほかでもない。今度の夏祭りナア……ええか……今度の夏祭り時にナア……ええか……」  禿頭はニヤニヤ笑いながら桃の刺青の耳に口を寄せた。子守女たちに聞こえぬようにささやいた。 「……ナ……ナ……そうしてナ……もしそれを、それだけ出さんと吐かしおったら構う事アない。あの座敷にお獅子様を担ぎ込むんよ。例の魚血を手足に塗りこくって暴れ込むんよ……久し振りにナ……」 「……ウム……ナルホド……ウーム……」 「……ナ……高が守ッ子の云う事を聞いて、云いがかりをつけるよりも、その方が洒落とらせんかい」 「ウン。ヨシッ。ワカッタッ。みんなであの座敷をブチ毀してくれよう」 「シイッ。聞こえるでないか……外へ……」 「ウン。……第一あの嬶あ面が俺ア気に喰わん。鼻ッペシを天つう向けやがって……」 「アハハハハ。あんなヒョロッコイ嬶が何じゃい。俺に抱かして見ろ。一ト晩でヘシ折って見せるがナ」 「イヨーッ豪いゾッ。トッツァン。そこで一杯行こうぜ……アハハハハハハ」 「ワハハハハハ」  そんな事でその時は済んだが、サテそのあくる日の正午近い頃であった。  七ツと六ツぐらいの村の子供が二人連れで、素裸のまま、浜へテングサを拾いに来ていたが、いい加減に拾って帰りがけに、炎天の下の焼け砂の上を、開け放された別荘の裏木戸の前まで来ると、キョロキョロと中をのぞきながら、赤煉瓦塀の中へ這入り込んだ……、家中の者がモーターボートで島巡りに出て行くところを今朝から見ていたので……そうして縁側の小松の蔭に吊してある、赤い鳥の籠に近付きながら恐る恐るのぞきこんだ。  その顔を見ると人なつこいらしい赤い鳥は、突然頭を下げて叫び出した。 「モシモシ。モシモシイ。コンチワ……コンチワコンチワ……」  二人の子供はビックリして砂だらけの顔を見合わせた。  それを見ると赤い鳥はイヨイヨ得意になったらしく、一心に子供の顔を見下しながら、低い声で歌を唄い出した。 「……ジャン、チェーコン、リウコン……コンリウ、コンジャン、チェーコンチェー……チェーリウコンコンジャンコンチェー……じゃんすいじゃんすい、ほうすいほう……すいすいじゃんすい、ほうすいほう……」  子供は又も黒い顔を見合わせた。 「何て云いよるのじゃろか」 「……お前たちの事をバカタレって云っているんだよ……ホホホホ」  という声が不意に背後の方から聞こえたので、二人は又もビックリして振り向いた。見るとそれはこの別荘の若大将夫婦で、たった今ボート乗りから帰って来たものらしく、二人とも眩しいほど白い洋服を着て、濡れ草履を穿いて、ニコニコしながら突立っていた。  二人の子供はホッと安心したように溜め息を吐いた。そうして又も不思議そうに赤い鳥の方を振りかえった。 「……エー皆さん……エー皆さん……私は……私は……すなわち……すなわち……」  と赤い鳥は又別の事を云い出した。それにつれて奥さんは、日の照りかかる小鼻に皺を寄せながら笑い出した。 「ホーラネ……ホホホホホホ……お前さん達の顔を見て馬鹿タレって云っているでしょう……ネーホラ……バカタレーッて……」 「……ちがう……」  と大きい方の児が眼をパチパチさせながら云い放った。イクラカ憤慨したらしく黒い頬を染めながら……しかし若い奥さんは凹まなかった。イヨイヨ面白そうに金歯を出して笑った。 「イイエ……よく聞いて御覧……ホーラ……ネ……バカタレーッ……バカタレーッ……てね……ね……ホッホッホッホッ」  この笑い声を聞くと赤い鳥は、一寸頭を傾けているようであったが、忽ち思い出したようにパタパタと羽ばたきをした。籠の格子に掴まって、子供の顔を睨み下しながら、一際高く叫び出した。 「……バカタレーッ……バカタレーッ……バカタレバカタレバカタレバカタレバカタレエーッ……」  そう云う赤い鳥の顔を、眼をまん丸にして見上げていた大きい方の児が、みるみる渋面を作り出した。眼に涙を一パイ溜めたと思うと、口惜しそうにワーッと泣き出して、テングサの束を投げ出したまま裏木戸の方へ駈け出した。小さい方の児もテングサの雫を引きずり引きずりあとから跟いて出て行った。笑いころげる夫婦の声をあとに残して……。  大きい方の児は、すぐに網干場に駈け込んで、そこに突立っている赤褌の、桃の刺青をした男に縋り付いた。そうして一層泣き声を高めながら別荘の方を指して、切れ切れに訴えはじめた。  桃の刺青はウンウンうなずきながら聞いていたが、そのうちに二三度鉢巻を締め直した。青筋を立てて怒鳴った。 「……エエわからん……まっとハッキリ云え……ナニイ……あの別荘の奴等がか……ウンウン……あの赤い鳥にバカタレと云わせたんか……ウンウン……それに違いないナ」  横に立っていた小さい児も、指を啣えたまま、大きい児と一緒にうなずいた。 「……ヨシッ……わかった……泣くな泣くな……畜生めら……そんな了簡で、あの赤い鳥を連れて来腐ったんだナ……ヨシッ……二人とも一緒に来い……」  と云うより早く網を押しわけて別荘の方へ駈け出した。  しかし裏口から赤煉瓦の中へ這入ってみると、別荘の中はガランとしていて、人の気はいもなかった。ただ表の植込みから蝉の声が降るように聞こえて来るばかりなので、桃の刺青はチョッと張り合いが抜けた体であったが、そのうちに小松の蔭に吊してある、青塗りに金縁の籠を見付けると、又急に元気附いた。 「コン畜生……ひねり殺してくれる」  と独言を云い云い籠の口を開けて、黒光りに光る手首をグッと突込んだ。  赤い鳥は驚いた。バタバタと羽根を散らして上の方へ飛び退いたが、なおも真黒い手が掴みかかって来るのを見ると、その手の甲へ勇敢に逆襲して、死に物狂いに喰い附いた。 「アッ……テテッ……テテェテテェテテェッ……」  桃の刺青も一生懸命になった。深く刺さった鈎型の嘴を一気に引き離すと、黒血のしたたる手首を無我夢中にふりまわしたが、そのはずみに籠の底が脱けてバッタリ落ちたので、赤い鳥は得たりとばかり外へ飛び出して、見る見るうちに遠い松原の中に逃げ込んでしまった。 「……君は一体何をするんだ……」  鳥のあとを逐うて二三歩馳け出したまま、ボンヤリと焼け砂の上に突立っていた桃の刺青は、突然にうしろから怒鳴り付けられたのでビックリして振り返った。見ると浴衣がけの若大将が湯上りの身体をテラテラ光らせながら、小さな眼を光らして縁側に突立っていた。そのうしろから寝巻をしどけなく着た奥さんが、咽喉をピクピクさして泣きじゃくりながら、帯を捲き付け捲き付け出て来る模様であった。 「……二百円もする鳥を何で逃がした……うちの家内が吾が児のようにしていたものを……」  若奥さんは帯を半分捲き付けたままベタリと縁側に坐った。ワーッ……と泣き出しながら板張りへ突伏した。  桃の刺青はこれを見ると肩を一つゆすり上げた。又も勢い付けられながら血だらけの手で鉢巻を締め直した。 「……ナ……何をするたア……ナ何だ。貴様等ア……あの赤い鳥を使って、俺の弟を泣かせたろう……村中の人間をバカタレと……イ……云わせたろう……」 「……そんなオボエはないぞ……」 「……何オッ。この豚野郎……証拠があるぞッ……」 「……証拠がある筈はないぞ……鳥が勝手に云ったんだから……」 「……ウヌッ……」 「……アレーッ……」  桃の刺青はイキナリ土足で縁側に飛び上ろうとしたが、グイと若旦那に突き落された。その力が案外強かったので、桃の刺青はチョット驚いたらしかったが、喧嘩自慢の彼はなおも屈せずに、庭下駄穿きで降りて来た若旦那を眼がけて掴みかかった。  けれども柔道を心得ているらしい若旦那の腕力には敵わなかった。砂の上に息詰まるほどタタキ投げられた上に、尻ペタをイヤという程下駄で蹴付けられてしまった。しかも、それをヤット我慢しながらようように頭を上げてみると、若旦那はいつの間にか縁側に上って、女たちと並んで見ているのであった。  桃の刺青は真青になって、唇を噛んだ。起き上るや否や、 「覚えていろッ」  と云い棄てて裏口から飛び出した。村中を駈けずって仲間を呼び出してまわったが、その仲間の四五人が、冷酒の勢いに乗じて別荘に押しかけた時分には、若旦那夫婦と女中二人を乗せたモーターボートが、大凪の沖合はるかに、音も聞こえない処に辷っていたのであった。  桃の刺青の仲間はいよいよ腹を立てた。炎天を走って来たお蔭で、一時に上った冷酒の悪酔いと一緒に、別荘の中へあばれ込んで、戸障子や器物を片っ端からタタキ毀し初めた。それを押し止めに出て来たお吉婆さんまでも序にタタキ倒おしてしまったが、その婆さんの報告で駐在巡査が駈け付けると、すぐに桃の刺青を取り押えて、ほかの四五人と一緒に裸体のまま本署へ引っぱって行った。  村中は忽ち大騒ぎになってしまった。この塩梅では四五日のうちに迫っている夏祭りがトテモ出来まいというので、年寄達が寄り合ったり、村長と区長が夕方から警察に陳情に行ったりしたが、そのうちに別荘の持ち主の方で、告訴しないように取計らった事が、町から電話で知らせて来たとかで、間もなく若い者たちは放免されることがわかったので、やっと村中が落ち付いた。  一方に別荘はこの騒動のあった日から、門も雨戸もスッカリ閉め切って、空屋同然の姿になってしまったが、そのあくる日のこと……村の女房や守っ娘が四五人づれで、恐る恐る様子を見に行ってみると……雨戸の外の小松の蔭にブラ下がった底無しの籠の中に、いつの間にか赤い鳥が帰っていた。そうして昨日の残りの餌をつつきながら一生懸命で叫んでいた。 「馬鹿タレ……バカタレエ……バカタレバカタレバカタレバカタレバカタレエッ……」      八幡まいり  収穫が済んだあとの事であった。亭主の金作が朝早くから山芋掘りに行った留守に、あんまりお天気がいいので、女房のお米は家を閉め切って、子守女のお千代に当歳の女の児を負わせた三人連れで、村から一里ばかりあるH町の八幡宮に参詣した。  帰りかけたのは午後の一時頃であったが、お宮の裏の近道に新しく出来たお湯屋を見かけると、お米はチョット這入ってみたくなったので、誰も居ない番台の上に十銭玉を一つ投げ出して板の間に上った。眼を醒ましかけた子供に乳を飲まして寝かしつけて、ネンネコ袢纏に包んで、隅ッ子の衣類棚の下に置いて、活動のビラを見まわったりしながら、お千代と一所に湯に這入ったが、ちょうど人の来ない時分で、お湯が生温かったので、二人はいい気持になって、お湯の中でコクリコクリと居ねむりを初めた。  そのうちに一かたげ眠ったお米はクサメを二ツ三ツして眼を醒ましたが、高い天窓越しに、薄暗く曇って来た空を見ると、慌てて子守のお千代を揺り起した。 「チョット。妾は洗濯物をば取り込まにゃならぬ。一足先に帰るけに、お前はあとから帰って来なさいよ。湯銭は払うてあるけに……」  お千代は濡れた手で眼をコスリながらうなずいた。お米はソソクサと身体を拭いて着物を着て、濡れた髪を掻き上げ掻き上げ出て行った。  それからお千代は又コクリコクリと居ねむりを初めたが、そのうちに鼻から湯を吸い込んで噎せ返っているうちにスッカリ眼が醒めてしまったので、ヤット湯から上って、まだねむい眼をコスリコスリ身体を拭いた。赤い帯を色気なく結んで表に出ると、長い田圃道をブラブラと、物を忘れたような気もちで歩いて帰った。  帰り着いてみるとお神さんは、又も西日がテラテラし出した裏口で、石の手臼をまわしながら、居ねむり片手に黄な粉を挽いていた。それでお千代も石臼につらまって、一所にウツラウツラしいしい加勢をしていたが、そのうちに四時頃になって夕蔭がさして来ると、山芋をドッサリ荷いだ亭主の金作が、思いがけなく早く、裏口から帰って来た。  金作は界隈でも評判の子煩悩であったが、山芋を土間に投げ出して、いつも子供を寝かしておく表の神棚の下まで来ると、そこいらをキョロキョロと見まわしながら、大きな声で怒鳴った。 「オイ。子供はどうしたんか」  お米は妙な顔をしてお千代を見た。お千代も同じような顔をしてお米の顔を見上げた。 「オイ。どうしたんか……子供は……」  と亭主の金作は眼を丸くして裏口へ引っ返して来た。  お米はまだお千代の顔を見ていた。 「お前……背負うて来たんやないかい」  お千代もお米の顔をポカンと見上げていた。 「……イイエ……お神さんが負うて帰らっしゃったかと思うて……妾しゃ……」  二人は同時に青くなった。聞いていた金作も、何かわからないまま真青になった。 「……どうしたんか一体……」 「あたし……きょう……八幡様にまいって……」 「……ナニ……八幡様に参って……」 「……お宮の前のお湯に這入って……」 「……ナニイ……お湯に這入っタア……何しに這入ったんか……」 「……………」 「それからドウしたんか」 「……………」 「……泣いてもわからん……云わんかい」 「……落いて来たア……」 「……ワア――ア……」  金作は二人を庭へタタキ倒した。黄な粉を引っくり返したまま、大砲のような音を立てて表口から飛び出した。  お米も面喰ったまま起き上って、裏の田圃へ駈け出した。田を鋤いている百姓を見付けると、金切声を振り絞った。 「大変だよ。ウチの人と一所に行っておくれよ。子供が……子供が居なくなったんだよッ……」  一方に八幡裏のお湯屋では、亭主と、巡査と、近所の人が二三人、番台の前で評議をしていた。その中で巡査は帳面を開いたまま、何かしら当惑しているらしかったが、やがて髭をひねりひねり亭主をかえりみた。 「子供を棄てる奴が湯に這入って帰るチウは可笑しいじゃないか。ア――ン」 「ヘエ。……でも十銭置いてありますので……」 「フ――ン。釣銭は遣らなかっタンカ」 「ヘエ。いつ頃這入ったやら気が付きませんじゃったので……」 「迂濶じゃナアお前は……。罰を喰うぞ気を付けんと……」 「ヘエ。どうも……これから心掛けます」 「つまり湯に這入るふりをして棄てたんじゃナ」 「ヘエ……じゃけんど、ヒョットしたら落いて行ったもんじゃ御座いませんでしょか」 「馬鹿な……吾が児を落す奴があるか」  その時に男湯の入口がガラリと開いて、百姓姿の男が一人駈け込んで来た。そうして何か戸惑いでもしたように、誰も居ない男湯の板の間を見まわしながらキョロキョロしていたが、そのうちにヤット気付いたらしく、女湯の入口にまわると、泥足のまま巡査を突き退けて、ハヤテのように板の間に駈け上った。……と思うと、そのあとから又二三人、野良姿の男がドカドカと這入って来た。 「居ったカッ」 「居ったッ」 いなか、の、じけん 備考  みんな、私の郷里、北九州の某地方の出来事で、私が見聞致しましたことばかりです。五六行程の豆記事として新聞に載ったのもありますが、間の抜けたところが、却って都に住む方々の興味を惹くかも知れぬと存じまして、記憶しているだけ書いてみました。場所の事もありますので、場所と名前を抜きにいたしましたことをお許し下さい。  東京では今度大地震と大火事がありましてたくさんのひとが死にました。死ななかったひともおうちやきものやたべものがなくなって大変に困りました。  太郎さんと花子さんは、お父様とお母様に手を引かれて東京の近所のばあやの処へ逃げて来ました。二人は久し振りに親切なばあやのお話をきいてよろこんでおとなしくねむりました。  ところが夜中になると太郎さんはねむったまま大きな声を出して、 「ポチ、ポチ」  とよびました。すると花子さんもねむったままで、 「メリーさん、メリーさん」  と呼びました。そうしてまたスヤスヤとねむりました。お父様とお母様とは顔を見合わせて、 「犬とお人形の夢を見ているのですよ」 「どちらも焼けてしまっただろう。可哀そうに……」  と言われました。  あくる朝、太郎さんと花子さんは二人揃ってお父様とお母様の前へ出て、 「どうぞも一ペン東京に連れて行って下さい。あたしたちは昨夜二人共同じ夢をみました。ポチもメリーちゃんも焼けずにいて、早くお迎えに来て頂戴っておまねきをしていましたから」  と言いました。お父さんもお母さんも大層お笑いになって、 「そんな事はない。犬は逃げたかも知れないが、人形は押入れに仕舞ってあったのだから、きっと焼けてしまったに違いない。もうしかたがないから二人ともおとなしく遊ぶのですよ。そうしたら今に又いい犬といいお人形を買って上げるから」  と言われました。  二人は悲しくなってシクシク泣き出しましたが、やがて花子さんはばあやのお庭の隅に、「メリーさんのお墓」と書いた木の札を立ててコスモスやケイトーの花を上げて拝みました。太郎さんは、 「ポチが生きていればメリーチャンもきっと焼けないでいるよ。まだよくわからないのだからお墓を建てるのおよしよ」  と止めましたが、花子さんはただシクシク泣いて拝んでいました。  火事がすっかり済んでから、お父様は一人でお家の焼けあとを見にいらっしゃいましたが、夕方になると急いで帰って来て、 「うちはたった一軒焼け残っていた。さあみんな来い」  と大喜びで、ばあやも連れて東京のおうちへお帰りになりました。  おうちに来ると花子さんは何より先に押入れをあけて人形を見つけますと、抱き締めて飛んでよろこびました。それと一緒に太郎さんはおうちのまわりをクルクルまわって、 「ポチよ、ポチよ」  と呼んでいましたが見つかりませんので、ベソをかいて帰って来ました。そうして今度はお庭の隅にポチのお墓をこしらえ始めました。  花子さんはそれを見て、 「お兄様、お人形が焼けなかったからポチもきっと無事ですよ。お墓を作るのはおよしなさい」  と慰めましたが、太郎さんはきかずにお墓を作ってお水を上げて拝んでいました。  するとその晩おそくワンワンワンとはげしく犬が吠える声と一緒に、 「痛い痛い。畜生。ア痛た痛た。助けてくれ」  と言ううちに、バタバタと誰か逃げて行く音がしました。  太郎さんは一番に飛び起きて、 「ポチだ、ポチだ」  と表へ飛び出しました。お父様もお母様も花子さんも驚いてみんな表へ出ますと、泥棒のようななりをした大男が犬に食いつかれて跛を引き引き向うへ逃げて行きます。そのあとからポチが一所懸命吠えながら追っかけて行きますと、やがて泥棒は通りかかったお巡査さんに捕まってしまいました。  帰って来たポチを見ると、太郎さんは抱きついて嬉し泣きをしました。 「えらい、えらい。よく泥棒を追っ払った」 「さあ御ほうびにお握りを上げるよ」  とお父さんとお母さんが交わる交わるお賞めになりました。 「やっぱりあの夢はほんとだったわね」  と花子さんは人形を抱きながら太郎さんに言いました。太郎さんは犬の背中を撫でながら嬉しそうにうなずきました。  去年の十二月の三十一日の真夜中の事でした。一匹の猪と一匹の犬がある都の寒い寒い風の吹く四辻でヒョッコリと出会いました。 「ヤア犬さん、もう帰るのかね」 「ヤア猪さん、もう来たのかね」  と二人は握手しました。 「もうじき来年になるのだが、それまでにはまだ時間があるから、そこらでお別れに御馳走を食べようじゃないか」 「それはいいね」  二人はそこらの御飯屋へ行って、御飯を食べ始めました。 「時に犬さん、お前の持っているその大きな荷物は何だね」  と猪は小さな眼をキョロキョロさせて尋ねました。 「これは犬の年の子供がした、いい事と悪い事を集めたものさ」 「ヘー。善い事悪い事ってどんな事だね」 「それはいろいろあるよ。他人の草履を隠したり、拾い食いをしたり、盗み食いをしたり、垣根を破って出入りしたり、猫をいじめたり、お母さんや姉さんに食いついたり」 「ヘエ、そんな事をするかね」 「するとも。それから良い方では、人のものを探してやったり、落ちたものをひろってやったり、小さい子をお守してやったり、人の命を助けたり」 「ヘエー、それはえらいね。しかしそんなものを集めて持って行ってどうするのかね」 「今に十二年目になると僕が帰って来る。その時には犬の年の子供は最早二十五になっている。男の児は最早兵隊に行って帰って来ているし、女の児ならばお嫁さんに行く年頃だから、その時に良い事をした児には良い事をしてやり、悪い事をした子には何か非道い罰を当ててやろうと思うんだ」 「フーン」  と猪は犬の言葉を聞いて腕を組んで考えました。 「オヤ猪君、何を考えているのだい」 「ウン。犬さんがそう言うと、成る程一々尤もだが、それはあまり感心しないぜ」 「何故、何故」  と犬は眼を瞠って申しました。 「それは、今年はまだ小僧だからまだいたずらをするだろう。しかし二十四にも五にもなったら、だんだんわけがわかって来て、そんないたずらをしなくなるだろう。そんなにいい人になった時に罰を喰わせるのは可哀そうではないか」  このように言われると犬も考えました。 「成る程。君は猪と言う位で無暗にあばれるばかりと思ったら、中々ちえが深い。そんならこうしようではないか。このいたずらをした児がもし二十五になっても悪い事をやめていなかったら、罰を喰わせる事にしよう。又良い児が悪くなっていたら、御褒美をやらない事にしよう」 「うん、それがいい。僕もそれじゃ来年は勉強をして、猪のようにあばれて悪い事をする児と、猪のように一所懸命に好い事をする児の名前を集めよう。そうして猪の年の児がどんなによくなるか悪くなるか気をつけていよう」  二人は手を打って、 「それがいい、それがいい」  と言いました。  そのうちに十二時の鐘が鳴りました。 「やあ鐘が鳴った。君も僕の大好きの処まで降って来たようだ。では出かけようではないか」  二人は表に出て右と左に別れました。その時二人は帽子をふって、 「犬の年の児万歳」 「猪の年の児万歳」  と叫びました。  むかしある国に独り者の王様がありました。家来がどんなにおすすめしてもお妃をお迎えにならず、お子様もない代りに一匹の犬を育てて毎晩可愛がって、「息子よ息子よ」とよんで、毎日この犬を連れては山を歩くのを何よりの楽しみにしておいでになりました。  そのうちに王様はちょっとした病気で亡くなられましたが、その御遺言には「俺が死んだら息子を王様とせよ。そうしたら俺が妃を迎えなかったわけがわかるであろう」との事でした。この国の家来は皆忠義者ばかりでしたから、変な事とは思いましたが、とうとう王様の「息子」の犬を王様にきめて、いろいろの政は今までの総理大臣がする事になりました。国中の人間はこのお布告を見ると大騒ぎをして、お祝いの支度を始めました。  その犬は狸のようなつまらない汚い犬でしたが、いよいよお祝いの当日になりますと、金襴の着物を着て王様のお椅子に着いて、大勢の家来や人民にお目見得をさせる事になりました。  お目見得に来た人民の中に一人の婆さんがいて、一匹の三毛猫を抱いて犬の王様の前に出てお辞儀をしました。三毛猫は驚きました。忽ちお婆さんの手から飛び出して、 「フーッ」  と言うとそのまま一目散に山の方へ逃げ出しました。犬も何で知らぬ顔をしましょう。金襴の着物を着た儘王様の椅子を飛び降りて「ワンワンワンワン」と吠えながら一所懸命に追っかけました。  御家来や人民共の騒ぎは又大変でした。中にも総理大臣は騎兵を繰り出して真先に立って馬を躍らせながら、何処までもとあとをつけて行きました。  山奥に来ると向うに一つの洞穴があって、その中に犬が馳け込むのが見えました。  大臣と家来共は馬を降りて洞穴の中へ入って行きますと、やがて一つの見事な宮殿に来ました。その宮殿のお庭に一人の気高い姿をした女と一人の美しい青年が話をしておりました。  大臣は近寄って丁寧にお辞儀をしながら、 「今ここへ一匹の犬が猫を追っかけて来はしませんでしたか」  と尋ねました。 「猫は来ませんが、犬ならばそこに来ております」  と気高い女は青年を指しました。 「エッこの方が」  と大臣は気絶する位驚きました。  女は顔を真赤にしながらこう申しました。 「今こそ本当の事を申し上げます。私はこの山の森の精で御座います。ずっと前にこの国の王様が狩りにお出でになった時にこの洞穴へ御入りになって、私と夫婦のお約束をなさいました。その後この皇子がお生まれになりましたが、私は一歩もこの洞穴を出ることが出来ませんので、仕方なしに皇子を一匹の犬にして王様のお傍へ差し上げました。お母さんなしでは誰も本当の皇子と思わないからで御座います。今日、皇子は王様がお亡くなりになってから暫く私に会いませんので、会いたくてたまらず、猫を追っかけるふりをしてここまで来られたのだそうで御座います。もう仕方が御座いません。なにとぞ王宮へ皇子をこのままの姿でお連れ下さいまし」  皆は、王子の顔が王様とこの森の精の女によく似ているのに気がついて、皆ひれ伏してお辞儀をした。そうして王宮にお伴をして、今一度この若い美しい王様のためにお祝いをしました。  若い王様はその後、暇さえあれば森に行ってお母様に会うのを何より楽しみにしておりました。  一匹の斑猫が人間の真似をして梅の木にのぼって花を嗅いでみました。あの枝からこの枝、花から蕾といくつもいくつも嗅いでみましたが、 「ナアーンダ、人間がいいにおいだ、いいにおいだと言うから本当にして嗅いでみたら、つまらないにおいじゃないか。馬鹿馬鹿しい、帰ろう帰ろう」  と樹から降りかかりました。 「ホーホケキョ、ホーホケキョ」 「オヤ、鶯がやって来たな。おれは一度あいつをたべてみたいと思っていたが、ちょうどいい。ここに隠れてまっていてやろう」 「ホーホケキョ、ホーホケキョ、ケキョ、ケキョ、ケキョ、ケキョ、ケキョ」  と言ううちに鶯は、斑のいる梅の木のすぐそばにある梅の花のたくさん開いたほそい枝の処へ、ヒョイととまりました。 「鶯さん鶯さん」  と猫なでごえで呼びかけました。 「オヤ斑さん、今日はいいお天気ですね」 「ニャーニャー、ホントにいいお天気ですね。それにこの梅の花のにおいのいいこと。ほんとにたべたくなるようですね」 「オホホホホ、イヤな斑さんだこと。梅の花においしいにおいがしますか」 「ええ、梅のにおいをかぐとおなかが急にすくようです。あなたはどんなにおいがするのですか」 「あたしはねえ、梅のにおいを嗅ぐと何とも言えないいい心持ちになって、歌がうたいたくなるのです。そうしてあちらこちらと躍りながら飛びまわりたくなるのです」 「ヘエ、さようですかね。そう言えばあたしも何だか踊りたくなったようです」 「まあ、おもしろいこと。一つおどってみせてちょうだいな」 「いいえ、あたしはあなたの着物のにおいを嗅いだら一緒に踊りたくなったのです、本当にあなたのにおいを嗅ぐといいこころもちになります。どうです、一緒に踊ろうじゃありませんか」 「いやですよ。あなたと踊るのはこわい」 「何故です。ちっとも怖い事はないじゃありませんか。もっとこっちへきてごらんなさい」 「イヤですよ。妾のにおいを嗅いで踊りたくなったと言うのは嘘でしょう」 「どうして」 「たべたくなったんでしょう」  と言ううちに鶯はパッと飛げ出しました。 「しまった」  と斑が飛びつきますと、ドタリと地べたへ落ちてしまいました。 「ホーホケキョ、ホーホケキョ」  と鶯は隣のうちの梅の木で鳴いていました。  船長の横顔をジッと見ていると、だんだん人間らしい感じがなくなって来るんだ。骸骨を渋紙で貼り固めてワニスで塗上げたような黒いガッチリした凸額の下に、硝子球じみたギョロギョロする眼玉が二つコビリ付いている。マドロス煙管をギュウと引啣えた横一文字の口が、旧式軍艦の衝角みたいな巨大な顎と一所に、鋼鉄の噛締機そっくりの頑固な根性を露出している。それが船橋の欄干に両|肱を凭たせて、青い青い秋空の下に横たわる陸地の方を凝視めているのだ。  そのギロリと固定した視線の一直線上に、巨大な百貨店らしい建物の赤い旗がフラフラ動いている。その周囲に上海の市街が展開している上をフウワリと白い雲が並んで行く。  ……といったような無事平穏な朝だったがね。昭和二年頃の十月の末だったっけが……。  足音高く船橋に登って行った俺は、その船長の背後でワザと足音高く立停まった。 「おはよう……」  と声をかけたが渋紙面は見向きもしない。何しろ船長仲間でも指折の変人だからね。何か一心に考えていたらしい。  俺は右手に提げた黄色い、四角い紙包を船長の鼻の先にブラ下げてキリキリと回転さした。 「御註文の西蔵紅茶です。やッと探し出したんです」  船長はやっと吃驚したらしく首を縮めた。無言のまま六|尺豊かの長身をニューとこっちへ向けて紅茶を受取った。 「ウウ……機関長か……アリガト……」  とプッスリ云った。コンナ時にニンガリともしないのがこの渋紙船長の特徴なんだ。取付きの悪い事なら日本一だろう。こんな男には何でも構わない。殴られたらなぐり返す覚悟でポンポン云ってしまった方が、早わかりするものだ。 「……昨夜、陸上で妙な話を聞いて来たんですがね。今度お雇いになったあの伊那一郎って小僧ですね。あの小僧は有名な難船小僧っていう曰く附きの代物だって、皆、云ってますぜ」  俺はそう云いさしてチョックラ船長の顔色を窺ってみたが、何の反応も無い。相も変らず茶色の謎語像みたいにプッスリしている。無愛相の標本だ。 「あの小僧が乗組んだ船はキット沈むんだそうです。I・INAって聞くと毛唐の高級船員なんか慄え上るんだそうです。乗ったら最後どんな船でも沈めるってんでね。……だから今度はこのアラスカ丸が危えってんで、大変な評判ですがね。陸上の方では……」  これだけ云っても船長の渋紙面は依然として渋紙面である。ネービー・カットの煙をプウと吹いた切り、軍艦みたいな顎を固定してしまった。しかし黒い硝子球は依然として俺の眼と鼻の間をギョロリと凝視している。モット俺の話を聞きたがっているらしいんだ。 「あの小僧は小ちゃくて容姿が美いので毛唐の変態好色連中が非常に好くんだそうです。あの小僧も亦、毛唐の高級に抱かれるとステキに金が儲かるんで、船にばっかり乗りたがるんだそうですが、不思議な事にあの小僧が乗った船で、沈まない船は一|艘も無いんだそうです。初めてあの小僧を欧州航路に雇傭した郵船のバイカル丸が、ジブラルタルで独逸のU何号かに魚雷を喰わされた話は誰でも知っているでしょう。そん時に漂流端舟に這い上ってハンカチを振ったのが彼小僧のSOSの振出しだそうですがね。……それから第二丹洋丸がスコタラ沖でエムデンにアッパーカットを喰わされた時も、あの小僧は丁度、新式救命機の着込み方のモデルにされていたところだったそうで、そのまんま飛込んで助かっちまったんだそうです。……まあ運の良い奴といえばいえましょうが、彼小僧の運が良いたんびに船全体の運命がメチャメチャになるんだから敵いません。……まだ他にも二三艘、大きな船を沈めているんだそうですが、そんなに大きな船でなくとも、チョット乗った木葉船でも間違いなく沈めるってんで、迚も凄がられているんです。早い話が房州|通いの白鷺丸にチョイと乗組んだと思うと、直ぐに横須賀の水雷艇と衝突させる。毛唐の重役の随伴をしてブライトスター石油社の超速|自働艇に乗ると羽田沖で筋斗返りを打たせるといった調子で、どこへ行っても泣きの涙の三りんぼう扱いにされているうちに、運よく神戸でエムプレス・チャイナ号のAクラス・ボーイに紛れ込んで知らん顔をして上海まで来た。そいつを、どこかで伊那の顔を見識っていた毛唐の一等船客が発見して、あの小僧と一所なら船を降りると云って騒ぎ出した。そこで今度は事務長が面喰って、早速小僧を逐出しにかかったが、小僧がなかなか降りようとしない。食堂の柱へ噛り付いて泣き叫ぶ奴を、下級船員が寄ってたかって、拳銃や鉄棒を突付けてヘトヘトになるまで小突きまわして、泥棒猫でも逐い出すようにして桟橋へたたき出してしまった。そこで小僧はエムプレス・チャイナの給仕服のまま生命辛々の手提籠一個を抱えて税関の石垣の上でワイワイ泣いているのを、チャイナ号の向い合わせに繋留っていたアラスカ丸の船長……貴下が発見て拾い上げた……チャイナ号へ面当みたいに小僧の頭を撫でて、慰め慰め拾い上げて行った……という話なんです。現在、陸上では酒場でも税関でも海員の奴等が寄ると触るとその噂ばっかりで持切ってますぜ。アラスカ丸の船長はそんな曰く因縁、故事来歴附の小僧だって事を、知って拾ったんだか……どうだかってんでね。非道い奴はアラスカ丸が日本に着くまでに沈むか、沈まないかって賭をしている奴なんか居るんですぜ」  俺は元来デリケートに出来た人間じゃない。君等みたいな高等常識を持った記者諸君に「海上の迷信」なんて鹿爪らしい、学者振った話なんか出来る柄じゃ、むろんないんだ。尤も若いうちは不良の文学青年でバイロンの「海の詩」なんかを女学生に暗誦して聞かせたりなんかして得意になっていたもんだがね。しかしそれから後、永年荒っぽい海上生活を続けて来たお蔭で性根が丸で変ってしまった。身体こそこんなに貧弱な野郎だが、兇状持揃いの機関室でも、相当押え付けるだけの腕ッ節と度胸だけは口幅ったいが持っているつもりだ。現に船員連中から地獄の親方と呼ばれている位だ。……けども、その俺が、この渋紙|船長の前に出ると、出るたんびに妙に顔負けしてしまう。いつもこうしてペラペラと安っぽく喋舌らせられるから妙なんだ。しかも忠告する気で云っている話が、ツイお伽話か何ぞのようにフワフワと浮付いてしまう。圧しの利かない事|夥しい。 「何も御幣を担ぐんじゃありませんがね。そんな篦棒な話が在るかって反対もしてみたんですがね。今まであの小僧が乗った船が一艘残らず沈んだのが事実だったら、今度沈むのも事実に違いない。乗組員全体の生命にも拘わる話だ。何もあの小僧が居なけあ船が出ねえって理窟もあるめえし……お前んとこの船長がいくら変者だってそんな無鉄砲な酔狂をして乗組員を腐らせるような馬鹿でもあんめえ。あの小僧の曰く因縁、故事来歴を知らねえから平気で雇ったに違えねえんだ。悪い事あ云わねえから早く船長に話して、あの小僧を降してもらいな。多人数の云う事あ聴いとくもんだ。あとで必定後悔するもんだから……てな事を皆して色々云うもんですからね……ハハハ……」  船長の表情は依然として動かない。渋紙色の仮面が、頭の上の青空に凍り付いたように動かない。無表情もここまで来ると少々|精神異状者じみて来る。俺は思い切りブツカルように云った。 「今の中に降しちゃったらどうです」  船長の左の眼の下にピクピクと皺が寄った。同時に片目を半分ほど細くして、唇の片隅を上の方へ歪めた。これがこの船長の笑い顔なんだが、知らない人間が見たらとても笑い顔とは思えない。単なる渋紙の痙攣としか見えないだろう。 「郵船名物のS・O・S・BOYだろう」  と船長が嗄れた声でプッスリと云った。同時に眉の間と頬ペタの頸筋近くに、新しい皴が二三本ギューと寄った。冷笑しているのだ。 「エヘッ、知ってるんですか。貴方も……」 「ムフムフ……」  と船長が笑いかけて煙草に噎せた。船橋から高らかに唾液を吐いた。 「ムフムフ、知らんじゃったがね。皆、そう云うとる」 「皆って誰がですか。どんな連中が……」 「船中で云うとるらしい。水夫の兼の野郎が代表で談判に来た。ツイ今じゃった」 「ヘエエ……何と云って」 「下さなければあの小僧をたたき殺すが宜えかチウてな。胸の処の生首の刺青をまくって見せよった。ムフムフ」 「ヘエ。それで……下さないんですか」  船長が片目を静かに閉じたり開いたりした。それからネービー・カットの煙を私の顔の真正面に吹き付けた。 「……迷信だよ……」 「それあそうでしょうけどね。迷信は迷信でしょうけどね」 「ムフムフ。ナンセン小僧をノンセンス小僧に切り変えるんだ。迷信が勝つか。俺達の動かす器械が勝つかだ」 「つまり一種の実験ですね」 「……ムフムフ。ノンセンスの実験だよ」 「……………」  二人の間に鉄壁のような沈黙が続いた。船長は平気でコバルト色の煙をプカプカやり出した。俺は、どうしたらこの船長を説き伏せる事が出来るかと考え続けた。 「君はいつからこの船に乗ったっけなあ」  と船長が突然に妙な事を云い出した。 「一昨年の今頃でしたっけなあ」 「乗る時に機械は検査したろうな」 「しましたよ。推進機の切端まで鉄槌でぶん殴ってみましたよ。それがどうかしたんですか」 「ムフムフ。その時に機械の間に、迷信とか、超科学の力とか、幽霊とか、妖怪とか、理外の理とかいうものが挟まったり、引っかかったりしているのを発見したかね。君が検査した時に……」 「それあ……そんな事はありません。この船の機械は全部近代科学の理論一点張りで出来て動いているんですがね」 「現在でもそうかね」 「……………」 「そんなら……宜えじゃろ。中学生にでもわかる話じゃろ。あのS・O・S小僧が颱風や、竜巻や、暗礁をこの船の前途に招寄せる魔力を持っちょる事が、合理的に証明出来るチウならタッタ今でもあの小僧を降す」 「……………」 「元来、物理、化学で固まった地球の表面を、物理、化学で固めた船で走るんじゃろ。それが信じられん奴は……君や僕が運用する数理計算が当てにならんナンテいう奴は、最初から船に乗らんが宜え」  俺はギューと参ってしまった。一言ない……面目ない……と思って残念ながら頭を下げた。 「ムフムフ。シッカリし給え。オイオイ伊那一郎……S・O・S……ハハハ。ここだここだ……上っち来い」  船長を探すらしく巨大なバナナを抱えて船長室を駈出して行く青服の少年を船長は手招きして呼び上げた。俺が買って来た西蔵紅茶の箱を、鼻の先に突付けて命令した。 「これを船長室へ持って行て蒸留水で入れちくれい。地獄の親方と一所に飲むけにナ」 「CAPTAIN」と真鍮札を打った扉を開くと強烈な酸類、アルカリ類、オゾン、アルコオルの異臭がムラムラと顔を撲つ。その中に厚硝子張、樫材の固定薬品棚、書類、ビーカー、レトルト、精巧な金工器具、銅板、鉛板、亜鉛板、各種の針金、酸水素|瓦斯筒、電気|鎔接機、天秤、バロメータなんぞが歯医者か理髪店の片隅みたいにゴチャゴチャと重なり合っている……というのがこのアラスカ丸の船長室なんだ。その片隅の八日巻の時計の下の折釘に、墨西哥かケンタッキーの山奥あたりにしかないようなスバらしく長い、物凄い銀色の拳銃が二|挺、十数発の実弾を頬張ったまま並んで引っかかっているのだ。  話は脱線するがこのアラスカ丸の船長はむろん独身生活者で、女も酒も嫌いなんだ。上陸なんか滅多にしないんだ。その代りに応用化学の本家本元の仏蘭西の大学で、理学博士の学位を取っている一種の発明狂と来ているんだ。持っているパテントの数でも十や二十じゃ利かないだろう。みんなこの実験室でヒネリ出したっていうんだから豪勢なもんだろう。去年の冬だっけが、そんなパテントの権利も、巨万の財産も海員|擁済会に寄附して、胃癌で死んじゃったが、惜しい人間だったよ。……その時分……昭和二年頃には、小型な、軽い、無尽蔵に強力な乾蓄電池の製作に夢中になっていたっけ。世界中の動力を蓄電池の一点張りにするてんで、誠に結構な話だが、その実験をするたんびに、船中の電動力を吸い集めて、電燈を薄暗くしちまったりヒューズを飛ばしたりするのには降参させられたよ。おまけに舶来の絹巻線が気に入らないと云って、自分で器械を作って絹巻線を製作しては切り棄て、作っては切り棄てる事二万|哩。その仕事に行き詰まると、今のピストルを二挺持って上甲板に駈け上る。主檣に群がる軍艦鳥を両手でパンパンと狙い撃にして「アハハハハ」と高笑いしながら、落ちて来るのを見向きもしないでスタスタと実験室に引返すという変りようだからトテモ吾々凡俗には寄付けない。恐ろしく小面倒な動力の計算書なんかを一週間がかりで書き上げて甲板に持って行くと、「アリガトウ」と云って、見る片端から一枚一枚海の風に飛ばしてしまう。……ナアニ、タッタ一目でみんな頭に入れちゃうんだ。ズット後になって船体検査なんかが来ると自分で機械の側へ立って、何百という数字を暗記でペラペラ並べるんだから、計算した本人が舌を捲いちまう。……そうかと思うと独逸の潜航艇やエムデンの出現時間と、場所をギッシリ書き入れた海図を睨んで「モウわかった。彼奴等の根拠地と、通信網と、速力がわかった」と云うとその海図をクシャクシャにして海へ飛ばす。それから毛唐の嫌う金曜日金曜日に汽笛を鳴らして、到る処の港々を震駭させながら出帆する、倫敦から一気に新嘉坡まで、大手を振って帰って来る位の離れ業は平気の平左なんだから、到底|吾々のアタマでは計り知る事の出来ないアタマだよ。  そうした一種の鬼気を含んだ船長の顔と、部屋の隅でバナナを切っている伊那少年の横顔を見比べると、まるで北極と南洋ほど感じが違う。  毬栗の丸い恰好のいい頭が、若い比丘尼みたいに青々としている。皮膚の色は近頃流行のオリーブって奴だろう。眼の縁と頬がホンノリして唇が苺みたいだ。睫毛の濃い、張りのある二重瞼、青々と長い三日月|眉、スッキリした白い鼻筋、紅い耳朶の背後から肩へ流れるキャベツ色の襟筋が、女のように色っぽいんだ。青地に金モールの給仕服が身体にピッタリと吸付いているが、振袖を着せたら、お化粧をしなくとも坊主頭のまんま、生娘に見えるだろう。なるほど毛唐が抱いてみたがる筈だ……と思っているトタンに、白いバナナの皿を捧げた小僧がクルリとこっち向きになって頭を一つ下げた。俺の顔を、憐れみを乞うようにソッと見上げた。それから恋人に出会った少女みたいな桃色の、悩ましげな微笑を一つニッコリとして見せたもんだ。  俺はゾッとしてしまったよ。……まったく……魔物らしい妖気が、小僧の背後の暗闇から襲いかかって来たように思ったもんだよ。  俺は紅茶もバナナも良い加減にして故郷の地獄……機関室へ帰って来た。今にも「オホホホ」と笑い出しそうな人形じみた小僧の、変態的な愛嬌顔と向い合っているよりも、機関室の連中の真黒な、猛獣|面と睨み合っている方が、ドレ位気が楽だか知れないと思って……。  ところが機関室に帰ってみると船員の伊那少年に対する憎しみが……否、恐怖が、予想外に酷いのに驚いた。船長が是非ともあの小僧を乗組ませると云うんならこっちでも量見がある……というので大変な鼻息だ。水夫連中は沖へ出次第に小僧を餌にして鱶を釣ると云っているそうだし、機関室の連中は汽鑵に突込んで石炭の足しにするんだと云ってフウフウ云っている。海員なんてものはコンナ事になると妙に調子付いて面白半分にドンナ無茶でも遣りかねないから困るがね。現に水夫の中でも兄い分の「向う疵の兼」がわざわざ鉄|梯子を降りて、俺に談判を捻じ込んで来た位だ。 「向う疵の兼」というのは恐ろしい出歯だから一名「出歯兼」ともいう。クリクリ坊主の額が脳天から二つに割れて、又|喰付き合った創痕が、眉の間へグッと切れ込んでいるんだ。そいつが出刃包丁を啣えた女の生首の刺青の上に、俺達の太股ぐらいある真黒な腕を組んで、俺の寝台にドッカリと腰を卸して出ッ歯をグッと剥き出したもんだ。 「チョットお邪魔アしますが親方ア。今、船長の処へ行って来たんでがしょう。親方ア」 「ウン。行って来たよ。それがどうしたい」 「すみませんが船長があの小僧の事を何と云ってたか聞かしておくんなさい。……わっしゃ親方が船長に何とか云ったらしいんで、水夫連中の代表になって、船長の云い草を聞かしてもらいに来たんですが」 「アハハハ。それあ御苦労だが、何とも云わなかったよ」 「お前さん何にも船長に云わなかったんけエ」 「ウン。ちょっと云うには云ったがね。何も返事をしなかったんだ。船長は……」 「ヘエー。何も返事をしねえ」 「ウン。いつもああなんだからな船長は……」 「あの小僧を大事にしてくれとも何とも……親方に頼まなかったんけえ」 「馬鹿。頼まれたって引受けるもんか」 「エムプレス・チャイナへ面当てにした事でもねえんだな」 「むろんないよ。船長はあの小僧を、皆が寄って集って怖がるのが、気に入らないらしいんだ」 「よしッ。わかったッ。そんで船長の了簡がわかったッ」 「馬鹿な。何を云うんだ。船長だって何もお前達の気持を踏み付けて、あの小僧を可愛がろうってえ了簡じゃないよ。今にわかるよ」 「インニャ。何も船長を悪く云うんじゃねえんでがす。此船の船長と来た日にゃ海の上の神様なんで、万に一つも間違いがあろうたあ思わねえんでがすが、癪に障るのはあの小僧でがす。……手前の不吉な前科も知らねえでノメノメとこの船へ押しかけて来やがったのが癪に触るんで……遠慮しやがるのが当前だのに……ねえ……親方……」 「それあそうだ。自分の過去を考えたら、遠慮するのが常識的だが、しかし、そこは子供だからなあ。何も、お前達の顔を潰す気で乗った訳じゃなかろう」 「顔は潰れねえでも、船が潰れりゃ、おんなじ事でさあ」 「まあまあそう云うなよ。俺に任せとけ」 「折角だがお任かせ出来ねえね。この向う疵は承知しても他の奴等が承知出来ねえ。可哀相と思うんなら早くあの小僧を卸してやっておくんなさい。面を見ても胸糞が悪いから」 「アッハッハッ。恐ろしく担ぐじゃねえか」 「担ぐんじゃねえよ。親方。本気で云うんだ。この船がこの桟橋を離れたら、あの小僧の生命がねえ事ばっかりは間違いねえんで……だから云うんだ」 「よしよし。俺が引受けた」 「ヘエ。どう引受けるんで……」 「お前達の顔も潰れず、船も潰れなかったら文句はあるめえ。つまりあの小僧の生命を俺が預かるんだ。船長が飼っているものを、お前達が勝手にタタキ殺すってのは穏やかじゃねえからナ。犬でも猫でも……」 「ヘエ。そんなもんですかね。ヘエ。成る程。親方がそこまで云うんなら私等あ手を引きましょうが、しかし機関室の兄貴達に、先に手を出されたら承知しませんよ。モトモトあの小僧は甲板組の者ですからね」 「わかってるよ。それ位の事あ」 「ありがとうゴンス。出娑婆った口を利いて済みません。兄貴達も容赦して下せえ」  と会釈をして兼は甲板へ帰った。生命知らずの兇状持ばかりを拾い込んでいる機関部へ来て、これだけの文句を並べ得る水夫は兼の外には居ない。現に機関部の連中は、私の寝室の入口一パイに立塞がって、二人の談判に耳を傾けていたが……むろんデッキ野郎の癖に、わざわざ親方の私の処へ押しかけて来る兼の利いた風な態度を憎んで、今にも飛びかかりそうな眼付をしながら扉の蔭に犇いていたものであるが、兼が「兄貴達も容赦してくれ」と云って頭をグッと下げた会釈ぶりが気に入ったらしく、皆顔色を柔らげて道を開けて通してやった。平生なら甲板から塵一本、機関室へ落し込んでも、只はおかない連中であるが……。  そんな訳で、風前の燈火みたような小僧の生命を乗せたアラスカ丸が、無事に上海を出た。S・O・Sどころか時化一つ喰わずに門司を抜けて神戸に着いた。それから船長一流の冒険だが六時間の航程を節約るために、鳴戸の瀬戸の渦巻を七千|噸の巨体で一気に突切って、御本尊のS・O・S・BOYを慄え上がらせながら平気の平左で横浜に着いてしまった。  横浜で印度綿花と南洋材を全部上げてしまうと、今度は晩香坡行の木綿類を吃水一パイに積込む。同時にアラスカ近海の難航海に堪え得るだけの食料や石炭を、船が割れる程|突込む訳だが、その作業は平生の通り二三日がかりで遣るのでさえ相当|忙しいのに、向岸の晩香坡から突然に大至急|云々の電報が来て、二十四時間以内の出帆という事になったので、その忙がしさといったら話にならない。おまけに横浜市内の道路工事の影響とかで、臨時人夫が間に合わないと来たので、機関部の石炭運びなんかは、文字通りの地獄状態に陥ってしまったものだ。  それも一口に地獄と云っただけじゃ局外者にはわからないだろう。普通の客船は別であるが、外国通いの気の利いた荷物船になればなるほど、荷物をウンと詰め込まれる。人間の通れる……荷役の出来る処ならばどこでも構わない。空隙のあらん限り押し込んでしまうので、石炭を積む処は炭庫以外に殆んど無いと云っていい。そこへ今度のアラスカまわりみたいな難航路になると必要以上の石炭を積んでおかないとドンナ海難にぶつかって、どこへ流されるかわからないので、楕円形の船の胴体と、四角い部屋部屋が交錯して作っているあらゆる狭い、人間の通れないような歪み曲った空隙に石炭をギッシリと詰め込まなければならない。その作業の危険さと骨の折れる事といったら、それこそこの世の生き地獄と云っても形容が足りないだろう。この船の料理部屋の背後の空隙なんかへ行く連中は、ドン底の水槽の鉄蓋まで突き抜けた鉄骨の隙間に、一枚の板を渡して在る。左右の壁には火のような蒸気の鉄管が一面にぬたくっているので、通り抜けただけでも呼吸が詰まって眼がまわる上に、手でも足でも触れたら最後|大火傷だ。そこに濛々と渦巻く熱気と、石炭の粉の中に、臨時に吊した二百|燭光の電球のカーボンだけが、赤い糸か何ぞのようにチラチラとしか見えていない。そこを二三度も石炭籠を担いで往復してから急に上甲板の冷めたい空気に触れると、眼がクラクラして、足がよろめいて、鬼のような荒くれ男が他愛なくブッ倒おれるんだ。ところがブッ倒おれたと見ると直ぐに、兄イ連が舷側に引ずり出して頭から潮水のホースを引っかけて、尻ペタを大きなスコップでバチンバチンとブン殴るんだから、息のある奴なら大抵驚いて立ち上る。 「見やがれ。コン畜生。死ばるんなら手際よくクタバレ」  といった調子である。残酷なようであるが、限られた人数で限られた時間に仕事をしなければ、機関長の沽券にかかわるんだから止むを得ない。所謂、近代文明って奴の裡面には到る処にこうした恐ろしい地獄が転がっているんだ。勿論、俺自身が、その中からタタキ上げて来たんだから部下に文句は云わさないがね……。  その俺が横浜桟橋のショボショボ雨の中に突立って、積込む石炭を一々検査していると汗と炭粉で菜葉服を真黒にした二等機関士のチャプリン髭が、喘ぎ喘ぎ駈け降りて来て「トテモ手が足りません。何とかして下さい」と云うんだ。 「馬鹿。そう右から左へ人が雇えるか」  と一喝すると「それでもデッキの方で誰か一人でもいいんですから」と泣きそうな顔をする。 「馬鹿ッ。デッキの方だって相当忙がしいんだ。殴られるぞ」 「……でも船長室のボーイが遊んでいます」 「あんな奴が何の役に立つんだ」 「……でも、みんなそう云っているんです。この際、紅茶のお盆なんか持ってブラブラしている奴はタタキ殺しちまえって……」 「君から船長にそう云い給え」 「ドウモ……そいつが苦手なんで」 「よし。俺が云ってやろう」  忙がしいのでイライラしていた俺は、二等運転手の話が五月蠅かったんだろう。そのまま一気にタラップを馳上って、船長室に飛込んだ。船長は相も変らず渋紙色の無表情な顔をして、湯気の立つ紅茶を啜っていた。傍の鉛張りの実験台の上で、問題の伊那少年が銀のナイフでホットケーキを切っていた。  俺は菜葉服のポケットに両手を突込んだまま小僧の無邪気な、ういういしい横顔をジロリと見た。 「この小僧を借してくれませんか」  伊那少年の横顔からサッと血の気が失せた。魘えたように眼を丸くして俺と船長の顔を見比べた。ホットケーキを切りかけた白い指が、ワナワナと震えた。……船長も内心|愕然としたらしい。飲みさしの紅茶を静かに下に置いた。すぐに云った。 「どうするんだ」 「石炭運びの手が足りないって云うんです。みんなブツブツ云っているらしいんです……済みませんが……」 「臨時は雇えないのか」 「急には雇えません。二十四時間以内の積込みですからね。明日の間になら合うかも知れませんが……皆モウ……ヘトヘトなんで……」  船長の額に深い竪皺が這入った。コメカミがピクリピクリと動いた。当惑した時の緊張した表情だ。こうした場合の、そうした船員の気持が、わかり過ぎる位わかっているんだからね。  それから船長は白いハンカチで唇のまわりを叮寧に拭いた。ソロソロと立ち上って伊那少年を見下した。伊那少年も唇を真白にして、涙ぐんだ瞳を一パイに見開いて船長の顔を見上げたもんだ。  その時の船長の云うに云われぬ悲痛な、同時に冷え切った鋼鉄のような表情ばかりは、今でも眼の底にコビリ付いているがね。  船長はコメカミをピクピクさせながら大きく二度ばかり眼をしばたたいた。俺の顔をジッと見て念を押すように云った。 「大丈夫だろうな」  俺は無言のまま無造作にうなずいた。  俺と一所に静かに、二三度うなずいた船長は伊那少年を顧みて、硝子のような眼球をギラリと光らした。決然とした低い声で云った。 「……ヨシッ……行けッ……」 「ウワア――アッ……」  と伊那少年は悲鳴を揚げながら船長室を飛出したが……その形容の出来ない恐怖の叫び、悲痛の響、絶体絶命の声が俺は、今でも思い出すたんびにゾッとする。伊那少年は石炭運びの恐ろしさを知っていたのだ。否、ソレ以上の恐ろしい運命が、石炭運びの仕事の中に入れ交っているのを予感していたのだね。  しかし伊那少年は逃れ得なかった。船長室の外には、俺のアトから様子を見に来た向う疵の兼が立っていた。大手を拡げて伊那少年を抱きすくめてしまったもんだ。 「ギャア――。ウワアッ。助けて助けて……カンニンして下サアイ。僕はこの船を降りますから……どうぞどうぞ……助けてエ助けてエッ……」 「アハハハ。どうもしねえだよ。仕事を手伝いせえすれあ、ええんだ」 「許して……許して下さあい。僕……僕は……お母さんが……姉さんが家に居るんですから……」  伊那少年は濡れたデッキに押え付けられたまま、手足をバタバタさして泣き叫んだ。 「ウハハハハ。何を吐かすんだ小僧。心配しるなって事……俺が引受けるんだ。この兼が受合うたら、指一本|指さしゃしねえかんな。……云う事を聴かねえとコレだぞ」  兼は横に在った露西亜製の大スコップを引寄せた。そうして手を合わせて拝んでいる少年を片手で宙に吊した。小雨の中で金モール服がキリキリと廻転した。 「致します致します。何でも致します。……すぐに……すぐに船から下して下さい。殺さないで下さい」 「知ってやがったか。ワハハハハハハハ」  兼は大口を開いて笑いながら私たちを見まわした。船長も二等運転手も、多分俺の顔も石のように剛ばっていた。あんまり兼の笑い顔が恐ろしかったので……額の向疵までが左右に開いて笑ったように見えたので……。 「……サ柔順しく働らけ。誰も手前の事なんか云ってる奴は居ねえんだからな。ハハハ」  小雨の中に肩をすぼめて艙口を降りて行く伊那少年の背後姿は、世にもイジラシイ憐れなものであった。  そうして俺達はソレッキリ伊那少年の姿を見なかったのだ。  犬吠埼から金華山沖の燈台を離れると、北海名物の霧がグングン深くなって行く。汽笛を矢鱈に吹くので汽鑵の圧力計がナカナカ上らない。速力も半減で、能率の不経済な事|夥しい。  一等運転手と船長と、俺とが、食堂でウイスキー入りの紅茶を飲みながらコンナ話をした。 「今度は霧が早く来たようだね」 「すぐ近くに氷山がプカプカやっているんじゃねえかな。霧が恐ろしく濃いようだが……」 「そういえば少し寒過ぎるようだ。コンナ時にはウイスキー紅茶に限るて……」 「紅茶で思い出したがアノS・O・Sの伊那一郎は船長が降したんですか」  船長は木像のように表情を剛ばらせた。無言のまま頭を軽く左右に振った。 「おかしいな。横浜以来姿が見えませんぜ」 「ムフムフ。何も云やせん。あの時、君に貸してやった切りだ」 「ジョジョ冗談じゃない。僕に責任なんか無いですよ。デッキの兼に渡した切り知りませんが、貴方も見ていたでしょう」 「殺ったんじゃねえかな……兼が」  と云ううちに一等運転手が自分でサッと青い顔になった。 「……まさか。本人も降りると云ってたんだからな……無茶な事はしまいよ」 「しかし降りるなら降りるで挨拶ぐらいして行きそうなもんだがねえ」 「ムフムフ。まだ船の中に居るかも知れん……どこかに隠れて……」  と船長が云って冷笑した。例の通り渋紙の片隅へ皺を寄せて……硝子球をギョロリと光らして……。俺は何かしらゾッとした。そのまま紅茶をグッと飲んで立上った。  こうした俺たちの会話は、どこから洩れたか判然らないが忽ち船の中へパッと拡がった。 「捜し出せ捜し出せ。見当り次第海にブチ込め。ロクな野郎じゃねえ」  と騒ぎまわる連中も居たが、そんな事ではいつでも先に立つ例の向う疵の兼が、この時に限って妙に落付いて、 「居るもんけえ。飲まず食わずでコンナ船の中へ居れるもんじゃねえちたら。逃げたんだよ」  と皆を制したのでソレッキリ探そうとする者もなかった。しかし、それでも伊那少年の行方は妙に皆の気にかかってしまったらしく、狭い廊下や、デッキの片隅を行く船員の眼はともすると暗い処を覗きまわって行くようであった。  船を包む霧は益々深く暗くなって来た。  モウ横浜を出てから十六日目だから、大圏コースで三千|哩近くは来ている。ソロソロ舵をE・S・Eに取らなければ……とか何とか船長と運転手が話し合っているが、俺はどうも、そんなに進んでいるような気がしなかった。しかもその割りに石炭の減りようが烈しいように思った。これは要するに俺の腹加減で永年の経験から来た微妙な感じに過ぎないのだが、それでも用心のために警笛を吹く度数を半分から三分の一に減らしてもらった。同時に一時間八|浬の経済速度の半運転を、モウ一つ半分に落したものだから、七千|噸の巨体が蟻の匍うようにしか進まなかった。 「オイ。どこいらだろうな」 「そうさなあ。どこいらかなあ」  といったような会話がよく甲板の隅々で聞こえた。むろん片手を伸ばすと指の先がボーッと見える位ヒドイ霧だから話している奴の正体はわからない。 「汽笛を鳴らすと矢鱈にモノスゴイが、鳴らさないと又ヤタラに淋しいもんだなあ」 「アリュウシャン群島に近いだろうな」 「サア……わからねえ。太陽も星もねえんだかんな。六分儀なんかまるで役に立たねえそうだ」 「どこいらだろうな」 「……サア……どこいらだろうな」  コンナ会話が交換されているところへ、老人の主厨が飼っている斑のフォックステリヤが、甲板に馳け上って来ると突然に船首の方を向いてピッタリと立停まった。クフンクフンと空中を嗅ぎ出した。同時にワンワンワンワンと火の附くように吠え初めた。 「オイ。陸だ陸だッ」  とアトから跟いて来た主厨の禿頭が叫ぶ。成る程、波の形が変化して、眼の前にボーッと島の影が接近している。 「ウワッ……陸だッ……大変だッ」 「後退……ゴスタン……陸だ陸だッ」 「大変だ大変だ。ぶつかるぞッ……」  ワアワアワアワアと蜂の巣を突いたような騒ぎの中に、船は忽ちゴースタンして七千|噸の惰力をヤット喰止めながら沖へ離れた。船首にグングンのしかかって来る断崖絶壁の姿を間一髪の瀬戸際まで見せ付けられた連中の額には皆|生汗が滲んだ。 「あぶねえあぶねえ。冗談じゃねえ。汽笛を鳴らさねえもんだから反響がわからねえんだ。だから陸に近いのが知れなかったんだ」 「機関長の奴ヤタラにスチームを惜しみやがるもんだからな……テキメンだ」 「今の島はどこだったろう」 「セント・ジョジじゃねえかな」 「……手前……行ったことあんのか」 「ウン。飛行機を拾いに行った事がある」 「何だ何だセント・ジョジだって……」 「ウン。間違えねえと思う。波打際の恰好に見おぼえがあるんだ」 「篦棒めえ。セント・ジョジったらアリュウシャン群島の奥じゃねえか」 「ウン。船が霧ん中でアリュウシャンを突ん抜けて白令海へ這入っちゃったんだ」 「間抜けめえ。船長がソンナ半間な処へ船を遣るもんけえ」 「駄目だよ。船長にはもうケチが附いてんだよ。S・O・S小僧に祟られてんだ」 「でも小僧はモウ居ねえってんじゃねえか」 「居るともよ。船長がどこかに隠してやがるんだ。夜中に船長室を覗いたらシッカリ抱き合って寝てたっていうぜ」 「ゲエッ。ホントウけえ」 「……真実だよ……まだ驚く話があるんだ。主厨の話だがね、あのS・O・S小僧ってな女だっていうぜ。……おめえ川島|芳子ッてえ女知らねえか」 「知らねえね。○○女優だろう」 「ウン……あんな女だっていうぜ。毛唐の船長なんか、よくそんな女をボーイに仕立てて飼ってるって話だぜ。寝台の下の箱に入れとくんだそうだ。自分の喰物を領けてね」 「フウン。そういえば理窟がわかるような気もする。女ならS・O・Sに違えねえ」 「だからよ。この船の船霊様ア、もうトックの昔に腐っちゃってるんだ」 「ああ嫌だ嫌だ。俺アゾオッとしちゃった」 「だからよ。船員は小僧を見付次第タタキ殺して船霊様を浄めるって云ってんだ。汽鑵へブチ込めやあ五分間で灰も残らねえってんだ」 「おやじの量見が知れねえな」 「ナアニヨ。S・O・Sなんて迷信だって機関長に云ってんだそうだ。俺の計算に、迷信が這入ってると思うかって機関長に喰ってかかったんだそうだ」 「機関長は何と云った」 「ヘエエッて引き退って来たんだそうだ」 「ダラシがねえな。みんなと一所に船を降りちまうぞって威かしゃあいいのに」 「駄目だよ。ウチの船長は会社の宝物だからな。チットぐれえの気紛なら会社の方で大目に見るにきまっている。船員だって船長が桟橋に立って片手を揚げれや百や二百は集まって来るんだ」 「それあそうかも知れねえ」 「だからよ。晩香坡に着いてっからS・O・Sの女郎をヒョッコリ甲板に立たせて、ドンナもんだい。無事に着いたじゃねえかってんで、コチトラを初め、今まで怖がっていた毛唐連中をギャフンと喰らわせようって心算じゃねえかよ」 「フウン。タチがよくねえな。事によりけりだ。コチトラ生命がけじゃねえか」 「まったくだよ。船長はソンナ事が好きなんだからな」 「機関長も船長にはペコペコだからな」 「ウムウム。この塩梅じゃどこへ持ってかれるかわからねえ」 「まったくだ。計算にケチが付かねえでも、アタマにケチが付けあ、仕事に狂いが来るのあ、おんなじ事じゃねえかな」 「そうだともよ。スンデの事にタッタ今だって、S・O・Sだったじぇねえか」 「ああ。いやだいやだ……ペッペッ……」  コンナ会話を主檣の蔭で聞いた俺は、何ともいえない腐った気持になって、霧の中を機関室へ降りて行った。……これが迷信というものだかどうだか知らないが、自分の頭の中まで濃霧に鎖されたような気になって……。  それから三日ばかりした真夜中から、波濤の音が急に違って来たので眼が醒めた。アラスカ沿岸を洗う暖流に乗り込んだのだ……と思ったのでホッとして万年|寝床の中に起上った。  同時に船橋から電話が来て、すぐに半運転を全運転に切りかえる。霧笛をやめる。探照燈を消す。機関室は生き上ったように陽気になった。一等運転手の声が電話口に響いた。 「石炭はドウダイ」 「桑港まで請け合うよ。霧は晴れたんかい」 「まだだよ。海路は見通しだが空一面に残ってるもんだから天測が出来ねえ」 「位置も方角もわからねえんだな」 「わからねえがモウ大丈夫だよ。サッキ女帝星座が、ちょうどそこいらと思う近処へウッスリ見えたからな。すぐに曇ったようだが、モウこっちのもんだよ」 「アハハハ。S・O・Sはどうしたい」 「どっかへフッ飛んじゃったい。船長は晩香坡から鮭と蟹を積んで桑港から布哇へ廻わって帰るんだってニコニコしてるぜ」 「安心したア。お休みい……」 「布哇でクリスマスだよオオ――だ……」 「勝手にしやがれエエ……エ……だ……」 「アハアハアハアハアハ……」  ところがこうした愉快な会話が、霧が晴れると同時にグングン裏切られて行ったから不思議であった。  夜が明けて、霧が晴れてから、久し振りに輝き出した太陽の下を見ると、船はたしかに計算より遅れている。しかも航路をズッと北に取り過ぎて、晩香坡とは全然方角違いのアドミラルチー湾に深入りして雪を被った聖エリアスの岩山と、フェア・ウェザー山の中間にガッチリと船首を固定さしているのには呆れ返った。……船長と運転手の計算も、又は俺の腹加減までもが、ガラリと外れてしまっていたのだ。  そればかりではない。  船に乗ってアラスカ近海へ廻わった経験のある人間でなければ、あの近海の波の大きさと、恐ろしさはチョット見当が付きかねるだろう。こんな処でイクラ法螺を吹いても、あの波濤のスバラシサばっかりは説明が出来ないと思うが、何もかも無い。これが波かと思う紺青色の大山脈が、海抜五千|米突の聖エリアス山脈を打ち越す勢いで、青い青い澄み切った空の下を涯てしもなく重なり合いながら押し寄せて来る。アラスカ丸は七千|噸だから荷物船では第一級の大型だったが、たとい七千噸が七万噸でもあの波に引っかかったら木っ葉も同然だ。  一つの波の絶頂に乗上げると、岩と氷河で固めた恐ろしい恰好の聖エリアスが直ぐ鼻の先に浮き上る。文句なしに手が届きそうに見える。これは、空気が徹底的に乾燥しているから、そんなに近くに見えるんだが、水蒸気の多い日本から行くと特別にソンナ感じがするんだ。望遠鏡で覗いてもチットも霞んで見えない。山腹を這う蟻まで見えやしまいかと思うくらいハッキリと岩の角々が太陽に輝いている……と思う間に、その大山脈の絶頂から真逆落しに七千噸の巨体が黒煙を棚引かせて辷り落ちる。スキーの感じとソックリだね。高い高い波の横っ腹に引き残して来る推進器の泡をジイッと振り返っていると、七千噸の船体が千噸ぐらいにしか感じられなくなって来る。  ……と思ううちに、やがて谷底へ落ち付いた一|刹那、次の波の横っ腹に艦首を突込んでドンイイインと七噸から十噸ぐらいの波に艦首の甲板をタタキ付けられる。グーンと沈んで甲板をザアザアザアと洗われながら次の大山脈のドテッ腹へ潜り込む。何しろ船脚がギッシリと重いのだから一度、大きな波にたたかれると容易に浮き上らない。船室という船室の窓が、青い、水族館みたいな波の底の光線に鎖されたまま、堅板や、内竜骨が、水圧でもって……キイッ……キイッ……キシキシキシキシと鳴るのを聞いていると、それだけの水圧を勘定に入れた、材料強弱の公式一点張りで出来上っている船体だとわかり切っていても決していい心持ちはしない。そのうちにヤット波の絶頂まで登り詰めてホットしたと思う束の間に、又もスクリュウを一シキリ空転さして、潮煙を捲立てながら、文字通り千仭の谷底へ真逆落しだ。これを一日のうちに何千回か何万回か繰返すと、機関室の寝床にジッと寝転んでいても、ヘトヘトに疲れて来る。 「オイオイ。機関長か……」  船長室から電話がかかる。 「僕です。何か用ですか」 「ウン。もっとスピードが出せまいか」 「出せますが、何故ですか」 「船がチットも進まんチウて一等運転手が訴えて来おるんだ」 「今十六|節出ているんですがね。義勇艦隊のスピードですぜ」 「馬鹿。出せと云ったら出せ」 「ドレ位ですか」 「十八ばっか出しちくれい」 「最大限ですね」 「ウン。石炭は在るかな」 「まだ在ります。全速力で四五日分……」 「……ヨシ……」  ガチャリと電話が切れたと思うと、やがて船腹を震撼する波濤の轟音が急に高まって来た。タッタ二|節の違いでも波が倍以上大きくなったような気がする。又実際、船体のコタエ方は倍以上違って来るので、石炭の消費量でもチットやソットの違いじゃない。  そのうちに高緯度の癖で、いつとなく日ばボンヤリと暮れて、地獄座のフットライト見たいなオーロラがダラダラと船尾にブラ下った。その下の波の大山脈の重なりを、夜通しがかりで白泡を噛みながら昇ったり降ったり、シーソーを繰り返して翌る朝の薄明りになってみると、不思議な事に船体は、昨日の朝の通り聖エリアスとフェア・ウェザーの中間に船首を固定さしている。昨日から固定していたんだか、夜の間に逆戻りしたんだかわからない。 「どうしたんだ」 「シッカリしろ」  とか何とか運転手と文句を云い合っているうちに、昨日の朝の通りの白い太陽がギラギラと出て来た。空気が乾燥しているから岸の形がハッキリしている。山腹を這う蟻の影法師まで見えそうである。  流石に沈着な船長もコレには少々驚いたらしい。船橋に上って、珍らしそうに白い太陽を凝視している。その横に一等運転手がカラも附けないまま寒そうに震えている。 「逆戻りしたんだな」 「イヤ。波に押し戻されているんです。十八|節の速力がこの波じゃチットモ利かないんです」 「そんな馬鹿な事が……」 「いや実際なんです。去年の波とはタチが違うらしいんです」 「おんなじ波じゃないか」 「イヤ。たしかに違います」  一等運転手と船長がコンナ下らない議論をしているところへ、俺は危険を冒して梯子を這い登って行った。船長は、真向いの聖エリアスの岩山に負けない位のゴツゴツした表情で云った。 「モウ……スピードは出ないな。機関長……」 「出ませんな。安全弁が夜通しブウブウいっていたんですから」 「……弱ったな……」  この船長が、コンナ弱音を吐いたのを俺はこの時に初めて聞いた。 「……妙ですねえ。今度ばかりは……変テコな事ばかりお眼にかかるじゃないですか」 「あの小僧を乗せたせいじゃないかな。チョットでも……」  と一等運転手がヨロケながら独言のように云った。蒼白い、剛わばった顔をして……俺は強く咳払いをした。 「エヘン。そうかも知れねえ。しかし最早船には居ねえ筈だからな」  船長は何も云わなかった。苦い苦い顔をしたまま十八倍の双眼鏡を聖エリアスに向けた。  三人はそのまま気拙い思いをして別れたが、それから第三日目の朝になっても、依然としてフェア・ウェザーとセント・エリアスが真正面に見えた時には、流石の俺も、ジイイーンと痺れ上るような不思議を、脳髄の中心に感じた。同時に何ともいえない神秘的な気持になって、胸がドキドキした事を告白する。自分の魂が、船体と一所に、どうにもならない不可思議な力にガッシリと掴まれているような気がしたからだ。  石のように固ばった俺と、一等運転手と、船長の顔がモウ一度、船長室でブツカリ合った。 「ここいらを北上する暖流の速力が変ったっていう報告はまだ聞きませんよ」  運転手が裁判の被告みたような口調で船長に云った。船長が他所事のようにネービー・カットの煙を吹いた。 「ムフムフ。変ったにしたところが、一時間十八|節の船を押し流すような海流が、地球表面上に発生し得る理由はないてや」  と飽くまでも科学者らしく嘯いた。俺もエンチャントレスに火を付けながら首肯いた。 「とにかく俺のせいじゃないよ。石炭はたしかに減っているんだからな」  一等運転手も眼を白くしてコックリと首肯いた。同時に一層青白くなりながら白い唇を動かした。 「……何か……あの小僧の持物でも……船に……残っているんじゃ……ないでしょうか」  船長は片目をつむって、唇を歪めて冷笑した。しかし一等運転手は真顔になって、真剣に腰を屈めながら、船長室内のそこ、ここを覗きまわり初めた。おしまいには船長と俺が腰をかけている寝台までも抱え上げて覗いたが、寝台の下には独逸や仏蘭西の科学雑誌が一パイに詰まっているキリであった。ボーイのスリッパさえ発見出来なかった。  とうとう船全体が、動かす事の出来ない迷信に囚われて、スッカリ震え上がらせられてしまった。乗組員の眼付は皆オドオドと震えていた。  ……船が動かない……S・O・S小僧の祟りだ……。  晴れ渡った青い青い空、澄み渡った太陽。静かな、切れるような冷めたい風の中で、碧玉のような大濤に揺られながらの海難……。  ……行けども行けども涯てしのない海難……S・O・Sの無電を打つ理由もない海難……理由のわからない……前代未聞の海難……。 「サアサア。みんな文句云うところアねえ、在りったけの石炭を悉皆、汽鑵にブチ込むんだ。それで足りなけあ船底の木綿の巻荷をブチ込むんだ。それでも足りなけあ俺から先に汽鑵の中へ匍い込むんだ。ハハハ。サアサア。みんな石炭運びだ石炭運びだ……」  事実石炭は最早、残りがイクラも無かったのだ。横浜で積込んだ時の苦労を逆に繰返して、飛んでもない遠方から掘り出すようにしいしい、機関室へ拾い集めるのであったが、その作業を初めると間もなく、残炭を下検分に廻わった二等機関士のチャプリン髭が、俺の部屋へ転がり込んで来た。 「……タ……大変です。S・O・Sの死骸が見つかりました」 「ナニ。S・O・S……伊那の死骸がか……」 「エエ。そうなんです……ああ驚いた。ちょっとその水を一パイ。ああたまらねえ」 「サア飲め。意気地無し。どこに在ったんだ」 「ああ驚いちゃった。料理部屋の背面なんです。あすこの石炭の山の上にエムプレス・チャイナの青い金モール服を着たまんま半腐りの骸骨になって寝ていたんです。イガ栗頭の恰好があいつに違いないんですが」 「骸骨……?……」 「ええ。あそこは鉄管がゴチャゴチャしていてステキに暑いもんですから腐りが早かったんでしょう。白い歯を一パイに剥き出してね。蛆一匹居なかったんですが……随分臭かったんですよ」  俺は黙って鉄梯子を昇って、中甲板の水夫部屋に来た。入口に掴まって仁王立ちになったまま大声で怒鳴った。 「おおい。兼公居るかア。出歯の兼公……生首の兼公は居ねえかア……」 「おおおオ――……」  と隅ッコの暗い寝台棚から、寝ぼけたらしい声がした。 「誰だあ……」 「おれだあ……」 「おお。地獄の親方さんか。これあどうも……」 「済まねえが一寸、顔を貸してくれい」 「ウワアア。とうとう見付かったかね」 「シッ……」  と眼顔で制しながら兼公を水夫食堂へ誘い込んだ。天井の綱にブラ下りながら兼に金口煙草を一本|呉れた。兼はしきりに頭を掻いた。 「どうも横浜じゃ、警察が怖わーがしたからね。つい秘密にしちゃったんで……」 「石炭運びの途中で殺ったんか」 「図星なんで……ヘエ。もっとも最初から殺る気じゃなかったんで、みんながあの小僧は女だ女だって云いましたからね。仕事にかからせる前にチョット調べて見る気であすこに引っぱり込んだんで……ヘエ……」 「馬鹿野郎……そんで女だったのか」 「それがわからねえんで……あすこへ捻じ伏せて洋服を引んめくりにかかったら恐ろしく暴れやがってね」 「当前だあ……それからどうした」 「イキナリ飛び付きやがって、ここん処をコレ……コンナに喰い切りやがったんで……」  兼は菜葉服とメリヤスの襯衣をまくって、左腕の力瘤の上の繃帯を出して見せた。 「まだ腫れてんで……ズキズキしてるんですがね……恐ろしいもんですね」 「間抜けめえ。そん時に手前裸体だったのか」 「エヘヘヘヘヘ」 「変な笑い方をしるねえ。それからどうした」 「わっしゃカーッとなっちゃってね。コイツ奴、降りるといったって他の船へ乗れあ、又、災難をしやがるんだからここで片付けた方が早道だ。男だか女だか殺してから検査た方が早道だと思っちゃったところへ、血だらけの口をしたS・O・Sの野郎が、私の横ッ面へ喰い切った肉をパッと吹っかけて「悪魔」とか何とか悪態を吐きやがったんで……手前の悪魔は棚へ上げやがってね。……おまけに後で船長に告訴けてやるから……とか何とか吐かしやがったんでイヨイヨ助けておけないと思って、首ッ玉をギューッと……まったくなんで……ヘエ……」 「非道い事をするなあ。そんで女だったかい」 「……それがその……野郎なんで……」 「プッ。馬鹿だなあ。それからどうしたい」 「それっきりでさ。……ウンザリしちゃって放ったらかして来ちゃったんです」 「何故海に投り込まねえ」 「それが誰にも見つからねえように放り込みたかったんで……親方や機関室の兄貴達にも申し訳ねえし、おまけに上海で、あっしが談判に行った時に船長が入歯をガチガチさして、こんな事を云ったんです。あの小僧をタタキ殺すのに文句はないが……」 「チョット待ってくれ。たたき殺すのに文句はないって云ったんだね」 「そうなんで……しかし死骸は勿論、髪の毛一本でも外へ持ち出したら只はおかないぞッ……てね。そう云って船長に白眼み付けられた時にゃ、あっしゃゾッとしましたぜ。あんな気味の悪い面ア初めてお眼にかかったんで……ヘエ……まったくなんで……」 「フーム。妙な事を云ったもんだな」 「そう云ったんで……何だかわからねえけども……万一見付かって首になっちゃ詰まらねえ。事によるとあの二|挺のパチンコで穴を明けられちゃ叶わねえと思って、そのまんまにしといたんです。まったくなんです」 「案外意気地がねえんだな……手前は……」 「まったくなんで……それからっていうものあの死骸の事が気になって気になって今日は運び出そうか、明日は片付けようかと思ううちに、だんだん船にケチが附いて来るでしょう……死骸は腐って手が付けられなくなって来るし、わっしゃもう少しで病気になるところだったんで……もう懲り懲りしました。どうぞ勘弁しておくんなさい。あやまっても追付くめえけんど……」 「ハハハ。そんな事アもうどうでもいいんだ。今日は文句はねえ。手前行って大ビラであの死骸を片付けて来い。船長には俺が行って話を付けてやる」 「ヘエッ。本当ですかい親方ア」 「同じ事を二度たあ云わねえ」 「……ありが……ありがとう御座んす。すぐに片付けます。……ああサッパリした」 「馬鹿野郎……片付けてからサッパリしろ」  兼はS・O・Sの金モールの骸骨を胴中から真二つにスコップでたたき截って、大きなバケツ二杯に詰めて出て来た。甲板に出て生命綱に掴まり掴まり二つのバケツを海の上へ投げ出したが、その骨の一片が、波にぶつかって、又、兼の足元へ跳ね返って来た時、兼は真青になってその骨を引掴むと危くツンノメリながら、 「南無阿弥陀仏ッ……」  と遠くへ投げた。  それは兼の一生懸命の震え上った念仏らしかったが、とてもその恰好が滑稽だったので、見ていた俺はたった一人で腹を抱えさせられた。  アラスカ丸は、それから何の故障もなくスラスラと晩香坡へ着いた。  同じ波の上を、同じスピードで……馬鹿馬鹿しい話だが、まったくなんだ。  ところで話はこれからなんだ。  船長の横顔は見れば見るほど人間らしい感じがなくなって来るんだ。  骸骨を渋紙で貼り固めてワニスで塗り上げたような黒光りする凸額の奥に、硝子玉じみたギラギラする眼球が二個コビリ付いている。それがマドロス煙管を横一文字にギューと啣えたまま、船橋の欄干に両|肱を凭たせて、青い青い空の下を凝視しているんだ。その乾涸びた、固定した視線の一直線上に、雪で真白になった晩香坡の桟橋がある。その向う一面に美しい燈火がズラリと並んでいようという……ところまで、やっと漕ぎ付けたんだがね。文字通りに……。  その桟橋の上に群がっている人間は、五日ほど遅れて着いたアラスカ丸をどうしたのかと気づかって、待ちかねていた連中なんだ。 「S・O・Sの野郎……骸骨になってまで祟りやがったんだナ……」  船長が突然に振返って俺の顔を見た。白い義歯を一ぱいに剥き出して物凄く哄笑したもんだ。 「アハハハハ。イヤ……面白い実験だったね。やっぱり理外の理って奴は、あるもんかなあ……タハハハ。ガハハハハハ……」  法医学的な探偵味を含んだ、且つ、残忍性を帯びた事件の実話を書けという註文であるが、今ここに書く事件は、遺憾ながら左の三項について、その筋に残っている公式の記録、もしくは筆者のノートと相違している筈である。  一、該事件発生地の地形、関係地名、人名  二、機密事項の内容  三、法医学者の活動範囲  従ってその意味からこの稿は実話と称する資格を欠いているのであるが、ここに都合のいい事に、右の三項はこの実話としては寧ろ傍系的な問題である。冒頭の要求通りの事件の全貌と、つまらない謎が非常にグロテスクな不可解なものに見えた、その真実の経過を明かにするためには何の妨げにもなっていないのみならず、これを省略、変更した事が、却ってこの事件に対する理解の明瞭度を高めるために役立っていると思う。なお前記三項を偽装し、又は仮装した事は、この事件の真相を記憶している或る一部の人々の不快とするところかも知れないが、そのそうしなければならなかった理由は、読了後に、自ら首肯され得るであろう。  R市のS岬というと日本海に面した風光明媚の景勝である。R市から海越しに、直径、一里半ばかり距たった対岸で、首の細い半島になっている赤土山の松原の中に、西洋人や日本人の別荘がチラホラと建っている処であるが、その内海側の一番突端のコンモリと丸い松林の緑の中に、R市に在る某石油会社の支配人で、有名な愛妻家として、度々新聞にゴシップされた事のあるJ・P・ロスコーという×国人の住宅が建っていた。見るからに蕭洒なバンガロー風の青ペンキ塗、平屋建で、対岸のR市から眺めると、三丁ばかり離れて建っている倫陀療養院の赤い屋根と、偶然の美しいコントラストを作っているのであるが、そのJ・P・ロスコー氏の最愛の夫人で、今年二十四になるマリイ・ロスコーという美人が大正×年の八月二十何日であったか土曜日の真夜中に、このバンガローの中の寝室で絞殺され、暴行を加えられていた。その時に裏手の少し離れた日本家に住んでいたロスコー家のコック兼、小使の東作という老人は、奇怪にも酒に酔払って、そこから二百|米突ばかり隔った半島の突端、外海側に在る低い、小さな岩山の上の、生い茂った草原の中にグーグー眠っていた……というのが事件の発端であった。  その土曜日の晩に、会社で、徹夜の仕事をして、翌る日曜日の朝早く、大急ぎで帰って来た愛妻家のロスコー氏は、昨夜、自分自身の手で、たしかに鍵を掛けて出た筈の玄関の扉が、半分ばかり開いているのを遠くから発見してハッとした。大急ぎで吾家に走り込んで、惨酷たらしく変化したマリイ夫人の絞殺屍体を一目見ると、そのまま一散に表へ飛出して、意気地なくも、内海の波打際にブッ倒れて気絶しているのを、程経て沙魚釣りのために通りかかった二人の県庁吏員が発見して、程近い倫陀病院に担ぎ込んだ。その院長倫陀博士の応急手当で、ロスコー氏はヤット意識を回復して、前記のような事実を辛うじて物語るには語ったが、元来が西洋人一流の極度にセンチな意気地のない性格らしく、一種の痴呆患者か何ぞのようにボロボロと涙を流して「マリイマリイ」と号哭するばかりで、何が何だかサッパリ要領を得ない。  そこで倫陀院長が気を利かしてタッタ一人居る助手の弓削という医学士に命じてロスコー家の様子を見に遣ると、この弓削医学士というのが又、そんなような仕事のノンビリした病院の助手らしい探偵小説の耽読者であった。従って相当の好奇心の持主らしく、ロスコー家の寝室に無断で侵入して、夫人の惨死体を発見したが、しかし流石に屍体には手を触れなかった。そのまま浴室の横を抜けて、裏手の小使部屋に来てみると、兼てから顔と名前だけ知っている東作|爺の姿が見えない。怪んで附近の状況を調べてみると東作の部屋に繋がっている呼鈴と、S市に通ずる電話線が切断されている。  そこでイヨイヨ好奇心を唆られた弓削医学士は、尚もそこらを隈なく探検している中に、意外にもS岬の突端の岩山の上で、大の字|型にグーグー眠っている東作爺を探出したので、取敢えず揺起して倫陀病院に連行して、弱り込んだまま寝ているロスコー氏に附添わした。だから東作老人はまだマリイ夫人の死骸を見ていないし、死んだ事も気付いていないかも知れない……というのが倫陀病院の電話で、R市の警察へ報告された第一話であった。  対岸のR市から時を移さず水上署のモーター端艇に乗って出張して来た蒲生検事、市川予審判事、R市警察司法主任巡査、刑事、警察医、書記等、数名の一行は、先ず一名の刑事を倫陀病院に派してロスコー氏と東作老人の動静を監視させた。それからマリイ夫人の屍体を調査すると、マリイ夫人というのは西洋婦人としては小柄な方で、二十歳ぐらいに見える丸々と肥った、南欧式の肉感的な美人であったが、枕元の豆スタンドから引離した黒絹の被覆コードをグルグルと首に巻付け、乱れた金髪のカールを顔面一パイにヘバリ附かせた中から、青い両眼をクワッと見開き、白くなった小さな唇から、大きな赤黒い血の塊まりをダラリと腮の下へ吐出し、薄い、青絹の寝衣を胸の処までマクリ上げたまま虚空を掴んで悶絶している状態は、トテモ凄惨で二目と見られた姿ではなかった。ロスコー氏がタッタ一目で仰天して気絶してしまったのも無理はないと思われた。むろん疑いもない電燈コードによる絞殺死体で、格闘の際の出来事であろう、舌の途中を大きく噛切っている事が間もなく警察医によって発見された。  なお薄青い寝衣の肱の曲目と、肩と、臀部の真背後の処が破れているのが、猛悪な格闘のあった事を物語っているが、それよりも何よりも警官たちを驚かしたのはマリイ夫人の肉体であった。西洋人には珍らしい餅肌の、雪のように白い背部から両腕、臀部にかけて、奇妙に歪んだ恰好の薔薇と、百合と、雲と、星とをベタ一面に入乱れて刺青してあった。特にコンナ事にかけては気の弱いのを特徴とする若い、美しい西洋婦人が、コレ程の刺青をするのに、どれ程の気強さと、忍耐力を要したかを考えただけでも身の毛が慄立つくらいであった。  これを見た係官たちはこの事件に対して今までにない一種異様な緊張味を感じたらしい。平常よりもズット熱心に捜査に従事した結果、色々な興味深い事実が次から次に判明して来た。  犯人の忍込んだ処はロスコー家正面のバルコニーの真下に当る重たい板戸で、俗に万能鍵と名付くる専門の犯罪用具の中でも、最も精巧なものを使用してコジリ開けたものである事が、鍵穴を解体した結果判明した。それから犯人は玄関の内側に面した鍵の掛かっていない扉を押開いて夫人の寝室に侵入し、寝台の上で夫人と格闘してこれを絞殺した以外には、一物も奪い得ずに逃走した事実……等々々が、何の苦もなく推定されたが、ここに困るのはそれ以外の、室外に於ける犯人の行動がサッパリわからない事であった。  ロスコー家の周囲の松原には砂まじりの赤土の中から丸い石が一面にゴロゴロと露出していて苔があまり生えていない。そのために靴で踏んでも素足で歩いても足跡が全然残らないようになっていた。しかしその石のゴロゴロした松原の周囲は、岬の突端に在る松林続きの岩山を除いた全部が、真白い綺麗な石英質の砂浜になっているのだから、犯人がその岩山伝いに松原を潜って来て、帰りにも亦おなじ筋道を逆行しない限り、その松林の周囲のどこかの砂原に足跡が残っていなければならない筈であった。然るにその砂浜に残っている足跡といっては、対岸のR市から波際伝いに歩いて来た二人の沙魚釣男のソレと、その前に郊外電車の停留場から、やはり海岸伝いに帰って来て、マリイ夫人の死骸を見て仰天し、波打際でブッ倒おれた迄のロスコー氏の靴跡を除いては何一つ発見出来なかった。してみると犯人は闇夜の海上伝いにどこからか泳いで来るか、又は船を漕いで来て、岬の突端の岩山を越えて来たものでなければならない筈であるが、それは余程この辺の地理に精通している上に、そうした汐時と、汐先の加減を十分知り抜いていない限り、ずいぶん当てずっぽうな冒険的な遣り方で成功したものと考えなければならなかった。のみならず、その問題の岩山の上には、酔っ払っていたとはいえロスコー家の雇人の東作が寝ていたというのだから、話が何となく妙チキリンである。たとい東作を犯人として考えても、何となく辻褄の合わないところがあるように考えられる。  そんな事が評議、研究されているうちに、間もなく正午過ぎになると、又々異様なものが、このバンガローの中から次から次に発見されて、係官たちを面喰らわせた。  その第一は玄関の奥に、台所と隣合って設計されている浴室の立派な事であった。それはマリイ夫人の寝床の下から発見された鍵束でヤット開かれたものであったが、超モダンな分離派式タイル張の三坪ばかりの部屋の天井と四壁に、贅沢にも十数個の電球と、合計七個の大小の鏡を取附けた馬鹿馬鹿しいとも形容さるべき構造で、ロスコー夫妻の頽廃的な趣味を露骨に裏書きしたものであった。  それから第二は寝室の隣室になっているロスコー氏の書斎の一隅に在る粗末な木製の本箱を、一人の刑事が何気なく取除いてみると、その向側の壁に塗込んである極めて旧式の小型金庫が発見された事であった。その金庫は無論日本製のものであったが、その金庫を発見した刑事が、何かしら胡乱臭いと思ったのであろう、持っていたマリイ夫人の鍵束でコジリ廻して、出鱈目にマリイという三字の片仮名の記号を引っかけてみると偶然の一発当りで開いた。その中の棚には一々薄紙に包んだ沢山の写真と、英文の美事な細字で認めた原稿様の西洋型罫紙の大部な綴込と、西洋式の刺青の道具を納めた大きな銀の箱とが重なり合っていたが、中にもその夥しい写真というのは全部、世界各国人の各階級を網羅したものらしい刺青の写真ばかりで、驚くべき事にはそれ等の刺青の中に、新聞や雑誌で紹介されている各国の貴顕、名士、スター級の映画女優の顔がチラリチラリと混っているばかりでなく、更に更に驚くべき事にはマリイ夫人その人の刺青、ロスコー氏自身、及、コック兼小使の東作の前身に相違ないと思われる若い西洋人と、日本人の顔と、その首から下に属する刺青とが各一枚|宛、美事な印画紙に焼付けられているのが発見された事であった。  その中でマリイ夫人の刺青の図柄は前述の通りであるが、ロスコー氏自身のものは精密な西洋古代の海戦の単色彫り。又、東作のは吉原の花魁道中の図で、これは又ロスコー氏の分と正反対に暈かし、色彫り、化粧彫りなぞいう、あらゆる刺青の秘技を発揮した豪華版が、そっくりその通りに水彩顔料で彩色されたものであった。  こうした数々の発見は、流石の事件に慣れた警官たちを少なからず面喰らわせた。  最初は金品の紛失が一つも発見されないところから、単なる痴情関係から起った事件ではないかという考えが、期せずして一同の頭に浮んでいたらしかったが、こうした途方もない発見が次から次に出て来ると、その単なる西洋婦人殺しの裏面に潜んでいる事情が、何かしら複雑を通り越した、恐ろしく怪奇な、むしろ神秘めいたものではないかという感じが、一同の頭を次第に動揺させ初めたのであった。  一方には倫陀療養院から召喚された東作爺が、ロスコー家裏手の日本屋自室で、厳重な取調を受けたのであったが、その申立の内容にも、相当に怪奇な分子が含まれていた。  東作の全身には、ロスコー氏の金庫の中から発見された写真と同様の刺青がたしかに存在していた。それはその撮影と彩色の技術が如何に巧妙な、且、優秀なものであるかを事実に証明しているものであったが、本人自身はその背負っている刺青の威勢のヨサにも似合わず、ただもう恐れ入った篤実そのもののような態度で、ビクリビクリと訊問に応ずるのであった。 「私は三十年ばかり前からコック兼、掃除男として御当家ロスコー様に御奉公申上ている者で御座います。お給金は毎月八十円を頂戴しまして、R市で玉突屋を致しております実の娘と、大学生の養子夫婦に毎月六十円ずつ分けてやりまして、残りの二十円を煙草代と酒代にしながら気楽な日を送っておりますような事で、貯金も只今は二千円余り御座いますので、死んだ後の事なぞチットモ心配致しておりませぬ。  只今のロスコー様の御夫婦仲はまことにお宜しいようで……ことにお二人の中でも奥様のマリイ様は見かけに寄らない気の強いお方で御座います。御主人が御心配なさるのを振切ってコンナ淋しい処に地面をお求めになって、御自分のお好みの通りの家をお建てになって、タッタ一人でお留守番をなさるのですからエライもので、雪の降る日や、雨風の日などは遠い郊外電車の停留場から歩いてお帰りになる御主人様が、却ってお気の毒でなりませぬ。そのような話を私から聞きました娘夫婦も驚いて感心しておりますような事で……又、御主人のロスコー様の方は万事にお気の小さい、優しい一方の御方で御座いますが……それよりほかには御二方の日常の御生活につきましては、詳しく存じも致しませぬし、申上る事も御座いませぬ。  昨夜はロスコーの若旦那様が私に「今夜はかなり遅くなる見込だから戸締を厳重にして早く寝なさい。表の玄関の合鍵は私が持って行くから裏口の締りだけ頼みます」といったようなお話で、そのままお出かけになりましたので、日が暮れると奥様にお夕飯を差上げましてから直ぐに、この部屋に引取りまして、久振りに手酌でユックリと一杯飲んで寝ました。  ところが年寄の癖で、夜中に小便に行きたくなりまして眼がさめますと、平生に似合わず頭が割れるように痛んでおりました。しかし白昼のようにいい月で御座いましたから、竹の皮の庭|草履を穿きまして、裏の松原に出て用を足しますと、夕方の飲残りの酒を持って松原を抜けまして、外海岸の岩山に登って、そこの草原で燗瓶の口から喇叭を吹きながら、銀のように打ち寄せて来る真夜中の大潮を見ておりまする中に、迎え酒が利きましたかして、又グッスリと眠ってしまったらしゅう御座います。そのうちに先刻の倫陀病院の代診さんに起されまして、ロスコー様が、海岸にブッ倒れて御座ったのを、タッタ今倫陀病院に担ぎ込んでいる。様子がおかしいから直ぐに介抱に来てくれと云われました時にはビックリ致しました。……いいえ。まったくで御座います。マリイ様がお亡くなりになりました事を聞きましたのは今が初めてで……何とも早や申上げようも御座いませぬ。いつも奥様から励まされ励まされしてヤット会社へお出かけになっておりました位気の弱いロスコー様が、あのようにお取乱しになるのも御尤もな事で……。  私は只今、夜露に打たれましたせいか、身体中が骨を引抜かれたようにカッタルう御座います。おまけに胸がムカ付いて眼がまわりますようで、口の中に腐った樟脳のような臭気が致しまして……コンナ気持は生れて初めてで御座います。そんな次第で御座いますから、マリイ様がお亡くなりになりました事に就いては、私は全く何も存じませんので……ヘイ。それよりもロスコーの若旦那様の眼付が、今朝から少し変テコで御座いますので、そればかり心配致しております。お話の通りで御座いますなら、やはり心からマリイ様のお亡くなりになった事を悲しんでおいでになるので御座いましょう。お一人で居ったら、何をなさるか解からない気が致しますが、大丈夫で御座いましょうか。ずっと前に香港でマリイ様との御婚約が破れそうになった時にも、ロスコー様はやはり、あんなようなヒステリーじみた御容態になられましたもので、私はこう申します中にも何となく、気になって気になってたまらないので御座います」  そんな事を繰返し繰返し云いながら東作は白髪頭をシッカリと抱え込んで考えている。そのほかロスコー家の過去に就いては何を尋ねても返事をしない。特に刺青に関係した事となると牡蠣のように口を噤んでしまう。刺青の写真を突付けられても、冷めたい眼でジロリと見たきり、頭を頑強に左右に振るばかりで、一言も洩らさない態度が、極度に野蛮な、反抗的なものに見える。……のみならずその昨夜というのは陰暦二十九日の暗夜で、月なんぞは出なかった筈なのに、白昼のような満月が光っていたというのが頗る怪訝しい。なるほど大潮には相違なかったが、測候所に問合わせる迄もない夜通しの曇空で、月どころか、星の影も見えなかった筈だが……と何度念を押しても東作爺は只ビックリした顔で、不思議そうに警官の顔を見まわすばかりである。しまいには頭が痛いせいか、面倒臭そうに眼を閉じて、 「それは旦那方が旧の暦日を御存じないからです。昨夜はたしかに旧の十五日に間違いなかったのです。たしかにマン丸いお月様が出ておりました」  と落付いて頑張る表情が如何にも真剣で、不思議であった。だから、とにかく現在のところでは東作が一番怪しい。とりあえずマリイ夫人殺しの嫌疑者として拘引してみようではないかという事に係官の意見が一致した。そうしてこの上は程遠からぬ倫陀病院に行って、直接ロスコー氏に就いて前後の事情を訊問して、何等かの手がかりを掴むよりほかに方法はないというので、係官の一行が、やがてロスコー家を引上げて出かけようとしているところへ、今まで倫陀病院でロスコー氏に附添っていた代診の弓削医学士が、白い服を着たまま息|堰き切って転がり込んで来た。その報告を聞いてみると又、一大事である。  最前からマリイマリイと連呼して泣きじゃくっていたロスコー氏が突然に静かになった。寝台の上に起直って両腕をシッカリと組んで動かなくなった。僅かな間に見違えるほど物凄く瘠せ衰えた顔に、両眼をジイッと据えて、窓の外の青空を凝視したまま黙りこくっているうちに、その眼の色が次第次第に物凄くなり、真夜中のようにギリリギリリと歯を噛鳴らし初め、突然、精神に異状を呈したらしく、そこいらに在る品物を取っては投げ……取っては投げするので、危なくて近寄れない。そのうちにタッタ今のこと、隙を窺ったロスコー氏は哀れにもポケットからピストルを取出し、自分の頭の顳※上部を射撃して自殺してしまった。今すこし早く精神異状者と認めて処置しなかった事を、院長初め非常に恐縮している……という話であった。  係官の一行は今更のように狼狽した。まだ息を切らしている弓削医学士と一所に現場に急行してみると、正に報告の通りで、裏庭の外海に面しているロスコー氏の病室内は、額縁や、薬瓶、植木鉢、泥、砂礫、草花、その他の器物や硝子の破片が、足の踏場もなく散乱している中に、脳漿が飛散り、碧い両眼を飛出さしたロスコー氏が、鮮血の網を引被ったまま穢れたピストルをシッカリと握って、寝台の上から真逆様に辷り落ちている光景は、マリイ夫人の死状にも増して凄惨な、恐怖的なものであった。  警察の捜査方針はここに於て五里霧中に彷徨する事となった。出ない月を見た東作の陳述だの、事件の全体に因縁深く蔽い被さっているらしい英文の刺青に関する書類や写真だの、その説明の鍵を握っていたであろうロスコー氏の突然発狂の自殺などいう事実なぞを重ね合わせて考えてみると、蒲生検事を初め係官一同のアタマが、いつの間にか実際的な着眼点を見失なって、探偵小説式な架空や想像、推理の渦巻の中にグングン捲込まれて行くのであった。全体に痴情事件らしく見えながら、半分は巧妙な窃盗犯の手口も加味されている。単なる他殺が単なる他殺でなく、単なる自殺が単なる自殺でない……といった風に考えなければ、大変な間違いに陥りそうな気がして来たので、流石に老練の蒲生検事もウッカリ断定が下せなくなった。類犯ばかりを標準にして判断を附けるのが習慣のようになっている刑事連中などは、ただもう面喰ってしまっていた。これは到底吾々の手に合う事件じゃない。毛唐人の気持なんか吾々にわからないんだから……などと逃腰になる者さえ居た。  以上の報告を司法主任の警部から詳細に亘って聴取したR市警察の山口老署長も、やはり判断に迷ってしまったのであった。  普通の場合だと検事に対する部下の不平なぞを聴いてやって、シッカリ頼む……とか何とか激励するだけで、差出た意見を附加えたり何かしないのが、温厚を以て聞こえた山口老署長の本分みたような習慣になっていたのが、今度という今度ばかりは例外になって来た。……というのは丁度その時に県庁の特高課が、ロスコー氏の自殺を重視している事がわかった。確かな理由は不明であるが、ロスコー氏の行動はズット以前から極秘密に特高課の監視を受けていたものらしく、その自殺を聞知した私服の特高課、外事課員が二人、山口署長に極秘密で面会し、事件の真相を聴取したいと申出た。その序に……ロスコー氏の奉職している石油会社の本社でもこのS岬事件を相当重視しているらしい。R市支社の重役で日本語の達者なドラン氏が本日、識合いの特高課長の処へ出頭して、ロスコー氏の死因は自殺か、他殺か。本国へ打電する必要があるから極く内々で説明してもらいたい。東京の本社から人事係長と海軍大尉上りの日本人重役の二名が本日午後の急行で東京を出発したという電報が来たから、その二名が到着しない前に真相が判明していないと自分の責任になる虞があるので是非説明して欲しい。さもなければ当市の裁判所の検事か警察署長に紹介してもらいたい……というので非常に鄭重な態度で哀訴歎願して来た……という事実を外事課員が洩らしたので俄然、事態が二重、三重の意味で緊張して来た。流石に着実温厚を以て聞こえた老署長も、これには少々狼狽させられた。さもなくとも正体の掴みにくい事件の真相を最大限二三日の中に片付けなければ、日本の警察の威信に関するのみならず、愚図愚図すると面倒な国際問題にまでも引っかかって行きそうな形勢になって来たので、ジッとしておれなくなった。  ところが幸いに最初からこのS岬事件に関係していた蒲生検事は、署長の同郷で、懇意な間柄だったので、そこに一道の活路が見出された。山口老署長は、やはりその夜の中に極秘密で蒲生検事に面会して色々と懇談を遂げた結果、とにかくその「刺青」なるものに就いて専門家の意見を聞いた上で、何とか方針をきめる事にしたら、どうであろう。いずれにしても、そんな奇怪な書類を中心にして、刺青をした人間ばかりが寄集まっている点が不思議といえば不思議である。しかも「刺青」の話に関する限り東作爺が頑として口を開かないところを見ると、そこに事件の秘密を解く鍵が隠れているのじゃないか……といったような事にアラカタ意見が一致したが、しかしR市のような比較的狭小な都市に刺青の研究家なぞいう者は居そうにない。むろん別にコレという程の心当りもないので、取敢えず、これも署長の小学時代の同窓として懇意なR大学の法医学教授、犬田博士を招いて、意見を聞いてみてはどうであろう……という事になった。  出張から帰ると間もなく、山口老署長から詳細の話を聞いた法医学教授犬田博士は、老境に及んで激務に従事している旧友の立場に、同情したものであった。 「それは丁度よいところへ来てくれて有難い。僕は今まで法医学研究の立場から、刺青に関する研究をやってみたいと考えているにはいた。刺青というものを各国別と、各職業別の双方の観点から研究して整理する事は非常に困難な、同時に貴重な仕事で、現に僕も独逸人と仏蘭西人の著書を一冊|宛持っているにはいるが、しかし君の話を聞いてみるとそのロスコー氏の研究こそは僕の理想に近いものではないかと考えられる。とにかくそのような熱心な刺青の研究家が、この附近に居る事は全く知らなかったのだから、是非とも同行してそのロスコー氏の遺物である刺青の研究書類を見せてもらいたいものだ」  というので即日、R警察署に出頭し、蒲生検事、市川予審判事、山口署長、特高課員、司法主任立会いの上で、R署に保管して在ったS岬事件の被害者マリイ夫人と、自殺者ロスコー氏の屍体に残っている刺青のブロマイド写真を見せてもらって、極めて念入りな比較研究を遂げた。次いで例のロスコー家の日本製の金庫の中から出て来た書類や、写真のそこ、ここを拡大鏡で精細に覗きまわり、最後に刺青の道具を容れた銀の箱を開き、片隅に詰めてある、小さなアルコールとコカインの中味を嗅ぎ比べ、または舐め、India Rubber と彫った小型の銀筥の中の青墨をコカインに溶いて手の甲に塗ってみるなぞ、相当時間をかけた熱心な調査の後に、胡麻塩頭をモジャモジャと掻きまわし、山羊鬚を撫で揃え、瘠せこけた身体に引っかけた羊羹色のフロックコートの襟をコスリ直した犬田博士は顔を真赤にして謙遜した。 「この程度の説明なら、私にも出来ますが……」  とニコニコ顔で近眼鏡を拭き拭き一同に向って咳払いをした。 「これはドウモ貴重な文献ですな。この書類は皆ロスコー氏の父君、M・A・ロスコー氏と、今度自殺されたというJ・P・ロスコー氏の合同の研究に係るもので、刺青の技術を主眼とした各国別と、各職業別になっておりまして、恐らくこの原稿が出版されましたならば世界有数の権威ある刺青の研究書になるであろうと信じます。  冒頭の序文に拠りますと、全体の約三分の二が父、M・A・ロスコー氏の蒐集写真と、その記述に係っており、後尾、約三分の一は子息、J・P・ロスコー氏の仕事という事になっております。各項の末尾に、それぞれ調査日附とロスコー父子もしくは特志な寄稿家の署名が添えてあります。  尚序文に拠りますと父、M・A・ロスコー氏は×国の化学者サア・ロスコー氏の近親で、有名な大政治家G卿と、その政敵のS卿の両氏から同時に信用されていた外交官だったそうです。そのM・A・ロスコー氏の足跡は西班牙、土耳古、智利、日本、等々々の一二等書記官どころを転々し、最後に支那、香港の領事として着任しているようですが、その間に自分の趣味として手の及ぶ限り刺青に関する写真や、文献を蒐集したもので、しかも自身に各地の刺青の技術者に就いて実地の研究を遂げ、結局、支那と日本の技術が世界的に、最優秀である旨を、一々的確な例証を挙げて記述しているのですから驚くべく真剣な研究と考えなければなりません。  ――一番最初に掲げて在る一枚は一八八六年に撮ったルーマニアの皇族フロリアニ伯爵とありますが、それから後に着手された調査が、今日まで約四十年の長日月に亘っておりまして、途中一九一九年に到って子息のJ・P・ロスコー氏が父の死により研究を引受けた旨が記載してあります。  ――問題の東作の刺青の写真は相当古いようです。日附は一九〇四年の四月になっておりますし、刺青の手法は全然日本式で、しかも徳川時代の遺法を墨守していた維新後二十年以内の図柄ですから、東作は兎にも角にも先代のロスコー氏を、よく知っている筈と思われます。  ――また息子のJ・P・ロスコー氏の屍体に残っている刺青は、左の二の腕に彫ってある分を除き、背部の全面がサラミス海戦の図になっておりまして、その古代船艦や、波濤や、空を飛ぶ神々の姿まで、非常に細かい線描になっているようですが、それがドコまでもムラのない黒の一色でボカシも何もない。その細い線の断続の工合から見ても明らかにコカインの使用法を知らない、外国でも旧式の手法に属するもので、事によると父、M・A・ロスコー氏が練習のために自身で施術してやったものではないかという想像が可能のようです。  ――それからその次に非常に面白い事があります。それは外でもありません。自殺したJ・P・ロスコー氏の左の二の腕に在る刺青と、マリイ夫人の全身のソレとは全然手法が一致している事です。もっとも図柄は全然違います。ロスコー氏の左腕のは、錨と、海蛇を組合わせた海員仲間にありふれた種類のものです。これに反してマリイ夫人のは優しい花や星なぞですが、いずれも局部を麻痺させるためにコカインを使用したものらしくロスコー氏の背部のソレよりもかなり濃厚、明確な線を用い、図形が近代画の手法で歪められておりまして、雲や星なぞ、後期印象派の匂いの高い曲線や不整直線を用いている点が共通しているところを見ますと、夫人の肉体に対する若いロスコー氏の変態恋愛、もしくはマリイ夫人のロスコー氏に対するマゾヒスムス傾向の両者が生み出した要求のあらわれではないか。その結果こうした若い西洋婦人としては稀有の施術が行われたものではないかという事実が推定されるように思います。要するにロスコー氏の左腕の刺青はマリイ夫人に施術する前に、ロスコー氏が試験的に、最近式のコカイン墨の使用法を研究してみた者ではなかったでしょうか。  尚、以上の事実を確かめるために、目下拘留中の東作老人に一度、面会させて頂く訳に行かないでしょうか。私が特別に自身で質問してみたい事がありますから」  蒲生検事、市川判事、山口署長以下、皆、こうした犬田博士の説明を聞いているうちに一旦、事件の表面を被うている不可思議な悪夢から呼醒まされて、更に又、今一度、一層恐ろしい悪夢の中に突落されたような気がしたという。そうして皆、今まで全く世に知られていなかった犬田博士の頭脳の偉大さを初めて知って、驚愕し且つ尊敬し初めたもので、この事件に限って犬田博士をモウすこし自由に活躍させてみたくなったという。  署長室に引っぱり出された東作爺は、もうかなりの高齢らしかった。しかし若い時分に相当の苦労をしたらしく、石油会社の印袢纏と股引に包まれた骨格はまだガッシリとしていて、全体に筋肉質ではあるが、栄養も普通人より良好らしく見えた。手錠をかけられたまま観念の眼を閉じて、犬田博士と正対した椅子に腰をかけさせられると、気力の慥かなスゴイ瞳をあげて、博士の顔をジロリと見ると又ヒッソリと瞼を閉じた。その豊富な角苅の銀髪とブラシのように生やしたゴリラ式の狭い前額と太い房々とした長生眉と、大きく一文字に閉じた唇を見ると、成る程これならば嫌疑の掛かるのも無理はないと考えられそうな野性的な、頑固一徹の性格をあらわしていた。  しかし犬田博士は平気であった。その東作爺のモノスゴイ視線を、博士一流の柔和な、親切そうな微笑でニッコリと受流しながら朝日を一本吸付けて一文字の口に啣えさしてやった。それから自分も一本火を点けて啣えながら、今一度ニッコリとして椅子を進めた。 「爺さん。御苦労だったね。お前に罪の無い事は僕が知っているよ。だから今となっては何もかも洗い泄い話した方がよくはないか。その方が娘さん夫婦のためになると思うがどうだね。ロスコー家の秘密を何もかも話してくれないかね。ロスコーさんは、あれから直ぐに自殺してしまったんだからね」  博士の言葉が終らないうちに東作老人が、口に啣えてスパスパ美味そうに吸っていた煙草をポロリと膝の間へ落した。ロスコー氏の自殺を知って、よほど驚いたらしく、顔色を見る見る青くして、顔面筋肉をビクビクと痙攣さした。シッカリ閉じた両眼から涙をハラハラと流してうなだれると、前よりも一層固く口を閉じてしまった。その態度を見ると犬田博士は、なおも一膝すすめた。 「なあ東作爺さん。ロスコー家は先代のお父さんからして非道い刺青キチガイであったが、今の若いロスコー君も、先代に一層輪をかけた刺青キチガイだったのだろう。それがいつの間にか奥さんのマリイさんに伝染してしまったが、お前は一切そんな事をロスコー夫婦に口止めされていたんだろう。お前はちょうど日露戦争頃に先代のロスコーさんと識合いになって、それ以来ずっと、ロスコー家に奉職していたんじゃないか。その先代にも、お前はやはり刺青の事を口止めされていたので、お前はロスコー家に居る限り、娘夫婦の幸福のために、ロスコー家の秘密を喋舌らない事にきめていたんじゃないか。まだまだ詳しい事がスッカリ調べが附いているんだから、隠したって無駄だよ。……お爺さん……」  東作老人はここまで云って来た博士の言葉のうちに太い溜息を一つした。司法主任から啣え直さしてもらった朝日を吸い吸い嗄れた、響の強い声でギスギスと話しだした。マン丸く開いた正直者一流の露骨な視線を、犬田博士の真正面に据えながら……。 「ヘエイ。かしこまりました。ロスコーの若旦那がお亡くなりになりましたのは、やっぱりまったくなんで……ヘエ……それなら致方ござりません。何もかも白状致します。ヘエイ……。  私はこう見えても江戸ッ児で御座りまして、本籍は神田の――町――番地という事になっております。あの辺で名高い八百久の料理番の子に生れまして、そのまんま若い時分から親の真似ごとをして八百久の大将に可愛がられておりましたもので……ヘイ。ところがでございます。人間てえものは腕がすこし出来て参りますと……どうも……そのヘヘヘ、ちっとばかり慢心致しまして、世話講釈の文句通りに飲む、打つ、買うの三道楽で、日本に居られなくなりましたので、一つ上海へ渡って、チャンチャンと毛唐の料理を習って一旗上げてやろうてんで、日清戦争のチョット前ぐらいで御座いましたか。上海へ渡るつもりで船へ乗りましたのが、間違って香港へ着いてしまいましたので……ヘエ。私が船を間違えたのか、船が私を間違えたのか、そこんところがハッキリ致しませぬが、とにかく香港へ下されちまいましたので弱りました。  ところが世の中てえものは妙なもので、何が仕合わせになるものかわかりません。その支那へ出立しがけに、先へ着いてからチャンコロと間違えられねえ用心にと思いまして、横浜の彫辰ってえ職人に頼んで、御覧の通り見っともねえ傷を身体中に附けてもらっておりましたが、そいつが香港で物を言いまして、いい加減な悪党と見られたもので御座いましょう。ちょっとした料理屋の下まわりに落付きましたような事で……ヘエ……。  ところが又、持って生れた因果とでも申しましょうか。チャン料理とバタ料理が手に附いて来てイクラか名前が知れるようになりますと、又もや前に申しましたような三道楽の虫がムクムクと動き初めましたもので……殊にアチラの道楽と申しますと御承知の通り日本のとは違ってアクの利き方が段違いなんで……とてもアクドイ無茶苦茶なものですから一たまりもありませぬ。間もなくモノスゴイ地獄みてえなインチキ賭博に引っかかってスッテンテンにされてしまいましたので、口惜し紛れにその賭場のテーブルの上に引っくり返ってくれました。そのインチキのネタを滅茶滅茶にバラしてくれましたが、何しろ多勢に無勢ですから敵いません。十何人の毛唐や、支那人を相手に大喧嘩を致しました揚句、半殺しにノサレたまんま、その賭場の地下室に投り込まれてしまいました。  ところが又、これこそ天の助けというもので御座いましょうか。変ったお方が在ればあるもので、兼ねてから刺青の研究のために姿を変えて、その賭場へ出入りして御座った香港領事のロスコーの大旦那が、大金を出して私の生命を買って下すって、お宅の料理番にして下すったもので……ヘエ。これが御縁というもので御座いましょうか。私もソレッキリ観念致しまして、一生涯このロスコーの大旦那様に御奉公をさして頂く覚悟をきめたもので御座います。もっともロスコーの大旦那は、横浜のホリ辰の仕事ぶりについて私に色々とお尋ねになったアトで、私の刺青の写真を撮っておしまいになると、お前にはもう用はない。出て行ってもいいってんで、日本へ帰る旅費まで下すったんだが、しかし、どうも一旦、思い込んだら動きの取れないのが私の性分で……私には今一つにはその頃五つか六つぐらいでしたろうか、そのお嬢さんのマリイさんて仰言るのがスッカリ私に狃染んでしまってトオトオトオトオってお離しにならないんで、どんなに泣いておいでになっても私が背中の黥を出してお眼にかけると直ぐにお泣き止みになる位なんで、ツイずるずるベッタリになりましたようなわけで……ヘイ。  自殺をなすった若旦那のロスコー様は御養子でげす。その頃、領事館のセクリタリとかいうものを遣っておいでになったゼームスさんてえ方で、C大学を出なすった学生さんだそうで、絵がお好きなところから、先代のロスコーさんに可愛がられなすって、刺青の写真の色附けを手伝っていなさるうちに、だんだんと刺青が面白くなって来たとかいうお話で御座いましたが、このゼームスさんに、お嬢さんのマリイさんがベタ惚れなんで、とうとうロスコーの大旦那が顔負けしちゃって、お二人の関係を御承知なすって、退っ引きならない先口をみんな断っておしまいになったというお話で御座いましたが……ところが旦那方の前でげすが、西洋人の惚れ方ってえものはヨッポド変梃でネ。可笑しゅうがすよ。惚れ合えば惚れ合って来る程キチガイじみて来るようで、お父さんがお亡くなりになってから若い御夫婦でコチラへお引越しになると、二アリがかりで色んな道具や材料を仕込んで来て、S岬のお屋敷にアンナ湯殿を作り上げて、何をなさるのかと思うと、おかしくって見ちゃいられませんでしたが、これも先代様への御恩返しのため、又一つには娘夫婦のためと思って、我慢して御奉公を致しておりましたような事で……ヘイ。  娘と申しますのは只今R市で玉突屋をやっております。今年二十五の香港生れで、親の口から申しますのも何で御座いますが、死んだ母親に似たシッカリ者で御座います。亭主と申しますのは娘より一つ年下で、今にS・L病院の医者になると申しましてR大学の四年生で勉強致しております。その養子の話によりますと、御存じか知りませんが、このS岬のマリイさんと申しますのは、愛蘭人のお袋さんの血を受けているので御座いましょう。このR市中の学生さん仲間では大評判の別嬪なんだそうで、大学生は申すまでもなく、生意気な中学生までが日曜になると、よく学校のボートを漕出して、このS岬へ着けてゾロゾロ見に参りましたもので御座いましたが、そのたんびに追払うのは私の役目で、中学生なんぞは丸で野良猫みたいにウルサイ奴等ばっかりで御座いました。どうかするとロスコーの若旦那と奥さんが差向いで御飯を喰べている窓|硝子を、カーテンの外からガタガタゆすぶる奴なんかが居りましたが、そんな時に腹を立てて真先に飛出すのは、若旦那でも私でも御座いません。いつもマリイ夫人なんで、それあトテモ気の強い方で御座いました。どうかするとキチガイみたいになってピストルを持出して、女だてらに海岸を逃げて行く学生に向ってブッ放した事もありましたが、その奥さんのピストルが又なかなかの名人らしゅう御座いましたよ。香港でよく射撃の会か何かに出かけなすって、大きな銀のカップを取って御座った事なんかある位でしたから相当お得意だったので御座いましょう。逃げて行く学生の足元を射って、砂を学生の頭から引っかけたり、浪打際に揺られているボートの梶の金具を射ち離したりなさるのには驚きました。学生たちもソンナ事で肝を潰したと見えてダンダン冷やかしに来なくなりましたが、そんな事のあるたんびに、ロスコーの若旦那は真蒼になって食卓にヘバリ付いてガタガタ震えて御座ったもので、丸で話がアベコベで御座いました。嘘言のようで御座いますがマッタクなんで……ヘイ。そんな調子で御座いますからロスコーの若旦那が自殺さっしゃったのは、タヨリにして御座った奥さんがなくなられたのを心から力落しなすったせいだろうと思いますが、飛んだ事になりまして……何もかも私がウッカリ致しておりましたために、取返しの附かぬ事になってしまいまして、先代のロスコー様に合わせる顔も御座いません。  ただ一つ不思議なのはあの晩が月夜だった事で御座います。あの時には旦那方から『月が出ている筈はない』とヒドクお叱りを受けましたが、それから後、この留置所へブチ込まれまして、窓の眼隠し越しの三日月様を見て、指を折ってみますと、たしかにあの晩は闇夜だった筈なんで……ところが又、あの晩に私があの松原の中で、松の葉越しにマン円いギラギラ光るお月様を見ました事も間違い御座いませんので、それが夢でない証拠には、私のような老人が、あの真暗闇の松原の中を何にも引っかからずに通り抜けて、あの危なっかしい岩山の絶頂に登って寝ていたので御座いますからね。飲みさしの燗瓶もそこにちゃんと立っていたのですから月あかりを便りにした事は間違いないと思いますので……こればっかりは不思議で不思議で仕様がないので御座います。  いいえ。どう致しまして。この年になるまで寝呆けた事なんか只の一度も御座んせん。寝言一つ他に聞かれた事が無えんで……不思議といったってコンナ不思議な事は御座んせん。それに翌る日のくたびれようと、頭の痛み加減が又いつもと変っておりましたようで、口の中の変テコな臭いと味わいが丸で大病をしたアトのようで、ここへ這入ってからも飯が咽喉へ通らない位で御座いました。ヘイ。二日酔の気持とは丸で別なんで……ヘイ。勿体ない大恩人のお子さん御夫婦を殺すなんて大それた事を何で致しましょう。ロスコーさんの御夫婦には相当の財産が在ったには違い御座んせぬが、それがどこにどうして在るのやら私とは関係も御座んせぬし、知りも致しませぬ。  私は今年七十一になりますが、そんな事をして娘や養子の一生涯に泥を塗るのが、どんなに馬鹿馬鹿しい、算盤に合わない話かわからないほど耄碌いたしてはおりませぬつもりなんで……ヘイ。どうぞ真平、御勘弁を……」  物語を終った東作爺が、煙草をモウ一本吸わしてもらって、熱いお茶を一杯御馳走になってから署長室を出て行くと、署長は心持赤面しいしい事件全体についての意見を、犬田博士に問うてみた。それにつれて列席していた判検事、特高課員、司法主任の連中も犬田博士の意見に対して敬意を払い初めたらしく眼を輝やかして固唾を呑んだ。  しかし犬田博士はこの時に、まだ多くを云わなかった。 「これは案外平凡な事件かも知れませんな。……とにかく御差支のない限り、御都合のいい日に、今一度現場を見せて頂けますまいか。今|些したしかめて見たい事もありますし、何か御参考になる事が見付かるかも知れませんから……」 「そうすると何か犯人に就ての御心当りでも……」  と横合いから司法主任が口を出した。熱心な司法主任は、犬田博士と東作の問答を傍観しているうちに、この事件に対する気分がスッカリ転換して、全然別の新しい観点から頭を働かせ初めたらしい。鋭い生々した瞳を輝かしていた。  しかし犬田博士は結論を急がなかった。思索を整理するかのように眼を閉じて頭を振った。 「いや。まだ判然しませぬ。ただこれは今の東作老人の初対面の印象を、医学上から来た一つの仮想を根拠として申上る事ですから、無条件でお取上になっては困るのですが、今の老人はドウモこの事件に関係はないようです」 「その仮想の根拠と仰言るのは……」  と司法主任が、すこし鋭く突込んだ。けれども犬田博士は依然として落着いていた。キチンと椅子に腰をかけたまま軽い、謎のような微笑を浮かべただけであった。 「東作が晦日の夜に見た満月です」  その翌日は二百十日前の曇天で、外海も内海も一続きのトロ凪ぎであった。  犬田博士、蒲生検事、市川判事、山口署長、司法主任、私服特高課員二名のほかに、逸早くこの事件を嗅付けて来た新聞記者一名を乗せた自動艇が、R市の埠頭を離れて、なだらかな内海の上をグングンとS岬へ接近して行った。因に前記の特高課員二名はこの事件に新聞記者を立入らせるのを非常に嫌っていたが、その記者を信用している犬田博士と山口老署長が新聞に一行も書かせない事を保証して、辛うじて同乗を承知させたものであった。一つにはその記者の感情を害すると、どこかで手酷しい報復をされる事を、一同が恐れているせいでもあったろう。  S岬に到着する迄に犬田博士は、S岬の地理と、ロスコー家の間取を、参謀本部の五万分の一の地図と、司法主任の見取図を参考にしながら、出来るだけ詳細に亘って聴取った。  犬田博士は運転手に頼んで自動艇をS岬の突端に在る、問題の岩山の根方に着けてもらって、一行をそこから上陸してもらった。それから自身は東作が浪を見ながら酒を飲んだという岩山の上の草原に立って、殆んど暗夜と変らない位に濃い、分厚い黒|硝子を張った飛行眼鏡をかけた。四方を注意深く見廻すと、自分一人で危なっかしい岩角を辿って水際まで降りて行った。それから腰を高くしたり低くしたりして、足場を探り探り岩山の周囲を探検するうちにヤット満足したらしく眼鏡を外して一行を手招きした。それから今一度、黒眼鏡をかけて、ゴロゴロ石ばかりの松原の中をスタスタと、ロスコー家の裏手に在る東作の居室まで来ると、扉の内側を念入りに調べていたが、又も満足したらしく軽いタメ息をして汗を拭いた。 「戸締りをした形跡がない。引っかけの輪金がボロボロに銹びている。東作は毎晩、戸締りをしないで寝ていたものですね」  司法主任がうなずいた。一同が犬田博士を取巻いた。 「この家からあの岩の岬まで真暗闇の中を歩いて来るのは決して困難じゃありませぬ。松の間のゴロ石の上を比較的広い隙間がズウット向うまで行抜けております。この黒眼鏡をかけて御覧なさい。これは僕が眼鏡屋に命じて作らせた新発明品で、夜中に起った事件を昼間調べる場合に応用しますと、かなり微妙な働きをするのです。ハハハ。イヤ。特許を受ける程の物でもありませぬが御覧なさい。肉眼ではちょっと見えませぬが、これを掛けるとわかります。あの岩山からこっちのゴロ石へかけて、心持ち白く光っている道筋が見えましょう。これは人間の通ったアトの僅かの磨滅の重なり合いがそう見えるので、平生誰も行かないこっちの便所の裏の松原には、そんなものが見えないでしょう。この磨滅は岩山の向うの岩だらけの波打際まで続いているので、こうした微妙な天光の反射作用は、昼間は却てわからない。闇黒が深ければ深いほどハッキリして来るものです。つまり東作老人はもとよりの事、ロスコー家の人々は昼間、夜間を問わず、何度となくあの岩山に登って、向うの波打際まで降りて行った事があるので、眼を閉むっても本能的なカンで通抜けられる位、慣れ切った道になっているのでしょう。東作老人は、それを忘れているものですから、真の闇夜にこの松原を抜けて、あの岩山に登るのは不可能だと信じ切ってアンナ事を云うのです。  こうした点を、よく注意して考えてみますと東作老人は、その事件当夜に麻酔をかけられていた者ではないかという疑いが可能になって来るようです。脳髄の機能をここで説明すると時間を取りますが、東作は相当の酒飲みなので、十分……十二分の麻酔をかけたつもりでも、半分ぐらいしか掛かっていない事が医学上あり得るのです。半醒半睡の時には、よく東作のようなハッキリした月や太陽を見たり、半自覚的な夢中|遊行を起したりする事があるのです。東作自身の翌朝の身神の疲労、倦怠、頭痛、口中や鼻腔の異臭、不快味なぞは皆、こうした推理を裏書きにしている事になりますので、結局するところ、東作の夢中遊行……晦日の闇夜に見たという満月や、銀色の大汐浪なぞいうものが、東作自身の現場不在証明になって来ると同時に、犯人の手口に関する有力な手がかりを証明していると思います。  ですから犯人は多分ロスコー氏の留守を狙っていたものでしょう。この部屋に酔って寝ている東作を麻酔させておいて、軒下の漆喰伝いに足袋でも穿いて玄関へまわれば、足音も聞えず、足跡も残りませぬ。万一|過ってマリイ夫人に騒がれるような事があってもタカが女一人……という犯人の心算ではなかったでしょうか。もっともこれはまだ、僕の臆測の範囲を出ていない話ですが……」  犬田博士の話の切目を待兼ねていた司法主任が、多少の興奮気味に佩剣の※を引寄せた。 「……そうすると……先生のその臆測では……その犯人は麻酔剤を使用し、万能鍵を持っている奴ですから……相当の奴ですね」  犬田博士は軽く手を振って笑った。 「ハハハ。イヤ。まだ部屋の中を見ないのですから結論を附けるには早過ぎます。目下のところ、確定しているのは東作が犯人でないことと、犯人らしい奴が麻酔薬の使用に狃れている事と、この二つだけです。しかしソンナ犯人が、この方面へ立廻わった形跡があるのですか」  司法主任はちょっと返事を躊躇して署長の顔を見た。署長は鷹揚にうなずいた。 「フウム。彼奴とするとチット立廻わり方が早過ぎるようじゃがなあ。この家の周囲や、出入りの模様を研究するだけでも一週間ぐらいかかる筈だが……彼奴だとすると……」 「ちょっと待って下さい」  犬田博士は透かさず手を揚げて制した。 「もうすこし犯人に関する証跡が上るまで待って下さい。最後まで研究してみて、その犯人にピッタリ来るかどうかが問題なのですから……指紋は一つも無いでしょう……どこにも……」  署長が無言のまま眼を丸くして犬田博士の顔を見た。同時に司法主任がハッと強直した。そうして二人とも小供のように犬田博士の顔を凝視したまま点頭いた。それは犯人が決定しかけている直前の緊張した、感激に満ち満ちた瞬間であった。  アトから聞いたところによると、この事件の終始を通じてこの時ぐらい署長と司法主任が度肝を抜かれた事はなかったという。もちろん犬田博士は、まだこの家の内部を一度も調べた事はなかったが、一番最初に署長の話を聞いた時から指紋が一つも残っていない事をアラカタ察していたので何気なくこう云ったものであったが、この時に署長と司法主任の警部の想像に浮かんでいた犯人の特徴の一つとして、手配されて来た書類の中に「如何なる場合にも指紋を残さず」という一項が特筆されていたので、その点不意討式にズバリと云い当た犬田博士の言葉に、二人とも殆んど神に近い敬意を感じたという。  続いて犬田博士は数人の専門家が鋭い眼を光らしている前で、犯人の侵入路と確認されている玄関の扉を調べたが、何も新しく得るところがなかったので、直ぐ横の寝室の扉の前まで来た。 「この扉には万能鍵を用いた形跡はありませんね」  予審判事と主任警部が同時にうなずいた。犬田博士もうなずいて微笑した。 「マリイ夫人はロスコー氏が持って出て行った玄関の鍵一つで安心して、この扉には鍵を掛けずに眠っていた訳ですね。マリイ夫人は、そうした点まで気が強かった……極端にいうと女らしくない程度にまで大胆不敵な男|優りであったとも考えられるようですが……どんなものでしょうか」  今度は予審判事と特高課の二人が同時にうなずいた。予審判事は静かに云った。 「夫人の寝台の下に在った鍵束には、この扉に合う鍵が二つ在りました。しかしロスコー氏の遺骸のポケットから発見された鍵束には、この扉の鍵が無かったのです」  そうした説明を聞いているうちに犬田博士は、その寝室の扉をピッタリと閉めて、鍵穴から内部を覗いてみた。そうして自分の跪いた膝小僧の正面に当る扉の青ペンキ塗の表面に見当をつけて、指紋検出用のアルミニューム粉末をしきりに撒りかけていたが、やがて犬田博士の膝よりももすこし下部に当る処から不等辺三角形に重なり合った、荒い皮膚の褶紋を発見すると、流石に嬉しかったと見えて、真赤に上気した額の汗を拭き拭き一同に指示した。 「この犯人は、やはり日本人ですね。日本人でない限り膝小僧を露出する犯人は居ない筈ですからね。しかしかなり背の低い奴と見えて、しゃがんでこの鍵穴を覗く拍子に、過ってコンナ処に膝小僧を押付けたのです。多分本人は無意識の中に忘れてしまっているだろうと思いますが……」  署長も太いため息をしいしい安心したように汗を拭いた。蒲生検事をかえりみて云った。 「これだからR市にも鑑識課を一つ置いてくれと僕がイツモ云っているんだよ」  一同がソレゾレに同感らしく首肯いた。  そのうちに犬田博士は寝室に這入った。屍体を除いた以外の情況は、その当時のままになっている寝台の上下左右を詳細に調べた後に、検事をかえりみて云った。 「その当時に使用した電燈のコードは、この寝台の下に転がっている豆スタンドのものでしたかね」  横合いから司法主任が引取って答えた。 「そうです。ここに持って来ております」  と云う中に自身に提げて来た中位の箱鞄の中から新聞包みのコードを取出した。 「そのコードの犯人が手で握った処の折れ曲りなぞもその時の通りですか」 「そうです。その点を特に注意して保存しておきましたが……」  犬田博士の顔に云い知れぬ満足の色が浮んだ。 「それはどうも結構でした。一寸拝見……」  と云う中に犬田博士は鄭重な手附でコードを受取ったが直ぐ司法主任を振返った。 「これは一巻き巻かっていたのですか」 「イヤ二巻です。御覧の通りマリイ夫人が吐出した血が三個所に附着しております。その血痕のピッタリ重なり合う処が、マリイ夫人の首の太さになっておりますわけで……」 「いかにも……成る程。してみると犯人はマリイ夫人が眠っている間にソッと二巻き捲いておいて、突然、絞殺に掛った訳ですね」 「そうです……ですから計画的な殺人と認めているのですが……」  犬田博士は調査を終った寝台の端に片足をかけて、足首の上の細い処へ、そのコードを二巻、捲付けた。犯人の力で折曲った処を、その通り掴んだままギューギューと絞めてみた。そうしてコードにコビリ付いている血痕の三個所の中心が、完全に重なり合う処まで来ると、緊張した表情のまま検事をかえりみた。 「……この犯人は、やはり小男ですね。このコードの折曲りを起点とした力の入れ工合を見ると、肩幅が普通人よりも狭いようです。東作老人もロスコー氏も肩幅が並外れて広いのですからね。ほかの西洋人は勿論のこと、日本人でもコンナに狭いのは先ず珍らしいでしょう」 「どうして麻酔剤を使わなかったでしょうか」  と蒲生検事が質問した。犬田博士は苦笑しいしい顔を掻いた。 「さあ。その点は私にもわかりませんがね。恐らくこの事件の中では一番デリケートなところでしょう」  それから犬田博士は寝台の上にかけて在った羽根布団をめくってシーツの表面に残る隈なく拡大鏡を当てがってみた後に、署長と、検事、判事、司法主任を招き寄せた。ズボンのポケットから洋服屋が使うチャコを抓み出して、四人の眼の前のシーツの上に大きな曲線を描き初めた。 「御覧なさい。ここがマリイ夫人の頸部に当る処です。口から腮へ伝わった血液がここに泌み付いております。それからこの黄色の斑紋は死後に放尿した処で、この二個所を基点として、死体の最後の位置を描いてみますと、コンナ形状位置になりましょう。つまり西洋婦人としては幾分小型ですが、日本の普通の男子よりもすこし大きい位の体格です……ね。  そうだったでしょう。  ところでこのマリイ夫人の臀部の向って右側のここに極めて淡い黄色の斑点があらわれております。これは事件直後には誰にも気附かれていなかったものが、この数日の中に空気に触れて変色、現象されたもので、マリイ夫人の或種の体液が、格闘の最中にどうかして犯人の露出した右の膝頭に触れたものが、この個所に力強く押付られていたのを、犯人も気付かずにいたものと考えられます。それからこっちの裾の方に在る二つの薄黒い斑紋は形状から見て、犯人の足袋の爪先に附着していたホコリの痕跡と思われますが、これも相当に力強くプレスされたために辛うじて残っているので、肉眼では殆んど見えませぬ。この右の膝頭と、爪先の寸法から目測してみますと、犯人が五尺あるかなしの小男である事がわかります。いずれ帰ってから本式に計算した書類を差出しますが……」  と説明しながら犬田博士はポケットから小さな巻尺を取出して、薄黄色と、薄黒の二つの斑紋間の距離を測定して手牒に記入した。  山口老署長は喜びに堪えないかのように額を輝やかしながら傍の司法主任の警部をかえりみた。 「ヤッパリ彼奴だね」 「そうです。間違いありません」  と警部も満足らしくうなずいた。 「指紋を一つも残しておりませぬので万一、彼奴じゃないかとも思っておりましたが……」 「ウムウム。しかし彼奴はコンナ無茶な事を決してせぬ奴じゃったが……それに物を一つも盗っておらんところが怪訝しいでナ」 「そうです。そのお蔭で捜査方針が全く立たなかったのです。イヤ、助かりましたよ」 「君等の方で東作老人を拘留してくれたんで、これだけの緒が解けて来た訳だね。東作が大|晦日の満月を見てくれないと、一番有力な手がかりになっている麻酔の一件が、まだ掴めないでいる訳だからね。ハハハ。イヤ。お手柄だったよ」  と蒲生検事が慰めた。真赤になった山口老署長が帽子を脱いで汗を拭いた。 「この膝小僧の褶紋を本人のと合せて御覧になったらイヨイヨのところがわかりましょう。指紋と同じ価値があるのですから」  司法主任の警部は検事、判事、署長と何事かヒソヒソと打合わせている中に、大急ぎでロスコー家を出て行った。それは時を移さず手配をするために、倫陀病院の電話を借りに行ったものであった。  しかし犬田博士の活躍はまだ終りを告げなかった。  それから犬田博士は二人の特高課員と協力してロスコー家の内外を隈なく捜索した。その結果、浴室の天井裏のタイルの裡面から重要な機密書類を、夥しく発見したそうであるが、その内容は窺い知る由もない。ただその後の調査によって、その時までロスコー家に掛けられていた国際スパイの嫌疑に関する主犯者は他ならぬマリイ夫人に相違ない事が確認されたという。すなわちマリイ夫人はその美貌と、刺青とを利用する親譲りの国際スパイであった。その背部に施してある刺青の中で、普通よりも引歪められている部分を、直線で連絡してみると一つの旧式要塞の図になっていて、星は望楼、花は砲台、雲は森林として配置されている事が判明した。同時に夫のロスコー氏はその従犯で、夫人の命令のまにまに与えられた地形図を図案化して刺青する技術師に過ぎなかった。又、雇男の東作は、そんな事を全然知らなかったらしく、ロスコー夫婦の常識を超越した変態恋愛遊戯に閉口させられながらも、先代以来の恩を思って一途に忠義立てをしていた者であった事がその後、数次の取調によってヤット了解された事を附記し得るのみである。そうしてそのような事実が、この事件の本質的な興味とは全然、無関係なものであった事も、冒頭に述べた通りである。  尚、犬田博士はこの時に、自分の研究の参考資料として、ロスコー家の刺青研究に関する書類を、事件に直接関係のない部分だけ貰い受けたいと申出たが、それは犯人の就縛後、一年半以上経過してから許可された。そうして惜しい事に、この間のR大学、法医学部の怪火事件の時に焼失してしまった事を併せて附記しておく。  犯人はやはり犬田博士の推測通りの、五尺一寸足らずの小男であった。S岬事件の起る二週間前に、相当遠距離に在る刑務所を出ると間もなく、各地を荒しまわったために、R市方面へも手配されていたマヤクの音という前科数犯で、家人に麻酔を呉れて、騒がれない用心をして金品を奪うのを専門にしている有名な兇賊であったが、S岬事件後、六個月程経って、R市から百|哩ばかり距たった大都市の遊廓で、古い狃染の女と遊興中、同市の敏腕な刑事に怪しまれて逮捕されたものであった。  その時の自白によると音吉は、R市の某|饂飩屋で天丼を喰っているうちに、嘗てマリイ夫人を見に行った事のある中学生連中の雑談から、S岬の地形や、ロスコー家の建築の概要、生活状態なぞを聞出し、究竟の稼ぎ場と考え付いた。それがちょうどあの土曜日の夕方だったので、その饂飩屋の電話室に這入って市内の石油ストーブ屋の名前を探し出して、その名前でロスコー氏の奉職している石油会社に電話をかけて給仕を呼出し「ロスコーさんに自宅でお眼にかかりたいが」と鎌をかけてみた。そうして「ロスコーさんは今夜はお宅へお帰りになりませんから、コチラへお出で下さい」という返事を聞くと、好機逸すべからずと思ったので、それ以外の事は全然無計画のまま、約二人分の麻酔薬を手に入れ、大胆にもR市の海岸に在る貸ボート屋の櫂を二本盗み出し、左右のクラッチの穴へ二本の手拭を通して櫂を結び付け、暗夜を便りにS岬の岩角に漕付け、中学生の話の通りに岩山を越えてロスコー家に忍び寄り、先ず電話線と呼鈴線を切断し、酔臥している東作を麻酔にかけ初めたが、案外麻酔が利かないのに驚いた。持って来たエーテルとクロロフォルムを最後の一滴まで使用してヤット目的を達したように思った。そこでアトはマカリ間違っても高の知れた女一匹という了簡で、勇敢に玄関の扉の鍵をコジ開けたものであった。  それから目的の書斎に忍び込むべく、寝室を通過する時に、天井からブラ下った仄暗い一|燭の電燈の光りでマリイ夫人の寝姿を見ると、フト妙な気持になったので、枕元の豆スタンドのコードを取外して絞殺にかかってみると、女と侮ったのが大間違いで、驚くべく猛烈な抵抗にぶっつかり、夢中になって格闘の結果、やっと目的を達したという。つまり「犯人は十分の研究を遂げた後に忍び込んだもの」という最初の推測だけが、見事に外れていた訳で、その他の部分はかなり精確に的中していた事になる。だから音吉は最初、知らぬ存ぜぬの一点張りで、極力、殺人の重罪を免れようと試みたものであったが、司法主任から現場に突付けられて、その犯行当時の手順から、心理状態なぞを順序正しく訊問されて、最後にシーツに刻印されているその長さと、電燈コードに残っている肩幅と、その膝頭の褶紋とを突合せられると、流石の音吉も汗ビッショリになって恐れ入ってしまった。 「そこまで御調べが届いていちゃ白を切っても間に合いませぬ。私の運の尽きで御座いましょう。女|毛唐を殺したのは私に相違御座いませぬ。今までシゴト以外には女なんか振向いた事もない私で御座いましたが、あの晩に限って魔がさしたので御座いましょう。……ドウモあの刺青がイケなかったようで……薄暗い電燈の下にハダカっている真白い、雪のようなお乳の横に、毒々しい真青な花ビラが浮上って、スヤスヤと寝息をしているもんですから、ツイ妙な気持になってしまいました。私の一生の縮尻で御座いました。女ってえものはヤッパリ魔者なんで……ヘヘヘ……。  何も盗らずに逃出しました理由は、ほかでも御座いませぬ。あの女毛唐を片付けてホッとしておりますうちに、波の音一つ聞こえない位シインとなっている硝子窓の外の暗の中で、微かに草履を引ずるような音がゾロゾロッと聞こえたのです。私は思わずハッと固くなってしまいました。生れて初めて人を殺しましたので気持がどうかなっていたので御座いましょう。何だか知りませんが恐ろしく周章ててしまいました。大急ぎで天井裏の親子電球を引っぱり消して、垂れていた窓掛をマクリ上げて、硝子窓にオデコを押付けて眼を定めておりますと、思いがけない一人の大きな人間の姿が、眼の前の白壁の前を横切って、小使部屋の入口の方へ参りましたが、その時にその人間がタッタ今、普通の人間の二倍ぐらい麻酔を噛ませて来た小使の白髪爺さんに相違ない事がわかりました時には、頭からゾーッと水を浴びせられたような気持になりました。しかもその白髪爺さんは、もう一度入口から出て来て、白壁の前を通抜けるのを見ますと、何だか白く光る刃物のようなものを……コンナ風に……逆手に持っているようで……そいつが真正面を見詰めたまま反り身になって、解けかかった帯をダラリと背後に引ずりながら、神主さんみたいな足取りで、スウスウと真暗な松原の中へ曲り込んで行くようです。それを見ますと私はイヨイヨ恐ろしくてたまらなくなりましたので、女毛唐の死骸をホッタラかしたまま、後退りをして玄関の外へ出ましたが、それから無我夢中であの岩山の上に駈登って、ボートの処へ降りようと致しますと、直ぐ近くの草原の中から不意に『ゴオリゴオリ』という鼾の音が聞こえました時には、流石の私も肝ッ玉が飛上りました。モウ少しで気絶するところで御座いました。直ぐに草の中に身を伏せて、闇に狃れた眼でよく見ますと、それはヤッパリ最前、麻酔させたばっかりの白髪頭の小使爺に相違御座いませぬ。逆手に持っていた刃物と見えたのは、白い瀬戸の燗瓶だった事までわかりましたが、もう引返すだけの勇気はありませんでした。それから一生懸命でボートを漕いで、海のマン中あたりまで来たと思ってホッとした時に、やっと髪毛がザワザワザワと逆立て、歯の根がガタガタいい初めたような事で……あの時のように恐ろしかった事は全く、生れて初めてで、あの仕事ばっかりは最初から終いまで、魔がさし通していたような気がします。  しかし私が、あの爺さんに麻酔をかけた事が、どうしてお解りになったのか、どうも不思議で御座います。この麻酔の一件さえわからなければ、滅多に私と星を刺される気づかいはないと思って、出来るだけの用心をしていたつもりで御座いましたが……散らかるといけませんから脱脂綿の代りに、あの爺さんの古手拭を使いましたし、爺さんの寝姿は酔払って寝ているとしか思えませんでしたし、薬瓶は二つとも途中の海の上で棄ててしまいましたし、アトから本人が思い出す気づかいは尚更ありませぬ筈なのに、まるで現場で見ておいでになったようなお話で……」  と眼をパチクリさせていたという。但、音吉がソレ程に巧妙な麻酔薬の使用法をどこで修得したか。如何なる手段で薬品を手に入れていたか……という事実は、遺憾ながら聞落した。当時のR署員は悉く転任してしまっているし、犬田博士も物故している今日、筆者としては再び探り出す便宜がないようである。  東作老人はまだ生きている。どこか単純な、愚鈍な性格を持っているらしく、九十幾歳の高齢でありながら、娘夫婦が諫めるのも聞かずに、R市の某病院の炊事夫をつとめている事が、この間、ちょっとした新聞記事に出ていた。  江戸川乱歩氏に「久作論」を頼んだから、私はそれに対する「乱歩論」を書けという註文が猟奇社から来ました。  私はとりあえずドキンとしましたが、あとから直ぐに「これは書けない」と思いました。  乱歩氏は私の未見の恩人の一人なのです。  乱歩氏はズット前に、私が生れて初めて書いた懸賞探偵小説を闇から闇に葬るべく、思う存分にコキ下されました。又、一昨年、私が或る老婦人の手記を中心にした創作を書いた時には口を極めて賞讃されました。もっとも後者はつまるところ、その手記を私に提供した老婦人の手柄になった訳ですけれども、いずれにしても縁もゆかりもない一素人の投稿作品を、あんなにまで徹底的に読んであんなにまで真剣に批判して下すった同氏の、芸術家としての譬えようのない、清い高い「熱」によって、私がどんなにまで鞭撻され、勇気付けられ、指導されたか……という事は、私自身にも想像が及ばないでいるのです。  そのような恩人の作品を公開的に批評する事が、どうして私に出来ましょう。  さもなくとも乱歩氏は当代、探偵小説界の大先輩で居られるのに、これに対する私は後進も後進……一介の愛読者に過ぎない程度の者です。そのような立場の者です。たとい頼まれたにしても公々然と名前を出して、大先輩と取り組み合うというような非常識な事が、どうして出来ましょう。世間の物笑いの種になる事が、わかり切っているではありませぬか。  そればかりではありません。元来、私は、中学を末席で出ただけの無学な者で、文壇の傾向とか、芸術の批判とかいうような理屈ばった事には頭を突込む資格のない……ただ色々なものを勝手に読んだり、書いたりするのが楽しみというだけの野生的な利己主義者らしいのです。批評の標準も持たなければ、説明の形式や術語もわからないのです。ですから他人の作品をドウ思っているにしても、それを筆にするという事は出来るだけ差し控えねばならぬ。結局、自分の恥を曝すに過ぎない……という事が、すぐに考えられるではありませんか。  しかも、そうした私の立場や、乱歩氏との関係を充分に承知していながら「乱歩論」を書けという猟奇社の注文は、とりも直さず文筆上の重刑でなくて何でしょう。……精神的な火渡り刑でなくて何でありましょう。  乱歩氏が「久作論」を書かれるのは何でもないにしても、私の方はナカナカそうは行きませぬ。「売名」「軽薄」「増長」の誹りを免れない事は明白で、猟奇社はつまるところ面白半分に、横綱とトリテキを組み合わせようとしているのじゃないか知らん……猟奇的な悪趣味から、私を引っぱり出そうと試みているのじゃないか知らん……というような一種の遠慮とヒガミを兼ねたような反撥感から、私はいつまでも返事を出さずにおいたのでした。猟奇の編輯者には相済まぬ事ながら、わざと黙殺を希望していたのでした。  ところが最近に猟奇社から再度の催促状を受け取って、ジット眺めておりますと、又、何となく気が変わって来ました。以上述べて来ましたような私の態度が、何となく卑怯なもののように感じられて来ました。先輩の機嫌を窺うと同時に、自分の世間的立場を傷けまいとするような当世思想に囚われていた私の考えが、アリアリと見え透いて来たように思いました。そうしてそれが云うに云われず不愉快になって来たのでした。  乱歩氏は全くの見ず知らずの私の作品に対して、何等の顧慮も気兼もなしに、一個人としての飽く迄も清い、高い好意を寄せられたのです。心から「シッカリ遣れ」と云って下すったのです。しかも、そうした乱歩氏の先輩らしくもない……大家らしくもない……ホントウの涙ぐましい御好意に対して、私は一度も赤裸々の私をお眼にかけた事がないのです。タッタ一度、自分の作品に対する同氏の批難を、取り繕い勝ちに承認した手紙を差出した記憶があるだけで、同氏の作品を公けに評した事なぞは神かけてないのです。  勿論これは恩誼ある先輩に対する気兼ねからでもあり、同時に自分の無学から来るヒケメからでもあったのですが、しかし他人は知らず江戸川乱歩氏のそうした恩誼に対して、私がそのような世間的の甲羅や着物を被むっているという事は、却っていけない事ではあるまいか。寧ろこれを機会に、そんなものをカナグリ棄てて、同氏に対する私のホントウの感想を、出来るだけ明白に披瀝したならば、それが私としてドンナニ不徳な、僭越な所業となるにせよ……又は、全然誰にも問題にされないにせよ……結局するところ、そうした先輩の高潔な恩誼に対するセメテモの感謝の表現になりはしまいか……否……そうした方法に従って、作り飾らぬ自己を先輩の前に投げ出す事が、こうした文筆上の恩誼に対する、唯一無上の正しい感謝のしかたではないかしらん……。  ……こう考え付きますと私は、急に勇気が出て来ました。そうして何でも構わない……猟奇社の計略にかかっても……逆上したと思われても構わないから、今まで思っていた通りの事を、遠慮なく書いてみようという気になりました。  或は、これは、私の腹の中に溜まっている乱歩氏の深い印象が、書きたい衝動となって現われたもので、私としては一種の軽挙と見るべきものかも知れませぬ。又、このような私的な考えから出た投稿をするという事は、本誌の読者に対しては勿論のこと、乱歩氏に対しても済まない事になりはしないか……というような事も考えられます。しかし、このような機会以外に、私が自由な「乱歩論」を書き得る場合は、将来、滅多に来ないような気がしましたから、一つは書かして頂く考えになったのです。同時に、おなじ書くにしても、当らず触らずの八百長式のものしか書けない位ならば、私は結局、駄目な人間だ……とも思いましたので、かように行きなり放題に筆を進める気になったのです。  前置きが大層長くなりましたが、これも私の「乱歩論」の重要な一部です。  どうぞ深く咎めずに読んで下さい。        ◇  私は、乱歩氏の作品の全部を通読している訳ではありませぬ、ただ好きなものを繰り返し繰り返し読んでいるだけで、発表された年代や順序なぞは、調べてみようと思った事もありませぬ。これは乱歩氏の作品に限らず、ほかの小説でも同様で、調べること嫌いの私は「猟奇」とか「探偵」とかいう名目すらも、ツイこの五六年前までは、赤の他人の名前と同様に、通りすがりに記憶しているくらいの事でした。  その後に私は、友達の処に在る雑誌の中で、偶然に乱歩氏の「心理試験」を読んだのですが、興味に釣られて一気に読まされたにも拘わらず、その内容に対しては、一種の失望を禁じ得ませんでした。 「日本人は直ぐに西洋人の真似をするのだナ」  と思いながら「エドガー、アラン、ポー」「エドガワ、ランポ」と心の中で繰り返して、何とも云えない物足りなさを感じた事を、今でもハッキリと記憶しています。  それから矢張り同氏の作にかかる「D坂の殺人」「二銭銅貨」なぞを、作者の力に引き付けられて次から次に読みは読みながら、構想や行文の苦心が一つ残らず西洋人の模倣に見えて仕様がありませんでしたので、巻を蔽うと同時に、二度と読む気がしなくなったものでした。そうして、 「江戸川乱歩は要するにエドガア、アラン、ポーに対するエドガワ、ランポに過ないのかナ」  なぞと思い思いした事でした。  ところが、私のこうした乱歩氏に対する失望感は、同氏の「白昼夢」を読むと同時に、あとかたもなく引っくり返ってしまったのでした。  それは古本屋の店頭にゴミクタのように投げ出されてあった、表紙も奥もないボロボロの数十頁でしたが、その中に「江戸川乱歩」の署名がありましたので、私は又かと思いました。そうして読むともなく読んで行きますと、今度は「チョットいいなあ」と思いましたので、その汚ない数十頁を、たしか二銭か三銭ばかりで買いました。  それから山の中の一軒屋の寝床の中に落ち付いて、今一度繰り返して読んでみたのですが、そのうちに、私はスッカリ昂奮させられて、眠られなくなってしまいました。  私はズット前に或る処で、改葬に立ち会った事がありますが、その時に出て来た屍体の白い腐肉、褐色の血? 死水に浮く脂肪? のかがやき、太陽の黄色い臭気なぞ……それは今思い出してもウンザリして唾を吐きたくなる位ですが、そうした太陽の下のタマラナイ感じの数々を、私はソックリそのまま「白昼夢」の中に発見したのです。しかも、私にとっては一カタマリの不快感に過ぎないそのような印象を乱歩氏は細かに、やわらかに分解し、象徴化し、詩化し、小説化し得る人である事を、私はふるえ上るほど、うなずかせられたのです。  ……白昼の人通りの中で、天日に顔を晒しながら、ダラシなく涙を流す中年男……うす暗いところで開け放しにされている水道の栓……ドラッグの人形の奇妙な形と光り……その中に交った生ぶ毛だらけの実物標本……そのようなものが力なくつながり合い、重なり合いながら描き出す白昼夢の交響楽……事実以上のこころの真実……虚偽以上の自然の虚偽……その純な、日本風な、ヤルセのない魅力に、私はスッカリ強直させられてしまいました。  ……日本でもコンナ小説が生み出され得るのか……この種の小説で純日本式の気分を取り扱ったものとしては谷崎潤一郎のものを読んだ記憶があるだけであるが、これは又、全然、別世界を作った純真、純美なものではないか……と思うと、感激とも感謝とも形容の出来ない、タマラナイ読後感に囚われて、眼を大きく大きく見開きながら、いつまでもいつまでも同じクラ闇を凝視させられた事でした。  私は、こうして初めて乱歩氏の偉大さを知ったのでした。硝子窓が深夜にワナワナとふるえるようなポーのペンに対して、眼の球が白昼にトロトロと流れ落ちるような乱歩氏の筆が対立している事を初めて知ったのでした。  ポーが地上に残したモノスゴイ薬品のにおいに対して、乱歩氏が生み出すオドロオドロしい黒砂糖の風味が存在している事を、生れて初めて教えられたのでした。  私はソレ以来、江戸川乱歩というペンネームの安っぽさを、忘れてしまったのでした。そうして、それと同時に……かどうかわかりませんが……日本人のこうした種類の作品を、いつの間にか軽蔑しないようになっていたのでした。  大変に失礼な引例のしかたですが、正直のところ、小酒井不木氏の「恋愛曲線」を読んで、乱歩氏とは違った感じの「美の戦慄……戦慄の美」が日本にもう一つ存在する事を知ったのは、たしかに、それから後の事でした。甲賀三郎氏の「従弟の死」を読んで、純日本式の「良心の遊戯のモノスゴサ」がズンズン開拓されつつある事を知ったのも、それから後の事でした。羽志主水氏の「監獄部屋」に両手を握り合わせ、城昌幸氏の「神ぞ知ろし召す」に襟を正し、渡辺温氏の「可愛相な姉」に素敵を叫けび、小舟勝二氏の「或る百貨店員の話」に頭を下げ得るアタマになる事が出来ましたのも、やはり、それ以来の事に相違ないと思われるのです。  そうしてソレ以来、私は乱歩氏の幾多の作品を読んで、或はその脚色に失望し、又はその作風の執拗さに幾度となく反感をそそられながらも、その全体を通じての、氏、独特の筆力と、持ち味の魅力に引きずられながら、ある時は、その一と息の長さに「トテモ敵わぬ」と歎息させられたり、又は「成る程、そんな方向からも見られるものかナア」と首肯させられたりしつつ「やはり、こんなものは乱歩氏でなくては……」と時折りに思い思い今日に到ったものでした。 「陰獣」では、その読者を引っかけて、引きずり込んで行く、新らしい蜘蛛の糸のような底深い筆のネバリと、飜弄自在なトリックに恐れ入りつつ、その脚色の末尾のドンデン返しの一節に到って「牛鍋」の中から「牛の毛」を発見させられた程度の残念さを、シミジミ味わせられた事でした。 「人間椅子」では、あの主人公の性格をもう一息、突込んで脚色してもらいたいと思いながらも、椅子というものの不可思議な感じを、あそこまでエグリ付けられた氏の大手腕に、羨ましいまで感心させられてしまいました。 「赤い部屋」では、その前置きの材料を集められたハタラキと、その配列と、トリック、脚色を、あそこまで洗練し、有機化しつつ、最後に茶化してしまわれた大器量に対して、思わず「満点」を叫ばせられました。 「踊る一寸法師」では、その材料のステキサと、ノロノロと推移するリズムの詩的?なモノスゴサに、それらの出来事のワザトラシサをハッキリと気付きながらも、喜んで魅惑されて行きました。 「屋根裏の散歩者」では、おしまいにあのキザな、あらずもがなの素人探偵が出て来て、下らなく威張り散らしたために、スッカリ打ち壊されたように思いましたが、しかし、殺人行為までの前半の興味は、私をかなり夢中にしてしまいました。その中でも、被害者が毒を飲まされてから息を引き取る迄の手みじかな、平気な描写は、描写ではない真実の光景として、覗いている節穴の形と一所に、今でも私の眼に滲みついております。  これに反して「パノラマ島奇譚」では、ほとんど初めからおしまいまでスッカリ失望させられてしまいました。前半の作者の苦心や、後半の作者の気持ちよさが、どこまでもアクドク受け取られただけで、私としての収穫は、コンクリートの柱から引き出された女の髪の毛一本だけと云ってもよいのでした。  けれども最近に「蟲」を読みました時には、乱歩氏の頭脳のスゴサに徹底的にハネ飛ばされてしまった感じがしました。  もっとも「蟲」の主人公が殺人を遂行する迄の筋道は何となく冗長なようで、あまり感心しませんでした。しかもその冗長さは、乱歩氏独特の気味のわるいネバリを持ったものでなくて、幾分固くるしいような感じのものでした。  それから今一つその終末に、主人公が屍体に爪と頭を打ち込むところで、何となく「余計な真似」というような感じがしました。これが乱歩氏の特徴で、同時に弱点に相違ない。「悪夢」の結末ではこうした頭の余力?が全体を悪夢として裏書きすべく、スバラシク成功しているが、「蟲」や「陰獣」では却って失敗に帰している。これは多くの作者に共通した迷いの種かも知れぬが……又読者の好みや、玩味の程度にも依る事であろうが……と思いました。  ……とはいえあの「蟲」の主人公が、女優の屍体を土蔵の中からトウトウ取り出し得ずに、変テコになってヘタバッてしまう迄の極度にあられもない気分の変幻を、あんなに平気で扱い去った筆力の凄まじさには「鬼か人か」と叫びたいくらい、参いらせられてしまいました。私の寡読のせいかも知れませぬが、あのような描写を見せられた事は、今までに一度もなかった事を、私は躊躇せずにお答えする事が出来ます。  まだこの外にも乱歩氏の作品は色々読んでおります。評させて頂きたい事も山々ありますが、一々こんな風に書いて行くと大変ですから略させて頂きます。  以上……私は自分勝手な理由の下に、あまりにも大胆に、乱歩氏を冒涜して来ました。全く未見の先輩、且つ恩人である乱歩氏に対する私の、私的な感じを、あまりにも無遠慮に述べ立ててしまいました。  これが「猟奇」の読書諸賢に対して、どのような感じをあたえるか……そうして、それがどのような天罰、もしくは人罰となって報いられて来るか……というような事を、私は出来るだけ考えずに書いて来ました。或はこれは人知れず、心の中で思うべき種類の感想で、徳義上、社交上、発表を許されない程度のものかも知れない……と思いましたが、文壇の儀礼を体験した事のない私は、そんな事も問題にしまいと思って……眼をつぶって……自分の一切を棚に上げて……手加減なしにグングン書いて来ました。  これだけ書くために、精神的な意味で生命がけの思いをしている事をお察し願って、すべてを許して頂けますれば、私の面目これに過ぐるものはありませぬ。  五郎君はお菓子が好きでしようがありませんでした。御飯も何もたべずにお菓子ばかりたべているので、お父様やお母様は大層心配をして、どうかしてお菓子を食べさせぬようにしたいというので、ある日、家中にお菓子を一つも無いようにして、砂糖までもどこかへ隠して、いくら五郎さんが泣いてもお菓子を遣らない事にしました。  五郎さんは死ぬ程泣いてお菓子を欲しがりましたが、お父様もお母様も只お叱りになるばかり……とうとう五郎さんはすっかり怒って、御飯もたべずに寝てしまいました。  翌る日、学校はお休みでしたが、五郎さんは矢張り怒って、朝御飯になっても起きずに寝ておりました。  お父様もお母様も懲しめのためにわざと御飯を片づけてしまって、お父様はどこかへ御用足しにお出かけになり、お母さんも一寸買物にお出かけになりました。  あとにたった一人、五郎さんは、 「ああお腹が空いた。お菓子が欲しいなあ」  と思いながら、涙をこぼしてジッと寝ておりました。  すると玄関の方で、 「郵便……」  と大きな声がして、何かドタリと投げ出される音がしました。五郎さんは思わず大きな声で、 「ハイ」  と言って飛び起きて駈け出しますと、それは四角い油紙で、何だかお菓子箱のようです。しかもその表には「五郎殿へ」と書いて、裏には兄さん夫婦の名前が書いてありました。  五郎さんは夢中になって硯箱の抽出から印を出して、郵便屋さんに押してもらって、小包を受け取りました。鼻を当て嗅いでみると、中から甘い甘いにおいがしました。  五郎さんはもう夢中になって、鋏を持って来て小包を切り開いて見ると、それは思った通りお菓子で、しかも西洋のでした。……ドロップ、ミンツ、キャラメル、チョコレート、ウエファース、ワッフル、ドーナツ、スポンジ、ローリング、ボンボン、そのほかいろいろ、ある事ある事……。  それから食べたにもたべたにも、一箱ペロリと食べてしまった五郎さんは、空箱と包み紙や紐を裏の掃きだめに棄てに行って、帰りがけに台所へ行ってお茶をガブガブ飲むと、そのまま何喰わぬ顔で蒲団にもぐり込んでしまいました。 「アラ、五郎さんはまだ寝ているよ。何て強情な児でしょう。よしよし、今にきっとお腹が空いておきて来るだろうから」  とお母様は独り言を云って、台所の方へお出でになりました。五郎さんは可笑しくて堪らず、蒲団の中でクスクス笑いましたが、そのうちにうとうと睡ってしまいました。  するとやがて何だか恐ろしく苦しくなって来ましたので、どうしたのかと眼を開いて見ますと、いつ日が暮れたのか、あたりは真暗になっていて何も見えません。その中に最前喰べたお菓子連中が、めいめい赤や青や紫や黄色や又は金銀の着物を着て、男や女の役者姿になって大勢|居並んでいるのがはっきりと見えました。 「こんなに大勢、一時にお菓子たちがお腹の中で揃った事は無いわねえ」  とお嬢さん姿のキャラメルが云いました。 「そうだ、そうだ。それに五郎さんの胃袋は大変に大きいから愉快だ」  と道化役者のドロップが云いました。黒ん坊のチョコレートは立ち上って、 「一つお祝いにダンスをやろうではないか」  と云うと、ウエファース嬢が、 「それがいい、それがいい」 「万歳万歳、賛成賛成」  と皆が総立ちになって手を挙げました。すると忽ち五郎さんのお腹がキリキリと痛くなりましたので、思わず、 「苦しい苦しい」  と叫びました。 「あれ、苦しいと言っててよ」  とドロップ嬢が心配そうに云いますと、兎の姿をしたワッフルが笑って、 「アハハハハ、自分が悪いのだから仕方がない。まあ暫く辛抱してもらうさ。さあさあ、踊ったり踊ったり」  と云ううちに、もう踊り初めました。  ボンボンが太鼓をたたく。ローリングがピアノを弾く。ウエファース嬢が歌い出す。それにつれて五色の着物を着た小人のミンツ達を先に立てて、キャラメル嬢をまん中にワッフルの兎、ドロップの道化役者、チョコレートの黒ん坊、ドーナツの大男、そのほかいろいろのお菓子達が行列を立てて行くあとから、スポンジ嬢が手鼓をたたきながらついて行きます。  こうして沢山のお菓子たちがみんな一所に輪を作ると、一二三というかけ声ともろ共に一時に踊り出しました。 「プーカプーカ、チョコレート  プーカプーカ、ローリング  ミンツ、ワッフル、キャラメル、ウエファース  ドーナツ、スポンジ、ボンボンボン  太鼓の響はボンボンボン  ピアノのひびきがローリング  ウエファースと歌い出す  ドロップドロップ踊り出す  ワッフルワッフルはやし立て  キャラメルキャラメル笑い出す  足どりおかしくチョコレート  スポンジスポンジ飛び上る  そこで五郎さんのポンポンが  ミンツミンツ痛み出す」  五郎さんはもう死ぬ位苦しくなって、 「苦しい苦しい、堪忍して頂戴。助けて助けて、お父様! お母様」  と叫びました。 「まあ、どうしたの五郎さん。大層うなされて」  とお母さんにゆり起されて、五郎さんはフッと眼を開くと、まだおひる過ぎでうちの中はあかるいのでした。 「お母さん、僕のお腹の中でお菓子が踊っている。ああ、苦しい苦しい。堪忍して頂戴、もう決してお菓子を食べませんから。アー、イタイ、イタイ。お母さん、助けて助けて」  と、五郎さんは汗をビッショリ掻いて、のた打ちまわりました。  お母様は驚いて、お医者を呼びにお出でになりましたが、いろいろわけを尋ねて、やっとお菓子の喰べすぎだという事がわかりますと、お医者はこわい顔をして、 「これから決してお菓子を喰べてはいけませんよ」  と云って、苦い苦いお薬を置いておいでになりました。  それから五郎さんは、病気が治ってからも決してお菓子を欲しがりませんでした。  泥棒がケチンボの家へ入ってピストルを見せて、お金を出せと言いました。ケチンボは、 「ただお金を出すのはいやだ。その短銃を売ってくれるなら千円で買おう。お前は私からお金さえ貰えばそんなピストルは要らないだろう」  泥棒は考えておりましたが、とうとうそのピストルを千円でケチンボに売りました。ケチンボは泥棒からピストルを受け取ると、すぐにも泥棒を撃ちそうにしながら、 「さあ、そのお金ばかりでない、ほかで盗んだお金もみんな出せ。出さないと殺してしまうぞ」  と怒鳴りました。  泥棒は腹を抱えて笑いました。 「アハハ。そのピストルはオモチャのピストルで、撃っても弾丸が出ないのだよ」  と言ううちに表へ逃げ出しました。ケチンボはピストルを投げ出して泥棒を追っかけて、往来で取っ組み合いを始めましたが、やがて通りかかったおまわりさんが二人を押えて警察へ連れて行きました。  警察でいろいろ調べてみますと、泥棒が貰った千円のお金はみんな贋物のお金で、ピストルはやっぱり本物のピストルでした。  二人共牢屋へ入れられました。  あるところに一人のオクサマがありました。  その奥様は次のような場合に、キット御主人に喰ってかかられました。胸倉を取って小突きまわされました。「もう出て行く」と紋切型を云われました。引っくり返って足をバタバタされました……かも知れませんでした。  ……御主人のお帰りが晩い時……  ……御主人の身体か、持物か、お召物のどこかが酒臭い時……  ……会社に電話をかけて、出張が嘘だとわかった時……  ……料理屋の勘定書が袂や紙屑籠から出て来た時……  ……女の手紙か、又は、女の手らしい男名前の手紙が来た時……  ……近所の行きつけの床屋で髪を苅られなかった時……  ……会社の近くのタクシーで帰られなかった時……  ……どこかに女の髪毛がくっついていた場合……  ……御主人の着物に、新しい、違った畳み目が付いていたとき……  ……御主人が忘れ物を発見しながら、強いて探そうとされなかった時……  ……お帰りになると、すぐに御主人がグーグーとお寝みになった時……  ……違った香水のにおいがする時……  ……鼻紙やハンカチがお出かけの時のと違っていた場合……  ……履物にキレイな砂がついていた場合……エトセトラ……エトセトラ……  ところが或る時のこと、オクサマがお友達の若い未亡人を訪問されました序に、この話をされまして「主人はイクラ打っても小突いても平気なのですよ。まるで良心のない人間みたようにニコニコしているもんですから、あたしは、なおの事腹が立って腹が立って……」とサンザンに泣いて訴えられますと、未亡人はつつましやかに溜め息を洩らしながらコンナ忠告をされました。 「それは貴女が男の方の気持ちをまだホントウに御存じないからですよ。お話の通りならば、あなたの御主人様は、まだ一度も茶屋遊びをなすった事がおありにならないのですよ。ただ貴女からの小突かれあんばいが、何ともいえずよくてよくてたまらないでおいでになるので、わざと手をかえ品をかえて、そんな風を装って、あなたを挑発しておいでになるのですよ。ですから、あなたはソンナ意味でやっぱり御主人に欺されておいでになるのですよ」  オクサマは開いた口が塞がりませんでした。そうして一層ヒス気分を高潮させながら、 「人を馬鹿にしている。そんなら主人に思い知らせてやる。相手をなくして困らせてやる。そうして今までのカタキを取ってやる」  と仰言って、未亡人が止められるのも聞かずに無理やりに離婚の手続きをしてしまわれました。  前の御主人が、その忠告をされた未亡人と正式に結婚をされましたのは、それから間もなくの事でした。それを御覧になった前の奥様はフンガイされまいことか、土けむりを蹴立てて怒鳴り込まれましたが、もはやアト、ノ、マツリでした。シッカリ者の未亡人に何の苦もなく撃退されてしまいました。  前の御主人と未亡人とはズット前から方々で出会っておられた……そうしてその証跡をかくすために御主人は待合に泊ったように見せかけておられた……しかも、それは未亡人の入れ智恵であった……という事が判明したのも、やはり、それから間もなくの事でした。        ◇  あるところに一人のマダムが居られました。  そのマダムは、その御主人と共々に、社交界でも飛び切りにリファインされた、押しも押されもせぬカプルと評価づけられておりましたが、それだけにその御主人が隠れ遊びをされる方法とても、実にリファインされたものでした。無二の親友と称する人々でも、そんな事実を知らなかった位で、如何なる名探偵でも、その証拠を指摘するのは困難であろうと思われるくらいでした。  ところが、そのマダムばかりは、いつも、たやすくその事実を看破しておられました。  マダムは新聞や雑誌をよく読んで、時代に対するアラユル理解力を奮っておられました。そうして現代がスピードとエロの時代である事を、飲み込み過ぎるほど、のみこんでおられました。  ……遊廓や待合や、又は御神燈なぞいうものは、もはや明治大正時代の遺物となりかけている……  ……バーや、カフェーや、パーラー、レストランなんぞは勿論のこと、クラブ、ホール、ホテル、なんども申すまでもない事、そのほかの思いもかけぬまじめな商売の名の下に、エロ業者は堂々と、白昼の街頭に進出している……  ……同時に個人としては、外交員、勧誘員、施術師、写真師、画家、筆耕、家政婦、派出婦、看護婦、なんぞの怪しげな名刺や印刷物、もしくは本物のタイプライターや爪鑢なぞを提げて、官庁や会社は勿論のこと、普通の家庭にまでも侵入している……  ……スピード的エロ業振りのアラユル尖端を、一九三〇式に磨き立てている……  ……だから現代の頭のいい……たとえばマダムの御主人のような男性は、百のアリバイでも同時に作る事が出来る……  ……たとえば会社へ、主人の出張先を問い合わせても「よくわかりません」という快濶な給仕の返事しか聞かれない……  ……よしんば、うちの自動車の運転手にきいても何にもならない。主人の行先を洩らさない事が運転手のたしなみの第一ぐらいの事はトックの昔から心得ているにきまっている……  ……つまり現代のエロ機関の精鋭さは、現代の男女性全体の頭のヨサを超越して行きつつある……日に日にシカゴ化し……巴里化しつつある……  という事をマダムはハッキリと感じておられました。  ですからマダムは昔風の指紋や足跡式の探偵を応用して、主人のポケットや袂を探るようなヤボな手段を決して採られませんでした。そうして最もあたらしい……恐らく未来の探偵界を支配するであろうところの心理的な探偵方法……所謂第三等の訊問法以上に合理的な、且つ高等な訊問方法を用いて、御主人の隠れ遊びの有無を一々的確に探知されるのでした。  すなわちマダムは、もっとも優れたる心理表現の観察者たるべく、その基礎的練習をはじめられました。  ところで、すべての場合に於て、探偵が嫌疑者もしくは犯人に対して或る感情を持つ……憎んだり、同情をしたりするという事が、その観察や判断をあやまつ根本原因となるであろう事は申すまでもありません。一般の御婦人方は何よりも先にこの意味において、その御良人の性行の公明なる審判者たる資格を喪失しておられるので、そのために、いつも、正義と純愛の高潮さるべき場面を、犬も喰わない水掛論や、猫まで逃げ出す家庭争議の場面と化して行かれつつある事はまことに是非もない次第と申上ぐべきでありましょう。  この辺の機微に通じておられましたマダムは、ですからまず御主人に惚れる事を中止されました。つまり御主人にどのように親切にされてもポーッとならず、ドンナに御機嫌を取られてもスッカリ嬉しがらない稽古をされました。これはマダムにとっては最も困難なお稽古と考えられておりましたが、それでもとうとう一生懸命で成功されました。いつもスマアして、ニコニコした、しなやかな心で御主人を迎えられるようになりました。  ところでマダムの御主人は、いつも夕方の五時ごろにお帰りになるのでしたが、出迎えられたマダムは、いつも待合の仲居か、ホテルのボーイのように無感激に……しかも上品にスラスラと御主人の身のまわりのお世話をされました。そうして御主人からのお尋ねがないかぎり、クダクダしい家事向きの事なぞはコレンバカリも話されずに、やはりニコニコしながら夕飯の御膳にさし向われるのでした。  その間にはタッタ一つの技巧しかありませんでした。  ……スマアしてニコニコしている……という無技巧の技巧……  マダムはうしろ暗いところがないだけに、この無技巧の技巧を、御主人よりもイクラか楽につとめられるのでした。  しかもそこが又タッタ一つのマダムのつけ目なのでした。  御主人はもとより、心にうしろ暗いところのある時に限って、特別に御自身一流の無技巧の技巧を装うてお帰りになるのでしたが、それでもマダムの無技巧の技巧に対しては、いつもチョットの違いで勝ち目を譲られるのでした。  ……ハテナ……感付いているのかしらん……いないのかしらん……  と考えられるだけでも御主人は著しい引け目を感じられるのでした。そうして、その引け目を蔽いかくすべく、御主人は色々な技巧を弄されるのでしたが、弄すれば弄するほど技巧が技巧らしく見え透いて来そうになる事を、御主人はオツムがクリヤなだけそれだけクリヤに感じられるのでした。しかも御主人としては、それを是非とも蔽いかくさねばならぬ立場になっておられるだけ、それだけにイヨイヨ技巧の破綻をあらわされることになるのでした。  ……時々、他家へ行ったような気持ちになって、鼻の頭を撫でたくなったり……  ……妙なところで咳払いが出かかったり……  ……留守中の出来事を尋ねられる言葉づかいや声の調子が、どうしてもわざとらしい切り口上になりかけたり……  ……マダムの話をきかれる態度や、相槌の打ち方が、いつもよりもすこし熱心過ぎたり……  ……お茶碗を差し出しながら、思わず態度を勿体ぶったり……  ……「ああ美味かった」という言葉のおしまいがけが、いつもよりも心もち感傷的に響いたり……ETC……ETC……  マダムは、しかしそれでも、やっぱりスマアして、ニコニコしておられるのでした。それでいてこうした御主人の心理的な変化を、極めて隅々のデリケートなところまで見逃がさずに見て取られるのでした。そうして、その冷静な、すきとおった判断にかけて、イヨイヨ間違いがないと思われると、やっぱりスマアしてニコニコしたままお膳を下げて、お湯に這入られるのでした。  マダムの湯上りのお化粧は、そんな晩に限って特別に濃厚に、一種の暗示的な技巧を凝らして仕上げられるのでした。そうして御主人に内証で買われたスバラシク派手な着物とか、帯とか、上等の装身具なんどの中の一つか二つかをこれ見よがしに身に着けて、やはり無技巧の技巧を冴えかえらせながら、無言のまま、ニコニコと御主人の前に出て、美味しいお茶を入れられるのでした。実は泣きたいような御主人の笑い顔をホノボノと見返されるのでした。そうして疲れておられる御主人を、もう決してほかの女とは遊ばないと決心させるほど……それほど徹底的にニコニコ責めに責め上げられるのでした。  こうした技巧を凡そ四五遍もくり返して行かれるうちに、マダムはとうとうその御主人を完全に征服してしまわれました。無技巧の愛を百パーセントに占領されることになりました。  けれどもその御主人は、それから二三年経つうちに神経衰弱にかかって世を早められましたので、マダムは賢夫人の名の下に沢山の財産を受け嗣がれる事になりました。  マダムはこのごろ、こんな事を考えられるようになられました。 「妾のせいじゃなかったか知らん。男ってものは時々|他所へ泊らせないと、いけないものかも知れない」……と……。        ◇  ある処に一人のフラウがありました。  その御主人は有名な遊び屋で、お二人のアパートに帰られる事は三日に一度ぐらいしかないのでしたが、それでいてお二人の間はトテモ、シックリとした甘ったるいものでした。否、むしろフラウの方がオッカナ、ビックリ仕掛けで、御主人の機嫌を取り取り送り迎えをしておられるように見えました。  この事はむろんこのアパートの七不思議の一つに数えられているのでしたが、或る時、お隣りのミセスがチョットしたものを借りに来た序に、さり気なくこのことを尋ねてみますと、フラウはみるみる首のつけねまで真赤になりながら、うつ向き勝ちにこう答えられるのでした。 「主人はわたくし達の結婚式の晩から、もうどこかへ消え失せて行くのでした。そうして帰って来た時はいつでも二日酔いをして、妾に介抱ばかりさせるのでした。  妾はこうした主人の大ビラな仕打ちに対して長いあいだ何事も申しませんでした。妾は主人よりほかに男の方を存じませんでしたので、もしかしたら妾がわるいのじゃないかしらんと思って、心をつくして仕えましたが、それでも、どうしても主人の他所泊りが止みませんでした。  そのうちに妾のそうしたウップンが、とうとう破裂する時が来ました。妾はその時にキチガイのように喋舌りつづけました。洪水のように涙を流しながら、今までの主人の横暴を一々数え上げて行きましたが、そのうちにとうとう口が利けなくなって、ベッドの上に突伏しますと、それまで黙って聞いておりました主人は、やがてタッタ一こと申しました。 「お前の云い分はそれだけか」  妾は口の中で「ハイ」と答えながら涙の顔を上げました。すると主人はその妾の横頬をイキナリ眼も眩むほどハタキつけました。  ……スパ――――ン……と……。  そうしてそのまんま、どこかへ泊りに行きました。  妾は、それからというものホントウに無条件で、身も心も主人に捧げるようになりました。  ……ホントウニ男らしい……」  フラウの眼に、涙が一パイに浮き上りました。 看護婦さんの眠っております隙を見ましては、拙ない女文字を走らせるので御座いますから、さぞかしお読みづらい、おわかりにくい事ばかりと存じますが、取り急ぎますままに幾重にもおゆるし下さいませ。  あれから後、お便り一つ致しませずに姿をかくしました失礼のほど、どんなにか思し召しておいでになりますでしょう。どう致しましたならばお詫びが叶いましょうかと思いますと胸が一パイになりまして、悲しい情ない思いに心が弱って行くばかりで御座いました。そうしてやっとの思いで一昨晩コッソリと帰京致しますと、すぐにあれから後の新聞を二三通り取り寄せまして、次から次へと繰り返して見たので御座いますが、私の事につきましていろいろと出ております新聞記事と申しますのが又いずれ一つとして私の心を責めさいなまぬものは御座いませんでした。  あの、丸の内演芸館で催されました明治音楽会の春季大会の席上で、突然に私が喀血致しまして、程近い綜合病院に入院致しますと、その夜のうちに行方不明になりました事に就きまして、新聞社や、そのほかの皆様から寄せて頂いております御同情の勿体なさ。それから又、最後までお世話になっておりました岡沢先生御夫婦の親身も及びませぬ痛々しい御心配なぞ……そうして、そのような中に、とりわけても貴方様が、あの時から後、心ならずも貴方様から離れて行きました私の罪をお咎めになりませぬのみか、数ならぬ私の事を舞台を休んでまで御心配下さいまして、いろいろと手を尽して私の行方をお探しになっておりますうちに、思いもかけませず私と同じように喀血をなされました。そうして同じ丸の内の綜合病院に、御入院になりまして、私の名前を呼びつづけておいで遊ばすという事を「処もおなじ……」という雑報欄の記事で拝見致しました時の心苦しさ……。そうしてそれと同時にあなた様と私とが斯様に同じ運命の手に落ちて参りまして、おなじ病気にかかって同じように血を吐く身の上になりましたことが、けっして偶然でありませぬ事を思い知りました時の空怖ろしさ……。唯さえ苦しいこの呼吸が絶え入るまで、ハンカチを絞って泣きましたことで御座いました。  こんなになりました上は、何をおかくし致しましょう。  私はずっと前、まだ貴方様に直接のお眼もじ致しませぬうちから、あなた様こそ只今の歌舞伎界で一番お若い、一番のお美しい女形の名優として、外国にまでお名前の高い中村半次郎様こと、菱田新太郎様でおいで遊ばすことを、蔭ながら、よく存じておりました。  そればかりでは御座いませぬ。  大変に失礼な申上げようでは御座いますけれども、そのあなた様が、私と同じ年の二十三歳でおいでになりますばかりでなく、今日まで一人も婦人をお近づけになりませずに、女嫌いという評判をそのままに立て通しておいでになりましたことも、よく存じ上げておりました。  それで、もしか致しましたならば、貴方様は御自分でも御存じのない……ただ、広い世界に私だけが、タッタ一人で存じております或る不思議な運命の糸に縛られておいでになりますので、そのために、ほかの女性をお振り向きにならないのではないかしら。……言葉をかえて申しますれば、あなた様と御一緒の運命に結びつけられる女と申しますのは、この世にたった私一人きりなのではないかしら……と、毎日毎日心の底の奥深いところで、おそれ迷いながら、今日まで生き永らえておりましたことで御座いました。  とは申しますものの、貴方様方のような名高いお方のお眼に止まりそうにもない拙ないピアノ教師の身として、このような及びもつかぬ事を考えておりますことが、もしも他人にわかりましたならば、どんなにか笑われた事で御座いましょう。  中村半次郎様こと菱田新太郎様を存じております日本中の女子は皆、おんなじ夢を見ているのだから心配する事はない。自惚れの強いのにも程があるといって死ぬ程ひやかされた事で御座いましょう。  何事も御存じないあなた様としても、私が突然にこのような事をお耳に入れましたならば、さぞかしビックリ遊ばすことで御座いましょう。 「あなた様の御運命を、ずっと前から人知れず、私だけが存じ上げておりました。あなた様からの結婚の御申込みを受けますものは、私という女よりほかにおりませぬでしょうことを、くり返しくり返し想像致しまして、ふるえ、おののきつつ月日を送っておりました」  と申し上げましたならば、そんな事があり得よう筈はないと、すぐに思し召すで御座いましょう。あとからそのような作り事をして、結婚を避けようとしているのではないかと、お疑いになるで御座いましょう。  けれども、このような場合に作りごとを申しましてどう致しましょう。  忘れも致しませぬ、あの丸の内演芸館内の演奏場で、私は拙ないピアノの独奏を致しておりました二日目の事で御座いました。明治音楽会の幹事をしておられます松富さんが、楽屋の入口でヒョイと私の肩をおたたきになりまして、こんな事を云われました。 「井ノ口さん。シッカリおやんなさいよ。名優の菱田新太郎君が昨日からたった一人であの一番うしろの席に来ておられるのですよ、新太郎君は女嫌いと西洋音楽嫌いで有名な人なんですからね。それが男嫌いで通っている、貴女の演奏をききに来て、あなたの番が済むとサッサと帰って行かれるのですからね。たった今新聞記者が、その事を私に知らせてくれましたから、あなたはまだ、そんな事を御存じない筈だと返事をしておきましたがね。何でも大した評判になりかけているらしいですよ。ハハハハハ」  これを承りました時の私の驚ろきは、どんなで御座いましたでしょう。今まで想像にだけ描いておりました貴方様と私との間の夢のように不思議な運命のつながりが、思いもよりませぬ晴れやかなところで、あまりにもハッキリと現実にあらわれかかって参りました恐ろしさに、私はもう夢中になってしまいました。病気と云って演奏場から逃げ出そうかしらとも思いましたくらい息苦しくなって、胸がドキドキ致して参りました。  けれども、それまでの私は、お写真でしかあなた様にお眼にかかった事が御座いませんでしたので、せめて一と目なりとも本当のお顔をお見上げして、この世のお名残りに致したいというような、やる瀬のない思いに引き止められまして、ワクワク致しながら「月光の曲」を弾いていたので御座いますが、そのうちに鳥打帽と背広を召して、大きな色眼鏡をおかけになった貴方様が、正面の入口からソッとお這入りになりまして、電燈の下の壁にお倚りかかりになりました。  そのお姿を楽譜の蔭からチラリと見ました時の私の胸の轟きは、どんなで御座いましたでしょう。その時にあなた様は急いでお出でになりましたせいか、人に気づかれないように壁に身体をお寄せになって色眼鏡を外して汗をお拭きになってから、ソッと私の方を御覧になりました。  そのお顔をハッキリと眼には残しながら、死ぬかと思われるほどの不思議な驚きに打たれました私は、思わず気を失ってしまいまして、皆様に一方ならぬ御心配をかけました。それのみか、思いもかけませず喀血を致しまして、明治音楽会に一つしか御座いませぬ大切なピアノを汚しましたために、折角の演奏会が中止になりましたとの事で、ホントにどうしてお申訳を致しましょうかと、思い出しては溜息を重ねているばかりで御座います。皆様は、それを私が予ねてから職業に熱心のあまり忍び包んでおりました病気のためとばかり思し召して、私の身にとりまして堪えられぬ程の御同情を賜わっておりますとの事で御座いますが、まあ、何という勿体ない事で御座いましょう。  けれども、ほんとの事を申しますと、私が失神致しましたのは、そうした病気のせいではなかったので御座います。  私はあの時に、色眼鏡をお外しになった貴方様のお顔を拝見致しますと一緒に、もすこしで、 「あっ。お母様……」  と叫びそうになったので御座います。そんなにまで貴方様のお顔が私の亡くなったお母様に似ておいで遊ばしたからで御座います。  もっとも、あなた様のお姿が、私のお母様にソックリでおいで遊ばすことは、予ねてから、色々な雑誌に出ております写真で、よく存じてはおりました。けれども、あのようにソッと私を御覧になりました愛情にみちみちたお眼づかいまでが、ソックリそのまま、私のお母様に生き写しでおいでになりましょうとは夢にも想像致しておりませんでしたので、失礼な言葉か存じませぬけれども、あの時貴方様は、私のお母様の生れかわりとしか思われなかったので御座います。  私はもう、そう思いますと一緒に、私の運命が眼の前で行き詰まりかけておりますことがアリアリとわかりました。そうして、つい気が遠くなってしまいましたので、病気のせいではありませぬ事を、心から信じているので御座います。  前にも申上げました通り、私は一生のうちに一度はキット、あなた様からの結婚のお申込みを受けますことを、ずっと前から覚悟致しておりましたので御座います。そうして、それと一緒に、その貴方様からのお申込みばかりは、たとい自分の心がどんなで御座いましょうともお受けしてはならぬ……と申しますような世にも悲しい、恐ろしい運命を持っておりますことをも、身に泌みてよく存じておりましたので御座います。  そのわけを、只今からあなた様に、スッカリお打ち明けせねばなりませぬ私のせつなさ、情なさ、もう身を切られるようで御座います。とは申せ、世界中で唯お一人、そのわけを御理解下さる貴方様に、只|一眼なりともお目もじが叶いまして、このようなお手紙を差し上げられるような身の上になりました事を思いますと、このままにこの秘密を胸に秘めてあの世に旅出ちますよりも、私はどんなにか幸福で御座いましょう。  そのわけの第一と申しますのは、現在あなた様と私とを、同じように苦しめております、この病気で御座います。わけても私の方のは私の家の代々からお母様に伝わりましたものなので、もうとても助かる見込みはありませぬことで御座います。  それから、その次のわけと申しますのは、申し上げたらビックリ遊ばすか存じませぬが、私の右の背中から、右の乳の下へ抜けとおっております刀の刺し傷で御座います。この傷の痕と、それにまつわっております私の生涯の秘密ばかりは、たとい生命にかえましても他人様に気付かれまいと思いましたために、斯様な病気になりましてもお医者様にも見せずに秘め隠して参ったので御座いますが、只今となりましては、もはや、あなた様にだけは、どうしてもお打ち明け申し上げなければならぬ時節が参りましたものと存じているので御座います。  それから今一つ、あなた様にこの身をお委せ出来ませぬ一番大切な理由と申しますのは、ほかでも御座いませぬ。  失礼とは存じますが、貴方様と私とは、この世に生れ出ました時から、赤の他人同志ではなかったように思われるので御座います。その証拠の一つとして貴方様は、前にも申し上げますように、私のお母様のミメカタチをそのままのお姿でいらっしゃるので御座いますが、一方に私の姿もまたあなた様のお若い時の御様子を、そのままに女になりました姿でおりますことを、まだ小さいうちからよく存じておりましたので御座います。  こう申し上げましただけでも、あなた様には私の申しますことが偽りで御座いませぬ証拠を、たやすくお気づき遊ばすで御座いましょう。そうして、すぐにも私を、血をわけた妹かと思し召して、どんなにか苦しみ遊ばすことで御座いましょう。  けれども、どうぞ御願いで御座いますから、お心をお鎮めになって、これから私が認めますことを、おしまいまで御覧下さいませ。  そう遊ばしたならば、あなた様と私とは、かように両親のみめ形を取りかえた姿になっておりますままに、もしか致しますとその間には、何の血すじのつながりもあり得ませぬことをハッキリと証拠立てられるようにもなっております事が、追々とおわかりになるで御座いましょう。そうしてこのような不思議な御縁で、あなた様と結びつけられようと致しておりますことは、世にも忌わしい悪魔の所業なのか、それとも神様の尊い思し召しなのか、よくわかりませぬままに悩み悶えております私の心持ちも、一緒におわかりになるで御座いましょう。  私はあの演奏場で、あなた様のお顔をお見上げしますと同時に、兼ねてから想像致しておりました、あなた様と私との運命にまつわる、かような不思議な悩ましさが、もう眼の前に押し迫っておりますことを、マザマザと思い知りましたので御座います。  御免遊ばせ。私はもう思いが乱れますばかりで、ただ取り止めもない事ばかり認めているようで御座います。  とは申せ、いずれに致しましてもこのような貴方様と私とにまつわる不思議な因縁がハッキリとわかりませぬうちは、たとい貴方様と私との思いが、どのようになりましょうとも、あなた様のお手にこの身をお委せすることは出来ませぬ。それよりも私の姿が貴方様方のお眼に止まりませぬうちに、この病気で亡くなりました方が、かえって貴方様のおためと存じまして、そればかりを祈っておりましたのに、あのようなことになりまして、私は演奏場からすぐに程近い綜合病院へ運ばれましたので御座いますが、その夜遅くに看護婦の隙を見て貴方様が、私の病室へお忍び下さいまして、あのようなお言葉をお洩らしになりました時の私の嬉しさと悲しさ……。 「その病気はキット僕がなおして上げる。君さえ承知してくれれば君は僕の妻だ。僕は生命も何も要らないのだから。その証拠にサア接吻を……接吻を………」  ああ。何という雄々しいお心で御座いましょう。何という御親切で御座いましょう。もし私があの時に気絶せずにおりましたならば、どのような事になっておりましたでしょうか。  やがて、ひとりでに気がつきました時に、私の唇や頬に残っておりました貴方様のほのめきのおなつかしかったこと。悲しゅう御座いましたこと……。  ああ。あの時に私は、どんなに泣きましたことか。何事も御存じないあなた様を、こんなにまでお苦しめ申し上げる私の罪深さ、運命の意地の悪さを、どのように怨み悶えて泣きましたことか。  そのうちに夜が明けかかりますと、私は附添の看護婦さんの寝息を見すまして起き上りまして、高い熱のためにフラフラ致しますのを構わずに、身のまわりのものを纏めて病院を脱け出しました。それから演奏の時に着ておりましたものの上に被布を羽織りましたまま汽車に乗りまして、故郷の九州福岡へ帰りました。そうして博多駅より二つ手前の筥崎駅で降りまして人目を忍びながら、私の氏神になっております博多の櫛田神社へ参詣致しまして、そこの絵馬堂に掲げてあります二枚の押絵の額ぶちに「お別れ」を致しました。  あなた様と私の運命にまつわっております不思議な秘密と申しますのは、その二枚の押絵の中に隠れているので御座います。私の背中と胸にあります突き疵と申しますのも、あなた様のお唇を安心してお受け出来ないようになりました原因と申しますのも、みんな、もとを申しますと、その二枚の押絵がした事なのでした。ですから私はその運命とお別れを致したいためにわざわざ九州まで参りましたので御座います。早かれ遅かれ助からぬ生命と存じまして……。  けれど、その二枚の押絵をあおのいて見ておりますうちに私は何かしら、或る気高い力に引き立てられて行くような気持ちになりました。  その中の一枚は八犬伝の一節で、犬塚信乃と犬飼現八が芳流閣の上で闘っておりますところで、今一つは阿古屋の琴責めの舞台面になっております。どちらも大きな硝子張りの額ぶちに入れてあります上から今|一重、頑丈な金網で包まれて、絵馬堂の西の正面に並べられているので御座いますが、それを見上げておりますうちに、これは、もしかしたら、その押絵の中に籠もっております、貴方様と私との運命を包む神秘の力が、今一度新しく、私の心に働らきかけているのではないかしらと思いましたくらい、私の身うちがゾクゾクと致して参りまして、何かしら不思議なお酒に酔っているような気持ちになってしまったので御座いました。  その時ほどに運命の力というものをシミジミと嬉しく、楽しいものに感じましたことは私の一生のうちに一度も御座いませんでしたでしょう。  この世の中に運命でないものは一つもない。ですから私はこの病気で死ぬものときまってはいないでしょう。  もしかすると今一度、不思議と健康な身体になって、あなた様にお眼にかかるような事がないとも限りませぬ。  そのような運命を知っておりますのはこの二つの押絵ばかり……その中でも、刀を振り上げている犬塚信乃と、琴を弾いている阿古屋の二人だけが、何もかもチャンと知っているので、その運命に、私のかよわい力が逆らおうとしても何の役に立ちましょう。  私はこうした運命の手に抱かれて、貴方様のお傍に参りましょう。そうしてお懐かしいお胸に縋って、今までの事をスッカリお打ち明けして、心ゆくまで泣かして頂きましょう。  それが私のホントの運命なのでしょう。  こんなような、七八つの子供が夢みますような、甘えた、安らかな気持ちになりまして、うつつともなくウトウトしながら上りの汽車に乗ったことで御座いました。  東京へ帰りつきますと、わざと、場末の名もないような小さな宿屋に泊りました。そうして前にも申上げましたように、そこであれから後の新聞を読んだので御座いますが、その記事の中でも、とりわけて身を責められました貴方様の御親切の程……それは私の肉体と心につき纏うております世にも恐ろしい、不思議な秘密のすべてを露わにしてお眼にかけましても、後へはお退きになりそうに思われませぬお心のほどと、そのために急に重くおなり遊ばした御病気の事を承知致しますと同時に、あなた様と私との運命を支配致しております、あの押絵の神秘の力を、どのように空恐ろしく思い知りましたことでしょう。どのようにその新聞紙を抱き締めて泣き濡れましたことでしょう。  そうして幾度思い返しましても、そうした運命にこの身を委せて、あなた様にお眼にかかって、この秘密をお打ち明けするよりほかに道はない。そうしたならば、あなた様と私の病気もおのずと癒ってしまうのかも知れない。イエイエ、あなた様と私とが、かように同じ病気にたおれましたのは、そうした眼に見えませぬ運命の手が、自分勝手にあなた様から離れて行こうと致しました私を、ぜひともお傍へ引きもどすための、不思議な親切からしてくれたことかも知れない……というような果敢ない、遣る瀬のない思いに胸をときめかせながら、いく度あなた様へ差上げるお手紙を書き直しましたことか。お恥かしい心と、つたない文章が気になりまして何枚ペーパを破り棄てましたことか。  とは申せ、そうした私の思いは、おおかた高い熱に浮かされておりました私の、まぼろしでしか御座いませんでしたでしょう。私は間もなく現実に目ざめなければなりませんでした。  そのようにして、いく度もいく度も貴方様に差し上げる手紙を書き直しておりますうちに、私はもう、もどかしくてもどかしくて堪えられないようになりました。すぐにも貴方様にお眼もじしなければ死んでしまいそうな思いに一パイになってしまいました。このままにお手紙を書いておりましたならば眼が眩んで、たおれるかも知れないと思うほど息苦しくなりましたので、すぐに宿の払いを済ましまして、他眼をさけて、あなた様の御見舞に伺うつもりで、すこしばかりの手荷物を纏めかけたので御座いましたが、そのうちに博多で求めました灰色のブランケットを畳んでおりますと間もなく、私は又も、二度目の喀血を致しましたので御座います。  どうぞお許し下さいませ。  その時に私は、毛布の上に突伏しながら、あなた様と私との運命が、みじめに打ちくだかれて行く姿をハッキリとまぼろしに見ました。青い青い、広い広い、大空か海かわかりませぬ清らかな、美しいものが、お互いに血をはきながらもシッカリと一ツに抱き合っている、あなた様と私の身体を吸い込もうとして、はるかの向うにピカピカと光りながら待っているのが見えました。そうしてあなた様と私とがズンズンとその方に吸い寄せられて行きますのが、何ともいえませず気持ちよく思われました。  けれども、そのまぼろしが消えますと、私は一生懸命の思いで、やっと気を取り直しました。そうして息も絶え絶えの思いを致しながら、血のあとを包み消しまして人力車に乗って、この北里先生の療養院に参りましたが、もう私の生命はないものと存じまして、無理をしてはならぬという係りのお医者様のお言葉をお受けはしながら、この紙と鉛筆をソット寝床の下へ忍ばせまして、看護婦さんの隙を見てはお手紙を書いているので御座います。  この手紙をおしまいまで、お読みになりますれば貴方様は、すぐにあるタッタ一つの事を、お思い出しになるに違いないと思います。それはあなた様にとりまして何でもないほどに、よくおわかりになっていることかと思いますが、それをお思い出しになりさえすれば、すべての秘密を何の苦もなく解いておしまいになることと信じております。  いずれに致しましても、あなた様と私との間にまつわっております不思議な運命の謎を解いて頂けますお方は、この広い世の中に、あなた様お一人しかおいでにならないので御座います。私は唯、そのたった一つの事を、あなた様にお尋ね致したくてたまらぬ思いに責められながら、そうした勇気を出し得ませぬままに、今日まで生き永らえておったようなもので御座います。  とは思いながら、何から先に申し上げてよいやらわかりませぬ。この悩ましさをどう致しましょう。あせってもあせっても進みませぬこの筆のもどかしさをどう致しましょう。  ああ。私は、あなた様の、あの熱い涙のお言葉と、お口づけを一生の思い出としてあの世に旅立ってはわるいので御座いましょうか。  私はこの頃毎晩のようにあの押絵の夢ばかり見るので御座います。あの芳流閣の一番頂上の真青な屋根瓦の上に跨って、銀色の刀を振り上げております犬塚信乃の凜々しい姿や、厳めしい畠山重忠の前で琴を弾いております阿古屋の、色のさめたしおらしい姿を、繰返し繰返し夢に見るので御座います。それにつれて私のお父様の顔や、お母様の顔や、または生れてから十二年の間に住まっておりました故郷の家の有様なぞが、幻燈のように美しく、千切れ千切れに見えて参ります。そうして眼が醒めますと、ちょうどその頃の子供心に立ち帰りましたような、甘いような、なつかしいような涙が、いつまでもいつまでも流れまして致しようがないので御座います。  それは熱のためばかりではないように存じます。おおかた私の生命が、もう残りすくなになっているせいで御座いましょう……とそう思いますと貴方様のお顔が一入おなつかしく、又は悲しく思い出されまして胸が一パイになるので御座います。  私の生家は福岡市の真中を流れて、博多湾に注いでおります那珂川の口の三角洲の上にありました。  その三角洲は東中洲と申しまして、博多織で名高い博多の町と、黒田様の御城下になっております福岡の町との間に挟まれておりますので、両方の町から幾つもの橋が架かっておりますが、その博多側の一番南の端にかかっております水車橋の袂の飢人地蔵様という名高いお地蔵様の横にありますのが私の生家で御座いました。その家は只今でも昔の形のままの杉の垣根に囲まれて、十七銀行のテニスコートの横に地蔵様と並んでおりますから、どなたでもお出でになればすぐにわかります。  尤も今から二十年ほど前に私たちが居りました頃の東中洲は、只今のように繁華な処でなく、ずっと西北の海岸|際と、南の端の川が二つに別れている近くに一並び宛しか家がありませんでしたので、私たちの家だけは、いつもその中間の博多側の川ぶちに、菜種の花や、カボチャの花や、青い麦なぞに取り囲まれた一軒家になっておりましたことを、古いお方は御存じで御座いましょう。  私の家は黒田藩のお馬廻り五百石の家柄で、お父様は御養子でしたが、昔|気質の頑固一徹とよく物の本やお話にあります。あの通りのお方で、近まわりの若い人たちに漢学を教えておいでになりました。それに生れつきお酒がお嫌いで、大の甘党でおいでになりましたので、私が十歳にもなりました時は、よほど胃のお工合がわるく、保養のためといってよく畑いじりをしておいでになりましたが、そのせいかお顔の色が大変黒くて、眉毛の太い、お眼の切れ目の深い、お口の大きい、武士らしい怖い顔のお方で御座いました。  それに引きかえて私のお母様は世にも美しい、そうして不思議なお方でした。  私のお母様は、只、生きるためにしか、お食事をなされぬように見えました。よくまああれでお身体が保つものと、子供心にも思わせられました位小食でした。又お母様は、 「あの一軒屋に居りながら、いつの間に見て御座るのか」  と知り合いの人が感心しておりましたくらい髪なぞもチャンと流行風に結って、白いものなぞをチョッとかけておられましたが、それが又、飾り気がないままに譬えようもなく美しく見えました。そのお母様を育てました乳母で、オセキという元気な婆さんは、そのころ大きな段々重ねの桐の箱を背負うて、田舎まわりの小間物屋をしておりましたが、お母様はその婆さんから折々油や元結なぞをお買いになるほかは何一つ贅沢なものを手にお取りになるでもなく、却ってそのオセキ婆さんの方が、お母様のお作りになった絞りの横掛けや、金襴のお守り袋なぞを頂いて田舎で売って儲けていたとの事でした。夏なぞは御自分でお染めになった紺絞りの単衣を着ておられるのが、ツキヌクほど白いお顔の色や、襟足や、お身体の色とうつり合ってホントにお上品に見えました。ある時私に、おまんじゅうを焼いて上げようと仰言って、手拭をチョット姉さん冠りにして火鉢の前にお坐りになった、そのお姿のよかったこと、今に眼についております。 「あなたのお母様は絵のようだと申し上げたいが、絵よりもズウットズウットお美しい」  とある人は申しました。 「女でさえ惚れ惚れする」  と云って昆布売りの女が見かえり見かえり出て行ったこともあります。嘘か本当か存じませぬが、その頃の福岡の流行り歌に、 「みなさんみなさん、福岡博多で、釣り合いとれぬが何じゃいナ。トコトンヤレトンヤレナ。あれは井ノ口旦那と奥さん。中洲に仲よく、暮すが不思議じゃないかいな。トコトンヤレトンヤレナア」  というのがあったと誰からか聞いておぼえておりますが、教えた人は忘れてしまいました。  けれどもお母様のホントの不思議と申しますのは、そんな事ではありませんでした。 「あなたのお母様は、私と同じ指を持っておいでになるのに、どうしてあのように不思議なお仕事が、お出来になるのでしょう」  というのは、うちに来られる人のみんなが皆言う事でした。私のお母様は、そんなにまで人が不思議がる程、指先のお仕事がお上手なのでした。  私が八歳の冬まで生きておいでになりましたお祖母様や、オセキ婆さんや、人様のお話によりますと、お母様は井ノ口家のたった一粒種で御座いましたが、七歳の時に御自分の初のお節句にお貰いになった押絵の人形をこわして見て、それを又作り直してひとり手に押絵の作り方をお覚えになったのだそうです。それから後、お手習いが済みますと、人形の顔形や花もようなぞを鼻紙や草紙の端に描いて、いつまでもいつまでも遊んでおいでになりましたそうで、お友達なぞも先方から遊びに来られなければ、こちらからは進んでお出でになるようなことはありませんでした。そうして十歳位になられた時に、遊び事に作られた押絵の人形が評判になって売れて行きましたので、私のお祖父様やお祖母様がビックリなすったそうです。  お母様はそれから十一になられますと、博多の小山という所の母方の御親戚に当るお婆さんの処へ行って、機織、裁ち縫いなぞをお習いになりましたが、そのお婆さんが名高い八釜し屋のお師匠さんでしたのに、お母様ばかりは何も云われませんでしたそうで、十四歳の時には、もうお師匠様と変らぬ位にお出来になりました。刺繍なぞもその頃から遊びごとに作られたのが、大人のそれよりも綺麗でシッカリしていたという事で御座います。  私のお父様が月川家から御養子にお出でになりましたのは、お母様の十五の年で、お父様のお年はたしか二十四歳でした。  それから、これはお母様の事ですが、お母様が御婚礼をなすったあくる年の十六のお正月に、お仕事のお師匠様の処へ御年始にお出でになりました節、御親戚の事とてお師匠様はお雑煮を出すからと用意をされました。その時にある人が板のような厚い博多織の男帯を持って来まして、これは今|上方から博多に来ている力士の帯で、わざわざ博多へ注文して織らせて上方で仕立てさしたものだけれど、何だか結び目が工合が悪くて気に入らないから、又仕立て直さしたけれども矢張りいけない。博多織を扱いつけておられるこっちのお師匠さんよりほかに仕立て直して頂く処がなくなりましたから持って来ましたと申しました。するとお師匠さんのお婆さんが、それはよいところへ見えました。今ちょうど何でもお出来になる福岡一の美しい奥さんが見えているから、といってお母様に押しつけて仕舞われました。  お母様は怖い、意地の悪いお師匠様のお言葉を背きもならず、その上に私のお父様が何でも負ける事がお嫌いなのを、よく御存じでしたので、もし、お断りしてお雑煮も頂かずに逃げて帰ったことが、あとでわかっては大変とお思いになりまして、泣く泣くお引き受けになりましたが、何度も仕立て直したものなので、その縫いにくい苦しさと切なさ。涙が出たとのお話で御座いました。けれども、ともかくも、お雑煮が出来るまでに仕上げて、早速持たせてお遣りになりましたところが、大変にそれが気に入りましたらしく、すぐに沢山の仕立て代を持たせてよこしたのをお母様はキッパリとお断りになりましたそうです。そうしたらその角力取りは、そのあくる日に沢山の縮緬とか緞子とかを台に載せて、自分で抱えて人力車に乗ってお母様の処へお礼に来ましたので、そんな訳を御存じないお父様は大層お驚きになりました。そうして御自分で玄関へ出て来て、 「うちの家内はお前達のような者に近づきは持たぬ」  と仰言ったのを、あとから出てお出でになったお母様がお引き止めになったので、やっと品物をお受け取りになりましたが、角力取りはお玄関で追い返されてしまいました。 「あれはお前を見に来たのに違いない。これから角力取のものなぞ縫うことはならんぞ」  と、お父様はあとで大層お母様をお叱りになったそうです。  それから今一つ、お母様が十八の年の二月に博多一番と云われております大金持ちの柴忠さんという人が自身でお父様に会いに来られまして、こんな事を云い出されました。 「今日お伺い致しましたのは、私の家の娘の初の節句に是非ともこちら様の奥様の押絵を飾らして頂きたいと存じまして、その事をお願いに参りましたので御座います。それにつきましては、もう四五日しますと東京の千両役者で中村|半太夫というのが博多に参りまして瓢楽座で十日間芝居を致します。そのお目見得芝居の芸題は阿古屋の琴責めで、半太夫が阿古屋をつとめる事になっておりますから、その舞台を御覧になって、その通りの場面を五人組みに作って頂けますまいか。そのためには正面の一番よい桟敷を初日から千秋楽まで買い切っておきますが、どうぞ充分に御覧下さいませ。下地の錦絵はここに持って参りました。この三枚続きですが芝居を御覧になりました上でどんなにお作りかえになりましても構いませぬ。又衣裳が御覧になりたければ楽屋へお出でになって手に取って御覧になっても構いませぬ。私が御案内を致します。まことに不躾では御座いますが費用も手数も一切いといませぬから、どうぞ奥様の一世一代のおつもりで後の世に伝えるものを頂戴致しまして、私の娘にあやからせて頂きとう御座いますが、如何で御座いましょうか」  と、まごころ籠めてのお頼みでした。  しかし、厳格なお父様はなかなかお許しになりませんでしたそうです。阿古屋の琴責めという芝居は、どんな筋のものかとお尋ねになったり、楽屋は男でも這入って行けるものか、なぞといろいろお尋ねになりましたので、柴忠さんが説明をされまして、芝居というものは辻学問といって仁義道徳の教を籠めたものとか、役者は河原者というけれど東京の俳優はそうばかりではなく、よい役者になると礼儀の正しい立派な人間ばかりで、角力取りや何かとは格式の違うものとか、いろいろに言葉を尽しましたので、やっと、 「それでは見に行こう」  と仰言ったそうです。  それからお芝居が始まりますと、小間物売りのオセキ婆さんを呼んで留守番をさせて、お祖母様とお父様と、お母様と三人お揃いで三日の間瓢楽座へお出でになりましたが、その最初の日には中村半太夫という方が羽織袴を召して、お父様たちの御見物の席に見えて御挨拶をされました。そうして、 「私の舞台姿が福岡で名高い奥様のお手にかかるとは一生の誉れで御座います。何とぞよろしく……」  と仰言って、お祖母様にはお茶器を、お父様にはお煙草盆を、又、お母様には紙入れを、それぞれお土産に下すったそうですが、それにはいずれも私の家の定紋の輪ちがいの模様が金と銀とで入っておりましたので、お父様はビックリなすったそうです。そうして半太夫という方の御人品に大そう感心をされまして「武士ならば千石取りじゃ」と人にお話しになりましたそうです。  けれども、それから四五日目になりますとお父様は、 「俺はもう頭が痛くなりそうじゃ。お母様も最早お倦きになったそうじゃから、俺はお母様と二人で留守番をする。許すからお前はオセキ婆と二人で見て来い。柴忠の折角の頼みじゃから」  と仰言ったそうで、それでもお母様はお遠慮をなすったのを、お迎えに来た柴忠さんから無理にすすめられて、あと三日ほど御覧になったそうです。そうして五日目を御覧になった時にザッと下絵を描いて、六日目に今一度芝居を見て細かい処をお直しになってから、お仕事にかかられましたが、それから一週間目にはもう阿古屋の琴責めの五人組の人形が立派に出来上りましたそうです。その押絵人形は、阿古屋の髪の毛を一本一本に黒繻子をほごして植えてあるばかりでなく、眼の球にはお母様の工夫で膠を塗って光るようにし、緋縮緬の着物に、白と絞りの牡丹を少しばかり浮かし、その上に飛ぶ金銀の蝶々を花簪に使う針金で浮かしてヒラヒラと動くようにして帯の唐草模様を絵刳り込みにした、錦絵とも舞台面ともまるで違った眼も眩ゆい美しさの中に、阿古屋の似顔が、さながら生き生きとさしうつむいているのでした。それを、瓢楽座で日延べの二の替りを打っておいでになりました貴方のお父様が御覧になりました時、 「これは驚いた。自分が一番苦心をしている、昔の遊女の身体のこなしを、どうしてこんなに細かく見て取られたものであろう。この遊女の姿態ばかりは現在居る一番の錦絵描きでも描けないので、私の家の芸の中でも一番むずかしい秘密の伝授になっているものを……あの奥さんは不思議な人だ」  と云って舌を捲かれたという事で、今でも博多の人の噂に残っているそうで御座います。  その阿古屋の琴責めの五人組の人形が、柴忠さんの家の小さな本檜舞台に飾られました時の見物といったら、それは大変だったそうで御座います。申すまでもなくその時はお父様も、お母様も柴忠さんの処へおよばれになって、大層な御馳走が出ましたそうですが、その押絵を見るために態々遠方から見えた御親戚や、お知り合いのお節句客の応対だけでも柴忠さんは眼がまわるほど、お忙がしかったそうで御座います。そうしてそんなお客が、お節句を過ぎてまでも、なかなか絶えそうに見えませんでしたので、しまいには柴忠さんも笑いながら、こんな事を云い出されたそうです。 「これはたまらぬ、いくら娘の祝いだというても、こんなに京大阪の旅人まで聞き伝えて見に来るようでは、今に身代限りになりそうだ。こんなに高価く付いた押絵があるものじゃない。何にしてもこれは井ノ口の奥さんが一世一代の精魂を打ち込まれた物だから、いっその事、娘の名前で氏神様に上げてしまった方がよかろう」  という事になりました。それでその押絵を立派なビイドロ張りの額縁に納めて、その上から今一つ金網で包んだ丈夫なものにして、櫛田神社の絵馬堂に上げられました。その額ぶちの中にはやはり本檜の指物細工で舞台が浮き出させてありまして、建具までも本物の通り手数をかけた雛形が使ってありましたので、その重かった事、四人とか五人とかで小半日かかって、やっと釣り上げる事が出来たそうで御座います。  そのようなことで、お母様の評判が前にも倍して高くなりまして、それにつれて頼んで来るお仕事が又、前の倍ももっと上も来るようになりました事も申すまでもありませぬ。けれども、お母様はそれから間もなく、その年の暮近くに私をお生みになる事がおわかりになりましたために、八月から後に来た注文はピタピタと断っておしまいになったそうです。  私が生れます前後のお祖母様や御両親たちのお騒ぎになりようというものは、はたから見ていると、とても可笑しくてたまらぬ位だったそうで御座います。 「美人は子を生まず」とか「気嵩の女には子種がすくない」とかよく云うようで御座いますが、私のお母様は両方を兼ねておいでになりましたので、お祖母様もこの事ばかりを御心配なすってよくそんな愚痴を仰言ったそうです。もっともお父様はそんな事に就いては黙っておいでになりましたそうですが「三年子なければ去る」という慣わしが福岡にもありましたのに、かんじんのお母様がお家付きで、お父様の方が御養子でおいでになるので、お祖母様は、どうなさる事も出来なかったのでしょう。  それでもお祖母様は、どんなにか初孫の顔を御覧になりたくておいでになったでしょう。  お祖母様は、ですから時々御自分から進んでお母様をお連れになっては、お地蔵様だの、観音様だの、御神木なぞを拝みにお出でになったり、御符や御神水なぞを取り寄せて、お母様にお戴かせになったり、色々とお苦心をなすったそうです。「お前、きょうは観音様の日だよ」とか「明日はお地蔵様の何々だよ」とか仰言っては、月に二三度ずつお母様をお出しになったそうですが、その時はお母様もどんなにお仕事がお忙がしくとも「ハイ」と云ってお出かけになりましたそうです。お父様も朝晩神様や仏様に手をお合わせになるほかに、お祖母様がおすすめになる御符や神水なぞも、すなおにおいただきになりましたそうで、決して迷信なぞとは仰言らなかったそうです。  そんなにして家中が子供を欲しがっておいでになりましたところへ、私というものが出来ましたのですから、そのお喜びはどんなだったでしょう。  今まで黙っておいでになりましたお父様は、いよいよその年の八月に六月目の岩田帯をお母様がなさるようになりますと、胎教というのをお初めになりましたそうです。それについては、どのような故事がありましたものか、よく存じませぬけれども、やはり漢学の方で支那から伝わった事で御座いましょう。今までお父様とお座敷にお寝みになったお母様を、お台所の広い板の間の横に在るお茶の間に、たった一人でお寝ませになって、お父様だけがお座敷にお残りになり、又、お祖母様はお玄関の横の御自分の室に、今までの通りにお寝みになるのでした。そうして、そのお母様がお寝みになるお茶の間の四方には、歴史で名高い人や、勇ましい出来事の絵なぞを一ぱいに貼りつけたり、額にして架けたりしてありますので、そんな絵や字なぞを、お母様が朝晩に見ておいでになりますと、お腹に居る子供が、そうしたお母様の気持ちから感化を受けまして立派な子供になりますのだそうで、それが胎教というのだそうで御座います。そんな絵や字は、私が大きくなりまして後も、煤けたままお茶の間の四方に並んでおりましたので、楠正成の討死とか、白虎隊の少年の切腹とか、上野の彰義隊の戦争とか、日本武尊が熊襲を退治していられるところとかいうような、勇ましい中にも、むごたらしいような石版絵が、西郷様の肖像とか高山彦九郎の書いた忠の字とかいうものと一緒に並んでいるのでしたが、そんな絵や字を見まわしておりますと、お父様は私を、まだ生れないうちから男の児ときめておいでになったらしいことが、よくわかるので御座いました。  それから、いよいよ私が生れる時が近づきますと、前に申しましたオセキ婆さんが泊り込みでお台所の板の間に床を取って寝ました。この婆さんは、私が五つか六つの頃まで生きておりましたが、大変に元気者の慾張り婆さんで、お父様はあまりお好きにならなかったそうですが、十人近くも子供を生んだ経験がありましたので、この時ばかりはお父様は何も仰言らずにお母様の介抱をお許しになったそうです。今でもよくおぼえております。眼の玉のギョロギョロする、肥った色の黒い女で、お母様のお話が出るたんびに、 「私が育てたんじゃもの……ナア御隠居さん」  と云っては大きな口を開いて男のように笑うのでしたが、その頃の婆さんには珍らしくオハグロをつけていなかった事をよくおぼえています。人の噂によりますと柳町に奉公をしていたこともあるそうですが、その婆さんがやって来まして、お母様のお腹を一ト目見ますと、 「これは大きい。よっぽど大きな男のお子さんに違いない。日数もいくらか延びてお生れになるでしょう」  と申しましたので、お父様は大変にお喜びになったそうです。けれどもこの婆さんの予言は当りませんで、生れた私は普通の大きさの女の子でした。只日数が一週間ばかり延びただけでしたそうですが、それでもお祖母様や、お父様は不平にお思いになるどころか、オセキ婆さんに手を合わせて、 「ああ。お蔭で安堵した」  と仰有って涙をお流しになった位だそうです。  私が生れましたのは明治十三年の十二月の二十九日で、大変に雪の降る朝だったそうですが、ちょうどお祖母様もお父様も、もう生れるか生れるかというような御心配のために疲れ切っておいでになりましたので「いよいよ生れる時まで待っておいでなさい」とオセキ婆さんが申しますままに、お座敷のお炬燵に当りながらウトウトしておいでになる間に生れたのだそうで、夜が明けてから子供の泣き声をお聞になるとお二人ともビックリなすったそうです。けれどもオセキ婆さんは気の強い女で、急いで私を見にお出でになったお父様を、 「アッチへお出でなさい。今抱かして上げます。殿方は産所へお這入りになるものではありません」  と叱りつけましたので、お父様は又慌ててお炬燵へお這入りになって、頭から蒲団をお冠りになりました。そのために炬燵の櫓が半分丸出しになって、その左右に、お父様の黒いおみ足がニュッと二本つき出ておりましたそうで、 「その御ようすの可笑しかったこと……」  とオセキ婆さんがよく人に話しては笑ったという事を、ずっと後になって、聞きました。  私が生れましたあと先の事で、後になって聞きましたことはまだいろいろあります。  その中でも何より先に申上げなければなりませぬ事は、私が生れましてから間もなく流行り出しました手鞠歌で、今でも福岡の子守女は唄っているそうで御座います。 「イッチョはじまり一キリカンジョ…… 一本棒で暮すは大塚どんよ。 二ョーボで暮すは井ノ口どんよ。 三宝で暮すが長沢どんよ。 四わんぼうで暮すが寺倉どんよ。 五めんなされよアラ六ずかしや。 七ツなんでも焼きもち焼いて。 九めん十めんなさらばなされ。 眼ひき袖引きゃ妾のままよ。 孩児が出来ても妾の腹よ。 あなたのお腹は借りまいものよ。 主は誰ともおしゃらばおしゃれ。 生んだその子にシルシはないが。 思うたお方にチョット生きうつし。 あらイッコイッコ上がった」  と申しますのですが、私が、このようなことを申しますのは如何かと存じますけれども、これはやはりお父様とお母様と、それから私のことを目当てにして当てこすったもので、お母様が帯を縫ってお遣りになった力士の名前や、押絵にお作りになった、あなたのお父様の事などを輪に輪をかけて噂したものでしょう。私のお父様は前にも申しますように色の黒い逞ましいお方で、どちらかと申せば醜男でおいでになったのに、お母様の方はまるでウラハラで、世にも珍らしく美しい方でしたので、いろいろな事を人が申しましたのも無理はないと思われます。  お父様は、そんな歌が流行り出してからというもの、毎日のお墓参りや、方々の神様や仏様への安産の御願ほどきや、お礼参りのほかは、お母様を一歩も外へお出しにならなかったそうです。  もっとも、お父様は平生から冗談口一つ仰有らぬ真面目なお方でしたから、このような歌のウラに隠してある本当の意味はおわかりにならなかったでしょう。只、御自分の事が云ってあるので、お気に障ったものらしく、そんな歌を意地悪るく家の表に来て歌う子守女たちを、お父様がキチガイのようになって、お叱りになる声が川向うのお琴のお師匠さんの処までよく聞えたそうです。  又、その頃の私の家の暮し向きは、僅かばかり来る作米と漢学のお礼のほかはお母様の押し絵や針仕事で立てておられましたので、私が生れますあと先は御両親とも随分お辛い事が多かったろうと思いますが、そんな意味の事も、この手鞠歌に唱い込んでありますようで、誰が作ったものか存じませぬが、ほんとに憎らしくて憎らしくて思い出す度に胸が一パイになります。  けれどもそのせいかして、お母様は鳥目になるといっておセキ婆さんが止めるのも聞かずに、普通の人よりも早く髪を洗ったり、針仕事を始めたりなすったそうです。お父様も亦それから後というものは人が笑うのも構わずに、朝夕のお買物までも御自分でお出ましになりましたそうで、お母様は家にジッとしてお仕事をしておいでになりさえすれば、お父様の御機嫌がよいので、お祖母様は大層お困りになったそうです。  しかし、今になってよく考えてみますと、そうしたお父様のお心持ちが私にはよくわかるように思います。  親の事をとやかく申しますのは心苦しい事で御座いますけれども、この事はハッキリと申上げておきませぬと、これからの先のお話が、おわかりにならぬと思いますから、包まずに認めますが、私のお父様はそうした美しいお母様を一生懸命に働らかせて、お金をお貯めになる楽しみと、お母様を可愛がって、大切になさるお心持ちとを穿きちがえたようなお心持ちから、そんな風にしておいでになることが、物心ついてから後の私の眼にも、よくわかっていたように思います。ですからお父様は、お母様が家に居て、夜の眼も寝ずにお働らきになる姿を御覧になるのが何よりも楽しく、嬉しくおいでになるのでそのために御機嫌もよかったものと思います。  とは申せ、又一方から考えますと私のお母様のお仕事好きが、その頃はもう普通の意味のお仕事好きを通り越していたことも否まれないと思います。たといお父様の無慈悲な嫉妬深いお心が、お母様をどんなにか無理に押えつけて働らかせておりましたにしても、亦お母様が、どのようにお仕事好きでおいでになったにしましても、私が生れた後のお母様のお仕事ぶりは、とても人間|業ではないと人々が申しておりましたそうです。  この事は只今私から考えてみますと、そうしたお母様のお心持ちがよくわかるように思いますので、つまりを申しますとお母様のお心は、私をお生みになりましてからというもの人間世界をお離れになって、唯、お仕事の一つに注ぎ込んで、ほかの事を忘れよう忘れようとしておいでになったのではないかと思われるので御座います。  何を申しましても私が生れましたのが阿古屋の琴責めの人形が出来ました年の新の師走も押し詰まった日で御座いましたのに、それから一箇月半ほど経った新の二月の中旬を過ぎますと、もう家の事はもとより、旧正月の仕事として外から頼んで来る裁縫や袱紗の刺繍、縫紋、こまこました押絵の人形など、どんなにお忙がしくともお断りにならなかったそうです。これは私が物心ついてから後も同じ事で、羽織、袴、婚礼の晴着と急ぎの頼みを、夜の眼も寝ずにお作りになるほかに、お父様の漢学のお稽古のあとで、近いあたりの娘さんが十人ばかりもお稽古に来られます。それを教えながらお母様は家内四人の着物まで縫われますので、そのまめなことと熱心なことは、子供心にも感心する位で御座いました。夏の暑い夜、蚊に責められてもお構いにならず、冬の寒い日に手足をお温めになる暇もない位セッセとお仕事を励まれました。  その頃町つづきの博多福岡では大変に押絵が流行致しましたので、町の大家なぞは、女の児が生れますと初のお節句にはみんな柴忠さんのように、お芝居の小さな舞台を作りまして、その中に押絵の人形を立てますので、三人組なれば三円、五人組なれば五円と、向うから高価い値段をきめて頼みに来ました。お母様は、そんなにお金をかけては出来がわるいと云われましても、先方で聞き入れません。それにお父様が「出来るだけの加勢は俺がしてやる」なぞと仰言って、断るのをお好きになりませんでしたので、お母様は泣く泣く引き受けておられました。その頃はお米が一|升十銭より下で御座いましたろうか。 「米が十銭すれあサッコラサノサ」  という歌が流行っておりました位で御座いますが、そんなお金の事などは一切お父様がなすって、きょうはいくら、明日はいくらと駅逓局にお預けになるので、お母様はほんとうにお仕事の地獄に落ちておいでになるようで御座いました。  けれども、それでもお母様のお仕事は、ほかの処のより念が入っておりました。  頭の毛は極く安いものでないかぎり黒繻子の糸をほごして一本一本に植えて、小さな指先まで綿をくくめて爪を植えて、着物もそれぞれの恰好にふくら味を持たせた上に、色々の模様を切りつけたものですが、その模様も一つ一つ織り目が合わせてありますために織り出したもののように手際よく見えるのでした。お正月の羽子板も大きなのになりますと板ばかりでなく、張り抜きにした上の方を刳り抜いて、戸障子や手水鉢、石燈籠、植え込みなぞいう舞台の仕掛けものや、書き割りなどの模様を提灯の絵描きに頼むのですが、お母様はそれを御自分の押絵に合うように、お縁側に持ち出して、いろいろな胡粉で塗ったり乾かしたりしてお描きになりました。それから押絵の下絵は、お母様が錦絵を二十枚ばかり持っておいでになるのと、お弟子から借りてお写しになった沢山の下書きの中から生れて来るのでしたが、優しいのや厳めしいのが見ているうちに出来てくるその面白さ……。又は大きな大きな袱紗に、金や銀や五色の糸で縫い込まれた奇妙な形の花や蝶々が、だんだんと一つにつながり合った模様になって行くその美しさ……お父様は、そのようなお母様のお仕事を、丸い桐胴の火鉢の向うから私と一緒に御覧になるのが何よりのお楽しみのように見えました。時々は押絵の足につける竹などを削って御加勢なさるそのお優しさ。  私はまたおとなしい方で御座いましたのか、あまり泣いたりなぞしたおぼえはありませぬようで、六つか七つにもなりますと、お母様から小切を頂いて頭の丸いお人形を作ったり、お母様が美濃紙にお写しになった下絵をくり返しくり返し見たりして余念もなく遊ぶのでした。その中でも、お母様の押絵のお仕事を見るのが何よりの楽しみで、お父様が畠のお仕事をなされながら、お母様をお呼びになるのが恨めしい位に思われました。  ことに又、その中でも、お母様が押絵の人形の眼鼻口をお描きになる時にはきっと私を呼んで御自分の前に坐らせて、「右を向いて御覧」とか「左を向いて御覧」とか仰有って私の眼や、鼻や、口もとをシゲシゲと御覧になっては細長い筆の穂先を嘗めて、火鉢のふちに幾つも並べてある人形の顔に書き入れておいでになるのでした。その顔はいろいろで、私に似ているのは一つもある筈は御座いませんでしたが、それでも毎日毎日見ておりますうちに、私は子供心にその中から自分に似た眼や鼻や口をやすやすと選りだすことが出来るようになりました。それである時、お父様が畠へお出でになったあとで、 「これはあたしの眼よ。この口も……この鼻も、眉毛も……」  と申しますとお母様は、 「よくわかるね。お前の顔は役者のように綺麗だから、お手本にしているのだよ」  とおっしゃって、お笑いになりましたが、そのあとでお母様は急にうつむいて悲しそうな顔になられますと、涙をポトポトと火鉢の灰の中へお落しになりましたので、私も何だか悲しくなりまして、その後は一度もそんな事を申しませんでした。ハッキリとは、おぼえませぬが、お母様の鏡台を御自分の前にお据えになって、御自分の顔を御覧になったり、私の顔をお覗きになったりして、私の眼鼻立ちと御自分のとを一緒にして押絵のメンモクになすったのは、それから後の事だったように思います。  こうしたお母様はお正月のお人形をお済ましになりますと、もうそろそろ三月三日のお節句の人形にお取りかかりになるのでした。  博多の店に二三軒中等物の約束があり、又田舎からも極安ものを二百でも三百でも出来るだけドッサリ頼んで参ります。又二月になりますと、上物を好み好みにわけて店から頼んで参りますので、二月も末になりますと、お母様のお忙がしさは眼に余るようで、徹夜をなさる事も珍らしくありませんでしたので、私はいつの間にかお父様のふところに抱かれて寝ている事が多いのでした。  三月になって、やっと安心してお母様に抱かれることが出来ると思います間もなく、梅雨の間に機織り、夜具の洗濯、一年中の晴れ着の始末をなさるのですが、その間にも裁縫や刺繍を頼んで参りました。そうして六月に入るとポツポツ八月のお節句の人形に取りかかられます。福岡の習慣として三月過ぎに生まれた女の子は八月に祝うのですけれど、何となくハズミがつきませぬので、お母様はさほどお忙がしくなかったようです。  八月になりますと、もうお正月の押絵の用意ですが、その頃は今のようにボール紙がありませんので、お母様が屑屋に頼んで反古紙を沢山に買って合わせ紙というのをお作りになるのでしたが、それが又大変で、秋日のさすお庭から畠から、お縁側まで一パイに干してあることがよくありました。そんな時にお父様は、その頃まであった緡につないだお金をお座敷に並べたり、又緡につなぎ直したりなさりながら、 「せめてその加勢でも俺に出来るとナア」  とよく云われました。お父様の手は畠仕事で荒れておりますので、糊の付いた紙をお扱いになるとじきに引っかかったり、まつわり付いたりして、お母様がお一人でなさるよりも却って手間取るのでした。  私もお母様のお忙がしさを見るにつけて、お手伝いをして差し上げたいのは山々でしたが、どうしたわけか同じ指を持ちながら、お母様のような縫い針やお洗濯が一つも出来ず、ただ、字を書く事と、お琴を弾くことが人並外れて好きなだけでした。そうして毎日川向うの賑やかな川端筋にあるお琴の先生の処へ学校の帰りにお稽古に寄るのでしたが、そのお復習をうちへ帰って、お父様とお母様の前でするのが又、何よりも楽しみで御座いました。お二人とも私を喰べてしまいたいほど可愛がっておいでになりましたので、私が弾くたんびにお褒めになっては、いろいろなお菓子を御褒美に下さるのでした。 「コヤツは俺のお祖母様の血すじを引いとるらしい。今にあの阿古屋のように琴が上手になるじゃろう。弾く手つきまでがあの押絵の通りじゃ」  とお父様がよく仰有いました。  けれども不思議なことに、お父様のそのような事を仰有るたんびに、お母様は、はかばかしく御返事をなさいませんでした。只「エエ」とか「ハア」とか弱々しい返事をなすって、あの淋しいような悲しいような微笑をなされながら、針や絵筆を動かしておいでになるのでした。時々は眼の中に涙を溜めておいでになる事さえありました。  けれどもお父様はそんな事を一度もお気付きになりませんでしたようです。ただ私だけがとっくに気が付いておりまして、子供心にいつかはお母様にお尋ねしてみようみようと思いながらツイそのままになってしまいました。  そのうちに私は十二歳の春を迎えました。お父様が三十八で、お母様が二十九におなりになりましたが、このころはもう余程うちの都合がよくなっておりましたらしく、お父様は家の処々を修繕なすったり、犬や猫が畠を荒らさぬように家のまわりの生垣を取り払って、その頃|流行り初めました赤い煉瓦の塀にしたりなすったので、何もかも見ちがえるように立派になりました。その中を親子三人で見まわりながらお父様は、 「なぜコヤツの下が生れぬのじゃろか。今一人か二人か居らんと家が広過ぎるがなあ」  と云われた事がありましたが、その時もお母様は何ともいえない暗いような冷たいような顔をなすった事を、おぼえております。  うちがこのように立派になりましたにつれて、お母様も前のように安いお仕事ばかりをお引き受けにならぬようになりました。お稽古に来る近所のお弟子にお教えになる外は、極く上等の押絵や刺繍のようなものばかりを作っておいでになりましたが、それでも中々沢山ある上に、手間の安い仕事の五倍も十倍もかかるような物ばかりなので、お忙がしくないように見えて、なかなかお骨が折れるのでした。その押絵のメンモクはやはり皆、私とお母様の眼鼻が入れ交っておりますので、上等のものであればある程、お母様は私の眼鼻をよけいにお使いになるので子供心にも不思議に思い思いしておりました。  けれどもその中に、タッタ二度ほど、お父様のお顔をお使いになったことがありました。  それはどちらも私が十二歳になりました春の事で――初めの時は、大阪の或る店から外国の金持ちに売るのだと申しまして、金の額ぶち入りの押絵を頼んで来たのでしたが、その時にお母様はいろいろ工夫をなされまして、外国の事だから、日本の人物よりはというので支那三国志の関羽、張飛、玄徳の三人を極く念入りにお造りになりました。それについてその顔のお手本は錦絵の通りにしますと関羽が団十郎、張飛が左団次、玄徳が円蔵ということになっておりましたが、その錦絵はもうスッカリ鼠色にボヤケてしまった昔の版でありましたために、お母様のお気に入らなかったのでしょう。お父様に頼んで、火鉢の前に坐って頂いて幾つも幾つも顔を書きかえておいでになりました。その時に、 「俺は貴様の押絵になって外国へ行って異人どもを睨み殺してくれるのじゃ。……こういう風に……」  と云いながらお父様が不意に立て膝をなすって、ヒンガラ眼をしてお母様をお白眼みになりましたが、そのお顔の怖ろしかった事……私もお母様もハッとして飛びのいたほどで御座いました。そうして、そのあとで三人が笑いこけました時の可笑しかったこと、私は死ぬかと思いました。 「まあまあ御覧なさい。筆が火鉢に落ちました」  と云いながら、お母様が灰だらけの毛書き筆を火箸でお拾いになりましたので、三人は又涙の出る程笑いこけましたが、お母様がこんなに心からお笑いになるのを見ましたのは、後にも先にもこの時だけであったように思います。  こうして顔が出来上りますと、それに鬚や髪の毛を植えて、関羽と張飛は眉まで植えまして、お母様のお得意の浮き出し人形が出来上りますとその厳めしさと立派さは眼もさめるようで、ことにその中でも張飛の眼は、お父様に生き写しのように思われました。それを聞き伝え云い伝えして見に来る人が又沢山にありましたが、その中にはあのお金持ちの柴忠さんも見えまして一生懸命に力んで感心をしながら、こんな事を云われました。 「どうも奥さんのお手並には今更ながら感心しました。失礼ですがこの前の阿古屋の琴責めの時よりもズンと名人におなりになったようです。つきましては、お忙がしうも御座いましょうが今一つこの通りのを作って頂いて博多ッ子の氏神の櫛田神社にあの阿古屋の琴責めと並べて奉納致したいと思いますが如何でしょうか。実を申しますとこの前の阿古屋のお人形を家に置いておきますと、そのためのお客がうるさくてたまりませんので、娘の名前で櫛田神社に奉納したのですが、その当時はあれを見に来る人のために、お宮の賽銭が違ったと申す位で……イヤイヤ決してお世辞を云うのでは御座いませぬ。流石に博多は諸芸の都だけあると皆、感心をしておりましたので……そこへちょうど私が櫛田様へ御願を立てて運動に取りかかりました株式の取引所が、このごろ鰯町の私の地所に来る事になりましたので、その御願ほどきのために奥様の押絵を上げましたならば神様もきっとお喜びになる事と思って伺いました次第です。よい錦絵が御入用なら何程でも取り寄せて差上げます。この頃は汽車というものがありますから、東京へ電報を打てば十日足らずで着きますから」  というようなお話でした。  その時のお母様のお喜びになった御様子は今でも眼に残っております。手を揉み合せて顔を真赤にして、さも心配に眼を潤ませて、お父様の御返事を待っておいでになる物ごしが、まるで赤ん坊のようにイジラシク見えました。  お父様は直ぐにお許しになりました。しかも大乗気の御様子で、 「奥はわしの顔を手本にしてこの三国志の人形を作ったのでナ」  とその時の模様を大自慢でお話しになりましたので、お母様は恥かしがって真赤になったままお台所の方へ逃げておいでになりました。私もすぐにあとから追っかけて参いりましたが不思議なことにお母様は、いつの間にか青い顔におなりになって、台所の上り口に腰をかけてシクシク泣いておいでになりましたので私もビックリしました。そうしてどうなすったのかと思ってお傍へ行ってお顔を覗き込みますと、お母様はもう大きくなっている私の身体を赤ん坊のように抱き寄せて、私の鼻のお化粧を鼻紙でお直しになりながら、 「私は錦絵さえいただけばお金なんか要らんのに、お父様はいつまでも慾の深いことばかり仰有って………」  と、さも口惜しそうに唇を噛んでホロホロと涙をお流しになりました。その時にお座敷の方から、お父様と柴忠さんの大きな笑い声が聞こえて来ましたので、私も急に悲しくなりましてお母様と抱き合って泣いたことを記憶えております。  それから何日か経ちますと東京から大きなお菓子の箱みたようなものが、お母様のお名前で送って来ましたから、お父様が釘抜きと金槌で開いて御覧になるとどうでしょう。その中には錦絵が一パイに詰まっているのでは御座いませんか。 「まあ……これ……みんな絵ばかり……」  と仰有って真青になったまま口紅の処を押えておいでになるお母様の小指がワナワナとふるえていたのを私はハッキリとおぼえております。  その錦絵の美しかったこと……そうしてその紙と絵の具の匂いの何ともいえずなつかしう御座いましたこと……ちょうど夏になり口で十畳のお座敷のお縁が一パイに明け放してありましたが散り拡がった錦絵の色と香いで、そこいら中が明るくなったように思いました。まずお父様が御覧になった絵を私が見てお母様にお渡しするのでしたが、三人共申し合わせたように溜め息をしては褒め、ほめては溜め息をしておりますうちに、ついお昼の御飯をいただくのを忘れてしまった位でした。  その中には関羽、張飛、玄徳の三枚続きの絵が二三通りありましたが、みんなお母様のお持ちのと違って絵の具が眼の醒めるように美しくて、金や銀の色がピカピカ光っておりました。これをお母様がお作りになったらどんなにか綺麗だろうと思っておりましたが、お母様は案外にも、そんな絵の中から八犬伝の中で犬塚信乃と犬飼現八と捕方三人を描いた五枚続きのをお選り出しになりました。 「私はこれを作って見とう御座います。そうしてこの屋根の瓦と、現八の前垂れを本物のようにして見とう御座います」  とお父様に御相談をなさいました。  お父様もその時に一寸案外という顔をなすったようですが、 「ウン。それもよかろう。どれ見せろ」  と仰有って信乃と現八の顔をウットリと見ておいでになりました。  けれどもその信乃の顔を横からのぞき込みました時の私の驚きはどんなで御座いましたろう。  その顔のすぐ横にある赤い小さな短冊の中には中村|珊玉という四文字が書いてありましたので、あなたのお父様が御改名をなすったことを存じませぬ私は、別の人かしらんとチョット思ったので御座いました。けれども、それでもあの阿古屋の顔を左向きにして、男らしい長い眉をつけただけで、ソックリそのまま信乃の顔になることが子供心にすぐとわかりました。それと一緒に、お母様がその錦絵をお選みになったホントのお心持ちが初めてわかったような……けれどもまた、あからさまにはわからぬような……不思議なような恐ろしいような……そうしてそのわけを打ち明けて、お母様にお尋ねする事も出来ないような息苦しい気もちに打たれて、私の小さな胸がどんなにワクワクと致しましたことでしょう。けれどもその時の私には、そんなにまで深く自分の気もちを考えてみるような力はありませんでした。ただ何かしら悪い事をしたのを隠しているような怖い怖い気持ちになって、お父様とお母様の顔を見上げる事も出来ないままに、お煙草盆の頭を傾けながら一心に、信乃と現八の顔を見比べていたように思います。  もっともその時にもお父様は、何もお気付きにならなかったようでしたが、おおかたそれは、あなたのお父様のお名前がかわっていたせいで御座いましたろう。 「この瓦をどうして本物の通りにするか」  なぞとニコニコして、お母様に尋ねておいでになったように思います。  お母様はその日からその五枚続きの絵を雁皮紙に写し取って、合わせ紙に貼り付けたり切り抜いたりして、お仕事にかかられまして五日目には立派に仕上ったのを楠の一枚板に貼り付けておしまいになりました。  その楠の板は木目が雲のようになっておりまして、その上に芳流閣の金の鯱鉾と青い瓦とが本物のように切りつけられておりました。その金の鯱の前に片膝をついて刀を振り上げている信乃の顔は、お母様が私の眼や鼻をソックリ男のようにお描きになりましたもので、それに向い合って身構えている現八の顔にはお父様の眼と鼻が生き生きと睨みかえっておりました。わけてもその現八の前垂れの美しかったこと……それはスッカリ本物の通りの刺繍をお入れになったので……こればかりで一寸四方いくらの値打ちがある。櫛田神社の絵馬堂に上げても盗まれぬように工夫せねば……と見に来た柴忠さんが云っておられたそうです。  その押絵は、その春の末、博多で名高い山笠のお祭りのある前に櫛田神社の絵馬堂にあがりました。その額はやはり柴忠さんの工夫で厚い硝子張りの箱に封じた上から唐金の網に入れて、絵馬堂の東の正面に、阿古屋の琴責めの人形と並んで上がったのですが、檜の香気のために、何もかも真白になる程色が落ちている阿古屋の人形と見比べますと、ホントに眼が醒めるようで、一時は絵馬堂が人で一パイになるくらい評判が立ったそうで御座います。  するとその評判をお聞きになったものかどうか存じませぬが、お父様は、忘れもしませぬ明治二十四年の五月二十四日のお昼前に、 「俺はちょっとその見物人を見て来る」  と仰有って新しい飛白の着物にいつもの小倉の角帯を締めてお出かけになりました。  その日は太陽がカンカン照っておりましたが、お父様は、 「雨になるかも知れぬ」  と云って大きな白ケンチウ張りの洋傘を持って、竹細工の山高帽を冠って、中足高をお穿きになりました。私も行きたいと思いましたがお父様が、 「人が大勢居ると危ないから又連れて行ってやる。土産を買うて来てやるから待っとれ」  と云い棄てて川端を水車橋の方へお出でになりました。そのニコニコと歩いてお出でになった横顔を私は今でも眼の前に思い浮かめることが出来ます。  お父様をお見送りしますと私は、お床の間に立てかけてあった琴を出して昨日習いました「葵の上」の替の手を弾きはじめました。お母様はお台所で髪を上げておいでになったようですが、私が「葵の上」を弾いて、「青柳」を弾いて、それから久しく弾かなかった「乱」を弾きますと指が疲れましたので、四角い爪をいじりながら西向きのお庭の泉水に咲いているお父様の御自慢の花菖蒲をボンヤリ見ておりましたが、今までカンカン照っていたお日様に雲がかかったかしてフッと暗くなりました。お台所の物音も止んでいたように思います。  その時に玄関の格子戸を荒々しく開く音がして誰か這入って来たようでした。私は何故ともなくハッとして立ちかけると間もなく、お父様がツカツカと這入ってお出でになりましたので私は又ビックリしまして、 「お帰り遊ばせ」  と手を支えました。このような事は今までに一度もありませんでしたので、いつもお帰りの時には玄関にお立ちになって、 「おお……今帰ったぞ」  とお母様をお呼びになるのでした。  お父様のその時のお顔はまるで病人か何ぞのように血の気がなくて幽霊のようにヒョロヒョロしておいでになったようです。そうして平生のように私の頭を撫でようとなされずに、ドスンドスンと私の琴を跨ぎ越して、お床の間に置いてある鹿の角の刀掛の処にお出でになって、そこに載せてある黒い長い刀の鞘を抜いてチョッと御覧になりました。  それを又元の処にお架けになると、今度は怖い怖い、今思い出しても身体の縮むような眼つきをしてジーッと私の顔を御覧になりましたが、やがて気味のわるい笑みをお浮かべになりながら、ふるえる私をお抱き上げになって、又お床の間の前に来てお坐りになりますと、やはり私の顔を見入っておいでになりました。口元が見る見るうちに、わななき歪んでその大きな眼から涙をポロポロとお落しになりました。  私は泣くには泣かれずに、唯、怖いような悲しいような思いで一パイになって、お父様の顔ばかり見ておりました。すると、お父様は何とお思いになりましたことか、突然に私を突き放しざま、私の左の頬を力一パイお打ちになりましたので、私は畳の上にひれ伏したまま、ワッと大きな声を立てて泣き出しました。私がお父様に打たれましたのは後にも先にも、これが初めてのお終いでした。 「まあ……あなた……何をなさいます」  という声が台所の方から聞えて、お母様が走ってお出でになる気はいが致しました。それで私は起き上ってお母様の方へ行こうとしましたが、いつの間にか私はお父様から帯際を捉えられておりまして、息が止まるほど強く畳の上に引き据えられました。その拍子に私は、あまりの恐ろしさのためから泣き止んでしまったように記憶えています。  お母様は結い上げたばかりの艶々しい丸髷に薄化粧をして、御自分でお染めになった青い帷子を着ておいでになりました。そうして手を拭いておられた紙を左手の袂に入れながらお座敷の入り口で三ツ指をついて、 「お帰り遊ばせ……まあ……あなたは何故そのようなお手荒いことを……」  と云いながら私に近寄ろうとなさいますと、私の背後から、お父様のお声が大砲のようにきこえました。 「……黙れッ。……そこへ坐れッ」  お母様はビックリした顔をなされながら素直にお坐りになりました。そうして両手を支えながら、 「ハイ……」  と云い云い私の打たれた頬と、お父様のお顔とを見比べておいでになりました。けれどもまだ涙はお見せになりませんでした。 「もっとこっちへ寄れッ」  とお父様は押しつけるように云われました。 「ハイ……」  とお母様はしとやかにお進みになって、丁度十畳のお座敷のまん中近くまで来て又、三ツ指をおつきになりました。  お父様は黙ってお母様の顔を睨んでおいでになるようでしたが、私はお母様の方に向けられて足を投げ出したまま、帯際をしっかりと捉えられておりましたので見えませんでした。  お母様も一心に、お父様の顔を見ておいでになりましたが、その大きな美しい眼で二度ほどパチパチと瞬をされました。 「……キ……貴様は……ナ……中村半太夫と不義をした覚えがあろう」  というお父様の声が、間もなく私のうしろから雷のように響きました。私の帯を掴んでおられるお父様の手がブルブルとふるえました。 「あっ……まあ……」  とお母様は眼を大きくして驚きさま、うしろ手をつかれましたが、たちまち膝の前に両袖を重ねてワッと泣き伏しておしまいになりました。  お父様は黙ってその姿を見ておいでになる御様子でしたが、暫くして又今度は低い押しつけるような声で、静かに云われました。 「おぼえがあろうの……」 「エエッ……ぞんじがけもない……夢にも……マア」  とお母様は青白い顔と、紅くなった眼をお上げになりました。 「黙れっ」  とお父様のお声は又、雷のように私のうしろからはためきました。私の右の耳がジイーンと鳴る位でした。 「おぼえがないとて証拠があるぞッ」  お母様はそう云われるお父様のお顔をジッと御覧になりながら、飛白の前垂れの上に両手をチャンと重ねて、無理に気を落ちつけようとしておられるようでしたが、その悩ましくも痛々しいお姿を私は死んでも忘れますまい。けれどもお母様のお声はいつもと違って、ふるえてカスレておりました。 「……ど……どのような……」 「黙れ黙れッ。どのようなとは白々しい……あの櫛田神社の犬塚信乃の押絵の顔は誰に似せて作ったッ」  お母様は長い長い溜め息をホーッとなされました。静かに私の顔を見ながら云われました。 「そのトシ子に肖せて作りました」 「そのトシ子の……こやつの顔は誰に似ている」  と云うなり、お父様は両手で私のお煙草盆に結っている頭をガッシと掴んで、お母様の方へお向けになりました。 「エエッ……」  というお母様の声だけは聞こえましたが、私の左の眼に、お父様のどの指かが這入りまして、ビクビクと痛みましたので私は眼をあけることが出来なくなって、お父様の手を掴まえて藻掻いておりました。そのうちにお父様の声は、なおも続きました。 「俺は今日がきょうまで知らなんだ。けれども最前あの櫛田神社の額を見ながら、人の噂をきいているうちに、あの犬塚信乃の押絵の顔が、中村半太夫の舞台に生き写しであることがわかった。そればかりでない。貴様の作った人形の顔が上物になればなる程、中村半太夫に似ていることも、そこに居った人の噂で初めて気が付いた。コヤツの眼鼻立ちが中村半太夫と瓜二つになっていることは近所の子守女まで知っていることもあの絵馬堂で初めてきいた。……この年月貴様に子が生まれぬわけも今はじめてわかった。……キ……貴様は、よくもよくもこの永い間俺に恥をかかせおったナ」  こうした声が響き渡るうちにお父様は片方の手を私の頭から離されましたので、私はやっと眼を開くことが出来ました。  お母様は畳の上に両袖を重ねて突伏しておられました。そうして声を押えて泣き続けておいでになりましたが、不思議と一言も云い訳をしようとはなさいませんでした。  私は、いつもお父様がカンシャクをお起しになった時のようにお母様はすぐにお詫びになることとばかり思っておりましたけれども、お母様はこの時ばかりはどうした訳か只お泣きになるばかりで、しまいには、その声さえ包まずに心ゆくばかり泣いておいでになったようです。  その声をジッと聞いておいでになったらしいお父様は、やがて武士らしい威厳のある声でこう云われました。 「おれは覚悟した。貴様の返事一つでは、その場を立たせずにこの刀で成敗をしてくれる。先祖の位牌を汚した申訳にするつもりだ。サア、返事をせぬか」  と云いながらお父様は私の頭から手を放して、又帯際をお掴まえになりました。  その時にお母様はピッタリと泣き止んで静かに顔をお上げになりました。うつむいたまま紺飛白の前垂れを静かに解いて、丁寧に畳んで横にお置きになって、それから鼻紙でお顔の乱れを直して、ほおけかかった髪を丸櫛で、掻き上げてから、やおら眼をあげてお父様を御覧になりましたが、その時のお母様の神々しかったこと……悲しみも、驚きも、何もかもなくなった、女神のような清浄なお方に見えました。  お母様はそれから両手をチャンと、畳の上に揃えながらジッとお父様のお顔を見上げながら云われました。 「申訳御座いません……お疑いは御尤もで御座います」  と云ううちに新しい涙がキラキラと光って長い睫から白い頬に伝わり落ちましたが、お母様はそのまま言葉をお続けになりました。 「どうぞ、お心のままに遊ばしませ。私は不義を致しましたおぼえは……」 「何ッ……何ッ……」 「不義を致しましたおぼえは毛頭御座いませぬが……この上のお宮仕えはいたしかねます」 「……………」 「お名残り惜しうは御座いますが、あなたのお手にかかりまして……」 「何ッ……何じゃと……」  と云いつつお父様はグイグイと私を、おゆすぶりになりました。  お母様はハフリ落つる涙を鼻紙でお押えになりました。 「ただ、そのトシ子だけは、おゆるし下さいますように……。それは正しくあなた様の……」 「何をッ……又してもぬけぬけと……」 「イイえ……こればっかりは正しく……」 「エエッ……まだ云うかッ……」 「イエ……こればかりは……」 「黙れッ……ならぬッ」  とお父様が仰有る途端に私を、お突き放しになりましたので、私はバッタリと倒れて、お琴の上にひれ伏しました。それと一緒に琴柱が二つか三つたおれてパチンパチンと烈しい音がしたように思います。  私はこれから先の事を書くに忍びませぬ。  けれどもこれから先の事を書きませぬと、何もかも疑問のままになると思いますから、記憶えております通りに記し止めさして頂きます。  私がようやっと、お琴の上から起き直りました時には、畳の上に正座して、両手を膝の上に置いたまま、うなだれておいでになるお母様と、それに向い合って、突立っておいでになるお父様のお姿が、暗いお庭を背景にして見えましたが、その時にお父様は、右手に刀を提げておいでになった筈でしたけれども、その刀はお父様の身体の蔭になって、私の目には這入りませんでした。只、お母様のうしろの壁に、赤い花びらのような滴りが、五ツ六ツ、バラバラと飛びかかっているのが見えましたが、その時は何やらわかりませんでした。  そのうちにお母様の白い襟すじから、赤いものがズーウと流れ出しました。……と思うと左の肩の青いお召物の下から、深紅のかたまりがムラムラと湧き出して、生きた虫のようにお乳の下へ這い拡がって行きました。お母様の左手にも赤いものが糸のように流れ出していたように思います。それと一緒に、その青いお召物の襟の処が三角に切れ離れて、パラリと垂れ落ちますと、血の網に包まれたような白いまん丸いお乳の片っ方が見えましたけれども、お母様は、うつ向いたままチャンと両手を膝の上に重ねて坐っておいでになりました。  私はその時に夢中になって、お母様に飛びついて行ったように思います。それをお母様はお抱き寄せになったようにも思いますがハッキリとは記憶致しませぬ。その時に、私の背中と胸へ、何か火のように熱いものが触ったように思いながら、お母様の上へ折り重なって倒れたようにも思いますが、これとても夢中になっておりましたのですから、どんな気もちだったかハッキリとは思い出し得ませぬ。どちらに致しましても私は、それ切り何もかもわからなくなりましたので、気がつきました時にはどこかの病院の寝台の上に寝かされて、白い着物を着た人達に取り巻かれておりました。  お母様の肩を斬られたあとで、お母様と私とを一緒に突き刺されたお父様の刀は、私の肺を避けておりましたので助かったのだそうで御座います。けれどもお母様は心臓を貫かれておいでになりましたので、その場で絶息しておいでになったそうですが、それでも片手で、シッカリと私を抱き締めておいでになったということで御座います。  又、お父様は、そのあとで、袴をお召しになって、納戸のお仏壇の前で見事に切腹しておいでになったそうですが詳しい事は存じません。  あとあとの事は、何もかも柴忠さんが始末をして下すったそうですが、その時の事を誰が尋ねましても、柴忠さんは苦い顔をして返事をなさらぬとの事で御座いますから、私も気をつけまして、柴忠さんにだけは両親の事を尋ねないように致しておりました。  私はお乳の下の傷が治りましてから後、丸三年の間、博多大浜の芝忠さんのお宅にお厄介になっておりました。それから福岡の小学校へ通わして頂いたので御座いますが、その間の芝忠さん御夫婦の御親切というものは、それはそれは筆にも言葉にも尽されませんでした。わけても私のお母様が阿古屋の押絵人形を作ってお上げになったお嬢様には、もう御養子がお見えになっておりましたが、お二人とも私を親身の妹のように可愛がって下さいました。  けれども私は十六の年の春に高等小学校を卒業致しますと間もなく、思い切って芝忠さんにお暇を願って東京の音楽学校に入る決心を致しました。それは、ちょうどその頃に、大浜から程近い市小路という町に在ります教会で、オルガンというものを弾き習いまして、西洋音楽というものが面白くて面白くてたまらなかったからで御座いましょうが、今一つには、もうこの上にどんなに辛棒しようと思いましても、生れ故郷の福岡には居られないような気持ちになったからでも御座いました。  そのわけと申しますのは、ほかでも御座いませぬ。……あれは新聞に出た不義者の子よ……東京一の女形俳優と、福岡一の別嬪夫人の間に出来た謎の子よと、指さし眼ざしされておりますことが、成長いたしますにつれてわかって来たからで御座いました。  学校の修身の時間なぞに、先生が何の気もなく貞女のお話なぞをしておられまするうちに、私の顔を御覧になるとフイと妙な顔になって、口を噤まれました時の心苦しさ。切なさ。子供ながらに級全体のお友達の視線が、私の身体に焼きついているように思って、うつむいて泣いておりました時の情なさ。 「こちらには中村半太夫の舞台姿にソックリの娘さんが居るそうですが、チョット見たいものですネエ」  というお客の声に対して柴忠さんが、 「ヘエ。それは今お茶を持って来ましょうから、その時によう御覧なさいませ。ハハハハハ」  と力なく笑われる声を、障子の外で聞きまして、そのまま、お納戸に隠れて泣き伏しました時の口惜しう御座いましたこと。  それから又、私はすこし大きくなりますと、身体の疵を人に見られるのが恥かしくてたまらないようになりましたので、ソッと奥様にお願いしまして、わざと夜中過ぎに、奥のお湯に入れていただいておったので御座いますが、或る冬の夜のこと、切り戸の外で、 「見えようが……」 「ウン。見える見える。恐ろしい大きな疵ばい。ナルホド……」  というような下男たちの囁きが聞こえましたので、そのまま浴槽のなかに首まで沈みながら、お湯が冷たくなるまで我慢しておりました時の情のう御座いましたこと……あとでふるえながら夜具の中にちぢこまって、夜通し寝もやらずに泣いて泣いて泣き明かした事でございました。私のお母様に限ってそんな事をなさる筈がない……と幾たび思い直そうとしましても、私の眼鼻立ちが中村珊玉様の舞台姿に似ているという事実ばかりは、どうにも致しようがないのでした。  そればかりでは御座いません。私が東京に行こうと決心致しましたに就きましては、私自身にもわかりませぬ、もっともっと不思議なわけがあるので御座いました。  私はそんな風にして泣かされているにはおりましたものの、それでも毎晩お終い湯に這入りましてお掃除を済ましたあとで、お湯殿の姿見鏡をのぞいて見ないことは御座いませんでしたが、その中に、いつからともなく奇妙な事に気がつきはじめました。それは私の思いなしか、それともその日その日の気もちから来たことも御座いましたでしょうか。そんな風にして柴忠さんのお家中が寝静まられた後に、たった一人でお湯殿の鏡に向い合っておりますと、その中に映っております私の顔が、だんだんとあなたのお父様に似て参りますばかりでなく、あの櫛田神社の絵馬堂の額になっております犬塚信乃の顔と、阿古屋の顔と二つのうち、どちらか一つに似て来ますので、それが又、日によりまして昨日は信乃の顔……今夜は阿古屋の顔という風に、まるで感じが違っている事に気がついたので御座いました。  それは何とも申しようのない……ただ私一人だけしか気づいておりませぬ不思議な出来事で私は毎晩毎晩それを見るのが、云うに云われぬ一つの秘密の楽しみにさえなって来たので御座いました。何だか存じませぬがそうした事が、みじめにも短かい一生をお送りになったお母様の、人間の世界に対する復讐ではないかとさえ思われて来まして、われと自分のやわらかい、あたたかい頬を押えながらゾーッと致しますことがよくありました。  私は普通の女の子ではない。お母様のこの世に残された思いの固まりなのだ。……この上もなく美しく、又となくむごたらしい目に遭いながら、何も仰有らずにお果てになったお母様のお心が、そのままに私の姿にあらわれているのだ。私はこうしたお母様の怨みが尽きるまで生きておればそれでよいのだ。……ああお母様……私はこうして達者に生きております。……けれども……けれども私はこれからどうしたらいいのでしょうか。……ああお母さん……。というような気持ちを鏡の中の自分の顔に問いかけながら、涙を流したことも度々で御座いました。  そうかと思いますと……お笑いになるかも知れませんけど……そんなにして泣きましたあとで、嬉しいのか悲しいのかわからぬ空っぽのような気もちになりますと、鏡の中の自分の顔をあの唇を噛みしめて刀を振り上げている勇ましい信乃の表情にしてみたり、琴を弾いている阿古屋の悩ましい姿にしてみたりして遊んでは、たった一人で気持ちよくホホと笑うことさえありました。そうして、それがお母様の世間に対する腹癒せであるかのように思われまして「不義者の子」という名前が、何ともいえず気持ちよくさえ思われて来るので御座いました。  こんな事まで申上げて、失礼とは存じますけれどこれは私の十二の年から十四五歳になります間のことで、私が何となく、男の方の御親切を喜ばぬような性質になりましたのも、その頃の事ではなかったかと思われるので御座います。  けれども、そのうちに十四五にもなりますと、私の気もちが又いくらかずつかわって来たように思います。  今も申しましたようにその頃までは毎晩|家中寝静まられましてから、たった一人でお湯殿の鏡台の前に坐るのが、私の秘密の楽しみのようになっておりました。そうして毎夜毎夜そのような物思いをくり返しては、泣いたり笑ったりしないことは御座いませんでしたが、そのうちにフト鏡の中の私の顔の輪廓が、どことなく亡くなられたお母様にも似て来たのに気が付いてビックリすることが度々あるようになりました。それは前とちっとも変らぬ眼鼻立ちでありながら、心持ち面長になって、頤や、襟すじに、ほの白い青味がかって参りますと、お白粉なぞはちっともつけないままに、そのあたりがお母様と生きうつしの恰好に見えて来るので御座いました。毎日毎日見るたんびに、それがハッキリとわかって参りまして、しまいには、あの犬塚信乃と阿古屋の眼鼻や唇をつけたお母様が、チャンと鏡の中に、御坐りになって私を見ておいでになるとしか思えない位になって参りました。  そのお母様のお姿は、又、奇妙にも、あのお父様からお斬られになるすこし前の、何ともいえない神々しい、清らかなお姿に見えて来てしようがないので御座いました。そうして、そのお姿を一心に見つめておりますと、そのうちに、その鏡の中のお母様の唇が、おのずと動き出しまして、その間際に仰有ったお言葉が凜々とすき透って、私の耳に響いて来るのでした。 「私は、不義を致しましたおぼえは毛頭御座いませぬ……けれども、この上のお宮仕えはいたしかねます」  というように……。  そのお声をきくたびに、私はいつもハッとして、うしろを振り返らずにはおられませんでした。そうして、そこいらに誰も居ないことをたしかめますと、今一度自分の口の中で、こうしたお母様の謎のようなお言葉をくり返しながら、あの時にお母様がお流しになった通りの涙を、ホロホロと流さずにはおられないのでございました。  私はそれから、だんだんと鏡を見るのが怖くなって来ました。鏡の中に映っております私の顔が、世にも不思議な気味のわるいものに思えたり、そうかと思いますとこの上もなくなつかしいものに見えたりしますので、その都度に鏡というものが、世にも取り止めのない、馬鹿らしいような、恐ろしいような、又はたまらなく苛立たしい品物のように思われてならないので御座いました。しまいには学校の行き帰りに、よその店の硝子窓を見てさえも悲しくて気味わるくて、胸がドキドキするようになりました。そうしていつからともなく、  ……もうどんな事があっても鏡というものを見まい。お化粧もしまい。髪も引き詰めてグルグル巻きにしておきましょう。そうして、あのお母様の謎のようなお言葉のホントウの意味がわかるまでは結婚というものをしまい。  私は直ぐにも東京に上って「中村珊玉様」にお眼にかかって「私は不義を致しましたおぼえは毛頭御座いません……けれどもこの上のお宮仕えは致しかねます」とキッパリ仰有ったお母様のお言葉の意味を説き明かして頂きましょう……そうして私がお母様の不義の子でないことをハッキリとたしかめるまでは、死んでも男の方の御親切を身に受けまい……  というような男のような、気もちになってしまいました。  こうした決心を致しますと、私はある夕方ソッと柴忠さんの家を脱け出しまして博多築港の石垣の上に参りました。そうしてたった一つ持っておりました粗末な懐中鏡を帯の間から取り出しまして自分の顔とお別れを致しますと、青々と満ちております汐水の中に投げ込みました。そうしてその鏡が一丈ばかり深く、丸いゆるやかな波に揺られて、キラキラと光りながら底の方に見えなくなるまで見送っておりました。  それが私の十六の年の春で御座いました。  柴忠さんは、このような私の勝手なお願いを快よく聞き入れて下さいました。 「それは結構なことと思います。ちょうど東京の音楽学校の講師で、帝大の教授をやっている岡沢というのが、私の幼友達ですから、それに紹介状を書いて上げましょう。気心のいい夫婦者ですが子供がないのですから喜んでお引きうけするでしょう。中洲のおやしきを売ったお金は私がお預りしておりますから、御入用の時はいつでも云ってよこして下さい。それから、これは私の寸志ですが、これだけは盗まれぬようにして肌身につけておいでなさい。他国に旅行くと万一の事が多いものですから……それにあなたはもう只今では、井ノ口家の一粒種になっておられるのですからね……」  というような何から何まで御親切なお言葉で、旅費のほかに、生れて初めて見ました百円のお札を一枚と紹介状を書いて下さいました。  その紹介状は開き封になっておりまして、柴忠さんから是非一度読んでおくように云われました。それから別に岡沢先生に宛てて柴忠さんから出される郵便の中味も見せて頂きましたが、どちらにも私の事を死んだ友人の一人娘と書いてありまして、両親の事なぞはすこしも洩らしてありませんでしたので、ほっと安心したことで御座いました。  女のつまりませぬくり言を長々と書きつけまして嘸かしお倦きになったことで御座いましょう。  けれども、その時の私は一生けんめいの思いで御座いました。そうしてそのせいか、門司から備後の尾ノ道まで乗りました汽船にも酔いもせずに、三日三夜かかって新橋に着きますと、岡沢先生御夫婦のお迎えを受けまして谷中の閑静なお宅に御厄介になりましたが、それから後というもの、今日は中村珊玉様をお訪ねしようか、明日は歌舞伎座へ行こうかと思いながらも、これという手蔓は愚か方角さえもわかりませぬ情なさ……と申して岡沢先生に、このようなことをお打ち明けする訳にも参りませず、途方に暮るるばかりで御座いました。それに東京のめまぐるしさと賑やかさと、とりあえず這入っておりました上野の仏和女学校の学科の難かしさと、それからもう一つ、生れて初めて岡沢先生に教えて頂いたピアノの面白さに夢中になってしまいまして一年ばかりは夢のように過ごしてしまいました。  そうして間もなく翌年の春になりますと、或るお夕飯時のことで御座いました。奥様のお酌で盃を重ねておられました岡沢先生が、思いもかけずこんな事を云い出されました。 「トシ子さんは、まだ歌舞伎座を見たことがなかったっけね」  私はその時に思わずハッとしまして、そう仰言った岡沢先生のお顔を見上げながら真赤になってしまいました。私の心の奥の奥に隠しております秘密を云い当てられたような気もちが致しますと一緒に岡沢先生が何かしらそんな事について御存じで、それとない御親切からこんなことを仰言るのではないかと思いまして……。  けれどもその横から何も御存じないらしい奥様が優しくお笑いになりました。 「マア。ホントニ。トシ子さんはもうすっかり東京通と思っていたら、大切の大切の歌舞伎座を落っことしていたわね。ホホホホ。何なら明日は日曜ですから連れてって下さいませんか。私もトシ子さんぐらい久し振りですから……」  すると岡沢先生も、何も御存じないらしくニコニコして二人の顔を御覧になりました。 「ウン。俺もそう思うとったところだ。歌舞伎座は田舎者が見るもの位に思うておったのじゃからツイ、ウッカリして忘れておった。ハハハハハ。しかし何ぼ何でも、そんな引っこき詰めのグルグル巻の頭では不可んぞ。伊豆の大島に岡沢の親戚があるように思われては困るからの……」 「……まあ。あんな可哀想なことを……」  そんな御冗談のうちに先生御夫婦はいろいろと私に歌舞伎芝居のお話をしてお聞かせになりました。音楽と劇の関係とか拍子木の音楽的価値と舞台表現の関係とかいうような、興味深いお話が、それからそれへと尽きませんでしたが、私はただもう上の空で、ともすれば出かかる溜め息を押え押え御飯を口に運んでおりましたので、みんな忘れてしまいました。ただその中で耳に止まりましたのは奥様から聞きましたお話で、明日の芸題の中心になっておりますのが、それこそ不思議な因縁と申すもので御座いましょう、あなた様のお家の芸となっております阿古屋の琴責めにきまっておりますこと。その阿古屋をおつとめになるのが私と同じ年で今年十七におなりになったばかりの中村半次郎|丈……外ならぬ貴方様で、そんなにお若くて立女形になられた俳優のお話は昔から一つも伝わっていないこと。そのお衣裳の重さが十三貫目もあるのを、そんなお若さで自由にお使いになるのが又、大変な評判になっていること。そうして此度の歌舞伎座の興行は昨年の春お亡くなりになった貴方様のお父様、中村珊玉様のお追善のためであったこと……なぞでございました。  私はその時に御飯を何杯頂きましたか、それとも一杯しか頂きませんでしたか、すこしもおぼえていないので御座います。ただ夢心地で岡沢先生御夫婦のお給仕をしながら外の事ばかり考えておりましたようです。  岡沢先生は「ウッカリして私に歌舞伎座を見せるのを忘れていた」と云われましたが、ホントウは私こそウッカリしておりましたので、何のために柴忠さんの処からお暇を頂きましたか、そうして何の目的で東京に参りましたのか。その時までスッカリ忘れていたでは御座いませんか。そうしてウカウカと致しておりますうちに、お母様の大切な秘密を唯一人御存じの中村珊玉様がお亡くなりになった事さえも気付かずにいたでは御座いませんか。これが一年前でありましたならば、こんなよい折は願ってもない筈でしたのに……そうして井の口の娘と名乗って中村珊玉様にお眼にかかる機会が出来たかも知れないのに……私は、まあ何という不幸者であったろうと思いますと、思わず口惜し涙が出そうになりましたので、そのままお湯を取りに行くふりをしてお台所の方へ行きました。  けれどもそのお夕飯後になりますと先生の御用で、二三町先の荒物屋の前まで郵便を出しに参りましたので、そのついでに私は大急ぎで遠まわりをしまして、裏町の小さな文具屋兼業の雑誌屋からその月の「歌舞伎時代」という雑誌を一冊買って参りました。そうしてお二階の私の室に帰りますと夕明りのさす窓際に坐って、怖いものでも見るようにソッと開いて見ました。  私は、それまでそのような雑誌に手を触れたことすらありませぬホントの田舎娘で御座いました。もっとも俳優の方のお名前は、ほかの方よりも沢山に存じておったかも知れませぬけれども、それはお母様の錦絵についておりました古い古いお方の名前ばかりで、近頃のお方のお名前は一人も存じませんでした。まして中村珊玉様に男のお子さんがおありになる事だの、それが私とおない年でおいでになる貴方様で、中村半次郎様と仰有る事なぞ夢にも存じませんでしたので、そうと知りますと、もう不思議なおなつかしさが一パイになりまして、まだ表紙を開きませぬうちから顔が熱つくなるように思いました。  申すまでもなく、あなた様と、お父様の、お素顔の写真を拝見致しましたのはその時が初めてで御座いました。そうして、まことに失礼では御座いますけれど、最初に大きく出ておりました貴方様のお父様の、十徳を召したお顔をジイと見上げておりますうちに、柴忠さんの処のお湯殿の鏡の中で見ておりました私の顔が、マザマザと浮き出して参りました時の私の胸の轟きはどんなで御座いましたでしょう。今更に不思議なような、恐ろしいような……そうしてたまらなくおなつかしいような……それでもそう思ってはならぬと……いうような何ともいえませぬ思いにわななきながら、いつまでそのお写真を見入っておりましたことでしょうか。  けれども、そうした私の思いは、その次の頁を開きますと一緒にかき消されてしまいました。  たとえ、ま昼に幽霊に出会いましたとても、私は、あの時ほどに慄るえわななきは致しませんでしょう。……その頁にやはり大きく七分身におうつりになっている貴方様のお洋服姿を拝見致しました時に、お母様の変装かと思うほどよく肖ておいで遊ばすことが、ただ一眼でわかってしまったので御座いました。その時に私は畳の上に両手をついて、あなた様のお写真を見入ったまま……不思議の上にも重なる不思議に、すっかりおびやかされてしまったので御座いました。そうして何もかもがわからなくなりましたまま、今にも気絶しそうに息苦しく喘ぎつづけていたように思います。しまいには両方の手首が痺れて来まして、髪の毛が顔の前に乱れかかって参りましてもやはり身動きすら出来ないままに次から次へと恐ろしい思いに迷いつづけていたように思います。 「私は不義を致したおぼえは毛頭御座いません」  と仰有ったお母様のお言葉をハッキリと思い出しながら……。  けれども、そのうちに室の中が真暗になってしまったのに気がつきますと、私はやっと気を取り直しました。机の端に置きました小ラムプに火を灯けまして、ふるえる指で目次にありましたあなた様の感想談のところを開いてみましたが、それを読んで行きますうちに私は、もう今にも声を立てて泣きたいようになりましたのを、袖を噛みしめ噛みしめしてやっと我慢し通したことで御座いました。  それは今度の追善興行につきまして、あなた様が雑誌記者にお洩らしになった御感想のお話でしたが、その時にお写真と一緒に切り抜いて大切に仕舞っておりましたのをここに挟んでおきます。古い事で御座いますからもうお忘れになっているかも知れぬと存じまして……。      初の大役「琴責め」 中村半次郎丈談  ありがとう存じます。  おかげで熱も出なくなりましたし、場合が場合ですから生命がけで勉強しております。  この阿古屋の琴責めというのは、当家の六代前の先祖で白井半之助というのから伝わっておりますので、父の代になってから方々で演じて、いつも当りを取ったものだと申します。着付はその代々の好みになっているのですが、父の代になりましてからは牡丹に蝶々ということに定めてしまいました。帯は黒地に金銀の唐草模様で、きまっていないのは襟だけですが、父のように黒とか黄とかいうような凝った渋好みのものは僕みたいに未熟な者には迚も使えませんから、もっとほかの古代紫か水色か何かにしようと思っています。父親の追善ですから白襟にしようかとも思っていますが、どうも僕の力では、そんな気分が出せそうにもありませんので、どうしようかと考えているところです。  十三貫目の衣裳の由来ですか……それは詳しい事は知りませんが、何でも僕が生れました年の正月から父は関西地方の興行に出かけまして、長崎から博多を打ち止めにして、三月のお芝居に間に合うように帰って来たそうです。その時にどこかで何かを見て感じたのでしょう。今度の旅行のお土産だといって、こんな衣裳を工夫し出しますと、これが一番いいというので一代改めなかったのだそうです。  しかし御承知の通り父はとても凝り性でしたので、指し図がなかなか八釜しくて職人は面喰い通しだったそうです。型の方も特にこの衣裳のために改めた箇所があります位で、初め「あずまや」と申しまして某家の御秘蔵品を模した唐織好みの草色の裲襠を着て出て来るのですが、琴にかかる前にうしろ向きになって、その裲襠を脱いで、正面に直るまでに衣裳の全体を皆様にお眼にかけるようになっております。  ところで、その牡丹の花の中で開いている五ツと、その上に飛んでいる三ツの蝶々は、造り物で浮かしてありまして、シグサのたんびにユラユラと動くようにしてありますので、衣裳に台座を作っておいて、裲襠を脱ぐ時に一々手早く止めさせるという凝りようです。そのほか、隅々まで舞台|栄えばかりを主眼にしてありまして、利き処利き処には無闇と針金や鯨鬚や鉛玉なんぞを使ってあるのですが、それでいてスッキリと、しなやかにという注文ですから職人もよっぽど屁古垂れたことでしょう。  父の方も元来が凝り性なのに、この衣裳ばかりは又特別で、うわごとにまで云う位だったそうで、スッカリ気に入るまでには小一年もかかりまして、僕が生れると間もない翌年の春狂言にやっと間に合った位だそうです。その前に父は二度ばかりどこかへ行きまして、この衣裳のお手本を見て来ていろいろ細かい指図をし直しましたし、春芝居の間際になってから、着付けと身体の極り工合を今一度見に出かけたと後になって僕に話しておりましたが、しかし、そのお手本の正体が錦絵だったか押絵だったか。又、それがどこに在ったものやら、そんな事は一度も話したことがありませんので、僕も今だに不思議に思っております。  それに皆様も御承知か存じませぬが、父はよく女に化けて旅行する癖がありましたそうで、ジミな十徳を着て、お高祖頭巾を冠って、養生眼鏡をかけますとチョットしたお金持ちの後家さん位に見えましたそうで、興行中でも何か気に入らぬ事がありますと、そんな風にして姿を隠して、太夫元が困っているのをすぐ傍から見ていて面白がったりしたそうです。ですからその時の旅行もキットそんな姿で汽車に乗って行ったのでしょう。父の姿を見かけたものは一人もなかったので、この衣裳のお手本の正体ばかりは、とうとうどこにあるのかわからず仕舞いになってしまいました。  そのうちに、その春興行の前後から父は眼に見えて健康を損ねて来ましたので、仕立屋なぞは衣裳の祟りだなぞと蔭口を云っていたそうですが、もともとひよわな体質なのに無理な旅行なぞをしたせいでしょう。そんな秘密の旅行もフッツリと止めてしまいまして、舞台に立つ時のほかは静養ばかりしながらやっと昨年の春まで持ちこたえて来たのです。  一方に僕もまた親ゆずりの病身者で、おまけに早くから母に別れた牛乳育ちの弱虫だったもんですから、父から伝えられました事は大抵|口伝ばかりと云っていいのでした。本当の仕込みは伯父さんと築地のお師匠さんのお蔭なのですが、それとても、身体が弱いために本当の勉強が出来ておりませんので、トテモお恥かしい訳なのです。  そんなところへ今度のお芝居は父の追善のためというので、皆様の一方ならぬお引立てを受けまして、舞台に立たせて頂きますばかりか、夢にも思いがけなかった大役の御注文が出ておりますことを、まだ熱が出て寝ておりました僕の枕元に伯父が駈けつけて来て知らせてくれました時はスッカリ胆を潰してしまいました。初めのうちは、いつもの伯父の癖で、僕をカラカッているのだとばかり思って、いい加減な返事をしながら笑っておりましたが、そのうちに八丁堀の大旦那様や平川町の先生方がお見えになって、いよいよ本当だとわかりますと僕は思わず手放しで泣き出してしまいました。そうしてこのお芝居が済んだら、あとはどうなっても構わないつもりで稽古を初めたのですが、都合のいい事に父も僕も心もちヒョロ長い方で肩幅から何からよく合っていますので、衣裳の方はあまり手を入れずに済みました。  しかし何しろこの扮装は総体で十三貫目もありましてシャグマだけでも一貫目近くあります。それをまだ芸も身体もコンマ以下の弱虫が着るのですから、平生だと立ち上るだけでも大変なのですが、それでも生命がけの女の気もちになって舞台に出てみますと、不思議なくらい楽に動けますので、これは大方亡くなりました父の霊が衣裳に乗り移って軽くしてくれるのだろうと思っております。云々。  私はこの時、この記事の上に突伏しまして、どんなにか泣きましたことでしょう。  私のお母様の押絵を御覧になった貴方様のお父様が、それほどまでに牡丹と蝶々の着付けを大切にかけてお用いになりました、そのお心のウラをお察ししました時に、私はもう立っても居てもいられぬようになりました。  中村半次郎様と私とは、お話にきいた事のある夫婦児だったに違いない。一人はお母様に似て、一人はお父様に似た双生児だったに違いない。そうしてお母様は私達二人をお生みになると間もなく、お父様に知れないように男の子の方を本当のお父様の処へお遣りになったので、そんな事を何もかも引き受けてお手伝いしたのは、あのオセキ婆さんだったに違いない。そうと考えるよりほかに考えようがないのをどうしましょう。 「ああ。中村珊玉様……あなたはそれほどまでに私のお母様を……そうして又私のお母様も……」  と叫びかけて私はハッとしながら、自分の手で自分の口を押えました。  今から考えますと私はどうしてこの時に発狂しなかったのでしょうと不思議に思われる位で御座います。  いいえ。私はそれから後暫くの間、発狂していたのかも知れませぬ。その夜遅くに岡沢先生のところのお湯殿で、もう二度と見ない決心をしておりました鏡の前に丸一年ぶりに坐りまして、その中に坐っておられるお母様の顔を見つめながらいつまでもいつまでも涙を流しておりました私の姿を、もしお兄様が御覧になりましたならば、きっと気が変になったものとお思いになったでしょう。  お兄様……ああ……おなつかしいお兄さま……。そう申し上げてはわるいのかも知れませぬけれども、どうぞおゆるし下さいませ。私はその夜から貴方様を私のタッタ一人のお兄さまときめてしまっていたのですから。そうしてもしホントのお兄さまでおいでにならないのでしたら、そのホントのお兄さまよりももっともっとおなつかしい大切の大切の秘密のお兄様と思って恋い焦れながら死んで行きたいと、そればかりを神様にお願いするようになりましたのは、その夜からの事で御座いましたから……。  そのあくる朝になりますと、私は熱が出ましたようで、時々クラクラとたおれそうになりましたが、一生けんめいに我慢をしまして、思い切り白くお化粧をして顔色の悪いのを隠してしまいました。  それを奥様が御覧になって、 「マア。トシ子さんたら。何て慌て方でしょう」  とお笑いになりながら髪結いさんを呼んで来て下すったのですが、その時に私は「生れて初めて他人に髪を結ってもらうのだ」と思い思い鏡と向い合ってはおりましたが、心の中は睡ってばかりおりましたようで、気が付いた時にはもうスッカリ高島田に結い上げてありましたのを見て思わず「アラッ」と云って髪結いさんに笑われました。  それから故郷を出ますときに柴忠さんのお嬢さまから頂いた一張羅の着物と着かえまして、先生御夫婦のお伴をして上野から鉄道馬車に乗りましたが、久し振りに厚ぼったい帯をシッカリと締めましたので気がシャンとしましたためか、それともまだ外はつめたい風が吹いておりましたせいか、馬車に乗っております間は居眠りをしなかったようで御座います。けれども歌舞伎座へ這入って平土間に坐りますと間もなく、人イキレであたたかくなりましたせいか、又もウットリとなりまして、お芝居通の先生や奥様が色々と説明して下さるのを、夢うつつに聞いているばかりで御座いました。  お兄様が阿古屋に扮して出てお出でになりましても、同じように睡くて睡くてボンヤリしておりましたようで、それを我慢しいしい眼を瞠っておりました苦しさを、今だにシミジミとおぼえております。あとでのお話によりますと、お兄様もその日はお加減がわるかったのを、無理におつとめになりましたのだそうで、その悩ましいお姿が、琴責めの時にたいそうよくうつったとの事でしたが、私はただ、その白いお下着の襟に刺してありました銀糸の波形の光りを不思議なくらいハッキリとおぼえておりますだけで、そのほかは白いお顔と、赤いお召物とが、ボーッとした水彩画のように眼に残っておりますばかり……筋なぞは一つもわからないままで御座いました。そうして、家に帰りましてから、 「面白かったか」  と先生に聞かれましても、何一つお答えが出来なかった時の恥かしう御座いましたこと……。  それでも私は、とうとう自分の病気を隠しおおせました。  この胸の疵を、お医者様に見られる位なら死んだ方がいい。……イイエ。私はこの病気がだんだん非道くなって死ぬ時が近づいて来るのを待ちましょう。そうしてあの世で待っておいでになるお母様の処へ行って、思い切り抱きついて泣きましょう。ほかの事はみんな違っていても私のお母様だけは私の本当のお母様に違いないのだから……と、そんな風に思い込みまして、ともすれば熱のために夢のような心地になりかけますのを、唇が痛くなるほど噛みしめて我慢しいしいそのあくる日も、その又あくる日も無理やりに学校へ行ったので御座いましたが、そのうちにいつからともなく不思議と病気が癒ってしまったので御座います。これはおおかたお兄様に是非とも一度お目にかからなければなりませぬ運命を、私が持っておりましたせいでしょうと思いますけれども……。  けれども、その時の私は何故この病気も癒ったのだろうと、つくづく天道様を怨んだことで御座いました。  それから後の私は「不義者の子」という大きな札をホントに間違いなくピッタリと貼りつけられたように思って仕舞ったので御座います。日の目を見ることさえも恥かしく思いながらその日その日を送っていたので御座います。 「ああお母様。あなたは私を助けたいばっかりに、あんな嘘を仰言った」  とそう思いながら涙にくれた事が幾度ありましたでしょう。中村とか、菱田とかいう文字を見かけますたんびに、私の弱い心はどんなにかハラハラと波打ちましたことでしょう。ほんとに失礼この上もない事ですけど、そのような文字が眼に這入りますたんびに私はすぐに「不義」という文字を思い出すので御座いました。時折りは、いつかしらず歌舞伎座の方を向いて歩いておりますのに心付きまして、何となく気が咎めますままにフイとほかの町すじへ外れて行きました。その気恥かしう御座いましたこと……。  けれども、そのうちに暑中休暇が参りますと私は又、思いも寄りませぬことで、このような悲しい、浅ましい悩みから救われるようになりました。それはずっと前から岡沢先生の御書斎に置いてありました昔の八犬伝の御本を、何気なく引き出して開いて見てからの事で御座います。  私はそれこそホントに何の気なしで御座いました。ただ、永い日のつれづれに二階の窓からお隣りの屋根を見ておりますうちにフト、芳流閣の押絵を思い出しまして、信乃と現八は何故あの高い屋根の上で闘わなければならぬのでしょうとチョット不思議に思いましたので、その絵の描いてある処を探し出して前へ前へと読み返して行きますうちに、いつの間にか、その話のおもしろさに釣り込まれてしまいました。そうして、しらずしらずのうちに一番初めに立ち帰りまして、八犬伝の全体の女主人公になっておられる伏姫様が夫と立てておられる八つ房という犬に身を触れずにみごもられた……というお話の処まで読んでしまいました。  そのお話につきましては作者の曲亭馬琴という方が昔からのいろいろな例を引いて、さもさも本当らしく書いておられるのでしたが、それを読みました時の私の驚きは、まあどんなで御座いましたでしょう。申すまでもなくその時まで私自身には、そのような事について何の知識も持たなかったので御座いましたが、それでもこの世にはキットそんな事があり得るに違いないという事をその時にどんなにか固く信じましたことでしょう。お母様のお言葉の秘密を解く鍵は、このお話のほかにないと思いまして、どんなにか夢中になって喜びました事でしょう。そうして、なおも先の方を読んで参りますと、その八つ房という犬の思い子となって生れた八犬士の身体には、その父の犬の身体についていた八ツの斑紋が一ツずつ大きなほくろとなってあらわれて、親子のしるしとなっていたという事まで詳しく書いてあるでは御座いませんか。  それは私にとりまして、それこそ眼も眩むほどの奇蹟的な喜びで御座いました。われと胸をシッカリと抱きしめて、時々は涙を流してまで溜め息をしいしい読み続けたことでした。  ――男と女とが、お互いに思い合っただけで、その相手によく似た子供を生んだり生ませたりすることが出来る――  ……まあ、何というステキな子供らしい空想で御座いましょう。  けれどもその時の私には、そのような事が本当にあり得なければならぬとしか思えないので御座いました。そうして、それから後の私は、そんな事実が本当にあることかどうかを、たしかめようと思いまして、毎日のように上野の図書館に行きました。むずかしい産科の書物や心理学の書物を何十冊ほどめくら探りに読みましたことでしょう。図書館の人はおおかた私が産婆の試験を受けているとでも思われたのでしょう。そんな書物の名前を色々教えて下さいましたので私は心から感謝しておりましたが、今から考えますと可笑しいような気も致します。  けれども、そのような不思議なことを書いた書物はなかなか見当りませんでした。そればかりでなく、生れて初めていろいろな事を知りますたんびにビックリする事ばかりで、人中でそんな書物を読んでいるのが気恥かしさに、図書館行きを止めようかと思った位で御座いましたが、そのうちに遺伝の事を書いた書物を何気なく読んでおりますと、私は又、ビックリすることを発見致しました。  それは「女の児は男親に似易く、男の児は女親に似易い」ということを例を挙げて証明した学理で御座いました。  それを読みました時に私は身体中が水をかけられたように汗ばんでしまいました。そうしてせっかく喜び勇んでおりました私の心は又も、石のように重たくなってしまいました。 「お兄様と私とはやっぱり不義の子だ。そうしてそれを知っているのはこの世に私一人だけ……」  そう思いますにつれて、私の眼の前がズーと暗くなって行くので御座いました。  それから後の私の心は、もう図書館に行く力もない位よわりきってしまいました。御飯さえ咽喉を通りかねるようになりまして、ただ、岡沢先生御夫婦に御心配をかけないために無理からお膳についているような事でした。 「このごろトシ子さんの風付きのスッキリして来たこと……それでこの東京に来た甲斐があるわ……ネエあなた……」  と云ってお二人から褒められたり、冷やかされたりしました時の辛う御座いましたこと……。  けれども、それでもまだ私の心の底に、あきらめ切れない何かしらが残っておったので御座いましょう。時々思い出したように上野の図書館に参りましては、医学に関係しました不思議な出来事や、珍らしい事実を書いた書物を、あてどもなく読み散らしておりますうちに又も、思いもかけませぬ書物から大変なお話を見つけ出しまして、ビックリ致したので御座います。  その書物を書かれましたのは、その頃もう亡くなっておられた医学博士の石神刀文という方で、たしか明治二十年頃に西洋の書物から飜訳なすったものと、おぼえております。題名は「法医学夜話」と申しますので、その中には昔から今日までの間に、法医学上の問題になりました色々な不思議な出来事が昔風の文章で面白く書いてあるので御座いましたが、そのおしまいの方に次のようなお話が交っておりました。その書物はもうどこの本屋にもないとの事でしたから、私はその後、今一度図書館に通いまして、そのお話のところだけを書き写して、お兄様のお写真やお話の記事と一緒に肌身離さず持っておりましたので、お読み悪いか存じませぬが、そのままここに挟んでおきます。      法医学夜話        第五章 人身の妖異 その一 姙娠奇談  人身の妖異、その他に関する法医学上の興味ある挿話も亦決して珍らしからず。中にも最も人の意表に出づるものあるは姙娠に関する奇談にして、到底コンモンセンスにては判断し得べからざるもの多し。  その第一に掲ぐべきは昔希臘の国の一王妃の身の上に起りし奇蹟的現象なり。 ◇訳者|曰く=憾むらくはこの原文には、その王と王妃の名を明記し在らず。当時希臘国内は雅典市を除くのほか、数個の専制的君主国が分立しおりしを以て、この事件の起りしもその中の一国なりと推測せらる。  その王妃は冊立後間もなく身ごもり給いて、明け暮れ一室に起臥しつつ紡績と静養とを事とせられしが、その室の※間には、先王の身代りとなりて忠死せし黒奴の肖像画が唯一個掲げあり。その状貌|宛かも王妃の臥床を視下しつつ微笑を含みおれるが如く然り。王妃も亦床上に横たわりつつ、所在なき折々はその黒奴の肖像を熟視しおられしが、やがて月満ちて生れし孩児を見れば、眉目清秀なる王の胤と思いきや、真っ黒々の黒ん坊なりしかば王妃の驚き一方ならず、そのまま悶絶して息絶えなむばかりなりしは左もありなむ。  然るに斯くと知りたる王の驚愕と憤激も亦一方ならず。直ちに兵士に命じて王妃を監禁すると同時に、当時召し使い給いし黒奴を悉く搦め取って獄舎に投じ、一々拷問にかけ給いけれども、固より身に覚えなき者共の事とて白状する者一人もなく、遂に由々しき疑獄の姿とぞなりにける。  然るに又、その当時、雅典市に、ヒポクラテスとなん呼べる老医師あり。その徳望と、学識と、手腕と、共に一世に冠絶せる人物なりしが、この事を伝え聞くや態々王の御前に出頭し、姙娠中の婦女子が或る人の姿を思い込み、又、或る一定の形状色彩のものを気長く思念し、又、凝視する時は、その人の姿、又は、その物品の形状色彩に似たる児の生まるべき事、必ずしも不合理に非ざるべきを、例を挙げ証を引いて説明せしかば、王の疑ようやくにして解け、王妃と黒奴との冤罪も残りなく晴れて、唯、彼の黒奴の肖像画のみが廃棄焼却の刑に処せられきとなん。これ即ち法医学の濫觴にして、律法の庭に医師の進言の採用せられし嚆矢なりと聞けり。 ◇訳者曰く=支那に伝われる胎教なるものも、このヒポクラテスの見地より見る時は強ちに荒唐無稽の迷信として一概に排斥すべきものに非ず。或は、最も高等なる科学的の研究手段によりてのみ理解され得べき、深遠微妙なる学理原則のその間に厳存せるものなしと云うべからず。心すべき事にこそ。  又、次に掲ぐるは、今より約二十年前我英国の法曹界に於て深甚なる注意の焦点となり、海外の専門雑誌にも伝えられし事件なれば、或は記憶に新なる読者もあるべけれども、未知の人々のために抄録せむに、蘇格蘭の片田舎に住める貴族にして赤髪富豪のきこえ高きコンラド従男爵というがあり。年四十に及びて数|哩を隔てたる処に在る「鷹が宿」という由緒ある家柄に生れしアリナと呼べる若き女性を夫人として迎えけるが、この女性は元来絶世の美人なりしにも拘わらず、何故か八方より申込み来る婚約を悉く謝絶しおり。尼となりて修道院に入らむと、志しおりしものなりしを、八方より手を尽して、辛うじて貰い受けしものなりければ、従男爵の満悦|譬うべくもあらず。身方の親戚知友はもとより新夫人の両親骨肉|及「鷹の宿」の隣家に住める医師、兼、弁護士の免状所有者にして、篤学の聞え高きランドルフ・タリスマン氏迄も招待して、盛大なる華燭の典を挙げ、附近住民をして羨望渇仰の眼を瞠らしめぬ。  さる程にアリナ新夫人はやがて、従男爵の胤を宿しつ。月満ちて玉の如き男子を生み落しけるが、その児の顔貌一眼見るより従男爵の面色は忽然として一変し、声を荒らげて云いけるよう。 「吾家には代々|斯の如き漆黒の毛髪を有せるもの一人も生れたる事なし。又汝が家の系統にもさる者なきは人の知るところにして、汝を吾が妻として迎えたる理由も亦、その点に懸って存するを知らざりしか。察するところ汝は、何人か黒髪を有する男子と密通してこの子を宿せしものに相違なし。余は斯の如き児を吾が家の後嗣として披露する能わず、疾く疾くこの児を抱きて親里に立ち去れ。而して余の責罰の如何に寛大なるかを思い知れ」  とぞ罵りける。然るにこれに対してアリナ夫人は不思議にも一言の弁解をも試みんとせず。その夜深く件の黒髪の孩児を抱きて秘かに産室をよろぼい出で、跣足のまま数|哩を歩行して、翌日の正午親里に帰り着きしが、家人の隙を窺いて玄関横の応接間に入り、その正面に掲げある黒髪の美青年の肖像画の前に来り、石甃の上にたおれ伏したるまま息|絶えぬ。程経てこれを発見せし実父母は驚駭措くところを識らず。直ちに隣家のタリスマン氏を迎え来り、水よ薬よと立ち騒ぎけれどもその甲斐なく、唯、黒髪の孩児のみが乳を呼びつつ生き残りけるこそ哀れの中のあわれなりしか。  その後、この事件は訴訟問題となり、アリナ夫人の実父とコンラド従男爵とは法廷に於てアリナの貞操に関し黒白を争うこととなりしが、従男爵は、その黒髪青年の肖像画と同じ人物の存在を固く主張せしに対し、アリナ夫人の実父の味方となりし医師、兼、弁護士ランドルフ・タリスマン氏は頑強なる抗弁を試みて一歩も退かず。結局同氏は態々仏国に渡りて件の肖像画を描きし画工を伴い来り、その画像が元来英国に於て描かれしものに非ず、西班牙の一闘牛士の死亡したるに依り、その愛人の好みに任せて狩猟服を着たる姿を該画工が執筆せしものなるが、評判の傑作なりしためその製作の途中に於て盗難に罹り、転々して英国に渡りたるものなるを以て、細部に於て未完成なる部分が多々ある旨を一々その画工に指摘せしめつ。次いでタリスマン氏は、画面上に印せられたる新旧幾多の接吻頬ずりのあと、涙の痕跡、及画面に身を支えたる指の痕と、アリナ夫人の身長指紋その他が完全に一致するところより、アリナ夫人がかねてよりこの画像に叶わぬ恋心を捧げおりし事を立証し、同夫人が嘗て尼寺に入らむとせし心理の真相を明白にして、その貞操の肉体的に純潔不二なる事を各方面より詳細に亘りて論断し、更に進んで前掲、希臘国、某王妃の例を挙げて、かかる事例が存在の可能なる事を説破したる後、一段と語気を強めて云いけるよう、 「近く、吾が英国に於ても遺伝学上、かかる現象の存在し得ることを証明し得べき実例あり。最近ラッドレー附近の一種馬場に於て飼育せられし一|牝馬は、今より三年以前に見世物用の斑馬と交尾して一匹の混血児を生み、飼主をして奇利を博せしめし事あり。然るにそれより二年後の昨年度に於て該牝馬を普通の乗馬と交尾せしめたるに、奇怪にも、以前の配偶たりし斑馬と同様の斑紋を臀部より大腿部にかけて止めし仔馬を生みたるを以て、現在|斯界の専門家、及び、遺伝学者間の論議の中心となりおり、しかも這般の奇現象を説明し得べき学説の中、最も権威あるものとして、他の諸説を圧倒しつつあるは目下のところ唯一つ、  ――生物の親子の外貌性格の相似は、その親の心理に潜在せる深刻なる記憶力が、その精虫と卵子とに影響したるものに外ならず――直接の父母以外の、他人に酷似せる子が、姦通の事実なくして生るる事あるはこの道理に依るもの也――  というに在り。故に、吾国の過去に於ける幾多の裁判が、その当時の最も有力なる学理学説によりて決定せられし先例に依る時は、この訴訟も亦、この説を真理と認めて断定せらるべきものなる事を、余は断乎として主張し得るもの也。すなわちこの事件は、前述の如き心理状態に在りて、結婚を忌避しつつありしアリナ嬢を、従男爵が追求して謝絶の辞に窮せしめ、強いて同棲を承諾せしめしより起りしものにして、この婦人のこの画像に対する精神的の貞操を破らしめし罪は寧ろ従男爵側に在りと云うべし。アリナ嬢は、何事も云う能わずして嫁し、何事も云う能わずして死せり。その貞操の高潔なる、その性情の純美なる、これをして疑うべくんば、天下いずれのところにか正義を求めん。これをしも同情せずんば、地上いずれのところにか人道を認めん」  と涙を揮って痛論せしかば、満場|寂として云うところを知らず。唯、証人席に在りしアリナの実父母が歔欷するあるのみ。遂にこの訴訟は従男爵コンラド氏の敗訴となり、アリナの霊と、従男爵の血によりて生まれたる孩児の扶助料、及び、その実父に対する慰藉料として巨額の財産を分与して結着を見たりとなり。  これを以てこれを見れば、古来貞操に関する疑を受けて弁疏する能わず、冤枉に死せし婦人の中にはかかる類例なしというべからず。且つ、この判例と学説とを真理と認めて類推する時は、男子にても曾て恋着し、もしくは記憶せる女性に似たる児を、現在の配偶に生ましむる事が、あり得べき道理となり来るを以て、場合によりては男女間に於ける精神的の貞操の有無をも、形而下の諸現象、譬えばその児に現われたる特徴等によりて、具体的に証明され得るに到るべく従って、法律上に於ける貞操の字義が現在よりも遥かに狭少厳密となり、道徳上より見たる貞操の意義と一糸相容れざるに到ると同時に、一方には這般の学理を逆利悪用する姦通の隠蔽事実が、陸続として現出する時代の近き将来に於て来り得べきことも、予想するに難からざる事となるべし。 ◇訳者曰く=以上を要するに、生物界に於ける霊意識の作用の玄怪不可思議にして現代に於ける科学知識の克く追随補捉し得べきものに非ざるは、単に姙娠に関する前記二三の特例に照すも斯の如く明瞭なる事然り。況んや、かかる微妙なる事象を一片の法律の条文、又は浅薄なる常識の判断に任せて、深遠なる医学的の研究を全然度外視せること吾が国の法廷の如くなる時は、その危険、その不安果して幾何ぞや。更に況んや、幾多の無辜を罰して顧みざる非人道に想倒する時は、烈日の下寒毛樹立せずんばあるべからず。欧米先進諸国に於ける法医学の発達と、その社会的権威の偉大なる、真に羨望に堪えたりと云うべし。  それからちょうど夕方の事でした。ずっと遠くの駿河台の方からニコライ堂の鐘の音が聞こえますと間もなく、図書館の人が窓を閉め始めましたので私はやっと気が付きましたが、その時にはもう広い室の中に私一人だけしか残っていないので御座いました。  私はその書物を係の人にお返ししますとそのまま、うなだれて外へ出ましたが、寛永寺の御門の前の杉木立に近い人気の絶えた処まで参りまして、とある大きな木の根方に坐りますと、ありたけの涙を絞りながら泣いて泣いて泣きつづけました。  その時の私の心持を、どう致しましたならばお兄さまにお伝えする事が出来ましょう……。  もしこのような事があり得るものと致しましたならば、お兄様と私の身の上こそこの上もないよいお手本では御座いますまいか。  あなたのお父様と、私のお母様とは唯一眼で恋に落ちられました。そうしてお互いにその恋しい人の姿を、胸の底に深く秘められたまま、寝ても醒めてもお忘れになりませんでした……その思いがお兄様と私の姿にあらわれて、お二人の思いを遂げるためにこの世に生き残っているのでは御座いますまいか。  こう思い当りました時、私はこの小さな胸が押し潰されてしまって、眼の前が真っ暗になりました中に、二つの青白い鬼火がもつれ合って行くのがホンノリと見えたように思いました。  けれども又気を取り直して、今一度よくよくあと先を考えまわして見たので御座いましたが、考えれば考えるほど思い当りますことばかりが、あとからあとから出て来るので御座いました。  あなたのお父様に似ております私の姿を、朝に晩に見ておられました私のお母様はきっと、こうした不思議について何かしら、心の奥深くに思い当っておいでになったに違いないのでした。あの櫛田神社の絵馬堂に奉納されました額ぶちの外題に「三国志」をと仰有った柴忠さんの御註文を避けて、わざと「芳流閣上の二犬士」の場面をお作りになった、お母様のお心の底には、ついこの間、私が伏姫様のお話を見ました時に思い当りましたのと同じような驚きと喜びが、云うに云われぬ母親の悲しみと一緒に、人知れず潜み隠れていなかったとどうして考えられましょう。その頃の福岡の士族の家庭にはオキマリのように一部ずつ備え附けてありました八犬伝のお話を、お母様だけが御存じなかったと、どうして思われましょう。……そうしてそのような恐ろしい、悩ましい不思議さを明け暮れ胸に秘めておいでになったればこそ、お母様はあのように思い切って、お父様の御成敗をお受けになったのではないでしょうか。私が正しく、うちのお父様の血を引いた娘であることを御存じになりながらも、そうした不思議を思い当っておいでになったればこそ、あのように何一つ、お申し開きをなさらなかったのではないでしょうか……。  ああ。思うも気高い……おそろしい、お母様の純真なお心の力……芸術の道と、人間の道と、そうして、のがれようもなく落ちておいでになった恋の道の三つに、霊と肉を捧げつくして、あえなくも世をお早めになった神聖なお母様……可哀そうなお母様……いじらしいお母様……むごい……悲しい……おなつかしい……。  こう思いますと私は気がちがいそうにたまらなくなりまして、フイと顔を上げました。するともう日がトップリと暮れておりまして、沢山の落ち葉が、真白な塵と一緒に恐ろしい勢いでゴーゴーと渦巻きながら、私の方へ走って来るようでしたから、私はやっと立ち上りまして谷中の方へ帰りかけました。泣いて泣いて泣きつくしましたあとの空っぽのような気もちになりながら……。  けれども、そうして星空の下を吹く烈しい秋風の中をフラフラと歩いて行きますうちに、私は又も世の中が次第と明るくなって来るように思い始めました。そうしてその夜は涙に濡れたまま、夢一つ見ませずに安々と眠りましたが、あくる朝は、いつもよりもずっと早く起きまして、先生のお宅の裏や表のお掃除を致しました。 「私はもう一生涯結婚しますまい。お兄様はまだ何も御存じないのですから……この秘密をこちらから進んでお打ち明けする訳には行かないのですから……。ほかの方と幸福な家庭をお作りになるのかも知れないのですから……。私はそのお邪魔をしないように……私というものがこの世に居りますことを、お兄さまに絶対にお知らせしないようにして、芸術のために身を捧げましょう。お母様に敗けないように清浄な一生を送りましょう」  といく度か思い思いしては青い青い澄み渡った朝の空を仰いだことで御座いました。  それから後の私は、外から来るいろいろな誘惑や迫害とたたかいながら、心の中で、かような決心を固く固く守り続けて行くばかりで御座いました。  音楽学校を卒業致しました時に、岡沢先生から洋行のおすすめを受けました時も、お気に障らないようにしてお断り致しました。……本当を申しますと、飛び立つような思いがしないでは御座いませんでしたが、万一そのために私の写真が新聞に載りまして、お兄様のお眼に止まるようなことがありはしまいかと思いますと、何となく空恐ろしい気持ちがして躊躇されたので御座いました。もしか致しますと、これもお兄様と私とにまつわっておりました、不思議な運命のしわざかも知れませんでしたけれど……。又時たまには、先生を通じて申込んで参りました縁談にも同じようにしてお断り致しました。私のこの胸の疵痕を、お兄様以外のお方にどうしてお眼にかけることが出来ましょう……と思いまして……。  私はそうして、ただ明けても暮れてもピアノばかり弾いているので御座いました。ちょうど日清戦争のあとで、西洋音楽が一時パッタリと流行らなくなりまして、軍楽隊と、唱歌だけしか残っていないような有様で御座いましたが、ちっとも構いませずに大学のケーベル先生のお宅や宮内省の山内先生のお宅へ日参致しておりました。新しい楽譜を写しては弾き、写しては弾く楽しみに、夢中になろうなろうとしておりました。  けれども、そのピアノのキーの白いなめらかな手ざわりに触れるたんびに私は、ともするとお母様のなつかしい白い肌を思い出しまして、熱い涙を落すので御座いました。又はその黒いキーの光りを見る時、お母様がつけておいでになったオハグロの美しさをいつもいつも思い出しました。そうして又、岡沢先生のお庭に咲いているダリヤや、サルビアの赤い花の色を見ますと、あのお母様の後の白い壁についておりました血の滴りを思い出しまして、ともすると私の心は物狂おしくなるので御座いました。  そんな物思いをくり返しくり返し致しておりますうちに、あなたのお父様のお心がお兄様のお姿となって、あらわれておりますのと同じように、私のお母様の思いが私のミメカタチとなってこの世に残っておりますことは、もう疑うことが出来なくなりました。そうして、あなたのお父様と私のお母様が、死ぬまでお隠しになった恋が、お兄様と私とによって顔容を入れ違えたままに遂げられなければならぬ運命が一刻一刻とさし迫って来ておりますことを、私は毎日毎日ハッキリと感ずるようになって参りました。  ああ。私は、どう致したらよろしいので御座いましょう。  世間では私をあなたのお父様のお血すじを引いたものと信じ切っているので御座います。もしお兄様と私とが御一緒になるような事になりましたならば、世間の人は何と云うで御座いましょう。キットあの忌わしい兄妹の恋として、そのままには許さないで御座いましょう。  お兄様と私とがホントの兄妹でないという証拠に、あの古い書物のお話を例に引きましても信じて下さる方が何人居られるでしょう。  又は櫛田神社の絵馬堂にかかっております二つの押絵の人形が何の証拠になりましょう。却ってお兄様と私とを世にも咀われた男女にしてしまう役にしか立たないで御座いましょう。  そればかりでなく、その時の私にはこんな事も考えられたので御座いました。  お兄様はホントウはもうズット前から、お父様にこのお話をお聞きになっているのではないかしら……この事については私よりもずっと詳しく御存じなので、それを表向きには隠しておいでになりながら、お心の中ではやっぱり私と同じような思いに悩んでおいでになるのではないかしら。女嫌いという評判を平気で立て通しておいでになりますのも、そんなお心もちから出たことで、ホントウは人知れず、私の事を思っておいでになるのではないかしら……私の事をいろいろとお探りになっているのではないかしら……。  そうして万に一つお兄様が私をお見つけになりました時に、殿方の気強いお心から、そんなことはちっとも構わぬと仰有って、直ぐにも只今の御名誉地位をお振り棄てになって私を救いにお出でになるようなことがありはしまいかしら……。  もしそのような場合になりましたら、私はどう致しましょう。この背中から胸へ抜けとおっております恐ろしい疵痕を、私はどうしてお兄様にお眼にかけることが出来ましょう。そうして、それをしも御承知の上で、お構いにならぬとしましても、私はもうその頃から、一生涯治る見込みも御座いませぬ難病に取りつかれている事を、よく存じておりましたのをどう致しましょう。  私はこの病気を隠しとう御座いましたばっかりに、何もかも忘れて、一心に勉強をつづけておりましたのです。ただ気もちばかりで生きておりましたのです。そうしてそんなような気もちを持ちつづけて行きますうちに、いつからともなく、亡くなられました私のお母様が今わの際にお残しになったあの謎のお言葉の、あとの半分の意味をウッカリ悟ってしまっていたので御座います。 「私は不義を致しましたおぼえは毛頭御座いません。けれども……この上のお宮仕えは致しかねます」  とキッパリお父様に仰有った、そのお母様のお言葉の中には、その時のお母様が、やはり私と同じような病気にかかって私と同じような気もちでお仕事に熱中しておいでになった、絶望的なお心持ちが堪えられぬ程痛々しく一パイに籠っていたに違いありませぬ事を、身にしみじみ悟っていたので御座います。  何をお隠し致しましょう。私の家は代々こうした病気に呪われておりましたために縁組みをするものがないと云ってもよかったので御座います。ですからお母様は、ただ私一人が幸福になりますように……そうして私一人の幸福をお守りになりたいために、あのようなお言葉を残されて、世をお早めになったものとしか考えられないので御座います。  そのお母様と同じ病毒で一パイになっておりますこの身体を、どうしてお若い御病身のお兄様に捧げることが出来ましょう。そのためにお兄様の御名誉と芸術とを捨てていただく事が、どうして出来ましょう。  そう思います度に私の胸は、いつも張り裂けるようになりました。拭いても拭いても落ちる涙をピアノのキーの上から払い除けながら、ソッと蓋を卸しまして、その冷たい板の上に、熱のある頬をシミジミと押しつけました事が幾度で御座いましたろう。  けれどもお兄様。私はもう只今となりましては何もかもわからなくなってしまいました。  ただ……お兄様がこの手紙を御覧になりましたならば、すべてがスッカリおわかりになりますことと……そればかりを心頼みに致しまして、ようようにここまで認めて来たので御座います。  それは何故かと申しますと、お兄様はもしや、お兄様の本当のお母様を御存じなのではないかと思われますからで御座います。そうして、それと一緒に、お父様の御病気のホントの原因も御存じになっていることと思われますからで御座います。  そうして又、もしも、そんな事が御座いませんで、お兄様はそのような事についてホントウに何一つ御存じないものとしますれば、あなたのお父様は、やはり私のお母様とおんなじように、唯一つの恋をお胸に秘められたまま……お兄様にもお明かしにならないまま……この上もなく気高い一生をお送りになったお方に違い御座いませぬことが、たやすくお察し出来るからで御座います。  どうぞおゆるし下さいませ。  御病気の折柄をも構いませず、女心のせつなさに、こんなに長々とした事を御眼にかけまして嘸かしお読みづらくてお疲れの事と存じます。  けれどもこの事をお打ち明けして、ホントの事を判断して頂くお方はこの世にお兄様お一人しか、おいでにならないので御座います。私はもう、このような秘密を胸に秘めております力がなくなりましたので御座います。唯一人、お兄様のお心にお縋りするよりほかに致し方がなくなったので御座います。  お兄様、もしお兄様が、ホントウに私のお兄様でおいでになりますならば私はお兄様のただ一人の妹として、生命にかえてもお願い致します。  看護婦さんたちの、それとないお話しを聞きますと、お兄様は、その後大変にお工合がよろしいとの事で、それだけ承わりましただけでも自分の病気が薄らいで行くように心強う御座います。どうぞどうぞこの上にもよくおなり遊ばして、スッカリもとのようにおなり遊ばすまでは、私の事を出来るだけお忘れ下さいまして、お心静かに御養生なすって下さいませ。私はそればかりを心頼みに致しましてこの病院でお手当てを受けております。そうして生きておりますうちに、ただ一眼でも、お兄様のお丈夫なお姿を拝見したいとそればかりを神様にお祈り致しております。  私はもうこの世の中で、お兄様の事を考えるよりほかには何の楽しみもなくなっているので御座いますから……。  けれどももしかして、まだお兄様が御丈夫な御自由なお身体におなりになりませぬうちに、私が亡くなりますようなことが御座いましたならば、済みませぬが唯一度でよろしう御座いますから私のお墓にお参り下さいまして、お出来になりますことなら多くの花よりも、あの花菖蒲をお手向けになって下さいませ。お母様がお斬られになった時に、お座敷の前に咲いておりました思い出の花で御座いますから……。  どうぞどうぞお願い致します。決して御無理をなさいませぬように……そんな事を遊ばしたことがわかりましたならば、私は、その上の御無理をおさせ申しませんように覚悟致しているので御座いますから……。  せめて、お兄様だけでも、御無事にこの世に生き残って頂きまして、お母様の芸術をこの世にあらわして下さいますようにと、そればかりをお祈りしているので御座いますから……。  けれどももしそうで御座いませんでしたならば、お兄様と私とが、血を分けた兄妹で御座いませんでしたならば……ホントウにあなたのお父様と、私のお母様の、せつないお心の形見で御座いましたならば……。  ああ……私はどう致しましょう……。  あなたのお父様と、私のお母様の恋は、世にも上なく清浄なもので御座いました。  そうして永久に気高いもので御座いました。  どうぞどうぞお兄さまと私の恋も、そのようにいつまでも気高く、清浄に、悲しくておわりますように……。  今一度お眼にかかりたい……と思いますと、私は又しても狂おしい心地にせめられます。けれども、このような思いすらも、お二方の恋の気高さに比べますと、お恥かしい、汚らわしいもののように思われまして……。  思いが乱れまして、もう筆が進みませぬ。お名残り惜しう存じます。 あらあらかしこ    明治三十五年三月二十九日 井の口トシ子より      菱田新太郎様            みもとに  ある国に王様がありまして、夫婦の間にたった一人、オシャベリ姫というお姫さまがありました。  このお姫様は大層美しいお姫様でしたが、どうしたものか生れ付きおしゃべりで、朝から晩まで何かしらシャベッていないと気もちがわるいので、おまけにそれを又きいてやる人がいないと大層御機嫌がわるいのです。  ある朝のこと、このオシャベリ姫は眼をさまして顔を洗うと、すぐに両親の王様とお妃様の処に飛んで来て、もうおしゃべりを初めました。 「お父様お母様、昨夜は大変でしたのよ。ゆうべあたしがひとりで寝ていますと、どこから這入って来たのか、一人の黒ん坊が寝床のところへ来まして、妾の胸に短刀をつきつけて、宝物のあるところはどこだと、こわい顔をしてきくのです」 「まあ、それからどうしたの」  と王様とお妃様はビックリして姫にお尋ねになりました。 「それからね……妾はしかたがありませんから、宝物の庫のところへ連れて行ったら、黒い腕で錠前を引き切って中の宝物をすっかり運び出して、お城の外へ持って行ってしまったのですよ」 「なぜその時にお前は大きな声で呼ばなかった」 「だって、その宝物をみんな妾に持たせて運ばせながら、黒ん坊は短刀を持ってそばに付いているのですもの」 「フーム。それは大変だ。すぐに兵隊に追っかけさせなくては。しかしお前はそれからどうした」 「やっとそれが済んだら、黒ん坊は妾の胸に又短刀をつきつけて今度は、オレのお嫁になれって云うんですの」 「エーッ。それでお前はどうした」 「あたしはどうしようかと思っていましたら……眼がさめちゃったの」 「何……どうしたと」 「それがすっかり夢なのですよ」 「馬鹿……この馬鹿姫め。夢なら夢となぜ早く云わないのか」  と王様は大層腹をお立てになりました。 「まあ。それでも夢でよかった。あたし、どんなに心配したかしれない」  とお妃さまもほっとため息をつきました。 「オホホホホホ。まあ、おききなさい。それからね、わたしは眼をさまして見ますと、まだ夜が明けないで真暗なんでしょう。あたしは何だか本当に黒ん坊が来そうになってこわくなりましたから、ソッと起き上って次の間の女中の寝ているところへ来て見ますと、二人いた女中が二人ともいないのです」 「憎い奴だ。お前の番をする役目なのにどこに行っていたのであろう。非道い眼に合わせてやらなくてはならぬ」  と王様は又も大層腹をお立てになりました。 「それがねえ、お父様。お叱りになってはいけないのですよ。妾もどこに行ったろうと思って探して見ると、二人とも機織り部屋に行って糸を紡いでいるのです」 「何、糸を?」  とお妃さまが云われました。 「感心だねえ。夜も寝ないで糸を紡いでいるのかえ」 「それがまだ感心することがあるのですよ……」  オシャベリ姫はなおも前のお話をつづけました。 「あたしは、二人の女中が今頃何だって機織室に這入って糸を紡いでいるのだろうと思って、ソッと鍵の穴から中の様子を見ますと、本当にビックリしてしまったのです。だって東の方の壁と西の方の壁に、一列ずつ何百か何千かわからぬ程沢山の蜘蛛がズラリと並んでいるのです」 「何、蜘蛛が! おお、気味のわるい」  と王様とお妃は一度に云われました。 「ところがそれがちっとも気味わるくないのです。東の方の壁に並んでいる蜘蛛はみんな黄金色で、西の方のはすっかり白銀色なのです。そのピカピカ光って美しいこと。そうして黄金色の蜘蛛のお尻からは黄金色の糸が出ているし、白銀色の蜘蛛のお尻からは白銀色の糸が出ているのを、二人の女中が一人ずつ糸車にかけて、ブーンブーンと撚って糸を作っているのです。その面白くて奇麗だったこと……」 「フーム。それは不思議なことだな」 「まだ不思議なことがあるのです。その糸を巻きつけた糸巻きがだんだん大きくなって来ますと、その糸の光りで室中が真昼のように明るくなります。私はあんまりの不思議さにビックリして思わず外から……その糸をどうするの……と尋ねました」 「そうしたら何と返事をしたの」  とお妃様がお尋ねになりました。 「そうしたら、返事をしないのです」 「どうして」 「二人の女中はビックリして私の方を見ました。その拍子に今までブンブンまわっていた二人の女中の糸巻きが急にあべこべにまわりますと、大変です。金の糸と銀の糸がスルスルと解けて来て、二人の女中の首に巻き付きました」 「オヤオヤ。それからどうした」 「二人の女中は驚いて立ち上って、その巻き付いた糸を取ろうとして藻掻き初めましたが、もがけばもがく程糸がほどけて来て、手や足までもからみつきました。それで女中はなおなお狂人のようになって床の上にころがりまわりましたが、しまいには金銀の糸がすっかり二人の女中に巻き付いて人間の糸巻きのようになって、只うんうんうなりながら床の上を転びまわるばかりでした」 「お前はそれを見ていたのか」 「エエ。あたしはこれはわるいことをした。だってあんなことを云わなければ、二人の女中はビックリしなかったでしょう。ビックリしなければ糸車をあべこべにまわさなかったでしょう。糸車をあべこべにまわさなければ、金銀の糸は女中の首に巻き付かなかったのでしょう」 「そうだ、そうだ」 「ほんとにね」 「あたしそう思って、できるだけ早く助けてやろうとしましたが、扉に鍵がかかっていましたので、助けてやりようがありません」 「それは困ったな」 「それでどうしたの」 「そのうちに糸巻の糸はすっかり二人の女中に巻き付いてしまった上に、壁にいた蜘蛛までも糸にくっついて女中の身体に引っぱりつけられましたが、女中が転がりまわりますので、蜘蛛も苦しまぎれに大層|憤って、女中の身体に巻き付いている糸をすっかり噛み切ってしまいました」 「まあ、それはよかった」 「いいえ。それからがこわいのです。糸を噛み切った蜘蛛は、寄ってたかって女中を喰い殺してしまいました」 「ヤア、それは大変だ」 「何という可愛想なことでしょう」  と云ううちに王様とお妃様は立ち上がって、急いで機織部屋に行こうとなさいました。  オシャベリ姫は慌ててそれを押し止めていいました。 「まあ、お父様お母様、おききなさい……それがやっぱり夢なのですよ……」 「何だ、それも夢か?」 「まあ、お前は何ておしゃべりなのだろう」  と王様とお妃様は又椅子に腰をおかけになりました。そうして王様は真赤に怒ってオシャベリ姫をお睨みになりました。 「この馬鹿姫め。お前みたようなよけいな事をオシャベリする奴はいない。この上そんなことをオシャベリしたら石の牢屋へ入れてしまうぞ」  と大きな声でお叱りになりました。 「これから本当のことをお話しなさい。ね、いい子だから」  とお母様のお妃様がおとりなしになりました。  けれどもオシャベリ姫は平気でこう云いました。 「いいえ。これからが本当なのです。今までのは今度の本当におもしろいお話をするためにお話ししたのです」 「何……これからが本当に面白い話だと云うのか」 「それはどんな話ですか」  と王様もお妃様もお尋ねになりました。  オシャベリ姫は又お話を初めました。 「あたしは今までお話しした二つの夢がさめますと、ほんとに今夜は変な晩だと思いました。だって、寝ていれば黒ん坊が来そうだし、女中の室に行ったらばまた何だか変なことを見そうなので、困ってしまいました。それでしかたなしに寝床にねたまま二人の女中の名前を呼んでみました」 「ああ、それはよかった。初めからそうすればよかったのに」  と王様が云われました。 「でも前のは夢ですもの。しかたがありませんわ」 「ウン、そうだったな。それからどうした」 「そうしたら二人の女中が二人ともハイと云っておきて来ましたから、妾はやっと安心をして、今お話しした二つの夢のお話しをしてきかせました」 「二人とも吃驚したでしょうねえ」  と今度はお妃が云われました。 「エエ、ほんとにビックリして二人とも顔を見合わせましてね。ニコニコ笑って……それは大変にお芽出度い夢で御座います……って云うんですの」 「ホー。どうして芽出度いのだ」 「宝物を盗まれたり、女中が死んだりする夢が何でそんなに芽出度いのかえ」  と王様とお妃様は又も揃ってお尋ねになりました。 「それはこうなのです。二人の女中の云うことには、この国で一番芽出度い夢は『短刀と蜘蛛』の夢と昔から言い伝えてあるって云うんです」 「フーム、そうかなあ」 「あたしは初めてききました」  と王様とお妃様は顔をお見合せになりました。 「あたしもよく知りませんけど、女中がそう云うんですの」  とオシャベリ姫は云いました。 「して、それはどういうわけで芽出度いのだ」  と王様がお尋ねになりました。 「何でも短刀と蜘蛛の夢を見るといいお婿さんが来ると、みんなが云うのだそうです」 「まあ、それはほんとかえ」 「ほんとだそうです。けれども、そんな夢を見たことが相手のお婿さんにわかるとダメになるのだそうです。ですから二人の女中は私に、その夢のことを誰にも云ってはいけないと云いました」 「まあ、お前はほんとに馬鹿だねえ……ナゼそんな大切な夢をそんなにオシャベリしてしまうの」  とお母様のお妃はほんとに残念そうに云われました。 「イイエ。お母様。あたしはお婿さんなんかいらないの。それよりもそのお話しをした方がよっぽどおもしろいの。だってこんな面白い夢を見たことは生れて初めてなのですもの」 「お前はほんとにしようがないおしゃべりだねえ。それじゃお前のお守の女中がその夢のことを外へ話さないようにしましょう」  とお妃様が云われました。 「いいえ。構わないのよ、お母様。女中がお話しなくともあたしがお話ししますからダメですよ」  とオシャベリ姫が云いました。  王様もお妃様もおしゃべり姫のオシャベリに呆れておいでになるところへ、姫のお付きの女中が二人揃って姫の前に来て頭を下げて、 「お姫様、お化粧のお手伝いを致しにまいりました。もうじき御飯になりますから」  とお辞儀をしました。  お妃様はそれを見て、 「オオ。お前達は昨夜姫からおもしろい夢のお話をきいたそうだね」  と云われました。  王様からこう尋ねられますと、女中は吃驚したような顔をして顔を見合わせました。そうして二人一時にこう答えました。 「いいえ。お嬢様は夢のお話など一つも私達になさいません」 「えっ……お前達は姫から夢の話を一つもきかないのか」  と王様はこわい顔をしてお睨みになりました。 「ハイ」 「嘘を云うときかないぞ」 「嘘は申しません」 「よし。あっちへ行け」  といわれますと、女中はお辞儀をして行ってしまいました。  王様は女中が行ってしまうと、オシャベリ姫をぐっとお睨みになりました。 「コレ……オシャベリ姫。お前はなぜそんなに嘘ばかりオシャベリをするのだ」  と王様は雷のような声で姫をお叱りになりました。  けれども姫はちっともこわがらずにこう云いました。 「いいえ。私はちっとも嘘を云いません。本当にそんな夢を見て、本当にその話を女中にしたのです。女中の方が嘘をついているのです」  と云い張りました。  けれどもお父様の王様は、もう姫の云うことを本当になさいませんでした。 「お前の云うことはみんな嘘だ。その上にそんなに強情を張ってオシャベリをやめないならば、もうおれの子ではない。この国では嘘を吐いたものは石の牢屋に入れることになっているのだから、貴様もいれてやる」  と云ううちに王様は立ち上って、泣き叫ぶ姫の襟首をお掴みになりました。  お母様のお妃は慌ててお止めになって、 「サア姫や。嘘を吐いて済みませんでしたとお云い。これから決して嘘を吐きませんとお云い。お母さんが詫をして上げるから」  と云われましたが、姫は頭を振って「イヤイヤ」をしながら、強情を張って泣くばかりでした。 「よし。そんなに強情を張るならいよいよ勘弁できぬ」  と王様は大層腹をお立てになって、とうとうオシャベリ姫を石の牢屋に入れておしまいになりました。  石の牢屋はお城の地の下の、真暗なつめたいところにありました。  オシャベリ姫はそこに入れられて、あんまり怖いので石の上に寝たままオイオイ泣いていましたが、いつまで経っても誰も助けに来てくれません。お母様や女中の名前を呼んでも、あたりは只シンとして真暗なばかりです。  そのうちに姫は泣きくたびれて、ウトウトねむりかけますと間もなく、 「ニャー」  と云うやさしい猫の声がきこえました。  見ると、向うの暗いところに黄金色の猫の眼が二つキラキラと光っています。  オシャベリ姫は淋しくてたまらないところでしたから、この猫を見るとよろこんで、 「チョッチョッチョッ」  と呼びました。そうすると猫はすぐに姫のところへ摺り寄って、咽喉をグルグル鳴らしました。  姫は猫を抱き上げてこう云いました。 「まあ……お前はどこから這入って来たの? この石の牢屋には鼠の入る穴さえ無いのに……お前、もし出るところを知っているのなら妾に教えて頂戴な!」 「ニャー」 「オヤ。お前、出て行くところを知ってるのかえ」 「ニャー」 「じゃお前、先に立って妾をつれて行っておくれな」 「ニャーニャー」  と云ううちに、猫はもう姫の手を抜け出してあるき出しながら、「こっちへいらっしゃい」と云うようにふり返りました。  オシャベリ姫は、猫が本当に牢屋の外へ連れて行ってくれるのか知らんと変に思いながら、真暗な中で時々ふりかえる猫の眼を目あてにしてソロリソロリとあるき出しますと、不思議にも狭いと思った牢屋は大変に広くて、どこまで行っても突き当りません。そのうちに何だか野原に来たようで、穿いている靴の先に草っ葉が当るようです。  なおよく気をつけて見ると、頭の上には空があって、処々その雲の間から星が光っています。 「まあ。やっぱり猫は本当にあたしを助けてくれるのだよ。だけど一体ここはどこなんだろう」  と、そこいらを見まわしました。  そうするとやがてあたりが明るくなって、まだ見た事もない山や河や森や家が見えて来ると一所に、向うの雲の間から真赤なお天道様がピカピカ輝きながら出て来ました。そうしてそこいら一面に咲いている花も照らしました。  その時に気がつくと、最前の猫はどこへ行ったか、影もすがたもなくなっていました。  オシャベリ姫がボンヤリして立っていますと、間もなくうしろの森の中から二人の百姓の夫婦らしいものが出て来ましたが、だんだん近づいて見るとコハ如何に……それは人間の姿をした雲雀で、オシャベリ姫の姿を見付けるとビックリして立ち止まりました。そうして二人はオシャベリ姫を指しながら話を初めました。 「クイッチョ、クイッチョ、クイッチョ、クイッチョ」 「ピークイ、ピークイ、ピークイ、ピークイ」  これを聞くと、オシャベリ姫は不思議なことも何も忘れて、可笑しくてたまらなくなりました。 「マア……可笑しいこと。アノ……チョイト雲雀さん。ここは何という処ですか。教えて頂戴な」  と近寄って行きました。  そうすると雲雀の夫婦は慌てて逃げ出しました。 「ピーツク、ピーツク、ピーツク、ピーツク」 「ツクリイヨ、ツクリイヨ、ツクリイヨ、ツクリイヨ」  と、一生懸命に叫びながら自分の家の方へ逃げて行きますと、その声をききつけて森の中から沢山の雲雀が出て来ました。  その雲雀たちはみんな人間の姿をしていて、お爺さんのようなの、お婆さんのようなの、又は若い人から子供までいるらしく、みんなゾロゾロと連れ出ってオシャベリ姫をすっかり取り巻いてしまいました。  オシャベリ姫を取巻いた雲雀たちは、初めはみんなだまって不思議そうにオシャベリ姫を見ていました。  けれども何もわるいことをしそうにもないので姫は安心をしまして、も一ペン尋ねて見ました。 「まあ……ここは雲雀の国なの? あたしは人間の国から来たものだけれども、帰り途がどっちへ行っていいかわからなくて困っているのよ。だれか知っているなら教えて頂戴な」  すると、その中の一番年寄りらしい身姿をした雲雀がこう云いました。 「リイチョ、リイチョ。リイチョ、リイチョ。チョ、チョ。チョン、チョン」 「まあそれは何と云うこと」 「チョングリイ、チョングリイ、チョングリイ」 「グリイチリ、グリイチリ。チリロ、チリロ」 「ちっともわからないわ」 「チリル、チリル。ルルイ、ルルイ。リイツク、リイツク、リイツク、リイツク」 「つまらないわねえ……そんな言葉じゃ……」  オシャベリ姫がこう云いますと、今度は集まっていた雲雀がみんな一時にしゃべり出しました。 「ピークイ、ピークイ。ピークイ、ピークイ。クイッチョ、クイッチョ。クイッチョ、クイッチョ。チョ、チョ。チョン、チョン。チョングリ、チョングリ。チイヤ、チイヤ。チャルイヨ、チャルイヨ。チャルイヨ、チャルイヨ」  オシャベリ姫はあんまり八釜しいのでびっくりして、 「まあ。何てやかましいんでしょう。そんなにしゃべっちゃ、私の耳が潰れてしまうよ。やめて頂戴、やめて頂戴」  と云いましたが、雲雀たちはなかなかやめません。なおもよってたかってしゃべりつづけます。  オシャベリ姫はあんまり雲雀たちにシャベりつけられて、これはたまらぬと両手で耳を押えて逃げだしますと、雲雀たちはなおもしゃべりつづけながら追っかけて来ます。  その上にいつどこから出て来たか、雲雀の兵隊や巡査までが繰出して来て、 「キイキイ、ピイピイ」  と叫びながら、広い野原を逃げまわるオシャベリ姫を追っかけまわしました。その恐ろしいこと……。  オシャベリ姫はもう夢中になって泣きながら逃げまわっていましたが、やがて草の中にあった深い井戸の中へ真逆様に落ち込んで、そのままズンズンどこまでも落ちて行きました。  姫は又ビックリして、 「アレ、助けて」  と叫びましたが、あんまりの恐ろしさに眼をまわしてしまいました。  けれども間もなく又気がついて見ますと、今度はいつ連れて来られたのか、立派な寝床の上に寝かされて、頭の下には柔かい枕が置いてあります。  どうしたのかしらんと思って、そこいらを見まわしますと、又ビックリしました。  枕元には人間の大きさ位の青蛙の看護婦が二人、黄金色の眼を光らして、白い咽喉をヒクヒクさせながら腰をかけています。  青蛙の看護婦はオシャベリ姫が眼をさましたのをみると、すぐに立ち上って、 「キャッ、キャッ、キャッ、キャッ」  と呼びました。  すると向うの室で、 「クン……クン」  という声がきこえまして、黒い立派な洋服を着て眼鏡をかけた大きな疣蛙が、黒い皮の鞄を提げてノッサノッサと出て来ました。  その疣蛙は姫のそばへ来ると、鞄から虫眼鏡を出して、姫の顔を眼から鼻から口と一つ一つていねいにのぞきましたが、おしまいに黒い冷たい手で姫の手を掴もうとしました。姫は驚いて、 「アレ」  と云って手を引っこめますと、疣蛙は眼をパチクリさせていましたが、やがて青蛙の看護婦に、 「クフン、クフン」  と何か云いつけて出て行ってしまいました。  そうすると、それと入れ違いに今度は赤い兵隊の服を着た赤蛙が先に立って、あとから最前の疣蛙が這入って来ると、立派な金モールの服を着た殿様蛙と、その奥さんらしいやさしい顔をした青蛙が這入って来ました。この殿様蛙夫婦が這入って来ると、室中にいた疣蛙も赤蛙も青蛙もみんな一時に床の上にひれ伏してしまいました。  けれどもその中で疣蛙だけは頭を下げたばかりで、やがて殿様蛙の夫婦をつれて姫の前に来て、姫の眼や口や鼻を指さして、 「クンクンクンクン」  と何か話しますと、殿様蛙夫婦は眼をクルクルまわしてうなずいております。  姫は可笑しくなって来ました。 「妾は今蛙の国に来て、蛙の病院に入れられているのに違いない。疣蛙はここのお医者さんで、殿様蛙はきっとここの王様で妾を見に来たのに違いない。妾の顔と蛙の顔とは大変に違うから珍らしがっているのだろう」  こう思っているうちに、殿様蛙は赤蛙の兵隊を連れてサッサと帰って行きました。  そうすると大変です。  蛙の国の王様がわざわざ病院までオシャベリ姫を見に来たということを国中の蛙はみんなきいたらしく、いろんな蛙がゾロゾロと蛙の病院の入り口から這入って来ては姫の顔をのぞき込みます。虫眼がねを出してのぞき込むものもあります。ノートブックを出して何か書き止めて行くものもあります。または写真機を出して撮影して行くものなぞいろいろありまして、中には何やらお話をしかけるものもあります。 「グレレ、グレレ、グレレ、グレレ  ケオコ、ケオコ」  雲雀の国で懲りていたのでさっきからだまって我慢をしていたオシャベリ姫は、もう我慢し切れなくなって吹き出しました。 「オホホホホ。ああ、可笑しい可笑しい。何ておかしい言葉でしょう」  オシャベリ姫がこう云いますと、蛙たちはビックリしたらしく、みんな顔を見合わせましたが、やがて又前よりも一層烈しくオシャベリ姫にシャベリかけました。 「グル、グル、グル  グルイレ、グルイレ、グルイレ」 「クロ、クロ、クロ、クロ  プリイ、プリイ、プリイ  プロロ、プロロ、プロロ」  と云いながら、われもわれもとオシャベリ姫をのぞきこみます。 「オホホ、ハハハハ。あたしの顔が何でそんなに珍らしいの。眼玉ばかりキョロキョロさして」 「ツララロ、ツララロ、ツララロ、ツララロ、ツララロ、ツララロ」 「ハハハハハハハハ。ホホホホ。あたしいやよ、そんなにのぞいちゃ。アレ冷たい。気味のわるい。さわっちゃいけない。キタナラシイじゃないの」 「ダレイケ、ダレイケ、ダレイケ  グレイケロロ、グレイケロロ、グレイケロロ」 「コロロ、グロロ、ガロロ、ウロロ、ゲロロ、ゲロロ、ゲロロ」  といううちに、あとからあとからのぞき込んで来ます。しまいには上から上に重なり合って、姫の寝台の上まで飛び上って来て、われもわれもとしゃべります。  オシャベリ姫は、これはたまらぬとはね起きて、入り口から逃げ出そうとしましたが、看護婦の青蛙が両方からかじり付いて放しません。  その中に窓の方を見ますと、窓の外はもう一面に蛙が山のように押し寄せて、あっちへ押し合いこっちへヘシ合い、大変な騒ぎです。おまけにそのシャベルこと。 「グレーレ、グレーレ、グレーレ、グレーレ  グレーチョコ、グレーチョコ  グルーロ、グルーロ、グルーロ  レロロ、レロロ、レロ、レロ、レロ」 「ツララ、ツララ、ツラララロ  クロラ、クロラ、クロロロラ  ゲレロ、ゲレロ、ゲレレレロ  グラ、グラ、グラ、グラ、グラ  ゲラ、ゲラ、ゲラ、ゲラ、ゲラ  ガラ、ガラ、ガラ、ガラ、ガラ」  姫は一生懸命大きな声をして、 「ちょっと待って頂戴。そんなに押すと寝台が壊れてしまうよ。そんなにしゃべると妾の耳が破れてしまうよ」  と叫びましたが、蛙どもはなおも一生懸命にのぞき込んでしゃべります。  姫はもう死に物狂いになって、蛙たちの頭を踏つけて表に飛び出しましたが、門のところまで来ると又驚きました。  オシャベリ姫は蛙のオシャベリに驚いて、蛙の病院から飛び出して表へ逃げ出しましたが、表門を出てみると外は立派な蛙の町です。そうしてその町がどこまでもどこまでも蛙ばかりで、電車も自動車も蛙で埋まったまま動かなくなって並んでいます。  そこへオシャベリ姫が飛び出したので、今までよりも一層大さわぎとなって、 「ガアガアガアガアガア  ワーワーワーワーワー」  とまるで大暴風のように騒ぎ出します。  姫は夢中になって蛙の頭を踏みつけながら、町の外へ逃げ出しました。  野原でも林でも田圃でも何でも構わずにドンドンドンドン駆け出しますと、蛙たちはあとから押し合いへし合い追っかけます。  姫は息が切れて足が疲れて死にそうになりましたが、それでも蛙たちは追っかけやめません。  そのうちに日が暮れて、東の山からまん丸いお月様が出て来ました。  そのお月様をみると、オシャベリ姫はホッと一息しました。  日が暮れたらいくら蛙でも最早追っかけて来はしまいと思いましたが、それは大変な間違いでした。  日が暮れてお月様が出ると、野原の方は一面に蛙ばかりがいるようにガアガアガアガアと鳴き声がして、もう足元に追っかけて来そうです。  これは大変と、姫は又も山の方へ山の方へとあとをふり返りふり返り逃げて行きましたが、そのうちに、とある高い崖の上に来ますと、眼の下に絵のような美しい都が見えて来ました。  その都はほんとに絵のように美しい都でした。  どの家もどの家も白い壁に青い屋根で、その下から青や黄色の電燈がキラキラと光っています。  その真中には大きな黒い鉄のお城がありまして、その中から紫のあかりが眩しいほど光って見えました。  その上にはお月様と星が光っていて、その美しいこと……そうしてその静かなこと……電車の音も自動車の響も人間や犬の声なぞも何もきこえません。生きたものが住んでいるのかどうかわからない位です。  オシャベリ姫はしばらくの間ボンヤリその景色に見とれていましたが、 「ああ、こんな静かな所にいたらさぞいいだろう。昼間オシャベリをする雲雀や、夜中に鳴きまわる蛙がいないから、どんなにうるさくなくていいだろう」  と思いながらフト足もとを見ますと、一本の蔦葛が垂下って、ずうっと崖の下の家の側まで行っております。  オシャベリ姫は直ぐにその蔦葛を伝って下へ降り初めました。 「もうこの国へ来たら口を利くまい。この国にはあの雲雀や蛙の口のように、もっとやっぱりあたしよりもずっとひどいオシャベリがいて、あたしをシャベリ負かしていじめるに違いない。そうしてオシャベリさえしなければきっと親切にしてもらえるに違いない」  とこう思いながら、オシャベリ姫は蔦葛にすがって崖を降りはじめました。  初めのうちは崖がデコボコしているので、オシャベリ姫はちょうど段々を降りるようにして蔦葛にすがりながら降りてゆきましたが、だんだん下の方になりますと崖が急になって、しまいには全く宙にブラ下ってしまいました。姫はこわくなって引返そうとしましたが、もう引返す力が抜けてしまいまして、姫はあまりの恐ろしさに蔦葛にすがりながら泣き出しました。  その声をききつけたものか、はるか崖の下の草原へ大勢の人が出て姫の姿を見上げていましたが、崖があんまり高いので、そんな人たちがまるで蟻のように見えました。  これを見ると姫は一層恐ろしくなって、手と足で蔓にかじり付いてブルブルふるえていますと、その中にはるか下の方から姫の掴まっていた蔦葛を伝って昇って来るものがあります。だんだん近づいて見ますと、それは黒い服にズボンを穿いて、白い靴に赤い覆面をした奇妙な人間でしたが、さも軽そうに姫を引っ抱えますと、胴のところへ何やら小さな包みの紐みたようなものをくくりつけますと、いきなり姫の身体を投げ落しました。  オシャベリ姫は肝を潰して、思わず、 「アレッ」  と叫びましたが、間もなくポカーアンと大きな音がしたと思うと、姫の頭の上で大きな傘が開いて、折から吹く風につれて、向うに見えるお城の方へフワリフワリと飛んで行きました。  姫は又ビックリしましたが、それでも命が助かったのでホッと安心をしました。 「まあ、今の人は何て不思議な人でしょう。初めからそう云ってくれれば、こんなにビックリしはしないのに。おしまいまでちっとも口を利かないなんて変な人だこと……」  と独り言を云っているうちに、風船は鉄のお城の中の広いお庭のまん中へフワリと落ちました。  姫はほんとうに安心をして、そこに敷いてある白い砂の上に降りましたが、風船はそのまま小さく畳んでポケットに仕舞っておきました。  そのうちに姫のまわりには鉄のお城の鉄の鎧を着た兵隊さんが沢山に集まりましたが、不思議にも一人も口を利くものがありません。だまって姫を連れて、王様の前に連れて行かれました。  王様とお妃様は、鉄のお城の中の大きな大きな鉄の室の中の、高い高い鉄の台の上に鉄の椅子を据えて、真黒な着物を着て鉄の冠をかむって坐わっておりましたが、その室中のものは鉄の壁も鉄の床も、鉄の柱も鉄の天井も、それから一パイに並んでいる大将や兵隊たちの鉄の鎧も、すっかり鏡のように磨いてありまして、その中にサーチライトのような燈火が紫色に輝いておりますので、そのマブシイ事……眼が眩んでしまいそうです。  姫は何だかこわくなって、 「これから妾をどうするのですか」  ときいてみたくてしかたがありませんでしたが、みんなだまっているところに又うっかり口を利くと、何だか大変なことになりそうなので、ジッと我慢をしていますと、鉄の兵隊の一人は姫に王様を指して、その前に行ってお辞儀をするように手真似で教えました。  姫は黙ってその通りにしました。  そうすると、王様とお妃様はジッと姫のようすを見ておりましたが、やっぱりだまってうなずいたまま二人揃って壇の上から降りて来まして、二人で両方から姫を手を引っぱりながら奥の方へあるき出しました。  ところがその奥の方へ行く廊下の長いこと。右へ曲ったり左へ曲ったり、梯子段を登ったり降りたり、いつまでもいつまでも続いています。そうして連れて行く王様夫婦も、あとから随いて来る大将たちも、やっぱりだまって一口も物を云いません。  姫は又、 「妾をどうなさるのですか」  ときいてみたくなりましたが、やっぱり我慢をしていますと、やがて一つの立派な室に這入りました。  その室もピカピカ光って鉄ばかりで出来ておりまして、真ん中に鉄の大きなテーブルがあり、その上に大きいのや小さいのやいろんな鉄の壺と、それからコップや盃見たようなものが沢山に並んでいて、その真ん中あたりにある椅子に姫が腰をかけさせられますと、その右と左に王様夫婦が坐わりました。あとはお伴をして来た鉄の城の大将たちが、机の四方を取かこんでズラリと腰をかけます。そうしてみんな坐わってしまうと、入口から四人の黒ん坊の女が白い着物を着て出て来まして、真中にある一番大きな鉄の壺から、みんなの前の鉄の盃へ一パイになるように白い牛乳のようなものを注いでまいりました。  その白い汁の芳香のいい事……。  鉄の牢屋へ這入ってから、雲雀の国から蛙の国から、この口を利かない人間の国まで来る間、なんにもたべなかったおシャベリ姫は、もう今にも飛ついて飲みたい位に思いました。  けれどもほかのものがみんなジッとして手を出しませんから、姫も我慢をしていましたが、不思議にもみんなは知らん顔をしていて、ちっとも盃を手に取ろうとしません。只その中で王様が姫の前の盃を指して、「早くおあがりなさい」と云うような手真似をするだけです。  姫は困ってしまいました。 「これをこのまんま飲んでもいいのですか」  と云いたくてたまらないのでしたが、又思い出して、 「イヤイヤ、うっかり口を利いて非道い目に合うといけない。だまってみんなのする通りにしていよう」  とひもじくてたまらないのを我慢しました。そうして、 「この人たちはみんなきっと唖に違いない。そんなら耳もきこえないのだから、何を云ってもわかるまい。一つオシャベリをしてみようかしらん。イヤイヤ、唖で耳がきこえないのなら何を云ってもつまらないから、やっぱり我慢をしていよう」  と思いながら、両手を膝の上に置いてお行儀よく澄ましていました。  その様子を見た王様がお妃様の方を向いて何か手真似をしますと、お妃様はうなずいてオシャベリ姫の肩をたたきました。そうしてたべ方を教えるように、姫の見ている前で杯を取り上げましたが、いきなりその盃を鼻に当て、白い牛乳のような汁を鼻の穴からスーッと飲んでしまいました。  オシャベリ姫は呆れてしまいました。鼻の穴から飲むなんて、何という変なたべかたであろうと思いながら、お妃様の顔をよく見ますと、オシャベリ姫は思わず「アッ」と声を出しました。  お妃様の顔の鼻と眼と眉と耳とは当り前にあるのですが、口の処には何もありません。鼻の下から頤まで一続きにノッペラボーになっているのです。そうして口の代りに赤い絵の具で唇の絵が格好よく描いてあるのでした。  オシャベリ姫は呆れてしまって、ほかの王様や大将たちの顔をキョロキョロと見まわしましたが、気が付いてみると、どの顔もどの顔も、今まで口と思っていたのはみんな絵の具で描いたもので、只王様や大将たちの口は大きく描いてあり、お妃様の口は小さく描いてあるばかりです。  これを見たオシャベリ姫は思わず吹き出しました。 「オホホホホホ。マア可笑しい。皆さんはどうしてそんなにお口がないのですか。どうしてそんなに片輪におなりになったのですか。鼻の穴には歯も舌も無いのに、どうして御飯や何かを召し上るのですか。それとも、こんな牛乳みたような汁ばかり飲んで生きておいでになるのですか。オホホホホホ。まあ、おもしろいこと。どうりでみなさんは、一人も口をお利きにならないのですね。お話も出来なければ歌もお歌いにならないのね。まあ、どんなにかつまらないでしょうねえ。オホホホホホ。ああ、可笑しい。ああ、おもしろい。変な国ですこと。アハハハ、ホホホホホ。ああ、あたしはもうお腹の皮が痛くなりそうよ。あんまり可笑しくて可笑しくて……」  と腹を抱えて笑いながらシャベリ続けました。  そうすると、よもや聞えまいと思っていた人々の耳に、オシャベリ姫の言葉がすっかり聞えたらしく、まず一番にお妃はさもさも恥かしそうに涙を流して室を出て行きました。  あとに残った王様は鬼のような恐ろしい顔になって、腰にさしていた短刀を抜いて姫を捕えて殺そうとしました。  姫は驚いて、 「アレ、御免なさい、御免なさい」  と言いながら、鉄の机の下に這い込んで、あっちこっちと逃げまわりますと、大勢の大将は八方から手を延ばして捕まえようとします。それをすり抜けすり抜けしているうちに、やっとの思いで隙を見つけて机の下から飛び出して、廊下をドンドン逃げ出しました。  あとからは、大勢の大将や兵隊が王様を先に立てて追っかけて来ます。  姫はもう一生懸命でした。  身体が小さいのを幸いに窓を抜けたり床の下をくぐったりして、やっとの思いで庭に出ましたが、この時はもうお城中の大騒ぎで、声はきこえませんけれども、あっちにもこっちにも兵隊が手に手に短刀を持って姫を探しているのがよく見えます。  オシャベリ姫は震え上りながら、なるたけ暗い方へ暗い方へと木や家の隙を伝って、やがて一つの森の中に入ると、ドンドン走り出しました。  やがて、その森の向うの端のお月様のさしているところまで来ますと、そこには一つの高い高い鉄の塔がありまして、その下に小さな入り口がありました。  姫は喜んで、すぐにその中に這入ろうとしましたが、その時にヒョイと気が付きますと、その入り口一パイに網を張って、一匹の大きな蜘蛛が餌の引っかかるのを待っています。  姫はあまりの恐ろしさにあとしざりしました。  けれどもその時に、又姫がうしろをふりむいて見ますと、鉄のお城の方ではあっちにもキラリ、こっちにもキラリと光るものが見えます。それはみんな短刀で、それがだんだんこちらの方へやって来るようです。  姫は、どうしてもこの鉄の塔の中に逃げこまなければ、ほかにかくれるところが無くなってしまいました。  姫は泣くには泣かれず、逃げるには逃げられません。前には蜘蛛が待っていますし、うしろからは短刀を持った人が追っかけて来るのです。姫はもう恐ろしくて悲しくて、ブルブルふるえながら立っておりました。  そうすると、はるかに高い高い塔の上から美しい唱歌の声が聞こえて来ました。 「きれいなきれいなお月様  くうろい雲にかくれても、  泣くな、なげくな、悲しむな  やがて出て来る時がある  可愛い可愛いお姫様  大きな蜘蛛にとられても  泣くな、なげくな、こわがるな  いつか助かる時がある」  それをきいたオシャベリ姫はすぐに思い切って、鉄の塔の入り口一パイに張ってある蜘蛛の網を眼がけて飛びこみました。  ところが、その蜘蛛の網はたいそう丈夫な網で、姫の力では破ることが出来ず、かえって姫の身体にヘバリ付いて逃げられなくなってしまいました。これは大変と藻掻けば藻掻くほど、蜘蛛の糸は身体にヘバリついて、手や足にからまって、しまいには動くことが出来なくなってしまいました。  これを見た蜘蛛は大きな眼を光らし、大きな口をワクワクと動かしながら姫を眼がけて飛びかかって来ました。  オシャベリ姫はあんまりの恐ろしさに気絶してしまいましたが、蜘蛛の方は姫を捕まえると、そのまま沢山の糸を出して姫をグルグル巻きにして、鉄の塔の隅っ子の方へ仕舞いまして、自分は又入り口のところへ来てグルグルまわっているうちに、網をもとの通りにすっかり張り直してしまいました。  そこへ鉄の国の王様が先に立って、沢山の兵隊が手に手に短刀を光らせながらやってきましたが、蜘蛛の網が入口に奇麗に張ってあるのを見ますと、その中に誰も這入ったものがいないと思ったらしく、そのまま行ってしまいました。  オシャベリ姫はそんなことは知りません。何だか夢のように、自分がだんだん高いところへ昇って行くように思っていましたが、やがて気が付いてみると、自分は一つの小さな鉄の室の中の鉄の床の上に寝かされています。そうして傍に、だれか一人の男の人が心配そうな顔をして自分を見ています。  空にはいつの間にか真っ黒な雲が出て、風が吹き出していましたが、折から雲の間を出た月の光りでその人を見ますと、その人はまだ若い気高い人で、身体には美しい紫色の着物を着ていましたが、なおよくその顔を見ますと、その人の口は、この国の人間のように絵で書いたものでなく、本当の赤い唇なのでした。 「アレ」  と叫んで姫は飛びおきました。 「あなたのお口は本当のお口……」  こう叫びますと、その若い人は白い歯を出してニッコリ笑いました。 「ハイ、私はこの国のあわれな片輪者です」 「まあ……あなたが片輪者ですって」  と姫は又ビックリして尋ねました。若い人は静かな声でこう答えました。 「そうです。この国は口なしの国と云いまして、この国中の人はみんな口が無いのです。鳥でも獣でも虫までもそうなので、声を出すものは一つもありません。雷と、雨と、霰と、風と、水の音――そんなものしかきこえないのです。それは昔この国中の人があんまりオシャベリだったからです」 「まあ……オシャベリなのにどうして口が無くなったのでしょう」  と姫はあんまり不思議なお話なのに驚いて、眼をまん丸くして尋ねました。  若い人はそのわけを話しはじめました。 「それはこういうわけです……昔、この国中の人は何でも見たことやきいたことを、ひとにお話しすることが好きでした。そうしてお話の上手なオシャベリの人ほどみんなから賞められましたので、だれもかれもおもしろいお話をしよう。みんなビックリするようなオシャベリをしよう、しようと思いました。そのためにだんだん嘘をまぜて話すようになりまして、とうとう嘘の上手なものがオシャベリの上手ということになりました。そうしてこの国中の人々は毎日毎日嘘のつきくらばかりして、本当のことは一つも云わないようになってしまったのです」 「まあ……それじゃみんな困ったでしょうね」 「エエ、ほんとにみんな困ってしまいました。誰の云うことも本当にされないからです。その中にこの国とよその国と戦争がはじまりましたが、いくら敵が攻めて来たと云っても誰も本当にしません。戦争の支度もしなかったものですから、この国の人は滅茶滅茶に敗けて、もうすこしで国中がすっかり敵に取られてしまうところでした」 「まあ、大変ですね。それからどうしました」  と姫は心配そうに尋ねました。 「私の先祖は代々この国の王でしたが、その時の王はこれを見て、国中の人々に『これから口を利く奴は殺してしまうぞ。鳥でも獣でも虫でも、声を出すものは皆、殺してしまえ』と云いつけました」 「まあ恐いこと」 「けれどもそのために国中の人々は一人も嘘をつかなくなったばかりでなく、何の音もきこえぬほど静かになりましたので、敵の攻めて来る音や号令の声が何里も先からきこえるようになりました。その時にこちらの兵隊はみんな鉄の鎧を着て、短刀を持って、王が指さす方へ黙って進んで行きまして、黙って敵に斬りかかって行きましたので、今度はあべこべに敵が滅茶滅茶に負けて逃げて行ってしまいました」 「まあ……よかったこと」  ときいていた姫はやっと安心をしました。  若い人はなおもお話をつづけました。 「それから後、この国中の人々は一人も口を利かなくなりました。しまいには只ぽかんと口を開いていても、役人が遠くから見つけて、物を云っていたのと間ちがえて殺したりしますので、国中の人は怖がって、ものを喰べるのにも、口を開かないように牛乳やソップなぞいう汁を鼻から吸うようになりました。そうして何千年か暮しているうちに、この国の人は口が役に立たなくなったので、だんだん小さくなって、とうとう今のようにまったくなくなってしまいました。けれども全くなくなると妙な顔に見えるので、この国の人は鼻の下の、昔口のあったところに赤い唇の絵を書いておくのです」 「それじゃ、あなたはどうして口がおありになるのですか」  と姫は尋ねました。  若い人はこう尋ねられると顔を真赤にしましたが、やがて悲しそうにこう答えました。  王子はその大きな眼に涙を一パイ溜めながら、 「この国中の人間が皆口が無いのに、私一人口があるのについては、それはそれは悲しいお話があります。あなたはあの山梔子という花を御存じですか」  と不意に王子は尋ねました。 「ええ、よく知っています。あの晩方に大きな花を咲かせる木で、大変にいいにおいがします。花が真白なのとにおいがいいので夜でもよくわかります」  と答えました。  王子はうなずきました。 「その山梔子の樹は名前を『口なし』と書くので、昔からこの国の人々が大好きでした。ですから先祖の王様は国中にありたけの道ばたに、どんな小径にも植えさせました。そうすればどんな暗い夜でも、そのにおいと白花を目あてにして道を迷わずに行かれるからです。  ……さて……私の母の妃は名をクチナシ姫とつけられました位で、まだ小さい時からこの口なしの花が何よりも好きでした。そうしてある月の夜、クチナシの白い花を次から次へ嗅ぎながらいつの間にかお城を出て、西へ西へとだんだん遠くあるいて来ました……。  ところがお城を離れれば離れるほど山梔子の花が少なくなって、しまいにはどちらを向いてもにおいもしなければ、白い花も無いようになりました……。そうして夜が明けますと、とうとう迷子になって、知らない国へ来てしまいました」 「まあ……ちょうど妾のようですこと……」  と姫は思わず云いました。 「それからお母様のクチナシ姫はどうなさいましたか」  王子はやはり悲しそうにして、次のようにお話をつづけました。 「クチナシ姫は、何の気もなしにその国へズンズン這入って行きますと、その国の人がだれもかれも面白そうにお話をしているのにビックリしました。  クチナシ姫はそのお話をしているようすと、そのことばをおもしろがって、次から次へときいて行くうちに、すっかりおぼえてしまいました。そうして自分も話してみたくなりましたが、口が利けないのでどうも出来ません。  それから歌に合わせて踊ったり音楽をやったりしているのを見て、もうたまらないほど歌がうたいたくなりましたけれども、やっぱり口を利くことが出来ません。  そのうちに大勢の子供がクチナシ姫を見つけますと、 『ヤア、口なしの女の子がいる』  というので大勢押しかけて来て、しまいには、 『片輪だ片輪だ。口なしだ口なしだ』  と云いながら、石や木の片をなげつけたり、ぶったり、蹴ったりしはじめました。  クチナシ姫はこの国の人の乱暴なのに驚いて一生懸命逃げましたが、やがてとある山の中に逃げこみますと、子供は一人減り二人減りしてとうとう見えなくなりまして、姫はたった一人大きな池のふちへ来ました。  その池の水に姫は何気なく顔をうつして見ると、どうでしょう。  せっかくお母様に書いていただいた可愛らしい口が、いつの間にか消えて無くなっています。  口なし姫はお池の水にうつった自分の顔を見て泣き出しました。 『ああ、あたしにはどうして口が無いのでしょう。外の国の人間はどうしてあんなに口を授かって、歌ったり舞ったりすることが出来るのであろう。ああ……口が欲しい、口が欲しい』  とひとりで涙を流しておりますと、そのうちにどこからともなくクチナシの花のにおいがして来ました。  口なし姫はそのにおいを便りにだんだんやって来ますと、とうとう自分の国へ帰ることが出来ました。そうして大騒ぎをして探していた両親や家来に迎えられて無事にお城へ帰って来ました。  けれどもそれからのち、口なし姫はクチナシの花を見ると涙を流しました。クチナシのにおいを嗅ぐと、いつも悲しそうにため息をしました。 『ああ。あの花さえ無ければ、私はあんなにほかの国へ行かなくともよかったのに。そうしてこんなに恥かしい、口惜しい思いをせずともよかったのに』  と思いますと、もうクチナシの花やそのにおいがいやでしようがありませんでした。 『ああ。あの花がなくなったらどんなにかいいだろう』  と思うようになりました。けれども国中のクチナシはなかなか枯れません。  そのうちにクチナシ姫は大きくなって、王様のお妃様になりましたが、そのころからこの国中のクチナシの花は一つも咲かなくなってしまいました。これはどうしたことと云っているうちに、お妃様は玉のような一人の王子をお生みになりました。  それが私なのです」  と王子は云われました。  オシャベリ姫は、あんまり不思議なお話なのでオシャベリどころでなく、王子の顔を一心にみつめてお話をきいておりました。王子はお話をつづけました。 「私は不思議にも生まれた時から口がありまして、オギャアオギャアと泣きましたそうで、そのために赤ン坊の泣き声を聞いたことのないこの国の人々は『王様のお城に化け物が生まれた』と大騒ぎを初めました」 「まあ、何と馬鹿でしょうね。当り前のことなのに」  と姫はやっと口を利きました。 「けれどもこの国では不思議がるのが当り前なのです。それで私の父の王は私の母の妃に、その口を針と糸で縫い塞いでしまえと云いましたが、私の母の妃は生れ付き情深い女ですから、どうしてそんな無慈悲なことが出来ましょう。仕方がありませんから私の口に綿を一パイに詰めて、上から繃帯をしまして、針で縫うた傷がいつまでも治らないように見せました。そうして父の王が狩猟に行きますと、その留守に母の妃は私をつれて、地の下の窖に連れて行って、口の繃帯を解いてやりまして、私の口に手を当ていろいろ物の云い方を教えてくれましたので、私は十歳ばかりの時にはもう立派にお話が出来るようになっていました」 「ほんとにお母様は教えることがお上手なのですね」 「けれどもある日の事、とうとう私のオシャベリのお稽古が父の王に見つけられてしまいました。父の王が狩に行きますと、いつも七日位帰って来ませんのに、或る時あんまり鳥や獣が沢山に獲れまして家来が持ち切れぬようになりましたので、三日目に帰って来ました。ところが母の妃も私もおりませんので、方々を探しますと、窖の中でお話をしている母の妃と私とを見つけました」 「まあ、大変……」 「父の王は大変に母の妃を叱りまして、すぐに私を殺そうとしました」 「まあ、こわいお父様ですこと」 「けれどもその時、私の母の妃は一生懸命で私を庇いまして、やっと私の命を助けてもらいました。その代り私を一生涯この塔の上に上げて、番人の代りに大きな蜘蛛に網を張らせて、入り口を守らせることにしました。そうして毎晩一度|宛、たべ物と水とを蜘蛛の網のすき間から入れてもらうのですが、もしちょっとでも口を利いたり歌を唄ったりすると、その晩は食べ物が貰えないのです」 「まあ、お可哀相な」 「それで私も我慢して、それからちっとも口を利かずにいましたが、ちょうど日の暮れ方のことでした。お月様が東の山からあがると間もなく、この塔の上から見まわしますと、向うの崖の途中に蔦葛につかまって一人のお嬢さんが降りて来ます」 「まあ……それじゃ、あの時私を助けて下すったのはあなたでしたか」 「いいえ、私ではありませんが、ただ何というあぶないことだろうと思いました。ちょうどその時、私は御飯を貰いに降りて行く時間でしたから、塔の入り口に降りて来まして、御飯を持って来た兵隊に母の妃を呼んでくれるように頼みました。そうして母の妃にソッと、あなたを助けてくれるように願いましたのです。それからあなたがこの城へお着きになると間もなく、あんな恐ろしい目に合ってこの塔の入り口までお出でになって……」 「まあ……それじゃ、私があの蜘蛛に喰べられないようにして下すったのもあなたですね」 「ええ。あの蜘蛛は馬鹿ですから、あなたを糸でグルグル巻きにして塔の中へ隠したのです。それを私がここまで荷いで来て解いて上げたのです……サアこれで私のお話はおしまいです。今度はあなたがお話しをなさる番です」 「え……私がお話をする番ですって?……」 「そうです。いったいあなたはどうしてこの国へお出でになったのですか? あなたはいったいどこの国のおかたですか?」  姫はこう尋ねられますと、急に恥かしくなって顔を真赤にしましたけれども、自分の生命を助けられた人に隠してはいけないと思いましたから、初めから何もかもすっかりお話をしました。 ……自分がオシャベリ姫と云われたわけ…… ……短刀と蜘蛛の夢を見たこと…… ……それを二人のお付の女中に話したら「それは今によいことがある夢だ」と云ったこと…… ……それをお父様の王様とお母様のお妃にお話しをしたけれども、二人の女中が後でそんなお話はきかぬと嘘をついたこと…… ……そのためにお父様の王様がお憤りになって、姫は石の牢屋に入れられたこと…… ……それから猫の案内で雲雀の国から蛙の国をまわって、どこでもオシャベリのために非道い目に合って、やっとこの国まで逃げて来たこと…… ……それから王様とお妃様に会った話……御馳走をたべているうちにオシャベリをして殺されようとした話……それから逃げまわってこの鉄の塔のところまで来た話……  と、次から次へすっかりお話し申して聞かせました。  聴いていた王子はビックリしたり、感心したり、笑ったりして夢中になって喜んでききました。そうしておしまいに、 「ああ……ああ、何という面白いお話でしょう。私は生れて初めて本当に面白いお話をききました。そうして生れて初めて本当にこんなに思うさま人間同士に声を出してお話をしました。けれども、あなたのお話の中にたった一つわからないことがあります」 「まあ、それは何ですか」 「それはその二人の女中さんです。あなたの国の人はお話はするでしょうけれども、嘘は云わないでしょう」 「ええ、嘘を云うものは一人もおりません」 「それに何だってあなたのお付の女中は嘘を云ったのでしょう。あなたから短刀と蜘蛛のお話をきいていながら、なぜそれをきかないなぞ云って、あなたのお父様を怒らして、あなたを石の牢屋へ入れさせたのでしょう」 「そうですわねえ。私は今でもそれを不思議と思っているのですよ。私の二人の女中は、今までそれはそれは忠義ないい女中で、そんな意地のわるいことをしたことは一度もありませんでしたのに……」 「不思議ですね」 「どうしたのでしょうね」  と二人は顔を見合わせました。  そのときにはるか下の方でバタンバタンという音につれて、 「ウーン、ウーン」  という声がきこえました。  二人はビックリしましたが、すぐに上り口からはるか下の方をのぞいて見ますと、長い長い梯子段の下のところで、例の大きな蜘蛛と、白い衣服を着た女の人とが一生懸命で闘っていますが、その女の人は見る見る蜘蛛から糸で巻きつけられてしまっているのが、窓からさし込んだ月の光りでよく見えます。 「おッ。あれは私の母の妃です。おのれ蜘蛛の奴」  と云ううちに、王子は矢のように梯子段を駈け降りて行きました。  オシャベリ姫はどうなることかと見ておりますと、梯子段を降りた王子は懐中から短刀を抜き出すや否や、たった一撃ちに蜘蛛の眼と眼の間へ突込んで殺してしまいますと、つづいて同じ短刀でお妃に巻きついた糸をズタズタに切り破ってお妃を助け出しました。  オシャベリ姫はほっと安心しながら、なおもようすを見ていますと、お妃は嬉しさのあまり王子を犇と抱き締められましたが、やがてその手をゆるめて、手真似でどこかへ逃げるように王子に教えておられるようです。  王子は地びたへ両手をついてお礼を云いました。  そのうちに、お妃は涙を流しながら王子と別れて、表の方へ出て行かれました。  それを見ていたオシャベリ姫は、急いで梯子段を降りて、王子の傍に行こうとしましたが、その時は何だかお城の中が急に騒々しくなったようで、風の音のきれ目きれ目に沢山の人の足音がするようですから、姫は外をのぞいて見ますと、大変です。  沢山の兵隊が手に手に短刀を持って、この塔の方へ押しかけて来るようです。  これを見た姫は思わず上から叫びました。 「王子様、大変ですよ。大勢の兵隊が攻めて来ますよ」  王子はこれをきくと、すぐに表に走り出て見ましたが、忽ち塔の中に駈けもどって、右に左に折れまがった梯子段を、一つのぼっては引き外して投げおろし、二つのぼってはつき落して、塔の上まで昇ってくるうちに、階段が一つも無いように下の方へ落してしまいました。  そこへ大勢の兵隊が攻めかけて来ましたが、梯子段が落ちているので登ることが出来ません。しかたなしに八方から鉄の塔を取り巻いて、ヒューヒューと矢を射かけましたが、あまり塔が高いのでみんな途中まで来て落ちてしまいました。  王子はそれを見ながら、あまりの恐ろしさにワナワナふるえている姫にこう云いました。 「この兵隊どもはみんな、この国の風下の町々から来た兵隊です。さっきから私たちがお話した声が風下の町や村へすっかりきこえたそうで、この塔の上に魔物がいるというので、父の王に早く退治るように云って来たのです。父の王も母の妃も、そのお話をしたものがあなたと私で、魔物でも何でもないことはよく知っていたのですが、昔からこの国ではオシャベリをしたものは殺すことになっているのですから、殺さないわけに行きません。すぐにお城の中でも兵隊を繰出すように云いつけましたので、母の妃は心配して、早く逃げるように知らせに来たのです。けれども悲しいことに口を利くことが出来ないので、しかたなしに中に這入ろうとしたために蜘蛛の巣に引っかかってあんな目に合ったのです」 「まあ、ほんとに御親切なお母様ですこと」  とオシャベリ姫は涙を流しました。 「けれどももう遅う御座いました。この塔はもう八方から兵隊に取巻かれて逃げることは出来ません。只逃げる道が一つあるきりです」 「えっ、まだ逃げる道があるのですか」 「ありますとも。あなたはさっき崖から飛び降りる時に持っておられた落下傘を持っておいででしょう」 「あっ。持っています、持っています」 「それを持って飛げるのです」  と云いながら、王子は鉄の塔の絶頂の窓のところからお城の方を向いてこう叫びました。 「お父様、お母様、私がわるう御座いました。よけいなことをオシャベリして大層御心配をかけました。私はこれから姫と一所によその国へ行きます。けれどもこれから決してオシャベリはしません。本当に見たりきいたりしたことでも、よけいなことはお話しをしないようにいたしますから、どうぞ御安心下さいますように。さようなら、御機嫌よう」  こう云ううちに王子は、塔の床の上に手を突いて、涙を流しながらお暇乞いをしました。  オシャベリ姫もだまって涙をこぼしながら、手を突いてお暇乞いをしました。  そうして二人は落下傘の紐をしっかりと掴んで、塔の上から下を目がけて飛び降りました。  二人の身体はやがて落下傘のおかげでフンワリと空中に浮かみました。それと一所に烈しく吹く風につれて、大空高く高く高く舞い上りましたが、その中に雨がバラバラと降り出しました。  そうすると又大変です。落下傘は紙で作ってあった物とみえまして、見る見るうちにバラバラに破れてしまいましたからたまりません。  二人は抱き合ったまま流星のように早く、下界の方へ落ちて行きました。 「アレッ。助けて」  と姫は思わず大きな声で叫びましたが、その自分の声に驚いて眼をさましますと、どうでしょう。今までのはスッカリ夢で、姫はやっぱり自分のお城の石の牢屋の中に寝ているのでした。  姫はどちらが夢だかわからなくなってしまいました。  あんまりの不思議さに、立ち上って石の牢屋の四方を撫でまわしてみましたが、四方はつめたい石で穴も何もありません。上の方へ手をやってみますと、天井もすぐ手のとどくところにありましたが、そこにも抜け出られるようなところが一つもありません。  あんまりの奇妙さに、姫はボンヤリして、石の床の上に坐わっていました。  すると間もなく向うにあかりがさして、お父様の王様と二人の兵隊が見えまして、牢屋の入り口を外から開かれました。  お父様は思いがけなくニコニコしながら、こう云われました。 「これ、オシャベリ姫。お前の夢は本当になったぞ。今までお前があんまりオシャベリなために誰も婿に来る人が無かったのに、きょう不意に隣の国の第三番目のムクチ王子様が、お前の婿になりたいと云ってお出でになった。今からお引き合わせをするのじゃから早く来い」  と云ううちに、姫を牢屋から引き出して、お城へ帰られるとすぐに、二人のお付の女中に姫を立派にお化粧させるように申しつけられました。  二人の女中は姫の無事な姿を見ると、嬉し涙をこぼしながらお化粧のお手伝いをしました。そうして両方から姫の手を引きながら御両親の王様とお妃様の前に連れて行きました。  姫は狐に抓まれたようになって手を引かれて来ましたが、父の王と母の妃の前にいるムクチ王子の姿を見ると思わず、 「アレッ。あなたはあの王子様」  と叫びました。ムクチ王子の姿はもう些し前夢に見た、あのクチナシ国の王子にすこしも違わなかったのです。  ムクチ王子も姫を見るとニッコリと笑われました。そうしてこう云われました。 「ビックリなすったでしょう。私も本当は不思議に思っているのです。私は昨夜不思議な夢を見ました。その夢の中で私はクチナシ国王の一人子と生れましたが、生れた時から口があるためにいろいろ両親に心配をかけましたあげく、オシャベリ姫と一所に鉄の塔から逃げ出しました。その時に姫からきいた話によりますと、姫は蜘蛛と短刀の夢を見たとお父様とお母様に云ったのを、お付の女中が嘘だと云ったために、石の牢屋に入れられたということでした。それから眼がさめて考えてみますと、オシャベリ姫というお名前はあなたの外にありませんから、心配になりまして、すぐに馬に乗ってこのお城へ駈けつけてみますと、私の夢は本当で、あなたは石の牢屋に入れられておいでになることをあなたの御両親からききました。それであなたの夢が嘘でないことを申し上げてお許しを願ったのです」  このお話をきいていた姫は、夢が本当なのか本当が夢なのかわからなくなってしまいました。その時にお父様の王様はこう云われました。 「姫よ。おまえがあんまりオシャベリをするから本当の話でも嘘と思われるのだ。これからお前はオトナシ姫と名を更えろ。そうして決していらぬことをオシャベリするな」  こう云われますと、姫は真赤になって恥かしがりながら、 「私がわるう御座いました。これからは決しておしゃべりいたしません」  とお詫びをしました。  王はそれから二人の女中にこう云われました。 「お前たちは姫から短刀と蜘蛛の話をきいたのだろう」  二人の女中は顔を見あわせて真赤になりましたが、やがてこうお答えしました。 「ハイ。たしかにそのお話をききました」 「それに何だってきかないなぞと嘘をついたのだ」  こう尋ねられますと、二人の女中はなおなお恥かしそうにしながらこう答えました。 「ハイ。蜘蛛と短刀の夢を見ると、きっといいお婿様がお出でになる。けれどもそのことが相手のお婿様のお耳に入るとダメになる、と昔から申し伝えてあります。それで私共は、お姫様によいお婿さまがお出でになるように、わざと嘘だと申しましたのです」  王様もお妃様もムクチ王子もオシャベリ姫のオトナシ姫も、二人の女中の忠義心に感心をしておしまいになりました。  ムクチ王子がオシャベリ姫のオトナシ姫のお婿さんとなって華々しい御婚礼があったのは、それから間もないことでした。  そのときに二人の女中は王様から沢山の御褒美をいただきました。  そうして死ぬまで忠義にムクチ王子とオトナシ姫に仕えました。  久し振りに上京するとマゴツク事や、吃驚させられる事ばかりで、だんだん恐ろしくなって来る。田舎にいると、これでも相当の東京通であるが、本場に乗り出すと豈計らんやで、皆から笑い草にされる事が多い。  横浜から出る電車は東京行ばかりと思って乗り込んで、澄まして新聞を読んでいるうちにフト気が付くと大森林の傍を通っているのでビックリした。モウ東京に着く頃だがハテ、何処の公園の中を通っているのか知らんと思って窓の外を覗いてみると単線になっているのでイヨイヨ狼狽した。車掌に聞いてみると八王子へ行くのだという。冗談じゃない。這々の体で神奈川迄送り戻された。  銀座尾張町から上野の展覧会へ行く積りで、生まれて初めての地下鉄へ降りてみる。見渡す限り百貨店みたいで、何処で切符を売っているのかわからないし、プラットフォームらしいものもないので、間違ったのかなと思って又石段を上って見ると、丸キリ知らない繁華な町である。そんなに遠くへ歩いたおぼえはないが……と不思議に思い思いモトの階段を降りて、反対側の階段を昇ると、又も素晴らしく巨大な、知らない時計店の前に出た。上野の広小路じゃないか知らんと思い迷ってキョロキョロしていたが、そうでもないようである。……とにかく今一度モトの処へ帰らなければと思い思い、タッタ今見て来た店の順序をタヨリに最初に降りた階段を上ってみるとヤットわかった。三つの町は三つとも銀座尾張町なので、入口が四ツ在るのを知らずに、同じ四辻を別々の方向から眺めたから町の感じが違ったのだ。同時に、ホントの地下鉄はモウ一階下に在る事も、音響の工合でわかったので……ナアンダイ……と思ったが、しかし何となく心細くなったので、そのまま宿へ帰ってしまった。  山の手線電車が田町に停まったら、降りた人が入口を開け放しにして行って寒くてしようがないので、入口を閉めようとしたがナカナカ閉まらない。直ぐ傍に立っている喜多実君と坂元雪鳥君とであったかが腹を抱えて笑っている。理由がわからずマゴマゴしているうちに、自動開閉器で閉まって来た扉に突き飛ばされかけた。  この恨みは終生忘れまいと心に誓った。  銀座の夜店で机の上にボール箱を二つ並べて、一方から一方へ堅炭を鉄の鋏で移している。一方が空になると又一パイになっているボール箱の方から一つ一つに炭を挾んで空のボール箱へ移し返し始める。それを何度も何度も繰り返しているから不思議に思って見ていたが、サッパリ理由がわからない。二つのボール箱の左から右へ、右から左へと一つ一つに炭の山を積み返し積み返して、夜通しでも繰り返しかねないくらい。やっている本人は落ち着き払っている。それを又、大勢の人が立って見ているからおかしい。今に理由がわかるだろうと思って一心に見ていたが、そのうちに欠伸が出て来たので諦めて帰った。  家に帰ってからこの事を皆に話したら、妹や従弟連中が引っくり返って笑った。その炭を挾む鉄の道具を売るのが目的だという事がヤットわかった。  こんな体験をくり返しているうちに、筆者はだんだんと東京が恐ろしくなって来た。すくなくとも東京が日本第一の生存競争場である位の事は万々心得て上京した積りであったが、このアンバイで見るとその生存競争があんまり高潮し過ぎて、人間離れ、神様離れした物凄いインチキ競争の世界にまで進化して来ているようである。アノ高々と聳立している無電塔や議事堂も、事によると本物ではないかも知れない。あの青空や、太陽や、行く雲までもがキネオラマみたいなインチキかも知れない。田舎の太陽や、樹木や、電車や、人間はみんな本物だがナアと思うと、急に田舎へ帰りたくなった。真黒に日に焼けた、泥だらけの子供の笑い顔が見たくて見たくてたまらなくなった。  その帰る前日に某名士の処へお暇乞いに行った。某名士氏は八十幾歳の高齢で悠々と白髯を扱いて御座った。  そこへ四十恰好の眼の鋭い、腕ッ節の強そうな刑事然たる人が羽織袴で面会に来て某名士氏の次の間にヒレ伏した。 「初めて御意を得ます。私は××県の者で御座いますが、私の友人で△△と申す者が個人的の特志で、日本政府の軍事探偵となりまして○○政庁の統治下に入り込んで活躍致しておりまするうちに、過般来、日本と○○政庁の外交関係が緊張致しました際、△△は部下十二人と共に一網打尽、引き上げられてしまいました。その捕縛された一刹那に△△はピストルで頭を撃って壮烈な自殺を遂げ、一切の真相を調査不可能に陥れましたので、部下十二名の罪はまだ決定致しかねている状態でありますが、その△△君の死は元来が特志でありました関係から、お上から勲章、年金等も頂戴出来ませぬは勿論のこと、その死因すら永久に公然と発表を許されない事になってしまったのであります」  某名士氏はゆるやかにうなずきながらその男の顔を凝視していた。筆者もその男の咄々と吐き出す肺腑の声に動かされて胸が一パイになって来た。そのうちに、その男の眼が真赤になって来た。 「その自殺致しました△△には妻と男の子が三人ありまして、今申上げましたような事情で路頭に迷うておりますのを、微力ながら吾々友人が寄り集まりまして、どうにかこうにか喰えるように処置いたしましたが、ここに困りますのはその三人の子供に父の死因が知らせられない事で御座います。今でも『お父さんは、何処で、どうして死んだか』と母親や私共に代る代る尋ねるので御座いますが、皆泣くばかりで返事が出来ません。それで……その父の死にました理由がわかりますようなお言葉を、先生に一筆書いて置いて頂きましたならば……その子供たちの成長後に……」  あとは声が曇って、わからなくなった。畳の上に両手を突いて男泣きに泣くばかりであった。  某名士氏は静かに白髯を掀しながら立ち上った。次の間に毛氈と紙を展べさして、墨痕深く「安天命致忠誠」「為△△君」と書いて遣った。その男は拝喜して帰った。  アトで某クラブへ行ってこの事を話したら、集まっていた男の中の一人が突然に笑い出した。 「アハハハ。その字は帰りに十円で売ったろう」  皆ゲラゲラと笑い出した。「東京にはその手が多いからね」  筆者は愕然とした。トタンに東京が底の知れないほど恐ろしくなった。心の中で某クラブの連中に永久の絶交を申渡しながら東京を去った。  久し振りに上京すると感心する事ばかりである。音のないゴーストップに面喰らい、自動車の安いのに感心し、警視庁の親切なのに恐れ入るなぞ、枚挙に暇あらず。少々痛め付けられ気味で、故郷へ帰りかけている処へ、或る人のステッキ・ボーイとなって相州小田原、板橋の益田孝男爵のお宅を訪問する事になった。  益田男爵と言えば人も知る三井の大久保彦左衛門で、兼、日本一の茶人である。名ある財界の大立物は勿論の事、相当有名な茶の湯の大家でも容易に咫尺する事が出来ない。もし一度でも翁の家の縁側に上る事が出来たら一代の名誉になろうと言う。そこへ金と言い、お茶の湯と言い、全然|嗜みのない本来無一物が、偶然中の偶然とも言うべき機会から、何も知らずに参室したのだから、一代の光栄どころでない。タッタ一時間ばかりの間に一代の恥辱を掻き上げてしまったらしい。  全く「らしい」と思うだけである。実際は自分でもどうだったかわからないのだから、いよいよ以て冷汗三斗である。  頼うだ御方と、今一人の富豪と筆者と、三人歴行して自動車を降り、二月末の曇雲の下を藁葺のお寺じみた門に進むと、益田翁は黒い背広に宗匠頭巾庭穿靴でニコニコと出迎えた。先頭の頼うだ御方の背広に耄碌頭巾と調子を合わせたものであろう。まさかスパイ戦術を使ったものではあるまいがと感心した序に少々気味悪くもなった。  家は普通の百姓家を、モウ一つ凝って更に百姓家らしく造作したもの。縁側に木綿車と砧が置いて在る。庭はなくて、全部手入れの届いた野菜畑である。ホーレン草、キャベツなぞ。入口に架けた翁瓦の笑顔が主人公の益田男爵にソックリである。  土間は真中に新しい黒い藁灰を入れて巨大な堅炭が三角の井桁に重なり合ったまま起っている。煤けた天井からは勿論、真黒な自在鍵、周囲に縄や茣蓙張りの椅子なぞ。見まわせば見まわす程、どこまで凝ってあるかわからない。成る程と思わせずには置かない茶人の拷問道具ばかりらしい。  座敷に上るとやはり万事が同じ調子で出来ている。炉の縁から自在鍵。シンシンと鳴る茶釜。古い手桶の火鉢。ヒネクレた瀬戸物の灰落しまで、何が何やらわからなくて仕合わせ。一々鑑定が出来たら肝を潰すであろう。頼うだ御方はしきりに質問しては感心して御座るが、その説明を聞いても格別わからないのだから少々情ないような気にもなった。 「イヤ。この頃の西洋人の日本研究と来たらトテモ大したものでげすよ。この家へ来られる人達でも西洋人の方が畳の上へ上って坐りたがる。日本人の方が土間の椅子に足を伸ばして葉巻を吹かしたがるようなありさまで、話がアベコベでさ。ハハハハ。横浜へ行ってみると西洋人が裃を着て、片手に豆の桝を抱え込んで『フクワアウチ……オニワアソト』ってんで気でも違ったのかと思って聞いてみると、これがヤッパリその日本研究なんだそうで、イヤまったく面白い世の中になりましたよ。ワハハハ」  なぞ言う無邪気な主人翁の愛嬌話のうちにお茶席に案内をされて、名にのみ聞きし懐石なるものが出た。内心恐れをなしながらよく見ると、これも主人翁の心配りであったろうか。普通の御飯に相違ない事が筆者にもハッキリとわかったので大いに安心して大いに面喰らった。主人翁御自慢の高粱パンも非常に美味しく頂戴した。それに続いて五分|搗米飯。わけぎ味噌汁。もやし和もの。白魚白味トジ清汁。亜米利加鱒乾物酢。いずれも誠に少量なのでタッタ一口で片付いたものもある。そのうちにスッカリ満腹して涙ぐんでいる処へ、前記の後半部の献立がアトからアトから出て来るので大いに面喰らった。懐石というものは、こんなに早くお茶を飲んでしまっちゃいけなかったのかとも思い、又は懐石というものは一品も喰い残しちゃいけないものと聞いていたようにも思えて内心すくなからず迷ったが、ともかくも今一度箸を執って無理やりに嚥下してしまった。  それから頼うだお方の手土産を披瀝されたが、そのうちにどこかの干柿があった。それを見た主人翁は、 「御迷惑か知らぬが、この柿を見ちゃ一服頂戴せずにはおれぬ」  と言うので、手をたたくと次の間から盛装した振袖の美人が現われて、吾々三人に向って両手を支いて淑やかに一礼した。干柿なんて全く余計なものを持って来たものだと、内心怨めしく思っているうちにモウ釜の前で勿体らしいお手前が始まった。頼うだ人が、 「薄茶を……」  と所望したのでその薄茶なるものが一人一人に運ばれたが、主人翁を入れてほかの三人は二杯ずつ飲んだけれども、筆者は頭を左右に振って御免蒙った。柿なんぞ田舎で喰いつけているので珍しくも何ともなかった。後から聞いてみたら、愛想にも一片抓まないと主人と頼うだ御方に恥を掻かせる意味になるものだという。そんな事とは夢にもこっちは知らないのだから仕方がない。早く聞いておれば何の干柿の五つや十ぐらいと思ったがモウ追付かない。  主人翁に見送られて門を出て自動車に乗ると、さすがに主人翁の言い知れぬ平民的な好意ぶりに感謝する気になった。ほかの華族や富豪を訪問する時のような物々しい圧迫感を毛頭受けなかった処に感心して、何となくお茶の湯を習う必要を感じている処へ、頼うだお方が筆者を振り返って言った。 「お前が心得がなさそうなので、薄茶を所望したのだ。濃茶となると一つのお茶碗を三人で飲みまわすのだから、末席に坐っているお前がすっかり後始末の作法をしなければならぬ事になるのだ」  筆者はスゴスゴと頭を下げた。 「どうも……済みません」        一  大戦後の好景気に煽られた星浦製鉄所は、昼夜兼行の黒烟を揚げていた。毎日の死傷者数名という景気で、数千人を収容する工場の到る処に、殺人的な轟音と静寂とがモノスゴく交錯していた。  汽鑵場の裏手に在る庭球場は、直ぐ横の赤煉瓦壁に静脈管のように匐い付いている蒸気|管のシイシイ、スウスウ、プウプウいう音で、平生でも審判の宣告や、選手の怒号が殆んど聞こえなかった。テニスの連中はだから皆ツンボ・コートと呼んでいたが、それがこの頃では一層甚しくなって来たために不愉快なのであろう。滅多にテニスをしに来る者が無くなった。  しかしその淋しい審判席の近くに、誰が蒔いたかわからないコスモスの花が咲乱れる頃になると、十月十七日の起業祭が近付いて来るので、正午休みの時間に、時々職工達が芝居の稽古に来る事があった。  秋日のカンカン照っているテニス・コートの上で、菜葉服の職工連が、コスモスの花を背景にして、向い合ったり、組み合ったりして色々なシグサを遣るのはナカナカの奇観であった。近まわりの工場の連中がワイワイ取巻いて見ているうちに、お釜帽を冠った機械油だらけの職工が、板片の上に小石を二つ三つ並べて、腰元らしく尻を振り振り登場すると皆、一時にドッと笑い出したりした。勿論セリフは全くわからないし、身形も作らない作業姿なので、最初は何が何だかサッパリわからなかったが、だんだんと場面が進行するにつれて外題がわかって来た。二人きりで相手を蹴倒おすのは「熱海海岸」。鉄砲を撃つのは「山崎街道」。大勢で棒を担いで並ぶのは「稲瀬川勢揃い」。中には何が何やらわからない新劇もあるが、そんなものでも誰云うとなく「嬰児殺し」だの「夜の宿」だのとわかって来るようになったので、しまいには一組も稽古に来ないようになってしまった。  つまり演る方では大丈夫、わからないつもりで演っているのを、見物の方で一生懸命になって筋を読み取ろうとする。寄ってたかって外題の当てっこを競争するようになったので、各工場の演物を秘密にしたい気持から、どこか、ほかの処で稽古をするようになったらしかった。        二  十月十日の水曜日の午前九時頃のこと。汽鑵部の夜勤を終った職工が三人、そのツンボ・コートを通抜けて来た。  中央に立って歩いて来るのは、この製鉄所切っての怪力の持主で、名前は又野末吉、綽名をオンチという古参の火夫であった。体重百四十|斤に近い、六尺豊かの図体で、大一番の菜葉服の襟首や、袖口や、ズボンの裾から赤黒い、逞ましい筋肉が隆々とハミ出しているところは、如何にも単純な飾り気のない性格に見える。のみならず、いつもニコニコしている小さな眼の光りが、処女のように柔和なので、さながらに巨大な赤ん坊のように見えた。  その大股にノッシノッシと歩く又野の右側から、チョコチョコと跟いて来る小柄な男は、油差しの戸塚という青年で、敏捷らしい眼に鉄縁の近眼鏡をかけている。色の黒い、顔の小さい、栗鼠という綽名に相応しい感じの男。又、左側に大股を踏んばって、又野と歩調を合わせて来るスラリとした好男子は、修繕工の三好といって、相当学問のある才物らしく、大きな擬鼈甲縁の眼鏡をかけているが、三人とも無言のまま大急ぎでツンボ・コートを通抜けて、広い面積に投散らしてある鉄材の切屑をグルリとまわって、事務室の前から正門を通る広い道路まで来ると、やっと又野が口を利き出した。 「ああ。やっとこさ話の出来る処まで来た」 「まったく……あのスチームの音は非道いね。創立以来のパイプだから、塞ごうたって塞ぎ切れるもんじゃねえ」  三好が振返って冷笑した。「会社全体が、あの通り調子付いていやがるんだからな」 「シッカリ働け。ボーナスが大きいぞ」と又野が巨大な肩をゆすぶって見せた。三好が今一度冷笑した。 「テヘッ。当てになるけえ。儲けとボーナスは重役のオテモリにきまってらあ。働らくものはオンチばかりだ」 「この野郎……」と又野が好人物らしく笑いながら拳固を振上げた。三好が一間ばかり横に飛び退いた。 「アハハハ。その代り起業祭の角力の懸賞はオンチのものだろう」と戸塚がオダテるように又野を見上げた。又野が苦い顔をして笑った。 「インニャ。俺あ今年や角力取らん」 「エッ」二人とも驚いたらしく又野の顔を左右から見上げた。又野は真剣な――しかし淋しそうな顔をしていた。 「馬鹿な……オンチだなあ……みんな期待しているんじゃねえか。鼻の先に水引がブラ下がっているんじゃねえか。今年の起業祭には会社が五千円ぐらいハズムってんだから懸賞の金だって大きいにきまっているんだぜ。何故、取らねえんだ……オンチ……」 「ウウン。それじゃけに俺あ取らん。キット取れるものをば毎年、取りに出るチウ事は、何ぼオンチでも面火が燃えるてや……のう……」  といううちに又野はモウ赤面しながら苦笑した。正直一徹な性格が、その苦笑の中に溢れ出ていた。 「惜しいなあ。みんな君の力を見たがっているんだになあ」  と三好が諛うように又野を見上げた。その時に又野がパッタリと立止まった。 「アッ。きょうは十日……俸給日じゃろ」 「アハハ。いよいよオンチだなあ。だからこうして事務室の方へまわっているんじゃねえか」 「俺あ徹夜が一番、苦手じゃ。睡うて腹が減って叶わん。頭がボーとなって来る」  又野が毛ムクジャラの手の甲で顔をゴシゴシとこすった。ほかの二人も立止まった。 「ハハハ。俸給を忘れる奴があるかえ」と、笑いながら三好がポケットからバットの箱を出した。 「俸給は十時から渡すんだっけな」と戸塚もカメリヤの袋を出しかけた。 「……オイ……あれを見い……」  と又野が突然に背後を指した。  鉄屑の堆積越しにコスモスのチラチラ光るテニス・コートの向うから、事務員風の男が来かかっている。霜降背広に、カラの高い無帽の男で顔はよくわからないが、黒い鞄を両手で抱え込んで、何か考え考え俯向き勝ちの小急ぎに、仄白いサーブ・ラインを横切って来る。  その背後から今一人、鳥打帽を目深く冠って、黒い布片で覆面をした菜葉服の男が、新しい地下足袋を踏み締め踏み締め、殺気立った足取で跟いて来る。軍手を穿めた手にステッキ位の黒い棒をシッカリと構えているが、腰を屈げているので背丈の高さはわからない。 「ヘヘッ。……初めやがった。どこの工場だろう」  と三好が朗らかな口調で云った。三人は黙って見ていた。  そのうちに事務員風の男が、自分の影法師を踏み踏み、コートの真中あたりまで来たと思うと、その背後から、急に歩度を早めた菜葉服の男が躍りかかって、無帽の男の頭を黒い棒で殴り付けた。事務員風の男は一タマリもなく、黒い鞄を投出してバッタリと俯向けに倒おれた。 「アッ。殺りおったぞ……」  と又野が引返して駆出そうとするのを、三好と戸塚が腰に抱き附いて引止めた。 「……馬鹿……まあ見てろ……」 「……何……何かい……」  行きかけた又野が青くなって振返った。歯の根をガタガタいわせていた。 「……ヒ……人殺しやないか……」  三好が白い歯を剥出して笑い笑い又野の前に立塞がった。 「アハハ……馬鹿だな。よく見てろったら……あれあ芝居だよ。芝居の稽古だよ。第三工場の奴かも知れねえ」  又野が太い溜息を吐いた。そのまま棒立ちになって見ていた。  テニス・コートの上の菜葉服は、黒い棒を投棄てた。それは重たい鉄棒らしかったが、直ぐに事務員風の男の頭の処に走り寄って、顔を覗き込んだ。すると思いがけなく事務員風の男が半身を起して、盲目滅法に掴みかかったので、菜葉服の男は面喰ったらしい。その手を払い除けると、一度投棄てた黒い棒を取上げて身軽く事務員風の男の背後にまわった。こちらに背中を向けて黒い棒を振上げると、手といわず頭といわずメチャメチャに殴り付けて、とうとう地面に平ったくなるまでタタキ付けてしまったらしい。それはさながらに蛇をタタキ殺す時のように執拗な、空恐ろしいような乱打の連続であった。それから立上ってズボンのポケットから白い、折目正しいハンカチを引出して、帽子をすこし阿弥陀にしながら大急ぎで額の汗を拭いた。すべてが声の無いフイルムそのままの光景であった。 「ソレ見ろ。芝居じゃねえか」 「しかし真剣にやりよるのう」 「何だろう……探偵劇かな」  大急ぎで汗を拭いた覆面の菜葉服は、コートの上に投出された鞄を引っ抱えるとキョロキョロとそこいらを見まわした。遥かに三人の姿を認めたらしく、白い軍手を揚げてチョット帽子を冠り直すと、そのまま第三工場の鋳造部附属の木工場の蔭へ走り込んで行った。  コスモスが風に吹かれて眩しく揺れ乱れた。  その時に、あとに残った事務員風の男は、すこしばかり身動きしかけたようであったが、そのままグーッと身体を伸ばした。その拍子に白い額が真赤に血に染まっているのが見えた。 「アッ……本物だっ……」  三人の職工は誰が先ともわからないまま現場に駈付けた。  しかし、すべては手遅れであった。事務員風の男は頭蓋骨をメチャメチャに砕かれていたが、その悽惨な死に顔は、真正面に眼を当てられない位であった。その枕元に突立った三人は、無表情に弛んだ真青な顔を見交すばかりであった。  そのうちに両眼に涙を一パイに溜めた又野が、唇をワナワナと震わした。感情に堪えられなくなったらしくグッと唾液を呑んで、足元の無残な血だらけの顔を力強く指した。 「……ミ……見い……これが……芝居かッ……」  又野の両頬を涙がズウーと伝い落ちた。火の付くような悲痛な声を出した。 「……わ……わ……汝輩が二人で……コ……殺いたんぞッ……」  二人は恨めしそうな眼付で、左右から又野の顔を見上げた。しかし今にも飛びかかりそうな又野の、烈しい怒りの眼付を見ると、何等の抗弁もし得ないまま一縮みになってうなだれた。申合わせたように自分自分の影法師を凝視しつつ、意気地なく帽子を脱いだ。  それを見ると又野も、思い出したように急いでお釜帽子を脱いだ。死骸の顔を正視しつつ軍人のように上半身を傾けて敬礼した。何事か祈るように両眼を閉じると熱い涙をポタポタとコートの赤土の上に落した。 「……すまん……済みまっシェン……」  遥か向うを通る四五人の職工が、鉄片の堆積越しにこちらを見て、ゲラゲラと笑いながら事務室の中へ這入って行った。やはり芝居の稽古と思ったのであろう。  その間に死骸の顔の血を、自分の西洋手拭で拭いてやっていた戸塚は、突然に大きな声で叫んだ。 「……ウワアッ……西村さんだっ……」 「ナニ。何だって……」  とほかの二人……又野と三好が顔を近寄せて来た。スチームの音で聞こえなかったらしい。 「事務所の西村さんだよ。俸給係の……」 「何だ……俸給がどうかしたんか」 「馬鹿ッ。この顔を見ろッ。俸給係の西村さんだぞッ。俺達の俸給が持ってかれたんだッ」  と早口に叫んだ戸塚は、ほかの二人が呆気に取られているうちに素早く、直ぐ横の木工場に飛込んで行った。犯人のアトを追って行ったらしかった。  しかし戸塚は、そのまま帰って来なかった。  木工場と鋳造場と、その向うの薄板工場と、第一工場のデッキの下を潜り抜けて、購買組合の前から通用門を抜けると往来へ出る。そこから一気に警察へ駈け込んで行ったのであった。        三  警察はちょうど無人であった。海岸に漂着死体が在るという報告で、出動した後だったので、居残っていた田原という警部が、戸塚の話を聞いて、外から帰って来たばかりの思想係りの楠という刑事を呼んで一所に出かけようとした。そこへ又けたたましく電話がかかったので、田原警部が剣を釣りながら聞いてみると、今度は製鉄所の事務室から三好という職工が掛けたものであった。  田原警部はチエッと舌打をした。直ぐに小使を呼んで名刺の裏に鉛筆で走り書きをして海岸に走らせた。 「楠君。君、署長に電話をかけてこの男の話を取次いでくれ給え。製鉄所の公会堂で武道試合を見ている筈だから……多分、非常召集になるだろう。遣り切れんよ全く……」  騒ぎがだんだん大きくなって行った。盗まれた現金が十二万円という大金で、且つ、被害者の西村というのが、非常に評判のいい好人物だったせいでもあったろう。一つには死骸が二人の職工の手で事務室へ抱え移されていたために、現場の模様が全くわからなくなったので、取調べがだんだん大仕掛になって行って、犯人が逃込んだと思われる、木工、鋳造、薄板、第一工場の全部の職工が一人一人に訊問されたせいでもあったろう。  もちろんその時には星浦警察署と町の青年の全員が工場の周囲を蟻の這い出る隙もないくらい包囲していた。取調べには署長以下、警部と、部長と刑事の全員が大童になってスピードをかけたものであったが、それでも見当が付かなかったらしく、夕方になって、現場を見ていた三人の職工が今一度呼出されて、念入りな訊問の仕直しを喰ったが、それでも三人の答えは前の時とチットも変らないばかりでなく、ピッタリと一致するところばかりなので、何事もなく放免された。  製鉄所の裏門から銀行へ行って、製鉄所の資金の一部と、職工の俸給の全部を受取った西村は、札束の全部を、いつもの通りに黒ズックの鞄へ入れて、いつもの通りに銀行の前から人力車に乗って製鉄所の裏門の前まで来た。それから矢張り、いつもの通りの近道伝いにテニス・コートを通り抜けて、事務室へ帰る途中を要撃されたものに相違ない。むろん西村はあのテニス・コートが、そんなに恐ろしい処と知らなかったであろう。八方に見透しの利く安全無比の通路と思って通ったものであろう。同時に犯人は、工場内部の事情に精通している職工の一人に相違あるまい……という警察側の見込らしかった。  三人が警察の門を出た時には四隣がモウ真暗になっていた。生れて初めて警察官の取調を受けた又野は、すっかり毒気を抜かれたせいであったろう。昼間の昂奮も、怒りも忘れたように、元の木阿弥のオンチ然たる悄気返った態度に帰って、三好と戸塚の後からトボトボと出て来たが、そのまま三人が三人とも黙々として、人通りの多い明るい道を合宿所の方向へ歩き出した。  その中に三人が揃って薄暗い横町に曲り込むと、三人とも夢から醒めたように顔を見交した。 「オイ」 「何だい」  三人が揃って黒板塀の間に立佇まった。三好が帽子を脱いで頭を掻き掻き云った。 「俺は何だか大切な事を一つ警察で話し忘れて来たような気がするがなあ」 「何だい。すっかり話しちゃったじゃねえか」と戸塚が眼をパチパチさせた。 「ウン俺も何か知らん、一番大切な事をば云い忘れて来たような気がしてならん」  又野が街燈の光りを仰ぎながら初めて微笑した。戸塚が、その顔を振返りながら不安らしく云った。 「何も忘れた事あねえぜ。西村さんが殺されてよ……軍手をはめた手でなあ」 「そうよ。あの鉄の棒は警察で引上げて行ったろう。四分の一|吋ぐらいの細いパイプだったが……なあ又野……」 「ウン。犯人は地下足袋を穿いとったって俺あ云うたが……」 「ウン。俺も地下足袋だと云ったがなあ」 「犯人が木工場へ這入るとコスモスの処を風が吹いたなあ」 「馬鹿。そんな事を云ったのかい」 「見た通りに云えと云うたから云うたてや」 「アハハハハハ犯人とコスモスと関係があるのかい……馬鹿だなあ」 「アッ。そうだ。あの菜葉服の野郎が白いハンカチで汗を拭いたって事を云い忘れてた」  と云ううちに三好が唇を噛んで警察の方向を振り返った。 「ウン。そうじゃそうじゃ。そういえば俺も思い出いた。云うのを忘れとった。四角に折ってあったなあ」  又野が、悪い事をした子供のように肩を窄めた。その横で戸塚が冷笑した。 「アハ。汗を拭くのは大抵ハンカチにきまってるじゃねえか」 「ウン。それもそうじゃなあ」 「しかし出来るだけ詳しく話せって云ったからな」 「ウン。それあそう云ったさ。しかしハンカチ位の事あ、どうでもいいだろう」と戸塚が事もなげに云い消した。三好が頭を掻いた。 「そうだろうか」 「そうだともよ。ナアニ。じきに捕まるよ。指紋てえ奴があるからな」 「木工場も鋳物工場の奴等も、呉工廠から廻わって来た仕事が忙がしいので、犯人が通ったか通らないか気が付かなかったらしいんだな。なあ戸塚……お前が通り抜けた時も、何とも云わなかったかい」 「ウン。慌てていたせいか、鋳型を一箇所|踏潰したんで、怒鳴り付けられただけだ」  又野が大きな欠伸を一つした。 「ああ睡むい。帰ろう帰ろう」  しかし三人の職工の予期に反して、この犯人はなかなか捕まらなかった。  二千人以上居る職工の身元の全部が、虱潰しに調べ上げられたが、その結果は意外にも一人も居ない筈の赤い主義者の潜行分子が二三人発見されただけで終った。いよいよ職工以外の人間に着眼されなければならぬ順序になったが、しかしどこから見当を附けていいか、わからないらしかった。  新聞では盛んに書き立てた……白昼の製鉄所構内で衆人環視の中に行われた、天魔の如く大胆なる殺人強盗……犯人は大地に消え込んだか……実見者又野末吉氏談……前代未聞の怪事件なぞと……殊に後頭部を粉砕されながらも勇敢に抵抗した西村会計部員の奇蹟的な気強さを、製鉄所長と医学博士の談話入りで賞讃した。  西村の葬式は会社葬で執行された。職工たちの俸給はそれから二日遅れただけで、滞りなく渡された。  起業祭も寧ろ平常よりも盛大に行われた。又野は皆から勧められて渋々角力に出場したが、懸賞附の五人抜にはどうしても出なかったので、賞金は柔道の出来る構内機関手の手に落ちた。  そのうちに一箇月経つと警察もとうとう投出したらしく「遂に迷宮に入る」という新聞記事が出た。「十二万円の金の在所と、犯人を指摘した者には一割の賞金を出す」という製鉄所名前の広告と一所に……。星浦製鉄所の内外はこの話で持ち切った。又野の処へ改めて話を聞きに来る者もチョイチョイ出て来たが、又野は五月蠅がって何も話さなかった。ほかの二人の職工を引合いに出すような事もしなかった。        四 「なあ又野……戸塚の野郎が、何か大事な事を云い忘れているってこの間、警察署を出てから云ったなあ……暗い横町で……」 「ウン。云うとったが……それがどうかしたんかい」 「イヤ。別にどうって事はねえんだけど……」  菜葉服の三好と又野が、テニス・コートの審判席の処に跼んでいた。二人の背後にはまだ半枯れのコスモスが一パイに咲き乱れていた。久し振り半運転にした汽鑵場裏は、物を忘れたようにシインとして、晴れ渡った青空から太陽が暑いくらい降り注いでいた。  瘠せっぽちの三好は神経質らしく、擬鼈甲縁の眼鏡をかけ直して云った。 「戸塚の野郎は、俺あ赤じゃねえかと思うんだがなあ」  逞ましい腕を組んでいた又野が血色のいい顔を不愉快そうに撫でまわした。 「どうしてかいな」 「どうしてって事もねえけど、何だかソンナ気がするんだ。第一、彼奴はツイこの頃就職して来やがったんだろう。それから、あんなに慣れ慣れしく俺達に近寄って来やがった癖に、あの事件から後、急に俺達と他所他所しくし初めただろう。出勤にも帰宅にも一人ポッチで、例の処へ誘っても一所に来やがらねえ。おまけにアレから後というもの、ショッチュウ何か考えているような恰好をしているじゃねえか」 「ウン。そう云うてみれあ、そげなところもあるなあ。あれから後、このテニス・コートを何度も何度もウロウロしているのを見た事がある」 「なあ。そうだろう。俺も見たんだ。だから怪しいと思ったんだ。そうしたらこの頃はチョットもここいらへ姿を見せなくなった代りに、隙さえあれば第一工場に遊びに行きやがって、あそこのデッキ連中と心安くしているようだし、死んだ西村さんの家へ行って色々世話をしているかと思うと、事務所の連中とも交際うようになって、行きと帰りには毎日のように事務室に寄って行くらしい気ぶりじゃねえか」 「ウン。そらあ俺も気は附いとる。しかし何も、それじゃけに戸塚が、赤チウ証拠にゃあなるめえ」 「ウン。それあ証拠にゃあなるめえさ」  と三好は慌てて鼈甲縁をかけ直した。 「証拠にゃならねえが……俺達が味方にならねえと諦らめて、ほかの処へ同志を作りに行ったものと思えば、そうも見えるだろう」  そう云ううちに三好は、菜葉服のポケットからバットを出して、又野にも一本取らせて火を点けてやった。  二人はコートの端の草の上に尻餅を突いた。工場の上を長閑に舞っている二羽の鳶を二人とも仰ぎ見た。その上を流れる白い雲も……。 「恐ろしい疑い深い人間やなあお前は……」  又野はイヨイヨ不愉快そうに顔を撫でた。その横頬を熱心に見ながら三好は笑った。 「ハハハ。まだあるんだぜ。戸塚があの死体を西村さんと云い出すなり、直ぐに俸給泥棒と察して、追かけて行った時の素早かった事はどうだい。普通じゃなかったぜ。あの意気込は……」 「あの男は頭が良えけになあ。何でも素早いたい。今に限った事じゃなか」 「それがあの時は特別だったような気がするんだ。何もかも最初から知り抜いていたような気がするんだ。この頃になってやっと気が付いたんだが」 「フーン。そげな事が出来るかなあ」 「そればかりじゃないんだ。彼奴は警察でわざと大事な事を云い落しやがったんじゃねえかと思うんだ。俺に云い中てられて、慌てて云い消しよったろう」 「ハンカチの話かな」 「ウン。あのハンカチの一件は一番カンジンの話なんだが、戸塚の野郎が正直に話すか知らんと思ったから、俺は別々に訊問された時もわざと云わずにおいたんだ。そうして様子を探ってみたんだ」 「疑い深いなあ……お前は……」 「まだあるんだ。あの時の犯人は新しい地下足袋を穿いていたろう。コートの湿めった処に太陽足袋の足跡が、ハッキリと残っているのを君も僕も見たじゃないか。西村さんを抱え上げた時に……」 「ウン……見たよ」 「あれを戸塚が見やがった時に気が附きやがったに違いないんだ」 「何を……」 「犯人がインテリだって事を……」 「インテリたあ何かいな……インテリて……」 「学問のある奴だって事よ。知識階級……つまり紳士って意味だね。ねえ。そうだろう。あんなに真白い、四角く折ったハンカチなんか菜葉服の野郎が持つもんじゃねえ。タッタ一撃で殺っ付けるつもりだったのが、案外な抵抗を喰ったもんだから思わず汗が出たんだね。そいつを拭こうとして、うっかりポケットからインテリの証拠を引っぱり出して拭いちゃったんだ。新しい地下足袋ってのは間に合わせの変装用に買ったものに違えねえんだ」 「お前のアタマの方が、戸塚の頭よりもヨッポド恐ろしいぞ」 「アハハハ。冷やかすなってこと……アタマは生きてる中使っとくもんだ。まだあるんだぜ。……いいかい……西村さんが十四銀行から金を出して来るのはいつも十の日の朝で、九時キッカリらしいんだ。それから人力車に乗って裏門で降りて、ここを通って事務室へ行くんだろう……なあ……しかもここは、いつも芝居の稽古をやっている処だし、どんなに大きな声を出したってスチームの音で消えちまうんだから、誰が見ていたって本当の人殺しとは思わない。まさかに真昼間、あんな大胆な真似をする者が居ようなんて思い付く者は一人も居ないだろう。見ている人間は皆芝居の稽古だと思ってボンヤリ眺めているだろう……だから、真夜中の淋しい処で殺るよりもズッと安全だっていう事を前から何度も何度も考えて、請合い大丈夫と思い込んで計画した仕事に違いないんだから、ヨッポド凄い頭脳の奴なんだ。職工なんかにこの智恵は出ねえね。インテリだね。どうしても……」 「フーム……」  又野はバットを横啣えにしたまま白い眼で三好をかえりみた。膝を抱えたまま……。 「お前もインテリじゃなかとな」  三好は又野に睨まれてチョット鼻白んだ。 「インテリじゃねえけども……あれから毎日毎日考えてたんだ。だからわかったんだ」 「犯人の見当が付いたんか……そうして……」 「付いてる」 「エッ……」 「チャンと犯人の目星は付いてるよ」  又野はジロリとそこいらを見まわした。真正直な、緊張した表情でバットの灰を弾いた。 「戸塚が犯人て云うのか……お前は……」 「プッ……戸塚が犯人なもんけえ。俺達と一所に見てたじゃねえか。犯人なもんけえ」 「誰や……そんなら……」  又野が突然にアグラを掻いて、真剣な態度で三好の方向に向き直った。バッタが驚いて二三匹草の中から飛上った。  三好は答えなかった。事務室の方向を鼈甲縁越しにジイッと見ていたが、そのまま非常に緊張した、青褪めた顔をして云った。 「誰にも云っちゃいけないぜ。懸賞金は山分けにするから……」 「そげなものはどうでも良え。西村さんの仇讐をば取ってやらにゃ」  三好はやっと振り返った。 「それよりも、もし戸塚が万が一にも赤い主義者だったら大変じゃねえか。君は在郷軍人だろう」 「ウン。在郷軍人じゃが、それがどうしたんかい」 「どうしたんかいじゃねえ。彼奴の手に渡ると十二万円が赤の地下運動の軍資金になっちまうぜ」 「ウン。それあそうたい」 「腕を貸してくれるな……君は……」 「ウン。間違いのない話ちう事がわかったら貸さん事もない」 「そんなら耳を貸せ」  三好は又野の耳に口を当てて囁いた。 「その犯人が今ここに来る」 「エッ……」 「見ろ……今事務室の方からテニスの道具を持った連中が五人来るだろう。あの中に犯人が居ると俺は思うんだ。いつでもここでテニスを遣りよる連中だ。ここで何度も何度もテニスを遣って、ドンナ大きな声を出しても、ほかに聞こえない事をチャンと知っている奴が、思い付いた事に違えねえじゃねえか。見てろ……俺の云う事が当るか当らねえか……」 「サア……」  そう云う又野の表情が、いくらか緊張から解放されかけた。三好の推測が、すこし当推量に過ぎるのを笑うつもりらしかった……が……その笑いかけた顔が間もなく、前よりもズッと青白く緊張して来た。審判席の草叢の中から、コスモスの花の中へジリジリと後退りをし初めたが、その肩に手をかけて、又野と同じ方向を見ていた三好も、すこし慌て気味で中腰になった。 「オイ。いけねえいけねえ。あの中に戸塚が居やがる」 「……ウン……居る。あの奴もテニスの連中に眼を付けとるばい。……不思議だ……」  又野が深い、長い溜息を吐いた。 「不思議どころじゃねえ。早く隠れるんだ。俺達二人が揃っているのを戸塚に見られちゃ面白くねえ。……こっちに来たまえ」  三好と又野は慌てて草の中から立上った。二人とも何気なくバットの吸いさしを投棄てて、薄暗い汽鑵場へ引返した。ボイラーから程遠い浴場の煉瓦壁に、三ツ並んで残っている古いパイプの穴から、肩をクッ付け合わせてテニス・コートを覗いた。二人の眼の前にコスモスが眩しくチラチラして邪魔になった。  ネットはもう張られていた。  第一製鋼工場の副主任の中野学士と、職工の戸塚と、事務室の若い人間が三人来て軟球の乱打ちを初めていた。中野学士と戸塚が揃いの金口を啣えていた。 「オイ、三好。中野さんと戸塚の野郎は前から心安いんか」  三好が仄白い光りの中で片目をつぶって笑った。 「戸塚は中野さんの世話で製鉄所へ入ったんだ。自分でそう云ってたじゃねえか」 「そうじゃったかなあ……忘れた……」 「中野さんの処へ戸塚の妹が、女中になって住込んでいる。その縁故なんだ」 「そうじゃったかなあ……なるほど……」 「中野さんは九大出の秀才で、柔道が三段とか四段とか……」 「うん。それは知っとる。瘠せとるがちょっと強い。一度、肩すかしで投げられた事がある」 「この頃、社長の星浦さんの我儘娘を貰うことになっているんだ……中野さんが……」 「知っとる。あの孔雀さんちうモガじゃろ」 「ウン。それで社長から海岸通りに大きな地面を貰っているんだが、結婚前に家を建てなくちゃならんし、自動車も買わなくちゃならねえてんで、中野さんが慌て出している。相場に手を出したり、高利貸から金を借りたりしているっていう戸塚の話だ」 「戸塚の妹が喋舌ったんか」 「そうらしいよ」  コスモスの向うの中野学士はほかの四人の指導者格らしく、中央のネット際に立って前後でボールを打ち合っている四人に色々苦情を云い初めた。 「戸塚ッ……お前はどこでテニスを遣ったんだっけね」 「中学で遣ったんです。後衛でしたが」 「スタートが遅いね。我流だね。ホラホラ……」 「ええ。この拝借した地下足袋が痛くって……」 「ハハハ……俺の足は小さい上に、足袋が新しいからね」 「これ……太陽足袋ですね」 「ウン……辷らないと云うから試しに買ってみたんだが……やっぱりテニス靴の方がいいね。窮屈で、重たくて、辷る事は同じ位、辷るんだからあそこに投込んでおいたんだ」 「いつ頃お求めになったんですか」 「……………」 「非常に丈夫そうですが、どこでお求めになったんで……」 「……………」  中野学士は返事をしなかった。直ぐに真向うの事務員の一人を叱り飛ばした。 「馬鹿……そんな遠くからトップを打ったって利かん利かん……ソレこの通り……ハッハッハ……」  と高笑いをするうちに、その事務員の足の下へ火の出るようなヴォーレーをタタキ返した。その得意そうな背後姿を睨みながら、戸塚が地下足袋の裏面をチョット裏返してみた。そうして何気ない恰好で、飛んで来る球に向って身構えたが、間もなく顔中に勝ち誇ったような冷笑を浮かみ上がらせた。  三好と又野は壁の穴から身を退いて、恐る恐る顔を見交した。二人とも笑えないほど緊張していた。やがて又野が深い、長い溜息を一つした。 「……そうかなあ……彼奴かなア……」  セカセカと眼鏡をかけ直しながら三好はうなずいた。又野は茫然となった。 「そうかなあ……ヘエーッ……」 「まだ疑っているのかい。タッタ今、自分で犯人だって事を自白したじゃねえか」 「……フーム……」 「又野君……」 「……………」 「今夜、俺と一所に来てくれるかい」 「どこへ……」  三好の眼鏡が場内の電燈を反射してキラリと光った。命令するように云った。 「どこへでもいいから一所に来てくれ。六時のボーが鳴ったら俺が迎えに行く。俺一人じゃ出来ねえ仕事だかんな」  又野が黙って腕を組み直して考え込んだ。三好が冷然と見上げ見下した。 「嫌になったのかい。それとも怖くなったんかい……」 「ヨシッ……行く……」 「きっとだよ」 「間違いない」 「大仕事になるかも知れないよ」 「わかっとる」 「生命がけの仕事になるかも……」 「ハハハ。わかっとるチウタラ……」        五  星浦製鉄所はさながらの不夜城であった。鎔鉱炉、平炉から流れ出すドロドロの鉄の火の滝。ベセマー炉から中空に吹上げる火の粉と、高熱|瓦斯の大光焔。入れ代り立代り開く大汽鑵の焚口。移動する白熱の大鉄塊。大|坩堝の光明等々々が、無数の煙突から吐出す黄烟、黒烟に眼も眩むばかりに反映して、羅馬の滅亡の名画も及ばぬ偉観、壮観を浮き出させている。その底に整然、雑然と並んでいる青白いアーク燈の瞬きが、さながらに興国日本の、冷静な精神を象徴しているようで、何ともいえず物凄い。  第一製鋼工場の平炉は今しも、底の方に沈んでいる最極上の鋼鉄の流れを放流しつくして、不純な鉱石混りの、俗に「※」と称するドロドロの火の流れを、工場裏の真暗い広場に惜し気もなく流し捨てている。  暗黒の底に水飴のように流れ拡がる夥しい平炉の白熱鉱流は、広場の平面に落ち散っている紙屑、藁屑、鋸屑、塗料、油脂の類を片端から燃やしつつグングンと流れ拡がって行く。その端々、隅々から赤や、青や、茶色の焔がポーッと燃え上るたんびにそこいら中が明るくなって、又、前にも増した暗黒を作って行く物すごい光景を、薄板工場の中から湧き起るケタタマシイ雑音の交錯が伴奏しつつ、星だらけの霜の夜を更けさせて行く。  その数百坪に亘る「※」の火の海の上へ、工場の甲板から突出ている船橋めいたデッキの突端に、鳥打帽、菜葉服姿の中野学士が凝然と突立って見下している。地の下から噴き出す何かの可燃性|瓦斯が、火の海の中央を噴破って、プクリプクリと眩しい泡を立てている、その一点を凝視したまま動かない。その瘠せた細面にかけた金縁の眼鏡に火の海が反射して小さな閃光を放っている。  その背後にモウ一人、職工姿の戸塚が、影法師のように重なり合って突立っている。鳥打帽を冠って、眼鏡をかけているところまで中野学士とソックリである。それが中野学士の背後から覗き込むようにして、何かヒソヒソ囁やいている様子であったが、やがて返事を催促するかのように中野学士の肩に両手をかけてゆすぶった。 「返事はどうですか……中野さん……」 「……………」 「ここで返事すると云ったじゃありませんか……ええ……」 「……………」 「貴方は今夜は現場勤務じゃないでしょう。出勤簿には欠勤の処に印を捺しておられるでしょう」  中野学士が微かにうなずいた。それから悠々と金口煙草を一本出してライターを灯けた。 「……あっしを……それじゃ……オビキ出すために、あんな事を云ったんですか……ここまで……」  戸塚は脅びえたように足の下の火の海を見た。中野学士がそう云う戸塚の顔を振返って冷然と笑った。白い歯並が暗に光った。 「暑いじゃないですかここは……丸で蒸されるようだ」 「……フフン……百二三十度ぐらいだろうな……この空気は……フフン……」 「……あっちに行って話しましょうよ。もっと涼しい処で……」 「……イヤ。僕はここに居る。ここで考えなくちゃならん」 「何をお考えになるんですか」 「この※の利用方法さ」 「この火の海のですか」 「ウン……この※の中には最小限七パーセント位の鉄分を含んでいる。この中から純粋の鉄を取るのは、非常に面倒な工程が要るので、こうやって放置して、冷却してから打割って海へ棄てるんだが、折角、こうして何千度という高熱に熱したものを、無駄にするのは惜しいものなんだ。ほかの技師連中はコイツをブロックにするとか、瓦を作るとか云って騒いでいるが、僕一人で反対して頑張っているんだ。だから、いつも職工が帰ってからここに来て、この火の海の中から簡単に純鉄を取る方法を考えているんだがね」 「今も考えているんですかい」 「ウン……重大なヒントが頭の中で閃めきかけているんだ。暫く黙っていてくれ給え」  戸塚は自烈度そうにそこいらを見まわして舌打ちをした。 「チエッ……いい加減、馬鹿にしてもらいますめえぜ。十二万円の話はドウしてくれるんですか」 「十二万円……何が十二万円だい」 「……………」 「十二万円儲かる話でもあるのかい」  戸塚は唖然となったらしい。狭いデッキの上で、すこし中野学士から離れた。 「……呆れたね……」 「そんな話は知らないよ僕は……夢を見ているんじゃないか君は……」  戸塚の眼が眼鏡の下でキラリと光った。菜葉服の腕をマクリ上げかけたが又、思い直したらしく、鳥打帽を脱いで頭を下げた。 「……イヤ……中野さん。決して無理は云いません。四半分でいいんで……ねえ。それ位の事はわかってくれてもいいでしょう。貴方は大学を一番で出た優等生だ。これからの出世は望み次第だ。第一頭がいいからね。西村さんを殺った腕前なんざ凄いもんだぜ」  中野学士の眼鏡が反撃するようにピカリと赤く光った。 「……失敬な……失敬な事を云うな。西村を殺ったのは貴様か、三好と二人の中の一人だろう」  戸塚は冷然と笑った。 「ヘヘヘ。その証拠は……」 「九月の末に、お前と三好と俺とでテニスを遣った事があるだろう」 「ありましたよ。三好が、あっしに勧めて貴方にお弟子入りをしようじゃないかと云い出したんです。三好が、一番下手なんで、貴方が三好ばかりガミガミ云ったもんだから、あれっきり来なくなっちゃったんですが……」 「ウム。あの時に会計部の西村がコートの横を通りかかったろう」 「ヘヘ。よく記憶えているんですね」 「今度の事件で思い出したんだ。……あの時も半運転だったからスチームの音がしなかったが、その西村の顔をジロリと見た貴様が……イヤ……三好だっけな……スチームが一パイ這入ってれあここで鵞鳥を絞め殺したって、生きながら猿の皮を剥いだって大丈夫だ……てな事を云ったじゃないか」 「そんならそれを聞いた貴方と、三好と、あっしと、三人の中の一人が犯人でしょう」 「俺はソンナ事をする必要はない」 「必要はなくても貴方に間違いないですよ」 「何……何だと……」 「ヘヘヘ……あの時に貴方の仕事を、ズッと向うの事務所の前から拝見していたのは、あっしと三好と、又野の三人ですぜ。貴方は近眼だからわからなかったんでしょうけど……貴方は警察に呼ばれて話をしたのが又野一人と思っていらっしたんですか。又野が一番正直者ですから代表に名前を出されただけなんですぜ。ヘヘヘ……貴方にも似合わない迂濶な新聞の読み方をしたもんですなあ」 「……………」 「ねえ。そうでしょう。立役者は何といったって貴方一人だ。貴方にはチャンとした必要があったんだ。だからあの話から思い付いて、万が一にも抜目の無えつもりでキチンとした計画を立てたのが、いけなかったんですね。つまり貴方の頭が良過ぎたんだ」 「……………」 「ねえ。そうでしょう。今貴方がお穿きになっているその新しい太陽足袋ですね。そいつがきょう、テニス・コートで物をいっちゃったんでさあ。あの話は、ほかの連中もみんな聞いているんですからね。あっしが出る処へ出れあ、証人はいくらでも……」 「よしッ。わかったッ。もう云うな……半分くれてやる」 「エッ。半分……」と戸塚が叫んだ。 「……ヘエッ……半分ですって……」 「同じ事を二度とは云わん。テニスの道具を蔵ってあるあの部屋のラケット箱の下に床板の外れる処が在る。その下に在る新聞紙包みをここへ持って来い」  戸塚は茫然となって相手の顔を見た。相手の顔はニコニコしていた。 「……馬鹿……何をボンヤリしているんだ。その新聞紙包みをここに持って来いよ。分けてやるからな。テニス倉庫の鍵はこれだ。ホラ……」  戸塚は何という事なしに、慌てて頭を一つ下げた。鍵を受取ってポケットに入れようとしたが、その一|刹那に片手でデッキの欄干に掴まっていた中野学士が鮮やかな足払いをかけた。 「アッ」と叫ぶなり戸塚はモンドリ打って火の海へ落ちて行った。 「ボオオ――ンンン……」  それは十海里も沖で打った大砲のような音であった。火の海の表面から湧き起った仄黄色い水蒸気と、煙と、焔の一団が、渦巻き合いながら中空の暗へ消え入ると、あとに等身大の大の字|形の黒い斑点が残っていたが、それとてもやがて又、何の痕跡も留めない赤い火の海平面に復帰して行った。  ただ、それだけであった。        六  中野学士はポケットから白いハンカチを出して顔を押えていた。それでも噎せるような焼死体の異臭に鼻を撲たれてペッペッと唾液を吐いた。  その序にニッコリと笑って平炉の広い板張のデッキへ帰りかけたが、そのニコニコ笑が突然に、金縁眼鏡の下で氷り付いてしまった。  板張りのデッキへ帰る三尺幅ぐらいの鉄の橋の向うに一人の巨漢がこっちを向いて仁王立になっている。火の海の光りを反映した、その顔は怒りに燃えているようである。高やかに組んでいる両腕の太さは普通人の股ぐらいに見える。  中野学士は思わず半歩ほど後へ退った。キッと身構えをしてその男を白眼んだ。折柄、遥か向うで開いた汽鑵場のボイラーの焚口が、向い合った二人の姿を切抜いたように照し出した。  中野学士はジリジリと身構えを直しながらも左右の拳を握り締めた。「何だ君は……」  相手の巨漢は動かなかった。「俺は汽鑵部の又野という釜焚きだ」 「知っている。……職場以外の人間がこのデッキへ上る事は厳禁だぞ。俺はここの主任だぞッ」  中野学士の語尾が少し甲走った。又野の瞳がキラキラと光った。 「知っとる……貴様は今、何をしよった。俺の仲間の戸塚をどうしたんか」 「戸塚は自分で辷って落ちたんだ」 「……嘘|吐け……」 「退けと云うたら退け……」  中野学士は相手が自分を殺すような乱暴者でない事を確信していたらしい。同時に自分の柔道の段位にも、相当の自信を持っていたらしく、イキナリ真正面から又野を突き退けてデッキの平面に立つと、間髪を容れず、立直って来る又野の足を目がけて、猛烈な足払いをかけた……が……ビクともしない……と思った瞬間に又野の巨大な両手が、中野学士の襟首にかかって、ギューギューと絞付けて来た。 「エベエベエベエベエベエベ……」  という奇妙な声を上げたと思うと中野学士は、背中と尻のふくらみを又野の両手に掴まれたまま、軽々と差上げられていた。  又野は怒りの余り、中野学士を火の海へ投込むつもりらしかったが……トタンに、それと察した中野学士が無言のままメチャクチャに手足を振まわし初めたので、又野は思わずヨロヨロとなってデッキの端に立止まった。  その時に誰かわからない真黒い影が、突然に平炉の蔭から飛出して来た。又野の腰を力一パイ突飛ばすとそのまま、後も見ずに逃げて行った。 「アッ……」  と又野は前へのめったが、振返る間もなく中野学士を掴んだままギリギリと一廻転して、真逆様に落ちて行った。  しかし又野は下まで落ちて行かなかった。  ちょうど又野の両足の間に、鉄板の腐蝕した馬蹄型の穴が在った。そこに又野の左足の踵が引っかかったために、片足で逆釣りに釣られたまま中野学士の背中と尻をシッカリと掴んでいた。同時に中野学士の顔は、四尺ばかりを隔てた真上から火の海に直面してしまったので、その恐ろしい火熱に焙られた中野学士は地獄のような悲鳴をあげた。 「……ガガアーッガガアーッ……助けて助けてッ……」  金剛力に掴まれた中野学士の服地がベリベリと破れ裂け初めた。 「動いちゃイカンイカン。中野さん。助けます助けます……動いちゃ……イカン……」  又野も絶体絶命の涙声を振り絞った。 「オーイ。誰か来いッ。誰かア……誰か来てくれエエーイッ。オオ――オオ――イッ。あばれちゃいかん。あぶないあぶない……」 「何だ何だ」という声がデッキの上の闇から聞こえて、ガタガタと二三人走って来る足音がした。  しかし中野学士の耳には這入らないらしかった。火焔と同じくらいの熱度を保った空気に迫られて動くまいとしても動かずにいられなかったのであろう。死物狂いに手足を振り動かして火の海に背中を向けようとした。 「ギャアギャアギャア……ギャギャギャギャッ……」  と人間離れのした声を立てた。その背中を掴んでいる又野も、絶体絶命の赤鬼みたような表情に変った。自分の踵がポリポリポリと砕けて脱け落ちそうな苦しみの中に、息も絶え絶えになって喘いだ。 「ハッハッハッハッ……あばれちゃ……いかん……ハッハッハッハッ……動いちゃ……」  折柄起った薄板工場の雑音のために、その声は掻き消されて行った。  その時に中野学士の胸のポケットからハミ出していた白いハンカチが、フワリと火の海の上に落ちてメラメラと燃え上った。トタンに中野学士が人間の力とは思われぬ力と声を出した。 「……グワ――アアッ……」  中野学士のお尻の処の布地が、又野の指の間で破れて、片足が足首の処まで火の海の中へ落ち込んだのであった。同時に硫黄臭い水蒸気と、キナ臭い煙を多量に交えた焔が燃え上って、又野の顔から胸の処まで包んだ。しかしそれでも又野は中野学士の背中を離さなかった。中野学士も又野の両腕にシッカリと抱き付いたまま膝から下を燃やしていた。  近付いて来た足音が、その上で立止まった。 「ここだここだ。ワッ。臭いッ」 「ウア――。大変だ。人間が焼け死によるぞッ」        七  暁の光りと、明け残った半月の光りが、雪のように真白な大地の霜を、静かに照していた。  星浦駅前の砂利だらけの広場に、淡い影法師を落しながら、鼈甲縁の眼鏡をかけた三好がスタスタと遣って来た。とても職工とは見えないスマートな茶縞の背広服に黒い冬オーバーの襟を深く立てて、左脇に四角い新聞紙包みをシッカリと抱えている。  一番汽車に乗るつもりであろう。暗い待合室に這入ったが、まだ時間が早いし、切符売場の窓が開いていないので、ちょっと舌打をしたまま悠々と出て行こうとした。その序に、黄色い電燈に照らされた待合室を見まわすと、ギョッとしたらしく立止まった。  改札口に近い右手の片隅には、青いネルの布片に頬冠りをして毛布で身体を包んだ老婆が、シッカリとバスケットに獅噛み付いて眠っていた。  その反対側の入口に近い処に、全身を繃帯で真白に包んだ、スバラシク巨大な大入道が、腰をかけていた。その左足には石膏か何か嵌まっているらしく、普通の人間の胴ぐらいの大きさになっている。おまけに履物も何も履いていないので、綿と繃帯で包んだ白い象の足みたいな足の裏が泥だらけになっている。  三好は、あんまり意外千万な人間の姿を見てビックリしたらしく立竦んだ。……コンナ人間がこの霜朝に汽車に乗ってどこへ行くのだろう。もしや、これはどこかのお祭りの人形か、それとも何かの標本ではないか……と疑ったらしく、すっかり気を取られて見上げ見下していたが、そのうちにその真白な、潜水器じみた巨大な頭の穴から、ジロジロと光る眼が、一心に三好を見ているのに気が付いた。  三好は思わずドキンとした。白い大入道の中味が、生きた人間である事を発見したので……そうしてその眼の光りが、何となく見覚えがあるようで……しかも何かしらニコニコと笑っているような気はいに惹き付けられて、真正面からソーッとその暗い、繃帯の穴を覗き込んでいたが、忽ちハッと全身を固張らせる拍子に、一尺ばかり飛上った、そのまま後も見ずに待合室を飛び出して行こうとする背後から、何かしら巨大な、フワフワするものが抱き付いた。振返ってみる迄もなく、それが今の白坊主である事がわかった。 「ウワアッ」  と三好は夢中になって藻掻いたが、白坊主の力は意外に強く、肩先を羽がい締めにして来るので呼吸が詰まりそうになって来た。そのうちに白坊主は三好を抱えたまま、よろよろとよろめいて背後の腰かけに尻餅を突いた。 「ダアッ……ガワガワガワガワ……ウガ――ッ……」  三好の叫び声を聞いた駅夫や駅員と、あとから人力車に乗って来た乗客が二三人、近寄って来たが、あんまり奇妙な光景なので、茫然として入口に突立ったまま見ていた。  その時に白坊主が、三好の耳に鼻の穴を近づけた。カスレた声で囁いた。 「……俺が誰か……わかるか……」 「ウア――ッ……ウワア――ッ……」  と三好は悲鳴を揚げて藻掻き狂った。相手の声を聞くと同時に、恐怖が数倍したらしかった。スマートな長身の若紳士が、真白い大入道に抱き付かれて、半狂乱に暴れている光景……それを通じてわかる白入道の超人的な怪力と、血も涙もない冷静な怒り……見ている連中は石のように固くなってしまった。 「……幽霊だあッ……ウワア――ッ……」 「幽霊じゃない……」  白坊主が底力のある声で云った。 「貴様に焼き殺され損のうた又野たい。死んだ三人の仇讐をば取りに来たとたい」 「ウワーッ。助けてくれ……俺が悪かった。俺が悪かった。十二万円遣る……ホラ……」  三好が投げ出した新聞紙包みが、白坊主の肩を越して、背後の腰掛にドタンと落ちた。 「ハハハ。十二万円ぐらいじゃ足らん」  白坊主の声がだんだん慥かに、大きくなって来た。取巻いている人間が皆聞いていた。 「……十二万円ぐらいの事でここまで来はせん。……俺は五体中を火傷した儘、今朝、製鉄所の病院で息を吹き返いた。……それでヒョッと貴様が、昨夜のうちに金を探し出いて、ここへ来はせんかと思うて、死ぬる思いで、暗いうちに病院を脱出いて、塀を乗越いて、ここへ来たんだぞ。眼の眩むほど痛いのを辛棒して待っておったんだぞ。貴様の生命を貰おうと思うて……」  そう云ううちに白坊主は、相手の返事を聞くべく、すこしばかり両手を緩めた。 「ウワ――ッ。違う違う……皆さん。こいつの云う事は皆嘘です。キチガイです。どぞ……どうぞ……助けて下さい。僕を殺しに来ているんです。キチガイ病院から抜け出して……」 「ハハハ……何とでも云え……今度の事件は皆、貴様がたくらんだ事じゃ。戸塚に智恵を附けて、中野学士をそそのかして西村を殺させた。それから俺を使うて、あげな非道い事をさせたに違わん。俺は今朝、気が付いてから色々考えとるうちに、やっとわかったんじゃ。貴様こそ、この製鉄所に入込んどる赤い主義者の頭株に違いないぞ……もう助からんぞ……」 「ウハアッ……違う違う。タ、助けて下さい。皆さん助けて下さい。……コイツはキチガイ……」 「畜生……まだ云うかッ……」  白坊主は三好を抱えたまま腰かけの上に坐り直した。両腕にグッと力を入れ初めた。 「ギャアギャアギャアギャアギャアギャア……」  それは鳥とも獣とも付かぬ声であった。必死の努力で手足を突張りながら、白い繃帯の上から又野の両腕に噛み付いたが、何の役にも立たない事がわかると、又叫び初めた。 「ギャギャギャギャ、ギイギイギイギイッ……」  往来を通りかかっていた人が皆、走り集まって来たので待合室の中が急に、暗くなった。  その中で三好の左右の肩骨がゴクンゴクンと折れ離れる音がした。 「ダダッ。ガガッ。ギイギイギイ――ッ……」  青鬼のようになった三好の両眼が、酸漿のように真赤になった……と思ううちに鼻の穴と、唇の両端から血がポタポタと滴たり出した。  余りの恐ろしさに見物人がドロドロと背後に雪崩れた。その背後から佩剣の音がガチャガチャと聞こえて来た。 「どこだ……どこか……」 「ここです」 「ここで絞め殺されよります」  と店員風の若い男が二人を指した。その間を押し分けた制服の巡査が、肩を怒らして這入って来たが、白い大入道に抱きすくめられて血を吐いている人間の姿を見ると、 「アッ」  と云って棒立ちになった。  その巡査の眼の前の混凝土の上に又野は、三好の死骸をドタリと突き放した。血に染まった丸坊主の両腕を突出してヨロヨロと立上った。腰をかがめてヒョコリとお辞儀をした。 「酒田さん。私は昨夜、第一工場で貴方のお世話になった又野です。大|火傷をしました製鉄所の職工です」 「……何だ……又野か……」  巡査はホッとしたらしかった。そうして背後を振返りながら群衆を追い払った。 「退け退けッ」  疎らになった群衆の背後から、今出たばかりの旭がキラキラと映し込んで来た。  白坊主の又野は眼を細くしてその光りを仰いだ。嬉しそうな、落付いた声で云った。 「十二万円は私の背後に在ります。その新聞紙包です。……私は犯人の三好を絞め殺しました。これで、やっと腹が癒えました。……縛って……下さいまっせ――」  そうして気力が尽きたらしく、両手を前に突出したまま、見物人の中央にバッタリと倒おれた。 「ホホホ。つまりエチオピアへお出でになりたいからダイナマイトをくれって仰言るんですね。お易い御用ですわ。ホホホ」  新張炭坑の女坑主、新張|眉香子は、軽く朗らかに笑った。  初期の銀幕スターから一躍、筑豊の炭坑王と呼ばれた新張|琢磨の第二号に出世し、間もなく一号を見倒して本妻に直ると、今度は主人琢磨の急死に遭い、そのまま前科者二千余人の元締ともいうべき炭坑王の荒稼ぎを引き継いで、ガッタリとも言わせずにいるというしたたか者の新張眉香子は、さすがに顔色一つかえないまま、こうした無鉄砲な要求を即座に引き受けたのであった。  四十とはトテモ見えない襟化粧、引眉、口紅、パッチリと女だてらのお召の丹前に櫛巻頭。白い素足と真紅のスリッパにゴチック式の豪華を極めた応接間をモノともせぬ勝気さを見せて、これも炭坑王の奢りを見せた真綿入|緞子の肘掛椅子に、白い豊満な肉体を深々と埋めている。その睫の長い二重瞼の蔭から、黒い大きな瞳をジイッと据えて微笑された相手の青年は、その素晴らしい度胸と妖気に呑まれて恍惚となってしまったらしい。  みすぼらしい茶の背広に、間に合わせらしい不調和な赤ネクタイを締めていながらも、それこそ新劇の二枚目かと思われる、生白い貴公子然たる眼鼻立の青年であったが、それが今更のようにビックリして純真らしい、茶色の瞳を大きく見開き、薄い、小さな唇をポカンと開いた姿は、一層ういういしい子供らしい恰好に見えた。 「御承知して下さる」  と半ば言いさして、青年は唇を戦かした。 「まあ……エチオピアへでも行こうと仰言るのに度胸が御座んせんねえ。失礼ですけど……ホホホホ」  青年は忽ち颯と赤くなった。そうしてまた急に青白くなって、房々した頭髪の下に隠れている白い額にニジンダ生汗を、平手でジックリと拭い上げた。 「ホントニ……下さる……」 「ええ、ええ。差し上げると申しましたら、必ず差し上げますわ。わたくしも新張眉香子です……ですけど、貴方ホントにエチオピアへいらっしゃるおつもり?」 「エッ……何故ですか」 「何故ってホントにいらっしゃるおつもりなら差し上げますわ。何でもない事ですから……イクラでも……わたくしモトからエチオピア贔屓ですから。私が男子なら自分で行きたいくらいに思っているんですからね」 「……ホ……ホントに……行くのです」  青年の瞳が熱意に輝いた。  眉香子の眼も同じ程度の熱意を輝き返した。青んじた襟足でしなやかに一つうなずいて見せながら、椅子の中から乗り出した。 「お尋ねさして下さいましね。どうしてソンナ事をお思い立ちになったんですの? 貴方お一人?……お仲間は?……」  青年はギクンとしたらしいが、やがてまた、冷やかに笑ってみせた。やっと度胸がきまったらしく、ソッと溜息をした。 「むろん僕一人じゃありません。十二人ばかりの同志があります」 「まあ十二人……大変ですわねえ。そんなに大勢でエチオピアまでお出でが出来ますかしら。第一危険な爆薬なんかお持ちになって、内地を脱け出すようなことがお出来になりまして?……万一のことがありますと、わたくしの方でも困りますがねえ。何処から出た爆薬だってことは直ぐに番号でわかるんですからねえ」  青年は深々と念入りにうなずいた。それくらいの事は百々心得ているという風に……それから眼の前の冷たくなった紅茶に、角砂糖を二つとも沈めた。 「その点は決して御心配に及びません。こうなれば隠す必要がありませんから白状致しますが、実を申しますと吾々同志の中でも五人だけは政府の役人が混っているんです」 「まあ政府のお役人が……どうして……」 「こうなんです。お聞き下さい。吾々十二人は皆、東京の政治結社、東亜会から学費を貰って学校を卒業させて貰った者ばかりですが、その中で五人は皆、政府嘱託の軍事探偵になって、主としてアフガニスタン、ベルジスタン、ペルシア、アラビア方面からスエズ、東アフリカ方面の状態を探っていたものです。もっとも私はこの二、三年、ポートサイドの雑貨店で働きまして連絡係をやっていたものですが」 「まあ。そんな処まで日本政府の手が行き届いておりますかねえ」 「ええ。そりゃあもう……そんな風に先へ先へと手を廻して計画をたてて行かなくちゃ、帝国主義の政府はやって行けません。  ……ですからこの五人のほかの七人の同志は皆、トルコ人や、アラビア人……思い切った奴は黒ん坊に化けて、かの方面の有利な天産と、その天産物に涎を流して働きかけている白人連中の勢力を探っていたんです。今に日本の勢力が新疆から四川、雲南、西蔵方面の英、仏、ロシアの勢力を駆逐して中央アジアからアフリカへ手を伸ばす時の準備を今から遣っているんですが……」 「まあ。お勇ましい。ゾクゾクしますわ。そんなお話……」 「そこへ今度のエチオピアの戦争なんです。今度のイタリーとエチオピアの戦争ってものは、元来イギリスの資本家筋が欧州の勢力の平衡を破り、エチオピアの利権を掴みたいばっかりに巧みに双方を煽動して始めさせたものですが、そいつがマンマと首尾よくイギリスの都合の宜い解決しちゃたまりません。是非とも英、伊戦争にまで展開させて、欧州を今一度大混乱に陥れ、ロシアの極東政策をお留守にさせちゃって、その間に支那奥地の英、仏の勢力と、共産軍の根拠をタタキ潰さなくちゃならんというのが、日本の当局者の意向なんです」 「そう都合よくまいりましょうか」 「行きますとも。何よりも先にイギリスとイタリーとが戦端を開きさえすればいいのですから……」 「そんなに訳なく戦争を始めさせることが出来ますかしら」 「なんでもないことです。イタリーの空軍はズッと以前からイギリスを目標にして作戦を練って、イギリスをタタキつけさえすれば、イタリーはヨーロッパ一の強国になれると思っておりますし、イギリスの海軍はまた、背後の武器製造会社の大資本と一緒に張切って、国際連盟のイタリー制裁問題を中に挾んで睨み合っている最中ですから、トテモ都合がいいのです。この際スエズにいるイギリスの軍艦のドレでもいいから一艘、爆破さえすれば、直ぐにイタリーのせいだと思って戦争を始めます。西洋人は非常に激昂し易くて狼狽し易いんですからね。米西戦争だってそうでしょう。アメリカの豚の罐詰会社が、戦争で一儲けしたさに、キューバにいるイスパニアの軍艦を爆破させたのがキッカケなんですからね」 「それじゃ貴方がたはスエズにいらっしゃるんですね」 「ええ……実はそうなんです。便宜上エチオピアと申しましたが、実はスエズなんです。私たち十二人は皆、ドイツへ行く留学生に化けてスエズで降りまして、ポートサイドを見物するふりをして港内の様子を探ります。一方に手を分けた五、六人の者が途中で浮標を付けて海に投げ込んで置いた自分自分の荷物を拾い集めて来て、それぞれに材料を出し合って一つの触発水雷を作ります。……がしかし……仕事のむずかしいのはここまでで、アトは何でもありません」 「そんなものですかねえ」 「その水雷の外側をランチのバスケットか何かに見えるように籠で包んで、籤取りできめた五、六人がボートに乗って、舟遊びみたいな恰好でズット沖に出てしまいます。そうして日が暮れてから漕ぎ戻るふりをしてイギリスの軍艦にぶっつけて、その五、六人が軍艦と一緒に粉微塵になってしまおうという計画なんです」 「まあなんて恐ろしい……」 「もちろん東京を発つ前までの計画では、時計仕掛の水雷を作って、そいつをイギリスの軍艦の横にソッと沈めて来る手筈だったのです。そうしないと当局の方が許してくれませんので……」 「まったくですわ。そうなさいませよ……」 「ところが万が一つでも間違わないようにするためには、時計仕掛ではあぶない。途中で怪しまれてイギリスの軍艦に引き上げられでもしたら日本製の火薬だということがジキにわかってしまう……とても危ない……何にもならないというので吾々が勝手に計画を立て換えたのです」 「わたくしみたいな女風情が、横から何と申しても仕様のない事かも知れませんけど、それではアンマリ……生命をお粗末に……」 「まあお聞き下さい。そんな訳ですから日本を出る時には外務省の保証を持っているんですから、何を持って行ったって鞄を検査される心配はないんですが、ただスエズに着いてからアトに生き残る五、六人の奴が、それだけじゃ詰まらないと、東京に出る間際になっていい出したんです。序のことにスエズ運河の堰堤を毀ってしまおうじゃないか。そうしたら何ぼ英国だって堪忍袋の緒を切るに違いないだろうということになったんですが、生憎、その爆薬だけが足りないので、こうして汽車で先まわりをして御無理をお願いに伺ったんです」  青年はいつの間にか雄弁になっていた。その言葉つきは青年らしい意気込に満たされ、その眼は少年のように輝き、その頬は少女のように赤らみ膨らんでいた。  緞子の椅子の肱に白い、ふくよかな両腕を投げかけて、そういう青年の顔を真正面から見上げていた眉香子は、非常に感動したらしく真青になっていた。何度も何度もうなずきながら、大きく眼をしばたたいているうちに、大粒の涙を惜気もなくホロリホロリと両頬に落しかけていたが、説明を終った青年がヒョッコリと頭を下げると一緒に、深く頭を下げて両手を顔に当てた。咽ぶようにいった。 「わたしの僅かばかりの爆薬が、それほどのお役に立ちますとは……何という……」  といううちに応接台の片隅に載っていた旧式の電話器へ手を伸ばして、ベルを廻転させ始めた。涙に濡れた左右の頬に、なおも新しい感激の涙を流しかけながら……。  ……リンリン、リリリン……リンリン、リリリン……リンリン、リリリリリリリリ……  そんな風に繰り返して断続するベルの音を、青年は何となく緊張した態度で見守っていた。そのベルの継続のし方が、ちょうど鉄道か警察の呼出信号に似ていたからであったろう。  間もなく返事が来た。  ……リンリン、リンリンリンリンリンリンリン……  眉香子はその音の切れるのを待ちかねて受話機を取り上げた。 「ええ、ええ。そうよ。あたし眉香です。アンタ倉庫の紙塚さん……そう。アノネ。御苦労さんですがね。明日の朝までに着くように原田さんの処へ……ええ。門司の原田さんの処へ爆薬を二箱お送りするようにお約束したんですがね。ええ。ごく内々で……ですからね。今夜の直方発の終列車の上りの客車便に……そう……十時五十分に間に合うように大急ぎで荷造りしてちょうだい。まだ四時間ぐらいあるでしょ。……そうね。どちらも茣蓙で包んで上箱に入れて、貴重品扱いにして門司の山九運送店宛に出して下さいな。そう。中味は仏像とか、骨董品とか、何とかしといて頂戴。そうしてチェッキが出来たらアンタ自身にソレを持って駅で待っていて頂戴ね。用心しなくちゃ駄目ですよ。十分に荷造りしてね。このごろ、こっちへ共産主義が入り込んだってね。とても取り締りが八釜しいんですからね……ええ。そうそう。あたしの名前にしときゃあ大丈夫よ。……あの。それからね。荷造りする時には倉庫の明りが外に洩れないようにしとかなくちゃ駄目よ。ええ、ええ。どうかそうして頂戴。それがいいわ。ええ。全部そうして頂戴。一つ二つぐらいだと却って疑われるから。ええ。どうぞ願います。こっちは大丈夫よ。ホホホ」  眉香子は平然として受話機を掛けながら青年をかえりみた。 「二箱でいいんですね」  青年は返事の代りにピョコンと勢いよく立ち上った。卓子を一廻りして眉香子の真正面から接近くと、眉香子の両手を自分の両手でシッカリ握り締めた。感激の涙をハラハラと流した。 「……ありがとう……御座います。感謝に……堪えません」 「まあ。あんなこと……わたくしこそ感謝に堪えませんわ。わたくしみたいな女を見込んで下すって……」  といううちに立ち上って青年の両手をシッカリと握り返した。青年は肩をすぼめて身震いした。眉香子の魅力に包まれたように……けれども間もなく静かに、その手を振りほどいた。二、三歩後に下って恭しく一礼した。 「それでは……これで……お暇を……この御恩は死んでも……」 「アラマア……」  眉香子は追いかけるように二、三歩進み出た。強いて青年の手を取って、今まで自分が坐っていた椅子に、青年の身体を深々と押し込んだ。 「まだ、荷物とチェッキが出来ないじゃ御座いませんか。それまで、どうぞ御ゆっくりなすって下さいませよ」 「……でも……それはアンマリ……それに私は今夜のうちに門司に出て、明朝早く荷物を受け取って、明後日、神戸の……」 「それでも荷物と一緒の汽車なら宜しいじゃ御座んせん」 「……そ……それは……そうですが……実は……」 「何か御差支えが御座いまして……」 「実はその……友人が四名ほど……福岡の東亜会員が四名ほど、私を門司まで見送ると申しまして、私と同じ汽車で発つ予定で、直方の日吉旅館に来ておりますので……是非とも……」 「もうお会いになりまして……」 「九時ごろの汽車で来ると申しておりましたが……」 「それでもまだ二時間近く御座いますわ。そんなお友達の御親切も何で御座いましょうけれども、今夜、御一緒の汽車で門司にお着きになってからでも御ゆっくりとお話が出来ましょう」 「そ……それは……そうですが……」 「わたくしもホンノ仮染の御識り合いでは御座いましょうが、心ばかりの御名残惜しみが致したいので御座いますからね。それくらいのおつき合いは、なすっても宜いじゃ御座んせん。爆薬のお礼に……ホホ……」 「でも……」 「……でもって何です。妾のいうことをお聴きになれなければ、一箱も差し上げませんよ。ホホホ……」  青年は眩ぶしそうに眉香子を見上げた。眉香子の魅力に負けたように深々と緞子の椅子に沈み込んだ。そうした自分自身を淋しくアザミ笑いながらパチパチと眼をしばたたいた。 「……でも、勿体ないことだわねえ。アンタがたみたいな立派な若い人が十何人も、お国のためとはいいながら、今から半年も経たないうちに粉ミジンになってこの地上から消えてしまうなんて……あたしシンから惜しい気がするわ」  新張家の豪華を極めた応接室の中央と四隅のシャンデリアには、数知れない切子球に屈折された、蒼白な電光が煌々と輝き満ちている。その中央の大卓子の上にはトテモ炭坑地方とは思えない立派な洋食の皿と、高価な酒瓶が並んでいる。その傍の緋繻子張りの長椅子の中に凭りかかり合うようにしてグラスを持っている眉香子と青年……。  青年は上衣と胴衣を脱いでワイシャツ一つのネクタイを緩めているし、眉香子も丹前を床の上に脱ぎ棄てて、派手な空色地の長|襦袢に、五色ダンダラの博多織の伊達巻を無造作に巻きつけている。どちらももう相当に酔いがまわっているらしく、眼尻が釣り上がって異様に光っている。 「惜しい気がするわ。ねえ。そうじゃない」  今一度シンミリとそういううちに眉香子は、その肉つきのいい白い腕を長々と青年の肩に投げかけた。青年もそれをキッカケに左手を眉香子の膝の上にダラリと置いた。グラグラと頭をシャンデリアの方向に仰向けて、健康そうな、キラキラ光る白い歯を見せた。 「ナアニ。ハハハ。どうせ僕等は、めいめい勝手なゼンマイ仕掛けの人形みたいなもんですからね。そのゼンマイのネジが解けちゃってヨボヨボになって死んじゃうだけの一生なら、まったく詰まらない一生ですからね……ですからまだピンピンしているうちに、そのゼンマイ仕掛けを自分でブチ毀してみなくちゃ、自分で生きてる気持が解らないみたいな気持に、みんななっているんです。僕等はモウ、早く自分の生命を片づけたい片づけたいって、イライラした気持になっているんですよ。まったくこのまんまじゃ詰まらないですからね」 「とてもモノスゴイのね」 「ええ。自分ながらモノスゴクて仕様がないんです。なんでもいいから思い切って自分をぶっつけてガチャガチャになってしまいたいんです」 「アンタみたいな方は恋愛もなにも出来ないのね」 「恋愛……恋愛なんて……ハハハハ」 「マア。恋愛なんて……て仰言るの……あたしこれでもチャント貞操を守っている未亡人なのよ。まだネジが切れちまわないうちに相手をなくしちゃって、イヤでもこんな淋しい後家を守っていなくちゃならなくなった女なのよ」 「恋愛なんて……恋愛なんて……ハハハ。恋愛なんて何でもないじゃないですか。ほんの一時の欲望じゃないですか。永遠の愛なんてものは男と女とが都合によって……お互いに許し合いましょうね……といった口約束みたいなもんじゃないですか。お金のかからない遊蕩じゃないですか」 「まあ。ヒドイことをいうのね」 「当り前ですよ。この世の中はソンナ様な神秘めかした嘘言ばっかりでみちみちているんですよ。だから何もかもブチ壊してみたくなるのです。何もない空っぽの真実の世界に返してみたくなるのです」 「アンタ……それじゃ虚無主義者ね」 「そうですよ。虚無主義者でなくちゃ僕等みたいな思い切った仕事は出来ないんです。ゾラか誰か言ったことがありますね。――科学者の最上の仕事は、強力な爆薬を発明して、この地球と名づくる石ころを粉砕するにあり。真実というものがドンナものかということを人類に知らしむるに在り――とか何とか……」 「まあ大変ね。ゾラはきっとインポテントだったのでしょう」 「ハハハハ。こいつは痛快だ。さすがは昔の銀幕スター、眉香子さんだけある。そういって来ると虚無主義者や共産主義者はみんなインポテントになるじゃないですか」 「そうよ。この世に興味を喪失してしまった人間の粕みたいな人間が、みんな主義者になるのよ」 「そんなことはない……」 「あるわ。論より証拠、貴方に死ぬのをイヤにならせて見せましょうか」 「ええ。どうぞ……」 「きっと……よござんすか」 「しかし……しかしそれは一時のことでしょうよ。明日になったら僕はまたキット死にたくなるんですよ。今までに何度も何度も体験しているんですからね。ハハハハ」 「ホホホホ。それは相手によりけりだわ。妾がお眼にかける夢は、そんな浅墓なもんじゃないわ。アトで怨んだって追つかない事よ」 「ワア。大変な自信ですね。しかしイクラ何でも僕に限って駄目ですよ。世界中のありとあらゆる夢よりも、僕の心に巣喰っている虚無の方がズット深くて強いんですからね……明日になったらキット醒めちゃうんですから……」 「理屈を言ったって駄目よ。明日になって見なくちゃわからないじゃないの。醒めようたって醒め切れない強い印象を貴方の脳髄の歯車の間に残して上げるわ……あたしの力で英、伊戦争を喰い止めてお眼にかけるわ」 「アハハハ。これは愉快だ。一つ乾杯しましょう」  乾杯がすむと眉香子は立ち上って、正面中央のマントルピースの下のスイッチをひねって五つのシャンデリアの光を一時に消してしまった。それから部屋の隅の紐を引くと、部屋の三方の眼界を遮っていたゴブラン織の窓掛がスルスルと開いた。二人の腰かけている長椅子の真正面の左手の窓硝子越しに遙かに見える新張炭坑の選炭場の弧光灯がタッタ一つと、その下でメラメラと燃え燻っている紅黒いガラ焼の焔が、ロシヤ絨氈のように重なり合って見える。アトは一面に星一つない寂莫たる暗黒の山々らしい。  部屋の中がシインとなってしまった。時々軽い衣擦れの音が聞こえるほかは何の物音もない。窓の外の暗黒と一続きのままシンシンと夜半に近づいて行った。  ……突然……部屋の隅の思いがけない方向で……コロロン、コロロン、コロリン……トロロロンンン……という優雅なオルゴールのような音がした。それは十時半を報ずる黄金製の置時計の音であった。  すると、ちょうどそれを合図のように、部屋の中へ、眼も眩むほど明るい光線がパッとさし込んで来たように思われたので、今まであるかないかに呼吸を凝らしていた二人は、思わず小さな叫び声をあげてパッと左右に飛び退いた。二人とも申し合わせたように頭の上のシャンデリアを仰いだが、シャンデリアは依然として消えたままで、ただ数限りもない硝子の切子玉が、遠い遠い窓の外をキラキラと反射しているキリであった。  二人はまたもヒッシと抱きあったまま、屹となって窓の外を見た。  見よ※  窓の外のポプラ並木の間から、遙か向うの暗黒の中に重なり合っていた選炭場、積込場、廃物の大クレーン、機械場、ポンプ場、捲上場、トロ置場、ボタ捨場、燃滓捨場に至るまで、新張炭坑構内に何千何百となく並んでいた電灯と弧光灯が、一時にイルミネーションのように輝き出して、広い涯てしもない構内を、羽虫の羽影までも見逃がさぬように、隅から隅まで煌々と照し出しているではないか。その光の群れがサーチライトのように一団の大光明となって二人の真正面の窓から流れ込んで来て、金ピカずくめの応接間の内部を白昼のようにアリアリと照し出しているではないか。  青年は今一度眼をこすった。顔面をこわばらせたままその光の大集団を凝視した。  それは一本の木も草もない、荒涼たる硬炭焼滓だらけの起伏と、煙墨だらけの煉瓦や、石塊や、廃材等々々が作る、陰惨な投影の大集団であった。人間の影一つ、犬コロ一匹通っていない真の寂莫無人の厳粛な地獄絵図としか見えなかった。その片隅に、もう消えかかったガラ焼の焔と煙が、ヌラヌラメラメラと古綿のように、または腐った花びらのように捩れ合っているのであった。  青年は眉香子の中でガタガタと震え出した。恐怖の眼をマン丸く、真白くなるほど見開いて、窓の外の光明を凝視したまま、顎をガタガタと鳴らし始めた。わななく指先で眉香子の腕を押し除けて、棒のようにスッポリと立ち上った。  それはさながらに地獄に堕ちた死人の形相であった。髪が乱れ、ズボン釣がはずれ、ネクタイがブラ下ったまま、白い唇をガックリと開き、舌をダラリと垂らし、膝頭をワナワナと戦かせながら、夢遊病者のように両手を伸ばしてヒョロヒョロと部屋を出て行こうとした。唇を噛んだまま見送っていた眉香子が、長襦袢の裾を掻き合わせながら呼び止めた。 「アラ。あんた、ダシヌケにどうしたの……」 「…………」 「恐いの……」 「…………」 「マア、何がソンナに怖いの……まあ落ちついてここにいらっしゃいよ。何も怖がることないじゃないの……」 「…………」 「アレはね……あの電灯はね。何か事故が起った時に事務所の宿直がアンナことするのよ。大したことじゃないのよ、チットモ……」 「…………」  青年は一言も返事をしなかった。青鬼に呼び止められた亡者のような悲し気な顔でチラリと、恐ろしそうに眉香子の顔を振り返っただけで……それでもイクラか落ちついたらしく、長椅子の上に引っかけた上衣を横筋違いに引被りながら、ヨロヨロと応接間を出て行った。眉香子も声ばかりで追っかけて、椅子から立ち上ろうともしなかった。 「まあ、変な人ねえ、アンタは……何をソンナに怖がるの……何処へ行くのイッタイ……おかアしな人ねえ……ホホホホホホホホ……」  しかし部屋を出て行った青年が、応接間の重たい扉を、向側からバタンと大きな音を立てて閉めると、眉香子の笑い顔が、急にスイッチを切り換えたように冷笑に変化した。 「オホホホホホホ、ハハハハハハハ。お馬鹿さんねえ、アンタは……出て行ったってモウ駄目よ。今夜のうちにお陀仏よ。ホホホ。でも……お蔭で今夜は面白かったわ……」  しかし新張家の内玄関を一歩出ると、青年の態度が急に、別人のように緊張した。  厳めしい鉄門の鉄柵越しに門前の様子を見定めると、電光の様に小潜りを出た。鼬のように一直線に門前の茅原の暗に消え込んだ。それから新張家の外郭を包む煉瓦塀にヘバリついてグルリと半まわりすると、裏手の小山のコンモリした杉木立の中に辷り込んだ。  青年はこの辺の案内をよほど詳しく調べていたらしい。それから二十分ほどしてから選炭場裏の六十度を描く赤土の絶壁の上に来ると、その絶壁の褶の間の暗がりを、猿のように身軽に辷り降りた。それから炭坑のトロ道が作る黒い投影の中を一散に走って、直方駅構内の貨物車の間を影のようにスリ抜けて、ほど近い日吉町の日吉旅館の裏手に来た青年は、素早く前後を見まわして、警戒のないのを見定めてから蔦蔓の一パイに茂り絡んだ煉瓦塀をヒラリと飛越えた。やはり案内を知っているらしい裏庭伝いに、湯殿の出入口からコッソリと忍び込むと、直ぐに上衣を脱いで、まだ落してない垢臭い湯の中に頭と顔を突っ込んでジャブジャブと洗い上げ、水槽の水面に口を近づけてさも美味そうにしてゴクゴクと飲み終ると、鏡台の前のポマードを手探りにコテコテ頭を塗りつけて在り合う櫛で念入りに二つに分けた。それから大急ぎで洋服を脱いで、衣桁に引っかけてあった浴衣に手早く袖を通し、泥だらけの洋服とワイシャツとズボンを丸めて、番号札のついた脱衣戸棚と天井裏との間に出来ている暗がりに突込んだ。それから湯殿のタイルの上に落ちていた赤い古タオルを拾い上げてシッカリと絞り切ったのを片手に提げて、普通のお客のように落ちつきはらいながら廊下に出ると、ちょうど向うから来かかった新米らしい若い女中にニッコリして見せた。 「君……僕の部屋はドコだったけね」  女は両腕に抱えた十余枚の洗い立ての浴衣の向うから愛想よく一礼した。 「ホホ。何番さんでいらっしゃいますか」 「それが何番だったか……あんまり家が広いもんだから降りて来た階段を忘れちゃったんだ。八時五十四分の汽車で着いた四人連れの部屋だがね」 「ホホ。あの東京のお客様でしょ。ツイ今さっき……十時頃お出でになった。お一人はヘルメットを召した……」 「ウン。それだそれだ……」 「あ……それなら向うの突当りの梯子段をお上りになると、直ぐ左側のお部屋で御座います。十二番と十三番のお二間になっております」 「……ありがとう……」  教えられた通りに青年は二階へ上った。部屋の番号をチョット見上げながら静かに障子を開いた。 「アレ。寝てやがる。暢気な奴等だ」  電灯を消した八畳と十畳の二間をブッ通して寝床が五つ、一列に取ってある。その中央の一つだけがまだ寝具をたたんだままで、アトは四人の人間が皆、頭から布団を引冠ってスースーと眠っている様子である。廊下から映して来る薄明りに、向うの枕元の火鉢から立ち昇る吸殻の烟が見える。  八畳の間の違棚の下にならんでいる四人分の洋服と、違棚の上に二つ三つ並んだ鞄と、その右手の壁に架け並べてある四ツの帽子を見まわした青年は、ヤッと安心したらしくホットタメ息をした。何の気もなく中央の自分の寝床の上に近づいて枕の前にドカリと音を立てて坐った。一時に疲れが出たらしく、両手をベッタリとシーツの上に突くと、声をひそめて力強く呼んだ。 「オイ。皆起きろ。ズキがまわったぞ……」  左右の寝床の中の寝息がピタリと止まったようであった。同時にクスクスと笑うような声が何処からか聞こえてきた。  その声を聞くと同時に青年はハッと膝を立てて身構えた。稲妻のように飛び上って頭の上の電灯のスイッチをひねった。今一度左右の寝姿を見まわした。  トタンに……それをキッカケにしたように四つの夜具が一斉に跳ね返された。……アッ……という間もなく立ち上りかけた青年の上に八ツの逞しい手が折重なって、グルグル巻に縛り上げられた……と思う間もなく夜具の上にコロコロと蹴返された。 「ウーム」  縛られたまま敷布団の上に起き直った青年は、ポマードだらけの毛髪を振り乱したまま真青になって自分の周囲を見まわした。自分を見下している四ツの顔が皆、白い歯を現わして冷笑しているのを見ると、たちまち眼を釣り上げ、歯を喰い締めて今一度、心の底から唸った。 「ウウムムム。しまったッ……」 「ハハハ。△産党の九州執行委員長、維倉門太郎。やっと気づいたか。馬鹿野郎……アッ、新張の奥さん……どうもありがとう御座いました」  そういってペコペコ頭を下げながら前に進み出たのは、四人の中でも一番|年層らしい、色の黒い、逞しい鬚男であった。 「キット貴女の処に行くだろうと思ったのが図に当りましたね」 「ホホホ。お蔭様で助かりましたわ」  媚めかしい声でそういいながら眉香子未亡人が静々と込って来た。僅かの間に櫛巻髪を束髪に直して、素晴らしい金紗の訪問着の孔雀の裾模様を引ずりながら、丸々と縛られた維倉青年の前に突っ立った。眩しい刺繍の丸帯の前に束ねた、肉づきのいい両手の間から、巨大なダイヤの指環がギラギラと虹を吐いた。 「野郎……貴様らが上海の本部へ逃げ込む序に門司から此地方へ道草を喰いに入り込んだのを聞くと、直ぐに手配していたんだぞ。貴様らの同志四人はモウ先刻、停車場で挙げられている。だからジタバタしたって駄目だぞ。貴様が門司から直方へ乗りつけたタクシーの番号までわかっているとは知らなかったろう」 「どうもありがとう御座いましたわねえ。ホホ。ちょうど御通知の番号の車で、この青年が見えましたから気をつけてお話を聞いておりますと、ポートサイドあたりへいらっした方にしては、すこし色が白過ぎるんですものねえ。ホホ。さもなければ、妾は見事に一パイ引っかかっていたかも知れませんわ。トテモそんな方とは見えなかったんですからねえ」 「ハイ。恐れ入ります。それから間もなく倉庫主任宛のお電話が警察にかかって参りましたのでスッカリ安心して手配してしまったのです。手配がすんだ証拠に、お山全体の電灯にスイッチを入れると申し上げて置きましたが、おわかりになりましたか」 「ええ。今消させて直ぐ自動車でコチラへ参りましたのよ。ちょっとこの青年へいって置きたいことが御座いましたもんですから……」 「……あ……そうですか。それじゃ。……只今なら構いませんから……何なりと……」  四人の刑事は眼くばせをし合ってゾロゾロと廊下の方へ出て行った。あとを見送った眉香子未亡人は、今一度、維倉青年を見下してニッコリと笑った。 「ホホ。お気の毒でしたわね」 「…………」  維倉青年はギリギリと歯を噛んで、眼の前の訪問着を見上げた。しかし何もいわなかった。否、いい得なかったのであろう。 「モウ。何も仰言らないで頂戴ね。仰言ったって警察では何一つホントにしませんからね。貴方が妾をお呪咀いになるためにドンナ作りごとを仰言っても取り上げる人はおりませんからね。よござんすか……」 「…………」 「ねえ。女だと思ってタカを括っておいでになったのがイケなかったんですわ。ねえ」 「…………」 「ホホ。死にたくても死ねないようにして差し上げるって申しましたこと……おわかりになりまして?……」 「……ド……毒婦ッ……」  青年はいつの間にか上唇を噛み破っていた。その滴る血を吹きつけるように叫んだ。 「ホホホ。そうよ。アナタはプロの闘士よ。あたしはブルジョアの闘士……人間を棄ててしまった女優上りですからね。嘘言も不人情もお互い様よ。それでいいじゃないの」 「チ……畜生……覚えておれッ」 「忘れませんわ……今夜のこと……ホホ。貴方も一生涯、忘れないで頂戴ね。楽しみが出来ていいわ」 「……殺してくれる……」 「どうぞ……貴方みたいな可愛いお人形さんに殺されるのは本望よ。妾はサンザしたい放題のことをして来た虚無主義のブルジョア……惜しい浮世じゃ御座んせんからね。チャントお待ちしておりますわ、ホホホホホ……では左様なら……ホホホホホホ……」  誇らかに笑いながら彼女は、見返りもせずに静々と廊下に出て行った。向うの隅に固まって煙草を吸っている刑事連に嫣然と一礼した。 「ありがとう御座いました。お手数かけました。アノ……どうぞお連れなすって……ホホホホホホ」        1  まだ警察の仕事の大ザッパな、明治二十年頃のこと……。  人気の荒い炭坑都市、筑前、直方の警察署内で起った奇妙な殺人事件の話……。  煤煙に蔽われた直方の南の町外れに、一軒の居酒屋が在った。周囲は毎年、遠賀川の浸水区域になる田圃と、野菜畑の中を、南の方飯塚に通ずる低い堤防じみた街道の傍にポツンと立った藁葺小舎で、型の如く汚れた縄暖簾、軒先の杉葉玉と「一パイ」と染抜いた浅黄|木綿の小旗が、町を出外れると直ぐに、遠くから見えた。  中に這入ると居間兼台所と土間と二室しかない。その暗い三坪ばかりの土間に垢光りする木机と腰掛が並んで右側には酒樽桝棚、左の壁の上に釣った棚に煮肴、蒲鉾、するめ、うで蛸の類が並んで、上り框に型ばかりの帳場格子がある。その横の真黒く煤けた柱へ「掛売一切御断」と書いた半切が貼って在るが、煤けていて眼に付かない。  主人は藤六といった六十がらみの独身者の老爺で、相当|無頼たらしい。黥を背負っていた。色白のデップリと肥った禿頭で、この辺の人間の扱い方を知っていたのであろう。坑夫、行商人、界隈の百姓なぞが飲みに来るので、一パイ屋の藤六藤六といって人気がよかった。巡査が茶を飲みに立寄ったりすると、取っときの上酒をソッと茶碗に注いだり、顔の通った人事係が通ると、追いかけて呼び込んで、手造りの濁酒の味見をしてもらったりした。  この藤六|老爺には妙な道楽が一つあった。それは乞食を可愛がる事で、どんなにお客の多い時分でも、表口に突立って這入らない人間が在ると、藤六は眼敏く見付けて、眼に立たないように何かしら懐中から出してやって立去らせるのであった。立去るうしろ姿を見ると老人、女、子供は勿論のこと血気盛んな……今で云うルンペン風の男も交っていた。  お客の居ない時なんぞは、母子連れの巡礼か何かに、何度も何度も御詠歌を唱わせて、上口に腰をかけたまま聞き惚れているような事がよくあった。そのうちにダンダン感動して来ると、藤六の血色のいい顔が蒼白く萎びて、眉間に深い皺が刻み出されて、やがてガックリと頸低れると、涙らしいものをソッと拭いているような事もあった。そんな場合には巡礼に一升ぐらいの米と、白く光るお金を渡しているのが人々の眼に付いた。  麦の穂が出る頃になると藤六は、やはり店に人の来ない時分を見計らって、家の周囲の麦畑へ出て、熱心に麦の黒穂を摘んでいる事があった。これも藤六|老爺の一つの癖といえば云えたかも知れないが、しかし近所の人々は、そうは思わなかった。やはり仏性の藤六が、閑暇さえあればソンナ善根をしているものと思って誰も怪しむ者なんか居なかった。  とにもかくにもこの藤六|老爺が居るお蔭で、直方には乞食が絶えないという評判であったが、実際、色々な乞食が入代り立代り一パイ屋の門口に立った。「あの乞食酒屋で一パイ」とか「乞食藤六の酒は量りが良え」とか云われる位であった。  その名物|老爺の藤六が昨年……明治十九年の暮の十一日にポックリと死んだ。  炭団を埋めた小火鉢の蔭に、昨夜喰ったものを吐き散らして、夜具の襟を掴んだまま、敷布団から乗出して冷めたくなっているのが、老爺の心安い巡回の巡査に発見されたので、色々と死因が調べられたが別に怪しい点は一つも無かった。  ただ一つ、盗まれたものはないかと家中を調べているうちに、押入の隅に祭ってある仏壇らしいものに線香も何も上げてない。その代りに白紙に包んだ麦の黒穂の、枯れたのが、幾束も幾束も上げてあるのが皆を不思議がらせた。それからその仏壇の奥の赤い金襴の帷帳を引き開いてみると、茶褐色に古ぼけた人間の頭蓋骨が一個出て来たので皆……ワア……と云って後退りした。しかし、それとても別段に藤六の死因とは関係がありそうに思えなかった。つまるところ、藤六の風変りな信仰であったろう。それとも藤六がどこかで発見した無縁仏の骸骨を例の仏性で祭ってやっていたものかも知れない。黒穂の束も、何の意味もなしに、持って来ただけ始末して仏様に供養していたのかも知れない……といったような話のほかに説明の付けようがなかったので、結局、藤六の死因は何かの中毒だろうという事になって片付いた。  なおその騒ぎの最中に、帳場の掛硯の曳出しからボロボロになって出て来た藤六の戸籍謄本によって、藤六が元来四国の生れという事……それにつれて、藤六は、その近まわりに一人も身よりタヨリの無い男という事がわかったので、葬式は自然近所|葬といった形になった。すると又それを聞いた直方の顔役が十円札を一枚投出してくれたので、それを便りに赤の他人が十人ばかり寄合って、今夜は通夜をしようという事になったが、もちろん念仏なんかはホンの型ばかり。仏が売り残した煮物類と酒樽の酒を相手に、いい加減酒の座が騒がしくなった日暮れ方のこと、真黒に日に焼けた行商人|体の若い男が、ノッソリと店先へ這入って来て案内を乞うた。  その態度が乞食でもなく、酒買いでもないらしいので、上り口に居た若い男が取合ってみると、それは仏の甥と名乗る男で、叔父の藤六が死んだばかりと聞くと、上り框に獅噛み付いて、手も力もなくグシグシと泣出したお蔭で、一座がシンとしてしまった。皆、どう処置していいか、わからなくなったのであった。  そのうちに誰かが気を利かして警察へ知らせたらしく、暫く経つと巡査が一人来て取調べる事になった。……その様子を聞いてみると、その男の名前は銀次といって今年三十二歳であった。元来四国の者で、仏様……藤六の兄の藤十郎から十七の年に、勘当された放蕩者の一人息子で、中国筋を流れ流れて大阪へ着いた二十五の年に、初めて放蕩の夢から醒めたという。それから人足、手伝い、仲仕の類を稼いで、あらん限りの苦労をした揚句、鉋飴売りの商売を覚えて、足高盥を荷ぎ荷ぎ故郷へ帰って来たが、帰って来てみると故郷は皆死絶えたり零落してしまったりしてアトカタもない。初めて今までの親不孝が身に沁みてわかった銀次は、そこでタッタ一人の叔父の藤六が、九州の直方で酒屋をやっているという話を風のタヨリに聞いたので、そのまま門司まで便船で来て、やっとここまで辿り付いたところで御座います……と云って又泣いた。  そんな話は皆、藤六の戸籍謄本とピッタリ一致した。殊に日に焼けてこそおれ若い銀次の人相から骨組が、見れば見る程死んだ藤六に似ている事がわかったので、巡査は勿論、通夜の連中もモウ銀次を疑わなかった。それどころでなく、これも仏の引合わせとか何とかいうのでスッカリ感激した一同は、直ぐに銀次を引っぱり上げて施主の席に座らせた。銀次が仏の顔を見て又もサメザメと泣いている間に、皆ヒソヒソと耳打ちし合って、いくらかのお鳥目を出し合って包んだりした。  それから間もなく、銀次が程近い町の顔役の所へ、お礼の挨拶に行って帰って来ると、通夜の席が又賑やかになった。銀次は明日から私がこの店を引継ぐように親分さんへも御挨拶して来ました。どうぞよろしく……というので巡査を上席に据えて盛んに酒を出した。そうして翌る朝になると銀次は、酔い倒れた連中を背負ってソレゾレの家へ届けたり、人足を雇って仏を焼場へ持って行ったり、なかなかコマメに立働らき初めた。それに連れて「やっぱり親身の者でないとなあ」とか「仏も仕合わせたい」とか近廻りの者が噂し初めた。        2  不思議な事に、その頃から直方附近に、眼に立って乞食が殖えて来た。それがアンマリ殖え過ぎて町の迷惑になる事が夥しいので、警察でも捨ておきかねて逐い散らし逐い散らししたものであったが、さながらに飯の上の蠅で追っても追っても集まって来た。一方に炭坑が景気付くに連れて殺人殺傷事件がグングン殖えて来たりしたので、警察ではスッカリ持て余してしまったが、しかしその乞食連中の中で町外れの藤六酒屋の軒先に立つ者が滅多に居なくなった事には誰も気が付かなかった。藤六と違って銀次は又、特別の乞食嫌いらしく、いつも邪慳に追払っていたので、そのせいだろう位に皆考えていた。  銀次はそれから後、商売にばかり身を入れて一歩も家を出ないせいか、見る見る色が白くなって、役者のようないい男になって来た。自分では三十二と云っていたが、二十七八ぐらいにしか見えなかった。切れ上った眥と高い鼻筋が時代めいて、どことなく苦味の利いた細長い顔が、暗い店の中からニッコリして出て来ると、男でもオヤと思う位だったので、大袈裟な意味でなしに直方中の女という女の評判になって来たものであったが、それでも銀次は固い人間と見えて、遊びに行くフリも見せなかった。どこまでもお客様大切、仏様大切といった恰好で、朝から晩まで暗い店の中で、物腰柔らかく立働らいたので、その翌る年の春頃になると、今までの店が狭くなるほど繁昌して来た。煮肴や何かも藤六と同じように朝早く自分で仕入れて来て、自分で料理するのであったが、それが仲々器用で美味いという評判であった。  ところがその春頃になると又不思議な事に、あれ程執念深く直方に集中していた乞食連中がいつの間に、どこへ消えたのか殆んど一人も居なくなっていた。程近い英彦山参りや、新四国参りの巡礼以外には探しても見当らなくなってしまった。人々はこうした現象を乞食の赤潮といって驚いていたし、警察側でも頻りに首をひねっていたが、しかし、こうした奇現象の原因は容易に考えられなかった。  新暦の桃の節句の晩であった。  いい月夜であったが店が割合に閑散で、珍らしく客が早く引けたので、銀次はチョット表に出て前後の往来を、月の光りで遠くまで見渡してみた。それからイツモの通りに慌しく表の板戸を卸して小潜の掛金をシッカリと掛け、裏の雨戸を閉めて心張棒を二本入れた。藤六の位牌の前に床を展べて煤けたラムプを吹き消そうとすると、トタンに表の戸をトントンとたたく女の声がした。 「すみません。あけて下さい」  銀次はチョットの間、その音を睨み付けて脅えたような顔をした。ラムプの下で屹と身構えをしていたが、微かにチョッと舌打ちをすると寝間着の古浴衣のまま面倒臭そうに上り框を降りた。  イザといえば直ぐにも飛掛りそうな身構えで、低い、狭い潜戸を開けてやると、女は直ぐに這入って来た。  十九か二十歳ぐらいの見るからに初々しい銀杏髷の小柄な女であった。所謂丸ボチャの愛嬌顔で、派手な紺飛白の袷に、花模様の赤|前垂、素足に赤い鼻緒の剥げチョケた塗下駄を穿いていた。  銀次は張合いが抜けたように、その姿を見上げ見下した。  小女は美男の銀次に見られて真赤になってしまった。背後に隠していた一升徳利と十円札を銀次の鼻の先に差出しながら、消え入るように云った。 「お酒を一升。一番ええとこを……」  銀次が無言のまま頭を下げてお金と徳利を受取ると、小女はよろめくように潜戸の端に凭りかかって頸低れた。  銀次は新しい酒樽からタップリ一升引いて小女に渡した。それからラムプをグッと大きくして、押入の端の小箪笥の曳出しから黄木綿の財布を引っぱり出して、十円のお釣銭を出してやった。 「姉さん、どこから来なさったとな」  と顔をさし寄せて訊いてみたが、小女はチラリと上目づかいに銀次の顔を見たきり、首の処まで真赤になってしまった。無言のまま逃げるように潜戸の外へ辷り出てしまった。  あとをピッタリと閉めて、掛金をガッチリと掛けた銀次は、そのまま町の方へ去る小女の足音が聞こえなくなるまで聞き送っていた。ニンガリと笑い笑いつぶやいた。 「……ヘヘ……とうとう来やがった。可愛相だが悪魔様の犠牲だ。ヘヘ。待っていたぞ畜生……うまく行けあ俺の信心は満点だ。大阪の金持以上の根性になれる。ヘヘ……義理も人情も、神も仏も踏殺して行けるんだ。怖いものなしになれるんだ。ヘヘ。立身出世自由自在だ。ヘヘ。待っていたぞ畜生……」  そんな独言を云っているうちにタッタ一人で真青に昂奮したらしい銀次は、緊張した態度でセカセカと身支度を初めた。  最初に此家へ来た時の通りの手甲脚絆に身を固めて、角帯をキリリと締め直すと、押入の前にキチンと坐った。藤六が居た時のままになっている粗末な仏壇の前に坐って、赤い金襴の帷帳の中から覗いている茶褐色の頭蓋骨を仰ぎながら、何かしら訳のわからぬ事をブツブツと唱え初めた。それから自分の頭の毛を両手でゴシゴシと掻きまわして礼拝し、礼拝しては掻きまわして四度ばかり繰り返すうちに、やがて猿のような卑しい冷笑を、顔一面に浮べながらスックリと立上ると、押入の反対側の隅の小箪笥から、もう一度、黄木綿の袋を引出して、かなりの額の円札や銀銅貨を叮嚀に数えて胴巻に入れた。同じ曳出の中に在った鋭いらしい匕首も中身を検めてから懐中へ呑んだ。やはり押入の向側から鉋飴売りの足高盥を取出しかけたが又、押入の中へ投込んだ。  それから銀次は上り口に飯櫃を抱え出して、残りの飯と、店に残った皿のもので、湯漬飯を腹一パイガツガツと掻き込むと、仏が生前に帳場で使っていた木綿縞の古座布団を一つ入口の潜戸の前に投出した。ラムプを吹消して、手探りで草鞋を穿いて、地面へジカに置いた座布団の上にドッカリと坐って、潜り戸に凭りかかりながら腕を組んで眼を閉じた。  月の光りを夜明けと間違えたのであろう。どこか遠くで鶏の羽ばたきと、時を告げる声が聞こえた。        3  それから一時間ばかり経ったと思う頃、潜戸の外で微かに人の気はいがした。  シンシンシンシンシンという軽い、小さい鋸の音が忍びやかに聞こえて、銀次の襟首へ煙のように細かい鋸屑が流れ込んだ。最前の小女が凭りかかっていた処へ横一寸、縦二寸ばかりの四角い穴がポックリと切開かれた。そこから西に傾いた月の光りが白々とさし込んだ。  銀次は潜り戸からすこし離れて坐ったまま一心にその様子を見ていた。  やがてその穴から白い小さい手が横になってスウッと這入って来た……と思うと何かに驚いたようにツルリと引込んだ。  銀次は動かなかった。なおも息を殺して四角い月の光りを凝視していた。  今一度小さな手がスウッと這入って来て、掛金の位置を軽く撫でたと思うと又、スルリと引込んだ。  銀次は依然として動かなかった。  三度目に白い小さい手がユックリと這入って来て、掛金にシッカリと指をかけた時、銀次は坐ったまま両手を近づけてその手をガッシリと掴んだ。掴んだままソロソロと立上って手の這入って来た穴に口を寄せた。低い力の籠もった声でユックリと囁いた。 「……オイ……貴様は巡礼のお花じゃろ。……もうこうなったら諦らめろよ」 「……………」 「俺の顔を見知って来たか……」 「……………」 「俺がドレ位の恐ろしい人間かわかったか」 「……………」 「わかったか……阿魔……」 「……………」 「……俺の云う事を聞くか……」 「……………」 「聞かねばこのまま突出すがええか……警察は俺の心安い人ばかりだ」  白い手の力がグッタリと抜けたようであった。  銀次は片手で女の手首をシッカリと握り締めたまま油断のない腰構えで掛金を外した。黒覆面に黒脚絆、襷掛けの女の身体を潜戸と一所に店の中へ引張り込んだ。同時に水のように流れ込んで来る月明りに透かして女の全身を撫でまわすと、内懐から竹細工用の鋭い刃先の長い、握りの深い切出小刀を一挺探り出して、渋紙の鞘と一所に、土間の隅へカラリと投込んだ。ホッとしたらしく微笑して女の覆面を見下した。 「……俺の名前を知って来たんか」  覆面が頭を強く振った。シクシクと泣出して、 「……すみまシェン。草鞋銭に詰まって……」  と云ううちに覆面を除ると、最前の小女の青褪めた顔を現わしながら銀次の胸にバッタリと縋り付いた。シャクリ上げシャクリ上げ云った。 「……貴方を見損なって……」  銀次は月明りを透かして外を覗きながら何かしら冷やかに笑った。今一度、猿のように白い歯を剥き出した醜い表情をしたと思うと、片手で潜戸を締めて掛金をガッキリと掛けた。落ちていた四角い木片で潜戸の穴を塞いだ。  それから一時間ばかりの間、家の中には何の物音もしなかった。そのうちに二十分間ばかりラムプがアカアカと灯いていたようであったが、それもやがて消えてシインとしてしまった。  月がグングンと西へ傾いた。  方々で鶏が啼いて夜が明けて来た。  突然、家の中からケタタマシイ叫び声が起った。魂消るような女の声で、 「……何すんのかア――イ……」 「………」 「アレッ……堪忍してエ――ッ」 「……………」 「……嘘|吐き嘘吐き。ええこの嘘吐き……エエッ。口惜しい口惜しい口惜しい口惜しい……」  という叫び声と一所にドタンバタンという組打ちの音が高まったが、それがピッタリと静まると、やがて表の板戸が一枚ガタガタと開いて、頬冠りをした銀次の姿が出て来た。銀次の背中には、細引でグルグル巻にして、黒い覆面で猿轡をはめた小女を担いでいたが、そのまま月の沈んだ薄あかりの道をスタスタと町の方へ急いだ。  女は銀次の背中でグッタリとなっていた。        4  直方署の巡査部長室の床の上に、猿轡を外された小女が、グルグル巻のまま寝かされていた。銀杏髷がグシャグシャになって、横頬を無残に擦剥いていたが、ジッと唇を噛んで、眼を閉じて、横を向いていた。  その周囲を五六人の警官が物々しく取巻いて、銀次の陳述に耳を傾けていた。  中央に立った銀次は、すこし得意そうに汗を拭き拭きお辞儀をしては、横の火鉢に掛かっている薬鑵の白湯を飲んだ。 「……ヘエ……お褒めに預るほどの手柄でも御座んせんで……ヘヘ。あんな離れた一軒家で、前の藤六から以来、小金の溜まっているような噂が立っているそうで御座いますから、いつも油断しませずに、出入りのお客の態度に眼を付けておりましたお蔭で御座いましょう。ヘエ。……この小女っちょが這入って来た時に、この界隈の者でない事は一眼でわかります。第一これ位の縹緻の娘は直方には居りませんようで……ヘヘ。それから一升買いに十円札を突ん出す柄じゃ御座んせんで……どう考えましても……ヘエ。それで一層気を付けておりますとこの小女っちょ奴え、潜り戸に凭れかかる振りをしてマン中の桟から掛金までの寸法を二本指で計ってケツカルので……ヘエ。それから私が十円札の釣銭を出すところを、うつむいたまま気を付けている模様ですから、私はイヨイヨ今夜来るなと思いました。来たら出来るだけ身軽にしとかんと不可んと思いまして、慣れた者の飴売りの身支度をして待っておりますと……ヘエ。ツイ一時間ばかり前の事で御座います。掛金の上の処を切抜きました小女っちょが手を入れましたけに、直ぐに引っ掴まえて引っくくり上げて、ここまで担いで参りましたので……ヘエ」 「成る程のう。貴様は気が利いとるのう。素人には惜しい度胸じゃ。アハハハハ……」 「フーム、コンナ常習犯の奴の手口は、アイソ、サグリ、ノリと云うて、三度手を入れてみるものじゃがのう。最初に手を入れた時に捕えようとしても決して捕えられるものじゃないがのう」  これは銀次と肩を並べている痩せ枯れた胡麻塩鬚の巡査部長の質問であった。しかし銀次は平気で答えた。 「ヘエ。そげな事は一向存じまっせんでしたが、ただこの外道と思うて待ち構えておりますところへ、遣って参りましたので思い切り引っ掴んでしまいましたが……ヘヘヘ……」 「オイオイ……女……それに相違ないか」  巡査部長が靴の先で小女の頭をコツコツと蹴った。  小女はヤット眼を見開いて、冷やかに頭の上を見た。噛んでいた唇を静かに嘗めまわすとハッキリした声で云った。 「……この縄……解いてくんさい。白状するけに………」 「……ナニ……縄を解け……?……」 「……アイ………」 「そのままで云うてみい」 「イヤイヤ、このままならイヤぞい。痛うて物が云われんけに……どうぞ……」  小女は又もシッカリと眼を閉じて唇を噛んだ。訊問に慣れているらしい巡査部長は、凹んだ眼でマジリマジリと小女の顔色を見ていたが、やがて大きく一つうなずいた。傍の巡査を腮でシャクッた。 「オイ。解いてやれ」 「ハッ」  若い巡査が二人で女を抱え起して泥だらけの板張の上に横座りさせた。  これを見た銀次はチョット狼狽したらしかった。巡査達の顔を素早くツラリと見渡したまま固くなっていたが、やがて覚悟をきめたらしく、軽いため息を一つ鼻から洩らすと、縄を解く邪魔にならないように、すこし横に立退いた。入口に立っている巡査の背後をスリ抜けて一気に表へ飛出せる位置に立った。古ぼけた博多の角帯の下に、右手の拇指を突込んで直ぐに結び目を前へ廻わせる準備をしていたのを誰も気付かなかった。  キチンと座り直した小娘はそうした銀次の態度をジロジロと横目で見ているようであった。巡査に取捲かれたまま縄を解かれると、すぐに襷を外して、肩のあたりをシキリに揉んでいた。それから裾をつくろいながら中腰に立上って、膝を揉んだり押えたりした。そうして又もペッタリと座り込むと鬢のホツレを指先で掻上げながら咳払いを一つ二つした。 「……すみません。お湯一パイくんさい。咽喉がかわいて叶わぬけに……」  と頭を下げて、カンカン起った火鉢の上の大薬鑵に手をかけると、思い切って立上りさま天井を眼がけて投上げた。灰神楽がドッと渦巻き起って部屋中が真白になった。思わず飛退いた巡査たちが、気が付いた次の瞬間にはモウ銀次と小女の姿が部長室から消え失せていた。        5  部長室から飛出した銀次は、広間の事務室の卓子の上に飛上った。手に触れた硯箱を追い縋って来る小女めがけてタタキ付けると、書類を蹴散らしながら机の上を一足飛びに玄関へ出た。その腰に獅噛み付いた小女は、いつの間に奪い取ったものか銀次の匕首を、うしろ抱きにした銀次の肋骨の下へ深く刺し込んだまま、ズルズルと引擦られて行った。 「父サンの仇讐……丹波小僧……思い知ったか……丹波小僧……」  と叫び続けていた。そうして銀次と絡み合ったまま玄関の石段を真逆様に転がり落ちると、小女は独りでムックリと起き上って、頭から引っ冠せられた銀次の着物と帯をはね除けた。倒れた椅子を避け避け追いかけて来る警官を振り返って、擦り剥けた顔でニッコリと笑った。  それから血に染まった匕首と両手を、向家のペンペン草を生やした屋根の上の青空の方向に高く挙げて力一パイ叫んだ。悲痛な甲高い声で、 「……皆の衆……皆の衆すみまっせん。私はお花じゃが……もう私は帰られんけに……帰られんけに……」  と云ううちに、銀次の身体に腰をかけたまま、血染の匕首を両袖で捲いて、白い自分の首筋にズップリと突込んだ。そのまま涙をハラハラと流して、唇からプルプルと血を吐き吐きグッタリとなった。銀次と折重なって倒れようとしたところを走りかかって来た巡査たちに抱き止められた。 「馬鹿ッ……」 「何をスッか……」 「馬鹿ッ……」  という巡査たちの怒号のうちに、太い血の筋を引いた二つの死骸が、事務室の中へ引っぱり込まれた。  警察の門前から、玄関先まで間もなく人の黒山になったが、やがて走り出て来た巡査が、群集を追払って、表門と玄関をピッタリと閉め切ってしまった。  その中に玄関の石段と敷石に流れた夥しい血が、小使の手で洗い流されてしまうと皆立去ってしまったが、それでも、 「何じゃったろかい」 「何じゃったろ何じゃったろ」  と口々に云い交わしながら、近所の人々は皆、表に立っていた。 「須崎監獄へ行って取調べてみますと、どうも意外な事ばかりで驚きました」  出張から帰って来たらしい胡麻塩鬚の巡査部長が、大兵肥満の署長の前に、直立不動の姿勢を執って報告をしていた。事件後、四五日目の正午頃の事であった。 「第一、先般、御承知の一パイ屋の藤六|老爺が死にました時に仏壇の中から古い人間の頭蓋骨と、麦の黒穂が出た事は、御記憶で御座いましょう」  署長はこの辺の炭坑主が寄附した巨大な、革張りの安楽椅子の中から鷹揚にうなずいて見せた。 「ウムウム。知っとるどころではない。それについてここの小学校の校長が……知っとるじゃろう……あの総髪に天神髯の……」 「存じております。旧藩時代からの蘭学者の家柄とか申しておりましたが」 「ウムウム、中々の物識りという話じゃが、あの男がこの間、避病院の落成式の時にこげな事を話しよった。……人間の舎利甲兵衛に麦の黒穂を上げて祭るのは悪魔を信心しとる証拠で、ずうと昔から耶蘇教に反対するユダヤ人の中に行われている一つの宗教じゃげな。ユダヤ人ちうのは日本の××のような奴どもで、舎利甲兵衛に黒穂を上げておきさえすれば、如何な前科があっても曝れる気遣いは無いという……つまり一種の禁厭じゃのう。その上に金が思う通りに溜まって一生安楽に暮されるという一種の邪宗門で、切支丹が日本に這入って来るのと同じ頃に伝わって来て、九州地方の山窩とか、××とか、いうものの中に行われておったという話じゃ」 「ヘエッ。それは初耳で……私が調べて参りました話と符合するところがありますようで……」 「フウム。それは面白いのう。あの藤六が死んで、舎利甲兵衛と黒穂の話が評判になりよった時分に、ちょうど避病院の落成式があったでのう。校長の奴、大得意で話しよったものじゃが、何でもこの直方地方は昔からの山窩の巣窟じゃったそうでのう。東の方は小倉の小笠原、西は筑前の黒田から逐われた山窩どもが皆、この荒涼たる遠賀川の流域を眼ざして集まって来て、そこここに部落を作っておったものじゃそうな。藤六はやっぱりその山窩の流れを酌む者じゃったに違わんと校長は云いおったがのう。吾輩は元来、山窩という奴を虫が好かんで……悪魔を拝むだけに犬畜生とも人間ともわからぬ事をしおるでのう。ことに藤六は、あの通りの人物じゃったけに真逆に山窩とは思われぬと思うて、格別気にも止めずにおったのじゃがのう」 「ヘエ。そのお話を今少と早よう伺っておりますると面白う御座いましたが……」 「ふうむ。やっぱり藤六はここいらの山窩の一人じゃったんか」 「ハイ。山窩には相違御座いませぬが、ここでは御座いませぬ。元来、高知県の豪農の息子じゃったそうで御座いますが、若気の過ちで人を殺しまして以来、アチコチと逃げまわった揚句、石見の山奥へ這入りまして、関西でも有名な山窩の親分になっておりました者だそうで……」 「フウーム。どうしてそこまで探り出した」 「……こんな事が御座います。あの丹波小僧と巡礼お花の死骸を、共同墓地の藤六の墓の前に並べて仮埋葬にしておいたので御座いますが、その埋めました翌る日から、女の死骸を埋めた土盛りの上には色々な花の束が、山のように盛上って、綺麗な水を張った茶碗などが置いてありますのに、銀次の土盛の上は、人間の踏付けた足跡ばかりで、糞や小便が垂れかけてあります。夜中に乞食どもがした事らしう御座いますが……」 「ふうむ。その気持はイクラカわかるのう。山窩とても人情は同じことじゃで……」 「ところがその親の藤六の墓は、ずっと以前から何の花も上がりませぬ代りに、枯れた麦の黒穂を上げる者が絶えませぬそうで……どこから持って来るか、わかりませぬが……」 「成る程のう。その理屈もわかるようじゃ。校長の話を聞いてみるとのう」 「私はそのようなお話を存じませぬものですけに、いよいよ不思議に思うておりまするところへ今度の事件で御座います」 「ウムウム」 「この辺の者は麦の黒穂の事を外道花と申しておりますので、藤六の墓に黒穂が上がるのは不思議じゃ。何か悪い事の起る前兆ではないか……というこの界隈の者の話をチラと聞いたり致しましたので、イヨイヨ奇怪に存じておりまするところへ一個月ばかり前の事で御座います。有名な窃盗犯で鍋墨の雁八という……」 「ウムウム。福岡から追込まれて来て新入坑の坑夫に紛れ込んでおったのを、君が発見して引渡したという、あれじゃろ……」 「ハイ。彼奴が須崎の独房で、毎月十一日に腥物を喰いよらんチウ事を、小耳に挟んでおりましたけに……十一日は藤六の命日で御座いますけに……」 「成る程……カンがええのう」 「それがで御座います。何をいうにも二人とも死んでおりますために手がかりが一つも御座いませんので困りました。署員の意見を尋ねてみましても、ただこの事件と例の乞食の赤潮との間に、何か関係がありはせぬかという位の、まことにタヨリない意見で、事件の真相の報告書の書きようが御座いませぬ。そこで、ほかに手蔓らしい手蔓は無いと思いましたけに、雲を掴むようなお話では御座いましたが、御留守中独断で福岡へ出張致しまして、只今の鍋墨雁八の口を※りに参りました訳で御座いましたが、その時に私は思い切って、お花が死にました時の模様を詳しく雁八に話して聞かせますと、それならばと申しまして雁八が、残らず真相を吐きました。涙をボロボロ流しておったようで御座いますが……つまり今度、巡礼お花に殺されました丹波小僧と、鍋墨の雁八とは、ズット以前に石見の山奥で、藤六の盃を貰うた兄弟分で御座いましたそうで……しかも雁八が聞いた噂によりますと、丹波小僧というのは藤六の甥どころではない。藤六が天の橋立の酌婦に生ませた実の子らしいという話で……」 「……ううむ。おかしいのう。それでは……何が何やらわからんようになるがのう」 「それがその……それを知っておったのは藤六だけで、本人は知らんじゃった筈と雁八は云うておりましたが……藤六はそんな風にして方々に児を生み棄てて来た男だそうで……」 「おかしいのう。それでも……」 「もうすこしお話しがあります」 「話いてみい」 「……ところが、それから後、藤六はその丹波小僧と雁八を一本立にして手離しましたアト、だんだん年を老って仏心が附いたので御座いましょう。今一人居ります娘が、九州で巡礼乞食に化けて、女白浪を稼いでいるのに会いたさに、自分の縄張を鬼城の親分に譲って、石見の山の中から出て来て、この直方まで来て、落付いておりましたものらしく、集まって来た乞食共の中には、藤六の跡を慕うて来た奴どもが相当居ったものらしう御座います。……と申しますのは、つまり藤六が悪魔様に上げている黒穂を頂くと、自分の前科が決してバレぬ。一生安楽に暮される守護符になる……というので……もっとも雁八はその貰うた黒穂を白湯で飲んだと申しましたが……ハハハ……」        6  署長は感慨深そうに腕を組んで眼を閉じた。 「成る程のう。それでわかったわい。ツイこの頃までこの筑豊地方に限って、小泥棒が一つも居らんじゃった理由がわかったわい」 「……ハイ……藤六という奴は余程エライ奴じゃったと見えます」 「そうすると丹波小僧の銀次も、藤六のアトを慕うて来た仲間じゃな」 「いや、違います。丹波小僧は、藤六の処を出て、鍋墨の雁八とも別れてから後、大阪地方専門の家尻切りになりましたが、或る処で居直って人を殺したお蔭で、手厳しく追いこくられましたので、チョット商売にオジ気が付きましたものか、飴売に化けてこっちへ流れて来ましたが、偶然に藤六の店に目を付けてみますと、思いがけない藤六が住んでいる。しかもスッカリ耄碌している上に、相当の現金をシコ溜めていることがわかりましたので、それこそ悪魔の本性を現わしましてコッソリ彼の一軒屋に忍び込み、藤六の夜食の飯の中へ鼠取薬か何かを交ぜて、毒殺して後を乗取った……」 「……エッ……そんなら親殺しじゃな」 「ハイ。知らずに殺しました訳で……」 「それでも怪しからん話じゃ。あの時に診察した医者は誰じゃったな」 「ハイ。この間坑夫と喧嘩して殺されました新入の炭坑医で」 「ウハッ。あの若い医師か……」 「ハイ。狃染の芸者が風邪を引いているのを過って盛り殺した奴で……」 「……そうかそうか……あの医者にかかっちゃ堪まらん……フムフム。それからドウなった」 「それと知りました藤六の乾児どもが、皆この直方に集まって来て評議をしました。それが、あの乞食の赤潮で……それから皆で手分けをして、本四国を巡礼しておりました藤六の娘のお花を探し出して、相手が実の兄である事を秘いて、仇討をさせようとした……それを銀次が感付いて、裏を掻いて逃げようとしたのが今度の騒動の原因であったと雁八が申しますので……話の模様を考え合わせてみますと、どうやら雁八が黒幕らしう御座いますが……」 「ウムウム。ようよう経緯が、わかったようじゃ。彼奴等は復讐心が強いでのう」 「道徳観念が普通人と全く違いますようで……」 「……それもある……が……しかし……」  と云ううちに署長は何やら考え込んだ。いつもの癖で、椅子の中に深く身を沈めると、中禿の頭を撫で上げながら、自慢の長い鬚を自烈度そうにヒネリ上げヒネリ下した。 「フム。それで……自殺の原因は……」 「ハイ。それがで御座います……ソノ……」  巡査部長は困惑したらしく額の汗を拭いた。 「……わかりませんので……その……僅かの隙に致しました事で……全くその……私どもが狼狽致しましたので……縄を解けば白状すると申しましたので……その……」 「ウムウム。それは聞いちょる。……問題は自殺の原因じゃ。復讐を遂げると直ぐに自殺しよった原因じゃ」 「……………………」 「死に際に何も云わんじゃったか。巡査どもは何も聞かんと云いよったが」 「私は聞きました。皆の衆。すみません……と……」 「皆の衆……その皆の衆というのは山窩の連中に云うた言じゃろう……表の群集の中に怪しい者は居らんじゃったか。様子を見届けに来たような者は……」 「ハッ。それは居らなかった筈……と雁八が申しました。お花という女は、まだ生娘では御座いましたが、ナカナカのシッカリ者で、わたし一人でキット親の仇を討って見せるけに一人も加勢に来る事はならんと云うておりましたそうで……又、誰か仲間が見ておりますれば、警察まで担がれて参りまする中に、途中でお花を助け出します筈……」 「ウムウム。それは理屈じゃが……しかしお花は、丹波小僧が実の兄という事を、どうかして察しておりはせんじゃったかな」 「イヤ。そんな模様には見受けませんでした。御承知の通りツイ夜明け方の一時間ばかりの間の出来事で御座いますけに……丹波小僧が何もかも先手を打って物を云う間もなく猿轡を噛まして、担いで来たと申しておりましたが……実地検査の結果もその通りのようで……」 「フーム」と署長は考え込んだ。 「彼奴どものする事は一から十までサッパリわからん。切支丹と似たり寄ったりじゃ」 「……………」 「ウム。まあ良え。それ位のところで調書を作ってくれい。自殺の原因は発狂とでもしておけ。警察の中で人を殺したのじゃからナ……ハッハッ……」  それから署長は椅子の中で伸び伸びと大|欠伸をした。両手を高々と天井に突き伸ばして顔を真赤にした。 「アア……アア……ッと……厄介な奴どもじゃ――」  夏冬繁緒、河東茂生、滋岡透、そのほかいろいろ……田舎者の私は、みんな別々の人間のペンネームかと思っていた。それぞれ文壇の大家としての敬意を心の中で払っていたら、それがタッタ一人の姿になって、香椎山中の私をヒョッコリ訪問してくれた。  せいぜい十八、九ぐらいに見える、スラリとした、鼻の左右にニキビのパラパラと出来た青年であった。極めて粗末な大学生の服を着ていた。霜降りと黒ズボンの……帽子と持ち物は記憶しない。持っていなかったのかも知れぬ。  私は眉に唾をつけたくなった。けれども取りあえず縁側に頭をスリ付けた。油断がならない……と思いながら……。  青年はノコノコ上って来た。 「来よう来ようと思いながらツイ失敬しました」  と極まりわるげに笑いながら、書生ッポらしいお辞儀をヒョイとした。  私は幻滅の悲哀を感じた。生まれて初めて会う文壇人に対する期待が皆外れてしまったので……けれども、それと同時にこの青年がタマラなくなつかしい人物に見えて来たのは不思議であった。十分間ばかり話しているうちに、お互いの年を聞き合って大笑いをする位に親しくなった。「二十三と四十……チョット倍ですね」……なぞと……。  文壇の知識に飢え渇いていた私は、あばら屋の中で黴臭い紅茶をすすめながら、次から次へと愚問を連発した。青年はどこまでも親切に、まじめに答えてくれた。「猟奇」誌上で私をコキ下したり、コキ上げたりしてヒヤヒヤさせた辣文家とは夢にも思えない。私はいよいよ面喰らいながら、貝殻のように聞き惚れた。 「本名の河東茂生を本当に読んでくれる人は殆どないのです。手紙でも河東茂とか河東茂夫とか書いて来るのが大部分です。そうかと思うとカトウモセイとかカワヒガシシゲルなんて御丁寧な電報をよこす奴があったりしてね……」  とだんだん言葉つきが書生丸出しになる。こっちも山男の正体を現わしてゴロリと横になってしまう。 「チョット失敬して原稿を書きます」  と言ってモセイ君は「猟奇」の黄色い原稿紙を取り出した。書いては破り、書いては破りし始めた。十年も前から一緒の下宿にいる気持になりながら、私はウトウ卜する。  私はウトウトする片手間に、モセイ君のホッソリした身体を黒ビロードずくめの服で包んでみた。エナメルの靴を穿かせて、細い、黒いステッキを持たせて、神戸の山の手や海岸通りを歩かせてみた。細長いダンヒルのパイプに鼻の横のパラパラしたニキビが、よくうつった。次には印半天を着せて、赤いビラを振り撒かせてみた。その次には尺八を吹かせて荒格子の前に立たせてみた。ワンピースを着せて変装の女給に……活動のサキソフォン吹きに……タキシードを着せて芝居のボックスに……どれもこれも憎いほどよく似合った。それ位の事はやりかねないであろうノンキな青年に見えて来た。  日が暮れかかると、それでもモセイ君はお客様らしく二、三遍帰りかけた。それを私は無意味に二、三遍引き止めた。お菓子が最後の堅パン一枚になってもまだ話が尽きなかった。  踏切りを越えて、国道に出て「さようなら」を言ってもまだ二人の話は尽きなかった。けれどもそのうちに下り列車が、二人の鼓膜を震憾して通過したので、やっと話が途切れた。  帽子を手に持ってスタスタと国道の暗に消えて行くモセイ君のうしろ姿を、提灯の光で見送っているうちに、私はやっと同君の印象の全体のピントを合わせる事が出来た。 「人の頭の中のものをスーッと泄って行く……不思議な……なつかしい青年……近頃流行のシークとかスマートとかいう言葉は、こんな青年を形容する言葉ではあるまいか」  そう思いながら私は提灯の火を吹き消した。  もとの通りに淋しくなった山の中へコツコツと引き返した。    市政の巻      品川駅の蓄音機  万世一系のミカドの居ます東京――。  黄色人種中最高の民族のプライドを集めた東京――。  僅か五十幾年の間に日本をあれだけに改造した東京――。  思想でも流行でも何でもかんでも、日本でモテたり、流行ったりするものの大部分はここからはじまる東京――。  日光、京都、奈良そのほか日本の古美術や名所古跡に感心し、ゲイシャガールに涎を流し、能楽に首をひねる前に、是非ここの黄色いホコリを吸わねばならぬことになっている東京――。  そのほかあらゆる意味に於てヤマト民族を代表し、国際問題の大部分に於て東洋を代表し、芸術なんどの方面ではうっかりすると人類文化の最も高い方面を代表しているところもある東京――。  その東京が一撃の下に殆ど全域にまではたきつぶされたという事は、日本全国はもとより世界の人々を驚かすに充分であった。  更にその一度たたきつぶされた東京が、どんな腰付きで、どんな表情をして起き上るかということは、全人類の視聴を惹くに充分であった。  記者が震災一年後の東京を見に行ったのも、この意味に外ならなかった。  震災後初めて東京に行く人は、先ず品川駅に着くとホームの雑音にまじって、 「品川ア――……品川ア……山の手線、新宿……方面|行乗換えエ……品川ア――……品川ア――……お早く願いまアす……」  という特別に異様な割れ鐘声を聞くであろう。記者も変な声だなと思って、窓から首を出して見た一人であったが、不思議なことには怒鳴っている駅夫の顔が見えない。変だなと思ってキョロキョロ見まわすと、それはホームに備え付けられた蓄音機で、声自慢の駅夫に吹きこませたものだとわかった。  いずれ鉄道省の新しい試みであろうが、折角の事なら鶯の初音のような声にしたらどんなに有り難いことであろう。それとも寧の事、有名な女優か何かの声にでもしたら、ホームの雑音にまぎれず、旅客も耳を澄まして聴くだろう。殺気立ったり疲れたりした旅客の心理状態を和らげる上からいっても、御趣旨徹底の上から見ても、まことに結構であると思われるが、いずれにしても新しいには間違いない。この塩梅では震災後の東京は余程新しくなっているであろう。交通巡査に自動人形を立たせ、市長の椅子に盲判押捺器を据え付けていはしまいかと、取りあえず度肝を半分ばかり抜かれたのであった。  東京駅に着くと、駅前に何百となく蟻のように這いむらがる自動車、その向うに流るる電車の行列、煙のように集散する人、その又向うに数万の電気を点して、大空を蔽うて立つ数個の大ビルディング、そのようなるものの間から湧き起り、渦巻き散る様々の雑音、うなり、響き、叫び、とどろきは、気のせいか震災前に数倍して物凄いようで、田舎に居てはかなり気の利いたつもりの記者も、暫くの間ぼんやりとそこいらを見まわさせられた。  誰しも田舎から都会に出ると、一種の圧迫を感ずるものである。家の大きさ、往来の烈しさ、その中を見かえりもせずサッサとあるく人々の態度なぞが、いずれも特別に自分だけを意地わるく、ひややかにあしらっているようで、われしらず襟元をつくろい、ポケットの中のものをたしかめる気になるものである。わけても日本一の東京駅前の広場には、そうした気分を作るものがすっかり取り集められている。その中を記者は、昂然と肩をそびやかして、電車道に出たのであった。      糜爛する浅ましい姿  記者はこうして、九月初めから十月|半までの東京市中を、縦横むじんにあるきまわった。蜘蛛手掻く縄十文字に見てまわった。用事の隙々や電車待つ間にはスケッチも試みた。こうして見ては考え、考えては見ているうちに、現在の新しい東京の裏面が次第に次第に見えすいて来た。あっちこっちで見たり聴いたりした事が、次第次第に一つの大きな焦点を作って来た。  そうしてその焦点にハッキリと、又は朦朧と現われて来たものの姿と、そのうごめきを見出した時、記者は思わず眼を蔽うたのであった。  東京は如何に甦えりつつあるであろうか。秩序、真面目、光明、穏健といったような思想を基調としているであろうか。  市政は整然と行われているであろうか。  市街建築や交通機関は、理想ある統一の下に整備されつつあるであろうか。  市民の娯楽機関は、果して健全に発達しつつあるであろうか。  風俗は新日本の流行の中心たるに恥じないものであろうか。  犯罪の数は、又不良少年少女の数は震災後減ったであろうか。  各種の商売は合理的に繁昌しているであろうか。  そうして復興の意義は、一般市民に正しく理解され、達成されつつあるであろうか。  記者は遺憾ながら、これ等の質問に対して一つも満足な答えをすることは出来ない。唯一言「否」という言葉で片付けてしまいたいが、それすら出来ない程に東京の現在は意外な状態にあるのである。  記者はこの稿を発表する前に幾度か躊躇した。  これを発表するのは、新しい東京の前途に希望を持つ人々に対して、あまりに残忍な仕打ちであるばかりでない。この中にある醜い事実や例証やが、さなきだに東京を唯一無上の都市と思っている地方の人々に悪い影響を与えはしまいか、又はまだ東京を知らぬ健全な地方の人々の頭を刺戟して、「東京がそんな風ならおれ達だって」といった調子に地方堕落の素因を作ることが、万に一つでもありはしまいかと心配されたからである。  更に今一つの心配は、記者が自身の観察力に対する疑いであった。東京の裏面を見て驚いたと同時に、記者は自分の眼と耳を疑ったのであった。果してこれが東京の真相であろうか。かように東京のすべてが浅ましく恐ろしく見えるのは、記者の感違いではあるまいか。たった一年前、記者があらゆる讃辞を以て報道した震災直後の東京の人心は、かく短時日の間に、かくも浅ましく堕落し果て得るものであろうか。願わくは記者の観察が誤りであれかし。聴き誤りであれかし……。  こうした記者の最後の気弱さは、記者を東京市役所、警視庁、その他二、三の官庁に押し遣って、それぞれの当局者について質問をさせた。  然るにその人々は、皆記者の観察や説明に平気で……否、寧ろ吾が意を得たりといった風に裏書をしてくれたのみならず、記事に適切に当はまる参考材料まで提供してくれた。  その態度は記者がその誠意を疑うほどに非官吏的、公開的であった。寧ろ投げ遣り的に「秘密」の印を押した書類なぞを見せて、あくびまじりにいろんな呑気な話までした。  その話の中に記者が聴きのがすことが出来なかったのは、どの官吏もが共通的に左の意味の言葉を口にしたことであった。 「駄目ですよどうせ。なるようにしかならないのです。私の方から発表は出来ませんが、あなたの見た通りを地方の新聞に大いに書いて下さい。東京の新聞にはいくら書いたって駄目です。東京のものが読んだって、堕落し切っているんですからちっとも感じはしませんが、全国地方の各新聞が一斉に『東京を救え』とでも書き立ててくれたら、いくらか刺戟になるでしょう。新聞に書いたら一部送って下さい」  その言葉の中には、何のあてどもない、行き当りバッタリ式の仕事をしている人々の心の痛みがこもっていた。見かけだけ美しくて、内容の乱れ腐れて行く東京を見ながら、どうする事も出来ない人々のダラケタ頽廃した哀愁がこもっていた。  又或る退職した高級官吏はこう云った。 「『東京を救え』も面白かろう。しかし大抵の奴が東京を救いに来たって、木乃伊取りの木乃伊になってしまうよ。東京に一日も居れあ、大抵田舎が馬鹿臭くなるからね。アハハハハハハ」  記者は頭をうなだれてその人の門を出た。秋の日と、赤トンボの流るる東京郊外から、牛込の宿まで帰りながら考えた。そうして思い切ってこの筆を執りはじめたことであった。  勿論これが記者の見たり聴いたりした全部ではない。その大体の概念だけ、又はその一部の要点の中で面白いところだけである。あまり深く突込めないところもあるし、又いくら書いても書き切れないところもあるからである。唯これに依って、新しい東京の裏面が如何に浅ましく、悲しく、奇怪なものであるかということを読者に印象せしめ得れば、記者の望みは足りるのである。      市長|更迭の表裏  ジャンジャンジャンジャンジャン、「東京市長の辞職……」  という声をきいて、車の窓から買って見る。 「大道良太氏東京電気局長に就任と共に市長永田秀次郎氏の辞表提出云々」  と大みだしが付いて、永田市長の談が掲載してある。 「只今東京市長の椅子を去るのは実に遺憾千万である。殊に市街の整備を理想的にやるつもりでいたのが出来なかったのは千秋の恨みである。しかし止むを得ない。更迭した電気局長即ち市の重要機関の首脳者と僕との間に何等の理解も存在しないのだから」  東京市民の大部分は皆驚いた。そうして変に思った。  東京市長永田秀次郎氏は、後藤新平氏のあとを受け継いで東京市長の椅子に座ると間もなく、彼の大変災に出会った。高知の富豪の子で、人格者で、大男で、文芸趣味に造詣が深く、寝ころんでも愉快に生涯を送れる身分でありながら、七面倒臭い東京の市長になって、兎も角も利欲に眼をくれず、どっちかといえば大した過ちもなく、あれだけの世話を焼き通して来たところを見ると、余程の自信と覚悟とがあったものと見なければならぬ。それが市区改正の大事業……言葉を換えて云えば東京の改造……否、寧ろ日本文化の中心改造という大仕事を眼の前に控えながら、高が一局長の椅子に市会が押し上げた人物が気に入らぬ位の事で、市長の椅子を蹴飛ばす程短気であろうとは、誰しも想像し得ないところであっただろう。  永田氏が去ると同時に、その部下の有力者数名もバタバタと辞表を出して椅子を離れたので、東京は首無し死体どころではない。首から上が抜けてしまって、一時ヨイヨイのようになってしまった。  も一つ驚いたことには、新たに電気局長の椅子にねじ据わった大道良太クンが、なかなか座り腰の強いことであった。部下がストライキを起しても、新聞で嘲られても恬として知らぬ顔で、あべこべに盛に熱を吹いて、「俯仰天地に愧じぬ」とか、「断じて市会議員を買収したおぼえはない」とか云っていた。  その口の下から、怪しい市会議員がドシドシ検事局へ引っぱられた。そうして買収された罪状が一々明白になったにも拘らず、大道局長は依然として反り身になって、例の鼻眼鏡を光らしていた。  サア、みんなわからなくなって来た。見様によっては永田が意気地なしで、大道がシッカリしているようにも見える。とにかく門鉄局長以来、好人物の小才子で通って来た大道良太先生に、どうしてあれだけの糞度胸があるのだろうとみんな舌を捲いた。  すると又わからないことが出てきた。  後任市長が無いというので、方々の人格者や名望家なぞに市会の銓衡委員が押しかけてまわったが、みんな体よく断られた。その断りかたがいずれも奥歯に物の挟まったように叮嚀で、何だか「東京市長になるのは一大の恥辱です」という、恥辱の二字を光栄という言葉に取りかえて云っているように思われた。  それはまあいいとして、最後に前の東京市長、今の日露政治ブローカー後藤新平の処へ持って行くと、一度断られ、二度ことわられ、それでも三度まで持って行くと矢っ張りことわられた揚句、「余が東京市を愛するのは、市長となって愛するよりも、市民として愛した方が適切と思う」というような意味の宣言書を、新平の名前で東京中の新聞に発表されてしまった。「お前の旦那になってやるよりも、情夫になって可愛がってやる方が洒落てるじゃないか」といったようなことわりようである。何だかカラハンあたりから直伝のような響もあるように思われる。  然るにこの新平さんは実は第一候補で、第二候補はこれも前の満鉄総裁、文豪夏目漱石の友人で、女好きで、酒好きで、ウソかホントか、梅毒で片目をつぶしているという中村是公のオヤジさんであった。そこへ水を向けると一も二もなく承知して、「オヤまあ」と思う間もなく、ノコノコサイサイ永田秀次郎氏があと釜に座ったのが、丁度十月の初旬のことであった。同時に、その間一ヶ月間市長の椅子を空っぽにした責任を負うというので、市会議長の沢田氏が辞職すると大|見得を切ったところを、「マアマア」が出て来てゴタゴタさした。  こうしてやっと東京市の首が出来て、市民も新聞もヤレヤレと云っているうちに、今度は又大変な評判が事実として伝えられた。永田市長が辞職してから以後これまでの出来事は、みんな芝居だというのである。否、永田市長の辞職からして芝居だと云うものすらある。あれだけの大記事や号外を出して、十字街頭の人々を驚かし、電気局の喰うや喰わずの月給日給連に局長反対のストライキまでやらせたのが、みんな芝居だとは、生き馬の眼を抜くどころの騒ぎじゃない。  恐れ多くも中村東京市長の御裁可書が、内務省と市役所との間で一時|行衛不明になって大騒ぎをしたというが、それまでも何かの芝居ではないかと考えられて来る位である。      あきれた漢語芝居  ここで又一つわからない事が出来て来る。前の東京市長永田秀次郎氏も、今の東京市長中村是公氏も、それから電気局長の大道|朝臣もみんな後藤系のチャキチャキである。だから芝居とすれば、座長が後藤新平で、市会議員中の或る一派が狂言作者でなければならぬが、同じ後藤系の人物を抜きさしするのに、何でこんな芝居を打たなければならぬのであろう。  仮に永田氏が立派な人物で、市会の悪議員が仕事の邪魔になるから追っ払ったものとしても、又は永田氏がケチな人物で、今までに儲けるだけ儲けたから、いい潮時と逃げを打った芝居だとしても、或は又すべての魂胆の策源地を後藤新平側だとしても、どっちにしてもわけのわからないところが出来て来る。  それかといって、全然芝居でない白真剣の立ち廻りだとしたら、いよいよ奇妙奇天烈で、狐や狸や貉の類が乗せっこのバカシックラをしているのを、遠くから見ているようなわけになってしまう。  これを要するに、記者がこれまで一生懸命に説明したことは、トドのつまり何のことやらわけのわからぬ事を、自分でもわからないままに述べ立てたわけになる。まことに申し訳ない次第であるが、これは決して読者を馬鹿にしているのでもなければ、記者の頭がわるいのでもない。  すべて政界の出来事の表面がトンチンカンに見える時、その裡面に卑怯な真相が横たわっていることは、誰でも感付くことである。  東京市政界の裡面に、何者か知らず大きな卑怯な事実が動き流れていることは、その表面の矛盾の大きさでもあらかた推測される。その卑怯な事実を支配している連中は、その矛盾を塗りつぶすためには……そこから市井の内幕を見すかされないために、いろんな形式や、相談や、挨拶や、宣言や、発表や何かでその間を埋めてしまった。つまり芝居をやったわけである。  その芝居たるや、役者は悉く羽織袴、もしくはフロックコートで、科白が又初めからしまいまで、漢語に片仮名まじりの鹿爪らしい言葉ばかりである。 「職責」とか、「面目」とか、「感銘」とか、「遺憾」とかいう漢語が、如何にも重大な意義を持っているかのように持ちあつかわれている。  その筋の宣伝や布告が日に増し民衆的になり、言文一致に近づいて、債券のまき上げ方? なぞは玄人が舌をまく位に進歩している矢先だから、この礼服総出の漢語劇は一層人眼に立って見えた。それがみんな、市民を煙にまく目的でやったのだから、呆れ返らざるを得ない。 「ナアンダ。馬鹿馬鹿しい」  と東京市民が相手にしなくなればなる程、彼等市政の黒幕連は勝手なまねが出来るわけになるのだから、ウンザリせざるを得ない。  こうして東京市民の頭は、刻一刻と東京の市政に対する興味を喪って行く。否、現在では、愛市心なぞいうものは、殆ど絶無としか記者の眼には認められない。  故勝海舟翁はこんな意味のことを云ったことがある。 「昔、江戸市中のお布告だの掟書なぞいうものは、みんな人民にわかり易い文句ばかりで書いてあった。それが御維新後になると、急に八釜しい漢語になってしまったが、これは人民に政治をわからないものと考えさせて、お上のなさることに口出しさせないために持って来いの妙案かも知れぬ」  と。この言葉を味わって見ると、云うに云われぬ皮肉な意味が出て来て、思わず膝を打つようなところがある。  誰でも自分のわるいことを弁解をして塗りかくすためには、鹿爪らしい漢語を使うものである。勿体らしく構えて、腹の底を見すかされまいとする時も同様で、こんな場合に漢語位便利なものはない。  明治維新後、新政府の権威を見せるために、又は人民を煙に捲いてドンドン改革をして行くためには、法令でも、布告でも、何でも、漢語と片仮名で塗りかためて人民の前につき立てて、内幕をのぞかれないようにする必要があった。官僚や藩閥は漢語の蔭にかくれて、あれだけのわるいことをした。社会主義者なぞいうものは、人民の学力が進んで、この漢語の眼かくしが楽に見透かされるようになったために出て来た不平だとも云える。  海舟翁は、幕末の遺臣で、大勢に押されて江戸城を官軍に渡したとはいえ、新政府の連中の腹の中はちゃんと見すかしていた。だから、それとなくこんな皮肉を云ったのではないかと記者は思う。  折しもあれ、東京市長更迭に際して、こんな古めかしい漢語芝居が行われつつあるのを見て、今昔の感に打たれざるを得なかった。今に東京の市政は、漢語の本家本元の支那のようになりはしないかと思われる。  いずれにしても、事実上、東京の市政はこうして次第に暗黒化されて行くのである。      チグハグな道路工事  往来で買った新聞を通じて東京市政を見ると、こんな風にトンチンカンに見える。ところで街頭から東京市政の裡面を見るには、新聞にたよるほかは、テクシーで見てまわるほかはない。記者は今度は市でやっているいろんな工事を見まわってみたが、この「トンチンカン」さが一層ヒドいのであった。  たとえば、丸の内やその他各区の各方面の往来の到る処に行われている道路工事が、下水の事を殆ど念頭に置かないでドシドシ行われていることは、どんな素人眼にもわかる。否、下水ばかりでない。少し気を付けて見ると、水道管や瓦斯管、地下線、そんなものは一切お構いなしに、只|上っ面だけをアスファルトや木煉瓦で塗り埋められていることがよくわかる。 「こうやっておいて、又じきに掘り返すんだからなあ。そうして税金をドシドシかけて来るんだから、イヤンなっちまう」  という言葉は、道路工事で入り口を閉がれた商店の人々が一様に云う不平である。 「何でもおれ達の任期中にやっ付けてしまえ、今度当選するかどうか分からないから」  と市会議員が相談したかどうか知らないが、こんな乱暴な工事をこう無暗に進行させるところを見ると、何だかそう思われてならぬ。  この工事がちゃんと筋道の立ったもので、将来の都市計画に差支えない処だけやっているものであるかどうかということは、市民にちっとも知られていないらしい。隅田川にも、大きな橋が一つ二つ新しく架けられているようであるが、これとても同様である。  永田前市長の案か市会側の提案か知らぬが、事実から推して見ると、東京市の道路工事は、都市計画なんぞはどうでもいい、復旧も復興も構うことはない、工事だけドシドシ進行すればいいのだという風に見える。  それを東京市民はアッケラカンと立ち止まって見物しているのである。  それ許りでない。  震災後、東京市中の道路は恐ろしく悪くなった。日比谷公園前の近江の湖を初めとして、新しい東京八景が出来ているが、それは皆、往来に山や谷や湖や川が出来たのに対して名づけられたものである。何も無い処でも一間置き位に、深さ数寸、さし渡し一尺位の穴がベタ一面にあいている。  そのために東京市中をテクる腰弁の群れは、殆ど全部が雨天の時に長靴をはくようになった。当り前のオーバーシューズではうっかりすると沈んでしまうし、自分のハネや自動車の泥煙を防ぎ切れないからである。  晴天の日でも自動車は出来るだけ徐行する。うっかり急ぐと、乗っているものは腰かけからハネ落されるからである。過日のしけの時などは、下水を溢れて滝のように流るる汚水の中に、押し合いヘシ合って電車に乗る人々、自動車のタイヤの両側に破れむしろを袴のように垂らして、その中を押しわけて行く自動車の笛、雨の音、叫び声なぞいう修羅場が東京市中到る処に展開された。行って、実際に見た上でなければ、とても想像は及ばぬ。  こんな悪道路が東京市中の大部分を占めているのを打っちゃって、アスファルトや木煉瓦の上等の道路を極めて局部的に作って行く必要がどこにあるであろうか。  昨年の震災直後二三日の中に、東京市中の道路という道路は皆、人と車馬の混雑で穴だらけになってしまった。市では早速|俄雇いの人夫を駆り集めて、九月の十日前後から東京市中にバラ撒いて、ドシドシ補修工事を開始した。それを記者は十四日頃やっと気が付きながら、流石東京と舌を捲いて感心した。その感銘は一年後の東京市の道路工事を見て、すっかり引っくりかえされてしまった。これも、東京市政裡面のダラシなさを暗示する、一つの太き材料ではあるまいか。      醜業不許可と実際  今から十何年前、東京市に初めて都市計画に関する課が出来た当時の事、そこの、公園に関する図を引く腰弁に、松戸の園芸学校の卒業生が居た。今の荒川公園なぞはその男が図を引いたのであるが、その男が、浅草公園の第六区の道路を広めないと衛生上悪いというので、今は無くなった十二階下真正面に通ずる道路の両側、活動館や見世物が行列しているところを実地に調査して帰って見ると、彼の下宿に黄白を詰めた菓子箱が山積みしていた。  流石の彼もその早いのに仰天したが、ここぞ一生の思い出というので、その菓子箱を悉くたたき帰して先ず溜飲を下げた。  それから鉛筆をとって、十幾つの見世物館の軒先から一間ばかりうしろの方に定木を当てると、ズーと太い線を引いた。 「それが今の活動写真小舎の軒並みさ。おれはそのあとですぐに辞表をタタキ付けて九州に来たが、あとで聞くと、間もなくおれの課長も首をチョン切られたそうだ。おれ見たいな奴に仕事を任せたむくいかと思うと、今でも気の毒になる」と彼はよく記者に語った。  これは一つの昔話に過ぎないが、ここで考えて行くと、大東京の改造が如何に困難なものであるか容易に推察されるであろう。記者の疑いの眼がそれからそれへ飛んで行く理由もうなずかれるであろう。  今度の震火災を機会に、浅草千束町の醜業窟が一掃されたという。行って見ると、成る程無い。只果物なぞを売っている店が十五六軒並んでいるばかりである。当局者は云う。 「こうして大いに東京市内の風紀を改善するのです。彼等がもし醜業を営んだことがわかれば、一月近く拘留した上に写真を撮って、二度と再び営業出来ないようにするのです。元来浅草区はこれ等醜業婦のために拭うべからざる汚名を受けているのです。浅草区役所の収入の大部分は彼等醜業婦が持っているのだとか、浅草に来る警官はみんな彼等から袖の下を貰ってぜいたくをしているとか、浅草区から立つ候補者は醜業を理解しなければ立つ資格が無いとか云われていたものですが、そんな世間の誤解を一掃するには昨年の震火災が絶好の機会でした」  云々と大得意になっている。  その追い立てられた醜業婦が立ち去ったところ、又そのあとに当局の所謂「一掃された」という言葉を裏切って続々と殖えている怪しい女の事に就いては、後の研究問題に楽しんでおくとして、取りあえず浅草の新券番に行って、芸妓の名寄せを取って見ると六百名ばかり居る。しかもこれは、震災前醜業窟を経営していた連中が喰うに困るという名の下に、新たに許可したものだというのだから、開いた口が塞がらぬ。何の事はない、浅草区内に今まで居た醜業婦をほかへやって、あとに今までよりも白首をふやした上に、こんな大券番を増設したことになる。  これは見様によっては市役所にかかる問題ではないかも知れぬ。しかしこの券番の許可に就ては、二つの或る有力なる団体が当局に対して猛烈な運動をした、その背後と正面には抜け目のない東京市政の有力者が立っていたというのだから、大抵察しが付く。  もっと酷いのになるとこんな話がある。  目下、市内各所の公園付近に市から建てられたバラックがある。これは市の体面を傷つけるし、衛生上又は公園の本来の性質上立ち退かせねばならぬというので、市の方から八釜しく云っているが、酢のコンニャクのと云ってなかなか立ち退かない。。目下、市と押し問答の最中であるが、それにつけ込んだ或る市会議員がバラックへ押しかけて行って、 「一戸当りいくら宛出せば立ち退かないようにしてやる」  と談判したところが、物の美事にはね付けられたという。  これはあんまり篦棒な話で、多分、或るデモ主義者かゴロ付きの一人が思い付いてやった事を、市会議員の所業と結びつけた一片の噂に過ぎないであろうが、それにしても、こんな事にまで結び付けられ易い、東京の或る種の市会議員の平生の素行が忍ばれるではないか。火の無い処に煙はあがらぬとはいうものの、これは又あんまり情ない噂である。  こんな風に疑って来ると、見るもの、聴くもの、何一つ疑いの種とならぬものはない。同時に、こんな事実を見たり聞いたりして来ると、東京の前途が思い遣られる。同時に、東京を中心とし、頭脳として生きて行かねばならぬ、未来の日本の運命を悲しまずにはおられぬのである。      市議の不正公表  ここまで観察して来ると、東京市政の裡面はハッキリとした焦点を作って読者の眼前に現像されるであろう。  先ず現われて来るのは、市会議員の或る一派が往来のバラスや、市で使う石炭や、水道の鉄管や、又はあの大きな瓦斯タンクなぞをバリバリ喰っているところである。  納豆売りの云い草ではないが、ちょっと見たところ、こんなものはとても歯にかかりそうにもなく、おまけに下品な悪臭芬々として、いかにも顔をそむけたくなるが、喰いなれて見ると案外おいしくて、消化がよくて、身体のこやしになること受け合いだそうである。殊に永年東京に住んでいると、こんなイカものが喰えるようになるらしいので、江戸ッ子になると納豆が好きになるのも、そんな感化を受けるからかも知れない。  納豆を喰うと掃き溜めの腐ったにおいがして、何とも云われずうれしい。殊に豆の本当のうま味がわかるような気がして、とてもこたえられぬ。  ところが東京市政でつかう砂利や石炭や鉄カンを喰うと、文化のにおいがして素敵にうれしい。そのうえに自治制の本当のうま味がわかって、あした懲役に遣られることがわかっていても、やめる気にならぬものだそうである。  目下の東京は、大仕かけの復旧から復興へと、全力を挙げねばならぬ時機に際会している。これから先、バラスや鉄管や石炭、木材、セメントなぞいう、自治制のうま味をタップリ含んだ「復旧」、又は「復興」と名づくる御馳走の材料がどれ位入るかわからない。  東京の市会議員は多少に拘らずこれがたべたいにちがいはない。この際、市長に自治制のうま味を知っている市長が居れば、市会議員はかなり遠慮なくこれを頂戴することが出来るのである。  話は前にもどって、永田市長が去ったあと、市長の事務管掌として堀切という若いお役人が来た。その人は、中村是公さんが市長にきまるとすぐに、市長事務管掌としての感想を新聞に発表した。その趣意をかいつまんで云うと、 「東京の市政はこのままにしておくとすっかり堕落し切ってしまう。第一、今のような市会議員を選挙した市民がわるい。第二には、市長の権利が薄くて、市の下っ端の役人と市会議員とが、勝手に話し合って仕事をするような事がある。これをすべて、市長の承認を経なければ出来ないようにしたならば、市政はもっとよくなるであろう」云々。  これは手早く云えば市会議員の不正公表で、或る新聞は、 「東京市もたまには腰弁を雇って意見や指導を仰ぐ必要がある」  と書いていた。  記者は後藤、中村、永田、大道諸氏と私的に会った事が何ベンもあるので、その性格や何かもかなり知っている。これに反して堀切という人は全く知らない人であるが、この意見には賛成である。  つまり、市会議員が市の政治を料理する台所の役人の処へ押しかけて行って、勝手につまみ喰いやお毒見をするのを禁ぜよ、と云うのである。  東京市という一家の家令たる市長が知らぬ間に、台所で議員と吏員がうなずき合って、すき勝手に献立てを作って、ドシドシつまみ喰いをしたり、折に詰めて持って帰ったりする。東京市の真実の主人たる市民は、そのお流れを頂戴するために高い税金を払っているということになる。これが自治制という者ならば、世の中に自治制位阿呆らしいものはないことになるのである。  この自治制のうま味を占めた市会議員連は、こうして「復旧」という御馳走や、「復興」という二の膳に満載してある御馳走がたべたくてたまらなくなった。  いくらたべてもずんずん消化して尽きるところを知らぬ御馳走が、彼等の眼の前に山積している。真に千載一遇である。百年に一度位しか行き当らぬ宝の山にぶつかったのである。意地にも我慢にも辛棒が出来るものでない。そこで色々魂胆をしぼったあげく、始終台所に眼を光らしている前の市長を逐い出して、片っ方の眼のつぶれた豪傑を市長に、又は、部下の風紀取締になると公言して待合に入りびたる今業平を電気局長に引っぱり込んだ。  しかしそうとも云えないから、いろんな市政|行なやみの芝居を持ちまわってゴマ化した。後藤の親分も馬鹿馬鹿しいと知りながら、予定の通りおことわりして、いい加減な宣言書を部下に作らして新聞に発表さした。  それから市会議長の辞職、マアマアの止め役に到るまで、扨たくんだり、こしらえたりと申し上げねばならぬ。      自治制の悪模範  ここに於て記者は、高知の富豪のお坊ちゃんと生れた永田氏が、東京を去るに臨んで述べた「遺憾」という言葉に同情し、又一介の腰弁堀切氏の「意見」に共鳴せざるを得ない。何だか弱者の肩を持ちたがる江戸ッ子カブレしたようであるが、決してそうでない。何等の利害関係なしに見ていると、東京市の腐敗荒廃を救い得る唯一の道は、このお坊ちゃんと腰弁の言葉に含まれているのである。  日本の首都東京の市政の腐敗堕落が、政界の一お坊ちゃん永田氏、又は一腰弁堀切氏の言葉で救われようと思うのは非常識かも知れぬ。しかし東京市政の裏面を語るには、二人の東京市に対する告別の辞に註釈を加えるのが一番早道である。二人の言葉を記者が読んでみると、どうしても東京に対する捨てぜりふ、も一つ進んで罵倒の言葉としか思えないのである。しかもこのお坊ちゃんと腰弁の東京に対する「遺憾」を裏書するものが、かくの如く夥しく、到る処の街頭に満ち満ちているのである。  記者は、白日青天の下に此の如く無残に曝し出されている東京市政の破綻を見て、無限の感慨に打たれざるを得なかった。  これは決してひとごとでない。日本中の市という市は悉く自治制である。その自治制の欠点を最も多量に持っているのが東京市なので、或る意味から見れば流石は日本の模範都市と云えるであろう。同時に日本全国の市政にあずかる人々は、この意味で東京を模範としようと努力していないとも限らぬであろう。研究に値することは無論である。  先年、英京|倫敦が大火事で焼き払われたあと、時の当局者は人類文化発展の将来を見越し、世界通商交通の前途に鑑み、将来の世界的都市として差支えないだけの市街にすべく、大英断を以て新たに都市計画を立て、今までの町割りに構わずにドシドシ理想的の図面を引きはじめた。  これを見て驚いたのは倫敦市中の富豪連であった。そんなことをされては、地面の価格やのれんのねうち、その他あらゆる方面に困るというので大反対の運動を起した。これに英国人一流の保守気質が共鳴して、とうとうその計画者の首を切り、富豪連の御機嫌にさわらない、昔の不便なままの形をした都市計画を遂行する役人を押し立てて、とうとう今のロンドンを作り上げた。  その不便な、不衛生な、貧民窟の増加し易い、犯罪の行われ易い、そうして保守的なブル階級にだけ都合よく、進取的なプロ階級にとって不愉快極まるロンドンが、如何に新しい英国の発達を妨げたことであろう。  更にそこから湧き出した病毒、悪思想が、或は肉体から肉体へ、又は紙から紙へと伝わり拡がって、どれ位現在の英国を悩まし労れさしていることであろう。  東京はちょうどそうなりつつある。  復興院が握り潰され、復旧案が持ちあつかわれて、今ではその復旧すらも容易に行われそうにない。恰も東京の裡面に何者かが潜んでいて、東京を出来るだけ永く復興させまい。いつ迄も暗黒状態に置いて、自治制を思い切り腐敗させたい。そうして最後にブル階級にのみ都合のいい復旧案を保留しておきたいと考えているかのように見える。  或る種の市会議員が活躍するのはこの意味を含んでいるのである。永田前市長が、 「市区改正をやり遂げ得なかったのが残念だ」  と云ったのはここの事である。    江戸ッ子衰亡の巻      日本第一の無自覚  何でも裡面の消息を素っ破抜くと、大抵は皮肉か憎まれ口になる。「新東京の裏面」の一篇もまたこの例に洩れない。  ところがその市政のアラを往来から数え立てて、その堕落腐敗の原因はどこにあるかと見まわして来ると、その罪は東京市民が負わねばならぬ。ことにその大部分の罪は、震災以前の東京市民、わけても吾が敬愛する「江戸ッ子」諸君が負わなければならぬことになるのである。 「江戸ッ子」というのは、つまり生え抜きの東京人で、吾が大和民族の性格の生ッ粋を代表していると云われている。  京都人が日本人の上品さと意気地なさを代表し、大阪人が日本人の利口さとキタナさを代表しているものならば、それ等をゼイロクと罵り去って、玉川上水に尻を使い、天下の城の鯱を横眼に睨んだ江戸ッ子は、正に大和民族の男性的な性格を最も痛快に代表しているものと云えよう。その大和民族の精華たる江戸ッ子の故郷たる東京の市政が、どうしてこんなに腐敗して行くのか。  音に名高いあの江戸ッ子の潔癖と義侠心は、こうした東京市政の腐敗堕落を見て何とも感じないのか。天下の旗本を焼豆腐になぞらえた、昔の意気はどこへ行ったか。それは昔の夢物語りで、今の江戸ッ子は切っても赤くなくなったのか。  東京市政頽廃の裏面にはいろんな原因がかくれているであろうが、堀切前市長管掌はその原因を「選挙民の無自覚」に帰している。  選挙民の「無自覚」ということは、吾が大和民族が天から授かった美徳で、別段珍らしい言葉ではない。吾国の村会、町会、市会、県会、国会等いう議員が、今日の如く竹篦下がりに堕落して行く根本的の原因が、国民の政治的智識の欠乏、言葉を換えて云えば愛村、愛町、愛市、愛国心等が薄いのに原因していることは誰でも知っている。仮令普選になっても、美徳がある限り天下はいつまでも太平であろうとは誰でも感じていることで、この美徳を打破って憲政有終の美を満たすには、唯一つ「選挙民の自覚」あるのみというも亦十人が十人自覚している。  唯、それが実際に行われないまでのことである。  これがわかっていて行われない事実が、東京では最も甚だしい。つまり東京人は、大和民族の実際上の無自覚性を、最も極端に発揮していることになるのである。  羅馬を亡ぼしたのは羅馬市民の「無自覚」であった。同様に時代は違っても、仏蘭西を亡ぼすものは仏蘭西国民、わけて巴里ッ子の「無自覚」である。英国の倫敦ッ子に於ける関係も同様であるという議論を、記者は方々で聴いた。  一国の首都の住民がその国の文化の粋を集めた生活に酔うと、その国民性の美点と弱点とを極度に代表した性格となる。これにあこがれた地方人は皆これを真似ることを名誉とするようになる。それはいいが、そのいいところはまねずに、まね易い頽廃的なところばかりをまねるために、国民一般が懦弱となり、センチメンタルとなる。遂には美しく果敢ない滅亡の床に喘ぐようになるのは、今も昔も同じことである。  こうして「江戸ッ子衰亡」の事実は、やがて大和民族衰亡の警鐘を乱打していることになるのではあるまいか。  否、これは疑問でない。明白な事実である。新東京の秋深きところ、十字街頭の見聞と所感が、自らここに落ちて来るのを拒否することが出来なかったのである。      自己を嘲ける勿れ  東京のバラック町をウジャウジャあるいている人間を、大別して二つにわける。古い江戸ッ子と新しい江戸ッ子と……。  古い江戸ッ子というのは、講談や落語に出て来るアレであるが、新しい「江戸ッ子」というのはどんなのか。  これはなかなか説明しにくいが、手早く云えば、「江戸ッ子」というよりも「現代東京人」と云った方がわかり易い。震災後各地から押寄せて……又は前から居残って、新しい東京の気分を作りつつある連中で、江戸前の風味なぞはあまりかえり見ない。乙な洋食や支那料理、凝ったアイスクリームを求め、カフェー女の本名を探り、ヤゾーを作って大向うから怒鳴る代りに、亜米利加ものや新派の甘い筋に手をたたき、歌沢の心意気よりも、マンドリンに合わせた「籠の鳥」のレコードを買う。もし一人か二人の社会主義者、某署の刑事、有名な芸術家や選手なぞと心安ければ、現代式東京人としては申し分のない資格が付く。況んや女優と片言でも話をしたとなれば、新人として無上の尊敬を受けるであろう。  こんな連中がバラック町を横行して、ムッとする位新しい東京気分を作りつつあるので、東京市はまるで生れかわって、古い江戸ッ子は絶滅したかとは思われる位である。  とはいえ、古い「江戸ッ子」も居るには居る。ただ北海道のアイヌ人が、日本人に圧迫されて次第に衰滅して行くように、彼等も現在の新しい東京人に押されて、衰滅の一路を辿っていることは疑われぬ。殊にその衰滅の速度が、昨年の震災を一期として、著しく早くなったことは一層明白な事実である。  記者は新しい東京人の裏面を研究する茲に、順序として古い江戸ッ子の末路を弔わねばならぬ。  記者は所要で東京に行くうちに、かなり江戸ッ子や江戸通の知人が出来た。そのために直接間接に「江戸ッ子」なるものに対して興味を持つようになったのであるが、不思議な事に記者の知り合いの江戸ッ子や江戸通に限って、屡「江戸ッ子滅亡論」を口にするのであった。  その議論の根拠をきいて見ると、 ◇江戸ッ子は個人主義で、自惚れが強くて理解が一つもない。 ◇洒落気ばかり強くて、物事に根気が無く、趣味が古くして、進取的気象に乏しい。 ◇生活は頗る平民的のようで、その精神は小さな貴族である。 ◇天下を取る頭も力も無く、只その日その日の趣味的生活を貪って、誰が天下を取ろうが、政治をしようが平気の平左である。 ◇江戸ッ子は亡国の民である。  といったようなもので、極端なのになると……、 「江戸ッ子は講談や落語に出て来るほかには、現代のどこにも居ない人種である。居るとすれば、それは昔の江戸ッ子の風付きや気分を真似る掴ませもので、そんな奴は亡びちまうが日本のためになる」  というような極端なのもあった。  記者はこうした「江戸ッ子衰亡論」を、しかも江戸ッ子自身から聴くとき、いつも一種の不愉快さを感じた。 「江戸ッ子自身が江戸ッ子を馬鹿なんて怪しからんじゃないか。君等は地方の田舎者が、どれ位『江戸ッ子』を尊敬しているか知らないのか。ことに地方の青年少女たちは、死ぬ程東京を恋い焦れると同時に、一日も早く『江戸ッ子』になりたがっているんだよ。彼等は云わず語らずのうちにこう思っているんだよ……日本中の人間が、あの頼もしい、サッパリした『江戸ッ子』みたいになったら、どんなに嬉しかろう。日本はどんなに強い美しい国になるだろう。早く東京へ行って、文化的自覚の洗礼を受けて、『江戸ッ子』になって帰りたい。そうして田舎のシミッタレた無自覚さを片っ端から眼ざめさしてやりたい……と胸をドキドキさせているんだよ」      新日本赤化主義 「だから田舎はだめだというんだ」  と或る文士は云った。 「田舎は唯『江戸ッ子』という言葉の感じだけを崇拝しているんだ。ベランメー語の威勢に驚いてるんだから駄目だよ。江戸ッ子という言葉の強みや、頼もしい感じをそのまま体現した『江戸ッ子』は一人も居ないんだよ。  それあ、江戸ッ子の垢の抜けた個人主義と神経過敏とは、どこの人間でも敵いっこないさ。それを田舎者は矢鱈に崇拝するから困るんだ……。  見たまえ!  苟も江戸ッ子を以て自ら任ずる者で、二重橋にお辞儀をするものは一人もあるまい。馬鹿馬鹿しい……そんなのが忠義じゃないと思う位に彼等は頭がいいのだ。却て手を合わせている田舎者を腹の底で笑っているのだ。  しかし見たまえ!  日本民族が滅亡する時、最後まで踏み止まって闘うものは江戸ッ子じゃないよ。無論、主義者でもなければ、憲法学者でもない。二重橋前の玉石砂利にオデコを埋めて涙を流す赤ゲット連だよ。彼等の無知の底には、切っても切れぬ民族的自覚が流れているのだ。  彼等は先祖代々、本能的に天朝様を拝み、太陽に手を合わせ、親孝行を知り、老人を尊敬し、子供を愛し、土をなつかしみ、倹約をして天然に安んずるのだ。しかも彼等は自分でもそれを知らない。その自然さと底強さが日本の文化を今日まで背負って来たのだ。この民族の文化的使命を人類世界に発揮する根本動力が彼等赤|毛布の群なのだ……。  ほかの連中はイザとなると逃げ失せる亡国の民だよ。わけても江戸ッ子はそうなのだ。彼等みたいな田舎者を軽蔑するものが殖えればふえるほど、日本は滅亡に近づくのだ。それを救うためには、おれの所謂労農尊重主義が必要になって来るのだ……。  労農とかソビエットとかいうと当局はビクビクしているが、実はこんな土百姓や労働者を最も尊重した政治をすることだと思う。田舎を嫌って、東京の新知識にカブレて、ルパシカを着て、カフェーで威張っている連中のアタマは、いつの時代にもある文化カブレのなまけ者だよ。本当の労農尊重主義から見れば、実に唾棄すべきプロ型のブル思想なのだよ……。  江戸ッ子は特に文化カブレの小ブルなのだ。田舎者は『江戸ッ子』を崇拝すべからず。東京は大和民族の大きな事務所、又は勉強所に過ぎないので、そのほかのものはみんな昔からある頽廃気分の変形したものなのだ。江戸ッ子や社会主義者はその中毒者だと云いたい。もとをいえば、そんな気分を作ったブルがわるいのだが、それかといって、そのブルが作った毒|瓦斯に当てられた連中を尊敬するわけに行かないだろう……。  レーニンは赤旗を尊重した。これに対して日本人は赤ゲットを尊敬してもらいたい。青白い江戸ッ子を尊敬してもらいたくない。そうして日本のブル思想と偽もののプロ思想を全滅さして、すべてを赤ゲット化してもらいたい。  ……おれは江戸ッ子に生れた御蔭で、これだけのことがわかった。実は江戸ッ子の生れ損ないかも知れぬが……」  と彼は淋しく笑った。記者もうなずいて一所に笑った。  彼も記者と同じようにペンを荷いだ職人で、都会カブレをしなければ飯の喰えない人種である……赤ゲットを尊敬は出来るが、自身赤ゲットになることは容易な事業でない……寧ろ自分の生活の無意義を呪うあまり、こんな議論に落ちて来た事を互によく自覚していたからである。  彼はこの新しい日本赤化主義について、まだいろんな事を云った。レーニンの執権政治だの、トルストイのブル思想だのと、記者が耳には初耳のことばかりであったが、要するに江戸ッ子の罵倒論でここには略する。唯、記者の「江戸ッ子衰亡」の観察が、田舎者たる記者の頭から出たものでなく、彼等江戸ッ子からヒントを得たものであることを証明するために、この一節を書き加えたのである。      最高級の文明人  ところでそれはいいとして、今度の上京の序に、そんな「江戸ッ子衰亡論者」たちがどうしているか、震災後の所感でも聴いてやろうと思って心当りを探して見ると驚いた。山の手の潰れないところに居た連中まで、どこへ行ったか一人も居ない。無論、その後、手紙を出したが、彼等は申し合せたように返事を呉れなかったので、手紙が帰って来ないのだけは生きているとしても、そのほかのは生死の見当さえ付かない。綺麗サッパリと消え失せていた。  記者は呆れ返った。そうして苦笑した。彼等は矢っ張り江戸ッ子たるを免れなかったか。彼等が罵っていた消極的な個人主義をまぬがれることが出来なかったかと思って……。  ところがその後、二科会へ行って絵を見ていたら、うしろからソッと肩に手を置いた奴がいる。ふりかえって見たら、美術学校を出た芝居の背景師の下廻りで、有力なる江戸ッ子衰亡論者の一人であった。彼はニヤリと笑って平気な顔で、 「いつ出て来たんだ」  と云った。記者は開いた口が塞がらなかった。  それからいろいろ聞いて見ると、みんな無事で、家賃の安い郊外へ引越しているという。久し振り話そうじゃないかと、手紙を出して場所と時日を約束して待っていると、平気な閑寂な顔が昔の通りに寄って来た。地震なんぞはとっくの昔に忘れたという風である。但、手紙は見たと云うから、何故返事を呉れなかったのかと聞いて見ると、 「田舎者はオセッカイだなあ」  とあべこべに笑われた。彼等が江戸ッ子の中の高踏派だとはこの時初めて知った。文明人種の中でも最高級に属するデカダン趣味を、記者はこの時初めて理解し得たのであった。  こんなのは例外として、今度は往来を歩いている普通の知識階級の江戸ッ子を見まわしてみよう。そうして、彼等が本当に滅亡すべき人種かどうか研究してみよう。  智識階級の江戸ッ子といっても、一概には云えない。中には変りものや、凝り性、気まぐれもの、又は一種のダダイズムとも見るべき変通人なぞが居るから、往来を歩いてもちょっと見わけにくい。支那や朝鮮の留学生を見わけるのよりも無論骨が折れる。  殊に震災後は服装がまちまちになったので一層わかりにくくなったが、しかしすこし気を付けるとじきに眼につくようになった。江戸ッ子は飽くまでも江戸ッ子である。  東京に初めて出て来て往来をあるく人を見て、真先に眼に付くのは田舎者とハイカラ、貧乏者と金持ちの対照である。  これに反して、江戸ッ子は最も眼に付きにくい部類に属するのであるが、しかし彼等の大部分は気取り屋だから、自ら平凡な市民と区別が付く。しかもその気取りかたは、そこいらの気どり方とはまるでちがう。江戸ッ子特有の気取りかたで、これを解剖的に見てゆくと、現在の江戸ッ子のねうちが自然とわかることになる。  第一は服装である。  古いありふれたところでは、足袋と下駄が新しいとか、襟垢がついてないとかいうのであるが、前にも云ったようにこの頃の服装はいろいろになって来たから、それ位のことでは標準にならない。要するにちょっと眼に立たないで、よく見ると垢抜けがしている……というのが最も平たい言葉であろう。  パッとした、気取った風采をしているのは、江戸ッ子ではない。  最新流行仕立|卸しのパリパリを着ているのも、どちらかといえば江戸ッ子でないのが多い。  こう云って来ると馬鹿に六ヶしいが、とにかくどんな姿をしていても、アクドイ嫌味なところがなく、女の髪の結い振り、化粧ぶり、襟や着物の取り合わせ、男なら帽子とオーバー、持っている風呂敷の柄やネクタイなぞ、色や柄がちっとも眼に立たずにチャンと気取っていて、しかもどことなく気位を持っている。すべての点に於て、田舎者や無教育なもの、又は無趣味なものと思われまい、そこいらの野暮天と一所に見られまいという注意が、極めてこまかく払ってある。      亡国的の消極主義  次は彼等の態度である。  東京のことなら俺に聞けというような態度をしているものは、彼等の仲間には決して居ない。  男と女とあまい風付きで並んで行くもの、電車の中でツンとしているもの、大声でシャベルもの、矢鱈に他人に親切なもの、ドッシリと落ち付いているもの――こんなのは江戸ッ子の智識階級には少い。  如何にも街なれた歩きかたでありながら、つつましやかで、人の眼に付かないようにスラスラと影のようにあるく。口を利いても極めて低声で、要点だけ云ったあとは、又さり気なく澄ましている。電車の中でも空いた席を見まわすようなことはないが、見付けるのは極めて素早い……といって、慌ててそこへ尻を持って行くのではない。あたりに気を配って、紳士淑女として恥かしくない場合にソッと座る……といったようなのがそうである。  こうした彼等の風付きや態度を一貫しているものを一言にして尽せば、消極的文化式個人主義である。彼等は先祖代々の都会生活と、自分自身の教育の御蔭でここまで自己を洗練したのである。彼等は極めて消極的な態度で自分の気位を守ると同時に、無言の裡に他のハイカラや蛮カラ、又は半可通連を冷笑しているのである。  彼等は買物をするにも、ほかの非江戸ッ子のようにキョロキョロ往来を見まわしたり何かしない。きまりきった店のほかは滅多に行かないので、彼等がデパートメントストアを田舎者の店と云うのはこの理由である。書物のようなものでも、古本をあさるほかは、知った店に行ってさっさと買って、そこいらの雑誌を二三冊見まわした位ですぐに引き上げて来る。縁日なぞにもよく行くが、只行き抜けて引きかえして来る位のことで、あちこち覗いて見るようなことは先ずない。寧ろそんな連中を見遣りながら、冷やかに笑って帰る位のところである。  喰い物でもそうで、彼等が這入っている処は、どちらかと云えば顔の通った、価格の知れた、比較的上等の処が多い。彼等は月に一度か二度こんな処へまわって、友人と一杯傾けたりするほか、無駄な銭を使わないが常である。これは記者がそんな通人の行く処へ行って、妙に叮嚀な冷たい待遇をされた経験から知ることが出来た。  このような実例を見ると、彼等が如何に消極的の面倒臭がりであるか。同時にその消極的のプライドがいかに高いか。プロ型のブル気分、平民式の貴族気質の持ち主であることもよく察しられるのである。  こうした彼等の持前は、彼等の家を訪問して見ると一層よくわかる。  彼等の家は台所の隅までチンマリと小奇麗である。彼等の応対振りもそうで、御馳走ぶりもこの範囲を免れない。一しきりはお世辞を云うがじきに黙ってしまう。よほど気を詰めて、当り当りだけ挨拶をしてサラリと引き上げなければ、こちらはともかくも、彼等の神経がお客に対してそう長く持ちこたえられないらしい。  そんなら彼等は忙しいかというとそうではない。お客を追っ払った後は、水入らずでボンヤリしている。極く懇意な友達と寝ころんで話す。寄席に行く。講談や夕刊を読む。世間話をする。茶を飲んで寝るといったような風で、その趣味までも極めて消極的な文化式である。  彼等はだから現代の文化に何者をも与えない。彼等は只批評をするばかりで、共鳴も反対もしない。只冷やかに笑って見ていたいのである。新聞の三面記事を見ても、つまりは「馬鹿だなあ」とか、「つまらねえ」とか云って、自分のプライドを満足させるだけであとは忘れてしまう。  こうした消極的な文明的な「個人主義」が、江戸ッ子の智識階級をすっかり冷固まらしているから、東京の市政が如何に腐敗していても、彼等には何等の刺戟を与えない。彼等の前にそうした記事を満載した新聞をさしつけても、彼等は只一渡り見まわして気の利いた批評をする位のことで、あとは顧みない。あくる日は、又何か別の面白い記事はないかと探している。  だから選挙なぞは、彼等にとってうるさいものでこそあれ、責任感はすこしも受けない。天下の事に憤慨するよりも、一鉢の朝顔に水を遣る真実味を愛するといった風で、驢背の安きに如かずという亡国の賢人に似たところがある。      熊公八公の消息  江戸ッ子の智識階級は亡びてはいない。しかし只一人一人に生きているというだけで、世間とか、他人とかいうものとは深く関係する事を好まない。  彼等の性格は、墓石のように、向う三軒両隣がお互に無関係でいたいのだ。彼等の魂は、燐火のように、お互に触れ合わずに、只自分自身だけ照して行きたいのだ。  こうして彼等は彼等自身を葬ってしまっている。極端にデリケートな自覚のために、無自覚と同じ姿になってしまっている。それを最も利口な文明的生活だと思っている。彼等の霊魂は、こうして青白く、つめたく、浅い光りを放ちつつ、東京市中をさまようているのである。そうして田舎者を魘えさしているのである。  流石の大地震も大火事も、彼等の自覚的無自覚を呼びさます事が出来なかったらしい。彼等は永久に彼等の墓原……都大路をさまようのであろう。  しかし彼等智識階級ばかりが江戸ッ子ではない。まだほかにいろんなのが控えている。  まっ先に飛出して来るのは熊公八公の一派で、記者が最も敬愛する連中である。記者みたいな田舎者を見ると、 「てめえ達あ、しるめえが……」  と来るから無性に嬉しくなる。  屋台店なぞをのぞくと、 「おめい、どこだい。フン九州か……感心に喰い方を知っているな。どうだい、一ツ、コハダの上等の処を握ってやろうか。何も話の種だ。喰ってきねえ、ハハハ」  という大道|傍の親切が身に沁みて忘れられぬ。  智識階級の連中はどうでもいいとしても、そんな連中は震災後どうしたか。いくらか昔の俤を回復したか知らんと、見に行って見た。  智識階級は主として山の手や郊外に居るが、彼等は大抵下町に居る。先ず神田辺から相生町、深川の木場、日本橋の裏通り、京橋の八丁堀、木挽町、新富町あたりの彼等の昔の巣窟を探検して見ると、どうしたことか彼等の巣窟らしい気分がちっともない。  ひる間ならオッカーのスタイルや、井戸端ではない共用栓の会議ぶり、朝夕なら道六神や兄いの出這入り姿、子供の遊びぶりを見ると、すぐに江戸ッ子町なると感づかれるのである。さもなくとも理髪店のビラの種類、八百屋や駄菓子屋の店の品物、子供相手の飴細工や※粉細工の注文振りを見ても、ここいらに江戸ッ子が居るなと思わせられるものである。それが震災後のバラック町になってから、そんな気はいがちっとも見当らなくなった。  神田の青物市場付近なぞは随分神経をとんがらして見たが、成る程、江戸ッ子らしい兄いや親方が大分居るには居るけれども、よく見ると、彼等のプライドたる鉢巻きのしぶりや売り買いの言葉なぞに、昔のような剃刀で切ったような気が見えぬ。その他、朝湯に行くらしい男のスタイルを見ると、頭の恰好、着物の着こなし、言葉付き、黒もじのくわえぶりに到るまで、非常に平凡化しているのは事実である。  記者は少々落胆の気味で、今度築地に出来た魚市場に行って見ると、居た居た、鬚を皮の下まですり込んで、肉に喰い込むような腹かけ股引きに、洗い立ての白鉄火を着た兄い連が、新しい手拭を今にも落ちそうに頭のテッペンに捲き付けて、駈けまわっていた。 「アラヨーッ」  トットットットッと曳き出す掛け声をきいて、記者は久し振りで溜飲が下がったような気がした。      吝ったれた兄哥  魚市場のすぐうしろにある、無線電信のポールを秋空高く仰いだ向う岸の築地三丁目以南、起生橋を中心としてベタ一面に並んだ店は、いかさま彼ら兄い連の御蔭で繁昌しているものと見えた。  つい一年前までは、この辺は墓原や成金壁なぞで埋められていて、夏なぞはせんだんの樹の蝉時雨の風情があるという、かなり淋しいところであった。それが魚市場が出来て、純粋の江戸ッ子が集まって来るにつれて、急にこんなに賑やかになったのだから、ここの店をのぞいて見たら、彼等の趣味や嗜好が手っ取り早くわかるかも知れぬと考えた。  然るに情ない事に、記者は正しく熊襲の末裔と見えて、江戸ッ子の風付きは一眼でわかるが、彼等の喰い物に対する趣味がどれ位高いかは、まだ充分に味わい出したことがない。喰うのは一渡り通なものを大抵喰って見たが、物の本や通の話にあるような風味はなかなかわからぬ。只そうかなと思うばかりである。もっともそんな喰い物の材料の上等なこと。店がキタナイようで、実に非常に気が利いていること。その中に一種の江戸趣味といったような気分が流れていることなぞはどうやらわかる。それから、眼の玉の飛び出る程高価なことが、最もよくわかったくらいのことである。  これ位の程度の江戸通をたよりに、記者はその辺の往来をノソノソあるいて見た。  寿司を握っている手付きや、海苔をあぶるにおい、七厘の炭のよしあし、火加減、又はまぐろの切り加減なぞをよっく見た。  天プラ屋の煮え立つ油のにおいを嗅いだり、ころもの色をながめたりした。  煮売屋に据えてある酒樽の商標や、下げてあるビラの種類を見た。洋紅で真赤に染めてあるウデ蛸の顔をながめた。  どれを見ても江戸ッ子のにおいが薄いようであった。上等とは思えなかった。醤油もいいにおいや味がしなかったようである。  塩せんべいは大枚十銭がものを買って噛じって見たが、焼き加減にムラのあるのがよくわかった。  ソバ屋へ這入って見たが、ツユの味なぞは福岡あたりのよりおいしいと思った。薬味のネギの中に古葉と新葉とあるのが、百姓だけにすぐ気が付いた。モリやカケはあまり売れず、弁当代りと見えておかめなんぞよく売れると聴いた。天麩羅もよく喰われるそうであるが、そんな意味なり随分あじけない話だと思った。  それから大奮発をして、この辺で一番上等だという小さなうなぎ屋に這入って、丼を喰いながら店の若い衆に聴いて見たら、大串、中串、小串のどれでも、別に八釜しい注文はあまりない。「アライところで一本」なぞいう御定連は無いと云った方が早いくらい。しかも鰻は千葉から来るのだと、団扇片手の若い衆が妙な顔をして答えた。 「本牧から洲崎あたりのピンピンしたのは来ないのかい」と通らしい顔をして聴いたら、若い衆は「エエ」とニヤニヤ笑いながら返事をしなかった。念のため、「お客はみんな河岸のだろうね」と聴いたら、「ええ、だけどこの節は駄目ですよ。不景気でね。おまけに震災後手が足りないってんで、方々から来た人間を使っているんでね」と苦笑していた。記者は折角喰った丼が胸につかえるような気がするのを、流石にこれだけは昔のままの、濃い熱い「お煮花」で流し込んでここを出た。  江戸ッ子の喰い物は田舎者の口や眼にもわかる位安っぽくなっている――「熊公八公の滅亡」という感じが直覚的に頭に浮かんだのはこの時であった。      どこからか拳骨が  しかし……と記者は又考え直した。  こんな上っ面の見方ばかりでは駄目である。「わかりもしない癖に」と笑われそうな気がする。そこで今度は本願寺の横を河岸へかけて、この辺一帯に並んでいる小間物屋、仕立て屋、そのほかいろんな店を一々のぞいて見た。  今度はよくわかった。喰い物の方は別としても、雑貨や何かの方は手に取って見ればわかる。否、手に取って見なくても、一わたりズラリと見ただけで、安っぽい店かどうかすぐにわかる。  ……記者は江戸ッ子の衰亡を眼のあたり見せ付けられたような気がした。彼等はこんな見かけだおしの安物で満足しているのかと思うと、つくづく情けなくなった。十円の雪駄を素足で踏み、帷子に背当て尻当てをするのを恥辱とした、彼等の気前はどこにあるであろう。魚河岸ではしゃいでいる連中は、みんな見かけだけの江戸ッ子で、中味は「ヒマシ」になってしまったのか。そういえば、彼等のかけ声には昔のような中ッ腹式の威勢がなく、彼等の眼の光りも昔のようにキラリと光らないように見える。しかも何がしのパリパリでさえこうだから、他は推して知るべしだと思った。  しかし……と又もや記者は考え直した。記者の観察にはまだ不充分なところが沢山にある。  第一、記者がお見舞いした前記の喰い物店は、上等のところのつもりで、実はなっていない処ばかりだったかも知れぬ。又、魚河岸付近の店は、本物の江戸ッ子相手ではなく、江戸ッ子の中に立ち交った新分子ばかりを相手にしているのかも知れぬ。  さもなくとも、記者が江戸ッ子を主眼として見てまわったのは、僅かの時日である。勿論、始終気をつけるにはつけていたが、本気に見てまわったのは二日か三日で、かなりの大急行である。震災後の江戸ッ子の真面目な活躍ぶり、もしくは生活ぶりを見聞できる時間をはずしてばかりあるいたかも知れぬ。  これで江戸ッ子の滅亡をたしかめようというのはちっと気が早過ぎる。うっかりするとどこからか拳固が飛んで来るかも知れぬ。  まだある。  記者が見てまわったのは、震災前江戸ッ子の住んでいたところばかり。そのほかのところは調べてない。つまり今まで目標として研究したのは純プロ階級の江戸ッ子……熊公、与太郎、ガラッパチの旧跡で、ブル階級のそれではない。  ブル階級の江戸ッ子……すなわち御隠居や若旦那の一人二人、鳶の頭位はいつでも飼っておくからという連中は、もうとっくの昔に東京目抜の通りに帰って来て、古いのれんの蔭から盛に芽を吹いている。そうした大どこの旦那衆や親方たちの御蔭で東京に帰って来て、新しい、又は昔の商売をやっている江戸ッ子は随分居る筈である。  まだある。  昨年の震火災のあと、プロ階級の江戸ッ子はチリヂリバラバラになった。故郷の親戚に便って逃げて行ったのもあれば、市から建てたバラックに逃げ込んだのもある。又は郊外に避難小舎を建てて、そのまま居据ったのもあるであろう。そんなのが、どれ位東京に引っ返して来て、どんな風に散らばって、どんな生活をしているかはまだ調べられていない。しかもその数はちっとやそっとではあるまいと思われる。  それから今一つ、立ちん坊級の江戸ッ子というのがある。  これは、プロに今一つ輪をかけたプロで、或る意味から云えば江戸ッ子以上の江戸ッ子とも云える。  彼等のむれは諸国から集まった労働者、又は江戸ッ子の成り下がりなぞから成り立っていて、金が無いのは勿論の事、知恵も才覚も気力も無い。うっかりすると名前までも忘れてしまって、只生れ故郷の国の名を呼ばれているといったような、理想的のプロが多い。  もっとも、その収入はどうかすると日に二三円にもなるのがあるが、それは大抵飲んだり喰ったりして、上機嫌で寝るという風である。  但し彼等の言葉だけはたしかに江戸弁で、しかもそれが又恐ろしく早い。俗に江戸ッ子の早口と云うが、立ちん坊の江戸弁と来ると、早口は通り越してアクセントばかりである。言葉の頭と尻、又は途中だけをツンケンと並べるのだから、余程慣れないとわからない。といって、正真正銘の江戸弁には相違ないから、彼等も江戸ッ子に相違ない。  彼等は江戸ッ子のブル階級と同様に、震火災の打撃を徹底的に感じないだけの資格を持っているのだから、焼け死んでいない限り、東京に帰って来ているに違いない。そんなのは今どこに居るか。      納豆の買いぶり  こう考えて来ると、江戸ッ子の現状調査は非常な大事業になって来る。自転車に乗って、江戸八百八街を残りなく駈めぐるだけでも大変である。  市政調査の結果はまだわからないし、わかっても、特に江戸ッ子だけ調べてはないだろうし、調べてあるにしても、昔から東京に居る人間を江戸ッ子と見てある位のものなら何にもならぬ。それよりも、人間のあたまに直接感じた事実の方が、よっぽどたしかであることは云うまでもない。  何とかして東京市内に居る江戸ッ子の行衛を探る方法はないかと考えた末、納豆売りの巣窟を探しまわって売り子の話を聴いて見た。  江戸ッ子の住家であるかないかは、ナットーの買いぶりや、喰いぶりを見るが一番よくわかるということを予てから聴いていたが、彼等売り子の話を聞くと、成る程とうなずかせられる。  時間で云えば朝五時から八時まで、夕方は六時から九時頃まで納豆を喰う人種のうちに、江戸ッ子が含まれていることは云うまでもない。それから、買う時に苞をのぞいて、一目でよしあしを見わけるのは大抵江戸ッ子である。 「オウ、納豆屋ア」  という短い調子や、 「ちょいと納豆屋さん」  という鼻がかったアクセントを聞くと、いよいよ間違いはない。お神が買い渋るのを、怒鳴り付けて買わせるのも大抵は江戸ッ子である。それから、買うとすぐに器用な手付きで苞から皿へ出して、カラシをまぜて、熱い御飯にのっけて、チャッチャッチャッと素早く掻きまわして、鼻の上に皺を寄せながらガサガサと掻っ込んで、汗を拭う風付きは、何といっても江戸ッ子以外に見られぬ。 「駄目じゃねえか、こんな納豆を持って来やがって。仕方がねえ、一つおいてきネエ。明日っから、もっといいのを持って来ねえと、承知しねえぞ」  など云うのも江戸ッ子に限っている。  こうして調べて見ると、江戸ッ子の居るところはあらかたわかる。  先ず下町は山の手よりも多いのは無論であるが、山の手でも早稲田から青山、四谷、大久保方面にはかなり居る。下町では、初めに書いた昔の江戸ッ子町のほかに、大森から蒲田へかけてはかなり居るらしく、小梅あたりには純江戸ッ子らしいのが居る。北の方、千住、亀戸、深川、それから芝の金杉方面にも居るには居るが、これは江戸ッ子としては少し品が落ちる。北の方から深川方面のは寧ろ貧民に近い方で、芝の金杉方面のは貧民ではないが、イナセな気分が些ない。尚、山の手で純江戸ッ子らしい気前を見せるのは青山方面だけで、そのほかのは矢張り貧民に近いか、又は多少シミッタレているとのことである。  しかし、何といっても江戸ッ子が一番よけいに逃げ込んでいるのは、東京市内の各所にある市営の避難民バラックである。しかもここには江戸ッ子のあらゆる階級を網羅しているので、こちらには立ちん坊、そっちには俥屋、隣りには呉服屋の旦那、向家には請負師といった風である。非道いのになると、新橋の芸者を落籍して納まっている親分や、共同水栓で茶の湯を立てている後家さんも御座るといった調子で、これが大多数の熊公八公や諸国人種と入れまじって、天晴れ乞食長屋を作り、お上の立ち退き命令を鼻であしらっているわけである。  ちょっと見ると、どれがどうやらわからぬし、納豆を売って見ても、その買いぶりに各所共通の避難民式というのが出来ていてわかりにくいが、流石に育ちは争われぬもので、よく気をつけて見ると、どことなく買いぶりが違う上に、言葉が第一争われぬそうである。  記者が在京中のぞいて見たのは、日比谷と上野と芝公園のバラックだけであったが、こんな話を聴いたあとで見に行っただけに、バラックに居る江戸ッ子が想像以上に多いように思えた。      かおが焼け失せた  以上述べたところで、震災一年後の江戸ッ子の消息はあらかたわかった。勿論極めてあらかたではあるが、彼等の東京市に対する価値や権威を考えて見るには、これで充分である。  江戸ッ子衰亡の事実をたしかめるには沢山である。  震災後、東京では救護事業が一渡り落ち付いて来ると、間もなく労働紹介や身上相談と共に、市内各地に巡回の調停裁判所を設けて、借家人と家主や地主の喧嘩をさばいてまわった。  家主や地主は、これを機会に焼けあとに新しい家を建てて、高い家賃を貪ろうとする。そこへ前居た店子が帰って来て、バラックを建てようとする。権利だ義務だと押合っている奴を、当局では片ッ端から裁判して、出来る限りブル階級の家主、地主をたたきつけ、プロ階級の店子や借地人の肩を持って、一日も早く昔の住民を落ち付かせて、家を建てさせ商売を始めさせようとした。これは明らかに当局の民衆化で、賞讃に価する所置であったが、一方に於いてこの方法が極端な江戸ッ子保護となったことは云うまでもない。  然るに事実はどうかというと、この江戸ッ子保護の御蔭を蒙ったものは、或る一部のプロ階級の江戸ッ子で、大多数のプロ階級……即ち生っ粋の江戸ッ子はもとの処に帰っていない。東京郊外の空地の多いところのバラックに落ち付いたり、山の手の貧民窟にもぐり込んだり、又は深川、本所、千住あたりの乞食長屋に入りまじったりしている。そうしてそのほかの大部分は、市内各所のバラックに納まっていることがわかる。  このほか東京近所の各府県、又は遠国に逃げ去ったままのものもあろうが、要するに彼等にはもとの処に帰って来る力の無いものが多いらしい。  これは彼等が宵越しの銭を使うものを軽蔑したむくいもあろうが、一方には昨年の変災で受けた精神的打撃もあるに違いない。これを要するに、彼等の無気力さ加減はこの一事を見ても充分である。  一方に、彼等が馬鹿にし切っていた田舎っペイは、この一年の間に潮の如く東京市を眼がけて押寄せて来た。実に素晴らしい勢であった。  彼等は生え抜きの江戸ッ子のように贅沢でなかった。その趣味は浅草程度で充分であった。彼等は古い江戸ッ子がバラック趣味を軽蔑し、オツな喰い物、意気な音締め、粋な風俗の絶滅を悲しんで、イヤになって引っ込んでいる間に、ドンドン彼等の趣味を東京市中に横溢させている。彼等の御機嫌を取るべく、東京市中到るところに流れ出て来た浅草趣味、又は亜米利加風――安ッポイ、甘ったるい、毒々しいものに満足して、ドンドン東京の繁栄を作るべく働き始めた。  彼等の耳には、江戸ッ子ということが、最早古い時代の人間としか響かなくなっている。江戸趣味というものは、骨董的の価値しかないもののように考えられている。彼等はもうすっかり江戸ッ子を葬り去っているかのように見える。  これに対して江戸ッ子は何等の反抗を企てようとしない。否、反抗力も何もなくなって、只納豆売りの声や、支那ソバのチャルメラの声に昔の夢を思い出して満足しているように見える。  しかしこれには又無理からぬわけがある。  彼等江戸ッ子が如何に痩せ我慢で高く止まっていても、彼の昨年の大変災に出会っては、かいもく意気地がなくなったは止むを得ないところであろう。彼等はほかの非江戸ッ子……上は成金から下は乞食まで、あらゆる種類階級の人々と共に、一様に阿鼻叫喚の巷にさまようた。御同様に抱き合い、わめき合って、助かったり、死んだりした。  死んだのはいいとして、助かったものはほかの非江戸ッ子以上に困ることになった。……というのは彼等の「かお」が利かなくなった事である。利くにも利かぬにも、町は茫々たる焼け野原となり、どっちを見ても見ず知らずの赤の他人となって、泣いてもわめいても追っ付かなくなったことである。      宵越しの銭溜め  東京に住んだ人は知っているであろう。壁一重向うは赤の他人である。引っ越しソバを配るだけの義理が済めば、あとはどこの馬の骨か牛の糞かといった風である。うっかりすると、借りたおして引っ越しされるような心配があるかと思うと、隣の喧嘩を二階から見ている冷やかな面白さもある。これを極端に云うと、「人を見たら泥棒」式で、すべてのつき合いが何となく現金式である。そこが又東京の住まいよいところで、同時に住みにくいところともなっている。これは東京が江戸の昔から諸国人の集まりであるのに原因していること云う迄もない。  然るにその中でも純江戸ッ子だけは、「顔」という人類最高のパスを持っている。このパスの利くところは町内や市場、又は出入りの旦那やおやしきは勿論のこと、大きいのになると随分遠方の隅々まで利く。しかもこのパスは金ばかりでなく、いろんな意味にもパスとして使える。「何とかの何とかを知らねえか」と大きな眼を剥くのは、このパスを見せているので、「宵越しの金は使わぬ」という気前も、このパスがあるから安心して見せられたものである。  こうしたパスが利くようになった原因は、彼等が「町内」という故郷を持っているからで、その又ずっと遡った由来を尋ねると、旧幕時代の自身番や家主制度を育てた習慣ではあるまいかと思われる。  とにかく大多数の江戸人が見ず知らずの赤の他人である中に、彼等ばかりは故郷たる町内を持っていた。その町はいくつかの大集団をなして下町を蔽うていたので、すくなくとも彼等の町内には「かお」が通っていたのである。  それから今一つ。  彼等兄い連の商売の二大中心は、何といっても神田と日本橋の両市場であるが、宵越しの銭を持たぬ彼等は、仕入れをするのにいつも「カリ」で押し通すほかはなかった。  尤もこの式の習慣は日本全国にあるのであるが、彼等の「カリ」はタチがタチだけによっぽどヒドかったらしく、しかもそれが又彼等のプライドと結び付いて、篦棒に利くパスが出来上ったわけである。借用証文、小切手としては無論のこと、喧嘩でも仲裁でもこのパスで押通したもので、彼等の「刺青」がこの「顔パス」の利き眼を一層高める意味を持っていたことは明らかである。  もっともこのパスは彼等の器量に応じて通用の範囲も大小があるが、いずれにしてもこのパスが利く限り、彼等はどこへ行っても肩で風を切って歩けた。言葉を換えて云えば、この「かお」というパスが、彼等の精神的、又は物質的の生活の安定をドン底まで保証していた。維新後も同様にして今日に及んだので、昔ほどのことはなくとも、この習慣が残っていたには間違いない。  そのパスがアッという間に灰になってしまった。パスが焼けたのではない。パスの利くところが無くなってしまった。タンカを切っても、眼玉を剥いても、だれも相手にしなくなった。  こうなると彼等はスッカリ意気地がなくなってしまう。彼等は、今まで軽蔑し切っていた宵越しの銭をためる連中と一所に、往来に並んでお救い米を貰わなければならなかった。焼けたトタンを以って乞食小屋を作らなければならなかった。そうして何でもかんでも喰うために働かなければならなかった。引き続いて地震がガラガラと来るたんびに、彼等はとりあえず宵越しの喰い物を準備しなければならなかった。  彼等の気概やプライドは、こうしてすっかりタタキつぶされてしまった。彼等がこのパスを誇りとしていただけ、それだけ屁古垂れ方もヒドかった。彼等はとうとうまずいものを喰って、安ッポい身のまわりで我慢する気になってしまった。パスの代りに宵越しの銭をためねばならなくなった。  但、これは当分の間だけで、彼等は遠からず、昔の景気に帰るのかも知れぬ。彼等の居どころがあらかたきまって、「かお」のパスが利くようになれば、昔のようにタンカを切り、肩で風を切るようになるので、結局、江戸ッ子復興の途中にあるのかも知れぬ。  それを記者は、江戸ッ子が衰滅して行く途中と見ているのかも知れぬ。      亡国的避難民根性  たとい、これを彼等「江戸ッ子」が息を吹き返しつつある一時の現象と見ても、最早非常な立ち後れになっていることはたしかである。彼等が今から如何に猛烈な馬力をかけても、この滔々としてみなぎり渡る新しい東京人の勢力には到底|敵うまい。  過去何百年の太平に依って洗練された、極めてデリケートな彼等の趣味と生活とは、もう見る見る中に、新しい荒っぽい新東京人の生活と趣味に圧倒されてしまいつつある。  彼等の大好きな芝居や、浪花節や、寄席がだんだん這入らなくなって来る。江戸趣味の喰い物店、又は渋い趣味のものを売るいろいろの店なぞが、次第に、ケバケバしい硝子瓶を並べた酒場やカフェー、毒々しい彩りを並べたショーウインドに追いまくられて行く。気の利いた凝った趣のあるビラ、昔風のなつかし味のある簡素な看板なぞは、活動や、缶詰や、最新流行洋式雑貨なぞのデコデコのポスターに蔽い隠されて行く。同じ絵葉書屋の店でも、芸妓や役者の写真は何となく光らなくなって、汚い歯をむき出した活動男優や、化け物みたいな女優のソレが日に増し幅を利かして来る。  こうした現象は、新東京の街をあるく人の眼にイヤでも這入るところで、彼等の勢力が次第に弱って行く気持ちを、云わず語らずのうちにあらわしているのではあるまいか。  いずれにせよ彼等江戸ッ子は、こうして精神的、物質的に無力になりかけていると見ねばならぬ。殊に避難バラックの住民の多数を占めている「江戸ッ子」が最近に見せている気分は、この気味合いを最も明らかに見せているので、一言で云えば、唯呆れ返るほかはないのである。  彼等は避難民バラックに居て、芸者を落籍せて、茶の湯をやり、毎朝ヒゲを剃り、上酒を飲み、新しいにおいのするメクの股引を穿いて出かけるだけの生活の余裕を持っている。これはその筋のしらべであるが、彼等の中では百五十円以上の金を取るものがザラにあるそうである。  ところが、一度当局の立ち退き命令にぶつかると、彼等の態度は俄にちぢこまってしまう。 「おまえたちはみんな相当の収入があるではないか。もう立ち退けぬことはあるまい。今は不景気で家賃も高価くないから、そんなに困ることはあるまい。東京市民の税金で東京市民のために作った公園だから、そういつまでも、みっともない家で塞いでいるわけに行かぬ。東京の恥、日本の恥だ。無理なことをせぬように何ヶ月前からちゃんと予告してあるのだ。この際是非立ち退いてくれ」  と、噛んで含めるように腰弁から説明を受けながら、チュウとも云い得ず首をちぢめている。そうして立ち退くかと思うと、矢っ張りグズグズして、屋根の破れに莚をのっけたり、壁の穴に紙を貼ったりしている。  とうとう当局で業を煮やして、強制的に立ち退かせようとすると、 「われわれはほかに行く力が無い。われわれの生活を奪うのは残酷ではありませんか」  と社会主義の腐ったような理窟を、憐っぽい声で並べて動かないので、始末におえない。 「それは一種の復興気分かも知れぬが、あまり情ないではないか。ほかの市民がちゃんと家賃を払って生活しているのに、お前たちだけ出来ないということはない。飽くまでもお情にすがって、只の家賃にしがみ付いて暮そうという、なまけた乞食のような心を取り去って、この際是非一つ奮発して立ち退いてくれないか」  と市では今一度念を押したが、それでも返事をしない。      強制的屋根メクリ  彼等避難民は、こうして巧妙に裏からと表からと皮肉られ、恥しめられながら、大きな声で不平も云い得ぬ。それかといって、避難バラック大会を開いて、輿論に訴えるという図々しさもない。……というのは、彼等自身がお互に、恥も体裁もかまわない、市民のために大切な公園を汚すと云われても公共的精神が無いと云われても聴かぬふりをしていよう、出来るだけ無家賃の処にヘバリ付いていようという、サモシイ心根を認め合っているからで、大びらに発表するような理由は無論ない。又|仮令発表しても、世間の同情がとっくの昔に彼等を離れている。彼等が、身から出た錆とはいいながら、一種の侮蔑的の眼で見られていることはよく知っているからである。  彼等のうちの或るものは止むを得ずドウゾヤどうぞと日延べを願った。そうしてその日限りが来てもグズグズベッタリをきめ込んだ。催促されると、済みません済みませんと云っては、又日延べをする。 「そんな事じゃ埒があかぬ。お前たちがそんな腹なら、こちらも強制的態度を執るぞ」  と云われても、返事が出来ないで、 「相談をして来ましょう」  と引き退った。 「しかし覚悟がきまらない以上、相談する事はない筈」と冷笑されながら……。  こんな風で、彼等はほかの市民が揚々と大手をふってあるく中に、意気地もなく取り残されてちぢこまっているようになった。しまいにはそれに慣れてしまって、現在では、警察や市役所のお役人を只無意味に恨めしいものと思うような連中が殖えたらしい。  一方に青山あたりのバラック民は敷地が陸軍省のものなので、市役所から立ち退きの日を限られると、すぐに陸軍省へ行って、別に延期の約束をして得意になっているといったようなスバシコイのも居る。  どちらにしても、一般市民からいくら軽蔑されても構わないという精神のあらわれで、一般の敬意や同情を受けていない事は明らかである。  とうとう当局では堪忍袋の緒を切らして、去る十月中旬、月島のバラックであったかに吏員を派して、片っ端から屋根をメクリ始めた。そのバラックの連中は大いに驚きあわてて吏員と争ったが、吏員はドシドシ屋根めくりを強行したので、訴えるとか何とかいうことになった。この納まりがどうなったか聞き洩らしたが、その最初にメクラれたのが、堂々たる江戸ッ子の、しかも問屋の屋根であったことは記憶している。  記者は避難民のこの態度を憎むものではない。又当局のヤリ口を賞めるものでもない。これは震災後に於ける、一時的の気分のあらわれでなければならぬ事は無論である。しかしこのバラックの中に居る人々の中に、大和民族の代表的性格を体現した、あの「江戸ッ子」が居ようとは、どうしても信じられないことを悲しむのである。  あれだけの侮辱を受けながら返事もし得ないで、只お金だけ溜めたい、自分の趣味だけを満足させるだけで満足して生きて行きたい、一日恥を忍べば一日だけ得だという亡国的の根性を、これ程までに罵られてだまっている意気地なさ……日本中の或る一部の人種ならいざ知らず、すくなくとも江戸ッ子としては忍び得ないところであろうと考えられる。  それがそうでないのだから呆れざるを得ない。「江戸ッ子滅亡」を思わざるを得ない。そうしてこの無残な、果敢ない江戸ッ子の現状に対して、一滴の涙なきを得ない。  彼等の宣言は真に口先ばかりであったか。彼等は真に東京の文化を背負って立つものではなかったか。彼等の腸は昔から本当に無かったのか。彼等の本当の魂は、彼等が足下に踏みにじっていた田舎者のソレよりも、無自覚な、意気地ないものであったか。  更にもし彼等が日本民族の性格を最高潮に代表していたものとすれば、そうしてもし日本民族の全都が一度恐るべき打撃を受けたとするならば、すぐに彼等と同様の亡国的の根性になり果てて、再び立つ勇気が無くなる事を、彼等の現状が説明しているのではあるまいか。  これはあまりに先走り過ぎた想像、もしくは神経過敏のお仲間で、江戸ッ子ばかりでなく、吾が日本民族を侮辱するものと云う人があるかも知れぬ。  ……それは実際そうである……実に申しわけがない……相済まぬ次第である……そんな事があってはならぬ……ない方がむろんいいにきまっている……しかし江戸ッ子の現状を見ると、思わずそんな事を考えさせられるのだから仕方がない。  江戸ッ子の出来た由来を考えて、震災後の現状に照し合わせて見ると、これが天の啓示でなくて何であろうと、思わず身の毛が竦立つものがあるのを、記者はどうしても否定することが出来ないのである。      プロ文化の開山  すこし話が学校じみておかしいが、順序だからちょっとの間勘弁していただきたい。  日本民族はちょっと見ると、純プロ式の性格を持っているように見える。うっかりすると直ぐに浴衣の尻をマクリたがる、外国に行ってもお茶漬の夢を見るところなぞは正にそうとしか見えない。  ところがその作った文化を見ると、初めからおしまいまでブル式の文化である。  言葉を換えて云えば、ヤマト民族はどうしてもプロ階級の文化を作る資格がない。ブル根性が死んでも抜けない人種だと云い得るようである。  論より証拠、日本の文化は先ず蘇我氏や藤原氏なぞいう貴族の手で、奈良や京都、浪華なぞを都として開かれた。それは勿体ぶった、優にやさしいものであった。  その貴族が太平に慣れて、増長をして、無力になると、今度は彼等が馬鹿にしていた賤しい武人が天下を取って、鎌倉を中心にして、反ブル的な剛健質朴な武人の文化を作った。その親玉となったものは源氏、北条氏であったが、これがだんだんと堕落してブル気分を含んで来た挙句、足利時代の半分貴族半分武人式の文化を作ると亡びてしまった。  この頃から、天下を取るものは氏素姓を構わぬという思想が、いよいよ深く一般に行き渡り始めた。これが戦国の世の幻影で、見方に依ってはこの時代を政権に対するプロ思想の普及時代とも考えられるのである。  余談は扨置いて、結局、氏素姓のちゃんとした織田信長が天下を取ったが、彼の政権に対する思想はともかくもとして、その国家的文化に対する考えはその性格から見てもブル式であった事は疑われぬ。その次に本当のプロレタリアットたる秀吉が天下を取ると、これは又特別|誂えの一代分限式ブル思想の持ち主で、見る見るうちに亡びてしまった。  この時まで日本民族が作り得た文化は、プロ式なものは一つも無かったと云える。  ところが徳川の天下になると、今度は江戸城下の新開地に日本各国の人民が集まって、ここに日本式最初のプロ文化を作り始めた。しかも前に立った貴族文化が主として藤原氏を中心とし、武人の文化が源氏や北条氏を首石にしたのと違って、江戸に生れた平民の文化は、正真正銘、日本全国の寄り合い勢で作ったものに相違なかった。  千代田の城の千代かけて、あおぐ常盤の松平――花のお江戸か八百八町――昔にかわる武蔵野の、原には尽きぬ黄金草――土一升に金一升、金の生る木の植えどころ――百万石も剣菱も、すれちがいゆく日本橋――。  こうした太平繁華の気分は、日本諸国の集まる勢を夢のように酔わした。  その中に行わるる激烈な生存競争は、彼等の神経を「生き馬の目を抜く」までにとんがらした。  この競争に打ち勝って、この盛り場に生存し得るという誇りは、彼等の感情を「誰だと思う、つがもねえ」まで昂ぶらせた。  こうして日本民族の中に選りに選った勝気な、飲み込みの早い、神経過敏な連中ばかりが、この新たに出来た平民の生存競争に居残って、益その平民的なプライドを高め、町人的|日本魂を磨いて行った。  奇麗好き、率直、無造作なぞいう性格は極度にまで洗練されて、所謂江戸ッ子の中ッ腹となって現われた。  趣味の方も同様であった。気の利いたもの、乙なもの、眼に見えずに凝ったもの、アッサリしたものなぞいう、彼等の鋭い神経にだけ理解されるような生活品や見物、ききものがもてはやされた。そうして、そんな趣味のわからぬ者を、彼等は一切馬鹿にした。  事実彼等は一切の他国人の趣味を軽蔑した。そこには、彼等が日本中で最高の人種である「天下の町人」だというプライドが、云わず語らずのうちに流れていたのである。      プロ文化の末路  しかしこうした江戸草創時代の元気横溢した平民の気象――逃げ水を追つつまきつつ家を建てた時代の芳烈な彼等の意気組は、太平が続くに連れて、次第に頽廃的傾向即ちブル気分を帯びて来た。  彼等が「江戸ッ子」という集団を作って江戸の町々に根を卸して、最早どんな偉い人様が来ても彼等の前に頭が上らぬとなると、彼等は永久に彼等を踏み付けると同時に、自然仲間同士でもプライドの競争を始めることとなった。  彼等はその御自慢の性格や趣味を弥が上にも向上さして、あらん限りののぼせ方をした。その結果、その云うことやすることがみんな上ずって、真実味が欠けて来た。うわべは昔以上に生気溌剌たるものがあるようで、実は付け元気や空威張りになって来た。  彼等の負けぬ気は口先ばかりの腸無しとなった。彼等の奇麗好きはカンシャクとなった。率直が気早となり、単純が早飲み込みとなり、無造作が無執着となった。  彼等の中ッ腹は無知、無定見の辛棒無し……つまり無鉄砲の異名となった。江戸前の気象というのは、只鼻の先の事にばかりカッと逆上せあがる、又はほんの一刹那の興味ばかりを生命よりも大切がって、あとはどうでもいいという上っ調子を云うことになって来た。  熱い湯に這入れぬと云って山の手のものを軽蔑した。洒落がわからぬと云って学者を馬鹿にした。話が早わかりせぬと云って算盤を取るものを仲間外れにした。十両の花火のパッと消えて行くのを喜び、初|松魚に身代を投げ出し、明神のお祭りに借金を質に置いた。  彼等の平民的性格の中にこうしたブル気分が流れ込んだ原因の中には、天下泰平から来た武士の無力と、彼等の富の膨張も勿論加わっているのであるが、とにかくこうして彼等の気象の中には次第に亡国的気分があらわれて来たのである。  トドのつまり、彼等は六ヶしいことがわからないのを誇りとするようになった。政治向きのこと、法律のこと、経済のこと、物の道理や筋道……そんなジミな、シッカリしたようなことはかいもくわからぬ単純さを、江戸ッ子の自慢にするようになった。彼等の平民的気象は、太平が長かったためにあまりに洗練され過ぎて、サッパリを通り越してアッサリとなり、とうとう空っぽになってしまったと見られる。  その癖彼等は、器用にお金を使ったり呉れたりする人間を、すぐに親方とか兄いとかにあおいだ。  彼等はいつでも金に困り抜いていながら、金を欲しくないという顔をしている。だからその意気を賞め、その同情を得るだけの言葉……つまり、頼むとか何とか云いさえすれば、「ええ、もう金なんぞはどうでも」と云いながら金を手にするようになった。  その憐れむべき心理状態に自ら気が付かぬほど彼等は無知となった。金で使われているのを気が付かずに、向う鉢巻きの双肌脱いでかけまわるほど憐れな人種となり果てたのであった。  勿論、その間の気合いは支那人のそれとはまるで正反対であるとしても、事実に現われた結果は極端と極端の一致で同じことになる。無気力、無節操なぞいう亡国的人民の資格をすっかり備えていることになるのである。  唯その間に一片同情の涙を灌ぐ余地があるかないかの違いである。  こうしてドン底に近づいた彼等の無気力さが、維新の時、江戸城を安々と官軍に明け渡してしまったのである。勝安房は彼等の無力を理解し過ぎる程理解していたから、あんな手段を執ったのである。江戸城明け渡しは徳川国の滅亡であると同時に、江戸国民が亡国の民たる事実を裏書したのであった。  同様にこうした彼等の無知さが、東京市政を今日の如く腐敗さしたことは、最早疑う余地はないであろう。彼等はその故郷たる東京市の市政がどんなものか、その選らむべき候補者がどんなものでなければならぬか、そんなことを考え得る人民ではない証拠がとっくの昔挙がっている。  特に明治維新後の彼等は、「ギャッと生れたその時から」亡国の民であったのだ。伝統的なお祭りとベランメイ語と、有り来りの江戸趣味のために存在している、古代民族の名残りに過ぎなかった。「ドテッ腹へ風穴をあける」なぞと大きな事を云い合いながら、いつまでも何もし得ない支那人式喧嘩を見得にしている、気の毒な民族であったのだ。  彼等に選挙に対する自覚を望むのは、比丘尼に○○を出させるより無理な注文かも知れぬ。      江戸ッ子の人口減少  江戸ッ子は大和民族としての最初の民衆文化を作った。その性格は大和民族の平民|気質を煎じ詰めたものであった。そうして、昔、貴族階級や武士階級の文化がそれぞれブル式に爛熟して亡びたように、彼等の文化も平民的の形をとったブル気分を帯びつつ亡びてしまった。  この事実は何を語るか。  ヤマト民族が到底ブル根性を離れ得ないことを示しているのではあるまいか。吾がヤマト民族が、初めは武人の手に依って、変形的プロ文化を作って失敗した。続いて全国民の中から選り抜いた理想的平民を以て、純真のプロ文化を作ったが、とうとう我慢し切れずにブル気分にカブレて堕落衰亡したものと云えないであろうか。  この次に又別のプロ文化を作る見込は絶えた。そうしてプロの文化を作り得ない民族は必ず堕落滅亡するものとしたら、吾大和民族の文化的使命もこれでおしまいに了ったのではあるまいか。  一方に彼等の文化は徳川の封建制度の反映を受けて堕落したとも云える。吾等大和民族は、このような政治的の反映を受けぬ、純平民的文化を作る力はもう無いのであろうか。そうして平民文化はこうした都会にしか作られないものであろうか。  とにかくにも帝都に居る古代民族……「江戸ッ子」の命脈はとうの昔に上がってしまっている。維新を一段落として、今度の大地震を打ち止めとして、消え消えとなって行きつつある。  彼等のことを思うてここに到ると、思わず身うちがふるえるような気がする。  しかし尚最後に、彼等江戸ッ子の衰亡の原因が、こうした精神的方面からばかり来たものでないことを付け加えておきたい。彼等は人数の上から見ても、早かれ遅かれ亡びて行かねばならぬと考え得べき理由がある。  江戸ッ子の人口減少……何という悲惨な言葉であろう。このような事実を調べた人が前にあるかどうか知ら。記者は只いろんな方面から見て、この悲惨な言葉が事実上にあり得ることを疑い得なくなったのであるが、実に情ない恐ろしいような気がした。殊にその減少の事実とこれを裏書する原因が、どれもこれも深刻な或る意味のことばかりで、書くに忍びないような気がした。  しかし「新東京の裏面」を語るには、どうしてもこの点を明らめねばならぬ。しかもそれは、一面、文化人種滅亡の真原因とも見られるのであるから、思い切って書くことにした。  江戸ッ子減少の第一の事実は江戸ッ子に親類が少いということである。日比谷を初めとして東京市内各所の避難バラックに逃げ込んだ避難民の中で、江戸ッ子が一番多いに違いないという推測は、この事実からでも推測されることである。純粋の江戸ッ子……すなわち永年東京に居るもので、地方に親類を持っているものは極少数であるとは震災前から聴いたことであった。そんなのが昨年の変災後落ちて行く処が無くて、仕方なしに取りあえず避難バラックに逃げ込んだであろうということは、誰しも容易に想像が付く。又事実、避難バラックの住民に江戸ッ子が大多数を占めていることは、前記の通りである。  江戸ッ子に親類がすくないということは彼等の人口が殖えぬということで、結局、彼等の子を産む数が些ないということになる。この事は古い統計にも載っているそうで、江戸ッ子は只新しく仲間入りをする田舎者で補充されて、やっとその命脈を保って来たらしいことが朧気ながら推測される。  さもなくとも、一般に或人種が文化の絶頂に達すると人口が減少する、殊に永年都会に居て、文化的な神経過敏な生活を続けている者は、自然と産児が減少して行くものであることは、近頃の学問でよく問題になっている。東京ばかりでない、世界各国の都市がみんな間違いなくそうなって行くのだそうである。      潔癖から産児制限  都会人は何故繁殖力が減るか!  この疑問を学者たちに説明してもらうと大変な八釜しいことになる。  第一は風俗の淫靡から来るものであるが、これは別としても都会人は減るのが当り前だそうである。  つまり、  ▽土と日光と新しい空気と食物に遠ざかったもの  ▽運動不足で精神過敏になったもの  は、人間でも動物でも、赤ん坊を生む数が減って行くと考えていればいいのだそうである。  或る人情哲学者はこれに付け加えて、  一|法螺 二お世辞 三洒落  を喜ぶ真実味の些ない人間は、いつも魂が上付いているから充実した機能の満足を遂げ得ぬ、だから将来滅亡するようになると云ったが、少々乱暴な議論だけれども、そんなこともないとは限らぬであろう。  とにかく憐れむべき江戸ッ子はこれ等の資格をみんな備えている。彼等は江戸ッ子になった当初から、こうして呪われ続けていると云っていいのである。  しかも江戸ッ子の人口減少の原因はこればかりではないと考えられる。  或る智識階級の江戸ッ子はこんな話をした。 「江戸ッ子が減って行くってのは本当だろうよ。私の友人で子の無いものがある。妻君は江戸ッ子のチャキチャキで、健康状態にはすこしの申し分もなく、どんな医者に見せても子の出来ない筈はないと云う。自分自身も子の無いのを苦にして度々見せたが、同様の診断で、女の上を飛び越しても子が出来るかも知れぬと冷かされた。それでも子が出来ぬから、おかしいと思って気を付けて見ると、私の妻は非常な疳持ちで、尾籠な話だが、事ある毎にそこを徹底的に洗うことに気がついた。これは医者が何と云うか知らぬが、子の出来ぬ唯一の原因と私は思う――とその男が云った。つまり江戸ッ子はあんまり潔癖だから子が出来ないのだね。だから江戸ッ子には親類がすくない訳だろう」  これは余りに江戸ッ子の早合点かも知れぬ。  又或る通人はこう云った。 「江戸は何でも日本一だが、遊びの場所も日本一であった。上は芳町、柳橋の芸者から松の位の太夫職、下は宿場の飯盛から湯屋女、辻君、夜鷹に到るまで、あらゆる階級の要求に応ずる設備が整っていた。そこへ以って来て、江戸ッ子は金離れがいいと来ているからたまらない。川柳に……三人で三分無くする知恵を出し……というのがあるが、その三分は三人持ち寄りの最後の財産であったろうと思われる。うちを空っぽにして遊ぶことばかり考えている……儲けた金で妻子を肥やすのをシミッタレと考えている心理状態がよくわかる。だから江戸ッ子のうちは繁昌しないのだ」 「江戸ッ子は道中をして帰って来ると、すぐに友達の処へ挨拶にまわる。その先から友達と一所に遊びに行って、道中の使い残しを空っぽにする。『久し振りうちに帰って、嬶珍らしさに出て来ない』と云われたくないために、こうした見得を張ったもので、詰るところ、こんな江戸ッ子の負け惜みが直接の産児制限となったわけだ。花柳病にかかって、間接に子種を亡ぼしたのは云う迄もないだろう」  又或る獣医はこんな話をした。 「牝馬で競馬に出る位の気の勝った馬は、いくら種をかけても決して子を生みません。原因はわかりませんが、一種の神経作用かも知れません。江戸ッ子の女は勝ち気だと云いますから、自然子を生みかねるのでしょう」  こんなのはいずれもうがち過ぎ、又は突飛な議論であるが、参考のため紹介しておく。勿論、いずれも一理屈あるのはあることである。      江戸を呪う隅田川  それはともかくとして、記者は江戸ッ子衰亡の事実を見たり、聞いたりする度毎に、あの隅田川を思い出さずにはいられない。否、あの隅田川の岸に立つ毎に、記者は、この河に呪われて刻々に減って行く江戸ッ子の運命を思わずにはいられないのである。 「富士と筑波の山合に、流れも清き隅田川」  と奈良丸がうたい、 「向うは下総葛飾郡、前を流るる大河は、雨さえ降るなら濁るるなれど、誰がつけたか隅田川ドンドン」  と昔|円車が歌った隅田川――ドンヨリと青黒く濁って、東京の真中を渦巻き流るるあの隅田川が、昔も今も江戸ッ子の滅亡を呪うていようとは滅多に気が付く人はあるまい……と云うと、何だかエライ神秘的な由来でもありそうであるが、説明は頗る簡単である。  隅田川は昔から身投げが絶えぬ。都会生活に揉まれて、一種の神経衰弱に陥った人間が、彼の広い、寂しい、淀みなく流るる水を見ると、吸い込まれるような気持ちになるのは無理もないであろう。しかし江戸の人口に差支える程身投げがあったら大変で、隅田川が江戸を呪っていると云うのはそんなわけではない。もっと深刻な意味があるのである。  隅田川は昔から水ッ子の初まった処であった。  水ッ子と云っても、その中には堕胎した児、生れてから殺した子、又は捨て児が含まれている。しかもその数は統計にも何にも取られたわけのものでないが、江戸ッ子の人口減少の一半を引き受けたと認められているのだから恐ろしい。  隅田川はこんな残忍な、つめたい流れなのである。  但、この水ッ子の親は決して江戸ッ子に限っていなかったことを、ここに断っておかねばならぬ。  旧藩時代の武家は皆きまり切った縁をたよって、子孫代々まで暮さなければならなかった。三百年近く太平の世が続いたために、彼等の大部分は加増を受ける機会もなく、只夢のように生れては死んだ。只恐るるのは家族の殖えることであった。その結果が産児制限となったことは云うまでもない。  その次にはブル階級の江戸ッ子の風俗の堕落である。彼等が如何に奢りを極めたか、彼等の主人が如何に甚だしい道楽を試みたか、彼等の妻子や召し使いなぞが如何に風俗を乱したかは、江戸時代に現われた小説や芝居や絵を見てもわかる。その結果が忌まわしい手術、又は恐ろしい犯罪となって、幾万の生霊を暗から暗へ葬ったことであろうか。  その次は一般市民の生活難である。  前にも述べた通り、花の都の生存競争は生き馬の眼を抜く程激烈なものであった。その間に生存して行くのはとても生やさしいことではなかった。その結果、矢張り前のような恐ろしい習慣を、平気で行って行くよりほかに道が無い事は明らかである。  なおまたこのほかに問題にせねばならぬのは、徳川幕府が江戸に於ける軟文学の流行をそれとなく奨励したことである。幕府は、参覲交代で江戸に集まって来る諸国の武士を意気地なくするために、こんな方法を執ったと伝えられているが、これが永い間の太平と共に上下一般に染み渡って、極度にまで人心を堕落さした事は実に非常なものであった。不義者に同情し、心中に共鳴し、野合を讃美する芸術が流行し、上下の隔ても思案も度外視した恋愛至上主義が一般に崇拝された。  こうした「上下の隔てない」、又は「思案のほか」の花が結んだ因果の種はどうなったか。  田舎なら木の根や石の下、草原なぞの到るところに葬ることが出来るが、名にし負う土一升に金一升の都には、そんな余地は滅多にない。出入りの田舎者に頼んで情を明かしてことづけるほかは、とりあえず流れて行く水にことづけて、あとかたもなく葬ってもらうよりほかに仕方がなかったのであろう。  東京の中にはいくつも掘割がある。その橋や石垣、柳の下には隅田川から汐がさし引いている。この浄化作用は、こうした深刻な意味の巷の産物をも、不断に引き受けているのである。      群れ飛ぶ都鳥  隅田川が、その青黒い不可思議な力で、如何に江戸の住民に魅入っていたか。その川あかりが、如何に江戸ッ子を罪の子として堕落させて、秘密にその子孫を呪い殺していたか。  その事実を裏書するものはまだいくらでもある。  第一は徳川幕府が幾度も幾度も出した産児制限法の禁令である。これはおしまいまで無効に了ったと認められているが、一面、このような禁令が度々出ただけ、それだけこの産児制限が烈しかったことを裏書しているのである。  事実、こうした江戸文華の裡面の秘密を握って、喰って行く商売人が非常に多かったのである。いろいろな随筆、わけても極平凡な明るい意味で、「医を仁術」と心得ている医師たちの記録には、彼等の職業を極度に攻撃したものが些くなかった。それにも拘わらず彼等は、「必要の前に善悪無し」という程度の格言を信条として、益盛に横行したらしい。  その大部分は女医であったそうで、就中中条流という堕胎の方法が最流行したと記録に残っている。そのほかおろし婆、御祈祷師なぞは勿論の事、普通の漢方医でも内々この医術を売り物にしていたと察せられる。一説に依ると、徳川時代のすべての医術の中で最も有効に発達したものはこの方法で、この方法の下手な医者は大家に出入りする資格は無かった。否、この手術だけ心得ていれば、あとは売薬を詰めた百味箪笥と、頭の形と、お太鼓持ちだけで、立派なお医者様として生活が出来たという位だから恐ろしい。  このほか医者でも何でもなくて、のれんや看板に堕胎を業とする意味のものを染めたり、描いたりしているものがあったという。たとえば子持縞に錠を染め出すとか、温州の種なしみかんの絵とか、山吹の花を表したものなぞである。  そうした中でも、この種の商売を殆ど公然の秘密のように行っていたのは、今でもある悪姙婦預り所であった。つまり女医や産婆の宅あずかりである。殊に面白い――といってはわるいが、その預り賃が七八ヶ月間最低一両内外で、上は限りなし、大家のお嬢さんなぞで間違いの出来たのが、よく乳母の里へ預かるなぞいうことが物の本にも出ているが、実はここに来て始末したのが多かったそうである。そうしてその流した子は、一朱内外を添えて、隅田川のほとり、本所の回向院へ収めたという事が書き添えられている。  しかしこのような冷酷な商売をする人非人が、果して約束通り残らず回向院へ納めたかどうか怪しいものである。これはその親に対するせめてもの気休めで、実は手軽く水に流したと考え得る理由が充分にある。  この種の例は深く立ち入ったらどれ位あるかわからぬが、ここでは「江戸ッ子減少」の原因を明らかにするだけに止めておく。そうした都会の真ん中を流るる河は、いつもこうした呪わしい、忌まわしい使命を持っていることを説明するに止めておく。  昨年の変災の折、あれだけの生霊を黒焦にした被服廠――。  その傍を流れて、あれ程の死骸を漂わした隅田川――。  その岸に立つ回向院――。  それ等はかほどまでに「江戸」を呪った……そうしてこの後も呪っている、或る冷たいたましいのあらわれに他ならないのである。  ……墨堤の桜……ボート競漕……川開きの花火……両国の角力や菊……扨は又、歌沢の心意気や浮世絵に残る網舟……遊山船、待乳山の雪見船、吉原通いの猪牙船……群れ飛ぶ都鳥……。  両国橋の上に立って、そうした行楽気分を思い得る人は幸福である。    建築交通の巻      現代式の新東京人 「江戸ッ子」はこうして亡びかけている。  山の手の智識階級も、下町のベランメイ党も、共々に昔の夢をなつかしみつつ影のように生き残っている。  そのあとへ新しい「江戸ッ子」、すなわち「現代式東京人」が寄り集まって「新東京の新生面」を作りつつある。  その新生面はどんな光彩を放っているか、どんな香霧を漂わしているか。 「バラック」という言葉は珍らしくなくなった。東京に行った人は飽きる程見ているように、バラック生活、バラック趣味、バラック的なぞといろんな熟語が出来て、バラック気分を天下に宣伝している。現在、その中で呼吸をしている新東京の住民なぞは、もうバラックという言葉までも忘れているらしい。  然るにバラックの中に居ながら、バラックの中に居る事を忘れている時は、バラック生活が苦にならなくなっている時である。魂までバラック式になっている時でなければならぬ。  新しい東京に来る人も何より先にバラックが眼につく。すべてがバラック式……派手で便利で手軽でハイカラで……といった調子で、「サスガ東京」とすっかり感化されてしまう。「新しい東京人」が出来上るといった順序である。  恐ろしいもので、こうして東京人の精神的生活の裏面には、チャンと「バラック」の感じが反映している。そうしてバラック式のリズムを作って、様々の悲喜劇を漂わし、いろいろな流行を移りかわらせている。  そこに吾が大和民族の新しい文化の中心の「におい」があり、色彩がある。  生れかわった彼女……「東京」は新しい「バラック」の着物を着てシャンシャンシャンとあるいて行く。どこへ行くのかわからぬが、如何にも得意そうで又嬉しそうである……が……扨……。  高い処に上って見ると、見渡す限りバラックの海である。青、赤、茶、白、黒、黄、紫、灰色なぞの屋根が、生地のトタン屋根と一所に太陽の下に波を作って、焼け木の森に打ち寄せ、鉄橋を漂わせ、小山を這い上り、煙突を浮かせつつ、果ては銀灰色の空の下に煙のように消え込んでいる。その間に黒い枯木が散らばる、廃墟のような大建築が隠見する、煤煙が流れ、雲が渡り、鳶が舞い、飛行機が横切る。  震災後間もない去年九月十四日に撮った写真を見ると、一町内に二三軒|宛位の割合で建っていたのが、今では殆ど立ち塞がっていると云ってよかろう。黴菌や虫ケラの力も恐ろしいが、人間の力もこうなるとエライものである。 「早いものですなあ」  とみんな挨拶のように云うが、実際挨拶に云っても差支えない位すさまじい早さである。  バラックの海を眺めて復興の力の偉大さに驚く人は、同時にその底を流るる活動力の清新さを感ずる人である。新しい板壁の反射や生々しいペンキの色は、そうした感じを象徴して際涯もなく波打ち続いている。  一度|灰燼となった吾が大和民族の中央都市が、かような活力と元気とに依って溌溂と蘇らせられつつあるのを見ると、真に涙ぐましい程の心強さと嬉しさを感じさせられる。  併し又、バラックの眺望は一種の哀愁をも漂わしている。  昔の東京の眺めは何となく奥床しいところがあった。彼の青黒く影絵のように並んだ屋根瓦の一つ一つにも、徳川から明治まで何百年かの歴史の重みが結び付いていた。云い表わし難い情緒が流れていた。  それが今のバラックにはない。その色の安っぽさ、毒々しさを通じて、只生存競争、見かけばかりといったような、さもしい浅墓な気持ちしか感ぜられぬ。  しかしこれ等の感想のどれが中っているかは、まだ容易に断定出来ない。  今度は山を降って下町をあるきまわる。      鉄コンクリの悲哀  下町に来てまっ先に眼に付くものは、丸の内に並んだ大建築である。そこに暴露された鉄筋コンクリートの悲哀である。  余談に亘るが、世界中で亜米利加位オセッカイな国はあるまいと思われる。  先ず嘉永六年に日本に来て、浦賀の港で大砲というものをブッ放して、「文明開化」という珍らしいものを教えてくれた。慌て者の日本人はすっかり驚いて、日本魂までデングリ返らせた結果が、今日では処構わず爆弾を取り落すような悲しい民族的精神となり果てた。  亜米利加はそれでも飽き足らずに、今度は日本に鉄筋コンクリートというものを教えてくれた。 「地震位に恐れて、そんな燐寸箱みたいな家に縮こまってる必要はない。学理と実際の研究で生み出された鉄筋コンクリートの力は、絶対に信用してよろしい。日本中が引っくり返っても、これだけは残る」  と宣伝した。  日本の建築界は浦賀の大砲以上に仰天した。  日本の博士、技師、請負師なぞの歓迎ぶりと来たら大変なものであった。何しろ学理と数字の上の云いわけは世界に劣らぬが、実際上の損害賠償は一切しないというのが、博士や技師の道徳である。その又博士や技師に一切の責任を負わせて仕事をするのが、請負師の習慣と来ているから堪らない。金は取り放題、責任はアメリカへというので、腕に撚をかけると、ここ東京の丸の内、日本丸の機関部という、堂々青天を摩する大建築を並べた。その中で最新式|請合付きのものが、曰く「内外ビル」、曰く「東京会館」、曰く「有楽館」、曰く「丸ビル」、曰く「郵船ビル」……。  たった五ツと云う勿れ。これ等の一つでも大人国の重箱の何千層倍あろうか。学理と実際……鉄とセメントの化け物然として、吾が国の建築界空前の盛観を作るかのように見えた。  これを見て憤慨したのは日本の「地震|鯰」であった。 「ヤンキーがヤンキーなら、ジャップもジャップだ。学問だの数学だのと、あとから出来たものにばかり驚いて、弄戯化た真似をしやがる。百年前に生れた奴は一匹も居ないと見える。憚りながら日本の地震鯰様は昔から無学文盲で押して来た人だ。文明や最新式位に驚く人じゃねえ。畜生、見やがれ……」  と云ったかどうか。  これも腕に撚をかけた向う鉢巻という奴で、そこいらを一ツゆすぶった。  東京会館は腰を抜かした。  丸ビルは全癒三ヶ年の重傷を受けた。そのほかのも、腰から向う脛のあたりに半死半生の大傷を受けて、往来から中の方がのぞかれるという始末。内外ビルなんぞは、最初の一ユレで八階から地下室までブチ抜けて、数百の生霊をタタキ潰すというウロタエ方であった。  そのみじめな残骸を見てまわると、吾が日本の「地震鯰」も嘸かし溜飲が下ったろうと思われる痛快さである。  然しこれは学理ばかりで実際を推し測った最新式の建築ばかりで、そのほかの「地震鯰」を馬鹿にしなかった建築はチャンと残っている。その多くは割り合いに時代の古い、旧式の設計で出来た鉄筋や煉瓦なぞで、海上ビル、東京駅、帝国ホテルその他である。  その中でも帝国ホテルは極新しい方ではあるが、その代り「地震鯰」に敬意を払い過ぎて、地面に四ツ這いに獅噛み付いた形をしていただけに、ヒビ一つ這入っていない。聞けば技師は米国でもかわり者で、「おれの建築のねうちは今は分らない」と云っていたそうであるが、成る程もうわかった。日本の鯰と親類だったかも知れぬ。  こんな事実を眼のあたり見て行くと、そこに何らかの暗示がありはしないか。  活動や風俗はもとより、商店の広告からカフェーの設備と、何から何まで米国式流行の日本に何等かの警告を与えている「ある意味」が潜んではいないか。  すくなくとも、一種の「恐米病」又は「酔米病」に囚われている日本には、しっかりしたものは一人も居ない。只「地震鯰」が一匹控えているだけという証拠になりはしまいか。      青空を又押上げる?  地震に居残った旧式の大建築、又は最新式の丸潰れや半壊れのすき間すき間を、丸の内一面にバラックが建て込んでいる。  そのうち七割は飲食店や、菓子、缶詰なぞいう食料品店。あとの三割が煙草屋、雑誌屋、玉突き、理髪、銭湯、占師、貸本屋といったようなもの。それが又大部分が中等以下の安バラック式で、何の事はない、目下の丸の内は、西洋式の大建築と日本式のゴチャゴチャした小店を詰め込んだ、極端な和洋折衷の姿である。  その中にも飲食店は東京の安ッポイ処を代表していると云っても差支えない。カフェー、すき焼、天プラ、すし等はほかに見られぬ安価なうまいものが見られる。  たとえば洋食や支那料理で二十銭から五十銭も奮発すれば、充分に腹が張るのがある。簡易の一汁一菜が十二銭|乃至十五銭、かなりの出前弁当が二十銭、アイスクリームとアズキアイスは最下五銭から十銭位のがある。  どうしてこんな店ばかり集まっているかと云うと、この辺の商売の大|顧客とするものは、主として日比谷の避難バラックの住民と、前に述べた大建築の修繕や何かに雇われた人足達と、その大建築に雲の如く出入りする腰弁達の三つである。その中でも腰弁たちは、身なりだけはなかなか立派なのが多いが、その割りに安物を漁るので、扨こそ彼等を当て込んだ「うまい」「安い」という文化的? な看板がこの辺に殖えたのである。  とにもかくにも、日本の中心の、その又中心の丸の内で仕事をする人達が、こうした安物で養われていることは、「東京の裏面」に現われた興味ある現象と云ってよかろう。  銀座に来ると模様がガラリと違う。  地震前から持ち越しの永久的大鉄筋の間に、半永久的の上等なバラックが犇き並んで、見様によっては昔の銀座よりも美しくて変化がある。何しろ日本目抜の商店が、「サア来い。数年後にはブチ壊すにしても、そんな粗末なものは作らないぞ」と腕まくりをして並んでいるのだから無理もない。ちょっと見るとこれがバラックかと思われるようなのもあって、新開地式の安ッポイ気分があまり流れていない。  裏通りも同様で、表通りよりは新開地式であるが、それでも丸の内のソレより数等上である。今春あたりから粋な横町辺に並んだ格子先には、昔にかわらぬ打水に盛塩の気分がチョイチョイ出ている。  京橋を渡りすこし宛落ちて来て、バラック気分が次第に露骨になって来る。同じ毒々しさにも重みがなくて、今にも剥げチョロけそうである。その中に性懲りもなく建てた化粧煉瓦のセメント建築や、昔の焼け残りの大建築が並んでいるといった塩梅で、この辺迄来ると青空も余程広々と輝いて、往来に近付いて見える。  震災前まで東京の空は、次から次に建った大建築のために高く高く押し上げられる一方であったが、それが又こうして急に落ちて来た。これを又押し上げるか押し上げぬかは、日本の建築界の将来に於ける興味ある研究問題ではあるまいか。  裏通りも同様にアケスケな処が殖えて来て、飾も何もないボール箱式が多く、かなりの大きな家をトタン板で貼固めた、ペスト予防よろしくといったようなのも珍らしくない。  この程度のバラックが神田あたりまで続いているが、一度万世橋と東京駅を連ねる高架線のガードを潜ると、又一段と安っぽくなって来る。  表通りか銀座の裏通りか、もしくは日本橋辺のソレ以下になって来て、その中に名高い呉服屋や老舗のシッカリしたバラックがチラホラとまじっている。北海道あたりの新開町でもこれ位の処はザラにありそうに見える。  外神田の河岸近くの一帯は、あの大火に不思議に焼け残ったのであるが、その黒い土蔵や、昔風の瓦葺きの屋根、寂びた白壁などが並んだ落ち付いた町並みと、柳原あたりのバラックを見比べると、坐ろに今昔の感に打たれざるを得ない。      一年後の死骸臭  上野に近付くと、バラックの趣が又違って来る。銀座あたりのソレがどことなく気取って、勿体ぶっているのに反して、無暗に大きな看板や、家に不似合な強烈な電燈を並べた店が、広小路を中心に高く低く並んで安ッポイ派手な気分を見せている。これは処柄から止むを得ないであろう。尤もそのウラには、寧ろ貧民窟に近い長屋式の家が、ゴチャゴチャしている事が表通りから見える。  ここから電車通りを菊屋橋伝通院の方へ、平凡なバラック気分を通り抜けると浅草へ来る。  ここへ来ると又ガラリとバラック振りが違って、内容も外飾りも只派手一方になる。真に五色五彩、眼も眩むばかりで、何の事はない、児童の絵本の中を行くような気がする。正にバラックの「安ッポサ」と「アクドサ」を極度に発揮したものである。これも処柄とはいいながら、あまり甚だしいのでギョッとするようなのも珍らしくない。  この気分の中心は、無論、浅草の第六区であるが、ここは論外である。  尤も論外と云えば浅草全体が論外かも知れぬが、震災後はそれが一層甚だしくなった。ヘドの出そうな建築の彩り、眼の玉を引っ掴む広告、耳にたたき込む音楽、魂を奪わねば止まぬ旗や、看板なぞが、押し合いヘシ合い競争をして、気も遠くなる程バラック気分を煽り立てている。その安ッポさ……物凄さ……。  ところが吾妻橋を渡って河一すじ向うに行くと、ガラリと別世界に来たような気持ちになる。  深川のセメント、安田邸、日本ビールなぞいう大建築がチラリホラリとしているだけで、あとは二階さえない位の安バラックや、震災当時のままの掘立小屋、又はそれ以下の乞食にも劣る「屋根石――十間板」のつながりである。  しかもそれがベタ一面にあるわけではない。震災後まだ草も生え込み得ない焼け土の空地が到る処にあって、甚だしきに到っては、震災当時この辺に漲っていた死骸のにおいを残しているところもある。  このにおいは、震災直後の東京を見た人たちの鼻に死ぬまで付いているのだそうで、云うに云われぬ陰惨な気持ちを暖むるものである。  記者が今度東京に来た初めに、「鍛冶橋から日本銀行へ行く河岸をあるいて見ろ、死骸のにおいがするから」と云われて行って見たら、成る程忘れもせぬにおいがした。しかし、まさか丸一年も経った今日この頃まで、こんなにおいがする筈はないと疑っていたが、この辺へ来て見るといかにも間違いないと思った。この辺にあった死骸はみんな半焼けになっていたので、腐りかねているのかも知れないが、とにかくいい気持ちでない。その酢っぱい腥いにおいは、バラックの生々しい赤や青の屋根の間を仄かに漂うて、云うに云われぬイヤラシイ深刻な気分を作っている。小雨の降る夜中なぞはとても平気で通れまいと思われるような処もある。  序に書いておくが、この辺は震災前まで「河向う」と云われていた……今でも河向うには相違ないが……日本橋、京橋、神田なぞいう江戸ッ子の本場で商売をしくじった連中の逃げ込み処であった。しかも一度この「河向う」へ落ちて来た江戸ッ子は、二度と再びこの河を越えて一旗揚げた例がない……「河向う」という言葉と「絶望」という言葉とは、場合によって同じような意味に使われている位であった。極端に意味を強めて云えば、「河向う」は「生きた江戸ッ子の墓場」であった。  然るに昨年の九月一日夜の大火は、そこを最も猛烈に焼き立てて、あれだけの死骸の山を築いた。その死骸の臭が今も残っているとは、何という深刻な自然の皮肉であろう。  以上述べた処は、東京の中心の通りから、被服廠あたりまでのバラック振りである。まだこの外に、いろんな特徴を持ったバラックが、東京市の内外一面に拡がっていることは云うまでもないが、しかしこれでバラック以上の鉄筋建築から、バラック以下の避難小屋まで見物したわけで、東京のバラックを批評するには充分と思われるから、ほかは略する。  只、東京の内外を通じてあれだけ猛烈な勢で建てられたバラックが、目下の不景気で増加の度をゆるめている事を付記しておく。      日本人の頭の悲哀  一口にバラックと云っても、その中にいろんな階級がある事は前に述べた通りであるが、その各階級の中にも又いろんな変化があって、なかなか面白い。一々見て行くと、何の事はない、人間の智恵や工夫の展覧会である。思い切ったものや、セツナイもの、又は御尤も至極なのや、呆れ返らせられるものなぞが、それからそれへと果てしもない。  そのどれもこれもが、申し合わせたように一致しているのは、「何でも驚かしてやろう」という気分である。  尤もこれは表通りの競争の烈しい町並に多く見受けるのであるが、裏通りでもこの気分は多少に拘らず流れている。  中にはコリント式やイオニヤ式、ドリヤ式なぞいう恐ろしく気取ったのもあるが、しかしその生地がセメント塗りで恰好だけ作ってあるので、却てつまらなく見える。  それよりもルネッサンス式の変化したもの、ゴシック式を今一層シツッコクしたものなぞが光っている。その中でも又一番活躍して眼を惹くのは、セセッション式以後の新様式を用いたものである。  未来派式、印象派式はもとより、何という式かわからぬが、往来に面した窓を様々の形にして色|硝子と鏡をチャンポンにはめ込んだり、要りもしないバルコニを突出して白ペンキ塗りの格子を張りまわしたり、外側の壁をわざと板張りにして色ペンキで表現派模様を塗りコクッタリ、そのほか、飾り煉瓦や色の付いた壁土であらん限りの模様を工夫して、屋根の形や柱の恰好までも変化を与えている。  特別に変ったのでは、青黒いセメントで陰気な牢獄のような四角い家を作り、前にタッタ一ツ孤光燈を燭しているのがある。  亜剌比亜式の平べったい煉瓦積みに、カーキー色と赤のダンダラの日除けを張りまわしているのがある。  復興式に支那式の色硝子の窓をはめて済ましているかと思うと、小学校のような平凡な家に北欧式の急傾斜な屋根を乗っけている……その近所に露西亜式の旧教会のような丸屋根がある……洋館に破風作りがある……と思うと、南米やアルプスあたりの絵はがきにある丸木小屋をわざわざこしらえたのもあるといったような始末……で、一面から見れば世界各国の建築様式の掃き集めと云ってよい。  ショーウインドや内部の模様はあまり管々しくなるから略するが、要するに外観と同様変化自在で、その大部分は俗悪な壁紙、色ペンキ、又はケバケバしいカアテンや鏡の応用であることは云う迄もない。  東京人は、その家が地震で潰れて、大火で焼けてしまうと、すっかり気がかわった。今までの江戸時代の名残、又は明治時代の建築の中にジッと我慢していなければならぬ境遇から、一時に解放された。  同時に、地震と火事でみじめにたたき付けられた気持ちのする反動が、これに加わった。そこへ市区改正を予期した、一時|間に合せの気分が加わった。  そうした気分の東京人は、与えられたバラック建築の自由自在な手軽い特徴を利用して、持っている限りの建築趣味を発揮した。有らん限りの智恵と工夫とを表現した。その結果がこの通りだとすると、日本人の思想もあらかたこんなものではあるまいかと考えられる。誠にハヤ恐れ入った光景である。  千変万化なバラック表現の底を流るる智恵と工夫の浅墓さ、そこに流るる一種の悲哀は、直ちに日本人のアタマの悲哀を裏書するものではあるまいか。  こうした見かけばかり恐ろしく、派手な内容の、薄ッペラなバラック町の気分に朝から晩まで涵っている新しい東京人の気持ちが、そうした影響を受けずにいられぬ事は誰しも想像が付く。しかし東京人の気分に影響するものは、単にバラックばかりではない。東京市内の交通機関、わけても電車と自動車がどんな風に人の神経をゆすぶっているかということは、「東京の裡面」を作る「東京人のあたま」を理解する上に就いて、バラックと同様の価値があるのである。      全市が親知らず  東京市当局の言明を聞いて見ると、電車は目下が極度の増発で、この上|殖やせば到る処の停留所に電車の行列が出来るばかり――否、現在でもその傾きがあって困るとの事。こうなると、あとは地下線と高架線よりほかに抜け道がないとは、一般の所謂識者の観察である。  何だか知らないが、こむことこむこと。 「須田町は花の都の親知らず」  と云うが、今ではその親知らずが東京中に拡がって、とても女子供や老人と構ってはいられない。生存競争とか優勝劣敗とか、適者生存とかいう学問上の言葉を、一番手っ取り早く説明するのは電車の昇降であるが、それにしても東京のはあまり極端である。そのせいか、この頃出来た新しい車台は、車掌と運転手の居る処を交通遮断している。そうでもしなければ運転不能に陥るかも知れない。  そんならば空いた電車は一つも無いかというと、そうでもない。非常に混んでいる反対側の線は、大抵ガラ空きだから、いよいよ困る。  東京に来てから二週間ばかりの間に、停電と架線修繕のための停車を各二度と見たが、僅かの間に数町の間電車の行列が出来た。その行列のおしまいをのぞいて、際限が見えなかったことも一度あった。それは小川町でのことであった。  九月の二十八日か九日であったと思う。午後七時頃、小川町の交叉点の架線工事が、十五分間、三方の電車を喰い止めた。その間に電車から降りて歩き出した人で、往来は人の波を打った。電車が動き出してから、その人の波がどこまで続いているか見ていたら十二三町に及んだ。  電車を降りてあるき出す人の心理状態はいろいろであろうが、十五分位の停車で、しかも架線工事だから山は見えている。いくら降りても知れたもので、記者の見たところでは全車台の三分の一位にしか見えなかった。それで往来は博覧会の出盛りのようになるのだから、全く恐ろしい。これで電車が無かったら、東京の町はどんなになるだろうと思わせられる。  或る人の話に依ると、震災の時に約百万の人々が狂気のように東京を逃げ出した。そのゆりかえしが今やって来て、以前の東京の約一倍半位にはなっている。  その中には東京の復興が釣り寄せた人間が大多数を占めている。今東京に出れば、仕事が多くて、賃金が高くて、生活が安い。東京は一躍して新開地になった。新しい東京は今や新しい血と肉の力で復興さるべく飢えているのだ。行け行け……といったような気持ちで押し寄せた人々の大多数は、自動車や何かに乗らない。電車に乗るにきまっている。「だからこんなにこむのだ」と。成る程さもあろうかとうなずかれる。  序に説明しておくが、この頃の電車には早朝の割引時間のほかに、急行時間というのが出来た。これは遠距離から往来する腰弁や労働者の便利を図るために出来たものらしく、朝は六時前後から三時間内外、午後は三時頃から四時間位、すべての電車が急行時間という札をかける。小さな停留場には一切止まらず一気に走って、重立った停留所や乗り換え場所だけ拾って行く。或る意味から見れば、東京がそれだけ広くなったとも云えよう。  震災後東京市内は、事務所といわず商店といわず、大抵はバラックで間に合わせて、主人を初め雇われ人は成るべく市外から通おうとする傾向がある。  一方に、遠からず市区改正があって、どこが取り潰されるかわからぬという考えがあるために、大層なシッカリした建築が出来ない代りに、矢鱈に東京の町は横へ広がる事になる。そこへ郊外生活に対する憧憬とか、又は経済上、精神上なぞのいろんな原因が手伝って、東京市外の最近の発展は驚くばかりである。二里三里の遠方から来る労働者は珍らしくなくなって来た。  こうして無暗にダダッ広くなった東京に、電車の急行が必要になったのは、当り前過ぎる位当り前の事である。  この頃ならば午前の六時半から九時半まで、午後は三時半から七時半まで、合計七時間というものが東京中の電車を急行にする。小さな停留場には止まらないから、市内でこまかい用事を足すことはなかなか困難である。今に東京がもっと広くなったら、今一つ急行電車専用の線路を作らねばならぬかも知れぬ。否、現在でもその必要があり過ぎる位あるのであるが、遺憾ながら今の東京の道幅では不可能である。結局、小さな停留場を廃して、朝から晩まで急行にせねば追付かぬようになりそうな傾向が見える。そうなったら、今の乗り合い自動車は勿論の事、人力車が幅を利かし始めるような奇現象を呈するかも知らぬ。否、現在でも急行時間には人力車が繁昌するそうである。  福岡あたりの電車は、小さな停留場を無闇に殖やして、お客を拾うことに腐心しているようであるが、東京では正反対だから面白い。      一寸坊揃の女車掌  東京は広くなるばかり。  人間は殖えるばかり。  電車はこむばかり。  この三ツの「ばかり」のために東京市民がどれ位神経過敏になるかは、実際に乗って見た人でなければわからぬ。  前に云った電車の昇降口の生存競争、優勝劣敗から来る個人主義は車の中までも押し及ぼされて来ることは無論で、時と場合では、福岡あたりでは滅多に見られぬ、釣り皮の奪い合いまで行われるようになっている。  世間は広いもので、たまには老人や女子供に席を立ってやる人もないではないが、ごく珍らしい方で、見付けたが最後、早く腰をかけなければすぐに失敬されてしまう。同時に、初めから腰なぞをかけようとは思わない覚悟の人も多いらしくて、却って夕刊を読むために、電燈に近く陣取って動かない人なぞがチョイチョイ見うけられる。  車掌はこれと反対に、益冷静になって来たようである。これも一種の個人主義であろうが、車内が雑踏すればする程、彼等は落ち付き払って、只義理に声ばかりかけているのが多い。 「もっと前の方に行って下さいよ。降りる時にはチャンと卸して上げるから。掴まって下さい。動きますから。オヤオヤ又停電か。どうも済みませんね。尤もこの電車ばかりではありませんがネ。一つコーヒーでも準備しますかね」  といった調子で、まるでお客を馬鹿にしているが、それでもお客は笑いも怒りもしない。生活に疲れたあげく、こうした電車に押込まれて神経過敏になった人々は、イヤでも青黒く黙りこくった個人主義になって、只気もちばかりイライラするのをジッと我慢しているという姿になるのは止むを得ない事である。このような烈しい個人主義的の神経過敏たるべく、朝夕訓練されている東京人が、どんな性格に陥って行くか、どんな文化を作り得るか……これも想像に難くないであろう。  電車の次には自動車である。  東京市内に自動車が驚く程殖えた事、その流行や、ガソリン、運転手なぞの事は茲に詳しく報道したから、此処には省いて、只種類と感じに就いて二三説明しておきたい。  死体や罪人を別として、東京市内の人間を運ぶ自動車の種類がザッと四ツある。第一は自家用自動車で、震災後一番殖えたのはこの種類である。某自動車会社の専務取締の話に依ると、現在の東京人は「家よりも自動車」という傾向で、万一事ある場合はこれに乗って、という……矢張り地震と火事に脅かされた一種の個人主義のあらわれだそうな。いい自動車を一台置くのと、県知事を一人飼っておくのと同じ位の費用だというから、かなり相当の身分の人々にも、こうした貧民のソレと同様のみじめな個人主義が侵入して来たと見える。一寸面白いような、悲惨なような、又は恐ろしいような気もする話である。  次はタキシーだの何かいう貸自動車と辻待ち自動車で、福岡のメートル自動車と同様なものである。賃金は東京の真中から端までが平均三四円程度であろう。三人も乗れば人力車より安いが、これにはチップを遣る場合が多いからかなり高価いものに付く上に、行きと帰りの賃金が一定しない欠点がある。それから、辻待ちは殆ど東京市の目抜の通りにしか居ないので、ちょっとオックウな場合が多い。  その次は私営の乗り合い自動車で、型のズッと大きいのが幅を利かしている。角の丸い四角型で、艸緑色に塗って、お尻の処にお化粧の広告を貼付けている。中には腰かけと釣皮があって、ギッシリ詰めたら二十人位乗れよう。賃金は一里三十銭位でもあろうか。電車を追い越し追い越し行くので、割り合い乗り手がある。  運転手は電車のような制服を着た男で、車掌は福岡あたりの女学生と寸分違わぬ姿の若い女である。どっちが真似たのか知らぬが、前にガマ口の大きな位の鞄を下げていなければ、とても区別は出来ぬ。  も一つ面白い事に、どれもこれも揃って一寸坊の姉さん位のばかりだから、どういうわけかと思ったら、これは車内の天井が低いので大きなのを採用しない結果だと、或る「通」が教えてくれた。初めは随分|別嬪が居たが、切符を売る序にほかの約束まで売るので、とても長続きがしない。今残っているのは極めて現実的な売れ残りばかりだと、序にその「通」が説明してくれた。「それはちと怪しい。万更でもないのが居るぜ」と云ったら、その方が怪しいと云う。何が怪しいと云ったら、怪しいと云うから怪しいんだと……何だかわからなくなった。      半狂人を作る都会  市営の乗合自動車で、俗に「円太郎」というのがある。話の種に是非一度乗らねばと思いつつ、ついに光栄に浴し得なかったから詳しい事は知らぬが、見かけばかりでなく内容までキタナイのは事実である。ガタ馬車を自動車にしたようなもので、運転手に帽子を持たない奴などが居るところは、市営とも思えぬ位である。その代り賃金はずっと安くて、速力は私営のとあまり変らない。車台の数も多く、盛にブーブーやっている。人も相当に乗っている。客種はズッと落ちる。  あんまりこれでは不体裁な上に収支相償わぬからと、市で廃止しかけたら、運転手連がストライキ……ではない、その反対の運動をやってとうとう喰い止めた。  そこで市でも考えて、今度は新しいハイカラなのを作るというので、その見本を市会議員が下検分したのが十月の上旬であったと記憶する。  以上述べた私立乗合いと円太郎自動車は、東京市内の主として下町の目抜の通りにそれぞれ停留場を作って活動しているのであるが、東京市内はこんな自動車が引っ切りなしに飛び違う上に、無数の貸物自動車や公私用のサイドカー、オートバイ、自転車と往来を八重七合に流れているので、ちょっと往来を横切るにも、耳に飛び付くようなベルや警笛の音を喰らわせられる。  云う迄もなく震災後には特別に繁華になったので、雨天の時なぞ、こんな自動車が警察|除けをふりまわしながら、電車と一所に泥煙を揚げて群衆に突貫して行く光景は、壮観? というも愚かである。  こんな風だから、辻々に立っている交通巡査や電車の旗振りでも、生やさしい事ではつとまらない。見る間に電車や自動車が畳み重なって、盛にベルや笛を鳴らして催促をする有り様は、見たばかりでも神経衰弱の種である。  ちょっと余談であるが、この交通巡査の身ぶりを見ていると、なかなか面白いものである。電車の旗振りの方は旗でさしまねくのだから、あまり眼には立たぬが、交通巡査は大抵白い手袋をはめて、手ぶらで交通を支配するのだから、その身体付きや手よう、眼ように自然と個性があらわれていて、小学生なぞが遠くから真似しているのをよく見受ける。 「ホラ、お出お出だ。今度はフラフラダンス。失敬失敬。体操だ体操だ。オイチニオイチニ。又かわるよ。赤旗になったから……」  なぞとやっている。驚いたのは、女学生がこんな事によく気をつけている事で、山の手線電車の待ち合いで大勢寄って、真似し合って笑っているのを見た。 「須田町のはこうよ……駿河台下のはこうよ……」  といった風で、名前ばかりでも十二三聴いた。その中で記者のノートに残っているのは、  まねき猫、お湯|埋め、蠅追い、スウェーデン式、鰌すくい、灰掻き、壁塗り  なぞ……女学生と小学生と名前のつけ方が違っているところが面白い。  こんな風に電車の中ばかりでなく、普通の往来まで緊張して来たことは非常なもので、殊にその音響と来たらちょっと形容が出来ない。東京の悪道路の事は前に書いたが、それだけに自動車や電車のわるくなり方も甚だしいと見えて、さなきだに八釜しい往来が一層烈しくドヨメイて、肩を並べながら話しも出来ない有り様である。  その中を只専心一途に自分の方向を守って、眼を光らし、耳を澄まして行かねばならぬのが東京人の運命である。そのためにその神経は益冴え、その気持ちには余裕が無くなって疲れ易く、興奮し易く、泣き易く、怒り易くなる運命に陥ることは云う迄もない。  以上述べたところで、東京の新しい町と交通機関が与える感じは、あらかた説明し得た事と信ずる。  こうしたバラックの安ッポイ強烈な神経にあおられ、交通機関の物凄い雑踏に押しもまれた東京人の神経が、如何にデリケートなセンチメンタルさにまで高潮されているかは、想像に難くないであろう。  警察で自由恋愛論をやる女学生……今の夫を嫌って前の夫の名を呼びながら往来を走る女……それを間男と間違えて追っかける男……世を厭うて穴の中に住む男……母親にたった一度叱られただけで自殺した女生徒……五円の金を返せないので自殺した妻……逃げた犬を探して公園のベンチに寝る男……なぞいう、狂人に近いあわれな人間の事がこの頃の新聞に多く見受けるようになったのは、そうした東京人の心理状態を強く裏書しているのではあるまいか。 ▲備考 この傾向は紐育のような大都会になると一層烈しいので、同市の自殺原因の統計の中には、朝牛乳瓶が割れたためとか、ヘアピンをなくしたためとか、又は学校に遅刻したためとかいうような物凄いのが驚くべき多数に上っている。    商売の巻      最新式「無言の正札」  或る哲学者がこんな事を云った。 「おかめとヒョットコの小さなお面を背中合わせにして、中に笛を仕込んだオモチャが昔あった。あのおかめの愛嬌が『商売』を象徴し、ヒョットコの仏頂面が『生活』を標示している。これを両方から押えるから、ピーピーと世間が成り立って行くのだ」  そのつもりで東京人の商売振りを観察して見る。  ボンヤリと浅草に来て見る。ここならいろんな商売があるだろうという了簡である。  雷門前の仲見世は昔にかわらぬ繁昌で、雨の降る日でも一軒二百円の収入があるというが、何だかあまり儲かり過ぎるようだから噂だけにしておく。  どの店も大勢の人通りの前にズラリと商品を並べているが、どの店もどの店も黙りこくった愛嬌のない顔が並んでいるのが一寸眼につく。無論、立寄ればすぐに、「入らっしゃいまし」とか何とか黄色い声を出すが、さもない時は口を一文字に閉じ、つまらなさそうな眼付きをして往来をジロジロ見送っている。  紅梅焼きを焼く銀杏返しを初め、背広を着て店に並んで、朝から晩まで三円五十銭の蓄音機を鳴らす三四人の青年、お人形のお腹を鳴らすお神さん、猫や兎のオモチャを踊らすお婆さん等、どれもこれも買って下さいというような顔は一つもない。只まじめ腐って、生き人形のように手を動かしているばかりである。  震災後二三ヶ月の間のここいらはこんな事ではなかった。皆声を限りにお客を呼んで、素通りをしても昂奮せ上る位であった。これが今では、「入らっしゃい」とも「如何様」とも何とも云わないから、何だか浅草らしくないような気がする。  しかし考えて見ると、いろんな呼び声を出してお客の反感を買うのは野暮の骨頂である。こうして品物を並べたり動かしたりしているのが、最も適切に「イラッシャイ」や「イカガ様」を表現している事は見易い道理である。  しかもその品物のどれにもこれにも、一つ残らず大きな正札が付いているから、一層現実的である。中には五六間離れても見える位大きな価格札があって、品物に依っては札の下に隠れてしまっているのもある。この辺が浅草式であろうか。  こうした現代式は単に浅草の仲見世に限らない。第六区の方へ抜けて行く左右の通りの店はみんなそうである。  かなり大きな洋品店でも奥の方から一々持ち出す模様はなく、洗い浚い店に並べて、一ツ残らず名刺型の紙に洋数字を書いてくっつけている。  中には半紙三枚続き位の西洋紙に、 「可驚提供……二円八十銭」  と色インキで書いてブラ下げて、その下に相当な中折れ帽を硝子の箱入りにして、店の前に出してあるのもある。つまり値段を看板にしたわけである。「薄利多売主義」とか「負けぬ代りに安い」という看板は、こんなのに比べるととても廻りクドくて問題にならぬ。  但、その帽子を手に取って見ると、途方もなく大きいので誰も買おうとしないが、それでも相当に人だかりがしている。この辺も浅草式の代表的なところであろう。  そのほか浅草のカフェーの菓子、握りすし、盛すし、天プラ、印形、青物なぞ、何でもカンでも正札付きで、中には支那料理の折詰なぞいう珍品もある。      無正札は「女」だけ  浅草辺の店ではショーウインドに凝った趣向なぞを用いない。旗や看板なぞを極端に派手にする代り、店の中は窓も棚もテーブルも一面に商品を並べて、悉く大文字の正札をつけておく。いらっしゃいとも何とも云わぬ……という式が多い。  こうしておけば、買わぬはお客の自由というように見えるが、実はそうでない。安いものは通りかかりにでもちょっと眼に付く。ふりかえる。立ち止まる。よく見る。ほかのと見比べる。気に入ったのがあれば買う。無ければ買わないという直接法の一点張りで、品物のよしあしは別として、まことに手数がかからない。  流石に丼屋や何かいう喰物店は実物を並べて正札をつけてはないが、それでも中に這入ると壁一パイの正札である。喰べる処は大抵椅子|卓子式で、腰をかけるとすぐに、 「何に致しましょう……畏まりました……エエ、五十銭に八十銭に一円……一円二十銭と四通りで……」  とあたりに響く大きな声で正札を云う。これに屁古垂れる人間は浅草で物を喰う資格はない。  ギリギリ決着のところ、浅草で正札の付いていないものは、「女」だけと云ってもいい位である。  こうした大文字の正札式は浅草ばかりではない。神田、本郷、牛込あたりの第二流の繁華な通りはもとより、銀座あたりの一流どころにもポツポツ見受けられる。しかしこの式の最も盛なのは浅草で、ここを遠ざかるに従ってチラリホラリとなって行くところを見ると、この式の開山は矢張り浅草で、ここを中心として東京の商売は「現実化」して行くのではあるまいかと考えられる。  そうして仲見世の実地試験応用の無言の行は、現実式中の現実式と云うべきであろう。  こんな事を云うとその道の人に笑われるかも知れないが、論より証拠、こうした正札一点張りの店で買ったり喰ったりしたあと、正札の付いていない店へ行くと、何となく不安心な上に、一々店の人に出してもらったり、価格を聴いたりしなければならぬので、恐ろしく面倒な気持がする。  店の方では叮重なつもりかも知れぬが、忙しい人間にとっては迷惑千万である。そんな事で手間取らせられてはたまらない。おまけに小僧や女店員がわからないで番頭の処に聞きに行ったりすると、いよいよそうした気もちになる。  殊にお世辞や、お愛想はまことにうるさい。余計なものまで買わなくてもいいのに買わされるような気がして、一種の不愉快さえ覚える。それを思い切ってやめると、 「まことにお気の毒様」  と心からあやまられて、逃げるように表へ出てホッとするような事が珍らしくない。  浅草ではそんな気兼ねは向うにもこちらにも無い。お金はこちらのもの、品物は向うのもので、あとは「もの」と「ねだん」の相談ずくで済む。しかも売り買いの中心は要するにそこだけである。そこを最も露骨に大道に表現しているから、浅草の店は現代式と云い得るわけである。追々と世の中が世智辛くなって来たら、こうした正札一点張りの無言の商売が大流行をするようになりはすまいか。  こう考えて来ると、浅草の観音様はエライものである。この無言と正札一点張りの仲見世の商売振りに、今一層輪をかけた商法の名人である。第一正札も無ければ、「毎度有り難う」も云わぬ。御利益のねだんは向うで勝手にきめて、ドシドシ賽銭箱に放り込んで行くのだから、お手に入ったもの。しかも自分ばかりでなく、まわりに大黒様だの何だの彼だのと、数十の神仏に元手要らずのデパートメントストアを出させて、何百年間大繁昌をして御座るのだから恐ろしい。おまけに御本体が一寸八分の黄金仏だとも云うし、木仏だとも云う。本当に御座るか御座らないか、それすらわからないのだから驚き入るほかはない。理想的と云っても現実的と云っても、天下これ以上の商法の名人はあるまい。      犬と羊と熊の皮  扨……観音様の商売振りには及びもないが、日本中の商店が浅草式の「無言正札」で、時間と人間経済の現代式一点張りになったとする。そうしたら只さえ人口過剰の日本は、フン詰まりになりはしまいかと云う人がないとも限らぬが、「心配無用」……。  雷門をくぐって、観音様の前を左へ行くとすぐにわかる。  第六区へ行く途中の往来に茣蓙を敷いて、白や黒や茶色の毛皮を十五六枚並べる。その上に日に焼けた若い男が前垂れをかけて鳥打を冠って、しきりにベランメー語を高潮している。 「どれでも構わねえ、手に取って見ておくんなさい。正真正銘の熊の皮が犬や猫の皮とおんなじ値で買えるんだから、安いと思ったら持ってっとくんなさい。二枚か三枚はけれあ、あっし等あ帰えるんだから……。  あっし等あ、ふだん北海道に出かけている皮商人ですがネ。ちょうど北の方の千島、カムサツカ、北海道の山奥あたりから引き上げて来る熊の皮屋から皮を仕入れて、あと月の半ばに東京へ着いたんです……。  ところで御承知の通り、毛皮商人ってえなあ半期取引ですから、今コレだけの皮を捌いても、この節季でなくちゃ金が取れねえ。そこへ金の要ることが出来たんで、こんな事をやっているんですがネ。慣れねえから、失礼なことを云ったら御免なさい。だが本物の熊の皮が二十円や三十円じゃ、あなた方の手には這入りっこない。御承知かしらねえが、熊の皮には二十八通りあって、価格もいろいろあるが、これは北海道の羆の皮だ。こんな立派な皮で、この通りお上の検査済みの刻印の付いた奴が、只の十円と云いたいが、思い切って八円半までお負けしとく……。  御存知か知らないが、皮のなめしは東京が一番ですよ。梅雨時になって虫の這入るような事は絶対にない。その代りなめし賃が高価い。差引くとあとは幾何にもならないのを、今云ったようなわけで捨て売りにするんだ……。  失礼ながら皆さんは職業紹介所のアブレじゃあるめえ。バラックの東京から鉄筋コンクリートの東京になるまで奮闘しようという人だろう。そのバラックの寒さを凌ぐにゃあ、これが一番だ。ボロボロ綿の晒しグルミの夜具を買ったって、五円十円は飛んで行く。それがどうです、この熊の皮が八円半だ……こっちの大きい方は二十円コッキリと云いたいが、もう仕舞い時だから只の一本半……十五円に負けとく……。  それからどうです……こっちの白いのは……これが北極の氷山に住んで人を喰う白熊だ。五十や百のハシタ金で手に入る代物じゃない。これが昨日までは四十五円と云っていたが、今日は諦めて四十円にしておく。惜しいけれども仕方がない。その上負けろったら四十一円だ……どうです、買いませんか旦那……まったく末代道具ですよ……こっちの親方あ、どうです……」  こう聴いているうちに、扨はバラック住居の連中の稼ぎ溜をねらっているなと感付いた。しかしそれにしてもあんまり安過ぎるから、調べて見たら、みんな黒犬と羊の皮だと聴いて開いた口が塞がらなかった。  その後気を付けたら、方々の縁日でやっているので、益驚いた。とても「無言正札主義」なぞの及ぶところでない。つくづく日本は広いと思わせられた。      一円七十銭争奪戦  前に述べた「無言の正札主義」と「おしゃべりのゴマカシ流」とは、現代式営業の両極端を見せている事になる。これに観音様の「無言の無正札」式営業振りと、境内の乞食の稼ぎ振りと、チンピラの掻っ泄い生活、立ちん坊の働き具合まで加えると……大きく云えば人間世界……小さく見れば全東京のあらゆる商売振りを代表したものが、十八間四面のお堂のまわりに集まっている事になる。  但、これは昔からあるので、今度震災後特に眼に付いたのは、その売り物の価格が向上した事と、そのねらっている客筋が違うことである。  毛皮売りは大道商人の中でも一番|高価いものを売るのだそうだが、まだこのほかにも一円以上のものを大道で売るのが沢山居る。  万年筆売り、友禅のセリ売り、ガスの靴下やメリヤスのシャツの糶売り、銀台|鍍金の銀眼鏡と鎖売り、水晶の印形売りなぞ数え立てて来ると際限もない。五銭や七銭のものは震災後ズッと減ったので、縁日物と云っても馬鹿に出来なくなった。  こんな縁日商人は上等のところを一つ売れば、二三日乃至一週間は楽に喰えることが、品物のタネを洗って見ればすぐにわかる。  靴下は二度染め。シャツは洗い返しで、糊とアイロンが巧妙に利いている。硝子の水晶、鉛やアルミの鍍金鎖なぞは説明までもない。友禅と名づくるものは、浅草の活動館のメリンスの旗や何かを強い薬で色を抜いて、印刷同様の片側染めにしたもので、汗が出ると肌に染みる、引けば破れるという代物である。 「天保銭一枚がもう無くなった」というのは疾の昔の事。三人で一円持って浅草に行って、活動を見て、すしを喰って、それで電車賃が余るか余らないかという十年前の勘定でさえ、今はもう夢の夢となっている。  昨年か一昨年かの事であったそうな。観音様のまわりに居る興行師が寄り合って、面白い統計を作った。その統計の眼目となっているものは、浅草に来る人々の懐にいくら金があるかという事である。  これはその組合の仕事の標準となるべきもので、非常に厳密な且つ巧妙な手段に依って作られたものだそうだが、その結果、あの雲霞の如く浅草に押し寄せる人々は、平均三人で五円の金を持っている事がわかった。それが現在の浅草に於ける芝居、活動の観覧料の標準となり、延いて日本全国の活動や何かの料金にも或る影響を与えている訳である。  取りあえず三人で五円持って浅草に来ると、一人前七十銭の活動を見て二円九十銭残り、二円九十銭で何か食べようか、それとも今一つ何か見ようかという事になる。  浅草の空に翻る旗差し物、鐘、太鼓、鳴り物の響き、鬨の声、矢叫びの音は、皆この一人当たり一円六十八銭弱の争奪戦のどよめきと見るべきである。  但、これは平均の勘定で、殊に大事に大事を取った数字だそうだから、実際はもっと余計に持っている者がすくなくないわけである。その中でもどんな客筋が一番余計金を持っているか。浅草に来る最上のお客様は矢張り昔の通り赤|毛布諸君であるかどうか。  浅草一帯の店の「正札無言主義」は、明らかにこの狙っている客筋が田舎者でない事を証明しているが、更に一層ハッキリと説明するものは前に述べた縁日商人の口上である。      大貴金属商の失敗 「どうだい、本型の友禅だ。しかも最新流行の埃及模様と来ている。京都の織元で織り上げたところで疵が出来たから、こうして切って売るんだ。一丈五尺以上あるんだから、帯の片側と繻絆の袖位は楽に取れる。バラックの窓かけにでもしたら素敵なものが出来る。手土産にして大したもんだ。一尺の元値が三十銭だから、これだけで四円五十銭になるんだが、負けて三円……二円半……エエ、ヤッチマエ……二円だ……一円八十……」 「甲州産の水晶は世に定評あるところ、殊に印形となりますと、水晶のに限って贋ものが出来ませんから、まことに重宝で御座います。この節のお仕事を遊ばすには、印形ほど大切なものは御座いません。水晶の印をお用いになれば、彼の新聞に出まするような恐ろしい詐欺や横領、その他文明社会に流行しまする法律悪用の悪漢の毒牙にかかる患いは一切ございません。わけてもこの東京に於てお仕事を遊ばすお方様には、特におすすめ致します。指紋は間違うとも、水晶の印だけは間違わぬ。文明の悪徳退治、地位と名誉と財産の守り神と云われる本場水晶の印が、御覧の通り一円から十五円まで取り揃えて御座います。お高価いようでお安いもの……」 「エエ、これが畳針でございます。厚いものをお綴じになるので、市中の相場が一本十二銭。これが大皮針の十銭に、中の七銭、小さいのが五銭。先の処が鋭利な三角になっておりまして、舶来のトランクでも楽に通ります。その他|木綿針、メリケン針、絹針、刺繍針、合わせて三十本で僅か二十銭……これだけあればどんな縫い物でも出来ます。奥様やお嬢様へのお土産はもとより、独身生活のお方の福音として歓迎されております。サックまで付けて今夜は只の十五銭……折れるの曲がるのという御心配のないメリケンスチールの精製品……ハイ只今――」  これだけの口上を聞けば、浅草に来る人々にバラック住居の稼ぎ人が多勢居ることがわかるであろう。そんな連中が、こんな品物に釣られる程度に東京慣れしない田舎者で、しかも、懐具合いは割り合いにいい事が推測されるであろう。  いずれにしても浅草は昔の浅草でなくなった。赤毛布が上花客でなくなった。現代式とか文化的とかいう言葉を理解する新東京人……半田舎者を相手にしていることがわかるであろう。  その中に観音様だけは、昔の通り純江戸ッ子と純|赤毛布だけを相手にして御座るわけになる。  新東京人――即ち半分東京化したバラック住民の偉大な勢力は、単に浅草の商売に反映しているばかりでない。第一流どころの大商店の商売振りにも明らかに影響しているのである。  全国的に有名なる貴金属商店では、地震が落ち付かぬうちに全国の各都市に支店を作って、有らん限りの品物を送り付けた。もう東京は駄目だ、その代り地方が繁昌するに違いないと、機敏なところを見せたつもりであったらしいが、豈計らんや事実は正反対になった。  昨年の冬から今年の春へかけて、貴金属や宝石の売れる事売れる事。但、それは大抵中等以下の品で、買いに来るものは、十中八九まで大工、左官その他の労働者の家族であった。  遷都の御沙汰がないときまった復興気分の凄じさ。その反対に人手は不足と来たので彼等の恵まれた事。大工や左官なら仕事の真似さえ出来れば一日五円六円という景気で、銀行や会社が地震をキッカケに大淘汰や大縮小をやったのと正反対の現象を呈した事。その勢が東京市中に数倍の飲食店を作り、安流行、安贅沢品を流行らせると同時に、かような大商店にまでも影響したので、一時は実に物凄い程の売れ行きであった。  その貴金属商の支配人は驚くまい事か、各支店に「品物を大至急送り返せ、あとは店を畳んで引返せ」と、電報の櫛の歯を引いたという喜劇をやったそうな。      眼を驚かす眼医者  今一つこれも全国的に名を知られている或る百貨店では、地震後の東京を見限らずに、却って大拡張をする方針を取った。即ち本店を復興すると同時に、東京市内各区に一つ宛デパート式のデパートを作ったが、それがズドンと当って繁昌するわ繁昌するわ。尤も一時その筋で各商店の品物を調べた時、味噌の斤量が足りなかったというので、「ミソコシが怪しい」という洒落まで出来たが、それでも驚かずに盛に押寄せる。しかも品物を先ず支店に廻して、売れ残ったのを本店に持って来ると、忽ち売れてしまうという新発見をしたというので評判になっている。  その各支店をまわってその売れ残りの特徴を聞いてみたら、各区民の生活状態を考えるために面白い材料になるだろうと思ったが、あまり大袈裟になりそうなのでやめにした。  広告を見てもこの傾向――新東京人の勢力がわかる。  先ず東京市内の大商店の広告をいろいろ見比べて見ると、第一に信用戦で暖簾を守り、次第に流行戦に移って他を圧倒してやろうという気合いが見える。  或る呉服屋が一流どころの画家を集めて裾模様の展覧会を遣ると、一方では西陣の腕ッコキ連を呼び出して友禅染の品評会をやるといった調子である。出来る限り一般の批評に訴えて信用ある仕事をしたいという傾向が、震災後すべての方面に見えるが、これなぞもその一つであろう。  この辺まではまだ民衆的といいながら上品な方で、東京カブレをした田舎者釣りという気持ちがすくない。つまりバラック気分が薄い方であるが、この以下となるとそうした気味合いが特に露骨になって、地方人の眼をまわすような実例が到る処に発見される。  尤も東京は元来こうした処で、何も今更驚くには当らぬと思う人があるかも知れぬ。又実際その通りであるが、只その風がバラック以来東京の全市に拡がっただけが昔と違うのである。東京市中の最大と称する以下の商店は全部が全部、広告戦の人呼び戦と云って差支えない。その中で昔風の商売振りをしてこの風潮に対抗しているのは、前記の大商店だけと云ってもいい位である。  言葉を換えて、東京の商売の中心である下町の商売振りは、全然バラック式になったと云う方がわかりいいであろう。実例を挙げるまでもあるまいが、眼に止まったままを前後お構いなしに左に掲げて見る。 「最新の学説である問題の『若返り法』はわざわざ九州クンダリまでお出にならずとも当店で達せられます。当店の最新流行の衣裳をお召しになれば……」  云々の大文字をお祭の大|燈籠位の箱に書いて、下に禿頭と大|丸髷が狸と手を引合ってダンスをやっている絵が描いてあるかと思うと、家伝「禿頭病専門名薬」という広告が何かの新聞に出ていた。いずれも九州帝国大学の向うを張ったものらしく、ここに書くのも失礼な位である。  序にお医者様の方を挙げると、或るお医者様は排米問題が起るとすぐに、表に「米国人の診察お断り」という張り札をして都人士の眼を驚かした。その註に曰く……米国人は日本人を獣扱いにした……そんな獣の眼まで診察してやる義務はない……と。今に親米になったらどうするだろうと思うが、そんな事は構わない。目下の人気さえ取れればというつもりらしい。      「商品の民衆化」とは  今一つ、記者の「眼」を驚かした眼のお医者がある。銀座尾張町の四辻で電車を待っていたら、袢纏着の男がビラを一枚|呉れた。活動の引き札かと思ったら大違い。 「あなたの眼は健康ですか。文明社会の生活では眼ほど大切なものはありませぬ。眼の良し悪しは直に一身の安危になるのですから、不断の注意を怠ってはなりません。おわかりになりましたならば、○○ビルディング何号医学博士の診察所へいらっしゃい。何曜と何曜は診察無料です」  という意味で、福岡市のお医者様でこんな事をやったら、忽ち仲間外れにされそうな広告である。  人格と徳義を最も大切にするお医者様の、しかも何々博士と銘打った人までがこうした最新式の営業振りを見せる程、震災後の東京の商売は発達しているのだから、他は推して知るべしである。勿論、蒸溜水を注射して十円取るのと違って、国家に貢献する事は大であるが。しかもこういった式がバラック以来の流行である事は間違いない。先年、京都で或るお医者様がビラを配って大問題になった事を考えると、隔世の感があるのである。  特に九大を有する福岡市のために書き添えておく。  次に御紹介をしておきたいのは、「商品名懸賞募集」と「価格懸賞投票」という二つの広告法である。この方面の智識に暗い記者は未だ福岡市でこの種のものを見た事がないから、バラック式の一例として挙げたのであるが、珍らしくなかったら御免なさい。  商品名募集というのは、鼻紙とか鉛筆とかいうものの新製品を、繁華な往来に並べて価格を付けておく。買いたい人は買うのであるが、その紙なら紙が上等なわりに価格が安いのに、何という紙か名前が付いていない。  その側に大きな看板を立て、 「名前をつけて下さい      皆様の文化的要求に応じて    新しく生れたこの紙に……」  と大書して、締切り期日や審査員の文士? の名前となにがしかの懸賞金額が赤丸付きで発表してある。その傍には鉛筆五六本と紙と投票箱が置いてある。  こうして一月ばかりして開票されると、投票数が何千何百人、当選者の氏名なぞをその往来に貼り出して、今度は名前入り引き札付きの紙を売るので、押すな押すなの盛況で売れて行く。  次に価格懸賞募集というのは、たとえば或る洋品店で毛糸のシャツの山をショーウインドの中に三つ作って、一号から三号まで印を付ける。一方に一等賞から五等賞まで、十円以下の品物の賞品を二三十積み上げて、表にこんな大看板を立てる。 「当店が今秋の破格大安売りとして提供すべきこの品の一号二号三号までの価格を御決定下さい。公正なる発表を致しまして当選者には陳列の品物を一個|宛呈上致します。当店の社会奉仕的精神の発露は今や極度に……」  云々と書いて、鉛筆と紙と投票箱が添えてある事は前の通りである。  通りかかりの労働者、学生、紳士などは勿論、人通りのすくない雨の日なぞは、女子学生らしいのまで硝子窓の外から穴のあく程品物をのぞいては鉛筆をヒネクッていた。  十四五日にして開票の結果は、総数二千有余、何円以下何円以上何名何名、一等八円いくら、二等六円何ぼ、三等五円なにがしと決定して、一等二等の当選者の宛名にした賞品の小包みが山積してあった。無論、その価格でドシドシ売り出している。  以上は不道徳でない範囲の広告法で、殊に最後の二つは人通りばかりを相手にした極めて真剣斬新な広告法である。これ以下の不道徳な範囲になって来るともう数限りないので、東京の新聞の案内欄を見ただけで思い半ばに過ぐるものがある。しかも震災後そのようなものの増加は特に著しく、一々挙げたら際限がないから略する。  これを要するに、以下述べたところで東京市内の中流以下の商店の広告が如何に平民化しているか……否、東京市内の商売振りが如何にバラック気分に充たされているかが容易にわかる事と信ずる。    生活の巻      東京人の色別け  この間の大地震と大火事とは、東京人の非常な多数を東京から追い出した。そのあとへそれ以上の地方人を迎え入れた。  この推測は当らずと雖も遠からずであろうと考えられる。交通機関の混雑ぶり、市内の商店の営業振りを見てもわかる。  その新しい東京人は次第に都会化して、現在その中途半端なところに居る。各種の商店の広告振りや、大道商人のオシャベリ振りがこれを暗示している。その土地の商売はその住民の生活の反映とはよく云ったものである。  この半分東京化した地方人の大多数に、従来から東京に居た人間の種類を加えて見ると、現在の東京にはどんな人間が居るかという事があらかたわかる。  いの一番の筆頭は華族様、富豪なぞいう御方々で、東京では勿論の事、日本でも上流のパリパリ。汽車なら無論白切符か特等車で、自動車なら紋章入り、一台以上の格である。人数は無論震災前とあまり変らぬ。又|無暗にかわっては大変である。  第二は知識階級を中心とした江戸ッ子と非江戸ッ子で、切符なら青赤混合というところ。自動車ならば無論持たず、プロ意識の最強烈な中流の種族である。  この非江戸ッ子の中に学生と腰弁がいる。学生の方は家族同伴が些ない事と、東京の復興に直接努力をしない事を特徴としている。その代り最新式の気分を真先かけて高潮させる役目は、いつものがさずに受け持っている。腰弁の方は家族同伴でやって来た新分子が多い。しかも学生と違って、直接復興事業に携わっているのが半数以上と想像される。  次は純赤切符階級の江戸ッ子と非江戸ッ子である。その中で後の連中には、各種の車掌や運転手なぞいう壮年青年の男、又は若い女が多い。東京復興の下廻りをやる労働者、又は復興気分を飾る女事務員、給仕女といった人々で、現在の東京の各階級の中で最大多数を占めている事は、町を歩いて見れば一目瞭然である。  以上の各人種の居る処を極く大まかに区別すると、中流以上は山の手から郊外に居るので、旧東京人が多い。それ以下が下町のバラックに居て新東京人となり、新東京の新文化を作りつつある事になる。  このような各人種がどんな生活を営んでいるかという事は、面白い且つ大なる研究問題である。  東京人の生活といっても一概に云えぬ。世界一の大都市だけに、上中下どれともつかぬ階級の人間や、思い切った変態生活者が夥しい。  金鎖を下げた乞食……三年も湯に入らぬ富豪……家の無い自動車持ち……妾の四五人も居る無妻主義者……愛国的の名目を持つ亡国運動者……社会主義的団体名を振りまわす成り金崇拝者なぞ、数え立てれば限りもない。  勿論地方にも居るが、東京には特別に多い。  それは十把一カラゲに街頭から見た観察だから、多少の見損いは許していただきたい。      百万円の花火一発  今仮りに或る一文無しが百円の金を儲けたとする。  その中から二十円を奮発して芝居見に行く事になったとする。  これを聞いた人々が、 「ソレは身分不相応だ……ブル思想だ……二十円の金で何十人の飢が凌がれると思う……血も涙も無い奴だ……第一百円の金を儲けるのが不都合だ……大方泥棒でもしたんだろう……元来金というものはソンナに一人占めにすべきものではないのだ……ソレを自分の物のように心得て、事もあろうに芝居見に行くとは非国民の行為だ……国賊の所業だ……民衆の敵とは貴様の事だ……行くなら行って見い……打ち殺してくれるから」  と罵ったらどうであろう。  罵しられた方は当り前の人間で、罵った方が馬鹿か気違いにきまっている。そうでなかったら、お金欲しさに血迷った奴である。こんなのがお金に有り付いたら、二割や三割どころでない、十割以上も飲み喰いして足を出す輩である。ブル以上のブル根性を発揮する連中である。だから平生貧乏しているのだと冷かされても仕方があるまい。  ところが事実はこれを裏切った。天下の富豪大倉喜八郎氏が百何十万円とかを投じて賀筵を張る。そのために支那から俳優を招くという事が一般に伝わると、真剣な意味で非常な輿論を捲起した。  大倉家の財産がいくらあるか知らぬが、割合にすれば百円に対する二十円よりも小さいにきまっている。さあ新聞でタタク。何とか会員が脅迫に行く。いよいよ賀筵になると、警察が青くなって巡査に護衛させるという騒ぎであった。  何がどうした、だれがどうなったという事は一つもない。只百何十万円という声に昂奮しただけである。大倉の爺さんが爺さんなら民衆も民衆で、馬鹿馬鹿しいと云おうか情ないと云おうか。日本のブルジョアとプロレタリアットとが、大体に於てコンナ浅薄なブル思想に囚われた議論で押し合っているのなら、どちらにしても「ドッチモドッチ」である……記者は街頭に立って夕刊を読みながら天を仰いで嘆息した。  笑ってはいけない。記者は真剣である。国賊だの民衆の敵だのと、まわりくどい事は頭に浮ばぬ。只、「それだけのお金が欲しい」とシミジミ思わせられたのである。  それはそれとして、日本の上流社会の一番ドエライところを代表したのがこれ位のところで、紀文や奈良茂の昔語りよりも大分落ちるようである。  この百万円の花火がタッタ一発上がった切りスッと消えてしまうと、あとの世界は又薄暗い不景気になってしまった。  皇室では内帑を御|約め遊ばすという。浜口蔵相は大整理を断行するという。銀行は大合同になりそうだという。復興債券が売れたのは、不景気でもがいている人間が多いためだという。  何だか知らぬが、東京市の内外に空屋が殖えたのは事実である。新しいバラックもたしかに殖えなくなったようである。それかあらぬか、浅草へある用事で一ヶ月ばかり通っているうちに、賑やかな店のかわったのがいくつも眼に付いた。中には半月ばかり置いて、二度も商売のかわった店を見受けた。尤も、浅草の六区界隈の地代は一坪で三四十円は間違いなく取られるので、不景気だと真先にこたえるのはここであるが、それにしてもあんまり甚だしい。  然るにこの不景気も、日本橋から銀座という東京目抜の通りに来ると、余り眼に付かない。三越、丸善、ホシ製薬、玉屋、天賞堂、白木屋と、まだいくらでもある有名な大商店、大銀行、大会社、大ビルディングがドシドシ復活して、古い暖簾を振りまわしている。こうした大商店の復活は、或る一面から見れば、東京の貴族や富豪、又は中流以上の階級が、震火災の打撃をあまり受けなかった証拠とも云える。殊にそうした階級の連中は、純粋の田舎者と同様に大きな名の通った店から物を買うので、一層この事実を裏書していると云えよう。  上流はこれ位にして中流に移る。      地震|鯰と大蔵大臣 「不景気の最もコタエないのは学生で、その次は腰弁だ」という。そう考えられぬ事もない。  腰弁は月給、学生は為替で、いずれもあまり照り降りはないと云える。あるとすれば身から出た錆か、冬物の質受け、もしくは病気等いう内側から湧いた照り降りである。下層や上層の社会のように、仕事にアブレたり、行き詰まったり、破産したりするような心配は先ずない筈である。  しかし腰弁は、不景気となると、「首」という問題が起る。さもなくともボーナスの減少と来るから、照り降りはなくとも心臓には応える。寧ろ極度の貧血に陥るものが多いので、結局ノンビリしているのは学生ばかりとなる。 「ジョジョ冗談じゃない。東京はこの頃とても遣りにくくて……」  なぞ云う学生諸君があったらウンと窘めて上げる事にして、ここでは先ず腰弁諸君の御噂から申上げる。  コザコザした物価調べなぞは抜きにして、東京の物価を福岡のソレと比較すると、牛肉が二倍、鶏が三倍、野菜や生魚が二倍半位にも当ろうか。十月から十一月頃、百円の月給では気の利いた下宿にも這入れぬ。  しかも学校を出てブッ付け百円取れるところは、東京中に無いと云った方が早道である。役所の帰りに荷車を引いて帰る男、制服のズボンで我慢をしている会社員、女持ち洋傘を翳して行く役人なぞいう式は、いくらでも見付かる。番傘とゴム靴に到っては数限りないと云ってよかろう。  こんな風をしてあるけるようになったのも偏に震災の御蔭である。「地震鯰」もこういう風にばかりゆすぶっていれば、大蔵大臣にして差支えない。  も一つ序に地震の御蔭を云えば、前に云った日比谷や芝離宮、その他の避難民小舎にかがんでいる腰弁連で、百五十円取って、家族同伴で家賃を払うとすれば、どうしても十五円や二十円は取られる。無家賃でも、すこし油断をすれば生活費が一パイ一パイになる事|請合で、軽蔑されても罵られてもバラックに獅噛付いていたいという心理状態は、可愛相と云えば可愛相である。  茶色になった麦稈帽子は以前にも増して殖えたように見えた。汗でリボンを真黒に染めた中折れも御同様に思える。それかあらぬか、さる富豪が二十何年同じ麦稈帽を冠ったというので、新聞に大々的に推賞されたのは、どれ位彼れ等の参考になった事であろう。  こうした事実の半面には、又彼等をギューギューいわせている或る種の圧迫がある。それは着物道楽と文化生活である。  この二ツは現在の東京の腰弁級の最高の理想と云って差支えない。この二ツの理想が彼等を刺戟している間に、彼等はいつまでもピーピー風車でいなければならぬのである。  ここで一寸説明しておきたいのは、腰弁の上中下三階級である。 「腰弁」という名称の起りは、腰にブラブラしたアルミの弁当からであるが、それが今では月給取りの総称になってしまった。そうして本当の腰弁はその中の最下層に位する事になったので、それ以上のは有名無実の贋腰弁である。甚だしきに到っては奏任以上までが腰弁を僭称しているが、その実弁当は洋食や丼にするという有様で、正に「腰弁精神」を穢すと云って差支えない。正真正銘の腰弁である記者はいつも衷心から憤慨しているものである。  閑話休題……ここでは月給取りの総称を便宜と習慣上腰弁と云っているが、今まで見渡して来た生活は、その腰弁中の腰弁の生活である。  彼等の収入は先ず百円内外で、ウッカリしなくとも、事実上労働者以下の生活と云った方が早い。  この頃の労働者の間違いない収入が、月に見積って最低百円とする。腰弁も同じく百円取るとしても、こっちは身なりが要るのと、教育があるために労働者程度の交際は出来ないので、その生活の程度はイヤでも労働者より落ちなければならぬ。  震災後、東京市中到る処に軒並べて出来た安飲食店や弁当屋、カフェー等は彼等の唯一の慰安所でなければならぬが、そんな処でビールの満を引いたりしているのは大抵稼ぎ人風の男である。腰弁風のは居ても、独身者らしい若いので、隅ッ子に小さくなっているのが多い。      中流の着物道楽  中流以上の腰弁、ここでは主として男となると、こんな安飲食店や何かに来ない。下宿生活にしろ住宅生活にしろ、東京市内ならばダリヤの一鉢、市外ならばコスモスの十四五本も植えた庭を睨めて納まっている。這入るにしても相当の体裁をしたカフェーや飲食店で、アイスクリームや曹達水位は平気で嘗めたり吸ったりしている。  この連中の最近の道楽が、前に云った着物道楽と文化生活である。強いて階級を付くれば、着物道楽が二百円級、文化生活が三百円級の理想と云えようか。 「東京の中流階級の男の風采がジミになった。その基調色は茶や黒又は鼠色で、昔のような派手なスタイルは下火になった」と或る新聞に出た。これは万人がそう認めているところである。「日本の中央都市にこんな堅実な風俗が流行するのは慶賀すべき現象である」とさえ云っている。  果してそんな結構な流行かどうかは別として、そのジミになった彼等の服装をよく気をつけて見ると、決してジミでないことがわかる。  如何にも色だけは渋い目立たぬ柄を選んであるが、その生地を見ると、田舎者の肝を潰すようなのが珍らしくない。こんな高価な服を着る人が、何でムザムザ電車に乗るのだろうと思うのさえある。つまり、皆がいい服を着るようになったために、自然と柄が高等になったので、決して渋い柄が流行する訳でない。高価な服が流行し始めたために、安い服までも渋い色調が流行するようになったと見るべきである。  御蔭で派手なヤンキースタイルは殆ど一掃された。水蒸気の多い日本の空気と、日本人の皮膚の色とに、最もよく調和する洋服が流行するようになった。結構といえばこの方が結構であろう。  震災直後の秋は別であるが、今年も春から秋へかけて、浴衣一枚の帽子無し、足袋なしの連中が下町の通りを毎晩一パイにゾロ付いた。彼等は他所行き一張羅にばかり全力を注いでいるのだ。  も一つ例を挙げると、昨年の冬まで各種の雑貨店は安物全盛であったが、この頃では全然一変して高価な物をかなり多く並べる。五円級以上のワイシャツ、十円級以上の冬帽子は珍らしいものでなくなった。就中プラチナの腕時計が如何に彼等腰弁の仲間に流行しているかは、一寸東京に行った人でもすぐに眼に付くところである。  彼等の中でも独身者は二百円以上取りながら……そうして相当の年輩となりながら、この身のまわり道楽に見込まれて、依然として洗濯を他人任せにしているのが珍らしくない。これには性の問題も影響している。自己紹介の必要の度合も昔よりも高まったというような理由もあろう。しかし、とにもかくにもこの道楽は忘れられないと見えて、月給の力を出来るだけこちらに注ごうと試みていることは事実である。      駱駝の胃、猿の頬  この中流階級の身のまわり道楽……一方から見れば渋い物流行は、呉服屋の宣伝でもなければ、その筋の奨励でもない。矢張り過般の大震災の影響と見るのが一番当っていると思う。  こんなところでウロ覚えの進化論なぞを持ち出すのは工合が悪いが、説明に便利だから一寸失敬さしてもらう。何かの本にこんな事があった。 「生きているものは一度でも或る変災に出会うと、二度とそんな眼に会いたくないという消極的な気もちと、これに抵抗してやろうという積極的な気持ちで、習慣や何かを一変させる事がある。これは一面から見ればたしかに進化に相違ないが、一方から見れば退化としか見られぬ事が多い」  この事実を最も著明に証拠立てたのが今度の地震であった。  今度の地震で、あらゆる家が焼けたり、たおれたりして、多勢の人が逃げ迷うのを見た東京人は、家とか財産とかいうものがまるで当てにならないものであると感じた。  さなきだに東京の人間は、江戸の昔から家に対する執着心が薄かった。 「一人もの店賃程は内に居ず」 「煤掃きも面倒臭いと移転する」  で、家に対する執着が誠に少ないところへ、大地震と大火事で肝の潰れる程の教訓を受けたのだからたまらない。その後も引き続きグラグラと来るたんびに、何でも身に付く以外のものは無くなっても構わないようにという気持ちになって来た。  一方、震災後地方から押し上った連中も、早速この風にカブレてしまった。コレという家財も無い身の軽い生活がこの道楽に陥り易い事は云う迄もない。況んや「風采即信用」という風俗の格言が滔々として世を蔽いつつあるに於てをやである。  つまり、こうしておつとめ服の身のまわりにさえ金をかけておけば、借金取りでも滅多に寄り付けぬ。質に置くにも都合がいい。そうして素破という場合にはいつ何時でも、手と身とツンツンで飛出しさえすればこっちのものになるというわけである。  支那人が股倉に金を貯め、駱駝が胃袋に水を溜め、猿が頬ペタに袋を下げ、牛が胃袋を四つ持っているところを、日本人だけに着物で気前を見せているのであろう。  進化か退化か知らないが、東京人がこうまで魘えてちぢこまっているかと思うと情なくもある。東京の新聞に大きな標題を付けた地震の学説がこの頃まで出ているところを見ると、こんな知識階級のビクビク加減は地方人の想像以上であるらしい。  着物道楽……独身主義の延長……という、虚栄に囚われた女にでもありそうな傾向が男の中に流行している……女は無論の事……というこの二ツが東京にどれだけの独身生活者を殖やしているか、そうしてそれがどれ位まで東京の風俗を乱しているかは、話の筋をそれるから後まわしにする。  扨……こんな着物道楽の連中がいよいよ身のまわりを充実さして、新しい「アアラ吾が君」と同棲したとなると、今度は文化生活が理想となって来る。  つまり着物道楽は独身者の心理表現で、文化生活は夫婦者の理想の発表とでも定義しようか。      文化とは「ブル化」?  東京人の憧憬する文化生活を研究するには、先ず「文化」という言葉の定義からきめてかからねばならぬ。  文化という言葉はバラックと同様あんまり有触れ過ぎて、どんな事を意味するのか訳がわからなくなっている。  文化生活、文化村、文化住宅、文化机、文化|竈、文化タワシ、文化丼、文化|饅頭、文化|煎餅、文化まめとなって来ると、どこが文化なのか見当が付かぬ。  縁日に出ている停電用の燭台や電球蔽い、書翰箋やインキ壺まで文化と名づけてある。かと思うと、書物には文化出版、売り出しは文化的提供、文化的家具一式、叮嚀親切薄利多売は文化的広告なぞいう看板がある。  つまり安くて便利で重宝でハイカラなのが「文化」かと思うと、そうでもないらしい。  この頃、文化納豆というのが出来たというから八百屋に行って見せてもらうと、羊羹包の位なヘギの折りに這入っていて一個十銭である。普通のが五銭だから、よっ程上等だろうと思って喰って見ると、只の納豆で別にかわった事はない。只|高価いだけである。  生れつき頭の悪い記者は、念のため今一度買った八百屋に行ってきいて見たら、「今までの藁苞に這入っているのでは、そのままお膳に乗っけられませぬ。つまり文化的でないというので」と云う。「じゃどうして高価いのだ。この箱代が五銭するのかね」と聴いたら、「新婚の御夫婦や何かは、大きな声でナットー屋アなんかとおっしゃりにくいと見えましてね、こちらがお気に召すらしいのですよ。エヘ………」と妙な文化式の笑い方をした。トテモワカラナイ。  新聞の広告や何かに「文化的○○薬」だの「文化○○サック」なぞいうのを発見して、文化の意義をいよいよ怪しんでいると、或る横町で文化焼芋というのを発見した。近寄って見ると、皮を剥いて丸焼きにしたところが「文化」なのだそうな。アライヤダ。イヨイヨ小三の落語式になって来た。  この塩梅じゃ足を棒にして眼を皿にしても、「文化」の定義は見つからないと諦めた。  ところが文化の方では、なかなかそれ位の事では承知しない。まだまだ沢山あるという。何だと聴いて見ると、必ずしも文字に書いてなくとも、文化の意義を含んでいるものが数限りない。近頃|八釜しい「性教育」には立派な文化的意義があるので、女学校で教えるお料理に必ず出て来るテンピも、文化生活になくてならぬものだそうである。フライパンや紅茶沸かしは云うまでもない。  こいつを今一層文化的にすると、 「御飯とお惣菜は女中が作るでしょう。漬物は売りに来るでしょう。お料理は取るでしょう。だから家事科なんて必要はないわ」  という式になる。つまり奥様は一切手を濡らさないのが最高の文化なのだそうな。  まだある。  音楽なぞも文化生活には必要なものだそうで、楽譜や楽器の売れる事売れる事。よくきいて見ると、ハーモニカやシロフォネンなどは子供のオモチャで、マンドリン、ギタ、ヴァイオリン、洋琴やピアノなぞが本当の文化的価値があるものだそうだ。しかも昔なら、 「鐘一つ売れぬ日も無い江戸の春」  というところを、今日では「ピアノ一つ」と改めて差支えない勢である。  尤も本当のピアノは高価いから、この頃では和製の手軽い安いのがドッサリ出来るからで、正にピアノ全盛になって来た。  尤もこれはブンカブンカと鳴るからかと思うと、蓄音器も文化生活に必要なものだそうで、この頃では縁日なぞでもチーチーガアガアとレコードを売っている。  まだまだ数え立てると限りもないが、要するにトドの詰まるところ文化生活の理想は何かと考えて来ると、彼等が学生や腰弁時代に口を極めて罵っていた、ブルジョアの金殿玉楼生活だという事になるようである。つまりそんなに早くブルにはなれないし、よしんばなれても近頃流行の社会主義が怖いから、止むを得ずいくらか安っぽいブル趣味に「文化」と名をつけて、お茶を濁した生活をしているのだとも見える。  何の事だ、馬鹿馬鹿しい。それならそうと早く云えばいいに、「文化」だとか何とか今道心見たような名を付けるからわけがわからなくなる。 「ブル化」と云った方が早わかりするじゃないかと一時は思ったが、これは文化生活の内容を見ない前で、一度実際をのぞいて見たらナアール程と又首をひねらせられた。  文化生活にはもっともっと深い意義がありそうである。頭の悪い記者にも気の付いた条件が三ツ四ツあるが、そのいずれもがなかなか意味深長である。      老人と子供排斥  文化生活とはどんなものかと、所謂文化住宅をのぞきまわって見る。  文化住宅は市内にもチラチラ見える。中野や大崎には集団を作っている。文化住宅の模型だけを並べている建築屋もある。  そんなのを見てまわると、どれもこれもバラック趣味の凝り固まりである事が第一番眼に付く。文化生活の第一条件は、その住宅が必ずやバラック趣味でなければならぬ事であると云ってもいい位である。  文化趣味からバラック趣味が生れたのか、バラック式が文化式の元祖なのか、その辺はまだ研究中であるが、現在東京市の内外で見受ける文化住宅には、バラック建築の余興位にしか見えないのが多い。  先ず暗い色のセメント壁に、白いペンキ塗りの窓がある。そこへ生蕃人の腰巻見たようなカアテンがブラ下って、その蔭に十五銭位の草花の鉢が置いてあれば、間違いない、文化住宅と云ってよろしい。  第二の条件は、文化住宅のどこかに立派な書物を詰めた上等の本箱が光っている事で、これは説明するまでもなく是非必要である。床の間に真黒い軸をかけて、前に品のいい花を活けた精神修養式の趣味は時代遅れである。新しい智識や情緒を詰込んだ金文字の権威を見せるのは、文化住宅として当然の心掛けでなければならぬ。  近頃活躍し出した出版界が何々全集、何々叢書と矢鱈に金文字気分を煽るのは、主としてこの流行を当込んでいるものと考えられる。  第三の条件は甚だ怪しからぬもので、仁義道徳はもとより国体にも背くのであるが、最も大切な条件だというからイヤでも書いておかねばならぬ。即ち文化生活に老人の必要を認めない事で、その次は成るべく子供のいない事である。  文化生活の片隅に老人がウロウロしていたり、子供がワイワイ云っていたりしては、「文化」の意義をなさぬのだそうな。記者の如き親孝行者は実に憤慨の余り涙がこぼるる次第である。  第四の条件は、前のと違って一寸愛嬌がある。文化生活には犬か猫か何かが是非一匹いなければならぬというのである。  これは一つには装飾や楽しみの意味もあるが、今一つには、こんなものを可愛がっていると自然と人間の優越感を享楽する。同時に彼等の自然な動作から、極めてデリケートな或る神秘的のヒントを受けるので、文化の文化たる所以が一層高潮されるのだそうな。  ……と或る文士から説明を聞いたが、記者には何の事かわからなかった。或は頭のいい読者諸君にもわからぬかも知れぬ。しかし、わからなくとも事実は事実である。  或る大きな活動写真の撮影場に行って見ると、九官鳥、鸚鵡、インコ、紅雀、カナリヤ、※なぞが籠に入れて備え付けてある。これは新派の文化生活の場面を撮る時に、是非共こうした鳥籠を持ち込まなければ納まらぬからだそうである。  又、東京市中をまわって見ると、新しい鳥屋がかなり多い。這入って話を聴いて見ると、「震災後、小鳥道楽は下火になりました。鶉はもとよりの事、鶯なぞも古くから研究している方がないでもありませんが、次第に廃れて行くようです。一番小鳥を余計にお買いになるのは若い御夫婦連れで……」という話。直接文化住宅をのぞいて見ても、大抵は何かほかの動物が付きものになっているようである。 「文化文化」と啼く鳥がいたら、どれ位歓迎されるであろう。  こうなると「文化」の意味が一層わからなくなる。何の事はない。文化生活という事は、老人や子供を人間世界から追い出して、代りに禽獣や書物を取り入れた事になる。書物が親の代り、禽獣が子供の代りでもするのであろうか。とても当り前の教育程度では要点が掴みきれぬ。  ところがその掴まれぬところがいいかして、猫も杓子も文化文化とあこがれている有様は、さながらに青空を慕う風船玉よろしくである。  こうして昇って昇って昇り詰めたら、日本はおしまいにどこへ持って行かれるだろうと心配になる位である。  こんな風船玉のようなフワフワした文化気分が、例のバラック気分と心安いのは云う迄もないので、東京人の魂はバラック生活と文化生活との間をフラ付いている。商売でも風俗でも何でもが、大体に於てこの気分の中で色めいていると見てよかろう。      学生生活の色々  東京の学生は全国のあらゆる種類と階級を網羅している。  その中で中流、即ち腰弁と同等の生活をしているのは、全体の何分の一か何十分の一位であろうが、しかし大体から見て中流生活と云ったら中らずと雖も遠からずであろう。  学生の生活といっても、学校の種類に依って非常な差があるが、その学校の種類が驚くべき多数に上っているからなかなか調べにくい。  その筋の帳面を調べても驚かされるが、なかなかそれ位の事でない。昔風の寺小屋式から男女の大学まである。これを官立、私立、営利、非営利、年齢別、性別、専門別と区別して来たらとても大変である。  更に昨日出来て今日潰れる式のもあれば、地方の人には学校と見えて、東京に来て見ると事務所だけというようなのもある。  その中で大学と専門学校程度の学生の生活を見当にして寸法を測って見る。一つはそのほかのが調べにくいからでもあるが、今一つには彼等の生活を学生生活の華として敬意を払ったわけである。  東京に家のある学生の生活は一寸見当が付かぬが、為替党にもいろんな階級がある。一ヶ月二百円以上も送って来るのが居るかと思うと、労働して大学に通った上に、故郷の弟に四円|宛送っている非為替党もある。  毛色の変ったのでは、春画を描いて学資を作って美術学校を出たのが居る。後家さんの男妾になって専門学校に通っているのがある。米相場が名人で親仁にしかられしかられ語学をやっているのが居る。養子政略、入り婿政略で、学校を出たあとは野となれ山となれ式の生活や、納豆屋の元締をして奢を極めている大学生なぞ、調べるとなかなか面白いがここには略す。  何しろ学生だから、年が若くて元気で、無責任な延び縮みが出来るから、これ位面白い生活をやっているものはない。  先ず普通八九十円以下五六十円以上の為替生活者が大多数で、下宿料が三四十円位、汚い間借りで十円から十五円どころであろう。但、間借りは飯抜きだから、下手を遣ると下宿以上になる。尚このほかに月謝、書物代、洋服代なぞが時々足を出すのは止むを得ない向きもある。こんな「足」が本当にこんな足なら、先ず音なしい足であろう。  この程度の学生を先ず中流生活者として、その純小遣いを十五円乃至四十円位に見積る。彼等の驚くべき贅沢さや質素さは皆この範囲から出て来るのである。更に質屋や古本屋、又は友人間の貸し借りなぞいうのを加えると、一層活躍の範囲が広まることになる。  しかも彼等の小遣いは、普通の中流生活者の小遣いのように世間的の意味を含んでいる分量がまことに少い。頭を使わずに只漫然と遣い棄てるのが多いので、この点から云うと彼等の生活は中流の中でも上流に属している。  その上に彼等は、当り前に学校に通って当り前に勉強さえしていれば、首の心配は無論ない。只怖いのは落第ばかりとなる。それも十中八九は為替の多寡に影響しないのだから、真に不景気知らずと云ってよかろう。  こう云うと又、記者の非常識を攻撃する諸君が出て来るかも知れぬ。 「新聞記者なんてものは筆の先でどんな事でも書く。いくら学生だって、不景気を知らないでどうなるもんか。第一下宿の飯が不味くなるから、時々滋養分を摂らないと頭がわるくなる虞れがある。フレッチャー式なぞを遣ったら落第するにきまっている。空気も悪いから郊外へ行く必要があるし、ホコリが非道いからロイド眼鏡も奮発せねばならぬ。雨が降ると靴カバーが利かないから、八円のゴム靴を買わなくちゃならぬが、そいつが又じきに駄目になる。電車はコムし書物はよごれるしで、オツユの出る弁当箱は持てないし、嗜眠性脳炎がまた流行っているので、一寸風邪を引いても医者に見せなくちゃならないし、五十円や百円の仕送りでは人間らしい気持ちで勉強は出来やしない……」  承われば一々御尤も千万であるが、さて街頭に立って諸君の生活振りを拝見すると……。      制帽と鳥打帽の手品  近頃東京の往来を歩いて見ると、学生仲間に鳥打帽が非常に流行している事に気が付く。  学生だから鳥打帽を冠るのが当り前かも知れぬが、それが又タダの鳥打帽でない。気をつけて研究すると実に変妙不可思議の鳥打帽で、支那や印度の魔術師でも眼をまわす位である。  勿論、その鳥打帽は普通の鳥打帽で、価格の上下や型の変化こそあれ種も仕かけもない。しかもその鳥打帽でどうしてそのような奇術を使う事が出来るかという事は、苟も東京の学生たらんもの片時も忘るる能わざる研究問題であるのみならず、地方に居る父兄のためにも実に見逃すべからざる参考材料であろうと信ずる。  前口上はこれ位にしておいて、実地の使用法を取り立てて御覧に入れる。  第一、彼等学生が、下宿屋や又は預けられ先を出る時に、学校の制帽を冠って出るものは殆ど九牛が一毛と云ってもいい位である。学校に行く時も、散歩に行く時も通じてそうなので、その十中八九は鳥打帽を冠って行くにきまっている。  ところで登校の際に冠って行く鳥打帽は、私立の学校だとそのままズンズン這入って行けるのが多いが、官立の学校だとそうは行かぬ。どうするのか知らんと運動場をのぞいて見ると、これはしたり。校庭一パイに散らばっている生徒の頭には鳥打帽は一ツもない。皆キチンとした制帽を冠っている。これが鳥打帽の第一の手品である。  この手品の種はどこにあるかというと、彼等の制帽の構造にある。近頃の学生の制帽はどれもこれも、一つとして昔のような頑固な枠を入れたのはない。馬の尻毛や亜麻の極柔かい弾力の強いもので、目庇までも薄い上等のエナメル皮や何かが使ってある。小さく押し曲げさえすればズボンのポケットにでも何でも這入るから、鳥打帽と両方持っていてもちっとも邪魔にならない。すなわち校門を這入る時には制帽を冠り、電車に乗る時には鳥打を冠る位の手品は何でもないので、只その都度魂を入れかえるのが面倒臭いだけになる。但、そんなに手早く魂を入れ換え得るかどうかは、帽子と違うからちょっと外から見わけにくい。そこを付け込んで彼等は盛に制帽と鳥打帽を使いわける。  使いわけると云っても取り換えるだけの事だから、ちょっと考えると何でもないようであるが、なかなかどうして、大学を卒業してもこの鳥打帽使いわけの奥義に達しないのがいくらでも居る。ウッカリすると学校のどの科目よりも六ヶしいかも知れぬ。  先ず見易いところから例を取ると、真面目な家庭を訪問する時には制帽を冠る。散歩する時には無論鳥打帽である。  儀式ばった処へ行くのには制帽で、活動を見に行く時は鳥打でなければ工合が悪いらしい。  お医者に診てもらいに行く時には制帽がよろしいが、弁当代りにサンドウィッチを喰いに行く時は鳥打帽にかわる。  割引切符を買う時は無論制帽の方が都合がいいが、汽車に乗り込んでしまうと必要はない。  教科書を買う時の気分は制帽であるが、Y書を買う時の心理状態は鳥打の下に隠れねばならぬ。  故郷の親元に送るらしい写真は大抵制帽を冠るので、顔付きが似なくて困ると写真屋が云うが、鳥打帽のはどんな処に送るのやら……。この辺になると大分手際が鮮かな方であろう。  女学校の運動会見物、慈善市、野外劇、クリスマス、その他の催しのお手伝いなぞには、制帽の方が殊勝らしくていいそうであるが、それが済んだ夜の帰りがけに、思う人と連れ立って行く時は鳥打帽を冠るべしだそうである。  そのほか展覧会、校友会、由緒ある会、出たらめの会なぞ、それぞれ鳥打帽と制帽の使いわけ方がある。その冠って来た帽子が制帽か鳥打帽であるかに依って、その会合を理解しているかいないかがわかるという位デリケートな研究を要するので、無暗に上等の新流行で身のまわりを飾って、ハイカラと心得ているような連中は一ペンに落第してしまう。      学生と見られぬため  東京の学生の制帽と鳥打帽の使い分け方を街頭から見ただけでもかなりいろいろあるが、単に鳥打帽だけの冠りわけでもちょっと研究を要する。  当り前に正しくすこし前下がりに冠るのは、当り前のすこし前下がりの外出の場合であるが、横っチョに冠るのは見もの聞き物に這入る場合、カフェーの中では阿弥陀に冠り、運動遊戯ではうしろ向きにかぶる。それからずっと目深く、うしろはボンノクボから前は眼から耳まで隠れるように冠る場合は、秘密の外出か訪問、又は変装用で、これに襟巻きをしてロイド眼鏡でもかけて首をちぢめると、ドンな名探偵でも誤魔化し得るという迷信から来たものである。  更にその鳥打帽の下に這入っている香水入りのハンケチの種類、その隅に縫い込んである文字の意義、そのハンケチの香に沁みている頭の苅り方、その頭の香に沁みたハンケチと、女の内懐の香に沁みたハンケチとがどんな処で交換されて、どんな風に尊重されるか、こんな研究はあまり脱線し過ぎるからここでは略する。  鳥打帽と関連して、東京の学生の生活を街頭に示しているのはその服装である。  今度東京に来て暫くウロ付いているうちに、記者は不図妙な事に気が付いた。どうも往来を歩く学生の数が震災前よりもすくないようである。変だと思って本郷、神田辺へ行って見ると、居るには居るが、それでも震災前よりは制服制帽の数が尠い。早稲田や三田へ行くと、制服鳥打帽すらチラリホラリとしている位のことである。尤もこの辺は学校の近くだから、これは学生だなあと気が付き易いが、その他の処へ行くと余程気を付けないと学生とは気付かない位である。  昔のような長い釣鐘マントはもう流行|後れになってしまって、オーバーを着ていなければトテモ幅が利かない。しかも学生のオーバーと来ると、普通の腰弁のよりも上等なのが多く、これに鳥打を冠って襟巻でもしていれば、黒いズボンに気が付かない以上、ドッチから見ても堂々たる紳士か貴公子である。  ところがこの頃は又、私立大学仲間で変りズボンを穿き出した。しかも裾のマクレたのが流行るので、いよいよ学生だか何だかわからなくなった。おまけに鞄まで鞣皮製の素晴らしいのが出来て来たので、最早学生と見えるところは一ヶ所もない。只オーバーの下に隠れた金|釦だけという事になる。それでもまだ学生らしくなくするために、鞄を棄てて、書物やノートをポケットに入れて、指環をはめたりステッキを持ったりする。  そんなに制帽が気に入らないのなら、寧の事制服までやめてしまって、背広か何かにしたらよさそうであるが、それは又そう行かない理由がある。 「アラチョイト、あなた学生さん? 可愛いわね!」  てな声を聞きたいために、時々金釦を光らかして見せなければならないからである。今一つには給仕や安腰弁と見られないためもあろうし、も一つには上等の学問をしているエライ人の卵で、金を持っている時は、気前よく使う人種であるという事を、先方に合点させる必要があるかららしい。  これを要するに、東京の学生はみんな出来るだけ制帽を冠るまい、鳥打帽を冠ろうと心掛けているので、トドのつまり東京で朝から晩まで真面目に制帽を冠っているのは、浅草の仲見世や縁日に出て来る物売りの角帽だけと云っても過言でない。  余談に亘るが、こうした傾向は単に学生ばかりではない。日本全般のすべての方面にあらわれていて、云わず語らずの中に日本人全般の思想が或る重大な変化を来しつつある事を示している。  皇室では恐れ多い事ながら成るべく民衆に親しく御接し遊ばすよう、すべての形式を御改廃中とかに洩れ承る。これに準じて官辺はもとよりすべての事が民衆化しつつある事は云う迄もないが、これにカブレて軍人までが官服を嫌うようになったそうである。そのような思想の変化が学生の鳥打帽となって現われた事は云う迄もない。      鳥打帽下の新日本  こうした学生仲間の鳥打帽の大流行に対して、学校当局はかく云う。 「震災後、学校の制服がどうでもよかった時代がありましたので、その影響でもありましょうか。いずれにしても彼等学生の腐敗と堕落は、この鳥打帽に原因しているに違いありません。大学生の中折れは、いくらか真面目な感じを含んでおりますので、まあいい方ですが、鳥打帽を見ると私共は、実に不愉快な、学校を軽蔑しているような、又は彼等の人格が疑わるるような一種の危惧の念に打たれざるを得ません。しかしこれを許さないと、学校の人気がわるくなるので止むを得ません。実に国家の青年の風紀上慨嘆に堪えぬ次第であります」  これに対し学生の方はこう云う。 「制服制帽は官僚政治の遺風だ。偽善とか束縛とか因襲とかいう旧思想のお名残だ。学問は民衆的でなければならぬ。智識には囚われたところがあってはならぬ。だから鳥打帽の下に這入る智識こそ本当の智識と云うべきである。これを理解しない学校当局が日本にはまだ沢山居るから情けない。日本の前途のため実に慨嘆の至りだ」  こう両方で慨嘆されては手の付けようがない。全く慨嘆の至りである。  東京の中流学生の生活の中で鳥打帽一つを研究しても、かほどに広大無辺な意義を持っているので、そのほかの広大無辺さは到底筆舌の及ぶところでない。悉く鳥打帽の下に収めるのは不可能で且つ不自然である。  併し彼等の生活の裡面は、よくこの鳥打帽で代表されていると思う。勿論それは物質的の生活と云うよりも、精神的生活に近い方面を主として象徴している。  極めて低い意味で云う物質と精神の二つのうち、学生の生活はどちらに傾いているかと云うと、無論後者の方である。言葉を換えて言えば、学生の生活は世間一般の人のソレよりも、物質に支配される割合がごく少い。鳥打帽を買うにしても必要からでなく、只そういった気分に涵りたいために二円乃至四円を奮発するので、参考書を買う余裕はなくても、新流行の鳥打を買う銭はあるのが彼等の生活の特徴である。  こんな風だから彼等東京の学生生活には、一般人の生活と違った底抜けの自由さと奔放さがある。そうしてその自由さと奔放さは、震災後に流行する鳥打帽の下から現われたものでなければならぬ。  彼等はこの鳥打帽式の自由な奔放な生活振りに依って東京を色付けている。風俗、商売、女等に彼等の思想傾向を反映さしている。  排米問題の時、真先に米国物を買わなくなったのは彼等学生であった。ところが近頃舶来品排斥思想が一般に行き渡ると、真先にこの習慣を打ち破って舶来のノートや鉛筆を買い始めたのは矢張り彼等学生であった。舶来の石鹸、香水、歯みがき、ハンケチ等いうものを惜し気もなく買うのは彼等学生であるという。下宿屋で文化生活に凝るのは学生に限るとまで云われている。  日本第一の剛健質朴を以て東都に幅を利かした一高の学生は、この頃|羅紗のマントを好まなくなった。彼等の仲間にも鳥打帽が流行り出したという。  一葉落ちて天下の秋である。震災後の東京に於ける制帽の凋落……鳥打帽の流行は、単に学生の平民化、智識の民衆化ばかりを意味するものであろうか。  その鳥打帽は前の学校当局の言を借りて云えば、矢張り地震鯰が揺り出したものである。将来の新日本の中心文化が東京のバラックの下に芽生え育まれているものとすれば、その新文化の骨子たるべき新智識と新思想は、東京の学生が挙って冠る鳥打ち帽の下に養成されている筈である。その新智識と新思想は角帽や金釦を馬鹿にするだけの権威あるものでなければならぬ。鳥打帽を冠る学生諸君たるもの……豈奮発勉励せずんばあらざるべけんやである。      職人の供給過剰  東京市中の第三階級、即ち赤切符等は現在どんな生活をしているか。  これはなかなか大問題で、記者のノートに止めてあるだけでも一年や二年では書き尽されぬ位である。だからその中で二ツ三ツ面白い事実だけを紹介して、その中に反映する彼等の生活を見て頂く事にする。但し街頭観の主旨にはそむくが……。  第一は警視庁の人事相談所に持ち込まれて来るプロ階級の悲喜劇である。これを順序立てて観察すると、震災直後から今日までの彼等の生活の変遷がわかる。  警視庁の人事相談所が丸の内のどこにあるか。どんな組織になっているか。そんな事はここには必要がないから略して、直接本論に移る。  昨年、例の震火災があるとすぐに、警視庁では救護班を組織して、逃げ迷い、弱りたおれた人々の救護に従事した。これを九月十三日まで継続すると、次第に新しく持ち込まれる救護が減少して来たので仕事を打ち切った。  この事実を逆に考えると、東京全市民が最も甚だしい酸鼻な境界にいたのは、九月の中旬頃までと見る事が出来る。……東京市中の手まわしのいい新聞社が、無代配布をやめて、月極めにし始めたのも丁度この頃からである。死ぬものは死に、助かるものは助かり、怪我人や病人はそれぞれ手当てを受けて落ちつく事になったのであろう。  次に起る問題は助かった者の鼻の下の問題である。  昨年九月十三日以後、警視庁で開始した労働紹介には非常な大群衆が押し寄せた。  当局では管内の各署と協力して、これを片端から灰片付け、食料運搬等の仕事にまわして奮闘していると、約一ヶ月ばかりしてから市内の各自治団体で本式の職業紹介を開始したので、そっちに仕事を譲って、今度は人事相談所を開始した。  以上の筋道を裏面から見ると、東京市中の人々は、生命を助かる道から生命をつなぐ道へという差し詰まった問題から、次第に人事のコザコザした相談へと落ち付いて来たその間が二ヶ月足らずという事になる。  警視庁の人事相談所開始当時は流石に人探しの相談が多かった。これと一所に家主や地主に対する苦情も非常に夥しく持ち込まれた。すなわち震災後二三ヶ月の間、東京市中の家や人が別々の意味で宙に迷いつつあった事を裏書している。  その中に押し詰まって来ると、次第に人探しの申込みが減って来た。代りに対家主の苦情が殖えると同時に、金の相談や証文の鑑定なぞが加わって来た。 「資本がほしいですが、無抵当で薄利で貸してもらう方法は」 「この金を預けるたしかな銀行は」 「これは焼け残った祖父の時代の証文ですが」  なぞいうので、東京市内が次第に落ち付いて来た程度を説明している。  このような状態が大正十三年度の三四月頃まで続いた。  大正十三年度の三四月頃は、東京中の人気があらゆる意味でグラリと引っくり返った時機と見られているが、警視庁の人事相談所にもそうした影響が現われた。  第一に大工や左官、その他の職人なぞいう労働者の賃金不払問題が盛に流れ込み始めた。  震災直後の節季まではこんな現象は見られなかった。東京の復興を目がけて地方から押し寄せた連中は、皆引っぱり凧にされていたのである。只釘を打って鋸を使えれば大工で通る。藁さえ刻めば左官で通る。賃金が四五円から五六円という景気であった。  その中に大正十三年の春になった。  東京市中は次第に落ち付いて、ソロソロ日本中の不景気の影響を受け始めた。同時に今まで復興の労働者を歓迎していた親方や請負師連は、逆に賃金の不払を始めた。  もともと震災直後の東京に押寄せて来た連中は田舎者にきまっているので、欺され易く、馬鹿にされ易い。そこをつけ込んで使うだけ使って突放して終うので、金は取れず、食費は嵩む、仕事には有り付けぬ、というのが続々と出来る。そこへ春先の時候がよくなるに連れて、田舎の不景気にアブレた連中、又は前の年の東京の景気を聞き伝えた面々が、何という事なしに押上って来たので、いよいよ不景気の上塗となった。  東京は今日までもこうした職人の供給過剰となっている。  ひと頃、いい加減な大工や左官が五円の六円のという勢であったのが、今では立派な腕の大工で四円五十銭、左官が三円以下という相場で居据わっている。それ以下のいい加減な職人が相手にされなくなったのは云う迄もない。  その尻がドシドシ警視庁の人事相談所に押しかけて来たのである。      自由恋愛と離婚  その次に矢張り十三年度の三四月を区切って急に殖えて来たのは、取引上の紛紜、喧嘩の後始末、夫婦喧嘩の尻拭いなぞである。このような傾向になった原因は小さくややこしいが、つまり一般の景気が落ち付くと同時に生活に多少の余裕が出来た。一方に今までの奮闘気味がダレて来たために不景気をシミジミと感ずる向きも出来たという、職業紹介所の係員の見方が穏当であるまいかと思われる。  その中でも面白いのは夫婦別れの相談で、三四月頃まで絶対にないと云ってもよかったのが、花時から急に殖えて来て押すな押すなの盛況を見せた。  このような夫婦別れに関係した法律その他の相談は、今日迄も引続いて警視庁の人事相談所に持ち込まれている。右に就いて相談所側の係員はこう観察している。  東京の震災後、一般民心の昂奮状態は実に異状なものがあった。男も女もまるで小説中の人物であるかのように頭がすっかり一本調子になって、僅かの事にも感謝したり感激したりする状態であった。  その結果、到る処に出来合いの夫婦関係が成立したもので、その当座世間がザワザワしているうちは、そのまま一所に生活や何かの問題に紛れて関係が続いて来た。ところが翌年の春となって、世間が落ち付いて、お互の間の緊張味がなくなって来ると、今更にお互の顔が見合わされて来た。アラが見えたり、イヤになったり、その他経済上の問題や夫の不品行なぞが問題になったりして、方々で別れ話が持ち上り始めた。  この議論はチト乱暴であるが、元来が出来心の関係だから、花時になって急に合せ物の離れ物気分になったのも無理はないと云えば云える。  さてこの夫婦別れの人事相談でも、よく観察するといろんな筋道があって、東京市民――もしくは現代人の生活の裏面の或る物を暗示している。  先ず夫に別れたいという相談を持って来るのは、大抵学問や理性の備わっている人が多い。つまり夫婦になろうという時の気持ちは、学問や理性を超越した気持ちになっている時であるが、すこし落ち付いて来ると、その学問や理性が頭を持ち上げていろんな事を考えさせる。そうして別れ話を持ち上げさせるという順序で、彼等の身の上相談を聴いて見るとこの消息がよくわかる。現代の婦人がその得手勝手な理智と情緒とのために如何に苦しめられているかは、この一事でも遺憾なく説明されている。  次に人事相談所に別れ話を持って来る女の中には職業婦人が非常に多い。それは男の欠点を最もよく知っているからだそうである。  これ等の事実を煎じ詰めると、現在の東京で最不幸な結婚をするものは、学問のある婦人と技術を持つ婦人であると云える。普通ならば幸福と見て差支えない結婚を彼女等の技芸や学問が不幸なものと感じさせるのか、それとも彼等の学識や技術が初めから彼等に幸福な結婚をさせなかったのか、その辺の事は大いに研究に価する。些くとも親兄弟や親戚友人なぞの意見に盲従した結婚の別れ話がめったに人事相談所に来ない。自由結婚から来た自由離婚だけが来る。しかもそれが大正十三年の春以後の東京に激増した事は、新日本の新紀元を画すると云ってもいい位だそうである。  も一つ序に書いておくが、警視庁の人事相談所ではこんな恐ろしい実例が挙がっている。      乱暴な結婚媒介  震災後の東京には、結婚媒介を商売にするものが雨後の筍のように出来た。これはさもあるべき事であるが、しかし如何に需要と供給の烈しい関係からといえ、その無責任な営業振りには驚かざるを得ぬ。  ほかの商売と違って、どうでもいいようで実は極めてどうでもよくない事を、無暗矢鱈とどうでもよい式に取り扱うので、その結果は大抵滅茶滅茶と云う。それでも相当に繁昌しているのだから恐ろしい。東京の人々は棄て鉢で結婚するのではないかと思われる位である。  しかし満更棄て鉢でもない証拠には、そうした結婚の失敗したあとをドシドシ警視庁の人事相談所へ持ち込んで来る。そのおのろけと涙の紋切形をば一々聴いてやる係員も大抵ではいともあるまいと思われる。  係員の話に依ると、こんな不良結婚媒介所では売淫の仲介はしないらしい。その代りその仲介の方法は極めて乱暴である。  誰でも結婚媒介所の門口をくぐった者は申込料として五円取る。それから似合いのがあるという通知を出して、何月何日の何時に双方やって来ると、今度は会見料として又五円取る。しかもこれは成功不成功に拘らずで、おまけに男女双方から取るのだから一会見やらせると十円になるわけである。 「あんな女に紹介をして五円取るとは怪しからん。いけないにきまっているじゃないか」  というような不平が相手にされない事は無論である。  ここで双方よろしいとなると、成立料と名付け二十五六円以上三四十円位取るのであるが、そこの取り具合がなかなか手腕を要するのだそうな。  こうした五十円内外の手数料で出来た結婚が破れ易いのは云う迄もない。男が手数料を出したとすれば、高価い、まずいオイランを買って流連した気で思い切る事になる。女が出したのならば……安い情夫に入れ上げた位の気持ちであきらめるのでもあろうか。  警視庁の人事相談に持って来るのでは、早くて一週間、長くて一年持つ位のものだそうである。尤も震災後まだ二年にはならぬが……。  夫婦別れの人事相談を持って来るのは大抵女である。彼女等は十人が九人まで媒介所の不親切を鳴らすが、媒介所では一切責任を持たぬ。 「何も無理に押し付けたわけではありませぬ。私の方では只料金を取って便宜を計らったまでで、申込みから結婚成立まで、皆お客様の御随意に任せたまでです」  と云う。そんなら事実はどうか。  結婚媒介所が結婚成立料を取りたがるのは云う迄もない。そのためには随分無理な押しつけ方をする事も云う迄もない。そうしてその結果、飛んでもない喜劇や悲劇を捲き起すのも亦云う迄もない事である。  そんな例を挙げると数限りもないが、その中で最も極端な例を挙げるとこんなのがある。  日比谷公園のバラックの中に、子供二人を持った二十七八の婦人があった。彼女は職業に就て二人の子を育てていたが、如何にも心もとない結果、五円を奮発して結婚媒介所の門を潜った。 「イヤ。それには持って来いのがあります」  と媒介所でも揉み手をして彼女に一人の男を紹介した。  その男は年齢四十歳位、極めて上品な、音なしい風采の男で、ちょっとよさそうであるが、只顔色があまり健康そうでなかったので、彼女は五円の会見料を納めたあと、 「とにかくも一ペン考えさして下さい」  と云って日比谷のバラックに帰った。  ところが驚いた事には、あくる朝になると、媒介所の男がその四十恰好の青い男を連れて彼女の居る日比谷バラックに押しかけて来た。青い男は一寸した羽織を着て袴まで穿いている。 「この辺のところでどうです。こんないい方は又とありませんよ。私の方では成立料が欲しいから云うのではありません。貴女のおためを思って云うのです。略式ですが結婚式の調度も持って来ています。ここですぐに式をお挙げになってはどうですか。あとの手続や何かはすっかりこちらでやって上げます。どうです。善は急げです。今のところ、貴女の御注文にはまるお方はこの方しかありません」  とか何とか媒介所の男が無茶苦茶に勧めた。   ………連載一回分欠………      東京の犯罪地帯  東京市中でほかの犯罪はみんな殖えているのに、殺人傷害だの、強盗だのいう荒っぽいところが枕を並べて減少しているのも面白い。  震災後の東京は一時無警察に近い状態となって、寂寥たるバラック街に強盗が盛に横行した。このままで行ったならば、日本の首都は今に大晦日の北京のようになりはしまいかと思われたが、案に相違して一時の現象で済んだのは芽出度い。  こんな風に荒っぽい犯罪が減った原因については、いろんな見方がある。第一は震災後の東京市民が一体に文化的――言葉を換えて云えば理智的に気が弱くなった事、第二には一時減少した人間がその後急に殖えて、家数が建込んだ事、第三は復興気分で下層社会の景気がよくなった事等であるが、その中でも第一の原因が最も有力であるらしい事を警視庁の統計が示している。  すなわち「傷害」と「殺人」の原因のうち、酩酊の結果だの、痴情の果だのいうのは極めて少い。一番多いのは腹立紛れの傷害殺人であるが、それでも傷害が百人に対し殺人は一人弱の割合に当っている。すなわち彼等の傷害三昧が、殺すつもりは滅多にない、理智的の動機から出た脅かしの意味が多量に含まれている証拠である。  東京の人間が温柔しくなった、言葉を換えて云えば文化的に利口になった証拠が、今一つ前記の表の中に現われている。  全体から云って、いろんな犯罪が無茶苦茶に殖えたのと正反対に、捕まる数が恐ろしく減ったのもその証拠と云えば云える。  しかしこれは、東京市内の各署が若い巡査をドシドシ採用したり、震災を機として烈しい異動を行ったりしたのが影響しているとも云えるし、又住民の状態や何かに大変化を来して、今までのように捜索が楽でなくなったというような関係もあるから一概には考えられぬ。  しかし又前記の表に依ると、東京市中で詐欺脅喝や横領がかなり増加している一方に、捕まる数が恐ろしく減った事になっている。これは明らかに東京市中の震災後の人気を物語っているので、殊にそれが、震災の影響を遠ざかった大正十三年前半期中の状態であるだけに、一層の興味を惹くのである。或る署員の話に依ると、この頃の詐欺の被害者の届出は非常に早くなった。これは泥棒でも同様で、一体に出来るだけ警察を頼るようになったようである。しかし一方、逃げる手段も非常に巧妙になったので、なかなか捕えるのに骨が折れるとは、そうもありそうな事である。  これに反して東京市中の賭博は非常に増加しているが、捕まる数も同様に非常に殖えている。これは下層民に金が多いのと、射倖心が旺盛なのと、素人賭博が殖えたのと、家がバラックで露見し易いなぞいう原因からこうなったのである。  序に書いておくが、震災後の東京に賭博の殖えた事は非常なものである。その中でも支那式と朝鮮式が最も多い。これはそういった労働者が多数に入り込んで宣伝した結果で、しかも労働者ばかりでなく、昨今では中流から上流まで押上って旺盛を極めている。殊に支那式の麻雀なぞいうのは、高価な道具を使うので上流社会に持て囃されて、多額の金が賭けられているが、取締が非常に困難だそうである。  次に面白い統計は、東京市内に於ける犯罪者の捕まった場所と、犯罪者の住所である。ここにその最も多い処だけを数字抜きにして掲げると、捕まった場所は亀井戸が最も多く、その次が浅草付近で、その次が外神田から巣鴨という順序である。又犯罪人が住んでいる場所は、第一番が矢張り亀井戸で、その次が南千住、巣鴨、浅草という順で、あとはズッと落ちるが坂本署、四谷署の管轄内といった順序になる。  このような地名が醜業婦と貧民窟の名所として知られていることは云う迄もない。震災後、浅草やその他の醜業婦を一掃したと誇っている当局の統計に、こうした反証が挙がっているのは実に面白い皮肉な現象である。  極めて大まかな眼で見ると、東京の北部、吉原と浅草を中心とする一帯の地域は、東京に於ける犯罪者の根拠地といって差支えないであろう。  東京市中の第三階級の生活はこれ位にして、浅草と活動写真、醜業婦の現況、不良少年少女の研究に移り、この稿を終る事にしたい。        工場  厳かに明るくなって行く鉄工場の霜朝である。  二三日前からコークスを焚き続けた大坩堝が、鋳物工場の薄暗がりの中で、夕日のように熟し切っている時刻である。  黄色い電燈の下で、汽鑵の圧力計指針が、二百|封度を突破すべく、無言の戦慄を続けている数分間である。  真黒く煤けた工場の全体に、地下千|尺の静けさが感じられる一|刹那である。  ……そのシンカンとした一刹那が暗示する、測り知れない、ある不吉な予感……この工場が破裂してしまいそうな……。  私は悠々と腕を組み直した。そんな途方もない、想像の及ばない出来事に対する予感を、心の奥底で冷笑しつつ、高い天井のアカリ取り窓を仰いだ。そこから斜めに、青空はるかに黒煙を吐き出す煙突を見上げた。その斜に傾いた煙突の半面が、旭のオリーブ色をクッキリと輝かしながら、今にも頭の上に倒れかかって来るような錯覚の眩暈を感じつつ、頭を強く左右に振った。  私は、私の父親が頓死をしたために、まだ学士になったばかりの無経験のまま、この工場を受け継がせられた……そうしてタッタ今、生れて初めての実地作業を指揮すべく、引っぱり出されたのである。若い、新米の主人に対する職工たちの侮辱と、冷罵とを予期させられつつ……。  しかし私の負けじ魂は、そんな不吉な予感のすべてを、腹の底の底の方へ押し隠してしまった。誇りかな気軽い態度で、バットを横啣えにしいしい、持場持場についている職工たちの白い呼吸を見まわした。  私の眼の前には巨大なフライトホイールが、黒い虹のようにピカピカと微笑している。  その向うに消え残っている昨夜からの暗黒の中には、大小の歯車が幾個となく、無限の歯噛みをし合っている。  ピストンロッドは灰色の腕をニューと突き出したまま……。  水圧|打鋲機は天井裏の暗がりを睨み上げたまま……。  スチームハムマーは片足を持ち上げたまま……。  ……すべてが超自然の巨大な馬力と、物理原則が生む確信とを百パーセントに身構えて、私の命令|一下を待つべく、飽くまでも静まりかえっている。  ……シイ――イイ……という音がどこからともなく聞こえるのは、セーフチーバルブの唇を洩るスチームの音であろう……それとも私の耳の底の鳴る音か……。  私の背筋を或る力が伝わった。右手が自ら高く揚った。  職工長がうなずいて去った。  ……極めて徐々に……徐々に……工場内に重なり合った一切の機械が眼醒めはじめる。  工場の隅から隅まで、スチームが行き渡り初めたのだ。  そうして次第次第に早く……遂には眼にも止まらぬ鉄の眩覚が私の周囲から一時に渦巻き起る。……人間……狂人……超人……野獣……猛獣……怪獣……巨獣……それらの一切の力を物ともせぬ鉄の怒号……如何なる偉大なる精神をも一瞬の中に恐怖と死の錯覚の中に誘い込まねば措かぬ真黒な、残忍冷酷な呻吟が、到る処に転がりまわる。  今までに幾人となく引き裂かれ、切り千切られ、タタき付けられた女工や、幼年工の亡霊を嘲る響き……。  このあいだ打ち砕かれた老職工の頭蓋骨を罵倒する声……。  ずっと前にヘシ折られた大男の両足を愚弄する音……。  すべての生命を冷眼視し、度外視して、鉄と火との激闘に熱中させる地獄の騒音……。  はるかの木工場から咽んで来る旋回円鋸機の悲鳴は、首筋から耳の付け根を伝わって、頭髪の一本一本|毎に沁み込んで震える。あの音も数本の指と、腕と、人の若者の前額を斬り割いた。その血しぶきは今でも梁木の胴腹に黒ずんで残っている。  私の父親は世間から狂人扱いにされていた。それは仕事にかかったが最後、昼夜ブッ通しに、血も涙もない鋼鉄色の瞳をギラギラさせる、無学な、醜怪な老職工だからであった。それがこの工場の十字架であり、誇りであると同時に、数十の鉄工所に対する不断の脅威となっていたからであった。  だから人体の一部分、もしくは生命そのものを奪った経験を持たぬ機械は、この工場に一つもなかった。真黒い壁や、天井の隅々までも血の絶叫と、冷笑が染み込んでいた。それ程|左様にこの工場の職工連は熱心であった。それ程左様にこの工場の機械|等は真剣であった。  しかも、それ等の一切を支配して、鉄も、血も、肉も、霊魂も、残らず蔑視して、木ッ葉の如く相闘わせ、相呪わせる……そうして更に新しく、偉大な鉄の冷笑を創造させる……それが私の父親の遺志であった。……と同時に私が微笑すべき満足ではなかったか……。 「ナアニ。やって見せる。児戯に類する仕事だ……」  私は腕を組んだまま悠々と歩き出した。まだまだこれからドレ位の生霊を、鉄の餌食に投げ出すか知れないと思いつつ……馬鹿馬鹿しいくらい荘厳な全工場の、叫喚、大叫喚を耳に慣れさせつつ……残虐を極めた空想を微笑させつつ運んで行く、私の得意の最高潮……。 「ウワッ。タタ大将オッ」  という悲鳴に近い絶叫が私の背後に起った。 「……又誰かやられたか……」  と私は瞬間に神経を冴えかえらせた。そうしておもむろに振り返った私の鼻の先へ、クレエンに釣られた太陽色の大坩堝が、白い火花を一面に鏤めながらキラキラとゆらめき迫っていた。触れるもののすべてを燃やすべく……。  私は眼が眩んだ。ポムプの鋳型を踏み砕いて飛び退いた。全身の血を心臓に集中さしたまま木工場の扉に衝突して立ち止まった。  私の前に五六人の鋳物工が駆け寄って来た。ピョコピョコと頭を下げつつ不注意を詫びた。  その顔を見まわしながら私はポカンと口を開いていた。……額と、頬と、鼻の頭に受けた軽い火傷に、冷たい空気がヒリヒリと沁みるのを感じていた……そうして工場全体の物音が一つ一つに嘲笑しているのを聴いていた……。 「エヘヘヘヘヘヘヘヘ」 「オホホホホホホホホ」 「イヒヒヒヒヒヒヒヒ」 「ハハハハハハハハハ」 「フフフフフフフフフ」 「ゲラゲラゲラゲラゲラ」 「ガラガラガラガラガラ」 「ゴロゴロゴロゴロゴロ」 「……ザマア見やがれ……」        空中  T11と番号を打った単葉の偵察機が、緑の野山を蹴落しつつスバラシイ急角度で上昇し始めた。 「……オイ……。Y中尉。あの11の単葉なら止せ。君は赴任|匆々だから知るまいが、アイツは今までに二度も搭乗者が空中で行方不明になったんだ。おまけに二度とも機体だけが、不思議に無疵のまま落ちていたという曰く付きのシロモノなんだ。発動機も機体もまだシッカリしているんだが、みんな乗るのを厭がるもんだから、天井裏にくっ付けておいたんだ……止せ止せ……」  そう云って忠告した司令官の言葉も、心配そうに見送った同僚の顔も、みるみるうちに旧世紀の出来事のように層雲の下に消え失せて行った。そうして間もなく私の頭の上には朝の清新な太陽に濡れ輝いている夏の大空が、青く青く涯てしもなく拡がって行った。  私は得意であった。  機体の全部に関する精確な検査能力と、天候に対する鋭敏な観察力と、あらゆる危険を突破した経験以外には、何者をも信用しない事にきめている私は、そうした司令官や同僚たちの、迷信じみた心配に対する単純な反感から、思い切ってこうした急角度の上げ舵を取ったのであった。……そんな事で戦争に行けるか……という気になって……。  だが……ソンナような反感も、ヒイヤリと流れかかる層雲の一角を突破して行くうちに、あとかたもなく消え失せて行った。そうして、あとには二千五百|米突を示す高度計と、不思議なほど静かなプロペラの唸りと、何ともいえず好調子なスパークの霊感だけが残っていた。  ……この11機はトテモ素敵だぞ……。  ……もう三百キロを突破しているのにこの静かさはドウダ……。  ……おまけにコンナ日にはエア・ポケツもない筈だからナ……。  ……層雲が無ければここいらで一つ、高等飛行をやって驚かしてくれるんだがナア……。  ……なぞと思い続けながら、軽い上げ舵を取って行くうちに、私はフト、私の脚下二三百米突の処に在る層雲の上を、11機の投影が高くなり、低くなりつつ相並んで辷って行くのを発見した。  それを見ると流石に飛行慣れた私も、何ともいえない嬉しさを感じない訳に行かなかった。大空のただ中で、空の征服者のみが感じ得る、澄み切った満足をシミジミ味わずにはいられなかった。……真に子供らしい……胸のドキドキする……。  ……二千五百の高度……。  ……静かなプロペラのうなり……。  ……好調子なスパークの霊感……。  私の眼に、何もかも忘れた熱い涙がニジミ出した。太陽と、蒼空と、雲の間を、ヒトリポッチで飛んで行く感激の涙が……それを押し鎮めるべく私は、眼鏡の中で二三度パチパチと瞬きをした。  ……その瞬間であった……。  ちょうどプロペラの真正面にピカピカ光っている、大きな鏡のような青空の中から、一台の小さな飛行機があらわれて、ズンズン形を大きくしはじめたのは……。  私は不思議に思った。あまりに突然の事なので眼の誤りかと思ったが、そう思ううちに向うの黒い影はグングン大きくなって、ハッキリした単葉の姿をあらわして来た。  私は心構えしながら舵機をシッカリと握り締めた。  ……二千五百の高度……。  ……静かなプロペラのうなり……。  ……好調子なスパークの霊感……。  私は驚いた。固唾を呑んで眼を※った。向うから来るのは私の乗機と一|分一|厘違わぬ陸上の偵察機である。搭乗者も一人らしい。機のマークや番号はむろん見えないが……。  ……二千五百の高度……。  ……静かなプロペラ……。  ……好調子なスパーク……。  ……青空……。  ……太陽……。  ……層雲の海……。  私はアット声を立てた。  私が大きく左|舵を取って避けようとすると、同時に向うの機も薄暗い左の横腹を見せつつ大きく迂回して私の真正面に向って来た。  私の全身に冷汗がニジミ出た。……コンナ馬鹿な事がと思いつつ慌てて機体を右に向けると、向うの機も真似をするかのように右の横腹を眩しく光らせつつ、やはり真正面に向って来る。  ……鏡面に映ずる影の通りに……。  私の全神経が強直した。歯の根がカチカチと鳴り出した。  その途端に私の機体が、軽いエア・ポケツに陥ったらしくユラユラと前に傾いた。……と同時に向うの機もユラユラと前に傾いたが、その一|刹那に見えた対機のマークは紛れもなく……T11……と読まれたではないか……。  ……と思う間もなくその両翼を、こっちと同時に立て直して向うの機は、真正面から一直線に衝突して来たではないか……。  ……私はスイッチを切った。  ……ベルトを解いた。  ……座席から飛び出した。  ……パラシュートを開かないまま百|米突ほど落ちて行った。  私と同じ姿勢で、パラシュートを開かないまま、弾丸のように落下して行く私そっくりの相手の姿……私そっくりの顔を凝視しながら……。  ……はてしもない青空……。  ……眩しい太陽……。  ……黄色く光る層雲の海……。        街路  大東京の深夜……。  クラブで遊び疲れたあげく、タッタ一人で首垂れて、トボトボと歩きながら自宅の方へ帰りかけた私はフト顔を上げた。そこいら中がパアット明るくなったので……。  ……そのトタン……飛び上るようなサイレンの音に、ハッと驚いて飛び退く間もなく、一台の自動車が疾風のように私を追い抜いた。……続いて起る砂ほこり……ガソリンの臭い……4444の番号と、赤いランプが見る見るうちに小さく小さく……。  ……ハテナ……あの自動車の主は人形じゃなかったかしら……あんまり綺麗過ぎる横顔であった。着物はよくわからなかったが、水の滴るような束髪に結って、真白に白粉をつけて、緑色の光りの下にチンと澄まして……黒水晶のような眼をパッチリと開いて、こころ持ち微笑みを含みながら、運転手と一緒に、一直線の真正面を見詰めて行った。あの反り身になった澄まし加減がイカニモ人形らしかった……と思う中に又一台あとから自動車が来た。  私はすぐに振り返ってみた。  その自動車の主はパナマ帽を冠った紳士であった。赭ら顔の堂々と肥った、富豪の典型のような……それが両手をチャンと膝に置いて、心持ち反り身になったまま、運転手と一緒に、一直線の真正面をニコニコと凝視しながら、私の前をスーッと通り過ぎた。自動車の番号は11111……。  ……人形だ人形だ。今の紳士はたしかに人形だった……ハテナ……オカシイゾ……。  ……と考えているうちに私は又、石のように固くなったまま向うから来かかった自動車の内部を凝視した。  ……今度は金襴の法衣を着た坊さんであった。若い、品のいい宮様のように鼻筋のとおった人形……それが心持ち眼を伏せて、両手を拝み合わせたままスーッと辷って行った。  私はブルブルと身震いをした。あたりは森閑とした街路……大空は星で一パイ……。  ……深夜の東京の怪……私がタッタ一人で見た……。  私は、私の周囲に迫りつつある、何とも知れない、気味のわるい、巨大な、恐ろしいものを感じた。一刻も早く家に帰るべくスタスタと歩き出した。  その時に私の前と背後から、二台の自動車が音もなく近付いて来た。  ……私と……。  ……私の夢の……。  ……結婚式当日の姿……。  私は逃げ出した。クラブの玄関へ駈け込んで、マットの上にぶッ倒れた。 「助けてくれ」        病院  私はいつの間にか頑丈な鉄の檻の中に入れられている。白い金巾の患者服を着せられて、ガーゼの帯を捲き付けられて、コンクリートの床のまん中に大の字|型に投げ出されている。  ……精神病院らしい。  しかし私は驚かなかった。そのまま声も立てずにジット考えた。ここが精神病院だとわかれば、騒いでも無駄だからである。騒げば騒ぐほど非道い目に合う事がわかり切っているからである。おまけに今は深夜である。かなり大きい病院らしいのにコットリとも物音がしない。……騒いではいけない、憤ってはいけない。否々。泣いても笑ってもいけないのだ。いよいよキチガイと思われるばかりだから……。  私はそろそろとコンクリートの床のまん中に坐り直した。両手を膝の上に並べて静坐をして、眼を半眼に開いて、檻の鉄棒の並んだ根元を凝視した。神経を鎮めるつもりで……。  果して私の神経はズンズンと鎮静して行った。かなり広い病院の隅から隅までシンカンとなって……。  その時であった。私が正面している鉄の檻の向うから誰か一人ポツポツと歩いて来た。それは白い診察着を着た若い男らしく、私が坐っているコンクリートの床よりも一尺ばかり高くなっている板張りの廊下を、何か考えているらしい緩やかな歩度でコトリコトリと近付いて来るのであったが、やがて私の檻の前まで来るとピッタリと立ち止まった。そうして両手をポケットに突込んだまま、ジット私を見下しているらしく、爪先を揃えたスリッパ兼用の靴が、私の上瞼の下に並んだまま動かなくなった。  私はソロソロと顔を上げた。  その私の視界の中には、まず膝の突んがった縞のズボンと、インキの汚染のついた診察着が這入って来た……が……それはどこかで見た事のある縞ズボンと診察着であった……と思ってチョット眼を閉じて考えたが……間もなく私はハッと気付いた。眼をまん丸く剥き出して、その顔を見上げた。  それは私が予想した通りの顔であった。……青白く痩せこけて……髪毛をクシャクシャに掻き乱して……無精髪を蓬々と生やして……憂鬱な黒い瞳を伏せた……受難のキリストじみた……。  それは私であった……嘗てこの病院の医務局で勉強していた私に相違なかった。  私の胸が一しきりドキドキドキドキと躍り出した。そうして又ドクドクドク……コツコツコツコツと静まって行った。  診察着の背後の巨大な建物の上を流れ漂う銀河が、思い出したようにギラギラと輝いた。  ……と……同時に私は、一切の疑問が解決したように思った。私を精神病患者にして、この檻に入れたのは、たしかにこの鉄格子の外に立っている診察着の私であった。この診察着の私は、あまりに自分の脳髄を研究し過ぎた結果、精神に異状を呈して、自分と間違えてこの私を、ここにブチ込んだものに相違なかった。この「診察着の私」さえ居なければ私は、こんなにキチガイ扱いされずとも済む私であったのだ。  そう気が付くと同時に私は思わずカッとなった。吾を忘れて、鉄檻の外の私の顔を睨み付けながら怒鳴った。 「……何しに来たんだ……貴様は……」  その声は病院中に大きな反響を作ってグルグルまわりながら消え失せて行った。しかし外の私は少しも表情を動かさなかった。診察着のポケットに両手を突込んだまま、依然として基督じみた憂鬱な眼付で見下しつつ、静かな、澄明な声で答えた。 「お前を見舞いに来たんだ」  私はイヨイヨカッとなった。 「……見舞いに来る必要はない。コノ馬鹿野郎……早く帰れ。そうして自分の仕事を勉強しろ……」  そういう私の荒っぽい声の反響を聞いているうちに私は、自分の眼がしらがズウーと熱くなって来るように思った……何故だかわからないまま……しかし外の私はイヨイヨ冷静になったらしく、その薄い唇の隅に微な冷笑を浮かべたのであった。 「お前をこうやって監視するのが、俺の勉強なのだ。お前が完全に発狂すると同時に俺の研究も完成するのだ。……もうジキだと思うんだけれど……」 「おのれ……コノ人非人。キ……貴様はコノ俺を……オ……オモチャにして殺すのか……コ、コ、コノ冷血漢……」 「科学はいつも冷血だ……ハハ……」  相手は白い歯を出して笑った。突然に空を仰いで……嘯くように……。  私は夢中になった。イキナリ立ち上って檻の中から両手を突き出した。相手の白い診察着の襟を掴んでコヅキ廻した。 「……サ……ここから出せ……出してくれ……この檻の中から……そうして一緒に研究を完成しようじゃないか……ね……ね……後生だから……」  私は思わず熱い涙に咽せんだ。その塩辛い幾流れかを咽喉の奥へ流し込んだ。  けれども診察着の私は抵抗もしなければ、逃げもしなかった。そうして患者服の私に小突かれながら苦しそうに云った。 「……ダ……メ……ダ……お前は俺の……大切な研究材料だ……ここを出す事は出来ない」 「ナ……ナ……何だと……」 「お前を……ここから出しちゃ……実験にならない……」  私は思わず手をゆるめた。その代りに相手の顔を、自分の鼻の先に引き付けて、穴の明く程覗き込んだ。 「……何だと! モウ一ペン云って見ろ」 「何遍云ったっておんなじ事だよ。俺はお前をこの檻の中に封じ籠めて、完全に発狂させなければならないのだ。その経過報告が俺の学位論文になるんだ。国家社会のために有益な……」 「……エエッ……勝手に……しやがれ……」  と云いも終らぬうちに私は、相手のモシャモシャした頭の毛を引っ掴んだ。その眼と鼻の間へ、一撃を食らわした。そうして鼻血をポタポタと滴らしながらグッタリとなった身体を、力一パイ向うの方へ突き飛ばすと、深夜の廊下に夥しい音を立てて……ドターン……と長くなった。そのまま、死んだように動かなくなった。 「……ハッハッハッ……ザマを見ろ……アハアハアハアハ」        七本の海藻  曇り空の下に横たわる陰鬱な、鉛色の海の底へ、静かに静かに私は沈んで行く。金貨を積んで沈んだオーラス丸の所在をたしかめよ……という官憲の命令を受けて……。  潜水着の中の気圧が次第次第に高まって、耳の底がイイイ――ンンと鳴り出した。続いて心臓の動悸がゴトンゴトン、ボコンボコンという雑音を含みながら頭蓋骨の内側へ響きはじめる。それにつれて、あたりの静けさが、いよいよ深まって行くような……。  ……どこか遠くで、お寺の鐘が鳴るような……。  灰色の海藻の破片がスルスルと上の方へ昇って行く。つづいて、やはり灰色の小さい魚の群が、整然と行列を立てたまま上の方へ消え失せて行く。  眼の前がだんだん暗くなり初める。  ……とうとう鼻を抓まれても解らない真の闇になると、そのうちに重たい靴底がフンワリと、海底の泥の上に落付いたようである。  私は信号綱を引いて海面の仲間に知らせた。  私は潜水|兜に取付けた電燈の光りをたよりに、ゆっくりゆっくりと歩き出した。まん丸い、ゆるやかな斜面を持った灰色の砂丘を、いくつもいくつも越えて行った。  しかし行けども行けども同じような低い、丸い砂の丘ばかりで、見渡しても見渡しても船の影はおろか、貝殻一つ見当らなかった。……のみならず私は暫く歩いて行くうちに、そこいら中がいつともなく薄明るくなって、青白い、燐のような光りに満ち満ちて来たことに気が付いた。……沙漠の夕暮のような……冥府へ行く途中のような……たよりない……気味のわるい……。  私は静かに方向を転換しかけた。何となく不吉な出来事が、私の行く手に待っているような予感がしたので……。けれども、まだ半廻転もしないうちに、私はハッと全身を強直さした。  ツイ私の背後の鼻の先に、いつの間に立ち現われたものか、何ともいえない奇妙な恰好をした海藻の森が、涯てしもない砂丘の起伏を背景にして迫り近付いている。  ……海藻の森……その一本一本は、それぞれ五六尺から一|丈ぐらいある。頭のまん丸いホンダワラのような楕円形をした……その根元の縊れたところから細い紐で海底に繋がっている。並んだり重なり合ったりしながら、お墓のように垂直に突立っている。蒼白い、燐光の中に、真黒く、ハッキリと……数えてみると合計七本あった。  私は唖然となった。取りあえずドキンドキンと心臓の鼓動を高めながら、二三歩ゆるゆると後じさりをした。  するとその巨大な海藻の一群の中でも、私に一番近い一本の中から人間の声が洩れ聞えて来た。  低い、カスレた声であった。 「モシモシ……」  私は全身の骨が一つ一つ氷のように冷え固まるのを感じた。同時に、その声の正体はわからないまま、この上もなく恐ろしい妖怪に出遭ったような感じに囚われたので、そのままなおもジリジリと後じさりをして行った。すると又、右手に在る八尺位の海藻の中から、濁った、けだるそうな声が聞えて来た。 「……貴方は……金貨を探しに来られたのでしょう」  私の胸の動悸が又、突然に高まった。そうして又、急に静かに、ピッタリと動かなくなった。……妖怪以上の何とも知れない恐ろしいものに睨まれていることを自覚して……。  すると又、一番向うの背の低い、すこし離れている一本の中から、悲しい、優しい女の声がユックリと聞えて来た。 「私たちは妖怪じゃないのですよ。貴方がお探しになっているオーラス丸の船長夫婦と……一人の女の児と……一人の運転手と……三人の水夫の死骸なのです。……今、貴方とお話したのは船長で、妾はその妻なのです。おわかりになりまして……。それから一番最初に貴方をお呼び止めしたのは一等運転手なのです」 「……聞いてくんねえ。いいかい……おいらは三人ともオーラス丸の船長の味方だったのだ」  と別の錆び沈んだ声が云った。 「……だから人非人ばかりのオーラス丸の乗組員の奴等に打ち殺されて、ズックの袋を引っかぶせられて、チャンやタールで塗り固められて、足に錘を結わえ付けられて、水雑炊にされちまったんだ」 「……………」 「……それからなあ……ほかの奴らあ、船の破片を波の上にブチ撒いて、沈没したように見せかけながら、行衛を晦ましちまやがったんだ」 「……………」 「……その中でも発頭人になっていた野郎がワザと故郷の警察に嘘を吐きに帰りやがったんだ。タッタ一人助かったような面をしやがって……ここで船が沈んだなんて云いふらしやがったんだ……」 「ホントウよ。オジサン……その人がお父さんとお母さんの前で、妾を絞め殺したのよ。オジサンはチャント知っていらっしゃるでしょ」  という可愛らしい、悲しい女の児の声が一番最後にきこえて来た。七本のまん中にある一番|丈の低い袋の中から洩れ出したのであろう……。あとはピッタリと静かになって、スッスッという啜り泣きの声ばかりが、海の水に沁み渡って来た。  私は棒立ちになったまま動けなくなった。だんだんと気が遠くなって来た。信号綱を引く力もなくなったまま……。  私が、その張本人の水夫長だったのだ……。  ……どこかで、お寺の鐘が鳴るような……。        硝子世界  世界の涯の涯まで硝子で出来ている。  河や海はむろんの事、町も、家も、橋も、街路樹も、森も、山も水晶のように透きとおっている。  スケート靴を穿いた私は、そうした風景の中心を一直線に、水平線まで貫いている硝子の舗道をやはり一直線に辷って行く……どこまでも……どこまでも……。  私の背後のはるか彼方に聳ゆるビルデングの一室が、真赤な血の色に染まっているのが、外からハッキリと透かして見える。何度振り返って見ても依然としてアリアリと見えている。家越し、橋越し、並木ごしに……すべてが硝子で出来ているのだから……。  私はその一室でタッタ今、一人の女を殺したのだ。ところが、そうした私の行動を、はるか向うの警察の塔上から透視していた一人の名探偵が、その室が私の兇行で真赤になったと見るや否や、すぐに私とおんなじスケート靴を穿いて、警察の玄関から私の方向に向って辷り出して来た。スケートの秘術をつくして……弦を離れた矢のように一直線に……。  それと見るや否や私も一生懸命に逃げ出した。おんなじようにスケートの秘術をつくして……一直線に……矢のように……。  青い青い空の下……ピカピカ光る無限の硝子の道を、追う探偵も、逃げる私もどちらもお互同志に透かし合いつつ……ミジンも姿を隠すことの出来ない、息苦しい気持のままに……。  探偵はだんだんスピードを増して来た。だから私も死物狂いに爪先を蹴立てた。……一歩を先んじて辷り出した私の加速度が、グングンと二人の間の距離を引離して行くのを感じながら……。  私は、うしろ向きになって辷りつつ右手を拡げた。拇指を鼻の頭に当てがって、はるかに追いかけて来る探偵を指の先で嘲弄し、侮辱してやった。  探偵の顔色が見る見る真赤になったのが、遠くからハッキリとわかった。多分|歯噛みをして口惜しがっているのであろう。溺れかけた人間のように両手を振りまわして、死物狂いに硝子の舗道を蹴立てて来る身振りがトテモ可笑しい……ザマを見やがれ……と思いながらも、ウッカリすると追い付かれるぞと思って、いい加減な処でクルリと方向を転換したが……私はハッとした。いつの間にか地平線の端まで来てしまった。……足の下は無限の空虚である。  私は慌てた。一生懸命で踏み止まろうとした。その拍子に足を踏み辷らして硝子の舗道の上に身体をタタキ付けたので、そのまま血だらけの両手を突張って、自分の身体を支え止めようとしたが、しかし今まで辷って来た惰力が承知しなかった。私の身体はそのまま一直線に地平線の端から、辷り出して無限の空間に真逆様に落込んだ。  私は歯噛みをした。虚空を掴んだ。手足を縦横ムジンに振りまわした。しかし私は何物も掴むことが出来なかった。  その時に一直線に切れた地平線の端から、探偵の顔がニュッと覗いた。落ちて行く私の顔を見下しながら、白い歯を一パイに剥き出した。 「わかったか……貴様を硝子の世界から逐い出すのが、俺の目的だったのだぞ」 「……………」  初めて計られた事を知った私は、無念さの余り両手を顔に当てた。大きな声でオイオイ泣き出しながら無限の空間を、どこまでもどこまでも落ちて行った……。  素晴らしい探偵小説が書きたい。  ピカピカ光る太陽の下を傲華な流線スターがスウーと横切る。その中に色眼鏡をかけて済まし返っているスゴイような丸髷美人の横顔が、ハッキリと網膜に焼付いたまま遠ざかる。アトからガソリンの臭いと、たまらない屍臭とがゴッチャになってムウとするほど鼻を撲つ。  ……ハテナ……今のは、お化粧をした死骸じゃなかったか知らん……。  と思うトタンに胸がドキンドキンとする。背中一面にゾーッと冷たくなる。ソンナ探偵小説が書きたい。  美人を絞殺して空屋の天井に吊しておく。  その空屋の借手がないために、屍体がいつまでもいつまでも発見されないでいる。  タマラなくなった犯人が、素人探偵を装って屍体を発見する。警察に報告して、驚くべき明察を以て自分の犯行の経路を発く。結局、何月何日の何時何分頃、何ホテルの第何号室に投宿する何某という男が真犯人だと警官に予告し、自分自身がその名前で、その時刻に、その室に泊る。その一室で警官に猛烈な抵抗を試みた揚句、致命傷を受けて倒れる。万歳を三唱して死ぬ。ソンナ探偵小説が書きたい。  或る殺人狂の極悪犯人が、或る名探偵の存在を恐れて是非とも殺して終おうとする。  そうすると不思議にも、今まで恐怖という事を知らなかった名探偵が、極度にその極悪犯人を恐れるらしく、秘術を尽して逃げ惑うのを、犯人が又、それ以上の秘術を尽して逐いまわる。とうとう大きな客船の上で、犯人が探偵を押え付けて、相抱いて海に投ずる。  二人の屍体を引上げて、色々と調べてみると、犯人は探偵の昔の恋人であった美人が、変装したものであった。……といったような筋はどうであろうか。  トロツキーが巴里郊外の或る小さな池の縁で釣糸を垂れていた。嘗て親友のレニンが、その池に投込んだというロマノフ家の王冠を探るためであった。  トロツキーは成功した。やがて池の底から金玉|燦然たる王冠を釣上げてニコニコしていると、その背後の夕暗にノッソリと立寄った者が在る。 「どうだい。釣れたかね」  トロツキーがビックリして振返ってみると、それはレニンであった。莫斯科の十字路で硝子箱入の屍蝋と化している筈の親友であった。  トロツキーは今|些しで気絶するところであった。王冠と、釣竿と、帽子と、木靴を残して一目散に逃失せてしまった。 「ウワア――ッ。幽霊だア――ッ」  レニンはニヤリと笑ってアトを見送った。草の中から王冠を拾い上げて撫でまわした。 「アハハハハハ俺が死んだ事を世界中に確認させるトリックには随分苦心したものだ。しかしあのトロツキーまでが俺の死を信じていようとは思わなかった。  トロツキーは俺の筋書通りに動いてくれた。彼奴にだけこの王冠の事を話しておいたのだからな。……俺がアレだけの大革命を企てたのも、結局、この王冠一つが慾しかったからだとは誰も知るまい。況んや俺が革命前から、この巴里で老舗の質屋をやっている、妾を三人も置いている事なぞ誰が知っていよう。アッハッハッハッ。馬鹿な人類ども……」  といったような探偵小説が、日本では書けないだろうか。  或る海岸の崖の上の別荘に百万長者の未亡人と、その娘が住んでいた。二人ともなかなかの美人であったが、娘の方がイツモ何者かに生命を狙われて殺されそうになるのを、そのたんびに或る青年名探偵が現われて救い救いしてくれた。  未亡人と娘は名探偵に満腔の感謝を捧げた。娘と名探偵とはとうとう恋仲にまでなったが、しかし、それでも娘の生命を狙っている悪人の正体ばかりは、どうしても掴めなかった。流石の青年名探偵が、いつも危機一髪で喰い止めるほどの神変とも、不可思議とも説明の出来ない怪手腕を以て、根気強く娘の生命を脅やかし続けるのであった。  ところがその娘が或る日、崖の縁端を散歩しているうちに突然に強い力で突落された。落ちる途中で一回転した拍子に、崖の上から並んで覗いている青年探偵と母親の、揃いも揃った冷酷なニコニコ顔が見えた。  それからその娘の頭が、崖の下の岩角に触れる迄の何秒かの間に、今までの一切の不可思議がグングン氷解して行った。その何秒かの間の彼女の回想の高速フィルムの全回転が、そっくりそのまま驚愕と、恐怖に満ち満ちた長篇小説として書けないものであろうか。  傴僂の隠亡が居る。  人跡稀な山奥の火葬場で人を焼く序に、棺桶を発いて目ぼしいものを奪い取る。中には棺の中で蘇生している人間も居るが、そんな人間は介抱して正気付かせて、生前の秘密をスッカリ喋舌らせてから又撲殺して焼いてしまう。そうしてその死人の遺族を脅迫して金を奪い取り、巨万の富を重ねる。  そのうちに美しい令嬢の失恋自殺屍体が生き返っているのを発見して自分の妻にしてしまう。隠亡をやめて遠国に住んで、美しい妻と共に一生を楽しく暮す。  その思い出話といったようなものが、一千一夜式に書けないものだろうか……。  何かと書いて来るうちに、お約束の六枚になった。ところで読返してみると、これが即ち探偵小説と申上げ得るものはタダの一つもない。みんな大人のお伽話みたいな心理描写ばっかりである。  ……ハテナ……。  俺は一体、何を書きたがっているのだろう。  草の中で虫が寄り合って相談を始めました。  蟋蟀が立ち上って、 「鈴虫さん、オケラさん、スイッチョさん。もっとこちらへお寄りなさい。だんだん涼しくなりますから、みんなで合奏会をやってお月様にきかせようではありませんか。きっと御ほうびを下さいますよ」  と言いますと、皆パチパチと手をたたきました。  虫たちはそれからすぐに合奏を始めました。  まずスイッチョが草の天辺へ立ち上って真面目腐って、 「スイッチョ、スイッチョ」  と合図をしますと、オケラが土くれの蔭に坐ってしずかなこえで 「リ――リリ――」  と羽根を鳴らします。それにつづいて蟋蟀が草の根本から涼しい声で、 「チンチロリン、チンチロリン」  とうたい出します。その中へ鈴虫が又やさしい長いひげをふりまわしながら、 「リーン、リーン、リーン」  と鈴の音をさせます。  その静かでおもしろいこと……ちょうどそのとき東の山からお昇りになった十五夜のお月様は、感心のあまり虫たちが大好きな露をたくさんにそこいらの草の上に撒いておやりになりました。  ところへ一匹の轡虫が飛び込んで来ました。 「何だ貴様たちは! おれを仲間外れにして音楽会をやるなんて失敬なやつだ。そんなことをするならおれがまぜ返してやる……ガチャ、ガチャ、ガチャ、ガチャ」  と大きな声で騒ぎ始めましたので、せっかく始めた静かな美しい音楽会がメチャメチャになってしまいました。  その勢いに驚いて、あつまっていた虫たちもみんな逃げてしまいました。  轡虫は大威張りでそこいらの露をヤタラに吸いながら、 「それ見ろ。おれの音楽にかなうやつは一匹もいまい。おれは夜鳴く虫の中で一番の大きな声なんだ。みんな感心したか……ガチャ、ガチャ、ガチャ、ガチャ、ガチャ」  とたった一人一所懸命にやっているうちに、 「お兄さま。あそこにガチャガチャがいますよ。大きな声をしているから遠くからでもわかりますよ」  と言う人間の声がすぐそばできこえましたので、これは大変と、急いでガチャガチャ言うのをやめていると、間もなく頭からポカリと袋をかむせられて籠の中へ入れられてしまいました。  ――ホントウの悪魔というものはこの世界に居るものか居ないものか――  ――居るとすればその悪魔は、どのような姿をしてドンナ処に潜み隠れているものなのか――  ――その悪魔はソモソモ如何なる因縁によって胎生しつつ、どのような栄養物を摂って生長して行くものなのか――  ――その害悪と冷笑とを逞ましくし行く手段は如何――  斯様な質問に対して躊躇せずに答え得る人間は、そう余計には居るまいと思う。  然るに私はまだヤット二十歳になったばかしの青二才である。だから聖人でも哲学者でもない筈であるが、しかしこの問いに対しては明白に答え得る確信を持っている。  ――ホントウの悪魔とは、自分を悪魔と思っていない人間を指して云うのである――自分では夢にも気付かないまんまに、他人の幸福や生命をあらゆる残忍な方法で否定しながら、平気の平左で白昼の大道を濶歩して行くものが、ホントウの悪魔でなければならぬ。――  ――だから真個の悪魔というものは誰の眼にも止まらないで存在しているのだ――  ――そのような悪魔の現実社会に於ける生活とか、仕事とかいうものが如何に戦慄すべきものがあるかという事なぞも、滅多に考えられた事がないのだ――  ……と……。 「彼奴は悪魔だ。お前と俺の生涯をドン底まで詛って来た奴だ。今度彼奴に会ったら、鉄鎚で脳天を喰らわしてやるんだぞ。いいか。忘れるなよ」  親父は私にこう云って聞かせるたんびに、煎餅蒲団の上で起き直った。蓬々と乱れた髪毛と髯の中から、血走った両眼をギョロギョロと剥き出して、洗濯板みたいに並んだ肋骨を撫でまわしてゼイゼイゼイゼイと咳をした。そのうちに昂奮して神経が釣り上って来ると、その悪魔が眼の前に坐っているかのように、鼻の先の薄暗い空間を睨み付けてギリギリと歯ぎしりをしながら、骨と皮ばかりの手を振り上げて鉄鎚をグワンと打ちおろす真似をして見せる事もあったが、その顔の方がよっぽど恐ろしくて、活動に出て来る悪魔ソックリに見えたので、私はいつも子供心に一種の滑稽味を感じさせられた。親父は悪魔を取り違えているのじゃないか知らんと思って……。  親父が悪魔と云っているのは、親父の実の弟で、私にとってはタッタ一人の叔父に当る、児島良平という男であった。何でもその叔父というのは、よっぽどタチの悪い人間で、若いうちから放蕩に身を持ち崩したあげく、インチキ賭博の名人になって、親類や友達から見離されていたが、私が三つか四つの年に親父が喘息にかかって弱り込むと間もなく、上手に詫を入れて出入りをするようになった。……と思う間もなく今度は相場師になって身を立てるというので、言葉巧みに親父を誑し込んで、祖父の代から伝わった田地田畠を初め銀行の貯金、親父の保険金なぞいうものを根こそげ捲き上げてしまったあげく、美しいばかりで智慧の足りない私の母親を連れてどこかへ夜逃げをして終ったというのである。親父の結核性の喘息が非道くなったのもその叔父のせいだし、親類や友達に見限られて、コンナ貧民窟に潜り込んで、死ぬのを待つばかりの哀れな身の上になったのもその叔父のお蔭だという。その中にどうにかこうにか私が育って、やっと十三になったと思うと、惜しい小学校を中途で止して、広告屋の旗担ぎ、葬式の花持ち、活動のビラ配り、活版所の手伝いなぞと次から次へ転々して、親を養わなければならなくなったのもその叔父のせいだ……だから俺が生きているうちにその児島良平という叔父を見付け出したら、すぐに鉄鎚で頭をタタキ潰さなくちゃいけないぞ。良平という奴は生れながらに血も涙もない奴で、誰の家でも手当り次第に破滅させて、美味い汁を吸うのが専門の悪魔なのだ。生かしておけばおく程、国家社会のためにならない人間だからナ。彼奴を殺せばどれくらい人助けになるか知れない……イイカ。キット遣っつけるんだぞ。罪はみんな俺が引き受けてやるからナ……それが俺の人助けの仕納めだ……なぞと親父は毎日のように云って聞かせたので、スッカリその文句を暗記してしまった。そうして子供心に、そんな悪魔みたいな人間が本当にこの世に居るものか知らん。もし居るものならば親父の云う通りにブチ殺したって構わないだろう。人間の頭を鉄鎚で殴ると眼が飛び出すって聞いていたが本当か知らん。本当だったら面白いナ。その時にはどんな気持ちがするだろう……なぞと、いろんな事を聯想しいしい、温柔しくうなずいて聞いていた。その叔父がどんな顔をしているか、早く会って見たいような気持ちもした。  ところがその悪魔の叔父は、親父が死ぬと間もなくどこからかヒョッコリと現われて、私の眼の前に突立ったのであった。  何でも親父は、私が活版所に出かけた留守のうちに、台所の窓から帯を垂らして首を引っかけたまま死んでいたのだそうで、寝床の煎餅蒲団の下には、 「何事も天命です。誰も怨む者はありません。ただ年端の行かぬ倅にこの上の苦労をかけるのが辛らさに死にます。どうぞよろしくお頼み申します」  といったような開き封の遺書が、叔父宛にした密封の書類と一緒に置いてあった。その遺書は、巡査が私に見せてくれたが、昔風の曲りくねった字体で丸ッキリ読めなかった。又、親父の死に顔も、夜具の下に寝かしてあるのを覗いて見るには見たが、別に悲しくも何ともなかったので困ってしまった。近所の人達や、警官や、医者みたいな連中が、みんな眼をしばたたいたり泣いたりしているらしいのに、私一人だけはツクネンと坐ったまま、呑気そうに口をポカンと開いた親父の口もとを眺めて「咳が出なくなったから楽だろう」なぞと思ったりしているのが何となくバツが悪かった。するとそのうちにドカーンと大砲のような音がして、何かしら眼が眩むほど真白く光ったのでビックリした。あとから聞いてみると、それは新聞社から来た写真屋がマグネシュームというものを焚いたので、あくる日になるとその写真が私の氏素性と一所に大きく新聞に出た。……大金持ちの遺児で、この上もない親孝行者で……とか何とかいうので、学校の成績のよかった事や、毎日活動のビラや古新聞の記事を親父に読んで聞かせた事まで無茶苦茶に賞め立てて書いてあった。  その新聞を持って、まだ薄暗いうちに飛び込んで来たのが悪魔の叔父で、親父の仏様の横に並んで寝ていた私を大きな声で「愛太郎愛太郎」と呼び起しながら、壊れかかった表の扉をたたいたのであった。  叔父はその時が四十二三位であったろうか。眼の小さい、赤ら顔のデップリとした小男で、額の上に禿げ残った毛を真中からテイネイに二つに分けて、詰襟の白い洋服を着ていたが、トテモ人のいい親切らしい風付きで、悪魔らしいところはミジンも見えなかったのでガッカリしてしまった。……あのまん丸く光る頭を鉄鎚で殴ってもいいのか知らん……と思うと可笑しくなった位であった。 「オオオオ。愛太郎か。大きくなったナ。十三だというんか。ウンウン。親類の人はまだ誰も来ないかナ。ウンそうか。俺はお前の父さんに誤解されたっ切りで、死に別れたのが残念で残念で……」  と云い云い私の頭を撫でて、白い半布で涙か汗かを拭いているらしかったが、親父が遺書と一緒に置いていた叔父宛の密封書を見せると、中味を無造作に引き出して、証文みたようなものを一枚一枚|叮嚀に検めて行くうちに、何ともいえず憎々しい冷笑を浮かめながら、みんな一緒にまとめて内ポケットに押し込んだようであった。そうして自分で葬儀屋を呼んで来たり、アルコールと綿を買って来て親父の身体を綺麗に拭き上げたりして、野辺送りを簡単に済ますと、親類や近所の人達に挨拶をして私を自分の店に引き取った。叔父はその挨拶の中で、 「死んだ兄貴に対する、せめてもの恩報じです……」  というような事を何度も何度も繰り返していたが、母親の事は一言も云わなかったようである。もっとも私の居る前で二三人、そんな事を詰問した人もあったが、叔父は馬鹿馬鹿しそうに高笑いしながら、 「そんな事は私が兄貴に追い出された後の出来事で、どんな事情があったのか知りもしませんし、何の関係もない事です。とにかくこのような場合ですからそのような御質問は後にして下さい。この児の教育のためにもなりませんから……」  とキッパリ云い切ったことを記憶えている。あとで考えると叔父は私の母を連れ出して散々オモチャにした揚句に、どこかへ売り飛ばすか、又は、人知れず殺すかどうかしたらしい……と思える節がないでもないが、しかしその時の私は顔も知らない母親の事なぞはテンデ問題にしていなかった。それよりも叔父に買ってもらった古い洋服と、帽子と靴が、もの珍らしくて嬉しい位の事であった。  叔父の店は、今までいた貧民窟から半里ばかり距ったF市の中央の株式取引所の前にあった。両隣りとソックリの貸事務所になっている北向きの二間半|間口で、表に「H株式取引所員……※善……児島良平……電話四四〇三番」と彫り込んだ緑青だらけの真鍮看板を掛けて、入口の硝子扉にも同じ文句を剥げチョロケた金箔で貼り出していた。私は叔父がこんな近い処に住んでいようとは夢にも思わなかったので、子供心に不思議に思いながら叔父に跟いて中に這入ると、上り口は半坪ばかりのタタキで、あと十畳ばかりの板の間に穴だらけのリノリウムを敷いて、天井には煤ぼけた雲母紙が貼ってあった。その往来に向った窓の処に叔父の机と廻転椅子。その右手の壁に株の相場を書いたボールド。その又右手に電話機。その反対側の向い合った白壁には各地の米の相場を見せる黒板。汽車の時間表。メクリ暦なぞ……。その下に帳簿方と場況見と二人の店員の机が差し向いになっていた。  しかし、そんなものの中で立派だな……と思ったものは一つもなかった。すべてが現在の通りにドス黒くて、ホコリだらけで、汚ならしかった。ただ入口の正面の壁に並んだ店員の帽子と羽織の間から覗いている一枚の美人画だけが新しくて綺麗に見えているだけであった。その美人画は大東汽船会社のポスターで、十七八の島田|髷の少女がこっち向きに丸|卓子に凭たれているところであったが、その肌の色や肉付きは云うまでもなく、髪毛の一すじ一すじから、花簪ビラビラや、華やかな振袖の模様や、丸|卓子の光沢に反映っている石竹色の指の爪まで、本物かと思われるくらい浮き浮きと描かれていた。瓜ざね顔の上品な生え際と可愛らしい腮。ポーッとした眉。涼しい眼。白い高い鼻。そうして今にも……あたしは、あなたが大好きよ……と云い出しそうに微笑を含んだ口元までも、イキナリ吸い付きたいくらい美しかった。  私はそれまでに、こんなポスターを何枚見たか知れなかったのだけど、この時ばかりは何故かしら特別のような気がした。……今から思うとこの時が私の思春期に入り初めで、同時にこの時こそ生涯の呪われ初めであったかも知れない。ちょうど昔の伝説の美しい悪魔から霊魂を吸い取られる時のように、何ともいえず胸がドキドキして、顔がポッポとなって、気まりが悪るくてしようがなかったので、吾れ知らずうつむきながらソーッと上目づかいに見ていたように思う。  しかし叔父は、そんな事には気付かなかったらしく、グングンと私の手を引っぱって電話機の横の扉を開くと、その外にある狭い板張りの横手から暗い階段を昇って、店の真上に在る二階に出た。そこは一方が押入れになっている天井の低い八畳位の北向きの室で、取引所前の往来を見下した高さ四尺位の横一文字の一方窓に、真赤に錆びた鉄の棒と磨硝子の障子が並んでいたが、そこからさし込む往来の照り返しで、室の中は息苦しい程蒸し暑かった。真黒い天井からブラ下がった十|燭の電球は蠅の糞で白茶気ていた。その下の畳はブクブクに膨れて、何ともいえない噎せっぽい悪臭を放っていた。左右の壁や、襖や、磨硝子の窓には、青や赤のインキだの、鉛筆だの筆だので、共同便所ソックリの醜怪な楽書きが、戦争みたいに押し合いヘシ合いかき散らしてあった。  叔父は窓をあけてホコリ臭い風を入れた。それから押入れを一パイに開いて、そこに投げ込んである二三枚のボロ夜具だの、蚊帳だの、針金で鉢巻をした大きな瀬戸火鉢だの、古い新聞紙や古電球なぞをジロジロ見まわしているようであったが、やがて、今までとは丸で違った、底意地の悪い声を出しながら私をふり返った。 「……いいか……貴様は今夜からここで、店の帳簿方と一所に寝るんだぞ。蒲団はあとから俥屋が持って来る。貴様のオヤジのだけれども消毒してあるから大丈夫だ。虱なんぞ一匹も居ない筈だ。便所はこの階段を降りると突き当りにある。便所の向うの扉を開くと隣りの店に出るから気をつけろ。……貴様は夜中に寝ぼけたり、小便を垂れたりしはしまいナ」  私は黙ってうなずいた。けれども、それと一緒に、今の今まで、あたたかい親切な人間とばかり見えていた叔父が、急に鉄のポストみたいに冷たい態度にかわって、傲然と私を睨み下しているのに気が付いて、又もビックリさせられた。しかし怖い事はちっともなかった。そうしてコンナ楽書きを勝手にしていいのか知らん……なぞと考えながら、壁に描かれている変テコな絵や文字を、一つ一つに見まわしていた。  その間に叔父は、クルリと私に背中を向けて、サッサと階段を降りて行った。……と思うと、もう麦稈帽を頭に乗っけて、夕日のカンカン照る往来に出て行った。私はその眩しいうしろ姿を見送りながら、  ……やっぱし叔父は悪魔だったのかな。あの頭の真ン中のツルツル光っている処を、鉄鎚でコツンとやっても構わないのかナ……。  なぞと、ボンヤリ考えていた。  叔父は毎朝八時半頃から店に出て来た。そうして肥った身体を自分の椅子に詰め込んで、新聞を読んだり、手紙を書いたりしたあとは、入れ代り立ち代り電話をかけて来るお客や、店に押しかけてくる椋鳥連に向って、トテモ景気のいい……その癖、子供の私が聞いても冷汗の出るような嘘八百を並べては高笑いをするのが仕事の大部分であった。十分ばかり前に来たお客にむりやりに売らせた品物を、その次に来たお客に押し付けて買わせているような事がショッチュウであった。そのお客というのは、叔父が毎晩行く飯屋だの、宿屋だの、又は停車場の待合室や、旅行中の汽車で知り合いになった連中で大部分で、その中でも一番よけいに来るのは、叔父の上花客になっている田舎の田地持ちである事が、言葉の端々でよくわかった。中には叔父と花を引いて負けた金の埋合わせをしに来る馬鹿者も、チョイチョイ交っているようであったが、そんなのに対しては、特別に景気のいい話と高笑いを浴びせかけて、取っときの智慧を授けているかのように装った。しかし、そんな連中が居なくなったあとの叔父は、今まで放送し続けていた陽気な笑い声をピッタリ止めて、打ってかわった無口な、日陰の石塔を見るような冷たい人間になってしまうので、一層悪魔らしい感じがした。それにつれて二人の店員も、私も同じように無言のまま、その眼色を見て仕事をしなければならなかったので、お客の居ない間の店の中はまるで秘密の倶楽部か何ぞのように、陰気な静けさで充たされていた。  私はそこで給仕同様にコキ使われながら夜学校に通わされる一方に、毎日毎日相場の事ばかり見せられたり聞かされたりした。そのうちにいつからともなく相場の種類や、上り下りの理窟や、馳け引きのうらおもてなどが解って来るに連れて、世の中に相場ぐらい詰らない面白くないものはない、とシミジミに思うようになった。けれども亦、そんなものに引きずられて、血眼になっている人間を見るのは非常に面白かった。前にも書いた通り叔父は大変な嘘吐きで、よくお客に中華民国の暦と米相場の高低表を並べて見せて、この日は仏滅だからこの株が下った。この時は日柄が三リンボーだったけれども虎の日の友引きだったから、この株とこの株が後場になって盛り返したのだ。元来この「友引き」とか「先負け」とかいう日取りの組合わせは聖徳太子の御研究で、人気の移りかわって行く順序をあらわしたものです……この相場の高低表と見比べて御覧なさい。一目瞭然でしょう……現に私はこの時にいくら儲けて……なぞと真面目腐って講釈をしていた。しかもその暦をよく見ると、いい運勢とわるい運勢とが同じ日に幾つも重なり合っていて、相場が上っても下っても理窟がつくようになっているのであったが、それを真剣になって聞いている素人のお客を見ると、トテモ滑稽で気の毒でしようがなかった。同時に叔父の口先のうまいのにいつも感心させられた。  こうして十六の年に簿記の夜学校を出ると、私は店の電話機の横に机を一個貰って、各地から来る場況や出米をきく役目を云いつかった。同時に今まで毎晩私と一緒に寝ていた帳簿方が結婚をして家を持ったので、私が常設の宿直になった。午後四時から五時の間に叔父や店の者が相前後して店を引けて行くと、私は表を閉めて閂を入れて後を掃除した。それから翌朝の六時か七時に起きて、近所の出前屋が配達する弁当を喰って、表に水を打って掃除を済まして、詰襟の洋服に着かえるまでのあいだ、私は小遣銭の許す範囲で、古雑誌を買ったり、貸本を取り寄せたりして、いろんな空想を湧かしつつ読み耽った。その中でも特に私の興味を惹いたのは「悪」の字を取扱った小説や講談で、悪党とか、悪魔とか名付けられる人物や、そんな思想を取り入れた読みものは何故だかわからないまま奇妙に惹き付けられて読まされた。皮肉と冷笑とで、あらゆるものを堕落させて行くメフィストフェレスや、人間の尊とい血と涙を片っ端から溝泥の中に踏み込んで、見返りもせずに濶歩して行くドリアングレーなぞいう代表的な連中は、もう親友以上に心安くなって、スッカリ悪魔通になってしまったので、そんな連中に比べると、ケチな椋鳥を引っかけて身上をハタカせるのを唯一の楽しみにしている叔父なぞは、オッチョコチョイの木っ葉悪魔ぐらいにしか見えなくなって来た。  ……この世には、もっとスバラシイ、偉大な悪魔が実在していないものか知らん……あの叔父のスベスベした脳天へ、鍛冶屋の鉄鎚を天降らせるか何かしたら、私は差し詰め悪魔以上の人間になれる訳だけど、しかし、一方から見ると、それは立派な親孝行にもなるのだから何にもならない。……第一私にはそんな悪魔になり得るだけの力と度胸がないから駄目だ。……ああ悪魔になりたい。そうしたらドンナにか面白いだろうにナア……。  なぞと飛んでもない事を考えたりした。そうかと思うと、あの大東汽船の美人画のポスターを、自分でも知らない間に二階に持って来て暗い壁に貼り付けておいたものを、窓越しに向い合っているような気持ちで飽かず飽かず眺めたり、それを女主人公にして様々の甘ったるいローマンスを描いたり、又は、読んだ小説の中の可憐な少女に当てはめて、同情したりして楽しんだ。  時たま活動を見に行く事もあったが、その時は、隣家の店に居る泊り込みの小使い爺さんに留守を頼んで、表から南京錠をかけて行った。  叔父は着物と弁当以外に、毎月十円|宛くれた。  私の得意は簿記よりも電話であった。  叔父に電話をかけて来るお客の声を、モシモシのモの字一字で聞き分けたり、受話機の外し工合で男か女かを察したり、両方から一時に混線して来た用向きを別々に聞き分けて飲み込んだりする位の事はお茶の子サイサイであった。世間の人間はみんな嘘を吐く中に、電話だけは決して嘘を伝えない。自分の持っている電気の作用をどこまでも、正直に霊妙にあらわして行くもの……というような、一種の生意気な哲学めいた懐かしみさえおぼえた。殊に電話は、あらゆる明敏な感覚を持つ名探偵のように、時々思いもかけぬ報道をしてくれるので面白くてしようがなかった。それは誰に話しても本当にしてくれまいと思われる電話の魔力であった。  受話機を耳に当てる瞬間に私の聴覚は、何里、もしくは何百里の針金を伝って、直接に先方の電話機の在る処まで延びて行くのであった。その途中からいろんな雑音が這入って来ると、このジイジイという音はこちらのF交換局の市外線の故障だ……あのガーガーという響きは大阪の共電式の電話機と、中継台との間に起っているのだ……というようなことが、経験を積むにつれて、手に取るように解って来た。その都度にそこの交換局の監督や、主事を呼び出して注意をしたり、手厳しく遣っ付けたりするのが愉快で愉快でたまらなかった。又それにつれて、各地の交換手の癖や訛なぞは勿論、その局の交換手に対する訓練方針の欠点まで呑み込むと同時に、電線に感ずる各地の天候、アースの出工合、空中電気の有無まで通話の最中に感じられるようになった。電話口に向った時の頬や、唇や、鼻の頭、睫なぞの、電流に対する微妙な感じによって、雨や風を半日ぐらい前に予知する事も珍らしくなかった。  その中でも面白かったのは相場の上り下りの予感が電話で来る事であった。  大阪の株式や米の相場なぞは、毎日青木という店から予約電話を通じて、前後数回に分けて知らせて来るので、その時分にそんな贅沢な真似をしているのは一軒隣りの「山長」という大商店と叔父の処だけであった。叔父はそれが又、大得意で、来るお客|毎に吹聴しては店の信用を裏書きする材料にしていたが、何しろ距離が遠いのと雑音が烈しいのとで、並大抵の耳では相手の読む数字が聴き取れないのを、私の鼓膜は雑作なしにハッキリと受け入れた。のみならず私の聴神経はもっと遠い処から来るほかの音響までも、同時に聴こうとしているのであった。  大阪の青木という店は取引所のすぐ近くにあるらしく、表の窓や扉が密閉されていない限り、店の中の物音と往来の噪音とが、相場の読み声と一緒に送話機から這入って来た。各地の天候が好晴で、電話線がスッキリとした日には、立ち合いの物音や呼び声らしいドヨメキまでも聞えることがあった。勿論それは複雑を極めた雑音の奥の奥から伝わる波動で、音響とは感じられない程度の感じであったが、そんな物音と、青木の店員が一息に吹き込む場況とを重ね合わせて聞きながら、上り下りの数字を鉛筆で書き止めて行くと、その瞬間瞬間に、そんな米や株の景気に対するいろんな予感が理窟なしにピンピンと私の頭に感じて来た。この株は上るな……と思うと持っている鉛筆に力が籠もった。下るな……と感ずると字の力が抜ける位にまで敏感になって来た。その予感を後から配達して来る夕刊の相場面と照し合わせて見ると一々的中しているので、面白くてしようがなかった。的中していないのはF市の新聞社の誤植である事を翌る日の正午に来る大阪の新聞で発見した事も珍らしくない。  けれども私はこうした予感を叔父に知らせた事はなかった。知らせても滅多に信じない事はわかり切っていたし、第一面倒臭くもあったので、ただ数字の控えだけを恭しく手渡しすると、叔父は一眼でツラリと見渡して私に返した。それを私は、電話の横にかかったボールドにチョークで書き直すのであったが、それを見ながら叔父は腹の中でいろんな奸策を立て直しつつ、お客の株を売ったり買ったりして、悪銭をカスッている事が私によくわかった。あんなに苦心して危険な銭を掴んで、火の車に油を指し指しして行くのがこの叔父の一生かと思うと、いつも薄笑いが腹の底から浮かみ上って来た。いっその事、死んだ親父の遺言通りに、この叔父の禿げた脳天をタタキ破ってやった方が功徳になりはしまいか……なぞと考えた事もあった。  けれども店を仕舞うと同時に、私はそんな事をキレイに忘れて終うのが常であった。そうして鼻歌を唄い唄い二階に上って、煙草の烟と、小説と雑誌と、キネマの筋書の世界に寝ころんだ。活動も時々見た。  私は十円に満足していた。  ところが、こうした私の電話に対する特別の能力が、とうとう外に顕われる時機が来た。  それは私が十七の年であったと思うから大正十年頃の事である。青木の店員が一気に読み上げる前場の数字の中で、製糖関係の株が一斉に二分|乃至五分方の暴落をしているのにビックリしながら鉛筆を走らせていると、どこから混線して来たものか、以前に声の調子を聞き覚えていた叔父の知人で、大阪随一の相場新聞|浪華朝報社の主筆をやっている猪股という男の言葉が切れ切れに響いて来た。 「……買え買え。きょうの後場はもっと下るかも知れないが構わずに買え……外電のキューバ島の空前の大豊作は嘘だ……」  私はこの意味がちょっと解らなかった。ただ、この頃、製糖会社の株をシコタマ背負い込んでいる叔父がどんな顔をするだろうと思いながら、そんな株の暴落した数字を心持ち大きく書いて示すと、叔父はいつもの通りに一渡り見まわしながら、何喰わぬ顔をしてゴクリと唾を飲み込んだ。この調子で行くと叔父は殆んど破産に近い打撃を受けるであろう事が、その石みたいに冷え切った表情で察しられた。  けれどもその表情をジッと凝視しながら、机の端を平手で撫でていると、何故ともなく私の頭の中で或る暗示が電光のように閃めいたので、私は思わず鉛筆を取り上げて叔父が眼を落している机の上の便箋にこう書いた。 「今朝の各新聞に出ているキューバ糖の大豊作の予想は虚報だと思います。浪華朝報社では、キューバ糖が、何者かに依って大仕掛けに買い占められつつある事を探知しているようです。会社の相場主任猪股氏はきょうの後場で買いにまわっている事が、たった今電話の混線で……」  ここまで書いた時叔父は、私の手をピッタリと押えた。茫然と血の気を失ったまま、素焼の瀬戸物みたいな表情で私の顔を見た。そうしてブルブルとふるえる手で、その便箋の一枚を掴んで空間を睨みつつ、腰を浮しかけたが、又、ドッカと椅子に腰を下して瞑目一番したと思うと、今度は猛虎のように決然として立ち上って、掴みかかるように私を押し除けると自分自身に電話口へ獅噛みついた。各地の銀行や仲買店を次から次に汗だくだくで呼び出しつつ、資力の続く限り製糖株を買いにまわった。そうして店の者が呆れた眼を瞠っている中をフラフラと取引所へ出て行って、その日の後場でメチャメチャに暴落した製糖株を買って買って買いまくった。人々は叔父を発狂したと云っていたそうである。  けれども、それから中一日置いてあくる日の前場の引け頃になると、取引所の中に一騒動が起った。叔父は寄ってたかって胴上げにされて、這う這うの体で店の中に逃げ込んで来た。そのあとから「万歳万歳」という声が大波のように雪崩れ込んで、店の中から表の往来まで一パイの人になった。私は私でそのさなかに電話口に突立って、八方からかかって来る吉報に転手児舞をしなければならなかった。 「……米国某新聞系大手筋のキューバ糖大買占め……紐育の砂糖が一躍暴騰して、砂糖節約デーの実施運動起る……」  という国際電報が掲載されたのは、その翌日の夕刊のことであった。  叔父は一躍して相場師仲間の大立物になった。出入りするお客の数は三倍位になった。田舎の出米の相場を直接に聞くようになったために電話の忙がしさは数倍に達した。けれども叔父は電話機も殖やさなければ店も拡張しなかった。ただ私の手当てを一躍五十円に引き上げたほかに、私がトックの昔に忘れていた、親孝行に対する新聞社の同情金を叔父が保管していたものが、元利合計二百何円何十何銭かになっていたので、プラチナの腕時計を一個買って下げ渡してくれただけであった。  しかし叔父はそれから後、私に電話以外の用事を絶対に云いつけなくなった。新しい通勤の給仕を一人置いて今までの私の雑務を引き継がせると同時に、各地方の相場を聞く私の態度にすこしも眼を離さぬようになった。電話を伝わって来る相場に限って私が持っている……それこそ悪魔のような敏感さを、叔父がズンズン理解し始めている事が、私に又ズンズン感じられた。 「きょうはトテモ線がわるいんです。広島か岡山あたりで大雪が降って断線しそうになっているんです。きょうの後場の大阪電話はこの調子だと来ないかも知れません」  と云っても叔父は以前のように「千里眼だ」なぞ云って冷笑しなくなった。 「オーイ、大新が落ちているぞ――オ。大新はいくらだア」  と私が大阪に怒鳴る時、叔父もその日の株界の興味の中心が、その株の上り下りに在る事を知って、熱心に注目している視線が、私の横頬に生あたたかく感じられる位にまで、二人の気持ちがピッタリとなって来た。  私は相場の書き取りを叔父に見せる時に、叔父が指で押える株の上り下りを眼顔で知らせた。上り下りの見当が附かないのはチョット頭を振った。又、客から売り買いの相談をかけられた時に、チラリと私の方を見ると、私は左右の眼を閉じたり開いたりして合図をした。その合図を叔父が取り違えると頭を掻いて訂正した。  こうした相場の上り下りに対する私の予感は夏冬の寒暖の変化や天候の工合なぞによって、余計に来る時と来ない時があった。電線の調子の良し悪しや、先方の読み方の上手下手に依っても違ったが、それでもこの予感のおかげで叔父の身代はメキメキと殖えて行った。何でも二三年の間に一千万円近くに達したとの事だが、叔父はそれを全部、大阪中の島の浜村銀行に預けているらしかった……というのは或る時、同銀行の支配人で井田という大阪弁丸出しの巨漢がこの事務所を訪れて、事務員や私にまでピョコピョコ頭を下げまわったのに対して、赤ん坊位にしか見えない叔父が反り身になりながら、こんな事を云ったので察しられる。 「僕は何でも相場式に行かなくちゃ気が済まない性分でね。儲けた金は方々の銀行にチョクチョク入れて、頭かくして尻かくさず式の安全第一を計るようなケチな真似はしないよ。大阪一流の浜村銀行が潰れた時に、日本中で店を閉めたのはこの薄キタナイ※善の事務所一軒だけという事がわかれば、相場師としてこれ以上の名誉はないじゃないか。ハッハッハッハッハッ」  この財産と共に、叔父の肉体も亦、いよいよ丸々と脂切って、陽気な色彩を放って来た。その頭はますます禿げ上った。叔父はそれを撫で上げ撫で上げ人と話した。  私はそれと正反対に益々青白く瘠せこけて行った。そうして黒い髪毛ばかりが房々と波打って幽霊のように延びて行ったが、それを両手で掴んだり引っぱったりして、何ともいえない微妙な手ざわりを楽しみつつ、金口の煙草を吸って、小説や雑誌を読むのが私の無上の楽しみであった。私にとっては恋なぞいうものは、空想の世界の出来事に過ぎなかった。又は、錯覚と誇張とで性慾を飾ろうとする一種の芝居としか考えられなかった。私の初恋とも云えば云えるであろう彼の、大東汽船の美人画に向って微笑し合っているうちに、時折り思い出したように感ずる胸のトキメキ以外には、本当の恋が存在しようなぞと夢にも思わなかった。私は純然たるなまけものになった。  一方に私の俸給はグングンとセリ上って、とうとう二百五十円まで漕ぎ付けた。叔父はそれを私独得の「相場の予感に対する口止め料」であるかのように云い聞かせていたが、実は、私という福の神に投げ与える極めて安価な足止め料に相違なかった。もっともそのおかげで、私は汚ない二階に寝ころんだまま、煙草と、弁当と、書物の三道楽に浮き身をやつし得るありがたい身分になったわけであるが、同時にその道楽の結果として、自分の頭と、胃袋と、肉体とが日に日に頽廃して行く有様を自分でジッと凝視めていなければならなくなったのには少々悲観させられた。煙草はマドロスパイプを使う舶来の鑵入りでなければ吸えないようになった。弁当は香料の利いた、脂濃い洋食か支那料理に限られて来た。小説もアクドイ翻訳ものか好色本のたぐいでなければ手にしなくなった。しまいにはそれさえも飽きて来て、神経の切れ端を並べたような新体詩や、近代画ばかり買うようになった。それでも余った札束や銀貨の棒は、片っ端から押入れの隅にある本筥の抽出しに投げ込んだ。  しかし遂にはそんな書物を買いに行く事すら面倒臭くなった。苦辛い胃散の味を荒れた舌に沁み込ませながら、破れ畳の上に寝ころんで、そこいらの壁や襖の楽書きの文句や絵に含まれている異様に露骨な熱情や、拙劣な技巧によって痛切に表現されている心的の波動を、宇宙間無上の芸術ででもあるかのように飽かず飽かず眺めまわしつつ、あらん限りの空想や妄想を逞しくする時間が殖えて来た。私は自分の肉体と精神の弾力が、日に日にダラケて消え失せて行くのを感じた。しまいには壁の美人画の永久に若い、生き生きした微笑から、一種の圧迫を感ずるくらいにまで神経が弱って行った。……私は近いうちに死ぬかも知れない。病気にかかるか、それともキチガイになるか、自殺するかして……というような薄暗い予感に襲われ初めたのはこの頃からの事であった。叔父はこうして私を衰滅させるためにヤケに給料を殖やしているのではないか知らん。もしそうならば構う事はない。死にがけに叔父の頭を鉄鎚でなぐってお礼を云ってやろう……なぞと真面目に考えたりした。  そのうちに叔父は満五十歳になった。私は二十歳になった。  叔父が独身者である事を、私が初めて知ったのはこの頃の事であった。  二十歳になるまで七八年間も一緒に居た叔父が、独身者かどうか気付かなかったといったら笑う人があるかも知れない。しかしこれは私の正真正銘のところであった。私はそれほど左様に実世間とかけ離れた世界に生きている人間であった。私は私の神経が、実世間のいかなる問題に触れても、すぐに縮み込む程に鋭いものであることをよく知っていた。私は現実の世界に在る太陽や、草木や、土や風なぞいうものが、空想の世界にあらわれる太陽や草木風景なぞよりも遥かに単調子な、平凡な、荒々しいものであることを知り過ぎる位知っていた。同様に、金とか、女とかいうものも実際に手に取ってみると存外下らない、飽き飽きしたものである上に、そんなものに対する慾望を持続して行くためには実に馬鹿馬鹿しい、たまらないほど夥しい苦労を続けなければならぬであろうことを考えるだけでもウンザリした。私は現実の一切に諦らめをつけて、空想の世界に寝ころんでいるのが、私に一番似合い相当した生活であると信じていた。  だから私はこの数年の間に、叔父の自宅らしい処から一遍も電話がかからないのを多少不思議に思いつつも、それについて探偵してみようなぞいう勇気を起した事はなかった。一方に月給を取る器械みたような店員たちも、この事に就いて私と雑談するような事は絶無であった。  然るに…………  忘れもしない去年の八月の初めの珍らしくドンヨリと曇った午後の事であった。店を仕舞ってから給仕に窓や扉を明け放させたまま、電話の前の自分の机に倚りかかって、ずっと以前に読みさしたまま忘れていた翻訳物の探偵小説を読んでいると、肩の処で突然に電話のベルが鳴った。  私は読みさしの小説の中の事件を頭の中で渦巻かせながら立ち上って、受話機を耳に当てると、今までに一度も聞いた事のない、水々しい魅力を持った若い女の声が響いて来たので、私は思わず、顔に蔽いかかった髪毛を撫で上げた。本能的に全神経を耳に集中した。 「モシモシ……あなたは四千四百三番でいらっしゃいますか」 「そうです……あなたは……」 「……あの……児島はもう帰りましたでしょうか」 「……ハイ。主人は今しがた帰りました。失礼ですがあなたは……」 「あの……あなたは……失礼ですけど……愛太郎さんでいらっしゃいますか……」 「ハイ……児島愛太郎です……あなたは……」 「……オホホホホホホホホ……」  ……受話機のかかる音がした。  私も受話機をかけたが、そのまま電話口のニッケル・カヴァーを見つめてボンヤリと突立っていた。私の電話に対する敏感さをスッカリ面喰らわされてしまったまま……。  ……千万長者の叔父を呼び棄てにする若い女が一人居る……その女は私の名前を知っている……否、もっともっと詳しく私について知っているらしい口ぶりである。……そうして何がなしに一寸冷やかして見ようぐらいの考えで、私を電話口に呼び出してみたものらしい……。  という感じだけが、私の脳髄の中心にキリキリと渦巻き残ったまま……。  私は小説の続きも何も忘れて、表の窓や扉をヤケに手荒く締めると、暗い階子段を二階に上って、蠅の糞で真白になった電球の下に仰向けに寝ころんだ。 「ホホホホホホホホ」  という……冷笑とも、皮肉とも、媚びともつかぬ透きとおった笑い声を、いつまでもいつまでも耳の中で聞き味いつつ、室中が真白になるまでネーヴィカットの煙を吹き出していた。  その翌る朝、いつもより早く起きた私は、まだ開店まで一時間以上もあると思い思い、寝巻のまま叔父の椅子に腰をかけて、投げ込まれた新聞を読んでいると、思いがけなく店の前に大きな自動車が停まって、白いダブダブの詰襟を着たパナマ帽の叔父が、一人の令嬢の手を引いてニコニコしながら這入って来た。  それは二階の美人画とは全然正反対の風付きをした少女であったが、それでいてF市界隈は愚か、東京あたりにでも滅多に居ないシャンであろうことが、世間狭い私にも容易にうなずかれた。小男の叔父よりもすこし背が低くて、二重まぶたの大きな眼が純然たる茶色で、眉が非常に細長くて、まん丸い顔の下に今一つ丸まっちい腮が重なっていた。縮らした前髪を眉の上で剪り揃えたあとを左右に真二つに分けて、白い襟首の上にグルグル捲きを作って、大きな、色のいい翡翠のピンで止めたアンバイは支那婦人ソックリの感じであった。小ぢんまりした身体には贅沢なものらしい透かし入りの白い襦袢と、ヴェールのように薄い、黒地の刺繍入りの着物を着込んで、その上から上品な銀色の帯と、血のように真赤な帯締めをキリキリと締めていたが、それが小さい白足袋に大きなスリッパを突っかけながら、叔父の蔭に寄り添ってオズオズと私の前に進んで来た時は、どう見ても大富豪の一人娘か何かで、十六か七ぐらいのろうたけた令嬢としか見えなかった。  私は新聞を手に持って、椅子に腰をかけたまま、唖然としてその姿を見上げ見下した。敏感な私の神経はこの令嬢が昨日、電話で私に笑いかけた声の主である事を、とっくの昔に直覚していたのであったが、しかも、そうした私の直覚と、眼の前にしおらしく伏し眼になって羞恥んでいる美少女の姿とは、どう考えても一緒にならないのであった。もしかしたら私の直覚が、今度に限って間違っているのではなかろうか……なぞと一人で面喰っているうちに叔父は帽子を脱いで汗を拭き拭き、反り身になって二人を紹介した。 「これは俺の拾い物だよ。お前の従妹で俺の姪なんだ。俺たちには、もう一人トヨ子という腹違いの妹があったんだが、俺達の両親も、お前の死んだ親父もそれを隠していたらしいんだ。そのトヨ子……つまりお前の叔母さんだね……それが生み残したのがこの友丸伊奈子という娘で、早くから母に別れていろいろと苦労をしたあげく、長崎の毛唐の病院の看護婦をしていたんだが、俺の名前が時々新聞に出るようになったもんだから、もしやと思って、昨日わざわざ長崎から尋ねて来たんだ……いいか……これが昨日話した愛太郎だ。お前たちは、ほかに肉親の者が居ないからホントウの兄妹みたようなもんだ。ハハハハハハ」  二人は叔父の笑い声の前で椅子から立ち上って「どうぞよろしく」と挨拶を交した。私は内心気味わるわると……彼女は上品に、つつましく……。  叔父はそれから如何にも得意そうに、脂肪でピカピカ光る顔を撫でまわしながら、伊奈子の母親に関するローマンスを話し始めた。それは……  ……伊奈子が七歳の時であった。K市の富豪友丸家の第二夫人で、まだ若くて美しかった彼女の母親は、伊奈子も誰も知らない正体不明の情夫から夫を毒殺された後に、自分自身もその男から受けた梅毒に脳を犯されて発狂してしまった。そうして色々な事を口走り始めたので、その罪の発覚を恐れたらしい情夫は、或る真暗い晩に病室に忍び込んで、枕元の西洋手拭で絞殺すると同時に、一緒に寝ていた伊奈子を誘拐して行った事がその頃の新聞に出ていた。あとの財産はどうなったか解らないが、多分親類たちが勝手に処分したものらしく、正体不明の犯人も、いまだに正体不明のままになっている……。  というようなかなりモノスゴイ筋であった。叔父も一生懸命に力瘤を入れて喋舌っているようであったが、しかし、私はちっとも傾聴していなかった。それはシナリオや小説を飽きる程読んでいる私の耳には、頗るまずい、取って付けたような話としか響かなかったので、強いて想像を逞しくすれば……その美しい第二夫人というのは、私の実の母親の事ではないか。そうして正体不明の情夫の正体は取りも直さず叔父自身ではないか。叔父はそうした旧悪に対する一種の自白心理を利用して私たちを誤魔化そうと試みているので、友丸伊奈子と私とはその実、タネ違いの兄妹とも、従兄妹同志ともつかぬ異様な間柄になっているのではないか……と疑えば疑い得る筋がないでもない位の事であった。  しかしそのうちにフト気が付いて、叔父の斜うしろに坐っている伊奈子の様子を見ると、こうした私の忌まわしい疑いも無用である事がわかった。彼女は如何にもつつましやかな態度で、さしむきながら聞いているにはいたが、しかし内心は飽き飽きしているらしく、叔父の話が自分達|母子と全く無関係である事を、特に私にだけコッソリと知らせたがっている気持ちが、その溜め息のし工合いや、白い絹ハンカチの弄びようだけでもアリアリと察しられたので、私は何故かしらホッと安心させられたように思った。そうしてあとには大袈裟な身ぶりを入れて喋舌っている叔父の、滑稽なくらい真剣な表情だけが印象に残ってしまった。 「……だから……おれは近いうちに、伊奈子と二人で家を借りて住むつもりだ。今までみたいに待合にばかり泊っていちゃ、伊奈子のためにならないからナ。ハハハハハ」  叔父はお終いに、こう云って笑いながら壁に掛けたパナマ帽子の方へ手を伸ばした。  すると……その瞬間に、流石の私もハッとさせられた事が起った。それは今の今までつつましやかにうつむいていた伊奈子が大きな眼で上眼づかいに私を見て、頬をポッと染めながらニッコリと笑って見せたからであった。しかも、その眼つきや口元の表情が、ほんのチョットの間ではあったが、二階の美人画の表情以上に熱烈深刻な意味で、 「あたしは、あなたが大好きよ……」  と云ったように思えたので、私は思わず釣り込まれながらニッコリと微笑を返してしまったのであった。……が……しかし……そのあとで眼を閉じて、ゴックリと冷たい唾液を呑み込むと、その刹那に彼女のすべてが電光のように私の頭の中へ閃めき込んだので、私は今一度ギョッとさせられない訳に行かなかった。  ……驚いた……驚いた……この女はウッカリすると俺よりも年上だ。のみならず処女でもなければ令嬢でもない……叔父の妾になりに来た女なのだ。……しかも、今まで読んだ小説の中にも滅多に出て来た事のないタイプの妖婦で、叔父から俺の事を聞くとすぐに、電話をかけて笑ってみたものらしい……チョット俺を面喰らわして、丸め込むキッカケを作っておこうぐらいの考えで……大変な阿魔ッチョだぞ。こいつは……。  私はこう思いながら頭を上げた。昨日から持ち続けていた興味が見る見る醒めて行くのを感じつつ、改めて伊奈子を見たが、その時はもう彼女は鵜の毛で突いた程もスキのない無垢の処女らしい態度にかわって、つつましやかに眼を伏せているのであった。  しかし何も知らない叔父は、如何にも二人の叔父らしい気取った身ぶりで、買い立てらしいパナマ帽を大切そうに頭に載せながら伊奈子を連れて出て行った。その自動車が店の前を辷り出すのを見送りながら、私は思わず薄笑いをした。  ……阿婆摺れめ……来るならこい……。  と思って……。けれども伊奈子はそれっきり、私にチョッカイを出さなかった。  私は又、平和に二階で寝ころんだ。  それから後、伊奈子が叔父を操った手腕は実に眼ざましいものがあった。  伊奈子はまず叔父に家を買わせた。それも普通の家ではないので、F市外の公園の入口に在る檜御殿と呼ばれた××教の教会堂が、先年の不敬事件に関する信者の大検挙以来、空屋同然になっていたのを自分の名前で買い取らせて、見事な住宅の形に手を入れさせたもので、そこに素敵な自動車や、大勢の女中を雇い込んで女王のように奉仕させた。同時に叔父の待合入りをピッタリと差し止めたので、私はその当時、八方の待合からかかって来る電話を聞かされてウンザリさせられたものであった。あんまり五月蠅ので或るとき、 「……叔父さん。いくら僕が電話好きでもこれじゃトテモ遣り切れませんよ。済みませんが彼家にも電話を引いて下さいナ」  と哀願してみたら叔父は怫然として、 「馬鹿野郎……あの家に電話を取って堪るか……折角ノンビリと気保養している時間を、外から勝手に掻き廻わされるじゃないか」  とか何とか一ペンに跳ね付けられてしまったので、いよいよガッカリ、グンニャリした事もあった。  ところが不思議なことに、それから二た月ばかりも経つと、叔父は前よりも一層盛んに待合入りを始めるようになった。店の仕事も私に代理させる事が多くなった。おまけに今まで一滴も口にしなかった酒を飲むようになって、時々は伊奈子が作ったというカクテールの瓶を店まで持ち込んで来る事すらあるようになった。無論、それ等のすべては皆、彼女の手管に違いなかったので、彼女はこうして叔父を翻弄しつつ、その魂と肉体を一分刻みに……見る見るうちに亡ぼして行こうと試みている事がわかり切っていた。叔父も亦、それを充分に承知していながら、彼女のために甘んじて骨抜きにされて行くのが何ともいえず嬉しくて、気持ちがよくて仕様がないという風で、つまり叔父は彼女に接してから後、一種の変態性慾である、マゾヒストの甘美な境界へズンズン陥って行きつつある……彼女の小さな赤い舌に全身の体液を吸い取られて、骨の髄までシャブリ上げられたら、どんなにかいい心持ちであろう……というような、たまらない慾望に憧憬れつつある……そうして伊奈子のスゴ腕にかかって、自分の生命も財産も根こそぎ奪い去られるであろうドタン場を眼の前に夢想しつつ、スバラシイ加速度で生活状態を頽廃させて行きつつある……という叔父の心理状態がカクテールを入れた魔法瓶の栓を抜く刹那の憂鬱を極めた表情を見ただけでも明らかに察しられるのであった。  しかし、同時に、そうした叔父の態度や表情を、毎日見せつけられて行くうちに、私はフト妙な事を考え初めたのであった。……彼女のそうした計画を、そのギリギリ決着のところで引っくり返してやったら、どんなにか面白いだろう……と……。そうするとその考えが、見る見るうちに云い知れぬ魅力をもって私の頭の中に渦巻き拡がって行くのを、私はどうする事も出来なくなったのであった。  私は、いつの間にか新聞も小説も読まなくなって、二階の万年床に引っくり返りながら、葉巻ばかり吹かせるようになっている事に気が付いた。今までは架空の小説ばかり読んでいたのが、今度は、自分自身に怪奇小説の中に飛び込んで、名探偵式の活躍を演出しなければならぬ役廻りになって来た事を、ある必然的な運命の摂理ででもあるかのように繰り返し繰り返し考えた。そうするとその都度に胸が微かにドキドキして、顔がポーッと火熱るような気がしたのは今から考えても不思議な現象であった。  私は叔父の財産を惜しいとも思わなければ、伊奈子の辣腕を憎む気にもなれなかった。あの真赤に肥った、脂肪光りに光っている叔父の財産が、小さな女の白い手で音もなくスッと奪い去られる。……あとで叔父がポカンとなって尻餅を突いている……という図は寧ろ私にとって、小説や活動以上に痛快な観物に違いなかった。私が空想の世界でしか実現し得ない事を、彼女が現実世界でテキパキと実現して行く腕前の凄さに敬服する気持ちさえも、私の心の底に湧いて来るのであった。  けれども今一歩進んでその伊奈子が腕に縒をかけた計画を、その終極点のギリギリのところで引っくり返したら伊奈子はどんな顔をするだろう。そうして開いた口が閉がらずにいる彼女に「天罰思い知れ」とか何とかいう、いい加減な文句をタタキ付けて、泥の中に蹴たおして、手も足もズタズタに切れ千切れるような眼に会わしたら、どんなにかいい心持ちだろう。こう思うと、私の身うちの方々が、不可思議な快感でズキズキして来るように感じた。  私はそれから毎日毎日その計画ばかり考えていた。けれども残念な事に、そうした色んな計画が、天井に吹き上げる煙草の烟と共に、数限りなく浮かんでは消え、消えては浮かみして行くうちに、私はいつも失望しないわけに行かなかった。私があらん限りの智慧を絞って作り上げた伊奈子タタキ潰しの計画は、表面上どんなに完全に見えていても、どこかに空想らしい弱点や欠点が潜んでいることを、後で考え直して行くうちにキット発見するのであった。言葉を換えて云えば伊奈子が叔父を陥れて行きつつある変態性慾の甘美世界から、コッソリと叔父を救い出す方法が発見されない限り……又は、伊奈子がこの妖婦的な性格をスッカリなくして、初恋と同様の純真さをもって私に打ち込んで来ない限り、私の計画は絶対に、実行不可能と云ってよかった。  こうして伊奈子を血塗れにして、七転八倒させつつ冷笑していようという私の計画は、私の頭の中でいくつもいくつもシャボン玉のように完成しては、片っ端から、何の他愛もなく瓦解幻滅して行った。そうしてそのたんびに、 「ホホホホホホホホホホホホ」  と笑う伊奈子の声を幻覚するのであった。  十一月に入ると間もなく、私は今までにない寒さを感じ始めたので、高価い工賃を払って昼間線を取って、上等の電気|炬燵を一個、敷き放しの寝床の中に入れた。そうしてその日は仕事の始末をソコソコにして潜り込んでみるとその暖かくて気持ちのいい事、身体中の血のめぐりがズンズンとよくなるのがわかる位で、私はツイ何もかも忘れてウトウト眠り初めたのであったが、間もなく階下でけたたましく電話のベルが鳴り出したようなので、私は又渋々起き上った。眠い眼をこすりこすり狭い階段をよろめき降りて電話にかかった、 「オーイオーイオーイ……モシモシイ……モシモシイ……わかったよわかったよ。オーイオーイオーイオーイ……」  といくら呼んでも頑強にベルを鳴らしていたが、やがてピタリと震動が止むと、 「オホホホホホホホホ」  という笑い声が、真っ先きに聞えた。 「……あなた愛太郎さん。御無沙汰しました。……叔父さんもう帰って?……」 「エエ……一時間ばかり前に……」 「あなた声が違うようね。お風邪でも召したの……」 「……寝ていたんです……」 「まあ……お昼寝……この寒いのに……」 「……エエ……まあそうです……」 「あたしあなたにお話したい事があるのよ……今から伺ってもいい?……」 「エエ……よござんす……キタナイ処ですよ」 「ええ。知ってますわ。誰も居ないでしょう?」 「ええ……僕一人です。しかし……何の用ですか……」 「オホホホホホホホホホ」  私は表の扉の閂を外すと又二階に上って、あたたかい夜具にもぐり込んだ。しかし、不思議とこの時に限って、彼女に対する何等の期待も計画も浮ばなかった。ただ、頭の底にコビリ付いている残りの睡たさを貪りながら、いつの間にかグッスリと眠っているらしかったが、そのうちに小さな咳払いを耳にしてフッと眼を醒ますと間もなく、何ともいえない上品な香水の匂いが、悩ましい女の体臭と一緒にムーッと迫って来たので、一寸の間狐に抓まれたような気持ちになった。そうしてよく眼をこすって見ると、私の枕元の暗い電燈の下に、青い天鵞絨のコートと、黒狐の襟巻に包まれた彼女が、化粧を凝らした顔と、雪白のマンショーを浮き出さして、チンマリと坐っているのであった。 「オホホホホホホホ」 「……………」        ×          ×          ×  彼女は私を一気に、空想の世界から現実の世界へ引っぱり出してしまった。私は、それから後、殆んど毎日のように電話をかけて来る彼女の命令のまにまに、店を仕舞うとすぐに身じまいをして、隣家の裏口から抜け出して、そこいらで待ち合わせている彼女と肩を並べながら夜の街々を散歩するようになった。生れて初めての背広服を派手な格子縞で作らせられたのはその時であった。カンガルーとエナメルの高価い靴を買わされたのも同時であった。帽子もゴルフ用の鳥打ちや、ビバや、お釜帽を次から次に冠らせられた。それにつれて本箱の抽斗しに突込んだままになっていた皺苦茶の紙幣や銀貨の棒がズンズンと減って行った。  私と彼女とが同じ家に這入る事は殆んど稀であった。彼女は、F市内の到る処に在る密会の場所を知っているかのように、いつも意外千万な処へ私を引っぱり込むことが次第に私を驚かし初めた。牡蠣船だの、支那料理屋の二階だの、海岸の空別荘だの、煙草屋の裏座敷だの……その中でも特に舌を捲いたのは、まだ明るいうちに或る大きな私立病院の玄関から、見舞人のような態度で上り込んで、奥の方に空いていた特等病室の藁蒲団の上に落ち付いた時であった。その時に彼女は今までにない高い情熱に駆られたらしく、蝋のように青褪めた中から潤んだ眼を一パイに見開きつつ、白い歯を誇らし気に光らして見せたのであったが、そうした彼女の嬌態を、ポケットに両手を突込んだまま見下しているうちに、私はフト、形容の出来ないヒイヤリとした気持ちになった。  ……この女は、こうした思い切った遊戯の刺戟によって、自分自身の美をあらゆる深刻な色彩に燃え立たせ得る術を心得ている。そうして異性の弱点をあらゆる方向から蠱惑しつつ、その生血を最後の一滴まで吸いつくすのを唯一の使命とし、無上の誇りとし、最高の愉楽と心得ている女である。  ……叔父が彼女から逃げまわるようになったのも、こうした彼女のプライドに敵しかねたからである……。  ……彼女は暗黒の現実世界に存在する、底無しの陥穽である……最も暗黒な……最も戦慄すべき……。  ……陥穽と知りつつ陥らずにはいられない……。  というような感じが、みるみるハッキリして来たので……。  ……けれども亦、一方に伊奈子には案外神経質な、用心深いところも、あるにはあった。彼女が私を引っぱり出してこんな事をして遊びまわるのは、叔父の待合に入浸っているか、又は旅行している間に限っていたので、公園前の自宅に私を引っぱり込むような事は絶対にしなかった。伊奈子のそうした態度の中には、男の嫉妬というものが如何に恐ろしいかを知っている気持ちがハッキリと現われていた。多分彼女は叔父に関係する以前に、そんな問題でヒドク懲りさせられた経験があるらしいので、しかもその相手が西洋人ではなかったろうかという事までも同時に察せられた位であった。  ところが、彼女のこうした用心深さが物の見事に裏切られたのは、それから一箇月と経たない時分の事であった。  それは十二月の初めの割合いにあたたかい日であった。その前後の一週間ばかりというもの市場が頗る閑散であったために、これぞという仕事もなく、午後四時過になると店には叔父と私と二人切りしか居ないようになったが、その時に店のストーブの前で、カクテールを飲み飲みしていた叔父が突然に、こんな事を云い出して私をヒヤリとさせた。 「お前はこの頃伊奈子と散歩を始めたそうだな……ウン……それあいい事だ。俺もセッカクお前にすすめようと思っていたところだ。引けあとの電話は、大抵、明日の朝きいても間に合う事ばかりだからナ……しかし、あんまり夜更かしをすると身体に触るぞ」  これを聞いた時には流石の私も、どう返事をしていいか解らないまま固くなって叔父の顔を見た。けれども、その次の瞬間にはホッと安心をすると同時に、又、それとは全く違った意味で驚きの眼を瞠らせられたのであった。……そう云い云い又も一杯傾けて、舌なめずりをしている叔父の横顔には、  ……お前が何もかも知っている事を俺もよく知っているのだ。しかし俺はもう何とも云わない。伊奈子はお前の好き自由にしていい……。  という意味の表情が、力なくほのめいていたからであった。……のみならず、その叔父独得の陽気な響きを喪った声の中には、今までにない淋しい……如何にも親身の叔父らしい響さえ籠っていた。そうして、そう思って見れば見るほど、叔父の横顔には、今までの悪魔らしい感じがなくなっているのに気が付いて来た。この夏時分に比べると、驚くほど青白くなっている頬や瞼には、ヨボヨボの老人に見るようなタルミさえ出来ているのであった。  しかし、それかといって今更のように叔父を憐れむ気には毛頭なれない私であった。すぐに、もとの私に帰ると同時に、一種の冷たい微笑が湧いて来るのを押え付けながら、トボトボと店を出て行く叔父を見送って、平生よりイクラカ叮嚀に頭を下げただけであった。  ……面白いな……まるでお伽噺か何ぞのように、小さな美しい悪魔が、大きな醜い悪魔をやっつけて、只の人間になるまで去勢してしまっている。しかも、あんまりやっつけ過ぎたために、相手は平々凡々のお人好しを通り越して、何もかも覚りつくした、諦め切った人間になってしまっている。叔父は彼女に対する愛着心を消耗しつくすと同時に、彼女の計画のすべてを覚ってしまいながら、それをどうする事も出来ない立場にいる事をまで自覚してしまっている。  ……しかし……こうなったら却って彼女のために危険な事になりはしまいか。少くとも彼女が叔父に対して警戒している方向は、飛んでもない見当違いになってしまっているではないか……。  ……面白いな……この結末がどうなるか……。  と心の中で楽しみながら……。  その月の中頃の、或る天気のいい日曜の朝早くであった。伊奈子は大急ぎの口調で私に電話をかけたが、それは叔父が三日ばかりの予定で、その朝早く大阪に発ったので、これからすぐにF市から二十里ばかりの処にあるU岳の温泉に行こうというのであった。その温泉は何に利くのか知らないが、いろんな贅沢な設備をしたホテルや、待合兼業みたようなステキな宿屋がいくつもあると伊奈子は云ったが、そこで第一等という何とかホテルの大玄関に自動車で乗りつけて、特等室附属の浴場に案内された時には、私も生れて初めてなので一寸眼を丸くした。  高い天井のステインドグラスから落ちて来る光線が、青ずんだ湯の底の底まで透きとおして、見事に彫刻した白大理石の浴槽から音も立てずに溢れ出していた。その中に私が先に走り込んで掻きまわすと、その光りが五色の鳥だの金銀の魚だのが入り乱れたように散らばって、その上から一面にモウモウと湧き立つ湯気のために、四方を鏡で張り詰めた室の中が薄暗くなってしまった。  私は、その湯の中にフンワリと身体を浮かして、いい心持ちにあたたまり初めた。その間に、のぼせ性の彼女は何度も何度も湯から出たり這入ったりしていたが、間もなく浴槽の外で男のように突立って、肉付きのいい身体をキュッキュッと洗いながら、突然にこんな事を云い出した。 「叔父さんは自分が死ぬまで、あなたに相場をやらせない……財産も譲らないって云っててよ……」 「当り前だ……」  と私は面倒臭そうに答えた。少々睡くなりかけたところを邪魔されたので……。 「……死んだってくれやしないよ……」 「そうじゃないわよ。あなたは正直で、頭がよくて……」 「馬鹿にするな……」 「いいえ。まったくよ……俺よりも仕事が冴えている上に、今の財産は愛太郎のお蔭で出来たようなもんだから、跡を継がせるのは当り前だって……」 「……ウーン……そんなら早くくれりゃあいいのに……」 「……だけどね……まだ頭の固まらないうちに株だの、お金だのを持たせると慾がさして、株だのお米だのの上り下りがわからなくなるから、まだなかなか譲れない。俺も昔はかなり頭がよかったんだけど、あまり早くから慾にかかったせいかして、肝玉が小さくなって相場が当らなくなったんだ。それを助けてくれたのが貴方なんですって……」 「それあ本当だ。叔父の正直なところだろうよ」 「……でしょう。だから叔父さんは、あなたに感謝しててよ。あなたを電話の神様だって云っててよ」 「おだてちゃいけない……」  と私は投げ出すように云った。浴槽のふちに頭を載せて、手足を海月のように漂わそうとこころみながら……。そうすると彼女はチョットそこらを見廻しながら、その私の頭のすぐ横に、青白い、大きな曲線美を持って来て、これ見よがしに腰をかけた。恰もその肉体の魅力で私を脅迫するかのように、真珠色に濡れた乳をゆらめかせながら、私の顔をニッコリと覗き込んだ。声を低くして囁いた。 「おだてるのじゃないわよ。……あなた考えなくちゃ駄目よ。……ネ……叔父さんはこの頃、あなたを養子にする事にきめたのよ。そうして自分の財産を全部譲るっていう遺言状を昨日書いてよ。今頃はもう公証人がどうかしているでしょう」 「フーン僕に呉れるって……」  と私は平気な声で云った。そのウラに隠されている彼女の手管を見透かしながら……。 「そうよ……」  と云いながら彼女は大きな眼で今一度そこいらを見まわした。気味悪く笑いながら前よりも一層低い声で云った。 「だけど、その遺言状を書かしたのは妾よ」 「……………」 「わかって?……」 「……よけいな事を……」  私は思わず噛んで吐き出すようにこう云った。そうして、その私の横頬を急に唇を噛んだまま睨み付けている彼女の視線をハッキリと感じながら、私は静かに眼を閉じた。  湯気が一しきり濛々と湧き出した。その中に彼女はヒッソリとうなだれたまま、何かしらしきりに考えているようであったが、やがて深い、弱々しいため息を一つすると又口を利き出した。甘えるような……投げ出すような口調で……。 「……あなたって人は……ほんとに仕様のない人ね」 「……ウーン……どうせヤクザモノさ」 「だけど……」 「何だい……」  私は追いかけるようにこう云いながら心もち冷笑を含んで彼女を見上げた。その私の視線を彼女はチラリと流し眼に見返したが、やがてウッスリと眼を伏せると、独りでつぶやくように唇を動かした。 「叔父さんはね……もうじき死んでよ」 「フーン……どうして?……」  と、私は一層冷笑したい気持ちになって、彼女を見上げ見下した。こんな女にも何かしら直覚力があるのかと思って……。しかしその視線を横眼でジッと見返した彼女の全身には、私の冷笑と闘うべく、あらん限りの妖艶さが一時に夕栄えのように燃え上って来たかのように見えた。彼女の頬は生娘のような真剣さのために火のように充血した。その眼は情熱に輝きみちみち、その唇は何とも形容の出来ない恨みに固く鎖されて、その撫で上げた前髪の生え際には汗の玉が鈴生りに並んで光っていた。彼女がこれ程に深刻な魅惑力を発揮し得ようとは今までに一度も想像し得なかった程で、私は思わず心の中で……妖女……妖女……浴室の中の妖女……と叫んだほどに、烈しい熱情と、めまぐるしい艶美さとをあらわしつつ私の眼の前に蔽いかかって来たのであった。しかしそうした彼女の驚異的な表情をなおも冷やかに、批評的な態度で見上げながら、足の先の処にゴボゴボと流れ込んで来る温泉の音を聞いていると、そのうちに彼女の唇が次第次第に弛みかけて、生え際の汗が一粒一粒に消え失せ初めた……と思うと、やがて剃刀のようにヒイヤリとした薄笑いが片頬に浮き上って来たのであった。 「あなたはエライ方ね……」  私は悠々と自分の足の爪先に視線を返しながら答えた。 「どうして……」 「あまり驚かないじゃないの」 「驚いたって仕様がないさ。そっちで勝手にする事だもの……」 「マア……口惜しいッ……」  と不意に金切声をあげた彼女は、血相をかえて掴みかかりそうになった。私はそれを避けようとしてドブリと湯の中へ落ち込んだが、その拍子に鼻の穴から湯が這入ったのを吐き出そうとして、烈しく噎せびながら湯の中に突立った。肩から胸へかけて薄い寒さを感じつつ、濡れた髪毛を撫で上げ撫で上げやっとの事で眼を見開いた。  見ると彼女は蛇紋石の流し場に片手を支いたまま、横坐りをして、唇をシッカリと噛んでいた。エバを取り逃がした蛇のように鎌首を擡げて、血走った眼で私を睨み上げていたが、やがて、怨めしそうに切れ切れに云った。 「……あたしの気持ちはわかっている癖に……あなたがソンナ悪党ってことは……妾……きょうが今日まで知らなかったわ……にくらしい……」  こう云いながら彼女は又も、その大きな眼をグルグルさして、二三度入口の方を振り返った……と思うと不意に、スックリと立ち上って、無手と私の両手を掴みながら、抱き寄せるようにして湯の中から引っぱり出した。石甃の上をダブダブと光り漂う湯の上に、膝を組み合わせる程近く引き寄せて、私の首に両の腕を絡ませると、興奮のために、ふるえる唇を、私の耳に近づけた。喘ぐように囁やきはじめた。 「……あたしね……聞いてちょうだい……ずっと前、長崎で西洋人の小間使いになっているうちに、ソッと毒薬の小瓶を盗んでおいたのよ。……可愛らしい瀬戸物の真黒な小瓶よ。それはね……そのラマンさんという和蘭人のお医者の話によると、ジキタリスという草を、何とかいう六ヶしい名前の石と一緒に煮詰めた昔から在る毒薬で、支那人が大切にする『鴆の羽根』と『猫の頭』と『虎の肝臓』と『狼の涎』という四つの毒薬の中で『鴆の羽根』という白い粉と、おんなじものになっているんですってよ。……それをアブサントを台にして作ったコクテールの中に、竹の耳掻きで一パイか二ハイずつ混ぜて服ませると、その人間は間もなく中毒にかかって、いくらでもいくらでも飲みたくなるんですって……アブサントのおかげで青臭いにおいがスッカリ消されている上に、どことなくホロ苦くてトテモ美味しいんですって……だけど一度に沢山飲ませると、すぐに眼や鼻から血を噴き出しながらブッたおれて、十分と経たないうちに死んで終うから駄目なんですってよ……そうして二日目か三日目越しに、竹の耳掻き一と掬いずつ殖やして行って、その毒が心臓にすっかり沁み込んだ時に……つまり耳掻きに十杯以上……グラムに直して云うと三分の一グラムぐらい飲んでも、何ともないようになった時分に、急にその薬を入れるのを止すと、四五日か一週間も経つうちにいつとも知れず、不意に、心臓痲痺とソックリの容態になって死んでしまうので、どんなにエライ博士が来て診察しても、わかりっこないんですってさあ…………ね………ステキでしょう……ね……わかって?……」  私は眼の前にモヤモヤと渦巻きのぼる温泉の白い湯気を見守りながら、夢を見るようないい気持ちになって、ウットリと彼女の囁やきに聞き惚れていた。その湯気の中に入道雲みたように丸々と肥った叔父のまぼろしが、いくつもいくつも、あとからあとから浮き出しては消え、あらわれては隠れして行くのを見た。それを見守りながら私は、伊奈子の話が途切れてしまっても、暫くの間ムッツリと口を噤んでいたが、そのうちにフト気が付いて伊奈子を振りかえった。 「……その薬を、僕にも服ましてくれないか……」 「……………」  彼女は、私がふり返った眼の前でサッと血の色を喪った。今にも失神しそうにゴックリと唾を飲み込んで、額からポタポタと生汗を滴らしながら大きく大きく眼を瞠った。その眼を覗き込んで私は思い切り冷やかな笑みを浮かめた。 「……驚くこたあないよ。僕も死にたいんだから……僕は、今まで叔父に忠告しなかった事を後悔しているんだ。あんたがそんな女だっていう事をね……だけど、どうせ忠告したって同じ事だと思ったから黙っていたんだ」 「……………」 「……ね……あんたは、まだ、そんな事をするくらいだから、生き甲斐のある人間に違いないだろう……しかし僕や叔父はもう人間の癈物だからね。この世に生きてたって仕様のない人間だからね……」 「……………」 「構わないから、その薬を頒けておくれよ……僕の財産の全部は内縁の妻伊奈子に譲る……っていう遺言書を書いといたら文句はないだろう……」  彼女はみるみる唇の色まで白くした。反対に私を睨んだ眼は、首を切られる鯛のように美しく充血した。今にも泣き出しそうにパチパチと瞬をして見せた。 「……アハハハハハハハハ……アッハッハッハッ……」  と私は不意打ちに笑い出した。彼女が眼まぐるしく瞬を続けるのを見返りながら、 「……アハアハアハアハ……嘘だよ……今のは……。アハハハハハ。まあ、お前さんの好きなようにするさ。おれは知らん顔をしといてやるから……」  彼女は湯冷めで真白になった全身を、ブルブルと慄わせつつ、唇を血の出る程噛みしめた。……と思うとやがて、湯気に濡れた長い睫毛を、ソッと蛇紋石の床の上に落した。  私は、勢いよく大理石槽の湯の中へ飛び込んだ。ザブリザブリと身体を洗いつつ、坐ったまま彫像のように固くなっている彼女を眺めた。たまらない可笑しさを笑いつづけた。 「アハハハハハ。アハハハハハ。ここへお這入りよ。風邪を引くよ。……今のは嘘だったら、アハハハハハハハ」  それから三日目の寒い晩であったと思う。  温泉|行以来、音も沙汰もしなかった伊奈子が、何と思ったかお化粧も何もしない平生着のまま、上等の葉巻きを一箱お土産に持って日暮れ方にヒョッコリと遣って来た。そうして近所のカフェーから、不味い紅茶だの菓子だのを取り寄せながら、私の枕元で夜遅くまで芝居や活動の話をしいしい、何の他愛もなくキャッキャと燥いで帰って行ったので、私は妙に興奮してしまって夜明け近くまで睡れなかった。そうしてヤットの思いでウトウトしかけたと思う間もなく、長距離らしい烈しい電話のベルに呼び立てられたので、私は寝床に敷いていた毛布を俥屋のように身体に纏いながら、半分夢心地で階段を馳け降りると電話口に突立った。序に寝ぼけ眼で店の柱時計をふり返って見たら午前七時十分前であった。 「……モシモシ……モシモシ……四千四百三番ですか……大阪から急報ですよ……お話下さい……」 「……オーッ。青木かア!……何だア!……今頃……」 「……アアモシモシ。君は児島君かね……」 「イイエ違います。児島愛太郎です……」 「……ヤ……御令息ですか。失礼いたしました。私は青木商店の主人で藤太と申します。まだお眼にかかりませんが、何卒よろしく……エエ……早速ですが、お父様のお宅にはまだ電話が御座いませんでしたね……ああ……さようで……では大至急お父様にお取次をお願いしたいのですが、実は大変にお気の毒な事が出来まして……」 「……ハア……どんな事でしょうか……」 「もうお聞きになったかも知れませんが、中ノ島の浜村銀行が今朝、支払停止を貼り出しました……」 「ハア……そうですか」 「頭取の浜村君と、支配人の井田君は昨夜からその筋へ召喚されておりますので、預金者は皆途方に暮れているのです」 「ナルホド」 「あなたのお父様と同銀行とは、兼ねてから深い御関係になっておられる事を承っておりましたので、取りあえずお知らせ致しますが……実は折返して今一度、至急に御来阪願いまして、その事に就いて御相談致したいと存じますので」 「どうも有り難う御座います。すぐに取次ぎます」 「どうかお願い致します。そうして出発の御時間を、すぐにお知らせ願いたいのですが……甚だ恐縮ですが……」 「かしこまりました。しかし叔父はまだ、昨夜まで自宅に帰っておりませんので……」 「ハハア。……ナルホド……それは困りましたな……エエトそれではどう致したら……」 「ハイ。けれども昨晩までには帰ると申しておったのですから、事によるともうじき店に来るかも知れません。そうしたら間違いなく……」 「……ハ……どうかお願い致します……では失礼を……」  青木氏の声は落ち付いてはいたが、その口調には明らかに狼狽した響きが含まれていた。ことに依ると青木氏も叔父と同様に浜村銀行に預金しているのかも知れない。面白いな……と私は微笑しつつ電話を切った。そうしてまだ睡い眼をコスリコスリ、今|一寝入りすべく二階へ帰ろうとすると、暗い梯子段に足を踏みかけぬうちに、又電話口に呼び返された。 「オーイ。交換手……切ってくれエ。話は済んだんだア」 「モシモシ……あなたは愛太郎さん?」 「ナアンだ……伊奈子さんか……ちょうどよかった……今どこからかけているの……」 「公園の中の自動電話よ」 「フーン。何の用?……」 「……あのね……昨夜妾が帰ったらね……叔父さんが帰っていたの……」 「フーン。それで……」 「……あのね……そうしたらね……今朝から様子が変になったの」 「……どうして……」 「……あのね……妾……アノお薬を服ませるのを四五日前から止していたの……大阪へも何も入れないカクテールを持たして上げたの……そうして昨夜も同じのを、あたためて上げたのよ」 「……フーン……だから温泉で僕に打ち明けたんだね」 「……エエ……まあそうよ……そうしたら昨夜、夜中から胸が苦しいと云い出してネ、今朝、お隣りの山際っていうお医者さんに診せたら心臓の工合がわるいって云うの。そうして先刻まで何本も注射をしたけどチットも利かないで、物も云わずに藻掻きはじめたの……何を云ってもわからないのよ……もう駄目なんですってさあ」 「ちょうどよかった」 「ええ……だからあなた早く来て頂戴な。そうして何とか芝居をして頂戴な……あたし何だか怖くなったから……」 「……バカ……何が怖い……そんな事は覚悟の前じゃないか……初めっから……」 「だって医者が見ている前で口と鼻からダラダラ出血し初めたんですもの……あのお薬は妾が聞いたのと何だか違っているようよ。……お医者が青くなって妾の顔を見ながら、これは何かの中毒だって云ったから、妾|身支度をして、うちにある現金と、銀行の通帳を持って、裏口からソッと脱け出してここへ来たの……あなたと一緒に預金を引き出して逃げようか、どうしようかと思って……」 「駄目だよ。浜村銀行は払やしないよ」 「……エッ……どうして?……」 「浜村銀行の頭取と支配人が昨夜大阪で拘引されたんだ。福岡の支店も支払停止にきまっている。叔父は破産しているんだよ。残っているのは待合の借りばかりだ」 「……………」 「みんなお前さんの自業自得さ。お気の毒様みたいなもんさ。……どこへでも行くがいい……」 「……ホント……」 「本当さ……今、大阪から電話が掛かって来たから知らせようと思ったところへ、お前さんが電話をかけたんだ。だから僕はすぐに電話口へ出たろう……ちょうどよかったんだ」 「……………」 「……ジャ左様なら……御機嫌よう……」 「待って頂戴……」 「……何だ……」 「……チョッと待ってネ。後生だから……あたし……」 「どうしたんだい」 「……………」  彼女が受話機を箱の上に置く音がした。そのあとから自動車らしい警笛がホンノリと通過すると間もなく、彼女が咳払いする音が聞えて来た。 「……モシモシ……モシモシ……時間ですよ……」 「……つないで……ちょうだい」  お金を入れる音がコチーンとした。 「オイオイ……どうしたんだ?」 「……あたし……今ね……叔父さんに上げたお薬の残りをアブサントに溶いといたのを……みんな飲んでしまったの」 「馬鹿……」 「……妾……今から帰って、お医者様にスッカリ白状するわ。みんな妾が一人でした事だって……ですから貴方は……あなたは早く逃げて頂戴……同罪になるといけないから……店の金庫の合牒はイナコよ……サヨウ……ナラ」  彼女が受話機を取り落す音がした。そのあとからゴトーンと人間の身体が倒おれるような音が響いた。 「……馬鹿め……勝手にしろ……」  と云い放って私は受話機をかけた。 「……チイ……芝居だ。畜生め……このまま俺が逃げ出したら、立派な犯人が出来上るって寸法だろう……ハハンだ……電話の神様を知らねえか……」  こう思いながら二階に上って、昨夜の吸いさしの葉巻に火を点けたまま、暖かい蒲団にもぐり込むと、エタイの知れない薄笑いが自然と唇にニジミ出した。  ウッカリするとそのうちに叔父が店にやって来るかも知れないと思い思い、グッスリと睡ってしまった。        ×          ×          ×  警察でも検事局でも私は一切知らない知らないで頑張り通した。血を吐いた叔父と伊奈子の死骸を突きつけられた時も、彼女が叔父の妾であったという事以外に何一つ知らないと云い切った。そうして未決監で正月を済ますと間もなく証拠不充分で釈放された。その間の寒さは私の骨身にこたえた。  霜の真白な町伝いに取引所前の店に帰ってみると、表の扉は南京錠をかけたままになっていた。私はとりあえず支那料理屋に電話をかけると、すぐに二階に上ってなつかしい葉巻の煙に酔いつつこの遺書を書き始めた。  しかし私は、三週間ばかり前から大評判になっている「檜御殿」の謎を解く目的でこの筆を執ったのではない。同時に私が監房の中で自殺を決心したのは、一文無しになった自分の前途を悲観したからではない。  又は、  ……叔父も伊奈子もシンカラの悪魔ではなかった。彼等を眩惑して悶死させながら、平気で冷笑していた私こそ……ホントウの……生れながらの悪魔であった……。  という事をシミジミ自覚したからでもない。  伊奈子の恐ろしい死に顔を見た瞬間に、彼女の真実を知ったからであった。  眼に見えぬ鉄鎚で心臓をタタキ潰されたからであった。  露子さんは継子で、いつもお母さんからいじめられて泣いてばかりいました。  夜は毎晩おそくまで御飯のあと片付けをしたり、お使いに遣られたりしました。寝る時はまた、お台所の際の板張りの上に薄い薄い蒲団を敷いて、たった一人ふるえながら寝なければなりませんでした。  ようやく寒いつめたい冬が過ぎてあたたかくなりましたので、露子さんは大喜びでした。けれどもそれと一所に悲しくてならぬ事が出来ました。  露子さんは尋常の四年生でしたが、六年生にも負けぬ位学校がよく出来ましたので、今年から女学校に這入りたいと思って、或る日思い切ってお父さまやお母様に願って見たのですが、お父様は宜しいとおっしゃっても、お母様がお聞きになりません。 「女の癖に女学校へ行くなんて余計な事です。女学校へ這入るには試験を受けねばならぬでしょう。試験を受けるために勉強するからといって、うちの仕事をなまけようと思うから、そんな事を云うのです。試験の前に勉強して女学校に這入れたって、本当に這入れたのではありませぬ。勉強しないで這入れたのが本当です。まだ尋常四年の癖に生意気な事を云うものではありませぬ」  こう云って、お母さんは何といっても御承知なさいませんでした。  露子さんも勉強しないではとても女学校へ這入れまいと思って、泣く泣くだまってしまいました。そうして静かに台所の電気を消して寝ました。  けれども露子さんは、女学校に這入りたくて這入りたくてたまりませんでした。床に就いてから涙が止め度なく出て寝られませんでした。  その中に近所が静かになると、露子さんは不図妙な音に気がつきました。  雨戸の真中あたりと思う処から、 「キキリココリ。ククリキキリ。フフリチチリ。リリリツツリ」  と小さな音が面白く調子よく聞こえて来ます。  露子さんはそっと起き上って、そっと電気をひねって、音のする方に近寄りました。  見ると、その雨戸の桟の上に小さい小さい虫が一匹、洋服を着て眼鏡を掛けて、揺れ椅子に腰をかけて書物を読んでいます。今の音は虫が揺れ椅子をゆする音でした。  露子さんは驚いて眼をまん丸くしていると、虫は小さな赤い帽子を取って、椅子に腰をかけたまま露子さんにていねいにお辞儀をしました。露子さんも何だか変に思いながら、相手が丁寧ですからこちらもていねいにお辞儀を返しますと、虫は二本の長い髯を動かしながら、椅子をゆすりゆすり小さな声で口を利き初めました。 「キリリコロコロ、私はいつもこの雨戸の桟に御厄介になっているもので御座います。キリリコロコロ、私のうちはここで御座います。チチリツツリ、チチリツツリ、今夜は今年になってはじめて暖かいので、久し振りにここへ出て勉強をしているところでした。リリリココリココリ」  と椅子をゆすりながら、横にある小さな虫穴を指さしました。露子さんは只もう呆れて眼を瞠っておりますと、虫はなおも言葉を続けました。 「あなたが毎日お母様の云い付けをよく聞いて働いておいでになる事は、私はよく存じています。キキリキキリ、チチリチチリチチリチチリ、いつも御同情申し上げておりますので、一度はお眼にかかってお話したいと考えておりましたが、今度はほんとに宜い折りで御座いました。ツツリツツリ、キキリキキリ。そこでお尋ねしますが、あなたは最前から寝床の中で泣いておいでになったようですが、何かお困りになったような事はありませぬか」  露子さんはハッとしました。お父さんやお母様がいけないとおっしゃった事を他のものに云い、付け口をするのは悪い事のように思いましたので、只顔を真赤にして眼に泪を一パイ溜てうつむきました。 「ココリ、リリリ、リリリ、リリリ。露子様、よくわかっておりますよ。私はよくわかっております。ツツリツツリキキリキキリ、御安心なさいまし、御安心なさいまし。あなたはきっと女学校にお這入りになれるようにして差し上げましょう。イヤ、今でも女学校にお這入りになれるのですが、只御両親のお許しが出るようにして上げます」 「まあ、あなたが」 「ハイ、私が。私は小さい虫ですけれども、私が持っている正しい同情の心は世界よりも大きく、山よりも重とう御座います。では左様なら、キキリツツリ」  と云う裡に、雨戸の桟にいた虫の姿はフッと消え失せてしまいました。  その夜露子さんは、どうしてあんな小さな虫が妾を助ける事が出来るのであろうと、不思議に思いながら寝ましたが、翌る朝は又早く起きて、身じまいや御飯の支度をすまして学校に行こうとしますと、門の処で校長さんと入れ違いました。  露子さんは、もしや自分の事ではないかと思って胸がドキンとしましたが、校長さんがニコニコしておられるので安心して、丁寧にお辞儀をして別れましたが、校長さんはそのまま露子さんのお家へ這入って行きました。  それから学校へ行って、その日の学課を済まして帰ろうとしますと、校長さんから一寸来いと云われましたので、又胸がドキンとしました。  こわごわ校長室に這入って見ると、校長さんは矢張り今朝の通りニコニコしながらこう云われました。 「露子さん。私は今日あなたのおうちへ行って、あなたの御両親にお眼にかかって、あなたを女学校に入れて下さるかどうかお尋ねしたのです。そうしたらあなたの御両親は、女の児に学問は要らぬと云ってお嫌いになりましたから、私は、そんな事はありませぬ。これからの女は出来るだけ学問をしなければ外国に負けることをお話して、お許しを受けて来ました。そのうえ毎晩九時から十時まではあなたに勉強のおひまをいただくようにお母様にお願いしておきましたから、そのつもりで勉強して立派に女学校に這入って下さい」  露子さんは夢かとばかり驚いて、嬉し涙をハラハラとこぼしました。そうして暫く考えておりましたが、思い切って、又顔を真赤にしながらこう云いました。 「私は先生に済みませんけれど、夜勉強しないでもよろしゅう御座います。お母様は、試験の前に勉強をして学校がよく出来るのは、本当に出来るのじゃないと云われました。私はほんとうと思います。これからふだんの学課の時間もっともっと気をつけて、先生の教えて下さる事を覚えようと思っています。私が勉強するためにお母さんに御心配かけては済みませんから」  とニッコリ笑いました。  校長さんは思わず露子さんの手を握りしめて涙を流して、 「おお露子さん、よく云って下さった。何卒あなたがこの学校を出ても……習った事はみんな忘れてしまっても……その心だけはいつまでも忘れずにいて下さい」  校長さんはすぐに露子さんをつれてお家へ行って、この事を御両親に話されましたら、さすがの意地の悪いお母さんも泣いて露子さんを抱きしめて、 「今まで妾が悪う御座いました」  とお父さんや校長さんにお詫をしました。それから露子さんは間もなく優等で小学校を出て、優等で女学校に這入りました。  女学校に這入ってからも露子さんは、あの虫がどうしてあんなに不思議な事が出来たか不思議でなりませんでした。おおかたあの赤い帽子を冠った虫が、あの夜校長さんの処に行って妾の事を云ってくれたに違いないと思いましたが、それを校長さんに聞くのは何だか変なような気がして、とうとう聞かずじまいになりました。それから毎晩毎晩、あの赤い帽子を冠った虫に一度会ってお礼を云おうと思いましたが、その後あの虫は一度も音も立てなければ姿も見せず、只小さな虫穴ばかりが露子さんの家の雨戸の桟にいつまでもいつまでも残っていました。  ……やッ……院長さんですか。どうもお邪魔します。  ええ。早速ですが私の精神状態も、御蔭様でヤット回復致しましたから、今日限り退院さして頂こうと思いまして、実は御相談に参りました次第ですが……どうも永々|御厄介に相成りまして、何とも御礼の申上げようがありません。……ええ。それから入院料の方は、自宅へ帰りましてから早速、お届けする事に致したいと思いますが……。  ……ハハア……いかにも。なるほど。事情をお聞きにならない事には、退院させる訳には行かぬと仰有るのですね。イヤ。重々|御尤もです。それでは事情を一通りお話し致しますが……しかし他人へお洩らしになっては困りますよ。何しろ私の生命にかかわる重大問題ですからね……。  ナル……成る程。患者の秘密を一々ほかへ洩らしたら、医者の商売は成り立たない。特に病院というものは、世間の秘密の保管倉庫みたようなもの……イヤ。御信用申上げます。御信用申上るどころではありません。  それでは事実を打ち割って告白致しますが、何を隠しましょう、私は殺人犯の前科者です。破獄逃亡の大罪人です。婦女を誘拐した愚劣漢であると同時に、二重結婚までした破廉恥極まる人非人……。  イヤ。お笑いになっては困ります。そんな風にお考え下さるのは重々感謝に堪えない次第ですが、しかし事実を枉げる事は断然出来ませぬ。御承知の通り現在、只今の私は、北海道の炭坑王と呼ばれていた谷山家の養嗣子、秀麿と認められている身の上ですからね。私の実家も、定めし立派な身分家柄の者であろうと、十人が十人思っておられるのは、むしろ当然の事かも知れませんが、遺憾ながら事実は丸で正反対……と申上げたいのですが、実はもっとヒドイのです。その証拠に、私が谷山家に入込みました直前の状態を告白致しましたら、誰でも開いた口が塞がらないでしょう。  私は大正×年の夏の初めに、原因不明の仮死状態に陥ったまま、北海道は石狩川の上流から、大雨に流されて来た、一個のルンペン屍体に過ぎなかったのです……しかも頭髪や鬚を、蓬々と生やした原始人そのままの丸裸体で、岩石の擦り傷や、川魚の突つき傷を、全身一面に浮き上らせたまま、エサウシ山下の絶勝に臨む、炭坑王谷山家の、豪華を極めた別荘の裏手に流れ着いて、そこに滞在していた小樽タイムスの記者、某の介抱を受けているうちに、ヤット息を吹き返した無名の一青年に過ぎなかったのです。  イヤ。お待ち下さい。お笑いになるのは重々|御尤もです。話が一々脱線し過ぎておりますからね……のみならずこの話は、谷山家の内輪でも絶対の秘密になっておりますので、御存じの無いのは御尤も千万ですが、しかし私は天地神明に誓ってもいい事実ばかりを、申上げているのです。イヤ。まったくの話です。そればかりじゃありません。只今から告白致します私の身の上話を、冷静な第三者の立場からお聴きになりましたら、それこそモットモット非常識を極めた事実が、まだまだドレくらい飛び出して来るかわからないのです。……ですから、そんなのを一々御心配下すったら、折角の告白がテンキリ型なしになってしまうのですが、しかし同時に、それがホントウに意外千万な、奇怪極まる事実であればあるだけ、それだけ谷山家の固い秘密として、今日まで絶対に外へ洩れなかったもの……という事実だけはドウカお認めを願いたいと思うのです。殊に内地と違いまして未開野蛮な……むしろ神秘的な処の多い北海道の出来事ですからね。その辺のところを十分に御|斟酌下すって、お聴き取りを願いましたならば、このお話がヨタか、ヨタでないか……精神病患者のスバラシイ幻想か、それとも正気の人間が告白する、明確な事実|譚かということは、話の進行に連れて、追々とおわかりになる事と思いますからね。  ……ところでです。その小樽タイムスの記者某と、近隣の医師の介抱によりまして、ヤット仮死状態から蘇生しました私は、どうした原因かわかりませんが、自分自身の過去に関する記憶を、完全に喪失しておりましたのです。もっともその当時は、私の頭にヒドイ打撲傷が残っておりましたので、多分、どこか高い処から落っこって、頭を打った瞬間に、ソンナ変テコな状態に陥ったものじゃなかったかと、今でも思っている次第ですが……しかしコンナ実例は、先生の方が失礼ながら、お詳しい事と存じますが……。  ……ハハア。そんな実例を見た事は無いが、話にはよく出て来る。真面目な事実として在り得るかも知れない……成る程。とにかくそれから後というもの私は、その記者某から指導されるまにまに、自分自身の過去を、すっかりカモフラージュしておりました……。  ……自分は九州佐賀の生れで、親も兄弟も無い孤児である。むろん学問という学問もしていないが、最近、東京で事業に失敗して、この世を悲観した結果、人跡未踏の北海道の山奥で自殺して、死骸を熊か鷲の餌食にするつもりで、山又山を無茶苦茶に分け登って行くうちに、過って石狩川に陥入ったもの……。  とか何とかいったような出鱈目で、別荘附近の人々を胡魔化してしまいました。それから伸び放題になっていた頭をハイカラに手入れして、見違えるようなシャンに生れ変りましたが、併しソンナ風にして生れ変りは変ったものの、モトモト行く先も帰る先も無い、風来坊の身の上でしたから仕方がありません。その記者が寝間着にしていた古浴衣を貰い受けまして、その別荘の御厄介になりながら、毎日毎日ボンヤリしていた訳でしたが……。  ……エッその新聞記者の名前ですか。  ……ええっと……。オヤッ。おかしいな……何とかいったっけが……ツイ今サッキまでハッキリと記憶えていたんですが。……オカシイナ……ツイ胴忘れしちゃってチョット思い出せないんですが。エッ。何ですって……。  生命の親様の名前を忘れるなんて、言語道断だと仰有るのですか……ト……飛んでもない。アンナ奴が生命の親様なら、猫イラズは長生の妙薬でしょう。  私が前に申しましたような、容易ならぬ大罪人の前科者という事実を、早くもその時に看破するや否や、一種の猟奇趣味の満足のためとしか思えない、極めて残忍な方法でもって、私の運命を手玉に取るべく、ソロソロと手を伸ばしかけていた悪魔というのは、誰でもない。その生命の親様だったのです。谷山家の獅子身中の虫となって、私を半狂人になるまで苦しめ抜く計画を、冷静にめぐらしていたケダモノが、その新聞記者だったのです。……ええ……そうですね。それじゃソイツの名前を思い出すまで仮りにAとでも名付けて、お話を進めておきますかね。  何でもそのAという男は、谷山家の内情に精通している、お出入り同様の新聞記者で、熊狩や、スケートの名人だと自称しておりましたが、それは恐らく事実だったのでしょう。体格のいい、色の黒い、眼の光りの鋭い、如何にも新聞記者らしいツンとした男でしたがね。そんな風にして私を、谷山家の別荘に引止めながら、色んな事を質問したり、話しかけたりして、私の記憶を回復させよう回復させようと努力していたようです。  ええ。もちろんそうですとも。とりあえず私の記憶を回復させた上で、素晴らしい新聞種を絞り出してくれようと思っていたに違い無いのですが、生憎なことにその結果は、全然、徒労に帰してしまいました。私の脳髄から蒸発してしまった過去の記憶は、モウ疾っくにシリウス星座あたりへ逃げ去っていたのでしょう。それから後、容易な事では帰って来なかったのですが……。  もっともその時に万一、私が過去の経歴を思い出していたら、話はソレッ切りで、目出度し目出度しになっていたかも知れません。アンナ空恐ろしい思いをさせられないまま、音も香もなく土になってしまったかも知れないのですがね……。  それから約二週間ばかり経った、或る暑い日のことでした。炭坑王、谷山家の一粒種の女主人公で、両親も兄弟も無い有名な我儘者で、同時に小樽から函館へかけた、社交界の女王と呼ばれていた、龍代さんと称する二十三歳になる令嬢が、小母さんと称する、中年の婦人を二三人お供に連れて、愛別から出来た新道をドライヴしながら、突然に、エサウシ山下の別荘へ遣って来たのです。そうして私は間もなく、その令嬢のお眼に止まる事になったのです……ええ。そうなんです……お話のテムポが非常に早いようですが、事実ですから致し方がありません。尤も後から聞いてみますと、その我儘女王の龍代さんは、小樽の本宅に廻って来たA記者の報告によって、私の事を承知するや否や、たまらない好奇心に馳られたらしく、何も彼も放ったらかして、私を見に来たものだそうですが、しかも来て見るや否やタッタ一眼で、氏も素性も知れない風来坊の私を捉まえて、死んでも離さない決心をしたというのですから、その我儘さ加減が如何に甚しいものがあったかが、アラカタお察し出来るでしょう。  ……どうも惚けを申上るようで恐れ入りますが……しかし又一方に、私も私です。只今申しました通りに過去の記憶を喪失していることをハッキリ自覚していたんですから、万一、ズット以前に約束した女が居はしなかったか……ぐらいの事は、その時にチョット考えてみる必要があったかも知れないのですが、ミジンもそんな事に気が付かずに……むろん私共の背後で、Aが赤い舌を出していようなぞとは夢にも気付かないまま、妖艶溌剌を極めた龍代の女王ぶりに、魂を奪われてばかりおりましたのは、何といっても一生の不覚でした。或はこれが運命というものだったかも知れませんがね。……ハハハ……。  その結果は、改めてお話する迄もなく、世間周知の事実ですから略させて頂きます。ただ私がその龍代の超特級な我儘と、A記者の不思議なほど熱心な仲介に依りまして、谷山家の養子に納まる事になりますと、何よりも先に驚かされた事実が三つありました事を、念のため申上げておきましょう。  その第一というのは、さしもに北海道切っての放埒者と呼ばれていた龍代が、意外にも処女であった事です。それから第二はやはりその龍代の性格が、結婚後になると急に一変して、極めて温良貞淑な、内気者に生れかわってしまったことです。  それから今一つは少々さもしいお話ですが、流石の炭坑王、谷山家の財政が、その当時の炭界不況と、支配人の不正行為のために、殆んど危機に瀕する打撃を受けていたことでした。……ですから詰るところ私は、龍代に見込まれたお蔭で、泰平無事の風来坊から一躍して、引くに引かれぬ愛慾と、黄金の地獄のマン中に、真逆様に突き落された訳で……しかもそれは私のような馬鹿を探し出すために、心にも無い放埒振りを見せていた龍代の大芝居に、マンマと首尾よく引掛けられた物……という事が結婚後、半年も経たないうちに判明して来たのです。  しかし一方に私も今更、そうした二重の地獄から逃げ出すような、臆病者ではありませんでした。この点でもやはり龍代の見込みが百パーセントに的中していたのかも知れませんが、元来、風来坊の川流れであった私が、それから後というものは、龍代にも負けないくらい性格の一変ぶりを見せましたもので、どこで得た知識かわかりませんが、自分でも驚くほどの才能を発揮し初めたものです。  何よりも先に、今申しました悪支配人をタタキ出して、危機に瀕した谷山家の財政をドシドシ整理して行く片手間に、その当時まで誰も着眼していなかった、鰊の倉庫業に成功し、谷山|燻製鰊の販路を固めて、見る見るうちに同家万代の基礎を築き初めましたので、谷山一家の私に対する信頼は弥が上にも高まるばかり……そういう私も時折りは、吾れながらの幸福感に陶酔しいしい、モットモット優越した将来の夢を、妻の龍代と語らい誓った事もありました。  併し今から考えますと、ソウした幸福感はホンノ束の間の夢だったのです。私の一身に絡まる怪奇な因縁は、中々ソレ位の事で終結にはなりませんでした。  それは私共の間に、長男の龍太郎が生れてから、一年と経たない中の事でした。  妻の龍代が突然に……それこそホントウに突然に、カルモチン自殺を遂げてしまったのです。同時にその遺書によって、谷山家の内輪の人々が何故に永い間、龍代の放埒と我儘を見て見ない振りをしていたか……のみならずどこの馬の骨か、牛の糞かわからない風来坊の川流れを、よく調べもせずに炭坑王後継者として承認したか……という理由がハッキリ判明ったのですが……斯様申しましたら先生は、もうアラカタ事情をお察しになっているでしょう。  谷山家は、容易に他家と婚姻出来ない、忌まわしい病気を遺伝した家柄なのでした。そうしてその血統と、財産とが、同時に絶滅しかけていたところを、私のお蔭で辛うじて、繋ぎ止めたという状態なのでした。  ところがその危なっかしい血統が、龍太郎の誕生によってヤット繋ぎ止められたと思う間もなく、龍代自身の肉体に、早くもその忌まわしい遺伝病の前兆が、あらわれ初めたことがわかりましたので、まことに申訳無いが貴方に……つまり私にですね……情ない姿をお見せしないうちにお別れする決心をしました。これが妾の最後の我儘ですから、何卒おゆるし下さい。……妾は貴方を欺すまいとした妾のまごころを、欺し得ないで貴方と結婚しました。その深い罪のお詫びは、仮令、この儚ない玉の緒が絶えましてもキットお側に付添うて致します。……お別れしたくない……子供の事を呉々もお願いします。妾のまごころをタッタ一人信じて下さる貴方のお心に、お縋りして死んで行きます。今はただ天道様の無情を怨むばかり……といったような、それはそれは哀切を極めたものでしたが、その文句には全く泣かされましたよ。ハハイ。昔の我儘はアトカタもない。……透きとおるほどの純情と、理智とに責められた……弱々しさと美しさとに満ち満ちた……ハハイ……。  むろんその時も私は、谷山家を出る考えなんか毛頭ありませんでした。ハイ。世の中の事はすべて運命ですからね。  しかし谷山家の連中はその時に、トテモ狼狽したらしいのです。何しろ、一生懸命になって秘し匿していた、谷山家の忌わしい血統が、龍代の自殺をキッカケにして、世間に暴露しそうになったのですからね。警察と新聞社に頼み込んで極力、事情を秘密にしてもらう一方に、今となって私に逃げられては一大事と思ったのでしょう。出来るだけ早く、私の気に入るような後妻を探してやらなければ……といったような話が、まだ龍代の百ヶ日も済まないうちから、谷山家の内輪で真剣に進められる事になりました。つまりそんな連中の私に対する信頼が、イヨイヨ明日に裏書きされる段取りになって来た訳ですが、サテそれでは誰がいいか、彼がいいか……といった具体的なところまで話が進んで参りますと、不思議な事に、私の気がドウしても進まなくなって終ったのです。前に龍代と一所になった時分とは、何だか気持が違うように思われて来たのです。しかもそればかりでなく、そうした気持を自分自身でよくよく解剖してみますと、それは死んだ龍代に気兼ねをした気持でもなければ、子供の将来を心配した訳でもないように思われるのです。なぜ気が進まないのか、自分でも判然しないまんまに、何だか恐ろしく気が咎めるような……何かしら大切な事を忘れているのを、ヤット思い出しかけているような気がしてなりませんので、実際、吾れながら妙チキリンな自烈度い気持になってしまったものです。ですから私は親類達への返事をいい加減にして突然、旅行に出かけたり何かしながら、色々と、その理由を考え廻してみたものですが、解らないものはイクラ考えたって解る筈がありません。のみならず、その結果スッカリ憂鬱になってしまった私は、トウトウ皆をビックリさせるような事を仕出来してしまいました。……つまり何となく石狩川の上流に行ってみたい。どこだかわからないが自分の故郷は、石狩川の上流に在るような気がするから、そこに行ってみたら、何もかも解るに違い無い……といったような、タマラない悲壮な気持になりましたので、人知れず小型のカンバスボートや、食料などを買込みまして、無断で家を飛出しますと、一直線にエサウシの別荘に向ったものです。すると又、生憎なことに、ズット以前から、私のそうした素振りを不審に思って、気を付けていた者が、家の中に居りましたので、難なく途中で押えられて、小樽へ引戻されてしまったものですが……しかし先生はモウ疾っくに、私のそうした気持を察しておいでになるでしょう。……ねえ先生。先生はソンナ病症の経過をイクラでも御存じでしょう。そうした不可思議極まる潜在意識の作用を、知り尽しておいでになるでしょう。  ハハア。西洋の古い記録にはそうした実例が出ているが、先生御自身にはソンナ患者を御覧になった事が無い……それはいい都合です。私はソンナ実例の中でも特別|誂えの標本ですからね。  何を隠しましょう、今朝の事です。しかもタッタ今の出来事です。私は病室の床の上にこぼれていた茶粕の上で、ウッカリ足を踏み辷らして、ヒドク尻餅を突いたのですが、そのトタンに、トテモ素晴らしい大事件が持上ったのです。永い間忘れていた過去の記憶……石狩川に陥ち込んだ以前の、身の毛も竦立つ記憶の数々が、一ペンにズラリッと頭の中で蘇ってしまったのです。同時にモウこれで私は、自分の頭の故障から完全に解放された……と気が付きましたので、早速ながらこうして、退院のお許しを受けに参りました次第ですが……。  ハイ……実を申しますと、この秘密をお話しするのは、私にとって身を切られるよりも辛いのです。むろん社会的にも、モノスゴイ反響を喚起すに違いない重大事件ですから、万一、公表でもされますと、私を中心とする一切合財が、破滅に陥るかも知れないと思われるのですが、しかし私自身の一生涯が、この病院の中で埋れ木になるか、ならないかの境い目と思いますから、背に腹は換えられない気持ちで、先生にだけソッとお打明けする次第ですが……ハハイ……ハイ。  先生はズット前に、誰からか、コンナ話をお聞きになった事がありましょう。  北海道は石狩川の上流、山又山のその又奥の奥山に、一軒の原始的な小舎が建っているのが見える。その家は北面の背後を、旭岳に続く峨々たる山脈に囲まれている一方に、前面は切立ったような、石狩本流の絶壁に遮られていて、人間|業では容易に近付けない位置に在るので、ツイこの頃まで、誰にも発見されないままになっていたものらしい。  ところが最近に到って、北海道特有の薬草|採りが、霧に出会って山道に踏み迷った結果、偶然に、遠くからこの一軒屋を発見してからというもの、急に評判が高くなって、北海道中に拡がってしまった。……その一軒家は、まだ誰も知らないアイヌ部落の離れ小舎だろうと云う者が居る。一方に、それは北海道名物の、監獄部屋から脱出した人間が、復讐を恐れて隠れているのだ……といったような穿った説が出るかと思うと、イヤそうではあるまい。ことによるとそれは、太古以来生き残っている原人の棲家かも知れない……なぞと云い出す凝り屋も居る。そうかと思うと……ナアニそれは薬草採りが見当違いをしたんだ。大方北見|境に居る猟師の家を遠くから見たんだろう……なぞと茶化してしまう者も居る……といった塩梅で、サッパリ要領を得ないままに、噂ばかりがヤタラに高まって行った。  そのうちにその評判が、トウトウ新聞社の耳に這入ると、イヨイヨ騒ぎが大きくなってしまった。結局Aが奉公していた小樽タイムスの政敵、函館時報社の飛行機で撮影された、その家の鳥瞰写真が、紙面一パイに掲載されることになったが、その写真をよく見ると、それは明らかに日本人が建てたらしい草葺小舎で、外国映画に出て来る丸太小舎式の恰好をしているばかりでなく、純日本式の野菜畑や、西洋式の放射状の花畑なぞが、ハッキリと映っているところを見ると、皆の想像とは全然違った文化人の住居に違いない。しかも、それでいてその位置はというと、確かに、北海道の脊梁山脈の中でも、人跡未踏の神秘境に相違ないのだから、その一軒家が何人の住家であろうかは、容易に推測されない訳である。奇怪……不思議……といったような事実が、同乗の記者によって詳細に報道された。そうしてそのまま猟奇の輩の口端に上って、色々な臆説の種になっているばかりである……という事実を、先生は多分、何かの雑誌か、新聞で御覧になった事でしょう。ハハア。まだ御覧にならない……。御研究がお忙しいのでね。成る程……それでは致し方がありませんが、何を隠しましょう、その一軒屋こそ、私が建てた愛の巣なのです。私が妻子と一所に、楽しい自給自足の生活を営んでいた、第二の故郷に相違ないのです。……イヤどうも……御免下さい。どうも胸が一パイになりまして……ハハイ……ハハイ……。私は石狩本流の絶壁から墜落したトタンに、そうした記憶をスッカリ喪っていたのです。ええええ。事実ですとも事実ですとも……。  私の戸籍が偽物であることは、私の生れ故郷の村役場に御照会下されば一目瞭然することです。その戸籍面を偽造して、私を初め谷山一家の人々を欺いていたのが、誰でもない、新聞記者のAだったのですからね。  私が二度目の結婚問題に差し迫られたまま、旅行にカコ付けて家を飛び出したのも、かつは誰にも知れないようにAに面会してみたかったからでした。Aはその頃、小樽タイムスを罷めて、九州地方をウロ付いているという噂でしたからね。何かしら私の過去に就いて、探りに行ったのじゃないか……といったような気がしたからです。それから二度目に、モウ一度家を脱け出した時も、そうした潜在意識に支配されていたのでしょう。何となく石狩の上流に行ってみたい。そうしたら何もかもわかるに違い無い……といったような気持になったからでした。  併し、最早そんな無駄骨折をする必要は無くなりました。私が完全に過去の記憶を回復しているのですからね……同時に、そのお蔭で、谷山家の養子事件を裏面からアヤツリ廻して来た、冷血残忍なAの手の動きを、ハッキリと見透かしながら、お話する事が出来るのですからね……。  私は福岡県朝倉郡の造酒屋、畑中正作の三男で、昌夫と呼ばれていた者です。父の持山に葡萄を栽培するのが目的で、駒場の農科大学に入学して、卒業間際になっていた者ですが、九州人の特徴として、器量も無い癖に政治問題の研究に没頭した結果、当時の大政党憲友会の暴状に憤慨し、同会総裁、兼、首相であった白原圭吾氏を暗殺して終身懲役に処せられ、北海道|樺戸の監獄に送られて間なく脱獄し、爾来、杳として消息を絶っていた者……と申しましたら、その他の細かい履歴は申上げずとも宜しいでしょう。暗殺、逮捕、脱獄の前後を通じて、全国の新聞紙に仰々しく掲載されていたものですからね……。  しかしその中に唯一つ、私の脱獄の理由として新聞紙上に伝えられていたものが皆、飛んでもない間違いばかりであった事は、誰も気付かないでいるでしょう。再度の暗殺決行とか、社会主義的潜行運動のためとか、又は露西亜への逃亡のためとかいったような風説が皆、御念の入った当てズッポーばかりで、天下を聳動した私の脱獄の動機なるものが、実は他愛もないモノであった事を知っている人間は、そう沢山には居ない筈です。  私が樺戸に落付いてから間もなくの事でした。東京で恋の真似事をしておりました女給の鞆岐久美子というのが、遥々、北海道まで尋ねて来て、思いがけなく面会に来てくれたのです。  この事実は間もなく新聞紙上に伝えられまして、活動写真にまで仕組まれたそうですから、御存じの方もありましょうが、何を隠しましょう。私はその時に、彼女から受けました巧妙な暗示と、係官に怨恨を抱いておりました同囚の者の同情とに依りまして、何の苦もなく脱獄を決行する事が出来たのです。……しかもその脱獄の方法というのが、特に私の生命に拘わる重大問題でありまして、同時に同囚の恩人たちにも、非常に迷惑のかかる話ですから、こればかりはこの口を引裂かれてもお話出来ないのです。……が……ともかくもそのような事情で、首尾よく逮捕の手をのがれました私は、彼女と共に石狩川の下流を越えまして、例の絶対安全の神秘境に恋の巣を営むことになったのです。  もっともコンナ風に話して参りますと、何のことはないお伽話みたような筋道になってしまいますが、併し、そこまで来る間の私共の辛苦|艱難と、それから後の孤軍奮闘的生活といったら、優にロビンソン・クルーソー以上の奇談を綴るに足るものがあったのですよ。  私は樺戸を脱出するとそのまま、持って生れた健脚を利用して、山又山を逃げ廻りながら、一心に久美子の行衛を探索し初めたものです。無論囚人服を着たままですから、夜しか人里に出られなかった訳でしたが、私は盗みというものを絶対にしない方針でしたので、どこまでも青いお仕着せ姿で、鳥獣と同じ生活をして行かなければなりませんでした。ですから、その最初の間の苦しみというものは、実に想像の外でしたが、併し又一方から申しますと、そうした辛棒のお蔭で、私の逃げ足が絶対にわからなかったのですから、詰るところ差引の損得は無かったかも知れません。のみならずその辛棒の甲斐がありまして、脱獄してから一個月目に、新旭川附近の只ある村外れで、彼女が私に暗示していた、小さな奇術劇団の辻ビラがブラ下っているのを発見しました時の、私の喜びはドンナでしたろう。忽ち勇気を百倍しました私は、アラユル危険を物ともせずに、折からの暗夜に紛れて、旭川の町にかかっているその劇団に付き纏うたものでしたが、そのうちに、トウトウ彼女と連絡を取ることに成功しますと私は、迅速に手筈をきめまして、一気に彼女を引っぱり出してしまったのです。  その時に生命と頼むものは、大急ぎで彼女に買集めさした一挺の鍬と、一本の洋刀と、リュックサックに詰めた二つの鍋と、六貫目ばかりの食料だけでした。その以外には何の準備も出来ない囚人服のまま、舞台裏から飛出して来たばかりの、金ピカ洋装の彼女と手に手を取って、涯てしない原始林の奥を目がけて、盲滅法に突進したのですからね。恋は盲目と申しますが、これくらい思い切った盲目ぶりはチョットほかに類が無いでしょう。  しかもその途中では、深山幽谷に慣れた薬草採りでも震え戦く、寒い寒い霧に包まれて、二日二晩も絶食したまま、土の中に穴を掘って潜り込んだり、又は背丈よりも高い灌木林を、一反歩以上も掻き散らして、木の根を掘った餓え熊の爪の跡を見て、モウ運の尽きだと諦めて、二人で抱き合って泣き出したり、それはそれは喜劇とも悲劇とも付かない情ない目や、恐ろしい目に何度会ったものかわかりません。  ところでそのような次第で、木の実|榧の実を拾いながらヤットのことで、念がけていた人跡未踏の山奥に到着しますと、私は辛苦艱難をして持って来た鍬と、ナイフで木を伐り倒して、頑丈な掘立て小舎を造り、畠を耕して自給自足の生活を初めると同時に、小川の魚を釣って干物にしたり、木の実を煮て苞に入れたりして、冬籠の準備を初めました。  二人はそこで初めて、この上もなく自由な、原始生活の楽しさを悟ったのです。科学、法律、道徳といったような八釜しい条件に縛られながら生きている事を、文化人の自覚とか何とか錯覚している馬鹿どもの世界には、夢にも帰りたくなくなったのです。  二人は約束しました。……二人はこれから後イクラ子供が出来ても、年を老っても、モウ人間世界へは帰るまい。アダムとイブが子孫を地上に繁殖させたようにして、吾々の子孫をこの神秘境に限りなく繁殖させよう。自然のままの文化部落を作らせよう……と……。  彼女はそれから年児を生みました。私が二十一の年から二十五までの間に、男の児と女の児を二人|宛、都合四人の子供を生みましたが皆、病気一つせずに成長しましたので、山の中が次第に賑やかになって参りました。  ところが忘れもしませんその二十五の夏の事でした。最前お話しました新聞社の飛行機が、突然に私の家の上を横切りましたのは……。  その時の子供たちの脅えようといったらありませんでした。ちょうど私は家の前の草原に、放射状の花壇を作って、山から採って来た高山植物を植えかけておりましたが、思いがけない西北の方角から、遠雷のような物音が近付いて来ますと、踊るような恰好をして逃げ迷っている子供等と一所に、慌てて家の中へ逃げ込んだものです。そうして軒下に積んだ寝床用の枯草の中から、青い青い石狩岳の上空に消え失せて行く機影を見送っているうちに何か知らタマラない不吉な予感に襲われましたので、ホーッと溜息を吐いておりますと、その背後から久美子もソッと不安気な顔をさし出して、 「妾達を探しに来たのじゃないでしょうか」  と云ったものです。それを聞くと私は、思わずドキンとしましたが、しかし顔ではサリ気なく微苦笑しまして、 「ナアニ。俺たちみたような人間を探すのに、ワザワザあんな大袈裟な事をするもんか。しかも今頃になって……ハハハ……」  と打消すには打消したものの、それでも押え切れない不吉な胸騒ぎをドウする事も出来ないまま、立ち竦んでいたことでした。  私はそれから後、四五日の間というもの、ドウしても遠くに出歩るく気がしなかったものです。むろん写真まで撮られていようなぞいう事は、夢にも気付きませんでしたので、ただ、私共の居る神秘境をダシヌケに掻き乱して行った巨鳥の姿を、思い出しては溜め息しいしい、家の周囲の畠ばかりをいじくっていたものですが、そのうちに又、眼の前に差迫っている冬籠りの用意の事を思出しますと、何がなしにジッとしては居られなくなりましたので、お天気のいいのを幸いに、手製のタマ網を引っ担いで、鱒をすくいに出かけました。  久美子はその時にも、不安そうな顔をして私を引止めましたが、矢張り虫が知らせたとでも申しましょうか。それを振り切って山を下りまして、紅山桜や、桂の叢林を分けながら、屏風を切り立ったような石狩本流の崖の上まで来ますと、生木の皮で作った丈夫な綱をブラ下げまして、下の石原に降り立って、岩の間の淀みに迷う鱒や小魚を、掬い上げ掬い上げしておりました。  すると……どうでしょう。まだホンの五六匹しか掬い上げていないと思ううちに、ツイ向うの川隈の岩壁の蔭から、中折帽を眉深に冠った洋装の青年が、畳みボートを引っぱりながら、ヒョックリと顔を突き出したではありませんか……。  ……私はその青年と暫くの間、顔を見交したまま立ち竦んでいたようです。しかしその中に電光のように……これはいけない……と気が付きますと、大切なタマ網を腰巻の紐に挿すや否や、崖にブラ下がっていた綱に飛付いて、一生懸命に攀じ登り初めました……が……しかしモウ間に合いませんでした。まだ半分も登り切らないうちに、思いがけない烈しい銃声が二三発、峡谷の間に反響して、私の縋っていた綱が中途からプッツリと撃ち切られました……と思うと、一旦、岩の上に墜落しました私は、心神喪失の仮死状態に陥ったまま、苔だらけの岩の斜面を、急流の中へ辷り落ちて、そのまま見えなくなってしまったものだそうです。  この時に私を撃ち落した洋装の青年が、最前お話しました新聞記者のAであったことは、申すまでもありません。同時に、この時に響いた二三発の銃声こそはAが私の運命を手玉に取り初めた、その皮切りの第一着手であったことも、トックにお察しが着いていることでしょう。  但……ここでチョットお断りしておきたいのは、この時までAが、私に対して、別段に、深刻な野心を持っていなかった事です。むしろAは私という奇妙な人間を発見して、タマラナイ好奇心を挑発されて行くうちに、いつの間にか悪魔的な、残虐趣味の世界へ誘い込まれて行ったもの……と考えてやった方が早わかりする事です。  手早く申しますとAは、新聞記者一流の功名心に駆られた結果、夏の休暇を利用して、旭岳の麓の一軒屋の怪奇を探りに来た人間に過ぎなかったのです。……政敵、函館時報社の飛行機に先鞭を付けられて、地団太を踏んでいた小樽タイムス社と、その後援者ともいうべき谷山家の援助を受けまして、畳ボートと、食糧と、それから腕におぼえのある熊狩用の五連発|旋条銃を担ぎながら、深淵と、急潭との千変万化を極めた石狩川を遡って来た訳でしたが、幸運にもその一軒家の主人公らしい怪人物を発見すると間もなく、取り逃がしそうになりましたので、思い切って私を威嚇すべく、頭の上を狙って二三発、実弾を発射したものに過ぎませんでした。  ですからAが、その時にドレくらい狼狽致したかは、御想像に難くないでしょう。すぐに畳ボートを押し出して、危険を犯しながら激流の中を探しまわりました、そのうちに、どうしても私の死骸が見付からない事がわかりますと、今度はタマラナイ空恐ろしい気持になって来ました。  Aは度々申しました通り、冒険好きの新聞記者です。つまり普通とは違った神経を持っていた訳ですから、人間を一人や二人、ソッと見殺しにする位のことは、何とも思わない性格の男に相違ないのでしたが、しかし……何しろ人跡絶えた山奥の谿谷で、水の音ばかり聞こえる寂寞境ですからね。そんな処で思いがけなく、奇妙な恰好をした丸裸体の人間を一匹撃ち落したのですからね。……何ともいえない鬼気に迫られたのでしょう。四五日もかかって遡った急流|激潭を、タッタ一日で走り下って、エサウシ山下の谷山別荘に帰り着くと、人知れずホットしいしい、ウイスキーを飲んで眠ったものだそうです。  ところがその翌る朝のこと。何かしら近所の人々の騒ぎまわる声が耳に這入ったので、何事かと思ってAが飛び起きてみると……どうでしょう。見覚えのある私の丸裸体の屍体が、自分の寝ている離れ座敷の直ぐ下の、石段の処に流れ着いているではありませんか。……その時の気味の悪かったこと……。あの石狩川の上流で、私を撃ち落した時以上のイヤな気持ちに、ゾーッと襲われたと云いますが、それはそうでしたろう。世にも恐ろしい因縁と云えば云えるのですからね。  しかしその屍体を、そのまんま知らん顔をして見逃がすことは、流石にAの好奇心が承知しませんでした。のみならず、その屍体の血色や何かが、何となく違っていることが、素人眼にもわかりましたので、附近の者に手伝わせながら、気味わる気味わる石段の上の芝生に引き上げて、馳け付けて来た医者と一緒に介抱をしておりますと、そのうちに意識を回復しかけた私が、非常な高熱に浮かされながら、盛んに譫語を云い初めたものだそうです。  ところが又、その譫語のうちに、普通人にはチンプン、カンプンの囚人用語が、チョイチョイ混っているのに気が付きますと、Aは忽ち、今までの恐怖心理から一ペンに解放されまして、見る見る持ち前の記者本能に立ち帰ってしまったものだそうです。つまり是が非でも私の告白を絞り取って、有力な新聞|記事にすべく、アラユル努力を払った訳でしたが、その苦心努力の甲斐があって、首尾よく私が意識を回復してみますと……三度ビックリ……案外千万にもその私が、完全に過去の記憶から絶縁されている、一種の白痴同様の人間である事がわかった時には、ガッカリにもウンザリにも……今一度タタキ殺してやりたいくらい、腹が立ったものだそうです。  ところがサテその私が、頭や顔の手入れをして、見違えるような青年に生れ変ったのを見ますと、Aの気持が又もやガラリと一変してしまいました。……というのは外でもありません。Aはそこで、一つのステキもない巧妙な金儲けを思い付いたのでした。つまりA独特の猟奇趣味と、冒険趣味とを兼ねた、一挙三得の廃物利用を考え出しましたので、そのままグングンと仕事を運んで行ったものでした。  谷山家の内情……特に龍代の放埒の底意を、ドン底まで看破いておりましたAは、それから一か八かの芝居を巧みに打って、私を谷山家の養子に嵌め込んでしまうと、いい加減な口実を作って、かなりの金を龍代から絞り取ったまま、パッタリと消息を絶ってしまったのです。  しかもこれを見た龍代は、愚かにも、スッカリ安心してしまったものでした……というのは、つまりAが自分の註文通りに、どこか遠い処へ立去ったものと考えましたからで、こんな点では龍代も、普通の金持の子弟と同様に、お金の力を過信する傾向があったのですね。むろん私にもそれとなく打ち明けて、万事が清算済みになったつもりでいたらしいのですが、これが豈計らんやの思いきやでした。なかなかそれ位のことで諦らめ切れるAの悪魔趣味ではなかったのです。モットモット大きく、私共夫婦を中心とする谷山家の全体を、地獄のドン底に落ちる迄絞り上げながら、高見の見物をしてやろうという、その準備計画のために、ホンの暫くの間、姿を晦ましていたものに過ぎませんでした。  Aは先ず、彼の記憶に残っている私の言葉の九州|訛と、囚人用語との二つの手掛りを目標にして、探索の歩を進むべく、とりあえず小樽タイムスを飛び出して、九州北部の大都会、福岡市の片隅に在る小さな新聞社に就職しました。そうしてそこを中心にした同県下の警察や、新聞社方面に就いて、私の年齢に相当した前科者や、失踪者の名前を根気よく探してまわったものですが、そのうちに偶然にも、福岡市の某大新聞社に保存して在る、六七年|前の新聞の綴込みの中から「青年|刺客」という大活字を添えた、私ソックリの大きな写真版を発見した時のAの驚ろきと喜びはドンナでしたろう。ほかの新聞に出ていた囚人姿や、学生姿の写真が皆、私に似ても肖付かぬ朦朧写真であったのに、タッタ一つその紙面にだけ掲載されていた、私の少年時代の浴衣がけのソレが現在の私に酷似していたことは何という奇蹟でしたろう。  しかもそこまでわかるとAの仕事は最早、半分以上片付いたようなものでした。その社の整理係の連中に知れないように、精巧な写真機を担ぎ込んで、その紙面ばかりでなく、私の生い立ちや、脱獄の記事を満載した紙面までも残らず複写して、一直線に北海道に帰って来ましたAは、その後の私の動静を、詳細に亙って探りまわった序に、二人の間に愛の結晶が出来かけている事実まで、透かさずキャッチしてしまいますと、なおも最後的な脅迫材料を掴むべく、もう一度、極秘密の裡に、石狩川の上流を探検に出かけたものです。  彼はモウその時には、旭岳の斜面の一軒家が、私の棲家であったことを確信していたものでしょう。ですからそこまで突込んで、何かしら動きの取れない材料を掴んだ上で、今の新聞紙面か何かと一緒に、私へ突付ける心算だったのでしょう。  ところがそこまではAの着眼が百二十パーセントに的中していたのですから、先ず先ず大成功と云ってもよかったのですが、それから先がどうもイケませんでした。  ……というのは外でもありません。流石に悪魔式の明敏なアタマを持っておりましたAも、ここで一つの小さな……実は極めて重大な手落をしている事に、気が付かないでいるのでした。すなわち樺戸に訪ねて来ました、女給の久美子の行衛について、深い考慮を払っていなかったことで、つまり久美子のああした行動は、テッキリ活動屋の宣伝に使われたものとばかり考えていたのです。そうして久美子自身は、新聞記事と一所に音も香もなく消え失せたものと、信じ切っていたのですね。これは要するにAの頭が、アンマリ冴え過ぎていたところから起った間違いでしたが、しかもそのお蔭で折角のAの計画が実に意想外とも、ノンセンスとも云いようの無い、悲惨な結果に陥ることになったのです。  それから約一箇月ばかり経った、秋の初めのことでした。  骸骨のように痩せこけた身体に、ボロボロの登山服を纏うて、メチャメチャに壊れたカメラを首に引っかけた、乞食然たる男の姿が、ヒョッコリ旭川の町に現われて、何やら訳のわからない事を口走りながら、ウロウロし初めました。その男はヒドイ紫外線か、雪ヤケにかかったらしい、泥のような青黒い顔をしておりまして、そのボックリと凹んだ眼窩の奥から、白眼をギラギラと輝やかし、木の皮や、草の根の汁で染まった黄金色の歯をガツガツと鳴らしながら、川を渡るような足取で、ヒョロリヒョロリと往来を歩いているという、世にもモノスゴイ風付きでしたが、更にモットモット不思議な事には、その男の凹んだ眼の底に、裸体か、もしくは裸体に近い女の姿がチラリとでも映ると、それが絵であろうと、実物であろうと見境いは無い。破れ千切れた登山靴を宙に飛ばして、逃げ出して行くのでした。そうして知らない家でも、自働電話でも何でも構わない。行きなり放題に飛込んで、救けを求めるかと思うと、進行中の電車や汽車に飛び乗りかけて、跳ね飛ばされたりするので、トテモ剣呑で仕様がないのです。……ええ……そうなんです。近頃は方々の店先に裸体画が殖えて来ましたからね。おまけに秋口といっても、旭川の日中はまだ相当暑いのですからね。何でもソレらしいものを見さえすれば、絵葉書屋の前だろうが、川の中の洗濯女だろうが見境いは無い。又は一里先だろうが鼻の先だろうがおなじこと。悲鳴をあげて狂い出すのでトウトウ旭川の町中の大評判になってしまいました。  ところがそのうちに、そのエロ狂の骸骨男が、ドウ戸惑いをしたものか、旭川の警察署へ飛び込んで、保護を受けるようになりますと、世間は又広いもので、意外にもその骸骨男を引取りたいという、篤志家が現われて来ました。  その篤志家というのは、東京の目黒に在る精神病院の副院長で、その当時旭川に帰省していた、何とかいう富豪の医学士でしたが、その骸骨男……すなわちAの事を書いた新聞記事の切抜を持って、旭川署に出頭しますと、自分の研究材料としてAの身柄を引取りたい旨を、恭しく申出たものだそうです。もっとも最初のうちにAの精神状態を、新聞記事によって判断したその医者は、極めて著明な色情倒錯と思っていたそうで、ステキに珍らしい実例として、論文の材料にするつもりだったそうですが……ちょうど又、警察でも願ったり叶ったりのところだったので、厄払いのつもりで、よく調べもせずに引渡したものだそうですが……そうなるとそこは流石に専門家だけあって、催眠術や、鎮静剤を巧みに使い分けながら、無事に東京まで連れて来て、自分の受持の病室に、首尾よくAを監禁してしまいました。そうして半年ばかり経過するうちに、栄養が十分に付いて来て、云う事がイクラカ筋立って来た頃を見計って、なだめつ賺かしつしながら色々と事情を聞き訊してみますと……色情倒錯どころの騒ぎではない。大変な事実をAは喋舌り初めたのです。  Aはその副院長の前で、谷山家の秘密を洗い渫いサラケ出したばかりでなく、自分の発狂の真原因までも思い出して、アッサリ白状してしまったのでした。  Aは石狩川の上流を探検して、千辛万苦の末に、ようようの事で旭岳の麓の私の留守宅を探し当てたのです。そうして最早、スッカリ原始生活に慣れ切っている久美子と、四人の子供達が、澄み切った真夏の太陽の下で、丸裸体のまま遊び戯れている姿を、そこいらのトド松の蔭から、心ゆくまで垣間見た訳ですが、その時のAの驚きはドンなでしたろう。夢にも想像し得なかった神秘的な光景に接して、開いた口が塞がらなかった事でしょう……のみならずそこでヤット一切の事情を呑み込んだAは、懐中していた新聞紙面の複写の中に在る久美子の写真と、実物とを引き合わせてみた時の喜びは又ドンナでしたろう。これこそ谷山家の一切合財を、地獄のドン底まで突き落すに足る大発見と思って、胸を轟かしたに違いありません。……その時まではまだ龍代が自殺していなかった筈ですからね……。  けれどもAはここで又、第二段の失策に足を踏みかけていることに気付きませんでした。つまりAはそこで、久美子と子供達の写真を、何枚か撮っただけで、一先ず探険を切上げて来ればよかったのですが、そうしなかったのがAの運の尽きでした。……もっともそのような、エロともグロとも形容の出来ないスバラシイ情景を、遠くから眺めたまま引返すというようなことは、新聞記者根性のAにとって絶対に不可能な事だったかも知れません。或はそのエロ・グロの女主人公に対して、A一流の冷酷な野心を起したものかも知れませんが、とにかく吸い寄せられるようにフラフラとなったAは、吾れ知らず熊笹を押し分けながら、その方向に近付いて行ったものです。  すると間もなく大変な事が起りました。  永い間、男気無しのまま、人跡絶えたモノスゴイ山奥に、原始生活をして来た気の強い女……ことにタッタ一人でアラユル飢寒と戦いながら、四人もの子供を育てて来た母性が、如何に慓悍狂暴な性格に変化するものかという事実は、普通人のチョッと想像の及ばないところでしょう。……まして況んやです。ずっと以前に石狩川の方向で、二三発の銃声が聞えて以来、パッタリと影を消してしまった自分の夫を、監獄からの追跡者に殺されたものとばかり思い込んでいた妻の久美子が、カーキ色の登山服に、ライフルを担いだAの姿をチラリと見るや否や、おなじ監獄からの追跡者と早合点したのは無理もない話でしょう。……何の気もなく五連発の旋条銃を担いで、フキやイタドリの深草を潜りながら、一軒屋に近付いて行ったAは、背後から不意打に、猛獣みたような者に飛び付かれたので、アット思う間もなく飛び退いてみると、そこにはタッタ今奪い取ったばかりの旋条銃を構えた、全裸体の女が、物凄い見幕で立ちはだかっている。幸いにして引金の転把が上がっていなかったので、ダムダム弾の連発を喰らわされる事だけは助かった訳ですが、それにしても女の見幕の恐ろしさには、流石のAも震え上ったのでしょう。女が転把の上げ方を知らないで、間誤間誤している隙を狙って、一足飛びに逃げのくと、あとから銃身を逆手に振上げた女が、阿修羅のように髪を逆立てて逐蒐けて来る。その恐ろしさ……道もわからない藪畳や、高草の中を生命限りの思いで逃げ出して行っても、相手はソンナ処に慣れ切っている半野生化した女ですから、それこそ飛ぶような早さです。おまけにドウしてもAをタタキ倒して、息の根を止めなければならぬ。……子供の安全を計らなければならぬと思い詰めた、母性愛の半狂乱で飛びかかって来るのですからたまりません。  息も絶え絶えのまま野を渡り山を越えて、方角も何も判然らなくなってしまっても、まだザワザワと追いかけて来る音がする……と思ううちに思いもかけぬ横あいから、銃身を振り翳した裸体女が、ハヤテのように飛び出して来る。驚いて崖から転がり落ちると、女も続いてムササビのように飛び降りる。小川を躍り越せば女も飛び越す。それが男よりもズット敏捷で、向不見と来ているのですから、Aはイヨイヨ仰天して、悲鳴を揚げながら逃げ迷う。その中に日暮れ方になると、女はヤット転把の上げ方を会得したらしく、数十間うしろから立て続けに二三発撃ち出しましたが、その最後の一発が思いがけなく、Aの帽子を弾ね飛ばしたのでイヨイヨ肝魂も身に添わなくなったAは、それこそ死に物狂いの無我夢中になって、夜となく昼となく裸体女の幻影に脅やかされながら、人跡未踏の高原地をさまよい初めました。  日が暮れて、夜が明けても、まだ女が追掛けて来るらしい風の音が、四方八方に聞こえる。息も絶々に疲れて打ち倒れても、睡るとすぐにライフルの音が聞えたり、女の乱髪が顔を撫でたりする。そこで又も、夢うつつのまま起き上って、青天井や星空の下をよろめきまわるという、世にも哀れな状態になってしまいました。そうしてどこを、ドウ抜けて来たものか野垂死もせずに、生きた木乃伊と同様の浅ましい姿で、旭川の町にさまよい出ると、裸体女が眼に付くたんびに飛び上って悲鳴をあげる。そうかと思うとどこへでも駈け込んで、 「……タ……大変だ……谷山家の重大秘密だ……二重結婚だ……脱獄囚の妻だ……天女の姿をした猛獣だ……」  なぞとアラレもない事を口走るようになった……というのがAの発狂の真相だったのです。  ……ところでこの真相を聞き出した今の精神病院の副院長は、最初のうち半信半疑だったと申しますが、それは当然の事だったでしょう。初めから終いまで非常識を通り越した事実ばかりですからね。……しかも念のために病院に保管して在ったAのボロボロの登山服を調べてみると……ドウでしょう。Aの言葉が一言一句、真実に相違ない事を証明するに十分な、畑中昌夫と谷山秀麿の戸籍謄本や、新聞紙面の複写フィルムを、内ポケットから探し出したばかりでなく、メチャメチャに壊れたAのカメラの中に、タッタ一枚無事に残っていた、私の妻子のグロ写真を現像する事にまで成功したではありませんか。  副院長はそこで初めて、Aの精神異常の回復が、谷山家の重大問題となるであろう事実に気が付いたものでした。そこで早速、私に宛てた至急親展で、事のアラマシを通知して、事実かどうかを問い合わせて来た訳ですが、その手紙を受取った時には私も、思わずシインとなりましたよ。  むろんその手紙には、学術研究のために問合せるのだから、仮令事実であっても絶対秘密にする……云々という追而書が添えてありましたし、問題の龍代も、最早トックにお位牌になっていた時分のことですから、私の心配も半分以下で済んだようなものでしたが、しかし、それにしても重大問題には相違無いので、取るものも取りあえず上京して目黒の精神病院を訪問してみますと……又もシインとするほど脅かされたのでした。頑丈な鉄の檻の中に坐り込んでいた、患者姿のAは、とりあえず見舞いに来た私の顔を、ハッキリと記憶していたばかりでなく、何やら訳のわからない紙片を鉄棒の間から突出しながら、辻褄の合わない脅迫めいた文句を、私に向って浴びせかけるではありませんか。むろんその紙片は、私の事を書いた新聞の複写か何かと思い込んでいたものに違い無いのですが……。  私はその複写拡大紙面の実物と、ブロマイドに焼付けられた妻子のグロ写真とを並べて、副院長の自室で見せてもらいましたが、それを見ているうちに初めて、自分の過去の記憶を電光のように呼び起す事が出来ました私は、あんまり烈しいショックを受けましたために、一時失神状態に陥ってしまったものです。  しかし間もなく、副院長の介抱によって正気に帰りますと、私は、すぐに非常な勇気を奮い起しまして、Aが自白した一切の事実を確認しました上に、尚足りないところを詳細に、副院長の前で補足してしまいました。そうしてAの一身に関する相当の保護を依頼すると同時に、私の前身を公表するかしないかという重大な判断はタッタ一つ……副院長の自由意志に一任しまして、その旨を半狂人のAに詳しく云い聞かせますと、そのまま北海道に引上げてしまいました。これは申すまでもなく、万一、私の前身が公表されました場合、落付いて刑に就くべく心用意をしておくためでした。……いくら他人の秘密を預るのが商売の精神病医でも、これ程の秘密を握り潰すのは、容易な事であるまいと思いましたからね。  ……エッ……何ですって……。  私の話がトンチンカンですって……。  これは怪しからん。どこがトンチンカンですか。私は立派に順序を立ててお話ししているつもりですが……。  何ですか……その新聞記者のAという男の本名は、まだ思い出さないかって仰有るのですか……サア。それがまだ思い出せないのですが……モウジキに思い出すだろうと思っているんですが……。  ……オヤ……何故お笑いになるのですか。  ヘエ。ここがその目黒の病院なんですか。ヘエッ。それじゃA君もここに居る訳ですね。ヘエ――ッ。ほんとうに居るのですか。……ちっとも知らなかった。イッタイどこに……。  エッ。……ここに居る……。  ……ナ……何ですか……私がその新聞記者のAだと仰有るのですか。御冗談ばかり……私は只今も申しました通り、谷山家の養嗣子秀麿ですが。その久美子という、猛獣天女の亭主に相違ないのですが……龍代と二重結婚をしたアノ白痴同様の……。  エッ。その秀麿……谷山家の養子になった私が、ここに入院した原因をお尋ねになるのですか。そ……それはその……その発狂当時の事ですからチョット思い出しかねるのですが……。  ……お笑いになっちゃ困ります。鏡なんか見なくたっていいです。自分の顔は自分でちゃんと知っております。  ……ナ……ナ……何と仰有るのですか。その谷山秀麿は、今でもやはり谷山家の養子になって、盛んに事業界に活躍している。後妻には山の中から久美子を迎え出して、谷山夫人を名乗らしている……そ……それあ怪しからんじゃないですか……二人は今後、絶対に人間世界に帰らないと云って、あれ程固く約束していたのに……イヤイヤ。私の想像なんかじゃないのです。事実に相違ないのです。実に……ジツに怪しからんですなあ……。  ヘエ。何ですって……ここの副院長から与えられた暗示で、美事に過去の記憶を回復した谷山秀麿は、北海道に引返してから間もなく、副院長の誠意を籠めた手紙を受取ったので、ホット一息安心することが出来た。そうしてAの一生涯を、病院で飼殺しにしてもらうように、折返して返事を出すと、すぐにタッタ一人で極秘密の裡に、旭岳の麓へ久美子を迎えに行ったのですか。ヘエ……そこで流石の猛獣天女だった久美子も、なつかしい昌夫の泪ながらの告白に負けてしまった。ハハア……作り飾りの無い、昌夫の純情に動かされた結果、龍代の身代りになって、谷山家の一粒種……龍太郎を育て上げるべく、涙ぐましい決心をした。成る程……そこで四人の子供を左右に引連れた猛獣天女が、はるばると人間世界に天降る事になったが、それに就ては昌夫の秀麿が、思い出深い石狩川の上流から、エサウシ山下の別荘まで、人に知れないように連れ込むべく、アラユル苦心を払ったものである。いかにもねえ……それから久美子の戸籍面の届出や、子供の行儀作法のテストに至るまで、又もや惨憺たる苦心研究を積ませられたものであるが、さてそのあげく、イヨイヨ一行を谷山家に乗込ませて見ると、案ずるよりも生むが易いで、久美子の奥様振りが頗る板に付いたアザヤカナものだったので、龍代の再来という評判が立って、一躍、界隈の社交界をリードするようになった。同時に家庭も極めて円満で、五人の子供達にミジンの分け隔ても見せないから、将来、谷山家の秘密に気付くものは絶対に出ない見込である……だからその事に就ては、絶対に心配しなくともいいと仰有る……ナア――ンダイ。馬鹿にしやがらア……。  イヤ……アハハハハ……これあ失敗った。うっかりネタを曝らしちゃった。  アハハハ。実はね。先生をドウかして一パイ引っかけて、マンマと首尾よく退院してくれようと思いましてね。この間から寝ないで話の筋を考えていたんです。そうしたらツイ今サッキ尻餅を突いた拍子に、自分の経歴を思い出したような気がしたもんですからね。こいつあ占めたと思って、すぐに先生の処へ来たんですが……ハアテネ……。  俺は一体、誰の経歴を思い出したんだろう……自分で調べた他人の経歴を思い出したんじゃないか……ハテ…いけねえいけねえ。モットよく考えて来れあよかった。どこかに辻褄の合わない処があったんだ……。ヨオシ……今度こそは……。  エッ。昨日も僕が同じ話をしに来たんですって……一昨日も……ズット前から何度も何度も……アノ僕が……ヘエ……。だから先生の方でも、谷山さんに頼まれた通りに、繰り返し繰り返し詳しい事情を説明して、ヤキモキしないように云って聞かせているが、ドウしてもわからない……僕がですか……ヘエ。おまけに自分の事と、他人の事とをチャンポンにして考えたりするので、話がだんだんトンチンカンになって来る。だから君のアタマはタシカでない。谷山家の事なんか忘れてしまって、モット気楽に養生しなければ、いつ退院出来るかわからない……ヘエ――……。それあ誰のことですか……エッ……僕のこと……ヘエ。そうして貴方は……。失礼ですが、どなたですか。  エッ。副院長の助手さん……一緒に僕の心理状態を研究している……。  ……ウワア……しくじったア。それじゃ何でも知っている筈だ。僕は又院長さんかと思った。院長さんなら、まだ一度も僕に会ったことがないから、もしかすると一パイ喰うかも知れないと思ったんだが……いけねえいけねえ……。  アッハッハッハッハッハッハッハッ……。  ああア――ッ。くたびれたアッ……ト……。  ねえ先生……話し賃に煙草を一本下さいな…………。  ……オヤア――ッ。誰も居やがらねえ……。  ここは監房の中だ……おかしいな。俺あサッキから一人で饒舌ってたのかな……フーン……イッタイ何を饒舌ってたんだろう……。  ……桐の花が、あんなに散ってやがる…………。  ……アッ……忘れていたッ…………。  俺あ龍代に復讐するつもりだったんだ……彼女は俺に肱鉄を喰わせやがったんだ……妾をオモチャにするつもり……って冷笑しやがったんだ。だからその通りにしてやったんだ。前科者を亭主に持たして、一泡吹かしてくれようと思ったのが、間違ってコンナ事になってしまったんだ。あべこべに俺がキチガイ扱いされる事になったんだ。  エエッ……コンナ篦棒な……不公平な……。  俺あ谷山家に怨みがあるんだ。ココを出してくれ。不法監禁だぞ畜生……ドウスルカ見ろ……龍代の阿魔……。出してくれ出してくれ出してくれくれくれ……出してくれッ……。出して……くれエエエ――ッ……。  初茸、松茸、椎茸、木くらげ、白茸、鴈茸、ぬめり茸、霜降り茸、獅子茸、鼠茸、皮剥ぎ茸、米松露、麦松露なぞいうきのこ連中がある夜集まって、談話会を始めました。一番初めに、初茸が立ち上って挨拶をしました。 「皆さん。この頃はだんだん寒くなりましたので、そろそろ私共は土の中へ引き込まねばならぬようになりました。今夜はお別れの宴会ですから、皆さんは何でも思う存分に演説をして下さい。私が書いて新聞に出しますから」  皆がパチパチと手をたたくと、お次に椎茸が立ち上りました。 「皆さん、私は椎茸というものです。この頃人間は私を大変に重宝がって、わざわざ木を腐らして私共の畑を作ってくれますから、私共はだんだん大きな立派な子孫が殖えて行くばかりです。今にどんな茸でも人間が畠を作ってくれるようになって貰いたいと思います」  皆は大賛成で手をたたきました。その次に松茸がエヘンと咳払いをして演説をしました。 「皆さん、私共のつとめは、第一に傘をひろげて種子を撒き散らして子孫を殖やすこと、その次は人間に食べられることですが、人間は何故だか私共がまだ傘を開かないうちを喜んで持って行ってしまいます。そのくせ椎茸さんのような畠も作ってくれません。こんな風だと今に私共は種子を撒く事が出来ず、子孫を根絶やしにされねばなりません。人間は何故この理屈がわからないかと思うと、残念でたまりません」  と涙を流して申しますと、皆も口々に、 「そうだ、そうだ」  と同情をしました。  するとこの時皆のうしろからケラケラと笑うものがあります。見るとそれは蠅取り茸、紅茸、草鞋茸、馬糞茸、狐の火ともし、狐の茶袋なぞいう毒茸の連中でした。  その大勢の毒茸の中でも一番大きい蠅取り茸は大勢の真中に立ち上って、 「お前達は皆馬鹿だ。世の中の役に立つからそんなに取られてしまうのだ。役にさえ立たなければいじめられはしないのだ。自分の仲間だけ繁昌すればそれでいいではないか。俺達を見ろ。役に立つ処でなく世間の毒になるのだ。蠅でも何でも片っぱしから殺してしまう。えらい茸は人間さえも毎年毎年殺している位だ。だからすこしも世の中の御厄介にならずに、繁昌して行くのだ。お前達も早く人間の毒になるように勉強しろ」  と大声でわめき立てました。  これを聞いた他の連中は皆理屈に負けて「成る程、毒にさえなればこわい事はない」と思う者さえありました。  そのうちに夜があけて茸狩りの人が来たようですから、皆は本当に毒茸のいう通り毒があるがよいか、ないがよいか、試験してみる事にしてわかれました。  茸狩りに来たのは、どこかのお父さんとお母さんと姉さんと坊ちゃんでしたが、ここへ来ると皆大喜びで、 「もはやこんなに茸はあるまいと思っていたが、いろいろの茸がずいぶん沢山ある」 「あれ、お前のようにむやみに取っては駄目よ。こわさないように大切に取らなくては」 「小さな茸は残してお置きよ。かわいそうだから」 「ヤアあすこにも。ホラここにも」  と大変な騒ぎです。  そのうちにお父さんは気が付いて、 「オイオイみんな気を付けろ。ここに毒茸が固まって生えているぞ。よくおぼえておけ。こんなのはみんな毒茸だ。取って食べたら死んでしまうぞ」  とおっしゃいました。茸共は、成る程毒茸はえらいものだと思いました。毒茸も「それ見ろ」と威張っておりました。  処が、あらかた茸を取ってしまってお父さんが、 「さあ行こう」  と言われますと、姉さんと坊ちゃんが立ち止まって、 「まあ、毒茸はみんな憎らしい恰好をしている事ねえ」 「ウン、僕が征伐してやろう」  といううちに、片っ端から毒茸共は大きいのも小さいのも根本まで木っ葉微塵に踏み潰されてしまいました。  キャラメルと飴玉とがお菓子箱のうちで喧嘩をはじめました。 「ヤイ、飴玉の間抜け野郎。貴様はまん丸くて甘ったるいばかりで何にもならないじゃないか。俺なんぞ見ろ。ちゃんと着物を着て四角いおうちにはいっているんだぞ。貴様なんぞは着物なんか欲しくたって持たないだろう。態をみろヤーイ」  飴玉は真赤になって憤り出しました。 「失敬なことを言うな。うちにいる時は裸だけど、外に出る時にゃちゃんと三角の紙の着物を着て行くんだ。第一貴様の名前が生意気だ。キャラメルなんて高慢チキな面をしやがって、日本にいるのならもっと日本らしい名前をつけろ」 「こん畜生、横着な事を言う。キャラメルが悪けりゃあカステイラは西班牙の言葉だぞ。シュークリームでもワッフルでも良いが、菓子にはみんな西洋の名前が付いているんだ。あめだのせんべいなぞ言うのはみんな安っぽい美味くないお菓子ばかりだ」 「嘘を吐け。羊羹」]なんて言うのは貴様よりよっぽど上等だぞ。コンペイトウは露西亜語の名前だけれど、俺よりずっと不味いぞ。ウエファースなんていう奴はいくら喰ったって喰ったような気がしないじゃないか」 「馬鹿を言え。あれでもなかなか身体のためになるんだ。おれなんぞは牛乳が入っているから貴様よりずっと上等だ」 「こん畜生、おれだって肉桂が入っているんだ。肉桂はお薬になるんだぞ。貴様の中に牛乳が何合入ってりゃあそんなに威張るんだ」 「何を小癪な」 「何を生意気な」  とうとう取っ組み合って、大喧嘩になりました。最前から見物していたキャラメルの仲間のミンツ、ボンボン、チョコレート、ドロップス、飴玉の仲間の元禄、西郷玉、花林糖、有平糖なぞはソレというので馳け寄って、双方入り乱れてゴチャゴチャに押し合い掴み合っているうちに、みんなお互いにくっつき合って動けなくなってしまいました。  そこへ坊ちゃんが来てお菓子箱の蓋を取ってみるとビックリして、 「お母さん。大変大変。お菓子が喧嘩をしている」  と叫びました。お母さんもやって来てこの有様を見ると、 「それ御覧なさい。一緒に仕舞って置いてはいけないと言ったではありませんか。私がこわして上げるから、お姉さんやお兄さんと一緒におやつに食べておしまいなさい」  と言って金槌を持って来て、パラパラと打ちこわしておしまいになりました。  アメリカ生まれのキューピーがいなくなったので、おもちゃ箱の中は大変なさわぎがはじまりました。日本のダルマさんが向う鉢巻でタワシ細工の熊に乗っていの一番に飛び出す。あとから独逸生まれのブリキの兵隊が木造りの自動車で駈け出す。仏蘭西生まれの道化人形は英国生まれのねむり人形と一緒にそのあとから走り出す。みんな出て行っておもちゃ箱は空っぽになりました。  ダルマさんが、敷居の処を通りかかった鼠に、キューピーさんはどこへ行ったか知らないかと尋ねますと、鼠はチューチューと笑いながら、 「それはきっと、この頃この家へ来た小さな三毛猫がおもちゃに持って行ったのだろう」  と言いました。ソレッと言うので、縁側で日なたぼっこをしている三毛猫を捕まえてダルマさんが睨みつける。兵隊さんが剣付き鉄砲を突きつけて、キューピーをどうしたかと聞くと、三毛猫はビックリして顔を撫でて、 「イイエ、ニャンにも知りません。私はお嬢さんの帯だの鞠だのはおもちゃにしましたが、まだキューピーはおもちゃにしたことはありません。おおかたそれは鼠さんが私をここから追い出すためにそんなわるい事をしたのでしょう」  と言いました。  皆は成る程と気がついて、直ぐに天井裏へかけ上って方々を捜しますと、隅っこの方でキーキーピイピイ泣く声が聞こえますので、ソレッと言って馳せつけました。  みるとかわいそうに、キューピーはお腹も何もピシャンコになって、青い眼を泣き腫らして寝ています。みんなは大喜びで連れて帰って、寄ってたかって介抱をして、もとの通りにふくらましてやりました。  三毛猫はその後大きくなって、家中の鼠を皆捕って殺してしまいました。    青ネクタイ 「ホホホホホホホ……」  だって可笑しいじゃありませんか。  ……妾はねえ。失恋の結果世を儚なみて、何度も何度も自殺しかけたんですってさあ。  いいえ。妾は知らないの。そんな事をした記憶はチットも無いのよ。初めっから失恋なんかしやしないわ。第一相手がわからないじゃないの……ねえ。可笑しいでしょう。ホホホホホホ……。  それあ変なのよ。女学校を出てからというもの毎日毎日お土蔵の二階の牢屋みたいな処に閉じ込められて、一足も外へ出ちゃいけないって云い渡されていたの。何故だかよくわからないけど……おまけに着物も何も取上げられちゃって、妾ほんとうに極りが悪かったわ。着物を引裂いて首を縊るからですってさあ。妾はもう情なくて情なくて………。  御飯を持って来てくれるのは乳母だけなの。お父さんは妾が生れない前にお亡くなりになるし、お母さんも妾をお生みになると直ぐに、どこかへ行っておしまいになったんですって……。ですから妾は、その頃まで独身者で、お金を貸していた叔父さんの手に引き取られて、その乳母のお乳で育ったのよ。それあいい乳母だったの……。  その乳母が、妾が小さい時に持っていた、可愛らしい裸体のお人形さんを持って来てくれた時の嬉しかったこと……。  ……まあ。お前は今までどこに隠れていたの。お母様と一緒に遠い処へ行っていたの。よくまあ無事で帰って来てくれたのね……ってそう云って頬ずりをして泣いちゃったのよ。そうして妾は、それからというもの、毎日毎日来る日も来る日も、そのお人形さんとばっかりお話していたの。お母様のことだの、お友達のことだの、先生の事だの……それあ温柔しい、可愛らしい、お利口な、お人形さんだったのよ。  そうしたらね。そうしたら或る夕方のことよ……。  お土蔵の鼠が、そのお人形さんのお腹を喰い破っちゃったの。そうして中から四角い、小さな新聞紙の切れ端を引き出したのよ。妾がチャンと抱っこしていたのに……ええ。そうなのよ。そのお人形さんのお腹の壊れた処を新聞で貼って、その上から丈夫な日本紙で貼り固めて在ったの。それが剥がれて出て来たの。大方鼠がその糊を喰べようと思って引き出したのでしょう。可哀そうにねえ。  妾その時ドレ位泣いたか知れやしないわ。そうしてね、余り可哀そうですから、頂き残りの御飯粒で、モト通りに貼ってやりましょうと思った序に、何の気も無しに、その切端の新聞記事を読んでみたらビックリしちゃったの。妾、今でも暗記してるわ……あんまり口惜しかったから……。  こうなのよ……。  ……彼女は遂に発狂して、叔父の家の倉庫の二階に監禁さるるに到った。ここに於て彼女を愛していた名探偵青ネクタイ氏は憤然として起ち、この事実の裏面を精探すると、驚くべき真相が暴露した。すなわち強慾なる彼女の叔父は、彼女の母親の財産を横領せむがため、窃かに彼女の母親を殺して、地下室の壁の中に塗籠めたもので、次いでその遺産の相続者たる彼女を不法檻禁して発狂せしめ、法律上の相続不能者たらしめようとしていた確証が発見され、彼女の正気なる事が判明したので、彼女は巨万の富を相続すると同時に、青ネクタイ氏と結婚する事になった。同時に悪むべき彼女の叔父は死刑の宣告を受けて……。  ……っていうのよ。ねえそうでしょう。あのお人形さんは、妾に本当の事を教えに来てくれた天使だったのよ。ねえ。そうでしょう。妾、その晩、日が暮れると直ぐに、お土蔵を脱け出しちゃったの……。  いいえ。お土蔵を脱け出すくらい何でもなかったのよ。妾あんまり口惜しかったから、アノお土蔵の二階の窓に嵌まっていた鉄の格子ね。あれを両手で捉まえて力一パイ引っぱってやったら、まるで飴みたいに曲ってしまって、窓枠と一緒にボロボロッと抜けて来たのよ。キット鉄でなくて、鉛か何かだったのでしょう。何から何まで人を欺していたことが、その時に、初めてわかったわ。妾は口惜し泣きしいしい、その窓から飛び降りたのよ。  それから人に見付からないように、お縁側から這い上って、奥の押入の中に在る長持と、壁の間に挟ってジイッとしていたの。随分苦しかったわ……でも叔父は用心深いんですからね。雨戸を閉めちゃったら、もうトテモ這入れないのよ。そのうちに、やっとの思いで夜が更けて来て、お台所の時計が十二時を打つのをチャンと数えてから、ソーッと押入を出て行って、叔父の蒲団の下に隠して在った白鞘の刀を、中味だけソーッと引き抜いてしまったの……叔父はいつもそうして寝ていたんですからね。そうして素ッ裸体のままお酒を飲んで寝ている憎らしい叔父の顔をメチャメチャに斬ってやったの……お母さんの讐敵……って云ってね。  ……それあ怖かったわ。血みどろになった素ッ裸体の叔父が、死物狂いになって掴みかかって来るんですもの。それをあっちに逃げたり、こっちに外したりしながらヤットの思いで斬り倒してやったわ。  それから大勢の雇人が出て来て、妾の事をキチガイだキチガイだって、ワイワイ騒ぎ出したの。妾口惜しかったから思い切って暴れてやったわ。大きな男が色んな物を持って向って来るのを、何人も何人も斬ったり突いたりしてやったけど、大勢にはどうしても敵わなかったの……だって撃剣の上手なお巡査さんなんか呼んで来て加勢させるんですもの。妾、お床の間の前に追い詰められながら、一生懸命に刀を振りまわして闘ってみたけど、トウトウ刀をタタキ落されちゃったの。おまけに叔父さんの死骸に引っかかってドタンと尻餅を突いたお蔭で逃げ損って、そのお巡査さんに押え付けられてしまったのよ。デモ面白かったわ。ホホホホホホ……。  それから自動車でこの病院に連れて来られると、ここの院長さんが思いがけない親切な方で、トテモトテモ頭のいい方だったのよ。お美味い冷水を何杯も何杯も御馳走して下すった上に、妾の話をスッカリ聞いて下すって、色んな事を云って聞かせて下すったのよ。……モウ暫くの間キチガイになった振りをして、この病院に這入っていた方がいいってネ……そう仰言るの……お前の叔父さんはまだ生きていて、青ネクタイ氏と裁判所で争うって云っているのだから、その叔父さんの罪状が決定して、監獄に入られるようになったら、その時に病院から出してやる。青ネクタイ氏とも結婚させてやる。それまで辛抱して待っていないと、叔父さんが又ドンナ悪企みをして、お前の生命を取りに来るか解らない。しかしこの鉄筋コンクリートの室に隠れていれば、誰も近づく事は出来ないからってネ……そう云って下すったから、妾スッカリ安心して、ここに隠れているのよ。そのうちに青ネクタイ氏が、キット会いに来て下さると思ってネ……楽しみにして待っていたのよ……。  そうしたら可笑しいの……まあ聞いて頂戴……この頃ヤット気が付いたの……。  ここの院長さんこそ名探偵の青ネクタイ氏なのよ。……ホラ御覧なさい。誰だってビックリするにきまっているわ。妾だってオンナジ事よ。あんなに頭が禿ていらっしゃるのでチットも気が付かなかったのよ。  でもこの頃、窓の前をお通りになるたんびに青いネクタイを締めていらっしゃるでしょう。新しい……派手なダンダラ縞の……ネ。ですからもしやそうじゃないかと思って気を付けていたらヤットわかったのよ。  妾、感謝しちゃったわ。あんなにまで苦心して、妾を保護して下さるんですもの……。  何故ってあの禿頭は変装なのよ。仮髪なのよ。オホホホホホ。可笑しいでしょう。妾はチャンと知っているけど知らん顔をしているの。でも時々可笑しくて仕様がなくなるのよ。  あんな禿頭の人と結婚するのかと思ってね。ホホホホホホ。ハハハハハハ……。    崑崙茶  婦長さん……看護婦長さん。チョットお願いがあるんです。ちょっと来て下さい。大至急のお願いが……。  あのね……耳を貸して下さい。済みませんが……。  ……僕の不眠症の原因がわかったんです。ここへ入院してからというもの、どうしても眠れなかった原因が……。  僕は飛んでもない呪詛にかかっているのです。イイエ。虚構じゃありません。卒業論文なんかに呪詛われて、神経衰弱にかかったんじゃありません。別にチャンとした原因があるのです。事実の証拠が眼の前に在るのです。  僕はね……ビックリしちゃいけませんよ。僕はね。すぐ横のベッドに寝ている支那の留学生ね。アイツに呪詛われているのですよ。あいつに呪詛われて殺されかけているのです。ですからこの室に居たら到底助かりっこないのです。  エッ……どの支那人かって……? ……ホラ……そこに寝ているじゃありませんか。貴女の背後の寝台に……エッ……そんなものは見えないって……? ……貴女は眼がドウかしているんじゃないですか。……ね。わかったでしょう。あいつですよ。ツイ今しがた先生に注射をしてもらったばかりなんです。ね、グーグー眠っているでしょう。  何ですって……? ……あの支那人を僕の脅迫観念が生んだ妄想だって云うんですか……? ……そ……そんな事があるもんですか。チャンとした事実だから云うんです。ね。御覧なさい。死人のように頬ペタを凹まして、白い眼と白い唇を半分開いて……黄色い素焼みたいな皮膚の色をして眠っているでしょう。  僕はあの顔色を見てヤット気が付いたのです。この留学生はキット支那の奥地で生れたものに違い無い。あの界隈で有名な、お茶の中毒患者に違い無いと……。  イイエ。貴女は御存じ無い筈です。  お茶に中毒した人間の皮膚の色は、みんなアンナ風に日暮れ方のような冷たい、黄色い色にかわるのです。光沢がスッカリ無くなってしまうのです。そうして非道い不眠症に罹って、癈人みたようになってしまうのです。  イヤ。それが普通のお茶とは違うのです。  普通のお茶だったら僕なんかイクラ飲んだってビクともするんじゃありませんがね。あの留学生が持っている奴はソンナ生やさしいもんじゃありません。崑崙茶といって、一種特別のタンニンを含んだお茶から精製したエキスみたいなものなんです。ですからトテモ口先や筆の先では形容の出来ない、天下無敵のモノスゴイ魅力でもって、タッタ一度で飲んだ奴を中毒させてしまうんです。トッテモ恐ろしい、お茶の中のお茶といってもいい位な、お茶の中のナンバー・ワンなんです。  その崑崙茶のエキスで作った白い粉末で「茶精」っていう奴をあの留学生は、どこかに隠して持っているのです。どこに隠しているかわかりませんが……支那人の中には魔法使いみたような奴が多いのですからね。……そいつを僕の枕元の鎮静剤の中に、すこし宛粘り込んでいるんです。そうして誰にもわからないように、僕の生命を取ろうとしているのです……僕は時々頭から蒲団を冠る癖がありますからね。その隙に入れるんだろうと思うんですが……僕が頂いている鎮静剤はステキに苦いでしょう。おまけにプンと臭いがするでしょう。ですから「茶精」が仕込んで在るのが解らないんです。  エッ……そんな悪戯をする理由ですか。  それあ解り切っているじゃありませんか。貴女はまだ不眠症にかかった事が無いんですね。そうでしょう。……いつもかも、睡むくて困る……アハハ……だから不眠症患者の気持がわからないのですよ。  ……こうなんです。アイツは僕が先生の注射のお蔭でグーグー眠っているのを見ると、妙に苛立たしくなって、癪に障って来るのです。そうして終いには殺してしまいたいくらい憎らしくなって来るんです。  イイヤ。そうなんです。これが不眠症患者の特徴なんです。つまり極端なエゴイストになってしまうんですね。いくら眠ろう眠ろうと思っても、思えば思うほど眠れない事がわかって来ると、だんだん気違いみたいな気持になって来るんですよ。……世界中の人間が一人残らず不眠症にかかって、ウンウン藻掻いている真中で、自分一人がグーグー眠れたらドンナにか愉快だろう……なんかと、そんな事ばっかりを、一心に考え詰めている矢先に、横の方から和ごやかな寝息がスヤスヤ聞えて来たりなんかしたら、最早トテモたまらなくなるんです。神経が一遍に冴え返ってしまって、煮えくり返るほど腹が立って来るんです。聞くまいとしてもその寝息が一つ一つにスヤリスヤリと耳の奥に沁み込んで来る。そのたんびに腹立たしさがジリジリと倍加して行く。しまいにはその寝息の一つ一つが、極度に残忍な拷問か何ぞのように思われて来て、身体中にビッショリと生汗がニジミ出て来るのです。そうして、その寝息をしている奴を殺すか、自分が自殺するか、二つに一つ……といったような絶体絶命の気持になって、あっちに寝返り、こっちに寝返りし初めるのです。アイツは僕のために、毎晩そんな気持を味わせられているんです。おまけに僕は肥厚性鼻炎なんですから、眠ると夜通しイビキを掻くでしょう。その上に相手は個人主義一点張りの支那人と来ているんですから、一層たまらない訳でしょう。  ですからアイツはその茶精を使って、僕を絶対に眠らせまいとしているのです。そうして僕を次第次第に衰弱させて、殺して終おうと巧らんでいるのです。  イヤ。それに違い無いのです。僕は昂奮なんかしていません。キットそうなのです。駄目です駄目です。僕の空想なんかじゃありません。……この室に居ると僕はキット殺されます。……どうぞ助けると思って僕を他の室に……エッ……室が満員なんですって? そんなら野天でも構いません。どうぞどうぞ後生ですから、僕を別の室に……。  ……何ですか。崑崙茶の由来ですか。……貴女は御存じ無いのですか。  ヘエ。崑崙茶がドンナお茶か見当が付けば、中毒を解くのは何でもない。……成る程。植物性の昂奮剤は色々あるから、話をよく聞いて見ない事には見当の付けようがない。……そんなものですかねえ。……そんなら訳はないでしょう。その留学生が持っている「茶精」を取上げて分析してみたら直ぐに判明るでしょう。  ……成る程。隠している処がわからないと困る……それもそうですね。キット魔法使いみたいな奴に違い無いのですからね。……そればかりじゃない。注射で眠っている奴を途中で起すと、利き残った薬が身体に害をする……そんなもんですかねえ。ヘエ……。  実は僕も崑崙茶の成分なんか知らないんですがね。イイエ。与太話なんかじゃありません。そのお茶に関するモノスゴイ話だけなら、ズット以前に何かの本で読んだ事があるんですが……僕はモトから支那の事を研究するのが好きでね。支那は昔から実に不思議な国ですからね。僕の憧憬の国といってもいい位なんです。今度の卒業論文にも支那の降神術に関する文献の事を書いておいたんですが……。  ヘエ。貴女も支那のお話がお好きですか。御祖父さんが漢学者だったから……ああそうですか。それじゃ聞かして上げましょうとも。しかし、他の話なら兎も角、崑崙茶の話だったら、その御祖父様から、最早、トックの昔にお聞きになっているかも知れませんがね。有名な話ですから……ヘエ。全く御存じ無いんですか。妙ですね。それじゃ貴女が思い出されるかどうか話してみましょう。  しかしその支那人が眼を醒ましやしないでしょうか。ヘエ。明日の朝まで大丈夫。そうですか。それじゃお話しましょう。まあ腰をかけて下さい。  貴女は四川省附近に、お茶で身代を無くした人間が多い事を御存じじゃ無いですか。ヘエ。それも御存じ無い。アノ附近に限られているのですからかなり有名な事実なんですが……。  エエ、そうです。随分珍妙な話なんです。酒や女で身代限りをするのなら当り前ですが、お茶の道楽で身体を持ち崩して、破産するというのですから、馬鹿馬鹿しいのを通り越しているでしょう。トテモ支那でなくちゃ聞かれない話なんです。  御存じの通り支那人という奴は……聞えやしないでしょうね……チャンチャンという奴は、国家とか、社会とかいう観念となると全然無いと云っていい位に、個人主義的な動物ですが、その代りに私的の生活に関する、享楽手段の発達している事といったら、世界一と断言していいでしょう。着物でも、住居でも、料理でも、酒でも、香料でも……ね……御存じでしょう……エロの方面でも何でも、個人的な享楽機関と来たら、四千年の歴史を背景にしているだけに、スバラシイ尖端的なところまで発達を遂げているんです。  ……ですからタッタ一つのお茶といったような問題に就いても、ドエライ研究が行き届いているに違い無い事が、すぐに想像されるでしょう。  全くその通りなんです。しかも日本人なんかがイクラ想像したって追付かない位、メチャクチャな発達を遂げているのですが、その中でも亦、特別|誂えの天下無敵の話っていうのが、この崑崙茶の一件なのです。  先ず、支那の奥地の四川省から雲南、貴州へかけて住んでいる大富豪の中で、お茶の風味がよくわかって、茶器とか、茶室とかの趣味に凝り固まった人間が居るとしますかね。又は酒や、女や、阿片や、賭博なんかでも、あらゆる贅沢をし尽した道楽気の強い人間が、今度は一つ、お茶の趣味に深入りしてやろうと決心したとしますかね。いいですか。そこで何でも彼でも良いお茶良いお茶と金に飽かして、天井知らずに珍奇なお茶を手に入れては、それを自慢にして会合を催したり、ピクニックを試みたりして行くうちには、キット崑崙茶を飲みたいというところまで、お茶熱が向上して来るのです。……むろん崑崙茶といったら、お茶仲間の評判の中心で、魅惑のエースと認められている事だし、お出入りのお茶屋が又チャンチャン一流の形容詞沢山で……崑崙茶の味を知らなければ共にお茶を談ずるに足らず……とか何とか云って、口を極めて誘惑するんですから、下地のある連中はトテモたまりません。それでは一つ……といったような訳で、思い切り莫大なお金をお茶屋に渡して、周旋を頼むことになるのです。  ところで崑崙茶を飲みに行く連中が、雲南、貴州、四川の各地方の都会に勢揃いをして出かけるのは、大抵正月過ぎから二月頃までの間だそうです。つまり崑崙山脈までの距離の遠し近しによって、出発の早し遅しが決まるのだそうですが、その行列というのが又スバラシイ観物だそうです。  真先に黄色い旗を捧げた道案内者が、二人か三人馬に乗って行くと、その後から二三匹|宛、馬の背中に結び付けられた猿が合計二三十匹、乃至、四五十匹ぐらい行くのです。その間間に緑色の半纏を着た茶摘男とか、黄袍を纏うた茶博士とかいったような者が、二三十人|入り交って行くのですが、この猿が何の役に立つかは後で解ります。それから些なくて三四台、多くて七八台から十台位の、美事に飾り立てた二頭立の馬車が行くので、その中に崑崙を飲みに行く富豪だの貴人だのが、めいめいに自慢の茶器を抱えて乗っている訳ですが、この時に限って支那富豪に附き物のお妾さんは、一人も行列の中に加わっておりません。全く男ばかりの行列なんだそうですが、その理由も追々とわかって来るでしょう。  その後から金銀細工の鳳凰や、蝶々なんぞの飾りを付けた二つの梅漬の甕を先に立てて、小行李とか、大行李とかいった式の食料品や天幕なんぞを積んだ車が行く。その後から武器を持った馬賊みたような警固人が、堂々と騎馬隊を作って行くので、知らない者が見ると戦争だかお茶飲みだかチョット見当が付かない。ちょうど阿剌比亜の沙漠を渡る隊商ですね。とにかくソンナ大騒ぎをやって、新茶を飲みに行こうというんですから、支那人の享楽気分というものが、ドレ位徹底しているものだか、殆んど底が知れないでしょう。  彼等はそれから嶮岨な山道を越えたり、追剥や猛獣の住む荒野原を横切ったり、零下何度の高原沙漠を、案内者の目見当一ツで渡ったりして、やがて崑崙山脈の奥の秘密境に在る、遊神湖という湖の近くに到着するのです。そこいらは時候が遅いので、ちょうどその頃が春の初めくらいの暖かさだそうですが、その景色のよさといったら、実に何ともカンとも云えないそうですね。  詳しい事は判然りませんが、その遊神湖という湖の周囲には、歴史以前に崑崙国といって、素敵に文化の進んだ一つの王国があったそうです。ところが、その国民は極端に平和的な趣味を愛好した結果、崑崙茶の風味に耽溺し過ぎたので、スッカリ気力を喪って野蛮人に亡ぼされて終ったものだそうです。今でもその廃墟が処々の山蔭や、湖の底からニョキニョキと頭を出しているそうですが、その周囲には天然の森が茂り、高山風の花畠が展開して、珍らしい鳥や見慣れぬ蝶が、長閑に舞ったり歌ったりしている。底の底まで澄み切った青空と湖の中間には、新鮮な太陽がキラリキラリと回転している……といったような絵にも筆にもつくせない光景が到る処に展開している。その中でも一番眺望のいい処に、各地方から集まった隊商たちは、先を争って天幕を張りまわすと、手に手にお香を焚いたり、神符を焼いたりして崑崙山神の冥護を祈ると同時に、盛大なお茶祭を催して、滅亡びた崑崙王国の万霊を慰めるのだそうですが、これは要するに、迷信深い支那人の気休めでしかないと同時に、お茶の出来る間の退屈|凌ぎに過ぎないのでしょう。  一方に馬から離れた茶摘男たちは、一休みする間もなく各自に、長い長い綱を附けた猿を肩の上に乗せて、お茶摘みに出かけるのです。鬱蒼たる森林地帯を通り抜けると、巌石峨々として半天に聳ゆる崑崙山脈に攀じ登って、お茶の樹を探しまわるのですが、崑崙山脈一帯に叢生するお茶の樹というのは、普通のお茶の樹と種類が違うらしいのです。皆スバラシイ大木ばかりで、しかも、切って落したような絶壁の中途に、岩の隙間を押分けるようにして生えているのだそうですから、猿でも使わない事には、トテモ危険で近寄れない訳です。ところでその猿が又、実によく仕込んだもので、そんなお茶の大木の梢にホンノちょっぴり芽を出しかけている、新芽の中の新芽ばかりをチョイチョイと摘み取ると、見返りもせずに人間の手許へ帰って来るのだそうです。  そこでソンナような冒険的な苦心をした十人か十四五人の茶摘男が、めいめいに一握りか二握りのお茶の新芽を手に入れると、大急ぎで天幕張りの露営地に帰って来ます。そうすると待ち構えていた茶博士……つまりお茶湯の先生たちですね。それが崑崙茶の新芽を恭しく受取って、支那人一流の頗付きの念入りな方法で、緑茶に製し上げるのです。それから附近の清冽な泉を銀の壺に掬んで、崑炉と名づくる手捏りの七輪にかけて、生温いお湯を湧かします。そうしてその白湯を凝りに凝った茶碗に注いで、上から白紙の蓋をして、その上に、黒い針みたような崑崙の緑茶を一抓みほど載せます。そうしてその白紙の蓋がホンノリと黄色く染まった頃を見計らって、紙の上の茶粕を取除けると、天幕の中に進み入って、安楽椅子の上に身を横たえた富豪貴人たちの前に、三拝九拝して捧げ奉るのです。  富豪貴人たちはそこで、その茶器の蓋をした白紙を取除いて、生温い湯をホンノ、チョッピリ啜り込むのです。むろん一口味わった時には、普通の白湯と変りが無いそうですけれども、その白湯を嚥み下さないで、ジッと口に含んだままにしていると、いつとはなしに崑崙茶の風味がわかって来る。つまり紙の上に載っていた緑茶の精気が、紙を透した湯気に蒸されて、白湯の中に浸み込んでいるのだそうですが……。  ……ドウデス。ステキな話でしょう。それはもう何とも彼ともいえない秘めやかな高貴な芳香が、歯の根を一本一本にめぐりめぐって、ほのかにほのかに呼吸されて来る。そのうちにアラユル妄想や、雑念が水晶のように凝り沈み、神気が青空のように澄み渡って、いつ知らず聖賢の心境に瞑合し、恍然として是非を忘れるというのです。その神々しい気持よさというものは、一度|味ったらトテモトテモ忘れられないものだそうです。  ええ。無論そうですとも。夜になっても眠られないのは、わかり切った事ですが、しかし富豪たちはチットも疲れを感じません。影のように附添って介抱する黄色い着物の茶博士たちが、入れ代り立ち代り捧げ持って来る崑崙茶の霊効でもって、夜も昼も神仙とおんなじ気持になり切っている。神凝り、鬼沈み、星斗と相語り、地形と相抱擁して倦むところを知らず。一杯をつくして日天子を迎え、二杯を啣んで月天子を顧みる。気宇|凜然として山河を凌銷し、万象|瑩然として清爽際涯を知らずと書物には書いてあります。  けれどもその間は、お茶の味をよくするために食物を摂りません。ただ梅の実の塩漬と、砂糖漬とを一粒|宛、日に三度だけ喰べるのですから、富豪たちの肉体が見る見る衰弱して行くのは云う迄もない事です。安楽椅子に伸びちゃったまま、黄色い死灰のような色沢になって、眼ばかりキラキラ光らしている光景は、ちょうど木乃伊の陳列会みたいで、気味の悪いとも物凄いとも形容が出来ないそうです。  ところが、おしまいにはその眼の光りもドンヨリと消え失せてしまって、何の事はないキョトンとした空っぽの人形みたいな心理状態になる。身動きなんか無論出来ないのですから、お茶は介抱人に飲ましてもらう。その時のお茶の味が又、特別においしいのだそうで、身体中がお茶の芳香に包まれてしまったようなウットリとした気持になるのだそうですが、やはり神経が弱り切っているせいでしょうね。その代りに糞も小便も垂れ流しで、ことに心神|消耗の極、遺精を初める奴が十人が十人だそうですが、そんなものは皆、茶博士たちが始末して遣るのだそうで、実に行届いたものだそうです。  こうして二三週間も経つうちに、最初は麓の近くに在った新茶の芽が、だんだんと崑崙山脈の高い高い地域に移動して行きます。それに連れて採取が困難になって来る訳で、やがて新茶が全く採れなくなったとなると、茶摘男と茶博士が一緒になって、その生きた死骸みたいに弱り切っている富豪貴人たちを、それぞれに馬車の中へ担ぎ込んで、牛酪や、骨羹なぞいう上等の滋養分を与えながら、来がけよりも一層ユックリユックリした速度で、故郷へ連れて帰るのです。つまり日中を避けて、朝の間と夕方だけ馬を歩かせるので、あんまり速く馬を歩かせたり、モウ夏になりかけている日光に当てたり何かすると、眼をまわしてヘタバル奴が出来かねないからだそうです。  ところで、コンナ風にしてヤットの思いで、七八箇月ぶりに故郷に帰り着いても、まだ半死の重病人みたいになっている奴が居るそうですが、しかしどっちにしてもこの崑崙茶の味を占めた奴はモウ助からないそうです。完全なお茶の中毒患者になっているんですから、来年の正月過ぎになると、今一度飲みに行きたくて堪まらなくなる……尤もこれは無理もない話でしょう。支那人一流の毒々しいエロと、バクチと、酒池肉林式の正月気分に、ウンという程|飽満したアトの富豪連ですから、そうした脱俗的なピクニック気分を起すのは、生理上むしろ当然の要求かも知れませんからね。  そこで又行く。その次の年も行く。度重なるに連れて、お茶仲間からは羨ましがられるばかりでなく、お茶の勲爵士としての無上の尊敬を受けるようになる。崑崙仙士とか道人とかいったような特別の称号なんかを奉られて、仙人扱いにされるのだそうですが、しかし、何しろその一回の旅行費だけでも一身代かかる上に、頭も身体も役に立たない廃人同様になって、あらゆる方向から財産を消耗する事になるのですから、余程の大富豪で無い限り、四五遍も崑崙茶を飲みに行くうちには、財産をスッカラカンに耗ってしまうものだそうです。又、それ程左様にこの崑崙茶が、古今無双の、生命がけの魅力を持っているらしい事は、モウ大抵おわかりになったでしょう。  ドウデス、婦長さん、スバラシイ話でしょう。ヤンキー一流の贅沢だって、ここまで徹底してはいないでしょう。ハハハ……。  ところがここに一つ困った問題が残っているのです。それはその身代を耗ってしまった、中毒患者の崑崙仙士君です。むろん又と崑崙茶を飲みに行く資力なんか無いのですが、しかしその味だけはトコトンまで腹に沁み込んでいてトテモトテモ諦められない。そこで仕方なしに、せめてアノ神凝り、鬼沈んだスバラシイ高踏的な気分だけでも味わいたいものだというので、古馴染の茶店から「茶精」というものを買って飲むんです。これは今お話した富豪連が、崑崙山の麓で使い棄てた緑茶の出し殻から精製した白い粉末で、相当高価なものだそうですが、それでも我慢して、普通のお茶に交ぜて服んでみると、芳香や風味は格別無い代りに、純粋のエキスですから神気の冴える事は非常なものです。毎日毎夜|打っ通しに眠れない。そうして、しまいには昼も夜もわからない、骨と皮ばかりの夢うつつみたいになって死んで行く奴が多い。しかも支那の事ですから、阿片と同様に取締りが絶対不可能と来ている。中には崑崙茶の味なんか知らないまま、見様見真似に「茶精」の味ばかりに耽溺して、アッタラ青春を萎縮させてしまう青年少女も居るといった調子ですが、今そこに寝ている支那留学生は、たしかにその一人に相違ないのです。僕がこの病院に入院して以来、注射を受けなければ絶対に眠れないようになったのは彼奴のせいに相違無いです。  ……ね。婦長さん。ですから済みませんが僕の室を換えて下さい。イエイエ。口実じゃ無いのです。僕はソンナ恐ろしいお茶の中毒患者になって、青春を萎ましてしまいたくないのです。どうぞどうぞ後生ですから……サ……早く……そいつが眼を醒まさないうちに……。  ナ……何ですって……。支那の魔法ですって……?……。  ヘエ……貴女がお祖父様からお習いになった支那の魔法の中に、飛去来術というのがある。ヘエ。それはドンナ魔法ですか。  イイエ。初めて聞いたんです。全く知らないんです。飛去来術なんて……ヘエ。その魔法を応用したら、僕の煩悶なんか他愛なく解決されてしまう。ホントウですか……ヘエ。コンナ密室でしか行えないから都合がいい。ヘエ。貴女なら嘘は仰言らないでしょう。教えて下さい。ヤッテ見て下さい。その飛去来術っていうのを……どうするのですか。  眼を閉じている……いいです。閉じています。……そうして一から十まで数える……支那の数え方で……ええ。知ってますとも。大きな声で……よろしい。承知しました。いいですか数えますよ。  ……イイイ……。アルウ……。……サンン……。スウウ……。ウウウ……。リュウウ……。チイイ……。パアア……。チュウウ……。シイイイッ……。……と……。  いいですか。眼を開けますよ。  ……オヤア……これあ不思議だ……。  留学生が居ない。寝台ごと消えて無くなりやがった。コンクリートの壁になってしまった……確に壁だ。寝台一つしか這入らない狭い室になっている。……おかしいな……この間から僕はあの支那人のことばかり気にしていたんだが……変ですねえ。どうしたんですか婦長さん……。  ……オヤッ……婦長さんも居ない。  いつの間に出て行ったんだろう。寝台の下にも……居ない。イヨイヨ可笑しい。俺はサッキから独言を云っていたのか知らん。チョッとこの薬を嘗めて……みよう。  ……苦くも何ともありゃあしない。塩っぱい味がする……重曹の味だけだ。オカシイナ……オカシイ……。  ……アッハッハッハッハッ。やっと解った。  これが飛去来術なんだ。今の間に室と薬がかわったんだ。  ……エライもんだなあ婦長さんの魔法は……まるで天勝みたいだ。有難い有難い。お蔭でこれから安心して眠れる。  ……ああ驚いた……。  面白い国だなあ支那という国は……。  アッハッハッハッハッハッハッ……。 「アッハッハッハッハッ……」  冷めたい、底意地の悪るそうな高笑いが、小雨の中の片側松原から聞こえて来た。小田原の手前一里足らず。文久三年三月の末に近い暮六つ時であった。  石月平馬はフット立止った。その邪悪な嘲笑に釣り寄せられるように松の雫に濡れながら近付いて行った。  黄色い桐油の旅合羽を着た若侍が一人松の間に平伏している。薄暗がりのせいか襟筋が女のように白い。  その前後に二人の鬚武者が立ちはだかっていた。二人とも笠は持たず、浪人らしい古紋付に大髻の裁付袴である。無反りの革柄を押えている横肥りの方が笑ったらしい。 「ハッハッハッ。何も怖い事はない。悪いようにはせんけんで一所に来さっせえちうたら……」 「関所の抜け道も教えて進ぜるけに……」 「……エッ……」  若侍は一瞬間キッとなったが軈て又ヒッソリと低頭れた。凝と考えている気配である。 「ハハ。贋手形で関所は抜けられるかも知れんが吾々の眼の下は潜れんば……のう……」 「そうじゃそうじゃ……のうヨカ稚児どん。そんたは男じゃなかろうが……」 「……も……もっての外……」  と若侍は今一度気色ばんだが、又も力なく頭を下げた。隙を窺っているようにも見えた。  ……フウン。肥後侍かな……。  と平馬は忍び寄りながら考えた。  ……いずれにしてもこの崩れかかった時勢が生んだナグレ浪人に違いない。相当腕の立つ奴が二三人で棒組む……弱い武士と見ると左右から近付いて道連れになる。佐幕、勤王、因循三派のどれにでも共鳴しながら同じ宿に泊る。馳走をするような調子で酒肴を取寄せる上に油断すると女まで呼ぶ。あくる朝はドロンを極めるというのがこの連中の定型と聞いた……歎かわしい奴輩ではある……。  そう考えるうちに若い平馬の腕が唸って来た。  ……自分はお納戸向きのお使番馬廻りの家柄……要らざる事に拘り合うまい……。  とも考えたが、気の毒な若侍の姿を見ると、どうしても後へ引けなかった。黒田藩一刀流の指南番、浅川一柳斎の門下随一という自信もあった。去年の大試合に拝領した藩公の賞美刀、波の平行安の斬味見たさもあった。  その鼻の先で鬚武者が今一度|点頭き合った。 「サアサア。問答は無益じゃ無益じゃ。一所に来たり来たり。アハハハ……アハアハ……」  女と侮ったものか二人が前後から立ち寄って来るのを若侍はサッと払い除けた。思いもかけぬ敏捷さで二三足横に飛んだと思うと、松の蔭から出て来た平馬にバッタリ行き当った。 「……アッ……」  と叫んだ若侍が刀の柄に手をかけたが、その利腕を掴んだ平馬は、無言のまま背後に押廻わした。二人の浪人と真正面に向い合った。 「……何者ッ……」 「邪魔しおるかッ」 「名を名宣れッ」  という殺気立った言葉が、身構えた二人の口から迸った。 「ハハ。名宣る程の用向きではないが……」  平馬は落付いて笠を脱いだ。若侍も平馬を味方と気付いたらしい。背後で踏み止まって身構えた。 「委細は聞いた。貴公達が肥後の御仁という事もわかったが、しかし大藩の武士にも似合わぬ見苦しい事をなさるのう……」 「何が見苦しい」 「要らざる事に差出て後悔すな」 「ハハ。それは貴公方に云う事じゃ。関所の役人は幕府方と心得るが、貴公方はいつ、徳川の手先になった」  二人はちょっと云い籠められた形になったが、間もなく平馬が、まだ青二才である事に気が付いたらしい。心持ち引いていた片足を二人ともジリジリと立て直して来た。 「フフフ。武士たる者が松原稼ぎをするとは何事か。両刀を手挟んでいるだけに、非人乞食よりも見苦しいぞ」  平馬がそう云う中に、相手はいつとなく左右に離れていた。こうした稼ぎに慣れ切っているらしく、平馬が持っていた菅笠を、背後の若侍に渡す僅かな隙を見て、同時に颯と斬込んで来た。その太刀先には身動きならぬ鋭さがあった。 「……ハッ……」  と若侍が声を呑んだ。その眼の前を、平馬が撥ね上げた茶色の合羽が屏風のように遮ったが、それがバッタリと地に落ちた時、二人の浪人はモウ左右に泳いでいた。切先の間に身を飜した平馬が、一方を右袈裟に、一方を左の後袈裟にかけて一間ばかり飛び退いていた。  俯向けに横倒おしになった二つの死骸の斬口を確かめるかのように、平馬はソロソロと近付いた。それから懐紙を出して刀を拭い納めると、 「このような者に止を刺す迄も御座るまいて……」  と独言を云い云い白い笠を目当に引返して来た。  松の雫の中に立っていた若侍は、平馬に聞こえるほど深いため息をした。 「お怪我は御座いませなんだか」 「イヤ。怪我をする間合いも御座らぬ」  と笑いながら返り血一滴浴びていない全身をかえり見た。 「ありがとう存じまする。大望を持っておりまする身の、卑怯とは存じながら逃げる心底でおりましたところ、お手数をかけまして何とも……」  ちゃんと考えていたのであろう。若侍がスラスラと礼の言葉を陳べたので、思い上っていた平馬は、すこしうろたえた。 「いや。天晴れな御心懸け……あッ。これは却って……」  と恐縮しいしい茶合羽と菅笠を受取った。 「お羨しいお手の内で御座いました。お蔭様でこの街道の難儀がなくなりまして……」 「……まことに恥じ入りまするばかり……」  言葉低く語り合ううちに松原を出た。そうして二人ともタッタ今血を見た人間とは思えぬ沈着いた態度で、街道の傍に立止まった。  明るい処で向い合ってみると又、一段と水際立った若侍であった。外八文字に踏開いた姿が、スッキリしているばかりではない。錦絵の役者振りの一種の妖気を冴え返らせたような眼鼻立ち、口元……夕闇にほのめく蘭麝のかおり……血を見て臆せぬ今の度胸を見届けなかったならば、平馬とても女かと疑ったであろう。  その若侍は静かに街道の前後を見まわしながら、黄色い桐油合羽の前を解いた。ツカツカと平馬の前に進み寄って、恭々しく、頭を下げた。 「……手前ことは江戸、下六番町に住居致しまする友川|三郎兵衛次男、三次郎|矩行と申す未熟者……江戸勤番の武士に父を討たれまして、病弱の兄に代って父の無念を晴らしに参りまする途中、思いもかけませぬ御力添えを……」 「ああいやいや……」  平馬は非道く赤面しながら手をあげた。 「……その御会釈は分に過ぎまする。申後れましたが拙者は筑前黒田藩の石月と申す……」 「……あの……黒田藩の……石月様……」  といううちに若侍は顔を上げて、平馬の顔をチラリと見た。しかし平馬は何の気も付かずに、心安くうなずいた。 「さようさよう。平馬と申す無調法者。御方角にお見えの節は、お立寄り下されい」 「忝のう存じまする。何分ともに……」  若侍は又も、いよいよ叮重に頭を下げた。 「……何はともあれこのままにては不本意に存じまするゆえ、御迷惑ながら小田原の宿まで、お伴仰せ付けられまして……」 「ああ……イヤイヤ。その御配慮は御無用御無用。実は主命を帯びて帰国を急ぎまするもの……お志は千万|忝のうは御座るが……」 「……御尤も……御尤も千万とは存じまするが、このままお別れ申してはいつ、御恩返しが……」 「アハハ。御恩などと仰せられては痛み入りまする……平に平に……」 「……それでは、あの……余りに御情のう……おなじ御方角に参りまする者を……」 「申訳御座らぬが、お許し下されい。……それとも又、関所の筋道に御懸念でも御座るかの……慮外なお尋ね事じゃが……」 「ハッ。返す返すの御親切……関所の手形は仇討の免状と共々に確と所持致しておりまする。讐仇の生国、苗字は申上げかねまするが、御免状とお手形だけならば只今にもお眼に……」 「ああイヤイヤ。御所持ならば懸念はない。御政道の折合わぬこの節に仇討とは御殊勝な御心掛け、ただただ感服いたす。息災に御本望を遂げられい。イヤ。さらば……さらば……」  平馬は振切るようにして若侍と別れた。物を云えば云う程、眼に付いて来る若侍の妖艶さに、気味が悪るくなった体で、スタスタと自慢の健脚を運んだ。振り返りたいのを、やっと我慢しながら考えた。  ……ハテ妙な者に出合うたわい。匂い袋なんぞを持っているけに、たわいもない柔弱者かと思うと、油断のない体の構え、足の配り……ことに彼の胆玉と弁舌が、年頃と釣合わぬところが奇妙じゃ。……真逆に街道の狐でもあるまいが……。  などと考えて行くうちに大粒になった雨に気が付いて、笠の紐をシッカリと締上げた。  ……いや……これは不覚じゃったぞ。「武士は道に心を残すまじ。草葉の露に足を濡らさじ」か……。ヤレヤレ……早よう小田原に着いて一盞傾けよう。  刀の手入を済ましてから宿の湯に這入ってサバサバとなった平馬は、浴衣がけのまま二階に上ろうとすると、待ち構えていたらしい宿の女中が、横合いから出て来て小腰を屈めた。 「……おお……よい湯じゃったぞ……」 「おそれ入りまする。あの……まことに何で御座いますが、あちらのお部屋が片付きましたから、どうぞお越しを……」 「ハハア。身共は二階でよいのじゃが……別に苦情を申した覚えはないのじゃが……」 「……ハイ……あのう……主人の申付で御座いまして……」 「……そうか。それならば余儀ない」  平馬は鳥渡、妙に考えたがそのまま、女に跟いて行った。女中は本降になった外廊下を抜けて、女竹に囲まれた離座敷に案内した。  十畳と八畳の結構な二間に、備後表が青々して、一間半の畳床には蝦夷菊を盛上げた青磁の壺が据えてある。その向うに文晁の滝の大幅。黒ずんだ狩野派の銀屏風の前には二枚|襲ねの座布団。脇息。鍋島火鉢。その前に朱塗の高膳と二の膳が並べてある。衣桁にかかった平馬自身の手織紬の衣類だけが見すぼらしい。  お小姓上りだけに多少眼の見える平馬は、浴衣がけのまま、敷居際で立止まった。 「……これこれ女……」  女は絹行燈の火を掻立てながら振返った。 「そちどもは客筋を見損なってはいやらぬか。ハハハ……身共は始終、この辺を往来致す者……斯様な部屋に泊る客ではないがのう……」 「ハイ……あの……」  女は真赤になって行燈の傍に三指を突いた。 「……まこと……主人の申付けか……」 「……あの。貴方様が只今お湯に召します中に、お若いお武家様が表に御立寄りなされまして……」 「……何……若い侍が……」 「ハイ。あのう……お眼に掛って御挨拶致したい筋合いなれど、先を急ぎまする故、失礼致しまする。万事粗略のないようにと仰せられまして、私共にまで御心付けを……」 「……ヘヘイ。只今はどうも……飛んだ失礼を……真平、御免下されまして……」  五十ばかりの亭主と見える男が、走って来て平馬の足元に額を擦り付けた。 「……また只今は御多分の御茶代を……まことに行き届きませいで……早や……」  平馬は突立ったまま途方に暮れた。使命を帯びている身の油断はならぬ……が、志の趣意は、わかり切っている。最前の若者が謝礼心でしたに相違ないことを無下に退けるのも仰々しい……といってこれは亦、何という念入りな計らい……年に似合わぬ不思議な気転……と思ううちに又しても異妖な前髪姿が、眼の前にチラ付いて来た。 「……どうぞ、ごゆるりと……ヘイ。まことに、むさくるしい処で御座いますが……」  と云ううちに亭主と女中が退って行った。  平馬は引込みが付かなくなった。そのまま床の前の緞子の座布団にドッカと腰を下して、腕を組んでいると今度は、美しく身化粧した高島田の娘が、銚子を捧げて這入って来た。 「……入らせられませ。あの土地の品で、お口当りが如何と存じますが……お一つ……」  平馬は腕を組んだまま眼をパチパチさせた。 「お前は……女中か……」 「ハイ……あの当家の娘で御座います」 「ふうむ。娘か……」 「……ハイ。あの……お一つ……」  平馬は首をひねりひねり二三|献干した。上酒と見えていつの間にか陶然となった。  ……ハテ。主命というても今度は、お部屋向きの甘たるい事ばかりじゃ。附け狙われるような筋合いは一つもないが……やはり最前の若侍が真実からの礼心であろう……。  なぞと考えまわす中に、元来屈託のない平馬は、いよいよ気安くなって五六本を傾けた。鯉の洗い、木の芽|田楽なぞも珍らしかった。  沈み込む程ふっくりした夜具に潜り込む時、彼は又ちょっと考えた。  ……これ程の心付けをするとあれば余程の路用を持っているに違いない。友川という旗元は、あまり聴かぬようじゃがハテ。何石取であろう……。  と思ううちに又も、松原を背景にした若侍の面影が天井の火影に浮かみ現われた。……水色の襟と、紺色の着物と、桐油合羽の黄色を襲ね合わせた白い襟筋のなまめかしかったこと……。  しかし、それも僅かの間のまぼろしであった。平馬はそのまま寝返りもせずに鼾をかき初めた。  箱根を越えるうちに平馬は、若侍の事をサッパリと忘れていた。  駿府にはわざと泊らず、海近い焼津から一気に大井川を越えて、茶摘歌と揚雲雀の山道を見付の宿まで来ると高い杉森の上に三日月が出たので、通筋の鳥居前、三五屋というのに草鞋を解いた。近くに何やら喧嘩があるという横路地の立話を、湯の中で聞きながら旅らしい気持ちに浸っていたが、その中に気が付くと一人の女中が板の間に這入って来て、今まで着ていた木綿の浴衣を、絹らしいのと取換えている。……ハテ。何をするのか……と見ているとその女中が三指を突いて平馬の顔を見た。 「あの御客様……まことに申訳御座いませぬが只今、奥のお座敷が空きましたから、お上りになりましたらお手をどうぞ……御案内致しますから……」  小田原の出来事を思い出した平馬は返事が出来なかった。何やらわからぬ疑いと、たまらない好奇心が眼の前で渦巻き初めたので、無言のまま湯気の中から飛び出した。 「ヘイ……どうもお疲れ様で……お流し致しましょう」  揉み手をしながら小奇麗な若衆が這入って来た。新しい手拭浴衣を端折っている。 「……ウーム……」  平馬は考え込んだまま背中を流さしたが、どうしても考えが纏まらなかった。肩癖を打つ若衆の手許が、妙に下腹にこたえた。  女中に案内されて奥へ来てみると、小田原ほど立派ではないが木の香がプンプンしている二尺の一間床に、小田原と同じ蝦夷菊が投入にしてある。落款は判からぬが円相を描いた茶掛が新しい。その前に並べた酒袋の座布団と、吉野|春慶の平膳が旅籠らしくなかった。頭の天辺に桃割を載せて、鼻の頭をチョット白くした小娘が、かしこまってお酌をした。済まし返ってハキハキと物云う小娘であった。 「……ここは茶室か……」 「ハイ。このあいだ、清見寺の和尚様が見えました時に、主人が建てました」  平馬は床の間の掛物を振り返った。 「あの蝦夷菊はこの家の庭に咲いたのか」 「いいえ。あの……お連れの奥方様が、お持ちになりました」 「……ナニ……奥方様……」  小娘は無邪気にうなずいた。 「フーム。どんな奥方様か……」  小娘はちょっと眼を丸くした。 「旦那様は御存じないので……」 「……ウムム……」  平馬は行き詰まった。知っていると云って良いか悪いか見当が付かなくなったので……。 「……あの……黒い塗駕籠の中に紫色の被布を召して、水晶のお珠数を巻いた手であの花をお渡しになりました。挟箱持った人と、怖い顔のお侍様が一人お供しておりました」 「ウーム。不思議だ。わからぬな……」 「ホホホホホホホ……」  小娘は声を立てて笑った。冗談と思ったらしかった。 「旦那様は鯉のお刺身と木の芽田楽が大層お好きと、その御方が仰言りました。それで兄さんが大急ぎで作りました」  平馬はモウ一度膳部を見廻したが、思わず赤面させられた。小田原で酔うた紛れに美味い美味いと云って、無暗に頬張った事を思い出させられたので……しかし……その中にフト青い顔になると、急に盃を置いて、小娘の顔を見た。 「……ちょっと主人を呼んでくれい」 「ハイ……」  と云ううちに小娘は燗瓶を置いて立上った。ビックリしたらしくバタバタと出て行った。 「……これはこれは……まだ御機嫌も伺いませいで……亭主の佐五郎|奴で御座りまする。……何か女中が無調法でも……ヘヘイ……」 「イヤ。そのような話ではない。ま……ズット寄りやれ。実は内密の話じゃがの……」 「ヘヘ……左様で御座いましたか。ヘイヘイ……それに又、申遅れましたが、先程は、お連れ様から、存じがけも御座いませぬ……」 「アハハ。実はそのお連れ様の事に就いて尋ねたいのじゃが……」 「ヘエヘエ……どのような事で……」 「その、お連れ様という奥方風の女は、どのような人相の女であったろうか……」 「……ヘエッ。何と仰せられます」 「その御連様というた女の様子が聞きたいのじゃ」 「……これはこれは……旦那様は御存じないので……」 「おおさ。身共はその女を知らぬのじゃ」 「……ヘエッ。これはしたり……」  主人が白髪頭を上げて眼を丸くした。六十余りと見える逞ましい大男であった。投げ卸し気味の髷の恰好から、羽織の捌き加減が、どことなく一癖ありげに見える……。  平馬は思い出した。ここいらの宿屋の亭主には渡世人上りが多いという話を……。  平馬の想像は中っていた。  それから平馬が物語る一部始終を聞いているうちに老人は、両手をキチンと膝に置いた貫碌のある見構えに変った。平馬の顔の真正面に、黒い大きな眼玉を据えていたが、話が一通り済むと静かに眼を閉じて腕を組んだ。 「……迂濶な事を致しましたのう。その奥方様に私が自身でお眼にかかっておりましたならば、何とか致しようも御座いましたろうものを……若い者の鳥渡した出入を納めに参いっておりまする間に、飛んだ無調法を忰奴が……」 「イヤ。無調法と申す程の事でもない……が……御子息というと……」 「ヘヘ。最前お背中を流させました奴で……」 「ああ。左様か左様か。それは慮外致した」 「どう仕りまして……飛んだ周章者で御座います。御仁体をも弁えませず、御都合も伺いませずに斯様な事を取計らいまして……」  平馬は又も赤面させられた。 「アハハハ……その心配は無用じゃわい。すでに小田原でも一度あった事じゃからのう。つまるところ拙者の不覚じゃわい……」 「勿体のう御座りまする」 「……しかし供を連れた奥方姿というと話があまり違い過ぎるでのう。世間慣れた御亭主に聞いたら様子が解りはせんかと思うて、実は迷惑を頼んだのじゃが」 「恐れ入りまする。お言葉甲斐もない次第で御座りまするが、只今のような不思議なお話を承りましたのは全くのところ、只今がお初で御座りまする。何をお隠し申しましょう。私も以前は二足の草鞋を穿きました馬鹿者で、ヘイ……この六十年の間には色々と珍らしい世間も見聞きして参りましたが、それ程に御念の入りました狐狸は、まだこの街道を通りませぬようで……」 「……ホホオ……初めてと申さるるか」 「左様で……表の帳場に座っておりましても、慣れて参りますると、お通りになりまする方々の御身分、御役柄、又は町人衆の商売は申すに及ばず、お江戸の御時勢、お国表の御動静までも、荒方の見当が附くもので御座いまするが……」 「成る程のう。そうあろうともそうあろうとも……」 「……なれども只今のような不思議な御方が、この街道をお通りになりました事は天一坊から以来、先ず在るまいと存じまするで……」 「うむうむ……殊に容易ならぬのはアノ足の早さじゃ。身共も十五里十八里の道は日帰りする足じゃからのう……きょうも焼津から出て大井川で、したたか手間取ったのじゃが……」  佐五郎老人はちょっと眼を丸くした。 「……それは又お丈夫な事で……」 「まして女性とあれば通し駕籠に乗ったとしてものう」  佐五郎は大きく点頭いた。 「さればで御座りまする。貴方様のおみ足の上を越す者でなければ、お話のような芸当は捌けるもので御座いませぬが……とにかく私がこれから出向きまして様子を探って参いりましょう。まだ左程、離れてはおるまいと存じまするで……」 「ああコレコレ。そのような骨を老体に折らせては……分別してくるればそれでよいのじゃが……」 「ハハ。恐れ入りまするが手前も昔取った杵柄……思い寄りも御座いまするでこの場はお任かせ下されませい。これから直ぐに……」 「……それは……慮外千万じゃのう……」 「……あ。それから今一つ大事な事が御座りまする。念のために御伺い致しまするが、旦那様は、そのお若いお方の讐討の御免状を御覧になりましたか……それともその讐仇の生国名前なんどを、お聞き及びになりましたか」 「いいや。それ迄もないと思うたけに見なんだが……」 「……いかにも……御尤も様で、それでは鳥渡一走り御免を蒙りまして……」 「……気の毒千万……」 「どう仕りまして……飛んだお妨げを……」  老亭主の佐五郎はソソクサと出て行った。……と思う間もなく最前の小娘が、別の燗瓶を持って這入って来た。ピタリと平馬の前に座ると相も変らず甲高いハッキリした声を出した。 「熱いのをお上りなさいませ」  平馬は何となく重荷を下したような気がした。 「おうおう待ちかねたぞ……ウムッ。これは熱い。……チト熱過ぎたぞ……ハハ……」 「御免なされませ……ホホ……」 「ところで今の主人はお前の父さんか」 「いいえ。叔父さんで御座います。どうぞ御ゆっくりと申して行きました」 「何……もう出て行ったのか」 「ハイ。早ようて二三日……遅うなれば一と月ぐらいかかると云うて出て行きました」  平馬は又も面喰らわせられた。 「ウーム。それは容易ならぬ……タッタ今の間に支度してか」 「ハイ。サゴヤ佐五郎は旅支度と早足なら誰にも負けぬと平生から自慢にしております」 「ウーム……」  しかし中国路に這入った平馬は又も、若侍の事をキレイに忘れていた。それというのも見付の宿以来、宿屋の御馳走がパッタリと中絶したせいでもあったろう。序にサゴヤ佐五郎の事も忘れてしまって文字通り帰心矢の如く福岡に着いた。着くと直ぐに藩公へお眼通りして使命を果し、カタの如く面目を施した。  ところで平馬は早くから両親をなくした孤児同様の身の上であった。百石取の安|馬廻りの家を相続しているにはいたが、お納戸向きのお使番という小忙しい役目に逐われて、道中ばかりしていたので、桝小屋の小さな屋敷も金作という知行所出の若党と、その母親の後家婆に任していた。ところが今度の帰国を幸い、縁辺の話を決定めたいという親類の意見から、暫く役目のお預りを願って、その空屋同然の古屋敷に落付く事になると、賑やかな霞が関のお局や、気散じな旅の空とは打って変った淋しさ不自由さが、今更のように身に泌み泌みとして来た。さながらに井戸の中へ落込んだような長閑な春の日が涯てしもなく続き初めたので、流石に無頓着の平馬も少々閉口したらしい。或る日のこと……思い出したように道具を荷いで因幡町の恩師、浅川一柳斎の道場へ出かけた。  一柳斎は、むろん大喜びで久方振りの愛弟子に稽古を付けてくれたが、稽古が済むと一柳斎が、 「ホホオ。これは面白い。稽古が済んだら残っておりやれ。チト話があるでな」  と云う中に何かしらニコニコしながら道具を解いた。手酷しい稽古を附けてもらった平馬は息を切らして平伏した。これも大喜びで居残って一柳斎の晩酌のお相手をした。  一柳斎は上々の機嫌で胡麻塩の総髪を撫で上げた。お合いをした平馬も真赤になっていた。 「コレ。平馬殿……手が上がったのう」 「ハッ。どう仕りまして、暫くお稽古を離れますと、もう息が切れまして……ハヤ……」 「いやいや。確かに竹刀離れがして来たぞ。のう平馬殿……お手前はこの中、どこかで人を斬られはせんじゃったか。イヤサ、真剣の立会いをされたであろう」  平馬は無言のまま青くなった。恩師の前に出ると小児のようにビクビクする彼であった。 「ハハハ。図星であろう。間合いと呼吸がスックリ違うておるけにのう。隠いても詮ない事じゃ。その手柄話を聴かして下されい。ここまでの事じゃから差し置かずにのう」  いつの間にか両手を支えていた平馬は、やっと血色を取返して微笑した。叱られるのではない事がわかるとホッと安堵して盆を受けた。赤面しいしいポツポツと話出した。  ところが、そうした平馬の武骨な話しぶりを聞いている中に一柳斎の顔色が何となく曇って来た。しまいには燗が冷めても手もつかず、奥方が酌に来ても眼で追い払いながら、しきりに腕を組み初めた。そうして平馬が恐る恐る話を終ると同時に、如何にも思い迷ったらしい深い溜息を一つした。 「ふううむ。意外な話を聞くものじゃ」 「ハッ。私も実はこの不思議が解けずにおりまする。万一、私の不念ではなかったかと心得まして、まだ誰にも明かさずにおりまするが……」 「おおさ。話いたらお手前の不覚になるところであった」 「……ハッ……」  何かしらカーッと頭に上って来るものを感じた平馬は又も両手を畳に支いた。それを見ると一柳斎は急に顔色を柔らげて盃をさした。 「アハハ……イヤ叱るのではないがのう。つまるところお手前はまだ若いし、拙者のこれまでの指南にも大きな手抜かりがあった事になる」 「いや決して……万事、私の不覚……」 「ハハ。まあ急かずと聞かれいと云うに……こう云えば最早お解かりじゃろうが、武辺の嗜みというものは、ただ弓矢、太刀筋ばかりに限ったものではないけにのう……」 「……ハ……ハイ……」 「人間、人情の取々様々、世間風俗の移り変りまでも、及ぶ限り心得ているのが又、大きな武辺のたしなみの一つじゃ。それが正直一遍、忠義一途に世の中を貫いて行く武士のまことの心がけじゃまで……さもないと不忠不義の輩に欺されて一心、国家を過つような事になる。……もっともお手前の今度の過失は、ほんの仮初の粗忽ぐらいのものじゃが、それでもお手前のためには何よりの薬じゃったぞ」 「……と仰せられますると……」 「まま。待たれい。それから先はわざと明かすまい。その中に解かる折もあろうけに……とにも角にもその見付の宿の主人サゴヤ佐五郎とかいう老人は中々の心掛の者じゃ。年の功ばかりではない。仇討免状の事を貴殿に尋ねたところなぞは正に、鬼神を驚かす眼識じゃわい」 「……と……仰せられますると……」  若い平馬の胸が口惜しさで一パイになって来た。それを色に出すまいとして、思わず唇を噛んだ。 「アハハハ。まあそう急がずと考えて見さっしゃれ。アッサリ云うてはお手前の修行にならぬ。……もっともここの修行が出来上れば当流の皆伝を取らするがのう……」 「……エッ。あの……皆伝を……」 「ハハハ。今の門下で皆伝を許いた者はまだ一人もない。その仔細が解かったかの……」  平馬は締木にかけられたように固くなってしまった。まだ何が何やらわからない慚愧、後悔の冷汗が全身に流るるのを、どうする事も出来ないままうなだれた。 「……平馬殿……」 「……ハッ……」 「貴殿の御縁辺の話は、まだ決定っておらぬげなが、程よいお話でも御座るかの……」  平馬は忽ち別の意味で真赤になった。……自分の周囲に縁談が殺到している……「娘一人に婿八人」とは正反対の目に会わされている……という事実を、今更のようにハッキリと思い出させられたからであった。 「うむうむ。それならば尚更のことじゃ。念のために承っておくがのう。その今の話の美くしい若侍とか、又は見付の宿の奥方姿の女とかいうものが、万一、お手前を訪ねて来たとしたら……」 「エッ。尋ねて参りまするか……ここまで……」 「おおさ。随分、来まいものでもない仔細がある。ところで万が一にもそのような人物が、貴殿を便って来たとしたら、どう処置をさっしゃるおつもりか貴殿は……」 「……サア……その時は……とりあえず以前の馳走の礼を述べまして……」 「アッハッハッハッハッハッ……」  一柳斎は後手を突いて伸び伸びと大笑した。 「アハアハ。いやそれでよいそれでよい。そこが貴殿の潔白なところじゃ。人間としては免許皆伝じゃ」  平馬は眼をパチパチさせて恩師の上機嫌な顔を見守った。何か知ら物足らぬような、馬鹿にされているような気持ちで……。しかし一柳斎はなおも天井を仰いで哄笑した。 「アハハハ……これは身どもが不念じゃった。貴殿の行末を思う余りに、要らざる事を尋ねた。『予め掻いて痒きを待つ』じゃった。アハアハアハ。コレコレ。酒を持て酒を……サア平馬殿|一献重ねられい。不審顔をせずとも追ってわかる。貴殿ならば大丈夫じゃ。万が一にも不覚はあるまい」  平馬は南向の縁側へ机を持ち出して黒田家家譜を写していた。一柳斎から「世間|識らず」扱いにされた言葉の端々が気にかかって、何となく稽古を怠けていたのであった。  その鼻の先の沓脱石へ、鍬を荷いだ若党の金作がポカンとした顔付で手を突いた。 「……あの……申上げます」 「何じゃ金作……草取りか……」 「ヘエ……その……御門前に山笠人形のような若い衆が……参いりました」 「……何……人形のような若衆……」 「ヘエ……その……刀を挿いて見えました」 「……お名前は……」 「……ヘエ……その……友川……何とか……」  平馬は無言のまま筆を置いて立上った。今までの不思議さと不安さの全部を、一時に胸の中でドキンドキンと蘇らせながら……。  ところが玄関に出てみると最初に見かけた通りの大前髪に水色襟、紺生平に白|小倉袴、細身の大小の柄を内輪に引寄せた若侍が、人形のようにスッキリと立っていた。すこし日に焼けた横頬を朝の光に晒しながらニッコリとお辞儀をしたので、こちらも思わず顔を赤めて礼を返さない訳に行かなかった。  ……これ程に清らかな、人品のいい若侍をどうして疑う気になったのであろう……。  と自分の心を疑う気持ちにさえなった。 「……これは又……どうして……」 「お久しゅう御座います」  若侍は美しく耳まで石竹色に染めて眼を輝やかした。 「イヤ。まずまずお話はあとから……こちらへ上り下されい。手前一人で御座る。遠慮は御無用。コレコレ金作金作。お洗足を上げぬか……サアサア穢苦しい処では御座るが……」  平馬は吾にもあらず歓待めいた。  若侍は折目正しく座敷に通って、一別以来の会釈をした。平馬も亦、今更のように赤面しいしい小田原と見付の宿の事を挨拶した。 「いや……実はその……あの時に折角の御厚情を、菅なく振切って参いったので、その御返報かと心得まして、存分に讐仇を討たれて差上げた次第で御座ったが……ハハハ……」  平馬は早くも打ち解けて笑った。  しかし若侍は笑わなかった。そのまま眩ぶしい縁側の植え込みに眼を遣ったが、その眼には涙を一パイに溜めている様子であった。 「……して御本懐をお遂げになりましたか」 「はい。それが……あの……」  と云ううちに若侍の眼から涙がハラハラとあふれ落ちた……と思う間もなく畳の上に、両袖を重ねて突伏すと、声を忍んで咽び泣き初めた。……そのスンナリとした襟筋……柔らかい背中の丸味……腰のあたりの膨らみ……。  平馬は愕然となった。  ……女だ……疑いもない女だ……。  と気付きながら何も彼も忘れて唖然となった。  ……最初からどうして気付かなかったのであろう……恩師一柳斎の言葉はこの事であったか。あの時に、どう処置を執るかと尋ねられたが……これは又、何としたものであろう……。  と心の中で狼狽した。顔を撫でまわして茫然となった。  その平馬の前に白い手が動いて二通の手紙様の物をスルスルと差出した。そのまま、拝むように一礼すると、又も咽泣の声が改まった。  平馬は何かしら胸を時めかせながら受取った。押し頂きながら上の一通を開いてみた。  ボロボロの唐紙半切に見事な筆跡で、薄墨の走り書きがしてあった。 遺言の事  一、父は不忍の某酒亭にて黒田藩の武士と時勢の事に就口論の上、多勢に一人にて重手負い、無念ながら切腹し相果つる者也。  一、父の子孫たる者は徳川の御為、必ずこの仇を討果すべき者也。仮令血統断絶致すとも苦しからざる事。  一、敵手の中の主立たる一人は黒田藩の指南番浅川一柳斎と名乗り、五十前後の長身にて、骨柄逞ましき武士なること。  一、後々の事は母方の縁辺により、御老中、久世広周殿に御願申上べき事 以上。 友川三郎兵衛矩兼血判 嫡男 長一郎矩道代筆印 次男 三次郎矩行  印 文久二年五月十四日  又、別紙奉書の※紙には美事なお家様の文字が黒々と認めてあった。  別紙遺言状相添え、病弱の兄に代り、次男友川三次郎矩行、仇討執心の趣、殊勝の事。但、御用繁多の折柄に付、広周一存を以て諸国手形相添え差許者也。尚本懐の上は父三郎兵衛の名跡相違なかるべき事、広周|可含置者也 文久|壬戌二年六月二日 広周 書判  平馬の顔から血の色が消えた。何もかも解かったような気がすると同時に、又も、眼の前が真暗になって来たので、吾れ知らず二通の手紙を握り締めた。自分の恩師を不倶戴天の仇と狙う眼の前の不思議な女性を睨み詰めた。  その時に若衆姿の女性が、やっと顔を上げた。平馬の凄じい血相を見上げると、又も新しい涙を流しながら唇を震わした。 「……御覧の……通りで御座います。兄も……弟も労咳で臥せっておりまする中にタッタ一人の妾が……聊か小太刀の心得が御座いますのを……よすがに致しまして、偽りの願書を差出しました。……そうして……そうして、お許しを受けますと……御免状の通り男の姿に変りまして……首尾よく箱根のお関所を越えました。それから他人様に疑われませぬように、色々と姿を変えまして、どうがな致してこの思いを、貴方様にだけ打ち明けたいと、心を砕きました甲斐もなく、関所破りの疑いをかけたらしい腕利きの老人に、どこからともなく附き纏われまして生きた空もなく逐い廻わされました時の、怖ろしゅう御座いましたこと……それから四国路まで狭迷いまして、千辛万苦致しました末、ようようの思いで当地に立越えてみますれば……狙う讐仇の一柳斎は……貴方様の御師匠さま……」  平馬をマトモに見上げた顔から、涙が止め度もなく流れ落ちた。その身内の戦かしよう……肩の波打たせようは、どう見ても真実こめた女性の、思い迫った姿に見えた。  平馬は地獄に落ちて行く亡者のような気持になった。乾いた両眼をカッと見開いて、遠い遠い涯てしもない空間を凝視していた。  その眼の前に泣き濡れた、白い顔が迫って来た。噎せかえる女性の芳香と一所に……。 「……それで……それで……妾は……貴方様のお手に掛かりに……まいりました」  ハッとした平馬は二尺ばかり飛び退いた。 「……ナ……何と……」 「……妾は、父の怨みを棄てました、不孝な女で御座います。小田原の松原からこのかた、あ……貴方様の事ばっかり……思い詰めまして……」 「……エエッ……」 「……お……お慕い申して参りました。討たれぬ……討っては成りませぬ仇とは存じながら……ここまで参いりました。せめて貴方様の……お手にかかりたさに……一と思いの……御成敗が受けたさに……受けとうて……」  と云ううちにキッと唇を噛んだ若侍の姿がスルスルと後へ下がった。……それは云い知れぬ思いに燃え立つ妖火のような頬の輝やき、眼の光り……と見るうちに懐中の匕首、抜く手も見せず、平馬の喉元へ突きかかった。 「……アッ。心得違い……めさるなッ」  危うく右へ飛び退いた平馬は、まだ居住居を崩さずに両手を膝に置いていた。 「……乱心……乱心召されたかッ……讐仇は讐仇……身共は身共……」  と助けてやりたい一心で大喝した。  一方に空を突いた若侍姿はモウ前髪を振り乱していた。とても敵わぬと観念したらしく、平馬の大喝の下に息を切らしながら眼を閉じたが、又も思い切って見開くと、火のような瞳を閃めかした。 「……ヒ……卑怯者ッ。その讐仇を討つのに……邪魔に……邪魔になるのは貴方一人……」 「……エエッ……さてはおのれ……」 「お覚悟ッ……」  という必死の叫びが、絹を裂くように庭先に流れた。白い光りが一直線に平馬の胸元へ飛んだが、床の間の脇差へかかった平馬の手の方が早かった。相手が立ち上りかけた肩先を斬り下げていた。  その切先に身を投げかけるようにして来た相手は、そのまま懐剣を取落して仰けぞった。両手の指をシッカリと組み合わせたまま、あおのけに倒おれると、膝頭をジリジリと引き縮めた。涙の浮かんだ眼で平馬を見上げながらニッコリと笑った。 「……本望……本望で……御座います。平馬様……」  そう云ううちに、袈裟がけに斬り放された生平の襟元がパラリと開いた。赤い雲から覗いた満月のような乳房が、ブルブルとおののきながら現われた。 「……すみませぬ……済みま……せぬ……。今までのことは、何もかも……何もかも……偽り……まことは妾は……女……女役者……」  と云いさして平馬の方向へガックリと顔を傾けた……が……しかし、それは苦痛のためらしかった。そのまま眼を閉じてタップリと血を吐いた。……と見るうちに下唇を深く噛んで、白い小さな腮を、ヒクリヒクリとシャクリ上げはじめた。  平馬は血刀を掲げたまま茫然となっていた。 「……ええ。お頼み申します。お取次のお方はおいでになりませぬか。手前は見付の佐五郎と申す者で御座います。どなたかおいでになりませぬか。お頼み申しますお頼み申しますお頼み申します……」  という性急な案内の声を他所事のように聞いていた。  一柳斎は伸び伸びと肩を上げてうなずいた。 「いや。無事にお届が相済んで祝着この上もない……まず一献……」  贋せ侍斬りに就いて大目附へ出頭した紋服姿の石月平馬と、地味な木綿縞に町の低い役袴を穿いた三五屋、佐五郎老人が、帰り道に招かれて夕食の饗応を受けていた。大盆を傾けた一柳斎は早くも雄弁になっていた。 「……のう……一存の取計らいとはいう条、仮初にも老中の許し状を所持致しておる人間じゃ。無下に斬棄てたとあっては、無事に済む沙汰ではないがのう……お江戸の威光も地に墜ちかけている今日なればこそじゃ。それに又、佐五郎老体の言葉添えが、最初から立派であったと云うからのう。番頭の筆頭が感心して話しおったわい」 「どう仕りまして……無調法ばかり……」 「いや。なかなかもって……お関所破りの贋せ若衆とあれば天下の御為に容易ならぬ曲者と存じ、当藩の役柄の者に付き纏うところを、ここまで逐い詰めて参いったとあれば、大目附でも言句はない筈じゃからのう……殊更に御老中の久世広周殿も、お役御免の折柄ではあるし、迂濶な咎め立てをしようものなら却って無調法な仇討免状が表沙汰になろうやら知れぬ。思えば平馬殿は都合のよい『生き胴』に取り当ったものじゃのう。ハッハッハッ……」  酌をしていた奥方が、心から感心したように平馬の顔を見てうなずいた。 「……あれからこの四五日と申しますもの、御城下では平馬殿のお噂ばっかり……」 「うむうむ。そうあろうとも……イヤ。天晴で御座ったぞ平馬殿。あの時に、どう処置をされるおつもりかと聞いたのはここの事じゃったが……ハッハッ。よう見定めが附いたのう。佐五郎殿。そうは思われぬか……」 「御意に御座います。先生様の御|丹精といい、その場を立たせぬ御決断とお手の中……拝見致しながら夢のように存じました」 「うむうむ。然るにじゃ。あの女の正体を平馬殿の物語りの中から見破って来た、佐五郎老体の眼鏡の高さも亦、中々もって尋常でないわい。実はその手柄話を聞きたいが精神で、平馬殿に申し含めて、斯様に引止めさせた訳じゃが……門弟共の心掛にもなるでのう」 「身に余りまするお言葉、勿体のう存じまする。幅広う申上げまする面目も御座りませぬが、初めて石月様のお物語を承っておりますうちにアラカタ五つの不審が起りました」 「成る程……その不審というのは……」 「まず何よりも先に不審に存じましたのは、仇討に参いる程の血気の若侍が、匂い袋を持っていたというお話で御座いました。まことに似合わしからぬお話で……これは、もしや女人の肌の香をまぎらわせるためではないかと疑いながら承わっておりますると案の定、それから後の石月様の心遣いに、女ならでは行き届きかねる節々が見えまする……これが二つ……」 「尤も千万……それから……」 「三つにはその足の早さ……四つには、その並外れた金遣い、……それから五つにはその眼を驚かす姿の変りようで御座りまする」 「いかにものう……恐ろしい理詰めじゃわい」 「ザッと右のような次第で、つまるところこれは稀代の女白浪ではあるまいか。さもなければお話のような気転、立働らきが出来る筈はないと存じ寄りましたのが初まりで……」 「うむうむ……」 「年寄の冷水とは存じましたが、御覧の通り最早六十の峠を越えました下り坂の私。空車を引いている折柄で御座います、戻り駄賃に一世一代の大物を引いて見ようか……と存じますと一気に釣り出された仕事で御座いましたが、タッタ一足の事で石月様に先手を打たれまして……ヘヘヘ。面目次第も御座いませぬ」 「イヤイヤ。それにしても流石は老練じゃ。並々の者に足跡を見せる女ではないわい」 「……ところでお言葉はお言葉と致しまして、ここに一つの不審が御座りまするが如何で御座りましょうか。御無礼とは存じますれど……」 「何の何の。何の遠慮が要ろう。何なりと存分に問うて見られい」 「ヘヘイ。有難う存じまする。それではお伺い申上げまするが、先生様が、石月様のお話から、仇討免状の正体カラクリを、お覚りになりました次第と申しまするは……」 「アハアハ。何事かと思うたればその事か。それなれば何でもない。他愛もない事じゃ」 「……と……仰せられまするは……」 「うむ。追ってお尋ねを受ける事と思うが、実は身共も少々あの女に掛り合いがあっての」 「ヘエッ。これは亦、思いも寄りませぬ」 「ほかでもない。忘れもせぬ昨年の十月の末の事じゃ。久方振りに殿の御用で江戸表へ参いっておる中に、あの願書の当の本人、友川矩行という若侍から父の仇敵と名乗り掛けられてのう……」 「ヘエッ。いよいよ以て不思議なお話……」 「おおさ。しかも馬場先の晴れの場所で、助太刀らしい武士が二人引添うておったが聊か肝を奪われたわい。面目ない話じゃが聊か身に覚えのない事じゃまで……」 「成る程……御尤も様で……」 「しかし迂濶に相手はならぬ。何か仔細がある事と思うたけに咄嗟の間に身を引きながら、如何にも身共は黒田藩の浅川一柳斎に相違ないが、何か拙者を讐仇と呼ばれる仔細が御座るか。然るべき仇討の免状でも持っておいでるかと問うてみたればそれは無い。在るには在ったが、浅草観世音の境内で懐中物と一所に掏られてしもうたと云うのじゃ」 「ハハア。どうやら様子がわかりまする」 「うむうむ。そこで……然らば、お気の毒ながら仇呼ばわりは御免下されい。第一毛頭覚えのない事……と云い切って立去りかけたところ、助太刀と共々三人が、抜き連れてかかりおった。……然るにこの助太刀の二人というのが相当名のある佐幕派の浪人で、身共の顔を見識りおって友川の手引をしたらしいと思われたが、事実、三人とも中々の者でのう。最初は峰打ちと思うたが、次第にあしらいかねて来た故、若侍を最初に仇ち棄てて、返す刀に二人を倒おしたまま何事ものう引取ったものじゃ……しかし、それにしても若侍の事が何とのう不憫に存じた故、それから後に人の噂を聞かせてみたところが、何でも身共の姓名を騙って飲食をしておったどこかのナグレ浪人共が、別席で一杯傾けておった友川|某という旗本に云い掛りを附けて討ち果いた上に、料理を踏倒おして逃げ失せおった。そこでその友川の枕元に馳付けた兄弟二人が、父の遺言を書取って、仇討の願書を差出したものじゃが、しかしその友川某という侍は兄弟二人切りしか子供を持っておらぬ。その中でも兄の方は、とりあえず家督を継ぐには継いだが、病弱で物にならぬ。その代り弟の方が千葉門下の免許取りであったからそれに御免状が下がった……というのが実説らしいのじゃ。不覚な免許取りが在ったものじゃが、つまるところ、そこから間違いの仇討が初まった訳じゃ……その第一の証拠には、その旗本が斬られたという五月の頃おい、拙者はまだこの福岡に在藩しておったからのう……ハハハ。とんと話にならん話じゃが……」  耳を傾けていた佐五郎老人はここで突然にパッタリと膝を打った。晴れ晴れしく点頭いた 「ああ。それで漸々真相が解かりましたわい。実は私も見付の在所で、お下りのお客様からそのお噂を承りまして聊か奇妙に存じておりましたところで……と申しますのはほかでも御座いませぬ。この節のお江戸の市中は毎日毎日|斬捨ばかりで格別珍らしい事ではないと申しますのに、只今のお話だけが馬場先の返討と申しまして、江戸市中の大層な評判……」 「ほほう。それ程の評判じゃったかのう」 「間違えば間違うもので御座いまする……何でもその友川という若いお武家が、返り討に会うた会うた。無念無念と云うて息を引取りましたそうで、その亡骸の紋所から友川様の御次男という事が判明りました。それに連れて二人の助太刀も、同じ門下の兄弟子二人と知れましたが、それにしてもその返り討にした片相手は何人であろう。助太刀共に三人共、相当の剣客と見えたのを、羽織も脱がぬ雪駄穿のままあしろうて、やがて一刀の下に斬棄てたまま、悠々と立去る程の御仁のお名前が、江戸市中に聞こえておらぬ筈はないと申しましてな……」 「ハハハ。友川の兄御も、お役を退かれた久世殿もその名前を御存じではあったろうが、何にせい相手が霞が関の黒田藩となると事が容易でないからのう」 「御意の通りで御座います。……ところがここに又、左様な天下の御威光を恐れぬ無法者が現われました……と申しますのは、その御免状を盗みました掏摸の女親分で御座いまして、当時江戸お構いになっておりました旅役者上りの、外蟇お久美と申しまする者が、その評判に割込んで参いりましたそうで……」 「うむ。いよいよ真相に近づいて来るのう」 「御意に御座いまする。そのお久美と申しまするは、まだ二十歳かそこらの美形と承りましたが、世にも珍らしい不敵者で、この評判を承りますると殊の外気の毒がりまして、お相手のお名前は妾が存じておりまする。キット仇を取って進ぜまするという手紙を添えて、大枚の金子を病身の兄御にことづけた……という事が又、もっぱらの大評判になりましたそうで……まことに早や、どこまで間違うて参りまするやら解からぬお話で御座いますが……」 「ハハハ。世間はそんな物かも知れんて……」 「しかし、いか程お江戸が広いと申しましても、それ程に酔狂な女づれが居りましょうとは、夢にも存じ寄りませなんだが……」 「ウムウム。その事じゃその事じゃ。何を隠そう拙者も江戸表に居る中にそのような評判を薄々耳に致しておるにはおったがのう。多分、そのような事を云い触らして名前を売りたがっておるのであろう。真逆……と思いながら打ち忘れておったところへ平馬殿の話を承ったものじゃから、実はビックリさせられてのう。あんまり芝居が過ぎおるで……」 「御意に御座いまする。もっともあの女も最初は、まだ評判の広がらぬ中に、御免状とお手形を使うて、関所を越えようという一心から、敵討に扮装ったもので御座いましょう。それから関西あたりへ出て何か大仕事をする了簡ではなかったかと、あの時に推量致しましたが……」 「いかにも――……ところが佐五郎どの程の器量人に逐われるとなると中々尋常では外されまい。事に依ったらこの方角へ逃げ込んで来まいものでもない。しかも当城下に足を入れたならば、何よりも先に平馬殿の処へ参いるのが定跡……とあの時に思うたけに、一つ平馬殿の器量を試めいて見るつもりで、わざっと身共の潔白を披露せずにおいたものじゃったが。いや……お手柄じゃったお手柄じゃった……」 「まことにお手際で御座いました」 「ハハハ……平馬殿はこう見えても武辺一点張りの男じゃからのう……」  二人は口を極めて平馬を賞め上げながら盆を重ねた。酌をしていた奥方までも、たしなみを忘れて平馬の横顔に見惚れていた。  しかし平馬は苦笑いをするばかりであった。燃え上るような眼眸で斬りかかって来た女の面影を、話の切れ目切れ目に思い浮かべているうちに酒の味もよく解らないまま一柳斎の邸を出た。  青澄んだ空を切抜いたように満月が冴えていた。 「……これが免許皆伝か……」  とつぶやきながら平馬は、黒い森に包まれた舞鶴城を仰いだ。  平馬の眼に涙が一パイ溜まった。その涙の中で月の下の白い天守閣がユラユラと傾いて崩れて行った。そうしてその代りに妖艶な若侍の姿が、スッキリと立ち現われるのを見た。……本望で御座います……と云い云い、わななき震えて、白くなって行く唇を見た。  堀端伝いに桝小屋の自宅に帰ると、平馬はコッソリと手廻りを片付けて旅支度を初めた。下男と雇婆の寝息を覗いながら屋敷を抜け出すと、門の扉へピッタリと貼紙をした。 「啓上 石月平馬こと一旦、女賊風情の饗応を受け候上は、最早武士に候わず。君公師父の御高恩に背き、身を晦まし申候間、何卒、御忘れおき賜わり度候。頓首」  御用のため、江戸表へ急の旅立と偽って桝形門を抜け、石堂川を渡って、街道を東へ東へと急いだ平馬は、フト立止まって空を仰いだ。松の梢に月が流れ輝いて、星の光りを消していた。  平馬は大声をあげて泣きたい気持になった。そのまま唇を噛んで前後を見かわしたが、 「……ハテ……今頃はあの三五屋の老人が感付いて追っかけて来おるかも知れぬ。あの老人にかかっては面倒じゃが……そうじゃ……今の中に引っ外してくれよう。どこまで行ったとてこの思いが尽きるものではない……」  と独言を云い云い引返して、箱崎松原の中に在る黒田家の菩提所、崇福寺の境内に忍び込んだ。門内の無縁塔の前に在る大きな拝石の上にドッカリと座を占めた。静かに双肌を寛げながら小刀の鞘を払った。  眼を閉じて今一度、若侍の姿を瞑想した。  ……おお……そもじを斬ったのはこの平馬ではなかったぞ。世間体の武士道……人間のまごころを知らぬ武士道……鳥獣の争いをそのままの武士道……功名手柄一点張りの、あやまった武士道であったぞ。……そもじのお蔭で平馬はようように真実の武士道がわかった……人間世界がわかったわい。  ……平馬の生命はそもじに参いらする。思い残す事はない……南無……。  俺の刑事生活中の面白い体験を話せって云うのか。小説の材料にするから……ふうん。折角だが面白い話なんかないよ。ヒネクレた事件のアトをコツコツと探りまわるんだから碌な事はないんだ。何でも職務となるとねえ。下らないイヤな思い出ばっかりだよ。  その下らないイヤな思い出が結構。在来の名探偵大成功式の話じゃシンミリしない。恐ろしく執念深いんだなあ。  それじゃコンナのはどうだい。どうしても目星が附かないので警視庁のパリパリ連中が、みんな兜を脱いだ絶対の迷宮事件が一つ在るんだ。所謂、完全犯罪だね。そいつが事件後丸一年目に或る芸妓のヒドイ近眼のお蔭で的確に足が付いた。すぐに犯人が捕まったってえ話はどうだい。珍らしいかね。実はこれは吾々にとっちゃ実に詰まらん失敗談だがね。探偵談なんていうのも恥かしいくらいトンチンカンな、単簡明瞭な事件なんだが……。  なお面白い……ずるいなあ、とうとう話させられるか。  もう古い話だ。明治四十一年てんだから日露戦争が済んだアトだ。幸徳秋水の大逆事件の前だっけね。チット古過ぎるかね。……構わんか……。  ずいぶん古い話だがこの事件ばっかりは、どうしても忘れられない変テコな印象がハッキリ残っているんだよ。何故だかわからないが、メチャメチャになった被害者の顔とか、加害者の若い青白い笑い顔とか、その間に挟まった芸妓のオドオドした近眼とかいうものが、不思議なほどハッキリと眼に残っている。  話の筋道は頗る簡単だがね。ほかの事件と違って何だか、こう考えさせられる深刻な、シンミリしたところがあるように思うんだ。  事の起りは在り来りの殺人事件だった。  飯田町の或る材木屋の主人で、苗字は忘れたが金兵衛という男が、自分の家の材木置場で殺られたんだ。天神様の御縁日の翌る日だったから二十六日だろう。天気のいい朝だったっけが、行ってみると非道い殺され方でね。  五十恰好の禿頭のデップリした親爺で、縞の羽織に前垂、雪駄という、お定まりの町家の旦那風だったが、帽子を冠らないで懐手をしたまま、自分の家の材木置場から、飯田橋の停車場の方へ抜けて行く途中の、鋸屑のフワフワ積った小径の上に、コロリと俯伏せに倒れている……材木の蔭から躍り出た兇漢に、アッという間もなく脳天を喰らわされたんだね。額から眼鼻の間へかけて一直線に石榴みたいにブチ割られて、脳味噌がハミ出している。ちょっと見たところ、出血の量が非常に少ないと思ったが、顔の下の湿った鋸屑を掘ってみると、下の方ほど真黒くドロドロになっている。死後推定時間は十時間だったと思うが、倒れたまま、動かなかったらしい。文句なしの即死だね。ところでそこまでは判明したが、その他の事が全くわからない。  その頃まではどこの材木置場にも木挽が活躍していたので、現場の周囲が随分遠くまで新らしい鋸屑だらけだ。犯人もそこを狙って仕事をしたものらしく足跡が全くわからないのには弱ったよ。いくらでも足跡が在るには在るんだが、ハッキリしたのは一つもない。屍体の近くに二個所ばかり強く踏み躪ってあるのが兇行当時の犯人の足跡らしかったが、単に下駄じゃないという事がわかるだけで推定材料にはテンデならない。被害者の懐中物は無尽講の帳面が二冊キリ。蟇口も煙草|容もない。……という極めてサッパリした現場なんだ。  その時の現場に出張していた連中はかなり大勢だった。少々大袈裟だったかも知れないが、仕事が閑散だったせいだろう。最初に麹町署から来た四五人のほかに警視庁の第一捜査係長、刑事部長、警部補、巡査、刑事が四人、鑑識課の二三人、警察医が二名、予審判事と書記というのだから、殆んど全国の警察でも一粒|選の鋭い眼玉が、そこいら中を一生懸命に探しまわったもんだが、何一つ手がかりが見当らない。ただその後の屍体解剖で、額にブチ込んだ兇器が厚さ一分位、推定一尺長さ以上の一直線の重たい物体であった。ちょうど鉈の背中みたようなものだった。……という事が判明しただけだったが、しかもこの鉈の背中という説明のし方が、アトから考えるとドウモ面白くなかったね。やはりこの事件を迷宮に逐い込んだ原因になっていると思うんだ。長さ一尺以上、厚さ一分位の、一直線の重たい品物というので、みんな寄って色々考えてみたが、前に鉈の背中という言葉を聞いてたもんだから、それ以外の品物をドウしても考え付かない。まさかソンナ大きな文鎮が在ろうとは思わないからねえ。一直線の重たい、手頃の金属板……文鎮……製図屋と直ぐに思い付く程、頭のいい奴は実際にはナカナカ居ないものなんだ。探偵小説にはザラに居るかも知れないがね。そこで直接の証拠物件が見当らないとなると今度は情況の証拠という段取りになるだろう。  金兵衛の女房、店の番頭、若い者なぞを、手を分けて調べてみると、金兵衛は昨日の夕方、夕飯を喰ってから、本郷の無尽講の計算に行って来ると云って、預っていた旧式の帳面と、九百円ばかりの金を店の金庫から取出して、イクラか這入った蟇口と一緒に懐中に入れた。落さないように懐手をしながら、帽子も何も冠らないままブラリと表口から出て行ったのを、女房と番頭が見ておった。それっきり昨夜は帰って来なかったが、毎月二十五日の無尽講の計算の日には、そのままどこかへ行ってしまって、帰って来ないのが通例になっていたから、みんな早く寝てしまった。  あくる朝……つまりその二十六日の朝になって、番頭と若い衆が、その日の中に深川の製材所から河岸に着く筈になっている樅板の置場を見に行くと、直ぐに屍体を発見して大騒ぎになった。殺されるような心当りは一つもない……という至極アッサリした話……。  むろんそれから家内中の者を綿密に調べてみたが、怪しい者なんか一人も居ない。女房は締り屋の堅造で、一高の優等生になっている柔順しい一人息子の長男と一緒に、裏二階で十時頃まで小説を読んでいたが、怪しい物音や叫び声なんか一度も聞かなかった。又若い番頭は、店の表二階で焼芋を買って、十時過まで猥談をやっていたので、尚更、何も聞かんという訳でね。みんな今でいう現場不在証明をチャンと持っている。金兵衛は相当ケチケチした親方らしいが、それでも人使いが上手かったのだろう。怨んでいる人間なんか一人も居ないらしいのだ。  コイツは又迷宮入りかな……といった感じが、そんな取調の最中にピンと頭へ来たがね。  しかし何しろ九百何円の金がなくなっている以上、殺人強盗という見込みなんだから事が重大だ。しかも、よっぽど前から金兵衛の日常の癖や何かを研究して知っている人間で、相当の腕力と元気のある奴だ。殊に日が暮れているとはいえ人家や、電車道に近い薄明るい処で、これだけの思い切った仕事を遣っ付けている以上、生やさしい度胸ではない。事によると前科者かも知れない……という理窟から遠い親戚や無尽講の関係者、又は九段下界隈の前科者や無頼漢なぞを出来るだけ念入りに洗ってみたが、これとても疑わしい奴は一人も居ない。その中でも、二十五日の晩に、湯島天神の境内に集まっていた無尽講の世話人連中は、肝腎の帳面と金を持っている金兵衛が来ないので、その晩の九時頃になって、飯田町の金兵衛の家に電話をかけた。すると女房の声で、もう着く頃だという返事だったので、夜中過ぎる頃迄酒を飲みながら待っていたが、それでも来ない。そこでモウ一度電話をかけてみたが、今度は誰も起きて来ないらしいので、殺されているとは夢にも知らずに、明日、金兵衛の処に押しかけて行く事にきめて皆ブツブツ云い云い帰って寝た。大方金兵衛は九百円の金を、ほかの事に廻わしたので、金策に奔走したままどこかへ引っかかっているんじゃないかと云う者も居たが、イヤ、金兵衛さんはお金の事ばかりはトテモ几帳面だから帳面を預けたんだ。そんな事をする気づかいは絶対にない。どうもおかしい……と云う者も居た。すると又……イヤ、金兵衛はこの頃、築地のどことかに妾を置いているという話だから何とも知れない、なぞ云う者が出て来てワイワイ云い合いながら別れた……という腹蔵のない連中の話なんだ。  ここで金兵衛の妾の話が出たので、直ぐに飛び付くように金兵衛の素行調べに移った訳だが、その妾というのは検番を調べてまわると直ぐに判然った。芳町の芸妓で取って二十五になる愛吉というのが……本名はたしか友口愛子といったっけが、去年……明治四十年の暮に金兵衛から引かされて、築地三丁目の横町で、耳の遠い養母と一緒に小さな煙草屋を遣っている。二階が押入、床の間附の六畳で、下が店の三畳に、便所に台所という猫の額みたいな造作でね。引かされたといっても自前になっただけで、お座敷はやっぱり勤めさせられていた。稼ぎ高は時々金兵衛が来てキチンキチンと計算する。台所のコマゴマした買物帳までも調べるという。ナカナカ抜目のないガッチリした親爺だったのだね。  ところが又その愛吉の愛子という女がイクラか馬鹿に近い位、温柔しい女なので、或る待合の女将が不憫がって、結局その方が行末のためだろうというので、金兵衛に世話したという話だったが、非道い奴で、金兵衛は愛子の人の好いのに付込んで、稼ぎ高を丸々取上る上に、お客まで取らせていたというんだから呆れたね。算盤の強い奴には敵わないね。  それから今度は捜索の手が、愛子の素姓調べに移った訳だが、そんな細かいところは面白くもないし、本筋に関係がないからヌキにしよう。とにかく愛子は某富豪華族の御落胤で、お定まりの里子上りの養母に、煮て喰われようと焼いて喰われようと文句の云えない可哀相な身上であった事。三味線も踊りも、歌も駄目で、芸妓としては温柔し過ぎる事、縹緻は十人並のポッチャリした方で、二十五だというのにお酌みたいに初々しい内気な女であった。それにチョットわからないが、非道い近眼だったこと……これが一番大事な話のヤマなんだが、その近眼で人の顔をジイッと見る眼付が又、何ともいえず人なつっこい。見られた人間は、ちょっと惚れられているような感じを受ける事……アハハ。馬鹿にしちゃいけねえ。俺が自惚れた訳じゃねえんだ。誰にもそう思われたんだよ。  それよりも事件発生以来、毎日毎日警視庁の無能を新聞に敲かれながら、ジイッと辛棒して、こうした余計な事をジリジリと調べてまわる俺達の苦労が並大抵じゃなかった事だけは同情しておいてもらいたいね。新聞記者なんてものは、そんなところにはミジンも同情しないからね。読者を喜ばせるのが商売だから、むしろ「警視庁の無能曝露」とか「犯人の大成功」とか書きたい気持で、まだですかまだですかと様子を聞きに来るんだからウンザリしちまわあ。イヤな商売だよ。全く……。  ところが又、生憎な事にこの事件が、だんだんと新聞の註文に嵌まりそうになって来た。この筋を辿って行けばキット何かにブツカルに違いないという、俺一流のカンが当っていたかいなかったか、愛子には今まで一人の情夫らしいものも居ない。念のために今までのお客の中で、好いたらしい事を云い合った者は居ないか。チョット惚れでもいいから居ないかと聞いてみたが、愛子はただポカンとして頭を左右に振るばっかりだから、しまいにはこっちが負けてしまった。頭の悪い奴はコンナ場合全く苦手だよ。殊に女にはコンナ種類の返事をする者が多いから困るんだ。  実は愛子が惚れた男がチャント居たんだ。愛子はその男に、生れて始めての恋を感じているにはいたんだが、タッタ一晩、会ったキリだし、気の弱い女だもんだから自分でもチョット惚れのつもりでほかの苦労に紛れて、そのまんま忘れていたんだ。むろん其奴が犯人だったのだが……まあ……急かずと聞き給え。ここが面白いところなんだ。  そんな訳で事件当時の愛子には、これぞという心当りが全くなかったんだから手の附けようがない。そうかといって愛子の取ったお客を一々調べ上げて、足を洗ってみるというのはトテモ大変な仕事だし、第一、それほどの確かな見込を附けていた訳じゃないんだから、そのままこの方面の捜索を打切る事にした。  そうなると自然、捜索の方針が八方|塞がりになる訳だから、話が一番最初のところへ逆戻りして来る。つまり否が応でも兇器を発見して、その兇器から当りを付けて行かなければならない事になって来たが、その肝腎要の兇器が、事件発生以来どうしても見付からないのには弱らされたね。弱るも道理か……犯人はその兇器の文鎮をチャンと仕事場に持って帰って、ニッケル鍍金を仕直して、毎日毎日製図の仕事に使っていたんだから、コレ位馬鹿馬鹿しい話はないんだが、こっちはソンナ事とは夢にも知らない絶体絶命だ。頼みの綱はコレ一つ……兇器さえ見付かればこっちのもの……東京市中を持ちまわって、一軒一軒|虱潰しに出所を調べてまわっても構わない覚悟で、飯田町一帯の材木置場の隅から隅まで鋸屑を掻きまわしたもんだ。  笑い事じゃないんだよ。一口に迷宮事件というけれども、迷宮事件の裏面にはコンナ苦労がドレ位積み重なっているか知れないのだよ。しまいには九段下から大手あたりのお堀へかけての大捜索まで遣ってもらったが、古バケツ、底抜け薬鑵、古下駄、破れ靴、犬猫や、傘の骨以外には何一つ引っかかって来ない。新聞にはその大捜索の状況を写真にまで出したが、吾々はただ、そうして笑われているような気がしたばっかりだった。  とうとう事件発生後、三個月目に完全な迷宮入り、捜索打切の宣告を聞いた時の残念さ、無念さ……それは絶対にお役目|気質とか何とかいうもんじゃなかったよ。吾々仲間の根性とでもいおうか。事件の筋道が尻切トンボになって、有耶無耶になった不愉快さといったらないね。家へ帰っても二三日は飯が不味くて嬶を相手に癇癪ばかり起していたもんだが……むろん初めの騒ぎが大きかっただけに、警視庁が新聞からメチャメチャに野次り倒された事は云う迄もない。しかし事実は文字通りに「警視庁の無能」「犯人大成功」なんだからチューの音も出なかった訳だよ。  ところが、こうした徹底的な迷宮事件……手がかりのなくなった完全犯罪が、それから一年も経った後に、思いがけない愛子の非道い近視眼のお蔭で目星が付いたんだから皮肉だろう。  不思議……そうだねえ。ちょっと聞くと、ずいぶん不思議な、神秘的な話に聞えるだろう。ところが事実は何でもない。何ともいえない人情に絡んだ憐れな話なんだ。  ちょうどそれから丸一年経った明治四十二年の、やはり四月の中頃の事だった。むろん次から次に起る事件に逐われて、金兵衛殺しなんか忘れている時分だったが……。  雨はショボショボ降るし、事件も何もなし……というので、仲間と一緒に警視庁の溜りで雑談をしていると、給仕が面会人を取次いで来た。 「築地の友口愛子……大至急お眼に掛りたい……」  と云って小さな名刺を一枚渡した。  トタンにドキンとしたね。一年前の苦心をズラリと思い出しながら慌てて立上ったよ。コンナ場合に、コンナ調子でヒョッコリ面会を求めに来る事件の中の女は十中八九、何かしら重大な手がかりを持って来るものなんだ。  仲間に冷やかされながら例の面会室に来てみると、疑いもない愛子がチャント丸髷に結った野暮ったい奥様風で、椅子に腰をかけている。よほど心配な事があると見えて、顔色が真青に窶れている。おまけに妙にオドオドした眼付でこっちを見る表情に、昔のような人なつこい愛くるしさがアトカタもないようだ。  占めた……と思いながら何喰わぬ顔で話を聞いてみると、愛子は金兵衛に死別れてから、芸妓を廃業て、義理の母親と一緒に煙草屋専門で遣ってみた。すると近所の会社員や、工場の職人たちが盛んに買いに来てくれるので、結構やって行ける事がわかった。しかし一方に養母が、芝居と、信心と、寝酒の道楽を初めて、死んだ金兵衛の伝でグングン臍繰をカスリ取る上に、良い縁談をみんな断ってしまうので、愛子は朝から晩まで店の稼ぎと所帯の苦労に逐われて、この頃はスッカリ窶れてしまった……というような話で……つまり愛子は生れてから死ぬまで絞り取られるように出来ていた女なんだね。……それから愛子はオズオズと一通の手紙を出して、これを読んでくれと云うんだ。  俺は何かの脅迫状じゃないかと思って半分失望しいしい、その手紙を開いてみたら大違いだった。便箋三枚に製図用の紫インキで綺麗に、細かく、ベタ一面に書いてあるんだ。参考品の中に保存してあるがね。見せてやろうか……ウン……こっちへ来てみたまえ。この手紙だ。 「前文御めん下さい。僕は貴女に感謝しなければなりません。昨日偶然に僕と、貴女とあすこで二人|切になった事を、貴女は記憶しておられるでしょう。あの時、貴女の横に腰をかけていたのは警視庁の思想犯係の刑事だったのです。そう気付いた時に僕はモウ絶体絶命の立場にいる事を知りました。貴女の前の御主人の事を根掘り、葉掘り聞いた僕の顔を貴女は記憶しておられる筈でしたから。  そればかりでなく僕は、貴女が苦労に窶れておられる姿を見てシミジミと自分の罪を思い知りました。すぐにも名乗ろうかと思いながら躊躇しておりましたが、その時に貴女は以前の通りの愛情の籠った眼でジイッと僕を見られただけで、そのまんま知らん顔をしておられました。貴女が僕に、どうかして無事に逃げてくれと云っておられる無言の気持がよくわかりました。  ああ。あの時の気持。僕の感謝の気持を、どうしたら貴女にお伝え出来ましょう。  貴女の前の御主人金兵衛は悪魔だったのです。貴女のそうした涙ぐましい純潔な心ばかりでなく、貴女の清浄な肉体、血液までも絞りつくそうとしている悪魔だったのです。ですから僕は、あの悪魔を懲らして貴女を救い出し、同時に僕の外国|行の旅費を作ろうと決心してしまったのです。それから一個月ばかりの間金兵衛を跟けまわして、とうとう完全なチャンスを掴んだのです。しかし外遊はしませんでした。金兵衛から奪ったお金は皆、党の運動資金に費ってしまいました。  僕は貴女の思想から見ればドンナに咀われても足りない人間です。貴女の御主人の仇敵です。社会の公敵です。貴女の不運の原因を作った人間です。それを貴女は知らん顔をして見のがして下すったのです。  ああ。貴女はあの、タッタ一夜の純情を、一年後の今日までも僕に対して注いで下すったのです。僕を愛していて下すったのです。  僕は生れて初めて貴女によって人間の純情の貴さを知ったのです。唯物主義一点|張の血も涙もない生涯を送ろうと思っていた僕の信念が、貴女のお蔭で根柢からグラ付き初めたのです。  僕はキチガイになりそうです。  僕はモウ二度と貴女にお眼にかからない処へ逃げて行きます。裏切者にならないために、貴女の純真な、切ない愛情をタッタ一つ抱いて、満腔の感謝を捧げて死んで行きたいために。  僕は裏切者となって、貴女と結婚して、貴女をエタイのわからない不幸な運命に陥れるに忍びません。  どうぞ幸福に幸福に暮して下さい。 淋しい社会主義者より   友口愛子様  この手紙は直ぐに焼いて下さい。貴女の御親切に信頼します。  この手紙を読み終ると直ぐに、これは一刻も猶予ならんと思って立上りかけた……が……又思い直して腰を落付けた。この手紙を持って来た愛子の態度が、あんまり不思議なので……自分に好いている男を一人死刑にするような遣り方なのに……正直者の愛子がソンナ残酷な事をする筈はないと思ったので、念のために今一度訊問してみる気になった。社会主義者一流の計略じゃないかしらんという疑いも起ったからね。 「ふうむ。愛子さん……」 「ハイ……」 「あんたはこの手紙の主に心当りがあるのかね」  ビックリしたように眼をパチパチさせた愛子は丸髷を軽く左右に振った。 「いいえ。ちっとも存じません。何を書いてあるのか読めないものですから。字があんまり細かくて……」  俺は唖然となってしまった。 「ナアンダ。まだ読んでいないのかい」  愛子は丸髷に手を遣りながら淋しく笑った。 「ハイ。コンナような手紙が、よく男の方から参りますので、そのたんびに母親に読んでもらっておりますが、この手紙の文句ばっかりは、わからないと母親が云うもんですから……処々拾い読みしてもらってもチンプンカンプンですから……ただ金兵衛さんの名前が所々に書いてあって、社会主義者が死ぬっていうような事が書いてあるって云うもんですから、何だか怖くなりまして……ほかの方に読んで頂くのは剣呑だって母親が云うもんですから、大急ぎで貴方に読んで頂きに……」  俺は思わず一|丈ばかりの溜息を吐いたよ。滑稽な気持ちなんかミジンも感じなかったから不思議だよ。これ程の恐ろしい作用を現わした愛子の、何も知らないでオドオドしている近眼を暫くの間茫然と見詰めていたね。 「ふうむ。あんたはこの手紙で見ると、金兵衛さんが死ぬる一個月ぐらい前に、どこかの待合で、若いお客と差しでシンミリした事があるんだね」  愛子の顔色が見る見る真青になった。この前に訊問した事をドウやら思い出したらしいんだ。それから又、忽ち耳の附け根まで赤くなったが俺の顔を見ながらオズオズと点頭いたものだ。 「ね。あるだろう。思い出したろう」  愛子はいよいよ真赤になって俯向いてしまった。俺は胸をドキドキさせながら彼女に対して訊問の秘術を尽し初めたが、彼女は手もなく釣り込まれてポツポツ話し出した。 「ハイ。やっと思い出しました。それは二十七八の若旦那風の人でした。待合ではオオさんと云っておりましたが、お名前は大深さんと云いましたか……お召物からお金遣いまでサッパリした方で、いいえ。手は両方とも職工らしくない、白い綺麗な手でした。お酒が少しばかりまわりますと、親切に色々と妾の身上をお尋ねになりましたので、何もかも真個の事をスッカリ話しました。金兵衛さんの事までもスッカリ……毎月二十五日が本郷の無尽講の寄合なので、帳面とお金を持って行かれる。その帰りに電車で妾の所へ見える事まで話しました。その若い方は何でも、信州の或るお金持の御養子さんで、東京へ来て高等工業学校へ這入ったが、養家が破産したために学校へ行けなくなった。それから色々苦労をして稼ぎながら、築地の簿記の夜学校へ這入っているうちに、半年振りに養家の残りの財産が自分のものになったから、煙草を買うたんびに思っていた君を名指しにして遊びに来た。これから時々来るから……といったようなお話で、お宅は芝の金杉という事でしたが……それはそれは御親切な……」 「……ふうん。それから、シッポリといい仲になったって訳だね」  愛子は又耳元まで赤くなった。涙を一しずくポロリと膝の上に落した。 「うんうん。わかっているよ。だからあの時も、そのお客の事を俺に話さなかったんだね」  愛子は丸髷を、すこしばかり左右に振った。シクリシクリと歔り上げ初めた。 「そうかそうか。そのお客だけがタッタ一人好いたらしい人だった事を、あの時は思い出さなかったんだね」  愛子は微かに震えながら頭を下げた。多分|謝罪っているつもりだったのだろう。俺は一膝乗り出した。 「そこでねえ。話は違うが、昨日アンタはどこか、電車か何かの中で三人切りになった事があるかね。ほかの二人は男だった筈だが……」  愛子はビックリしたように顔を上げた。 「どうして御存じ……」 「アハハ。この手紙に書いてあるじゃないか。どこだい、それは……」 「昨日、伯父さんの法事をしに深川へまいりました」 「アッ。月島の渡船に乗ったんだね。成る程成る程。その時にアンタと一緒に乗っていた二人の男の風体を記憶えているかね」  愛子は恐ろしそうに身体を竦めた。俺が社会主義者の事でも調べていると思ったんだろう。例の黒眼勝の眼をパチパチさせながら唇を震わした。 「妾は眼が悪う御座いますので、三尺も離れた方の風体はボーッとしか解りませんが……」 「わからなくともいいからアラカタの風采でいいんだ。二人とも紳士風だったかね」 「いいえ。一人は青い服を着た職工さんで、もう一人は黒い着物を着た番頭さんのような方でした」 「その職工みたいな男の人相は……」  彼女はいよいよ恐ろしそうに椅子の中に縮み込んだ。 「あの……鳥打帽を……茶色の鳥打帽を眉深く冠っておられましたので、よくわかりませんでしたが、モウ一人の方はエヘンエヘンと二つずつ咳払いをして、何度も何度も唾をお吐きになりました」 「アハハ。そうかそうか、それは色の黒い、茶の中折を冠った、背の高い男だったろう。金縁の眼鏡をかけた……」  愛子はビックリして顔を上げた。 「……どうして……御存じ……」  俺は直ぐに呼鈴を押して給仕を呼んだ。 「オイ。給仕、控室の石室君にチョット来てもらってくれ」 「かしこまりました」  石室刑事は直ぐに来た。 「何だ何だ……ウンこの婦人かい。昨日月島の渡船場で一緒に乗ったよ。どうかしたんかい……ナニ。一緒に乗った職工かい、ウン知ってるよ。深川の紫塚造船所の製図引で大深泰三という男だよ。社会主義者の嫌疑で一度調べた事がある。高等工業にいたとかいうがチョットお坊ちゃん風のいい男だよ。昨日は俺の顔を見忘れていたんだろう。知らん顔をしていたっけが」  正直のところ、この時ぐらい狼狽した事はなかったね。社会主義者なんていうのは、見掛によらない敏感なもので、逃足の非常に早いものだという事がこの時分からわかっていたからね。 「ウン直ぐに行こう。重大犯人だ。君も一緒に来てくれ。詳しい事はアトから話す。アッ……いけない。愛子さん愛子さん」  愛子はウンと気絶したまま椅子から床の上へ転がり落ちてしまった。残忍な話だが、俺はその時に思わず微笑したよ。この気絶は彼女の話の真実性を全部裏書きしたようなものだったからね。  警察医が来て愛子を介抱している間に、俺達は紫塚造船所に乗込んで、机の曳出を片付けている最中の大深を、有無を云わさず引っ捕えた。大深はその頃芽生えかけていた社会主義者のチャキチャキで幸徳秋水の崇拝者だった。目的のためには手段を択まずという訳で、露西亜へ行く旅費を得るために、製図屋仲間の評判から愛子の旦那の金兵衛に眼を附けて、愛子の口から様子を探ると、仕事用のニッケル鍍金の四角い鉄棒を持って熱心に跟けまわしている中に、屏風を建てまわしたような材木置場で、絶好の機会に恵まれたので断然、絶対安全な兇行を遂げたんだね。  しかし大深はタッタ一度の馴染なもんだから愛子の近眼に気付いていなかったし、愛子の方も、そんな事までは打明けなかったんだね。だから愛子の例の通りの潤んだ、惚れ惚れとした眼付きでジイッと見られた時に、スッカリ感違いをしてしまったんだね。元来が主義にカブレた青二才で、ホントの悪党じゃなかったもんだから、ほんの一時の自惚れから身を滅ぼしてしまった訳だ。  手錠をかけたアトで例の手紙を見せると大深は、青い顔になってうなずいた。 「馬鹿だなあ……この手紙を他人に見せるなんて……もっとも俺の方がよっぽど馬鹿だったんだが……アハハハ……」  と空虚な高笑いをしたっけ。実にサッパリしたいい度胸だったが、聞いてる吾々は笑おうにも笑えない気持がしたよ。  むろん癪に障っていたから大深の就縛は新聞社には知らせなかった。そのまま暗から暗へと死刑になってしまったが、可哀そうなのは愛子で、それから後チョイチョイ大深へ差入れなんかをしていたらしい。そうして彼が死刑になった事が新聞に出た晩に、自宅の台所で首を縊って死んでしまった。  遺書も何もなかったので原因はわからないが、自分の口一つから金兵衛を殺し、又大深を殺した事がわかったので、すっかり悲観して思い詰めてしまったんじゃないかと思う。  何……君にはわかっている……?  愛子は最初、大深に初恋を感じていたのを自分でも気付かずにいたんだ。それがあの手紙を見て焦げ付くほど燃え上った。そうして大深の死刑と一緒にこの世が暗闇になった。  ふうん。恐ろしい間だるっこい惚れ方をしたもんじゃないか。惚れていた事がわかるまでに人間を二人も殺してさあ。  ふうん。ほんとうに純真な、内気な女なんてソンナもんだ、そこがこの話のスゴイところだ……小説になるところだっていうのかね。  アハハ。成る程ねえ……。 まえがき  筆者の記憶に残っている変った人物を挙げよ……という当代一流の尖端雑誌新青年子の註文である。もちろん新青年の事だから、郵便切手に残るような英傑の立志談でもあるまいし、神経衰弱式な忠臣孝子の列伝でもあるまいと思って、なるべく若い人達のお手本になりそうにない、処世方針の参考になんか絶対になりっこない奇人快人の露店を披く事にした。  とはいえ、何しろ相手が了簡のわからない奇人快人揃いの事だからウッカリした事を発表したら何をされるかわからない。新青年子もコッチがなぐられるような事は書かないでくれという但書を附けたものであるが、これは但書を附ける方が無理だ。奇行が相手の天性なら、それを書きたいのがこっちの生れ付きだから是非もない。サイドカーと広告球を衝突させたがる人間の多い世の中である。お互いに運の尽きと諦めるさ。 頭山満  ナアーンダ。奇人快人というから、どんな珍物が出て来るかと思ったら頭山先生が出て来た。第一あんまり有名過ぎるじゃないか。あんなのを奇人快人の店に並べる手はない。明治史の裡面に蟠踞する浪人界の巨頭じゃないか。維新後の政界の力石じゃないか。歴代内閣の総理大臣で、この先生にジロリと睨まれて縮み上らなかった者は一人も居ない偉人じゃないか……とか何とか文句を云う者が大多数であろう。  ……怪しからん。頭山先生を雑誌の晒し物にするとは不埒な奴じゃ。頭山先生は現代の聖人、昭和維新の原動力だ。そんな無礼な奴は絞め上げるがヨカ……とか何とか腕まくりをして来る黒切符組もないとは限らないが、まあまあ待ったり。話せばわかる。  筆者のお眼にかかった頭山先生は、御自身で、御自身を現代の聖人とも、昭和維新の原動力とも、何とも思って御座らぬ。「俺は若い時分にチットばかり、漢学を習うたダケで、世間の奴のように、骨を折って修養なぞした事はない。一向ツマラヌ芸無し猿じゃ」と自分でも云うて御座る。それでいて西郷隆盛の所謂、生命も要らず、名も要らず、金も官位も要らぬ九州浪人や、好漢安永氏の所謂「頭山先生の命令とあれば火の柱にでも登る」というニトロ・グリセリン性の青年連に尻を押されて、新興日本の尻を押し通して御座った……しかも一寸一刻も、寝ても醒めても押し外した事はなかった。日本民族をして日清、日露の国難を押し通させて、今は又、昭和維新の熱病にかかりかけている日本を、そのまんま、一九三五年の非常時の火の雨の中に押し出そうとして御座る。……ように見えるが、その実、御自身ではドウ思って御座るかわからない。ただ相も変らぬ芸無し猿、天才的な平凡児として持って生まれた天性を、あたり憚らず発揮しつくしながら悠々たる好々爺として、今日まで生き残って御座る。老幼賢愚の隔意なく胸襟を開いて平々凡々に茶を啜り、談笑して御座る。そこが筆者の眼に古今無双の奇人兼、快人と見えたのだから仕方がない。世間の所謂快人傑士が、その足下にも寄り付けない奇行快動ぶりに、測り知られぬ平々凡々な先生の、人間性の偉大さを感じて、この八十幾歳の好々爺が心から好きになってしまったのだから致し方がない。そうして是非とも現代のハイカラ諸君に、このお爺さんを紹介して、諸君の神経衰弱を一挙に吹飛ばしてみたくなったのだから止むを得ない。  元来、頭山先生が、この新青年に、きょうが日まで顔を出さないのが間違っている。それも頭山先生が時代遅れのせいではない。却って新青年誌の方が頭山老人の思想よりも立ち遅れている事を筆者は確信しているのだから是非もない。ここに先生の許しを得て、逸話を御披露する。  頭山満翁の逸話といったら恐らく、浜の真砂の数限りもあるまい。頭山満翁はさながらに逸話を作りに生まれて来たようなもので、その奇行快動ぶりといったら天下周知の事実と云っても憚らない位である。  しかし仔細に点検して来ると、その鬼神も端倪すべからざる痛快的逸話の中にも牢乎として動かすべからざる翁一流の信念、天性の一貫しているところを明白に認める事が出来る。  すなわち翁の行動には智力を用いた形跡がない。何でも行きなりバッタリの無造作、無鉄砲を以て押通して行くところに、翁の真面目が溢るるばかりに流露している。そうしてその真面目が、日常茶飯事に対しては意表に出づる逸話となり、国事に触れては鉄壁を砕く狂瀾怒濤となって行くもののようである。  蛇は寸にして蛇を呑む。翁が十歳ばかりの年の冬に家人から十銭玉を一個握らせられて、蒟蒻買いに遣られた。その頃の蒟蒻は一個二厘、三厘の時代であったから、定めし十個か二十個買って来いという家人の註文であったろう。  ところが十幾歳の頭山満は蒟蒻屋の店先に立つと黙って十銭玉を一個投出したので、店の主人は驚いた。 「これだけミンナ蒟蒻をば買いなさるとな」  翁は簡単にうなずいた。  蒟蒻屋の主人は蒟蒻を山のように数えて、翁の前に持って来た。 「容れ物をば出しなさい」  翁はやはりだまって襟元を寛げた。ここへ入れよという風に、うつむいて見せた。そうして主人が驚いて見ているうちに、氷よりも冷たい蒟蒻の山を懐中に掴み込んで、悠々と家へ帰った。  頭山翁は終生をこの無造作と放胆振りでもって押通している。 「俺は無器用な奴じゃがのう。しかし、その無器用な御蔭で、天下の形勢の図星だけは見外さぬようになっとる」云々。 「しかしこの頃俺に書画、骨董や、刀剣の鑑定を持込んで来るには閉口しとる。一番わからん奴の処へ見せに来る訳じゃからの。ハハハハ」  グロの方ではコンナ傑作がある。  大阪に菊地なにがしという市長が居たことがある。仲々の遣手でシッカリ者という評判であったが、これに頭山先生が、何かの用を頼むべく会いに行った事がある。同伴者は先生の親友で、後の玄洋社長の進藤喜平太氏であったというが、市長官舎の応接室に通されて待てども待てども菊地市長が現われて来ない。天下の豪傑、頭山満が来たというので、才物の菊地市長尊大ぶって、羽根づくろいをするために待たせたものらしいという後人の下馬評である。  ちょうどその時に頭山先生は、腹の中でサナダ虫を湧かして、下剤を飲んでいたので、そいつが利いたと見えて待っているうちに尻の穴がムズムズして来た。そこで頭山先生|懐中から股倉へ手を突込んで探ってみると、何かしら柔らかいものがブラリと下っている。抓んで引っぱってみると、すぐにプツリと切れてしまった。股倉から手を出してみるといかにも名前の通りに白い、平べったい、サナダ紐みたいなものが一寸ばかりブラブラしている。  見ると目の前に、見事な金|蒔絵をした桐の丸胴の火鉢があったので、頭山先生その丸胴の縁に件のサナダ虫を横たえた。進藤喜平太氏も不審に思って覗いてみたが、何やらわからないので知らん顔をしていたという。  そのうちに又、頭山先生のお尻の穴がムズムズして来たので、又手を突込んで引っぱると、今度は二寸ばかりの奴が切れ離れて来たヤツを、やはり眼の前の火鉢の縁へ、前の一片と並べておいた。察するに頭山先生いい退屈|凌ぎを見付けたつもりであったろう。悠々と股倉へ手を突込んでは一寸、又二寸とサナダ虫の断片を取出して、火鉢の縁へ並べ初めた。  誰でも知っている通りサナダ虫は一|丈も二丈もある上に、短かい節々のつながりが非常に切れ易いので、全部を引出し終るにはナカナカ時間がかかる。とうとう火鉢の周囲へ二まわり半ほど並べたところへ、やっとの事、御大将の菊地市長が出て来た。黒|羽二重五つ紋に仙台平か何かの風采堂々と、二人を眼下に見下して、 「ヤア。お待たせしました」  と云いながら真正面の座布団に坐り込んだが、火鉢の縁へ手を載せたトタンにヒイヤリとしたので、ちょっと驚いたらしく掌を見ると、白い柔らかい、平べったい、豆腐の破片みたようなものが手の平へ二三枚ヘバリ付いている。嗅いでみると異様なたまらない臭いがする。菊地市長いよいよ驚いたらしく背後をかえりみて女中を呼んだ。 「オイオイ。この火鉢の縁の……コ……コレは何だ」  女中が真青に面喰った。ちょっと見たところ、正体がわからないし、自分が並べたおぼえがないので、返事に窮していると頭山先生が静かに口を開いた。 「それは僕の尻から出たサナダ虫をば並べたとたい」  菊地市長は「ウワアッ」と叫んで襖の蔭に転がり込んで行ったが、それっ切り出て来なかった。  二人は仕方なしに市長官舎を辞したが、門を出ると間もなく正直者の進藤喜平太氏が、 「折角会えたのに惜しい事をした」  とつぶやいた。頭山先生は又も股倉へ手を突込みながら、 「フフン。あいつは詰らん奴じゃ」  まだある。  これは少々グロを通り越しているが、頭山翁の真面目を百パーセントに発揮している話だから紹介する。頭山翁が玄洋社を提げて、筑豊の炭田の争奪戦をやらせている頃、福岡随一の大料理屋|常盤館で、偶然にも玄洋社壮士連の大宴会と、反対派の壮士連の大宴会が、大広間の襖一枚を隔ててぶつかり合った。  何がさて明治もまだ中途|半端頃の血腥い時代の事とて、何か一と騒動初まらねばよいがと、仲居、芸妓連中が心も空にサービスをやっているうちに果せる哉始まった。  合の隔ての襖が一斉に、どちらからともなく蹴開かれて、敷居越しに白刃が入り乱れ、遂には二つの大広間をブッ通した大殺陣が展開されて行った。  大広間に置き並べられた百|匁蝋燭の燭台が、次から次にブッ倒れて行った。  そうして最後に、床の間の正面に端座している頭山満の左右に並んだ二つの燭台だけが消え残っていた。これは広間一面に血の雨を降らせ合っている殺陣連中が、敵も味方も目が眩んでいながらに、そうした頭山満の端然たる威風に近づくとハッと気が付いて遠ざかったからであった。  その頭山満の左右と背後の安全地帯に逃げ損ねた芸者仲居が、小さくなって固まり合って、生きた空もなくなっていた。しかし頭山翁は格別変った気色もなく、活動のスクリーンでも見てるような態度で、眼前の殺陣を眺めまわしていたが、そのうちにフト自分の傍に一人の舞妓がヒレ伏しているのに気が付くと、片手でその背中を撫でながら耳に口を寄せた。 「オイ。今夜俺と一緒に寝るか」  これは頭山翁お気に入りの仲居、筑紫お常婆さんの実話である。この婆さんも亦、一通りならぬ変り物で、ミジンも作り飾りのない性格であったから、機会があったら別に紹介したいと思う。  この婆さんが黙って死んだのでホッと安心して御座る北九州の名士諸君が多い事と思うが、しかしまだまだ御安心が出来ませぬぞ。この婆さんから筆者がドンナ話を聞いているか知れたものではないのだから……。  頭山翁のノンセンス振りと来たら又一段と非凡離れがしている。つまるところは聖人以外の誰にでも出来る平々凡々振りであるが、その平々凡々振りが又なかなか容易に真似られないのだから不思議である。頭山翁の恐ろしさと偉大さは、その平々凡々なノンセンス振りの中に在ると云ってもいい位である。  嘗て頭山翁が持っていた、北海道の某炭坑が七十五万円で売れた事がある。  これを聞いた全日本の頭山翁の崇拝者連中、喜ぶまいことか、吾も吾もと押寄せて、当時霊南坂にあったかの頭山邸は夜も昼も押すな押すなの満員状態を呈した。下では幾流れとなく板を並べた上に食器を並べて、避難民式に雲集した書生や壮士が入代り立代り飯を喰うので毎日毎日戦争のような騒動である。また階上の翁の部屋では天下のインチキ名士連が翁を取巻いて借銭の後始末、寄附、運動費、記念碑建立、社会事業、満蒙問題なぞ、あらゆる鹿爪らしい問題を提げて、厚顔無恥に翁へ持ちかける。  翁はそんな連中に対して面会謝絶をしないのみか、どんな事を頼まれても否とは云わない。黙々として話を聞き終ると金ならば金、印形なら印形を捺してやってミジンも躊躇しない。市役所へハキダメの物でも渡すように瞬く間に七十五万円を費消してしまった。残るものは借金取りの催促と、雲集した書生壮士ばかりになってしまった。  それでも、まだ印形や金を借りに来るものがある。しかも以前に、二度と来られないようなインチキで翁を引っかけて行った人間が、シャアシャアと又遣って来るのである。それでも翁は何も云わずに無理算段をした金を遣り、印形を貸す。翁の一家は、そのために、七十五万円の富豪から一躍、明日の米も無い窮迫に陥ってしまったが、それでも避難民張りの米喰虫は雲集するばかり……。  或る人が見かねて、 「これはイカン。何とかしてコンナ恥知らずの連中を逐い出さねば、先生の御一家は野タレ死にをしますぞ」  と忠告した。翁はニコニコと笑って疎髯を撫でた。 「まあそう、急いで逐い出さんでもええ。喰う物が無くなったらどこかへ行くじゃろ」  今一つノンセンス。翁と同郷の福岡に的野半助という愉快な代議士君が居た。この代議士君……頭山先生は人物が出来とるから禅学をやったらキット成功する……というので翁を掴まえ、禅学を説き立てた。翁は黙ってウンウンとうなずきながら聞いていたが、とうとうこの愉快な代議士君に引っぱり出されて鎌倉の円覚寺に釈宗演和尚を訪う事になった。  釈宗演和尚は人も知る禅風練達の英僧、且つ雄弁家で的野代議士の崇拝の的であった。さるほどに宗演老師は天下の豪傑頭山翁の来訪を喜んで、禅学に就いて弁ずる事|良久。徐ろに翁に問うて曰く、 「あんたは前にも禅学を志された事がありますかな」  翁曰く、 「ウム。在る。しかし素人じゃ」 「ハハア。誰に就いて御修業なされましたかな」  翁|傍に小さくなっている背広服の的野代議士をかえりみて、 「ナニ。コイツに習うただけじゃ」  釈宗演和尚唖然。  ツイこの間新聞を賑わした法政大学の騒動の時、教授の一人である山崎|楽堂氏が喜多文子五段の紹介か何かで単身、頭山翁を渋谷の自宅に訪問した。山崎楽堂氏は現代能評界に於ける一方の大御所で、単純率直、達弁の士である。  湯から上って来た頭山翁は、翁の居間にチョコンと坐っている楽堂君を見ると突立ったまま云った。 「君一人か」 「ハイ」  と答えつつ楽堂君は簡単に一礼した。翁はこの時既に法政騒動の成行と、楽堂氏の性格に関する概念を掴んでいたらしい事を、この簡単な問答の中から推測し得べき理由がある。  それから楽堂君が持って生まれた快弁熱語を以て滔々と法政騒動の真相を披瀝すると、黙々として聞いていた翁は、やがて膝の前に拡げられた法政騒動渦中の諸教授の連名に眼を落した。 「ウーム。あんまり複雑で、ワシにはよくわからんがのう。この教授の中で正しい事を主張しよる奴の頭の上に丸を附けてくれんか」  楽堂君ちょっと呆れたが命令通りに自分の味方の諸教授連の頭の上に丸を附けて見せると翁はニコニコと笑顔を見せた。 「フーム。正しい奴の方が、不正な奴よりもズット多いじゃないか」 「ハイ」  翁はマジマジと楽堂君の顔を見た。 「フフ。意気地がないのう。人数の多い方が負けよるのか」  楽堂君は返事に窮した。こう端的に子供アシライにされようとは思わなかったので、眼をパチパチさせていると翁は一層ニコニコし出した。 「ウムウム。まあええから、そげな騒動しよる連中を皆一緒にここへ連れて来なさい。わしが聞き役になってやるけに、両方で議論してみなさい。わしが正しい方に加勢してやる」  山崎楽堂氏は大喜びで帰ってこの旨を全教授に通告した。しかし折角の翁の心入れも、楽堂氏と反対側の諸教授の不出席によってオジャンとなったという。法政騒動裏面史の一席……。  どうしてコンナ巨大な平凡児が日本に出現したかという……つまり頭山満の立志伝を書けと云われると筆者も少々困る。頭山満翁には、元来立志伝なるものがない。古往今来、あらゆる英雄豪傑は皆、豪い者になろうと志を立ててから、その志に向って勇往|邁進したに相違ない。つまるところ志を立てなければ豪い者になれない訳であるが、頭山翁の生涯を見ると、その志なるものを立てた形跡がない。従ってその立志伝なるものの書きようがないから困るのだ。  勿論、頭山翁は若い時代に、維新後の日本が、西洋文化に心酔した結果、日に月に唯物的に腐敗堕落して行く状況を見て、これではいけないぐらいの事は考えたかも知れないが、それを救うためには自分が先ず大人物にならなければとか、実社会に有力な人物にならなければとか、又は大衆の人気を集めなければとか、人格者として尊敬されなければ……とかいったようなセセコマしい志を立てた形跡はミジンもない。持って生れた平々凡々式で、万事ありのまんまの手掴みで片付けて来ている。そこが頭山翁の古来ありふれた人傑と違っている点で、その平々凡々式の行き方が又、筆者をして頭山翁を好きにならしめた第一の条件になっているらしいのだ。  事実、頭山翁を平凡人なりと断定されて腹を立てる取巻きの非凡人諸君の中には、頭山翁が超特級の非凡人でなければ差支える連中が多いようである。頭山翁の爪の垢を煎じて第一に服ませてやりたい人間は、頭山翁を取巻くそんな非凡人諸君に外ならないのだ。  維新後、天下の大勢を牛耳って、新政府の政治と、新興日本の利権とを併せて壟断しようと試みた者は、所謂、薩長土肥の藩閥諸公であった。その藩閥政治の弊害を打破るべく今の議会政治が提唱され初めたものであるが、そもそもその薩長土肥の諸藩士が、王政維新、倒幕の時運に参劃し、天下の形勢を定めた中に、九州の大藩筑前の黒田藩ばかりが何故に除外されて来たのか。筑前藩には人物が居なかったのか。もしくは居るとしても、天下を憂い、国を想う志士の気骨が筑前人には欠けていたのかというと、ナカナカそうでない。事実はその正反対で、恐らく日本広しと雖も北九州の青年ほど天性、国家社会を患うる気風を持っている者はあるまいと思われる。そうした事実は、明治、大正、昭和の歴史に出て来る暗殺犯人が大抵、福岡県人である実例を見ても容易に首肯出来るであろう。  維新前の黒田藩には、西郷南洲、高杉晋作に比肩すべき大人物がジャンジャン居た。流石の薩州も一時は筑前藩の鼻息ばかりを窺っていた位である。有名な野村|望東尼を仲介として西郷、高杉の諸豪は勿論、その他の各藩の英傑が盛んに筑前藩と交渉した形勢は、筆者の幼少の時に屡々、祖父母から語って聞かされた事である。但しそれ等筑前藩の諸英傑が、何故に維新以後、音も香もなくこの地上から消え失せてしまったかという、その根元の理由に考え及ぶと、筆者も筆を投じて暗然たらざるを得ないものがある。  筆者の祖先は代々黒田藩の禄を喰んでいた者だから黒田様の事はあまり云いたくない。しかし何故に維新後に筑前閥が出来なかったか……という真相を明らかにするためには、どうしても左の二つの事実を挙げなければならぬ事を遺憾とする。 一、当時の藩公が優柔不断であった事。 二、黒田藩士が上下を問わず人情に篤く、従って藩公に対する忠志が、他藩の藩士以上に潔白であった事。  ところでここで今一つ、了解しておいてもらわねばならぬ事は、昔の各藩の藩士が日本の国体を知らなかった……換言すれば昔の武士というものは、自分の藩主以外に主君というものは認識していなかった事である。  これは誠に怪しからぬ事で、今の人には到底考えられない、同時にあまり知られていない大きな事実で、同時に時節柄、御同様まことに不愉快な史実ででもあり得るのであるが、しかしこの史実を認識しないで明治維新の歴史を読んでいると飛んでもない錯覚に陥る事がある。すくなくとも王政維新なる標語を各藩に徹底させるのが、どうして、あんなに骨が折れたのかと不思議の感に打たれるので、黒田藩では特にこうした傾向が甚しかった事が窺われるようである。  そこへ藩公が優柔不断と来ているからたまらない。佐幕派が盛んになると勤王派の全部に腹を切らせる。そのうちに勤王派が盛り返すと今度は佐幕派の全部を誅戮する。そうすると藩士が又、揃いも揃った正直者ばかりで、逃げも隠れもせずにハイハイと腹を切る……といった調子で、最初から一方にきめておけば、どちらかの人物の半分だけは救われたろうに、藩論が変るごとに行き戻りに引っかかってバタバタと死んで行ったのだからたまらない。とうとう黒田藩の眼星しい人物は、殆んど一人も居なくなってしまった。たまたま脱藩して生野の銀山で旗を挙げた平野次郎ぐらいが目っけもの……という情ない状態に陥った。  しかし世の中は何が仕合わせになるか、わからない。こうした事情で明治政府から筑前閥がノックアウトされたという事が、その後に於ける頭山満、平岡浩太郎、杉山茂丸、内田良平等々の所謂、福岡浪人の濶歩の原因となり、歴代内閣の脅威となって新興日本の気勢を、背後から鞭撻しはじめた。……何も、それが日本のために仕合せであったに相違ないと断定する訳ではない。随分迷惑な筋もあったに違いないが、しかしそうした浪人の存在が、西洋文化崇拝の、唯物功利主義の、義理も、人情も、血も、涙も、良心も無い、厚顔無恥の個人主義一点張りで成功した所謂、資本家、支配階級の悩みの種となり、不言不語の中に日本人特有の生命も要らず名も要らず、金も官位も要らぬ底の清浄潔白な忠君愛国思想を天下に普及、浸潤せしめた功績は大いに認めなければならぬであろう。  従って歴史に現われない歴史の原動力として、福岡人を中心とする所謂九州浪人の名を史上に記念しておく必要がないとは言えないであろう。  勿論浪人と雖も生きた血の通う人間である。家族もあれば睾丸もある。生命も金も官位も要らないとか何とか強情を張るにしても、そんな場面にぶつかる迄に何とかして喰い繋いで生きて行かなければならない。況んやその命を捧げた乾児どもが、先生とか、親分とかいって蝟集して、たより縋って来るに於てをやである。浪人生活の悩みは実に繋ってこの一点に存すると云っても過言でない。  だから……という訳でもあるまいが、彼等浪人生活者の中にはいつもその浪人式の圧迫力を利用して何かの利権を漁っている者が多い。しかしその漁り得た利権を散じて、何等か浪人的立場に立脚した国家的事業に邁進するならばともかく、一旦、この利権を掴むと、今まで骨身にコタエた浪人生活から転向をして、フッツリと大言壮語を止め、門戸を閉して面会謝絶を開業する者が珍らしくない。又はこれを資本として何等かの政権利権に接近し、ついこの間まで攻撃罵倒していた、唯物功利主義者のお台所に出入して、不純な栄華に膨れ返っている者も居る。もっとも、そんなのは浪人の中でも、第一流に属する部類で、それ以下の軽輩浪人に到っては、浪人と名づくるのも恥かしいヨタモンとなり、ギャングとなり、又は、高等乞食と化しつつ、自分の良心は棚に上げて他人の良心の欠陥を攻撃し、頼まれもせぬのに天下国家、社会民衆の事を思うているのは自分一人のような事を云って、放蕩無頼の限りをつくし、親兄弟を泣かせている者も居る。生命が惜しくて名誉が欲しくて、金や職業が、焦げつくほど欲しい浪人が滔々として天下に満ち満ちている状態である。  その中に吾が頭山満翁は超然として、一依旧様、金銭、名誉なんどは勿論の事、持って生れた忠君愛国の一念以外のものは、数限りもない乾分、崇拝者、又は頭山満の沽券と雖も、往来の古|草鞋ぐらいにしか考えていないらしい。否現在の頭山満翁は既に浪人界の巨頭なぞいう俗な敬称を超越している。そこいらにイクラでも居る好々爺ぐらいにしか自分自身を考えていないらしい。  嘗て筆者は数寄屋橋の何とか治療の病院に通う翁の自動車に同乗させてもらったことがある。その時に筆者は卒然として問うた。 「どこか、お悪いのですか」 「ウム。修繕りよるとたい。何かの役に立つかも知れんと思うて……」  その語気に含まれた老人らしい謙遜さは、今でも天籟の如く筆者の耳に残っている。  以下は筆者が直接翁から聞いた話である。 「世の中で一番恐ろしいものは嬶に正直者じゃ。いつでも本気じゃけにのう」 「四五十年も前の事じゃった。友達の宮川太一郎が遣って来て、俺に弁護士になれと忠告しおった。これからは権利義務の世の中になって来るけに、法律を勉強して弁護士になれと云うのじゃ。その後、宮川は牛乳屋をやっておったが、まだ元気で居るかのう。俺に弁護士になれと云うた奴は彼奴一人じゃ」  又或時傍の骨格逞しい眼付きの凄い老人に筆者を引合わせて曰く、 「この男は加波山事件の生残りじゃ。今でも、良え荷物があれば直ぐに引っ担いで行く男じゃ」 「西郷南洲の旧宅を訪うたところが、川口|雪蓬という有名な八釜し屋の爺が居った。ドケナ名士が来ても頭ゴナシに叱り飛ばして追い返すという話じゃったが、俺は南洲の遺愛の机の上に在る大塩平八郎の洗心洞※記を引っ掴んで懐中に入れて来た。それは南洲が自身で朱筆を入れた珍らしいものじゃったが、その爺が鬼のようになって飛びかかって来る奴を、グッと睨み付けてサッサと持って来た。それから俺は日本廻国をはじめて越後まで行くうちに、とうとうその本を読み終ったので、叮嚀に礼を云うて送り返しておいたが、ちょっと面白い本じゃったよ」  これ程の豪傑、頭山満氏がタッタ一つ屁古垂れた話が残っているから面白い。  その日本漫遊の途次、越後路まで来ると行けども行けども人家の無い一本道にさしかかった。同伴者がペコペコに腹が減っていたのだから無論、大食漢の頭山満氏も空腹を感じていたに相違ないのであるが、何しろ飯屋は愚か、百姓家すら見当らないので、皆空腹を抱えながら日の暮れ方まで歩き続けた。  そのうちに、やっと一軒の汚ない茶屋が路傍に在るのを発見したので、一行は大喜びで腰をかけて、何よりも先に飯を命じた。ちょうど頭山満氏が第一パイ目の飯を喰い終るか終らない頃、その茶屋の赤ん坊が、頭山満氏のお膳の上の副食物を眼がけて這いかかって来るうちに、すこしばかり立上ったと思うと、お膳の横に夥しい粘液を垂れ流し、その上に坐って泣き出した。  それと見た茶屋の女房が、直ぐに走り上って来て、何かペチャクチャ云い訳をしながら、自分の前垂れを外して、その赤ん坊の尻を拭い上げて、その粘液の全部を前垂れにグシャグシャと包んで上り口から投げ棄てると、そのまま臭気芬々たる右手を頭山満氏の前に差出した。 「ヘイ。あなた、お給仕しましょう。もう一杯……」  頭山満氏黙々として箸を置いた。 「モウ良え。お茶……」  頭山翁の逸話は数限りもない。別に一冊の書物になっている位だからここにはあまり人の知らないものばかりを選んで書いた。あんまり書き続けているうちに、諸君の神経衰弱が全癒り過ぎては却って有害だからこの辺で大略する。  次は現代に於ける快人中の快人、杉山茂丸翁に触れて見よう。 杉山茂丸  杉山|茂丸なる人物が現代の政界にドレ位の勢力を持っているか、筆者は正直のところ、全然知らない。どんな経歴を以て、如何なる体験を潜りつつ、あの物すごい智力と、不屈不撓の意力とを養い得て来たかというような事すら知らない。恐らく世間でも知っている人はあるまいと思われるので、筆者が知っているのは、そこに評価の不可能な彼……杉山茂丸の真面目がスタートしている事と、同時に、そうであるにも拘らず、その古今の名探偵以上の智力と、魅力とをもって、政界の裡面を縦横ムジンに馳けまわり、馳け悩まして行く、その怪活躍ぶりが今日まで、頭山満翁と同様に、新青年誌上に紹介されないのは嘘だという事を知っているのみである。  杉山茂丸は福岡藩の儒者の長男として生れた。そうして維新改革後、父母と共に先祖伝来の知行所に引込み、そこで自ら田を作り、鍬の柄や下駄を製作し、又は父から授かった漢学を父の子弟に講義し、小学校の先生もつとめた事もあるという。その他の智識としては馬琴、為永の小説や経国美談、浮城物語を愛読し、ルッソーの民約篇とかを多少|噛っただけである。中村|正直訳の西国立志篇を読んだか読まぬかはまだ聞いた事がないが、いずれにしても杉山茂丸事、其日庵主の智情意を培った精彩が、右に述べたような漢学|一と通りと、馬琴、為永、経国美談、浮城物語、西国立志篇程度のもので、これに、後年になって学んだ義太夫の造詣と、聞き噛り式に学んだ禅語の情解的智識を加えたら、彼の精神生活の由来するところを掴むのは、さまで骨の折れる仕事ではあるまい。勿論彼の先天的に持って生まれた智力と、勇気は別問題にしての話である。  明治と共に生れ、明治と共に老いて来た彼は明治維新の封建制度破壊以後、滔々として転変推移する、百色眼鏡式の時勢を見てじっとしておれなくなった。このままに放任しておいたら日本は将来、どうなるか知れぬ。支那から朝鮮、日本という順に西洋に取られてしまうかも知れぬと思ったという。その時代の西洋各国の強さ、殊に英国や露西亜の強さと来たら、とても現代の青年の想像の及ぶところでなかったのだから……。  杉山茂丸は茲に於て決然として起った。頑固一徹な、明治二十年頃まで丁髷を戴いて、民百姓は勿論、朝野の名士を眼下に見下していた漢学者の父、杉山三郎平|灌園を説き伏せて隠居させ、一切の世事に関与する事を断念させて自身に家督を相続し、一身上の自由行動の権利を獲得すると同時に、赤手空拳、メクラ滅法の火の玉のようになって実社会に飛出したのが、彼自身の話によると十六歳の時だったというから驚く。大学を卒業してもまだウジウジしていたり、親から月給を貰ってスイートホームを作ったりしている連中とは無論、比較にならない火の玉小僧であった。  その頃、彼の郷里、福岡で、豪傑ゴッコをする者は当然、一人残らず頭山満の率ゆる玄洋社の団中に編入されなければならなかった。だから彼も必然的に頭山満と交を結んで、濛々たる関羽髯を表道具として、玄洋社の事業に参劃し、炭坑の争奪戦に兵站の苦労を引受けたり、有名な品川弥二郎の選挙大干渉に反抗して壮士を指揮したりした。それが彼の二十歳から二十四五歳前後の事であったろうか。  しかし彼は他の玄洋社の諸豪傑連と聊か選を異にしていた。その頃の玄洋社の梁山泊連は皆、頭山満を首領とし偶像として崇拝していた。頭山満が左の肩を揚げて歩けば、玄洋社の小使まで左の肩を怒らして町を行く。頭山満が兵児帯を掴めば皆同じ処を掴む……といった調子であったが、杉山茂丸だけはソンナ真似を決してしなかった。否、むしろ玄洋社のこうした気風に対して異端的な考えをさえ抱いていたらしい事が、玄洋社を飛出してから以後の彼の活躍ぶりによって窺われる。  彼は玄洋社の旧式な、親分|乾分式の活躍、又は郷党的な勢力を以て、為政者、議会等を圧迫脅威しつつ、政界の動向を指導して行く遣口を、手ぬるしと見たか、時代|後れと見たか、その辺の事はわからない。しかし、たしかにモット近代的な、又は実際的な方法手段をもって、独力で日本をリードしようと試みて来た人間である事は事実である。  事実、彼には乾児らしい乾児は一人も居ない。乾児らしいものが近付いて来る者はあっても、彼の懐中から何か甘い汁を吸おうと思って接近して来る者が大部分で、彼の人格を敬慕するというよりも、彼の智恵と胆力を利用しようとする世間師の部類に属する者が多く、それ等の煮ても焼いても喰えない連中を巧みに使いこなして自分の仕事に利用する。そうして利用するだけ利用して最早使い手がないとなると弊履の如く棄ててかえりみないところに、彼の腕前のスゴサが常に発揮されて行くのである。嘗て筆者は彼からコンナ話を聞いた。 「福沢桃介という男が四五年前に、福岡市の電車を布設するために俺に接近して来たことがある。俺は彼に利用される振りをして、彼の金を数万円使い棄てて見せたら、彼奴め、驚いたと見えて、フッツリ来なくなってしまった。ところが、この頃又ヒョッコリ来はじめたところを見ると、何喰わぬ顔をして俺に仇討ちをしに来ているらしいから面白いじゃないか。だから俺も一つ何喰わぬ顔をして彼奴に仇を討たれてやるんだ。そうして今度は前よりもウンと彼奴の金を使ってやるんだ。事によると彼奴めが俺に仇を討ち終せた時が身代限りをしている時かも知れぬから見ておれ」  因に彼……杉山其日庵主は、こうした喰うか喰われるか式の相手に対して最も多くの興味を持つ事を生涯の誇りとし楽しみとしている。そうして未だ嘗て喰われた事がないことを彼に対して野心を抱く人々の参考として附記しておく。  話がすこし脱線したが、其日庵主は玄洋社を離脱してから海外貿易に着眼し、上海や香港あたりを馳けまわって具に辛酸を嘗めた。  その上海や香港で彼は何を見たか。  その頃は支那に於ける欧米列強の国権拡張時代であった。従って彼、杉山茂丸は、その上海や香港に於て、東洋人の霊と肉を搾取しつつ鬱積し、醗酵し、糜爛し、毒化しつつ在る強烈な西洋文化のカクテルの中に、所謂|白禍の害毒の最も惨烈なものを看取したに違いない。資本主義文化が体現するところの、虚無思想、唯物思想の機構の中に、血も涙も無い無良心な、獣性丸出しの優勝劣敗哲学と、功利道徳の行き止まり状態を発見したに違いない。そうして王政維新後、滔々たる西洋崇拝熱と共に鵜呑みにされて来た、こうした舶来の思想に侵犯され、毒化されて行きつつ在る日本の前途を見て、逸早く寒毛樹立したに違いない。  当時の藩閥と、政党者流の行き方は、正にこの西洋流の優勝劣敗哲学、唯物一点張りの黄金崇拝式功利道徳の顕現であった。外国の政治組織を日本の政体の理想とし、権利義務式の功利道徳、法律的理論を以て日本の国体を論じ合いつつ上下共に怪しまなかった時代であった。  その中に、藩閥にも属せず、政党の真似もしない玄洋社の一派は、依然として頭山満を中心として九州の北隅に蟠まりつつ、依然として旧式の親分|乾分、友情、郷党関係の下に、国体擁護、国粋保存の精神を格守しつつ、日に日に欧化し、堕落して行く藩閥と政党を横目に睨んで、これを脅威し、戦慄せしめつつ、無けなしの銭を掻き集めては朝鮮、満蒙等の大陸的工作に憂身を窶して来た。  その中に政党屋流にも堕せず、玄洋社流にも共鳴しなかった彼、杉山其日庵主は、単身|孤往、明治後半期の政界の裡面にグングンと深入りして行った。 「玄洋社一流の真正直に国粋的なイデオロギーでは駄目だ。将来の日本は毛唐と同じような唯物功利主義一点張りの社会を現出するにきまっている。そうした血も涙も無い惨毒そのもののような社会の思潮に、在来の仁義道徳『正直の頭に神宿る』式のイデオロギーで対抗して行こうとするのは、西洋流の化学薬品に漢法の振出し薬を以て対抗して行くようなものだ。その無敵の唯物功利道徳に対して、それ以上の権謀術数と、それ以上の惨毒な怪線を放射して、その惨毒を克服して行けるものは天下に俺一人しか居ない筈だ。だから俺は、俺一人で……ホントウに俺一人で闘って行かねばならぬ。俺みたいな人間はほかに居る筈がないと同時に、俺みたいな真似は他人にさせてはならないのだ。だから俺は、どこまでも……どこまでも俺一人で行くのだ」  彼は若いうちに、そう悟り切ってしまったらしい。そうして今日までもこうした悟りを以て生涯を一貫して行く覚悟らしく見える。  それから後の彼は実際、目的のために手段を選まなかった。そうして乾児らしい乾児を一人も近づけないまま、万事タッタ一人の智恵と才覚でもって着々として成功して来た。  彼はソレ以来いつも右のポケットに二三人の百万長者を忍ばせていた。そうして左のポケットにはその時代時代の政界の大立物を二三人か四五人忍ばせつつ、彼一流の活躍を続けて来た。「俺の道楽は政治だ」と口癖のように彼は云い続けて来たのであるが、しかし彼が果して、どんな政治を道楽にして来たか、知っている者は一人も居ない。同時に彼の左右のポケットに入れられている財界、政界の巨頭連が、どうして彼のポケットに転がり込んで来たか……もしくは転がり込ませられて来たか、知っているものは一人も居ないようである。そうして唯驚いて、感心して、彼の事を怪物怪物と評判して、彼のためにチンドン屋たるべく利用されているようである。  事実、彼は現代に於ける最高度の宣伝上手である。彼に説明させると日清日露の両戦争の裡面の消息が手に取る如くわかると同時に、その両戦役が、彼の指先の加減一つで火蓋を切られた事が首肯されて来る。世人はだから彼を綽名して法螺丸という。しかし一旦、彼に接して、彼の生活に深入りしてみると、その両戦役前後に於ける朝野の巨頭連は皆、彼の深交があった事がわかる。事ある毎に彼に呼び付けられて、お説教を喰って引退っていた事が、事実上に証明されて来る。そこで、イヨイヨホントウに心の底から驚いて、彼に何等かの御利益を祈願すべく、お賽銭を懐にして参詣して来る実業家が何人居るかわからない。そうして彼が絶対にお賽銭を取らない神様である事がわかるにつれてイヨイヨ崇拝敬慕の念を高める事になって来る。  そんな人間にはイクラ云って聞かせる者が居てもわからない。 「君は法螺丸の法螺に引っかかっているのだ。そんな朝野の名士連は、皆、法螺丸に一身上の秘密や弱点を握られているか又は、彼等自身が法螺丸の巧妙、精密を極めた話術に魅せられて、法螺丸にそれだけの実力があるものと信じさせられているのだ。彼が古今無双のシャーロック・ホームズであると同時に、前代未聞のアルセーヌ・ルパンである事を君は知らないのだ。彼はそんな調子で現代日本の政界財界に、あらゆる機会を利用して法螺の空小切手を濫発している。その空小切手を掴んだ連中は、その空小切手を潰されちゃ堪らないもんだから、寄ってたかってその空小切手を裏書きすべく余儀なくされているのだ。福沢桃介が法螺丸にシテヤラレた話だって、眉唾ものかも知れないんだよ」  と狐を落すように卓をたたいても、 「イヤ。たしかに法螺丸は豪いと思うね。それだけの空小切手を廻すだけでも、並の人間には出来ない事じゃないか」  といったような事になってしまう。  事実、法螺丸の法螺は、大隈重信の法螺とは段違いのところがある。少くとも大隈重信の法螺は、百科辞典の範疇を出でないのに対して、法螺丸の法螺はたしかに百科辞典を超越した一種の洒落気と魔力とを兼ね備えている。たとえば医学博士を掴まえて医術の講釈をこころみ、禅宗坊主を向うに廻わして禅学の弊害を説教する。三井物産の重役が来ると不景気の救済策を授け、外務大臣が来ると軍部の実力を説いて感心させ、軍部の首脳部と会談すると外交の妙諦を説法して頭を掻かせる。皆、彼、法螺丸一流の悪魔のような理解力と、記憶力を基礎として、彼一流の座談の妙諦を駆使した、所謂、巧妙な空小切手であるのみならず、三時間でも五時間でもタッタ一人で喋舌っておいて、そんな連中が帰ると直ぐに、あとから訪問して待っていた客に、 「イヤ。どうもお待たせしました。彼奴が来ると長尻でね。僕の所を煩悶解決所と心得て一人で喋舌って帰るのでね」  なぞとズバズバやるので、相当気の強い連中でもグラグラと参ってしまう。法螺丸の法螺がイヨイヨ後光がさして来る事になる。  次に、法螺丸の法螺の実例を列挙してみる。  医学博士を掴まえて曰く、 「医者という商売は、商売とは云えませんね。何より先に脈を手に取る瞬間から、こいつを殺してやろうとは思っていない。たしかに助けてやろうと思っているのだから、商売とは云い条、全然、商売気を離れている。人の面さえ見れば儲けてやろうと思っている奴ばかり多い世の中にタッタ一つ絶対に信用出来るのはお医者様ですね」  と来るから大抵の医学博士は感心してしまう。すっかり喜んでしまって、自分の苦心談や、研究の内容なぞをドン底まで喋舌ってしまう。法螺丸は又、そいつを地獄耳の中に細大洩らさずレコードしておいて、ほかの医学博士に応用する。 「独逸の医学も底が見えて来ましたね。たとえばインシュリンの研究なんか……」  なぞと引っ冠せて来るから肝を潰してしまう。その肝の潰れた博士を選んで法螺丸は、政界の有力者の処へ腎臓病のお見舞に差し遣わすのだから深刻である。  禅宗坊主が寄附を頼みに来ると法螺丸曰く、 「禅宗は仏教のエキスみたいなものですな。面壁九年といって、釈迦一代の説法、各宗の精髄どころを達磨という蒸溜器に容れて煎じて、煎じて、煎じ詰める事九年、液体だか気体だかわからない。マッチで火を点けるとボーッと燃えてしまって、アトカタも残らない。最極上のアルコールみたいな宗旨が出来上った。ところで、それは先ず結構としても、その最極上のアルコールをアラキのまま大衆に飲ませようとするからたまらない。大抵の奴は眼を眩わして引っくり返ってしまう。それから中毒を起して世間の役に立たなくなる。物を言いかけても十分間ぐらい人の顔をジイッと見たきり返事をしないような禅宗カブレの唐変木が出来上る。又は浮世三|分五|厘、自分以外の人間はミンナ影法師ぐらいにしか見えない。義理人情を超越してしまうから他人の物も自分のものも区別が付かない。女も、酒も、金も、職業も要らない。その代り縦の物を横にもしない。電車に乗せるたんびに終点まで行ってしまうような健康な精神病者や痴呆患者が出来上る。そんな禅宗病患者が殖えたら日本は運の尽きだと思いますよ。私も考えますから、貴方がたもよく考えて下さい」  といったような事を云われると、相手も宗教の問答に来たのじゃない。寄附を頼みに来た弱味があるのだから歩が悪い。「喝」とも何とも云わずに帰ってしまう。  潰れかかった銀行屋さんが来て、救いを求めると、法螺丸は背中を撫でてやらんばかりにして慰める。曰く、 「そんなに心配しているとその心配で銀行が潰れてしまうよ。百円紙幣が銀行を経営しているのじゃない。人間が百円紙幣を使って銀行をやっているんだから、人間さえシッカリしておれば、潰れる気づかいはないもんだよ。金が無くなると同時に銀行が潰れるように思うのは、世間を知らないで算盤ばっかり弾いている人間特有の錯覚なんだよ。ウンと頑張り給え。世間は広いんだ。人間万事、気で持って行くんだ。金なんか気持ちの家来みたいなもんだ。コンナ話がある聞き給え。二百万や三百万の金は屁でもなくなる話だ。  日清戦争以前の事だったが、支那の横暴を憎み、露西亜の東方経略を警戒した玄洋社の連中が、生命知らずの若い連中を満蒙の野に放って、恐支病と恐露病に陥っている日本の腰抜け政府を激励し、止むを得なければ玄洋社の力で戦争の火蓋を切ってやろうというので、寄ると触ると腕を撫でたり四股を踏んだりしたもんだが、生憎な事に金が一文も無い。むろん頭山満も貧乏の天井を打っている時分だ。俺にも相談だけはしてくれたが、三月縛り三割天引という東京切ってのスゴイ高利貸連を片端から泣かせて、 かくばかりたふしても武蔵野の   原には尽きぬ黄金草かな  なんてやってた時代だから満蒙経営どころか、わが家賃を払うのすら勿体ない非常時なんだ。  そこへ誰が聞いて来たか、ドエライ話が転がり込んで来たもんだ。その頃まだ元気で居た日本一の正直物、大井憲太郎という爺さんが、眼の色を変えて担ぎ込んだ話のようにも思うが、とにかくこんな話だ。……その頃まで北海道の砂金といったらカリフォルニヤの向う張る勢いで、しかも夕張川の上流の各支流の源泉附近は到る処、砂金ならざるなしという評判で、全国の成金病患者がワンワンと押しかけていたものだ。……ところが不思議な事に、その砂金が、本流の夕張川の下流に在る名前は忘れたが一つの大きな滝を段階として、その下流には一粒の砂金も見当らない。つまるところ、その滝壺の底にはイザナギ、イザナミの尊以来、沈澱している砂金が、計算してみると四百億円ぐらいは在るらしい……というのだ。エライ事を考えたもんだ。  これには流石の頭山満もチョイト本気になったらしい。俺も貧すれば鈍するでスッカリ共鳴してしまって技師を派遣する費用の調達を引受ける事になった。つまりその滝の横に運河を掘ってその滝の上流を堰き止めて、滝壺の水を掻き干して、底の方に溜まっている四百億円の砂金をスコップで貨車へ積み込もうという曠古の大事業だ。その費用を調達のために俺は白真剣になって東奔西走したものだ。その頃雇っていた抱え俥の車夫に、もしこの事業に成功した暁には、貴様に米俵一杯の砂金を遣ると云ったもんだから、真に受けた俥夫の奴め真夏の炎天をキチガイのように走りまわったものだが、一方にこの話が玄洋社の連中に伝わった時の壮士連の活気付きようと来たら、それこそ前代未聞の壮観だったね。四百億円あれば、朝鮮、支那、満洲、手に唾して取るべしと云うのだ。アトは宜しくお願いしますというので弦を離れた矢のように、手弁当でビュービューと満洲へ飛んで行く。到る処に根を下し、羽根を拡げて、日本内地から来る四百億円を待っている……という勇敢さだ。その中に俺の軍資金調達が不可能になって、この話はオジャンになった。一番残念がったのは俺の俥屋だったが、満洲に根を下した豪傑連は、そんな事はわからない。一秒もジッとしておれない連中だからグングンと活躍を続けて行く。日清日露の両戦役に彼等の活躍がドレ位助けになったかわからない。現在の満洲国の独立は夕張川の四百億円の御蔭と云ってもいい位だ。否、玄洋社連の四百億円の夢が、満洲に於て現実化されたと云ってもいいだろう。世の中というものは、そんなものだ。シッカリさえしておれば恐ろしい事はない。気を大きく持って時節を待ち給え。四百億円というと大戦後の独逸を、カイゼルもヒンデンブルグもヒトラーもコミにして丸ごと買える金額だからね。それ位の夢は時々見ていないと早死にをするよ。ハハハハ」  可哀相にスッカリ気まりが悪くなった銀行家は、法螺丸の俥引きにも劣るというミジメな烙印を捺されて、スゴスゴと帰って行く。  デモクラシーと社会主義の華やかなりし頃、法螺丸の処に居る秘書役みたいな書生さんが、或る時雑誌を買って来て、その中に書いてあるサンジカリズムの項を、先生の法螺丸氏に読んで聞かせた。するとその翌る日のこと、東京市長をやっていた親友の後藤新平氏が遣って来たので、法螺丸は早速引っ捉えて講釈を始めた。  法螺丸「貴公はこの頃|仏蘭西で勃興しているサンジカリズムの運動を知っているか」  後藤新平「何じゃいサンジカリズムというのは……」  法螺丸「これを知らんで東京市長はつとまらんぞ。今の社会主義やデモクラシーなんぞよりも数層倍恐ろしい破壊思想じゃ」  後藤新平「ふうむ。そんな恐ろしい思想があるかのう。話してみい」  法螺丸「心得たり」  というので、昨日聞いたばかりのホヤホヤのサンジカリズムの話を、その雑誌丸出しの内容に輪をかけたケレンやヨタ交りに、面白おかしく講釈すること約二時間、流石の後藤新平氏も言句も出ずに傾聴すると「シンペイ」するなとも何とも云わずに、大急ぎで帰って行った。アトに昨日雑誌を読んで聞かせた書生さんが手に汗を握ったままオロオロしているのに気が付いた法螺丸、ハッとするにはしたらしいが、何喰わぬ顔で、 「面白いだろう。後藤新平というのは存外正直もんじゃよ」  そもそも杉山法螺丸が、どこからこれ程の神通力を得て来たか。生馬の眼を抜き、生猿の皮を剥ぎ、生きたライオンの歯を抜く底の神変不可思議の術を如何なる修養によって会得して来たか。  請う先ず彼の青年に説くところを聞け。 「竹片で水をタタクと泡が出る。その泡が水の表面をフワリフワリと回転して、無常の風に会って又もとの水と空気にフッと立ち帰るまでのお慰みが所謂人生という奴だ。それ以上に深く考える奴がすなわち精神病者か、白痴で、そこまで考え付かない奴が所謂オッチョコチョイの蛆虫野郎だ。この修養が出来れば地蔵様でも閻魔大王でも手玉に取れるんだ。人生はそう深く考えるもんじゃない。あんまり深く考えると、人生の行き止まりは三原山と華厳の滝以外になくなるんだ。三十歳まで大学に通ってベースボールをやる必要なんか無論ないよ」 「其日庵という俺の雅号の由来を知っているかい。これは俺の処世の秘訣なんだから、少々惜しいが説明して聞かせる。論語の中で会参は日に三度己をかえりみると云った。基督は一日の苦労は一日にて足れりと云ったが、俺は耶蘇教ではないが其日暮しが一番性に合っているようだね。……まず……朝起きると匆々から飯を喰う隙もないくらいジャンジャン訪問客が遣って来る。一番多いのが就職口と高利貸で、親の脛を噛じって野球をやったり、女給の尻を嗅ぎまわったり、豆腐屋の喇叭みたいな歌を唄ったりした功労によって卒業免状という奴を一枚貰うと、そいつをオデコの中央に貼り付けて就職の権利でも授かった気で諸官庁会社を押しまわる。親爺も亦親爺で、伜を育てるのと債券を買うのと同じ事に心得ているんだから遣り切れない。そこで就職出来ないとなると世の中が悪いと云って俺の処へ訴えに来る。俺が世の中じゃなし、知った限りではないんだが、そんな連中もたしかに世の中の一部分で、所謂大衆に相違ないんだから仕方なしに俺の責任みたような顔をして文句を聞いてやるんだ。高利貸は又高利貸で、勝手に俺の印形を信用して、手前一存の条件を附けて貸しやがった連中だ。中には一面識もない奴の借銭も混っているんだが、俺が議会に命じて作らせた法律というものを楯に取って来るから仕方ない。日歩五銭ぐらいを呉れるつもりで会ってやるんだ。その次が大臣病患者、政権利権の脾胃虚病み、人格屋の私生児の後始末、名家名門の次男三男の女出入りの尻拭い、ボテレン芸者の身上相談、鼻垂れ小僧と寝小便娘の橋渡しに到るまで、アラユル社会の難物ばかりが、ハキダメみたいに杉山博士の診察、投薬を仰ぎに来る。しかもどの患者もどの患者も方々の名医の処を持ってまわって、コジラかした上にもコジラかした救うべからざる鼻ポンや骨がらみばかりがウヨウヨたかって来るんだから敵わない。  もっともそういうこっちもお上に鑑札を願っている専門医じゃないのだから、診察料や薬礼は一切取らない。その代りに万一助からなくたって責任は無い。殺すつもりで生かしたり、生かすつもりで殺したりする事も珍らしくないんだが、毛頭怨まれる筋はないんだから呑気な商売だ。ともかくも会ってやって、ともかくも病状を聞いてやる。金が有れば払ってやる。面識がある奴には紹介してやる。信用があれば小切手でも何でも書いてやる。それでも方法の附かない難物は、考えておいてやるから明日来いと云って一先ず追っ払っておく。むろん明日来たって明後日来たって成算の立ちっこない難物ばかりだが、アトは野となれ山となれだ。その日一日を送りさえすればいいのだから、他人の迷惑になろうが、後になって大事件になることが、わかり切っていようが構わない。盲目滅法に押しまくってその日一日を暮らす。それから妻子や書生の御機嫌取りだが、これも生きている利子と思えば何でもない。好きな小説本か何か読んで何も考えずに寝てしまう。  サテ翌る朝になったと見えて雀の声がする。パッチリと眼を開くとサア今日こそは大変な日だぞ。昨日の尻は勿論の事、一昨日、再昨日……昨年、一昨年の尻が一時に固まって来る日だぞと覚悟して待っているとサア来るわ来るわ。あらん限りのヨタや出鱈目を並べたり、恩人を裏切ったり、正直者を欺したりした方法でもって押し送って来た過去の罪業が、一時に鬨の声をあげて押しかけて来る。貴様が教えた通りに喋ったら議会の空気が悪化して解散になりそうになった。万一解散になったら俺は一文も運動費が無いとあれほど云っておいたではないか、という代議士や、貴方のお世話で娘を嫁に遣ったら相手は梅毒の第三期だったと大声をあげて泣く母親や、先生から貰った小切手は銀行で支払いませんというのや、貴方の紹介状に限って大臣は会わないと云います。其日庵の紹介には懲り懲りだという話です。お蔭で会社が潰れて二百名の職工が路頭に迷いますというのや、貴方の乾分の弁護士の御蔭で三年の懲役が五年になりました。そのお礼を申上げに来ましたという紋々倶利迦羅なんどが、眼の色を変えて三等急行の改札口みたいに押かけて来る。地獄に俺みたいな仏様が居るか居ないか知らないが、居るとしたら読むお経は一行も無いね。空気が在るから仕方なしに生きている。生きているから腹が減るのは止むを得ないという連中ばかりが、元来持って行き処のない尻を俺の処へ持って来るんだ。まあまあ待ったり、君等は自分の用事さえ済めば、アトは俺が死んでも構わない了簡だろう。自分の尻を他人に拭いてもらう奴を小児といい、自分の垂れ物を自分で片付ける奴を大人という。君は元来大人なのか小供なのか。前をまくって見せろ……とか何とか云って追っ払ってしまうが、その手の利かない奴は、仕方がないから前に倍した手酷い手段で押し片付けて行く。明日の事は考えない。きょうさえ片付けばいいという方針だから、何を持って来たって驚かないんだ。  尤もこの頃は年を老ったせいか、人に会うのと、字を書くのが大儀になった。心臓にコタエて息が切れたり脈が結滞したりするから、面会と字書きを御免蒙っている。一方から云うと、そんな自分の尻を持て余しているような連中の尻をイクラ拭いてやったって相手は当り前だと心得ている。俺に尻を拭いてもらうのを楽しみにイクラでも不始末を仕出かす事になる。結局、そんな世話を続行するのは日本亡国の原因を作るようなものだとつくづくこの頃思い当ったせいでもあるんだがね」  こうして縷述して来ると彼の法螺の底力は殆んど底止するところを知らない。 「自ら王将を以て任ずる奴は天下に掃き棄てる程居る。金将たり、銀将たり、飛車角、桂香を以て自ら任じつつ飯喰い種にして行く者が滔々として皆|然りであるが、その飯喰い種を皆棄てて、将棋盤の外にいて将棋を指している奴は、なかなか居るものでない。だから世間の事が行き詰まるんだ。あぶなくて見ていられなくなるんだ」  という、頭山満以上の超凡超聖的彼自身の自負的心境を、そっくりそのまま認めてやらなければならなくなって来るのであるが、彼とても人間である。時と場合によっては平凡人以下の血もあり涙もあるばかりでない。彼の手に合わない人物も多少は出現して来るのだから面白い。  頭山満曰く、 「杉山みたような頭の人間が又と二人居るものでない。彼奴は玄洋社と別行動を執って来た人間じゃが、この間久し振りに合うた時には俺の事を頭山先生と云いおった。ところがその次に会うた時は『頭山さん』とさん付けにして一段格を落しおったから、感心して見ていると、三度目に会うた時は頭山君と云うて又一段調子を下げおった。今に俺を呼び棄ての小僧扱いにしおるじゃろうと思うて楽しみにして待っとる」  これは杉山法螺丸の一番痛いところに軽く触れた言葉で、実に評し得て妙と云うよりほかはない。  又或る時、杉山法螺丸が何かのお礼の意味か何かで、頭山満に千円以上もする銘刀を一口贈った事がある。無論、飛切り上等の拵附きで、刀剣道楽の大立物其日庵主が大自慢のシロモノであったが、その後、法螺丸が頭山満を訪問して、 「どうだ。あの刀は気に入ったか」  と云うと頭山満ニッコリして曰く、 「うむ。あれはええ刀じゃった。質屋に持って行ったら三十円貸したぞ。又あったら持って来てくれい」  其日庵主もこれには少々驚いたらしい。帰って来て曰く、 「モウ頭山に物は遣らぬ。あいつの伜に遣った方がええ」  法螺丸には男の児が一人しか居ない。これが親仁とは大違いの不肖の子で、 「俺みたいな人間になる事はならぬぞ」  という訓戒を文字通りに固く守って、托鉢坊主になったり、謡曲の師匠になったり又は三文文士になったりして文字通りに路頭に迷いそうなので、親仁も呆れて、感心な奴だと賞めながら月給を支給している。 「俺の伜は実に呆れた奴だ。小説を出版してくれと云うから読んでやると、最初の一二行読むうちに、何の事やらわからなくなる。屁のような事ばかりを一生懸命に書き立てているのでウンザリしてしまう。たまたま俺にわかりそうな処を読んでみるとツイこの間、ヒドク叱り付けてやった俺の云い草をチャント記憶ていやがって、そっくりその通りを小説の中味に採用していやがるのには呆れ返った。娘を売って喰う親は居るが、親を売って喰う伜が居るもんじゃない。一生涯あの伜だけは叱らない事にきめた」  因に、その伜の筆名は夢野久作という。親父の法螺丸が山のように借銭を残して死んでやろうと思っているとは夢にも知らずに、九州の香椎の山奥で、妻子五人を抱えて天然を楽しんでいる。焼野の雉子、夜の鶴。この愚息なぞも法螺丸にとっては、頭山満と肩を並べる程度の苦手かも知れない。 奈良原到  前掲の頭山、杉山両氏が、あまりにも有名なのに反して、両氏の親友で両氏以上の快人であった故奈良原|到翁があまりにも有名でないのは悲しい事実である。のみならず同翁の死後と雖も、同翁の生涯を誹謗し、侮蔑する人々が尠くないのは、更に更に情ない事実である。  奈良原到翁はその極端な清廉潔白と、過激に近い直情径行が世に容れられず、明治以後の現金主義な社会の生存競争場裡に忘却されて、窮死した志士である。つまり戦国時代と同様に滅亡した英雄の歴史は悪態に書かれる。劣敗者の死屍は土足にかけられ、唾せられても致方がないように考えられているようであるが、しかし斯様な人情の反覆の流行している現代は恥ずべき現代ではあるまいか。  これは筆者が故奈良原翁と特別に懇意であったから云うのではない。又は筆者の偏屈から云うのでもない。  志士としては成功、不成功なぞは徹頭徹尾問題にしていなかった翁の、徹底的に清廉、明快であった生涯に対して、今すこし幅広い寛容と、今すこし人間味の深い同情心とを以て、敬意を払い得る人の在りや無しやを問いたいために云うのである。  その真黒く、物凄く輝く眼光は常に鉄壁をも貫く正義観念を凝視していた。その怒った鼻。一文字にギューと締った唇。殺気を横たえた太い眉。その間に凝結、磅※している凄愴の気魄はさながらに鉄と火と血の中を突破して来た志士の生涯の断面そのものであった。青黒い地獄色の皮膚、前額に乱れかかった縮れ毛。鎧の仮面に似た黄褐色の怒髭、乱髯。それ等に直面して、その黒い瞳に凝視されたならば、如何なる天魔鬼神でも一縮みに縮み上ったであろう。況んやその老いて益々筋骨隆々たる、精悍そのもののような巨躯に、一刀を提げて出迎えられたならば、如何なる無法者と雖も、手足が突張って動けなくなったであろう。どうかした人間だったら、その翁の真黒い直視に会った瞬間に「斬られたッ」という錯覚を起して引っくり返ったかも知れない。  事実、玄洋社の乱暴者の中ではこの奈良原翁ぐらい人を斬った人間は少かったであろう。そうしてその死骸を平気で蹴飛ばして瞬一つせずに立去り得る人間は殆んど居なかったであろう。奈良原到翁の風貌には、そうした冴え切った凄絶な性格が、ありのままに露出していた。微塵でも正義に背く奴は容赦なくタタキ斬り蹴飛ばして行く人という感じに、一眼で打たれてしまうのであった。  この奈良原翁の徹底した正義観念と、その戦慄に価する実行力が、世人の嫌忌を買ったのではあるまいか。そうしてその刀折れ矢尽きて現社会から敗退して行った翁の末路を見てホッとした連中が「それ見ろ。いい気味だ」といったような意味から、卑怯な嘲罵を翁の生涯に対して送ったのではあるまいか。  実際……筆者は物心付いてから今日まで、これほどの怖い、物すごい風采をした人物に出会った事がない。同時に又、如何なる意味に於ても、これ程に時代離れのした性格に接した事は、未だ曾て一度もないのである。  そうだ。奈良原翁は時代を間違えて生れた英傑の一人なのだ。翁にしてもし、元亀天正の昔に生を稟けていたならば、たしかに天下を聳動していたであろう。如何なる権威にも屈せず、如何なる勢力をも眼中に措かない英傑児の名を、青史に垂れていたであろう。  こうした事実は、奈良原翁と対等に膝を交えて談笑し、且つ、交際し得た人物が、前記頭山、杉山両氏のほかには、あまり居なかった。それ以外に奈良原翁の人格を云為するものは皆、痩犬の遠吠えに過ぎなかった事実を見ても、容易に想像出来るであろう。  明治もまだ若かりし頃、福岡市外住吉の人参畑という処に、高場乱子女史の漢学塾があった。塾の名前は忘れたが、タカが女の学問塾と思って軽侮すると大間違い、頭山満を初め後年、明治史の裏面に血と爆弾の異臭をコビリ付かせた玄洋社の諸豪傑は皆、この高場乱子女史と名乗る変り者の婆さんの門下であったというのだから恐ろしい。彼の忍辱慈悲の法衣の袖に高杉晋作や、西郷隆盛の頭を撫で慈しんだ野村|望東尼とは事変り、この婆さん、女の癖に元陽と名乗り、男髪の総髪に結び、馬乗袴に人斬庖刀を横たえて馬に乗り、生命知らずの門下を従えて福岡市内を横行したというのだから、デートリッヒやターキーが辷ったの、女学生のキミ・ボクが転んだの候といったって断然ダンチの時代遅れである。時は血腥い維新時代である。おまけに皺苦茶の婆さんだからたまらない。  わが奈良原到少年はその腕白盛りをこの尖端婆さんの鞭撻下にヒレ伏して暮した。そのほか当時の福岡でも持て余され気味の豪傑青少年は皆この人参畑に預けられて、このシュル・モダン婆さんの時世に対する炬の如き観察眼と、その達人的な威光の前にタタキ伏せられたものだという。  その当時の記憶を奈良原到翁に語らしめよ。 「人参畑の婆さんの処にゴロゴロしている書生どもは皆、順繰りに掃除や、飯爨や、買物のお使いに遣られた。しかし自分はまだ子供で飯が爨けんじゃったけにイツモ走り使いに逐いまわされたものじゃったが、その当時から婆さんの門下というと、福岡の町は皆ビクビクして恐ろしがっておった。  自分の同門に松浦|愚という少年が居った。こいつは学問は一向|出来ん奴じゃったが、名前の通り愚直一点張りで、勤王の大義だけはチャント心得ておった。この松浦愚と自分は大の仲好しで、二人で醤油買いに行くのに、わざと二本の太い荒縄で樽を釣下げて、その二本の縄の端を左右に長々と二人で引っぱって樽をブランブランさせながら往来一パイになって行くと往来の町人でも肥料車でも皆、恐ろしがって片わきに小さくなって行く。なかなか面白いので二人とも醤油買いを一つの楽しみにしていた。  或る時、その醤油買いの帰りに博多の櫛田神社の前を通ると、社内に一パイ人だかりがしている。何事かと思って覗いてみると勿体らしい衣冠束帯をした櫛田神社の宮司が、拝殿の上に立って長い髯を撫でながら演説をしている。その頃は演説というと、芝居や見世物よりも珍しがって、演説の出来る人間を非常に尊敬しておった時代じゃけに、早速二人とも見物を押しかけて一番前に出て傾聴した。ところがその髯神主の演説に曰く、 『……諸君……王政維新以来、敬神の思想が地を払って来たことは実にこの通りである。真に慨嘆に堪えない現状と云わなければならぬ。……諸君……牢記して忘るる勿れ。神様というものは常に吾が○○以上に尊敬せねばならぬものである。その実例は日本外史を繙いてみれば直ぐにわかる事である。遠く元弘三年の昔、九州随一の勤王家菊池武時は、逆臣北条探題、少弐大友等三千の大軍を一戦に蹴散らかさんと、手勢百五十騎を提げて、この櫛田神社の社前を横切った。ところがこの戦いは菊池軍に不利であることを示し給う神慮のために、武時の乗馬が鳥居の前で俄かに四足を突張って後退し始めた。すると焦燥りに焦燥っている菊池武時は憤然として馬上のまま弓に鏑矢を番えた。 「この神様は牛か馬か。皇室のために決戦に行く俺の心がわからんのか。 武士のうわ矢のかぶら一すぢに    思ひ切るとは神は知らずや」  と吟ずるや否や神殿の扉に発矢とばかり二本の矢を射かけた。トタンに馬が馳け出したのでそのまま戦場に向ったが、もしこの時に武時が馬から降りて、神前に幸運を祈ったならば、彼は戦いに勝ったであろうものを、斯様な無礼を働らいて神慮を無視したために勤王の義兵でありながら一敗地に塗れた……』  衣冠束帯の神主が得意然とここまで喋舌って来た時に、自分と松浦愚の二人はドッチが先か忘れたが神殿に躍り上っていた。アッと云う間もなく二人で髭神主を殴り倒おし蹴倒おす。松浦が片手に提げていた醤油樽で、神主の脳天を食らわせたので、可愛そうに髭神主が醤油の海の中にウームと伸びてしまった。……この賽銭乞食の奴、神様の広告のために途方もない事を吐かす。皇室あっての神様ではないか。そういう貴様が神威を涜し、国体を誤る国賊ではないか……というたような気持であったと思うが、二人ともまだ十四か五ぐらいの腕白盛りで、そのような気の利いた事を云い切らんじゃった。ただ、 『この畜生。罰を当てるなら当ててみよ』  と破れた醤油樽を御神殿に投込んで人参畑へ帰って来たが、帰ってからこの話をすると、それは賞められたものじゃったぞ。大将の婆さんが涙を流して『ようしなさった。感心感心』と二人の手を押戴いて見せるので、塾の連中が皆、金鵄勲章でも貰うたように俺達の手柄を羨ましがったものじゃったぞ。ハハハハハ」  人参畑の婆さんがいつまで存命して御座ったか一寸調査しかねているが、とにもかくにも、こうした人参畑の豪傑青少年連は、その後健児社という結社を組織して、天下の形勢を睥睨する事になった。これが後の玄洋社の前身であったが、天下の形勢を憂慮する余り、近所界隈の畑や鶏舎を荒し、犬猫の影を絶ち、営所の堀の蟇を捕って来て、臓腑を往来に撒布するなぞ、乱暴狼藉到らざるなく、健児社の連中といえば、大人でも首を縮める程の無敵な勢力を持っていたものであった。  その中でも乱暴者の急先鋒は我が奈良原少年で、仲間から黒旋風李逵の綽名を頂戴していた。奈良原到が飯爨当番に当ると、塾の連中が長幼を問わず揃って早起をした……というのは、飯の準備が出来上るまで寝床に潜っていると、到少年がブスブス燃えている薪を掴んで来て、寝ている奴の懐中に突込むからであった。しかもその燃えさしを懐中に突込まれたまま、燃えてしまうまで黙って奈良原少年の顔をマジリマジリと見ていたのが塾の中にタッタ一人頭山満少年であった。そうして奈良原少年が消えた薪を引くと同時に起上って奈良原少年を取って伏せて謝罪らせたので、それ以来二人は無二の親友になったものだという。  ちょうどその頃が西南戦争の直前であった。維新後に於ける物情の最も騒然たる時代であった。  既掲、頭山、杉山の項にも述べた通り、筑前藩の志士は維新の鴻業後、筑前閥を作る事が出来なかった。従って不平士族の数は他地方に優るとも劣らなかった筈である。  そんな連中は有為果敢の材を抱きながら官途に就く事が出来ず鬱勃たる壮志を抱いたまま明治政府を掌握している薩長土肥の横暴振り、名利の争奪振りを横目に睨んでいた。尊王攘夷を標榜して徳川を倒しておきながら、サテ政権を握ると同時に攘夷どころか、国体どころか、一も西洋二も西洋と夷敵紅毛人の前にペコペコして洋服を着、洋食を喰って、アラン限りブルジョア根性を発揮し、屈辱的条約をドシドシ結びながら、恬然として徳川十五代将軍と肩を並べている大官連の厚顔無恥振りに眥を決していた。そのうちに福岡にも鎮台が設けられて、町人百姓に洋服を着せた兵隊が雲集し、チャルメラじみた喇叭を鳴らして干鰯の行列じみた調練が始まった。  その頃、士族の下ッ端連の成れの果は皆、警官に採用されていたものであったが、この羅卒連中が皆鎮台兵と反りが合わなかった。……俺達のような腹からの士族と同じように、町人百姓が戦争の役に立つものか……といったような一種の階級意識から、犬と猿のように仲が悪く、毎日毎日福岡市内の到る処で、鎮台兵と衝突していたものであるが、しかも、そうした不平士族の連中の中には西郷隆盛の征韓論の成立を一日千秋の思いで仰望していたものが少くなかった。祖先伝来の一党を提げて西郷さんのお伴をして、この不愉快な日本を離れて士族の王国を作りに行かねばならぬ。武士の生涯は武を以て一貫せねばならぬ。町人や百姓と伍して食物を漁り合わねばならぬ、犬猫同然の国民平等の世界に、一日でも我慢が出来るか……とか何とか云って鼻の頭をコスリ上げている。  そこへ征韓論が破れて、西郷さんが帰国したというのだから一大事である。  その頃、筑前志士の先輩に、越智彦四郎、武部小四郎、今村百八郎、宮崎|車之助、武井忍助なぞいう血気盛んな諸豪傑が居た。そんな連中と健児社の箱田|六輔氏等が落合って大事を密議している席上に、奈良原到以下十四五を頭くらいの少年連が十六名ズラリと列席していたというのだから、その当時の密議なるものが如何に荒っぽいものであったかがわかる。密議の目的というのは薩摩の西郷さんに呼応する挙兵の時機の問題であったが、その謀議の最中に奈良原到少年が、突如として動議を提出した。 「時機なぞはいつでも宜しい。とりあえず福岡鎮台をタタキ潰せば良えのでしょう。そうすれば藩内の不平士族が一時に武器を執って集まって来ましょう」  席上諸先輩の注視が期せずして奈良原少年に集まった。少年は臆面もなく云った。 「私どもはイツモお城の石垣を登って御本丸の椋の実を喰いに行きますので、あの中の案内なら、親の家よりも良う知っております。私どもにランプの石油を一カンと火薬を下さい。私ども十六人が、皆、頭から石油を浴びて、左右の袂に火薬を入れたまま石垣を登って番兵の眼を掠め、兵営や火薬庫に忍込みます。そうして蘭法附木で袂に火を放って走りまわりましたならば、そこここから火事になりましょう。火薬庫も破裂しましょう。その時に上の橋と下の橋から斬り込んでおいでになったならば、土百姓や町人の兵隊共は一たまりもありますまい」  これを聞いた少年連は皆、手を拍って奈良原の意見に賛成した。口々に、 「遣って下さい遣って下さい」  と連呼して詰め寄ったので並居る諸先輩は一人残らず泣かされたという。その中にも武部小四郎氏は、静かに涙を払って少年連を諫止した。 「その志は忝ないが、日本の前途はまだ暗澹たるものがある。万一吾々が失敗したならば貴公達が、吾々の後跟を継いでこの皇国|廓清の任に当らねばならぬ。また万一吾々が成功して天下を執る段になっても、吾々が今の薩長土肥のような醜い政権利権の奴隷になるかならぬかという事は、ほかならぬ貴公達に監視してもらわねばならぬ。間違うても今死ぬ事はなりませぬぞ」  今度は少年連がシクシク泣出した。皆、武部先生のために死にたいのが本望であったらしいが結局、小供たちは黙って引込んでおれというので折角の謀議から逐退けられて終った。  かくして武部小四郎の乱、宮崎車之助の乱等が相次いで起り、相次いで潰滅し去った訳であるが、後から伝えられているところに依ると、これ等の諸先輩の挙兵が皆、鎮台と、警察に先手を打たれて一敗地に塗れた原因は、皆奈良原少年の失策に起因していた。奈良原少年一流の急進的な激語が破鐘のように大きいのでその家を取巻く密偵の耳に筒抜けに聞えたに違いないという事になった。それ以来「奈良原の奴は密議に加えられない」という事になって同志の人は事ある毎に奈良原少年を敬遠したというのだから痛快である。しかも前記の乱の鎮定後明治政府に対して功績を挙ぐるに汲々たる県当局では、残酷にも健児社に居残っている少年連を悉く引捉えて投獄した。一味徒党の名前を云えというので、年端も行かぬ連中に、夜となく昼となく極烈な拷問をかけたというのだから、呆れた位では追付かない話である。  その当時の事を後年の奈良原翁は筆者に追懐して聞かせた。 「現在玄洋社長をやっとる進藤喜平太は、その当時まあだ紅顔の美少年で、女のように静かな、温柔しい男じゃったが、イザとなるとコレ位、底強い、頼もしい男はなかった。熊本県の壮士と玄洋社の壮士とが博多東中洲の青柳の二階で懇親会を開いた時に、熊本の壮士の首領で某という名高い強い男が、頭山の前に腰を卸して無理酒を強いようとした。頭山は一滴もイカンので黙って頭を左右に振るばかりであったが、そこを附け込んだ首領の某がなおも、無理に杯を押付ける。双方の壮士が互い違いに坐っているので互いに肩臂を張って睨み合ったまま、誰も腰を上げ得ずにいる時に、進藤がツカツカと立上って、その首領某の襟首を背後から引掴むと、杯盤の並んだ上を一気に梯子段の処まで引摺って来て、向う向きに突き落した。そのあとを見返りもせずにニコニコと笑いながら引返して来て『サア皆。飲み直そう』と云うた時には大分青くなっておった奴が居たようであったが、その進藤と、頭山満と自分と三人は並んで県庁の裏の獄舎で木馬責めにかけられた。背中の三角になった木馬に跨らせられて腰に荒縄を結び、その荒縄に一つ宛、漬物石を結び付けてダンダン数を殖やすのであったが、頭山も進藤も実に強かった。石の数を一つでも余計にブラ下げるのが競争のようになって、あらん限り強情を張ったものであった。三人とも腰から下は血のズボンを穿いたようになっているのを頭山は珍らしそうにキョロキョロ見まわしている。進藤も石が一つ殖える度毎に嬉しそうに眼を細くしてニコニコして見せるので、意地にも顔を歪める訳に行かん。どうかした拍子に進藤に向って『コラッ。貴様の面が歪んどるぞ』と冷やかしてやると進藤の奴、天井を仰いで『アハアハアハアハ』と高笑いしおったが、後から考えるとソウいう自分の方が弱かったのかも知れんて、ハハハ。とにかく頭山は勿論、進藤という奴もドレ位強い奴かわからんと思うた。役人どもも呆れておったらしい。  それから今一つ感心な事がある。  獄舎にいる間には副食物に時々|魚類が付く。……というても飯の上に鰯の煮たのが並んでいる位の事じゃったが、そのたんびに頭山は箸の先で上の方の飯を、その鰯と一所に払い除けて、鼻に押当てて嗅いでみる。そうしてイヨイヨ腥くないとこまで来てから喰う。尋常に喰うても足らぬ処へ、平生大飯|喰いの頭山が妙な事をすると思うて理由を聞いてみると、きょうは死んだ母親何とかの日に当るけに精進をしよるというのじゃ。それを聞いてから自分はイツモ飯となると頭山の横に座ったものじゃがのう。ハハハ」  進藤喜平太翁も、その時分の事を筆者に述懐した事がある。 「拷問ちうたて、痛いだけの事で何でもなかったが、酒が飲めんのには降参した。飲みとうて飲みとうてならぬところへ、ちょうど虎烈剌が流行ってなあ。獄卒がこれを消毒のために雪隠に撒れと云うて酢を呉れたけに、それを我慢して飲んだものじゃ。むろん米の酢じゃけに飲むとどことなくポーッと酔うたような気持になるのでなあ……まことに面目ない、浅ましい話じゃったが、奈良原が、あの面付きでシカメて酢を飲みよるところはナカナカ奇観じゃったよ。奈良原は酒を飲むといつも酔狂をしおったが、酢では酔興が出来んので残念じゃと云うておった」  同じ健児社の同志で運よく年少のために捕えられなかった宮川太一郎氏が、同志に与うべく牛肉の煮たのを獄舎に持って行き、門衛の看守に拒まれたので鉄門の間に足を突込んで、死を決して駄々を捏ね始め、終日看守を手古摺らせた揚句、やっと目的を達すると、その翌日からドシドシ肉を運び始めて大いに当局を弱らせたのもこの時の事であったという。  そのうちに西南の戦雲が、愈濃厚になって来たので、県当局でも万一を慮ったのであろう、頭山、奈良原を初め、健児社の一味を尽く兵営の中の営倉に送り込むべく獄舎から鎖に繋いで引出した。その時は健児社の健児一同、当然斬られるものと覚悟したらしく、互いに顔を見合わせてニッコリ笑ったという事であるが、同じ時に奈良原少年と同じ鎖に繋がれる仲よしの松浦愚少年が、護送の途中でこんな事を云い出した。 「オイ。奈良原。今度こそ斬られるぞ」 「ウン。斬るつもりらしいのう」 「武士というものは死ぬる時に辞世チュウものを詠みはせんか」 「ウン。詠んだ方が立派じゃろう。のみならず同志の励みになるものじゃそうな」 「貴公は皆の中で一番学問が出来とるけに、嘸いくつも詠む事じゃろうのう」 「ウム。今その辞世を作りよるところじゃが」 「俺にも一つ作ってくれんか。親友の好誼に一つ頒けてくれい。何も詠まんで死ぬと体裁が悪いけになあ。貴公が作ってくれた辞世なら意味はわからんでも信用出来るけになあ。一つ上等のヤツを頒けてくれい。是非頼むぞ」  流石の豪傑、奈良原少年も、この時には松浦少年の無学さが可哀そうなような可笑しいようで、胸が一パイになって、暫くの間返事が出来なかったという。  一方に盟主、武部小四郎は事敗れるや否や巧みに追捕の網を潜って逃れた。香椎なぞでは泊っている宿へイキナリ踏込まれたので、すぐに脇差を取って懐中に突込み、裏口に在った笊を拾って海岸に出て、汐干狩の連中に紛れ込むなぞという際どい落付を見せて、とうとう大分まで逃げ延びた。ここまで来れば大丈夫。モウ一足で目指す薩摩の国境という処まで来ていたが、そこで思いもかけぬ福岡の健児社の少年連が無法にも投獄拷問されているという事実を風聞すると天を仰いで浩嘆した。万事休すというので直に踵を返した。幾重にも張廻わしてある厳重を極めた警戒網を次から次に大手を振って突破して、一直線に福岡県庁に自首して出た時には、全県下の警察が舌を捲いて震駭したという。そこで武部小四郎は一切が自分の一存で決定した事である。健児社の連中は一人も謀議に参与していない事を明弁し、やはり兵営内に在る別棟の獄舎に繋がれた。  健児社の連中は、広い営庭の遥か向うの獄舎に武部先生が繋がれている事をどこからともなく聞き知った。多分獄吏の中の誰かが、健気な少年連の態度に心を動かして同情していたのであろう。武部先生が、わざわざ大分から引返して来て、縛に就かれた前後の事情を聞き伝えると同時に「事敗れて後に天下の成行を監視する責任は、お前達少年の双肩に在るのだぞ」と訓戒された、その精神を実現せしむべく武部先生が、死を決して自分達を救いに御座ったものである事を皆、無言の裡に察知したのであった。  その翌日から、同じ獄舎に繋がれている少年連は、朝眼が醒めると直ぐに、その方向に向って礼拝した。「先生。お早よう御座います」と口の中で云っていたが、そのうちに武部先生が一切の罪を負って斬られさっしゃる……俺達はお蔭で助かる……という事実がハッキリとわかると、流石に眠る者が一人もなくなった。毎日毎晩、今か今かとその時機を待っているうちに或る朝の事、霜の真白い、月の白い営庭の向うの獄舎へ提灯が近付いてゴトゴト人声がし始めたので、素破こそと皆|蹶起して正座し、その方向に向って両手を支えた。メソメソと泣出した少年も居た。  そのうちに四五人の人影が固まって向うの獄舎から出て来て広場の真中あたりまで来たと思うと、その中でも武部先生らしい一人がピッタリと立佇まって四方を見まわした。少年連のいる獄舎の位置を心探しにしている様子であったが、忽ち雄獅子の吼えるような颯爽たる声で、天も響けと絶叫した。 「行くぞオォ――オオオ――」  健児社の健児十六名。思わず獄舎の床に平伏して顔を上げ得なかった。オイオイ声を立てて泣出した者も在ったという。 「あれが先生の声の聞き納めじゃったが、今でも骨の髄まで泌み透っていて、忘れようにも忘れられん。あの声は今日まで自分の臓腑の腐り止めになっている。貧乏というものは辛労いもので、妻子が飢え死によるのを見ると気に入らん奴の世話にでもなりとうなるものじゃ。藩閥の犬畜生にでも頭を下げに行かねば遣り切れんようになるものじゃが、そげな時に、あの月と霜に冴え渡った爽快な声を思い出すと、腸がグルグルグルとデングリ返って来る。何もかも要らん『行くぞオ』という気もちになる。貧乏が愉快になって来る。先生……先生と思うてなあ……」  と云ううちに奈良原翁の巨大な両眼から、熱い涙がポタポタと滾れ落ちるのを筆者は見た。  奈良原到少年の腸は、武部先生の「行くぞオーオ」を聞いて以来、死ぬが死ぬまで腐らなかった。  月明の霜朝に、自分等に代って断頭場に向った大先輩、武部小四郎先生の壮烈を極めた大音声、 「行くぞオーオ」  を聞いて以来、奈良原到少年の腸は死ぬが死ぬまで腐らなかった。  その後、天下の国士を以て任ずる玄洋社の連中は、普通の人民と同様に衣食のために駈廻らず、同時に五斗米に膝を屈しないために、自給自足の生活をすべく、豪傑知事|安場保和から福岡市の対岸に方る向い浜の松原の官林を貰って薪を作り、福岡地方に売却し始めた。奈良原到少年もむろん一行に参加して薪採りの事業に参加して粉骨砕身していたが、その後、安場知事の人格を色々考えてみると、どうも玄洋社を尊敬していないようである。却って生活の糧を与えて慰撫しているつもりらしく見えたので、或夜、奈良原到はコッソリと起上って誰にも告げずに山のように積んである薪の束の間に、枯松葉を突込んで火を放ち、悉く焼棄してしまった。つまり天下の政治を云為する結社が区々たる知事|風情の恩義を蒙るなぞいう事は面白くないという気持であったらしいが、対岸の福岡市では時ならぬ海上の炬火を望んで相当騒いだらしい。馳付けた同志の連中も、手を拍って快哉を叫んでいる奈良原少年の真赤な顔を見て唖然となった。一人として火を消し得る者が無かったという。  こうした奈良原少年の精神こそ、玄洋社精神の精髄で、黒田武士の所謂、葉隠れ魂のあらわれでなければならぬ。玄洋社の連中は何をするかわからぬという恐怖観念が、明治、大正、昭和の政界、時局を通じて暗々の裡に人心を威圧しているのもこの辺に端を発してるのではなかろうか。  そのうちに四国の土佐で、板垣退助という男が、自由民権という事を叫び出して、なかなか盛んにやりおるらしい。明治政府でもこれを重大視しているらしい……という風評が玄洋社に伝わった。  その当時の玄洋社員は筆者の覚束ない又聞きの記憶によると頭山満が大将株で奈良原到、進藤喜平太、大原|義剛、月成勲、宮川太一郎なぞいう多士済々たるものがあったが、この風聞に就いて種々凝議した結果、とにも角にも頭山と奈良原に行って様子を見てもらおうではないかという事になった。  その当時の評議の内容を伝え聞いていた福岡の故老は語る。 「大体、玄洋社というものは、土佐の板垣が議論の合う者同志で作っておった愛国社なんぞと違うて、主義も主張も何もない。今の世の中のように玄洋社精神なぞいうものを仰々しく宣言する必要もない。ただ何となしに気が合うて、死生を共にしようというだけでそこに生命知らずの連中が、黙って集まり合うたというだけで、そこに燃え熾っている火のような精神は文句にも云えず、筆にも書けない。否文句以上、筆以上の壮観で、烈々|宇内を焼きつくす概があった。頭山が遣るというなら俺も遣ろう。奈良原が死ぬというなら俺も死のう。要らぬ生命ならイクラでも在る。貴様も来い。お前も来い。……という純粋な精神的の共産主義者の一団とも形容すべきものであった。それじゃけに、愛国社の連中は一度、時を得て議論が違うて来ると、外国の社会主義者連中と同じこと直ぐに離れ離れになる。もっとも今の政党は主義主張が合うても利害が違うと仲間割れするので、今一段下等なワケじゃが、玄洋社となると理窟なしに集まっとるのじゃけに日本の国体と同じことじゃ。利害得失、主義主張なぞがイクラ違うても、お互いに相許しとる気持は一つじゃけに議論しながら決して離れん。玄洋社は潰れても玄洋社精神は今日まで生きておって、国家のために益々|壮んに活躍しおるのじゃ。そげなワケじゃけに、その当時の玄洋社で一口に自由民権と聞いても理窟のわかる奴は一人も居らんじゃった。それじゃけに、ともかくもこの二人に板垣の演説を聞いてもろうて、国のためにならぬと思うたならば二人で板垣をタタキ潰してもらおう。もし又、万一、二人が国のためになると思うたならば玄洋社が総出で板垣に加勢してやろう。ナアニ二人が行けば大丈夫。口先ばっかりの土佐ッポオをタタキ潰して帰って来る位、何でもないじゃろう」  といったような極めて荒っぽい決議で、旅費を工面して二人を旅立たせた……というのであるが何が扨、無双の無頓着主義の頭山満と人を殺すことを屁とも思わぬ無敵の乱暴者、奈良原到という、代表的な玄洋社式がつながって旅行するのだから、途中は弥次喜多どころでない。天魔鬼神も倒退三千里に及ぶ奇談を到る処に捲起して行ったらしい。  当時の事を尋ねても頭山満翁も奈良原翁もただ苦笑するのみであまり多くを語らなかったが、それでも辛うじて洩れ聞いた、差支えない部類に属するらしい話だけでも、ナカナカ凡俗の想像を超越しているのが多い。  二人とも或る意味での無学文盲で、日本の地理なぞ無論、知らない。四国がドッチの方角に在るかハッキリ知らないまんまに、それでも人に頭を下げて尋ねる事が二人とも嫌いなまんまに不思議と四国に渡って来たような事だったので、途中で無茶苦茶に道に迷ったのは当然の結果であった。 「オイオイ百姓。高知という処はドッチの方角に当るのか」 「コッチの方角やなモシ」 「ウン。そうか」  と云うなりグングンその方角に行く。野でも山でも構わない式だからたまらない。玄洋社代表は迷わなくても道の方が迷ってしまう。その中に或る深山の谷間を通ったら福岡地方で珍重する忍草が、左右の崖に夥しく密生しているのを発見したので、奈良原到が先ず足を止めた。 「オイ。頭山。忍草が在るぞ。採って行こう」 「ウム。オヤジが喜ぶじゃろう」  というので道を迷っているのも忘れて盛んに※り始めたが、その中に日が暮れて来たので気が付いてみると、荷車が一台や二台では運び切れぬ位、採り溜めていた。 「オイ。頭山。これはトテモ持って行けんぞ」 「ウム。チッと多過ぎるのう、帰りに持って行こう」  それから又行くと今度は山道七里ばかりの間人家が一軒も無い処へ来たので、流石の玄洋社代表も腹が減って大いに弱った。ところへ思いがけなく向うから笊を前後に荷いだ卵売りに出会ったので呼止めて、二人で卵を買って啜り始めたが、卵というものはイクラ空腹でも左程沢山に啜れるものでない。十個ばかり啜る中に、二人とも硫黄臭いゲップを出すようになると、卵売りは大いに儲けるつもりで、道傍の枯松葉を集めて焼卵を作り、二人にすすめたので又食慾を新にした二人は、したたかに喰べた。  ところでそこまでは先ず好都合であったがアトが散々であった。そこからまだ半道も行かぬ中に二人は忽ち鶏卵中毒を起し、猛烈な腹痛と共に代る代る道傍に跼み始めたので、道が一向に捗らない。併し強情我慢の名を惜しむ二人はここでヘタバッてなるものかと歯を噛みしめて、互いに先陣を争って行くうちに、やっと人家近い処へ来たので二人とも通りかかった小川で尻を洗い、宿屋に着くには着いたが、あまりの息苦しさに、ボーオとなって腰をかけながら肩で呼吸をしているところへ宿屋の女中が、 「イラッシャイマセ。どうぞお二階へお上りなされませ」  と云った時には階子段を見上げてホッとタメ息を吐いたという。  それからその翌日の事。二人とも朝ッパラからヘトヘトに疲れていたので、宿屋からすすめられるままに馬に乗ったら、その馬を引いた馬士が、途中の宿場で居酒屋に這入った。するとその馬が一緒に居酒屋へ這入ろうとしたので乗っていた頭山が面喰らったらしい。慌てて居酒屋の軒先に掴まって両足で馬の胴を締め上げて入れまいと争ったが、とうとう馬の方が勝って頭山が軒先にブラ下った。その時の恰好の可笑しかったこと……と奈良原翁が筆者に語って大笑いした事がある。  そのうちに高知市に近付くと眼の前に大きな山が迫って来て高知市はその真向いの山向うに在る。道路はその山の根方をグルリとまわって行くのであるが、その山を越えて一直線に行けば三分の一ぐらいの道程に過ぎない……と聞いた二人の心に又しても曲る事を好まぬ黒田武士の葉隠れ魂……もしくは玄洋社魂みたいなものがムズムズして来た。期せずして二人とも一直線に山を登り始めたが、その山が又、案外|嶮岨な絶壁だらけの山で、道なぞは無論無い。殆んど生命がけの冒険続きでヘトヘトになって向うへ降りたが、後から考えると、たとえ四里でも五里でも山の根方をまわった方が早かったように思った……という。やはり奈良原翁の笑い話であった。  そうした玄洋社代表が二人、そうした辛苦艱難を経てヤッと高知市に到着すると、板垣派から非常な歓迎を受けた。現下の時局に処する玄洋社一派の主義主張について色々な質問を受けたり議論を吹っかけられたりしたが、頭山満はもとより一言も口を利かないし、奈良原到も、今度はこっちから理窟を云いに来たのではない、諸君の理窟を聞きに来ただけじゃ……と睨み返して天晴れ玄洋社代表の貫禄を示したのでイヨイヨ尊敬を受けたらしい。  それから二代表は毎日毎日演説会場に出席して黙々として板垣一派の演説を静聴した。そうして何日目であったかの夕方になって二人が宿屋の便所か何かで出会うと、頭山満は静かに奈良原到をかえりみて微笑した。 「……どうや……」 「ウム。よさそうじゃのう。此奴どもの方針は……国体には触らんと思うがのう、今の藩閥政府の方が国体には害があると思うがのう」 「やってみるかのう……」 「ウム。遣るがよかろう」  と云って奈良原到は思わず腕を撫でたという。実は奈良原としてはブチコワシ仕事の方が望ましかった。土佐の板垣一派の仕事を木葉微塵にして帰るべく腕に撚をかけて来たものであったが、それでは持って生れた彼一流の正義観が承知しなかった。 「演説はともかく、板垣という男の至誠には動かされたよ、この男の云う事なら間違うてもよい。加勢してやろうという気になった」  と後年の奈良原到翁は述懐した。  玄洋社が板垣の民権論に加勢するに決した事がわかると当時の藩閥政府はイヨイヨ震駭した。玄洋社と愛国社に向って現今の共産党以上の苛烈な圧迫を加えたものであったが、これに対して愛国社が言論に、玄洋社が腕力に堂々と相並んで如何に眼醒しい反抗を試みたかは天下周知の事実だからここには喋々しない事にする。 「結局。自由民権のあらわれである自治政治と議会政治は、板垣の赤誠を裏切って日本を腐敗堕落させた。日本人は自治権を持つ資格のない程に下等な民族であることを現実の通りに暴露したに過ぎなかったが、これに反して板垣の人格はイヨイヨ光って来るばかりである。昨日、久し振りに板垣と会うて来たが昔の通りに立派な男で、手を握り合うて喜んでくれた。耳が遠くなって困ると云いおったがワシが持って生れた破鐘声で話すと、よくわかるよくわかるとうなずいておった。今のような世の中になったのはつまるところ、自由民権議論もよくわからず、日本人の素質もよく考えないままに、板垣の人物ばっかりを信用しておった頭山とワシの罪じゃないかと思うとる」  ところでこの辺までは先ず奈良原到の得意の世界であった。  幸いにして議会が開設されるにはされたが、その当初は選挙といっても全然暴力選挙のダイナマイト・ドン時代で、選挙運動者は皆、水盃の生命がけであった。すこしばかりの左翼や右翼のテロが暴露しても満天下の新聞紙が青くなって震え出すような現代とは雲泥の差があったので、従って奈良原到一流のモノスゴイ睨みが到る処に、活躍の価値を発見したものであったが、それからのち、日本政界の腐敗堕落が甚しくなるに連れて、換言すれば天下が泰平になるに連れて、好漢、奈良原到も次第に不遇の地位に墜ちて来た。  しかもその不遇たるや尋常一様の不遇ではなかった。遂には玄洋社一派とさえ相容れなくなった位、極度に徹底した正義観念――もしくは病的に近い潔癖に禍された御蔭で、奈良原到翁は殆んど食うや喰わずの惨澹たる一生を終ったのであった。  それから後の奈良原到翁の経歴は世間の感情から非常に遠ざかっていたし、筆者も詳しくは聞いていないのであるが大略|左のような簡単なものであったらしい。  明治二十年頃福岡市|須崎お台場に在る須崎監獄の典獄となり、妻帯後間もなく解職し、爾後、数年閑居、日清戦役後、台湾の巡査となって生蕃討伐に従事した。それから内地へ帰来後、夫人を喪い、数人の子女を親戚故旧に托し、独、福岡市外|千代町役場に出仕していたが、その後辞職して自分の娘の婚嫁先である北海道、札幌、橋本某氏の農園の番人となり、閑日月を送る事十三年、大正元年、桂内閣の時、頭山満、杉山茂丸の依嘱を受けて憲政擁護運動のため九州に下り、玄洋社の二階に起居し、後、大正六七年頃、対州の親戚某氏の処で病死した。享年七十……幾歳であったか、実は筆者も詳しく知らない。  その遺児の長男、奈良原|牛之介というのが又、親の血を受けていたらしい。天下無敵の快男児で、乱暴者ばかり扱い狃れている内田良平、杉山茂丸も持て余した程の喧嘩の専門家であった。その乱暴者を、極めて温柔しい文学青年の筆者と同列に可愛がったのが筆者の母親で、痛快な、男らしい意味では筆者よりも数十層倍、深刻な印象を、負けん気な母親の頭にタタキ込んでいる筈であるが、この男の伝記は後日の機会まで廻避して、ここには前記、失意後の乱暴オヤジ、奈良原到翁の逸話を二三摘出してこの稿を結ぶ事にする。  奈良原翁は少年時代に高場乱子、武部小四郎等から受けた所謂、黒田武士の葉隠れ魂、悪く云えば馬鹿を通り越しても満足せぬ意地張根性がドン底まで強かった。気に入らない奴は片端からガミつける。処嫌わずタタキつける。評議の席などで酔っ払った奈良原到が、眼を据えて睨みまわすと、いい加減な調子のいい事を云っている有志連中は皆青くなって、座が白けてしまったという。そんな連中が奈良原の貧乏な事をよく知っていて、時世|後れの廃物だとか、玄洋社の面よごしとか何とか、在る事無い事デマを飛ばして排斥したので、奈良原到は愈々不遇に陥ったものらしい。  しかし後年の奈良原到翁には、別にそんな連中を怨んだような語気はなかった。多分、新時代の有志とか、代議士とかいうものは一列一体に太平の世に湧いた蛆虫ぐらいにしか思っていなかったのであろう。一依旧様、権門に媚びず、時世に諛らず、喰えなければ喰えないままで、乞食以下の生活に甘んじ、喰う物が無くなっても人に頭を下げない。妻子を引連れて福岡の城外練兵場へ出て、タンポポの根なぞを掘って来て露命を繋いでいたというのだから驚く。御本人に聞いてみると、 「ナニ、タンポポの根というても別に喰い方というてはない。妻が塩で茹で、持って来よったようじゃが最初の中は香気が高くてナカナカ美味いものじゃよ。新|牛蒡のようなものじゃ。しかし二三日も喰いよると子供等が飽いて、ほかのものを喰いたがるのには困ったよ。ハッハッハッ」  と笑っているところは恰で飢饉の実話以上……ここいらは首陽山に蕨を採った聖人の兄弟以上に買ってやらなければならぬと思う。別に周の世を悲しむといったような派手なメアテが在った訳ではなかったし、聖人でも何でもない。憐れな妻子が道伴れだったのだから尚更である。  その時代の事であったろうと思うが、筆者の母親の生家に不幸のあった時のこと、仏に旧交のあった奈良原到が、どこから借りて来たものか上下チグハグの紋服に袴を穿いて悔みに来た。 「ほんの心持だけ……」  と皆に挨拶をして香奠と書いた白紙の包みを仏前に供え恭しく礼拝して帰ったので皆顔を見合わせた。一体あの貧乏人がイクラ包んで来たのだろう……というので打寄って開いてみると中には何も這入っていなかった。正真正銘の白紙だけだったので皆抱腹絶倒した。  しかし心ある二三の人は涙を浮べて感心した。 「奈良原到は流石に黒田武士じゃ、普通の奴なら貧乏を恥じて、挨拶にも来ぬところじゃが……」  生存している老看守某の話によると、奈良原到の須崎典獄時代には、囚人の奈良原を恐るる事、想像の外であったという。ドンナに兇猛な囚人でも、奈良原典獄が佩剣を押えて、 「その縄を解け。こっちへ連れて来い」  と云って睨み付けると、今にも斬られそうな殺気に打たれたらしい。眼を白くして縮み上ったという。  或る夜のこと、死刑にする筈の四人の囚人が、破獄したという通知が来たので、奈良原典獄は直ぐに駈付けて手配をさせた。そうして自身は制服のままお台場の突角に立って海上を見渡していると、やや暫くしてから足下の石垣をゾロゾロ匐い登って来る者が居る。よく見ると、それがタッタ今破獄したばかりの四人の囚人たちで、海水にズブ濡れのまま到翁の足下にひれ伏して三拝九拝しているのであった。  後から取調べたところによると、その囚人はトテも兇暴、無残な連中で、看守をタタキ倒して破獄の後、お台場の下に浮かべてある夥しい材木の蔭に潜んで追捕の手を遣り過し、程近い潮場の下の釣船を奪って逃げるつもりであったが、その中に四人の中の一人が、 「……オイ……石垣の上に立って御座るのがドウヤラ典獄さんらしいぞ」  と云うと皆、恐ろしさに手足の力が抜けて浮いていられなくなった。歯の根がガチガチ鳴り出して、眼がポオとなってウッカリすると波に渫われそうになって来たので四人がだんだん近寄って来て……これはイカン。こんな事ではドウにもならんから、破獄を諦らめよう。一思いに奈良原さんの前に出て行って斬られた方がええ……という事に相談がきまると、不思議にも急に腰がシャンとなって、身内が温まって、勇気が出て来た。吾|後れじと石垣を匐登って来た……という話であった。これなぞは囚人特有の一種の英雄崇拝主義の極端なあらわれの一つに相違ないので、奈良原到の異常な性格を端的に反映した好逸話でなければならぬ。 「その頃の囚人の気合は今と違うておったように思うなあ」  と嘗て奈良原翁は酒を飲み飲み筆者に述懐した。 「ワシは長巻直しの古刀を一本持っておった。二尺チョッと位と思われる長さのもので、典獄時代から洋剣に仕込んでおったが良う切れたなあ。腕でも太股でも手ごたえが変らん位で、首を切るとチャプリンと奇妙な音がして血がピューと噴水のように吹出しながらたおれる。ああ斬れた……と思う位で水も溜まらぬというが全くその通りであった。その癖刀身は非常に柔らかくて鉛か飴のような感がした。台湾の激戦の最中に生蕃の持っている棒なぞを斬ると帰って来てから鞘に納まらん事があったが、それでも一晩、床の間に釣り下げておくと翌る朝は自然と真直になっておった。生蕃征伐に行った時、大勢の生蕃を珠数つなぎに生捕って山又山を越えて連れて帰る途中で、面倒臭くなると斬ってしまう事が度々であった。あの時ぐらい首を斬った事はなかったが、ワシの刀は一度も研がないまま始終切味が変らんじゃった。  生蕃という奴は学者の話によると、日本人の先祖という事じゃが、ワシもつくづくそう思うたなあ。生蕃が先祖なら恥かしいドコロではない。日本人の先祖にしては勿体ない位、立派な奴どもじゃ。彼奴等は、戦争に負けた時が、死んだ時という覚悟を女子供の端くれまでもチャンと持っているので、生きたまま捕虜にされると何とのう不愉快な、理窟のわからんような面付きをしておった。彼奴等は白旗を揚げて降参するなどいう毛唐流の武士道を全く知らぬらしいので、息の根の止まるまで喰い付いて来よったのには閉口したよ。そいつを抵抗出来ぬように縛り上げて珠数つなぎにして帰ると、日本人は賢い。首にして持って帰るのが重たいためにこうするらしい。俺達は自分の首を運ぶ人夫に使われているのだ……と云うておったそうじゃが、これにはワシも赤面したのう。途中で山道の谷合いに望んだ処に来ると、ここで斬るのじゃないかという面付で、先に立っている奴が白い歯を剥き出して冷笑しいしい、チラリチラリとワシの顔を振り返りおったのには顔負けがしたよ。そんな奴はイクラ助けても帰順する奴じゃないけに、総督府の費用を節約するために、ワシの一存で片端から斬り棄る事にしておった。今の日本人の先祖にしてはチッと立派過ぎはせんかのうハッハッハッハッ」  日本に帰って千代町の役場に奉職している時は毎月五円の月給を貰っていたが、その殆んど全部が酒代になっていた事は云う迄もない。今は故人になった前の福岡市の名市長、佐藤平太郎氏は神戸署の一巡査の身で、外人の治外法権制度に憤慨し、神戸居留地域を離るる一間ばかりの処で、人力車夫に暴行して逃げて行く外人を斬って棄て、天下を騒がした豪傑であるが、氏は語る。 「巡査を罷めて故郷に帰り、久し振りに昔の面小手友達の奈良原を千代町の寓居に訪うてみると、落ちぶれたにも落ちぶれないにも四畳半といえば、四畳半、三方の壁の破れから先は天下の千畳敷に続いている。その秣を積んだような畳の中央に虱に埋まったまま悠々と一升徳利を傾けている奈良原を発見した時には、流石の僕も胸が詰ったよ。僕も相当、落ちぶれたおぼえはあるが、奈良原の落ちぶれようには負けた。アンマリ穢いので上りかねているのを無理に引っぱり上げた奈良原は大喜びだ。 『久し振りだ。丁度いいところだから一杯飲め。まずその肴を抓め』という。見ると禿げちょろけた椀の蓋に手前が川で掴んで来たらしい一|寸ぐらいの小蝦が二匹乗っかっている。『遠慮なく喰え』という志は有難いが、それを肴に奈良原が一升の酒を飲むのかと思うと涙がこぼれた。一匹の小蝦が咽喉を通らないのを無理に冷酒で流し込んで『これが土産だ』と云ってその時の僕の全財産、二十銭を置いて来た」云々。  そうした貧乏のさなかに大変な事が起った。奈良原翁が病気になったのだ。  何だか酒が美味くない。飯が砂を噛むようで、頭がフラフラして死にそうな気がするので、千代町役場からその月の俸給を一円借りて近所の医者の処へ行った。一円出して診察を請うて薬を貰ったが、 「どうです。助かりますか」  と問うてみると若い医者が首をひねった。 「どうも非道い肺炎ですから、絶対に安静にして寝ておいでなさい。御親戚の方か何かに附添っておもらいなさい」  奈良原翁は、こうした言葉を「もう助からない」意味と取って非常に感謝した。  ……俺はイヨイヨ死ぬんだ。奈良原到がコレ以上に他人に迷惑をかけず、コレ以上に世道人心の腐敗堕落を見ないで死ぬるとは何たる幸福ぞ。よしよし。一つ大いに祝賀の意を表して、愉快に死んでやろう……。  奈良原翁は、その足で今一度役場に立寄って町長に面会した。 「オイ。町長。イヨイヨ俺も死ぬ時が来たぞ」 「ヘエッ。何か戦争でも始まりますか」 「アハハ。心配するな。今医者が俺を肺炎で死ぬと診断しおった。そこでこれは相談じゃが、香奠と思うて今月の俸給の残りの四円を貸してくれんか」 「ヘエヘエ。それはモウ……」  というので四円の金を握ると今度は酒屋へ行って、酒を一樽買って引栓を附けて例の四畳半へ届けさした。  その樽と相前後して帰宅した奈良原翁は、軒先の雨垂落の白い砂を掻集めて飯茶碗へ入れ、一本の線香を立て樽と並べて寝床の枕元に置いた。それから大きな汁椀に酒を引いて、夜具の中でガブリガブリやっているうちにステキないい心持になった。ハハア。こんな心持なら死ぬのも悪くないな……なぞと思い思い朝鮮征伐の夢か何かを見ている中に前後不覚になってしまった。  そのうちにチューチューという雀の声が聞えたので奈良原翁はフッと気が付いた。ハハア。極楽に来たな。極楽にも雀が居るかな……なぞと考えて又もウトウトしているうちに、今度は博多湾の方向に当ってボオ――ボオ――という蒸気船の笛が鳴ったので奈良原翁はムックリと起上って眼をこすった。見ると、誰が暴れたのかわからないが昨夜の大きな酒樽が引っくり返って、栓が抜けている横に、汁椀が踏潰されている。通夜の連中に飲ましてやるつもりで、残しておいた酒は一滴も残らず破れ畳が吸い込んで、そこいら一面、真赤になって酔払っている。  その樽と、枕を左右に蹴飛ばした奈良原翁は、蹌々踉々として昨日の医者の玄関に立った。診察中の医者の首筋を、例の剛力でギューと掴んで大喝した。 「この藪医者。貴様のお蔭で俺は死損のうたぞ。地獄か極楽へ行くつもりで、香奠を皆飲んで終うた人間が、この世に生き返ったらドウすればええのじゃ」  度を失った医者はポケットから昨日の皺苦茶の一円札を出して三拝九拝した。 「……ど……どうぞ御勘弁を、息の根が止まります」 「馬鹿|奴……その一円は昨日の診察料じゃ。それを取返しに来るような奈良原到と思うか。見損なうにも程があるぞ」 「どうぞどうぞ。お助けお助け」 「助けてやる代りに今日の診察料を負けろ。そうして今一遍、よく診察し直せ。今度見損うたなら斬ってしまうぞ」  因にその診察の結果は全快、間違いなし。健康|申分なし。長生き疑いなしというものであった。  大正元年頃であった。桂内閣の憲政擁護運動のために、北海道の山奥から引っぱり出された奈良原到翁は、上京すると直ぐに旧友頭山満翁を当時の寓居の霊南坂に訪れた。  互いに死生を共にし合った往年の英傑児同志が、一方は天下の頭山翁となり、一方は名もなき草叢裡の窮措大翁となり果てたまま悠々|久濶を叙する。相共に憐れむ双鬟の霜といったような劇的シインが期待されていたが、実際は大違いであった。両翁が席を同じゅうして顔を見合せてみると、双方ともジロリと顔を見交してアゴを一つシャクリ上げた切り一言も言葉を交さなかった。知らぬ者が見たら、銀座裏でギャング同志がスレ違った程度の手軽い挨拶に過ぎなかったが、しかし、その内容は雲泥の違いで、両翁とも互いに、往年の死生を超越して気魄が、老いて益々|壮なるものが在るのを一瞥の裡に看取し合って、意を強うし合っているらしい。その崇高とも、厳粛とも形容の出来ない気分が、席上に磅※して来たので皆思わず襟を正したという。  それから入代り立代り来る頭山翁の訪客を、奈良原翁はジロリジロリと見迎え、見送っていたが、やがて床の間に置いてある大きな硯石に注目し、訪客の切れ目に初めて口を開いた。 「オイ。頭山。アレは何や」  頭山翁は、その硯をかえりみて微笑した。 「ウム。あれは俺が字を書いてやる硯タイ」  奈良原翁は、それから間もなく頭山翁に見送られて玄関を辞去したが、門前の広い通りを黙って二三町行くと、不意に立止って鴉の飛んで行く夕空を仰いだ。タッタ一人で呵然として大笑した。 「頭山が字を書く……アハハハ。頭山が字を書く。アハハ。頭山が書を頼まれる世の中になってはモウイカン、世の中はオシマイじゃワハハハハハハハ……」  そこいらに遊んでいる子供等が皆、ビックリして家の中へ逃込んだ。  奈良原翁が晴れの九州入をする時に、当時二十五か六で、文学青年から禅宗坊主に転向していたばかりの筆者は、思いがけなく到翁の侍従役を仰付けられて、共々に新橋駅に来た。翁は旧友から貰ったという竹製のカンカン帽に、手織|木綿縞の羽織着流し、青竹の杖、素足に古い泥ダラケの桐下駄、筆者は五リン刈の坊主頭に略法衣、素足に新しい麻裏という扮装である。荷物も何も無い気楽さに直ぐに切符売場へ行って、博多までの二等切符を買って来ると、三等待合室の中央に立って待っている到翁が眼早く青切符を見咎めてサッと顔色を変えた。 「それは中等の切符じゃないかな」  その頃から十四五年|前までは二等の事を中等と云った。従って一等の白切符を上等と称し、三等の赤切符を下等と呼んだ。 「はい。昔の中等です。御老体にコタえると不可ませんから……」 「馬鹿ッ」  という大喝が下等待合室を、地雷火のように驚かした。 「馬鹿ッ。アンタは、まだ若いのに何という不心得な人かいな。吾々のような人間が、国家に何の功労があれば中等に乗るかいな。下等でも勿体ない位じゃ。戻いて来なさい。馬鹿ナッ」  と云ううちに青竹の杖が、今にも筆者の坊主頭に飛んで来そうな身構えをした。……飛んでもない国士のお供を仰付けられた……と思い思い大勢の下等客の視線を浴びながら、買換えに出て行った時の、筆者の器量の悪かったこと……。  それから予定の通り下等の急行列車に乗込むと、又驚いた。  ちょうど二人分の席が空いていたので、窓際の席を翁にすすめると翁は青竹の杖を突張って動かない。 「イヤイヤ。アンタ窓の処へ行きなさい。わしは年寄で、夜中に何度も小便に行かねばならぬけにウルサイ」  どちらがウルサイのかわからない。云うがままに窓の前に席を取ると又々驚いた。  筆者に尻を向けて、ドッコイショと中央の通路向きに腰を卸した翁は、袂から一本の新しい日本|蝋燭を出して、マッチで火を点けた。何をするのかと思うと、その蝋涙を中央の通路のマン中にポタポタと垂らしてシッカリとオッ立てた。驚いて見ているうちに、今度は腰から煤竹筒の汚ない煙草入を出して、その蝋燭の火で美味そうに何服も何服も刻煙草を吸うのであったが、まだ発車していないので、荷物なんかを抱えて通抜けようとする奴なんかが在ると、翁が殺人狂じみた物凄い眼を上げて、ジロジロと睨むので、一人残らず引返して出て行く。痛快にも傍若無人にもお話にならない。見るに見かねた筆者が、 「マッチならコチラに在りますよ」  と云ううちに煙草を吸い終った翁は、蝋燭の火を蝋涙と一緒に振切って、古新聞紙に包んで袂に入れた。蝋涙を引っかけられた向側の席の人が慌ててマントの袖を揉んでいたが、翁は見向きもしなかった。 「マッチや線香で吸うと煙草が美味しゅうない。燃え火で吸うのが一番|美味いけになあ」  奈良原翁の味覚が、そこまで発達している事に気附かなかった筆者は全く痛み入ってしまった。この塩梅では列車に放火して煙草を吸いかねないかも知れない。 「北海道の山奥で雪に埋れていると酒と煙草が楽しみでなあ。炉の火で吸う煙草の味は又格別じゃ。もっとも煙草は滅多に切れぬが酒はよく切れたので閉口した。万止むを得ん時には砂糖湯を飲んだなあ。アルコールも砂糖も化学で分析してみると同じ炭素じゃけになあ」  筆者はイヨイヨ全く痛み入ってしまった。同時にそこまで考える程に苦しんだ翁が気の毒にもなった。  国府津に着いてから正宗の瓶と、弁当を一個買って翁に献上すると、流石に翁の機嫌が上等になって来た。同時に翁の地声がダンダン潤おいを帯びて来て、眼の光りが次第に爛々炯々と輝き出したので、向い合って坐っていた二人が気味が悪くなったらしい。箱根を越えない中にソコソコと荷物を片付けて、前部の車へ引移ってしまったので、翁は悠々と足を伸ばした。世の中は何が倖になるかわからない。筆者もノウノウと両脚を踏伸ばして居ねむりの準備を整える事が出来た。その二人の脚の間へ翁が又、弁当箱の蓋にオッ立てた蝋燭の火を置いたので、筆者は又、油断が出来なくなった。  翁は一服すると飯を喰い喰い語り出した。 「北海道の山の中では冬になると仕様がないけに毎日毎日聖書を読んだものじゃが、良え本じゃのう聖書は……アンタは読んだ事があるかの……」 「あります……馬太伝と約翰伝の初めの方ぐらいのものです」 「わしは全部、数十回読んだのう。今の若い者は皆、聖書を読むがええ。あれ位、面白い本はない」 「第一高等学校では百人居る中で恋愛小説を読む者が五十人、聖書を読む者が五人、仏教の本を読む者が二人、論語を読む者が一人居ればいい方だそうです」 「恋愛小説を読む奴は直ぐに実行するじゃろう。ところが聖書を読む奴で断食をする奴は一匹も居るまい」 「アハハ。それあそうです。ナカナカ貴方は通人ですなあ」 「ワシは通人じゃない。頭山や杉山はワシよりも遥かに通人じゃ。恋愛小説なぞいうものは見向きもせぬのに読んだ奴等が足下にも及ばぬ大通人じゃよ」 「アハハ。これあ驚いた」 「キリストは豪い奴じゃのう。あの腐敗、堕落したユダヤ人の中で、あれだけの思い切った事をズバリズバリ云いよったところが豪い。人|触るれば人を斬り、馬|触るれば馬を斬るじゃ、日本に生れても高山彦九郎ぐらいのネウチはある男じゃ」 「イエス様と彦九郎を一所にしちゃ耶蘇教信者が憤りやしませんか」 「ナアニ。ソレ位のところじゃよ。彦九郎ぐらいの気概を持った奴が、猶太のような下等な国に生れれば基督以上に高潔な修業が出来るかも知れん。日本は国体が立派じゃけに、よほど豪い奴でないと光らん」 「そんなもんですかねえ」 「そうとも……日本の基督教は皆間違うとる。どんな宗教でも日本の国体に捲込まれると去勢されるらしい。愛とか何とか云うて睾丸の無いような奴が大勢寄集まって、涙をボロボロこぼしおるが、本家の耶蘇はチャンと睾丸を持っておった。猶太でも羅馬でも屁とも思わぬ爆弾演説を平気で遣つづけて来たのじゃから恐らく世界一、喧嘩腰の強い男じゃろう。日本の耶蘇教信者は殴られても泣笑いをしてペコペコしている。まるで宿引きか男めかけのような奴ばっかりじゃ。耶蘇教は日本まで渡って来るうちに印度洋かどこかで睾丸を落いて来たらしいな」 「アハハハハ。基督の十字架像に大きな睾丸を書添えておく必要がありますな」 「その通りじゃ。元来、西洋人が日本へ耶蘇教を持込んだのは日本人を去勢する目的じゃった。それじゃけに本家本元の耶蘇からして去勢して来たものじゃ。徳川初期の耶蘇教禁止令は、日本人の睾丸、保存令じゃという事を忘れちゃイカン」  筆者はイヨイヨ驚いた。下等列車の中で殺人英傑、奈良原到翁から基督教と睾丸の講釈を聞くという事は、一生の思い出と気が付いたのでスッカリ眼が冴えてしまった。  奈良原到翁の逸話はまだイクラでもある。筆者自身が酔うた翁に抜刀で追かけられた話。その刀をアトで翁から拝領した話など数限もないが、右の通、翁の性格を最適切にあらわしているものだけを挙げてアトは略する。  因に奈良原翁は嘗て明治流血史というものを書いて出版した事があるという。これはこの頃聞いた初耳の話であるが、一度見たいものである。  次は江戸ッ子のお手本、花川戸助六、幡随院長兵衛に対照してヒケを取らない博多ッ子のお手本、故、篠崎|仁三郎君を御紹介する。 篠崎仁三郎  ……縮屋新助じゃねえが江戸っ子が何でえ。徳川三百年の御治世がドウしたというんだ。憚んながら博多の港は、世界中で一番古いんだぞ。埃及の歴山港よりもズット古いんだ。神世の昔××××様のお声がかりの港なんだから、いつから初まったか解かれねえ位だ。ツイこの頃まで生きていた太田|道灌のお声がかりなんてえシミッタレた町たあ段式が違うんだ。  勿体なくも日本文化のイロハのイの字は、九州から初まったんだ。アイヌやコロボックルの昔から九州は日本文化の日下開山なんだ。八幡様や太閤様の朝鮮征伐、唐、天竺の交通のカナメ処になって、外国をピリピリさせていた名所旧跡は、みんな博多を中心にして取囲んでいるんだ。唐津、名護屋、怡土城、太宰府、水城、宇美、筥崎、多々羅、宗像、葦屋、志賀島、残島、玄海島、日本海海戦の沖の島なんて見ろ、屈辱外交の旧跡なんて薬にしたくもないから豪気だろう。伊豆の下田の黒船以来、横浜、浦賀、霞が関なんて毛唐に頭ア下げっ放しの名所旧跡ばっかりに取巻かれている東京なんかザマア見やがれだ。  もう一ペン云ってみようか。江戸ッ子が何でえ。博多には博多ッ子が居るのを知らねえか。名物の博多織までシャンとしているのが見えねえか。博多小女郎の心意気なんか江戸ッ子にゃあわかるめえ。  日増しの魚や野菜を喰っている江戸ッ子たあ臓腑が違うんだ。玄海の荒海を正面に控えて「襟垢の附かぬ風」に吹き晒された哥兄だ。天下の城の鯱の代りに、満蒙|露西亜の夕焼雲を横目に睨んで生れたんだ。下水の親方の隅田川に並んでいるのは糞船ばっかりだろう。那珂川の白砂では博多織を漂白すんだぞ畜生……。  芸妓を露払いにする神田のお祭りが何だ。博多の山笠舁きは電信柱を突きたおすんだぞ。飛鳥山の花見ぐらいに驚くな。博多の松囃子を見ろ。町中が一軒残らず商売を休んで御馳走を並べて、全市が仮装行列をやるんだ。男という男が女に化けて、女という女が男に化けて飲み放題の踊り放題の無礼講が三日も続くんだぞ。謝肉祭の上を行くんだ。巡査や兵隊までが仮装と間違えられる位、大あばれに暴れるんだぞ。そんな馬鹿騒ぎの出来る町が日本中のどこに在るか探してみろ。それでいて間違いなんか一つもないんだ。翌る日になると酔うた影も見せずにキチンと商売を初めるんだ。絹ずくめの振袖でも十両仕立ての袢纏でもタッタ一度で泥ダラケにして惜しい顔もせずに着棄て脱ぎ棄てだ。三味線知らぬ男が無ければ、赤い扇持たぬ娘も無い。博多は日本中の諸芸の都だ。町人のお手本の居る処だぞ。来るなら来い。臓腑で来い。大竹を打割って締込みにして来い……。        ×          ×          ×  ここに紹介する博多児の標本、篠崎仁三郎君は、博多|大浜の魚市場でも随一の大株、湊屋の大将である。近年まで生きていた評判男であるが正に名僧|仙崖、名娼|明月と共に博多の誇りとするに足る不世出の博多ッ子の標本と云ってよかろう。但、博多語が日本の標準語でないために、その洒脱な言葉癖をスケッチしてピントを合わせる事が出来ないのが、千秋の遺憾である。  同君の経歴や、戸籍に関する調査は面倒臭いから一切ヌキにして、イキナリ同君の真面目に接しよう。  筆者が九州日報の記者時代、同君を博多旧魚市場に訪問して「博多ッ子の本領」なる話題について質問した時の事である。短躯肥満、童顔豊頬にして眉間に小豆大の疣を印したミナト屋の大将は快然として鉢巻を取りつつ、魚鱗の散乱した糶台に胡座を掻き直した。競場で鍛い上げた胴間声を揺すって湊屋一流の怪長広舌を揮い始めた。 「ヘエ。貴方は新聞記者さん……ヘエ。結構な御商売だすなあ。社会の木魚タタキ。無冠の太夫……私共のような学問の無いものにゃ勤まりまっせん。この間も店の小僧に『キネマ・ファンたあ何の事かいなア』て聞かれましたけに、西洋の長唄の先生の事じゃろうて教えておきましたれア違いますそうで。キネマ・ファンちう者は日本にも居るそうで。私は又、杵屋勘五郎が風邪引いたかと思うておりましたが……アハハハ。  魚市場の商売ナンテいうものは学問があっちゃ出来まっせん。早よう云うてみたなら詐欺と盗人の混血児だすなあ。商売の中でも一番商売らしい商売かも知れませんが……。  第一、生魚をば持って来る漁師が、漁獲高を数えて持って来る者は一人も居りまっせん。沖で引っかかった鯖なら鯖、小鯛なら小鯛をば、穫れたら穫れただけ船に積んでエッサアエッサアと市場の下へ漕ぎ付けます。アトは見張りの若い者か何か一人残って、櫓櫂を引上げてそこいらの縄暖簾に飲みげに行きます。  その舟の中の魚を数え上げるのは市場の若い者で、両手で五匹ぐらいずつ一掴みにして……ええ。シトシトシト。フタフタ。ミスミス。ヨスヨスヨスと云いおる中に、三匹か五匹ぐらいはチャンと余計に数えております。永年数え慣れておりますケン十人見張っておりましても同じ事で、〆て千とか一万とかになった時には、二割から三割ぐらい余分に取込んでおります。  そいつを私が糶台に並べて、 『うわアリャリャリャ。拳々安かア安かア安かア。両拳両拳両拳。うわアリァリァ安か安か安か』  と糶るうちに肩を組んで寄って来た売子の魚屋が十|尾一円二十銭で落いたとします。その落いた魚屋の襟印を見て帳面に『一円五十銭……茂兵衛』とか何とか私共一流の走書きに附込んだ魚を泄うように引っ担いで走り出て行きます。払いの悪い奴なら一円七十銭にも八十銭にも附けておきますので、後で帳面を覗きに来ても一円三十銭やら二円五十銭やら読み分ける事は出来まっせん。学問のある人の書くような読み易い字で、帳面をば附けたなら私共の商売は上ったりで……。つまり何分かの口銭を取った上に、数える時に儲ける。帳面に附ける時に又輪をかける。独博奕の雁木鑢という奴で行き戻り引っかかるのがこの市場商売の正体で、それでもノホホンで通って行くところが沽券と申しますか、顔と申しますか。しかもその詐欺と盗人の附景気のお蔭で、品物がドンドン捌けて行きますので、地道に行きよったら生物は腐ってしまいます。世の中チウものは不思議なもんだす。  ……ヘエ。博多児の資格チウても別段に困難しい資格は要りません。懲役に行かずに飯喰いよれあ、それで宜え訳で……もっともこれが又、博多児の資格の中でも一番困難しい資格で御座います。ほかの資格は何でもない事で……個条書にしたなら四ツか五つ位も御座いましょうか。  ◇第一個条が、十六歳にならぬ中に柳町の花魁を買うこと――  ◇第二個条が、身代構わずに博奕を打つ事――  ◇第三個条が、生命構わずに山笠を舁ぐ事――  ◇第四個条が、出会い放題に××する事――  ◇第五個条が、死ぬまで鰒を喰う事――  ◇第六個条が……まあコレ位に負けといて下さい。芸者を連れて松囃子に出る事ぐらいにしといて下さい。もっともこれは私共の若い時代の事で、今は若い者が学校に行きますお蔭で皆、賢明になりました故、そげな馬鹿はアトカタも無うなりました。その代り人間が信用悪うなりましたが。  ……ヘエ。私がその資格を通ったかと仰言るのですか。これは怪しからん。通ったにも通らぬにも甲の上ダラケの優等生で……ヘエ。  十五になって高等小学校を出ると直ぐに紺飛白の筒ッポを着て、母様の臍繰をば仏壇の引出から掴み出いて、柳町へ走って行きましたが、可愛がられましたなあ。『小か哥兄小か哥兄』ち云うと息の止まる程、花魁に抱き締められましたなあ。ハハハ。帰りがけに真鍮の指環をば一個花魁から貰いましたが、その嬉しさというものは生れて初めてで御座いました。日本一の色男になったつもりで家へ帰っても胸がドキドキして眼の中が熱つうなります。そこで上り框に腰をかけて懐中からその貰うた指環をば出いて、掌の中央へ乗せて、タメツ、スガメツ引っくり返いておりますと、背後からヌキ足さし足、覗いて見た親父が、大きな拳骨で私の頭をゴツウ――ンと一つ啖らわせました。その拍子に大切な指環がどこかへ飛んで行てしまいました。  私は土間へ引っくり返ってワンワン泣き出しました。何をいうにも今年十五の色男だすケに根っから他愛がありませぬ。そこへ奥から母親が出て来まして、 『何事、泣きよるとナ』  と心配して聞きましたから、 『指環の無うなったあ。ウワア――』  と一層、高音を揚げて精一パいに泣出しますと、母親は私の坊主頭を撫でながら、 『ヨカヨカ。指環ぐらい其中、買うちゃる』  と慰めてくれました。私は腹立ち紛れに、 『アンタに買うてもろうたチャ詰まらん』  と怒鳴ってメチャメチャに泣出しましたが、あん時はダイブ失恋しておりましたナア。  鰒も、ずいぶん喰いましたなあ。  私の口から云うのも何で御座いますが、親父は市場でも相当顔の利いた禿頭で御座いましただけに、その頃はまだ警察から禁められておりましたフクを平気で自宅の副食物にしておりました。まあだ乳離れしたバッカリの私の口へ、雄精なぞを箸で挟んで入れてくれますので母親がビックリして、 『馬鹿な事ばしなさんな。年端も行かん児供が中毒って死んだならどうしなさるな』  と押止めますと、親父は眼を剥いて母親を怒鳴付けたそうです。 『……甘いこと云うな。鰒をば喰い能らんような奴は、博多の町では育ち能らんぞ。今から慣らしておかにゃ、詰まらんぞ。中毒って死ぬなら今の中じゃないか』  そげな調子で、いつから喰い初めたか判然りませんが、鰒では随分、無茶をやりました。  最初は一番毒の少ないカナトウ鰒をば喰いましたが、だんだん免疫て来ますと虎鰒、北枕ナンチいうものを喰わんとフク喰うたような気持になりまっせん。北枕なぞを喰うた後で、外へ出て太陽光に当ると、眼が眩うてフラフラと足が止まらぬ位シビレます。その気持の良え事というものは……。  それでもダンダンと毒に免疫て来ると見えて、後日には何とものうなって来ます。北枕を喰うた奴も一町内に三人や五人は居るような事でトント自慢になりまっせんケニ、一番恐ろしいナメラという奴を喰うてみました。  ナメラというのは小さい鰒で、全身が真黒でヌラッとした見るからに気味の悪い恰好をしておりますが大抵の鰒好が『鰒は洗いよう一つで中毒らん。しかしナメラだけはそう行かん』と申します。そうかと思うと沖から来る漁夫なぞは『甘い事云いなさんな。ナメラが最極上利く』と云う者も居ります。  そこで私共の放蕩仲間が三四人申合わせてそのナメラを丸のままブツ切りにして味噌汁に打込んで一杯|飲る事にしましたが、それでも最初はヤッパリ生命が惜しいので、そのナメラの味噌汁をば浜外れの蒲鉾小舎に寝ている非人に遣ってみました。 『ホラ……余り物ば遣るぞ』  と云うて蒲鉾小舎の入口に乾いて在る面桶に半分ばかり入れてやりましたので、非人はシキリに押頂いておりましたが、暫くしてから行ってみますと、喰うたと見えて面桶が無い。本人もまだ生きて煙草を吸うている様子です。そこで安心して皆で喰べましたが、美味う御座いましたなあ。ソレは……トテモ良え気持に酒が廻わってしまいました。  それから帰り途にその非人の処を通りかかりましたが、酔うたマギレの上機嫌で、 『最前の味噌チリ喰うたか』  と尋ねてみますと老人の躄の非人が入口に這い出して来てペコペコ拝み上げました。 『ヘイヘイ。ありがとう様で御座ります。アナタ方も召上りましたか』  と爛れた瞳をショボショボさせました。 『ウン。喰うた。トテモ美味かったぞ』  と正直に答えますと、暫く私どもの顔を見上げておりました非人は、先刻、呉れてやった味噌チリの面桶を筵の蔭から取出しました。 『ヘイ。それなら私も頂戴きまっしょう』  とモウ一ペン面桶を拝み上げてツルツル喰い始めたのには驚きました。非人で試験してみるつもりが、正反対に非人から試験された訳で……。  これはマア一つ話ですがそげな来歴で、後日にはそのナメラでも満足せんようになって、そのナメラの中でも一番、毒の強い赤肝を雁皮のように薄く切ります。それから大きな褌盥に極上井戸水を一パイ張りまして、その中でその赤肝の薄切りを両手で丸めて揉みますと、盥一面に山のごと泡が浮きます。まるで洗濯石鹸を揉むようで……その水を汲み換え汲み換え泡の影が無うなるまで揉みました奴の三杯酢を肴にして一杯飲もうモノナラその美味さというものは天上界だすなあ。喰い残りを掃溜へ捨てた奴を、鶏が拾いますとコロリコロリ死んでしまいますがなあ。  ……ヘエ。私は四度死んで四度とも生き返りました。四度目にはもう絶望ちいうて棺桶へ入れられかけた事もあります。私の兄貴分の大惣ナンチいう奴は棺の中でお経を聞きながらビックリして、ウウ――ンと声を揚げて助かりました位で……イエイエ。作りごとじゃ御座いまっせん。この理窟ばっかりは大学の博士さんでもわからん。ヘエ。西洋の小説にもそのような話がある……墓の下から生上った……ヘエ。それは小説だっしょうが、これは小説と違います。正直正銘シラ真剣のお話で……。  御承知か知りませんが、鰒に中毒ると何もかも痲痺てしもうて、一番しまい間際に聴覚だけが生き残ります。  最初、唇の周囲がムズ痒いような気持で、サテは少と中毒ったかナ……と思ううちに指の尖端から不自由になって来ます。立とうにも腰が抜けているし、物云おうにも声が出ん。その中に眼がボウ――ッとなって来て、これは大変が出来たと思うた時にはモウ横に寝ているやら、座っているやら自分でも判然んようになっております。ただ左右の耳だけがハッキリ聞こえておりますので、それをタヨリに部屋の中の動静を考えておりますところへ、聞慣れた近所の連中の声がガヤガヤと聞こえて来ます。気の早い連中で、モウ棺箱を担い込んで来ている模様です。 『馬鹿共が。又三人も死んでケツカル。ほかに喰う品物が無いじゃあるまいし』 『知らぬ菌蕈喰うて死んだ奴と鰒喰うて死んだ奴が一番、見ともないナア』 『駐在所にゃ届けといたか』 『ウン。警察では又かチウて笑いよった。いま警察から医師が来て診察するち云いよった』 『診察するチウて脈の上った人間はドウなるもんかい』 『棺の中へ入れとけ。ドッチにしても形式ばっかりの診察じゃろうケニ』 『蓋だけせずに置けや。親兄弟が会いげに来るケニ……』 『親兄弟も喜ぼうバイ、此輩どもが死んだと聞いたならホッとしよろう』 『可哀相に……泣いてやる奴も居らんか……電信柱の蝉ばっかりか。ヤ……ドッコイショ……』 『重たいナア。死んだ奴は……』 『結構な死態タイ。良え了簡バイ。鰒に喰われよる夢でも見よろう』 『ハハハ。鰒の方が中毒ろうバイ』 『しかしこの死態をば情婦い見せたナラ、大概の奴が愛想尽かすばい。眼球をばデングリ返いて、鼻汁垂れカブって、涎流っとる面相あドウかいナ』 『アハハハ。腐った鰒に似とる。因果|覿面バイ』 『オイオイ。ここは湊屋の仁三郎が長うなっとる。誰か両脚の方ば抱えやい』 『待て待て。その仁三郎は待て。今俺が胸の処をば触って見たれあ、まだどことのう温い様ある。まあだ生きとるかも知れん』 『ナニ。生きとるかも知れん。馬鹿|吐け。見てんやい。眼球ア白うなっとるし、睾丸も真黒う固まっとる。浅蜊貝の腐ったゴト口開けとる奴ばドウするケエ』 『まあまあ。そう云うな。一人息子じゃけに、念入れとこう』  この時ぐらい親の恩を有難いと思うた事は御座いません。親というものが無かったならこの時に私は、ほかの連中と一所に棺箱へ入れられて、それなりけりの千秋楽になっておりました訳で……。 『その通りその通り。助けてくれい助けてくれい』  と呼ぼうにも叫ぼうにも声は出ず、手も合わせられませぬ。耳を澄まして運を天に任かせておるその恐ろしさ。エレベータの中で借金取りに出会うたようなもので……ヘエ……。  それでもお蔭様で生き上りますと又、現金なもので、折角、思い知った親の恩も何も忘れて博奕は打つ……××はする……。  ……ヘエ。その××ですか。これはどうも商売の奥の手で、この手を使わぬ奴は人気が立たず。魚類が売れません。まあ云うてみればこの奥の手を持たん奴は魚売の仲間に這入らんようなもので……ヘヘヘ。  その頃、私はまあだ問屋の糶台に座らせられません。禿頭の親爺がピンピンして頑張っておりましたので……その親父が引いてくれた魚類の荷籠に天秤棒を突込んで、母親が洗濯してくれた袢纏一枚、草鞋一足、赤褌一本で、雨風を蹴破ってワアッと飛出します。どこの町でも魚類売りは行商人の花形役者で……早乙女が採った早苗のように頭の天頂に手拭をチョット捲き付けて、 『ウワ――イ。ナマカイランソ、ウワ――アアイイ……』  と横筋違に往来ば突抜けて行きます。号外と同じ事で、この触声の調子一つで売れ工合が違いますし、情婦の出来工合が違いますケニ一生懸命の死物狂いで青天井を向いて叫びます。そこが若い者のネウチで……。  しかも呼込まれる先々が大抵レコが留守だすケニ間違いの起り放題で、又、間違うてやりますと片身の約束の鯖が一本で売れたりします。おかげでレコも帰って来てから美味いものが喰えるという一挙両得になるワケで……。  それでも五六軒も大持てに持てて高価い魚がアラカタ片付く頃になりますと、もうヘトヘトになって、息が切れて、走ろうにも腰がフラ付きます。太陽様が黄色く見えて、生汗が背中を流れて、ツクツク魚売人の商売が情無うなります。何の因果でこげな人間に生れ付いたか知らん。孫子の代まで生物は売らせまいと思い思い空になった荷籠を担いで帰って来ます。  それでも若い中は有難いもので、その晩一寝入りしますと又、翌る朝は何とのう生魚を売りに行きとうなります。  バクチは親父が生きとる中は遣りませんでしたが、死ぬると一気に通夜の晩から初めまして、三年経たぬ中に身代をスッテンテレスコにして終いました。それを苦に病んで母親も死ぬる……というような事で、親不孝者の標本は私で御座います。ヘイ。  今では身寄タヨリが在りませぬので、イクラ働いても張合いが御座いまっせん。それでも世界中が親類と思うて、西洋人の世話までしてみましたが、誰でも金の話だけが親類で、他事は途中で擦違うても知らん顔です。 『道楽はイクラしても構わん。貴様が儲けて貴様が遊ぶ事じゃケニ文句は云わんが、赤の他人でも親類になる……見ず知らずの他人の娘でも蹴倒おす金の威光だけは見覚えておけよ』  というのが死んだ親父の口癖で御座いましたが、全くその通りの懸価なしで、五十|幾歳のこの年になって、ようようの事、世間が見えて来ましたがチット遅う御座いましたナア。人間万事身から出た錆と思うて……親不孝の申訳と思うて、誰でも彼でも親切にしてやる片手間には、イツモ親父の石塔に頭を下げておりますが、お蔭で恩知らずや義理知らずに出会うても格別腹も立ちまっせん。両親の墓に線香を上げるとスウーッとしてしまいます。  バクチの失敗談ですか。バクチの方はアンマリ面白い事は御座いまっせんばい。資金に詰まって友達の生胆を売って大間違いを仕出かしたのを幕切にして、立派にやめてしまいましたが、考えてみると私輩の一生は南京花火のようなもので……シュシュシュシュポンポンポン……ウワアーイというただけの話で……。  ……ヘエ……その生胆売りの話ですか。どうも困りますなあ。アンマリ立派な話じゃ御座いませんので……あの時のような遣切ない事はありまっせんじゃった。今まで誰にも云わずにおりましたが……懲役に遣られるかも知れませんので……。決して悪気でした事では御座いませんじゃったが、人間の生胆と枕草紙は警察が八釜しゅう御座いますケニなあ……。  もっとも友達の生胆を売ったチウたて、ビックリする程の事じゃ御座いません。生胆の廃物利用をやって見た迄の事だす。前のバクチの一件の続きですが……私が二十三か四かの年の十二月の末じゃったと思いますケニ、明治二十年前後の事だしつろうか。  前にも申しました通りバクチは親父の生きとる中は大幅で遣れませんでしたが、死ぬると一気に通夜の晩から枕経の代りに松切坊主を初めましたので、三年経たぬ中に身代がガラ崩れのビケになってしもうた。それを苦にした母親が瘠せ細って死ぬる。折角来てくれた女房までもが見損のうたと吐いて着のみ着のままで逃げてしもうた。その二十三か四の年の暮が仙崖さんの絵の通り『サルの年祝うた』になってしもうた。  借金で首がまわらぬと申しますが、あの味わいバッカリは借金した者でないと理解りまっせん。博多の町中、行く先々、右も左も虱の卵生み付けたゴト不義理な借銭ばっかり。真正面の青天井に見当を附けて兵隊さん式にオチニオチニと歩まぬと、虱の卵を生み附けられた顔がイクラでも眼に付きます。その虱の卵が一つ一つに孵化て、利が利を生みよる事を考えると、トテモ博多の町に居られた沙汰では御座いませぬ。こげな事にかけますと私はドウモ気の小さい方と見えまして……ヘイ。  私の女郎買とバクチの先達で大和屋惣兵衛、又の名を大惣という男が居りました。最前チョットお話ししました棺の中でお経を聞いてビックリした豪傑で、お寺の天井に居る羅漢様と生き写しの面相で、商売の古道具屋に座って、煙草を吸うております中に蜘蛛が間違えて巣を掛けよるのを知らずにおったという大胆者で御座います。  平生から私の事をドウ考えているか判然りませんでしたが、イヨイヨ押詰まった師走の二十日頃にこの男の処へ身の上相談に行きますと、相変らず煤け返った面で古道具の中に座っておりましたが、私の顔をジイッと見ながら、黙って左の掌を出せと申します。何を云うかわからん、気味の悪いところがこの男のネウチで、啣え煙管のまま私の掌を見ておりましたが、 『これはナカナカ運のいい手相じゃ。長崎へ行けばキット運が開けると手筋に書いてある』  と云います。私は呆れました。 『馬鹿|吐け。長崎へ行く旅費がある位なら貴様の処へ相談に来はせぬ』 『まあ待て。そこが貴様の運のええところじゃ。運気のお神様は貴様の来るのを待って御座った』  と云ううちにチョット出て行きますと、瞬く間に五十両の金を作って来たのには驚きました。 『実は俺も生れてから四十五年、ここへ坐っ居ったが、イヨイヨこの家へ居ると四十六の年が取れん位、借金の下積になっとる。ちょうど女房と子供が、実家の餅搗の加勢に行とるけに、この店をば慾しがっとる奴の処へ行て委任状と引換えに五十両貰うて来た。序に俺のバクチの弟子で女房の弟に当るチットばかり耳の遠い常吉という奴も、長崎へ行きたがっとるけに、今寄って誘うて来た。三人連れで長崎へ行て一旗揚げてみよう。異人相手の古道具は儲かる理窟を知っとるけに、大船に乗った気で随いて来い』  と云います。日本一アブナイ運の神様ですが、迷うておりました私は大喜びで、そこへボンヤリ這入って来た、今の話のツン州という若者と三人で久し振りに前祝を一パイ遣って、夜汽車に乗って長崎へ来ました。  ところで途中、湯町にも武雄にも引っかからず長崎へ着いて、稲佐という処の木賃宿へ着いた迄は上出来でしたが、その頃の五十両というと今の五百円ぐらいには掛合いましたもので、三人とも長崎見物の途中から丸山の遊廓に引っかかって、チョットのつもりがツイ長くなり、毎日毎日チャンチャンチャンチャンと花魁船を流している中に五十両の金が、溝鼠のように逃げ散らかってしもうた。仕方なしにモトの木賃宿に帰って来ると泣面に蜂という文句通りに、大惣が大熱を出いて、煎餅布団をハネ除けハネ除け苦しがる。今で云う急性肺炎じゃったろうと人は云いますが、お医者に見せる銭なぞ一文も在りませんけに、濡手拭で冷やいてやるばっかり。そのうちに大惣がクタビレて来たらしく、気味の悪いくらい静かになって来た。半分開いた眼が硝子のゴト光って、頬ベタが古新聞のゴト折れ曲って、唇の周囲が青黒う変って、水を遣っても口を塞ぎます。洗濯板のようになった肋骨を露出いてヒョックリヒョックリと呼吸をするアンバイが、どうやら尋常事じゃないように思われて来ました。  そのうちに夜が更けて二時か三時頃になります。背後の山手でお寺の鐘が、陰に籠ってゴオオ――ンンと来ますと、私は、もうイカンと思いました。スヤスヤ寝入っとる大惣を揺り起いて耳に口を寄せました。 『……大惣……大惣……』  大惣が返事の代りに私の顔をジイット見ます。 『貴様はモウ詰まらんぞ』  何度も何度も大惣が合点合点しました。涙を一パイ溜めております。 『……イロイロ……セワニ……ナッタ……』 『ウム。そげな事あドウデモよかバッテン、イッソ死ぬなら俺へ形見ば遣らんか』  大惣は寝たまま天井をジイッと見した。 『……シネバ……シネバ……何モイラン……何デモ遣ルガ……何モナイゾ……』 『ホンナ事に呉れるか』 『……ウム。オレモ……ダイ……大惣じゃ』 『よし、それなら云おう。貴様が死んだなら済まんが、貴様の生胆ば呉れんか』  大惣が天井を見たままニンガリと物凄く笑いました。 『ウム。ヤル。臓腑デモ……睾丸デモ……ナンデモ遣ル。シネバ……イラン』 『よしっ。貰うたぞ。今……生胆の買手をば連れて来るケニ、貴様あ今にも死ぬゴトうんうん呻唸きよれや』  大惣が今一度、物凄くニンガリしながら合点合点しました。私は直ぐに木賃宿を飛出しました。  その頃は長崎に、支那人の生胆買いがよく居りました。福岡アタリの火葬場にもよくウロウロしおりましたそうで……真夜中でも何でも六神丸の看板を見当てにしてタタキ起しますと、大抵手真似で話が通じましたもので、私は日本語のすこし出来る支那人を引っぱって木賃宿へ帰って来ました。  その支那人は体温計と聴診器を持って来ておりました。私とツン州と二人で感心して見ております前で、約束通りにウンウン呻吟きよる大惣の脈を取って、念入りに診察しますと病人の枕元で談判を初めました。 『この病人は明日の正午頃までしか保たん。死骸を蒲団に包んで私の家に担いで来なさい。高価く買います。私の店はこの頃開いた店じゃケニ高い。ほかの家は皆安い。死骸の片付けも皆して上げます。頭毛も首の骨もチャント取って上げます。生胆のほかに胃腸につながっている小さい青い袋を附けて下されば七円五十銭。それが温い中に持って来なされば十二円五十銭……』  支那坊主は掛値を云うものと思いましたケニ、思い切って大きく吹っかけました。 『イカンイカン。二十五円二十五円。一文も負からん。ほかの処へ持って行く。ほかに知っとる店がイクラでも在る』 『それなら十五円……』 『ペケペケ。絶対ペケある。二十五円二十五円。アンタは帰れ。モウ話しせん』  私は支那人の足下を見てしまいました。魚市場の伜だすけに物は云わせません。支那人坊主は未練そうに立上りかけました。 『そんなら十七円五十銭……ぬくい中……』 『ウーム……』  と私は腕を組んで考えました。ここいらが支那人の本音かなと思うておりますところへ、横から大惣が蒼白い手を伸べて私の着物の袖を引っぱりました。 『……ヤスイヤスイ……ウルナウルナ……』 『わたし。最早帰ります。十八円……いけませんか』 『ペケ……ペケ……オレノ……キモハ……フトイゾ……ペケペケ……』 『ええ。要らん事云うな。大惣……黙って呻吟きよれ』 『ウンウン。ウンウン。水ヲクレイ』 『ホラ。遣るぞ。末期の水ぞ。唐人さんドウかいな。もう死によるが。早よう話をばきめんとほかの処へ持って行くがナ』  とうとう支那人が負けて二十円で手を打ちまして、ほかの処へ持って行かぬように、五円の手附を置いて帰りました。 『ヤレヤレ。クタビレタ』 『ウンウン……ウンウン……スマンスマン……』 『モウ呻吟かんでもヨカ。御苦労御苦労。こちの方がヨッポド済まん。ところで済まん序にチョット待っとれ。骨休めするケニ』  私はその五円札を一枚持って飛出いて、近所の酒屋から土瓶に二杯、酒を買うて、木賃宿から味噌を一皿貰うて来ました。何しろ暫く飢渇いておったところですから、骨休めというので、ツン公と二人で燗もせぬ酒をグビリグビリやっております、とその横で大惣がウンウン唸り出しました。又、私の袖を引きますので五月蠅しい奴と思うて振向きますと、大惣の奴、熱で黒くなった舌を甜めずりまわしております。 『……オレ……モ……一パイ……ノム……』 『途方もない事をば云うな。馬鹿……その大病で酒を飲むチウ奴があるか。即死てしまうぞ』  大惣の落ち凹んだ眼の色が変りました。涙をズウウと流しながら歯ぎしりをして半分起き上ろうとします。 『ソノ……サケハ……オレノ……キモノ……テツケジャ……。オレモ……ノム……ケンリ……ケンリガ……アル……』  私は胸が一パイになりました。 『アハハハハ。これは謝罪った。俺が悪かった悪かった。よしよし。わかったわかった。寝とれ寝とれ。サア飲め。ウント飲め。末期の水の代りに腹一パイ飲め……』  そんな状態で、病人と介抱人が日本一の神様みたようになってグーグー眠ってしまいましたが、その中に大惣の声で……、 『オイオイ。湊屋。起きんか。モウ正午過ぎぞ』  と云うて私を揺り起しますので、ビックリして跳ね起きますと……ナント……大惣が起きて、私どもの枕元に座っております。神霊の上がったようなポカンとした顔をしております。 『ウワア。貴様……起きとるとや』 『ウン。気持のええけに起きてみた』 『何や。……全快ったとや』 『ウン。今、小便に行て来たが、ちいっとばっかしフラフラするダケじゃ。全快ったらしい』 『ウワア……それは大変事の出来とる。いま全快っちゃイカン』 『イカンち云うたてチャ俺が困る』 『コッチも困るじゃないか。貴様の生胆の手附の金をばモウ崩いてしもうとる』 『何でもええ。貴様に任せる。生胆の要るなら遣る』 『馬鹿……今、貴様の生胆を取れあ、俺が懲役に行くだけじゃないか……おいツン州……大変事の出来たぞ』 『……芽出度い……』 『殴わせるぞ畜生。芽出度過ぎて運の尽きとるじゃないか』 『ドウすれあ良えかいな』 『仕様はない。逃げよう。支那人が来て五円戻せチュータてちゃ、あの五円札は酒屋から取戻されん。そんならチいうて大惣の病気をば今一度、非道なす訳には尚更行かん……よしよし……俺が一つ談判して来てやろう』  それから木賃宿のオヤジに談判しますと、宿賃は要らん。大病人に死なれちゃタマラン。早よう出てくれいと云います。  コッチは得たり賢しです。直ぐにヒョロヒョロの大惣をツン州の背中へ帯で十文字に結び付けて、外へ出ましたが、別段、どこへ行くという当ても御座いません。その中にフト稲佐の山奥へ、私の知っている禅宗坊主が居る事を思い出しまして、昨夜の鐘の音は、もしやソイツの寺じゃないか知らんと気が付きました。何ともハヤ心細い、タヨリにならぬ空頼みをアテにして、足に任せて行くうちに、何しろ十二月も三十日か三十一日という押詰まっての事で、ピューピュー風に吹かれた大病人上りの大惣が寒がります。哀れなお話で、今にも凍え死にそうな色になって『寒い寒い』と云いますので、タッタ一枚着ておりました私の褞袍を上から引っ被せて、紅褌一貫で先に立って、霜柱だらけの山蔭をお寺の方へ行きますと、暫く行く中に、大惣は元来の大男で、ツン州の力が足らぬと見えて、十文字に縛った帯が太股に喰い込んで痛いと大惣が云い出しました。  私はトウトウ腹が立ってしまいました。裸体のままガタガタ震えながら大惣を呶鳴付けました。 『太平楽|吐くな。ええ。このケダモノが……何かあ。貴様が死さえすれあ二十円取れる。市役所へ五十銭附けて届けれあ葬式は片付く。アトは丸山に行て貴様の狃除をば喜ばしょうと思う居る処に、要らん事に全快なったりして俺達をば非道い眼に合わせる。捕らぬ狸の皮算用。夜中三天のコッケコーコーたあ貴様が事タイ。それでも友達甲斐に連れて来てやれあ、ヤレ寒いとか、太股の痛いとか、太平楽ばっかり祈り上げ奉る。この石垣の下に捨てて行くぞ……エエこの胆泥棒……』 『ウ――ム。棄てるなら……助けると思うて……酒屋の前へ棄ててくれい。昨夜の釣銭をば四円二十銭置いて行てくれい』 『ウハッ……知っとったか。外道サレ』  そんな事で向うの禅宗寺へ逃込みますと、有難いことにその和尚という奴が、博多の聖福寺から出た奴で、私たちの友達ですケニなかなか人物が出来ております。 『ワハハハ。それは芽出度い。人間そこまで行てみん事には、世の中はわからん。よろしい引受けた。その支那人なら私も知ってる。ウチの寺へ石塔を建てて、その細工賃を一年ばかり石屋へ引っかけて、拙僧に迷惑をかけとる奴じゃ。ええ気味じゃええ気味じゃ。文句附けに来たら私が出てネジて上げる。心配せずに一杯飲みない。オイ。了念了念。昨夜の般若湯の残りがあろう。ソレソレ。それとあのギスケ煮の鑵を、ここへ持って来なさい』  というたような事でホッと一息しました。その寺で大惣に養生をさせまして、それから三人で平戸の塩鯨の取引を初めましたのが運の開け初めで、長崎を根拠にして博多や下関へドンドン荷を廻わすようになりましたが、その資本というたなら、大惣の生胆一つで御座いました。人間、酒と女さえ止めれば、誰でも成功するものと見えますナア。ハハハハ……」  湊屋仁三郎の逸話は、この程度のものならまだまだ無限に在る。仁三郎の一生涯を通ずる日常茶飯が皆、是々的で、一言一行、一挙手一投足、悉く人間味に徹底し、世間味を突抜けている。哲学に迷い、イデオロギイに中毒して、神経衰弱を生命の綱にしている現代の青年が、百年考えても実践出来ない人生の千山万岳をサッサと踏破り、飄々乎として徹底して行くのだから手が附けられない。もしそれ百尺|竿頭、百歩を進めた超凡越聖、絶学無造作裡に、上は神仏の頤を蹴放し、下は聖賢の鼻毛を数えるに到っては天魔、鬼神も跣足で逃げ出し、軒の鬼瓦も腹を抱えて転がり落ちるであろう。……こうした湊屋仁三郎一流の痛快な消息のドン底を把握し、神経衰弱の無限の乱麻を一刀両断しようと思うならば請う、刮目して次回を読め!  諸君は博多|二輪加の名を御存じであろう。御覧にならない方々のためにチョッと知ったか振りを御披露申上げておくが、博多二輪加の本領というものは、東京の茶番狂言や、大阪二輪加なぞと根本的に仕組みの違ったもので、一切の舞台装置や、台本なぞいう面倒なものの御厄介にならない。普通在来の着のみ着のままに、半面をかけて舞台に上るなり、行きなり放題の出会い頭にアッと云わせたり、ドッと笑わせたりするのがこのニワカ芸術の本来の面目である。だから本来の博多仁輪加では、その出演者同志がお互いに、人生、人情、世態に通暁徹底していなければいけない。お互いに舞台上の演出効果――蔭の花を持たせ合って、透かさず舞台気分を高潮させ合い、共同一致のファインプレイを演出し合うだけの虚心坦懐さがなければ仁輪加の花は咲かない。この生活苦と、仁義、公儀の八釜しい憂世を三分五厘に洒落飛ばし、上は国政の不満から、下は閨中の悶々事に到るまで、他愛もなく笑い散らして死中に活あり、活中死あり、枯木に花を咲かせ、死馬に放屁せしむる底の活策略の縦横|無礙なものがなくては、博多仁輪加の軽妙さが生きて来ないのである。  湊屋の大将こと、篠崎仁三郎は、その日常の生活が悉くノベツ幕なしの二輪加の連鎖であった。浮世三分五厘、本来無一物の洒々落々を到る処に脱胎、現前しつつ、文字通りに行きなりバッタリの一生を終った絶学、無方の快道人であった。古今東西の如何なる聖賢、英傑と雖も、一個のミナト屋のオヤジに出会ったら最後、鼻毛を読まれるか、顎骨を蹴放されるかしない者は居ないであろう。試みに挙す。看よ。  前回の通り、親友の生胆を資本にして、長崎の鯨取引に成功した湊屋仁三郎は、生れ故郷の博多に錦を? 飾り、漁類問屋をやっている中に、日露戦争にぶっつかり、奇貨おくべしというので大倉喜八郎の牛缶に傚って、軍需品としての魚の缶詰製造を思い立ったが、慣れない商売の悲しさ、缶の製造業者に資本を喰われて、忽ち大失敗の大失脚。スッテンテンの無一物となった三十八年の十一月の末、裾縫の切れた浴衣一枚で朝鮮に逃げ渡り釜山漁業組合本部に親友林|駒生氏を訪れた。林駒生氏は本伝第二回に紹介した杉山茂丸氏の末弟で、令兄とは雲泥、霄壌も啻ならざる正直一本槍の愚直漢として、歴代総督のお気に入り、御引立を蒙っていた統監府の前技師であった。左はその直話である。 「ヨオ。仁三郎か。よく来た……と云いたいが何というザマだ。この寒いのに浴衣一枚とは……」 「ウム。俺あ途方もない幽霊に附纏われた御蔭で、この通りスッテンテンに落ぶれて来た。何とかしてくれい」 「フウン。幽霊……貴様の事ならイズレ女の幽霊か、金の幽霊じゃろ」 「違う。金や女の幽霊なら、お茶の子サイサイ狃れ切っとるが、今度の奴は特別|誂えの日本の水雷艇みたような奴じゃ。流石のバルチック艦隊も振放しかねて浦塩のドックに這入り損のうとる。その執拗い事というものは……」 「フウン。そんなに執拗い幽霊か」 「執拗いにも何も話にならん。トテモ安閑として内地には居られん」 「一体何の幽霊かいね」 「缶詰の幽霊たい。ほかの幽霊と違うて缶詰の幽霊じゃけに、いつまでも腐らん。その執拗い事というものは……呆れた……」  愚直な林氏は茲に於て怫然色を作した。 「一体貴様は俺をヒヤカシに来たのか。それとも助けてもらいに来たのか」 「正真正銘、真剣に助けてもらいに来たのじゃないか。これ見い。この寒空に浴衣のお尻がバルチック艦隊……睾丸のロゼスト・ウイスキー閣下が、白旗の蔭で一縮みになっとる。どうかして浦塩更紗のドックに入れてもらおうと思うて……」 「馬鹿……大概にしろ。この忙しい事務所に来て、仁輪加を初める奴があるか……」  しかし篠崎仁三郎はどこへ行ってもこの調子であった。魚市場の若い連中が何かの原因でストライキを起して、幹部連中が持てあましている場面でも湊屋仁三郎が出て行くと一ペンに大笑いになって片付いた。 「貴様は○○のような奴じゃ。撫でれば撫でる程、イキリ立って来る。見っともない」  結局、彼にとっては人間万事が仁輪加の材料でしかなかった。事窮すれば窮するほど上等の仁輪加が出来るだけの事であった。彼は洒々落々の博多児の生粋、仁輪加精神の権化であった。  太閤様を笑わせ、千利休を泣かせるのは曾呂利新左衛門に任す。白刃上に独楽を舞わせ、扇の要に噴水を立てるのは天一天勝に委す。木仏、金仏を抱腹させ、石地蔵を絶倒させるに到っては正に湊屋仁三郎の日常茶飯事であった。更に挙す。看よ。  やはり湊屋仁三郎が一文無し時代の事。連日の時化で商売は出来ず、仕様ことなしに、いつも仲好しの相棒と二人で、博多大浜の居酒屋へ飛込んだ。無けなしの銭をハタキ集めてやっと五合|桝一パイの酒を引いたが、サテ、酒肴を買う銭が無い。向うの暗い棚の上には、章魚の丸煮や、蒲鉾の皿が行列している。鼻の先の天井裏からは荒縄で縛った生鰤の半身が、森閑とブラ下っているが、無い袖は振られぬ理窟で、五合桝を中に置いて涙ぐましく顔を見交しているところへ天なる哉、小雨の降る居酒屋の表口に合羽包みの荷を卸した一人の棕梠箒売が在る。  元来この棕梠箒売という人種は、日本中、どこへ行っても他国の者が多い。従ってどことなく言葉癖が違っている上に、根性のヒネクレた人間が珍らしくない。仁輪加なんか無論わかりそうにないノッソリした奴が多いのであるが、その中でも代表的と見える色の黒い、逞ましそうな奴が、骰子の目に切った生鰤の脂肉の生姜醤油に漬けた奴を、山盛にした小丼を大切そうに片手に持って、 「ええ。御免なはれ」  と這入って来た。唖然として見惚れている仁三郎とその相棒を尻目にかけ、件の小丼を仁三郎の背後のバンコに置き、颯爽として奥へ這入り、店の親爺を捉まえて商売物の棕梠箒で棕梠ハタキを押付けて酒代にすべく談判を始めた。ところがその居酒屋の親爺なる人物が又、人気の荒い大浜界隈でも名打ての因業おやじでナカナカそんな甘手の元手喰式慣用手段に乗るおやじでない。ヤッサ、モッサと話が片付かぬ中に二人は、代る代る手を出して背後の小丼の中味を抓んだ。 「ハハン。この家のおっさんのガッチリして御座るのには呆れた。両方儲かる話が、わからんチウタラ打出の小槌でたたいても銭の出んアタマや……ハハン。買うて下はらぬ位なら他の店へ行くわい」  とか何とか棄科白で、大手を振って棕梠箒売が引返して来た時には、小丼の中にはモウ濁った醤油と、生姜の粉が、底の方に淀んでいるだけであった。  箒売は土間の真中に突立ったまま唖然となって、上機嫌の二人を眺めておった……が、やがてガラリと血相を変えると、知らん顔をして指を舐めている仁三郎に喰って蒐った。 「……アンタ等は……ダ……誰に断って、この肴をば、抓みなさったカイナ」  湊屋がゲラゲラ笑い出した。 「アハハ、途方もない美味か鰤じゃったなあ。ホーキに御馳走様じゃった。まず一杯差そうと云いたいところじゃが、赤桝の中はこの通り、逆様にしても一しずくも落ちて来んスッカラカン……アハハハハ。スマンスマン……」  真青になって腕を捲くった箒売が、怒髪天を衝いた。 「済まんで済むか。切肉を戻せッ」  仁三郎は柔道の免許取りであっただけにチットも驚かなかった。 「イヤ、悪かった。猫に干鰯でツイ卑しい根性出いたのが悪かった」 「この外道等……訳のわからん文句を云うな。ヌスット……」 「イヤ。悪かった悪かった。冗談云うて悪かった。博多の人間なら仁輪加で笑うて片付くが、他国の人なら腹の立つのも無理はない。悪かった悪かった。ウチまで来なさい。返済てやるけに。ナア。この通り謝罪云うけに……」  元来が温厚な仁三郎は、見ず知らずの箒売の前に鉢巻を取って平あやまりに謝罪った。 「貴様の家まで行く用はない。金が欲しさに云いよるのじゃないぞ。今喰うた切肉を元の通りにして返せて云いよるとぞ」  押が強くて執念深いのが箒売の特色である。その中でも特別|誂えの奴と見えて、相手は二人と見ても怯まなかった。因縁を附けてイタブリにかかる気配であった。 「他国の人間と思って軽蔑するか。一人と思うて侮るか。サア鰤をば返せ。返されんチ云うなら二人とも警察まで来い。サア来い」 「まあ待ちなさい。チャンと話は附ける。ブリな事をば云いなさんな」 「又仁輪加を云う。何がブリかい。その仁輪加を警察へ来て云うて見い。サア来い」  湊屋の相棒は市場名物の短気者であった。 「ええ。面倒な。鰤さえ返せば文句はないか」  と云ううちに、店の天井からブラ下っていた鰤の半身を引卸して、片手ナグリに箒売を土間へタタキ倒した。 「持って失せれ外道サレエ。市場の人間を見損のうたか」  箒屋は剣幕に呑まれたらしい。鰤の半身も、持って来た丼もそのままに起上って、棕梠箒の荷を担いで逃げて行く奴を、追い縋った相棒が引ずり倒してポカポカと殴り付けた。商売物の箒が泥ダラケになってしまった。  その間に湊屋は黙って鰤の半身を拾ってモトの天井の釘へブラ下げるのを、居酒屋の因業おやじが奥から見ていたらしい。イキナリ飛出して来て仁三郎の前に立ちはだかった。 「その鰤は商売物ばい。黙って手をかけたからには、そのままには受取れん」  仁三郎は返事をしないままその鰤の半身をクフンクフンと嗅いでみた。 「親爺さん、悪い事は云わん。この鰤は腐っとるばい。こげな品物ば下げておくと、喰うたお客の頭の毛が抜けるばい」 「要らん世話たい。腐っておろうがおるまいがこっちの品物じゃろうが、銭を払え銭を……」 「ナニ。貴様もこの鰤が喰いたいか」  帰って来た相棒が割込んで来たのを仁三郎が慌てて押止めた。 「まあまあそう因業な事をば云いなさんな。折角の喧嘩が又ブリ返すたい」 「その禿頭をタタキ割るぞ畜生」 「止めとけ止めとけ。タタキ割っても何にもならん。腐ったブリが忘れガタミじゃ詰らん」  この洒落がわかったらしい。親爺が、眼をグルグルさしたまま黙って引込んだ。  二人は連立って店を出た。 「ああ、久しブリで美味かった」 「俺もチイッと飲み足らんと思うておったれあ、今の喧嘩でポオッとして来た。二合|分ぐらいあったぞ、箒売のアタマが……オット今の丼をば忘れて来た」 「馬鹿な。置いとけ置いとけ。ショウガなかろう」  飄逸、洒脱、繊塵を止めず、風去って山河秋色深し。更に挙す。看よ。  仁三郎の友人に水野某という青物問屋の主人があった。その又二人の友人で又木某という他県人の青物仲買人があった。その又木某は身寄タヨリのない全くの独身者で、兼てから湊屋仁三郎と水野某を保証人として何千円かの生命保険に加入していた。又木|曰く、 「俺は篠崎にも水野にも一方ならぬ世話になった。俺の家は代々胃癌で死ぬけに、俺も死ぬかも知れぬ。それで万一俺が死んだなら一つ頼むけに俺の葬式をしてくれい。ナア」  涙もろい二人は喜んで証書に印判を捺したものであった。もとより無学文盲の二人の事とて、法律の事なんか全く知らず、盲判も同然で金額なども全然忘れたまま仲よく交際していた。  ところがどうした天道様の配り合わせか、間もなくその又木が四十五歳を一期として胃癌で死んだ。お蔭で思いがけない巨額の金が、二人の懐に転がり込んだので二人は少なからず面喰った。 「何でも構わぬ。約束は約束じゃ。出来るだけ賑やかに葬式をしてやれ」  というので立派な石塔を建てた上に永代|回向料まで納めてしまったが、それでも余った相当の金額を持ってソンナところは無暗に義理固い篠崎、水野の両保証人が、又木の本籍地へ乗込んだ。色々身よりを探しまわって又木の後を立てるべく苦心したが、その又木のアトがどうしてもわからない。そこで……これでは詰まらん博多へ帰ろう。又木の菩提追福のためにこの金を潔く女共へ呉れてしまおう……というので仕事の休み序に柳町に押上り、あらん限りの太平楽を並べて瞬く間に残金を成仏させて帰った。そうして帰ると直ぐに二人で一パイ飲んだ。 「ああ清々した。しかし水野、保険というものはええものじゃねえ」 「ウン。こげな有難い物たあ知らんじゃった。感心した。又誰か保険に加入らんかな」 「おお。そういえばあの角屋の青柳喜平はまあだ三十四五にしかならんのに豚の様ブクブク肥えとる。百四五十|斤位あるけに息が苦しいとこの間自分で云いよった。あの男なら四十位になると中風でコロッと死ぬかも知れんぜ」 「うむ。アイツの親爺も中気で死んどる。彼奴は保険向きに生れとる事をば、自分でも知らずにいるに違いない」 「貴様は何でも勧め上手じゃケニ一つ行て教えて来やい」 「ウン。よかろう。行て来う。今から行て来う。善は急げ……」 「今度は又木の三倍ぐらい掛けて来やい」 「ウン。飲みながら待っとれ。帰りに今少と、肴ば提げて来るけに……」  青柳喜平というのは当時から福岡の青物問屋でも一番の老舗で双水執流という昔風の柔道の家元で、武徳会の範士という、仁三郎には不似合いな八釜しい肩書附の親友であった。現、角屋の三右衛門氏の養父、現画伯、青柳喜兵衛氏の実父。若くして禅学に達し、聖福寺の東瀛禅師、建仁寺の黙雷和尚に参し、お土産に宝満山の石羅漢の包みを提げて行って京都の俥屋と、建仁寺内を驚かした。日露戦争の時の如き、福岡聯隊の依頼に応じて、露西亜の俘虜の中でも一番強力な暴れ者を猫の前の鼠の如くならしめたという怪力、怪術無双の変り者で、筆者ともかなり心安かったので自然この話を同氏の直話として洩れ聞いた訳である。  喜平氏は親友湊屋仁三郎の使者として同業の水野が、白足袋などを穿いて改まって来たので、何事か知らんと思って座敷に上げた。ちょうど時分がよかったので午餐まで出して一本|燗けた。  水野は遠慮なく厄介になりながら熱心に説去り説来ったが、聞き終った青柳喜平氏は米搗杵みたいな巨大な腕を胸の上に組んだ。 「ウムウム。成る程成る程。よう解かった。如何にも貴様の云う通り人間は老少|不定。いつ死ぬるかわからん。俺の親父も中気で死んどる故、血統を引いた俺も中気でポックリ死なんとは限らん。実はこの頃、肥り過ぎて子供相手に柔術が取れんので困っとる。技術に乗ってやれんでのう」 「ウン。それじゃけに今の中に保険に入れと……」 「まあ待て待て。それは良う解かっとる。這入らんとは云わん」 「有難い。流石は青柳……」 「チョチョチョッと待て……周章るな。そこでタッタ一つ解らん事がある」 「何が解らんかい。これ位わかり易い話はなかろう」 「さあ。それが解からんテヤ。つまりその俺がポックリ死んだなら、取れた保険の金は貴様達二人が貰われるように、証文をば書いておけと云いよるのじゃろう」 「その通りその通り。貴様は話がようわかる」 「そんならその保険に掛ける金は、誰が掛けるとかいネエ。貴様達が掛けるか……」 「馬鹿云え。知れた事。貴様の保険じゃけに、貴様が掛けるにきまっとるじゃないか」 「……馬鹿ッ……帰れッ……」  青柳に大喝された水野は、上り口から飛降りて、下駄を提げたまま二三町無我夢中で走った。その白足袋を宙に舞わして逃げて行った恰好が、今思い出しても可笑しいと青柳喜平氏は筆者に語った。 「怪しからん親友もあればあるものです。私が肥っているのを見て煮て喰いとうなって保険の鍋に這入れとすすめに来る奴です。彼奴等の無学文盲にも呆れました」  吉報を待ってチビリチビリやっていた仁三郎は、門口から悄然と何か提げて這入って来た水野を見てビックリした。 「どうしたとや。何をば提げて来たとや」  水野は黙って下駄を出して見せた。頭を掻きながらタメ息を吐いた。 「詰まらん。青柳は知っとる」  篠崎もソレとわかって長大息した。 「そうか。知っとっちゃ詰まらん」  末後の一句、甚だ無造作。本来無一物。尻喰え観音である。こうなると人格も技養もない。日面仏。月面仏。達磨さん。ちょとコチ向かしゃんせである。更に挙す。看よ。  前述の朝鮮、漁業組合長、林駒生氏は朝鮮第一の漁業通であり且、水産狂である。苟も事水産に関する話となると、身分の高下、時の古今、洋の東西を問わない。尽くタッタ一人で説明役にまわって滔々数時間、乃至、数十日間に亘り、絶対に他人に口を入れさせないので、歴代の統監、農林、商工の各大臣、一人として煙に捲かれざるなく、最少限、朝鮮沿海に関する問題については、視察に来る内地の役人を尽く馳け悩まして、一毫も容喙の余地なからしめた。或る材木商の如きは、同氏に話込まれたために新義州の材木に手附を打ち損ね、数万円の損害を受けたという程の雄弁家である。  その林駒生氏が嘗てこれも座談の名士として聞えた長兄、杉山茂丸氏と福岡市吉塚|三角在、中島徳松氏の別荘に会し、久濶を叙し、夕食の膳に就いた。同席のお歴々には故八代大将、前九大教授武谷医学博士、福岡随一の無鉄砲有志、古賀壮兵衛氏、現|釜山日報主筆、篠崎昇之助氏、その他、水茶屋券番の馬賊五人組芸者として天下に勇名を轟かしたお艶、お浜、お秋、お楽、等々その中心の正座が勿体なくも枢密院顧問、八代大将閣下であっただけに極めて厳粛な箸の上げ卸しで、話題は八代閣下の松葉の食料法を武谷博士、林駒生氏が固くなって謹聴し、記者として列席していた筆者がシキリにノートを取っている……といった場面であったように思う。  ところへ表の扉がガラリと開いて、湊屋の仁三郎が這入って来た。春雨に濡れた問屋張の傘を畳んで、提げて来た中鯛を五六匹土間に投出したスタイルは、まことに板に附いたもので、浴衣の尻を七三に端折った素跣足である。親友の林駒生氏が振返って声をかけた。 「おお。湊屋じゃないか。この寒いのに風邪を引くぞ」  湊屋は頬冠を取って手を振った。 「イカンイカン。これは医学博士でも知らん。自動車に乗る人間には尚更わからん。日本人一流、長生きの法たい」 「今その長生き話が出とるところじゃ。貴公の流儀を一つ説明してみい」 「説明もヘッタクレもあれあせん。雨の降る日に傘さいて跣足で歩きまわれば、それで結構……そこで『オオ寒む』とか何とか云うてこの中鯛で一杯飲んでみなさい。明日死んでも思い残す事あない」 「アハハハ。賛成賛成」  武谷博士が妙な顔をした。蓋、同博士は同大学切っての謹厳剛直の士で、何事に限らず科学的に説明の出来ないものは一毫も相容れない性分であったので、八代大将の松葉喰いの話で少々お冠を曲げて御座るところへ、湊屋一流の無学文盲論が舞込んで来たのでまさか議論の相手にもならず、ますます御機嫌が傾いた次第であった。しかし湊屋仁三郎は博士であろうが元帥であろうが驚ろかなかった。サッサと裏へ廻って足を洗って上って来た。 「ヘエ。皆さん。今晩は……今台所の婆さんに洗わせよる、昨夜まで玄海沖で泳ぎよった魚じゃけに、洗いに作らせといた」 「ちょうど今長生きの話が出とるところじゃったが、ええところへ来た。貴公なんぞは長生きの大将と思うが……そんな気持ちはせんか」  と杉山茂丸氏が水を向けた。 「ハハハ。人間はアンマリ長生きせん方が良えと思いますなあ。人間一代山は見えとる。長生きしようなんて考えるだけで寿命が縮まるなあ。八代さん。美味い酒をば飲むだけ飲うで、若い女子は抱くだけ抱いて、それでも生きとれあ仕様がない。又、明日の魚は糶るだけの話たい……なあ武谷先生……」  八代閣下と武谷博士がグウとも云えないまま苦々しい顔になった。社交家の杉山茂丸氏が透かさず話題を転じた。鍋の中でグツグツ煮えている鯨のスキ焼の一片を挟み上げて令弟、林駒生技師に提示した。 「オイ。駒生。この肉は鯨の全体でドコの肉に当るのかね」  サア事だ。林水産狂技師の得意の話題に触れたのだ。油紙に火が附いた以上の雄弁の大光焔がどうして燃上らずにおられよう。八代大将の松葉も、湊屋仁三郎の短命術も太陽の前の星の如くに光を失わずにはおられなかった。 「そもそも鯨というものは」……というので咳一咳。先ず明治二十年代の郡司大尉の露領沿海州荒しから始まって、肥後の五島列島から慶南、忠清、咸竟南北道、図們江、沿海州、樺太、千島、オホーツク海、白令海、アリュウシャン群島に到る暖流、寒流の温度百余個所をノート無しでスラスラと列挙し、そこに浮游する褐藻、緑藻の分布、回游魚の習性を根拠とする鯨群の遊弋方向に及び、日本の新旧漁法をスカンジナビヤ半島の様式に比較し、各種の鯨の肉、骨、臓器、油の用途、価格、販路、英領|加奈陀との競争状態といったような各項に亘って無慮、数千万語、手を挙げ眉を展ばして熱弁する事、約二時間半、夕食が終って、電燈が灯いてもまだ結論が附かない。やっと二度目のお茶が出てから、 「今の鯨の肉は、鯨の尾の附根に当る処で、肉の層がアーチ型になっている処です。鯨肉の中でも極上|飛切の処で、小鳥や牛肉でも追付かない無上の珍味だったのです」  という結論が附いた。しかし残念な事にこの時には流石に謹厳剛直の国家的代表者、八代大将閣下も、武谷広博士も完全に伸びてしまっていた。勿論、二人とも最初は林技師の蘊蓄の物凄いのに仰天して膝を乗出して傾聴していたものであったが林技師大得意のスカンジナビヤ半島談あたりからポツポツ退屈し初めたらしく、二人ともアンマリ欠伸を噛み殺して来たためにスッカリ涙ぐんでしまっていた。令兄の杉山茂丸氏の如きは、そのズッと以前から後悔の臍を噛んでいたらしい。警告の意味で、故意と声を立てて大きな欠伸を連発していたが、それでも白浪を蹴って進む林技師の雄弁丸が、どうしてもSOSの長短波に感じないので、とうとう精も気魄も尽き果てたらしく、ゴリゴリと巨大なイビキを掻き始めた。それを笑うまいとしている芸者連が、必死にハンカチで口を押えている始末……。  しかし林技師の雄弁丸は物ともせずにグングンスチームを上げて行った。俄然として英領|加奈陀の缶詰業に火が移った。続いて露領沿海のタラバ蟹に延焼し、加察加の鮭、鰊と宛然に燎原の火の如く、又は蘇国の空軍の如く、無辺際の青空に天翔る形勢を示したが、その途端、何気なく差した湊屋の盃を受けて唇に当てたのが運の尽き、一瞬の中に全局面を、無学文盲の親友に泄われてしまった。 「フウム。これは感心した。日本中で鯨の事を本格に知っとる者なら私一人かと思っておったが、アンタもいくらか知っとるなあ」 「失敬な事を云うな仁三郎。林駒生はこれでも総督府の技師だ。事、水産に関する限り、知らんという事は只の一つも無いのが職分だぞ。そのために中佐相当官の待遇を……」 「ふむ。わかったわかった。それなら聴くがアンタは鯨の新婚旅行をば、見なさった事があるかいな」 「ナニ。鯨の新婚旅行……」  芸妓連中が一斉に爆笑した。八代、武谷両聖人が今更のように眼をパチクリして湊屋の顔を凝視しているところへ、鼾を掻き止めた令兄杉山茂丸氏がムクムクと起上って、赤い眼をコスリコスリ、 「ハハア。新婚旅行……誰が……」  と云ったので今一度、爆笑が起った。  林水産技師は憮然として投出した。 「……そんなものは……見ん……元来鯨は……」 「それ見なさい。知るまいが。イヤ。それは大椿事ですばい。鯨の新婚旅行チュータラ……」  と仁三郎が間髪を容れず引取った。 「イヤ。トテモ大椿事ですばい。アンタ方は知りなさるまいが、鯨はアレで魚じゃない。獣類ですばい」 「ウム。それはソノ鯨は元来哺乳類……」 「まあ待ちなさい。それじゃけに鯨は人間と同じこと、三々九度でも新婚旅行でも何でもする。私ゃ大事な研究と思うたけに、実地について見物して来た。しかも生命がけで……」 「アラ。まあ。アンタ見て来なさったと……」 「お前たちに見せてやりたかったなあ。その仲の良え事というものは……お前たちは人間に生れながら新婚旅行なんてした事あ在るめえ」 「アラ。済まんなあ。新婚旅行なら毎晩の事じゃが」 「アハハ。措きなはれ。阿呆らしい」 「阿呆らしいどころじゃない。権兵衛が種蒔きなら俺でも踊るが、鯨のタネ蒔きバッカリは真似が出来ん。これも学問研究の一つと思うて、生命がけで傍へ寄って見たが、その情愛の深いことというもんなア……あの通りのノッペラボーの姿しとるばってん、その色気のある事チュタラなあ。ちょっとこげな風に」 「アハハハハ……」「イヒヒヒ」 「オイ仁三郎……大概にせんかコラ……」 「海の上じゃけに構わん。牡も牝も涎を流いて……」 「アラッ。まあ。鯨が涎をば流すかいな……」 「流すにも何にもハンボン・エッキスちうて欝紺色のネバネバした涎をば多量に流す」 「……まあ。イヤラシイ。呆れた」 「ハンボン・エキス……ハハア。リウマチの薬と違いますか」  と武谷博士が大真面目で質問した。 「違います……そのハンボン・エキスの嗅い事というたなら鼻毛が立枯れする位で、それを工合良うビール瓶に詰めて、長崎の仏蘭西人に売りますと、一本一万円ぐらいに売れますなあ。つまり世界第一等の色気の深い香水の材料になります訳で、今の林君の話のスカン何とかチュウ処の鯨よりも日本の鯨の新婚旅行の涎の方が何層倍、濃厚いそうで……」 「オイオイ仁三郎……ヨタもいい加減にしろ」  林技師がタマリかねて口を出した。 「ヨタでも座頭唄でもない。仏蘭西の香水は世界一じゃろうが」 「……そ……それはそうだが……」 「それ見なさい。それは秘密に鯨の涎をば使いよるげに世界一たい。自分の知らん事あ、何でも嘘言と思いなさんな」 「……フーム。何だか怪しいな」 「怪しいにも何も、私は、そのヨダレが欲しさに生命がけでモートル船に乗って随いて行きましたが、その中に又、世界中で私一人しか知らん奇妙な魚類をば見付けました」 「フーン。そんな魚が居るかな」 「居るか居らんか、私も呆れました。鯨の新婚旅行に跟随て行く馬鹿者が私一人じゃないのです。ちょうど大きな鮫のような恰好で、鯨の若夫婦のアトになりサキになり、どうしても離れません。鯨の二匹が、私の船を恐れて水に潜っても、その青白い鮫の姿を目当てに行けば金輪際、見のがしません」 「ウーム。妙な奴が居るものだな」 「アトから古い漁師に聞いてみましたら、それは珍らしいものを見なさった。それはやっぱり鮫の仲間で、鯨の新婚旅行には附き物のマクラ魚チウ奴で……」 「馬鹿。モウ止めろ。何を云い出すやら……」 「イイエ。決して嘘は云いまっせん。生命がけで見て来たのですから。これからがモノスゴイので……私はそのマクラ魚を見た時に感心しました。流石に鯨はケダモノだけあって何でも人間と同じこと……と思って、なおも一心になって跟いて行くうちに夜になると鯨の新夫婦が浪の上で寝ます。青海原の星天井で山のような浪また浪の中ですけに宜うがすなあ……四海浪、静かにてエー……という歌はここの事ばいと思いましたなあ。しかし何をいうにもあの通りのノッペラボー同志ですけに浪の上では、思う通りに夫婦の語らいが出来まっせん。そこで最初から尾いて来たマクラ魚が、直ぐに気を利かいて枕になってやる……」 「アハハハハ。馬鹿馬鹿しい」 「アハアハアハアハ。ああ苦しい。モウその話やめてエッ」 「イヤ。笑いごとじゃありません。鮫という魚は俗に鮫肌と申しまして、鱗が辷らんように出来ておりますけに、海の上の枕としては誠にお誂え向きです。しかし何をいうにも何十|尋という巨大な奴が、四方行止まりのない荒浪の上で、アタリ憚からずに夫婦の語らいをするのですから、そこいら中は危なくて近寄れません。大抵の蒸気船や水雷艇ぐらいは跳ね散らかされてしまう。岸近くであったら大海嘯が起ります。その恐ろしさというものは、まったくの生命がけで、月明りをタヨリに、神仏の御名を唱えながら見ておりましたが……」 「……ああ……ああ……もうソノ話やめて……あたしゃ……あたしゃ死ぬるッ……」 「それから夫婦とも波の上で長うなって夜を明かしますと又、勇ましく潮を吹いて、鰯の群を逐いかけ逐いかけサムカッタの方へ旅立って行きます」 「サムカッタじゃない。カムサッカだろう」 「あっ。そうそう。何でも寒い処と思いました。ヒョットすると鯨の若夫婦が云うたのかも知れません。ネエちょいと……昨夜はカムサッカねえ……とか何とか……」 「馬鹿にするな」 「そこで感心するのは今のマクラ魚です。若夫婦の新婚の夜が明けますとコイツが忽ち大活躍を始めますので、若夫婦の身のまわりにザラザラした身体をコスリ付けて、スッカリ大掃除をしながら、アトから跟いて行きます、つまるところこのマクラ魚という奴は鯨の新婚旅行が専門に生れ付いた魚で、枕になってやったり後の掃除をしてやったりしながら、カムサッカでもベンガラ海でもアネサン島の涯までも、トコ厭やせぬという……新婚旅行のお供がシンカラ好きな魚らしいですなあ」  爆笑。又爆笑。狂笑。又死笑。皆、頭を抱え、畳の上を這いまわって笑い転げた。流石の謹厳な八代大将も総|義歯をハメ直しハメ直し鼻汁と涙を拭い敢えず、苦り切ってシキリに汗を拭いていた武谷博士も、とうとう落城してニヤリとしたのが運の尽き。しまいにはアンマリ笑い過ぎて眼鏡の玉の片方をなくする始末。その中にタッタ一人林技師が如何にも不満そうにグビリグビリと手酌でやっているのを見た人の悪い令兄が、 「オイ。駒生。何とか註釈を入れんか」  と嘲弄したが、林技師が額の生汗を拭いて坐り直した。 「ハイ。註釈の限りではありません」  と云ったので満座又絶倒……。  かくして篠崎仁三郎の名は、次第次第に博多ッ子の代表として、花川戸の助六や、一心太助の江戸ッ子に於けるソレよりも遥かにユーモラスな、禅味、俳味を帯びた意味で高まって行った。  どんな紛争事件でも仁三郎が呼ばれて行くと間違いなく大笑いに終らせる。しかも女出入り。金銭出入。縄張りの顔立てなぞに到るまで、決して相手を高飛車にキメ附けるような侠客式の肌合いを見せない。そうかといって下手に出て御機嫌を取ったり、ヨタを飛ばして煙に巻いたりするような小細工もしない。いつもザックバランの対等の資格で割り込んで行って、睨み合い同志の情をつくさせ、義をつくさせて、相互の気分にユトリを作らせ、お互い同志が自分の馬鹿にウスウス気付いたところを見計らってワッと笑わせて、万事OKの博多二輪加にして行く手腕に至っては、制電の機、無縫の術、トテモ人間|業とは思えなかった。通夜の晩などに湊屋が来ると、棺の中の仏様までも腹を抱えるという位で、博多魚市場の押しも押されもせぬ大親分として、使っても使っても使い切れぬ金が、二三万も溜まっていようかという身分になった。そうして篠崎仁三郎の一生はイトも朗らかに笑い送られて行ったのであった。  しかも天の配剤というものは誠に、どこまで行き届くものかわからないようである。その篠崎仁三郎の一生が、あまりにも朗らかであり過ぎたために、その五十幾歳を一期として死んで行く間際に当って一抹の哀愁の場面が点綴されることになったのはコトワリセメて是非もない次第であった。  しかもその悲哀たるや尋常一様の悲哀でなかった。笑うには笑われず、泣くにはアマリに非凡過ぎる……といったような、実に篠崎仁三郎一流のユーモラスな最期を遂げたのであった。それは地上、如何なる凡人、又は非凡人の最期にも類例のない……同時に如何なる喜悲劇、諷刺劇の脚本の中にも発見出来ない、セキスピアもバナードショオも背後に撞着、倒退三千里せしむるに足る底の痛快無比の喜悲劇の場面を、生地で行った珍最期であった。 …註曰…篠崎仁三郎氏の晩年には、他人ばかりの寄合世帯で一家を作っていたために、色々と複雑な事情が身辺にまつわり附いていたが、ここにはそのような事情の一切を省略し、それ等の中心問題となっていた事実のみを記載するつもりである…。  篠崎仁三郎氏が五十四の年の春であったか……腎臓病に罹って動きが取れなくなった。そこで自然商売の方も店員任せにして自宅で床に就いていたが、平常でさえ肥っていたのに、素晴らしく腫れ上ってまるで、洪水で流れて来たみたような色と形になってしまった。瞼なんか腫れ塞がってしまって、どこに眼があるのかわからない位で、そのままグングン重態に陥って行った。  枕頭に集まる者は湊屋の生前の親友であった魚市場と青物市場の連中ばかりで、一人残らず無学文盲の親方連中であったが、それでも真情だけは並外れている博多ッ子の生粋が顔を揃えていた。最早湯も水も咽喉に通らなくなって、この塩梅ではアト十日と持つまい……という医師の宣告を聞くと、一同の代表みたような親友中の親友、青柳喜平氏が二十四|貫の巨躯を押し出し、篠崎仁三郎氏の耳に口を附けた。 「……オイ仁三郎……貴様はホンナ事に女房と思う女も、吾が後嗣と思う子供も無いとや……」  篠崎仁三郎は生前、妻子の事なんか一度も口にした事がなかった。しかし長崎に居た頃一人の情婦みたような女があってソレに女の児を一人生ませているという噂を、皆、聞いていたので、それを慥かめるために青柳喜平氏がこう聞いたのであった。  湊屋仁三郎は仰臥したまま黙ってうなずいた。やっと眼をすこしばかり開いて、布団の裾の方の箪笥の上の小箪笥を腫れぼったい指で指すので、その中を探してみると手紙が一パイ詰まっている。それが皆、長崎から来た女文字の手紙ばかりで、金釘流の年増らしいのは母親の筆跡であろう。若い女学生らしいペン字は娘の文章らしかった。焼野の雉子夜の鶴……為替の受取なぞがチラチラ混っている。そこで一同の中から二人の代表が選まれて、その手紙の主を長崎へ迎いに行く事になった。  その手紙の主は仁三郎が長崎に居る時分に関係していた浮気稼業の女であったが、なかなか手堅い女で、仁三郎と別れた後に、天主教の信仰に熱中し、仕送って来た金で一人の娘を女学校に通わせて卒業させていたものであった。  湊屋仁三郎の余命がモウ幾何もない。だからタッタ一人の血のキレとして残っている娘にアトを継がせたいために迎えに来たと二人の代表が説明すると、彼女は娘と手を執り合って泣き出したので、二人の代表が覚悟の前ながら相当貰い泣きさせられた。しかしここに困ることには天主教の教理として、母親と父親が神様の御前で正式の結婚式を挙げていない限り、娘と親子の名乗りをさせる訳に行かない事になっている。しかもそのような事態ではトテモ結婚式を挙げる訳に行くまいが……耶蘇教の苅萱道心みたような事になりはしないか、という母親の懸念であったが、そこは大掴みな豪傑代表が二人も揃っていたので、大請合いに請合って、首尾よく母子二人を連れて博多に戻って来た。直ぐに福岡市大名町に在る赤煉瓦の天主教会へ代表二人で乗込んでこの今様苅萱道心問題を解消さすべく談判を試みる事になったが、そこへ出て来た宣教師のジョリーさんという仏蘭西人が、日本人以上に日本語がよくわかる上に、日本人以上に粋を利かせる人だったので助かった代表二人の喜びと安心は非常なものがあったという。  その時の談判の結果、いよいよ結婚式の当日になると、湊屋の病床を中心にして上座に、新婦と娘、天主教会員、花輪なぞ……下座には着慣れぬ紋付袴の市場連中がメジロ押しに並んだ。が、流石に盛装した新婦と娘は、変り果てた夫であり父である仁三郎の姿を見てシクシクと泣いてばかりいた。  そこへ宣教師の正装をしたジョリーさんを先に立てた和洋人の黒服が四五人ばかり、銀色の十字架を胸に佩びてゾロゾロと乗込んで来たので、居住居を崩していた羽織袴連中は、今更のように眼を聳てて坐り直した。  式は型の如く運んだ。ジョリーさんが羅馬綴で書いた式文みたようなものを読み上げる時には皆起立させられたが、モウ足が痺れて立てない者も居た。 「|吾等の……|兄弟が……|神様の……|思召に……|よりまして……」  というのを、一同は英語かと思って聞いていたという。以下引続いて儀式の模様を、済んだあとからの彼等の帰り途の批評に聞いてみる。 「耶蘇教の婚礼なんてナンチいう、フウタラ、ヌルイモンや」 「そうじゃない。あれあ大病人の祝言じゃけに、病気に障らん様、ソロオッと遣ってくれたとたい。毛唐人なあ気の利いとるケニ」 「一番、最初に読んだ分は何じゃったろうかいね」 「あれあ神主がいう高天が原たい。高天が原に神づまり在しますかむろぎ、かむろぎの尊――オ……」 「うむ。そういえば声が似とる。成る程わからん事をばいうと思うた」 「ところでそのあとからアイツ共が歌うた歌は何かいね。オオチニ風琴鳴らいて……」 「花嫁御のお化粧の広告じゃなかったかねえ。雪よりも白くせよなあ……てクタビレたような歌じゃったが……」 「ウム。俺あ西洋洗濯の宣伝かと思うた」 「立てて云うけに俺あ立って聞きおったら、気の遠うなってグラグラして来た。今一時間も立っとったなら俺あ仁三郎より先に天国へ登っとる」 「うむ。長かったのう。あの歌をば聞きおる中に俺あ、悲あしゅう、情のうなった。この間死んだ嬶が、真夜中になると眠った儘にアゲナ調子で長い長い屁をば放きよったが」 「死んだ嬶よりも俺あ、あれを聴きよるうちに仁三郎がクタビレて死にあしめえかと思うてヒヤヒヤした。歌が済んでからミンナ坐った時にゃホッとした」 「あのあとの御祈祷は面白かったね」 「ウム。面白いといえば面白い。馬鹿らしいといえば馬鹿らしい。ああら、我等の兄弟よ! 神様の思召に依りまして、チンプンカンプン様の顎タンを結ばれました事は――越中褌のアテが外れた時と全く全く同じように、ありがたい、尊い、勿体ない、嬉しい嬉しい御恵みで――ありや――す……アーメン。と来たね」 「ようよう、うまいうまい貴様、魚屋よりもキリシタンの坊主になれ、どれ位人が助かるか判らん。あの異人の坊主の云う事を聞きよる内に俺あ死にたいような気持になったもんじゃが、今の貴様の御祈祷を聞いたりゃ、スウーとしてヤタラに目出度うなった。あーら目出度や五十六億七千万歳。鶴亀鶴亀」 「あの黒い鬚を生やいた奴は日本人じゃろうか」 「うん、あれがあの女のキリシタンの亭主らしい」 「あいつが篠崎の耳に口ば附けてあなたはこの婦人を愛しますかと云うた時には、俺は死ぬほどおかしかったぞ」 「うん。俺もマチットで我慢しとった屁をば屁放り出すところじゃった。あん時ばっかりは……」 「花嫁御も娘御も泣きござったなあ――」 「そらあ悲しかろう。いくら連れ添うても十日と保たん婿どんじゃけんになあ。太閤記の十段目ぐらいの話じゃなか」 「仁三郎が黙って合点合点する内に、夫婦で指輪ば、取り換えたが、あの時も、可笑しかったぞ」 「うん。仁三郎の指は、平生でも大きい上に、腫れ上っとるけに指輪も三十五円も出いて○○の鉢巻位の奴をば作っとる。それに花嫁御の分は亦、並外れて小さいけに取り換えてもアパアパどころじゃない。俺あ、それば見て考えよると可笑しゅうて可笑しゅうてビッショリ汗かいた」 「誰か知らんが、その後の御詠歌のところで大きな声でアクビしたぞ」 「あれは俺たい。あの御詠歌の文句ばっかりは判らんじゃった。恵比須様が味噌漉でテンプラをば、すくうて天井へ上げようとした。死ぬる迄可愛がろうとしたバッテン天婦羅が天井へ行かんちうて逃げた……なんて聞けば聞く程馬鹿らしいけに俺がそうっとアクビしたところがそいつが寝ている篠崎に伝染って、これもそうっとアクビしたけに、俺あ良い事したと思うた。病人も嘸アクビしたかったろうと思うてな――」 「何時間かかったろうかい」 「俺あ時計バッカリ見よった、二時間と五分かかったが、その最後の五分間の長かった事。停車場で一時間汽車ば待っとる位長かった」 「うん。何にせい珍らしいものば見た」 「仁三郎も途方もない嬶アば持ったのう」 「仁三郎はやっぱりよう考えとるバイ。達者な内にあげな嬶アばもろうて、あげな歌バッカリ毎日毎晩歌わにゃならんちうたなら俺でも考える」 「第一魚市場の魚が腐る」 「アハハハッ……人間でも腐る。俺は聞きよる内に腰から下の方が在るか無いか判らんごとなった、生命にゃかえられんけに引っくり返ってやろうかと何遍思うたか知れん」 「俺は袴の下に枕を敷いとったが、あのオチニの風琴の音をば聞きよる内に、自分の首が段々細うなって、水飴のごとダラアと前に落ちようとするけに、元の肩の上へ引き戻し引き戻ししよったらその中に済んだけに、思わずアーメンと云うたら、涎がダラダラと袴へ落ちた、まあだ変な気持がする」 「ああ非道い目に遭うた。どこかで一杯飲み直そうじゃないや」 「ウアイー賛成! 賛成! 助かりや助かりや、有難や有難や、勿体なや、サンタ・マリア……一丁テレスコ天上界。八百屋の人参、牛蒡え――」 「踊るな馬鹿!」 「アーメン、ソーメン、トコロテン。スッテンテレツク天狗の面か。アハハハハ。鶴亀鶴亀」  以て当時の光景を察すべしである。  而も、こうした儀式が済んだ後牧師等が引上げると、一座が急にシーンとなった。後には可憐な母親と娘が仁三郎の枕許に坐ってシクシクと泣くばかりになった。  その時に湊屋仁三郎は、ホンの少しばかり腫れぼったい目を開いて、左右を見た。下座に居流れていた市場連中を見て、泣くようにシカめた顔で笑って見せた。 「何チウ妙なモンヤ」  一同が腹をかかえて笑い転げたというが、そうしたサ中にも仁三郎一流のヒョウキンな批判を忘れないところが正に古今独歩と云うべきであろう。  ところが話は、未だ済んでいない。仁三郎の珍最期はこれからである。しかも、仁三郎が完全に呼吸を引取ったアトの事で、御本尊の仁三郎のお陀仏自身にすら思い付かない……しかも仁三郎一流の専売特許式珍劇がオッ初まって、オール博多の人口に膾炙する事になったのだから痛快中の痛快事である。  その仁三郎が係医の予言の通り結婚後キッチリ十日目に死んだ。  もちろんその時には、何の変哲もなかった。一同が眼をしばたたいて快人篠崎仁三郎の一代を惜しんだだけの事であったがここに困った事には、一旦、天主教に入った以上、葬式もやはり、大名町の赤煉瓦の中で執行せなければならぬというので、市場連中は相当ウンザリさせられたものらしい。  然し仕方がない。何にしろ博多ッ子の中の博多ッ子、湊屋仁三郎の葬式じゃけに、一ツ思い切って立派にしてやれというので、生魚、青物両市場の大問屋全部が懸命の力瘤を入れた。 「相手がアーメンと思うと、いくら力瘤を入れても、入れ甲斐がないような気がして、チーット力瘤を入れ過ぎたようです、とうとう大椿事になりましてなあ――」  とその時の有志の一人が語った。  当日は予想以上の盛会であった。 「仁三郎さんが、ヤソ教で葬式されさっしゃるげな、天国へ行かっしゃるげなけに、死んでも亦と会われんかも知れん」  というので、知るも知らぬも集って来た結果会衆は会堂に溢れ会堂を取り囲み、往来に溢れるという素敵な人気であった。  同時に、その時の葬式が亦、師父ジョリーさんの全幅を傾けて計画した天主教本格の盛大、長時間のものであったらしい。但し今度は会堂の中が椅子席だったので、重立った連中は、大部分脚のシビレを助かったというが、それでも中央の通路に突立っていた者は二三人引くり返ったくらい盛大荘重なものがあったという。  そのうちに正午から夕方迄かかって、やっと葬式が済んだので会衆一同は、思わずホッと溜息をした。その音が、ゴーッと堂内に溢れて、急行列車の音に似ていたというが、マサカそれ程でもなかったろう。  そこへ棺担ぎが出て来て棺桶に太い棒を通した。そのまま、市営の火葬場へ持って行こうとすると、一番前の椅子に腰をかけていた市場の親友二三人が何事かタマリかねたらしく立ち上って馳けよった。 「……チョ……一寸待ちなさい。こげな葬式で仁三郎が成仏出来るもんじゃない。ふうたらぬるい。もう辛棒が出来ん。カンニン袋の緒が切れた。一寸貸しなさい。私達が担いでやるけに……オイみんな来い、ついでに前の花輪をば、二ツ三ツ借りて来い」  魚市場だけに乱暴者が揃っていたからたまらない。得たりや応という中にテンデに羽織をぬいで棺桶を担ぎ上げた。牧師連中が青い目をグリつかせている前で花輪を二ツ三ツ引ったくるとその勢で群衆を押し分けて、 「ウアーイ。ワッショイ、ワッショイ」  と表の往来へ走り出した、生魚を陸上るのと、おんなじ呼吸でどこを当てともなくエッサエッサと走り出したので消防組と市場の体験のある者以外は皆バタバタと落伍してアトにはイキのいいピンピンした連中ばかりが残って了った。  そこで、ヤッと棺桶が立ち止った。 「オーイ、みんな揃うたかーア」 「後から二三人走って来よーる」 「ああ草臥れた。恐ろしい糞袋の重たい仏様じゃね――。向うの酒屋で一杯やろうか」 「オッと来たり、その棺桶は門口へ降いとけ。上から花輪をば、のせかけとけあ、後れた奴の目印になろう。盗む者はあるめえ」  一同はその居酒屋へなだれ込んで、テンデにコップや桝を傾けてグイグイと景気を付けた。 「サアサアみんな手を貸せ手を貸せ。ヨーイシャンシャン、ヨーイ、シャンシャンウアーイ」  と一本入れた一同は、又もや棺桶を担ぎ上げて、人通りを押分け始めた。すると上機嫌で先棒を担いでいた湊屋の若い奴が向う鉢巻で長持唄を歌い始めた。 「アーエー女郎は博多の――え――柳町ちゃ――エエ」 「柳町へいこうえ」 「馬鹿! 仏様担いで柳町へ行きゃあ花魁の顔見ん内に懲役に行くぞ」 「ああ、そうか」 「とりあえずお寺へ行こうお寺へ行こう」 「仁三郎は何宗かい」 「仁三郎が宗旨を構うかいか」 「そんなら成丈け景気のええお寺へ行こう」 「あッ。向うで太鼓をば敲きよる。あすこが良かろう」 「よし来た。行け行け。アーリャアーリャアーリャ。馬じゃ馬じゃ馬じゃ馬じゃい」 「エート。モシモシ和尚さんえ和尚さんえ。一寸すみませんがア……お葬式の色直しイ。裏を返せばエー」 「いらん事云うな、俺が談判して来る」  博多|蓮池町○○寺の和尚は捌けた坊主であったらしい。 「どうも後口が悪うて悪うてまあだムカムカします。一ツ景気のえいところで一ツコキつけて、つかあさい」  という交渉を心よく引受けた。直に中僧小僧をかり集めて本堂の正面に棺を据え、香を焚いて朗かに合唱し始めた。 「我昔所造諸悪業――一切我今皆懺悔エエ――」  まだ面喰っている小僧が棒を取り上げて勢よくブッ附けた。 「グワ――アアアンンン……」  一同グッタリと頭を下げた。 「あッ。あああ……これで、ようよう元手取った」      その一 空を飛ぶパラソル  水蒸気を一パイに含んだ梅雨晴れの空から、白い眩しい太陽が、パッと照り落ちて来る朝であった。  ちょうど農繁期で、地方新聞の読者がズンズン減って行くばかりでなく、新聞|記事の夏枯れ季節に入りかけた時分なので、私のいる福岡時報は勿論のこと、その他の各社とも何かしら読者を惹き付ける大記事は無いか……洪水は出ないか……炭坑は爆発しないか……どこかに特別記事は転がっていないか……と鵜の目|鷹の目になっていた。そんなようなタヨリナイ苛立たしい競争の圧迫を、編輯長と同じ程度に感じていた遊撃記者の私は、ツイこの頃、九大工学部に起ったチョットした事件を物にすべく、福岡市外|筥崎町の出外れに在る赤|煉瓦の正門を、ブラリブラリと這入りかけていたのであったが、あんまり暑いので、阿弥陀にしていた麦稈帽子を冠り直しながら、何の気もなく背後をふり帰ると、ハッとして立ち止まった。  工学部の正門前は、広い道路を隔てて、二三里の南に在る若杉山の麓まで、一面の水田になっていて、はてしもなく漲り輝く濁水の中に、田植笠が数限りなく散らばっている。その田の中の畦道を、眼の前の道路から一町ばかり向うの鉄道線路まで、パラソルを片手に捧げて、危なっかしい足取りで渡って行く一人の盛装の女がいる。  そのパラソルは一口に云えば空色であるが、よく見ると群青と、淡紅色の、ステキに派手なダンダラ模様であった。小倉縮らしいハッキリした縞柄の下から、肉付きのいい手足と、薄赤いものを透きとおらして、左手にビーズ入りのキラキラ光るバッグを提げて、白|足袋に、表付きの中歯の下駄を穿いていたが、霖雨でぬかるむ青草まじりの畦道を、綱渡りをするように、ユラユラと踊りながら急いで行くと、オールバックの下から見える、白い首すじと手足とが、逆光線を反射しながら、しなやかに伸びたり縮んだりする。その都度に、華やかな洋傘の尖端が、大きい、小さい円や弧を、空に描いて行くのであった。  そこいらの田に蠢めいていた田植笠が、一つ二つ持ち上って、不思議そうにその女の姿に見惚れはじめた。……と見るうちに、左手の地蔵松原の向うから、多々羅川の鉄橋を渡って、右手の筥崎駅へ、一直線に驀進して来る下り列車の音が、轟々と近づいて来る気はいである。それにつれて女の足取りも、心持ち小刻みに急ぎ始めたように見えた……。  ……私は今一度ハッと胸を躍らした。思わず、 「……止めろッ……轢死だッ……」  と叫びかけたが、その次の瞬間に私は又、グッと唾嚥み込んだ。……これは新聞|記事になるな……と思った次の瞬間にはもう正門前の道路を、女の行く畦道と直角の方向に引返していた。  そうしてその取付きの百姓家の蔭から、田に添うた桑畑の若い葉の間を、女と並行した方向に曲り込むと、急に身を伏せて、獲物を狙う獣のように、線路の方へ走り出したが、桑畑と線路との境目に在る、狭い小川を飛び越えた時には、スッカリ汗まみれになって、動悸が高まって、眼が眩みそうになっていた。  女はもうその時に田の畦を渡りつくして、半町ばかり向うの線路に出ていたが、軌条の横の狭い砂まじりの赤土道を、汽車の来る方向に、さり気なく、気取った風付きで歩いて行くようすである。  勢込んで来た私は、そうした女の態度を見ると、ちょっと躊躇して立ち止まった。覚悟の轢死じゃないのかしら……と思って……。  ……と思う間もなく、真正面に横たわる松原の緑の波の中から、真黒な汽鑵車が、狂気のように白い汽笛を吹き立てつつ、全速力で飛び出して来た。機関手が女の姿を発見したに違いないのだ。  それと見た女は洋傘を、線路の傍の草の上に、拡げたままソッと置いた。下駄を脱ぎ揃えて、その上にビーズ入りのバッグを静かに載せた。そうして右手で襟元を繕いながら、左手で前裾をシッカリと掴むと、白足袋を横すじかいに閃めかして、汽鑵車の前に飛び込もうとしたが、線路の横の砂利に躓いて、バッタリと横向きに倒れた。その拍子に右手で軌条を掴んで起き上りかけたが、何故か又グッタリとなって、軌条のすぐ横の枕木の上に突伏した。そのまま白い両手を向うむきに投げ出して、肩を大きく波打たして、深いため息を一つしたように見えた。  私はそれを石のように固くなったまま見とれていたように思う。身動きは愚か、瞬き一つ出来ないままに……と思う間もなく女の全身に、真黒な汽鑵車の投影が、矢のように蔽いかかった。するとその投影の中から、群青と淡紅色のパラソルが、人魂か何ぞのようにフウーウと美しく浮き出して、二三間高さの空中を左手の方へ、フワリフワリと舞い上って行ったが、その方にチラリと眼を奪われた瞬間に、虚空を劈く非常汽笛と、大地を震撼する真黒い音響とが、私の一尺横を暴風のように通過した。  思わず耳と眼を塞いで立ち竦んでいた私は、その音響が通過すると直ぐに又、新聞記者の本能に立帰った。編上靴を宙に踊らせて、二十間ばかり向うに投げ出されている、屍体の傍へ駈けつけた。線路の左右の田の中から、訳のわからない叫び声があとからあとから起るのを聞き流しながら……。  まだ生きているのと同様に温かい女の屍体を、仰向けに引っくり返して見ると、どんな風にして車輪にかかったものか、頭部に残っているのは片っ方の耳と綺麗な襟筋だけである。あとは髪毛と血の和え物みたようになったのが、線路の一側を十間ばかりの間に、ダラダラと引き散らされて来ている。その途中の処々に鶏の肺臓みたようなものが、ギラギラと太陽の光を反射しているのは脳味噌であろうか。右の手首は、車輪に附着いて行ったものか見当らず、プッツリと切断された傷口から、鮮血がドクリドクリと迸しり出て、線路の横に茂り合った蓬の葉を染めている。その他の足袋の底と着物の裾に、すこしばかり泥が附いているだけで、轢死体としては珍らしく無疵な肉体が、草の中にあおのけに寝て、左手はまだシッカリと前裾を掴んでいた。  私はチラリと汽車の方をふり返りながら、その左手を着物から引き離して検めてみた。手の甲も、掌もチットも荒れていないようであるが、中指の頭にヨディムチンキが黒々と塗ってあるのに、そこいらが格別|腫れても傷ついてもいないところを見ると、刺か何かを抜いたあとを消毒したものであろう。して見ればこの女は看護婦かな……と思い思い手早く胸を掻き開いてみると、白く水々しく光る乳房と、黒い、紫がかった乳首があらわれたが、その上を、もう、一匹の大きな黒蟻が狼狽して駈けまわっていた。  さては……と私は息を詰めた。すぐに安物らしい白地の博多帯をさぐってみると……どうだ……ムクリムクリ……ヒクリヒクリと蠢く胎動がわかるではないか……たしかに姙娠五箇月以上である。なお序に、袂と、帯の間を撫でまわしてみると、筥崎から佐賀までの赤切符の未改札が一枚と、小型の名刺に「早川ヨシ子」「時枝ヨシ子」と別々に印刷したのが十枚ばかりずつ白紙に包んだのが、帯の間から出て来た。  その名刺をポケットに落し込みながら、私は取りあえず凱歌を揚げた。早川というのは九大医学部の寺山内科に居る、医学士の医員で、記者仲間に通った色魔に相違なかった。その背後には姉歯なにがしという産科医がいて、何かしら糸を操っているという噂まで、小耳に挟んでいる。又、時枝ヨシ子というのは、これも同大学の眼科に居る有名な美人看護婦ではないか。……二人の関係は二三箇月前にチラリと聞いた事があるにはあったが、評判の美人と色魔だけに、いい加減に結び付けた噂だろう……なぞと余計なカンを廻わしていたのが悪かった。もうここまで進んでいたのか……と思い思い今度は下駄を裏返してみると、まだ卸し立てのホヤホヤで、福岡市|大浜竪町金佐商店という商標が貼ってあって、踵の処に※と刻印が打ち込んである。次にビーズ入りのバッグを開いてみると、新しいハンカチが二枚と、六円二十何銭入りの蟇口と、すこしばかりの化粧道具を入れた底の方から、柳川ヨシエという名宛の質札が二枚出た。お召のコートと、羽織と、瓦斯の矢絣の単衣物と、女持のプラチナの腕時計の四点を、合計十八円也で、昨日と、一昨日の二日にわけて、筥崎|馬出の三桝質店に入れたものである。  私は又も、その質札をポケットに突込みながら、二度目の凱歌を揚げた。……これだけのタネを握り込んで、三段や四段の特別記事が書けなければ、俺は新聞記者じゃない……むろん警察や、同業の奴等は指一本だって指せやしないだろう……占めたナ……と奥歯を噛み締めながらも、何喰わぬ顔を上げて、そこいらを見まわした。  私の周囲には二三人の田植連が、魘えた顔をして立っているきりである。一気に筥崎駅へ駈け込んだ列車の窓からは、旅客の顔が鈴生りに突き出ていて、そこから飛び降りた二三人の制服制帽が、線路づたいに走って来るのが見える。その外にもう一人、サアベルを掴んだ警官らしい姿も、後れ馳せにプラットホームから駈け降りて来るようであるが、しかしまだ四五町の距離があるから、私の顔を見知られる心配はない。  私は靴の踵に粘り付いた女の血を、蓬の葉で拭いながら悠々と立ち上った。はるか向うの青田の中に落ちたパラソルを見かえりもせずに、今しがた女が伝って来た畦道の、下駄の痕を踏み付け踏み付け、平気な顔で工学部の前に引返した。みるみる殖えて行く、線路の上の人だかりを横眼に見ながら、手近い法文科の門を潜って、生徒がウロウロしている地下室を通り抜けて、人通りのすくない海門戸に出ると、やっと上衣を脱いで汗を拭いた。ここまで来れば、もう捕まる心配は無いからである。ついでに腕時計を見るとチョウド十時半であった。  ……夕刊の締切りまでアト二時間半キッカリ……その中で記事を書く時間をザット一時間と見ると……質屋にまわり込む時間は先ずあるまい……プラチナの腕時計がチットおかしいとは思うけれど……。  ……色魔の早川や、黒幕の姉歯にも会わない方が上策だろう……わざわざ泣き付かれに行くようなもんだからナ……。一つ抜き討ちを喰わして驚かしてくれよう……。  ……帰り着くまで降り出さなけあいいが……。  と腹の中で勘定をつけながら、とりあえずバットを啣えてマッチを擦った。  それから数時間の後、私は今川橋行きの電車の中で、福岡市に二つある新聞の夕刊の市内版を見比べて微笑んでいた。ほかの新聞には「又も轢死女」という四号|標題で、身元不明の若い女の轢死が五行ばかり報道してあるだけで、姙娠の事実すら書いてないのに反して、私の新聞の方には初号三段抜きの大標題で、浴衣を着た早川医学士と、丸髷に結った時枝ヨシ子の二人が並んで撮った鮮明な写真まで入れて、次のような記事が長々と掲載されていた。 ▼標題……「田植連中の環視の中で……姙娠美人の鉄道自殺……けさ十時頃、筥崎駅附近で……相手は九大名うての色魔……女は佐賀県随一の富豪……時枝家の家出娘」……「両親へ詫びに帰る途中……思い迫ったものか……この悲惨事」…… ▲記事…………時枝ヨシ子が東京にあこがれて家出をしたのは、四年前の事であったが、何故か東京へは行かずに、博多駅で下車し、福岡の知人を便って、九大の眼科に看護婦となって入り込んだ。これを聞いたヨシ子の両親は非常に立腹し、直ちに勘当を申し渡したとの事であるが、美人の評判が高いままに、あらゆる誘惑と闘いつつ、無事にこの四年間をつとめて来たものであった。…………流石の色魔、早川医学士もヨシ子と関係して、現在の大浜の下宿に同棲するようになってからは、人間が違ったように素行を謹しんだばかりでなく、得意の玉突さえもやめてしまって、ひたすら彼女との恋に精進するように見えた。彼女ヨシ子の早川に対する愛着が、それ以上であった事は云う迄もない。…………かくて姙娠七箇月になったヨシ子は、早川医学士と、その友人で、兼てから二人の事に就いて何くれとなく心配していた姉歯某とが、極力制止するをも諾かず、窃かに旅費をこしらえて、単身人眼を避けつつ、佐賀の両親の許に行くべく決心した…………わざと博多駅より二つ手前の筥崎駅から、佐賀までの赤切符を買ったが、その列車を待ち合わせている間に、色々と身の行く末を考えて極度に運命を悲観したものらしく、遂に自分が乗って行く筈であった下り四二一号列車の轍にかかって、かくも無残の……云々……  ここまで読んで来ると私は、内心大得意の顔を上げて、電車の中を見まわした。当てもない咳払いを一つして反り身になった。  ところがその翌る日のこと……。  昨日取り損ねた九大工学部の記事を、漁りなおしに行くべく、今川橋の下宿から、電車で筥崎の終点へ行く途中、医学部前の停留場を通過すると、職業柄懇意にしている筥崎署の大塚警部が飛び乗って来たので、脛に傷持つ私はちょっとドキンとさせられた。  大塚警部は私よりも十五六ぐらい年上で、二三度一緒に飲みに行ってからというもの、同輩みたように交際っている。かなり狡いところのある男であるが、殆んど空っぽになっている電車の片隅に、私の姿を発見すると、ビックリした表情をしながら、ツカツカと私の横に来て、二十貫目あるという大きな図体をドタリと卸した。それからサアベルを股倉に挟んで、帽子を阿弥陀にして赤ッ面の汗を拭き拭き、頗る緊張した表情で、内ポケットから新聞を引き出すと、無言のまま、私の鼻の先に突きつけた。見ると私が書いた昨日の夕刊記事の全部に、毒々しい赤線が引いてある。  私はわざとニッコリしてうなずいた。その私の顔を大塚警部はニガリ切って白眼み据えた。 「困るじゃないか……こんな事をしちゃ……僕等を出し抜いて……」 「フフン、何もしやしない。工学部の正門を這入ろうとしたら、鉄道線路の上に真黒な人ダカリがしていた。行って見たらこの轢死だった……というだけの事さ……」 「女の身元はどうして洗った」 「屍体の左手の中指の先にヨディムチンキが塗ってあった。別段腫れても、傷ついてもいないところを見ると、刺か何かを抜いたアトを消毒したものらしいが、ヨディムチンキをそんな風に使う女なら、差し詰め医師の家族か、看護婦だろう」 「……フーム……ソンナモンカナ」 「ところで服装を見ると看護婦は動かぬところだろう。同時に下駄のマークを見ると、早川の下宿の近所で買っている。そこで取りあえず九大の看護婦寄宿舎の名簿を引っくり返してみたら、時枝という有名なシャンが三月ばかり前から休んでいる。もしやと思って原籍を調べたら驚いたね。佐賀県|神野村の時枝茂左衛門、第五女と来ているじゃないか」 「それだけで見当つけたんか」 「失敬な……憚りながら君等みたいな見込捜索はやらないよ。体格検査簿にチャンと書いてあるんだ。身長五尺二寸、体量十四貫七百というのが昨年の秋の事だ。ちょうど屍体と見合っているじゃないか。姙娠七箇月は無論当てズッポウだが、胎児の動き工合から考えても多分三月か四月目から休んだ事になるだろうよ……」 「……フーン……よく知っとるんだナア、何でも……」 「大学の外交記者を半年やれあ、大抵の医者は烟に捲けるぜ。……しかし念のために、吾輩を崇拝している二三の看護婦に当って見ると、内科の早川さんと正月頃からコレコレと云うんだ。早川が寺山博士のお気に入りで、みんな反感を持っている事までわかった。どうだい。……恐れ入ったろう……」 「フーム、それじゃ写真はどうして手に入れた」 「……訊問するんなら署でやってくれ給え、絶対に白状しないから」 「アハハハハ。イヤ、実は非常に参考になるからヨ。……腹を立ててくれては困るが……正直のところを云うとこの記事はソノ……素人が見たらこれでええかも知れんがネ。僕等の立場から見ると不思議な事だらけなんだ」 「ウン。そんなら云おう。その写真はやっぱり看護婦仲間の噂から手繰り出したのさ。アノ恵比須通りの写真屋には、大学の看護婦がよく行くからね。二人で秘密で撮ったのを見るかドウかしたんだろう。そんな写真があるという事をチラリと聞いたから、試しに当って見ると図星だったのだ。受取人は柳川ヨシエという偽名でネ。チャンと種板まで取ってあった……そん時の嬉しさったらなかったよ」 「いかにもナア。……それじゃアノ姉歯という産婆学校長の医学士が、一生懸命で二人の世話を焼いとる事実は、どうして探り出したんか」 「内科の医局での話さ。姉歯という産婆学校長が、この頃よく内科の医局へ遊びに来て、早川とヒソヒソ話をする。何でもヨシ子がこの頃急に佐賀へ帰ると云って駄々をこね出したので、二人が困っているという噂があるんだ。……ドウダイ……事実とピッタリ一致するじゃないか」 「相変らず素早いんだね君は……」 「これ位はお茶の子さ。それよりも今度はアベコベに訊問するが、アノ姉歯という男が、産婆学校長の医学士だという事を君はどうして知っている。新聞にはわざと伏せておいたのに……」 「ソ……そいつは勘弁してくれ」  と大塚警部は眼を丸くしながら、慌てて手を振って飛び退いた。苦笑しいしいハンカチで顔をコスリ廻わした。私は儼然として坐り直した。 「ウム……君がその了簡ならこっちにも考えがある」 「……マ……マ……待ってくれ。考えるから……」 「考えるまでもないだろう。僕は今日まで一度も君等の仕事の邪魔をしたおぼえはない。秘密は秘密でチャンと守っているし、握ったタネでも君等の方へ先に知らせた事さえある。現に今だって……」 「イヤ。それは重々……」 「まあ聞き給え……現に今だって、自分の書いた記事を肯定しているじゃないか。本当を云うと編輯長以外の人間には、自分の書いた記事の内容を絶対に知らせないのが、新聞記者仲間の不文律なんだぜ、況んやその記事を取った筋道まで割って……」 「イヤ。それはわかっとる。重々感謝しとる……」 「感謝してもらわなくともいいから信用してもらいたいね。姉歯という医学士が、善玉か悪玉かぐらい話してくれたって……」 「ウン、話そう」  大塚警部は又汗を拭いた。帽子を冠り直して一層|身体をスリ寄せた。小さな眼をキラキラ光らして声を落した。 「……エエカ。こいつが曝露たら署員が承知せん話じゃがな……姉歯という奴は早川よりも上手の悪玉なんだ。エエカ……早川をそそのかして、女を膨らましては自分で引き受けて、相手の親から金を絞るのを、片手間の商売にしとるんだ。つまり手切金と、堕胎料と、二重に取って、早川にはイクラも廻わさないらしいのだ。僕の管轄でもかなりの被害者があると見えて、時々猛烈な事を書いた投書が来る」 「ありがとう、それで何もかもわかった。ヨシ子が駄々をこねて、単身で佐賀へ行きかけたのは、どうも少々オカシイと思ったが……そこいらの消息を薄々感付いたんだナ」 「ウン。それに違いないのだ。ちょうど姉歯早川組の奸計と、両親の勘当とで、板挟みになって死んだ訳だナ」 「書きてえナア畜生……夕刊に……大受けに受けるんだがナア……」 「イカンイカン。まだ絶対に新聞に書いちゃいかん」 「アハハハハハ書きゃしないよ。……しかし君等はナゼ姉歯をフン縛らない」  大塚警部は苦笑した。二三本|白髪の交った赤い鬚を、自烈度そうにひねりまわした。 「手証が上らないからさ。あの姉歯という奴は、大学の婦人科に居った時分から、主任教授に化けて大学前の旅館に乗り込んで、姙婦を診察して金を取った形跡がある。今開いとる産婆学校も、生徒は三四人しか居らんので、内実は堕胎専門に違いないと睨んどるんじゃが、姉歯の奴トテモ敏捷くて、頭が良過ぎて手におえん。噂や投書で縛れるものなら縛って見よという準備を、チャンとしとるに違いないのだ」 「フーム。この辺の医者の摺れっ枯らしにしてはチット出来過ぎているな」 「そうかも知れん。殊に今度の事件などは、相手が佐賀一の金満家と来とるから、姉歯も腕に縒をかけとるという投書があった。むろん十が十まで当てにはならんが、彼奴のやりそうな事だと思うて前から睨んではおったんだ」 「投書の出所はわからないか」 「ハッキリとはわからんが、大学部内の奴の仕事という事はアラカタ見当がついとる。早川の今の下宿を世話した奴が、姉歯だという事もチャンとわかっとる。何にしてもヨシ子が子供さえ生めば、姉歯の奴、本仕事にかかるに違いない。二人をかくまっておいて、時枝のおやじを脅喝ろうという寸法だ。だからその時に佐賀署と連絡を取って、ネタを押えてフン縛ろうと思うておったのを、スッカリ打ち毀されて弱っとるところだ」 「アハハハハ、大切の玉が死んだからナ」 「ソ……そうじゃない。君がこの記事を書いたからサ。実に乱暴だよ君は……」 「別に乱暴な事は一つも書いていないじゃないか。事実か事実でないかは、色んな話をきいているうちに直覚的にわかるからね。第一この写真が一切の事実を裏書きしているじゃないか」 「そうかも知れん……が、しかしこの記事は軽率だよ」 「怪しからん。事実と違うところでもあるのか」 「……大ありだ……」 「エッ……」 「しかも今のところでは全然事実無根だ」  私はドキンとして飛び上りそうになった。……早川に直接当らなかったのが手落ちだったかナ……と思うと、立っても居てもいられないような気持ちになった。大塚警部も困惑した顔になって、サアベルの頭をヤケに押し廻したが、やがて私の顔とスレスレに赤い顔を近付けると、酒臭いにおいをプーンとさした。 「実は僕も弱っとるんだ。……というのは……こいつも絶対に書いては困るがね。この記事を夕刊の佐賀版で見た時枝のおやじが、昨夜のうちに佐賀から自動車を飛ばして来て、今朝暗いうちに僕をタタキ起したんだ。人品のいい、落付いた老人だったので、僕もうっかり信用して、ちょうどええところだから大学の解剖室へ行って、お嬢さんの屍体を見て来て下さい。貴下のお子さんときまれば、解剖をしないでそのまんま、お引き渡しをしてもええからというので、巡査を附けてやった訳だ」 「なるほど……それから……」 「ところがそのおやじが、轢死当時の所持品や何かを詳しく調べた揚句に、娘の屍体を一眼見ると、これはうちの娘では御座らぬと云い出したもんだ」 「……フーン……その理由は……」 「その理由というのはこうだ。……うちの娘は元来勝気な娘で、東京へ行って独身で身を立てる、女権拡張に努力するという置手紙をして出て行った位で、そんな不品行をするような女じゃない。新聞の写真もイクラカ似とるようだが、ヨシ子では絶対にありませぬ。家出したのは四年前じゃが、チャンとした見覚えがあるから、間違いは御座らぬと云い切って、サッサと帰って行きおった」 「……馬鹿な。そんな事でゴマ化せるものか……」 「……涙一滴こぼさず。顔色一つかえずに、僕の前でそう云うたぞ」 「ウーン。ヒドイ奴だな。それから……」 「ウン。それからこれは昨日の事だが、女の下駄を売った大浜の金佐商店に当らせて見ると、売った奴は店の小僧で、しかも昨日の朝早くだったので、服装や顔立ちがサッパリ要領を得ない。あとから新聞の写真を持って行って見せると、丸髷になっとるもんだからイヨイヨ首をひねるんだ」 「フーン。困るな」 「それから早川の下宿のお神も新聞の写真を見て、早川さんの方は間違いないが、女の方は誰だかわからんようです……とウヤムヤな事を云いおるんだ。念のために佐賀署へ電話をかけて聞いて見ると、時枝の家族も口を揃えて、あの写真は家出したヨシ子さんではないと云うとるゲナ。しかし市中では君の新聞が引張り凧になっとるチウゾ」 「そうだろうとも……フフン……」 「つまり時枝のおやじは、屍体の顔がメチャメチャになっとるのを幸いに、家の名誉を思うて、娘を抹殺しようと思うとるんだね」 「フーン。そんなに名誉ってものは大切なものかな」 「何しろ佐賀県随一の多額納税だからナ」 「なおの事残酷じゃないか」 「もっとヒドイのはこっちの連中だ。第一色魔の早川を昨夜下宿で引っ捕えて見ると、そんな女と関係した事は無い。夕刊に載っている女は、昨夜手切れの金を遣って別れた柳川ヨシエというので、自分と関係する以前に姙娠しとった事が判明したから追い出したものだが、どこの生れだか本当の事はわからん。ホンの一時の関係だと強弁するし、産婆学校長の姉歯医学士も、そんな世話をした覚えは絶対に無いと突き放すのだ」 「ダラシがないんだナ君等の仕事は……」 「証拠が無い以上、ドウにも仕様がないじゃないか。おまけに今朝になってから、早川の下宿のお神の奴が、御叮嚀に筥崎署へ電話をかけて、新聞の写真の時枝ヨシ子さんは、早川さんと一緒に居た柳川ヨシエさんに違いありませんが、時枝という苗字ではありません。その柳川ヨシエさんは、昨日早川さんと別れ話が済んで、どこかへ行かれましたそうです。いずれにしても柳川ヨシエさんを私が、時枝のお嬢さんと云ったおぼえはありませんから、ドウゾそのおつもりで……という白々しい口上だったそうだ。まるで警察が、寄ってたかって冷かしものにされとるようなあんばいだ」 「早川医学士と、時枝のおやじと、轢死女の血を取って胎児の血液と比較すれば、すぐにわかる話じゃないか」 「他殺か何かなら、それ位のことをやって見る張り合いがあるけども、自殺じゃ詰らんからネエ……まだ他に事件が沢山とあるもんだからトテも忙がしくて……」 「早川や姉歯は今どうしている」 「どうもしとらんさ。そのうちに柳川ヨシエの行先がわかったら知らせます……そうしたら轢死女と違うかどうか、おわかりになりましょう……とか何とか吐かしおって……」 「君の方じゃそれ以上突込まないのか」 「突込んでも無駄だと思うんだ。おれの睨んどるところでは、みんな昨日から昨夜のうちに、いくらか宛、時枝のおやじに掴ませられとるらしいんだ。その黒幕はやっぱりアノ姉歯の奴で、君の書いた夕刊を見るなり、佐賀の時枝へ電話か何か掛けおったんだろう」 「そうだ。それに違いないよ」 「君の新聞に書かれる前に、警察の手で引っぱたけば一も二もなかったんだが、すっかり手を廻しくさって……口を揃えて新聞記事を事実無根だと吐すんだ」 「失敬な……」  と云いさして私は唇を噛んだ。気がつくと二人はいつの間にか工科前の終点で電車を降りて、往来のまん中で立話をしているのであったが、そういう私の顔をジッと見ていた大塚警部はチョット四囲を見まわすと、黄色い白眼をキラキラ光らせながら、一層顔を近付けた。 「君の手で確かな手証を挙げてくれんか……エエ?……推定でない具体的な奴を……そいつを新聞に書く前に、僕の手に渡してくれれば、スッカリタタキ上げて君の方の特別記事に提供するがね。君の手から出たタネだという事も、絶対秘密にするのは無論の事、将来キット恩に着るよ。あの記事が虚構となったら君の新聞でも困るじゃろう」  私は唸り出したいほどジリジリするのを押えつけて、無理に微笑した。 「ウン……いずれ編輯長と相談して研究して見よう」 「ウン、是非頼むよ。ドウセイ時枝の娘に間違いはないんだから……話がきまったら電話をかけて呉給え。屍体でも何でも見せるから……ウンウン……」  大塚警部は一人で承知したように、形式だけ片手をあげると、クルリと私に背中を向けて、サッサと筥崎署の方へ歩いて行った。そのうしろ姿を見送りながら私は、昨日のまま上衣のポケットに這入っている、ヨシ子の名刺と質札を、汗ばむ程握り締めた。いつの間にか私自身が、大塚警部の手中に握り込まれていることに気が付いて……。  私は急に身を飜すと、案内知った法文学部の地下室へ駈け込んで、交換嬢に本社の編輯長を呼び出してもらった。 「モシモシ。僕は今法文学部の交換室からかけているんですがね。昨日の夕刊の記事ですね。あれは取消を申込んで来る奴があっても、絶対に受け付けないで下さい」  編輯長の上機嫌の声が受話機に響いた。 「ああ。わかっている。今朝六時頃にネエ。佐賀の時枝のオヤジが僕の処へ駈け込んで、取消しの記事を頼んだよ。それから九大の寺山博士がツイ今しがた本社へやって来て、早川という男は自分の処に居るには居るが、色魔云々の事実は無いようである。それから、これは眼科の潮教授の代理として云うのだが、時枝という看護婦が眼科に居た事もたしかだが、四箇月ばかり前からやめているので、新聞の写真と同一人であるかどうかは不明だ……といったような下らない事をクドクド云っていたが、どっちもいい加減にあしらって追い返しておいたよ」 「感謝します」 「あとの記事は無いかい」 「……あります……時枝のおやじと九大内科部長があなたの処へ揉み消しに来た事実があります」 「アハハハ、一本参ったナ。しかし何かそのほかに時枝の娘に相違ないという確証はないかい」 「あります……ここに持っています。死んだ娘が悲鳴をあげる奴を……」 「そいつは新聞に出せないかい」 「出してもいいですけど屍体を掻きまわして掴んで来たものなんです。検事局へ引っぱられるのはイヤですからネエ」 「いいじゃないか。あとは引受けるよ」 「……でも……あなたと一緒に飲めなくなりますから……」 「アハハハハ。そうかそうか。サヨナラ……」 「……サヨナラ……」  それから三四十日経った或る蒸し暑い晩の事、私は東中洲のカフェーで偶然に私服を着た大塚警部に出会した。警部は誰かを探しているらしかったが、私が声をかけると、すぐに私の卓子に来てビールを呼んだ。その顔を見ているうちにフト思い出して尋ねて見た。 「時にどうしたい……アノ事件は……」 「……アノ事件?……ウンあの事件か。あれあアノマンマサ。医学士は二人とも君のお筆先に驚いたと見えて、その後神妙にしているよ」 「イヤ。女の身許の一件さ」 「ウン。あれもそのまんまさ。今頃は共同墓地で骨になっているだろうよ。可哀相に君のお蔭で親に見棄てられた上に、恋人にまで見離された無名の骨が一つ出来たわけだ」 「……………………」 「何でも女が線路にブッ倒れてから間もなく、色男の医学士らしい、洋服の男が馳けつけて、懐中や帯の間を掻きまわして、証拠になるものを浚って行ったという噂も聞いたが、その時刻にはその色男は、チャント下宿に居ったというからね。どうもおかしいんだ」 「……ウーン……おかしいね……」 「……とにかくあの別嬪は、君が抹殺したようなものだぜ。その色男というのは君だったかも知れんがネ……ハッハッハッまあええわ。久し振りに飲もうじゃないか」  二人はそれから盛んにビールを飲んだが、私は妙に大塚警部の云った事が気にかかって、どうしても酔えなかった。しまいには自棄気味になって、警部が出て行くのを待ちかねてウイスキーを二三杯、立て続けに引っかけると、ヤット睡くなって来たが、ウトウトすると間もなく眼の底の空間に、空色のパラソルが一本、美しく光りながら浮き出した。そうしてフワリフワリと舞い上りつつ左手の方へ遠く遠く、小さく小さく消えて行った……と思うと又一つ同じパラソルがもとの処にホッカリと浮かみ出したが、それがだんだんと小さくなって、左手の方へ消えて行くのを見送るたんびに、私は何ともいえない、滅入り込むような恐怖を感じはじめた。  私はハッと眼を見開いて、キョロキョロとそこいらを見まわした。そうしてその恐ろしさを打ち消すために、もう一杯、又一杯とグラスを重ねたが、飲めばのむ程その幻影がハッキリして来るのであった。しまいには美しいパラソルが、あとからあとから浮き出して、数限りなく空間を乱れ飛ぶようになった。  そのめまぐるしい空間を凝視しながら、私はガタガタとふるえ出した。      その二 濡れた鯉のぼり  前のパラソル事件以来、私はピッタリと盃を手にしなくなった。それでも時折りはたまらなく咽喉が鳴るのであったが、飲めば必ず酔う……酔えばキット空色のパラソルの幻影を見る……ガタガタと慄え出す……という不可抗力のつながりに脅かされて、とうとう絶対の禁酒状態に陥ってしまったので、そんな事を知らない連中を、かなり不思議がらせたらしい。何しろ飲み旺っている絶頂だったので、以前の飲み仲間なぞは、一時真剣に心配したり冷かしたりして、手を換え品を換えて詰問したものであるが、私は唯ニヤニヤと笑うばかりで一言も説明らしい説明をしなかった……否、説明したくなかった……というのが本当の説明であったろう。そうしてそのお蔭という訳でもないが、事実はやはりそのおかげに違いなかったであろう、私は間もなく社長の媒妁で妻を迎えたのであった。  私の禁酒を不思議がっていた連中は、そこでやっと訳がわかったような顔をして、盛んに私を冷かしたものであった。けれども私は依然としてニヤニヤのまま押し通した。そうして福岡から二里半ばかり東北の香椎村に、二人切りの新世帯を作って、そこから汽車で福岡へ通勤することにしたが、しかし私は、その新妻から尋ねられた時にも、やはりニヤニヤと笑った切り「酒が飲めなくなったわけ」を説明しないで済ましたのであった……パラソルの女を見殺しにしたお蔭で、お前と結婚した……という結論になるのが、何となくイヤでたまらなかったので……。  ところがそれから一年足らず経過した、翌年の五月十日の或る曇った朝のこと……九州本線の下り列車は、いつもの通り風光明媚な香椎潟を横断して、多々羅川の鉄橋を越えて、前の事件の背景になった、地蔵松原の入口で大曲りをすると、一直線に筥崎駅まで、ステキに気持ちのいいスピードをかけるのであったが、その線路の南側に展開する麦畑や、菜種畑のモザイクを、松原越しに眺めるともなく眺めて行くうちに、フト妙なものが私の眼に止まった。  松原の中に一町四方ばかりの墓原がある。その南の端の、すこし離れた処に在る、小さな白木の墓標の前に、赤と、青と、黒と、大小三匹の鯉を繋いだ、低い幟棹が立っている……と思ううちにその光景は、松の幹の重り合った蔭になってしまった。  ……この頃死んだ男の子の墓だな……と思うと、私は何とも云えないイヤナ気持ちになった。ジッと眼を閉じると間もなく、薄暗く、ダラリと垂れた鯉幟の姿が、又もアリアリと瞼の内側に現われたので、思わず頭を強く振った。  しかし筥崎駅で汽車が停ると、私は妙に降りて見たくなった。それでも暫く躊躇して考えていたが、発車間際に思い切って飛び降りて見ると、今度は是が非でも今一度、あの墓原へ行かなければならないような気持になった。それは一種の新聞記者本能で、あの墓原の鯉幟が、何かしら面白い記事になりそうに直感されたからでもあったろう……が……一方から考えるとこの時既に、アノ鯉のぼりが象徴している不可思議な、悪魔的な魅力が、グングンと私の心を引き寄せていたのかも知れない。とうとう社へ出るのを後まわしにして、鉄道線路を十五六町程引返すと、最前の墓原へやって来た。  幟棹は墓地の最南端の、麦畑や村落を見晴らした処に樹てられていた。二間ばかりの細い杉丸太の根元を、砂の中に埋めたもので、大小三匹の紙製の鯉は、いずれも数日前からブラ下っていたものらしく、上の方の一番大きな緋鯉も、その次の青も、その下の小さな黒鯉も、雨や夜露に打たれて色が剥げ落ちたまま、互いにピシャンコになってヘバリ附き合っている。その中でも一番下の黒鯉は、半分以上白鯉になっているのに、上の二匹から滴り落ちた赤と青のインキをダラダラと浴びて、さながら血まみれになっているようで、白い砂の上に引きずった尾の周囲は勿論のこと、幟棹の根元から、白木の墓標の横腹へかけていろんな毒々しい、気味わるい色の飛沫を一パイに撒き散らしたまま、ダラリと静まり返っている。ただ、棹の上に取り付けてある矢の羽型の風車が、これも彩色を無くしたまま、時折り、あるか無いかの風を受けて廻転しかけては、ク――ック――ッと陰気な音を立てているばかり……空は一面の灰色に曇って、今にも降り出しそうである。  私は白砂の染まった処を踏まないように、グルリと遠まわりをして、小さな松の角材で建てられた、墓標の表面を覗いて見たが、又も奇怪な事実を発見したので、思わず唾を嚥み込んだ……真黒々になるほど浸み流れた墨汁の中に「花房ツヤ子之墓」と書いた拙い楷書が威張っている。裏の文字を見ると「……四月三十一日卒……行年二十三歳……」とある……ツイ十日ばかり前に出来た仏様である。  ……若い女の墓と……鯉幟と……心の中で繰り返しつつ、私は暫くの間石のように立ち竦んでいたが、やがて思い出したように横を向いて唾を吐いた。  それから二十分程経つと、私は筥崎の町役場へ行って死亡届を調べていた。そうして、それから又、十分ばかりの後には、筥崎八幡宮の裏手の森蔭に「花房敬吾」と標札を打った、長屋風の格子戸の前に突立っていた。 「……御免下さい……お頼み申します……御免下さい……」  と二三度繰り返すと、何の返事も無いままに、格子の中の玄関の破れ障子がガタガタと開いた。 「……敬吾かえ……」  と云うシャガレた声が聞えると間もなく、一人の老婆が、障子に縋り付くようにして這い出して来た。  私は又もやドキンとさせられた。古い格子越しに見ると、その老婆は、黄色い胡麻塩頭が蓬々と乱れて、全身が死人のように生白く、ドンヨリと霞んだ青い瞳を二ツ見開いて、一本も歯の無い白茶気た口を、サモ嬉しそうにダラリと開いている。身体には垢だらけの手拭|浴衣を着て、赤い細帯を捲きつけていたが、帽子を取った私の顔を見上げると、みるみる暗い、萎び込んだ表情にかわってしまった。 「ドナタサマデ……アナタ……」  と頭を下げつつゴックリと唾を呑んだ。  私は返事するのを躊躇した。この新聞材料にぶつかった最初から受け続けている、何とも云えないイヤナ感じを、ここでもっと突込んでみようか……それともこの辺で思い切ってしまって、もっと明るいキビキビした、ほかの材料に乗り換えようかと、一瞬間思い迷った。けれどもその時に私は、今までの惰力とでもいうべき一種の気持ちに押されて、ツイ間に合わせの返事をしてしまった。 「……エエ……敬吾君と以前御交際を願っておりました……和田というものですが……」 「オオオオ、それはそれは。まあお這入り下さいまし。お上り下さいまし。……アナタ……」  と云ううちに老婆は、古ぼけた畳の上を、赤ん坊のようにベタベタと這いながら引込んで行った。そのあとを見送って考えていた私は、やがて又、思い切って格子戸を開いた。  家は二畳の玄関と、一坪ほどの台所と便所と、八畳の座敷に押入れと床の間という、古ぼけた長屋みたような瓦落多普請であるが、家具らしいものはあまり見えない。座敷は両側とも雨戸を閉めて、蚊帳が一パイに釣ってあるので、化物屋敷のように暗い上に、黴臭いような、小便臭いような臭気が、足を踏み込むと同時にムッとした。しかし老婆は暗闇に慣れていると見えて、平気で蚊帳の裾を這いながら、縁側から台所の方へまわって行った。私もそのあとから蚊帳を押し除け押し除けして、雨戸の内側の縁側の板張りへ出たが、そのついでに蚊帳の中を覗いてみると、寝床が三ツ敷いてあって、床の間の前に括り枕が一つと、台所側に高枕が二つ並べてある。その高枕と括り枕との間に、新らしいメリンスの小さな布団と、赤い枕がキチンと置いてあるのは赤ん坊の寝床であろう。夫婦と老婆が寝ていたものとも思われるが、妻女は死んでいる筈だから、寝床が三つあるのはヘンテコである。しかも役場の戸籍面には妻女の死亡が届け出てあるだけで、赤ん坊の事は何とも書いてないのに……アノ鯉幟……この小さな新しい布団……おまけに今は真ッ昼間ではないか……。  私は進退|谷まったような気持ちで、帽子を持ったまま縁側に跼んだ。白昼でありながらソンナ気がチットモしない。雨戸を洩れる光線が、月の光りのように白く見えて、ヒッソリとした静けさが身に迫って来る。今にも突然に老婆がワアと云って振り返ったら……なぞとあられもない事を考えているうちに、台所に首を突込んでゴソゴソやっていた老婆は、片手に茶碗を持ちながらヨタヨタと這いもどって来た。 「ヘイ……つめたいお茶を一ツ……おあてものも御座いませんで……アナタ……」 「……ヤッ……どうもありがとう……どうぞお構いなく……」  と大きな声で云いながら、私は余儀なく板張りに坐り込んだ。老婆も私とさし向いに坐ったが、瘠せ枯れた白い手で襟元を直して、蓬々と逆立った髪毛を撫で上げた。戸籍面によるとこの老婆はオシノといって、敬吾の祖母に当る嘉永生れの高齢者であるが、耳も眼もシッカリしているようで、気持ちも存外確からしい。  私は心安いような態度で茶碗を口に近づけて、一ト口飲む真似をした。そうしてブッキラボーに口を利いた。 「敬吾君はいつ頃お帰りで……」  老婆は眼をショボショボとしばたたいた。右の眼の下の皺を、口と一緒に歪まして、ペロリと一つ舌なめずりをしたが、やがて又、淋しい、たよりないシャガレ声を出して、 「……ハ――イ。もう帰る頃と思いますが……アナタ……」  と云いつつ私を見詰めると、モクモクと口を動かした。その疑うような白い眼付きを見ると、私はたまらない程奇妙な気持ちになったので、新聞の事も何も忘れてしまって、取って附けたようにお辞儀をした。 「それじゃ……いずれ又……」 「……ア……さようで……アナタ……」  そう云いながら老婆は、何かもっと云いたいような顔付きをしたが、又モクモクと口を動かすと、黙り込んでしまった。 「ドウゾお構いなく、いずれ又そのうちに……どうぞ宜しく……」  と切れ切れに云い云い玄関に出て、靴に足を突込むや否や表に飛び出して、格子戸をピシャリと閉めた。オシノ婆さんが這いずりながら、追っかけて来るような気がしたので……。  それから一町ばかりのあいだを、スッカリ失望した気持ちになって、小急ぎに歩いた私は、八幡前の賑やかな通りへ出る四五軒手前の荒物屋の前まで来ると、フト立ち止ってその店の中へ這入った。 「バットがありますか」 「入らっしゃいませ」  とステキに明るい声が奥の方からして、デブデブに肥った四十恰好のお神さんが、乳呑み児を横すじかいに引っ抱えながら出て来た。その脂切った笑い顔を見ると、私はホッと救われたような気持ちになって、バットを三個ばかり受け取ったが、とりあえず一本引き出して吸口をつけながら、こころみに聞いて見た。 「この向うに花房って家がありますね」 「ヘエ……」  と私の顔を見たお神さんは、急に笑い顔をやめて、大きくうなずいた。 「あの家のお嫁さんは死んだんですか」 「ヘエ……」  と云いながらお神さんは、一層|魘えた表情になって、唾をグッと嚥み込んだ、私は占めたと思いながら帳場に近づいて、火鉢の炭団にバットを押しつけた。 「マッチでお点けなさいまっせえ。炭団では火がつき悪う御座いますけん」  と云ううちにお神さんは、私の横にベッタリと腰をかけて、マッチの箱をさし出した。このお神さんはあの家の事を喋舌りたがっているナ……と私は直覚した。  それから根掘り葉掘りして、私一流の質問を続けてみると、果してお神さんの説明は、一々興味深い新聞種になって行った。但、筋は極めて単純であった。  花房というのは現在、福岡の電燈会社の工夫をやっている男で、昨年の春にオシノという高齢の祖母と、若い嫁女のツヤ子を連れて、この町内の現在の家に引越して来た者であるが、夫婦仲は云うまでもなく、オシノ婆さんと嫁女のオツヤとの仲が、親身の間柄でも珍らしいくらい睦まじいので、近所の評判になっていた。敬吾がつとめに出かけた留守中に、嫁女のツヤ子がオシノ婆さんの手を引いて、程近い八幡様の境内を散歩させたり、お湯に連れて行く光景などを、近くの人はよく見かけた。敬吾が一時やめていた晩酌を、オシノ婆さんが嫁女にすすめて、無理に又はじめさせたというような噂までも伝わった。  ところがそのうちに嫁女が姙娠したことがわかると、オシノ婆さんは八幡様へ参詣しなくなった。 「お前が転びでもすると私が敬吾に申訳けがない。孩児の着物も私が縫うてやるけに、成るだけ無理をせんようにしなさい。その代りキット男の子を生みなさいよ」  と寝ても醒めても云っていた。嫁女も素直に笑いながら、 「ハイ……キット男の子を生みます」  と請け合っている……という話を、亭主の敬吾が煙草を買いに来たついでに、お神さんに話して聞かせた。  するとそのうちに嫁女がチブスに罹って、今から十日ばかり前の事、五月目の男の子を死産して死ぬると、亭主の敬吾は何と思ったか、通夜の晩から、大酒を飲んで管を捲きはじめた。 「……嬶は死ぬが死ぬまで譫言に、鯉幟のことばかり云うとったから、法事が済んだら一つ素晴らしいのをお墓に立ててやろうと思う。それが一番のお供養だナアお祖母さん」  と大声で何遍も何遍も繰り返すので、通夜に来ていた近所の人々は、ジッとしていられないような気持になった。胎児と母親の野辺送りをした帰りがけにも、敬吾はトロンとした眼で、白木の墓標をふりかえって、 「もうじきに大きな奴を立ててやるぞ。アハハハハハ」  と高笑いをしたので皆、顔をそむけたという。  けれども敬吾は、その帰り道にどう気がかわったものか、郵便局に残っていた二百円ばかりの貯金を引き出すと、その夜から行方を晦ましてしまった。何しろ家には高齢のオシノ婆さんが置き去りにして在るので、近所の者も心配して、二三人手を分けて行方を探しているが、今のところ皆目わからない。柳町の遊廓で見かけたという者もあるが、それも今では当てにはならなくなっている。一方にオシノ婆さんは、少しばかり残っている米で粥を作って喰べているが、近所の人が同情をして物を呉れても、 「いずれ近いうちに敬吾が帰って来ましょうから、お構い下さいませんように……ヘエ……アナタ……」  と云って突返すので、 「折角ヒトが心配してやっているのに……」  と面憎くがっている者もある。……ところがこの婆さんは、チョット見たところシッカリしているようであるが、実はもうすっかり耄碌しているので、雨戸の隙間から覗いてみると、夜も昼も蚊帳を釣り放して、いつもの通りに床を取った上に、自分が縫った「孩児さんの赤い布団」まで並べて待っている様子なので、近所の者はトテモ気味悪がっている。ことに依ると夫婦と子供三人で、出かけたあとの留守番をしているつもりかも知れないが、誰もそんな事を尋ねて見るものは無い。何にしても当り前でない婆さんが、タッタ一人で煮焚きをするので、まことに不要心だから、警察に届けようか、どうしようかと相談しいしい今日まで来ている。尤も、もう二三日すると二七日が来るから、事に依ると敬吾が帰って来るかも知れぬが……というのがお神さんの話の概要であった。  私は礼を云って荒物屋を出ると又引っかえして、花房の近所をまわって、二三の事実を確かめてから本社へ帰った。 「……死んだ愛妻と胎児の墓に、鯉幟を立てて行方を晦ました男……あとに餓死を待つ高齢の祖母……」  といったような記事が、その墓の鯉幟と、蚊帳の前に坐った老婆の写真と一緒に出たのは、あくる日の朝刊であった。それを台所で読んだ私の妻が、 「マア。誰がこんなイヤな記事を書いたんでしょう」  と云ったので私は思わず苦笑させられた。 『記者様―― 私ハ、アナタノ新聞ノ記事ヲ読ンデカラ眼ガ醒メマシタ。私ハ妻子ヲ失ッタ悲シサノタメニ酒色ニ溺レテ、恵ミ深イ大恩アル祖母ノ事ヲ忘レテオリマシタ。柳町、大浜ト飲ミマワッテ、化粧ノ女ト遊ビ狂ウテオリマシタ。ソウシテ、アノ新聞記事ヲ見マシテカラ、ヤット昨晩、家ニ帰ッテ見マシタラ、祖母ハ蚊帳ノ釣手ニ、妻ノ赤イ細帯ヲカケテ、首ヲククッテ死ンデオリマシタ。足ノ下ニ御社ノ新聞ノ、アノ写真ノトコロガ拡ゲテ置イテアリマシタ。誰カ近所ノ親切ナ人ガ投ゲ込ンデ下サッタノデショウ。 記者様―― アノ鯉幟ノ棹ハ、私ガ酔ッタ勢イデ立テタモノデスガ、ソレガ記者様ノオ眼ニ止マッテ、コンナ不孝ナ恥ヲ晒ソウトハ夢ニモ思イマセンデシタ。シカシ私ハ、ドナタ様モ怨ミマセン。何モカモ、私ガ修養ガ足リナイタメニ、起ッタ事デス。私ハ皆様ニ対シテ申訳アリマセンカラ自殺シマス。ドウゾコノ大馬鹿者ノ最期ヲ、アナタノ筆デ、デキルダケ大キク世間ニ発表シテ下サイ。御社ノ御繁栄ヲ祈リマス。   五月十一日花房敬吾   福岡時報 記者様』  編輯長は、洋半紙に鉛筆で書いたこの手紙を、私の前に投げ出しながらフフンと笑った。 「ツイ今しがた来たんだ。その男はその手紙をポストに入れると、嬶の墓に参って、幟の細引を首に捲いて、鯉と一緒にブランコ往生をしていたんだ。二時間ばかり前に、あの松原を通った下り列車の乗客が見つけたんだがね、足下にウイスキーの小瓶がタタキ付けたったそうだよ……ハハハハハ」  私は茫然として編輯長の顔を凝視した。編輯長はやはり冷笑を浮めながら云った。 「君の筆もだいぶ立つようになったね」  私は笑いもドウもし得ないまま、何がなしにうなだれてしまった。帽子を片手にスゴスゴと編輯室を出て、一気に階段を駈け降りた。  東中洲のカフェーに飛び込むと、昔なじみの女給連中が、鬨の声をあげて立ち上って来た。 「……まあ……めずらしいじゃないの……まあ……」 「どうしたの……あんたは……この頃……」 「いらっしゃアアい」  私は薄暗い雪洞の蔭から、眼を据えて睨み付けた。 「八釜しい……ウイスキーを持って来るんだ」  そう怒鳴り付けた私の眼の前に、早くもあの鯉幟の幻影が浮かみあらわれた。黒と、緑と、赤の滴雫を、そこいら中に引きずり散らした……ダラリと垂れ下がった……。  美代子さんは綺麗な可愛らしい児でしたが、ひとの口真似をするので皆から嫌われていました。  或る日の事、美代子さんはお家の前でたった一人で羽子をついていますと、一人の支那人が反物を担いで遣って来て、美代子さんのお家の門口で、 「奥さん、旦那さん、反物|入りまションか」  と言いました。美代子さんはカチリカチリと羽子をつきながら、 「入りまショんよ」  と云いました。  支那人はニヤニヤ笑って美代子さんを見ておりましたが又、 「けんとんけんちゅう入りまションか」  と云いました。 「てんどんけんちん入りまションよ」  と美代子さんは矢張り羽子をつきながら、又口真似をしました。  支那人はこの時大変こわい顔をしましたが、何も知らずに羽子をついている美代子さんのすぐうしろに来て、小さな金襴の巾着をポケットから出してその口を拡げながら、 「オーチンパイパイ」  と云いました。美代子さんは矢張り何気なく羽子をつきながら口真似をしました。 「オーチンパイパイ」 「ハッ」  と支那人が大きなかけ声をしますと、美代子さんは羽子と羽子板ごと影も形も見えなくなってしまいました。  支那人は又ニヤリと笑ってあたりを見まわしましたが、そのまま巾着の口を閉じて懐中へしまって、反物を担いで今度は隣家の門口へ行って知らぬ顔で、 「けんとんけんちゅう入りまションか」  と呼びました。  美代子さんのおうちの玄関で勉強をしていたお兄さんの春夫さんは、支那人が妙なかけ声をすると一時に羽子板の音が聞こえなくなりましたので、変に思って障子を開けて見ますとコハ如何に、たった今までいた美代子さんが影も形も見えません。いよいよ変に思って表へ駆け出して見ると、お天気の良い往来に人通りも無く、二三軒先で支那人が、 「反物入りまションか」  と云っているだけです。  春夫さんはあの支那人が誘拐したに違いないと思いました。  どこに美代子さんを隠したのだろうと思いながら、見えかくれにあとからついて行きますと、支那人は二三軒門口から呼び歩きましたが、間もなく真直ぐに街を出てだんだん賑やかな処へ来ました。そうしてこの街で一番繁華な狭い通りへ来ると、そこの暗い横露地へズンズン曲り込んで、黒い掃き溜の横にある小さな入口へ腰をかがめて這入ると、アトをピシャンと閉めてしまいました。  春夫さんは、この支那人が美代子さんを誘拐しているのじゃないのか知らんと思って、あたりを見まわしましたが、念のため横にある黒い箱にのぼって、その上にある小窓からガラス越しに中をのぞいて見ると、中は真っ暗で何も見えません。只|直ぐ眼の前に大きな階段が見えるだけです。そうしてその上の方から聞こえるか聞こえぬ位、かすかに女の子の泣き声が聞えて来るようです。  春夫さんは試しに窓を押して見ると、都合よくスッと開きました。占めたと思って、そこから機械体操の尻上りを応用して梯子段の上に出て、あとの硝子窓をソッと閉めました。すると疑いもない女の児の泣き声が、上の方から今度ははっきり聞えて来るではありませんか。  春夫さんは胸を躍らせながら、足音を忍ばせて真暗な梯子段を声のする方へ近寄りました。その突当りの真暗な廊下に一つの扉があります。声はその中から聞えて来るようです。  春夫さんはその扉の鍵穴にそっと眼をつけて見ましたが、思わず声を立てるところでした。  中には、青い洋燈が真昼のように点れている下に、大きな大理石の机があります。その前に最前の支那人が汚いシャツ一枚になって腕まくりをして、巾着の口を開いて中をのぞきながら、 「メーチュンライライ」  と云いますと、一人の女の児が見事な洋服を来たままヒョイと机の上に飛び出しました。  女の児は机の上に立つと、暫くは眩しそうにキョロキョロあたりを見まわしておりましたが、支那人の顔を見ると、かどわかされた事に気が付いたと見えて、ワッとばかりに泣き出しました。  支那人はニヤニヤ笑って巾着の口を閉じながら、 「お嬢さん。あなた、私の口真似をしたでしョ。だから私が罰をするのです。さあ、あなたの持っていらっしゃるものを皆下さい。着物も帽子も靴もお金も」  と云ううちに、女の児を捕えて下着一枚にしてしまいました。そうして巾着の口を開きながらこう云いました。 「さあお嬢さん、私の口真似をなさい。そうすれば命だけは助けて上げます。オーチンパイパイ」  女の児が泣く泣く口真似をすると思うと、見る間に巾着の中に消え込みました。 「メーチュンライライ」  と、支那人はまた一人女の児を呼び出しました。  こうして支那人は次から次へと女の児の着物を剥いで行きましたが、その度に「口真似をした罰だ」と云い聞かせました。  春夫さんは、今にも美代子が出て来るか出て来るかと待ちましたが、巾着の中の女の児の数が多いと見えてなかなか出て来ません。その中に机の上は女の児の洋服や和服で山のようになりました。  支那人は、その山を見ながらさもうれしそうにニコニコしておりましたが、やがて長い長い煙管を出して煙草を吸おうとしましたが、燐寸がないのに気が付いて、鍵で扉を開けて廊下へ出て、梯子段を駆け降りて行きました。  急いで物蔭に隠れた春夫さんは、その間に中に飛び込むと、金襴の巾着を掴むが早いか梯子段を駆け降りて、窓から露地に飛び降りました。  それと同時に、 「アッ、泥棒」  と言う支那人の声がうしろから聞こえました。  春夫さんは一目散に繁華な往来を駆け出しました。そのあとから支那人が、 「泥棒、泥棒」  と叫びながら追っかけて来ました。往来の人々は何事だろうと驚きましたが、間もなく春夫さんは通りかかったお巡査さんに巾着ごと押えられてしまいました。 「その巾着返せ」  と追っかけて来た支那人が春夫さんに飛び付きましたが、春夫さんはしっかり両手で掴んで、 「嫌だ嫌だ。この支那人は人買いです。お巡査さん、捕まえて下さい」  と泣きわめいてどうしても離しませんでした。  ジロジロ二人の様子を見ていたお巡査さんは、 「一度調べねばならぬから二人とも警察に来い」  と云って、支那人も一緒に連れて行きました。  警察へ行くと、二人は警察の大広間で一人の警部さんに調べられました。春夫さんはその時に今迄の事をすっかり話して、 「この支那人は人買いの追い剥ぎです。うちの美代さんもこの中にいるのです」  と言って金襴の袋を出して見ました。鬚をひねって聞いていた警部さんはこれを聞くと笑い出して、 「フム、面白い話だ。どうだ支那人、その通りか」  と尋ねますと、支那人は手と頭を一時に振って、 「違います違います。この袋は私の大切な袋です。この小供はうそ云います。こんな小さい袋の中に女の子が大勢いる事ありません。嘘ならあけて御覧なさい」 「フム。おい、春夫とやら。その袋をあけて見ろ」  春夫さんが机の上に袋をあけると、中から青だの赤だの白だの紫だの金だの銀だの、数限り無い南京玉が机上一面にバラバラと散らばって床の上にこぼれました。 「これ欲しいからこの小供泥棒したのです。そうして嘘云うのです」 「どうだ、それに違いなかろう。貴様、今の中に本当の事を云えば許してやる」  と警部さんは怖い顔をして申しました。そうして支那人に、 「お前はもういい。その袋を持って帰れ」  と云いました。支那人は喜んでピョコピョコ頭を下げて、散らばった南京玉を拾い集めて巾着に入れかけました。  泣くにも泣かれぬ絶体絶命になった春夫さんは、この時思い切って高らかに叫びました。 「メーチュンライライ」  するとどうでしょう。数限りない南京玉が一つ残らず消えてしまうと一所に、警察の大広間には這入り切れぬ程大勢の女の児が机の上や床の上から一時に現われて、警部さんも巡査さんも春夫さんも支那人も身動き出来ぬ位になりました。その中に、 「アッ、お兄様」  と言って嬉し泣きに泣きながら春夫さんに縋り付いた女の児がありました。 「アッ、美代ちゃん」  と云うと、春夫さんも嬉し泣きに泣きました。  魔法使いの支那人はすぐに捕まりました。  春夫さんは許されて、美代子さんを連れて大喜びでおうちへ帰りました。  他の女の児は皆警察からお家へ知らして迎いに来てもらいました。  魔法の巾着は警察で焼いてしまいましたから、もう誘拐されるものは無くなりました。  美代子さんはそれから決してひとの口真似をしませんでした。他の女の児もきっとそうでしょう。  ヒイラ、フウラ、ミイラよ  ミイラのおべべが赤と青  そうしておかおが真黒け  四つよく似たムクロージ  五ついつまでねんねして  六つむかしの夢を見て  何千万何億年  やっとこさあと眼がさめて  九つことしはおめでとう  とんだりはねたり躍ったり  とうとう一貫借りました。  花子さんは夢中になってお友達と羽子をついているうちに、羽子板のうらの美しい姉さんの顔の頬ぺたが、いつの間にか羽子のムクロジに当って、ポコンと凹んでいるのを見つけました。  花子さんはわっと泣き出して、おうちへ駈け込んで、お母さんの膝へ泣き伏しました。 「お母さん、堪忍して頂戴。羽子板の姉さんのお顔がこんなになりました」  お母さんは背中を撫で、 「そうですか、構いません。これから大切になさい。もう日が暮れますから、御飯をたべておやすみなさい」  と云われました。  花子さんは羽子板の美しい姉さんの顔が可愛そうでなりませんでした。どうかしてもとの通りにならないかと思い、ひょいと顔を上げて枕元に置いた羽子板を見ると、ビックリしました。美しい姉さんは、いつの間にか羽子板を抜け出して枕元に座って、頬ペタの大きく凹んだ処を押えてシクシク泣いています。  花子さんは思わず飛起きて、飛び付きました。 「あら、姉様、堪忍して頂戴。妾が悪いのですから」  と泣き声を出してあやまりましたが、姉さんは中々眼をあけません。奇麗な袖で顔を押えて、シクシク泣いているばかりです。花子さんはどうしようかと思いました。  ところへどこからか、 「それは花子さんが悪いのではない。私が悪いのです」  と云うしわがれた声が聞えました。驚いて姉さんと花子さんとが顔を挙げてそちらを見ますと、それは恐ろしい、真黒い、骸骨のような木乃伊でした。  木乃伊は赤と青の美しい着物を引きずって、恐ろしさにふるえている姉さんと花子さんの傍へしずしずと近寄りながら、白い歯を出してニッコリ笑いました。 「御心配なさいますな。私が姉さんの頬の凹んだ処はきっと直して上げます」  と云ううちに二人を抱き上げて、赤と青の着物をパッと広げると、そのまま大空はるかに舞い上りました。  二人は夢のようになって抱かれて行きますと、木乃伊の青と赤の着物は雲の中をひるがえりひるがえり、お太陽様も星も月もはるか足の下にして飛んで行きます。やがて下の方に三角の塔や椰子の樹や大きな川や繁華な都が見えて来ました。木乃伊はそれを指して、 「あれが私の故郷のエジプトの都です。三角の塔はピラミッドで、川はナイル河という河です」  と云う中に、都の中で一番大きな建て物の窓から中へ降りて行きました。その時気が付きますと、木乃伊はいつの間にか当り前の人間の、しかも立派な王様の姿にかわっておりました。  王様はニッコリ笑って申しました。 「私はこのエジプトの王ラメスというものです。昨日、花子さんが私の生まれ代りの羽子のムクロジにあたたかい息を何べんもはきかけて下さいましたので、二千年も昔に生き返る事が出来たのです。その御礼に今日は国中の者を集めて御馳走をします」  やがて三人は眼もまばゆい大広間に来ると、王様を真中に、姉さんは右に、花子さんは左に腰をかけました。  先ずこの国第一のお医者が来て姉さんの鼻をフッと吹きますと、姉さんの頬ペタは忽ちもとの通りにふくらみました。それから、二人ではとても食べ切れぬ程の珍らしい御馳走をいただきました。それから、この国中の踊りの名人の舞踏を見せてもらいました。  とうとうおしまいには王様も堪らなくなったとみえて、 「久し振りだからおれも一つ踊ろう」  と飛び出して踊り出しました。  その時王様はこう云って唄いました。  ヒイラ、フウラ、ミイラよ  ミイラの王様お眼ざめだ  赤い青いおべべ着て  黒いあたまをふり立てて  はねたり飛んだりまわったり  五ついつまでいつまでも  むかしのまんまのひとおどり  なんでもかんでも無我夢中  やめずにとめずに九とう  とうとう日が暮れ夜が明けて  いつまで経っても松の内  花子さんも羽子板の姉さんも夢中になって見ておりますと、王様の踊りはだんだんはげしくなって、次第次第に高く飛び上って、とうとう大広間の天井を突破って、虚空はるかに飛び上って、どこへ行ったか見えなくなってしまいました。  ハッと思って気がつきますと、夜が明けて、花子さんは矢張り寝床の中にいて、羽子と羽子板をしっかりと抱いているのでした。  羽子板の姉さんの頬はいつの間にか、またもとの通りにふっくらとなっておりました。    ★ 鋼のように澄みわたる大空のまん中で 月がすすり泣いている。 ………けがらわしい地球の陰影が 自分の顔にうつるとて………… それを大勢の人間から見られるとて………… …………身ぶるいして嫌がっている。    ★ ………しかし……… 逃れられぬ暗い運命は………… 刻々に彼女に迫って来る。 大空のただ中に…………    ★ ……はじまった…… 月蝕が…………    ★ 彼女はいつとなく死相をあらわして来た。 水々しい生白い頬………… ……目に見えぬ髪毛を、長々と地平線まで引きはえた……… それが冷たく……美しく……透きとおる……  コメカミのあたりから水気が…………ヒッソリとしたたる。    ★ 彼女はもう………… 仕方がないとあきらめて 暗い…………醜い運命の手に………… 自分の美をまかせてしまうつもりらしい。    ★ 顋のあたりが すこしばかり切り欠かれる。 …………黒い血がムルムルと湧く。 …………暗い腥いにおいが大空に流れ出す。 …………それが一面に地平線まで拡がってゆく。 彼女を取巻く星の光がギラギラと冴えかえった。    ★ 彼女の瞼が一しきりふるえて やがて力なく黝ずんで来る。 鼻の横に黒い血の※が盛り上る。 …………深く斬込まれた刃の蔭に 赤茶気た肉がヒクメク。    ★ 世界は暗くなった。 すべての生物は鉛のように重たく 針のように痛々しい心を ジッと抱いて動かなくなった。    ★ けれども暗い……鋼鉄よりもよく切れる円形の刃は 彼女の青ざめた横頬を なおもズンズンと斬り込んでゆく。 そこから溢れ出る暗い…………腥いにおいにすべては溺れ込んでゆく。 …………山も…………海も…………森も…………家も…………道路も………… …………そこいらから見上げている人間たちも…………    ★ その中にただ一つ残る白い光………… 彼女の額と鼻すじが もうすこしで………… 黒い刃の蔭に蔽われそうになった。    ★ 空一面の夥しい星が 小さな声で囁き合って 又ヒッソリと静まった。    ★ 陰惨な最後の時………… 顔を蔽いつくす血の下に 観念して閉じていた白い瞼を パッチリと彼女は見開いた。    ★ 案外に平気な顔で 下界の人々を流し眼に見まわした ニッコリと笑った。    ★ …………ホホホホホホホ…… これはお芝居なのよ。 ……大空の影と光りの……。 だから妾は痛くも苦しくも……… ……何ともないのよ………… そうしてもうじきおしまいになるのよ。    ★ …………でも皆さんホントになすったでしょう。 ……あたし名優でしょう…… オホホホホホ……………    ★ ではサヨウナラ………… みなさんおやすみなさい。 ……ホホホホホ…………………… ホホホホホ……………………………  外はスゴイ月夜であった。玄関の正反対側から突出ている煙突の上で月がグングンと西に流れていた。  庭の木立の間の暗いジメジメした土の上を手探りで歩いて行くうちにビッショリと汗をかいた。蜘蛛の巣が二三度顔にまつわり付いたのには文字通り閉口した。道を間違えたらしかったが、それでも裏門に出ることは出た。  潜戸から首だけ出した。誰も居ない深夜の大久保の裏通りを見まわした。今一度、黒い煙突の影を振返ると急ぎ足で横町に外れた。  東京市内の地理と警察網に精通している新聞記者の私であった。誰にも発見されずに深夜の大久保を抜け出して、新宿の遊廓街に出るのは造作ない事であった。  そこで私はグデングデンに酔っ払ったふりをしながら朦朧タクシーを拾い直して来て、駿河台の坂を徒歩で上って、午前四時キッカリにお茶の水のグリン・アパートに帰り着いた。  このアパートは最新式の設備で、贅沢な暖房装置がある。出入りはむろん自由になっていた。それでも私は細心の注意をして、音を立ないように三階の一番奥の自分の室に忍び込んで、内部からソッと錠を卸した。  室の中央のデスクには受話機を外した卓上電話器と、昨夜の十一時近くまで書いていた日曜附録の原稿が散らばっていた。点けっ放しの百|燭光に照らされたインキの文字がまだ青々していた。その原稿の上に、内ポケットから取出した裸のままの千円の札束を投げ出した。それから素裸体になって、外套や服はもとより、ワイシャツから猿股まで検査した。どこにも異状のないことをたしかめてから、モトの通りに着直した。少々寒かった。  寝台の脚にかけたフランネルの布で靴を磨き上げた。自動車のマットで念入りに、拭い上げておいたものではあったが……。  室の隅の洗面器で音を立てないように手を洗った。立てても差支えないとは思ったが……。  最後に私は椅子の上に置いた帽子を取上げて叮嚀にブラシをかけた。細かい蜘蛛の糸が二すじ三筋付いていたから、特に注意して摘み除けた。ブラシに粘り付いたのと一緒に指先で丸めて、洗面器のパイプに流し込んだ。  そのまま室の隅の帽子かけに掛けようとしたが、その序に何の気もなく内側を覗いてみるとギョッとした。JANYSKA と刻印した空色のマークの横に、黒と金色のダンダラになった細長い生物がシッカリと獅噛み付いている。のみならずその右の前足の一本だけを伸ばしてソロソロと動かしかけているようである。  ……お女郎蜘蛛だ……あの南堂家の木立の中に居った奴がクッ付いたままここまで来たのだ。私が電燈の下で掃除をする時に、持って生まれた習性で暗い方へ暗い方へと逃げまわって、巧みに私の眼を脱れながらコンナ処に落ち付いていたのであろう。……南堂未亡人の執念……?……。  私はフッと可笑しくなった。少々センチになったかな……と思いながらソッと窓を開けた。帽子を打振って逃がしてやった。あとに糸が残っていないのを見定めてから頭の上に載せた。  何がなしにホッとした。    南堂伯爵未亡人の死と、私とを結び付けて考え得る者は、今逃がしてやった一匹のお女郎蜘蛛以外に絶無である。心臓に短剣を刺された屍体が、私の名前を叫び立てでもしない限り……。  私はこの原稿を書上げ次第、雑誌社に居る友人に郵送するつもりである。同時に新聞社へ宛てて神経衰弱がヒドクなったようだから一箇月ばかり静養して来る……という意味の届けを出して、警視庁の手の届かない遠い処へ飛ぶつもりでいるのだから万に一つも捕まる心配はない。  しかし用心だけは、どこまでもしておくのが私の癖だ。  この原稿を受取った私の友人は、いつもの通り内容をロクに見ないまま文選工場へまわすに違いない。締切を突破した予告原稿だから……。  そこでこの原稿はバラバラになって職工の手に渡る。印刷されてもわかる気遣いはない。製本されて纏まった文章になって、蒸気とガソリンの速力で全国の読者に配布されても地名や人名は仮名になっているし、標題に含まれている暗示もよほど注意深く新聞を読んでいる人か、又は実地を調査した係官の中でもかなり職務に忠実な人間でなければわからないようにしておいた。だから、これがあの事件の真相だと気付かれるのはドンナに早くとも二三週間の後だろう。その間に完全な失踪が出来ない位の私なら、捕まっても文句はないだろう。  私のこうした行動が、この場合唯一の自白であり、且つ手がかりである事を私は知り過ぎる位知っている。……にも拘わらずドウしてコンナ大胆な……むしろ馬鹿な行動を執ったか。  その理由はただ一つ……事件の真相をどこまでも真実の形で認めてもらいたいからだ。南堂伯爵未亡人との約束を果したいからだ。  私は捕まり次第、脅喝殺人の罪に問われるにきまっている。うっかりすると謀殺か強盗の廉で首を絞められるかも知れない虞れが十分にある。そんなにまで恐しい事件にタッタ一人で触れて来たのだ。  私がすべての生命に対して特別に敏感な人間である事を証明し得る者がどこに居よう。  私は現代社会の堕落層に住む寄生虫である。卑怯者と呼ばれても悪党と罵しられてもビクともしないであろう一種の冒険を、特に「金」というものに対して試み続けて来た人間である。……況んや今度という今度ばかりは、思いがけない機会から非常に世間のためになる……被害者自身でさえも感謝しているであろう痛快な仕事を果してやったつもりでいる。六千円位の報酬では足りないと思っている位だ。  私はこれから後もこの意味で世間へ挑戦してやろうと考えている。この事件を記録した一冊のノートと六千円を資本にして……。  身におぼえのある堕落資本家諸氏よ。警戒するがいい……。  外はモウ明るくなって来たようだ。  ここいらで一服してみよう。  私は今朝の零時半キッカリに、南堂伯爵未亡人を、その自宅に訪問した。  むろん、それは尋常一様の訪問ではなかった。手早く言えば脅喝の目的であった。  私は日本屈指の大新聞、東都日報の外交部につとめる傍ら、本郷|西片町の小さな活版屋で、家庭週報という四|頁新聞を、毎日曜|毎に発行していた。その大部分は料理、裁縫、手芸なぞの切抜記事で、上流婦人や女優の消息、芝居、展覧会なぞの報道を申訳だけに掲載していたが、本来の目的は一箇月に一度位ずつ、女学校や、上流家庭の内幕を素破抜いて、その新聞の全部を高価く売り付けるのであった。むろん売付ける新聞紙は別に刷らしていたから、警察に睨まれるようなヘマは一度もしなかった。  ところがこの頃になって、その脅喝が著しく利いて来た。近頃の大新聞が、上流社会の醜聞を昔のように書かなくなったせいらしい。しまいには原稿だけ……最近には単に口先でチョット耳を吹いただけで、五百や千の金には有付けるようになった。  資本主義末期の社会層には、不景気に反逆する上流社会の堕落例が夥しいものだ。だから私はチットモ金に困らなかった。そうして金を掴めば掴むほど、そうした堕落層の裏面に深入りして行った。女優を買う女、男優を買う男の名前なぞは、一人残らず知っていた。  南堂伯爵未亡人は、その尤なる者であった。  巨万の財産を死蔵して、珍書画の蒐集に没頭していた故伯爵が四五年前に肺病で死ぬと間もなく未亡人は、旧邸宅の大部分を取毀して貸家を建てて、元銀行員の差配を置いた。自身は僅かに残した庭園の片隅の図書館に、粗末な赤|煉瓦の煙突を取付けて住み込んで、通勤の家政婦を一人置いていた。  未亡人の美しさが見る見る年月を逆行し始めたのは、その頃からの事であった。モウ四十に近い姥桜とは夢にも思えない豊満な、艶麗な姿を、婦人正風会の椅子に据えて、弁舌と文章に万丈の気を吐き始めた。  彼女はスバラシイ機智と魅力の持ち主であった。物質的にも精神的にも決して敵を作らなかった。子供のない残生を公共の仕事に使いつくす覚悟だと云い触らしていた。幼稚園や小学校に行って子供を愛撫するのが何よりの楽しみだとも云った。又、実際、彼女はそんな風に見えた。  彼女の事業に共鳴し、彼女の仕事のために奔走する紳士淑女が彼女の周囲に雲集した。彼女の事業を援助する興行物は必ず大入満員を占めた。  新聞や雑誌は争うて彼女の写真や、言葉や、文章を載せた。彼女の見事な筆跡で書いた半切や色紙短冊が飛ぶように地方へ売れた。天下は彼女のために魅了されたと云ってもよかった。世間の評判以上の隠れた評判を彼女は保有していた。  その中に私だけがタッタ一人、彼女に眩惑されなかった。或る不思議な動機から、出来るだけ彼女に遠ざかりながら、出来る限り真剣になって彼女の裏面を探りまわっていた。  その不思議な動機というのは南堂家の図書館に新しく取付けられている煙突であった。  ……事実……私が南堂伯爵未亡人の素行調査にアンナにまで夢中になり始めた、そのソモソモの動機というのは、アノ粗末な、赤煉瓦の煙突に外ならなかったのだ。  大久保百人町附近の人は知っているであろう。  昔風の鉄鋲を打ち並べた堂々たる檜造りの南堂家の正門内には、粗末な米松の貸家がゴチャゴチャと立ち並んでいて、昔のアトカタもなくなっていることを……同時にその裏手へまわってみると正反対に、同家の由緒を語るコンモリした松木立や、ナノミ、樫、椿、桜なぞの混淆林の一部が、高い黒土塀とがっちりした欅造りの潜り門に囲まれて正門内の貸家とも、又は、附近の住宅ともかけ離れた別世界を形づくりつつ昔ながらに取残されていることを……。  ところでその杉木立の中にポツネンと立っている南堂家の図書館というのは、五|間に四間ぐらいの二階建の鉄筋コンクリートに茶褐色のタイル張りで、上等のスレート屋根の下に緑色に塗った鉄のブラインドが並んでいる。全体が耐震耐火のルネッサンス擬いという、故伯爵の凝り性と用心深さを遺憾なく発揮したものであった。  ところが伯爵の死後、玄関と正反対の位置に新たに取付けられた煙突というのは、普通の赤煉瓦を真四角に積み上げたデッカイ、不恰好なものであった。理想化された図書館の様式とは全然調和しないばかりでなく、そのまわりを取囲むコンモリした杉木立の風趣までもブチコワしてしまっていた。まるでどこかの火葬場といった感じであった。  私はズット前から、この煙突の正体を怪しんでいた。……というのは、この煙突が出来てから、一と冬越した翌年の春になっても、煙を吐いた形跡がなかったからであった。  この事実を初めて発見した時には流石の私も首をひねらせられた。往来のマン中に突立ったまま暫くの間、茫然と、その煙突の絶頂の避雷針を見上げていた。その避雷針の上を横切る鱗雲を凝視していたものであった。  しかし、わからないものはイクラ空へ考えてもわからなかった。  図書館にはズット以前から昼間の動力線と瓦斯が引いてあった。同時に石炭やコークスの屑が附近に散らばっていた形跡はミジンもなかったばかりでなく、そんな商人が出入りした事実も未だ曾て発見されなかった。……にも拘わらず石炭を焚く以外には必要のなさそうな赤煉瓦の煙突を、何のために取付けたものであろう。ストーブの火気抜ならば立派な化粧煉瓦と対のものが、玄関に向って右手の室の壁にチャント附いている。又、普通の意味の通気筒ならばモット手軽い、品のいい、理想的のものがイクラでも在る。台所も電気と瓦斯だけで片付けているに違いないのに、何の目的でコンナ殺風景なものをオッ立てたのであろう……なぞと考えれば考える程、私は不思議でたまらなくなって来た。一度室内に忍び込んで、様子を見てやろうか……と思った事も、何度あるかわからなかった。  ところが又、そのうちに一年も経ってその煙突に火の気が通らない証拠に、何とかいう葉の大きい蔓草が、根元の方からグングン這い登り始めた。その蔓草は麹町区内のC国公使館の壁を包んでいるのと同じ外国種の見事なものであったが、生長が馬鹿に早いらしく、二夏ばかり過すうちに絶頂の避雷針の処まで捲き上げてしまって、房々と垂れ下る位になった。すると又それに連れて図書館の外側の手入れが不充分になったらしく、スレート屋根の上にタンポポだのペンペン草だのがチラチラと生え始めた。緑色の鉄のブラインドには赤錆が吹き始めた。それにつれて煙突を登り詰めた蔓草が今度は横に手を伸ばしはじめて、二年も経つうちには殆んど図書館の半分以上を包んでしまった。その上にお庭の立木にも植木屋の手が這入らなくなったらしい。枯れ枝がブラ下ったり、杉の木が傾いたりして、だんだんと廃墟じみた感じをあらわし始めた。  今まで不調和であった煙突が、今度は正反対に建物や立木とよくうつり合って来た。一種のエキゾチックな風趣をさえあらわすようになって来た。恰も、その主人公の心理状態のあるものを自然に象徴しているかのように……。  そんな光景を見過して来るうちに私は、いつの間にか煙突の不思議を忘れてしまっていた。煙の出ないのが当然の事のように思い込んでしまって煙突とは全然無関係としか思えない、ほかのネタを探ることばかりに没頭していた。……思えばこれも不思議な心理作用ではあったが……。  しかも私の頭が一旦、煙突の問題を離れると、彼女の裏面の秘密に関する私の調査がグングン進捗し始めたのは重ね重ねの不思議であった。  私は彼女が、わざわざ遠方から大久保の自邸に呼び寄せているタキシーの番号を一々ノートに控えた。その番号から運転手の名前を探り出して、鼻薬を使いながら未亡人の行先を尋ねてみると、私の着眼が一々的中している事が裏書きされて来た。……のみならず、まだ私の知らない、意外な処に在るスキャンダルの坩堝までも発見する事が出来た。そんな場所は、普通の記者や探偵の眼が届かない高い、奥深い処に隠れているのであったが、そんな方面の秘密に手蔓の多い私にとっては、かえって便利であったばかりでなく、そんな坩堝の中で彼女と熔け合いに来る紳士たちは皆、別に探索する必要を認めないくらい、世間に知れ渡っている顔である事を発見した。  馬鹿馬鹿しい話であるが、私は今更のように東京の広さに呆れさせられた。  そこで私は潮時を見計らって南堂家に出入りしているタッタ一人の家政婦の自宅を突き止めた。膝詰めで買収にかかってみた。  その家政婦の自宅と名前は可哀相な筋合いがあるからここには書かないが、××戦争で死んだ勇士の未亡人であったことは間違いない。その癖に、気の弱い中婆さんで、一人娘の嫁入り先に迷惑をかけたくなかったから……とか何とか涙まじりにクドクドと云い訳をしながら、大久保の自邸に於ける未亡人の乱行と、その時刻と、それから相手を女装して、連れ込むその奇抜巧妙を極めた方法とを、相手の種類と名前がアラカタ見当が付く程度にまで詳細にわたって白状したのは私にとっての大収穫であった。  しかし、まだ何かしら重大な秘密を隠しているらしい恐怖心が、その態度や口ぶりに見え透いていたので、モウ一度その自宅を訪問してネタをタタキ上げるべく心構えをしていると、意外にもその家政婦が突然に行方を晦ましてしまった。キチンと家賃の払いを済ましてどこかへ引越したものらしく、大久保の南堂家へもパッタリと出入りしなくなった。その代りに若い無邪気な小娘が、やはり昼間だけ通勤で南堂家へ通うようになった。  これは、たしかに私の不注意であった。重要な手がかりを探す手がかりが全く絶えた。せめてその一人娘の嫁入り先だけでも聞いておくところであったが……。  しかし一方に伯爵未亡人が案外に手剛いらしいのにも驚いた。これはモウすこし様子を見てシッカリしたところを押えてから火蓋を切った方が有効、かつ安全と思ったので、それから暫くのあいだ躊躇するともなく躊躇していた。  ところが、この家政婦の行方不明をキッカケにして、忘れかけていた煙突問題が、又もや、生き生きと私の頭に蘇って来たから不思議であった。  それは私の第六感というものよりもモット鋭敏な或る神経の判断作用らしく感ぜられた。むろんあの煙突が伯爵の死後に起工されたことも、こうした判断を有力に裏書しているにはいたが……。  しかしこの秘密を具体的に探り出すのはナカナカ容易な仕事でないことが最初からわかり切っていた。探りを入れるにしても大凡の見当を付けてからの事にしなければならないと考えたが、そのアラカタの見当が、なかなか付かなかった。  伯爵家の不動産が担保に這入りかけているという事実を、意外な方面からチラリと聞き出したのは、その頃の事であった。  その話を聞かしてくれたのはC国公使のグラクス君であったが、そう聞いた瞬間に、これは棄てておけないぞ……と私は思った。マゴマゴしているうちに粕を絞らせられるような事になっては堪らぬと気が付いたので、すぐに一通の偽筆、匿名の手紙を書いて、面会の時日を東都日報、中央夕刊の二つに広告しろと云ってやったら、その翌る朝、まだアパートで寝ているうちに、東都日報から……という電話がかかった。  私は慌てて飛び起きて受話器を取上げた。……又事件か……と思って、本能的にイヤな顔をしながら……。 「……オーイ……何だア……」 「……あの……お手紙ありがとう御座いました。今夜の十二時半キッカリに自宅の裏門でお眼にかかりましょう。おわかりになりまして……今夜の十二時半……わたくしの家の裏門……」  という未亡人自身の声がした。そうしてソレッキリ切れてしまった。  私は身内が引締まるのを感じた。  相手は何もかも知っているのだ。……ことによると明日が私の休み日になっている事までも知っているかも知れない。  そう思い思い私は充分の準備と警戒をしてコッソリとアパートを出た。  ……何糞……と冷笑しながら……。  指定された通りに裏門の潜り戸から這入ると、そこいらのベンチに待っていたらしい訪問着姿の未亡人が出迎えた。無言のままシッカリと私の手を握ったので又も緊張させられた。私が時間にキチョウメンな事まで知っているらしい。  しかし恐るる事はない。誘惑するつもりなら、されても構わない。要点だけは一歩も譲らないぞ……と思いながら、夜目にも荒れ果てた庭草の間を手を引かれて行くと、森蔭のジメジメした闇の道伝いに、杉木立の中の図書館の玄関から引っぱり込まれた。そうして燈火も何もつけない短かい廊下を通り抜けると正面の真暗な室のマン中に立たされた。  そこで私の手を離した未亡人が、室の真中まで行って電燈の紐をコチンと引っぱった。  私はアンマリ眩しいので二三度瞬きをした。……が、そのうちにこの家が、私の最初からの予想通り、名ばかりの図書館であることをたしかめた。  すくなくとも私が連れ込まれた室は、南堂伯爵が、生前に寝室にしていたものに相違なかった。そうして伯爵の死後、未亡人が秘密の享楽場としていたものに相違なかった。  ムンムンと蒸れかえる瓦斯仕掛の大暖炉の蘊気と一緒に、早くも彼女の濃厚な化粧と、旺盛な肌の匂いが漂い初めていた。  しかし私は平気であった。入口と正反対側に在るグランド・ピアノの上に外套と帽子を置くと、黒い、薄い、婦人用の絹手袋をはめたまま、おなじように冷静な彼女と向い合って椅子に就いた。  二人は手軽く頭を下げ合って初対面の挨拶をすると同時に、申し合わせたようにスピードアップした会話を、剃刀で切ったように交換し初めた。お互いに双方の顔色の動きに関心し合いながら……。 「お電話ありがとう御座いました。……ほんとにお手数をかけまして済みませんでした。お手紙はお返しいたします」 「……ハ……たしかに……」 「……で……あの新聞の原稿は、お持ちになりまして……」 「相済みません。原稿と申しましたのは嘘です。実は僕のアタマの中に在るんです。原稿にして差上げたって同じ事だと思いましたから……」 「……まあ……では、あの以外にまだ御存じなのですか」 「この間、本国へ帰任したC国公使と貴方との御関係以外にですか」 「ええ」 「そう余計にも存じませんがね。大変に失礼ですけど、故伯爵とお別れになった後の貴女は、非常に皮肉な御生活をお始めになったようですね。婦人正風会長になって日本中の婦人の憧憬を、御一身にお集めになる一面には、あらゆる方法であらゆる紳士方の裏面を御研究になったのですからね。もっとも貴女が研究の対象としてお選びになった方々の全部は、そうした紳士道を心得ている外国人や、秘密行動に慣れた貴顕紳士に限られておりましたので、そんな御研究の内容が今日まで一度も外へ洩れなかった訳ですがね……実は貴女の御聡明に敬服しているのですが」 「ホホホホ。貴方の仰言る資本主義末期の女でしょうよ。……ですけど……よくお調べになりましたのね」  私は相手が意外に早く兜を脱いでくれたので内心ホッとさせられた。同時に、こうした仕事に対する私の「顔」の効果を自認しない訳には行かなかった。 「……僕は……その末期資本主義社会の寄生虫ですからね」 「……まあ……でも、お話と仰言るのは、それだけでしょうか」 「……モット買って頂けるでしょうか」 「……ええ……なにほどでも……チビリチビリだとかえって御面倒じゃないでしょうか」 「……御尤です……では全部纏めまして、おいくら位……」 「貴方の新聞をやめて頂くぐらい……」 「ハハハ。御存じでしたか。それじゃ、すこしお負けしておきましょう。ええと……只今二百五十七号を二千部ほど刷っているところですから、全部、買収して頂くとなれば一万ぐらいお願いしなければならないのです。私としては毎月二百円位の収入がなくなる訳ですからね。しかし何もかも御存じの事ですから、ズットお負けしまして半額の五千円ぐらいでは如何でしょうか」 「それでおよろしいですの」 「結構です」  未亡人は卓子の下からハンドバックを取出して札を勘定し始めた。それを見ながら私は腹案を立てていた。新しい名前で第一号から新聞を発行するには千円もあれば沢山だ。今度は学芸新聞を創刊してインチキ病院や、インチキ興行をイジメてやるかな……それとも全然|河岸を換えて最新式の安アパートでも初めながら、原稿生活を続けてやろうかナ……なぞと……。  そのうちに未亡人は札を数え終った。 「……あの……六千二百円ばかり御座います。ハシタが附きまして失礼ですけど、用意しておいたのですから……」 「……それは……多過ぎます……」 「イイエ。あの失礼ですけど、わたくしの寸志で御座いますから……」 「ありがとう存じます。お約束は固く守ります」  私は思わず頭を下げさせられた。今更に伯爵未亡人の名声が高大な理由を認めない訳に行かなかった。  しかも、こんな場合本能的に、そうした気前を見せる相手の心理状態に、是非とも探り入らずには措かぬ習慣を持っている私のアタマが、この時に限って痲痺したようになっていたのは何故であったろうか。自分でも気付かないうちに未亡人の魔力に毒されていたのであろうか。それとも相手の頭の良さにまいっていたのであろうか。……千円やそこらのお負けにポーッとなるような私ではなかったが……。  ……さもあらばあれ……。  大小|取交ぜた分厚い札束を、いい加減に二分して左右の内ポケットに突込んだ私は、すこし寛いだ気持になった。すすめられるまにまに細巻の金口を取って火を点けた。この際私に危害を加えるような、ヘマな相手でない事がハッキリと直感されたから……。  その間に未亡人は紅茶を入れて来た。そうして自分も細巻を取上げた。 「……では、あの、お伺い出来ますかしら……今のお話と仰言るのを……」 「……あ……お話ししましょう。これはお負けですがね。お負けの方が大きいかも知れませんが……ハハハハ……」 「すみませんね。どうぞ……」 「ほかでもありませんがね。今申しました貴女と古いお識合いのC国公使のグラクス君が、ツイこの間帰任しがけに面白いものを見せてくれたのです。いわば貴女の御不運なんですがね」 「……妾の不運……」 「そうです。貴女はグラクス君が、世界でも有名なミステリー・ハンターという事を御存じなかったでしょう。……ね……そのグラクスが僕に素晴らしいネタを呉れたのです。僕が或る珍しい倶楽部に紹介してやったので、そのお礼の意味で提供してくれたんですがね。お思い当りになりませんか」 「……さあ。それだけではね。ちょっと……」 「そうですか。それじゃ、もうすこしお話してみましょう。つまりグラクスの話によりますと、貴女のような深刻な趣味を持った婦人はどこの国にも一人や二人は居る筈だって云うんです。そうしてその趣味が深刻化して行く経路が皆似ているって云うんです。もちろんその中でも貴女は最も著しい特徴を持った方で、しかも、今では、そうした猟奇趣味の最後の段階まで降りて来ていられるとグラクス君が云うのです」 「……最後の段階って……」 「そうです。その証拠はコレだと云ってグラクスが見せてくれましたのは、白紙に包んだ一掴みの爪だったのです」 「……爪……?……」 「そうなんです。色んな恰好をした少年の爪の切屑なんです。十二三人分もありましたろうか……おわかりになりませんか」 「まあ。そんなものが妾と何の関係が……」  そう云ううちに未亡人は何となく気味わるそうな表情になった。わざと指環をはめないで、化粧だけした両手の指を、これ見よがしに卓子の上に並べながら、ウットリと遠い所に眼を遣った。  私はその視線を追っかけた。冷ややかに笑いながら……。 「そんなにシラをお切りになっちゃ困りますね」  未亡人は私の顔を正視した。 「……わたくし……何も白ばくれてはおりませんが……」 「それじゃ僕から説明して上げましょうか。これでも貴女ぐらいの程度には苦労しているつもりですからね。蛇の道は蛇ですよ」  と叱咤するような口調で云ってみた。実はその爪の屑が、何を意味するものなのか、この時まで全然わからなかったのだから……。  すると果して反応があった。私の顔を穴のあく程みつめていた未亡人の頬に見る見るポーッと紅がさして、眼がこの上もなく美しくキラキラと輝やき初めた。 「ホホホホホ。わかりましたわ。あの家政婦からお聞きになったのでしょう。説明なさらなくともいいのよ。白状して上げるから待ってらっしゃい」  未亡人の言葉つきが急にゾンザイになった。同時に椅子に腰をかけたまま左手をズーッと白くさし伸ばして背後の書物棚から青い液体を充たした酒瓶とグラスを取出した。 「……貴方お一つどう……オホホ……おいや……では妾だけ頂くわ。失礼ですけど……まだ妾の気心がおわかりにならないんですからね。仕方がないわ。よござんすか……よく聞いて頂戴よ」  見る見る雄弁になった未亡人は、深いグラスに注いだ青い液体をゴクゴクと飲み干した。フーッと長い息を吐くと、芳烈な緑色の香気が私の顔を打った。  しかし私は瞬一つしないまま未亡人の顔を凝視した。俄かに変って来たその態度を通じて、告白の内容を予想しながら……。 「……まったく……貴方のお察しの通りなのよ。妾は妾の手にかけた少年たちの爪を取り集めて、向うの机の抽斗しに仕舞っといたのよ。西洋の貴婦人たちが媾曳の時のお守護にするそうですからね。その包みの中のどれか一つをグラクスさんが妾の寝ている間に盗んで行ったのでしょう。妾との関係が切れないようにね。ホホホ」  彼女は又もフーッと青臭い息を私にマトモに吹きかけた。  私は固くなってドキンドキンと胸を躍らせながら……。 「……あたし主人と別れてからこっちというもの時々たまらない憂鬱に襲われることがあるの。あれが妾のヒステリーっていうものかも知れないけど、そのたんびに妾よく男装して方々に活動を見に行ったんですよ。ハンチングを冠ってロイドの色眼鏡をかけて、ニカボカを着るとまるで人相が変るんですからね。帝劇のトーキー披露会で貴方とスレ違ったこともあるわ……御存じなかったでしょう」  私は正直にうなずいた。 「……ね……そうして不良少年らしい顔立ちのいい少年を往来で見付けると、お湯に入れて、頭を苅らして、着物を着せて、ここへ連れて来るのが楽しみで楽しみで仕様がなくなったの……もっとも最初のうちは爪だけ貰うつもりで連れて来たんですけどね。そのうちに少年の方から附き纏って離れなくなってしまうもんですから困ってしまってカルモチンを服ましてやったのです……そうして地下室の古井戸の中から、いい処へ旅立たしてやったんです。ここの地下室の古井戸は随分深い上にピッチリと蓋が出来るようになっていて、息抜きがアノ高い煙突の中へ抜け通っているんです。妾が設計したんですからね。誰にもわからないんですの。……でも貴方にはトウトウわかったのね……ホホホ……モウ随分前からの事ですからかなりの人数になるでしょう……御存じの家政婦も入れてね……ホホホホホ……」  私は見る見る血の気を喪って行く自分自身を自覚した。タマラナイ興奮と、恐怖のために全身ビッショリと生汗を流しながら、身動き一つ出来ずにいた。  これに反して相手は一語一語|毎に、その美くしさを倍加して行った。そうして話し終りながら如何にも誇らしげに立上ると、寝台のクションの間に白い両手を突込んで探りまわしていたが、そのうちに一冊の巨大な緞子張りの画帳をズルズルと引っぱり出した。重たそうに両手で引っ抱えて来て石のように固くなっている私の膝の上にソッと置いて、手ずから表紙を繰りひろげて見せた。  私は正直に白状する。重たい画帳を載せると同時に両方の膝頭がガクガクと戦いているのに気が付いた。画帳を開こうとすると指がわなないて自由にならなかった。話にしか聞いた事のない恐ろしい変態殺人鬼が、現在タッタ今、眼の前に居ることをヤット意識し初めて……その殺人鬼に誘惑されながら、ドウする事も出来なくなっている自分自身を発見して……。  未亡人は、そうした私の傍に突立ったまま嫣然と見下していた。私の意気地なさを冷笑するかのように……私を圧迫して絶対の服従を命ずるかのように……。  私は、そうした妖気に包まれながら、わななく指で左右の手袋の釦をシッカリとかけ直していたように思う。……何故ともなしに……そうして絹本を表装した分厚い画帳を恐る恐る繰り拡げていたように思う。  それは歴史画の巨匠、梅沢狂斎が筆を揮った殷紂、夏桀、暴虐の図集であった。支那風の美人、美少女、美少年が、あらゆる残忍酷烈な刑に処せられて笞打たれ、絞め殺され、焙られ、焼かれ、煮られ、引き裂かれ、又は猛獣の餌食にあたえられて行く凄愴、陰惨を極めた場面の極彩色密画であった。その一枚一枚|毎に息苦しくなってゆくような……それでいて次の頁を開かずにはいられないような……。 「ホホホ。感心なすって……。妾にそうした趣味を教えてくれたのはこの画帳なんですよ。もっとハッキリ云うと亡くなった主人なのよ。……主人は亡くなりがけに、自分が生きている間じゅう許さなかった女の楽しみをスッカリ妾に許して行ったんです。そんなにまで主人は妾を愛していたんですの……ですから妾は、そんな遊戯の真似を、この室でするたんびに、主人の霊魂がどこからか見守っていて、微笑していてくれるような気がしてならないのよ」 「……ウ――ム……」と私は唸った。同時に私の頭の中に高く高く積み重なっていた硝子器の山が一時にガラガラガラッと崩れ落ち始めたような気がした。 「……ね。安心なすったでしょう……ホホホホホこれだけ打ち明けたらモウいいでしょう」  未亡人の声が神様のように高い処から響き落ちて来た。  私はブルブルと身ぶるいをした。  眼をシッカリと閉じた。  画帳の上に突伏した。  それから私がドンナ事をしたか順序を立てて書く事が出来ない。  頭がグラグラするほど酔っていたことを記憶している。  何でもカンでも未亡人の云う通りになっていたことを記憶している。  その中に、ただ一つ酔っ払い式の片意地を張って、左右の手にはめた黒い手袋をドウしても脱がなかったので、未亡人から臆病者とか何とか云って散々に冷かされていた事も忘れていない。  併し最後にトウトウその手袋を脱がされた。そうして、見るからに外国製らしい銀色の十字型の短刀を夫人から渡されると、その冴切った刃尖を頭の上のシャンデリヤに向けながら、大笑いした自分の声を、今でもハッキリと記憶している。 「ハッハッハッハッハッ、これで自殺しろと云うんですか」  私は室の中央に突立ったまま何度も何度も舌なめずりをしていた。そのダラシのない姿が、寝台の上に寝そべっている夫人の姿と重なり合って、室の奥の大鏡にアリアリと映っていた。 「そうじゃないのよ。妾を殺して頂戴って云うのよ」 「……ハハハ……死にたいんですか」 「……ええ……死にたいの」 「……どうして……」 「……だって妾は破産しているんですもの」 「……ヘエ……ホントウですか」 「貴方に上げたのが妾の最後の財産よ。今夜が妾の楽しみのおしまいよ」 「……ウソ……ウソバッカリ……」 「嘘なもんですか。妾は一番おしまいに貴方の手にかかって殺されるつもりでいたのよ。そうして妾の秘密を洗い泄い貴方の筆にかけて頂いて、妾の罪深い生涯を弔って頂こうと思って、そればっかりを楽しみにしていたのよ」 「……アハハハハアハハハハ……」 「イイエ。真剣なのよ。貴方の手がモウ妾の肩にかかって来るか来るかと思って、待ち焦れていたんですよ」 「……フーム……」  私は短刀を片手に提げたまま頭をガックリと傾けた。理窟を考えよう考えようとしたが、自分の両足の下の藍色の絨緞と、その上に散乱した料理や皿の平面が、前後左右にユラリユラリと傾きまわるばっかりで、どうしても考えを纏めることが出来なかった。  私は鏡の中の自分の姿を、眩しいシャンデリヤ越しに振り返ってみた。真白く酔い痴れた顔が大口を開いて笑っていた。 「アッハッハッハッハッ。……よしッ……殺してやろう……」  といううちに私は、短剣を逆手に振り翳しながら、寝台の上に仰臥している未亡人の方へ、よろめきかかって行った。  ぷろふいる誌、九月号所載、甲賀三郎氏の「探偵小説講話」末尾に於て、特に私が文芸通信誌上に書いた「探偵小説の真使命」と称する一文のために「夢野久作君に問う」の一項を設けられたについて御回答申上る事を近頃の欣快とし且つ光栄とするところである。  ところが実を云うと私は「御回答申上る言葉がない」と云う以外に御回答申上る言葉がないのである。それは何故か……。  第一に私の書いた「探偵小説の真使命」は文芸通信社からの註文で書いた、即興的な自己反省の感想文に過ぎないので、ぷろふいる誌の「探偵小説講話」もしくは甲賀三郎氏の御話に対する批難でも反駁でも何でもないつもりで書いたものだからである。  第二に甲賀氏の「夢野久作君に問う」の御議論は、私の自己反省の内容を全面的に否定されているように見えながら、実は全面的に肯定し、支持して居られるものとしか私には考えられないので、そうした意味以外の局部的なお叱りは単に私の無学さと、頭のわるさを指摘して下さった御親切以外の何者でもないとしか思えないからである。  そうして究極するところ、私は無言のまま頭を下げるよりほかに致し方のない事を自省し得たからである。  だから私は、こうした甲賀氏の御親切に対して全面的に御礼を申上げると同時に、探偵小説なるもののために、かく迄も後進の言動を留意し指導して下さる同氏の御熱心に対して茲に謹しんで満腔の敬意を払う次第である。  ――さて――それはそうとして私は今一つぷろふいる誌とその読者諸賢に謝罪しなければならない事がある。それは何か……。  それは何事かと云うと曩に甲賀氏が書かれた「夢野久作君に問う」という一文と、本号の「甲賀三郎氏に答う」と書いた一文を読まれた読者諸賢は、恐らく甲賀氏が私に何を云われ、私が甲賀氏に対して何をお答えしているかという事を理解するに苦しまれたであろう。これは私が本誌上に於て「私は探偵小説なるものをこう考えている」という事を一度も発表さしてもらわなかったせいであると考えている事である。  だから私は、その謝罪の意味で「探偵小説なるものに対する私の素描」をここに更めて御披露させて頂く事にした。      再び「探偵小説の真使命」について  ところで甚だ卑怯な前置であるが、この一文は私の狭い個性を通じて観た「探偵小説に対する信念もしくは偏見」で万人共通のものではないかも知れない。のみならずそれは現在の私の心境で、明日の私の心境ではないかも知れない。のみならず、それは必然的に私が文芸通信誌に書いた「探偵小説の真使命」と同じ内容もしくは、その註釈みたようなものになってしまうべき性質のものではないかとも思うが、しかし、それが万一にも本誌の愛読者諸君のために……特に甲賀三郎氏の「探偵小説講話」を愛読される諸賢のために――「こんな観点も別にあるのだな」とか又は「これは甲賀氏の所論に対する一種の註釈だな」とかいう意味で、一種の新しい参考となり、目下興隆の機運に向いつつある探偵小説界に投ずる一石ともなり得るならば、私にとって絶対の光栄であり欣快とするところである事を思うて、敢えてこの蕪文を続行する次第である事を何よりも先に諒恕して頂きたい。  文芸通信誌上「探偵小説の真使命」の中で私はコンナ事を書いた。  ――自然主義文芸、自由民権思想の行詰まりに続く、探偵小説の行詰まりによって、人類の趣味傾向が遂にドン底を突いてしまった――と――。  これは別に、私が知ったか振りをせずとも、歴史が証明してくれるところである。  個人でも、社会でも、その精神が唯物思想、もしくは虚無思想を根柢とする資本主義文化組織に陥って行くにつれて、その口にしたり発表したりするところが、ますます高尚に、唯心的に向上して行くのとは正反対に、その表面の趣味傾向がグングン低級化して行くのは、争う余地のない厳然たる事実である。古来行われた幾多の革新は、こうした行詰まりを打開し救うべく、そのドン底状態から爆発した一種の自然発火的自爆作用に他ならないので、しかもその結果は、そうした人類の趣味の退化? 動物化? 低級化? を一層深いドン底へと陥るべく役立ちつつ今日に及んで来ている状態は、五・一五事件の当事者ならずとも心ある読史家の斉しく認めているところであろう。  大化の革新、源平の争、応仁の乱の例を引く迄もなく、封建制度が生んだ徳川末期の民心の堕落、唯物思想、虚無思想が生んだ、芝居のトリック化、黄表紙文学、あぶな絵、無残絵等によって象徴された趣味傾向の堕落と、それによって暗示された民心の行き詰まりが、新しい忠君愛国思想と、社会組織を翹望する維新の革命を生んだ事実は、誰しも否定し得ないところであろう。  ところがその明治維新以来、西洋文化の輸入に影響されて、日本人の趣味が一層急劇に低下して来た。以前から忌避され軽蔑されていた肉慾描写や不倫の世相が、自然主義の輸入以来、臆面もなく逆照され初めて、往昔、最低級の芸術として扱われていた作品が、堂々として一般民衆の趣味傾向の王座を占むる事となった。同時に永い間因襲され、伝統されて来た人間道が不合理視され、不自然視されて、禽獣道が合理視され、自然視されるようになった。それは在来、衣裳美を主として描かれていた絵画が、洋画の輸入以来、裸体美を主眼として描かれるようになったのと同じ程度の変化であった。  それが吾々日本人にとって、たしかに新しい傾向であった事は、やはり誰しも否定し得ないところであろう。  ところが又その明治末期から、大正以降に於ける探偵小説の輸入と流行は、そうした傾向を更に低級化し、深刻化した。モット尖鋭な肉慾や、変態心理や、モット露骨な犯罪心理、病的幻覚錯覚に深入りし礼讃する趣味、傾向を日本人に逆照して見せた。そうしてその逆照手段が探偵小説の本格、変格のあらゆる角度に向って急速に分析され、分離され、印象化され、感覚化され、表現化され、構成化され、超現実化され、未来化され、ダダ化され、ユーモア化され、ノンセンス化されて行った。  だから探偵小説は、嘗て流行していた、あらゆる種類の文芸の中から進化し生まれた、より新しい、より深い、より痛い文芸であった。一切の芸術の伝統精神と形式から離脱して、人間の心理を一層深くアケスケに抉り付け、分析し、劇薬化し、毒薬化し、更に進んで原子化し、電子化までして行くための芸術界の鬼っ子であった。芸術の神を冒涜する事を専門とする反逆芸術であった。  昔の芸術は衣裳美の礼讃を以て能事終れりとした。それが更に進んで、その衣裳を剥ぎ取った肉体美の鑑賞を事とする中世芸術にまで進化した。それが現代……すなわち探偵小説時代に入っては更に進んで、その肉体を切裂き、臓腑を引出し、骸骨を寸断し、血液から糞尿まで分析し、検鏡して、その怪奇美、醜悪美を暴露し、戦慄しようとしているのである。  探偵小説の使命はそこに生まれた。探偵小説の真使命はここに在った。本格と変格、いずれの名に於てもここ以外になかった。  こうした趣味、傾向は科学を愛好する人間の趣味、傾向、もしくはモット大きい本能と一致している。  科学は、すべての尊といもの、美しいもの、不可思議なものを信じなかった。就中、神によって作られた宇宙万有の美しさと不可思議さを絶対に信じなかった。その神秘をドン底まで探偵して、電子の作用に過ぎない事を計数の上で嘲笑し、その信仰心理を徹底的に分析して、|+-0式な利己人の表現に過ぎないと喝破し、一切の美を醜悪な、又は単純無趣味な、直線、もしくは曲線にまで分解し、罵倒しつくした。宗教は阿片である。芸術は自涜である。恋愛は性欲以外の何者でもないとまで弁証して痛快がるに到った。  この故に古来の幾多の科学者――近代文明の創設者は皆、神と道徳に反逆するところの、恐るべき探偵趣味の所有者であった。従ってその発表するところの論文は皆、最も実際的な探偵趣味の発露であり、その作り出すところの薬品と器械は皆、神と自然とを破壊し嘲罵するところの犯罪用具そのものであった。  この故にコペルニクスの探偵趣味は生命がけの地動説を発表して聖書のインチキを曝露し、羅馬法王を狼狽、震駭させた。この故にニュートンの探偵趣味は一個の林檎から万有引力の緒を掴んで、大宇宙の神秘をペン先に飜弄しつくして、まだ見ぬ海王星の存在を海王星自身に立証させた。この故に名探偵ダーウィンと、ウォーレスは同時に万有進化の原則を看破し、「人間は猿の子孫である。神の後裔ではない」と結論して、全人類をガッカリさせた。  この故にこの千古不滅の探偵本能を、科学が生むところの社会機構に働きかけさせ、この無良心無恥な、唯物功利道徳が生むところの社会悪に向って潜入させ、その怪奇美、醜悪美を掲出し、そのグロ味、エロ味の変態美を凄動させ、その結論として、その最深部に潜在する良心、純情をドン底まで戦慄させ、驚駭させ、失神させなければ満足しない芸術を探偵小説と名付けられる事になったのである。  この故に探偵小説は現在の如く、ほかの芸術のアパートに間借りして、小さくなって生活すべき性質のものでない。近い将来に於て、過去の一切の芸術を圧倒し、圧殺して、芸術の全アパートを占有し、奔放自在に荒れまわるであろうところの最も新しい芸術の萌芽でなければならぬ。あらゆる虚栄と虚飾に傲る功利道徳と科学文化の荘儼……燦爛として眼を眩ます科学文化の外観を掻き破って、そのドン底に萎縮し藻掻いている小さな虫のような人間性……在るか無いかわからない超顕微鏡的な良心を絶大の恐怖、戦慄にまで曝露して行くその痛快味、深刻味、凄惨味を心ゆくまで玩味させるところの最も大衆的な読物でなければならぬ。  この故に探偵小説は人類の思想傾向が、囚われる唯心文化から囚われざる唯物文化に進化し、更に又、囚われたる唯物文化から、囚われざる唯心文化へ反転して行く過渡時代の痛々しい内省心理の産物でなければならぬ。だからこの意味から見て、私が述べた「人類の趣味の低下」は、取りも直さずその向上の前提となって来なければならぬ事になるのである。  ぷろふいるの支持者諸君。愛読者諸君よ。疑懼し、躊躇するところは絶対にない。本格、変格の名にこだわって、前後を見まわす必要は断じてない。  すべては探偵小説である。本格、変格の名は単なる説明上の便宜のために附けられたものに過ぎない。すべてを忘れて、この最新、最大の芸術のために精進し、自省し、発表されたい。全人類の芸術を革命されたい。  現代の探偵小説は、まだそこまで突込み得ていないようである。吾々の態度が又、そこまで自省し、徹底していないために、探偵小説の本来の使命を見失い、どうしていいかわからないまま、お互に議論し、足を踏み合い、鉢合わせ合い、間誤間誤しているに過ぎないようである。近頃叫ばれている「探偵小説の行詰まり」もしくは「不振」は、そうしたイデオロギーの不徹底、もしくは全人類の自己反省の不足から来ている事を私は信じて疑わないものである。  但、文芸通信誌上で私は「探偵小説が文芸であるかどうかは責任を負う限りでない」と明言しているが、これは謹んでこの項の中から撤回する。  探偵小説は、小説と名乗る以上どこまでも文芸でなければならぬ。とはいえ在来の文芸上の約束に拘泥する必要は一つもない。  その点に於て探偵小説は、その出発点から絶対の自由を確保していると思う。    材木の間から      ―― 1 ――  飯田町附近の材木置場の中に板が一面に立て並べてあった。イナセな仕事着を着た若い者三平はその板をアチコチと並べ直しながらしきりにコワイロを使い、時には変な身ぶりを交ぜた。三平は芝居気違いであった。  三平はふと耳を澄ました。材木の間から向うをのぞいたが、忽ち眼を丸くして舌をダラリと出した。  インバネスに中折れの苦味走った男と下町風のハイカラな娘が材木の積み重なった間で話しをしている。  三平は耳を板の間に押し込んだ。  …………  じゃ今夜飯田町から……  終列車……  エ……  ここで待っててネ……  妾がお金を盗み出して来るから……  二千円位あってよ……  …………  三平はビックリして又のぞいた。  …………  …………  娘は立ち去った。  あとを見送った男は舌なめずりをしながらあたりを見まわした。凄い顔をしてニヤリと笑った。  三平は材木の隙間から飛び退いた。そこをジッと睨んで腕を組んだ。そのまま鳥打を眉深に冠り直して材木の間を右に左に抜けて往来に出た。キョロキョロと見まわした。  往来は日が暮れかかっていた。  はるか向うに今のハイカラ娘が行く。  三平はあとを追っかけた。近くなると見えかくれに随いて行った。      ―― 2 ――  女はガードを潜って水道橋を渡って築土八幡の近くのとある横路地を這入った。三平も続いて這入った。  娘は突当りの小格子を開けて中に這入った。小格子の前には「質屋」と看板が掛かっていた。  三平はその前に立ってあたりを見まわした。  小格子の中から禿頭のおやじが出て来た。三平を見るとウロン臭そうに睨んだ。  三平は思切って鳥打帽を脱いでお辞儀をした。  失礼ですが……  今お帰りになったのは……  お宅のお嬢様ですか……  禿頭はだまって三平を見上げ見下した。ギョロリと眼を光らした。  そうです……  私の娘です……  何か御用ですか……  三平はホッと胸を撫で下した。  ああ助かった……  やっと安心した……  禿頭は呆れた。三平の様子を穴のあく程見た。  三平は禿頭の顔を見た。急に声を落して眼を円くして云った。  タ大変ですぜ……  お嬢さんはね……  どっかの男と……  今夜駈け落ちの相談を……  三平は突き飛ばされて尻餅を搗いた。  禿頭は睨み付けた。  馬鹿野郎……  あっちへ行け……  三平は禿頭の見幕に驚いた。起き上りながらあと退りをした。娘が小格子から顔を出した。  三平は慌てて逃げ出した。      ―― 3 ――  三平は考え考え歩いた。フト頭を上げると警察の前に来ていた。暫く立ち止まって考えていたが思い切って中に這入った。  警官が二三人かたまってあくびをしていた。三平が這入って来ると肘とお尻にベッタリくっ付いた泥に眼を付けた。  三平はヒョコヒョコお辞儀をしながら事情を話した。  どうぞ娘を助けてやって下さい……  警官は三人共ニヤニヤ笑った。  一人の警官は煙草に火を点けた。  今一人の警官は鬚を撫でながら三平に云った。  よしよし……  わかったわかった……  安心して帰れ……  三平は張り合い抜けがしたように三人の警官の顔を見まわした。シオシオとうなだれて出て行った。  三平を見送った警官は顔を見合せてドッと笑い崩れた。      ―― 4 ――  三平は真暗になってから材木問屋へ帰った。  親方は三平を見るとイキナリ怒鳴り付けた。  どこへ行ってやがったんだ……  間抜けめ……  芝居気狂いもてえげえにしろ……  三平は一縮みになった。お神さんからあてがわれた御飯を掻っ込むとすぐに二階へ上った。煎餅布団を敷いて頭からもぐり込んだ。      ―― 5 ――  三平は布団から顔を出して見まわした。仲間は皆寝静まっている。  三平は起き上って帯を締め直した。押入から鳶口を持ち出しかけたが又|仕舞い込んだ。腕を組んで考えたがポンと手を打ち合わせた。ソロリソロリと二階を降りた。  三平はあたりを見まわし見まわし足音を忍ばして茶の間に忍び込んだ。箪笥の抽出しを開いてお神さんの着物を盗み出した。それから湯殿へ行って電気をひねった。  三平は鏡をのぞきながらそこにあるお白粉を真白に塗り付けた。黛で眉と生え際を塗った。お神さんの着物を着て帯を締めた。次にスキ毛を頭に載せて手拭いを冠った。女中の下駄を穿いて裏口へ出てあとをピッタリと締めた。  三平は風呂場の裏にまわって積んである煉瓦を一ツ取り上げた。そこに干してある越中褌で包んで紐でグルグル巻きにして袖の間に抱え込んだ。材木の間を通って最前の男と女が話していた処へ来てシャガンだ。ギョロリギョロリと見まわした。  最前の質屋の娘が来かかったが三平の姿をすかして見ると急に物蔭に隠れた。      ―― 6 ――  質屋の娘が隠れたのと反対の方から鳥打にインバネスを着た男が近付いて来た。暗をすかして三平を見ると近寄った。  三平はシナを作って近寄った。  のぞいていた娘はハンケチをビリビリと喰い裂いた。  男はあたりを見まわした。右手でソッと短刀を抜きながら左手を三平の肩にかけて顔をのぞき込んだ。  お金は……  三平は左手で煉瓦の包みをさし出した。  男は受け取りかけてビックリして手を引いた。  三平は平手で男の横っ面を打った。  男は飛び退いて短刀をふり上げた。  三平は煉瓦で、男は短刀で立廻りを初めた。  娘は仰天して駈け出した。  三平は煉瓦を投げると男の胸に当った。  男は引っくり返った。  三平は馬乗りになった。短刀を奪って投げ棄てた。  男は下からはね返した。  上になり下になり揉み合ったあげく三平は組み伏せられて咽喉を絞め上げられた。  ヒ……人殺し……  男は短刀を拾おうとした。  三平は拾わせまいとした。声を限りに叫んだ。  泥棒……人殺しッ……  男は三平を突き放して逃げようとした。  三平は帯を引っぱって武者振り付いた。  材木屋の若い者が大勢飛び出して来て二人を取り巻いた。  三平は叫んだ。  おれあ三平だ……  こいつが泥棒だ……  若い者が二三人男に飛び付いた。散々になぐり付けた。  警官が質屋の娘と一所に駈け付けた。  警官は三平の顔に懐中電燈をつき付けた。  何だ……最前の気狂いじゃないか……  三平は腕まくりをした。奮然と詰め寄った。  何が気違いだ……憚んながら……  親方が三平を遮って警官にお辞儀をした。  若い者が警官に男を引き渡した。  警官は男に手錠をかけて短刀と煉瓦を拾った。親方と娘と三平を連れて警察に帰った。      ―― 7 ――  警察に駈け込んで来た質屋の親仁の禿頭は娘の顔を見ると泣いて喜んだ。手錠をかけられた男を見ると掴みかかろうとした。  親方は遮り止めて事情を話した。  禿頭は三平を伏し拝んだ。娘を三平の前に連れて来て礼を云わせた。  娘はチョッと色眼を使って三平の前に三ツ指を突いた。  三平は変梃な身ぶりで礼を返した。  親方と警官は腮を撫でた。  手錠をかけられた男は恐ろしく面を膨らした。    光明か暗黒か      ―― 1 ――  眼科の開業医丸山養策は数年前妻を喪ってから独身で暮して、一人娘の音絵にあらゆる愛を注いだ。  音絵は当年十九歳で女学校を優等の成績で卒業し、女一通りの事は何くれとなくたしなんでいたが、わけても箏曲を死ぬ程好いていた。  音絵の琴の師匠は歌寿と呼ぶ瞽女の独り者であった。歌寿は彼女の天才をこの上もなく愛して、「歌寿」と彫った秘蔵の爪を譲り与えて丹精を籠めて仕込んだが、いよいよ秘伝を授けるという段になって歌寿は重い喘息に罹った。  音絵は親身になって心配した。毎日家事のすきまを見ては程近い歌寿の家を訪ねて介抱してやった。ところが不思議な事には音絵が親切にしてやればやるほど、歌寿は悲しそうな淋しげな表情になるのであった。時折りは涙さえ流した。  音絵は不審に思い思いした。      ―― 2 ――  音絵は相弟子でよく歌寿に尺八を合わせてもらいに来る赤島哲也という青年が居た。富豪赤島鉄平の長男で大学生であったが不成績で落第ばかりしていた。その代り尺八はかなり吹ける方で自分では非常な天才のつもりでいた。  哲也は師匠歌寿が秘蔵の名器「玉山」を是非譲ってくれと頼んだが歌寿は亡夫の形見だからと断った。  無理に譲り受けると、大自慢で他人に見せびらかした。  哲也は又かねてから音絵をねらっていた。  歌寿が病気になってからもしきりにやって来て親切ぶりを見せ、音絵と出会うのを楽しみにしていた。  音絵はいつも哲也の顔を見るとすぐに逃げ帰った。  哲也の思いは弥々増した。とうとう我慢し切れなくなって父親の鉄平に「是非音絵を貰って下さい」とせがんだ。  鉄平は「まあ学校から先に卒業しろ」とはね付けた。      ―― 3 ――  ある日、丸山養策が往診の留守中の事であった。  大きな空色の眼鏡をかけた、見すぼらしい青年が杖で探り探り丸山家の表玄関に這入って来て尺八を吹き初めた。  音絵は聞き惚れた。青年が帰ろうとすると女中に云い付けお金を遣って引き止めた。  表門から俥に乗った養策が帰って来てこの青年を見ると懐中から金を遣って立ち去らせた。  出迎えた音絵は今の乞食青年が世に珍しい尺八の名手である事を父に告げた。「あのまま乞食をさせておくのは、ほんとに惜しい事」とまで云った。  養策はすぐに女中に命じて乞食青年を呼び返させて、勝手口にまわして茶を与えて、自身に親しく身の上を問い訊した。  青年は赤面して再三辞退したが遂に竹林武丸と名乗った。 「父は尺八、母は琴の名手であったが十九の年に死に別れ、自身も盲目となってこの姿」と涙を押し拭うた。  養策は憐れを催おした。その眼を一度|診てやるから明日改めて出て来いと十円の金を与えた。  武丸は土間にひれ伏して涙にむせんだ。      ―― 4 ――  翌朝武丸は質素な身なりを整えて来た。  養策はその眼を診察して「これは梅毒から来たものだ。家伝の秘法にかけたら治るかも知れぬから毎日通ってみろ」と云った。  武丸は喜び且つ感謝した。そうして「どなたか存じませぬがお宅においでになる尺八のお好きな方に、お礼のため、毎日尺八を一曲|宛吹いてお聴かせ申したい」と云った。  養策は苦笑した。「実は自分の亡くなった妻が好きだったので尺八を吹くものが来ると引き止める事にしているのだ」と胡麻化した。 「それではその御霊前で吹かして頂けますまいか」と思い込んだ体で武丸が云うので養策はしかたなしに武丸を仏間に案内した。  武丸はそれから毎日診察に来る度毎に仏前に来て、名曲や難曲を一つ宛吹いて行った。  音絵は毎日蔭から聴き惚れていた。その中に心の奥底まで武丸の妙技に魅入られて来た。      ―― 5 ――  大学生の赤島哲也は遊蕩三昧をするようになった。  以前、赤島家の書生であった警察署長の津留木万吾は忠義立てに哲也を捕まえて手強く諫言すると「音絵を貰ってくれぬから自暴糞になったんだ」という返事であった。  津留木は飲み込んで父の鉄平にこの旨を談判した。  鉄平は「じゃ君に任せよう」と淋しく笑った。  津留木は平服で丸山家を訪れた。  養策が会ってみると「音絵を哲也の嫁に」という相談であった。  養策は「親戚とも相談したいから」と返事を待ってもらった。  署長は養策に送られて玄関まで来ると「どうぞ御都合のいい御返事をお待ちしております」と繰り返して云った。  竹林武丸が外に立ってきいていた。  引き返して来た養策は奥の間に音絵を呼んで「良縁と思うがどうだ」ときいた。  音絵は「お言葉に反きたくはありませんがあの方ばかりは」と断った。  養策はすこし不機嫌で「それでは外に考えでもあるのか」と問うた。  音絵は「考えさして下さい」と逃げた。      ―― 6 ――  この頃から巧妙な窃盗が横行して所の警察を悩まし初めた。その賊は頗る大胆でどこへ這入るにも空色の眼鏡をかけているという事が新聞に出た。  音絵はその新聞を見ると武丸の眼鏡を思い出して怪しく胸が騒いだ。しかし真逆と思いつつ幾日か過した。      ―― 7 ――  赤島家に賊が這入って大金を奪い、且つ名器「玉山」を掠め去った事が新聞に洩れて仰々しく書き立てられた。  津留木署長は青眼鏡の賊の捜索を担任している戸塚警部に全力を挙げるべく命じた。      ―― 8 ――  或る日武丸の眼を診察した養策は「もういくらか見えはせぬか」と問うた。  武丸は淋しく笑って頭を振った。  養策は妙な顔をした。  武丸はそのまま丸山家の仏間に案内された。  仏壇にお茶を上げに来た音絵はあやまって茶碗を武丸の前に取り落した。  武丸は思わず身を退いて転がりかけた茶碗を起したがハッと気が付いて微笑しつつ音絵の顔を見上げた。  武丸の活き活きした眼と眼を見交した音絵は驚きふるえつつ次の間に退いた。  あとを見送った武丸は真面目な表情になった。仏前に茶碗を直し、畳の濡れたところをハンケチで拭いて尺八を取り出し、秘曲中の秘曲「雪」を吹き初めた。その調子はいつもとまるで違って美しく清らかであった。  音絵は襖の間からそっとのぞいて見た。  尺八に金文字で「玉山」と書いてあった。  音絵はハッと袖を顔に当てた。声を忍んで泣いた。泣きながら耳を傾けた。      ―― 9 ――  武丸はこの時限り姿を見せなくなった。  音絵は鬱々と暮した。  養策は腕を組んで考えた。      ―― 10 ――  歌寿は喘息が落ち付いたので、見舞いに来た音絵に秘曲の「雪」を教え初めたが間もなく中止した。「だれにこの秘曲をお習いになりましたか」とすこし顔色をかえてきいた。  音絵はハッとしたが「誰れにも習いませぬ」と云い切った。  歌寿は急きこんだ。「今の位取りは初めてとは思われませぬ」と押し返して詰り問うた。  音絵はどうしても「習いませぬ」と云い張って急に泣き伏してしまった。  歌寿は慌てて詫びたりいたわったりしたが音絵はなかなか泣き止まなかった。歌寿はとうとうもてあましてしまって、稽古を延ばして音絵を帰らせた。  名器「玉山」を盗まれた哲也は茫然と歌寿の家にやって来てたが帰って行く音絵の姿を見ると、歌寿に「音絵を取り持ってくれ」と頼み入った。  歌寿は「ともかくもお嬢さんのお心をきいてみましょう」と逃げた。  哲也は更に「雪」を教えてくれとせがんだ。  歌寿は不承不承に教え初めたが又中止して「玉山はどうなさいましたか」と尋ねた。  哲也は青眼鏡の賊に盗まれたと答えた。  歌寿は嘆息して涙を流した。あの竹でなくて「雪」の趣は吹けないと云った。  表で立ち聞きをしていた音絵はホッとため息をして去った。  哲也は失望して帰った。 「尺八の名器玉山を発見したものには金一千円を与える」という広告が間もなく赤島家の名で新聞に掲載された。      ―― 11 ――  その夜養策が外出の留守中、音絵は独で「雪」を弾いていた。  すると誰とも知れず表を尺八で合せて行くものがあった。  音絵は琴を弾きさしたまま表に駈け出したがもうそれらしい人影はなかった。音絵はしおしおと家に這入った。  物蔭から竹林武丸が現れて、音絵の落した琴の爪を拾い、軒燈の光りに照して「歌寿」という文字を見るとハッと驚いてあたりを見まわした。押し頂いて懐中して去った。  音絵はそれから琴を弾かなくなった。何故となく床に就き養策は限りなく心配した。      ―― 12 ――  或る夜歌寿の家に忍び込んで、歌寿の枕元に札の束の包みを置いて行ったものがあった。歌寿は不審がった。夜になると僅かな音にも眼を覚ました。それでも、その後度々の金包が彼女の枕元に置かれた。歌寿はその金に少しも手を附けずに寝床の下に隠した。      ―― 13 ――  月の冴え渡った冬の深夜であった。  音絵の住む家から一町ばかりのとある四辻に一台の自動車が止まった。中から和服の紳士風の竹林武丸が現れて音絵の家に近寄り、尺八を取り出して「残月」を吹き始めた。  しかし音絵は出て来なかった。  武丸は尺八を仕舞って塀を乗り越えて、音絵の寝室に忍び入った。  音絵と看護婦は熟睡していた。その枕元に睡眠薬と手筥があった。  武丸は懐中から手紙を取り出して手筥に入れようとすると、中から琴の爪筥と「青眼鏡の賊」の記事を載せた新聞の切れ端が出て来た。  武丸はハッと驚いた。あたりを見廻して腕を組んで考えたが何か二三度うなずいて手紙を仕舞い、懐中から魔睡剤を取り出して二人の女に嗅がせ初めた。      ―― 14 ――  音絵は夢を見ていた……武丸と連れ立って雪の中を果てしもなくさまようていた……がふと気が付くと自動車の中で、武丸に抱かれて知らぬ野道を走っていた。  これはと驚く音絵を武丸は押し鎮めた。  青い眼鏡を見た音絵は一切を覚った。武丸の膝に泣き伏した。  武丸はその背を撫でて「何事も因縁です。因縁は運命よりも何よりも貴いものです」と云った。  音絵は泣きながらうなずいた。  武丸は盗んで来た音絵の晴れ着と化粧道具でその姿を改めさせ、自分は老人に変装した。      ―― 15 ――  自動車は鶴屋という温泉宿に着いた。  武丸は運転手に「オトエハタケマルトトモニブジ」と書いた電報を渡して「帰って夜が明けたらすぐに打て」と命じて多額の口止め金を与えた。  宿屋にも充分の心付けをして「当分娘と共に厄介になるから」と最上等の室へ案内させた。  室に通ると音絵は武丸に「又父に会われましょうか」と問うた。  武丸は自分の胸を打って事もなげに微笑した。  音絵は元気が出て久し振り湯に入った。      ―― 16 ――  音絵の家は大騒ぎになった。狂気のような養策、泣き伏す看護婦、警察の人々、親類縁者、近所の人々、診察に来る患者などがゴッタ返した。  戸塚警部は音絵の手筥に秘められた琴の爪が一つ足りない事と、その下に敷いてある新聞に「青眼鏡の賊」の記事が載っている事を発見して腕を組んだ。それから間もなく家の外まわりの土塀の蔭に落ちている紙包みを拾って見ると、中から不足している琴の爪を発見した。手筥の指紋、賊の足跡等が次から次へ調べられた。  戸塚警部は養策に琴の爪を示して一つ離れている理由を問うた。  養策は空しく頭を振った。  戸塚警部は歌寿を訪うて同じように琴の爪を示した。  歌寿は渡された爪を手で探って見て「これは私がお嬢様に差し上げたもの」と云った。  戸塚警部はうなずいた。「それではそのお嬢様に秘密の愛人がある事を聴かなかったか」ときいた。  歌寿は屹となった。「隠し男を持つようなお嬢様ではありません」と云った。  戸塚警部は首をひねって去った。  その立ち去る足音を聞き澄ました歌寿は裏表の戸締りを厳重にして、寝床の下から札の束の包みを出し火鉢に入れて焼き初めた。涙が止め度なく流れた。  歌寿の弟子で養策の治療を受けている一人の男が、音絵の失踪を知らせに来たが、表戸が閉まって中から煙が洩れて来るのでいよいよ驚いて表戸をたたき離して飛び込んで来た。  見ると火鉢の中で札の束が燻っているので仰天して、抓み出そうとして焼けどをした。  歌寿は烈しく咽び入った。      ―― 17 ――  温泉宿鶴屋を出た自動車の運転手は帰る途中で泥酔して人を轢いた。警察に引っぱられて調べられると一切を白状して武丸からことづかった電報を見せた。  戸塚警部とその部下を載せた自動車が間もなく警察の門を出た。雪を衝いて暁の野をヒタ走りに鶴屋の門前に乗り付けた。武丸と音絵はしかしもう居なかった。  戸塚警部はすぐにそこの警察に駈け付けて助力を乞い、二手に別れて雪の国道に自動車を馳せた。  戸塚警部の自動車は山道にかかった。  はるかの岨道を乞食|体の盲目の男と手引女が行くのが見えた。自動車は追い迫った。  乞食夫婦が道の傍に避けると自動車はピタリと止った。中から戸塚警部が現われて乞食男の青い眼鏡を奪った。  二人は睨み合った。  女のうしろから近寄った一人の刑事が、女を不意に雪の中に引きずりたおした。  男は唇を噛んだ。突然懐中から拳銃を出して一発の下に女を射ちたおした。自分も自殺しようとした。  戸塚警部はその拳銃をたたき落して組み付いた。  男は警部を投げ付けておいて崖の上から身を躍らした。  戸塚警部が崖の下に駈け付けた時にはもう人影はなかった。しかし草の葉に数滴の血のしたたりと、雪の上を林の奥へ続いた足跡が残っていた。  戸塚警部はあとを逐うた。      ―― 18 ――  その夜頭に繃帯をした武丸は歌寿の家の前に立って「鶴の巣籠り」を吹いた。  歌寿は病の床から起き上って戸を開いた。  武丸は転がるように中に這入ってあとを閉し「お母さん」と縋り付いた。  歌寿は泣き且つ怒った。「勘当をされても手癖がなおらぬ上に大恩ある家のお嬢様を盗むは何事だ」と責めた。 「どうしてそれを御存じ!」と武丸は驚いた。 「知らいでなるものか。お嬢様をかえせ」と歌寿は責めた。  武丸はひれ伏して泣きに泣いた。  そこへ大勢の警官が踏み込んだ。  武丸は巧みに逃れた。  歌寿は失神したまま息を引き取った。      ―― 19 ――  糸川家に音絵の屍体が到着した。  養策はその屍体を見ると泣き倒おれて、奥の一室に連れ込まれた。人々は慰めかねた。  僧侶が来て読経したあと悲しい通夜が行われた。哲也も音絵の相弟子として列席した。  夜更けて幌を深く下した人力車が玄関に着いた。中から羽織袴の竹林武丸が威儀正しく現われて、案内なしに座敷に通り一同に会釈して霊前に近付き、礼拝を遂げて香を焚き、懐中から名器「玉山」を取り出して「罌子の花」を吹奏し初めた。  通夜の人々は初め驚いたが、間もなくその妙音に魅せられてしまった。  哲也は武丸の持つ尺八を見ると青くなって座敷を辷り出してどこへか急いで行った。 「罌子の花」を吹き終った武丸は尺八を霊前に捧げ、音絵の枕元に進み寄り、死に顔を見て黙祷し涙に掻き暮れた。  狂人の表情になった養策が奥から出て来た。突立ったままこの光景を見下した。  武丸は養策を見ると手を合せてひれ伏した。そのまま血を吐いて死んだ。  哲也は戸塚警部を同伴して来た。  戸塚警部は頭に繃帯をした武丸を見るとツカツカと近寄って引き起したが、忌々しそうに突き転ばした。  養策が高らかに笑い出した。    なまけものの恋      ―― 1 ――  作良徳市は夢を見ていた。  ……富豪の両親が一人子の彼をこの上なく愛し育てているところ……  ……彼が貰い立ての高等商業の卒業免状を家中に見せまわって祝福を受けているところ……  ……震災で両親を喪うと同時に莫大な遺産を受け継いで喜びと悲しみとに面喰っているところ……  ……彼が放蕩を初めているところ……  ……親戚や朋友の忠告をはねつけているところ……  ……とうとう一文無しになって馴染の女の処へ無心に行き愛想尽かしを喰って追い出されているところ……  ……自棄酒を飲んでますます落ちぶれて行くところ……  そんな夢を次から次へ見ている最中に徳市はお尻の処を強く蹴られて眼を覚ました。  彼は穢ない仕事着を着て石の上に腰をかけていた。前には人夫頭の吉が恐ろしい顔をして立っていた。徳市は眼をこすった。  吉は徳市の尻を今一つ強く蹴った。   又なまけていやがる……   早く仕事をしないか……  徳市は不承不承に立ち上った。道路工事の水揚ポンプの柄につかまった。      ―― 2 ――  吉は仕事を仕舞って帰って行く人夫の群れを見送った。  徳市は吉の前に進み寄った。帽子を脱いでペコペコした。   済みませんが給金をすこし……  吉は彼を押し飛ばした。   間抜けめ……   貴様みたいな奴は喰わしておくだけでも損が立つんだ……  吉はそのままスタスタと去った。  徳市はうなだれて合宿の方へ歩いた。途中のバアの前で何度も立ち止まったが、懐へ手を入れると諦めて歩き出した。      ―― 3 ――  徳市はとある淋しい横町を通りかかった。  立派な紳士が一人徳市のうしろから現れた。徳市の様子に眼をつけるとツカツカと近寄って肩に手をかけた。  徳市は立ち止ってふり返った。  紳士はニコニコして云った。   若いの……   一寸そこまで来ないか……   うまい仕事があるんだが……  徳市は帽子を脱いだ。オズオズしながら云った。   どんな御用ですか旦那……  紳士は又ニッコリした。   今夜十二時迄……   君の身体を借してくれれば……   十円上げるがどうだね……  徳市は妙な顔をした。しかし又思い直した。決心したらしくお辞儀をした。   お伴しましょう……  紳士はうなずいた。ポケットから煙草を出して徳市にすすめた。マッチを擦って徳市のにつけてやり自分も吸い付けると、先に立ってあるき初めた。  徳市も従いて行った――横町から――横町へ――      ―― 4 ――  紳士はとある路地の入口で立ち止まった。その角の家の硝子扉を押してふり返った。  徳市はその家の小さな表札を見た。  ┌────────┐  │ 津島貿易商会 │  └────────┘  紳士は眼くばせをして中に這入った。  徳市も這入った。中は立派な事務室であった。  紳士は手ずから瓦斯ストーブに火をつけて電気をひねった。その前の椅子に徳市を坐らせて差し向いになった。机の上の呼び鈴を押した。  次の室へ通ずる入り口から眼の覚めるような美人が現れた。愛想よく叮嚀に徳市にお辞儀をした。   いらっしゃいませ……  徳市は慌てて礼を返した。  美人は戸棚の内からウイスキーの瓶とコップを取り出して、二人の中に並べてなみなみと注いだ。  徳市はお辞儀しいしい吸い付いた。  紳士も一息に干した。  美人は又一杯注いで叮嚀に徳市に一礼して次の間へ去った。  紳士は溢るるばかりの愛嬌を見せて徳市に云った。   承知してくれるでしょうね……  徳市は飲みさして顔を上げた。口を拭いて真面目な顔になった。肩で息をしながら云った。   どんな仕事でしょうか……  紳士はますますニコニコした。ますます叮嚀に云った。   何でもないんです……   今夜十二時迄僕の云う通りになるのです……   御承知なら唯今十円差し上げます……   成功すれば百円差し上げるという証文を添えて……   どうです……  徳市はすっかり酔ってしまった。ワクワクフラフラしながらうなずいた。  紳士はポケットからボロボロの十円札を一枚と証文のようなものを出して徳市の前に置いた。  徳市は受け取って証文の署名を見た。  ――浪越憲作――  紳士――憲作は念を押すように云った。   よろしいですね……  徳市はうなずいて証文と十円札を懐に仕舞った。すぐにコップに手をかけた。  憲作はニコニコして酌をしながら半分真面目に云った。   人間は働らかねば駄目です……  徳市は眼をつむってグ――ッと飲み干した。  憲作は呼鈴を鳴らした。  美人が出て来た。  二人は眼くばせをし合って徳市を奥へ案内した。      ―― 5 ――  徳市は酔った眼であたりを見まわした。美事な洗面台や化粧台、バスなぞが眼に付いた。  憲作と美人はヨロヨロする徳市を捕まえて腰を掛けさせた。  徳市はフラフラ眠り初めた。  憲作は徳市の頭を鋏でハイカラに苅り上げた。  美人は徳市の髭と襟を綺麗に剃った。  二人していつの間にかねむっている徳市をゆり起し、顔や手足を洗わせ、着物を脱がせて身体を拭い上げ、美事な背広や中折や靴やオーバーを与えて立派な紳士に作り上げた。そうして二階へ連れ上げた。  徳市はやっと眼をさました。そこは立派な居間で真中の机に洋食弁当の出前が二つと西洋酒の瓶が二三本並んでいた。  憲作は美人を徳市に紹介した。   僕の家内の美津子です……  徳市は夢に夢見るようにお辞儀をした。しきりに洋服の着工合を直した。しかし眼の前に御馳走を並べられると真剣に喰い付いた。  憲作と美津子は顔を見合わせて笑った。      ―― 6 ――  憲作は徳市を連れて二三町往来を歩いた。  徳市は酔って満腹して紳士になって夢心地でついて行った。  憲作は辻待自動車を呼んで二人で乗って、東京第一の宝石店王冠堂へ来た。自動車を表に待たしたまま中に這入った。  憲作は入口の処で徳市に云った。   何でも黙って……   うなずいているのですよ……  徳市はわけもなくうなずいた。  憲作は帳場の方へ行った。  徳市は店の鏡にうつった自分の姿を見てハタと立ち止まった。……素晴しい若紳士……日に焼けた……骨格の逞ましい堂々たる最新流行……  憲作は番頭の久四郎に名刺を出して叮嚀にお辞儀をした。   私は横浜の足立家の者ですが……   若様の御婚約の品を……   ダイヤの指環か何か……  憲作は言葉の中に徳市を指した。  番頭の久四郎はチラリと徳市の様子を見た。  徳市は大鏡の前に立って慣れた手附きでネクタイを締め直していた。  番頭久四郎は名刺を見た。  ――足立商会会計主任 大島鹿太郎――  久四郎は揉み手をしながら品物を取りに行った。  徳市がネクタイを締直すと間もなく、鏡の奥に見える入口の硝子扉が開いて母親らしい貴婦人に連れられた令嬢が這入って来たのが見えた。その令嬢は和装で女優かと見える派手好みであった。徳市はふり返って恍惚となった。  憲作が徳市の前に来てヒョコリとお辞儀をした。   若様……   一寸品物を御覧遊ばして……  徳市は気の向かぬげに帳場の方へ連れて行かれた。  憲作はそこに拡げられたダイヤ入りの指環のケースをあれかこれかと撰って見せた。  徳市は上の空で唯うなずいてばかりいた。  令嬢が近附いて来て徳市の前に拡げられた指環のケースを見た。その中の一つを欲しそうにした。  憲作は最大のダイヤを撰り出して徳市にさし付けた。  令嬢の眼はそのダイヤに注いだ。怪しく光った。  徳市は憲作の手からその指環を取り上げてもとの通りケースに納めた。令嬢の前に押し進めた。   どうぞお撰り下さい……   私共はあとで宜しゅう御座います……  憲作と久四郎は妙な顔をした。  貴婦人と令嬢は云い知れぬ感謝の眼付きをした。  令嬢は恥じらいながら辞退した。   まあ……   どうぞお構いなく……   あの……  貴婦人も感謝に満ちた表情で云った。   ま……   恐れ入ります……   イイエ……どう致しまして……  徳市は幾度も手を振った。   私のは贈り物にするのですから……   ちっとも構いません……   さあどうぞ……  憲作と久四郎は別々に苦笑しながら三人の様子を見ていた。  令嬢は辞退しかねた。嬌態を作ってお辞儀をした。   では……   あの……   御免遊ばして……  令嬢はケースの中から最前憲作が撰り出した最大のダイヤを抓み上げた。指にはめてみるとちょうどよかった。如何にも気まり悪そうに徳市の顔を見て笑った。   あの……   これを頂いても……   よろしゅう御座いましょうか……  徳市は溶けるような顔をしてうなずいた。  貴婦人と令嬢は深い感謝の表情をした。  貴婦人は番頭の久四郎に指環の価格をきいた。  久四郎は慌ててペコペコし出した。   ヘイ……   一千二百円で……ヘイ……   毎度どうも……ヘイ……ヘイ……  貴婦人は手提から札の束を出して勘定して久四郎に渡した。  久四郎は今一度勘定して受け取った。ダイヤの指環をサックに入れて渡しながら盛んに頭を下げた。  徳市はボンヤリ見とれていた。  令嬢は手提から小さな名刺を出して一礼しながら徳市に渡した。   あの……   まことに失礼で御座いますが……   わたくしはこのようなもので……   唯今はまことに……  徳市は名刺を受け取った。同時に自分の名刺のない事に気が附いてハッとした。  憲作はすかさず自分の名刺を出して二人の婦人に徳市を紹介した。  徳市はホッとしながら様子ぶって一礼した。  貴婦人と令嬢は受け取った名刺を見ると一層叮嚀に恐縮した。   まあ存じませんで失礼を……   どうぞお序でも御座いましたら……   お立ち寄りを……  徳市は鷹揚にうなずいた。  二人の婦人は去った。  憲作は徳市に向って叮嚀に云った。   ちょっと唯今のお名刺を……  徳市は吾れ知らず握り締めていた。  ――下六番町十九番地 星野智恵子――  徳市はこの間の新聞にソプラノの名歌手として載っていた智恵子の肖像を思い出した。  憲作はその名刺を横からソッと取って見た。  徳市の顔を意味あり気に見ながらニヤリと笑った。  この名刺は私がお預り致しておきましょう。  徳市は不平そうにうなずいた。  憲作は平気な顔で又ダイヤを撰り初めた。最も光りの強い新型に磨いたダイヤ入りの指環を撰り出して徳市に見せた。   これはいい……   これはいかがで……  徳市はボンヤリとうなずいた。  憲作は久四郎に価格をきいた。  久四郎は揉み手をした。   四千七百円で御座います……   当店で最上の質のいいダイヤで御座いまして……  憲作は内ポケットから大きな金入れを出して百円札を念入りに勘定して久四郎に渡した。代りにサックに入れた指環を受け取った。  久四郎は札を勘定し初めた。途中でちょっと躊躇して眼を伏せたが又初めから静かに勘定し初めた。  憲作はサックに入れた指環を一度あらためて、サックの上から新しい半巾で包んで恭しく徳市に渡した。  徳市は夢のように受け取った。そのままポケットに仕舞った。  久四郎は別室でお茶を差し上げたいからと云って二人を案内した。  憲作は急ぐからと断りながら札の残りを調べ終ると久四郎が止めるのもきかずに店を出た。表の自動車に乗って去った。  徳市も帰ろうとするのを久四郎は無理に止めた。   つまらぬものですが……   お土産に差し上げたいものが御座いますので……   是非お持ち帰りを……   どうぞこちらへ……      ―― 7 ――  徳市は無理やりに応接間のような処へ連れ込まれた。  久四郎は出て行った。  給仕女が這入って来て徳市の前に珈琲を置いて去った。  久四郎は最前の札を持って急いで這入て来た。   まことに恐れ入りますが……   只今の指環を今一度チョト拝見さして頂きとう御座います……   余計に頂いておりますようですから……  徳市はサックを渡した。  久四郎は受け取ってハンケチを解き初めた。非常に固く結んであるのを解いてサックを開くと空であった。  徳市はビックリして立ち上った。  久四郎は素早く室から飛び出してあとをピッタリと締めて鍵をかけた。  徳市は狼狽して中から大声を揚げた。扉を動かしたがビクともしなかった。床の上にペタリと坐った。頭を抱えた。  久四郎と私服巡査が扉を開いて這入って来た。眼の前に徳市が坐っているので驚いて後退りをした。  久四郎は私服巡査に札を見せた。   この通り贋せもので……   この男が共犯なので……  徳市は縮こまった。  私服巡査は徳市の両手を捉えて手錠をかけた。   立て……  徳市は老人のように頭を下げて腰をかがめて歩き出した。  外へ出ると私服巡査は徳市を突き飛ばした。   こっちだ……      ―― 8 ――  徳市は警察に来るとすっかり酔いが醒めた。  警視と警部と私服巡査の三人が徳市を取り巻いた。  王冠堂の番頭久四郎は証人として傍に居た。  警部がボロボロの十円札と受取証と指環のサックを突き付けて徳市を訊問した。  徳市はメソメソ泣きながらも何もかも白状した。   津島商会は……   金杉橋停留場の近くです……  警官連は顔を見合わせた。  警視は呼鈴を押して一人の警部と三人の私服巡査を呼んで何事か命令を下した。  四人の警官は自動車に乗って去った。  徳市はそのまま留置所に入れられた。  番頭久四郎は一枚の名刺を出して警部に渡した。   これは主人の名刺で御座います……   失礼で御座いますが代理としてお願い致します……   実は店の信用に拘わりますので……   どうぞなるべく秘密に一ツ……  警視はうなずいた。  久四郎は一同に叮嚀にお辞儀をして去った。  人夫頭の吉が入れ代って這入って来た。警視に名刺を出してお辞儀をしながら汗を拭いた。  私服巡査が留置所の中の徳市に会わせた。  吉はなまけものの徳市に相違ないと保証した。徳市に向って忌々しげに云った。   飛んだ肝を潰させやがる……   貴様みたいな奴はもう雇わない……  こう云い棄てると吉は警官に一礼して去った。  警部と私服巡査三名の一行が手を空しくして帰って来た。警官一同呆れた顔を見合わせた。      ―― 9 ――  徳市は十円の紙幣を下渡されて拘留所を出た。汚れた紳士姿のままボンヤリと当てもなくうなだれて歩き出した。長い事歩いて後静かな通りへ来た。  ドン――……  徳市は吃驚して頭を上げた。空いた腹を撫でまわしてあたりを見まわした。眼の前に立派な家が立っていた。何気なくその表札を見た。  ┌───────────┐  │ 下六、一九 ホシノ │  └───────────┘  徳市は急にシャンとなった。ポケットに手を入れて十円札を引き出した。ボロボロになった表裏をあらためて又ポケットに入れた。キョロキョロとして早足に歩き出した。  徳市はそれからとある洋品店に這入って大きなブラシを一つ買って釣銭を貰った。表へ出てホッと一息した。そのブラシを持って手近い横路地へ這入って帽子、上衣、ズボン、靴まで綺麗に払った。ブラシを尻のポケットに仕舞って揚々と往来へ出た。  次に向うの活版屋に這入って名刺を注文して前金を払った。その次には安洋食店に這入って酒を飲みながら鱈腹詰め込んだ。その払い残り五円で花束を買って、往来の靴|繕いを見付けて靴を磨かせた。最後に活版屋へ行って名刺を受取った。      ―― 10 ――  徳市は星野家を訪うて名刺を出した。  ハイカラな女中が出て来て奥へ取り次いだがやがて引返して来て応接間に案内した。  徳市は応接間に這入るとポケットから葉巻を出して吹かし初めた。  星野智恵子はさも嬉し気に這入って来た。貴婦人も這入って来て挨拶をした。   私は智恵子の母時子と申します……   この間は何とも……   まことに……  徳市は苦笑しながら礼を返した。謹んで花束を智恵子に捧げた。  智恵子の眼は感謝に輝やいた。  母子は茶や菓子を出して徳市をもてなした上、近いうちに智恵子が出演する歌劇の切符を二枚徳市に与えた。  智恵子は意味あり気な眼付きをして云った。   もう一枚の方は……   どうぞ奥様に……  徳市はハッと顔を撫でて苦笑した。   ヤ……   私は……   まだ独身で……  智恵子もハッと半巾で口を蔽いながらあやまった。   マ……   どうも失礼を……  徳市は高らかに笑った。  智恵子も極まり悪げに笑った。  時子が傍から取りなした。   ではお友達にでも……  徳市は急に真面目になって暇を告げた。  智恵子と時子は名残を惜しんだ。  徳市は二枚の切符を懐中にして逃げるように星野家を出た。      ―― 11 ――  徳市は星野家を出ると又行く先がなくなった。懐中には唯帝劇の切符が二枚ある切りであった。スッカリ悄気てとある横町を通りかかった。  労働者の風をした男が徳市に近付いて肩に手をかけた。  徳市は立ち止まってふり返ると、変装した浪越憲作を認めてハッとよろめいた。  憲作はニヤリとして口に指を当てた。眼くばせをして先に立った。  徳市はうなだれてついて行った。  二人はやがて丸の内の山勘横町へ来た。事務所|様の扉を押して憲作はふり返った。  徳市は躊躇しいしいあとから這入って行った。  憲作は暗い階段をいくつも上った。天井裏のような処まで来ると、そこにある安ストーブの前に椅子を二つ持って来て並べながら徳市にストーブを焚けと命じた。  徳市は面を膨らした。  憲作は睨み付けた。  徳市は渋々シャベルを執って壁際に散らばっている石炭を掻き集めた。  憲作はニヤニヤと笑った。  徳市はストーブに火を入れてよごれたハンケチで拭いた。  憲作は近寄って徳市のポケットの中から二枚の切符と名刺の箱を引き出した。  徳市は慌てて取り返そうとした。  憲作は手を引こめながら切符を見るとニヤリと笑って一枚を徳市に返した。徳市に椅子を進めて自分も向い合いに腰をかけた。  徳市はしょげ返って腰をおろした。  憲作は徳市の名刺を見た。    ┌──────┐    │ 足達徳市 │    └──────┘  憲作は名刺の箱を徳市に返しながら肩をたたいた。   とうとう貴様も悪党になったな……   しかも凄い腕じゃないか……  徳市は小さくなってうなだれた。  憲作はそり返って笑った。   アッハッハッハ……色男……   まあそう屁古垂れるな……   おれが力になってやる……   あの娘と夫婦にしてやる……  徳市は頭を擡げて恨めし気に憲作を睨んだ。  憲作は睨み返した。ポケットから大きな黒いピストルを出して見せた。徳市の顔に自分の顔を寄せて云った。   その代り……   嫌だと云えあ……   これだぞ……  徳市は又うなだれた。ブルブルと顫えた。眼から涙を一しずく落した。  憲作はジッと徳市の様子を見てうなずいた。ピストルを引っこめて代りに札の束を出した。儼然として云った。   心配するな……   サアこれを遣る……   この金でおれの指図通りに仕事をしろ……   でないともう智恵子に会えないぞ……  徳市は手を引っこめて小さくなった。  憲作は右手にピストル左手に札の束をさし付けてニヤリニヤリと笑った。      ―― 12 ――  帝劇のステージで智恵子は大喝采の中に持ち役をつとめ終った。  徳市はフロックコートに絹帽を冠って花束を持って楽屋に待っていた。  智恵子は母時子の手に縋って這入って来た。徳市の花束を受けると涙ぐましい程喜んで母に見せた。  徳市は智恵子|母子に立派な服装をした老紳士を紹介した。   私の叔父です……   足達|万平と申します……   父同様のもので……  万平は鷹揚な態度で名刺をさし出しながら、   お近付きに……   お茶を一ツ……   お差し支えなければ……  と二階の食堂の方を指した。  智恵子母子は感激に満ちたお辞儀をした。      ―― 13 ――  四人の席は帝劇の食堂で注目の焦点となった。  王冠堂の番頭久四郎は友達二人とはるか向うの席でビールを飲んでいたが、四人の姿を見ると驚いてフォックを取り落した。  友達は怪しんで理由を尋ねた。  久四郎は顔をじっと伏せて友達の顔を見まわした。苦笑しながら唇に手を当てた。  智恵子|等四人は立ち上った。  万平は徳市に眼くばせをした。智恵子|母子に向い叮嚀に一礼して別れを告げた。  徳市は不満そうな顔をして頭を下げた。  智恵子母子は二人を引き止めた。   まあこのままでは……   是非宅まで……   何も御座いませんけど……   お忙しいところ恐れ入りますけど……  万平は徳市に眼くばせしながら一二度辞退した。  徳市はワナワナきょろきょろした。  万平はとうとう承知した。  三人は喜んだ。万平を取り巻いて自動車に乗り込んだ。  二三名の紳士が智恵子のあとを見送って眼を丸くし合った。   凄い腕だな……   驚いた……   あの男嫌いが……      ―― 14 ――  万平と徳市は星野家で晩餐の御馳走になった。  万平は帰りともながる徳市を引立てるようにして暇を告げた。      ―― 15 ――  徳市は単身背広姿で星野家を訪れた。  智恵子|母子は引き止めてなれなれしくもてなした。  徳市は盛んに母子の機嫌を取った。すっかり母子と打ち解けてしまった。  母親の時子は徳市を深く信用したらしく真面目な内輪の話を初めた。  徳市は勿体ぶって軽くうなずきながら聞いた。幾度かあくびを噛み殺した。  時子は熱心に話を進めて最後に云った。   今手許にある株券を……   三万円で売りたいのですけど……   あいにく今は安いので……  徳市は三万と聞いて眼を丸くした。そうして妙に鬱いでしまった。  智恵子は気軽に笑いながら云った。   あなたの叔父様に……   買って頂けませんかしら……   あなたなら尚更ですけど……  徳市は絶望的に頭を左右に振った。一層鬱ぎ込んだ。  智恵子は徳市の顔をのぞきながら心配そうに問うた。   あなたの叔父様は……   厳格な方……  徳市はすっかり鬱ぎ込んでしまった。絶望的に云った。   そうでもないんですけど……   とにかく相談してみましょう……  智恵子母子の眼は急に輝やいた。熱情を籠めて云った。   ええ……   是非どうぞ……  徳市はうなだれて星野家を出た。  その時来かかった王冠堂の番頭久四郎は徳市とすれ違うとふり向いた。たしかに徳市と認めると帽子を眉深くしてあとをつけた。      ―― 16 ――  徳市はボンヤリと山勘横町へ来た。憲作の事務所の扉を押した。階段を昇った。  久四郎は入口の処であたりを見まわした。入口の扉に耳を寄せて徳市の足音を聴いた。そのまま近所の物蔭へ隠れた。  徳市は屋根裏の室へ来た。ストーブに石炭を投げ込んで火をつけてあたりながら考えた。  憲作が帰って来た。徳市の眼の前に突立って見下した。   どうしたんだ……   女に振られたのか……  徳市は力なく頭を左右に振った。  憲作は腰を下して徳市と膝をつき合わせた。   何でも話してみろ……   力になってやる……  徳市はうるさそうに頭を振った。  憲作はポケットから新しい札の束を出して机の上に積んでトンとたたいた。徳市の顔をグッと見込んで笑った。  徳市はチラリと札を見た。手を振って顔をそむけた。  憲作は妙な顔をした。札を掴んで徳市の鼻の先に突きつけてしきりに効能を説き立てた。  徳市はいよいよ浮かぬ顔で聞いた。おしまいに憲作が突き出した札を押しのけながら腹立たし気に云った。   ダメダ……   本物でなくちゃ……   絶対に……  憲作は札を持ったままジッと徳市の様子を見た。  徳市の眼から涙が一すじ流れ出て頬を伝うた。  憲作はポンと膝を打った。   わかった……   貴様は星野家を救おうと云うんだな……   よし……話せ……   工夫してやる……  徳市は図星を刺されてギョッとした。大きな溜息を一つした。うなだれて考えた。やがて思い直して憲作の顔を見た。うなだれたままポツポツ話し出した。  憲作は腕を拱いて聴いた。時々眼を丸くした。最後に高らかに笑った。   ナアーンダ……   それ位の事か……  徳市は眼を※った。  憲作は札の束を両手でしっかりと持って徳市に見せた。   イイカ……   この札でこの株を買うんだ……   買ったその株をすぐに売って現金にかえる……   それから星野家へ行って贋札とすりかえる……   俺はその間の利益を取る……   罪にはならない……   どんなものだ……  徳市は喜びの余り口をアングリした。憲作に縋り付いて拝んだ。  憲作は悠然と笑った。徳市の耳に口を寄せて何事か囁やいた。  徳市はいくつもうなずいた。  憲作は室の隅から酒とコップを取って徳市にすすめた。  徳市は神妙に手を振った。  憲作は笑って一杯干した。二杯目を注ごうとする時フト階下の方に耳を傾けた。コップと酒を隅に片付けて窓の破れから外をのぞいた。急いで引返して来て徳市の耳に何事か囁やきつつ札の束を仕舞った。  徳市はワナワナ顫え出した。  憲作は徳市の手を引いて立ち上った。  数名の警官が乱入した。  憲作はピストルを放った。  警官が二名倒れた。  憲作と徳市は屋根から逃れ去った。      ―― 17 ――  徳市と万平は自動車で星野家を訪れた。  智恵子|母子は喜んで出迎えた。  徳市は応接間で智恵子と話した。  万平と時子は智恵子の父の肖像を掲げた書斎で相談をした。  時子はやがて手提金庫から株券の束を出して万平の前に置いた。  万平は株券を調べた。満足の笑みを浮かめた。懐中から札の束を出して机の上に置いた。   お望み通りの価格で……   唯今頂戴致しましょう……  時子は深く感謝してうなずいた。  万平は株券と札の束を取り換えた。株券を手提鞄の底深く仕舞った。  時子は手先をすこし震わしながら札の束を勘定し終って叮嚀にお辞儀をした。手提金庫に仕舞った。  憲作は帽子と外套を取って立ち上った。   私はすこし急ぎますから……   これで失礼します……   智恵子さんには……   いずれまた……  徳市がヒョッコリ応接間から出て来た。笑いながら時子に何か云おうとして万平の様子に眼を付けた。サッと顔色をかえた。   アッ……   どこに行くんです……   僕を残して……  万平はイヤな顔になったが間もなくニッコリした。   ナニ……チョッと急ぐからね……   お前はゆっくりしたがいい……   あとから事情を話すから……  徳市は時子と万平の顔を見比べた。  時子は智恵子に事情を話した。  智恵子は万平と徳市に感謝の頭を下げた。徳市の手を取って固く握り締めた。  徳市はブルブルと身を顫わした。  万平は徳市に凄い眼付きをチラリと見せながら帽子を脱いで、一同に一礼すると悠々と入口の扉に手をかけた。   では……  徳市は呆然と見送っていたが忽ち恐ろしい顔になった。万平に飛び付いて鞄を引ったくった。書斎へかけ込んで手提金庫の中から札の束を掴み出し、鞄の中の株券と入れかえると無言のまま万平の前に突き出した。扉の外を指した。  万平は凄い顔をしながら鞄を受け取った。   何をするのだ……   気でも違ったか……  徳市は恐ろしい形相になった。頭の毛を掻き※りながら床の上に坐り込んだ。   もう何もかも白状します……   こいつは叔父でも何でもありません……   贋せ金使いです……   僕を手先に使って……   ああ許して下さい……  万平は眼を伏せて冷やかに笑った。智恵子の顔を見ながら一礼した。   どうも失礼ばかり……   では取引は又その中に……   今日はこれで……  智恵子と母は恐れ戦きつつ礼を返した。  万平の憲作は悠然と外に出た。  徳市は飛び上ってあとを閉めた。  憲作は表に出るとあたりを見まわした。怪しい人影をそこここに認めた。急いで家の中へ引返そうとした。扉は固く締まって開かなかった。  数名の警官が憲作を取り巻いた。  憲作は短銃を揚げて睨みまわした。  警官の一人が同様に拳銃を揚げた。  徳市は扉を急に開いた。  憲作はうしろによろめいた。短銃は空を撃った。警官の弾丸に撃たれて入口へ倒れ込んだ。  徳市はうしろから憲作を抱き止めた。  警官が駈け寄って徳市に礼を云った。大勢で憲作を担いで行った。  徳市はあとを見送って両手で悲痛な表情を蔽うた。何事か決心をしたようにうなずくと両手を離して智恵子を悲し気な眼付きで見た。両手で智恵子の手を固く握って、涙をハラハラと流した。   智恵子さん……   僕を……   諦めて下さい……  徳市は両手をハッと放すと表に飛び出した。  智恵子はあとから縋り付いた。  徳市はふり放して警官のあとを追おうとした。  智恵子はあとから出て来た時子と二人でやっと徳市を押え止めた。  三人は涙を流して手を握り合った。  智恵子ははるかに運ばれて行く憲作の死骸を指した。   あなたの秘密は……   あそこに消えて行きます……   あなたは浄い方です……  徳市は智恵子を抱き締めた。  妾は今、神戸海岸通りのレストラン・エイシャの隅ッこに、ちょこりんと腰をかけている。油気のない前髪をういういしく垂らして、紫ミラネーゼの派手な振袖を着て、金ピカの塩瀬を色気よく高々と背負っているのだから、ウッカリした男の眼には十四五ぐらいにしか、うつらないでしょうよ。どうぞ、そのおつもりでネ……ホホホホホ……。  妾の手にはタッタ今ボーイさんが買って来てくれた号外が一枚載っている。これは今から三時間ばかし前に、ここから二三町先の海岸通りの横町で起った事件で、あちこちのテーブルに固まっている男のお客たちも首をつき合わせながら引っぱり合っている。西洋人までが鹿爪らしく耳を傾げているせいか室の中が急にシンカンとなっている。妾もその中の大きな活字だけを拾い読みしてみると……この号外をここに挟んでおくわ……ごらんの通りトテモ大変な活字だらけなの……。  ――財界のムッソリニ、高利貸王、赤岩権六氏粉砕さる――  ――本日午後五時頃、同氏経営の通称ゴンロク・アパート前、海岸通横町街路上で――××党の爆弾か? 路面のアスファルトに二個の大穴――  ――スバラシイ爆発の威力――同氏の遺骸と名刺、同氏乗用の自動車の破片八方に散乱し、該自動車の運転手とアパート勝手口附近事務室に残留せる女事務員二名惨死し、路上の男女数名即死重軽傷――十数間を隔てた十字路を整理中の交通巡査も打倒されて人事不省――電柱|其他附近の店頭メチャメチャ――  ――〔続報〕――事件後約一時間を経て出勤した同アパートの宿直|小使白木某は、五階に居住していた美少女エラ子のコック兼従僕にして身長七尺に近い印度人ハラムと称する巨漢が、同少女の寝室床上に一糸も纏わざる裸形のまま、射殺されて居るのを発見――次いで同少女エラ子が情夫の××党員らしき青年と共に行方を晦まして居るらしい事が判明した――  ――美少女エラ子は赤岩氏が一箇月ばかり前に何処からか連れて来て匿まっている同氏の私生児で、今日まで固く口止されていた事実を小使の白木某が陳述した――  ――同アパートは新築|匆々の為め、一階の事務室と、エラ子の居室のほか全部がガラ空きであった。――且、爆発現状の目撃者が重傷、惨死、又は人事不省に陥っている為め目下の処、事件の真相について、何等の手がかりを得ず――  ――警察当局は曰く――××党とは絶対に無関係だ。赤岩氏が同アパートの空室に秘密運搬中の、鉱山用の火薬類が、取扱いの不注意の為めに発火したものと、少女エラ子に絡まる情痴関係の殺人が、偶然に一致したものでは無いか――爆弾ならば一発で効果は充分の筈である。路面に残っている二個の大穴が、何と云っても疑問の中心でなければならぬ――なお目下詳細に亘って取調中云々――  ――疑問の美少女エラ子の行方は――正体は?――  妾はフキ出してしまった。あんまりトンチンカンな記事なので、一人でゲラゲラ笑い出したらカフェーじゅうの西洋人や日本人が一時にこっちをふり向いた。帳場の男も註文を通しながら妾の横顔に、色眼みたいなものを使っている。だけど妾がこの事件のホントーの犯人で、疑問の少女エラ子だなんて事は一人も気付いていないらしい。何といったって妾のメーキァップは、やっと女学校に這入ったぐらいのオチャッピイにしか見えないのだから……。  そんな連中のポカーンとした顔を見まわしているうちに、妾はたまらなくユカイになってしまった。スコシ酔っているせいかも知れないけど……妾はわざっと黄色い声を出して、帳場の男に頼んでやった。 「……あのね。すみませんけど、レターペーパと鉛筆を貸してちょうだいナ……」  帳場の男が眼をパチクリさせた。兵隊みたいに固くなって、 「かしこまり……ました」  と云い云いすぐにペーパと万年筆を持って来てくれた。  妾は一気にペンを走らせはじめた。ジン台のカクテルをチビリチビリ飲みながら……。  ……みんな面喰っているらしい。そんなことなんか、どうでもいいんだけど……。  あたしは事件の真相を発表する前にタッタ一こと書いておく光栄を有します。  妾がこの手紙を書き上げるまでには、まだどれくらい時間がかかるかわからないけど、その間にこのあたし……疑問の少女エラ子を見つける事が出来なければ、日本の警察も新聞記者も、みんなお馬鹿さんよ……って……ネ……。  大丈夫よ。誰も妾を捕まえに来やしないわよ。妾がここを出たあとでこの置手紙を見て騒ぎ出すぐらいがセキのヤマよ。  妾は本当の事を書いておきます。妾はつくづく神戸がイヤになってしまいました。シンカラお友達になってみたいと思う人が一人も居ない事がわかりました。ですからモウこれっきり神戸に来まいと思って、タッタ一人でこのカフェーに乾盃をしに来たら、ちょうどコンナ号外が出たので、ツイ持ち前のイタズラ気を出してしまったのです。  妾は今朝早く窓際のベッドの中で眼を醒ました。前の晩に遅くまで遊んだ朝は、いつでも、おひる頃まで睡たいのに、今朝はよっぽどどうかしていた。  妾は窓のカアテンを引いた。硝子が一面にスチームで露っぽくなっていたから、手の平で拭いた。冷たかったので頭がハッキリとなった。  妾の室はゴンロク・アパートの五階だった。窓の外は神戸の海岸通りの横町になっていた。左手に胡粉絵みたいな諏訪山の公園が浮き出している。右手の港につながっている船の姿がまるで影絵のよう。その向うから冷たい太陽がのぼって、霜の真白な町々を桃色に照している。窓硝子が厚いから何の音もきこえない。  そんなシンカンとした景色を見ているうちに、妾はヘンに淋しくなって来た。何故っていう事はないけれど……こんな事は今までに一度もなかった。  妾は古代|更紗のカアテンを引いて、つめたい外の景色を隠した。思い切って寝返りをしてみた。  妾の寝台は隅から隅まで印度風で凝り固まっていた。白いのは天井裏のパンカアと、海月色に光る切子硝子のシャンデリヤだけだった。そのほかは椅子でも、机でも、床でも、壁でも、みんなアクドイ印度風の刺繍や、更紗模様で蔽いかくしてあった。その中でも隣りの室との仕切りの垂れ幕には、特別に大きい、黄金色のさそりだの、燃え立つような甘草の花だの、真青な人喰い鳥だのがノサバリまわっていた。  その垂幕の間から、隣りの化粧部屋と、その向うの白い浴槽がホノ暗くのぞいている。浴槽の向うには鏡の屏風が立っている。そんなものの隅々にピカピカチカチカ光っている金銀だの、瀬戸物だのの装飾が、一ツ一ツにブルドッグ・オヤジ……妾の旦那になっている赤岩権六の金ピカ趣味をサラケ出していた。見れば見るほど淋しい、つまんないものばかりだった。  そのブルドッグ・オヤジの赤岩権六は、ゆんべ夜中に急用が出来て、諏訪山裏の本宅の白髪婆のところへ帰った。だから妾は今朝、一人ぼっちで眼を醒したのだった。  だけど妾がコンナに淋しいのはブル・オヤジが居ないせいじゃなかった。ブル・オヤジが百人出て来たって、妾の気持ちを、とり直すことなんか出来やしなかった。今までだってそうだった。今もそうに違いなかった。  妾はタッタ一人でベッドの上に長くなったまんま、暗いところへグングン落ち込んで行くような気もちになっていた。  妾はいつの間にか枕元のベルを押したらしい。入口の横の垂れ幕を押し分けて、コックのハラムがノッソリと這入って来た。  ハラムは印度人の中でも図抜けの大男だった。背の高さが二|米突ぐらいあって左右の腕が日本人の股とおんなじ大きさをしていた。それがいつもの通り、妾の大好きな黄色い上等の印度服を引っかけて、おなじ色のターバンを高々と頭に捲き上げているばかりでなく、眼のまわりが青ずんで、瞳がギョロギョロして、鼻が尖んがって、腮鬚や胸毛を真黒くモジャモジャと生やしているのだから、ちょうどアラビアン・ナイトに出て来る強盗の親分みたいなスバラシサで、見上げただけでも気持ちがスーッとした。この印度人は故郷に居る時分からうらないが本職で、四十二歳の今日がきょうまで、何とかいうバラモンの神様に誓って、童貞を守っているのだ……と自分で云っていた。だけど色が黒いからホントだか嘘だかよくわからなかった。  妾は毎朝ブル・オヤジが帰ったあとで、誰も居なくなると、この男に抱かれてユックリお湯に入れてもらうのを何よりの楽しみにしていた。それは思いようによってはこの上もない、ステキな冒険に違いなかったから……。  けれどもハラムは妾の処に来た最初から、どこまでも柔順な妾の家来になり切っていた。今朝もやっぱりいつもの通り憂鬱なまじめな顔をしながら、黒い逞ましい両腕を悠々とまくり上げて、妾をヤンワリと抱き上げてくれた。そうして赤チャンを扱うように親切に身体を流して、新しいタオルで包んでくれた。 「今朝はたいそう、お早う御座います……お姫様……」  ハラムの日本語は、本物の日本人よりもズットお上品で、立派に聞えた。シンガポールの一流のホテルで日本人専門のボーイを志願して稽古したのだと云っていたが、発音がハッキリしている上に、セロみたいな深い響きをもっていた。 「……あたし……淋しいのよ……」  妾は濡れたまんまの両腕をハラムの太い首に捲きつけた。その拍子にハラムの身体に塗りつけた香油の匂いがムウウとした。  ハラムはすこしビックリしたらしく、眼をまん丸にして、白眼をグルグルと動かしながら、高らかに笑いだした。 「ハッハッハッハッハッ。……おおかたお姫様は……お腹がお空きになったので御座いましょう」  妾はイキナリ、その毛ムクジャラの胸に飛び付いて、甘たれるように首を振って見せた。 「イイエイイエ。あたしチットモひもじかない。ゆんべ遅くまで色んなものを喰べたんだもの……それよりも妾ホントウに淋しいのだよ。お前にこうして抱っこされていてもよ……綱渡りの途中で綱が切れちゃって、そのまんま宙に浮いているような気もちよ。ドッチへ行ったらいいのか解んなくなったような気もちよ。教えておくれよ。ハラム、どうしたらいいんだか……」  妾はそう云いながらハラムの頸をヤケにゆすぶった。逞ましい脂切った筋肉に、爪を掘り立てるくらいキツクゆすぶった。けれどもハラムはビクともしなかった。軽々と妾を抱えたまま長椅子の前に突立って、妾の顔をマジリマジリと見詰めているきりだった。 「……ヨウ……ハラムったら、教えてよう。どうして妾こんなに淋しいんだか……。お前は妾の家来じゃないか。何でも妾の云い付け通りの事をしてくれなくちゃダメじゃないの……お前はいつも妾の云いつけ通りに……」  ハラムがやっと表情を動かした。妾の瞳の底の底をのぞき込むように、青黒い瞳を据えたまま……赤い大きな舌を出して、口のまわりの鬚をペロリと甞めまわした。そうしてシンミリとした、落ち付いた声を出した。 「……わかりまして御座います……お姫様……何もかも運命で御座います」  ハラムは、そうした気持ちの妾を又も軽々と抱き上げて、ノッシノッシと歩きながら、室の真中に在る紫檀の麻雀台の前に来た。それは牌なんか一度も並べた事のない、妾達の食卓になっていた。その前に据っている色真綿の肘掛椅子の中に妾の身体を深々と落し込むと、その上から緞子の羽根布団を蔽いかぶせて、妾の首から上だけ出してくれた。  ハラムのこんなシグサは、まったく、いつもにない事だった。けれども妾は別段に怪しみもしないで、される通りになっていた。今から考えると、その時の妾の恰好は、ずいぶん変デコだったろうと思うけど……。  そればかりじゃなかった。ハラムは平生のようにパンカアを引き動かして、妾の身体を乾かしてくれる事もしなかった。そんな事は忘れてしまったように、室の隅から籐椅子を一つ、妾の前に引き寄せて来て、その上に威儀堂々とかしこまった。そうして塔のように捲き上げたターバンを傾けて、妾の瞳にピッタリと、自分の瞳を合せると、そのまま瞬き一つしなくなった。妾も仕方なしに、真綿の椅子の中で羽根布団に埋ったまま、おなじようにしてハラムの顔を見上げていた。  籐椅子がハラムの大きな身体の下でギイギイと鳴った。  その時にハラムは底深い、静かな声で、ユルユルと口を利きはじめた。妾の瞳をみつめたまま……。 「……何事も運命で御座います。妾は、お姫様の運命をはじめからおしまいまで存じているので御座います。あなた様の過去も、現在も、未来の事までも、残らず存じ上げているので御座います。この世の中の出来事という出来事は、何一つ残らず、運命の神様のお力によって出来た事ばかりなのでございます」  ハラムの顔付きがみるみるうちに、それこそ運命の神様のように気高く見えて来た。ターバンのうしろに光っている海月色のシャンデリヤまでが、後光のように神秘的な光りをあらわして来た。それにつれてハラムの低い声が、銀線みたいに美しい、不思議な調子を震わしはじめた。 「……その運命の神様と申しまするのは、竈の神、不浄場の神、湯殿の神、三ツ角の神、四つ辻の神、火の山の神、タコの木の神、泥海の神、または太陽の神、月の神、星の神、リンガムの神、ヨニの神々のいずれにも増して大きな、神々の中の大神様で御座いまする。その運命の大神様の思召しによって、この世の中は土の限り、天の涯までも支配されているので御座います」  妾はハラムの底深い声の魅力に囚われて、動くことが出来なくなってしまった。電気死刑の椅子に坐らせられて、身体がしびれてしまったようになってしまった。大きな呼吸をしても……チョイト動いても、すぐに運命の神様の御心に反いて、大変な事が起りそうな気がして来た。  そんなに固くなっている妾を真正面にして、ハラムは裁判官のように眼を据えた。なおも、おごそかな言葉をつづけた。 「……けれども……けれども……御発明なお姫様は、今朝から、それがお解りになりかけておいでになるので御座います。……お姫様は今朝から、眼にも見えず、心にも聞えない何ものかを探し求めておいでになるので御座います。……で御座いますから、そのようにお淋しいのでございます」  妾は返事の代りに深いため息を一つした。そうして今一度シッカリと眼を閉じて見せた。ハラムのお説教の意味がすきとおるくらいハッキリと妾にわかったから……。  ハラムは毛ムクジャラの両手を胸に押し当てて、黄色いターバンを心持ち前に傾げていた。その青黒い瞳をジイと伏せたまま、洞穴の奥から出るような謙遜した声を響かした。 「……おそれながら私は、今日という今日までの間、運命の神様のお仕事が、お姫様の御身の上に成就致しまするのを、来る日も来る日もお待ち申しておったので御座います。それを楽しみに明け暮れお側にお付き添い申上げておったので御座います。眼に見えぬ運命の神様のお力を借りまして、あの赤岩権六様を、あなた様にお近づけ申し上げましたのも、かく申す私なので御座います。それから、あの共産党の中川さまを、お伽におすすめ致しましたのも、ほかならぬ私めが仕事で御座いまする。そうして、かように申しまする私が、赤岩様のお眼鏡に叶いまして、あなた様の御守役として、御奉公が叶いまするように取り計らいましたのも、皆、この私めが、私の霊魂を支配しておられまする神様の御命令によって致しました事なので御座いまする」  ハラムはここまで云いさすと、何故だかわからないけれどもフッツリと言葉を切ってしまった。つっ伏したまま黙りこくって、身動き一つしなくなった。それにつれて、その下の籐椅子の鳴る音が、微かにギイギイときこえて来た。運命の神様の声のように、おごそかに……ひめやかに……。  妾は今までに泣いた事などは一度もなかった。人間が何人殺されたって、どんなに大勢からイジメられたって、悲しいなんか思ったことはコレッばかしもなかった。それだのにこの時ばっかりは、何故ともわからないまんまに、泪が出て来て仕様がなかった。ハラムのお説教とは何の関係もなしに胸が一パイになって来て仕様がなかった。何が悲しいのかチットモ解からないのに泣けて泣けてたまらなかった。  ……すると、そのうちに何だか胸がスウ――として来たようなので、妾は羽根布団からヒョイと顔を出してみた。  両方の眼をこすって見るとハラムはまだ妾の前に頭を下げている。妾を拝むように両手を握り合わせて、両股を広々と踏みはだけている。そうして心の中で御祈祷か何かしているらしく、唇をムチムチと動かしている。  そうしたハラムの姿を見ているうちに、妾はフッと可笑しくなって来た。何だか生れかわったように気が軽くなって、思わずゲラゲラと笑い出してしまった。  ハラムはビックリしたらしかった。白眼をグルグルとまわしながら顔を上げて、妾の顔をのぞき込んだから、妾はもう一度キャラキャラと笑ってやった。 「……ハラムや御飯をちょうだい……」 「……ハ……ハイ……」  ハラムは面喰らったらしかった。妾のために一生懸命で、ラドウーラ様をお祈りしていた最中だったらしく、毒気を抜かれたように眼ばかりパチクリさせていた。 「それからね。御飯が済んだら、妾に運命を支配する術を教えて頂戴ね。自分の運命でも他人の運命でも、自分の思い通りに支配する術を教えて頂戴……あたし……悪魔の弟子になってもいいから……ネ……」 「……ハ……ハ……ハイ……ハイ……」  ハラムはイヨイヨ泡を喰ったらしかった。ムニャムニャと唇を動かしていたが、やがて、こんな謎のような言葉を、切れ切れに吐き出した。 「……運命の神様……ラドウーラ様の前には……善も……悪も……御座いませぬ」 「ダカラサ。何でも構わないから教えて頂戴って云ってるじゃないの……あたしの運命を、お前の力で、死ぬほど恐ろしいところに導いてくれてもいいわ」  ここまで云って来ると妾は思わず羽根布団を蹴飛ばしてしまった。妾のステキな思い付きに感心してしまって、吾れ知らず身体を前に乗り出した。両手を打ち合わせて喜んだ。 「いいかい。ハラム。妾はまだハラハラするような怖い目に会った事が一度もないんだから、お前の力でゼヒトモそんな運命にブツカルようにラドウーラ様に願って頂戴……妾は自分で気が違うほど怖い眼だの、アブナッカシイ眼にだの会ってみたくて会ってみたくて仕様がないんだから」 「……ハイ……ハハッ……」  ハラムはやっと息詰まるような返事をした。 「その代りに御褒美には何でも上げるわ。妾はナンニモ持たないけど……妾のこの身体でよかったらソックリお前に上げるから、八ツ裂きにでも何でもしてチョウダイ」  ハラムはイヨイヨ肝を潰したらしかった。眼の玉を血のニジムほど剥き出した。唇をわななかして何か云おうとした。……と思うと、その次の瞬間には、みるみる血の色を復活さして、身体じゅうを真赤な海老茶色にしてしまった。口をアングリと開いて、白い歯をギラギラ光らせながら、思い切って卑しい……獣のような……声の無い笑い顔をした。  その顔を見ているうちに妾はヤットわかった。ハラムの本心がドン底までわかってしまった。ハラムは運命の神様のマドウーラ様から、この妾を生涯の妻とするように命令られているに違いなかった。  ハラムはズット前から、妾に死ぬほど惚れ込んでいたに違いない。そうしてその悪魔みたいな頭のよさと、牡牛のような辛棒強さとで、妾の気象を隅から隅まで研究しながら、妾の心を捉える機会を、毎日毎日、一心にねらい澄ましていたにちがいない。 「オホホホホホ。おかしなハラム……そんなに真赤にならなくたっていいよ。妾は嘘を吐かないから……その代りお前も嘘を吐いちゃいけないよ」  ハラムは幾度も幾度も唾液を呑みこみ呑みこみした。御馳走を見せつけられた犬みたいに眼を光らせながら……。 「キット……キットお眼にかけます。ハイ。ハイ。私はお姫様の奴隷で御座います。ハイ……私は……私はまだ誰にも申しませぬが、世にも恐しい……世にも奇妙なオモチャを二つ持っております。印度のインターナショナルの言葉で『ココナットの実』と申しますオモチャを二つ持っております。それは輸入禁止になっておりまする品物でナカナカ手に這入らない珍らしいもので御座いますが、私は、その取次ぎを致しておりまするので……」 「そのオモチャは何に使うの……云って御覧……」  ハラムは急に両手をさし上げた。いかにも勿体をつけるように頭を烈しく振り立てた。 「イヤ……イヤイヤイヤ。それは、わざと申し上げますまい。お許し下さいませ。只今はそれを申上げない方が、運命の神様の御心に叶うからで御座います。……しかし……それはもう間もなく、おわかりになる事で御座います。私はその『ココナットの実』を、きょう中に二つとも、ある人の手に渡すので御座います。その方は、お姫様がよく御存じの方で御座いますが……そうしますると、その『ココナットの実』が、その方と、それから矢張り、お姫様がよく御存じのモウ一人の方の運命を支配致しまして、お二方ともお姫様のところへは二度とお出でになる事が出来ないような、恐ろしい運命に陥られる事になるので御座います。お姫様の眼の前で……お身体の近くで、そのような恐ろしい事が起るので御座います。そうして……そうして……お姫様は……お姫様は……」 「ホホホホホホ。キットお前一人のものになると云うのでしょう」  ハラムは真赤な上にも真赤になった。眼に泪を一パイに溜めた。口をポカンと開いて、今にも涎の垂れそうな顔をしたが、両手をさし上げたまま床の上にベッタリと、平蜘蛛のようにヒレ伏してしまった。 「もういいもういい。わかったよわかったよ。それよりも早く御飯の支度をして頂戴……お腹がペコペコになって死にそうだから……」  妾のお腹の虫が、フォックス・トロットとワルツをチャンポンに踊っていた。そこへ美しい印度式のライスカレーが一皿分|天降ったら、すぐに踊りをやめてしまった。妾はお腹の虫の現金なのに呆れてしまった。それからハラムの御自慢の、冷めたいニンニク水をグラスで二三杯流し込んでやると、虫たちはイヨイヨ安心したらしく、グーグーとイビキをかいて眠り込んでしまった。だから妾もすぐに、寝台の上に這い上って、羽根布団にもぐり込んで寝た。死んだようにグッスリと眠ってしまった。  それから三時頃眼をさまして、羽根布団の中で焼き林檎を喰べていると、いつの間に這入って来たのか、狼が枕元に突立っていた。  狼というのは最前ハラムが云った中川青年のことだった。左翼の左翼の共産党の中でも一等スバシコイあばれ者だと自分で白状していたが、それはハラムの童貞とおんなじにホントウらしかった。青黄色い、骸骨みたいに瘠せこけた青年で、バラバラと乱れかかった髪毛の下から、眼ばかりが薄暗く光っていた。唇だけが紅をつけたように真赤なのもこの青年の特徴だった。  このウルフ青年は妾に、いろんな事を教えてくれた。インキの消し方だの、音を洩らさないピストルの撃ち方だの、台所にある砂糖とか、曹達とかいうものばかりで出来る自然発火装置だの、ドブの中に出来る白い毒石の探し方だの……そんなものは、みんな印度のインターナショナルの連中から伝わったので、共産党の仕事に入り用なものばかりだと云って、得意になって話してくれた。けれどもカンジンの共産党の主義の話になると、ウルフの頭がわるいせいか、まるっきりチンプンカンプンなので困ってしまった。ウルフはただ小器用なのと、感激性が強くて無鉄砲なだけが取り柄の人間らしかった。 「……だから僕は一文も無いのだ。おまけに親ゆずりの肺病だから、生命だってもうイクラもないようなもんだ。その上にあんたから毎日こうして虐待されるんだからね」  ウルフはいつも詩人らしい口調でそう云っては、黒ずんだ歯を見せて薄笑いをした。きょうも散々パラ遊んだあげくに、もとの寝台にかえってさし向いになると、又おんなじ事を云ったから、妾は思い切って冷かしてやった。 「又はじまったのね。あんたのおきまりよ。ナマイダナマイダナマイダって」  ウルフは慌てて手を振った。妾の言葉を打ち消しながら、やはり薄笑いをつづけた。 「……そ……そうじゃないよ。エラチャン。そうじゃないったら。だから……僕はだから、生命のあるうちに、何か一つスバラシイ、思い切った事をやっつけなくっちゃ……」 「……また……生命生命って……そんなに生命の事が気になるのだったら、サッサとお帰んなさいよ」  妾から、こう云われると、ウルフは急にだまり込んで、うなだれてしまった。寝台の向う側に妾の爪先とスレスレにかしこまったまま、それこそ狼ソックリのアバラ骨を薄い皮膚の下で上げたり下げたりして、一生懸命に咳を押え押えしていた。 「エラチャンは肺病は怖くないかい」 「チットモ怖かないわ。肺病のバイキンならどこでもウヨウヨしている。けれども達者な者には伝染しないって本に書いてあるじゃないの。妾その本を読んだから、あんたが無性に好きになったのよ。あんたが肺病でなけあ、妾こんなに可愛がりやしないわ。妾はあんたが呉れた赤い表紙の本を読んでいるうちに、あんた以上の共産主義になっちゃったのよ。……あんたが妾にサクシュされて、どんな風にガラン胴になって、ドンナ風に血を吐いて死んで行くか、見たくって見たくってたまんなくなったのよ。だからこんなに一生懸命になって可愛がって上げるのよ」  妾がこう云って笑った時の狼の顔ったらなかった。蒼白く並んだ肋骨を、鬼火のように波打たして、おびえ切ったウツロ眼から泪をポトリポトリと落しはじめた。泣くような……笑うような皺を顔中に引き釣らして泪の流れを歪みうねらせた。……と思うと不意に妾の両脚の間の、真白なリンネルの上に、骨だらけの身体を投げ伏せて、両手をピッタリと顔に押し当てた。  妾はハッとして起き直った。血を吐くのじゃないかしらんと思った。そのモジャモジャと乱れ重なった髪毛の下を、ドキドキしながら見守っていた。しかし、そうじゃないらしい事が間もなくわかったので、妾はガッカリしてしまった。  ウルフは、差し出した妾の手をソッと押し退けた。そうして泪でよごれた顔を手の甲で拭い拭い寝台から降りて、長椅子の上に投げ出した洋服を着はじめた。  けれども継ぎ継ぎだらけのワイシャツとズボン下を穿いて、黒いボロボロのネクタイを上手に結んでしまうと、ウルフは、穴だらけの黒靴下を両手にブラ下げたまま、又、ジッとうなだれて考えはじめた。  すると、そのうちにジッと考え込んでいたウルフは、何と思ったか両手に提げていた古靴下を麻雀台の上に投げ出した。髪毛をうしろにハネ上げて、入口の扉の方へヒョロヒョロと近づいた。そこの棚の上に置いてある黒い風呂敷包みを丁寧にほどいて、新しい食パンの固まりを二つ、大切そうに取り出した。そうして、その一つを両手で重たそうに抱えながら引返して来て、寝ころんでいる妾の眼の前に突きつけた。 「これは……約束の品です」 「ナアニ。コレ……食パンじゃないの」  ウルフはニヤニヤと笑い出した。笑いながらパンの横腹を妾の方に向けて、そこについている切口を、すこしばかり引き開けるとその奥にテニスのゴム毬ぐらいの銀色に光る球が見えた。ところどころに黒いイボイボの附いた……。 「アッ……コレ爆弾、アブナイジャないの、こんなもの」 「エラチャンは……この間……云ったでしょう。日暮れ方にこの窓から覗いていると、あのブルドッグの狒々おやじが、往来を向うから横切って、妾の処へ通って来るのが見える。その威張った、人を人とも思わぬ図々しい姿を見ると、頭の上から爆弾か何か落してみたくなるって……」 「ええ……そう云ったでしょうよ。今でもそう思っているから……」 「その時に僕が、それじゃ近いうちにステキなスゴイのが仲間の手に這入るから、一つ持って来て上げましょう。その代りにキット彼奴の頭の上に落してくれますかって念を押したら、貴女はキット落してやるから、キット持って来るように……」 「ええ。そう云ったわ。タッタ今ハッキリと思い出したわ」 「その約束をキット守って下さるなら、このオモチャを……おいしい『ココナットの実』を貴女に一つ分けて上げます。どうぞ彼奴に喰べさしてやって下さい。あいつは財界のムッソリニです。彼奴はお金の力で今の政府を押え付けて、亜米利加と戦争をさせようとしているんです。現在の財界の行き詰りを戦争で打ち破ろうと企んでいるのです。日本は紙と黄金の戦争では世界中のどこの国にも勝てない。下層民の血を流す鉄と血の戦争以外に日本民族の生きて行く途はない。不景気を救う道はないと高唱しているのです。彼奴はこの世の悪魔です。吾々の共同の敵なのです……彼奴は……イヤあなたの旦那の事を悪るく云って済みませんが……」 「……いいわよ……わかってるわよ。そんな事どうでもいいじゃないの。もうジキ片付くんだから……」 「……大丈夫ですか……」 「大丈夫よ。訳はないわ。あのオヤジはここへ来るたんびにキット、この窓の真下の勝手口の処で立ち止まって汗を拭くんだから……そうして色男気取りでシャッポをチャンと冠り直して、ネクタイをチョット触ってから勝手口の扉を押すのが紋切型になっているんだから、その前に落せば一ペンにフッ飛んでしまうかも知れないわね。そうしたら、なおの事おもしろいけど……ホホホ……」  妾がこう云うとウルフはチョット心配そうな顔をした。室の中をジロジロと見まわしたが、鉄筋コンクリートの頑丈ずくめな構造に気が付くと、やっと安心したらしく妾の顔を見直した。真赤な唇を女のようにニッコリさせつつ、無言のまま、ウドン粉臭いパンの固まりを私のお臍の上に乗っけた。その無産党らしい熱情の籠もった顔付き……モノスゴイ眼尻の光り……青白い指のわななき……。  本当を云うと妾はこの時に身体中がズキンズキンするほど嬉しかった。約束なんかどうでもいい……こんなステキなオモチャが手に這入るなんて妾は夢にも思いがけなかった。妾はウルフに獅噛み付いて喰ってしまいたいほど嬉しかった。丸い銀の球を手玉に取って、椅子やテーブルの上をトーダンスしてまわりたくてウズウズして来た。  けれども妾は一生懸命に我慢した。その新しいパンの固まりを、お臍の上に乗っけたまま、ソーッとあおのけに引っくり返った。その中の銀色の球の重たさを考えながら、静かに息をしていると、そのパンの固まりが妾の鼻の先で、浮き上ったり沈み込んだりする。その中で爆弾が温柔しくしている。そのたまらない気持ちよさ。面白さ。とうとうたまらなくなって妾は笑い出してしまった。  あんまりダシヌケに笑い出したので、ウルフは驚いたらしかった。靴を穿きかけたまま妾の処へ駈け寄って来て、妾のお臍の上から辷り落ちそうになっているパンの固まりをシッカリと両手で押え付けた。サッキのように、おびえて、ウツロな眼付きをしいしいパンの固まりを抱え上げて、妾の寝台の下に並んでいる西洋酒の瓶の間に押し込んだ。ホッと安心のため息をしいしい立ち上り、又服を着直した。靴穿きのまま、ダブダブのコール天のズボンと上衣を着て、その上から妾の古いショールをグルグルと捲き付けた。その上から厚ぼったい羊羹色の外套を着て、ビバのお釜帽を耳の上まで引っ冠せた。それから膝をガマ足にして、背中をまん丸く曲げて、首をグッとちぢめると五寸ぐらい背が低くなった。どっちから見てもズングリした、脂肪肥りのヘボ絵かきぐらいにしか見えなくなった。  妾はいつもながらウルフの変装の上手なのに感心してしまった。口をへの字なりにして頬の肉をタルましたりしている顔付きのモットモらしいこと……妾だって往来のまん中でウルフを見つける事は出来ないだろうと思った。  そのうちに厚ぼったい手袋のパチンをかけたウルフはヨロヨロと入口の方へ歩いて行った。もう一つのパンを黒い風呂敷包みにつつみ直して、大切そうに小腋に抱えると、扉を静かに開いて廊下に出たが、扉を閉めがけに今一度、共産党らしい、執着に冴えた眼の光りを妾の顔に注いだ。そうして念を押すように淋しくニッコリと笑いながら扉を閉じた。  その足音を聞き送ると、妾は、枕元のスイッチをひねってシャンデリヤを消した。パジャマと羽根布団で身体を深々と包みながら、横のカアテンを引いた。硝子窓を開いて首を出した。  窓の外はもう夕方で、山の手の方から海へかけて一面に灯がともっている。そのキラキラした光りの海を青い、冷たい風が途切れ途切れに吹きまくって、横町から五階の窓まで吹き上げて、妾の頬を撫でて行くのがトテモ気持ちがいい。スチームのムンムンする室に居るよりも、窓からスーッと飛び出して、冷たい風の中を舞いまわった方がいいと思った。  そう思いながらも、妾はジッと瞳を凝らして、真下に在るアパートの勝手口の処を見ていた。今のウルフの中川が、どんなに巧みな歩き方をして、街を横切って行くか見たかったから……そうして街を横切ってしまわないうちに、そこいらにウロ付いている私服に掴まったら……その時にあの爆弾を投げ付けたら……モウモウと起る土けむり……バラバラ散り落ちる家々の硝子窓……転がる首……投げ出す手……跳ね飛ぶ足……乱れ散る血しお……ホンモノの素晴らしいトオキー……。  ところが眼の下のスクリーンはなかなか妾の思う通りに進展しなかった。狼の中川は待っても待っても往来に姿をあらわさなかった。気が付いてみるとサッキからエレベーターの音がチットモ響いて来ないのは、もしかすると、どこかに故障が出来ているのかも知れない。だから中川はコツコツと階段を降りて行っているのかも知れないと思った。あとから考えるとこの時にハラムが何かしら運命の神様にお祈りをしているのを、薄々気付いていたようにも思うけど……。  妾は寒い往来を辷りまわる自動車を、あとからあとから見送っているうちに、鼻の穴がムズ痒くなって来た。今にもクシャミが出そうになったから、慌てて窓から首を引っこめようとした。  するとその時だった。そんな自動車の群れの中から、見おぼえのある新型のフォードが眼の下のアパートの勝手口にスルスルと近付いた……と思うと、その中からブルドッグ・オヤジの黒い外套が茶色の中折れを冠り直しながらヒョロヒョロと降りて来た。その足どりを見るとかなり酔っているらしく、石段の前に立ちはだかって、もう一度帽子を冠り直しながら、あぶなっかしい手付きでネクタイを直し初めた。すると又それと殆んど同時に勝手口の扉が開いたらしく、ウルフの猫背の姿がヨタヨタと石段を降りて来たが、その拍子に、這入りかけて来るブル・オヤジと真正面から衝突してしまった。  妾はハッとした。今にも爆弾が破裂するかと思って、首を引っこめる心構えをした。けれども爆弾は破裂しなかった。  妾は生唾をグット呑み込んだ。あんまり出来事が不意打ちで案外だったので、正直のところ胸がドキドキした。けれども、それが静まって来ると、一緒に、こうした不意打ちの出来事の原因がハッキリと妾にわかって来た。これは運命の神様のイタズラに違いないということが……。  運命の神様ラドウーラの御つかわしめになっているハラムは、ツイ今しがた妾の処からウルフが帰りかけたのを見るや否や、どこかでお酒を飲んでいるブル・オヤジに何かしら大変な急用を知らせたに違いない。ことによると昇降器に故障が出来たのもラドウーラ様がハラムに御命令遊ばしたトリックの一つかも知れない。そうしてウルフの帰りを手間取らして、妾の旦那と色男が、わざっと妾の眼の下の往来でブツカリ合うように時間を手加減なすったのかも知れない。  そう思いながら腋の下の寒いのも忘れて一心に見とれていると、ブルとウルの二人は、だしぬけにブツカリ合ってビックリしたらしく一寸の間、睨めくらをしているようであったが、そのうちにブル・オヤジはツカツカと二三歩踏み出した。……と……いかにも傲慢らしくウルフの肩に手をかけて二三度グイグイと小突きまわした。けれどもウルフは、それに対して手向いも何もせずにヨロヨロとよろめきまわっている。左手の黒い包みをシッカリと握り締めたまま……。  妾はこんな面白い光景を見た事がなかった。あの包みが直ぐ横の電柱か、自動車の横腹にぶつかったら……と思うと、何度もハラハラさせられた。  ところが不思議な事に、二人はそのまま別れて行かなかった。  ブル・オヤジはウルフを睨み付けたまま、右手をあげて合図をすると、自動車の中から、菜葉服に鳥打帽の、肩幅の広い運転手が降りて来た。この運転手はブル・オヤジが用心棒に雇っている相馬という男で、刑事の経験がある上に、柔道を四段とか五段とか取る恐ろしい人だとハラムがいつぞや話して聞かせた。本当だか嘘だかわからないけども、何しろブル・オヤジがまん丸く膨れて、赤い浮標のようにフラフラしているのに、片っ方の運転手は弗箱みたいに重々しくて真四角い恰好をしているから、見かけだけでも頑固らしい。おまけに、そればかりでなく、その男が自動車の手入れをする姿のままで来たのだから、何でもヨッポド素敵な大事件を耳にしてフル・スピードで飛び出したとしか思えない。そうして何かしら思い切った冒険を覚悟してここへ乗り付けたものに違いない。……と思う間もなく相馬運転手は、今まで自動車の中からウルフに差し向けていたらしいピストルをキラリと菜葉服のポケットに落し込みながら、直ぐにウルフのうしろに廻って、両方の手首を黒い包みごとシッカリと押え付けてしまった。  それを見るとそこいらを通りかかっている三四人の洋服男が立ち止まって見物し出した。ズット向うの四ツ辻に突立っている交通巡査も、こっちの方を注意しはじめた。  妾はブル・オヤジの大胆なのに呆れてしまった。おおかたブル・オヤジは相手の正体を知らないでいるのだろう。よしんば正体を知っているにしても、その相手が持っている黒い包みの中味ばっかりは知っていよう筈がない……だから自分の経営しているビルデングから出て来た怪しげな浮浪人を咎めるくらいのつもりでいるのじゃないかしら……と考えているうちに、吹き荒んでいた風が突然ピッタリと止んで、ブル・オヤジの大きな怒鳴り声が、五階の上から見下している妾のところまで聞えて来た。 「……俺は貴様の正体ぐらい、トックの昔に知っているぞ。貴様はお尋ね者の……だろう」  妾は夢中になって身体を引っこめかけた。ブル・オヤジが、わざと云わなかった名前が相手にハッキリ通じたに違いないと思った。それと同時にウルフが正体をあらわすにちがいないと思った。今にも運転手の強力に押えられている両手を振り切って、黒い包みを相手にタタキ付けるかと、息を詰めて身構えていたが、ウルフは矢張り、そんな気振りをチットモ見せなかった。ブル・オヤジからそう云われると同時に、意気地なくグッタリと首をうなだれてしまった。  ウルフのそうした姿を見ると、ブル・オヤジは、なおのこと大きな声でタンカを切り出した。 「貴様等の秘密行動は一から十まで俺の耳に筒抜けなんだぞ。日本の警察全体の耳よりも俺の耳の方がズット上等なんだぞ。貴様がこのごろここへ出這入りし初めた事も、タッタ今、貴様の変装と一緒に、或る方面から電話で知らせて来たんだ。だから俺は大急ぎで飛ばして来た。貴様の面を見おぼえに来たんだ。いいか……」 「……………」 「……敵にするなら敵でもいい。貴様等の首を絞めるくらい何でもない。論より証拠この通りだ。貴様等みたいな青二才におじけて俺の荒仕事が出来ると思うか。しかし、きょうは許してやる。俺の可愛い奴のために見のがしてやる。ここで出会ったんだから仕方があるまい」 「………………」 「行け…………」  ブル・オヤジが、こう云うのと一緒に、ウルフの両手を掴んでいた運転手が手を離して、グルリと相手の横ワキへまわった。その菜っ葉服のポケットの中でピストルを構えているのが真上から見ているせいか、よくわかった。  けれどもウルフは行かなかった。その代りに今まで猫背に屈まっていた身体をシャンと伸ばすと、共産党員らしい勇敢な態度にかわって、ブル・オヤジの真正面にスックリと突立った。二人はそのまま睨み合いをはじめた……。  妾は何だかつまんなくなって来た。  睨み合っている二人はお互いに、お互い同志の事を知り過ぎるくらい知り合っているのだった。それでいてこの妾に気兼ねをしているために、何んにも手出しが出来ずにいるのだった。  妾は窓から首を引っこめて、大きなクシャミを一つした。寝台の下に手を入れて、コロコロ倒れる瓶の間から、重たいパンの固まりを取り上げると、その横腹をやぶきながら、もう一度窓の下をのぞいてみた。  五階の下の往来では二人がまだ睨み合っている。見物人も元の通りに四五人突立っている。その真上に重たい銀色の球をさし出して手を離しながら、すばやく窓を閉めて、耳の穴に指を突込んだ。建物の全体がビリビリとふるえた。  ……それだけだった……けれども、タッタそれだけで、妾は身体中が汗ビッショリになるほど昂奮してしまった。  それから何十分ぐらい経っていたか、わからなかった。  隣りの室の仕切りの大きな垂れ幕の裾にハラムの全裸体の屍骸が長々と横っていた。その横の化粧部屋で、妾は久し振りにお垂髪に結って、新しいフェルト草履を突っかけながら、振り袖のヨソユキと着かえていた。  それはウルフが四五日前に教えてくれたピストルの無音発射の試験を実地にやってみて、成功したばかしのところだった。妾の寝台の上にだらしなく眠りこけていたハラムの真黒い、おおきな腹の弾力が、妾の小さなブローニングの爆音を、あらかた丸呑みにしてくれたのだった。反動がずいぶん非道くてビックリしたけども、逆手に持った引金の引き方をウルフから教わっていたので、指を折るようなヘマな事はしなかった。その代りに手の中から飛び出したピストルが天井にぶつかって、風車のように廻転しながら床の上に落ちて、又も二三べんトンボ返りを打った。  ハラムはそのあとからワレガネみたいな悲鳴をあげて床の上に転がり落ちた。そのまま絨毯の上をドタリドタリとノタ打ちまわると、それにつれて真赤な帯がグルグルとハラムの胴体に巻き付いて行った。  ハラムは、その間じゅう息詰まるような唸り声をあげつづけた。 「……オヒイ……サマ……オオオヒイ……サマア……アア……アア……」  妾はそれを見下しながら麻雀台の傍に突立っていた。「恋」というものの詰らなさ……アホラシサをゾクゾクするほど感じさせられながら、シンミリした火薬の煙と、腥い血の匂いの中に立ちすくんでいた。百五十キロもある大きな肉体が、椅子やテーブルを引っくり返して転がりまわるのを見守っていた……まだ死なないのか……まだ死なないのか……と思いながら……。 「犬神博士」は私が何等の自信もないままに、突然福日社から頼まれたものです。むろん一度ならず、お断りしかけましたし、福日社も私の危虞を察して「それじゃ止そうか」と云われたものですが、旧知の青柳君がどこかで「挿絵は生れて初めてだが、夢野君のものなら扱ってみたい」と云った事を洩れ聞きましたので、すっかりインフラしてしまって、とうとう無理に福日社へ押しかけて書かしてもらうことになったものです。もちろん私も新聞ものは生れて初めてでしたので、「新米同志なら一丁来い」という気持が主になっていた事は否定出来ません。青柳君も、馬琴の八犬伝を「俺の絵で売れるんだ」といった北斎ぐらいの自信は持っていたことでしょう。  ところが私の「犬神博士」の方は不慣れなのと、追いかけられるのと、母の大病と、そのほか何やかやゴチャゴチャしたために思わぬ失態が百出しまして、とうとう打ち切られてしまいました。……にも拘わらず挿絵の方は非常な好評で、引き続き大家、十一谷義三郎氏の「神風連」を描くことになりました。つまり私の筆の方は残念無念にも、完全にノック・アウトされた訳で、自分ながら小気味のよい思い出になってしまいました。もっとも、ほかの知らない人からコンナ目に遭わされたのでしたら、ただ矢鱈に口惜しいばかりだったかも知れませぬが、相手が青柳君だったもんですから、座角力に負けた位の気持ちにしかならなかったものでしょう。むろんモウ一度、どこかで取り組んで眼に物見せてやりたいとは思っておりますが……。  青柳君の芸術は貪慾の深い芸術です。これが同君の持って生れた因果かも知れませぬが、同君の挿絵を一眼見たらわかるでしょう。一見飄逸なような、わがままなような、投げ遣りなような構想と筆致の中に、一筆一点でも他人に指させまいとする緊張味が籠っております。内外の古典、写実……純正、立体、超現実に致るまでのあらゆる風派の味と力が用意、不用意の中に取り入れられております。  それだけでも同君の味覚と、歯力と、消化力が、いかに素晴らしいものがあるかがわかると同時に同君が一切の事象と、如何に真剣に取り組んでいるかがわかるでしょう。しかも、その中に閃めき、にじみ、ほのめいて全体を蔽い、引き締めている同君独特の持ち味に到っては、今から既に鬱然たる大樹の萌芽をあらわしているばかりでなく、その画風の健康さ、境界の深大さが、一つの目に見えぬ力となって画面に盛り上り、跳ねかえっているのがアリアリと看取されるのであります。同君が、これだけの内容を熟させるべく自己を鍛い上げるには、なかなか容易の業ではないでしょう。  しかも同君は、この抱負を自覚しているようです。同君が外界の事象と四つに取組むと同時に、こうした自己の内部のものと必死に取組み合って、蒼白い、必死の膏血を滴らし続けていることがその絵によって窺われますから……。  小柄な、真剣な、力強い、負けじ魂の固りのような人です。そうして蒼白く冷笑しているんです。  人間としては何でもない人のようですが、芸術家としては実に恐ろしい人です。いくら賞めても罵倒しても、依然として冷笑しているのですから。    意外な夢遊探偵  一方、星田代二と別れた雑誌記者の津村は、殆んど逃げる様にして新橋駅構内を出た。そうして何処をドウ通り抜けて来たか、わからないくらい混乱しいしい銀座の左側の通りをセッセと歩き出した。  けれども、それから人ごみの中を二三百歩ばかり一直線に歩いて来ると彼はハタと足を佇めた。両手をポケットに突っ込んで、うなだれたままホッと溜息をした。殆んど不可抗的な力に直面させられた気持で……  ……俺は星田を救わねばならぬ。……自分の先輩とも、兄とも、又は一種の保護者とまでも感じて、尊敬していた星田を、鉄のバイトみたようにシッカリと掴んでいる「完全な犯罪」の機構の中から救い出さねばならぬ立場に現在タッタ今置かれて居るのだ……こうして銀座の人ゴミの中をタッタ一人でテクテク歩きながら……  と云ったような感じを受けると、気の小さい彼は、殆んど身動きも出来ない気持のまま、又もソロソロと歩き出したのであった。  ……誰も加勢して呉れる者は無い。……否……タッタ一人居る。  ……村井……村井だ。……  そう気が付いた時に彼は又も脊髄までドキンとさせられながら立佇まった。  彼は眼を一パイに見開いた。唇をワナワナと震わした。今までよりも更に数等深い鋭い恐怖に襲われつつ、白昼の夢遊病者のようにノロノロと自分の周囲を見まわした。  其処はちょうど資生堂の横町らしかった。左側の横町一パイに重なり合って行列していたタクシーの先頭の一つが彼に向って手をあげて見せた。彼はフラフラと其の中へ転がり込んだ。 「日本橋の二〇二〇三……じゃない。本石町の医療器械屋へ……イヤ……本石町へ行けばいいんだ……」  と殆んど夢うつつの様に彼がつぶやいたのと、自動車が動き出すのと殆んど同時であった。彼はクッションのマン中にドタンと尻餅を突いて引っくり返りそうになった。 「……村井だ……村井だ……」 「完全な犯罪」の側杖を喰って、星田以上の恐怖に打ち拉がれていた彼は、最早、自分の意志を無くした空っぽの人形として動いているだけであった。ただ頭の片隅に残っている疑惑の指さし示すがままに、そっちの方角へヒョロヒョロと行って見るよりほかに、何等の判断力も、自制力も持たなくなっている彼であった。……しかも、そんなにまで打ち拉がれた夢遊病者同様の人間が、時と場合によっては、どんなに恐ろしい事を仕出かすものか……超人的な頭脳と意志を持った人間に取って、ドレ位厄介極まる苦手として立ち現われて来るものか……という事は、流石の「完全な犯罪の計画者」も予算して居なかったのではあるまいか。津村は人間最高の智力と、意力によって計画された「完全な犯罪」の機構の中からフラフラと洩れ出した無力な人形ではなかったろうか……何時、何処へ行って、ドンナ事を始めるかわからない……。 「アッ。此処だ」  と突然に叫んだ津村は、それでも五十銭玉を一個、運転手に渡すことを忘れなかった。そうして「医療器械」と大きく「岩代屋――電日二〇二〇三」と小さく明朝体で書いた白地の看板を見上げたまま暫くの間突っ立っていた。  彼は此処まで来てヤット「此処まで来た理由」を思い出したのであった。  彼は今日の午後一時頃、此の医療器械屋を出て、怪しい男女の乗った自動車を東京駅まで跟けて行く途中で、星田に云った自分の言葉を今一度その通りに自分の耳に云って聞かせたのであった。白地の看板を見上げながら…… 「僕はヒョットしたら、是は村井さんのイタズラじゃ無いかと思うんですが……」  そう云って村井の行動の怪しい点を一つ一つに拾い出した時の自分の微苦笑じみた気持までもハッキリと思い出したのであった。  つつましやかな彼は、こうして自分の云った言葉や、他人から云いかけられた言葉をいつまでもいつまでも丹念に記憶している癖があった。だから彼はそれと一緒に、ツイ四日前あの珈琲店で、彼自身と星田と村井の三人が、女給の綾子を取巻いて交換した、印象の深い会話の数々までもアリアリと思い出したのであった。極めて自然ではあったが、三人の話題を恐ろしい犯罪の方向に引っぱり込んで「完全な犯罪は在り得ない」と主張する星田を、冷笑的な態度で反駁していた村井の言葉を……そうして最後に何の苦もなく哄笑しいしいサッサと別れて行った村井の態度を……  ところが、そんな潜在的な記憶に心を惹かれていたせいでもあったろうか。何の気もなく「村井君のイタズラかも知れない」と云った彼の言葉は果然、重大極まる事実となって彼の眼の前に立ち塞がってしまったではないか。そうして何でも彼でも此の疑いを晴らさなければトテモたまらない……と云った気持にフラフラと此処まで追い遣られて来た彼自身ではなかったか……。  そう思い思い彼は依然として、躊躇するでもなく、しないでもないフラフラとした恰好で店の中へ這入ったのであった。 「いらっしゃいまし」  と云うイガ栗頭の中小僧の愛嬌顔と、縞の筒ッポーが彼の眼に映った。しかし空ッポになった彼の頭は、それ以外の事を何一つ印象し得なかった。其処で其の中小僧にドンナ事を尋ねたかすら記憶しないまま又もフラフラと店を出た。 「イイエ。その方は御自分で新聞記者とは仰有った様でしたが……主人がお相手を致して居りましたので、よくわかりませんでしたが、別にお言伝も何もありませんでしたよ。御座いましたら主人が出がけに申残して行く筈ですが。ハイ。お客様のお買物について何か二言三言お尋ねになりましたきりで、その椅子に腰を卸して煙草を召あがりながら、表の通りをボンヤリと眺めてお出でになる様でしたが、そのままユックリユックリ出てお出でになったんですが……」  と云う雄弁な中小僧の言葉を片耳に残しながら……。  ……村井は吾々を撒く為に此店へ立寄ったのだ。新聞記者である彼が……あんなにまで熱心な態度を見せていた彼が、事件を見かけてコンナに緩り緩りした行動を執る筈はない。そんな傍道の仕事よりも、カンジンの犯人の追跡の方が、はるかにお得意の彼ではなかったか……  津村はソンナようなモヤモヤした疑いの雲を、今までの疑いの上にモウ一つ包みかけながら何時の間にか往来を歩き出していた。老人の様に背中を曲げて、眼の前の空間を凝視して、彼の頭の中のように夕霧の立籠めた中からポカリポカリと光り出して来る自動車の燈火やネオンサインに魘え魘えよろめいて行くうちに、余程長いこと歩いたのであろう。眼の前の半空に大きく「あづま日報社」と輝き現わした三色のネオンサインの交錯を仰いだ。そのうちに、 「ハハア。これは村井が出て居る新聞社だな。そんなら、俺は此処へ村井を探しに来たんだな……」  という事実をやっと意識した彼は、いつも村井に会いに行く時の習慣を無意識の中に繰返しながら、トラックの出口から中庭へ這入って、編輯局の裏梯子を登った。何処をどう歩いて、ドンナ事を考えて来たかわからないまま、熱病患者のようにヘトヘトになっている彼自身の身体と頭を、無理矢理に上へ上へと押し上げながら……  鉄梯子の上の写真製版室から真白い光明が、眼も眩むばかり射出されていた。その蔭になって彼が登って行くのが見えなかったのであろう。彼の頭がモウ二三歩で階段の上に出ようとした処へ、ちょうど編輯局の裏廊下に当る窓の処から、慌しい会話が聞えて来た。 「オイ。何処へ行くんだ!」 「アッ。君だったのか……君……村井は何処へ行ったか知らないかい」 「知らないよ。今日は来ない様だがね……何か事件かい」 「ウン。チットばかり凄いんだ。星田が引っぱられたんだ」 「星田……星田って何だい。議員かい」 「馬鹿。この間会ったじゃ無いか。村井と一緒に……」 「アッ。あの星田が……探偵小説の……ヘエッ。賭博でも打ったのかい」 「……そんな処じゃ無いんだ。殺ったらしいんだ」 「アハハ。初めやがった。モウ担がれないよ」 「馬鹿……冗談じゃ無いぞ。警視庁に居る戸田からタッタ今電話がかかって来たんだ。各社とも騒いで居るんだが、何か一つ特種を市内版までに抜かなくちゃならないんだ」 「村井は居ないのかい」 「チェッ。だから君に聞いているんじゃないか。彼奴が居ると星田の事は尻ベタのホクロまで知って居るんだが、きょうに限って居ないもんだから編輯長がプンプン憤って居るんだ」 「村井はモウ事件に引っかかって居るんじゃ無いかな」 「ウン。そいつもあるね。何とも知れねえ。しかし取りあえず困った問題が一つ在るんだ。そいつに弱ってるんだ」 「何だ……その問題ってのは」 「○○だぜ……絶対に……」 「……むろん……見せ給え。その紙を……」 「フーン。……サイアク……オククウ……何だいコリャ……」 「……シッ……編輯長にも伏せて在るんだ。戸田から掛かって来た電話を俺が聞きながら書き止めたんだ。何でもコイツが特種中の特種らしいんだ」 「フウン。どうして……」 「ウン、それがね。本社の戸田と三田村がきょうの警視庁詰でね。新米の三田村を案内して遣る積りで裏口の方へまわると、例の正岡と刑事二三人に囲まれてコッソリ自動車から降りて来る若い奴の顔を見るなり探偵小説好きの三田村が大きな声で……アッ……星田さんが……と叫んだものだ。するとその声を聞き付けた星田が戸田の顔を見るなり、刑事に気付かれないように、口を二度ばかりパクパクやってみせた。そのまんま何とも云えない悲痛な微笑を浮かべると、又モトの通りにうなだれて行ったというんだがね。その口の動かし方をアトから考え合せてみると、たしかに二度ともサイアク、オククウと云っているに違い無いと思われた。だもんだから、これは何かのヒントじゃないかって戸田の奴が電話で云ってよこしたんだ。日比谷の自動電話を使って……」 「フーン。しかし夫れだけじゃ特種にならないね」 「だからさ。ヒントなら何のヒントだか、これから考えなくちゃならないんだが、俺ぁトテモ苦手なんだ。こんな事が……しかも此の……サイアク……オククウは星田が村井に伝えてくれと云う意味で、特に村井と心安に戸田の顔を見かけて云ったことかも知れないんだ。戸田自身にソンナ気がすると云ってよこしたんだがね」 「ウーム。サイアク、オククウ……逆様には読めないし……と……サイアク。ダイマク。カイサク。ナイカク。……トクキウ。ホクフウ……わからねえよ。ハハハ……」 「誰か君、星田の懇意な奴を知らないかい。親類でも何でもいい。妻君のほかに……」 「そりゃあイクラでも居るだろう。何とか云う雑誌記者と、いつもつながって歩いて居るって話だがね」 「ウン。その雑誌記者の名前を思い出してくれよ。雑誌は何だい」 「たしか淑女グラフだったと思うがね」 「そいつの名前は……」 「ウン。何とか云ったっけ……ウーン。山口じゃなし、大津じゃなし……と……エーット」  津村記者は全身にジットリと汗を掻き乍ら焦々と後退りをし始めた。急角度に折れ曲った狭い鉄梯子から何度も何度も辷り落ちそうになってヤット地面の上に足が付くと、今来た道を逆に通って表へ出た。……と思ううちに背後からパッと大光明が射して飛び上るようなサイレンを浴びせられた。大方第何版かを積んだトラックが出かける処であったろう……。  しかし彼はモウ驚く力もなかった。星田が捕まった事さえも当然の事と思えるくらい麻痺してしまった頭の片隅で、ただ無意味に「サイアク、オククウ」という言葉を考えながらヨロヨロとよろめき退いた。そうして横の暗がりに在る赤いポストの上に手をかけた。  所が、そのポストに手をかけた瞬間であった。彼はハッとして手を引いた。そのポストの生冷たさが熱鉄のように彼の掌に感ぜられると同時に、彼は或る素晴らしいヒントを得たのであった。サイアク、オククウの謎が解けたのであった。  彼は星田が此頃、極端な西鶴の崇拝者になっていることを知っていた。ことに其の中でも「桜蔭比事」の研究に没頭していて、○○館発行の古い西鶴全集の下巻を振りまわしながら「……ドウダイ津村君……最近、和洋を通じてドエライ発達を遂げた犯罪と探偵小説のトリックのどの一つでも、此の中の何処からか探し出すことが出来ると思うんだがね」と怪気焔を揚げていたことを、昨日の事のように記憶して居たのであった。だから彼は、殺人の嫌疑を受けた星田が、警視庁の裏手で自動車から降りた時にヤット気付いた最後的なヒントを、絶体絶命の思いで村井に伝えて貰おうとした。その物凄いセツナイ努力を、こうした思いもかけぬ方法で、彼自身に受け取ることが出来たものであったろう。  彼は慌てて外套の襟を直した。帽子を冠り直した。タッタ今出て来た新聞社の玄関から、受付の女に咎められるのも構わずに、一気に階上へ駈け上ると、何度も来たことのある調査部の扉をたたいて中に這入った。顔なじみの部員に古い○○館出版の西鶴全集の下巻を出して貰って。それでも帽子を脱いで横に置きながら第六十九頁を開いた。サイカク……六九……サイカク、六九と口の中でくり返しながら……。  ――本朝桜蔭比事。巻の四。第七章――「仕掛物は水になす桂川」  昔、京都の町が静かで、人々が珍らしい話を聞き度がっている折柄であった。五月雨の濁水滔々たる桂川の上流から、新しい長持に錠を卸して、上に白い御幣を置いたものが流れて来た。そこで拾った人間が、御前へ差出して処分方を伺い上げたものであったが、開かせて御覧になると、中には古こけた髑髏が五個と、女の髪毛が散らばっていたので、皆、肝を消して震え上った。然るに、お上では格別に驚かれた様子も無いばかりか、あべこべに拾った人間をお叱りになって、「おのれ。無用の者を見付けて人を騒がせるヤクタイ者。これより直ぐに四条河原へ行って、今度、桂川を流れ下った長持の風説を、芝居に仕組んで興行することまかりならぬと、乞食役者どもへ固く申付けよ」と仰せられた。これは狂言の種に苦しんだ河原乞食どもの仕業と、すぐにお気付きになったからで……云々……  此処まで読んで来た津村はパッタリと本を閉じた。そのまま宙に吊るされたような恰好で、眼を上釣らせたまま調査部を出て行った。呆れて見送っていた調査部員が注意しなかったならば彼は、帽子を置き忘れて行ったかも知れない。 「これが……これが……種に苦しんだ活動屋の思い付きだろうか……星田の推理した『完全な犯罪』の真相だろうか……これが……これが……」  津村は頭がジイーンと鳴り出したまま、こうした疑いを氷のように背骨に密着させて新聞社の階段を降りた。棒のように固くなったまま眼の前に停止したタクシーに乗り込んだ。        一  一人の乞食の小僧が山の奥深く迷い入って、今まで人間の行った事のない処まで行くと、そこに猿の都というものがあった。  猿の都は広い野原と深い森に囲まれた岩の山で、その岩には沢山の洞穴が出来ていて、まるで大きなお城のようになって、その中に沢山の猿が住まってキャッキャと騒ぎまわって日を送っているのであった。乞食小僧がそこへ来ると、猿共は人間を珍らしがって大勢まわりに集まって来たが、何と思ったか、皆で小僧を担ぎ上げて、お城の奥深く住んでいる猿の王様の処へ連れて行った。王様は大きな猿で、石の椅子の上に枯れ草を敷いて坐っていたが、乞食小僧を見ると驚いて岩の天井に駈け上った。けれども小僧は落ち付いて、街で貰った煎餅を一枚|懐から出して王様に遣ると、王様は大層嬉しかったらしく、家来の猿共に云い付けて果物を沢山持って来らして小僧に遣った。小僧は果物が大好きであった。そして、こんな沢山喰べ物があるならば、街で乞食をしているよりもここに居る方がずっといいと思った。  翌る日から乞食小僧は猿共と一所になって遊んだ。そして先ず白い木の皮で冠を造って、赤い木の実で染めて、王様に冠せてやった。王様は喜んで、又沢山果物を呉れた。それから小僧は木の枝を集めて自分の家を造った。そして、感心して見ている猿共にも造ってやった。その他、小僧はいろいろな良い事を猿共に教えてやった。谷川に橋を掛ける事。怪我をした時に赤土を押し当てて血を止める事。渋柿を吊して露柿を造る事。胡栗を石で割って喰べる事。種子を蒔いて真瓜を造る事。  その代り少年は、猿からもいろいろな軽業を習った。木登り方は先生の猿よりも上手になった。綱渡りも名人になった。枝から枝へ飛び渡ったり、足を引っかけてブラ下ったり、身の軽い事鳥のようで、地面の上を歩くよりも木の上を駈けまわる方がずっと早い位になった。その中に猿の言葉はいうに及ばず、いろいろな獣や鳥や虫の言葉まですっかり記憶えてしまったので、今は遊び友達が大変に殖えて、いよいよここが面白くて面白くて堪らないようになった。        二  すると或る日の事、猿の王様の処で大変な評議が始まった。それは一匹のカナリヤが知らせに来たので、何でも山一つ向うに狼の強盗が沢山集まっていて、「猿の癖にお城に居るなんて生意気だ。これから攻め寄せてお城を取って、手向いをする奴は片っ端から喰ってしまおうではないか」と評議していると云うのであった。  これを聞くと猿共は、赤い顔が青くなる程驚いていろいろ相談をしたが、何しろ喧嘩ずくでは狼に敵わないから一層の事、狼に喰い殺されないうちにここを逃げ出して、他の所にいい住居を探そうという事に決めた。けれども小僧はこれを押し止めて、猿共を皆|洞穴の中に隠して入り口を塞いで、自分一人森の外に出て狼の来るのを待っていた。  狼はとうとう或る夜やって来た。その数は何千か何万かわからぬ程ヒシヒシと猿の都を取り巻いて、先ず一時に鬨の声を挙げて大波の打つように攻め寄せて来た。けれども小僧は驚かなかった。狼が近寄ると、小僧は懐から燧石を出して森の外の枯れ草に火を放けた。すると折りから吹いて来た烈しい夜風に誘われて、見るうちに焼け広がって轟々と音を立てながら狼の方に吹きかかって行った。そのために深い草の中に居た狼共は皆焼け死んだ。死なないものも火の勢いに恐れてチリチリバラバラに逃げ失せた。その後狼共は又と再びこの猿の都に攻め寄せて来なかった。それから猿共は王様を始め皆、小僧を神様のように恐れ敬って、毎日いろいろな美味しい果物を捧げて、何でも云う事を聞くようになった。小僧は益得意になって大威張りで遊びまわった。        三  或る日の事、小僧は只一人で山の中を遊びまわっていると、思わず遠方まで来て一つの湖の傍へ来た。その湖は大変景色がよかったので、小僧はぼんやりと見とれていると、やがて沖の方から一|艘の帆掛船が来るのが見えた。小僧は久し振りにこんなものを見たので、何だか懐かしいような気がしてなおも一心に見ていると、その船はだんだん近寄って、小僧の眼の前の砂原に着いて帆を卸した。そしてその中から、三人の荒くれ男が七八ツ位から十二三位の美しい子供を都合十三人、猿轡を噛まして後手に縛ったまま引きずり出して、砂原の上に坐らせた。そしてその前に一つ宛青い壺を据えて、その横で三人共庖丁を磨ぎはじめた。 「これは生き肝取りに違いない。助けてやろう」  と小僧は思った。そうしてつかつかと傍に近寄って、一人の男に向かって、 「もしもし。私の生き肝を序に一つ取って下さい」  と頼んだ。荒くれ男は三人共、不意に奇妙な子供が出て来た上に、こんな大胆な事を云ったので、驚いて顔を見合わせた。けれどもやがてその中の親分らしい一人は眼をギョロリと光らして、気味悪く笑いながら、 「ウン。取られたければ取ってやらん事もないが、一体何だってそんなに肝が要らなくなったんだ」 「私は今までこの山奥の猿の都に居たんです。そして猿共と一所に木登りをするけれども、木から木へ飛び移ったり綱渡りをするのが恐ろしくて恐ろしくて、どうしても猿共に敵わないんです。ですから猿の王様にそのわけを聞くと、王様が云うには、人間の肝は猿の肝より小さいからそんなにビクビクするのだ。俺は今七八ツ程肝を仕舞って、時々出して洗濯しているが、欲しければ新しいのを一つ遣ろう。その代り今持っているのを棄ててしまえというのです。けれども私はどうしたら肝を出していいか分らないから、誰か肝を取る事の上手な人に頼もうと思ってここまで来たところです。丁度いいから取って下さい」 「ハハハハ。貴様は馬鹿だな」 「馬鹿じゃありません。本当に頼むんです」 「ウン、そんなら取ってやろう。その代り少し痛いからじっとしていなくちゃ駄目だぞ」 「痛い位驚きません」 「よし。こちらへ来い」  と云って、親分は一本の大きな樹の下に連れて行った。小僧はその幹によりかかって、胸を開いて、 「さあ取って下さい」  と云いながら突き出した。あとからついて来た二人の男は驚いて、 「馬鹿な小僧だなあ」  と云った。  けれども親分らしい男は黙って、今磨いだばかりの庖丁を小僧の眼の前に突きつけて、睨み付けて云った。 「さあいいか」  これを見ると、小僧は急に高らかに笑い出した。 「アハハハ。お前達に肝を取られるような間抜じゃない。今のは鳥渡嘘を吐いて嘲弄ったのさ。態を見ろヤイ」  と云いながら、親分の顔にプッと唾を吐きかけた。親分は「奴れ」と云い様、小僧の胸を目がけて庖丁をグサと突き立てた。けれどもその胸は板のように固かった。ハッと驚いてよく見ると、庖丁は木の幹に突っ立っていて、小僧の姿はどこへ行ったかわからなかった。 「ヤーイ。馬鹿野郎。間抜け野郎。ここまでお出で。甘酒進上」  と云う声が木の上からきこえて来た。それと一所に水がバラバラと降って来た。見ると小僧はいつの間にか木の上に駈け上って、三人に小便をしかけていた。三人は怒るまい事か、庖丁を口に啣え、手ん手に木に登り初めたが、三人が小僧の傍まで来ると、小僧は又一段高い処に登って散々に悪態を吐いた。三人は益憤って、どこまでもと追いつめた。そしてとうとう一番|天辺まで来ると、小僧は鳥のように隣りの木の枝へ飛び移って、スルスルと地面へ辷り降りて砂原へ来て、十三人の子供を船に乗せて帆を揚げた。三人の悪者が木から降りた時は、船はもう沖の方へ出ていて、只小僧の声ばかりが岸まで聞こえていた。 「馬鹿ヤーイ。態を見ろヤーイ。小便引っかけられやがったヤーイ」        四  船が向う岸に着くと、小僧は十三人を船から卸して、家はどこだと聞いて見ると、皆この国の都の貴い人々の子供ばかりで、中にも一番小さい七つになる児は天子様のお世継ぎの太子様であった。或る日、十三人は揃って川遊びに行った途中、お伴の者の船にはぐれて悪者共に捕えられたのであった。小僧はそれでは都まで送ってやろうと約束すると、皆泣いて喜んだ。それから小僧は十三人を、一番小さい太子様から順々に一列に並べて、青い壺を胸の処に掛けさせて都の方へ出発した。そして口々に次のような歌を唄わせた。 私達は都の子供 都合合せて十三人 生き肝取りにかどわかされて 手をば縛られ口ふさがれて 青い壺をば背に負わされて 歩け歩けと打ちたたかれて 野越え山越え悲しい旅路 泣いても泣いても声は出ぬ 船は帆揚げて潮越えて 砂の浜辺に座らせられて 胸を割かれてしまったならば あとに残るは只生き肝と 肝を封じた青い壺 不思議の生命を助かって 都へ帰る十三人 生命の代りに首からかけた 壺は青壺瀬戸物壺よ 中に溜るは助かる生命 うれしうれしの喜び涙 又は父様|母様恋し 兄様姉様|妹弟 恋し恋しのなげきの涙 又はこの歌きく人々の 清い尊い情の涙 たまりたまった行く末は 遠く遠くの都まで やがて帰ったその時に 土産にするもの一つ 汲んで尽きせぬ人間の 涙を湛えた青い壺 ほんに私の生命の壺よ 大切な大切な青い壺 空を行く日よ野を吹く風よ 心して照れ心して吹け 壺に溜った生命の泉 清い涙を乾かすな  これを聞いた人々は皆、涙を流して気の毒がって、子供達の胸にかけた壺の中に喰べ物やお金を入れてくれた。小僧は見えかくれにそのあとに従いて行って、自分は木の実を千切ったり、掃き溜めを漁ったりして喰べて行った。        五  都へ帰る途中に大きな森があった。そこへ来ると一匹の鳶が来て、小僧に大変な事を知らせた。 「早くどこかへ隠れなければ危ないよ。三人の悪者が弓と矢を持って、お前達を追っかけて来るよ」  小僧はこれを聞くと、その三人の悪者はこの間の生き肝取りに違いないと思った。そして、「最早今度は勘弁しないぞ」と思いながら、子供達を皆木の上に隠して、自分は直ぐに近所の村に行って何か探しまわった。見ると只ある小径を横切って沢山の蟻が行列を立てて行くから、 「どこに行くのか」  と聞くと、一匹の大きな蟻が頭を上げて、 「砂糖を取りに行くのです」  と答えた。 「俺も砂糖を探しているのだ。何なら仕事を手伝ってやろう。その代り山分けにしてくれなければ嫌だ」 「どうぞ手伝って下さい。あまり沢山あって運び切れないので困っているのです。砂糖は向うの広場に落ちております。大方砂糖車から零れたのでしょう」  小僧はそこへ行って見ると、成る程沢山の砂糖が散らばって落ちていた。それを掃き集めてその半分を蟻の穴の傍へ持って行ってやると、蟻共はもうこれだけで穴に這入り切らないと云って喜んだ。小僧はあとの半分を持って引っ返して、森の奥深く這入って行った。  やがて生き肝取りの悪者三人がやって来ると、小僧は往来の真中へ飛出して大きな声で笑った。 「ヤーイ。又来やがったな。馬鹿野郎共。今度はあべこべに生命を取ってやるぞ。その前にこれでも喰らえ」  と云いながら、お尻を出してたたいて見せた。 「それ」  と云って三人が弓に矢を番えると、小僧は早くも身をかわして、子供達が隠れているのと反対の森に駈け込んで、木の頂上に逆立をしたり、逆様にブラ下ったりして見せた。そしてだんだん三人を森の奥深く誘い込んで行った。三人の悪者はドンドン追っかけて行ったが、その中の一人はあまり上ばかり見ていたので、うっかりして熊蜂の巣に足を踏み込んだ。驚いて飛び退くと、そのあとから何千何万とも知れぬ熊蜂が一度に鬨と飛び出して、三人の悪者に飛びかかって、滅茶滅茶に刺して刺して刺し殺してしまった。悪者共が死んでしまうと、小僧は悠々と樹の上から降りて来て、 「ヤア、熊蜂共。御苦労御苦労。さあ、約束の通り御褒美を遣るぞ」  と云って、砂糖の包を投げてやった。熊蜂共はブンブンと喜んで、 「これさえ下されば、私共は生命も何も要りません」  と土に這い付いてお礼を云った。        六  こうして猿小僧の御蔭で十三人の子供は皆無事で都に着いて、両親や兄弟に会う事が出来たが、皆の者の喜びは譬えようもなかった。中にも王様は小僧を御殿のお庭に呼び寄せて、太子を助けてくれた御褒美にと云って、いろいろのものを賜わったが、小僧はお金や着物なぞはちっとも欲しがらずに、只喰べ物ばかりを欲張った。そして、あまり嬉しかったので、逆立ちをしたり筋斗返りをしてお眼にかけた。王様も大層お喜びで、今日からこの小僧に乞食をやめさせて、御殿の中に抱えてやれとお言葉があった。  それから小僧は御殿の中でお湯に入れられて、美しい着物を着せられて、いろいろな礼儀や学問を教えられたが、小僧はそんな事は大嫌いであった。その中でも、広い長い重たい着物を着せられるのが一番|厭で、うっかりするとお付の者の眼を盗んで直に下着一枚になって、御殿の屋根の上を駈けまわった。それから夜はどうしても寝床の中に寝ないで、王様の馬小屋の藁の中に寝た。その馬は王様を載せるのが自慢で、「自分が通ると、人間が皆頭を下る」と小僧に話して聞かせた。 「それだからお前は馬鹿なんだ。それはお前に頭を下げるのじゃない、王様に下るのだ。そんな事を喜んでいるより、俺と一所に来て野原で遊んで見ろ。日は照るし、風は吹くし、川は流れているし、美味しい草はいくらでもあるし、こんな面白い気持ちのいい事はないぜ」  と話して聞かせた。 「そんなら連れて行って下さい」 「うん、連れて行ってやろう」  と約束したが、やがて夜が明けると直ぐに閂を外して、馬を出して、その背中に飛び乗って王宮の御門の処へ来た。門番は驚いて、 「どこへ行く」  と尋ねた。 「王様の馬と一所に野原に遊びに行くのだ」 「この馬泥棒」  と云う中に門番は馬を押えた。猿小僧は直ぐに馬の背から御門の屋根へ飛び上って、外へ出てしまった。        七  小僧が久し振りに山奥の猿の都へ帰って来ると、猿共は泣いて喜んだ。小僧も生れて始めて嬉し泣きに泣いた。そして云った。 「人間の都より猿の都の方が余っ程いい。もう決してここを出て行かないから安心しておくれ」 「女を見て美しいと思うものは、罪を犯した者だ」という基督の眼から見れば、たいていの人間は犯罪者……だと思う。それかといって懲役に行くような犯罪をここに発表するわけにも行かぬ……たとえあるにしてでもである。もし又ないのに発見したら、それこそ犯罪であろう。だから「私の犯罪」の告白はその中間程度の生ぬるいところで勘弁していただかねばならぬ。  まず手軽いところから……。  ショッチュウ東京福岡間を往復していた頃のこと。急行でも退屈してしようがないので、ポケットから小さな雑記帳を出して、眼の前の窓に頭をよせかけて居ねむりをしている、四十五、六の紳士の顔をスケッチしはじめた。中禿の頭の毛、ダダッ広い額、ゲジゲジ眉、尻下りになった眼、小さな耳、大きな鷲鼻、への字なりの口、軍艦のようなアゴと念入りに書き上げてパタリと雑記帳を伏せると、その人が大きな眼を開いて私を見た。ニヤリとして言った。 「出来ましたかね」  私のおやじは、伜をカラカッて楽しむというわるい癖がある。それもかなり残忍な方法で……たとえば私はいろんな事の褒美や何かでおやじから金時計を四ツとプラチナの時計を二個貰っていたが、実物はまだ一度も手にしなかった。私はその数をチャンと記憶して遺恨骨髄に徹していた。  そのうちに私のニッケル側が壊れたから、これ幸いとその時計を持って上京して、おやじに新しいのを買ってくれといったら、おやじは仔細らしく私のニッケル側をゆすぶって見たあげくケロリとして、 「使えるだけ修繕して使え」  と言って知り合いの時計屋を教えた。私は煮えくりかえる程腹がたって、どうしてくれようかと思い思いその時計屋に行ったら、見知り越しの番頭が出て来て、 「いらっしゃいまし。旦那様のお時計はもう出来ております。玉が一つ割れておりましたので……お届けしようと存じておりましたところで……」  と言ううちに大きなマホガニーの箱をだした。開いて見ると、おやじが虎の子のようにしているプラチナの時計で、太い鎖と虫眼鏡までついている。  私はそれを持って九州へ逃げた。関門海峡を渡る時に、腹の中で赤い舌をペロリと出した。ところが福岡の棲家へ帰ると電報が来ている。 「プラチナトケイ。ケイサツモンダイニナリ。トリシラベウケタ。キサマニソウイナシトワカル。シキュウヘンソウシ。ソノムネデンウテ」  私は青くなって、時計を貴重品扱いで返送した。眼のまわるほど料金を取られた。  するとそれから二週間位に、鎖と磁石つきの金時計が一個、おやじの名前で送って来た。手紙か何か来るかしらんと待っていたが、何も来ない。  その後上京して様子をきいて見たら、警察問題は嘘で、又おやじに一パイ喰わされていたことがわかった。金時計をタタキ返して遣ろうかと思ったが、考え直して止した。  明治四十一年のこと、九段竹橋の近衛歩兵第一連隊第四中隊に一年志願兵としているうちに、或る晩の事、私の私物筥に風呂敷に包んだ餅が隠してあるのが発見された。その風呂敷に班付伍長勤務上等兵の名前が入っていたので、たちまち班内の大問題になって、私の左右に寝ている上等兵候補者が四人ほど嫌疑者として目指されて、私と一緒に毎晩厳重なしらべを受けた。旧式折敷の構え、執銃立射の構え、寝台抱え……なぞ、数十分乃至数時間にわたる拷問の恐ろしさは経験のある人でなければ説明しにくい。  毎晩点呼後の班内は悽愴の気に満ちた。けれども五人は無言の忍苦を続けた。苛責は次から次へと重くされて行った。  四晩目に私は泣いて白状した。  餅を入れたのは私である。しかし上等兵殿の風呂敷を盗んだ覚えはない。だから白状しなかったのだ……と。これは事実であるが、世にも苦しい言いわけであった。  しかしこの言いわけで、その後の取調べは有耶無耶になった。私が新聞紙に包んで置いた餅が、どうしてずっと離れた寝台に寝ている伍長勤務上等兵の風呂敷で包まれていたかという理由も、従って不明のままに終った。  四人の嫌疑者の中には、私を怨んでいるものと、私の無罪を信じてくれるものと、ふた通りあった。班内でも諸説紛々という有様であったらしい。誰かが私の餅を盗みかけていたのだという者もあった。  いずれにしても「誰かがあの風呂敷の事を白状したら」と意地になって、四人の苦痛を問題にしていなかった私の卑怯さを思い出すとその都度に、大声で叫びたいような気持になる。  その後福岡に来て、ある新聞の記者をしていた時分のこと。  ある事件で朝刊の市内版を遅らしたために、三時近くなったので、主筆の自宅に押しかけて泊めて貰うつもりでタタキ起したがなかなか起きない。ねむさは睡し、立っているうちに蚊は喰うし、情なくなって来たので、少々ヤケ気味で玄関の扉を力一パイ押してみると、内部に照った電燈の光で、扉と扉の合わせ目に引っかかっている掛金が見えた。  しめたと思ってナイフで突き外して、中に入って、もとの通りに締めて、廊下の突き当りの袋戸から蚊帳と蒲団を出して応接間に敷いて、大の字になりながら窓際に並べてある朝顔の鉢を見ているうちに、グッスリと睡ってしまった。  主筆の夫人は美人という評判であったが、いつもの通り早く起きて、朝顔を見るべく応接間の扉を開くと、悲鳴をあげて、二階に駈け上ったという。その後主筆の家の玄関の締りが閂に改められたのは、どうやら夫人の希望らしい。  あの時に、万一主筆が留守だったら……と思うと、今でも冷汗が出る。  これ位で勘弁して下さい。        一  ハハハハハ。イヤ……失礼しました。嘸かしビックリなすったでしょう。ハハア。乞食かとお思いになった……アハアハアハ。イヤ大笑いです。  あなたは近頃、この浦塩の町で評判になっている、風来坊のキチガイ紳士が、私だという事をチットモ御存じなかったのですね。ハハア。ナルホド。それじゃそうお思いになるのも無理はありません。泥棒市に売れ残っていた旧式のボロ礼服を着ている男が、貴下のような立派な日本の軍人さんを、スウェツランスカヤのまん中で捕まえて、こんなレストランへ引っぱり込んで、ダシヌケに、 「私の運命を決定て下さい」  などと、お願いするのですからね。キチガイだと思われても仕方がありませんね。ハハハハハ……しかし私が乞食やキチガイでないことはおわかりになるでしょう。ネエ。おわかりになるでしょう。酔っ払いでないことも……さよう……。  お笑いになると困りますが、私はこう見えても生え抜きのモスコー育ちで、旧|露西亜の貴族の血を享けている人間なのです。そうして現在では、ロマノフ王家の末路に関する「死後の恋」という極めて不可思議な神秘作用に自分の運命を押えつけられて、夜もオチオチ眠られぬくらい悩まされ続けておりますので……実は只今からそのお話をきいて頂いて、あなたの御判断を願おうと思っているのですが……勿論それは極めて真剣な、且つ歴史的に重大なお話なのですが……。  ……ああ……御承知下さる……有り難う有り難う。ホントウに感謝します。……ところでウオツカを一杯いかがですか……ではウイスキーは……コニャックも……皆お嫌い……日本の兵士はナゼそんなに、お酒を召し上らないのでしょう……では紅茶。乾菓子。野菜……アッ。この店には自慢の腸詰がありますよ。召し上りますか……ハラショ……。  オイオイ別嬪さん。一寸来てくれ。註文があるんだ。……私は失礼してお酒をいただきます。……イヤ……全く、こんな贅沢な真似が出来るのも、日本軍が居て秩序を保って下さるお蔭です。室が小さいのでペーチカがよく利きますね……サ……帽子をお取り下さい。どうか御ゆっくり願います。  実を申しますと私はツイ一週間ばかり前に、あの日本軍の兵站部の門前で、あなたをお見かけした時から、ゼヒトモ一度ゆっくりとお話ししたいと思っておりましたのです。あなたがあの兵站部の門を出て、このスウェツランスカヤへ買い物にお出でになるお姿を拝見するたんびに、これはきっと日本でも身分のあるお方が、軍人になっておられるのだな……と直感しましたのです。イヤイヤ決してオベッカを云うのではありませぬ……のみならず、失礼とは思いましたが、その後だんだんと気をつけておりますと、貴下の露西亜語が外国人とは思われぬ位お上手なことと、露西亜人に対して特別に御親切なことがわかりましたので……しかもそれは、貴下が吾々同胞の気風に対して特別に深い、行き届いた理解力を持っておいでになるのに原因していることが、ハッキリと私に首肯かれましたので、是非ともこの話を聞いて頂く事に決心してしまったのです。否、あなたよりほかにこのお話を理解して、私の運命を決定して下さるお方は無いと思い込んでしまったのです。  さよう……只きいて下されば、いいのです。そうして私がこれからお話しする恐しい「死後の恋」というものが、実際にあり得ることを認めて下されば宜しいのです。そうすればそのお礼として、失礼で御座いますが、私の全財産を捧げさして頂きたいと考えておるのです。それは大抵の貴族が眼を眩わすくらいのお金に価するもので、私の生命にも換えられぬ貴重品なのですが、このお話の真実性を認めて、私の運命を決定して下さるお礼のためには、決して多過ぎると思いません。惜しいとも思いませぬ。それほどに私を支配している「死後の恋」の運命は崇高と、深刻と、奇怪とを極めているのです。  少々前置が長くなりますが、註文が参ります間、御辛棒下さいませんか……ハラショ……。  私がこの話をして聞かせた人はかなりの多数に上っております。同胞の露西亜人には無論のこと、チェックにも、猶太人にも、支那人にも、米国人にも……けれども一人として信じてくれるものがいないのです。そればかりか、私が、あまり熱心になって、相手構わずにこの話をして聞かせるために、だんだんと評判が高くなって来ました。しまいには戦争が生んだ一種の精神病患者と認められて、白軍の隊から逐い出されてしまったのです。  そこでいよいよ私は、この浦塩の名物男となってしまいました。この話をしようとすると、みんなゲラゲラ笑って逃げて行くのです。稀に聞いてくれる者があっても、人を馬鹿にするなと云って憤り出したり……ニヤニヤ冷笑しながら手を振って立ち去ったり……胸が悪くなったと云って、私の足下に唾を吐いて行ったり……それが私にとって死ぬ程悲しいのです。淋しくて情なくて堪らないのです。  ですから誰でもいい……この広い世界中にタッタ一人でいいから、現在私を支配している世にも不可思議な「死後の恋」の話を肯定して下さるお方があったら、……そうして、私の運命を決定して下さるお方があったら、その方に私の全財産である「死後の恋」の遺品をソックリそのままお譲りして、自分はお酒を飲んで飲んで飲み死にしようと決心したのです。そうして、やっとのこと貴下を発見けたのです。あなたこそ、「死後の恋」に絡まる私の運命を、決定して下さるお方に違いないと信じたのです。  ヤ……お料理が来ました。あなたの御健康と幸福を祝さして下さい。日本の紳士にこのお話をするのは、貴下が最初なのですからネ……そうして恐らく最後と思いますから……。        二  ところで一体、あなたはこの私を何歳ぐらいの人間とお思いになりますか、エ? わからない?……ハハハハ。これでもまだ二十四なのですよ。名前はワーシカ・コルニコフと申します。さよう、コルニコフというのが本名です……モスコーの大学に這入って、心理学を専攻して、やっと一昨年出て来たばかりの小僧ッ子ですがね。四十位には見えますでしょう。髪毛や髯に白髪が交っていますからね。ハハハハハ。しかし私は、今から三ヶ月前迄は間違いなく二十代に見えたのです。白髪などは一本も無くて、今とは正反対のムクムク肥った黒い顔に、白軍の兵卒の服を着ていたのですから……。  ところが、それがたった一夜の間に、こんな老人になってしまったのです。  詳しく申しますと、今年の、八月二十八日の午後九時から、翌日の午前五時までの間のこと、……距離で云えば、ドウスゴイ附近の原ッパの真中に在る一ツの森から、南へ僅か十二|露里の所に在る日本軍の前哨まで、鉄道線路伝いによろめいて来る間のことです。そのあいだに今申しました……不可思議な「死後の恋」の神秘力は、私を魂のドン底まで苦しめてこんな老人にまで衰弱させてしまいました……。……どうです。このような事実を貴下は信じて下さいますか。……ハラショ……あり得ると思われる……と仰言るのですね。オッチエニエ、ハラショ……有り難い有り難い。  ところで最前も一寸申しました通り、私はモスコー生まれの貴族の一人息子で、革命の時に両親を喪いましてから後、この浦塩へ参りますまでは、故意と本名を匿しておったのですが、あまり威張れませんが生れ付き乱暴なことが嫌いで、むしろ戦争なぞは身ぶるいが出る程好かなかったのです。然し今申しましたペトログラードの革命で、家族や家産を一時に奪われて極端な窮迫に陥ってしまいますと、不思議にも気が変って参りまして、どうでもなれ……というような自殺気分を取り交ぜた自暴自棄の考えから、一番嫌いな兵隊になったのですが、それから後幸か不幸か、一度も戦争らしい戦争にぶつからないまま、あちらこちらと隊籍をかえておりますうちに、セミヨノフ将軍の配下について、赤軍のあとを逐いつつ、御承知でも御座いましょうがここから三百露里ばかり距たった、烏首里という村へ移動して参りましたのが、ちょうど今年の八月の初旬の事でした。そうしてそこで部隊の編成がかわった時に、このお話の主人公になっているリヤトニコフという兵卒が私と同じ分隊に這入ることになったのです。  リヤトニコフは私と同じモスコー生れだと云っておりましたが、起居動作が思い切って無邪気で活溌な、一種の躁ぎ屋と見えるうちに、どことなく気品が備わっているように思われる十七、八歳の少年兵士で、真黒く日に焼けてはいましたけれども、たしかに貴族の血を享けていることが、その清らかな眼鼻立ちを見ただけでもわかるのでした。  彼はこの村に来て、私と同じ分隊に編入されると間もなく、私と非常な仲良しになってしまって、兄弟同様に親切にし合うのでした。……といっても決して忌わしい関係なぞを結んだのではありませぬ。あんな事は獣性と人間性の矛盾を錯覚した、一種の痴呆患者のする事です……で……そのリヤトニコフと私とは、何ということなしに心を惹かれ合って隙さえあれば宗教や、政治や芸術の話なぞをし合っているのでしたが、二人とも純な王朝文化の愛惜者であることが追々とわかって来ましたので、涙が出るほど話がよく合いました。殺風景な軍陣の間に、これ程の話相手を見つけた私の喜びと感激……それは恐らく、リヤトニコフも同様であったろうと思われますが……その楽しみが、どんなに深かったかは、あなたのお察しに任せます。  けれども、そうした私たちの楽しみは、あまり長く続きませんでした。その後間もなくセミヨノフ軍の方では、この村に白軍が移動して来たことを、ニコリスクの日本軍に知らせるために、私達の一分隊……下士一名、兵卒十一名に、二人の将校と、一人の下士を添えて斥候に出すことになりましたのです。さよう、……連絡斥候ですね。実は私は、それまで弱虫と見られていて、そんな任務の時にはいつでも後廻しにされていたので、今度も都合よく司令部の勤務に廻わされていましたから、占めたと思って内心喜んでいたのですが、思いもかけぬ因縁に引かされて、自分から進んで行くようなことになりましたので……というのは、こんな訳です。  その出発にきまった前日の夕方に……それは何日であったか忘れてしまいましたが、私がリヤトニコフや仲間の分隊の者に「お別れ」を云いに司令部から帰って来ますと、分隊の連中はどこかへ飲みに行っているらしく室の中には誰も居ません。ただ隅ッこの暗い処にリヤトニコフがたった一人でションボリと、革具の手入れか何かをしていましたが、私を見ると急に立ち上って、何やら意味ありげに眼くばせをしながら外へ引っぱり出しました。その態度がどうも変テコで、顔色さえも尋常でないようです。そうして私を人の居ない廏の横に連れ込んで、今一度そこいらに人影の無いのを見澄ましてから、内ポケットに手を入れて、手紙の束かと思われる扁平たい新聞包みを引き出しますと、中から古ぼけた革のサックを取り出して、黄金色の止め金をパチンと開きました。見るとその中から、大小二、三十粒の見事な宝石が、キラキラと輝やき出しているではありませんか。  私は眼が眩みそうになりました。私の家は貴族の癖として、先祖代々からの宝石好きで、私も先天的に宝石に対する趣味を持っておりましたので、すぐにもう、焼き付くような気もちになって、その宝石を一粒|宛つまみ上げて、青白い夕あかりの中に、ためつすがめつして検めたのですが、それは磨き方こそ旧式でしたけれども、一粒残らず間違いのないダイヤ、ルビー、サファイヤ、トパーズなぞの選り抜きで、ウラル産の第二流品なぞは一粒も交っていないばかりでなく、名高い宝石|蒐集家の秘蔵の逸品ばかりを一粒ずつ貰い集めたかと思われるほどの素晴らしいもの揃いだったのです。こんなものが、まだうら若い一兵卒のポケットに隠れていようなぞと、誰が想像し得ましょう。        三  私は頭がシインとなるほどの打撃を受けてしまいました。そうして開いた口がふさがらないまま、リヤトニコフの顔と、宝石の群れとを見比べておりますと、リヤトニコフは、その、いつになく青白い頬を心持ち赤くしながら、何か云い訳でもするような口調で、こんな説明をしてきかせました。 「これは今まで誰にも見せたことのない、僕の両親の形見なんです。過激派の主義から見ればコンナものは、まるで麦の中の泥粒と同様なものかも知れませんけれども……ペトログラードでは、ダイヤや真珠が溝泥の中に棄ててあるということですけれども……僕にとっては生命にも換えられない大切なものなのです。……僕の両親は革命の起る三箇月前……去年の暮のクリスマスの晩に、これを僕に呉れたのですが、その時に、こんな事を云って聞かせられたのです。 ……この露西亜には近いうちに革命が起って、私たちの運命を葬るようなことに成るかも知れぬ。だからこの家の血統を絶やさない、万一の用心のために、誰でも意外に思うであろうお前にこの宝石を譲ってコッソリとこの家から逐い出して終うのだ。お前はもしかすると、そんな処置を取る私たちの無慈悲さを怨むかもしれないけれども、よく考えてみると私たちの前途と、お前の行く末とは、どちらが幸福かわからないのだ。お前は活溌な生れ付きで、気象もしっかりしているから、きっと、あらゆる艱難辛苦に堪えて、身分を隠しおおせるだろうと思う。そうして今一度私たちの時代が帰って来るのを待つことが出来るであろうと思う。 ……しかし、もしその時代が、なかなか来そうになかったならば、お前はその宝石の一部を結婚の費用にして、家の血統を絶やさぬようにして、時節を見ているがよい。そうして世の中が旧にかえったならば、残っている宝石でお前の身分を証明して、この家を再興するがよい……。  ……と云うのです。僕はそれから、すぐに貧乏な大学生の姿に変装をして、モスコーへ来て、小さな家を借りて音楽の先生を始めました。僕は死ぬ程音楽が好きだったのですからね。そうして機会を見て伯林か巴里へ出て、どこかの寄席か劇場の楽手になり了おせる計画だったのですが……しかしその計画はスッカリ失敗に帰して終ったのです。その頃のモスコーはとても音楽どころか、明けても暮れてもピストルと爆弾の即興交響楽で、楽譜なぞを相手にする人は一人もありませぬ。おまけに僕は間もなく勃興した赤軍の強制募集に引っかかって無理やりに鉄砲を担がせられることになったのです。  ……僕が音楽を思い切ってしまったのはそれからの事でした。何故思い切ったかっていうと、僕の習っていた楽譜はみんなクラシカルな王朝文化式のものばかりで、今の民衆の下等な趣味には全く合いません。そればかりでなく、ウッカリ赤軍の中で、そんなものをやっていると身分が曝れる虞れがありますからね。……ですから一生懸命に隙を見つけて、白軍の方へ逃げ込んで来たのですが、それでもどこに赤軍の間諜が居るかわかりませんからスッカリ要心をして、口笛や鼻唄にも出しませんでしたが、その苦しさといったらありませんでした。上手なバラライカや胡弓の音を聞くたんびに耳を押えてウンウン云っていたのですが……そうして一日も早く両親の処へ帰りたい……上等のグランドピアノを思い切って弾いてみたいと、そればかり考え続けていたのですが……。  ……ところが、ちょうど昨夜のことです。分隊の仲間がいつになくまじめになって、何かヒソヒソと話をし合っているようですから、何事かと思って、耳を引っ立ててみますと、それは僕の両親や同胞たちが、過激派のために銃殺されたという噂だったのです。……僕はビックリして声を立てるところでした。けれども、ここが肝腎のところだと思いましたから、わざと暗い処に引っ込んで、よくよく様子を聞いてみますと、僕の両親が、何も云わずに、落ち付いて殺された事や、僕を一番|好いていた弟が銃口の前で僕の名を呼んで、救けを求めたことまでわかっていて、どうしても、ほんとうとしか思えないのです。……ですから、僕はもう……何の望みも無くなって……あなたにお話ししようと思っても、生憎勤務に行って……いらっしゃらないし……」  と云ううちに涙を一パイに溜めてサックの蓋を閉じながら、うなだれてしまったのです。  私は面喰ったが上にも面喰らわされてしまいました。腕を組んだまま突立って、リヤトニコフの帽子の眉庇を凝視しているうちに、膝頭がブルブルとふるえ出すくらい、驚き惑っておりました。……私はリヤトニコフが貴族の出であることを前からチャンと察しているにはいましたが、まさかに、それ程の身分であろうとは夢にも想像していないのでした。  実を云うと私は、その前日の勤務中に司令部で、同じような噂をチラリと聞いておりました。……ニコラス廃帝が、その皇后や、皇太子や、内親王たちと一緒に過激派軍の手で銃殺された……ロマノフ王家の血統はとうとう、こうして凄惨な終結を告げた……という報道があったことを逸早く耳にしているにはいたのですが、その時は、よもやソンナ事があろう筈はないと確信していました。いくら過激派でも、あの何も知らない、無力な、温順なツアールとその家族に対して、そんな非常識な事を仕掛ける筈はあり得ない……と心の中で冷笑していたのです。又、白軍の司令部でも、私と同意見だったと見えて、「今一度真偽をたしかめてから発表する。決して動揺してはならぬ」という通牒を各部隊に出すように手筈をしていたのですが……。  とはいえ……仮りにそれが虚報であったとしても、今のリヤトニコフの身の上話と、その噂とを結びつけて考えると、私は実に、重大この上もない事実に直面していることがわかるのです。そんな重大な因縁を持った、素晴らしい宝石の所有者である青年と、こうして向い合って立っている――ということは真に身の毛も竦立つ危険千万な運命と、自分自身の運命とを結びつけようとしている事になるのです。  ……但し、……ここに唯一つ疑わしい事実がありました。……というのは他でもありませぬ。ニコラス廃帝が、内親王は何人も持っておられたにも拘わらず、皇子としては今年やっと十五歳になられた皇太子アレキセイ殿下以外に一人も持っておられなかったことです。……ですからもし今日只今、私の眼の前に立っている青年が、真に廃帝の皇子で、過激派の銃口を免れたロマノフ王家の最後の一人であるとすれば、オルガ、タチアナ、マリア、アナスタシヤと四人の内親王殿下の中で、一番お若いアナスタシヤ殿下の兄君か弟君か……いずれにしても、そこいらに最も近い年頃に相当する訳なのですが……そうして、これがもしずっと以前の露西亜か、又は外国の皇室ならば、すぐに、そんな秘密の皇子様が、人知れず民間に残っておられることを首肯されるのですが、……しかし最近の吾がロマノフ王家の宮廷内では、斯様な秘密の存在が絶対に許されない事情があったのです。……すなわち、もしニコラス廃帝に、こんな皇子があったとすれば、仮令、どんなに困難な事情がありましょうとも、当然皇子として披露さるべき筈であることがその当時の国情から考えても、わかり切っているのでした。その国情というのはあらかた御存じでもありましょうし、この話の筋に必要でもありませんから略しますが、要するに、その当時のスラヴ民族は、上も下も一斉に、皇儲の御誕生を渇望しておりましたので、甚しきに到っては、ビクトリア女皇の皇女である皇后陛下の周囲に、独逸の賄賂を受けている者が居る。……皇子がお生れになる都度に圧殺している者が居る……というような馬鹿げた流言まで行われていたことを、私は祖父から聞いて記憶していたのです。  ……ですから……こうした理由から推して、考えてみますと、現在私の眼の前に宝石のケースを持ったままうなだれて、白いハンケチを顔に当てている青年は、必ずや廃帝に最も親しい、何々大公の中の、或る一人の血を引いた人物に違いない……それは、斯様な「身分を証明するほどの宝石」の存在によっても容易に証明されるので、ことによるとこの青年は、その父の大公一家が、廃帝と同じ運命の途連れにされたことを推測しているか……もしくは、その大公の家族の虐殺が、廃帝の弑逆と誤り伝えられている事を、直覚しているのかも知れない……。しかも万一そうとすれば、そうした容易ならぬ身分の人から、かような秘密を打ち明けられるという事は、スラヴの貴族としてこの上もない光栄であり、且つ面目にもなることであるが、同時に、他の一面から考えるとこれは又、予測することの出来ない恐しい、危険千万な運命に、自分の運命が接近しかけていることになる……。  ……と……こう考えて来ました私は、吾れ知らずホーッと大きな溜息をつきました。そうして腕を組み直しながら、今一度よく考え直してみましたが、そのうちに私は又、とても訝しい……噴飯したいくらい変テコな事実に気が付いたのです。  ……というのは、この眼の前の青年……本名は何というのか、まだわかりませんが……リヤトニコフと名乗る青年が、この際ナゼこんなものを私に見せて、これ程の重大な秘密を打ち明ける気になったかという理由がサッパリわからない事です。もしかしたらこの青年は、私が貴族の出身であることをアラカタ察していて……且つは親友として信頼し切っている余りに、胸に余った秘密の歎きと、苦しみとを訴えて、慰めてもらいに来たのではあるまいかとも考えてみましたが……。それにしては余りに大胆で、軽率で、それほどの運命を背負って立っている、頭のいい青年の所業とはどうしても思われませぬ。  それならばこの青年は一種の誇大妄想狂みたような変態的性格の所有者ではないか知らん。たった今見せられた夥しい宝石も、私の眼を欺くに足るほどの、巧妙を極めた贋造物ではなかったかしらん。……なぞとも考えてみましたが、いくら考え直しても、今の宝石はそんな贋造物ではない。正真正銘の逸品揃いに違いないという確信が、いよいよ益々高まって来るばかりです。  ……しかし又、そうかといってこの青年に、 「何故その宝石を僕に見せたんですか」  なぞと質問をするのは、私に接近しかけている危険な運命の方へ、一歩を踏み出すことになりそうな予感がします。  ……で……こうして色々と考えまわした揚げ句、結局するところ……いずれにしてもこの場合は何気なくアシラッて、どこまでも戦友同志の一兵卒になり切っていた方が、双方のために安全であろう。これから後も、そうした態度でつき合って行きながら、様子を見ているのが最も賢明な方針に違いないであろう……とこう思い当りますと、根が臆病者の私はすぐに腹をきめてしまいました。前後を一渡り見まわしてから、如何にも貴族らしく、鷹揚にうなずきながら二ツ三ツ咳払いをしました。 「そんなものは無暗に他人に見せるものではないよ。僕だからいいけれども、ほかの人間には絶対に気付かれないようにしていないと、元も子もない眼に会わされるかも知れないよ。しかし君の一身上に就いては、将来共に及ばずながら力になって上げるから、あまり力を落さない方がいいだろう。そんな身分のある人々の虐殺や処刑に関する風説は大抵二、三度宛伝わっているのだからね。たとえばアレキサンドロウィチ、ミハイル、ゲオルグ、ウラジミルなぞという名前はネ」  と云い云い相手の顔色を窺っておりましたが、リヤトニコフの表情には何等の変調もあらわれませんでした。却ってそんな名前をきくと安心したように、長い溜め息をしいしい顔を上げて涙を拭きますと、何かしら嬉しそうにうなずきながら、その宝石のサックを、又も内ポケットの底深く押し込みました。  ……が……しかし……。私は決して、作り飾りを申しません。あなたに蔑すまれるかも知れませんけど……こんなお話に嘘を交ぜると、何もかもわからなくなりますから正直に告白しますが……。  手早く申しますと私は、事情の奈何に拘わらず、その宝石が欲しくてたまらなくなったのです。私の血管の中に、先祖代々から流れ伝わっている宝石愛好慾が、リヤトニコフの宝石を見た瞬間から、見る見る松明のように燃え上って来るのを、私はどうしても打ち消すことが出来なくなったのです。そうして「もしかすると今度の斥候旅行で、リヤトニコフが戦死しはしまいか」というような、頼りない予感から、是非とも一緒に出かけようという気持ちになってしまったのです。うっかりすると自分の生命が危いことも忘れてしまって……。  しかも、その宝石が、間もなく私を身の毛も竦立つ地獄に連れて行こうとは……そうしてリヤトニコフの死後の恋を物語ろうとは、誰が思い及びましょう。        四  私共の居た烏首里からニコリスクまでは、鉄道で行けば半日位しかかからないのでしたが、途中の駅や村を赤軍が占領しているので、ズット東の方に迂廻して行かなければなりませんでした。それは私共の一隊にとっては実に刻一刻と生命を切り縮められるほどの苦心と労力を要する旅行でしたけれども、幸いに一度も赤軍に発見されないで、出発してから十四日目の正午頃に、やっとドウスゴイの寺院の尖塔が見える処まで来ました。  そこは赤軍が占領しているクライフスキーから南へ約八露里ばかり隔った処で、涯しもない湿地の上に波打つ茫々たる大草原の左手には、烏首里鉄道の幹線が一直線に白く光りながら横たわっております。その手前の一露里ばかりと思われる向うには、コンモリとしたまん丸い濶葉樹の森林が、ちょうどクライフスキーの町の離れ島のようになって、草原のまん中に浮き出しておりました。この辺の森林という森林は大抵鉄道用に伐ってしまってあるのに、この森だけが取り残されているのは不思議といえば不思議でしたが……その森のまん丸く重なり合った枝々の茂みが、草原の向うの青い青い空の下で、真夏の日光をキラキラと反射しているのが、何の事はない名画でも見るように美しく見えました。  ここまで来るともうニコリスクが鼻の先といってよかったので、私共の一隊はスッカリ気が弛んでしまいました。将校を初め兵士達も皆、腰の処まである草の中から首を擡げて、やっと腰を伸ばしながら提げていた銃を肩に担ぎました。そうして大きな雑草の株を飛び渡り飛び渡りしつつ、不規則な散開隊形を執って森の方へ行くのでしたが、間もなく私たちのうしろの方から、涼しい風がスースーと吹きはじめまして、何だか遠足でもしているような、悠々とした気もちになってしまいました。先頭の将校のすぐうしろに跟いているリヤトニコフが帽子を横ッチョに冠りながら、ニコニコと私をふり返って行く赤い頬や、白い歯が、今でも私の眼の底にチラ付いております。  その時です。多分一露里半ばかり距たっている鉄道線路の向う側だったろうと思いますが、不意にケタタマシイ機関銃の音が起って、私たちの一隊の前後の青草の葉を虚空に吹き散らしました。そうしてアッと驚く間もなく、その中の一発が私の左の股を突切って行ったのです。  私は一尺ばかり飛び上ったと思うと、横たおしに草の中へたおれ込みました。けれども、それと同時に「傷は股だ。生命に別状は無い」と気が付きましたので、草の中に尻餅を突いたままワナワナとふるえる手で剣を抜いてズボンを切り開くと、表皮と肉を抉り取られた傷口へシッカリと繃帯をしました。そのうちにも引き続いて発射される機関銃の弾丸は、ピピピピピと小鳥の群れのように頭の上を掠めて行きますので、私は一と縮みになって身を伏せながら、仲間の者がどうしているかと、草の間から見まわしました。こんな処で一人ポッチになるのは死ぬより恐しい事なのですからね。  しかし私の仲間の者は、一人も私が負傷した事に気づかないらしく、皆銃を提げて、草の中をこけつまろびつしながら向うのまん丸い森の方へ逃げて行くのでした。今から考えると余程|狼狽していたらしいのですが、そのうちに、どうしたわけか機関銃の音が、パッタリと止んでしまいましたけれども、私の戦友たちは、なおも逃げるのを止めません。やがて、その影がだんだんと小さくなって、森に近づいたと思うと、先登に二人の将校、そのあとから十一名の下士卒が皆無事に森の中へ逃げ込みました。その最後に、かなり逃げ後れたリヤトニコフが、私の方をふり返りふり返り森の根方を這い上って行くのがよく見えましたが、ウッカリ合図をして撃たれでもしては大変と思いましたので、なおも身を屈めて、足の痛みを我慢しながら、一心に森の方を見守って、形勢がどうなって行くかと心配しておりました。  すると又、リヤトニコフの姿が森の中へ消え入ってから十秒も経たないうちに……どうでしょう。その森の中で突然に息苦しいほど激烈な銃声が起ったのです。それは全くの乱射乱撃で、呆れて見ている私の頭の中をメチャメチャに掻きみだすかのように、跳弾があとからあとから恐ろしい悲鳴をあげつつ森の外へ八方に飛び出しているようでしたが、それが又、一分間も経たないうちにピッタリと静まると、あとは又もとの通り、青々と晴れ渡った、絵のようにシインとした原ッパに帰ってしまいました。  私は何だか夢を見ているような気もちになりました。一体何事が起ったのだろうと、なおも一心に森の方を見つめておりましたが、いつまで経っても、森を出て行く人影らしいものは見えず、銃声に驚いたかして、原ッパを渡る鳥の姿さえ見つかりません。  私はそんな光景を見まわしているうちに、何故ということなしに、その森林が、たまらない程恐しいものに思われて来ました。……今聞こえた銃声が敵のか味方のか……というような常識的な頭の働らきよりも、はるかに超越した恐怖心、……私の持って生れた臆病さから来たらしい戦慄が、私の全身を這いまわりはじめるのを、どうすることも出来ませんでした。……一面にピカピカと光る青空の下で、緑色にまん丸く輝く森林……その中で突然に起って、又突然に消え失せた夥しい銃声、……そのあとの死んだような静寂……そんな光景を見つめているうちに、私は歯の根がカチカチと鳴りはじめました。草の株を掴んでいる両方の手首が氷のように感じられて来ました。眼が痛くなるほど凝視している森の周囲の青空に、灰色の更紗模様みたようなものがチラチラとし始めたと思うと、私は気が遠くなって草の中に倒れてしまいました。もしかするとそれは股の出血が非道かったせいかも知れませんでしたけど……。  それでも、やや暫くしてから正気を回復しますと、私は銃も帽子も打ち棄てたまま、草の中を這いずり始めました。草の根方に引っかかるたんびに、眼も眩むほどズキズキと高潮する股の痛みを、一生懸命に我慢しいしい森の方へ近づいて行きました。  何故その時に、森の方へ近づいて行ったのか、その時の私には全くわかりませんでした。生れつき臆病者の私が、しかも日の暮れかかっている敵地の野原を、堪え難い痛みに喘ぎながら、どうしてそんな気味のわるい森の方へ匍い寄って行く気持ちになったのか……。  ……それは、その時既に私が、眼に見えぬ或る力で支配されていたというよりほかに説明の仕方がありませんでしょう。常識からいえば、そんな気味のわるい森の方へ行かずに、草の中で日の暮れるのを待って、鉄道線路に出て、闇に紛れてニコリスクの方へ行くのが一番安全な訳ですからね。申すまでもなくリヤトニコフの宝石の事などは、恐ろしい出来事の連続と、烈しい傷の痛みのために全く忘れておりましたし、好奇心とか、戦友の生死を見届けるとかいうような有りふれた人情も、毛頭残っていなかったようです。……唯……自分の行く処はあの森の中にしかないというような気持ちで……そうして、あそこへ着いたら、すぐに何者にか殺されて、この恐しさと、苦しさから救われて、あの一番高い木の梢から、真直ぐに、天国へ昇ることが出来るかもしれぬ……というような、一種の甘い哀愁を帯びた超自然的な考えばかりを、たまらない苦痛の切れ目切れ目に往来させながら、……はてしもなく静かな野原の草イキレに噎せかえりながら……何とはなしに流るる涙を、泥だらけの手で押しぬぐい押しぬぐい、一心に左足を引きずっていたようです。……但……その途中で二発ばかり、軽い、遠い銃声らしいものが森の方向から聞こえましたから、私は思わず頭を擡げて、恐る恐る見まわしましたが、やはり四方には何の物影も動かず、それが本当の銃声であったかどうかすら、考えているうちにわからなくなりましたので、私は又も草の中に頭を突込んで、ソロソロと匍いずり始めたのでした。        五  森の入口の柔らかい芝草の上に私が匍い上った時には、もうすっかり日が暮れて、大空が星だらけになっておりました。泥まみれになった袖口や、ビショビショに濡れた膝頭や、お尻のあたりからは、冷気がゾクゾクとしみ渡って来て、鼻汁と涙が止め度なく出て、どうかすると嚔が飛び出しそうになるのです。それを我慢しいしい草の上に身を伏せながら、耳と眼をジッと澄まして動静をうかがいますと、この森は内部の方までかなり大きな樹が立ち並んでいるらしく、星明りに向うの方が透いて見えるようです。しかも、いくら眼を瞠り、耳を澄しても人間の声は愚か、鳥の羽ばたき一ツ、木の葉の摺れ合う音すらきこえぬ静けさなのです。  人間の心というものは不思議なものですね。こうしてこの森の中には敵も味方も居ない……全くの空虚であることが次第にわかって来ると、何がなしにホッとすると同時に、私の平生の気弱さが一時に復活して来ました。こんな気味のわるい、妖怪でも出て来そうな森の中へ、たった一人で、どうして来たのかしらん……と気が付くと、思わずゾッとして首をちぢめました。軍人らしくもない性格でありながら軍人になって、こんな原ッパのまん中に遥る遥るとやって来て、たった一人で傷つきたおれている自分の運命までもが、今更にシミジミとふり返られて、恐ろしくて堪らなくなりましたので、すぐにも森を出ようとしましたが、又思い返してジッと森の中の暗を凝視しました。  私がリヤトニコフの宝石の事を思い出したのは、実にその時でした。リヤトニコフは……否、私たちの一隊は、もしかするとこの森の中で殺されているかも知れぬ……と気が付いたのもそれと殆んど同時でした。  ……早くから私たちの旅行を発見していた赤軍は、一人も撃ち洩らさない計略を立てて、あの森に先廻りをしていた。そうして私たちをあの森に追い込むべく、不意に横合いから機関銃の射撃をしたものと考えれば、今までの不思議がスッカリ解決される。しかも、もしそうすれば私たちの一隊は、この森の中で待ち伏せしていた赤軍のために全滅させられている筈で、リヤトニコフも無論助かっている筈はない。赤軍はそのあとで、私が気絶しているうちに線路へ出て引き上げたのであろう……と、そう考えているうちに私の眼の前の闇の中へ、あのリヤトニコフの宝石の幻影がズラリと美しく輝やきあらわれました。  私は今一度、念のために誓います。私は決して作り飾りを申しませぬ。この時の私はもうスッカリ慾望の奴隷になってしまっていたのです。あの素晴らしい宝石の数十粒がもしかすると自分のものになるかも知れぬ、という世にも浅ましい望み一つのために、苦痛と疲労とでヘトヘトになっている身体を草の中から引き起して、インキ壺の底のように青黒い眼の前の暗の中にソロソロと這い込みはじめたのです。……戦場泥棒……そうです。この時の私の心理状態を、あの人非人でしかあり得ない戦場泥棒の根性と同じものに見られても、私は一言の不服も申し立て得ないでしょう。  それからすこし森の奥の方へ進み入りますと、芝草が無くなって、枯れ葉と、枯れ枝ばかりの平地になりました。それにつれて身体中の毛穴から沁み入るような冷たさ、気味わるさが一層深まって来るようで、その枯れ葉や枯れ枝が、私の掌や膝の下で砕ける、ごく小さな物音まで、一ツ一ツに私の神経をヒヤヒヤさせるのでした。  そのうちに、だんだんと奥へ這入るにつれて、恐怖に慣れたせいか、いろんな事がハッキリとわかって来ました。……この森には昔、砦か、お寺か、何かがあったらしく、処々に四角い、大きな切石が横たわっていること。時々人が来るらしく、落ち葉を踏み固めたところが連続していること。そうして今は全く人間が居ないので、今まで来る間に死骸らしいものには一つも行き当らず、小銃のケースや帽子なぞいう戦闘の遺留品にも触れなかったことから推測すると、味方の者は無事にこの森を出たかも知れない……ということなぞ。……そのうちに、積り積った枯れ葉の山が、匍っている私の掌に生あたたかく感ぜられるようになりました時、私はちょうど森のまん中あたりに在る、すこしばかりの凹地に来たことを知りました。そこから四辺を見まわしますと、森の下枝ごしに四辺の原ッパが薄明るく見えるのです。  私は安心したような……同時にスッカリ失望したような、何ともしれぬ深いため息をして、その凹地のまん中に坐りこみました。思い切って大きな嚔を一つしながら頭の上をふりあおぐと、高い高い木の梢の間から、微かな星の光りが二ツ三ツ落ちて来ます。それを見上げているうちに、私はだんだんと大胆になって来たらしく、やがて、いつもポケットに入れているガソリンマッチの事を思い出しました。  私はその凹地のまん中でいく度もいく度も身を伏せて四方のどこからも見えないことを、たしかめますと、すぐに右のポケットからガソリンマッチを取り出して、手元を低くしながら、自動点火仕掛の蓋をパット開きました。その光りをたよりにソロソロと頭を擡げて、まず鼻の先に立っている、木の幹かと思われていた白いものをジッと見定めましたが、間もなく声も立て得ずにガソリンマッチを取り落してしまいました。  けれどもガソリンマッチは地に落ちたまま消えませんでした。そこいらの枯れ葉と一緒にポツポツと燃えているうちにケースの中からガソリンが洩れ出したと見えて、見る見る大きく、ユラユラと油煙をあげて燃え立ち始めました。けれども私はそれを消すことも、どうすることも出来ずに、尻餅をついたまま、ガタガタと慄えているばかりでした。  私の居る凹地を取り捲いた巨大な樹の幹に、一ツ宛丸裸体の人間の死骸が括りつけてあるのです。しかも、よく見ると、それは皆最前まで生きていた私の戦友ばかりで、めいめいの襯衣か何かを引っ裂いて作ったらしい綱で、手足を別々に括って、木の幹の向うへ、うしろ手に高く引っぱりつけてあるのですが、そのどれもこれもが銃弾で傷ついている上に、そうした姿勢で縛られたまま、あらゆる残虐な苦痛と侮辱とをあたえられたものらしく、眼を抉り取られたり、歯を砕かれたり、耳をブラリと引き千切られたり、股の間をメチャメチャに切りさいなまれたりしています。そんな傷口の一つ一つから、毛糸の束のような太い、または細長い血の紐を引き散らして、木の幹から根元までドロドロと流しかけたまま、グッタリとうなだれているのです。口を引き裂かれて馬鹿みたような表情にかわっているもの……鼻を切り開かれて笑っているようなもの……それ等がメラメラと燃え上る枯れ葉の光りの中で、同時にゆらゆらと上下に揺らめいて、今にも私の上に落ちかかって来そうな姿勢に見えます。  そんな光景を見まわしている間が何分間だったか、何十分だったか、私は全く記憶しません。そうして胸を抉られた下士官の死骸を見つめている時には、自分の胸の処を、釦が千切れる程強く引っ掴んでいたようです。咽喉を切り開かれている将校を見た時には、血の出るのも気付かずに、自分の咽喉仏の上を掻き※っていたようです。下※を引き放されて笑っているような血みどろの顔を見あげた時には、思わず、ハッハッと喘ぐように笑いかけたように思います。  ……現在の私が、もし人々の云う通りに精神病患者であるとすれば、その時から異常を呈したものに違いありません。  すると、そのうちに、こうして藻掻いている私のすぐ背後で、誰だかわかりませんが微かに、歎め息をしたような気はいが感ぜられました。それが果して生きた人間のため息だったかどうかわかりませんが、私は、何がなしにハッとして飛び上るように背後をふり向きますと、そこの一際大きな樹の幹に、リヤトニコフの屍体が引っかかって、赤茶気た枯れ葉の焔にユラユラと照らされているのです。  それはほかの屍体と違って、全身のどこにも銃弾のあとがなく、又虐殺された痕跡も見当りませんでした。唯その首の処をルパシカの白い紐で縛って、高い処に打ち込んだ銃剣に引っかけてあるだけでしたが、そのままにリヤトニコフは、左右の手足を正しくブラ下げて、両眼を大きく見開きながら、まともに私の顔を見下しているのです。  ……その姿を見た時に私は、何だかわからない奇妙な叫び声をあげたように思います。……イヤイヤ。それは、その眼付が、怖ろしかったからではありません。  ……リヤトニコフは女性だったのです。しかもその乳房は処女の乳房だったのです。  ……ああ……これが叫ばずにおられましょうか。昏迷せずにおられましょうか。……ロマノフ、ホルスタイン、ゴットルブ家の真個の末路……。  彼女……私は仮りにそう呼ばせて頂きます……彼女は、すこし後れて森に這入ったために生け捕りにされたものと見えます。そうして、その肉体は明らかに「強制的の結婚」によって蹂躙されていることが、その唇を隈取っている猿轡の瘢痕でも察しられるのでした。のみならず、その両親の慈愛の賜である結婚費用……三十幾粒の宝石は、赤軍がよく持っている口径の大きい猟銃を使ったらしく、空包に籠めて、その下腹部に撃ち込んであるのでした。私が草原を匍っているうちに耳にした二発の銃声は、その音だったのでしょう……そこの処の皮と肉が破れ開いて、内部から掌ほどの青白い臓腑がダラリと垂れ下っているその表面に血にまみれたダイヤ、紅玉、青玉、黄玉の数々がキラキラと光りながら粘り付いておりました。        六  ……お話というのはこれだけです。……「死後の恋」とはこの事をいうのです。  彼女は私を恋していたに違いありませぬ。そうして私と結婚したい考えで、大切な宝石を見せたものに違いないのです。……それを私が気付かなかったのです。宝石を見た一|刹那から烈しい貪慾に囚われていたために……ああ……愚かな私……。  けれども彼女の私に対する愛情はかわりませんでした。そうして自分の死ぬる間際に残した一念をもって、私をあの森まで招き寄せたのです。この宝石を私に与えるために……この宝石を霊媒として、私の魂と結び付きたいために……。  御覧なさい……この宝石を……。この黒いものは彼女の血と、弾薬の煤なのです。けれども、この中から光っているダイヤ特有の虹の色を御覧なさい。青玉でも、紅玉でも、黄玉でも本物の、しかも上等品でなくてはこの硬度と光りはない筈です。これはみんな私が、彼女の臓腑の中から探り取ったものです。彼女の恋に対する私の確信が私を勇気づけて、そのような戦慄すべき仕事を敢えてさしたのです。  ……ところが……。  この街の人々はみんなこれを贋せ物だと云うのです。血は大方豚か犬の血だろうと云って笑うのです。私の話をまるっきり信じてくれないのです。そうして、彼女の「死後の恋」を冷笑するのです。  ……けれども貴下は、そんな事は仰言らぬでしょう。……ああ……本当にして下さる。信じて下さる、……ありがとう。ありがとう。サアお手を……握手をさして下さい……宇宙間に於ける最高の神秘「死後の恋」の存在はヤッパリ真実でした。私の信念は、あなたによって初めて裏書きされました。これでこそ乞食みたようになって、人々の冷笑を浴びつつ、この浦塩の町をさまよい歩いた甲斐がありました。  私の恋はもう、スッカリ満足してしまいました。  ……ああ……こんな愉快なことはありませぬ。済みませぬがもう一杯乾盃させて下さい。そうしてこの宝石をみんな貴下に捧げさして下さい。私の恋を満足させて下すったお礼です。私は恋だけで沢山です。その宝石の霊媒作用は今日只今完全にその使命を果たしたのです……。サアどうぞお受け取り下さい。  ……エ……何故ですか……。ナゼお受け取りにならないのですか……。  この宝石を捧げる私の気持ちが、あなたには、おわかりにならないのですか。この宝石をあなたに捧げて……喜んで、満足して、酒を飲んで飲んで飲み抜いて死にたがっている私を可愛相とはお思いにならないのですか……。  エッ……エエッ……私の話が本当らしくないって……。  ……あ……貴下もですか。……ああ……どうしよう……ま……待って下さい。逃げないで……ま……まだお話することが……ま、待って下さいッ……。  ああッ……  アナスタシヤ内親王殿下……。  ああ……すっかり酔っちゃったわ。……でも、もう一杯カニャックを飲ましてちょうだいね……。  あんたもお飲みなさいよ。今夜は特別だからサア……ええ。妾の気持ちが特別なのよ。今夜は……。  ……そのわけは今話すわよ。話すから一パイお飲みなさいったら……それあトテモ恐ろしい話なのよ。……ダメダメ。いくらあんたが日本の軍人だって、妾の話をおしまいまで聞いたら屹度ビックリして逃げ出すにきまっているわよ。  ……ああ美味しい。妾もう一パイ飲むわ。へべれけになるわよ今夜は……ニチエウオ!……レストラン・オブラーコのワーニャさんを知らないか……ってね。管を巻くわよ今夜は……オホホホホホホ。……でも、あんたはその話を聞く前に、妾にいくらでもお酒を飲ましていい理由があるのよ。何故って妾はこの間から何度も何度もあんたを殺したくなった事があるんですもの……マア。あんな顔をして……ホホホホホホ。まあそんなに怖い顔をしないでもいいから一杯お飲みなさいったら、シャンパンを抜いたからサ……。  ……アラ……何故いけないの。おかしな人ねあんたは……まあ憎らしい。妾、そんな薄情物じゃないわよ。あんたを殺してお金を奪ったって、いくらも持ってやしないじゃないの。亜米利加の水兵の十分の一も持っていないこと妾チャンと知っているわよ。ホラ御覧なさい。ホホホホホ。だからそんな余計な心配をしないで一パイお飲みなさいったら……飲まなけああんたを殺したいわけを話さないからいい……寝てる間に黙って殺しちゃうから……さあ……グッと……そうよ。サアも一つ……これは妾を侮辱した罰よ。ホホホホホホホ。  今夜もそうなのよ。チョット電燈を消すから、その窓から向家の屋根を覗いて御覧なさい……ホラ、あんなに雪が斑になって凍り付いているでしょ。妾はあの屋根の雪の斑を見るたんびにあんたを殺したくてたまらなくなるのよ。……だからそのたんびにお酒を飲むの。ウオツカでも、ウイノーでも、ピーヴォでも何でもいいの。そうすると忘れちゃってね。あんたを殺すのを忘れちゃって寝てしまうから……ああ美味しい。妾もう一杯飲むわ。  ……イイエ真剣なの。ホントウに真剣なのよ。そうして今夜こそイヨイヨ本気になってあんたを殺そうと思っているのよ。だから今夜は特別なのよ……だってあんたはちょうどこんな晩に、妾を生命がけの旅行に連れ出して行った男にソックリなんですもの……背の高さと色が違うだけで、真正面から見ているとホントに兄弟かと思う位よ。だからコンナに惚れちゃったのよ。……イイエ……ちっともトンチンカンな話じゃないの。妾、そんなに酔ってやしないわよ。カニャックなんかイクラ飲んだって管なんか巻きやしないから……その訳はこうなのよ。まあお聞きなさいったら……トンチンカンでもいいからサア……。  あんたはツイこの頃来たんだから知らないでしょうけども、この間、此浦塩を引き上げて行った亜米利加の軍艦ね。あの軍艦の司令官の息子でヤングっていうのが、その男なのよ。……ええ……司令官と同じにヤングっていってね。名前だか苗字だかわからないけど、只そういっていたの……そうネエ。年は三十だって云っていたけど、あんたと同じ位に若く見えたわ。六尺位の背丈けの巨男でね。まじめな、澄まアした顔をしていたわ。あの軍艦の中でも一等のお金持ちで、一番の学者だって、取り巻きの士官や水兵さん達がそう云っていたから本当でしょうよ。もっとも学者だっていうけど、あんたと違って歌も知っているし、音楽も出来るし、お酒はいくら飲んでも平気だし、ダンスでも賭博でも、あんたよりズット巧かったわ……それからもう一つ……お話がトテモ上手だったの。イイエ。そんな六箇敷い話じゃないの。それあステキに面白い……トテモ恐ろしい恋愛の話よ。ヤングはその方の学者だって、自分でそう云っていた位だわ。  ……ええ……そのヤングは軍艦が浦塩に着くと間もなく、このオブラーコの舞踏場へ遣って来て、一番最初に妾を捉まえて踊り出したの。そうしたら妾の身体が、ヤングの半分位しかなかったもんだから、一緒に来た士官や水兵さん達が、みんなでワイワイ冷やかして、ピューピュー口笛を吹いたりしたの。……そうしたらヤングも一緒になって笑いながら、妾をお人形さんのように抱き上げて、この室へ逃げ込んだと思うと、妾の内ポケットから鍵を取り上げて扉をピッタリと掛けてしまったの。……その素早かった事……でもその時は、妾が店に突き出されてから、まだやっと二日目位だったし、男ってどんなものか知らない位だったもんだから、ホントウにビックリしてしまって、一生懸命ヤングの軍服の胸に獅噛み付いていたわ。だけどヤングは、この室で二人切りになると、トテモ親切に妾を慰めてくれたのよ。落魄男爵の娘から、こんなレストランの踊り子にかわった妾の身の上話を、シンカラ同情して聞いてくれたり、お料理やお菓子を色々取ったり、お酒をいくらでも飲んでくれたり、お金を持っているだけ、みんな置いて行ってくれたりしたので、妾ホントウに嬉しかったわ。それはみんな亜米利加の貨幣だったけど、主人は大ニコニコで私の頭を撫で、 「大手柄大手柄……あのお客人を一生懸命で大切にしろ……」  って云ってくれたわ。  それからヤングは毎晩のように妾の処へ遣って来たの。そうして妾とだんだん仲よしになって来ると、いろんな事を妾に教え初めたの。亜米利加の言葉だの、ABCの読み方だの、キッスの送り方だの……誕生石の話だの……花言葉だの……だけど、その中でも一等面白くて怖かったのは、やっぱり、そのステキな恋愛のお話だったわ。妾ホントに感心しちゃったのよ。ヤングが何でもよく知っているのに……。  それは亜米利加のお金持ち仲間で流行る男と女の遊び方で、お金持ちになればなる程、そんな遊びの方法が乱暴なんですってさあ。……ええ……それはトテモ贅沢な室の仕掛けや、高価いお薬や、お金のかかる器械や、お化粧の道具なぞが、いくらでも要るので、貧乏人にはトテモ出来ない遊びなんですってさあ。そうして亜米利加の若い男や女は、そんな遊びがしたいばっかりに、一生懸命になって働らいて、お金を貯めているんですってさあ。  その遊び方法っていったら、それあ沢山あるわよ。みんなお話しするのは大変だけど、一寸云って見ればね……紅で作ったチューインガムや薬みたようなものを使って、相手を血まみれの姿にし合いながらダンスをしたり……天井も、床も、壁も、窓掛けも、何もかも緋色ずくめにした部屋の中に大きな蝋燭をたった一本|灯して、そのまわりを、身体中にお化粧して、その上から香油をベトベトに塗った素っ裸体の男と女とが、髪毛を振り乱したまま踊りめぐったりするんですとさあ。そうするとその蝋燭の光りの赤い色が、壁や、天井の色に吸い取られて、まるで燐火のように生白く見えて来るにつれて、踊っている人達の身体の色がちょうど、地獄に堕ちた亡者を見るように、赤や、緑色や、紫色に光って見えて来るんですって。それと一緒に身体じゅうの皮膚がポッポと火熱り出して、燃え上るような気持ちになって来るもんだから、その苦し紛れに相手をシッカリと掴まえようとすると……ホラ、油でヌラヌラしていてチットモ力が這入らないでしょう。そのうちに、死ぬ程苦しくなって、ヘトヘトに疲れて倒れてしまうんですってさあ……ねえ。ずいぶんステキじゃないの。……だけどまだ恐ろしい話があるのよ。  ……エ……もう解ったっていうの……。嘘ばっかり……わかるもんですか。ズットおしまいまで聞いてしまわなくちゃ、解りやしないわよ。妾があんたを殺したがっている訳は……まあ黙って聞いてらっしゃいったら……上等の葉巻を一本上げるから……。  そうしてね……そんな恐ろしい楽しみを続けて行くとそのうちには、とうとう、どんなに滅茶苦茶な遊びをしても直きに飽きるようになってしまうんですって。そうして最後には自分が可愛いと思っている相手を、自分の手にかけて嬲り殺しか何かにして終わなくちゃ、気が済まないようになるんですってさあ。……つまり自分の相手をまだ可愛がり飽きないうちに殺しては又、新しい相手を探し探しして行くのが、亜米利加で流行る一番贅沢な遊びなんですってさあ……ホホホホホ。ビックリしたでしょう。ねえあんた。誰だってそんな話ホントにしやしないわねえ。妾もそん時には嘘だって笑い出した位よ。だってそれあ男だったらそんな事が出来るかも知れないけど、女がそんな乱暴な遊びをしようなんて思えやしないわ。ねえ。何ぼ何でも……。  だけど、妾それから温柔しくしてヤングの話を聞いていたら、それがだんだん本当らしくなって来たから不思議なのよ。亜米利加の女ってものはそんな遊びにかけちゃ男よりもズット気が強いんですってさあ。亜米利加の男や女に独身生活者が多いのは、そんな遊びのステキな気持ちよさを知っているからで、そんな人達に、方々から誘拐して来た、美しい男や女を当てがって、いろんなステキな遊びをさせる倶楽部だの、ホテルだのいうものが、大きな街に行くとキットどこかに在るんですってさあ……つまりお金さえあれば、ドンナ事でも出来るのが亜米利加の風だっていうのよ。だから恋愛の天国っていえば、今の世界中で亜米利加よりほかに無いってヤングは自慢していたわ。  ……でもね……その中でたった一つ、ドンナお金持ちでも滅多に出来ない、一番ステキな、一番贅沢な、取っときの遊びがあるっていうのよ。ねえ……面白いでしょう……それはねえ。今云ったようにお金ずくで出来るいろんな素敵な遊びにも飽きてしまって、どうにもこうにも仕様がなくなった人の中の一人か二人かがやって見たくなるステキなステキな、この上もない無鉄砲な遊びで、それこそホントにお金ずくでは出来ない生命がけの愉快な遊びなんですってさあ……そう云ったらあんたはわかるでしょう。その遊び方が……え……わからないって……まあ。……  ……だってその遊びの本家本元は日本だってヤングはそう云ったのよ。世界中のどこにも無くて日本にだけ昔から流行っているのを、この頃亜米利加の学者たちが大騒ぎをして研究を始めているので、トテモ有名な遊びなんですとさあ……そう云ってもわからない?……まあ……じゃもっと云って見ましょうか。  ヤングはそう云ったのよ。日本の芸術ってものは何でもかんでも世界中の芸術の一番いいとこばかりを一粒|選りにして集めたものなんですってさあ……イイエ、オベッカじゃないのよ。ヤングがそう云っていたんだから……妾なんかは解らないけど……だから日本では恋愛の遊びだって、ほかの色んな遊びの仕方は、もうすっかり流行り廃っている代りに、その一番ステキなのがタッタ一つだけ、今でも残っているんですって。一つは日本人はお金をそんなに持たないから、ほかのお金のかかるのはみんな諦らめてしまって、その一番ステキなのだけで満足しているのかも知れないって云うのよ。それをこの頃になって亜米利加の学者たちが八釜しくいって研究しているけども、それはただ学問の研究だけで、本当にやって見ようなんていう度胸のある人間は、まだ一人も亜米利加に出て来ないんですってさあ……そんなステキな遊びが日本に在るのをあんた知らない……マア……そんな筈はないわ。ヤングは学者だから嘘なんか吐きやしないわよ。あんたは知っているけど気が付かないでいるのよ。日本ではそんなに珍らしくないから……。  ……エ?……その遊びの名前ですって……それを妾スッカリ忘れちゃったのよ。イイエ本当よ……今に思い出すかも知れないけど……おぼえているのはその遊びの仕方だけよ。それあトテモ素敵な気持ちのいい遊び方で、聞いただけでも胸がドキドキする位よ。何でも亜米利加の言葉で云うと「恋愛遊びの行き詰まり」っていったような意味だったわよ。日本の言葉で云うと、もっと短かい名前だったようだけど……え?……その遊びの仕方を云ってみろって?……厭々。……それは妾わざっと話さないでおくわ。あんたが思い出さなければ丁度いいからね。おしまいの楽しみに取っとくわよ。……ええ……今夜は妾はトテモ意地悪よ。ホホホホホホ。  ……でも、そんな話を初めて聞いた時には、妾もうビックリしちゃって髪毛をシッカリと掴みながらブルブル慄えて聞いていたようよ。その頃の妾は今よりもズッと初心だったもんですからね……そんな話を平気でしいしい、青い顔をしてお酒を飲んでいるヤングの軍服姿が、だんだん恐ろしいものに見えて来て、今にも妾を殺すのじゃないか知らんと思い思い、その高い薄っペラな鼻や、その両脇に凹んでいる空色の眼や、綺麗に真中から分けた栗色の髪毛を見つめていたようよ。何だか悪魔と話しているような気がしてね……。  だけど、そのうちにヤングから、そんな遊びの仕方を、一番やさしいのから先にして一つ一つに教わって行くうちに、妾はもう怖くも何ともなくなってしまったのよ。……え……それあ本当の事はどうせ亜米利加の本場に行って、色んな薬や器械を使わなくちゃ出来ないのが多かったし、一番ステキな日本式の遊びや、そのほかの生命がけの遊びは相手が無いから、只|真似方と話だけですましたの。妾の身体に傷が残るようなのも店の主人に見つかると大変だから、ヤングと一緒に亜米利加に行って結婚式を挙げてからの楽しみに取っといたけど、ほかのは大抵卒業しちゃったのよ。……それも初めのうちは、妾がヤングからいじめられる役で、首をもうすこしで死ぬとこまで絞められたり、縛って宙釣りにされたり、髪毛だけで吊るされたりして、とても我慢出来ない位、苦しかったり痛かったりしたのよ。だけどそのうちにだんだん慣れて来たら、その痛いのや苦しいのが眼のまわるほどよくなって来てね……妾があんまり嬉しそうにして涙をポロポロ流したりするもんだから、おしまいにはヤングの方が羨ましがって、いつも持っている小さな鞭を妾に持たして、それで自分の背中を思い切り打ってくれって云い出した位よ。  ええ……妾思い切り打ってやったわ。ヤングなら背中に鞭の痕が付いていても誰も気付かないでしょうし、妾も自分でいじめられる気持ちよさを知っていたんですからね……イイエ、音なんかいくら聞こえたって大丈夫よ。妾ヤングから教わった通りに呑気そうに流行歌を唄いながら、その調子に合わせて打っていたから、外から聞いたって何かほかのものをたたいているとしか思えなかった筈よ。……でも、そうして寝台の上に長くなっているヤングの脂切った大きな背中を、小さな革の鞭で、力一パイにたたいている間の気持ちのよかったこと……打てば打つほどヤングが可愛いくなって来てね……そうしてもう、ヤングと一緒に亜米利加へ行ったら、そんな遊びが本式に大ピラで出来ると思うと、楽しみで楽しみでたまらなくなっちゃったの。だから……妾は毎晩そんな遊びをする時間をすこしずつ裂いて、ヤングを先生にして一生懸命に亜米利加の言葉を勉強し続けたのよ。  妾は言葉を覚えるのが名人なんですってさあ。ヤングがビックリしていた位よ。ヤングとこんな話が出来るようになる迄でには一と月とかからなかったし、水兵さん達と悪態のつきっこをする位の事なら、初めっから訳なかったわ。おしまいにはヤングがよくポケットに入れて持って来る英字新聞が、すこうしずつ読めるようになったから豪いでしょう。自分の国の字だと聖書もロクに読めないのによ。ホホホホホホホ。だって妾の両親はトテモ貧乏で、妾を学校に遣る事が出来なかったんですもの……お化粧の道具なんかも、両親から買ってもらった事は一度も無かったのよ。だけどこの時ばかりは学者の奥さんになるのだからと思って、ずっと前から欲しくてたまらなかった型の小さい、上品なのを別に買って、バスケットの底に仕舞っておいたわ。ええ。それあ嬉しかったわよ。だってどうせ両親に売り飛ばされて、こんな酒場の踊り子になっている身の上ですもの……おまけに生れて初めて妾を可愛がってくれて、色んな楽しみを教えてくれたのが、そのヤングなんですもの……その頃の妾は今みたいな、オシャベリの女じゃなかってよ。どんな男を見ても怖ろしくて気味がわるくて、思うように口も利けない中に、たった一人そのヤングだけが怖くなかったんですもの……アラ……御免なさいね。泪なんか出して……妾……男の方の前で、こんな事を云って泣くのは今夜が初めてよ。ネ……笑わないでね。  そうしたら……そうしたらね、ちょうどあと月だから十月の末の事よ。ヤングがいつになく悄気た顔をして這入って来て、この室で妾と差し向いになると、何杯も何杯もお酒を飲んだあげくにショボショボした眼付きをしながら、こんな事を云い出したの……。 「可愛い可愛いワーニャさん。私はいよいよあなたとお別れしなければならぬ時が来ました。あなたを亜米利加へ連れて行く事も思い切らなければならぬ時が来ました。私は明日の朝早く、船と一緒に浦塩を引き上げて布哇の方へ行かなければなりませぬ。そうして日本と戦争を始めなければなりませぬ。そうなったら私は戦死をするかも知れないし、あなたを連れて行く訳にも行かなくなりました。昨夜不意打ちに本国からの秘密の命令が来たので、どうする事も出来ないのです。……しかしもしも戦争が済むまで私が死なないでいたらキット貴女を連れに来ます。ですから何卒今度ばかりは諦めて下さい」  ……って……そう云っているうちに、ポケットからお金をドッサリ詰めた革袋を出して、妾の手に握らせたの。  妾、その革袋を床の上にたたき付けて泣いちゃったわ。 「そんな事は嘘だ」  って云ってね。それあ日本が亜米利加と戦争を初めそうだっていう事は、ズット前から聞いているにはいたけれども、ヤングの話はあんまりダシヌケ過ぎて、どうしても本当とは思えなかったんですもの。だから、 「あんたは妾を捨てて行こうとするのだ。何でもいいから妾はあんたを離れない。一緒に軍艦に乗って行く」  ……って云って死ぬ程泣いて泣いて泣いて泣いて何と云っても聴かなかったの。しまいには首ッ玉に獅噛み付いて、片手で軍服のポケットをシッカリ掴んで離さなかったの……。  ヤングは本当に困っていたようよ。軍服の肩の処に顔を当ててヒイヒイ泣きじゃくっている妾を膝の上に抱き上げたまま、暫らアくジッとしていたようよ。けれどもそのうちにフイッと何か思出したように私の顔を押し離すと、私の眼をキット睨まえながら、今までと丸で違った低い声で、 「ワーニャさん。いい事がある」  って云ったの。私はその時、何だかわからないままドキンとして泣き止みながらヤングの顔を見上げたら、ヤングは青白――イ、気味の悪い顔になって、私の眼をジ――イと覗き込みながらソロソロと口を利き出したのよ。前とおんなじ低い声でね……。 「ワーニャさん。いい事がある。貴女がそれ程までに私の事を思ってくれるのなら、一つ思い切った事を遣っつけてくれませんか。私が今から海岸の倉庫へ行って大きな麻の袋を取って来ますから、その中へ這入ってくれませんか。毛布を身体に巻きつけておけば、人間だか荷物だかわからないし、寒くもないだろうと思いますから、そうして私の荷物に化けて軍艦に来て物置の中に転がっていてくれませんか。そうすれば、そのうちに私がうまく父親の司令官に話して、貴女を士官候補生の姿にして、私の化粧室に住まわせて上げますから……その話が出来るまで三度三度の喰べ物は、私が自分で持って行って上げます。随分窮屈で辛いでしょうけれども、暫くの間と思いますから辛棒してくれませんか」  ……って……ネエあんたどう思って……トテモ、ステキな思い付きじゃないの……イイエ、ヤングは本気で、そう云っていたのよ。妾を欺していたんじゃないの。もうすこし先までお話するとわかるわ……ええ今話すわよ。話すからもう一杯飲んで頂戴……曹達を割って上げるからね……。  妾、この話を聞くと手をタタイて喜んじゃったわ。だって今までに活動や何かで見たり聞いたりした「恋の冒険」の中のどれよりもズット素敵じゃないの。女の児が支那米の袋に這入って、軍艦に乗って戦争を見物に行くなんて……ねえ……妾あんまり嬉しかったもんだから、思い切りヤングに飛び付いてやったわ。そうして無茶苦茶にキスしてやったわ。  ヤングも嬉しそうだったわよ。今までになく大きな声を出して歌を唄ったりしてね。そうして妾に、 「……それではドッサリお酒を飲みながら待っていて下さい。今夜は特別に寒いようだから、袋の中で風邪を引かないようにね。私はこれから袋を取りに行って来ますから」  って、そう云ううちに帽子を冠って外套を着て、どこかへ出て行ってしまったの。  妾、そん時に一寸心配しちゃったわ。ヤングがそのまんま逃げて行ったのじゃないかと思ってね……だけど、それは余計な心配だったのよ。ヤングは間もなくニコニコ笑いながら帰って来て妾の顔を見ると、 「……おお寒い寒い……一寸、その呼鈴を押して主人を呼んでくれませんか」  って云ったの。妾、ヤングの足があんまり早いのでビックリしちゃってね。 「まあ……今の間にもう海岸まで行って来たの……そうして袋はどこに持って来たの……」  って聞いたらヤングは唇に指を当てて青い眼をグルグルまわしながら妙な笑い方をしたの。 「シッ……黙っていらっしゃい……近所の支那人に頼んで外に隠しておいたのです。今にわかりますから……」  ってね……そう云ううちに主人が這入って来たら、ヤングはいつもの通りその晩妾を買い切りにして、お料理やお酒をドンドン運び込ませて、妾に思い切り詰め込ましたのよ。……途中でお腹が空かないようにね……そうして主人にはドッサリチップを呉れて、面喰ってピョコピョコしている禿頭を扉の外へ閉め出すとピッタリと鍵をかけながら、 「明日の朝十時に起してくれエッ」  ……て大きな声で怒鳴ったの。そうしておいて妾の手をシッカリと握ったヤングは、あの窓を指さしながらニヤニヤ笑い出したのよ……。  妾ヤングの怜悧なのに感心しちゃったわ。あの窓はその時まで、もっと大きな二重|硝子になっていて、その向うには、あんな鉄網の代りに鉄の棒が五本ばかり並んでいたんだけど、その硝子窓を外して、鉄の棒のまん中へ寝台のシーツを輪にして引っかけて、その輪の中へ突込んだ椅子の脚を壁のふちへ引っかけながら、二人がかりでグイグイと引っぱると一本一本にみんな抜けちゃったの。……ええ……電燈を消していたんだから外から見たってわかりやしないわ。……その穴からヤングが先に脱け出して、あとから這い出した私を抱え卸してくれたの。  それは浦塩附近に初めて雪の降った晩で、あの屋根の白い斑雪もその時に積んだまんまなのよ。風は無かったようだけど星がギラギラしていてね……その横路地に白い舞踏服姿の妾が、寝台から取って来た白い毛布にくるまってガタガタに寒くなりながら立っていると、ヤングは大急ぎで、向家の横路地の間から、隠しておいた支那米の袋を持って来て妾の頭の上からスポリと冠せてくれたの。そうしてそのまんま地びたの上にソッと寝かして、足の処をシッカリとハンカチで結えるとヤットコサと荷ぎ上げながら、低い声でこんな事を云って聞かせたのよ。 「さあ……ワーニャさんいいですか。暫くの間辛いでしょうけども辛棒して下さい。私がもう宜しいって云うまでは、決して口を利いたり声を立てたりしてはいけませんよ」  ってね……。だけど妾は、その袋があんまり小さくて窮屈なのでビックリしちゃったわ。妾の身体は随分小さいんだけど、それでも足を出来るだけグッと縮めなければ袋の口が結ばらないのですもの。おまけにその臭かったこと……停車場のはばかりみたいな臭いがしてね。ホコリ臭くて息が詰りそうで、何遍も何遍も咳が出そうになるのをジッと我慢しているのがホントに苦しかったわ。  それからどこを通って行ったのか、よくわからないけど、何でもこのスウェツランスカヤから横路地伝いに公園の横へ出て、公使館の近くを抜けながら海岸通りへ出たようなの。途中で下腹や腰のところがヤングの肩で押えられて痛くてしようがなかったけど、やっとの思いで我慢していたわ。ええ。それあ怖かったわ。ヤングが時々立ち止まるたんびに誰か来たのじゃないかと思ってね……。  海岸に来るとヤングは、そこに繋いであった小さい舟に乗り込んで、妾をソッと底の方へ寝かして、その上に跨がって自分で櫂を動かし始めたようなの……そこいらは、まだ暗くて、波の音がタラリタラリとして、粗い袋の目から山の手の燈火がチラリチラリと見えてね……妾は息が苦しいのも、背中が痛いのも、それから足を伸ばしたくてたまらないのも忘れて、時々聞える汽笛の音に耳を澄ましながら胸をドキドキさせていたわ。これが故郷のお別れと思ってね……そうかと思うと亜米利加の町をヤングと連れ立って散歩している自分の姿を考えたり……ヤングと妾の幸福のために、イーコン様にお祈りを捧げながら、ソッと小さな十字架を切ったりしていたわ。  そうすると間もなく、今までと丸で違った波の音が聞え出して、小舟が軍艦に横付けになったようなの。その時に妾は又ドキンとして荷物のつもりで小さくなっていると、こっちからまだ何も云わないのに、上の方から男の足音が二人ほど、待っていたようにゴトゴトと音を立てて降りて来たの。そうしてその中の一人が低い声で、 「へへへへへ。今までお楽しみで……」  って云いかけたら、ヤングが同じように低い声で、 「シッ。相手は通じるんだぞ……英語が」  って叱ったようよ。そうすると二人ともクツクツ笑いながら黙り込んで、妾の袋をドッコイショと小舟の中から抱え上げたの。  その時に妾はチョット変に思わないじゃなかったわ。何だか解らないけど、その二人の男の抱え方が、袋の中に生きた人間が居るって事をチャンと知っているとしか思えなかったんですもの。一人は妾の肩の処を……それから、もう一人は腰の処を痛くないようにソーッとネ……だけどこれは大方ヤングが今の間に手真似か何かで打ち合わせたのかも知れないと思っているうちに、一度階段を降り切った二人の足音は又、別の段々を降り始めて、今度は波の音も何も聞えない、処々に電燈のついた急な階段を二ツばかり降りて行ったの。  その時にヤングは、もうどこかへ行っていたようよ。……いいえ船の中はシンとしていたけど、いつヤングが消えてしまったのか解らなかったわ……まあそう……出帆前ってそんなに忙がしいものなの……じゃ矢っ張りあんたの云うように、あの軍艦はずっと前から出発の準備をして命令が来るのを待っていたんだわ。ね……そうでしょう……ヤングが出帆の日を知らなかったのは無理もないわ。そうして本当に日本と戦争をする気で出て行ったんだけど、途中で日本が怖くなったから止しちゃったんでしょう。……アラ……どうしてそんなに失笑すの。  イイエ、あんたがいくら笑ったってそうに違いないわよ。だってヤングはおしまいまで一度も嘘を吐いた事なんぞ無かったんですもの。妾がヤングに欺されているように思うのはソレアあんたの嫉妬よ……まあいいから黙ってお酒を飲みながら聞いていらっしゃい。あんたの気もちはよくわかっているんだから。もっとおしまいまで聞いて行くうちには、ヤングが云った事が本当か嘘かわかるから……ね……。  ……そうしたらね……。  そうしたら、あとに残って妾を抱えている二人の足音が又一つ、急な段々を降りて行くと、どこか遠い処に黄色い電燈がたった一つ点っている、暗い、板張りらしい処に来たの。それと一緒に二人の男は、イキナリ妾を固い床の上にドシンと放り出したもんだから妾は思わず声を立てるところだったわ。だけど又それと一緒に、これはどこか近い処に人間が居るからで、妾を荷物と見せかけるために、わざとコンナ乱暴な真似をしたのに違いないと気が付いたの。それでやっと我慢して、放り出されたなりにジッとしていたら、そのうちに誰も居なくなったのでしょう。二人の男は大きな声で話をしいしいユックリユックリと室を出て行ったの。 「アハハハハハ。もう大丈夫だ。泣こうが喚こうが」 「ハハハハハハ。しかしヤングの智恵には驚いちゃったナ。露西亜の娘っ子なんて、コンナに正直なもんたあ思わなかったよ」 「ウーム。こんな素晴らしい思い付きは、彼奴の頭でなくちゃ出て来っこねえ。何しろ革命から後ってものあ、どこの店でも摺れっ枯らしを追い出して、いいとこのお嬢さんばかりを仕入れたっていうからな……そこを睨んだのがヤングの智恵よ」 「成る程ナア……ところでそのヤングはどこへ行きやがったんだろう」 「おやじん処へ談判に行ったんだろう。生きたオモチャをチットばかし持込んでいいかってよ」 「……ウーム。しかしなア……おやじがうまくウンと云えあ良いが……」 「それあ大丈夫よ。それ位の智恵なら俺だって持っている。つまり時間が来るまでは、他の話で釣っといて、艦の中を見まわらせねえようにしとくんだ。そうしてイヨイヨ動き出してから談判を始めせえすれあ、十が十までこっちのもんじゃねえか。……まさか引っ返す訳にも行くめえしさ」 「ウーム。ナアルホド。下手を間誤付けあ、良い恥晒しになるってえ訳だな」 「ウン……それにおやじだって万更じゃねえんだかんナ……ヤングはそこを睨んでいるんだよ」 「アハハハハ違えねえ。豪えもんだなヤングって奴は……」 「アハハハハハハハ」 「イヒヒヒヒヒヒヒ」  ……妾こんな話をきいているうちにハッキリと意味はわからないまま、もうスッカリ大丈夫なような気になって、グーグー睡ってしまったのよ。  ええ……それあ大胆といえば大胆なようなもんよ。だけど、その時の妾はもう大胆にも何にも仕様のない位ヘトヘトに疲れていたんですもの。最前からオブラーコで飲んだお酒の酔いと、今まで苦しいのを我慢していた疲労が一時に出ちゃって、いつ軍艦が出帆の笛を吹いたか知らないまんまに睡っていたわ。  だけど、そうして眼が醒めてからの苦しくて情なかった事……軍艦の器械のゴットンゴットンという響きが身体に伝わるたんびに、毛布ごしに床板に押しつけられている背中と、腰骨と、曲ったまんまの膝っ節とが、まるで火が付いたように痛むじゃないの。妾はもう……早くヤングが来てくれればいい。そうしたら水か何か一パイ飲ましてもらわなくちゃ、咽喉がかわいて死ぬかも知れない。そうしてモット大きな袋に入れてもらわなくちゃ……と、そればっかり考えていたわ。そうして人にわからないように少しずつ寝がえりをしかけていると、不意に頭の上で誰かが口を利き出したので、妾は又ハッとして亀の子のように小さくなってしまったの……それは何でも三四人の男の声で、妾のすぐ傍に突立って、先刻から何か話していたらしいの……。 「まだルスキー島はまわらねえかな」 「ナニもう外海よ」 「……ワン。ツー。スリー。フォーア……サアテン。フォテン……おやア……一つ足りねえぞこりゃア……フォテン。フィフテン。シックステン……と……あっ。足下に在りやがった。締めて十七か……ヤレヤレ……」 「……様と一緒なら天国までも……って連中ばかりだ」 「惜しいもんだなあ……ホントニ……おやじせえウンと云えあ、布哇へ着くまで散々ぱら蹴たおせるのになア」 「馬鹿野郎。布哇クンダリまで持って行けるか。万一見つかって世界中の新聞に出たらどうする」 「ナアニ。頭を切らして候補生の風をさせとけあ大丈夫だって、ヤングがそう云ってたじゃねえか」 「駄目だよ。浦塩の一粒|選りを十七人も並べれあ、どんな盲目だって看破っちまわア」 「それにしても惜しいもんだナ。せめて比律賓まででも許してくれるとなア」 「ハハハハまだあんな事を云ってやがる。……そんなに惜しけあ、みんな袋ごと呉れてやるから手前一人で片づけろ。割り前は遣らねえから」 「ブルブル御免だ御免だ」 「ハハハ見やがれ……すけべえ野郎……」  そんな事を云い合っているうちに一人がマッチを擦って葉巻に火を点けたようなの。間もなく美い匂いがプンプンして来たから……。  だけど妾はそのにおいを嗅ぐと一緒に頭の中がシイーンとしちゃったの。身体が石みたように固くなって息も吐けない位になっちゃったの。……だって妾みたようにしてこの軍艦に連れ込まれた者は、妾一人じゃないことが、その時にやっとわかりかけて来たんですもの……。妾のまわりにはまだ、いくつもいくつも支那米の袋が転がっているらしいんですもの……。おまけに、それをどうかしに来たらしい荒くれ男が三四人、平気で冗談を云い合いながら葉巻を吹かしているじゃないの……あんまり恐ろしい、不思議な事なので、妾は、あと先を考える事も何も出来やしなかったわ。ただ眼をまん丸に見開いて鼻っ先に被さっている袋の粗い目を凝視ながら、両方のお乳を痛いほどギュッと掴んでいたわ……夢じゃないかしらと思って……。  でも、それは夢じゃなかったの……そうして歯を喰い締めて、一心に耳を澄ましていると、ゴットンゴットンという器械の音の切れ目切れ目に、ドド――ンドド――ンっていう浪の音が、どこからか響いて来るじゃないの。……ええ……おおかた外の女達も妾とおんなじにビックリして小さくなっていたんでしょう。呼吸をする音も聞えない位シンとしていたようよ。  そうしたら又その中に、その葉巻を持っているらしい男が、一としきりスパスパと音を立てて吸い立てながら、こんな事を云い出したの。 「待て待て。片づける前に一ツ宣告をしてやろうじゃねえか。あんまり勿体ねえから」 「バカ……止せったら……一文にもならねえ事を……」 「インニャ。このまま片づけるのも芸のねえ話だかんナ……エヘン」 「止せったらヂック……そんな事をしたら化けて出るぞ」 「ハハハハ……化けて出たら抱いて寝てやらあ……何も話の種だ……エヘンエヘン」 「止せったら止せ……馬鹿だなあ貴様は……云ったってわかるもんか」 「まあいいから見てろって事よ……これあ余興だかンナ……俺の云う事が通じるか通じないか……」  って云ううちに、そのヂックって男は、又一つ咳払いをしながらハッキリした露西亜語で演説みたいに喋舌り出したの。 「エヘン……袋の中の別嬪さんたち。よく耳の垢をほじくって聞いておくんなハイよ。いいかね。……お前さん達はみんな情人と一緒になりたさに、こんな姿に化けてここへ担ぎ込まれて来たんだろう。又……お前さん達の情人も、おんなじ料簡で、お前さん達をここまで連れて来たんで、決して悪気じゃなかったんだろうが、残念な事には、それが出来なくなっちゃったんだ。いいかい……だからね。……エヘン……だから怨むならばだ……いいかい……怨むならば、お前さん達の情人にこんなステキな智恵を授けた、ヤングという豪い人を怨まなくちゃいけないんだよ。……それからもう一人……この艦に乗っている俺たちの司令官を怨みたけあ怨むがいいってんだ。……イヤ……事によると、その司令官だけを怨むのが本筋かも知れないがね……どっちにしても、お前さん達のいい人や、そんな連中に頼まれた俺達を怨んじゃいけないよ。いいかい……という訳はこうなんだ。先刻ヤングさんが司令官に、お前さん達を亜米利加まで連れてっていいかって伺いを立ててみたら、亜米利加の軍艦の中には、食料品より以外に肉類を一切置いちゃイケナイってえ規則になっているんだッてさあ……だからね……折角ここまで来ているのをホントにお気の毒でしようがないけど、ちょうど風も追い手のようだから、お前さん達はその袋のまんま、海を泳いで浦塩の方へ……」  ここまでその男が饒舌って来たら、あとは聞えなくなっちゃったの。だって妾のまわりに転がっている十いくつの袋の中から、千切れるような金切声が一どきに飛び出して、ドタンバタンとノタ打ちまわる音がし始めたんですもの。中には聞いたような声がいくつもあったようだけど、そんな時に誰が誰だかわかりやしないわ。ただ耳が潰れるほどキーキーピーピー云うだけですもの。  だけど私は黙っていたの。声を出すより先にどうかして、袋を破いてやろうと思って、一生懸命に藻掻いていたの。だけど袋が小さい上にトテモ丈夫に出来ているので、噛み付こうにも噛み付けないし、力一パイ足を踏ん張ると首の骨が折れそうになるし、その苦しさったらなかったわ。だけど、それでも生命がけの思いで、力のありったけ出して藻掻いているうちに、妾のまわりの叫び声が一ツ一ツに担ぎ上げられて、四ツか五ツ宛行列を立てながら階段を昇りはじめたの。その時にはチョットの間みんなの叫び声は止んだようだけど、その階段の音が聞えなくなると、又前よりも非道い泣き声や金切声がゴチャゴチャに聞え始めたの。めいめいに男の名を呼んでヒイヒイ泣いていたようよ。  だけど妾それでも泣かなかったの。そうして死に物狂いになって、両手で頭をシッカリと抱えながら、足の処の結び目を何度も何度も蹴ったり踏んだりしていたら、身体中が汗みどろになって、髪毛が顔中に粘り付いて、眼も口も開けられなくなってしまったの。その中に袋の中は湯気が一パイ詰まったように息苦しくなって来るし、髪の毛は顔から二の腕まで絡まって、動くたんびにチクチク抜けて行くし、おまけに着物と毛布が胸の上の処でゴチャゴチャになって、袋の中一パイにコダワリながら、お乳を上へ上へと押し上げるので、その苦しさったら……もう死ぬかもう死ぬかと思った位よ。そうしてそのうちに……御覧なさい。この臂の処が両方ともこんなに肉が出てピカピカ光っているでしょう。この臂はヤングが「|猫の臂」って名をつけて、紐育婦人の臂くらべに出すって云っていたくらい柔らかくてスンナリしていたのが、知らないうちに擦り破れてしまって、動くたんびにヒリヒリと痛み出して来たんですもの。……それに気が付くと妾はもう、スッカリ力が抜けてしまって、意地にも張りにも動けなくなったようよ……両方の臂を抱えてグッタリとなったまま、呼吸ばかりセイセイ切らしていたようよ。  そのうちに又、上の方から四五人の足音が聞えて来ると、みんなの叫び声がまた、ピッタリとなっちゃったの。それに連れて降りて来る男たちの話声がよく聞えたのよ。器械の音とゴッチャになったまま……。 「アハハハハ。非道え眼に会っちゃったナ。あとでいくらかヤングに増してもらえ」 「ヂックの野郎が余計な宣告を饒舌るもんだから見ろ……こんなに血が出て来た」 「ハハハハ恐ろしいもんだナ。袋の中から耳朶を喰い切るなんて……」 「喰い切ったんじゃねえ。引き千切りかけやがったんだ。だしぬけに……」 「俺あ小便を引っかけられた。コレ……」 「ウワ――。あれあスチューワードが持ち込んだ肥っちょの娘だろう。彼奴の鞭で結えてあったから……」 「ウン。あのパン屋のソニーさんよ。おかげで高価え銭を払ったルパシカが台なしだ。とても五|弗じゃ合わねえ」 「まあそうコボスなよ。女の小便なら縁起が宜いかも知れねえ」 「人をつけ……ウラハラだあ……」 「ワハハハハハ」  ……だってさあ……こんな事を云い合って呑気そうに笑いながら、その男たちは又四ツばかり叫び声を担ぎ上げたの。 「サア温柔しく温柔しく。あばれると高い処から取り落しますよ。落ちたら眼の玉が飛び出しますよ」 「小便なんぞ引っかけないように願いますよだ。ハハハハハハ」 「ドッコイドッコイ……どうでえこの腹部のヤワヤワふっくりとした事は……トテモ千金こてえられねえや」 「アイテッ。そこは耳朶じゃねえったら……アチチチ……コン畜生……」 「ハハハハ。そこへ脳天を打っ付けねえ。その方が早えや」 「アイテテ……又やりやがったな……畜生ッ……こうだぞ……」  って云ううちに、……ギャーッて云う声が室中にビリビリする位響いて来たの。  その声を聞くと妾は又夢中になってしまって、身体中にありたけの力を出しながら、床の上を転がり始めたの。そうして出来るだけ電燈の光りの見えない方へ盲目探りに転がって行って、何かの陰を探して隠れよう隠れようとしていたの。そうすると今度は男たちの靴の音が離れ離れになって、一人か二人|宛あとになったり先になったりしながら――次から次に担ぎ上げて行くうちに、とうとう、室の中の叫び声が一ツも聞こえなくなってしまったのよ。ただ軍艦の動く響きと、微かな波の音ばっかり……人間の居るらしい音は全く無くなってしまってね……。  その時に妾はやっと、すこしばかり溜息をして気を落ちつけたようよ。妾の袋はキット何かの陰になって、見えなくなっているのに違いないと思い思い、顔中にまつわっている髪の毛を掻き除けながら、なおも、ジッと耳を澄ましていたようよ。  そうすると、それから暫く経って、もうみんなどこかへ行って終ったと思う頃、今度はたった一人の、重たい、釘だらけの靴の音が……ゴトーン、ゴトーンと階段を降りて来たの。そうして室のまん中に立ち止まって、そこいらをジーイと見まわしながら突立っているようなの。  ……その時の怖かったこと……今までの怖さの何層倍だったか知れないわ……妾の寿命はキットあの時に十年位縮まったに違いないわよ。……もう思い切り小さくなって、いつまでもいつまでも息を殺していると、そこいら中があんまり静かなのと、気味がわるいのとで頭がキンキン痛み出して、胸がムカムカして吐きそうになって来たの。それを我慢しよう我慢しようと藻掻いていたために身体じゅうが又、冷汗でビッショリになってしまったの。  そうすると、もうどこかへ行ったのか知らんと思っていたその男が馬鹿みたいにノロノロした、変テコな胴間声で口を利き出したの。 「……どうしても一ツ足りねえと思うんだがナア……みんなは、おらが三人担いだというけんど、おらあ二遍しけあ階子段を昇らねえんだがなあ……」  その声と言葉付きを聞いた時に、妾は又、髪の毛が一本一本馳け出したように思ったわ。歯の根がガクガク鳴り出して、手足がブルブル動き出すのをどうする事も出来なかったわ……だってその声っていうのは、ずっと前に一度オブラーコの酒場へ遊びに来て、散々パラ水兵たちにオモチャにされて外に突き出された、大きな嫌らしい黒ん坊の声だったんですもの。……その時にその黒ん坊が恨めしそうな、もの凄い眼付きで妾たちをふり返った顔を、袋の中でハッキリと思い出したんですもの……怖いにも何にも、妾は生きた空がなくなって、もうすこしで気絶しそうになった位よ。今にもゲーッと吐きそうになってね。そうするとその黒ん坊は、 「どうしても無いんだナア……可笑しいナア……」  って云いながらマッチを擦って煙草を吸い付け吸い付け出て行きそうに歩き出したの。……そん時の嬉しかったこと……妾は思わず手の甲に爪が喰い入る程力を籠めてイーコン様を拝んじゃったわ。  ……だけど矢っ張り駄目だったの……階段の方へノロノロと歩いて行った黒ん坊は間もなく奇妙な声を立てながらバッタリと立ち止まったの。 「イヨーッ。あんな処に隠れてら。フヘ、フヒ、フホ、フム……畜生畜生」  と云うなり、ツカツカと近づいて来て、妾の袋へシッカリと抱き付いちゃったの。それと一緒に黄臭い煙草のにおいと、何ともいえない黒ん坊のアノ甘ったるい体臭とがムウーと袋の中へ流れ込んで来たようなの。  妾、その時に、どんな風に暴れまわったか、ちっとも記憶えていないのよ。……ただ、ちっとも声を立てなかった事を記憶えているだけよ。誰か加勢に来たら大変と思ってね。……だけどその黒ん坊も、ウンともスンとも云わなかったようよ。おおかた一人で妾をどこかへ担いで行って、どうかしようと思ったのでしょう。暴れまわる妾を何遍も何遍も抱え上げかけては、床の上に取り落し取り落ししたので、そのたんびに妾は気が遠くなりかけたようよ。  だけど、それでも妾は声を立てなかったの。そうしてヤッサモッサやっているうちに、どうした拍子か袋の口が解けて、両足が腰の処までスッポンと外へ脱け出した事がわかったの……。  それに気が付いた時に妾がどんなに勢よく暴れ出したか……アラ又……笑っちゃ嫌って云うのに……ソレどころじゃなかったわよ、ソン時の妾は……何でもいいから……足が折れても構わないからこの黒ん坊を蹴殺して、その間に袋から脱け出してやろうと思って、頭でも、顔でも、胸でもどこでも構わずに蹴って蹴って蹴飛ばしてやったわ。……ええ……黒ん坊も一生懸命だったようよ。袋の上からシッカリと組み付いて来て、片っ方の手で妾の両足を押えようとするのだけども、妾の両足を一緒に掴まえる事はなかなか出来ないし、片っ方だけ捉まえても妾が死に物狂いで蹴飛ばしてやったもんだから、しまいにはセイセイ息を弾ませて、妾の足と掴み合い掴み合いしながらあっちへ転がり、こっちへ蹴飛ばされしていたようよ。……だけど、そのうちに妾の着物と毛布が両手と一緒に、だんだん上の方へ上って来て、息が出来ない位に切なくなって来ると、黒ん坊はとうとう妾の両足を捉まえて、足首の処を両手でギューと握り締めちゃったの。  そん時に妾は、初めて、大きな声を振り絞ったわ。両手を顔に当てて力一パイ反りかえりながら、 「助けて助けて助けて。ヤングヤングヤングヤング」  ってね。ええ……それあ大きな声だったわよ。咽喉が破れる位|呶鳴ってやったんですもの。そうして両足を押えられたまま、起き上っては反りかえり反りかえりして、固い床板の上に頭をブッ付け始めたの。死んだ方がいいと思ってね。  そうしたら黒ん坊もその勢いに驚いて、諦らめる気になったんでしょう。 「……ウウウウ……そんなに死にてえのかナア……」  って喘ぎ喘ぎ云いながら、妾の両足を掴んで、床の上をズルズルと、片隅に引っぱって行くと思ったら、そこに置いてあったらしい細い針金で、足首の処から先にグルグルグルグルと巻き立てて、胸の処まで袋ごしに締め付けてしまったの……。  その時の苦しさったら、それあ、とてもお話ししたって解かりやしないわよ。だってチョットでも太い息をするか、動くかすると、すぐに長い細い針金が刃物みたいに喰い込んで、そこいら中の肉が切れて落ちそうになるんですもの……それでいて、いくら喘いでも喘いでも喘ぎ切れない位息が切れているんですもの……妾はそのまま直ぐに気が遠くなっちゃった位なの。だけども又すぐに苦しまぎれに息を吹きかえすと、又もや火の付いたように針金が喰い込むでしょう。地獄の責め苦ってほんとうにあの事よ。そうして息も絶え絶えにヒイヒイ云っているうちに今度は本当に気絶してしまったらしいの。  それから何分経ったか、何時間経ったのかわからないけど、又自然と息を吹き返した時には、妾はもう半分死んだようになっていたようよ。手や足の痛さがわからなくなってしまってね。……そうして眼だけを大きく見開いてどこかを凝視めていたようよ。だからその時に聞いた話も、夢みたように切れ切れにしか記憶えていないの。 「……どうでえ。綺麗な足じゃねえか」 「ウーム。黒人の野郎、こいつをせしめようなんて職過ぎらあ」 「面が歪んだくれえ安いもんだ。ハハン」 「しかし、よっぽど手酷く暴れたんだな。あの好色野郎が、こんなにまで手古摺ったところを見ると……」 「フフン、勿体なくもオブラーコのワーニャさんだかんな」 「ウーム。十九だってえのに惜しいもんだナア……コンナに暴れちゃっちゃ、ヤングだって隠しとく訳に行くめえが……」 「……シーッ……来やがった来やがった……」  って云ううちに、又一人、スパリスパリと煙草を吹かしながら、軽い、気取った足取りで階段を降りて来て、悠っくり悠っくりと妾の傍に近づいた者が居るの……。  その足音を聞くと妾は気もちが一ペンにシャンとなっちゃったわ。飛び上りたい位嬉しくなって……ヤング……って叫ぼうとしたのよ……。  だけど妾が起き上ろうとすると、手や足が、胸の処まで氷みたようになって、動かなくなっていることがわかったの。それと一緒に、声がピッタリと咽喉に閊えてしまって、名前を呼べる位ならまだしも、声を立てる事すら出来なくなっているじゃないの。何だかそんな夢でも見ているように胸の処が固ばってしまってね。もしかすると、あんまり怖い眼に会い続けたので気が変になっていたのかも知れないけど……。  そうするとヤングは、長い長い大きな溜め息を一つしてから、静かな、猫撫で声かと思うくらい優しい口調で、こんなお説教を妾にして聞かせたの。上品な露西亜語でね……。 「ワーニャさん。温柔しくしていて頂戴……。私は貴女が憎いから、こんな事をするのじゃありません。よござんすか。よく気を落ち着けて聞いて頂戴……ね。私は貴女が可愛いくて可愛いくてたまらない余りにコンナ事をするのです。私は貴女が、あんまり綺麗で可愛いから、亜米利加の貴婦人と同じようにして殺してみたくなったのです。ね。いつぞやお話して上げた恋愛ごっこの事を、まだ記憶えていらっしゃるでしょう、ね、ね、わかったでしょう。……私は最早近いうちに日本と戦争をして戦死をするのです。ですからもう、貴女以外の女の人と結婚する事は出来ないのです。貴女と一緒に天国に行くよりほかに楽しみは無くなったのです。ですから満足して、私の云う事をきいて頂戴。ね、ね、温柔しく私の云う通りになって死んで頂戴。ね、ね……わかったでしょう。ね、ね……」  そう云ううちにヤングは妾の足に捲かった針金を解き始めたの。そうして胸の上までユックリユックリ解いてしまうと、 「サアサア。寒かったでしょうね」  って云いながら、又、もとの通りに袋を冠せて口をシッカリ括ってしまったの。  ええ……妾はちっとも手向いなぞしなかったわ。死人のようにグッタリとなって、ヤングのする通りになっていたわよ。  その時のヤングの声の静かで悲しかったこと――ほんの一寸の間だったけど、妾の胸にシミジミと融け込んで、妾に何もかも忘れさしてしまったのよ。……何だか甘い、なつかしい夢でも見ているような気もちになってね……ネンネコ歌にあやされて眠って行く赤ん坊みたように、涙が止め度なく出て来たもんだから、妾はとうとう声を出してオイオイ泣き出しちゃったの。 「……ヤング……ヤング……」  って云ってね……そうするとヤングは一々丁寧に返事をしいしい妾を袋に入れてしまってから、今一度妾の頭の処を、袋の上から撫でてくれたわ。 「……ね……ね……わかったでしょう、ワーニャさん。温柔しくするんですよ。サアサア。もう泣かないで泣かないで。いいですか。ハイハイ。私がヤングですよ。いいですか。サ……泣かないで泣かないで」  そう云って妾をピッタリと泣き止まして終うと、静かに立ち上って、這入って来た時と同じように気取った足音を立てながら、悠々と階段を昇ってどこかへ行ってしまったの。  だけど妾は、やっぱり夢を見ているような気持ちになって、シャクリ上げシャクリ上げしながらグッタリとなっていたようよ。そうすると、あとに残った三人の男たちは手ん手に妾の頭と、胴と、足を抱えて、上の方へ担ぎ上げながら、黙りこくって階段を昇りはじめたの。そのゆっくりゆっくりした足音が、静かな室の中にゴトーンゴトーンと響くのを聞きながら、妾は何だか、教会の入口を這入って行くような気持ちになっていたようよ。  だけど第一の階段を昇ってしまうと間もなく、一番先に立って、妾の足を抱えていた男が、変な声でヒョックリと唸り出したの。そうして何を云うのかと思っていると、 「ウーム。ウメエもんだナア。ヤングの畜生、あの手で引っかけやがるんだナア。どこへ行っても……」  って、サモサモ感心したように云うの。そうすると妾の腰を担いでいた男も真似をするように唸り出したの。 「ウーム。まるで催眠術だな。一ペンで温順しくしちまやがった」  そうすると又、妾の頭を担いでいた男が、老人みたような咳をゴホンゴホンとしながら、こんな事を云ったの。 「十七人の娘の中で、ワーニャさんだけだんべ……天国へ行けるのはナア」 「アーメンか……ハハハハハ」  こんな事を云っているうちに、又二つばかりの階段を昇ると、ザーザーという波の音がして甲板へ出たらしく、袋の外から冷たい風がスースーと這入って来て、擦り剥けた臂の処が急にピリピリ痛み出したの。それと一緒に明るい太陽の光りが袋の目からキラキラとさし込んで来て、眼が眩むくらいマブシクなったので、妾は両手で顔をシッカリと押えていたようよ。そうしたら足を抱えていた男が、 「サア……天国へ来た……」 「ウフフフフ。ワーニャさんハイチャイだ。ちっとハア寒かんべえけれど」 「ソレ。ワン……ツー……スリイッ……」  と云ううちに、妾をゆすぶっていた六ツの手が一時に離れると、妾はフワリと宙に浮いたようになったの。  その時に妾は何かしら大きな声を出したようよ。……やっと夢から醒めたようにドキンとしてね……だけど、そう思う間もなく、妾の頭が、船の外側のどこかへ打つかると一処にガーンとなってしまって、いつ海の中へ落ち込んだかわからなかったの……。  それから又、妾が気が付いて眼を開いたのは、一分か二分ぐらい後のようにしか思えないのよ……何だか知らないけれど身体中に痺れが切れて、腰から下が痒くて痒くてしようがないように思っているうちに、フイッと眼を開いてみたら、そこは忘れもしないこのレストランの地下室でね。いつぞや肺病で死んだニーナさんが寝かされていたその寝台の上に、湯タンポと襤褸っ布片で包まれながら、素っ裸体で放り出されているじゃないの。おまけに寝台の横でトロトロ燃えているペーチカの明りでよく見ると、妾の手や足は凍傷で赤ぶくれになっていて、針金の痕が蛇みたいにビクビクと這いまわっている上から、黒茶色の油膏薬がベトベトダラダラ塗りまわしてあるじゃないの。その汚ならしくて気味の悪かったこと……妾何だかわからないままビックリして泣き出しちゃった位よ。  ……だけど、それから間もなく料理番の支那人が持って来てくれた魚汁の美味しかったこと……その支那人のチーっていうのに聞いてみたら、その時は妾が死んでからちょうど二日目だったそうよ。……妾の袋は、ルスキー島から二海里ばかりの沖へ投げ込まれると間もなく、軍艦と擦れちがったジャンクに拾われたので、その船頭の女房の介抱で息を吹き返したんですってさあ。十七番のナターシャさんも同じジャンクで拾われていたし、パン屋のソニーさんも鯨捕り船だったかに拾われて来たのを、白軍の巡邏船が見付け出して警察に引き渡したんですって。だけど、みんな水をドッサリ飲んでいたんで駄目だったんですとさあ。そのほかの袋は十日ばかし経ってから、タッタ二個だけ、外海の岸に流れ付いたそうよ。妾怖いから見に行かなかったけど……ホントに可哀そうでしようがないの……。  妾……この話をするのはあんたが初めてよ。いいえ……誰も知らないの……みんな死んでいるから……。  それあ浦塩ではかなり評判になっているらしいのよ。……ええ……あんたが知らないのは無理もないわよ。あんたはまだ浦塩に来ていなかったんですからね。おまけに警察でもこの家でも、まだ秘密にしているから、新聞にも何も書いてないそうよ。おおかた亜米利加を怖がっているのでしょう。あの軍艦がしたらしい事は、みんな感づいているんですからね。  ええ……それあ何遍も何遍も訊かれたのよ。一体どうしてこんな眼に会わされたのかってね。妾が気が付いてから後の一週間ばかりというもの、警察の人や、うちの主人や、そのほかにも役人らしいエラそうな人が何人も何人も、毎日のように妾の枕元に遣って来ちゃ、威したり、賺したりしながら、ずいぶん執拗く事情を尋ねたのよ。……おしまいには先方から色んな事を話して聞かせてね……あのヤングっていう士官はトテモ悪い奴で、今年の夏に浦塩に着いた時に、軍艦の荷物が税関にかからないのをいい事にして、阿片をドッサリ浦塩に持ち込んで、方々に売り付けてお金を儲けた事がチャンとわかってるんだ……だけども遣り方がナカナカ上手でハッキリした証拠が上らないために、どうすることも出来ないでいたんだ。……そうしたらヤングの畜生めスッカリ浦塩の警察を舐めてしまったらしく、今度は配下の水兵にお金を遣るかどうかして、めいめいの色女を十何人も軍艦に担ぎ込んで、上海かどこかの市場に売りに行こうとしやがった。……けれども軍艦が沖へ出ると、それが上官に見つかるかどうかしたもんだから、一つ残らず海の中へ放り込ましてしまったのが、やっぱりあのヤングって奴なんだ。……しかもその中で生き残っているのはお前一人なんだからトテモ大切な証人なのだ。俺達は、お前の仲間十何人の讐きを取ってやろうと思っているのだから、早く気をシッカリさして返事をしてくれなければ困る。御褒美の金はいくらでも遣るから本当の事を云ってくれ……一体お前は何と云ってヤングに欺されたのか。どうして船の中に連れ込まれたのか。そうしてドンナ間違いから海の中に放り込まれるような事になったのか……ナンテいろんなトンチンカンな事を真剣になって訊くの……。  だけど妾どうしても、それに返事する事が出来なかったのよ。……お前さんたちが云っているのはみんな嘘だ。ヤングはそんなに悪い人間じゃない。悪い奴はあの船の司令官一人だって云ってやろうと思っても、どうしてもその訳を話す事が出来なかったの。……何故っていうと、妾、正気に帰ってからちょうど一週間ばかりというもの、口を利くのが怖くて怖くてしようがなかったんですもの。どうしてもその時の恐ろしさが忘れられなくって「ハイ」とか「イイエ」とかいう短かい返事をするのさえ怖くて怖くてたまらない気がしてね。それを無理に口を利こうとすると、歯の根がガタガタ云い出して、すぐに吐きそうになって来るんですもの……仕方がないから丸で唖者みたようになって、眼ばかりパチパチさせていたら、警察の人達もとうとう諦らめてしまって、来なくなったようよ。  ……だけども、そうして妾が一人ボッチになってから、ウトウトしようとすると、すぐに、あの時の気持が夢になって見えて来て、寝床の中で汗ビッショリになりながら、一生懸命に藻掻かせられるの。夢うつつに敷布を噛み破ったり湯タンポを蹴り落したりしてね。その恐ろしさったらなかったわよ。そうして、そんな夢のおしまいがけにはキットあのヤングの悲しい、静かな声が、どこからともなくハッキリと聞えて来て、妾をサメザメと泣き出させたの。眼が醒めてから後までも、妾は、そんな言葉の意味を繰り返し繰り返し考えながら眼をまん丸く見開いて、いつまでも暗い天井を見詰めていたわよ。  そのうちに十日ばかりも経つと、凍傷の方が思ったよりも軽く済んだし、針金の痕も切れ切れになってお化粧で隠れる位に薄れて来たの。それにつれて身体がもとの通りに元気付くし、口もどうにか利けるようになって来たので、寝ているわけにも行かなくなって、思い切って舞踏場へ出て見たら、間もなく、あんたが遊びに来たでしょう。  それあ不思議といえばホントに不思議でしようがないのよ。妾はあんたに会ったのが、神様の引き合せとしか思えないのよ。だって初めてあんたに会ったあの晩ね、あの晩から妾はピッタリと、そんな怖い夢を見なくなったのよ。おまけに前と比べると丸で生れかわったように饒舌娘になってしまってね……そうしてそのうちに、あんたがたまらない程可愛いくなって来るにつれて、あのヤングが云っていた色んな言葉の本当の意味が、一つ一つに新しく、シミジミとわかって来たように思うの。そうしてヤングから教わった色んな遊びをあんたに教えて見たくてしようがなくなって来たの。それも、当り前の打ったり絞めたりする遊びなんかじゃ我慢出来ないの……一と思いにあんたを殺すかどうかして終わなくちゃトテモやり切れないと思うくらい、あんたが可愛いくて可愛いくてたまらなくなったのよ。  ……妾、それをやっとの思いで今日まで我慢していたのよ。何故って、万が一にも妾からそんな話を切り出したら、あんたがビックリして逃げ出すかも知れないと思ったからよ。……だけど、それがもう今夜という今夜になったらトテモ我慢がし切れなくなっちゃったのよ。  妾はきょうも、いつものように日暮れ前からこの室に這入って、お掃除を済まして、ペーチカに火を入れたの。そうしてスッカリお化粧を済ましてから、あんたを待ち待ち昨夜の飲み残しのお酒を飲んでいたら、そのうちに室の中が静かアに暗くなってね。向家の屋根の雪の斑と、その上にギラギラ光っている星だけがハッキリと見えるようになって来たじゃないの……妾もうスッカリあの晩と同じ気もちになってしまってね……たまらなく息苦しくて息苦しくて……。アラ……睡っちゃ嫌よ。……睡らないで聞いて頂戴ってばさあ……まあ嫌だ。本当に酔っちゃったのね……人が一生懸命に話しているのに……。  ……ね……わかったでしょう……あんたにもわかったでしょう。妾のそうした気持ちが……ね……妾、お酒に酔って云っているのじゃないのよ……いいこと……ね。ね。だから妾は今夜こそイヨイヨ本当にあんたを殺そうと思って、ワザワザこの短剣を買って来たのよ。英国|出来の飛び切りっていうのをサア。一寸御覧なさいってば……このよく斬れること……妾の腕の毛がホラ……ヒイヤリとして……ね。ステキでしょう。いいこと。……この切っ尖であんたの心臓をヒイヤリと刺しとおして、その血のついた刃先を、すぐにズブズブと妾の心臓に突き刺して死んで終おうと思っているのよ……トテモ気持ちのいい心臓と心臓のキッスよ。ヤングが教えてくれた世界一の贅沢な……一生に一度っきりの……。  アラッ……妾今やっと思い出したわ。日本の言葉で、こんな遊びの事をシンジュウっていうんでしょう、ね、ね。  ……サア。本気で返事して頂戴よ。睡らないでサア。サアってばサア。……いいわ。妾あんたが睡ってたって構わないから……そのまんま突き刺しちゃうから……いいこと……? ねッ……死んでくれるでしょう。ね……いいこと……殺しても……嬉しい……じゃ……お別れの乾杯よ……ね……そうして寝床へ行くのよ……サア……。 「末期の際にタッタ一言……タタタ、タッタ一言……コレエ……」  万平は板を並べ換える片手間に、奇妙な声を出して頭を振り立てた。洗い晒しの印袢纏に縄の帯。豆絞りの向う鉢巻のうしろ姿は打って付けの生粋な哥兄に見えるが、こっちを向くと間伸びな馬面が真黒に日に焼けた、見るからの好人物。二十七八に見えるが、物腰は未だ若いらしい。材木屋|※の若い者で、蔭日陽なく働く好人物であるがタッタ一つの病気は芝居|狂で、しかも女形を以て自任しているのが、玉に疵と云おうか、疵に玉とでも云うのか。皆から冷かされるのを真に受けてイヨイヨ芝居熱を上げるという超特級の難物である。きょうも仕事がないままに、材木置場を片付けながら、そこいらの安芝居の科白を一生懸命に復習しているのだ。  震災前の飯田町駅附近は一面の材木置場になっていた。杉丸太、竹束、樅板なぞが、次から次へ涯てしなく並んで、八幡の籔みたように、一旦、迷い込んだら出口がナカナカわからない。その立並んだ樅板が万平には書割に見えたり、カンカン秋日の照る青空が花四天に見えたりするのであろう。二三|町四方人気のないのを幸いに、杉板の束を運び集めながら、新派旧派の嫌いなく科白の継ぎ剥ぎを復習し続けて行く。 「我が日の本の魂が、凝り固まったる三尺の秋水。天下|法度の切支丹の邪法、いで真二つに……」  万平はフッと科白を中止した。スグ向うに並んだ松板の間からチラリと見えた赤い物に気が付いたからであった、担いでいた杉皮の束を、鋸屑の山盛りの上に置くと、ハテナという思い入れ宜しくあって抜足さし足も半分、芝居がかりに壁のように並んだ松板の蔭に近寄った。その隙間からソッと向うの竹束の間の空地を覗いたが、忽ち眼を丸くして舌をダラリと垂らした。  竹束の前の大きな欅の角材に腰をかけたインバネスに中折帽の苦み走った若い男が、青ざめた澄ました顔をして金口煙草に火を点けている。その横に下町風の大|桃割に結った娘が、用足しに出た途中であろう。前垂をかけたまま腰をかけて、世にも悩ましく、媚めかしく、燃え立つような頬と眼を輝かせながら、男に凭れかかっている。  二人は同時に素早く前後左右を見まわした。万平が材木の間から耳を尖んがらして聞いているとも知らずに、頬をスリ寄せて何かヒソヒソと話し初めた。 「……それじゃクニちゃん……今夜、飯田町から……」 「ええ……終列車がいいわ……」 「ここで待っているよ」 「ええ。すこし遅くなるかも知れないわ。お父さんが寝るのが十一時頃だから、それから盗み出して着物を着かえて来ると、十二時が過ぎるかも知れないわ」 「終列車は一時十分だから……」 「そんなら大丈夫よ。二千円ぐらい有ってよ。明日銀行へ入れるのが……ホホ……足りないか知ら……」 「ハハハ。余る位だ。朝鮮に行けばね……」 「キットここで待っててね」 「……クニちゃん……」 「……竜太さんッ……」  万平はビックリして又覗いた。 「……………」 「……………」  娘はお尻の鋸屑を払い払い名残惜しそうに立上った。イソイソと小走りに材木の間を出て行った。  あとを見送った中折帽の男は、舌なめずりをしながらそこらを見まわした。白い歯を出してニンガリと笑ったが、それは如何にも色魔らしい物凄い笑顔であった。そのまま、細いステッキを振り振り俎橋の方へ抜けて行った。  万平は材木の隙間から飛退いた。その隙間をジイッと睨んで腕を組んだ。芝居の事も何も忘れたらしく真青になって考え込んでいたが、そのまま鉢巻を解いて眉深く頬冠をした。材木の間を右に左に抜けて飯田町の裏通りへ出た。すこし芝居がかりの腰付でソオッと左右を見まわした。  往来は日が暮れかかっていた。はるか向うの飯田町の機関庫の裏道を、今の桃割の娘が急いで行く。  万平は大急ぎでアトを追かけた。近くなると見え隠れに随いて行った。  娘はガードを潜って、水道橋を渡って、築地八幡の近くの只有る横露路を這入った。万平も続いて曲り込んだ。  桃割娘のクニちゃんは、横露路の突当りに在る、暗い小格子を開けて中に這入った。小格子の前には「質屋」と書いた古ぼけた看板と、丸柿庄六と書いた新しい標札が掛かっていた。  万平はその前に突立って、どうしていいかわからないらしく、腕を組んだままキョロキョロしていた。  小格子の中から禿頭の親爺が出て来た。見るからに丸柿庄六と名乗りそうな面構えで、手に草箒を一本|提げていたが、万平を見ると胡乱臭そうにジロリと睨んで立止まって、ガッチリとした渋柿面をして見せた。  万平は狼狽して頬冠を取った。ペコペコとお辞儀をした。 「……あの……ちょっと……お伺い申しますが……あの……」 「……ハイ。何の御用ですか」 「ええ。その……何で御座います。その……今……お帰りになりましたのは……その……エヘヘ……こちらのお嬢様で……」 「……………」  禿頭の丸柿|親仁は返事をしなかった。汗を掻いてペコペコしている万平の姿を見上げ見下した。いよいよ苦々しい顔になってギョロギョロと眼を光らし初めた。噛んで吐き出すように、ハッキリと云った。 「左様です。私の娘です。何か御用ですか」  万平はホッと胸を撫で下した。ヤタラに汗を拭いた。 「……ああ、助かった。やっと安心した」  丸柿親爺の顔が、禿頭の下で二三寸伸びた。万平の顔を穴のあく程見詰めた。  万平も負けずに顔の寸法を伸ばした。やはり穴の開く程、相手の顔を見返していたが、突然、その顔を近付けると、眼を丸くして声を落した。 「……タ……大将……大変ですぜ。お嬢さんはね。どっかの色男と……今夜、駈落の相談を……」  万平の眼から火花が飛んだ。頭がクラクラとなった。頬を打たれて突飛ばされたのだ。万平は泥濘の中に尻餅を突いたまま、相手の顔を茫然と見上げていた。  禿頭は草箒を構えて睨み付けた。 「……馬鹿野郎……あっちへ行け……」  万平は禿頭の見幕に震え上った。起上りながら後退りをした。その時に最前の娘が、暗い小格子からチラリと顔を出した。  万平は横ッ飛に逃出した。  万平はお尻を泥ダラケにしたまま、腕を組んで考え考え歩いた。  頭の中が心配で一パイになって、どこをどうあるいたのかわからなかったが、背後から人が笑うような声がしたので、フト頭を上げてみると俎橋の警察の前に来ている事に気が付いた。万平はそこで又、暫く考えていたが、思い切って、警察の前の石段を上って行った。  警察の中では巡査が三人、机越しに向い合って欠伸をしていた。万平が這入って来ると三人が三人とも、万平のお尻にベッタリとクッ附いている泥に眼を付けた。  万平は何がなしにピョコピョコとお辞儀をした。 「何か……何しに来たんか……」 「ヘイ、ヘイ、それが……そのお願いに参りましたんで……」 「何だ。喧嘩したんか」 「いいえ。そんなんじゃ御座んせんので実は……その何なんで……」 「何でも良い。云うて見い」  万平は又もヒョコヒョコお辞儀しながら、吃り吃り事情を話した。 「ヘイ。そんな訳なんで……どうもあすこの材木置場って奴はロクな処じゃねえんで……変な野郎や阿魔ッ子の巫戯場所になっておりやすんで……ヘイ。ツイこの間も人殺しがオッ初りかけた位なんで……ヘイ。だから今夜もアブネエと思うんでげす。片ッ方の野郎が、どーも尋常の野郎じゃねえと思うんで……。娘ッ子の方は何も知らねえらしいんで……ヘイ。どうぞ……どうぞ助けてやっておくんなさい」  万平は進み寄って、警官の前の机に両手を支いて繰返し繰返しお辞儀をしては汗を拭った。  警官は三人ともニヤニヤと笑った。  若い上役らしい金筋の這入った一人が、煙草に火を点けて悠々と烟を吐いた。  色の黒い人相の悪い一人はシンミリと鼻毛を抜き初めた。突然大きな声で……ファークション……と云った。  今一人はチャップリン髭を撫でながら、眼を細くして云った。 「……よしよし……わかったわかった……安心して帰れ」  万平は張合い抜けがしたように、三人の警官を、見まわした。シオシオと頸低れて出て行った。外はモウ真暗になっていた。  アトを見送った三人の警官は、顔を見合せてドッと笑い崩れた。  万平は親方に見付からないように、勝手口からソーッと這入って行くと、トタンに奥の方から大きな怒鳴り声が聞えた。 「どこへ行ってやがったんだ。間抜めえ」  万平は上框へヘタヘタと両手を支いた。奥から一パイ飲んだらしい中禿の親方が、真赤な顔をして出て来た。青い筋が額にモリモリと浮上っていた。 「……芝居狂えも大概にしろ馬鹿野郎……タタキ出すぞ……」 「まあ、お前さん、そう口汚なく云わなくったって……」  と横から綺麗にお化粧したお神さんが止めた。お神さんはいつでも万平|贔負であった。芝居のお供といったらいつも万平で、万平のお蔭でお神さんは一廉の芝居通になっていたのであった。 「黙ってスッ込んでいろ畜生。何が面白いんだアンナものが。芝居や活動なんテナみんな作りごとばかりじゃねえか。ええ、おい。あんな物あ女の見るもんだ。男なら角力かベースボールでも見やアがれ。芝居なんて物を見ると臓腑が腐っちゃって仕事に身が入らなくなるんだ。アンナ作りごとばかり見てた日にゃ、世の中の事がミンナ嘘に見えて来らあ。ケッ……忌々しい野郎だ」 「まあ。そんなに云うもんじゃないよ。サア、万ちゃん御飯お上り。お腹が空いたでしょう」 「飯ばかり喰らいやあがって畜生めえ。一体イツ時分だと思ってやんだ……今を……」 「それあネエ。一幕見のつもりだってもね。ツイ出られなくなるもんですよ。ねえ」 「チッ……嫌に万公の肩ばかり持ちやがる。手前がソンナだから示しが附かねえんだ」 「だって万ちゃんなんかイツモ影日向なんかしないんだから……タマにゃあねえ」 「ええ。この野郎。何が影日向だ。材木置場に行って見ろ。何も片付いてやしねえじゃねえか。杉ッ皮を放ったらかしてどこかへ行きやがったに違えねえんだ。ここへ出て来い畜生」 「まあお待ち。お前さんたら馬鹿馬鹿しい。何もそんなに喧嘩腰にならなくたっていいじゃないの。ねえ万ちゃん。いったいどこへ行ったの。そんなに、いい劇がどこかへ掛かってんの」  と云ううちにお神さんが万公の前へ剥げチョロケたお膳とお櫃を押し遣った。  万公は上り框に両手を突いたままメソメソ泣出していた。それはお神さんの親切に対する有難涙でもなければ、親方に叱られた口惜し涙でもなかった。  ……この世の中には芝居以上に真剣な、危なっかしい事がイクラでもあります。私はそのために今まで闘って来たのです。私の今の気持は芝居どころじゃないのです……。  と云いたくてたまらないのに、どうしてもそれが口に出して云えない、情なさからの涙であった。 「まあ。万ちゃん。泣いてるじゃないの。可哀そうに……御覧よ。お前さんがアンマリ叱るから万ちゃん泣いてるじゃないの。咽喉をビクビクさして……さあさあ、もういいから御飯お上り。ね。ね」 「テヘッ。呆れて物が云えねえ。咽喉のビクビクが可哀相なら、引っくり返った鮟鱇なんか見ちゃいられねえや。勝手にしやがれだ。ケッ……」  親方はそのまま、勝手口から下駄を突っかけてプイッと出て行ってしまった。あとを見送ったお神さんがプーッと膨れ返った。 「あんな事を云って出て行ったよ。又、一軒隣へヘボ将棋で取られに行ったんだよ。妾がアンマリ止めるもんだから、出て行くキッカケがなかったんだよ。呆れっちまうよホントに……将棋なんて何が面白いんだろうね。取られてばかりいて……芝居ならまだしもだけど……ねえ。万ちゃん……」  万平はお膳の上にポロポロ涙を落しながら点頭いた。そのままガツガツと茶漬飯を掻込んだ。 「ヨー色男」  飯を喰った万平が、表二階の若衆部屋へ上って行くと、皆どこかへ遊びに行ってガランとした部屋の隅に、早くも床を取って寝ていた朋輩の粂吉が、頭を持ち上げてソウ云った。最前からの経緯を聞いていたらしい。小声で云った。 「お神さん惚れてるぜお前に……」  万平は返事をしなかった。そのまま自分も蒲団を敷いてモグリ込んだ。  ……手前等に俺の気持が、わかるか……。  といったような気持で、夜の更けるのを待った。  万平は実際、真剣であった。眠るどころの沙汰ではなかった。別段、惚れているという訳ではないけれども、あの可愛い桃割髪の娘が弐千円のお金と一所に、あの凄者らしい青年に見す見す引っ泄われて行くのを、黙って見ている訳にはドウしても行かなかった。……のみならずあの中折のインバネスがタッタ一人でニヤリと洩らした、あの微笑の物スゴさばっかりは、どうしても忘れられなかった。あの笑い方はタダの笑い方じゃなかった。マンマと首尾よく女を欺し上げた事を喜ぶ以上の深刻な或る意味が含まれているようで、今まで見た芝居の悪党笑いのドレにも当てはまらないものである事を万平はハッキリと見て取っていた。何かしら今夜、あの材木置場で、あの娘の身の上に、大変な事が起りそうな気がする。それに気附いているのは、広い世界にタッタ俺一人なのだ。しかも、その俺の心配を誰も相手にしてくれる者は居ないのだ。……そうだ。俺は今夜、一番、生命がけの冒険をやって、その大間違いを喰い止めなければならない主役なのだ……そう思うと万平は胸がドキドキして仕様がなかった。  万平は元来、非常な臆病者であった。夜中に便所の窓から材木置場を覗いて見ただけでもゾッとする位であった。  あんな光景を見なければよかった。今夜まで何も知らずに寝ていたらドンナにか気楽でよかったろう。明日の朝起きてみたら、皆騒いでいる。材木置場で可愛い娘が絞殺されている。どこの誰だか見当が附かない。その中に夕刊を見てからヤットわかる……といった方がドレ位、気苦労がないか知れやしない。  だけど最早、こうなっちゃ、絶対に知らん顔をしている訳に行かない。何とかして俺の腕一つで片付けなければならないが、しかしその何とかしようがサッパリ見当が付かない。向うから汽車が来る。こっちからも汽車が来る。打っ棄っておけば、衝突するにきまっている。ああ、俺はドウしたらいいだろう……といったような事を、夜具の中でグルグルグルグルと考えまわしているうちに、いつの間にかウトウトしたらしい。ハッと気が付いて頭を持上げてみると、広い部屋の中央にタッタ一つ光っている五燭の電燈の下に、皆帰って来て寝ているらしく、大浪を打っている夜具の下から赤茶気た、毛ムクジャラの太股を片ッ方くの字|型に投出している者。頭の上に腕を突出してポリポリと掻いているもの。ムニャムニャムニャと美味そうに空気を喰って舌なめずりをしている者。今にも溺れ死にそうな声を出してイビキを掻いている者など……だいぶ夜が更けているらしい光景である。  万平は今一度ハッとして胸をときめかした。寝過したかな……と思ってソッと起上って、出来るだけ静かに階段を降りて、土間を跣足で台所に来てみると十一時半である。  ……間に合った……と思うと万平はホッとした。同時に、どうしていいかわからないままタッタ一人で頭を掻き掻きそこいらを見まわした。  フト思い付いて帳場の隅に立てかけてある親方用の、銀金具の短かい鳶口に手をかけたが、又、思い直して旧の処に置いた。何かいい得物はないか……といった格好でそこいらを見まわしていたが、その中に右手の握り拳でボンと左の掌を打った。ニヤリと笑いながら、親方とお神さんが床を並べて寝ている茶の間に忍び込んだ。芝居で見覚えている通りの泥棒の腰付で、部屋の隅の衣桁に掛けてあるお神さんの派手な下着と、昼夜帯をソーッと盗み出した。その足で抜き足、さし足一番奥の湯殿へ忍び込んで、ピッタリと戸締りをしてから、電燈をひねった。  万平は鏡台の前に座って勇ましく双肌脱ぎになった。鏡台の曳出を皆開け放して、固練の白粉で胸から上を真白に塗りこくり、首筋の処を特に真白く、青光りする程塗上げた。鏡を覗きながら眉と、生え際を念入りに黛で撞き上げた。手首と足首を爪先まで白くする事も忘れなかった。それからお神さんの下着を着て昼夜帯を胸高に締め白い襟を思い切り突越した。それから鏡台の一番下の曳出に詰まっているスキ毛を掴み出して元結で頭にククリ付けた。その上から手拭を冠って今一度鏡を覗いてみた。  それは余り上出来ではなかったが、ともかくも気味の悪いなりに女の恰好に見えたので、万平は相当満足したらしい。ニヤリと笑って立上りながら今度は背後姿を写してみた。それから電燈を消して、足探りで台所|草履を穿いて、裏口へ出て、アトをピッタリと閉めた。  風呂場の横の裏口には、細長いタイルの破片が二つ三つ落ちていた。その一つを拾った万平は、向うの壁に干してある、誰かの越中褌で包んでシッカリと紐で結えて、大切そうに袖の間へシッカリと抱えた。女の身振りよろしく裏木戸を開いて、裏通りの往来を小急ぎに横切った。まだ月が出ないので真暗ではあったが、案内知った材木置場の中を右に左に曲って、最前の男と娘とが話していた、欅材の置場に来た。右手にタイルの越中褌包みを抱え、右袖を顔に当てて跼みながら、白い首をコレ見よがしに差し伸べてキョロリキョロリとそこいらを見まわした。不思議な事に、チットモ怖くなかった。  万平の背後から最前の質屋の娘が足音を忍んで来かかったが、万平の姿を暗に透してみるとビックリしたらしい。無念そうに袖を啣えたまま材木の蔭に隠れた。息を殺して様子を覗っている気はいである。  質屋の娘が隠れたのと反対側の材木の間から、荒い縞の鳥打帽を冠ったインバネスの男が近付いて来た。細いステッキを留めて、万平の女姿を暗に透かして見ている様子である。  万平は暗の中に、あらん限りの媚態をつくして近寄って行った。  質屋の娘が袖を噛み裂かんばかりに眉を逆立ててその姿を見送っている。  鳥打帽の男は前後左右を忙しく見まわした。インバネスの蔭の右手でソッと短刀を抜きながら、左手を万平の肩にかけて抱き寄せるようにした。 「お金は……」  万平は左袖に抱えていたタイルの褌包みを差出した。  鳥打帽の男は左手で受取りかけたが、中味が固くて重たいのに気が付いたらしくハッとして手を引いた。彼の時遅く、この時早く、万平は鳥打の横面を平手で二つ三つ千切れる程|殴り飛ばした。男の鳥打帽がフッ飛んで闇の中に消えた。 「パア――ン……ピシャーン」  その音は万平の手の掌と同じくらいに大きかった。  男は飛び退いて短刀を振り上げた。 「アレエエエ――ッ……」  質屋の娘が仰天して材木の蔭から飛出した。鋸屑だらけの道を転けつまろびつ逃げて行った。  万平はタイルの褌包みで男の短刀と渡り合った。男は切尖鋭く万平を松板の間に追詰めながら、隙があったら逃げよう逃げようとしたので、万平は足元の鋸屑を掴んでは投げ掴んでは投げ防ぎ戦った。しかし、それでも追詰められてタッタ一突きにされそうなので、背後の松板の間にスルリ辷り込み様に、そこいらの杉丸太、竹束、松板の束をメチャクチャに倒しかけた。男は逃げ損ねて杉丸太の下になって起上ろうと藻掻く上から、止め度もなく材木が落ちかかって来た。それを一生懸命に跳ね除け跳ね除け逃げようとするところを万平が躍りかかって組伏せた。  男は短刀を棄てて向って来た。柔道が出来るらしくナカナカ強かった。上になり下になり揉み合っている中に万平の仮髪も手拭も皆飛んでしまった。万平は破鐘声の悲鳴を揚げた。 「……ヒ……人殺しいイ……」  男は短刀を拾おうとした。万平は拾わせまいとして又|揉合った。 「……泥棒ッ。誰か来てくれッ。人殺しッ」  男は万平を腰車で投飛ばして逃げて行こうとした。その帯に手をかけて万平は武者振り付いた。又上になり下になった。  山金の若い者が大勢、飛出して来て二人を取巻いた。若い男と、奇妙な姿の人間が組み合っているのを見て、皆呆れて突立っていた。万平は叫んだ。 「俺が万平だ……」  やっとわかった二三人が、男に飛付いた。メチャメチャに殴り付けた。  そこへ二三人の警官が、質屋の娘と一所に駈付けた。銀金具の鳶口を持った親方も遣って来た。  警官は万平の顔に懐中電燈を突付けるとプッと噴出した。 「何だ貴様は、最前の気違いじゃないか」  万平はハダカった胸を繕って腕マクリをした。まだ昂奮しているらしく奮然と詰寄った。 「……ナ……何が気違えだ。憚んながら……」  親方が万平を遮り止めて睨み付けた。 「馬鹿……手前の風態を見ろ……気違えでなけあ何だ……」  皆、可笑しさを我慢していた。  やっと月が出かかってそこいら中が明るくなって来た。背後の方で粂公が太いタメ息を吐いた。 「ナアンデエ。やっぱり万公か。俺あ動物園の熊が逃げて来たんかと思った」  皆ゲラゲラと笑い出した。  警官は男に手錠をかけた。材木の下からタイルの褌包みと短刀を拾い出した。親方と、万平と、娘を連れて警察へ帰った。直ぐに丸柿質店へ電話をかけた。  俎橋の警察に駈付けて来た禿頭の丸柿|親爺は、娘の無事な顔を見ると泣いて喜んだが、手錠をかけられた男を見ると血相を変えて掴みかかろうとした。 「……おのれッ。キ……貴様はテキ屋の竜公……。コ……此奴は私の借屋に居やがって……家賃を溜めて……デ……出て行きやがらないんです。柔道で私を投飛ばしやがったんで……お……おまけに俺の娘を……チ畜生ッ……ウ……怨み重なる……どうするか見ろッ」  山金の親方が遮り止めて腰をかけさした。穏やかに事情を話して聞かせた。  禿頭は万平に向って手を合せてペコペコした。娘の手を引いて万平の前に連れて来てお礼を云わせた。  娘は真赤になって、嬌態を作り作り万平の前に来て、振袖を重ねた。いい匂のする桃割髪を下げた。  万平は白粉の下から汗をブルブルと流した。ズッコケかかった昼夜帯を後ろ手で抱え上げ抱え上げ滅法矢鱈にお辞儀を返した。  皆思わず笑い合った。 「アハハハハハ」 「ワハハハハハ」  手錠をかけられた男が恐ろしく面を膨らました。        上  地の底の遠い遠い所から透きとおるような陰気な声が震え起って、斜坑の上り口まで這上って来た。 「……ほとけ……さまあああ……イイ……ヨオオオイイ……旧坑口ぞおおお……イイイ……ヨオオオ……イイ……イイ……」  その声が耳に止まった福太郎はフト足を佇めて、背後の闇黒を振り返った。  それはズット以前から、この炭坑地方に残っている奇妙な風習であった。  坑内で死んだ者があると、その死骸は決してその場で僧侶や遺族の手に渡さない。そこに駈け付けた仲間の者の数人が担架やトロッコに舁き載せて、忙わしなく行ったり来たりする炭車の間を縫いながらユックリユックリした足取りで坑口まで運び出して来るのであるが、その途中で、曲り角や要所要所の前を通過すると、そのたんびに側に付いている連中の中の一人が、出来るだけ高い声で、ハッキリとその場所の名前を呼んで、死人に云い聞かせてゆく。そうして長い時間をかけて坑口まで運び出すと、医局に持ち込んで検屍を受けてから、初めて僧侶や、身よりの者の手に引渡すのであった。  炭坑の中で死んだ者はそこに魂を残すものである。いつまでもそこに仕事をしかけたまま倒れているつもりで、自分の身体が外に運び出された事を知らないでいる。だから他の者がその仕事場に作業をしに行くと、その魂が腹を立てて邪魔をする事がある。通り風や、青い火や、幽霊になって現われて、鶴嘴の尖端を掴んだり、安全燈を消したり、爆発を不発にしたりする。モット非道い時には硬炭を落して殺すことさえあるので、そんな事の無いように運び出されて行く道筋を、死骸によっく云い聞かせて、後に思いを残させないようにする……というのがこうした習慣の起原だそうで、年が年中暗黒の底に埋れている坑夫達にとっては、いかにも道理至極であり、涙ぐましい儀式のように考えられているのであった。  今運び出されているのは旧坑口に近い保存炭柱の仕事場に掛っていた勇夫という、若い坑夫の死骸であった。むろん福太郎の配下ではなかったが、目端の利くシッカリ者だったのに、思いがけなく落盤に打たれてズタズタに粉砕されたという話を、福太郎はタッタ今、通り縋りの坑夫から聞かされていた。又、呼んでいる声は吉三郎という年輩の坑夫であったが、この男は嘗て一度、この山で大爆発があった際に、坑底で吹き飛ばされて死んだつもりでいたのが、間もなく息を吹き返してみると、いつの間にか太陽のカンカン照っている草原に運び出されて、医者の介抱を受けている事がわかったので、ビックリしてモウ一度気絶したことがあった。だからそれ以来、一層深くこの迷信に囚われたものらしく、死人があるたんびに駈け付けると、仕事をそっち除けにして、こうした呼び役を引き受けたので、仲間からはアノヨの吉と呼ばれているのであった。  吉三郎の声は普通よりもズッと甲高くて、女のように透きとおっていたのみならず、ズタズタになった死体の耳に口を寄せて、シンカラ死人の魂に呼びかけるべく一生懸命の声を絞っているので、そこいらの坊さんの声なぞよりもはるかに徹底した……無限の暗黒を含む大地の底を、冥途の奥の奥までも泌み透して行くような、何ともいえない物悲しい反響を起しつつ、遠くなったり近くなったりして震えて来るのであった。 「……ここはアアア……ポンプ座ぞオオオ……イヨオオオ……イイイ……イイイイ……イイ……」  その声に聞き入っていた福太郎は、やがて何かしらゾ――ッと身ぶるいをしてそこいらを見まわした。吉三郎のすき透った遠い遠い呼び声を聞くにつれて、前後左右の暗黒の中に凝然としている者の一切合財が、一つ一つに自分の生命を呪い縮めよう呪い縮めようとして押しかかって来るような気はいが感じられて来たので……。  福太郎は元来こんなに神経過敏な男ではなかった。工業学校を出てから凡そ三年の間、この炭坑で正直一途に小頭の仕事を勤めて来たお蔭で、今では地の底の暗黒にスッカリ慣れ切って、自分の生れ故郷みたような懐かし味をさえ感じていたばかりでなく、生れ付き頭が悪いせいか、かなり危険な目に会っても無神経と同様で、滅多に感傷的な気持になった事はないのであった。  ところが去年の暮近くになって女房というものを持ってからというものは、何となく身体の工合が変テコになって、シンが弱ったように思われて来るに連れて、色んな詰らない事が気にかかり始めたのを、頭の悪いなりにウスウス意識していた。ことにこの時は一|番方から二番方まで、十八時間ブッ通しの仕事を押付けられて、特別に疲れていたせいであったろう。頭が妙に冴えて来て、何ともいえない気味の悪さが、上下左右の闇の中から自分に迫って来るように思われて仕様がなくなったのであった。  ……俺も遠からず、あんげなタヨリない声で呼ばれる事になりはせんか……。  ……ツイ今しがた仕繰夫の源次を載せて、眼の前の斜坑口を上って行った六時の交代前の炭車が索条でも断れて逆行して来はせんか……。  ……それとも頭の上の硬炭が今にも落て来はせんか……。  といったようなイヤな予感に次から次に襲われ始めると同時に、それが疑いもない事実のように思われ出して、吾知らず安全燈の薄明りの中に立ち竦んでしまったのであった。  すると、そうした不吉な予感の渦巻の中心に何よりも先に浮かんだのは、女房のお作の白い顔であった。  お作というのは福太郎よりも四ツ五ツ年上であったが、まだ何も知らなかった好人物の福太郎に、初めてにんげんの道を教えたお蔭で、今では福太郎から天にも地にも懸け換えのないタッタ一人の女神様のように思われている女であった……だからその母親か姉さんのようになつかしい……又はスバラシイ妖精ではないかと思われるくらい婀娜っぽいお作の白々と襟化粧をした丸顔が、モウ二度と会われない幽霊か何ぞのようにニコニコと笑いながら、ツイ鼻の先の暗黒の中に浮かみ現われた時に、福太郎は思わずヨロヨロと前にノメリ出しそうになった。そうして初めてお作に会った時からの色々な曰く因縁の数々を思い出しながら、今更のようにホッと溜息をするのであった。  お作は元来福太郎の方から思いかけた女ではなかった。ちょうど福太郎がこの山に来た時分に、下の町の饂飩屋に住み込んだ流れ渡りの白ゆもじで、その丸ボチャの極度に肉感的な身体つきと、持って生れた押しの太さとで、色々な男を手玉に取って来たものであったが、その中でも仕繰夫の指導係をやっているチャンチャンの源次という独身の中年男が、仲間から笑われる位打ち込んで、有らん限り入揚げたのを、お作は絞られるだけ絞り上げた揚句にアッサリと突放して見向きもしなくなった。……というのはこれが縁というものであったろうか、その頃から時々饂飩を喰いに来るだけで、酒なぞ一度も飲んだ事のない福太郎のオズオズした坊ちゃんじみた風付きに、お作の方から人知れず打ち込んでいたものらしい。去年の冬の初めに饂飩屋から暇を取るとそのまま、貯金の通帳と一緒に、福太郎の自炊している小頭用の納屋に転がり込んで、無理からの押掛女房になってしまったのであった。  その時には流石に鈍感な福太郎もすくなからず面喰らわせられた。何もかも心得ているお作の前にかしこまって、赤ん坊のようにオドオドするばかりであったが、それでもどうしていいか解からないまま五日十日と経って行くうちに、福太郎はいつの間にか、お作の白い顔を見に帰るべく仕事の仕上げを急ぐようになっていた。毎朝起きて見ると、自炊時代と打って変って家の中がサッパリと片付いている枕元に、キチンと食事の用意が出来ているのが、勿体ないくらい嬉しかったばかりでなく、夕方疲れてトボトボとうなだれて帰って来る坑夫納屋の薄暗がりの中に、自分の家だけがアカアカとラムプが点いているのを見ると、有り難いとも何とも云いようのない思いで胸が一パイになって、涙が出そうになる位であった。しかもそれと同時に翌る朝四時から起きて、一番方の炭坑入りをしなければならぬ事を思い出すと、タマラナイ不愉快な気持に満たされて、又も力なくうなだれさせられる福太郎であった。  こうして単純な福太郎の心は、物の半月も経たない中にグングンと地底の暗黒から引き離されて行った。そうしてこんな炭山の中には珍らしいお作の柔かい、可愛らしい両掌の中に、日一日と小さく小さく丸め込まれて行くのであったが、それにつれて又福太郎は、そうしたお作との仲が、炭坑中の大評判になっている事実を毎日のように聞かされて、寄ると触ると冷やかし相手にされなければならなかったのには、少からず弱らされたものであった。しかもそんな冷かし話の中でも、「源次に怨まれているぞ」という言葉を特に真面目になって云い聞かせられるのが、好人物の福太郎にとっては何よりの苦手であった。 「源次という男は仕事にかけると三丁下りの癖に、口先ばっかりのどこまで柔媚いかわからん腹黒男ぞ。彼奴は元来|詐欺賭博で入獄して来た男だけに、することなす事インチキずくめじゃが、そいつに楯突いた奴は、いつの間にか坑の中で、彼奴の手にかかって消え失せるちう話ぞ。彼奴がソレ位の卑怯な事をしかねん奴ちう事は誰でも知っとる。彼奴に違いないと云いよる者も居るには居るが、なにせい暗闇の中で、特別念入りに殺りよると見えて、証拠が一つも残っとらん。第一|彼奴は水道鼠のごとスバシコイ上に、坑長の台所に取り入っとるもんじゃけんトウトウ一度も問題にならずに済んで来とるが、用心せんとイカンてや。ドゲナ仕返しをするか解からんけになあ。元来お作どんの貯金ちうのがハシタの一銭まで源次の入れ揚げた金ちう話じゃけんのう!」  と親切な朋輩連中からシミジミ意見をされた事が一度や二度ではなかったが、そんな話を聞かされるたんびに頭の悪い福太郎はオドオドと困惑して心配するばかりで、ドンナ風に用心をしたらいいか見当が付かないので困ってしまった。 「……そげに云うたて俺が知った事じゃなかろうもん」  と涙ぐんで赤面したり、 「源次はそげな悪い人間じゃろうかなあ……」  とため息しいしい、夢を見るような眼付をして見せたりしたので、折角親切に忠告してくれる連中もツイ張合抜けがして終う場合が多かった。  しかし問題はそれだけでは済まなかった。福太郎は自分が源次に怨まれている原因が、単にお作に関係した事ばかりではない。それ以外にもモット重大な、深刻な理由があることを、それから後も繰り返し繰り返し聞かされなければならなかった。  ……というのは外でもなかった。  福太郎は元来何につけても頭の働きが遅鈍い割に、妙に小手先の器用な性質で、その中でも大工道具イジリが三度の飯よりも好きであった。工業学校へ這入る時でも、最初建築の方を志望していたのを、死んだ両親に云い聞かせられて、不承不承に不得手な採鉱の方に廻ったお蔭で、ヤット炭坑から学資を出してもらう事が出来たのであったが、それでもチョイチョイ小遣を溜めては買い集めた大工道具の一式を今でもチャント納屋の押入に仕舞い込んでいる位で、どんなに疲れている時でも、頼まれさえすれば直ぐに、その箱を担いで出かけるという風であった。だから坑内の仕繰の仕事なぞも、本職の源次よりかズット見込みが良い上に、馬鹿念を入れるので、出来上りがガッチリしていて評判がなかなかよかった。現にタッタ今|潜って来た炭坑の大動脈ともいうべき斜坑の入口なぞも、去年の夏頃に源次が一度手を入れたものであったが、間もなくその源次が風邪を引いて寝ているうちに、いつの間にか天井の重圧で鴨居が下って来て、炭車の縁とスレスレになっていたので、知らないで乗って来た坑夫の頭が二ツも暗闇の中でブッ飛んでしまった。そこで取り敢ず福太郎が頼まれて指導者になって手を入れた結果、ヤット炭車の縁から一尺許りの高さに喰止めたものであったが、その時に、源次が材料を盗んで良い加減な仕事をしてさえいなければ、モウ二尺位上の方へ押上げられるであろう事が、立会っていた役員連中の眼にもハッキリと解ったのであった。  こうした福太郎の晴れがましい仕事ぶりが、炭坑中に知れ渡らない筈はなかった。……と同時に本職の源次から怨まれない筈はないのであった。  源次はこうして、ホンの駈出しの青二才に、仕事の上で大きな恥を掻かされた上に、入揚げた女まで取られてしまったのだから、何とかして復讐をしなければ引込みの付かない形になってしまっているのであったが、しかしそこがチャンチャン坊主と云われた源次の特徴であったろうか、それとも源次が皆の思っているよりもズット怜悧な人間であったせいであろうか。気の早い炭坑連中からイクラ冷笑されても、腰抜け扱いされても、源次は知らん顔をしていたばかりでなく、却ってそれから後というものは、福太郎に出会うたんびにヒョコヒョコと頭を下げて、抜目なく機嫌を取ろう機嫌を取ろうとする素振りを見せ始めたのであった。  すると又そうした源次の態度が眼に付いて来るにつれて、他の者はなおの事、源次の気持を疑うようになった。……今に見てろ、源次が遣るぞ。福太郎とお作に何か仕かけるぞ……といったような炭坑地方特有の、一種の残忍さを含んだ興味を持って見るようになったものであるが、しかもそのさ中にカンジンの福太郎夫婦だけは、そんな事を一向に問題にもしていない模様だったので、一層、皆の者の目を瞠らせたのであった。お人好しの福太郎は源次に対しても、他の者と同様に何のコダワリもないニコニコ顔を見せる一方に、お作は又お作で、 「あの腰抜けの源次に何が出来ようかい」  と云わぬ半分の大ザッパな調子でタカを括っているらしかった。今までの白ゆもじを燃え立つような赤ゆもじに改良したり、饂飩屋にいた時分の通りの真白な襟化粧を復活させたりするばかりでなく、その襟化粧と赤ゆもじで毎日毎日福太郎の帰りを途中まで出迎えに行き始める。一方には坑長の住宅の新築祝いに手伝いに行ってから以来、若い二度目の奥さんに取り入って、恰も源次の勢力に対抗するかのようにチョイチョイ御機嫌伺いに行っては、坑長の着古しの襯衣や古靴なぞを福太郎に貰って来てやったりなぞ、これ見よがしに福太郎を大切にかけて見せたので、炭坑中の取沙汰はイヨイヨ緊張して行くばかりであった。  福太郎は斜坑の入口で、自分の手に提げた安全燈の光りの中に突立ったまま、そんな取沙汰や思い出の数々を、次から次に思い出すともなく思い出していた。しかもその中でも源次に関係した事ばっかりは今の今まで……自分のせいじゃない……といったような気もちから一度も気にかけた事はないのであったが、この時に限ってアリアリと眼の前に浮かみ出て来るお作の白い顔と一緒に、そんな忠告をしてくれた連中の眼付きや口付きを思い出してみると、そんな評判や取沙汰が妙に事実らしく考えられて来るのであった。  その当の相手の源次は、タッタ今上って行った十台ばかりの炭車の真中あたりの新しい空函の中に、低い天井の岩壁から反射する薄明りの中を、頭を打たない用心らしく、背中を丸くして突伏したまま揺られて行った。着ている印半纏の背印は平常の※サとは違っていたけれども、その半纏の腋の下の破れ目から見えた軍隊用の青い筋の這入った襯衣と、光るほど刈り込んだ五分刈頭の恰好が、源次のうしろ姿に間違いないのであった。しかもソンナ風に頭を抱えて小さくなった源次のうしろ姿を今一度、お作の白い顔と並べて思い出した福太郎は、怖ろしいというよりも寧ろ、何だか済まないような……源次に怨まれるのは当然のような気がして仕様がなくなった。源次の姿を吸い込んで行った斜坑の暗黒に向って、人知れずソッと頭を下げてみたいようなタヨリない気持にさえなったのであった。  しかし福太郎は間もなくそんな思出や、感傷的な気持の一切合財が、クラ暗の中で冴え返って行く自分の神経作用でしかないようにも思われて来たので、そんな馬鹿げた妄想の全部を打切るべく頭を強く左右に振った。するとその拍子に左手に提げている安全燈の光りがクルクルと廻転するに連れて、今度は眼の前の岩壁の凸凹が、どこやら痩せこけた源次の顔に似ているように思われて来た。しかも誰かに打ち殺された無念の形相か何ぞのように、ジッと眼を顰めていて、一文字に噛み締めている岩の唇の間から流れしたたる水滴が、血でも吐いているかのように陰惨な黒光りをしているのに気が付いた。  ところが、その黒い水の滴たりを見ると福太郎は又、別の事を思い出させられて、吾知らず身ぶるいをさせられたのであった。  その岩の間から洩れる水滴が、奇怪にも摂氏六十度ぐらいの温度を保っている事を、福太郎はズット前から聞いて知っていた。それはその岩の割目の、奥の奥の深い処に在る炭層の隙間に、この間の大爆発の名残りの火が燃えていて、その水の通過する地盤をあたためているせいである……而も炭坑側ではそれを手の附けようがないままに放ったらかして、構わずに坑夫を入れているのであるが、そのうちにだんだんとその火熱が高くなって来る一方に坑内の瓦斯が充満して来たら、又も必然的に爆発するであろう事が今からチャンと解り切っていた。だからこの炭坑に這入るのは、それこそホントウの生命がけでなければならなかったのであるが、併しそうした事実を知っているのは極く少数の幹部以外には、その相談を偸み聞いた仕繰夫の源次だけであった。ところがそうした秘密がいつの間にか源次の口からコッソリとお作の耳に洩れ込んでいたのを、福太郎が又コッソリとお作から寝物語に聞かされていたので、 「インマの中に他の炭坑へ住み換えようか。それとも町へ出てウドン屋でも始めようじゃないか」  とその時にお作が云ったのに対して、シンカラ首肯いて見た事を、福太郎は今一度ハッキリと思い出させられた。そうして今日限り二度とコンナ危険な処へは這入れない……といったような突詰めた気持に囚われながらオズオズと前後左右を見まわしたのであった。 「書写部屋ぞオオ……イイイヨオオ……イイヨ……オオイイイ……」  という呼び声がツイ鼻の先の声のように……と……又も遠い遠い冥途からの声のように、福太郎の耳朶に這い寄って来た。  その声に追い立てられるように福太郎は腰を屈めながら、斜坑の底の三十度近くの急斜面を十四五間ほどスタスタと登って行った。そうして斜坑が少しばかり右に曲線を描いて、真西に向っている処まで来てチョット腰を伸ばしかけた。  ……その時であった。  福太郎はツイ鼻の先の漆のような空間に真紅の火花がタラタラと流れるのを見た。それを見た一瞬間に福太郎は、 「彼岸の中日になると真赤な夕日が斜坑の真正面に沈むぞい。南無南無南無……」  と云って聞かせた老坑夫の顔を思い出したようにも思ったが、間もなく轟然たる大音響が前後左右に起って、息苦しい土煙に全身が包まれたように思うと、そのまま気が遠くなった。  ……何もかもわからなくなってしまった。        中 「福太郎が命拾いをしたちうケ」 「小頭どんがエライ事でしたなあ」  なぞと口々に挨拶をしながら表口から這入って来る者……。 「どうしてマア助かんなさったとかいな」 「土金神さんのお助けじゃろうかなあ」  と見舞を云う男や女の群で、二室しかない福太郎の納屋が一パイになってしまった。  そのまん中に頭を白い布片で巻いた、浴衣一貫の福太郎がボンヤリと坐っていたが、スッカリ気抜けしたような恰好で、何を尋ねられても返事が出来ないままヒョコヒョコと頭を下げているばかりであった。  福太郎は実際のところ、自分がどうして死に損なったのか判らなかった。頭の頂上にチクチク痛んでいる小さな打ち破り疵が、いつ、どこで、どうして出来たのかイクラ考えても思い出し得ないのであった。  集って来た連中の話によると、福太郎は千五百尺の斜坑を、一直線に逆行して来た四台の炭車が折重なって脱線をした上から、巨大な硬炭が落ちかかって作った僅かな隙間に挟み込まれたもので、顔中を血だらけにして、両眼をカッと見開いたまま、硬炭の平面の下に坐っていたそうである。しかもそれが丁度六時の交代前の出来事だったので、山中を震撼す大音響を聞くと同時に、三十間ばかり離れた人道の方から入坑りかけていた二番方の坑夫たちが、スワ大変とばかり何十人となく駈付けて来た。それに後から寄り集まった大勢の野次馬が加わって、油売り半分の面白半分といった調子で、ワイワイ騒ぎ立てたので、狭い坑道の中が芋を洗うようにゴッタ返したが、その中に、浮上った炭車の車輪の下から、思いがけない安全燈の光りと一緒に、古靴を穿いた福太郎の片足が発見されたのでイヨイヨ大騒ぎになったものだという。それからヤット駈付けた仕繰夫の源次が先に立って硬炭や炭車の代りに坑木の支柱を入れながら、総掛りで福太郎を掘出してみると、まだ息があるというのでそのまま、程近い福太郎の納屋に担ぎ込んで、ラムプを点して応急手当をしているうちに、幸運にも福太郎は頭の上に小さな裂傷を受けただけで、間もなく正気を回復した。そうして取巻いている人々の顔を吃驚した眼で見まわすと、ムックリと起上って、眼の前に坐っている仕繰夫の源次に、 「ここはどこじゃろか」  と尋ねたのであった。  皆はこれを見て思わず「ワーッ」と声を上げた。表口に折重なって、福太郎の容態を心配していた連中も、その声を聞いてホーッと安心の溜息をしたのであったが、その中の二三人が早くもゲラゲラ笑い出しながら、 「どこじゃろかい。お前の家じゃないか」  と云って聞かせたけれども、福太郎はまだ腑に落ちないらしく、そういう朋輩連中の顔をマジリマジリと見まわしていた。そのうちに付き添っていたお作が濡れ手拭で、汗と、血と、泥と、吹っかけられた水に汚れた顔を拭いて遣りながら、メソメソと嬉泣きをし始めたが、それでも福太郎はまだキョトンとした瞳をラムプの光りに据えていたので、背後の方に居た誰かが腹を抱えて笑い出しながら、 「まあだ解らんけえ。おいアノヨの吉公。チョットここへ来て呼んでやらんけえ。汝が家だぞオオオ……イヨオオオイ……イイ……という風にナ……」  と吉三郎の声色を使ったので、皆は鬨と吹出してしまった。併しそれでも福太郎はまだ腑に落ちない顔で口真似をするかのように、 「……アノヨ……アノヨ……」  と呟いたので皆は死ぬほど笑い転げさせられたという。  一方に炭坑の事務所から駈付けた人事係長や人事係、棹取、又は坑内の現場係なぞいう連中が、ホンノ一通り立会って現場を調査したのであったが、その報告に依ると福太郎は帰りを急いだものらしく、迂回した人道を行かずに、禁を犯して斜坑の方へ足を入れた。しかも六時の交代前の十台の炭車が、まだ斜坑を上り切って終わないうちに跡を追うようにして、着炭場から徒歩で上り始めたものであったが、折悪しくその第七番目の鰐口に刺さっていた鉄棒が、ドウした途端か六番目の炭車の連結機の環から外れたので、四台の炭車が繋がり合ったまま逆行して来て、丁度、福太郎が足を踏掛けていた曲線の処で、折重なって脱線顛覆したもので、さもなければ福太郎は、側圧で狭くなった坑道の中で、メチャメチャに粉砕されていた筈であったという。  しかし元来、坑道に敷いてある炭車の軌条は、非常に粗末な凸凹した物なので、連結機の鉄棒が折れたり外れたり、又は索条が、結目の附根から断れたりする事は余り珍らしくないのであった。ことに最近斜坑の入口で二人の坑夫が遭難してからというもの、危険を虞れて炭車に乗る事を厳禁されていたので、その炭車に誰かが乗っていて、福太郎が上って来るのを見かけて故意にケッチンのピンを抜いたろう……なぞいう事は誰一人想像し得る者がなかった。又カンジンの御本尊の福太郎も、烈しい打撃を受けた後の事とて、その炭車に誰が乗っていたか……なぞいう事はキレイに忘れてしまっていたばかりでなく、自分が何のために、どうして斜坑を歩いていたかすら判然と思い出せなくなっていたので、ヤット気が落ち付いて皆の話が耳に止まるようになると、一も二もなく皆の云う通りの事実を信じて、驚いて、呆れて、茫然となっているばかりであった。  そんな状態であったから結局、出来事の原因は解らないずくめになってしまって、福太郎の遭難も自業自得といったような事で、万事が平々凡々に解決してしまった。その後で他所から帰って来た炭坑医も、福太郎の疵があんまり軽いのを見て笑い笑い帰って行った位の事だったので、集っていた連中もスッカリ軽い気持になって、ただ無闇と福太郎の運のいいのに驚くばかりであった。そうして揚句の果は、 「お前があんまり可愛がり過ぎるけんで、福太郎どんが帰りを急ぐとぞい」  とお作が皆から冷やかされる事になったが、流石に海千山千のお作もこの時ばかりは受太刀どころか、返事も出来ないまま真赤になって裏口から逃げ出して行った位であった。  しかしお作はそれでも余程嬉しかったらしい。その足で飯場から酒を二升ばかり提げて来て、取りあえず冷のまま茶碗を添えて皆の前に出した。すると又、それに連れて済まないというので、手に手に五合なり一升なり提げて来る者が出て来る。自宅の惣菜や、乾物の残りを持込んで、七輪を起す女連も居るという訳で、何や彼や片付いた十一時過になると福太郎の狭い納屋の中が、時ならぬ酒宴の場面に変って行った。 「小頭どん一つお祝いに……」 「オイ。福ちゃん。あやかるで」 「生命の方もじゃが、ま一つの方もなあ。アハハハ……」  といったような賑やかな挨拶がみるみる室の中を明るくした。それに連れて後から後から福太郎に盃を持って来る者が多かったが、その中でも最前から何くれとなく世話を焼いていた仕繰夫の源次が、特別に執拗く盃を差し付けたので、元来がイケナイ性質の福太郎は逃げるのに困ってしまった。 「おらあ酒は飲み切らん飲み切らん」  の一点張りで押し除けても、 「今日ばっかりは別ですばい」  と源次が妙に改まってナカナカ後に退きそうにない。そこへお作が横合いから割込んで、 「福さんはなあ。親譲りの癖でなあ。酒が這入ると気が荒うなるけん、一口も飲む事はならんチウテ遺言されて御座るげなけになあ。どうぞ源次さん悪う思わんでなあ」  と散々にあやまったのでヤット源次だけは盃を引いたが、他の者は、その源次へ面当か何ぞのように、無理やりにお作を押し除けてしまった。 「いかんいかん。源公が承知しても俺が承知せん。酒を飲んで気の違う人間は福太郎ばっかりじゃなかろう。親代りの俺が付いとるけに心配すんな」  とか何とか喚き立てながら、口を割るようにして、日陽臭いなおし酒を含ませたので、福太郎は見る見る顔が破裂しそうになるくらい真赤になってしまった。平生から無口なのがイヨイヨ意気地が無くなって盃を逃げ逃げ後退りをして行くうちに、部屋の隅の押入の半分|開いた襖の前に横倒しになって、涙ぐんだ眼をマジリマジリと開いたり閉じたりしながら、手を合わせて盃を拝むようになった。  すると集まった連中は、これで御本尊が酔い倒れたものと思って満足したらしい。盃を押しつけに来る者がヤット無くなって、後は各自勝手に差しつ差されつする。その中にお作がタッタ一人の人気者になって、手取り足取りまん中に引っぱり出されて、八方から盃を差されたり、お酌をさせられたりしていたが、そのうちにいつの間にかお作自身が酔っ払ってしまったらしい。白い脂切った腕を肩までマクリ上げると、黄色い声で相手構わず愛嬌を振り撒きはじめた。 「サア持って来なさい。茶碗でも丼でも何でもよか」 「アハハハ。お作どんが景気付いたぞい」 「今|啼いた鴉がモウ笑ろた。ハハハハ」 「ええこの口腐れ。一杯差しなさらんか」 「ようし。そんならこのコップで行こうで」 「まア……イヤラッサナア……冷たい盃や受けんチウタラ」 「ヨウヨウ。久し振りのお作どんじゃい。若い亭主持ってもなかなか衰弱んなあ」 「メゲルものかえ。五人や十人……若かりゃ若いほどよか」 「アハハハハ。なんち云うて赤いゆもじは誰がためかい」 「知りまっせん。大方|伜と娘のためだっしょ」 「ウワア。こらあ堪らん。福太郎はどこさ行たかい」 「押入の前で死んだごとなって寝とる」 「アハハ。成る程。死んどる死んどる。ウデ蛸の如なって死んどる。酒で死ぬ奴あ鰌ばっかりションガイナと来た」 「トロッコの下で死ぬよりよかろ」 「お作どんの下ならなおよかろ」 「ワハハハハ」 「おい。みんな手を借せ手を借せ。はやせはやせ」  と云ううちに皆は、コップを抱えたお作の周囲をドヤドヤと取巻いた。そうして嘗て、ウドン屋でお作を囃した時の通りに、手拍子を拍って納屋節を唄い出した。 「白い湯もじを島田に結わせエ 赤いゆもじを買わせた奴はア どこのドンジョの何奴かア ドンヤツドンヤツどんやつかア ウワア――アアア――」 「ようし……」  とお作は唄が終るか終らぬかに、コップの冷酒をグイと飲み干して立ち上った。 「そんげに妾ば冷やかしなさるなら、妾もイッチョ若うなりまっしょ」  と云ううちに、そこに落ちていた誰かの手拭を拾って姉さん冠りにした。それから手早く前褄を取って、問題の赤ゆもじを高々とマクリ出したので、皆一斉に鯨波を上げて喝采した。 「……道行き道行き……」  と叫んだ者が二三人あったが、その連中を睨みまわしながらお作は、白い腕を伸ばしてラムプの芯を煤の出るほど大きくした。 「源次さん。仕繰りの源次さん……アラ……源次さんはどこい行きなさったとかいな」  その声が終るか終らないかにモウ一度、割れむばかりの喝采が納屋を揺がしたが、今度は忽ち打切ったようにピッタリと静まり返った。  皆はこの時お作が、饂飩屋時代に得意にしていた道行踊りを踊ろうとしている事を、アラカタ察しているにはいた。併し真逆に問題の黒星になっている源次を相手にして踊ろうとは思わなかったのであった。皮肉といおうか大胆といおうか。一度は思わず喝采をしたものの、流石の荒くれ男共もこうしたお作のズバリとした思付きに、スッカリ荒胆を奪られてしまって、その次の瞬間には、水を打ったようにシンとして終ったのであった。今にも血の雨が降りそうなハッとした予感に打たれて……。  しかしお作は平気の平左であった。その中央に突立って、アカアカとした洋燈の光りの中にトロンとした瞳を据えながら、ウソウソと隅の方の暗い所を覗きまわった。 「……源次さん。出て来なさらんか。マンザラ妾と他人じゃなかろうが」  皆はイヨイヨ固唾を飲んで鎮まりかえった。その中で誰か一人、クスリと笑った者があったが、それが却って室の中の静けさを一層モノスゴク冴え返らせた。 「……嫌らッサなあ。タッタ今、そこに御座ったとじゃが。小便に行かっしゃったとじゃろか」  と呟やきながらお作はチョイト表の方の暗がりを振り返った。すると皆も釣り込まれたように、お作と一緒の方向を振り返ったが、外の方には源次らしい咳払いすら聞こえなかった。  仕繰夫の源次は、そうした皆の視線とは正反対の方向に、小さくなって隠れていたのであった。室の奥の押入の前に立てた、新聞|貼の屏風の蔭に、コッソリと跼まり込みながら、眼の前で、苦しそうに肩で呼吸している福太郎の顔を、一心に見守っていた。ツイ今|先刻まで、真赤になっていたその顔が、次第次第に青褪めて、眼を見開いた行き倒れのように、気味の悪い、ゲッソリとした表情に変って行くのを、驚き怪しみながら見とれているのであった。        下  福太郎は最前から、押入の前に横たおしになったまま、割れるような頭を、両手でシッカリと抱えていた。思わず飲まされ過ぎた直し酒に、スッカリ参ってしまって、暫くの間は呼吸が出来ないくらい胸が苦しくなっていた。耳の附け根を通る太い血管の鳴る音が、ゾッキリゾッキリと剃刀で削るように聞こえて、眠ろうにも眠られず、起きようにも起きられない苦しさのうちに、ツイゾ今まで思い出した事もない、子供の時分の記憶の断片が、思いがけない野原となったり、眩しい夕焼けの空となったり、又はなつかしい父親の横顔になったり、母親の背面姿になったりして、切れ切れのままハッキリと、入れ代り立ち代り浮かみあらわれて来るのを、瞼の内側にシッカリと閉じ込めながら、凝然と我慢していたのであった。  ところがその悪酔いが次第に醒めかかって、呼吸が楽になって来るに連れて福太郎は、自分の眼の球の奥底に在る脳髄の中心が、カラカラに干乾びて行くような痛みを感じ初めた。それに連れて何となく、瞼が重たくなったような……背筋がゾクゾクするような気持になって来たので、吾ともなくウスウスと眼を開いてみると、その眼の球の五寸ばかり前に坐っている、誰かの背中の薄暗がりを透して、今までとは丸で違った、何とも形容の出来ない気味の悪い幻影が、アリアリと見えはじめているのに気が付いたのであった。そうしてその幻影が、福太郎にとって全く、意外千万な、深刻、悽愴を極めた光景を描きあらわしつつ、西洋物のフィルムのようにヒッソリと、音もなく移りかわって行くのを、福太郎はさながら催眠術にかけられた人間のような奇妙な気持ちで、ピッタリと凝視させられているのであった。  ……その幻影の最初に見え出したのは、赤茶気た安全燈の光りに照し出された岩壁の一部分であった。  それは最前、斜坑の入口で、福太郎が遭難するチョット前に、立止って見ていた通りの物凄い岩壁の凸凹を、半分麻痺した福太郎の脳髄が今一度アリアリと描き現わしたところの、深刻な記憶の再現に外ならなかった。さながらに痩せこけた源次の死面のように、ジッと眼を閉じて、歯を喰い締めたまま永遠に凝固している無念の形相であった……が……しかしその一文字に結んでいる唇の間から洩れ出す、黒い血のような水滴のシタタリ落ちる速度は、現実世界のソレとは全く違っていた。  それはやはり、福太郎の麻痺した脳髄の作用に支配されているらしく、高速度活動写真機で撮った銃弾の動きと同様にユックリユックリした、何ともいえない、モノスゴイ滴たり方であった。  最初その黒い水滴が、横一文字の岩の唇の片隅からムックリとふくれ上ると、その膨れた表面が直ぐに、福太郎の手に提げている安全燈の光りをとらえて、キラキラと黄金色に反射した。そうして虫の這うよりもモット、ユックリと……殆んど止まっているか、動いているかわからない位の速度で、唇の下の方へ匍い降りて行く。そうして唇の下縁の深い、痛々しい陰影の前まで来ると、そこでちょっと停滞して、次第次第にまん円い水滴の形にふくれ上って行くと同時に、仄暗い安全燈の光りを白々と、小さく、鋭く反射し初める。そうして完全なマン円い水滴の形になると、さながら、空中に浮いた満月のように、ゆるやかに廻転しながら、垂直の空間をしずかに、しずかに、下へ下へと降り初める。その速度が次第に早くなって、やがて坑道の左右に掘った浅い溝の陰影の中に、一際強い七色光を放ちながら、依然として満月のように廻転しつつ、ゆっくりゆっくりと沈み込んで行く……と思うとそのあとから追っかけるように、またも一粒の真黒い、マン円い水滴が岩の唇を離れて、しずかに輝やきながら空間に懸かっている。  ……そのモノスゴサ……気味わるさ……。  福太郎の両眼は、いつの間にか真白になるほど剥き出されていた。その唇はダラリと垂れ開いて、その奥にグルリと捲き上った舌の尖端には、腸の底から湧き上って来る不可思議な戦慄が微かに戦きふるえていた。  その時にお作がアノヨの吉と一緒に踊り出した。道行を喝采するドヨメキが納屋の中一パイに爆発した。  それを聞くと源次は、思わずハッとしたように、屏風の蔭から部屋の中をさし覗いたが、そのまま又も引付けられるように福太郎の顔を振り向いて半身を傾けた。赤黄色いラムプの片明りの中に刻一刻と蒼白く、痛々しく引攣れて行く福太郎の顔面表情を、息を殺して、胸をドキドキさせながら凝視していた。 「……此奴はホントウに死によるのじゃないか知らん、……頭の疵が案外深いのを、医者が見損のうとるのじゃないか知らん……死んでくれるとええが……」  と思い続けながら……。  しかし福太郎はむろん、源次のそうした思惑に気付く筈はなかった。否、そんな気持ちで緊張し切っている源次の顔が、ツイ鼻の先にノシかかっている事すら知らないまま、なおも自分の脳髄が作る眼の前の暗黒の核心を凝視しつつ、底知れぬ戦慄を我慢しいしい、全身を固ばらせているのであった。  その福太郎の眼の前には、稍暫くの間、おなじ暗黒の光景が連続していた。しかしその暗黒の中に時々、安全燈の網目を洩れる金茶色の光りがゆるやかに映したり、又静かに消え失せたりするところをみると、それは福太郎が斜坑の上り口から三十度の斜面へ歩み出した時の記憶の一片が再現したものに違いなかった。その仄かな光線に照し出された岩の角々は皆、福太郎の見慣れたものばかりであったから……。  けれども、やがてその金茶色の光りが全く消え失せて、又、もとの暗黒に変ったと思うと間もなく、その暗黒のはるかはるか向うに、赤い光りがチラリと見えた。  それは福太郎が、炭車と落盤の間に挟まれる前にチラリと見た赤い光りの印象が再現したものであった。しかもその時は坑口に沈む夕日の光りではないかと思っただけに、ホントウは何の光りか解らないまま忘れてしまっていたのであったが、現在眼の前に、その刹那の印象が繰返して現われて来たのを見ると、その光りの正体が判然り過ぎる位アリアリとわかったのであった。  それは連絡を失った四函の炭車の車輪が、一台八百|斤宛の重量と、千五百尺の長距離と、三十度近くの急傾斜に駈り立てられて逆行しつつ、三十|哩内外の急速度で軌条を摩擦して来る火花の光りに外ならなかった。しかもその車輪の廻転して来る速度は、依然として福太郎の半分麻痺した脳髄の作用に影響されていて、高速度映画と同様にノロノロした、虫の這うような緩やかな速度に変化していたために、それを凝視している福太郎に対して、何ともいえないモノスゴイ恐怖感と、圧迫感とを与えつつ接近して来るのであった。  その炭車の左右十六個の車輪の一つ一つには、軌条から湧き出す無数の火花が、赤い蛇のように撚じれ、波打ちつつ巻付いていた。そうして炭車の左右に迫っている岩壁の褶を、走馬燈のようにユラユラと照しあらわしつつ、厳そかに廻転して来るのであったが、やがてその火の車の行列が、次から次に福太郎の眼の前の曲線の継ぎ目の上に乗りかかって来ると、第一の炭車が、波打った軌条に押上げられて、心持速度を緩めつつ半分傾きながら通過した。するとその後から押しかかって来た第二の炭車が、先頭の炭車に押戻されて、空を探る蚕のように頭を持上げたが、そのまま前後の炭車と一緒にユラユラと空中に浮き上って、低い天井と、向う側の岩壁を突崩し突崩し福太郎に迫り近付いて来た。そうして中腰になったまま固くなっている福太郎の胸の上に、濡れた粉炭の堆積をドッサリと投掛けて、一堪りもなく尻餅を突かせると、その眼の高さの空間を、歪み曲った四ツの炭車が繋がり合ったまま、魔法の箱のようにフワリフワリと一週して、やがて不等辺三角形に折れ曲った一つの空間を作りつつ、福太郎の身体を保護するかのように徐々と地面へ降りて来た。それに連れて半分|粉炭に埋もれた福太郎の安全燈が、ポツリポツリと青い光りを放ちつつ、消えもやらずに揺らめいたのであった。  けれどもその安全燈の光りは、やがて又、赤い煤っぽい色に変るうちに、次第次第に真暗くなって消え失せてしまったかと思われた。それはこの時福太郎の頭の上から、夥しい石の粉が、黒い綿雪のようにダンダラ模様に重なり合って、フワリフワリと降り始めたからであった。そうしてその黒い綿雪が、福太郎の腰の近くまで降り積って来るうちに、いつの間にか小降りになって、やがてヒッソリと降り止んだと思うと、今度はその後から、天井裏に隠れていた何千貫かわからない巨大な硬炭の盤が、鉄工場の器械のようにジワジワと天降って来て、次第次第に速度を増しつつ、福太郎の頭の上に近付いて来るのが見えた。そうしてやがてその硬炭の平面が、福太郎の前後を取巻く三つの炭車に乗りかかると、分厚い朝鮮松の板をジワリジワリと折り砕きながらピッタリと停止した……と思うとそのあとから、又も夥しい土の滝が、炭車の外側に流れ落ちて来たのであろう。山形に浮上った車台の下から、濛々とした土煙がゆるゆると渦巻きながら這込み始めて、安全燈の光りをスッカリ見えなくしてしまったのであった。  その時に福太郎はチョット気絶して眼を閉じたように思った。けれどもそれは現実世界でいう一瞬間と殆んど同じ程度に感じられた一瞬間で、その次の瞬間に意識を恢復した時に福太郎はヒリヒリと痛む眼を一パイに見開いて、唇をアーンと開いたまま、落盤に蓋をされた炭車の空隙に、消えもやらぬ安全燈の光りに照し出されている、自分自身を発見したのであった。同時に、その今までになく明るく見える安全燈の光明越しに、自分の左右の肩の上から、睫を伝って這い降りてくる、深紅の血の紐をウットリと透かして見たのであったが、それが福太郎の眼には何ともいえない美しい、ありがたい気持のものに見えた。しかもその真紅の紐が、無数のゴミを含んでブルブルと震えながら固まりかけているところを見ると、福太郎が気絶したと思った一瞬間は、その実かなり長い時間であったに相違ないが、それでもまだ救いの手は炭車の周囲に近付いていなかったらしく、そこいら中が森閑として息の通わない死の世界のように見えていた。そうしてその中に封じ籠められている福太郎は、自分自身がさながらに生きた彫刻か木乃伊にでもなったような気持で、何等の感情も神経も動かし得ないまま、いつまでもいつまでも眼を瞠り、顎を固ばらせているばかりであった。  ところがそうした福太郎の眼の前の、死んだような空間が、次第に黄色く明るくなったり、又青白く、薄暗くなったりしつつ、無限の時空をヒッソリと押し流して行ったと思う頃、一方の車輪を空に浮かした右手の炭車の下から、何やら黒い陰影が二つばかりモゾリモゾリと動き出して来るのが見えた。そうしてそれがやがて蟹のように醜い、シャチコ張った人間の両手に見えて来ると、その次にはその両手の間から塵埃だらけになった五分刈の頭が、黒い太陽のように静かにゆるぎ現われて来るのであった。  その両手と頭は、炭車の下で静かに左右に移動しながら、一生懸命に藻掻いているようであった。そうしてようようの事で青い筋の這入った軍隊のシャツの袖口と※サの印を入れた半纏の背中が半分ばかり現われると、そのままソロソロと伸び上るようにして反り返りながら、半分土に埋もれた福太郎の鼻の先に顔をさし付けたのであった。  それは源次の引攣り歪んだ顔であった。汗と土にまみれた……。  福太郎はしかし身動きは愚か、眼の球一つ動かす事が出来なかった。自分が死んでいるのか生きているのかすら判断出来ないような超自然的な恐怖に閉じこめられつつ、全身が氷のようにギリギリと引締まって来るのを感じているばかりであった。  その福太郎の凝固した瞳を、源次はジイッと見入りながら、暫くの間、福太郎と同様に眉一つ動かさずにいた。それからその汗と泥にまみれた赤黒い顔じゅうに、老人のような皺をジワジワと浮上らせて、泣くような笑うような表情を続けていたが、やがて歪んだ、薄い唇の間から、黄色い歯を一パイに剥き出すと、たまらなく気持よさそうなニヤニヤした笑いを顔一面に引拡げて行った。そうしてサモ憎々しそうに……同時に如何にも愉快そうに顎を突出しながら、何か云い出したのであった。  その言葉は全く声の無い言葉であったばかりでなく、非常にユックリした速度で唇が波打ったために、全然、意味を成さない顔面の動きとしか見えなかった。それでも、福太郎にはその言葉の意味が不思議にハッキリと読めたのであった。 「……わかったか……おれは……源次ぞ……わかったか……アハ……アハ……アハ……」  福太郎はその時にちょっと首肯きたいような気持になった。しかし依然として全身が硬直しているために、瞬一つ出来なかった。 「……アハ……アハ……わかったか……貴様は……俺に恥掻かせた……ろうが……俺がどげな……人間か知らずに……アハ……」 「……………」 「……それじゃけに……それじゃけに……」  と云いさして源次は、眼を真白く剥出したまま、ユックリと唇を噛んで、獣のようにみっともなく流れ出る涎をゴックリと飲み込んだ。それを見ると福太郎も真似をするかのように唾液を飲み込みかけたが、下顎が石のように固ばっていて、舌の尖端を動かすことすら出来なかった。 「……それじゃけに……それじゃけに……」  と源次は又も喘ぐように唇を動かした。 「……それじゃけに……引導をば……渡いてくれたとぞ……貴様を……殺いたとは……このオレサマぞ……アハ……アハ……」 「……………」 「……お作は……モウ……俺の物ぞ……あの世から見とれ……俺がお作を……ドウするか……」 「……………」 「……ああハアハア……ザマを……見い……」  そう云ううちに源次は今一度唇をムックリと閉じた。それから左右の白眼を、魚のようにギラギラ光らせると、泥まみれの両頬をプーッと風船ゴムのように膨らまして、炭の粉まじりの灰色の痰を舌の尖端でネットリと唇の前に押出した。そうしてプーッと吹き散る唾液の霧と一緒に、福太郎の顔の真正面から吹き付けた。  その刹那に福太郎は思わず瞬を一つした……ように思ったが……それに連れて全身が俄かに堪らなくゾクゾクし始めて、頭の痛みが割れんばかりに高まって来たので、又も両眼を力一パイ見開きながら、モウ一度鼻の先に在る源次の顔をグッと睨み付けた。すると又、それと殆んど同時に福太郎は、自分を凝視している源次のイガ栗頭の背景となっていた、岩の凸凹が跡型もなく消え失せて、その代りにラムプにアカアカと照らされた自分の家の新しい松板天井が見えているのに気が付いた。そうしてその憎しみに充ち満ちた源次の顔の上下左右から、ラムプの逆光線を同じように受けた男女の顔が幾個も幾個も重なり現われて、心配そうに自分の顔を見守っている視線をハッキリと認めたのであった。  ……その瞬間であった。  ただならぬ人声のドヨメキが自分の周囲に起ったので、福太郎はハッと吾に返った。  見ると眼の前には※サの半纏を着た源次が俯伏せになっていて、ザクロのように打ち破られたイガ栗頭の横腹から、シミジミと泌み出す鮮血の流れが、ラムプの光りを吸取りながらズンズンと畳の上に匐い拡がっているのであった。  左右を見廻すと近くに居た連中は皆、八方へ飛退いた姿勢のまま真青な顔を引釣らして福太郎の顔を見上げていたが、中には二三人、顔や手足に血飛沫を浴びている者も居た。  福太郎は茫然となったまま稍暫らくの間そんな光景を見廻していたが、やがてその源次の枕元に立ちはだかっている自分自身の姿を、不思議そうに振り返った。  見ると両腕はもとより、白い浴衣の胸から肩へかけてベットリと返り血を浴びていて、顔にも一面に飛沫が掛っているらしい気もちがした。そうしてその右手には、いつの間に取出したものか、背後の押入の大工道具の中でも一番|大切にしている「山吉」製の大鉄鎚をシッカリと握り締めていたが、その青黒い鉄の尖端からは黒い血の雫が二三本、海藻のようにブラ下っているのであった。  そんな光景を見るともなく見まわしているうちに福太郎は、ヤット自分が仕出かした事が判然ったように思った。そうして何のためにコンナ事をしたのか考えようとこころみたが、どうしても前後を思い出す事が出来ないので、今一度部屋の中をキョロキョロと見まわした。その時にラムプの向う側からバタバタと走り出て来たお作が、殆んど福太郎に打っ突かるようにピッタリ縋り付いたと思うと、酔いも何も醒め果てた乱れ髪を撫で上げながら、半泣きの声を振り絞った。 「……アンタ――ッ……どうしたとかいなア――ッ……」  すると、それに誘い出されたように五六人の男がドカドカと福太郎の周囲に駈け寄って来て、手に手に腕や肩を捉えた。 「どうしたんかッ」 「どうしたんかッ」 「どうしたんかッ」  しかし福太郎は返事が出来なかった。現在眼の前にブッ倒れている源次の頭でさえも、自分が砕いたものかどうか、ハッキリと考え得なかった。そうしてその代りにタッタ今まで感じていた割れるような頭の痛みと、タマラない全身の悪寒戦慄が、あとかたもなく消え失せてしまって、何ともいえない気持のいい浮き浮きした酒の酔い心地が、モウ一度ムンムンと全身に蘇って来るのを感じたので、吾知らずウットリとなって、血だらけの鉄鎚を畳の上に取落して汚れた両手でお作を引寄せながら天井を仰いだ。 「……ハハハ……どうもしとらん……アハハハハハハ……」    前篇 「草川の旦那さん。大変です。起きて下さい。モシモシ。起きて下さい。私は深良一知です」  暑い暑い七月の末の或る早朝であった。山奥の谷郷村駐在所の国道に面したホコリだらけの硝子戸をケタタマシク揺ぶりながら、一人の青年が叫んだ。  それは見るからにここいらの貧乏百姓の児と感じの違った、インテリじみた色の白い鼻筋のスッキリとした美しい青年であった。青々と乱れた頭髪が、白い額の汗に粘り付いていたが、神経の激動のために、その濃い眉がピクピクと波打って、赤い小さな、理智的な唇がワナワナとわななきながらも、その睫毛の長い黒い瞳は、いい知れぬ恐怖のためであろう。半面を蔽うた髪毛の蔭から白いホコリの溜った硝子戸の割れ目を凝視したまま、奇妙にヒッソリと澄んでいた。慌てて走って来たものと見えて、手拭浴衣の寝巻に帯も締めない素跣足が、灰色の土埃にまみれている。  ……と……駐在所の入口になっている硝子戸が内側からガタガタと開いて、色の黒い、人相の悪い顔に、無精鬚を蓬々と生した、越中褌一つの逞ましい小男が半身を現わした。 「どうしたんか」 「アッ。草川の旦那さん」  草川巡査は睡そうな眼をコスリコスリ青年の顔を見直した。 「何だ。一知じゃないかお前は……」 「はい。あの……あの……両親が殺されておりますので……」 「何……殺されている? お前の両親が……」 「はい。今朝、眼が醒めましたら、台所の入口と私の枕元に在る奥の間の中仕切が開け放しになっておりましたから、ビックリして奥の間の様子を見に行ってみますと、お父さんと、お母さんが殺されております。蚊帳が釣ってありますので、よくわかりませんが、枕元の畳と床の間のあいだが一面、血の海になっております」 「いつ頃殺されたんか。今朝か……」 「……わかりません。昨夜……多分……殺された……らしう御座います」 「泣くな――。たしかに死んでいるのだな」 「……ハイ……ツイ、今しがた、神林医師を起して、見に行ってもらいましたが……まだ行き着いて御座らぬでしょう」 「うむ。一寸待て……顔を洗って来るから」  草川巡査は、裸体のまま直ぐに裏口へ出て、冷たい筧の水で顔を洗った。それから大急ぎで蚊帳と寝床を丸めて押入に投込んで、机の上に散らばっていた高等文官試験準備用の参考書や、問題集を二三冊、手早く重ねて片付けると今一度、駐在所の表口へ顔を出した。 「一知……」 「ハイ」 「こっちへ這入れ、足は洗わんでもええから……」  二人は駐在所の板の間に突立ったまま向い合った。草川巡査の小さな茶色の瞳は、モウ神経質にギロギロと輝き出していた。 「何時頃殺されたんか。わかっとるか」  一知は潤んだ大きな眼をパチパチさせた。 「……わかりません。昨夜十二時頃寝ましたが、今朝起きてみますと、モウ殺されておりましたので……蚊帳越しですからよくわかりませんが、二人とも寝床の中からノタクリ出して、頭が血だらけになっております……」 「それを見ると直に走って来たのだな」 「ハ……ハイ……」  暗い駐在所の板の間に立った一知は涙ながらも恐ろしそうに身震いした。そうして突然に大きな嚏を一つしたが、それは汗が乾きかけたせいであったろう。  草川巡査は無言のまま点頭いた。傍の警察専用の電話に取付いて烈しくベルを廻転させると、静かな落付いた声で、五里ばかり離れている×市の本署へ、聞いた通りの事実を報告した。……と……向うから何か云っているらしい……。 「……ハ……ハイ。まだ、それ以上の事実はわかりませんので……ハイ。報告して参りました者は深良一知と申しまして村の模範青年です……ハイ。被害者の養子です。ハイ。元来、この村の区長の次男であったのですが、今年の二月に深良家……被害者の処へ養子に行った者です。まだ籍は入れていないようですが、ナア一知……お前はまだ籍を入れておらんじゃろ……ウン……そうじゃろ、ハイハイ……何ですか……ハイハイ……その深良家と申しますのは村からチョット離れた小高い丘の上に在ります一軒家で、村の者は皆、深良屋敷深良屋敷と云っております。村でも一番の大地主で、この辺でも指折の富豪です。殺されたというのは、その老夫婦ですが……イヤイヤこの頃この国道にはソンナ浮浪人は通らないようです。以前はよくルンペンらしい者の姿を見かけましたが。ハ……ハイ。承知しました。私はこれから直ぐに現場へ参ります。ハ……お待ちしております」  草川巡査は手早く帽子を冠って、官服のズボンに両脚を突込んで上衣を引っかけた。編上靴をシッカリと搦み付けて、勝手口から佩剣を釣り釣り出て来ると、国道とは正反対の裏山に通ずる小径伝いにサッサと行きかけたので、表通りで待っていた一知青年は、慌てて追っかけて来た。 「アッ。こんな方へ行くのですか。山道はまだ濡れておりますよ。草川さん……」  草川巡査も何やらハッとしたらしく、そういう一知の何かしら狼狽した、オドオドした眼付きを振返ると、ちょっと立止まって、その顔を穴のあく程凝視したので、一知は見る見る真青になって、唇をワナワナと震わした。しかしその時にフッと気を変えた草川巡査は、 「ウン。人目に付くと五月蠅からね」  と何気なく云い棄てて露っぽい小径の笹の間を蹴分け蹴分け急いで行った。  元来この谷郷村は、こうした山奥に在り勝ちな、一村|挙って一家といったような、極めて平和な村だったので、高文の試験準備をしている草川巡査は最初、大喜びで赴任したものであったが、そのうちに彼の竹を割ったような性格がだんだんと理解されて来るにつれて、村の者から無上の信用と尊敬を受けるようになった。それに連れて村の納税や、衛生の成績がグングン良くなるばかりでなく、以前は山向うの隣県へ逃込もうとして、よくこの村を通過していた前科者などが、今では草川巡査の眼が光っているためにチットモ通らなくなった……という噂まで立つようになっていた。そこへ起った今度の事件なので、草川巡査は最初からチョット一つタタキノメされたような感じで、一種異様な興奮――緊張味を感じているのであった。  しかも草川巡査を興奮させ緊張させた原因は、単にそれだけではなかった。モットモット大きい、恐ろしく深刻な事件の予感が、美青年、深良一知の声を聞いた一|刹那から黒い嵐雲のように草川巡査の全神経に圧しかかって来たのであった。  深良屋敷の老夫婦が、非業な死に方をするに違いないという事は、ズット以前から村中の人々が一人残らず心の片隅で予感していたところであった。……今に見ろ。ロクな死に方をしないから……といって深良屋敷を呪咀わない村の人間は恐らく今までに一人も居なかったであろうと思われるくらい深良屋敷は、村中の怨恨の焦点になっていたもので、その意味からいうと、この村の人々は一人残らず今度の事件の嫌疑者か共犯者と考えてもいい……といったような極端に神秘的な因縁が、今度の事件に絡まっているのであった。それがこうして突然に実現されたのだから万一、村の人々にこの事が知れ渡ったら、皆、今更のようにハッと顔を見合わせて、お互い同志を疑い合うであろう。それと同時に草川巡査にとっては、想像も及ばない探査の困難な殺人事件……村民全部が嫌疑者……といったような極度の神秘的な深みを持った迷宮事件を押付けられたようなもので、ちょうど横綱と顔を合わせた褌担ぎみたような自分の力の微弱さを、今更のように思い知らずにはいられないのであった。  ……これが俺の失敗のタネになりはしないか……永い間の高文の試験準備で、疲れ切っている俺のアタマは、こうした現実の出来事に向かないくらい弱々しく、過敏になっているのではないか……。  ……とにも角にも、どこまでも慎重に……慎重に取りかからねばならぬ……あくまでもヘマをやってはならぬ……。  といったような、武者振いがまだ具体的に現われて来ない前のような神秘的な戦慄に、草川巡査は襲われて仕様がないのであった。そうしてそのドキドキした予感を中心にして、深良屋敷の惨劇を裏書きしているらしい色々な過去の前兆が、眩しいくらい明るい、又はジメジメと薄暗い木立の中を押分けて行く草川巡査の、勉強に疲れた記憶力の中に、今更のようにマザマザと浮み上って来るのであった。  深良屋敷というのは村外れの国道から二三町北へ曲り込んだ、小高い丘の上の雑木林に囲まれた小さな一軒家であった。もっともズット以前の明治三十年頃までは、深良家の先祖代々が住んでいた巨大な母家が、雑木林の下の段の平地に残っていたが、それが現在の牛九郎爺さんの代になると、極端な労働嫌いの算盤信心で、経費が掛るといって、その一段上の雑木の中に在るタッタ三|室しかない現在の離家に移り住むようになった。同時に牛九郎爺さんはその巨大な母家をアトカタもなく取片付けて隣村の大工に売払い、数多い雇人をタタキ放し同様にして追出してしまい、有る限りの田畑をソレゾレ有利な条件で小作に附け、納まりの悪い小作人の所有の田畑は容赦なく法律にかけて、自分の名前に書換えて行った。それに又、配偶のオナリという女が亭主に負けない口達者のガッチリ者で、村の女房達が第一の楽しみにしている御大師様や、妙法様の信心ごとの交際なぞには決して出て来ない。のみならず臍繰金を高利に廻して、養蚕や米の収穫後になると透かさずに自分で出かけて、ピシピシと取立てたりするようになったので、深良屋敷の老夫婦に対する村中の気受がイヤでも悪くなって来るばかりであった。 「今に見ておれ。あの夫婦は碌な死にようはせぬから……信心をせぬような犬畜生にはキット天道様の罰が当る」  とか何とか蔭口を云う者が方々に出て来るようになったが、勿論それ位の事に驚くような牛九郎夫婦ではなかった。殊に住んでいる場所が場所だけに、村の人々の気持と全然かけ離れた別人種扱いにされながらも、平気で我利我利亡者に甘んじて、極めてヒッソリと暮しているのであった。  しかし、それでも、その丘の上一帯の森の木立は、流石に昔の大きな深良屋敷の構えの面影を止めていた。夜になるとさながらに巨大な城砦か、神秘的な島影のように真黒々と星空に浮出して、昔ながらに貧弱な村の風景を威儼していたので、小さな住居に不似合な深良屋敷の名称も、自然、昔のまんまに残っているのであった。  その深良屋敷の老夫婦の間にはマユミという娘がタッタ一人あった。しかも、それが非常な美人だったので「深良小町」の名が近郷近在に鳴り響いているのであったが、可哀相な事にそのマユミは学問上で早発性痴呆という半分生れ付みたような薄白痴であった。大まかな百姓仕事や、飯爨や、副食物の世話ぐらいは、どうにかこうにか人間並に出来るには出来たが、その外の読み書き算盤はもとより、縫針なんか一つも出来なかった。妙齢になっても畑の仕事の隙さえあれば、蝶々を追っかけたり、草花を摘んだりしてニコニコしている有様なので、世話の焼ける事、一通りでなかったが、それを母親のオナリ婆さんが、眼の中に入れても痛くない位可愛がって、振袖を着せたり、洟汁を※んでやったりしているのであった。  しかし何をいうにも、そんな状態なので、誰一人婿に来る者が無いのには両親とも弱り切っていた。のみならず所謂、白痴美というのであろう。その底無しの無邪気な、神々しいほどの美しさが、誰の目にもたまらない魅力を感じさせたので、さもなくとも悪戯好きな村の若い者は皆申合わせたように「マユミ狩」と称して、夜となく昼となく深良屋敷の周囲をウロ附いたものであった。マユミの白痴をいい事にして入れ代り立代り、間がな隙がな引っぱり出しに来るので、そのために両親の老夫婦は又、夜の眼も寝ない位に苦労をして追払わなければならなかった。  しかしその中にタッタ一人、このマユミにチョッカイを出しに来ない青年が居た。それはこの谷郷村の区長、乙束仙六という五十男の次男坊であった。村では珍らしく中学校まで卒業した、一知という男で、村の青年は皆、学者学者と綽名を呼んで別扱いにしている今年二十三歳の変り者であった。  ちょうどその頃、一知の父親の乙束仙六は、養蚕の失敗に引続く信用組合の公金|拐帯の尻を引受けて四苦八苦の状態に陥り、東京で近衛の中尉を勤めている長男の仙七の血の出るような貯金までも使い込んでいる有様で、心労の結果ヒドイ腎臓病と神経衰弱に陥って寝てばかりいる状態は、他所の見る目も気の毒な位であったが、しかし次男坊の一知は、そんな事を夢にも気付かないらしく、自分勝手の呑気な道楽仕事にばかり熱中していた。  その道楽仕事というのは、中学時代から凝っていたラジオで、幾個も幾個も受信機を作っては毀し作っては毀しするので、彼の勉強部屋になっている区長の家の納屋の二階は、誰にもわからない器械器具の類で一パイになっていた。村の人々は、 「聴かぬためのラジオなら、作らん方が好え。学者馬鹿たあ、よう云うたる」  と嘲笑し、両親も持て余して、好きにさせているという、一種の変り者で、いわばこの村の名物みたようになっているのが、この一知青年であった。  だからその一知が、牛九郎老夫婦の眼に止まって婿養子に所望されると、両親の乙束区長夫婦は一議にも及ばず承知した。一知もラジオ弄りさえ許してもらえれば……という条件附で承知したもので、その纏まり方の電光石火式スピードというものは、万事に手緩い村の人々をアッと云わせたものであったが、それから又間もなく一知は、この村の習慣になっている物々しい婿入りの儀式を恥しがったものか、それともその式の当夜の乱暴な水祝を忌避がったものか、双方の両親が大騒ぎをして準備を整えている二月の末の或る夜の事、自分の着物や、書物や、色々な器械屑なんぞを、こっそりとリヤカーに積んで、深良屋敷へ運び込み、そのまま何と云われても出て行かないで頑張り通し、双方の両親たちを面喰わせ、村中を又もアッと云わせたものであった。  そうしてそれから後、小高い深良屋敷を囲む木立の間から眩しい窓明りと共に、朗らかなラジオの金属音が、国道添いの村の方へ流れ落ち初めたのであった。 「イッチのラジオが、やっとスウィッチを入れたバイ」  と青年達は甘酸っぱい顔をして笑った。  しかし谷郷村の人々の驚きは、まだまだ、それ位の事では足りなかった。  深良屋敷の若い夫婦は、新婚|匆々から、猛烈な勢いで働き出したのであった。今まで肥柄杓一つ持った事のない一知が、女のように首の附根まで手拭で包んだ、手甲脚絆の甲斐甲斐しい姿で、下手糞ながら一生懸命に牛の尻を追い、鍬を振廻して行く後から、薄白痴のマユミが一心不乱に土の上を這いまわって行くのを、村の人々は一つの大きな驚異として見ない訳に行かなかった。  一知は間もなく両親に無断で、小作人と直接談判をして、麦を蒔いた畠を一町歩近くも引上げて、ドシドシ肥料を遣り始めた。村の人々はその無鉄砲に驚いていたが、その丹精が一知夫婦だけで立派に届いて、見事に実った麦が丘の下一面に黄色くなって来ると、最後まで冷笑していた牛九郎老夫婦も、流石に吃驚したらしい。養子夫婦の親孝行のことを今更のように村中に吹聴してまわり始めた。一知の掌が僅かの間に石のように固くなっている事や、娘のマユミが一知と二人ならば疲れる事を知らずに働く事なぞを繰返し繰返し喋舌って廻るので村の人々は相当に悩まされた。  ところが不思議な事に、そんな序に話がラジオの事に移ると、何故かわからないが牛九郎夫婦は、あまり嬉しくない顔色を見せた。殊にそのラジオ嫌いの程度はオナリ婆さんの方が非道いらしかった。 「まあ結構じゃ御座んせんか。毎晩毎晩何十円もする器械で面白いラジオを聞いて……」  なぞと挨拶にでも云う者が居るとオナリ婆さんは、きまり切って乱杙歯を剥出してイヤな笑い方をした。片足を敷居の外に出しながら、すこし勢込んで振返った。 「ヘヘヘ。あれがアンタ玉に疵ですたい。承知で貰うた婿じゃけに、今更、苦情は云われんけんど、タッタ三|室しかない家の中が、ガンガン云うて八釜しうてなあ……それにあのラジオの鳴りよる間が、養子殿の極楽でなあ。夫婦で台所に固まり合うて、何をして御座るやら解らんでナ。ヘヘヘヘ……」  あとを見送った人々は取々に云った。 「何なりと難癖を附けずにゃいられんのが、あの婆さんの癖と見えるなあ。ハハハ」  それから後、そのオナリ婆さんが一知の畠仕事に附いてまわって、色々と指図をしているのを見て、 「ソレ見い。何のかのと云うても一知の働らき振りはあの婆さんの気に入っとるに違いないわい。そこで慾の上にも慾の出た婆さんが、出しゃばって来て、あの上にも一知を怠けさせまいと思うて要らぬ指図をしよるに違いない。あれじゃ若夫婦もたまらんわい」  と云ったり、それから後、深良屋敷のラジオがピッタリと止んで、日が暮れると間もなく真暗になって寝静まるのを見た人々が、 「あれは一知がラジオの械器を毀したのじゃないらしい。婆さんが費用を吝しんで止めさせたものに違いない。一知さんも可哀そうにのう。タッタ一つの楽しみを取上げられて」  と同情した位の事であった。  然るにその一知夫婦の苦心の麦の収穫が、深良屋敷の算盤に乗った頃から、まだ一個月と経たぬ今朝になって、その牛九郎夫婦が殺されている……というのは、普通の場合の意外という以上の意外な意味が籠っているように思われるのであった。だから、これは非常に簡単明瞭な、偶発的な事件か、もしくは一筋縄で行かない深刻、微妙な事件に相違ない……といったような予感が、今朝、最初に一知の美しい顔を見た瞬間から、ヒシヒシと草川巡査の疲れた神経に迫って来たのであった。ありふれた強盗、強姦、殺人事件にばかりぶつかって最初から犯人のアタリを附けてかかる流儀に慣れ切っている草川巡査は、この事件に限って、実際、暗黒の中を手探りで行くような気迷いを感じながら、駐在所を出たものであった。  ところが、それから間もなく草川巡査が、山の中の近道へ廻り込んだ時に、深良一知青年が、背後から叫んだ声を聞くと、そのトタンに草川巡査の心気が一転したのであった。勉強疲れで過敏になっている草川巡査の神経の末梢に、一知青年の叫び声は、あまりに手強く、異常に響いたのであった。それは無論、深良一知が偶然に発した叫び声で、別段に深い意味も何も無い驚きの声に相違ないのであったが。これが所謂、第六感というものであったろうか。何故という事なしに、 「犯人はドウヤラこの一知らしい」  という直感が、草川巡査の脳髄のドン底にピインと来たのであった。それも、やはり何の理由も根拠も無い。ただそんな風に感じただけの感じであったが、それでもそうした無意識の叫びの中に、一知の心理の奥底に横たわっている普通とは違った或る種の狼狽と恐怖心が、偶然にも一パイに露出しているのを、病的に過敏になっている草川巡査の神経の末梢がピッタリと捕えたのであろう。一知を従えて山の中を分けて行く僅の間に「コイツが犯人に相違ない」という確信が、草川巡査の脳髄の中へグングンと高潮して来るのを、どうする事も出来なくなった。それに連れて草川巡査の意識の中には、  ――何という図々しい奴だろう――  ――絶体絶命の動かぬ証拠を押える迄は、俺は飽く迄も知らん顔をしてくれよう――  といったような極度に意地の悪い考えと、  ――コンナ柔和な、美しい、親孝行で評判の模範青年に疑いをかけたりするのは、俺のアタマがどうかなっているせいじゃないか知らん――  ――万一、実際の証拠が揚がらないとすれば、コンナにも美しい、若い夫婦の幸福を出来る限り保護してやるのが、人間としての常識ではないか――  といったような全然、相反する二つの考えが、草川巡査の神経の端々を組んず、ほぐれつ、転がりまわり初めたのであった。  太陽はまだ地平線を出たばかりなのに、草川巡査と一知が分けて行く森の中には蝉の声が大浪を打っていた。その森を越えた二人は無言のまま、直ぐ鼻の先の小高い赤土山の上にコンモリと繁った深良屋敷の杉の樹と、梅と、枇杷と、橙と梨の木立に囲まれている白い土蔵の裏手に来た。草川巡査はあとからあとから湧き起って、焦げ付くように消えて行く蝉の声のタダ中に、昨夜のままの暗黒を閉め切ってあるらしい奥座敷の雨戸をグルリとまわった時に、云い知れぬ物凄い静けさを感じたように思ったが、やがて半分|開いたままの勝手口まで来ると、その暗い台所の中で、何かしていた美しい嫁のマユミが、頭に冠っていた白い手拭を取って、ニコニコしながら顔を出した。 「あら……お出でなされませ」  と叮嚀にお辞儀をしたが、その笑顔を見ると、まだ両親が殺されている事を少しも知らないでいるらしい。極めて無邪気な、人形のような美しい微笑を浮かべていたので、こんな事に慣れ切っていた草川巡査が、何故ともなく慄然とさせられた。 「マユミさんはまだ何も知らんのかね」  と草川巡査は眼を丸くしたまま小声でそう云って背後を振返ってみた。汗を拭いていた一知青年が、急に暗い、魘えたような眼付をしてうなずいたのを見ると、草川巡査も何気なく点頭いてマユミを振返った。 「マユミさん。今、神林先生が来はしなかったかね」  マユミはいよいよ美しく微笑んだ。 「アイ。見えました」 「その時にマユミさんは起きておったかね」 「イイエ。良う寝ておりました。ホホ。神林先生が起して下さいました」 「ウム。何か云うて行きはしなかったかね」 「アイ。云うて行きなさいました。巡査さんを呼んで来るから、お茶を沸かいておけと云って走って出て行きなさいました。それで……アノ……ホホホ……」 「何か可笑しい事があるかね」 「……アノ……その入口に引っかかって転んで行きなさいました……ホホホホホホ……」 「うむ。ほかには何とも、神林先生は云うて行かなかったかね」  マユミは美しい眼を、すこし上に向けて考えていたが、やがて大きく一つ点頭いた。 「アイ。云うて行きなさいました。アノ奥座敷へはドンナ事があっても、行く事はならんと云うて行きなさいました」 「それでマユミさんは奥座敷へ行かなかったのかね」 「アイ。まだ二人とも寝ていんなさいます」 「ウム。アンタは昨夜、良う睡ったかね」 「アイ。一番先に寝てしまいました。ホホホ……」 「ハハハ。そうかそうか。よしよし……」  台所に這入りかけていた草川巡査は、そういうマユミの無邪気な笑顔を見ているうちにフッと気が変った。何故ともなくスルリと身を引いて、タッタ一人で家の周囲をグルリと一廻り巡回してみたが、それはやはり職務のために緊張し易い警官特有の第六感の作用であったかも知れない。特に地面の上の足跡や、雨戸の合わせ工合、木立の間の下草の乱れなぞを、極めて注意深く見てまわったものであったが、何一つコレはと気付くようなところが無かった。  しかしその中に家の外側を七分通り巡って、ちょうど台所の裏手に当っている背戸の井戸|端まで来ると、草川巡査はピタリと足を佇めた。佩刀をシッカリと握ったまま、その井戸端の混凝土の向側に置いてある一個の砥石に眼を付けた。  それはマン丸く茂った山梔木の根方の、ちょっと人眼に附きにくい処に、極めて自然な位置に投出されている相当大きな天草砥石であった。一面に咲揃うた白い山梔木の花が、そこいら中に甘ったるい芳香を漂わしていたが、その灰色の砥石の周囲に、雨の力で跳ねかかっている地面から一続きの泥が、何か強い力で打たれたようにボロボロと剥落しているばかりでなく、その砥石の全体が、一分か五厘かわからないが一方にズレ寄っている形跡が、ハッキリと土の上に残っていた。  ……これは何か重たい刃物か何かの柄を、抜けないように嵌込た証拠らしいぞ……そう思い思い草川巡査は、自分が犯人であるかのように青褪めた、緊張した表情で、そこいらを見まわした。台所で一知が茶漬を掻込んでいるらしい物音に耳を澄ますと、直ぐに跼んで、片手で砥石を持上げてみた。砥石の下には頭をタタキ潰された蚯蚓が一匹、半死半生に変色したまま静かに動いていた。草川巡査は、その蚯蚓を凝視しながら、砥石をソッと元の通りに置いた。  そこへ飯を喰い終った一知が、帯を締め締め、草履を穿いて出て来たので、草川巡査は素知らぬ顔をして台所の入口へ引返して来た。 「殺した奴はどこから這入って来たんか」 「ここから這入って来たものと思います」  一知は、入口の敷居を指した。学問があるだけに言葉附がハッキリしていた。気分もモウすっかり落付いているらしく、平生の通りに潤んだ、悲し気な瞳を瞬いていた。 「この引戸が半分、開放しになっておりました」  草川巡査は一知青年と二人で暗い台所に這入った。継ぎ嵌めだらけの引戸の締りを内側から検めてみた。 「成る程、ここの帰りはこの掛金を一つ掛けただけだな」 「ハイ。その掛金の穴へ、あの竈の長い鉄火箸を一本刺しておくだけです」 「昨夜も刺しておいたのか」 「ハイ。シッカリと刺しておいたつもりでしたが、今朝見ますとその鉄火箸は、この敷居の蔭に落ちておりました」  その板戸の継ぎ嵌めだらけの板片を一つ一つに検めていた草川巡査は、 「よし。昨夜の通りに今一度、内側から締めてみい」 「ハイ……」  一知が内側から戸を閉めて、掛金を掛けて、火箸をゴクゴクと挿込む音がした。すると草川巡査は、その継嵌の板片の中の一枚を外から何の苦もなくパックリと引離して、そこから片手を突込んで鉄火箸を引き抜いて、掛金を外した。その板片と火箸を両手に持ったまま引戸を静かに押開いて、ノッソリと土間へ這入って来ると、その土間の真中に突立っている一知の真青な顔を無言のままニコニコと見上げ見下した。  一知の額には生汗がジットリと浮出していた。西洋の女のように白い唇をわななかして、今にも気絶しそうに眼をパチパチさせた。それを見ると草川巡査の微笑が一層深くなった。 「馬鹿だな。……この板を打付けた釘の周囲が、スッかり腐っているじゃないか。これがわからなかったのか……今まで」  一知は寝巻の袖で汗を押拭い押拭いペコペコと頭を下げた。 「……すみません……すみません……」  草川巡査は手に持った板片の釘痕を合わせて、スッポリと元の板戸の穴へ嵌込みながら、なおも微笑を深くした。 「馬鹿だよお前は……俺に謝罪っても何もならんじゃないか。ええ。一軒の家の主人となったら……ことにコンナ一軒家の中で、年|老った両親や、沢山のお金の運命を受持っている若い人間は、モウすこし戸締りや何かに気を付けんとイカンじゃないか。お蔭でコンナ間違いが出来たじゃないか……ええ?……」  一と縮みになった一知は、一生懸命に気を取直そうとしているらしく、無言のまま何度も何度も襟元をつくろい直した。 「足跡も何も無かったんか。そこいらには……」 「……ハ……ハイ。ありま……せんでした。山の下から……この踏石を踏んで来たもの……かも知れません」  一知は先に立って表に出た。国道から曲り込んで、深良屋敷へ上って来る赤土道に、一尺置ぐらいに敷並べてある四角い花崗岩の平石を、わななく手で指した。草川巡査はうなずいた。腰を屈めて、その敷石の二つ三つを前後左右から透してみた。 「足跡も何も無い……ところでお前達は昨夜ドコに寝とったんか」 「この台所に寝ておりました」 「何も気付かなかったんか……それでも……」  何を思い出したのか一知が、突然に真赤になって自分の影法師を凝視した。その赤い横頬と、青い襟筋が朝日に照されて、女のように媚めかしかった。 「マユミさんと一緒に寝とったんか」  一知は首筋まで真赤になった。井戸端で水を汲んでいるマユミの背後姿をチラリと見た。 「いいえ。彼女は毎晩、両親の吩付で直ぐ向うの中の間に寝る事になっておりますので……」 「ホントウか。大事な事を聞きよるのだ」 「ホントウで御座います。一緒に寝た事は……今までに……一度も……」  そう云う中に一知は興奮したらしく早口になりかけたが、忽ちサッと青くなって口籠った。云うのじゃなかった……といった風に唇をギュッと噛んで、忙しく眼瞬きをした。その顔を草川巡査は穴の明く程凝視したので、一知はイヨイヨ青くなって頸低れた。 「フウム。妙な事を云うのう……マッタクか……それは……」  一知は怨めしそうな、悲痛な顔を上げて草川巡査の顔を見たが、その瞳には一パイに涙が溜っていた。 「ハイ……しかし……それは……今度の事と……何の関係も無い事です」 「うむうむ。そうかそうか。それでラジオの音に紛れてマユミさんと一緒に寝よったんか。ハハハ」  一知は頸低れたまま涙をポトポトと土間へ落した。微かにうなずいた。 「アハハハ。イヤ。そんな事はドウでも良え。お前達が寝よる位置がわかれば良えのじゃが……ところで、それにしても怪訝しいのう。二人とも犯人の通り筋に寝ておったのに、二人とも気付かなかったんか」  一知が深いタメ息をしいしい顔を上げた。 「ハイ。私が気付きませんければ……彼女は死人と同然で……寝ると直ぐにグウグウ……」  と云う中に又、赤い顔になって頸低れた。 「フム。毎晩、何時頃に寝るのかお前達は……」 「両親達はラジオを聴いてから一時間ばかりで寝附きますから、私たちが寝付くのはドウしても十二時過になっておりました。もっともこの頃は九時か十時ぐらいに寝ているようです。ラジオを止めましたから……」 「何故ラジオを止めたのかね」 「養母さんが嫌いですから……」  と云う中に一知は又も無念そうに唇を噛んだ。 「ふうむ。惨酷いお養母さんじゃのう。起きるのは何時頃かね」 「大抵|今朝ぐらいに起きます」 「夜業はせぬのか……藁細工なぞ……」 「致しません。時々小作米とか小遣の帳面を枕元の一|燭の電燈で調べる位のことで、直ぐに寝てしまいます」 「老人というものはナカナカ寝付かれぬものというが、やっぱりソンナに早く寝てしまうのか……」 「さあ。私はよく存じませぬが……疲れて寝てしまいますので……」  その時に井戸端で二人の問答を聞いていたマユミが、草川巡査の顔を振返った。何が可笑しいのか突然にゲラゲラと笑ったので、草川巡査は又もゾッとさせられた。  草川巡査は妙な顔をしたまま靴を脱いで、台所の板の間に上った。以前の母家から持って来たものであろう。家に不似合な大きな戸棚の並んでいる間から、中の間に通う三|尺間を仕切っている重たい杉の開戸を、軍隊手袋を嵌めた両手で念入りに検査した。それは真鍮製のかなり頑固な洋式の把手で、鍵穴の附いた分厚い真鍮板が裏表からガッチリと止めてある。それが、やはりこの家に不似合なものの一つに見えた。 「この把手はお前が取付けたんか」 「いいえ。養母さんが取付けたのだそうです。一軒家だから用心に用心をしておくのだと云って、養母さんが自分で町から買うて来て、隣村の大工さんに附けてもろうたのだそうです」 「そうするとこの家に引移った当時の事だな」 「よく知りませんがヨッポド前だそうです」 「フム。毎晩この鍵を掛けて寝るのか」 「ハイ。私が寝ると、養母さんが掛けに来ます」 「そうすると鍵は養母さんが持って、寝ている訳じゃのう」 「ハイ……そうらしう御座います」 「うむ。惨酷い事をするのう」  そう云って草川巡査は、うなだれている一知の顔を見たが、暗いので顔色はよくわからなかったけれども、モウ肩を震わして泣いているらしかった。寝巻浴衣の袖で眼を拭い拭い潤んだ声で云った。 「……あきらめて……おります……」  草川巡査は、そのまま暫く考え込んでいたが、やがて軽いタメ息をしてうなずいた。 「ふうむ。成る程のう……しかしこれ位の鍵を一つ開ける位、窃盗常習犯にとっては何でもないじゃろう」  そう云って、今一度タメ息をしいしい一知青年をかえりみた。 「……一緒に来てみい。奥座敷へ……」  閉め切った古い雨戸の隙間と、夥しい節穴から流れ込む朝の光りに薄明るくなっている奥座敷に来てみると、成る程無残な状態であった。滅多にコンナ事に出会わない村医の神林先生が周章て逃げ出して行ったのも、無理がなかった。  古ぼけた蚊帳の中で、別々の夜具に寝ていた老夫婦は、殆んど同時に声も立て得ぬ間に絶息したものらしい。父親の牛九郎の方は仰臥けしたまま、禿上った前額部の眉の上を横筋違いに耳の近くまでザックリと割られて、鶏の内臓みたような脳漿がハミ出している。また姑のオナリ婆さんは俯伏せになって、枕を抱えて寝ていたらしく、後頭部を縦に割付けられていたが、これは髪毛があるので血が真黒に固まり付いている上に、二人の枕元の畳と蒲団の敷合わせが、血餅でつながり合って、小さな堤防のように盛上っていた。いずれも極めて鋭利な重たい刃物で、アッと云う間もない唯|一撃ちに片付けられたものと見えた。蚊帳には牛九郎老人の枕元に血飛沫がかかっているだけで、ほかに何の異状も認められないところを見ると、二人の寝息を窺った犯人は、大胆にも電燈を灯けるか何かして蚊帳の中に忍び入って、二人の中間に跼むか片膝を突くかしたまま、右と左に一気に兇行を遂げたものらしい。何にしても余程の残忍な、同時に大胆極まる遣口で、その時の光景を想像するさえ恐ろしい位であった。  草川巡査は持って来た懐中電燈で、部屋の中を残る隈なく検査したが、何一つ手掛になりそうなものは発見出来なかった。ただ老夫婦の枕元に古い、大きな紺絣の財布が一個落ちていたのを取上げてみると、中味は麻糸に繋いだ大小十二三の鍵と、数十枚の証文ばかりであった。草川巡査はその財布をソッと元の処へ置きながら指した。 「これが盗まれた金の這入っていた袋だな」 「……そう……です……」  と云ううちに一知は今更、おそろしげに身を震わした。 「現金はイクラ位、這入っていたのかね」 「明日……いいえ、今日です。きょう信用組合へ入れに行く金が四十二円十七銭入っていた筈です。麦を売って肥料を買った残りです」 「お前はその現金を見たんか」 「いいえ。私はこの家へ来てから一度も現金を見た事はありません。私が附けた田畑の収穫の帳面尻をハジキ上げて、イクライクラ残っていると、台所から呶鳴りますと、養母さんが寝床の中で銭を数えてから、ヨシヨシと云います。それが、帳尻の合っております証拠で……いつもの事です」 「そうかそうか。成る程……」  その時に一知の背後の中の間でマユミがオロオロ泣出している声が聞えた。両親の不幸がやっとわかったらしい。  その時に又、遥か下の国道から、自動車のサイレンが聞えて来たので、草川巡査は慌てて靴を穿いて表に出た。花崗岩の敷石を飛び飛び赤土道を降りて、到着した判検事一行の七名ばかりを出迎えた。    後篇  太陽はいつの間にか高く昇って、その烈々たる光焔の中に大地を四十五度以上の角度から引き包んでいた。その眼の眩むような大光熱は、山々の青葉を渡る朝風をピッタリと窒息させ、田の中に浮く数万の蛙の鼻の頭を一つ一つに乾燥させ、地隙を這い出る数億の蟻の行列の一匹一匹に青空一面の光りを焦点作らせつつジリジリと真夏の白昼の憂鬱を高潮させて行った。  この夏限りに死ぬというキチガイじみた蝉の声々が、あっちの山々からこっちの谷々へと、真夏の雲の下らしい無味乾燥なオーケストラを荒れまわらせ、溢れ波打たせて、極端な生命の狂噪と、極端な死の静寂との一致を、亀裂だらけの大地一面に沁み込ませて行くのであった。  その小高い丘の木立の中に、森閑と雨戸を鎖した兇行の家……深良屋敷を離れた草川巡査は、もうグッタリと疲れながら、町から到着した判検事の一行を出迎えるべく、佩剣の柄を押え押え国道の方へ走り降りて行った。  本署からは剛腹で有名な巨漢の司法主任|馬酔警部補と、貧相な戸山警察医のほかに、刑事が二名ばかり来ていた。検事の名前は鶴木といって五十恰好の温厚そうな童顔|禿頭の紳士、予審判事は綿貫という眼の鋭い、痩せた長身の四十男で、一見したところ、役柄が入れ違っているかのような奇妙な対照を作っていた。そのアトから腎臓病で腫んだ左右の顳※に梅干を貼った一知の父親の乙束区長が、長い頬髯を生した村医の神林先生や二三人の農夫と一緒に大慌てに慌てて走り上って来たが、物々しい一行の姿にスッカリ魘えてしまったらしく、一人も家の中に這入ろうとする者は無かった。今更の事のようにメソメソ泣きながら出迎えた一知夫婦と一緒に、一言も口を利かないまま、井戸端の混凝土の上に並んで突立って、検事や、予審判事や、警官連の行動をオドオドと見守ってばかりいた。  一行の取調は極めて簡単であった。  一行は既に区長の処へ立寄るか何かして色々の話を聞いて来ているらしく、馬酔司法主任が途中で一知をチョット物蔭へ呼んで、何かしら二三質問をしただけで、草川巡査の報告なぞは検事の耳に入る迄もなく、例によって例の如き司法主任の独断の前に一蹴され、冷笑されてしまったらしい。  疑いもない強盗殺人で、新夫婦が熟睡して気付かぬ間に演ぜられた兇行に相違ない。そんな例は今までにも随分多い事が経験上わかっている。むろん高飛をする前科者か何かが旅費に窮するか何かしての所業であろう。淋しい一軒家で、相当の資産家である事は人の噂でもわかるし、毎晩夕方に点しているという五十|燭の電燈も、国道を通りかかった者の注意を相当に惹く筈である。足跡の無いのは敷石ばかりを踏んで出入したせいに相違ない……という事になったらしい。泣きの涙でいる新夫婦が、司法主任や刑事たちからシキリに慰められながら、何度も何度もお辞儀をするのにつれて、父親の区長や村民たちまでもがペコペコと頭を下げ初めた。事実、世にも美しい若い夫婦が、手を取合って泣いている姿は一同の同情を惹くのに充分であった。  草川巡査が区長と連立って、大急ぎで深良屋敷から降りて行くと、その背後を見送るようにして検事、判事、司法主任の三人が門口を出て行った。そうして昔の母屋を取払った遺跡が広い麦打場になっている下の段の肥料|小舎の前まで来ると、三人が向い合って立停って、小声で打合せを始めた。肥料小舎の背後を豊富な谷川の水が音を立てて流れているので、三人の声は三人以外の誰の耳にも這入らなかった。 「捜査本部はどこにするかね」 「駐在所でいいでしょう。電話がありますから。刑事を一人残しておいて、必要に応じて出張する事にしたいと思います。自動車で約一時間ぐらいで来られますから……」 「うむ。それがいいでしょう。実をいうと例の疑獄の方で儂も忙しくて、これにかかり切る訳にも行かんでのう……ところでアタリは附きましたかな……」 「色々想像が出来ますねえ。犯人は区長と、一知と、ルンペンと、前科者と……」 「ハハア。しかし今のところどれも考えられんじゃないですか、この場合……第一区長は見たところ相当な好人物に見えるじゃないですか。村の者のコソコソ話によると、区長は村のために自分一人が犠牲になって死物狂いに努力しおる名区長じゃというし、息子の一知も区長が或る計画の下に養子に遣ったものでは決してない。先方からの望みであったというし、目下区長が全責任を負うて心配している信用組合の破綻を救うために、村民の決議で村有の山林原野を抵当にした、相当有利な条件の借金話が、区長と死んだ深良老人との間に都合よく進行しているという話じゃから、その裏の裏の魂胆でも無い限りは、区長へ嫌疑をかけるのは無意味じゃないかと思うです。深良爺さんが死ぬと区長は大きな損をする訳ですからナ」 「私は最初、一知に疑いをかけておりました。外から這入った形跡が全然見当らないのですからね。草川巡査も、只今のお話を知らなかったらしく、私と同意見で、一知に疑いをかけているらしい口吻でしたが、しかし、私が最前ちょっと一知を物蔭に呼んで、心当りは無いかと尋ねてみますと、一知はモウ、そんな意味で草川巡査に疑いをかけられている事をウスウス感付いているらしいのです。眼に涙を一パイ溜めながら……私はまだこの家の籍に這入ってはおりませんが、仮りにも義理の両親を殺して、実父の財政が間違いなく救われる事になりますならば、喜んでこの罪を引受けましょう……とキッパリ申しておりました」 「フーム、田舎者としては立派すぎる返事ですなあ。すこし頭が良過ぎるようじゃが……」 「あの青年はこの村でも有数のインテリだそうです」 「そうらしいですな。殊にあの養子はこの村でも一番の堅造という話ですな」 「草川巡査もそう云うておりました。あの別嬪の嬶も好人物過ぎる位、好人物という話です」 「ウム。あの若い夫婦は大丈夫じゃろう。実父の区長のためになる事でなければ、そう急いて老夫婦を殺す必要も無い筈じゃから……しかし通りかかりのルンペンにしては遣り口が鮮やか過ぎるようじゃなあ」 「……今度の兇行の動機は怨恨関係じゃないでしょうか。金品を奪ったのは一種の胡麻化手段じゃないですかな」 「……というと……」 「マユミの縁組問題です……ずいぶん美人のようですからね」 「それも考えられるな。今の一知という青年と同年輩で、マユミに縁組を申込んで、老人夫婦に断られた者は居らんかな」 「十分に調べさせてみましょう」 「何にしても問題は兇器だ。アッ……草川君が帰って来た。また恐ろしく大勢連れて来たな。ハハハ……中々気が利いている」 「ナアニ。この村は青年が一致しているのでしょう」  青年団の兇器捜索は間もなく開始された。中にも草川巡査の指揮振りは実に手に入ったもので、鶴木検事は一々感心しながら見物していた。青年連中の草川巡査に対する尊敬ぶりは、ちょうど小学校の生徒が、受持の教師に対する通りで、骨身を惜まず、夢中になって活躍するのであった。日盛りの蝉の声々が大海原の暴風を思わせる村の四方の山々を通抜ける幾筋もの小径を基線にして、次第次第に捜索の範囲が拡大されて行った。青年ばかりでなく村の大人たちまでも、この前代未聞の惨劇を描き出した未知の兇器に対する、たまらない好奇心に駈られて、強烈な真夏の光線を交錯させている草や、木や、石の投影に胸を躍らせ、呼吸を魘えさせながら、そうして如何にも大事件らしく呼び交す感傷的な叫び声の中に、色々の鳥や、虫の影を飛立たせながら、眼も眩むほどイキレ立つ大地の上を汗にまみれて匐いまわった。  しかし日暮方まで何等の得るところも無かった。  ヘトヘトに疲れた草川巡査が、青年達を国道の上に呼集めた時には、判検事の一行はモウ引上げていた。二人の被害者の屍体も、蒲団に包んだ上から荒菰で巻いて、町から呼んだ自動車に載せて、解剖のため、大学へ運び去られたアトであった。  兇器が発見されないために、犯人を検挙する手がかりが全く無い事になった。  近まわりの村々を刑事がまわって、行動の疑わしい者や、変った出来事を一々調べ上げたが、元来、朴実な人間たちと、平和な村政で固まっている村々には、二三羽の鶏の紛失や、一尺か二尺の地境の喧嘩が問題になっている位のことで、前科者らしい者は勿論、素行の疑わしい者すら居なかった。それやこれやで、八月の末になると、もう事件が迷宮に入りかけて来た。  ……やはり久しくこの辺を通らなかった兇悪な前科者が、通りがかりに遣付けた仕事だろう……。  といったような噂が一時、村の人々の間で有力になった。それにつれて滑稽にも村中の戸締りが俄に厳重になったものであったが、しかしそれとても別にコレといった拠りどころの無い、空想じみた噂に過ぎなかったらしい。警察方面で、そんな方面に力を入れた形跡も無いうちに、刑事たちがパッタリ寄附かなくなったので、村の人々も安心したように口を噤んでしまった。そうして日に増し事件の印象を忘れ勝ちになって行くのであった。  もっともその間じゅう草川巡査は、毎日毎日電話でコキ使われていた。兇器が発見されないかとか、新しい聞込みは無いかとか、区長の財政状態はドウなったかとか、一知は相変らず働いているかとか、もう少し責任を負って仕事をしろとか、叱言じみた事ばかり聞かされたので頗る不平らしく見えたが、しかし、それでも極めて忠実に命令を遵奉しているにはいた。  一方に深良家の新夫婦は、老人夫婦の死骸の後始末が附いた後、極めて幸福な新生涯に入ったらしかった。父親の乙束区長が、よろぼいよろぼい借金の後始末に奔走しているのを一知は依然として知らぬ顔をしているかのように見えた。或は乙束区長が、自分自身の財政に行詰った余り、一知と謀し合わせて、深良家の財産を引っぱり出そうとしたところから起った間違いではないかと、心の片隅で疑っていた所謂世間知りも、村人の中に一人や二人、居ないではなかったが、しかし、そうした区長の窶れ果てた顔と、何も知らない赤ん坊のような一知の、世にも幸福そうな顔色とは、そうした疑惑を一掃するのに十分であったらしい。  老夫婦が惨死した深良屋敷の奥座敷は、山伏の神祓いで浄められて、新しい畳が青々と敷き込まれた。その上に土蔵の中から取出された見事な花|茣蓙が敷詰められて、やはり土蔵の奥から持出された古い質草らしい、暑苦しい土佐絵の金屏風が建てまわされた。そうしてその土蔵の背後に在る畠境いの塵捨場には、珍らしい缶詰の殻や、西洋菓子の空箱や、葡萄酒の瓶なぞがアトからアトから散らかるようになった。そうして眼に痛い程明るい五十|燭や百燭の電燈と、賑やかなラジオの金属音が、又もや毎晩毎晩丘の上から流れ落ち初めて、村の家々を羨ましがらせ、且、悩ました。どうかすると十二時頃まで、奇妙な支那の歌声や、器楽の音なぞが、チイチイガアガア鳴り響くのであったが、それに気が付くたんびに村の人々は顔を見合わせた。  しかし、それでも夜が明けると一知夫婦はキチンキチンと仕事に精を出し、墓参りを怠らなかった。忌日忌日の法事も若いのに似合わず念入りに執行って、村中の仁義|交誼を怠らない気ぶりを見せた。  これに反して草川巡査は日に増し憂鬱になって行った。心の奥底で何事かを煩悶しているらしく、高文の受験準備をやめてしまったばかりでない。夜通し眠らないような力無い鬱陶しい眼付をしてヒョロヒョロと巡回して歩く姿が、次第に村の者の眼に付くようになった。顔には無精鬚が茫々と伸び、頬がゲッソリと痩せこけて、眼ばかり、奥深く底光りするようになった。夕方なぞ見窶らしい平服で散歩するふりをして駐在所を出ると、わざと人目を忍んだ裏山伝いに、丘の上の深良屋敷の近くに忍び寄って、木蔭の暗がりに身を潜めつつ、新夫婦の仲のよい生活ぶりをコッソリと覗いている……といったような噂がいつとなく村中のヒソヒソ話に伝わり拡がった。ことに依ると深良屋敷の老夫婦殺しは、草川巡査かも知れん……なぞと飛んでもない事を云う者すら出て来るようになった。  その中に秋口になって、山々の木立に法師蝉がポツポツ啼き初める頃になると、深良屋敷の一知夫婦が揃いの晴れやかな姿で町へ出て、生れて初めての写真を撮った。無論それは二人の新婚の記念にするのだと云っていたが、その写真が出来て来たのを、区長の家で偶然に見せてもらった草川巡査は、何故かわからないが非常に緊張した、寧ろ悲痛な表情で一心に凝視していた。その写真屋の名前を何度も何度も見直してシッカリと記憶に止めてから、妙に剛ばった笑い顔で鄭重に礼を云って区長の家を出た。何かしきりに考えながらも足取だけは小急ぎに国道へ出たが、ちょうど通りかかった乗合自動車を見ると、急に手を挙げて飛乗って町へ出た。記憶している名前の写真屋を直ぐに尋ね当てて、極く内々で一知夫婦の写真の焼増を一枚頼んだ。  するとちょうど助手の不注意で一枚余分に焼いたのが在ったので、草川巡査は久し振りに満足そうな笑顔を洩した。引ったくるようにその一枚を貰って、その足で鶴木検事を裁判所に訪問し、折柄、宣告を澄ましたばかりの検事に裁判所の応接室で面会をすると、その写真を手渡ししながら自分の見込をスッカリ打明けた。  意気込んでいる草川巡査の吶弁を、法服のまま静かに聞き終った禿頭、童顔の鶴木検事は草川巡査の質朴を極めた雄弁にスッカリ釣込まれてしまったらしい。草川巡査と同じように憂鬱な顔になって、両腕を深々と胸の上に組んだ。 「つまりその砥石の上で刃物の柄を撞着いて、抜けないようにしたと云うのですな」 「そうです。そのほかに今申上げましたようなラジオや、戸締りに関する一件もありますので、テッキリ犯人と睨んでいるのですが」 「どうも……意外千万な推測ですな」と検事は苦り切って腕を組み直した。「……只今では最後の懸案として、あの区長の動静について注意しているのですが」 「ハイ。私も署長からその指令を受けましたので十分に注意して見ましたが、区長は絶対に、そんな事の出来る人間ではありませぬ。むしろ自分の息子を養子に遣った家から補助を受けたりする事を潔しとしない、純粋な性格の男です。目下、東京で近衛の中尉をしております長男からも、その一知から金を借りない趣旨に賛成の旨を返事して来ております。のみならず昨日の事です。その長男の手紙と同時に勧業銀行から破産宣告に関する通知が来ているのを私は見て参りました」 「フーム。してみると区長に嫌疑はかけられぬかな」 「ハイ。区長は絶対の無罪と信じます。少くとも区長と犯人との間柄は、赤の他人以上に無関係です」 「しかし君は、そうした犯人に関する意見を、何故に司法主任の馬酔君に話さなかったのですか。その方が正当の順序じゃないですか」  草川巡査はギクンとしたらしく言葉に詰まった。しかし、やがて冷い渋茶を一パイ飲むと、やはり持って生れた吶弁で、 「こんな事は今度の事件と全然、関係の無い、私の一身上のお話ですが……」  と恐縮しいしい自分が谷郷村に赴任した理由を詳しく話し出した。 「そんな理由で……私のような下級官吏の口から申上るのは僭越ですが、昔から田舎の都会に根を張っております政党関係の因縁の根強さは、到底、私どもの想像に及びません位で、それに……私は元来、極く田舎の貧乏寺の僧侶の子で御座いまして、父親の名跡を継ぐために、曹洞宗の大学を出るだけは出ました者ですが、現在の宗教界の裏面の腐敗堕落を見ますとイヤになってしまいまして、いっその事直接に実社会のために尽そうと考えて、檀家の人々が止めるのも聴かずに巡査を志願致しましたような偏屈者で御座いますから、そんな因縁の固まりみたような地方の警察署ではトテモ不愉快で仕事が出来ません。云う事、為す事が皆、上長の機嫌に触りますので……もっとも只今では政党の関係は無くなりましたが、昔の有力者という者が残っておりまして、近づいて参ります選挙でも、警察の力を利用して、勝手な事をしてやろうと腕に捩をかけて待っているような情勢であります」 「フムフム。それはモウよくわかっているが……」 「ですから、私のような偏屈者が警察に居りますと、何としても邪魔になりますらしいので、私が高等文官の試験準備を致しておりますのを良い事にして、田舎の方が勉強が出来るからと云って谷郷村へ逐いやられてしまったのです」 「……成る程」 「……ですから今のような事実を説明しましても、上長に憎まれております私ですからナカナカ取上げてもらえまいと思いました。現に署長は、私が捜索を怠けておりますために、事件の眼鼻が附かないものと考えておられるようで、電話で度々お叱りを受けております。実際を御存じないものですから……」 「ふうむ。しかしそのような事実を、今日が今日まで私に黙っておられたのは何故ですか」  鶴木検事の口調がダンダン裁判口調になって来た。草川巡査も、新しい西洋手拭で汗を拭き拭きイヨイヨ吶弁になって来た。 「……その……今申しました犯人の性格をモット深く見究めたいと思いましたので……つまり犯人は都会の上流や、知識階級に多い変質的な個人主義者に違いないと思ったのです。もちろん最初の中は、そんなような感情や、理智の病的に深い人間が、あんな田舎に居ようとは思いませんでしたので……それに村民の評判がステキにいいものですから、出来る限り慎重に致したいと考えましたので……」 「成る程……」 「……そ……それにあの砥石の位置が、暗闇の中で見えるか、見えないかが確かめて見とう御座いましたので……あの惨劇の晩は一片の雲も無い晴れ渡った暗夜で御座いましたが、その翌る晩から曇り空や雨天が続きまして、それが晴れると今度は月が出て来るような事で、まことに都合が悪う御座いました。それであの晩と同じような雲の無い暗夜が来るのを辛抱強く待っておりますうちに、やっと四五日前の晩に実験が出来ました。つまり台所の入口に立ちますと、あの砥石が井戸端の混凝土と一緒にハッキリと白く暗の中に浮いて見える事がわかりました。もっとも、それはただ小さな白い、四角い平面に見えているだけで、砥石だか何だかわかりませんが、それを砥石と認め得る人間はあの家の者より他に無い筈です」 「いかにも……それは道理な観察ですが、しかし万一兇器としても単に柄を嵌込るだけの目的ならば、附近にシッカリした花崗岩の敷石が沢山に在るのに、何故あんな暗い処に在る石を選んだものでしょうか。……それから今一つ、兇器の柄がシッカリ嵌っていない事を、犯人は最初から気附かずにいたものでしょうか。どうでしょうか。そのような点はドウ考えますか」 「それは……恐らく加害者が、兇行間際の緊張した気持から、新しい兇器の柄に不安を感じた結果、何かでシッカリと柄を打込むべく外へ出たものであろうと考えます。ところがあの小高い深良屋敷の台所に近い敷石の上を動く人影は、木の間隠れではありますが空を透しておりますために、雨天でない限りは、どんな暗夜でも下の国道から透して見え易い事を、用心深い犯人がよく知っていたに違いありませぬ。ですから軒下の暗闇づたいに近付いて行けるあの真暗い背戸の山梔木の樹蔭に在る砥石を選んだものではないかと考えます。あそこならば物音が、奥座敷へ聞えかねますから……」 「イヤ。よろしい。熱心にやって下すった事を感謝します。それでは今のお話のオナリ婆さんの変態的な性格についてですね……どんな風にオナリ婆さんが、一知夫婦を窘めたかに就いてですね……出来るだけ秘密に……そうしてモット具体的に確かめられるだけ確かめておいて下さい。こちらはこの写真によって直ぐに調査を進行させますから……」 「……ハ……ありがとう御座います」  草川巡査は三拝九拝せんばかりにして裁判所を出た。乗合自動車に乗って日の暮れぬ中に谷郷村に帰った。  翌日になると、早速、鶴木検事の手が動き出した。  青年深良一知の顔だけの拡大写真が幾枚となく複製された。それを携えた刑事や警官が、町中の、ありとあらゆる金物店について調査を進めた結果、ちょうど七月十五日の氏神祭の日のこと、写真にソックリの学生風の青年が、乗馬|倶楽部の者だと云って新しい藁切庖丁を一|梃買って行った。学生に不似合な買物だったので店員が皆不思議がっていた……という店が二日目の夕方になってヤット発見された。  その翌日になると又も思い出したように本署から来た二名の刑事と、草川巡査が、谷郷村の青年を招集して、大々的な兇器捜索を開始したので、忘れられかけていた事件の当初の恐怖的な印象が今一度、村の人々の頭に喚起されたが、その最中に突然、一知青年が自宅から本署へ拘引されて行ったので、村の人々は青天の霹靂のように仰天した。腎臓病の青膨れのまま駈着けて来た父親の乙束区長がオロオロしているマユミを捉えて様子を訊いてみたが薩張り要領を得ない。仕方なしに山の中で兇器捜査に従事している草川巡査に縋り付いて、何とかして息子を救う方法は無いものかと泣きの涙で尋ねたが、これも腕を組んで、眼を閉じて、頭を左右に振るばかりである。もとより拘引の理由なぞを洩しそうな態度ではないので、手も力も尽き果てた区長は大急ぎで町へ出て弁護士の家へお百度詣りを始めた。  一方に拘引された一知は全く驚いた顔をしていた。  厳重な取調を受けても一から十まで「知りませぬ」「わかりませぬ」の一点張りで、女のようにヒイヒイ哭くばかりであった。その中に問題の藁切庖丁を売った店の番頭が呼出されて来て、一知の顔を見せられると、たしかにこの人に相違ないと明言し、当日持っていた蟇口の恰好や、学生らしくない言葉癖まで思い出した立派な証言をして帰ったので、係官一同はホッと一息しながら、直ぐに起訴の手続を取った。  しかし一知は、それでも頑張った。 「私は誰にも怨恨を受ける記憶はありませぬ。しかし藁切庖丁の一件はたしかに私を罪に陥れるためのトリックです。それがわからないのは、貴方がたのお調べが足りないからです。在りもしない藁切庖丁で、どうして人を殺すことが出来ますか」  とまで強弁した。  谷郷村では草川巡査の評判が一ペンに引っくり返ってしまった。  犯人は居ないものと決めてしまっていた村の人々は、殆んど一人残らず一知に同情して、草川巡査を憎むようになった。タッタ一人深良屋敷に取残されていたマユミを乙束区長が引取って世話をするようになってからは一層、村民の憎しみが、草川巡査の上に深くなって行ったところへ、町からたまたま来た刑事までもが……これは草川巡査と鶴木検事の一代の大|縮尻かも知れない……などと言葉を濁して行ったりしたので、村の連中は最早、一知の無罪を信じ切って疑わないようになって来た。しまいには……草川巡査はズット以前から巡廻の途中で、いつも深良屋敷へ寄道をする事にきめていた。そうしてマユミがタッタ一人で留守をしているのを見ると、無理往生をさせる事にきめていたのだ。この間、区長さんがその事を問うてみたら、マユミさんが泣いて合点合点していた……などと真しやかに云い触らす者さえ出て来た。  そんな噂に取巻かれた草川巡査は、前にも増して痩せ衰えて行った。何度行っても得るところの無い深良屋敷の空家の周囲をグルグルと巡廻したり、肥料小舎の入口にボンヤリと突立って、天井裏を見上げていたりした。又は山の中の小さな石の祠を引っくり返し、お狐様の穴に懐中電燈を突込んだりして、寝ても醒めても兇器の捜索に夢中になっていた。その中に九月の末になって、やっと開始された兇器捜索を目的の溜池乾で、草川巡査はあんまり夢中になり過ぎたのであろう。一人の青年の働き方が足りないといって泥だらけの平手で殴り付けたりしたので、可哀相に今度は草川巡査が発狂したという評判まで立てられるようになった。……にも拘わらず草川巡査の狂人に近い熱心な努力は近郷近在の溜池をまで残る隈なく及んだのであったが、それでも兇器らしいものすら発見出来なかったので、事件の神秘性は、いよいよ高まって行くばかりであった。  草川巡査は自分でも自分の精神状態を疑うようになった。或る晩の十時過の事。睡むられぬままに着のみ着のままで、人通りの絶えた国道に出た。  大空の星の光りは夏と違ってスッカリ澄み切っていた。そこには深良屋敷の方向から匐い上って来た銀河が一すじ白々と横たわっていたが、その左右には今まで草川巡査が気付かなかった星霧や、星座や、星雲が、恰も人間の運命の神秘さと、宇宙の摂理の広大不可思議を暗示するかのように……そうして草川巡査の一個人の智恵の浅薄さ、微小さを冷笑するかのようにギラギラと輝き並んでいた。その下に真黒く横たわる谷郷村の盆地を冷やかに流れ渡る夜風に背中を向けた草川巡査は、来るともなく深良屋敷に通ずる国道添いの丁字路の処まで来ると突然、頭の上の天の河の近くで思い出したように星が一つスウーと飛んだ。  草川巡査は何かしらハッとして立停まった。モウ一つ飛ばないかナ……などと他愛ない事を考えながら、何の気もなく星空を見い見い歩き出すトタンに深良屋敷に通ずる道路の中央に埋めて在る平たい花崗岩の第一枚目に引っかかって、物の見事にモンドリを打った。 「……アッ……痛いっ」  ジメジメした地面の上に横たおしにタタキ附けられた草川巡査は、暫くそのままで凝然としていた。転んだ拍子に何かしらスバラシイ思付きが頭の中に閃めいたように思ったので、それを今一度思い出すべくボンヤリと鼻の先の暗闇を凝視していた。……が……やがて、ムックリと起上るとそのまま、衣服の汚れも払わないで国道の上をスタスタと町の方へ歩き出した。半分駈け出さんばかりの前ノメリになって五里の道をヨロメキ急いで町へ出ると、前から知っている検事官舎の真夜中の門を叩いた。  熟睡していた鶴木老検事は、ようようの事で起上った。何事かと思って睡むい眼をコスリコスリ応接間に出て来たのを見ると、草川巡査は如何にも急き込んでいるらしく、挨拶も何もしないまま質問した。 「……イ……一知は……テ……手紙を書きませんでしょうか」  鶴木検事は、見違える程|窶れて形相の変った草川巡査の顔を、茫然と凝視した。汗とホコリにまみれて、泥だらけの浴衣にくるまっている哀れな姿を見上げ見下しながら、静かに頭を左右に振った。 「……書いて……おりませんでしょうね。一知は……一度も……どこへも」  検事は依然として無言のままうなずいた。そこへ夫人らしい人がお茶を酌んで来たが、草川巡査は棒立ちに突立ったまま見向きもしなかった。 「……そ……それを……手紙を出すことを許して頂けませんでしょうか……一知に……」 「……誰に宛てて……書かせるのかね」  腰をかけて茶を飲んだ老検事がやっと口を利いた。 「妻のマユミは無学文盲ですから……父親の乙束区長の方へ、手紙を出してもいいと、仰言って頂きたいのですが……そうしてその手紙を検閲なさる時に、私に見せて頂きとう御座いますが……」 「ハハア。何の目的ですか……それは……」 「兇器を発見するのです」 「成る程……」  鶴木検事の顔に著しい感動の色が浮んだ。 「ウム。これは名案だ。今まで気が付かなかったが……ナカナカ君は熱心ですなあドウモ。どこから思い付いたのですか。そんな事を……」  草川巡査は答えなかった。鶴木検事の顔を正視してビクビクと咽喉を引釣らせていたが、そのままドッカリと椅子に腰を卸すと、応接机の上に突伏してギクギクと欷歔し始めた。  検事は子供を労るように立上って、草川巡査の背中を撫でた。 「サアサア。早く帰り給え。人目に附くと悪い。……自動車を呼んで上げようか」        ―――――――――――――  お父さん。色々御心配かけて済みません。僕は絶対的に青天白日です。村の人も僕の潔白を認めて下さると弁護士さんから聞きました、どれ位心強いかわかりません。マユミも引取って下さった由、何卒何卒よろしくお願い申上ます。この御恩は死んでも忘れません。  弁護士さんのお話によると僕はもう近い中に無罪放免になるそうですから帰ったら直ぐに働きます。この不名誉を拭い清めて、草川巡査を見返してやります。  ですから何もかも元の通りにして構わずに置いて下さい。蜜柑の消毒や、堆肥小舎の積みかえなぞもそのままにしておいて下さい。  マユミにもこの事を、よく云い聞かせておいて下さい。呉々も宜しくお頼み申します。  どうぞ御病気を大切にして下さい。                左様なら。 一知より    父上様        ―――――――――――――  この手紙を見た鶴木検事は、直ぐに警察署へ電話をかけて重要な指令を下した。  その翌日のこと、事件当初の通りの係官の一行と、草川巡査と、区長と、村の青年たちの眼の前で、今まで誰も疑わなかった深良屋敷の肥料小舎の堆肥が徹底的に引っくり返されると、一番下の凝混土に接する処の奥の方から、半腐りになったメリヤスの襯衣に包んだ、ボロボロの手袋と、靴下と、赤錆だらけの藁切庖丁が一梃出て来た。その三品を新聞紙に包んで押収した係官の一行の背後姿を、区長も、青年も土のように血の気を喪ったまま見送っていた。  兇器は甚しく錆ていたので血痕の検出が不可能であった。  しかしそれを突付けられた一知は思わず、 「……シマッタ……やられた……」  と叫んで悲し気に冷笑した切り、文句なしに服罪してしまった。そうして顔色一つ変えずに兇行の顛末を白状した。  一知は中学時代からマユミを恋していた。そうしてマユミを中心にした自分の一生涯の幸福の夢を色々と描いていたが、しかし生れ附き内気な、臆病者の一知はそんな事をオクビにも出さずに、どうかしてマユミを吾が物にしたいと明け暮れ考えまわしているだけであった。だからほかの青年達と一緒になってマユミを張りに行って、マユミやその両親達の信用を失うような軽率な事は決してしなかった。一知の幸運の獲得手段はドコまでも陰性で消極的であった。  その一知の幸福の夢を掻き破るものは、いつもマユミの両親たちであった。一知がマユミと一緒になって世にも幸福な日を送っている幻想を描いている最中に、いつも横合いから現われて来て、その幸福を攪乱し、冷笑し、罵倒し、その幻想の全体を極めて不愉快な、索然たるものにしてしまうのはマユミの父親の頑固な恰好をした禿頭と、母親の狼みたような乱杙歯の笑い顔であった。一知はマユミの両親が極度に浅ましい吝ん坊であると同時に、鬼とも獣とも譬えようのない残酷な嫉妬焼きである事を、ずっと以前から予想していた。  一知はマユミとの幸福な生活を夢想する前に、何よりも先ずマユミの両親をこの世から抹殺する手段を考えなければならなかった。  ところでマユミの両親をこの世から抹殺する手段といったら、二人を殺すよりほかに方法が無い事は、わかり切った事実であった。しかし内気な一知は、そんな大それた事が出来ない彼自身である事を、知り過ぎる位知っていた。  その中に一知はラジオに夢中になり始めた。それは一知が生得の器械イジリが好きであったせいでもあったろうが、そのラジオの器械を製作しているうちに一知は一つの素晴らしい思い付きをした事に気付き始めた。夜遅くまでラジオを鳴らしておきさえすれば、どんなにマユミと仲よくしていても、焼餅を焼かれる心配は無いだろうと心付いた。それは全くタヨリない、愚かしい思い付きに相違なかったが、しかし、まだ若い一知にとっては天来の福音とも考えていい素敵な思い付きに相違なかった。  それ以来一知はいよいよラジオの製作に夢中になった。礦石をやめて真空球にして、一球一球と次第にその感度を高め、その声を大きくする事に、たまらない興味を持つようになった。もちろん、それとても云う迄もなく、若い一知が、マユミを中心として描きつづける幸福な幻想に附随した儚ない興味みたようなものに外ならなかったが、それでも一知は何喰わぬ顔をして明け暮れ器械イジリに熱中して、マユミなんか問題にしないような態度を示していた。それが思い通りに図星に当り過ぎる位当ったので、その時の一知の喜びようというものは躍上りたい位であった。そうしてとうとう思いに堪えかねて、式の日取が待ち切れずに押かけて行ったものであったが、さて行ってみると案外にも何一つとして想像していたような幸福が得られないのに驚いた。のみならずそこには想像以上の悩ましい地獄と、想像以下の浅ましい生活が待っている事が判明ったので、一知は実に失恋した以上に深刻な打撃にタタキ付けられてしまったのであった。  深良屋敷の老夫婦は一知が予想していた以上に嫉妬深かった。その中でもオナリ婆さんの嫉妬振りは正気の沙汰とは思えない位で、乱暴にも一知が来た晩からマユミと同じ部屋に寝る事を絶対に許さなかった。  同時に老人夫婦は極端に勘定高かった。マユミの婿に来る者が無い。後を継がせる子孫が無い。私達夫婦はこの上もない不幸者だとか何とか、あれほど村中の人々に愚痴を並べまわっていた老夫婦は、そうした悩みを一知が来ると同時に忘れてしまったらしく、一家の経済の足しにならないような養子は、養子としての資格が無い……なぞいう事を公々然と一知の親類の前で宣言した。もちろんラジオだけは最初からの約束があるので、その当座の中は何とも云わなかったが、それでも何も知らない娘のマユミが珍らしさの余りに、一知が操っているラジオを覗きに行ったりするのが、オナリ婆さんの嫉妬をタマラなく刺戟したらしかった。いつも目敏くマユミを監視して、一知に聞えよがしに訓戒した。  ……アノ一知は貧乏者の借金持ちの子で、お前とは身分が違うのを、お前のお守と、家の田畠の番人に雇うてあるのだよ。いわばこの家の奴隷で、尋常に雇うとお金を出さなければならないから、養子という事にしただけの人間だよ。だから、まだ籍も何も入れてない赤の他人で、一生懸命に働いて行くうちに、私達が死ねば、お礼にお前と、この家の財産を遣る口約束がしてあるだけの人間だよ。  ……といったような言葉を日に増し手厳しく実行に移して来た。それは永年自分達夫婦が、金銭の奴隷として屈従しつくして来た不愉快さ、憂鬱さ、又は年老いてタヨリになる児を持ち得ない物淋しさ、情なさ、自烈度さを、たまらない嫉妬心と一緒に飽く事なく新しい犠牲……若い、美しい一知に吹っかけて、どこまで行っても張合いのない……同時に世間へ持出しても絶対に通用しない自分達の誇りを満足させ、気を晴らそうとしているに相違ないのであった。そうして夜になると一知を、わざと蚊帳の無い台所に寝かし、マユミを中の間の蚊帳の中に寝させて、境目の重たい杉扉にガッチリと鍵をかけたものであった。するとマユミも亦マユミで、何だかわからないまま両親の吩付けを固く守って、一知が時折コッソリと泣いて頼むのも聞かずに、一度も鍵を外してやらなかったので、一知は悩ましさの余りに昼の間じゅう死に物狂いに働いて、日が暮れると同時に前後不覚に眠るより他に自ら慰める方法が無くなった。そうして楽しみといっては唯、昼間のあいだ働いている最中だけ、マユミと一緒にいられる。どうかした場合に麦畑の中で汗ばんだ手を握り合う事が出来る位の事であった。又、勘定高い老夫婦も、そうした事を許しておけば一知が仕事に身を入れるに違いない事を想像して、黙認していたものであったが、後にはそれすらオナリ婆さんの感情に触るらしく、自分自身で指図をするといって、朝早くから日の暮れる迄畑に出て来て、眼を皿のようにして二人の一挙一動を監視し始めたために、一知はとうとう辛抱がし切れなくなった。何度となく逃出そう逃出そうと決心しながらも、マユミへの愛情に引かされて、それも出来ないままに、毎日毎夜煩悶の極、一種の神経衰弱に陥ったのであろう。とうとう恐ろしい殺意を決するに到った。  オナリ婆さんは老人に有り勝ちな一種の脅迫観念に囚われていたらしかった。オナリ婆さんは村中の人々が自分達の因業さを怨み抜いている事を、知り過ぎる位知っていて、夜になると必要以上に戸締りを厳重にして、一歩も外へ出ないようにしていた。その態度は明らかに村中の人々を自分の敵に廻している気持をあらわしていたもので、しかもその村人の中でも若い、元気な一知が自分の家の中に寝ているのを、さながらに敵のまわし者が入り込んで来ているかのように恐れて警戒していたのであった。  もちろんオナリ婆さんは最初から一知に対してソンナ気持を持っていた訳ではなかったが、その中に一知の鳴すラジオの音が、次第次第に高まって行く中に、オナリ婆さんのそうした恐怖的な妄想もだんだんと大きく深刻になって来て、しまいには一知が自分達を殺す目的でラジオを担ぎ込んだものに違いないとさえ思うようになった。 「なあ爺さん。あのラジオの音の恐ろしい事なあ。あの音のガンガン鳴り続けいる中なら、妾たちがドンナに無残い殺されようをしても村の人には聞えやせんでなあ。一知は村の者から頼まれて、私たちを殺しに来た奴かも知れんと思うがなあ。あのラジオを止めさせん中はドウモ安心ならんと思うがなあ」  この話をマユミから洩れ聞いた一知は、即座に決心してしまった。それは一知にとって絶体絶命の最後の楽しみを奪われる宣言に外ならなかったからであった。  ちょうどその頃のこと。ラジオで三晩続けて探偵小説の講話があって、絶対に発見されない殺人の手段なぞに関する話が、色々な例を引いて放送されたので、一知は村中の人々の怨みを一人で代表しているような気持ちになって、全身を耳にして傾聴した。そうしてラジオの器械を研究する以上の熱心さを以て夜となく昼となく考え抜いた結果、これなら大丈夫と思われる一つの成案を得た。  一知は先ず勝手口の継ぎ嵌め戸の、一枚の板の釘の頭に、手製の電池に残っている硫酸を注意深く塗附けて出来るだけ自然に近い状態に腐蝕させ、その板を自由自在に取外せるようにした。それから垣根用の針金を買いに行くと称して野良着のまま町へ出て、兼ねてから誤魔化しておいた小遣いで古い学生服を買って野良着の上から巧みに着込み、新しい藁切庖丁と安いメリヤスの襯衣と軍隊手袋と、安靴下を買い集めると、町外れで学生服を脱いで、マユミに遣る反物や菓子と一緒に持って帰り、取敢えず学生服を焼肥と一緒に焼棄て、兇器と襯衣を押入の奥に隠しておいた。そうして一家が寝鎮まった十二時頃を見計って杉扉の鍵を開けたが、想像の通り、器械イジリに慣れている一知にとって、旧式の鍵を外すくらいは何でもない事であった。それから暫く奥座敷の寝息を窺って、誰も目醒めない様子を見澄してから、丸裸体となって新しいメリヤスの襯衣に着かえ、軍隊手袋と靴下を穿ってサテ藁切庖丁を取出してみると、新しい柄ですこしグラつくようである。そこで草川巡査が察したように、勝手口から外に出て、山梔の蔭の砥石に柄を打つけて抜けないようにすると、何度も何度も両手で振ってみて練習をしたが、中学時代に撃剣を遣っていた御蔭であったろう。スブリをかけている中に、さしもの重たい藁切庖丁が、さまで重たく感じないようになった。  それから大胆にも奥座敷の電燈を灯けて一気に兇行を遂げ、血にまみれた兇器と襯衣や何かを一纏めにして、兼ねてから空隙を作っておいた堆肥の下に鍬の柄で深々と突込み、アトをわからないように崩し塞ぎ、附近の小川で顔や頭や手足を洗い清め、そのまま寝巻を着て寝床に潜り込んだが、又気がついて起上り、敷石の上を匍いながら、顔を洗った小川の縁に来て、何か痕跡が残っていないかと、星明りに透かしてみたが、その時の方が余程恐ろしくて、寝床へ這入ってからもスッカリ眼が冴えてしまった。  そんな事で神経が相当疲れていたのであろう。翌る朝、草川巡査に報告に行った時には、まさかこんな田舎の駐在所に居る屁ッポコ巡査に、看破られるような心配はあるまい。又、町からドンナ名探偵が来ても、深良屋敷の恐ろしい秘密と、そこから起った自分の犯行の動機ばかりは、自分が口を割らない限り誰にも気づかれる筈はないとタカを括って、安心し切っていたものであったが、その草川巡査が、思いもかけない方向に自分を連れて行こうとしたので、何という事なしにドキンとさせられてしまった。思わず大きな声をかけたものであったが、あの時に自分でも不思議なくらいビックリしたお蔭で、自分の神経がドウカなってしまったものらしい。その草川巡査の取調べが全然予想と違った順序で、極めて、注意深く事件の核心に突込んで来るらしい事に気がつくと、もう恐ろしくて恐ろしくてたまらなくなって、飯を喰ってみてもナカナカ気持が落つかなかった。勝手口の引戸を調べられた時からしてモウ答弁がシドロモドロになって来たので、九分九厘まで運命と諦めてしまったものであった。中の間の杉戸の鍵に注意を向けられたり、老母の枕元の財布の位置まで観察されたりした時には、正直のところもうイケないと思った。取調の途中で何も知らない筈のマユミが無意味にケラケラと笑った時などは、よく気絶しなかったと思うくらい真剣になって、アトからアトから湧起って来る胴震いを我慢していたもので、あの時ぐらい怖しかった事は一生を通じて一度も無かった。  だから、それから後は只ドコまでも運命と闘って見る気で、マユミとの生活を楽しむよりほかに何も考えないようにして来た。マユミと一緒に撮った写真も、だから万一の場合のお名残の気持で撮ったものに過ぎなかった。  だからこの世に思い残す事はモウ一つも無い……云々と……。  一方に草川巡査も静かに考えてみると、一知に疑いをかけるようになった気持のソモソモは、事件の起った朝、駐在所を出て何の気もなく裏山伝いに行こうとした時の一知の驚きの声であったように思われる。あの不自然な、必要以上の不安を暗示した音調の中に、犯人としての自己意識がニジミ出していたのが、無意識の中に頭にコビリついていたのであろう。  それから深良屋敷に来た時に、あの砥石に気がつくと忽ち、犯人の目星がピッタリとついたような気がした。この事件の真相がドンナに複雑深刻を極めたものであろうとも、その一切の秘密を解く鍵は、この砥石一つで沢山だ……という確信を得たように思った。  一知はそれから後タッタ一度裁判にかけられた後に、未決監で首を縊って自殺してしまった。その結果深良家の財産は乙束区長が保管する事になったが、それでも、すこし良くなりかけた区長の病気が、一知の死後にブリ返して来て、泣きの涙のまま永病いの床に就いてしまった。  住み人の無くなった深良屋敷は、それから間もない晩秋の大風で倒れてしまった。村の人々は……お蔭で青空が広くなったようだ……といって胸を撫で卸している。  マユミは区長の家で女中代りに働いているが、別段悲しそうな顔もしていないという。  草川巡査は間もなく部長に昇進して、県警察部勤務を命ぜられる事になったが、同巡査はその前に辞職して故郷の山寺に帰ってしまった。惜し気もなく頭を丸めて父の僧職を嗣ぎ、村の公共事業なぞの世話を焼き始めた。 「あの時の辛かった事を思うと今でもゾッとして夢のような気持になる。理窟ではトテモ説明出来ないが自分はあの時以来、世の中が何となく厭になった。ドウセ罪亡ぼしに坊主になる運命であったのだろう。如何に憎むべき罪人とはいえ、あの若い、美しい夫婦の幸福の絶頂と、あの正直一遍の区長の苦しみのドン底とを束にして、一ペンにタタキ潰した事を思うと、とてもタマラない気持になる。この気持は人間世界の理窟では清算出来るものでない。だから鶴木検事も同情して、私の辞職を許して下すったのだ」  とよく人に語っている。 何んでも無い   白鷹秀麿兄 足下 臼杵利平  小生は先般、丸の内|倶楽部の庚戌会で、短時間|拝眉の栄を得ましたもので、貴兄と御同様に九州帝国大学、耳鼻科出身の後輩であります。昨、昭和八年の六月初旬から、当横浜市の宮崎町に、臼杵耳鼻科のネオンサインを掲げておる者でありますが、突然にかような奇怪な手紙を差し上げる非礼をお許し下さい。  姫草ユリ子が自殺したのです。  あの名前の通りに可憐な、清浄無垢な姿をした彼女は、貴下と小生の名を呪咀いながら自殺したのです。あの鳩のような小さな胸に浮かみ現われた根も葉もない妄想によって、貴下と小生の家庭は申すに及ばず、満都の新聞紙、警視庁、神奈川県の司法当局までも、その虚構の天国を構成する材料に織込んで来たつもりで、却って一種の戦慄すべき脅迫観念の地獄絵巻を描き現わして来ました彼女は、遂に彼女自身を、その自分の創作した地獄絵巻のドン底に葬り去らなければならなくなったのです。その地獄絵巻の実在を、自分の死によって裏書きして、小生等を仏教の所謂、永劫の戦慄、恐怖の無間地獄に突き落すべく……。  その一見、平々凡々な、何んでもない出来事の連続のように見える彼女の虚構の裡面に脈動している摩訶不思議な少女の心理作用の恐しさ。その心理作用に対する彼女の執着さを、小生は貴下に対して逐一説明し、解剖し、分析して行かねばならぬという異常な責任を持っておる者であります。  しかもその困難を極めた、一種異様な責任は本日の午後に、思いもかけぬ未知の人物から、私の双肩に投げかけられたものであります。……ですからこの一種特別の報告書も、順序としてその不可思議な未知の人物の事から書き始めさして頂きます。  本日の午後一時頃の事でした。  重態の脳膜炎患者の手術に疲れ切った私は、外来患者の途絶えた診察室の長椅子に横たわって、硝子窓越に見える横浜港内の汽笛と、窓の下の往来の雑音をゴッチャに聞きながらウトウトしておりますと、突然に玄関のベルが鳴って、一人の黒い男性の影が静かに辷り込んで来ました。  跳ね起きてみますと、それはさながらに外国の映画に出て来る名探偵じみた風采の男でした。年の頃は四十四、五でしたろうか。顔が長く、眉が濃く太く、高い、品のいい鼻梁の左右に、切れ目の長い眼が落ち窪んで鋭い、黒い光を放っているところは、とりあえず和製のシャアロック・ホルムズと言った感じでした。全体の皮膚の色が私と同様に青黒く、スラリとした骨太い身体に、シックリした折目正しい黒地のモーニング、真新しい黒のベロア帽、同じく黒のエナメル靴、銀頭の蛇木杖という微塵も隙のない態度風采で、診察室の扉を後ろ手に静かに閉めますと、私一人しかいない室内をジロリと一眼見まわしながら立ち佇って、慇懃に帽子を脱って、中禿を巧みに隠した頭を下げました。  軽率な私は、この人物を新来の患者と思いましたので愛想よく立ち上りました。 「サアどうぞ」とジャコビアン張の小椅子を進めました。 「私が臼杵です」  しかし相手の紳士は依然として黒い、冷たい影法師のように突立っておりました。ちょっと眼を伏せて……わかっている……と言ったような表情をした切り一言も口を利きませんでした。そのうちに青白い毛ムクジャラの手を胴衣の内ポケットに入れて、一枚のカード型の紙片を探り出しますと、私の顔を意味ありげにチラリと見ながら、傍の小卓子の上に置いて私の方へ押し遣りました。  そこで私は滑稽にも……サテは唖の患者が来たな……と思いながらその紙片を取り上げてみますと、意外にも下手な小学生じみた鉛筆文字でハッキリと「姫草ユリ子の行方を御存じですか」と書いて在るのです。  私は唖然となってその男の顔を見上げました。背丈が五尺七、八寸もありましたろうか。 「……ハハア。知りませんがね。だまって出て行きましたから……」  と即答をしましたが、その刹那に……サテハこの男が姫草ユリ子の黒幕だな。何かしら俺を脅迫しに来やがったんだな……と直感しましたので直ぐに……糞でも啖らえ……という覚悟を腹の中で決めてしまいました。しかし表面にはソンナ気振も見せないようにして、平凡な開業医らしいトボケ方をしておりました。……姫草ユリ子の行方を知っていないでよかった。知っていると言ったら直ぐに付け込まれて脅迫されるところであったろう……と腹の中で思いながら……。  相手の紳士はそうした私の顔を、その黒い、つめたい執念深い瞳付で十数秒間、凝視しておりましたが、やがてまた胴衣の内側から一つの白い封筒を探り出して、恭しく私の前に置きました。……御覧下さい……と言う風に薄笑いを含みながら……。  白い封筒の中味はありふれた便箋でしたが、文字は擬いもない姫草ユリ子のペン字で、処々汚なくにじんだり、奇妙に震えたりしているのが何となく無気味でした。 「白鷹先生  臼杵先生  妾は自殺いたします。お二人に御迷惑のかからないように、築地の婦人科病院、曼陀羅先生の病室で自殺いたします。子宮病で入院中にジフテリ性の心臓麻痺で死んだようにして処理して頂くよう曼陀羅先生にお願いして置きます。  白鷹先生 臼杵先生  お二人様の妾に賜わりました御愛情と、その御愛情を受け入れました妾を、お憎しみにもならず、親身の妹同様に可愛がって頂きました、お二人の奥様方の御恩を、妾は死んでも忘れませぬでしょう。ですから、その奥様方の気高い、ありがたい御恩の万分の一でも報いたい気持から妾は、こんなにコッソリと自殺するのです。わたくしの小さい霊魂はこれから、お二人の御家庭の平和を永久に守るでしょう。  妾が息を引き取りましたならば、眼を閉じて、口を塞ぎましたならば、今まで妾が見たり聞いたり致しました事実は皆、あとかたもないウソとなりまして、お二人の先生方は安心して貞淑な、お美しい奥様方と平和な御家庭を守ってお出でになれるだろうと思いますから。  罪深い罪深いユリ子。  姫草ユリ子はこの世に望みをなくしました。  お二人の先生方のようなお立派な地位や名望のある方々にまでも妾の誠実が信じて頂けないこの世に何の望みが御座いましょう。社会的に地位と名誉のある方の御言葉は、たといウソでもホントになり、何も知らない純な少女の言葉は、たとい事実でもウソとなって行く世の中に、何の生甲斐がありましょう。  さようなら。  白鷹先生 臼杵先生  可哀そうなユリ子は死んで行きます。  どうぞ御安心下さいませ。   昭和八年十二月三日姫草ユリ子 」  この手紙はすでに田宮特高課長に渡しました実物の写しで、貴下にお眼にかけたいためにコピーを取って置いたものですが、これを初めて読みました時も私は、何の感じも受けずにいる事が出来ました。依然として呆れ返ったトボケた顔で、相手の鋭い視線を平気で見返しながら問いかけました。 「ヘエ。貴方がこの手紙の曼陀羅先生で……」 「そうです」  相手は初めて口を開きました。シャガレた、底強い声でした。 「モウ死骸は片付けられましたか」 「火葬にして遺骨を保管しておりますが……死後三日目ですから」 「姫草が頼んだ通りの手続きにしてですか」 「さようです」 「何で自殺したんですか」 「モルフィンの皮下注射で死んでおりました。何処で手に入れたものか知りませんが……」  ここで相手は探るように私の顔を見ましたが、私は依然として無表情な強直を続けておりました。  曼陀羅院長の眼の光が柔らぎました。こころもち歪んだ唇が軽く動き出しました。 「先月……十一月の二十一日の事です。姫草さんはかなり重い子宮内膜炎で私のところへ入院しましたが、そのうちに外で感染して来たらしいジフテリをやりましてね。それがヤット治癒りかけたと思いますと……」 「耳鼻科医に診せられたのですか」 「いや。ジフテリ程度の注射なら耳鼻科医でなくとも院内で遣っております」 「成る程……」 「それがヤット治癒りかけたと思いますと、今月の三日の晩、十二時の最後の検温後に、自分でモヒを注射したらしいのです。四日の……さよう……一昨々日の朝はシーツの中で冷たくなっているのを看護婦が発見したのですが……」 「付添人も何もいなかったのですか」 「本人が要らないと申しましたので……」 「いかにも……」 「キチンと綺麗にお化粧をして、頬紅や口紅をさしておりましたので、強直屍体とは思われないくらいでしたが……生きている時のように微笑を含んでおりましてね。実に無残な気持がしましたよ。この遺書は枕の下にあったのですが……」 「検屍はお受けになりましたか」 「いいえ」 「どうしてですか。医師法|違反になりはしませんか」  相手は静かに私の瞳を凝視した。いかにも悪党らしい冷やかな笑い方をした。 「検屍を受けたらこのお手紙の内容が表沙汰になる虞がありますからね。同業者の好誼というものがありますからね」 「成る程。ありがとう。してみると貴下はユリ子の言葉を信じておられるのですね」 「あれ程の容色を持った女が無意味に死ぬものとは思われません。余程の事がなくては……」 「つまりその白鷹という人物と、僕とが、二人がかりで姫草ユリ子を玩具にして、アトを無情に突き離して自殺させたと信じておられるのですね……貴下は……」 「……ええ……さような事実の有無を、お尋ねに来たんですがね。事を荒立てたくないと思いましたので……」 「貴方は姫草ユリ子の御親戚ですか」 「いいえ。何でもないのですが、しかし……」 「アハハ。そんなら貴下も僕等と同様、被害者の一人です。姫草に欺瞞されて、医師法違反を敢えてされたのです」  相手の顔が突然、悪魔のように険悪になりました。 「怪しからん……その証拠は……」 「……証拠ですか。ほかの被害者の一人を呼べば、すぐに判明る事です」 「呼んで下さい。怪しからん……罪も報いもない死人の遺志を冒涜するものです」 「呼んでもいいですね」 「……是非……すぐに願います」  私は卓上電話器を取り上げて神奈川県庁を呼出し、特高課長室に繋いで貰った。 「ああ。田宮特高課長ですか。臼杵です。臼杵医院の臼杵です。先般は姫草の件につきましていろいろどうも……ところで早速ですが……お忙しいところまことにすみませんが、直ぐに病院へお出で願えますまいか。姫草ユリ子の行方がわかったのです。……イヤ死んでいるのです。ある処で……実はその姫草ユリ子の被害者がまた一人出て来たのです。イヤイヤ。今度のは本物です。だいぶ被害が深刻なのです。築地の曼陀羅病院長と仰言る方ですが……そうです、そうです……聞いた事のない病院ですが……例の彼女一流の芝居に引っかかって医師法違反までさせられたという事実を説明しに、わざわざ僕の処に来ておられるのですが。姫草ユリ子の自殺屍体の遺骨を保管しておられると言うのですが……そうです、そうです。とんでもない話ですが事実です。今ここに待っておられるのです。是非貴方にお眼にかかりたいと言って……ああ。もしもし……もしもし……モウ曼陀羅院長は帰りかけておられます。帽子とステッキを持って慌てて出て行かれます。アハアハ。モウ出て行きました。今、勇敢な看護婦が駈け出して見送っております。ちょっと待って下さい。僕が方向を見届けて報告しますから……あ。服装ですか。服装は一口に言うと黒ずくめのリュウとしたモーニングです。身長は五尺七、八寸。色の青黒い、外国人じみた立派な痩形の紳士……あ。脅迫用の手紙を忘れて行きました。アハアハ。この電話に驚いたらしいです。アハアハアハ。……あ。そうですか。それじゃお帰りがけにお寄り下さい。まだ話がありますから。イヤどうも失礼……すみませんでした。サヨナラ」  曼陀羅院長は田宮課長の敏速な手配にもかかわらずトウトウ捕まらなかったらしく、今日の日が暮れるまで何の音沙汰もありませんでした。したがって彼氏が、彼女とどんな関係を持ったドンナ種類の人間であったか。どうして彼女の遺書を手に入れたか。いつから彼女の蔭身に付添って、どの程度の黒い活躍をしていたか……と言ったような事実はまだ推測出来ません。  しかし神奈川県庁から帰りがけに病院に立ち寄って、私の提供した姫草ユリ子に関する新事実を聴き取った田宮特高課長は、容易ならぬ事件という見込を付けたらしく即刻、東京に移牒する意嚮らしかったのですから、彼女の死に関する真相も遠からずハッキリして来る事と思いますが、それよりも先に小生は、一刻も早く彼女に関する事実の一切を貴下に御報告申し上げて、後日の御参考に供して置かねばならぬ責任を感じましたから、かように徹宵の覚悟で、この筆を執っている次第です。今までは余りに恥かしい事ばかりなので御報告を躊躇しておったのですが……否……今日まで貴下と何等の御打合わせも出来なかったのが矢張り、かの不可思議な少女、姫草ユリ子の怪手腕に魅せられて脳髄を麻痺させられていたせいかも知れませぬが……。  何よりも先に明らかに致して置きたいのは彼女……姫草ユリ子と自称する可憐の一少女が、昨春三月頃の東都の新聞という新聞にデカデカと書き立てられました特号|標題の「謎の女」に相違ない事です。この事実は本日面会しました前記の司法当局者に、私から説明しましたので、同氏が「容易ならぬ事件」と認めて、即刻、警視庁に移牒したという理由もそこに在る事と察しられるのですが、その新聞記事によりますと彼女は、その情夫? との密会所を警察に発見されたくないという考えから、その密会所付近の警察に自動電話をかけたものだそうです。 「妾は只今××の××という家に誘拐、監禁されている無垢の少女です。只今、魔の手が妾の方へ伸びかかっておりますが、僅かの隙間を見て電話をかけてるのです。助けて下さい、助けて下さい」  と言う意味の、真に迫った、息絶え絶えの声を送って、当局の自動車をとんでもない遠方の方角違いへ逐い遣ってしまったのです。彼女はかようにして、それから度々警察を騒がせましたので結局、同じ女だと言う事がわかって、極度に当局を憤慨させ、新聞記者を喜ばせた……というのが事実の真相です。  その無鉄砲とも無茶苦茶とも形容の出来ない一種の虚構の天才である彼女が、貴下の御|懸念になっている彼女であり、ツイこの間まで白い服を着て小生の病院内を飛び廻っておりました彼女だったことを、現在、彼女の身元引受人であった者がハッキリと主張しているのです。そうしてその主張している理由は彼女の心理状態から押して真実と認められるので、現に警察当局でもそうした主張の真実性を厘毫も疑っていない次第です。  それにしても渺たる一少女に過ぎない彼女が、あらゆる通信、交通機関の横溢している今の世の中に、しかも眼と鼻の間とも言うべき東京と横浜に在る貴下と私の一家を、かくも長い間、お互いに怪しみ、探り合わせながら、どうしてもめぐり合う事が出来ないと言う不可思議な、気味の悪い運命に陥れて行くと同時に、彼女自身の運命までも葬らなければならぬほどの深刻な窮地に陥れて行くべく余儀なくされた、そのソモソモの動機は何処に在るのでしょうか。  以下は私の日記の抜書を一つの報告文体に作り上げたものです。ですから中には彼女に関する貴下の御記憶と重複しているところもありましょう。または貴下の御人格を冒涜するような章句もありましょう。なおまた、敬語を抜きにした記録体に致しましたために、無作法に亙るような個所が出来るかも知れませんが、何卒、悪しからず御諒読を願います。何れもその時の私の心境を率直、如実に告白致したいために、日記の記録する通りに文章を取纏めたものですから……。  姫草ユリ子が私の病院に来たのは昨、昭和八年の五月三十一日……開業の前日の夕方であった。見事な、しかし心持地味なお納戸の着物に、派手なコバルト色のパラソル、新しいフェルト草履、バスケット一|個という姿の彼女がションボリと玄関に立った。 「コチラ様では、もしや看護婦が御入用ではございませんかしら……」  診察室の装飾に就いて家具屋と凝議をしていた私の姉と、妻の松子とは、顔を見合わせて彼女の勇敢さに感心したという。ちょうど二人雇っていた看護婦ではすこし手が足りないかも知れない……と話合っていたところだったので、早速、外来患者室に通して、私と三人で面会して一応の質問と観察をこころみた。 「新聞の広告を見て来たのですか」 「いいえ。ちょうど表の開院のお看板が電車の窓から見えましたので降りて参りました」 「ハハア。お国はどちらですか」 「青森県のH市です」 「御両親ともそこにおられるのですか」 「ハイ。H市の旧家でございます」 「御両親の御職業は……」 「造酒屋を致しております」 「ほお。それじゃ失礼ですが、お実家は御裕福ですね」 「ええ。それ程でもございませんけど……妾が東京に出る事に就きましても、両親や兄が反対したんですけど妾、自分の運命を自分で開いてみたかったんですし、それに看護婦の仕事がしてみたくてたまらなかったもんですから……」 「それじゃ今では御両親と音信を絶っておられるんですか」 「いいえ。いつも手紙を往復しておりますの。それからタッタ一人の兄も東京で一旗上げると言って今、丸ビルの中の罐詰会社に奉公しております」 「学校は何処をお出になったの」 「青森の県立女学校を出ておりますの」 「看護婦の仕事に御経験がありますか」 「ハイ。学校を出ますと直ぐに信濃町のK大の耳鼻科に入りましてズット今まで……」 「そこを出て来た事情は……」 「……あの。あんまり嫌な事が多いもんですから……」 「いやな事ってドンな事ですか」 「……申し上げられません。仕事はトテモ面白かったんですけど……」 「ふうむ。貴女の身元保証人は……」 「あの。下谷で髪結いをしている伯母さんに頼んでおりますの。いけないでしょうか」 「どうして兄さんに頼まないんですか」 「伯母さんの方がズット世間慣れておりますし、今までその家におったもんですから……きょうも、家にジッとしていないでブラブラ町を歩いて御覧、いい仕事があるかも知れないからって、その伯母さんが言いましたもんですから……」 「お名前は……」 「姫草ユリ子と申しますの」 「姫草ユリ子……おいくつ……」 「満十九歳二か月になりますの……使って頂けますか知ら……」  これだけの問答で私等は彼女を採用する決心をしてしまった。私ばかりじゃない。妻も姉も、彼女の無邪気な、鳩のような態度と、澄んだ、清らかな茶色の瞳と、路傍にタタキ付けられて救いを求めている小鳥のような彼女のイジラシイ態度……バスケット一つを提げて職を求めつつ街を彷徨する彼女の健気な、痛々しい運命に、衷心から吸い付けられてしまっていた。  笑え……私等のセンチの安価さを……誰でもこの問答を一読しただけで、彼女の身元について幾多の矛盾した点や不安な点を発見するであろう。少なくとも一度、K大の耳鼻科に電話をかけて彼女の身元を幾分なりとも洗って見た上で雇い入れるのが常識的である事に気付くであろう。  けれどもその時の私等はそうした軽率さを微塵も感じなかった。彼女の容姿と言葉付の吸い寄せるようなあどけなさが、彼女の周囲を渦巻きめぐっているであろう幾多の現実的な危険さに対する私等のアラユル常識を喚起して、一種のローマンチックな、尖鋭な同情の断面を作って彼女に働きかけさせた事を私等は否定出来ないであろう。その翌る日、 「ねえお姉様。あの娘が万一、看護婦が駄目だったら女中にでも使って遣りましょうよ。ねえ、可哀そうですから」 「まあ。妾もアンタがその気ならと思っていたとこよ。追々お客様も殖えるでしょうから」  と二人が相談し合ったくらい姉と妻は彼女に対して乗気になっていたらしい。  そればかりじゃない。なおその上にモウ一つ。これは私の職業意識とでも言おうか。私が彼女を見た時に、第一に眼に付いたのは彼女の鼻梁であった。  彼女は決して美人という顔立ではなかった。眼鼻立はドチラかと言えば十人並程度で、色も相当に白かったが、背丈が普通よりも低く五尺チョットぐらいであったろう。同時にその丸い顔の中心に当る小鼻が如何にも低くて、眼と鼻の間の遠い感じをあらわしていたが、それだけに彼女が人の好い、無邪気な性格に見えていた事は争われない。  私はそうした彼女の顔立をタッタ一目見た瞬間に、彼女の小鼻に隆鼻術をやって見たくなったのであった。これくらいのパラフィンをあそこに注射すれば、これくらいの鼻にはなる。彼女の小鼻は鼻骨と密着していない、きわめて手術のし易いタチの小鼻であると思った。こうした一種の職業意識から来た愚かな魅惑が、彼女を雇い入れる決心をした私の心理の底に動いていた事も否定出来ない事実であった。  こうした私の目的は間もなく立派に達成された。彼女は私の病院に雇われてから一週間と経たぬうちに俄然として見違えるような美少女となって、病院の廊下を飛びまわる事になった。決して自家広告をする訳ではないが、私は彼女に施した隆鼻術の効果の予想外なのに驚いたものであった。手術をして遣った翌る朝、薄化粧をして「お早ようございます」と言った彼女の笑顔を見た瞬間に……これは大変な事をした。とんでもない美人にしてしまった……と肝を潰したくらいであった。  しかし彼女に対する私達の驚異は、まだまだそれくらいの事では済まなかった。  彼女の看護婦としての腕前は申し分ないどころの騒ぎではなかった。K大耳鼻科のお仕込みもさる事ながら、彼女は実に天才的の看護婦である事を発見させられて、衷心から舌を巻かされたのであった。  彼女が私の病院に来てから間もなく私がある中年紳士の上顎竇蓄膿症の手術をした時に、初めて助手を命ぜられた彼女は、忙しく動いている私の指の間から、麻酔患者の切り開かれた上唇の間に脱脂綿をスイスイと差し込んで、溢れ流れる血液を拭き上げて、切開部をいつも私の眼によく見えるようにして行った。その鮮やかな、狃れ切った手付を見た時に私はゾッとするぐらい感心させられてしまった。永い年月の間、幾多の手術に当って来た老成の看護婦でも、こうした手術者の意図に対する敏感さと、手練の鮮やかさを滅多に持ち合わせていないであろう事を、私はシミジミ思わせられた事であった。  しかし彼女が開業医なるものの患者に対して如何に素晴らしい理解を持っていたか。そのために私等一家が如何に彼女に感謝させられていたか。そのために病院内の仕事を、ほとんど非常識に近いところまで彼女に任かせ切っていたか、そうしてそのために、以下記述するような「謎の女」式の活躍の自由を、如何に多分に彼女に許しておったかという事実は、恐らく何人も想像の外であろうと思う。  私は開業当時から、誰もするように仕事の時間割をきめていた。午前十時から午後一時まで、午後三時から六時迄を診察治療の時間ときめて、六時以後は直ぐに近くの紅葉坂の自宅に帰って、家族と一緒に晩餐を摂る事にきめていたが、開業医の当然の責任として、帰ると直ぐに入院患者から何でもない苦痛のために慌しく病院に呼び戻される。または所謂、草木も眠る丑満時に聞き分けのない患者から呼び付けられる事が何度も何度もある事を、当初から覚悟していた。これは医師として私的に非常な苦痛を感ずる事柄に相違ないのであるが、しかし出来るだけ勤めて遣ろう。親切にして遣ろう。苦痛をなくするのが目的で、病気を治すのが目的じゃないのが一般入院患者の心理状態なのだから……と言ったような悟りまで開いて待ち構えていたのであるが、意外にも、私が開業以来、そんな事が一度もないので、次第に不思議に感じ始めた。あるいはまだ自宅に電話が引いてないせいではないかとも思ったが、それにしても怪訝しいと言うので、よく姉たちと話合ったものであったが、この不思議は間もなく解けた。それは実に姫草ユリ子一人の働きである事が、よく注意しているうちに判明して来た。  彼女は麻酔の醒める頃合いとか、手術後の苦痛を訴え始める時間とか、または熱の高下と患者の体質とが関連して起る苦痛の度合いとか言うものに就いて看護婦特有の……ソレ以上の親切な敏感さを持っていた。いつも患者が何か言い出す前に先を越して手当てをしたり、予告をして慰めたりしていたものらしい。時としては勝手に患者の耳や鼻を掃除したり洗ったり、甚しい時は私に断らずにモヒの注射、その他の鎮痛、麻酔手段を取った事が爾後の経過によって判明した事もあったが、しかし、それにしても患者の喜びは大したものであったらしい。ほかの看護婦に訴えてもマゴマゴしたり、躊躇したりしている事を彼女はグングン断行して安静に一夜を過ごさせたので、臼杵病院の姫草さんと言う名前が、私の名前よりも先に患家の間に好評を博した事は、決して不自然でなかった。無論、私が助かった事も非常なものであるにはあったが……。  そればかりではない。  彼女の持って生まれた魅力は事実、男女、老幼を超越したものがあった。この点では私の家族たちも唯一言「エライ」と評するよりほかに批評の言葉を発見し得ないくらい、彼女の手腕に敬服していた。  老人は老人のように、小児は小児のように、男は男のように、女は女のようにと言ってみれば何でもない事ではあるが、そうしたあらゆる種類の患者の病状を一々親切に聞いて遣って、院長たる私を信頼させて、安心して診察、手術を受けさせて、気楽に入院させて、時としてはその家庭の内情までも聞いて遣って、同情し、励まし、慰めつつ、無事に退院させて遣る……その手際と言ったら到底、吾々凡俗の及ぶところではない。神経質な、根性のヒネクレタ老人や、ヤンチャな過敏な子供までも、モウ一から十まで姫草さん姫草さんと持ち切りで、ほかの二名の看護婦はあれどもなきが如き状態であった。アタジケない話ではあるが、患者が退院する時なぞは、院長の私のところへ謝礼をするよりも先ず姫草さんに……という傾向になってしまったもので、子供なんぞは泣いて帰らないという。ヒメちゃんと一緒に病院にいるんだと言って聞かない。そのほかの患者でも、退院して後に彼女宛に寄越す礼状の長いこと長いこと。受付兼会計係をしている姉が「十二銭も貼るほど手紙に書く事が、どうしてあるのだろう」と呆れるくらいであった。  さらに驚くべき事実は彼女のお蔭で私の患者がメキメキと激増した事であった。この点、私の開業は非常に恵まれていたと同時に、彼女……姫草ユリ子と名のるマネキン兼マスコットに絶大の感謝を払わなければならなかった。受診に来る患者の甲乙丙丁が、何につけても姫草さん姫草さんと尋ね求める態度を見ると、ちょうど臼杵病院の中に姫草ユリ子が開業をしているようで、多少の自信を腕に持っている私も、彼女のこうした外交手腕に対しては大いに謙遜の必要を認めさせられていた次第であった。  私は彼女に二十円の給料を払っていた。これは決して法外に安い給料とは思わなかったが最近、彼女の功績を大いに認めなければならぬ状態を認めて、姉や妻と寄々相談をしていた次第であったが、折も折、ちょうどそのさ中に、実に奇妙とも不思議とも、たとえようのない事件が彼女を中心にして渦巻き起って、遂に今度のような物凄い破局に陥ったのであった。しかもその破局のタネは彼女自身が撒いたもので、すでに彼女が私の処に転がり込んだ最初の一問一答の中に、その種子が蒔かれていたのであった。  彼女の郷里は青森県の酒造家で、裕福な家らしく聞いていたが、その後の彼女の朗らかな性格や、無邪気な態度を透して、そうした事実を私等は毛頭疑わなかった。  一番最初の問答に出た彼女の兄なる人物は、彼女が来てから間もなく倉屋の黒羊羹を沢山に持って病院に挨拶に来た。もっともそれは私が帰宅したアトの事で、誰もその兄の姿を見届けたものはいなかったが、ちょうど私が自宅で夕食を終ってから、何かしらデザートじみた物が欲しいと思っているところへ、病院の姫草ユリ子から取次電話がかかって来た。 「先生。只今兄がお礼に参りましたの。先生がお好きって妾が申しましたからってね、倉屋の羊羹を持って参りましたの……イイエ。もう帰りましたの。折角お休息のところをお妨げしてはいけないってね。どうぞどうぞこの後とも宜しくってね……申しまして……ホホ。そちらへお届け致しましょうか……羊羹は……」 「ウン大急ぎで届けてくれ。ありがとう」  と返事をしたが、恐らく甘く見られたと言ってもこの時ぐらい甘く見られた事はなかったろう。  彼女の郷里からと言って五升の清酒と一|樽の奈良漬が到着したのは、やはり、それから間もなくの事であった。何でも郷里の人に両親から言伝た品物だとかで、例によって私が帰宅後に、病院に居残っていた彼女が受け取ったという話であったが、彼女が汗を流して提げて来た酒瓶と樽にはレッテルも何もなく、きわめて粗末な、田舎臭い熨斗紙が一枚ずつ貼り付けて在る切りであった。一口味わってみた私は、 「ウン。ナカナカ江戸前だな。ピインと来るね。奈良漬も三越のに負けない」  と思わず口を辷らしたが、恐らくそれが図星だったのであろう。樽の縄を始末していた彼女は、ただ赤面した切りでコソコソと病院に逃げ帰ったようであった。  もっともその時に私は彼女の幸福を祈っている兄や両親の事を思い出して、相当御念入りにシンミリさせられていたから、彼女のそうしたコソコソした態度にはチットモ気付かなかった。彼女のアトを見送りながら、 「タッタ二十円しか遣らないのになあ」  とテレ隠しみたような冗談を言ったくらいの事であった。  ところでここまでは誠に上出来であった。この辺で止めて置けば万事が天衣無縫で、彼女の正体も暴露されず、私の病院も依然としてマスコットを失わずにすんだ訳であったが、好事魔多し、とでも言おうか。彼女独特のモノスゴイ嘘吐きの天才が、すこし落ち着くに連れて、モリモリと異常な活躍を始めたのは、是非もない次第とでも言おうか。  彼女の異常な天才が、K大耳鼻科の白鷹君と私の家庭を形容の出来ない、薄気味の悪い悪夢の中に陥れ始めた原因というのは、恐らく彼女自身も気付かなかったであろう、きわめて些細な出来事からであった。  お恥かしい話ではあるが開業|※々の好景気に少々浮かされ気味の私は、いつの間にか学生時代とソックリの瓢軽者に立ち帰っていた。つまらない駄洒落や、軽口や、冗談を連発して患者の憂鬱を吹き飛ばしたり、 「オイオイ。小さい解剖刀を持って来い。小さなメスだ。お前じゃないよ。間違えるな」  と姫草に言ったりしたが、そのたんびにユリ子はキャッキャと笑って立ち働きながら言った。 「まあ臼杵先生は白鷹先生ソックリよ」 「何だい。その白鷹って言うのは……俺に断らないで俺に似てるなんて失敬な奴じゃないか」 「まあ。臼杵先生ったら……白鷹先生は、あなたよりもズットお年上で、K大耳鼻科の助教授をしていらっしゃるんですよ」 「ワア。あやまったあやまった。あの白鷹先生かい。あの白鷹先生なら、たしかに俺の先輩だ」 「ソレ御覧なさい。ホホホ。K大にいる時に白鷹先生は、いつも手術や診察の最中にいろんな冗談ばかり仰言って患者をお笑わせになったんですよ。鼓膜切開の時なんかは、患者が笑うと頭が動いて、トテモ危険なんですけど、白鷹先生の手術はステキに早いもんですから、患者が痛いなんて感ずる間もなく、笑い続けておりましたわ。そんなところまで臼杵先生のなさり方とソックリでしたわ」  なぞとユリ子は、あとで言訳らしく説明するのであったが、こうした最大級の真に迫ったオベッカが私のプライドを満足させた事は言う迄もない。もちろんこれは彼女が、彼女の実家の裕福な事を証明して、彼女の暗い、醜い前身を隠そう。同時に彼女の儚ない空想を現実に満足させようとしたのと同じ心理から出た作り事で、彼女がK大耳鼻科、助教授の要職にいる人から如何に信頼を受けておったかと言う事を、具体的に証明したいばっかりの一片の虚構に過ぎなかったのであったが、しかしその時の私が、どうしてソンナ事に気付き得よう。かねてから母校の先輩として尊敬していた白鷹先生の名前を久し振りに聞いた私は、喜びの余り眼を丸くして彼女に問いかけたのであった。 「ホオ。それじゃ白鷹先生は今でもK大におられるのかい。チットモ知らなかった」  彼女は平気で……否……むしろ得意そうに白鷹先生の話に深入りして行った。 「ええ、ええ。手術にかけたらトテモお上手っていう評判ですわ。妾、こちらへ参りますまで先生にドレくらい可愛がられたかわかりません。奥様からも、それはそれは真実の娘のようにして頂きましてね。今にキット良い処へ嫁付けて遣るって仰言って、着物なんか幾つも頂戴いて参りましたの。今、平常に着ておりますのも奥さんのお若い時のを、派手になったからって下すったのですわ」  私はスッカリ彼女の話に引っぱり込まれてしまった。蔭ながら白鷹先生に敬意を表すべく両手を揉み合わせたものであった。 「なあんだ。白鷹先生なら僕の大先輩だよ。九大にいる時分に御指導を受けたんだから、もしかすると僕の事を御存じかも知れない。いい事を聞いた。そのうちに是非一度、お眼にかかりたいもんだが……」 「ええ、ええ。そりゃあ必定、お喜びになりますわ。先生の事も二、三度お話の中に出て来たように思いますわ。臼杵君はトテモ面白い学生だったって、そう仰言ってね」 「ふうん。僕は茶目だったからなあ。お宅はどこだい」 「下六番町の十二番地。奥さんはトテモ上品でお綺麗な、九条武子様みたいな方ですわ。久美子さんと仰言ってね。先生をトテモ大切になさるんですよ。仲がよくってね……」 「アハハハ。何でもいいから、そのうちに……きょうでもいいから一度、君から電話かけといてくれないかね。臼杵がお眼にかかりたがっているって……」 「……まあ。妾なんかが御紹介しちゃ失礼じゃございません……?」 「なあに構うものか。白鷹先生なら、そんな気取った方じゃないんだよ」  そう言って私は姫草ユリ子に頭を一つ下げた。  彼女は、そう言う私の顔をすこし近眼じみた可愛い瞳でチョット見上げていたが、何故か多少、悄気たように俛首れて軽いタメ息を一つした。聊か怨めしそうな態度にも見えたが、しかし私はソレを彼女独特の無邪気な媚態の一種と解釈していたので格別不思議に思わなかった。 「……でも妾……看護婦|風情の妾が……あんまり失礼……」 「ナアニ。構うもんか。看護婦が紹介したって先生は先生同士じゃないか。白鷹先生はソンナ事に見識を取る人じゃなかったぜ」 「ええ。そりゃあ今だって、そうですけど……」 「そんなら、いいじゃないか……僕が会いたくて仕様がないんだから……」  彼女は仕方がないという風に肩を一つユスリ上げた。奇妙な、泣きたいような笑い顔をニッコリとして見せながら、 「ええ。妾でよければ……いつでも御紹介しますけど……」 「ウン。頼むよ。きょうでもいい。電話でいいから掛けといてくれ給え」  それはイツモの気軽い彼女には似合わない、妙にコダワッた薄暗い応対であった。しかし間もなく平生の無邪気な快活さを取り返した彼女は、さもさも嬉しそうに……あたかも白鷹助教授と臼杵病院長を紹介する光栄を喜ぶかのようにピョンピョンと跳ね上りながら電話室へ走り込んで行った。  その後ろ姿を見送った私は、モウ何も疑わない朗らかな気持になっていたが、何ぞ計らん。この時すでに私は彼女に一杯|喰わされていたので、彼女もまた同時に、彼女の生涯の致命傷となるべき悩みの種子を彼女自身の手で萌芽させていたのであった。  彼女の言う白鷹先生というのは、彼女の識っている白鷹先生とは性質の違った白鷹先生であった。要するに彼女の機智が、私をモデルにして創作した……私の機嫌を取るのに都合のいいように創作した一つの架空の人物に過ぎないのであった。しかもその架空の人物と彼女との親密さを私に信じさせる事によって、彼女自身の信用を高め、彼女の社会的な存在価値を安定させようと試みている一つのトリック人形でしか白鷹先生はあり得ないのであったが、軽率な私は、そのトリック式白鷹先生の存在を百二十パーセントに妄信させられていた……私と同様な気軽な、茶目式の人物と思い込んでしまったために、こんな軽はずみな事を彼女に頼んだ次第であった。  ところが彼女のこうした不可思議な創作能力は、それからさらに百尺竿頭百歩を進めて、真に意表に出ずる怪奇劇を編み出す事になった。……と言うのは御本人の白鷹先生も御存じないK大耳鼻科の白鷹先生から、白昼堂々と電話がかかって来たのであった。  私が開業してから、ちょうど三月目……本年の九月一日の午後三時半頃、彼女が電話口から診察室に飛んで来た。 「先生。先生。白鷹先生からお電話です」  大勢の患者を診察していた私は驚いて振り返った。 「ナニ。白鷹先生から電話……何の用だろう」 「まあ。先生ったら……この間、妾に紹介してくれって仰言ったじゃございません。ですから妾、昨日お電話でモウ一度そう申しましたの……お忙しい時間もチャンとそう言って置きましたのに……今頃お掛けになるなんて……」  と彼女はイクラか不平そうに可愛い眉を顰めるのであった。こうした技巧と言ったら、それこそ独特の天才と言うべきものであったろう。実に真に迫ったものがあった。彼女と、彼女の創作した白鷹先生との親密さに就いて、微塵の疑いをさし挾む余地もないくらい真に迫ったものであった。  電話に出ていた相手の男性……白鷹先生に非ざる白鷹先生は、彼女の説明通りに、如何にも快活らしい朗らかな声の持主であった。しかも、それがほとんど私に一言も口を利かせないまま、一気に喋舌り続けた。 「ヤア。臼杵君か。暫く。御機嫌よう。イヤ御無沙汰御無沙汰。景気はどうだい。ウンウン。姫草から聞いたよ。結構結構。ウンウン。姫草って奴はいい看護婦だろう。こっちで、あんまり良過ぎるもんだから看護婦長から憎まれてね。とんでもない濡衣を着せられて追い出されちゃったんだよ。僕の妻が非常に可愛がっていたんだがね。イヤ。本人も喜んでいるよ。この間と昨日と二度電話をかけてね。君ん処は非常に居心地がよくて働き甲斐があるってね。そう言うんだ。ウンウン。妻も聞いて喜んでいるんだ。何しろ娘みたいに可愛がっていたんだからね。ウンウン。看護婦になるって青森県を飛出したところなんかは少々馬鹿かも知れないがね。看護婦に生まれ付いているのだろう。仕事は実に申し分ないんだ。僕が保証するよ。可愛がってくれ給え。ハハハ。イヤ久し振りに君に会ってみたいんだ。どうだい。相変らず飲めるかね。ウン結構結構。……ところで君は在京の耳鼻咽喉科の医者連中がやっている庚戌会って言うのを知っているかね。それだ。ウンウン。九州にいる時分に聞いていた。明治四十三年の庚戌の年に出来た会……ウン。それだ、ナアニ。毎月一回ずつ三日か四日の日に、みんなが寄って旧交を温めたり、不平を言い合ったりして飲んだくれる会さ。ステキに朗らかな会なんだ。それが来月は三日にきまったからね。場所は丸の内倶楽部……午後六時からなんだが、君やって来ないか。会費なんかその時次第だがイクラもかからない。ウン是非来てくれ給え。ウンウン。アハアハ。まだお眼にブラ下らないが奥さんにもよろしく……」  と言ううちに時間が切れてしまった。私が受話器をかけると直ぐ横に彼女が立っていて、可愛らしく小首を傾げながら、 「まあ。断っておしまいになったの。あたしからもお話したかったのに……でも、どんなお話でしたの……」  と心配らしく眼を光らしているのであった。 「ウン。驚いたよ。恐ろしくザックバランな先生だね。少々巻舌じゃないか」 「……でしょうね。そりゃあ面白い方よ」  それから電話の内容を話して聞かせると、如何にも安心したらしく、さも嬉し気にピョンピョン跳ねて廊下を飛んで行くのであった。 「ホントに白鷹先生ったらスッキリした、いい方だったわ。親切な方……妾大好き……」  なぞと感激に満ち満ちた、軽い独言を言いながら……すこしの不自然もなく私に聞こえよがしに言いながら……。  ところが、それから二日目の朝、私が出勤すると間もなく、平生になく不機嫌な顔をした彼女が、揉みくしゃにした便箋を手に握りながら、妙に身体をくねらして私の前に立った。可愛い下唇を反らして言うのであった。 「ほんとに仕様のない。白鷹先生ったら。仕事となると夢中よ」 「どうしたんだい。独りでプンプンして……」 「いいえね。昨夜の事なんですの。白鷹先生から妾へ宛ててコンナ速達のお手紙が来たんですの。きょうの午後に平塚の患者を見舞いに行くんだが、帰りが遅くなるかも知れない。だから庚戌会へも行けないかも知れない。お前から臼杵先生によろしく申し上げてくれって言うお手紙なんですの。ほんとに白鷹先生ったら仕様のない。稼ぐ事ばっかし夢中になって……キット平塚の何とか言う銀行屋さんの処ですよ。お友達と下手糞の義太夫の会を開くたんびに、白鷹先生を呼ぶんですから、それが見栄なんですよ。つまらない……」 「アハハ。そう悪く言うもんじゃないよ。そんな健康な、金持の患者が殖えなくちゃ困るんだ。耳鼻科の医者は……」 「だって久し振りに先生と会うお約束をしていらっしゃるのに……」 「ナアニ。会おうと思えばいつでも会えるさ」 「……だって」  と口籠りながら彼女は如何にも不平そうな青白い眼付で、私の顔を見上げた。……が……この時に私がモウ少し注意深く観察していたら、彼女のそうした不安さが尋常一様のものでなかった事を容易に看破し得たであろう。「会おうと思えばいつでも会える」と言った私の言葉が、彼女にドレ程の深刻な不安を与えたか……彼女をドンナに恐ろしい脅迫観念の無間地獄に突き落したかを、その時に察し得たであろう。……自分の実家の裕福な事を如実に証明し、同時に、自分の看護婦としての信用が如何に高いものが在るかをK大助教授、白鷹先生の名によって立証すべく苦心していた彼女……かの「謎の女」の新聞記事によって、この時すでに社会的の破滅に脅威されかけている彼女自身の自己意識を満足させると同時に、彼女自身だけしか知らない驚くべき謎に包まれている彼女の過去を、完全に偽装しようと試みていた彼女の必死的努力は、本物の白鷹先生と私とが直接に面会する事によってアトカタもなく粉砕される事になるではないか。彼女は、彼女自身に作り上げている虚構の天国の夢をタタキ破られて、再び人生の冷たい舗道の上に放逐されなければならなくなるではないか。こうした女性に取って、そうした幻滅的な出来事が、死刑の宣告以上に怖ろしいものである事は現代の婦人の……特に少女の心理を理解する人々の容易に首肯し得るところであろう。  事実、こうした破局に対する彼女の予防手段は、それが後、真に死物狂い式なものがあった。「厘毫の間違いが地獄、極楽の分れ目」という坊主の説教をそのままに、彼女は自分自身を陥れる、身の毛の辣立つ地獄絵巻を、彼女自身に繰り拡げて行ったのであった。  その九月も過ぎて、十月に入った二日の朝、彼女はまたも病院の廊下でプリンプリンと憤った態度をして私の前に立った。 「どうしたんだい。一体……また、機械屋の小僧と喧嘩でもしたのかい」 「いいえ。だって先生。明日は十月の三日でしょう」 「馬鹿だな。十月の三日が気に入らないのかい」 「ええ。だって毎月三日が庚戌会の期日じゃございません」 「あ……そうだっけなあ。忘れていたよ」 「まあ。そんなところまで白鷹先生とそっくり。先生は庚戌会へお出でになりませんの」 「ウン。白鷹先生が行くんなら僕も行くよ」 「この間お約束なすったんじゃございません」 「イイヤ。約束なんかした記憶はないよ」 「まあ。そんならいいんですけど……」 「どうしたんだい」 「ツイ今しがた、白鷹先生からお電話が来ましたのよ。臼杵先生はまだ病院にいらっしゃらないのかって……」 「オソキ病院のオソキ先生ですってそう言ったかい」 「まあ。どうかと思いますわ。いつも午前十時頃しかいらっしゃいませんって申しましたら、きょうは風邪を引いて寝ちゃったから、庚戌会へは失敬するかも知れないって仰言るんですね。妾キッと先生とお約束なすってたのに違いないと思って腹が立ったんですよ。何とかして会って下さればいいのに……」 「そりゃあ会おうと思えば訳はないよ。しかし妙に廻り合わせが悪いね」 「ホントに意地の悪い。きょうに限って風邪をお引きになるなんて……妾、電話で奥さんに文句言っときますわ」 「余計な事を言うなよ。それよりも、今から妾がお勧めして臼杵先生をお見舞いに差し出そうかと思いますけど、友喰いになる虞がありますから、失礼させますって、そう言っとき給え」 「ホホホホ。またあんな事。それこそ余計な事ですわ」 「ナアニ。そんな風に言うのが新式のユーモア社交術って言うんだ。奥さんにも宜しくってね」  こんな訳で白鷹先生に非ざる白鷹先生に対する私の家族の感じは、姫草ユリ子を仲介として日に増し親密の度を加えて来た。のみならず、ちょうど私が箱根のアシノコ・ホテルに外人を診察に行く約束をした日の早朝に白鷹氏……否、白鷹先生ならぬ白鷹先生から電話がかかって、 「この間はすまなかった。いつも間が悪くて君に会う機会がない。きょうは歌舞伎座の切符が二枚手に入ったから一緒に見に行かないか。午後一時の開場だから十時頃の電車で銀座あたりへ来てくれるといい。君の知っているカフェーかレストランがあるだろう」  という話だったが、生憎、私が行けないと姫草が言ったとかで、あとから歌舞伎座の番組と一緒に妻と子供へと言って風月のカステラを送って来たりした。しかもその小包に添えた手紙を見ると紛れもない男のペン字で、相当の学力を持ったインテリ式の文句であった。だからこちらでも非常に恐縮して、折よく故郷から送って来た鶏卵素麺に「今度の庚戌会へは是非とも出席します」と言う意味の手紙を添えて、下六番町の白鷹先生宛に送り出したが、それは何処へ届いたやら、あるいは横浜の臼杵病院を一歩も出なかったかも知れないと思う。その手紙や小包を渡して、送り出すように命じたのが、外ならぬ姫草ユリ子だったから……。  ところが、それから十一月の初旬に入ると、彼女はまたも大変な失策を演じた。もちろん、それは彼女自身から見ると、いかにも巧妙な、水も洩らさぬ筋書に見えたのであろうが、それがアンマリ巧妙過ぎたために、おぞましくも私等一家から、彼女自身の正体を見破られる破目に陥ったのであった。  私の日記を翻して見ると、それはやはり十一月の三日、明治節の日であった。彼女が事を起すのは、いつも月末から初旬へかけた数日のうちで、殊に白鷹先生から電話がかかったり、手紙が来たりするのは大抵三日か四日頃にきまっているのであった。そこにこの「謎の女」の神秘さがあった事を神様以外の何人が察し得たであろう……。  その十一月の三日のこと。シトシト雨の降り出した午前十時頃、私が病院に出勤すると、玄関の扉の音を聞くや否や、彼女が薬局から飛び出して、私の胸に飛び付きそうに走りかかって来た。唇の色まで変ったヒステリーじみた表情をしていた。 「まあ先生。どうしましょう。タッタ今電話がかかって来たのです。白鷹先生の奥さんが三越のお玄関で卒倒なすったんですって。そうして鼻血が止まらなくなって、今お自宅で介抱を受けていらっしゃるんですって……」 「そりゃあ、いけないねえ。何時頃なんだい」 「今朝、九時頃って言うお話ですの……」 「ふうん。それにしちゃ馬鹿に電話が早いじゃないか。何だって俺んとこへ、そんなに早く知らせたんだろう」 「だって先生。この間のお手紙に、今度の庚戌会で是非会うって、お約束なすったでしょう」 「ウン。あの手紙を見たのかい」 「あら。見やしませんわ。ですけどね。今度の庚戌会は大会なんでしょう。明治節ですから……」 「ふうん。僕は知らなかったよ」 「あら。この間、案内状が来てたじゃございません」 「知らないよ。見なかったよ。どんな内容だい」 「何でもね。今度の庚戌会は、ちょうど明治節だから久し振りの大会にするから東京市外の病院の方々も参加を申し込んで頂きたいって書いてありましたわ。あの案内状どこへ行ったんでしょう」 「ふうん。そいつは面白そうだね。会費はイクラだい」 「たしか十円と思いましたが……」 「高価えなあ」 「オホホ。でも幹事の白鷹先生から、臼杵先生に是非御出席下さいってペン字で添書がして在りましたわ」 「ふうん。行ってみるかな」 「あたし、先生がキットいらっしゃると思いましたからね。それから後お電話で白鷹先生に、今度こそ間違ってはいけませんよって念を押したら、ウン。臼杵君からも手紙が来た。おまけに幹事を引き受けたんだから今度こそは金輪際、ドンナ事があっても行くって仰言ったんですの。そうしたらまたきょうの騒ぎでしょう。あたし口惜しくて口惜しくて……」 「馬鹿、そんな事を口惜しがる奴があるか。何にしてもお気の毒な事だ。いい序と言っちゃ悪いが、お見舞いに行って来て遣ろう」 「まあ先生。今から直ぐに……?」 「うん。直ぐにでもいいが……」 「でも先生。アデノイドの新患者が三人も来ているんですよ」 「フーム。どうしてわかるんだい。鼻咽腔肥大ってことが……」 「ホホ。あたし、ちょっと先生の真似をしてみたんですの。患者さんの訴えを聞いてから、口を開けさせてチョット鼻の奥の方へ指先を当ててみると直ぐに肥大が指に触るんですもの」 「馬鹿……余計な真似をするんじゃない」 「……でも患者さんが手術の事を心配してアンマリくどくど聞くもんですから……そうしたら三人目の一番小ちゃい子供の肥大に指が触ったと思ったら突然、喰付かれたんですの……コンナニ……」  と付根の処を繃帯した左手の中指を出して見せた。 「……見ろ。これからソンナ出裟婆った真似をするんじゃないよ」  と戒めてから私は平常の通り診察にかかったが、彼女は別にお見舞に行こうとする私を強いて止めようとする気色も見せなかった。  しかし午後一時から三時までの私の休息時間が来て、程近い紅葉坂の自宅に帰ろうとすると、その玄関で彼女がまたも私の前に駈け寄りながらシオシオと頭を下げた。 「先生。すみませんけど、きょうの午後から、ちょっとお暇を頂きたいんですの」 「うん。きょうは手術がないから出てもいいが……何処へ行くんだい」 「あの……白鷹先生の奥様の処へ、お見舞に行きたいんですの。どうしても一度お伺いしなければ……と思いますから……」 「うん。そりゃあ丁度いい。僕も今夜あたり行こうと思っているんだから、そう言っといてくれ給え」 「ありがとうございます。では行って参ります」 「気を付けて行っといでよ。お天気もモウ上るだろう」  彼女と私とがコンナ風にシンミリとした憂鬱な調子で言葉を交した事はこの時が初めてだったように思う。何となく虫が知らせたとでも言おうか。それともこの時すでに、白鷹先生の事に関して、絶体絶命の破局にグングン追い詰められつつ在る事を自覚し過ぎるくらい、自覚していた彼女自身の内心の遣る瀬ない憂鬱さが、私の神経に感じたものかも知れないが……。  いつもの通り病院を仕舞った私は、雨上りの黄色い夕陽の中を紅葉坂の自宅に帰って、夕食を仕舞った。その序に、白鷹夫人のきょうの出来事を比較的明るい気持で喋舌っていると、そのうちに黙って給仕をしていた妻の松子がフイッと大変な事を言い出した。 「ねえあなた。姫草さんの話は、あたし、どうも変だと思うのよ」 「……フウン……ドウ変なんだい」 「あたしこの間からそう思っていたのよ。姫草さんが紹介した白鷹先生に、貴方がどうしてもお眼にかかれないのが、変で変で仕様がなかったのよ」 「ナアニ。廻り合わせが悪かったんだよ」 「いいえ。それが変なのよ。だって、あんまり廻り合わせが悪過ぎるじゃないの。あたし何だか姫草さんが細工して、会わせまい会わせまいと巧謀んでいるような気がするの」 「ハハハ。『どうしても会えない人間』なんて確かにお前の趣味だね。探偵小説、探偵小説……」  ことわって置くが妻の松子は、女学校時代から「怪奇趣味」とか言う探偵趣味雑誌の耽読者で、その雑誌にカブレているせいか、頭の作用が普通の女と違っていた。麻雀の聴牌を当てるぐらいの事はお茶の子サイサイで、職業紹介欄の三行広告のインチキを閑暇に明かして探り出す。または電車の中で見た婦人の服装から、その婦人の収入と不釣合な生活程度を批判する……と言ったような一種の悪趣味の持主であった。だから吾が妻ながら時折は薄気味の悪い事や、うるさい事もないではなかったが、しかし、そうした妻の頭の作用に就いて私が内心|些なからず鬼胎を抱いていた事は事実であった。  だからこの時も姫草看護婦に対する疑いを、普通一般の嫉妬と混同するような気は毛頭起らなかった。また彼女の変痴気趣味が出たな……ぐらいにしか考えなかったが、それでも、そうした彼女の姫草ユリ子に対する疑いが、何かしら容易ならぬ大事件になりそうな予感だけはハッキリと感じたから、念には念を入れるつもりで私は、彼女の考えを一応、検討してみる気になった。 「白鷹先生に、どうしても俺が会えないのが不思議と言えば不思議だが、論より証拠だ。今夜はこれから出かけて行って、是が非でも会って来るつもりだから、いいじゃないか」 「ええ。……でもお会いになったら……何だか大変な間違いが起りそうな気がして仕様がないのよ……あたし……」 「アハハ。二人が出会ったとたんにボイインと爆弾でも破裂するのかい」 「ええ。そう言ったような予感がするのよ。幾度タタイても爆発しなかった分捕の砲弾が、チョイと転がったハズミに爆発して、何もかもメチャメチャになった新聞記事があったでしょ。今度の事もソレに似てるじゃないの。何だか妾、胸がドキドキするわ」 「アハアハ。イヨイヨ以て怪奇趣味だ。しかも漫画趣味だよ。アダムスンか何かの……」 「オホホ。もっとすごい感じよ」 「アハハ。悪趣味だね。それでも今日会えなかったら一体どうなるんだい話は……」 「いいえ。妾、今夜こそキット貴方が白鷹先生にお会いになれると思うのよ。そうしたら何もかもわかると思うのよ」 「名探偵だね。どうして会えるんだい」 「今夜の庚戌会は何処であるんでしょう」 「やはり丸の内倶楽部さ」 「今からそこへお出でになったらキット白鷹先生が来ていらっしゃると思うのよ」 「馬鹿な。奥さんが病気なのに来るもんか」 「プッ。馬鹿ね貴方。まだ信じていらっしゃるの。白鷹の奥さんの卒倒騒ぎを……」 「信じているともさ……だからお見舞に行くんじゃないか」 「お見舞に行くのを止して頂戴……そうして知らん顔して庚戌会へ出席して御覧なさいって言うのよ。キットほんとの白鷹先生がいらっしゃるから……」 「……ほんとの白鷹先生。ふうん。つまり、それじゃ今迄の白鷹先生は、姫草ユリ子の創作した影人形だって言うんだね」 「ええそうよ。何だかそんな気がして仕様がないのよ。あの娘の実家が裕福だって言うのも、当てにならない気がするし、年齢が十九だって言うのも出鱈目じゃないかと思うの……」 「驚いた。どうしてわかるんだい」 「あたし……あの娘が病院の廊下に立ち佇まって、何かしらションボリと考え込んでいる横顔を、この間、薬局の窓からジイッと見ていた事があるのよ。そうしたら眼尻と腮の処へ小さな皺が一パイに出ていてね。どうしても二十五、六の年増としか見えなかったのよ」 「ふうん。何だか話がモノスゴクなって来たね。姫草ユリ子の正体がダンダン消え失せて行くじゃないか。幽霊みたいに……」 「そればかりじゃないのよ。その横顔をタッタ一目見ただけで、ヒドク貧乏臭い、ミジメな家の娘の風付きに見えたのよ。お婆さんじみた猫背の恰好になってね。コンナ風に……」 「怪談怪談。妖怪エー……キャアッと来そうだね」 「冷やかしちゃ嫌。真剣の話よ。つまり平常はお化粧と気持で誤魔化して若々しく、無邪気に見せているんでしょうけど、誰も見ていないと思って考え込んでいる時には、スッカリ気が抜けているから、そんな風に本性があらわれているんじゃないかと思うのよ」 「ウップ。大変な名探偵が現われて来やがった。お前、探偵小説家になれよ。キット成功する」 「まあ。あたし真剣に言ってんのよ。自烈たい。本当にあの人、気味が悪いのよ」 「そう言うお前の方がヨッポド気味が悪いや」 「憎らしい。知らない」 「もうすこし常識的に考えたらどうだい。第一、あの娘がだね。姫草ユリ子が、何の必要があってソンナ骨の折れる虚構を巧謀むのか、その理由が判明らんじゃないか。今までに持ち込んで来たお土産の分量だって、生優しい金高じゃないんだからね。おまけにおりもしないモウ一人の白鷹先生を創作して、電話をかけさせたり、歌舞伎に案内させたり、カステラを送らせたり、風邪を引かしたり、平塚に往診さしたり、奥さんを三越の玄関で引っくり返らしたりなんかして……作り事にしては相当骨が折れるぜ。況んや俺たちをコンナにまで欺瞞す気苦労と言ったら、考えるだけでもゾッとするじゃないか」 「……あたし……それは、みんなあの娘の虚栄だと思うわ。そんな人の気持、あたし理解ると思うわ」 「ウップ。怪しい結論だね。恐ろしく無駄骨の折れる虚栄じゃないか」 「ええ。それがね。あの人は地道に行きたい行きたい。みんなに信用されていたいいたいと、思い詰めているのがあの娘の虚栄なんですからね。そのために虚構を吐くんですよ」 「それが第一おかしいじゃないか。第一、そんなにまでしてこちらの信用を博する必要が何処に在るんだい。看護婦としての手腕はチャント認められているんだし、実家が裕福だろうが貧乏だろうが看護婦としての資格や信用には無関係だろう。それくらいの事がわからない馬鹿じゃ、姫草はないと思うんだが」 「ええ。そりゃあ解ってるわ。たとえドンナ女だっても現在ウチの病院の大切なマスコットなんですから、疑ったり何かしちゃすまないと思うんですけど……ですけど毎月二日か三日頃になると印形で捺したように白鷹先生の話が出て来るじゃないの。おかしいわ……」 「そりゃあ庚戌会がその頃にあるからさ」 「でも……やっぱりおかしいわ。それがキット会えないお話じゃないの……オホホ……」 「だから言ってるじゃないか。廻り合わせが悪いんだって……」 「だからさ。それが変だって言ってるんじゃないの。廻り合わせが悪すぎて何だか神秘的じゃないの」 「止せ止せ。下らない。お前と議論すると話がいつでも堂々めぐりになるんだ。神秘も糞もあるもんか。白鷹君に会えばわかるんだ。……茶をくれ……」  私は黙って夕食の箸を置いて新調のフロックと着換えた。誰しも疑わない姫草ユリ子の正体をここまで疑って来た妻のアタマを小五月蠅く思いながら……。 「とにかく今夜は是非とも白鷹君に会ってみよう。石を起し瓦をめくってもか。ハハハ。エライ事に相成っちゃったナ……」  桜木町から二円を奮発した私が、内幸町の丸の内倶楽部へタクシーを乗り付けたのが午後の八時半頃であったろうか。実は女風情の言う通りになるのがこの際、少々|業腹ではあったが、自動車に乗り込むと同時に気が変って、狭苦しい迷宮じみた下六番町あたりの暗闇を自動車でマゴマゴするよりも、解り易い丸の内倶楽部へアッサリと乗付けたい気持になったからであった。  倶楽部の玄関で給仕に聞いてみると、 「庚戌会は今晩でございます。七時頃から皆さんお揃いで、モウかなりプログラムが進行しております」  という返事であった。  私は黙って、その給仕に案内されて広やかなコルク張の階段を昇って行ったが、登って行くにつれて、階中に満ち満ちている高潮したレコードと舞踏のザワメキに気が付いた。  私はダンスは新米ではあるが自信は相当ある。ジャズ、タンゴ、狐足、靴拭、ワンステップ、何でも御座れの横浜仕込みだ。今やっているのはスパニッシュ・ワン・ステップのマルキナものらしいが、相当浮き浮きした上調子なもので、階段を上って行くうちに給仕の肩に手をかけたくなるような魅惑を感じた。  どうも驚いた。庚戌会と言えば謹厳な学術の報告会、兼、茶話会みたようなものと思ったが、なかなかどうしてエライ景気だわい。会費の十円の意味も読めるし、幹事の白鷹君の隅に置けない手腕のほども窺われる。こんな事なら鹿爪らしいフロック・コートなんか着て来るんじゃなかった……と思ううちに待合室みたような部屋へ案内された。見ると周囲の壁から卓子の上、椅子、長椅子、小卓子の上までも帽子と外套の堆積で一パイである。かれこれ五、六十人分はあるだろう。大会だけによく集まったものだ。 「ここでちょっとお待ちを願います。今お呼びして参りますから……」  といううちに給仕は右手の扉を押して会場に入った。トタンにジャズの音響が急に大きく高まって、会場の内部がチラリと見えたが、その盛況を見ると私はアット驚いた。  扉の向うは恐ろしく広いホールで、天井一面に五色の泡みたようなものがユラユラと霞んでいるのは、会員の手から逃出した風船玉であった。その下を渦巻く男女は皆タキシード、振袖、背広、舞踏服なんどの五色七彩で、女という女、男という男の背中からそれぞれに幾個かの風船玉が吊り上っている。その風船玉の波が、盛り上るような音楽のリズムに合わせて、不可思議な円型の虹のように、ゆるやかに躍り上り躍り上りホール一面に渦を巻いている。桃色と水色の明るい光線の中に……と思ううちに扉がピッタリと閉じられた。  扉が閉じられると間もなくレコードの音が止んだ。それに連れて舞踏のザワメキが中絶して、シインとなったと思う間もなく、タッタ今閉まった扉が向側から開かれて、赤白ダンダラの三角の紙帽を冠ったタキシードが五、六人ドヤドヤと雪崩れ込んで来て、私の眼の前の長椅子に重なり合って倒れかかった。襟飾の歪んだの……カフスのズッコケたの……鼻の横に薄赤い、わざとらしい口紅の在るもの……皆グデングデンに酔っ払っているらしく、私には眼もくれずに、長椅子の上に重なり合って、お互いに手足を投げかけ合った。 「ああ……酔っ払ったぞ。おい……酔っ払ったぞ俺あ……」 「ああ、愉快だなあ……素敵だなあ、今夜は……」 「ウン。素敵だ……白鷹幹事の手腕恐るべしだ。素敵だ、素敵だ……ウン素敵だよ」 「驚いたなあ。ダンス・ホールを三つも総上げにするなんて……白鷹君でなくちゃ出来ない芸当だぜ」 「……白鷹君バンザアイ……」  と一人が筒抜けの大きな声を出したが、その男が朦朧たる酔眼を瞭って、両手を高く揚げながら立ち上ろうとすると、真先に私のいるのに気が付いたと見えて、ビックリしたらしく尻餅を突いた。尻の下に敷かれた友人の頭が虚空を掴んでいるのを構わずに、両手で膝頭を突張って、真赤なトロンとした瞳で私のフロック姿を見上げ見下していたが、忽ちニヤリと笑いながら唇を舐めまわした。 「ヘヘッ……手品が来やがった」 「何だあ。手品だあ。何処でやってんだ」 「それ。そこに立ってるじゃないか」 「何だあ。貴様が手品屋か。最早、遅いぞオ。畜生。余興はすんじゃったぞオ」  私は急に不愉快になって逃げ出したくなった。相手の不謹慎が癪に障ったのじゃない。コンナ半間な服装で、こうした処へ飛び込んで来て、棒のように立辣んでいる私自身が情なくて、腹立たしくなって来たのだ。しかし折角ここまで来たものを白鷹氏に会わないまま帰るのも心残りという気もしていた。 「オイ。出来たかい、フィアンセが……」 「ウン。二、三人出来ちゃった」 「二、三人……嘘つきやがれ」 「このミス・プリントを見ろ」 「イヨオオ。おごれ、おごれ」 「まだまだ、明日になってみなくちゃ、わからねえ。フィアンセがアホイワンセになるかも知れねえ」 「アハハハ。ちげえねえ。解消ガールって奴がいるかんな。タキシの中で解消するってんだかんな。タキシはよいかってんで……」 「始めやがった。モウ担がれねえぞ」 「ハアアア……アアア……何のかんのと言うてはみてもオ……抱いてみなけりゃあエエ……アハハ。何とか言わねえか……」 「エエイ。近代魔術はタンバリン・キャビネット応用……タキシー進行中解消の一幕。この儀お眼に止まりますれば次なる芸当……まあずは太夫、幕下までは控えさせられまあす」 「いよオオ――オオどうだいフロックの先生。雇ってくんないかい」  私はいよいよ逃腰になってしまったが、その時に向うの扉が静かに開いたので、もしやと思って固くなっていると、最前の給仕を先に立てて、私と同じくらいに固くなった一人の紳士が入って来た。それは本格の舞踏服に白チョッキを着込んだヒョロ長い中年紳士であったが、赤白ダンダラの三角帽を右手に持って、左の掌に載せた名刺を、私の顔と見比べ見比べ、私の前に立ち止まると、青白い憂鬱な顔をしてジイッと見下した。  酔っ払った長椅子の連中がシインとなった。めいめいに好奇の眼を光らして相手の紳士と、私の顔を見比べ始めた。  私は九州帝国大学在学当時の白鷹氏の写真を一葉持っている。九大耳鼻科部長、K博士を中心にした医局全員のものである。それを白鷹氏の話が出るたんびに妻や姉に見せて、その時代の事を追懐したものであった。  だから私はこの時に、この紳士は白鷹先生である事を直ぐに認める事が出来た。そうして長い年月の間どうしても会えなかった同氏に、かくも容易く会えた事を、衷心から喜んでホッとした。  私はとりあえず眼の前の白鷹先生の前額から後頭部へかけて些なからず禿げていられるのに驚いた。今更に今昔の感に打たれたが、しかし姫草看護婦から聞いた印象によって、白鷹先生が非常に磊落な、諧謔的な人だと信じ切っていたので、イキナリ頭を一つ下げた。 「ヤア。白鷹先生じゃありませんか。僕は臼杵です。先日はどうもありがとうございました」  と笑いかけながら一、二歩近寄った。言い知れぬ懐かしさと、助かったという思いを胸に渦巻かせながら……。  ところが私はその次の瞬間に面喰らわざるを得なかった。非常に不愉快な、苦々しい表情をしいしい、微かに礼を返した白鷹先生の、謹厳この上もない無言の態度と、数歩を隔てて真正面に向い合った私は、ものの二、三分間も棒を呑んだように固くなって、突立っていなければならなかった。多分白鷹氏は、こうした私の面会ぶりがあまりにも突然で狃れ狃れしいのに驚いて、面喰っておられた事と思う。況んや久しく物も言った事のない人間にイキナリ「先日はありがとう」なぞと言いかけられたら誰だって一応は警戒するにきまっている。ことによると物慣れた氏が、幹事役だけに私を、こうしたダンス宴会荒しの所謂フロック・ギャングと間違えられたものかも知れないが、その辺の消息は明らかでない。とにも角にもこうして二、三分間|睨み合ったまま立ち辣んでいるうちに、私はとうとう堪えられなくなって次の言葉を発した。 「どうも……何度も何度もお眼にかかり損ねまして……やっとお眼にかかれて安心しました」  こうした私の二度目の挨拶は、だいぶ固苦しい外交辞令に近づいていたように思うが、しかし白鷹氏は依然として私を見据えたまま、両手をポケットに突込んでいた。エタイのわからぬ人間に口を利くのは危険だと感じているかのように……。  こうしてまたも十秒ばかりの沈黙が続くうちにまたも、広間の方向で浮き上るようなツウ・ステップのレコードがワアア――ンンと鳴り出した。  私の腋の下から氷のような冷汗がタラタラと滴った。私はまたも、たまらなくなって唇を動かした。 「ところで……奥さんの御病気は如何です」 「……エ……」  この時の白鷹氏の驚愕の表情を見た瞬間に、私は最早、万事休すと思った。 「妻が……久美子が……どうかしたんですか」 「ええ。三越のお玄関で卒倒なすったそうで……」 「ええッ。いつ頃ですか」 「……今朝の……九時頃……」  ドット言う哄笑が爆発した。長椅子に腰をかけて耳を澄ましていたタキシード連が、腹を抱えて転がり始めた。笑いを誇張し過ぎて床の上にズリ落ちた者も在った。  私は極度の狼狽に陥った。失敬な連中……と思いながら私は、矢庭にその連中の顔を睨み付けたが、これは睨んだ方が無理であったろう。  そのうちに血色を恢復した白鷹氏の唇が静かに動き出した。 「おかしいですね。妻は……久美子は今朝から教会の会報を書くのだと言って何処へも行きません。無事に自宅におりましたが」 「ヘエッ……嘘なんですか。それじゃ……」 「……嘘? ……僕は……僕はまだ、何も言いませんが君に……初めてお眼にかかったんですが……」  またドッと起る爆笑……。 「……姫草ユリ子の奴……畜生……」  白鷹氏は突然に眼を剥き出して、半歩ほど背後によろめいた。……が直ぐに踏止まって、以前の謹厳な態度を取り返した。心配そうに息を切らしながら、私の顔を覗き込むようにした。 「……姫草……姫草ユリ子がまた……何か、やりましたか」 「……エッ……」  私は狼狽に狼狽を重ねるばかりであった。 「……また、何か……と仰言るんですか先生。先生は前からあの女……ユリ子を御存じなのですか」  私は思わず発したこの質問が、如何に前後撞着した、トンチンカンなものであったかを気付くと同時に、自分の膝頭がガクガクと鳴るのをハッキリと感じた。……助けてくれ……と叫び出したい気持で、白鷹氏の次の言葉を待った。  その時に最前のとは違った給仕が一人、階段を駆け上って来る音がした。 「横浜の臼杵先生がお出でになりますか」 「僕だ、僕だ……」  私はホッとしながら振り向いた。 「お電話です。民友会本部から……」 「民友会本部……何と言う人だ」 「どなたかわかりませんが、横浜からお出でになった代議士の方が、本部で卒倒されまして、鼻血が出て止まりませんので……すぐに先生にお出でが願いたいと……」 「待ってくれ……相手の声は男か女か……」 「御婦人の声で……お若い……」  給仕は何かしらニヤニヤと笑った。 「……馬鹿な……名前も言わない人に診察に行けるか。名前を聞いて来い。そうして名刺を持った人に迎えに来いと言え」  これは私のテレ隠しの大見得と、同席の諸君に解せられたに違いないと思うが、その実、あの時の私の心境は、そんなノンビリした沙汰ではなかった。……卒倒して鼻血……という言葉がアタマにピンと来た私は、すぐに今朝ほどの白鷹婦人に関する彼女の報道を思い出したのであった。  彼女……姫草ユリ子は、鼻血が出て止まらない場合に、耳鼻科の医師が如何に狼狽し、心配するかを、何処かで実地に見て知っていたに違いない。だから私が裏切り的に庚戌会に出席した事を、電話か何かで探り知った彼女は、狼狽の余り、おなじ日に、おなじ種類の患者を二度も私にブツケルようなヘマな手段でもって、私と白鷹氏の会見を邪魔しようと試みたものであろう。絶対絶命の一所懸命な気持から、果敢ない万一を期したものではあるまいか。もちろん偶然の一致という事も考えられない事はないが、彼女を疑うアタマになってみると断じて偶然の一致とは思えない。私は彼女……姫草ユリ子の不可思議な脳髄のカラクリ細工にマンマと首尾よく嵌め込まれかけている私の立場を、この時にチラリと自覚したように思ったのであった。  私は一生涯のうちにこの時ほど無意味な狼狽を重ねた事はない。  私はそのまま列席の諸君と白鷹氏にアッサリと叩頭しただけで、無言のままサッサと部屋を出た。またも湧き起る爆笑と、続いて起るゲラゲラ笑いとを、華やかに渦巻くジャズの旋律と一緒にフロックの背中に受け流しながら、愴惶として階段を駈け降りた。通りがかりのタキシーを拾って東京駅に走りつけた。そうして気を落ち着けるために、わざと二等の切符を買って、桜木町行きの電車に飛び乗った。何だか横浜の自宅に容易ならぬ事件でも起っているような気がして……妻が愛読している探偵小説の書き振りを見ても、留守宅に大事件が起るのは十中八、九コンナ場合に限っているのだから……と言ったような想像が、別段考えるでもないのにアトからアトから頭の中に湧き起って、たまらない焦燥と不安の中に私を逐い込んで行くのであった。あの時の私の脈膊は、たしかに百以上を打っていたに違いない。  けれどもそこで無人の二等車の柔らかいクッションの上にドッカリと腰を卸して、ナナの煙を一ぷく吹き上げると間もなく、私の心境にまたも重大な変化が起った。窓越しに辷って行く銀座の、美しい小雨の中のネオンサインを見流して行くうちに、現在、何が何だかわからないままに、無意味に、止め度もなく面喰らわされているに違いない私自身を、グングンと痛切に自覚し始めたのであった。  ……俺はなぜアンナに慌てて飛び出して来たのだろう。なぜ、もっと突込んで姫草の事を白鷹氏に尋ねてみなかったのだろう。白鷹氏は彼女の事に就いてモットモット詳しく知っているらしい口吻であったのに……もう一度白鷹氏と会えるかどうか、わからなかったのに……と気が付いたのであった。  ……いずれにしても白鷹氏と姫草ユリ子とが全然、無関係でない事は確実だ。私の知っている以外に姫草ユリ子は白鷹氏に就いて何事かを知り、白鷹氏も姫草ユリ子に就いては何事かを知っているはずなのに……。  そう考えて来るうちに、私の頭の中にまたもかの丸の内倶楽部の広間を渦巻く、燃え上るようなパソ・ドブルのマーチが漂い始めた。  私はまたも彼女を信用する気になって来た。私は彼女がコンナにまで深刻な、根気強い虚構を作って、私たちを陥れる必要が何処に在るのかイクラ考えても発見出来なかった。それよりも事によると私は、姫草ユリ子に一杯喰わされる前に、白鷹氏に一杯かつがれているのかも知れない……と気が付いたのであった。第一、この間、電話で聞いた白鷹氏の朗らかな音調と、今日会った白鷹氏のシャ嗄れた、沈んだ声とは感じが全然違っていた事を思い出したのであった。  ……そうだ。白鷹氏は故意と、あんなに冷厳な態度を執って後輩の田舎者である俺を欺弄いでおられるかも知れない。アトで大いに笑おうと言う心算なのかも知れない。東京の庚戌会に出席して斯界のチャキチャキの連中と交際し、連絡を付けるのは地方開業医の名誉であり、且、大きな得策でもあり得るのだから、その意味に於て優越な立場にいる白鷹氏は、キット俺が出席するのを見越して、アンナ風に性格をカムフラージしていろいろな悪戯をしておられるのかも知れない。  ……そうだそうだ。その方が可能性のある説明だ。それがマンマと首尾よく図に当ったので、あんなに皆して笑ったのかも知れない。  ……と……そんな事まで考えるようになったが、これは私が元来そう言った悪戯が大好きで、懲役に行かない程度の前科者であったところから、自分に引き較べて推量した事実に過ぎなかったであろう。同時にそこには姫草ユリ子から植え付けられた白鷹氏の性格に関する先入観念が、大きく影響していた事も自覚されるのであるが、とにもかくにも事実、そんな風にでも考えを付けて気を落ち着けて置かねば、すぐに、この上もなく非常識な、恐ろしい不安がコミ上げて来て、トテも凝然として三十分間も電車に乗っておれない気がしたのであった。それでも電車がブンブン揺れながら、暗黒の平地を西へ西へと走るのがたまらなく恐ろしくなって、途中で飛び降りてみたくなったくらい私は、一種探偵小説的に不可解な、不安な昂奮の底流に囚われていたのであった。横浜へ帰ったら、私の家族と私の病院が、姫草ユリ子|諸共に、何処かへ消え失せていはしまいか……と言ったような……。  桜木町駅に着いたのは何時頃であったろうか。そこから程近い紅葉坂の自宅まで、何かしら胸を騒がせながら、雨上りの道を急いで行くと、突然に背後の橋の袂の暗闇から、 「……臼杵センセ……」  と呼び掛ける悲し気な声が聞こえて来たので、私はちょうど予期していたかのようにギクンとして立ち佇まった。それは疑いもないユリ子の声であった。  ユリ子は今日の午後、外出した時の通りの姿で、黒い男持の洋傘を持っており、夜目にも白い襟化粧をしていたが、気のせいか瞼の縁が黒くなっていたようであった。  彼女は、その洋傘を拡げて、人目を忍ぶようにして私に寄り添った。そうして平常の快闊さをアトカタもなくした陰気な、しかしハキハキした口調で問いかけた。 「先生。庚戌会へお出でになりまして……?……」 「ウン。行ったよ」 「白鷹先生とお会いになりまして……?……」 「……ウン……会ったよ」 「白鷹先生お喜びになりまして……」 「いいや。とてもブッキラ棒だったよ。変な人だね。あの先生は……」  私は幾分、皮肉な語気でそう言ったつもりであったが、彼女はもうトックに私のこうした言葉を予期していたかのように、私の顔をチラリと見るなり、淋しそうな微笑を横頬に浮かめて見せながら点頭いた。 「ええ。キットそうだろうと思いましたわ。けれども先生……白鷹先生はホントウはアンナ方じゃないのですよ」 「フーン。やっぱり快闊な男なのかい」 「ええ。とっても面白いキサクな方……」 「おかしいね。……じゃ……どうして僕に対してアンナ失敬な態度を執ったんだろう」 「先生……あたしその事に就いて先生とお話したいために、きょう昼間からズットここに立って、先生のお帰りを待っておりましたのですよ。でも……お帰りが電車か自動車かわからなかったもんですからね」  そう言ううちに彼女は二、三度、派手な縮緬の袂を顔に当てたようであったが、それでも若い娘らしいキリッとした態度で、多少憤慨したらしい語気を混交えながら、次のような驚くべき事実を語り出した。  私はその時に彼女から聞いた白鷹先生の家庭に関する驚くべき秘密なるものを、ここに包まず書き止めて置く。これは決して白鷹先生の家庭の神聖を冒涜する意味ではない。私が同氏の人格をこの上もなく尊敬し、信頼している事実を告白するものである事を固く信じているからである。同時に姫草ユリ子の虚構の天才が如何に驚くべく真に迫ったものがあるかを証明するに足るものがあると信ずるからである。普通人の普通の程度の虚構では到底救い得ないであろうこうした惨憺たる破局的な場面を、咄嗟の間に閃いた彼女独特の天才的な虚構……十題話式の創作、脚色の技術を以て如何に鮮やかに、芸術的に収拾して行ったか。  私は光と騒音の川のような十二時近くの桜木町の電車通りの歩道を、彼女と並んで歩きながら、彼女の語り続けて行く驚くべき真相……なるものに対して熱心に耳を傾けて行ったのであった。  白鷹氏……きょう会った謹厳そのもののような白鷹氏は、K大耳鼻咽喉科に在職中、姫草ユリ子をこの上もなく珍重し、愛寵した。そうして宿直の夜になると、そうした白鷹氏の彼女に対する愛寵が度々、ある一線を超えようとするのであった。  しかし無論、彼女はそれを喜ばなかった。  彼女の念願は看護婦としての相当の地位と教養とを作り上げた上で、女医としての資格を得て、自分の信ずる紳士と結婚して、大東京のマン中で開業する……そうして相携えて晴れの故郷入りをする……と言う事を終生の目的としておったので、故なくして他人の玩弄となる事を極度に恐れた彼女は、遂に絶体絶命の意を決して、この事を直接に白鷹氏の令閨、久美子夫人に訴えたのであった。  然るに久美子夫人は、彼女の想像した通り、世にも賢明、貞淑な女性であった。世の常の婦人ならばかような場合に、主人の罪は不問に付して、当の相手の無辜の女性の存在を死ぬほど呪詛い、憎悪しむものであるが、物わかりのよい……御主人の結局のためばかりを思っている久美子夫人は、彼女のこうした潔白な態度を非常に喜んだ。そうして彼女をこの上もなく慈しんで、末永く自宅に置いて世話をして遣りたい。間違いのないようにという考えから、本年の二月以降、下六番町の自宅に、彼女を寝泊りさせるように取り計らったが、これに対してはさすがの白鷹氏も、一言の抗議さえ敢えてしなかったと言う。  ところが久美子夫人の彼女に対するこうした好意が、端なくも彼女に職を失わせる原因となった。彼女の看護婦としての優秀な手腕をかねてから嫉視している上に、彼女のそうした過分の寵遇を寄ると触ると妬み、羨み始めた仲間の新旧の看護婦連中が、とうとう彼女を白鷹助教授の第二夫人と言ったような噂を捏造して、八釜しく宣伝し始めたので、彼女は、久美子夫人に対して気の毒さの余り、身を退く事をお願いすると、夫人も涙ながらに承知して、分に過ぎた心付を彼女に与えたので、ユリ子はさながらに姉と妹が生き別れをするような思いをして、下谷の伯母の宅に引き取る事になったという。それが本年の五月の初めで、それから方々職を探しているうちに臼杵病院へ落ち着いたのでホッと一息した……と言う彼女の告白であった。 「……ですからこの間から白鷹先生が、どうしても臼杵先生にお会いにならない理由も、あたしにチャンとわかっておりましたわ。妾、きょう白鷹の奥さんにお眼にかかって、今までの気苦労を何もかもお話したのです。もしも臼杵先生と白鷹先生がスッカリ親友におなりになって、ソンナ事情がおわかりになった暁に、白鷹先生に気兼をなすった臼杵先生が、妾にお暇を下さるような事があったらどうしましょうってね……そうしたら奥様も涙をお流しになって、決して心配する事はない。これから先ドンナ事があっても臼杵先生の処を出てはなりません。そのうちに妾から臼杵先生によく頼んで上げますって言う、ありがたいお話でしたの……ですから妾、大喜びの大安心で横浜へ帰って来るには来たんですけど、きょう臼杵先生が白鷹先生にお会いになった時に、白鷹先生がドンナ態度をお執りになるか……如才ない方だから案外アッサリと御交際になるに違いないとは思うんですけど、またよく考えてみると、男の方ってものは、コンナ事にかけてはずいぶん思い切った卑怯な事をなさるものですから……まあ、御免遊ばせ。ホホ……そう思いますと、恐ろしくて恐ろしくて仕様がなくなって来たんですの。もしかすると白鷹先生は、今までの事を一つも知らないような顔をなすって、平常と違ったブッキラボーな初対面の態度で、臼杵先生を失望おさせになるかも知れない。そうして言わず語らずの間に妾の立場をないようになさるかも知れない。妾を根も葉もない虚構吐き女のインチキ娘に見えるように、お仕向けになるかも知れない…と気が付きますと、いても立ってもおられなくなって、先生のお帰りをあすこで待っているよりほかに妾、仕様がなくなったんですの。  ……ね……臼杵先生。先生が一番最初に白鷹先生に紹介してくれって仰言った時に、妾がスッカリ憂鬱になって、お断りしかけた事を記憶えてお出でになるでしょう。妾、あの時に何だかコンナ事が起りそうな気がして仕様がなかったもんですからアンナ風に躊躇したんですけど、大切な先生がアンナに熱心にお頼みになるもんですから、思い切って妾の事なんか構わないで、白鷹先生にお電話をかけたんですの。  ……ねえ……臼杵先生。ですから白鷹先生が、どうしても貴方にお会いにならなかった理由が、最早おわかりになったでしょう。白鷹先生は貴方が最早、妾から何もかもお聞きになっている事と思い込んでお出でになるもんですから、先生から顔を見られる事を、どうしてもお好みにならなかったんですよ。……ですから一度は是非とも会わなければならない。けれども会いたくない……と言ったような気持から、あんなような策略を何度も何度もお使いになったに違いないと思うんですの。あたし……白鷹先生の、そう言ったお気持がよくわかっていたもんですから……口惜しくって口惜しくって……。  ……あたし……他家のお家庭の秘密なんか無暗に喋舌る女じゃないのに……妾をドコまでもペシャンコのルンペンにして、世の中に浮かばれないようになさるなんて……先生のおためばっかり思って上げているのに……K大でアンナに一所懸命に働いて上げたのに……あんまり……あんまり……あんまりですわ……」  彼女は路傍の砂利積に撒布た石灰の上に黒い洋傘を投げ出して、両袂を顔に当てながら泣きジャクリ始めた。  気が付いてみると私等二人は、いつの間にか紅葉坂の自宅の石段の下まで来て、向い合ったまま立っていた。折から通りがかりの労働者らしい者が二、三人、妙な眼付で振り返って行ったが、あの連中の眼には私等二人が何と見えたであろう。  私はヤットの思いで彼女をなだめ賺して病院に帰らせた。しかしその時にドンナ言葉で彼女を慰めたか、全く記憶していない。万一記憶していたらドンナにか白鷹氏の憤慨に価する言い草ばかり並べていた事であろう。  直ぐ横の石段を上って、露地の突き当りに在る自宅の玄関の古ぼけた格子扉を開いたトタンに、奥座敷のボンボン時計が一時を打った。二十分近く進んでいたにしても彼女との立ち話がずいぶん長かった事を思い出して、私は一人で赤面してしまった。そうして無事太平らしい家の中の気はいを察して、吾れ知らずホ――ッと胸を撫で卸した事であった。  ところがその安心は要するに私の一時の糠喜びに過ぎなかった。電車の中で私が抱き続けて来た一種異様な鬼胎観念は、やはり意外千万な意味で物の美事に的中していたのであった。  心持ち昂奮気味で、慌しく私を出迎えた寝間着姿の姉と妻は、私の顔を見るや否や口を揃えて問いかけた。胸倉を取らんばかりに、 「白鷹先生にお会いになって……」  と左右から詰問するのであった。 「ウン会ったよ」 「姫草さんとは……」 「今、そこまで話して来た」  姉と妻とは顔を見合わせた。無言の二人の頬には、恐怖の色がアリアリと浮かんでいた。その顔を見ながら鼠の中折帽を脱った瞬間に私は、探偵小説の深夜の一ページの中に立たされている私自身を発見したような鬼気に襲われたものであった。 「姫草さんとドンナお話をなすったの」 「ウム。まあお前達から話してみろ」 「貴方から話して御覧なさいよ」 「……馬鹿……おんなじ事じゃないか。話してみろ」 「だって貴方……」 「茶の間へ行こう。咽喉が乾いた」  それから熱い番茶を飲みながら二人の女の話を聞いているうちに何と……今の今まで私の脳味噌の中に浮かみ現われていた奇妙な家庭悲劇の舞台面が、いつの間にかグルグルと一変してしまったのであった。  私の留守中に、病気で寝ておられるはずの白鷹久美子夫人から、臼杵病院へ電話が掛ったのであった。それは約二時間前に私に面会した白鷹助教授が、すぐに下六番町の自宅へ電話をかけた結果であったらしく、非常に冷静な、同時にこの上もなく友誼的な口調で、白鷹夫人が私の一家に対して警告してくれたものであった。  相手に出たのは妻の松子だったそうであるが、その時に白鷹夫人から聞いた事情なるものは、女の耳に取って真に肝も潰れるような事ばかりであったと言う。  勿論、姫草ユリ子の言葉にも多少の真実性はあった。彼女は確かにK大耳鼻科にいた事のある姫草ユリ子と同一人には相違なかった。彼女の看護婦としての技術が、驚異に価すべくズバ抜けた天才的なものであった事も事実には相違なかったが、しかし、同時に、実に驚異に価するほどのズバ抜けた、天才的な虚構の名人であった事も周知の事実であったと言うのである。  すこし社会的に著名な人物なぞがK大の耳鼻科に入院すると、彼女、姫草ユリ子は彼女独特の敏捷な外交手腕でもって他人を押し除けて看護の手を尽すのであった。そうしてそのような人々から一も姫草、二も姫草と言わせるように仕向けないでは措かないのであった。その結果、どうして手に入れたものか、そのような患者から貰ったと言う貴重品なぞを、自慢そうに同輩に見せびらかす事が度々であったという。  そればかりでない。彼女はそんな身分のある家族の方々のうちの誰かと婚約が出来た……なぞと平気で言い触らしたりなぞしているかと思うと、おしまいには、やはりズット以前に入院した事のある映画俳優か何かの胤を宿したから、堕胎しなければならぬ……と言ったような事を臆面もなく看護婦長に打ち明けて、長い事病院を休む。そのほか医員の甲乙と自分との関係を、自分の口から誠しやかに噂に立てる……と言った調子で、風儀を乱すことが甚しいので、とうとうK大耳鼻科長、大凪教授の好意によって諭示退職の処分をされる事になったという。  しかし以前からメソジストの篤信者であった白鷹久美子夫人は、かねてから彼女のそうした悪癖に対して一種の同情を持っていた。そうして彼女の才能と行末を深く惜しんだものらしく、彼女が首になると同時に自宅に引き取って、あらん限りの骨を折って虚構を吐かないように教育した。キリストの聖名によって彼女の悪癖を封じようと試みたものであった。  ところが、それが彼女に取っては堪まらなく窮屈なものであったらしい。とうとう無断で白鷹家を飛び出して行方を晦ましてしまったので、何処へ行ったものであろうと明け暮れ久美子夫人が気にかけているうちに突然、本年の六月の初め頃、ユリ子から電話が掛って来て、今は横浜の臼杵病院にいる。妾も、それから後、虚構を吐くのをピッタリと止めて、臼杵先生から信用されているから、以前の事は、どうぞ助けると思って秘密にして頂きたい……という極めてシオらしい話ぶりであったと言う。  しかし彼女の性格を知り抜いている白鷹夫婦は容易に彼女の言葉を信じなかったばかりでなく、それ以来、一種形容の出来ない不安に包まれていた。またあの女が臼杵家に入り込んで、まことしやかな虚構を吐いて、臼杵家を攪乱しようと思っているに違いない。それにつれてK大や白鷹家の事に就いても、どんな出鱈目を臼杵先生に信じさせているか解らない……という心配から、夫人が内々で妻の松子に宛てて、臼杵病院の所づけで度々、ユリ子の行状に関するさり気ない問合わせの手紙を出したそうであるが、それは多分、彼女が握り潰したものであろう、一度も返事が来なかった。  白鷹夫人の心配は、そこでイヨイヨ昂まる事になった。これはもしかしたらあの嘘吐きの名人の言葉を真正面から信じ切っている臼杵家の連中が、白鷹家を軽蔑して全然、取り合わない事にキメているのではあるまいか。しかし、そうかと言って、あんまり執拗い、急迫した手段で、臼杵家に交際の手蔓を求めるのも、こっちが狼狽しているようでおかしい……と言ったようないろいろな気兼から、いよいよ形容の出来ない、馬鹿馬鹿しく不愉快な不安に陥って行った。殊に気の小さい、神経質な白鷹氏はユリ子の悪癖を極度に恐れているらしく、この頃では夫婦で寄ると触ると、そんな事ばかり話合っていたところへ、きょう主人が臼杵先生にお眼にかかってみると、どうも御様子が変テコだから一応、電話でお伺いしてみろ。臼杵先生は大変にソワソワして昂奮しておられるようだったが、何かまたあの女が余計な事を仕出かしたのかも知れないから、早く電話をかけといた方がいいだろう。ユリ子が取次に出るか出ないか……という主人の言葉だった……と言う久美子夫人の話で、聞いていた妻の松子は、電話口に立っておられないほど、赤面させられてしまったという。  しかし、それでも妻の松子は、同時にタマラないほど不安な気持に包まれてしまったので、なおも勇を鼓して通話を伸ばして貰いながら、いろいろと久美子夫人に問い訊してみると案の定……今日まで姫草ユリ子が言い立てて来た事は、一から十までと言っていいくらい、事実無根の事ばかりであった。白鷹先生の平塚往診の事実も、歌舞伎座見物の話も、当日の久美子夫人の三越の玄関での卒倒事件も、または姫草がお見舞いに伺ったという事実までも皆、彼女の驚くべき出鱈目と言う事実が判明したと言うのであった。  私はその話を聞いているうちにグングンと高圧電気にかかって行くような感じがした。臼杵病院のマスコット。看護婦の天才。平和の鳩の生まれ変かと思われる姫草ユリ子の純真無邪気な姿が、見る見るレントゲンにでもかけられたような灰色の醜い骸骨の姿に解消して行く光景を幻視した。同時にタッタ今、泣きながら暗闇の紅葉坂を病院の方へ降りて行ったユリ子の姿を、浮き上るようなスパニッシュ・ワンステップのリズムと一緒に思い出しつつ、私の顔を一心に凝視している姉と妻の青|褪めた顔を見比べながら、何とも言えない不可思議な恐怖の感じを、背筋一面に匐いまわらせていた。  その時にまたも新しい茶を入れた妻の松子が、話に段落でも付けるように、長い深いタメ息を一つ吐きながらコンナ奇妙な事を言い出した。 「ねえ貴方。姫草って言う娘は何て不思議な娘でしょう。まったく掴ませられている事がハッキリわかっているのに妾、どうしてもあの娘を憎む気になれないのよ。白鷹の奥さんも、やっぱり妾たちとオンナジ気持で、あの娘をお可愛がりになったに違いない事が、今やっとわかったのよ。今の今までお姉さんと、その事ばっかり話していたとこなのよ」  この言葉を聞いた時に私はヤット決心が付いた。彼女……姫草ユリ子の不可思議な、底の知れない魅力……今では私の姉や妻までもシッカリと包み込んでしまっている恐るべき魔力に気が付いたので、思わずホッと溜息を吐いた。……と同時に、その美しい霧か何ぞのように蔽いかぶさって来る彼女の魔力から逃れ出る一つの手段を思い付いたので……それは少々乱暴な、卑怯に類した手段ではあったが……姉にも妻にも故意と一言も言わないまま立ち上って、今一度、玄関に出て帽子を冠った。妙な顔をして見送る二人に何処へ行くとも言わないで靴を穿いた。そのまま勢いよく紅葉坂の往来へ飛び出したが、何と言う恐ろしい事であろう。その時、坂の下一面に涯てしもなく重なり合っている黒い屋根や、明滅する広告電燈や、その上に一パイに散らばっている青白い星の光までもが皆、彼女の吐き散らかした虚構の残骸そのもののように思われるのであった。  私は身ぶるいを一つしながら紅葉坂を馳け降りた。来合わせたタキシーを拾って神奈川県庁前の東都日報支局に横付けて、中学時代の同窓であった同支局主任の宇東三五郎をタタキ起して、程近い鶏肉屋の二階に上った。そこで「面白いネタになるかも知れないが」と言うのを切出しに、彼女に関する今までの事実を逐一、包まずに説明して、一体どうしたものだろうと宇東主任の意見を聞いてみた。  自慢の船長|髯をひねりひねり黙って聞いていた宇東三五郎は、やがて私の顔を見てニンガリと薄笑いをした。彼一流の率直な口調で質問した。 「ふうん。そこで僕は君から一つ真実の告白を聞かせて貰わにゃならん」 「何も告白する事はないよ。今の話の外には……」 「ふうん。そんなら彼女と君との間には何の関係もないチュウのじゃな」 「……馬鹿な……失敬な……俺がソンナ……」 「わかった、わかった。それでわかったよ」  宇東三五郎は突然マドロスパイプを差し上げて叫んだ。 「わかった、わかった。赤たん赤たん」 「えっ。赤たん……?……何だい赤たんて……」 「赤チュウタラ赤たん。主義者以外に、そんげな奇妙な活躍する人間はおらんがな。現在、そこいらで地下運動をやっとる赤の活動ぶりソックリたん。まだまだ恐ろしいインチキの天才ばっかりが今の赤には生き残っとるばんたん。そんげな女をば養う置くかぎり、今にとんでもない目に会うば……アンタ……」 「うん。ヤッとわかった。その赤カンタン。しかし真逆にあの娘が、そんな大それた……」 「いかんいかん。それが不可んてや、そんげ風に思わせるところが、赤一流の手段の恐ろしいところばんたん。赤にきまっとる。赤たん赤たん。それ以外にソンゲな奇怪な行動をする必要がどこに在るかいな。その姫草ちゅう小娘は、君の病院を中心にして方々と連絡を保っとる有力な奴かも知れんてや」 「ウ――ム。それはそう思えん事もないが、しかし僕の眼には、ソンナ気ぶりも見えないぜ」 「見えちゃあタマランてや。君等のようなズブの素人に見えるくらいの奴なら、モウとっくの昔に揚げられてブランコ往生しとるてや」 「フ――ム。そんなもんかなあ」 「とにかくその娘ん子は吾々の手に合うシロモノじゃないわい。第一、今のような話の程度では新聞記事にもならんけにのう。今から直ぐに特高課長の自宅に行こう」 「エッ。特高課長……」 「ウン。しかし仕事は一切吾々に任せちくれんと不可んばい。悪うは計らわんけにのう」 「何処だい特高課長は……遠いのかい」 「知らんかアンタ」 「知らんよ」 「知らんて、君の自宅の隣家じゃないか」 「エッ。隣家……」 「うん。田宮ちゅう家がそうじゃ。迂闊やなあ君ちゅうたら……」 「俺が赤じゃなし。気も付かなかったが……」 「その何草とか言う小娘は、君の家よりもその隣家が目標で、君に近付きよるのかも知れんてや。それじゃから俺は感付いたんじゃが……」 「成る程なあ。その田宮ちゅう男なら二、三度門口で挨拶した事がある。瓦斯を引く時にね。人相の悪い巨きな男だろう」 「ウン。それだ、それだ。知っとるならイヨイヨ好都合じゃ。直ぐに行こうで……チョット待て、支局から電話をかけて置こう」  話はダンダンと急テンポになって来た。話のドン底が眼の前に近付いて来たようであるが、果してそのドン底から何が出て来るであろうか。  私は何となく胸を轟かしながら宇東と一緒にタキシーに飛び乗った。  田宮特高課長は、もうグッスリ眠っていたそうであるが、職掌柄、嫌な顔もせずに二階の客間で会ってくれた。  長脇差の親分じみた、色の黒い、デップリとして貫禄のある田宮氏は、褞袍のまま紫檀の机の前に端然と坐って、朝日を吸い吸い私の話を聞いてくれたが、聞き終ると腕を組んで、傍の宇東記者をかえり見た。つぶやくように言った。 「赤じゃないかな」  それを聞いた時、私はまたもドキンとさせられた。思わず膝を進めながら恐る恐る尋ねた。 「赤としたらどうしたらいいでしょうか」  田宮氏は冷然と眼を光らせた。 「引っ括って見ましょうや」 「……エッ……引っ括る……どうして……」 「明朝……イヤ……今朝ですね。夜が明けたら直ぐに刑事を病院に伺わせますから、それまでその看護婦を逃がさないように願います」 「そ……それはどうも困ります」  と宇東三五郎が気を利かして慌ててくれた。 「実はそこのところをお願いに参りましたので、臼杵君も開業|※々赤の縄付を出したとあっては……」 「アハハ。いかにも御尤もですな。それじゃこう願えますまいか。明朝なるべく早くがいいですな。何かしら絶対に間違いのない用事をこしらえてその娘を外出させて下さいませんか。行先がわかっておれば尚更結構ですが」 「……承知しました。それじゃこうしましょう。僕が南洋土産の巨大な擬金剛石を一|個持っております。姉も妻もアレキサンドリアが嫌いなので、始末に困っておるのですが、それをあの娘に与って、直ぐに指環に仕立るように命じて伊勢崎町の松山宝石店に遣りましょう。遅くとも九時から十時までの間には、出かける事と思いますが……十時頃から忙しくなって来ますから」 「結構です。しかし近頃の赤はナカナカ敏感ですから、よほど御用心なさらないと……」 「大丈夫と思います。今夜、ここへ伺った事は誰も知りませんし……それに妻がズット前、姫草に指環を一つ買って遣るって言った事があるそうですから……」 「成る程ね。それじゃソンナ都合に……」 「承知しました。どうも遅くまで……」  そんな次第で私はその晩とうとう睡眠薬を服まなければ睡られないような惨憺たる神経状態に陥ったが、後で聞いてみたら姉と妻も同様であったと言う。私から委細の話を聞いた二人は、夜が明けると直ぐに姫草ユリ子の可憐な肩の上に落ちかかるであろう恐ろしい運命が、如何に止むを得ない、同時に恐ろしいものであるかを想像しながら昂奮の余り、ロクロク睡らずに夜を明かしたそうである。松子はウトウトしたかと思うと高手小手に縛り上げられて病院を引摺り出される姫草ユリ子の姿をアリアリと見たりしてゾッとして眼が醒めたという。姉なぞは御丁寧にも、絞首台にブラ下っている彼女の死に顔までマザマザと見届けて、何度も何度も魘されながら松子にユリ起されたと言うから相当なものであろう。  それでも夜が明けてからの計画は百パーセントに都合よく運んだ。妻の松子が何喰わぬ顔で病院に来ると直ぐに、姫草看護婦をソッと薬局に呼び込んで、大粒のアレキサンドリアを彼女の手に握らせた態度はきわめて自然なものであった。さすがのユリ子も毛頭疑う様子もなく、衷心から嬉しそうにペコペコして私の処まで飛んで来てお礼を言ったくらいであったが、その時に私が平常の通りのニコニコ顔で鷹揚にうなずいた態度も、いかにも名優気取であったと言う。後で姉からさんざん冷やかされたものであった。  しかし彼女……姫草ユリ子が、十時の開診時間を気にしながら大急ぎで着物を着かえて、イソイソと病院の玄関を出て行く背後姿を見送った姉と、妻と、私の態度が、ほかの看護婦や患者の眼に付くくらい緊張していた。まるで高貴なお方のお出ましでも見送るかのように棒のように強直していたために、アトから何事ですかと皆から尋ねられたのは明らかに失態であった。況んや姉と妻は、セグリ出て来る涙を隠すべく、慌てて洗面所へ逃げ込んだと言うのだから、滑稽を通り越して何の事だかわからない。  姫草ユリ子はその儘帰って来なかった。  姉と妻と私は、その一日中、今更のように魘えた蒼白い顔を時々見交していたものであったが、その晩一晩置いて翌る朝の八時頃、隣家の田宮特高課長の処から、尋常一年生の坊ちゃんが、私を迎いに来てくれたから、大ビクビクで着物を着換えて行ってみると、田宮氏は一昨夜の通りの褞袍姿で、横浜港内を見晴らした二階の客室に待っていた。私の顔を見ると妙に赤面したニコニコ顔で、熱い紅茶なぞをすすめてくれたが、昨日よりもズット磊落な調子で、投げ出したように言うのであった。 「あれは赤ではありませんよ」 「ヘエ……」  と私は少々面喰って眼をパチパチさせながら坐り直した。 「折角のお骨折りでしたがね。取り調べてみると赤の痕跡もありませんよ。……尤も郷里は裕福というお話でしたが、電話と電報と両方で問い合わせたところによりますと、実家は裕福どころか、赤貧洗うが如き状態だそうです。何でも直ぐの兄に当る二十七、八になる一人息子が、家|土蔵をなくするほどの道楽をした揚句、東京で一旗上げると言って飛び出した切り、行方を晦ましているそうで、年|老った両親は誰も構い手がないままに、喰うや喰わずの状態でウロウロしているそうです。勿論あの女……何とか言いましたね……そうそうユリ子からも一文も来ないそうで、お話の奈良漬の一件や何かも彼女の虚構らしいのです。姫草ユリ子という名前も本名ではないので、両親の苗字は堀というのだそうです。慶応の病院へ入る時に自分の友人の妹の戸籍謄本を使って、年齢を誤魔化して入ったと言うのですがね。本当の名前はユミ子というのですが、その堀ユミ子が十九の年に、兄の跡を逐うて故郷を飛び出してからモウ六年になると言うのですから、今年十九という姫草の年齢も出鱈目でしょう。自分では二十三だと頑張っていましたがね。むろん女学校なんか出ていないと言う報告ですから、ドコまでインチキだか底の知れない女ですよアレは……」 「ヘエ。全然赤じゃないんですね」 「赤の連絡は絶対にありません。随分手厳しく調べたつもりですが」 「そうするとあの女は、つまり何ですか」 「それがですね。エヘン。それがです。つまるところあの女は一個の可哀そうな女に過ぎないのです。貴方がたの御親切衷心から感激しているのですね。一生を臼杵病院で暮したいと言っているのです。臼杵家の人達に疑われるくらいなら私、舌を噛んで死んでしまいますとオイオイ泣きながら言うのですからね」 「ヘエー。ほんとうですか」 「ほんとうですとも。ハハハ。けさ十時頃までに迎えに来て下さい。単に赤の嫌疑で引張ったのだが、その嫌疑が晴れたから釈放するのだ。気の毒だった……とだけ言い聞かせて、ほかの事は何も言わずに、お引き渡ししますから……臼杵先生も十分にお前を信用してお出でになるのだから、あんまり虚構を吐かないように……ぐらいの事は説諭して遣ってもいいです。とにかく可哀相な女ですから、末永く置いて遣って下さい」 「……ヘエエ。妙ですね。それじゃあの女は何の必要があって、あんな人騒がせな出鱈目を創作して、吾々に恥を掻かせたんでしょう。根も葉もない事を……」 「ええ。それはですね。その点も残らず取り調べてみましたが、要するにあの娘のつまらない性癖らしいのです。山出しの女中が自分の郷里の自慢をする程度のものらしいので、別に犯罪を構成するほどの問題じゃありません。それ以上はどうも個人の秘密に亙っておりますので取り調べかねるのですが。ハハハ。とにかく宝石を一つ御損かけてすみませんでした。どうか末永く可愛がって置いて遣って下さい。可哀相な女ですから……僕はこれから出勤しますから失礼します」  鈍感な私は、こうした田宮氏の態度から何事も読み出し得なかった。何の気も付かない阿呆みたいな恰好で追払われながら引き退って来た。そのままこの事を姉と妻に話して聞かせると、二人もまたいい気なもので凱歌を揚げて喜んだ。 「ソレ御覧なさい。言わない事じゃない」 「言わない事じゃないって、馬鹿……何とも言やしないじゃないか。最初から……」 「いいえ。私そう思ったのよ。姫草さんに限って赤なんかじゃないと思ったんですけど、貴方が余計な事をなさるもんだから……」 「何が余計な事だ。些くとも姫草が虚構吐きだった事がハッキリわかったじゃないか……」 「でもまあよかったわねえ。何でもなくて……タッタ今お姉様とお話していたのよ。姫草さんが万一無事に帰って来たら、暇を出そうか出すまいかってね。いろいろ話し合ってみた揚句、いくら何でも可哀相ですから、貴方にお願いして置いて頂こうじゃないのって……そう言っていたとこよ。……まあ。よかったわねえ。うちのマスコット……私たち二人で直ぐに迎えに行って来ますわ。ね……いいでしょう」  二人はそれから威勢よく自動車に乗って出かけた。私に朝飯を喰わせる事も忘れたまま……。  ユリ子は留置所の前の廊下で姉の胸に取り縋ったそうである。五つ六つの子供のように、 「もうしません、もうしません、もうしません」  と泣き叫んで身もだえするので二人ながら弱ったそうであるが、それほどに取り調べが峻烈だったかと思うと、姉も妻も暗涙を催したと言う。  それから三人一緒に自動車で帰って来たが、ユリ子の襟首からは昨日の朝のお化粧がアトカタもなく消え失せていたので、姉と妻とで湯に入れて遣ったり、下着を着かえさせたりして、まるで死んだ人間が生き返ったような騒ぎをした後に、やっと私と一緒に朝の食事にありつかせたが、ユリ子はただ、 「すみません、すみません」  と繰り返し繰り返し泣くばっかりで飯もロクロク咽喉に通らないようであった。  ところが彼女……姫草ユリ子……もしくは堀ユミ子の性格は、どこまで奇妙不可思議に出来上っているのであろう。  わざわざ出勤を遅らせた私が、玄関横の客間に彼女を坐らせていろいろ取り調べの模様を聞いてみると……どうであろう。その取り調べの内容なるものが実に意外にもビックリにも、お話にならないのであった。  スッカリ化の皮を剥がれてしまって、見る影もなく悄然となった彼女の、涙ながらの話によると、伊勢崎署に於ける警官諸君の、彼女に対する訊問ぶりは峻烈どころの騒ぎではなかった。聞いている姉と松子が座に堪えられなくなったほどに甘ったるい、言語道断なものであった状態を、彼女はシャクリ上げシャクリ上げしながら口惜しそうに説明し始めたのであった。巨大な鉄火鉢のカンカン起った署長室で、平服の田宮特高課長と差向いで話した時の室内の光景から、何度も何度も炭火の跳ねたところから、田宮課長の腕時計の音までも、真に迫って話すのであった。  しかし私はこの時に限ってチットモ驚かなかった。  私は、そんな風な話を平気で進めながら、次第次第に昂奮して、雄弁になって来る彼女の表情をジイット凝視ているうちに、彼女の眼付きの中に一種異様な美しい光が、次第次第に輝き現われて来るのを発見した。それは精神異常者の昂奮時によく見受けるところの純真以上に高潮した純真さ、妖美とも凄艶とも何とも形容の出来ない、色情感にみちみちた魅惑的な情欲の光であった。そうした彼女の眼の光を見守っているうちに、鈍感な私にも一切のウラオモテが次第次第に夜の明けるように首肯されて来た。彼女の不可思議な脳髄の作用によって描きあらわされて来た今日までの複雑混沌を極めた出来事のドン底から、実に平凡な、簡単明瞭な真実が、見え透いて来たのであった。  性急な私は彼女の話の最中に、便所に行く振りをして、ソッと茶の間に来た。そこで真赤になって苦笑している妻の松子に耳打ちして、病院に彼女と一緒に寝起きしている看護婦を大至急で呼び寄せて、ユリ子に関する或る秘密を問い訊してみた。  呼ばれて来たのは田舎から出て来たままの山内という看護婦であった。何処までも正直な忠実な、いつもオドオドキョロキョロしている種類の女であったが、彼女は私たち三人の前で、真赤な両手を膝の上にキチンと重ねながら、柔道選手か何ぞのように眼を据えて答えた。姫草に怨みでもあるかのように……。 「ハイ。姫草さんの月経来潮は正確で御座いました。毎月大抵、月の初めの四日か五日頃です。わたくし、いつも洗濯をさせられますので、よく存じております」  これを聞いた私は一も二もなく立ち上って、洋服に着かえた。何もかも放ったらかしたまま自動車を飛ばして、県の特高課に乗り込んで、出勤したばかりの田宮課長に面会した。遠慮も会釈も抜きにして述べ立てた。 「田宮さん。やっとわかりました。御厄介をかけましたあの姫草ユリ子と言う女は、卵巣性か、月経性かどちらかわかりませんが、とにかく生理的の憂鬱症から来る一種の発作的精神異常者なのです。あの女が一身上の不安を感じたり、とんでもない虚栄心を起して、事実無根の事を喋舌りまわったりするのが、いつも月経前の二、三日の間に限られている理由もやっとわかりました。僕の日記を引っくり返してみれば一目瞭然です」 「ハハア。そうでしたか。実は私の方でも経験上、そんな事ではないか知らんと疑ってもみましたが、一向、要領を得ませんでしたので……しかしどうしてソンナ事実をお調べになりましたか」 「……ところでこれは、お互いに名誉に関する事ですから御腹蔵なくお話下さらんと困りますが、昨晩、お取り調べの際にあの女は、何か僕の事に就いて話はしませんでしたか」  さすがに物慣れた田宮氏も、この質問を聞いた時には真赤になってしまった。 「アハハハ。わかりましたか……貴方の処に帰ってから白状しましたか」 「イヤイヤ。そんな事はミジンも申しませんでしたが、その代りに貴方のお取り調べの御親切だった模様を喋舌りました。実に念入りな、真に迫った説明付きで……ですからこれは怪しいと思いますと、直ぐに今朝からのお話を思い出しまして、ジッとしておられなくなりましたから飛んで参りました。非道い奴です。あの女は……」  イヨイヨ真赤になった田宮氏は制服のまま棒立ちになってしまった。 「イヤ。よく御腹蔵なくお話下すった。それならばコチラからも御参考までにお話しますが、君は十月の……何日頃でしたか。午後になって箱根のアシノコ・ホテルに外人を診察しに行かれましたか」 「ええ。行きました。石油会社の支配人を……ラルサンという老人です」 「その時にあの女を連れて行かれましたか」 「行くもんですか。一人で行ったのです」 「成る程。それでユリ子はお留守中、在院していたでしょうか」 「……サア……いたはずですが……連れて行かないのですから……」 「ところがユリ子は、その日の午後には病院にいなかったそうです。昨夜、君の病院の看護婦に電話で問合わせてみたのですが、何でも君が出かけられると間もなく横浜駅から自動電話がかかって、直ぐに身支度をして横浜駅に来いと命ぜられたそうですが……」 「ヘエ。驚きましたな。あの女は少々電話マニアの気味があるのです。よく電話を応用して虚構を吐きます。そんな電話が実際にかかっているように受け答えするらしいのです」 「とにかくソンナ訳でユリ子は、大急ぎでお化粧をして、盛装を凝らして病院を出て行ったそうです」 「プッ。馬鹿な……盛装の看護婦なんか連れて診察に行けるもんじゃありません」 「そうでしょう。私もその話を聞いた時に、少々おかしいと思いました。看護婦を連れて行く必要があるかないかは病院を出られる時からわかっているはずですからね」 「第一、そんな疑わしい連れ出し方はしませんよ。ハハハ」 「ハハハ。しかしその時のお話を随分詳しく伺いましたよ。まぼろしの谷とか何とか言う素晴らしい浴場がそのホテルの中に在るそうですがね。行った事はありませんが……」 「僕は聞いた事もありません。そのホテルでラルサンという毛唐と一緒に食事はしましたがね。まだいるはずですから聞いて御覧になればわかりますが、かなりの神経衰弱に中耳炎を起しておりましたから、鼓膜切解をして置きましたが……」 「そうですか……そのまぼろしの何とか言う湯の中の話なんかトテも素敵でしたよ。青黒い岩の間に浮いている二人の姿が、天井の鏡に映って、ちょうど桃色の金魚のように見えたって言いましたよ……ハハハハ……」 「馬鹿馬鹿しい。いつ行ったんだろう」 「一人で行くはずはないですがね」 「むろんですとも……呆れた奴だ」 「どうも怪しからんですね」 「怪しからんです……実は今朝、貴官から、いつまでも可愛がって置いて遣るように御訓戒を受けましたが、そんな風に人の名誉に拘わる事を吐きやがるようじゃ勘弁出来ません。これから直ぐにタタキ出してしまいますから、その事を御了解願いに参りましたのですが」 「イヤイヤ。赤面の到りです。謹んでお詫び致します。どうか直ぐに逐い出して下さい。怪しからん話です」 「怪しからんぐらいじゃありません。私の不注意からとんだ御迷惑を……」 「しかしとんでもない奴があれば在るものですな。初めてですよ。あんなのは……」 「そうですかねえ。あんなのは珍しいですかねえ。貴官方でも……」 「所謂、貴婦人とか何とか言う連中の中には、あの程度のものがザラにいるでしょうが、犯罪を構成しないから吾々の手にかからないのでしょうな」 「それともモット虚構が上手なのか……」 「それもありましょう。つまり一種の妄想狂とでも言うのでしょうな。自分の実家が巨万の富豪で、自分が天才的の看護婦で、絶世の美人で、どんな男でも自分の魅力に参らない者はない。いろんな地位あり名望ある人々から、直ぐにどうかされてしまう……と言う事を事実であるかのように妄想して、その妄想を他人に信じさせるのを何よりの楽しみにしている種類の女でしょうな。一昨夜のお話に出た、子供を生んだという事実なんかも、彼女自身の口から出たものとすれば事実じゃないかも知れませんね。事によると彼女はまだ処女かも知れませんぜ……ハッハッ……」 「アハハハハ。イヤ。非道い目に会いました。どうかよろしく……」 「さようなら……」   そう言って別れた帰りがけに私は、彼女の身元引受人になっている下谷の伯母の処へ電報を打った。世にも馬鹿馬鹿しい長たらしい夢から醒めたように思いながら……それでも彼女の伯母さんなる人物が、真実にいるのか知らんと疑いながら……。  彼女の伯母さんと言う髪結い職の婦人は、早くもその日の夕方にノコノコと私の自宅へ遣って来た。赤々と肥った四十恰好の、見るからに元気そうな櫛巻頭に小ザッパリとした木綿着物で、挨拶をする精力的な声が、近所近辺に鳴り響いた。 「……まああ……呆れた娘ですわねえ。ほんとに……いいえ。私はあの娘の伯母でも何でもないんですよ。これでもお江戸のまん中あたりで生まれたんですからね。ヘヘヘ……あたしが先立って、あの大学の耳鼻科に入って脳膜炎の手術をして頂いた時に、あの娘さんに親身も及ばぬくらい世話になったもんですからね。それが縁になってツイ転がり込まれちゃったんですの。伯母さん伯母さんて懐かれるもんですから、仕方なしに身元引受人になっているんですがね。……いいえ。それがねえ。あの娘がいつまでもいつまでも私の家にいると近所の若い者が五月蠅くて困るんですよ。あの娘はホントに何て言うんでしょうねえ。妙な娘で御座んしてね。私の家に来てから二、三日と経たないうちに近所の若い衆からワイワイ騒がれるんですからね。まるで魔法使いみたいなんですよ。ですから、早く何処かへ行って頂戴。引受人にでも何でもなったげるからってね。そう言って追い出したんですけど……」  そんな事をペラペラ喋舌り立てる片手間に、彼女は足袋の塵を払い払い台所口からサッサと茶の間に上り込んで来た。そこで彼女は旧式の小さな煙草|容器を出して、細い銀|煙管を構えながら一段と声を落して眼を丸くした。私がすすめた煙草盆に一礼しながら……大変な身元引受人が出て来たのに驚いている私等三人の顔を交る交る見比べた。 「その若い衆で思い出したんですけどね。あの娘は何でもこの間っから、東京中の新聞に大きく出た『謎の女』ってね……御存じでしょう。あの本人らしいんですよ。コレくらいの悪戯なら妾だって出来るわ……ってね。あの娘が若い衆にオダテられてウッカリ喋舌ったって言うんですの。それからミンナが面白半分にわいわい言って、いろいろ問い訊してみると、どうも本人らしいので皆、気味が悪くなったんですって。あの娘が出て行ったアトで私に告口した者がいるんですよ。……ですからそう言われると私も気味が悪くなっちゃいましてね。あの娘が仕事を探しに行った留守に、預けて行った手廻りの包みの中を調べてみたら、どうでしょう。新しい小さな紙挾みの中に、あの『謎の女』の新聞記事が、幾通りも幾通りも切り抜いて仕舞って在るじゃあありませんか……いいえ。ほかの記事は一つもないんですよ。わたくしゾッとしちゃいましてね。今にドンナ尻を持ち込まれるかと思ってビクビクしていたんですよ。でもまあソレぐらいの事ですんでよござんした。ええ、ええ、引き取って参りますとも……エエ、エエ、なるたけ眼に立たないように呼び出してソッと連れて参ります。モウモウあんな風来坊の宿請は致しません。マゴマゴすると身代限りをしてしまいます。……兄貴なんかいるもんですか。みんな嘘ッ八ですよ。……お宅様も災難で御座んしたわねえ。いくらかお金を遣って故郷へ帰したら後生の悪い事も御座んすまいし、怨まれる気遣いも御座んすまい。どうもお気の毒様で御座んした。一人で喋舌りまして相すみません。とんだお邪魔を致しまして……ハイ。さようなら……」  彼女は約束通り人知れずユリ子を呼び出して連れて行ったらしい。姫草ユリ子はその夕方から私達には勿論のこと、一緒にいる看護婦たちにも気付かれないまま姿を消してしまった。そうして冒頭に書いた彼女の遺書以外に、彼女から何の音沙汰もなく、病院の方も以前の通りの繁昌を続けている。  それでも彼女の名前を当てにして病院に尋ねて来る患者は、まだなかなか尽きない。私の病院は彼女のために存在していたのじゃないか知らんと疑われるくらいである。  一方にその後、警官や刑事諸君が遊びに来ての話によると、彼女は向家の蕎麦屋にいる活弁上りの出前持を使って電話をかけさせておったものだそうで、白鷹助教授に化けて東京から電話をかけたのもその弁公だったそうである。文句は彼女がスッカリ便箋に書いて、弁公を病院の地下室に呼び込んで、何度も何度も練習させたものだそうでまた、白鷹氏の手紙も、彼女が文案をして県庁前の代書人に書かせて投凾したものだと言う事が、彼女の白状によって判明していたと言うが、そんな話を聞けば聞くほど、彼女の虚構の創作能力と、その舞台監督的な能力が、尋常一様のものでなかった。虚構の構成に関する、あらゆる専門的……もしくは病的な知識と趣味とを彼女は持っていた。如何なる悪党、または如何なる芸術家も及ばない天才的な、自由自在な、可憐な、同時に斃れて止まぬ意気組を以て、冷厳、酷烈な現実と闘い抜いて来たか。K大病院、警視庁、神奈川県警察部、臼杵病院を手玉に取って来たか。次から次へと騒動を起させながら音も香もなくトロトロと消え失せて行った腕前の如何に超人的なものであるかを想像させられて、私はいよいよ驚愕、長嘆させられてしまった。  それから今一つ重要な事は、それから後、いろいろと病院の内部を調査しているうちに、小型の注射器とモルヒネの瓶が一個、紛失しているのを発見した事である。しかも彼女……姫草ユリ子がそれを盗んで行く現場を、前に言った山内という山出し看護婦が見たのは、ズット以前の九月の初め頃の事だったそうであるが、その時に姫草が振り返って、 「喋舌ったら承知しないよ」 と言って睨み付けた顔が、それこそ青鬼のように恐ろしかったので、今日まで黙っておりました…… ……姫草さんのような気味の悪い、怖ろしい人はありませんでした。いつも詰まらない詰まらない、死にたい死にたいと言っておられましたので、私は恐ろしくて恐ろしくて、姫草さんが夜中に御不浄に行かれる時なぞ、後からソーッと跟いて行った事もありました。……その癖、姫草さんはトテモ横暴で、汚れ物や何かもスッカリ私に洗濯おさせになりますし、向家のお蕎麦屋の若い人を呼ばれる時にも妾をお使いに遣られます。そうして「妾の秘密がすこしでも臼杵先生にわかったら、妾は貴女を殺して自殺するよりほかに道がないんですからそのつもりでいらっしゃい。この病院を一歩外へ出たら妾はモウ破滅なんだから」と姫草さんは繰り返し繰り返し言っておりました。ですから私は何が何だかわからないまま姫草さんの言う通りになっておりました……  と山内看護婦が眼をマン丸にして、白状した事であった。  私はかの姫草が、その虚構の一つ一つに全生命を賭けていた事を、この時に初めて知った。彼女の虚構が露見したら、すぐにもこの世を果敢なみて自殺でもしなければいられないくらい、突き詰めた心理の窮況に陥りつつ日を送り、夜を明かして来たのであろう。しかも、そうした冒険的な緊張味の中に彼女は言い知れぬ神秘的な生き甲斐を感じつつ生きて来たものであろう。  彼女は殺人、万引、窃盗のいずれにも興味を持たなかった。ただ虚構を吐く事にばかり無限の……生命がけの興味を感ずる天才娘であった。  彼女は貞操の堕落にも多少の興味を持っていたらしい。しかし、それも具体的な堕落でなくて、虚構の堕落ではなかったか。現実的な不道徳よりも、想像の中の不倫、淫蕩の方が遙かに彼女の昂奮、満足に価してはいなかったか。彼女は肉体的には私達第三者が想像するよりも、遙かに清浄な生涯を送ったものではなかったかと想像し得る理由がある。  彼女ほどの虚構吐きの名人がK大以来一度も変名を用いなかった心理も、ここまで考えて来ると想像が付いて来る。それは姫草ユリ子なる名称が、彼女の清らかな、可憐な姿の感じに打って付けである事を、彼女が自覚していたばかりでない。そうした彼女の気持の清浄無垢さを誇りたい彼女の心の奥の何ものかが、こうした名前に言い知れぬ執着を感じていたせいでは、あるまいか。  白鷹兄足下  姫草ユリ子に関する小生の報告は以上で終りです。  宇東三五郎は依然として彼女を、きわめて巧妙な地下運動者の一人である。彼女は表面上、単純な虚構吐き女を装いながら、思う存分の仕事を為し遂げて、その恐るべき地下運動の一端さえも感付かせないまま、凱歌を上げて立ち去った稀代の天才少女である。その伯母さんなる中年婦人も、彼女と一緒に働いている有力な地下運動者の一人で、彼女の仕事に一段落を付けるべく、サクラとなって彼女を救い出しに来たものかも知れない、とさえ疑っているようであります。  また、田宮特高課長は彼女を一種特別の才能を備えた色魔にほかならぬ。臼杵病院の付近の若い者で、彼女の名前を知らない者が一人もない事実が、あとからあとから判明して来るのを見てもわかる。だから貴下も小生も、彼女の怪手腕に翻弄されながら、彼女に同情しつつ在る最も愚かな犠牲者である……と言った風に考えているらしい事が、時折、遊びに来る刑事諸君の口吻から察しられるのですが、しかしこれは余りに想像に過ぎていると思います。換言すれば彼女に敬意を払い過ぎた観察とでも申しましょうか。  貴下と御同様に……と申しては失礼かも知れませぬが、小生がソンナ事実を信じ得る理由を発見し得ませぬ理由を、貴下は最早十分に御首肯下さる事でしょう。  小生は小生の姉、妻と共に告白します。小生等は彼女を爪の垢ほども憎んでおりません。  何事も報いられぬこの世に……神も仏もない、血も涙もない、緑地も蜃気楼も求められない沙漠のような……カサカサに乾干びたこの巨大な空間に、自分の空想が生んだ虚構の事実を、唯一無上の天国と信じて、生命がけで抱き締めて来た彼女の心境を、小生等は繰り返し繰り返し憐れみ語り合っております。その大切な大切な彼女の天国……小児が掻き抱いている綺麗なオモチャのような、貴重この上もない彼女の創作の天国を、アトカタもなくブチ毀され、タタキ付けられたために、とうとう自殺してしまったであろうミジメな彼女の気持を、姉も、妻も、涙を流して悲しんでおります。隣家の田宮特高課長氏も、小生等の話を聞きまして、そんな風に考えて行けばこの世に罪人はない……と言って笑っておりましたが、事実、その通りだと思います。  彼女は罪人ではないのです。一個のスバラシイ創作家に過ぎないのです。単に小生と同一の性格を持った白鷹先生……貴下に非ざる貴下をウッカリ創作したために……しかも、それが真に迫った傑作であったために、彼女は直ぐにも自殺しなければならないほどの恐怖観念に脅やかされつつ、その脅迫観念から救われたいばっかりに、次から次へと虚構の世界を拡大し、複雑化して行って、その中に自然と彼女自身の破局を構成して行ったのです。  しかるに小生等は、小生等自身の面目のために、真剣に、寄ってたかって彼女を、そうした破局のドン底に追いつめて行きました。そうしてギューギューと追い詰めたまま幻滅の世界へタタキ出してしまいました。  ですから彼女は実に、何でもない事に苦しんで、何でもない事に死んで行ったのです。  彼女を生かしたのは空想です。彼女を殺したのも空想です。  ただそれだけです。  この事を御報告申し上げて、御安心を願いたいためにこの手紙を書きました。  A・Cのスプレーで睡魔を防ぎながらヤットここまで書いて参りましたが、もう夜が白けかかって脳味噌がトロトロになりましたから擱筆します。  彼女が死んだ後までも小生等を抱き込んで行こうとした虚構の流転も、それから貴下に対する小生の重大な責任もこの一文と共に完全に……何でもなく……アトカタもなく終焉を告げて行く事になります。  さようなら。  彼女のために祈って下さい。 殺人リレー 第一の手紙  山下智恵子様 みもとに   ミナト・バスにて  友成トミ子より  お手紙ありがとうよ。  女車掌になりたいって言う貴女の気もち、よくわかりましたわ。  百姓の生活はつまらない。  青空や雲を見てタメ息なんかしてはいけない。東京の方へ行く赤、青、白の筋の付いた汽車を見送ってボンヤリなんかしていたら、なおさらいけない。汗でも涙でも、うつむいて土の中に落して行かなければ、百姓仲間の裏切者みたいに両親や兄弟から睨まれる。土から生まれて、土まみれのボロを着て、真黒い、醜い土くれのようなお婆さんになって、土の中に帰るだけ……。  ほんとうだわね。同情しますわ。  ですけども女車掌になんか成っちゃ駄目よ。ほかの仕事はあたし知りませんけど、女車掌だけはホントウにダメなのよ。お百姓なんかよりもモットモットつまらない、そうしてモットモット恐ろしい、イヤな仕事なのよ。  女車掌の運命なんてものは、往来に散らかっている紙キレよりもモットモット安っぽいものなのよ。女車掌になってみると、すぐにわかるわ。  早い話が、お百姓の娘でいると、お婿さんは純真な村の青年の中から御両親が選んで下さるでしょ。都合よく行くと好きな人とも一緒になれるでしょう。  ですけど女車掌になると、そんな幸福を最初からアキラメていなければならないのです。会社の重役さんとか、役員さんとか、自動車係りの巡査さんの言う事は、どんなにイヤな事でもおとなしく聞いて置かないと、直ぐに首になるのです。何とかカントかナンクセを付けて追い出されてしまうのです。私みたいに身よりタヨリのない孤児の女はなおさら、そうなのです。ですから賢い人はなるたけお白粉を塗らないようにして給料の上らないのは覚悟の前で、眼に立たないように、影にまわってばっかり働いているのです。その馬鹿馬鹿しい息苦しさったらないのですよ。  そうして、そればっかりじゃないのよ。  あたし御存じの通り親も兄弟もない孤児ですから、女給にでも交換手にでも何でもなれるんでしたけど、女運転手が勇カンでスタイルがいいと思って、そのお稽古のつもりで女車掌になったんですけど……望み通りに運転手になって、お金を儲けたって、それから先は何の目的もないんですからねえ。孝行をする親も、可愛がる弟もないんですからねえ。つまんないわ。毎日毎日、何の目的も楽しみもないカラッポの世の中を、切れるような風に吹かれたり、ゴミダラケの太陽に焼かれたりして、生命がけで駈けずりまわるようなもんよ。酔ったお客にヒヤカサレたり、コワイ巡査に手を握られたり、キザな運転手に突っつかれたりするたんびに、心の底の底まで淋しくて、悲しくて、つまらなくなる商売よ。ウント速力を出した時、何かに行き当ってメチャメチャになってくれるといいと、ソンナ事ばっかし考えさせられる商売よ。  ごめんなさいね。貴女のおためを思えばこそホントの事を言うんですから、怒らないで頂戴ね。そればっかしじゃないのよ。  モットモット恐ろしい事があるのよ。  この先に入れといた月川|艶子さんのお手紙を読んでちょうだい。文句をソックリその通りに写して置きましたから。  この手紙は妾の大事な手紙です。恐ろしい殺人事件の秘密のショウコになるかも知れない手紙ですから、このまんま貴女に上げるわけに行かないのです。そのわけもお読みになればわかるわ。  月川ツヤ子さんは妾の小学校の同級生なの。お父さんと一緒に浜松のベンキョウ・バス会社で、あたしと同じに女車掌をつとめている人よ。今年十九。身体は小さいけど、とてもシャンなの。妾と違って気の弱い親切な人。あたしの昔からの親友。字もモット上手なんですけど。        月川ツヤ子さんの手紙  友成トミ子さん  ごぶさたしました。お変りありませんか。  トツゼン変な事を書いてすみませんけど、私このごろある人に殺されそうな気がするのです。  このごろ私のいる勉強乗合自動車会社に、新高って言う新しい運転手さんが来ましたの。それはナポレオンによく似た冷たい顔をした背の高い人です。運転がトテモ上手で、スタイルがよくて、骨身を惜しまず働くのでグングン昇給して行く人です。  その人が来てから三か月目に、私をお嫁にくれって、私のお父さんに申し込みました。二週間ばかり前の事です。  会社の工場に勤めている私のお父さんは、気が進まないけど、新高さんを可愛がっている会社の専務取締役の人が仲に立っているのでイヤとは言えないのだが、お前はドウかって尋ねられた時に、妾はすぐに承知してしまいました。新高さんなら前から嫌いじゃなかったんですからね。  ごめんなさいね。あなたに御相談しないで承知してしまったこと。  でも妾、最初ビックリしましたわ。どうして新高さんが、妾のような女を貰う気になったのだろうと思いましてね。  新高という人はシンカラ無口の人らしいのです。待合室に来ても、ほかの運転手のように女車掌に甘ったるい事を言ったり、妙な眼付きをした事なんか一度もないのです。並んで腰かけている私たちを見向きもしないで、スパリスパリ煙草ばかり吹かしているのです。  そうかと思うとダシヌケに、ヤンチャを言っているお客さんの子供を抱き上げて、頬擦りをしてキャッキャと笑わせたり、十銭で三つぐらいの一番|高価いお蜜柑を一円ばかりも買って来て、黙って私たちにバラ撒いたままプイッと外へ出て行ってしまったりしてトテモ気まぐれな人なのです。  そうかと思うとまた運転台で、バットを吸い吸いモノスゴイ速力を出しながら、ステキに朗らかな澄み切った声で、  エーエ。二度とオー惚れエーまいイ運転手のオ――畜生めエ――  敷き逃げエ――したア――ままア――知らぬウ――顔オ――  なんて歌って、満員のお客をゲラゲラ笑わしたりするのです。その癖、遊びに行った話はチットモ聞きません。いつもお金をポケットの中でジャラジャラ言わせているのですよ。ですから会社の重役さんがスッカリ信用してしまったらしいのです。  私も男らしい固い人と思い込んで、何もかも言うなりになってしまったんです。そうして正式に結婚式を挙げるばかりになっていたのです。  そうしたらね。きょう東京の青バスにいる妾の親友の松浦ミネ子さんからダシヌケにお手紙が来たのです。それがトテモびっくりする事だったのです。 「貴女の会社に新高竜夫って言う運転手が来たらダンゼン御用心なさい。  新高竜夫って言う人は東京中の運転手の中でも一番男ぶりのいい、一番恐ろしい評判の悪い人です。  新高って言う人は青バスにいるうちに幾人も幾人も女車掌を引っかけて内縁を結んで、その人に倦きると片端から殺して、何処かへ棄てて来るらしいんですって……。けれどもその遣り方が上手なので、まだ一度も疑われた事のない不思議な不思議な怖い怖い人なのです。こんな噂が立っているのは、あたし達、女車掌の仲間だけらしいのです。  それでもこの頃になって、警視庁の眼が、だんだん強く新高さんの近まわりに光り出したので、新高さんはコッソリ青バスをやめて、何処かへ行ってしまったのです。  どこか田舎のバスへ落ちて行ったろうって言う噂ですから、貴女の会社へ来るような事でもあったらゼッタイに御用心なさい。  よけいな事かも知れませんけど、心配ですから、ちょっとお知らせします」  と言ったような意味の事が鉛筆で走り書きにしてある。そんな手紙が来たのです。  妾ビックリしてしまいましたわ。  ですけども私、馬鹿正直なもんですから、この手紙をお父さんに見せないで、イキナリ新高さんに見せて遣ったのです。だって私モウ新高さんと関係が出来てしまったんですから、そうするのが当り前じゃないでしょうか。  新高さんは青い顔をしてその手紙を読んでしまいました。そうしてクシャクシャに丸めて、火鉢に投げ込んで焼いてしまいました。 「馬鹿だな……お前は……コンナ事を人にシャベッたら承知しないぞ」  と言って舌なめずりをしながら、ジロリと私を睨んだ新高さんの顔付きの恐ろしかったこと。顔の肉の下から骸骨がムキ出しに、ギョロッと出て来たかと思ったくらいスゴかったわよ。芝居でも活動でもアンナ怖いスゴい顔は見た事なかったわ。  私はその時にシンカラふるえ上がってしまって、ミネ子さんのお手紙に書いてある事がウソか本当か尋ねる事が出来なくなりました。そうして新高さんの顔を見て涙をポロポロ流していたら、新高さんはニッコリ笑って私の肩をタタキました。 「アハハ。お前を殺そうてんじゃないよ。コンナ噂の手紙なんかホントにする奴があるもんか。馬鹿だな。お前は……」  と優しく背中を撫でてくれたのです。その時に妾は何だか新高さんに殺されそうな感じがしてならなかったのですよ。でも新高さんなら殺されてもいいような気もちになったもんですから、そのまんま黙っているのです。  この事はお父さんにも誰にも言わないつもりですけど、トミ子さんにだけ書いときますわ。  ね。私の事を忘れないでね。  私と新高さんとで楽しい家庭を持っても笑わないでね。心から祝福してね。さよなら。 浜松勉強バスにて  ツヤ子より  これがツヤ子さんから来た最後の手紙だったのよ。  ね。智恵子さん。この手紙を書いたツヤ子さんは、それから一週間も立たないうちに死んじゃったのよ。そうして博多でお葬式があったのよ。  ツヤ子さんの遺骨を持ってお帰りになったお父さんのお話を聞いたら、ツヤ子さんはバス代用の新フォードに新高さんと一緒に乗って行くうちに、お客が満員になったので左側のステップに立っていなすったんですって。そうしたら暗闇の中で向うから来たトラックがライトを消さなかったので、新高さんのハンドルが急に左に寄り過ぎて、ツヤ子さんの身体が電柱にブツカッたって言うのよ。左の肩と、腕と、アバラの骨がグザグザになっていたんですってさあ。  ドオオンて大きな音がしたって言う乗合のお客さんの話だったんですってさあ。ツヤ子さんのお父さんは「ツヤ子の運が悪いのです。あんな商売をさせたのが悪かったのです。トラックの番号は新高運転手が見といたそうですが、訴えても問題になりませんし、誰を怨むところもありません。タカの知れた女の子一匹です。広い世間の眼から見たら虫ケラ一匹のねうちも御座いますまい。それでもお客さんの生命に代ったのですから、私ももうトックに諦めております。会社からはその月の給料のほかに十円くれました。助かったお客様なんか見向きもしませんが、安いもんですなあ。よその人を敷いたのなら三百円ぐらい出しますが、葬式代にも足りません。もっとも、それぐらいに安く見積もらなきゃあ、若い人間をアンナに大勢、あぶない仕事には使われますまい」と言うていなさったわ。  怖いわねえ。妾黄色いバラの花をドッサリ仏様に上げたわ。  デモこの話を聞いた時に妾もうツクヅク女車掌がイヤになってしまったのよ。雲雀の鳴く田圃で、お父さんやお母さんのお手伝いをしていなさる智恵子さんが浦山しくなったわ。  わたしの言っている意味がおわかりになって?  女車掌というものがドンナに嫌らしい、淋しい、恐ろしい、ツマラナイ運命を持っているものかおわかりになって?  呉々も女車掌なんて止して頂戴。ね。  サヨナラ。お身体をお大切にね。 第二の手紙  智恵子さん。大変よ。  この前のお手紙に書いた新高運転手が来たのよ。妾たちのいるミナト・バス会社へ就職して来たの。そうして妾にプロポーズしたのよ。今度は私が殺される番よ。  でも心配しないで頂戴。妾シッカリしているんですから。ナカナカ殺されやしないから……。  新高運転手は東京の青バスが思わしくないから、勝手に暇を貰ってこっちへ来たって言うのよ。もうウソを言っているのよ。  でもツヤ子さんを殺した新高運転手に違いないのよ。ナポレオンみたいな男らしい冷めたい顔をして黙りこくってセッセと働いているの。古いチューブと針金でフェンダーを作るのがトテモ上手よ。そうかと思うと上等のバナナを妾たちに配ったり、チューブを切り抜いた魚だのお馬だのをお客さんの赤チャンに遣ったりしてトテモ気マグレなのよ。みんな新高さん新高さんってチヤホヤしているんですけど、妾ソレと気が付いた時にゾッとしちゃったわ。  それからツヤ子さんの仇敵と思って、いつもジロジロ様子を見ていてやったわ。また、誰か殺しに来たに違いないと思って……。  そうしたらね、妾がソンナ眼で見ているのを新高さんは何かしら感ちがいしたらしいの。博多発十一時の折尾行きの最終発を待合室で待っているうちに、お客が一人もいないので、いいチャンスと思ったのでしょう。新高さんは黄色いバラの花を一本持って入って来て、妾の手に握らせたの。妾ギクンとしちゃったわ。だってバラの花は死んだツヤ子さんの一番好きな花だったんですもの。  妾が何かしら胸が一パイになりながら、ありがとうって言ったら、 「トミチャン。今夜、折尾の僕の下宿に来ないか」  ってダシヌケに言うじゃないの。つめたい真面目な顔をしてね。女を口説くような眼付きじゃなかったわ。英雄的な男らしい眼付きだったわ。  その眼付きを見たトタンに妾は決心しちゃったわ。喜び勇んで、 「ええ。行ってもいい」  って言っちゃったわ。でもずいぶん息苦しかったわ。  智恵子さん、ビックリしちゃ嫌よ。妾スッカリ新高さんが好きになっちゃったのよ。これこそホントに生命がけの恋よ。そうして、それと一緒にドウかしてツヤ子さんの仇敵を取って遣りたくなったのよ。新高さんを取っちめて、ヒイヒイあやまらせた揚句に、自殺させるかドウカしたら、どんなにか愉快だろうと思ってしまったのよ。  コンナ風に文句に書いてみると、妾の言う事はムジュンしているでしょう。けれどもその時の気もちは、チットモムジュンしていなかったのよ。あの時ぐらい妾の胸が大きな希望で一パイになった事はなかったのよ。行く末に何の希望もないカラッポの妾の胸が、大きな、生き生きした幸福で一パイになったように思ったわ。  妾は文字通りに喜び勇んで、新高さんの下宿に行ったの。そうして一から十まで新高さんの言うなりになって遣ったの。ちっとも恐ろしくなかったわ。新高さんもモウすっかり欺されて夢中になっていなすったわ。  ソウ……妾、無茶かも知れないわ。でも無茶でもいいわ。今に見ていらっしゃい。妾の冒険が成功するか、しないか。  そう思う時、妾の胸がドキドキするもので一パイになってしまうのよ。妾は今、妾の人生が破裂しそうなくらい張り切っているのよ。  誰が何と言ったって妾は、この冒険に向ってマイ進するわ。 サヨナラ 第三の手紙  智恵子さん。  女なんて弱いものね。  妾、新高さんにスッカリ征服されちゃったの。この前のお手紙に書いたような冒険心が、いつの間にか弱って来たらしいの。  新高さんも毎日毎日妾を可愛がるのが楽しみになって来たらしいの。世帯の事だの、まだ生まれもしない赤ん坊の事ばかり妾に話すの……妾はソンナ時に黙っているんですけど、これから先ドレぐらい続くかわからない長い長い新高さんとの同棲生活のコースが、希望も何もない灰色にズーッと続いているのが見えて来たの。昔の通りの平凡なトミ子の心に……それがただ人妻となっただけのトミ子の心に帰りそうになって来たの。妾が大切に大切に隠していたツヤ子さんの手紙を焼いてしまおうかと思った事が何度あるかわからないの。  新高さんを殺す気なんか爪の垢ほどもなくなっちゃったのよ。智恵子さんに笑われても仕方がないわ。  いったいこれはどうした事なんでしょう。妾の一生はこのまんまで平々ボンボンのままおしまいになるのでしょうか。新高さんと一緒になった最初の時のアノ張千切れるようなモノスゴイ希望はいったい何処へ行ってしまったのでしょう。  妾はコンナつもりで結婚したはずじゃなかったのよ。妾はこのまんまパンクしたタイヤみたいになって、何処までも何処までも転がって行かなければならないのでしょうか。  店の先にブラ下がっている派手なメリンスのキレが眼に付いて眼に付いて仕様がなくなったのよ。赤ん坊の着物にはドンナのがいいかと思ってね。  どうぞどうぞ笑って頂戴。人生なんてコンナものかも知れないわ。 第四の手紙  大変な事が起ったのよ。智恵子さん。あたし、死くなったツヤ子さんとおんなじお手紙を貴女に書くわ。  あたし近いうちに殺されそうなの。  新高さんが妾のバスケットの中からツヤ子さんの手紙を発見したらしいのよ。新高さんはソンナ事をオクビにも出さないんですけどね。何だか心の底にヨソヨソしい処が出来て来たようなの。そのクセ妾を可愛がる事は前よりもズット強くなったから変じゃないの。おれ達は幸福だ、幸福だってこの頃、急に言い出したからおかしいじゃないの。何かわけがあると思わずにはいられないのよ。まだ一緒になってから一週間も経たないのにさあ。  そればっかりじゃないの。きのうコンナ事があったの。夜の九時の折尾行きに乗って行く途中の事なのよ。  妾たちのミナト・バスでもバス代りに一九三二年型のシボレーのオープンを使っているの。そのシボレーの折尾行きが例の通り満員しちゃったので、妾がステップに立って、新高さんが運転して行くうちに、妾はフッと気が付いて、筥崎の踏切を出ると直ぐにダンマリで後部のスペヤタイヤの横にまわって、荷物を乗せるデッキの上に立っていたの。  夜の九時頃よ。小雨が降って真暗だったわ。  そうしたら多々羅の村中の狭い処で、向うからバスが来たと思うと、急にスピードをかけた新高さんが、ハンドルをものすごくグーッと左に取って、道傍の電柱にスレスレに走り抜けて行ったの。万一妾がモトの通り前の左側のステップに立っていたらキット払い落されてぐたぐたにタタキ付けられたに違いないのよ。  妾ゾオッとしちゃったわ。ツヤ子さんの手紙を見られた事が、その時にハッキリとわかったのよ。わかり過ぎて髪の毛一本一本が逆立ちしたくらいだったわ。  そうしたら新高さんはまた、間もなく松崎の広い下り坂で、鉄砲玉のようなスピードになった時、向うから来た自転車を除けるふりをしいしいギューッと左に取って、車体の左側を、あぶなく松の樹にコスリ付けながら飛ばして行ったの。その時に妾はまたハッキリと新高さんが妾を殺そうとしている事を感じたのよ。  けれども、ちっとも手応えがない上に、妾がウンともスンとも言わないもんですから、新高さんは不思議に思ったらしいの。香椎の踏切の前に来ると運転台から、 「オーイ。トミちゃん」  と呼ぶじゃないの。 「ハアイ」  て妾、後部から出来るだけ朗らかな声で返事して遣ったら直ぐに、 「……馬鹿ア……前へ来ないかア……汽車を見てくれい。十時一分の上りが来る頃だあ」  て言い言いスピードを落したの。妾はモウ一度朗らかに、 「ハアイ」  って返事しいしい前の踏切に馳け出して、 「汽車オーライ」  って両手を上げたの。あそこは家の蔭から急に鉄道踏切に乗り上げるばっかりじゃない。午後八時過は踏切番がいないので、慣れないトラックが二、三度引っかけられた事のあるトテモあぶない処なのよ。新高さんはチャント汽車の時間表を知っていて、御自慢のナルダンの腕時計を見い見い運転して来て、大丈夫と思ったら、妾が「オーライ」と車の中から言っただけで一気に突き抜ける処なのよ。それにこの時に限って御念入りにスピードを落して妾を呼ぶんですから妾、おかしくなっちゃったわ。  香椎でお客が三人降りたので、妾はビッショリ濡れたまままた、運転台に新高さんと並んで坐ったのよ。けども新高さんは別に何も言わなかったわ。ただ、 「寒かったろう」  とタッタ一言、低い声で言った切りステキなスピードを出して、香椎から一時間足らずのうちに折尾に着いたの。そうして二人してボデーを洗う間、一言も言わないまんまで家へ帰って、やはり黙りこくって二人でお酒を飲む間じゅう、睨み合いみたいになっていたの。新高さんは、いつも無口なんですけど、この時ばっかりは特別に、何ともカンとも言えない変な工合だったのよ。  そうしたら新高さんがイヨイヨ寝る段になったら、お酒がまわったせいもあるでしょう。ダシヌケにいろんな冗談を言い出したの。それは無口の新高さんに全く似合わない冗談だったの。下は乞食から、一番上は将軍様までいろんな階級の人のラブシーンを、新派や歌舞伎のいろんな俳優の声色を使ってやったりするの。それは上手で面白かってよ。新高さんにあんな芸当があるとは思わなかったわ。ですから妾も思わず釣込まれて、腹を抱えて笑ってしまったのよ。  けれども、それがまた、今朝になってみたら、何もかも空っぽになったような気がするの。人間の気持って妙なものね。こうして一日、仕事を休まして貰って、まだ降っている嵐模様の雨越しに、向家の屋根のペンペン草だの、ずっと向うに並んで揺れているポプラの並木だの、下り列車から吹き散って行く黒い烟だのを見ていると、それがみんな妾の運命みたいに思われて来て、考えても考えても考え切れない、淋しい淋しい気持になって来るの。  すぐ眼の下のトタンの屋根をバタバタとたたいて行く雨の音を聞いていると、ツイ眼の中に熱い涙が一パイ溜まって、死ぬほどつまらない、張合いのない気持になってしまうの。こんな情ない、悲しい妾の気持は智恵子さんに訴えるほかないわ。何とかしなければならないと思いながら、どうにもならないじゃないの。  妾、タッタ今、死んだツヤ子さんの形見の手紙を焼いたばかりのところなの。ツヤ子さんのアノ恐ろしい手紙を焼きたいばっかりに今日一日休まして貰ったようなもんよ。  何もかも運命よ。  運命にまかせるよりほかに仕方がないわ。神様なんてこの世にないんですから。  智恵子さん。ミジメなトミ子のために泣いてちょうだい。 第五の手紙  智恵子さんありがとうよ。  妾がコンスイしているうちに、お見舞に来て下すったんですってね。綺麗な花を沢山にありがとう。まだ妾の枕元に咲きほこっていますわ。感謝しますわ。  あたし、あれから一週間というもの何も知らなかったのよ。高い熱のためにウンウン言っていたんですって。頭のマン中の骨が割れて、それが悪くなりかけて出た熱なんですって。七針とか縫ったのをまたほどいて、洗い直したんですって。  どうして助かったんだか妾にもハッキリわからないのよ。でもこの頃になって、一人で起きたり坐ったり出来るようになったら、すこしずつ思い出して来たようよ。  何でもこの前に貴女にお手紙書いてから間もなくの事よ。いつもの通り新高さんと妾のバッテリでシボレーに乗って、博多から折尾へ行く途中十時半チョット前と思う頃、香椎の踏切にかかったの。ヒドイ吹き降りで一人もお客のない晩だったわ。二百二十日か二十一日の晩でしたからね。  踏切にかかる少し前で、左側の松と百姓家の間から上り列車の長い長いアカリがグングン走って来るのが見えたんですけど、妾は平気で、 「……汽車アオーラアーイ」  って長く引っぱって叫んだようよ。  なぜソンナに恐ろしい嘘言をついたのか、その時の気持がどうしてもわからないんですけど、真暗な雨風の中をすごいスピードで走る自動車の中で、すっかり憂鬱になっていた妾が、新高さんと一緒に死んだ方がいいような気持になっていたせいでしょう。  その列車は熊本とか鹿児島とかから出た臨時列車で、満州に行く団体の人を一パイに乗せていたんですって。ちょうど博多発、上り十時一分の終列車が通り過ぎたばかりの処でしたから、十一時の下り列車ばかりを用心していた新高さんは、妾の言う事を本当にしたんでしょう。思い切りスピードを出して踏切を突切って国道沿いに右手へ急カーブを切ろうとしたの。そのテイルのデッキに列車のライフ・ガードが引っかかって、逆トンボ返りにハネ飛ばされて、タイヤを上にして堤の下へ落ちていたって言う話よ。  新高さんは、厚い硝子の破片が脇腹の中へ刺さってモグリ込んだために、手当てが間に合わなかったんですって。列車の後部車掌の加古川さんて言う人が馳け付けて来て、背後から抱き起した時に、ウッスリ眼を開いて、息苦しい声で、 「シマッタ。ヤラレタ……ツヤ子の怨みだ……畜生……ツヤ子だ、ツヤ子だ、ツヤ子だ」  って言った切りコトキレたって言う話よ。その後部車掌の加古川さんがワザワザ妾を見舞いに来て話して下すったの。  そのお話を聞いた時に、妾は思わずニッコリ笑っちゃったわ。身体中の血がスウーと暖かくなって、今にもかけ出せそうな元気で一パイになってしまったわ。新高さんはツヤ子さんの仇敵を妾に取られた事をハッキリとわかって死んだんですからね。  そう思うと妾は、涙がアトカラアトカラ流れて困っちゃったわ。何も知らない加古川さんと看護婦さんが、スッカリ同情しちゃってね。いろいろ慰めて下すったんですけど何もなりゃしないわ。妾は神様に感謝して喜んで泣いているのに、悲しんではいけない、身体に障る障るって言うんですもの。妾その時にツクヅク思ったわ。女なんて滅多に慰めて遣るもんじゃないって。何を泣いているか知れたもんじゃないんですからね。  その車掌さんと看護婦さんの話を聞くと、妾はメチャメチャになったボデーの下に伏せられて、顔をシッカリと両手で隠して、手足をマン丸く縮めていたので、みんな感心したって言う話よ。キット衝突する前から、そうしていたのでしょう。  昨日臨床訊問て言うのがあったのよ。警察だの裁判所の人らしいイカツイ顔をした人が五、六人妾の寝台の廻りを取り巻いていろんな事を質問するの。ずいぶん怖かったわ。  妾が大きな声でストップって言ったけど新高さんが構わずに踏切を突切ったって言ったら、皆うなずいていたわ。新高さんのイツモの運転ぶりを知っていたのでしょう。香椎の踏切には自動信号機が是非とも必要だなんて話合っていたわ。  新高さんと内縁関係があるという話だが、ホントウかって鬚の生えた人が聞いたから、妾、ありますって言ってやったの。顔も何も赤くならなかったと思うわ。皆顔を見合わせて笑っていたようよ。そうしたら四十ぐらいの刑事巡査らしい、色の黒い骸骨みたいな男が、凹んだ眼を大きくギョロギョロさせながら、 「夫婦心中じゃないか」  って言ったの。そうして白い歯をむき出して笑ったから妾ギョットしちゃったわ。でも妾、頑固に頭を振ったもんだから、間もなくみんな帰って行ったわよ。  刑事なんて案外アタマのいいものね。その刑事の顔を思い出してもドキンとするわ。  妾、神様に感謝しているのよ。ヤケクソの妾が一緒に死ぬつもりでオーライって言ったのに、新高だけ殺して、妾だけ助けて下すったんですもの。  あたし頭の怪我がなおったらまた、ミナト・バスへ出て女車掌をつとめるわ。そうして今度こそ一生止めないわ。そうして女運転手になるわ。日本一の女運転手に……。妾これは神様の命令だと思っているの。  結婚なんか一生しないわ。妾は最早、女の一生の分ぐらい何もかもわかっちゃったんですからね。新高さんが生き返って来ない限り、ほかの男の人には用はないつもりよ。  新高さんの事がその時の新聞に大きく出ていたわ。「恐るべき色魔の殺人リレー」って言う標題でね。死んだ新高運転手は、東京の青バスを出てから後ズットお尋ね者になっていた女殺しの嫌疑者だった事が、死んだアトからわかったんですって。そうして新高は東京でも一度トラックと正面衝突をして、コチラの女の助手が即死したのに、自分だけ不思議に助かった事があるが、その時の説明のし方がよかったお蔭で無事に放免された経験の持ち主である。だから今度もホントウは内縁関係の女車掌と一緒に自動車を汽車に轢かして、自分だけ飛び降りるつもりだったかも知れないって書いてあったわ。智恵子さんも多分、お読みになったでしょう。  アレみんなウソよ。新聞社と警察の作り事よ。妾に同情し過ぎているのよ。会社でも大層、妾の身の上に同情しているそうよ。おかしいわね。  でも妾、平気よ。世の中ってソンナもんよ。神様の裁判だけが正しいのよ。  ですから、あたし智恵子さんだけにホントの事をお知らせするわ。  これから後ドンナ事があっても女車掌なんかになっちゃ駄目よ。  妾みたいな女になっちゃダメよ。 第六の手紙  智恵子さん。貴女に最後のお手紙を上げますわ。  あたしこのお手紙を出した後で、何処かへ行って自殺しますの。死骸は誰にも見せないようにしたいのですから、どうぞ探さないで下さい。  すみませんけど新高さんと妾の写真も、着物も、貯金の帳面も、印形も、世帯道具や何やかやも、みんな一|纏めにして、貴女のアテ名で送り出して置きました。  どうぞ貧しい人達に分けて上げて下さい。  小学校に寄付して下すってもいいわ。小さなオルガンぐらい買うだけあるでしょう。  あの色の黒い骸骨みたいな刑事さんの言葉はやっぱりホントウだったのです。今やっとわかりました。  妾は新高さんと夫婦心中をしてみたかったのです。そうして出来るなら自分だけ生き残ってみたかったのです。  そうして、それがその通りになったのです。  ですから妾はホントウを言うと夫殺しだったのです。けれども新高はツヤ子さんの怨みの一念に取り殺されたと思って死んだのでしょう。妾のシワザとは夢にも思わないままだったのでしょう。新高はやっぱり妾を心から愛していたのでしょう。  そう気が付いた妾はモウいても立ってもいられません。  そればかりじゃないのです。妾のお腹に新高の赤ちゃんが出来ていたのです。それがこの頃になって、新高さんの事を思い出すタンビに心臓の下の方でビクリビクリと躍り出すのです。この児が生まれたら妾どうしましょう。  妾は、妾と一緒に呪咀われたこの児も殺してしまいます。  妾は夫殺しの吾児殺しです。  貴女にだけ白状して死にますわ。許して下さい。ミジメなトミ子の一生涯のお願いです。  女車掌なんかになってはいけません。――さよなら―― 火星の女    県立高女の怪事       ミス黒焦事件         噂は噂を生んで迷宮へ      本日記事解禁  去る三月二十六日午前二時ごろ、市内大通六丁目、県立高等女学校内、運動場の一隅に在る物置の廃屋より発火し、折柄の烈風に煽られ大事に致らむとする処を、市消防署長以下の敏速なる活躍により、同廃屋を全焼したるのみにて校舎には何等の損害なく消止め、一同|安堵の胸を撫下した事は既報の通りである。然るにそれから間もない二十六日の早暁に到り、その焼跡から、男女の区別さえ鑑別出来ない真黒焦の屍体が発掘されたため、又々大騒ぎとなった事実がある。しかも該屍体を大学に於て解剖に付した結果、二十歳前後の少女の屍体にして、特に腰部の燃焼十分なるような燃料を配置したる形跡あり。その結果、警察側にては色情関係の殺人放火事件と見込を付け、容易ならぬ事件と認め、右に関する記事の掲載を差止め、極度の緊張裡に厳重なる調査を開始したが、爾後一週間に到るも犯人は勿論、当該屍体の身元すら判明せず。噂は噂を生んで既に迷宮入りを伝えられ、必死の努力を続行中なる司法当局の威信さえも疑われむとする状態に立到っていたが、その後、当局にては何等か見る処があるらしく、今一日、突然に右記事を解禁するに到った。これは当局に於て、動かすべからざる重大な端緒を掴んだ証左と考えられ、従って右事件の真相が社会に公表されるのも遠い将来ではないと信じ得べき理由がある。    他殺放火の疑い十分      但、例の放火魔では無いらし  右事件は依然として当局の調査続行中のため、今も尚、一切を秘密に付せられているが、事件発生直後本社の探聞し得たる処によれば、現場、県立高女の物置|廃屋は、平生何人も出入せず、且、火気に遠隔した処なるを以て、放火の疑い十分ではあるが、校舎そのものの焼却を目的とする例の放火魔とは全然、手口が違っている。且、現場には硝子瓶ようのものの破片散乱せるも、同所が元来物置小舎なりしため、服毒用の瓶等とは速断し難い。また焼死体の血液採取が不可能な結果、抗毒素、一酸化炭素等の有無も判明せず、従ってその処女なるや否や、又は過失の焼死なるや否やも決定し難い模様であるが、しかし現場の状況、及、屍体の外観等より察して他殺の疑いは依然として動かず。既報の通り色情関係の結果、演出された悲惨事ではないかと疑わるる節も多い。尚同校は去る三月十九日以来春季休暇中の事とて、寄宿舎には残留生徒一名もなく、泊込の小使老夫婦、及、当夜の宿直員にも一応の取調は行われたけれども怪しむべき点なく、さりとて変態性欲的な浮浪者が、高き混凝土塀を繞らしたる同校構内に校外の少女を同伴し来るが如きは可能性の少ない一片の想像に過ぎず。且、その形跡もない事が認められている。尚、右記事の解禁後は捜索の方針が全然一変するらしいから、或は意外の方向から意外の真相が暴露されるかも知れない。    焼失した物置は      以前の作法教室        校長は引責謹慎中  因に焼失したる県立高女の廃屋は純日本建、二階造の四|室で、市内唯一の藁葺屋根として同校の運動場、弓術道場の背後、高き防火壁を繞らしたる一隅に在り。嘗て同校設置の際、取毀されたる民家のうち、校長|森栖氏の意見により、同校生徒の作法|稽古場として取残されたものであるが、その後、同校の正門内に卒業生の寄付に係る作法実習用の茶室が竣工したため、自然不要に帰し、火災直前までは物置として保存されおり、階上階下には運動会用具その他、古|黒板、古|洋燈、空瓶、古バケツ、古籐椅子等が雑然として山積されていた。その階下に屍体を横たえて放火したものらしく、しかも火勢が非常に猛烈であったため、腹部以下の筋肉繊維は全然、黒き毛糸状に炭化して骨格に絡み付き、凄惨なる状況を呈していたと言う。尚同校長森栖礼造氏は熱心なる基督教信者で、教育事業に生涯を捧ぐるため独身生活を続け、同校創立以来、三十年の間校長の重責に任じて一度の失態もなく、表彰状、位記、勲章等を受領する事枚挙に遑あらず、全県下に於ける模範的の名校長として令名ある人物にして、事件当日は市内三番町の下宿に在ったが、急を聞いて逸早く現場に馳付け、御聖影を取出し、教職員を指揮して重要書類を保護させ、防火に尽力せしめた沈着勇敢な態度は人々の賞讃する処となったが、事後、三番町の下宿に謹慎して何人にも面会せず、怏々として窶れ果てているので、謹厳小心な同校長の平生を知っている人々は皆、その態度に同情している。右につき去る三月二十八日、教務打合せのため、同校長を訪問した同校古参女教員、虎間トラ子女史は同校長の言として左の如き消息を洩らしたと言う。 目下その筋で取調中の事ゆえ、差出た事は言われぬが、自分としてはコンナ不思議な事はないと思う。同廃屋は校内に在るが、午後六時以後は宿直の職員と小使の老夫婦以外には校門の出入を厳重に禁止している。これは自分が特に注意している処であるが、何者が侵入して来てあのような事を仕出かしたものであろう。自分や学校に怨みを抱くような者の心当りもない。むろん学校関係の者とも思われぬので実に心外千万な奇怪事と言うよりほかはない。万事は当局の調査によって判明する事と思うが、とにもかくにもかような怪事件が校内に於て発生した以上、校内の取締に就いて何処かに遺漏が在ったものと考えなければならぬ。その責任は当然自分に在るのだからかように謹慎しているのだ。云々。    森栖校長失踪        消え失せた遺書と不可        思議な女文字の手紙  去る三月二十六日、県立高女校内に発生したミス黒焦事件以来、謹慎の意を表して三番町の下宿に引籠っていた名校長、森栖礼造氏は、新生徒入学式の前日なる昨一日夕方頃より突然に失踪した事が、校務打合せのため同下宿を訪問した同校女教諭虎間トラ子女史によって発見された。既報の如く森栖校長はミス黒焦事件以来痛く神経を悩ましていたものの如く三番町の下宿に引籠り、鬚蓬々として顔色|憔悴していたが、事件発生後一週間目に当る去る三十一日夜、何処よりか一通の女文字の手紙が同氏宛配達されて以来、何故か精神に異状を来たしたものらしく、同下宿の女将渡部スミ子の許に来り、無言のまま涙を流して頻りに叩頭し、又は二階より往来へ向け放尿しつつ大笑するなど、些しも落着かず、夜半に大声を揚げて怒号し、彼奴だ。彼奴だ。黒焦は彼奴だ。火星だ火星だ。悪魔だ悪魔だ。などと取止めもなき事を口走り、女将スミ子を驚かした由で、その翌日の三月一日は疲労のためか終日|臥床して一食も摂らず。同夜十時頃、前記虎間トラ子教諭が訪問した際も、依然として就床しいるものと思い、女将スミ子が起しに行きたるに夜具の中は藻抜の空となり、枕元に破封されたる長文の女文字の手紙と並べて虎間女史に宛てたる遺書が置かれたるを発見したるより大騒ぎとなり、県当局、警察当局、同校職員総動員の下に同校長の行方捜索を開始したが、今朝に到るまで同校長の所在は不明で、ただ目下、同校内玄関前に建設の予定にて、東都彫塑、朝倉星雲氏の手にて製作中と伝えられおりし同校長の頌徳寿像の、塵埃と青錆とに包まれたる青銅胸像が、白布に包まれたるまま同下宿、森栖氏専用の押入中より転がり出で、人々を驚かしたのみである。因に、同校長の枕頭に在った二通の手紙はその後、混雑に紛れて何人にか持去られたるものの如く、女将スミ子、及、虎間女教諭もその行方を知らず。二人とも内容を関知せざる由にて、前記銅像の件と共に森栖氏の失踪に絡まる不可思議の出来事として、関係者の注意を惹いている。のみならず前記森栖氏の口走りたる言葉より推して、右二通の手紙は或はミス黒焦事件の秘密を暴露する有力なる参考材料なりしやも計り難く、これを衆人注視の中に持去りたる神変不思議の人物こそ、ミス黒焦事件の有力なる嫌疑者に非ずやとの疑い、関係者間に漸次高まりつつ在り。万事は森栖校長の行方と共に判明すべしとて、その方の捜索に全力を挙げている模様である。尚同校長を見知りおる駅員の言に依れば、同校長らしき鬚蓬々たる無帽の人物、大阪までの切符を買いて終列車に乗込みたる形跡ありとの事にて、その方面にも手配が行われている由。    県立高女メチャメチャ      森栖校長発狂!        虎間女教諭縊死!       川村書記大金拐帯!         黒焦事件の余波か?   昨報失踪したる県立高等女学校長森栖礼造氏は失踪後、大阪に向いたる形跡ある旨、本紙の逸早く報道したる処なるが果然、同校長は昨三日早朝、大阪市北区中之島付近の往来に泥塗れの乱れたるフロック姿を現わし、出会う人毎に「火星の女は知りませんか」「ミス黒焦が来てはおりませんか」「甘川歌枝は何処におりますか」「何もかも皆嘘です」「事実無根の中傷です中傷です」なぞと、あらぬ事のみ口走りおりたるを一先ず中之島署に保護し、当市警察に照会し来たるを以て、開校間際の多忙を極めおりし教頭、小早川教諭は、十一時の列車にて取りあえず大阪に急行した。然るに同教諭出発後、教頭次席、山口教諭指揮の下に引続き開校準備に忙殺されいるうち、同校職員便所に於て、同校古参女教諭、虎間トラ子が縊死しおる事が、掃除に行きし小使に発見されて、一同を狼狽させおるうち、同じく開校準備のため出勤しおりし同校書記にして、森栖校長と共に三十年来、同校の名物となりおりし傴僂男、川村|英明が同様に、いつの間にか姿を消している事が、出張の警官により気付かれたので、念のため取調べてみると、意外にも同校の金庫中に保管して在った森栖校長の銅像建設費五千余円、及、校友会費八百二十円の通帳が紛失しおり、預金先、勧業銀行に問合わせたる処、正午近き頃、川村書記が同銀行に来り、右預金の殆ど全額を引出し、愴惶たる態度で立去りたる旨判明、なお市外十軒屋に居住しおりし同人妻ハルも家財を遺棄し、旅装を整え、相携えて行方を晦ましたる形跡ある旨、次から次に判明したるより、騒ぎは一層輪に輪をかけて大きくなり、同校全職員の訊問、取調が開始され、同校の授業開始は当分困難と認めらるる状態に立到った。因に縊死した虎間女教諭と、逃亡した川村書記とは平生より、森栖校長を神の如く崇拝しており、二人とも同校長の行方を最も真剣に気にかけていた由であるから、この際、最も喜んで安心すべきであるのに、同校長の行方判明と聞くや否や、互いにかかる矛盾したる行動に出でたことは、重ね重ねの奇怪事と言うべく、何等か裏面に重大なる秘密の伏在せるを想像し得べき理由がある。なお発狂せる森栖校長が大阪にて口走りたる甘川歌枝という女性は、同校の今年度卒業生にして、運動競技の名手であったが、かねてより「火星さん」という綽名あり。卒業後間もなく大阪の某新聞社に就職しおりたるものにて、森栖校長は発狂後、同女の行方を尋ねつつ同地方に行きたるものらしく、従ってミス黒焦事件と甘川歌枝とは、何等か密接の関係あるやも計り難く、目下当局に於ても慎重に調査中である。    森栖校長の帽子    十字架上に      持主不明の花簪と共に市内      天主教会にて発見さる        前廂に残る疑問の歯型  県立高等女学校は既報の如く、去る三月二十六日の怪火以来、ミス黒焦、校長の失踪、同発狂、虎間女教諭の縊死、川村書記の大金|拐帯等の怪事件を連続的に惹起し、まだ怪火の正体さえ判明せざるうちに、同校と県、警察当局とを未曾有の昏迷の渦巻に巻込んでいるが、更に又、最近に前記森栖校長の信仰|措かざりし天主教会内にて、意想外の怪事件を派生し、関係者一同を層、一層の昏迷に陥れている。今五日午前十時頃、市内海岸通二丁目四十一番地四角、天主教会にては日曜日の事とて、平常の如く信者の参集を待ち、祈祷会を開催すべく、礼拝堂正面の祭壇の扉を開きたるに、正面、祭壇の中央に安置されたる銀の十字架上に、見慣れぬ黒の山高帽と、赤き小米桜に銀のビラビラを垂らしたる花簪が引っかけ在るを発見し、大いに驚きて取卸し検査したるに、該山高帽子の内側の署名により、同教会の篤信者、森栖校長の所持品なる事判明。尚、花簪の所有者は目下の処不明なるも、その儘、山高帽子と共に付近派出所を経て警察署に届出たので、警察にては緊張しおりし折柄とて棄置難しとなし、時を移さず同教会に出張し、参集者の出入を禁じて、厳重なる調査を遂げたるに、同教会、礼拝堂の内部に怪しむべき点一所もなく、同日、同礼拝堂に一番最初に入来りたる信者某女も、最初より祭壇の扉に接近したる者を認めなかったと言うので、手を空しくして引上げた。然るに右山高帽を警察署に持帰り、詳細に亙りて調査したるに、前廂にシッカリと噛締めたる門歯と犬歯の痕跡あり。しかも、それは極めて強健なる少年の歯型なる事が、専門家の意見により確定したので、又も新しいセンセーションを巻起すこととなった。すなわち推定されたる教会侵入の怪少年が、果して県立高女校の怪火事件以後の、各種の奇怪事と連鎖的な関係を持っているものとすれば、虎間女教諭の縊死、川村|傴僂書記の逃亡以来、右二人を前記各種事件の黒幕的人物に非ずやと疑いおりし人々も、ここに於て推定の根拠を失いたる訳にて、そのいずれが真なるやを考察するは全然不可能なるものの如く、関係当事者一同は又もや五里霧中に放り出された状態に陥っている。    意外! 黒焦犯人は     県視学の令嬢?        母と共に行方を晦ます        父視学官は引責覚悟  昨報、市内海岸通、天主教会内の帽子|花簪事件以来、警察当局にては既報ミス黒焦事件に対する有力なる探査のヒントを得たるらしく、当時、最初に同教会内に入来りたる某女こと、殿宮アイ子という少女を同教会内別室に伴い、厳重なる取調を行いたる模様なるが、右取調続行の都合上、同午後三時頃、前記アイ子に一応帰宅を許したるに、同女は大胆にも厳重なる監視の目を潜りつつ、重病に臥しおりたる母親を伴い、一通の遺書ようのものを同女の父、殿宮愛四郎氏宛に残して、何処へか姿を晦ましてしまった。この重大なる失態に就いて、警察当局は何故か口を緘して一言も洩らさず、且、捜索の手配をした模様もないのは返す返すも奇怪千万の事と言うべきであるが、人も知る如く、同女の父、殿宮愛四郎氏は本県の視学官にして、現中央政界の大御所とも言うべき大勲位、公爵、殿宮|忠純老元帥の嫡孫に当っているが、意外の悲劇に直面して悲歎に暮れつつも、該遺書内容の重大性に鑑み、家門の名誉のため、引責辞職の決心せる旨、往訪の記者に語った。 「何とも申訳ありません。しかし娘が殺人放火なぞ言う大それた罪を犯し得ようとは、どうしても思われません。火星の女こと甘川歌枝と、娘のアイ子が県立高女在校中、無二の親友であったと言うようなお話も、只今初めて承わった位の事です。むろん二人の間に恋の遺恨なぞ言うような忌まわしい事実があったかどうか、思い当る節もありませんので唯、驚いているばかりです。その筋の注意もある事ですし、娘の将来の幸福のためにもかような事はなるべく世間に発表したくありませんから、どうぞここまでのお話のお積りで御聴取を願います。……何故に母だけを同伴して家出しましたか、そのような原因も目下のところ不明です。今日まで何等の秘密も風波もなく暮して来ました妻子に、突然に、思いがけなく棄てられた私は、ただ途方に暮れるばかりです。妻のトメも娘のアイ子も相当の貯えを持っている筈ですから、当分の生活には困らないでしょう。何処へ参りましたか心当りは全く御座いません。むろん私は引責致したい考えでおりますが、しかし、これとても正式に公表される迄は、やはりこの談話と一緒に御内聞に願います。云々」  尚令嬢アイ子の遺書の内容は左の通りである。  お父様。永々お世話様になりました。お母様とアイ子は、お父様にこの上の御迷惑をおかけ申したく御座いませんために、そうしてこの上にお母様を悲しませて、御病気を重く致したく御座いませんために、今日限りお暇を致します。つつしんで今日迄の御恩を御礼申します。  母校の出来事の全部は、わたくしの到らなかった責任で御座います。焼死された方は甘川歌枝さんで、自殺に相違御座いません事を私が保証致します。わたくしが今すこし早く甘川歌枝さんの自殺の決心に気付いておりましたならば、今度のような事は一つも起らないですみましたものを、残念な事を致しました。なお本日、森栖校長先生のお帽子と、何処かの舞妓さんの花簪を十字架にかけました者が、わたくしに相違御座いません事は、その理由と一緒に、警官の方に白状致して置きました。なお警官の方は、お父様の事について思いがけない事をいろいろとお尋ねになりましたが、何も存じませんから、お答えせずに置きました。警官の方は自殺されました甘川歌枝さんの投書によって、お父様の裏面の御生活を詳しく御存じの様子ですから、御参考のために申し添えて置きます。  しかし、わたくしは決して自殺なぞ致しません。何処かでお母様の御病気が十分にお癒りになるまで安静に御介抱申し上げたいばっかりに家出致したので御座いますから、この上ともにわたくし共の行方を決して御探し下さいませんように……。なお、わたくしが、かような奇怪な行動をとりました理由も、申すまでもなく決して御探りになりませんように、幾重にもお願い致します。その方がお父様にも私にも幸福と思いますから……。  何卒お身体をお大切に……。 アイ子  父上様  因に右、殿宮アイ子は県立高女在学中、同校の明星と呼ばれた美人で、成績抜群の名誉を担っていた才媛である。      ―――――――――――――――   森栖校長先生 火星の女 より  私は嬉しくて嬉しくて仕様がありません。こうして校長先生に復讐する事が出来るのですから……。  私がホントウに火星の女でしたら、それこそ天の上まで飛び上って喜ぶかも知れません。  私の死体は多分、誰ともわからない真黒焦になって発見されるでしょう。そうして新聞に大騒ぎをして書かれるでしょう。  私は、私のお友達に頼みました。 「私がこの手紙を書き始めました二十四日の午後からキッチリ一週間目の三十一日の夕方に、この手紙を速達で校長先生の処へ出して頂戴ね」  ……と……そうして校長先生が、私の黒焦屍体を御覧になっても……そうしてこの手紙をお読みになっても反省なさらずに、知らん顔をなすったり、平気で誤魔化して行こうとしたりなさる御模様があったら、念のために書いて置きましたほかの一通を警察署へ出して頂きます。そうして、それでもこの事件の真相が世間へ発表されず、校長先生と棒組んで、浅ましい恥知らずな事をしておられる方々が、校長先生と御一緒にこの事件を暗から暗に葬ろうとしてお出でになる御模様がわかりましたならば、そんな関係と新聞記事を封じ込んだ、これと同じモウ一通のコピーを抜からないようにある方面へ廻わして、ズット遅れてから発表して下さるようにお願いして在るのです。私の黒焦屍体に絡わる校長先生の責任をどこまでも明らかにする手順がチャント付いているのです。その私のお友達の方は頭のいい、決心の強いお方ですから、この最後の一通を押えられるようなヘマな事は決してなさらないでしょう。  私は、私の一生涯を、無駄に黒焦にしたくは御座いません。  私は、校長先生と御一緒に、腐敗、堕落しております現代の自分勝手な、利己主義一点張の男性の方々に、一つの頓服薬として「火星の女の黒焼」を一服ずつ差し上げたいのです。黒焼流行の折柄ですから万更、利き目のない事は御座いますまい。  ――火星の女の黒焼――  なんと珍しいお薬では御座いませんか。もしかすると埃及の木乃伊の一片よりも高価なものでは御座いますまいか。  召上ったお心持は如何で御座いますか。  定めし清々なすって、お心の隅から隅までスウッとなすった事で御座いましょう。  ホホホホホ。ホホホホホホホ……。  その私……黒焦になった火星の女の復讐を、こうして手伝って下さる私の親友が、どなたかと言うような事は、お考えにならない方がいいでしょう。万一それが御判明になっても、ただビックリなさるばかりで、手の出しようがないので、お困りになるだけの事でしょう。  その方は、私のような通りがかりの出来事で先生を恨んでお出でになるのでは御座いません。その方は、肺病でお寝みになっておられる実のお母様と、校長先生に誘惑されて無情な放蕩ばかりしてお出でになる義理のお父様に仕えながら、そんな事情を世間へ洩らさないために、女中も置かないで、黙って楽しそうに立ち働いてお出でになる、世にも珍しい親孝行なお方です。そうして、その方のお母様をソンナ運命に陥れた悪魔を、いつも心探しに探しておられた方です。ですからその方は、私からその悪魔の名前をお聞きになると直ぐに、お母様の讐敵を取りたい……義理のお父様の隠れ遊びをお諌めになりたいばっかりに、私の頼みを無条件で引き受けて下すったのです。  言葉を換えて申しますと、そのお母様のお心がお優しいために、その方は校長先生に対して思い切った手段を執る事がお出来にならないのです。ですから私がその方の代りに黒焦になって上げた……みたいな事情なのです。おわかりになりまして……私の黒焦の意味が……。  ……いいえ。校長先生に対する私たちの怨恨は、私たち二人が二人とも黒焦になってしまっても、まだまだ飽き足りないでしょう。  おわかりになりまして……こうして私の復讐を手伝って下さる方が、どんな方だか……。  自惚れの強い校長先生は、まだ御自分の知恵を固く信じてお出でになるかも知れません。その方が、そんなにまで深く先生を恨んでお出でになる事なぞ、まだお気付にならないかも知れませんが、それでもこの手紙を御覧になってお出でになるうちには、だんだんとおわかりになるでしょう。  くり返して申します。校長先生は、ただ黙って黒焦少女の復讐をお受けになるほかはないのです。それが眼に見えぬ正義の制裁と思し召して、黒焦少女の要求通りに、御自分の罪を正直に発表して、社会からコッソリ姿をお消しになるよりほかに方法はありません事を覚悟して頂きます。  ですけどもこの手紙を書いております私……黒焦少女の正体が何者かと言う事は、もはやお察しになっておりましょう。そうしてあの気の弱い、涙もろい火星の女が、どうしてコンナ恐ろしい無茶な事をするのだろうと思って、慄え上ってお出でになるでしょう。  森栖校長先生……。  先生は私の恩師です。男性の年長者です。早くから奥様とお子さんをお亡くしになってから熱心な基督教信者となって、教育事業に生涯を捧げると言っておられる立派なお方です。そうして世間から教育家の模範と言われて、度々表彰を受けてお出でになるステキに偉いお方なのです。  そのようなお方に、たといどのような迫害を受けましょうとも、復讐をしようなぞとたくらむのは、正しい事でないと思う方があるかも知れませぬ。  けれども森栖先生……。  私は先生がお名付けになった通り、火星の女です。普通の女とは違います。ですから人間世界の男性の横暴……男性にだけ許されている悪徳に、一つ思い切った反逆をして見せて世間の人をビックリさせてみたくなったのです。女性のための五・一五事件を起して、この世界が男性のためばかりの世界でない事を思い知らせてみたくなったのです。  ことに先生のような男性の悪徳の代表者みたいな方が、模範教育家として、千人に近い若い女性を指導して行かれると言うような事は、日本に生まれた私に取ってトテモ堪えられない事なのです。  私がドンナ生い立ちの、どんな思想を持った女だったか、校長先生は御存じでしたか知ら……。校長先生のお手がちょっと私に触れましただけで、間もなく黒焦になって校長先生を呪咀わなければならなくなった私の、深刻な運命のお話をお聞きになりましても、校長先生は真実に心からビックリなさいますか知ら。御自分たち……男性にだけ御都合のいい道徳観念と、そんなような常識ばかりを発達さしておられる日本の男性の方に、火星の女の使命が、おわかりになりますか知ら……。  でも私は説明しなければなりません。さもないと私の致しました事を、つまらない感情の爆発から来た、一時的のお芝居ぐらいに思って軽蔑なさるといけませんから……。私は、私の黒焦死体の呪咀がどんなに真剣な気持のものですか……私たちの怨みの内容が、どんなに深刻な、残虐無道な校長先生のなさり方に対する反抗であるかを、この手紙で証明しなければなりません。  火星の女の名誉のために……。  そうして黒焦少女の誓いのために……。  私は小さい時からノッポと呼ばれておりました。今の母が生みました腹違いの妹が二人ありますが、二人とも普通の背恰好の女ですのに、どうして私ばかりがコンナ身体に生まれ付きましたのか不思議でなりません。もっとも実父の話によりますと、私が生まれました当時は六百|匁あるかなしの、普通よりもズット小さな、月足らずみたような虚弱な赤ん坊だったと申しますが、それが五ツ六ツの頃からグングン伸び始めました。初めて小学校へ入りました時にチャプリン鬚の受持の先生が私を見て思わず、 「ホオ――。大きいなあア――」  と笑われましたが、私は子供ながらそのチャプリン鬚の先生の笑い顔に一種の恥辱を感じました。私が、私自身に就いて恥辱を感じましたのはこの時が初めてだったと思います。  私はそれから後、いろいろな意味で、こうした恥辱を受け続けて参りました。  その小学校の校長先生も私を初めて見られた時に同じような……それでも気の毒そうな笑い顔をされました。そうして私の名前を直ぐに記憶えられました。それから後、ちょっと来られた視学官の方も、すぐに私の名前を記憶して行かれたようですが、それは私の成績が作文と、習字と、図画と、体操を除いては、級の中で一番|末席だったせいばかりではなかったように思います。  私の名前は、すぐに全校の生徒に知れ渡りました。 「ノッポの甘川歌枝ん坊――オ……  梯子をかけてエ――髪結うてエ」  と上級の男生徒が遠くから笑ったりしました。私は気の弱い児でしたから最初のうちは泣いて学校に行かないと申しましたが、そのうちにダンダン慣れて来て、どんなにヒドイ事を言われても淋しく笑って振り返る事が出来るようになりました。  私が一番モテたのは運動会の時でした。  私は二年生ぐらいの時から、六年の男子の中の一番早い生徒でも負かすくらい走れましたので「後世畏る可し」という標題と一緒に、私の写真が新聞に出たこともありますが、その真夏の太陽の下で撮られた私のシカメ顔がまた、あんまり可笑しいと言って、私の両親までが腹を抱えて笑いましたので、私は二、三日、鏡ばかり見てはコッソリ泣き泣き致しましたが、あの時の情なかった私の思い出を話しましても、どなたが同情して下さいましたでしょう。もう一度腹を抱えてお笑いになるばかりだったでしょう。  私はまだ物心付かないうちから、人に笑われるために生まれて来た、醜い、ノッポの私自身を知りつくさなければならなかったのでした。  私が尋常六年頃から新体詩や小説を読み耽るようになったのは、そんな悲しさや淋しさが積り積ったせいではなかったかと思います。つまり私は皆様のお蔭で、人並はずれて早くから淋しい、一人ポッチの文学少女になってしまったのでしょう。  県立女学校に入ってからは、そんなに露骨な侮辱を受けませんでした。けれどもそこにはモットモット深刻な恥辱と嫌悪が私を待っておりました。  同級のうちでも私と正反対に一番美しい、一番よく出来る、或るタッタ一人を除いたほかの人々は、先生も同級の人達もみんな私に優しい言葉一つかけて下さいませんでした。みんな妙に私から遠くに離れて、奇妙な、冷たい笑い顔をして、私を見ておられるように感じました。御自分たちの御|綺倆と、学校の成績ばかりを一所懸命に争ってお出でになる方には、私が何となく劣等な、片輪者のように思われたのでしょう。私とお話なさるのを一種の恥辱か何ぞのように考えておられるようでしたが、それでも対抗のテニス、バレーボール、ランニングなぞが近付いて来ますと、先生も級友も、上級の生徒さんまでもが皆、私の周囲に寄ってたかってチヤホヤされるのでした。私を神様か何ぞのように大切にかけて、生卵や果物なぞを特別に沢山下すって御機嫌を取りながら、否応なしに競技に引っぱり出されるのでした。私がノッポの、醜い姿を恥かしがっている気持なんかチットも察せずに……貴女は全校の名誉です……とか何とか繰り返し繰り返し言われるのでした。  けれどもその競技がすんだあくる日になりますと、最早、誰一人私を見向いて下さらないのでした。私という生徒がいたことすらも忘れておられるかのように遠|退いてしまわれるのでした。  私は私が他校の選手と闘ってグングン相手を圧倒したり、引き離したりして行きます時に、手をたたいて狂喜される先生や生徒さん達の声からまでも、たまらない程の侮辱を感ずるようになって来ました。私は便所の中で下級生の人達がコンナ会話をしているのを聞きました。 「スゴイわねえ火星さん」 「まあ……誰のこと……火星さんて……」 「あら……御存じないの。甘川歌枝さんの事よ。あれは火星から来た女だ。だから世界中のドンナ選手が来たって勝てるはずはないんだって、校長先生が仰言ったのよ。だから皆、この間っから火星さん火星さん言ってんのよ」 「まあヒドイ校長先生……でも巧い綽名だわねえ。甘川さんのあのグロテスクな感じがよく出てるわ」  それでも気の弱い私は又も、欺されたり持ち上げられたりして、年に何度かの競技に引張り出されるのでした。心のうちにある冷たい空虚を感じながら……。  学校の運動場のズット向うの、高い防火壁に囲まれた片隅に、物置小舎になっている廃屋があります。モトは学校の作法教室だったそうですが、今では壁も瓦も落ちて、ペンペン草が一パイに生えて、柱も階段も白蟻に喰われて、畳が落し穴みたいにブクブクになっております。  私は課業の休みの時間になりますと、よく便所の背面から弓の道場の板囲いの蔭に隠れて、あの廃屋の二階に上りました。あそこに置いて在るボロボロの籐の安楽椅子に身を横たえて、上半分骨ばかりになった雨戸越しに、防火壁の上の青い青い空をジイッと眺めるのを一つの楽しみのようにしておりました。そうして私の心の奥底に横たわっている大きな大きな冷たい冷たい空虚と、その青空の向うに在る、限りも涯しもない空虚とを見比べて、いろいろな事を考えるのが習慣のようになっておりました。それも最初は、自分の片輪じみた大きな姿を運動場に暴露したくない気持から、そうしたのでしたが、後には、それが誰にも話すことの出来ない私の秘密の楽しみになってしまいました。  私の心の底の底の空虚と、青空の向うの向うの空虚とは、全くおんなじ物だと言う事を次第次第に強く感じて来ました。そうして死ぬるなんて言う事は、何でもない事のように思われて来るのでした。  宇宙を流るる大きな虚無……時間と空間のほかには何もない生命の流れを私はシミジミと胸に感ずるような女になって来ました。私の生まれ故郷は、あの大空の向うに在る、音も香もない虚無世界に違いない事を、私はハッキリと覚って来ました。  大勢の人々は、その時間と空間の大きな大きな虚無の中で飛んだり、跳ねたり、泣いたり笑ったりしておられるのです。同窓の少女たちは、めいめいに好き勝手な雑誌や、書物や、活動のビラみたようなものを持ちまわって、美しい化粧法や、編物や、又はいろいろなローマンチックな夢なんぞに憧憬れておられます。甘い物に集まる蟻のように、または、花を探しまわる蝶のように幸福に……楽しそうに……。  私にはソンナものがスッカリ無意味に見えて来ました。私の心のうちの虚無の流れと、宇宙の虚無の流れが、次第次第にシックリとして来ました。そうして私は放課後、日の暮れるまでも、あの廃屋のボロボロの籐椅子の上に身体を伸ばして、何となくニジミ出て来る淋しい淋しい涙で私自身を慰めるのが、何よりの楽しみになって来ました。  けれども、そうした私の秘密の楽しみは間もなく大変な事で妨げられるようになりました。  あの半分腐れかかって、倒れかかって、いろいろなガラクタと、白蟻と、ホコリで一パイになっている廃屋は、ちょうどあの海岸通りの四角にスックリと立っている、赤煉瓦の天主教会が校長先生のいろいろな美徳のホームでありましたように、ずっと以前から校長先生のいろいろな悪徳の巣になっているのでした。校長先生が模範教育家としての体面をあらゆる方面に保たれながら、その裏面に、いろいろなお金や女性たちに対して、想像も及ばない悪知恵を働かしてお出でになるためには、あの廃屋が是非とも必要なのでした。……ですから校長先生は、どうしてもあの廃屋を取り毀すことをお好みにならなかったのでしょう。「藁屋根は防火上危険だから」と言って、警察から八釜しく言って来ても、物置の建築費がないからと言って、県の当局の方を長いことお困らせになったのでしょう。  そんな因縁の深い、悪徳の巣の中とは夢にも知らないで、毎日毎日修養に来ておりました私の愚かさ……その私のグラグラの籐椅子の下から間もなく、どんな悪魔の羽ばたきが聞こえて来ましたことか。そうしてその悪魔の羽ばたきは私を、逃げようにも逃げられないこの世の地獄の中へ、どんなに無慈悲にタタキ落して行きましたことか……。こんなに黒焦になってでも清算しなければ清算し切れないほどの責め苦の中へ、私を追い込んで行きました事か……。  その羽ばたきの主は、真黒い毛だらけの熊みたような校長先生と、眼も口もない真白な頭を今一つ背中に取付けておられる川村書記さん……それから今一人、後から出てお出でになる虎間トラ子先生……ヨークシャ豚のように醜いデブちゃん……私たちの英語の先生……この三人があの廃屋に人知れず巣喰っていた悪魔なのでした。  あの廃屋の二階を、私が大切な瞑想の道場としている事を夢にも御存じない校長先生と、傴僂の老人の川村書記さんとは、いつも学期末の近付いた放課後になると、職員便所の横のカンナの葉蔭から、通行禁止の弓道場の板囲いの蔭伝いに仲よく連立って、コッソリと入って来られるのでした。そうして私の寝ている籐椅子の直ぐ真下の、八畳敷のゴミクタの中に坐って、いろいろな事を御相談なさるのでした。あんまり度々校内に居残って書記さんと密談なんかなさると、居残りや宿直の先生たちに妙な意味で見咎められるかも知れないし、学校の外でも世間の人目がうるさいと言ったようなデリケートな教育家の立場をよく御存じの校長先生に取って、あの廃屋は何と言う便利この上もない密談の場所でしたろう。  二階と違って階下は、破れたなりに硝子戸と雨戸が二重に閉まっているのですから、すこしくらい大きな声でも滅多に外へ洩れませんが、その代りに、大抵のヒソヒソ話でも、二階で息を殺している私の耳へ筒抜けに聞こえて来るのでした。そうしてそのお話というのは大抵、校友会費に関係した事ばかりで、お二人でその誤魔化し方を熱心に研究なさるのでした。  私は学校のグランド・ピアノが三千五百円と帳面に付いているのに、ほんとうは中古の五百円である事を聞きました。卒業生の寄付で出来た正門の横の、作法室の建物や備付品が、表向きは一万二千円となっているのに、内実は七千何百円とかですんでいる入り割りもわかりました。それから校長先生が、校友会費を流用して、川村さんの弟さんの名前でゲンブツという相場をなすって、お金を儲けて、傴僂の川村さんと山分けにしていられるようなお話も聞きました。  それからそのゲンブツのお金にお困りになった後始末のために、校長先生はかねてから準備しておられた、世にも奇妙な金儲の方法を川村さんにお打ち明けになるのをチャント聞いてしまいました。  もちろん、それは校長先生が川村さんから突込まれて白状なすった事ですが、校長先生はかねてから、校長先生の人格をこの上もなく崇拝しておられる熱烈な基督教信者で、私たち五年生の英語を教えておられた虎間トラ子先生に言いふくめて、校長先生の銅像を建ててはどうかと提議おさせになりました。そうして全職員先生の御賛成の下に全国に散らばっている卒業生たちや、在校生の家庭から寄付をお集めになりましたところが、それが大変な反響を呼びまして、既に五千円余りのお金が川村書記さんの手許に集まっているのでした。  ですから有志の人達は、申すまでもなく今一息奮発して校長先生の銅像を立像にしたいという御希望でしたが、校長先生は、何故かわかりませんけれども立像を非常にお嫌いになりまして、「私は胸像で沢山である。私は元来銅像を立てられるような人物でない。立像などとは以ての外である」と大変な剣幕で、固く固く主張されましたので、仲に挾まった川村書記さんは大層お困りになっているのでした。  けれども校長先生がその立像をお嫌いになるホントウの理由を聞いてみますと又、世にも馬鹿らしい内幕なのでした。  校長先生の胸像はモウ二、三年前にチャンと出来上って校長先生のお宿の押入の片隅に、白い布片に包まれたまま、ホコリと緑青だらけになって転がっているのでした。その背中の下の方には現在の帝室技芸員で、帝展の審査員として日本一の有名な彫塑家、朝倉星雲氏のお名前がハッキリと彫り込んで在るのでした。  すばしこい川村書記さんは、どうかしてその事を探り出されたのでしょう。何かの序にコッソリと上京して朝倉星雲先生にお眼にかかって、その彫塑の由来をお尋ねになると、何も御存じない星雲先生はアッサリとお答えになったそうです。 「ハア。あれですか。あれは私が森栖先生への御恩返しの一端にもと思って作ったものです。先般……三年ばかり前でしたか、ある温泉場から森栖先生のお手紙が来まして、頼みたい仕事があるから来てくれという文面でしたから早速行ってみますと、自分の胸像を作ってくれとのお頼みです。森栖先生は私の母方の伯父で、私が中学を出るまで学費を出して下すった大恩人ですから何条、否やを申しましょう。早速その温泉場付近の瓦焼場から理想的な土を取って来て一週間ばかりで胸像を作り上げ、薬品店にあるだけの石膏を買い集めて型を取りまして東京に持ち帰り、自分で監督して鋳造させまして、そのまま何処の展覧会へも出さずに、直接に森栖先生のお手許へ送り届けたものですが……そうですか。それではまだ建たずにいるのですか。……ヘエ……そうですか。イヤイヤ。失礼ですが謝礼などは一文も頂戴しようとは思っておりません。森栖先生のような徳望の高いお方のお姿を私のような者の手で故郷に残す機会を得ました事は、実に願ってもない名誉です。万一それが御校の校庭に据わるような場合に、土台工事とか、台石とかの仕事に就いて御用がありましたならば、何卒御遠慮なく私にお知らせを願います。決して御迷惑はかけませんから、私が自費でお伺いして、玉垣とか、植込みの工合とか言うものを、出来るだけ御経済になるように指図させて頂きたいと思います。職人任せに致しますと、銅像とのウツリが悪くなって、何もかも打毀しになる虞がありますから……」  これは傴僂の川村さんが、星雲先生の口真似をなすったのを、私がまた口真似を致したお話ですが、この話を聞いた川村書記さんは、校長先生の腕前のスゴイのに今更のように感心してしまわれました。そうして案外に寄付が集まり過ぎたお蔭で、銅像が立像になりそうになって来たので、すっかり面喰って弱っておられる校長先生の味方になる決心をされました。  ……この頃では相当の人の手にかけて銅像を建てるとなると、胸像一つでも五千円や一万円はかかる。立像になれば二、三万円ぐらいは費用を見積らなければならない事。だから胸像だけでもまだまだ寄付金額が足りない……。  と言ったような事なぞをコソコソと説明してまわって、とうとう立像説を打毀し、もう出来上っている胸像を使って集まっている五千何百円の大部分を二人で山分けにする計画を完成して、校長先生をホッとおさせになったのでした。そのあげくに川村さんはあの廃屋の中でこう言われました。 「そこで来る三月の二十二日に今度の卒業生の謝恩会があります。その時に優等生に代表させて寄付金の金額を先生に捧げさせます。そこでその金を今一度、私にお預けになって、銅像建設に関する一切の事務を川村書記に任せると一言仰言って下さい。そこで私が壇上に上って、ちょうど有名な朝倉星雲先生が郷土の出身だから、製作方をお頼みする事にした。星雲先生は喜んで引き受けられたから、遠からず出来上って来るはずとか何とか報告して拍手させてしまえばもうこっちのものです。細工は粒々仕上げを御覧じです」  しかし私があの廃屋の中で聞いたお話は、そんなような仲のよいお話ばかりではありませんでした。時にはお二人ともかなり強い声で言い争われた事が、二度や三度ではありませんでした。そうしてそのお蔭で前に書きましたような、この学校のいろいろな秘密がだんだんとわかって来たのですが、しかしその揚句はいつも校長先生の方が折れて、仲直りをなさるのでした。 「よしよし。ようわかった。帳面の責任は結局、君一人の責任になる訳だからね。無理は言わんよ。……いや。わかったわかった。わかったよ……。それじゃこれから二人で仲直りに、面白い処へ行こうか。あの温泉ホテルの三階なら、誰にも見つからないぜ君……」 「イヤ。もう今日は遅いですからモット近い処にしましょうや」 「なあにタクシーで飛ばせば訳はないよ。近い処はお互いの顔を知っとるからいかん。温泉ホテルの三階がええ。君はあの妓を連れて来たまえ。自由に享楽の出来るステキな処だぜ。知事や県視学も内々でチョイチョイ来るよ。吾輩の新発見なんだ」 「ヘエッ。そんなに贅沢な処ですか」 「贅沢にも何にもスッカリ南洋式になっている、享楽の豪華版なんだ。勘定は受持つから是非彼女を引張って来たまえ」 「ヘヘヘ。恐れ入ります」 「イヤ。彼女は面白いよ。だいぶ変っているよ。僕も今夜はモット若いのを連れて行く」  と言うようなお話も、何かの因縁のように、不思議と私の耳の底に残っておりました。  そのようなお話を取集めて考えてみますと、校長先生は、御自分の名誉と地位を利用して、学校をお金儲けの道具に使ってお出でになるのでした。そうして、そんなようなお金を使って、どこか秘密の場所で、お友達を集めて遊んでお出でになるのでした。  けれども私はチットモ驚きませんでした。  私は涙もろい気の弱い女の癖に、そんな恐ろしい、浅ましいお話を聞くのが面白くて面白くて仕様がないのでした。そうして、とうとうたまらない好奇心に駆られました私は、そんなお話を聞いた後に二、三度、学校の帰りに温泉鉄道に乗って、温泉ホテルを見に行って来ました。どんな人が来て、どんな事をする処かスッカリ見定めて来ましたが、そんな事を見たり聞いたりするのが又、何よりの修養になるのでした。つまり、そんな風にどこどこまでも浅ましい世間の様子がわかって参りますうちに、私の心のうちに拡がっております虚無の流れがイヨイヨハッキリ鏡のように澄み渡って来るのでした。  私は世間に対してこの上もなくシッカリと強くなって来ました。どんなに笑われても軽蔑されても、私は平気で微笑し返すことが出来るようになりました。世間の人々が……この地球全体までが、大きな虚無のうちに生み付けられておる小さな虫の群れに見えて来ました。そうして、そんな虚無の中で、平気で悪い事をする虫ならば、こちらも平気でヒネリ潰して遣っても構わないような気持になって来ました。……女新聞記者になったら面白かろう……なぞと空想したのもその時分の事でした。  虚無なんて事を考える女は、女として価値のない女でしょうか。同窓の人達は皆私を「火星の女」とか「男女」とか綽名を付けておられたようです。何だか私の顔を見るたんびに、気味わるそうに溜息を吐いておられるようでした。御自分たちが、私のような女に生まれなかった事を、安心しておられたようにも思えましたが、違っておりましたでしょうか。  私の両親も私の顔を見るたんびに溜息ばかり吐いておりました。親としての興味を全くなくしたような絶望的な眼で私を見ておりましたが、そんな気持も私は察し過ぎるくらい、察しておりました。  忘れもしません。今年の三月十七日、私たちの卒業式のあった日の午後の事でした。私は式から帰って来て、制服を平常着に脱ぎかえております間に、茶の間で話しております両親の言葉を聞くともなく聞いて終いました。 「あれが片付かんと、妹二人を縁付ける訳に行かんからのう」 「そうですねえ。寧のこと病気にでもなって、死んででもくれればホットするのですが、あれ一人は一度も病気もしませんし……」 「ハハハ。生憎なもんじゃ。片輪なら片輪で又、ほかの分別もあるがのう」  こんな会話を聞きました時の私の気持……世間的には随分、気の強い女になったつもりでおりながらも、内心ではまだ、ありとあらゆる愛情というものに、焦げ付くほどの執着を持っておりました私が、人間としての最後の愛からまでも見離されておることを、ハッキリと知りました時の私のたまらなさ……そうした会話の中に満ち満ちているある冷たい憎しみが、親としての愛情の変形に過ぎない事は十分にわかっていながらも、自殺するよりほかに行く道のない立場に置かれている私自身を暗示された時の、私の悲しみ……いつまでも火星の女ではすまして行かれない、絶体絶命の私の立場……それでも気が弱くて、とても自殺なんか出来そうにない女のセツナイ悲しみが、男性の方にお解りになりましょうか。  私はこの涯てしもない空虚の中に身を置く処がなくなったのです。  私は只今のような両親の話を洩れ聞きました夕方、御飯を戴きますと間もなく、お友達と活動を見に行くと申しまして、お母様から買って頂いたまま、まだ一度も袖を通した事のない銘仙の、馬鹿馬鹿しいくらい派手な表現派模様の袷を着まして、妹たちに気付かれないようにソッと家を抜け出しました。学校の裏門の横の空地に在るポプラの樹の蔭から、コンクリートの塀を乗り越えて、校庭の便所の蔭に飛び降りました。それくらいのことは私に取って何でもなかったのです。  私は、それから久し振りに今一度、あの廃屋の二階の籐椅子の上にユックリと袖を重ねて、あの懐かしい、淋しい空を眺めながら、静かな静かな虚無の思い出に立ち帰りましょうと思って、新しいフェルト草履を気にしいしい、人影のない、星ばかり大きい校庭の夕暗の中を、あの廃屋に近付いたのです。そうしてあの階下の土間の暗闇の中に、そっと片足を入れたのです。  その暗闇の中から突然に出て来た毛ムクジャラの男の両腕に、私はシッカリと抱締められて終ったのでした。そうして思いもかけない切ない愛の言葉を、生まれて初めて囁かれたのでした。 「……よく来て下さいました。ありがとう御座います。ほんとによく来て下さいました。この独身者の憐れな年寄の悩みを救って下さるのは貴女お一人です。貴女なしには私は生きて行けなくなったのです。どうぞこの独身者の淋しい教育家を憐れんで下さい……ね……ね。お互いにタッタ一人の淋しい気持は、わかり合っておるのですから……ね……ね……ね……」  そのお声が……そのお言葉が……たしかに校長先生のソレとわかりました時の、私の驚きはドンナでしたろう。  私の全身が、心臓の動悸と一緒に石になってしまったようでした。  ……どうして私がここに来ることを御存じでしたろう……とその刹那に思うことは思いましたが、考えてみますと職員室の一番左の窓から裏門が透かして見える事を思い出しましたから、多分何かの御用事で職員室へ来ておられた校長先生が私の姿をお見付けになって、先まわりをなすって弓術道場の板塀の蔭から来られたのではないか知らん……なぞと混乱した頭で考えた事でした。もともとお人好の私は、あんなような場合でも、出来るだけ校長先生のなさる事を善意に解釈しようしようと本能的に努力していたのでしょう、そんなような先生のお言葉にもさほどの不自然さを感じませんでしたばかりでなく、何よりも先に校長先生がこんな思いがけない非常識な事をなさるのはよくよくの事だろうと気が付きますと、私の持前の気弱さからどうしても逆らってはいけないような気持になりながら、暗黒の中で両腕を握られたまま、固くなって俛首れておりました。  ああ……意気地のない私……私はあの時にチョットでも声を立てたりすると、世間の名高い校長先生の御名誉と地位の一切合財をすっかりめちゃめちゃにして終うであろう恐ろしさに包まれて、身動き一つ出来なくなっていたのでした。  ……ああ……可哀そうな私……「お互いに淋しい心はわかっている」と仰言った校長先生のお言葉に私は、われにもあらず打たれてしまったのでした。どうしても逃れる事の出来ない運命に囚われてしまったような物悲しい気持になってしまったのでした。  ……ああ……馬鹿な私……不覚な私。校長先生が評判の通りの聖人でない。ほかの女の方とここで会う約束をしておられた……その女の方と私とを間違えておられる事を、あの時にどうした訳かミジンも察し得ずにいたのでした。多分、私の心の奥底に残っておりました尊敬の心が、校長先生を疑う事を許さなかったのでしょう。  ……ああ……浅墓な私……私は校長先生のお金に関する醜いお仕事の数々を知り過ぎるくらい、存じておりました。けれども女性に対しては、どこまでも潔白なお方と信じ切っていたのでした。よしんば馬鹿騒ぎをなさる事はあっても、校長先生お一人は、男性としての貞操を何処までも、お亡くなりになった奥様に対して守ってお出でになる感心なお方とこの時までも思い込んでいたのでした。その聖人同様の校長先生にコンナ秘密の悩みがあるとは何と言うお気の毒な事であろう。私にソレを打ち明けて下さるとは何と言う勿体ない事であろう……としみじみ考えておりますうちに私はもう、何もかもわからなくなるほど悲しくなって、泣けて泣けて仕様がなくなりました。ただメチャメチャに悲しい思い出を頭の中に渦巻かせながら、校長先生のお胸にグッタリと取り縋っておりました。  そのうちに時間がグングン流れて行きました。  ……ああ……けれども、それは何と言う悲しい、浅ましい一刹那の夢で御座いましたろう。  間もなく入って来られました虎間トラ子先生……私たちがデブさんと言っておりましたあの古参の英語の先生に、私がドンナに非道い目に会わされました事か。そうして真暗闇の中で、どんなに一所懸命の力を出して虎間先生を突飛ばして廃屋の外へ逃げ出しましたことか。  そうして一旦コンクリート塀の外へ飛び出してから、直ぐにまた、弓の道場の間に忍び込んで、あの廃屋の横の切戸の隙間に耳を近付けて、ドンナに真剣に、お二人の口争いに耳を傾けておりましたことか。  その時に校長先生が、どんなに狼狽してお出でになったことか。お顔色こそわかりませんでしたが多分、真青になっておられたことでしょう。暗黒に狃れて来た眼でソッと覗いてみますと、運動会用の大きな張子の達磨様のお尻の間に平突張って、威丈高になっていられる虎間先生の前に両手を突いて、半泣きの声を出しながら、どんなにペコペコと謝罪られましたことか。 「いいえ、間違いとは言わせません。貴方は妾ばかりじゃない。コンナ風にして何人も何人も女を欺してお出でになるのです。私は何もかも知っているのですよ。成績の悪い生徒の点数を良くして遣ると仰言って、その生徒やお母さん達に貴方が何を要求してお出でになるかも、よく存じておりますのですよ。貴方の商売道具は、貴方のポケットの中に在る全校の生徒の試験問題ですからね。貴方の下宿のお二階に尋ねて来られた生徒さんとお母さんのお名前は皆、私のノートに書き止めて御座いますよ。貴方の下宿のお神さんが、こんな事に就いて口の固い理由も、妾はズット以前から詳しく存じているのですよ。ホホホ……。  そればっかりじゃ御座いませんよ。今の五年の優等生の殿宮アイ子さんは、貴方の実のお子さんではありませんか。イイエ。お隠しになっても駄目です。毎日毎日お顔を見ているうちにはハッキリとわかって参ります。メンデルの法則って恐ろしいものじゃありませんか。女の児は父親に男の児は母親に似るってほんとうですわね。よく御覧なさい。貴方に生写しじゃありませんか。貴方は、貴方が妊娠させて卒業おさせになったトメ子さん……舞坂トメ子さんの気の弱いのに付け込んで、欺したり賺したりして、あの色男の好色漢の殿宮小公爵の処へ媒酌なすったのでしょう。そうしてその殿宮の甘ちゃんに遊び事で取り入って、どこどこまでも温柔しい、日本婦人式に謹しみの深い天使のような殿宮夫人を、二重にも三重にも苦しめ苛責なむのを、一つの秘密の楽しみにしてお出でになったのでしょう……イイエ。貴方はソンナ性格の方なのです。御自分の無良心な、二重人格式の性格の人知れぬ強さを、どこどこまでも深刻に楽しみ、誇って行こうとしておられる、変態趣味的に極端な個人主義の凝固まりなのです。  こんな事を知っているのは今のところ妾と舞坂トメ子さん……今の殿宮夫人と二人だけで、御本人のアイ子さんもまだ、お気づきにならないようです。ただ一途に貴方の事を立派な人格の校長さんとばかり思い込んで尊敬してお出でになるようです。そうした有難い舞坂トメ子さんの心遣いが貴方におわかりになりますか。私と舞坂さんとは、二人でこの学校の寄宿舎にいた時分から、大切な大切な親友だったのですからね。その大切な大切な舞坂さんをお泣かせになったのが貴方ですから、どうして知らないでおられましょう。……私はソンナ処から貴方の御生活に興味を持って、いろいろと苦心しながら、貴方に近付く機会を狙っていたのですからね。ね、おわかりになったでしょう。女の一心というものは怖いものですよ。オホホ……。  いいえいいえ。妾は黙っておる訳には参りません。私は在来りの手も力もない日本式の女性とは違うんですからね。意地になったらドコドコまでも意地になって行ける自信を持った女ですからね。自慢では御座いませんが、女の腕一つで男の子を二人育てて来た女ですからね。一通り世間の事は知り抜いている女ですよ……貴方が二十年前に、あの天使のように美しい舞坂さんを抱き締めて仰言った愛の言葉を発表する方法を存じておりますよ。どうぞどうぞこの淋しい独身者を憐れんで下さい……とね。ホホホ……」  それから先の問答は、気が顛倒しておりましたせいか一々記憶に止まっておりません。けれども、かいつまんで申しますと、校長先生の一所懸命の御弁解で、虎間先生はやっと間違いの原因を納得されました。そうして虎間先生を奏任待遇にすることと昇給させる事を条件として、校長先生の過ちを許して上げると言う事で、お話が折合った模様で御座いました。  それに引き続いて今度は、私の口を塞ぐ方法に就いてヒソヒソと話し合っておられたようでした。クスクス笑いの声と一緒に「大阪」とか「廃物利用」とか言ったような言葉がチラチラと洩れて来たようでしたが、大部分はほとんど聞こえませんでした。他人に言えと仰言ってもコンナ秘密をお喋舌りするような私ではないのにと思い思い、胸を一パイにして聞いておりました。そうして最後にお二人はコンナ問答をされました。 「よう御座いますか森栖さん。万一、貴方が奏任待遇と昇給のお約束をお忘れになると、貴方が大変な御損をなさる事になるのですよ。妾はもうこの春に二人の子供が大学と専門学校を一緒に卒業するばっかりになっておりますし、一生喰べるくらいの貯えは今でも持っているのですから、世間からドンナ事を言われても怖い事はありません。ただこの上の欲には二人の息子の結婚費用と恩給を稼がせて頂けばいいのですから……どんな事でも発表出来るのですからね。よう御座いますか、森栖さん」 「ヘエヘエ。決して忘れません。たしかに承知致しました。ああ意外な間違いで心配しました」 「それにしてもあの娘は、どうしてここに入って来たのでしょう。気色の悪い……」  これだけ聞きますと、私はソッと切戸から離れました。弓道場の蔭の防火壁の横から外へ出て、裏門際の共同便所で髪毛と顔を念入りに直して、コッソリと自宅へ帰りました。  その晩は頭の中がツムジ風のように渦巻いて、マンジリとも出来ませんままに、左右の手首がシビレるほどシッカリと胸を抱き締めて、夜を明かしました。死刑の宣告を受けた人間でも、あんなにまで夜の明けるのを恐れはしなかったでしょう。  あくる朝になりますと私は、身体中が変にダルくってしようがないのに気付きました。激しいトレイニングの後で嘔きたくなる時のような疲れを感じて、窓の外の太陽の光が妙に黄臭くて、起き上ろうとすると眼がクラクラして堪りませんので、生まれて初めて終日、床に就いておりましたが、あれは多分、烈しい神経の打撃からだったのでしょう。両親には風邪気味と申しましたので、夕方になって、近所に住んでおられる大学の助教授さんとか言う、若いお医者さんを呼んでくれましたが、別に何処と言って悪い処は御座いませんし、熱も何もなくて、脈も変っていなかったので御座いましょう。お医者様はしきりに不思議がって、首を傾げておられました。そうして私の左手からすこしばかり血を取ってお帰りになりましたが、あの血の一滴が、校長先生と私とをコンナ破目に陥れる重要な血だった事を、あの時の混乱していた私が、どうして気付き得ましょう。  その次の次の朝……あれから四日目の朝早くでした。私はやっと、平常に近い静かな気持になって眼を醒ます事が出来ました。それは前の晩に若いお医者様から頂いた睡眠薬のお蔭だったのでしょう。私は寝間着のままお庭に出て、ユーカリの樹の梢に輝く青い青い朝の空を、ゆっくりと見上げる事が出来ました。  けれども、その時の私の悲しゅう御座いましたこと……。  校長先生。私は人から何と言われても、やっぱり女だったのです。  それが道ならぬ、忌わしい事と知りつつも私は、校長先生をお怨み申し上げる気持に、どうしてもなり得なかったのでした。それよりも、そんな道ならぬ忌わしい事をなさらなければならぬ校長先生の弱い、卑怯なお心が、その時の私にはこの上もなく御痛わしいものに思えて仕様がなくなっていたのでした。そうしてそのお痛わしい、淋しい校長先生を、仮令どのような忌わしい方法ででもお救い申し上げて、正しい、明るい道にお帰りになるようにお諌め申し上げるのが、私のような女に授けられた道ではないのでしょうか。それが私の持って生まれた運命なのではないでしょうか……とさえ思うようになっておりました。私には、 「この憐れな、淋しい老人を救ってくれ」  と仰言ったお言葉が、校長先生の真実のお心から出たお言葉のように思えて仕様がなかったのでした。たとい、それが間違って私に仰言ったお言葉であったにしても……。  私はもう、私の知らない間に虚無ではなくなっていたのです。校長先生の御蔭で、女としての純情に眼ざめ始めていたのです。  ……底の知れないほど愚かな私……。 「大阪に行かんか」  と父から相談をかけられたのはその朝食前の、応接間での出来事でした。いつもですと私の事に就いては、ずいぶん冷淡でした私の継母も、この相談には深い興味を持っておりましたらしく、眼を光らして私の傍の椅子に参りました。  倹約家の父は珍しく金口を吹かしながら、いつになくニコニコした口調で申しました。 「お前は新聞記者になりたいって言った事があるだろう」 「ええ。そんな事を考えた事もありましたわ」 「写真も嫌いじゃなかったろう」 「ええ大好きですわ」  父は、私がいろいろな新聞や雑誌に投書したり、写真サロンに入選したりしている事を知っているのに、どうしてコンナ事を改まって尋ねるのだろうとチョッと不思議に思いました。 「……だから、ちょうどいいと思うんだがね。大阪の新聞社で女の運動記者を欲しがっているんだ。女学校の運動部を訪ねてまわって、話を聞いたり、写真を撮ってまわったりするのが仕事だそうだがね。昨日わざわざ森栖校長先生が俺の役所に訪ねて来られて、お前が承知してくれさえすれば、先方では願ったり叶ったりだと言っている。洋行も出来るようにして遣ると言っているそうだから、コンナ良い口はまたとないと思う。俸給は百円でボーナスは三月分だそうだが、御承知ならば私が大阪へ電話をかけるから、直ぐにも出発出来るだろうって言う事だがね……」  と言うお話でした。  私はあの時に、よくあれだけ落ち着いておられたと思います。実際、三、四日前の廃屋の中の出来事よりも、この時に父から聞きました大阪行きのお話の方が、ガア――ンと私をタタキ潰したのでした。  私はこの時ほど、私の気持を裏切られた事はありませんでした。校長先生が私を大阪へ遣ろうとしておられる……と言う事が、私を絶望的に悲しませたのです。 「……考えさして下さい」  と返事をするうちに私はもう涙で胸が一パイになってしまいました。何故だかわからないままシクシクとシャクリ上げ始めました。  それを見ました父はまた、椅子の上から一膝進めて申しました。 「これぐらい、有難い事はないじゃないか……大学を卒業した男の学士様でさえ三十円、二十円の口がない世の中だよ。考える事なんかないじゃないか……それとも何かい。お前には、どうしても大阪へ行けない理由でも在るのかい」  私は後にも前にも、あんなに厳粛な父の声を聞いた事は一度もないのでした。ですから思わず顔を上げて両親の顔を見まわしますと、両親は父の言葉付以上に、大罪人でも訊問しているかのように厳粛な、剛わばった顔をして、白々と私を凝視しておりましたので、私はいよいよビックリしてしまいました。  それでも私は何の気も付かずに頭を左右に振りながら申しました。 「いいえ。別に何にも、そんな理由はありませんわ。ただもう二、三日考えさして頂きたいだけなのです。一生の事ですから……」  両親はこの時にチラリと異様な白い眼を見交したように思います。それから父は改まった咳払いを一つしました。 「ふうむ。それならば尋ねるが、お前は何か私たちに隠している事が在るのじゃないかい。そのために大阪に行かれないのじゃないかい」  私はハッと胸を衝かれましたが、すぐに気を落ち着けて、何気なく頭を左右に振りました。ため息を一つしながら……。 「いいえ。何も……」 「それじゃ……お前は再昨日の晩、何処へ行っていたのだえ」  継母が氷のように冷たい静かな声で、横合いから申しました。  私は音のない雷に打たれたようにドキンとしながら、ガックリと俛首れてしまいました。多分、私の顔は死人のように青|褪めていたことでしょう。ただもう気がワクワクして胸がドキドキして、身を切るような涙がポタポタと寝間着の膝の上に滴るばかりでした。  ……私の破滅は校長先生の破滅……校長先生の破滅は私の破滅……私の破滅……校長先生の破滅……何もかも破滅……現在タッタ今破滅しかけているのだ。……そうして、どんな事があっても破滅させてはならないのだ。白状してはいけないのだ。私と校長先生とは二人きりでこの秘密を固く固く抱き合って、底も涯てしもない無間地獄の底へ、何処までも何処までも真逆様に落ちて行かなければならないのだ。……と……そんなような事ばかりをグルグルグルと扇風機のように頭の中で考えまわしているうちに、私の全身をめぐっております血液が、みんな涙になって頭の中一パイにみちみちて、あとからあとから眼の中に溜って、ポタポタと流れ出して行くように思いました。それにつれて私の心臓と肺臓が、涯てしもない虚空の中で互い違いに波打って狂いまわる恐ろしさに、声も立てられないような気持になって行きました。  その私の耳元に、父の鋭い、冴え返った声が聞こえました。 「隠してもわかっているぞ。一昨日お医者様が取って行かれたお前の血清を、大学で検査された結果、お前がもう処女でないことがわかってしまったんだぞ」  継母が私の直ぐ横で、長い長いため息をしました。赤の他人よりもモットモットつめたい、もっともっと赤の他人らしい溜息を……。 「一昨日、お前を診て下さった……昨夜も診に来て下すった先生は、その方の研究で墺太利まで行って来られた有名な医学博士だったのだぞ。どんな言い訳をしても通らない、科学上の立派な証拠を……俺は……俺は……眼の前に突き付けられたのだぞ……」  ……何と言う恐ろしい科学の力……。  私がもう清浄な身体でないこと……自分でもそうは思われないくらいの儚ない一刹那の出来事……それがタッタ一滴の血液の検査でわかるとは……。  ……何と言う残酷な科学の審判……。  私はモウ何の他愛もなく絨氈の上に……両親の足元に泣き崩れてしまいました。  絶体絶命になった私……。  父は私に是が非でも相手を打ち明けよと迫りました。決して無理な事はしない。キット添わせて遣る。お前の事をソンナにまで思って下さる人がおられる事を俺達が気付かなかったのが悪かったのだ。どんな相手でもいいから打ち明けよ。親の慈悲というものを知らぬか……と両親とも涙を流して迫りましたが、私は死ぬほど泣かされながら、とうとう頑張り通してしまいました。校長先生のお名前を打ち明けるような空恐ろしい事が、どうしても私には出来なかったのです。  私は生まれて初めて親の命令に背いたのです。親様の慈悲を裏切ったのです。校長先生の御名誉のために……。私はどうしてあの時に狂人にならなかったのでしょう。  それから私はその日の正午頃になってヘトヘトに泣き疲れたまま、寝床に入りました。アダリンを沢山に服んで、青|褪めた二人の妹に見守られながらグッスリと眠ってしまいました。このままで死んでしまえばいいと思いながら……。  その翌る日の三月二十二日は、私たち二十七回卒業生の、校長先生に対する謝恩会が催される日でした。  ああ謝恩会……私に取って何と言うミジメな、悲しい、恐ろしい謝恩会でしたろう。  私はまだ睡眠剤から醒め切れないような夢心地で、死ぬにしても生きるにしても、どちらにしても考えようのないような考えを、頭の中一パイに渦巻かせながら、今一度、母校の正門を潜りました。  もう一度校長先生のお顔を見たい。どんな顔をなすって私を御覧になるか……と……それ一つを天にも地にもタッタ一つの心頼みにして……。  いつもの通り古ぼけたフロックコートを召して、玄関に立ってお出でになった校長先生は、やはりいつもの通りに、私を御覧になるとニッコリされました。それは平常の通りの気高い、慈悲深い校長先生のお顔でした。 「……やあ……甘川さんお早よう。貴女にちょっとお話がありますがね。まだ時間がありますから……」  と落ち着いた声で仰言って、私の手を引かんばかりにして正面の階段を昇って、二階の廊下のズッと突き当りの空いた教室の片隅に、私をお連れ込みになりました。そうして、やはりこの上もない御親切な、気高い、慈悲深い顔をなすって、 「どうです。お父さんからのお話を聞かれましたか。大阪へ行く決心が付きましたか」  と仰言って、もう一度ニッコリされました。  その校長先生のお顔は、二、三日前の御記憶なんかミジンも残っていないお顔付きでした。柔和なお顔の皮膚がつやつやしく輝いて、神様のような微笑がお口のまわりをさまようておりました。……あの晩の事は夢じゃなかったのか知らん……あたしは何かしらとんでもない夢を見て、こんなに思い詰めているのじゃなかったか知らん……とさえ思ったくらいでした。  それでも私は、考えようのないような考えで頭の中を一パイに混乱させながらも、キッパリと大阪行きをお断りしたように思います。その時には別段に嬉しくも、悲しくも、腹立たしくも何ともなかったようですが、多分、私の脳髄がまだシビレていたせいでしたろう。  しかし校長先生は、お諦めになりませんでした。 「これは貴女のおためですから……この就職口さえ御承諾になれば、貴女にはキットいい御縁談が申し込んで来る事を、お約束出来るのですから……運動好きの若い紳士が、その新聞社に待っておられるのですから……」  とか何とか仰言って、いよいよ親切を籠めて、繰り返し繰り返しお説教をなさいましたが、その言葉のうちにうなだれて聞いておりました私が、そっと上目づかいをして見ました時の、校長先生のお眼の光の冷たかったこと……人間を喰べるお魚のような青白い、意地の悪い、冷酷な光が冴え返っておりましたこと……。  その何とも言えない無情な、冷やかなお眼の色を見ました一刹那に、私はモウ少しで……悪魔……と叫んで掴みかかりたいような気持になりましたので、こっそりと一つ溜息をして、頭を下げてしまいました。何もかもメチャメチャにしてしまいたい私の気持が、私自身に恐ろしゅう御座いましたので……。  その時に校長先生のお言葉が……お話の初めの時よりもずっと熱烈な……祈るようなお声が、私の耳元に響きました。 「……ね……甘川さん。考えて下さいよ。貴方は万が一にも大阪にお出でにならぬとすれば、貴方の御両親やお妹さん達に、どれだけの精神的な御迷惑をおかけになるか御存じですか。貴女を今のままにしておいては将来、家庭をお作りになって、満足な御生涯をお送りになる可能性が些ない事になると仰言って、御両親が夜の目も寝ずに心配してお出でになるのですよ。これは私が心から申し上ることです、貴女は一体、将来をどうなさるおつもりですか。これほどに貴女のおためを思っておる私の心が、おわかりにならないのですか」  その校長先生らしい……この上もない人格者らしい威厳と温情の籠もっているらしいお言葉つきの憎らしゅう御座いましたこと。私は今一度カッとなって、何もかもブチマケてしまいたい衝動に駈られましたが、しかしその時には最早、私の決心が据わっておりましたので、身体中をブルブルとわななかせながら、我慢してしまいました。 「校長先生のお心はよくわかっております。けれどもモウ二、三日考えさして下さい。決して先生のお心にそむくような事は致しませんから……」  これは私が生まれて初めて吐いた嘘言でした。  この時に私が決心しておりました事は、先生のお心に背くどころでなかったのでした。もしこの時に私が致しておりました決心の内容が、ホンの一部分でも校長先生にお察しが付きましたならば、校長先生はその場で気絶なすったかも知れません。  私は先生の平気な、石のようにガッチリしたお顔色を見ておりますうちに、トテモ人間並の手段では校長先生を反省させる事が出来ないと深く深く思い込みました。私が火星から来た女なら校長先生は土星から降ってお出でになった超特級の悪魔に違いないと気が付きましたから、ドンナ事があっても間違いない……そうして先生をドン底まで震え上らせる手段を考えなければならぬ……殺して上げるくらいでは追い付かない……この地球表面上が、校長先生に取っては生きても死んでもおられない、フライ鍋よりも恐ろしい処にしてしまわなければならないと固く固く決心してしまったのでした。  私は微笑を含みながら静かに立ち上って教室を出ました。そうすると入口で様子を聞いておられたらしい虎間デブ子先生にバッタリ出会いましたが、私はモウすっかり落ち着いておりましたから、何も知らん顔で丁寧にお辞儀をして階段を降りて行きました。あとで校長先生と虎間先生が何か御相談をしてお出でになるようでしたが、そんな事はもう問題ではありませんでした。  階下の待合室になっている裁縫室に入って行きました私は、卒業生仲間のお話の中に交って一緒に笑ったり、お菓子を頂いたり何かして一時間余りを過しましたが、私があんなに打ち解けて皆様と一緒に愉快そうに燥いだ事は生まれて初めてだったでしょう。その間じゅう私は、自分のノッポも、醜さも、火星の女である事も何もかも忘れて、何となく皆さんとお名残が惜しい気持が致しますままに、出来るだけ大勢のお友達と顔を見合って、笑い合って、手を取り合ってなつかしみ合ったのですが、あの一時間こそは私の一生涯のうちでも、やっと人間らしい気持のした、一番楽しい一時間だったのでしょう。  それから間もなく始まった謝恩会の模様を、私はすこし詳しく書かなければなりません。それはこの世に又とない校長先生の悪徳を、眼も眩むほど美しく、上品に飾り立てた芝居だったのですから。それは私以外の人達が一人も気付いてお出でにならない……そうして同時にタッタ一人私だけを苛責め、威かすために執行われた、世にも恐ろしい、長たらしい拷問だったのですから……。  最初に全校の生徒の「君が代」の合唱がありましたが、その純真な、荘厳この上もない音律の波を耳に致しておりますうちから私は、もう身体中がゾクゾクして、いても立ってもおられないくらい空恐ろしい、今にも逃げ出したいような気持になってしまいました。……心のドン底から震え上らずにはおられない……「君が代の拷問」……。  それからその次に、父兄代表として視学官の殿宮さんが壇上にお立ちになった時の演説のお立派でしたこと。校長先生の御高徳を、極く極く詰まらない事までも一つ一つ挙げて、説明して行かれた時の満場の厳粛でしたこと……。  校長先生の銅像の寄付金の事に就いて、教頭の小早川先生が報告をなすった後に、卒業生代表の殿宮アイ子さん……まだ何も御存じないアイ子さんが、集まったお金の全額の目録を捧げられた時の、校長先生の平気な、すこし嬉しそうなお顔……。  それから川村書記さんの事務報告に続いて、校長先生が感謝の演説をなされました。そのお言葉の涙ぐましかったこと……その真情の籠もっていたこと……そのお姿の神々しかったこと……そうして、そうでありましただけ、それだけにその演説の意味が、どんな詩人でも思い付かないくらいに悪魔的でしたこと……。 「私は自分の子というものを一人も持ちません。ですから、いつも皆様を私のホントウの子供と思っております。……この五年の間にお名前から、お顔から、お心持までも一々記憶して、何の疵もない玉のように清浄に育って行かれる皆様のお姿を、心の底まで刻み付けているのであります。その皆様をこの浪風の荒い、不正不義に満ち満ちた世の中に送り出す、その最後のお別れの日の今日只今、私がどうして平気でおられましょう。どうして感慨なしにおれましょう。それが繊弱い、美しい、優しい皆様でありますだけ、それだけに、雄々しい吾児を戦場に見送る母親の気持よりもモットモット切ない思いで胸が一パイになるのであります。  ……申すまでもなく人生は戦場であります。この社会は現在、あらゆる素晴らしい科学文明の力で、かくも美しく飾り立てられているのでありますが、しかしその内実はドンナものかと考えてみますと、ちょうど野生の動植物の世界……ジャングルとか原始林とか、阿弗利加の暗黒地帯とか言うものの中と同様に、精神的にも物質的にも、お互い同士が『喰うか喰われるか』の恐ろしい生存競争場であります。その止むに止まれぬ生存競争から生み出される、あらゆる不正不義な意味の社会悪が到る処に『喰うか喰われるか』の意味で満ち満ちているのでありますからして、わけても心の優しい、うら若い皆様に取りましては、是非善悪に迷われるような深刻な、危険な、恐ろしい立場が、到る処に待ち受けている事を、今から覚悟していて頂かねばなりません。  ……度々申しますように、今日までの人類文化の歴史は、男性のための文化の歴史であります。そうしてその男性の歴史というものは個人個人同士の腕力の闘争史から、団体同士の武力の競争時代を経過して参りまして、只今は金銭の闘争時代に入っております。すなわち弓矢鉄砲と名づくる武器が、金銭と名づくる武器に代っただけの時代であります。それでありますからして昔の武力闘争時代に於て、戦争のため、すなわち敵に打ち勝つためには、如何なる奸悪無道な所業といえども、止むを得ない事として許されておりましたのと同様に、現在の社会に於ても、金銭と、これに伴う名誉、地位のためには、法律に触れず、他人に知れない限り、如何なる悪辣、非人道をも、どしどし行って差支えないと考えられているのであります。もっと極端に申しますと現在の世界は、国際関係に於ても、個人関係に於ても、平気で良心を無視し、人道を蹂躙し得るほどの、残忍、冷血な者でなければ、絶対に勝利者となる事の出来ない世の中と申しても大した間違いはないと考えられるのであります。  ……すなわち現代の男性は、金銭の武器をもって戦うところの、暗黒闘争時代の闘士であります。無良心、無節操なる暴力とか策略とか言うものを平気で、巧みに行ない得る男性が勝者となり、支配者となりまして、そんな事の出来ない善人たちが、劣敗者、弱者となり下って行く証拠が、日常到る処に眼に余るほど満ち満ちているのであります。……ですから世界中が優しい、美しい、平和を愛好する婦人たちの心によって支配される時代は、まだまだ遙かの遠い処に在ると申さねばなりません。  ……ですから皆様は、婦人に生まれられた事を喜ばなければなりません。御存じのお方もありましょうが、太閤記の浄瑠璃で、主君を攻め殺して天下を取ろうとする明智光秀が、謀反に反対する母親や妻女を『女子供の知る事に非ず』と叱り付けております。あの時代でも只今でも同じ事で、婦人はそのような、醜い、邪悪な、生存競争の全部を、世界始まって以来男性に任せ切りで、自分たちは皆申し合わせたように美と愛の生活を独占して参りました。その純真、純美な愛の心によって、料理、裁縫、育児の事にのみいそしんで、その家庭生活を美化し、平和化し、子孫を正しい、美しい心に教育する事ばかりに努力して来ました。そうして次第次第に腕力、武力の野蛮な闘争の世界を克服して、昔の人の想像も及ばぬ幸福安楽な、今日の文明世界を生み出して参りました。  ……ですから皆様は決して恐るる事はありません。私は皆様に平和を尚ぶ心を植え付け、忍従と美を愛する心掛をお教え致しました。皆様はこの心をもって、男性が作る残酷な、血も涙もない、厚顔無恥な悪徳の世界と戦わなければならぬ使命を、まだ歴史のない大昔以来、心の底から本能的に伝統してお出でになるのであります。ですから、その皆様の、美しい、優しい平和と忍従を尚ぶ本能のまにまに、この世界を一日も早く浄化し、良心化して、人類相互の心からなる平和の世界……婦人の美徳によってのみ支配される世界を一日も早く、育て上げられるように、毎日毎日全力を揚げて働いてお出でになりさえすれば、それでよろしいのであります。  ……それは決して困難な事でも、わかり難い事でもありません。家庭に於ける婦人の美しい本能……清らかな愛情は、この男性と戦う唯一、無敵の武器であります。どんなに気の荒い、血も涙もない男性でも、この婦人の底知れぬ忍従と、涯てしもない愛情によって護られた家庭の中に在っては、底の底から安心して平和を楽しむ心になるのであります。そうして知らず知らずのうちに大きな感化を、その心の奥底に植付けられて行くのであります。家庭内に争議を起す婦人は災なる哉。……どうか皆様は一日も早く健全な家庭を持たれて、潔白な、正直なお子さんを大勢育て上げられて、来たるべき日本国を出来るだけ清らかに、朗らかに、正しく、強くされん事を、私は衷心から希望して止まないのであります。  ……私はこの希望一つのために、生涯を棄ててこの事業に携わっておる者であります。……繰り返して申します。皆様は私の心の子供であります。この子供たちをかような尊い戦いのために、今日只今から社会に送り出す私の心持……お別れに臨んで……」  校長先生のお話がここまで参りました時に、満場から湧き起った拍手のたまらない渦巻き……それから暫くの間続いたススリ泣きと溜息……。  それから卒業式の時と同様に唄い出されました、涙ぐましい「螢の光」……。  ああ。何と言う感激にみちみちた光景でありましたろう。何という神々しい校長先生のお姿でありましたろう。  その謝恩会がすみますと直ぐに私は、帰り道の途中に在る殿宮視学官様のお宅をお訪ねしました。そうして学校一の美人で、学校一の優等生と呼ばれてお出でになる殿宮アイ子様にお眼にかかりまして、大切な秘密のお話がありますからと申しまして、二人きりで応接間に閉じこもりました。  殿宮アイ子さんは在学中、私の大切な大切な愛人だったのです。お友達のうちで詩というもののホントウにおわかりになる方はアイ子さんお一人だったのです。誰も知りませんけれども、時々コッソリとお眼にかかった事が何度あるかわかりませんので、あの物置のアバラ家の二階で、虚無のお話をし合ったのも一度や二度ではなかったのです。けれども、こうしてお宅を訪問した事はこの時が初めてだったのです。  殿宮アイ子さんはホントにシッカリした方でした。私の話をお聞きになっても、驚きも泣きもなさらないで、美しい唇をシッカリと噛みしめ、張りのある綺麗なお眼を真赤にして輝かしながら、私の長い長いお話をスッカリ受け入れて下さいました。そうして私のお話がすみますと、やっと少しばかりの涙を眼頭にニジませながら、思い詰めたキッパリした口調で言われました。美しい美しい静かなお声でした。 「……ありがとうよ。歌枝さん。お蔭で今まで私にわからなかった事がスッカリわかりましたわ。私が初めて知りました真実のお父さん……森栖校長先生を反省さして下さる貴女の御親切に私からお礼を言わして下さいましね。貴女のなさる復讐は、どんな風になさるのか存じませんけど、貴女の仰言る通りに、誰にもわからないようにその人を反省させるだけの意味の復讐なら、大変にいい事だと思いますわ。その方法は貴女にお任せしますわ。どんな方法でも私は決してお恨み申しますまい。そうして、それでもお父様……校長先生が反省なさらない時には、貴女から下すったお手紙を、きっと貴女のお指図通りに出しますわ。ええ、中味を見ないで……誰にも……母にも秘密を明かしませんから、どうぞ御安心下さい。私は貴女をドコまでも信じて行きますわ。……私は貴女に思う存分に恨みを晴らして頂くよりほかに父の……父の罪の償い方法を知らないのですから……。  ……ですけど……それはそれとして、大阪へお出でになったらキットおたよりを下さいましね……どうぞ……ね」  そう言ってアイ子さんはタッタ一しずく涙をポトリと落されました。そうしてその涙を拭おうともしないまま走り寄って来て、私の手をシッカリと握り締められました。千万無量の意味の籠もった握手……。  それで私の下準備は終りました。  私が大阪に行く事を承知しました時の両親の喜びようと、わざわざ訪ねてお出でになった校長先生のお賞めになりようは、それはそれは大変なものでした。そうしてその時に私が持ち出しました無理なお願い……大阪へ行く事を誰にも知らせないで、タッタ一人で出立したい。大阪の新聞社の支局へも挨拶しないまま、今から直ぐに出発したいという我ままな願いも、そんなに八釜しく仰言らずに承知して下さいました。  けれども私は大阪へ行きませんでした。  謝恩会のあったその日の夕方に、新しい洋装とハンドバッグ一つと言う身軽い扮装で、両親に別れを告げて、家を出るには出ましたが、その足で直ぐに殿宮視学のお宅をお訪ねして、イヨイヨ大阪へ行きますからと言って、無理にアイ子さんを誘い出しました私は、一緒に西洋亭へ上りまして、二人で思い切り御馳走を誂えて、お別れの晩餐を取りました。それから二人でモダン写真館へ行って記念写真を撮りますと、あそこの写真館のサロンで二人で抱き合って長い長い接吻を致しましたが、二人とも涙に濡れて、お互いの顔が見えないようになってしまいました。  それから私の計画をチットモ御存じのないアイ子さんが是非とも見送ると言って停車場へ見えましたので、仕方なしに大阪へ行くふりをして汽車に乗るには乗りましたが、直ぐに途中の駅から自動車で引き返して、この町の外れのある淋しい宿屋へ泊り込みました。そうして近くの古着屋から買って来ました黒い背広に、黒の鳥打帽、黒眼鏡と言う黒ずくめの服装で、男のような歩き方をしながら、一所懸命に校長先生のアトを跟け始めました。手に提げた学生用の手提袋には長い丈夫な麻縄と、黒|繻子の覆面用の風呂敷と、旧式の手慣れたコダックと、最新式の小型発光器と、蝋マッチと、写真の紙を切るための安全|剃刀の刃を入れておりましたが、これは前の晩に宿屋の屋根で使い方を研究して置きました、練習ずみの品々で、校長先生に取っては、ピストルよりも、毒|瓦斯よりも、何よりも恐ろしい私の復讐の武器なのでした。  そんな事とは夢にも御存じなかったのでしょう。却って私を大阪へ追払ってモウ一安心とお思いになったのでしょう。校長先生は謝恩会のあった翌る日の二十四日の夕方に、何処かへ出張なさるような恰好で、真面目なモーニングに山高帽を召して、書類入れのボックス鞄なぞを大切そうに抱えて、下宿をお出ましになると、夕暗の町伝いを小急ぎに郊外へ出て、天神の森の方へ歩いて行かれました。……サテは……と胸を躍らせながら一心にアトを跟けて行きますと、果して天神の森には二人の和服の紳士の方が待っておられました。……スラリとした影とズングリ低いのと……それが近付いてみますと、やはり私の想像通りに傴僂の川村書記さんと、好男子殿宮視学さんに違いない事がわかりました時の私の喜びはどんなでしたろう。  森の外の国道には、室内照明を消した幌自動車が、三人の若い芸妓さんを乗せて、ヒッソリと待っておりました。それに気が付きました私は、手提袋を腰に結び付けて、黒い風呂敷で手早く覆面をしますと、三人が自動車に乗り込まれるとほとんど同時に夕暗に紛れながら、スペヤ・タイヤの処へ飛付いて、小さく跼まりながら揺られて行きました。そうしてその自動車の行先が、私の想像通りに温泉ホテルである事がわかりました時の、私の安心と満足……冒険心と好奇心……それはどんなにかドキドキワクワクしたものでしたろう。私の復讐は何もかも最初から、温泉ホテルを目標にして、研究して、計画しておったものですから……。そうして、それがもう第一日の一番最初から、ぐんぐん思い通りに、運んで行き始めたのですから……。  けれども私が一寸した思い付きから、あんな悪戯をしました時に、自動車の中の方々が、どんなにかビックリなすった事でしょう。  あの自動車がシボレーのオープンでありました事は、ほんとに天の助けだったかも知れません。その上に私が、偶然に、安全剃刀の刃を用意しておりましたのは、これこそ一つの奇蹟だったかも知れません。ガタガタする車体の中で、メチャメチャに燥いでお出でになった三人は、私が安全剃刀の刃で、後窓の周囲をUの字型に切抜くのをチットモお気付きになりませんでした。  その穴から片手を突込みました時に、校長先生は、一番左の一番可愛らしい舞妓さんの背後から抱き付いてお出でになりましたが、その舞妓さんの花簪と、阿弥陀に被っておられた校長先生の山高帽を奪い取って、自動車から飛び降りて逃げだした時に、私の足の力がどんなにか役に立ちましたことか……若い運転手さんが「泥棒、泥棒」と叫びながら一所懸命で追い掛けて来るには来ましたが、日が暮れて間もない平坦な国道ですもの……。  右手に花簪を、左手に手提鞄を抱えて、帽子をシッカリと口に咥えた私は、そんなに息切れもしないうちに、グングンと追跡者を引き離してしまいました。そうして町へ引き返して、ビックリしておられる殿宮アイ子さんをソッと呼び出して、私の仕事の中で思いがけない拾いものをした事をお知らせして、心から喜び合う事が出来ました。  ですからあの山高帽子と花簪は、今でも殿宮アイ子さんのお手許に在るはずです。この手紙を御覧になりましたらば、直ぐにアイ子さんの処へ受け取りに行って御覧なさいませ。どのような劇的シインが展開するか存じませんけれども……。  けれども私のほんとうの目的の仕事はまだまだ残っておりました。それくらいの事で反省なさる校長先生ではないことを、よく存じておりますからね。 「愛子さん……校長先生がホントウに後悔をなすって、お母さんにもお詫びをなすったら、この帽子と花簪を上げて頂戴……それでももし校長先生が受け取りにお出でにならなかったら、この二つの品物は、お母様と御相談なすって、お好きなようにして頂戴……」  そう申し残しますと私は直ぐに別の箱自動車を雇って一直線に温泉ホテルに向いました。  ……ああ……温泉ホテル……あの有名な温泉ホテルこそは、私が校長先生に復讐を思い立つ前から、好奇心に馳られて、何度も何度も学校の帰りに温泉鉄道に乗って行って、裏から表から眺めまわして、詳しく探検していた家でした。そうして今度の仕事……私の一生涯を棄ててかかった仕事は、この家以外の処では絶対に成し遂げられない事を深く深く見込んでいる処なのでした。  私は校長先生の御一行が、後へ引き返されるような事は多分なさらないであろう事を信じておりました。幌自動車の後窓を切り抜いて、あんな悪戯をして行った曲者が、何を目的にした者かと言う事が、あの時のお三人におわかりになるはずはありません。況して最早、とっくの昔に大阪に着いているはずの私が、あんな事をしたとお気付になるはずはない。そうして折角三人も揃って思い立たれた今夜の計画を、これくらいの事にビックリしてお中止になるはずもない。ただアラビヤン・ナイトのような不思議な災難に驚かれて、ワヤワヤとお騒ぎになっただけで、そのまま先を急いでお出でになったであろう事を、私は九分九厘まで信じておりました。  ですから私は温泉ホテルの前をすこし行き過ぎた湯の川橋の袂で自動車を止めて貰いました。  それから狭い横露地伝いに私は、温泉ホテルの三階の横に出まして、あすこの暗い板塀の蔭で長いこと耳を澄ましておりますうちに、高い高い三階の窓から、明るい光線と一緒に微かに洩れて来る校長先生の笑い声を耳に致しました私は、ホット安堵の胸を撫でおろしました。それから直ぐに、音を立てないように板塀を乗り越して、非常|梯子伝いに三階の非常口まで来ますと、あそこから丈夫な銅の雨|樋伝いに、軒先からクルリと尻上りをして屋根の上に出ましたが、さすがの私……火星の女も、その尻上りをした時に、はるか眼の下の暗黒の底の、石燈籠に照された花崗岩の舗道をチラリと見下しました時には、思わず冷汗が流れました。  そんな苦心をして、やっとの思いで目的の赤瓦屋根の絶頂に匐い上りました私は、口に啣えて来ました手提の中から取り出した細引のマン中を屋根の中心に在る避雷針の根元に結び付けて、その端を自分の胴中に巻き付けて手繰りながら、急な赤煉瓦の勾配を降りて行きました。そうして屋根の端の雨樋の処から顔だけ出して、直ぐ下の廻転窓越しに、部屋の中を覗き込んで見たのでした。  温泉ホテルの三階は、全体が一つの眺望用のサロンみたいになっているのでした。雨模様で蒸暑かったせいでしたろう。窓の上側が全部、開放して在りましたので、内部の様子が隅から隅まで手に取るように一目で見えました。  私は、私の想像以上だったあの時の、あの部屋の中の有様を書く勇気を持ちません。ただ必要なだけ書いて置きます。  大きな棕梠竹や、芭蕉や、カンナの植木鉢と、いろいろな贅沢な恰好の長椅子をあしらった、金ピカずくめの部屋の中では、体格の立派な殿宮視学さんと、ゾッとするような白光りする背中の瘤を露出した川村書記さんと、禿頭の熊みたような毛むくじゃらの校長先生が、自動車で連れてお出でになった三人の若い婦人のほかに、土地の芸妓さんでしょう、年増の二人と、都合五人の浅ましい姿の婦人たちを相手に、有頂天の乱痴気騒ぎをやってお出でになりました。獣とも人間ともわからない姿と声で躍ったり、跳ねたり、転がりまわり、匐いまわり、笑いまわり、泣きまわってお出でになりました。  私は暫くの間、茫然とそんな光景を見恍れておりました。 「現代の文明は男性のための文明」と仰言った校長先生の演説のお言葉を思い出しながら、こうした妖怪じみた人間と美人たちの乱舞を生まれて初めて眼の前に見て、気が遠くなるほど呆れ返っておりましたが、やがて吾に帰りました私は、屋根の端に身を逆様にしながら、落ち着いてコダックの焦点を合わせました。そうして、わざと蝋マッチを一本パチンと擦ったアトで、皆様がこちらをお向きになった瞬間を見澄まして、発光器を燃やしましたが、強い、青白い光線はズッと向うの広間の向う側までも達したように思いました。  私が発光器を眼の下の深い木立の中へ投げ棄てますと、長椅子の上で遊び戯れておりました婦人たちの中にはキャア――ッと叫んで着物を着ようとした人もおったようでした。 「何だったろう、今のは……」 「恐ろしく光ったじゃないか」 「パチパチと言ったようだぜ」 「星が飛んだんだろう」 「馬鹿な。今夜は曇っているじゃないか」 「イヤ。星でも雲を突き抜いて流れる事があります。光が烈しいですから、直ぐ鼻の先のように見える事があります。私は一度見ましたが……小さい時に……」 「今夜は何か知らん妙な事のある晩だな」 「ちょうど窓の直ぐ外のように見えたがのう」  そう言って校長先生が、ノソノソと窓の処へ近付いてお出でになるようでした。  その瞬間にスッカリ面白くなりました私は、またも一つの悪戯を思い付きました。  写真機と手提袋を深い雨|樋の中へ落し込んだ私は、手早く髪毛を解いて、長く蓬々と垂らしました。ワイシャツの胸を黒い風呂敷で隠しますと、思い切って身体の半分以上を屋根の端から乗り出しました。長い髪毛を逆様に振り乱しながら、息苦しいくらい甲高い、悲し気な声で叫びました。 「森栖先生エ――エ――エエエ……」  部屋の中から流れ出る明るい電燈の光線で、窓の外の私の顔を発見された校長先生は、窓の枠に掴まったまま眼を真白く見開いて私をお睨みになりました。浅ましい丸裸体のまま、あんぐりと開いた口の中から、白い舌をダラリと垂らしておられました。その恰好がアンマリ可笑しかったので、私は思わず声高く笑い出しました。 「……ホホホ……ハハハハハハ……ヒヒヒヒヒヒ……」  部屋の中が、私の笑い声に連れて総立ちになりました。 「あれエ――ッ……」 「きゃあア――あッ……」 「……誰か来てエ――ッ……」  と口々に悲鳴をあげながら逃げ迷うて、他人の着物を引抱えながら馳け出して行く女……そのまま入口の方へ転がり出る女……気絶したまま椅子の上に伸びてしまう人……倒れる椅子……引っくり返る卓子……壊れるコップや皿小鉢……馳けまわる空瓶の音……。  ……真夜中に三階の屋根の軒先から、逆様に髪毛を垂らして笑っている女の首を御覧になったら、誰でも人間とは思われないでしょう……。  それが間もなくシインと鎮まりますと、あとには校長先生と同じに、私と睨み合ったまま、棒立ちになっておられる殿宮視学さんと、川村書記さんが残りました。その世にも滑稽な姿のお三人の顔を見廻わしますと、私は今一度、思い切った高い声で、心の底から笑いました。 「ホホホホホ……オホホホホホホ……私が誰だか、おわかりになりまして……?……校長先生……殿宮さん……川村さん……火星の女ですよ……オホホホホホホホホ……イヒヒヒヒヒヒヒヒ……アハハハハハハハハ……」  校長先生は眼の玉を白くして、舌をダラリと垂らしたまま、大地震に会った仏像のように、仰向け様にドターンと引っくり返ってお終いになりました。それをほかのお二人は見向きもなさらないまま、私の顔を睨み詰めて棒立ちになっておられるようでしたが、私はそのまま綱を手繰ってモトの屋根の絶頂に帰りました。四つん匐いになったまま、ほおっ……と一つ溜息をして気を落ち着けました。  私はもうその時に、立ち上れるかどうかわからないくらい、疲れている事に気が付きましたが、しかし、いつまでも休んでおる事は出来ませんでした。逃げた芸妓さん達が、着物を着てからホテルの人に知らせたものと見えまして、下の方で誰だかガヤガヤと騒ぎまわる声がしました。それに連れて古ぼけた非常|提灯の光が二つ三つ、眼の下はるかのお庭の中に走り出て来たようでしたが、私はちっとも慌てませんでした。  大切な写真機を入れた手提袋をシッカリと口に啣えますと、避雷針に結び付けた綱を放ったらかしたまま、屋根の絶頂に立ち上って登って来た時と反対側の突端に来ました。そこで雲の間から洩れ出した美しい星影を仰ぎました時に、私は何故かしら胸が一パイになって、眼の中に涙が溜まって困りました。そのまま屋根の斜面を馳け降りて、闇の庭の舗道に飛び降りて、死んでしまいたいような衝動に馳られましたが、下の方から非常梯子を登って来るオドロオドロしい足音を耳にしますとまた、気を取り直しまして、直ぐ足の下から引っぱって在るラジオのアンテナ伝いに、隣りの棟の二階の屋根に降り立ちました。それからその屋根に近い大きな松の樹の枝に飛び付いて板塀の外へ降りました。それから田圃の中の畦道を横千切りに近道をして走りながら、一直線に温泉鉄道の停車場へ来て、やっとこさと終電車に間に合って、一時間経たないうちに町の宿屋へ帰って参りました。  宿の私の部屋にはチャント床が取ってありました。その枕元に苦い苦いお薬のように出切った、つめたいお茶が置いてありましたので、私は坐る間もなくガブガブと二、三杯、立て続けに飲みましたが、その美味しゅう御座いましたこと……最前、温泉ホテルの屋根の上で、死にたくなった時とは正反対に、勇気が百倍して来たように思いました。  その晩のフィルムの現像は百パーセントに都合よく行きました。小さいフィルムではありますが、浅ましい姿の三人の男性と五人の女性がビックリしてこちらを向いておる光景が、とてもハッキリと感じておりまして、引き伸ばしてみる迄もありませんでしたので、こんな事ならば、あんなに骨を折って、帽子だの花簪だのを後日の証拠に奪い取るような冒険をしなくともよかったのにと、一人で可笑しくなってしまいました。そうしてその晩から翌る日の正午近くまで私は、大満足のうちに骨を休めました。  きょうの正午過ぎに起き上りました私は、直ぐに全速力でこの手紙を書き始めました。こんなに長い手紙を三通も書いておりますうちには真夜中になるか、もしかすると夜が明けてしまうかも知れませんが、それでも私は構いません。夜の明けないうちに昨夜の写真を焼き付けて三、四枚ずつ、手紙の中に入れられるようにして置きます。  私はこの手紙を三通とも別々の宛名の封筒に入れて、お頼みした通りの順序に出して下さるように書添えたものを同封にして、明二十六日の晩、町中が寝鎮まっている時刻に、愛子さんのお宅の郵便受|筥に入れて置きます。  それからズット以前に、学校の化学教室から盗んで置きました××××と脱脂綿と、昨日買って置きました△△△△と△△△とを持って、あの母校の思い出の廃屋に忍び込みます。  あそこに積んで在る藁と、竹と、紙ずくめの運動会用具を積み重ねて、△△△△を振りかけます。それから裸蝋燭を△△△△に濡れた畳の上にジカに置いて、二十分もしたらそこいら中が火の海になるようにして置きます。それから××××をタップリと浸した綿で顔を蔽うて、積み重ねた燃料の下に潜り込むつもりです。私は揮発油を嗅いでも、すぐにフラフラになる性分ですから××××を沢山に嗅いだら、まだ火事にならないうちに麻酔し過ぎて、ほんとうに死んでしまうかも知れません。  森栖校長先生……。  私はこうして貴方から女にして頂いた御恩をお返し致します。それと一緒に、私の愛する心からの愛人、殿宮アイ子さんに、ほんとうの意味の親孝行をさせて上げたいのです。私はこうして、すべてを清算しなければ、モトの虚無に帰る事が出来ないのです。  どうぞ火星の女の置土産、黒焦少女の屍体をお受け取り下さい。  私の肉体は永久に貴方のものですから……ペッペッ……。        一  私は「完全な犯罪」なぞいうものは空想の一種としか考えていなかった。丸之内の某社で警察方面の外交記者を勤めて、あくまで冷酷な、現実的な事件ばかりで研ぎ澄まされて来た私の頭には、そんなお伽話じみた問題を浮かべ得る余地すら無かった。そんな話題に熱中している友達を見ると軽蔑したくなる位の私であった。  その私が「完全な犯罪」について真剣に考えさせられた。そうして自身にそれを実行すべく余儀なくされる運命に陥ったというのは、実に不思議な機会からであった。すべてが絶対に完全な犯行の機会を作ってグングンと私を魅惑して来たからであった。  今年の正月の末であった。私はいつもの通り十二時前後に社を出ると、寒風の中に立ち止まって左右を見まわした。私は毎晩社を出てから、丸之内や銀座方面をブラブラして、どこかで一杯引っかけてから、霞ヶ関の一番左の暗い坂をポツポツと登って、二時キッカリに三年町の下宿に帰る習慣がついていたので……そうしないと眠られないからであったが……今夜はサテどっちへ曲ろうかと考えたのであった。  するとその私の前をスレスレに、一台の泥ダラケのフォードが近づいて来たと思うと、私の鼻の先へ汚れた手袋の三本指があらわれた。それは新しい鳥打帽を眉深く冠って、流感|除けの黒いマスクをかけた若い運転手の指であったが……私はすぐに手を振って見せた。  けれども自動車は動かなかった。今度は運転手がわざわざ窓の所へ顔を近づけて、私にだけ聞こえる細い声で、 「無賃でもいいんですが」  といった。ドウヤラ笑っている眼付である。  私はチョット面喰った……が……直ぐに一つうなずいて箱の中に納まった。コイツは何か記事になりそうだ……と思ったから……すると運転手も何か心得ているらしく、行先も聞かないままスピードをだして、一気に数寄屋橋を渡って銀座裏へ曲り込んだ。  その時に私はいくらかドキドキさせられた。いよいよ怪しいと思ったので……ところが間もなく演舞場の横から、築地河岸の人通りの少いところへくると、急にスピードを落した運転手が、帽子とマスクを取り除けながらクルリと私の方を振り向いた。 「新聞に書いちゃイヤヨ。ホホホホ……」  私は思わず眼を丸くした。  それは二週間ばかり前から捜索願が出ている、某会社の活劇女優であった。彼女はズット前に、ある雑誌の猟奇座談会でタッタ一度同席した事のある断髪のモガで、その時に私がこころみた「殺人芸術」に関する漫談を、蒼白く緊張しながら聞いていた顔が、今でも印象に残っているが、それが「女優生活に飽きた」という理由でスタジオを飛びだして、東京に逃げ込んでくると、所もあろうに三年町の私の下宿の直ぐ近くにある、小さなアバラ家を借りて弁当生活をはじめた。そうして男のような本名の運転手免状を持っているのを幸いに、そこいらのモーロー・タクシーの運転手に化けこんで、モウ大丈夫という自信がついてから悠々と私を跟けまわしはじめた……と彼女は笑い笑い物語るのであった。モウ一度、 「新聞に書いちゃ嫌よ」  と念を押しながら……。  彼女の話を聞いた私は何よりも先に、彼女が特に私を相手に選んだそのアタマの作用に少からぬ関心を持たされた。彼女がコンナにまで苦心をして、絶対の秘密のうちに私を追っかけまわした心理の奥には、何かしら恋愛以上の或るものが潜んでいるに違いないことが感じられる……その心理の正体が突き止めて見たくなった。同時に彼女の男装の巧さにも多少の興味を引かれたので、そのまま二人で絶対安全の秘密生活を始めるべく、自動車をグルグルまわしながら打ち合わせをしたのであった。  その結果、私は毎晩、社の仕事が済むと、例の習慣を利用して、一時間だけ彼女のところに立寄る事になった。彼女も引続いて毎日、運転手姿で市中を流しまわる事にした。そうして私の前でだけ女になる事にきめた……一日にタッタ一時間だけ……。  ……すこぶる簡単|明瞭であった。しかも、それだけに私達の秘密生活は、百パーセントの安全率を保有している訳であったが……。  ところがこの「百パーセントの安全率」がソックリそのまま「完全なる犯罪」の誘惑となって、私に襲いかかるようになったのは、それから間もなくの事であった。……二人の秘密生活がはじまってから一週間も経たないうちに、彼女の性格の想像も及ばぬ異常さが、マザマザと私の眼の前に露出しはじめてからの事であった。  彼女は何の飾りも無い、殺風景なアバラ家の中でホット・イスキーを作るべく湯をわかして私を待っている間に、色々なイタズラをして遊んでいるらしかった。……むろん私は彼女が、何かしら特別な趣味を持っているらしい事を、初対面から察しているにはいたが、しかし、それが始めて私の眼に触れるまでは、まさかにコンナ非道い趣味であろうとは、夢にも想像していなかった。それは商売の警察廻りで、アラユル残忍な事件に神経を鍛えあげられて来た私でさえも、正視しかねた程の残酷な遊戯であった。  彼女は、どこからか迷い込んで来たポインター雑種の赤犬を一匹、台所のタタキの上に繋いで、バタを塗ったジレットの古刃を三枚ほど喰わせて、悶死させているのであった。もっとも私が彼女の門口を推した時には、最早、犬は血の泡の中に頭を投げ出して、眼をウッスリと見開いているだけであったが、それでもタタキの上に一面に残っている血みどろの苦悶の痕跡を一眼見ただけで、ゾッとさせられたのであった。 「……ホホホホホ……何故モット早く来なかったの。アンタに見せようと思って繋いどいたのに……。あのね……ジレットを食べさせるとね。噛もうとする拍子に、奥歯の外側に引っかかってナカナカ取れないのよ。だから苦しがって、シャックリみたいな呼吸をしいしい狂いまわるの……。それをこの犬ったらイヤシンボでね。三枚も一緒にペロペロと喰べたもんだからトウトウ一枚、嚥み込んじゃったらしいの。それで死んだに違い無いのよ。ちょうど四十五分かかってよ、死ぬまでに……それあ面白かってよ。息も吐けないくらい……犬なんて馬鹿ね。ホントに……」 「…………」 「……アンタ済まないけどこの犬に石を結い付けて、裏の古井戸に放り込んでくれない。前のテニスコートの垣根の下に、石ころだの針金だのがいくらでも転がっているから……タタキの血は妾がホースで洗っとくから……ね……ね……」  そういううちに彼女は突然にキラキラと眼を輝かした。……と思う間もなく、バタと犬の臭気にしみた両手をさし伸ばして、イキナリ私の首にカジリつくと、ガソリン臭いキスを幾度となく私の頬に押しつけるのであった。  しかし私は最前から吐きそうな気持ちになっていた。そうした色々な臭気の中で、底の知れないほど残忍な彼女の性格を考えさせられたので……それが彼女の接吻を受けているうちにイヨイヨたまらなくなったので……私はシッカリと眼をつむって、思い切り力強く彼女を押し除けると、その拍子に彼女はドタンと畳の上に尻もちを突いた。そうしてそのままテレ隠しらしく靴下を脱ぎながら、高らかに笑いだした。 「オホホホホ。駄目ねアンタは……。わたしの気持ちがわからないのね。……でも今にキットわかるわよ。アンタならキット……オホホホホ……」  私はやはり眼を閉じたまま、頭を強く左右に振った。そういう彼女の心持が、わかり過ぎる位わかったので……彼女が、こうした遊戯の刺激でもって、その性的スパスムを特異の状態にまで高潮させる習慣を持った、一種特別の女であることが、この時にやっと分ったので……そうして同時に彼女はこの私を、彼女のこうした趣味の唯一の共鳴者として、初対面からメモリをつけていたに違い無い……その気持までもがアリアリとうなずかれたので……。  それは彼女自身にも気づいていない、彼女の本能的な盲情であったろうと考えられる。……その盲情が、ズット前の猟奇座談で、私がこころみた漫談に刺激されて眼ざめた結果、こんな趣味に囚われるようになった。そうしてその結果、彼女はこうして一切を棄てて、本能的に私と結びついてくるようになったのではないか……それを彼女は私に恋しているかのように錯覚しているのではないか……。  ……と……ここまで考えてくると、私は思わず又一つ、頭を強く左右に振った。髪毛がザワザワして、背中がゾクゾクし始めたので……。  しかも彼女のこうした心理は、それから又二三日目に、彼女が肉片を引っかけた釣針で、近所のドラ猫を釣って、手繰ったり、ゆるめたりして遊んでいるのを発見した時に、イヨイヨドン底まで印象づけられたのであった。同時に彼女が、こうした趣味の道伴れとして私を選んだのが、飛んでもない間違いであった……私の中には彼女の想像した以上の恐ろしいものが潜んでいた……という事実までも、私自身にハッキリと首肯かれたのであった。  彼女はその時に私の機嫌を取るつもりであったらしい。釣糸の先に引っかかった一匹の虎斑の猫を、ここに書くさえ気味のわるいアラユル残忍な方法でイジメつけながら、たまらないほど腹を抱えて笑い興じるのであった。声も立て得ないまま瞳を大きく見開いているその猫のタマラナイ姿を一生懸命の思いで、生汗をかきかき正視しているうちに、私は、私の神経がみるみる恐ろしい方向に冱えかえって行くのに気がついていた。  ……この女は有害無益な存在である。  ……この女は地上に在りとあらゆる法律上の罪人のドレよりも消極的な、つまらない存在である。……と同時に、そのドレよりも詛わしい、忌まわしい、しつっこい存在でなければならぬ。  ……この女は外国の残虐伝に出てくる女性たちの性格を、モッと小さくして、モッと近代的に尖鋭化した本能の持主である……しかもこの女は、こうした趣味のためにワザワザ女優生活を飛びだして、人間世界から遠ざかって、こんなところに潜み隠れているので、私の眼に触れた動物以外に、まだドレ位の動物の死体を、裏の古井戸に投込んでいるかわからない……。  ……この女はトテも私には我慢出来ない一つの深刻な悪夢である。……と同時に社会的にも、一つの尖鋭を極めた悪夢的存在でなければならぬ……。  ……と……そんなような考えを凝視しいしい、台所の暗いところと向き合って、眼を一パイに見開いている私の背後から、虎の門のカーブを回る終電車の軋りが、遠く遠く、長く長く響いて来た。  私はゾーッとして思わず額の生汗を撫であげた。見ると彼女はイツの間にか猫の死骸を……それは生きたままであったかも知れない……井戸の中に投込んでしまったらしく、寝床の中の電気こたつに暖まりながら、気持ちよさそうに眼を閉じているのであった。  私が彼女を殺さねばならぬ運命をマザマザと感じたのは実にその瞬間であった。……と同時に、その運命がみるみる不可抗的に大きな魅力となって、ヒシヒシと私を取り囲んで、息も吐かれぬ位グングンと私を誘惑し始めたのも、実にその寝顔を見下した次の瞬間からであった。  ……この悪夢をこの世から抹殺し得るものは、この世に一人しか居ない。ここに突っ立っている私タッタ一人しか居ない。……この女を殺すのは私の使命である。  ……否。否。この女は私と初対面の時から、こうなるべく運命づけられていたのだ。……その証拠にこの女はこの通り、絶対に安全な犯罪を私に遂げさせるべく、自ら進んでここに来ているではないか……そうしてこの通りジッと眼を閉じて、私の手にかかるべく絶好の機会を作りつつ、待っているではないか。  ……私は彼女の死体をここに寝かして、電燈を消して、いつもの時間通りに下宿に帰ればいいのだ。何も知らずに眠ってしまえばいいのだ。そうして明日の晩から又、以前の通りの散歩を繰返せばいいのだ。  ……運命……そうだ……運命に違い無い……これが彼女の……。  こんな風に考えまわしてくるうちに私は耳の中がシイ――ンとなるほど冷静になって来た。そうしてその冷静な脳髄で、一切の成行きを電光のように考えつくすと、何の躊躇もなく彼女の枕許にひざまずいて、四五日前、冗談にやってみた通りに、手袋のままの両手を、彼女のぬくぬくした咽喉首へかけながら、少しばかり押えつけてみた。むろんまだ冗談のつもりで……。  彼女はその時に、長いまつげをウッスリと動かした。それから大きな眼を一しきりパチパチさして、自分の首をつかんでいる二つの黒い手袋と、中折帽子を冠ったままの私の顔を見比べた。それから私の手の下で、小さな咽喉仏を二三度グルグルと回わして、唾液をのみ込むと、頬を真赤にしてニコニコ笑いながら、いかにも楽しそうに眼をつむった。 「……殺しても……いいのよ」        二  私が何故に、彼女を殺したか。  その彼女を殺した手段と、その手段を行った機会とが、如何に完全無欠な、見事なものであったか。  そうして、そういう私はソモソモどこの何者か。  そんな事は三週間ばかり前の東京の各新聞を見てもらえば残らずわかる。多分特号活字で、大々的に掲載してあるであろう「女優殺し」の記事の中に在る「私の告白」を読んでもらえば沢山である。そうしてその記事によって……かくいう私が、某新聞社の社会部記者で、警察方面の事情に精通している青年であった。同時に極端な唯物主義的なニヒリスト式の性格で、良心なぞというものは旧式の道徳観から生まれた、遺伝的感受性の一部分ぐらいにしか考えない種類の男であった……という事実をハッキリと認識してもらえば、それで結構である。  ところでその私が、現在、ここで係官の許可を得て、執筆しているのは、そんな新聞記事の範囲に属する告白ではない。又は警察の報告書や、予審調書に記入さるべき性質の告白でもない。すなわち、その新聞記事や、予審調書にあらわれているような告白を、私がナゼしたかという告白である。……事件の真相のモウ一つうらに潜む、極めて不可思議な恐ろしい真相の告白である。……すべての犯罪事件を客観的に考察し、批判する事に狎れた、頗る鋭利な、冷静な頭の持主でも意外に思うであろう……光明の中心×暗黒の核心=X……とも形容すべき告白である。  冗く云うようであるが、私はモウ一度念を押しておきたい。  あの新聞記事を徹底的に精読してくれた、極めて少数の人々……もしくは直感の鋭い、或る種のアタマの持ち主は直ぐに気付いたであろう。私はこの事件に就いては、どこまでも知らぬ存ぜぬの一点張りで、押通し得る自信を持っていた。如何なる名探偵や名検事が出て来ても、一分一厘の狂い無しに「証拠不充分」のところまで押し付け得る、絶対無限の確信を持っていた……という私の主張を遺憾なく首肯してくれるであろう。……にも拘わらずその私が、何故に自分から進んで自分の罪状をブチマケてしまったか……モウ一歩突込んで云うと、良心なるものの存在価値を絶対に否認していた私……同時に自分の手にかけた彼女に対しては、一点の同情すら残していなかった筈の私が……何故にコンナにも他愛なく泥を吐いてしまったか……ホンの当てズッポーで投げかけた刑事の手縄に、何故にこっちから進んで引っかかって行ったか……。  ……こうした疑問は、あの記事を本当の意味で精読してくれた何人かの頭に必然的に浮かんだ事と思う。「何故に私が白状したか」という大きな疑問に、一直線にぶつかった筈と考えられる。  ところが不思議な事に、この事件を担当した警察官や裁判所の連中は、コンナ事をテンカラ問題にしていないらしい。現在私を未決監にブチ込んでいながら、この点に関しては一人も疑問を起したものが居ないらしい。それはこの点について、私に訊問した事が一度も無い……という事実が、何よりも雄弁に証拠立てている。  しかし考えてみるとこれは無理もない話である。彼等は私の自白にスッカリ満足してしまって、ソレ以上の事に気が付かないでいるのだから……。彼等は要するに犯人を捕える無智な器械に過ぎないのだから……そうしてそんな器械となって月給を取るべく彼等は余りに忙し過ぎるのだから……。  だから私はこの一文を彼等の参考に供しようなぞ思って書くのではない。あの記事を精読してくれて、私の自白心理に就いて疑問を起してくれた少数の頭のいい読者と、わざわざ私のために係官の許可を得て、この紙と鉛筆とを差し入れてくれた官選の弁護士君へ、ホンの置土産のつもりで書いているのだ。  そうして私の「完全な犯罪」を清算してしまいたい意味で……。  私は「彼女の死」以外に、何等の犯跡を残していない空屋を出ると、零度以下に冷え切った深夜のコンクリートの上を、悠々と下宿の方へ歩いて帰った。それは、いつも新聞社からの帰りがけに、散歩をしている通りの足取であったが、あんまり寒いせいか、途中には犬コロ一匹居なかった。ただ街路樹の処々に残った枯葉が、クローム色の星空の下で、あるか無いかの風にヒラリヒラリと動いているばかりであった。  すべてが私の予想通りに完全無欠で、且つ理想的であった。「完全なる犯罪」を実行し得る無上の一|刹那を、私のために作り出してくれた天地万象が、どこまでも私のアタマのヨサを保証すべく、私の註文通りに動いているかのようであった。こころみに下宿の門口に立ち止まって、軒燈の光りで腕時計を照してみると、いつも帰って来る時間と一分も違っていなかった。  ……彼女はモウ、これで完全に過去の存在として私の記憶の世界から流れ去ってしまったのだ。そうして私はこれから後、当分の間、毎晩その通りの散歩を繰返せばいいのだ。あの空家で彼女と媾曳することだけを抜きにして……。  そう思い思い私は下宿の表口の呼鈴を押して、閂を外してくれた寝ぼけ顔の女中に挨拶をした。いつもの通りに「ありがとう……お休み」……と……。その時に、帳場の上にかかった柱時計が、カッタルそうに二時を打った。  その時計の音を耳にしながら私は、神経の端の端までも整然として靴の紐を解く事が出来た。それから、いつもの足どりで、うつむき勝ちに階段を昇ったが、それは吾れながら感心するくらい平気な……ねむたそうな跫音となって、深夜の階上と階下に響いた。  ……もう大丈夫だ。何一つ手ぬかりは無い。あとは階段の上の取っ付きの自分の室に這入って、いつもの通りにバットを一本吹かしてから蒲団を引っかぶって睡ればいいのだ。……何もかも忘れて……。  そんな事を考え考え幅広い階段を半分ほど昇って、そこから直角に右へ折れ曲る処に在る、一間四方ばかりの板張りの上まで来ると、そこで平生の習慣が出たのであろう、何の気もなく顔を上げたが……私は思わずハッとした。モウすこしで声を立てるところであったかも知れなかった。  ……「私」が「私」と向い合って突立っているのであった……板張りの正面の壁に嵌め込まれた等身大の鏡の中に、階段の向うから上って来たに違い無い私が、頭の上の黄色い十|燭の電燈に照らされながら立ち止まって私をジッと凝視しているのであった。……蒼白い……いかにも平気らしい……それでいて、どことなく犯人らしい冴え返った顔色をして……底の底まで緊張した、空虚な瞳を据えて……。 「この鏡の事は全く予想していなかった」……と気付くと同時に私は、私の全神経が思いがけなくクラクラとなるのを感じた。私の完全な犯行をタッタ今まで保証して、支持して来てくれた一切のものが、私の背後で突然ガランガランガランガランと崩壊して行く音を聞いたように思った。……同時に、逃げるように横の階段を飛び上って、廊下の取っ付きの自分の室に転がり込んで行く、自分自身を感じたように思った……が、間もなく、その次の瞬間には、もとの通りに固くなって、板張りの真中に棒立ちになったまま鏡と向い合っている自分自身を発見した。……自分自身に、自分自身を見透かされたような、狼狽した気持ちのまま……。  するとその時に、鏡の中の私が、その黒い、鋭い眼つきでもって、私にハッキリとこう命令した。 「お前はソンナに凝然と突立っていてはいけないのだぞ。今夜に限ってこの鏡の前で、そんな風に特別な素振をするのは、非常な危険に身を晒す事になるのだぞ。一秒|躊躇すれば一秒だけ余計に「自分が犯人」である事を自白し続ける事になるのだぞ。  ……しかし、そんなに神経を動揺さしたまま俺の前を立ち去るのは尚更ケンノンだ。お前は今すぐに、そのお前の全神経を、いつもの通りの冷静さに立ち帰らせなければならぬ。そうして平生の通りの平気な足取りで、お前の右手の階段を昇って、自分の室に帰らなければならぬ。……いいか……まだ動いてはいけないぞ……お前の神経がまだ震えている……まだまだ……まだまだ……」  こんな風に隙間もなく、次から次に命令する相手の鋭い眼付きを、一生懸命に正視しているうちに私は、私の神経がスーッと消え失せて行くように感じた。それにつれて私の全身が石像のように硬直したまま、左の方へグラグラと傾き倒れて行くのを見た……ように思いながら慌てて両脚を踏み締めて、唇を血の出るほど噛み締めながら、鏡の中の自分の顔を、なおも一心に睨み付けていると、そのうちにいつの間にか又スーッと吾に返る事が出来た。やっと右手を動かして、ポケットからハンカチを取り出して、顔一面に流るる生汗を拭うことが出来た。そうすると又、それにつれて私の神経がグングンと弛んで来て、今度は平生よりもズット平気な……寧ろガッカリしてしまって胸が悪くなるような、ダレ切った気持になって来た。  私は変に可笑しくなって来た。タッタ今まで妙に狼狽していた自分の姿が、この上もなく滑稽なものに思えて来た。そうして「アハアハアハ」と大声で笑い出してみたいような……「笑ったっていいじゃないか」と怒鳴ってみたいようなフザケた気持になった。  私は鏡の中の自分を軽蔑してやりたくなった……「何だ貴様は」とツバを吐きかけてやりたい衝動で一パイになって来た。そこでモウ一度ポケットからハンカチを出して顔を拭い拭い、そこいらをソット見まわしてから、鏡の中を振り返ると、鏡の中の私も亦、瀬戸物のように、血の気の無い顔をして、私の方をオズオズと見返した……が……やがて突然に、思い出したように、白い歯を露わして、ひややかにアザミ笑った。  私は思わず眼を伏せた。……ゴックリと唾液を呑んだ。  それから一週間ばかり後の或る朝であった。私はいつもの通り朝寝をして、モウ起きようか……どうしようかと思い思い、昨夜新聞社から持って帰った、今日の朝刊を拡げていると、階下の帳場で話している男と女の声が、ゆくりなくも障子越しに聞えて来た。私はその声を聞くと新聞から眼を離した。……ハテ……どこかで聞いたような……と思い思い新聞を見るふりをして聞くともなく聞いていると、それは顔|馴染みの警視庁のT刑事と、下宿の女将の話声だった。 「フ――ン……何かその男に変った事は無いかね……近頃……」  T刑事は有名な胴間声であった。 「イイエ。別に……それあキチョウメンな方ですよ」  女将も評判のキンキン声であったが、きょうは何となく魘びえている様子……。  私は新聞紙を夜具の上に伏せて、天井の木目を見ながら一心に耳を澄ました。大丈夫こっちの事ではない……と確信しながら……。 「フ――ン。身ぶり素振りや何かのチョットした事でもいいんだが……隠さずに云ってもらわんと、あとで困るんだが」 「……ええ……そう仰有ればありますよ。チョットした事ですけども……」 「どんな事だえ」 「…………」  女将の声が急に聞えなくなった。T刑事の耳に口を寄せて囁いているらしい気はいであったが、ジッと耳を澄ましている私には、そうした芝居じみた情景がアリアリと見透かされて、何となく滑稽な気持ちにさえなった。……と思ううちに又も、T刑事の太い声が筒抜けに聞え初めた。 「……ウ――ム……。いつも鏡の前を通るたんびにチョット立ち止まるんだな。ウンウン。そうしてネクタイを直して、色男らしい気取った身振りを一つして、シャッポを冠り直して降りて行く。……それがこの頃その鏡を見向きもしない。色っぽい男だから、そんな癖は女中がみんな気を付けて知っている……この一週間ばかり……フ――ン……ちょうど事件の翌日あたりからの事だな……フ――ム……モウ外には無いかね……気の付いた事は……」  私はガバと跳ね起きた。社に出るにはまだ早かったが、そんな事を問題にしてはいられなかった。しかし決して慌てはしなかった。万一の用心のために、あらゆる場合を予想していたのだから……手早く着物を脱ぎ棄てて、テニスの運動服に着かえたが、その時に恥かしい話ではあるが胸が少々ドキドキした。まさか……まさかと思っていたのが案外早く手がまわったので……同時に些なからず腹も立った。どうしても一番手数のかかる、最後の手段を執らなければならない事が予想されたので……。  ……彼奴等はいつもコンナ当てズッポー式の見込捜索をやるから困る。当り前に動かぬ証拠を押えて来るとなれば、百年かかってもここへ遣って来る筈は無いのに……チエッ……。おまけに今、俺を引っかけようとしているトリックの浅薄さ加減はドウダ……そんな古手に引っかかる俺と思うか……と云いたいが今度だけは特別をもって引っかかってやる……その古手を利用してやる。その代り一分一厘間違い無しに証拠不充分になって見せるから、その時に吠面かくな……。  そんな事を思い思い運動服の上から、スエーターをぬくぬくと着込んで、ガマ口を尻のポケットへ押し込んで、鳥打帽子と西洋手拭と、ラケットと運動靴を抱えると、石鹸を塗って辷りをよくしておいた障子をソーッとあけて、裏町の屋根を見晴らした二階の廊下に出た。そこで念のために前後を見まわしたが誰も居ない。  ……シメタナ。事によったら今の芝居は、芝居じゃなかったかも知れないぞ。逃げる余裕が充分に在るのかも知れないぞ……しかしまだ往来まで出てみないとわからない……。  と考えながら裏口の階段に続く廊下を、もしやと疑いながら曲り込むと、果してそこに立っていた……張り込んでいたに違い無いAという、やはり警視庁の老刑事にバッタリと行き合ってしまった。  私はその時にハッと眼を丸くして立ち竦んだ……ように思う。何故かというとこのAという老刑事が出て来る事は、殆んど十中八九まで確定した犯人を逮捕する時にきまっていたのだから……そうしてあの晩見た、鏡の中の自分の姿を、その瞬間にチラリと思い浮かべたように思ったから……。  A刑事はゴマ塩の無性髭を撫でながらニッコリと笑った。 「……ヤア……早くから……どこへ行くかね……」  私は二三度眼をパチパチさせた。すぐに笑い出しながら、何か巧い弁解をしようと思ったが、その一刹那に又も、鏡の中の自分の姿が、眼の前に立ち塞がったような気がしたので、思わずラケットを持った手で両方の眼をこすってしまった。 「……エ……エ……そのチョット……」  私は吾れながら芝居の拙いのに気が付いた。腋の下から冷汗がポタポタと滴り落ちるのがわかった。老刑事も無論、私のいつに無いウロタエ方に気が付いたらしい。心持ち顔の筋肉を緊張させながらニッコリと笑った。 「チョットどこへ」 「テニスをしに行くんです……約束がありますから……」  老刑事は悠々と私を見上げ見下した。相かわらず顎を撫でまわしながら……。 「……フ――ン……どこのコートへ……」  私はここでヤット笑う事が出来た。ドンナ笑い顔だったか知らないけど……。 「日比谷のコートです……しかし何か御用ですか」 「ウン……チョット来てもらいたい事があったからね」 「僕にですか」 「ウン……大した用じゃないと思うが……」 「そうじゃないでしょう……何か僕に嫌疑をかけているのでしょう」  ……平生の通りズバズバ遣るに限る……と予てから覚悟していた決心が、この時にヤット付いた私は、思い切ってそう云ってやった。すると果して老刑事の微笑が見る間に苦笑に変って行った。かなり面喰ったらしい。 「そ……そんな事じゃないよ。君は新聞社の人間じゃないか」  私は腹の中で凱歌をあげた。ここでこの刑事を憤らして、遮二無二私を捕縛さしてしまえばいよいよ満点である。 「だってそうじゃないですか。何でも無い用事だったら電話をかけてくれた方が早いじゃないですか。まだ社に出る時間じゃないんですから直ぐに行けるじゃありませんか」  老刑事の顔から笑いが全く消えた。疑い深い眼付きをショボショボさして、モウ一度私を見上げ見下した。  その顔をこっちからも同時に見上げ見下しているうちに、私は完全に落ち付きを恢復した。頭が氷のようになって、あらゆる方向に冴え返って行った。  私は事態が容易でないのをモウ一度直覚した。老刑事が私を容易に犯人扱いにしようとしないのは、証拠が不十分なままに私を的確な犯人と睨んでいる証拠である……だから何とかして私を狼狽さして、不用意な、取り返しの付かないボロを出さしておいてから、ピッタリ押え付けようとこころみている、この刑事一流の未練な駈け引きであることが、よくわかった。  ……しかし警視庁ではドウして俺に目星を付けたんだろう……その模様によっては慌てない方がいいとも思うんだが……ハテ……。  そう考えながらホンノ一二秒ばかり躊躇しているうちに、老刑事は又もニコニコ笑い出しながら、私の耳に口をさし寄せた。そうして私が身を退く間もなく、ボソボソと囁き出したが、その云う事を聞いてみると、私が想像していたのと一言一句違わないといってもいい内容であった。 「……ええかね君……温柔しく従いて来たまえ。悪くは計らわんから。ええかね。君はあの女優が殺された空屋の近くに住んでいるだろう。そうして毎晩、社から帰りにあの家の前を通って行くじゃろう。それから手口が非常に鮮かで何の証拠も残っておらん。よほど頭と腕の冴えた人間で、手筋をよく知っている人間の仕事に違わんというので、極秘密で研究した結果君に札が落ちたのだよ。別に証拠がある訳じゃない。だから出る処に出ればキット証拠不充分になる。これは絶対に保証出来る。ええかね。わかっとるじゃろう……。これは職務を離れた心持ちで、君を助けたいばっかりに云う言葉じゃから信用してくれんと困る。君は頭がええから解るじゃろう。わしも君には今まで何度も何度も仕事の上で助けてもらったことがあるからナ……ナ……」  この言葉のウラに含まれている恐るべく、憎むべき罠が見え透かない私じゃなかった。同時にその裏を掻いて行こうとしている私の方針を考えて、思わず微笑したくなった私であった。  しかし私は、そんな気ぶりを色に出すようなヘマはしなかった。そんな甘口に引っかかって一寸でも躊躇したら、その躊躇がそのまま「有罪の証拠」になる事を逸早く頭に閃めかした私は、老刑事の言葉が終るか終らないかに、憤然として云い放った。 「……駄目です。冗談は止して下さい……僕を引っぱったら君等の面目は立つかも知れないが、僕の面目はどうなるんです。面目ばかりじゃない、飯の喰い上げになるじゃないですか。厚顔無恥にも程がある。……失敬な……退き給え……」  と大声で怒り付けながら、老刑事を突き退けて裏口の階段の方へ行こうとしたが、この時の私の腹の工合は、吾れながら真に迫った傑作であったと思う。老刑事のネチネチした老獪い手段が、ホントウに自烈度くて腹が立っていたのだから……。  しかし、こうした私の行動が、滅多に無事に通過しないであろう事は、私もよく知っていた。  老刑事は私が思っていたよりも強い力で、素早く私の肩を押えて引き戻した。そうしてラケットと靴を持った両手をホンの一寸たたいたと思ったら、バッチリと生あたたかい手錠をかけてしまった。……と……私の背後の縁側からT刑事と、モウ一人の新米らしい若い刑事が、待ち構えていたように曲り角から出て来て、私の背後に立ち塞がってしまった。  私はその中でも見知り越しの二人の刑事の顔を、わざと不思議そうに見まわした。それから如何にも面目無い恰好でグッタリとうなだれる拍子に、思わずヨロヨロとよろめいて横の壁にドシンと背中を寄せかけると、あとからT刑事がツカツカと近寄って来て、チョットお辞儀をするように私の顔を覗き込んだ。そうして私を憫れむように……又は云い訳をするように、見え透いた空笑いをした。 「ハハハハハ。今の芝居に引っかかったね」 「…………」 「……相手が君だと滅多にボロを出す気づかいは無い。トテモ一筋縄では行くまいとは思ったが、チョット鎌をかけたら案外引っかかってくれたんで助かったよ。まあ諦めてくれ給え。決して悪くは計らわないからね……元来知らない仲じゃなし……ハハハハ……」  そう云うT刑事の笑い声が終るか終らないかに、頭を下げていた私は突然、脱兎のように若い刑事の横をスリ抜けて、二階廊下の欄干に片足をかけて飛び降りようとした。無論、自殺の恰好で……それを若い刑事にシッカリと抱き止められると、そのまま両手の手錠を、眼の前の欄干へ砕けよと打ち付けながら、泣き声を振り絞って絶叫した。 「……嘘です……嘘です……間違いです……この手錠を取って下さいッ……冤罪です。僕は無罪です。……僕はあの女を知ってます。けども関係はありません。どこに居るかさえ知らなかった……僕は……僕は毎晩十二時に社を出て二時キッカリに下宿へ帰って来るのです。ずっと前から……そうなんです……二三年前から……手錠を取って下さい。この手錠を……僕はテニスしに行くんです。天気がいいから……エエッ放して……放してエ――ッ」  しかしボールとテニスで鍛えた私の体力も、三人の刑事には敵わなかった。これも無論、最初から知れ切った事であったが、しかし法廷で知らぬ存ぜぬを押し通すためには、その準備行動として、是非とも一度、徹底的に暴れておかねばならぬと思ったので……それからモウ一つには同宿の連中や、近所隣りの家族たちに同情的な心証を残しておくと、後になってから非常に有利な事がある実例を知っていたので、コンナにヘトヘトになるまで、悲鳴をあげて抵抗し続けたのであった。  それから私は予定の通り、スエーターもパンツも破れ歪んだミジメな姿で、三人の刑事に引っ立てられて立ち上った。そうしてシッカリと眼を閉じて仰向いたまま、ハアハアと息を切らしながら、板張りの廊下を真直に、表口の階段へかかったのであったが、その途中の鏡の前まで来ると、私は又もギックリとして立ち止まった。この間の晩の通りに……何故だかよくわからないまま……。  ……大鏡の中には色の黒い、厳めしい三人の男と、いつの間にか鼻血にまみれている青ざめた、ミジメな私の顔が並んで突立っていた。  ……その変り果てた自分の姿を、吸い付けられたような気持で凝視しているうちに、私は何故ともなく髪の毛がザワザワザワザワと逆立って来るのを感じた。私が構成した「完全無欠の犯罪」がこの鏡一つのためにコッパ、ミジンにブチ壊されてしまった事をハッキリと意識したように思った。  ……と……気が付くと同時に私は、自分の姿と向い合ったまま、無限の谷底をグングン落ち込んで行くような感じがした。気が遠くなってフラフラと倒れそうになった。  それを一生懸命の思いで踏みこたえながら私は、鏡の中の自分の姿に向って一歩踏み出した。今にも真暗くなりそうな瞳をシッカリと据えながら、この世限りの憎々しい表情を作って自分の顔の鼻の先に近づけた。思い切り顎を突き出して見せた。 「……オレダヨオ――オ――」  昭和九年四月一日の午前十時頃、神奈川県川崎の警察署へ新聞記者が五六人集まって、交通巡査から夕刊記事を貰っていた。  それは一寸聞いたところ、極めて簡単明瞭な交通事故であった。  その早朝の三時頃、京浜国道川崎市の東の出外れでトラック同志が衝突した。突きかけた方は同県下|子安、妹田農場の一|噸積シボレーの使い古した牛乳|車で、衝突と同時に機械と運転台をメチャメチャにした上に、運転手の蟹口才六は頭蓋骨粉砕、頸骨、左|肋骨を打折り即死、助手兼、乳搾夫、山口|猿夫は左脚の大腿部を骨折し人事不省に陥っている。又、突っかけられた方の車は、深川の三徳製材会社用、新着のビック特製二|噸半|積ダブルタイヤで、横浜市外の渋戸材木倉庫から米松を運搬すべく、交通の少い夜半に同国道を往復していたもので、損害といってはヘッド・ライトと機械を打壊し、前部右車軸を押し歪めて運転不能に陥り、運転手、戸若市松は硝子の破片による前額部の裂傷、治療一週間を負うて一時失神、同乗の助手と材木仲仕の二人が、顔面や胸部に治療二三週間の打撲傷を負うて、同じく一時失神しただけであった。  衝突の原因は小型シボレーの牛乳|車がヘッド・ライトを消したのに対して、大型ビックの材木トラックの運転手戸若市松が、ヘッド・ライトを消さなかったため、牛乳|車の運転手、蟹口が、眼を眩まされてハンドルを過ったらしい事が、その朝になって意識を回復した同乗者、材木仲仕某の言によって判明した……というだけで新聞記者は皆満足して記事を作上げて帰った……が、しかし若いロイド眼鏡をかけた交通巡査は、記者たちにそう説明しながらも何となく腑に落ちない点があるように思った。  交通規則の中に、夜間、自動車同志がスレ違った時にヘッド・ライトを消すべしという箇条は別にない。ただ、お互い同志が眩しくて危険なために消し合うのが一つの不文律、兼、仁義みたようになっているのであるが、しかし、たとい相手がヘッド・ライトを消さなかったにしてもコースの不安定な自転車ならばイザ知らず、慣れた運転手ならば眩しい方向に吸い寄せられてブッツケ合うようなヘマをする気遣いは先ずないといってもいいので、その点に就いて川崎署の交通巡査はチョッとした不審を起したらしい。傷の手当が済んで元気を恢復した大型トラックの運転手、戸若市松を巡査部長室に連れ込んで、その当時の模様を今一度聞いてみた。 「相手は、お前の車のヘッド・ライトが眩しいためにハンドルを誤ったんだな」 「……ヘエ……」  戸若運転手は何故か返事を躊躇した。青白い魘えたような眼付きで交通巡査の顔を見た。 「どうかね。衝突の原因について、ほかに心当りはないんか。ええ?」 「……ヘエ……」  活動俳優みたような好男子の戸若運転手は、無粋な恰好に巻いた頭の繃帯をうなだれた。 「免状を見るとお前は、かなり古い運転手やないか」 「……ヘエ……」 「どうしてヘッド・ライトを消さなかったんか。別に咎める訳じゃないが」 「……………」  黙って考え込んでいた戸若運転手は、やがてゴックリと一つ大きくうなずいた。何事か決心したらしく深いため息をして顔を上げた。昂奮したらしく眼を光らして乾燥いた唇を嘗めた。 「……ハイ。実は殺されるのが恐ろしゅう御座いましたので……」 「……ナニ……殺される……」  交通巡査はビックリしたようにロイド眼鏡をかけ直し、腕章を上の方へ押上げた。 「フーム。妙な事を云うのう。ヘッド・ライトを消やせば何故、殺されるんか……お前アタマがどうかしとらせんか」  戸若運転手は眼をしばたたいた。気の弱い男らしく泪を一パイに溜めると、机の向側の端に両手を突いて頭を下げた。 「ヘイ、恐れ入ります。私はモウすっかり前非後悔をしております。何も彼も白状致します」 「フーム。白状するちうて何か悪い事でもしたんか」 「ヘエ。私は大罪人です。姦通と泥棒の二重の大罪人です。それを知っている者は、あの惨死しました蟹口さんだけです。蟹口さんは私から、女と二千円の金を盗まれたまま、黙っていてくれたのです。しかしあの恐ろしい死顔を見たら迷の夢が醒めました。何もかも白状致します……ハイ……ハイ……」  戸若運転手は机の端にヒレ伏したまま涙をバラバラと落し初めた。 「……ちょっと待て……ちょっと……」  少々驚いたらしい交通巡査は、帳面片手に立上ってソソクサと部長室を出て行った。広間の大火鉢の前で煙草を吸っている巡査部長の傍へ近付いてコソコソと耳打ちした。 「そんな事を云い出したもんですから……どうも僕の受持ではなさそうです。ちょっと立合って頂きたいんですが」  巡査部長は面倒臭そうにアクビしいしいうなずいた。向い合って煙草を吸っている二人の刑事をかえり見た。 「この頃ソンナ話は聞かんな。姦通とか、二千円の盗難とか……」  二人の刑事は眼をパチパチさせて部長を仰いだ。一人が頭を左右に振った。 「おかしいですね」 「ブツカッた拍子に頭が変テコになったんじゃねえかな」 「ウム。とにかく君等も一所に来てくれ給い」  部長と二人の刑事が交通巡査を先に立てて部長室に這入った。  四人の警官に取巻かれた戸若運転手はチョッと魘えたらしい。サッと唇の色をなくしたが、交通巡査が注いで遣った熱い茶を啜ると又一つホッと溜息をした。覚悟をきめたらしく、次のような奇怪な陳述を初めた。  戸若運転手は鹿児島の生れで、昭和六年に同郷の先輩蟹口運転手を頼って上京し、一所に東京虎の門の千番トラックに勤めていた。蟹口は好人物の変り者という評判であったが、兄貴分だけに戸若を色々と世話して、着物や金を与えた事が度々であった。だから戸若は蟹口を深く恩に着ていた。  戸若は千番トラックのギャレジの二階に寝泊りしていたが、蟹口は、淀橋で煙草店を出している妻女ツル子の処から通勤していた。その妻女のツル子というのは、頑固な、グロテスクな顔をした蟹口とは正反対に江戸前のスッキリした別嬪で、この上なしの亭主孝行、又蟹口も自烈度いくらいの嬶孝行というのが評判であった。  蟹口夫婦の間に子供はなかったが、蟹口は植木物が好きで、狭い庭に縁日から買って来た朝顔や、茄子や、トマトの鉢を並べ、店先にも見事な朝顔や、菊を飾ったりしたので、それが目印になって煙草店が益々繁昌して行くらしかった。戸若は一度、そのツル子に会って今までの礼を云いたい云いたいと思っていたが、忙しいのでツイ機会を失していた。  ところが一昨昭和七年の夏、蟹口は突然に二三日の予定で神戸に行く事になった。何でも千番トラックの主人の命令で、神戸へ行って、中古のトラックを二台仕入れて来る……という話であったが、出かける時に、 「戸若君。済まんが俺の留守中に、植木鉢へ水を遣ってくれんか。朝はツル子が遣るが、午後になると店からドウしても手が離されんけに……な。頼んますど……」  と呉々も云いおいて行った。  戸若は喜んで引受けた。翌る日は午後から半日、暇を貰って頼まれた通りに蟹口の処へ来て、ツル子に色々と永々の礼を述べた。それから植木鉢の世話をツル子の指図通りにしたが、その時に、お互いに魔がさしたとでも云おうか。ツル子が無理に引止めて戸若に夕飯の御馳走をしたのがキッカケとなって、二人は退引ならぬところへ陥込んでしまった。  二人がズルズルと深間に陥る早さよりも、そうした噂の立つスピードの方が早かった。  すると、その噂を聞いたものか、どうだかわからないが、蟹口は突然に、戸若にもダンマリで千番トラックを引いて、ツル子と共に淀橋の煙草店まで引払い、子安の妹田農場の専属運転手となった。そうしてその中に、だんだんと園芸の方へ頭が傾いて来たらしく、農場内の自宅の庭へ苺や胡瓜の小さな温床を造ったり、屋根一面に南瓜の蔓を這わしたりして肥料の異臭を着物まで沁み込まして喜んでいた。……今にどこかで小さな土地を買って速成栽培でも遣ろうか。毛唐相手にすれば苺一粒が十二銭……胡瓜一本が三十銭もするんだから……などと妻のツル子へ相談することがあった。  しかしツル子は極力不賛成を唱えた。折角油の異臭に慣れたところに、肥料のにおいなんか押し付けられちゃ、たまらない……なぞと我儘を突張った。無理にも亭主に運転手稼業を止めさせまいとした。  ツル子と戸若の関係は切れていないのであった。結局蟹口がどうしても農業に転向するものと見込をつけた姦夫姦婦は、蟹口が汗を絞った貯金二千余円を捲上げる計劃を立てた。  戸若は一昨昭和七年の十二月の初めの或る夕方、日が暮れると直ぐに、蟹口の留守宅に忍び入り、ツル子を細帯で縛り上げ、猿轡を噛ました上で、二千円の貯金の通帳と印形を奪って逃走した。アトにはオモチャのピストルを一梃落しておいた。  程なく帰って来た蟹口は、この体を見て大いに狼狽し、警察に訴えようとしたが、ツル子は私の恥が明るみに出るから厭だと主張して、とうとう訴えさせなかった。そうして、それから三日ばかり経った頃、 「妾は一旦、泥棒に身を穢された以上、貴方のような潔白な、正しい人の妻になる事は出来ません。思い切って死にますから縁のない昔と諦めて下さい。貴方の好きな人と結婚して下さい。妾は人の知らない処に死骸を隠したいのですから、どうぞ警察に届けないで下さい。妾の恥を曝さないようにして下さい。妾の一生のお願いです。  妾は泣きながら死にます。死んで貴方の幸福を祈ります」  という意味の遺書を残して、真昼間、家出してしまった。好人物の蟹口はこの遺書を真面目に信じて、届出なかったらしい。  二人は、それで安心して道行をきめ込み、一旦、山陰地方の乗合会社に身を潜めたが、二千円の金を費い果すと大胆にも、昨、昭和八年の夏、又もや東京へ舞い戻って来て、小梅に同棲し、姦夫の戸若は三徳材木店専属のトラックの運転手となっていた。  そこで、それとなく様子を聞いてみると、蟹口運転手は、それ以来スッカリ自棄気味となり、大酒を飲み習い、誰、彼の見境いなく喧嘩を吹っかけるようになっている。何故だかわからないが戸若という若造を見付けたら直ぐに知らしてくれ。ブチ殺してくれるからと云っている……という運転手仲間の噂話なので、戸若はモウすっかり震え上ってしまった。すこし旅費が出来たら直ぐに都落ちをするつもりでいた。  そのうちに今年の春から幾らかの貯金が出来たので、イヨイヨどこかへ飛ぶつもりになったが、そのお名残りといったような気持で、ツイこの間の三月の末コッソリ蟹口の家の様子を覗きに行ってみると、裏庭の野菜や菊畑、屋根の南瓜の蔓も枯れ枯れになって、ペンペン草が蓬々と生えている廃屋の中に、泥酔した蟹口がグーグー睡っていた。その瘠せ衰えた髯だらけの恩人の姿を見た時に戸若は……ああ……済まない事をした……と思った。それ以来、後悔の念が高まるばかりで、東京を離れるのさえ気が済まないような気がしていた。  そこへ昨夜、支配人から京浜国道の材木運搬を命ぜられて午後の十時から二回往復したが、最初は子安の近くを通るのが恐ろしくて仕様がなかった。もしや蟹口のトラックに行き合いはしないだろうかと思ってヒヤヒヤしいしい運転して行くところへ、向うから来たトラックがヘッド・ライトを消したから、こちらも直ぐに消したが、その消した瞬間に、蟹口の頑固な顎と、物凄く光る眼が、真正面に見えたのでゾッとしてスレ違った。  よもや気付かれはしまいと思ったが、思い出すたんびに頭の毛がザワザワして仕様がなかったので一旦、材木を積んで深川へ帰ってから、一杯酒を飲んで、モウ一度、往復するために、手拭で下顎を覆面して深夜の京浜国道を下った。  川崎の町あかりの中から見おぼえのある子安農場のトラックが出て来るのを見た時には、思わず緊張して鳥打帽を眉深く冠り直した。思い切って全速力を出した。ヘッド・ライトを消したまま猛然とスピードをかけて来るトラックの横をこちらはヘッド・ライトを消さないまま一気に駆け抜けようとしたが、その刹那に鬼のような形相に変った蟹口運転手が、思い切りハンドルを右に廻している姿がチラリと見えたと思う間もなく、轟然と衝突してしまった。こちらのトラックの方が新しくて頑固だったので、相手のヤワな車を引っかけて引ずり倒したまま二十|米突ほど前進して停車したが、停車すると同時に相手のトラックのデッキに並んだ牛乳が大波のように舞い上って、そこいら中に滝のように降り注いだ事だけを夢のように記憶している。  今朝になって正気付いて、病院から警察へ連れて来られて、表のタタキに茣蓙を被せたまま置いてある、あの蟹口運転手のメチャメチャになった妖怪じみた死骸を見た瞬間に……壊れた額から飛出した二つの眼球が私を白眼んでいるのに気付いた時に私はモウ一度気が遠くなりかけました。  蟹口運転手は私という事に気付いていたに違いありません。私と刺違えるつもりで、あんな事をしたに違いないと思います。  私は何もかも白状します。どんな罪でも受けます。そうして蟹口さんの怨みを晴らしてもらわなければトテも恐ろしくてたまりません。  妻のツル子にもそう云って下さい。二人は同罪だから罪ほろぼしをしろと云って下さい。……云々というのが戸若運転手の告白であった。  流石に事に慣れた川崎署員たちも、こうした告白は珍らしかったらしい。戸若運転手が告白を終って頸垂れてしまってからも、四人の警官が互いに顔を見合わせてシインとしていた。しかしその中に巡査部長が、何かしら憂鬱そうな眼を据えながら戸若の繃帯頭を凝視した。 「ウムよく白状した。お前の後悔は認めてやるぞ」  戸若は又一つ頭を下げた。シクシクとシャクリ上げ初めた。 「私が悪う御座いました」  最前から手持無沙汰でいた交通巡査がロイド眼鏡をかけ直した。帳面をヒネリながら問うた。 「ウム。それはそれでいいとして、衝突の原因はお前がライトを消さなかったせいじゃない。蟹口が故意に衝突さしたと云うんだな」 「ヘイ。そうなんで……思い出してもゾッとします」 「フーム。しかし、そいつは何ともわからんな。イクラ怨みが在るにしても、そんな無茶をやるのは……」 「イイエ……」  戸若は昂奮して立上った。自分の告白の神聖さを侮辱されたように眼の色を変えて、口を尖んがらした。 「……そ……それに違いないんです。……でなけあコンナ事まで白状しやしません。ぶつかったトタンに私は……俺が悪かったッ……と怒鳴った位だったんです。ハタの奴には聞こえなかったかも知れませんけど……間違いありません」  と云ううちに額の傷が昂奮のために破れたらしい。繃帯の上に新しい血が真赤にニジミ出した。  交通巡査も二人の刑事も巡査部長と同様に憂鬱な顔になってしまった。相手の見幕の森厳さに圧倒されたかのように……。 「つい。まあええ。もちっと調べてみんとわからん」  交通巡査は幾分意地になったような語気で巡査部長に向って頭を下げた。 「ちょっと蟹口の助手をしていた山口猿夫という小僧の容態を見て来ます。口が利けたら審問してみたいですから……」  衝突|現場附近の烏頭外科医院に入院していた乳搾少年、山口猿夫は左脚に巨大な石膏型をはめたまま意識を回復していた。枕頭には妹田農場の牧場主任と園芸主任が突立ってヒソヒソ話をしていた。  警官の姿を見た二人が別室に退いたアトで、交通巡査から委細の話を聞いた山口少年は、眼を光らして頭を左右に振った。 「違います。そんな事があるもんですか。僕は蟹口さんの近所に居ますし、いつも牛乳|車に一所に乗って行くんで、よく知っています。そんな事があったかも知れませんが蟹口さんは一口もそんな話をしませんでした。……しかし……蟹口さんがこの頃スッカリ自棄になっていた事は事実です。自分の子供のように可愛がっていた野菜や植木にも水を遣らないで、お酒ばっかり飲んでいたんです。短気で喧嘩ばかりしていて、いつも困っていたんです。途中で降りて酒場で一杯引っかけて来ると一層気が荒くなって、運転が乱暴になっちゃってトテモ恐ろしかったんです。……この頃、×締りがズボラになったんで……御免なさい。蟹口さんが、そう云ったんですから……ゆるくなったんで礼儀も何も知らない土百姓みたいな運転手が、京浜国道をノサバリやがって仕様がねえ。こちらでチャンとヘッド・ライトを消してやっても挨拶も何もしねえで通り抜ける奴が多いんだ。××の奴等あ……御免なさい……そう云ったんですから……別嬪の乗っているエロ・ハイヤばかり××××××トラックなんか見向きもしねえからコンナ事になるんだ。今に見てろ。挨拶しねえ車に真正面からブッ付けてくれるから……って云うんです。僕、恐ろしかったんですけど、まさかに、そんな無茶な事をしやしめえと思ってたら今夜は特別に酔払っていたんでしょう。ホントウに遣っつけたんです。クソッタレ……って云ううちにハンドルを曲げちゃったんです……。  僕、ハッと思った拍子に夢中で外へ飛出したんですけど四十か五十ぐらい出していたもんですから飛び降りるなりタタキ付けられちゃったんです。相手の車ですか……見えるものですか。ライトが眩しくってトラックだかハイヤだかわかりゃしません。……ヘエーッ。おどろいたなあ。蟹口さん死んだんですか。無茶だなあ……」 「アヤカシの鼓」当選後の所感を書けとのことですが、只今のところ私のあたまは諸大家の御評を拝してすっかりたたきつけられていまして、いくらか残っていた自画自讃みたような気もちまでもパンクしてしまったばかりのところなので、所感なぞいう気もちにはとてもなれません。ですからここには只、私が執筆中知らず知らずに陥っていた錯覚がどんな風にこの一篇に影響しているかという原因についての告白みたようなものを述べまして、一つは選をなすった方の御苦心の万一に酬い、且つは私の心に消え残っている妄執を打ち消すよすがともさして頂きたいと思います。  震災後の或る年の秋でした。ある地方で私の師であるAという人の「俊寛」の能がありまして、私も地謡の末席として招集されましたので、私は職業の方を二日ばかり休むことにしました。  その能の前日のこと、A先生は同地の旅館の一室で私たちに俊寛の面を出して見せて、「震災でよごれたから手入れに遣ったらこんなに白く塗りかえてしまった。弱く見え過ぎて困っているんだが……」と云いました。「ヘエ」と云いながら私は手を支いて黙って見ておりますとうしろからその地方の富豪でBという人が、「C未亡人の処に素敵な俊寛の面がある」と耳打ちをしました。そこに居る人々の中で私だけがC未亡人に面識があることをB氏は知っていたらしいのです。私は誰にも云わずに只一人でC未亡人を訪れて、「突然でまことに何ですが、御秘蔵の俊寛の面を拝見さして頂けますまいか」と頼みました。すると未亡人は暗い顔になりまして、「それはお気の毒様ですが今はこちらに御座いません。或る方が東京へ持って行かれまして、どうしてもお返しになりませんので」と答えました。私はその時に、その「ある方」というのが、亡くなられた御主人C氏の謡曲の先生で、某流のD氏であることを直覚しました。同時にC未亡人の好意を感謝してお暇をしましたが、実はガッカリしてしまいました。もしその「俊寛」が良い面で、明日の能に対するA先生の不安を一掃することが出来たら……という私の期待がスッカリ裏切られたからであります。  私はC夫人の家を出ると、夕日のさす町を歩きながらいろんな事を考えさせられました。もしその面が、或る深い因縁から来た執着でD氏の手に持って行かれたものとしたら、それをC夫人のために取り返すにはどうしたらいいであろう。又もしDさんが若い美しい婦人であるとして、A先生の内弟子のE君か誰かをお使いに立てて取り返しに遣ったら什麼ことになるであろう。それとも又その面が此間の震災で焼失していたらどうであろう。もしくはその面だけが焼け残ってD氏が白骨となっていたら……なぞとそれからそれへ妄想をつづけて、何だか纏まったものになりそうに思われた時に私はあぶなく転びそうになりました。見るといつの間にかゴロゴロした砂利道へ這入っています。その途端に私はゆうべ紅茶に浮かされて寝られなかったことを思い出しまして、これは頭がだいぶ疲れているなと気が付きましたからそのまま諦めてしまいました。そうして能が済んで本職に帰ると、このことも全く忘れていました。  それから久しい間|経った今年の正月の末に、私は義弟のF学士の処に一晩泊りました。Fの家はFの母と姉と、私の妹であるFの妻と、Fの若い妹二人という家庭でしたが、老母と姉とを除いた全部がとても探偵小説好きで、「トリック」だの「ウイット」だの「アリバイ」だのと、中学卒業程度の私にはわかりかねる術語を使ってすごい話ばかりしているのです。その晩もそんな話をきかされながら紅茶に浮かされて夜を更かしているうちに、フト俊寛の面のことを思い出しました。そうして何だか筋がまとまったように思いましたから、ほかで読んだことのようにして話してきかせますと、F学士は飛び上って、「そいは面白い。兄さんの創作に違いない。新青年の募集に応じたらどうです」と大騒ぎをしてすすめます。妹たちはもう一等当選にきめて奢る約束までするのです。  私は考えました。もう締切りまでに間はないし、職業は三通りもあるし、とてもと思いましたが、少々勢づけられていた上に、コソコソと物を書くことが好きなので筆を執ろうとしますと、第一に能面では説明に苦しむ処や筋が面白くなくなるところがある事に気が付きました。鼓でも似たものですが、いくらか楽なのでその方にして、「焼けあとの二つの死骸」を最初に持って来て又十枚ばかり書きますと、とても骨が折れて筋が運べない上に、あとの説明が私の力ではどうしてもダラケそうに思われます。そのうちにもう頭が疲れて、坐っている足が痛くなりましたので、「何でもいい、とにかく出して見よう」という気になって、最初の思い付き通りに因縁話から書き直し初めました。  そのうちに風邪で寝たり何かして案外早く出来上りましたから、二度ばかり読み返すとすぐに妻に渡して、これを博文館のこれこれへこんな風にして出しておけと云ったまま仕事に出かけました。そうして二日経って帰って来て、妻に「出したか」とききますと、「ヘエ。送りました。あれは何ですか」とあまり気の乗らない尋ね方をします。「読んだのか」「ヘエ」「面白かったか」「ヘエ……何だかわかりませんけど、あんな気味のわるいことが本当にあるものでしょうか」「どうだか知らん。返送料は入れたか」「ヘエ」こうした気のない会話のうちに、私は妻の表情の中から失望に価する多くの点を見出しました。こんな方面にあまり趣味を持たない、何気もないものの受けた感じが一番公平なものだということを私は兼ねてから聞いています。しかし些くとも「あれが当選したら」位の挨拶はするだろうと予期していたのに、まるで懸賞募集に応じたものかどうかすら知らない程度の無表情さで、あとは留守中の報告に移りました。私はウンザリしました。そうしてあの一篇は単純な読み物としても落第ではないかと心配し初めました。「何故あの事実をもっと突込んで研究して見なかったろう。たとい興味は薄らいでも真実味はきっと深まったに違いなかったろうに」という後悔をその後二三度繰り返したように思います。  ところがこの一週間ばかり旅行して昨十日夜に帰って来ますと、私の机の上に森下氏のお手紙と新青年の六月増大号と、「アヤカシノゴセイコウヲシュクス○トシ○タミ○フミ○チヨ」という岡山発の電報がほかの手紙とゴッチャになって乗っています。電報は義弟のF学士と妹たちで、高知の病院に赴任の途中岡山で新青年を見て打ったものに違いありません。私はまだ何も見ないうちにヒヤリとさせられました。  それから諸大家の御批評を読み初めましたが、間もなく私は又この篇を書くに就いて飛んでもない了簡違いをやっていることに気が付きました。しかもそれは実に滑稽な、面目ない種類のものでした。すなわち「或る家の秘蔵の芸術品を一眼見たいために或る芸術家が一生を棒に振ってしまった。そうしてその芸術家が死の際に考えて見ると、そのために受けた苦しみは現実の社会に何の益もない。夢の中でもがいて眼がさめたら汗をかいていた位の価値しかないものであった」というのが最初の私の妄想の興味の中心でした。それを探偵小説好きのF学士におだてられた結果、探偵物として価値あるもののように思い込んで書いていたので、つまるところ私は探偵小説を書く気分で普通の読み物を書いていた……極端に云えば知らず知らずとはいえ探偵小説を冒涜していたということを自覚しました。  それから私はも一度初めに帰って評を読み直して行きました。すると諸氏の批難の大部分は皆こうした、私の錯覚から出た弱点を指されてあるので、私はまるで仮装した犯罪者が数名の名探偵につけまわされているような切なさを感じました。同時に折角賞讃して頂いたお言葉や、探偵小説として採用された原因等の大部分が私の思い設けていたところとは大変に違っていた――云わばそんな価値のあるものが偶然にあの一篇の中に落ち込んでいたに過ぎないことを知りました。  私はそれが更に山本氏のお作、「窓」までも一気に読み終えました。そうして眼を閉じて見ますと、探偵小説の本来はかくあるべきもの――そうしてかく六ヶしいものであるということをまざまざと印象づけられまして、いよいよ兜を脱いでしまいました。「新青年」に載っているいろんな創作が、表面は何の苦もなく面白く読まれていながら、実はなかなか容易ならぬものだ。この種のものは読むにも書くにも、普通のものよりずっと深い強い処に興味の焦点を置かなければならぬものだ……ということをもその時に初めて思い知ったことでした。    第一篇 赤おうむ      一 銀杏の樹  昔或る処に一人の乞食小僧が居りました。この小僧は生れ付きの馬鹿で、親も兄弟も何も無い本当の一人者で、夏も冬もボロボロの着物一枚切り、定った寝床さえありませんでしたが、唯名前ばかりは当り前の人よりもずっと沢山に持っておりました。  その第一の名前は白髪小僧というのでした。これはこの小僧の頭が雪のように白く輝いていたからです。  第二は万年小僧というので、これはこの小僧がいつから居るのかわかりませぬが、何でも余程昔からどんな年寄でも知らぬものは無いのにいつ見ても十六七の若々しい顔付きをしていたからです。又ニコニコ小僧というのは、この小僧がいつもニコニコしていたからです。その次に唖小僧というのは、この小僧が口を利いた例が今迄一度もなかったからです。王様小僧というのは、この乞食が物を貰った時お辞儀をした事がなく、又人に物を呉れと云った事が一度も無いから付けた名前で、慈善小僧というのは、この小僧が貰った物の余りを決して蓄めず他の憐れな者に惜し気もなく呉れて終い、万一他人の危い事や困った事を聞くと生命を構わず助けるから附けた名前です。その他不思議小僧、不死身小僧、無病小僧、漫遊小僧、ノロノロ小僧、大馬鹿小僧など数えれば限りもありませぬ。人々は皆この白髪小僧を可愛がり敬い、又は気味悪がり恐れておりました。  けれども白髪小僧はそんな事には一切お構いなしで、いつもニコニコ笑いながら悠々と方々の村や都をめぐり歩いて、物を貰ったり人を助けたりしておりました。  或る時白髪小僧は王様の居る都に来て、その街外れを流れる一つの川の縁に立っている大きな銀杏の樹の蔭でウトウトと居睡りをしておりました。ところへ不意に高いけたたましい叫び声が聞こえましたから眼を開いて見ると、つい眼の前の川の中にどこかの美しいお嬢さんが一冊の本を持ったまま落ち込んで、浮きつ沈みつ流れて行きます。  これを見た白髪小僧は直ぐに裸体になって川の中に飛び込んでその娘を救い上げましたが、間もなく人々の知らせで駈けつけた娘の両親は、白髪小僧に助けられて息を吹き返した娘の顔を見ると、只もう嬉し泣きに泣いて、濡れた着物の上から娘をしっかりと抱き締めました。そして直ぐに雇った馬車に娘と白髪小僧を乗せて自分の家に連れて行きましたが、その家の大きくて美しい事、王様の住居はこんなものであろうかと思われる位で、お出迎えに出て来た娘の同胞や家来共の着物に附けている金銀宝石の飾りを見ただけでも当り前の者ならば眼を眩わして終う位でした。併し白髪小僧は少しも驚きませんでした。相も変らずニコニコ笑いながら悠々と娘の両親に案内されて奥の一室に通って、そこに置いてある美事な絹張りの椅子に腰をかけました。  ここで家中の者は着物を着かえた娘を先に立てて白髪小僧の前に並んでお礼を云いましたが、白髪小僧は返事もしませぬ。矢張りニコニコ笑いながら皆の顔を見まわしているばかりでした。  お礼を済ました家中の者が左右に開いて白髪小僧を真中にして居並ぶと、やがて向うの入り口から大勢の家来が手に手に宝石やお金を山盛りに盛った水晶の鉢を捧げて這入って来て、白髪小僧の眼の前にズラリと置き並べました。その時娘のお父さんは白髪小僧の前に進み出て叮嚀に一礼して申しました。 「これは貴方の御恩の万分の一に御礼するにも当りませぬが、唯ほんの印ばかりに差し上げます。御受け下さるれば何よりの仕合わせで御座います」  白髪小僧はそんなものをマジマジ見まわしました。けれども別段有り難そうな顔もせず、又要らないというでもなく、家来共の顔や両親や娘の顔を見まわしてニコニコしているばかりでした。この様子を見た娘の父親は何を思ったか膝を打って、 「成る程、これは私が悪う御座いました。こんな物は今まで御覧になった事がないと見えます。それではもっと直ぐにお役に立つものを差し上げましょう」  と云いながら家来の者共に眼くばせをしますと、大勢の家来は心得て引き下がって、今度は軽くて温かそうで美しい着物や帽子や、お美味しくて頬ベタが落ちそうな喰べ物などを山のように持って来て、白髪小僧の眼の前に積み重ねました。けれども白髪小僧は矢張りニコニコしているばかりで、その中に最前の午寝がまだ足りなかったと見えて、眼を細くして眠むたそうな顔をしていました。  大勢の人々は、こんな有り難い賜物を戴かぬとは、何という馬鹿であろう。あれだけの宝物があれば、都でも名高い金持ちになれるのにと、呆れ返ってしまいました。娘の両親も困ってしまって、何とかして御礼を為様としましたが、どうしてもこれより外に御礼の仕方はありませぬ。とうとう仕方なしに、誰でもこの白髪小僧さんが喜ぶような御礼の仕方を考え付いたものには、ここにある御礼の品物を皆|遣ると云い出しました。けれども何しろ相手が馬鹿なのですから、まるで張り合いがありませんでした。 「貴方をこの家に一生涯養って、どんな贅沢でも思う存分|為せて上げます」と云っても、又「この都第一等の仕立屋が作った着物を、毎日着換えさせて、この都第一等の御料理を差し上げて、この街第一の面白い見せ物を見せて上げます」と云っても、「山狩りに行こう」と云っても、「舟遊びに連れて行く」と云っても、ちっとも嬉しがる様子はなく、それよりもどこか日当りの好い処へ連れて行って、午睡をさしてくれた方が余っ程有り難いというような顔をして大きな眼を瞬いておりました。  とうとう皆持てあまして愛想を尽かしてしまいました処へ、最前から椅子に腰をかけてこの様子を見ながら、何かしきりに溜息をついて考え込んでいた娘は、この時|徐かに立ち上って清しい声で、 「お父様、お母様。白髪小僧様は仮令どんな貴い品物を御礼に差し上げても、又どんな面白い事をお目にかけても、決して御喜びなさらないだろうと思います。妾はその理由をよく知っています」  と申しました。 「何、白髪小僧さんにどんな御礼をしても無駄だと云うのかえ。それはどういうわけです」  と両親は言葉を揃えて娘に尋ねました。傍に居た大勢の人々も驚いて皆|一時に娘の顔を見つめました。皆から顔を見られて、娘は恥かしそうに口籠もりましたが、とうとう思い切って、 「その訳はこの書物にすっかり書いて御座います」  と云いながら、懐から黒い表紙の付いた一冊の書物を出しました。 「この書物に書いてある事を読んで見ますと、白髪小僧様は今までこの国の人々が見た事も聞いた事もない不思議な国の王様なので御座います。ですからこの世の中でどんなに貴い物を差し上げても、どんなに面白い物を御目にかけても、御喜びになる気遣いはあるまいと思います。そうしてそればかりでなく、白髪小僧様が妾の命を御助け下さるという事は、ずっと前から定まっていた事で、その証拠にはこの書物には、妾が水に落ちましてから、助けられる迄の事が、ちゃんと書いてあるので御座います。決して御礼を貰おうなどいう卑しい御心で御助け下さったのでは御座いませぬ」  と決然とした言葉で申しました。  両親は云うに及ばず、大勢の人々もこの娘の不思議な言葉に、心の底から驚いてしまって、暫くはぼんやりと娘の顔と白髪小僧の顔とを見比べていましたが、何しろあんまり不思議な話しで、どうも本当らしくない事ですから、父様は頭を左右に振りながら―― 「これ娘、お前は本気でそんな事を云うのか。私はどうしてもお前の話しを本当にする事は出来ない。一体お前はどこでそんな奇妙な書物を手に入れたのだ」  と言葉せわしく尋ねました。娘はどこまでも真面目で沈ち着いて返事を致しました―― 「いいえ、妾はちっとも気が狂ってはおりませぬ。そして又この書物に書いてある事を疑う心は少しも御座いませぬ。お父様でもお母様でもどなたでも、一度この書物に書いてあるお話しを御聞き遊ばしたならば、矢張り屹度妾と同じように本当に遊ばすに違いありませぬ。でもこの書物には白髪小僧様と、妾の身の上に就いて、今まであった事や、行く末の事が些しも間違いなく委しく書いてあるので御座いますもの。ですからこの書物を読みさえすれば妾がどうしてこの書物を手に入れたかという事も、すっかりおわかりになるので御座います。又今から後白髪小僧様と妾の身の上がどうなって行くかという事も、追々とおわかりになる事と思います」  皆の者は、聞けば聞く程不思議な話に、驚いた上にも驚いて、開いた口が塞がりませんでした。  両親もとうとう思案に余って、とにかくそれでは娘にこの書物を読まして一通り聞いた上で、本当か嘘か考えてみようという事に定めました。  両親の許しを受けて娘が書物を読み初めると、室中の者は、皆水を打ったように森となりました。只その中で白髪小僧ばかりは何の事やら訳がわからずに大きな眼をパチパチさせながら、娘の美しい声に聞き惚れていましたが、間もなく聞き疲れてしまって、又うとうとと居睡りを初めました。  お嬢様はそれには構わずに、書物を繰り拡げて高らかに読み初めました。その話しはこうでした。      二 黒い表紙の書物  この書物に書いてある事は、世界一の利口者と世界一の馬鹿者との身の上に起った、世界一の不思議な面白いお話しである。  この話しを読む人は誰もこの中に書いてある事を本当に為ないであろう。皆そんな馬鹿気た不思議な事がこの世の中に在るものかと思うであろう。唯世界一の利口な人と世界一の馬鹿な人だけは、これを本当にして読むのである。今のところそんな人はこの世の中に唯二人しかいない。その一人はニコニコ王様の長生の乞食の白髪小僧で、今一人はこの国の総理大臣の美留楼公爵の末娘|美留女姫である。そうしてこの書物の持ち主は、この書物に書いてある事を、初めからおしまいまで本当にして読む人――つまりこの白髪小僧と美留女姫二人より他には無いのである。  この書物にはその持ち主が、自分や他人の身の上について知りたいと思う事、又は他の人に知らせたい、話して聞かせたいと思う事が、自由自在に挿し絵や文字となって現われて来る。今美留女姫は自分がこの書物を手に入れた仔細を、両親やその他の人々に読んで聞かせたいと思っているから、このお話しは先ず美留女姫の身の上の事から始まらなければならない。  今この書物を声高らかに読んでいる美留女姫は前にもある通り、この国第一の金持ちで、この国第一の貴い役目と身分とを持っている公爵美留楼という人の末娘で、今年十四になったばかりであるが、生れ付きお話が大好きで、毎日一ツ宛新しいお話を聞かねばその晩眠る事が出来ないのが癖であった。姫の両親はそのために、毎日毎日新しいお話の書物を一冊|宛買ってやったが、今は最早その書物が五ツの倉庫に一パイになってしまった。この上にはどこの書物屋を探しても、今までと違った新しいお話の書物は、一冊も無いようになってしまった。  ところがここに一ツ困った事には、この美留女姫は大層|物憶えがよくて、どんなに古く聞いた話でも少しも間違わずにはっきりと記憶えていて、初めの二言三言聞けばすぐにあとの話を皆思い出してしまうから、古い書物を二度読んで聞かせる訳には行かなかった。それかといって、この上に新しいお話は世界中に只の一ツも無いのだから、姫は毎日毎晩新らしいお話が聞きたくて聞きたくて夜もおちおち眠る事が出来なかった。  けれども姫は両親にこの事を話すと、却て心配をかけると思ったから、毎晩|故意とよく眠ったふりをして我慢しながら、どうかして新しい珍らしいお話を聞く工夫はないかと、そればかり考えていた。  ところが或る日の朝の事であった。姫は昨夜も夜通しまんじりとも為なかったので、呆然しながら起き上って顔を洗い御飯を喰べて、何気なく縁側に出て庭の景色に見とれた。丁度秋の半ば頃で庭には秋の草花が露に濡れて、眼眩しい程咲き乱れていたが、姫は又もやお話の事を思い出して、吁、あの花が皆|善い魔物か何かで、一ツ一ツに面白い話しを為てくれればいいものを、彼の林の中に囀っている小鳥が天人か何かで、方々飛びまわって見て来た事を話して聞かせるといいいものをと独りで詰らなく思っていると、不意に耳の傍で―― 「美留女姫、美留女姫」  と奇妙な声で呼ばれたので、吃驚してふり向いた。見るとそれはつい昨日の事、美留女姫の兄様の美留矢が、明日王様に差し上げるからそれまで飼っておいてくれと云って、美留女姫に預けた一羽の赤い鸚鵡で、美留矢の家来が東の山から捕って来たものであった。美留女姫はこれを見ると淋しい笑みを浮かめて―― 「まあ、お前だったのかい、今呼んだのは。まあ、何という利口な鳥でしょうねえ。最早妾の名前を覚えたの。大方お父様かお母様の真似でも為ているのでしょう。本当にお前は感心だわねえ」  と云いながら、籠の傍に近寄った。けれども鸚鵡は籠の真中の撞木に止まりながら、矢張り姫の名を呼び続けた―― 「美留女姫、美留女姫、美留女姫」  これを聞くと姫は益々笑いながら―― 「まあ、可笑しい鸚鵡だ事。わかったよ、わかったよ、妾はここに来ているではないの。そうして妾に何か用でもあるの」  と尋ねた。すると不思議なことには赤鸚鵡が忽ち姫の前の金網へ飛び付いて、姫の顔を真赤な眼で見つめながら―― 「美留女姫、美留女姫、用がある。話がある、面白い話しがある」  と呼んだ。  美留女姫はこれを聞くと、真青になって驚いた。真逆こんな鳥が、人間と同じように、しかも自分に話しかけようとは夢にも思わなかったのだから、怪しんだのも無理はない。余りの事に呆れて口も利けなくなって、茫然と鸚鵡を見つめていると、赤鸚鵡は構わずに叫び続けた―― 「怪しむな、驚くな、美留女姫、美留女姫。  お前の願いは今|叶った。  新規の話しを聞きたいという。  お前の願いは今叶った。  行け行け、街に行け。  たった独りで街に行け。  この広い街中で一番長く生きている。  白髪頭の人に聞け。  不思議な姿の人に聞け。  その人の身の上話しを……  悧口な美留女姫。  賢い美留女姫。  疑うな、怪しむな、夢でない、本当だぞ。  疑うな、怪しむな、夢でない、本当だぞ」  美留女姫はこの時やっと吾れに帰って、夢から覚めたように思いながら、鸚鵡の言葉を一心に聞いていた。そうして心の中で、この不思議な鳥の言葉を、驚き怪しみながらも亦、その云う事が決して偽りでも出鱈目でも何でもなく、本当に珍らしい話しを聞くのに、一等都合の宜い巧い工夫を教えている事が解かって、心から感心した。成る程この街で、一番珍しい奇妙な風体をしている、一番|長生の白髪頭の老人を見付け出して、その人の身の上話しを聞かしてもらえば、屹度面白い新規の話を聞く事が出来るに違いない。又|仮令そんな人でなくとも、身の上話しならばどんな人を捕まえても、十人が十人違っている筈だから、同じ話を二度聞かされる心配はない。そうしてその御礼には、書物を一冊買うだけのお銭を遣れば、貧乏人等は喜んで話して聞かせるに違いないと、こう考え付くと美留女姫は、最早一秒時間も我慢が出来なくなった。眼の前の鸚鵡の事も忘れてしまって、直ぐに自分の室に帰って帽子を頭に載せるが早いか、たった一人で家を出て只ある人通りの多い橋の袂へ駈けて来た。  そこに暫くの間立って待っていると、間もなくよい都合に向うから、お誂え通りの奇妙な風体をした白髪頭の人が遣って来たから、姫は天にも昇らんばかりに喜んで、いきなりその人の前に駈け寄って袖に縋りながら十円の金貨を出して、身の上話をしてくれと頼んだ。その人は頭に高い帽子を三段も重ねて耳の処まで冠っていた。そして身には赤い襯衣を着て、青い腰巻の下から出た毛だらけの素足に半長の古靴を穿いていたが、赤い顔に白髪髯を茫々と生やして酒嗅い呼吸を吐きながら、とろんこ眼で姫の顔を呆れたように見つめていた。けれども姫から大略の仔細を聞くと、大きな口を開いて笑い出した―― 「アハ……。そうか。ではお前はここまでお話しを買いに来たのか。成る程、それは巧い思い付きだ。そうして第一番に俺を捕まえたのは感心だ。  世界中で俺位面白い愉快な身の上を持っているものは、他に唯の一人も無いのだからな。では今から話すからよく聞きなよ。俺は小さい時から酒が好きで、どうしても止められなかったんだ。親が死んでも構わずに酒を飲んだ。嬶や小供が死んでも矢張り酒を飲んだ。家が火事になっても、打っ棄っておいて酒を飲んでいた。嬉しいと云っちゃ飲んだ。悲しいと云っちゃ飲んだ。昨日も飲んだ。今日もたった今まで飲んだところだ。明日も明後日も……大方死ぬまで飲むんだろう。今からも亦、お前のお金で飲んで来ようと思うんだ。これでお仕舞い……目出度し目出度しかね。ハハハ。イヤ有り難う。左様なら」  と云ううちに姫の掌の中の十円の金貨を引ったくって、よろよろとよろめいて行った。  姫は大層面白い話だとは思ったが、何しろあんまり短くて張り合いがなかった。だから今度はなるべく長く委しく話してもらおうと思って、酔っ払いのあとから通りかかったお婆さんの傍へ寄って、事情を話して身の上話しを聞かしてくれと頼んだ。  このお婆さんも不思議な風体で、頭は白髪が茫々と乱れているのに、藁で編んだ笠を冠り、身には長い穀物の袋に穴を明けたのに両手と首を通して着ていて、足には片方にスリッパ、片方には膝まで来る長靴を穿いて、一尺ばかりの杖を突張って地面に這い付く程に腰を曲げていた。そうして矢張り最前の酔払いと同じように、美留女姫が出し抜けに奇妙な事を頼んだのに驚いたと見えて、杖につかまって腰を伸ばしながら、霞んだ眼を真ン円にして姫の顔を見ていたが、やがてニヤリと笑いながら金貨を貰ってそのまま杖を突張って行こうとした。姫は慌てて袖に縋って―― 「アレお婆さん。お話しはどうしたのです。何卒あなたの身の上話を聞かして下さいな」 「何も話す事はありませぬ。只三万日の間つまらなく長く生きていたばかりで御座います」 「まあ三万日……八十年ですわね。でもその間に何か珍しい事があったでしょう」 「アア。そうそうたった二ツありましたよ」 「それはどんな事ですか?」 「一ツは生れてはじめてお話気違いというものを見た事で御座います」 「オヤ。いつ、どこで?」 「今、ここで」 「マア。ではも一ツは?」 「十円の金貨というものをこの手に生れて初めて握った事で御座います。ほんとに有り難う御座いました。さようなら」  と云いながら袖をふり払ってどこかへ行ってしまった。  こんな風に遇う者も遇う者も皆姫を気違いか馬鹿扱いにして、散々|嘲弄ってはお銭を持って行ってしまったから、一時間と経たぬうちに姫の財布はすっかり空っぽになってしまった。その中でも非道い奴はお金も何も取らない代りに―― 「俺は今忙がしいんだ。そんな馬鹿の相手になってはいられない」  と剣突を喰わして行ったものもあった。  姫はもうすっかり気を落してしまって、迚もこんな塩梅では一生涯面白い珍らしい話を聞く事は出来ないであろう。彼の赤|鸚鵡は嘘を吐いたのか知らん。もし本当にこれから一ツも新しいお話を聞く事が出来なければ、もう一生涯何の楽しみも無くなってしまったのだから、死んだ方がいくら良いか知れない。噫、情ない事になった。詰らない事になったと、しくしく泣きながら、街外れの只ある河岸まで来るともなく歩いて来ると、そこに立っている大きな銀杏の樹の根元に腰をかけて、疲れた足を休めようとした。けれどもまだ腰をかけぬ前に姫はその銀杏の樹の根元に思いがけないものを見つけて、忽ち躍り上らんばかりに喜んだ。その時姫が見付けたのがこの白髪小僧と題した不思議なお話の書物であった。  姫はこの書物が、竜のようにうねった銀杏の樹の根本に乗っているのを見つけると直ぐに、この書物こそ自分が今まで一度も見た事のない書物だと思って、思わず駆け寄って手に取ろうとしたが、又ハッと気が付いて立ち止まった。見れば大分古びた書物のようだから、これは屹度誰かがここに置き忘れて行ったものに違いない。して見ればこれを黙って開いて見るのは泥棒と同じ事だと思って、出しかけた手を引っこめた。  姫は折角こんな有り難い事に出くわしながら、指一本指す事も出来ず、持ち主の来るのを待っていなくてはならぬのが、自烈度くて堪らなかった。早く持ち主が来てくれればいい。そうして自分にこの書物を貸してくれればいいと、足摺りをして立っていた。けれどもどういうものか、持ち主は愚か人間らしいものは一人も遣って来ないで、その代りに空から銀杏の葉が黄金の雪のようにチラチラと降って来て、書物のまわりに次第次第に高く積りはじめた。そうしてその黒い表紙がだんだんと見えなくなって、もうあと一二枚落ちるとすっかり銀杏の葉で隠れてしまいそうになると、最前から我慢の出来るだけ我慢をしていた姫は、もう堪らなくなって、我れ知らず傍に走り寄って、銀杏の葉を掻き除けて書物を拾い上げて、表紙を一枚夢中でめくって見た。  すると姫は又もやそこに夢ではないかと思う程不思議なものを見つけた。その初めの処にはっきりとした文字で『白髪小僧と美留女姫』という言葉が、チャンと二行に並んで書いてあったのである。姫は白髪小僧の事は兼々お附の女中から委しく聞いて知っていたが、今目の前に自分の名前と一緒にチャンと並べて書いてあるのを見ると、どうしても誰かの悪戯としか思われなかった。  けれども姫が又急いで次の頁を開いて見ると、今度はいよいよ二人の名前が出鱈目に並べてあるのではなく、この書物には本当に、自分と白髪小僧の身の上に起った事が書いてあるのだという事がわかった。その第三頁目には王冠を戴いた白髪小僧の姿と美事な女王の衣裳を着けた美留女姫が莞爾と笑いながら並んでいる姿が描いてあった。  もう姫はこの書物から、一寸の間も眼を離す事が出来なくなった。すぐに第四枚目を開いてそこに書いてあるお話を次から次へと読んで行くと、疑いもない自分の身の上の事で、姫がお話の好きな事から、身の上話を買いに出かけた事、そうして銀杏の根本でこの書物を見つけたところまで、すっかり詳しく書いてあるものだから、全く夢中になってしまって、これから先どうなる事だろうと、先から先へと頁を繰りながら、家の方へ歩いているうちに、一足|宛川岸の石崖の上に近づいて来た。折からそこを通りかかった二三人の人々はこの様子を見て胆を潰し―― 「危いッ、お嬢様危い。ソラ落ちる」  と大声揚げて駈け附けた。  併し姫は書物に気を取られていたから人々の叫び声も何も耳に入らなかった。  矢張り平地を歩いているつもりで片足を石垣の外に踏み出すや否や、アッと云う間もなく水煙を立てて落ち込んでドンドン川下へ流れて行った。  けれども仕合わせと白髪小僧の御蔭で危い命を拾ったが、これが縁となって美留女姫は白髪小僧を吾が家へ連れて来て、両親を初め皆の者に白髪小僧と自分との身の上に起った、今までの不思議な出来事を読んで聞かせると、皆心から驚いて、一体これはその書物に書いてあるお話しか、それとも本当に二人の身の上に起った事かと疑った。そうして今の話で、この間赤い鸚鵡が云った一番|長生の白髪頭の奇妙な姿をした老人というのはお爺さんでもお婆さんでも何でもなく、この白髪小僧の事に違いないことがわかった。成程、白髪小僧ならば、世界中で二人とない不思議な身の上話を持っているに違いない。そうしてそれを聞くのは世界中でこの人達が初めてで、しかもそれが美留女姫の身の上と一所になって、どこかまだ知らぬ国の王様と女王になるらしく思われたから、皆の者は最早先が待ち遠しくて堪らなくなって―― 「それからどうしたのです。早く先を読んで下さい」  と口々に催促をした。      三 青い眼  美留女姫も同じ事で、最前水に落ちたのを、白髪小僧に救い上げられてから今までの出来事は、皆本当に自分の身の上に起っている事か、それともこの書物に書いてあるお話しかと疑った。そうして皆から催促される迄もなく、白髪小僧と自分の身の上のお話がどうなるか、早く読みたくて堪らなかったけれども、一先ずじっと気を落ち着けて皆の顔を見まわしながらニッコリと笑った。そうして―― 「待って下さい。妾もこれから先どうなるか知らないのです。今から先を読みますから静かにして聞いていて下さい」  と云いながら、胸を躍らせて次の頁を開いた。  見ると……どうであろう。次の頁は只の白紙で、一字も文字が書いて無いではないか。これは不思議……今まであった話が途中で切れる筈はないと思いながら、慌てて次の頁を開いたがここも白紙で何も書いて無い。その次その次とお終い迄バラバラ繰り拡げて見たが矢張り同じ事。真逆白髪小僧と自分の身の上が、これでおしまいになった訳ではあるまいと、美留女姫は胸が張り裂ける程驚き慌てて、今度は前の方を引っくりかえして見ると又驚いた。今まであんなに書き続けてあった文字が一字も無く、この書物は全くの白紙の帳面と同じ事になっていた。  美留女姫はあまりの事に驚き呆れて思わず書物から眼を離すと又不思議、今までたしかに大広間の中で大勢の人に取りまかれて、書物を読んでいた筈なのに、今見まわせばそんなものは、書物の文字や挿し絵と一所に、どこかへ綺麗に消え失せてしまって、自分は矢張り最前の銀杏の根本に、書物を持ったままぼんやりと突立っているのであった。しかも眼の前の最前書物の置いてあった銀杏の樹の根本には、いつの間にどこから来たか、白髪小僧が腰をかけていて、お話を聞きながらうとうとと居睡りをしているではないか。姫は何だかサッパリ訳がわからなくなった。最前からのいろいろの不思議の出来事は、矢張り本当の事ではなく、皆この書物を読みながらそのお話しの通りに自分が為たように思っただけで、本当は矢張り最前からここに立ったままで、白髪小僧は自分の気付かぬ間にここに来て眠っているのだとしか思われなかった。姫は益々呆れてしまって、思わず手に持っていた書物をパタリと地上に取り落すと、間もなく颯と吹いて来た秋風に、綴じ目がバラバラと千切れて、そのまま何千何万とも知れぬ銀杏の葉になって、そこら中一杯に散り拡がった。見るとその葉の一枚|毎に一字|宛、はっきりと文字が現われている様子である。  重ね重ねの不思議に姫は全く狐に憑まれた形で、ぼんやりと突立って見ていると、その内に又もや風が一しきり渦巻き起って、字の書いてある銀杏の葉をクルクルと巻き立てて山のように積み重ねてしまった。  するとそこへどこからか眼の玉と髪毛と鬚が真青な、黄色い着物を着た一人のお爺さんが出て来たが、この銀杏の葉の山を見ると、これも何故だか余程驚いた様子で―― 「これは大変な事になった。一時も棄てておかれぬ」  と云いながら直ぐ傍の石作りの門の中に這入ったが、やがて大きな袋と箒を持って来てすっかり銀杏の葉をその中へ掃き込んで、どこかへ荷いで行く様子である。これを見ていた姫はこの時はっと気が付いて、あの銀杏の葉に書いてある字を集めると、屹度今までのお話しの続きがわかるのに違いないと思ったから、持って行かれては大変と急に声を立てて―― 「お爺さん、一寸待って下さい」  と呼び止めた。  けれども青い眼の爺様は見向きもしないで唯―― 「何の用事だ」  と云い棄ててずんずん先へ急いで行った。  美留女姫はこれを見ると、慌ててお爺さんに追い縋って―― 「お爺さん。何卒御願いですから待って下さい。そうしてその銀杏の葉に書いてある字を妾に読まして下さい」  と叮嚀に頼んだ。けれどもお爺さんは矢張り不機嫌な声で―― 「馬鹿な事を云うな。これは悪魔の文字だ。これを見ると悪魔に魅入られるのだ。見せる事は出来ない」  と答えながらなおも足を早めて急いで行く。  美留女姫は気が気でなくなおもお爺さんに追い縋って尋ねた―― 「では貴方はそれをどうなさるのですか」 「うるさい女の子だな。山へ持って行って焼いてしまうのだ」 「エエッ。それはあんまり勿体ないじゃありませんか。それには面白いお話しが沢山書いてあるのです。妾はそれを読んでしまわなければ、今夜から眠る事が出来ませぬ。明日からは生きている甲斐が無くなります。何卒、何卒後生ですから妾を助けると思って、その銀杏の葉に書いてある字を読まして下さい。ね。ね」  と泣かんばかりに頼みながら、老人に追い付いて袖に縋ろうとした。けれども爺さんは尚も意地悪くふり払って―― 「そんな事を俺が知るものか。この銀杏の葉に書いてある文字は、藍丸国の大切な秘密のお話しで、これをうっかり読んだり聞いたりすると、藍丸国に大変な事が起るのだ。とてもお前達に見せる事は出来ない。諦めて早く帰れ」  と云いながら一層足を早めて歩き出した。  するとこの様子を見ていた白髪小僧は、何と思ったか忽ちむっくり起き上って、大急ぎであとを追っかけはじめた。その中に美留女姫も一生懸命に走ってお爺さんに追い付いて、何を為るかと思うと、懐から小さな鋏を取り出して、お爺さんが荷いで行く袋の底を少しばかり切り破った。そうして、その破れ目から落ちる銀杏の葉を、お爺さんが気付かぬように、ずっと後ろから拾って行きながら、その上に書いてある一字一字を清しい声で読み初めたが、その一字一字は不思議にも順序よく続き続いて、次のような歌の文句になっていた。      四 石神の歌 「三千年の春|毎に、栄え栄えた銀杏の樹。  三千年の夏毎に、茂り茂った銀杏の樹。  梢に近い大空を、月が横切る日が渡る。  流るる星の数々は、枝の間に散り落ちて、  千万億の葉をふるう、今年の秋の真夜中の、  霜に染め出す文字の数、繋ぎ繋がる物語。  春はどこから来るのやら。秋はどっちへ行くのやら。  毎年毎年花が咲き、毎年毎年葉をふるう。  昔ながらの世の不思議、今眼の前に現われて、  眼は見え耳はきこえても、手足は軽く動いても、  昨日為た事今日忘れ、先刻した事今忘れ、  自分の事も他事も、忘れ忘れていつ迄も、  限りない年生き延びた、聞こえ聾の見え盲目。  不思議な王の知ろし召す、奇妙な国の物語。  昔々のその昔、世界に生きたものが無く、  只岩山と濁り海、真暗闇のその中に、  或る火の山の神様と、ある湖の神様と、  二人の間に生れ出た、たった一人の大男。  金剛石の骨組に、肉と爪とは大理石。  黒曜石の髪の毛に、肌は水晶血は紅玉。  岩角ばかりで敷き詰めた、広い曠野の真中で、  大の字|形の仰向けに、何万年と寝ていたが、  或る時天の向うから、大きな星が飛んで来て、  寝てる男の横腹へ、ドシンとばかりぶつかった。  男はウンと云いながら、青玉の眼を見開いて、  どこが果ともわからない、暗の大空見上ぐれば、  左の眼からは日の光り、右の眼からは月の影、  金と銀とに輝やいて、二ツ並んで浮み出し、  一ツは昼の国に照り、一ツは夜の国に行く。  瞬きすれば星となり、呼吸をすれば風となり、  嚏をすれば雷となり、欠伸をすれば雲となる。  男はやがてむっくりと、山より大きな身を起し、  ずっと周囲を見まわせば、四方は岩と土ばかり。  もとより生きた者とては、艸一本も生えて無い。  男はあまりの淋しさに、オーイオーイと呼んで見た。  けれどもあたりに一人も、人間らしい影も無く、  大石小石の果も無い、世界に自分は唯一人。  青い空には雲が湧く。幾個も幾個も連れ立って、  さも楽し気に西へ行く。けれども自分は唯一人。  黒い海には波が立つ。仲よく並んでやって来て、  岸に砕けて遊んでる。けれども自分は唯一人。  もとより不思議の大男。家も着物も喰べ物も、  何んにも要らぬ身ながらに、相手といっては人間や、  鳥や獣はまだ愚か、艸一本も眼に入らぬ、  広い野原の恐ろしさ。石の野原の凄じさ。  折角生れて来たものの、話し相手も何も無い、  淋しさつらさ情なさ。男はとうとう焦れ出して、  一体誰がこの俺を、こんな野原に生み出した。  一体誰がこの俺を、こんな荒野に連れて来た。  寧そ眠っているならば、死ぬまで眠っているならば、  こんな淋しい情ない、つらい思いはしまいもの。  一体誰がこの俺を、ドシンとなぐって起したと、  ぬっくとばかり立ち上り、声を限りに怒鳴ったが、  答えるものは山彦の、野末に渡る声ばかり。  青い空には雲が湧く。けれども自分は只一人。  黒い海には波が立つ。けれども自分は只一人。  男はとうとう怒り出し、吾れと吾が髪引掴み、  赤く血走る眼を挙げて、遠い青空|睨みつつ、  大声揚げて泣きながら、天も響けと罵った。  大空も聞け土も聞け、山も野も聞け海も聞け。  目に見えるもの見えぬ者、あらゆる者よ皆聞け。  俺は死ぬのだ今直ぐに、この場で死んで了うのだ。  われと自分の淋しさに、天地を怨んで死ぬるのだ。  こんな淋しい恐ろしい、所に長く生きていて、  悲しい思いするよりは、死んでしまった方が好い。  こんな眼玉があったとて、面白いもの見なければ、  綺麗なものを見なければ、何の役にも立たないと、  われと吾が眼をえぐり出し、虚空はるかに投げ棄てた。  その投げ上げた眼の玉が、地面に落ちたその時は、  一字も文字の書いて無い、巻いた書物となっていた。  二ツの耳もこの上に、面白い事聴かれねば、  他人の話しもきかれねば、何の役にも立たないと、  両方一度に引き千切り、地面の上に打ち付けた。  すると二ツ耳も亦、地面に落ちると一時に、  一ツも穴の明いて無い、重たい石の笛となる。  鼻はあっても見る限り、咲く花も無い広い野の、  埃に噎せるばかりでは、却て邪魔にしかならぬ、  糞の役にも立たないと、これも千切って打ち付けた。  するとガタンと音がして、糸を張らない月琴が、  この大男の足もとの、石の間に落っこちた。  又|一人も話しする、相手が無ければこの舌も、  無駄なものだと云ううちに、ブツリとばかり噛み切って、  石の間に吐き棄てた。それと一緒にコロコロと  振り子の附かない木の鈴が、地面の上に転がった。  こうして我れと吾が身をば、咀い尽した大男、  息は忽ち絶え果てて、石の野原に打ちたおれ、  手足も頭もバラバラに、胴と離れて転がった。  折しも四方に雲が湧き、雷が鳴り風が吹き、  月日の光りも真暗に、砂や小石を吹き上げて、  車軸を流す大雨を、泥や小砂利の滝にして、  彼の大男の亡骸も、埋もるばかりにふりかけた。  その時海も野も山も、砕くるばかりに鳴り渡る、  さも物凄い恐ろしい、真暗闇のただ中に、  彼の石男の眉間から、赤い光りが輝やいて、  額の骨が真二ツに、パッと割れたと思ううち、  真赤な鸚鵡が飛び出して、東の方へ飛んで行た。  又石男の胸からは、青い光りが輝やいて、  身に宝石の鱗着た、細い海蛇を巻き付けた、  大きな鏡が現われて、南の方へ飛んで行た。  やがて空には雲が晴れ、地には嵐が吹き止んで、  泥の野原に泥の山、濁った海のその他は、  何にも見えぬその涯に、真赤な真赤な太陽が、  ぐるぐるぐると渦巻いて、眩しく沈みかけていた。  その時地面のドン底の、彼の石男の亡骸の、  数限りない毛穴から、何億万とも数知れぬ、  大きい小さい様々の、石の卵が湧き出して、  暖かい日に照らされて、一ツ一ツにかえり出す。  足から出たのは艸や木に、胴から出たのは虫けらに、  手から出たのは鳥獣、水に沈めば魚くずに、  又頭から湧いたのは、数限りない人間に、  われて這い出て世の中に、今の通りに散らばって、  一ツの国が出来上り、藍丸という名が付いた。  扨その中に只一つ、臍の中から湧き出した、  小さい白い一粒は、気高い尊い御姿の、  若いお方に抜けかわり、藍丸国の王様の、  位に即いてそのままに、何千何万何億と、  数限りない年月を、無事に治めておわします。  この藍丸の国のうち、津々浦々に到るまで、  皆正直に働いて、この珍しい長生の、  王に忠義を尽す故、王はおいでになりながら、  広い国中何一つ、御気にかかった事もなく、  いつも御殿の奥深く、銀の寝台に身を休め、  現ともなく夢ぞとも、御存じのない魂は、  他の世界へ抜け出でて、他の世界の人々に、  王の心の気楽さを、示し歩いておわします」  ここまで読んで来ると生憎く、先に立ったお爺さんは、この時|不図袋が軽くなったのに気が付いて、変だと思いながらふり返って見ると、自分の背中の袋から落ちた銀杏の葉が、ずっと背後まで長く続いているのを見付けた。これは大変と吃驚して袋を調べて見ると、最前美留女姫が鋏で切り破った穴が、袋の底に三角に開いている。お爺さんはこれを見ると憤るまい事か―― 「奴れ小娘、覚悟をしろ。こんな悪戯をして俺の大切な役目を破ったからには生かしておく事は出来ないぞ。どうするか見ておれ」  と大きな声で怒鳴りながら、忽ち鬼のような顔になって袋も何も打っ棄って、あと引かえして追っかけて来た。  美留女姫は二度|吃驚。もう銀杏の葉の字を読むどころの沙汰ではない。慌てて逃げ出して、後から来た白髪小僧の袖に縋って―― 「あれ、助けて頂戴。白髪小僧さん。助けて頂戴。あのお爺様に殺されます。妾を助けて頂戴。連れて逃げて頂戴。早く。早く」  と云いながら、もう先へ立って駈け出した。この様子を見たお爺さんは益々腹を立てて真赤になって、 「奴れ悪魔の娘、逃げようとて逃がすものか。空の涯までも追っかけて引っ捕えてくれる。引っ捕えたら生かしてはおかないぞ。あとから行く白髪の男、貴様も待て。二人共悪魔であろう。国を乱す悪魔であろう。石神の文を読んだからには悪魔の片われに違いない。逃がす事は出来ないぞ。生かしておく事は出来ないぞ」  と大きな声で喚きながら追っかけた。  ところがこの時白髪小僧は、美留女姫に誘われて一所にあとから逃げながら、このお爺さんの喚めき声を聞き付けて不図うしろをふり返ると、その顔を一目見るや否や、お爺さんは又もや腰の抜ける程驚いた様子で―― 「ヤヤ。貴方様は藍丸国王様では御座いませぬか。どうしてここにお出で遊ばしました。そうしてそのお姿は……まあ、何という恐れ多い……浅ましいお姿……」  と呆気に取られて立ち止まった。けれども美留女姫は少しも気が付かずに先へ走るし、白髪小僧もそのあとからくっついて、お爺さんが立ち止まった隙にドンドン駈け出して行った。この様子を見るとお爺|様はもう狂気のように周章出して―― 「あれ。王様。王様。これはどうした事で御座います。お待ち下さりませ。お待ち遊ばせ。その女は悪魔……大悪魔で御座いますぞ。飛んでもない。飛んでもない。お待ち……お待ち遊ばせ。王様。王様」  と息を機ませて、又もや宙を飛んで追っかけた。  こうして三人は追いつ逐われつ、だんだん人里遠く走って来たが、美留女姫はもう苦しくて苦しくて堪らないような声を出して―― 「白髪小僧さん……白髪小僧さん……」  と呼びながらふり返りふり返り走って行く。うしろからはお爺さんが青い眼玉を血走らして―― 「藍丸王様……王様……藍丸様ア」  と呼びながら追っかける。白髪小僧は只|無暗に息を切らして駈け続けた。  やがて夕日は西の山にとっぷりと落ち込んで、あたりが冷たく薄暗くなった。野原には露が降りて、空には星が光り初めた。けれどもお爺さんは追っかける事を止めなかった。とうとう山の中へ分け入って、小さな池の縁をめぐって、深い大きな杉の森に這入った時は、あたりがすっかり真暗になって、あとにも先にももう何にも見えず、只怖ろしさの余り声を震わして泣いて行く美留女姫の声を便りに、木の幹を手探りにして追うて行った。その内に白髪小僧は、ヒョロヒョロに疲れて、息をぜいぜい切らすようになった。それでも構わずに走っていると、あっちの根っ子に引っかかり、こっちの幹に打っつかり、もうこの上には一足も行かれないようになって―― 「オーッ」  と呼んだと思うと、そのままそこによろめき倒れてしまった。      五 七ツの灯火  すると不思議な事には今呼んだ声が、誰かの耳に這入ったものと見えて、遠くで高らかに―― 「オ――オ……」  と返事をする声がきこえた。白髪小僧はじっと顔を挙げて向うを見ると、丁度今声の聞こえたあたりに小さな燈光が一ツチラリと光り初めた。やがて、その光りが三ツになった。五ツになった。七ツになった。と思う間もなくその七ツの燈火が行儀よく並んでこちらへ進んで来た。その七ツの燈火に照らされた向うの有様を見ると、見事な飾りをした広い廊下で、天井や壁に飾り付けてある宝石だか金銀だかが五色の光りを照り返して、まことに眼も眩むばかりの美しさである。そのうちに燈火はだんだん近附いて、やがて持っている人の姿がはっきりと見えるようになった。  見ると七人の持ち人の内真中の一人だけは黄色の着物を着たお爺さんで、あとの六人は皆空色の着物を着た十二三の男の児であった。そうしてそのお爺さんは、最前美留女姫と白髪小僧とを追っかけた、眼の玉の青いお爺さんに相違なかった。その中に七人は直ぐに自分の傍まで近付いて来たが、その持っている手燭の光りで四方を見ると、ここは又大きい広い、そうして今の廊下よりもずっと見事な室である。そうして白髪小僧自身の姿をふりかえって見ると、こは如何に。最前までは粗末な着物を着た乞食姿で、土の上に倒れていた筈なのに、今は白い軽い絹の寝巻を着て、柔らかい厚い布団の中に埋もっている。その上に自分の顔にふりかかる髪毛を見るとどうであろう! 今まで滝の水のように白かった筈なのが、今は濃い緑色の光沢のある房々とした髪毛になって、振り動かす度に云うに云われぬ美しい芳香が湧き出すのであった。重ね重ねの奇妙不思議に当り前の者ならば、屹度気絶でもするか、それとも夢を見ているのだと思って身体でも抓って見るところだが、併し白髪小僧は平気であった。昨夜も一昨夜もそのずっと前からここに居て、たった今眼が覚めたような顔をして、先に立ったお爺さんの顔を横になったまま見ていた。  お爺さんは六人の小供を従えて、寝台の前に来て叮嚀にお辞儀をした。そうして畏る畏る口を開いた―― 「藍丸王様。青眼爺で御座います。お召しに依って参りました。何の御用で入らせられまするか。何卒何なりと御仰せ付けを願います」  白髪小僧はこう尋ねられても何も返事をせずに、只ぼんやりと青眼爺さんの顔を見ていた。  するとお爺さんは何やら思い当る事があると見えて、傍の小供に眼くばせをしたが、やがてその中の一|人が玉のような水を水晶の盃に掬んで来て、謹しんで眼の前に差し出したから、取り上げて飲んで見ると……その美味しかった事……そうしてその水には何か貴い薬でも這入っていたものと見えて、今までの疲れも苦しさもすっかりと忘れてしまって、身体中に新らしい元気が満ち渡るように思った。  青眼|爺様は白髪小僧の藍丸王が飲み干した盃を受け取って、傍の小供に渡すと直ぐに又眼くばせをして、六人の小供を皆遠くの廊下へ退けて、只独り王の前に蹲いて恐る恐る口を開いた―― 「王様。恐れながら王様は只今何か夢を御覧遊ばしたのでは御座いませぬか」  藍丸王は又もや言葉がよく解らないために返事が出来なかった。只何だかわからないという徴に、頭を軽く左右に振って見せた。けれども青眼爺は何だか心配で堪らぬように、じっと藍丸王の顔を見つめていた。そうして重ねて一層叮嚀な言葉で恐る恐る尋ねた。 「王様。私は今日迄王様のお守り役で御座いました。で御座いますから、今まで何事も私にお隠し遊ばした事は一ツとして御座いませんでした。私は王様を御疑い申し上げる訳では御座いませぬけれども、もしや王様は、只今御覧遊ばした夢を御忘れ遊ばしたのでは御座いませぬか。白い着物を着た悪魔の娘と一所に、私の跡をお追い遊ばして、銀杏の葉に書いた文字を御覧遊ばしたのでは御座いませぬか。屹度、屹度御覧遊ばしませぬか。もし御隠し遊ばすと王様の御身の上やこの国の行く末に容易ならぬ災いが起りまするぞ」  青眼の言葉は次第に烈しくなって来た。そしてさも恐ろしそうに王の顔を見入りながら、力を籠めて問い詰めた。  青眼がどうしてこんな事を尋ねるのか、又あの銀杏の葉に書いてあったお話が何故こんなに気にかかるのか。そうして又あのお話を聞けば何故そんな災いがふりかかるのか――そして青眼はどうしてそれを知っているのであろうか。藍丸王がもし当り前の人間ならば、こんないろいろの疑いを起して青眼にその仔細を尋ねるであろう。ところが藍丸王は旧来の白髪小僧の通り白痴で呑気でだんまりであった。第一今の身の上と最前までの身の上とはどっちが本当なのか嘘なのか、それすら全く気にかけなかった。その上に自分が白髪小僧であった事なぞは疾くの昔に忘れてしまっている。そして只眼を丸く大きくパチパチさせながら頭を今一度軽く左右に振った切りであった。  青眼は、いよいよ王があの夢を見ていないのだと思うと、急に安心したらしく、ほっと嬉しそうな溜め息をした。そして又|恭しく長いお辞儀をしながら―― 「王様。私はこのように安堵致した事は御座いませぬ。夜分にお邪魔を致しましていろいろ失礼な事を申し上げた段は、幾重にも御許し下さいまし。最早夜が明けて参りました。小供達を喚んで朝のお支度を致させましょう」  と云った。  老人が又改めて長い最敬礼をして退くと、入れ交って空色の着物を来た最前の小供等が六人、今度は手に手に種々な化粧の道具を捧げながら行列を立てて這入って来て、藍丸王に朝の身支度をさせた。  一人がやおら手を取って王を寝床から椅子へ導くと、一人は大きな黄金の盥に湯を張ったのを持って、その前に立った。傍の一人は着物を脱がせる。他の一人は嗽をさせる。も一人は身体中を拭い上げる。残った一人はうしろから髪を梳く。おしまいの一人は香油を振りかける。皆順序よく静かに役目をつとめて、先ず黒い地に金モールを附けた着物を着せ、柔らかい青い革の靴を穿かせ、金銀を鏤めた剣を佩かせて、おしまいに香油を塗った緑色の髪を長く垂らした上に、見事な黄金の王冠を戴せて、その上に厚い白い、床に引きずる位長い毛皮の外套を着せたから、今まで着物一枚に跣足でいた白髪小僧の藍丸王は、急に重たく窮屈なものに縛られて、身動きも出来ない位になった。それから六人の小供達は三組に分れて、室の三方に付いている六ツの窓を開いて、朝の清らかな光りと軽い風とを室一パイに流れ込ませた。そうして暁の透き通った青い光りの裡にうつらうつら瞬く星と、夢のように並び立っている宮殿と、その前の花園と、噴水と、そのような美しい景色を見て恍惚としている藍丸王を残して、種々の化粧道具と一所に、六人の小供はどこへか音も無く退いてしまった。      六 大臣と漁師  これから後、藍丸王が見たいろいろの出来事は、当り前の者ならばその都度驚いて、眼でも眩わして終わなければならぬような事ばかりであった。  今日は藍丸国王の御誕生日だというので、紅木公爵という、丈の高い、黒い髪を生やした、あの美留女姫のお父様によく肖た総理大臣と、沢山の護衛の兵士に連れられて、お城の北の紫紺樹という樹の林の中に在る、石神の御廟に朝の御参りをしたが、その時沢山の兵士が皆一時に剣を捧げて敬礼をした時の神々しかった事。それから宮中の大広間に出て、大勢の尊い役人や、この国の四方を守る四人の王様や、その家来達から、一々御祝いの言葉を受けた時の厳そかだった事。又は美事な十二頭立の馬車に乗って、前後を騎兵に守らせながらお城の南の広い野原に出て、何万何千とも知れぬ兵隊の観兵式を行らせた時の勇ましかった事。それから夜になって、宮中に催された大音楽会と、大舞踏会と、大晩餐会の大袈裟であった事。その他見る者聞くもの何一ツとして、眼を驚かし耳を驚かさぬものはなかった。  けれども白痴の白髪小僧の藍丸王は、相変らず悠々と落ち付いて、まるで生れながらの王ででもあるように、ニコニコ笑いながら澄まし込んで、大勢の家来に平常よりずっと気高く有り難く思わせた。  けれどもこの日の内に藍丸王が心から美しい、可愛らしい、珍しい、不思議だと感心したらしいものが只一ツあった。それは一羽の赤い羽子を持った鸚鵡であった。この鸚鵡は最前の紅木という総理大臣の息子で、平生王の御遊び相手として毎日宮中に来ている紅矢という児が、今日は少し加減が悪くて御機嫌伺いに参りかねます故、代りの御慰みにと云って遣したもので、王の室の真中の象牙張りの机の上に籠に入れて置いてあったが、奇妙な事にはその歌う声が昨夜夢の中で聞いた美留女姫の声にそっくりで、眼を瞑って聞いていると姫が直ぐ側に来ているように思われた。  その上にも不思議な事には、何事に依らず見た事は見たまま、聞いた事は聞いたままその場限りで綺麗に忘れて了う白髪小僧の藍丸王が、彼の美留女姫の姿や声だけははっきりとよく記憶えていたものと見えて、今しも宴会が済んで自分の室に連れられて帰ると直ぐに、この赤鸚鵡の声に耳を留めて、着物を着かえる間も待ち遠しそうに、急いで傍の銀の椅子に腰を卸すとそのまま一心にその歌に聞き惚れた。  その歌の節は云うに及ばず、文句までも昨夜の夢の美留女の読み上げた歌によく似ていた。 「青い空には雲が湧く、けれども直ぐに消え失せる。  黒い海には波が立つ、それでも直ぐに消えて行く。  昔ながらの世の不思議、見たか聞いたか解かったか。  昨夕妾が見た夢の、扨も不思議さ恐ろしさ。  白髪小僧の物語。そして妾の物語。  その又夢の中で見た、この身の上のおしまいに、  昨夜どこかの森|中へ、白髪小僧と逃げ込んで、  樹の根に倒れたそれ迄は、妾は美留楼公爵の、  第三番目の女の子、名をば美留女というたのに、  今朝眼が覚めて気が付けば、扨も不思議や見も知らぬ、  藍丸国の大臣で、紅木と名乗る公爵の、  第三番目のお姫様、これはどうした事でしょう。  着物も家も何もかも、すっかり変って吾が名さえ、  美紅とかわっておりまする。只変らぬは御両親、  お兄様や姉様や、又は家来の顔ばかり。  これは夢かと疑えば、傍から皆笑い出し、  お前は何を云うのです、何か夢でも見たのかえ。  お前は旧来からこの家の、可愛い可愛い美紅姫。  ずっと前からお話が、何より何より大好きで、  御本ばかりを読み続け、夢中になっておった故、  いくらか気持が変になり、十幾年のその間、  他の処へ居たという、馬鹿気た長い夢を見て、  それを本当にして終い、寝ぼけているのに違いない、  可笑しい人と皆から、お笑い草にされました。  けれども妾はどうしても、今の妾が本当か、  昔の妾が夢なのか、疑わしくてなりませぬ。  妾の今が夢ならば、あれだけ皆で笑われて、  また疑っている筈は、どう考えてもありませぬ。  昔の妾が本当なら、まだ夢を見ぬその前を、  少しも思い出す事が、出来ない筈はありませぬ。  今も昔も本当なら、又はどちらも夢ならば、  妾は居るのか居ないのか、解らぬようになりまする。  よし夢にせよ何にせよ、妾の不思議な身の上を、  よく考えて頂戴な、妾の窓の直ぐ傍に、  妾の歌の真似をする、大きな綺麗な赤鸚鵡。  怪しい夢の今朝|醒めて、日が出て月は沈んでも、  鳥が木の間に歌うても、まだ眼に残る幻影は、  白い御髪に白い肌、月の御顔雲の眉、  世にも気高い御姿、乞食の王の御姿。  白い御髪を染め上げて、緑の波をうずまかせ、  金の冠差し上げて、銀の椅子に召されたら、  まだ拝まねどこの国の、尊いお方に劣るまい。  妾の大切な姉様は、はや近い内皇后の、  位に御即きなさるとか、今朝兄上が仰しゃった。  兄上様の御名前は、聞くも凜々しい紅矢様、  姉上様の御名前は、花の色添う濃紅姫。  妾は大切な姉様の、世にも目出度い御仕合わせ、  嬉しい事と思いつつ、楽しい事と思いつつ、  自分は独り居残って、昨夜の夢の御姿、  白いお髪の御方を、又無いものと慕うては、  淋しく暮す身の上を、誰かあわれと思おうか。  よしや憐れと思うても、よしや不憫と思うても、  昨夜の夢をくり返し、又見る術はないものを、  青い空には雲が湧く、けれども直ぐに散り失せる。  黒い海には波が立つ、けれども直ぐに消えて行く。  消えぬ妾のこの思い、見たか聞いたか解ったか。  空行く鳥を追い止むる、それより難いこの願い。  早瀬の香魚を掬い取る、それより難いこの願い。  夢かまことかまだ知らぬ、うつつともないまぼろしを、  愚かに慕うこの心、見たか聞いたか解ったか」  藍丸王は我れを忘れてこの歌に聞き惚れていた。そうして昨夜の夢の続きでも見ているように、美留女姫の姿を想い浮めていると、暫く黙っていた鸚鵡は又もや頭を低く下げて前と同じ声の同じ節で違った歌を唄い出した。 「青い空には雲が湧く、けれども直ぐに消え失せる。  黒い海には波が立つ、けれども直ぐに凪いでゆく。  昔ながらの世の不思議、見たか聞いたかわかったか。  藍丸国のその中で、南の国に湖の、  数ある中で名も高い、多留美と呼ばるる湖は、  お年寄られた父様と、妾が魚を捕るところ。  翡翠の波を潜っては、金銀の魚を追いまわし、  瑠璃の深淵に沈んでは、真珠の貝を探り取る。  捕って尽きせぬ魚の数、拾うて尽きぬ貝の数。  扨は楽しい明け暮れに、小さい船と小さい帆を、  風と波とに送られて、歌うて尽きぬ海の歌。  けれども妾は昨夜から、この身の上の幸福は、  只これ切りのものなのか、それとももっとこの世には、  楽しい事があるのかと、疑わしくてなりませぬ。  今朝明け方に見た夢の、扨も不思議さ面白さ。  漁師であった父様が、美留楼公爵様となり、  おわかれ申した母様と、兄様|姉様お揃いで、  十幾年のその間、楽しく暮したものがたり。  銀杏の文字のお話しの、惜しいところであと絶えて、  石神様のお話しは、わが身の上の事となり、  白髪小僧と青眼玉、それに妾と三人で、  追いつ追われつ行く末は、真暗闇の森の中。  扨眼が覚めて気が付けば、この身は矢張|旧のまま。  十幾年の栄燿をば、只片時の夢に見た、  枕に響く波の音、窓に吹き込む風の声、  身は干し藁のその中に、襤褸を着たまま寝ています。  今の妾が仕合わせか、夢の妾が仕合わせか。  青い空には雲が湧く、黒い海には波が出づ。  よしや夢でも構わない。よしうつつでも構わない。  妾は不思議な珍しい、又面白い恐ろしい、  あの石神のお話しの、続きをもっと見たかった。  ほんとに惜しい事をした、ほんとに惜しい事をした。  おやまあお前は赤鸚鵡、夢に出て来た赤鸚鵡。  まだ夜も明けぬ窓に来て、窓の敷居に掴まって、  星の光りを浴みながら、ハタハタ羽根を打っている。  お前は本当に居たのかえ、本当にこの世に居たのかえ。  もしもお前が夢でなく、本当にこの世に居るのなら、  お前の仲間の化け物の、四つの道具や扨は又、  蛇や鏡もこの国の、どこかに居るに違いない。  そしてお前が眼の前に、今まざまざと居るように、  美留女の智恵や学問を、妾はちゃんと持っている。  夢は覚めても忘れずに、妾はちゃんと持っている。  扨は今のは正夢か、本当にあった事なのか。  そして妾があのように貴い身分になる事を、  前兆らせする夢なのか、本当に不思議な今朝の夢。  銀杏の根本で繙いた、不思議な書物の中にある、  妾の女王の絵姿は、絵空事ではなかったか。  空には白い星の数、海には青い波の色。  棚引く雲の匂やかに、はや暁の色染めて、  東の空にほのぼのと、夢より綺麗な日の光り。  赤い鸚鵡よどうしたの、まあ恐ろしい美しい、  真赤な真赤な光明を、眩しい位輝やかし、  あれ羽ばたきをするうちに、窓から高く飛び上り、  東の空に太陽の、光りが出ると一時に、  海の面に湧き上る、金銀の波雲の波、  蹴立て蹴立てて行く末は、あと白波の沖の方、  あれあれ見えなくなりました……」  藍丸王は又もやこの歌に聞き惚れて、うっとりと眼を細くして夜の更けるのも忘れていた。  するとその中お寝みの時刻が来たと見えて、今朝の青眼老人が、六人の小供と一所に、手燭を持って這入って来たが、王が真暗な室の中に鸚鵡の籠を置いて、一心にその歌に聞き入っている様子を見ると、何故だか大層驚いた様子で、慌てて王の前に進み寄って―― 「王様は飛んでもない事を遊ばします。王様はこの国の古い掟をお忘れ遊ばしましたか。『人の声を盗む者、他の姿を盗む者、他の生血を盗む者、この三つは悪魔である。見当り次第に打ち壊せ、打ち殺せ、焼いて灰にして土に埋めよ』この言葉をお忘れ遊ばしましたか。この鳥こそは今申し上げた、人の声を盗む悪魔で御座りまするぞ。悪魔が王様の御声を盗みに来ているので御座りまするぞ。吁。恐ろしい、恐ろしい。御免下されませ。この鳥は私が頂戴して殺して仕舞います」  と云う中に籠を取り上げて持って行こうとした。するとその時どうした拍子か籠の底が抜け落ちたから、鸚鵡は直ぐにパッと飛び出して、さも嬉しそうに羽ばたきを為たが、忽ち眼も眩む程真赤な光りを放ちながら闇の中を大空高く舞い上がって雲の中へ隠れてしまった。      七 眼、耳、鼻、口  藍丸王は翌る朝眼を覚ますと直ぐに身支度を済まして、昨日のように紅木大臣と一所にお城の北の先祖の御廟へ参詣をしたが、それから後は昨日のように種々な大仕掛な出来事は無かった。お附の者に連れられて自分の室に帰って、昨日にも倍して結構な朝御飯を済ました。ところがその御飯が済むと、やがて一人の立派な軍人が這入って来て藍丸王に最敬礼を為ながら―― 「紅矢様が御出でになりました」  と云った。そうして王が軽く頷くと間もなく軍人と入れ違って、紅い服に白い靴を穿いた、彼の美紅姫とよく肖た少年がさも嬉しそうに元気よく走り込んで来た。そうして藍丸王と抱き合って挨拶をしたが、紅矢は抱き合った手を離すと直ぐに口を開いた―― 「王様。昨日は私、本当に参りたくて参りたくて堪りませんで御座いましたよ。本当に私は一日王様にお眼にかかりませぬと、淋しくて淋しくて一年も二年も独りで居るような心地が致しますよ。今日はその代り何か面白い遊びを致しましょう。魚釣りに致しましょうか、馬乗りに致しましょうか。それとも山狩りに致しましょうか。私は何でも御供致しますよ」  と凜とした活発な声で熱心に話す顔を見ると、どんな者でも誘い込まれて、一所に遊びたくなりそうである。すると紅矢は不図、昨夜青眼老人が机の傍に置き忘れて行った鸚鵡の空籠を見付けて、驚いて眼を真円にして尋ねた―― 「オヤ。この籠は空では御座いませぬか。あの赤い鳥は逃げたので御座いますか」  王はニコニコ笑いながら点頭いた。 「オヤッ。最早逃げてしまったか。憎い奴め。私がいろんな面白い芸当を教えておきましたのに。そしてどちらへ逃げて参りましたか」  藍丸王は矢張り黙って、昨夜鸚鵡が逃げ出した東の窓を指した。これを見ると紅矢は膝をハタと打って―― 「ああ。解りました。解りました。それでは自分の旧居た山へ帰ったので御座います。何でも私の家来が四五日前に彼の山へ小鳥を捕りに参りました時に一所に網に掛かりましたのだそうで、私もあまり珍しゅう御座いましたから妹に預けておいたので御座います。名前は何と申しますか存じませぬが、何の声でもよく真似る面白い鳥で御座いましたのに惜しい事を為ました。ではこう遊ばしませぬか。今日は山狩りの御供を致しましょう。そうして今一度|彼の鳥を捕えようでは御座いませぬか。何、訳は御座いませぬ。直ぐに捕まえてこの籠に入れられますよ。如何で御座います。そう為様では御座いませぬか」  と熱心に勧めた。そうして藍丸王が軽く点頭くのを見るや否や、気の早い児と見えて直ぐに兵隊に云い付けて狩りの支度をして仕舞った。  弓矢を背負うた四十人の騎馬武者と、角笛を胸に吊した紅矢を後前に従えた藍丸王は白い馬に乗って、華やかな鎧を着た番兵の敬礼を受けながら、悠々とお城の門を出かけたが、流石藍丸国第一の都だけあって、王の通った街々はどこでも賑やかでない処は無く、雲を突き抜く程高い家が隙間もなく立ち並んでいるために、往来は井戸の底のように昼間でも薄暗く、馬や、牛や、犬や、駱駝や、駝鳥だの、鹿だの、その他|種々のものに引かせた様々の形をした車が、行列を立てて歩いて行く。そうして髪毛や、眼色や、顔色が赤や、白や、鳶色や、黒等とそれぞれに違った人々が、各自に好きな仕立ての着物を着て、華やかに飾り立てた店の間を、押し合いへし合して行き違う有様は、まるで春秋の花が一時に河を流れて行くようである。けれども藍丸王の行列が見えると、こんなに繁華な往来が皆一時にピタリと静まって、見る間に途を左右に開いて、馭者は鞭を捧げ畜生は前膝を折り、途行く人々は帽子を取って最敬礼をする。その間を王の行列は静々と通り抜けて、間もなく街外れに来ると、そこから馬を早めて野を横切って、東の方に並んでいる山の中に駈け入った。  この日お供をしている四十人の騎馬武者は、皆紅矢の命令を守って他の鳥|獣には眼もくれずに、只赤い羽根を持って人間の声を出す鳥が居たらばと、そればかり心掛けて、眼を見張り、耳を澄まして行った。中にも紅矢は真先に立って、もしや人間のような鳥の鳴き声がするか、赤い羽根の影が見えはせぬかと、皆と一所に油断なく気を付けて次第に山深く分け入ったが、見ゆるものとては山々の燃え立つような紅葉ばかり。聞こゆるものとては遠くを流るる谷川の音。それさえ折々は途絶え途絶えて、空には雲一つ見えず、地には木の葉一枚動かず、気味の悪い程静かに晴れ渡った日であった。  それでも皆気を落さずに一心になって探し続けたが、やがて正午近くなって、人も馬もとある樫の樹の森に這入って、兵糧を遣いながら一休みしてからは、夕方ここで又会う約束で、四十人が四組にわかれて、四方の山や谷を残る処無く探した。けれども相変らず森閑としていて、眼指す赤い鳥は影も形も見せない。  中にも藍丸王の十人の組は、以前の樫の森から東側へかけて、夕方まで探していたが、最早日が暮れかかってもそれらしい影は愚か、小雀一羽眼に這入らぬから、皆|落胆して疲れ切ってしまって、約束の通り最前の樫の樹の森へ帰ろうとした。  するとこの時不意にどこか遠い処で、鳥のような人間のような奇態な声で歌を唄っているのを十人が一時に聞いた。 「妾はここに居りまする。淋しくここに居りまする。  恋しい御方の御出でをば。御待ち申しておりまする。  青い空には雲が湧く。黒い海には波が立つ。  昔ながらの世の不思議。見たか聞いたか解ったか。  よしや夢でも現でも。妾はここに居りまする。  淋しくここに居りまする。妾の名前は赤鸚鵡」  皆は顔を見合わせて、それっというと俄に元気百倍して駈け出したが、どう為たものか十人が十人共、各自に一人は東、一人は西と違った方に声を聞いて、こっちだこっちだと云いながら、八方に散って行った。  あとに残った藍丸王は、どっちとも解らず、只その声の為る方に迷い迷うて、いつの間にか只ある谷の奥深く、真暗な杉の木立の中へ這入って仕舞った。  その時は最早短い秋の日が暮れて、鳥の声も聞こえなくなっていたが、その代り真暗な杉の森の奥にチラチラと焚火の光りが見えて来た。その火を見ると今まで音なしく王を乗せて来た白馬が驚いたと見えて、急に四足を突張って動かなくなったから、藍丸王は馬から降りて手綱を放り出したまま、つかつかと焚火の側に近寄って来た。  見ると火の傍には四人の不思議な人間が、寝たり座ったりして火にあたっている。右の端に坐っているのは黄色い髪を垂らして、穴の無い笛を吹いている汚いお爺さんで、その次に寝ころんでいるのは絶えず振り子の無い木の鈴を振り立てている、眉毛も髯も無いクリクリ坊主である。  それからその端にうつ伏せに寝ころんでいるのは、瘠せこけて青ざめた、眼ばかり光る顔に、黒い髪毛をバラバラと垂らした女で、手には一冊の字も絵も何も書いて無い、白紙の書物を拡げて読んでいる。そしてその右には赤|膨れに肥った真裸体の赤ん坊が座って、糸も何も張って無い古|月琴を一挺抱えて弾いていた。並大抵の者がこのような処でこんな者を見たならば、身体中の血が凍えて終うかも知れないのであるが、そこは藍丸王は平気な者で、却て珍しそうにニコニコ笑いながらその前へ近寄って、火の上に手を翳した。  すると今まで顔中皺だらけで、どこに眼があるか口があるか解からなかったお爺さんは、藍丸王が側に来て踞んだのを見るや否や、皺の間から大きな皿のような眼と、真赤な口をパッと開いてゲラゲラと笑ったと思うと、それを相図に他の三人は一度に立ち上って、焚火と藍丸王の周囲をグルグルまわりながら、奇妙な舞踊を始めた。先ず瘠せ女が白紙の書物を開いて、奇妙な節を付けて歌を唄いながら踊り初めると、あとから赤ん坊が糸の無い月琴をバタンバタンと掌で叩きながら従いて行く。それにつれてあとの二人は、手に持った道具を振り廻しながら、まるで蟋蟀か海老のように、調子を揃えてはねまわって行った。その歌はこうであった。 「占めた。占めた。旨い。旨い。  王様になる時が来た。  この国取って我儘云うて  楽しみをする時が来た」  俺達は石神様の  大切な四人の家来。  眼と口と。鼻と耳と」  藍丸の国のはじめに  御主人の石神様が  見るもの聞くもの何にも無くて  たった一人の淋しさつらさ  我慢出来ずに吾が身を咀い  天地を咀って死んでしまった」  眼には荒野の石より他に  見るものも無い恨みを籠めて  耳には風音波音ばかり  他には何にも聞かれぬ恨み  鼻には湖の香|埃のかおり  他には何にも嗅がれぬ恨み  舌には話しの相手も無くて  泣くも笑うも只身一ツの  淋しい淋しい怨みを籠めて  あとに残して死んでしまった」  見たい見たいが眼玉の望み――  耳は何でも聞きたい願い――  鼻は何でも嗅ぎたい願い――  舌は何でも話したい――  俺等が主人の石神様の  怨みの籠もった四つの道具」  書物から出た瘠せ女。  笛から湧き出たお爺さん。  月琴から出た裸体の赤児。  鈴から出て来たクリクリ坊主」  四人の家来は石神様の  この世を咀う使わしめ」  坊主の持ってる木の鈴は  王の口をば閉じるため。  女の持ってる書き物は  王の眼玉を潰すため。  赤児の持ってる月琴は  王の鼻をば塞ぐため。  爺の持ってる石笛は  王の耳をば鎖すため。  そうして王を追い出して  四人が代りに王様の  一人の姿に化け込んで  王の威光を振りまわし  勝手な事を為度いため」  面白い。面白い。有難い。有難い。  占めた。占めた。旨い。旨い。  王様に。なる時が来た。  この国とって。我儘云うて  楽しみをする時が来た」  とこんな風に繰り返し繰り返し唄っては踊り、踊っては唄いしていたが、その内に真裸体の赤ん坊が、糸の無い月琴を弾き止めると、皆一時にピタリと踊りを止めて、手に手に持っている道具を藍丸王に渡した。  藍丸王が何気なく、クリクリ坊主から振り子の無い木の鈴を受け取ると、こは如何に、急に唇や舌が痺れて仕舞って声さえ出なくなった。次に瘠せ女から白紙の書物を受け取ると、今度は眼が見えなくなった。赤ん坊から月琴を受け取ると鼻が利かなくなってしまった。爺から笛を受け取るととうとう耳まで聾になって、どっちが西やら東やら、自分がどこに居るのやら、全く解からなくなってしまった。  この体を見た四人の魔者は、又もや嬉しそうに藍丸王の周囲を踊り廻わって―― 「藍丸王はとうとう死んだ。  生きていながら死んで終った。  この世に居ながらこの世に居ない」  面白面白面白い。  俺等の主人の石神様は  眼も見え耳も聞こえていたが  広い荒野のその只中に  見るもの聞くもの何にも無くて  たった一人の淋しさつらさ  堪え切れずに天地を恨み  吾が身を怨んで死んでしまった」  残る怨みのその一念が  眼玉に移って女に化けて  口に残って坊主になって  鼻に移って赤児に化けて  耳に残って爺になって  今はこの世で藍丸王に  昔の主人の淋しさつらさ  思い知らせる時が来た」  花が咲いても紅葉をしても  風が吹いても時雨が来ても  見えもしなけれあ聞こえもしまい。  飢えも渇きもせぬその代り  どんな御馳走貰ったとても  味もわからず香気も為まい」  鞭に打たれて血が浸み出ても  痛くもなければ悲しくもない。  音も香も無い不思議な身体。  この世に居ながらこの世を知らぬ。  夜か昼かは愚かな事よ  我が身の在り家も我が身に知らぬ  世にも淋しい憐れな生命」  世界の初めの石神様が  闇へと生れて闇へと帰る  たった一人の淋しい心  思い知ったか。思い知れ」  と口々に唄って踊っていたが、やがて赤ん坊が一声ギャッと叫ぶと一所に、四人は一度に燃え立つ火の中へ飛び込んで終った……と思う間もなく燃え上る火の中から、一人の少年が髪毛の色から衣服まで藍丸王そっくりの姿で、藍丸王の眼の前に踊り出した。見ると今までの藍丸王はいつの間にか見すぼらしい乞食の白髪小僧の姿に変って終って、緑色の房々した髪の毛も旧来の通り雪のように白くなっていた。  この有様を見た新規の藍丸王は、忽ちカラカラと笑って、直ぐに傍の焚火の中へ右手を突込んで掻きまわしながら、高らかに呪文を唱えた―― 「世界中の何よりも赤い  世界中の何よりも明るい  世界中の何よりも美しい  火の精、血の精、花の精――  その羽子が羽ばたけば  瞬く間に天の涯  すぐに又土の底  一飛びに駈け廻る――  その紅い眼の光りは  夜も昼も同様に  千里万里どこまでも  居ながらに皆わかる――  声という声、音という音  皆聞いて皆真似る――  声の精、言葉の精、歌の精――  赤い鸚鵡出て来い」  と叫びながらその手を火の中から引き出すと、その拳の上には一匹の赤い鳥が乗っかっていた。その赤い鳥は藍丸の王宮から逃げ出して今大勢の兵隊に一日がかり探されている彼の赤鸚鵡と寸分違わなかったが、只その眼玉ばかりは今までと違って、紅玉のように又は火のように、あたりを払って輝やいていた。  それを左の手に据えて、新規の藍丸王はつかつかと白髪小僧に近寄りながら―― 「どうだ、藍丸王。見えたか、聞こえたか、解かったか。ハハハハハ。見えまい、聞こえまい、解かるまい。併し無駄だろうが云って聞かせる。云うまでもなく俺は最前の四人の魔者が化けたのだ。石神の怨みの固まりだ。今まで赤鸚鵡を種々に使って、やっとお前をここまで連れ出して来たのだ。気の毒だがお前の姿は俺が貰った。只|生命だけは助けてやるから、その代り賤しい乞食姿になって、何も見ず、何も聞かず、食べず云わず嗅がずに、世界中をうろ付いておれ。その間に俺は王に化け込んで、勝手|気儘な事を為るのだ。  ああ、東の山に月が出かかったようだ。どれ。そろそろ出かけようか」  と二足三足踏み出したが、又引きかえして来て―― 「待て待て。ここでは顔付きがまるで同じだからどっちが本物か解からない。序にこうしておいてやる」  と云いながら傍に消え残った真赤な燃えさしを取り上げて、ニコニコ笑っている白髪小僧の顔へいきなりぐっと押し付けて、大きな十文字の焼け痕を付けた―― 「ハハハハ。こうしておけば、よもや本当の藍丸王と気付く者はあるまい。おお。馬よ、来い来い」  と招き寄せると、不思議や立ち竦んで石のようになっていた筈の馬が、今は易々と動き出して直ぐに王の傍へ来た。王はそれにヒラリと飛び乗って、赤鸚鵡の眼の光りを便りに、森の外へと駈け出した。あとに残った盲目の唖の白髪小僧は、最前の焼けどは熱くも何ともなかったと見えて、赤く腫れ上って引つった顔のまま、ニコニコ笑いながら四ツの道具を抱えて、どこを当ともなく、この森を彷徨い出た。  話し変って、最前四方にわかれて、赤鸚鵡を探しに行った紅矢や兵隊達は、何も見つからぬ内に日が暮れてしまったので、急いで約束の樫の木の森に来て見ると、今度は他の者は皆揃ったが肝要の王様が居ない。これは大変だと皆一度に馬に飛び乗って、口々に藍丸王様藍丸王様と叫びながら暗い山の中を駈け出すと、その中に南の方の立木の間から、真赤に光る松明が見えて来た。  ところが不思議や四十人の騎馬武者が乗っている馬は、この光りをチラリと見るや否や一度に立ち竦んで一歩も前へ進まなくなった。打っても叩いても動かない。蹴っても煽ってもどうしても、石のように固くなっている。  皆は驚き慌てて、これはどうした事と騒ぎ立てたが、中にも紅矢は吃驚して―― 「皆の者、気を付けよ。あの光りは怪しい光りだぞ。事に依ると魔者かも知れぬぞ。皆馬から降りて終え。弓を持っている者は矢を番えよ。剣を持っている者は鞘を払え。あれあれ。だんだん近付いて来る。皆紅矢に従いて来い。相図をしたらば一時に矢を放して斬りかかれ」  と叫んだ。声に応じて四十人の武者は、一度に馬から飛び降りて、二十人は弓を満月のように引き絞り、あとの二十人は剣を構えて眼の前に近付いて来た光る者にあわや打ちかかろうとした。ところがこの時遅く彼の時早く、紅矢は又もや一声高く―― 「待て。粗相するな。王様だぞ」  と叫んだ。それと一所に、向うから来る者は赤い鳥を左の拳に据えて馬の上でニコニコ笑いながら帰って来る藍丸王だという事がわかって、兵隊共は皆一度に矢を外し剣を納めて、地面の上にひれ伏した。中にも紅矢はホッと一息安心すると一所に、今までと打って変った鸚鵡の眼の光りに驚いて、どういう訳かと怪しんだ。  その時に王は皆の前に馬を停めて、左の拳を高く差し上げながら―― 「皆の者。よく見よ。これが今まで探していた赤鸚鵡という鳥だぞ。今までこの山の神様の使わしめで有ったのだぞ。自分は今まで彼の谷底の杉の森に行って神様にお目にかかって、この鳥がいろいろの不思議な役に立つ事を教えてもらっていたのだ。皆の者、よく見ておけ」  と云いながら鸚鵡に向って―― 「ウウウウ。月が出たぞ」  と云い聞かせると忽ち今までの赤い眩ゆい光りが消え失せて、四方が真暗になった。その代り東の方の林の間には、黄色い大きなお月様が、まんまるくさし昇っていた。  皆の者は夢に夢見る心地がして、互にその不思議な術を驚き合いながら、この時やっと動くようになった馬に乗って、王の後に従って、月の光りを便りに王宮へ帰って行った。      八 象牙の机  贋せ藍丸王は狩場から宮中へ帰って、晩の御飯を済ますと直ぐに、家来に云い付けて、自分の室に新しい椅子を四ツ運ばせて、象牙の机の周囲に並べさせた。それからお傍の者を遠ざけて自分独りになると、入り口の扉を固く閉めて、閂を入れて、真暗になった中で一声高く―― 「鸚鵡。鸚鵡。赤鸚鵡」  と叫んだ。  その声の終るか終らぬに、忽ち室の隅から真赤な光りが輝き出して、赤鸚鵡はさも嬉しそうに羽ばたきをしながら、室の真中の机の上に来たが、その眼の光りで室の中を見るとこは如何に……。今までこの室には藍丸王唯一人しか居なかった筈なのに、今見ると最前の森の中に居た四人の化け物――爺と、女と、赤ん坊とクリクリ坊主とが、四ツの椅子に向い合って、ちゃんと腰を掛けていた。  その中でお爺さんが真先に皺枯れ声で口を利いた―― 「どうだ、赤鸚鵡、嬉しいか。嬉しいか。いよいよこの国は俺達のものになった。これから何でも見たい、聞きたい、話したい、嗅ぎたい放題だ。ところでこれからどうすれば、この国に大騒動を起させて、珍しい事や面白い事に出会す事が出来るか。赤鸚鵡よ、考えてくれ。お前は今の事ばかりでなく、行く末の事までも少しも間違わずに考える事が出来るのだから。先ず俺は石神の耳から現われたのだから、何でもかんでも聞くのが役目だ。何卒面白い話を沢山聞かせてくれい」  と云った。するとその横に座っていた青い瘠せ女は直ぐにその言葉を打ち消した―― 「イヤ。妾は石神の眼から生れたもので、何でもかでも見るのが役目です。何卒早く面白いものが見たい。赤鸚鵡よ、早く面白い珍らしいものを見せておくれ」  瘠せ女がこう云い切ってしまわぬうちに、今度は向側に居た、赤膨れの赤ん坊が甲走った声で―― 「否だ。否だ。イケナイイケナイ。私から先だ私から先だ。私は美い香気が嗅ぎたい。花だの香木だのの芳香が嗅ぎたい。早く早く」  と叫んだ。すると直ぐ横に居たクリクリ坊主も負けていず、頓狂な声で―― 「ドッコイ待った。俺が先だ。石神の舌から生れた俺こそ、真っ先に美味いものを頂戴せねば相成らぬ」  と云い張った。四人はこうして暫く睨み合いの姿で黙っていたが、赤鸚鵡はこの様子を見て奇妙な声を出して、ケラケラと笑いながら云った―― 「耳の王。眼の王。鼻の王。舌の王。よく御聞きなされよ。よく御味いなされよ。どなたが先という事はない。どなたが後という事もない。  皆様|一同にアッと御驚き遊ばすものを近い内に御覧に入れます。  貴方がたはこの世界の初め、石神の身体から出た三つの宝物、白銀の鏡と宝石の蛇と私の役目をお忘れになりましたか。  私は生れ付いて知っている魔法で以て、世界中の事を見たり聞いたりしまして王様方にお話し申すのが役目で御座います。又兄弟の白銀の鏡は、そんな面白い有様を王様に御目にかけるのが役目で、それから宝蛇奴は、そんな面白い出来事の初まるようにするのが役目で御座います。  今白銀の鏡と宝蛇は、南の国の多留美という湖の底に沈んでおりますが、その中で宝蛇は、貴方方四人が一人の藍丸国王となって、初めてこの国に御出で遊ばしたその最初の御慰みに、世にも美しい怜悧な、それこそ王様が吃驚遊ばすような御妃を一人、御話し相手として差し上げたいと思いまして、私に探してくれと頼みましたので御座います」  これを聞くと坊さんは横手を打って感心をした―― 「成る程、これはよい思い付きであった。わし等の主人の石神様が初めてこの世にお出で遊ばした時に、第一番に御困り遊ばしたのは、一人も話し相手の無い事であった。もしも彼の時一人でも御話し相手があったならば、あんなに淋しがりは遊ばさなかったであろう。してその妃は見つかったか」 「はい、三人見つかりました」 「してその名は何と云うのだえ」 「年は幾つだ」  とあとの三人が畳みかけて尋ねた。 「はい。第一番に見つけましたのは、紅木大臣の姉娘で、紅矢の妹の濃紅姫と申しまして、年は十六。温柔しい静かな娘で御座います。この娘はこの間|真実の藍丸王様が御妃に遊ばす御約束を、兄の紅矢と遊ばしたので御座いますが、もし王様がこの娘を御妃に遊ばしたならば、この国はいつでも泰平で、王様はこの世の果までも、御位に御出で遊ばす事が出来るで御座いましょう」 「何だ、その濃紅姫を妃にすると、この国はいつも静かに治まるというのか。イヤ、そんな静かな温柔しい娘では、話し相手にしても嘸面白くない退屈な事であろう。俺達はそんな女は嫌いだ。それにこの国がいつまでも静かでは詰らぬ。何でも何か大騒動が起って、珍らしい事や危ない事や不思議な事が、引っ切りなしに始まらなくては駄目だ」  とお爺さんは頭からはね付けてしまった。  これを聞くと赤鸚鵡は、さも困ったらしく首を傾げて黙り込んでしまった。そうして暫くの間何か考えている様子だから、四人の者は待ち遠しくなって―― 「これ赤鸚鵡。それではあとの二人の娘はどんな女だ」 「早く聞かせておくれな」 「どこに居るの」 「何を為ているのか」  と口を揃えて尋ねた。  赤鸚鵡はこう急き立てられると仕方なしに答えた―― 「はい。それでは申し上げますが、あとの二人は二人共、この世に又とない賢い美しい娘で、一人は紅木大臣の末娘|美紅と申し、今一人は南の国に在る多留美という湖の傍に住む藻取という漁師の娘で、名を美留藻と申します。けれどもその二人の内どちらが王様の妃になるかという事が私にわかりませぬ。それで考えているので御座います」 「何……どちらか解からぬ」 「はい。その二人は、どちらも顔付きから智恵や学問や背恰好、髪の毛の数まで、一分一厘違わぬので御座います。で御座いますから、どちらが王様の御妃になる運を持っておる女なのか、今では全く区別がつかないので御座います」 「フーム。ではしまいになればわかるのか」 「ハイ。けれども王様の御命の尽きる迄はわからずにおしまいになるだろうと思います。何故かと申しますと、もし藍丸王様がその娘のどちらかわかりませぬが御妃にお迎い遊ばすと、どうしても王様の御命は来年中に、丁度その御妃の素性がおわかりになる少し前にお果てになりますし、私や鏡の生命も、それと一所に尽きてしまうからで御座います。その代りその間は毎日毎日不思議な話や珍らしい物語の詰め切りで、濃紅姫と千年御一所に御暮し遊ばすよりもずっと面白う御座います」 「ふむ。それは成る程面白かろう。けれどもその面白い出来事の根本になるその妃の素性がはっきりわからないではつまらないではないか。折角、今この世に王となって現われて面白い事を見聞きしながら、その事の起りがわからないというのは何にしても残念な事だ。折角の面白い事も楽しみが半分になってしまうであろう。これ、赤鸚鵡。どうかしてその妃の素性だけを知る事は出来ないか。美留藻か美紅かどちらかという事がわかる工夫はないか」 「はい。それは当り前から申しますれば到底出来る事では御座いませぬが、只一ツここに私が世にも不思議な魔法を心得ておりまする。  その魔法を使う事を御許し下されますれば、王様がこの世を御去り遊ばして後の事までもはっきりとおわかりになる事が出来るので御座います。そうすれば王様のお妃が美留藻か美紅かという事もやがておわかりになる事と思います」 「何、俺達がこの世を去っても。それは可笑しい話ではないか。俺達がこの世を去れば又|旧の森に帰ってこの眼を閉じ、この耳を塞いで、この鼻から呼吸を為ずにしっかりと口を閉じて、じっと焚火にあたっていなければならぬではないか。何も見る事も聞く事も出来ないではないか」 「イエイエ。それが出来るので御座います。私もまたこの世では殺されながら、この世の事を詳しく見たり聞いたりして王様に御伝え申し上げる事が出来るので御座います」 「何だ。それではお前も俺達も生きているのと同じ事ではないか」 「はい。死にながら生きているので御座います」 「フム。それは不思議な魔法だ。してその魔法というのはどんな事を為るのだ」 「私が今から行く末の事をすっかり考えてお話し致すので御座います。皆様が眼を瞑ってそのお話しを聞いておいで遊ばせば、本当に御自分がその場においでになってその事を見たり聞いたりしておいで遊ばすのと同じ事で御座います」  これを聞くと四人は手を拍って感心を為た―― 「成る程、それは巧い法だ。お前がたった今の事からずっと後の事まで考えて、それをすっかりここで話す。それを俺達が聞いていれば、どんな恐ろしい危い事でも安心して面白がっておられる。そんな危なっかしい妃を迎えて生命を堕すような事があっても、根がお話しだからちっとも差し支えはない。その後の後の事までもすっかりわかる。妃の素性もわかるに違いない。成程、返す返すもよい工夫だ。では今から直ぐに話してくれ。四人一所に聞いていようから」 「一体これからどんな事が始まるのか」 「嬉しい事か。悲しい事か」 「楽しい事か。恐ろしい事か」 「早くその魔法を使ってくれ」 「待ち遠しくて堪らない」  と四人は口を揃えて頼んだ。  けれども赤鸚鵡は暫くは話しを初めなかった。じっと耳を澄まし眼を光らし、遠くの後の事を考えている様子であったが、やがて羽根づくろいをして静かに奇妙な声で話を初めた。    第二篇 水底の鏡      九 湖の秘密  この藍丸国は四つの国にわかれておりまして、東の方を日見足国といい、西の国を夜見足国といい、北を加美足国といい、南の方を宇美足国といって、それぞれその国の名を名前にした王様が治めているので御座いますが、藍丸王はその四人の王の上の王様で、四ツの国を合わせて一つの藍丸国と称えているので御座いました。  又藍丸国の北と西は、涯しない沙原で囲まれていて、南と東側はどこまでも続いた海になっていますが、中にも南の宇美足国には湖や河が沢山あって、商売の盛んな処で御座います。その湖のうちで一番広い、多留美という湖の傍に住んでいる漁師で、名を藻取という爺さんがおりました。お神さんと小供二人を早く亡くして、今では末の一人娘の美留藻というのが大きくなるのを、何よりの楽しみにして仕事に精を出していましたが、美留藻は実に美しい娘で、その上に村一番の水潜りの名人だと近郷近在の評判になっておりました。そうして誰がその婿になるだろうと、方々で種々噂をしていましたが、やがて美留藻が年頃になると、その噂は一ツになって、隣り村の宇潮という漁師の二番目の息子で、これは水潜りも上手だが、取りわけて横笛が名人で、お母さんの身体の中から鉄の横笛を握って生れて来たという評判の、香潮という若者が、一番似合った婿であろうという事に定まりました。  この噂はすぐに本当になりました。両方の間に或る世話好きの男が這入りまして、相談をしますと、両方の両親も、本人同志も喜んで、承知をして、はや今年の秋の末には、婚礼をするという事に定まりました。  両方の親達や親類や又は香潮や美留藻の喜びは申すまでもありませぬ。村同志の人々も皆その婚礼の日が来るのを楽しみにして今か今かと待ちかねていましたが、最早その日まで三週間しかないという時になって、大変な御布告が藍丸王の御言葉だといってこの湖の岸に伝わりました。その御布告はこうでした。 「王様はこの頃世に珍らしい赤い鸚鵡という鳥をお捕えになった。その鸚鵡という鳥の話で、この多留美の湖の底に白銀で出来た大きな鏡という宝物が沈んでいるという事が解かった。その鏡というものは自由自在に人の姿を写し取るもので、大昔世界の初めに出来た石の神様の胸から現われ出たものだが、今度王様が是非その鏡が御入り用だと仰せ出された。だからこの湖の縁に住む者のうち誰でも、水潜りの上手な者が水底の鏡を取って差し上げねばならぬ。その鏡は湖の真中の一番深い処に沈んでいるのだから素より並大抵の者では取れぬが、併し首尾よくこの役目をつとめて水底の鏡を取って来たものには、男ならば金の舟、女ならば銀の舟を一|艘御褒美に下さるとの事だ。誰でもよい、王様のためにこの鏡を取りに行く者は無いか」  この御布告を、美留藻と香潮が住んでいる村の間の、丁度中程に在る魚市場で、役人が大勢の人々を集めて申し渡した時に真先に―― 「それは妾が取って参りましょう」  と願い出たものは誰あろう、水潜りにかけては村一番と評判の美留藻でした。そうしてそれと一緒に、美留藻の許嫁の香潮も美留藻と共々に鏡を取りに行きたいと申し出ました。  これを聞いた役人は躍り上らんばかりに喜んで、今までこの湖のふちをぐるりと布告てまわったが、まだ二人のような勇ましい青年と少女は一人も居なかったと賞め千切りましたが、とにかくそれでは今から直ぐに支度をして、明日にも取りに行くようにと申し渡して、やがて都の方へ帰りました。村の者の喜びも一通りではありませぬ。何しろこの大きな湖のふちで、この二ツの村より他にこの大役を引き受ける処が無く、しかもその引き受けた者は、村第一の立派な青年と、村第一の美しい少女ですから、皆は最早自分達が取りに行くよりもずっと勢い付いて、直ぐに支度に取りかかりました。その中でも美留藻のお父さんは取りわけ大威張りで―― 「どうだ。俺の娘と婿殿を見ろ。えらいもんだ。二人で行けばどんな深い海に沈んだ者でも、直ぐに見つけるに違いない。又どんな恐ろしい魚が来ても大丈夫だ。二人共魚よりよく泳ぐのだから。ああ嬉しい。俺の娘と婿を見ろ。豪いもんだ。豪いもんだ」  と無性に喜び狂うておりました。  村人は先ず沢山の湯を沸かして、二人の身体を浄めました。それから髪を解かして、身体と一所に新らしい布で包みました。そして新らしく作った喰べものを喰べさせて、新規に作った布団の中に、静かに二人を寝かしました。そうして翌る朝、まだ太陽の出ないうちに種々の準備をすっかり整えまして、一ツの船には布で巻いた二人の潜り手、それからもう一ツの船には長い綱を積み、それから村中有り限りの船を皆、沢山の赤や青の藻で飾り立てまして、陸の方から吹く朝風に一度に颯と帆を揚げますと、湧き起る喊の声と一緒に舳を揃えて、沖の方へと乗り出しました。  折柄風は追手になり波は無し、舟は矢のように迅く湖の上を辷りましたから、間もなく陸は見えなくなって、正午頃には最早十七八|里、丁度湖の真中程まで参りました。そこで皆帆を巻き下して、船と船とをすっかり固く繋ぎ合わして、どんな暴風雨が来ても引っくり返らないようにして、二人の潜り手が乗っている船と、綱を積んでいる船とを真中に取り囲みました。この時二人は身体に巻いてあった布を取って、各自に綱を一本|宛身体に結び付けますと、船の両側から一時に、水煙を高く揚げて、真青な波の底に沈みました。  その中で美留藻は香潮よりも余程水潜りが上手だったと見えまして、香潮よりもずっと先に水を蹴って、銀色の泡を湧かしながら、底深く沈んで行きましたが、沈むにつれて四周が次第に暗くなって、今まで泳いでいた魚は一匹も見えず、その代り今まで見た事もない、身体中口ばかりの魚だの、眼玉に尻尾を生やしたような魚だのが泳いでいます。しまいにはとうとう真暗闇になってしまって、遠くから蛍の火のように光る者が見えて来て、だんだんはっきりと傍へ寄るのを見ますと、人間の頭や、鳥の足や、狼の尻尾のような種々の形をした魚で、それが方々で青い提灯のように光ったり消えたりしまして、何だか様子が物凄くなって来ました。美留藻は恐ろしさの余り、よっぽど引き帰そうかと思いましたが、又考え直しまして―― 「こんなに気が弱くては仕方がない。妾はこの間の夢が本当か嘘か、たしかめに来たのではないか。わざわざお役人様に願って、彼の石神の胸から出た鏡が、本当にあるのか無いのか、見に来たのではないか。もし鏡が本当にこの湖の底にあって、その上に彼の石神の歌の通り、宝蛇が見付かれば、いよいよこの間の夢は本当の夢で、妾は夢の中の美留女姫の生れ変りで、行く末は女王になれるのではないか。  そうしてあの面白い、石神の話しの続きがわかるのではないか。このまま止めて引っ返しては何にもならない。妾は矢張り旧の漁師の娘になって、面白い事、楽しい事は一ツも見る事も聞く事も出来なくなるではないか。妾は死んでも引き返す事は出来ない。そしてもし妾が女王になるならば、ここで魚に喰われるような事はあるまい。もし女王になれないのならば、一層の事喰われて死んでしまった方がいい。何でも彼でも運だめしだから、このまま行けるだけ行って見よう」  と勇気を奮い起こしてなおも底深く沈み入りました。すると又あたりの様子が変って来て、何の影も見えなくなり、水は死んだ人の肌のように冷たく、静かに、動かなくなりましたから、その恐ろしさ、気味の悪さ。却て最前の怖い形をした魚が居た方が、余程淋しくなくていいと思った位でした。  けれどもその中にそこも通り越したと見えまして、はるかの底に、何か美しく光るものが見えて来ましたから、嗚呼嬉しい、あれこそ鏡の置いて在る処に違いないと、なおも水を掻き分けて潜って行きますと、やがてそこら中が眼の醒める程美しく、明るくなって来ました。見ると湖の底の深い、透き通った緑色の水の中に、滑らかな光沢を持った藻が、様々の色の花を着けて茂り合っていて、その間を眩しい光りを放つ魚が、金色銀色の泡を湧かしながら、右往左往にヒラヒラと泳ぎまわり、中には不思議そうに眼玉を動かしながら、美留藻の顔を覗きに来たり、または仲よさそうに身体をすり付けて行くのもあります。  その中に湖の底と見えて、沢山の宝石が一面に敷き並んで、色々の清らかな光りを放っている処へ来ました。  何しろ美留藻は生れて初めて、こんな不思議な美しい処へ来たのですから、感心のあまり暫くは夢のように、恍惚と見とれていましたが、又鏡の事を思い出しまして、斯様な美しい処に隠して在る鏡というものは、どんな美しい不思議な宝物であろう。早く見付けたいものだ、と思いながら、又もや長い深い藻を掻き分け、魚を追い散らして、宝石の上を進んで行きますと、間もなく向うの一際美しい藻の林の間に、チラリと人間の影が見えました。扨は香潮さんが最早来ているのかと思いまして、急いでその方へ足を向けますと、向うでも気が付いたと見えて、この方へ急いで来る様子です。その中にだんだん近寄って参りますと、香潮と思ったのは間違いで、彼の夢の中で見た美留女姫に寸分違わぬ、凄い程美しいお姫様がたった一人、静かに歩いて来るのでした。美留藻は今更にその美しさに驚いて思わず立ち止まりますと、向うも美留藻の姿を見付けて、驚いたような顔をして歩みを止めました。美留藻はこれは屹度夢の中の美留女姫が現われて、妾に鏡の在り所を教えにお出でになったに違いない。そうして妾は矢っ張り旧来の通りの美留藻で、お姫様でも何でもなかったのだと思いまして、あまりの恥かしさに顔を手で隠しますと、先方でも顔に手を当てました。自分の真似をされて、美留藻はいよいよ恥かしくなって、宝石の上にペタリと座りますと、先方も亦ペタリと座ります。オヤと思いながら立ち上って向うを見ますと、向うも矢張り立ち上ってこの方を見ていました。試しに両手を動かして見ますと、向うでも動かします。足を踏みますと先方も踏みます。  扨はと思って近寄って見ますと、これが紛れもない白銀の鏡で、今まで美留女姫と思ったのは自分の姿が向うに映っているのでした。  美留藻は驚いた余りに、我れを忘れて、あっと叫ぼうとしましたが、その拍子に冷たい水が口の中に這入りましたので、又やっと自分が湖の底に居るのに気が付きました。そうして手足をぶるぶると震わせながら、眼の前の不思議に見惚れて、恍惚としてしまいました。美留藻は今まで賤しい漁師の娘で、自分の姿なぞを構った事は一度も無く、殊にこの国では昔から、鏡というものを見た者も聞いた者も無く、つまり自分の姿を見たのはこれが初めてでしたから、驚いたのも無理はありませぬ。  扨はこれが妾の姿か。妾は矢張り美留女姫であったのか。妾はこんなに美しかったのか。こんなに気高い女であったのか。漁師の娘なぞというさえ勿体ない。女王と云った方がずっとよく似合っているこの美しさ、気高さ、優しさ。まあ、何という艶やかさであろう。そうして妾は矢張り彼の夢の中の書物で見た通りに、女王になるのであったかと思うと、最早嬉しいのか恐ろしいのか解からずに、そのまま気が遠くなりまして、宝石の上に座り込んで、一生懸命気を押し鎮めました。  扨やっと気が落ち付いてから、又もや鏡の傍へ差し寄って、つくづくと自分の姿に見とれましたが、見れば見る程美しくて、とてもこの世の人間とは思われませぬ。こんな綺麗な容色を持ちながら、こんな気高い姿でありながら、もし彼の夢を見なければ、彼の低い暗い家の中に住んで、あの泥土を素足で踏んで、彼の腥い魚を掴むのを、自分の一生の仕事に為るところであったのか。姿は美しいとはいえ、又笛は名人とはいえ、どうせ只の漁師の伜の、彼の汚い着物を着た香潮の妻になって、つまらなく暮すのが自分の身の上だったのか。嗚呼、勿体ない。勿体ない。この鏡や宝石を海の底に沈めておくよりも、まだずっと勿体ない事だ。どうかして妾は妾に似合ったずっと気高いお方の処へお嫁に行って、彼の絵の通りに女王になって見たいものだ。藍丸国の天子様の御妃になって、この姿をもっと美しく気高くして、国中の人達に見せびらかしたいものだ。思えばこの鏡は世界中の女の中で、妾が一番最初に自分の姿をうつしたのだから、もしかしたら妾をそういう身分にするためにここに沈んで、妾を待っていたのかもしれぬ。いや、屹度そうなのだ。それに違いない。そうだそうだと、忽ちの内に気が変りました美留藻は、最早女王になった気で腰に結んだ縄も何も解き放して、又もや鏡を覗きながら莞爾と笑ったその美しさ、物凄さ。あたりに輝いていた宝石の光りも、一時に暗くなる程で御座いました。その時に鏡の上からぬらぬらと這い降りて来て、美留藻の髪毛の中に潜り込んだ一匹の小さい蛇がありました。その蛇は身体中宝石で出来ていて、その眼は黄玉の光明を放ち、紅玉の舌をペロペロと出していましたが、この蛇が美留藻の紫色の髪毛の上に、王冠のようにとぐろを巻いて、屹と頭を擡げますと、美留藻は扨こそと胸を躍らせまして、今は彼の石神の物語の赤い鸚鵡と、鏡と、蛇の話しはいよいよ夢でなく本当に在る事で、しかも三ツ共妾が誰よりも先に見付けたのだ。つまりは妾が女王になるその前兆に違いないと思い込んで、嬉しさの余りに立ち上って鏡のまわりを夢中になって躍りまわっていました。      十 生きた骸骨  ところが一方は香潮です。  香潮は美留藻よりも潜るのが下手だったと見えまして、余程美留藻より後れて沈んで行きましたが、その中に香潮も亦、最前美留藻が通ったような恐ろしい処にさしかかりました。すると今度は形の恐ろしいものばかりではありませぬ。鱶だの鮫だのは素より、身体中に刃物を並べた鯱だの、棘の鱗を持った海蛇だのが集って来て、烈しい渦を巻き立てて飛びかかりましたから、香潮は一生懸命になって、拳固で擲り飛ばし、足で蹴散らして、追いつ追われつ底の方へわけ入りましたが、その中にやっとこんな魚の居る処から逃げ出した時には、もう身体がグタグタになって、胸が苦しくて眼が眩んで、死にそうになっていました。けれどもここで引き返しては、村の人々や、両親や、兄弟や、美留藻に対しても極まりが悪いし、第一王様の御命令に背く事になりますから、ここは一番死んでも行かねばならぬと、固く思い詰めまして、夢中で手足を動かして行きました。その苦しさ、切なさ。その苦しみのために香潮の身体は見る見る肉が落ちて、顔は年寄りのように痩せこけてしまいました。そうしてとうとう底まで行きつかぬうちに気が遠くなって、手も足も動かなくなったまま、ずんずん沈んで行きまして、やがて鏡の傍の宝石の上に落ち付きました。  これを見付けた美留藻は、最前ならば驚いて直ぐにも駈け寄って助け上げるところですが、今ははやすっかり気が変っていましたから、そんな事はしませぬ。香潮の顔を一目見ると、あまりの変りように愛想をつかしまして、いよいよこんな鬼のような顔をした者の妻となる事は出来ないと思いました。  そうしてここで香潮に捕まっては、逃げて行く事も出来ぬし、女王になる事も出来ぬ。どうしたらよかろうと鳥渡困りましたが、又気を落ち付けて傍へ寄って見ますと、全く死んだように見えましたから、ほっと一息安心をしまして、何かうなずきながらそっと香潮を抱き上げて、鏡の前に寄せかけました。  それから最前自分が解き棄てた綱の端を見付けて、香潮の身体を鏡にグルグル巻きに縛ってしまいますと、その綱を三度強く引いて、上で待っている人々に引き上げてくれと相図をしましたが、自分はそのまま藻を押し分けて、水底を伝って、どこかへ逃げて行ってしまいました。  美留藻が引いた三度の相図は、舟の上に両方の綱を持って待っていた、藻取の手にはっきりと伝わりました。それっというので選り抜きの力の強い若者が四五人、バラバラと駈け寄って綱に取り付いて、一生懸命引き初めましたが、こは如何に。綱はピンと張り切ったまま、一寸も上へ上がって来ませぬ。これではいかぬと又四五人綱に取り付きましたが、それでも綱は動きませぬ。それではというので今度は船の上に、かねて用意の車を仕掛けて、それに綱を引っかけて二三十人の者が力を揃えて巻き上げにかかりましたら、やっと二三寸|宛綱が上がり初めました。占めたというので気狂いのように勇み立った藻取と宇潮の音頭取りで、皆の者は拍子を揃えて曳や曳やと引きましたが、綱は矢張り二三寸|宛しか上りませぬ。そうして不思議な事には、最早鏡を見付けて、綱を結び付けたら用事は済んでいる筈の香潮も、美留藻も、波の上に影さえ見せませぬ。その中に短い秋の日は、とっぷりと暮れてしまいました。  今まで最早香潮が上がって来るか、最早美留藻が浮き出すかと、一心に海の面を見つめていた親や身内の者共は、最早いよいよ二人共に、死んだものと諦めるより他に、仕方がなくなりました。  二人の両親の歎きは素より、村の者共の悲しみと驚ろきは一通りではありませんでした。いくら水潜りが上手でも、こんなに長い事水の底に居て生きておられる道理はありません。  けれどももしや船と船との間に、浮かみ上っているのではあるまいか。又はもしや悪い魚に喰われたとしても、せめて髪毛位浮き上がりそうなものだ。いや、死んでいないから浮き上らないのだ。いや、死んでいても浮き上らないのだろう。  ああかも知れぬ、こうかも知れぬと、吾が事のように皆の者は八釜しく評議を初めましたが、この時宇潮と藻取とはやっと気を取り直して、皆の者に向って異口同音に叫びました―― 「皆の衆、聞いて下さい。私達はもう立派に諦めを付けました。二人の者は水の底で、鏡を見付けて、綱を結び付けて帰って来る途中で、何か悪い魚の餌食になったに違いない。そうでなければ最早疾くに浮き上って来る筈だ。こうと知ったらば、前から刃物の一ツも持たせてやるところだったものを。けれども今は歎いても仕方がない。それよりももっと大切な鏡を引き上げるのが、何より肝要だ。  この鏡は二人の身代りだ。この上もない大切な形見だ。王様のお望みの品だ。さあ御苦労だが皆の衆、元気を出して引いた引いた」  と涙を払って頼みましたから、皆の者も励まされて、疲れた身体を起こして、一所に涙を拭き拭き、又もや綱に取り付きました。  それからその夜は夜通し引きましたが、綱は相変らず二三寸|宛しか上って来ませぬ。とうとうその翌日終日、その翌る晩も夜通し、その又翌る日も終日、入れ代り立ち代り大勢の人々が、オイオイ泣きながらこの綱を引きましたが、やっと三日目の晩方、いよいよ綱が残り少なくなりますと、不思議や今まで雲一ツ見えなかった空が、俄に墨を流したように掻き曇って来まして、忽ち轟々と雷鳴が鳴り初め、風が吹き、雨が降りしきりまして、海の上は何千何万の白馬黒馬が駈けまわるように波が立って、沢山に繋ぎ合わせた船を一時に揉み潰そうとしました。けれども皆の者は、今度はちっとも気を落しませんでした。最早この鏡を取らなければ、香潮と美留藻が死んだ甲斐もなく、王様のお望みも絶えてしまうのだ。死んでもこの鏡を引き上げなければ、第一亡くなった二人に対して済まないと、死に物狂いになって夜半過ぎまで引いていますと、その中に雨も止み風も絶えて、湧き返る波の上の遠くに、電光がするばかりとなりました。  すると間もなく海の上に何か真黒な大きなのが出て来て、舷にドシンと打っつかった様子ですから、ソレッとばかり皆が手を添えて、船の上に引き上げました折柄、又一しきり吹き出した風に忽ち空の黒雲が裂けて、磨ぎ澄ましたような白い月の光りが、颯と輝き落ちて来ましたから、その光りで初めて浮き上ったものの正体を見ますと、皆の者は一度にワッと叫んで飛び退きました。  真黒く、又真白く湧き返る波の飛沫を浴みて、船の上に倒れているものは、見るからに凄い程光る白銀の鏡で、ギラギラ月の光りを照り返しています。そうしてその真中には顔や手足の肉が落ちて、濡れた髪毛をふり乱して、眼を剥き歯を噛み出した生きた骸骨のようなものが、呼吸をぜいぜい切らして、あおむけに寝ているではありませんか。皆の者はその恐ろしさ物凄さに、皆ペタペタと座ったまま、暫くは口も利けず、身体も固くなっていますと、今の怪物はなおも烈しい呼吸を続けて、唇を笛のようにヒューヒューと鳴らしていましたが、やがて片手で身体の綱を解いて、立ち上ってあたりを見まわしまして、皺枯れた声で―― 「美留藻は帰ったか」  と尋ねました。その時その白い歯は、月の光りに輝いて、皆を嘲り笑っているように見えました。  この声を聞くと、今まで腰を抜かしていた藻取|爺と宇潮は、こいつが何でも香潮と美留藻を殺した化物に違いないと思い詰めましたから、急に元気が出て立ち上りまして―― 「これ化物、美留藻も香潮も帰って来ぬぞ」 「大方貴様が喰ったのだろう」  と掴みかからんばかりに睨め付けました。  その声を聞くと又怪物は急に嬉しそうに―― 「オオ。そう云う貴方はお父さん、私はその香潮です。そして美留藻はまだ帰らぬと仰しゃるのですか」  と早や声を震わしています。二人は香潮と聞いてハッと驚きましたが、併しこんな化物が香潮などとは思いも寄りませぬから、異口同音に怒鳴り付けました―― 「馬鹿な事を云うな。香潮は貴様のような化け物ではない」 「そんな事はありませぬ。私は香潮です。私が香潮です」  と云いながら狼狽て宇潮の傍へ走り寄ろうとしましたが、折から又もや雲の間を洩る月の光りに自分の姿がありありと鏡の中へ映りました。その姿をチラリと見ますと、化物は今度は自分の姿に驚いて、キャッと云うとそのまま眼をまわして、又もや湧き立つ大浪小浪の間に真逆様に落ち込んでしまいました。そうしてあとには只|白銀の鏡だけが、ありありと月の光りに輝いて残っておりました。      十一 金銀の舟  香潮は浅ましい姿になって、不思議に生命を長らえまして、一度は人々の前に姿を見せましたが、憐れや化物と間違えられて、そのまま又、湖の波の間に沈んでしまいました。美留藻も最初から湖に沈んだまま姿を見せませぬ。とうとう二人共死んだ事に定まりましたから、人々は泣く泣く船を陸の方へ漕ぎ返しました。二人の形見の鏡を載せて、漕いで行く二人の両親の心地はどんなでしたろう。又|彼の鏡を車に載せて、都へ送る両方の村人の思いはどんなでしたろう。やがて藍丸の都の王様の御殿へ着いて、御殿の大広間で皆が王様にお目通りを許されて、この鏡を取った前後のお話しを申し上げた時、この珍らしい鏡というものを拝見に来ていた、沢山の貴い人々の内で、泣かぬ者は一人もありませんでした。そうして両方の村の人達には、王様から沢山の御褒美を下さるし、又香潮と美留藻の両親には、約束通り金の船と銀の舟を一艘|宛賜わってお帰しになりましたが、二人の親達はもしも今二人が無事に生きていて、この金銀の船を見たならば、どんなにか嬉しかろうと云って歎きました。  藍丸王はこのお目見得が済むと、直ぐに紅木大臣を呼んで二つの事を申し付けました。一ツはこの鏡を自分の居間の壁に掛けて、まわりに美事な飾りを付ける事。それからも一ツは国中に布告を出して、「今度藍丸王様がお妃を御迎え遊ばすに就ては、国中で一番の美しい利口な女を御撰みになる事になった。だから今から一週間の内に、東西南北の四ツの国の中で一番の美しい賢い娘を一人|宛撰り抜いて御殿まで差し出せ。一週間目の朝、藍丸王様が御自身で御撰みになるから」という事を知らせろとの事でした。  第一の命令は、この都で第一の名高い飾職と宝石|商人とが、大勢の弟子を連れて御殿へ参りまして、その日の内に仕上げてしまいました。それから第二の御布告は銅の板に書きまして、馬乗の上手な四人の兵士に渡して、四方の国々の王宮へ即座に出発させました。  藍丸王は鏡の取り付けが出来上るのを待ちかねて、直ぐに只一人、自分の室に這入って、入り口の扉の内側からピタリと掛け金をかけました。それから四方の窓をすっかりと締め切って真暗にしてしまいますと、今まで室の隅の留り木に凝然として留っていた赤鸚鵡は、忽ち真赤な光りを放って飛んで来て、王の頭の上に停まりました。そうしてその眼の光りで水底の鏡の表面を照しますと、鏡の表面は見る見る緑色に曇って来まして、間もなくその中から美紅姫の姿が朦朧と現われましたが、見ると今美紅姫は自分の室に閉じ籠もって、机の上に頬杖を突いて窓の外を見ながら何か恍惚と考えているところでした。この時赤鸚鵡は一声高く叫びました―― 「王様。王様。御覧遊ばせ。  美紅の姿。美紅の姿。  紅木の娘。美紅の姿」  王はこれを聞くと莞爾と笑いまして―― 「ハハア。これが美紅姫か。成る程、これは美しい利口そうな娘だ」  と申しましたが、その中に鏡の中の美紅姫がこの方を向いて、王の顔をじっと見たと思うと、美紅の室も机も着ている着物も消え失せてしまって、あとに残った美紅の姿はそっくりそのまま、海の中の藻の林で、美留藻が鏡を覗いているところになりました。この時赤鸚鵡は又も一声高く叫びました―― 「王様。王様。御覧遊ばせ。  美留藻の姿。美留藻の姿。  藻取の娘。美留藻の姿」  美留藻は鏡の中から王の姿を見て莞爾と笑いましたが、王もこれを見て莞爾と笑いまして―― 「オオ。これが美留藻の姿か。成る程。美紅姫と少しも違わぬわ。してこの美留藻の許嫁となっていた、香潮というのはどんな男であろう」  と身を乗り出しました。すると間もなく美留藻の姿は鏡の表から消え失せまして、今度は醜い、怖ろしい、骸骨のような化物の姿が現われました。そこは丁度鏡を取り上げた船の上の景色で、荒れ狂う波の上には、月の光りが物凄く輝いて、化物の姿を照しておりました。 「何だ。これが美留藻の許嫁の香潮という奴か。何という恐ろしい姿であろう。此奴が今に美留藻が俺の后になった事を知ったならば、嘸俺を怨む事であろう。成程、これは面白い。赤鸚鵡赤鸚鵡、何卒して此奴が死なないように考えて話してくれ。そうして俺に刃向って、大騒動を起すようにしてくれ。こんな珍らしい化物を無残無残と殺しては、面白い話しの種が無くなる。相手に取って不足のない化物だ」  と叫びました。すると赤鸚鵡は静かに答えました―― 「はい、畏まりました。もとより御言葉が無くとも香潮の身の上は今に屹度そうなって参ります」  この言葉の終るか終らぬに又鏡の中の様子が変って、今度は広い往来が見え初めました。その往来の左右はどこかの青物市場と見えまして、大勢の人々が、新らしい野菜や果物を、忙しそうに売ったり、買ったり、運んだりしています。そこへどう迷ったものか、白髪小僧が遣って来ましたが、見るとこの間の通り顔は焼け爛れて、眼も鼻もわからず、身には汚い衣服を着て、鈴や月琴を一纏めにして首にかけ、左手には孔の無い笛を持ち、右手には字の書いてない書物を持っておりました。その姿が珍らしいので、あとから大勢の小供が従いて来て、石や泥を雨のように投げ附けていますが、白髪小僧は痛くも何ともない様子で、平生のようにニコニコ笑いながら、ぼんやり突立って逃げようともせぬ様子です。するとそこへ又一人、手足から顔まで襤褄で包んだ男が出て来まして、白髪小僧の様子を見て気の毒に思いましたものか、小供を四方に追い散らして白髪小僧の傍へ寄って、手を引いてどこかへ連れて行こうとする様子でしたが、その時どうした途端か顔を包んでいた布が取れると、これが彼の半腐れの香潮で、集まっている者は皆その顔付の恐ろしさに、大人も小供も肝を潰して、散り散りに逃げ失せてしまいました。  その間に香潮と白髪小僧が急いでここを立ち去りますと、その後暫くの間は誰一人ここへ出て来るものはありませんでした。  すると不思議にも直ぐに眼の前に並べてある昆布の籠の内の一ツが、独り手にむくむくと動き出して、やがて横に引っくり返りますと、その中から海に飛び込んで行衛知れずになっていた美留藻が、首だけ出しましてじっと周囲の様子を見まわしました。見るとそこ等には誰も居ませんで、直ぐ前の横路地に、香潮の姿を見て逃げ出して行った果物屋の婆さんが、逃げかけに打っ棄って行った灰色の大きなマントと、黒い覆面の付いた茶色の頭巾と、毛皮の手袋と木靴とがありましたから、それを盗んで手早く身に着けて、すっかりお婆さんに化けてしまいました。それから又あたりを見まわして、まだ誰も来ない事がわかりますと、今度は傍にあった果物の籠を抱えて、その中にいろいろの果物を拾い込んで外套の下に隠して、傍に在る金箱に手をかけようとしました。その時にどうしたものか鏡の表が急に暗くなって、何も見えなくなったと思うと、今まで身動きもせずに王の頭の上に留っていた赤鸚鵡が、何に驚いたか急にバタバタと飛び降り、机の下に隠れてしまいました。      十二 三ツの掟  藍丸王はこれを見ると、急に不機嫌な顔になって、椅子から立ち上りました―― 「何だ。何だ。誰かお前の嫌いなものが、扉の外に近づいて来るのか。よしよし。お前はそこに隠れておれ。俺が追い払ってやる」  と云いながら急いで四方の窓を明け放して扉の傍へ来て―― 「誰だ。そこに来ているのは」  と云いながら扉を開きました。  外には黄色い着物を着た青眼が、謹しんで敬礼をして立っていました。 「何だ。お前か。そして何の用事があってここへ来たのか。又この間の鸚鵡の時のように、鏡を乃公から奪いに来たのか。鏡は最早疾くの昔に受け取りの儀式を済まして、居間の壁に取り付けてあるぞ。それとも他に用事でもあるのか。早く云え」  と畳みかけて尋ねました。  青眼は静に顔を挙げて王の顔を見ましたが、忽ちハラハラと涙を流して申しました―― 「嗚呼。王様。御察しの通り、私が参りましたのはその鏡の事に就てで御座います。承れば王様は、私がお止め申し上げるのも御聴き入れ遊ばさず、あの水底の白銀の鏡を御取り寄せ遊ばして、御居間に御据え遊ばしたとの事。まあ、何という恐ろしい事を遊ばすので御座いましょう。  この間申し上げた、この国の古い掟を最早お忘れ遊ばしましたか。 『人の声を盗む者。人の姿を盗む者。人の生き血を盗む者。この三ツは悪魔である。見当り次第に打ち壊せ。打ち殺せ』  只今までこの国に、人の声を盗む鸚鵡という鳥が一匹も居ず、人の姿を盗む鏡というものが一ツも無く、人の生血を盗む蛇というものが一ツも無いのはこの掟があるために人々が……」 「八釜しい。黙れ」  と王は烈しく叱り付けました。 「そのような事は貴様から聞かずとも、疾くに俺は知っている。俺は今までのように、貴様に欺されてばかりはおらぬぞ。貴様は悪魔でもないものを悪魔と云って、俺を馬鹿にしようとしたのだ。この鸚鵡の御蔭で、俺は居ながらに世界中の声を聞き取る事が出来、又この鏡の御蔭で、俺は世界中の出来事をいつでも見る事が出来るのだぞ。この二ツのものがある御蔭で、俺は世界一の賢い者になったのだぞ。それに貴様はこの重宝な宝物を無理に俺から取り上げて、俺を王宮の中に睡むらせて、世界一の馬鹿者にしようとする。貴様はこの国第一の不忠者だぞ。貴様、よく考えて見ろ。何にも知らぬ世界一の馬鹿が王様になっているがいいか。それとも何でも知らぬという事は一ツも無い、世界一の賢い者が王様になっているがいいか。どっちがいいか」 「はい。それは賢こいお方が王様になっておいでになる方が、この国の仕合わせで御座います」 「それ見ろ。それに貴様は何のためにこの俺を、何にも知らぬ馬鹿者にしようとしたのか。何のために鸚鵡や鏡を王宮に入れまいとするのか」 「噫、王様。それは御無理と申すもので御座います。王様はそんな鏡や鸚鵡をお使い遊ばさずとも、旧来から御賢こい有り難い王様でいらせられるので御座います。それにその鏡や鸚鵡が参りましてからは、王様の御眼を眩まし御耳を聾いさせて……」 「黙れ。黙れ。この二ツのものは、今まで一度も俺を欺いた事はないのだぞ。それにこの二ツの物を悪魔だなぞと、無礼者|奴が。何を証拠にこの二つが悪魔だと云うのだ。その証拠を見せろ」 「その証拠は昔から申し伝えて御座りまする、この三ツの掟が何よりの証拠……」 「アハハハハ」  と王は不意に高らかに笑い出しました。そうして意地の悪い眼付で青眼の顔を見つめながら尋ねました―― 「その掟は誰が作ったのだ」 「ハイ。それは私の先祖の矢張り青眼と申す者が、申し残しておるので御座います」 「ウム、そうか。してその先祖はなぜこの三ツのものを悪魔だと定めたのか。この三ツのものを悪魔と定めるには何か深い仔細があるのか。仔細が無くて、只無暗にこのような重宝なものを悪魔だと定めるわけはあるまい。その仔細を云え」  この藍丸王の言葉を聞くと青眼はどうした訳か急に真青になって、唇までも見る見るうちに血の色が失せてしまいました。そうしてそれと一緒に手足をぶるぶると震わせながら、返事も何も出来なくなって、只その青い眼を一層まん丸く見張って、王の顔を見つめておりました。この様子を見ると王は益々|勢込んで青眼の前に一歩進み寄りながら、一層厳格な顔をして睨み付けて申しました―― 「これ、青眼。貴様はなぜ返事を仕ないのだ。なぜその証拠が云われぬのだ。さ、その証拠を云え。その仔細を云え。なぜその三ツの者が悪魔なのだ。なぜこの鏡と鸚鵡が悪魔の片われなのだ。貴様は今まで何一ツとして俺に隠した事はないではないか。云え。云え。その三ツの掟の出来た訳を云え」  と王は如何にも言葉鋭く詰め寄りました。けれども青眼先生は王の勢が烈しくなればなる程縮み上って、ふるえ方が烈しくなって、今は立っている事が出来ず、床の上にペタリと座り込んでしまいました。王はじっとその有様を見ておりましたが、なおも厳そかな口調で責めました―― 「青眼。これ、青眼。貴様はなぜそのように恐れるのだ。なぜそのように顫えるのだ。なぜその仔細を俺に隠すのだ。一体貴様の為る事は俺にはちっとも訳が解からぬぞ。この間のように見もせぬ夢を見たろう等と尋ねたり、又はこのような重宝なものを俺から奪い取って、罪も無い鸚鵡を殺そうとしたり、又は大勢の者が生命を棄てて拾い上げてくれたこの貴い鏡を打ち壊そうとする。俺にとってはこれ位有り難い貴い重宝な宝物は無いのだぞ。それをなぜ貴様はそのように悪むのだ。そうしてその仔細を云えと云えばそのように青くなって顫え上ってしまう。一体どういう訳でそのような妙な事を云ったり為たりするのだ。少しも訳がわからぬではないか。なぜそのように隠すのだ。なぜそのように恐れるのだ。さあ、云え。さあ、返事をしろ。すっかり白状してしまえ」  王はこう云いながら一層鋭く青眼を見つめました。けれども青眼は矢張りその眼を※ったまま返事をしませぬ。じっとその顔を見ていた王は、やがて莞爾と笑って申しました―― 「ハハア、解かった。貴様が隠す訳がわかった。恐れる訳がわかった。隠す筈だ。云えない筈だ。その掟は矢張り嘘の掟だからだ。貴様の先祖から代々貴様までも、根も葉もない作り事をして、俺にこのような貴い有り難い宝物を近づけぬようにして、自分だけ世界一の利口者になろうとしているのだ」 「いえ、決してそんな事は御座いませぬ。悪魔はどうしても悪魔で御座います。何卒何卒王様、私の申す事を……」  と青眼は慌てて口を利きました。 「黙れ。青眼。貴様はどうしても俺を欺そうとする。貴様こそ悪魔だぞ。イヤ悪魔だ。悪魔に違いない。貴様の家は先祖代々云い伝えて、俺のお守役になって、嘘の掟を作って、こんな重宝なものを遠ざけて終いに俺を何にも知らぬ馬鹿者にしようとしたのだ。最早俺は貴様の云う事を聞かぬ。俺はこの鸚鵡から、世界中の事を聞かせてもらった。又この鏡から、世界中の事を見せてもらった。御蔭で大層利口になった。こんな嬉しい事はない。こんな有り難い事はない。今まで俺に何事も知らせまい知らせまいとしていた貴様は、大不忠者だぞ。これ兵隊共、此奴を王宮の外に抓み出せ。以後俺が許す迄は王宮に来る事は相成らぬぞ」  と云いながら扉をドシンと閉めました。  青眼は忽ちむっくと起き上って、今閉まったばかりの扉に取り付いて男泣きに泣き出しました。  青眼は藍丸王のこのように荒々しい、狂気じみた姿を見たのはこれが初めてでした。又このように無慈悲な言葉で、嘲けられ罵しられた事も初めてでした。あまりの事に扉に取り付いて、流るる涙を拭いもあえず―― 「王様。王様。王様は気でもお狂い遊ばしましたか。この間まであのように優しく、あのように気高くておいで遊ばした王様が、どうしてそのようなお情ない浅ましい御心にお変り遊ばしたので御座いましょう。これと申すもあの鏡と鸚鵡、二ツの魔物が、王様の御心を眩ましたからで御座いましょう。何卒、王様。御心を御静め遊ばして私の申す事を御用い遊ばして……」  と喘ぎ喘ぎ口説き立てましたが何にもなりませんでした。扉の中からは何の返事も聞こえず、却て廊下番の兵隊共に引き立てられて、王宮の御門から逐い出されてしまいました。  ところが青眼先生が引っ立てられて行くと間もなく、又もや赤鸚鵡が叫び立てました―― 「あれあれ、王様、今度は紅矢が御目にかかりに来る様子で御座います。今|家から馬に乗りまして、この御殿の方へ出かけるところで御座います。  只今紅矢が参りますのは他の事でも御座いませぬ。紅矢はずっと以前に旧の藍丸王から、自分の第一番目の妹|濃紅姫をお后に差し上げるよう、固い御言葉を受けておりまして、まだ家の者には話しませぬが、兄妹共はそれを楽しみに致しておったので御座います。ところが紅矢はこの間から父の用事で、北の加美足国へ参いっておりましたが、今日帰って参りますと、今朝王様があのような御布告をお出し遊ばして、他の国々からお后をお選みになるという事を聞いて、妹思いの事で御座いますから、夢かとばかり驚きまして、直ぐに王様の御布告が本当かどうか伺いに参いるので御座います。今紅矢は廊下の番兵にお取次を頼みました。御聞き遊ばせ」  と云いも了らぬうちに兵士の声が扉の外から―― 「紅矢様の御出でで御座います」  と高らかに聞こえました。  王は直ぐに返事をしました―― 「まだ誰もこの室に這入る事は相成らぬ。用事があるなら後に来い」  この言葉を扉の外で聞いていた紅矢は、全く夢に夢見る心地がしました。紅矢も青眼先生と同じように、王様からこのような荒々しい、菅無い言葉を受けたのは、これが初めてでした。それでなくても濃紅姫の事を思うて、胸が一パイになっていた紅矢は思わず扉に取り付いて叫びました―― 「王様。王様。王様は如何遊ばしたので御座いますか。どうしてそのようなお情ない事を仰せられますか。紅矢で御座います。紅矢で御座います。何卒一度だけ御眼にかからせて下さいまし。私の妹の濃紅の事で、是非申し上げなければならぬ事が御座いますから」 「濃紅がどうしたというのだ」 「エエッ。最早王様は御忘れ遊ばしましたか。彼の御約束を御忘れ遊ばしましたか」 「忘れはせぬ。けれども約束を守るなぞという事は大嫌いになった。昨日の王と今日の王は別人だ。そんな約束を守らなくともよい。もしその濃紅姫とやらを后に為たいと思うならば、最前国中に布告さした通りに、今日から一週間の後に、国々の女と一所に宮中へ差し出せ。もし気に入ったら后にしてやる。帰ってその事を妹に知らして、支度をさせておけ。間違うと許さぬぞ。その他に用事は無い。帰れ」  と世にも無法な言葉です。紅矢は今日まで、両親よりも、妹共よりも、誰よりも慕わしく懐かしく、天にも地にも二人と無い、慈悲深い気高い王様と思い込んでいたのに、今は鬼よりも無慈悲な、獣よりも賤しい御心になられて、その声までも虎のように荒々しくなられた事が解かりました。その上に今まで、何よりも楽しみにしていた濃紅姫の事を、王は自分で約束しながら、自分で破って、あられもない国々の賤しい女共と一所に、一週間の後に御目見得に出せとは、まあ何という浅ましい仰せであろうと、余りの悲しさ情なさに紅矢は前後を忘れてしまって、泣くにも泣かれず、只狂気のように頭の毛を掻きむしりながら、驀然に王宮を駈け出ました。      十三 名馬の蹄音  紅矢が王宮を駈け出ますと、直ぐに王は又鏡に向って、最前の美留藻がお婆さんに化けた後の有様を見せろと命じました。けれどもまだ鏡に何も映らぬ前に、王は不意に恐ろしい物音を聞きつけて叫びました―― 「あれ。あの音は何だ。雷の響か。霰の音か。否々。馬の蹄の音だ。何という高い蹄の音であろう。何という疾い馬であろう。あれ、王宮の周囲を街伝いに、もう一度廻ってしまった。あの馬の騎り手はこの夜更けに何のためにこの王宮のまわりを駈けめぐるのであろう。あんな疾い馬がこの世に在るか知らん。騎り人は俺の知らぬ魔者ではないか知らん。あれ、最早二度まわってしまった。今度は三度目だ。これ、白銀の鏡。赤鸚鵡。美留藻の行衛は最早見なくともよい。それよりも早くあの馬と、その騎り人を見せてくれ。あれ、もう三度まわった。疾い疾い。何者だ。何者だ」  と呼吸は機ませて尋ねました。この言葉の終らぬうちに、早くも赤鸚鵡の眼から電光のように光りがさして、鏡の表面が颯と緑色に曇って来ました。そうして又ギラリと晴れ渡ったと思うと、一人の騎馬の少年の姿が現われました。それは最前王宮を出て行った紅矢でした。  紅矢は今まで親よりも敬って、兄弟よりも親しく思っていた藍丸王が、まるで鬼よりも無慈悲な心になり、虎よりも荒々しい声に変って、その上に今は又、自分の妹の事を露程も思って下さらない事がわかりますと、あまりの事に驚き悲しんで狂気のようになって王宮を駈け出ると直ぐ、そこに繋いでおいたこの国第一の名馬「瞬」というのに飛び乗って、手綱を執るが早いか馬の横腹を拍車で千切れる程蹴り付けました。すると今まで只の一度も鞭の影さえ見せられた事のない「瞬」は、思いがけない主人の乱暴な乗り方に驚いて、これも夢中になってしまいまして、ヒーンと一声|棹立ちになったと思うと、そのまま一足飛びに駈け出しました。  けれども紅矢は「瞬」がどんなに驚いて、どんなに疾く駈けているのか気が付きませんでした。只最前の王の荒々しい言葉や声が、まだ聞こえるように思い、又家に帰ってこの事を濃紅姫に話す時の濃紅姫の顔が、今眼に見えるように思って、胸の内は掻き※られるようでした。そうしてこのままこの馬と一所に高い崖からでも落ちて死ねばいいと思いながら、両手を手綱から放して、頭の毛を掻き掴んで、星の光りの冴え渡った空を仰ぎながら、馬の横腹を蹴立て蹴立てて、人通りの無くなった都の街を、滅茶苦茶に走らせました。  すると馬は益々驚き慌てまして、白泡を噛み立髪を逆立てながら、足を空に揚げて王宮の周囲を瞬く間に六七遍ぐるぐるとまわりましたが、七遍目に王城の前の広い通りへ出ますと、そのまま南の宇美足国へ通う街道を一散に駈け下りました。  紅矢は馬が走れば走る程、気持ちがだんだん晴々して来るようですから、なおも構わずに走らせていますと、その中に夜が明け離れて、向うに遠く白く光るものが見えて来ました。これは一つの湖で、大層大きい様子ですから、紅矢ははじめて馬を控えて通りがかりのお婆さんに―― 「お婆さん。あの湖は何という湖ですか」  と尋ねました。そのお婆さんは頭巾と覆面で顔をすっかり隠して、片手に短い杖を突き片手に重たい果物の籠を提げて、さも疲れたらしくよぼよぼと歩いていましたが、今紅矢からこう尋ねられると、立ち停まりながらやっとこさと腰を延ばしまして―― 「はい。あれは多留美という湖で御座います」  と教えました。紅矢は思いの外に遠くに来ているのに驚きまして―― 「何。あれが多留美という湖かい。これは驚いた。では南の国の都も最早遠くないんだ。それではそろそろ引き返そうか」  と馬の首を引き廻しましたが、又|不図このお婆さんが如何にも疲れているのに気が付きまして―― 「お婆さんはどこへ行くのですか」  と尋ねました。そのお婆さんは覆面の下から、しきりに紅矢の様子を見ている様子でしたが、この時さも弱り切ったように溜息をしまして、自分はあの多留美の湖の片傍りに住んでいる者だが、近い内に王様がお后を御迎え遊ばすという事を聞いたから、そのお祝いに自分の家の庭の樹に生った果物を籠に入れて差し上げに行くのだと答えました。これを聞くと紅矢は濃紅姫の事を思い出して、嗚呼これをもし自分の妹が受け取るのだったら、どんなにか嬉しい事だろうと胸が一杯になりました。併し今このお婆さんの忠義な心掛けにも大層感心をしまして、いよいよその疲れているのが気の毒になりまして、それでは自分も都からここまで散歩に来たもので、今から引きかえすのだから丁度いい、一所に馬に乗せて宿屋の在る処まで連れて行って上げようと勧めました。お婆さんは頻りに遠慮をしました。けれどもとうとう紅矢の親切な言葉を断り切れず、鞍の前輪に乗せられて都の方へ連れて行かれました。  紅矢はお婆さんが眼をまわすといけないと思いまして、わざとそろそろ馬を歩かせましたが、このお婆さんは中々話し上手で、紅矢の顔色の悪いのを見て、いろいろ親切に尋ねましたから、紅矢もうっかり釣り込まれまして、自分の心配の種の濃紅姫の事や、王様の御気性が荒々しくならせられた事、それからあまりの事に驚いて何が何やら解からなくなって、夢中に王宮を飛び出して、無茶苦茶に街中を駈けめぐって、夜通しの裡にここまで来た事、又この馬はこの国第一の名馬で瞬く間に千里走るという評判があるから、名を「瞬」と付けてある事等を、詳しく話して聞かせました。お婆さんは聞く事|毎に感心をして、紅矢が天子様の御言葉に少しも反かなかった心掛けを無暗に賞め千切りましたが、なおその上にも紅矢の家や、王宮の中の模様を根ほり葉掘り尋ねましたから、紅矢は少し気味が悪くなりまして、終いには極く短い返事ばかりしていました。けれどもお婆さんは中々止めませぬ。  やがてさも勿体らしく、咳払いを一つしまして―― 「紅矢様。よく教えて下さいました。御蔭で妾は貴方様の御宅の様子や、王宮の中の様子がよくわかりました。けれどもそれと一所に、妾は世にも恐ろしい災が、貴方のお身体や、貴方の御家にふりかかっている事を知りまして、どうしたらよいかと思っております」 「何。災が降りかかっている」  と紅矢は思わず釣り込まれて尋ねました。 「お婆さん、それは本当かえ」 「ハイ。何をお隠し申しましょう。妾は南の国で名高い女の占者で、今年で丁度八百八十歳になりますが、まだ一度も嘘を云った事は御座いませぬ。今ここに持っておりまする果物も、その占いに使うための不思議な果物で、今度王様が御妃を御迎え遊ばすに就いて、この世で一番賢い美しい姫君をお撰みになるように、この果物を差し上げに行くので御座います。この果物がどんな不思議な働を致しますかという事は、直きに貴方にもお目にかける事が出来ましょう。そうしたら貴方もこの婆の申し上げる事が、嘘でないと思し召すで御座いましょう」  と申しました。  この婆さんの落ち付いた話ぶりには、流石の紅矢もすっかり引き込まれてしまいました―― 「何。それは本当かえ。私の家にはそんな恐ろしい災が降りかかろうとしているのかえ。どうしてそれがわかるの、お婆さん。教えておくれ」  と急き込んで尋ねました。      十四 果物の占い  するとお婆さんはうしろから覗き込んでいる紅矢の顔を、黒い覆面の下からそっと見返りながら申しました。 「そんなにお騒ぎにならなくとも大丈夫で御座います。災というものは前からわかっていれば、誰でも免れる事が出来るもので御座います。けれども貴方のお家の災がどんな災か、はっきり前からわかるためには、妾はまだもっと貴方のお家の中の事に就いて、お尋ね申し上げねばならぬ事が御座います。貴方は少しも隠さずに、私が尋ねる事をお答えになりますか」 「ああ、どんな事でも。屹度」 「ではお尋ね致しますが、貴方の末のお妹さんは、美紅姫と仰しゃるのですね」 「そうだ」 「その美紅姫は貴方とお顔付きがよく肖ておいでになりますか」 「ああ……よく肖ていて、着物を取りかえると一寸わからない位だよ」 「その美紅姫に就いて、この頃何か不思議な事は御座いませぬか」 「ああ、よく知っているね。お婆さん。本当に私はその妹の事に就て解からない事があるのだよ。一体その美紅姫は、小さいときからお話が何より好きで、今まで毎日毎日お話の書物ばかり読んでいたのだが、この頃急にそのお話が嫌いになって、只一人自分の室に閉じ籠もって何かしきりに考えながら、折々解からない解からないと独言を云っているのだよ。だから皆心配してその訳を聞いて見るけれども、どうしてもその訳を云わないで、只明けても暮れても解からない解からないと云い続けている。けれども別段病気でもなさそうだから、打っちゃらかしておくのだよ」 「まあ、そうで御座いますか。それでやっとわかりました。それではその美紅姫は、黒い大きな眼をした、眉の長い、そして紫色の髪毛が地面まで引きずる位、長いお方では御座いませんか」  紅矢はこのお婆さんが、自分の妹の事を、どうしてこんなによく知っているのかと、怪しみながら答えました。 「そうだよ。それにすこしも違はない」 「フム、そうで御座いましょう。ではもしやその美紅姫は、この間の朝不思議な夢を御覧になりはしませんでしたか」  この言葉を聞いた紅矢はあまりよく中るのに驚いてしまって、口を利く事が出来ず只やっとうなずいたばかりでした。けれども婆さんは構わずに―― 「フム。フム。フム。いよいよ妾の占いは本当だ。では今一つお尋ね申し上げます。その美紅姫がその夢を御覧遊ばした朝、お眼が覚めて吃驚なすった時、窓の処に一匹の赤い鳥が居はしませんでしたか」  紅矢はもう、余りの不思議に呆れてしまって、只深いため息をつくばかりでした。 「ヘヘヘ……。よく中りましたで御座いましょう。妾はこの国第一の年寄りで、又この国第一の占者なので御座いますもの。当らない筈は御座いませぬ。妾は初め、向うから貴方が馬に乗ってお出でになるのを見付けまして、貴方のお顔を見ました時、すぐに貴方は貴い身分の御方で、御両親や妹御様方があり、しかもその末の妹御様は、この間十何年の長い間、他の国で美留女姫と名乗ってお話|狂気とまで云われた夢を御覧になって、その夢が覚めると、枕元の窓の処に一匹の赤い鳥が居た事、そうしてその長い夢の間に、昨日までの事を忘れてしまって、却って今の御身の上を夢ではないかと思っておいでになる事なぞが、一時にすっかり解かったので御座います。  紅矢様。お気をお付け遊ばせ。その妹御様の美紅姫こそ、貴方のお家の災の種で御座いますぞ。美紅姫はこの間御覧になった夢の中で悪魔になってしまって、赤い鸚鵡という鳥を召し使いにして、貴方のお家に恐ろしい災を降らせ、貴方の御両親や、貴方や、濃紅姫や、家中の人々を鏖にして、只自分独り生き残って、そうしてこの国の女王となって、勝手気儘な事をしようと思っておられるので御座いますぞ」 「では濃紅姫はお后になる事は出来ないのか」  と紅矢は声を震わして尋ねました。 「はい、出来ませぬ。出来ませぬ。妹御の美紅姫が邪魔を遊ばします。いや、美紅姫ではない。悪魔に咀われた美紅姫、つまり夢の中の美留女姫が邪魔を遊ばします」 「嘘だ。美紅姫はそんな悪い女でない。又そんな悪魔に魅入られるような女ではない。私はお婆さんの云う事を本当にする事は出来ない。他の占は皆当ったけれども、今の占だけは決して当らない」  と紅矢は顔を真赤にして、身を震わしながら云い切りました。けれどもお婆さんは中々|凹みませんでした―― 「今までの占がもし当ったとすれば、今の占も決して中らぬ筈は御座いませぬ。嘘だと思し召すならば、その証拠を御覧に入れましょうか」  紅矢はお婆さんからこう云われても、どうしても妹の美紅がそんな事をするとは思われませんでした。そしてあの可愛い妹を悪魔のように云うこの婆さんが、心から憎くなりまして、もう一時も馬に乗せておく事は出来ない位腹が立ちました。けれども又思い直しまして、この婆さんは決して悪い気で云っているのではあるまい。屹度占いを間違えて、それを本当にして心配して、自分に教えてくれるのに違いないと考え付きましたから、それならば一つその証拠を見て、それから間違っている事を教えてやろうと思いまして―― 「では、お婆さん、その証拠を見せておくれ」  と頼みました。 「その証拠というのは、これ、この果物で御座います」  と云いながら婆様は、手に持った果物の籠を見せました。 「何、その果物が証拠とは……」  と紅矢は驚いて中を覗きますと、中には見事な林檎が七ツ這入っておりました。 「妾はこれでその占いを立てたので御座います。御覧遊ばせ、七ツ御座いましょう。丁度悪魔の数で御座います。これを倍にすると美紅姫のお年になります。つまり美紅姫は悪魔に取り付かれて身体が二ツになって、その半分は今貴方の御命をつけねらっているという事になります」 「馬鹿な。そんな事があるものか。都からここまでは何百里とあるものを」  と又紅矢は馬鹿馬鹿しくなって笑い出しました―― 「ではその果物が美紅姫だと云うのかえ」 「イイエ。そうでは御座いませぬ。けれども悪魔の美紅姫はこの果物の直ぐ傍に居るという事で御座います」 「何、私の傍に」  と紅矢は思わずそこらを見まわしましたが、そこは丁度|只ある森の中の橋の上で、あたりには人一人通らず極く淋しい処でした……と思う間もなくどうした途端か、お婆さんは不意に今まで大切に抱えていた果物の籠を、馬の上から取り落しまして―― 「あれっ。大変だア」  と叫びながら、自分も一所に馬の上から転がり落ちて、周章て果物を拾おうとしましたが、生憎果物は橋板の上を八方に転がり出して、大方河の中へ落ちてしまいました。するとお婆さんは俄に泣き声を張り上げて―― 「あれッ。大切な果物が皆河へ落ちた。王様へ差し上げる占の果物は皆流れて行って終う。ああ、勿体ない。勿体ない。あれ、取って下さい。取って下さい。誰も取ってくれなければ妾が行く」  とそのまま欄干に走り寄って、今にも飛び込もうとしました。これを見た紅矢は驚くまい事か、「お婆さん、危い」と叫びながら直ぐに馬から飛び降りて、お婆さんを抱き止めて、代りに自分が素裸体になって、橋の欄干から身を躍らして河の中へ飛び込みました。  この体を見ますと、今まで橋の欄干に縋り付いて泣いていた婆さんが、急に泣き止んで矗と立ち上りまして、いきなり頭巾や、外套や、手袋をかなぐり棄てますと、お婆さんと見えたのは美留藻が化けたので、今ドンドン流れて行く果物と、それを追かけて行く紅矢を眺めて気味悪くケラケラと笑いました。そうして声高く、 「お兄様……悪魔の美紅をよく御覧なさい」  と云うかと思うと直ぐに、傍に脱ぎ棄ててある紅矢の帽子から靴まですっかり盗んで身に着けるが早いか、ヒラリと「瞬」に飛び乗って、強く横腹を蹴付けながら、一足飛びに都の方へ飛び出しました。      十五 白木綿  悪魔美留藻はやがて何百里という途を矢のように飛ばして、名前の通り瞬く間に都に到着しますと、美留藻は先ず呉服屋へ参りまして、晒木綿を買いまして、それからとある人通りの少ない横路地へ這入りました。そうして上衣やズボンの方々に泥を沢山なすり付け、その上に顔中すっかり繃帯をして眼ばかり出して、男だか女だか解らぬようにして終いますと、今度はこの都第一の仕立屋へ這入りまして、紅矢の声色を使って、自分は総理大臣の息子の紅矢である。最前馬から落ちて顔に怪我をした上に、大切な着物を汚してしまったのだが、明日は又王宮に行かねばならぬから、今日の正午迄に今一着同じ服と、外套一枚を仕立て上げろ。但し材料や飾りは出来るだけ派手な上等のものにして、鈕にはこれを附けるようにと云いながら、髪毛の中から大粒の金剛石を十二三粒取り出して渡しました。  折よくこの仕立屋の亭主は紅矢の家へ出入りの者で、紅矢の身体の寸法を心得ていて、委細承知致しましたと受け合って、金剛石を受け取りましたから、美留藻はなおも念を押して、家中総掛りで屹度間に合わせろと命じて、又馬を飛ばせました。それから帽子屋へ参りまして上等の帽子を、矢張り正午迄の約束で誂えまして、その飾りにと云って、ここへも大きな金剛石を一粒渡しました。それから剣屋へ行って剣を、靴屋へ行って靴を、手袋屋へ行って手袋を、皆|正午までに最上等の分を調えておくように申し付けまして、今度は王城の西の方に向って馬を飛ばせました。どこへ行くのかと思うと、やがて美留藻は紅矢の家を尋ね当てまして、大胆にも表門から駈け込みましたが、馬から降りると直ぐに玄関に駈け寄って、その石段の上に伏し倒れて、悲し気な声で家の者を呼びました。  家の者は、紅矢が昨日旅から帰ると、直ぐに王宮へ行って、又王宮を飛び出して、「瞬」に騎って王宮の周囲を七遍も駈けまわって、そのまま昨夜の内に行衛が知れずになったという噂を聞きまして、薩張り理由が解らず、もしや王様から大層な急用でも仰せ付かったのではあるまいか。それとも帰り途に散歩に行って、大怪我でもしたのではあるまいかと、大層気を揉んでいるところでしたが、この声を聞くや否や皆一時に、素破こそと胸を轟かして玄関に駈け付けて見ますと、こは如何に。  紅矢は余程の大怪我をしたものと見えて、顔中繃帯をして、呼吸を機ませて倒おれております。この体を見た両親や、その他の者の驚きは一通りでありませんでした。直ぐに大勢で紅矢の寝床へ担ぎ込みましたが、生憎な時は仕方のないもので、この家のお抱えの医者は、二三日前から遠方の山奥へ薬になる艸や石を採りに行った留守で、とても一月や二月で帰って来る気遣いはなく、今の間には勿論合いませんでしたから、仕方なしに宮中のお抱えの青眼先生の処へ使いを立てて、大急ぎで御出で下さるようにと頼みました。丁度青眼先生は藍丸王のお叱りをうけて家に引き籠もっているところでしたが、紅矢が怪我をしたと聞くと直ぐに承知をしまして、薬を取り揃えて出かけました。  青眼先生が来る迄に、美留藻の似せ紅矢は鋭く眼を配って、家の中の様子を見ますと、案の定この家の中に居る人々は、この間自分が夢の中で見た、美留楼公爵の家の人々にそっくりで、声までも少しも違いませぬ。美留藻は吾れながら眼の前の不思議に、今更に驚いてしまいましたが、又気を取り直しまして、それではこの家の末娘の美紅というのが、いよいよ自分と同じ夢を見て、吾れと吾が身を疑っているのに違いない。そうしてその姉の濃紅姫は、自分と一所に王様の前にお眼見得に出るとの事、念のため今一度、二人の顔を見ておきたいと、なおもよく気を付けて眼を配っていますと、この時|姉妹の二人は、兄の怪我を気遣いながら、両親の身体の間から涙ぐんだ顔を出して、一心に様子を見ておりましたが、やがて美留藻が二人の顔を見付けて、繃帯の中からじっと眼をつけますと、二人は悲しさと恐ろしさに堪え切れないで、顔に手を当ててこの室を出てしまいました。  あとを見送った美留藻は、ほっと深い溜め息をしました。美紅姫の姿の美しくて気高い事。湖の底の鏡の中で見た自分の姿に、一分一厘違わぬばかりでなく、ずっと清らかに神々しく見えたからで御座います。又姉の濃紅姫の方は、流石に紅矢が自慢するだけあって、本当に温柔しく優しいには違いありませぬが、併しその美しさは迚も妹の美紅や、又は美留藻自身の美しさとは比べものにならないと思いましたから、これならば自分と一所に藍丸王様の御前にお目見得に出ても、決して負けるような事はないと安心をしました。  けれどもとにかくこの家の人々は、この間の夢の中で、美留女姫の両親や兄妹となった人々で、しかもその末娘の美紅姫は、矢張り自分と同じように、美留女姫になった夢を見たのみならず、不思議にも自分と少しも違わぬ姿を持っているのですから、もしかすると美紅姫の方が本当の美留女姫の生れ変りで、自分が女王になるというのは嘘かも知れないと思いました。もしこの美紅姫があの夢を本当にして、女王になろうとでも思ったならばそれこそ大変で、折角自分が骨を折って、本当の事にしようと思っているあの夢が、皆嘘になって仕舞いますから、最早一寸も油断がなりませぬ。これは何でもこの美紅姫を亡いものにして、出来る事ならあの夢の事を知っているものは皆息の根を止めてしまわなければ、自分は一寸の間も安心して眠る事は出来ない。そうしなければあの夢のために自分に向いて来た幸福を、自分一人占めにする事は出来ないのだと、恐ろしい覚悟を定めてしまいました。けれども紅木公爵も公爵夫人も、こんな悪い女が似せ紅矢となって、今眼の前に寝ていようとは夢にも知りませぬ。只思いもかけぬ吾が児の大怪我に気も狂う程驚き慌てまして、一体どうしてこんな事になったのかと言葉を揃えて尋ねました。  似せ紅矢の美留藻はこの言葉を待ちかねて、紅矢の声色を使いまして、さも苦しそうな呼吸の下から、「何卒皆の者を遠ざけて下さい。只御両親だけ御残り下さい。他人に聞かれてはよくない事で御座いますから」と申しました。そうして両親と差し向いになりますと、美留藻はさも痛々し気に床の上に起き直りまして、両手を支えて、繃帯の間から涙をポロポロと落して見せました。  両親は益々驚き周章てまして左右から、 「お前はどうしたのだ。訳を云わずに泣いたとて訳が解からんではないか。どういう訳で涙を流すのだ。これ。紅矢。早く聞かせてくれ。心配で堪らない。ええ、紅矢」  と問い詰めました。この様子を見て美留藻は、先ず占めた、両親は飽くまで自分を紅矢と思っていると安心しました。そしてなおも弱り切った声で―― 「実は私は御両親に今日只今まで、固く御隠し申していた事が御座います。けれども最早|斯様になりましては到底御隠し申す訳に参りませぬ故、すっかりお話し致します」  と申しましたが、これから濃紅姫が王様をお慕い申し上げていた事を初めとして、今度王様が御自身で濃紅姫を妃に迎える約束を遊ばしながら、又御自身でその約束をお破り遊ばした上に、今から一週間の後に他の女と一所にお目見得に出せと仰せられた事、自分は余りの切なさに夢中になって「瞬」に乗って駈け出した事、それからその夜の内に多留美の湖の傍まで行って帰りがけ、只ある橋の上で馬が躓いたために落ちて怪我をした事など、有る事無い事、紅矢から聞いた話に添えて、詳しく話して聞かせました。  両親は聞く事毎に驚く事ばかりでした。そうして事情はすっかり解かりましたが、その中で濃紅姫を他の女と一所にお目見得に出す事だけはあまりに情ない浅ましい事で、殊に都合よく御妃になる事が出来れば兎も角も、もし間違って王様の御気に入らないような事があると、これ位|恥辱な事はないからと云って、両親は容易く承知致しませんでした。  併し美留藻の似せ紅矢はここが大切なところと思いまして、一生懸命になって濃紅姫の容色を賞め千切って、仮令どんな女が来ても妹以上に美しい女は居ないから大丈夫だ。それに藍丸王様も今は濃紅姫の美しさをお忘れになったから、あのような菅無い事を仰せられたのであろう。けれども又今度御覧になれば、屹度昔のように御気に入るに違いない。そしてもし濃紅姫がお目見得に出ないために、他の賤しい女がお妃になるような事になると、かえって王様に対して恐れ多い事になる。だから濃紅姫が今度のお目見得に出るという事は、十方八方のために大層都合のよい大切な事で御座いますと、さも苦しそうな呼吸の下からあらん限りの言葉を尽して勧めました。  両親も聞いて見れば成る程|道理ですから、一つは濃紅姫の可愛さと親の贔負目で、やっとの事それに定めて両親揃って濃紅姫の室へ相談に出かけました。  そのあとへ青眼先生が、女中の案内を受けて大急ぎで遣って参りました。先生は今まで宮中より他にはどこにも行った事がなく、この家に来たのはこれが初めてで、宮中に来る紅木大臣と紅矢の他は一度も会った事のない人ばかりでしたから、一々皆に叮嚀に挨拶を致しましたが、只美紅姫だけは自分の室に隠れていて、姉様の濃紅姫が呼んでも出て来ませんでした。  美紅姫は青眼先生が来たと云う声を聞くや否や、もしやあの夢の中の怖いお爺さんではあるまいかと思ったので御座います。そうしてもしそうなれば、今の自分の身の上はどこからが夢でどこからが本当だかいよいよ解からなくなる。いよいよ不思議に恐ろしくなる。何にしても青眼先生という人が、あのお爺様かどうか見て見なければわからないと思いました。けれどももし真正面に顔を合わせて、又悪魔と間違えられでもしては大変と思いましたから、そっと扉に隙間を作ってそこからそっと眼ばかり出して様子を見ておりました。  その前を通る青眼先生の顔を一眼見ると、美紅姫は思わずアッと声を立てるところでした。その肩まで垂れた青い髪毛、その青くて鋭い眼付、青い髯、黒い顔色、そうしてその黄色い着物、皆あの夢の中のお爺さんにそっくりそのままで、歩きぶりまで違ったところはありません。美紅姫は恐ろしさの余り身体中の血が凍ったように思いました。  そうして慌てて扉を閉じて、内側から鍵をしっかりとかけて、ほっと一息安心すると、そのまま気が遠くなって、床の上に倒れてしまいました。けれども家中は今、上を下へと混雑しているところでしたから、気の付く者は一人もありませんでした。  ところが似せ紅矢の美留藻も青眼先生の顔を見ると、同じように慄え上る程驚きました。そうしていよいよあの夢が嘘でない事が解かりましたが、それと一所に青眼先生の眼付が如何にも鋭くて、もしやあの夢の中であの銀杏の葉を容れた袋の底を鋏で切り破った女が自分だという事が繃帯の上からわかりはしまいかと心の中で恐れた位でした。けれども又よく考えて見ると、青眼先生がもしあの美紅姫を一眼でも見ていれば、妾より先に姫を疑う筈なのに平気でこの家に遣って来るところを見ると、青眼先生はこの家に初めて来たので、まだ美紅姫の顔を見た事がないのかもしれぬ。それとも初めからあの夢を見ないのであろうか。イヤイヤそんな筈はない。美紅姫があの夢を見たように、この青眼先生も、それからあの白髪の乞食小僧も屹度あの夢を見たに違いない。それでなければ理屈が合わなくなる。そしていよいよ見たか見ないかは、そのうちに美紅姫とこの青眼先生と出会わして見ればわかる事だ。とにかく今のところではこの青眼先生はまだ一度も美紅姫と顔を合わせず、又自分が似せ紅矢という事も気が付かずにいるに違いないと、ほっと安心をして気を落ち付けました。  けれども青眼先生の方はそんな事は露程も気が付きませぬ。徐に進み寄って美留藻の似せ紅矢に敬礼をしまして、それから先ず脈を見ましたが何ともないので、これならば死ぬような事はあるまいと安心をしました。ところがその次に顔の繃帯を取ろうとしますと、似せ紅矢は無暗に痛い痛いと金切声をふり絞って、どうしても繃帯に触らせませぬ。青眼先生は仕方なしに、薬籠の中から油薬を出して、繃帯一面に浸ませて、こうやっておけば直に痛くないように繃帯が取れるであろう。それからこの薬は一滴程|嘗めておくと一週間眠り続ける事が出来る薬だ。その間には大抵痛みも取れるであろうから、あとであまり痛みが烈しいならば、飲ましておくがよいと云って、小さな瓶を一ツ病人の枕元に置いて行きました。  青眼先生が帰ってから暫くの間、美留藻は痛みが取れたように見せかけてスヤスヤと眠っておりました。ところがやがて正午頃になって、看病のために残っていた女中が一寸の間居なくなりますと、美留藻は急にむっくりはね起きて、枕元の眠り薬の瓶を取るが早いか、又|室の窓から飛び出して、裏手の廏へ来て馬丁を呼んで「瞬」を引き出させました。そうして怪我が急に痛くなったから青眼先生の処へ行くのだと云い捨てて、ヒラリと鞍に飛び乗るが早いか、裏門から一目散に逃げ出しました。      十六 金剛石  美留藻は紅矢の家を逃げ出しますと、先ず一番に仕立屋に行って着物を受け取りまして、賃には一粒の大きな金剛石を投り出して来ました。  その次には帽子屋、その次には靴屋、その次には剣屋と、それぞれ尋ねてまわって、品物を受け取って、代金には皆宝石を一粒|宛、髪毛の中から摘み出して与えましたが、それから都の大通りを驀然に南に走りますと、暫くして向うから美留藻の脱け殻のお婆さんの着物を着て、喘ぎ喘ぎ走って来る紅矢に出会いました。すると美留藻は乱暴にも、突然馬を紅矢に乗りかけて、逃げる間もなく踏み蹂り蹴散らして、大怪我をさせてしまいました。そうして全く呼吸が絶えて、うつ伏せに倒れたのを見澄まして引き返して来て、助けて行く風をして馬の上に抱え乗せて、只或る森の中へ這入りました。  そこで美留藻は自分の顔の繃帯を取って、紅矢の血まみれの顔をすっかり包んでしまいまして、それから今まで借りていた紅矢の着物を返して旧の通りに着せて、自分は新しい男の着物を着込んで、お婆さんの着物は打っ捨ってしまいました。  こうしておいて、美留藻はグタリとなった紅矢を、又もや「瞬」の上に抱え乗せて、再び都へ一散に駈け上りましたが、今度は王城の西の大銀杏の樹を目標に、青眼先生の門の前に来まして、紅矢を馬の上から突き落し、自分はキャッと叫びながら馬から飛び降りると、そのまま素早くどこかへ逃げて行ってしまいました。  あとに残された名馬の「瞬」は畜生の事ですから何事も知っていよう筈がありませぬ。けれども今自分の背中から落っこちたものを見ますと、自分の主人の紅矢ですから、畜生ながら気にかかると見えまして、しきりに紅矢の身体を嗅ぎながら、ぐるぐる歩きまわっていましたが、やがて首を擡げて高く悲し気に嘶きました。  最前から青眼先生の家へは、紅矢の家から引っ切りなしに使いが来て、紅矢はまだ来ぬかまだ来ぬかと尋ねていました。そのお使いから詳しい様子を聞いて、青眼先生はどうしたことであろうと立っても居てもおられず心配をしているところへ、不意に表の門の前で馬の嘶き声が聞こえましたから、もしやと思って駈け出して見ますと、こは如何に、紅矢は銀杏の樹の根元に血まぶれになって倒れていて、傍には「瞬」が心配そうにうろうろしています。  青眼はこの有様を見て、腰を抜かさんばかりに驚きましたが、兎も角も紅矢の家から使いに来たものに頼んで、二人で紅矢を自分の寝台に運び入れて、すっかり裸体にして血を拭い清めて、傷口を調べて見ますと、案外に傷は浅くて、ここ一週間も経ったら癒りそうです。只胸と頭を非道く打ったと見えまして、全く気絶して呼吸も通わず、脈も打たず、身体は氷のように冷たくなって、唇は紫色になっていました。けれどもお使いの者が「瞬」に乗って帰って、取るものも取り敢えず紅矢の両親を連れて来ました時には、紅矢は青眼先生の上手な介抱と、良い薬の利き目とで呼吸を吹き返して、スヤスヤと静かに眠っていました。  これを見ると両親は、又もや一人小供が生れたように喜んで、嬉し泣きに泣きました。そうして今更に青眼先生の介抱の上手なのに感心をしまして、紅矢のみならず私共の生命の親と云って深く深く御礼を申しました。      十七 銅の壺  紅矢はその夜家の者に担がれて、自分の家に連れて行かれましたが、大層熱が高くて平生の自分の寝床に寝かされても、まだ夢中でうんうん唸っておりました。そうしてその夜は夜通し囈言ばかり云っていましたが、時々眼を開いて両親や妹共の顔を見るかと思うと、忽ち狂気のように騒ぎ出しまして―― 「この室へ這入っちゃいけない……お父様も……お母様も妹共も……家来共も皆いけない。聞け……聞け……私は悪魔に咀われている。悪魔の果物。悪魔の美紅。そうして悪魔の『瞬』……七ツの果物は悪魔の数であった。……私は七ツの数に咀われた。悪魔の美紅に欺された。悪魔の『瞬』に踏み蹂られた。吁恐ろしい。……嗚呼苦しい。お父様……お母様……妹共……危い危い。私の傍に居ると危い。悪魔は娘の美紅に化けている。そうしてあの悪魔の乗り移った『瞬』に乗って今にもこの窓から駈け込んで来たら……危い危い。出て行って下さい。妹共、出て行け。一人も私の傍へ居ちゃいけない。早く早く」  と叫ぶかと思うと、又ガックリと枕に頭をのせて、うとうと睡ってしまいました。こんな事が夜通しに二三度もありましたが、傍に居る人々は何の事やら訳が解からずに、唯驚き慌てるばかりでした。そうして何は兎もあれ用心のために、お母様や妹共をこの室から遠ざけまして、お父さんとその他にも一人、気の強い、力も強い家来の黒牛という者と二人で枕元に居る事にしまして、一方は、廏屋の馬丁に申しつけて、『瞬』を厳重に柱に縛り付けて動かぬようにして、その上に番人を二人までもつけておきました。  翌る朝になりますとまだ薄暗いうちに、青眼先生が見舞いに来ました。紅矢の両親や家の人々はもう昨夜から心配に心配を重ねて、夜通しまんじりともせずに先生が来るのを待ちかねていたところでしたから、先生の顔を見るとまるで神様がお出でになったように前後から取り付きまして、昨夜からの事をすっかり話しました。すると青眼先生はどうした訳か、見る見るうちに顔色が変って、唇がぶるぶると震えて来ましたが、やがて思わず―― 「七ツの悪魔。七ツの悪魔。そんな筈はない。そんな筈はない」  と口走りました。けれども皆から、どうかしてこの紅矢の不思議な病気を助ける工夫はないかと責め立てられますと、いよいよ何だか恐ろしくて堪らなくなった様子で、歯を喰い締め眼を見張ったまま天井を睨んで立っていました。併しやがて先生はほっと一息深いため息をしながら皆の顔を見まわして申しました―― 「はい、承知致しました。もし悪魔が、私の知っている悪魔で御座いましたならば、屹度退治して差上げまする。けれども私の考えではこれは悪魔の仕業ではないと思います。私は悪魔の居所をよく存じておりますから」 「そしてその悪魔とはどんな悪魔ですか」  と紅木大臣は言葉せわしく尋ねました。青眼先生はこの問いを受けると又ハッと驚いた様子でしたが、やがて又何喰わぬ顔をして答えました―― 「ハイ。その悪魔は世にも恐ろしい悪魔で、誰でもその悪魔の名前だけでも聞くと直ぐに悪魔に乗り移られて、自分が悪魔になってしまうので御座います。ですからその名前は申し上げられませぬ」 「では貴方はその名をどうして御存じですか」  紅木公爵夫人がこう尋ねますと、青眼先生はグッと行き詰まりました。そうしてさも苦しそうに返事をしました―― 「それは私だけはその名前を聞きましても、又その姿を見ましても何ともないので御座います」 「まあ。不思議ですね。何か悪魔に乗り移られないいい工夫でも御座いますのですか」 「ハイ。それはあります。けれどもそれは私の家の先祖代々の秘密で、今申し上げる事は出来ませぬ。私の家は代々この秘密を守って、そして彼の昔からの掟――人の姿を盗む者。人の声を盗むもの。人の生血を盗む者。この三ツは悪魔である。見当り次第に打ち殺せ。打ち壊せ――という言葉を国中に広く伝えるのが役目で御座います」 「そうだそうだ。皆そんな掟が在ったという事を聞いた。それで思い出した。今美紅の姿を盗んでいる奴は悪魔に違いない。何卒青眼先生、是非その悪魔を退治て下さい。貴方は病気の事ばかりでなく悪魔の事までも詳しく御存じだ。何卒何卒御頼みします」  と紅木大臣は青眼先生の手を握って涙をこぼしながら頼みましたが、これを聞いていた他の者は皆真青になりまして、扨はいよいよ本当の悪魔が、紅矢様を狙っているのかと恐れ戦いておりました。  青眼先生は承知したという印に胸に手を当て、敬礼をしました。そうして静かに紅矢の室に這入って、病人の様子を見ましたが、すっかり見てしまいますと、青眼先生は、ほっと安心した様子で皆に向って―― 「皆様、御安心下さいまし。紅矢様の御病気は矢張り私の思い通り普通の怪我で、決して悪魔が狙っているのでは御座いませぬ。その御怪我も、只今は余程よくなっておいでになって、遠からず起きてお歩きになれる事と思います。けれどもなお用心のために、皆様は今までの通り、充分御気を附け遊ばして、御介抱なさるが宜しゅう御座いましょう」  と申しました。そうして皆に挨拶をして悠々と家に帰って行きました。  けれども青眼先生は紅木大臣の家の門を出ると直ぐに、腕を組んで頭をうな垂れて、何かしきりに考えながら歩き出しました。そうして口の中で絶えず―― 「悪魔。悪魔」  と繰り返して行きました。やがて自分の家の門の前に来ますと、青眼先生は立ち止まって、矢張り腕を組んだままじっと門の前の銀杏の樹を見上げました。  銀杏の樹は最早すっかり葉が落ちてしまって、晴れ渡った大空に雲のように高く枝を拡げておりました。青眼先生は暫くその梢を見上げていましたが、やがて又眼を落してその根元を見ました。根元には黄色い葉がまだ腐らずに重なり合っています。そこをじっと見ていた青眼先生は、何か決心したらしく、独りで大きくうなずいて四方をグルリと見まわしましたが、人間は愚か猫一匹も通らない様子で、只前を流るる川の水音ばかりがサラサラと聞こえていました。この様子を見定めると青眼先生は又何かうなずいて、急いで門の中に這入って行きましたが、やがて又出て来たのを見ると、肩に一梃の鍬を荷えておりました。  何を為るのかと思うと先生は、又一度あたりの様子を見渡して、誰も通らないのを見澄まして銀杏の根方に立ち寄って、積った葉を掻き除けると、切々そこを掘り初めました。そして四五尺も掘ったと思うと、一枚の鉄の板が出て来ました。  青眼先生がその板の端を鍬の先でやっと引き起こしますと、その下は石の箱になっていて、中には余程大切な秘密のものでも入れてあるらしい、真鍮の帯で厳重に封をした、銅の壺が一ツ置いてありました。けれどもその周囲には、太い頑固な銀杏の根っ子が、幾重にも厳重に取り巻いていて、中々鍬の一梃や二梃持って来ても掘り出す事は出来そうに見えませんでした。まるで銀杏の樹がこれは俺のものだ。誰にも渡す事は出来ないといって、確り掴んでいるようです。青眼先生はこれを暫く見つめていましたが、やがてほっと一息安心をした様子で、 「先ず大丈夫。この塩梅ならば残りの四ツの悪魔はまだ、あの壺の中から逃れ出していない。今のところではあの鏡と鸚鵡と、それからまだ現われて来ない宝蛇の三ツだけは退治ればよいのだ。それにしても宝蛇はどこに隠れているのであろう。そしてどこから現われて来るのであろう。心配な事ではある。もしや事に依ったらば紅矢様を狙っているものは宝蛇ではあるまいか。もしそうならばいよいよ油断がならないぞ」  と独り言を云いながら、じっと王宮の方を睨んでおりましたが、やがて又気が付いて、急いで壺の上に土を被せて、銀杏の葉を撒き散らして、あとをわからないようにしておきました。      十八 氷と鉄  その日も無事に過ぎて翌る朝になりますと、紅矢の家から又もや急な使いが来て、青眼先生に大急ぎで来てくれとの事でした。先生は取るものも取りあえず直ぐに駈け付けて見ますと、昨夜夜通し寝ず番をした紅矢のお父さんと黒牛とが、玄関に出迎えていまして、両方から手を引いて、紅矢の寝床へ案内をしました。そうしてそこの椅子に腰かけさせまして、暫く黙って紅矢の様子を見ていてくれと頼みました。青眼先生は愈々不審に思って、一体これはどうした事と怪しみながら、頼まれた通りにじっと紅矢の寝顔を見つめていますと、やがて紅矢は頬の色を真青にして、火のように血走った両方の眼をパッチリと開きました。そうして天井を睨みながら身もだえをして、 「昨夜来た、悪魔が来た。美紅姫にそっくりの悪魔が男子の着物……紫の髪毛……銀の剣……金剛石の鈕……窓から白い手を出して……手には美しい宝石の紐を持って……その紐を投げ付けた。  お父さんも眠っていた。黒牛も眠っていた。  私だけ知っている。悪魔だ。悪魔だ。この間の悪魔だ。おのれ悪魔。もう一度来い。今後は逃がさぬぞ。この繃帯を解いてくれ。この蒲団を取ってくれ。早く。早く」  と叫びましたが、やがて又疲れたと見えてグタリと横になって、ウトウトと眠り初めました。  この様子を見た青眼先生は又もや腰を抜かさんばかりに驚いたらしく思わず―― 「ム――ム。悪魔……」  と叫びましたが、有り合う椅子にドッカと腰を下して、眼を閉じ口を一文字に結んでさも口惜しそうに―― 「宝蛇だ。宝蛇だ。扨は自分の思い通りであったか」  と独り言を云いました。  傍に居た人々は両親を初め皆、いよいよ不思議な青眼先生の言葉や行いに驚いて、一体これはどうした訳であろうと怪しみました。そうして黙って考え込んでいる青眼先生の、物凄い顔付きを穴の明く程見つめていました。すると青眼先生は間もなく考が付いたと見えまして、眼をパッと開いて―― 「よし。覚悟した。私はどうしてもその悪魔の正体を見届けずにはおかぬ」  と申しました。  それから青眼先生は紅木大臣夫婦に、今夜からは自分一人で夜伽をして、悪魔の正体を見届けたいから、何卒自分に任せて下さるようにと熱心に願いました。両親はこの頼もしい青眼先生の言葉を聞きますと、何で否やを申しましょう。直ぐに承知を致しまして、青眼先生を只一人この室に残して引き取りましたが、なお念のため家の周囲には、力の強い勇気のある家来を大勢配って、油断なく見張らせるようにしました。  青眼先生は、室の中に一人も居なくなりますと、やおら立ち上ってそこらを見まわしましたが、この室は扉を締めておきさえすれば、あとは只窓一ツしか無く、他に出入りする処はありませんから、悪魔は屹度あの窓から這入って来たに違いないと思いました。青眼先生はこれを見定めて、なおもその窓の外をよく見ようと思って、不図窓の縁に手をかけますと、その隅の処に妙なものを見つけました。それは三粒の美しい紅玉でした。  青眼先生はこの世の中にありとあらゆるもので知らぬものは無く、殊に宝石の事は詳しく知っていましたから、この三粒の紅玉を一目見ると、直ぐに、これは世にも稀な上等飛び切りの紅玉で、当り前の者が持っているものではないと思いましたが、扨誰が何のためにこんな処に置いているかという事は全くわかりませんでした。只もしかすると、これは悪魔が何かのためにした悪戯かも知れぬ。それならばなるべくいじらぬ方がよいと思って、そっくりそのままにしておきました。  その中に夜はだんだん更けて来ましたから、青眼先生は眠られぬ薬を飲みまして、只一人紅矢の枕元に椅子を引き寄せて座りました。そうしてその懐中には、悪魔を見たらば直ぐにも注ぎかけるために、別に一ツの薬瓶を用意して、その夜夜通しまんじりとも為ずに過ごしました。その薬は一寸でも身体にかかると、直ぐに身体中の血が氷になってしまうという恐ろしい毒薬でした。けれどもその夜は何事も無くて済みました。その次の夜も次の夜も無事に明けました。いよいよ明日は宮中でお目見得の式があるという晩になると、その間|家中は濃紅姫の身支度で大変な騒ぎで御座いましたが、すっかり支度が済みますと、姫はこの家の一番の奥の石の神様を祭ってある大広間の真中に、寝台を置いてその上に寝かされて、その周囲には四人の家来が代り番に寝ずの番をしておりました。これは姫の身体に万一の事が無い用心です。  両親はこの様子を見て安心をして自分の室に引き取りました。美紅姫もその枕元に来て―― 「お姉様、お寝み遊ばしまし」  と云って、あとを見返り見返り出て行きましたが、その顔は云うに云われぬ悲しさに満ち満ちていました。これを見ると濃紅姫は―― 「ああ、美紅姫と一所にこの家で眠るのもこれがおしまいになるかもしれぬ。美紅はそれで泣いているのであろう。何という悲しい事であろう」  と思いながら美事な香木で作った格天井を見ていましたが、熱い熱い涙が自ずと眼の中に溢れて、左右にわかれて流れ落ちました。その時にこの広い宮中はひっそりと静まり返って、針の落ちる音までも聞こえる位でした。  この時青眼先生は只一人紅矢の枕元に座って、毒薬の瓶を懐に入れたまま、最早悪魔が来るか来るかと待っていました。けれども夜中過ぎまでは何事も無く、只紅矢の苦しい呼吸の音が、夜の更けると一所に静まって行くばかりでした。ところが真夜中が過ぎて、やがて夜が明けようかと思わるる頃になりますと、庭のどこからか歌を唄う女の美しい声が聞こえて来ました。 「紅矢は顔を見た。  悪魔の顔を見た。  悪魔の顔を見たものは  殺されるのが当り前。  妾は悪魔。妾は悪魔。  屹度紅矢を殺すぞよ」  その声は、青眼先生がどこかで一度聞いた事のある声のように思いましたが、この時はどうしても思い出せませんでした。この声を聞き付けますと、紅矢は忽ち眼を見開き、頭を擡げて―― 「あの声。あの声。悪魔のこえ。妹の美紅の声」  と叫びました。  青眼先生は直ぐに窓から飛び出して、声のする方に駈け出しました。そうして片手を罎の栓へかけて、出会い頭に毒薬をふりかけてくれようと、血眼で駈けまわりましたが、不思議や悪魔はどこへ行ったか影も形も無く、只|霜風が身を切るように冷たくて、大空には星の光りが降るように輝いているばかりでした。  青眼先生は何だか狐に抓まれたような気がして、呆然と立っていました。けれどもその中に又不図これは悪魔の計略だなと気が付いて、急いで紅矢の室に帰って見ますと、こは如何に。紅矢は何を為たのか、布団の中から身体を半分脱け出しまして、呼吸をぜいぜい切らして、眼を怒らして、歯を喰い締めて、窓の外を睨んでいます。そうして左の手には何か固いものを一ツ、しっかりと握り込んでいる様子です。青眼先生はハッとしまして、扨は悪魔は自分を誘い出しておいて、又もや紅矢を苦しめに来たのだなと気が付いて、急いで紅矢の傍へ寄って―― 「紅矢様。若様。どう遊ばしたので御座います。悪魔がここへ参りましたか。そうしてどちらへ逃げて行きましたか」  と尋ねました。けれども紅矢はそれには返事を為ずに―― 「悪魔。悪魔|奴。美紅の悪魔奴、取り逃がしたか」  と叫びました。そうして又がっくりとうしろに倒れますと、どうでしょう。この間から窓の処に置いてある紅玉と同じ位に美しい、同じ位の大きさの紅玉が一掴み程、バラバラと寝台から転がり落ちて、床の上で血のような光りを放って散らばっているではありませぬか。この様子で見るとこの紅玉は、紅矢の妹共が忘れて行ったものでも何でもなく、全く悪魔が何かのために置いて行ったものに違いないと思われました。青眼先生は一寸の猶予も無く両親を呼んで紅矢の番を為せました。そうして自分は有り合う提灯に火を灯して、窓の外へ出まして、そこらをよく検めて見ますと、石畳のあすこここに、一粒か二粒|宛紅玉が落ちています。青眼先生は占めたと思いまして、なおも提灯を地面にさし付けて、紅玉を探しながら、だんだんと跡を付けて行きますと、その跡は一間置いて隣りの室の窓の下に来て止まっています。そうしてその窓掛けの間からは薄い黄色い光りが洩れていました。  青眼先生はこの室が美紅の室という事をかねてから聞いておりました。けれども中を覗いた事は一度もありませんでした。ですから直ぐに提灯の火を吹き消して、その窓からそっと中を覗いて見ました。  窓の中の有様を一眼見るや否や青眼先生は思わず棒のように立ち竦んでしまいました。窓の直ぐ傍の寝台の上には一人の美しい少女が寝ております。その顔。その姿。それから寝台の左右に垂れた髪毛の色から縮れ工合まで、あの夢の中で、自分の背中の銀杏の葉の袋を切り破った女の子に一分一厘違いないではありませぬか。  青眼先生は暫くの間は、あまりの不思議に呆気に取られて、茫然と少女の寝顔に見とれておりましたが、やがてほっと大きな溜息をつきますと、何やらぐっとうなずきまして、震える手で窓をそっと押して見ますと、訳もなくスーッと左右に開きました。そこからそろそろと音を立てぬように中に這い込んだ青眼先生は、床の上に下りると直ぐに、毒薬の瓶の口を切って右手に持って身構えをして、丸|硝子の行燈の薄黄色い光りに照された少女の寝顔を又じっと見入りました。  見れば見る程美しい少女の姿。夕雲のように紫色に渦巻いた長い髪毛。長い眉と長い睫毛。花のような唇。その眼や口を静かに閉じて、鼻息も聞こえぬ位静かに眠っている姿。見ているうちにあまり美しく艶やかで、何だかこの世の人間とは思われぬようになりました。けれどもなおよくあたりを見まわすと、その髪毛の中や枕のまわりに一粒か二粒|宛、紅矢の枕元に在ったのと同じ位の大きさの紅玉が散らばっているではありませんか。  青眼先生はこれを見ると思わず声を立てて―― 「悪魔」  と呼びました。  この声を聞くや否やその少女は直ぐにむっくりはね起きて、青眼先生の顔を一眼チラリと見ましたが、忽ち物凄い形相になって―― 「あれッ。青眼先生……妾は美紅です。この家の娘です。悪魔ではありません」  と叫びながら紫の髪毛をふり乱し、紅玉を雨のようにふり散らして、物をも云わず窓から逃げ出そうとしましたが、最早遅う御座いました。青眼先生が注ぎかけた薬が身体のどこかへ触ると直ぐに、身体中の血が氷になって、寝台の上にドタリと落ちて、見る見る内にシャチコばってしまいました。  青眼先生はこれを見ると、ほっと一呼吸胸を撫で下しましたが、なおじっと気を落ち付けて動悸を鎮めて、それから死骸の傍へ寄ってよく周囲を検めて見ました。そうしていよいよ死んだという事をたしかめてから、薬瓶の仕末をして懐に入れて、又こっそりと窓から出て行きましたが、もしや今の叫び声が聞こえはしなかったかと思いながら、急いで紅矢の室に帰って見るとこは如何に! 紅矢の容態は一寸居ない間に急に悪くなって、今にも呼吸を引き取る様子です。そうして固く握り詰めた左手の拳を千切れるばかりにふりまわしながら、囈言のように切れ切れに―― 「口惜しい。口惜しい。悪魔。美紅」  と云っています。  その枕元に集まって泣きながらどうなる事かと心配をしていた紅矢の両親は、青眼先生が帰って来たのを見ると一時に走り寄って―― 「助けて下さい。助けて下さい。紅矢を助けて下さい」  と口々に叫びながらその袖に縋りました。  流石の病人に慣れた青眼先生も、これには驚き慌てまして、紅矢の左の手に飛び付いて、一生懸命こじ明けようとしましたが、どうして梃でも動かばこそ、かえってだんだん強く握り締めるために、拳固が紫色から黒い色に変って行きます。青眼先生はいよいよ驚き慌てまして―― 「失策った、失策った」  と叫びながら、懐から鋭い小刀を出して、その腕を黒くなった処から切り落そうとしました。これを見た両親はいきなり青眼先生の腕を捕えて引き離しながら―― 「ナ、何をするのです。何をするのです」  と叫びました。 「エエ。お放し下さい。今切らなければ鉄になりますぞ。紅矢様は鉄になってしまいますぞ。ハ……放して下さい」 「エエッ。鉄になる……」  と両親は肝を潰して、青眼先生を放しました。  先生は直ぐに紅矢の腕に取り付いて、二の腕の処に小刀を突き立てて、ギリギリと引きまわしましたが、何の役にも立ちませんでした。骨でも肉でも豆腐のように切れる鋭い小刀も、まるで鉛か銀のように和らかく曲がり折れて、疵痕さえ付ける事が出来ません。その間に見る見る紅矢の身体は腕から肩へ、肩から腕へと紫色が鈍染み渡って、やがて眼を怒らし、歯を喰い締めて虚空を掴んだまま、身体中真黒な鉄の塊となってしまいました。  この恐ろしい不思議な死に態を見た紅矢の両親は、足の裏が床板に粘り付いたように身動き一つ出来ず、涙さえ一滴も落ちませんでした。  青眼先生も最早手の附けようもなく、紅矢の死骸を見詰めたまま、呆然と突立っていました。そうして独り言のように―― 「身体が鉄になる  身体が鉄になる。  見た事もない。  聞いた事もない。  悪魔の為業か。  鬼の悪戯か。  不思議。不思議。驚いた驚いた」  と云っておりました。  その中に東の空はほのぼのと明け渡って、向うの庭の枯れ木立の間から眩しい旭の光りが、この室の中へ一パイに映し込みました。そうして大理石のように血の気が無くなったまま立ち竦んでいる三人の顔をサッと照しました。けれども三人は瞬一つ為ず、身動き一つ出来ず、只黒光りする鉄の死骸の、虚空を掴んだ恐ろしい姿を、穴の明く程見つめて立っていました。  するとはるか向うの丘の上に在る王宮の中から、美しい音楽の響が、身を切るような霜風に連れて吹き込んで来ました。それは今日宮中でこの国から選り抜いた、美しい賢い少女のお目見得をするという、世にも珍らしい儀式が初まるその前知らせでした。  その時、二人の女中が来て室の入口で叮嚀に頭を下げました。その一人は静かな低い声で―― 「濃紅姫のお支度が済みました。只今食堂で御待ちかねで御座います」  と申しました。ところが今一人はこれと反対に歯の根も合わぬような震え声で―― 「美……美紅姫……が……お平常着のままで……寝台の中で……コ、コ、氷のように……冷たくなって……」  と云う内に床の上に座り込んでワッとばかりに泣き崩れました。    第三篇 宝蛇      十九 黄薔薇の籠  濃紅姫は昨夜夜通し、少しも眠る事が出来ませんでした。この頃自分のまわりに起ったいろいろの不思議な事や、恐ろしい事を考えながら、夜を明かしましたが、併しずっと奥の部屋に寝ていたのですから、その夜の中にどんな事が兄様や妹の身の上に起こったかという事は、まるで知りませんでした。そうしていよいよ夜が明けますと、お附の者に扶けられて湯に這入って、すっかり身体を浄めてお化粧をしました。先ず髪毛には香雲木という木に咲いた花の油を注ぎ、白百合の露で顔を洗いました。身には袖の広い裾の長い白絹の着物を着て、上に黒狐の皮の外套を重ね、頭に碼瑙の冠を戴いて、手に黄薔薇の籠を持ちました。そうして足に鹿の鞣皮の細い靴を穿いて、いよいよ支度が出来上りまして、これから食堂で皆とお別れの食事を喰べて、それからお伴の女中と一所に馬車に乗って、宮中に行くばかりとなりました。  するとこの時不意に化粧部屋の扉を開いて中に駈け込んで、驚く間もなく濃紅姫を抱き締めて―― 「お前はどこにも遣らない。どこにも遣らない。死ぬまでこうやって抱いている」  と叫んだ人がありました。それは濃紅姫のお母様でした。  お母様は今朝二人の小供が、世にも恐ろしい不思議な死に方をしたのを眼の前に見て、狂気のようになってしまったのでした。そうしてたった一人あとに残った濃紅姫を、どこにも遣るまいと思って、こうして抱き締めたので御座います。けれども濃紅姫はそんな事は知りませんから吃驚しまして―― 「アレ。お母様、どう遊ばしたので御座います」  と叫ぼうとしましたが、この時遅く彼の時早く、直ぐにあとから今度はお父様が駈け込んでお出でになりました。そうしてものをも云わずお母様から濃紅姫を無理に引き取って、その手をぐんぐん引きながら表へ出まして、用意の出来ている白馬三頭立ての花で飾った馬車へ乗せると、直ぐに馭者に向って―― 「さ。一時も早く王宮へ行け。濃紅。驚く事はない。訳はあとでわかる。それより早く王宮へ行け。お前は紅木公爵の娘だ。決して意久地のない顔をするな。悲しい顔をするな」  と叫びました。  馭者は心得て鞭を挙げて敬礼をしながら、手綱を取ってしゃくりますと、馬車は忽ち王宮の方へと走り出しました。  その時狂気のようになったお母様が駈け付けまして―― 「あれ、濃紅姫。行ってはいけない」  と追い縋ろうとしました。馬車の窓からも濃紅姫が顔を出して―― 「お父様。お母様」  と叫びましたが、お母様の方を紅木大臣が抱き留める……濃紅姫の方は三匹の白馬に引かれて見る見るうちに遠く遠く小さくなって、間もなく馬車のあとから湧き上る砂煙のために隠されてしまいました。  紅木大臣はいつの間にか気絶している公爵夫人をあとから駈け付けた女中に介抱させて、夫人の室に連れて行かせましたが、自身は只一人|紅矢の室に這入って行きました。そこには青眼先生が鉄になった紅矢の死骸と氷になった美紅姫の死骸とを二つ並べてじっと睨み詰めたまま、枯れ木のように突立っていました。  紅木大臣は静にその傍に歩み寄って、じっと二つの浅ましい死骸の姿を見ておりましたが、やがて今まで堪えに堪えていた涙が一時に眼に溢れて、両方の頬を流れては落ち、流れては落ちました―― 「紅矢、美紅……お前達はどうしてそんな姿になったのだ。どんな罪を犯してそんな罰を受けたのだ。お父様は今朝濃紅姫が家を出る時、たった一目お前等二人に会わせてやりたかった。けれどももし濃紅姫がお前達の姿を見たらば、どんなにか驚くであろうと思って、無理矢理に我慢をした。けれどもこの胸は張り裂けるようであったぞ。許してくれ、濃紅姫。噫、妻よ。お前も辛かったであろう。お前の云うのは尤もだ。紅矢は鉄になった。美紅は氷になった。残るは濃紅只一人。どこへも遣りたくないのは尤もだ。遣りたくない遣りたくない。けれども遣らねばならぬ。遣るならば両親が附き添うて、腰元に供させて、華やかに喜び勇んで遣りたかった。けれどもそれも出来なかった。身内の者が死ねば、その血筋の者はその日|一日と一夜の間、宮中へ出られないのがこの国の掟だ。だから紅矢や美紅はまだ生きている事にして、お前を宮中に出そうと思ったが、そのために又|却って驚かして、悲しまして、涙と一所に送り出した。  噫、兄は鉄になった。妹は氷になった。あとに残ったたった一人は、花で飾った馬車に乗って女王になるために泣きながら王宮に行った。女王になるのが何の嬉しかろう。王宮が何で楽しかろう。ああ。ああ。俺は気違いになりそうだ」  その声は次第に高まってしどろもどろに乱れて来ました。とうとう立っていられなくなって、両手を顔に当てたまま床の上に泣き倒れましたが、間もなくよろよろと立ち上って、 「石神に祈ろう。石神に祈ろう。濃紅姫の無事を祈ろう」  と云いながら室をよろめき出て行きました。  あとに残った青眼先生は、矢張り二ツの死骸を見つめたまま立っていました。けれども紅木大臣がこの室を出ると間もなく、有り合う椅子にドッカと腰を下して、腕を組み眼を閉じてじっと考え込みました。そうしてさも悲しそうに独り言を云いました。―― 「噫。やっとわかった。悪魔の逃げ途がやっとわかった。悪魔はあの銀杏の樹から逃げ出したのだ。この間の夢は正夢であった。美紅姫はたしかにあの夢を見たに違いない。そして王様も御覧になったに違いない。  そうだ。王様は美紅姫と一所に悪魔に魅入られておいでになるのだ。否。事に依るとあとの四つの悪魔が……王様の御姿を盗んで……」  青眼先生はここまで云って来ますと、忽ちブルブルと身ぶるいをして屹と王宮の方を眺めました。その顔は見る見る青褪めて、眉を釣り上げ唇を噛み締めました。  けれどもやがて何かに心付いた事でもあるのか、ホッと深いため息を吐いて、頭を低れて両方の拳を固く握り締めて申しました―― 「そうだ。自分はどうしても王様の正体を探り出さねばおかぬ。恐れ多い事ながら、もし今の藍丸王様が本当の藍丸王様でなかったならば……自分は是非本当の藍丸王様を探し出して、それを守り立て、今の藍丸王様を退けねばならぬ。悪魔を退治てしまわなければならぬ。美紅姫のようにしてしまわずにはおかぬ。それにしても宝蛇……この家を咀った宝蛇はどこへ行ったであろう。差し当り先ずこれから探り出さねばなるまい。  気の毒なのはこの家の人々だ。家中すっかり美紅姫に魅入った悪魔のために咀われてしまった。そして私はそれを助ける事が出来なかった。私の力が及ばぬとはいいながら二人までも死人を出してしまった。この家の人々は嘸私を怨んでおいでになるであろう。嘸頼み甲斐の無い奴と思っておいでになるであろう。  けれども仕方がない。その申訳をすればこの国の秘密をすっかり話して終わなければならないのだから。噫、この秘密……誰にも話す事の出来ないこの秘密。焼いて灰にしてあの銅の壺に入れた秘密。そしてそれを番するという、世にも六ケしい私の秘密の役目。国中の人間を皆殺しても、守らねばならぬ秘密の役目。何という不思議な六ケしい役目であろう。噫、私は何故青い眼に生れたろう。青い髪毛と青い髯を持った男に生れたろう。最早他に青い毛を生やした青い眼玉の男は一人も居ないかしらん。居たら直ぐに、私はこの大切な秘密の役目を譲ってしまいたい。  そうして私は毒でも飲んで死んでしまいたい。  噫。藍丸の国の秘密は灰になった。美紅姫の心の秘密は氷になった。紅矢の拳固の秘密は鉄になった。私の役目の秘密は何になるであろうか。石か。木か。水か。土か。何でもよい。早く青い眼、青い髪の男に出会って、この秘密を譲って、この恐ろしい役目を忘れたい」  青眼先生の独り言の中には次第に不思議な言葉が、いくつもいくつも出て来ました。けれどもここまで云って来ました時、青眼先生は唇を閉じてじっと窓の外の遠い処を見ました。そこには絵のように美しい藍丸王の宮殿が見えて、そこから又もや最前よりもずっと賑やかな音楽の響が聞こえて来ました。これはいよいよお目見得の式がはじまるという前兆らせでした。      二十 海の女王  この日御目見得に来た女は都合六人ありました。その内四人は、東西南北の四ツの国から、一人|宛選り抜かれて集まった女で、皆|各自の国の自慢の冬の風俗をしておりました。北の国の女は、美事な獺の皮の外套を着ておりました。南の国の女は、水鳥の毛で織った上衣を着ておりました。東の国の女は、空色の絹の裾を長く引いておりました。そうして西の国の女は、夕陽のように輝やく緋色の肩掛けを床まで波打たせておりました。この四人は皆四つの国々の中で、一等利口な一等美しいお姫様でしたが、併し他の二人の美しさに比べますと、まるでお月様と亀如程違っておりました。  他の二人は濃紅姫と美留藻でした。  濃紅姫は、最前家を出た時の通り白い着物の上に黒狐の外套を重ねて黄薔薇の花籠を手に持っていましたが、その何となく悲し気な気高い優しい姿は、他の四人の女達と一所に置くのも勿体ない位に思われました。けれども今一人はこれと違って、大きな金剛石の鈕を着けた紫色の男の服に華奢な銀作りの剣を吊るして、頭に冠った紫色の帽子には白鳥の羽根を只一本|挿していました。そうしてどうした訳か、その上衣の上から第一番目の鈕は他の金剛石と違って一輪の大きな白薔薇を付けていましたが、それが又誠によく似合って、眩しい位|凜々しく華やかに見えました。  この珍らしいお目見得の式を見に来ていた国々の貴い人々は、皆二人の美しいのに驚いて、神様か人間かと怪しみまして、一体どこにこんな美しい姫君が居たのであろうと怪しみました。けれども又その中に、皆が怪しみ驚いたよりもずっと驚いて、世の中にこんな不思議な事が又とあろうかと、吾れと吾が眼を疑っていた人がありました。それは他でもない濃紅姫でした。  濃紅姫はこの時までまるで夢中でいたのでした。お母様に抱き締められ、お父様に引き離されて王宮に来て、何が何やら解からず、泣く事も出来ずぼんやり立っていたのでしたが、この男姿の少女を一目見ると、ハッとばかりに驚いて、思わず声を立てるところでした。そうしてこれは本当に夢ではあるまいか。美紅はどうしてここへ来ているのであろう。あの姿はどうしたのであろう。もしや妾の眼の迷いではあるまいかと思いましたが、併し眼の迷いでも何でもありませんでした。顔色は常よりも紅をさして、姿も男の着物こそ着ておれ、あの紫に渦巻いた髪の毛。あの屹と王様を見詰めている眼付。キリリと結んだ口もと。どうしても美紅にそっくり……これはどうした事であろう。他人の空似にしてはあまりよく似過ぎていると、呆れて穴の明く程その横顔を見ておりました。すると、この時その少女が、六人の中からズカズカと前に進み出て、王様の前に恐れ気もなく近寄りました。そうして帽子を取って最敬礼をしますと、やがて銀の鈴を振るような声で挨拶を致しました。 「王様。妾はこの国の南の海の底にある海の国の女王で御座います。この度の王様の御布告を家来の蟹奴から承りまして、御恥かしながら海の底から、はるばると御目見得に参ったもので御座います。妾はこれまで参りますのに、誰も従いて来る者が御座いませぬから、旅を致すのに都合のよいように、こんな男子の姿を致して参りました。こんな勝手な風采を致しまして、陸の大王様に御目見得に参りました失礼の程は、何卒御許し下さいまし。そうして御目見得の印に持って参りました、この宝石の少しばかりを御受け収め下されましたならば、妾はもとより海の底の国人も皆、王様の広い御心に対して、はるかに御礼を申し上げる事で御座いましょう」  と云いながら、懐中から海の藻の一掴みを出して高く捧げましたが、その中から大きな紫色の金剛石の光りが虹のように輝き出て、さしもに広い大広間中に照り渡りました。  集まっていた人たち皆、この有様に眼も心も奪われて、酔うたようになってしまいました。そしてその場でその少女はお后に定まりましたが、又濃紅姫の閑雅な美しさも藍丸王の御眼に留まって、王様のお付の中で一番位の高い宮女として宮中に置く事に定まり、又|他の四人の女も王様のお側付となって、直ぐにその日から御殿に留まる事になりました。  けれども濃紅姫は自分がどんな役目をうけているか、自分の事を人々がどんなに評判をしているか、そんな事は少しも気にかける間がありませんでした。只一心に海の女王と名乗る少女の姿に見とれて、呆れに呆れておりました。ところがその中に不図濃紅姫は、恐ろしい事を思い出して、思わず身ぶるいをしました。「この少女はもしやあの、悪魔とかいうものではあるまいか。紅矢兄様は御病気の時、悪魔が美紅に化けていると仰しゃった。あの悪魔がこの女王ではあるまいか。それでなくてもし美紅ならば、妾の前に来てあんなに平気でいられる筈はない。そしてもし美紅でもなく又悪魔でもないとすれば、あのように、姿から声から髪毛の縮れ工合まで、美紅に似ている筈はない。悪魔。悪魔。悪魔に違いない。美紅に化けて兄様に大怪我をさせて、今度は海の女王に化けてこの国の女王になりに来たのか。事に依るとこの妾を咀うて、妾が女王になるのを邪魔しに来たのかも知れぬ。それに違いない。それに違いない。吁。妾の家はどうしてこんなに悪魔と縁が深いのであろう。何という執念深い悪魔であろう」  こう思うと濃紅姫は、今まで美しい妹そっくりの少女であった男姿の海の女王が、角を生やして口が耳まで裂けた悪魔の姿に見えて来て、恐ろしさの余り気が遠くなりそうになりました。そうしてその海の女王が、王様の傍近く進み寄って、女王の冠を戴いているのを見ると、さしもの大広間が大勢の人々と共にぐるぐるとまわるように思われました。そしてやがて皆の者が、一時に手を挙げ足を踏み鳴らして―― 「陸の大王様万歳!」 「海の女王様万歳!」  と割れるように叫びますと、濃紅姫は思わず声を挙げて―― 「海の女王は悪魔です」  と叫びましたが、可愛そうにその声は大勢の声に打ち消されてしまいまして、それと一所に濃紅姫は、あまりの恐ろしさに気絶して、床の上にたおれてしまいました。      二十一 死の夢  それから何日経ったか、何時間経ったか知りませぬが、濃紅姫は不図気がついて眼を開いて見ますと、自分はいつの間にか、今まで見た事もない美しい室の真中に寝台を置いて、その上に白い布団に包まって寝かされております。そうして頭の上に灯った絹張りの雪洞から出る蒼白い光りで見ると、自分の左右には、御目見得の時に居た四人の女が宮女の姿をして、自分の介抱をしながら寝台の縁によりかかって、四人共いぎたなく睡っている様子です。  濃紅姫はまだ夢を見ている気で、又眼を閉じてスヤスヤと眠りました。するとこの時に寝台の蔭から一匹の蛇が宝石の鱗を光らせながらぬらぬらと這い上りました。そうしてスヤスヤと眠りに落ちている姫の懐に這い込んで、玉のようにふくらんだ乳房の下を静かに吸い初めました。そうして間もなく腹一パイに血を吸いますと、口からポタポタと吐き出しましたが、その血は皆燃え立つような紅玉になって、サラサラと濃紅姫の胸から寝床や床の上に転がり落ちました。こうして吸っては吐いて、何度も繰り返す内に、濃紅姫の身体は、まるで宝石に埋まったようになってしまいました。  この時濃紅姫はスヤスヤと眠りながら不思議な夢を見ておりました。  その夢はいつか知らず濃紅姫が睡っている時に、どこか遠い遠い処で歌を謳う声が聞こえて来ました。その声は如何にも清く美しくて、自分の妹の美紅姫の声によく似ておりましたから、濃紅姫は不思議に思いまして、どこで謳っているのであろうと、耳を聳てて聞いておりますと、その声はだんだん近くなってつい直ぐ隣りの室で謳っているようで、しかもその歌は美紅姫が謳っているのでなく、この間紅矢兄様が王宮に差し上げた、あの赤い鳥の為業だという事がわかりました。その歌はこうでした。 「扨もあわれや濃紅姫。  扨も悲しや濃紅姫。  親兄弟に生きわかれ、  又死にわかれ泣きわかれ。  花の冠戴いて、  花の束をば手に持って、  花で飾って馬車の中、  身は生きながら葬いの、  姿となった濃紅姫。  藍丸国の王様を、  慕う心の一すじに、  今日のお目見得来て見れば、  藍丸王のお后は、  自分でなくて妹の、  美紅か悪魔か海の魔か。  今王宮の奥深く、  ひとり静かに眠る時、  熱い涙が眼に湧いて、  右と左にハラハラと、  流れ落ちるは夢ながら、  夢ではないという証拠。  夢の中なる夢を見て、  夢とは知らぬ現にも、  つらい悲しいこの思い。  われから迷う身の行衛、  知っているのは世の中に、  赤い鸚鵡の他にない。  世に美しい柔順なしい、  女の中の女とも、  見ゆる濃紅が何故に、  王の后になれないか。  美紅か悪鬼か王様の、  后になったは何者か。  知ってる者は他にない。  黒い海には波が立つ、  青い空には雲が湧く、  昔ながらの世の不思議、  今眼の前に現われた、  赤い鸚鵡の他にない」  濃紅姫はこの歌を聞きながらソロソロと起き上って、隣りの室の戸口に来て、なおも耳を澄ましていますと、たった今まできこえていた鸚鵡の歌はピタリと止みまして、室の中に人の居る気はいも為ませぬ。  そうして思いもかけぬ後ろから、そっと姫の肩に手をかけた者がありますから、ハッとしてふりかえって見ますと、それは懐かしい藍丸王でありました。王は親切に姫の手を執って―― 「お前はもうすっかり気分はよいのか。昨日の朝お前が気絶した時、俺は随分心配したが、最早すっかり治ったのか。それは何より嬉しい事だ。では最早夜が明けたから二人で花園に散歩に行こうではないか」  と仰せられます。濃紅姫は不思議に思って、今は冬で御座いますから何の花も御座いますまいと申しますと、王様は御笑いになって、まあ来て見るがいいと無理に姫を花園に連れておいでになりました。  来て見るとこれは不思議――春秋の花が一時に咲き揃って、露に濡れ旭に輝やいていますから、濃紅姫は呆れてしまって、恍惚と見とれていますと、王様はニコニコお笑いになりながら―― 「どうだ、濃紅姫。俺が咲かせようと思えば花はいつでもこの通りに咲くのだ。併しお前に聞いて見るが、お前はこの沢山ある花の中で、どの花が一番好きなのか。赤か。青か。黄色か。それとも白か。黒か」  とお尋ねになりました。  濃紅姫は暫く返事に困って考えていましたが、やがて悲し気に低頭れて―― 「妾はもとは桃色の花が大好きで御座いましたが、今は青いのが大好きになりました」  とこう御返事を申し上げました。すると王様は暫くの間何のお言葉もなく、棒のように突立っておいでになる様子ですから不思議に思って、姫はヒョイとお顔を見上げますと、こは如何に。王の顔はいつの間にか恐ろしい青鬼の顔に変っていました。  姫は気絶する程驚いて、そのままあとも見返らずに、夢中で王宮を走り出て自分の家に逃げ帰りましたが、門を這入るとほっと一息安心すると一所に、急に淋しく悲しくなりました。そうして早くお父様やお母様に会おうと思って、家中を探しましたが、家は只一日しか留守にしないのに、ガランとした空家になって、庭には草が茫々と生い茂り、池の水も涸れてしまって、まるで様子が変っています。濃紅姫はこの有様を見て、何だかもう堪らない程悲しくなって来て、思わずそこに泣き倒れようとしますと、不意にうしろから兄様の紅矢が来て抱き止めて、何をそんなに泣いているのだと尋ねました。姫は嬉しさの余り紅矢に獅噛み付いて―― 「あッ。お兄様。お父さまやお母様やそれからあの美紅はどこに居ますか」  と聞きました。すると紅矢はニコニコ笑いながら―― 「妹は兄さんのお使いで今一寸|他所へ行っている。それから御両親は今遠い処へお出でになっているが、そこを知っているのはあの『瞬』だけだ。丁度今『瞬』は門の前の馬車に繋いであるから、あれに乗って行ったら会えるだろう」  と申しました。姫は直ぐにその気になりまして、急いで門の前に引き返して見ますと、兄様の言葉の通り、「瞬」が馬車を引っぱって、そこにちゃんと待っていましたから、直ぐに飛び乗って手綱を取り上げて、鞭を高く鳴らしました。  馬車は野を越え川を渡って、山を乗り越し谷を飛び渡りながら、北の方へ流星のように走りましたが、やがて涯しもなく広い砂原へ来ますと、轍が砂の中へ沈んで一歩も進まなくなりましたから、今度は馬車を乗り棄てて徒歩で行きました。やがて四方には何も見えず、只砂の山と雲の峰ばかり見える処に出ましたが、そこには山のように大きな石で出来た男が寝ていまして、濃紅姫を見るとむっくりと起き上って、見かけに似合わぬ細い優しい声で―― 「お前さんはこんな処へ何しに来たのだ。どこから来てどこへ行くのだ」  と尋ねました。姫はこの石男のあまり大きいのに吃驚して、暫くは返事も何も出来ませんでしたが、併し別に悪い者でもなさそうですから、今までの自分の身の上をすっかり話して、何卒お父さまやお母様に会わして下さいと頼みました。石男は濃紅姫の身の上話を聞きますと、どうした訳か解かりませんが大層歎き悲しみました。そうして吾れと自分の頭の毛を掻きむしって―― 「吁。皆俺が悪いのだ」  と泣きながら水晶の玉を眼からぼろぼろと落していましたが、やがて気を取り直しまして、濃紅姫に向って親切に―― 「噫、お嬢様。貴女がそんなに非道い目にお会いになるのは、皆私が悪いからで御座います。何卒御勘弁なすって下さいまし。けれども今更どうする事も出来ませぬから、その代り貴女に御両親のおいでになる処を教えてあげましょう。そこへ行って貴女は今までの苦労をすっかり忘れて、楽しく眠っておいでなさい。決して眼を覚ましてはいけませぬよ。眼を覚ますと貴女は又、あの恐ろしい藍丸王や海の女王の処に帰って、悲しい目を見なければなりませぬから、そのおつもりでいらっしゃい。貴女はこれから真直に北の方へ、どこまでも歩いてお出でなさい。そうすれば決定そこで貴女の御両親にお会いなさるでしょう。左様なら。御機嫌よう。可愛い、可愛い濃紅姫」  と云うかと思うと、そのまま又もやゴロリと仰向けに引っくり返って眠ってしまいました。  姫はこの石男に別れてから、その教えの通りに猶ずんずんと北に向って進んで行きますと、やがて日が暮れ初めた頃、向うに火に柱を吹き出している岩山と、その火の柱の光りに輝やいている一つの湖が見えて来ました。その火の柱の美しい事。まるで千も万もの花火を一時に連けて打ち上げるようで、紅や青や黄色やその他|種々の火花が散り乱れて、大空に舞い昇っていましたが、不思議な事にはその轟々と鳴る音をじっと聞いていますと、お父様の声のように思われるではありませぬか。濃紅姫は嬉しくて堪らず、足の疲れも忘れてなおも進んで行きますと、やがて今度はどこからとなく懐かしいお母様の声が聞こえて来ました。姫は思わずその声の方に誘われて、その方へ迷って行きますと、やがて湖の岸まで来ましたが、その声はどうも湖の真中あたりから聞こえて来るようです。  姫は直ぐにザブザブと湖の中に這入って行きましたが、水は次第に深くなって、膝から腰へ腰から胸へと届いて来ました。それでも構わずになおも進んで行きますと、姫はとうとうすっかり水の底へ沈んでしまいました。けれどもちっとも息苦しい事はなく、四方は皆緑色になってしまって、その中に火の山の光りが輝き落ちて、沢山の花の形になって浮かんで、まるで花園のようになってしまいました。その中を押しわけ押しわけ行きますと、やがてその花園の真中に、お母さまが白い衣服を着て立っておいでになりまして、姫を見ますと莞爾とお笑いになり、そのまま姫を軽々と抱き上げて、優しい手で髪を撫で上げながら―― 「まあ、お前は今までどこへ行っていたの。これからお母さまに云わないで遊びに行ってはいけませんよ。さぞお腹が空いたでしょう。さ、お乳をお上り」  と云いながら懐を開いて、乳房を出してお含ませになりました。  姫は身も心もいつの間にか、赤ん坊になってしまった心地がして、何だか悲しいような嬉しいような気になりまして、涙が止め度なく流れましたが、やがてお母様の静かに御歌いになる子守歌を聞きながら、暖い乳房を含んで柔順しく眠ってしまいました。 「牡丹の花がひイらいた。  桜の花がひイらいた。  夢の中からひイらいた。  可愛いお眼々がひイらいた。    お太陽様がニコニコと、    お月様がニコニコと、    可愛いお眼元お口もと、    一所に笑ってニコニコと。  百合の花が閉んだ。  お太陽様が沈んだ。  可愛いお眼々もうとうとと、  夢の中へと閉んだ」      二十二 白木の寝台  翌る朝まだ夜が明け切らぬうちに王宮の表門が左右に開いて二人の騎兵が駈け出しましたが、門を出ると二ツにわかれて、一ツは青眼先生の方へ駈け出し、一ツは紅木大臣の家の方に飛んで行きました。  紅木大臣は昨日濃紅姫を送り出すと直ぐに門を固く鎖して、二人の小供の死骸を石神の部屋に移して、そこで公爵夫人と一所に一日一夜の間泣き明かしましたが、一方濃紅姫の事も気にかかって心配で堪りませぬ。最早お后になった知らせが来るか。最早王宮からお祝いの品物が届くかと待っておりましたが、とうとうその日一|日は何の知らせもありませぬ。紅木大臣は心配のあまり家来を町に出して人の噂を聞かせますと、お目見得に来た女は六人共、皆宮中に留っているとの事で、詳しい事はよくわかりませぬ。その中にやがて翌る朝になって、夜がやっと明けかかった時、紅木大臣は室の窓を開いて王宮の方を見ました。すると王宮の方から馬の蹄鉄の音が高く響いて来て、その一ツは青眼先生の家の方へ行き、一ツは自分の家の門の中へ駈け込んで、玄関の処でピタリと止まりました。紅木大臣はこれは屹度濃紅姫が后になったその知らせのための使いであろうと思って、取り次の者も待たずにツカツカと玄関に出て見ますと、案の定、背の高い騎兵が一人、見事な逞ましい馬を控えて立っています。  その騎兵は紅木大臣を見るとハッと固くなって敬礼をしました。そうしてはっきりとした言葉付で―― 「女王様からのお言葉で紅木大臣へ直ぐ宮中にお出で下さるようにとの事で御座います」  と申しました。 「何。濃紅女王様が俺に直ぐ来いと仰せられたか」  これを聞くと騎兵はキョトンと妙な顔をしました。 「イエ。女王様は濃紅という御名では御座いませぬ」 「エエッ。ナ、何という」  騎兵は紅木大臣のこう云った声と見幕に驚いて震え上って了いました。そうして六尺にあまる大きな身体をブルブルと戦かせて返事も出来ずにいますと、紅木大臣はつかつかと玄関の石段を降りて来て騎兵の胸倉をぐっと掴みました―― 「ナ、何という……御名だ」 「ウ……海の女王」 「どんなお方だ」 「美しい……お方」 「馬鹿者……それはわかっている。どんなお姿だ」 「紫の髪毛を垂らして」 「エエッ」 「銀の剣と……コ、金剛石の……」 「何ッ」 「オ……男の着物を召して……」 「悪魔だッ……」  と叫びながら紅木大臣は、騎兵を突き飛ばして奥へ駈け込みました。そうして何事と驚く家の者には一言も云わず、剣を腰に吊るして外套を着て帽子を冠るが早いか、廏へ行って馬を引き出して鞍も置かずに飛び乗りますと、イキナリ馬の横腹を破れる程|蹴付けました。  馬は驚いて狂気のようになって、一足飛びに飛び出しましたが、いつ迄も往来に出ずに同じ処ばかりぐるぐるまわっていますから、紅木大臣は自烈度がって―― 「エエ。何をしているのだッ」  と叫びましたが、見ると馬はいつの間にか、紅木大臣の屋敷の中にある、大きな丸い馬場の中に駈け込んで、死に物狂いに駆けまわっています。紅木大臣は歯噛みをして―― 「エエッ。この畜生ッ。表門へ出るのだッ」  と罵りながら、馬をキリキリ引きまわして、花園も芝生も一飛びに、表門に飛び出しましたが、その時はもう最前の騎兵は疾くに王宮に帰り着いている頃でした。  紅木大臣は王宮の表門を這入ると、一直線に玄関まで乗り付けて、馬からヒラリと飛び降りましたが、帽子はいつの間にか吹き飛んで了っていました。そうして取り次の者も待たずに勝手知った奥の方へズンズン這入って行きますと、今日は平生と違って王宮の中はどの廊下もどの廊下も鎧を着た兵士が立っていて、皆|鞘を払った鎗や刀を提げて、奥の方を一心に見詰めながら、素破といわば駈け出しそうにしています。けれども紅木大臣はそんなものには眼もくれず、つかつかと奥へ進み入って、王様のお居間に参りましたが、そこには只玉座ばかりで王も女王もおいでになりませぬ。そうしてずっと向うの腰元の室から、思いがけない青眼先生の慌てた声で―― 「女王様。お気を静かに。お気を静かに」  と云うのが聞こえましたから、扨はと思ってその方に急ぎました。  ところが腰元部屋の入り口に来て中を一眼見るや否や、紅木大臣は身体中の筋が一時に硬わばって、そのまま床から生えた石像のように突立ちながら、中の様子を睨み詰めました。  室の真中には綺麗な白木の寝台があって、その上には絹張りの雪洞が釣るしてありました。寝台の上には死人があると見えて、白い布が覆せてあり、寝台の四隅の足には四人の宮女と見える女が髪をふり乱して気絶したまま、グルグル巻きに縛り付けてあります。寝台の向うにこちら向きに椅子を置いて、腕を組んで、眼を閉じて座っているのは藍丸王で、寝台の前には青眼先生が突立って、両手をさし展べています。そしてその手に縋って、青眼先生の顔を見上げている、女王の姿をした者の顔を見ると、どうでしょう。一晩夜の晩氷になってたった今まで石神の前に置いてあった、あの美紅姫に寸分|違わぬではありませんか。  悪魔、悪魔と思い込んで来た紅木大臣も、これを見ると今更に、吾れと吾が眼を疑って呼吸も出来ぬ位固くなってしまいました。そうして眼を皿のようにして女王の姿を見詰めていました。  女王は髪を藻のようにふり乱し、顔の色は真青になって、震える唇を噛み締め噛み締め、はふり落ちる涙を拭いもせずに、青眼先生の顔をふり仰いでおりましたが、忽ち血を吐くような声をふり絞って叫びました―― 「青眼先生。教えて下さい。これは夢でしょうか。本当でしょうか」  すると青眼先生は女王の顔を穴の開く程見ながら、落ち付いた力強い声で答えました―― 「夢だか本当だかは女王様のお言葉に依って定まります。何卒、何事も包まずに、私にお話し下さいませ。私は只今王様からの御使者を受けまして、女王様が今朝濃紅姫の御逝れになった御姿を御覧になると直ぐに、恐れ多い事ながら気が御狂い遊ばして、あるにあられぬ奇妙な事ばかり仰せられるとの事。それで私の今までの罪を赦すから、直ぐに女王の病気を見に来るようにとの、有り難い御言葉を承りまして、取るものも取り敢えず参いった次第で御座います。ところが只今女王様の御姿を拝しますると、女王様は決してそんな忌わしい御病気におなり遊ばしたのでは御座いませぬ。そして私はそれよりもずっと驚きましたのは、女王様がどうして生きてここにおいでになるかという事で御座います。何をお隠し申しましょう。昨日の朝女王様がまだ美紅姫で入らせられる時に、私はたしかに女王様を殺しました。その女王様がここにこうして生きておいでになろうとは、私は夢にも存じませんで御座いました。何に致してもこれには何か深い仔細がある事と思います。私は、決して女王様の御言葉を御疑い申し上げませぬ。さあ、女王様。決して御心配には及びませぬ。女王様が、その石神の夢を御覧遊ばしてからどうなされましたか、詳しく御話し下されませ。石神の話はこの国の秘密の話で、これを聞いた者は、その話しの中に居る悪魔に取り憑かれると、昔から申し伝えて御座います。私は今日までその悪魔を固く封じておりましたが、それがいつの間にか逃れ出て、女王様に取り憑いたと見えまする。こうなれば王様と女王様には、秘密に致す要も御座いませぬ。却ってその秘密を破って、何も彼も御話し下されました方が悪魔を退治るのに都合がよろしゅう御座います。ここには仕合わせと王様と私より他に聞いているものは御座いませぬ。何卒御構いなく御話し下さいませ。決定女王様の御心の迷いを晴らして、悪魔を退治て差し上げましょう」  と云いながらも女王の手をしっかりと握り締めました。女王は最早立っている力も無くて床の上に頽折れました。そうして―― 「ハイ。何卒聞いて下さい。そうしてよく考えて妾を助けて下さい」  と云いながら、涙を拭い拭い言葉を続けました―― 「妾はあの夢を見てから後は、明け暮れ自分の室に閉じ籠もって、美留女姫であった昔が本当か、今の美紅の身の上が本当か考えましたが、どうしても解りませんでした。そうしてこれが解からぬ内は、何をしても張り合いがないような気がして、誰に何と云われても何も為る気になりませんでした。紅矢……兄様のお怪我も……濃紅姉様の身の上も……何だか……夢のような気がしていたので御座います。  すると丁度そのお兄様がお怪我遊ばした日の事、妾は青眼先生がお出でになるという事を聞き、扉の隙間からソッと覗いていましたが、前をお通りになる先生の御姿を一目見るや否や、妾は扉をしっかり閉じると、そのまま気絶してしまいました。青眼先生は妾の思い通り、あの夢の中で、妾を悪魔だといって殺そうとしたお方で御座いましたから、もし見付かったらどうしようと思ったからで御座います。  それからどれ程位の間気絶したままでいましたものか、不図気が付いて見ますと、時分は丁度真夜中で、妾はいつの間にか戸棚の中に突立っています。そうして戸棚の扉の鳥の形をした透し彫りが、丁度眼の前に見えます。  妾は暫くの間は何事かわからずに、ぼんやりと鳥の透し彫りから洩れて来るラムプの光りを見詰めたまま突立っておりました。もしやこれはまだ本当に眼が醒めずに、夢を見ているのではないかと思いました。ですから妾はよく心を落ち付けて、眼をしっかりと見開いて、鳥の透し彫りから覗いて見ました。そうして室の中に灯れている丸|硝子の行燈の、薄黄色い光りで向うを見ますと、妾は自分の眼を疑わずにはおられませんでした。妾の寝台の上には、妾の寝巻を着た、妾そっくりの女が、平然妾がする通りに髪毛を寝台の左右に垂らして、スヤスヤと睡っているでは御座いませんか……ハッと驚いて自分の着物を探って見ますと、どうでしょう。妾の着物はいつの間にか、奇妙な男の着物とかわっていたので御座います」 「貴女そっくりの女。そうして貴女は男の着物……」  と青眼先生は魘えたような声で申しました。      二十三 自分の寝姿  外に立っている紅木大臣も、この時両方の拳も砕けよと握り締めましたが、女王も亦恐ろしくて堪らぬように、身を震わして答えました―― 「ハイ。昨日海の女王と名乗って、お眼見得に来た時の姿と同じ男の着物でした」 「してそれから貴女はどうなされましたか」 「妾はあまりの不思議に身動き一つ出来ず、自分の寝姿を見詰めていました。そしてその中にどちらが妾なのかわからなくなりました。妾が美紅か、向うが美紅か。妾が美紅ならばあの眠っているのは誰であろう。睡っているのが美紅ならば、この醒めている妾は何者であろう。もしや妾が何かの魔法で、二人にされているのではあるまいか。それでなくてこんなによく肖ている筈はない。それとも身体が向うに残って、心がこちらにあるのではあるまいか。それならばこの身体は誰の身体であろう。又は心が向うに幽霊になって抜け出して現われているのであろうか。それならばこの心は誰の心であろう。どちらが本当であろう。どちらが嘘であろう。両方とも本当か。両方とも嘘か。向うとこちらは別か一所か。もしや眼の迷いではあるまいか。心の迷いではあるまいか。それとも夢かまぼろしかと、すっかり迷ってしまいまして、今にも太陽の光りがさし込んで来たらば、妾は消え失せてしまうのではないか。それでなくとも、このまま戸棚の外に出たならば、直ぐに眼が覚めるのではあるまいかと、迷って、恐れて、震えて、立ち竦んでおりますと、不意に窓の外に人の来る気はいがしました。  妾はこの時何だか自分の身の上に、怖ろしい事が起りかかっているように思われて、恐ろしさの余り呼吸を吐く事も出来ませんでした。そうして戸棚の中から一心に、窓の処を見つめておりますと、間もなく窓からそっと顔を出して中の様子を見た人がありました。それが青眼先生、貴方でした」 「あっ。それではあの時貴女は戸棚の中から見ておいでになりましたか」  と青眼先生は呼吸を機ませて尋ねました。 「けれどもその時の恐ろしかった事。扨は青眼先生はいよいよ妾がこの家に居る事がおわかりになって、この間の夢の中で銀杏の葉の袋を切り破った時と同じように、妾を矢張り悪魔と思って、殺しにおいでになったに違いない。それにしても青眼先生は、あの寝床の中の美紅を妾と思ってお出でになるのであろうか。それとも妾がここに隠れているのを御存じなのであろうか。どちらを御殺しになるであろうと、息を殺して震えながら見ておりました」 「噫。私はあの時|寝台の中の女を悪魔だと思い込んで殺したので御座いました。この国の秘密を守るため。王様のため。国のため」  と青眼先生は吾れを忘れて叫びました。 「ハイ。けれどもそれは大変な間違いで御座いました。貴方が悪魔と思ってお殺しになった女は、悪魔でも何でもない美紅姫で、かく云う妾こそ悪魔で御座いました。妾はその時から美紅姫では御座いませんでした」 「エ。エ。エ」  と青眼先生はよろよろとあと退りをして、屹と身構えをして女王の顔を穴の明く程見詰めました―― 「女王様。貴女は本当に気がお狂い遊ばしたので御座いますか」 「イエイエ。少しも狂いませぬ。又嘘も申しませぬ。妾こそ悪魔で御座いました。美紅姫にそっくりそのままの姿をした悪魔で御座いました」 「ウーム」  と青眼先生が両方の手を石のように握り固めながら、女王の顔を睨み詰めますと、室の外の紅木大臣も、思わず刀の柄に手をかけて身構えました。けれども女王は騒ぎませんでした。落ち付いて床の上に座ったまま、青眼先生の顔を仰いで話しを続けました―― 「御疑いになるのも御尤もで御座います。本当は妾もまだその時の疑いが晴れませぬ。ですからこのように打ち明けてお話しをするので御座います。本当の事を申しますと、妾はあの時貴方にあの毒薬を注ぎかけられて、氷になってしまった方が仕合わせで御座いました。なまじいに生き残ったために、妾は悪魔に魅入られた女になってしまいました。  あの時あの少女が悪魔と呼ばれて眼をさまして、『妾は美紅です。この家の娘です』と叫ぶ間もなく、青眼先生から毒薬を注ぎかけられてたおれました時、妾は自分の身体の血が凍ったように思って、心も身体も一所に消え失せたと思いました。けれども間もなく又ふっと気が付きますと、不思議やその時妾の心は、今までとすっかり違って、世にも恐ろしい女の心と入れかわっておりました。妾はその時から今朝まで、美紅姫でも何でもない――多留美という湖の近くに住む、藻取という者の娘で、美留藻という女――美紅姫と同じように夢の中で美留女姫となって、白髪小僧と一所に銀杏の葉に書いた石神のお話を読んだ女――湖の底に鏡を取りに行ったまま、行衛知れずになった女そのままの美留藻になっておりました。そしてそれと一所に、妾はたった今まで美紅姫であった事を忘れてしまって、貴方が美紅姫の死骸を残して、窓から出てお出でになると直ぐに、戸棚の扉を開いて外に出まして、眼の前の寝台の上に横たわっている、美紅姫の氷の死骸を見ると、思わず莞爾と笑いました。そして先ずこれで美紅は死んだ。あとは明日のお眼見得の式で濃紅姫に勝ちさえすれば、妾は間違いなく女王になれると思いました。  青眼先生。妾は全く恐ろしい女で御座いました。悪魔よりももっと無慈悲な女で御座いました。初め妾が夢の中で美留女でいる時に、銀杏の根元で拾った書物に、妾が女王になった挿し絵があるのを見ますと、妾は急に女王になりたくなりました。それと一所に石神のお話の続きも見とう御座いました。つまり夢の中で見た美留女姫の心を、眼が覚めてからも忘れる事が出来なかったので御座います。そうして眼が覚めて後赤い鸚鵡だの、宝蛇だの、水底の鏡だのを見ますと、いよいよあの夢は本当の事に違いないと思いまして、どんな事をしても構わないから、あの夢の通りに自分の身の上をして仕舞おうと思いました。それから妾は親を棄て、夫を捨てて只一人、女王になるために都に向いました。  妾はそれから女王になるためにいろいろな悪い事を致しました。  青眼先生。この間紅矢様が大怪我をなすった時、初めに先生が御覧になった紅矢様は、本当の紅矢様では御座いませぬ。妾が紅矢様の馬と着物を詐欺り取って、紅矢様に化けて来ていたので御座います。それから二度目の時は、妾が『瞬』に乗って、紅矢様のお帰り途に押しかけて、出会い頭に馬を乗りかけて怪我をさせましたので、妾はその死骸を先生の御門の処まで持って来て、放り出して逃げて行ったので御座います。  妾はそれから又もや紅木大臣のお邸敷へ、騒ぎに紛れて忍び入って、美紅姫の室に這入りました。見ると美紅姫はどうした訳か、気絶して床の上に倒れたまま、誰も気付かずにおります。妾はよい都合と喜びまして、兼ねてから髪毛の中に隠しておいた宝蛇を、美紅姫の懐に押し込みました。これが今のように、美紅と美留藻と一所になってわからなくなるはじめとは、その時夢にも思い当りませんでした。  宝蛇が美紅姫の胸から血を吸い初めますと、不思議や妾は自分の身体の血が消え失せるように思いまして、急に眼が眩んで立っている事が出来ずに、床の上にたおれました。  妾はその時夢中になって藻掻きました。そして自分が宝蛇に噛まれて血を吸われていると思いましたから、一生懸命になって自分の胸を掻きまわして、掴み散らしますと、やがて急に胸の苦しみが除れてしまいましたから、ほっと一息安心をしました。が、それと一所にやっと正気になりましたから、眼を開いてあたりを見まわしますと……どうでしょう。最前お話しました時とは反対に、妾はいつの間にか美紅姫が今まで着ていた寝巻と着かえて、片手に宝蛇をしっかりと握って床の上に寝ております。そして直ぐ傍には妾そっくりの男の姿をした女が、あおむけにたおれているでは御座いませぬか。妾は驚きの余り思わず立ち上りました。するとそれと一所に妾の懐から一掴みの紅玉の粒がバラバラと床の上に落ちました。  その時の妾の心地――それは最前妾が美紅としてお話し致しました時と少しもかわりませぬ。全く妾は美紅か美留藻か自分でわからなくなりました。妾が誰を殺そうと思って宝蛇に血を吸わせたのか、それすらわからなくなりました。今の様子では自分を殺すために自分の胸に宝蛇の牙を当てがったとしか思われませぬ。妾はあまりの不思議にぼんやりとして、眼の前に横たわっている男の姿の自分そっくりの娘を見詰めたまま突立っておりました。  けれども暫くしてから、妾はやっと気を落ち付けて考える事が出来ました。これは屹度悪魔の仕業に違いない。何故かと云えば、美紅姫も妾も二人共同じ夢を見て、同じ悪魔の話を聞いたに違いないのだから、二人共悪魔に魅入られているにきまっている。そうして鏡だの、蛇だの、鸚鵡だのを妾の方が先に見たから、悪魔が妾の方に加勢して、妾に知恵を授けているのに違いない。妾に美紅姫に化けよと教えるのに違いない。屹度そうだと思いますと、妾は最早すっかり疑いが晴れました。妾は矢張美留藻であった。行く末は、この国の女王になる美留藻であった。こう思って妾は最早女王になったように喜び勇みました。そうして直ぐにたおれている美紅姫の懐を探って、兼ねてから隠しておきました青眼先生の眠り薬を取り出して、美紅姫に嗅がせまして、そのまま戸棚の中に押し隠しました。こうして妾はいよいよお目見得の式の朝になった時、着物を取り換えて自分の代りに本当の美紅姫を寝台に寝せて逃げて行くつもりでした。そして昼の間は妾は室に閉じ籠もって、成るたけ家の人にも姿を見せぬようにして、真夜中になってから起き上って、薬のために眠っている美紅姫の着物と着換えては、窓から飛び出して悪い事を致しました。  妾はこの時自分で自分の智恵に感心をしておりました。こうすれば妾はいつ家の人に見咎められても美紅としか見えませぬ。けれども一番おしまいの晩にとうとう貴方――青眼先生に見付けられてしまいました。  あの時妾は、紅矢様を苦しめに行きましたが、折角歌で誘い出した貴方が、引き返してお出でになる様子ですから、急いで自分の室に帰ろうとしましたが、その時妾があまり急いで紅矢様の身体から蛇を引き放しましたために、紅矢様は眼をさまして、妾を見るといきなり飛び付いて、左手で妾の胸の鈕を掴みました。今でも紅矢様の掌の中には一ツの大きな金剛石を握っておいでになるに違いありませぬ。妾はそれを振り千切って逃げて帰って、知らぬ顔をして寝ておりました。それを貴方に見付けられたので御座います。妾が貴方から氷の薬を注ぎかけられました時、妾はもう助からぬと思いました。けれども一旦気絶して、たおれて又気が付きますと、どうでしょう、妾はいつの間にか戸棚の中に、男の服を着て立っていたので御座います。  この時もし妾に今までの美紅の心が少しでも残っていたらば、妾は女王にはならなかったで御座いましょう。こんな恐ろしい悲しい思いを為ずとも済んだで御座いましょう。けれどもこの時は妾はすっかり美留藻の心になり切っておりましたから、少しも疑わず恐れずに、美留藻そのままの仕事を続けました。  妾はこの時美紅姫と紅矢様が、鉄と氷の二ツの死骸になってしまったのを見て、すっかり安心をしまして、この塩梅ならば紅木大臣を初め家の者は明日のお目見得に来ないであろう。そうすれば自分を見咎めるものは一人もあるまいから、安心して女王になる事が出来る。それからあとは青眼先生――貴方をどうかして罪に落して亡い者にし、又濃紅姫を無理にも宮中に止めて殺してしまえば、あとは一生安心と、こう思って紅木大臣の家を脱け出ました。そうして大急ぎで宮中に駈け付けて、お眼見得の式に間に合いました。そのあとは御存じの通り首尾よく女王になり済まして、濃紅姫を宮女にしました。そうして……そうして……」  と云う中に女王は急に床の上に突伏してワッとばかりに泣き出しました。  今まで固くなって身構えをしていた青眼先生は、これを見ると慌てて跪いて、女王の手を取って引き起しました。そうして声を震わせながら―― 「お泣き遊ばしてはわかりませぬ。それから……それからどうなされました」  と女王の顔を覗き込んで尋ねました。  するとこの時女王は急によろよろと立ち上りましたが、忽ち身を寝台の上に投げかけて泣き叫びました―― 「許して下さい、お姉様。貴女を殺したのは四人の女では御座いませぬ。妾で御座います。美留藻の美紅で御座います。昨夜まで美留藻であった妾は貴女が憎くて堪らずに、宝蛇を使って貴女の血を吸わせました。そうして……そうして……今朝……紅玉に埋まった貴女を見た時……その時の悲しさ恐ろしさ……。噫。妾は美留藻でしょうか。美紅でしょうか。噫。お父様。お母様。許して下さい。妾は兄様を殺し……姉様を殺しました。そうして妾は何故……何故死なぬのでしょう。噫、恐ろしい。情ない。死にたい死にたい。お姉様と一所に死にたい」  と死骸に縋り付いて、消え入らんばかりに泣き狂うて叫びました。  これを見た青眼先生の眼からは、忽ち涙がハラハラと溢れ落ちました。そうして慌てて走り寄って、女王を抱き除けながら―― 「女王様。気をお静かに。お静かに。女王様は美紅姫で入らせられます。今は御心も御|身体も、美紅姫で入らせられます。貴女のお家に災を致しましたのは……お兄様やお姉様を殺しましたのは、今氷になっているあの美留藻の魂が、貴女に乗り移って為た事……」  と申しましたが、その言葉のまだ終るか終らぬかに、雷が落ちたような声を立ててこの室に飛び込んで来て、二人を左右に突き飛ばした者がありました。それは紅木大臣でした。それと見ると女王はよろめき倒れた身を起して―― 「あれ。お父様」  と一声高く叫びながら駈け寄ろうとしましたが、紅木大臣の見幕があまり恐ろしいので、思わずハッと踏み止まりました。そうしてワナワナ震えながら―― 「オ……お父様……お父……様……」  と云う中に次第にあと退りをして、一方の壁に倚りかかって身体を支えました。青眼先生も紅木大臣の見幕に驚いて、床の上に尻餅を突いたまま、呆気に取られて大臣の顔を見詰めておりました。  紅木大臣はその間につかつかと寝台に近寄って、白布を取り除けました。その下には髪毛から首のあたり――胸から爪先へかけて、一面に紅玉に包まれて、臘のように血の気を失った濃紅姫の死骸が仰向けに横たわっております。  それをじっと見ていた紅木大臣の髪毛は、見る見る中に皆逆さに立ちました。顔色は真青になって、眼は火のように血走りました。そうして歯をギリギリと噛み鳴らし、身体をワナワナと震わせながら、剣の柄を砕くるばかりに握り締めて、屹と女王の顔を睨み付けましたが、やがて火を吐くような声で罵りました。 「悪魔。悪魔。貴様は美紅ではない。女王ではない。又美留藻とかいう者でも何でもない。美紅を身代りとして青眼先生に殺させ、その次には紅矢を殺し、今は又この濃紅を殺して、この国の女王の位を奪おうとする悪魔。悪魔。大悪魔だ。根も葉もない作り事をして、美紅に化けて欺こうとしても、この紅木大臣は欺されぬぞ。その化けの皮を引ん剥いてくれる。吾が児の讐覚悟しろ」  その声は暴風のように室の中を渦巻きました。  そうして一歩退ってギラリと剣を引き抜いたと思うと、女王に飛びかかろうとしましたが、彼の時早くこの時遅く、青眼先生がうしろからしっかりと抱き止めました。すると紅木大臣は歯噛みをして―― 「エエッ、放せ。放さぬか。貴様も悪魔の片割れか。今まで悪魔と馴れ合っていたのか。放せ。放せ。奴レッ」  と身もだえをするその手に女王は走りかかって縋り付きました。そうしてその顔を見上げながら叫びました―― 「殺して下さい。お父様。妾は……もう……この上の苦しみは見られませぬ。生きては……生きてはおられませぬ。この剣で……さあ一思いに殺して下さい。姉様と一所に死なして下さい。青眼先生、放して下さい。この手を……お父様を放して下さい」  と無理に青眼先生の手を捕まえて引き離そうとしました。紅木大臣はこの時あらん限りの力を出して―― 「エエッ」  と一声叫ぶと一所に二人を両方に振り放しました。そうしてなおも縋り付こうとする二人を、又も左右に蹴倒しますと、二人共一時に気絶してグタリと床の上に横たわりました。  この時最前から椅子に腰を掛けたままこの場の様子を冷やかに笑って見ておりました藍丸王は、矗とばかり立ち上りましたが、その右手を高く挙げたのを見ると、一匹の恐ろしい姿をした蛇が、宝石の鱗を眩しい程光らせながら、真赤な舌をペロペロと吐いて巻き付いておりました。こうして王は高らかに叫びました―― 「紅木大臣。よく見よ、よく聞けよ。この蛇はこの国の大切な宝だ。誰でもこの蛇を持って来た者はこの国の女王になるのだ。美紅であろうが美留藻であろうが、そんな事は構わぬのだ。そうして女王に害をする者は、皆殺して終うのがこの蛇の役目だ。貴様とても許さぬぞ」 「何を……何をッ」  と紅木大臣は血走った眼で王を睨み付けて叫びました―― 「それならば貴様も悪魔だ。本当の藍丸王ならば、そんな汚らわしいものをお持ちになる筈はない。そんな無慈悲な事をなさる筈はない。貴様も悪魔が化けたのであろう。女王も悪魔。貴様も悪魔。悪魔。悪魔。大悪魔だ。エエ知らなんだ。気付かなんだ。そうと知ったら早く退治ておく者を。最早容赦はならぬ。この紅木大臣が忠義の刃を受けて見よ」  と云うより早く王を眼がけて飛びかかろうとしましたが、この時王が右手を挙げるのを見るや否や、一時にドッと籠み入った多くの兵士は、一方は王の周囲を取り囲んで仕舞い、一方は紅木大臣を取り巻いて身体中隙間もなく鎗を突き付けて、動かれぬようにしてしまいました。そうしてその間にその他の者は気絶した女王と青眼先生を抱え上げて、急いでどこかの室へ運んで行きました。  槍の穂先に取り囲まれた紅木大臣は、身動きも出来ぬようになりまして、棒のように突立ちながら歯切りをして、兵士の顔を睨みまわしていましたが、やがてその持っていた剣をカラリと床の上に取り落すと、そのまま高い暗い天井を仰いで、髪毛を一筋|毎にビリビリと震わしながら―― 「アーッハッハッハッ」  と高らかに笑い出しました。その気味悪さ。恐ろしさ。周囲の兵士は思わず槍を手許に控えて、タジタジとあと退りをしました。  けれども紅木大臣の笑い声は、なおも高らかに続きました―― 「アッハッハッハッ。可笑しい可笑しい。こんな可笑しい事が又とあろうか。何という馬鹿馬鹿しい事だ。アッハッハッハッ、俺は今やっと思い出した。昔の名前を思い出した。俺の名前は美留楼公爵というのだった。何だ、馬鹿馬鹿しい、馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しい。アッハッハッ。  あれ、美留女が本を読んでいる。白髪小僧が居眠っている。アハ。アハ。何の事だ。俺はこのお話を本当の事かと思った。これ、美留女。止めろ。止めろ。そんな本を読むのを止めろ。あんまり非道いではないか。あんまり情ないではないか。お前はそれを平気で読むのか。お父さまは最早聞いていられない。コレ。止めろ。止めろと云うに」  と云いながらよろよろと前の方によろめき出ましたが、濃紅姫の寝台に行き当って、又ハッと気が付きました。そうして寝台に倒れかかったままじっと濃紅姫の死体を見ていましたが、見る見るその眼は又|旧の通りに釣り上りました。 「エエッ。矢張り本当の事であったか。濃紅姫は死んだのであったか。よしそれならばこうして……」  と云う中に自分の外套を脱いで、濃紅姫の死体をクルクルと巻いたと思うと、肩に荷ぐが早いか一散にこの室を走り出ました。これを見ると火のように怒った藍丸王はそのあとから叫びました―― 「ソレッ。あの家の者を鏖にしてしまえ。あとは火を放けて焼いてしまえ」      二十四 生首の言葉  一方青眼先生は、一旦はすっかり気絶して終って、何も解からなくなっていましたが、やがて自然と気が付いて見ますと、どうでしょう。最前自分は藍丸王の眼の前で、紅木大臣に蹴られて気絶していた筈なのに、今は王宮の内のどこかの室で、見事な寝台の上に寝かされて、傍には最前縛られていた四人の宮女が控えております。そうしてなおよくあたりを見まわしますと、自分の枕元には藍丸王がニコニコ笑いながら立っていまして、その背後には宮中の凡ての役人が星のように居並んで、自分に向って敬礼をしている様子です。青眼先生はこの有様を見て何事かと驚きまして、慌てて寝台の上から辷り降りて床の上にひれ伏しますと、王はその肩に手を置きまして、 「オオそんなに恐れ入るには及ばぬ。俺は今までのお前の罪を許したのだぞ」  これを聞くと青眼先生は床の上にひれ伏して、恐れ入って申しました―― 「ハイ。有り難い事で御座います。私はもうその御言葉を承りました以上は明日死んでも少しも心残りは御座いませぬ。私の心がおわかり遊ばしますれば、何で私が王様の御心に背き奉りましょう。何卒今日までの私の無礼の罪は、平に御赦し下されまするよう御願い致します」  と誠意を籠めて申しました。藍丸王も如何にも嬉しそうに―― 「ウム。お前の罪は女王の言葉ですっかり許したから安心をしろ。女王は今居間で養生をしている。そうして世界中で本当の自分を知っている者はお前ばかりだと喜んで泣いているのだ。そうして今日お前の女王に尽した忠義の褒美に、女王は今からお前をこの国の総理大臣にしてくれと云ったぞ」  と思いもかけぬ御言葉です。青眼先生はあまりの不意な御言葉に驚いて、夢に夢見る心地で叫びました―― 「エッ。私をあの総理大臣に。そ……それは王様、私のようなものには」 「黙れ。もう俺の云う事には背かぬと、たった今云ったではないか。この心得違い者|奴が。貴様も矢張り紅木大臣のような眼に会いたいのか」  と忽ち王は最前のような恐ろしい顔に変りました。 「エエッ。そして紅木大臣はどう致しましたか」 「ハハハハハ。紅木大臣がどんなになったか見たいのか。よし。それではお前は直ぐ紅木大臣の家へ行って、どんなになったか見て来い。そうして女王に無礼をする奴は親でも兄弟でも誰でも皆、こんな眼に会うのだという事をよく覚えて来い」  と言葉厳しく申し付けました。  このお言葉を聞くと一緒に青眼先生は、王が最前蛇を見せた時の事を思い出して、思わずゾッと身震いをしました。そうして直ぐに独りで王宮を出まして、急いで紅木大臣の家へ行って見ましたが、来て見るとどうでしょう。今まで深く茂った大きな常磐木の森の間に、王宮と向い合って立っていた紅木大臣の邸宅は住居も床も立ち樹もすっかり黒焦になってしまって、数限りなく立ち並んだ焼木杭の間から、白い烟が立ち昇っているではありませぬか。そうして玄関のあたりに大臣夫婦は手も足も切り離されて、方々焼け焦げたまま、眼も当てられぬ姿になって倒れております。  青眼先生は震える手で、その手足を集めて見ましたが、最早何の役にも立ちませんでした。大臣夫婦の死体は最早切れ切れに焼け爛れて、とても青眼先生の力では助ける事が出来ませんでした。  青眼先生は余りの事に声を立てて泣き出しました。そうしてもしや一ツでもいいから助かりそうな死骸は無いかと、暗の中に散らばっている死骸を一ツ一ツに検めながら、奥の方へ来る中に、不図青眼先生は屋敷の真中あたりで、切れるように冷たい者を探り当てて、ヒヤリとしながら手を引き退めました。それは鉄と氷との二ツの死骸でしたが、薄い月の光りはその物凄い白と黒の二ツの姿を照して、何だか両方とも青眼先生を睨んでいるように思わせました。  青眼先生は思わずタジタジとあと退りをしました。そうして二ツの死骸をじっと見入りました。すると不思議や、青眼先生の直ぐうしろに寝ていた一ツの首が、白い眼を開いて月の光りを見ながら、唇をムズムズと動かし始めましたが、やがて不意に―― 「嘘|吐き」  と云いました。青眼先生はハッと驚いて背後をふり向きますと、うしろにはたった今|検めた馬丁の死骸があるばかりで、しかも手も足もバラバラになっているのですから、口を利く気遣いはありませぬ。先生は大方耳の迷いだろうと思って、ここを立ち去ろうとしますと、今度は別の死骸の、身体から離れて転がっている首級が、眼をパッチリ開いて、月あかりに先生の顔をジッと睨みながら―― 「不忠者」  と叫びました。青眼先生は身体中が痺れる程驚いて、立ち竦んでしまいますと、今度は四方八方の死骸の首が、一時に眼を見開きまして、方々から青眼先生を睨みながら、口々に罵り始めました―― 「不忠者」 「紅矢を殺した」 「濃紅を殺した」 「美紅を殺した」 「女王に諛うた」 「紅木大臣を殺させた」 「紅木大臣の位を奪った」 「悪魔の王の家来になった」 「俺達までも皆殺させた」 「そして自分独り生きている」 「悪魔のために尽している」 「忠義に見える不忠者」 「善人のような悪人」 「卑怯な浅墓な」 「藪医者の青眼|爺」 「貴様のために殺された」 「沢山の死骸を見ろ」 「俺達はこの恨みを」 「屹度貴様に返して見せる」 「死ぬより苦しい眼を見せるぞ」 「生きられるなら生きて見ろ」 「死なれるなら死んで見よ」 「覚えておれ」 「覚えておれ」  こう云って口々に罵る声が次第に高くなって来て、しまいには耳の穴が裂けてしまう程烈しくなりました。青眼先生はまるで氷の中に埋められたように、身体中がブルブルと震え出して、眼が眩んで倒おれそうになりましたが、やっと一生懸命の勇気を奮い起こして―― 「お前達は皆間違っている。私は一人も殺しはせぬ。私はこの国の秘密を守るため……宮中に出入りして悪魔の正体を見届けるため……そのために総理大臣になったのだ。それも自分からなったのではない。王様が無理になすったのだ。紅木大臣をこんな目に合わせたのは私ではない……王様でもない……」  こう申しますと、沢山の生首は一時に口を揃えて―― 「そんなら誰だ」  と申しました。  青眼先生は云おうとして云う事が出来ずに、ワナワナと戦きながら身のまわりを見まわしますと、沢山の生首が皆一心に自分を見つめて、今にも飛びかかりそうにしています。そうしてその真中の自分の足下には鉄と氷の二タ通りの死骸が虚空を掴んで倒れたまま、これも自分を睨んでいます。青眼先生はその氷の死骸を指して―― 「ココココココ……此奴だ」  と叫ぶと一所に力が尽きて、ウーンと云って気絶してしまいました。  するとこの時又もや耳の傍で不意に―― 「青眼総理大臣閣下へお祝いを申し上げます」  と云う声が聞こえましたから、誰かと思ってフッと眼を開きますと、こは如何に、最前から見たのはすっかり夢で、自分はちゃんと旧の寝台の上に寝たままでした。そうして寝台の周囲には最前の通りに御殿中の大勢の役人共が集まっておりました。  その役人共は青眼先生が眼を覚ますのを見るや否や、皆一時に手を挙げ頭を下げて―― 「総理大臣公爵青眼閣下。御祝いを申し上げます」  と口々に申しました。これを見た先生は呆気に取られてしまって、どこからが夢で又どこからが本当なのか、いくら考えてもわかりませんでした。そうしてこれはあまりいろいろの心配をするために、気持ちが変になっているのではあるまいかと思いました。けれども斯様に役人が大勢集まって、口々にお祝いの言葉を云うところを見ると、自分がこの国の総理大臣になった事だけは、どう考えても本当で、疑う事が出来ませんでした。      二十五 止まらぬ花馬車  一方、気が狂った紅木大臣は、濃紅姫の死骸を荷いだまま、一息に廊下をかけ抜けて、馬にも乗らず真一文字に、自分の家に帰り着きました。そうして門を這入るや否や、玄関の横に置いてあった昨日の花馬車の中に、濃紅姫の死骸を外套に包んだまま放り込んで、それから廏へ行って名馬の「瞬」を引き出して、自身に馬車に結び付けると、いきなり鞭をふり上げて―― 「もとの世界へ帰れ」  と叫びながら、尻ペタを千切れる程殴り付けました。  馬は驚いて棹立ちになって、驀然に表門を駈け出しますと、丁度そこへ王宮から、紅木大臣を追っかけて来た兵隊が往来一パイになって押し寄せて、一度に鬨と鯨波を挙げました。馬は益々驚いて、濃紅姫の死骸を載せた馬車を引いたまま大勢の兵隊の真中に駈け込んで、逃げ迷うものを蹴散らし轢き倒して、あれよあれよという中に往来を向うの方に疾風のように駈け出しました。 「それッ。今の馬車には誰か乗っていたぞ。一人も残さず殺してしまえ。逃がすな。余すな。追っかけろ」  と四五人の兵士が怒鳴りましたが、何しろこの国第一の名馬「瞬」が夢中になって駈け始めたのですから、迚も人間の足の力では追い附く気遣いはありませぬ。砂埃と蹄の音を高く揚げながら、千里一飛びという勢いで都の南の端にある青物市場へ一目散に飛び込みました。さあ大変だと大勢の人々が逃げ迷う間もなく、往来に積み重ねてある野菜や果物の籠を踏み散らし蹴飛ばして、雨か霰のように馬車に浴びせ、直ぐにその隣りの肉類の市場に暴れ込んで、鳥か獣のブラ下がったのを片端から引き落して駈け抜けると、今度はその次の反物市場に躍り込み、絹や木綿を引き散らして窓や轅や方々に引っかけ、穀物の市場では米麦や穀類を滝のように浴び、瀬戸物市場では小鉢を滅茶滅茶に打ち壊わし、花市場の花を蹴散らし、魚市場の魚を跳ね飛ばして散々に暴れ散らした揚句、今度は南の国へ通う広い往来を駈け下りました。  その間幾人の人間を轢きたおし、いくらの品物を打ち壊したかわかりませぬ。それでも狂うが上にも狂うた「瞬」の馬車はどうしても止まりませぬ。なおも足を宙に揚げて、死んでも止まらぬ勢いでどこまでもどこまでもと走りました。  すると丁度晩方頃「瞬」の馬車が走って行く向うから、顔や身体を襤褸切れですっかり包んで眼ばかり出した香潮が、白髪小僧の手を引いてやって来ました。雷のような音を立てて来る「瞬」の馬車を見て、慌てて白髪小僧を片傍へ引っぱって避けさせようとしましたが、彼の時早くこの時遅く、大風のように近附いた「瞬」の馬車は白髪小僧の背中を掠めて、背負っていた月琴を梶棒に引っかけたままドンドン走って行って、あれよあれよという中に見えなくなってしまいました。  脱獄囚の虎蔵は、深夜の街道の中央に立ち悚んだ。  黒血だらけの引っ掻き傷と、泥と、ホコリに塗みれた素跣足の上に、背縫の開いた囚人服を引っかけて、太い、新しい荒縄をグルグルと胸の上まで巻き立てている彼の姿を見たら、大抵の者が震え上がったであろう。毬栗頭を包んだ破れ手拭の上には、冴え返った晩秋の星座が、ゆるやかに廻転していた。  虎蔵はそのまま身動き一つしないで、遥か向うの山蔭に光っている赤いものを凝視していた。その真白く剥き出した両眼と、ガックリ開いた鬚だらけの下顎に、云い知れぬ驚愕と恐怖を凝固させたまま……。  それは虎蔵が生れて初めて見るような美しい、赤い光りであった。それは彼が永いこと飢え、憧憬れて来たチャブ屋の赤い光りとは全然違った赤さであった。又、彼が時々刻々に警戒して来た駐在所や、鉄道線路の赤ラムプの色とも違っていた。ネオンサインの赤よりもズット上品に、花火の赤玉よりもズットなごやかな、綺麗なものであった。……といって閨房の灯らしい艶媚しさも、ほのめいていない……夢のように淡い、処女のように人なつかしげな、桃色のマン丸い光明が、巨大な山脈の一端らしい黒い山影の中腹に、ほのぼのと匂っているのであった……ほほえみかけるように……吸い寄せるように……。  虎蔵はブルッと一つ身震いをした。口の中でつぶやいた。  ……まさか……手がまわっている合図じゃあんめえが……ハアテ……。  虎蔵は一箇月ばかり前に、網走の監獄を破った五人組の一人であった。その中でも、ほかの四人は、それから一週間も経たないうちにバタバタと捕まってしまったので、今では全国の新聞の注意と、北海道の全当局の努力を、彼一人に集中させているのであった。  そればかりでない。  虎蔵の強盗時代の仕事ぶりは「ハヤテの虎」とか「カン虎」とかいう綽名と一緒に、ズット以前から、世間の評判になっていた。  綽名の通りカンの強い彼は、脅迫のために人を傷ける場合でも、決して生命を取るようなヘマをやらないのを一つの誇りにしていた。……のみならず彼は仕事をした界隈で、決して女にかからなかった。遥かの遠い地方に飛んで、絶対安全の見込みが付いた上でなければ、ドンナ事があっても酒と女を近付けなかった。そうして蓄積した不眠不休の精力とすばらしい溜め喰いと、無敵の健脚を利用した逃走力でもって、到る処の警戒線を嘲弄し、面喰らわせるのを、一本|槍の逃走戦術にして来たものであった。  だからその虎蔵が、久し振りにその筋の手にあがると間もなく、網走の監獄を破って逃走したという一事は、全国のセンセーションを捲き起すのに十分であった。況んや、それが一箇月もの永い間、縛に就かない事が一般に知れ渡ってしまった今日、結局……「虎蔵が北海道を出ないうちに捕まるか、捕まらないか」という問題が、全国の紙面に戦慄的な興味を渦巻かせているのは当然であった。  そればかりでない。  今度の脱獄後の彼は、どこまでも囚人服を着換えなかった。到る処で彼自身に相違ない事を名乗り上げながら仕事をして来た。そうした方が脅喝に有利であったばかりでなく、そこを目星にして集中して来るその筋の手配りを、引外し引外し仕事をした方が、遥かに安全である事を幾度となく、事実上に証拠立てて来たものであった。  ……俺は普通の強盗とは違うんだぞ。そのうちにタッタ一つ大きな仕事をして、大威張りで北海道を脱け出すまでは、ケチな金や、ハシタ女には眼もくれないんだぞ……。  といったような彼一流のプライドを、そうした仕事ぶりの到る処に閃めかして来たことは云うまでもない。  ……とはいえ……虎蔵のこうした精力の鬱積が、今度の脱獄後に限って、異常な影響を彼の仕事振りに及ぼして来た事実だけは、流石の虎蔵も自覚していなかった。それはその脱獄当時に、一人の老看守の頭を、彼自身の手でタタキ割った一|刹那から来た、心境の変化であったかも知れない。又は四十を越した彼の体質から来た性格上の変化であったかも知れないが、いずれにしても今度の脱獄後の彼の手口は、まるで今までとは別人のように残虐な、無鉄砲なものに変形していた。  彼は人跡絶えた北海道の原始林や処女林の中を、殆んど人間|業とは思えない超速度で飛びまわりながら、時々、思いもかけぬ方向に姿を現わして、彼独特の奇怪な犯行を逞しくして来た。……酔い臥しているアイヌの酋長を、その家族たちの眼の前で絞殺して、秘蔵のマキリ一|挺と、数本の干魚を奪い去った。……かと思うと、それから二三日のうちに、三十里も距たった新開農場の一軒家に押入って、ちょうど泣き出した嬰児の両足を掴むと、面白そうに笑いながら土壁にタタキ付けた。そうして若夫婦を威嚇しいしい、悠々と大飯を平らげて立去った。……かと思うと、その兇行がまだ新聞に出ない翌日の白昼に、今度は十数里を飛んだ山越えの街道に現われて、二人の行商人に襲いかかった。若い二人の男が、仲よく笑い話をして行く背後から突然に躍りかかって一人を刺殺すと、残った一人を威嚇しながら、やはり二人の弁当の包みだけを奪って、又も悠々と山林に姿を消した。北海道のような深い山々では、内地のような山狩りが絶対に行われない事を、知って知り抜いているかのように悠々と……。  ……虎蔵が人を殺した……しかも連続的に……そうしてまだ捕まらずにいる……という事実に対して、毎日毎日の新聞紙面が、如何に最大級の驚愕と戦慄を続けて来たか。全北海道の住民が、そうした脱獄囚の姿に毎夜毎夜どれほど魘されて来たか、そうして全道の警察の神経と血管が、連日連夜、どれ程の努力に疲れ果てて来たことか……。  その中を脱けつ潜りつ虎蔵は、寒い寒い北海道の山の中を馳けまわる事一箇月あまり……とうとうどこがどうやら解からなくなったまま、人を殺しては飯を喰い、食料品を奪っては兇器を振廻わして来た。そうして真冬にならない内に、是が非でも何か一つの大仕事にぶつかるべく、突詰められた餓え狼のような気持ちで山又山を越えて来るうちに、タッタ今ヒョッコリと、どこかわからない大きな街道に出たと思う間もなく、思いがけない真向うの山蔭に、今まで見た事もない美しい、赤い光りを発見したのであった。何となく神秘的な……不可思議な……たまらなくなつかしいような……。  虎蔵は面喰らった上にもめんくらった。幾度も幾度も眼を擦った。何故ともなく胸の躍るのを感じながら、左右に白々と横たわっている闇夜の街道を見まわした。自分で自分に云い聞かせるようにつぶやいた。 「……まさか……俺を威かすつもりじゃあんめえが……ハアテナ……」  虎蔵はやがて両腕を組んだまま、その光りに吸い寄せられるようにスタスタと歩き出していた。深夜の草山を押し分けて、一直線に赤い光りの方向へ近付いて行くと、そのうちに虎蔵の眼の前の闇の中に、要塞のように仄黄色い、西洋館造りの大邸宅が浮かみ現われて来た。  赤い光りは、その大邸宅の右の端にタッタ一つ建っている、屋根の尖んがった、奇妙な恰好の二階の窓から洩れて来るのであった。そのほかに燈光の洩れている部屋は一つもないらしく、さしもの大邸宅が隅から隅まで死んだように寝静まっている事が、間もなく彼の第六感にシミジミと感じられて来た。  虎蔵はモウ一度、前後左右を見まわした。 「……フフン……コイツは案外、大仕事かも知れんぞ……」  とつぶやきながら微かに胸を躍らした。本能的に用心深い足取りで、高い混凝土塀を半まわりして、裏手の突角の処まで来た。そうして矢張り本能的に懐中のマキリを鞘から抜き出して、歯の間にガッチリと啣えた。その突角を両手と両膝の間に挟んでジリジリと上の方へ登り初めた。気が遠くなる程の空腹を感じながら……。  一|丈ばかりの高い混凝土塀を越えると、内部は広い花壇になっているらしい。何だかわからない秋の草花が闇の中に行儀よく列を作って、一パイに露を含んでいる中を、マキリを啣えた囚人姿の虎蔵が、ヒソヒソと匐い進んで行くのであったが、そのうちに闇夜の草花の水っぽい、清新な芳香が、生娘の体臭のように、彼の空腹に泓み透って来た。白々とした女の首や、手足や、唇や、腹部の幻像を、真暗な彼の眼の前に、千切れ千切れに渦巻かせながら、全身が粟立って、クラクラと発狂しそうになるまで、彼の盲情をソソリ立てるのであった。彼は暫くの間、唇を噛んで、ベコニヤの鉢の間にヒレ伏していた。  ……助けてくれ……。  と叫び出したいような気持ちを、ジッと我慢しながら……そうしてヤットの思いで気分を取り直すと、虎蔵はイヨイヨ静かにベコニヤの鉢の間を抜けて、綺麗に刈り込んだ芝生の上に匐い上った。  眼ざす二階家は直ぐ眼の前に在った。  彼は極度に冷静になった。同時にたまらない程、残忍になった。容易ならぬ荒療治に引っかかりそうな予感と、世にも不思議な赤い光りに対する緊張が、彼の全身を空気のように軽くした。  彼の眼の前には、白っぽい石の外廊下の支柱が並んでいて、その行き止まりが、やはり白い石の外階段になっている。その中央に続きに敷かれた棕梠のマットの上を、猫のように緊張しながら匐い登って行くと、すぐに一つの頑丈な扉に行き当った。  その扉を見上げ、見下しているうちに虎蔵は又も、ドキンドキンとさせられた。  それは虎蔵が今日まで幾度となく、あこがれ望んでいながら、一度も行当った記憶のない種類の扉であった。その内側に巨万の富を蔵い込んでいるらしい……黒い……重たい……マン丸く光る黄金色の鋲を縦横に打ち並べた……ただその扉が普通と違うところは、その把手が少し低目に取付けてある事と、鍵穴らしいものがどこにも見当らない事であった。  ……ハテナ……内側から堅固な閂が突支ってあるのかな……。  そう気が付くと同時に虎蔵は、全身がシインとなるほど失望した。この扉を破るのは容易でない……と考えたからであった。そうしてここまで、無意味に釣り寄せられて来た自分の冒険慾を、心の片隅で後悔し初めた。  ……この扉に触ると、直ぐに電気仕掛か何かで、ほかへ知らせるようになっているに違いない……。  と思い思い虎蔵は、仄かな赤い光りに照らし出された花壇の片隅を、暫くの間、見下していた……が……それでも僅かに残った糸のような未練と、万一の場合の逃走力を空頼みにした彼は、彼の生涯の運命を賭ける気持で、扉の把手を確りと掴んだ。ソーッと右へ捻じってみた……。  ……アッ……と声を挙げるところであった。電気に打たれたように階段を二三段飛び降りた。  扉は何の締りもしてなかった。僅かな力で把手を捻じられた扉が、音もなく開くと、思いもかけぬ赤い光りの隙間が、彼の鼻の先に、縦に一直線に出来たのであった。  虎蔵はジリジリと首を縮めた。背中を丸くして膝を曲げた。息を殺して背後を見廻わした。どこからか怪しい物音が近付いて来はしまいかと、耳を澄まし、眼を凝らしながら身構えていたが、そのうちに薄黒いダンダラを作った花壇の向う側の暗黒を、白々と横切っている混凝土塀に眼を止めると、彼は思わずニンガリと冷笑して首肯いた。ゆるゆると背中を伸ばしながら、眼の前の赤い光りの隙間をかえりみた。  ……ハハン……あの高土塀が在ると思って、安心してケツカルんだな……。  そう思い付くと同時に、虎蔵の全血管の中に新しい勇気が蘇って来た。深刻な空腹と、極度に緊張した冷血さが、彼の全身数百の筋肉に疼きみちみちて来た。それにつれて、  ……これこそ俺の最後の大仕事かも知れないぞ……。  という強烈な職業意識が、スキ透るほどギリギリと、彼の奥歯に噛み締められて来た。  恐ろしいものが一つ一つに彼の周囲から消え失せて行った。  彼は生皮革で巻いたマキリの※をシッカリと握り直した。谷川の石で荒磨を掛けた反の強い白刃を、自分の背中に押し廻しながら、左手で静かに扉を押した。  それは天井の高い、五|間四方ぐらいの部屋であった。幽雅な近代風のゴチック様式で、ゴブラン織の深紅の窓掛を絞った高い窓が、四方の壁にシンカンと並んでいた。  その窓と窓の間の壁面に、天井近くまで畳み上げられている夥しい棚という棚には、一面に、子供の人形が重なり合っているようである。和洋、男女、大小を問わず、裸体、半裸体、軽装、盛装の種類をつくして、世界中のあらゆる風俗を現わしているらしい抱き人形の一つ一つが皆、その大きく開いた眼で、あらぬ空間を眺めながら、この上もなく可愛らしい微笑を含んでいるようである。永遠に変らぬ空虚のイジラシサを競い合っているようである。  虎蔵は眼をパチパチさせた。瞼をゴシゴシとこすって瞳を定めた。  部屋の中央には土耳古更紗を蔽うた、巨大な丸|卓子が置いてある。その上には、さながらに、それ等の人形たちが遊び戯れた遺跡であるかのように、色々な食器、豆のような玩具、花籠、小さな犬、猫、鼠、猿、小鼠のたぐいが、殆んど数限りなく、行儀のいい円陣や、方陣を作って並んでいる。その間に静止している巨大な甲虫、華麗な蝶々、実物大の鳩、雛子、木兎……。  又、その丸|卓子の周囲には、路易王朝好みのお乳母車、華奢な籐椅子、花で飾った揺籠、カンガルー型のロッキングなぞが、メリー・ゴー・ラウンド式に排列されている……そんなもの一つ一つにも、それぞれ様々の微笑を含んだ人形が、ピエロ姿の行列を作ってブラ下がったり、振袖姿で枕を並べたり、海水着のまま、魚のようにビックリした瞳をして重なり合ったりしている。  その中央の高い、暗い、円天井から、淡紅色の絹布に包まれた海月型のシャンデリヤが酸漿のように吊り下っていたが、その絹地に柔らげられた、まぼろしのような光線が、部屋中の人形を、さながらに生きたお伽話のようにホノボノと、神秘めかしく照し出しているのであった。  虎蔵は、その光りを浴びたまま棒立ちになってしまった。鼻息さえもし得ないまま、そうした不可思議な光景を見まわしていた。  それは彼が夢にも予期していなかった光景であった。……否……彼が生れて初めて見る不可解な部屋であった。彼の頭脳では到底、理解出来そうにない人形ばかりの小宇宙……この上もなく美しい桃色の微笑の世界……その神秘と、平和にみちみちた永遠の空虚の中に、偶然に……真に偶然に迷い込んでいる彼自身の野獣ソックリの姿……。  彼は気もちが変テコになって来た。頭がガランドウになって、今にも眼がまわりそうに胸が悪くなって来た。  彼はヨロヨロと背後によろめいた……が……又も、ひとりでに立止った。そうして彼自身の浅猿しい姿を今更のように見まわしながら、何故ともわからない、長い長いふるえた溜息をしかけた。同時に、全身にビッショリと生汗を掻いているのに気が付いたが、そのうちに又、フト気が付いて、見るともなく丸|卓子の向う側を見るとハッとした。頭の毛がザワザワと駈け出しかけて又止んだ。  丸|卓子の向うの仄暗い右側には、黝ずんだ古代|雛……又、左側には近代式の綺羅びやかな現代式のお姫様が、それぞれに赤い段々を作って飾り付けてある。その中央の特別に大きな、高い窓に近く、こればかりは本式らしい金モールと緋房を飾った紫緞子の寝台が置いてあって、女王様のお寝間じみた黄絹の帷帳が、やはり金モールと緋房ずくめの四角い天蓋から、滝の水のように流れ落ちている。その蔭に仄見えている白絹らしい掛布団から、半分ほど握り締めた左手の手首が覗いている。……それが、どうやら七八ツばかりの、生きた女の児の手首に見えるのであった。  その無心な可愛らしい手首を見ているうちに虎蔵はやっと吾に帰った。同時に、生汗に冷え切った全身がゾクゾクとして来た。……この部屋の全体が含んでいる不可思議な意味と、この部屋の主人公の正体が、同時にわかって来たような気がしたので……。  虎蔵は自分でも気付かないうちに身を屈めていた。床の上の華麗な露西亜絨氈の上に腹匍いになって、ソロソロとその寝台の脚下に忍び寄って行った。何故ともわからない焦燥を感じながら……。  ……それはこの部屋の女主人公と思われる緞子の寝台の主が、果して自分の推量通りに生きた女の児に相違ないか……それとも、やはり、ほかの人形と同様の飾り物に過ぎないかどうかを、是非とも一度たしかめてみたい……というような彼一流の無智な、盲目的な好奇心に、彼自身が囚われていたせいかも知れない。又は現在、極度に鋭敏になっている彼の嗅覚が、その寝台の方向からほのめいて来るチョコレートのような、牛乳のような、甘い甘い芳香に誘われたせいであったかも知れないが……。  彼は丸|卓子の蔭を、寝台の一|間ばかり手前まで匍って来ると、ソ――ッと顔を上げてみた。思ったよりも薄暗い、寝台の中に瞳を凝らした。  彼は今更のように固唾を嚥んだ。  それは夥しい、美しい黄金色の渦巻毛を、大きな白麻の西洋枕の上に横たえている西洋人の女の児であった。年頃はよくわからないが、恐らくこの部屋中のどの人形よりも端麗な、神々しい眼鼻立ちであったろう。額と鼻筋のすきとおった……眉の長い、睫の濃い、花びらのように頬を紅くした寝顔が、あどけなく開いた小さな唇から、キレイな乳歯をあらわしながら、こころもちこっち向きに傾いているのであった。  その枕元には萎れた秋草の花束と、二三冊の絵本と、明日のおめざらしい西洋菓子が二つ、白紙に包んで置いてあった。そうしてその寝台の裾の床の上には、少女よりも心持ち大きいかと思われる棕梠の毛製の熊が一匹、少女の眠りを守護るかのように、黒い、ビックリした瞳を見開きながら、寝台に倚りかかって坐っているのであった。  ……人形じゃねえぞ……これは……。  彼は息を殺して固くなった。  彼は脚下の熊とおなじように、両眼をマン丸く見開きながら、なおも一心に寝台の中を覗き込んだ。今にも眼の前の少女が大きな寝息をしそうに思われたので……そうしてパッチリと青い眼を見開いて、彼を見上げそうな気がしたので……。  部屋の中の何もかもが、彼の耳の中でシンカンと静まり返った。  少女の寝息とも……牛乳の香気とも……萎れた花の吐息ともつかぬ、なつかしい、甘ったるい匂いが、又もホノボノと黄絹の帷帳の中から迷い出して来た。  ……突然……彼はブルブルと身震いをした。  この一箇月の間じゅう、彼の全身に渦巻き、みちみちて来たアラユル戦慄的なものが、その甘ったるい芳香の中で、一斉に喚び醒まされたのであった。その中からモウ一つ更に、極度の惨烈さにまで尖鋭化され、変態化され、猟奇化されて来た或るものが、トテモ抵抗出来そうにない、最後的の威力をもってモリモリと爆発しかけて来たのであった。  ……コンナ機会は二度とねえんだぞ……しかも相手は毛唐の娘じゃないか……構う事はねえ……やっつけろ……やっつけろ……。  と絶叫しながら……。  彼は今一度ブルブルと身震いをした。鮮やかな空色と、血紅色と、黒色の稜角を、花型に織り出した露西亜絨氈の一角に、泥足のままスックリと立ち上った。右手に持ったマキリを赤い光線に透かしてみると、眼と口を真白く見開いて、声のない高笑いを笑いながら、おもむろに仄暗い丸天井を仰ぎ見た。  それはさながらに鉄の檻を出た狂人の表情であった。  彼は何の躊躇もなく悠々と寝台に近寄って、薄い黄絹を引き捲くった。白いレエスに包まれている少女の、透きとおった首筋の向う側に、イキナリ右手のマキリを差し廻わしながら、左手でソロソロと緞子の羽根布団をめくった。同時にモウ一度、彼独特の物凄い笑いを、顔面に痙攣らせた。 「……エヘ……エヘ……声を立てる間はねえんだよ。ええかねお嬢さん。温柔しく夢を見ているんだよ……ウフウフ……」  それから返り血を避けるべく、羽根布団を引き上げながら、すこしばかり身を背向けた。……すると……そうした気持ちにふさわしくそこいら中がモウ一度、彼の耳の中でシンカンとなった。  ……その一刹那であった。  少女の枕元に当る大きな硝子窓の向うを、何かしら青白いものが、一直線にスウーと横切って行った。  彼はハッとしてその方向を見た。少女の首筋からマキリを遠ざけながら首を伸ばした。  ……今まで気が付かなかったが、薄い黄絹の帷越しによく見ると、窓の外は一パイの星空であった。今の青白い直線は、その星の中の一つが飛び失せたものに相違なかった。それに連れて……やはり今まで気が付かなかった事であるが、どこか遠く遠くの海岸に打ち寄せるらしい深夜の潮の音が、微かに微かに硝子窓越しに聞えて来るのであった。それは、おおかた彼自身が、知らず知らずのうちに高い処へ来ていたせいであったろう……。  彼は緊張し切った態度のまま、その音に耳を澄ました。それから、やはりシッカリした身構えのうちに少女の寝顔と、右手のマキリを見比べた。  部屋の中に漾うている桃色の光りを白眼みまわした。  その光りが淀ませている薄赤い暗がりの四方八方から、彼に微笑みかけている、あらゆる愛くるしい瞳と、唇の一つ一つを念入りに眺めまわしているうちに、又もギックリと振り返って、窓の外の暗黒を凝視した。  ……その時に又一つ……。  ……ハッキリと星が飛んだ……。  ……銀色の尾を細長く引いて……。  彼は愕然となった。魘えたゴリラのように身構えをし直して、少女の顔を振り返った。  ……この深夜に……開放された部屋の中で……タッタ一人眠っている西洋人の娘……。  ……物騒な北海道の山の中で、可愛い娘にコンナ事をさせている毛唐の大富豪……。  ……これは人間の心か……。  ……神様の心か……。  そんなような超常識的な常識……犯罪者特有の低能な、ヒネクレた理智が、一時に彼の中に蘇ったのであった。白熱化した彼の慾情をみるみる氷点下に冷却し初めたのであった。云い知れぬ恐怖の旋風となって、彼の足の下から襲いかかったのであった。  ……俺は……俺は現在、何かしらスバラシイ陥穽の中に誘い込まれているのじゃないか……。  ……コンナ大邸宅の中にタッタ一つ灯されている赤い灯……。  ……締りのない扉……。  ……数限りない人形の部屋……。  ……その中にタッタ一人眠っている生きた人形のような美しい少女……。  ……思いも付かない、おそろしい西洋人の係蹄……???……。  彼の膝頭が我れ知らずガクガクと動いた。歯の根がカチカチと鳴り出した。ジリジリと後退りをしながら、薄い黄絹のカアテンを、腫れ物に触るようにして潜り出た。一足飛びに大|卓子をめぐって部屋の外へ飛び出した。  ハヤテのように石の階段を馳け降りて、外廊下から芝生の上に飛び出した。と、思った瞬間に、何かしら人間らしいものから片足を抄い上げられたと思うと、モンドリ打って芝生の上にタタキ付けられた。  ……息が詰まったかと思う腰の痛さを、頭の中心まで泌み渡らせながら彼は、咄嗟に半身を起してマキリを構えた。眼の前、一|間ばかり向うの闇の中に跼まっている白い物体に対って身構えた。  ……破滅……???……。  と心の中で魘えながら……。  しかし白いものは動かなかった。依然として外廊下の石柱の根元に跼まっているばかりでなく、その白い、フックリした固まりの各部分が、すこしずつユラユラと揺れ合っているのが、星明りに透かして見えるようである。それに連れて何ともいえない品のいい菊の花の芳香がスッキリと闇を透して、彼の周囲に慕い寄って来た。  彼はマキリを取落した。……三度、呆然となった。  何から何まで馬鹿にされ、オモチャにされつくしたまま、ミジメに投げ出されている彼自身を、ヒイヤリとした芝生の上に発見して、泣く事も、笑う事も出来ない気持ちになってしまった。極度にタタキ付けられた選手のように、スッカリ混乱してしまったまま……両脚を投げ出して、後手を突いたまま……腹立たしい菊の花の芳香を、いつまでもいつまでも呼吸していた。  しかし、そのうちに彼はヤットの思いで立ち上った。手も力もなく蹌踉きながら、はだかった胸を掻き合わせて、露深い草の上に落ちたマキリを探し当てて、懐中の鞘に納めながら、花壇の方向へスタスタと立ち去ろうとした……が……又もピッタリと立佇まって振り返った。石柱の下に静まり返っている白菊の鉢を見返りながら腕を組んで考え込んだ。混乱した頭を鎮めよう鎮めようと努力した。  ……俺はここへ何をしに来たんだ。……そうして……このまま帰ったら俺は一体どうなるんか……。  やがて彼は闇の中でガックリとうなずいた。  忽ちツカツカと石柱の根元に歩み寄って、盛り上った白菊の鉢に両手をかけた。 「……エエ糞……このまま帰ったら俺あ型なしになるんだぞ……畜生。どうするか見よれ」  とイキミ声を出しながらジワジワと鉢を持ち上げかけた。 「俺が来た証拠だ……畜生……」  それは疲れ切った、空腹の彼にとっては、実に容易ならぬ大事業であった。大の男が二人がかりでもどうかと思われる巨大な白菊の満開の鉢を、ヤットの思いで胸の上まで抱え上げるうちに、彼の全身は、新しい汗で水を浴びたようになった。その夜露と泥とで辷り易くなった鉢の底を、生命カラガラ肩の上に押し上げて、よろめく足を踏み締めながら、外廊下のマットの上を一歩一歩と階段に近づいて行った時に彼は、幾度も幾度も今度こそ……今度こそ気が遠くなって、引っくり返るのじゃないかと危ぶんだ。  彼はそれから一歩一歩と、無限の地獄に陥ち込むような怖ろしい思いを繰り返しながら、石の階段を登って行った。それから開け放されたままの扉の中へ、中腰のままジリジリと歩み入って、向うの窓際まで一歩一歩と近づいて来ると、両足を力一パイ踏み締めて立ち佇った。  彼は肩の上に喰い込んでいる菊の鉢を、そのまま、眠っている少女の頭部めがけて投げ付けたい衝動を、ジット我慢しながらモウ一度、寝台の中を白眼み付けた。  ……畜生……ブチ殺した方が面黒えかも知れねえんだが……それじゃ俺の意地が通らねえ。タタキ付けて逃げ出したと思われちゃ詰まらねえかんな……畜生……。  と唇を噛み締めながら考えた。  彼は、それから更に、今までの苦しみに何層倍した、新しい苦しみに直面させられた。彼が、四十年の生涯のうちに一度も体験した事のない……髪の毛が一本一本に白髪になってしまいそうな、危険極まる刹那刹那を、刻一刻に新しく新しく感じながら、死ぬ程重たい花と土の塊まりを、肩から胸へ……胸から床の上へソーッと抱え下した。アザヤカな淡紅色を帯びて、噎せかえるほど深刻に匂う白い花ビラの大群を、静かに少女の枕元に置き直すと、ポキンポキンと音を立てる腰骨を一生懸命に伸ばしながら、長い長いふるえた溜め息を吐いた。そのまま、暫くの間、眼を閉じ、唇を噛んで、荒い鼻息を落ち付けていたが、そのうちに彼は思い出したように眼を見開いて、泥塗みれになった両掌を、腰の荒縄の上にコスリ付けた。その掌で、鬚だらけの顔を撫で上げて汗を拭こうとした。  しかし彼はモウ汗も出ないほど青褪め切っていた。  その薄黒い、落ち窪んだ両眼は、老人のように白々と弱り込んで、唇が紙のように干乾びていた。その額と頬は、僅かの間に生命を削り取られたかのように蒼白く骨張って、力ない皺の波が、彫刻のようにコビリ付いていた。……が……そうした死人じみた片頬に、弱々しい、泣き笑いじみた表情をビクビクさせると、彼は仁王立ちに突立ったまま、鼻の先の空間に眼を据えた。  咽喉の奥をゼイゼイと鳴らした。 「……オレは……オレは……ちっとも怖くないんだぞ……畜生。コレ位の事は平気なんだぞ……エヘ……エヘ……」  そう云ううちに彼は力が尽きたらしくガックリと低頭れた。タッタ今、自分が成し遂げた最大、最高の仕事を、振り返り振り返り、懐中のマキリを押えながら、ヒョロヒョロと出て行った。  彼の背後から静かに静かに閉まって行った重たい扉が、忽ち、轟然たる大音響を立てて、深夜の大邸宅にどよめき渡りつつ消え失せた。  ……あくる朝……。  晴れ渡った晩秋の旭光がウラウラと山懐の大邸宅を照し出すと、黄色い支柱を並べた外廊下に、白い人影が二つほど歩みあらわれた。  それは白絹のパジャマを着流した、若い、洋髪の日本婦人と、やはり純白のタオル寝巻を纏うた四ツか五ツ位の、お合羽さんの女の児が並んで、むつまじそうに手を引き合った姿であった。  若い洋髪の女性は、片手で寝乱れた髪を撫で上げながらも、こうした大邸宅にふさわしい気品のうちにユックリユックリと白|羅紗のスリッパを運んで来たが、やがて棕櫚のマットの中央まで来ると、すこし寒くなったらしく、襟元を引き合わせて立ち止まった。  すると、その時に、お合羽さんの女の児が、つながり合った手を無邪気に引離しながらチョコチョコ走りに廊下を伝わって、真綿の白靴をひるがえしひるがえし石の段々を一つ一つに登って行った。そうしてサモサモ嬉しそうに扉の把手を押しながら、内側へ消え込んで行ったが、やがて間もなく、眼をマン丸にして重たい扉を引き開くと、一散に階段を馳け降りて来た。  若い女性は、それを見迎えながら微笑した。 「……まあ……あぶない……ゆっくりオンリしていらっしゃい」  しかし女の児は聴かなかった。  可愛いお合羽さんを左右に振りながら、若い女性のパジャマの裾に縋り付いた。 「……いいえ……お母チャマ大変よ……アノネ……アノネ……アタチ……アノお人形のお姫チャマのおめざを、いただきに行ったのよ……ソウチタラネ……」  と云いさして女の児は息を切らした。 「ホホホ……チュウチュが引いていたのですか」  女の児は一層眼を丸くして頭を振った。 「……イイエ。お母チャマ……ソウチタラネ……お部屋の中が泥ダラケなのよ……」 「……エ……」  若い女性は顔の色をなくした。女の児の顔をシゲシゲと見下した。 「……ソウチタラネ……アノお人形のお姫チャマのお枕元に、大きい、白い菊の花が置いてあったのよ」 「……まあ……」  といううちに若い女性は唇の色までなくしてしまった。その唇の近くで白い指先をわななかしながらすぐ傍の芝生の上に残っている輪形の鉢の痕跡を見まわしていたが、やがてオドオドした魘えたような眼付きで、階段の上を見上げた。 「……マア……昨夜まで……ここに在ったのに……誰がまあ……」 「イーエ……お母チャマ……アタチ知っててよ。ゆうべね。アタチ達が帰ってからね。アノお人形のお姫チャマが、菊の花を見たいって仰言ったのよ」  女性はすこしばかり血色を取り返した。 「……まあ……オホホ……」 「それでね……アノ御家来の熊さんが、持って行って上げたのよ……キット……」 「……ネ……ソウデチョ……お母チャマ……」 「……………」  ちえ子さんは可愛らしい奇麗な児でしたが、勉強がきらいで遊んでばかりいるので、学校を何べんも落第しました。そしてお父さんやお母さんに叱られる毎に、「ああ、嫌だ嫌だ。どうかして勉強しないで学校がよく出来る工夫は無いかしらん」と、そればかり考えておりました。  ある日、どうしてもしなくてはならぬ算術をやっておりましたが、どうしてもわからぬ上にねむくてたまりませんので、大きなあくびを一つしてお庭に出てみると、白い寒椿がたった一つ蕾を開いておりました。ちえ子さんはそれを見ると、「ああ、こんな花になったらいいだろう。学校にも何にも行かずに、花が咲いて人から可愛がられる。ああ、花になりたい」と思いながら、その花に顔を近づけて香いを嗅いでみました。  その白椿の香気のいい事、眼も眩むようでした。思わず噎せ返って、 「ハックシン」  と大きなくしゃみを一つして、フッと眼を開いてみると、どうでしょう。自分はいつの間にか白い寒椿の花になっていて、眼の前にはちえ子さんそっくりの女の子が立ちながら自分を見上げております。  ちえ子さんはびっくりしましたが、どうする事も出来ませんでした。只呆れてしまって、その児の様子を見ておりますと、その女の児は自分を見ながら、 「まあ、何という美しい花でしょう。そしてほんとにいいにおいだこと。これを一輪ざしに挿して勉強したいな。お母様に聞いて来ましょう」  と云いながらバタバタと駈けて行きました。  しばらくすると、ちえ子さんのお母さんが花鋏を持ってお庭に降りておいでになりました。 「まあ、お前が勉強をするなんて珍らしい事ねえ。お前が勉強さえしておくれだったら、椿の花くらい何でもありませんよ」  と云いながら、ちえ子さんの白椿をパチンと鋏切って、一輪挿しにさして、ちえ子さんの机の上に置いておやりになりました。  ちえ子さんは机の隅から見ていますと、女の児はさもうれしそうに可愛らしい眼で自分を見ておりましたが、やがて算術の手帳を出しておけいこを初めました。  ちえ子さんの白椿は、真赤になりたい位|極りが悪くなりました。算術の帳面には違った答えばかりで、処々にはつまらない絵なぞが書いてあります。女の児はそれをゴムで奇麗に消して、間違った答えをみんな直して、明日の宿題までも済ましてしまいました。それを見ているうちにちえ子さんは、算術のしかたがだんだんわかって来て面白くて堪らず、自分でやってみたくなりましたが、花になっているのですから仕方がありません。  そのうちに女の児は算術を済まして、読本を開いて、本に小さく鉛筆でつけてある仮名を皆消してしまいました。おさらいと明日の下読が済むと、筆入やカバンを奇麗に掃除して、鉛筆を上手に削って、時間表に合せた書物や雑記帳と一所に入れて机の上に正しく置きました。それから机の抽斗をあけてキチンと片づけて、押しこんだいたずら書きの紙屑や糸くずをちゃんと展ばして、紙は帳面に作り、糸は糸巻きに巻きました。その間のちえ子さんの極りのわるさ! 消えてしまいたい位でした。  女の児はそれから、台所で働いていらっしゃるお母様の処へ走って行って、手を突いて、 「お母さん、お手伝いさせて頂戴」  と云いました。  お母様はしばらくだまって女の児の顔を見ておいでになりましたが、濡れたままの手でいきなりしっかりと女の児を抱きしめて、 「まあ、お前はどうしてそんなによい子になったの」  と云いながら、涙をハラハラとお流しになりました。  白椿のちえ子さんは身を震わしてこの様子を見ておりました。ちえ子さんもお母さまからこんなにして可愛がられた事は今まで一度も無かったのです。あんまり羨ましくて情なくて口惜しくて、思わずホロホロと水晶のような露を机の上に落しました。  それからこの女の児がする事は、何一つとしてちえ子さんを感心させない事はありませんでした。  遊びに誘いに来るわるいお友達はみんな、お母様にたのんで断って頂いて、よいお友達と遊ぶようにしました。 「ちえ子のちえ子の大馬鹿やい。ちえ子の知恵無し落第坊主、一年二度ずつエンヤラヤ、学校出るのに……ツーツータアカアセ」  と悪い男の生徒がはやしても、家の中から笑っていました。  そのほか勉強のひまには編物をお母さんから習いました。夜はお祖父さまの肩をもみました。お母様のお使い、お父様の御用向でも、ハイハイとはたらきました。そうして自分の事は何一つお母様やお祖母様に御迷惑をかけませんでした。  お家の人は皆驚いて感心をして賞め千切って、いろいろのものを買って下さいました。しかし女の児はそれを大切にしまって、今までちえ子さんが使い古したものばかり使いました。  けれどもお家の人よりも何よりも驚いたのは学校の先生でした。今までは何をきいてもうつむいてばかりいたちえ子が、今度は何を聞いてもすっかり勉強しておぼえていて、時々は先生も困る位よい質問を出します。  そればかりでなく、今まで運動場で遊んでいても、直に泣いたり、おこったり、すねたり、よけいなにくまれ口をきいたりして嫌われていたちえ子が、急に親切にやさしくなって、どんな遊戯でもいやがらずに、それはそれは元気よく愉快に仲よく遊びますので、友達の出来る事出来る事。今まで寄り付かなかったよいお友達が、みんな遊びたがってお家にまで来るようになりました。  女の児はいつもよいお友達と音なしく遊んで、音なしく勉強しました。  来るお友達も来るお友達も、みんなちえ子さんの机の上の一輪ざしに生けてある白椿の花を賞めました。その時女の児はいつもこう答えました。 「あたしはこの白椿のようになりたいといつも思っています」 「ほんとにね」  と友達は皆、女の児の清い心持ちに感心をしてため息をしました。  ちえ子さんの白椿は日に増し淋しく悲しくなって来ました。「あたしのようなわるい児はこのまま散ってしまって、あの女の児が妾の代りになっている方がどれ位みんなのしあわせになるかもしれない。どうぞ神様、妾の代りにあの女の児がしあわせでいるように、そうしていつまでもかわらずにいるように」と心から祈って、涙をホロホロと流しました。  その中にだんだん気が遠くなって、ガックリとうなだれてしまいました。        ×          ×          × 「まあちえ子さん、大変じゃないの。総甲を取っているのに、何だって今まで見たいに成績を隠すのです。お起きなさいってば、ちえ子さん。そんなに勉強ばかりして身体に障りますよ」  とお母さんの声がします。フッと眼をあけてみると、ちえ子さんは算術の本を開いてその上にうたた寝をしているのでした。  眼の前の机の上の一輪挿しには椿の枝と葉ばかりが挿さっていて、花はしおれ返ったままうつ伏せに落ちておりました。  ……俺はどうしてコンナ処に立ち佇まっているのだろう……踏切線路の中央に突立って、自分の足下をボンヤリ見詰めているのだろう……汽車が来たら轢き殺されるかも知れないのに……。  そう気が付くと同時に彼は、今にも汽車に轢かれそうな不吉な予感を、背中一面にゾクゾクと感じた。霜で真白になっている軌条の左右をキョロキョロと見まわした。それから度の強い近眼鏡の視線を今一度自分の足下に落すと、霜混りの泥と、枯葉にまみれた兵隊靴で、半分腐りかかった踏切板をコツンコツンと蹴ってみた。それから汗じみた教員の制帽を冠り直して、古ぼけた詰襟の上衣の上から羊羹色の釣鐘マントを引っかけ直しながら、タッタ今通り抜けて来た枯木林の向うに透いて見える自分の家の亜鉛屋根を振り返った。  ……一体俺は、今の今まで何を考えていたのだろう……。  彼はこの頃、持病の不眠症が嵩じた結果、頭が非常に悪るくなっている事を自覚していた。殊に昨日は正午過ぎから寒さがグングン締まって来て、トテモ眠れそうにないと思われたので、飲めもしない酒を買って来て、ホンの五|勺ばかり冷のまま飲んで眠ったせいか、今朝になってみると特別に頭がフラフラして、シクンシクンと痛むような重苦しさを脳髄の中心に感じているのであった。その頭を絞るように彼は、薄い眉をグット引寄せながら、爪先に粘り付いている赤い泥を凝視めた。  ……おかしいぞ。今朝は俺の頭がヨッポドどうかしているらしいぞ……。  ……俺は今朝、あの枯木林の中の亜鉛葺の一軒屋の中で、いつもの通りに自炊の後始末をして、野良犬が這入らないようにチャント戸締りをして、ここまで出かけて来たことは来たに相違ないのだが、しかし、それから今までの間じゅう、俺は何を考えていたのだろう。……何か知らトテモ重大な問題を一生懸命に考え詰めながら、ここまで来たような気もするが……おかしいな。今となってみるとその重大な問題の内容を一つも思い出せなくなっている……。  ……おかしい……おかしい……。何にしても今朝はアタマが変テコだ。こんな調子では又、午後の時間に居眠りをして、無邪気な生徒たちに笑われるかも知れないぞ……。  彼はそんな事を取越苦労しいしい上衣の内ポケットから大きな銀時計を出してみると、七時四十分キッカリになっていた。  彼はその8の処に固まり合っている二本の針と、チッチッチッチッと廻転している秒針とを無意識にジーッと見比べていた……が……やがて如何にも淋しそうな……自分自身を嘲るような微苦笑を、度の強い近眼鏡の下に痙攣させた。  ……ナーンだ。馬鹿馬鹿しい。何でもないじゃないか。  ……俺は今学校に出かける途中なんだ。……今朝は学課が初まる前に、調べ残しの教案を見ておかなければならないと思って、午後の時間の睡むいのを覚悟の前で、三十分ばかり早めに出て来たのだ。しかも学校まではまだ五|基米以上あるのだから、愚図愚図すると時間の余裕が無くなるかも知れない……だから俺はここに立佇まって考えていたのだ。国道へ出て本通りを行こうか、それとも近道の線路伝いにしようかと迷いながら突立っていたものではないか……。  ……ナーンだ。何でもないじゃないか……。  ……そうだ。とにかく鉄道線路を行こう。線路を行けば学校まで一直線で、せいぜい三|基米ぐらいしか無いのだから、こころもち急ぎさえすれば二十分ぐらいの節約は訳なく出来る……そうだ……鉄道線路を行こう……。  彼はそう思い思い今一度ニンマリと青黒い、髯だらけの微苦笑をした。三角形に膨らんだボクスの古鞄を、左手にシッカリと抱き締めながら、白い踏切板の上から半身を傾けて、やはり霜を被っている線路の枕木の上へ、兵隊靴の片足を踏み出しかけた。  ……が……又、ハッと気が付いて踏み留まった。  彼はそのまま右手をソット額に当てた。その掌で近眼鏡の上を蔽うて、何事かを祈るように、頭をガックリとうなだれた。  彼は、彼自身がタッタ今、鉄道踏切の中央に立佇まっていたホントの理由を、ヤット思い出したのであった。そうして彼を無意識のうちに踏切板の中央へ釘付けにしていた、或る「不吉な予感」を今一度ハッキリと感じたのであった。  彼は今朝眼を醒まして、あたたかい夜具の中から、冷めたい空気の中へ頭を突き出すと同時に、二日酔らしいタマラナイ頭の痛みを感じながら起き上ったのであったが、又、それと同時に、その頭の片隅で……俺はきょうこそ間違いなく汽車に轢き殺されるのだぞ……といったようなハッキリした、気味の悪い予感を感じながら、冷たい筧の水でシミジミと顔を洗ったのであった。それから大急ぎで湯を湧かして、昨夜の残りの冷飯を掻込んで、これも昨夜のままの泥靴をそのまま穿いて、アルミの弁当箱を詰めた黒い鞄を抱え直し抱え直し、落葉まじりの霜の廃道を、この踏切板の上まで辿って来たのであったが、そこで真白い霜に包まれた踏切板の上に、自分の重たい泥靴がベタリと落ちた音を耳にすると、その一|刹那に今一度、そうした不吉な、ハッキリした予感と、その予感に脅やかされつつある彼の全生涯とを、非常な急速度で頭の中に廻転させたのであった。そうしてそのまま踏切を横切って、大急ぎで国道を廻わろうか。それとも思い切って鉄道線路を伝って行こうかと思い迷いながらも、なおも石像のように考え込んでいる自分自身の姿を眼の前に幻視しつつ、そうした気味の悪い予感に襲われるようになった、そのソモソモの不可思議な因縁を考え出そう考え出そうと努力しているのであった。  彼がこうした不可思議な心理現象に襲われ初めたのは昨日今日の事ではなかった。  昨年の正月から二月へかけて彼は、最愛の妻と一人子を追い継ぎに亡くしたのであったが、それからというものは彼は殆んど毎朝のように……きょうこそ……今日こそ間違いなく汽車に轢き殺される……といったような、奇妙にハッキリした予感を受け続けて来たものであった。しかし、それでもそのたんびに頭の単純な彼は、一種の宿命的な気持ちを含んだ真剣な不安に襲われながらも、踏切の線路を横切るたんびに、恐る恐る左右を見まわし見まわし、国道伝いに往復したせいであったろう。夕方になると、そんな不安な感じをケロリと忘れて、何事もなく山の中の一軒屋に帰って来るのであった。そうして無けなしの副食物と鍋飯で、貧しい夕食を済ますと、心の底からホッとした、一日の労苦を忘れた気持ちになって、彼が生涯の楽しみにしている「小学算術教科書」の編纂に取りかかるのであった。  しかし彼は、そうした不思議な心理現象に襲われる原因を、彼自身の神経衰弱のせいとは決して思っていなかった。むしろ彼が子供の時分から持っている一種特別の心理的な敏感さが、こうした神秘的な予感の感受性にまで変化して来たものと思い込んでいた。  ……という理由は、ほかでもなかった。  彼は、そうした意味で彼自身が、一種特別の奇妙な感受性の持主に相違ない……と信じ得る色々な不思議な体験を、十分……十二分に持っていたからであった。  彼は元来、年老いた両親の一人息子で、生れ付きの虚弱児童であったばかりでなく、一種の風変りな、孤独を好む性質であったので、学校に行っても他の生徒と遊び戯れた事なぞは殆んど無かった。その代りに学校の成績はいつも優等で、腕白連中に憎まれたり、いじめられたりする場合が多かったので、学校が済んで級長の仕事が片付くと、逃げるように家に帰って、門口から一歩も外に出ないような状態であった。  けれども極く稀にはタッタ一人で外に出ることも無いではなかった。それはいつでも極く天気のいい日に限られていて、行く先も山の中にきまり切っていた。……という理由は外でもない。彼は生れつき山の中が性に合っているらしいので、現在でもわざわざ学校から懸け離れた山の中の一軒屋に住んで、不自由な自炊生活をしている位であるが、こうした彼の孤独好きの性癖は既に既に、彼の少年時代から現われていたのであろう。青い空の下にクッキリと浮き立った山々の木立を、お縁側から眺めていると、子供心に呼びかけられるような気持になった。一方に彼の両親も亦、引っこみ勝ちな彼の健康のために良いとでも思ったのであろう。そんな時には喜んで外出を許してくれたので、彼は中学校の算術教程とか、四則三千題とかいったようなものを一二冊ふところに入れて、近所の悪たれどもの眼を避けながら、程近い郊外を山の方へ出かけたものであった。  それは十や十一の子供としてはマセ過ぎた散歩であったが、それでも山好きの彼にとっては、この上もない楽しみに違いなかった。彼はそうした散歩のお蔭で、そこいらの山の中の小径という小径を一本残らず記憶え込んでしまっていた。どこにはアケビの蔓があって、どこには山の芋が埋まっている。人間の顔によく似た大岩がどこの藪の中に在って、二股になった幹の間から桜の木を生やした大|榎はどこの池の縁に立っているという事まで一々知っていたのは恐らく村中で彼一人であったろう。  ところで彼は、そんな山歩きの途中で、雑木林の中なんぞに、思いがけない空地を発見する事がよくあった。それは大抵、一|反歩か二反歩ぐらいの広さの四角い草原で、多分屋敷か、畠の跡だろうと思われる平地であったが、立木や何かに蔽われているために幾度も幾度も近まわりをウロ付きながら、永い事気付かずにいるような空地であった。そのまん中に立ちながら、そこいら中をキョロキョロ見まわしていると、山という山、丘という丘が、どこまでもシイーンと重なり合っていて、彼を取囲む立木の一本一本が、彼をジイッと見守っているように思われて来る。足の下の枯葉がプチプチと微かな音を立てて、何となく薄気味が悪くなる位であった。  そんな処を見付けると彼は大喜びで、その空地の中央の枯草に寝ころんで、大好きな数学の本を拡げて、六ヶしい問題の解き方を考えるのであった。むろん鉛筆もノートも無しに空間で考えるので、解き方がわかると、あとは暗算で答を出すだけであったが、両親から呼ばれる気づかいは無いし、隣近所の物音も聞こえないのだから、頭の中が硝子のように澄み切って来る。それにつれて家ではどうしても解けなかった問題が、スラスラと他愛もなく解けて行くので、彼はトテモ愉快な気持になって時間の経つのを忘れていることが多かった。  ところが、そんな風に数学の問題に頭を突込んで一心になっている時に限って、思いもかけない背後の方から、ハッキリした声で……オイ……と呼びかける声が聞こえて、彼をビックリさせる事がよくあった。それは、むろん父親の声でもなければ先生の声でも、友達の声でもない。誰の声だか全くわからなかったが、しかし非常にハッキリしていた事だけは事実であった。ダシヌケに大きな声で……ウオイ……という風に……。だから彼はビックリして跳ね起きながら振り返ってみると誰も居ない。雑木林がカーッと西日に輝いて、鳥の声一つ聞こえないのであった。  それは実に不思議な、神秘的な心理現象であった。最初のうち彼は、そんな声を聞くたんびに髪の毛がザワザワとしたものであったが、しかし、それは一時的の神経作用といったようなものではなかったらしく、その後も同じような……又は似たような体験を幾度となく繰返したので、彼はスッカリ慣れっこになってしまったのであった。  彼が、やはり数学の問題を考え考えしながら、山の中の細道をどこまでもどこまでも歩いて行くと、いつからともなく向うの方から五六人か七八人位の人数でガヤガヤと話しながら、こっちの方へ来る声が聞こえ初める。むろんその道が一本道になっていることを彼は知っているし、遣って来る連中は大人に違いないのだから、その連中に行遭ったら、道傍の羊歯の中へでも避けてやる気で、やはり数学の問題を考え考え一本道を近付いて行くと、不思議なことにどこまで行ってもその話声の主人公の大人たちに行き遭わない。何だか可笑しい。変だな……と思ううちに、その細い一本道はおしまいになって、広い広い田圃を見晴らした国道の途中か何かにヒョッコリ出てしまうのであった。ちょうど向うから来ていた大勢の人間が、途中で虚空に消え失せたような気持であった。  それは決して気のせいでもなければ神経作用とも思えなかった。たしかに、そんな声が聞こえるのであった。ちょうど一心に考え詰めているこちらの暗い気持と正反対の、明るいハッキリした声が聞こえて来るので、気にかけるともなく気にかけていると、そのうちに何かしらハッと気が付くと同時に、その声もフッツリと消え失せるような場合が非常に多いのであった。  しかし元来が風変りな子供であった彼は、そんな不可思議現象を、ソックリそのまま不可思議現象として受入れて、山に行くのを気味悪がったり、又は両親や他人に話して聞かせるような事は一度もしなかった。そのうちに大きくなったら解かる事と思って、自分一人の秘密にしたまま、忘れるともなく次から次に忘れていた。そうして彼は、それから後、中学から高等学校を経て、大学から大学院まで行ったのであるが、そのうちに彼の両親は死んでしまった。それから妻のキセ子を貰ったり、太郎という長男が生まれたり、又は学士から、小学教員になりたいというので、色々と面倒な手続きをして、ヤットの思いで現在の小学校に奉職する事が出来たりしたものであったが、それ迄の間というもの学校の図書館や、人通りの無い国道や、放課後の教室の中なぞでも、幾度となくソンナような知らない声から呼びかけられる経験を繰返したのであった。  しかし彼は、そんな体験を他人に話したことは依然として一度も無かった。ただそのうちにだんだんと年を取って来るにつれて、時々そんな事実にぶつかるたんびに、いくらかずつ気味が悪るくなって来たことは事実であった。……こんな体験を持っている人間は事に依ると俺ばかりじゃないかしらん。……他人がこんな不思議な体験をした話を、聞いたり読んだりした事が、今までに一度も無いのは何故だろう。……俺は小さい時から一種の精神異状者に生れ付いているのじゃないか知らん……なぞと内々で気を付けるようになったものである。  ところが、そのうちに、ちょうど十二三年ばかり前の結婚当時の事、宿直の退屈|凌ぎに、学校の図書室に這入り込んで、室の隅に積み重ねて在る「心霊界」という薄ッペラな雑誌を手に取りながら読むともなく読んでいると、思いがけもなく自分の体験にピッタリし過ぎる位ピッタリした学説を発見したので、彼はドキンとする程驚ろかされたものであった。  それは旧|露西亜のモスコー大学に属する心霊学界の非売雑誌に発表された新学説の抄訳紹介で「自分の魂に呼びかけられる実例」と題する論文であったが、それを読んでみると、正体の無い声に呼びかけられた者は決して彼一人でないことがわかった。 「……何にも雑音の聞こえない密室の中とか、風の無い、シンとした山の中なぞで、或る事を一心に考え詰めたり、何かに気を取られたりしている人間は、色々な不思議な声を聞くことが、よくあるものである。現にウラルの或る地方では「木魂に呼びかけられると三年|経たぬうちに死ぬ」という伝説が固く信じられている位であるが、しかもその「スダマ」、もしくは「主の無い声」の正体を、心霊学の研究にかけてみると何でもない。それは自分の霊魂が、自分に呼びかける声に外ならないのである。  すなわち一切の人間の性格は、ちょうど代数の因子分解と同様な方式で説明出来るものである。換言すれば一個の人間の性格というものは、その先祖代々から伝わった色々な根性……もしくは魂の相乗積に外ならないので、たとえばという性格はという父親の性格とという母親の性格が遺伝したものの相乗積に外ならない……と考えられるようなものである。ところでそのという全性格の中でもという一因子……換言すれば母親から遺伝した、たとえば「数学好き」という魂が、その的傾向……すなわち数学の研究慾に凝り固まって、どこまでも他の魂の存在を無視して、超越して行こうとするような事があると、アトに取り残されたという魂が、一人ポッチで遊離したまま、徐々と、又は突然に一種の不安定的な心霊作用を起してに呼びかける……つまり一時的に片寄った的性格をの方向へ呼び戻して、以前の全性格の飽和状態に立ち帰らせるべくモーションをかけるのだ。その魂の呼びかけが、そっくりそのまま声となって錯覚されるので、その声が普通の鼓膜から来た声よりズット深い意識にまで感じられて、人を驚ろかせ、怪しませるのは当然のことでなければならぬ」  といったような論法で、生物の外見の上に現われる遺伝が、組合式、一列式、並列式、又は等比、等差なぞいう数理的な配合によって行われているところから説き初めて、精神、もしくは性格、習慣なぞいう心霊関係の遺伝も同様に、数理的の原則によって行われている事実にまで、幾多の犯罪者の家系を実例に挙げて説き及ぼしている。それから天才と狂人、幽霊現象、千里眼、予言者なぞいう高等数学的な心理の分解現象の実例を、詳細に亙って数理的に説明して在ったが、その中でも特別に彼がタタキ付けられた一節は、普通人と、天才と、狂人の心理分解の状態を、それぞれ数理的に比較研究する前提として掲げてある、次のような解説であった。 「……天才とか狂人とかいうものは詰まるところ、そうした自分の性格の中の色々な因子の中の或る一つか二つかを、ハッキリと遊離させる力が意識的、もしくは無意識的に強い人間を指して云うので、天才が狂人に近いという俗説も、斯様に観察して来ると、極めて合理的に説明されて来るのである。……太陽を描いて発狂したゴホや、モナ・リザの肖像を見て気が変になった数名の画家なぞはその好適例である。すなわち自分の魂をその絵に傾注し過ぎて、モトの通りのシックリした性格に帰れなくなったので、その結果スッカリ分裂して遊離してしまった個々別々の自分の魂から、夜も昼も呼びかけられるようになってしまったのだ。  ……又、ベクリンという画伯は、自分に呼びかける自分の魂の姿を、骸骨がバイオリンを弾いている姿に描きあらわして不朽の名を残したものである。  ……又、これを普通人の例に取って見ると、身体が弱かったり、年を老って死期が近付いたりした人間は、認識の帰納力とか意識の綜合力とかいったような中心主力が弱って来る結果、意識の自然分解作用がポツポツあらわれ初める。時々、どこからか自分の声に呼びかけられるようになる。だから身体が弱かった場合か、又は相当年を老った人間で、正体の無い声に呼びかけられるような事があったならば、自分の死期の近づいた事に就いて慎重なる考慮をめぐらすべきである」云々……。  この論文の一節を読んだ時に彼は、思わずゾッとして首を縮めさせられた。生れ付き虚弱な上に、天才的な、極度に気の弱い性格を持っている彼が、そうした不可思議な現象に襲われる習慣を持っているのは、当然過ぎる位当然な事と思わせられた。そうしてそれ以来、普通人よりも天才とか狂人とかいう者の頭の方が合理的に動いているものではないか知らんと、衷心から疑い出す一方に、時折り彼を呼びかけるその声が、果して自分の声だかどうだかを、的確に聞き分けてやろうと思って、ショッチュウ心掛けていたものであった。  ところが、ここに又一つの奇蹟が現われた……というのは外でもない。その本を読んでからというもの、彼はどうしたものか、一度もそんな声にぶつからなくなってしまった事であった。ちょうど正体を看破された幽霊か何ぞのように、自分を呼びかける自分の声が、ピッタリと姿を見せなくなったので、この七八年というもの彼は忘れるともなしにソノ「自分を呼びかける自分の声」のことを忘れてしまっていた。もっともこの七八年というもの彼は、所帯を持ったり、子供は出来たりで、好きな数学の研究に没頭して、自分の魂を遊離させる機会が些なかったせいかも知れなかったが……。  ところが又、その後になって、彼の妻と子供が死んで、ホントウの一人ポッチになってしまうと、不思議にも今云ったような心理現象が又もやハッキリと現われ出して、彼を驚かし初めたのであった。のみならずその声が彼にとっては実にたまらない、身を切るような痛切な形式でもって襲いかかりはじめたので、彼はモウその声に徹底的にタタキ付けられてしまって、息も吐かれない眼に会わせられることになったのであるが、しかも、そんな事になったそのソモソモの因縁を彼自身によくよく考え廻わしてみると、それはどうやら彼の亡くなった妻の、異常な性格から発端して来ているらしく思われたのであった。  彼の亡くなった妻のキセ子というのは元来、彼の住んでいる村の村長の娘で、この界隈には珍らしい女学校卒業の才媛であったが、容貌は勿論のこと、気質までもが尋常一様の変り方ではなかった。彼が堂々たる銀時計の学士様でいながら、小学校の生徒に数学を教えたいのが一パイで、無理やりに自分の故郷の小学校に奉職しているのに、その横合いから又、無理やりに彼の意気組に共鳴して、一所になる位の女だったので、ただ子供に対する愛情だけが普通と変っていないのが、寧ろ不思議な位のものであった。つまり極度にヒステリックな変態的|女丈夫とでも形容されそうな型の女であったが、それだけに又、自分の身体が重い肺病に罹っても、亭主の彼に苦労をかけまいとして、無理に無理を押し通して立働らいていたばかりでなく、昨年の正月に血を喀いてたおれた時にも、死ぬが死ぬまで意識の混濁を見せなかったものである。ちょうど十一になった太郎の頭を撫でながら、弱々しい透きとおった声で、 「……太郎や。お前はね。これからお父さんの云付けを、よく守らなくてはいけないよ。お前がお父さんの仰言る事を肯かなかったりすると、お母さんがチャンとどこからか見て悲しんでおりますよ。お父さんが、いつもよく仰言る通りに、どんなに学校が遅くなっても鉄道線路なんぞを歩いてはいけませんよ」  なんかと冗談のような口調で云い聞かせながら、微笑しいしい息を引き取ったもので、それはシッカリした立派な臨終であった。  彼はだからその母親が死ぬと間もなく、お通夜の晩に、忘れ形見の太郎を引き寄せて、涙ながらに固い約束をしたものであった。 「……これから決して鉄道線路を歩かない事にしような。お前はよく友達に誘われると、イヤとも云いかねて、一所に線路伝いをしているようだが、あんな事は絶対に止める事に仕様じゃないか。いいかい。お父さんも決して鉄道線路に足を踏み入れないからナ……」  といったようなことをクドクドと云い聞かせたのであった。その時には太郎もシクシク泣いていたが、元来|柔順な児だったので、何のコダワリもなく彼の言葉を受け入れて、心からうなずいていたようであった。  それから後というものは彼は毎日、昔の通りに自炊をして、太郎を一足先に学校へ送り出した。それから自分自身は跡片付を済ますと大急ぎで支度を整えて、吾児の跡を逐うようにして学校へ出かけるのであったが、それがいつも遅れ勝ちだったので、よく線路伝いに学校へ駈け付けたものであった。  けれども太郎は生れ付きの柔順さで、正直に母親の遺言を守って、いくら友達に誘われても線路を歩かなかったらしく、毎日毎日国道の泥やホコリで、下駄や足袋を台なしにしていた。一方に彼は、いつもそうした太郎の正直さを見るにつけて……これは無論、俺が悪い。俺が悪いにきまっているのだ。だけど学校は遠いし、余計な仕事は持っているしで、モトモト自炊の経験はあったにしても、その上に母親の役目と、女房の仕事が二つ、新しく加わった訳だから、登校の時間が遅れるのは止むを得ない。だから線路を通るのは万止むを得ないのだ……。  なぞといったような云い訳を毎日毎日心の中で繰り返しているのであった。当てもない妻の霊に対して、おんなじような詫びごとを繰返し繰返し良心の呵責を胡麻化しているのであった。  ところが天罰|覿面とはこの事であったろうか。こうした彼の不正直さが根こそげ曝露する時機が来た。しかし後から考えるとその時の出来事が、後に彼の愛児を惨死させた間接の……イヤ……直接の原因になっているとしか思われない、意外|千万の出来事が起って、非常な打撃を彼に与えたのであった。  それはやはり去年の正月の大寒中で、妻の三七日が済んだ翌る日の事であったが…………………………………………。  ……ここまで考え続けて来た彼は、チョット鞄を抱え直しながら、もう一度そこいらをキョロキョロと見まわした。  そこは線路が、この辺一帯を蔽うている涯てしもない雑木林の間の空地に出てから間もない処に在る小川の暗渠の上で、殆んど干上りかかった鉄気水の流れが、枯葦の間の処々にトラホームの瞳に似た微かな光りを放っていた。その暗渠の上を通り越すと彼は、いつの間にか線路の上に歩み出している彼自身を怪しみもせずに、今まで考え続けて来た彼自身の過去の記憶を今一度、シンシンと泌み渡る頭の痛みと重ね合わせて、チラチラと思い出しつづけたのであった。  そのチラチラの中には純粋な彼自身の主観もあれば、彼の想像から来た彼自身に対する客観もあった。暖かい他人の同情の言葉もあれば、彼の行動を批判する彼自身の冷めたい正義観念も交っていたが、要するにそんなような種々雑多な印象や記憶の断片や残滓が、早くも考え疲れに疲れた彼の頭の中で、暈かしになったり、大うつしになったり、又は二重、絞り、切組、逆戻り、トリック、モンタージュの千変万化をつくして、或は構成派のような、未来派のような、又は印象派のような場面をゴチャゴチャに渦巻きめぐらしつつ、次から次へと変化し、進展し初めたのであった。そうして彼自身が意識し得なかった彼自身の手で、彼のタッタ一人の愛児を惨死に陥れて、彼をホントウの独ポッチにしてしまうべく、不可抗的な運命を彼自身に編み出させて行った不可思議な或る力の作用を今一度、数学の解式のようにアリアリと展開し初めたのであった。  それは大寒中には珍らしく暖かい、お天気のいい午後のことであった。  彼は二三日前から風邪を引いていて、その日も朝から頭が重かったので、いつもの通り夕方近くまで居残って学校の仕事をする気がどうしても出なかった。だから放課後一時間ばかりも経つと、やはり、何かの用事で居残っていた校長や同僚に挨拶をしいしい、生徒の答案を一パイに詰めた黒い鞄を抱え直して、トボトボと校門を出たのであった。  ところで校門を出てポプラの並んだ広い道を左に曲ると、彼の住んでいる山懐の傾斜の下まで、海岸伝いに大きな半円を描いた国道に出るのであったが、しかし、その国道を迂廻して帰るのが、彼にとっては何よりも不愉快であった。……というのは距離が遠くなるばかりでなく、この頃著しく数を増した乗合自動車やトラック、又は海岸の別荘地に出這入りする高級車の砂ホコリを後から後から浴びせられたり、又は彼を知っている教え子の親たちや何かに出会ってお辞儀をさせられるたんびに、彼の頭の中にフンダンに浮かんでいる数学的な瞑想を破られるのが、実にたまらない苦痛だからであった。  ところがこれに反して校門を出てから、草の間の狭い道をコッソリと右に曲ると、すぐに小さな杉森の中に這入って、その蔭に在る駅近くの踏切に出る事が出来た。そこから線路伝いに四五町ほど続いた高い堀割の間を通り抜けると、百分の一内外の傾斜線路を殆んど一直線に、自分の家の真下に在る枯木林の中の踏切まで行けるので、その途中の大部分は枯木林に蔽われてしまっていたから、誰にも見付かる気遣いが無いのであった。  ところで又、彼はその校門の横の杉森を出て、線路の横の赤土道に足を踏み入れると同時に、はるか一里ばかり向うの山蔭に在る自分の家と、そこに待っているであろう妻子の事を思い出すのが習慣のようになっていた。その習慣は去年の正月に彼の妻が死んだ後までも、以前と同じように引続いていたのであったが、しかし彼は、その愚かな心の習慣を打消そうとは決してしなかった。むしろそれが自分だけに許された悲しい権利ででもあるかのように、ツイこの間まで立ち働らいていた妻の病み窶れた姿や、現在、先に帰って待っているであろう吾児の元気のいい姿を、それからそれへと眼の前に彷彿させるのであった。山番小舎のトボトボと鳴る筧の前で、勝気な眼を光らして米を磨いでいる妻の横顔や、自分の姿が枯木立の間から現われるのを待ちかねたように両手を差し上げて、 「オーイ。お父さーン」  と呼びかける頬ペタの赤い太郎の顔や、その太郎が汲込んで燃やし付けた孫風呂の煙が、山の斜面を切れ切れに這い上って行く形なぞを、過去と現在と重ね合わせて頭の中に描き出すのであった。もっとも時折は、黒い風のような列車の轟音を遣り過したあとで、枕木の上に立ち止まって、バットの半分に火を点けながら、  ……又きょうも、おんなじ事を考えているな。イクラ考えたって、おんなじ事を……。  と自分で自分の心を冷笑した事もあった。そうして四十を越してから妻を亡くした見窄らしい自分自身の姿が、こころもち前屈みになって歩いて行く姿を、二三十|間向うの線路の上に、幻覚的に描き出しながらも……。  ……もっともだ。もっともだ。そうした儚ない追憶に耽るのは、お前のために取残されているタッタ一つの悲しい特権なのだ。お前以外に、お前のそうした痛々しい追憶を冷笑し得る者がどこに居るのだ……。  と云いたいような、一種の憤慨に似た誇りをさえ感じつつ、眼の中を熱くする事もあった。そうして全国の小学児童に代数や幾何の面白さを習得さすべく、彼自身の貴い経験によって、心血を傾けて編纂しつつある「小学算術教科書」が思い通りに全国の津々浦々にまで普及した嬉しさや、さては又、県視学の眼の前で、複雑な高次方程式に属する四則雑題を見事に解いた教え子の無邪気な笑い顔なぞを思い出しつつ……云い知れぬ喜びや悲しみに交る交る満たされつつ、口にしたバットの火が消えたのも忘れて行く事が多いのであった。 「……オトウサン……」  という声をツイ耳の傍で聞いたように思ったのはソンナ時であった……。 「……………………」  ハッと気が付いてみると彼は、その日もいつの間にか平生の習慣通りに、線路伝いに来ていて、ちょうど長い長い堀割の真中あたりに近い枕木の上に立佇まっているのであった。彼のすぐ横には白ペンキ塗の信号柱が、白地に黒線の這入った横木を傾けて、下り列車が近付いている事を暗示していたが、しかし人影らしいものはどこにも見当らなかった。ただ彼のみすぼらしい姿を左右から挟んだ、高い高い堀割の上半分に、傾いた冬の日がアカアカと照り映えているその又上に、鋼鉄色の澄み切った空がズーッと線路の向うの、山の向う側まで傾き蔽うているばかりであった。  そんなような景色を見まわしているうちに彼は、ゆくりなくも彼の子供時代からの体験を思い出していた。  ……もしや今のは自分の魂が、自分を呼んだのではあるまいか。……お父さん……と呼んだように思ったのは、自分の聞き違いではなかったろうか……。  といったような考えを一瞬間、頭の中に廻転させながら、キョロキョロとそこいらを見まわしていた。……が、やがてその視線がフッと左手の堀割の高い高い一角に止まると、彼は又もハッとばかり固くなってしまった。  彼の頭の上を遥かに圧して切り立っている堀割の西側には、更にモウ一段高く、国道沿いの堤があった。その堤の上に最前から突立って見下していたらしい小さな、黒い人影が見えたが、彼の顔がその方向に向き直ると間もなく、その小さい影はモウ一度、一生懸命の甲高い声で呼びかけた。 「……お父さアーん……」  その声の反響がまだ消えないうちに彼は、カンニングを発見された生徒のように真赤になってしまった。……線路を歩いてはいけないよ……と云い聞かせた自分の言葉を一瞬間に思い出しつつ、わななく指先でバットの吸いさしを抓み捨てた。そうして返事の声を咽喉に詰まらせつつ、辛うじて顔だけ笑って見せていると、そのうちに、又も甲高い声が上から落ちて来た。 「お父さアン。きょうはねえ。残って先生のお手伝いして来たんですよオ――。書取りの点をつけてねえ……いたんですよオ――……」  彼はヤットの思いで少しばかりうなずいた。そうして吾児が入学以来ズット引続いて級長をしていることを、今更ながら気が付いた。同時にその太郎が時々担当の教師に残されて、採点の手伝いをさせられる事があるので……ソンナ時は成るたけ連れ立って帰ろうね……と約束していた事までも思い出した彼は、どうする事も出来ないタマラナイ面目なさに縛られつつ、辛うじて阿弥陀になった帽子を引直しただけであった。 「……オトウサーアアーンン……降りて行きましょうかアア……」  という中に太郎は堤の上をズンズンこちらの方へ引返して来た。 「イヤ……俺が登って行く……」  狼狽した彼はシャガレた声でこう叫ぶと、一足飛びに線路の横の溝を飛び越えて、重たい鞄を抱え直した。四十五度以上の急斜面に植え付けられた芝草の上を、一生懸命に攀じ登り初めたのであった。  それは労働に慣れない彼にとっては実に死ぬ程の苦しい体験であった。振返るさえ恐しい三|丈あまりの急斜面を、足首の固い兵隊靴の爪先と、片手の力を便りにして匐い登って行くうちに、彼は早くも膝頭がガクガクになる程疲れてしまった。崖の中途に乱生した冷めたい草の株を掴むたんびに、右手の指先の感覚がズンズン消え失せて行くのを彼は自覚した。反対に彼の顔は流るる汗と水洟に汚れ噎せて、呼吸が詰まりそうになるのを、どうする事も出来ないながらに、彼は子供の手前を考えて、大急ぎに斜面を登るべく、息も吐かれぬ努力を続けなければならなかった。  ……これは子供に唾を吐いた罰だ。子供に禁じた事を、親が犯した報いだ。だからコンナ責苦に遭うのだ……。  といったような、切ない、情ない、息苦しい考えで一杯になりながら、上を見る暇もなく斜面に縋り付いて行くうちに、疲れ切ってブラブラになった足首が、兵隊靴を踏み返して、全身が草のようにブラ下がったままキリキリと廻転しかけた事が二三度あった。その瞬間に彼は、眼も遥かな下の線路に大の字|形にタタキ付けられている彼自身の死骸を見下したかのように、魂のドン底までも縮み上らせられたのであったが、それでもなお死物狂いの努力で踏みこたえつつ大切な鞄を抱え直さなければならなかった。 「あぶない。お父さん……お父さアン……」  と叫ぶ太郎の声を、すぐ頭の上で聞きながら……。  ……堤の上に登ったら、直ぐに太郎を抱き締めてやろう。気の済むまで謝罪ってやろう……。そうして家に帰ったら、妻の位牌の前でモウ一度あやまってやろう……。  そう思い詰め思い詰め急斜面の地獄を匐い登って来た彼は……しかし……平たい、固い、砂利だらけの国道の上に吾児と並んで立つと、もうソンナ元気は愚かなこと、口を利く力さえ尽き果てていることに気が付いた。薄い西日を前にして大浪を打つ動悸と呼吸の嵐の中にあらゆる意識力がバラバラになって、グルグルと渦巻いて吹き散らされて行くのをジイーッと凝視めて佇んでいるうちに、眼の前の薄黄色い光りの中で、無数の灰色の斑点がユラユラチラチラと明滅するのを感じていた。それからヤット気を取り直して、太郎に鞄を渡しながら、幽霊のようにヒョロヒョロと歩き出した時の心細かったこと……。そのうちに全身を濡れ流れた汗が冷え切ってしまって、タマラナイ悪寒がゾクゾクと背筋を這いまわり初めた時の情なかったこと……。  彼は山の中の一軒屋に帰ると、何もかも太郎に投げ任せたまま直ぐに床を取って寝た。そうしてその晩から彼は四十度以上の高い熱を出して重態の肺炎に喘ぎつつ、夢うつつの幾日かを送らなければならなかった。  彼はその夢うつつの何日目かに、眼の色を変えて駈け付けて来た同僚の橋本訓導の顔付を記憶していた。その後から駈け付けて来た巡査や、医者や、村長さんや、区長さんや、近い界隈の百姓たちの只事ならぬ緊張した表情を不思議なほどハッキリ記憶していた。のみならずそれが太郎の死を知らせに来た人々で……。 「コンナ大層な病人に、屍体を見せてええか悪いか」 「知らせたら病気に障りはせんか」  といったような事を、土間の暗い処でヒソヒソと相談している事実や何かまでも、慥かに察しているにはいた。けれども彼は別に驚きも悲しみもしなかった。おおかたそれは彼の意識が高熱のために朦朧状態に陥っていたせいであろう。ただ夢のように……。  ……そうかなあ……太郎は死んだのかなあ……俺も一所にあの世へ行くのかなあ……。  と思いつつ、別に悲しいという気もしないまま、生ぬるい涙をあとからあとから流しているばかりであった。  それからもう一つその翌る日のこと……かどうかよくわからないが、ウッスリ眼を醒ました彼は囁やくような声で話し合っている女の声をツイ枕元の近くで聞いた。ちょうどラムプの芯が極度に小さくして在ったので、そこが自分の家であったかどうかすら判然しなかったが、多分介抱のために付添っていた、近くの部落のお神さん達か何かであったろう。 「……ホンニまあ。坊ちゃんは、ちょうどあの堀割のまん中の信号の下でなあ……」 「……マアなあ……お父さんの病気が気にかかったかしてなあ……先生に隠れて鉄道づたいに近道さっしやったもんじゃろうて皆云い御座るげなが……」 「……まあ。可愛そうになあ……。あの雨風の中になあ……」 「それでなあ。とうとう坊ちゃんの顔はお父さんに見せずに火葬してしまうたて、なあ……」 「……何という、むごい事かいなあ……」 「そんでなあ……先生が寝付かっしゃってから、このかた毎日坊ちゃんに御飯をば喰べさせよった学校の小使いの婆さんがなあ。代られるもんなら代ろうがて云うてなあ。自分の孫が死んだばしのごと歎いてなあ……」  あとはスッスッという啜り泣きの声が聞こえるばかりであったが、彼はそれでも別段に気に止めなかった。そうした言葉の意味を考える力も無いままに又もうとうとしかけたのであった。 「橋本先生も云うて御座ったけんどなあ。お父さんもモウこのまま死んで終わっしゃった方が幸福かも知れんち云うてなあ……」  といったようなボソボソ話を聞くともなく耳に止めながら……自分が死んだ報せを聞いて、口をアングリと開いたまま、眼をパチパチさせている人々の顔と、向い合って微笑しながら……。  けれどもそのうちに、さしもの大熱が奇蹟的に引いてしまうと、彼は一時、放神状態に陥ってしまった。和尚さんがお経を読みに来ても知らん顔をして縁側に腰をかけていたり、妻の生家から見舞いのために配達させていた豆乳を一本も飲まなかったりしていたが、それでも学校に出る事だけは忘れなかったと見えて、体力が出て来ると間もなく、何の予告もしないまま、黒い鞄を抱え込んでコツコツと登校し初めたのであった。  教員室の連中は皆驚いた。見違えるほど窶れ果てた顔に、著しく白髪の殖えた無精髯を蓬々と生やした彼の相好を振り返りつつ、互いに眼と眼を見交した。その中にも同僚の橋本訓導は、真先に椅子から離れて駈け寄って来て、彼の肩に両手をかけながら声を潤ませた。 「……ど……どうしたんだ君は。……シシ……シッカリしてくれ給え……」  眼をしばたたきながら、椅子から立ち上った校長も、その横合いから彼に近付いて来た。 「……どうか充分に休んでくれ給え。吾々や父兄は勿論のこと、学務課でも皆、非常に同情しているのだから……」  と赤ん坊を諭すように背中を撫でまわしたのであったが、しかし、そんな親切や同情が彼には、ちっとも通じないらしかった。ただ分厚い近眼鏡の下から、白い眼でジロリと教室の内部を見廻わしただけで、そのまま自分の椅子に腰を卸すと、彼の補欠をしていた末席の教員を招き寄せて学科の引継を受けた。そうして乞食のように見窄らしくなった先生の姿に驚いている生徒たちに向って、ポツポツと講義を初めたのであった。  それから午後になって教員室の連中から、 「無理もない」  というような眼付きで見送られながら校門を出るとそのまま右に曲って、生徒たちが見送っているのも構わずにサッサと線路を伝い初めたのであった。……又も以前の通りの思出を繰返しつつ、……自分の帰りを待っているであろう妻子の姿を、木の間隠れの一軒屋の中に描き出しつつ……。  彼はそれから後、来る日も来る日もそうした昔の習慣を判で捺したように繰返し初めたのであったが、しかしその中にはタッタ一つ以前と違っている事があった。それは学校を出てから間もない堀割の中程に立っている白いシグナルの下まで来ると、おきまりのようにチョット立止まって見る事であった。  彼はそうしてそこいらをジロジロと見廻しながら、吾児の轢かれた遺跡らしいものを探し出そうとするつもりらしかったが、既に幾度も幾度も雨風に洗い流された後なので、そんな形跡はどこにも発見される筈が無かった。  しかし、それでも彼は毎日毎日、そんな事を繰り返す器械か何ぞのように、おんなじ処に立ち佇まって、くり返しくり返しおんなじ処を見まわしたので、そこいらに横たわっている数本の枕木の木目や節穴、砂利の一粒一粒の重なり合い、又はその近まわりに生えている芝草や、野茨の枝ぶりまでも、家に帰って寝る時に、夜具の中でアリアリと思い出し得るほど明確に記憶してしまった。そうして彼はドンナニ外の考えで夢中になっている時でも、シグナルの下のそのあたりへ来ると、殆んど無意識に立佇まって、そこいらを一渡り見まわした後でなければ、一歩も先へ進めないようにスッカリ癖づけられてしまったのであった……何故そこに立佇まっているのか、自分自身でも解らないままに、暗い暗い、淋しい淋しい気持ちになって、狃染みの深い石ころの形や、枕木の切口の恰好や、軌条の継目の間隔を、一つ一つにジーッと見守らなければ気が済まないのであった……………………。 「お父さん」  というハッキリした声が聞こえたのは、ちょうど彼がそうしている時であった。  彼はその声を聞くや否や、電気に打たれたようにハッと首を縮めた。無意識のうちに眼をシッカリと閉じながら、肩をすぼめて固くなったが、やがて又、静かに眼を見開いて、オズオズと左手の高い処を見上げた。寂しい霜枯れの草に蔽われた赤土の斜面と、その上に立っている小さな、黒い人影を予想しながら……。  ところが現在、彼の眼の前に展開している堀割の内側は、そんな予想と丸で違った光景をあらわしていた。見渡す限り草も木も、燃え立つような若緑に蔽われていて、色とりどりの春の花が、巨大な左右の土の斜面の上を、涯てしもなく群がり輝やき、流れ漾い、乱れ咲いていた。線路の向うの自分の家を包む山の斜面の中程には、散り残った山桜が白々と重なり合っていた。朗らかに晴れ静まった青空には、洋紅色の幻覚をほのめかす白い雲がほのぼのとゆらめき渡って、遠く近くに呼びかわす雲雀の声や、頬白の声さえも和やかであった。  ……その中のどこにも吾児らしい声は聞こえない……どこの物蔭にも太郎らしい姿は発見されない……全く意外千万な眩ぶしさと、華やかさに満ち満ちた世界のまん中に、昔のまんまの見窄らしい彼自身の姿を、タッタ一つポツネンと発見した彼……。  ……彼がその時に、どんなに奇妙な声を立てて泣き出したか……それから、どんなに正体もなく泣き濡れつつ線路の上をよろめいて、山の中の一軒屋へ帰って行ったか……そうして自分の家に帰り着くや否や、箪笥の上に飾ってある妻子の位牌の前に這いずりまわり、転がりまわりつつ、どんなに大きな声をあげて泣き崩れたか……心ゆくまで泣いては詫び、あやまっては慟哭したか……。そうして暫くしてからヤット正気付いた彼が、見る人も、聞く人も無い一軒屋の中で、そうしている自分の恰好の見っともなさを、気付き過ぎる程気付きながらも、ちっとも恥かしいと思わなかったばかりでなく、もっともっと自分を恥かしめ、苛なみ苦しめてくれ……というように、白木の位牌を二つながら抱き締めて、どんなに頬ずりをして、接吻しつつ、あこがれ歎いたことか……。 「……おお……キセ子……キセ子……俺が悪かった。重々悪かった。堪忍……堪忍してくれ……おおっ。太郎……太郎太郎。お父さんが……お父さんが悪かった。モウ……もう決して、お父さんは線路を通りません……通りません。……カ……堪忍して……堪忍して下さアアア――イ……」  と声の涸れるほど繰返し繰返し叫び続けたことか……。  彼は依然として枯木林の間の霜の線路を渡りつづけながら、その時の自分の姿をマザマザと眼の前に凝視した。その瞼の内側が自ずと熱くなって、何ともいえない息苦しい塊まりが、咽喉の奥から、鼻の穴の奥の方へギクギクとコミ上げて来るのを自覚しながら……。 「……アッハッハ……」  と不意に足の下で笑う声がしたので、彼は飛び上らむばかりに驚いた。思わず二三歩走り出しながらギックリと立ち佇まって、汗ばんだ額を撫で上げつつ線路の前後を大急ぎで見まわしたが、勿論、そこいらに人間が寝ている筈は無かった。薄霜を帯びた枕木と濡れたレールの連続が、やはり白い霜を冠った礫の大群の上に重なり合っているばかりであった。  彼の左右には相も変らぬ枯木林が、奥もわからぬ程立ち並んで、黄色く光る曇り日の下に灰色の梢を煙らせていた。そうしてその間をモウすこし行くと、見晴らしのいい高い線路に出る白い標識柱の前にピッタリと立佇まっている彼自身を発見したのであった。 「……シマッタ……」  と彼はその時口の中でつぶやいた。……あれだけ位牌の前で誓ったのに……済まない事をした……と心の中で思っても見た。けれども最早取返しの付かない処まで来ている事に気が付くと、シッカリと奥歯を噛み締めて眼を閉じた。  それから彼は又も、片手をソッと額に当てながら今一度、背後を振り返ってみた。ここまで伝って来た線路の光景と、今まで考え続けて来た事柄を、逆にさかのぼって考え出そうと努力した。あれだけ真剣に誓い固めた約束を、それから一年近くも過ぎ去った今朝に限って、こんなに訳もなく破ってしまったそのそもそもの発端の動機を思い出そうと焦燥ったが、しかし、それはモウ十年も昔の事のように彼の記憶から遠ざかっていて、どこをドンナ風に歩いて来たか……いつの間に帽子を後ろ向きに冠り換えたか……鞄を右手に持ち直したかという事すら考え出すことが出来なかった。ただズット以前の習慣通りに、鞄を持ち換え持ち換え線路を伝って、ここまで来たに違い無い事が推測されるだけであった。…………しかしその代りに、たった今ダシヌケに足の下で笑ったものの正体が彼自身にわかりかけたように思ったので、自分の背後の枕木の一つ一つを念を入れて踏み付けながら引返し初めた。すると間もなく彼の立佇まっていた処から四五本目の、古い枕木の一方が、彼の体重を支えかねてグイグイと砂利の中へ傾き込んだ。その拍子に他の一端が持ち上って軌条の下縁とスレ合いながら……ガガガ……と音を立てたのであった。  彼はその音を聞くと同時に、タッタ今の笑い声の正体がわかったので、ホッと安心して溜息を吐いた。それにつれて気が弛んだらしく、頭の毛が一本一本ザワザワザワとして、身体中にゾヨゾヨと鳥肌が出来かかったが、彼はそれを打消すように肩を強くゆすり上げた。黒い鞄を二三度左右に持ち換えて、切れるように冷めたくなった耳朶をコスリまわした。それから鼻息の露に濡れた胡麻塩髯を撫でまわして、歪みかけた釣鐘マントの襟をゆすり直すと、又も、スタスタと学校の方へ線路を伝い初めた。いつも踏切の近くで出会う下りの石炭列車が、モウ来る時分だと思い思い、何度も何度も背後を振り返りながら……。  彼は、それから間もなく、今までの悲しい思出からキレイに切り離されて、好きな数学の事ばかりを考えながら歩いていた。彼自身にとって最も幸福な、数学ずくめの冥想の中へグングンと深入りして行った。  彼の眼には、彼の足の下に後から後から現われて来る線路の枕木の間ごとに変化して行く礫石の群れの特徴が、ずっと前に研究しかけたまま忘れかけている函数論や、プロバビリチーの証明そのもののように見えて来た。彼は又、枕木と軌条が擦れ合った振動が、人間の笑い声に聞こえて来るまでの錯覚作用を、数理的に説明すべく、しきりに考え廻わしてみた。それは何の不思議もない簡単な出来事で、考えるさえ馬鹿馬鹿しい事実であったが、しかしその簡単な枕木の振動の音波が人間の鼓膜に伝わって、脳髄に反射されて、全身の神経に伝わって、肌を粟立たせるまでの経路を考えて来ると、最早、数理的な頭ではカイモク見当の付けようの無い神秘作用みたようなものになって行くのが、重ね重ね腹が立って仕様がなかった。人間が機関車に正面すると、ちょうど蛇に魅入られた蛙のように動けなくなって、そのまま、轢き殺されてしまうのも、やはり脳髄の神秘作用に違い無いのだが……。一体脳髄の反射作用と、意識作用との間にはドンナ数理的な機構の区別が在るのだろう……。  ……突然……彼の眼の前を白いものがスーッと横切ったので、彼は何の気もなく眼をあげてみた。……今頃白い蝶が居るか知らんと不思議に思いながら……けれどもそこいらには蝶々らしいものは愚か、白いものすら見えなかった。  彼はその時に高い、見晴らしのいい線路の上に来ていた。  彼の視線のはるか向うには、線路と一直線に並行して横たわっている国道と、その上に重なり合って並んでいる部落の家々が見えた。それは彼が昔から見慣れている風景に違い無いのであったが、今朝はどうした事かその風景がソックリそのまんまに、数学の思索の中に浮き出て来る異常なフラッシュバックの感じに変化しているように思われた。その景色の中の家や、立木や、畠や、電柱が、数学の中に使われる文字や符号……√,=,0,∞,KLM,XYZ,αβγ,θω,π……なんどに変化して、三角函数が展開されたように……高次方程式の根が求められた時の複雑な分数式のように……薄黄色い雲の下に神秘的なハレーションを起しつつ、涯てしもなく輝やき並んでいた。形に表わす事の出来ないイマジナリー・ナンバーや、無理数や、循環少数なぞを数限りなく含んで……。  彼は、彼を取巻く野山のすべてが、あらゆる不合理と矛盾とを含んだ公式と方程式にみちみちている事を直覚した。そうして、それ等のすべてが彼を無言のうちに嘲り、脅やかしているかのような圧迫感に打たれつつ、又もガックリとうなだれて歩き出した。そうしてそのような非数理的な環境に対して反抗するかのように彼は、ソロソロと考え初めたのであった。  ……俺は小さい時から数学の天才であった。  ……今もそのつもりでいる。  ……だから教育家になったのだ。今の教育法に一大革命を起すべく……児童のアタマに隠れている数理的な天才を、社会に活かして働かすべく……。  ……しかし今の教育法では駄目だ。全く駄目なんだ。今の教育法は、すべての人間の特徴を殺してしまう教育法なんだ。数学だけ甲でいる事を許さない教育法なんだ。  ……だから今までにドレ程の数学家が、自分の天才を発見し得ずに、闇から闇に葬られ去ったことであろう。  ……俺は今日まで黙々として、そうした教育法と戦って来た。そうして幾多の数学家の卵を地上に孵化させて来た。  ……太郎もその卵の一つであった。  ……温柔しい、無口な優良児であった太郎は、俺が教えてやるまにまに、彼独特の数理的な天才をスクスクと伸ばして行った。もう代数や幾何の初等程度を理解していたばかりでなく、自分で LOG を作る事さえ出来た。……彼が自分で貯めたバットの銀紙で球を作りながら、時々その重量と直径とを比較して行くうちに、直径の三乗と重量とが正比例して増加して行く事を、方眼紙にドットして行った点の軌跡の曲線から発見し得た時の喜びようは、今でもこの眼に縋り付いている。眼を細くして、頬ペタを真赤にして、低い鼻をピクピクさせて、偉大なオデコを光らしているその横顔……。  ……けれども俺は太郎に命じて、そうした数理的才能を決して他人の前で発表させなかった。学校の教員仲間にも知らせないようにしていた。「又余計な事をする」と云って視学官連中が膨れ面をするにきまっていたから……。  ……視学官ぐらいに何がわかるものか。彼奴等は教育家じゃない。タダの事務員に過ぎないのだ。  ……ネエ。太郎、そうじゃないか。  ……彼奴の数学は、生徒職員の数と、夏冬の休暇に支給される鉄道割引券の請求歩合と、自分の月給の勘定ぐらいにしか役に立たないのだ。ハハハ……。  ……ネエ。太郎……。  ……お父さんはチャント知っているんだよ。お前が空前の数学家になり得る素質を持っていることを……アインスタインにも敗けない位スゴイ頭を持っていることを……。  ……しかし、お前自身はソンナ事を夢にも知らなかった。お父さんが云って聞かせなかったから……だから残念とも何とも思わなかったであろう。お父さんの事ばかり思って死んだのであろう……。  ……だけども……だけども……。  ここまで考えて来ると彼はハタと立ち停まった。  ……だけども……だけども……。  というところまで考えて来ると、それっきり、どうしてもその先が考えられなかった彼は、枕木の上に両足を揃えてしまったのであった。ピッタリと運転を休止した脳髄の空虚を眼球のうしろ側でジイッと凝視しながら……。  それは彼の疲れ切って働けなくなった脳髄が、頭蓋骨の空洞の中に作り出している、無限の時間と空間とを抱擁した、薄暗い静寂であった。どうにも動きの取れなくなった自我意識の、底知れぬ休止であった。どう考えようとしても考えることの出来ない……。  彼は地底の暗黒の中に封じ込められているような気持になって、両眼を大きく大きく見開いて行った。しまいには瞼がチクチクするくらい、まん丸く眼の球を剥き出して行ったが、そのうちにその瞳の上の方から、ウッスリと白い光線がさし込んで来ると、それに連れて眼の前がだんだん明るくなって来た。  彼の眼の前には見覚えのある線路の継目と、節穴の在る枕木と、その下から噴き出す白い土に塗れた砂利の群れが並んでいた。  そこは太郎が轢かれた場所に違い無いのであった。  彼は徐ろに眼をあげて、彼の横に突立っているシグナルの白い柱を仰いだ。黒線の這入った白い横木が、四十五度近く傾いている上に、ピカピカと張り詰められている鋼鉄色の青空を仰いだ。そうして今一度、吾児の血を吸い込んだであろう足の下の、砂利の間の薄暗がりを、一つ一つに覗き込みつつ凝視した。その砂利の間の薄暗がりから、頭だけ出している小さな犬蓼の、血よりも紅い茎の折れ曲りを一心に見下していた。  ……だけども……だけども……。  という言葉によって行き詰まらせられた脳髄の運転の休止が、又も無限の時空を抱擁しつつ、彼の頭の上に圧しかかって来るのを、ジリジリと我慢しながら……どこか遠い処で、ケタタマシク吹立てていた非常汽笛が、次第次第に背後に迫って来るのを、夢うつつのように意識しながら……。  ……だけども……だけども……。  と考えながら彼は自分の額を、右手でシッカリと押え付けてみた。  ……だけども……だけども……。  ……今まで俺が考えて来た事は、みんな夢じゃないか知らん。……キセ子が死んだのも、忰が轢き殺されたのも……それからタッタ今まで考え続けて来た色々な事も、みんな頭を悪るくしている俺の幻覚に過ぎないのじゃないか知らん。神経衰弱から湧き出した、一種のあられもないイリュージョンじゃないかしらん……。  ……イヤ……そうなんだそうなんだ……イリュージョンだイリュージョンだ……。  ……俺は一種の自己催眠にかかってコンナ下らない事を考え続けて来たのだ。俺の神経衰弱がこの頃だんだん非道くなって来たために、自己暗示の力が無暗に高まって来たお蔭でコンナみじめな事ばかり妄想するようになって来たのだ。  ……ナアーンダ。……何でもないじゃないか……。  ……妻のキセ子も、子供の太郎も、まだチャンと生きているのだ。太郎はモウ、とっくの昔に学校に行き着いているし、キセ子は又キセ子で、今頃は俺の机の上にハタキでも掛けているのじゃないか。あの大切な「小学算術」の草案の上に……。  ……アハハハハハハ……。  ……イケナイイケナイ。こんな下らない妄想に囚われていると俺はキチガイになるかも知れないぞ……。  ……アハ……アハ……アハ……。  彼はそう思い思い、スッカリ軽い気持になって微笑しいしい、又も上半身を傾けて、線路の上を歩き出そうとした。するとその途端に、思いがけない背後から、突然非常な力で……グワーン……とドヤシ付けられたように感じた。そうしてタッタ今、凝視していた砂利の上に、何の苦もなく突き倒されたように思ったが、その瞬間に彼は真黒な車輪の音も無い廻転と、その間に重なり合って閃めき飛ぶ赤い光明のダンダラ縞を認めた。……と思ううちに後頭部がチクチク痛み初めて、眼の前がグングン暗くなって来たので、二三度大きく瞬をしてみた。  ……お父さんお父さんお父さんお父さんお父さん……。  と呼ぶ太郎のハッキリした呼び声が、だんだんと近付いて来た。そうして彼の耳の傍まで来て鼓膜の底の底まで泌み渡ったと思うと、そのままフッツリと消えてしまったが、しかし彼はその声を聞くと、スッカリ安心したかのように眼を閉じて、投げ出した両手の間の砂利の中にガックリと顔を埋めた。そうしてその顔を、すこしばかり横に向けながらニッコリと白い歯を見せた。 「……ナアーンダ。お前だったのか……アハ……アハ……アハ……」  ――ぷろふいる社御中――  申訳ありません。このあいだ御下命の原稿、一度、御猶予願っておきながら、まだ書けずにおります。ひどいスランプに陥ってしまったのです。  いささか広告に類しますが、私はスランプに陥った経験がまだ一度もないのです。  九州日報社で編輯と外交の中ブラリンをつとめております時分に、新聞専門家の間に名編輯長として聞こえていた、同時に自由詩社の元老として有名な加藤|介春氏から、神経が千切れる程いじめ上げられた御蔭で、仕事に対する好き嫌いを全然云わない修業をさせられました。死ぬほどイヤなお提灯記事、御機嫌取り記事、尻拭い原稿なぞいうものを、電話や靴の音がガンガンガタガタと入り乱れるバラックの二階で、一気に、伸び伸びと書き飛ばし得る神経になり切っていたのです。自分の筆を冒涜し、蹂躙する事に、一種の変態的な興味と誇りとさえ感じていたものでした。  そのうちにその九州日報を首になりましたので、私は書きたい材料をウンウン云うほどペン軸に内訌させたまま山の中に引込んで、そんな材料をポツポツペン軸から絞り出して行くうちに、山の中特有の孤独な、静寂な環境のせいでしょうか。次第次第にペン先が我ままを云うようになりました。  四つも五つも電話が鳴りはためいている中でも平気で辷っていたペンが、蠅の羽音を聞いても停電するようになりました。ペンが動き止まないうちは、一歩も机を離れなくなって、三度の食事は勿論、便所に立つ事も出来なくなりました。ことに一時間五枚という自慢のスピードがグングン落ちて来て、一日平均二枚、乃至、五枚という程度まで低下して来たのにはホトホト閉口したものでした。  しかし、それでも有難いことに、とにもかくにもペンの方で動いてくれましたので、私もそのペン軸に取り縋り取り縋り、今日まで月日を押し送って来ましたが、最近……と云っても昨年末から、そのペンが一寸も動かなくなったのです。  何故だかその理由はわからないのです。  昨年の十二月の初めの事です。私は道楽半分に書いておりました千枚ばかりの長篇を或る処へ送り付けましたあと、アタマが暫く馬鹿みたいになっておりました。ところへ十二月初旬までという約束で送り付けておりました或る連載物が、某誌から念入りな註文附きの書直しを要求して、返送して来ましたので、既に予告も出ている事ですから、一生懸命になって書直しにかかりましたが、どうしても註文通りに行きませぬ。某誌の註文通りにしますと筋がどうしても気持ちよく運びませぬので、やっぱり我流かも知れませぬがモトの構成に立帰って来るのです。そこで大いに慌てまして、ほかに数篇の未成稿が在るのにペンを突込んでみましたが、どれも、これも竹箒でドブドロ掻きまわすようにペン先が重たくなって、引っこみの付かない悪臭がプンプンと鼻を打って来るのです。  この行詰まりを打開する手段といったら普通の場合、まず酒でも飲むことでしょう。又は女を相手に、あばれまわる事でしょう。そうして捩じれ固まった神経をバラバラに、ほぐしてしまいますと、一切の行詰まりが同時に打開されて、どんな原稿でもサラサラと書けるようになるに違いない事を、私はよく存じているのです。  ところが遺憾なことに、こうした局面打開策は、そうした元気旺盛な、精力の強い人にして初めて出来る事で、何回となく死に損ねた、見かけ倒おしの私には全然不向きな更生法なのです。  ですから私は昨年の十二月から私一流の局面打開策をこころみ初めました。これは今までにも仕事に疲れた時なんかに、よくやって来た事ですが、中学に行っている長男や、私の家に遊びに来ている農村の青年なぞを引っぱって近郷近在の野山を盲目滅法に歩きまわるのでした。ヘトヘトに疲れて、上り框からやっと這い上るくらい猛烈な試練と、夢一つ見ない睡眠を取った翌日、今一度、午睡をしてから眼を醒しますと、例によって例の如く、今までとは打って変った軽快さで、スラスラと原稿が書けるものと思い込んで、机に向ったものでしたが豈計らんや、一行も書けないのです。おまけにその書きかけの文章が不愉快で不愉快で、筆を入れる勇気も何もないくらい詰まらないものに見えて来るのです。自分はコンナものを発表する気で書初めたものか知らんと思うと我ながら愛想が尽きてしまうのです。  そこで又、着のみ着のまま家を飛出して、地図も何も持たないまま、盲目滅法に野山を歩るきまわる。言葉|訛の違った山向うの村で、道傍の知らない小児と遊んだり、祭神のわからない神社の絵馬を眺めまわしたり、溜池に石を投込んだりして、それこそ心の底からルンペン気分になって行くうちに、案内もわからぬ野山の涯で日を暮らして、驚いて帰って来る。すると又、不思議な事が起りました。  文章は一行も書けないのに俳句と川柳と短歌の出来ること出来ること。むろん碌なものは出来ませぬ。短歌は大本教の王仁三郎程度、俳句も川柳も月並以下の笊で掬える程度のシロモノばかりですが、それでもその出て来るスピードには我ながら驚きました。俳句、川柳が一時間に二十か三十、短歌でも十四五ぐらいはペラペラと出て来ますので、ノートが忽ち一パイになってしまいます。あとで読み返してみても感心するものが一つもないので、とうとう癇癪を起して、そのノートを道傍の糞溜の中に投込んでしまいましたが、今から考えても些しも惜しいとは思いませぬ。今でも十七八字か三十一二字並んでいるだけなら一時間に二十や三十は平気ですからね。西鶴の二万句も、こんな時に思い立ったんじゃないかと思うのは、すこし僭上でしょうか。  いずれにしても昨年の暮以来、私の頭が否、ペンが変調子を呈していることは、もはや疑う余地がありませぬ。書きたい材料がコンナにあって、書きたくて書きたくてウズウズしているのに、一行も書けないとなれば、その責任は当然、私のペンに在るに違いありませぬ。  私にはこうしたスランプの因って来るソモソモが薩張りわからないのです。書きたい事は山積していながら書けない。ペンを奪われて絶海の孤島に罪流されたような自烈度さ。つまらなさ。淋しさ。私は、これを私の老朽のせいとも、行詰まりのせいとも思いたくありませぬ。何よりも私のペンの我ままが、絶頂に達したものと考えるのが、今の私の気持ちに一番ピッタリしているのです。  それ位書ければスランプじゃないじゃないか……なぞと冷やかさないで下さい。実は私自身にも不思議で仕様がないのです。どうしても創作が書けないままに、そのお詫びをしようと思って書きはじめたら、ついスラスラと筆が辷ってコンナに長くなってしまったのです。読み返してみると決して面白い文章ではありませぬが、しかし、私自身の今の心持だけは、どうやらこうやら書けていると思います。  いったいこれは何とした事でしょうか。スランプに陥っているペンが、スランプに関する事だけはスラスラと書けるというのは何という皮肉な現象でしょう。心理学者はこうした不思議な現象を何と説明してくれるでしょう。  私のペンは真実な出来事でなければ書けなくなったのではないでしょうか。心にもない作り事を書きまわすのがほんとうにイヤになったのではないでしょうか。  万一そうとすれば、それこそ一大事です。創作は大抵作りごとにきまっているのですから、私は将来永久に作り事すなわち創作なるものは書けなくなる訳です。創作の世界では首を縊らなければならぬ事になります。  ああ。どうしたらいいでしょう。どうしたらこの苦境を通り抜ける事が出来るでしょう。  私は今一度、創作の世界に蘇る事が、永久に不可能なのでしょうか。私は絵か、和歌か、俳句を作るよりほかに生きる道がなくなるのではないでしょうか。 ┏━━━━━━━┓ ┃ 「生活」│ ┃ ┃   + │ ┃ ┏━┓ ┃ 「戦争」│0┃=┃能┃ ┃   + │ ┃ ┗━┛ ┃ 「競技」│ ┃ ┗━━━━━━━┛  この標題は表現派の禁厭札ではない。去年十月号の本誌の裏絵で、喜多実氏の「葵上」のスケッチ……又翌月号の本誌にその画を通じて、実氏の芸風と奏風氏の筆致をテニスに寄せて皮肉った無名氏の漫画……それから引き続いて新春号に奏風氏が書いた、これに対する感想文の「能楽スポーツ一体論」……と、この三ツを見ているうちに、ゆくりなくも出来上ったのがこの公式なのだ。  どうだ、わかるかね……ハハーン、ちょっとわかるまい。宇宙間に於ける至大至高の玄妙がこの中に含まれているのだからね。しかもダーウィンの進化論や、アインスタインの相対性云々よりも、もっと深刻透徹した名原則をあらわす公式なのだからね。……まずお聞きやれ……こんなわけだ。  吾々は日常生活に於て、途上車上のいずれを問わず、到る処に「能」を見ることが出来る。しかもその「能」なるものは、そこいらにありふれた専門家が舞台の上でやるソレよりも、はるかに緊張充実したものだから面白いではないか……と言ったとて、決して眉に唾するような話ではない。極めてありふれた、道理至極した話なのだ。  まず吾々の日常生活を煎じ詰めると、そこに「能」が現われて来る。換言すれば、ある一つの仕事を熱心誠実にくり返していると、その心境なり、その動作なりが、イツ知らず純一崇高化して来て、自然と能の型の均整美に接近して来るのだ。  その中でも姿態の方から観察すると、労働者が習熟鍛練した業務の三昧に入っている時には、その体の構え、動作の位取り、心持ちの静かさまでが、「能そのまま」になっていることが珍しくない。老船頭が櫓柄につかまって沖合の一点を白眼みつつ、悠々と大浪を乗り切る、その押す手引く手や腰構えの姿態美は、ソックリそのまま名人の仕カタ開キであるまいか。その心境は恍惚として虚に憑り風に御する底の「能」の心境と一致しているのではあるまいか。又は鉄塊上の一点を狙って大ハンマーを繰返し繰返し振り下す青服の壮漢の、焦らず弛まぬ純誠純一な身心の活動美も、又ソックリそのまま能のソレに当てはめられはしまいか。  見たまえ! 物を運び、物を操り、作り、投げ、又は受取る……なぞいう稼働者の態度を。……台所で働く女中の身体のこなしまでも、しかもそれが練達洗練された三昧に入っている所作である限り……その心境がその仕事に対して純一無雑である限り……そこに能楽の型と同じ真実味の横溢した「人間美」が後光を放っているではないか。  それが日常生活に於ける人間美の精髄ではないか。 「天神丸ヨーイ。デエコン煮えたかア――」と怒鳴る船乗の声は、永年波と風と、海の広さを相手として鍛えられたおかげで、立派に押えの利いた甲張りになっている。そのほか駅の構内で怒鳴りまわる貨物仲仕の声、魚市場の問屋のセリ声、物売の声、下足番の声、又は狂い飛ぶ火花と、轟々たる機械の大噪音の中に、一糸を乱さず、職工を叱※する錆びた声……なぞの中には、松籟、濤韻と対比すべき或るものを含んでいることを、よく気付かせられる。  これを要するに、吾々の日常生活に於ける所作や発声は、その目的が何であるに拘らず、真剣に鍛えられて来るに従って、「能」のソレに近づいて来る。「生活の精華、即、能」であることを多少に拘らず証拠立てて来る。  戦争となると、日常生活よりも真剣味が高潮しているだけに、一層この感が深い。一度火蓋を切ったが最後、全戦線が「能的の気魄」をもって充たされていると言っていいであろう。その砲煙弾雨の中を一意敵に向って散開し、躍進する千変万化の姿は、男性の姿態美の中でも、最高潮した「気をつけ」の緊張美以上に超越したものの千変万化でなければならぬ。勇ましいとも、美しいとも、尊いとも、勿体ないとも、涙ぐましいとも、何ともかんともたとえようのない人間美の現われでなければならぬ。更にその中で、毅然として勝敗の外に立ちつつ、全局を支配して行く名将の心境、それこそ正に舞曲を以て天命の所作と心得ている能楽師の心境と一致するものではあるまいか。  能を見て頭が下がるのは、かように生死以上の生死をあらわす「舞台=戦場」の厳粛さに打たれるからではあるまいか。  戦国の世のこと……名前は忘れたが、敵味方二人の騎馬武者が、夕暮れの余吾の湖のほとりで行き遭った。 「ヤアヤア、それなる御方に物申す。お見受け申す処、しかるべき大将と存ずる。願わくは一合わせ見参仕りたい」 「イヤ、これはお言葉までもないこと。なれども、暫時お待ちあれ。手前の槍は雑兵の血で汚れておりますれば……」  といううちに、その武士は、かたわらの湖に槍の穂先を浸して、ザブザブと洗い始めた。その武者振りの見事さに、相手は感に堪えて見惚れさせられた。かくて互いに槍を合わせること十数合に及んだが、そのうちにとうとう真暗になってしまったので一方が槍を引いた。 「待たれよ。もはや、槍の穂先も見えぬげに御座れば、残念ながらこれにてお別れ申そう」 「いや、某もさように存じておったところ……」 「さらば」 「さらば」  というのでドロンゲームになったが、後にこの二人は某侯の御前で出会して、本名を名乗り合って莫逆の友となった……というような話が「常山紀談」に載っている。  外国は知らず、日本の戦争はここまで「純美化」し、「能化」している。美しく名乗りをあげ、美しく戦い、美しく死に、又は殺すべく……人間性の真剣味を極度にまで発揮すべく……死生を超越して努力している。  ここに於てか、能は、戦争の真剣味以上に高潮したる、真剣美そのものの現われでなければならぬ事がわかるであろう。  しからば現代の能は、どこまで死生の上に超越しているか。どこで砲煙弾雨以上の火花を散らし、白兵戦以上の屍山血河の間を悠遊しているか。……オット、脱線脱線……サテその次に……。  スポーツは「平和時代に於ける人間の争闘精神のあらわれ」だと言える。但し、議会の乱闘なぞとは全然正反対の意味に於けるアラワレなので……しかもその目的が利欲の観念を含まぬ、純粋な意味の勝敗のみに限られているだけに、吾々の日常生活や戦争なぞよりもはるかに高潮した肉体と精神の純真純美さを、あらゆる刹那に発揮し得るように出来ている。換言すれば、生活の極致のノンセンスが戦争になる。戦争のノンセンスの極致がスポーツとなるので、生活から戦争が生まれ、戦争からスポーツが生まれる。そうしてそのスポーツをもう一つノンセンスにしたものが、舞い、歌い、囃子となるわけである。そうしてまた、その舞い、歌い、囃子の中でも、最もノンセンスなものが「能」なのだからトテモやり切れない。  こうして人類の文化は漸次「生活」から「能」へと進化高潮しつつある。現代のスポーツ流行はそうした進化の一階段に過ぎないので、喜多実氏がテニスのスタイルを能の中に体現し、松野奏風氏が素早くこれをスケッチしたのも、決して偶然の事ではない。吾が喜多流の根本精神が、かような進化の道程と合致している好例証である。将来の喜多流万々歳の瑞兆に外ならぬのである。 「生活+戦争+スポーツ÷0=能」の意味がわかったかナ?……ウン、わかった。……諸君なかなか頭がいい……。  ナニ、わからない。+……+……ナルホド。……÷0=能の「0」はそもそも何じゃと言うのだね。アハハハハこれは説明せん方がよかろう。テンテレツク天狗の面……だからな……。  ……どうも弱ったな。そんなにわかりたければ、喜多実君か松野奏風君にきいてみるさ。両君はその「0」を掴むべく夢中になって御座るようだから……。  ……オット……断っておくが、それは「金」の事じゃないよ。ハハハハ。      はしがき  この一文は目下、埃及のカイロ市で外科病院を開業している芬蘭生まれの独逸医学博士、仏蘭西文学博士オルクス・クラデル氏が筆者に送ってくれた論文?「戦争の裡面」中の、戦場描写の部分である。原文は同氏の手記に係る独逸語であるが、今まで世界のどこにも発表されたことのない、珍らしいものである。  当時、中欧最強の新興国として、現在の日本と同じように、全世界の砲門を睨み返していた彼のモノスゴイ独逸魂の、血潮したたる生々しい断面を、この一文によって読者諸君は眼のあたり見る事が出来るであろう。  オルクス・クラデル氏は、欧洲大戦終了後、一時長崎の某外科病院に傭医員として、来ていたことがある。それが、或る軍事上の研究の使命を帯びていたものであることは、この論文中の他の部分に於て察知出来るのである。  筆者は嘗て鉄道事故のため負傷して、その外科病院に入院し、クラデル氏と知り合ったのである。氏に就いての印象は、遠慮のないところ、世にも不可思議な存在で、氏は自身に、「私は白人の中でも変り種です。学名をヒンドロ・ジュトロフィと呼ばれる一寸坊の一種です」と説明するように、背丈がグッと低く、十三、四歳の日本児童ぐらいにしか見えないところへ、頸部は普通の西洋人以上に巨大く発達しているために、どうかすると佝僂に見え易い。然しクラデル氏は、その精神に於ては、外貌とは全く反対な人物で、通例一般の片輪根性や、北欧の小国人一流の狡猾なところはミジンもなく、如何にも弱い、底の知れないほど人の好い高級文化人である。そして、勿論本職の外科手術については驚ろくべき手腕を持っていた。  さて最後に、彼が嘗て軍医として活躍したにもかかわらず、戦争の問題になると、徹頭徹尾戦慄と呪咀の心を表明していたことを書き添えておく。        一  ……おお……悪魔。私は戦争を呪咀う。  戦争という言葉を聞いただけでも私は消化が悪くなる。  戦争とは生命のない物理と化学とが、何の目的もなしに荒れ狂い吼えまわる事である。  戦争とは蒼白い死体の行列が、何の意味もなく踊りまわり跳ねまわる中に、生きた赤々とした人間の大群が、やはり何の興味も、感激もなしにバタバタと薙ぎ倒おされ、千切られ、引裂かれ、腐敗させられ、屍毒化させられ、破傷風化させられて行くことである。  その劇薬化させられた感情の怪焔……毒薬化させられた道徳の異臭に触れよ。戦慄せよ。……一九一六年の一月の末。私が二十八歳の黎明……伯林市役所の傭医員を勤めていた私は、カイゼルの名によって直ちに軍医中尉を拝命して戦線に出でよ……との命令で、貨物列車――トラック――輜重車――食糧配給車という順序にリレーされながら一直線にヴェルダンの後方十|基米の処に在る白樺の林の中に到着した。  その林というのは砲火に焼き埋められた大森林の残部で、そこにはヴェルダン要塞を攻囲している我が西部戦線、某軍団所属の衛生隊がキャムプを作っていて、夥しい衛生材料と、食糧なぞの巧みにカモフラージしたものが、離れ離れに山積して在った。  勿論、私は到着するがするまで、自分がどこに運ばれて行くものやら見当が附かなかった。市役所で渡された通過章に書いて在る訳のわからない符号や、数字によって、輸送指揮官に指令されるまにまに運ばれて来たので、そこがヴェルダンの後方の、死骸の大量蓄積場……なぞいうことは到着して後、暫くの間、夢にも知らずにいたのであった。ただ自分の居宿に宛てられた小さな天幕の外に立つと、直ぐ向うに見える地平線上に、敵か味方かわからないマグネシューム色の痛々しい光弾が、タラタラ、タラタラと入れ代り立代り撃ち上げられている。その青冷めたい光りに照し出される白樺の幹の、硝子じみた美しい輝き……その周囲に展開されている荒涼たる平地の起伏……それは村落も、小河も、池も、ベタ一面に撒布された死骸と一所に、隙間なく砲弾に耕され、焼き千切られている泥土と氷の荒野原……それが突然に大空から滴たり流れるマグネシューム光の下で、燐火の海のようにギラギラと眼界に浮かみ上っては又グウウ――ンと以前の闇黒の底に消え込んで行く凄愴とも、壮烈とも形容の出来ない光景を振り返って、身に沁み渡る寒気と一緒に戦慄し、茫然自失しているばかりであった。天幕の中に帰って制服のまま底冷えのする藁と毛布の中に埋まってからも、覚悟の前とはいいながら、自分は何という物凄い処に来たものであろう。いったい自分は何という処に、何しに来ているのであろう……といったような事をマンジリともせずに考えながら、あっちへ寝返り、こっちへ寝返りしているばかりであった。  しかし夜が明けると間もなく、程近いキャムプの中から起出して挨拶に来た私の部下の話で一切の合点が行ったように思った。  私の部下というのは、私とは正反対に風采の頗ぶる立派な、カイゼル髭をピンと跳ね上げた好男子の看護長で、その話ぶりは如何にも知ったか振りらしい気取った軍隊口調であった。  ――我が独逸軍は二月に入ると間もなくヴェルダンに向って最後の総攻撃を開始するらしい。目下新募集の軍隊と、新鋳の砲弾とを、続々と前線に輸送中である。そうして貴官……オルクス・クラデル中尉殿は、その来るべき総攻撃の際に於ける死傷者の始末を手伝うために、このキャムプに配属された、最終の一人に相違ないと思われる。  ――我が独逸軍の一切の輸送は必ず夜中に限られているようである。仏軍は、そうした我軍の輸送を妨げるために、昨夜も見た通り毎晩日が暮れかかると間もなくから、不規則な間隔をおいて、強力な光弾を打上げては、大空の暗黒の中に包まれた繋留気球に仕掛けた写真機で、独逸軍全線の後方を残る隈なく撮影しているらしい。僅かな行李の移動でも直ぐに発見されて、その方向に集中弾が飛んで来るので、輸送がナカナカ手間取っている。現に左手の二三|基米の地平線上に、纔かに起伏している村落の廃墟には、数日前から二個大隊の工兵が、新しい大行李と一緒に停滞したまま動き得ないでいる状態である。  ――だからあの光弾の打上げられている方向がヴェルダンの要塞の位置で、愈々攻撃が始まったら、ここいらまでも砲弾が飛んで来ないとは限らない。  ――新しく募集した兵卒は戦争に慣れないから、死傷者が驚くべき数に達することは、今から十分に予想されている。云々。  コンナ話を聞かされている中に私は何となく横腹がブルブルと震え出して来た。否々決して寒さのためではなかった。五百|米ばかり隔たった中央の大天幕の中に居る衛生隊司令官のワルデルゼイ軍医大佐の処へ挨拶に行って巨大な原油ストーブの傍に立ちながらもこのブルブルが続いていた。のみならずその司令官の六尺豊かの巨躯と、鬚だらけの獰猛な赤面を仰ぎながら、厳格、森儼を極めた新任の訓示を聞いている中にも、そのブルブルが一層烈しくなって、胸がムカムカして吐きそうな気持ちになって来たのには頗る閉口したものであったが、これは多分私が、戦地特有の神経病に早くも囚われかけていたせいであったろう。実際ソンナ一時的の神経障害が在り得ることを前以て知っていなければ、私はあの時にマラリヤと虎列剌が一所に来たと思って狼狽したかも知れないのであった。  しかしイザとなると私は、やはり神経障害的ではあったが、案外な勇気を振い起すことが出来た。零下十何度の殺人的寒気の中に汗がニジム程の元気さで腕一パイに立働く事が出来た。  その二月の何日であったか忘れたが、たしか総攻撃の始まる前日のことであった。私たちの居るキャムプまで巡視に来た衛生隊司令官のワルデルゼイ軍医大佐は、例の鬚だらけの獰猛な赤面を妙な恰好に笑い歪めながらコンナ予告をした。 「……クラデル博士。ちょっとこっちへ来て下さい。僕がコンナ話をした事は秘密にしておいてもらいたいですがね……ほかでもないですがね。大変に失礼な事を云うようじゃが、伯林に居られる時のような巧妙親切を極めた、君一流の手腕は、戦場では不必要と考えてもらいたい事です。こんな事を云うたら非常な不愉快を感じられるかも知れないが、それが戦場の慣わしと思って枉げて承服して頂きたいものです。その理由は遠からずわかるじゃろうが、イヨイヨとなったら、ほかの処の負傷はともかくも両脚の残っとる奴は構わんからドシドシ前線に送り返してもらわなくちゃ駄目ですなあ。戦線特有の神経障害で腰の抜けた奴は、手鍬か何かで容赦なく尻ベタをぶん殴ってみるんですなあ。それでも立たん奴は暫く氷った土の中へ放っておくことです。それ以上の念を入れる隙があったら、他の負傷者を手当てする事です。時と場合に依っては片目と右手だけ残っている奴でも戦線に並べなくちゃならん。ええですか。ことに今度のヴェルダン総攻撃は……まだいつ始まるかハッキリしないようですが……西部戦線、最後の荒療治ですからなあ。死んだ奴は魂だけでも塹壕に逐い返す覚悟でいないと間に合いませんぞ……ええですか……ハハハ……」  その時も私は妙に気持が重苦しくなって、胴震いが出て、吐気を催したものであったが……。  そうしてイヨイヨ総攻撃が始まった。  昨日までクローム色に晴れ渡っていた西の方の地平線が、一面に紅茶色の土煙に蔽われていることが、夜の明けるに連れてわかって来た。その下からふんだんに匐い上って来るブルンブルンブルンブルンという重苦しい、根強い、羽ばたきじみた地響を聞いていると、地球全体が一個の、巨大な甲虫に変化しているような感じがした。それに連れて西の空の紅茶色の雲が、見る見る中に分厚く、高層に、濃厚になって行くのであった。  その紅茶色の雲の中から併列して迸る仏軍の砲火の光りが太陽色にパッパッパッと飜って見える。空気と大地とが競争でその震動を、われわれの靴の底革の下へ、あとからあとから膨れ上らせて来る。それと同時に伝わって来る目にも見えず、耳にも聞えない無限の大霊の戦慄は、サーカスじみた驚嘆すべき低空飛行で、吾々の天幕を震撼して行く味方の飛行機すら打消し得ない。  その地殻のドン底から鬱積しては盛り上り、絶えては重なり合って来る轟音の層が作るリズムの継続は、ちょうど日本の東京のお祭りに奏せられる、あの悲しい、重々しい BAKA-BAYASHI のリズムに似ている……。 Ten Teretsuku Teretsukutsu Don Don……  ……という風に……あの BAKA-BAYASHI の何億万倍か重々しくて物悲しい、宇宙一パイになる大きさの旋律が想像出来るであろうか……。  私は日本の東京に来て、はじめてあの BAKA-BAYASHI のリズムを聞いた時に、殆んど同時に、大勢の人ゴミ中でヴェルダン戦線の全神経の動揺を想起して戦慄した。あの時の通りの吐気が腸のドン底から湧き起って来るのをジッと我慢した。あの時から私の脊髄骨の空洞に沁み込んで消え残っている戦慄……血と、肉と、骨と、魂とを同時に粉砕し、嘲弄するところの鉄と、火と、コンクリートの BAKA-BAYASHI……地上最大の恐怖を描きあらわすところの最高度のノンセンスのオルケストラ……。  そのオルケストラの中から後送されて来る演奏済みの楽譜……死傷者の夥しさ。まだ日の暮れない中に半分、もしくは零になりかけている霊魂の呻吟が、私達の居る白樺の林の中から溢れ出して、私を無限の強迫観念の中に引包んでしまった。  中央の大キャムプと、その周囲を取巻く小キャムプは無論超満員で、溢れ出したものは遅く上って来た半|欠けの月と零下二十度近い、霜の氷り付いた黒土原の上に、眼も遥かに投出されたままになっている。私も最初の中は数名の部下を指揮して、それぞれの手当に熱中していたが、終いには熱中のあまり助手と離れ離れになって、各自に何百人かの患者を受持って独断専行で片付けなければならない状態に陥った。否……ことによると私が手当てをした人数は何千人に上るかも知れない。あとからあとから無限の感じの中へ忘却して行ったのだから……。  戦後、我独逸軍の衛生隊の完備していたことは方々で耳にして来たものであるが、そんな話を聞く度毎に、私は身体が縮まる思いがした。全くこの時は非道かった。手を消毒する薬液は愚か、血を洗う水さえ取りに行く隙が無かったので、私の両手の指は真黒く乾固まった血の手袋のために、折曲りが利かなくなった。一つには非常な寒さのせいであったろう。兵士の横腹から出る生温い血が手の甲にドクドクと流れかかると、その傷口から臓腑の中へ、グッと両手を突込みたい衝動に馳られて仕様がない位であった。  初めて見る負傷兵もモノスゴかった。  片手や片足の無い者はチットモ珍らしくなかった。臓腑を横腹にブラ下げたまま発狂してゲラゲラ笑っている砲兵。右の顳※から左の顳※へ射抜かれて視神経を打切られたらしい、両眼をカッと見開いたまま生きていて「カアチャンカアチャン」と赤ん坊みたいな声で連呼している鬚だらけの歩兵曹長。下顎を削り飛ばされたまま眼をギョロギョロさして涙を流している輜重兵なぞ、われわれ外科医の智識から見ると、奇蹟としか思えない妖怪的な負傷兵の大群が、洪水のように戦線から逆流して来て、私の周囲に散らばり拡がって、めいめいそれぞれの苦痛を、隣同志、無関係にわめき立てる。又は歌を唄い、祈りを捧げ、故郷の親兄弟妻子と夢うつつに語り合う。ゴロゴロと咽喉を鳴らして息を引取る……伯林の酒場や、巴里の珈琲店や、倫敦の劇場と同じ地続きの平面上に在るとは思えない恐怖の世界……死人の世界よりもモット物すごい現実の悪夢世界……そんなものが在り得るならばあの時の光景がそうであったろう。  夜が深くなって来るに連れて……負傷兵が増加して来るに連れて……一層、仕事が困難になって来た。傷口を診察するタヨリになるのは蛍色の月の光りと、木の枝の三叉に結び付けて地に立てた懐中電燈の光りだけで、それすら電池が弱りかけているらしく光線がダンダンと赤茶気て来る。材料なんぞも殆んど欠乏してしまったので、私は独断で手近い天幕を切り裂いて繃帯にして、自分の身のまわりだけの負傷者を片付けて行った。戦争が烈しいために、万事の配給が困難に陥っているらしかった。  私がソンナ風に仕事に忙殺されている中に、白樺の林の奥の方から強力な携帯電燈の光りがギラリギラリと現われて、患者の間を匐いまわりながらダンダンと私の方へ近附いて来た。私は電池の切れかけている私の電燈に引較べて、その蓄電装置らしい冴え返った光芒を羨ましく思った。誰かこっちへ加勢に来るのではないかと期待しいしいチョイチョイその方向を見ていると、その光りの持主は思いがけない司令官のワルデルゼイ軍医大佐である事がわかった。  軍医大佐は足の踏む処も無く並び重なっている負傷兵の傷口を一々点検しているらしい恰好である。その傍には工兵らしい下士卒が入れ代り立代り近附いて来て、大佐が指さした負傷兵を手取り足取り、引立てながらどこかへ連れて行く様子である。  私は軍医大佐の熱心ぶりに感心してしまった。  昼間見た時の同大佐はヒンデンブルグ将軍を小型にしたような、イヤに傲岸、冷血な人間に見えた。今頃はズット後方の掩蔽部かキャムプの中で、どこかの配給車が持って来た葉巻でも吹かして納まり返っている事と思っていたが、まさかにこれ程の熱情を持って職務に精励していようとは思わなかった。  そうしたワルデルゼイ大佐の精励ぶりを見ると同時に私は、私の良心が、私の肺腔一パイに涙ぐましく張り切って来るのを感じた。そうしてイヨイヨ一生懸命になって、追い立てられるように、次から次へと負傷者の手当を急いでいたものであったが、間もなく私の間近に接近して来たワルデルゼイ軍医大佐は、私がタッタ今、腓を手当てしてやったばかりの将校候補生の繃帯を今一度解いて、念入りに検査し始めた。  それを見ると私は多少の不満を感じたものであった。  ……それ以上の手当は現在の状態では不可能です……  という答弁を、腹の中で用意しながら、掌の血糊をゴシゴシと揉み落しているうちに、果せる哉、軍医大佐の電燈がパッと私の方へ向けられた。 「……や。クラデル君ですか。ちょっとこっちへ来て下さい」  そう云う軍医大佐の語気には明らかに多少の毒気が含まれていた。しかし私は勇敢に軍医大佐の側に突立って敬礼した。  ワルデルゼイ軍医大佐は砲弾の穴の半分埋まっている斜面に寝かされている、まだウラ若い候補生の身体を電燈で指し示した。 「この小僧は眼が見えないと訴えているようですが真実ですか」  その候補生は鼻の下と腮に、黄金色の鬚が薄く、モジャモジャと生えかけている、女のような美少年であった。まだ兵卒の服を着ているところを見ると、戦線に出てから何か失策を仕出来したために進級が遅れたものらしい。顔から胸が惨酷たらしい鼻血と泥にまみれて、両手と、ズボンの破れから露出した膝小僧の皮が痛々しく擦り破れていたが、それでも店頭の蝋人形ソックリの青い大きな瞳を一パイに見開いて、鋼鉄色の大空を凝視していた。一心に私等の言葉を聞いているらしい赤ん坊のような表情であった。  その横顔を見ている中に私は少なからず心が動いた。私は生れ付きコンナ醜い恰好に出来ているために女性に愛せられる見込みもなく、男性にはイツモ軽蔑され勝ちで通って来たために、いつの間にか一種の片輪根性みたような性格に陥って来たものであろう。こうした美しい、若い男を見ると、いつも、理屈なしに親しくしてみたい……親切に世話をして遣りたいような盲目的な衝動に駈られて仕様がないのであった。 「ハイ。この候補生は前進の途中、後方から味方の弾丸に腓を射抜かれたのです。それで匐いながら後退して来る途中、眼の前の十数メートルの処で敵の曳火弾が炸裂したのだそうです。その時には奇蹟的に負傷はしなかったらしいですが、烈しい閃光に顔面を打たれた瞬間に視覚を失ってしまったらしいのです。明るいのと暗いのは判別出来ますが、そのほかの色はただ灰色の物体がモヤモヤと眼の前を動いているように思うだけで、銃の照準なぞは無論、出来ないと申しておりましたが……睫毛なぞも焼け縮れておりますようで……」 「ウム。それで貴官はドウ診断しましたかな」 「ハイ。多分戦場で陥り易い神経系統の一部の急性痲痺だろうと思いまして、出来るなら後退さして頂きたい考えでおります。時日が経過すれば自然と回復すると思いますから……視力の方が二頭腓脹筋の回復よりも遅れるかも知れませぬが……」 「ウム。成る程成る程」  と軍医大佐は頻りに首肯いていたが、その顔面筋肉には何ともいえない焦燥たしい憤懣の色が動揺するのを私は見逃さなかった。  大佐はそれから何か考え考え腰を曲めて、携帯電燈の射光を候補生の眼に向けた。私と同様に血塗れになった、拇指と食指で、真白に貧血している候補生の眼瞼を引っぱり開けた。繰返し繰返し電燈を点滅したり、候補生の上衣のボタンを引っくり返して、そこに縫い付けて在る姓名を読んだりしていたが、その中に突然、その候補生の窶れた、柔らかい横頬を平手で力一パイ……ピシャリッ……と喰らわせたのには驚いた。そうして今二つ三つ烈しい殴打を受けて、声も立て得ずに両手を顔に当てたまま、手足を縮め込んでいる候補生の軍服の襟首を右手でムズと掴みながら、 「立てッ……エエ。立てと云うに……立たんかッ……」  と大喝するのであった。  私は昨日の昼間のワルデルゼイ司令官の言葉を思い出した。それは、  ……死んだ奴は魂だけでも戦線へ逐い返せ!  という宣言であったが、それ程の切羽つまった現在の戦況であるにしても、これは又、何という残酷な事をするのだろうと慄え上っていると、又も更に驚いた事には、その候補生が自分の膝を、泥と血だらけの両手に掴んで、美しい顔を歪めるだけ歪めて、絶大の苦痛を忍びながらヨタヨタと立上った事であった。  その悲惨そのものとも形容すべき候補生の不動の姿勢を、軍医大佐は怒気満面という態度で見下しながら宣告した。 「……ヨシ……俺に跟いて歩いて来い。骨が砕けていないから歩いて来られる筈だ。クラデル君……君も一緒に来てみたまえ。研究になるから……」 「……ハッ小官は今すこし負傷兵を片付けましてから……」 「まあいい。ほかの連中がどうにか片付けるじゃろう。……来てみたまえ。吾々軍医以外の独逸国民が誰も知らない戦争の裡面を見せて上げる。独逸軍の強い理由がわかる重大な秘密だ。君のような純情な軍医には一度、見せておく必要がある。……これは命令だ……」 「……ハッ……」  と答えて私は不動の姿勢を取った。  軍医大佐はそうした私の眼の前に、苦酸っぱいような、何ともいえない神秘的なような冷笑の幻影を残しながらパチンと携帯電燈の光りを消した。佩剣の※をガチャリと背後に廻して、悠々と白樺の林の外へ歩き出した。  その背後から候補生が、絶大の苦痛に価する一歩一歩を引摺り始めた。夜目にも白々とした苦しそうな呼吸を、大地にハアハアと吐き落しながら……。たまらなくなった私が、何がなしにその背後から追附いて、その右腕を捉えた。自分の肩に引っかけて力を添えてやったが、私の背丈が低すぎるので、あまり力にならないらしかった。 「……ありがとう……御座います。クラデル様……」  候補生が大地に沁み入るような暗い、低い、痛々しい声で云った。白い水蒸気の息をホ――ッと月の光りの下に吐き棄てたがモウ泣いているらしかった。        二  私たちの行程は非常に困難であった。  涯しもなく漫々たる黒土原と、数限りない砲弾の穴が作る氷と泥の陥穽の連続。その上に縦横ムジンに投出されている白樺の鹿砦。砲車の轅。根こそぎの叢の大塊。煉瓦塀の逆立ち。軍馬の屍体。そんな地獄じみた障害物が、鼠に噛じられたような棘々しい下弦の月の光りと、照明弾と、砲火の閃光のために赤から青へ、青から紫へ、紫から黄色へ、やがて純白へと、寒い、冷めたい氷点下二十度前後の五色の反射を急速度に繰返しながら半|哩ばかり続きに続いた。  私と連れ立った候補生は、途中で苦痛のために二度ばかり失神して、あまり頑強でない私の身体をグラグラと引摺り倒しかけたが、私が与えた薄荷火酒でヤット気力を回復して、喘ぎ喘ぎよろめき出した。お互いにワルデルゼイ大佐の命令の意味がわからないまま、月の出ている方向へ、息も絶え絶えの二人三脚を続けた。  しかし二人とも大佐には追附き得なかった。大佐は途中で二度ばかり私を振返って、 「ソンナ奴は放っとき給え。早く来給え」  と噛んで吐き出すような冷めたい語気で云ったが、私の頑固な態度を見て諦めたのであろう。そのままグングンと私たちから遠ざかって行った。そうした理屈のわからない残忍極まる大佐の態度を見ると、私はイヨイヨ確りと候補生を抱え上げてやった。  候補生はホントウに目が見えないらしかった。その眼の前の零下二十度近い空気を凝視している二重瞼と、青い、澄んだ瞳には何等の表情も動かなかった。ただその細長い、細い、女のような眉毛だけが、苦痛のためであろう。絶えずビクビク……ビクビク……と顫動しているだけであった。  私は遥かの地平線に散り乱れる海光色の光弾と、中空に辷り登っている石灰色の月の光りに、交る交る照らされて行く候補生の拉甸型の上品な横顔を見上げて行く中に又も胸が一パイになって来た。こんなに美しい、無邪気な顔をした青年が、気絶する程に痛い足を十|基米も引摺り引摺り、又もあの鉄と火の八ツ裂地獄の中へ追返されるのかと思うと、自分自身が截り苛責なまれるような思いを肋骨の空隙に感じた。  候補生も何か感じているらしく、その大きく見開いた無感覚な両眼から、涙をパラリパラリと落しているのが、月の光りを透かして見えた。  私は外套のポケットから使い残りの脱脂綿を掴み出してその涙を拭いてやった。……すぐに凍傷になる虞があるから……すると候補生は、わななく指で私の右手を探って、その脱脂綿を奪い取ると、なおも新しく溢れ出して来る涙を自分で拭い拭い立停まった。ガクガクと戦く左足の苦痛をジイッと唇に噛みしめ噛みしめ、だんだんと遠ざかって行くワルデルゼイ軍医大佐の佩剣の音に耳を傾けているようであったが、やがて極めて小さい、虫のような声で私に問うた。 「軍医大佐殿とはモウ余程離れておりますか」 「……ソウ……百|米突ばかり離れております。何か用事ですか」  候補生は答えないまま空虚な瞳を星空へ向けた。血の気の無い白い唇をポカンと開け、暫く何か考えているらしかったが、やがて上衣の内ポケットから小さな封筒大の油紙|包を取出して、手探りで私の手に渡して、シッカリと握らせた。  しかし私は受取らなかった。彼の手と油紙包みを一所に握りながら問うた。 「これを……私に呉れるのですか」 「……イイエ……」  と青年は頭を強く振った。なおも湧出す新しい涙を、汚れた脱脂綿で押えた。 「お願いするのです。この包を私の故郷の妻に渡して下さい」 「貴方の……奥さんに……」 「……ハイ。妻の所書も、貴方の旅費も、この中に入っております」 「中味の品物は何ですか」 「僕たちの財産を入れた金庫の鍵です」 「……金庫の鍵……」 「そうです。その仔細をお話ししますから……ドウゾ……ドウゾ……聞いて下さい」  と云う中に青年は、両手を脱脂綿ごと顔に押し当てて、乞食のように連続的にペコペコ……ペコペコと頭を下げた。私はすこし持て余し気味になって来た。 「とにかく……話して御覧なさい」 「……あ……有難う御座います……」 「サアサア……泣かないで……」 「すみません。済みません。こうなんです」 「……ハハア……」 「……僕の先祖はザクセン王国の旧家です。僕の家にはザクセン王以上の富を今でも保有しております。父は僕と同姓同名でミュンヘン大学の教授をつとめておりました。僕はその一人息子でポーエル・ハインリッヒという者です。今の母親は継母で、父の後妻なんですが、僕と十歳ぐらいしか年齢が違いません。その父が昨年の夏、突然に卒中で亡くなりましてからは、継母は家付きの弁護士をミュンヘンの自宅に出入りさせておりますが、この弁護士がドウモ面白くない奴らしいのです。いいですか……」 「成る程。よくわかります」 「僕が継母に説伏せられて三度の御飯よりも好きな音楽をやめて、軍隊に入る約束をさせられたのもドウヤラその弁護士の策謀らしいのです。つまりその弁護士は僕と、僕の新婚の妻との間に子供が出来ない中に、継母と共謀して、財産の横領を企てているのじゃないかと疑い得る理由があるのです。その弁護士は非常に交際の広い、一種の世間師という評判です。極く極く打算的な僕の継母もこの弁護士にばかりは惜し気もなくお金を吸い取られているという評判ですからね。僕をヴェルダンの要塞戦に配属させたのも、その弁護士の秘密運動が効を奏した結果じゃないかと疑われる位なんです」  私は太い、長い、ふるえたタメ息を腹の底から吐き出した。最初は不承不承に聞いていたつもりであったが、いつの間にか一も二もなく候補生に同情させられていた。 「成る程……現在の独逸には在りそうな話ですね。悪謀に邪魔になる人間は、戦場に送るのが一番ですからね」 「……でしょう……ですから僕は、僕の財産の一切を妻のイッポリタに譲るという遺言書と一緒に、色々な証書や、家に伝わった宝石や何かの全部を詰め込んだ金庫の鍵を、戦線に持って来てしまったんです。ちょうど妻が伊太利の両親の処へ帰っている留守中に、僕の出征命令が突然に来たのですからね。いつもだと僕の妻が喜ぶ事を絶対に好まなかった継母が、不思議なほど熱心に妻にすすめて故郷へ帰らせて、非常な上機嫌で駅まで送ったりした態度がドウモ可怪しいと思っていたところだったのです」 「成る程。よくわかります」 「それだけじゃないのです。私の出征した後で帰って来た妻は、私の母親と弁護士に勧められて、他家へ縁附くように持ちかけられているし、妻の両親も、それに賛成している……という手紙が妻から来たのです」 「それあ怪しからんですねえ」 「……怪しからんです……しかし妻は、僕から離別した意味の手紙を受取らない限り、一歩もこの家を出て行かないと頑張っているそうですが……私たちは固く固く信じ合っているものですからね……」  候補生は一秒の時間も惜しいくらい迅速に、要領よく事情を説明した。恐らく彼が鉄と、火と、毒|瓦斯の中で一心を凝らして考え抜いて来た説明の順序を、今一度、ここで繰返したものらしかったが、そのせいか、こうした甘ったるいお惚けが、氷のように切迫した人生の一断面を作って、私の全神経に迫って来たのであった。 「どうぞどうぞ後生ですから、この鍵を極秘密の裡に妻に手渡しして下さい。僕の妻からハインリッヒ伯爵家の主婦の地位と、巨額の財産を奪い取るべく暗躍している者が随分多いのですから……」  私は思わず襟を正した。それは立佇まっている中にヒシヒシと沁み迫まって来る寒気のせいではなかった。  見も知らぬ人間にこうした重大な物品を委托するポーエル・ハインリッヒ候補生の如何にもお坊ちゃんらしい純な、無鉄砲さに呆れ返りながらも、無言のままシッカリと油紙包みを受取った。 「……ありがとう御座います。ドウゾドウゾお願します……僕は……この悩みのために二度、戦線から脱走しかけました。そうして二度とも戦線に引戻されましたが、その三度目の逃亡の時に……今朝です……ヴェルダンのX型|堡塁前の第一線の後方二十|米突の処の、夜明け前の暗黒の中で、この腓を上官から撃たれたのです……この包を妻に渡さない間は、僕は安心して死ねなかったのです」 「……………」 「……しかし……しかし貴方はこの上もなく御親切な……神様のようなお方です。僕の言葉を無条件で真実と信じて下さる御方であるという事が、僕にチャントわかっています。……どうぞどうぞお願いします。クラデル先生。どうぞ僕を安心して、喜んで祖国のために死なして下さい。眼は見えませぬが敵の方向は音でもわかります。一発でもいいから本気で射撃さして下さい。独逸軍人の本分を尽して死なして下さい」  そう云う中にポーエル候補生は手探りで探り寄って来て、私の両肩にシッカリと両手をかけた。私の軍帽の庇を見下して、マジマジと探るように凝視していたが、イクラ凝視しても、何度眼をパチパチさしても私の顔を見る事が出来ないのが自烈度いらしかった。 「……見えませぬ。……見えませぬ。神様のような貴方のお顔が見えませぬ……ああ……残念です……」  私は思わず赤面させられた。私は自分の顔の怪奇さを知っている。それはアンマリ立派な神様ではない……コンナ顔は見られない方がいい……と思った。 「ナアニ、今に見えるようになりますよ。失望なさらないように……」  候補生は真黒く凍った両手で、私の鬚だらけの両頬をソッと抱え上げた。両眼をシッカリと閉じて頭低れた。その瞼から滴り落ちる新しい涙の一粒一粒が、光弾の銀色の光りを宿して、黒い土に消え込んだ。少年は神様に祈るような口調で云った。 「僕はモウジキ死にます。遅かれ早かれヴェルダンの土になります。……その前にタッタ一眼先生のお顔を見て死にとう御座います。先生のお顔を記憶して地獄へ墜ちて行きとう御座います。ほかに御礼のし方がありませんから……モウ……太陽……月も……星も……妻の顔も見ないでいいです。そんなものは印象し過ぎる程、印象しておりますから。タッタ一眼……御親切な先生のお顔を……ああ……残念です……」  私はモウすこしで混乱するところであった。  死のマグネシューム光が照し出す荒涼たる黒土原……殺人器械の交響楽が刻み出す氷光の静寂の中に、あらゆる希望を奪い尽くされた少年が、タッタ一つ恩人の顔だけを見て死にたいと憧憬れ願っている……その超自然的な感情が裏書きする戦争の暴風的破壊が……秒速数百|米突の鉄と火の颶風、旋風、※風、颱風……その魘え切った霊魂のドン底に纔かに生き残っている人間らしい感情までも、脅やかし、吹き飛ばし、掠奪しようとする。その怖ろしい戦争の無限の破壊力の中から、何でも構わない、美しい、楽しい、霊的なものの一片でも掴み止めようとしている少年の憐れな努力……溺れかけている魂が、海底へ持って行こうとしている小さな花束……それがまあ「醜い私の顔」である事にやっと気が付いた私はモウ、ドウしていいのか、わからなくなってしまった。  しかし地平線の向うでダンダンと発狂に近付いて来るヴェルダン要塞の震動に、凝然と耳を傾けていた候補生は、間もなく頭を強く左右に振った。ヨロヨロと私から退き離れた。 「ああ。何もならぬ事を申しました。さあ参りましょう。軍医大佐殿が待っておられますから……疑われると不可ませんから……」  私はここでシッカリと候補生を抱き締めて、何とか慰めてやりたかった。昂奮の余りの超自然的な感情とはいえ、この零下何度の殺気に鎖された時間と空間の中で、コンナに美しい、純な少年から、これ程までに信頼され、感謝された崇高な一瞬間を、私の一生涯の中でも唯一、最高の思い出として、モットモット深く、強く印象したかった。  しかし候補生は何かしら気が急くらしく、早くも私の肩から離れて、よろぼいよろぼい歩き出していた。しかも驚くべき事には、その少年の一歩一歩には今までと見違える程の底強い力が籠っていた。それは私の気のせいばかりではなかった。真実に心の底からスッカリ安心して、勇気づけられている歩きぶりであった。少年らしい凜々しい決心が全身に輝き溢れていて、その頬にも、肩にも苦痛の痕跡さえ残っていなかった。その見えない二つの瞳には、戦場に向って行く男の児特有の勇しい希望さえ燃え輝いていた。  私は神様に命ぜられたような崇高な感じに打たれつつ蹌踉として一候補生に追い附いた。無言で肩を貸してやって、又も近付いて来る砲弾の穴を迂廻させてやった。        三  やがて二|基米も来たと思う頃、半月の真下に見えていた村落の廃墟らしい処に辿り付いた。  その僅かに二三尺から、四五尺の高さに残っているコンクリートや煉瓦塀の断続の間に白と、黒と、灰色の斑紋になった袋の山みたような物が、射的場の堤防ぐらいの高さに盛り上っていた。私はそれを工兵隊が残して行った大行李の荷物か、それとも糧秣の山積かと思っていたが、だんだん接近するに連れて、その方向から強烈な、たまらない石油臭が流れて来たので、怪訝しいと思って、なおも接近しながらよくよく見ると、その袋の山みたようなものは皆、手足の生えた人間の死骸であった。白い斑と見えたのは顔や、手足や、服の破れ目から露出した死人の皮膚で、それが何千あるか、何万あるか判然らない。私たちが今まで居た白樺の林から運び出されたものも在ったろうし、途中で死亡して直接にここに投棄てられたものも在ったろう。石油の臭気は、そんな死体の山を一挙に焼き尽すつもりでブッかけて在ったものと考えられる。  青褪めた月の光りと、屍体の山と、たまらない石油の異臭……屍臭……。  もうスッカリ麻痺していた私の神経は、そんな物凄い光景を見ても、何とも感じなかったようであった。候補生を肩にかけたままグングンとその死骸の山の間に進み入った。ガチャリガチャリと鳴る軍医大佐の佩剣の音をアテにして……。  そこは戦前まで村の中央に在った学校の運動場らしかった。周囲に折れたり引裂かれたりしたポプラやユーカリの幹が白々と並んでいるのを見てもわかる。その並木の一本一本を中心にして三方に、四五|米高さの堡塁のように死骸が積重ねて在って、西の方の地平線、ヴェルダンに向った方向だけがU字型に展開されているのであった。  その広場の中央に近く、やはり数十の負傷兵が、縦横十文字に投出されたように寝転がっていたが、しかしこの負傷兵たちが、何のために白樺の林から隔離されて、コンナ陰惨な死骸の堡塁の中間に収容されているのか私はサッパリ見当が付かなかった。しかもこの連中は比較的軽傷の者が多いらしく、村の入口らしい、石橋の処で待っていた大佐と、私たちとが一緒になって中央に進み入ると、寝たまま半身を起して敬礼する者が居た。それは特別に軍医の注意を惹いて、早く治療を受けたいといったような、負傷兵特有の痛々しい策略でもないらしい敬礼ぶりであった。  しかしワルデルゼイ軍医大佐は、そっちをジロリと見たきり、敬礼を返さなかった。直ぐに私の方を振返って、 「その小僧をそこへ突放し給え」  と云ったがその鬚だらけの顔付の恐しかったこと……月光を背にして立っていたせいでもあったろう。地獄から出張して来た青鬼か何ぞのように物凄く見えた。  私が候補生を地面にソッと寝かしてやると、軍医大佐は苦々しい顔をしたまま私を身近く招き寄せた。携帯電燈をカチリと照して、そこいらに寝散らばっている負傷兵の傷口を、私と一緒に一々点検しながら、無学な負傷兵にはわからない露西亜語と、羅典語と、術語をゴッチャにした独逸語で質問しはじめた。 「この傷はドウ思うね……クラデル君……」 「……ハ……右手掌、貫通銃創であります」 「普通の貫通銃創と違ったところはないかね」 「銃創の周囲に火傷があります」 「……というと……どういう事になるかね」  私はヤット軍医大佐の質問の意味がわかった。  しかし私は返事が出来なかった。……自分の銃で、自分の掌を射撃したもの……と返事するのは余りに残酷なような気がしたので……。  大佐は鬚の間から白い歯を露わしてニヤリと笑った。直ぐに次の負傷兵に取りかかった。 「そんならこの下士官の傷はドウ思うね」 「……ハ……やはり上膊部の貫通銃創であります。火傷は見当らないようですが……」 「それでも何か違うところはないかね」 「……弾丸の入口と出口との比較が、ほかの負傷兵のと違います。仏軍の弾丸ではないようで……近距離から発射された銃弾の貫通創と思います」 「……ウム……ナカナカ君はよく見える。そこでつまりドウいう事になるかね」  私は又も返事に困った。前の時と同じ理由で……。 「この脚部の創はドウ思うね。君が今連れて来た候補生だが……」 「弾丸の入口が後方に在ります」 「……というとドンナ意味になるかね」 「……………………」 「それじゃ君……コッチに来たまえ。この腕の傷がわかるかね」 「わかります。弾丸の口径が違います。私は剔出してやったのです」 「何の弾丸だったね。それは……」 「……………………」 「味方の将校のピストルの弾丸じゃなかったかね」 「……………………」 「……ハハハ……もう大抵わかったね。ここに集めて在る負傷兵の種類が……」 「……ハイ……ワ……わかりました」  私は何故となくガタガタ震え出した。  しかしワルデルゼイ軍医大佐は、依然として「研究」を中止しなかった。なおも次から次へと私を引っぱりまわして、殆んど百名に近いかと思われる負傷者の患部を診察しては質問し、質問しては次に移って行ったが、いずれもその最後は、私が答える事の出来ない質問に帰着する種類の負傷ばかりであった。  悽愴極まる屍体の山と石油臭の中に隔離されている約一小隊の生霊に、モウ間もなく与えられるであろう軍律の制裁……或る不可知の運命を考えさせられながら、その不名誉この上もない……寧ろ悲惨事以上の悲惨事とも見るべき超常識的な負傷の傷口を一々、念入りに診察して行く中に、私の背筋の全面が、気温を超越した冷汗にジットリと蔽われた。烈しい恐怖の予想から来る荒い呼吸のために、私の鬚の一本一本が真白い霜に蔽われた。膝頭と歯の根が同時にガタガタと音を立てそうになって来た。そうして百に近い負傷兵の何となく魘えた、怨めしそうな、力ない視線に私の全神経が射竦められて、次第次第に気が遠くなりかけて来た時にヤット全部の診察、研究が終ると、大佐は私を些し離れた小高い土盛の上に連れて行って、軍刀をグット背後に廻した。両耳の蔽いを取って自分の顔を、手袋をはめた両手で強く摩擦し初めた。 「……そこでクラデル君。これらの全部の負傷兵の種類を通じての特徴として、君は何を感じますかね」 「……ハッ……。皆、味方の銃弾か、銃剣によって傷いている事であります。砲弾、毒|瓦斯、鉛筆等の負傷は一つも無い事です」 「……よろしい……」  吾が意を得たりという風に云い放った軍医大佐はピタリ顔面の摩擦を中止した。満足げに首肯き首肯き小高い土盛りの中央に月の光を背にして立った。今一度、勢よく軍刀の※を背後に押しやって咳一咳した。振返ってみるとヴェルダンの光焔が、グングンと大空に這い昇って、星の光りを奪いつつ湧き閃めいている。  その時に姿勢を正したワルデルゼイ軍医大佐は、三方の屍体の山を見まわしながら真白い息を吐いて長吼した。 「……皆ア……立て――エッ……」  アッチ、コッチに寝転がっていた負傷兵が皆、弾かれたようにヒョコリヒョコリと立上った。中には二三人、地面に凍り付いたように長くなっている者も在ったが、それは早くも軍医大佐の命令の意味を覚って、失神した連中であったらしい。  何の反響も与えない三方の屍体の山が、云い知れぬモノスゴイ気分を場内一面に横溢させている。 「皆、俺の前に一列に並べ。早く並べ……何をしとるか。倒れとる奴は引摺り起せ」  声に応じて二三人の負傷兵が寄り集まって、長くなっている仲間を抱き上げようとしたが結局、無駄であった。正体のなくなっている酔漢と同様にグタグタとなって何度も何度も戦友の腕から辷り落ちるのであった。真実に気絶しているらしいので、凍死しては不可ないと思って、私が近附いて行こうとするのを大佐が押止めた。 「……放っとき給え……ほっときたまえ……凍死する奴は勝手に凍死させておけ。そんな者はいいから早く並べ。……ヨオシ……皆、気を附け……整頓……番号……」 「二、三、四……八十……八十一ッ……」 「八十一か……」 「ハイ。八十一名であります」  最後尾に居るポーエル候補生が真正面を向いたまま答えた。 「よろしい。寝ている奴が三人と……合計八十四名だな」 「そうであります」  今度は候補生の一つ前に居る中年の軍曹が答えた。ピストルで腕を撃たれている男だ。肩から白い繃帯と副木で綿に包まれた腕を釣っているのがこの場合、恐ろしく贅沢なものに見える。 「……よろしい……」  軍医大佐が又も咳一咳した。 「……馬鹿……誰が休めと云うたか……銃殺するぞ。馬鹿者|奴がッ。……気を付け……」  死骸の山を背景にして、蒼白な月光に正面した負傷兵の一列の顔はドレもコレも生きた色を失っていた。死人よりも力ない……幽霊よりもタヨリない表情であった。その生きた死相の行列は、一生涯、私の網膜にコビリ付いて離れないであろう。 「……汝等は……何故に普通の負傷兵から区別されて、ここに整列させられているか、自分で知っているか」  軍医大佐の言葉が終らぬ中に又も二三人、気が遠くなったらしい。ドタリドタリと棒倒しに引っくり返った。ヤット自分達の立場が彼等にわかったらしい。  ツルツルと一筋、つめたい汗の玉が背筋を走ったと思うと、私も眼の前の光景が、二三十|基も遠方の出来事のように思えて来た。  倒れた仲間を振返って見る者は愚か、身動きする者すらいなかった。皆、蒼白い月の光の中に氷結したようにシインと並んで立っていた。……その時の彼等がドンナ気持で立っていたか、私には想像出来なかった。ただボンヤリと飾氷の中の花束の行列を聯想させられていただけであった。死んだまま立っている人間の行列……死刑を宣告されかけている自傷兵の一小隊……。 「わからなければモウ一つ質問する」  軍医大佐は一歩前進して自分の背後を指した。 「眼を開いて汝等の正面を見よ。あの物凄い銃砲の音と、火薬の渦巻を見よ。あれが見えるか。あれは一体、何事であるか……わかるか……」 「……………」  誰も返事をしなかった。返事の代りに又も二三人バタリバタリと引っくり返っただけであった。 「……よろしい……それから……廻れエ、右ッ……」  皆、器械のように決然と廻転した。序にブッ倒れた者もいたくらい元気よく……。 「よしッ。汝等の背後に山積して在る汝等の同胞の死骸を見よ……これはイッタイ何事であるか汝等の同胞は何のためにコンナ悲壮な運命を甘受しているのか……わかるか……」  思い出したように頸低れた者が四五人。軍服の袖を顔に当ててススリ泣を初めた者が二三人……。  光弾が……仏軍のマグネシューム光がタラタラと白い首筋の一列を照して直ぐに消えた。 「……よろしい。廻れエ、右ッ……整頓……。わからなければ今一つ尋ねる。ええか。……イッタイ吾々軍医なるものは何のために戦場に来ているのか汝等は知っているか」 「……………」 「……ただ自分達の負傷の手当のためにばかり来ていると思ったら大間違いだぞ。汝等のような売国奴同然の非国民を発見して処分するのが俺達、軍医の第一、第二、第三の責務である。負傷の手当てなどいうものは第四、第五の仕事という事を知らないのか! エエッ!」  そういう中にもバタバタと四五人卒倒した。歯の抜けたようになった一列横隊がまたも、アリアリと光弾に照し出された。  ワルデルゼイ軍医大佐は更に強く咳一咳した。声がすこし嗄れたせいか、口調が一層、深刻に冴え返って来た。傍に立っている私までも、気絶することを忘れて傾聴させられた。 「……ええか……よく聞け……軍医の学問の第一として教えられることは自傷の鑑別方法である。戦場から退却きたさに、自分自身で作る卑怯な傷の診察し方である。吾儕軍医はこれを自傷……略してS・Wと名付けている。すなわちS・Wの特徴は生命に別条のない手や足に多い事である。そんな処を戦友に射撃してもらったり、自分で射撃したりして作った傷は、距離が近いために貫通創の附近に火傷が出来る。火薬の燃え粕が黒いポツポツとなって沁み込んでいる事もある。……さもなくとも仏軍の弾丸と吾軍の弾丸は先頭の形が違うために傷口の状況が、一目でわかるほど違っている。口径の違うピストルの傷は尚更、明瞭である。塹壕の外に故意と足を投出したり、手を突出したりして受けた負傷と、銃身を構えて前進しながら受けた傷とは三歳児でも区別出来ることを汝等は知らんのか。それ位の自傷がわからなくて軍医がつとまると思うのか。そんな卑怯な、横着な傷に吾儕、軍医が欺むかれて、一々鉄十字勲章と、年金を支給されるように吾々が取計らって行ったならば、国家の前途は果してドウなると思っているのか。常識で考えてもわかる事だ……仮病、詐病、佯狂、そのほか何でも兵隊が自分自身で作り出した肉体の故障ならば、一目でわかるように看護卒の端々までも仕込まれているのだぞ……俺達は……」 「……………」 「……現在……汝等の父母の国は、汝等の父母が描きあらわした偉大な民族性の発展を恐れ憎んでいる全世界の各国から撃滅されむとしつつ在る。学術に、技芸に、経済政策に、模範的の進取精神を輝かして、世界を掠奪せむとしている吾々独逸民族に対して、卑怯、野蛮な全世界の未開民族どもが、あった限りの非人道的な暴力を加えつつ在る。英、仏、伊、露、米、等々々は皆、吾々の文化を恐れ、吾々の正義を滅ぼそうとしている旧式野蛮国である……わかったか……」 「……………」 「これを憤ったカイゼルは現在、吾々を率いて全世界を相手に戦っている。汝等の父母、同胞、独逸民族の興亡を賭して戦っている。人類文化の開拓のために…よろしいか……」 「……………………」 「その戦いの勝敗の分岐点……全、独逸民の生死のわかれ目の運命は、今、汝等の真正面に吠え、唸り、燃え、渦巻いているヴェルダンの要塞戦にかかっているのだ。その危機一髪の戦いに肉弾となって砕けた勇敢なる死骸は……見ろ……汝等の背後にあの通り山積しているのだ。……その死骸を見て汝等は恥しいとは思わないのか」 「……………」 「汝等はそれでも人間か。光栄ある独逸民族か。世界を敵として正義のために戦うべく、父母兄弟に送られて来た勇士と思っているのか」 「……………」 「……下等動物の蟻や蜂を見よ。あんな下等な生物でも汝等のような卑怯な本能は持っていないぞ。汝等は実に虫ケラ以下の存在だ。神……人……共に憎む破廉恥漢とは汝等の事だ。……汝等は売国奴だ。非国民だ。生かしておけば独逸軍の士気に関する害虫だ。ボルセビイキ以上の裏切者だ……」 「……………」 「汝等は戦死者の列に入る事は出来ない。無論……故郷の両親や妻子にも扶助料は渡らない覚悟をしろ。ただ汝等の卑怯な行為が、汝等の父母、兄弟、朋友たちに絶対に洩らされない……軍法会議にも渡されない……今日只今限りの秘密の中に葬むられる事を、無上の名誉とし、光栄として余の処分を受けよ」  私はモウ立っている事が出来ない位ふるえ出していた。眼の前の負傷兵の一列が、どうして身動き一つせずにチャント立っているのだろうと不思議に思った位であった。  ワルデルゼイ軍医大佐は、演説を終ると同時に右手を唇に当てて、呼子の笛を高らかに吹き鳴らした。その寒い、鋭い音響が私の骨の髄まで沁み徹って、又も気が遠くなりかけたところへ、私の背後の月の下からオドロオドロしい靴の音が湧起って来たので、私は又ハッと気を取直した。ポケットに忍ばせていたメントール酒の残りをグッと一息に飲干して、背筋を匐い上る胴震いと共にホーッと熱い呼吸を吹いた。わななく膝を踏み締めて、軍医大佐と共に横の方へ退いた。  それは輜重隊の大行李に配属されている工兵隊の一部が、程近い処に伏せて在ったのであろうと思われる。かねてから打合わせて在ったと見えて一小隊、約百名ばかりの腮紐をかけた兵卒が負傷兵に正面して一列に並んだ。並ぶと同時に銃を構えてガチャガチャと装填しはじめた。  その列の後方から小隊長と見える一人の青年士官が、長靴と、長剣の鎖を得意気に鳴らして走り出て来た。軍医大佐の前に来て停止すると同時に物々しく反り返って、軍刀をギラリと引抜いて敬礼した。  折からヴェルダンの中空に辷り昇った強力な照明弾が、向い合った味方同志の兵士の行列を、あく迄も青々と、透きとおる程悽惨に照し出した。  その背後の死骸の山と一緒に……。        四  若い小隊長は白刃を捧げたまま切口上を並べた。 「フランケン・スタイン工兵聯隊、第十一中隊、第二小隊カアル・ケンメリヒ中尉……」 「イヤ。御苦労です」  軍医大佐は巨大な毛皮の手袋を穿めた右手を挙げて礼を返した。その右手で、左から右へ水平に、残忍な……極度に冷静な一直線を指し描いた。 「この犬|奴らを片付けて下さい」 「……ハッ……ケンメリヒ中尉は、この非国民の負傷兵等をカイゼルの聖名によって、今、直ぐに銃殺させます」  後方勤務でウズウズしていた若い、忠誠なケンメリヒ中尉は、この使命を勇躍して待っていたらしい。今一度、私等二人に剣を捧げると靴音高らかに、活溌に廻れ右をした。  トタンに照明弾が消えて四周が急に青暗くなってしまった。網膜が作る最深度の灰色の暗黒の中に、何もかもグーンと消え込んで行ってしまった。 「……軍医殿……ワルデルゼイ大佐殿……」  という悲痛な叫び声が、照明弾の消滅と同時に負傷兵の一列の中から聞えた。それは腸のドン底から絞り出る戦慄を含んだカスレ声であった。  ……と思ううちに忘れもしない一番右翼に居た肩を負傷した下士官が、青暗い視界の中によろめき出て来て、私たちの足下にグタグタとよろめき倒おれた。起上ろうとして悶えながら、苦痛に歪んだ半面を斜めに、月の光りの下に持上げた。そのまま極めて早口に……殆んど死物狂いの意力をあらわしつつハッキリと云った。 「……ミ……皆を代表して申しますッ。コ……ここで銃殺されるよりも……イ……今一度、戦線へ返して下さいッ。イ……一発でも敵に向って発射さして、死なして下さいッ。戦死者の列に入れて下さいッ……アッ……」  いつの間にか駈け寄って来たケンメリヒ中尉が、恐ろしく憤激したらしく、半身を支え起している軍曹の軍服の背中を、革鞭のようにしなやかな抜身の平で力一パイ……ビシン……ビシン……と叩きのめした。 「エエッ。卑怯者ッ。今更となって……恥を晒すかッ……コン畜生コン畜生コン畜生ッ……」 「アイタッ……アタッ……アタアタッ……サ……晒します晒しますッ。ワ……私は……故郷に居る、年老いた母親が可哀相なばっかりに……もう死ぬるかも知れないお母さんが……タッタ一眼会いたがっている老母が居る……居りますばっかりに……自……自傷しました……」 「ええッ。未練者……何を云うかッ……」 「アタッ。アタッ。わかりました。……もうわかりましたッ。何もかも諦らめました。ヴェルダンの火の中へ行きます……喜んで……アイタッ……アタアタアタアタアタッ」  月光に濡れた工兵中尉の剣光がビィヨンビィヨンと空間に撓った。 「……ナ……何を吐かす。卑怯者……売国奴……」 「アツツツツツ。アタッ。アタッ、待って……待って下さい。皆も……皆も私と同じ気持です。同じ気持です。どうぞ……どうぞこの場はお許し……お許しを……アタッ……アタッ……アタアタアタッ……ヒイ――ッ……」  可哀そうに軍曹は熱狂したケンメリヒ中尉の軍刀の鞭の下に気絶してしまった。私は衝動的に走り寄つて、メントール酒の瓶を軍曹の唇に近附けたが、瓶は空っぽになっている事に気附いたので憮然として立上った。  その時にワルデルゼイ軍医大佐は、なおも懸命に軍刀を揮いかけているケンメリヒ中尉を遮り止めた。 「……待ち給え。待ち給え。ケンメリヒ君……皆がこの軍曹の云う通りの気持なら、ここで犬死にさせるのも考え物ですから……」  そう云った軍医大佐の片頬には、何かしら……冷笑らしいものが浮かんでいるように思ったが……しかしそれは極度に神経を緊張させていた私の錯覚か、又は仄青い光線の工合であったかも知れない。そのままガチャリガチャリと洋刀を鳴らしながら軍医大佐は、向い合っている二列の中間に出て行った。  不平そうに頬を膨らしているケンメリヒ中尉と、ホッとした私とが、その背後から跟いて行った。  十|米突ばかりを隔てて向い合った二列の中央に来ると軍医大佐は、又も二つ三つ揚がった光弾の光りを背に受けながら、毅然として一同を見まわした。  同じように不動の姿勢を執っている負傷兵たちの頬には皆、涙が流れていた。その涙が光弾のゆらめきを蒼白くテラテラと反射していた。  しかしその中にタッタ一人、列の最後尾に立っている候補生の美しい横顔だけは濡れていなかった。……のみならず何かしらニコニコと不思議な微笑を浮かめて真正面を凝視しているのが、さながらに天国の栄光を仰いでいる使徒のように神々しく見えた。  けれども大佐は候補生の微笑に気付かなかったらしい。今度はハッキリした軽い冷笑を片頬に浮かめながら今一度、一同を見廻わした。 「何だ。皆泣いているのか。馬鹿共が……何故早く拭わぬか。凍傷になるではないか……休めい……」  負傷兵たちが一斉に頭を下げてススリ泣きを初めた。各自に帽子や服の袖で、頬を拭いまわし初めると、今まで緊張し切っていた場面の空気が急に和ごやかになって来た。  ケンメリヒ中尉が背後の工兵隊を顧て号令を下した。まだイクラか不満な声で……。 「立てえ銃……休めえ」 「気を附け……」  と大佐が負傷兵たちに号令した。右翼の兵卒が二名出て来て、気絶している軍曹を抱え起して行った。 「皆わかったか」 「……わかりました……」  と全員が揃って答えた。生き返ったような昂奮した声であった。  大佐も幾分調子に乗ったらしい。釣込まれるように両肱を張り、両脚を踏み拡げて、演説の身構えになった。 「……よろしい……大いによろしい……現在の独逸は、数百カラットの宝石よりも、汝等に与える一発の弾丸の方が、はるかに勿体ない位、大切な場合である。同様に汝等の生命が半分でも、四分の一残っていても構わない、ヴェルダンの要塞にブッ付けなければならないのが我儕、軍医の職務である……わかったか……」 「わかりました」  大佐の演説の身振りがだんだん大袈裟になって来た。 「……よろしい……もうすこし云って聞かせる……近い中に独逸の艦隊が、英仏の聯合艦隊をドーバーから一掃してテイムス河口に殺到する。そうしたら倫敦は二十四時間の中に無人の廃墟となるであろう。一方にヴェルダンが陥落してカイゼルの宮廷列車が巴里に到着する。逃場を失った聯合軍はピレネ山脈とアルプス山脈の内側で、悉く殲滅されるであろう。独逸の三色旗が世界の文化を支配する暁が来るであろう。その時に汝等は一人残らず戦死しておれよ。それを好まない者はたった今銃殺してやる。……味方の弾丸を減らして死ぬるも、敵の弾丸を減らして死ぬるも死は一つだ。しかし光栄は天地の違いだぞ……わかったか……」 「わかりました」  大佐は演説の身ぶりをピタリ止めて、厳正な直立不動の姿勢に返った。右手を揚げて列の後尾を指した。 「……よし行け……その左翼の小さい軍曹……汝の負傷は一番軽い上膊貫通であろう。汝……引率して戦場へ帰れ。負傷が軽いので引返して来ましたと、所属部隊長に云うのだぞ……ええか……」 「……ハッ……陸軍歩兵軍曹……メッケルは負傷兵……八十……四名を引率してヴェルダンの戦線に帰ります。軽傷でありましたから帰って来ましたと各部隊長に報告させます」 「……よろしい……今夜の事は永久に黙っておいてやる……わかったか……」 「……わかりました。感謝いたします」 「……ヤッ……ケンメリヒ中尉。御苦労でした。兵を引取らして休まして下さい。御覧の通り片付きましたから……ハハハ……」  そんな風に、急に気軽く砕けて来た軍医大佐のあたたかい笑い声を聞くと同時に、私の全身がゾオッと粟立って来た。頭の毛が一時にザワザワザワと逆立ち初めた。……今までの出来事の全体が、一種の極端な芝居ではなかったか……といったようなアラレもない感じが、頭の片隅にフッと閃めいたからであった。  それは今の今まで、この鋼鉄製の脳髄を持った軍医大佐から、あまりにも真剣過ぎる超自然的な試練に直面させられて、ヘトヘトにまでタタキ附けられている私の脳髄が感じた一種の弱い、しかし強く鋭い一種の幻覚錯覚であったかも知れない……。  ……ワルデルゼイ軍医大佐は元来、非常な悪党なのではあるまいか。西部戦線の裡面に巨大な巣を張りまわして、こうした方法で出征兵士の生血を啜っている稀代の大悪魔なのではあるまいか。大佐は出征兵士の故郷の人々から金を貰って色々な不正な事を頼まれているのではあるまいか。  ……戦争がその背後に在る国民の心を如何に虚無的にし、無道徳にし、且つ邪悪にするかという事実は、吾が独逸の国民史を繙いてみても直ぐにわかる事である。しかも近代的な唯物観から来た虚無思想と、法律至上主義によってゲルマン民族の伝統的な誇りとなっていた吾が独逸国内の家庭道徳が、片端から破壊されつつ在る今日に於て勃発した戦争である以上、こうした崩壊の道程に在る家庭内の不倫、不道徳が、独逸軍の裡面に反映しない筈はないのである。  ……出征兵士の中には、あの美少年候補生が話したような家庭の事情のために、是非とも殺されなければ都合の悪い運命を背負っている若い連中が何人、混交っているかわからないであろう。その気の毒な犠牲候補たちが、万一にも負傷して後送される事のないように……又はソンナ連中が、故郷の事を気にかける余りに、自傷手段で戦線から逃出して来るような事がないように、大佐は平生から沢山の賄賂を貰って、シッカリと頼まれているのではあるまいか。  ……だから、あんなに熱心に患者を診察して廻わったのではあるまいか。そうして、そんな連中を何でもない普通の自傷兵とゴッチャにして、あんな風に脅迫して、無理矢理に戦線へ送り返しているのではないか。……だから、私を利用して、その計略の裏を掻いた候補生が、あんなにニコニコと微笑しているのではなかろうか……。  ……といったような途方もない、在り得べからざる邪悪な疑いが、腸の底から湧き出す胴震いと一所に高まって来た。そうしてソンナような馬鹿馬鹿しい、苦痛にみちみちた悪夢からヤッと醒めかけたような……ホッとしたような気持になると同時に私は又、急に胸がムカムカして嘔きそうな気持になって来た。何とも感じなくなっていた屍臭と石油臭が、俄に新しく、強く鼻腔を刺戟し初めた……が……そのまま無理に平気を装って、軍医大佐の背後に突立っていた。  そうした私の疑惑を打消すかのように、向い合っていた二条の一列横隊は、私たちの眼前で同時に、反対の方向を先頭にした一列縦隊に変化した。そうして一方は元気よく、勝誇ったように……一方は屠所の羊のように、又は死の投影のように頸低れて、気絶した仲間を扶け起し扶け起し、月光の真下で別れ別れになって行った。  その別々の方向に遠ざかって行く兵士の行列をジイッと見送っている中に、私は又も、更に新しい、根本的な疑惑の中に陥って行った。  ……彼等は一体、何をしに行くのであろうか。  ……戦争とは元来コンナものであろうか。彼等はホントウに戦争の意義を知って戦争に行くのであろうか。彼等が戦争に行くのは国のためでも、家のためでもない。ただワルデルゼイ大佐に威嚇されて、死刑にされるのが厭さにヴェルダンの方向へ立去るのではあるまいか。  私はいつの間にか国家も、父母も、家庭も持たない、ただ科学を故郷とし、書物と器械と、薬品ばかりを親兄弟として生きて来た昔の淋しい、空虚な、一人ポッチの私自身に立ち帰っていた。  ……自分は伯林を出る時に、カイゼルに忠誠を誓って来るには来た。しかし、それでも本心をいうと自分は、真実のゲルマン民族ではないのだ。彼等兵士とも、眼の前に突立っているワルデルゼイ氏とも全然違った人種なのだ。自分自身でも自分が何人種に属するかわからない単なる一個の生命……天地の間に湧き出した、医術と音楽のわかる小さな一匹の蛆虫に過ぎないのだ。  ……その三界無縁の一匹の蛆虫が、コンナにまでも戦慄し、驚愕して、云い知れぬ良心の呵責をさえ受けている原因はどこに在るのだろう。  ……一体自分はここへ何しに来ているのだろう。  私はこの死骸の堡塁の中で、曾ての中学時代に陥った記憶のある、あの虚無的な、底抜けの懐疑感の中へ今一度、こうして深々と陥まり込んでしまったのであった。今の疲れ切った頭では到底、泳ぎ渡れそうにない、無限の、底無しの疑惑の海……。  そう思えば思うほど、そうした戦争哲学のドン底に渦巻いている無限の疑惑の中に私はグングンと吸い込まれて行った。見渡す限りの黒土原……ヴェルダンの光焔……轟音……死骸の山……折れ砕けた校庭の樹列……そうしてあの美しい候補生……等々々も皆、そうした疑惑の投影としか思えなくなって来た。  そう思い思い私はフト大空を仰いだ。  ……あの大空に白く輝いている、割れ口のギザギザになった下弦の月こそは、そうした戦争に対する疑惑の凝り固まった光りではなかったか……氷点下二百七十三度の疑惑の光り……。  子供が大ぜい遊んでいるところに雪がふって来ました。 「ヤアイヤアイ 雪がふって来た  雪降れ ウント降れ  塩になれ 砂糖になれ」  とみんながよろこびました。 「砂糖になったらどうするか」  と大きな声がきこえましたので、ビックリしてその方を見ますと、白い鬚を生やして、白い着物を着て、白い帽子を冠って、長いすきとおった氷柱のような杖を持ったお爺さんが立っておりました。  子供達はおどろいてそのお爺さんの顔を見ていますと、お爺さんはニコニコ笑いながらも一度、 「砂糖になったら何にするのか」  と子供たちに聞きました。 「お餅につけてたべる」  と三吉が答えました。 「お婆さんに嘗めさせる」  と忠太郎が言いました。 「お庭の蜜蜂にやる」  と玉子さんが言いました。  お爺さんはさもさも嬉しそうに、 「感心感心。お前たちはみんないい児だ。それじゃ塩になったらどうするかな」  と尋ねました。 「先生の眼玉にすり込んでやる」  と最前からだまっていた悪太郎が答えました。  お爺さんは急に怖い顔になって、 「よしよし。のぞみ通りにしてやるからまっておれ」  と云ううちに消え失せました。  それと一所に、何も見えなくなる程真白に雪がふり出しました。  三吉と玉子と忠太郎の処に降る雪はみんな砂糖でしたが、悪太郎の処には塩ばかりバラバラと降って、それが眼に入って痛くて堪らなくなりました。  悪太郎は泣きながらおうちへ帰ってしまいました。  カラリと晴れた冬のまひるであった。私は町へ出る近道の鉄道線路を歩いていた。若い健康な全身の弾力を、両方の掌にギュッと握り締めて左右のポケットに突込んで……。  静かな静かな、長い長い落ち葉林の間を中途まで来ると、行く手に立っていた白いシグナルがカタリと音をたてて落ちたあとはもとの静寂にかえった。  ……青い空と白い太陽の下にただ一人、線路を一直線に進んでゆく誇らかな心……。  向うから汽車が来る。  真黒に肩を怒らした機関車を先に立てて、囚人のようにつながって来る貨物車の群れが見える。堂々と……真面目に……真面目に……不可抗的の威力をもって私を圧倒すべく近づいて来る。  私はこの汽車を避けたくなくなった。その機関車を睨みつつ、昂然と肩を聳やかして、線路の真中を進んだ。……すこしの遅疑も躊躇もせずにグングン突き進んで来る傲慢なその態度に対する本能的な反抗心が、衷心から湧き起って、全身に満ち満ちた。  同時に私の真正面に刻一刻と大きな形をあらわして来る真黒な鉄の車に対して言い知れぬ魅力を感じた。……今だ……。  自分で自分の運命を作り出し得べき最も簡単な、かつ完全な機会は今を措いてほかにない。あらゆる人類生活の条件と因縁とを離れて、自分自身の運命を絶対の自由さに支配し得る唯一無上の快い刹那は、今しも眼前数秒の裡に迫っている。この快い刹那を捕えるのは、私が持っている最後の権利である。  太陽は白い。空は青い。林は黄色い。  皆申し合わせたように静まり返って、上下左右から私を凝視している。  この緊張した刹那をふりすてて逃げることは不可能である……と思ううちに……山のような鉄塊が私の頭の上に迫った。  鉄塊が真白い息を吹き上げた。吼えた。怒号した。大音響が落葉林と、太陽と、青空とをかき消した……。  ……次の瞬間に、私は線路の外の枯れ草の中に突立っていた。  列車は轟々と過ぎ去った。最初から私を問題にしていないかのように……。  私は列車のうしろ姿をふり返った。ジッと唇を噛んだ。眩しい白昼の光の中で受けた、強い大きな屈辱と、それに対する深い悔恨……。 「思い切って衝突すればよかった。そうして死ねばよかった」  と思いつつ……。  私はうなだれて歩き出した。そして又ハッと立ち止まった。  ……眼の前の線路に、私の死骸が横たわっている。  両手をポケットに突込んだまま……紺の背広、鼠色のオーバー、黒の襟巻き……茶の中折れが飛んで……赤靴が片っ方脱けおちてて……顔半分を真赤に濡らして……それを凝視した儘、私は棒のように突立った。  ……何と言う平凡な姿の轢死体であろう。つい今しがたまで示していた昂然たる意気組もプライドもあとかたもない。犬猫と同様の下らない死姿である。  もし通りがかりの人がこの死体を発見したら何と評するであろう。 「オヤオヤ、腰弁らしい奴が汽車に轢かれている。厭世自殺かな。まあ死にたい奴は死ぬがいいさ。米が安くなっていい」  それ位のことを言って、サッサと通り過ぎて行くであろう。  又私を知っている人はこう言うかも知れぬ。 「オヤ。あいつが汽車にやられている。あいつはいつも一人ぽっちで、何か考え考えあるいていたから、おおかたウッカリして避け損ったのだろう。運の悪い奴さ、ハハハ」  けれども又、もし、こうした私の死姿を探偵か新聞記者が見付けたら、何と判断するであろう。 「恐らくこれは覚悟の自殺だ。両手をポケットに突込んでシッカリと握り締めているから……酔っていた形跡もない。しかし自殺とすれば原因は何だろう」  かくして彼等は私の身元や素行を一通り調べるであろう。そうしていくら調べても、私の自殺の原因がわからないために、いくどか首をひねるであろう。 「人知れず失恋していたのだ」  位のことはおしまいに言うかも知れぬ。  こうして私の死は永久に無意識に葬られるであろう。今までにいくつとなく出来たであろうこうした無意義な、かつ不可解な轢死体と一緒に…………。  カタリ……とシグナルが上った音……。 「馬鹿……」  と私は思わず口走りつつ、唾をペッとその死骸の上に吐きかけた。そこを急いで通り過ぎた。  けれども何となく胸がドキドキしたから、念のため今一度ふり返ってみると、線路の上はもう何も見えなかった。乾燥した枕木の上に、今吐いた唾が黒く泌みこんでいるだけであった。  私は命を一つ拾った気になって、ひとりで苦笑した。額の汗を拭き拭きそこいらを見まわした。 「水が飲みたいな」  これは探偵小説に限らない。小説を書く人は誰でも経験するところであろう。  如何なる作家の場合でも小説の中の主人公や相手役、端役の人物が決定するのと、その人物の名前が決定するのは殆んど同時ではあるまいかと思う。  AともBとも名前をきめないで書いて行く事は、ちょっと不可能のように考えられるし、単に名前だけきめて、性格や年齢、身分までをハッキリさせないまま行き当りバッタリに筋を運ぶのは、少々乱暴であり、危険ではないかと考えられるので、些くとも私などには到底出来ない芸当である。  ところでその名前の選み方であるが、これがナカナカ容易でない。性来カンの悪い私などはこの名前の選定について特別に悩まされるので、何の苦もない名前を付けているらしい他人の創作なぞを読んでいる中に、つくづく自分の無器用さに愛想を尽かす事さえある。  仰向けに引っくり返って太平楽を並べている読者諸君にコンナ愚痴をこぼしても初まる話ではないが、創作の中の人物の名前なんかドウデもいいじゃないか。どうせ出鱈目に附けるんだから……とか何とか云っている血も涙も無い人々には特に大きな声で申上げておく。創作中の人物の名前を選むという事は、吾児の名前や、自分のペンネームを附けるよりもモットモット苦心するものである。それこそ血のにじむほど涙ぐましい……という程でもないが、相当の神経衰弱に価する苦心を要するもの……という事だけは記憶しておいて頂きたい。  極端に神経過敏になって来ると、その創作の出来不出来は、その作中に活躍する人物の名前の選み方一つに在ると云ってもいい。いい名前が出来ると思わず筆が進んで筋が面白く変化して来る。「金色夜叉」の妙味は貫一、お宮の名前の対照に在る。「不如帰」の生命は川島武夫と片岡浪子の八字によって永遠に生きているのじゃないかといったような気持になって来るのだから容易でない。  そんな馬鹿な事が……と笑いたくなる人はもうすこし先を読んでから笑いたくなってもらいたい……と開き直りたくなる位、作家にとっては重大な問題であると思う。  特にこの感が深いのは主人公の名前で、特に探偵小説の場合に於て、そうではないかと思われる。明智小五郎、手塚竜太、帆村荘六、俵巌、シャアロック・ホルムズ、アルセーヌ・ルパン、ルコック、ソーンダイク、エラリー・クイーン等々の名前は、単にその名前が紙面に顔を出しただけでも読者の血を湧かす。その人物の風采性格から、その服装までもが躍如として眼前に浮み上る。朝雲を破る太陽の如く、深夜を掃照するサーチライトの如く、全篇の生気を一挙に躍動させ初めるのだから大したものである。しかも、ほかの名前では絶対に読者が承知しないのだから作者も一生懸命になって首をひねらざるを得ないのである。  名前は忘れたが露西亜の或る作家は、作中の人物の名前に相応しいのが見当らないために一日中モスコーの町中の表札を覗きまわって、足が棒だか棒が足だかわからなくなったという。そうしてヤットの思いで気に入った名前を発見した時のその作家の喜びようといったら、それこそ歓天喜天、手の舞い足の踏むところを知らなかったという。  もちろん私は、それ程の苦心をしたおぼえはない。今の世の中では電話帳というものや、紳士録というものがあるから東京市中をウロウロする必要ナンカないのであるが、それでも電話帳や紳士録に乗っている名前では何だかインテリやブルジョアじみているような気がして満足出来ない場合が屡々ある。のみならず私は九州の山奥みたいな処に、狐や狸と一所に住んでいるのだから、どうしても空に名前を考え出さなければならない場合が非常に多いのであるが、しかもこの空に考えるということが甚だ骨の折れる問題でセッパ詰まった揚句、眼を閉じて字引を開いて、指で押えた処を見ると犇という字であったり、一という字であったりするのでがっかりする。又は女の名前のために博物字典を開くとジャガイモが出て来たりポンカンが出て来たり、バクテリヤという片仮名が並んでいたりする。何々ジャガ子、ポン子、バク子なんていうのはないのでウンザリしている中に一時間や二時間は飛んでしまう。  大正七年頃であったか、何とかいう飛行将校が夫婦相談の上で、今度生れる子を男の児ときめてナポレオンという名前にきめているところへ女の子が生まれたというのでナポ子と附けたという話が新聞へ出ていたが、吾が児なら構わないかも知れないが、小説は売り物だからそうはいかない。読者を馬鹿にしているといって憤られてしまうにきまっている。  そのほか与謝野オーギスト、今井手川四郎五郎左衛門、股毛一寸六、福田メリ子なんていうのは実在の人物ではあるが、小説の場合ではちょっと通用し難いようである。  のみならず小説の中の名前の附け方には色々な条件があって、束縛され方が普通の場合よりも甚しい。特に探偵小説の場合に於て、そうした傾向が甚しいように思われる。  第一の条件というのは自分の書こうと思っている人物の性格や、風采にピッタリした名前でなくてはならぬ事である。もっとも昔の小説だと風采と心が一致している場合が大変に多いのであるが、それはお伽話か神話以来の遺習で、現実味の強い今の小説ではそう手軽く行かないから困る。人は見かけによらぬものという原則に従って、風采の感じと性格の感じとが全然正反対みたような人物が出て来ないと筋の都合が悪いような場合が甚だ多いのであるが、そのような場合でも、そうした矛盾した人物にピッタリと来る名前でなくてはいけない。風采の方にピッタリとする名前を選めば、同時にその正反対の性格の感じも、その中に籠もっていなければならない。同時にこれに反する場合には、やはりこれに反する条件の下に名前を選まなければならない。さもないと読者はペテンにかけられたような不愉快を心の片隅に残すところがあるのだから、ナカナカ事が面倒である。  おまけにそこへ作者の好みが附随して来るのだからイヨイヨ事が面倒になる。徳富蘆花は片岡浪子を美人と感ずるかも知れないが、私には大した美人とは感じられない。中年以上のオバサンで好人物には違いないが、或は相当のオシャベリではないかとさえ感じられる。それだけ蘆花と久作の頭のネウチが違うのだと笑われたらそれ迄であるが、しかし、それは腕前の問題ではない。個性の問題と思う。  探偵小説の中では、昔風に悪人と善人とを区別しなければならない場合が非常に多い。ズット昔では悪人の人相が悪く、名前までも毒々しいが、この頃では……特に探偵小説の中では……人相の柔和な、美しい人物が思いもかけぬ大悪党だったり、札附の前科者が善人であったりしなければならない事が多いのだから、そんな感じの名前を最初から考えておく必要がある。衷心から気心の優しそうな名前の人間が、最後に手錠をかけられるような事を書くと、前にも述べたような理由で読者は何となく欺むかれたような不満を感ずる虞があるのだからそのヤヤコシイ事一通りでない。  第二の条件は、その人物の風采が苗字だけ、もしくは名前だけでもスラリと眼に浮ぶような名前を附けなければ損である。もちろんそのうらを行って現実性を強める方法もないではないが、普通の場合、岩山銅蔵という美少年だの、青柳美代吉なんという醜怪な兇漢なぞは落第である。トラ子と花子と二人並べたら花子の方が美人にきまっているし、松子と清子なら清子の方が病身にきまっている。大山壮太郎が小男で、小川一平が雲突く大男と書いたら読者はちょっと首をひねるであろう。  第三の条件は読者に記憶され易いことである。これは特にむずかしい条件であるが、創作人物の名前を選むについては第一の条件と共に最重要な考慮を払わなければならぬ問題である。  ……といっても理屈は別にむずかしい事ではない。  早い話が田中とか、山本とか、林、中村、又は長兵衛、芳夫、太郎、次郎、三郎といったようなアリフレた名前をヤタラに組合わせて並べて行くと、読者はキット途中で作中の人物を混線さしてしまう。筋からハグラかされてアクビを出すか、本を投出すかするところがあるのだから、こんなのは先ず遠慮した方が賢明である。  そうかといって猫舌とか、鰐口とか、黒手とか赤足とかいったような突飛な名前を持出すと、その一つでも全篇の実感をワヤにする虞がある。又は長谷倉とか東海林とかいったような稀有の実在名を持出すと振仮名の間違いという恐ろしい危険に陥り易いし、わざとらしい感じが必ず附き纏うのだから万止むを得ない限り使わない方が無難と考えられる。  第四の条件は実在の名前を……たとえば電話帳などに多く出て来る名前をなるだけ使いたくない事である。  前にも述べた通り、実在しない突飛な名前を使うと、読者の記憶へは残り易い代りに、この全篇の迫真性を極度に薄める虞れが非常に大きい。馬琴などは石亀屋地団太だの鼠川嘉治郎なんていうのを平気で使っているが、今頃使ったら物笑いの程であろう。  しかし一方に実在の名前をなるたけ使おうとすると困る問題が一つ出て来る。  これも前述の通り探偵小説では善人と悪人とをハッキリ区別しなければならない場合が非常に多いのだから、善人の場合は差支えないが、悪人の名前にウッカリ実在の名前を使うと意外な結果を招き易い。  これは架空の話だから御差し合いの方には真平御免下さいであるが、田中という人物が唾棄すべき悪党であったり、林という美人が自動車に轢き潰されたり、中村という先生が八ツ切りにされたりしたら日本中の田中氏、林氏、中村氏は、作者に対して報復しようのない怨恨を抱き、不浄を感じ、嫌悪の情を以て本を投出す虞がある。それ程でなくとも作者として一種の変テコな失礼を四方八方に働らいたような良心的な苛責を感ずる事になるのだからツイ遠慮したくなるのである。  こうして種々な条件を附けて来ると、創作人物の名前なるものは、いい加減、神経衰弱のタネになるものである。だから私などは今日まで気に入った名前ばかりで一篇を創作した場合は一度もないので、十中八九は、いい加減なところで辛抱して来た場合が非常に多い。  無責任なようではあるが、そんな風に考えて徹底的に神経衰弱が静まるところまで満足し得る名前を発見しようとしていたら、締切りに間に合わない場合が多いのだから止むを得ない。  又一方から見ると作者が創作人物の名前を悠々閑々と思案する……などいう事は今のスピード時代には望まれない事かも知れない。  作者の道楽かもしくは、お庭の石を彼方此方と動かしては眺めるのと同じ格の一種の隠居仕事かも知れないと思われる。  妙なものと云おうか、又はありがたい事と云おうか、ここに一つ不思議な現象がある。  最初はいい加減な名前で我慢して、そのうちにいい名前を附けてやるつもりで筋を進めて行く中に、その名前と、その人物が、いつの間にかシックリして来て、到底切り離すことが出来なくなる場合が非常に多い。  最初は不似合に思っている名前でも原稿紙の十四五枚も書いて行く中に、その名前を書いただけで、その人物の顔形から、背丈、体格から、その地位、趣味、ステッキやハンドバックの色恰好、その書斎に並んでいる愛読書の種類まで一ペンにズラリと眼の前に浮かみ上って来るようになるので、そうなると、ほかの名前を持って来ても絶対に受付けられなくなる。それを読者に対する気兼ねや何かで、無理にほかの名前に改名させると、全然別人の感じになってしまって全体の筋から書き直さなければならなくなる事が度々である。つまり作者はその名前から受ける感じで筋を運んで行くものらしい事が、ここに於てハッキリと自覚されるので、これは自分ばかりに限った事ではあるまいか、それとも他の作者にも共通した心理現象であろうか時々首をひねってみる事がある位である。  もう一つ面白いのは主役と端役とで名前の附け方が違うことである。  端役の名前などはドウでもいいと思うのは大変な間違いである。主役の名前はどこでも主役らしく、端役の名前は必ず端役らしく附けて行かなければならぬ事は無論であるが、その主役に対する色どり、対照の軽重なぞを一歩誤ると、読者に余計な注意力を浪費させ、筋の混濁を惹起し、全篇の風姿を打毀すことがあるのだから油断がならない。  同時に後から主要な役割を受持つ端役の名前は、最初からそうした用意も籠めて名前を選んでおかなければならないのだから、端役の選名といっても中々軽々しく行かないのである。  おかしいのは赤ちゃんの名前を、やはり赤ちゃんらしく可愛いくしておかなければならないので、そいつが大きくなって悪党になったりする時に非常に困ることがある。  更にモウ一つ厄介なことに作者がそういった感じをもって選名をしても、読者の方でそう感じない場合を考慮しなければならないという問題があるが、しかしこれはチョット見当が附かないから困る。  私なぞに云わせると栗島スミ子という名前は中年のインテリ婦人の名前がするし、江川蘭子はスレッ枯らしの有閑令嬢らしい感じがするのであるが、しかし万人が万人、そう感ずるかどうかは疑問である。  全く閉口するのは西洋人の名前である。外国人の名前の特徴なんか外国語の出来ない私にとっては全然わからないし、況んやその名前によって、その髪毛や瞳の色を想像させるような芸当は一生涯出来ないものと諦らめている。  万止むを得ない場合には世界地図を開いて、その人間の生れ故郷の地名や、附近の地面の発音の特徴をもじって作るよりほかに方法を知らないので、こうして白状するさえ情ない気がする。  厳密に云うと日本でも、その地方地方で特有の名前がある。 蛙鳴くや一村姓を同じうす  という素人俳句が記憶に残っているが、そんな工合で或る地方の出来事を書くに、その地方に有り勝ちの名前ばかりを使って事件を運べば、非常によく実感が出る筈であるが、そこまでは行届かないから略する事にしている。  いずれにしても創作人物の名前が、神経衰弱のタネになるのは私一人ではないらしい。  しかもウッカリすると、作者の個性だか趣味だかが一定しているために、全然別の創作の中の同じような性格の人物の名前が、似通ったようなのがチョイチョイ出て来る事もあるのだから油断がならない。  しかし又一方にそうした傾向を利用した、作者の趣味とピッタリした人物を中心にして色々な物語を書いて行くのはたしかに賢明な方法である。  ホームス、ルパン、ミッキーマウス、ノラクロ何とかいったような名前は、要するに創作人物の名前の持つ魅力を百パーセントに利用したもので、そんなダシの利く名前を発見した人の喜びは考えるさえ嬉しくてならない。  まだまだ創作人物の名前については重要な事を沢山に書残しているようであるが、さてこうして書き初めてみるとナカナカ重大な問題らしく、あとから――書く事がイクラでも出て来るのに驚いている。  まことに辻褄の合わない事ばかり並べ立てたようであるが、今までの小説評に、名前の附け方の評なぞ出ないようである。しかも考えようによっては、創作人物の名前の附け方というものは、たしかに一つの立派な芸術のように思われるから、ちょっとその口開きまでにコンナ愚文を発表してみた。  凧屋の店にいろいろ並んでいる凧の中で、達磨と章魚とが喧嘩をはじめました。 「ヤイ達磨の意気地なし。貴様は鬚なんぞ生やして威張っていても、手も足も出ないじゃないか。俺なんぞ見ろ。こんなに沢山イボイボの付いた手を八つも持っているんだぞ」 「そんな無茶を言うものでない。お前も坊主なら乃公も坊主だ。坊主同士だから仲よくしようじゃないか」 「おれが貴様みたような奴と、手も足もないヌッペラボーと仲よくするものか。喧嘩すりゃあ負けるものだから、そんな弱い事を言うのだろう。態を見ろ、弱虫|奴」  といきなりその長い八本の足で達磨を蹴り飛ばしました。達磨はたいそう口惜しく思いましたが、手も足もないのでただあの大きな眼玉から涙をホロホロ流して蹴られていました。  傍にいた奴凧が大層気の毒がって、 「章魚さん、もう喧嘩はおよしなさい」  と仲裁しました。  すると章魚は、 「お前なんか黙っておれ」  と言って又蹴りつけました。奴も怒ってはみたが、これも手が袖から出ず、足も二本しかないので、じっと堪えていました。  翌朝、太郎、次郎、三郎の三人に三つともそれぞれ買われて、原に連れて行かれました。そうすると太郎さんの達磨も次郎さんの奴も、元気よく高く高く揚りました。しかし三郎さんの章魚は長い足が欅の枝に引っかかりました。そして三郎さんが無理に引っ張ったために破れて仕舞いました。その時章魚は、ああ足がなければよいと思いました。  与太郎は毎日隣村へ遊びに行って、まだ日の暮れぬうちに森を通って帰って来ました。 「あの森は狸がいていろいろのものに化けるから、日の暮れぬうちに帰らぬと怖ろしいぞ」  とお母さんが言いきかせているからです。  ある日、太郎はうっかり遊び過ごして真暗になって帰って来ました。森の中に入ると、忽ち一丈もある位の一つ目入道が出ました。 「ヤア。大きな伯父さんが出て来た。眼玉が一つしかないんだね。面白いなあ。僕と一緒にうちへ遊びに来ないかい」  と与太郎は言いました。一つ目入道は見ているうちにロクロ首になりました。 「ヤア。綺麗な首の長い姉さんになった。変だなあ。どうしてそんなに長くなるの。もっともっと長くして御覧」  と言いました。ロクロ首は今度は鬼の姿になりました。 「オヤ、鬼になった。お節句の人形によく似てる。可笑しいなあ。もっといろんなものになって御覧」  化け物は与太郎がちっとも怖がらないのでつまらなくなって、狸になってしまいました。それを見ると与太郎は真青になって、 「ワア狸が出たあ。化けると大変だ。助けてくれ」  と言いながら一所懸命逃げて行きました。  三太郎君は勉強に飽きて裏庭に出ました。  空には一面に白い鱗雲が漂うて、淡い日があたたかく照っておりました。その下に立ち並ぶ郊外の家々は、人の気はいもないくらいヒッソリとして、お隣りとの地境に一パイに咲いたコスモスまでも、花ビラ一つ動かさずに、淡い空の光りをいろんな方向に反射しておりました。  その花の蔭の黒いジメジメした土の上に初生児の頭ぐらいの白い丸いものが見えます。 「オヤ……何だろう」 と三太郎君は不思議に思い思い近寄ってみますと、それは一つの大きな卵で、生白い殻が大理石のような光沢を帯びておりました。その横の地面に竹片か何かで字を書いて、卵と一所に輪形の曲線で包んでありました。  ……三太郎様へ……露子より。  三太郎君はハッとして慌てながらその文字を下駄で踏み消しました。そうしてコスモスの花越しに、空地続きになっている裏隣りの二階をあおぎました。  その二階は階下と一所に雨戸が閉まっていて「貸家」と書いた新しい半紙が斜めに貼ってありました。露子さんの家は、ゆうべ三太郎君が睡っているうちに、どこかへ引っ越してしまったらしいのです。  露子さんと三太郎君が初めて顔を見合ったのは、今年の春の初めでした。それは露子さんの一家が引き移って来てから間もない或る日の事でしたが、その時には、今貸家札を貼ってあるあたりの二階の障子を何気なく開いて、欄干からこちらの庭を見下した露子さんの視線と、座敷の障子を一パイに開いたまま勉強していた三太郎君の視線とが、ホンの一秒の何分の一かのうちにチョットためらいながらスレ違っただけでした。露子さんは、そのまま冷やかな態度で眼を伏せて障子を閉めながら引っこんで行きましたし、あとを見送った三太郎君も静かに立ち上って障子を立て切ってしまったのです。  それから後、きのうまで数箇月の間、露子さんと三太郎君は毎日のように顔を合わせておりました。お互いに恋を感じていることを、よく知り合っていながら、お互いにわざとヨソヨソしくしている事を同時に感じながら……ウッカリ視線でも合うと、慌てて眼を外らして、逃げるように家の中へ引っ込んでしまうのでした。二人はこうして顔を合わせるたんびにお互いの態度を真似るのでした。そうしてトウトウニッコリし合う機会が一度もないうちに、別れなくてはならなくなったらしいのです。  二人は何という愚かな二人だったでしょう。  なぜあんなに固くるしくまじめな態度を執ったのでしょう。  なぜあんなに、お互いの恋を警戒し合ったのでしょうか。  ……三太郎君はその原因を知っていました。  ……ホントウの事を云いますと、あの露子さんの顔を初めて見た晩に、三太郎君の魂は、よく眠っている三太郎君の肉体をソーッと脱け出して行ったのです。そうしてちょうど今三太郎君が突立っている黒い土の上で、待ちかねていた露子さんと忍び合ったのです。そうして、それから後三太郎君の魂は毎晩のように、同じところで露子さんと出会って、囁き合い、泣き合い、笑い合ったのです。  もっとも最初のうちは三太郎君も、それを自分一人の幻想だと思って、独りで恥じていたのです。露子さんのうしろ姿や、着物の片影を見ただけでも、済まない、恥かしい、空おそろしい……というような気持ちに囚われて、吾れ知らず顔面の筋肉を緊張させたものです。  ところがそのうちに露子さんも矢張り、三太郎君と同じ気持ちでこちらを見ていることがわかって来たのでした。露子さんが三太郎君と顔を見交すたんびに見せる何ともいえない、つめたい緊張した表情が、そうした露子さんの心の底の秘密をありのままに物語っているのでした。三太郎君の幻想が決して三太郎君一人の気の迷いではない。疑いもなく二人の魂がソックリそのまま肉体を脱け出して、毎夜毎夜ここで媾曳をして楽しんでいるのだ……という事が次第にハッキリと三太郎君に意識されて来たのです。そうして、それと同時に、二人がこうして現実の恋を恋し得ないで、魂だけで忍び合って満足をしているのは、決して恋を恐れているのではない。現実の恋から必然的に生まれる「ある結果」を恐れ合っているからだ……という事までも、透きとおるほどハッキリと三太郎君に理解されて来たのでした。  二人が昼間のうちに見合わせる眼付きは、こうしていよいよ冷やかになって行くばかりでした。そのかわりに二人の心は、日が暮れるのを待ちかねてこの地境の黒い土の上で逢う瀬を楽しみ合うのでした。  そのうちに夏が過ぎると、その黒い土の上に、誰が種子を蒔いたともなく、コスモスが高やかに生い茂りました。そうして秋に入ってから、まぶしいほど美しく満開したと思う間もなく今日になって、この出来事が起ったのです。  三太郎君は奇妙な、恍惚とした気持ちになって、その大きな卵をソット抱き上げてみました。それはよく見ると青いような、黄色いような、半透明な殻の中にトロトロした液体を一パイに充実さしているらしい水ぐらいの重たさのものでした。その太陽に向っている半面は暖かくなっていました。  三太郎君は、それから毎晩その卵を抱いて寝ました。  そのつめたい殻が、三太郎君の肌とおなじ暖かさになると、卵の中からスヤスヤという寝息が、かすかに聞えて来るように思われました。しかも、それが三太郎君の妄想でない証拠には、ためしにチョットゆすぶってみると、その寝息の音がピッタリと止まるのでした。そうして、それと一所にお乳のような、又は洗い粉のような甘ったるいにおいが、ほのかに湧いて来るのです。  三太郎君は卵が可愛ゆくなりました。毎晩暗くなるのを待ちかねて、毀さないようにソッと抱いて寝るのが、この上もない楽しみになって来ました。そうして夜が明けるとすぐに夜具を押し入れに入れて、自分の寝ぬくもりの籠もった敷布団の間にソット入れてやるのでした。こうして独身のまま、かあいい卵を抱いて生涯を過したらばどんなに気楽で嬉しいだろう……なぞと空想したりしました。  そのうちに卵は次第に変化して来るようでした。殻の色が黄色から桃色……桃色から茶色へ……茶色から灰色へ……そうして中から聞こえる寝息と思っていた物音が、夜の更けるにつれて高まって、しまいにはウンウンという唸り声かと思われるようになりました。  三太郎君は気味がわるくなって来ました。……きっと卵が孵化りかけているのに違いない。そうして中に居る或る者が殻を破り得ずに苦しがっているのに違いない……と思って……。しかしそのうちに、ひとりでに内側から破れるであろう、万一早まって割ったりしては大変だ……と我慢しいしい抱いておりました。  秋が更けて行くに連れて卵はだんだんと灰色から紫色にかわって行きました。それは死人のような気味のわるい色で、しまいには薄紅い斑点さえまじって来ました。卵の中のうなり声も次第に高まって、歯をむき出した野獣か何ぞのように物狂おしく力強くきこえて来ました。時折りはキリキリと歯切りをするような音さえ殻の中で起るのでした。  三太郎君はそのたんびにゾッとさせられました。夜通し眠られぬ事さえありました。これはタマラヌ……と心配しながら……。  すると或る夜の事、三太郎君がウンウン唸る卵を懐に入れたまま、ウツラウツラと睡っているうちに、不意にどこからともなくシャ嗄れた声が聞こえて来ました。 「オトウサンオトウサンオトウサンオトウサンオトウサン」  それは死に物狂いに藻掻いている小さな人間の声のようでした。三太郎君はハッと眼を醒ましました。  卵は三太郎君のミゾオチの処で、大病人のように熱くなっていました。その中から放散する小便のような、腐った魚のようなあたたかい臭気が夜具の中一パイに籠もっています。  三太郎君は慌てて卵を抱え直すと、そのまま起き上って、大急ぎで雨戸をあけました。……もとの処に返しておこう……というような気もちで足探りしいしい庭下駄を突っかけましたが、あまりあわてておりましたせいか、思わず前にノメリそうになった拍子に、真暗なお庭の沓脱石のあたりへ卵をコロリと取り落しました。……と同時にバッチャリと潰れた音がしたと思うと間もなく、生あたたかい、酸っぱいような小便のにおいがムラムラと顔に迫って来ましたので、三太郎君は、ヨロヨロとあとしざりしながら顔をそむけました。  空には一面に星が散らばっていました。  三太郎君は、あとをも見ずにピッシャリと窓を閉めました。全身の汗がヒヤヒヤと冷え乾いて行くのを感じつつ、寝床にもぐって、ワナワナとふるえておりましたが、そのうちにウトウトしたと思うと、又、ハッと眼を醒ましました。あとを掃除しておかなければならぬと思って……。  恐る恐る雨戸を開いて見ますと、いつの間にか夜が明けて、外はアカアカとした小春日和でした。裏庭の隅にはまだ、コスモスの白い花が、黒い枝の間にチラリホラリと咲き残っています。  沓脱石の処には何のあとかたもありませんでした。おおかた昨夜のうちに近所の犬か猫かが来て嘗めてしまったのだろうと思われる位キレイになっておりました。  三太郎君はホッとしました。そうして何喰わぬ顔で朝食前の散歩に出かけました。  裏の家には誰か又新しい人が引越して来るらしく、貸家札がキレイに剥ぎ取られてありました。  探偵小説はジフテリヤの血清に似ている。ジフテリヤの血清をジフテリヤ患者に注射するとステキに利く。百発百中と云ってもいい位おそろしい効果を以て、ジフテリヤの病源体をヤッツケてしまうらしい。  それでいてジフテリヤの病源体はまだ発見されていない。近代医学の威力を以てしても正体が掴めないでいる。つまり薬の方が先に発見されているのに、病気の正体の方が判明しないので、裁判が確定しているのに、犯人が捕まらないみたいな恰好になっている。一種のナンセンスと云えば云える状態である。  探偵小説の正体も同様である。  探偵小説を欲求する心理の正体を掴むことその事が既に一つのこの上もないナンセンスであり、ユーモアであり、冒険であり、怪奇であり、神秘であり……何かみたいである。  探偵小説の正体を探偵するとはこれ如何にである。  事実……探偵小説の興味の本体がどこに在るかを探り出すことは中々容易でないらしい。  探偵小説と貼紙をした古|屑籠の蓋を取ってみると、怪奇、冒険、ユーモア、ナンセンス、変態心理といったような読物の妖怪変化が、ウジャウジャと押し合いへし合いながら巣喰っている。その中から探偵小説らしい奴を一匹引っぱり出そうとすると、ちょっと見たところ全然別物に見えるほかの化物連中が、その探偵小説の胴体に、背中や尻ペタ同志で、シャム兄弟のように繋がり合って、ギャギャ悲鳴を揚げながら絡み合って出て来るから、ビックリさせられてしまう。  探偵小説の横腹から足だけを二本ニューと出してバタバタやっている冒険小説。探偵小説のお尻の穴から片手を突出してオイデオイデをしている変態心理。肩の横っちょに頭を並べている怪奇小説。お尻だけ共通し合っているユーモア小説。瘤になって額にカジリ付いているナンセンス小説。探偵小説の身体の隅々に、毛のように叢生しているエロ、グロ小説といったようなアンバイで、結局、探偵小説と名付くる動物は、メスで解剖出来ない、超科学的なものになってしまう。  或る人は探偵小説の魅力を、謎々の魅力と同一のものだという。  それはそうかも知れない。  探偵小説は十八世紀の末葉、仏蘭西は巴里に居住する有閑婦人が、当時の社交界に横行するスパイ連中の秘密戦術に興味を駆られて、閑潰しに創作し初めたものに萌芽しているという。だから出来るだけ筋を入組ませて、出来るだけ読者の閑暇を潰せるように競争して書いたのが初まりだという説明を聞くと、成る程、そんなものかと思えない事もない。  しかし、それから後、探偵小説が代を重ねて発達して来たのであろう。筋の極めて簡単明瞭なものでもゾッとさせられたり、アッと云わせられたりするものが出て来た。トリックらしいトリックが一つもなくとも、探偵小説は成立するようになって来たから、必ずしも探偵小説、即謎々とは云い切れなくなって来た訳である。すくなくとも吾々が所謂探偵小説なるものの中に感じ得る魅力の中には謎々以外の沢山のものがある事は否定出来ない。  何度読んでも面白い探偵小説だの、最初から犯人を明示して在る探偵小説を、探偵小説でないと断言するのは少々乱暴ではあるまいか……。  或る人は探偵小説を一つの精神的な瀉血だと説明している。  吾々がこの血も涙も無い資本万能の、唯物科学的社会組織の中で、芋を洗うように……もしくは洗われるように押し合いへし合い、小突き合い、ぶつかり合って生活して行く間に感じた、あらゆる非良心的な闘争――生存競争そのものが生む、悽愴たる罪悪感……残忍な勝利感や、骨に喰い入る劣敗感なぞ……そんな毒悪な昂奮に鬱血硬化させられ続けている吾々の精神の循環系統の或る一個所を、探偵小説というメスで切り破って黒血を瀉出し、毒気を放散しようとしているのだ。血圧を下げて安眠しようとしているのだ。書く方も、そんな気で書き、読む方もそんな気で読んでいるのだ。  そこから迸出る血が、黒ければ黒いほど気持がよくて、毒々しければ毒々しいほど愉快なのだ。だから探偵小説の読者は皆善人なのだ。……だから普通の小説が愛情の小説なら、探偵小説は良心の小説なのだ。良心の戦慄を書くのが探偵小説の使命なのだ……という説もある。  これも一応|尤もな気がする。多分に共鳴も出来るようであるが、しかし、探偵小説の定義が、そうときまれば、ストーリーと謎々だけで成立している所謂、本格の探偵小説は飯が喰えないみたいなものになる筈である。  ところが本格の探偵小説は決して乾上りなんかする気色はない。新聞の三面記事が読める人なら必ず本格の探偵小説を理解し得ると考えてもいい位の大衆的な支持を受けつつ堂々と門を張って行きつつ在る。本格以外の探偵小説は探偵小説に非ず。エロ小説、グロ小説、ナンセンス小説と名乗って、この魅力ある「探偵」の二字を僭称する事を遠慮すべきもの也……とか何とか大見得を切られても、大きな声で返事する者が居ない位すばらしい勢である。だからこの定義は所謂、変格の探偵小説には当てはまるが、本格の謎々専門のソレには当てはまらないらしい。  ……ナアニ……探偵小説ってものは大人のお伽話に過ぎないんだよ。大人は探偵小説を読んでオカカの感心、オビビのビックリ世界に逃避したがっているんだよ。良心とか、義理とか、人情とか、生活の苦しみとか、いうものには毎日毎日飽き飽きするくらい触れているんだから、そんなものにモウ一度シミジミと触れさせる普通の小説なんか、御免蒙りたいのだ。そんなものを超越した痛快な、ものすごいすばらしい世界へ連れて行ってもらいたがっているんだ。  但、子供はビックリ太郎でもノラクロ伍長でも容易に釣込まれるんだが、大人はそうは行かない。だから科学とか、実社会の機構とか、専門の智識とかの中でも、最新、最鋭の驚異的な奴を背景、もしくは材料として「感心世界」や「ビックリ世界」を組立てなければならない。そこから探偵小説のすべてが生まれて来るのだ。そうしてソレ以外にも以上にも探偵小説の使命はないのだ。  ルパンでもホルムズでも要するに大人のミッキーマウスであり凸凹黒兵衛に外ならないんだよ。そいつが人の欲しがる巨万の富、人の惜しがる生命、もしくは最も人の昂奮する国際問題なぞに対して行われた奸悪を向うにまわして超人的な活躍をするんだから、大人が喜ぶ筈だよ。怪奇、変態、冒険、ユーモア、なんていう色々な要素が、探偵小説の中に取入れられているのは、単に大人を、小供のお伽話と同等にビックリさせる色どりに外ならないんだよ……云々……と……。  成る程そう云われてみると、そんな気にもなって来る。大人はお伽話を持ち得ない、憐れな動物だから、子供がお伽話を聞いて眠りたがるように、大人は一日の残りの時間を、探偵小説と共に、寝床の中で惜しみたがるのであろう。  しかし、それだけでは、やはり何だかまだ説明が足りないような気がする。  以上掲げたような色々な定義を一つに引きくるめてモットモット深刻に掘下げたようなものが、探偵小説の魅力の正体でなければ、ならないような気がするようである。  今までに色々な形式の探偵小説が、書かれては飽きられ、工夫し出されては行詰まって来た。書いて行く小説家の方ではモウいけない。行き詰まった行き詰まったと悲鳴をあげている向きがあるようであるが、しかし、それは書く方の側だけの話ではあるまいか。  読者側の方では、まだ飽きても行き詰まっていないようである。モットモット強い、深い、新しい刺戟を求めている自分自身の恐ろしい心理の慾求を、その日その日の生活の間隙にハッキリと感じつつ、飢え渇いたような気持で本屋の店先をウロウロしているのではあるまいか。  その恐ろしい心理の慾求とは何であろうか。  ……さあ……わからない。  現に、そういう筆者自身が、いつも、そんな気持で本屋の店先をウロウロキョロキョロする組であるが、さて自分自身に、お前は何を探しているのだと反省してみると、どうしてもわからない。たまたま面白そうな本を引っぱり出して中を二三行読むと、直ぐにチェッと舌打ちしてモトの本棚に押込んでしまうのであるが、何が、お前をそうさせるのかと、自分の頭に反問しても、返事は一つも浮かみ上がらない。その癖、おそろしく焦燥ってジリジリしている事はたしかだ。これぞと思う本があればポケットを空にしても構わないぐらい棄身の決心をしている事だけはたしかである。……だが……何を求めているんだと云われても返事が出来ないから困る。  ……自烈度いと云って、これ位自烈度い話はなかろう。……これがわかれば一躍、世界一の流行作家になれるかも知れないんだが……。  人文の発達に伴う、読物の種類の分派を探求し、綜合したところから帰納して、探偵小説が如何なる社会心理の反映を象徴しているものであるかをハッキリときめてくれる人は居ないか知らん。現代人が探偵小説の将来、如何なるものを要求しているかを、鮮やかに指示してくれる大批評家は居ないか知らん。  本屋の店頭に立って色々と本を漁っている人の頭を見破って帰って、直ぐにその慾求通りのものを書くという訳には行かないものか知らん。  否々。一流の流行作家は、皆、それが出来るのに違いない。そうして、わざと黙っているのに違いない。大人が子供に真実を教えないように……。  ……ああ……自烈度い……。  探偵小説が下火になって来た。曾ての勃興当時、作者と読者とが熱狂して薪を投じ油を注いだ炬火は、今や冷めたい灰になりかかっている。  曾ての自然主義文芸がそうであったように……。  自由民権思想がそうであったように……。  人類の趣味傾向が、かくして遂にドン底を突いてしまったのだ。  明治維新以来、西洋文化の輸入に影響されて日本人の趣味が急劇に低下して来た。以前から忌避し軽蔑されていた肉慾描写や、不倫の世相が、自然主義の輸入以来逆照され初めた。人間が不合理視され、禽獣道が合理視されるようになった。それは、たしかに新しい傾向であった。  ところが明治末期から大正以降に於ける探偵小説の流行は、そうした傾向を更に低級化し、深刻化した。モット尖鋭な肉慾や露骨な犯罪心理に深入りする趣味を、日本人に逆照して見せた。そうしてその逆照手段が本格、変格のあらゆる角度に向って急速に分析され、分科され、単純化され、平凡化されていく中に、その各分科|毎に専門的に行詰まり、飽きられ、軽視され、忘却されて行きつつある。  探偵小説はだから、今やその最後の牙城に逃込みつつある。……曰く……  探偵小説の真価値は、そのトリックに在る。謎々の興味に懸っている。そうした興味によって読者を最後まで引っぱって行ってから、これに意外な解決と満足を与えるのが、探偵小説の唯一無上の神聖な本領である。だから、探偵小説は生命、貞操、金銭、宝石、紙片なぞいう人間の欲しがり騒ぎまわるところの最低級、浅劣なシロモノを、そのトリック、謎々の核心として、全篇の興味を織出して行かねばならぬ。  だから探偵小説は芸術であってはならない。  エロ、グロ、ノンセンス、ユウモア等の謎々以外の風味を含ませるのは探偵小説の邪道、堕落道である。冒険、神秘、怪奇、変態心理、等々々の名を冠らせ得る小説は、探偵小説界の外道、寄生虫でしか在り得ない。そんなものは皆、この真の探偵小説界の非常時に際して、変格の名の下に、強烈な下剤を以て探偵小説界から駆除されなければならないのだ。  探偵小説はどこまでも探偵小説として、ストーリー本位の使命を守って行かねばならない。単なる謎々の筋書のみを守って行く所謂本格に生きて行かねばならないのだ。  しかもその本格モノを書ける作者は現在の日本に極く少数しか居ない。のみならずその少数者は結局「一人二役」「探偵即犯人」「偽アリバイ」等々の極めて少数トリックが存在し得るだけの数だけしか探偵小説は書けない事に理論上なっている。その水の手の切れた、敵から案内を知り抜かれている、狭い、窮屈な牙城に一人か二人しか居ない探偵小説家は立籠ろうとしているのだ。そうしてその外廓をウロウロしている変格の二股武士に向って大きな声で宣告しつつ在る。 「本格以外のものは探偵小説ではないぞ」  ……と……。大勢の二股武士、変格探偵小説家の群れは、これに対して一言も答え得ない。……たしかにその通りである……同時に絶対にソンナ事はないぞ……という言葉を口の中で戸惑いさせつつ、ヒッソリと静まり返って、相も変らず水の手の豊富な外廓をウロウロしている。  だから日本の探偵小説界は現在、物の見事に行詰まっている。孤城落日である。  仏も仏教の教義が、日本人の頭脳によって急速に分析されて、あまりにも種々の宗派を分岐し、あまりにも方便化され、単純化された結果、遂に今日の如き堕落、行詰まり時代を招致したように……等々々……。  以上のような諸現象を毎日毎日目に見、耳に聴いて来た吾々探偵小説ファンは、思わずタメ息せざるを得ない。探偵、猟奇小説界に於ける一切の新人も、思わず識らずタメ息し、萎縮し、躊躇し死因化しないではいられないであろう。しかし筆者は格別驚きもせず、心配もしていない。それは中学程度の教養しか持たないせいかも知れない。又は中央文壇の荘厳から遠く離れた山の中に退化生活を営んでいるせいかも知れない。のみならず井底の蛙かもしくは盲、蛇に怖じずの類であろう。こうした大勢に対して死に物狂いの反撃をしてみたくなった。声ばかりでもいい、「探偵小説は行詰まっていない」と絶叫してみたくなった。  新しい人々の自由奔放な大暴れが期待したくなった。笑われてもいい。憎まれても構わない。それが探偵小説界のためだと思い込んでしまった。筆者は敢えて云う。  所謂、本格探偵小説なるものは探偵小説の原始的な型を伝統している純粋種である。今から百年か二百年か前に流行していた、あらゆる種類の文芸の中から進化し生れた、より新しい、より深い、より痛い文芸である。一切の芸術の伝統精神と形式から離脱して、人間の心理を今一層深く、アケスケに抉り付け、分析し、劇薬化、毒薬化し、更に進んで原子化し、電子化までして行くために生れた芸術界の鬼ッ子である。芸術の守護神を冒涜する事を専門とする反逆芸術である。昔の芸術は、衣裳美の歎美を以て能事終れりとした。それが更に進んでその衣裳を剥ぎ取った肉体美の鑑賞を事とする近代芸術にまで進化した。それが更に進んで、その肉体を切開き、臓腑を引出し、骸骨を漂白し、血液から糞尿まで分析して、その怪奇美、醜悪美に戦慄しようとするところにこの探偵小説の使命が生まれた。  今までの芸術は望遠鏡か、写真機か、又は顕微鏡のレンズでしかなかった。単に焦点を作るのが、その使命であった。  これに反して探偵小説の使命は三稜鏡で旧式芸術で焦点作られた太陽の白光を冒涜し、嘲笑し、分析して七色にして見せる尖端芸術である。従来の心理描写は平凡な心理描写に過ぎなかった。だから将来の心理描写こそは真実な心理そのものの解析、綜合でなければならぬ。  こうした趣味、傾向に人類を導くために、曾ての探偵小説は従来の芸術が金科玉条として死守して来た美学上の諸条件を悉く放棄し、一蹴した。その代りに芸術と自称するのも恥かしい浅劣、低級な謎々の魅力を以て大衆の注意を惹付けた。そうして古来、人類が作って来た各種の文化の中でも、最も醜悪低劣なこの科学文明の内容を人々が反省し初めるに連れて、グングンと進化し分化し初めた。あらゆる変格的な新様式を繁殖さして、大衆の心理の隅々にまで喰込んで行った。鶏や、豚や、林檎や、ダリヤが、その純粋種から進化して、その時代時代の趣味文化を象徴し、代表しつつ、次第次第に複雑極端になって行ったように……。そうしてその純粋種の価値を人々に忘れさせて行ったように……。  だから云う。純粋種は実に尊い、有難いものである。吾々は純粋種の味を時々回想してみる必要がある。  しかし正直のところ今となっては純粋種はあまり美しいものでも美味いものでもない。その繊維は余りに固く、その味はあまりにも単一で古めかしい。本格探偵小説の真価は、もはや古典的なものになってしまっている。その謎々の使命も既に、古来の所謂、文芸から大衆の興味を奪い去った時に終ってしまっている。そのトリック、謎々の真価値は大英博物館にでも納めなければ光らなくなってしまっている。  だから云う。馬来半島に残存している野鶏だけがホントウの鶏である。その他のブラマ、オーピングトン、アンダラシャン、ブリモースロック、ミルカ、コーチン、レグホンの類は鶏でない。水炊にもスキ焼にもチキンライスにもロースチキンにしてもいけない。同じ金網の中で同じ餌を遣ってはならぬ……という宣言に対して、羅馬法皇に対する新教徒のような萎縮や、絶望を新人諸君が感ずる必要は毛頭ない。  鶏の人類に対する真実の使命はその変種に在る。食用鶏は卵が少く、採卵用鶏は肉が美味くない。それでいいのだ。  同様に探偵小説の真の使命は、その変格に在る。謎々もトリックも、名探偵も名犯人も不必要なら捨ててよろしい。神秘、怪奇、冒険、変態心理、等々々の何でもよろしい。吾々はもはや太陽の白光だけでは満足し得ないのだ。スペクトルの七色光だけでも既に満足し得なくなっているのだ。紫外、赤外線は勿論のこと、その中に横たわる暗黒線の内容までも分析して、何かしら戦慄的な、絶大恐るべき毒線を作る原素の潜在を確保しなければ、良心的に生き甲斐を感じなくなっているのだ。どこまでも探偵し、暴露して行かなければ本能的に満足が出来なくなっているのだ。  探偵小説の使命はこれからである。  全世界はまだまだそうした探偵小説の処女地である。何でもない暑中見舞のペン字の曲り目から、必死的な殺人の呪いが分析され、新しいハンカチの折目から持主の不倫行為の現場が映写し現わされ得る筈だ。  この無良心、無恥な、唯物功利道徳の世界は到る処に探偵趣味のスパークが生む、新しい芸術のオゾン臭が、生々しく蒸れ返っている筈だ。  新人よ、疑懼し躊躇する事は絶対にない。  日本民族の趣味は確実に、敏速に低下して行きつつ在る。肉慾から犯罪へ――文芸趣味から探偵趣味へ――唯物科学から、唯心分析へ――良心から――無良心へ――。  だからコンナ風にも考えられるようである。  探偵小説は、良心の戦慄を味う小説である。あらゆる傲慢な、功利道徳、科学文化の外観を掻き破って、そのドン底に恐れ藻掻いている昆虫のような人間性――在るか無いかわからない良心を絶大の恐怖に暴露して行く。その痛快味、深刻味、悽惨味を心ゆくまで玩味させる読物ではないか。だから探偵小説は人類が唯物文化から唯心文化へ転向して行く過渡時代の、痛々しい内省心理の産物ではないか。そうして現代の探偵小説がそこまで徹底し得ず、吾々が又、そこまで突込み得ていないために、探偵小説の本来の使命を見失い、どうしていいか解からないまま間誤間誤しているだけの話ではないか……と……。  最後に探偵小説が文芸であるかドウカは責任を負う限りでない。或は香水の化学方程式みたようなものかも知れぬ。又は美人のレントゲン写真に類する者かも知れぬ。  だから題材の選択は無限の自由さを持っている筈である。だからその選択者の個性が、極端に深刻、強烈に出る筈である。  それでいい……それだけでいいのだ。  何か書かなければならない。二三枚でいいという。  机に肱を突いて暁の煙を輪に吹いてみる。        ◇  お前が書いているのは探偵小説じゃないという人が居る。腹が立つような立たないような妙な気持になる。  しかし、あやまるのは早計だと思う。うっかりあやまったら書く事がなくなる。折角水面に顔を出したところを又突き沈められる義務はない。  云う奴は自分一人が舟に乗って、ほかの奴を乗せまいとする奴だろう。舟になんか乗せてもらわなくともいい。自分一人で泳ぐばかりだ。        ◇  私は本格探偵小説が書けない。書いてもみたが皆イケナイ。本格物を書く事の味気なさが身に泌みる。  その癖読むのは本格物、もしくは本格味の深いものが好きである。  だから読者として本格物に対する註文は相当持っている。むろん無理な註文も多いに違いないが、それでも自分の註文に嵌まった本格探偵小説を憧憬れ望んでいる事は決して人後に落ちないつもりである。        ◇  読者を弄ぶ探偵小説は嫌いである。探偵小説を書くなら正々堂々と玄関から、お座敷、台所、雪隠まで見せてまわらなくてはいけない。しかも退屈させないように、非常な興味を持たして案内して行かなければならない。  この点が本格物の一番骨の折れどころではあるまいか。        ◇  奥歯に物の挟まったような書方をしたのはドウも面白くない。ところが本格物を書くとドウしてもソンナ筆致を用いなければ向うへ行けないのだからウンザリする。        ◇  抒景に行数を取られるのも有難くない。推理と抒景と並行する時、スルリと抒景と一致する時、本格物の痛快味が、忽然スパークを放射して、たまらなく爽快なオゾン臭を放つ。  このオゾン臭の近代的感覚が探偵小説の独特の生命であると思って、私は心から歓喜しつつ吸入する。  紙芝居式の謎々小説よ。呪われて在れ。        ◇  性格描写無用を叫ぶ者がある。  性格をトリックに使う作者がある。  どちらも両立し得ると私は思う。しかもドチラも作家的無良心に陥り易いようである。        ◇  探偵小説の神秘は究極するところ、神秘であってはいけないと思う。2÷2=1であり2×2=4でなければ結局感心出来ない事になるようである。  1=X/X=1×1=0/0=8÷8なんていうのを使うのは大抵素人に限るようである。  √を使う時、本格探偵小説の価値は0となるか、又は性質を変じてノンセンス、ユーマー、怪奇小説の類に堕するようである。        ◇  作者が一度読んだものを有意識にも、無意識にも真似たものは、ドンナニ口ざわりがよくても味が落ちるから直ぐにわかる。  必ず自分の井戸から汲んだ水でなければイケナイようである。他所の井戸水で作った酒は決して酔わない。酔えば悪酔いをする。        ◇  今まではトリック即興味と思っていた。スリル即話術とも考えていたが、これは違うようである。笑われても仕方がない。  全篇のストーリーを一挙に真実化するのがホントのトリックではないか。  話術でスリルを作るのはインチキ話術ではないか。        ◇  探偵小説は日常到る処に在る。諸君がそこで呼吸していることが既に驚くべきミステリーであり、トリックであり、スリルでなければならぬ。  ただ、読者がそこまで高級化していないだけの話である。        ◇  すこしアタマが変テコになって来た。これ以上書くとイヨイヨ笑われそうだからやめる。  白ッポイ着物に青い博多織の帯を前下りに締めて紋付の羽織を着て、素足に駒下駄を穿いた父の姿が何よりも先に眼に浮かぶ。その父は頭の毛をクシャクシャにして、黒い関羽鬚を渦巻かせていた。  筆者は幼少から病弱で、記憶力が強かったらしい。満二歳の時に見た博多駅の開通式の光景を故老に話し、その夜が満月であったと断言して、人を驚かした事がある位だから……。  だからそうした父の印象も筆者の二歳か三歳頃の印象と考えていいらしい。父が二十七八歳で筆者の生地福岡市|住吉に住んでいた頃である。この事を母に話したら、その通りに間違いないが、帯の色が青かったかどうかは、お前ほどハッキリ記憶していない、お祖父様の帯が青かったからその思い違いではないかと云った。  その父が三匹の馬の絵を描いた小さな傘を買って来てくれた。すると間もなく雨が降り出したので、その傘をさしてお庭に出ると云ったら、母が風邪を引くと云って無理に止めた。筆者は、その「風邪」なるものの意味がわからないので大いに泣いて駄々を捏ねたらしく、間もなく許可されて跣足で庭に降りると、雨垂れ落の水を足で泄えたり蟇を蹴飛ばしたりして大いに喜んだ。時々|翳している傘の絵を見て、馬の走って行く方向にクルクル廻わしているところへ、浴衣がけの父がノッソリ縁側に出て来て、傘の上から問うた。 「それは何の絵けエ」  弾力のある柔和な声であった。  奥の八畳の座敷中央に火鉢と座布団があって、その上にお祖父様が座っておられた。大変に憤った怖い顔をして右手に、総鉄張り、梅の花の銀|象眼の煙管を持っておられた。その前に父が両手を突いて、お祖父様のお説教を聞いているのを、私はお庭の植込みの中からソーッと覗いていた。  その中、突然にお祖父様の右手が揚がったと思うと、煙管が父のモジャモジャした頭の中央に打突かってケシ飛んだ。それが眼にも止まらない早さだったのでビックリして見ている中に、父のモジャモジャ頭の中から真赤な滴りがポタリポタリと糸を引いて畳の上に落ちて流れ拡がり初めた。しかし父は両手を突いたままジッとして動かなかった。  お祖父様は、座布団の上から手を伸ばして、くの字型に曲った鉄張り銀象眼の煙管を取上げ、父の眼の前に投げ出された。 「真直ぐめて来い」  と激しい声で大喝された。  父は恭しく一礼して煙管を拾って立上った。その血だらけの青い顔が、悠々と座敷を出て行くところで、私の記憶は断絶している。多分泣き出したのであろう。  それが何事であったかは、むろんわからなかったし、後になって父に聞いてみる気も起らなかった。  父は十六の年に、お祖父様を説伏せて家督を相続した。その時は父は次のような事をお祖父様に説いたという。 「日本の開国は明らかに立遅れであります。東洋の君子国とか、日本武士道とかいう鎖国時代のネンネコ歌を歌っていい心持になっていたら日本は勿論、支那、朝鮮は今後百年を出でずして白人の奴隷と化し去るでしょう。白人の武器とする科学文明、白人の外交信条とする無良心の功利道徳が作る惨烈なる生存競争、血も涙も無い優勝劣敗掴み取りのタダ中に現在の日本が飛込むのは孩子が猛獣の檻の中にヨチヨチと歩み入るようなものであります。この日本を救い、この東洋を白禍の惨毒から救い出すためには、渺たる杉山家の一軒ぐらい潰すのは当然の代償と覚悟しなければなりませぬ。私は天下のためにこの家を潰すつもりですから、御両親もそのおつもりで、この家が潰れるのを楽しみに、花鳥風月を友として、生きられる限り御機嫌よく生きてお出でなさい」  その時はまだ私が生まれていない前だったから、果してこの通りの事を云ったかどうか保証の限りでないが、その後の父は正しく前述の通りの覚悟で東奔西走していたし、お祖父様やお祖母様も、母までも、その覚悟で、あらん限りの貧乏と闘いつつ留守居していた事を、私は明らかに回想する事が出来る。なつかしい、恨めしい、恐ろしい、ありがたい父であった。  父は或る時、お祖父様に舶来の洋傘のお土産を持って来て差上げた。それは銀の柄の処のボタンを押すとバネ仕掛でパッと拡がるようになっていたので欲しくてたまらず、コッソリ持出して廊下でボタンを押してみたが、どうしても開かないので、失望して、又ソット、モトの押入れに入れた。何だか恐ろしかったので、逃げるように表へ出た。  又或る時、やはりお祖父様に、鼈甲縁の折畳眼鏡を持って来て差上げた。これも、その折畳まり工合が面白くて不思議なので欲しくてたまらず、そっと持出して引っぱってみる中に壊れてしまったらしい。お祖母様に大変に叱られた。  又或る時、父は自分が東京から冠って来た臘虎の頭巾帽子をお祖父様に差上げた。お祖父様は大層お喜びになって、御自分でお冠りになり、それから私に冠せてアハハハと大きな声でお笑いになった。  私は眼の前が真暗になった上に、臘虎の皮特有の妙な臭気がしたので直ぐに脱いで投棄てたように思う。  その時に父はコンナ話を、お祖父様にした……と後になって私に話した。 「あの帽子は東京で一番|高価いゼイタクなものだったので、大得意で故郷に錦を飾るつもりで冠って来たものです。染得たり西湖柳色の衣というところですよ。然るにだんだんと故郷に近づくに連れてあの帽子が気になりました。在郷の同志が、身動きもならぬ程貧乏し、落魄している顔付きを思い出すに連れて、十円もする帽子を大得意で帰って来る自分の心理状態が恥かしくて、たまらなくなりましたから、汽車が博多駅に着く前に折畳んで懐に入れて、知人に会わぬようにコソコソと只今帰って参りました。途中でこの帽子をドウ仕末しようかと考えましたが、結局アナタに差上るよりほかに道がないと気が付きました。アナタに差上るのならばドンナに身分不相応なものでも恥かしくないことが、わかると同時に、日本の国体のありがたさがイヨイヨハッキリと心に映じました。人間はエラクなると増長したくなるものです。栄耀栄華をしたくなるものです。しかも、それが威張れば威張るほどツマラヌ奴に見えて来るし、栄耀をすればする程、自分の恥を晒すことになるものですが、不思議なことに、ドンナに身分不相応な事でも、天子様と、神様と、親様の御為にする事なら、決して恥かしくないことがわかりました。日本人たる者は、天子様と、神様と、親様のためと、この三つに限って、無限のゼイタクを許されている訳です。私はこの十円の帽子のお蔭で、大きな悟りを開く事が出来ました。その記念と思ってドウゾこの帽子を冠って下さい」  お祖父様は、その後、前記の洋傘と、鼈甲縁の折畳眼鏡と、ラッコの帽子を大自慢にして外出されるようになった。そうして到る処で父の自慢話を初められるのを、いつもお供していた私は、子供心に又初まったと思い思い聞いていた。  但「染め得たり西湖、柳色の衣」という一句は、たしか唐詩選の中に在ると思っているが、まだ調べていない。意味も何もわからないまま、口調がいいのと、父が力を籠めてくり返しくり返し云っていたので、その当時から暗記しているだけの事である。  それから私が五六歳の頃になると、父が久しく帰らず、家が貧窮の極に達していたらしい。住吉の堂々たる住宅から、博多|鰯町、旧株式取引所裏のアバラ屋に移って、母は軍隊の襯衣縫いや、足袋の底刺しで夜の眼も合わさず、お祖母さまと当時十七八であった父の妹のかおる伯母の二人は押絵作りにいそしみ、彩紙や、チリメンの切屑を机一パイに散らかしていた。押絵の三人一組が二円。軍隊の襯衣縫いと足袋の底刺しが一日十何銭、米が一|升十銭といったような言葉がまだ六歳の私の耳に一種の凄愴味を帯びて泌み込むようになった。一間四方位の大きな穴の明いた屋根の上の満月を、夜着の袖から顔を出してマジマジと見ていた記憶なぞがハッキリと残っている。  父が東京から電報為替で金一円也を送って来たのもその頃であったという。  広崎栄太郎という父の旧友が、賭将棋で勝った金十七銭也を持って来て、私の一家の餓を凌がしてくれたのもその頃の事であったと、その後に父から聞いた。  その家にどこからともなく帰って来た父が、私の頭を撫でる間もなく、剃刀を取出してしきりに磨ぎ立て、尻をまくってアグラを掻き睾丸の毛を剃り初めたのには驚いた。何でも睾丸にシラミが湧いたから剃るのだ……といったような事を話していたから、余程、落魄して帰って来たものであったらしい。 「門司の石田屋という宿屋で頭山と俺とが宿賃が払えずに、故郷を眼の前に見ながらフン詰まっていた。ところで頭山も俺も睾丸の毛にシラミがウジャウジャしていたから、一つこいつを喧嘩させて見ようではないか。そうして負けた方がここに滞在して小さくなっている。勝った方が金策に出る事にしようではないかと云うと、頭山が面白い、やってみようと云うた。ところが頭山のヤツは真黒くて精悍な恰好をしている。俺のに湧いたヤツは真白くてムクムク肥って活動力がないのでドウ見ても勝てそうにない。しかし俺には確信があったから、新聞紙を四ツに折って、その溝の十文字の処で選手を闘わせてみると案の定俺の白いヤツが黒い奴を押し倒おして動かせない。そこで俺が解放される事になって帰って来た訳だが、ナアニ頭山は正直だから、シラミを逃がさないようにシッカリと抓んで出すのだから、土俵へ上らない中に代表選手が半死半生になっている。これに反して俺の方は、選手を抓み出す時から出来るだけソーッと抓んで掌に入れてソーッと下に置くのだから双方の元気に雲泥の相違がある。勝敗の数は勿論、問題じゃないことになるのだ」  これも事実だかどうだか頭山さんに聞いてみない事にはわからないが、その時に家中が引っくり返るほど笑い転げていた事を思い出すと、やはりソンナ話を睾丸の毛を剃り剃り父が話していたのかも知れぬ。とにかく父が帰ると同時に家中が急に明るく、朗らかになった気持だけは、今でも忘れない。  なお父が濛々たる関羽髯を剃落したのも、その序ではなかったかと思う。  それから父は、家族連中の環視の中で、先祖重代の刀を取出して、その切羽とハバキの金を剥ぎ、鍔の中の金象眼を掘出して白紙に包んだままどこかへ出て行った。そうして直ぐに帰って来たようにも思う。ナカナカ帰って来なかったようにも思う。  その後の事であったか、その時の事であったか、父の弟の五百枝と、末弟の林|駒生と三人が、家の外に集まって下水の掃除をしていた姿を思い出す。その中で、どうしても一個所竹竿の通らない処を、父が鍬で掘出して土管を埋め直し、若い叔父さま二人に水を汲んで来て流して見ろと命じていた。その泥だらけの颯爽たる姿を、そこいら一面に生えていた、犬蓼の花と一所に思い出す。  やはりその頃の事であったと思う。  父は六歳になった筆者を背中に乗せて水泳を試み、那珂川の洲口を泳ぎ渡って向うの石の突堤に取着き、直ぐに引返して又モトの砂浜に上った。滅多に父の背中に負ぶさった事なぞない私はタマラなく嬉しかった。  その父の背中は真白くてヌルヌルと脂切っていた。その左の肩に一ツと、右の背筋の横へ二ツ並んで、小さな無果花色の疣が在った。左の肩へ離れて一ツ在るのが一番大きかったが、その一つ一つに一本|宛、長い毛がチリチリと曲って生えているのが大変に珍らしかったので、陸に上ってから繰返し繰返し引っぱった。 「痛いぞ痛いぞ。ウフフフ……」  と父が笑った。  父は九歳の時に遠賀郡の芦屋で、お祖父様の夜網打ちの艫櫓を押したというから、相当水泳が上手であったらしい。那珂川の洲口といえば、今でも海水、河水の交会する、三角波の重畳した難コースで、岸の上から見てもゾッとするのに、負ぶさってる私は怖くも何とも感じなかった。些くとも父の肩から上と私の背中だけは水面上に出ていたと思う。  その中に私等一家はイヨイヨ貧窮して来て、お祖父様も花鳥風月を友とする事が出来なくなられたらしい。お祖母様と、モウ七歳になっていた私を連れて二日市に移住し、漢学の塾を開かれた一方に、母は亡弟|峻を抱いて市内柳原に住み、相変らず足袋の底と、軍隊の襯衣に親しんだ。  父は帰って来る都度に、先ず両親を訪い、次いで母と弟を省みた。  二日市の橋元屋という旅館の裏に住んでいる時、突然に父が帰って来て、小さな錻力のポンプを呉れた時の嬉しかった事は今でも忘れていない。そのポンプはかなり上等のものだったらしく、長いゴムのホースの尖端の筒先から迸る水が、数間先の土塀を越えて、通行人を驚かした。父は手ずから金盥に水を入れて二階の板縁に持出し、私と二人でポンプを突いて遊んでくれたが、その中に退屈したと見えて、私の顔に筒先を向けては大声で笑い興じた。父と二人でアンナに楽しく遊んだ事は前後に一度もない。  その後、同じ二日市で榊屋の隠宅というのに引越した時に、父が私に羊羹を三キレ新聞紙に包んだのをドンゴロスの革鞄から出してくれた。それが新聞を見た初まりで、私が七歳の時であった。  お祖父様のお仕込みで、小学校入学前に四書の素読が一通り済んでいた私は、その振仮名無しの新聞を平気でスラスラと読んだ。それをお祖父様の塾生が見て驚いているのを、父が背後から近づいてソーッとのぞいていることがわかったので、私は一層声を張上げて読み初めた。すると父は何と思ったかチェッと一つ舌打ちして遠ざかって行った。後でお祖母様から聞いたところによると、その時に父はお祖父様にコンナ事を云ったという。 「十歳で神童。二十歳で才子。三十でタダの人とよく申します。直樹は病身のおかげでアレだけ出来るのですから、なるべく学問から遠ざけて、身体を荒っぽく仕上げて下さい」  これにはお祖父様が不同意であったらしい。益々力を入れて八歳の時には弘道館述義と、詩経の一部と、易経の一部を教えて下すったものであるが、孝経は、どうしたものか教えて下さらなかった。  とはいえ私は十六七歳になってから、こうした父の言葉を痛切に感佩し、一も体力、二も体力と考えるようになった。さもなければ私は二十四五位で所謂、夭折というのをやっていたかも知れない。  因に弟の峻は、私が八歳の時に疫痢で死んだ。そのためであったろう。母は又、私の処に帰って来て、大きな乳を私に見せびらかすようになった。同時に私等は、宗像郡|神与村の八並から筥崎へ移転して来た。  私が九歳の時、お祖父様、お祖母様、母、妹等は筥崎から父に従って上京し、麻布の笄町に住んだ。相当立派な家だったところを見ると、この頃からポツポツ父の社会的地位が出来かけていたものと見える。  父は京橋の本八丁堀に事務所を構え、ヨシ、ミノという二人の俥夫が引く二人引の俥で東京市中を馳けまわっていた。顎鬚を綺麗に削り、鼻の下の髭を短かく摘み、白麻の詰襟服で、丸火屋の台ラムプの蔭に座って、白扇を使っている姿が眼に浮かぶ。  或る時、お祖父様の前で、地球に手足の生えた漫画を表紙にした雑誌を拡げて頻りに説明していた。 「この雑誌は丸々珍聞という悪い雑誌ですが、私の悪口が盛んに掲載されるのでこの頃は皆、茂丸珍聞と呼んでおります。私も大分有名になりましたよ」  そうした説明に続いて、伊藤、山県、三井、三菱などいう名が出ていたのを、私は何故という事なしにシッカリと記憶していた。  その中に私の末弟の五郎が生まれると間もなく、お祖父様とお祖母様が東京をお嫌いになって頻りに生れ故郷を恋しがられるので父は閉口したらしく私と三人で九州に別居するように取計らった。一時博多の北船という処に仮寓して後、福岡市の西職人町に借家|住居をした。その時にお祖父様は中風に罹られたが、父は度々帰省してお祖父様を見舞い、その都度に、大工を呼んで板塀や窓の模様を変え、右半身の麻痺硬直したお祖父様に適合する便器を作らせ、又はお祖父様の股間にタムシが出来た時に、色々な薬を配合して手ずから洗って上げたりした。  父が何でも独創でなければ承知しない性格と、後年の建築道楽の癖を、私はこの時から印象して、心から「お父さんはエライ」と思い込んでいた。  三度目に帰省した時に父は鼻の下の髭を剃った。そうしてお祖父様にコンナ事を話した。 「私は社会と共に堕落して行きます。まず第一段の堕落でアゴ髭を剃り、今度の第二段の堕落で鼻の下の髭を剃りました。この次には眉毛を剃って俳優に堕落し、第四の堕落ではクルクル坊主になるつもりですが、まあ、そこまで行かずとも世の中は救えましょう。アハハ」  泣き中気のお祖父様は、そんな父の言葉を聞く毎に泣いておられた。  職人町から歴林町に引越した時に、お祖父様は亡くなられた。発病以来七年目、私が十二の年であった。中風に肺炎を併発したのが悪かったのであったが、お祖父様が無くなられると直ぐに父は茶を命じて一同を落ち付かせ、お祖父様の清廉潔白の生涯について批評めいた感想を述べ初めたので、皆、シンとなって傾聴していた。私は永年可愛がって下さったお祖父様がイヨイヨホントウに死なれたのかと思うと泣いても泣いても泣き切れない位、悲しかったので、父が何を話していたか殆んど聞いていなかった。  お祖父様のお葬式が済むと間もなく母は妹と、弟を連れて九州に下り、福岡|通町に住み、祖母と私もそこへ同居し、中学へ通うようになった。  中学に通い初めると間もなく私は宗教、文学、音楽、美術の研究に凝り、テニスに夢中になった。明らかに当時のモボ兼、文学青年となってしまった。  その十六歳の時、久し振りに帰省した父から将来の目的を問われて、 「私は文学で立ちたいと思います」  と答えた時の父の不愉快そうな顔を今でも忘れない。あんまりイヤな顔をして黙っていたので私はタマラなくなって、 「そんなら美術家になります」  と云ったら父がイヨイヨ不愉快な顔になって私の顔をジイッと見たのでこっちもイヨイヨたまらなくなってしまった。 「そんなら身体を丈夫にするために農業をやります」  と云ったら父の顔が忽ち解けて、見る見るニコニコと笑い出したので、私はホッとしたものであった。 「フン。農業なら賛成する。何故かというと貴様は現在、神経過敏の固まりみたようになっている。先刻から俺の顔色を見て、ヤタラに目的を変更しているようであるが、そんなダラシのない神経過敏では、今の生存競争の世の中に当って勝てるものでない。芸術とか、宗教とかいうものは神経過敏のオモチャみたようなもので、そんなものに熱中するとイヨイヨ神経過敏になって、人間万事が腹が立ったり、悲しくなったりするものだ。その神経過敏は農業でもやって身体を壮健にすれば自から解消するものだ。だから万事はその上で考えて見る事にせよ。現在の日本は露西亜に取られようとしている。日本が亡びたら文学も絵もあったものでない。そのサ中に早く帰って頂戴なナンテ呑気な事が云っておられるか。雪舟の虎の絵を見せても、露西亜兵は退却しやしないぞ」  といったような事を長々と訓戒してくれた。  私は父の熱誠に圧伏されながらも、生涯の楽しみを奪われた悲しさに涙をポトポトと落しながら聞いていた。  その訓戒が済んでから茶を一パイ飲むと父は私を連れて裏庭に出て自分で指しながら、木立の枝を私に卸させた。私が筋肉薄弱で鎌が切れず、持て余しているのを見た父は、自分で鎌と鉈を揮って、薪の束を作り初めたが、その上手なのに驚いてしまった。カチカチ山の狸と兎が背負っているような、恰好のいい蒔の束が、見る間に幾個も幾個も出来たのを、土蔵の背後に高々と積上げた。出入りの百姓で父の幼少時代を知っている老人が、父の野良仕事の上手なのを賞めていたのは決して作り事でもオベッカでもない事を知った。  多分、父は早速私に農業の実地教育をしたつもりであったろう。  十九の時に私は母親に無断で上京して、お祖母様と母親を何故九州に放置しておくか……という事に付いて、猛烈に父に喰ってかかった。すると最後まで黙って聞いていた父はニンガリと笑って云った。 「ウム。貴様の神経過敏はまだ治癒らぬと見えるな。よし、それでは今から俺が直接に教育してやろう。母さんも東京へ呼んでやろう……」  私は三拝九拝して又涙を流した。 「それには先ず中学を卒業して来い。現在の社会で成功するのに中学以上の学力は要らぬ。それから軍隊へ這入れ。どこでもええから貴様の好きな聯隊に入れてやる」  中学を出て福岡の市役所に出頭し、徴兵検査を早く受けたいと願ったら、吏員から五月蠅がられたので、母等と共に上京して鎌倉に居住し、麻布聯隊区に籍を移し、たしか乙種で不合格となったのを志願して無理にパスした。身長五尺五寸六分、体量十三|貫に足りなかった。こうした私の入営に対する熱意を父母は非常に喜んでくれた。  明治四十一年兵として近衛歩兵第一聯隊に配属された私は、極度の過労と、慣れない空気のために見る見る弱り果てて、とうとう第一期の検閲直前に肺炎で入院した。その四十度の高熱の中に、その頃の最新流行の鼠色の舶来|中折を冠って見舞に来た父の厳粛そのもののような顔を見て、私はモウ死ぬのかなと思った。 「貴様が死なずに少尉になって帰って来たら、この帽子を遣る」  と父は云った。私は病床でその帽子を冠って、ちょうどいいかどうかを試みながら、是非なおって見せる……この帽子を冠らずには措かぬと心に誓った。 「直樹の奴は俺の子供だけにダイブ変っている。死にかかっていても、油断のならぬところがある」  とその直後に母に語った……と母から聞いた時、私は息苦しい程赤面させられた。  軍隊を出ると体力に自信が出来たので九州に下って地所を買い果樹園を営んだ。その時にも私が思わず赤面するような事を他人に語ったそうである。 「彼奴は全く油断のならぬ奴だ。抵当に這入っている地面を無代価みたようにタタキ落して買うような腕前をいつの間に養っておったか知らん。おまけにアイツは地面の代金が余ったと云って五百円の札束を知らん顔をして俺に返したが、ナアニまだ五百円か千円ぐらい暖めている奴だ。アイツはタダの正直者じゃない」  全く以てその通りであった。  その後度々上京したが、時々思い出したようにコンナ事を云った。 「俺が今死んだら貴様はドウするか、他人の厄介にならずに葬式が出来るか」  この言葉は平生、父が口癖のように云っている「子孫のために美田を買わず」という言葉と明らかに矛盾していたが、私はドチラも父の真情である事を知っていたので、わざと冷笑していた。「俺のような人間になるな」という事もよく云ったものであるが、これも父の或る悲しい、淋しい心理の一角を露出した言葉と察して、謹んで、うなだれていた。  その都度に私は母に説いて「お父さんが亡くなられたら私は簡単に火葬にして、お母さんや妹と一緒に三等車で九州へ引上げて、極く手軽い葬式をするつもりです。いいですか」と念を押していた。母はいつも涙ながらニコニコしてうなずいていた。  今年の七月十七日、香椎の球場で西部高専野球の予選を見ている中に、雇人の小母さんが泣きながら電報を持って走って来た。 「チチノウイツケツスクコイ」  私は一所に見物していた中学生の子供二人と一所にタクシーで家に帰り、妻に金の準備を命じ、そのままの服装で、ポケット四書と丘浅次郎氏の進化論講話を携えて又もタクシーに飛乗り全速力で博多駅に駈けつけ、富士に乗後れてサクラに間に合った。  途中小郡で東京に病状を問合わせ、糸崎で返電を受取った。 「ジウタイノママジゾクセリ」  私は直ぐに持久戦を覚悟した。中風で重態のまま三箇月も持続した例を知っていたから……。  それからグッスリと眠った。不思議なほど安眠した。そうして姫路で眼がさめた。それから先の一日の永かったこと。  東京駅に着いて父が意識不明の病状をハッキリ聞いた時に初めてガッカリした。そうして、そのままの心理状態を今日まで持続している。  翌朝、七月十九日の午前十時二十二分に三年町の自宅自室で父が七十二歳の息を引取った時、私は脱脂綿を巻いた箸と、水を容れたコップの盆を両手に支えて、枕頭に集まっていた数十名の人々に捧げ、父の唇を濡らしてもらったが、私は金城鉄壁泣かないつもりで、故意に冷然と構えていた。この際、つまらない顔をして見せるのは、他人様の迷惑であるとさえ考えていた。  ところが、その綿を巻いた箸に手を出す人々の指が皆わなないて箸を取り得なかった。もちろん一人残らず顔を引歪めていた。その顔があとからあとから引続いて来て、ギクギクと声を立てながら父の顔に手を合わせて行く姿を見送っているうちに、次第次第に私の手がわなないて来た。  私の背後には昨夜から父の最後の喘ぎを一心に凝視して御座った羽織袴の頭山さんが、キチント椅子に腰かけて、両手を膝に置いて御座るので、醜体を演じてはならぬと一生懸命に唇を噛んでいたがトテモ我慢し切れなかった。  もちろん母や妹、看護婦なぞいう女共が泣くのは何ともなかったが、男の人達が一々唇をわななかし、咽喉をヒクヒクさせて行かれるのが一々胸にコタエた。最後に、色の黒い若い、田舎の百姓さんが、泣き濡れた顔を私の真正面に持って来て思い切り引き歪めて見せた時には、全く何もかもわからなくなってしまった。今にもコップとお盆を投出そうかと思い思い我慢し通した。  それから間もなく、父の友人で、永い間、私等の家族の世話をして下さった人々が協議された結果、私を別室に招いて次のような事を云われた。 「貴方のお父さんは貴方個人のお父さんと思ってはいけないと思います。吾々のお父さんであると同時に社会のお父さん……すなわち公人であると思います。だからこの際、相済みませぬが、貴方の個人としての弔意を捨てて、吾々に葬式をさせて頂けますまいか」  そうした誠意に満ち満ちた言葉は、何もわからぬ程、色々の思い出に混乱していた私の頭を北極の氷のような冷静さに返らせた。そうして一切の覚悟をきめた私は即座にありがたくお受けをした。直ぐに母の前に走って行って頭を下げながら、私の専断の許しを請うと、母は涙に暮れながら、私の手をシッカリと握って云った。 「モウ、これからは何もかもアンタの思い通りにしなさい」  それから混雑の中を押し分け押し分け妹婿や、養子達に一々、この事を報告してまわった。皆、泣いて頭を下げた。その泣顔と、お辞儀の交換の中に私はダンダンと、そこいら中が明るくなって来るように思った。万事が、一直線に片付いて行きそうな確信が出来た。  間もなく郷里の福岡で玄洋社葬にしたいという電報が来たから、これも独断で拝承して後に一同に報告した。  父は生前、死体の全部を大学に寄附する旨を大勢の人に云っていたので、母が情なさそうな顔をするのを押し切って、その通りに決行した。その前に父のデスマスクを斎藤という人が取って下すったが、そのデスマスクを取る直前の父の顔は実に満足そうな……生前に見たドノ顔よりも気高い、懐しい微笑を含んでいた。さてはこれが父のホントウの顔であったかナと思うと、又タマラなくなりそうになったので慌てて湯殿に行って顔を洗った。  葬式は増上寺で盛大に行われた。色々、大勢の人々がやって来て告別の焼香をして下すったが、その中に古びたカンカン帽、素足に駒下駄、浴衣がけにステッキ一本の書生さんが、アッサリと焼香し、叮嚀に叩頭して行ったのを、参列の人々の中で喜んでいる人が相当あった。 「アイツは愉快な奴だ。故人はアンナ調子の人間が一番好きだったからね。あの気軽く焼香に来てくれた心意気が嬉しいじゃないか」 「一層の事、告別式をどこかの野ッ原に持出して、野人葬とすればよかったかも知れないね。野辺送りという位だから……ハハハ」  悔状は一々私が開封して眼を通したが、やはり愉快なのが混っていた。 「私は近所の爺さんから頼まれて杉山さんの霊前にこの和歌を捧げてくれという事ですから、この手紙を上げます。私は杉山という人がドンな人だか、よく知りませんが謹んでお悔みを申上げます」  といったような朗らかなのや、お悔みのつもりであろう、 「杉山先生が亡くなられても、君に忠義という事は決して忘れません」  と簡単に楷書して泣かせるのや、 「先生は私にとって実の親よりも有難い人でした。どうぞ今後も、お父さんに代って私を可愛がって下さい」  といった、いじらしい意味の長文や、 「新聞で見てビックリしました。香奠十円送ります」  という奇特な方や、色々であったが、一番痛快でタタキ付けられたのは敬弔の文字を印刷したカードを二銭の開封にして来た一通であった。この人は日本国中を皆殺しにするつもりで、こんなカードをフンダンに印刷して用意しているのじゃないか知らんと思って茫然となった。  九州で玄洋社葬をして頂くために、東京駅を出発したのは八月二十八日であった。  駅頭まで見送りに来た頭山満先生が、父の遺骨を安置した車の前に立ちながら、見栄も何も構わずに涙をダクダクと流していられるのを見た時に、私は顔を上げ得なかった。  広田弘毅閣下も泣いておられたそうであるが、これは気付かなかった。 「頭山さんが頭山さんが」  と云って、今年六十七になる母親が、国府津附近まで泣き止まなかったのには全く閉口した。慰める言葉が無かった。  父が生前に社会の父であったかドウか私は知らない。けれども生前の父をこれ程までに思って、葬式までして下すった世間の方々が、今からは疑いもなく私の父の死後の父になって下すった訳である。  あらゆる意味に於て不肖の子である私は、父の生前に思わしい孝行を尽し得なかった。これからは父の死後の父に、心の限り孝行をして行きたい。  塵だ。塵だ。おもしろい、不可思議な、無量無辺の塵だ。  大空を藍色に見せ、夕日を黄金色に沈ませ、都大路の色硝子に曇って、文明の悲哀を匂わせる。  広大な塵の芸術だ。  深夜の十字街頭に音もなく立ち迷うて、何かの亡霊に取り憑かれたかのように、くるくるくると闇黒の中に渦巻き込む塵の幾群れが見える。それはちょうど古い追憶の切れ目切れ目に、われともなくわれ自身を逃れ出して行く、くるしみの幾群れに見える。  モノスゴイ塵の象徴力である。  店の先に並んでいるいじらしい果物たちの上から、その並んでいる事が罪悪であるかのように、白い塵がコッソリ蔽い冠さって来る。そのマン丸い、うるうるした瞳と新鮮な頬の輝やきを曇らせて、はかなくも白け渡った投影を仄めかす。ことさらに瓦斯の灯の青ざめ渡る夏の夜になると、それらの水々しい処女と童貞たちの臍の中を、一つ一つ灰色の垢に埋めて、さもなくとも明け易い夜もすがらを、おのがじしに咽び歎かせるのだ。  意地の悪い、痛々しい塵の戯れではある。  塵は都会の哀詩である。  構い手のない肺病娘のホツレ毛に引っかかって、見えるか見えないかにわななきふるえつつ、夢うつつのように紅い紅い血を吐き続けさせ、旧教会のステインドグラスに這い付いて、ありがたいお説教の余韻を薄曇らせ、聖書の黒い表紙の手ざわりにザラめいては、祈る者の悲しみをためらわせる。  貴人の自動車を追いかけたあとで、すぐに乞食老爺の喘息に襲いかかり、さらに、病院のカアテンから忍び入って、患者が忘れて行ったヒヤシンスの萎れ花に寄りたかり、いつの間にか応接間の油絵の額縁に泌みにじんで、美しい表情を疲れ弱らすかと思えば、又もや、遠い銀座の百貨店の前を慌しく走り過ぎて、めんくらった虚栄の横顔たちを真剣な形に引き歪める。何という皮肉な塵の思い付きであろう。  塵は又、田園の挽歌だ。  ある時は、眼に見えぬ魂か何ぞのように、ズルズルズルと音を立てながら麦打ち場から舞い上って、地続きの廃業した瓦焼場から、これも夜逃げをした紺屋の藍干場へかけて狂いまわり、又は、森の中に立ちあらわれて、見る人も聞く人もない淋しい、悲しい心を、落葉と共に渦巻き鳴らしつつ暗い木立の奥に迷い込んで行く。  又ある時は、お祭りの人ごみに立ちまじって、赤いゆもじの裾を染め、オモチャの笛をあわれみ詰まらせ、神木の肌を神さびさせ、仁王様の腕の古疵を疼き痛ませ、御神鏡の光を朧にした上に、伏しおがむ人々の睫毛までも白々としばたたかせて、昔ながらの迷信をいよいよ薄黒く、つまらなく曇らせる。  ガラ空の旅人宿の真昼間からペコペコ三味線の音が洩れ出して来る。その門口に並んだ鳳仙花が風もないのに乱れ落ちて、はかない紅白の花びらがあとからあとから土の中に消え込んでゆく。その行く人もない、長い、白い往来の途中から、思い出したように塵ホコリが立つ。続いて又一、二カ所……やがて往来一面の真白い塵ホコリが立ち上って、昔ながらの通りの屋根や柱を、一層、昔めいたものにしてしまう。 「新古御時計」と書いた看板の蔭に、怪しげな色の金銀細工、マガイ金剛石、猫目石、ルビー、サファイヤの類が、塵に蔽われたまま並んで光っている。その奥の暗がりの中で、幾個かのチックタックの音が、やはりホコリだらけの呼吸を断続させている。その片隅の壁の付け根に坐った蒼白い、痩せ細った禿頭が、軒先からためらい流れて来る長い長い昼さがりの片明りの中に、黒い拡大鏡を片眼に当てがいながら、チロチロとよろめく懐中時計のハラワタをいつまでもいつまでも透かし覗いているのが、やがてコッソリ瞳をあげて、明るい往来を望み見る。  トタンに明るい往来一面にホコリが立つ。そのあとから乾燥し切った風が、黄色と黒のダンダラになって追いかけて行く。そのあとから白い紙キレや、藁屑や、提灯の底や、抜け毛の塊まりが、辷り転がって行く。それはちょうど普仏戦争のように、黄色い太陽の下を思い出し思い出し、追いつ追われつ、往きつ戻りつ、毎日毎日、日もすがら繰り返して止まぬ。そうして田舎の「時」を、どこまでもどこまでも無意味に、グングンと古び、白けさせて行く。  そうして、やがて夜になると、そうした塵の大群は、われもわれもと大空に匐い上って、都の光明を雲の上まで高く高く吸い上げて、夜もすがらの大火事を幻想させる一方に、愚かしい山々や森林の形を地平線上に浮き出させて、力ない、疲れ切った農民の眠りを見守らせているのだ。  塵は無形の偶像だ。 「金銀も宝石も皆塵となる」 「喜びも悲しみも皆塵となる」  と昔から言い伝えられている位だから……。  なるほど宗教も道徳も塵となった。  唯心も唯物も現在、塵となりつつ在る。  すべては、吾々の生命と共に、古ぼけた、むせっぽい、時代の塵の上に消え込みつつ在る。ことによると塵こそ造物主の正体なのかも知れない。  塵よ。塵よ。  お前は一体何をしているのか。  喜劇をやっているのか、それとも悲劇をやっているのか。デタラメなのか、本気なのか。拍手しているのか、嘲罵しているのか。  ナントまあ、渦巻き狂う塵だろう。  むかしあるところに一人の欲ばりの坊さんがおりました。  毎日毎日方々へお経を読みに行って貰って来たお金を一つの大きな甕の中に溜めていましたが、だんだん一パイになってくるにつれて泥棒に取られそうなので怖くてたまらなくなりまして、或る晩のこと小僧にも誰にも知れないようにお庭の隅に埋め、その上に樫の木を一本植えました。 「樫の木よ樫の木よ、お前にそのお金はやるから大切に番をするんだぞ」  こう言ってきかせると、坊さんは手や足を洗って鍬を片づけて寝てしまいました。  あくる日からその樫の木はずんずん大きくなりましたが、不思議なことには夜になると風が吹くたんびに、その樫の木の葉の間でチャランチャランとお金のぶつかる音がします。  坊さんはよろこんで、 「あの樫の木は感心だ。毎晩人が寝てしまってからお金が減らないように数えているのだな」  と思っていました。  しかしその音をきいた村の人はそう思いませんでした。 「あのお寺では夜になるとお金を数える音がする。あのケチンボの坊さんがドッサリお金を溜めているのに違いない」  と皆言い合っておりました。  ところがある年のこと、その近所の村々で雨が降らないためにお米がちっとも出来なくて百姓が大変に困ったことがありました。  村の人々は申し合わせてお寺へ来て、 「和尚さん、すみませんが貴方のお金を貸して戴けますまいか。それでお米を買ってみんなたべますから。その代り来年はきっとお米を作ってあなたにたくさん上げますから」  と手を合わせて拝みながら頼みました。しかし坊さんは知らぬ顔をしてこう言いました。 「それは困りましたね。私のところにはお金は一文もありませんよ。あるなら探して御覧なさい」  これをきいた村の人は大変に怒りました。 「あなたは坊さんの癖に嘘をついてはいけません。あんなに毎晩毎晩お金を数えていながら一文もない筈はありません。みんな御飯がいただけないで死にそうになっているのに、そんな意地のわるいことを言うのならひどい目に合わせますぞ」  しかし坊さんはちっとも驚きませんでした。 「ひどい目に合わせるなら合わせろ。お金は本当にないのだから」  村の人たちはこれを聞くとみんな憤って家中を探しましたが、成る程、坊さんの言う通り何処を探してもお金は一文もありません。  しかたがないのでみんな坊さんにあやまって、うちへ帰ってしまいました。  ところがどうでしょう。  夜になると、やっぱりチャランチャランと言う音が風につれて近所の村中へきこえて来ます。  これをきくと村の中でも力の強い意地のわるい人たちが五、六人寄ってこんな話をしました。 「あの坊主はお金がないなんてウソばかりついている。夜になるとあんなにお金の音がチャラチャラ言っているのに一文もない筈はない。大勢の人たちがお米がたべられないで困っているのに自分ばかりお金をためて知らん顔をしているなんてわるい奴だ。一つお前たちと一緒に泥棒に化けて行って、あの坊主をおどかしてお金を取り上げて、みんなにわけてやろうじゃないか」 「それがいい、それがいい」  と言うので、村の若い人たち五、六人は黒い布で顔をかくして鎌や鉈を持って、すぐにお寺に押しかけて行きました。  お寺に入った泥棒たちは寝ていた坊さんを引きずり起こして、 「さあ坊主、たった今勘定していたお金を出せ。出さないとたたき殺すぞ」  と言いました。 「勘弁して下さい。お金は一文もありません」  と坊さんはふるえながら申しました。しかし泥棒たちは承知しません。 「こん畜生、又嘘を吐く。お金がないのに何で音がするんだ。さあ出せ。早く出せ」  と言っているうちにお庭の方に風が吹いて、チャランチャランと言う音がしました。 「あッ。お金はあそこにある」  と一人が樫の木の方へ駈け出しますと、みんなあとからつづいて駈けて行きました。  これを見た坊さんは肝を潰して思わず、 「アッ。そっちにはお金はありません、ありません」  と言いながらあとからかけて来ました。  一人の若い者はふり返って睨みつけました。 「ソレ見ろ。こっちになければほかのところにあるのだろう。こんちくしょう、早く言え」  と言うなり坊さんを押えつけて鉈をふり上げました。 「ぶち殺せ、ぶち殺せ」  とほかのものも鎌や棒をふり上げました。  坊さんはしかたなしにとうとうほんとのことを言いました。 「助けて下さい、助けて下さい。本当のことを申します、本当のことを申します。この樫の木の下に埋めてあるのです。ウソだと思うなら掘って御覧なさい。その代り、どうぞ半分だけで勘弁して下さい」 「この糞坊主、まだそんなことを言う。半分もクソもあるものか。生命だけは助けてやるからジッとしていろ」  と言いながら坊さんを樫の根方へ縛りつけてしまいました。  坊さんを樫の木へ縛りつけると、泥棒たちはみんなで横の方からその樫の根へ大きな穴を掘り始めましたが、成る程、だんだん穴が深くなると下の方から大きな甕が出て来ました。 「オイ大きな甕があるぞ。この中にその坊主はお金を隠しているのに違いない」 「さようです、さようです」  と坊さんは泣き顔をしながら言いました。 「それを半分だけ上げますから早く私を許して下さい」 「ウン、こんなに沢山あれば半分でいい」  と言いながら、坊さんの縄を解いてやりました。 「さあ見ていろ。この甕をタタキ割るから」  といううちに二、三人が鍬のあたまで甕の横腹を無茶苦茶にタタキ割りました。  見ると中には樫の根が一パイになっていて、お金は一文もありませんでした。  これを見た坊さんは泣き出しました。 「ああ、私がわるう御座いました。その樫の木を植える時に、お前にやるからしっかり番をしろと言ったのを樫の木が本当にして、すっかり根を入れてお金を吸い上げてしまったのです。ですから風が吹くとあんなにお金の音がしたのです。ああ情けない。私はもう本当に一文なしになった。許して下さい、許して下さい」  と泣きながらあやまりました。  けれども坊さんに幾度もだまされた人々は、この坊さんの言葉を本当にしませんでした。 「この糞坊主のウソ坊主、まだおれたちを欺そうとする」 「憎い奴だ」 「殺せ、殺せ」  と言ううちに寄ってたかってたたき殺して、割れた甕の中へ押し込んで、土をかぶせてしまいました。  ところが又不思議なことには、その晩からいくら風が吹いてもその樫の木の葉の間にはちっともお金の音がきこえなくなりました。  その代りにその土の下から小さな蝉が何|疋も何疋も這い出して来て、その樫の木に掴まって、夜が明けてから日の暮れるまで 「惜しい、ツクツク  惜しい、惜しい  ツクツク、オシイ  ツクツク、オシイ」  と悲しそうに鳴いていました。  村の人々はこの蝉をツクツク法師と名をつけました。あの坊さんはお金が惜しさにあんな虫に生まれかわって、あの樫の木につかまって「惜しい、惜しい」と泣いているのだと言い伝えました。 はしがき  この稿は昨年末まで書き続けた「街頭より見たる新東京の裏面」の別稿である。記者は特にこの稿を作るためには、単に街頭観にのみ依らず、この方面に責任を持っている医師、教育家、司法官、興行者、その他多数の人々に御迷惑をかけて記事の正確を期した。そのような人々の意見とても、記者が実地に調査し且つ共鳴し得たところだけを記者の意見として責任を負うて書いたのであるから、一々氏名を挙げる事は遠慮した。本人の御迷惑になる意味もあるし、さもなくとも不公平になる点が多いから一様に差し控えた訳である。ここに謹んでお詫びをすると同時にお礼を述べておく。只その中に警視庁の不良少年少女係後藤四方太氏はこの稿のために非常に有力なヒントを与えてくれた。特に記して謝意を表する事を許して頂きたい。 各方面の徴候 和漢洋の堕落風俗  東京人は今や甚だしい堕落時代を作っている。西洋風、支那風、日本風のあらゆる意味で堕落腐敗し糜爛して行きつつある。  その影響は日本全国に行き渡りつつある。仮令これを一時の事と見ても、その影響はかなり永く後を引く虞れがある。  現在の日本人は「東京」を無暗に崇拝している。何でも東京が本場でなければならぬ。すべてのものは東京が最新式の最上等と心得ている。この意味から見て東京人の堕落はやがて日本人の堕落である。三百里先の事と思うのは昔の頭である。  この現象がいつ迄続くか。浜口蔵相の節約主義がこれをどの辺で喰い止めるか。  この疑問が解決される時機は手近く見たところで今年の三四月であろう。毎年の花時……特に昨年の花時は東京の人気に一大変化を画した時であったから。  しかし今の通りの勢ならば、東京人の堕落傾向はなかなか止まるところでない。却てこの花時を区切って全盛時代を見せるかも知れぬ。又は第二期の深刻味をあらわし始めるかも知れぬ。  いずれにしてもこの春が問題である。この記事がそうした人気や風俗の移りかわりを見分ける標準となったら幸である。  更に地方の特色の美しさや尊さを忘れて、東京を神様のように思っている人々のために、又はその子弟を東京に遣っている人々のために参考となったら、記者の苦心はどれ位酬いられるであろうか。 警視庁の映画検閲官|曰く  東京人の堕落時代を描き出す前に、取り敢ず読者の記憶を呼び起しておかねばならぬ事がある。  昨冬二十六日付の九州日報夕刊に大略左のような記事が載っていた。        ×         ×         ×  大正十三年の一月から十一月まで警視庁で検閲した映画の数が一万八千巻、千六百|呎、切った長さが約六万|呎……以て如何に「活動」が盛であるかがわかる。  次に切ったフイルムを国別にして見ると、       検閲巻数        同上呎数       切除呎数 日本物    七、九五四    六、九一七、三二一   三六、四三四 米国物    七、六九六    六、八一〇、五六三   一九、三三六 欧州物      九一三      八三二、七四八    三、七〇〇 合計    一六、五六三   一四、五六〇、六三二   五九、四七〇  となる。即ち割合から見て日本映画は欧州物よりも二三割方多く切られているし、米国物に比べると殆ど二倍近く切られている。  外国映画が教育に有害だと今頃云っている人は、本当に頭の古い人である。  尚、右に就いて警視庁の興行係長長田島太郎氏は左のように説明を付け加えている。 「由来、大災害の後には人心が弛緩して、民衆の実生活も余程淫蕩に流れる。安政の大地震や明暦の大火の後にも、放逸な仮宅生活や、諸職人の金廻りのよかった関係から、淫風蕩々たるものがあったことは史実の証明するところである。昨今、淫蕩場面の映画が歓迎されるのも、昨秋の大震災の民心に影響した結果であろうと思われる」云々。 映画製作業者曰く  東京郊外の或る大撮影所長は云う。 「活動の筋書欠乏は久しい話ですが、集まって来る原稿が皆狙いどころをそれているのにも困ります。先ず濃厚なところが七分、活劇的なところが二分、革命的な思想が一分といった割合で作れば大丈夫受けます。その中でも革命的な思想という奴は、ホンの筋を運ぶための背景位に取り扱って差支えないので、濃厚なところを主眼にして、ダレさせないために和漢洋各式の立廻りで気分を破って行くといったようなのが一番よろしい。つまり現代人の要求する場面は徹頭徹尾性的に深入りした場面で、ほかはホンのあしらいに過ぎませんネ」  と。そこの撮影監督は又これに裏書して曰く、 「まったくです。近頃は甘物の連続でウンザリしているのです。大体わかり切った甘い材料を、どう料理したら飽きさせずに喰わせる事が出来るかと、毎日毎日そればかり苦心させられます。地震後は一層それが非道くなったので、もう今ではこちらが中毒のフラフラ気味です。面白いのは地震ものが一向受けないのに、集まって来る脚本はどれもこれも地震を取り扱っていることです。一ツは当局初め一般の所謂常識階級が、あの大地震を一種の教訓の意味にばかり考えて皆に宣伝するために、反感を起したものとも見えます。現在の東京人は『地震』と云うと――すぐに『ソラ又天の何とかだ』と感づいて、出来る限りこれを避けよう、思い出すまい、そうして享楽しよう享楽しようとばかり考えているようです。地震の反動とでも云いましょうか」  云々と。これ等の話は皆よく東京人の堕落時代を裏書している。 痛切な悪魔の標語  震災直後の東京ではライスカレー一皿で要求に応じた女が居たと甲も乙も云う。そのライスカレーは、玄米の飯に馬鈴薯と玉葱の汁をドロドロとまぜてカラシ粉をふりかけたもので、一杯十銭位であった。  これ以上の高等なのも居たろう。これ以下の無茶なのも居たろう。とにもかくにも震災後間もない東京の人間は、人間性の美点と醜点とを極度までさらけ出した。その醜い半面のこうした傾向が如何に烈しいものであったかという一例がこれである。  彼等東京人は食物に飢えたように性欲にも飢え渇いた。その烈しい食欲と性欲は、彼の灰と煙の中でかようにみじめに交易された。  彼等の自制力は地震で破壊された。土煙と火煙を吹いた。 「こうなればもう何でもいい」  という投げやりの考え、六ヶしく云えば彼等は悪魔の標語を徹底的に味わった。 「必要の前に善悪無し」  この悪魔の標語ポスターは今も尚、新東京の暗黒面の至る処にブラ下がっている。上中下各階級の人々は互にその同階級の人々と風儀を紊し合っている。同時に上流は下層に、下層は上流に対して、益その自由行動の範囲を広めつつある。 性欲秘密薬と書画  最近の東京では、性病又は性病予防等に関する秘密薬の売れ行きが盛である。Y書出版も同時に大流行である。これ等の売薬や書籍は白昼堂々と店頭に曝されている。いずれも数年以前はその筋のお許しが出なかったものばかりである。  これと同様に秘密の石版画、秘密のP・O・P、秘密の謄写版刷は、東京の暗から暗へ、恰も独逸の紙幣のように波を打ちまわっている。その価格も震災前の半分内外だという。  このような商売をするものは、震災後、その筋の調の行届かぬのに乗じて非常に沢山出来たらしく、その商品は一時東京市中に生産過剰を来たした。一方に、被服廠その他の死体写真の秘密売買で呼吸を覚えた連中は、引続いてこの商売を引き受けたと伝えられる。  現在では市内の商売が落ち付いて来た結果、このような生産物がよほど減ったらしいが、それでもかなり多い事はその筋の差押え高でわかる。 怪しい大道商人  以前東京では、縁日の出はずれ、浅草、神田、京橋|辺の露店の切れ目、活動館の付近、人通りの多い近所の蔭暗い処に、蝋燭を一本立てて怪し気な絵を売買したものである。あとで見ると、忠臣蔵、弥次喜多、女と男の柔道の絵なぞで、買って少し行ってのぞいて見る間のねうちであった。中には本物もあったという。  この商売が今は動的となった。  日が暮れて九時頃になると、見すぼらしい風をして往来に出る。番頭風もある。労働者風もある。いずれにしても見すぼらしくなければいけないそうである。程よい人間を見るといきなり擦寄る。絵をチラリと見せて、一枚一円とか二円とか云う。相手を恐れるような、脅迫するような、そうして今にも逃げ出しそうな態度を見せるのが一番有効だそうである。これは死体写真の売り方と同一で、慣れると相手に品物を渡す。自由に見せながら、見え隠れについて行く。程よいところで金をせびる。もっと熟練すると、白昼、繁華な往来でもやれるそうである。  同じ夜の九時過に、前のよりすこし上等の風をしてお客を探し出す。二三間離れた処から帽子を脱いで、心安げな、意味ありげな笑顔を見せて近付く。品物は見せずに、肩を並べてあるきながらお客の顔をのぞき込んで、 「突然失礼ですが、例の秘密写真は如何で。一枚一円から二十円までいろいろあります。ブックもあります」  と露骨に云う。声は低いがハッキリしている。道でも聴くか、煙草の火でも借りるような態度である。そうして相手がうなずくと、共同便所や自動電話に連れ込む。  この売り方は最新式で、二十円云々は只相手の好奇心をそそるに過ぎぬ。一枚二十円の秘密写真ときくと、見るだけでも見たくなるのが人情だそうである。  このような行商人? の中に、只美人の絵葉書だけを持っているのがある。これはどんな人間が買うか。いくらで買うか。何になるのか。後に職業婦人の項で説明する。  東京市中の暗い処を歩いていると、時々この種の商人にぶつかる。バラックになってから、特に暗い横町が殖えたから便利である。  何々ビル、何々会社という処には、白昼、こうした商人が出没するという。実見はせぬが、事実であろうと思われる。 その筋の取締が弛んだ  俗に云う禁止物に対するその筋の取締が、この頃では眼に見えてゆるやかになった。特に東京ではそう見える。  裸体物を取り入れた公刊の絵葉書、書籍の表紙なぞが、九州よりも多く店頭に曝されている。展覧会の絵や彫刻、活動写真の濡れ場、接吻なぞの場面も同様に殖えた。  その中でも活動の看板やビラに血をあしらったのが殖えて来た。これは九州方面も同様らしく思われるが、特に注意する価値がある。頽廃思想の産物である変態性欲と関係があるから。そうしてこの傾向は、目下、東京で盛に醸成されつつあるように記者の眼に見えるから。  いずれにしても、二三年前と比べると隔世の感がする。  尚、このようなあらわれの裡面には、堪切れぬ社会の要求が、ある拒み難い力となって当局を動かしているのではあるまいかと疑っている向きもある。参考のため書き添えておく。 或る秘密画家の話  或る日の正午、記者は日比谷交叉点付近のカフェーに腰を卸して、注文の来る間ズボンのゴミを払っていた。  すると直ぐ横の卓子に、ダブダブのズボンを穿いた長髪の青白い男が来た。その男は、記者がテーブルの上に投り出した大型のスケッチブックとマドロスパイプを見て、ニコニコと話しかけた。 「バラック建築の御研究ですか」  これをキッカケに二人は同じ卓子に向い合った。名刺を交換していろいろ話し込んだ揚句、彼は自分が秘密画家である事を告げた。  彼は最初にこんな謎のような事を云った。面白いから書いておく。 「物には裏と表があります。私自身にもあります。そうして問題は、只、この裏と表を自分の頭でハッキリと区別して使いわけながら、生活し得るか得ないかにあります。特に芸術ではそうです」 「私は嘗て文展に能のお面を出して落選しました。その原因がこの頃になってわかりました。平生私が秘密画ばかり描いているために、お能のお面にもその気持ちがうつって、上品さを傷つけるのです。殊にあの不可思議な唇の開き工合のところで迷わされています」 「これは私が修養の出来てないせいでしょう。私が秘密画とお能の面とを美事に描き別け得た時は、私が芸術家として成功した時でしょう」  彼はこう云いながらウイスキーを飲んだ。彼の眼は彼自身の神聖さに輝いた。  彼は大森の下宿へ記者を引っぱって行った。そこで更に飲み続けながら、記者にいろんなものを見せ且つ話した。いろいろ儲かる話を持ちかけた。是非Y文を書いてくれ、それによって絵を描くからと云った。彼は記者を掘り出したつもりでいた。記者は掘り出される約束だけして逃げた。 芸術家の生活と誘惑  自分の高尚な絵が売れぬ。売れても絵の具代に追っつかぬ。一方に秘密画さえ描けば、粗末なものでも非常に高価く早く売れるという事実は、不断に在京の画家を誘惑している。  文展や院展に出す絵のモデル代、旅行費、絵の具代、間借り代、その他の生活費は、つまらぬ絵を二三十枚描く辛棒さえあれば訳なく取れる。そのためには仲買人も居れば、モデルも居る。只、いつも浮世絵風の線で描かなければならぬのが、洋画家なぞにとっては困るといえば困る位のものである。  このような絵の直接御用命者には然る○○な方々もある。西洋人もある。間接の手を経て外国へも続々行くらしい。某ホテルのボーイ頭なぞはその仲介に立って大金を蓄めていると聞く。  同時に東京で出来る秘密画の最近傾向として、或る残忍な画題が喜ばれて来た事は、前記、活動の絵看板の赤ペンキと同様注目に価する。  例えば殷の紂王、生蕃軍、玉藻前、○○侯等の暴虐の図、又は普通の美人や少年などに血をあしらった場面等の注文が次第に殖えて来た。  かようなデカダン傾向……それは単にこのような方面ばかりでない。東京市中の到る処にあらわれている。その中でも特に記者の注意を惹いたものが二つある。その一つは産児制限に関するパンフレットの流行である。 「最新式避姙法」の書物  マリーストーブとかブラングエンとかいう人々の著書の和訳、又は「性」という文字を標題に取入れた雑誌は、記者が街頭の書物屋で見ただけでも十種近くある。これ等は皆、○○や××、又は……をあしらったもの、又は医学上の説明にかたどった肉体、又は精神の解剖説明書である。いずれも辛うじてその筋の許可を得たものらしく見える。  しかし、ここに取り立てて云うのは、こんな出版物ではない。謄写版、もしくは旧活字の、しかも滅字同様のもので、誤植だらけにきたならしく印刷されたもので、如何にも秘密出版物らしく装うたものである。  その一例を挙げると、標題には、 「最新式避姙法」  とあって、内容を見るとラード博士、バックスター博士、バスレー博士、メシンガ博士、レンデル氏、サンガー夫人等いう大家? の避姙法が詳細に比較研究されてある。その筆者は原著者たる「満鉄社人事課××氏」の名を掲げ、その原本が大正十年中発売禁止となった事を述べた上、次の如き意見を付け加えている。 「これ位のものは外国では公然と出版されているのであるが、遺憾ながら日本では文化程度が低いから、これを秘密出版としなければならぬ。そもそも産児制限なるものは、法律上文化的の生活が許されたる智識階級の……」云々。  この書物は某教育家が記者に見せてくれたのであった。某氏は海軍出身で、退職後、軍隊、船舶、監獄等の性的衛生に就て研究し一家を成している人である。  氏は次のような事を記者に云った。 近代文化と民族的自滅 「この種の性的秘密出版物を見ると、いずれもその筆者が立派な高等教育を受けた人間である事がわかる。このような表面上高尚で、実は恐ろしく愚劣な仕事を敢てする勇気と知恵とを持っているものは、必ず高等教育を受けた人間である。高等教育を受ければ受ける程、良心が鈍くなるとも云える。これが近代文明の特徴である事を、私は経験上明言し得る。そうして今の東京の文化の裡面には、この傾向が日一日と濃厚になって行く。誠に遺憾である。たとえばこの書物『最新式避姙法』の文中にある、文化程度という言葉の意義なぞは頗る可笑しいではないか。文化程度が高くなればなる程産児制限が公行するものとすれば、最高の文化は民族の自滅を意味する事になる。その事実は決して些くない。元来、日光と土とは最大の享楽である。生命は最高の富源である。その民族の文化の第一義は、この富源を尊重するところにある。同時にその民族の教育の第一義は、その民族の生活を出来るだけ土と日光とに親しませる事にある。軍隊、船舶、刑務所、礦山、工場等の生活に対しては、今少しこのような注意が払ってもらいたい。現代の文化は人間に土と日光を軽蔑させるようにばかり仕向けている。そのために変態性欲なぞが流行するようになる。又、近代の文明は高価な生活を要求するようにばかり人間を教育している。そのために産児制限なぞがはやるのだ。文化が自滅を意味する事になるのだ。日光と土に親しい文化、農民やプロの文化、都会以外の地方的文化、これ等が発達しなければ、日本の文化は日本の自滅を意味する事になる。東京の裡面にこのような出版物が横行するのは、日本の前途のためにどうあろうか」云々。 上流社会 秘密フイルムの流行  震災後の東京の荒れ野原に、真っ先に興行物の色旗を翻えしたのは、浅草の活動写真十三館である。市内外各所の活動写真館は続いてイルミネーションを付けた。  この勢につれて東京市内外の到る処に小さな撮影所が出来た。  どんな仕事をするかというと、たとえば多摩川で情死があったと新聞に出る。直ぐに俳優を連れて現場に出張し、その新聞記事を脚本としてそのような場面を撮影し、活動小屋に売りつける。又は広告や宣伝用のフイルムの請負い、家庭の子供向き短尺物なぞを作る。その他いろんな事をしている。  彼等の中には或る種のフイルムを作って大金儲けをしているのがある。否、このような小撮影所ばかりでない。現在日本で片手の指で数えられている大会社の重役で、これをやっているのがある。  東京郊外にある自宅の天井を打ち抜いて、小さな撮影所を設ける。これに強力な電気を盗用して、その素晴らしく儲かるフイルムを作る。  そのフイルムとは秘密映画の事である。 映画室兼用の寝室  秘密フイルムの場面の大抵は「間男」で、怪しい役者と女優? が演ずる。実にタワイもないものであるが、出来上ると「家庭教育フイルム」とか何とか真面目な名前をつけてブローカーの手に渡す。もしくは、自分の配下か又は自身に「○○活動写真会」なぞいうものを組織して、映写して廻らせる。  お花客は常に上流の家庭である。だから料金はいつも高価である。外国にあるという、興行的な料金を取るものがどこかで秘密にやっていはしまいかと注意して見たが、これは気が付かなかった。当局でも当業者も、無論そんなものはまだあるまいと云った。  結局、日本では上流の家庭ばかりという事になる。 「近頃の富豪の家には映画室を兼ねた寝室だの書斎だのがありますよ。外国では普通だそうですが……」  と或るフイルム仲買人は笑って云った。  こうした上流の人士が民心の頽廃を嘆いて、吾が児の活動見物を差し止めるのかと思うと可笑しい。 押収フイルムの公開  震災前、このようなフイルムに対する当局の取締がちょっと厳重になった事がある。但、ことがあるだけで、結局、製造の手段が以前よりも巧妙になっただけに止まった。  現在東京で流行しているこの種のフイルムの中には、舶来物もあるにはあるが僅らしい。十中八九和製と見ていい程に製造が盛である。ほかのものと違って密輸入が六ヶしいというような関係があるのかも知れぬ。  警視庁にはこの種のフイルムの押収したのを沢山溜めている。それを昨年の夏、或る特別な人々に限って映じて見せたそうである。特別な人とは映画関係業者、教育関係者、映画関係係官の中から撰まれた少数の人々で、参考のためとも、見せしめのためとも、又は御愛嬌とも考えられた。  場所は警視庁の検閲室で、次から次へ映写される場面はいずれも型の如きものであった。何等芸術的の価値あるものでなかったが、官吏も商売人も昂奮の極情欲なぞは少しも起らなかった。只悽愴たる感じにのみ打たれた。  済んで室を出てから笑う者などは一人も無かった。血色のある者も一人も無かった。皆青白く唇を噛んで、眼が血走って、まるで地獄の責苦から逃れた人のように生汗を流していた。挑発も度を過すと、却ってその情を圧迫して萎縮させてしまうものだとその中の一人は云った。  尚、右に就いて一人の官吏はこんな話をした。 検閲係官の苦痛 「世間ではよく小説や何かの検閲係の役人が、只文句ばかりに拘泥して禁止をする。裏面の意味は却って見逃す事が多いために、いろんな不公平が起る。つまり検閲官に頭がないからだと云う人があります。この不平は尤も千万ですが、一方に又止むを得ない事情があります。どんな頭のある人でも毎日毎日変な文字や絵を見ていると、頭がすっかり麻痺してしまって、どこを取締っていいかわからなくなります。文章の裏面からどんな非道い意味を発見しても、ちっともわるいと感じなくなります。自宅へ帰ってから、又は旅行して平生の常識に立ち帰ってから……ああ、あすこはヒドかったなと気が付くような事が屡あります。そんな風ですから、毎日検閲をしていると、勢文字や文句ばかりによって禁止をしなければ、ほかに見当のつけようがないような頭になります。その上に忙しいと来たらなおの事です。書いた人間に依って、あまり非道くないものでも禁止するというような傾きがあるのも、こうした原因から来るものと思われます。何しろ一冊の本を押えるという事は相手にとって大打撃で、どんなに公平にしても不平は必ず出るものですから、その苦心といったら大変です。この点は大いに同情してもらわないと遣り切れませんよ」云々。 美しい顔、拙い技巧  東京人のうち上流に位する人々の堕落は、このほか各種の方面に証拠立てられている。そうしてその堕落の最近の原因を尋ねると必ず彼の大震災に結び付く。彼の大震災は東京人の堕落を深むべく一新紀元を画したものと云い得る。  東京人のプロ階級で震災後生活のために堕落したものは非常に多い。そしてこれを堕落すべく誘惑したものの大部分はブル階級と見られる。  東京の上流人士は震災後の血迷った、混乱した人心につけ込んだ。あらゆる手段であらゆる異性を堕落さした。彼等が金や権力を持っている事その事が既に誘惑そのものであった。  記者は社会主義者ではない。今の世の中で金や権力を持つ事を罪悪とは思わぬ。しかしこのような実例をあまりに多く見る事が出来る。  嘗て帝劇が出来て女優を養成した事は、上流の東京人の裏面の生活に一新生面を開いた。それ以後、歌劇女優、女流声楽家等いう各種の職業婦人? が日本の芸術家に生み出されて、あまねく上流人士に新しい美の世界を提供した。  その美のグループが今では暁の星のように光りを喪った。活動女優全盛の世となってしまった。  新しいスターが次から次へと現われる。その技巧が如何に下手で、その美が如何に甚だしく塗り飾られたものであるかは誰しも認むるところであろう。その傾向が震災後特に甚だしくなった事も、「そういえば成程」とうなずかれるであろう。 女優は資本か玩具か 「芝居をする役者は、フイルムに入れると実感を壊すからダメだ。殊に日本の女は芝居をし過ぎるか、いじけ過ぎるかしていて、とてもアカン。野生のノビノビした女を探すに限る」  というわけで、撮影場の首脳者が、帽子目深に東京の街頭をウロ付くようになったのは、二三年前の事である。  一方に、現在の日本の活動会社の成功不成功の一面は、会社の役員が女優を自分のオモチャにするかしないか……言葉を換ゆれば、上流人士のオモチャに提供して資本の世話をさせるかさせないかにあるとさえ云われている。 「女優は活動会社の資本である」  という意味を芸術的の意味に考えているファンがあったら、その人は最も幸福なファンであろう。 上流人の女狩り  現在、或る大フイルム会社では、女優撰択や教育等をその撮影場の重役と監督の考え一つに任せている。そのためにそのセット付属の女優は、いつも重役や監督の御機嫌を伺わなければならぬ。セット以外の処で甘い筋の試演に応じなければならぬ。でなければ、スターとしての運命は暗黒になる。ほかの会社の者はこれを羨しがっている。 「あの会社は大きいから、女優を富豪に売り付けなくとも、資本に事は欠かぬ。貧乏会社は女優を二重にも三重にも抵当に入れるので、こちとらの手にはまわらない」  と。この話は一つの常識としてその仲間に語り合われている。  以て推して知るべしである。  次は上流人士の「女狩り」の話に移る。 警官に対する誘惑  上流人士の美の要求に対する仲介業は、昔から東京に沢山ある。待合、ホテル、料理屋等いうのは問題にしなくていい。女衒、桂庵はどちらかといえば表面的にやっている。その他、出入りの理髪師、その他の商人で極めて裏面的にやっているものは数限りない。大きいところでは旧式の政治家、又は所謂政商なぞにも、商売上この手腕を振う者がいくらでもある。彼等はあらゆる手段で、あらゆる方面に「玉」を探している。  彼等が今度の震災のドサクサを機会に、どれだけ沢山の「玉」を探し出したかは想像に余りある。  しかし、こうした職業的、又は半職業的な周旋人にかかると、いい食い物にされる上に、あとがウルサイ。のみならず愉しみも薄い。そこでもっと秘密な、もっと巧妙な、そうして新しい味をしめようと種々に苦心をする。  象潟署保安係の某氏は記者にこんな事を云った。 「この頃、上流の堂々たる人が私に『珍らしい女は居ないか』とよく尋ねられます。私は熊本県人ですが、どうもそんな方面には暗いので、いつも返事に困ります」  と。記者がもし外国にこうした実例のある事を聴いていなかったならば、どんなに驚いた事であろうか。  彼等上流人士は、自分の財産や権力の魔力を自惚れた結果、神聖な警官を女衒と間違えるようになった。幸いにして吾熊本県人某君はこの誘惑にかかっていなかった。御蔭でこのような証拠を記者に掴ましてくれた。記者は満腔の敬意と謝意とを表しないわけに行かぬ。  しかし、東京市中のすべての警官が果してこの誘惑から免れているであろうか。彼の震災に続く大騒動と新警官の採用は、却てこのような誘惑に乗ぜられる機会を作りはしなかったろうか。  記者はその実際を見ている。  しかし判断は読者の自由に任せる。 不良老年の辣腕  かように東京の風紀頽廃の原因を煎じ詰めると、 「不良老年が悪い」  という事になる。不良老年とは所謂成功者、又は伝統的の有力者で、つまり上流社会に於ける相当の年輩の人々である。  今度東京で知り合いになった司法官や教育家――と云うと大層立派であるが実は刑事や学校教員――でこの事を口にせぬものは無い。殊に刑事や巡査は、平生、彼等上流社会から抵抗すべからざる圧迫を受けているので、この実情をよく知っていると同時にその怨みも深い。 「震災後、私等は下層社会の堕落よりも、上流社会の堕落を余計に見せ付けられるようです。社会主義はこんなところから起るのかも知れませんね」  とさえ云う。  事実、彼等権力者、もしくは金力者は、混沌たるバラック都市の裡面に遺憾なく魔力を揮っている。それ程左様に新東京ではイージーに女が得られるのである。  震災は大地からあらゆる女の塵をたたき出したらしい。  その結果、上流人士の女道楽が次第に進んで来て、変態性欲にまで高潮して来た。安くて手軽なバラック建築の流行は、一層こうした傾向を助けた。毒々しい刺戟の強いバラック式の装飾は、こうした趣味の背景となるのに最もふさわしいのである。  たとえば……と云い出すと、これ又無限にある。 小事務所の秘密  彼等上流人士が、東京市内到る処に建てている小事務所や、市街の各方面に建てている小住宅には、こうした趣味の享楽物が多い。  表の方の事務室、又は応接室らしい処には暗い電燈……裏手の方には白昼を欺く光線を洩らしている家が数限りなく発見される。そんな家は、写真屋その他の特殊の工場でない限り、又は宿直の者が電流を盗用しているのでない限り、何かの秘密を含んだ家である。殊に表に何々事務所と書いてある以上、怪しいと思わぬわけに行かぬと、或る刑事は語った。  このような見すぼらしい事務所から、眼の醒めるような美人が現われて、ピカピカした自動車に乗って去る光景を、近頃の東京人はあまり怪しまなくなった。これも震災の御蔭であろう。  又近頃、東京には自動車が殖えると同時に、運転手も殖えた。彼等がその乗せた主人の行く先を決して口外せぬという事は、その運転手たる資格の中で最も大切な一つである。しかし彼等の仲間同志には、この秘密が輪に輪をかけて発表されている。 特別収入煙草買い  彼等自動車運転手連の話に依ると、震災後の東京には、彼等の所謂私設待合が到る処に殖えた。その待合では、普通の待合でも出来ない事が行われる。あんな事がある、こんな事があると、彼等は眼を丸くして語る。その中の一つとして、ここに書く事が出来る話がないのは遺憾である。只、彼等上流人士の最高? 道楽である賭博と性的遊戯……麻酔と昂奮のあらゆる方面に、最近に於て支那式と西洋臭味が加味されて来た事が、運転手の話に依って推察されると云い得るだけである。  尚、彼等の話に依ると、私設待合には特別なのがある。彼等は、夜半、美人と弗旦らしいのを乗せる光栄を有した場合に、郊外の人跡|稀な処でよく買い物に遣られる。これは真面目に買いに行かなくてもいいので、暫くそこいらで様子を見た上で、こんな物を売る店はありませんと云って帰って来ても、旦那は格別残念そうな顔をしないのが多いそうである。  彼等はこれを「煙草買い」と名づけて、特別収入の一つに数えている。  又、或る秘密フイルム周旋業者は、電車の中で記者にこんな話をした。 変態性欲用具  彼等の秘密映写は、いつも当り前の上流人の家庭ばかりで行われるのではない。堂々たる帝都の大通りに並んだ、金看板の事務室の裏二階や地下室等でも行われる。そのような処で彼等は、最近、奇妙な事実を発見し出した。  初め、鞭、拍車、鞍、手綱なぞいう乗馬用具を見た時は、格別怪しいと思わなかった。  毛皮や短銃、短剣なぞを発見した時も同様であった。  支那や朝鮮にあるという手枷、足枷があるのは、一種の標本かとも思えた。  只それだけであったが、その後度々こうした処に招かれているうちに、これらの器具の不思議な働きがわかった。  秘密フイルム映写の場合は、一方の壁やカアテンがスクリーンに応用されるので、器械貸の場合でない限り、映写技師は別室から小さな穴を通じて映写せねばならぬ。無論、内部でどんな人間が、どんな態度で見物しているかわからないように出来ている。  ところがそうなると、いよいよのぞきたいのは人情である。遂に彼等の中には、いろんな工夫をして、中をのぞきながら映写する方法に成功するものが出来た。  その実見談は、遺憾ながらここに書く事が出来ぬ。只、前に述べた不思議な道具の使用法が如何に深刻なものであるかを、彼等はあらかた知る事が出来たと云うに止めておく。  勿論、この話は彼等の話の要点だけであって、作り話や針小棒大と思われるところは皆|削った。  信ぜられぬと云う人は、信ぜられぬ方がいいかも知れぬ。 上流婦人の堕落  他所では知らぬ。  東京の女道楽に飽きた男は、次第にこうした変態性欲に落ちて行く。平凡な春画の他に、血を流す美少年、猛獣に喰われる美女なぞの絵を愛好する。そのような幻想に近い実感を得ようとあせっている。  東京人の堕落は、こうして爛熟期が糜爛期に入って行く。  上流婦人の堕落は、更にこの傾向を助けている。  所謂紳士淑女の裡面が如何に醜いものであるかという事は、今に初めて知られた事でないが、今日の如く表面的に、当り前であるかのように露骨になった事はまだ聞かぬようである。  東京又は東京付近に居る上流の婦人、殊に未亡人たちの或る要求を満たす機関は、男のそれと同時に昔から東京にあった。役者、蔭間、力士、その他の芸人、占者、祈祷師、絵草紙、薬種、化粧品の行商人等の中にこの種の商売人が居たのであるが、今ではずっとこの範囲が広まっている。 色魔的商売人  上流の婦人を相手とする色魔的商売人は様々の仮面を持っている。  音楽や茶の湯、生花の師匠に怪しいのが少くない。近頃では、美容術師やマッサージなぞいうのが盛に上流の家庭に出入りして、婦人を直接間接に誘惑するそうである。  又、何々光線、又は気合術、呼吸法なぞいう新治療の出張応需式なのも逐次増加の傾向である。甚だしきに至っては、仏教や基督教の牧師、又は家庭教師と称するもので、怪しい商売をするものが殖えたと聴いた。  こんな商売は、遊芸や何かの師匠と違って、素人でも割合い手に入り易いと同時に、上流の家庭に出入りするのにも都合がいい。逆に云えば、上流の家庭から電話や何かで自由に呼び出しが利く便利がある。又、その家庭の秘密を掴む上にも好都合なので、扨こそかように流行するのだと云う。  このような色魔式商売の中で、最も斬新奇抜と思われるのは保険会社の勧誘員である。 最新式の色魔業  このような保険会社員は、眼星をつけた夫人や未亡人に時間を見計らって電話をかけて、面会の許諾を得る。次に堂々たる男振りと、立派な保険会社の名刺を振りまわして面会に来て、加入の許諾を得る。勿論、この間には何回も断られたり、追い返されたりするのであるが、そこを根よく押して行くと、相手の方が次第に動いて来る。そこで加入? をすすめて、金を払込ませて、受取を渡す……とは表面で、金は本物、受取は偽ものである。しかも相手の夫人が承知の上だから恐ろしい。  元来が保険会社の事だから、何回尋ねて来ても不審を持たれるようなことがすくない。未亡人は勿論の事、夫ある婦人でも、旦那の留守勝ちな場合なぞは殊に便利である。そうして関係を続けようとやめようと自由自在で、保険会社員として他の処で面会したり……今一歩進んで、相手の婦人の法律顧問になったりする事も可能である。  只、この間最も警戒しなくてはならぬ事は、その名乗りをあげた保険会社に電話をかけられぬように注意を払う事、云い換ゆれば、未亡人にたしかに渡る時以外に取次に名刺を渡さぬ事だそうな。  因にこの行き方は震災前からもあったので、震災後、それが本当の商売化したまでの事である。又、日本で新発明の商売でなく舶来の古物である事は、その筋の役人でなくとも、少し外国の事情に通じている人々は容易に認めるところだそうである。 未亡人の下宿屋  上流婦人の秘密は、まだいくらもある。何々夫人、又は何々未亡人の手芸研究所通いの中には随分怪しいのが多い。非道いヒステリーの夫人や未亡人が、妙な神様や気合術なぞに凝り固まって音なしくなったなぞいう例がいくらもある。  中には、嫌がる亭主を無理に連れ出して、相手の技術者に紹介をする。こうして信用を得た上で、その技術者を自宅に引っぱり込むという式は、こうした婦人連の紋切型の手段である。  尚このほかに、金のある未亡人に特に多く行われている方法で、震災後急に殖えたのは素人下宿である。  これは一つには、震災当時の状況がこうした要求に満ち満ちていたためでもあろうが、しかし、それを機会に未亡人たちが新しい自己満足の途を求めた事が疑われぬ。  それはいいが、今では、この素人下宿の女主人が商売人なのか、又は下宿人が商売人なのかわからぬ程度まで、お互に進化しているらしい。うっかり素人下宿に泊って非道い眼に会った学生、又はうっかり腰弁さんを下宿さして散々な眼に会った未亡人なぞがいくらもある。「下宿代を払わないので困る」とか、「下宿人が出て行かないので困る」とかいう法律相談や人事相談の裏面には、よくこうした事情が含まれている。  東京に行く学生諸君、又は故郷から仕送る父兄達なぞ、心しても心すべき事である。 若い燕を求むる心  話がすこし固くなるが、日本婦人の教育程度の向上は、すべての意味で喜ぶべき事である。現在では、この教育程度向上のお蔭で、黒人上がりでない限り、日本の上流婦人は女学校卒業程度以上の学力あるものと限られているようである。最近の分では、賢母良妻主義|凋落以後の教育を受けた若い婦人が沢山にある。そのような女性の最も多く進出する処は、云う迄もなく東京であった。  然るに、維新後の日本の教育は、智識教育に偏り過ぎていた。本能、真情等の、所謂人間味の教育の方はお留守になっていた。この事実は万人の認むるところで、「性教育」などが高唱されるのも、このような欠陥がある事を証明しているのではないかとさえ考えられる。  この欠陥は現代の婦人の性格の上に遺憾なく現われている。現代婦人は名誉を重んじ、人格の意味を解し、新智識と見識とプライドを有している。そうして、このようなものを弥が上にも刺戟し、向上させ、極端化するのは東京である。  但、それは智識と見識とプライドの上だけである。彼女達の本能、又は盲情というものは、持って生れたままなのが多い。只、その盲情や本能の発露を、極めて自然的に合理化する智識と弁才を持っているに過ぎぬ。  彼女達は、嫁いだ家、又は夫の名誉、手腕、財産等に奉仕せねばならぬ不平を、何者かに依ってなぐさめてもらわねばならぬ理由を持っていた。  彼女達は、自分の智識や容貌の権威に媚び、且つ盲従する異性が欲しかった。さもなくとも、男性の秘密境――とそこに流露される男の真実性を認め得る年頃になった時、彼女達の智識は、当然、男子と同様に心の自然を求め得る理由を発見した。  彼女達は皆、実際上か、又は空想上の「若い燕」たるべき相手を求めていた。 地震と智識階級婦人  彼等智識階級の婦人は、それでも永年の習慣で、そうそう思い切った事をし得なかった。筑紫の女王白蓮夫人? を初め、日向きむ子、神近市子、平塚明子、又は武者小路夫人などいう人々の、所謂合理的な行いを、彼女達は口先だけででも驚き呆れていた。彼女達は彼女達の自然を彼女達の不自然の城廓に封じ込めていたのである。  ところへあの大震災である。  彼の土煙と火煙は、彼女等の頭の中のこうした城廓を、かなり烈しく打ち壊した。これと同時に、夥しい「若い燕」が東京市中に孵化して飛びまわる事になった。  曠古の大震災はこのような人々を一様に単純化した。情熱化した。智識、見識、プライド、又はこれに伴う人格等のすべてを奪い去って、平等に本能の飢渇に陥れた。明日をも知れぬ運命を、引き続く余震で暗示した。彼等は、最も浅ましい事以外に、最も貴いことを認めなくなった。  しかもそれは一時の現象でなかった。 私のお馬鹿さん  現在の東京には、このような浅ましい傾向が、どれだけ増大して行くかわからぬ勢である。そうしてこの中に浸る東京の上流婦人の中に、次第にサジスムス性のソレが殖えてゆくのは、男性のソレと同様止むを得ない事である。  このような婦人は、愛欲という言葉の中に含まれている「快感」が、必ずや「残忍」と「苦痛」とに依って強められなければ、本当の満足は得られないものと考えている。このような要求に応ずる男性は、初めから自分に征服されに来る者でなければいけない。学問あり見識ある智識階級の婦人が、特にこうした傾向を有する事は無論である。  ところで、幸いにしてそのような性格を持った男性とスイートホームを作り得た婦人は、それこそ例の文化生活を徹底的に味わい得るわけであるが、さもない限りこうした要求は、自分の夫以外の「私のお馬鹿さん」や「お人形さん」に求めねばならぬ。そのような商売人が前述の通り東京にはいくらでも居る。殊に震災後急増したところを見ると、新東京の新文化の裏面が、如何に陰惨を極めたものであるかがわかるであろう。 変態性欲と虚栄  東京に於ける上流婦人のサジ式傾向の具体的説明はここに避ける。その男性を虐待し、その苦痛を忍受しつつ唯々諾々として自分の美の光りを渇仰する有様を見て、初めて愛欲の徹底的満足を受ける実況は、容易に覗い得られぬと云うに止めておく。只ここに特筆しておきたいのは、このサジ式の性格を有する婦人のサジ趣味が所謂虚栄というものと関係がある、恰も教育とヒステリーのそれのごとく切っても切れぬ関係があるということである。  但、これは記者の新説でも何でもない。  事実上、婦人のサジ性が生んだ虚栄は、新東京の新文化に興味ある影響を与えているのである。  又話が理窟っぽくなるが、事実を説明するためには止むを得ない。 「理解ある結婚」という言葉が非常に流行するが、言葉と実際とは大きな違いで、現在のところでは、「理解ある」という言葉を「野合」の「野」の字に当てはめた方が早わかりである。  九州あたりではそうではあるまいが、震災後の東京ではそうである。強いて理窟をつければ、教育ある男女の「野合」のことを「理解ある結婚」と名づくるとでも云おうか。そうして東京は、この流行の中心と認められている。  こうした結婚が永続するかしないかは、男が女のヒス性又はサジ性を甘受するか否かにある。何でもハイハイと尻に敷かれるか否かにある事は、常識で判断してもわかる。 二重の意味の快感  女が一旦男を支配するようになると、どこまでも増長する。男を極度まで苦しめて飽きないものである事は、昔からその例証が多い。  殊に、我儘からヒス性へ、ヒス性からサジ性へと加速度で進んで行くのは、教育ある婦人に限られているそうである。何故かと云うと、  一、教育から見識が生れる。  二、見識からプライドが生れる。  三、プライドからヒステリーが生れる。  四、ヒステリー性からサジスムス性が生れる。  という四段論法が、最近の智識を有する男性社会に於て、真実と認められているからだそうである。  ところでここに面白い事には、夜間はともかく、昼間に於て男性を窘しめる方法の第一は、買物に同伴する事だそうである。自分の好きなものを一ツ一ツ撰り出す毎に、男が青くなったり赤くなったりするのを見るのは、二重の意味で云うに云われぬ面白さと愉快さだそうな。 理解ある同伴  東京が「理解ある結婚」の中心地である証拠に、最近の東京の街頭に異性と二人連れの姿を非常に多く見受けるのは記者ばかりでない。尤も、これを全部、街頭に於ける「理解ある結婚」の姿と名付けるのが無理ならば、単に「理解ある同伴」と云ってもいい。散歩もあろう。見物、聞きものもあろう。しかしこの中に「買物のため」が沢山あるのは否まれぬ。  前に述べた新東京の商売の模様を調べる序に、店の者に聴いて見ると、 「近頃は御夫人連れのお客様が非常に殖えました。殊に御婦人の御趣味が高くなりまして、旦那様のお帽子からネクタイまで、なかなかお上手にお撰みになる向きが多いのです。殊にお帽子や何かにツヤツヤした毛のものとか、スベスベした絹のもの、又は冬の白い襟巻なんぞが流行りますのは、御婦人のお好みが大分まじっておりますようで……」  と眼を細くして笑った。話だけでも身の毛が竦立つようである。  否、まだ恐ろしい話がある。 変態性欲とヘアピン  或る米国帰りのドクトルは記者にこんな話をした。 「近来、若い婦人は様々の形をしたヘアピンを挿しているが、最近では若い夫人でもよく用いるようになった。然るに自分は、彼の鬼のような、獣の頭のような、又は異形の鋸のようなヘアピンを見ると、ゾッとするのを禁ずる事が出来ない。それは、震災後、彼のヘアピンで傷つけられた男を二人程手当をしてやったからである。その一つは頸動脈のところ、今一つは眼の近くで、いずれもかなりの傷であったから理由を問うたところが、二人共顔を赤らめて語らなかった。しかしその傷から私は察して、兇器はヘアピンであると思った。あの式のヘアピンは閨房に於ける婦人の唯一の武器らしい。彼のヘアピンの形は、婦人のヒステリー性や、サジスムス性を象徴した形をしている。流石女性尊重の本家本元アメリカから輸入された事は争われぬ」  おさし合いがあったら御免なさい。 平民主義と風紀頽廃  東京の上流人士が男女を通じてかように次第に堕落して行く原因の中に、今一つ記者の注意を惹いたものがある。それは古い言葉ではあるがデモクラシー世界の実現である。  学生の鳥打帽――軍人の平服の事は前に書いた。畏きあたりの御事は申すも畏し、一般の華族と富豪とかいう者は、元来非常に見識を貴ぶものであるが、それが今では頽れて来た。平民的になって来た。  これはまことに結構な事であるが、一方から見るとあまり面白くないことがないでもない。  見識を取るとか威張るとかいう事は、一面、家内万事を儀式張らせる事で、殊に家柄を重んずる華族とか、家風を八釜しく云う町人とかは、こうして家風の取締をしたものであった。そのために深窓に育った子女達は、非常にその世間を狭められると同時に、堕落の機会をも亦甚だしく狭められていたのである。  デモクラシーと名づくる春風は、次第にこの善良なる美風を吹き破り始めたのであった。某華族や某富豪の家庭の素っ破抜き記事が、次から次へと新聞を賑わした。デモクラ式男女関係を作る事が、新人の使命であるかのように思わるるに到った。 天のデモクラ宣伝  この傾向に大油をかけたのが過般の震火災であった。あれは天が人間界に試みた大々的デモクラ行為であった。あの名状すべからざるドサクサが、どれだけ上流の家庭に平民式を煽り込んだか。現在の新聞紙上で、上流の家庭の紊乱が如何に平凡な材料として取り扱われているかは、読者の熟知せらるるところであろう。思えば地震もいろんな揺れ方をしたものである。上下動何寸、水平動何寸という大ゆれのほかに、このような複雑な大震動が交っていた事を思えば、東大の地震計が匙を投げたのも無理はない。  しかもその震動の影響は、なかなかこれ位のことに止まらないのである。  下層社会の者は、革命と云えば、人殺し泥棒勝手次第という意味に考えるのと同様に、上流社会の人々は、平民的と云えば、不義乱倫自由自在と解釈するのは止むを得ないかも知れぬ。さもなくとも「恋は思案のほか」とやら。  ……こんな事で記者の頭は古いと思われては困るから、これ位にして上流社会の堕落記をやめる。  そうして職業婦人の話に移る。 職業婦人 職業婦人の真意義  職業婦人!  聞くだに美しく、勇ましい名前である。清い、新しい理想の光りをふり仰いで、一心に働く女性の姿が連想される。  記者はそんな風に考えて東京に来て見た。そうしたらまるで違っていた。  職業を持っている婦人……すなわち稼ぐ女を職業婦人というのなら何でもない。上は女官から女学校の教師、小学校教員、女判任官、女医、女歯科医、女薬剤師、婦人記者、婦人速記者、女会計、婦人外交員、女製図師、図書館その他の整理係。すこし有りふれては産婆、看護婦、保姆、タイピスト、女事務員、女店員、見張女、マッサージ師、美容術師、女車掌や運転士、交換嬢、モデル女、女優一切。女給、案内女、仲居、お茶子、芸娼妓もかためて中流に入れようか。ドン底に近付いてはトロの後押し、土方の手伝い、ヨイトマケ、紙屑|撰り、工女、掃除女に到るまで、数えて来ると随分ある。これ等はみんな職業婦人に相違ない。  しかし、復活した東京の新文化の華然として、大道を闊歩している所謂職業婦人というのはそんなのではない。もっと新しい、現代的な意味でいう職業婦人である。 自己見せ付け競争  現代的職業婦人の名称には、単純な意味と複雑な意味と両方ある。  単純な方はつまり醜業婦の事である。救世軍や婦人矯風会、又はその筋の言明に依ると、震災後特に馬力をかけて撲滅に努力しているという。又、実際、撲滅されかけているように見える。  複雑な意味の職業婦人というのは、要するに裏と表と二重の職業を持っている婦人で、こちらは反対にドシドシ増加しつつある。  この事実を疑うものは、東京人の中に一人も無いと云っていいであろう。 「ああ、あれかい。あれあ、君、職業婦人だよ」  という言葉は、大抵の場合、この種類の婦人を意味すると考えるのが現代式だそうである。だから記者も、この種類の職業婦人のことを職業婦人と名づけて取り扱う事にする。  彼女たち職業婦人は、その名前の美しく雄々しいように、その姿も派手で活溌である。最新流行は愚かなこと、永年東京に住んでいる東京人でも眼を丸くしてふり返るような、思い切ったスタイルでサッサと往来を歩いて行く。流行の競争はとっくの昔に通り越して、自分自身が万人の注目の焦点となるべく、あらゆる極端な工夫を凝らしているかのように見える。 九州で福岡は東京流行の魁  九州で東京風の流行の真先に這入って来る処は福岡で、その次が大分県の別府だそうである。  それかあらぬか、記者が東京の職業婦人の新スタイルを見て仰天して帰って来て見ると、こはいかん、ツイ一ヶ月ばかり前まで気ぶりも見えなかった福岡の淑女令夫人達が、堂々とその風を輸入して、得意然と大道を練り歩いて御座る。別府には行って見ないからわからぬが、これは流行っているにしても、福岡のように土着の人がやっているのではあるまいから、さまで驚くにも及ばぬであろう。  四五年このかた流行り始めた頭の結い方に、「ゆくえしらず」というのがある。今では通俗化して、一般の真面目な人――主として中年以上の婦人がやっておられるようであるが、髷が無いために前髪や鬢をかなり思い切って膨らさねばならぬ。  東京の職業婦人の頭はここいらから発達したものであろうか。その形の思い切って大きいのが何よりも先に眼に付く。 頭髪の大きさの競争  職業婦人の頭といえば、直ぐに一抱えもある毛髪の集団を思い出す。日露戦争当時流行した二百三高地どころでない。五百三から八百三位まである。それへ櫛やピンの旗差し物が立てられて、白昼の往来をねって行く……と云ったら法螺と云う人があるかも知れぬ。  法螺かも知れぬが、記者は間もなくそんな頭を見慣れてしまった。更にそれ以上の変妙不可思議な頭をいくつも見た。  尤も彼女達は初めからこんな大きな頭をしていたのではない。  彼女たちは自分の頭を嘗て見た最大の頭よりも見栄あらしめるために、一袋十銭のスキ毛を一ツ宛突込んで、遂に三十四十に及んだまでの事である。列強の大艦巨砲競争と似たような原因結果である事は疑われぬ。只、これを制限する華盛頓会議がない代りに、讃美する新東京人があるだけ違う。だから彼女たちの頭の大きさの競争が、斃れて後止むところまで行く。 丸ビル式と銀座髷  流石に福岡あたりを歩いている新式の髷には、東京の職業婦人のそれのように非常識者なのは無い。これは、福岡の婦人に東京のような意味の職業婦人が少い、従って自己見せ付けの競争が東京程烈しく行われないからであるらしい。  しかしこの競争もある程度まで行くと、行き詰まりになるのは止むを得ない。そこで今度は恰好の競争が始まる。  その頭の恰好にも又いろいろある。記者が見たり聴いたりしただけでも新旧百幾通りもある。皆新聞や雑誌で宣伝されているから略するが、その中で有名な丸ビル式と銀座髷というのについて一寸説明を加えておく。  丸ビルというのは東京で丸の内ビルディングの事、銀座は同じく目抜の通りと云ったら笑われるかも知れぬ。それ程|左様に有名な建築や町の名を髷に戴いているわけは、その建築や町に出入りする職業婦人に新しい意味の職業婦人が多い証拠である。職業婦人たちが人気と注目の焦点となっている結果である。 第二職業広告用の理髪  彼女達職業婦人のグループはこうしたわけで派手を競うた。そうして、その背景や職業に依って服装が違って来ると同時に、頭もこれに釣り合って変化して来た。すなわち背景と職業が似通っているために、その服装から次の恰好にまで共通点が出来て来る。丸ビル式や銀座髷はこうして出来た。  丸ビルの方は、丸ビルそのものはもとより、付近の背景が皆ガッシリした大建築ばかりで、そこに出入りをする職業婦人は大抵事務員式のスタイルであった。  銀座の方は大部分バラック式の派手やかなもので、職業婦人といえば大部分飲食に関係ある店の女給である。  そうした空気の中からこんな髷が生れたのか、それとも或る一人がその特徴から工夫し出して全体に広めたものか、その辺は判然せぬ。いずれにしてもこのような背景や職業に……そうしてその第二の職業の広告に最適当したスタイルである事は云う迄もない。  尚、丸ビル式は大正十三年の秋の末まで勢があったが、例の不良少女団ジャンヌダルクの一件以来、勢力を打ち消された形になった。これに取って代るべく生れたのが銀座髷かどうか知らぬ。  もしそうだったら、近い中に又一騒ぎ持ち上るかも知れぬ。 髷の恰好とお手本  職業婦人の頭には、こうしてチャンと名前の付いたのもあるが、尚このほかに名前のわからぬので凄いのが多い。猫型、木魚型、鳥型、帽子型、真甲鯨型とでも名付けたい位である。  その上から鏝をかけて大波小波を打たせる。耳のあたりは渦を捲いたように見せかける。それから髷の競争である。  髷は前髪や鬢と平均を取るために極度に大きくしたのもあれば、正反対に首の根づるに押下げて小蜜柑大にしたのもある。又は様々の形に結んだり、横たえたり、ブラ下げたりして、横から見ると随分気味の悪い恰好をしているのがある。そこへ例の色羽根や花飾り、飾り櫛、ピン、その他様々の旗差し物を出来るだけ賑やかにあしらったところは、奇観というも愚かである。  しかし彼女たちが決して出放題にこんな頭を発明したものでない事は、その恰好や装飾品の取合わせをよく気をつけて見ているとわかる。  彼女たちの頭のお手本は、大抵日本や外国の活動女優、又は雑誌、新聞の挿し絵や口絵を真似したものらしい。中には自分の顔に似合わせたものもある。又はそんな事をお構いなしのもある。 和漢洋入り乱れた様式の流行あたま  雑誌や新聞に宣伝されている、新しい髷の結い方を真面目に研究して応用しているのは、職業婦人には皆ないと見た方が至当であろう。勿論、多少影響はしているに違いないが、とてもそんな手ぬるい結い方では満足しないらしい。  又、例外と見えるのがいくらでもある。  眉の上まで庇を冠せて、そのうしろに中将姫のようなビラビラを戴いているのがある。  一方に、低い束髪にしてから、元禄髷に似た縦長い髪毛の束を三寸ばかり上に突上げたのが居るかと思うと、洗い髪同様の髪を玄冶店のお富式にうしろに投げ卸して、その先を三つ組にして輪飾りの七五三のようにしているのがある。この式は将来職業婦人用の頭として最新流行を作るかも知れぬ。  サザエのツボヤキをずっと大きく高くして、リボンで鉢巻をしているのは、希臘の巫女の真似であろうか。行衛知らずの行衛を半分見せたようなの、蓮の巻き葉のように左右から巻き込んだのなぞ、数え立てれば限りもない。  その中で最も風変りな二つの流行は、襟足を剃ることと梳きまき毛をブラ下げることである。これは流石の福岡でもまだ行われていない。 襟足を剃る式  襟足を剃るのは、無論、束髪に限っている。多分、首を長く見せるつもりでもあろうか。剃り上げた首の左右に限って、二本の毛の束がブラ下がっているのを見受けるところから考えると、アヤツリ人形の真似をしたのかとも考えられる。とにかく、首の付け根からボンノクボの上まで、頭のうしろの半分ばかりを、耳の高さと並ぶ位にむごたらしく剃り上げて終う。そこへ白粉をコテコテと塗るのであるが、大抵は斑になった上に、キメが荒いから粟肌が一面に出来ていて、首の方向を変えると白い皺の波が出来る。そのきたないこと。殊に非道いのになると、毎日剃らないせいか、黒い毛がプツプツと芽を吹いて、白粉とゴチャゴチャになって、二タ眼と見られぬ醜態である。他人のを見てもわかりそうなものだが、自分のは見えないから立派にしているつもりらしい。冬なぞは嘸寒いだろうと同情に堪えぬ。 梳き毛ブラ下げ式と頬に描いたホツレ毛  次に、梳き毛をブラ下げたのはあまり多くないようであるが、奇抜なだけに、見たと云う人はいくらもある。見ない人はタボ毛が抜け落ちたんだろうと云うが、決してそうでない。わざわざ瓢箪型や糸瓜型にこしらえた梳き毛の固まりを、耳の前にブラブラと釣るして歩くので、ドンタクでもあまり見かけない新型である。記者も初め遠くから見た時は、大昔の美津良式を復活させたものかと思ったが、近付いてよくよく見ると、髪毛とは全く別の感じを持った黒い固まりなので腹の皮が拗れた。しかも、本人、大澄ましだから豪気である。多分、外国の活動女優の舞台姿か何かを真似たものと思われるが、本人に訊いて見る勇気を持たなかったのは遺憾であった。  尚、参考のために書き添えておくが、現在の東京で中年以下の婦人の断髪は時々見かける。しかし前髪を切って縮らした式は、在京中、只一人しか見受けなかった。それから、職業婦人で日本髪に結っているのは、その職業が特別のものでない限り極く珍らしい方である。  尚今一ツ、眼のふちを隈取ったのは九州方面でもよく見受けるが、鬢のホツレ毛を書いている人はあまり無いようだから、参考のために書いておく。実は東京でもたった一人しか見なかったのだから、流行とは云えぬかも知れぬ。しかし、ほかに見たと云う人が二人ばかしある。  その女は二十歳前後で、例の耳隠しの大渦巻きの下から頬紅の下へかけて、左右平等に二本並んだ波形の直線を、黒く斜めに描いていた。ほかの連中が見たのも同様であったかどうかは聞き落した。とにかく新しい方では特等賞請合いである。  次は職業婦人の服装である。 職業婦人の服装  職業婦人の服装は、その頭やお化粧程奇抜ではない。田舎風に、無暗にケバケバしいだけである。しかし、中には素晴らしく上品なのや、恐ろしく凝ったのも居ないではない。  概して、産婆や、女事務員の年増や何かは、貴婦人風を理想としているようである。タイピストや看護婦、女給等は令嬢風、交換嬢や看視女等は女学生に見られよう見られようとつとめているように見える。  しかし、いくらそんな風になり切っているつもりでも、生活がそうでない限り、どこかにお里があらわれているのは止むを得ない。第一、貴婦人らし過ぎたり、令嬢らし過ぎたり、女学生じみ過ぎたりしているところに、何となく不自然な感じを受ける。まして親たちの指図や許可を得て買った身のまわりと、自分達の勝手な趣味や思う通りの金で買い集めた身のまわりが、感じの点で非常に違うのは当り前である。一方がつつましやかに落付いているのに反して、一方が派手やかに気取っているところに、ありありとネタが暴露している。その上に、彼女等の職業や生活の上から来る気持ちの反映、身体のこなし、顔の表情、眼の光りの澄み加減や落ち付き加減にまで注意したら、職業婦人であるかないかは、如何なる場合でも一目瞭然であろう。 職業婦人が理解し得るバラック趣味  第二は、彼女たちの背景である。彼女たちの背景となっているバラック都市は、彼女たちの姿をイヤでも派手にせねばならぬように、寝てもさめても刺戟している。  バラック建築の色や形が如何に派手で変化が多くて、薄っぺらで毒々しいかは前に述べた。そのケバケバしい色や形の中に住む人間は、互に負けないようにケバケバしくするか、又は反対に陰気にジミにするかしなければ引っ立たない。  新東京の新東京人の中で、男は後の方法を取った。中流社会の着物道楽の項で述べたように、現在の東京で最もハイカラな男といえば、最もジミな青白い服装をした男である。  一方に、女がこれと反対の流行を作ったのは止むを得ないところであろう。彼女達の服装は弥が上にも派手に突飛になって行った。  芝居の書割りよりも、もっと自由に奔放な形式を使っているバラック建築のデコレーションに調和すべく、彼女達職業婦人は舞台化粧以上に白く塗らなければならなかった。唇を血のように染めなければならなかった。頬をダリヤのように赤く隈取らなければならなかった。思い切って大きな飾りを活躍せしむべく、頭髪の舞台面をどこまでも拡大しなければならなかった。着物の柄は調和を破る位に極端な取り合わせを用いなければ引っ立たなかった。それは趣味の低い彼女たちにもよく理解される趣味であった。 バラック都市の夜の光線と処女達の美  彼女達職業婦人が真面目な仕事をする時間は大抵昼間である。したがって、彼女達がその持ち前の美を自由に発揮する時は夜である。  然るにバラック都市の夜の光線は、水蒸気の多い日本の昼間の光線がすべてをドス暗くみじめにすると正反対に、華やかである。だから彼女たちの姿が、夜の光りに調和すべく、仰山に毒々しくなって行くのは止むを得ないであろう。  その真似をして真昼間の平和な町をあるく九州地方の婦人の姿が、如何に不気味に阿呆らしいかは皆さん御承知のところであろう。  神田の或る美容術師はこんなことを云った。 「田舎へのお土産に東京の最新式の髪をという意味の御注文がよくあります。しかし東京式の結い方はあまりお上品向きでありませんから、お客様のお姿や服装から御家庭をお察しして、苦心しいしい調和よく結って差し上げますと、どうも御気に召しません。反対に職業婦人風にして差し上げますと、一も二もなくお喜びになります。すべてお髪は御家庭や、御職業や、又はそのお帰りになるお国の風土によって違います。外国でも気の利いたお方は、御旅行先や御転居先の風俗をよく研究されて、これに調和されて行きます。お料理なぞと些しも違いません。福岡ならば福岡風があるのが本当なのです。日本中が東京風になるのは、日本の方がまだ本当の趣味を御理解なさらぬためだと考えられます」云々。 千束町式、蠣殻町式  東京の職業婦人の服装を、あんなに馬鹿馬鹿しく派手にした第三の原因は極めて深刻である。  御存知の方もあろうが、昔、東京に千束町風又は千束町式、千束町スタイルなぞいう熟語があった。千束町というのは浅草観音の裏手にある醜業窟で……なぞ云ったら笑われるかも知れぬが、順序だから仕方がない……醜業婦の理想的なのがウジャウジャ居て日本中の男の油を絞った。その税金は浅草区有数の財源となっていた。  そこの女達はあらゆる派手な姿をしていた。頭の天辺から足の爪先まで、極端な派手ずくめの低級趣味で男を引き付けた。その女達特有の毒悪な安香水は千束町香水と呼ばれた。  今の東京の職業婦人のスタイルは、この千束町式の変化したものに外ならぬ。その派手やかさとダラシなさ加減は、低級趣味の男の欲情をそそるのに最も適当している。  今一つこれも知ったか振りであるが、約二十年近く前から東京に蠣殻町式という言葉が出来た。これは蠣殻町の取引所界隈にあった高等内侍のスタイルで、千束町式ほど下劣でなく、どちらかと云えば貴婦人好みが多かった。多分はお相手をする相場師連の嗜好から生れたものであろう。これが発達して帝劇美人式となって、現在の貴婦人のスタイルに影響したものかどうか知らぬが、そんな感じがする位である。今の東京に於ける女医、産婆、美容術師等いう年増の職業婦人は、大抵この流れを汲んだスタイルをしているので、駈け出しの刑事なぞにはとても見分けが付かないそうである。 アレは職業婦人!  職業婦人はその服装が如何に立派であっても、どこかに彼女たちの裏面の生活が反映しているものである。彼女たちは金を儲けるために働かなければならぬ。一日のうち何時間かは自己を殺していなければならぬ。その代り、彼女達は又、家庭の女が持ち得ない自由な時間と金を毎日いくらか宛持っている。その時間と金とを彼女たちは勝手気儘に使って、虐げられた自己を慰める。これを妨げようとするものがあると、彼女たちは猛然として反抗するのが普通である。そうして益勝手気儘になる。ダラシなくなる。ムシャクシャを増長させる。彼女達を高尚に、シッカリと、奇麗に、健康に育て上げようという指導者が次第に遠退いて行く。その結果が彼女達の服装に先ず現われる。  白粉を塗り過ぎる。しかし襟垢は残り勝である。  髪を大切にする。しかし毛の根は油でよごれている。  美しい着物を着る。しかし裾にしまりがない。  取り澄まして歩む。しかし眼づかいは下品である。  そのほか唇のしまり、好みの調和なぞ、彼女たちのダラシなさを挙げたら数限りもない。しかも現在の東京人は、こんな風に見える女をすぐに解放された女と認めて讃美するのである。そうして男同士の間では、 「彼女は職業婦人だよ」  と冷笑し合うのである。 洋装の流行と活動  職業婦人には時々洋装を見受ける。普通の婦人にも時々見かけるが、よく似合っているのは十人に一人もない。  洋装の生命とするところは、顔でもなく、尻でもなく、只首と足の恰好だそうで、その中でも足は最も大切な条件なのだそうであるが、日本人の足……殊に女の足は十人が十人駄目である。東京の女学校で汐干狩をやると、皆足を気にしてとやかく云うそうであるが、さもあろう。日本婦人がズングリムックリした、無暗に派手な洋装を尾張大根のような足で運んで行く恰好はあまりよくない。  おまけに彼女たちはダンスのダの字も知らないのだから、身体のこなしが洋服とまるで調和していない。曰く何、曰く何と、日本婦人の洋装批難の声はすべての男の批難の的になっている。それでも流行するのは、大方、活動の宣伝がきいているのであろう。 職業婦人の服装が派手になって行く訳  職業婦人の服装がどうしてこんなに派手になって行くか。どうしてそんな突飛な流行にまで突きつめて行くか。  これには大略三つの理由がある。  第一は彼女達が解放されていることである。彼女たちは金が自由になると同時に、親兄弟の意見を聴かないでも済む権利が出来た。即ち家庭から精神的に解放された。彼女たちは勝手なものを買って、好きに身を飾り得る境遇に這入った。一方、新東京の街頭には、原価の二倍以上の掛け値をした新織物や、新装身具が一パイに並んで彼女達を誘惑しているのである。抜け目のない商人たちはこう考えている。 「今の職業婦人は、今までの日本人の娘としては、真に驚く程の小遣いを持っている。しかも彼女たちの趣味は、育ちが育ちだけに極めて低級である。大きいか、美しいか、珍らしくさえあればいい。安くて、派手で、ちょっと上等のに見えさえすればいい」  と。彼女たちは、毎日毎日、この手で誘惑されつづけているのである。 消えゆく処女美  彼女たち職業婦人はこうした昔の職業婦人の流れを汲んで、更にそれ以上に文化的な、蠱惑的な風俗を作るべく工夫を凝らしている。首のつけ根を剃り上げたり、梳き毛をブラ下げたり、ホツレ毛を描いたりするのは、その苦心の最高潮のあらわれと見るべきである。  職業婦人の名が二重の職業を意味しているとは、彼女たちのこうした風俗からでも訳なく察せられる。  彼女たちはこうして処女の美を早くから失って行く。同時に夜ふかしや白粉焼け等が、彼女達の「美」と名づくる資本を奪って行く。そのために彼女達のお化粧は日に増し濃くなり、彼女達の頬紅、口紅は日毎に赤くなり、彼女たちの服装は年毎に若返って行く。哀れと云うも愚かである。  このような不自然な美しさは、昔では色町やその他の限られた場所でしか見られなかったそうである。それが今では全東京の街頭に流れ出した。病院、学校、会社、銀行、商店、カフェー、バーは云うに及ばず見受けられる事になった。時勢の進歩の中でも最もハッキリした進歩はこれではあるまいか。 彼女達はどうして堕落するようになったか  記者は弁護する。  彼女達職業婦人は決して初めから二重の職業を持っていたものでないことを。  同時に記者は確実に予言し得る。  一度此の如く滔々と白昼の街頭に流れ出して、此の如く公然と官私の仕事に喰い込んだ職業婦人の職業だけを、二度と再び昔の色町や醜業窟に追い込む事が永久に不可能である事を。  どうしてこんな事になったか……彼女たち職業婦人の大部分が、どうしてかように二重の職業を習い覚えるようになったか。  只この問題一つを研究するだけでも、人間一代を棄てるねうちがあるかも知れぬ。大正十二年九月以降、東京の市中に二重の職業を持つ婦人が激増した。その後に日本国中の婦人の風俗までが影響を受けて大変化を来たしたという事は、社会学上の大きなレコードだから……。  しかし又一方から見れば、頗る簡単明瞭である。彼女たち職業婦人の身の上を出来るだけ沢山に調査すれば、わけなく解る問題である。東京市内にある相談所、紹介所、又は会社や銀行の職業婦人を取り扱う掛りの人々は、こんな材料をいくらでも話してくれる。  職業婦人堕落の原因は、極めて平凡で、しかも最も奇抜な結果になるのである。 世間の世智辛さと教育から来た弊害  世間がだんだんと世智辛くなるのは、大昔から今日まで引きつづいた事である。その中でも最も早く世智辛くなる処は、何といっても東京であった。田舎の人々が都会へ都会へと集まる傾向は、一層この状態を甚だしくした。  女子供でも遊んでいられなくなった。親子兄弟の間でも、個人主義にならなければやり切れなくなった。  外国から輸入された思想はこの傾向をいよいよ高潮さした。日本の教育=忠孝仁義を説きながら、実は物質万能、智識万能を教える日本の教育当局の方針も、この思想を益底深く養い上げた。  日本の女子供は、非常に早くから、生活とか権利とかいう言葉の意味を知るようになった。試験に及第する事、学問のよく出来る事が、即ち生活の基であり、享楽の種であるという意味で、現在の日本の若い男女は悉く文化の歎美者であり、物質万能主義者となったわけである。  そうした事情と、こうした教育の中から職業婦人が生れた。紡績の工女、看護婦、交換嬢、女給、店番なぞいう、小学卒業程度でもつとまるのを初めとして、タイピスト、事務員、女教員なぞいう高女卒業程度のものまで盛に要求され出した。もっと進んだものとしては、婦人速記、製図手、外交員、会計助手、歯科医なども近々殖えそうである。このような傾向に伴った、日本女性の向学心の旺盛な事は、日に月に当局を喜ばした。  同時に、無智で単純な女でなければつとまらぬ「女中」は、益払底して来た。「高級家政婦」を求むる広告が、日に増し新聞紙上に増加して来た。  これに対して、時間|極めの女中を世話する派出婦会が、東京市中に殖えて来た。これも新生な意味の職業婦人に入れられると云う人と、入れられぬと云う人とあるそうである。前者は大抵婦人で、後者は大抵男だそうである。 彼女達の三資本  職業婦人はこうして次第に東京を横行し始めた。  彼女たち職業婦人は裏と表と両方の意味に於て、生活という事を理解している。  彼女たちの資本は、その「健康」と、「美」と、「あたま」との三つである。その中で最もねうちある資本が、その「美」であることは云うまでもない。だから彼女たちの大部分はうら若い連中である。  彼女たちのこの三つの資本のうち二つか三つかが使い切られた時、彼女達の職業婦人としての価値はどうなるか。彼女達は如何にして生きて行こうとするであろうか。それは今から十年後の東京に来て見なければわからない。又彼女達自身も考える余裕を持たぬであろう。  彼女たちはこの三つの資本を最も大切に且つ最も厳重に保護してくれる人々、即ち旧式の家庭や社会から逃れ出た。彼女達はこの意味に於て全然解放されていると云ってもいい。彼女達が自身に金を儲けるという事は、直に家庭と社会に対する精神的の自由を意味するからである。 職業婦人の新智識  彼女達は、その「健康」、「美」、「あたま」という三つの資本を自分の思う通りに使い棄て得る新世界に、「職業婦人」の名に依って解放された。  その自由境は五色七彩の目も眩むばかり輝くバラックの都市であった。彼女たちの「あたま」はあまり要求しない代りに、彼女達の「美」を無理に要求する震災後の東京であった。  その新世界の夜を飾るイルミネーションを、彼女達はベツレヘムの星と仰いだ。そこに存在するあらゆるものを、その新たに解放された眼で見、耳で聴いた。そのために彼女達は現代婦人の中で最も新しい頭を持つことになった。  教育、理智、常識、道義心、そのようなものに囚われた婦人とはまるで違った意味で社会を理解した。彼女たちは社会をありのままの状態で知った。  彼女達職業婦人は、雑誌を読んで新しい事を知ると同時に、これを実地に見ることが出来た。新しい言葉を知った時は、実地にこれを使った時であった。新しい歌をおぼえた時は、異性の喝采を受けている時であった。同様に社会の暗黒面、又は人間の弱点なるものを想像でなく体験する事が出来た。  彼女達は生活というものの本当の意味を知ると同時に、ストライキ、サボタージ、反逆、裏切り、社会主義、享楽主義、刹那主義なぞいう言葉の本当の意味をも知った。知ると同時にこれを実行し得る自由を持っていた。何となれば、彼女達は自分で働いて喰っているからである。  彼女達はこの意味で新東京の新文化の表面と裏面とを同時に支配している。そこに最も自由な華やかさと、最も深刻な暗さとを刻み込んでいる。 不浄世界と紙一重  職業婦人が見た実際の世界……それは、吾家の忠孝仁義から他家の温良貞淑へ渡されることに慣れていた、在来の日本婦人の大部分が夢にだも想像し得ないものであった。  彼女たちは驚いたであろう。魘えたであろう。しかし、生活の鞭に追われて毎日毎日この社会に出入りしているうちに、彼女達は次第にこの不忠孝不仁義の気儘さに見慣れ、聞き慣れて来た。そうして、男と同様に社会に働く彼女たちには、矢張り男と同様に享楽する権利を与えられなければならぬ理由を認めた。  彼女たちが男性の弱点――もしくは裡面というものを真実に知り得るのはこの時代でなければならぬ。あとは只、これに共鳴するかしないかという紙一重の境目に彼女達は毎日毎日立たなければならなかった。  しかし、因襲的につつましやかな日本婦人の血を受け継いだ彼女たちの大部分は、幾度か迷いつつ踏みこたえた。  けれども又一方に、どうしても踏みこたえ得ない立場に陥ったのもあった。 堕落を早めた地震  彼女達職業婦人はどこに雇われたにしたところが、極めて低い階級に辛棒せねばならぬ。その収入や地位の向上はもとより、その首の切り継ぎまでも彼女達の上役の異性の手に任せねばならぬ。  しかもその上役には彼女達の手腕よりも、彼女たちの美を求むるものが多かった。  彼女達の中には、こうした余儀ない事情から、第二の職業を習いおぼえたものも少くなかったろう。否、職業婦人堕落の原因の中でも、こうした原因はかなりの重大さを持っていると見ていい。  しかしそのほかの光明界に踏み止まった職業婦人――即ち第一の職業だけで満足し、且つこれを一生懸命護り固めて来た若い女性たちの大多数が、遂にその暗黒と光明を隔つる紙一枚の境を踏み破らなければならぬ時が来た。  それは大正十二年の九月一日であった。  読者は記憶しておられるであろう。大正十二年九月一日の大震火災後一二ヶ月の間、東京市中に婦人の戒厳令が布かれた事を。勿論それは公式のものではないが、当局の達示によって自警団員が夜間婦人の外出を禁ずる旨を布告てまわった。 婦人への戒厳令 「新宿、品川、吉原等の遊廓は潰れた。その他の醜業屋も大部分は焼けてしまった。各券番は休業した。東京のあらゆる街々は、夜になると飢えた狼が横行するに任せてある……」  といったような風説、又は事実が口から口へ、又は新聞紙上にあから様に伝えられた。それ程に震災後の東京は飢えていた。この飢に堪え得たものは教育ある上流人士よりほかにない。否、その上流の男女があの震災後如何に身を護りかねて来たか……堕落して来たかは前に述べた通りである。況んや下層社会に住む職業婦人がどうして身を護り得よう。  ライスカレー一皿で要求に応ずる女が震災直後に居た事は前に述べた。その後東京市中の秩序が回復して来るに連れて、そのライスカレー一皿の価十銭が五十銭となり、一円となり、五円となって来たことは云う迄もないが、しかし、それは只高価になった迄の事である。野天で売買されなくなっただけであることは云う迄もない。 安飲食店激増の理由  震災後の東京で最も増加したものが飲食店と自動車である事も前に述べた。殊に飲食店は東京市中のすべての半町|毎に一つ宛位は必ずある。多いところは一町内の過半数が飲食店と云ってもいい位である。これ等の飲食店は一般東京市民の要求に依って出来たもので、市民と彼女達の仲介業者であった。結局、震災後の東京でその甚だしく増加した商売は、職業婦人の第二職業という事になる。  彼女たちは現在でもこうした安飲食店から、高級な処ではカフェー、洋食店にまで行き渡って第二職業を本職としているのが多い。  一方に復興の東京は彼女達職業婦人の多数を第一の職業に呼び返した。その上に更に夥しい新米の職業婦人を迎え入れた。震災の御蔭で第二の職業を知った職業婦人の多数と、まだ第一の職業しか知らぬ新米の職業婦人の多数とは、こうしてゴッチャになって東京の復興に努力し始めた。 震災後の淫風と生活難の誘惑  昔から大変災のあとに必ず吹き起る事になっている淫風は、蕩々として彼女達職業婦人を包んだ。第二職業の味を占めたものも、占めないものも、一様にポーッとなった。  更に、バラック都市のアクドイ色彩は、夜となく昼となく彼女達を刺戟した。着物道楽の流行で、震災前よりも一層デカダン式にリファインされた男性の姿は、彼女達を朝な夕な眩惑した。  第一の職業しか知らぬ新米の職業婦人は、次第に第二の職業を習いおぼえて来た。  そればかりでない。  震災後の東京に於ける生存競争が、震災前のそれよりも数層倍烈しく乱雑になった。弱い彼女たちを死に物狂いになるまでいじめ上げた。これも彼女たち職業婦人を堕落させる有力な原因となった。  時は金なり、金は生活也。生活の真髄は享楽なりという実際の証拠が、彼女達の眼の前に朝から晩まで走馬燈の如く廻転した。  時、金、生活、享楽――即ち物資文明の産物たる東京のバラック、イルミネーション、エレベーター、店頭装飾、そのようなものの間を駈けめぐる電車、自転車、荷車、汽車、オートバイの響は砂煙を上げ、天地に轟きつつ、まだ気の弱い、生れ立ての職業婦人たちの神経を戦かした。  自分の持っている限り無形の資本を、一日も早く有形の資本に易えて、生活の安定を得ねばならぬ、という事以外に彼女たちは何事もわからなくなった。その時に彼女達は、その持っている三つの資本、健康、美、あたまのうち、美がすべてに勝る資本である事を知った。全東京の男性は彼女達の美に飢えている事を知った。殊に彼女達の出世の直接原因となるべき上役、又は彼女達の保護者となるべき富豪を自由にするには、彼女達の美を提供するのが一番である事を知った。彼女達の「美」は彼女達の「頭」の良さを保証し、彼女達の「健康」と「勤勉」とをさえ保証する事を見慣れ、聞き慣れて来た。   ………連載一回分欠……… 堕落し立てのホヤホヤ 記者の友人甲「女なら今の東京だね」 記者の友人乙「どうして」 甲「どうしてだって、東京の職業婦人はまだ出来立てのホヤホヤだろう。そいつが又堕落し立てのホヤホヤと来ているから、面白いだろうじゃないか」 乙「という意味は……」 甲「頭がわりいな。第一、往来をあるいて、本物の職業婦人かどうかという事をめっけるのが面白いじゃないか。その次には、どんな風に渡りをつけるか。彼女達のブローカーはどこに居るのか。居れば店の中か外かという事を探し出すのが、又探偵小説以上の興味だぜ」 乙「フン、それだけか」 甲「どうして……これからさ。そこで彼女達い有り付くと、玄人ともつかず素人ともつかぬ新しい味わいがあるね。これが前芸で、だんだん深くなると、彼女たちは根が半玄人だからじきにまいって、あべこべに夢中になるのがある。そいつをからかう面白さったらないね。さもなくとも手堅い奴を口説き落して、何とかしてこちらに向かす。向いたら最後、こちらから引外して逃げまわると、半玄人の悲しさには、青くなったり、赤くなったりして追っかけて来る。そんなのを二三人持っていると、大いに青春の慌しさを感ずるね」 乙「どうも驚いた。君にそんな手腕があろうとは……」 甲「何が君。芸者や女郎とはたちが違うもの。君にその手腕がないので不思議な位なもんだ」 乙「いよいよ呆れたね」 甲「何んならお伴しようか。安値で清潔なところを……」 乙「ウン……」 堕落程度と相場  職業婦人の堕落程度にはいろいろある。  人間と名のつく以上、堕落の機会を持たぬものはないので、職業婦人は殊にその機会が各種各方面に多いが、ここには只売り物としての堕落方面を述べるに止める。  芸妓はあまり有りふれているから略するとして、その次にありふれているのは女給、女案内人、稍高級なところではモデル女、女優一切であろう。この種の職業婦人は、職業婦人と云えば云えるようなものの、そう改まった名称をつけなくともいい。女優は貴族的の気分で、モデル女は下宿にでも公然と来る点で、女給は安値な点で、又案内女はもっと安値な点で盛に売れている。相場は無論一定しないが、女給が二十円以下、案内女は十円以下と云ったら中らずといえどもである。普通の安いところを云えば、女給十円、案内女五円位でもあろうか。  十円位の相手で待合に五円乃至三円、花に二三円、合計二十円もあれば充分で、僅々十円乃至七円でも受け合われるという。この辺になると大分|通になる。  仮にも女優と名が付くと、女給業よりいくらか高い。モデル女と活動の案内女の話は古いからここには略する。 女優の券番は?  職業婦人の第二職業の紹介者、女衒、周旋人、又はブローカーといったようなものは名前を換えて色々いる。  女優と云えば、大抵活動や芝居のそれであるが、社長や所長、又は何々主任、専務なぞいうものに渡りをつけなければ、先ずお眼にかかれぬ――そのような仲介者への紹介者は、無論、金と友人である。  女優はそんな連中の命令? で、セットにでもローケーションにでも来る。時と場合では宴会の席上にも来るが、芸妓のように「アラチョイト」式の活躍はしない。如何にも芸術家然と気取っていて、先ず飾り物といった風である。その癖金のかかる事帝劇女優以上だと云う人もあるし、以下だと云う人もある。但、これは宴席の飾り物としての事で、第二次の御馳走としてのねだんは帝劇の以下だと聴いた。いずれにしても、将来、文化的の意義を以て益流行する事請合いである。  その中政府から勲章が下がるようになるかも知れぬ。 或る大カフェーの一例  女給のブローカーは店の番頭や帳場のお神、老女給なぞが受け持っているときいた。しかし実際に当って見ると、どれがどうなるのか一寸見当が付きにくい。  見当の付いた一例ではこんなのがある。それは浅草の或るカフェーである。  広い天井一パイの花や紅葉の間に昼夜輝く電燈の下を、十七八から二十歳前後の揃いも揃ったのが二十人程、友禅模様に白エプロンの結び目高やかに右往左往している。ここの女給は、ほかの処みたようにキャッキャとしゃべったり、笑ったりしない。皆伏し目勝ちにして、時たまニコリする位のことで、それが又特徴になっている。聞けばここの女給は或る限られた地方から、或る手段で連れて来て仕込んだもので、うっかり口を利かせると売れ口に関係するのだそうな。つまり顔と肉体美だけを見せ付ける方針らしい。  それかあらぬか、ここのお客には凄いのが多い。浅草辺のゴロ付き、隠れたる凄腕記者、何々団の壮士、札付きの主義者なぞが、あちらの机、こちらの椅子に陣取って、チビリチビリやりながら、用あり気に出入りのお客に眼を光らしている。  これに対して、店の入口の処にコック帽の男が一人、そのうしろの机に背広服が一人、帳場に禿頭一人、女給頭一人と居て、なかなか監視が厳重である。こんな処ではなかなか女給と直接交渉は出来ない。  ところで尚このほかに、今一人、背広に縞ズボンのリュウとした男がブラブラしていて、時々テーブルの傍へ来て、お客の顔を見ながらヒョコリとお辞儀をする。ニコリと笑うこともあれば、 「入らっしゃいませ」  とも云う。  この男を呼び付けて女給の番号を云うと、喰ってもいない洋食の勘定書を持って来る。又はお酒の代として、別勘定にして来ることもあるそうである。金を払うとすぐにその女給がテーブルに来るという。 奇妙な喫茶店  以上述べたのは東京の目抜の処の一例であるが、それ以外の低級な処へ行くと、こんな心配も気兼ねもいらぬ。極めて平凡で乱雑である。  大森、蒲田、その他東京の郊外、市内でも早稲田、下谷なぞのカフェーやバーに這入ると、真白なお化けが飛び付いて来る。椅子が無ければ、初めてのお客の膝の上にでもイキナリ腰をかけかねない。実に手軽い歓楽境である。  神楽坂のような震災後の目抜の処でもこの流儀のがある。お客はビールと豆位でいつまでも騒いでいるが、流石に女は酒を飲ませぬ事になっている。殊に十二時キッチリに店を締めるから、場末のように見苦しい事はない。但、このような店は、単に十二時以後に於ける、店以外の商売の取引場と見てもいい位のものである。  尚、特別の特別――かどうか知らぬが、記者の眼にそう見えたのがある。  一軒しかないのだから処は挙げられぬが、浅草か銀座かと思って頂きたい。或る狭い横町のカフェーに這入ったら、表の割りに内部は奇麗である。  狭い壁を全部、印度更紗模様の壁紙で貼り詰めて、床にはキルクが敷いてある。大理石の机が階下に二つ、二階には只一つある。その只一つの机の真ん中に、香り床しいクリサンセマムドワーフの鉢が、これも只一つ置いてあった。それから正面の壁に美人の写真の額が、これもたった一つかけてある。そこへ十四五の小娘が白いエプロンをつけてチョコチョコと出て来たから、紅茶とお菓子を命ずると、ハイと云って降りてゆきかけた。 「店にはお前一人かね」  ときくと、黙ってうなずいて降りて行った。記者は煙草を吸いながら考えた。  ……表は見すぼらしい――内部は見事なカフェー――小娘が唯一人――お客はあまりないらしい。それでいて場所は日本一である。これでどうして商売になるのかしら……。  こんな事を考えているうちに、小娘がお茶とお菓子を持って階段をソロリソロリと上って来たから、受け取って飲んで見るとなかなか上等のものである。菓子も※月か木村屋かと思われる。記者は小娘に聞いてみた。 「この店ではお料理もするの」 「イーエ、お茶とお菓子だけよ」 「お客がないね」 「……………」  小娘は無邪気に笑った。いよいよおかしい。  記者は正面の壁にかかっている美人写真の絵葉書を指して問うた。 「この写真は誰なの?」  小娘は又ニコリと笑った。 「このうちの姉さんよ」 「どこに居るの」 「知らない――」  小娘は笑いながら駈け降りて行った。  その額縁に立ち寄って見ると、その写真は額縁のうしろからさし込み式になっていて、表面のほかに四枚の美人写真があった。年頃は十七八から二十四五まで順々になっている。それからその額ぶちのうしろに電鈴が一つある。  記者は一寸考えてから、その電鈴を押して見た。  間もなく下から、立派な三つ揃いのモーニングを着た、四十恰好の苦味走った男が上って来た。 「いらっしゃいまし。毎度どうも……」  とお辞儀をして、記者の向う側に腰をかけた。あらかた様子を察した記者は、この男とこんな問答をした。 「僕は田舎ものでね。勝手がわからないが……」 「エヘ……恐れ入ります……」 「……………」 「……………」 「エー、どれかお気に召したのが?」 「どこに居るね?」 「エー、ここでは御座いませんので」 「どこだね……」 「エエ、いつでも御案内致します。エヘ、そのお気に召したのを御指名下されますれば、エヘ」  男の眼は早くも用心深そうに輝き始めた。  記者は失敗ったと思った。 「いつでもいいって!」 「左様で、ここにありますのならどれでも、エヘ……」 「これはどうだね」 「ヘエ。これは三十五円で……」 「半夜かい、終夜かい」 「半夜で、室とお料理だけが別で御座います。終夜だと今二十円お願い致しますので……エヘ」 「高価いな。じゃ、これは……」 「みな同じで御座います……」  男の眼はいよいよ警戒的に光って来た。  記者は社用の名刺以外に、或る特殊な名刺を持っていたので、よっぽどそれを出して見ようかと思ったが、さりとはと思い切ってここを出た。  その後、或る友人にこの話をしたら、 「それあ新発見だ。恐らく最高級の奴だろう。早速行って見よう」  と云った。記者が高価い事を説明して押し止めると、彼は高らかに笑った。 「アハ……。馬鹿な……。それあ出たらめだよ。君は体よく追っ払われたんだ」  然るにその友達もその後そこへ行って失敗したと見えて、帰って来るとすぐ記者に電話をかけた。 「君。駄目だったよ、あそこは。誰か紹介者がなくちゃ……君は例外らしいぜ……」 「そうかなあ……じゃ、名探偵だな、僕は……」 「馬鹿な……いい椋鳥に見えたんだろう」 文明病としての神経痛  女医、美容術師、マッサージ師、派出婦、助産婦、保姆、看護婦なぞは、大抵、何々会というものに付属しているが、この何々会に頗る怪しいのが多い。  九州地方の看護婦会の会長さんはよく云う。 「看護婦は奥さんの御病気の時に行くのを嫌がります。つい旦那様のお世話をさせられたりして、誤解を受けたりする事がありますので……どうも困ります」  東京はこれと正反対で、そんなところを撰んでつけ狙う。一方、お客の需要もそんなのが珍らしくない。独身男から、奥さんが病気だと、電話がかかって来るのもないと限らぬ。勿論、会長も看護婦もその方の収入の方がずっと大きい。  その他、子供の世話と名付けて保姆を、その他の仕事に家政婦や派出婦をといった風に、前の看護婦と同様の意味で営業しているのが、東京市中にかなりあるらしい。但、見わけはなかなか付かない。  今度、東京でいろんな新智識を得たが、その中でも面白いのは、マッサージ師の上得意で、神経痛という病気である。これは文明病の一種であるが、ちょっと医師にも素人にも見わけが付かないところに、一層文明病としての価値があるのだそうな。というのは、奥様が神経痛にかかって別荘に御祈祷師を呼び寄せると、旦那も又神経痛で本宅に女マッサージを出入りさせるというわけである。最近の神経痛は痛くとも何ともなくて、かかり易くてなおり易く、おまけに見分けが付かないという。便利な病気もあればあるものである。  但、これ等は、東京人の堕落時代に乗じて今更|流行り出した病気とは云えないかも知れぬが――。 恐ろしい看護婦  私立病院の看護婦に醜業婦同様のものが居る事は古めかしい話である。嘘か本当か知らぬが、看護婦に美人の多い病院は繁昌するという。又、病院の種類に依って、美人を必要としない病院もあるという。さもありそうな事である。  尚、これも余談ではあるが、こんな話を聞いた。  東京の女が如何に堕落しても、又はどんなに凄腕になっても、看護婦のそれ程深刻にはなり得ないであろう。言葉を換ゆれば、東京の婦人の第二職業で、看護婦程恐ろしい度胸を要するものはないであろうという。  看護婦さんは自分の手にかけた患者が死ぬとお悔みに行かねばならぬ。お手当によっては会葬もせねばならぬ。それが当り前に手にかけて当り前に殺したのならば何でもないが、何でもあるのに平気で遺族の前に行って、平気で涙をこぼさねばならぬ。これが普通の第二職業婦人には滅多に必要のない芸当で、この点だけは如何なる阿婆摺れでも看護婦さんの平気さに舌を捲くそうである。  知っていて損はあるまい。 真面目な職業婦人のグループの苦しみ  美容術師は看板や広告の意味で美人を仕込むので、特に上流向きに出来ている。しかし、有名なビルディングの美容術師の入口の大鏡の前に、絵のような美人がうつむいて腰をかけている姿を二三度見かけた。雑誌を読んでいたり、編み物をしていたりした。お湯屋の看板娘程度の意味か、それとも張り店式の意味のものかどうかは、考える人の考えようである。  こうした中を抜けつくぐりつ営業する真面目な職業婦人や、何々会なぞのやりにくさといったらないそうで、そんな不平は到る処耳に胼胝である。  尚、このほかに女流音楽家というのがあるが、これにはあまり別嬪が居ないそうで、手固いのも珍らしくない。手柔かいのでも、あまり民衆的ではないようだからここには敬遠する。  九州方面に特に音楽家崇拝者が多いために遠慮したものでないことを、特にお断りしておく。 第二職業の秘密程度  各種職業婦人の第二職業の秘密程度には何となく階級がある。  芸妓は秘密とはいう条、公然同様であるから略するとして、女給、家内女等を仮に第三級とする。但、これも公然といえば公然である。派出婦、美容術師、助産婦、看護婦なぞの第二職業は大分秘密の程度が高くなる。前の第三級に対して第二級とでも云おうか。尤もこの中で看護婦はほかのよりも有りふれているようだから別格かも知れぬ。  女事務員、女タイピスト、女医者、女薬剤師、女会計なぞいうのは、或る一面から見れば秘密程度が第二級よりも低いといえるが、眼先の新しい点では他の各級各種類のどれよりもすぐれている。つまり、その秘密ぶりがあまり知られていないから第一級とした。今の東京の暗黒面を最も深刻に、且つ不可思議な美しさで彩っているは、実にこうした職業婦人なのである。 「ナアニ、そんなに秘密でもなければ珍らしくもないよ」  と云う人があったら、その人は新東京人のチャキチャキである。それだけ東京人の堕落に対する批判の公平を喪っているものと見ねばならぬ。 白昼街頭の怪しい女のむれ  丸ビルの悪魔式少女団の話は早くも過去の夢になった。  彼女達の重立った者は、数名一団となって或る店に雇われていた。鉛の強いお化粧をコテコテと塗って、青い事務服を着て、店一パイの硝子窓の前に並んでカチャンカチャンとタイプライターを打っていた。その向うに四十代と二十代と二人の好男子が、リュウとした背広を着て、腰をかけて見張っていた。お客はあまりないようであった。  通りかかりの人が大勢、冷たい硝子窓に額や頬を押つけて、そのカチャンカチャンを飽かずに見ていた。  まだこのほかにも丸ビルには、彼女たちと似たようなお化粧ぶりの女がいくらもいた。  否、ここばかりでない。有名な駅の切符売場、郵便局の窓にも、問題の女がチョイチョイ居るのを見た。  銀座の或る菓子屋には、欧州風の部屋着の揃いに、揃いの頭、揃いの髪飾りの美少女が五人、輪を作って椅子に腰をかけていた。只それだけの役目らしく、お客が来ると男の店員が代って応対をした。  神田の某文具店の女店員は、鉛筆部、ノート部、帳簿部、万年筆部といった風に受け持ちがあって、勘定一切の責任を負うている。仕事は親切で態度も慎ましやかである。しかもそれが化粧は揃いも揃って夜の光線向きで、一見怪しい女だと思わせられた。  某大百貨店と某大呉服店の女店員が平均十円程度の売り物である事は、上流の貴婦人にもかなり知られているらしい。  これに対抗して銀座の或る大ビルの事務所では、事務員に東京生れの醜婦ばかりを集めているとこの頃聴いた。事実とすれば、東京人の堕落に対する一種の裏書とも考えられる。 近代式挑撥的化粧法  この式に見てまわると、東京市中美人ならざるなしである。殊に最近、印象派とか、表現派とかの絵が極めて通俗的に流行するようになったので、女は皆お化粧が上手になって、美人でなくとも挑撥的には見える化粧法が発達して来た。この傾向は第二職業を持つ婦人に特に有利で、そのためか東京市中の女が特に毒々しく引立って見える。結局、純然たる第一種の職業婦人に見える女性でも、その化粧ぶりを見ると、あらかたこの女はと思える事になった。  第一種職業婦人式第二種職業婦人は、かように到る処に居るには居るが、慣れない者には猿猴が月で手に取る方法がわからない。  但、この道の通人を友人に持っていれば訳はない。どこのタイピストはどこの煙草屋のおやじが世話をしている。どこの女店員はどこの桂庵が一手販売だ。あそこの工女は何というゴロツキの縄張りで、どこの缶詰屋で切符を売っているなぞと、わけはない。 専門又はデパート式別嬪屋  京橋|木挽町の或る大建築の前の缶詰兼洋酒類煙草屋は、震災前、海軍大学その他、高等海員向きの女の世話をするので通人間に知られていた。今もあるかどうか知らぬが、こんな風に職業婦人を紹介する処が、今では東京市中到る処にあると云っていい。どこの工女とか、女店員とか専門のもあれば、お望み次第のデパート式もポツポツある。そこで一度顔なじみになれば、別の専門へ紹介してくれるのもあるそうな。  線香、席料なぞは芸妓と似た組織で、もっと手軽で安値で自由であると思えばいい。勿論、ここに述べた第二級、第三級の職業婦人も同様である。このほか、カフェーや料理屋の密室組織もあるが、古めかしいから略する。  友人の紹介でこんな処に行くのは、安心であるが興味が薄い。勇敢な連中は新しい処を新しい処をと探す。今一歩進んで直接交渉や街頭の奇襲、又は家庭訪問などと出かける英雄もいる。その結果、田舎者と同様の失策をやる事が珍らしくない。 あとをつけたら警察署長官舎へ  カフェーで飯を喰っているうちに、これは素敵と見当をつけてあとをつけたら、電車に乗って山の手へ来た。その降り口の交番の巡査がその女に敬礼をしたから、これは珍だとついて行ったら、或る門構えの家へ這入った。どうも変だから最前の巡査にきいてみたら、「あの家は警察署長の官舎です」……。  マッサージをやる美人後家の下宿をねらって這入ったら、奥の間に脊髄病の入れ墨男が居て、その後家を女衒の手先に使っていた……。  さる三人の女タイピストが居る会社に定宿直をする四十男が眼付きの怪しいところに見当をつけて、夕方その男を電話で呼び出してタイピストの世話を頼んだら、「すぐにお出なさい」と云った。行って見たら危うくなぐられそうになって、命からがら……。  ……なぞと嘘か本当か限りもないが、この辺で略する。  成功談も無論ある。バラック都市の人々は、寄るとさわるとこの種の新発見の話ばかりしている。しかし、あんまり紹介すると一種の奨励になるから、その中でも最も新しい、且つ事実に相違ないところを綜合して二三紹介する。 素晴らしい秘密の一夜  嘗て、丸ビルの靴磨きが女事務員のブローカーである事が某雑誌で素ッ破抜かれると、そのおやじは早速消え失せた。しかし、そのあとが決して消滅した訳ではない。石川や浜の真砂と同じ事である。  但、靴磨きだけは、その後、或る種の恐慌を感じたという。  ずっと前の項で秘密画売買の件の中に、普通の美人写真の絵葉書ばかり持っているのがあるとだけ書いておいた。その大道で秘密に売る普通の美人絵葉書は、大抵一枚七八円から四五円迄ある。黙ってこれを買うと、向うから時間と場所を云う。終夜か半夜かと聞くものもある。聞かぬのもある。  そこへ出かけると、表はつまらぬ家だが、裏には一寸した室が二つか三つ以上ある。そこに控えていると、約束に一分違わず、最前買った絵葉書の主が出て来る。  喰い物や飲みものは出前で取る。火鉢、座布団、その他は、その家から賃借りをする。気の利いた処になると、床の間の掛物、屏風、机、電燈の燭光まで金ずくで、相手が美しいと、総計三十円も奮発すればとても素晴らしい一夜が明かせるという。飽く迄もバラック式の文化式である。 第二職業婦人仲介業いろいろ  この手の商売が絵葉書屋にもある。  記者は東京市中の秘密出版物の景況を探る目的で、絵葉書屋を見当る毎度に飛び込んで、 「男の裸体の絵葉書はないか」  ときいてまわった事がある。その返事は大抵、 「御座いません。その筋が八釜しいので」  という意味のものであった。そこで女の裸体の絵葉書を出していろいろ話していると、秘密画を出して見せるところもあるが、前に説明した高価な美人絵葉書を出して見せるところもある。  大道の美人絵葉書売りと違って、店で売るのは種類が多いのが通例である。 「これは特別のですが、如何様で……」  とニヤリと笑う。人が見ていても、価格さえ聞かねば、普通の絵葉書と変りはないのだから便利である。  気に入ったのがあれば、そこで協商が成立する。時間と場所を聴いて、金を払っておきさえすれば、決して間違いはない。  中には、かような絵葉書屋で、裏二階や何かを利用して待合兼業でやっているのもあると聞いた。  まだある。 到る処の怪しい家  東京市中にある各種のホテル又は宿屋等で、宿屋は宿屋としてチャンと商売していながら、兼業に怪しい男女を泊めるのが大変多い。そんなので通人仲間に名の知れた手堅い? のに泊まって、番頭とか支配人を呼んで頼めば直ぐに電話をかけてくれる。しかし、そんな処へ行くのは、どちらかと云えば平凡な組の通人だそうな。  まだある。  東京市の郊外、又は東京市内のちょっとした横町、又は坂道や高台の近くの見晴らしのいい処に、宿屋ともつかず下宿屋ともつかぬ家がよくある。有り体に云えば、同伴客昼夜宿泊所又は仲介業とでも云うべきで、東京市中にいくらあるか知れぬ。夫婦者で、表に「精進上げ」なぞを並べて、二階二間位を使ってコヂンマリやっている式に到っては数限りなかろう。  但、この程度まで来ると強ちに職業婦人に限ったわけでなく、又震災後に限ったわけでもない。昔から東にあり来りで、それが最近に到って急にふえたまでのことである。  この式の宿屋に出入りするものは、良家の子女、純職業婦人はもとより、駈け落ちもの、出来合いものの数をつくして自由自在である。  東京人の堕落時代は、こうしてあらゆる方面に色彩を深めて行く。 下層社会 安飲食店の女  東京の上流社会の紊乱は既に書いた。中流社会の堕落と認められている職業婦人の堕落も、以上述べる通りである。  そんなら下層社会はどうか。  下層社会の堕落の対象は、大体に於て所謂低級な醜業婦、即ち単純な意味の職業婦人である。どちらかと云えば何等の仮面をも冠らぬ。――初めから醜業婦として客を招く女である。  この方面に関する記者の報道は極めて簡単で済む。東京市中到る処魔窟ならざるなしという一語で済む。  天麩羅、おでん、すし、一ぜんめし、酒肴、一品洋食、支那料理、簡易食堂、平民バーといったようなのが東京市中到る処にある。その中の十中八九は怪しいと云ってよい。ほんの申訳に食器や空瓶を並べたのが、どうかした横町に行くとザラにある。そこには必ずその白い頬と唇の赤い女が居る。  何々紹介所、又は周旋所、口入所なぞ看板をかけたのもある。中に這入ると粗末な椅子やテーブルがあって、変な男が出て来て応対をする。何も知らずに世話を頼みに来た男女は、大抵一円か五十銭か取られて追払われる。それっ切りである。しかし、案内を知って来た男は奥や二階に通されるという仕かけである。こんな処のは、飲み喰い抜きの切り売りが多い。 安価な食欲と性欲の共同提供  東京市中がこんな浅ましい状態になった原因が、取りあえず二つある。一つは云う迄もなく一昨年の大地震である。  あの大地震は東京市中の到る処に安飲食店をゆすり出した。同時に東京市中にありとあらゆる女のクズをたたき出した。  喰い飢えた東京人、女に渇いた東の男は、滅多無性に安い食物と安い女を求めた。  職を失った人々は何という事なしに手軽な飲食店を開いた。中には一攫千金を極め込んだものも居る。同時に途方に暮れた弱い女たちは、何故という事なしにその唯一の財産を大道に晒して売らなければならなかった。彼女達の場合は、最初、野天が多かった。併し後になって、この二つの商売……安価な食欲と性欲の提供業は期せずして共同した。そうして今日までズーッと繁昌して来た。その当時と今の違うところは、その間に著しい価格の階級が出来ているだけの事である。 飛んだ紀の國屋文左衛門  昔、紀の國屋文左衛門は、江戸の大火と見ると、すぐに木曾に材木を仕入れに行ったという。大正の大震火災では、東京が灰燼になったと見ると、一目散に東京を飛び出して、五人十人二十人三十人と醜業婦を仕入れて帰って来て大金儲けをしたものが多い。  相生署の某刑事は云った。 「大抵は芸者にしてやるからと云って連れて来たのが多いようです。勿論、芸者にはしません。非道いのになると、四人の少女を一人一人一室に監禁して、便器と枕と布団だけ宛がっていたのもあります。稼がなければ喰わせないのだから堪まりません。経験のある女を仕入れて来た奴の中には、富豪の邸の焼けあと、空虚になった工場の中などで切り売りをさせたのもあったそうです。私はこの頃東京に来たので事実は知りませんが、先輩がそんな話をしておりました。遠いのは東北から越後方面から連れて来たのもあったそうです。何しろ震災後今日まで、警察の方でも仕事が多過ぎて手のつけようがないので、仕方なしにポツリポツリとやっている状態ですから、そう隅々まで行届きますまい。風紀の取締なんかは当分ほったらかしておくつもりらしいのです。怪しい処を一々手を入れていたら際限がありませんからね」  云々と。以て推して知るべしである。  一方に、震災当時の有様を今日まで残している処もある。去年の秋あたり、日比谷、上野、小石川のバラックの裏手を夜十二時過ぎに通ると、そこにもここにも怪しい男女が蠢めいていた。その付近は真面目な男女が通れなくなっている位であったという。  東京郊外、川向うの深川、本所、向島、亀井戸あたりの暗から暗に続く木立の中や、バラックの空隙がどんな状態であったかは読者の想像に任せる。  この冬の寒気はこの風俗をその筋の取締以上に厳重に禁止した事であろう。しかし追々と近付く春のぬくみは、又もやこの醜態を東京市の内外に復活するであろう。 東京は文明国の都市か殖民地か  東京市内に於ける魔窟大繁昌の第二の原因は極めて皮肉で面白い。即ち震災を機会として試みられた当局の「私娼撲滅」である。 「公娼私娼の存在は文明国たる日本の恥辱」といったような議論をよく聴かされる。救世軍、婦人矯風会、その他の宗教関係の人々、又は或る一派の社会政策研究者、人道論者等のそれがそうである。  このような人々はよく外国の例を引くようである。 「外国の都市には私娼も公娼も無い。それでいてチャンと風紀が保たれている。公娼私娼を置かなければ遣り切れないような国民では駄目だ」  というような説さえも耳にする。  一方に、海外の殖民地を見て来た人なぞには、よく日本の娘子軍の威力を賞め千切る人がある。 「彼女達の魔力は無人の野山を見る間に都会にして終う。これを以て見れば、東京から吉原や千束町を除くものは東京の繁昌を呪うものだ。醜業婦は都市の繁昌のため欠くべからざるものだ」  なぞ云う人もある。  この二様の議論のどちらが怪しかるか怪しからないかは、人々に依ってそれぞれ意見があるであろう。  論より証拠、当局が東京第一、否、日本第一の魔窟浅草の千束町をたたきつぶした結果を見ればわかる。 醜業窟撲滅の結果  私娼は撲滅すべきものである。  人身売買のあらわれである。  青年堕落の直接原因である。  病毒の巣窟である。  曰く何、曰く何……。  東京の浅草千束町――詳しく云えば千束町の一部と猿之助横町の一画全部、三町四方に蟠かまる三百余軒の醜業窟六百余人の醜業婦は、このような理由で久しい間狙われていた。  しかし震災前までは当局でもどうする事も出来なかった。浅草区役所の収入の大部分が、彼女達の納むる税金で持っていたためだと皮肉る者もあった。  それが震災と同時に不許可を申し渡された。記者の勘定するところに依ると、現在では十三軒の果物、菓子店があって、お化粧をつけた女の姿がチラホラしているだけである。もし彼女たちが醜業をすると二十九日間の拘留に処し、写真を撮って所払いにする……こうして取締っていると処の警察では威張っている。  誠に大英断である。否、誠に結構な「試み」である。しかしその結果はどうか……。  東京市内付近へかけて八方に散った千束町の醜業婦は、その行く先々で醜業をやっている。 浅草券番の出現  浅草では同時に六百人を包容する券番が許可された。  この券番許可の裡面には、千束町の繁昌に依って存在していた或る二つの勢力、二百名の新生会員と百名の大成会員が大々的の暗中飛躍を試みた。新生会の方は千束町の撲滅に対して正面から反対して、飽く迄も昔の千束町を復活させてもらうべく運動をした。これに対して大成会の方は早く見切りをつけて、代りに券番の許可を出願した。そうしてその又裡面には、魔窟の中を横行していた公園ゴロが必死の活動を試みた。大和民労会の五六十名、河井徳三郎や高橋金次郎の乾児なぞが血眼になったという面白い来歴があるが、古い話だからここには略する。  こうしたヤッサモッサに対して、その筋は断乎たる方針を取った。そうして大成会の券番設置運動に対して最後の栄冠を与えた。この当局の措置に対しては、怪しかるとか怪しからぬとかいろんな噂もあるが、要するにその筋では最穏健な措置を取ったつもりらしい。 一円五十銭から七八円の女を求むる者が大多数  この浅草の大券番設置出願の本当の理由は、今までの千束町の女を利用する目的でなかった。各地から新しい職業婦人を輸入して、千束町に代るべき頽廃気分を作るためであった。又、そうでなければ当局が許可する筈もなかった。  しかしその結果が可笑しな事になった。東京市内の遊蕩児の相手になる女は、全体から見て却って増加した事になった。つまり浅草では、六百人の女がタタキ散らされたあとに、又六百人の女が公然備え付けられた事になった。  しかもそれ許りに止まらぬ。  浅草は震災前から特別な処である。しかも震災後、各種の興行物や飲食店なぞが作る、所謂浅草気分は数層倍濃厚になった。これに吸い寄せられて来る人々も震災前に数倍した。  ところで浅草気分に浸りに来る人々は皆、或る種の欲求を持って来る人々である。その欲求の大部分は芸者では満たされない。一円五六十銭から七八円の女を求めて来る者が、二三十円から四五十円の女を求めて来る者よりずっと多いのは無論である。  こうした低級な享楽的要求に満ち満ちた浅草界隈に、こうした低級な享楽気分を売る店が出来るのは当然である。券番だけで足りないのは当り前である。事実、浅草の千束町が潰れると、浅草全体が千束町となった。もっと華やかな、もっと濃厚な、そうしてもっと広い区域になった……と知るや知らずや、その筋のお役人は、千束町のあとに並んだ果物屋だけを勘定して、浅草は廓清されたと云っている。  それだけならまだいい。 醜業道の奨励、宣伝、講習のためその筋の鞭に追われて  吉原の遊女は震災前より約一千人程減った。おまけに千束町が潰れた。  一方に、東京市民の淫蕩気分は弥が上に甚だしくなって来る。どこかにセリ出されねば納まりが付かぬ。  ところで、千束町に居た六百人の私娼はどこに行ったかと云うと、亀井戸、柳島、玉の井、尾久の方面に固まって逃げ込んだ。そのせいか、震災後のその方面の繁昌は恐ろしい程だという。  御存じの方は御存じであろうが、警察官やその方面の営業者の話に依ると、千束町の女は日本全国のどこの女にもない特徴を持っている。何という事はなしにお客を引きつける力を持っている。その代り一度千束町に落ち込んだ女は、永久に醜業を止めようとしない。この傾向は一般の醜業婦にもあるが、千束町のは特別だという。  こうした特徴を持つ千束町の女が逃げ込んだ処の女たちは、皆非常に刺戟された。イヤでも腕を研かなければならなくなった。一方にお客の方でも、なじみであるなしにかかわらずそんな方面を撰んで押かけて、そんな女を奪い合って遊ぶようになった。何の事はない、千束町の女は、醜業道の宣伝と奨励と講習のため、その筋の鞭に追われて、東京市内外の各所に派遣されたようなわけになった。 何百何千の女の祟り  記者は私娼公娼の廃絶論に満腔の敬意を払うものである。同時にその議論が事実上常に裏切られつつある事を悲しむものである。  東京の千束町を只一ヶ所たたき潰したために、東京はその何層倍の呪いを受けている。この上吉原まで潰したらどんな事になるかわからない。  宗教上、道徳上、社会政策上、又は単なる体裁上、私娼公娼の存在に反対する人々は大切な事を忘れている。女というものは殺すと化けて出るものである。況して、何百何千の無恥無教育の女の生業を奪うような事をしたら、どれ位祟られるかわからない。  目的は要するに一般の風俗の改善である。この目的が達せられない限り、私娼公娼の絶滅論は考えものである。本を忘れて末に走った議論である。或る一時の人気取りの議論であると云われても仕方があるまいと思われる。  これは議論に対する議論でない。  議論に対する事実である。  東京人の堕落時代が明瞭に証拠立てた事実である。 不良少年少女 東京に行きたがる子女 「東京に行きたい」と、あこがれ望む少年少女は、天下に何人あるかわからぬ。その子女を東京に遣っている父兄、又はこれから東京に遣ろうとする親達も現在どれ程あるかわからぬ。東京は若い国民の教育の中心地である。同時に少年少女の魂の華やかな自由境である。殊に地方に在る子女が、監督者の手を離れ、知人朋友の注視から逃れて、腹一パイに新しい空気を吸いに行く処である。  そこの空気が如何にみだりがわしく汚れているか。如何に甘い病毒に満ち満ちているか。殊に最近の腐敗が如何に爛熟を極めているかを描く事は心ない業でなければならぬ。  しかし止むを得ない。  記者はそのような人々のために特に慎重にこの筆を執らねばならぬ。出来る限り露骨に真相を伝えねばならぬ。 不良性と震災後の推移  清浄無垢な少年少女の空前の不浄化は、東京人の堕落の中でも最も深刻な意味を持っている。  不良少年少女の激増は、東京人の堕落時代を最も深く裏書するものである。その時代相は日本文化の欠陥そのものを指さし示している。そうしてその堕落ぶりは、将来に於ける日本民族の堕落ぶりを暗示しているものと考えられねばならぬ。  不良という意味にはいろいろある。喧嘩や恐喝をやる式、泥棒や万引きをやる式、女をたらす式、又はこれ等をまぜこぜにやる式と、大体に於て四通りある。尤も不良少女の方は喧嘩はやらぬ。やっても掴み合わないからわからぬ。しかし恐喝以下は皆やる。  震災前の東京の不良少年には、喧嘩、恐喝の傾向が漸次減少しかけていた。浅草あたりで初心な少年少女を脅かして金を捲き上げるために、喧嘩を吹っかけたり、短刀を見せたりするのがある位のものであった。それ以上の乱暴や無鉄砲を働くものは、壮士か不良青年に属すべきものであった。それが震災直後には急に殺伐になった。  自警団やその他のやり口にかぶれたものかどうか知らぬが、団体を組んで長い物をふりまわしたり、又は焼け残りの刀剣類を荷いだりして喧嘩をしてまわった。 殺伐から淫靡へ急変  この時代は東京市中の混乱時代で、取締りが不行き届きであったため、一層彼等は乱暴を働いた。方々の焼け野原でよく乱闘が行われた。そのほか、個人的に兇器を持ったり、棒を持ったりして衝突してあるいた奴はどれ位あるか知れぬ。  東京の不良少年がこんなに乱暴になったのは、明治初年以来の事だそうな。日清戦後当時、一時気が荒くなったが、これ程ではなかったと警視庁では云っている。  あまり甚だしいので、警視庁令で三寸五分以上のものを所持する事を禁止したが、これはかなり効果があったという。  この殺伐な傾向は間もなく脅迫、泥棒、掻っ浚い式に変化し、続いて急激な速度で淫靡な傾向とかわって来た。  その淫猥化の速かさ、深さ、広さは真に驚くべきものがあった。殊に昨大正十三年の春から夏へかけては、その絶頂に達したかと思われた。 不良性は如何にして地方に伝わるか  どこでもそうであるが、不良少年少女の活躍が最も眼に立つのは春から秋へかけてである。そうしてその活躍の影響が地方に及ぶのは、夏と冬と春の休暇後である。殊に冬の間は、表面上不良性の潜伏期であると同時に、内実は蔓延期であるらしい。東京の不良性を受けた者が、冬と春の二度の休暇に帰って来て、地方の子女に直接に病毒を感染させる時季であるらしい。  昨年の夏から秋へかけての東京の子女の不良ぶりが、吾が九州地方の少年少女に如何に影響しているかがわかるのは今からでなければならぬ。その病的傾向は各地でこの春に芽を吹き、来るべき夏に全盛期を見せ、秋に到って固定するというのが順序である。  新東京の堕落時代……あの大震火災の翌年、即ち大正十三年度中に見せた東京人の腐敗堕落が、如何に地方に影響しているかがわかるのはこれからである。 青春の悩みと社会  少年少女時代には先祖代々からの遺伝がみんな出て来るという。  獣のような本能、鳥のような虚栄心、犯罪性、残虐性、破壊性、耽溺性などいうのが下等の部類に属するのだそうである。上等の方では事業欲、権勢欲、趣味欲、研究心、道徳心、宗教心、英雄崇拝心なぞいずれも数限りない。  この中で下等の方は堕落性、上等の方は向上性とでも云うべきものであろうが、今の社会ではこの向上性をも一種の危険性と認めて、この堕落性と共に不良性の中に数えている場合が多い。少年少女がこんな性質を無暗に発揮してくれると、教育家は月給や首に関係し、父母は面目や財産に関係し、当局は取締に手古ずるからであろう。  要するに、今の社会が少年少女の不良性とか危険性とか名づけているものは皆、若い人間の心に燃え上る人間性に外ならぬ。  或る哲学者はこの時代を人間の最もキタナイ時代だと云った。又或る者はこの悩みを世界苦とも名づけた。  この青春の悩みを煎じ詰めると、芳烈純真なる生命の火となって永劫に燃えさかえる。この世界苦を打って一丸として百練千練すると、人類文化向上の一路を貫ぬく中心力が生れるという。しかし、そんな事を体現したり、指導したりするような、物騒な教育家は居ないようである。  だから、彼等少年少女は、自分勝手に迷い、疑い、悩んで行かねばならぬ。何か掴みたいとワクワクイライラしながら、夢うつつの時間を過ごさねばならぬ。だから、ちょっとした事でも死ぬ程亢奮させられる。 大人の堕落性の子女に対する影響  かような少年少女の悩みに対して、日本人の大人はどんな指導を与えて来たか。どんな模範を示して来たか。  彼等少年少女の宗教心、道徳心、芸術心、野心、権勢欲、成功欲等のあこがれの対象物である宗教家、教育家、芸術家、政治家、富豪等は皆、その誘惑に対する抵抗力が零であることを示して来た。  彼等偉人たちは、すこし社会的に自由が利くようになると、ドシドシ堕落してしまった。豪い人間は皆、堕落していい特権があるような顔をして来た。えらいと云われる人間ほど、破倫、不道徳、不正をして来た。  それを世間の人間は嘆美崇拝した。そうして、そんな事の出来ない人間を蔑み笑った。つまらない人間、淋しいみすぼらしい人間として冷笑した。  そんな堕落――不倫――放蕩――我儘をしたいために、世間の人々は一生懸命に働いているかのように見えた。  この有様を見た少年少女は、えらいという意味をそんな風に考えるようになった。成功というのは、そんな意味を含んでいるものと思うようになった。日本中の少年少女の人生観の中で、最も意義あり、力あり、光明ある部分は、こうして初めから穢された。その向上心の大部分は二葉の中から病毒に感染させられた。  彼等少年少女の心は暗くならざるを得なかった。その人生に対する煩悶と疑いは、いよいよ深くならねばならなかった。  今でもそうである――否、もっと甚だしいのである。 教育に対する少年少女の不平と反感  一方に、こうした彼等の悩みを、今日までの教育家はどんな風に指導して来たか。  現代の教育家は商売人である。  だからその人々の教育法は事なかれ主義である。  その説くところ、指導するところは、昔の野に在る教育家の、事あれ主義を目標にした修養論と違って、何等の生命をも含まぬものばかりであった。そうして、哲学や、宗教や、主義主張、又は血も涙も、人間性も……彼等少年少女の心に燃え上るもの一切を危険と認めて圧殺しようとする教育法は、あとからあとから生れて来る少年少女の不平と反感を買うに過ぎなかった。  彼等少年少女の向上心は、これ等の教育家の御蔭で次第次第に冷却された。現代の日本の教育家が尊重するものは、どれもこれもいやな不愉快なものと思われて来た。残るところは堕落した本能ばかりである。彼等少年少女は、そのような心をそそるものばかりを見たがり、聞きたがり、欲しがるよりほかに生きて行くところがなくなった。  幸いにして堕落しなかった者は、持って生れた用心深さや、気の弱さ、又は利害の勘定に明らかなために、只無意味にじっと我慢しているに過ぎない。  今から五六年前までの教育及社会対不良少年少女の関係はこんな調子になっていた。 全人類の不良傾向  ところが、この事なかれ式の圧迫的教育法が、最近数年の間に大きなデングリ返しを打った。  理窟詰めの禁欲論、味もセセラもない利害得失論で少年少女の不良性を押さえつける事が不可能な事を知った学校と社会とは、慌てて方針を立て直した。正反対の自由尊重主義に向った。  この傾向には過般の欧州大戦が影響している。  欧州大戦は民族性や個性の尊重、階級打破、圧迫の排斥なぞいう、いろんな主義を生んだ。それは皆、今まで束縛され、圧迫されていたものの解放と自由を意味するものであった。  世紀末的の様子や主張、ダダイズム、耶教崇拝、変態心理尊重等いう、人類思想の頽廃的傾向がこの中から生み出されて、更に更に極端な解放と自由とを求むる叫びが全世界に漲った。 「自分の権利はどこまでも主張する。同時に何等の義務も責任も感じないのが自由な魂である」  というような考えが全人類の思想の底を流れた。  このような思想は不幸にして、人間の人間味を向上させるためには無効力であった。却って不良性を増長させるのに持って来いの傾向であった。全人類の享楽性はここから湧いた。 学校と父兄が生徒に頭が上らぬ  日本人の頭は何等の中心力を持たぬ。「正しい」とか「間違っている」とかいう判断の標準を持たぬ。「善」とか「悪」とかいう言葉よりも、「新しい」とか「古い」とかいう言葉の方がはるかに強い響を与える。  そこへこの世界的不良傾向が流れ込んだからたまらない。  政治、宗教、芸術、教育方面には特に著しくこの傾向が現われた。昇格問題や徴兵猶予、又は無試験入学に関する各種の運動、又は官私立の区別撤廃といったような叫びが起った。  自発的教授法、自由画、自由作文、児童の芸術心を尊重するという童謡、童話劇、児童劇なぞが盛に流行した。何事も子供のためにという子供デーなぞが行われた。「子供を可愛がって下さい」というような標語が珍らし気に街頭で叫ばれた。  それまではまだ無難である。  尋常一年生位が遅刻しても、 「まだ子供ですから」  という理由で叱らない方針の学校が出来た。大抵の不良行為は、「自尊心を傷つける」という理由で咎めない中学校が出来始めた。  親が子供を学校にやる時代から、子供が学校に行ってやる世の中になりかけて来た。  先生が生徒に頭を下げて、どうぞ勉強して下さいという時代に変化しかけて来た。  学校へ行くという事のために、子供は親にいくらでも金を要求していい権利が出来そうになって来た。同時に服装の自由はもとより、登校の自由、聴講の自由までも許さなければ、学校の当局がわからず屋だと云われる時勢となって来た。 東京に鬱積した不良性  金取り本位、人気取り専門の私立学校や職業学校、又はその教師たちは、先を争ってこの新しい傾向に共鳴した。前に述べた各種の運動でねうちを削られた官立の諸学校も、多少に拘らず、こんな私立学校とこんな競争をしなければならぬというような気合になって来た。  学生の自由は到る処に尊重された。無意味に束縛されていた人々が、今度は無意味に解放されるようになった。  その結果は、益男女学生の自堕落を助長するのみであった。  若い人々に無意味の自由を与えるという事は、無意味に金を与えるのと同じ結果になる。いい方に使おうとしないのが大部分である。  最近の日本の無力な宗教家、道徳家、政治家、教育家及一般社会の人々は、総掛りで少国民の向上心を遮った。堕落の淵に落ち込むべく余儀なくしてしまった、と云っても過言でない。  そうして、この傾向の最も甚だしかったのは震災前の東京であった。  都会の少年少女は取りわけて敏感で早熟である。就中東京の少年少女は最も甚だしい。東京人がその敏感と早老を以て誇としているように、少年少女もその早熟と敏感とをプライドとしているかのように見える位である。  彼等少年少女は逸早くこの世紀……〔以下数行分欠〕……  性教育の必要はその中から叫ばれ始めた。これは解放教育の結果がよくないのを見て、まだ解放し足りないところまで公開せよ、そうしてあきらめをつけさせろという議論である。  ところへ過般の大地震が来た。解放も解放……実に驚天動地の解放教育を彼等子女に施した。   ………連載一回分欠……… 男女共学と異性の香  震災後、東京の各学校の大多数は、一種の男女共学を試みねばならなかった。  焼け出された女の学校が、男学校の放課後を借りて授業を続けた。倒れた学校の男学生が、女学校の校舎を借りて夜学をしたなぞいう例がいくらもあった。  これがわるかったと警視庁では云う。  都会の子女は敏感である。彼等は、僅の時間を隔てて同じ机に依る事に、云い知れぬ魅惑をおぼえた。そこに残る異性の手すさびのあと、そこにほのめく異性の香はこの上もなくなつかしまれた。そこに落ちている紙一枚、糸一筋さえも、彼等には云い知れぬ蠱惑的なものに見えた。殊にその校舎の中の案内を知ったという事は、その子女の不良化に非常な便宜を与えたという。  こうして彼等はその異性の通う学校に云い知れぬ親しみを感ずるようになった。そうした男女共学が止んでも、その魂はその校舎の中をさまようた。その筋に上げられた子女、又は記者と語った不良少年で、この心持ちを有りのままに白状したものが珍らしくない。 地震後の学校のサボの自由  男の学校を借りて男の生徒を教育したのにも弊害が出来た。  午前、午後、夜間と引き続いて教授をしたところなぞは殊にそうであった。  そうした学校の付近の飲食店やミルクホール、カフェーなぞは不良学生の巣窟となった。午前中から来る学生は、放課後そんな処に居残って、午後に来る少年を待ち受ける。夜間に来る不良生徒は、早くから来て飲み喰いをしながら、純良な美しい少年を引っかけようと試みる……といった風で、どちらにしてもいい事は一つもなかった事も原因している。  そうしたさなかの事とて、学校当局はもとより、父兄側の取締の不充分であった事も勿論であった。  このような一時|間に合わせの授業が、校舎の都合や教師の不足等のため、授業開始や放課の時間を改めたり、又は場所を換えたりするのは止むを得なかった。  そのために生徒は何度も面喰らわせられた。うっかりすると真面目な生徒にでさえも、この頃の課業はいい加減なものだという感じを抱かせた。  一方、父兄も共に、子女が「今日は学校は午後です」とか、「今日は午前です」とか、「学校がかわったから」とか、「一時休みです」とかいうので、かなり間誤付かせられた。  このような事実は、なまけものの生徒にとって、この上もない有り難い口実であった。震災後の、万事に慌ただしい、猫の眼のようにうつりかわる気分に慣れた父兄は、わけもなく胡麻化された。日が暮れて帰って来ても、「今日は課業が夜になっちゃって」と済ますことが出来た。  こうしたエスの自由が、どれだけ学生の堕落性を誘発したか知れぬ。 吹きまくる不良風  震災前、東京には各種の学校が、著しい増加の傾向を示した。  私塾程度のものから、半官立と云っていいもの、又は純然たる官立のものまで、あらゆる階級と種類がミッシリと揃った。そのために官立は真面目なもの、私立はズボラなものという、昔の区別が曖昧になって来た。  同時に、私立に通う男女生徒の服装に、官立と見分けのつかないのが殖えて来た。殊に私学の権威が高まったこと等は、一層、この官立の真面目さと、私立の不真面目さを歩み寄らせた。  男の生徒では、私立の職業学校生徒も、官立の生徒も、睨みの利き方が同等になって来た。女学生では、私塾の生徒も、大きな学校の生徒も、幅の利け方が似寄って来た。  官立も、私立も鳥打帽が大流行で、職業婦人の卵も、賢母良妻の雛っ子も、踵の高い靴を穿いた。  取締のゆるい学校生徒が、厳重な学校生徒を恐れなくなって来た。  こんなのが震災後ゴチャゴチャになって、時間を隔てた――又は隔てない共学をやった影響がどんなものであるかという事は想像に難くない。  不良風はその後|益増加した各種学校の官私立を隔てずに吹きまくった。驚くべく悲しむべき出来事が到る処に起った。 家庭の価値がゼロ  東京は昔から不良少年少女の製造地として恐れられていた。そこへこの間の欧州大戦が思想上から、又、大正十二年の大地震が実際上から影響して、今のように多数の不良少年少女を生み出すに到った順序は今までに述べて来た。  あとに残って少年少女の堕落を喰い止めるものは、唯家庭の感化ばかりである。  ところが、現在の東京人の家庭の多数はこの力を失っている。お父様やお母様の威光、又は兄さまや姉さまのねうちが零になっている家庭が多い。  第一に、現在の親たちと、その子女たちとは思想の根柢が違う事。  第二に、上中下各階級の家庭が冷却、又は紊乱している事。  主としてこの二つの原因があるために、現在の東京の子女には、その家庭に対するなつかしみや敬意を持てなくなっているのが多い。 明治思想と大正思想  東京は明治大正時代の文化の中心地である。だから、そこに居る子女の父兄たちは、大抵明治時代のチャキチャキにきまっている。  明治時代は、日本が外国の物質的文明を受け入れて、一躍世界の一等国となった時代である。だから、その時代に育った人の頭は物質本位、権力本位でかたまっている。  ところがその子女となると、大抵明治の末から大正の初めの生れで、その頭には欧米の物質文明が生み出した、するどい精神文明が影響している。  共産、過激、虚無、その他あらゆる強烈な思想が、宣伝ビラや小冊子となって、欧州大戦の裡面を波打ち流れた――ツァールの帝国主義、カイゼルの軍国主義と戦った――そうして遂に大勝利を博した事を知っている。  欧州戦争の結末は独逸に対する聯合軍の勝利でない、我が鉄砲玉に勝った結果であるというような事を小耳に挟んでいる。そうして、その結論として、「個性を尊重するためにはすべてを打ちこわしても構わない」というような声を、どこから聞くともなく心の奥底に受け入れている。  だから、明治時代の人々の頭に残っている家族主義や国家主義なぞは、とても古臭くて問題にならぬ、何等の科学的根柢を持たぬ――何等の生命を含まぬ思想位に思っている。科学が何やら、生命がどんなものやら知らないままにそう信じている。  まだある。 家を飛び出したい  現代の少年少女がその親達から聴くお説教は、大抵、生活難にいじけた倫理道徳である。物質本位の利害得失論を組み合わせた、砂を噛むような処世法である。殊に震災後の強烈な生存競争に疲れ切った親達は、もうそんな理窟を編み出す力さえ無くなったらしい、大昔から何の効能もないときまった、「恩の押し売り」を試みる位が関の山らしい。あとは学校の先生に任せて、「どうぞよろしく」という式が殖えて来たらしい。  単純な少年少女の頭は、そんな親たちの云う通りになったら、坊主にでもなった気で味気ない一生を送らねばならぬようにしか思われぬ。親のために生れたので、自分のために生れたのではないようにしか思われぬ。とてもやり切れたものでない。「おやじ教育」なぞいう言葉が痛快がられるのは、このような社会心理からと思われる。  少年少女は、だから一日も早く、こんな家庭から逃げ出そうとする。何でも早く家を出よう、独立して生活しよう、そうして享楽しよう……なぞと思うのは上等の方であろう。  こうした気持ちは東京の子女ばかりではない。地方の子女も持っている。地方の若い人々が「東京に行きたい」と思う心の裡面には、こうした気持ちが多分に含まれているであろう。  明治生れの親たちが、その子女から嫌われて、馬鹿にされている裡面には、こんな消息が潜んでいる。  なおこのほかに今一つ重大なのがある。 お乳から悲喜劇  ついこの頃のこと……。  九州方面のある有名な婦人科病院で、こんな悲喜劇があった。  或る名士の若夫人が入院して初子を生んだ。安産で、男子で、経過も良かったが、扨お乳を飲ませる段になると、若夫人が拒絶した。 「妾は社交や何かで、これから益忙しくなるのです。とても哺乳の時間なぞはありません」  というのが理由であった。付添や看護婦は驚いた。慌てて御主人に電話をかけた。  やって来た御主人は言葉を尽して愛児のために夫人を説いた。しかし夫人は受け入れなかった。頑固に胸を押えた。  御主人は非常に立腹した。  そんな不心得な奴は離縁すると云い棄てて帰った。  夫人は切羽詰まって泣き出した。大変に熱が高まった。  付添と看護婦はいよいよ驚いて、一生懸命になって夫人を説き伏せた。夫人が泣く泣く愛児を懐に抱くのを見届けて、又御主人に電話をかけた。 「奥様が坊ちゃまにお乳をお上げになっています」  御主人はプンプン憤って来たが、この様子を見ると心|解けて離縁を許した。  夫人の熱は下った。無事に目出度く退院した。  これを聴いた記者は又驚いた。  東京|風がもう九州に入りかけている。今にわざわざ愛児を牛乳で育てる夫人が殖えはしまいかと。 上流家庭に不良が出るわけ  東京の社交婦人の忙しさは、とても九州地方の都会のそれと比べものにならぬ。哺乳をやめ、産児制限をやり、台所、縫物、そのほか家事一切をやめて、朝から晩まで自動車でかけ持ちをやっても追付かぬ方がおいでになる位である。その忙しさの裡面には風儀の紊乱が潜んでいる場合が多い。遠慮なく云えば、上流の夫人ほど我ままをする時間と経済の余裕を持っている。  そんな人の子女に限って家庭教師につけられているのが多い。その又家庭教師にも大正の東京人が多いのである。  震災前の不良少年は、大抵、下層社会の、割合いに無教育な親を持つ子弟であった。それが震災後は反対になって来た。上流の方が次第に殖えて来たと東京市内の各署では云う。  こんな冷たい親たちを持つ上流の子弟が不良化するのは無理もない。  そんな親様がいくら意見したとて利く筈はない。  それでも親としてだまって頭を下げているのは、只お金の関係があるからばかりでなければならぬ。 青春の享楽を先から先へ差し押える親  明治時代の親たちが、大正時代の少年少女の気持ちを理解し得ないのは当り前である。「権利と義務は付き物」という思想では、「人間には権利だけあって義務はない」と思う新しい頭を理解し得られる筈がない。  今の少年少女にとっては、学校は勉強しに行く処でない。卒業しに行く処である。又は親のために行ってやるところである。も一つ進んで云えば、学資をせしめて青春を享楽しに行く処である。  親はそんな事は知らぬ。  早く卒業させよう――働かせよう――又嫁や婿を取らせようと、青春の享楽の種を先から先へと差し押えようとする。  少年少女はいよいよたまらなくなる。益家庭から離れよう、せめて精神的にでも解放されようとあせる。  華やかな、明るい、面白い、刺戟の強い、甘い、浮き浮きした方へと魂を傾けて行く。そうしていつの間にか不良化して行く。  親はこれを知らない。  現代の子女がどんな刺戟に生きているかを、明治時代の頭では案じ得ぬ。 良心から切り離されて  台湾征伐、熊本籠城、日清日露の両戦役、又は北清事変、青島征伐等を見た明治人、勤倹尚武思想を幾分なりとも持っている明治人は、科学文明で煎じ詰められた深刻な享楽主義をとても理解し得ない。日本化された近代芸術が生む不可解な詩――鋭い文――デリケートな画――音楽――舞踊――そんなものの中に含まれている魅惑的な段落やポーズ、挑発的な曲線や排列の表現を到底見破り得ない。  一方、都市生活で鋭敏にされた少年少女の柔かい頭には、そんなものが死ぬ程嬉しくふるえ込む。メスのように快く吸い込まれる。  その近代芸術、又は思想の底に隠されている冷たい青白いメスは、彼等少年少女の精神や感情を、一つ一つ道義と良心から切り離して行く……その快さ……。  彼等少年少女は、言わず語らずのうちにそんな感情を味わい慣れている――街頭から――書物から――展覧会から――活動から――芝居から――レコードから――そうして、そんなもののわからぬ親たちを馬鹿にしている。  明治人はこうして、大正人であるその子弟から軽蔑されなければならなくなった。それは嘗て自分たちが天保人を時代|後れと罵ったのと同じ意味からであった。  因果応報なぞと笑ってはいられぬ。時代後れが出来る毎に日本は堕落して行く。亡国のあとを追うて行くのだから。  明治人はしかしこれを自覚しない。明治時代と大正時代の思想の差が、旧藩時代と明治時代のそれよりもずっと甚だしい事すら知らない。 世界一の不良境  東京の子女が不良化して行く経路は極めてデリケートである。殊に現在の不良化の速かさ、不可思議さは世界一かも知れない。  都会の子女は生意気だという。それだけ都会が刺戟に満ちているからである。  震災後の東京は殊に甚だしい。毒々しい、薄っぺらな色彩のバラック街……眼まぐるしく飛び違う車や人間……血走った生存競争……そんな物凄い刺戟や動揺めきをうけた柔かい少年少女の脳髄は、どれもこれも神経衰弱的に敏感になっている。ブルブルと震え、クラクラと廻転しつつ、百色眼鏡式に変化し続けている――赤い主義から青い趣味へ――黄色い夢幻界から黒い理想境へ――と寸刻も止まらぬ。その底にいつも常住不断の真理の如く固定して、彼等を刺戟し続けているものは、本能性や堕落性ばかりである。  このような刺戟に対する敏感さと、これを相手に伝える手段の巧妙さと新しさとは、彼等都会の子女が常に誇りとしているところである。  生活にいじけ固まった明治生れの親達は、こんな気持ちを忘れている。 ボンヤリする心  彼等都会の少年少女は、その頭の鋭さ、デリケートさに相応する相手を求むべく、飢えかわき、ふるえおののいている。――秘密、犯罪等を扱った科学雑誌等を読みたがっている。――その中に隠されている、人生に対する皮肉、反逆、嘲罵の巧妙さを直感して快がっている。そうしていつの間にか、そんな事をやって見たい気持ちになっている。  内外の小説に極めて繊巧に、又は露骨に描かれた挑発的な場面を、紙背に徹する程眼を光らして読んでいる。  友達と話が出来ないというので活動に這入る。先ず俳優の名前を覚えて、その表情から日常生活まで研究する。そうしてこれを嘆美したり、崇拝したり、通を誇ったりする。  その中に世間が活動のように見えて来る。或る場面が自分の境遇のように思える。あの人があの俳優のように見える。圧迫から逃れて恋に生きる場面が、自分を中心にいく度か妄想される。そうしてボンヤリと明かし暮らす。  親はそんなことに気付かぬ。 ルパシカを着る息子  たとえば息子がルパシカを着て喜んでいるとする。  親は、単純な物好きか、又は社会主義にカブレたのかと思って叱り付ける。  ところが見当違いである。本人は物好きでも社会主義者でもない。  近頃の東京の若い女、殊に自堕落な気分に浸る女の中には、そんな風な男を好く国もない。家もない。思想的に日本よりもはるかに広く思われる露西亜、政治上の最高権威者が労働者と一緒に淫売買いに行く国、婦人子供国有論が生れる国――そんな国にあこがれているために日本の社会から虐げられている青白い若い男……そんな男は小説を読む淫売なぞに特にもてはやされることをその息子は知っている。だからそんな風をするのだ。  ……と知ったら、親はどれ位なげくであろう。  まだある。  机にかける布切り子やセルロイドの筆立て、万年ペンのクリップ、風呂敷、靴にまで現われている趣味を通じて、その子女が世紀末的思想から生れた頽廃趣味に陥っていることを見破り得る親は先ずあるまい。  その持っているノートの黒い小さなゴムの栞や、万年筆用の黒いクリップが、ナイフや針で文字を彫って、異性の家の壁や約束の立ち木やに隠して、秘密通信をやるのに便利な事を知っている監督者も先ずあるまい。  男のような字を書く娘、女のような字を書く息子が、変名を使って異性と通信しているに違いない事を看破し得る父兄もあまりあるまいと思う。  まだまだ驚く事がある。 大人に対する反逆  近頃の少女はハンケチを畳んで、胸の肌に直接に押し当てている。又、男の子は帽子の中にハンケチを入れて冠っている。  それは、少女はお乳をふくらすため、又、男の子は香水を湿して入れておくためと思っていたら大違いだと、一人の不良少年が笑った。  そんなら交換して異性の香を偲ぶためかときいたら、 「まあ、そんなところでしょう。ハハハハ」  と又笑った。その笑い方が変だったから、根掘り葉掘り尋ねたら、彼は一種皮肉な、イヤな笑い方をしながら、こう答えた。 「それあ云ってもよござんすがね、あなた方に必要のない事なんです……何故ってあなた方は皆、情欲の方のブルジョアなんでしょう。奥さんもおなりになれば、芸者買いも出来る。だから必要はないんです……若いものはみんなみじめな肉欲のプロですからね……女の子だってそうです。大人が受けている自由を吾々は禁ぜられているのです……ですから異性の香を嗅ぎながら眼を閉じて……」  記者はこれ以上書く勇気を持たぬ。しかし何という巧な議論であろう。何という不愉快な風潮であろう。  少年少女の不良行為が、大人の専制に対する反逆的意味を持っていようとは、この時まで気が付かなかった。記者も矢張り明治人であった。  こうした反逆気分は、少年少女が使う新しい言葉にもうかがわれる。 おやじのシャッポ  新しい言葉の字引きなぞいう書物が近頃流行するが、現在の東京の少年少女が使う新しい言葉は、その中には一つも見当らぬと云っていい。又見つかる筈もない。日毎に月毎に、次から次へと新熟語が出来て、或は親たちを馬鹿にするために、又はいい人と秘密通信をするために用いられている。  ブル、プロ、ファン、セット位しか知らない明治人に、彼等の会話や手紙が理解されよう筈がない。 「おやじのシャッポがホームラン」だの、「彼女のラジオがミシン」なぞ云って、わかる気づかいは毛頭ない。  否、こんなのももう古い。記者がこう書いている間にも、新しい単語が本場の東京でドンドン殖えているに違いない。  こんな事のすべてに対して、今日までの生活本位の親たち、月給取り本位の教育家、月謝取り本位の学校、政党本位の当局は注意が行き届かなかった。  これからもそうに違いない。  御蔭で不良少年少女は大手を振って殖えて行く。禁漁区の魚のように新東京のバラック街をさまようている。 若い女性の享楽気分  ここで是非特筆大書しておかねばならぬ事は、最近の東京に於ける若い女性の享楽気分である。  よく「女は女らしく」、「男は男らしく」と云うが、今の東京では、その「男らしい」と「女らしい」との意味が昔と違っている。「男が人間なら女も人間だわ」という意味である。だから、今の東京の女らしい女は、なかなか活溌で、華やかで、積極的で、魅惑的である。  そんなのの前に男らしく跪いて、堂々と満身の愛を告白する。昔のように自己を偽って見識ばらぬ。そんなのが「男らしい男」らしい。 「神様が男の粕から女を作った」の、「女は家庭の付属物」だのと心得ているのは、中世紀か封建時代の思想である。その粕が馬に乗って民衆運動の先登に立った時代も過去の事である。新しい婦人が吉原へ女郎買いに行ったのは更に古い時代である。議会で男の席までも占領したとて、ちっとも驚く事はない。  婦人参政――被教育権の主張――その他社会的の地位を要求する黄色い声は、天下に満ち満ちて来た。  産児制限に依て象徴される、婦人の享楽的権利の主張は、医術と薬剤の発達でドシドシ貫徹されている。  職業婦人の増加に依って、婦人の独立生活、享楽生活の容易な事は明らかに証明されている。  女性崇拝の外国映画は盛にこの傾向の太鼓を持つ。  欧米の新思想は又、精神的方面からこの傾向を刺戟して、目下八度五分位の熱を出しているところである。  新しい女の先覚者の活躍時代は過ぎた。今は一般に普及しつつある時代である。男女同権――否、女尊男卑がドシドシ流行する。 反り女に屈み男  呆れても驚いても追付かぬ。東京の女は男と同様に自由である。眼に付いた異性に対して堂々とモーションをかける。異性を批判し、玩味し、イヤになったらハイチャイをきめていい権利を、男と同じ程度に振りまわしている。只、全部が全部でないだけである。  こうした傾向にカブレた東京の少女は、知らぬ男から顔を見られても、耳を赤くしてうつむいたりなんぞしない。アベコベにジッと見返すだけの気概? を持っているのが多い。これはどなたでも東京に行って御試験になればわかる。  往来を歩く姿勢も、昔と違って前屈みでない。昔は「屈み女に反り男」であったが、今では「反り女に反り男」の時代になった。今に「反り女に屈み男」の時代が来るかも知れぬ。  表情も昔と違ってキリリとなった。触らば落ちむ風情なぞは滅多に見当らぬ。八方睨みを極めてあるきながら、たまたま男と視線が合っても、じっと一睨みしてから、「チッ」とか「フン」とかいった風に眼を外らして通り抜けるのさえある。  田舎からポット出の学生なぞは、あべこべに赤面させられそうである。 同性愛の新傾向  女学生間に同性愛が流行したのは震災前が最も甚だしかった。  先ず同級か下級の生徒の中で、好ましい風付きと性質の少女を見付け出して同性愛関係を結ぶ。二人切りで秘密の名前をつける。手紙のやり取りをする。持物や服装を人知れずお揃いにする。これが嵩じて、情死する迄愛するのもある。これは「性」の悩みの不自然な慰め方として憂慮されていた。  その話がこの頃下火になった。異性愛流行の結果、あっても目立たなくなったのか、それとも異性との交際が自由になったために、そんな必要がなくなって減少した者かと、一部の教育家は首をひねっている。  一方に或る私立女学校の舎監であった人は記者にこんな話をした。  ――男学生の悪いのは下宿屋|住居で、女学生のいけないのは寄宿舎と、あらかた相場が極っている。その女学校の寄宿舎に来る手紙を、学校によっては舎監が一先ず受け取って、怪しいと思われるのは、秘密に開封した上で渡したり、又は握り潰しているところがある。そうでもしなければ、絶対に学校の風紀は保たれないと云っていい。  その手紙の中には、女文字の男の手紙がいくらもある。封筒だけ女生徒が書いて送ったのもある。その内容を見ると、女生徒が出した手紙の内容を察せられるのもある。そのほかいろいろあるが、中には舌を捲くような名文や、際どい告白がある。芸者の内証話にも負けない位である。  ――そんなのの中には、同性愛と認められるのも珍らしくない。震災前より殖えるとも、減っていない事を明言出来る。但、異性関係のそれと比べると問題にならぬ。  私の学校では、上級生と下級生とを、一人か二人|宛組み合わせて一室に入れている。その中で一番上級の年嵩なのを「お母さん」と呼ばせて、一切の世話と取締をやらせる。そのほかの目上の生徒は「姉さま」と呼ばせ、下級生は「何子さん」と呼ばせて、家族みたいな生活をさせている。  ところで、以前、怪しい文句の手紙が来るのは、三年生以上に限られていたが、それも現在の十分の一位で、大抵は同性愛式のものであった。それが今では、三年生以上に来る男の手紙が殖えると同時に、入学し立てのホヤホヤの生徒に迄同性愛が及んで来た。或は小学生時代から持って来た習慣ではあるまいかと思われる節がある。  というのは、或る立派な家庭のお嬢様が、優等の成績で入学しながら、何故か学校に来ない。その両親から沢山の寄付が学校にしてある関係から、学校側でも心配して、内密に欠席の理由を調べて見ると、そのお嬢さんと同性愛に落ちている生徒が、不成績で入学していないからであることがわかった。  そんな例がある一方に、上級生の堕落やおのろけや、落し文が、下級生を刺戟しているのではあるまいかと考えられる廉もあるから、いっその事、同級生ばかりを一室に入れて成績を見てはどうかという意見が教員間に持ち上っている……云々。  この話だけでも、東京の女性の積極化傾向が如何に急激であるかが、充分に裏書されている。 持てる一高と帝大生  麹町の某署の刑事は、こんな事を記者に話した。 「東京の女学生の好き嫌いは大抵きまっています。明治や慶応の生徒はニヤケているからダメ、早稲田は豪傑ぶるからイヤ。一高と帝大が一番サッパリしていて、性格が純だからつき合いいいと云います。それから、そんな学生の中でも一番好かれるのは運動家で、その次が音楽の上手、演説、文章、絵の上手はその又次だそうです。学生以外で好かれるのは活動俳優で、とても一生懸命です。『日本の男俳優は肉体美がないから駄目』なぞとよく云っています。運動選手を好くのはそんなところからでしょう」云々。  昔の少女はかぐわしい夢のようなヴェールを透して世界を見た。今の少女はそのヴェールをかなぐり棄て、現実界を直視している。  先年、英国皇太子が日本を訪われた時、 「英国の皇チャーン」  とか何とか連呼してハンケチや旗をふりまわしたはまだしも、本郷付近で算を乱して自動車のあとを追っかけた女学生の群があったと聴いた時、記者はまさかと思った。  ところが、今度上京して見て驚いた。とてもそれどころでない。 式前にふざける花嫁  警察で自由恋愛論をやった女学生があった事は前に書いた。  結婚式の始まらぬ前から婿殿の処へ押かけて、キャッキャと笑い話をした某勅撰議員の令嬢があった。そのほか、式の最中から色眼を使ったり、式が済むと直ぐに倚り添って、ねえあなた式のそぶりや口の利き方をする花嫁が殖えたという某神官の話はまだ書かぬ。  某女学校で震災前に投書箱を据え付けたが、一人も投書するものがなかった。それが震災後急に殖えたはいいが、大部分は仲間同志の不品行を中傷したものであった。最も甚だしいのは、昨年の秋の事、二三十人申し合わせたらしく、性教育の必要を高唱した投書が、しかも堂々と署名して箱一パイに投げ込まれた……という事も今初めて書く。 「あたし、電車の中で不良少年から手を握られたのよ。癪に障ったからギュッと握り返してやったわ」と友達に自慢話をするような少女、「あなた、この頃メランコリーね。ホルモンが欠乏したの」と笑いくずれる程度の女学生なぞはザラに居る。  これ位積極化すれば沢山である。 二匹の白い蛾  東京の若い女の享楽気分は、日に増し眼に余って行く。そうして、「性の悩み」に魘される少女を、次第に東京に殖やして行く。  或る女学生が、不良行為をやって警察に引っぱられて行く途中で、懐中からマッチ箱を出してソッと棄てた。刑事が気付いて拾って見ると、中には一枚の厚紙があって、雌雄二匹の白い蛾が、生きながら二本のピンで止められて、ブルブルふるえていた……。  記者はこの話をきいた時、馬鹿馬鹿しいと笑う気になれなかった。その少女がそんな事をした時の気持ちをよく考えているうちに、恐ろしいような、悲しいような、一種形容し難い鬼気に襲われた。  孕み女の腹を裂かせてニッコリと笑った支那の古王妃の気持ち――それを近代式にデリケートにした気持ちを味わいつつ、その女学生は二匹の白い蛾を生きながらピンで突き刺したのではあるまいか。その二匹がブルブルとふるえつつも離れ得ぬ苦しみをマッチ箱に封じて、懐に入れて、独りほほえんでいたのではあるまいか。そうして、この頃の若い女性の胸にあふるる「性」のなやみの、云うに云われぬ深刻さ、残忍さ、堪え方さ、弱々しさが、そこにありありとあらわれているのではあるまいか。 堕落して冷静に  各種の避姙薬は彼女たちに安全な堕落の道を教える。化粧品屋は彼女達に永久の美を保証する。活動女優の表情はいつしらず彼女達に乗り移る。そうして、彼女達にその芸術的表情を実演すべき場面を心の底から求めさせる。  気の利いた女学校の先生は、この時代相に迎合して、「そもそも姙娠という事は……」と性教育を試みる。生徒は真青に緊張してそれを聴く。  このような気分に蒸し焼きをされる若い女性がどうして堪え得よう。実際に異性の香を知らぬまでも、禁欲の苦痛を感じずにはいられぬ。  その苦痛を一度でも逃れた経験を持つ女性は、必ずや男性に対する感じ方が違って来る。昔のように赤くなったり、オズオズする気持ちは出そうと思っても出ない。同時にそんな感じを超越して男性を見たり、批評したり、交渉したりする心のゆとりが出来て来るわけである。  彼女たちはこうして益その批評眼を高くし、享楽趣味を深くし、独立自由の気分を男子と同等にまで高潮させて行く。親の厄介になって好かぬ結婚に縛られるより、職業婦人になってもというような意味の向学心を強めて行く。  これは男子学生とても同様である。  将来の日本には独身の男女が嘸かし殖えることであろう。 交際の場所と機会  さて、かような異性同志の交際はどんな風に結ばれて行くか。  学校や家庭の眼を忍んで、若い同志享楽したりすると、九州地方では直ぐに「不良」呼ばわりをされる。記者も九州の人間だから、そんなのを不良の中に数え入れたわけである。  しかし、東京ではそんな心配はない。よしんば八釜しく云う者が居るにしても、この頃の東京の少年少女は滅多に尻尾を押えさせぬ。探偵小説的、又は活動写真的の巧妙な手段で、警察でも友人でも煙に捲こうとする。そんな事をわざわざやって喜ぶ位である。  しかも東京にはそんな手腕を揮う場所と機会が無暗に多い。  震災後の東京には街頭の展覧会が殖えた。写真、絵、彫刻、ポスター、技芸品といったようなものを、目抜の町の或る家の階上や階下、わかり易い横町の空屋などに並べて見せる。新聞、ビラ、掲示なぞを気をつけていれば、すぐにわかる。東京市中で毎日十箇所を下るまい。  これが少年少女の落ち合い場所になり勝ちである。人に怪しまれずに見に行けるし、いつまでも相手を待っていられる。来れば何やかや見るふりをして、極めて自然に寄り添えるといったようなわけである。  学校の運動会も、この頃は異性の入場を許す傾向になった。許すと素敵にハズムという。  剛健質朴を以て天下に鳴った一高の生徒たちにカルメンと持てはやされる一人の少女が居る。昨年あたりは、学生仲間の会合や催しによく顔を出したものだそうな。一説には、これが、現在、東京で最も有力な不良少女団の団長だともいう。が、そこを特に突止め得なかったのは惜かった。 眼と眼――心と心  近頃は福岡にも出来たが、東京のカフェーその他の飲食店では、テーブルとテーブルの間を仕切るのが流行る。そこにはよく若い男女が同席してヒソヒソやっている。  東京の市内電車が素敵に混雑むのも便利である。同じ吊り革にブラ下ったり、膝っ小僧で押合ったり、いろんな事が出来る。  省線の電車も朝と夕方は一パイである。郊外から通う人が大部分なのと、停留場が遠い関係から、市内のようにザワザワしない。その間に眼と眼と見合ったのが度重なって、心と心へという順序である。 「殊に不良少年は郊外の方が多いのですよ。毎日見ているとよくわかります。後の方が空いているのに前のに乗ろうとしますから、無理に止めたら、泣き出した娘がありました。誰かと約束してたんだなと、あとで気が付きました」  と一人の車掌は語った。  音楽や舞踊、英語等の先生の処で出来た社交関係も随分多いらしく、新聞や雑誌によく出る。  浅草の奥山、上野の森、その他の公園の木といわず石といわず、若い人々の眼じるしにされて飽きている。上野の西郷銅像の前に夜の十時過ぎにしゃがんでいれば、待っている男女、連れ立って去る男女の二十や三十は一時間の中に見付かる。西郷さんが怒鳴り付けたらと思う位である。  バラック街は電燈で一パイであるが、裏通りには歯の抜けたように暗い空地がある。そのほか、公園の暗、郊外の夜の木立ちをさまよい蠢く、うら若い魂と魂のささやきは数限りもない。行きずりの人も怪しまぬ。 夥しい会合、催し、年中行事  泰平が続くせいか、いろんな芸術的の催しが盛になった。家庭的、個人的、小団体的といろいろある。  東京はその流行の中心地である。  子供のために舞台を作った富豪がある。アトリエを持っている中学生がある。活動写真機を持っている家も多い。ピアノの無い小学校が稀であると同時に、中流以上の家庭で蓄音機の無い処は些ない方であろう。レコードなんぞは縁日で売っている。  こんな調子だから「催し」も夥しい。やれ野外劇、それレコードコンサート、又は新舞踊、芸術写真、その他在来の趣味や、新しい道楽の会、切手、書物、絵葉書、ポスター、レコード等の交換会、奥様やお嬢様御自身のおすしやおでんの会、坊ちゃまお嬢様のオモチャの取かえっこの会なぞと、大人のため、子供のため、男のため、女のためとお為づくしである。マージャンの会は今が盛りである。ラジオの会はこれからであろう。  年中行事の多い事も東京が一番である。  三大節、歌留多会、豆撒き、彼岸、釈迦まつり、雛と幟の節句、七夕の類、クリスマス、復活祭、弥撒祭なぞと世界的である。そのほか花の日、旗の日、慈善市、同窓会、卒業祝、パス祝、誰さんの誕生日まで数え込んだら大変であろう。又、そんなのに一々義理を立てたら、吾家の晩御飯をいただく時はなくなりそうである。  少年少女が又こんなのに行きたがる事、奇妙である。 案内書の秘密  美しいお嬢さんの居る家に一枚のビラが配られた。青白い上等の紙に新活字で印刷してある。    ……………………  ××社交クラブ成立案内書 大正の大震火災後社会の風潮は著しく悪化して参りました。良家の子女は今や全く社交を禁ぜられているかの観があります。吾々はここに見るところあり、××社交クラブを組織し、特に良配偶を求めらるる子女及び父兄のためには、この会ほど安全で適当なものは他にあるまいことを信じて疑いませぬ次第であります。  大正十三年九月一日  とあって、賛助員に後藤新平、中村是公、目賀田種太郎、金子堅太郎なぞいう名士の名がズラリと並び、発起人に何々会社重役、何々病院長、何々ビルディング支配人なぞいうのから、肩書も何も無いのまで、綺羅星の如く並んでいる。その先の方に「案内」とあって、小さな活字がギッシリ詰っている。 ▽会費 一ヶ月金三円。 ▽会合の種類 音楽、絵画、その他芸術的の集まり、展覧会等。政治、外交、社会問題に対する質問会。文化、学術講演会。洋食、技芸、洋式作法講習会等。慈善市、各種交換会等。 ▽備考 加入者は品行方正の証明ある青年処女に限る。会合の種類に依り父兄同伴随意。何等宗教的意味を含まず。  といったようなもので、仮申込所を東京府下中野○○番地、松居博麿方としてある。  この案内書を貰ってポケットに畳込んだ記者は、そのまま省線に飛び乗って中野で降りた。決して名探偵を気取ったわけではない。流石東京と実は大に感心させられた。その会合の遣方を習ったら、九州へのいいお土産が出来ると考えたからであった。  ペンキ塗りの小ぢんまりした文化住宅に、「マツイ」と小さな表札を見つけて案内を乞うと、都合よく御主人在宅であった。本紙記者の名刺を出して応接間に通されると、卓子の上に博多人形の「マリア」が置いてあったので一寸嬉しかった。  松居博麿氏は青白い貴公子然とした人で、大島の三つ揃いを着て、叮嚀な口の利きようをする人であったが、記者が大正社交クラブの事を尋ねると、又かというような情ない笑い方をした。弱々しい咳払いをして云った。 「どうも困りましたね。あれは僕の知らない事なんで……」  記者はポカンとなった。  ところへ、恐ろしくハイカラな金紗の奥様が這入って来た。こぼるるばかりの表情をして、御主人の話を引き取った。 「まあ。矢張りあの事で――! どうも困っちまうんですよ。宅の名前が通っているものですから、あんなお名前と一緒に並べ立てて」  記者は恐ろしくテレて来た。 「ヘエー。それじゃ誰があんな計画をしているかお心当りでも」 「それがないので困っているんですよ。警視庁の知り合いにも電話で頼んでいますし、方々からの質問でホントにウンザリしているのですよ。そうしてあなたはやはり九州の……まあ、こんな処まで……よくおわかりになりましたのね……まあ、九州の方はいい処だそうですね……まあ、およろしいじゃありませんか……今紅茶を……」  記者は這々の体で此家を出た。  出ると同時にサッパリ訳がわからなくなった。  ポケットから例の案内書を出して見つめながら、頭をゴシゴシ掻きまわしたが、わからないものはどうしてもわからない。それかといって、今一度引返してあの奥さんを詰問する勇気もなくなっていた。  翌る日から記者は用事の序にポツポツと賛助員の諸名士を訪問して見た。一軒は不在で、二軒は多忙であった。しかし三日目に四軒目の家の玄関に立った時、又新発見をした。  玄関の敷石の打水の上に、赤い紙に刷った「文化生活研究会案内書」というのがヘバリ付いていた。その発起人の名前は半分以上違っているが、最後に松井広麻呂というのがあって、上にと割り註がしてある。  記者は昂奮した。すぐに中野の文化住宅に行ったら、もう遅かった。「マツイ」の表札はあったが、家はガラ空きであった。近所の人にきいても、どこに行ったか知らぬ――家主は蒲田に居るという。  記者は取りあえずガッカリしたが、なお念のためきいて見ると、松居氏の家には若い男女がチョイチョイ出入りしていたそうな。一度レコードコンサートらしいことをやっていたが、夜遅くまでかかったかどうかは知らないと云った。それから、交番の巡査にきいて見ると、子供上りのような巡査で、その文化住宅の番地だけしか知らなかった。  郵便局へ名刺を出して見ると、親切に答えてくれたが、 「あの家はあまり手紙を出しません。来るのはかなり来ますが」  というのが結論であった。  記者はそれでもあきらめが付かなかった。 「マツイ」氏が名士であろうがなかろうが、そんな事はどうでもよくなった。 「何のためにこんな宣伝ビラを配るか」  という疑問が晴れるまではと、不断に気を配っていた。  ビラを配る男さえ見れば、傍へ寄って何のビラかのぞいて見た。しかし運悪く、「松居」もしくは「松井」の名前を刷込んだのは一度も見当らなかった。  その中にウンザリして来た。  成るべく東京の同業の助力を借りずに材料を集めようと決心していた記者も、とうとう兜を脱いで、或る雑誌記者にこの事を尋ねたら、その記者は腹を抱えた。 「君はまだ不良少年少女の仕事が資本化した事を知らないね」  と云った。  この時記者が受けた暗示は極めて大きなものであった。この暗示に依って得た材料が、この中にどれ位あるかわからない。少なくとも、今まで信ぜられぬと思った事が信ぜられるようになったと同時に、疑問にしていた事が一時に解決されたような気がしたのであった。  財産を持って遊んでいるような若夫婦の中には、道楽に少年少女を集めて喜んでいるのがあるという。中には夫婦了解の上で、夫人は少年を、又、主人は少女を堕落させて楽しんでいるのもある。色餓飢道、畜生道を通り越した堕落ぶりだという。但、松居氏もそうかどうかは未だに疑問である。  信ぜられぬという人は信じなくとも差支えない。  記者は敢て健全なる家庭の人のためにこの失敗記を書いておく。  まだある。 不良のブル化  現在の東京の不良少年少女は明らかにブル化している。当局でも寒心している位である。  昔の不良少年少女は上流社会の子弟のために一敵国を作っていた。上流社会の子女を誘惑したり、誘拐したり、又は脅迫したりして、金品を巻き上げるとか、堕落させるとかするのを不良少年少女と考えられている位であった。  ところがこの頃では上流のお坊ちゃまやお嬢様がこれをやる。しかも、捕まっても大抵は揉み消されるから、いよいよ増長する傾向がある。  一方、父兄や母姉にも、なっていないのが多い。自分たちの不品行を素っ破抜かれぬ交換条件として、その子女の不良行為を補助しているのさえある。  上流社会の婚約が社会の環視の裡に破談になった。その理由がどうしてもわからぬ。又は、名士の結婚に深刻な非常手段でケチをつけた少女があった。その少女の遺言が闇から闇に葬られた……というような話をチョイチョイ聞く。その裡面には、大抵、こうした上流の家庭の不浄化が臭気を洩らしている。  美人の奥様の子弟には必ず不良少年が居るというが、今の東京の時代相では一部の真理があると考えられる。  しかし、これも信ぜられぬという人は信じない方がいいであろう。 「秘密」の魅力  次に少年少女の文通に就いて見聞した事を述べる。  若い男女は妙に「秘密」を好む。「秘密」という言葉が、「性」という言葉と因縁があるばかりではない。秘密という言葉そのものが、若い心に対して云い知れぬ魅惑を持っているからである。  大人は自分勝手な秘密をいくらでも持ちながら、子供に対してこれを隠す。しかも子供が大人に対して秘密を持つことは許さぬ傾きがある。これに対する若い心の反逆の意味もあろう。一種の好奇心もあろう。自分達も秘密を持ちたいという欲望もあろう。秘密を持つと何だかえらくなったような気がするというような関係もあろう。  今の若い異性間の交際、殊にその取りかわす手紙にはそんな気分が濃厚にあらわれている。  A何号よりとか、BBBよりとかいうのはもう古い。暗号、隠語、切手の貼り方、封筒の色、封筒の使い方、又は花言葉なぞが盛に研究されている。そんな事を書いた新聞や雑誌を切り抜いて持っているものもある。男が女文字の女名前、女が男文字の男名前なぞいうのは古手で、この頃は邦文タイプライターを利用するのもある。 奇妙な店頭の封筒  東京市中到る処の縁日や露天には、封筒や書簡箋の店が多い。三角や五角、六角、八角、又は蹄形、不整形なぞと、形はいうまでもなく、色や模様までいろいろある。これによって秘密通信の暗号はいくらでも作れる。  中には、如何がわしい絵や文句が透かしになっているもの、又は内側に印刷してあるのもある。二重袋の外を水色、内部を紅色にして挑発気分を見せたり、外を灰色に、中を黒にして病的思想を象徴したりしているのもある。  切手を貼る処を破線で囲んで、中に七号位の活字で恋の格言、投げやりな思想、耽溺気分の歌なぞを刷り込んだのは殊に眼新しい。 「ちござくら、そばによりそう、うばざくら、ともにうきよの、はるをこそおしめ」 「みだれなと、いとあさましく、くくられし、はぎなぞに、みを、よそえては、なく」 「少年の恋は、禿頭のように捕えにくい、ツルツルして毛が無いから」  なぞいうのがある。呆れ返っても足りない。 冒険式文通  こんな手紙を郵便で出してはけんのんというので、秘密に渡す方法が又様々に研究されている。あまり詳しく書くと方法を教える事になるから差し控えるが、棒に捲いて銀紙を冠せてチョコレートに見せかけたもの、ヘアピンにナイフで彫り込んだものなぞいう念の入った手紙を、警察に引かれた少年少女が持っていたという。中には好んで奇想天外の手段を執る者も殖えて来たらしいが、大方矢張り探偵小説や活動写真の影響であろう。  一例を挙げると、女学校の廊下にかかった先生の帽子に文を挟んで、女学生に取らした私立専門学校の生徒が居る。  その生徒は、約束の時間に普通の紳士の服装をして、課業中の人の居ない廊下に這入った。帽子を探すふりをして、右から何番目かの茶の中折れに文を入れた。  放課後までその帽子に手を触れる者は無い筈と、安心して帰ったら、豈計らんや、その帽子の先生が急用で自宅に帰ると、発見して、中の文句まで読んでしまった。そのまま封を直して帽子に入れて、急いで学校に行って、旧の処にかけておいて、放課後調べて見ると無くなっていた。  その翌る日、その先生は又|旧の処に自分の帽子を掛けて、今度は見張りをつけておいたら、昨日の男学生が返事を受け取りに来たから直ぐに取って押えた。何とか彼とか弁解をする奴を相手の女学生と突合わせると、流石に両方共一度に屁古垂れてしまった。そこで厳重に将来を戒めて家庭に引渡した。 「活動の影響だ。人を馬鹿にしている」  と、その先生は素敵に憤慨して記者にこの話をした。 「そればかりではありますまい。そんな冒険をやれなければ、この頃の女性に持てないからでしょう」  と記者が云ったら、 「成程、それも面白い観察だ」  とうなずいていた。 少年少女の手紙の内容の進歩  七八年前の事……。  ペン習字手本というような小冊子が流行った。その中に随分|非道い文句を含んだのがあった。 「あなたとあの野を散歩した時、足袋が露でグショグショに濡れました。いっその事二人共身体中グショグショになればいいとおっしゃった事はお忘れでないでしょうね」  なぞとあるのを、福岡の或る教育家が見て驚いて、 「ペン習字は絶対に禁止せねばならぬ。家庭でも取締ってもらうつもりだ」  と記者に話した事がある。  又、ついこの頃の事……。  或る地方の高等学校で、生徒が女と文通したのを先生が罰した。  昔ならその生徒を同級生が擯斥するか、ブン殴るところを、反対に級全体で同情して先生に迫り、「罰した理由」を責め問うたという事実がある。  こんな風に時勢が違って来ているのだから、男女学生の手紙の内容も進歩しているにきまっている。左に掲げるものは、警視庁の後藤四方太氏が記者に示してくれた少女の手紙で、いずれも昨年の夏迄に不良少女や友達に与えられたものである。氏名だけは仮名にしたが、ほかはすこしも筆を入れてない。挑発的なところには係官の手でインキの線が引いてあった。○○○にしようかと思ったが、却て挑発するから同じ事だし、東京人の堕落時代が如何に戦慄に価するかを証明する力が薄くなるからそのまま掲げた。  これ等の手紙を妙な意味の眼で読まれるのは記者の本意でない。そこに見え透いている少女の青春の危機と、そこにあらわれている恐ろしい時代相を見て、心の底から戦慄し、戒慎してもらいたいためである。こんなものに注意を払うことを好まぬ人々が多いために、その子女の堕落が益深まって行く事を、これ等の手紙が明らかに証拠立てている事を理解して頂きたいために敢て掲げるのである。 少女のレター    …………………… 楽しみにしていたレター本当にサンキュー。逗子も暑くて、全く世の中がいやになってしまうわ。休みなので人が一杯。アンチソラチンのオバケが来たこと。 さしも広かった浜べもすっかりかくれた事よ。なんでも、羊と二人して紅と白との腕を振るってね、クロールをみせびらかしてやりました。そればかりか、海の真中の赤ハタまで行って、不良少年をこらしめてやりました。 「オーイ足長まてまて」とあとから変な人が泳いで来ましたが、皆ここまで来られないで帰ってしまいました。羊と二人して大いに笑ってやりました。気が清々しました。 毎日羊だの、松本君、喜多君、徳川君等と一緒に泳いでおります。不良の病ますます重くなるを知るべし。 若い西洋人も羊と仲よしです。それで皆で「マルオニ」をして遊びます。おしまいに人がたかるので一勢に海へと飛び込みます。 もう手足の紅色でビリビリします。帰る頃はタドンのオバケでしょう。すみちゃんもよしちゃんも皆一緒です。としちゃんは大分上手に泳ぎます。よく笑うので方々で可愛がられています。そしてもう真黒くなりました。元気でピンピンはねています。 チクオンキ毎夕ですって? うらやましいわ。チャールスレイ君すきなの? 本当に加勢が出来てうれしい。二人で大いにやるべし。 菊池さんの真珠夫人を読んで、女は大いに不正してよろしいものだという事がわかりました。 ただしこれは処女のみにかぎるよ。又東京のはなしして。ハイチャイ。 それから山口家のニワトリの家内の病気は如何。  大正十三年七月二十七日真昼 みつ子から はま子君へ ……………………  この手紙を見て、そのお転婆ぶりに驚かぬ人はなかろう。海水浴で若い男に取捲かれて得意になり、女の友達を何子君と呼び、怪しい新語や俗語を振りまわすところ、その見方、考え方等、皆現代式のハネッ返りである。殊に「女は不正なるべし、但処女に限る」とか、「不良病|益重る」とかいうあたり、冗談かも知れぬが舌を捲かざるを得ない。果然、一人の不良少年は鎌倉海岸の脱衣場で彼女の袂からこの手紙を盗み取ると、彼女を与し易いと見込んだ。仲間と謀って彼女の居る宏壮な別荘を調査し、魔の爪を磨いていたのを、東京から尾行して来た刑事が引っ捕えたのだという。 少女のラブレター    …………………… お懐しい 芳夫様、お手紙を有難う御座いました。私は、私の胸はどんなにか轟いた事でしょう。ふつつかもの花子に愛するというお言葉……何だかもったいないような気が致しますの。けれども貴方の淋しいみ心を省り見ますれば……本当にお察し致します。新ちゃんという方は、誰の前でもはばからずなんでも話す方ですから、純な清いお友達として、Sとして御交じわり下さいませ、お願い致します。 まだまだ書きたい事がございますが、何からお話し致してよいか……今日、私、お会いしたかったのですけれど、或る事から急に厳しくなって、夜は外へ出てはいけないと云うので、どうしても出られませんでしたの。どうぞあしからずお許し下さいませ。 それでは悪筆乱文お許し下さいませ、さよなら。 幸多き  花子 永久に永久に  芳夫様みハートに    ……………………  文体で見るとこの少女はまだ若い。相手を不良少年と知らずに謹んで書いている。一方に両親からもその危険性に気づかれて悩んでいる。極めて平凡で、こんな少女はいくらでも居そうである。そうして恐ろしく危いところである。或は最初の危機を通過しているかも知れぬと思われる節がある。尚、文中Sとあるのはシスターの略字であるが、ここではそんな意味はない。同胞という意味らしい。 少女のラブレター    …………………… 御許様には、昨夜私の留守に御電話を掛けに成り、さぞかし私が居りませんので御立腹遊ばされ、私を御うらみなされたでしょう。雨降ります所をお出下され、まことに相済みませんでした。私、いつもの所へ一時半頃行って待っておりましたが、御出に成りませんので、雨が降っておりますから、きっと入らっしゃらないのかと思い、私宅へ戻って来まして、用事がありましたので出掛けたあとへ、吉井様からのお電話でした。私、戻って来てすぐ第一の処へ行って見ましたが、恋しい吉井様の御すがたが見えませんでした。 私の写真をこの中へ一緒に同封してありますから、どうぞこの間お約束致しました通り、どなたにも見せないで下さい。御願いを致します。又こんど出来ましたら差上げます。 それから恋しき吉井様の御写真をどうぞ一枚御送り下さいませ。 M子より 私の永久に愛する  吉井様ハートへ    ……………………  この少女は前の花子よりもませている。関係も進んでいるが、不良少女でない事は写真の送り方でわかる。却て旧式の立派な家庭に育っている、家庭のお嬢さんと思われる節がある。吉井という男に引っかけられて、いい加減にされているらしい事が略推測出来る。前のと同様にハートなぞいう言葉をこんな風に使うところは、どう見ても江戸ッ子でない。 少女のラブレター    …………………… 毎日青くなったり赤くなったり、七面鳥で、随分大変でしょう。御察し致します。七面鳥さんのために私随分祈っていますの。ですから、あんまり七面鳥になって心配しなくとも、大てい落っこちないから御安心遊ばせ。 十一日ね、随分待ちましたのよ。いくら待っても入らっしゃらぬのですもの。ほんとに悪々しくなってしまいましたの。もう真琴ちゃんの云う事なんか聞き入れない事に定めてしまったの。御自分から話し出しておきながら、入らっしゃらぬなんかあんまりですわ……ほんとに貴方は嘘|吐きね……それは全く私の方が嘘つきなのよ。御免なさい。 私もあの日は朝から気分が悪くて寝ていましたの。三日間会社を休んで、月曜から床の中で暮しました。けれど床の中で何事も忘れて、真琴ちゃんのタメに祈りましたの。今度の試験は成績良好でしょうよ。三日も会社を休んで祈っていますもの? こんな思いをしているのに、真琴ちゃんは一人音楽をのん気なかおして聞いているなんて、ほんとにあんまりと、プリプリ内心怒っておりましたの。でもレター拝見して、やっと胸が落ちつきましたわ。二十一日にきっと行きますわ。それまでは苦しみね。でも今日は十六日でしょう。後五日すぎれば御逢いできるのね。試験がすむと、後はしばらくお休みでしょう。そうなると真琴さんがうらやましくなってしまいますわ……。 御休みになったら、御都合のよい時に春の海……ほんとうに行きましょう。どこがいいでしょう、よろしく願います。 真琴さん。いつも御無沙汰ばかりして済みません。決して忘れているのでは御座いませんのよ。一時だって忘れやしませんわ。けれど悪筆の筆不精故、悪いとは思いながらついサボってしまいますのよ。御免なさい。さらば。 とき子拝  愛する真琴様    ……………………  書いた主は職業夫人で、相手は学生? である。文章は雑誌や小説に影響されたところが到る処にあって、調子だけは現代式であるが、最初に出したみつ子のそれのように気持ちまで現代式でもなければ名文でもない。世間なれていて男も珍らしくないらしく、甘い言葉が力なく上辷りしている。職業婦人らしい気の疲れも見える。しかし、男性に誘惑され易い気の弱さがよくあらわれている。そこにつけ込んでいる男の手加減も見すかされるようである。 少女のラブレター 恋しき玉雄様! 先夜は申訳ありません。ほん当にすみませんでした。すまないすまないという思いで……お許し下さいませ。 あの夜、皆の眼をかすめて家を出たのでした。松坂屋の前へ参りましたが、恋しきあなたのお姿が見えません。私が後れたので、もしやお怒りになってと思って、辺りを捜しましたが見当りませんでした。再び松坂屋のところへ引返してお捜ししたのですけれど、遂に懐しいあなたのお姿は見当りませんでした。 で、丁度八時半に広小路から電車に乗って、芝園橋行の電車に身を任せましたの。金杉橋でのりかえ、一の橋までまいりましたの。でも時間は刻々と迫って……時の神がうらめしくなりました。もっと先まで行って、あなたに逢うべく……決心しましたけど、もう十時近くなりましたから……残念でしたけれども、芝園橋で乗りかえて帰宅いたしましたのよ……。 宅を出ます時に、十時迄に帰るように申して参りましたから……あなたに逢うべく一の橋までゆきましたが、せめて一時間でも、否、一分間でも……そしてあなたの温い胸に……しっかりと抱かれて……と、そればかりを希んでおりましたのに、予想はすっかり裏切られてしまいましたの……あなたに会えたらどんなに幸福だったでしょう? ほん当に残念でなりませんわ……もしも自由の身であったならと、いつもそればかりを……。 家へ帰って参りまして、茫として何物も手につきませんでした。他の人々から、どうかなさいましたのと云い寄られても、それに答える事も出来ませんでしたの……二時過に床に入りましたけど、あなたの事ばかり思い出して……眠られませんでしたの。すまないという心で私のハートは満ちておりました。 束縛を呪い、自由を渇仰する私は……この泪する淋しい妹を慰めて下さいませ……。 いつもいつも、どうせ生きるなら、もっともっと意義のあるように生きたく……望んでおりますけど、けれどけれど私の願いはすっかり裏切られて了いますの。ミゼラブルな人生を……歎き悲しみましたの。歎いたとて応える何物もありませんでした。玉雄様――こう叫んだ時に、あの四月十日がほんとうに慕わしくなりますの。そうして、まぼろしのようにあなたの面影が表われ……私はたまらなくなりました。そして、そのまぼろしに対して私は何か囁きたかったのですけど、併しそのあなたの面影は長くは続きませんでした。なつかしく、また慕わしかったけれども、私はあなたのまぼろしに無言のうちに別れを告げてしまったのです。噫、こうした中にも物淋しい生命は刻々と過ぎて行きます……筆を止めて、静かに黙して、祈るともなく祈る時……私の全身は氷のように冷たく……私の瞳はいつしかうるおいをおぼえました。私はただ泪にうるむ眼をとじて思考すること五分間……又となき若き日の思い出は……ああ、頼もしくもあり寂しくもある日は……時の運行! 尚相変らず慌しゅう御座いますのね。 乱筆お許し下さいませ。そして長い長いお便りを首をのばして待っております。玉雄様、ほんとに親しく、何でも赤裸々に仰言って下さいませ……。 一九二四、四、三〇 夜 すえ子 なつかしい……私の  玉雄様御許へ 二伸 誠に恐れ入りますけれど、お写真がありましたら、 一枚お恵み下さいませ。お送り下さってもよろしゅう御座います。私のもお送りしちゃ不可ないでしょう? でしたらお目にかかった時に、あなたのお手にさし上げますわ……ほんとに貧弱ですが。 今度会われる時は午後の三時頃で御座いますわ。 夜は絶対に出られないのですもの……昼ならよろしいのですけど。二十九日に逢われなかったのが何より残念ですわネ。 一の橋まで行ったのに……も少しであなたのお家でしたのに……いつかは神様が……その時を楽しみに待っております。    ……………………  この文を通じて、この少女の家庭は真面目である。女学校の上級生位の年頃で、しかも人生とか、自分の心とかいうものに対して、少女には珍らしい程はっきりと考え得る頭を持っている。それだけに人生に対して或る苦しい淋しい空虚を認めて、何物かを求めつつ悩んでいることがわかる。同時に、彼女の家庭も、学校も、宗教も、道徳も、彼女の魂の飢えを満たすべく何物も与えていない事がわかる。そのために彼女は、おぞましくも唯性の労働に走るほかはなくなっている。空漠たる時間と空間の中に、只青春のときめき、それだけしか認めなくなっている。そうして不良とは知らずに、不良性の萌芽を心の奥に育ていつくしんでいる。それに対して、学校も家庭も無関心な冷たい眼で見ている。一方、不良少年は冷笑しているという、現代社会の時代相がありありとうかがわれる。 少女のラブレター    …………………… 敏雄様……。 十五夜の月が、淋しく物思う地上の一人子を哀れむように照らしております。虫の声もいたしましたけど、何故にかく泣き止むのでしょう? 唯一人なのに……私はやはり淋しいのです……自分で淋しいと思うからなのでしょうけど、私達の若さに同情してくれる人はないのですもの……私の一番大事なお兄さま、昨夜は久しぶりで夢で御目にかかれました。でも、あなたは御元気がなく、お言葉さえかけて下さらないのでした……で、悲しゅう御座いましたの。ですから忘れて下さいませんようにと書きますわ。その後お体はつづいておよろしいの? 今日は何だか心細くてなりませんの。 先達てのレターに、姉の来ていますことを申上げましたために、あなたは御遠慮遊ばしていらっしゃるのじゃなくって? 御心配には及びませんわ。あなたからのお便りのない日は、私は寂しくてなりませんのよ。ですから、早くお便りをお恵み下さいませ。 病の床に是非なく伏しておりましたけれど、私はたまらなくなって………。 呪われた東京を思い出して……今はこの書く手もふるえて、この窓から見れば――赤い血のような無数の星の流れ、空一面に気味悪くそまって。 真紅のほのおの高く高く息づくのを! 恐ろしい……そうして、人々のどよめきの中を依然として星は乱れ飛ぶ! 鐘は鳴る! おお、今は午前三時よ! 床をぬけ出たためか、風邪の復活! ほん当に悲しゅうございます……お願いですからお便りを! 病の床に伏す身は! 遠い都にいますあなたを思い出しては……おしのび下さいませ。 また後便でゆっくり申し上げます。 小夜なら  つる子  私の兄さまへ    ……………………  この少女の悩みは、前の哲学的なのに比べて感傷的である。「私達の若さに同情してくれる人はない」の一句はことに強い感銘をあたえる。現代のあらゆる教育は、少年少女の若さにすこしも同情をしていない。只|無暗に押さえ付けようとするか、ほったらかしておくか、二つの間を出でぬ手段を執るのみで、動もすれば彼等子女を罪人扱いにして、自分達の誠意の足らぬ事を考えまいとする。彼等の青春に同情する不良芸術、不良人間の魅力の方が、教育の力よりもはるかに強いのは無理もない。「私達の若さに同情してくれる人がない」という言葉は、無能な現代教育の心臓を刺す短剣である。 少女のラブレター    …………………… 略―― この前差し上げましたレター御覧になりまして? ――さぞお笑いなすった事と思いますわ。だって、何度レターを差し上げても御返事がないから、もしや発見されたのじゃないかと思いまして、逃れるためにあんな事を記しまして……おゆるし下さいませ。本当に不可ない子でございますのね………。 お願いが只一つ御座いますの。日本橋の姉が只今突然帰って参りました。ですから、これからお手紙下さる時も、麻布だと分るかもしれませんから、誠に恐れ入りますが、 「林町にて、すみ子」としてお出し下さいませ。ほん当に失礼なんですけど、おしのび下さいませ。時間を見計って見守っておりますから、大抵は大丈夫で御座いますけど、もしやと思いまして………。 略―― 姉の居る間は多少出られないだろうと思っております。そして、十二月のくるのを指折り数えて待っておりますの。駒込へ参りますの。そしたらゆっくり出来ますわ。それこそ本当にゆっくりどこかへ遊びに参りましょう………。 この苦しいハート……私はただその時のシーンを! 空想を……それで慰めておりますの。女の生命は愛ですわ。愛なしには生きてゆかれませんものを………。 私はあなたなしにはこの世に一日だって、一時間だって生きていられませんのよ。あなたのためなら、どんな事をも厭いませんわ。献身的の愛を……いつまでもね。最後という事なしに……お願い致しますわ。 略―― あなたの  つや子より  なつかしい   私の邦彦兄さまへ    ……………………  この少女は明らかに江戸ッ子で才気がある。しかも色事に対する趣味を理解している。都会人の冴えた才智と不良性とが如何に密接な関係があるかは、この手紙の文句だけでも証拠立てられる。 少女のラブレター    …………………… ただ今なつかしいお便り有がとう存じました。 白秋のわすれな草を手にして……おりましたら、恋しいあなたからのお便り、……私の手は戦きました。嬉しさに……二十七日には日比谷までお出下さったのですってね。 おゆるし下さいませ……すべては私が……ほんとうにすみませんでした。 こちらへお出下さるそうですわね……わざわざすみませんわ。水戸でもよろしいのですけど、人目が多いからよしましょう。 途中と申しましてもよく存じませんけど、利根川べりは? あまり奇麗な町でも御座いませんけど、利根川が。土浦で下車しますの。上野から土浦までの切符をお求め下さいませ。そして土浦で下車して……わたくしも一番で参りますから……もしも早くお出になりましたら、停車場でお待ち下さいませ……。 お逢いするのはいつでもお逢いしたいのですけど……五日はいかがでしょうか。いつでもとのお言葉故、五日ときめますわ。では五日に土浦駅で御まち下さいませ。私、二十八日水戸へ参りまして海岸へ参りましたら、それはそれは色が黒くなりましたの。まるで土人のように……おわらい下さいますな。 お頭が痛みになるのですってね。お大切に遊ばせ。あなたの御健在を毎日祈っております。 こちらへ参りましてから、ほん当に無意味な日のみつづいてさびしいのです。時折あなたからのお便りを取り出しては、思いなやんでおりましたの。でも逢われて嬉しゅうございますわ。早く五日の来るのを待っております。ではね、何卒お願い致しますわ。五日に土浦までね。私ほんとに嬉しゅうございますわ。何と申し上げてよいやら……いずれお眼もじのうえ……。 もしも五日に雨が降りましたら、六日にいたしましょう。曇っておりましても実行します。神様は大丈夫お天気にして下さいますから。  恋しい欣吾様御前に 喜のうちに  智恵子    ……………………  媾曳に慣れた少女の手紙である。東京付近の郊外が、到る処こうした男女のために利用されている事が推測される。 本物の不良いろいろ  次には本物の不良少年少女に就いて研究して見る。  実を云うと、不良に本物だの贋ものだのとある筈はない。只、程度が高いか低いかだけの違いで、煎じ詰むれば人間性の低級な表現に過ぎぬという事は誰しも認むるところであろう。  ところで、その「不良性」のあらわれに幾通りもあるように思われる。  第一は最初から生活難の背景、又は商売的の意味を持ったもので、男性では俳優その他の芸人、外勤員、祈祷師、各種の治療師、活弁、呉服屋、ボーイ等の男淫売式? の「不良」、又女性ならば職業婦人の第二職業、女優、女給、芸者、半玉、魔窟の女なぞが発揮するアレである。  第二の方は興味本位、享楽本位から来たもの――今一つ突込んで云えば、思想カブレ、流行カブレ、虚栄、ウヌボレ、自暴自棄なぞいう内的原因から起った不良性の嵩じたもので、生活難の背景だの、商売的の意味だのが極めて薄い。たとえば男女の学生、華族や富豪のお坊ちゃん嬢ちゃんなぞがあらわす不良性は、大部分この方に属すると見ていい。  一般にはこれをゴッチャにして、一列一体に不良と名付けているようであるが、記者の云う「不良」は、どちらかと云えば後者を指しているつもりである。  ところで、後の方の不良性を調べて見ると、三期に分ける事が出来るようである。  先ず人間性が卑屈な形式であらわれるとする。初めのうちは親兄弟や先生を困らせる程度であるが、だんだんと図々しくなって深みに這入る。この程度を第一期と名づける。  とうとう社会を困らせるようになって、その筋の閻魔帳に割り込む。この程度を二期とする。  もっと進むと商売化する。社会から圧迫されて、不良を本職にしなければ喰えないようになる。これを第三期と見る。  これ以上は大抵大人の仲間に這入ってしまう。そうしてもっと悪性になるか、真面目にかえるかする。いずれにしても「不良少年少女」とは云えない。  記者が最初に「本物の不良」と名づけたのは、この中の第二期から三期のものを指しているつもりである。  但、実際上うようよしている不良を、第何類だの、第何期だのとハッキリ区別する事は絶対に出来ない。皆、複雑した動機と経過を持っているにきまっている。只、記者の心持ち――又は不良本人の意識だけで出来る区別である。そうして、要するにこの記事を読んで下さる人々の理解を助けるために、こうした区別を試みたに過ぎぬ事を含んでおいて頂きたい。 八幡市の不良団に関する福岡県知事の質疑  大正十二年の暮の事――。  沢田福岡県知事から内務当局へ宛て一つの問合せを発した。その内容は今日迄発表されていないが、一時新聞に伝えられた八幡市の不良少年団に関したものであった。  その意味は大略左の通りであった。 大正十二年の十一月頃からの事、当福岡県下八幡市に不良少年団が出来た。彼等は父兄監督者の眼を潜って会合協議の上、活動写真式の団体を組織することとし、秘密契約を結び、左の腕を切って血を啜り合い、兄弟の義を固め、兇器等を懐にして活動館の付近に潜伏出没し、誘惑脅迫等の手段を以て良家の子女を窘しめた。これは東京の震災後、九州方面に流れ込んだ避難民の中に不良少年が居て、こんな事を始めさせたものと考えられるが、貴方の意見如何云々。  この質問書を内務省からまわされた警視庁では、大略左の意味の回答をしたという。 そのようなやり口は必ずしも東京式とは認められぬ。八幡市の不良少年が、ある刺戟によって独立的に思い立ったものであろう云々。 三千の不良少年、三百の不良少女  東京は、こんな風に日本全国から「不良」の本場と考えられているが、実際それだけの価値は充分にある。  目下警視庁の黒表に控えられている不良少年が約三千、不良少女が約三百もある。然も一粒撰りの者ばかりで、これ以下の「イケナイ」のは無数だという。東京全市が不良の支配下にあるのではないかと疑われる位である。これ等の不良少年少女は震災後激増して、今日の数に達したものである。  同時に彼等は、震災後、殆んど全部が郊外に引っ越してしまったのであった。というのは、市内が一時|寂れて、郊外の町々が大繁昌をした……即ち彼等の狙う相手が市外に避難したのが主な原因である。  そのほか、郊外に暗い処が多いこと――警察の取締が行届きかねる事――又は東京市の中心に到る電車の距離が長いため誘惑に便利な事――なぞいろいろの原因がある。  しかしこの頃になって、郊外が万事に不便なのと、道路が悪いので、少し位家賃が高くとも構わずに市内に引返す人が殖えて来た。そのために郊外に空屋が殖えて来て、家賃がドシドシ下落するという。  不良連中もこの春あたりからポツポツ市内に引返すであろう。  ところで、「不良」と「善良」との区別は一見してなかなか付きにくいので、当局でも家庭でも困っている。何でもないのに不良|気取のが居る一方に、不良の方でも研究して、そう見られまいとするからとてもわからない。 鳥打帽と制服の特徴  一般に、震災前と震災後とは、東京人の風俗に一大変化を来した。改め切れなかったものが、あの大きなショックで改められたのだと、学校当局や警視庁では云う。しかし、今一層これを深刻に見れば、物質的方面ばかりでなく、精神的方面にもそうである。殊に、堕落気分を持ちながら実行出来なかったものが、あのドサクサに紛れて思い切って堕落したとも見られる。  或る呉服屋で震災後、絹の上物一切を倉庫にブチ込んだ。こんなものは当分売れまいと思っていたら、豈計らんや。十日にならぬ中に売り切れてしまったという。ザッとそういったような気持ちの変り方である。  その中に不良のスタイルが生み出された。  学生間に於ける鳥打帽の大流行は、カフェー、活動、その他に横溢している享楽気分にふさわしい気分のあらわれである。その冠り方や柄で不良かどうかはわかると、狃れた刑事は云う。  同様に制服にも不良化傾向が現われた。昨年の秋あたり、制服の詰め襟の背を割いて、袖口を腕の処よりも広くした、所謂|喇叭袖を尾行して行くと、大抵不良行為を発見したと、警視庁の捜索課では云う。甚だしい学生は、制服の背中の中央近くまで裂いているのがあった。袖口を裂いたのもチョイチョイ見受けたと云う。 不良少女の服装と着こなし方  不良少女の服装はまちまちで、その筋でも見当が付かぬらしい。職業婦人が出て来て、矢鱈と風俗を突飛にするので、いよいよわからなくなるという。成程と思わせられる。  オールバックに濃化粧、漆のような引き眉に毒々しい頬紅口紅をつけ、青地か紫色の綿紗に黒手袋、白絹模様入りの靴下に白鞣の靴の踵を思い切り高くして、虹のようなショールを波打たせながら八方に眼を配って行く……といったような女学生をいきなり不良とは断定できぬ。  しかし、記者の見たところを綜合すると、不良少女は割合に狭い帯を締めているようである。これは胸のふくら味と下腹と尻との丸味を区切って見せるためで、昔流に広いシャンとした帯で、その辺から受ける肉感を芸術的に殺して終うのと正反対の行き方である。そのために羽織の紐の付処と締加減に巧な手加減がしてあって、どことなく洋服の感じが取り入れてあるように見える。  同時に、昔は襟足を見せて美感をそそったものを、彼女たちは反対に襟元を心持ちくつろげて、襦袢の襟を大きく見せながら反り身になって歩くようである。これは新しい女や外交官の夫人なぞによくある着こなし方である。又は、舶来のフイルムに出て来るキモノの感じを学んだものであろう。裾が長くて締りのないのは云う迄もない。  但、こんな着こなし方は、強ち不良ばかりに限ったわけでもないようである。 歩き方に現われる特徴 「不良」の中でも、屈指の少女は却て質素な風姿をしている。  西洋の諺か何かに、 「本当の悪魔は平凡な人間に見える」  とあるが、事実かも知れぬ。とにかく、普通の少女と不良少女の区別は出来ないと云った方が早わかりである。  唯ここに一つだけ、殆ど不良少女に限られた特徴がある。それは足の運び方である。それも、和服に袴で靴を穿いている場合に限って見分けられる位、微妙なものである。  不良少女が行くのをうしろから見ると、所謂「内がま」とも「外がま」とも付かぬ。それかといって真直でもない。心持ち爪先が外を向いたり、内を向いたり、一足毎に一定せぬ。  又、踵を卸して次に爪先を地に付ける時、何となくパタリとして力無く見える。普通の少女だと、往来をあるく時は多少に拘らず緊張しているから、爪先を先につけるか、又は爪先と踵を同時に落すところである。  不良少女のはその腰から股のあたりにも緊張味がなく、膝の関節の曲り加減が、急ぐともなく、ゆっくりするともなく見える。注意して見ると、サッサとあるく時にもこの気持ちがある。要するに、腰から下の三段の関節に一種の締りが抜けた歩き方と云えば、あらかたわかると思う。  これは、「普通の家庭に育った少女の不良気分」が、歩き方に反映したものと思う。職業婦人のだともっと硬ばるか、ゾンザイに見えるかして、どちらかと云えば男性化した気分があらわれている。  あれが不良少女と、記者に指さし示された女学生は、一人を除いたあと全部が、この特徴を持ったあるき方をしていた。股をすぼめて恥かし気に歩いて、処女を気取る不良少女は一人も居なかった。 東京の土を踏んでドキドキと躍る心  大正十二年の秋以後、東京は特に夥しい人間を吸収した。その中にまじる少年少女は片端から不良化した。そうして本物の不良をドシドシ殖やした。  その順序を考えて見ることは、この稿の最重要な使命の一つと思う。  第一、田舎から出て来た少年少女は、永らく東京に住んでいる家庭の子女より堕落し易いというが、さもありそうに思われる。  少々惨酷な云い方ではあるが、しっかりした身よりがあって東京に来たのは別として、只|無暗に東京にあこがれて吾家を飛び出したりするのは、東京に着かぬ前から不良性を帯びていると云っていい。田舎を嫌ったり、窮屈がったりして飛び出した気持ちには、既に不良性の種子が宿っている。「何でも東京へ」とあこがれる気持ちの裡面には、自堕落によく似た自由解放や、虚栄と間違い易い文化的生活に対する欲望がチラ付いている。  あこがれの東京に着く。  震災後、思い切って華やかになった東京のすべては、彼等の眼を驚かし、耳を驚かす。面喰らって感じてドキドキキョロキョロする。  その中に落ち付いて来る。  新聞や雑誌で見聞きした東京の風物が、一々実物となって彼等を魅惑し始める。欲しいものがいくらでもある。好ましい男女の姿、羨ましくも自由に楽しげなその身ぶりそぶり、そのまわりに光り、かがやき、時めき、波打つもののすべては、彼等の心を惑わせ、狂わせ、躍らせずには措かぬ。その中でも「不良性」は真っ先にこの刺戟に感じ易い。 自分の心から生存競争の邪道へ  田舎出の少年少女は、東京の「不良」の誘惑がどんなに恐ろしいかを知っている。そんな忠告をうるさがりながらも、自分の清浄|無垢を信じている。「だから東京に行っても差支えはない」と思う……その心の奥に不良の種が蒔かれている事を気付かずにいる。そうして、只東京の「不良」の誘惑ばかりを警戒している。  ところが、東京で出来た知り合いの中に不良らしいのは一人も居ない。同時にその友達の中に、この偉大な大都会を物とも思わぬ少年少女があって、面白く親切にいろんな事を教えてくれるのが居る。そんな友達の話を聞いていると、何でも東京でなければならぬように思われて来る。つい感心して夢中になってつき合っている中に、今まで悪いと思っていた事がいつの間にか悪いと思えなくなる。  殊に東京でエライと云われる大人は、白昼堂々とそんな事をやっている。それが最新式だの、文明式だのと持てはやされている。そんなのを見たり、真似たりして、天晴れ東京通になって、田舎者を馬鹿にしている時は、もう平気で「不良」をやっている時である。「自分の不良性」が「東京の不良性」と共鳴して、自分を不良化してしまっている時である。  この時に自覚しても最早遅い。  友達を怨んでも、東京を呪っても追付かぬ。学校は追い出されている。故郷からの送金は絶えている。イヤでも不良かゴロに仲間入りしなければやり切れなくなっている。  いよいよ不良が上達する。  生存競争の邪道に陥る。  ……といったような順序である。 押え切れぬ勇気や智恵  又、こんな風にして本物の不良は出来る。  生れ付き智恵や勇気があり余った青年、自分の美貌や才智にうぬぼれた少女等は、よく平凡な田舎を嫌って東京に飛出す。しかし、そこで仕事に有り付いて、コツコツと働いて、結婚して、子供を設けて、平和な家庭を……そんな事で満足出来ない。  何でも強い刺戟を受け続けて行きたい。いつも大勢をアッといわせて見たい……そんなのを「東京」は待ち構えて「生存競争の邪道」に陥れる。東京にはそんな「生存競争の邪道」が横路地の数だけある。  精神的に悪い境遇に育ったもの、生れ付きヒネクレたもの、又は、良心欠乏、無智なぞいう先天的の犯罪性を帯びたものも、静かな地方を嫌って東京に出て来る。曇った空気を恋い、彩られた光りを慕って、それからそれと飛びまわるうちに金箔付きの不良になる。こんなのになると、この節の教育や制裁では押え切れない。説教すれば、抗弁するか泣くかする。拘引さるれば却って箔をつける。 善良が不良に急変  前にも述べた通り、「不良性」は要するに「人間性の卑屈な表現」である。即ち不良性は直に人間性で、逆に云えば人間として不良性を備えざるなしという事になる。孔子の「習」、基督の「罪」、釈迦の「業」等いう言葉は、この意味を含んでいはしまいかと思われる。  この人間性、即ち不良性はいろんな因縁に依って善ともなり悪ともなるので、天性善良な素質を豊に備えた少年少女でも、一度不良的刺戟を受けると、存外容易に不良化する傾きがある。  東京の二三署の刑事や部長が記者に話した事の中で、左の意味の処だけは共通していた。 「不良になった動機の中で、何の気もない少年少女が偶然に一度不良から被害を受ける。それがキッカケになって案外容易に不良化する。時と場合に依っては、良心の極めて鋭い少年少女がかなり甚だしい不良になっている場合さえある」  云々と。尚、記者の見たところに依れば、良心の鋭いというよりも、気の小さい者が、一朝の刺戟で大胆な自暴自棄的境界に踏み込むことはあり得る。 「不良化率」減少法  たとえば或る少年か少女かが、何品かを不良少年に捲き上げられる。ところで父兄母妹にそれを発見されてはならぬ……というような申訳ない心の苦しみから、ツイ不良な方法でその捲き上げられた品に似たものを手に入れて当座を胡麻化す。その時に動いた不良性がそのまま静まらずに、一度二度と罪を重ねて、いつしらず不良になるといったようなのが極めて多い。又は自分が遣られた手口に感心をする。「巧いな」と思ったり、「あんなにやれたら面白いだろう」と思ったりする。つまり、自分の不良性を他人の不良性から誘発されて不良化するのも珍らしくないように見える。善良な少女が一朝の過失に身を汚されて心を悩ました揚句、良心や理智が昏迷し、麻痺して、遂に棄て鉢的の不良少女になる場合も亦決して少くないと信ずる。  尚、記者の見るところに依れば、このような動機で不良性を帯びた少年少女の中には、両親や何かの怒りや警戒、又は排斥的の冷たい待遇に依って、一層その不良化を早めたのが非常に多い。もしこのような少年少女にその教育の責任者が今少し強い忍耐力を持って、温かい、そうして明らかな教育を施したならば、どれ位その「不良化率」を減少したであろうかという事を記者は深く感じたことを付記しておく。 東京の学生生活に狃れ過ぎて  大きな声ではいえないが、東京の学生生活に狃れ過ぎると不良になる。故郷を遠ざかった世間見ずの若い連中が、次第に大胆になっていろんな不良性を発揮する。  嘘を吐いて為替をせしめる。学校をサボってゴロゴロする。エラガリ競争をして低級なイタズラをやる。又は新智識を衒って雑誌や新聞の受け売りを吹く。女を見ては色眼を使う。  それが学生だというので、ドンドン通ったり、モテたりすると、世間はこんなものかと思われて来る。  図々しい奴は実社会に応用し始める。一度二度と成功すると、いつの間にか学校|糞を喰らえで純粋の不良になってしまう。侮辱していると云う人があるかも知れぬが事実である。その筋に睨まれた不良にはそんなのが多いから困る。  苦学生のは又違う。  彼等は何でも成功しようと思って東京に来るのであるが、案外うまく行かないとジリジリする。世間の冷たさが骨身にこたえる。自分の青春が見る見るイジケて行くのがわかる。とうとう我慢し切れなくなって、「成功」と「享楽」の「早道」に這入る。とうとうしまいには「成功」の方を忘れてしまって、「享楽」だけを追いまわし始める。それでおしまいである。 苦学成功の油断から  反対に苦学に成功した場合でも堕落する可能性がある。  苦学に成功すると独立独歩で、誰も八釜しく云う者が無い。つい慰安の意味で遊んで見る。忽ち苦学では追付かなくなる。  さもなくとも初めから成功が目的だから、喰えさえすれば学校なんぞはどうでもいい。学費を稼ぐのが馬鹿げて来る。  おまけに「世間はこれ位のものか」という気になっている。その油断から不良風を引込む。東京市中の到る処の抜け路地は、苦学の御蔭でチャンと飲み込んでいるから、堕落するのに造作はない。  東京の家庭の婦人、色町の女、魔窟の女なぞが、苦学生というと無暗に同情するのも彼等のためにならぬ傾向がある。  帝大の苦学生で、苦学生の元締めをやっているのがある。本郷に大きな家を借りて苦学生を泊める。納豆を二銭乃至二銭五厘で仕入れて来て、三銭五厘で卸してやる。苦学生はこれを五銭に売って食費を払う。その二階に大学生は陣取って、変な女を取り換え引き換え侍らして勉学? をしている。  不良とは云えまいが、ざっとこんな調子である。 少年の悩みから  一般に今の若い人々は、「将来」に対して一つの大きな悩みを持っている。  少年の方は、学校を出てから何になろうか、自分の才能がどんな仕事に向くだろうかという事を発見し難く、モヤクヤと困しんでいる。  十人十色の才能を見分ける事をせずに、一列一体の学課を詰め込む主義の今の教育法は、一層この悩みを深刻にする。猛烈な成績の競争と試験制度は、彼等を神経衰弱になるまでいじめ上げる。  その結果、彼等はいよいよ実社会に対する気弱さを増す。そうして遂に自暴自棄に陥る。  或る一つの天才しか持たぬ青年、又は生れ付き学問に不向きなタチの少年は、いつも成績不良の汚名を受けて、学校や家庭から冷遇される。その果は矢張り自暴自棄で、踵を連ねて不良の群に入る。  これは云い古された議論である。寧ろ記者の受売りである。  併し、現在の東京と対照させると、この議論は決して古いものでなくなる。却て新しい、高潮さるべき実際問題となって来る。  現在の東京に見る見る増加して行く極端な対照――非常な華やかな生活と恐ろしくミジメな生活――遣り切れぬ享楽気分と堪え切れぬ生存競争――その中にニジミ流るる近代思想は、彼等少年の「勉強」に対する頭の集中力を攪乱し、その「誘惑」に対する抵抗力を弱むべく、日に日に新しい深刻味を加えて来つつある。 少女の悩みから  少女の悩みは又違う。  どうせお嫁に行かねばならぬが、その婿は自分で撰むわけに行かぬ場合が多い。そうして、いい処に行くために、面白くも何ともない学校の成績を挙げねばならぬ。ジッと音なしくしていなければならぬ。  ――家事を習って――お裁縫を習って――作法を習って――お化粧をして――そうしてお婿さんの趣味と一致せねばならぬ――何でも盲従しなければならぬ――。  女なんて、そんなつまらないものかしら。  そんなら独立するとすれば――職業婦人にならねばならぬ。内的にあらゆる誘惑と戦って――外的には男子と実力の競争をして――そんな事が妾に出来るか知ら――妾の趣味、智識の内容にそんなねうちがあるのか知ら――。  今の東京はそんな悩みを刺戟する最新、最鋭の材料に満ち満ちている。  こんな悩みが深ければ深いだけ、それだけ少女の頭に湧く空想や妄想が殖える。次第にセンチメンタルになり、神経衰弱になり、刹那の感興に涙ぐんだり狂喜したりする傾向が極端になる。そうして欺され易く、感化され易くなる。又は悩み抜いた揚句が、投げ遣りの自堕落になる。  いずれも不良の原因である。  こうして一度傷ついた彼女の心の痛みは、だんだん早い速力を持って彼女を不良の谷に引き落す。 おいらのせいじゃない  すべての子女は、親よりも純清な心を持っているにきまっている。それが不良になるのは、家庭と社会の欠陥――即ち大人の不始末からである。  先天的の不良性でも、それは矢張り数代、もしくは数十代前からの大人の不仕鱈が遺伝したものである。子女の不良を責める前に、大人は先ずこの事を考えねばならぬ。  ところが実際は反対に見える。  子女の不良が或る程度まで進むと、不良仲間から認められると同時に社会からも認められる。親兄弟、一家親族、知人朋友、学校警察まで、よってたかって善良世界を追い出して、不良の世界へ追い遣ってしまう。そうして「おれたちのせいじゃない」と思ったり、云ったりしている。  言語道断である……。  ……と、今の不良たちは、また殆ど十人が十人思っている。「おれがこんなになったのは境遇からだ」とか、「すべては運命だ」とか云っている。「おれたちが悪い事をしているのじゃない。世間がさせるのだ」位に心得ている。  これが又言語道断であるが、事実、そんな錯覚に陥る原因が多いのだから仕方がない。警察で説諭をしても、こんな理窟で逆ねじを喰わせられる。少年ばかりでない、少女がやるから困ると係官は云う。  彼等不良少年少女は、だから案外堂々と不良行為をやる。捕まるとウルサイから用心をする位の事である。中には積極的に社会や警察をカラカッテ面白がるのさえある。 女性の自由解放と虚栄奨励  本物の不良少女になる順序に二タ通りある。第一は虚栄から始まって万引に移る。その虚栄の本場は東京である。最近の派手な風俗は、一面から見れば狂的の虚栄競争である。その万引心理をそそる品物が全市に満ち満ちている。  しかし、こちらの話はよく雑誌や新聞に載っているから略するが、こんなのが高じて良心を喪うと詐欺をやり、恐怖心を磨り減らすと恐喝までやる事になる。  近頃の女学校の個性尊重、自由解放主義も、虚栄を奨励していると見られる。  若い女性の個性尊重、自由解放は、正面から見れば誠に結構な事であるが、裏面から見ると実につまらないものである。  極端に皮肉に見れば、東京の女学校――わけても私立の教育方針は、真実に近代思想を理解して、指導的に女性解放をやっているように見えない。反対に、人気取りのためにお嬢さん方の希望と迎合しているかのように見える。だからその結果は、無意味な虚栄奨励、見栄坊許可という事実に堕ちている。  その結果、彼女達仲間の嫉妬心や羨望心を増長させている。手癖の悪い娘が出来たり、虚栄のために身を持ち崩すお嬢さんが出来たりしている。  その証拠は新聞の軟派の雑報を見るがいい。又は警察に行って聞いて見るがいい。 自惚れから堕落へ  少女の堕落の今一つは、矢張り近代思想の誤解から始まって享楽主義に落ちる事である。この世は無意味である。只、享楽だけがある。人生は零である。只、刹那の感興だけしかない。これに対して人間は絶対に自由でなければならぬ……といったような思想を、極めて低級な意味に考えて実行する。  実は、うぬぼれていい――堕落して構わない――と考えて堕落した事になる。  今の東京はうぬぼれの大競争場である。あらゆるおめかしの大品評会場である。大抵の風姿をしても驚かぬ程、その競争は激烈である。  活動役者の表情の技巧や、近代芸術の線や色彩は、そんなに別嬪でなくとも挑発的に見える化粧法や表情法を、到る処に鼓吹している。  そんな研究に浮身を窶しているうちに、彼女たちは自分の持っている性の強さ、魅力を知るようになる。又は、女の弱身をそのまま男性に対する強みにする方法を飲み込むようになる。  これが堕落の初め終りである。  芝居や実世間のバムパイヤになれる唯一の大道である。  女学生なら、先生に泣き付いて出欠を胡麻化す。色仕掛で落第を喰い止める。職業婦人だと、会計を軟化させて前借をして逃げる。重役の令息の新夫人に脅迫状を送る……なぞいうのがいくらも暗から暗へ葬られている。新聞に出ているのはその一部分である。 泥棒の手習い場  一方、本物の不良少年も、異性を引っかけるばかりでない。泥棒、詐欺、脅迫なぞいろいろやる。そうしてこの種類になると、極軽いのでも本物の不良としてお上から睨まれるのである。男女関係のそれのようにありふれていないからでもあろうか。東京市中はこんなあらゆる種類の「不良養成所」である。殊に現在のバラック街はそうである。  震災後急増した飲食の新店、又はその新しい雇人は、不良式ゴマ化しに持って来いの研究相手である。  そんな飲食店の食器や備え付品を、初めは楊子入れ位から始めて、ナイフ、フォークに到る迄失敬して、泥棒学のイロハを習う。だんだん熟練して、額縁や掛物、皿小鉢や鍋に及ぶ。  いい洋食店なぞは入口でマントや帽子を預かるが、これが盗難警戒である事なぞは先刻御承知であろう。  尤もこの式は大人もやるが、若い者も面白半分に盛にやる。だんだん慣れて来て、こんな楽なものかと思うのが本手になる始まりである。喰い逃げもよくやるが、詐欺の第一歩である。  澄まして喰物を注文してポツポツやりながら、椋鳥を見つけて話し込む。その中に都合よく表に飛び出す……といった式が一番ありふれている。ポット出の学生なぞはよくやられる。 借りたインバネス  大勢連れで露店を掻きまわしたり、飲食店の皿数を胡麻化したりするのは、東京に限らぬ学生たちのわるさである。  隣席の客の下足札をすり換えて穿いて行く。あとでお客が面喰らうのを見ているとなかなか面白いという。面白いかも知れぬが立派な泥棒行為である。  一人の青年が、田舎者と公園で知り合いになって、一緒に飲食店に這入った。煙草を買いに行こうとすると、生憎雨が降り出したので、一寸のつもりで田舎者のインバネスを借りて出て行った。 「貸さない」  とは云えないまま貸したものの、田舎者は心配になった。急いで金を払って、雨の中を青年の行った方へ行くと、二人の友達と四辻で話をしている。その中に電車が傍を通ると、三人共飛び乗って行った。  田舎者は驚いた。  近所の交番に駈込んで、電車の番号とその青年の風采を告げた。交通巡査が直に赤いオートバイを飛ばして、その電車を押えて、青年と友達を引っぱって来た。  青年は三人共某大学生と名乗って、しきりに田舎者にあやまったが、田舎者は承知しなかった。三人は警察へ連れて行かれた。  一時は真黒な人だかりであった。記者もその中の一人であったが、今でも本物の不良かどうかわからずにいる。  大正十三年十月二日午後二時頃、浅草公園雷門前での出来事――。 色魔学のイロハ  女給をからかうのは、色魔学のイロハのイである。  眼ざすカフェーに毎日行って、十銭ずつ珈琲を飲む。それ以外に何も取らずに、必ず五銭|宛余計に置いて来る。こうして三円使ううちには、きっと女給を二人以上引っかけて見せると、或る不良が云ったそうである。不良学も容易でない。  この頃は、女学生だの、職業婦人だの、又は上流の淑女、令夫人たちが、ドシドシカフェー程度の飲食店に這入る。デモクラ精神の普及であろう。御蔭で不良は満作である。  気の利いたカフェーやその他の飲食店には、よく別室の設備がある。これは温泉の家族風呂、料理屋のチョンの間と同様、いろんな男女が人を馬鹿にする処である。外からは何も見えないが、○○と同じ程度に挑発する。 「不良」はよく一人でここに入って女給を呼ぶ。人待ち顔に話しかけて口説き落す。その代り失敗すると、コックや何かに半殺しの眼に合わされるが、その危険があるのでなお面白いと云う。  大きな有名なカフェーには御定連の名士? が居る。名高いカフェーゴロ、顔の古い艶種記者、不良老年、壮士の頭目、主義者のチャキチャキなぞが、午後の或る時間になるとズラリと顔を揃える。駈け出しの不良なぞはそれと知ったら縮み上る。そうして早くあれ位の顔になりたいと思う。学生が博士になりたいと思うのと対である。 好男子で乱暴者でピストルの名手  極印つきの不良少年に二種類ある。昔は硬軟の二つであったが、今では、その中に又、文化式と非文化式の二派が出来ている。たとえば、硬派で斬るの突くのというのは非文化式で、地位や名誉なぞいう社会的の生命を脅かすのは文化式である。軟派では野合式が非文化組、社交式が文化組である。昔もこの区別があるにはあったが、今の東京程著しくなく、又、今の東京程入り乱れていない。  その中でも硬派の非文化式という奴は、人間が怜悧になったせいか非常に減って来た。居ても満州や支那に飛んで行ったり、又は文化式の手先に使われて改宗したりするらしい。その代り文化式の方は恐ろしく発達して来た。  世の中の変遷はこうした不良の世界にもちゃんと現われているから面白い。否、「不良」の方が「世の中」に先立って変化して行くのかも知れぬ。  硬派の非文化式の中で、或る一人の事蹟は、今でも東京のカフェーゴロの間に語り草になっている。その話は、その男に脅迫された人の友人で、立派な官歴を持った人の談とよく一致しているから、聞いた通りここに書いておく。事実の有無は保証出来ない。只参考迄である。  その男は高い身分を持つ某家の令息で、好男子で、ピストルを撃つ手腕に独特のものがあった。  彼は十代から家を出て、乾児を連れて東京市中のカフェーを押しまわった。彼の前でちょっと生意気な素振りをする者があると、彼はいつも相手の意表に出る乱暴を加えてタタキ伏せた。  彼の乱暴とピストルは仲間の敬意の焦点となった。 警視庁を横目に睨んで脅迫  彼は遂に警視庁に挙げられて処分されたが、出獄すると間もなく、嘗て警視庁の巡査の先生であった有名な武術家某氏を単身訪問して暇乞いをした。 「今から東京を立ち去るから、旅費二百円程頂きたい」  と要求した。  武術家某氏は言下に拒絶した。  彼は黙って懐中から短銃を取り出して見せた。 「今この中に六発の弾丸が這入っております。その第六発目で貴方を撃つのですから、そのつもりで見ていて下さい」  と念を押して、悠々と一発放った。その弾丸は武術家某氏の耳朶とスレスレに飛んで天井を貫いた。  某氏は粛然としていた。  ――二発――三発――四発――。  皆耳とスレスレに飛んだ。  ――五発――。  武術家某氏は手を挙げて制止した。望み通りの金を与えた。  これは今日迄秘密にされているという。  彼はその金を持って有力な乾児と共に東京を出た。各所の有名な富豪を訪れて金を強要したが、 「今日金が無ければ、明日何時に貰いに来る。警察に訴えるのは自由である」  といった調子であった。その中の一つで釜山に起った事件は、その当時、本紙にも載ったから思い出す人もあるであろう。  彼は満州から支那方面に去ったらしく、その後の消息は聴かぬ。 文化式不良学  今の東京にはこんな非文化式は流行らぬ。その代り文化式が全盛で、極印付きが三千何百も居るのだからウンザリする。今から二十何年前の非文化旺盛時代が坐ろになつかしまれる位である。  こんな文化式不良の札付きになると、東京市内外の不良の系統がわかって来る。同時に不良学上の智識と興味がズンズン付いて来る。  第一に東京市中の案内が、親の家の中よりもよくわかって来る。それも町筋や電車系統位の事でない。眼ぼしい店ならば、その営業振りや店員の顔ぶれ、お客の筋。工合のよさそうな異性の家ならば、その内情や生活振り、家の構造、近所との関係なぞを、その家の主人よりもよく知るようになる。  警察や憲兵署員の顔と名前、性質等は特に大切である。交番の所在はもとより、抜け路地や飲食店の案内、眼じるしになる家とか木や石の形まで、必要に応じて記憶して、抜け目なく利用し得るようになる。  警官達を親友みたようにしているのも居る。手先になっているのも居るらしい。 世間が馬鹿に見える  不良学の中で最も六ヶしく、面白いのは、他人の心理を見抜く術と、その隙に乗ずる呼吸である。これは普通の世渡りにも必要なものであるが、不良の方の術と呼吸は世間並の裏を行くのだから六ヶしい。  人間の心理を、大人と子供、男と女、又は職や生活に依って区別して、あらかたこんなものと飲み込んでいるばかりでない。その場の調子に依って自分の心理状態までも一瞬間にかえてしまって、相手の気持ちに吸付いたり、又は薄トボケて捕まり損ったりする術と呼吸の必要は、不良生活の到る処に出て来る。理想的に云えば実世間の名優でなければならぬ。  この辺まで研究が積むと、人間が皆馬鹿に見えて、面白くてたまらない。講談本や探偵小説にある巨盗怪賊の忍術は、こんな事を云ったものかと思われると吹き立てる不良さえある。無論当てにはならないが……。  現代の教育には、この人間学の一科目が欠けているため、学生は皆、学校を出てからポツポツ研究に取りかからねばならぬ。それは不良は早くから裏面的に研究して、ドシドシ実際に応用している。世間見ずの令息令嬢が引っかかるのも無理はない。  ところで、そんな人間学の先輩――不良学のお手本が日本一に集中しているのは東京である。 場所に依って違う不良の種類  東京の不良は場所に依ってタチが違うようである。土質に依って植える草が違うのと同じわけであろう。  浅草は主として脅迫や誘拐で、千住方面は相も変らず遊廓や魔窟相手のゴロが多い。神田、本郷、早稲田方面は書物泥棒や下宿屋荒し、麹町、青山、牛込、渋谷あたりへかけては誘拐や色魔式が横行する。又、下町一帯は万引やカフェーゴロの仕事場で、山の手は色魔や詐欺の本場と云ってよかろう。東京市外となるとそんなのがゴッチャで、しかも盛に行われる。飲み逃げや喰い逃げは無論全部共通である。  気の利いた不良になると、遠く東京郊外の温泉地、遊覧地、海水浴場までも活躍する。但、こんなのには色魔式が多いので、東京市内及付近では、小石川の植物園が何といってもこの式の大中心地である。しかも最高級から最低級まで横行するので、バラックの裏手の午前零時頃は、用事が無ければ通る気になれない位であった。  その次は井の頭で、これはどちらかと云えば高級なのが多いらしい。但、夜は高級か低級か保証の限りでない。根津権現はその又次という順序である。その他大小の公園、神社、仏閣、活動館、芝居小屋、カフェー、飲食店なぞが、色魔式の活躍場所である事は云う迄もない。  このような不良の活躍ぶりを見ると、社会の欠陥がよくわかる。三千何百の不良を養う東京の社会的欠陥はどれだけに大きいのであろう。 浅草の商売の弱点  浅草はいろんな興行物や飲食店、又は半詐欺的の店なぞいう景気商売が多い。  だからその商売の弱みが多く、不良につけ込まれるところがザラにある。しかし又、それだけ不良に慣れ切っているから、滅多な不良は寄せ付けぬと同時に、不良|除けの不良を飼っておくような処もある。  こんな複雑な関係で、浅草界隈に居る不良には、ほかの処と違った共通のスゴ味があるようである。どちらかと云えば、ゴロ式が多くて、色魔式は割合に少いように見えた。尚、昔は随分非文化式が多かったが、今はゴロ式にも色魔式にも文化式が多いようである。  この辺の不良には共同の宿を持っているのがある。活動館の裏手の煮売屋とか経師屋の二階、又は土一升に金一升の処に居ながら何商売も持たぬように見えるシモタ家の裏二階なぞに、帽子や着物を掛並べて、昼間でも一人二人は熟睡しているといった塩梅である。踏込んで押入れを開くと、汚い夜具の間に女の着物や持ち物がギッシリなぞいうのがある。  木賃宿に泊っているのは、どちらかと云えば浮浪に近い方で、あまり上等でないのが多い。将来の立ちん坊の卵もその中に居ると思われる。  それから、この頃の浅草で単独の仕事をするのは、余程腕の冴えた縄張荒しか、又は顔の通った首領株だそうな。単独のように見えて、実は見え隠れに相棒を連れているのもあるという。  彼等の仕事振りの中で、読者の警戒に価する例を二つ三つ挙げる。 案内女を情婦にして無切符をパクル  浅草の不良少年の中の或るものは、活動の案内女を情婦に持っている。その情婦が入口を預かっている時にスルリと這入って、場内の無切符をめっける。もちろん無切符は表方の方でも見張っているから、それ以上に眼を利かせなければいけないが、素振や何かでそれと察すると、ハネるのを待って物蔭へ連れ込んで脅迫する。 「僕はアノ館の見張りだが、君は無切符で見ていたろう。君は知るまいが、浅草の活動小屋でそんな事をすると命がけだよ。見つかり次第、楽屋へ連れて行かれてノメされるのだよ。君は初めてだから、僕が話をつけて連れ出したんだが、無代ではほかの奴が承知しまい。僕も話をつけると云った以上、いくらか飲ませなくちゃならないのだが、一体いくら持ってるね」  なぞと捲き上げてしまう。手強いのは懐手をした相棒が居て横からジロジロ睨んでいるから、無切符位の奴なら大抵落城する。しかも、無切符だけならいいが、立派に金を払って見ている人間の中で気の弱そうなのを見つけると、この手と同様の云いがかりを作ってパクルと云うから恐ろしい。気の弱いものは浅草の活動を見に行けなくなる。  又、ある一人はカフェーに這入って網を張る。お坊ちゃん式の学生が這入って来ると、待ち構えて話しかける。相手が煙草でも吸っていれば一層妙である。 君はまだ禁止物を見ないでしょう 「君、活動を見に来たんでしょう。浅草でも普通の活動は駄目ですよ。秘密に営業している禁止物を見たまえ。それあ面白いですよ。僕はそこの技師を知っていますから、映写室から見せてあげましょう」  なぞと連れ出す。  それから、道筋を記憶出来ないように大急ぎでグルグルと引っ張りまわして、裏口からヒョイと自分の根城に連れ込む。  そこで脅迫して、金や時計をふんだくっただけで帰せば、大抵の坊ちゃんは秘密を守るそうであるが、タチの悪いのに引っかかると、自宅に電話をかけて金を持って来させる。  それも、バットの空箱に入れてどこの石の上に捨てろの、どこのカフェーの鏡の前のテーブルで渡せなぞいうのは、古い上に危険が多い。最新式のは、囮の少年に手紙を書かせて、自身にその家を夜中にたたき起す。 「この手紙を受け取ってから十分以内にお金を渡して下さい。そうしないと、僕は打たれた上に監獄部屋に売られます云々」  というような手紙を渡して、時計をジッと見つめている。  家庭でもあとはあとの事として、金を遣らないわけに行かぬ。  そもそもの原因は、その被害少年の心得違いである事無論であるが、活動を見に遣る家庭でもよほど注意せねばならぬ。 連れにはぐれた少女  連れにはぐれた少女もよくこの手でやられる。 「僕は少年団の者ですが、あなたのお連れがあそこで待っておいでです」  なぞと云いながら、つまらない徽章を出して見せる。 「まあ、有難う御座います」  と感謝して随いて来る少女を、うまく不良事務所へ連れ込むのであるが、少女の場合は少年のと違って、第一に着物に眼をつける。その次が手紙である。 「こちらが今から二時間以内に電話をかけなければ妾は汚されます。  午後何時    何子より」  以前では、そんな手紙を書かせて金を受け取りながらも、その少女を傷物にして返したものだそうだが、今はそうでもないという。不良の仕事が文化的になった事はこのようなところからも覗われる。  同時に彼等のプライドも高くなったし、要求の金高も多額になった。やり口もこれに随って冴えて来たという。  こんな風に発達しておったら、米国式の黒手が出来るのも遠くあるまい。 「他人の親切を無暗に受けるな。連れにはぐれたら、すぐに自宅へ帰れ」  という注意を、これからの活動を見に行く少女にくれぐれ云いきかせてもらいたいと或る刑事は云った。  最後に、彼等の中で下等なのになると、公園内の悪少年を使って物を掻っ払わせて、喰物やお金と取換えてやるのがある。  ところで面白いのはこの浅草のチンピラである。 浅草公園内のチンピラ  浅草公園内のチンピラは一種独特のものである。ユーゴーの小説に、「町の子」と名づけられた宿なし少年が出て来るが、あんなたちのもので、九段下の公園、芝の増上寺、それから昔の新橋駅前の塵埃溜場なぞによく居た。  まだほかにも居たであろうが記憶しない。その中でも浅草のが一番眼に立つし、多くもあるので、よく人が気が付いている。要するに大東京の産物――否、大都会特有のもので、自身、不良だか何だか……人間の子だという事すら知っているかどうかわからぬ、一種の不良少年である。  浅草にはよく大人の浮浪人で、一名立ちん坊というのがウロウロしているが、そんなのの子かも知れぬ。又は乞食に拾われた捨子の成り上り、置いてけぼりを喰った私生児、迷児の拾い落しなぞもあろう。  この浅草公園内のチンピラが、いつも四五十人位の範囲で殖えもしなければ、又減りもしない事が、又一つの不思議である。ずっと以前からそれ位居たのであるが、震災当時行って見ると、三四人残って池の中に石を投げ込んでいた。それが今度行って象潟署で聴いて見ると、矢張り四五十人居るという。  不思議といえば不思議であるが、よく調べて見ると成程と思わせられる。 チンピラの生活  このようなチンピラは、親兄弟、身よりたよりは勿論、家も無ければ、名前も持たぬ。友達同志でつけ合った綽名をそのまま自分の名前にしている。着物は大抵夏冬通しの一枚で、裾は膝限りの両袖無しなぞが居る。頭を苅っているのは不良少年の世話だという人もいるが判然しない。片チンバのゴム靴を穿いたり、学校帽の古いのを冠っているのもある。  彼等は方々の料理屋のゴミ溜めを漁ったり、掻っ浚ったりして喰っている。浅草公園界隈には、丁度彼等四五十人を養うだけの残物が年中ある訳で、彼等の人数が殖えも減りもしないのは、そんな原因からに相違ないと見られている。  寝る処は軒の下や木の蔭、石段の上なぞで、大抵仲間と背中をくっ付け合っている。冬なぞは寒さにふるえて泣いているのがあるという。  天気のいい日で、お腹の空かない奴は、弁天山付近に集まって石蹴りなぞをして遊んでいる。そんなのをジッと見ていると、たまらなく可愛相になる。  彼等の嗜好は云う迄もなく菓子で、朝飯だの晩めしだのというものはまるで知らないのが多い。鳥獣と同様である。  彼等の遊んでいるのを見ると、いろんな面白い事が発見されると、古くから公園に居る巡査さんは云う。  彼等の中で背丈けの高いもの、力の強いもの、掻っ浚いの上手なもの、物真似、悪口、流行歌の上手なものは幅が利く。巡査と口を利いたもの、雷門の大提灯の骨の数、震災前の十二階を見たことがあるものも尊敬される。頭のうしろに大きな禿のある一人は、オジイと呼ばれて矢張り畏敬されているという。  彼等はおしまいにどうなるのでしょうと、その巡査に尋ねたら、 「さあ、よくわかりません。誘拐されて……と云っても、別に誘拐という程の意味もありませんが、つまり拾われて、労働者や乞食の手伝いになるか、顔立ちのいい物は見世物師に連れて行かれるなぞは出世の方でしょう。それもタマにあるので、大抵は立ちん坊か乞食にでもなるのでしょう。病気で死ぬのは滅多にありませんが……」  と淋しく笑った。 人間苦を知らぬ哀れ  浅草公園内のチンピラは、よく不良少年の手先になって手紙なぞのお使いに遣られる。  しかし彼等は頭が単純だから、複雑な用事は出来ない。お使いの出来る範囲も大抵は浅草界隈に限られているので、遠方でもお使賃欲しさに頼まれはするが、当てにならぬという。又、彼等は割りに正直で、何でも包み隠しをしないのが多いので、返事の要る手紙なぞを持たせると危険だそうである。  彼等は又、醜業婦とその情夫の間の文使もやる。こっちは不良少年のようにスッポカシを喰わするような事はなく、きっといいお使賃を呉れるので、彼等はどこの伯母さん、ここの伯父さんと尊敬している。  彼等の言葉は立ちん坊と同様に、最下等の江戸弁を今一つ下等にして、おまけに恐ろしく略した早口で云う。生え抜きの江戸ッ子でもわからない位であるが、醜業婦や女給はそれらをよく聞きわけて、彼等にわかるように云い聞かせるから、割りに面倒な用事が頼めるという。その代りその女たちの雇い主に発見されると、思い切り非道い眼に合わされる。  その又返報には、綽名を付けたり、汚物を入口にぬすくったり、小便を引っかけたりするという。勿論、いいも悪いもわからない。  彼等はこうして浅草公園内を全世界として、何の苦もなく、喰い且つ遊んでいる。そうして物心が付いて人間世界のわびしさを知る頃になると、何処へともなく消えて行く。  彼等の生涯は影のように無意味である。彼等の魂は天使のように悪を知らぬ。  あらゆる人間苦を集めた大都会の寂しい反映でなくて何であろう。  享楽の浅草の中心に沁み出た、はかない哀愁の影でなくて何であろう。 鳥打と中折れ  昨年の十月の或る日の正午――。  雨上りの青空が浅草観音堂の上一面にピカピカと光っていた。  瓜生岩子の銅像の横のベンチに、青い派手な鳥打帽と、黒のジミな中折れ帽が腰をかけていた。黒の中折れは何か気味悪そうに青い鳥打の話をきいていた。二人共まだ若かった。  記者はその横に腰をかけて、懐中からノートを出して何やら書いていた。  青い鳥打帽が二三度話をやめて記者をジッと見ていたが、突然声をかけた。 「オイ、オトッツァン。済まないが退いてくんないか。こちらの話の邪魔になるから」  記者はドキンとして顔をツルリと撫でた……風邪が抜けないので鬚蓬々としていた。次に帽子を冠り直した……古ぼけた茶の中折れであった。おとっつぁんと呼ばれても文句は云えなかった。  記者は眼をパチパチした。  何だか可笑しくなりながら、相手の鳥打帽の下にキラキラ光る二つの眼を見た。虚勢を張っていたせいか、その光りがだんだん怖くなった。記者は静かに帽子を脱いで、わざと福岡弁で云った。 「共同椅子だすけん……よござっしょうもん」  鳥打は意味がわかったらしく、青い顔をサッと青くしたようであった。黒い中折れをふり返って云った。 「君はいいから行き給え」  黒い中折れはペコペコお辞儀をして去った。あとを見送った青い鳥打は記者の方を向いた。 「おめえ、東京初めてか」 「……ヘエ……」 「こっちへ来い」  記者は随いて行った。  鳥打帽は馬道へ出た。交番の前で又記者をふり返ってギョロリと見た……それからがよくわからないが、焼け木の積んである横路地を二つ三つ抜けて、夕顔を絡ませた新しい板塀にぶつかった。その横の切り戸を開いて、又、横路地のような処をすこし行くと、長屋式の板壁の途中に小格子がたった一つあった。そこを開くとすぐ狭い梯子段で、それを上って洋式のドアーを開くと……。  意外にも立派なカフェーの二階に出た。前はどこか知らぬがかなり賑やかな通りである。  鳥打はインバネスを脱いで、帽子と一緒に壁にかけた。記者もその真似をした。  二人は卓子を隔てて差向った。  擬い大島を着た二十ばかりの美青年である。「案外若い」と記者は心の中で驚いた。  何も云わぬのに美しい女給が珈琲を二ツ持って来た。  青年は飲んだ。  記者は飲まずに云った。 「何か御用で……」  青年は飲みさした茶碗をしずかに置いた。片手を懐にして肩を聳やかした。 「先刻のノートを出し給え」  記者は又可笑しくなった。彼等の話を書き止めていたと思っているらしかったから……。  しかし記者は素直にノートを渡した。  青年は、「籠の鳥」の歌や看板の珍文句なぞを、たった二三枚だけ書いた本社用の新しいノートを見ていた。最後に表紙に付いた本社のマークをジッと見詰めて、当惑した表情をした。そうしてしきりに襟元を繕った。  記者はもう大丈夫だろうと思った。思い切って微笑しながら云った。 「失敬ですが、君は不良青年でしょう」  青年はハッとした。記者の顔をギラギラ睨みながら真青になった。  記者の胸の動悸が急に高くなって、又次第に静まって来た。同時に自分でも気障に思われる微笑が腹の底からコミ上げて来た。 「僕はソノ……地方新聞の記者なんですがネ。不意にこんな事を云い出して失敬ですが……浅草の話を探りに来たんですが……生憎知り合いが無いんで……誰かこの辺の裡面を御存知の方に……と思いましてね……実はソノ……丁度いい都合だったんです……」  と不思議に言い淀んだ。  彼はスッカリうなだれて考え込んだ。  記者はベルを鳴らして女給を呼んだ。 「失敬ですが、お近付きに一杯差し上げましょう。丁度いい時分ですから。僕はいただけませんがね」  彼は静かに頭を上げた。決心したらしく、顔をツルリと撫でて淋しい苦笑いをした。 「どうも済みません……実はあなたを新米の刑事か何かだと思ったもんですから……ついカラカッて見る気になって……」 「アハハハハハハ、似たようなものです」 「フフフ……しかし浅草の話だけは勘弁して下さい。ほかの処なら構いませんが……仲間が居るんですから……」 「ええ、結構ですとも。何でも記事になれば……君のお名前もきかなくていいんです。僕も云いませんから……」 「痛快だな……しかし弱ったな……」 「アハハハハ。まあ、一杯干し給え……この女給さんは君の?」 「弱ったな、どうも……」  彼は紅くなって頭を掻いた。  記者は、この恐ろしく単純な、且つ正直な不良美青年との約束を固く守ってやろうと決心した――神田の駿河台下で本紙を売っている、いないに拘らず……。  因に彼はその後、芝の或る製菓会社に這入ったと聞く。 ◇おことわり  途中ではあるが、ここでちょっとお断りしておきたいことがある。ほかでもないが、この稿を書き始めて間もなくから今日まで、各方面からいろいろの言葉や手紙を記者は受けた。  その中には記者に対する激励の言葉……たとえば、 「この際東京に対する日本人一般の迷信を徹底的に打破せよ」  なぞいうのがあった。又は、わざわざ面白い且つ信ずべき材料を賜わった向きもある。  それ等の方々の厚意に対して、記者は先ず以て深甚の感謝の意を表する。  同時に批難の言葉も沢山あった。その一二例を挙げると、 「このような記事を生徒に読ませるわけに行かぬ」  というのや、 「あの記事があるために、毎日、非常な不愉快を感ずる。早くこの不良記事を紙面から葬れ」  というなぞが最も多かった。無論、こうした批難の方は大抵は匿名の手紙が多かったが、それでも相当の教育や責任を持った人々の言葉と受け取れるのが多かった。  記者はこれ等の批難を賜わった方々に対しても亦深くお礼を申し述べる。  それ等の方々は、云う迄もなく、非常な同情ある本紙の愛読者であると共に、特に深甚の注意を以て本紙の記事を読んで下さる人々でなければならぬからである。  同時に記者は、それ等の批難に対しても、衷心から同感の意を表明するに躊躇しないものである。  この記事中に出て来る事実は、今迄のは無論の事、これからの記事の中で最も甚だしい一つでも、平生の新聞の社会面に現われる記事のヒドサよりもヒドクないつもりである。  しかし、それでも実を云うと、記者はこの記事の材料を集めつつある際に、これはとても書けないと思った事が屡々であった。到底、紳士淑女の前で公表出来ない事ばかりと云ってもよかった。そうして、それをこの程度にまで手加減して公表する迄には、幾度か考え直して後決心した事であった。  この記事を忌み嫌われる方々は、今一度考え直して頂きたい。  たとえば――。  紳士淑女として口にすべからざる事も、口にする事を憚るために、一般の人々が如何に堕落という事に対して無智識になっているか。如何に見当違いの警戒、筋違いの注意が施されているか。そうして、そのために如何に多数の不良少年少女が善良な家庭から出ているか。  そうして、その原因を調べて見ると、その両親や監督の責任者が、堕落という事に対して無智識なためというのが大部分を占めている。  如何なる理由で、如何なる順序で子女は堕落するか。又は、これから述べようとする事例、即ち不良少年少女の魔の爪は、如何にして、如何なる場合に善良なる子女に打ち込まれて行くかという事を、口にしたり、耳にしたりする事を恥ずるからである、と云っていい状況である。  現在の東京では、そんなウッカリした態度では、不良少年少女に対する取締が出来ない事が各方面に証拠立てられている。  しかも、この傾向は現に西部日本にもドシドシ浸潤しつつある事を、記者は充分に認め得るのである。関門連絡船に二三回乗って、若い男女の東へ行く風俗と、西へ行く風俗を注意しただけでもよくわかる。福岡あたりの活動のハネ時に半時間程立って見ても一目瞭然である。  そればかりでない。東京人の堕落はかくして日本人の堕落となるであろう。これに対して如何に戒心し、警備すべきかは、単に本紙愛読者のみの責任に止まらぬであろう。  更に、このような事を耳にしたり、研究したりする事を卑しめるために、このような事実を知らずして警戒の方法を誤り、又は無関心にしておいて、他日、東京人の堕落の影響が新聞紙上に事実として現われた時、初めて驚く事が賢明であるかないかは議論の外であろう。  記者は深く謝する。記者が、冒頭、この事をお断りしておかなかったために、この記事が或る誤解を惹起したのみならず、読者諸君に対する非礼を意味することになった事を、ここに更めてお詫びをする。  尚、この稿を起した根本の目的は末尾に述べるつもりである。この稿を読まれる方々はその局部――のみを見ず、全体を一貫した趣旨をそこで看取して頂きたい事を併せて希望しておく。 家庭荒しの団体  浅草に限らず、不良少年は団体を組んでいるのがいくつもある。「三人行けば必ず師あり」で、彼等が寄り合うと、その中にはきっと得手が出て来る。顔だけでも正直そうなの、女の好きそうなの、睨みの利きそうなのと、いろいろ特徴が違うところから、協同して仕事をした方が便利である。首領も無論、その中から出て来る。  昔は小桜団とか二組とか大きな団体があって、他の団体と争ったり、又は単独行動に出る奴を迫害したりしたが、これは大抵非文化的の不良であった。文化的の方はコソ泥あしらいをされて、ドチラかと云えば軽蔑されていた。  ところが、彼の大地震後は反対に文化的の方が勢を得た。同時に、非常に多数の不良が出たので混沌状態を呈した。すくなくとも昨年の秋まではそうであった。  その中にポツポツと固まったのがあって、記者が聞いたのは下谷に一つ、麹町から牛込へかけて二つ、青山に一つある。大抵一組十人位から三十人位まで居るという。浅草にはいくつもあるが、皆小さいように思う。その代り亡命印度人の配下になっているようなのがある。  こんなのの名前は、始終取りかえるのでわからない。仕事は、浅草のを除いていずれも家庭荒しが主で、しかも、ほかの脅迫や誘拐見たように少数の黒人の腕揃いではない。団結も固くなければ、仕事もチャチなのがあるという。つまり、まだ発達向上の余地がある訳である。  こんなことを書いているうちにも、東京では有名な不良少年少女団が二つ三つ挙げられた。足もとの明るいうちに切り上げたい。  しかし、それでもまだ、一般家庭の参考になる事や、当局にも知られていまいと思う事がないでもないから、そんなのを一まとめにして次に述べる。 少女誘惑ラムプ団  麹町に二つあった団体の中の一つは、一昨年の暮あたりまでラムプ団と云っていた。今は何と云うか知らぬが、本拠は牛込か四谷辺に移動しているらしい。  震災当時、四五人の不良が集まって、どこからか拾って来たラムプを取り捲きながら仕事の相談をしたのが始まりで、追々人数が殖えて来ると、そのラムプの形を知っているものは団員に相違ないと認める組織になっていたという。今では、そのラムプは勿論、団体のあるなしすらわからなくなっているが、仕事はチャンとしているらしい。日比谷と九段はその二大中心で、青山方面にも手を延ばしているという。  仕事というのは以前は誘拐であったが、この節ではやりにくくなった上に、足が付き易い。又、万一挙げられた場合に刑罰も重いので、もっと文化的な、安全な方法を執るようになった。  先ず良家の令嬢を誘惑して関係を結ぶ。それからその両親や監督者に手紙を出して、手切金をせがむ。呉れなければその令嬢の嫁ぐ先々に或る手段を施して呪う、場合に依っては死ぬ迄結婚させぬ――なぞいう威し文句を送る。「警察に訴えてその相手を捕えても、あとに団員が残って仕事はする。あなたのお家の名誉と金の引換えだがどうだ」なぞと来ると、不良少年の慣用の文句を知らない親たちは本当にしてふるえ上る。 「そんなヘマな相手には引っかかりませんよ」  とか何とか威張る新しい令嬢があるかも知れぬが、そんなお方は前に掲げた「少女のラブレター」を今一ペン読み直して頂きたい。そうして、そのレターが全部、不良少年の懐中から出たものである事を考えて頂きたい。  青山や下谷のも略似たようなものらしいが、青山のは赤十字社があるだけに博愛式の汚行専門らしく、下谷のは又誘拐が多い。それも小学生程度の少年をモノすることがチョイチョイあるという。 令嬢を狙う団体の攻撃準備いろいろ  不良少年団体は、皆結束を作って神出鬼没する。合言葉や暗号なぞを作って用心をするのは事実で、なかなか捕まりにくいという。  彼等の団体は団員を方々にブラ付かせて、眼ぼしい少女を物色させる。物になりそうなのを見つけると、あとを跟けて家を突止める。それから手をわけて調査を始める。  ちょっと嫁探しに似ているが、条件は大分違う。別嬪に限らぬ事、色気のある事――新しい風付きであればなお結構――イヤラシイ位であればなおなお結構である。家庭が裕福でなければならぬ事は云う迄もない。  調査をする事も嫁探しと趣が違う。その家の構造、その令嬢の部屋の位置、財産預金先、家族の状態、起床時と就寝時、一般の家風、令嬢の生活状態、お小遣いの多寡、趣味嗜好、朋友関係、月経の来潮期、手紙を遣る人と来る人の名前、殊にその内容は必要で、ドンなタチの女か、物になるかならないかを判断する。その他まだいろいろあるが略する。  こんな調査事項の中には、関係をつけたあとから聴き出す方が容易なのが多いが、成るべく前に調べておいた方が安全な事は云う迄もない。第一、余り早く関係をつけると、見損いをして、飛んでもない失敗をする事があるという。  こうして、愈見込が付くと、一人の選手が出て誘惑に取りかかる。  学生風でも、サラリーマン風でも、成るべくその家の人々が案内を知らぬ方面で、その令嬢が好きそうな風采をして接近する。 手紙で誘惑する方法  少女を誘惑する方法に二つある、なぞと云うと八釜しくなるが、実は何でもない。一つは手紙を出して見るので、普通の少年でもよくやる。只、不良少年少女のは、大抵慣れた奴が文案したのを本人が書き直して出すので、芸妓や女郎のと同じねうちしかない。又、その令嬢の素質、頭、顔付きなぞに依ってコタえるように書くところも違う。  見本を出そうかと思ったが、前の少女のラブレターと違ってなかなか手に入り悪かったのと、判で押したように空お世辞の千篇一律だったから止した。  要するに普通の色文だと、こちらがのぼせているから、初めから無暗にセンチメンタルな事ばかり書く。一方に相手の方は惚れても何もいないのだから、あまり感服しない。  これに反して、不良少年の文の上乗なのになると極めて冷静である。相手に依って美文的に、又は哲学的に辻褄を合わせて書いてある。相手の得意なもの、又は姿の特徴なぞは、抜け目なく巧みに賞めてある。万事が向う本意で、こちらを出来るだけ謙遜して、お上品ずくめである。尤も新しがりの色気たっぷりな相手らしいのは、初めから思い切り甘ったるく持ちかけてある。  不良が最も困るのは手紙に書く所番地である。無暗に改めると相手が信用しなくなるし、改めなければ危険が伴う。そのほか色んな面倒がある上に、能率も上らない。だから腕に覚えのある奴は直接法で行くか、又は両方を用いて行く。 直接の誘惑法  直接の方法というのは、ザッとこんなやり方である。  眼星をつけた少女の学校の往復、外出の道筋なぞを狙って一緒の電車に乗り込む。少女に近付いて前に立つ。  それから機会を作って話しかけ、足を踏んであやまる式もあれば、吊り皮を譲る式もある。狎れた奴になると、初めからピッタリと寄り添って、肘で乳を押し上げ押し上げしながら相手の反応を見る。これは近頃のダンス流行から出たヤリ口だそうな。しかも、ダンスの奥許しの秘伝を電車の中で応用するのだから適わない。  相手が腰をかけていれば、こっちの膝で向うの膝を小突く。程よいところでニッコリして見せる。これに相手が応ずればもう成功だそうな。  そんな安っぽい女の子があるものかと云う人があったらば、前の「若い女性の享楽気分」の章を今一度読み直して頂きたい。  勿論、不良の方も第一回で成功しようとは思わぬ。根強くこれを繰返して、いよいよ言葉を交わす段取りになると、又の逢う瀬を約束する。あとは大抵きまり切っている。仲間同志で散々オモチャにしたあとを、ユスリの種に使うのである。以上はほんの一例で、まだこのほかにどれ位交際の機会があるかわからぬ事は、既に東京の年中行事の項に記載した通りである。  最近では、こうして交際をして関係をつけると、あとはあんまり深入りしない。只、相手の少女から来た手紙や貰ったハンケチなどを飽く迄も大切にして、脅迫の役に立てる。その少女が夢中にでもなって来れば、いよいよ証拠物件がふえるだけで、「不良」の方でも、そうした目的以外に深入りを望まぬ傾向が出来たという。  こうして不良少年少女のやり口は、だんだん凄くなる一方である。 緑色の平面に静止する象牙の玉  不良上りの或る会社員は云う。  ――彼等善良なる少女が堕落しない第一の原因は、不良少年に対する恐怖心で、第二は羞恥心である。これは最初の取かかりに気をつけて、その少女の気位にふさわしい気位を以てあしらえば、信用を得るのはあまり困難でない。あとには羞恥心が残るが、これはジリジリと挑発すれば消え失せてしまう――。  ――恐怖心と羞恥心を除いた少女の心は、玉突台の羅紗の上に静止している象牙の玉のようなものである。表面は品よく静かにしていながら、内心はどちらかへ転がりたさに悩んでいる。何物かを崇拝したい。たよりすがりたい。迷い込んで夢中になりたいという気持ちでいたみ疼いている――。  ――宗教でもいい――小説でもいい――音楽でもいい――空想の人格――実在の人――何でもいい――。  ――何でも自分を突いてくれるものを待っている――。  ――その証拠には、彼女たちに与える手紙や言葉に「神様」という文句を使うと素敵に利くという……。  可愛相なのは迷い悩める現代の少女である。  彼女たちは解放を望む羊の群である。柵外がことごとく狼の世界である事を知らない、憐なる羊の群である。 刹那刹那の気分  解放を望む少女は、特に刹那刹那の気分に動かされ易い。 「試験中ですけど構いませぬ。学校の一年よりも、あなたと話す一分間の方がどれ位貴いか」  なぞいう言葉が、どれ位そんな少女を動かすか。 「今夜、活動を見ているうちに、何だか急につまらなくなって、下宿へ帰ってこの手紙を書きます。何故という事はありません。この手紙を書いている間だけは、自分が生きているような気持ちがするからです」  といったような書き方が、素敵に相手を動かすという。  そんな風に感じ易い気持ち――刹那的の軽い、しかし鋭い情感、感興、主観等の変化のつながりに生きて行きたい気持ち――それを軽々と撰り好みして、その上に踊り、歌い、遊戯し、口笛を吹き、笑い、泣き、怒りして行くのが新しい少女である。自分の心にかかるすべての重み――物質の威力、道徳の権威、良心の束縛を下界はるかにふり棄てて、空中に吹き散る紙のように、気楽に、面白くひるがえって行きたいのがモダンガールである。  そんなところまで飛び上って彼女を捕え得るもの、又は相手になって導き得るものは、唯不良少年ばかりである。地上の「面目」や「生活」に釘付けにされている親達や教育家は、只アレヨアレヨと騒ぐばかりである。 巡査の少女誘惑  不良少年といっても、皆が皆、懐手でブラブラしているわけではない。事実何もしないのでも、学生風か何かで真面目腐っている。殊にこの頃は堂々たる官立の学生に不良が殖えたという。  不良少年の職業は、警視庁や、その他市内の各署で昨年の冬まで捕まったのが統計に出来ているとかきいたが、その方は調べ得なかった。その代り、質屋さんが商売柄よく知っていることがわかった。  尤も質屋さんは、「不良」ばかりでない、泥棒、スリ、そのほか何でも見わけなければならぬ商売であるが、不良も同様で、どちらかと云えば見分けにくい方だそうな。  不良少年で一番多いのは矢張り学生で、その次が会社員、ボーイ、活弁、俳優、苦学生の順らしい。巡査も居ると云った番頭さんがあったのには驚いた。  ――持って来た少女の着物の襟に、その巡査の手紙が縫い込んであったのでわかったんです。尤も初手からあの巡査は不良だという評判がありましたが、相手の少女がそこまでレターを秘密にしていようとは、流石商売柄のお巡りさんも気が付かなかったんでしょう――。  記者はそれ以来、この頃の東京の巡査に若いのが無暗に殖えて来るのが気になり出した。交番の前に立っている、色の白い若いのを見ると、ちょっと顔を見て行く癖が付いた。  いずれにしても、真面目に働きながら不良性を発揮するのが殖えて来た事は事実であるという。  近代文化の裡面に於ける一つの重大な特徴である。 不良少女団の草分時代  次は不良少女の番である。  不良少女に就ては誠に貧弱な材料しか得られなかった。何しろ震災後急速の発達を遂げて、やっと三百人の名をブラックリストに並べただけで、その団体も鞏固なのはすくなく、仕事ぶりも不良少年のそれのように露骨でないから、なかなか当りが付きにくい。又、相手が女で極めてデリケートな手腕を要するので、明治生れの、九州育ちの、しかも長男が七つにもなる記者にとっては不向きであった。  その代り記者はあまり骨を折らずに材料を得た。つまり、記者の狙ったところは全部的を外れていた代りに、意外な方面から意外な暗示を得た。又は、思いもかけぬ材料が思わぬところで転がり込んでいるのを、あとから気が付いたなぞいう次第で、どちらかと云えば極まりの悪い方である。  しかし、負け惜みにも何も、その他に材料が無いのだから仕方がない。記者が面喰らいながら材料を得て行くところが、却て読者の興味を引くかも知れぬ。 芸道の先生お弱りの事  或る芸事の先生の処で、昨年の夏頃からお嬢さん方のお稽古がパッタリ絶えた。昔の通りにあるにはあるが、皆出稽古で、稽古場には二三人しか居ない。  その先生は変に思って、内々理由を調べて見ると、その稽古場がある付近が不良少年の本場だからという事であった。  先生は弱った。  折角焼け残った稽古場をほかへ移すわけにも行かず、思案に暮れていると、その中に又、その界隈が不良少年の本場でも何でもない、そうしてお嬢さん方のお稽古の減った原因は、その習いに来ている少女の中に有名な不良少女が二人いる事を、お嬢さん方の家庭で知って警戒したためだとわかった。  先生は、「早くそう云ってくれればいいに」と、上つ方のお上品さんを怨んだ……しかし、とにもかくにもいろいろと苦心して、その二人の少女を遠ざけた。それから各家庭を訪問して、不注意を詫びた。おかげで今では昔にまさる繁昌をしているという。  その令嬢たちの中の一人の保護者に、独身の女流教育家で、新聞や雑誌にチョイチョイ名を出す人がある。四十前後の、極率直な、アッサリした人で、今の話をしてくれた揚句、不良少女の男性誘惑法を記者に教えてくれたのには驚いた。 「私はまだほかに二三人の女生徒の親代りになっていますが、方々でいろんな事を聴きますよ。あなたもよくおぼえていらっしゃいよ。引っかからないように……」 「冗談じゃありません……」 少年誘惑第一日  東京の不良少女は、まだ少年のそれのように深刻な悪事を働かない。ただ男学生を誘惑して享楽する位が関の山らしい。それ以外の仕事をするのは大抵単独の不良少女で、団体的の背景を持たぬのが多いと思う。  若い男性を誘惑する方法も、少年のソレのように念の入った研究や調査なぞしない。或る男学生を一人の不良女学生が狙うのを、ほかの団友が賛助する位の事で、それを団体的行動と心得ている位の事らしい。  しかし、彼女たちが単身少年に接近して誘惑して行く手段は、男のそれと負けない位大胆である。  たとえば電車に乗って、星をつけた少年の前に立つところは、不良少年式とすこしもかわらない。  ところで、チラリと相手の顔へラジオを放射する。先方が注意しない時は、足を踏むか何かしておいて、思い切り恥ずかし気にあやまる。おまけを付けて、二三度も気の毒そうなシナを見せる。引続きラジオを放射する。その放射の反応具合で相手の真実程度が大抵わかる。  第一日はそれ位にして、別れがけに特別な振幅を含んだお辞儀をする。しかも成るべく気品を見せながら、依々たり恋々たる風情で袂を別つ。  しかしまだ呆れてはいけない。 少年誘惑第二日  第二日も同じ頃、同じ電車に乗って、同じ相手の前に立つ。但、今度は多少心安くなった風で、程よく気軽に振舞う。ニッコリ位する……。  ……応ずる…………。  これを三日か四日位まで続けて、相手の学生が何となく自分の乗っている事を期待している風情に見えて来たら、ここで一日二日スッポカシを喰わせる。  これを「手紙デー」、又は「デー」という。  相手の少年が、「今日はあの女学生が乗らなかったな」と思っている矢先へ手紙が届く。 「女の癖にぶしつけなと思召すかも知れませんが、ほかにこの苦しみを洩らす道が一つもありませんから……」 「只愛する……というお言葉だけで妾は……」 「こんな事を申し上げましたからには、妾はもうあなたにお眼にかかられませぬ。お眼にかかれば、この悩みがいよいよ堪えられなくなるばかりで御座いますから……ああ神様……」  とか何とか書いてある。  本当にする少年は本当にする。そうしていろいろ悩み始める。  こうしておいて、早いので二三日、長いので一二週間の後、如何にも偶然のように電車の中で逢う。但、少年の学校の帰りがけでなければならぬ。  この時が成功不成功の分れ目だそうで、又一番|六ヶしい技巧を要するのだそうな。  ……真赤になって、うつむいて、ハンケチを顔に当てたり、一しずくホロリと落したりするのだそうな。  相手の様子に依っては、慌てて降りる風をする。それを見て相手も立ち上れば、もうこっちのものだという。  さもない時は少年の降りる処で降りて、叮嚀にお辞儀をして、その少年が帰って行くのをいつまでも立って見送る。  ……先へ行き得るのはないという。  しかし、まだ感心してはいけない。 煙草を吸う女学生  東京の或る女学校では、健康診断や体格検査の時に女生徒に口を開かせて、虫歯の有る無しを調べさせる。実は煙草を飲んでいるかどうか見させるのだそうな。そうして発見次第、その名前をブラックリストにつけても、大抵間違いはないという事である。  但、煙草を吸うからブラックリストにつけるのではなくて、男と交際している何よりの証拠だからだそうである。夜間なぞは、煙草を利用して男の学生に近付く不良少女がチョイチョイ居るという。 「一寸済みませんが燐寸を……」  と云うかどうか知らないが、九州の男学生にそんな事を云ったら気絶する……と云っておく。  活動館で様子のいい学生を見つけて、その近くに割込むのもある。  先ずハンケチを出して、かぐわしいエマナチオンを漂わせる。その学生が手でもたたくと、すぐに共鳴して、 「マア……」  とか何とか、つつましやかに溜息をする。これ位の技巧なら新しい少女は大抵心得ている。  そのうちに、 「あの……本当に失礼で御座いますが……プログラムをちょっと……あの……」  と引っかけて見る。熱狂したふりをして学生の膝に手を突いたり、ピッタリと寄り添ったりする。  相手の身体にズンズン電気が充実するのがわかる。  借りたプログラムに手紙を書いたり、仮病を使ったり、映画の批評や何かを話し込んで別室に連れ出したり、自由自在とある。  しかし、まだ驚いてはいけない。 少年の二段誘惑法  悲しい事に、今の女学生は男学生のあとをつける程の力を持たぬ。だから、活動なぞで誘惑するのは、ハネたあと数時間、もしくは一二時間の間で、その間にカフェーや何かに這入って必要な約束をせねばならぬ。故郷に遠い男学生で、旅の恥は掻き捨てなぞいう連中があったら、恐ろしく手軽で済む。カフェーの家族室やホテル、宿屋なぞで、「即決可決」が随分多いと聞く。  又、もし一人が失敗と見たら、ほかの団友に渡す。こうして前後二段に攻め立てると、そこは人間の浅ましさで、大抵固い少年でも自惚れが出て来る。これが油断の始まりで、つい気がうきうきして、第二の女学生の手段に引入られて見たくなる。  又、第一の少女「何子さんの友より」とか何とか書いて、第二の少女から手紙を出すのがある。 「あなたのために何子さんは病気におなりになりました。どうぞ助けると思って……」  但、ここまで来るのはよほど手強いので、もっともっと手軽いのが最近の東京では普通だという。  往来で知らぬ少女に名刺を突つけて結婚を申込む男……又は見も知らぬ男に、 「あなたの理想の御婦人はどんなのでしょうか。参考のために是非お知らせ下さいませ」  と手紙を出す少女が居るという位だから……。 匙を投げかけた記者  東京はこんな風に、大人の享楽主義の天国であるように、少年少女の花の都である。  牛込の神楽坂、渋谷の道玄坂、神田の神保町付近、本郷の湯島天神あたりの夜は、今でもそんな気分の「淀み」を作っている。  そうして、そんな処を摺り鉢の縁とすると、底に当るのが銀座である。  その銀座が夜になると、来るわ来るわ、東京市に居る人で銀座散歩を知らぬ人は余程の野暮天と笑われる位である。  色セメントや色ペンキで近代様式の数寄を凝らした家並み……意匠の変化を極めた飾窓……往来に漲る光りの洪水……どよめき渡る電車、自動車の響の中に、ささやき合い、うなずき合いつつ行く、華やかな「希望」や、あでやかな「幸福」の姿は、十分間も立ち止まっていれば、ガッカリする位眼の前を横切って行く。  どれが不良やら善良やら、見当が付きそうにも思えぬ。  しかし、記者はガッカリしなかった。そんな処を毎日うろついて、或る事を探ろうと試みた。或る事とは、不良少年少女の団体が、どんな風に活躍しているかという事であった。  しかし、それが又、片っ端から骨折り損になって行くのにはウンザリした。何一つ収穫なく、コーヒーで腹をダブダブにして、電車に揉まれて帰るのは全くイヤなものであった。  しまいには事実上殆ど匙を投げてしまった。  ところが――。 Mの字の売り切れ  ずっと前、東京市中の学生仲間に鳥打帽大流行の事を書いた。そんな材料を調べている最中の事であった。  神田の或る大きな帽子屋に、ちょっと気に入ったネクタイがあったから、這入って見ているうちに、一人の学生が這入って来た。 「Mって字、ありますか」 「Mは生憎売り切れまして、ほかの字では如何で……」  と、番頭はボール箱を取り出した。中には、鳥打帽の前庇を止める、金文字付きの留針がズラリと並んでいる。 「弱ったなあ。しようがないな、どこでも売り切れて」  と学生はボヤきながら、何文字か一つ買って行った。  記者は別に深い考えなしに、只一寸した好奇心に駆られて、その四十恰好の番頭にきいて見た。 「Mって字はどこでも売り切れかね」 「ヘエ。Mの字が一番よくお持ちになりますようで……」 「どこでもそうかね……」 「さあ……手前共では特別にMの字をよく仕入れますが、いくら仕入れましても無くなりますので……Mという頭字の付くお名前の方が余計においでになるからでも御座いましょうか、エヘヘヘ」 「じゃ、一番売れないのは何の字だね」 「さあ……さようで御座いますね……LだのQだのは全く売れませぬので、最初から仕入れませぬが、そのほかで売れませぬのは……サア」  と、彼はピンを一渡り見渡した。 「只今残っておりますのはP、A、E、J、Y、X……」 「いや、どうも有難う」  記者は安ネクタイを一つ買ってそこを出た。  それから記者は、一町ばかり行く間に、Mという字が特別によく売れるわけを考えるともなく考えたが、とてもわかりそうにもないのでやめにした。  そんな事をすっかり忘れたまま、一週間ばかり過ぎた。 ABCの秘密  天気のいい午後であった。  秋の西日を背中に受けながら、記者は上野動物園の杉木立に這入った。  日当りのいい、人糞に遠い、という条件の処に一つの平石を見つけて、腰をかけて、杉の木に倚りかかりながら居ねむりを始めた。これは、そのころ記者に出来ていた習慣で、毎日是非一度やらなければ頭の工合がどうもよくなかった。女なら血の道とでもいうところであろう。  暫く舟を漕いでから、ウトウト眼を覚ましていると、うしろの大きな杉の幹の向う側の根元に、中学二年位の生徒が来て話を始めた。何でも紙片か何かを開いて、一人が講釈をするのであった。子供の声で、おまけに誰も居ないと思っているのでよくわかる。 「いいかい、君。ABCの秘密ってんだよ」 「ウン。この鉛筆で書いたの、みんなそうかい」 「そうさ」 「驚いたな。君、書いたのかい」 「ウン。兄貴のを写したのさ」 「兄さんもきいたのかい」 「ウン、一緒さ。……いいかい。Aは第一の恋人、Bが第二の恋人、Cが第三の恋人なんだよ。大人だとA子は奥様で、B子だのC子だのといったらお妾さんの事さ。面白いだろう」 「ウン。もっと云って見給え」 「それからBだのPだのはお屁のこと、Cは女が小便をする事」 「ウフン」 「Dはウンコの事。Eは知らぬ顔をする事」 「何故?」 「何故だか知らないけれど、そうなんだっさ。それからFはお嬢さんの事。Gは芸者の事。Hは散歩をするとか、ハイカラとかいう意味。Iはお眼にかかりたいとか、承知しましたとかいうんだっさ」 「変じゃないか、それあ」 「なぜ?」 「Iってなあ自分のことじゃないか、英語で……」 「そうじゃない。『アイタイ』っていう『アイ』じゃないか」 「勝手にこしらえたんじゃないかい」 「僕がかい」 「そうじゃない。君に教えた英語の先生が、いい加減に教えたんじゃないかい」 「どうだか知らないけど……まあ、聞いて見給え。Jは質屋の事、Kはブンナグル事。KKは仇討ち。KKKはストライキで…………Lは永久に忘れないって事。Mは男のMで、あべこべにすると女のWになるってんだ……」 「フフフフ、面白いね」 「……ね……それからMはABCの真ん中にあるから、神様だの、真ん中だの、秘密だの、意味がいろいろあるんだそうだ。Nは反対って意味、Oは嬉しいとか承知したとかいう意味。OMとくっつけると、MWとおんなじに変な事」 「フフフフフフ」 「PQと書くとお金が無いという意味、QPと書くと愛するってこと」 「フーン、QPって人形じゃないか」 「違うんだよ……それから、ラブレターの隅にQPと書いてあると、そこにキッスしなくちゃいけないんだっさ」 「おかしいね」 「おかしいんだよ……それからRは本気だっていう事、Sはエスだから知ってるだろう。二つ寄せると女同志ラブする事だっさ。Tは金槌だからなぐられた事や叱られた事、Uは共鳴したり賛成する事。Vは駄目だの、おしまいっていう意味。Wは女の意味だの、女のアレ……」 「ウフフフフフフ」 「……だの奥様だのいう……」 「Aと同じだね」 「ウン。Xは疑問の事、Yは枕草紙だのあんなものの事、Zは脅迫だの、誘拐だの、泥棒だの、いくらも意味があってわかりにくいんだっさ」 「みんな、君の英語の先生が教えたのかい」 「ウン――まだこんなのを二つも三つも重ねると、まだいろんな面白い事があるけれど、君達が不良になるといけないからって、そう云ってやがったぜ」 「馬鹿にしてらあ。じゃ、今度習ったらいいじゃないか」 「だけど、おれあ彼奴嫌いさ。好色漢だってえから……」 「誰が?」 「兄貴がそう云ったよ。兄貴はもっと習ったかも知れないけど……君、これを写さないかい」 「ウン、帰ってから写そう、貸し給え」  二人の少年は立ち上って、塵をハタキながら去った。  記者はノートを伏せて、彼等が見えなくなるまで見送った。  あの少年兄弟は教師に誘惑されているらしい――とその時思った――こんなつまらない事を教えてやると云って、生徒を誘惑する先生がよく居るからである。  こう考えると、アルファベットの秘密も何だかつまらなくなって来た。探偵小説の重大発見か何かのように、あの生徒の話をノートに取ったのが、無暗に馬鹿馬鹿しくなって来た。  それから四五日経った。 Mの字の秘密  記者がある老刑事さんを訪うて苦心談をきいていると、偶然こんな事を云い出した。 「この頃は学校生徒が無暗に鳥打帽を冠るので困るよ。変な事をやってる奴を押えても、出鱈目の名前を云って困るんだ。和服ん時に名前が書いたるのは鳥打帽だが、大抵は英語の金文字一字ッキリだからしようがない。学校の名前だと吐かしア、それでもいいし、自分の名前だと云っても、そうかってなわけだからね。麦稈帽や中折れだと、Wは大概早稲田だし、Kは慶応、Mは明治と学校の名前を使っているのが多い。鳥打帽でも昔のだとそうなんだが、この頃は全く出鱈目らしいね。その中でもMなんて字は、学校の名前だか自分の苗字だか見当が付かないね。医科大学がMだし、明治がそうだし、まだあるだろう。自分の名前にしても、松田だの、前田だの、村井だの、三井だの、何でもその場で云えるだろう。Rだの、Cってな、そんなわけに行かないからね。Mって字はだから便利な字さ」 「そんなら、Mの字をつけてる奴は大抵不良なんですね」 「アハハハハ。そんなわけじゃないがね。とにかく気をつけて見たまえ。Mの字を帽子につけてる奴が馬鹿に多いから。おれあ、どうも腑に落ちないと思っているんだがね……」  記者はこの最後の言葉にあまり注意を払わなかった。只、Mの字がよく売れることだけは間違いないと思っただけであった。  すると今度はその翌日の事……。 英語の先生の話  冷い雨の降る日――四谷から牛込へ帰る途中――飯田橋から新宿行の急行電車に乗り換えると――あの中学生――一週間余り前に、上野公園の杉の木蔭で、友達にアルファベットの秘密を教えた生徒が、偶然に記者の前に立っているのを発見した。  記者はニコニコして問うて見た。 「どこまで帰るのですか、君は」  彼はハニカミ笑いをしながら答えなかった。 「あなたの英語の先生は何といいますか」  これは頗るまずい問い方であったが、ついそんな調子になってしまった。彼は矢張り答えなかったが、その代り意外の処から返事が来た。 「私ですが、何か御用ですか」  記者は驚いてふり返った。すぐうしろに一人の学校教師らしい四十恰好の人が立っている。あまり立派でない背広に中折れで、ゴムのコートを着て、ゴムの長靴を穿いている。背はあまり高くなく、強度の近眼鏡をかけた学者風の丸顔で、一見神経質の人らしく見える。好色漢らしいところは微塵もなく、却て記者を不良か何かと見たらしい顔付である。  記者は面喰らいながら帽子を脱いだ。 「ハイ、実はここではお話も出来かねる事で……」  と傍の少年をかえり見た。  先生は何と思ったか、急に物柔かな態度になった。 「ア……そうですか。では恐れ入りますが、私の宅までお出願われますまいか」 「それは恐縮ですが……」 「イヤ、お構いさえなければ……むさくるしい処ですが」  記者は風向きがあまり急に変ったので少々面喰らった。しかし兎も角も、抜け弁天の付近にある先生の私宅まで、ザアザア降る中をお伴して行った。  その私宅というのは或る富豪の長屋で、少年はその家の三番目の令息であった。兄と一緒に神田辺の或る中学に通っているので、その中学英語の先生田宮はその家庭教師として長屋に居るのであった。ところが兄弟とも成績と品行があまりよくないので困っているらしい事が、田宮夫人のオシャベリでわかった。  先生が私服に着かえて出て来ると、記者は改めて職業と名前を名乗って用件を話し出した。ABCの一件からMの字の秘密なぞをザッと述べて、もっと詳しくお話を承わりたいと云った。  田宮氏は顔色をかえて狼狽した。奥さんと不安そうな顔を見合わせた。しかし最後には、青白い顔を心持ち赤くしながらオズオズと云った。 「そんな事を云っておりましたか。どうも困りますので……実は最前の生徒の父兄に、こんな事があると話しておりましたのを、蔭から聴いたものと見えます。しかし、そんなに詳しくは話しておりませんので……実は私も直接にきいたわけでは御座いません。永年家庭教師をやっておりますうちに、又聞きや何かでききまして……参考にもなりますし……つい興味を持ちまして調べましたので……」  聴いている記者の胸は躍った。 「あなたの御職業を信じてお話し致しますが……御参考になりますかどうか……」  と田宮先生が話し出した事は、ABCの話かと思ったら、これこそ又意外千万の話であった。記者はその話が次第に脱線して行くのを止める事が出来なかった。  震災前、SSS団という団体が某私立中学に出来ていた。Sというのはエスケープの略語、即ち学校をなまける事で、日本の学生特有の読み方である。それを米国のKKK団、又はIWW団の真似をしてSSSとしたのであったが、この時まではまだ不良と名づける程の仕事もしていなかった。活動見物とか、カフェーの只飲み、喰い逃げ、付け文位が関の山であった。しかしそのSSSへ不良青年がまじるようになると、いつの間にか仕事が著しい不良性を帯びて来た。同時に文房具にSSSというのが出来たので、改めてSMSと改名した。 「このMという字が問題です。元来日本の学生は外国の文字に勝手な意味をつけるので、漢字でもそうだそうですが、Bの字を臀部の恰好に考えたり、IWを色女なぞと読んで見たり、実にどうも……」  と先生は茶を飲んだ。  この流儀でSMSは、Mの字を男性のあるもの、Sを少年の意味に使って、SMSというと或る怪しからぬ行いを仕事にする団体という意味にしたものであった。無論、かなり堕落した学生ででもなければ、そんな意味はつけ得なかったのである。  その中にSMS団はMMM団と改称された。Mの字の意義が高潮して女の方にも関係するようになった事が、この改称に依て察せられる。  その中に又、MMMが飽かれたかして、後には単に「享楽団」と呼ばれるようになった。  その時に地震が来た。  ところで、彼の大地震で引っくり返ったものは単に家ばかりではなかった。  男性の享楽団MMMも引っくり返ってWWW団となった。但、そんな名前が出来たわけではない。MMMが地震と共に音も沙汰もなくなって、その代りに少女ばかりで組織された享楽団なるものが現われたのであった。  その途中の経過としてMWWとか何とかいった時代があったかどうかわからぬが、男の享楽団の名は消え失せたらしく、どこの家庭にも、Mよりとか、Sよりとかいう名前の手紙が来たという事を聴かなくなった。  同時に、その享楽団の団長は一人の私立高女の上級生で、その団長の指揮に依ってその団員は盛に享楽事業を拡張しているという噂が、どことなく耳寄りの人に耳寄って来た。  その不良少女享楽団長の名前を聴くと、記者は思わず膝を打った。 「ああ、あれですか」  と声を出した。  田宮先生は面喰らったらしかった。 「あなたは御存じで……」 「イヤ、一寸聞いた事があるのです。一高生にカルメンと呼ばれて持てはやされている和田の事でしょう」 「さあ、名前は同じですが、同じ人間ですかどうですか。私共の仲間では、何故あの女を放校しないのでしょうと云っていますがね」 「ヘエ、そんなに有名なのですか」 「あの女学校で知らぬ生徒は恐らくありますまい。皆名前は云わずに団長団長と云っている位です」 「一体、団長ってどんな仕事をしているのでしょう」 「さあ……何でも中学生や高等学校生徒を誘惑するのが上手だと云いますがね。エー、あと月だったかね、私の学校の生徒の中から二人ばかり連れ出して、或る珈琲店へ這入って、今夜上野で望遠鏡で月を見る会があるからと、いろいろ面白い話をしたそうです。少年は二人共本当にして、誘い合わして行こうとしたのを、一方の親御さんが気付かれて止められたそうですが……上野にそんな会があったかどうか存じませぬが、話上手は事実らしいのです」 「ヘエ、先生はよく詳しく御存じですな……」  と云いさして、これは失礼と思ったが、果して田宮氏は赤面した。 「ハイ……その、実は私の同窓がその女学校におりますので……実は貴方の御職業を信じてお話し致しますわけで御座いますが……必ず御内分に願いたいので御座いますが……」  記者はこのほかに二三、田宮夫人からの話をきいて引上げた。  心から感謝の辞を述べて……。 不良少女享楽団長  ××女学校の名は日本中に響いている。畏きあたりの御おぼえ目出度い某名流夫人が創立して以来数十年、今年の某月某日、やんごとなき方々の台臨を仰いだ程の学校である。七百余人のお嬢さんに一定の制服を着せて、頭髪の結び方まで八釜しく云っている。設備の完備している事は東都の私立女学校でも有数である。  その上級生に和田という生徒が居る。  背丈けはあまり高くなく、どちらかと云えば痩ギスで面長である。心持ち眼が下がっているのと、眉毛の細くて長いのが特徴といえば特徴であるが、鼻は尋常である。全体に美人という程でもなく不美人という程でもない。只平凡な可愛い顔である。  陸軍中将か何かの未亡人の独り子で、学校の成績は中位、持ち物や髪の結い方等も質素だから、大勢の中に居ると一寸探し出し難い位である。  しかし、彼女の行動を見ると、不思議に思われる事がいくつも出て来る。  第一、彼女の顔は極めて平凡で、これという特徴は一つも無いが、一度見たら永久に忘れられぬ程印象が深い。相手の心に何物かを遺さねば措かぬといったような気味合いがある。これは同窓の生徒同志でも不思議がっている事である。  彼女は平凡な顔でありながら、表情が極めて上手である。送別会とか何とかいう会合に出ると、あまり嫌みを見せずに盛に切ってまわす。一高生徒の会合なぞに臆面もなく乗り込んで、カルメンと持てはやされるというが、彼女以外にそんな大胆な手腕を揮い得る少女は滅多にあるまいと考えられる。  彼女は全校の生徒七百の中二三十人の友達を持っているが、その友達との交際振りがまた一種特別である。どんな事かわからぬが、彼女の命令に従う少女を彼女は手を尽して可愛がる。これに反して、彼女の命令に従わぬ少女は、自分の持ち物を持たせたり何かして、云うに云われぬ虐待をする。だから彼女の友達は彼女の思い通りにかわって行く。  彼女の学校の帰り途を知っているものは一人も無い。昨日は西、今日は東と、まるで方向違いの道をどこへか消えて行く。全くどこへ行くのかわからぬ。  彼女は丸い、黒い、径二寸位の化粧箱を持っている。中には頬紅と白粉が這入っている。頗るハイカラなもので、一個九円である。某化粧品屋の特製とかで、あまり方々で売っていない。これは東京随一の不良少女享楽団が全部揃いで持っているもので、どこかに合印か何かあるらしいがハッキリとわからない。  彼女のこうした振舞は、いつの間にか学校生徒の大部分に知られてしまっている。誰も彼女の本名を呼ぶものはない。「団長」とか「団長さん」とか蔭で云って敬遠している。  彼女が支配している享楽団の性質を探って見ると、更に奇怪なことが多い、  第一、享楽団という名前が随分古くからあるが、これは仮りにその団体の正体を指した通り名で、実際は始終名前を換えているらしく、何を目標に、どこで会合しているのか、記者の力では探り得なかった。彼女はいつも一人で、いろんな男の学校の生徒の会合、慈善市、又は東京市内の方々で催される展覧会、その他あらゆる会合に関係をつけて出席しては、気の利いた社交振りを見せているが、彼女の助手や部下がその裡面でどんな活躍をしているかは露程も感付かせぬ。彼女から、自分の身元の何から何まで探られていながら、気付かぬ男が随分多いという。  彼女はそんな方面に素晴らしく明晰な頭脳を持っているらしい。  彼女の支配する不良少女の団体は水も洩らさぬ活躍ぶりを示すが、その仕組みは皆彼女の胸三寸から出るらしく、彼女以外の団員の姿は一人も見えない。いつも彼女は一人ぼっちの少女のように見える。  享楽団というのは、名の通り少女達が男性を誘惑して享楽する団体で、それ以外の事は何もしないらしい。只、その仕事が組織的にキビキビしているために有力な不良少女団と認められている。その組織の中心はいつも彼女である。彼女は片っ端から少女を誘惑して団員とし、一方から望み次第に若い男性を引っぱって来てその少女に宛がって享楽させる。しかも彼女自身は割りにその方面に超然としているらしく、さればといっていい人があるようにも見えぬ。  どちらかと云えば八方美人にも見えるし、一種の変態性欲主義者ではないかと思われる。又は、そうした悪魔的の仕事その物の興味に満足しているに過ぎぬのではないかと思われる節もある。  ――そこが彼女の凄いところだ――彼女の血色、表情、身体のこなし等から見て、彼女は恐ろしい男喰いとしか思えない――彼女は自分の不行跡を蔽い隠すために享楽団を作っているのだ――享楽団員は彼女のお下りを頂戴して、彼女の享楽の後始末をつけてやっているのだ――そこに彼女の表情上手な性格から来た極端な社交性と、その深刻な個人主義とが生きているのだ――。  ――と反駁する人があれば、記者は否定する材料を一つも持たない。  彼女の団体は他の不良少年団と協力して悪い事をするとの噂もある。しかし、彼女の怜悧さ、警戒心の強さ、又はそのプライドの高さから見て、そんな事は有り得まいと思う。    ……………………  記者はこれだけの材料を集めると、もう一歩も進み得なくなった。いろいろと考えた揚句、警視庁に出かけて彼女の事を暗示して見た。しかし、警視庁の二三の人は、そんな真面目な学校に、そんな生徒が居られるだろうかというような、疑いの眼付きで記者を見た。却て震災後のいろんな犯罪の統計や報告を作るのに忙しいように見えた。  記者は失望して引き退った。その翌々日、「東京全部」に見切りをつけて郷里へ帰ってしまった。  因に、去る二月頃、東京で捕まった不良少年少女の一団の中には、彼女の名は無かった。彼女はもう無事に卒業しているかも知れぬ。 結論 東京人の堕落に対する各方面の驚きの声  以上は、東京人の堕落に就いて見聞した事実の概要である。誇張されたらしい噂や誤聞を避けたため、材料が不徹底に感ぜられたところもあったろう。又は、書いているうちに旧聞になって、読者のお笑い草になった箇所もあったろう。  併し同時に、本紙がこの稿の過半を掲載し終えた頃から、東京の各方面に於て、「東京人の堕落」に関する驚きの声が俄然として起り始めた事は、予期していた事とはいえ、記者の報道が如実に裏書された点に於て満足を感じないわけには行かなかった。  同時に別の意味で、記者は頗る不満に感じた点があった。それ等の報道の大部分が、東京の堕落を説明するのに、恰も東京の「堕落の甚だしさ」を、恰も東京の「文化の向上した程度」を示す者であるかのように、寧ろ誇りかに叙している点であった。  記者は明言する。  東京人の堕落は東京の文化の向上を意味するものでない。却て東京の文化の滅亡頽廃を表明しているものであることを。 「東京人の堕落時代」の一篇を読んだ人々は、この意味を正しく理解されたことであろうと信ずる。そうして、東京人の堕落がどんな色彩と傾向を帯びて移りかわっているかという事を、多少に拘らず知り得たであろうと思う。 東京の名に於て踏み潰された日本の面目  明治維新後六十年に近く、日の丸の旗の下に、あれだけの犠牲と努力とを払って築き上げられた、吾が大和民族の文化の中心は、一朝の地震で「ゼロ」にまでたたき潰されてしまった。あとには唯浅ましい本能だけが生き残って、大正十三年以降の大堕落時代を作ったのであった。  これは日本人として――殊に文化という事に就て考える人達が、特にその眼を見開いて、徹底的に観察せねばならぬ大きな出来事であろうと思う。  大正十二年の夏まで、日本を背負って立つ意気を示しているかのように見えた江戸ッ子の、現在の屁古垂れ加減を見よ。  そうして、これに取って代った新東京人の風俗のだらしなさ加減を見よ。  その武威に、その文化に、東洋の新興民族として、全世界の眼を瞭らした日本人の化の皮は、その首都の名に於て、美事に引っ剥がされてしまったのであった。  彼等東京人の云う忠君愛国、勤倹尚武、仁義道徳は皆虚偽であった。  彼等東京人の持つ外国文化の驚くべき吸収力、その不可思議な消化力、並びにその文化方面の宣伝力……それ等は只一時の上辷りのカブレに過ぎなかった。  彼等東京人は文化民族としての日本人の価値を、真実の意味で代表していたものではなかった。  彼等東京人が真実に模倣し得るものは、只外国文化の堕落した方面のみであった。彼等が本当に持っているものは、唯浅ましい本能だけであった。  東京人は、日本中で先登第一に、アメリカ魂、イギリス魂、独逸魂、ロシア魂のすべてにカブレて、そのどれにもなり得なかった。只、大和魂をなくしただけであった。そうしてそのあとに、浅薄な意味の文化的プライドに包まれた、低級な本能だけを保有しているに過ぎなかった。だからイザとなると、今までのプライドをなくしてしまって、禽獣の真似をして恥じないのであった。  ――新しい東京の女の美しさは鳥の美しさである。その無自覚さと口巧者さは、鳥の無自覚と口巧者そっくりである――。  ――新しい東京の男のエラサは獣のエラサである。その無作法さ、図々しさは、獣の不作法さ、図々しさと撰ぶところない――。  これは記者が作った形容詞ではない。東京人が実地にやって見せている実況である。  一切の説明を超越した「事実」である。  この事を報道し、且つ警告したいために、記者はこの筆を執った。  地方の人々は考えて頂きたい。  特に東京を吾が日本民族のすべての中心とあおぐ大人諸氏、及び「東京に行きたい東京に行きたい」とあこがれ望む地方の若い人々は、今一度考え直して頂きたい。  諸君は何故にそんなに東京を尊敬されるか。東京のどこにそんな価値を認められるか。  東京は事務を執りに行く処という。しかし厳密に云えば、東京は事務を堕落させに行く処と断定すべきである。  地方から起った神聖な精神的運動、又は真剣な殖産興業等の事業は、それ等が土地で企画されているうちは、まことに真剣で且つ純真であるが、一度東京に持ち込まれると、忽ちその真剣味が抜き取られて、空虚な、不真面目な、汚らわしいものと化せられてしまう。  東京には、地方から上って来る純真なもの、生き生きしたもの、又は充実したものを取って喰う商売人が、お互に爪を研ぎ、牙を磨いて、雲霞の如く待ち構えている。否、「東京」は、そのような無残なもののすべてを人格化した「悪魔」の別名である。  地方から上京した真剣な事業や運動が、東京と名乗る悪魔の乾児たる横道政治家の金儲けの種、高等遊民の飯喰い種として、片っ端から犠牲とされ、腐敗堕落させられて行く有様は、恰も地方から上京する青年処女の純真な志が、東京に入ると忽ち不浄化され、頽廃化させられてしまうのと同様である。否、すべての事は、東京に入って堕落させられなければ、本場を踏んだと云われない。東京の「腐敗」そのもの以上に「腐敗」しなければ、日本第一流と云われないとさえ考えられる。 日本人に対する東京の不浄な使命  茲に於て、東京の所謂「生存競争」なるものは、事実上、「腐敗堕落競争」である事が容易く理解されるであろう。  学問とても同様である。地方の少年少女は東京を学問の府としてあこがれている。しかし、東京の学校のどこに、地方の学校のような純真なる風が認められるか。  この事を詳しく説明すると限りもないが、多少脱線の嫌いがあるから略するとして、要するに東京は、学者として、又は学生として摺れっ枯らしに行く処である。もしくはいろんな風潮にカブレて、自分の学問の根底を握る精神力を空っぽにしに行く処である。少くとも東京の学校の学生と教師は、日本を指導する意気はない。学者も学生も、唯、自分の地位や飯喰い種に、学問を売り買いしているとしか見えないのである。  重ねて云う。  東京は日本のすべての文化の中心機関の在る処と認められている。  東京というボイラーに投げ込まれて初めて、石炭は火となり、水は水蒸気となるが如くに考えられているが、これは大変な感違いである。  東京は、地方に芽ざした聖い仕事の種子を積上げて、腐らして、あらゆる不良政治家、不良事業家、不良学者、不良老年、不良少年少女の根を肥やすための大堆肥場である。そのためにあれだけ大きな家が並び、あれだけの砂ほこりが立ち、あれだけの電燈が輝いているのである。その中に身も心も投げ込んで、腐れ爛れて行く自己を楽しむべく、人々は東京へゆくのである。  そのほかに東京に何の用があるであろうか。  静かに胸へ手を置いて考えて頂きたい。  東京は旧時代の産物たる科学文明に依て築かれた都である。  科学文明の都市――折角向上しかけた人類の精神文化の象徴たる宗教――道徳を数字攻めにして責め殺し、芸術をお金攻め、実用攻めにして堕落させて、精神美を無価値なものにして、物質美を万能にして、遂に文化的に禽獣の真似をするよりほかに楽しみを持たぬ程度にまで落ちぶれ果てた人類――その真似をするのは無上の光栄と心得る、日本人の中での罰当りが寄り集る処――それが東京である。  数字とお金とで動かせる死んだ魂の市場――それが東京である。  智識と才能と人格の切り売りどころ――それが東京である。  たとえば……。 東京に欺かるるな、何物をも与えるな  大きな立派な人間が仕立卸しのハイカラな服を着て、表情沢山の誇張だらけで地方の人々を手招きしている。彼もしくは彼女の機智頓才、魅力弁力、その衒学的の博引広証、いずれも一時的に人を煙に捲くに足る。  しかもその腹を割れば、何等の理想も主義もない。只、金と獣欲ばかりである。一朝事があれば、彼もしくは彼女は畜生のように、又は餓鬼のように昏迷して地面を這いまわる。そうして一朝事が無くなると、又澄まして文化面をして田舎者を馬鹿にする。  そんな人間を「東京」と名づけるとすれば、諸君は果して尊敬するであろうか。諸君はこんな人間を吾が大和民族の代表者として許すであろうか。  序の事に、今一つの方面から東京を批判させて頂きたい。  従来、日本の首都は、吾が日本民族に対してどんな仕事をしたか。  奈良でも、大阪でも、京都でも、又は今の東京でも、皆日本民族のブル思想の反映に過ぎなかった。地位、名誉、傲奢の府として、地方に悪感化を及ぼす使命しか持たなかった。  これに憤慨して起った地方的勢力も、一度時を得て都に入ると、すぐに堕落してブル政治を施し、ブル生活を壟断して、自分の一族一派以外のものを賤民扱いにした。  源の頼朝は極度にこれを嫌った。  京都を離れた鎌倉に幕府を開いたところに、この首都のブル式悪感化を避けた用意が見える。戦功に傲ってブル化しようとした義仲、義経を片っ端から殺してしまった。範頼もとやかく攻め亡ぼした。そこに頼朝の生真面目な性格がほの見える。彼のブル嫌い、都会嫌いの気持ちがあらわれている。  しかし、実朝に到って、源氏のブル化が次第に濃厚になって、遂に北条に亡ぼされた。  北条氏は頼朝の遺志を最もよく理解して、殆ど極端なプロ式武人政治を行った。しかし、高時に到ってブル化して亡びた。  それから後は、ブルに代るにブルを以てしたのみで、明治に入っては薩長土肥のブル思想は東京を濃厚に彩り、遂に今日に及んだものである。  彼等藩閥は初め、徳川のブル的腐敗を憎んで起った、地方的の勢力であった。「王政維新」なる標語の中には、そのような地方的勢力が懐抱する真実さが、底知れぬ程満ち溢れていた。  しかし、一度首都の地を踏むと、それ等の勢力の純真さ、熱烈さは、いつとなく方便化され、御都合化されて、結局、ブル生活の根底を培う腐土と化し去ったのである。  茲に於て読者は理解されるであろう。  日本の生命は首都には無くて、地方に在る。すべての地方の純美さ、真面目さが、日本の命脈を精神的にも物質的にも支持しているので、東京が日本を支持しているのでは決してない。  江戸の昔、或る有名な侠客は、ボロボロの百姓おやじに訪問を受けた時、わざわざ土間に降りて、低頭平身して挨拶をした。 「私どもは娑婆のアブク銭を掴んで喰う罰当りで御座います。お百姓様のような、正真正銘の仕事をするお方の上手に座るような身分のものでは御座いません」  というのがその趣旨であった。  当局の農村振興宣伝と間違えてはいけない。それとこれとは意味がまるで違う。都会に住む、手の白い役人や学者が、日給を貰って名文に綴り上げて、メガホンで吹き散らすお役目物の宣伝と、この侠客の態度とは、その真実味に於て、鉄の弾丸と風船玉ほどの違いがある。  吾々日本人は、この博徒の一親分の言葉に依って自覚せねばならぬ。同時に、地方の自然を相手に稼ぐ労働者諸君は、この言葉に依って覚醒せねばならぬ。  吾々地方人は東京に何物をも与えてならぬ。東京が如何に巧言令色を以て吾々を招くとも、これに眩惑されてはならぬ。東京の中で最も美しく、大きく、貴く見えるものでも、地方人の額の汗の一粒に及ばぬ事を知らねばならぬ。  現在|擡頭しつつある無産階級の運動でもそうである。それが都会人、殊に東京人の指導下にある間は、将来、結局無価値なものとなりはしまいかと憂慮される余地が十分にある。  同時に、それ等の無産階級の人々が目標とし、規準とする生活が、東京人の生活と同様の意味の文化生活を夢見るものであったならば、それ等の人々の覚醒と運動とは、将来に於て無価値のものとなり終るべき可能性を、充分に持っていはしまいかと疑い得られるのである。 口も筆も不調法な地方の若い人の自覚の力  さなきだに、毒々しい薄っぺらな都会の文化は全人類に飽かれつつある。反対に、ジミな、精神の籠もった地方色や、真剣な個性に依って作り上げられた農民文化が尊重される傾向が出来つつある。そうして、その個性や地方色を集めたものを民族性と名づけ、その民族性に依って荘厳された文化を人類文化と称える、そこに個性と人類性との共鳴があり、そこに民族の自由解放の真意義がある――というような説が次第に高まりつつある形勢である。  吾が大和民族は一民族を以て一国家を形成している。すくなくとも欧米各国のように雑然たるものでない。そこに吾が民族性の強みがあり、そこに吾国の地方色の真実味が生れ、そこに洗練された吾が国民の個性の貴重さと偉大さが表現されなければならぬのではあるまいか。  日本民族の全人類に対する使命を自覚し、これを達成する程の活力ある生命は、ペンキ塗の窓の中に人工の光りに照らされて、ストーブに蒸されて濁った空気を与えられて育てらるべきものでない。新しい、強い、生きた魂は、清らかな太陽と、シットリした大地と、真面目に真面目に伸びて行く草木との間に立って、爽やかな空気を呼吸しなければ美しく生長せぬ。  新たに天下を取る者は常に田舎者である。都会人は常に田舎者の支配下にある。死んだ魂――売り物買い物である魂――投げやりな魂が、売り物買い物でない、生きた魂に支配されなければならぬのは当然の事である。 「都会」が「田舎」を軽蔑する理由は絶対にない。同時に、地方人が東京を尊敬し、憧憬するところも亦絶対にあり得ない――という事を、今の「東京人の堕落時代」は最も明瞭に証明しているのではあるまいか。  そうして、吾が日本民族は、今の中にこの意味で覚醒する必要はあるまいか。  今日の如く、東京を憧憬する人々、東京の文化を本当の文化と信ずる人々が無暗に殖えて行ったならば、今に日本人全体が東京人のようになってしまいはしまいか。一朝国難にでも際会したならば、吾が大和民族は、遂にその首都の東京人が地震の打撃に依って本音を吹いた如く、ダラシない民族と成り果てはしまいか。  しかも――。  このような自覚――思想は都会人に依って宣伝されたのでは駄目である。否……厳密に云えば、記者の如き手の白い労働者によって称道されたのでも駄目である。  却て、地方の純真な、堅実な、そうして口も筆も不調法な、若い人々の腹の底でウ――ンと覚悟されたのでなければ、絶対に無力、無価値なものとなるのではあるまいか。  記者はこれだけの疑問を読者諸君に呈したいためにこの稿を起した。自ら惴らぬ罪は謹んで負う。  恩師の一世一代という意味ばかりではない。喜多六平太の道成寺なるものを一度も見なかったせいばかりではない。喜多六平太氏の葵上を見て、怨霊ものとしての凄絶さに圧倒された体験のある筆者は、恩師六平太師をただ葵上と道成寺を舞うために生まれて来た人である。従ってこの道成寺は前後百年を通じて又見られない筈のものである。むしろ空前絶後と言いたいくらいに考えていた筆者であった。実さんもその他の友達も、是非見て置けと言った。当日ドンナ事になるか後で聞いて唸っても間に合わないぞ。折角生まれ合わせた甲斐にこの道成寺を見ない奴があるか……とさえ言われた。だから土に噛り付いても見る積りでいた。  それが、どうしても見られなくなった無念さをドコにどうして訴えたらいいだろう。  二十八日の当日は香椎の山の中で、ステキに早く眼が醒めた。何故そんなに早く眼が醒めたかわからなかったが、そのうちに今日が二十八日と気が付くと、立ってもいてもいられなくなった。見るもの聞くものイライラチラチラして来るので一日中、奥歯を噛みしめてジッとしていた。筆なんぞ執る気は無論しないから、古い自分の作品を読んで午睡にかかったが、どうしてもねむれない。頭の中がシュルリアリズムの絵みたいに冴えかえって、自分の作品が単なる活字の行列に見える向うに、四谷の舞台と釣鐘が見える。急の舞いの太鼓が聞こえる。烏帽子がキリキリキリと虚空に回転して飛んで行く。鐘がグーッと下って来る。ああたまらない。ビッショリと汗を掻いて起き上る。トテも睡れない。  午後になるのを待ちかねて、野球を見に行ったが、そのうちにやっと落着いて家に帰れた。  あとから聞くと、一日中機嫌が悪くて、妻子が弱ったそうであるが、自分は極力ニコニコしている積りであった。何かしら非常に疲れていたようで、早くからグッスリと睡った。日記も当日は白紙になっている。  二、三日してから先輩江戸川乱歩氏と大下宇陀児氏から道成寺の感想を知らせて来た時には非常に嬉しかった。あんまり嬉しかったので実さんに頼んで「喜多」に掲載して貰うことにした。それに続いて坂元雪鳥さんが朝日に書かれた能評を、同じく能キチガイの従妹が切り抜いて送ってくれたので、スッカリ当日の印象がまとまってしまった。乱拍子の中で身体を曲げて鐘を見た。鐘が手に届かない位高かったのを見事に飛んだ……云々の二項で、当日の出来がゾッとするほどハッキリとわかった。六平太氏の覚悟と実さんの覚悟が、決死以上に陶酔していた心境が、今でも背中をゾクゾク匍いまわっている位よくわかった。或る意味で自分が見た以上に満足した。これは決して負け惜しみでない。と、いう理由は左の通りである。  現代の文士とか批評家とか、又は学者、その他の芸術研究家、もしくは芸術愛好者の類で、時々「能」にチョッカイを出す人があるが、筆者の思うほどに「能」に突込んでくれる人が一人もいない。皆、真偽のわからない掛物に対する鑑定家みたいに、いい加減な否定や肯定ばかりしている。自分のボロを出さないように警戒しいしい「ハハア。成る程」とか「結構ですな」とか何とか言い言い腮を撫でている態度である。又は、鳥仏師の彫刻を、幾何学的に割り出した曲線や直線に当てはめようとする美学家のように、自分の得た極めて平面的な、死理、死論によって能の定義を作ろうとする痴識万能信者ばかりである。  みんな「能」に負けない気でいるからおかしい。能に恐れ入っては――又――能がわからないでは、見識にかかわると思っているからおかしい。アワよくば能を鼻でアシラって遣ろう。能楽の内兜を見透かして、能楽師を恐れ入らして遣ろう……ぐらいの了簡で、初めからわかったような高慢な顔をして楽屋を覗きに来る馬鹿が多い。  能は学問や知識でわかるものでない。全く無学な人間が、全くの生命がけで演出する芸術である。植物や動物が、無知無学なまま生きよう生きようとする切ない努力によって、今日のように美しい形態にまで進化して来たように、能は芸術的に生きよう生きようという絶体絶命の努力のうちに、世間の一切を無視した全くの無知無学のまま今日の程度にまで進化して、まだまだ進化して行きつつ在る舞台芸術である。だから能を見る人も自分の一切を棄てて草木、禽獣と同様の無知無学の痴呆になって、生命がけで見なければわからない恐ろしい芸術である。利いた風な了簡で覗きに来る連中には百年経ったってわかりっこない。  そのうちに吾が探偵文壇の双星のこうした批評を得たことは近来の痛快事である。  こんな風に能を本当に見得る人間は探偵文壇にだけしかいないのであろうか。純素人として、全霊を裸体にして能と四ツに取り組んで、能の真実の力に打ちひしがれて満足し得る芸術愛好者、もしくは芸術研究家は、この尖端芸術とか、大衆芸術とか言って差別待遇を受けている吾々の仲間以外にいないのであろうか。  両氏とも非常に謙遜した評をしているようである。しかも、その評は現代の能楽界そのものの弱点と、能の心臓とも言うべき処にグングン突込んでいる。ことにワキ師の無気力と、チョコチョコ技芸を無用視している処なぞ、思わず襟を正すものがある。白紙の力である。無意識の権威である。  乱歩氏の分は私信を無断で公表させて貰った。それだけの罪を負う価値があると思ったからである。併せて先輩を晒し物にして批判した罪も謹しんで負う。道成寺を見なかったムシャクシャ腹で言うのではない。  お天気のいい日に斑猫が縁側に坐ってしきりに顔を撫で廻しておりました。この猫は鼠を一匹も捕らぬくせに泥棒猫で、近所から嫌われていましたが、「ニャーニャーゴロゴロ」とおべっかを使うのが上手なので、この家の人に可愛がられていました。  ちょうどこの家の赤犬が通りかかって、この猫を見ると声をかけました。 「ブチ子さん今日は」  猫はふり返って、 「オヤ赤太郎さん。だんだん地べたがつめたくなりましたね」  とあいさつをしました。 「ブチ子さんは何をしているのだね」  猫はすまして答えました。 「お化粧をしているのですよ。妾はあなたと違ってお客様のお座敷へも出るのですからね」  犬はイヤな奴だと思いましたが、我慢して別れました。  翌る日犬が又縁側を通ると、猫は畳の表を爪で力一パイバリバリと掻きむしっています。犬は見咎めて、 「何をしているんだい。ブチ子さん」 「畳の間のほこりを取っているんですよ。妾のする事を一々やかましく咎め立てておくれでない。畳の上の事と地べたの上の事とは勝手が違いますからね」  と不愛想に言いました。犬はいよいよ勘弁ならぬと思いましたが、このうちの人に可愛がられているのでジッと辛抱して出て行きました。  ちょうどこの頃、この家の台所の食べ物がチョイチョイなくなりました。しかもちゃんと戸が締まっている戸棚の中のものがなくなりますので、この家の人は女中さんを呼び出して 「お前が食べるのだろう。そうして犬や猫のせいにするのだろう」  と叱りました。女中は、何が取って行くのかわかりませんでしたから言い訳が出来ませんでした。犬に御飯をやる時に眼を真赤にして泣いている事もありました。  犬は女中さんがかわいそうでたまりませんでした。きっとあの猫が台所の食べ物を取るに違いないと、いつも猫のようすに気をつけておりました。  処がある日、犬がちょいと台所へ来てみますと、コワ如何に……猫は今しも戸棚の中から大きな牛肉の一きれを引きずり出そうとして夢中になっている処でした。犬は黙っているわけに参りませんでした。 「やいこの泥棒猫、何をするのだ」  と怒鳴りますと、猫はふり返って眼を怒らして、 「やかましいったら。この肉に女中さんが猫イラズを入れたから、私が鼠の通る道へ置きに行くんだよ。お前なんぞは家の外まわりをみはって泥棒の用心さえしておればいいんだ。スッ込んでおいで」  犬はとうとう癇癪玉を破裂させました。 「黙れ。猫イラズを使う位なら貴様がいなくてもいいのだ。家のうちの泥棒も退治するのが俺の役目だぞ」  猫はせせら笑いました。 「えらそうな事をお言いでない。畳の上に上がっていけないものがどうして家の中の泥棒を退治出来るの」 「出来るとも。こうするのだ」  と言ううちに犬は泥足の儘床の上に飛び上って、 「アレッ、助けて」  と言う猫を啣えるなり一振り二振りするうちに、猫はニャーとも言わずに死んでしまいました。  この騒ぎに驚いて家の人が馳けつけてみますと、初めて猫が泥棒をしていた事がわかりました。奥様は女中にこう言われました。 「お前を疑って済まなかったね。その肉は御褒美に犬におやり」  女中は涙を流して喜びました。  犬も嬉しくて尾を千切れる程振りました。この家の食べ物はそれからちっともなくなりませんでした。  たいそうあたたかくなりました。  猫が久し振りにあたたかくなったので縁側に出て見ると、縁側の鉢の中にいる金魚が五、六匹チラチラしています。これは占めた、どうかして取って食べてやろうと思ってジッと鉢の中を狙いました。  犬がこれを見つけて、これはうまいと思いました。ふだんから憎らしいと思う猫が今日は全く気がつかずにいる。今度こそは引っ捕えてひどい目に合わせて遣ろうと、猫に気のつかぬようにそっとうしろから忍び寄りました。  二階の窓から坊ちゃんがこれを見つけて、あの憎らしい犬が又猫をいじめてやろうとしている。今日こそは勘弁しないぞと、空気銃にバラ玉を込めて犬のお尻の処をジット狙いました。  その時お父さまがこれを見つけて、又坊やがいたずらをしている。よその犬に怪我をさせては大変だ。よしよし捕まえて懲して遣ろうと、ぬき足さし足うしろから近寄ってお出でになりました。  室の隅で縫い物をしていらっしたお母様はお父様の様子に気がついて、どうしたのかと思って窓の外を見ると、猫は金魚をねらい、犬は猫のすぐ後に近寄り、坊ちゃんは犬のお尻を狙って引き金を引こうとし、お父様は坊ちゃんの襟を捕まえようとしておられます。うっかりすると金魚も猫も犬も坊ちゃんもみんなひどい目に合いそうです。お母様はどうしてよいやらわからなくなりました。  その時にすぐ近所の砲台で耳も裂ける位大きなドンが鳴りました。  金魚は驚いて石の下へ逃げ込みました。  猫はガッカリしてうしろをふり返ると、犬がすぐ足もとにいたので驚いて家の中へ逃げ込みました。  犬はしまったと思って縁側に飛び上ると、空気銃の弾丸が尻尾のさきをカスッたので驚いて逃げて行きました。  坊ちゃんはガッカリしてうしろを見ますと、お父様が怖い顔をして立っておられたので、 「あれ。堪忍して頂戴」  と言うなりに空気銃を投げ出して逃げて行きました。 「アハハハハハ」  とお父様はお笑いになりました。  お母様はホッとしました。  それから間もなく金魚は餌を投げて貰いました。  猫も犬も御飯をいただきました。  その時お父様もお母様も坊ちゃんも楽しいお昼の御飯を食べていました。 すべて無字幕、説明なしで、手だけを中心とし、その他の物体は、手の背景としてうつす。但、生きた人間の顔は絶対に取り入れぬこと。      俳優登場 ◇悪人の手……四十恰好の色の白い、指の長い、節の高い、青すじの走った毛ムクジャラ……。 ……右の手の甲に大きな疵痕……。 ……左の薬指に「槻田」と彫った巨大な認印つきの指環一個……。 ……時々思い出したように、ねばっこい、ヒネクレたわななきを見せる……。 ◇美人の手……綺麗な、スンナリとした、上品な中年増……。 ……左の薬指に華奢なダイヤ入りと、エンゲージリングを一ツずつ……。 ……優しい心のふるえを時々あらわす……。 ●女中の手……真黒く、丸々と脂切った……。 ……ダラリとした無神経……。 ●探偵の手……三十前後の、黒くて、強そうな……。 ……頭のよさをあらわすテキパキとした動き……。      第一の場面 ……贅沢な事務用机の中央の、椅子に接した三尺四方ばかり……。 ……凝った文具いろいろ……。 ……高雅な卓上電燈、写真立て、豆人形、一輪挿し、灰落しなぞをキチンと並べてある……。 ……一隅の置時計は九時十五分を示している……。 ……薄暗い窓あかりがさしている……。 ……時々自動車のヘッドライトが窓|硝子に近づいては消えて行く……。 ◇悪人の手登場……卓上電燈のスイッチを捻り、あたりをパッと明るくする。 ……………………手袋を脱いで机の上に放り出し、続いてシガーケース、財布、名刺入れ、ハンカチその他を投げ出し、両手を揉み合わせて疲れた表情……。 ●女中の手登場……珈琲と、帝劇マチネーの案内状を机の上に置いて退場……。 ◇悪人の手…………立ちながら珈琲を取り上げつつ案内状を見る。 ……………………ペンを取り上げて同封の葉書の「出席」と印刷した下へ「槻田|万策」と署名をして傍に置く。 ……………………やがて椅子に腰を卸し、両手を机の平面にピタリと静止させ、あたりの様子を窺うこなし…………。 ……………………電燈を消し、机の横から、大きなインキ瓶を取り出し、夕あかりに透かしつつ机の上のインキ瓶のインキを半分ばかり、大きな瓶へ注ぎ返しもとの位置に直す。 ……………………今一度あたりの様子をうかがいつつ、左右のカフスの間、その他、衣服の各所から、宝石を抓み出して、一ツ一ツインキ瓶の中に沈めおわる。 ……………………悦ばしげに両手を揉み合わせつつ電燈をつける。 ●女中の手登場……『丸の内私立探偵局|連水晃』と刷った名刺を主人の手に渡す。 ◇悪人の手…………その名刺を裏返したりヒネクッタリして困惑した表情の後「こちらへお通し申せ」という手つきをする。 ●女中の手…………恭しく握り合ったまま退場…………。 ◇悪人の手…………女中が遠ざかるにつれてブルブルとふるえつつ、立ち上るこなし…………名刺を握り潰そうとして、又ハッと吾にかえる。 ……………………間もなく慌てて机に帰り、ペンを取り上げ、レターペーパーを拡げて手紙を書き初める。 「拝啓 本日は光栄ある晩餐会に御招待を受け、格別の御厚遇に預り、殊に、朝野の名士数氏に御紹介を賜わり候事、面目これに過ぎ……」 ……………………ここまで書くうちに次第次第に手がふるえ出し、文字が固苦しく乱れ始めて、とうとう中止する。 ●探偵の手登場……ツカツカと机に近づき、立ったまま握手を求める ◇悪人の手…………ペンを棄て、さも愉快そうに立ち上ってこれに応じ、椅子を指して「サアドウゾ」というこなし……。 ●探偵の手…………椅子に腰かけ、ハンカチで汗を拭う。 ●女中の手登場……探偵の前に珈琲を置いて退場……。 ◇悪人の手…………悠々と椅子に腰を下し、机の上のシガーケースを取り上げ、蓋を開いて探偵にすすめる。 ●探偵の手…………軽く左右に振って断る。 ◇悪人の手…………かすかにふるえつつ、自分でマッチを擦り、葉巻に吸いつける。 ●探偵の手…………机の上に書きかけになっている晩餐会の礼状を指し「そこで盗んだものを下さい」という風に両手を軽く重ねてさし出す。 ◇悪人の手…………強く否定して、身の潔白を表明する。 ●探偵の手…………礼状の文字のふるえを指し、鋭く詰問する。 ◇悪人の手…………非常に激昂し、固く握り締めて机をドンドンとたたき「出て行け」と命ずる如く入口の扉を指す。 ●探偵の手…………皮肉に屈げたり伸ばしたりして悪人を指し、嘲弄しつつ立ち上る。 ◇悪人の手…………ソロソロとポケットのピストルを探り、半分程引き出す。 ●探偵の手…………往来に面した窓を指し、腕時計の時間「九時半」を指し示しつつ退場……………。 ◇悪人の手…………ピストルを握り締めたまま見送る。 ……………………やがてピストルをポケットに押し込み、急いで手袋をはめレターペーパーの書きかけを下の二三枚と一緒に破って、これもポケットに捻じこみ、机の上に投げ出した身のまわりのものを取り上げ、電燈を消して、探偵のあとを逐うて行く……。     ――〔間〕―― ◇美人の手登場……しずかに電燈をつける。 ……………………指環をはめ直し、指先に残っている化粧のあとをハンカチで拭い消しなぞしながら、何気なく机の案内状と葉書とを取り上げてみる。 ……………………さも嬉しそうに両手を打ち合わせる。 ……………………インキをつけたまま投げ出してあるペンを、ソッと取り上げて「出席槻田万策」と書いてある横に、優しい筆跡で「同 シズ子」と並べて書き「欠席」の文字を消そうとして、インキの切れたのに気付き、つけ足そうとする。 ……………………と………インキ壺の中に何か落ち込んでいるのに気がついて、ペン先で二三度突つき、その中の一個をかき上げると、ハッとしてペン軸を取り落す。 ……………………ワナワナとふるえる指でレターペーパーを二三枚破って、吸取紙の下に重ねて、机のまん中に置き、抽出からピンセットを取り出して、インキの中にさし入れ、宝石を一つ一つ拾い上げてインキを切り、スッカリ紙に包み、その上からハンカチでくるんで懐に入れる。 ……………………別の新しいハンカチを取り出して泣く風情……。 ……………………そのまま静に、電燈を消して退場……。     ――〔間〕―― ●探偵の手登場……左右とも手袋をはめたまま、ソロソロと机に探り近づく。 ……………………懐中電燈を照し、そこいらを調べまわる。………紙屑籠………唾壺………小型の瓦斯ストーブなぞ……。 ……………………大きなインキ瓶の口が濡れているのに気付き、取り上げて二三回振ってみてから又下に置く。 ……………………机のまわりを押しこころみて、秘密の落し戸の有無をたしかめる。 ……………………次に、机の抽出しを下から上へ順々に検査して、机の表面まで懐中電燈を持って来る。 ……………………まず、案内状の回答用葉書に新しく「同 シズ子」と書いたのを照し「欠席」の文字の上のカスレタペンの痕を検め、次いでインキに濡れたピンセットを照し出す。 ……………………すぐにインキが半分以上減っている壺に電燈をさしつける。 ……………………右手を握りしめて「占めた」というこなし……。 ……………………懐中電燈を消して退場……。      第二の場面 …………暗い部屋に置いたピアノのキーのところ、三尺四尺ばかり……。 …………楽譜は置いてない……。 …………一方の窓から薄あかり……。 ◇美人の手…………何か快活らしい曲を弾いている。 ……………………時々手を止めてハンカチで涙を拭うようす……。 ――そのうしろから突然にパッと光線がさす―― ◇美人の手…………ハッとしてハンカチを取り落す。 ●探偵の手…………懐中電燈をさしつけつつ近寄る。 ◇美人の手…………わなわなと慄え出す。 ●探偵の手…………ピンセットで物を抓み上げる真似をして見せる。 ◇美人の手…………宝石の包みを差し出しつつ、わななき悲しむ。 ●探偵の手…………包みを受け取って中味を検め、固く結び直して無造作にポケットに入れる。 ……………………くら暗の中に、拇指を出して見せ、食指とくっつけ合わせて「お前と共謀だろう」と詰問する体。 ◇美人の手…………烈しくわななきつつ左右に振って否定し「ピアノを弾いていた。何も知らない」と主張する。 ●探偵の手…………懐中電燈をつけ、ピアノのキーの上に落ち散った涙を一ツ一ツに照し出すうち、指先が感動して微かにふるえ出す。 ……………………ともったままの懐中電燈をしずかにピアノのキーの上に置き、わななく女の白い手をハンカチごと両手で強く握り締め「御安心なさい」という風に軽くたたいて慰撫する。 ――その上から涙がポトポトと滴たりかかる――  私には「探偵趣味」という意味がハッキリとわからない。同時に「猟奇趣味」という言葉も甚だアイマイなように感じている。しかもその癖に、そんな趣味の小説や絵画はナカナカ好きな方で、つまらないと思う作品にまでもツイ引きつけられて行く。自分でも可笑しいと思っているが仕方がない。  イッタイどうしてこんなに矛盾した心理現象が起るのだろう。  そうした趣味の定義や範囲は、雲を掴むように漠然としているように、そうした趣味から受ける興味はどこまでも深刻痛切を極めている。それ等の作品の一つ一つの焦点は実にハッキリしている。脳味噌の中心にヒリヒリと焦げ付く位である。それでいて、あとから考えるとその興味の焦点と、自分の心理の結ばり工合がサッパリわからない。探偵趣味で惹き付けられたのか、猟奇趣味で読まされたのか、わからない場合が非常に多い。わかってもその「探偵」とか「猟奇」とかいう趣味の定義は依然として五里霧中だからおかしい――どうもおかしい――。  子供の時に、自分の家へ郵便が投げ込まれるのを遠くから見て飛んで帰った事がある。別に手紙が見たいわけではなかったけど、どこから来た手紙か知りたかったからである。町中の家々に来る手紙をみんな知っている郵便屋さんが羨ましくて仕様がなかったものである。  あんなのが探偵趣味というものであろうか。  それから――やはりそのころのこと、初めて動物園に連れて行かれて火喰鳥や駱駝を見せられた時に、いつまでもいつまでもジッと見詰めたまま帰ろうとしなかった事がある。子供心にそうした鳥や獣が、そんな奇妙な形に進化して来た不可思議な気持ちを、自分の気持ちとピッタリさせたい――というようなボンヤリした気持ちを一心に凝視していた。何とも云えない変テコな動物の体臭に酔いながら――。  あんなのが猟奇趣味というのであろうか。  もしそんなものならばコンな趣味は取りも直さず人間の本能から出たものでなければならぬ。そうしてこれ等の趣味の定義や範囲は学者たちの客観的な研究によって決定さるべきもので、それに囚われている私たちが空に考えたとてわかる筈のものでない。しかも、それがわかった時はビタミンの発見と同様、遠からず平々凡々な趣味によってしまうべき運命を持っているので、現在のように大衆を酔わせる力はなくなってしまうであろう――ナアンダ。つまらない――というような心細い感じもするようである。  しかし、又、万一それがそうでなかったらどうであろう。唯物文化が唯一の生命としている――2+2=2×2=4――式な哲学に飽き果てた近代人が、その生活の対照として石から油を取るような思いをしてヒネリ出した趣味が、コンナ「探偵」とか「猟奇」とかいう趣味傾向となってあらわれたものであるとすれば、どうであろう。  問題は実にタヨリナイものに化する。手の甲にツバキをつけて垢をコスリ出して自分のキタナサに驚いて楽しむ趣味と同じものになる――イヤジャありませんか――ペッペッ――しかし又、同時に問題は非常に重大化する。こうした趣味の芸術は、あらゆる芸術の先鋒を承って行くべき――そうして将来益々その精鋭の度を加えつつ――あらゆる方面に人類の生活をエグリ付けつつ――新領土を次から次に開拓して行くべき、人類の生命の躍動の最新最鋭の、白熱的尖端――オヤオヤ――スッカリ本誌のお提灯になってしまった――イヤドウモ――。  しかも、形容詞ばかりで、内容も焦点も、定義も、範囲も、依然としてハッキリしていないのだから人を馬鹿にしているでしょう。  実際こうした趣味は天地|開闢以来ある趣味なのでしょうか。それとも飛行機と一所に生まれた趣味なのでしょうか。  ソモソモ七面鳥は自身に猟奇趣味を理解しつつ、あんなに顔色を変化して行くのでしょうか――。  モボは本当に時代遅れを自覚しつつ銀座街頭から消え失せて行くのでしょうか――という論理が又成り立つかどうか――。  考えているうちに頭がわるくなった。  とにもかくにも近来益々この趣味が流行して来ました――いろんな新しい主義や傾向と一所に――。けれどもそんな趣味を流行らせている人々は本当にこんな趣味を理解しながら書いたり読んだりして居られるのでしょうか。新米の私にはサッパリ見当が付きませんが――。  万一私と同様に、わからないまま夢中になって御座るのでしたら――アハハハハハ――まさかソンナ事もありますまいけれど――ナンセンス――ナンセンス――。  パアパアパアパアパアパア――。    不明の兇漢に     探偵劇王刺殺さる       孤児となった女優|天川呉羽哭いて復讐を誓う        ┌~~~~~~~~~~┐        │ 秘密を孕む怪悲劇 │        └~~~~~~~~~~┘ 市内大森区山王×××番地|轟九蔵氏は帝都呉服橋電車通、目貫の十字路に聳立する分離派式五層モダン建築、呉服橋劇場の所有主、兼、日本最初の探偵恐怖劇興行者、兼、現代稀有の邪妖劇名女優、天川呉羽嬢の保護者として有名であったが、昨三日諾威公使館に於ける同国皇帝|誕辰の祝賀|莚に個人の資格を以て列席後、大森山王×××番地高台に建てられたる同じく分離派風の自宅玄関、応接間に隣る自室に於て夜半まで執務中、デスク前の廻転椅子の中で、平生同氏が机上にて使用していた鋭利な英国製|双刃の紙切ナイフを以て、真正面より心臓部を刺貫され絶命している事が、今朝十時頃に到って発見された。急報により東京地方裁判所より貝原検事、熱海予審判事、警視庁の戸山第一捜索課長以下鑑識課員、大森署より司法主任|綿貫警部補以下警察医等十数名|現場に出張し取調を行ったが、発見者である同家小間使市田イチ子の報告により真先に死骸の傍へ駈付けた天川呉羽嬢が慟哭して復讐を誓ったにも拘わらず、犯人の目星容易に附かず。目下同邸を捜索本部として全力を挙げて調査中である。 因に轟九蔵氏の原籍地は神奈川県鎌倉町|長谷二〇三となっているが、同所附近で氏の前身を知っている者は一人も居ない。大正十年頃より三四歳の娘本籍地静岡県|磐田郡|見付町××××番地)を連れて各地を遍歴したる後上京し、株式に手を出して忽ち巨万の富を作った。その中に三枝嬢が成長し、人も知る如き美人となったのを手中の珠と慈しみ、同嬢のために小規模ながら大森に現在の豪華な住宅を建ててやって同居し、毎日のように同嬢を同伴して各種の興行物を見に行く中に、同氏自身、興行に興味を覚え、昭和五年の春、呉服橋劇場が不況に祟られて倒産したものを、同劇場の支配人|笠圭之介氏に勧められるまにまに買収し、甘木三枝嬢こと女優天川呉羽をスターとする一座を組織し、且、新進探偵小説家江馬兆策氏を自宅の片隅に住まわせて、同氏に同劇場の脚本を一任し、巴里グラン・ギニョール座に傚い探偵趣味、怪奇趣味の芝居で当てるつもりであったところ、当初の三四回の成功を見たのみで爾後一向に振わず、一部少数ファンの支持を除き、一般人士には早くも飽かれてしまったらしい。そのために財産の大部分を喪い四苦八苦の状態に陥ったまま今回の兇変に遭ったもので、兇行の原因等の一切も同時に秘密の奥に封殺された形になっている。勿論、遺書等も無いらしく、劇場の権利等の遺産は多分天川呉羽嬢のものとなる模様であるが、気の毒にも同嬢は肉親の父親と同様の保護者を喪い、手も足も出ない天涯の孤児となってしまったので一般の同情を集めている。    惜しい好敵手 段原興行王 談 それは意外な事です。気の毒な事でしたね。私にとっては唯一の好敵手を死なしたようなものです。どうしてどうして。素人上りとは思えませんよ。あの種類の芝居を、あそこまでコナシ付けて来るのは尋常一様の凄腕で出来る事ではありません。私も内心で兜を脱いでおりました。元来轟君は金持に似合わない精悍な、腕力と自信の持主で、株式界にいた頃でも百折不撓の評判男だったそうです。劇界に転じても商売柄、各種の暴力団等に脅やかされた事が度々であったのをその都度、自身で面会して武勇伝式の手段で追っ払って来た位で、強気一方の人物でしたが惜しい事でしたな。天川呉羽さんの芸ですか。あれは大した天分ですね。あんな人は二人と居りませんよ。とにも角にもあの芝居だけは止めてもらいたくないものです。仏蘭西と日本だけですからね。大東京の誇りと云ってもいいものですからね。云々。        ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  八月四日の午後四時頃、大森山王の一角、青空に輝く樫の茂みと、ポプラの木立に包まれた轟邸の玄関の豪華を極めた応接室で、接待用らしいMCCを吸いながら、この夕刊記事に額を集めていた二人の巡査が、同時に読終ったらしく顔を上げた。どちらも大森署の巡査であるが、一人は猪村といって丸々したイガ栗頭。大兵肥満の鬚男で、制服が張千切れそうに見える故参格である。これと向い合って腰を卸した文月というのは蒼白い瘠せこけた、貧弱そのものみたいに服のダブダブした新米巡査で、豊富な頭髪を綺麗に分けていたが、神経質な男らしくタッタ今読棄てた夕刊の記事を今一度取上げて、最初から念入りに読直し初めた。  猪村巡査はそうした若い巡査の熱心な態度を見ると何かしらニヤリと笑った。腮一面の無精鬚をゴリゴリと撫でまわして腕時計をチョット覗いたが、やがてブカブカした緞子張りの安楽椅子に反りかえって長々と欠伸をした。 「ア――ッと……ここが捜索本部と発表しとるのに、新聞記者が一向遣って来んじゃないか」 「モウ朝刊の記事を取りに来る頃ですがね」 「司法主任はここを本部と見せかけて新聞記者を追払わんと邪魔ッケで敵わんというて、そのために僕をここによこしたんじゃが、サテは感付かれたかな。近頃の新聞記者はカンがええからのう」 「司法主任は、よほどこの事件を重大視しておられるのですね」 「むろん重大だよ。被害者が被害者だし、事件の裏面によほど深い秘密があるものと睨んでいるのだからね」 「それにしては新聞記事の本文がアンマリ簡単過ぎやしませんか」 「ナアニ。新聞記者にはソンナ気ぶりも匂わしちゃおらんよ。この前よけいな事を素破抜きやがった返報に、絶対秘密を喰わせている。二三人来た早耳の連中が、夕刊の締切が近いので、それ以上聞出し得ずに慌てて帰って行った迄の事よ。しかしそれにしては良く調べとる。コチラの参考になる事が多いようだねえ」 「ヘエ。つまりこの新聞記事以外の事は、わかっていないんでしょうか」 「馬鹿な。まだまだ重大な秘密がわかっているんだよ」  文月巡査の眼がキラキラと光った。 「……ソノ……僕はツイ今しがた、非常で呼出されて来たばっかりで何も知らないんですが。来ると同時に署長殿からモウ帰っても宜しいと云われたんで、実は面喰ったまま貴方に従いて来たんですが」 「見せてやろうか……現場を……」 「ええ。どうぞ……」 「絶対に喋舌っちゃイカンよ。誰にも……」 「ハイ……大丈夫です」 「よけいな見込を立てて勝手な行動を執るのも禁物だよ」 「……ハイ……要するに知らん顔しておればいいのでしょう」 「……ウン……新米の連中は警察が永年鍛え上げて来た捜索の手順やコツを知らないもんだから、愚にも付かん理屈一点張りで行こうとしたり、盲目滅法にアガキ廻って却ってブチコワシをやったりするもんじゃよ。こっちへ来てみたまえ。ドウセイ退屈じゃからボンヤリしとったて詰まらん。将来の参考に見せてやろう」 「ありがとう御座います」  二人は丸腰のまま応接間をソッと出て、直ぐ隣室になっている廊下の突当りの轟氏の居室に這入った。流石に豪華なもので東と南に向った二方窓、二方壁の十坪ばかりの部屋に、建物の外観に相応しい弧型マホガニーの事務机、新型木製卓上電話、海岸傘型電気スタンド、木枠正方型|巻上大時計、未来派裸体巨人像の額縁、絹紐煽風機、壁の中に嵌め込まれている木彫寝台の白麻垂幕なぞが重なり合って並んでいるほかに、綺麗に拭き込んだ分厚いフリント硝子の窓から千万無数に重なり合った樫の青葉が午後の日ざしをマトモに受けてギラギラと輝き込んで来る。盛んに啼いている蝉の声も、分厚い豪奢な窓|硝子に遮られて遠く、微かにしか聞こえず、壁が厚いせいであろう、暑さもさほどに感じられない。近代科学の尖端が作る妖異な気分が部屋の中一パイにシンカンとみちみちしている感じである。 「この家の中は随分涼しいんですね」 「どこかに冷房装置がしてあるらしいね……ところで見たまい。被害者はこの事務机の前の大きな廻転椅子に腰をかけていたんだ。コレ。この通り、椅子の背中に少しばかり血が附いとるじゃろう。被害者轟九蔵氏が、昨夜遅く机にかかって仕事をしている最中に、犯人が背後から抱き付いて、心臓をグッと一突き殺ったらしいんだ」 「仲々|手練な事をやったもんですなあ」 「ピストルを使わぬところを見ると犯人も何か後暗い疵を持っていたかも知れんテヤ」 「さあ。どんなものでしょうか」 「とにかく尋常の奴じゃないよ。急所を知っとるんじゃから」 「兇器は……」 「兇器は今、署へ押収してあるが、新聞にも掲ている通りこの机の上に在った鋭い、薄ッペラな両刃のナイフだよ。僕もその死骸に刺さっとる実況を見たがね。左の乳の下から背中へ抜け通ったままになっていた。ホラこの通りこの血の塊まりの陰にナイフの刺さった小さい痕があるじゃろう」 「刺し方が猛烈過ぎやしませんか」 「むろんだとも。相当、兇悪な奴でも不意打にコレ程深くは刺し得ない筈だよ。それに死骸の表情が非常に驚いた表情じゃったし……」 「ヘエ。殺された当時の表情は、やっぱり死骸に残るものですかなあ。よく探偵小説なんかに書いてありますが」 「残るものか。僕の経験で見ると死んだ当時の表情はだんだん薄らいで、一時間も経つとアトカタもなくなるよ。僕の見た轟氏の死相はスッカリ弛んで、眼を半分伏せて、口をダラリと開けたままグッタリとうなだれて机の下を覗いていたよ。僕の云うのはその手足の表情だ。ハッとして驚くと同時に虚空を掴んだ苦悶の恰好が、そのまんま椅子の肱で支えられて硬直しておったよ。新聞記者には向うの寝台へ寝かしてから見せたがね」 「ナイフの指紋は……」 「無かったよ。犯人は手袋を穿めていたらしいんだね。それよりも大きな足跡があったんだ。モウ拭いてしまってあるが、向うの北向きの一番左側の窓から這入って来たんだね。ところでこの辺では昨夜の二時ちょっと前ぐらいから電光がして一時間ばかり烈しい驟雨があったんだが、その足跡は雨に濡れた形跡がない。ホコリだらけの足跡だからツマリその足跡の主は推定、零時半|乃至一時四十分頃までの間にあの窓から這入って来た事になる。ところで又その足跡が頗る珍妙なんで、皆して色々研究してみたがね。結局、地下足袋か何かの上から自動車のチュウブ類似のゴム製の袋をスッポリと穿めて、麻糸らしい丈夫なものでグルグルと巻立てた頗る無恰好な、大きな外観のものに相違ない。それもこの家の向う角の暗闇の中で準備したものに違いない事が、そこに落ちていた麻糸の切屑で推定される……という事にきまったがね」 「手がかりにはなりませんね。それじゃあ」 「ならんよ。よく郊外の掃溜や何かに棄ててある品物だからね。なかなか考えたものらしいよ。探偵劇の親玉の処へ這入るんだからね。ハハハ……」 「最初に発見したのは小間使の……エエト……何とか云いましたね……」 「市田イチ子だろう。まだ十七八の小娘だがね。サッキ僕等を出迎えていたじゃないか……気が附かなかった……ウン。その市田イチ子が今朝十時半過ぎだったと云うがハッキリしたことはわからん。毎朝の役目で今這入って来た扉をたたいて主人の轟氏を起しにかかったが、何度たたいても、声をかけても返事がない。部屋の中が何となく静かで気味が悪いので、台所女中の松井ヨネ子という女から合鍵を貰って扉を開いてみるとイキナリ現場が見えたのでアッと云うなり扉を閉めると、その把手に縋り付いたまま脳貧血を起してしまった。そいつを朋輩の松井ヨネ子が介抱して正気付かせて、サテ、扉の内側を覗いて見ると、思わず悲鳴を挙げたと云うね。しかも、これは気絶するどころじゃない。キチガイのように喚めき立てながら二階へ駈上って、女優の天川呉羽に報告した……というのが、あの新聞記事以前の事実なんだがね」 「それからその天川呉羽が泣いて復讐云々の光景をドウゾ……」 「ああ。あれかい。あれは今の松井という台所女中の話が洩れたもので、多少、新聞一流のヨタが混っているよ。第一呉羽嬢は泣きもドウモしなかったというんだ」 「ヘエ。泣かなかった」 「ウン。それがトテも劇的な光景なんで、傍に立って見ていた今の松井ヨネ子は自分が気絶しそうになったと云うんだ。……ちょうどその時に天川呉羽嬢はチャント外出用の盛装をして二階の自分の部屋に納まっていたそうだが、ヨネ子の報告を聞くとソッと眼を閉じて眉一つ動かさずに聞き終ったそうだ。それから幽霊のような青い顔になって静かに立上ると、音もなくシズシズと階段を降りて、まだ倒れている市田イチ子をソッと避けながら轟氏の居間に消え込んだ。あとから松井ヨネ子が、又気絶されちゃ困ると思ってクッ付いて這入るのを、呉羽嬢は見返りもせずに死骸に近付いて、血だらけの白チョッキに刺さっている短剣の※の処と、轟氏の死顔を静かに繰返し繰返し見比べていた……」 「スゴイですね」 「ウン。流石は探偵劇の女優だね。大向うから声のかかるところだよ」 「冗談じゃない……」 「それから今度は今の奇怪な足跡を、自分の足の下から這入って来た窓の方向までズウッと見送ると、轟氏の魂が出て行ったアトを見送るように恭しく肩をすぼめて、心持ち頭を下げた」 「ヘエ。少々変テコですね」 「まあ聞き給え。それからタシカな足取で二三歩後に退って轟氏の屍体に正面すると両手を合わせて瞑目し、極めて低い声ではあったがハッキリした口調でコンナ事を祈ったそうだ。……轟さん。妾が間違っておりました……」 「妾が間違っていた……」 「ウン……「この敵讐はキット妾の手で……」と……それだけ云うと又一つ叮嚀に頭を下げてから傍に立っている松井ヨネ子をかえりみた。普通の声で「お前。支配人の笠さんと大森の警察署へ知らして頂戴ね。御飯はアトでいいから……」という中に淋しくニッコリ笑ったという」 「ヘエエッ。豪い女があるものですね。まだ若いのに……」 「ハハハ。感心したかい」 「感心しましたねえ。第一タッタそれだけの間に、犯罪の真相を見貫いてしまったのでしょうか。そんな事を云う位なら警察なんか当てにしなくともいいだけの自分一個の見解を……」 「アハハ。何を云ってるんだい君は……これは彼女の手なんだよ。宣伝手段なんだよ」 「宣伝手段……何のですか」 「プッ。モウすこし君は世間を知らんとイカンね。俳優生活をやっている連中は代議士と同じものなんだよ。ドンナ不自然な機会を捉まえても自分の名前を宣伝しよう宣伝しようとつとめるのが、彼等の本能なんだ。彼等は舞台や議会だけでは宣伝し足りないんだ。所謂、転んでも只は起きないというのが彼等の本能みたいになっているので、この本能の一番強い奴が名を成すことを、彼等は肝に銘じているんだよ」 「驚きましたね。そんなに非道いものでしょうか」 「論より証拠だ。天川呉羽がコンナ絶好のチャンスを見逃す筈がないんだ。果せる哉、新聞屋連中はこうした呉羽嬢の芝居に百パーセントまで引っかかってしまって、まるで呉羽嬢の宣伝のために轟氏が殺されたような記事の書き方をしているが、吾々警察官は絶対にソンナ芝居やセリフに眩惑されちゃいけないんだよ。下手な探偵小説じゃあるまいし、名探偵ぶった天川呉羽の御祈りの文句なんかを考慮に入れたり何かしたら飛んでもない間違いを起すにきまっているんだからね。誰も相手にしてやしないよ」 「成程ねえ。わかりました。しかし、それにしても、まだわからない事が多いようですね」 「何でも質問してみたまえ。現場に立会ったんだから知ってる限り即答出来るよ」 「第一……にですね。あの窓を明けて這入って来た犯人が、どうしてわからなかったのでしょう被害者に……」 「ウム。豪い……そこが一番大切な現実の問題なんだよ。同時に司法主任、判検事も、首をひねっているところなんだよ。あの通り窓の締りは、捻込みの真鍮棒になっとるし、あの窓枠の周囲には主人の轟氏以外の指紋は一つも無い。しかも、それがあの窓に限って念入りに、ベタベタと重なり合って附いているのだから変梃だよ。よっぽど特別な……或る極めて稀な場合を想像した仮説以外には、説明の附けようがないのだ」 「ヘエ。轟氏がお天気模様か何かを見たあとで締りをするのを忘れていたんじゃないですか」 「どうしてどうして。被害者は平生から極めて用心深くて、寝がけに女中に命じて水を持って来させる時に、一々締りを附けさせるし、そのアトでも自分で検めるらしいという厳重さだ」 「それじゃ家内の者が開けて、加害者を這入らせたとでもいうのですか」 「つまりそうなるんだ……という理由はほかでもない。この事務机の右の一番上の曳出に一梃のピストルが這入っていた。それも旧式ニッケル鍍金の五連発で、多分、明治時代の最新式を久しい以前に買込んだものらしい。弾丸も手附かずの奴が百発ばかり在ったが、それを毎日毎日手入れをしておった形跡があるのじゃから、被害者の轟氏はズット以前から何か知ら脅迫観念に囚われておったことがわかる。それが仮りに他人から怨を受けているものとすれば、やはりピストルと同じ位に古い因縁であったばかりでなく、毎日毎日手入れをしておかなければならぬ位ヒドイ怨みであった事が想像出来るじゃろう。ところでその轟氏が恐れている相手が、向うの窓を轟氏の手で開けさせて這入って来たのに、轟氏はそのピストルを手にしておらぬのみならず、自分で窓の締りをあけて導き入れたものとすれば、その人間は被害者の轟氏にとって、よっぽど恐ろしい人物であったという事になる」 「そんなに恐ろしい脅迫力を持った人間が、この世の中に居るものでしょうか。自分を殺しかねない相手という事が、被害者にわかっていれば尚更じゃないですか」 「そこだよ。そこに何となく大きな矛盾が感じられるからね。判検事も司法主任も相当弱っていたらしいんだが、間もなくその矛盾が解けたんだ」 「ほう……どうしてですか」 「わからんかい」 「わかりませんねトテモ。想像を超越した恐ろしい事件としか思えませんね。これは……」 「ナアニ。それ程の事件でもなかったんだよ」 「ヘエ。どうしてわかったんです」 「その事務机の曳出を全部調べたら、右の一番下の曳出から脅迫状が出て来たんだ」 「ホオー。何通ぐらい出て来たんですか」 「それがソノ……タッタ一通なんだ。僕はよく見なかったが、司法主任の横からチョット覗いてみると普通の封緘ハガキに下手な金釘流でバラリバラリと書いたものじゃったよ。表書は単に大森山王、轟九蔵様と書いて、差出人の処書も日附も何もない上に、消印がドウ見てもハッキリわからん。一時は良かったが近頃の郵便局の仕事はドウモ粗慢でイカンね。司法主任はスッカリ憤っとったよ。当局に申告して消印のハッキリせぬ集配局を全国に亘って調べ出してくれると云っておったが……」 「中味にはドンナ事が書いてあったんですか」 「ただコレだけ書いてあった。大正十年三月七日……芝居ではないぞ……と……」 「大正十年三月七日……芝居じゃない……」 「ウン。そうだ。それから泣いている娘……だか何だかわからんが、世間からは娘と同様に見られとるからそのつもりで話するが……その娘の甘木三枝こと天川呉羽嬢を呼出して、その脅迫状を見せるとコンナ字体についてはチットモ記憶がない。文句の意味も何の事やらカイモクわからぬ。前にコンナ手紙が来たような事実も記憶しておらんと云う」 「成る程。……そこでサッキの呉羽嬢のお祈りの文句に触れてみたかったですな。何か参考になる事を喋舌らして……」 「ウン司法主任がチョット触れていたよ。ちょうどその時に、女中を訊問していた刑事の梅原君が、その事に就いて取あえず報告したもんだからね……すると果せる哉だ。……あれは妾があの時|口惜し紛れにそう申しましただけの事で、女の妾に何がわかりましょう。犯人が出て行った方向を拝みましたのは、そうすると遠くに居る犯人が何となくドキンドキンとして思わぬ失策を仕出かすという迷信が、外国の芝居に使ってありましたのでツイ、あんな事を致しまして……と真赤になって弁解しておった。だから、つまり目的は宣伝に在ったのだね。これは彼等の本能なんだから、深く咎めるには当らないよ。司法主任も検事も苦笑しておったよ」 「ソレッキリですか」 「イヤ……それから呉羽嬢はコンナ事を云い出しおった。……ハッキリとは申上られませんが、轟はこの四五日前から何だかソワソワしていたように思います。今までドンナ悲況に陥っておりましても、私を見ると直ぐにニコニコして何か話かけたりしておりましたものが、この頃はソンナ気振も見せませぬ。ただ緊張した憂鬱な、神経質な顔をして、私が何か云おうとしましてもチラチラと瞬きした切り自分の部屋へ逃込んで行きます。もちろん、その原因は私にはわかりかねますが、轟の劇場関係と、財産関係の仕事は皆、呉服橋劇場の支配人の笠圭之介さんが一人で仕切って受持っておられます。大正十年の三月七日といえば、私が三つの年の事ですから、何事も記憶に残っておりませぬ。私はその三つの年に何かの事情で、年老いた両親の手から引取られて轟の世話になって来ておりますので、それから今年までの二十年間、轟は独身のまま私を育てるために色々と苦労をしておりますが、詳しい話は存じませんと巧妙に逃げおった」 「何か隠している事があるんじゃないですか」 「それがないらしいのだ。劇場主なんちういうものは一般の例によると相当複雑な生活をしているもんじゃが、今の呉羽嬢や、女中達や、支配人の笠圭之介の話なんかを綜合すると、この被害者ばかりは特異例なんだ。轟九蔵氏に限って非常に簡単明瞭な日常生活である。劇場付の女優に手を出したり、花柳の巷を泳ぎまわったりするような不規則は絶対にした事がない……という証言だ。全くの独身生活者で、ただ娘分の三枝を、世界一の探偵劇スターとして売出す事以外に楽しみはなかったらしいのだ」 「ヘエ。面白いですね。そうした変態的な男と女と二人切りの生活が、全くの裏表なしに継続出来るものでしょうか」 「アハハ。ナカナカ君は疑い深いなあ。まあこっちへ来たまえ。ユックリ話そう」  二人は又、応接間へ引返して申合わせたように又もMCCを抓んだ。 「美味い煙草だなあ。一本イクラ位するもんかなあ。二十銭ぐらいしはせんか」 「イヤ。そんなにはしないでしょう。二十銭出せば葉巻が二本来ますからね」  二人は互いちがいにコバルト色の煙を吹上げ初めた。 「君は天川呉羽と轟九蔵の性関係を疑っとるのじゃろう」  文月巡査が忽ち赤くなったが、そのまま微笑してうなずいた。 「ハハハ。ナカナカ隅に置けんのう君も……」 「やはり……その……何かあるんですか」 「ところが今のところ、何も疑わしいところがないんだよ」 「十分……十二分に疑ってみる必要があると思いますなあ。事によると今度の事件の核心はそこいらに在るかも知れませんからねえ」 「御高説もっともじゃが……まあ聞き給え。こうなんだよ。二人の日常生活を説明すると……これは二人の女中の陳述を綜合したものじゃが……先ず毎朝九時に娘の呉羽が先に起きて湯に這入る。女優としてはかなり早起の組だね。それから一時間ばかりかかって化粧をして、着物を着かえて出て来る」 「女中も何も手伝わないのですか」 「ウン。手伝わせるどころか、湯殿の入口をガッチリと鍵かけて、誰が来ても這入らせないそうだが、これは何か呉羽嬢が、天川一流ともいうべき秘密の化粧法を知っておって、それを他人に盗まれない用心じゃという話じゃが……」 「それは女中の話でしょう」 「そうじゃ。……一方に天川呉羽嬢に云わせると私は自分の肌を他人に見られるのが死ぬより嫌いです。無理にでも見ようとする人があったら、私は今でも自殺します……といううちにモウ、ヒステリーみたいに顔を歪めて眉をピリピリさせおったわい。ハハハ」 「すこし云う事が極端ですね。何か身体に刺青でもしているのじゃないでしょうか」 「そんな事かも知れんね……ところでそうやって浴室から出て来た呉羽嬢の姿を見ると、何度出合うてもビックリするくらい美しい。青々とした濃い眉が生え際に隠れるくらいボーッと長い。睫が又西洋人のように房々と濃い。眼が仏蘭西人形のように大きくて、眦がグッと切れ上っている上に、瞳がスゴイ程真黒くて、白眼が、又、気味の悪いくらい青澄んで冴え渡っている。その周囲を、死人色の青黒い、紫がかったお化粧でホノボノと隈取って、ダイヤのエース型の唇を純粋の日本紅で玉虫色に塗り籠めている……」 「ハハハ。どうも細かいですなあ」 「女中がソウ云いおったのじゃからなあ……オット忘れておった。鼻がステキだと云うのだ。芝居のお殿様の鼻にでもアンナ立派な鼻はない。女の鼻には勿体ないと女中が云いおったがね。ハハハ……女じゃからそこまで観察が出来たもんじゃ。そいつが四尺近くもあろうかと思われる長い髪を色々な日本髪に結うのじゃそうなが、髪結いの手にかけると髪毛が余って手古摺るのでヤハリ自分で結うらしい」 「してみると入浴の一時間は長くないですな。寧ろ短か過ぎる位ですな」 「何でも呉羽は早変りの名人だけに、余程手早く遣るらしい。それからこの頃だと紅色の燃え立つような長|襦袢に、黒っぽい薄物の振袖を重ねて、銀色の帯をコックリと締め上げて、雪のようなフェルト草履を音もなく運んで浴室から出て来ると、とてもグロテスクで、物すごくて、その美くしさというものは、ちょうどお墓の蔭から抜け出た蛇の精か何ぞのような感じがする。恐怖劇の女優というが、真昼さなかに出合うてもゾーッとするのう……ハハハ……これは勿論、吾輩の感想じゃが……」 「見たいですねえ。ちょっと……そんなタイプの女は想像以外に見た事がありません」 「ハハハ。そのうち帰って来るからユックリと見るがええ。しかし惚れちゃイカンゾ」 「……相すみません……洋装はしないのですか」 「ウム。時々洋装もするらしいが、その洋装はやはり旧式で、帽子の大きい袖の長い、肌の見えぬ奴じゃそうなが、よく似合うという話じゃよ」 「ヘエ。それから今チョット不思議に思ったのですが、その呉羽嬢は湯殿の中からイキナリ盛装して出て来るのですか」 「そうらしいのう」 「妙ですね。そうすると平生着というものを持たない事になりますね。……つまり外に出てから着かえはしないのですか……普通の女のように……」 「ハハハハ。ナカナカ君も細かいのう。探偵小説の愛読者だけに妙なところへ気が付くのう。そこまでは未だ調べが届いておらん」 「残念ですなあ。そこが一番カンジン、カナメのところかも知れないのに……」 「まあ話の先を聞き給え。それから十時頃に、その呉羽嬢が浴室を出ると、女中が主人の轟九蔵を起しに行くが、コイツが又一通りならぬ朝寝坊でナカナカ起きない。それをヤット起して湯に入れると間もなく朝飯になる。それから十二時か一時頃になって支配人の笠圭之介が遣って来て三人寄って紅茶か、ホット・レモンを飲みながら業務上の打合わせをする。時には三人で大議論をオッ初める事もあるが大抵のことは呉羽嬢の主張が通るらしい」 「その支配人の笠という男はドンナ人間ですか」 「僕に負けんくらい巨大な赭顔の、脂の乗り切った精力的な男だ。コイツも独身という話じゃが」 「何だかヤヤコシイようですね。呉服橋劇場の首脳部の三人が揃いも揃って独身となると……」 「ところがこの笠という男は有名な遊び屋でね。それも頗る低級に属しとる。つまらない女ばかり引っかけまわって、この大森の砂風呂なんかによく来るので、自然吾々の仲間にも顔が通っている。臨検してみると「ヤア君か」といったアンバイでね。ハハハ。話すと面白い男だよ。誰でも初めて劇場で合うとこの男を劇場主の轟と間違える位、立派な風采じゃがね。そいつが来てその日の事務の打合わせが済むと、一時か二時頃から三人同伴で劇場や、新聞社に行く事もあれば、別々に行く事もある。帰って来るのは大抵夜中の十二時前後で、その時も三人別々だったり一緒じゃったりするが、早い奴から湯に這入って軽い夕食を摂る。笠支配人はいつも麦酒を飲んで少々ポッとしたところで自動車を呼んで丸の内のアパートへ帰る……かドウか、わからないがね。残った二人の中で主人の轟は事務室の片隅の寝台へ寝る。呉羽嬢は二階の別室に寝るのじゃが、その時に呉羽嬢は寝室の鍵をやはりガッチリと掛けて、その上から今一つ差込の閂まで卸すとモウ誰が来ても開けない。もっとも寝がけに睡眠剤を服むらしいがね」 「轟氏の方は……」 「呉羽嬢が「おやすみ」を云うたアトで三十分か一時間ぐらい手紙を書いたり何か仕事をするのが習慣になっとるらしいが、その時には必ず浴衣に着換えている。そうしてこれも何か知らん薬を服んでから寝るらしいがね」 「当日も変った事はなかったんですね」 「イヤ。あったんだ。しかもタッタ一つ奇妙な事があったんだ。少々神秘的なことが……」 「ヘエ。神秘的と云いますと……」 「それが面白いのだ。この家の女中はズット以前……この家が建った当時から二人きりに定まっている。こう見えてもこの家は案外広くないのだ。部屋らしい部屋はタッタ四|室しかない上に、万事がステキに便利に出来ているからね……ところで一番古く、建った当時から居るのが今云うた松井ヨネ子という二十六になる逞ましい肉体美の醜女だ。コイツが田舎出の働き者で、家の内外の掃除から、花畠の世話まで少々荒っぽいが一人で片付ける。しかも轟九蔵と天川呉羽の性生活について非常な興味を持っているらしく、そいつがわかるまでは断然お暇を貰わないつもりですとか何とか、吾々の前で公々然と陳述する位、痛快な女なんだ。何でもどこか極めて風俗の悪い村から来ているらしく、万事心得た面構えをしているが、しかし遺憾ながら、まだ二人の関係については突詰めた事を一つも掴んでいないので、ああした年頃の未婚の女にあり勝ちな悩みをこの問題一つに集中しているらしいんだね。この問題に限ってチョット突つくと直ぐに止め度もなくペラペラと喋舌り出しやがるんだ。どう見ても普通の親娘じゃありません……と熱烈に主張するんだ」 「なるほど面白いですね」 「ところが今一人居る市田イチ子というのは、やはり田舎からのポット出だが、今年十八になったばっかり。つまりそうした好奇心の一番強い真盛りの娘ッ子で、やっと一昨日来たばっかりのところへ、先輩のヨネ子からこの話を散々聞かされた訳だね。それから呉羽嬢の初のお目見得をしてみると、あんまり美しいのでビックリした拍子に呉羽嬢の姿がブロマイドみたいに眼の底に沁み付いてしまって、日が暮れたら怖くて外へ出られなくなった。夜具を引っ冠ると眼の前にチラ付いてスッカリ冴えてしまった……」 「アハハハ。形容が巧いですね」 「イヤ。笑いごとじゃない。その娘が自身に白状したんだ。ところへ昨夜の事、女中部屋の扉の真向いに当る廊下の突当りで、主人の居間の扉がガチャリと開いた音がしたので、ハッと眼を醒まして無意識の裡に起き上り、鍵穴からソッと覗いてみると、いつも寝間着姿で仕事をしていると聞いていた主人が、チャント洋服を着ている。今しがた帰って来て、イチ子自身がホコリを払ってやった時の通りの黒いモーニングと白チョッキと荒い縞のズボンを穿いている……つまり今朝の屍体が着ていたのと同じものだね。のみならず主人の背後の扉の蔭からチラリと動いた赤いものが見えた。大きな蛇が赤い舌を出した恰好に見えたのでギョッとして、頭から布団を冠ってしまったが、あとから考えると、それはお嬢様の振袖と、絽の襦袢の袖だったに違いないと云うんだ。……何でもその時に女中部屋の時計がコチーンコチーンと二時を打つのを夜着の中で聞いたというがね」 「ははあ……重大な暗示ですなあ。それは……」 「暗示? 何の暗示だというのだね」 「イヤ。別に暗示という訳ではありませんが、しかし、それはソンナに遅くまで、轟九蔵氏と天川呉羽嬢があの事務室に居た証拠として考えてはいけないでしょうか」 「そうすると君は天川呉羽が轟九蔵を殺したというのかね。それだけの事実で……」 「イヤ。そんな怪談じみた想像説は、この場合成立しませんが、ツイ今しがた参りました奇妙なゴムチューブの足跡が、呉羽嬢と九蔵氏が一所に居った時に這入って来たものか、それとも相前後して出入りしたものとすれば、ドチラが後か先かという事が、この事件を解決する重大な鍵となって来ましょう」 「ウーム。自然そういう事になるね」 「ところがその足跡の主が這入って来て、出て行ったのが、お話の通り二時以前としますかね。雨が降り出してから帰った形跡はないのでしょう」 「ウム。ない」 「それから呉羽嬢が居たのが二時頃としますとドチラにしても二時以後は呉羽嬢がタッタ一人、轟氏の傍に居た事になります。そうすると二時頃までピンピンしていた轟氏を殺したものは絶対に呉羽嬢以外には……」 「アハハハハ。イヤ。名探偵名探偵。その通りその通り。寸分間違いない話だが……そこが探偵小説と実際と違うところなんだよ。つまり君がアンマリ名探偵過ぎるんだ」 「……名探偵過ぎるって……」 「つまり君はアンマリ考え過ぎているんだよ。犯人の目星はモウ付いているんだからね。寝呆けた小娘の眼で見た事なんか相手にせんでモット常識的に考えんとイカン」 「常識的と云いますと……」 「まあ聞き給え。こうなんだ。呉羽嬢は無論そんな真夜中に起きて、そんなに盛装なんかして九蔵氏の部屋に這入った覚えなぞ、今までに一度もないと云い張るんだ」 「それあそうでしょう」 「女中の市田イチ子の奴も、今になって考えてみますと何だか、自分の眼が信じられないような気がします。あれは私がトロトロした間に見た夢なのかも知れません……なんかとアイマイな事を云い出しやがるし……」 「云うかも知れませんね。そんな事をウッカリ証言したら、アトで呉羽嬢に何をされるか解りませんからね」 「君。想像は禁物だよ。チャンとした拠点のある証言を基礎として考えなくちゃ……」 「モウ、それだけですか。変った事は……」 「……アッ……それから今一つチョット変った事がある。何でもない事だが、君一流の想像を複雑にさせる材料には持って来いだろう。ほかでもない……今朝、呉羽嬢の起きるのが約一時間ばかり遅れたんだそうだ。これも市田イチ子の証言だがね」 「ヘエ。いよいよ以て聞捨てになりませんね」 「ウン。平生は女中に起されなくとも、キッチリ九時には起きて来た呉羽嬢が、今朝に限って九時半頃まで起きないので、ヨネとイチの二人の女中が顔を見合わせたそうだ。どうかしたんじゃないかというので二人がかりで起しに行ってみたらグーグー寝ている気はいがする。それを猛烈に戸をたたいたり、叫んだりしてヤット起したりしたら、不承不承に起きて来た。真白い羽二重のパジャマを引っかけながら、どうも昨夜、催眠剤を服み過ぎたらしいと云い云い湯に這入ったというんだ」 「ヘエ……わからないなあ」  と云ううちに文月巡査は、眼前の机の上に身体を投げかけて両肱を突いた。シッカリと頭を抱え込むと、溜息と一所に云った。 「スッカリわからなくなっちゃった」 「何がわからんチューのか……ええ?」 「……もし、それが事実なら、やっぱり呉羽嬢が九蔵氏を殺したのじゃない。不思議な足跡の主……つまり九蔵氏を脅迫した奴が殺したんだ」 「ホオ。なかなか明察だね。どうしてわかる」  若い文月巡査の蒼白い額はジットリと汗ばんでいた。眼の前の空間を睨んで、魘されているような空虚な声を出した。 「呉羽嬢と、その犯人とは連絡がある……九蔵氏を殺した犯人が無事に逃げられるように、わざと朝寝をして、事件の発覚を遅らした……」 「ワッハッハッハッハ。イカンイカン。イクラ名探偵でも、そう神経過敏になっちゃイカン。世の中には偶然の一致という事もあれば、疑心暗鬼という奴もあるんだよ。シッカリし給え。アハアハアハ……」  文月巡査は夢を吹き飛ばされたように眼をパチクリさして猪村巡査の顔を見た。吾に帰って頭の毛を叮嚀に撫で付け初めた。 「しかし……それは事実でしょう……」 「おおさ。無論事実だよ。しかもよく在勝ちの事実さ。しかも、それよりもモット重大な事実があるんだから呉羽嬢の寝過し問題なんかテンデ問題にならん」 「ドンナ事実です」 「今話した支配人の笠圭之介ね。その笠支配人が台所女中のヨネからの電話で、丸の内のアパートから自動車で飛んで来たのが、今日の十二時チョット前だった。それから主人の死体や何かを吾々立会の上で調べている中に、机の上に小切手帳が投出してあるのに気が附いた。調べてみると、昨日の日附で堀端銀行の二千円の小切手を誰かに与えている事がわかった。そこで万が一にもと気が付いて、堀端銀行に問合わせてみると、今朝の事だ。堀端銀行が開くと同時に二千円を引出して行った者が居るという。それは絽の羽織袴に、舶来パナマ帽の立派な紳士であった。色の黒い、背の高い、骨格の逞しい肥った男で、眉の間と鼻の頭に五分角ぐらいの万創膏を二つ貼っていたので、店員は最初何がなしに柔道の先生と思っていた。それだけに至極|沈着いているようであったが、しかし這入ってから出るまで一言も口を利かず、何気もない挙動の中に緊張味がみちみちて、油断のない態度であった。尚、新しいフェルトの草履を穿いて、同じく上等の新しい籐のステッキを握っていたという」 「それが犯人だと云うんですか」 「むろんそうだよ。その報告を聞いた笠支配人は、その小切手を誰も触らないように、紙に包んで保存しておいてくれと頼んで、直ぐにその旨を吾々に報告したがね」 「ナカナカ心得た男ですなあ」 「ウン。近頃の素人は油断がならんよ。つまりその犯人は轟九蔵氏に脅迫状をタタキ附けた後に、九蔵氏が約束通り事務室で待っているところへ、窓を開けさして這入って来た。それから二千円の小切手を書かせ、後難を恐れて不意打に刺殺し、発覚しない中に金を受取って行衛を晦ましたという事になるんだね。つまり九蔵氏が……もしくは轟家の連中が、普通よりも寝坊である事を熟知している犯人は、朝早くならば大丈夫と思って、堂々と金を受取りに行ったと思われるんだ。何でもない事のようじゃが今の眉の間と、鼻の頭に貼った五分角ぐらいの万創膏が、アトで研究してみると実に手軽い、しかも恐ろしい効果のある変相術じゃったよ。余程、甲羅を経た奴でないとコンナ工夫は出来ん。君もアトで実験してみたまえ、万創膏の貼り方と位置の工合で、同一人でも丸で見違える位、印象が違うて来るからなあ。おまけに運動家らしく肩でも振って行けば、誰でも柔道の先生ぐらいに思うて疑う者は居らんからなあ」 「その小切手に指紋はないでしょうか」 「ドッサリ附いている筈だよ。今調査中じゃが、小切手を書いたこの家の主人のもの、受取った犯人のもの、銀行員のものと些くとも三通りは附いている筈だよ。銀行に来た犯人は手袋を穿めていなかったんだからね。笠支配人は到って腰の低い、ペコペコした人間じゃが、流石に鋭いところがあると云って、皆感心しておったよ」 「……ところで……その支配人と女優の呉羽は今どこに居るのですか」 「犯人の星が附いて嫌疑が晴れたので、直ぐに大森署へ来て、署長の手で諒解を得てもらって、二人とも大喜びでそのまま呉服橋劇場へ飛んで行ったのが二時半頃じゃったかなあ。今が劇場の生死の瀬戸際というんでね。何でもこの記事が夕刊に出たら、満都の好奇心を刺戟して劇場が一パイになるかも知れないと云ってね。少々慌て気味で二人とも出て行ったよ」 「少々薄情のようですね。そこいらは……劇場関係の人間はアラユル階級の中でも一番薄情だっていう事ですが……この夕刊を見たら誰でも今夜は休場だと思うかも知れないのに……」 「それは、わからないよ。見物人という奴は劇場関係者よりもモット薄情な、モット好奇心の強い人種だからね。何でも亡き轟氏の魂はあの劇場に残っているに違いないのだから、今日の芝居を中止しないのが、せめてもの孝行の一つですと、眼を真赤にして云っていたがね。呉羽嬢は……」 「今何を演っているのですか」 「何を演っているか知らんが……アッ。そうそう。大森署へ切符を置いて行きおったっけ……新四谷怪談とか云っていたが……」 「ヘエ。そうするとアトはその犯人を捕まえるダケですね」 「そうだよ。相当スゴイ奴に違いないよ」 「そうすると疑問として残るのは……」 「疑問なんか残らんじゃないか」 「イヤ。これは僕が勝手に考えるんですがね。第一は被害者の轟九蔵氏が、その犯人を迎え入れた心理状態……」 「それは犯人を取調べればわかるじゃろ」 「第二が、その屍体に現われた無抵抗、驚愕の状態……」 「無抵抗とは云いはしないよ」 「けれども事実上、無抵抗だった事はわかっているでしょう。そんな場合には無抵抗の表情と驚愕の表情とは同時に表現され得るものですし、同じ意味にも取れない事はないでしょう。のみならず、そうした被害者の犯人に対する気持は机の曳出に在ったピストルを取出さずに、犯人を迎え入れた事実によって、二重三重に裏書きされていやしませんか。犯人が被害者に対して、殺意を持っていなかった事を、被害者自身も洞察して、信じ切っていたらしい事も想像され得るじゃないですか」 「ううむ。そういえばソウ考えられん事もない。ナカナカ君は頭がええんだな」 「……そ……そんな訳じゃないですが……それから事件当夜の二時頃に主人の部屋に居た呉羽嬢の行動に関する秘密……」 「……あ……そいつはドウモ当てにならんよ。何度も云う通り市田イチ子の陳述がアイマイじゃから……」 「アトからアイマイになったんでしょう。ですから一層的確な意味になりはしませんか」 「中々手厳しいね。僕が訊問されとるようだ」 「ハハハ。いや。そんな訳じゃないですが……アトは轟九蔵氏の絶命時間の推測です。昨夜何時頃という……」 「ハハハ。二時以後だったら断然、呉羽嬢をフン縛るつもりかね……君は……」 「その方が間違いないと思います」  そう云う文月巡査の顔からは血の気がなくなっていた。背筋へ氷を当てられたような笑い顔をしながら三本目のMCCへわななくマッチを近付けた。そうした昂奮を気持よさそうに眺めやった猪村巡査は、毛ムクジャラの両手をノウノウと後頭部に廻した。 「ところがその絶命の時間がモウわかっているんだよ。サッキ本署へ電話をかけてみたら、一時間ばかり前に大学から通知が来たそうだ」 「ナ……何時頃ですか」 「今朝の三時半、乃至、四時半頃だというんだ」  文月巡査の手からマッチと煙草が落ちた。猪村巡査の顔を凝視したまま唇をわななかした。 「ハハハ。よっぽど驚いたらしいね。ハハハ。小説や新聞の読者に云わせたら、女優を縛った方が劇的で面白いかも知れんがね。そうは行かんよ。犯人と轟九蔵氏との間には、何か知らん重大な秘密がある。だから一度出て行った犯人は轟九蔵氏の密告を恐れて引返し、推定の時刻に兇行を遂げて立去ったものとしたらドウだい。探偵小説にならんかね。ハハハハハ……」  笑殺された文月巡査は、いかにも不満そうに落ちた煙草を拾い上げると、腕を組んで椅子の中に沈んだ。眼の前の空気を凝視して、夢を見るようにつぶやいた。 「困るなあ。君にも……何でもカンでも迷宮みたいに事情がコンガラガッていなくちゃ満足が出来ない性分だね。犯人が意外のところに居なくちゃ納まらないんだね君は……」 「ええ。どうせ僕はきょう非番ですから、実地見学のつもりでお願いして、ここに連れて来て頂いたんですから、あらゆる角度に視角を置いてユックリ考えてみたいと思いまして……」 「考え過ぎるよ君あ……事実はモット簡単なんだよ」 「ドウ簡単なんですか」 「犯人はモウ泥を吐いているんだよ」 「ゲッ。捕まったんですかモウ……犯人が……」 「知らなかったかね」 「早いんですねえ……ステキに……」 「ハハハ。驚いたかい。……とはいうものの僕も少々驚いたがね。きょうの正午過ぎに上野駅で捕まったよ。大工道具を担いでいたそうだが、どうも挙動が怪しいというので、押えようとすると大工道具を投棄てるが早いか驀地に構内へ逃込んだ。そいつが又驚くべき快速で、グングン引離して行くうちに、なおも追い迫って来る連中を撒くために走り込んで来た上り列車の前を、快足を利用して飛び抜けようとしたハズミに、片足が機関車のライフガードに引っかかって折れてしまった。運の悪い奴さ。まだ非常手配がまわっていない中だからね。呉羽嬢の御祈祷が利いたのかも知れないがね……ハハハ……。そこへ大森署から電話をかけた司法主任が様子を聞いて、もしやと思って駈付けてみると、そいつが有名な生蕃小僧という奴で、堀端銀行の二千円をソックリそのまま持っていた。小切手と鑑識課の指紋がバタバタと調べ上げられる。電光石火眼にも止まらぬ大捕物だったね。満都の新聞をデングリ返すに足るよ。何でも十年ばかり前に静岡から信越地方を荒しまわった有名な殺人強盗だったそうだ」 「……殺人強盗……」 「そうだ。そいつが負傷したまま大森署へ引っぱって来られるとスラスラと泥を吐いたもんだ。如何にも私は轟九蔵を殺しました。私はあの女優の天川呉羽の一身上に関する彼奴の旧悪を知っておりましたので、昨夜の一時半頃、あそこで面会しまして、二千円の小切手を書かせて立去りましたが、アンマリ呉れっぷりがいいので、万一|密告あしめえかと思うと、心配になって来ましたから、今度は自動電話をかけて待っているように命じて引返し、十分に様子を探ってから堂々と玄関の締りを外させ、スリッパを揃えさせて上り込み、九蔵と差向いになって色々と下らない事を話合っているうちに、どうも彼奴の眼色が物騒だと思いましたから、私一流の早業で不意打にやっつけました。それがちょうど三時半頃だったと思います。そのまま窓から飛出してしまいましたが……恐れ入りました……」 「……ナアアンダイ……」 「アハハハ。恐れ入ったかい。ハハハ。モウ文句は申しません。潔く年貢を納めますと云ったきり口を噤んでしまったのには少々困ったね。その轟九蔵との古い関係についても固くなって首を振るばかり……しかし現場の説明から、殺す挙動まで遣って見せたが、一分一厘違わなかったね。野郎、商売道具の足首を遣られたんでスッカリ観念したらしいんだね」 「それにしても恐ろしくアッサリした奴ですね。首が飛ぶかも知れないのに……」 「殺人強盗の中にはアンナ性格の奴が時々居るもんだよ。ちょうど来合せた呉羽嬢と笠支配人にも突合わせてみたが、どちらも初めてと見えて何の感じも受けないらしい。ただ犯人が呉羽嬢に対して、すみませんすみませんと頭を二度ばかり下げただけで調べる側としては何の得るところもなかった」 「それからドウしたんです」 「どうもしないさ。推定犯人が捕まって自白した以上、警察側ではモウする事がないんだからね。君等と同じに非常召集をした連中がポツポツ来るのを追返してしまった。笠支配人と呉羽嬢も司法主任からの説明を聞いて大喜びで劇場に行ってしまった。それでおしまいさ。アハハハハ……」 「なあアんだい……」  猪村巡査は高笑いしいしい立上った。文月巡査の背後にまわってダブダブの制服の背中を一つドシンとどやし付けた。 「ハハハ。馬鹿だな君は……そんなに探偵小説にカブレちゃイカンよ」  文月巡査は首筋まで真赤になってしまった。眼を潤ませながら真剣になって弁明した。 「……コ……これは僕の趣味なんです。ボ……僕の巡査志願の第一原因は、やっぱりメチャクチャに探偵小説を読んだからなんです」 「馬鹿な。探偵小説なんちういうものは何の役にも立つもんじゃない。その証拠に探偵作家は実地にかけると一つも役に立たん。自分の作り出した犯人でなければ絶対にヨオ捕まえんというじゃないか……」  文月巡査は残念そうに深いタメ息をした。瞑想的な、幾分気取った恰好でMCCの煙を吐いた。 「ああ……タタキ附られちゃった」 「アハ……御苦労さんだ。トウトウ犯人を取逃しちゃったね。フフフ……」 「どうも貴方は意地が悪いんですなあ。早くそう云って下されあコンナに頭を使うんじゃなかったのに……」 「そんなに頭を使ったかね」 「……どうも変だと思いましたよ。笠支配人と呉羽嬢に対する嫌疑がチットモ掛らないまま芝居へ行っちゃったんですからね」 「当り前だあ。その時にはモウ犯人の爪印が済んでいたかも知れん」 「ヘエ。それじゃあ……」  と文月巡査が妙な顔になってキョロキョロした。 「ここが捜索本部と仰言ったのは……」 「ナアニ。あれあ嘘だよ。君が探偵小説キチガイで、まだ一度も実地にブツカッタ事がないって云ってたから、ちょっとテストをやってみた迄よ。ちょうど今日は僕も非番だったから笠支配人に頼まれて、ここで留守番をしてやる約束をしたもんだからね。キット退屈するに違いないと思って君をペテンにかけて引っぱって来たわけさ。どうだい面白かったかい」 「ああ。つまんない……」 「アハハ。そう憤るなよ。モウ暫くしたら夕食が出るだろう。その中に呉羽嬢が帰って来たら一度見とくもんだよ。奥さんにいいお土産だ」 「……相すみません……僕はまだ未婚です」 「おほほう。そうかい。そいつは失敬した。そんなら丁度いい。夕飯を喰ってから一つステキな美人を見せてやろう」 「ヘエ。まだ美人が居るんですか。この家に……」 「いや。この家じゃないがね。ツイこの裏庭の向う側なんだ。呉服橋劇場の脚本書きでね。江馬何とかいう人相の悪い男が、妹と二人で住んでいるんだ」 「アッ。江馬兆策が居るんですか。コンナ処に……」 「何だ。君は知っとるのかいあの男を……」 「探偵小説を読む奴でアイツを知らない者は居ないでしょう。相当のインテリと見えますが、非常な醜男のオッチョコチョイ、一流の激情家の腕力自慢というところから、よくゴシップに出て来ます。芝居に関係している事は初耳ですが、田舎ダネの下らない探偵小説を何とかかんとかといってアトカラアトカラ本屋へ持込むので有名ですよ。彼奴の小説を読むよりも、写真に出ている彼奴の顔を見ている方が、よっぽどグロテスクで面白い……」 「その妹の事は知らないかい」 「妹が居る事も知りません」 「その妹というのが、真実の兄妹には相違ないんだが、音楽学校出身の才媛で、兄貴とはウラハラの非常に品のいい美人なんだ。何でも、死んだ轟氏がパトロンで兄妹の学費を出してやったという話だが、その妹と轟氏との関係の方がダイブ怪しいらしい」 「ああ。もうソンナ怪しい話はやめて下さい。ウンザリしちゃった」 「イヤ。今度の事件とは関係のない、全然別の話なんだ。何でもその歌姫を轟氏が可愛がっているお蔭で、兄貴までもが御厄介になっているらしいという、松井ヨネ子の話だがね」 「ウルサイ奴ですね。アノ飯焚女は……」 「おお。女中といやあ今の小間使の市田イチ子もチョットういういしい、踏める顔だよ。紹介してやろうか。今に茶を持って来るから……」 「イヤ。モウ結構です。僕は帰ります」 「まあいいじゃないか。ユックリし給え。君は女が嫌いかい」 「探偵小説があれば女は要りません」 「そんな事を云うもんじゃないよ。まあ見て行けよ。別嬪の顔を……」 「イヤ。帰ります。お邪魔をするといけませんから……」 「アハハハハ。コイツはまいった……」  ちょうどその時分であった。呉服橋劇場五階に在る呉羽嬢の秘密休憩室で、呉羽嬢自身と、笠支配人とが向い合って腰をかけていた。  その秘密休憩室というのは、平生劇場用の小道具等を蔵っておく五階屋根裏の大きな倉庫の片隅を、ボロボロになった金屏風や、川岸の書割なぞで二間四方ばかりに仕切って、これも小道具の塵埃塗れの長椅子と、歪になった籐椅子を並べて、楽屋用の新しい座布団を敷いただけのもので、リノリウムの床とスレスレの半円窓の近くにカラカラに乾いた枯水仙の鉢が置いてあるのが、薄暗い裸電球の下で、そうした書割や金屏風と向い合って、奇妙に物凄い、荒れ果てた気分を描きあらわしていて、今にも巨大な一つ目小僧の首か何かが……ウワア……とそこいらから転がり出しそうな感じがする。  しかし、それでも女優の呉羽にとっては、華々しい楽屋よりもこの部屋の方がズッと落付いて、気分が休まるらしかった。劇場そのものの人気はあまり立たなかったが、それでも彼女個人としての人気は、全国の女優群を断然抜いていて、三階の彼女の楽屋では訪問客を凌ぎ切れないために、彼女はよくこの物置の片隅の秘密室へ休憩に来るのであった。  フロックコートの笠支配人はかなりの緊張した態度でイビツになった籐椅子の上にかしこまっている。これに対した彼女は派手な舞台用の浴衣一枚に赤い細帯一つのシドケない恰好で、肉色の着込みを襟元から露わしたまま傍の長椅子に両足を投出しているが、モウ話に飽きたという恰好で、大きな古渡珊瑚の簪を抜いて、大丸髷の白い手柄の下を掻いていた。 「それじゃクレハさん。貴女と轟さんの間には何も関係はないんですね。普通の関係以外には……」  呉羽は見向きもしなかった。 「何とでも考えたらいいじゃないの……イクラ云ったってわからない。どうしてソンナに執拗くお聞きになるの。下らない事を……」 「下らない事じゃないんです。これには深い理由があるのです……その……その……」 「アッサリ仰言いよ。モウ直、次の幕が開くんですよ」 「この次の幕は……ですね。貴女は、そのまんまの姿で出て、亭主役の寺本蝶二君に槍で突かれるだけの幕じゃないですか。まだ二十四五分時間があります」 「ええ。でもそれあ妾の時間よ。貴方のために取ってある時間じゃないわよ」 「恐ろしく手酷しいですな今夜は……下へ行くと新聞記者がワンサと待ちうけているんですよ。犯人の逮捕を警察で発表したらしいんですからね。どうしても僕じゃ承知しないんです。貴女でなくちゃ……」 「新聞記者の方が五月蠅くないわ。貴方の質問よりも……」 「そう邪慳に云うものじゃありません。だからよく打合わせとかなくちゃ……その……これはこの劇場の運命と重大な関係のある話なんですよ。この劇場の運命は貴女の御返事一つにかかっていると云ってもいいんです」 「勿体振る人あたし嫌い……」 「いいですか……ビックリしちゃ不可ませんよ」 「余計なお世話じゃないの……ビックリしようとしまいと……早く仰言いよ」 「それじゃ云いますがね……貴女はね……」 「あたしがね……」 「この頃毎晩女中が寝静まってしまってから……轟さんの処へ押かけて行って、結婚したい結婚したいって仰言るそうじゃないですか……ハハハ……どうです……吃驚したでしょう……」  呉羽は見る見る中に硝子瓶のように血の気を喪った。屹っと身を起して笠支配人の真正面に正座して、唇をキリキリと噛んだまま睨み付けた。心持ち青味を利かした次の幕のメーキャップが一層物凄く冴え返った。カスレた声が切れ切れに云った。 「……それを……どうして……知ってらっしゃる」  笠支配人は鬼気を含んだ相手の美くしさに打たれたらしかった。テラテラした脂顔の光りを急に失くして、両手をわなわなと握合わせながら腰を浮かした。 「……そ……それは……ソノ……轟さんから聞きました。四五日……前の事です。轟さんは、思案に余って御座ったらしく、私に二度ばかりコンナ話をされたのです。劇場の地下食堂で轟さんと二人切りになった時です」  呉羽が深くうなずいた。すこし張合が抜けたらしかった。 「あなたが探り出した訳じゃないんですね」 「そうです。轟さんから直接に聞いたのです。クレハは俺を見棄てて結婚しようと思っている。しかし俺はあのクレハを度外視してこの劇場をやって行く気は絶対にない。クレハの結婚は俺にとって致命傷だ。俺はドンナ事があってもクレハの結婚を許す気にならん……とこう云われたのです」 「……………」 「そうして昨日、二人で自動車で出かける時に又コンナ事を云われたのです……クレハの奴、飛んでもない人間と結婚しようと思っている。あんな奴と結婚したら、クレハ自身ばかりじゃない俺までも破滅しなくちゃならん。俺とクレハの一生涯の恥を晒すことになるんだ。今夜こそ彼女の希望をドン底までタタキ潰してくれる。たとい打殺しても二度とアンナ希望を持たせないようにするつもりだ……と非常に昂奮していられましたがね」  呉羽は笠支配人の話の中に、それこそホントウにタタキ附けられたように椅子の中へ埋もれ込んだ。肩を窄めて眼を伏せたまま深い深いふるえたタメ息をした。 「一体あなたがその結婚したいと仰言る相手は誰なのですか。私は直接に貴女のお口から聞きたいのですが、ドナタなのですか一体……面白い相手ならば私も一口、御相談相手になって上げたい考えですがね」 「……………」  相手が参っている姿をマトモに見た笠支配人は、思わずニンガリと笑った。頬杖を突いて身を乗出したいところであったろうが、卓子が無いので仕方なしに腕を組んでグッと反身になった。なおなお呉羽を脅やかして、勝利の快感に酔いたい恰好であった。 「……仰言れないでしょうね。こればかりは……ヘヘヘ。しかしコチラにはちゃんとわかっておりますよ。ヘヘヘ。お隠しになっても駄目ですよ……あなたのお父さん……だか、赤の他人だか知りませんが轟九蔵さんはその時に、こんなような謎を云い残しておられるのです。そのクレハの結婚の相手というのがアンマリ意外なので俺は全くタタキ付けられてしまったんだ。ほかでもないあの脚本書きの江馬兆策の妹のミドリなんだ。つまり同性愛という奴で、あの女に対してクレハの奴がとても深刻な愛を感じているんだね。俺はこの頃、毎晩仕事に疲れて、アタマがジイインとなって、何もかも考えられなくなっているところへ、クレハの奴が又こんなような飛んでもない変テコな問題を持込んで来やがるもんだから、いよいよ考え切れなくなって君に……つまり私にですね……相談をかけてみるんだが、一体、俺はドウしたらいいんだろう……クレハの奴は幼少い時から無残絵描きの父親の遺伝を受けていると見えてトテモ片意地な、風変りな性格の奴であったが、その上にこの頃、あんな芝居ばかりさせられて来たもんだから根性がイヨイヨドン底まで変態になってしまっているらしいのだ。あのミドリさんと同棲して、お姉さんお姉さんと呼ばれて暮すことが出来さえすれば妾はモウ死んでも構わない。これを許して下されば妾は新しい生命に蘇って、モットモットすごい芝居を、モットモット一生懸命で演出して、今の呉服橋劇場の収入を三倍にも五倍にもしてみせる。そうしてミドリさん兄妹を洋行させて頂けるようにする……今みたいな人間離れのしたモノスゴイ芝居ばかりさせられながら、何の楽しみも与えられない月日を送っていると妾はキット今にキチガイになります。今でも芝居の途中で、そこいらに居る役者たちの咽喉笛に、黙って啖付いてみたくなる事がある位ですが、ホントウに啖付いてもよござんすか……ってスゴイ顔をして轟さんにお迫りになったそうですね」 「……………」 「私はまだまだ色々な事を知っているのですよ。轟さんはズット前からよく云っておられました。あのミドリ兄妹は放浪者だったのを轟さんが旅行中に拾って来られたもので、兄に美術学校の洋画部を、妹に音楽学校の声楽部を卒業おさせになったものですが、兄の方の絵はボンクラで物にならず、とうとうヘボ脚本屋に転向してしまったのですが、これに反して妹の美鳥の方はチョット淋しい顔で、ソバカスがあったりして割に人眼に立たない方だけれども、よく見るとラテン型の本格的な美人で、しかも声が理想的なソプラノだ。もっともあのソプラノを一パイに張切ると持って生れた放浪的な哀調がニジミ出る。涯しもない春の野原みたような、何ともいえない遠い遠い悲しさが一パイに浮き上るのが傷といえば傷だ。日本では現在、あんなようなクラシカルな声が流行ないが、西洋に行ったら大受けだろう。俺はあの娘を洋行さしてやるのを楽しみに、ああやって家の庭の片隅に住まわせて、呉羽とも親しくさせているのだが、兄も妹も寸分違わない眼鼻を持っていながらに、どうしてあんなに甚しい美醜の差が出来るのか、見れば見る程、不思議で仕様がない。もちろん兄貴の方がアンナに醜い男だから大丈夫と思って油断していたら、思いもかけぬ妹の方へクレハの奴が同性愛を注ぎ初めたりしやがったので俺は全く面喰らっている……と仰言ったのですが、これはミンナ事実なのでしょうね。ヘヘヘ」 「……………」  呉羽は辛うじて首肯いた。笠支配人も一つゴックリとうなずいて膝を進めた。 「一体|貴女が結婚したいと仰言るのは誰ですか。ハッキリ仰言って頂けませんか。この際……」 「……………」 「アノ……アノ……創作家の江馬兆策じゃないのですか」 「……………」 「どうも貴女はあの男と心安くなさり過ぎると思っておりましたが……」  笠支配人の態度と口調が、だんだん積極的になって来るに連れて、呉羽はイヨイヨ長椅子の中へ頽折れ込んで行った。白手柄の大きな丸髷と、長い髱と、雪のように青白い襟筋をガックリとうなだれて、見るも哀れな位|萎れ込んでいるのを見下した支配人はイヨイヨ勢付いて、ここまでノシかかるように云って来ると、又もや呉羽は突然に真白い顔を上げた。眉をキリキリと釣上げてハネ返すように云った。 「ケ……穢らわしいわよッ……ア……アンナ奴……」 「……でも……でも……」  笠支配人は度を失った。憤激の余り肩で呼吸をしている呉羽の見幕に辛うじて対抗しながら、真似をするように息を切らした。 「でも……でも……貴女は……いつも御主人の眼を忍んで……あの劇作家と……」 「そ……それはあの凡クラの劇作家に、次の芝居の筋書を教えるためなのよ。次の芝居の筋書の秘密がドンナに大切なものか……ぐらいの事は、貴方だって御存じの筈じゃありませんか。……ダ……誰があんなニキビ野郎と……」  そう云ううちに呉羽は見る見る昂奮が消え沈まったらしく、以前の通り長椅子に両脚を投出した。今度は何やら考え込んだ、一種のステバチみたような態度に変ってしまった。そうした態度の変化には何となく不自然な、わざとらしいものがあったが、しかし笠支配人は満足したらしかった。モトの通りに落付いた緊張した態度で、ジッと呉羽の横顔を凝視めた。 「それじゃ何ですね。貴女は、轟さんに結婚の希望を拒絶されて、立腹の余りに轟さんを殺されたんじゃないんですね」  呉羽はサモサモ不愉快そうに肩をユスリ上げて溜息をした。 「失礼しちゃうわねホントニ。いつまで云っても、同じ事ばっかり……執拗いたらありゃしない。ツイ今|先刻貴方と二人で大森署へ行って、犯人に会って来た計りじゃないの」 「ええ。ですから云うのです。犯人が貴女を見上げた眼が尋常じゃなかったように思うのです。双方から知らん知らんと云いながら、犯人が涙をポロポロ流して、済みません済みませんと頭を下げているのを見た貴女が、自動車に乗ってからソッと涙を拭いていたじゃないですか」 「ホホ。あれはツイ同情しちゃったのよ。犯人はどこかで妾に惚れていたかも知れないわ。コンナ女優業ですからね、ホホ。……そういえば貴方を犯人が見上げた眼付の恨めしそうで凄かったこと。何かしら深い怨みがありそうだったわよ。知らん知らんとお互いに云いながら……」 「……そんな事はない……」 「だから妾もソンナ事はない」 「そ……それじゃ話にならん……」 「ならないわ。最初から……貴方の仰言る事は最初から云いがかりバッカリよ」 「云いがかりじゃありません。つまり貴女が結婚したいなんて仰言ったのは、轟さんに対する何かの脅迫手段で、貴女の本心じゃなかったのですね」 「貴方はそう考えていらっしゃるの」  そう云った呉羽の態度にはどこやら真剣なところがあった。笠支配人は太い溜息をした。 「ええ……そう考えたいのです。そう考えなければタマラないのです」 「ホホホ。面白い方ね貴方は……そんな事が、どうしてこの劇場の運命と関係があるんですの」 「大いにあるんです」  笠支配人は急に勢付いたように坐り直した。颯爽たる態度で半身を乗出して、しなやかな呉羽の全身を見まわした。 「貴女も、もう相当に苦労しておられるんですからね」 「……さあ……どうですか……」 「呉羽さん……率直に云いましょうね」 「ええ。どうぞ……」 「僕と結婚してくれませんか」  呉羽は予期していたかのように、横を向いたまま、唇の隅で小さく冷笑した。その凄艶とも何とも譬えようのないヒッソリした冷笑が、呉羽の全身に水の流れるような美くしさを冴え返らせて行くのを見ると笠支配人は、思わずワナナキ出す唇を一生懸命で噛みしめた。ここが一生の運命の岐れ目と思い込んでいるらしい真剣味をもって、今一層グッと身を乗出しながら、男盛りの脂切った顔を光らした。 「ね。おわかりでしょう。僕の気持は……今、貴方から拒絶されると、僕はモウこの劇場に居る気がしなくなるのです。もうもうコンナ劇場関係生活だの、探偵劇だのには飽き飽きしているのですからね。天命を知ったとでも云うのでしょうか。モット落付いた、人間らしいシンミリとした生活がしてみたくてたまらなくなっているのですからね」 「……………」 「但し……貴女が僕に新しい生命を与えて下さるとなれば問題は別ですがね」  呉羽は微かにうなずいた。ヒッソリと眼を閉じたまま……。 「……ね。おわかりでしょう。そうした僕の心持は……」  呉羽は一層ハッキリとうなずいた。 「ええ。わかり過ぎますわ」 「ね。ですから……ですから……僕と……」  笠支配人は青くなったり赤くなったりした。こうした場面によく現われる中年男の醜態を見せまいとしてハラハラと手を揉んだり解いたりした。 「ええ。それは考えてみますわ。女優なんてものはタヨリない儚い商売ですからね」 「エッ。それじゃ……承知して……下さる……」 「まッ……待って頂戴よ……そ……それには条件があるのです。妾も……ネンネエじゃありませんからね」  呉羽は今にも自分に飛びかかりそうな笠支配人を、片手を挙げて遮り止めた。笠支配人は誰も居ない部屋の中を見まわしながら不承不承に腰を落付けた。 「そ……その条件と仰言るのは……」 「こうよ。よく聞いて下さいね。いいこと……」 「ハイ。どんな難かしい条件でも……」 「そんなに難かしい条件じゃないのよ。ね。いいこと……たとい貴方と妾とが一所になったとしても、この劇場の人気が今までの通りじゃ仕様がないでしょ。ね。正直のところそうでしょ。轟家の財産だって、もうイクラも残ってやしないし……貴方も相当に貯め込んでいらっしゃるにしても遊びが烈しいからタカが知れてるわ」  笠支配人は忽ち真赤になった。モウモウと湯気を吹きそうな顔を平手でクルクルと撫で廻した。 「ヤッ。これあ……どうも……そこまで睨まれてちゃ……」 「ですからさあ……妾だって全くの世間知らずじゃないんですから、好き好んで泥濘を撰って寝ころびたくはないでしょ。ね。ですから云うのよ。モウ少し待って頂戴って……」 「もう少し待ってどうなるのです」 「あのね。妾もね……この劇場にも、探偵劇にも毛頭、未練なんかないんですけどね。折角、轟さんと一所に永年こうやって闘って来たんですから、せめての思い出に最後の一旗を上げてみたいと思ってんの……」 「ヘエ。最後の一旗……」 「こうなんですの……きょうは八月の四日、日曜日でしょう。ですから今日から来月の第一土曜、九月の七日の晩まで、丸っと一と月お芝居を休まして、座附の人達の全部を妾に任せて頂きたいんですの。費用なんか一切あなたに御迷惑かけませんからね。妾はあの役者達を連れて、どこか誰にもわからない処へ行って、妾が取っときの本読みをさせるの」 「貴女が取っときの……」 「ええ。そうよ。これなら請合いの一生に一度という上脚本を一つ持っていますからね。その本読みをしてスッカリ稽古を附けてから帰って来て、妾の引退興行と、呉服橋劇場独特の恐怖劇の最後の興行と、劇場主轟九蔵氏の追善と、大ガラミに宣伝して、涼しくなりかけの九月七日頃から打てるだけ打ち続けたら、キット相当な純益が残ると思いますわ」 「さあ……どうでしょうかね」 「いいえ。きっと這入ってよ。それにその芝居の筋というのが世界に類例のない事実曝露の探偵恐怖劇なんですから……」 「事実曝露……探偵恐怖劇……」 「そうなのよ。つまり妾の一生涯の秘密を曝露した筋なんですから……これを見たら今度の事件の犯人だって、たまらなくなって、まだ誰も知らない深刻な事実を白状するに違いないと思われるくらいスゴイ筋なんですからね……自慢じゃありませんけど……ホホホ……」  彼女はスッカリ昂奮しているらしかった。白磁色の頬を火のように燃やし、黒曜石色の瞳を異妖な情熱に輝やかしつつ、彼女の方からウネウネと身体を乗出して来たので、たまらない息苦しい眩惑をクラクラと感じた支配人は、今更のようにヘドモドし初めた。相手の白熱的な芸術慾に焼き尽されまいとして太い溜息を何度も何度も重ねた。ハンカチで汗を拭き拭き慌て気味に問い返した。 「……ド……どんな筋書で……」 「それは……ホホホ……まだ貴方に話さない方がいいと思うわ。兎に角一切貴方に御迷惑かけませんから貴方は今から九月の七日過ぎる迄、久振りに温泉か何かへ行って生命の洗濯をしていらっしゃい。タッタ一箇月かソコラの間ですから、その間中貴方は絶対に妾の事を忘れていて下さらなくちゃ駄目ですよ。さもないと将来の御相談は一切お断りしますよ。よござんすか。仕事は一切私が自分でしますから……」 「出来ましょうか貴女に……」 「一度ぐらいなら訳ありませんわ。小さな劇場ですもの……いつもの通りの手順に遣るだけの事よ。チョロマかされたってタカが知れてますわ」 「資金はありますか」 「十分に在ってよ。在り余るくらい……」 「意外ですなあ……どこに……」 「どこに在ってもいいじゃないの……とにかく貴方は今度だけ御客様よ。招待券の二三枚ぐらい上げてもいいわ……ホホ……神戸の後家さん親娘でも引っぱってらっしゃい」 「ジョ……冗談じゃない」 「そうよ。冗談じゃないのよ。真剣よ……妾……それまで処女を棄てたくないんですからね」 「ショ……ショジョ……」 「まあ何て顔をなさるの。妾が処女じゃないとでも仰言るの。ずいぶん失礼ね」 「イヤ。ケ……決してソンナ訳では……」 「そんなら温柔しく妾の云う事をお聞きなさい。そうしてモウ時間ですからこの室を出て行って頂戴……」  事件当夜……八月四日の呉服橋劇場は、非常な不入りであった。その日の夕刊を見た人々は皆、当然の休場を予想していたらしく、毎日の定収入になっている御定連の入りすらも半分以下で、最終幕の前に「当劇場主轟九蔵氏急死に就き勝手ながら整理のため向う一箇月間休場いたします」の立看板を舞台中央の幕前に出した時には、無礼にも拍手した奴が居た。 「ああ。もうこの芝居も、これでおしまいか」と云って今更|名残惜しげに表の絵看板を振返る者さえ居た。  その時にスター女優天川呉羽は、劇作家、江馬兆策と一所に銀座裏のアルプスという山小舎式の珈琲店の二階で、向い合っていた。白ずくめの洋装をした呉羽は中世紀の女王のようにツンとして……。タキシードの兆策はその従僕のように、巨大な木の切株を中に置いて竹製の腰掛にかかっている。帳場の煤けたラムプを模した電燈の蔭に、向うむきに坐った見すぼらしい鳥打帽の男がチビリチビリとストローを舐っているほかには誰も居ない。部屋の中をチラリと見まわした呉羽は、切株のテーブルの上に肘を突いて兆策の耳に顔を近付けた。兆策も熱心にモジャモジャの頭を傾けた。低い声が部屋中にシンシンと途切れ散る。 「江馬さん。よござんすか。これは妾の一生の秘密よ。今度、轟さんが殺された原因がスッカリわかる話よ」 「えッ。そ……そんな秘密が……まだあるんですか」 「ええ。トテモ大変な秘密なのよ。今月の十五日迄にこの秘密をアンタに脚色してもらって、来月の初め頃にかけて妾自身が主演してみたいと思っているんですから、そのつもりで聞いて頂戴よ」 「……かしこ……まりました」 「ですけどね。この話の内容は、芝居にすると相当物騒なんですから、警視庁へ出すのには筋の通る限り骨抜きにした上演脚本を書いて下さらなくちゃ駄目よ。興行差止なんかになったら、大損をするばかりじゃない。妾の計劃がメチャメチャになってしまうんですからね。是非ともパスするように書いて頂戴よ。もちろん日本の事にしちゃいけないの。西洋物の飜案とか何とかいう事にして、鹿爪らしい原作者の名前か何か付けて江馬兆策脚色とか何とかしとけばいいでしょ。その辺の呼吸は万事おまかせしますわ」 「……しょうち……しました」 「出来たら直ぐにウチの顧問弁護士の桜間さんに渡して頂戴……」 「支配人じゃいけないんですか」 「ええ。妾の云う通りにして頂戴……笠さんじゃいけない訳は今わかりますから……」 「……で……そのお話というのは……」 「……もう古い事ですわ。明治二十年頃のお話ですからね。畿内の小さな大名植村|駿河守という十五万石ばかりの殿様の御家老の家柄で、甘木丹後という人の末ッ子に甘木|柳仙という画伯さんがありました」 「どこかで聞いた事があるようですな」 「ある筈よ。ホホ。柳遷とか柳川とか色々|署名していたそうですが、その人が御維新後のその頃になって、スッカリ喰い詰めてしまって、東海道は見付の宿の等々力雷九郎という親分を頼って来て、町外れの閑静な処に一軒、家を建ててもらって隠棲しておりました。静岡、東京、名古屋、京阪地方にまでも絵を売りに行って相当有名になっておりましたが、その中でも古い錦絵の秘密画とか、無残絵とか、アブナ絵とかを複写するのが上手で、大正の八九年頃には相当のお金を貯めて、小さいながら数奇を凝らした屋敷に住むようになっていたそうです」 「それで思い出しました。僕はその絵を見た事があります。たしか四条派だったと思いますが……」 「ね。あるでしょう……その柳仙夫婦の間に、その頃三つか四つになる三枝という女の児がありました。父親が五十幾つかの老年になって出来た子供なのでトテモ可愛がって、ソラ虫封じ、ソラ御開運様といった風に色々の迷信の中に埋めるようにして育てたものだそうですが、それがアンマリ利き過ぎたのでしょう。今の妾みたいな人間になってしまったのです」 「結構じゃないですか」 「……まあ聞いて頂戴……その大正の十年ごろ静岡あたりを中心にして東海道から信州へかけて荒しまわっていた殺人強盗で、本名を石栗虎太、又の名を生蕃小僧というのが居りました。生蕃みたいに山の中へ逃込むとソレッキリ捕まらない。人を殺すことを何とも思っていないところから、そう呼ばれていたのだそうです。その生蕃小僧がこの柳仙の一軒屋に眼を付けたのですね。……どうしてもモノにしようと思って色々様子を探ってみたんだそうですが、その柳仙の一軒屋というのは、見付の人家から二三町も離れていて、呼んでも聞こえないばかりでなく、四方八方に森や、木立や、小径がつながり合っていて、盗賊には持って来いの処だったのですが、しかし、何よりもタッタ一つ、一番恐ろしい番犬がこの柳仙の家をガッチリと護衛っている事が、最初から判明っているのでした。……その番犬というのは見付の町で、土木の請負をやっている等々力親分の一家でした。  その頃見付の宿で、等々力雷九郎親分の後を嗣いでいたのが等々力久蔵という、生蕃小僧と同じ位の年頃の若い親分でした。もっとも大正十年頃の事ですから、昔ほどの勢力はなかったのでしょう。そこいらの田舎銀行や、大百姓の用心棒ぐらいの仕事しかなかったのでしょう。その上に、その若親分の久蔵というのも、昔とは違った帝大出の法学士で、弁護士の免状まで持っていたインテリだったそうですが、乾分に押立てられてイヤイヤながら渡世人の座布団に坐り、新婚早々の若い、美しい奥さんと二人で、街道筋を見渡していたものですが、この若親分の久蔵というのが、十手捕縄を預っていた雷九郎親分の血を引いたものでしょう。親分生活は嫌いながらにあの辺切っての睨み上手の、捕物上手で、云ってみれば田舎のシャロック・ホルムズといったような名探偵肌の人だったのでしょう。すこし手口の込んだ泥棒でも這入ると、警察より先に久蔵親分の処へ知らせて来るというのです。流れ渡りの泥棒なんぞは、みんな等々力親分の縄張りを避けて通った。ウッカリ久蔵親分の眼の届く処で仁義の通らぬ仕事なんかすると、警察よりも先に手を廻されて半殺しの目に会わされるという評判で、生蕃小僧にとっては、この久蔵親分の眼がイの一番に怖くて怖くてたまらなかったのだそうです。  そこで生蕃小僧は意地になってしまって、どうしてもこの等々力巡査をノックアウトしてやろうと思って色々と智恵を絞ったのでしょう。とうとう一つのスゴイ手を考え付いたのです……ちょっと生蕃小僧という名前だけ聞くと人相の悪い、恐ろしい人間に思えるようですが、それは刃物が利くのと、脚力が利くところを云ったもので、実は普通の人とチットモ変らない男ぶりのいい虫も殺さない恰好で、おまけに腰が低くて愛嬌がよかったもんですから行商人なんかになるとマルキリ本物に見えたそうです。ですから生蕃小僧はそこを利用してその頃|流行っていた日本一薬館の家庭薬売に化けて大きな風琴を弾き弾き見付の町を流しまわっているうちに、等々力の若親分の身のまわりをスッカリ探り出してしまいました。  ……何でも等々力若親分の若い奥さんというのは、近くの村の百姓の娘で、持って生れた縹緻美しと伝法肌から、矢鱈に身を持崩していたのを、持て余した親御さんと世話人が、情を明かして等々力の若親分に世話を頼んだものだそうですが、何ぼ等々力の親分のお声がかりでも、こればっかりは貰い手がないので、何となく顔が立たないみたいな事になって来たものだそうです。そこで……ヨシキタ……そんなら一番俺がコナシ付けてくれよう。俺の傍へ引付けておいたら、そう無暗に悪あがきも出来ないだろうというので、乾児たちの反対を押切って、立派な婚礼の式を挙げたものだそうですが、これが等々力親分の一生の身の過りでした。というのは、その若い奥さんの伝法肌というのが、若い女のチョットした虚栄心が生んだ浅智恵から来たものだったのでしょう。若親分から惚れられているなと思うと、早速亭主を馬鹿にしちゃって、主人の留守中に、何かしら近所の噂にかかるような事をしていたのでしょう。ですから、そんな事を聞き出した生蕃小僧はスッカリ喜んじゃったのですね。大胆にもオッチニの金モール服のまま、他所から帰って来る若親分を、町外れの草原で捕まえて面会したのだそうです。そうして奥さんの不行跡を自分一人が知っている事のように洗い泄い並べ立てて脅迫しながら、済まないがここのところを暫くの間、眼をつむってもらえまいか。稼ぎ高を山分けに致しますから……とか何とか厚顔ましい事を云って、柔らかく固く相談をしますと、不思議にも若親分が、青い顔をして暫く考えた後に、黙って承知したんだそうです。モトモト久蔵親分は、好きで渡世人になった訳じゃないし、法律の一つも心得ているだけに、東京へ出て一旗上げたい上げたいと思いながら、因縁に引かれ引かれて足を洗いかねているところへ、最愛の女房から踏み付けにされちゃったのですからスッカリ気を腐らしたのでしょう。そうして生蕃小僧に別れると直ぐに久蔵親分は、甘木柳仙の処を尋ねて、すみませんがモウお雛様がお片付きのようですから、御宅のお嬢さんを又、暫く私に貸して頂けますまいか。久し振りに抱っこして寝たいですからと申込みました……久蔵親分は若い人に似合わない子供好きで、見付の子供は皆オジサンオジサンと云って懐いていたそうです。わけてもこの柳仙の処の子供は、特別に可愛がっていたせいでしょう。まるで親のように懐いておりましたし、それまでにも度々そんな事がありましたので、柳仙夫婦は快く子供の着物を着かえさしたりお菓子や寝床まで風呂敷に包んで、若親分に渡してやったそうです。  ……それから若親分は自宅へ帰ると、直ぐに乾児どもを呼集め、その大勢の眼の前に、若い奥さんと世話人を呼付けてアッサリ離別を申渡しましたので、二人ともグーの音も出ないで荷物を片付けてスゴスゴと田舎へ帰りました。それを見送った若親分は……ほんとに済まない事をした。俺の顔ばかりでなくお前たちの顔まで潰してしまった。俺はモウ決心を固めているのだからこの際何も云うてくれるなと云って乾児の中の一人に自分の席を譲り、その場で、お別れの酒宴を初めました。  ……一方に柳仙夫婦の一軒屋へ生蕃小僧が忍び入って、夫婦と女中の三人を惨殺し、家中を引掻きまわして逃げて行ったのは、ちょうどその暁方の事だったそうです。ところで生憎か仕合わせかわかりませんが、その時に柳仙の手許に在ったお金はお小遣の余りの極く少しで、銀行の通帳や貴重品なんかは見付の町に在った心安い貯蓄銀行の金庫に預けてありましたので、お金以外の品物を決して盗らない事にしている生蕃小僧にとってはトテも損な稼ぎだったのでしょう。ところが、それとはウラハラに久蔵若親分はステキに、うまい事をしてしまいました。多分柳仙の家に残っていた印形を利用するか何かしたのでしょう。それにしてもドンな風に胡麻化したものか知りませんが、当然、その娘のものになる筈の何万かの財産と、かなり大きな生命保険を受取ると、そのまま行衛を晦ましてしまったものだそうです。  ……ね……もうおわかりになったでしょう。柳仙夫婦がこの世に残したものの中でも一番大きい、美味しいことは、みんな久蔵若親分のものになってしまったのですからね……あとからこの事を知った生蕃小僧が、それこそ地団太を踏んで今の轟九蔵を怨んだのは無理もありませんわね。ですから轟がドンナに巧妙に姿を晦ましても生蕃小僧はキット発見出して脅迫して来るのでした。俺が捕まったらキット貴様も抱込んで見せるとか、当り前の復讐では承知しないぞ……とか何とか云っていたそうですが、しかし轟はセセラ笑っておりました。彼奴の怨みは藪睨みの怨みだ。俺は別に生蕃小僧をペテンにかけるつもりじゃなかったんだ。ただお前が可愛くてたまらなかったばかりに、万一の事が気にかかってアンナ事をしただけの話なんだ。もちろん生蕃小僧がアンナに早く仕事にかかろうとは思わなかったし、奥さんの事を片付けてサッパリしてから柳仙に注意もしようし、手配もするつもりでいたんだから、柳仙夫婦が、あのまんま無残絵になってしまったのはヤハリ天命というものだったろう。  ……柳仙が国禁の絵を描いている事はトックの昔から睨んでいた。しかしイクラ忠告をしても止めないばかりでなく、県内の有力者の勢力なんかを利用して盛んに高価い絵を売り拡げて行くので、俺は実をいうとホントウに柳仙の厚顔さを憎んでいた。ナンノ柳仙を見付から追出すくらい何でもなかったんだが、ただお前の可愛さにカマケていたばかりなんだ。それから先の事は自然の成行で、大和の国に居る柳仙の親類なんかは一人も寄付かなかったんだから仕方がない。生蕃小僧から怨まれる筋合いなんか一つもないばかりでなく、俺はお前を無事に育て上げるために、生命がけで闘わなければならない身の上になってしまった。俺が朝鮮に隠れてピストルの稽古をして来た事を、生蕃小僧が知っていなかったら、俺もお前もトックの昔に生蕃小僧にヤッツケられていたろう。  ……ところが、それから後、四五年経つと流石の生蕃小僧も諦らめたと見えて、バッタリ脅迫状を寄越さなくなった。彼奴から脅迫状が来るたんびに俺はすこしずつ金を送ってやる事にしていたんだから不思議な事と思ったが、もしかすると自分の怨みが藪睨みだったのに気付いたのかも知れない。それとも病気で死ぬかどうかしたのじゃないかと思うと、俺は急に気楽になって本当の活躍を初め、今の地位を築き上げたものなんだが、その十幾年後の今日になって突然に又生蕃小僧から脅迫状が来はじめたのだ。しかも俺にとっては実に致命的な意味を含んだ脅迫状が……」 「エッ……チョチョチョット待って下さい」  江馬兆策は感動のあまり真白になった唇を震わした。 「そ……それもホントなんですか」 「ホホホ……みんな真実なのよ。最初から……まだまだ恐ろしい事が出て来るのよ。これから……」 「……………」 「シッカリして聞いて頂戴よ。是非とも貴方に脚色して頂いて、大当りを取って頂きたいつもりで話しているんですからね」 「……………」 「……その脅迫状というのは、最初は極く簡単なものだったのです。一週間ばかり前に来たのは普通の封緘葉書で金釘流で『大正十年三月七日を忘れるな……芝居じゃないぞ』といっただけのものだったそうですが、それから後に二三回引続いて来たものは、相当長い文句のチャンとした書体で、とてもとても恐ろしい……私達の致命傷と云ってもいい文句でしたわ」 「……ど……ど……ドンナ……」 「ホホホ。アンタ気が弱いのね。そんなに紙みたいな色にならなくたっていいわ。あのオ……チョイト……ボーイさん。ウイスキー・ソーダを一つ……大至急……」  江馬兆策はホッと溜息をした。顔中に流るる青白い汗をハンカチで拭いた。 「ホホホ。落付いてお聞きなさいよ。モウ怖いことなんかないんですからね。犯人が捕まって片付いちゃったアトなんですから……」 「でも……でも……まだ疑問の余地が……」 「ええええ。まだまだ沢山に在るのよ。モットモット大きな、深い疑問が残っているのを誰も気付かずにいるのよ。轟さんの心臓にあのナイフが突刺さったホントの理由が、わかる話よ」 「エエッ。それじゃホントの犯人が……別に……」 「居るか居ないかは貴方のお考えに任せるわ。そこがこの脚本のヤマになるところよ。いい事……その長い脅迫状の文句はこうなのです。その脅迫状はあたし自分の部屋の鏡台の秘密の曳出にチャント仕舞っているのですから、あとからお眼にかければわかるわ……轟九蔵と甘木三枝は、戸籍面で見ると親子関係になっていない。女優の天川呉羽は轟九蔵の養女でも何でもないのだから、つまるところ轟九蔵は甘木三枝の財産を横領している事になる。それのみか、轟九蔵と天川呉羽とは事実上の夫婦関係になっている事を、俺は最近になって探り出しているのだ。その上にその呉羽こと三枝という女は、ズット以前から劇作家江馬兆策と関係している……」 「ワッ……ト飛んでもない……アッツ……」  江馬兆策は突然真赤になって手を振ったトタンに、たった今来たウイスキー・ソーダの飲みさしを切株のテーブルの上に引っくり返した。それを給仕が急いで拭こうとしたナプキンを慌てた兆策が引ったくって拭いた。 「ホホホ。馬鹿ねえ貴方は……わかり切っている事を妾の前で打消さなくたっていいじゃないの……ホホ……」  兆策はモウすっかり混乱してしまったらしい。濡れたナプキンで上気した自分の顔を拭き拭き給仕にソーダのお代りを命じた。しかし給仕は笑わないで、腰を低くして、恭しくナプキンを貰って行った。 「……ね。ですから妾あなたに考えて頂こうと思ってお話するのよ。貴方はいつもソンナ問題ばかりを研究していらっしゃるんですから、妾の話をお聞きになったらキット犯人を直覚して下さると思うのよ。轟九蔵を殺したのは生蕃小僧じゃない。あの支配人の笠圭之介……」 「エッ……ナ何ですって……そんな事が……」  江馬兆策が中腰になった。しかし呉羽は冷然と落付いていた。 「あたし……それが今日わかったのよ。あの笠圭之介がね。ツイ今さっきの夕方の幕間に妾をあの五階の息つき場へ呼んでね。よもや誰も知るまいと思っていた脅迫状の中味とおんなじ事を云って妾を脅迫したのよ。轟さんと妾の関係や貴方と妾の関係を疑ったような事を云ってね……ですから妾ヤット気が付いたのよ、今捕まっているのはホンモノの生蕃小僧じゃない。ドッサリお金を掴ませられているイカサマの生蕃小僧で、公判になったらキット供述を引っくり返すに違いない。だから本物の生蕃小僧はアノ支配人の笠圭之介……」 「フ――ム――」  江馬兆策が頭を抱えて椅子の中に沈み込んだ。眼をシッカリと閉じて、モジャモジャした頭の毛の中へ十本の爪をギリギリ喰い込ませた。 「……ね……こんな事があるのですよ。今もお話した通り、生蕃小僧の脅迫状が来なくなってから轟がホントウに活躍を初めたのが大正十四年頃でしょう。それからあの呉服橋劇場を買ったのが昭和三年の秋ですから、その間に三四年の開きがあるわけでしょう。その間に生蕃小僧が悪い仕事をフッツリと止めて、あの呉服橋劇場の支配人になり済ますくらいの余裕はチャントあるでしょう。生蕃小僧があんなにムクムクと肥って、丸きり見違えてしまっている事も、考えられない事じゃないでしょう。そこで生蕃小僧は上手に轟さんに取入るか、又は影武者の生蕃小僧に脅迫状を出させるか何かしてあの劇場を買わせたのよ。そうしてあの劇場の経営を次第次第に困難に陥れて、轟さんの爪を剥いだり、骨を削ったりしながら待っている中に、妾が年頃になったのを見澄まして轟さんを片付けて、タッタ一人になった妾を脅迫して自分のものにしようと巧らんだ……と考えて来ると、芝居としても、実際としても筋がよく透るでしょう。何の事はない新式の巌窟王よ……ね……」 「……………」 「その中でタッタ一つ邪魔気なのは貴方です。江馬さんです……ね。貴方は天才的な探偵作家ですから普通の人だったら夢にも想像出来ない事をフンダンに考えまわしておられる方です。ですから万一、今のようなお話をお聞きになった暁には、いつドンナ処から自分の正体を看破られるかわからない。警戒の仕様がないでしょう」 「……………」  江馬兆策は頭の毛を掴んだままソッと両眼を見開いた。その両眼は重大な決心に満ち満ちた青白い、物凄い眼であった。わななく指をソロソロと頭から離して、そこいらを見まわすと、ウイスキー曹達に濡れた切株の端に両手を突いて立上った。呉羽の希臘型の鼻の頭をピッタリと凝視して徐ろに唇を動かした。 「……貴女は名探偵です……」  呉羽も調子を合わせるようにヒッソリとうなずいた。大きな眼をパチパチさせた。 「……ですから……貴方にお願いするのです。今から笠支配人の様子を探って下さい。そうしてイヨイヨ生蕃小僧の本人に違いないという事がわかったら……」 「……コ……殺してしまいます」  江馬兆策の両眼が義眼のように物凄くギラギラと光った。 「イケマセン」  呉羽は真剣に手を振った。 「……ナ……ナゼ……何故ですか」 「復讐の手段は妾に任せて下さい。両親の仇……轟の仇です……」 「……………」 「それでね貴方にその脅迫状の束を全部さし上げます。それをイヨイヨとなったら笠に突付けて云って御覧なさい。お前はお前の書いた文句を忘れてやしまい。呉羽さんを脅迫した言葉も忘れてやしないだろうって……ね……」 「……………」 「それからね。貴方の活躍の期限を来月の十日までに切っておきます。来月の十日になっても笠に泥を吐かせる事が出来なかったら一先ず帰っていらっしゃい。よござんすか。費用は脅迫状の束と一緒に、明日の午後に差上げます」 「イヤ。費用なんか一文も要りません」 「いいえ。いけません。他人の間は他人のようにしとくもんです」 「エッ……他人……」 「ええ。そう。今じゃ全くの赤の他人でしょう。ですからそのつもりでいらっしゃい。それからの御相談は、何もかも来月の十日|過にお願いしますわ」  ハッと感激に打たれた江馬は深海魚のように眼を丸くして呉羽の顔を凝視した。口をアングリと開けて棒立ちになっていたが、やがてクシャクシャ頭をガックリとうなだれると、涙をポトポトと落しながら口籠もった。 「かしこ……まりました」  そうして、なおも感激に堪え切れないらしく、兵隊のようにクルリと身を飜すと、非常な勢いでホールを出て行った。百雷の落ちるような凄じい音を立てて階段を駈け降りて行った。 「……ホホ……確証を掴んだシャロック・ホルムズ……義憤に駈られたアルセーヌ・ルパン、ホホホホホハハハハハ……」  星だらけの空を真黒く区切った樫の木立の中に燈火を消した轟家は人が居るか居ないか、わからない位ヒッソリとしている。表門に貼付けた「不幸中に付家人一切面会謝絶」と書いた白紙が在るか無いかの風にヒラヒラと動いているきりである。  これに反してお庭の隅の常春藤に蔽われたバンガロー風の小舎には燈火がアカアカと灯って、しきりに人影が動いている。  非常な勢いで帰って来た江馬兆策が、妹の出したお茶も飲まない無言のまま、ガタンピシンと戸棚を引開けて、あらん限りの服、帽子、靴、ズボン吊、トランクを引ずり出して旅支度を初めたのを、妹の美鳥がしきりに心配して止めているのであった。 「まあ……お兄様ったら……気でもお違いになったの……」 「感謝感謝。心配しなくたっていいんだ。気も何も違ってやしない」 「だってイツモのお兄様と眼の色が違うんですもの……まるで確証を握ったシャロック・ホルムズか義憤に猛り立つアルセエヌ・ルパンみたいよ。ホホホ。どうなすったの……一体」 「黙って見てろったら。非常な重大事件だから……お前が関係しちゃイケナイ問題なんだから絶対に局外中立の態度で、黙って見てなくちゃイケナイ重大事件なんだからね」 「わかっててよ。それ位の事……轟さんのお家の事でしょう」 「そうなんだよ。ホントの犯人がわかりそうなんだよ。そいつを僕が突止める役廻りになったんだよ」 「だからウイスキー曹達を、お引っくり返しになったの……」 「ゲッ……お前見てたのかい」 「ホホホホ。ビックリなすったでしょ」  兆策は自然木の椅子にドッカと尻餅を突いた。気抜けしたように溜息をして取散らした室内を見まわすと、醜い顔に不釣合な大きな眼をパチパチさせた。 「……ど……どうして聞いたんだい。タッタ今帰って来たばかりなのに……」  美鳥は淋しく笑いながら向い合った椅子に腰を降ろした。 「何でもないことよ。妾だって今度の轟さんの事件ではずいぶん頭を使っているんですもの。ホントの犯人が誰だか色々考えているうちに、万一貴方が疑われるような事になったらドウしようと思って一生懸命に考えまわしていたのよ」 「フーン。どうして二人に嫌疑がかかるんだい」 「お兄さん御存じないの。昨夜十二時頃、轟さんと呉羽さんとが、支配人の眼の前で大喧嘩をなすった事を……」 「知らなかったよ。俺はその頃お前と二人で、ここで茶を飲んでいたんだから」 「ええ。そうよ。ですから妾も知らなかったんですけどね。小間使のイチ子さんが今朝になって、その事をおヨネさんに話したんですって……そうしたらおヨネさんがビックリしちゃってね。その喧嘩の話は決して喋舌っちゃイケナイって云ってねあの女、自分がオセッカイのお喋舌のもんですから、イチ子さんにシッカリと口止めをしといてから、わざわざやって来てソッと私に知らしてくれたのよ。こちらでも気ぶりにも出さないようにして下さいってね。おかアしな女よ。おヨネさんたら……ホホホ。あたし最初、何の事だかわかんなかったわ」 「ああ。その話かい。今朝、台所で暫くボソボソやっていたのは……一体何の喧嘩だい。轟さんと呉羽さんと言い争った原因というのは……」 「妾たち二人を追い出すとか出さないとかいう話よ」 「ナニ……俺たちを追い出す……?……」 「ええ。そうなんですって。何故だかわかんないんですけど」 「……ケ……怪しからん。俺は今まであの轟をずいぶん助けてやっているのに……」 「……そんな事云ったって駄目よ。御恩比べなんかすると馬鹿になってよ」 「馬鹿は最初から承知しているんだ。向うはホンの些とばかりの金を出してくれただけだ。それに対してこちらは、お金で買えない天才を提供しているじゃないか。しかも有らん限りの生命がけで……」 「お兄さん馬鹿ね。そんな事云ったって誰も相手にしやしませんよ」 「一体ドッチが俺たちを追い出すと云うんだ」 「轟さんが追い出すって云うのを呉羽さんが、理由なしにソンナ事をしてはいけないってね。泣いて止めていらっしたそうよ」 「当り前だあ」 「当り前だかドウだか知りませんけどね。もしソンナ話があったのを妾たちが聞いたって事が警察にわかったら大変じゃないの。お兄さんの極端に激昂し易い性格は、みんな知っている事だし、あの家の案内は残らず御存じだし……万一、疑いがかかったら大変と思ってね妾ずいぶん心配したのよ」 「馬鹿な……俺はソンナ馬鹿じゃない」 「だって今みたいに昂奮なさるじゃないの……話がわかりもしない中に……」 「……ウウン……それあ……そうだけど……」 「……ね……ですから妾は直ぐにアリバイの説明の仕方や何かについて考えたわ。……ずいぶん苦心したことよ」 「そんな事は苦労する迄もないじゃないか。昨夜はチャントここに寝てたんだから……」 「まあ。そんなアリバイが成立する位なら苦心しやしないわ。お兄さんたら探偵作家に似合わない単純な事を仰言るのね。でもその寝ていらっしゃるところを誰か他所の人が夜通し寝ないで見ていなくちゃ駄目じゃありませんか。妹の妾が証明したんじゃ証明にならないんですからね。それ位の事は御存じでしょう。貴方だって……」 「ウム。そんならドンナアリバイを考えたんだい」 「それがなかなか考えられないのよ。ですからね。今夜、貴方がお帰りになったら、よく相談しましょうと思って待っていたら、イツモの十一時になってもお帰りにならないでしょ。劇場の方へ電話をかけてみたら、もうお芝居はトックにハネちゃって、呉羽さんと二人でお帰りになったって云うでしょう。ですからテッキリあのアルプスに違いないと思って電話をかけたらテッキリなんでしょう。ですからその電話に出たボーイさんに頼んであすこの受話機を……ちょうど貴方の背後に在る木の空洞の中の卓上電話を外しっ放しにして受話機を貴方の方に向けておいてもらったのよ。ですから貴方と呉羽さんのお話が何もかも筒抜けに聞えたのよ。あの家はいつもシーンとしているんですからね」 「エライッ。名探偵ッ……握手して下さいッ」 「馬鹿ね。お兄さま……あの女の云う事、信用していらっしゃるの……」 「あの女って誰だい」 「誰って彼女以外に誰も居なかったじゃないの……」 「呉羽さんが僕と結婚してもいいって話かい」 「ええ。あれは絶対に信用なすっちゃ駄目よ」 「エッ……どうして……」 「どうしてったって呉羽さんは、お兄さんと結婚してもいいって事をハッキリ仰言りやしなかったわ」 「……………」  兆策は額を押えて椅子に沈み込んだ。 「フ――ム。そうかなあ……」 「そうよ。彼女の話は陰影がトテモ深いんですから、用心して聞かなくちゃ駄目よ。たといソンナ事をハッキリ仰言ったにしても、それあ嘘よ……キット……」 「どうしてわかるんだい。そんな事が……お前に……」 「女の直感よ。……第三者の眼よ……」 「それだけかい……」 「それだけでも十分じゃないの。あたし……あの呉羽って女……キット深刻な変態心理の持主だと思うわ」 「直感でかい」 「いいえ。色んな事からそう思えるのよ。第一あの女は貴方がホントに好きなんじゃない。妾が好きなのよ……それも死ぬほど……」 「ナ何だって……真実かいそれあ……」  兆策は飛上らんばかりにして坐り直した。 「シッ。大きな声を出しちゃ嫌よ。外に聞こえるから……ホントなのよ。間違いないのよ。あの女は、妾と近しくなりたいために、お兄さんと心安くしていらっしゃるのよ。あの女がお兄さんを見送っている眼と唇に気をつけていると、トテモ他所他所しい冷めたさを含んでいるのよ。お兄さまを冷笑しているとしか思えない事さえあるわ。あたし何度も何度も見たわ」  兆策は血の気の失せかけた頬と額を、新しいハンカチでゴシゴシと力強く拭いた。 「フーム。それじゃ、お前を好いている事は、どうしてわかったんだい」 「あたし、お兄さんの前ですけどね。あの女がこの頃、怖くて仕様がないのよ。……あの女はね。妾を好いていると云った位じゃ足りないで、心の底から崇拝しているらしいのよ。トテモおかしいのよ。妾がズット前にあの女の部屋に忘れて行った黄色いハンカチを大切に仕舞っておいて、何度も何度も接吻してんのよ。妾が偶然に行き合わせた時に、周章てて隠しちゃったんですけど、そのハンカチにあの人の口紅のアトが残ってベタベタ附いているのが見えたわ」 「ウフッ。気色の悪りい……ホントかいそれあ」 「お兄さんに嘘を吐いたって仕様がないじゃないの。いつでもあの女の妾を見ている眼の視線は、妾の横頬にジリジリと焦げ付くくらい深刻なのよ」 「ヘエッ。驚いたね。それじゃ……つまり同性愛だね」 「そんなものらしいのよ。持って生まれた性格を舞台の上でイタメ附けられている荒んだ性格の人に多いんですってね。呉羽さんなんか尚更それが烈しいのでしょう。ですから妾……お兄さんの事さえなけあこの家を逃出そうと思った事が何度も何度もあるくらい気味が悪かったんですけどね……ロッキー・レコード会社から専属になってはドウかってね、或る親切な人から何度も何度も云って来ているんですけど、断っちゃってジイッと我慢し通してんのよ」 「馬鹿……何だって断るんだ。そんな美味い口を……」 「だって妾が二百円取ってお兄様を養うよりも、妾がお兄さまの百円の御厄介になっている方が嬉しいんですもの……」 「うむ。そうかッ……感謝するよ……」  兆策はモウ眼を真赤にしていた。 「でも……トテモ息苦しいのよ。だって同性愛なんて日本にだけしかない事でしょう。朝鮮ではソンナ話、聞いたこともないんですから、ドウしたらいいのかわかんないんですもの。呉羽さんと同じ位に妾が呉羽さんを好きにならない限り、どうする事も出来ないじゃないの。女蛇に魅入られたようなタマラナイ気持になるだけよ。それがトテモ底強い魅力を持って迫って来るんですから尚更、息苦しくなって来るのよ」 「手紙も何も来ないのかい呉羽さんから……」 「イイエ。そんなもの一度も来たことないわ。妾が現実にそう感じているだけなの」 「フ――ム。そうすると……どうなるんだい……ボ……僕は……」 「アラ泣いていらっしゃるの……お兄様は……」 「泣いてやしないよ。怖いんだよ。僕は……」 「チットモ怖いことないわ。お兄様はただあの女に欺されていらっしゃればいいのだわ。あの女は、まだ轟さんを殺した犯人について疑っていらっしゃるのでしょう……ね……そうでしょう。ですから貴方に頼んで探してもらおうと思っていらっしゃるんですから、その通りにしてお上げになったらいいでしょう」 「何だか訳がわからなくなっちゃった。つまり僕はあの女の云うなりになっていればいいんだね」 「ええ。そうよ。こっちがあの女を疑っているソブリなんかチットも見せないようにしてね。そうしていらっしゃる中にはヒョットしたらあの女だって、お兄様をお好きにならないとも限らないわ」 「タヨリないなあ。お前の云う事は……モット確りした事を云っとくれよ」 「だって将来の事なんかわかんないんですもの……貴方みたいに正直に、何もかも真に受けて、青くなったり、赤くなったり……」 「オイオイオイ。電話で顔色がわかるかい」 「アラッ。バレちゃったのね。トリックが……」 「トリック。何だいトリックって……」 「ホホホ。何でもないのよ。あたし今夜あなたのアトから直ぐに家を閉めて出かけたのよ。だってコンナ時にはトテモたった一人でお留守番なんか出来ないんですもの。家の中には貴方の原稿以外に貴重品なんか一つも無いでしょう。……それからね。序に途中で寄道をしてロッキー・レコードへ寄って契約して来ちゃったわ。一個月二百円で……」 「ゲエッ。ほんとかい……それあ……」 「ええ。だって轟さんが死んじゃったら妾たちだって相当の覚悟をしなくちゃならないんでしょう。契約書見せましょうか……ホラ……」 「ウウムム。ビックリさせるじゃないかヤタラに……」 「世話してくれた人トテモ喜んでたわ。妾の声は西洋人がヤタラに賞めるんですってさあ。この間テストした時に……ですからモウ誰の世話にならなくとも大丈夫よ。轟さんから受けた御恩を呉羽さんにお返しするだけよ」 「お前はたしかに俺より偉いよ。今夜という今夜こそ完全にまいった」 「ホホホ。まだエライとこ在るのよ」 「ナナ何だい一体……」 「当てて御覧なさい」 「わからないね」 「さっきの電話の話ウソよ」 「ヘエッ。何だって……」 「アラッ。まだわかっていらっしゃらないのね」 「だって、まだ何も聞きやしないじゃないか、トリックの事……」 「自烈度いお兄さんたらないわ。あのね……あたし今夜貰った契約の前金で変装して今夜のお芝居見に行ったのよ。そうして貴方と呉羽さんのアトを跟けてアルプスへ行って、お二人の話を横からスッカリ聞いてたの……鳥打帽を冠って色眼鏡をかけて、レインコートの襟を立てて煤けたラムプの下にいたから、わからなかった筈よ。あすこのマダムはやっぱり朝鮮の人で、ズット前から心安いのよ。ロッキー・レコードの支配人の第二号なんですからね。今度の話もあのマダムが世話してくれたのよ」 「驚いた……驚いた……驚いた……」 「まだビックリなさる事があってよ。あの笠っていうお爺さんね」 「可哀そうに、お爺さんは非道いよ」 「あの笠圭之介って人を貴方はホントの犯人と思っていらっしゃる?」 「さあ。わからないね。当ってみない事には……」 「そう。それじゃ当って御覧なさい。あの人ならお兄様に対して無暗な事はしない筈ですから……」 「何だいまるで千里眼みたような事を云うじゃないかお前は……事件の真相を残らず知ってるみたいじゃないかお前は……」 「ええ。知ってるかも知れないわ……でも、それは今云ったら大変な事になって、何もかもわからなくなるから、云わない方がいいと思うわ」 「ふうむ。そんなに云うなら強いて尋ねもしないが、しかしそのわかったって云うのは、犯人に関係した事かい……それとも事件全体に……」 「ええ。そう事件全体の一番ドン底に隠されている最後の秘密よ。トテモ神秘的な……そうして芸術的にも深刻な秘密よ。それさえハッキリとわかれば妾は自分の一生涯を棄てても、その秘密の犠牲になって上げていいわ」 「オイオイ。物騒な事を云うなよ……オヤッ。美いちゃん……泣いているのか」 「……だって……アンマリ可哀そうなんですもの……その秘密の神秘さと、芸術的な深さの前には妾の一生なんか太陽の前の星みたいなんですもの……」 「いよいよ以て謎だね」 「ええ。どうせ謎よ。この世の中で一番醜い一番美しい謎よ。それさえ解れば今度の事件の真相が一ペンにわかるわ」 「いよいよわからないね。何だか知らないけど、わからない方がよさそうな気がする」 「ええ。妾もよ。わかったら大変よ」 「いったいいつからソンナ事を感付いたんだい」 「ヤット今夜感付いたのよ。あの女と貴方のお話を聞いているうちに……」 「……ど……どんな事だい。それは……」  兆策が突然に立上った勢がアンマリ凄まじかったので、妹の美鳥も思わず立上ってしまった。そうして少し涙ぐんだまま頬を真赤に染めた。 「あの女がね……貴方と向い合って話している横顔を、暗いところからコンパクトの鏡に写してジイッと見ている中に、妾、胸がドキドキして来たのよ……鏡ってものは魔者ね……やっぱり……」  兄妹は見る見る青ざめて行く顔を見合わせた。 「ふうん。どうして胸がドキドキしたんだい」  美鳥はいよいよ涙ぐんだようになって、うつむいた。紅茶を入れかけたままの白いエプロンの端を弄び弄び耳まで赤くなってしまった。口籠もり口籠もり云った。 「呉羽さんはアンマリ……アンマリ美し過ぎると思ったの……」  あくる日も引続いた上天気であった。  夜が明けると、思い切って早起して、いつもの通りに凝った和装の身支度を済ました女優呉羽嬢は、直ぐに轟家の顧問弁護士、桜間法学士を呼付けた。既に自分の名前になっている自宅の建築と地面を抵当に入れて堀端銀行から一万八千円の金を引出し、その中から三千円を分けて江馬|兄妹を呼出し、桜間弁護士立会の上で手渡ししてキチンとした受取を入れさせた。それから弁護士を除いた三人で桐ヶ谷の火葬場にタクシーを乗付け、轟九蔵氏の遺骨を受取って来て故人の自室に安置し、附近の寺から僧侶を招いて読経してもらった。  焼香の時に一番先に仏前に立った呉羽は、長い事手を合わせて、何か口の中でブツブツと祈りながら肩を震わして泣いていたが、その態度がアンマリ真剣だったので江馬|兄妹は勿論、女中のおヨネまでも眼を潤ませていた。ところが故意か偶然かわからないけれども、そのおしまいがけになって呉羽の祈っている呟やき声に、何とも云えない気味の悪い底力が這入って来て、シンとした西洋|室の中にハッキリと沁み透り初めたので皆真青になって顔を見合わせた。 「……何もかも……貴方も……わたくしも……二十年前から間違って来ておりました……わたくしは、それを自分の手で公表さして頂きとう御座います……正しい姿に改めさせて頂きとう御座います……すべての間違った恩も怨みも……一掃さして頂きとう御座います……どうぞ成仏なすって下さい……南無阿弥陀仏……」  それから彼女は、まだ僧侶達が帰らない中に呼びつけのタキシーの高級車を呼んで、弦を離れた矢のように飛出て行った。一直線に帝国ホテルに乗付けて、東洋一の興行師と呼ばれているトキワ興行社長の段原万平氏に面会し、呉服橋劇場をタッタ五万円で来る九月十日限り売渡す約束をしてしまった。  それから呉羽は又一直線に自宅に引返して桜間弁護士を自分の寝室に呼寄せ、留守の事や契約の事なぞを色々と細かに頼んで後、呉服橋劇場専属の俳優二十七名の中から選出した男女優僅に十余名を眼立たぬように変装させて、コッソリと上野駅を出発し、どこへか姿を消してしまったという事が、轟氏殺害犯人の逮捕に引続いて各新聞に報道され、満都の好奇心を聳動した。しかし、それもホンノちょっとの間の事で、世間の人はいつの間にかそんな事を忘れるともなく忘れていた。  とはいえ呉服橋劇場の探偵劇と異妖劇の味を心から愛好していた一部の尖端都会人は、事実、火の消えたような淋しさを感じていたらしい。折ふし場末の活動館にかかった面白くも何ともない独逸の怪奇映画「笑う心臓」というのが連日、割れるような大入りを占めたのを見ても、そうした怪奇モノに飢えている都会人の心裡がアリアリと裏書きされていた。実際、敏感な文壇の人々や劇評家、芸術家の中には「呉服橋劇場を救え」とか「邪妖劇と都会人」とか「怪奇劇と女優」とかいったような「クレハ嬢礼讃」を中心とする文章を来月号の雑誌に投稿すべく、熱心に執筆していた人々も、実際に居たのであった。ところが、こうした一種の純真な意味の都会人の憂鬱は、それから間もない一箇月目に物の美事に粉砕されてしまった。東京市中でも有力な十大新聞の九月四日の朝刊の全面広告を見た人々は皆アッと驚かされたのであった。  その全面広告の中央には五寸四方ぐらいの呉羽嬢の丸髷姿の写真が、薄い小さな唇の片隅から白い歯をすこしばかり洩らした、妖美な笑いを凝固させており、その周囲に一寸角から初号、一号活字ぐらいの赤や黒の大活字が重なり合って踊りまわっていた。「呉服橋劇場蘇える」「新劇場主天川クレハ嬢主演」「邪妖探偵劇――二重心臓」「原作エドガア・アラン・ポーの秘稿」「最近仏国|巴里市場に於て二百万|法を以てグラン・ギニョール座専属パオロ・オデロイン夫人の手に落札せられしもの」「斯界第一人者江馬兆策先生翻案脚色」「凄絶、怪絶、奇絶、快絶、妖美無上」「九月七日午後五時開場六時開演」「特等十円」「普通五円、三円、前売せず」等々々……それから中一日置いて六日と七日の朝刊には又、奇妙な事に、都下著名新聞の「轟氏殺害事件」に関する記事を一々抄録して掲載し、その最下段に四号活字で次のような説明を付けていた。 「諸君はこの劇を見る前に想起して頂きたい。今日から約一箇月前の八月三日の夜、前当劇場主を殺害した不思議な犯人のことを……。その当時、敏捷なその筋の手配により、事件後数時間を出でずして捕まった犯人生蕃小僧こと、本名石栗虎太は、まだ轟氏殺害の理由について一言も供述せず、従って一切はまだ巨大な疑問符の蔭に蔽い隠されている現情であるが、偶然にも当日興行される大天才ポー原作の『二重心臓』に用いられている物凄いトリックは、創作後百年を経過した今日に於て、この満天下を震駭した犯行の大疑問符を、遺憾なく抹消するに足る意外千万な鍵を指示している事を筆者は明言して憚らない者である。復活呉服橋劇場第一夜の演題にこの神秘邪妖探偵劇『二重心臓』を筆者が推選した理由は実に懸ってこの一事に潜在しているので、現代社会の裏面の到る処に波打っているであろう邪妖怪『二重心臓』の鼓動が、如何にしてこの奇怪なる大犯罪事件を描き現わしたかという真相、経過を諸君の眼前に展開しあらわす時、諸君の脈搏を如何に乱打させ、諸君の血管を如何に逆流させ、全身を粟立たせ、頭髪を竦立せしめるであろうか。凄愴感、妖美感に昏睡せしむるであろうかは、筆者の想像の及ぶところでないであろうことをここに謹んで付記しておく。九月 日 江馬兆策識」  なおそうした記事の中央に在る血潮の滴る形をした真赤な?符の輪の中に髪を振乱した呉羽嬢がピストルを真正面に向けて高笑いしている姿が荒い網目版で印刷してあった。 「まあ。お兄さま」 「おお。美鳥。御機嫌よう」 「まあ……今夜の入場者タイヘンじゃないの。コワイみたいじゃないの――」 「ウン。呉服橋劇場空前のレコードだよ」 「あたし此席へ来るのに死ぬ思いしてよ。正面の特等席て云ったんですけど、入口から這入ろうとすると押潰されそうになるんですもの。ヤット寺本さんに頼んで楽屋口から入れてもらったのよ……ああ暑い……ずいぶんお待ちになって……」 「イヤ。ツイ今しがたここへ来たんだ」 「あら。お兄様ずいぶん日にお焼けになったのね」 「ヤット気が付いたのかい。フフフ。これあ温泉焼けだよ。紫外線の強いトコばかり廻っていたからね。お前は元気だったかい」 「ええ。モチよ。あたし四五日前から神戸に行ってたのよ。そうして今朝、家へ帰ってから、貴方の電報を見てビックリしてここへ来たのよ」 「神戸へ何しに行ったんだい」 「それが、おかしいのよ。六甲のトキワ映画ね。あそこから大至急で秘密に来てくれってね。あのアルプスの主婦の妹さん……御存じでしょう。会計をやってらっしゃる貴美子さん……いつも妾達によくして下さる。ね……あの人に頼まれたもんですからね。貴美子さんと二人で行ってみたらトテモ大変な目に会わされちゃったのよ」 「何か唄わせられたのかい」 「それが又おかしいのよ。着くと直ぐに美容院の先生みたいな人が妾を捕まえて、お湯に入れて、お垂髪に結わせて、気味の悪いくらい青白いお化粧をコテコテ塗られちゃったのよ」 「ハハア。スクリン用のお化粧だよ。それじゃあ……エキストラに雇われたんだね」 「ええ。そうらしいのよ。筋も何もわからないまんまに、美術学校のバンドを締めさせられて、学校の教壇みたような処へ立たされて『蛍の光』を日本語で歌わせられたの……そうして三分ばかりして歌が済んじゃったら監督みたいな汚ない菜葉服の人が穴の明いたシャッポを脱いでモウ結構です。アリガトウ……って云ったきりドンドン他の場面を撮り初めるじゃないの。おまけに皆して妾をジロジロ見ているでしょう。貴美子さんはソコイラに居ないし、帰り道は知らないし、妾、どうしていいかわからなくなっちゃって、モウ些しで泣出すところだったのよ」 「馬鹿だね。エキストラなんかになるからさ」 「そうしたらね。その中にどこからかヒョックリ出て来た貴美子さんが、妾をモウ一度お湯に入れて、身じまいを直させている中に、頬ペタに赤|痣のある五十位の立派な紳士の人が、セットの中で、妾に近付いて来てね。妾に名刺を差出しながら、どうも飛んだ失礼を致しました。こちらへドウゾと云ってね。妾と貴美子さんを自動車へ乗せてミカド・ホテルへ連れて行ってサンザ御馳走をして下すった上にね。京都や大阪や奈良あたりを毎日毎日、御自分の高級車で同乗して、見物させて下すったのよ。どこか貴方とお兄様とで、別荘をお建てになりたい処があったら、御遠慮なく仰言って下さいって……トテモお兄さまの脚本を賞めてらしたわ」 「オイオイ。お前ドウカしてやしないかい」 「イイエ。ほんとの話なのよ。そうして帰りがけにトテも立派なリネンの洋服と、ダイヤの指輪と、舶来の帽子とハンドバッグと、靴と、トランクと、一等寝台の切符と……」 「チョット待ってくれ美鳥……イヨイヨおかしい。美鳥は僕の留守に、竈の神様へ唾液を吐きかけるか何かしたんだね」 「アラ。そんならお帰りになってから品物をお眼にかけるわ。また、そのほかにお金を千円頂いたのよ」 「タッタ三分間でかい」 「ええ。ここに持ってるわ」 「馬鹿。いい加減にしろ」 「あら。お聞きなさいったら……それから帰って来てロッキーの支配人にお眼にかかって、そんなお話をしたら……貴美子の奴、飛んでもないイタズラをしやがる……ってね。真青になって聞いてらしったわ。そうしてイキナリ私の前に手を突いて、どうもありがとう御座いました。よく帰って来て下さいました。あの人にかかっちゃ叶いません。どうぞ、これから後トキワ映画へお這入りになるような事がありましても、私の方の契約だけは、お約束通りにお願い致します……ってペコペコあやまってんの。ツイ今サッキの事よ。あたし何の事だか、わかんなくなっちゃったわ」 「その名刺、ここに持ってんのかい」 「ええ。ここに在るわ。段原っていう人よ。あたしどこかで聞いた事があるように思うんですけど……」 「エッ……段原……それあお前アノ興行王じゃないか……東洋一の……」 「アラッ。そうそう……あたし写真ばっかり見てたから気が付かなかったんだわ。あの人に妾見込まれたのか知ら……」 「……ウーム。大変な事になっちゃったね」 「あたしドウしましょう」 「ところで本職のロッキー・レコードの方の成績はドウダイ……」 「それが又おかしいのよ。故郷の小唄ばかり入れさせられるのよ。故郷の発音を西洋人が聞くとトテモ音楽的なんですってさあ。他の人が歌ったんじゃ駄目なんですって……」 「妙だね。ウッカリすると、そいつもやっぱりメード・イン・ジャパンのお蔭かも知れないぜ」 「そうかも知れないわ。でもね、妾の唄った『島の乙女』の裏表が七千枚ずつ二度も亜米利加へ出たそうよ。ですから妾、今月はトテモホクホクよ」 「……驚いたね。アンマリ早くエラクなり過ぎて恐しいみたいじゃないか」 「そうしてお兄様の方の成績はドウ?」 「お前とウラハラだ。何もかも滅茶滅茶さア」 「まあ。でも無事にお帰りになってよかったわ」 「いや。まだわからないよ。無事だかどうだか」 「どうしてコンナに早くお帰りになったの……九月の十日過に帰るって仰言ったのに……」 「どうしてってあの今月四日の新聞を見たからさ。急に心配になって来たからね」 「……アラ……妾もよ。ずいぶん心配しちゃったわ。だってお兄様が熱海からお送りになった、今度のお芝居の脚本を弁護士の桜間さんにお渡しする前にチョット盗み読みしていたでしょう。あの脚本でアンナ大袈裟な広告をするなんて、ずいぶんヒドイと思ったわよ。呉羽さんの身上話まる出しなんですもの。ポーの原作でも何でもありゃしない」 「ウン。僕が心配したのもソレなんだよ。立派な広告詐欺だからね。おまけにお前、あの脚本は呉羽さんの命令で全部骨抜きだろう。今度の事件の核心に触れているところなんかコレンバカリもありあしない。何でもカンでも上演脚本がパスさえすれあ、それでいいって云うんだからその通りに書いておいたのさ。それから直接に桜間弁護士に立山から長い電報を打って様子を聞いてみると、あの脚本にはロクに眼も通さないまま、呉羽さんが出発しちゃったという返事だろう。弱ったよ全く。ドンナ本読みをしてドンナ稽古を附けているんだか丸きり見当が付かないんだからね。笠のオヤジの生蕃小僧問題なんかホッタラかしちゃって、座員の寺本に電報を打って、この特等席を二つ取ってもらって、その返事を見てから大急ぎで帰って来たんだがね。その途中で美鳥にあの電報を打ったのさ」 「道理で……あたし、ちょっと意味がわからなかったわ。だって『スグテラモトニデンワセヨ』っていうんですもの。あたしアンナ女たらしの役者の人に会わなくちゃならないのかと思ってヒヤヒヤしちゃったわ」 「美鳥は相変らずお固いんだね」 「笠さんは今、どこに居らして?」 「モウ帰って来ている筈だがね。越中の立山に居たんだが」 「アラ。マア。あんな処へ……」 「ウン。どうやらお前の予言が当ったらしいんだ。俺は呉羽さんから良い加減ドンキホーテ扱いにされていたらしいんだ」 「まあ……どうして……」 「どうしてって馬鹿な話さ。笠支配人は何でもないんだよ。僕があの脚本を書上げると直ぐに、彼奴に取りかかってやったんだ。犯人は貴様だろう……って威嚇し付けてやったら、一ペンに青くなっちゃってね。色々弁解しやがるんだ。下らないアリバイなんか出しやがってね……そのうちにドウモ此奴は生蕃小僧なんて恐れられるようなスゴイ人物じゃないらしいって感じがして来たんだ。しかし、それでも猫を冠っているんじゃないかと思って、色々変相して附け狙っていると、彼奴め殺されるとでも思ったのか、素早く俺の変装を看破して、アッチ、コッチの温泉を逃げまわりやがるんだ。アイツは余っ程、温泉が好きなんだね。しかも行く先々で彼奴の狒々老爺振りを見せ付けられてウンザリしちゃったよ。まったく……」 「妾も大方ソンナ事でしょうと思ってたわ」 「そのうちに今月の五日になって、立山温泉で東京の新聞のアノ広告を見ると正直のところ、二人ともビックリしちゃったんだね。これは大変だ。飛んでもない事が初まらなけあいいがと気が付くトタンに、二人とも何となく呉羽さんに一パイ喰わされて、睨めっこをさせられているような気がし初めたんだね。そこでドッチからともなく二人が寄り合って、ザックバランに膝を突き合わせて話合ってみると、ドウモ呉羽さんの二人に云った言葉尻が怪しい。これはこの興行の邪魔にならないように、吾々二人を東京から遠ざける計略じゃなかったのか……呉羽さんは、こうして吾々二人が承知しそうにない無鉄砲な興行を、自分一人でやっつける了簡じゃないのか……という事になって来ると、まさかとは思いながら二人とも急に不安になって来たもんだから、大急ぎで勝手な汽車に乗って帰ることに話をきめたもんだ」 「ずいぶん鈍感ねえ。お二人とも……」 「そう云うなよ。呉羽さんの腕が凄いんだよ」 「それからドウなすって……」 「ところがサテ……帰って来てみると俳優たちは一人残らず口止めをされていると見えて、芝居の筋なんか一口も洩らさない。それから考えて楽屋裏の大道具を覗いてみると、まだハッキリはわからないが、ドウモ僕の註文した場面とは違うような道具が出て来るらしいので、イヨイヨ心配になって来た。だから藪蛇かも知れないとは思ったがツイ今しがたの事だ。此席へ来る前に警視庁の保安課へ寄って、興行係の片山っていう心安い警部に会って、済まないがモウ一度あの上演本を見せてもらえまいかって頼むとドウダイ。イキナリ僕の手をシッカリと握って離さないじゃないか……あの筋書はどこから手に入れた……って眼の色を変えて聞くんだ。俺あギョッとしちゃったよ。まったく……」 「……そうでしょうねえ……ホホ……」 「片山警部の話はこうなんだ……あの二通の上演脚本は八月の十五日に願人の桜間っていう弁護士から受取って、九月の三日に許可したものだが、その九月六日……昨日の朝の事だ、新聞の広告を見た大森署の司法主任の綿貫警部補っていうのがヒョッコリと警視庁へ遣って来て、あの『二重心臓』の上演脚本を見せてくれと云うのだ。お安い御用だというので見せてやると、読んでいる中に綿貫警部補の顔が真青になって来た。……済まないが、ほんのチョットでいいからこの脚本を貸してもらえまいかという中に、引ったくるようにポケットに突込んで、無我夢中みたいに自動自転車に飛乗って帰った」 「……まあ怖い……」 「それから夕方になって汗だくだくの綿貫警部補が、礼を云い云い返しに来た時の話によると大変だ……あの筋書は、この間死んだ轟九蔵氏と、犯人以外に一人も知っている筈がない。きょうが今日まで犯人に、あの筋書と同じような事実について口を割らせようと思って、どれ位、骨を折ったかわからないんだが、あの上本が手に這入ったお蔭で犯人がヤット口を割った。多分作者が、死んだ轟氏から秘密厳守の約束か何かで聞いていた話だろうと思って、まだ大森署に置いてある犯人に、あの筋書を読んで聞かせて、間違っている処を訂正させた序に、呉羽さんの興行の話を聞かせてやったら、ドウダイ突然に顔色を変えて、その興行を差止めて下さいと怒鳴り出したもんだ。折角の私の苦心が水の泡になりますと云うんだそうだ」 「生蕃小僧がそう云うの……」 「ウン。怖い顔から涙をポロポロこぼして泣きながら、私の一生のお願いで御座います。ドウセ死刑になります身体に思い残す事はありませぬが、こればっかりはお情です。どうぞやドウゾお助けを願います。さもなければここで舌を噛んで死にます……と云って、しまいにはオデコを板張に打ち附けて、顔中を血だらけにして、キチガイのように暴れまわりながら哀願するんだそうだ」 「……まあ……何て気味の悪い……」 「……だから綿貫司法主任が、そんならその貴様の苦心というのは何だって聞いてみたら、こればっかりは御勘弁を願います。とにかくそのお芝居ばっかりは、お差し止めにならないと大変な事になります。さもなければ、そのお芝居の初まる前にモウ一度天川呉羽さんに会わして下さい。お願いですお願いですと滅法矢鱈に駄々を捏ねて聴かないのには往生した。死刑囚にはよくソンナ無理な事を云って駄々を捏ねる者が居るそうだがね。それにしても何が何だか訳がわからないもんだから、昨日から大騒ぎをして僕の行衛を探していたところだった……という、その保安課の片山警部の話なんだ」 「まあ……それからドウなすって……」 「僕も何が何だか、わからなくなっちゃったからね。ナアニ、あの脚本はやはりお察しの通り轟さんから生前に聞いた通りの事を勧善懲悪式に脚色しただけのものなんです。それじゃ今から大森署へ行って、司法主任に会って、よく相談して来ましょう……と云って、逃げるように警視庁を飛び出して来たのがツイ二時間ばかり前なんだ。それから危ないと思ってここに来て、楽屋裏に隠れていたんだ。ウッカリ捕まると、芝居が見られなくなると思ったからね」 「まあ。それでヤット訳がわかったわ。あのね、警察の人にはドンナ事があっても呉羽さんから聞いたって仰言っちゃ駄目よ」 「勿論さ。轟さんから直接に聞いた事にするつもりだが、それでも今夜、この芝居を見たら直ぐにも大森署へ行ってみなくちゃならん。犯人にも会わなくちゃなるまいかとも思っているんだが、とにかくこの芝居の演出を見た上でないと、カイモク方針が立たないんだ」 「どうして犯人がソンナにこの芝居を怖がるのでしょう。どうせ死刑になる覚悟なら、それより怖いものはない筈でしょうに……」 「さあ。ソンナ事はむろん、わからないね」 「それにしても今夜の場内スゴイわね。この中に生蕃小僧の人気が混っていると思うと、妾何だか気味が悪いわ。みんな死刑を見に来たような顔ばかり並んでいるようで……」 「ウン。これが又、僕の心配の一つなんだ。あの広告じゃ、たしかにインチキの誇大広告だからね。第一ポオの原作っていうのからして大ヨタなんだから……僕が夢にも思い付かなかった作り事なんだからね。今夜の演出がわかったらキット興行差止を喰うにきまっている」 「アラ。今夜のお芝居も駄目になるの」 「イヤ。そんな事はないだろう。ドンナに無茶な芝居を演ったって、思想や風教や政治向に関係してない限り、その場で臨席の警官から差止められるような事は、今までに一度も例がないんだからね……問題は明日の芝居なんだが」 「呉羽さんは今晩一晩でウント売上げようと思っていらっしゃるんじゃないの。罰金覚悟で……」 「そうかも知れんね」 「そんならトテモ凄い興行師じゃないの」 「ウン。しかも、そればかりじゃないんだよ。あの女は世界に類例のない偉大な女優であると同時に、劇作と犯罪批評の天才だよ。……同時に悪魔派の詩人かも知れないがね」 「あたし何だかドキドキして来たわ」 「暑いからだろう」 「イイエ。呉羽さんの天才が怖くなって来たのよ。ドンナ演出をなさるかと思って……」  こんなヒソヒソ話が進行しているのは一階正面中央の特等席であった。旅疲れのままで、一層、醜くくなった職工風の江馬兆策と、青白いワンピースに、タスカンのベレー帽をチョッと傾けた、女学生みたいに初々しい美鳥の姿は、世にも微笑ましいコントラストを作っているのであった。  呉服橋劇場内は、文字通りの殺人的大入であった。あまりの大入りなので観客席の整理が不可能になったらしい。外廊から舞台の直前まで身動き出来ない鮨詰で、一階から三階までの窓を全部|明放し、煽風機、通風機を総動員にしても満場の扇の動きは止まらないのに、切符売場の外ではまだワアワアと押問答の声が騒いでいるのであった。  定刻の六時に五分前になると場内から拍手の洪水が狂騰した。その真正面の幕前の中央に、若い背の高い燕尾服の男が出て来て、恭しく観客に一礼して後、何事か喋舌り出したからであった。それも最初の間はさながらにこうした未曾有の満員状態を面白がっているような盲目的な拍手に蔽われて、言葉がよく聞き取れなかったが、その中に群集のドヨメキが静まると、やがて若々しい朗らかな声が隅々までハッキリと反響し初めた。 「あら。アレ寺本さんじゃない?」 「ウム。以前はロッキー専属のテノルで相当のところだったよ」 「いい声ね……」 「ええ。ところで早速では御座いますが、今晩のお芝居の興味の中心と申しますのは、広告にも掲載致しました通り、前の当劇場主、故、轟九蔵氏を殺害致しました犯人の、まことに古今に類例のない恐ろしい心境を脚色し、的確にして且つ、意外千万な真犯人を指摘致しますところに在りますので、特に、最後の一幕と申しまするのは、このたび新しい当劇場主と相成りました天川呉羽嬢の独白、独演と相成っているので御座います。ふつつかながら斯界に於きまして、仏蘭西のパオロ・オデロイン夫人と相並んで、邪妖探偵劇の二|明星とキワメを附けられております天才女優、天川呉羽嬢が、その最後の独白、独演において、どのような物凄い演出を行い、この二重心臓の舞台面を、どのように戦慄的なクライマクスにまで導きますかという筋書は、遺憾ながら当の本人の天川呉羽嬢以外に、作者、座員一同の誰もが一人として存じておりませぬ事を、前以てお含みまでに申上げておきます。……すなわち今晩御来場の皆様は、過般、満都の諸新聞に報道されました探偵劇王、轟氏の遭難の実情を、一方も残らず御存じの事として演出致しますので、従ってその遭難の実情に関する説明は、勝手ながら略さして頂きます。そうしてここにはただ斯様な、予期致しませぬ過分の御ひいきのために、万一プログラムを差上げ落しました方が、おいでになりはしまいかと存じますから、そのような方々の、単なる御参考と致しまして、極めて心理的に構成されております各幕の内容を短簡に申上げさして頂くに止めます。  第一幕……探偵劇王殺害事件の遠因――兇賊生蕃小僧と等々力久蔵親分活躍の場面。二場。  第二幕……探偵劇王殺害の動機、及、殺害の現場。二場。  第三幕……探偵劇王の後継者、天川呉羽嬢、独白、独演。真相説明の場。一場。――以上――」  満場割れむばかりの拍手が起ったが今度は直ぐにピッタリと静まった。舞台の片隅で冷たいベルの音が断続する中に、幕が静かに揚り初めたからであった。  一階から三階までの窓は全部、いつの間にか閉されていた。場内はたまらない薄暗さと、蒸暑さに埋もれていたが、それでも何千の人が作る氷のような好奇心が、場内一パイに冴え返っていたせいであったろう。扇の影一つ動かない深海の底のような静寂さが、一人一人の左右の鼓膜からシンシンと沁み込んで来るのであった。  第一幕、第一場は、静岡県見付の町外れの国道に面する草原の場面であった。その草原の中央の平石に腰をかけている若親分、等々力久蔵の前に、金モール服の薬売人に化けた生蕃小僧こと、石栗虎太が胡座をかいて、ポケットの中からピストルを突付け、等々力久蔵の妻君の不行跡を曝露し、嘗て、或る処で、自分が等々力の妻君から貰ったという紫水晶の簪を見せびらかしつつ、甘木柳仙宅襲撃の仕事を見逃がしてくれるように頼み込む。等々力久蔵は暫く考えてから承諾の証拠に、紫水晶の簪を受取り、生蕃小僧と別れる。それから生蕃小僧が立去って後に、妻と世話人を草原に呼んで来て、証拠の簪を突付け、厳そかに離別を申渡し、涙を払いながら決然として立去る。木立の蔭からその光景を窺っていた生蕃小僧が立出で、腕を組んだまま物凄い冷笑を浮かべて等々力久蔵の後姿を見送り、 「トテモ追出しゃあしめえと思ったが……この塩梅では愚図愚図しちゃいられねえぞ」  と独りでうなずきながら立去る場面であった。  続いて舞台がまわると甘木柳仙自宅の場で、等々力久蔵が柳仙夫婦から娘の三枝を借受け、それとなく三枝に左様ならを云わせ、思入れよろしくあって退場する。そのままの場面で日が暮れると生蕃小僧が忍び入り、柳仙夫婦を惨殺し、家中を探しまわって僅少の小遣銭を奪い、等々力久蔵に計られたかなと不平満々の捨科白を残して立去るところであった。  幕が締ると皆ホッとして囁き合った。 「ねえお兄様。イクラか書換えてあって?」 「ウン。それが不思議なんだ。この幕は大体から見て僕が書下した通りなんだ。あんな大道具をどこに蔵って在ったんだろう……ただ柳仙夫婦の殺されの場がすこし違うようだね。あんな風に老人の柳仙が頭からダラダラ血を流して拝むところなんぞはなかったよ。キット睨まれると思ったからカゲにしておいたんだがね」 「警察の人は来ているんでしょうか」 「来ていても今晩は何も云わないのが不文律みたいになっているから大丈夫だよ。その代り明日になるとキット差止めるとか何とか威かして来るにきまっているんだ。もっとも呉羽さんは、それを覚悟の前で演ってるのかも知れないがね」 「……でも轟さんと呉羽さんの前身だけは今の幕で想像が付くワケね」 「ナアニ。みんな芝居だと思って見ているんだから、そんな余計な想像なんかしないだろう」 「そうかしら……でもポオの原作なんて誰も思やしないわよ。あれじゃ……」 「フフフ。黙ってろ。幕が開くから……オヤア……これあ西洋|室だ……おれア日本|室にしといた筈だが……」 「……シッシッ……」  第二幕の第一場は大森の天川呉羽嬢邸内、轟九蔵氏自室の場面であった。部屋の構造から品物の配置、主人轟九蔵氏の扮装に到るまで、すべて実物の通りで、窓の外に咲き誇っている満開の桜までも、寸分違わない枝ぶりにあしらってある。  その東の窓際の寝椅子に、着流しの轟九蔵氏が長くなっている足先の処に、美術学校の制服を着た、イガ栗頭の江馬兆策に扮した俳優が腰をかけている。その前に音楽学校のバンドを締めた美鳥ソックリの少女が姿勢正しく立って、美鳥のレコードを蔭歌にして独唱をしている体。それを轟氏が、如何にも幸福そうに眼を細くして聞いている。 「うらわかき吾が望み 青々と晴れ渡り  かがやかに雲流る 大空よああ大空よ」 「うらわかき吾が思い はてしなく澄み渡り  すずろかに風流る 大空よああ大空よ」 「ウム。なかなか立派な声になった。学校というものは有難いものだ」  兄妹同時に頭を下げる。 「ありがとう御座います」 「ああ。御苦労だった、お蔭でいい心持になった……ウム。それからなあ。きょうは久し振りに娘の三枝と一所に夕食を喰べるのじゃから、お前たちも来て一所に喰べてくれ」  二人顔を見合わせて喜ぶ。 「ハハハ。嬉しいか」 「ありがとう御座います」 「おじさま。ありがと」 「うむ。なかなか言葉が上手になったな。もう日本人と変らんわい。ハハハ。どうだい。お前たちは日本と朝鮮とドッチが好きかね」 「僕日本の方が好きです」 「何故日本が好きかね」 「朝鮮には先生みたいに外国人を可愛がる人が居りません」 「ハハハ。外国人はよかったな。美鳥はどうだい」 「あたし豆満江がもう一ペン見とう御座いますわ」 「うむうむ。その気持はわかるよ。あの時分はお前達と雪の中で、ずいぶん苦労したからなあ」 「おじ様が毎日|鮭を捕えて来て、あたし達に喰べさして下さいましたわね」 「アハハハ。ところでお前たちは、あれから毎日毎日三枝と兄妹みたようにして暮して来ているが、これから後も、このおじさんに万一の事があった時に、今までの通りに仲よくして暮して行けるかね。参考のために聞いておきたいが……」 「出来ます。僕、呉羽さん大好きです」 「美鳥はどうだい」 「わたくし……好きです……トテモ。ですけど……何だか怖おう御座いますわ」 「ナニ怖い。どうして……」  美鳥、恥かし気にしなだれる。轟氏もキマリ悪るそうに顔を撫でて笑う。 「怖いことなんかチットモないんだよ。アレは負けん気が強いし、小さい時から世の中のウラばかり見て来とるから、あんな風になったんだよ。ホントは実に涙もろい、純情の強い人間なんだよ」 「呉羽さんはエライ女ですよ。何でも御存じですからね。悪魔派の新体詩だの、未来派の絵の批評が出来るんだから僕、驚いちゃった」 「ウム。わしの感化を受けとるかも知れん。わしも元来は平凡な、涙もろい人間と思うが、あんまり早くエライ人間になろうと思うて、自分の性格を裏切った人生の逆コースを取って来たために、物の見え方や聞こえ方が、普通の人間と丸で違ってしもうた。悪魔のする事が好きで好きで叶わん性格になってしもうた。ハハハ。怖がらんでもええぞ美鳥……お前たち兄妹に対しては俺はチットモ悪魔じゃない。平凡な平凡な涙もろい人間だ……その平凡な平凡な人間に時々立帰ってホッと一息したいために、お前達を養っているのだ……イヤ詰まらん事を云うた。それじゃ又、晩に来なさい。夕飯の準備が出来たら女中を迎えに遣るから……」 「おじさま……さようなら……」 「先生……さようなら……」 「ああ。さようなら……」  二人が退場すると轟氏|呼鈴を押し、這入って来た女中に三枝を呼んで来るように命じ、そのまま寝椅子に長くなる。  大きな桃割。真赤な振袖。金糸ずくめの帯を立矢の字に結んだ呉羽がイソイソと登場する。 「あら……お父様。お呼びになったの」 「……うむ。こっちへお出で……」 「……嬉しい。又、どこかのお芝居へ連れてって下さるの」  と呉羽嬢が甘たれかかるのを抱きあげて身を起した轟氏は立上って、入口の扉に鍵を卸し、窓のカアテンを閉して異様に笑いながら寝椅子に帰り、呉羽の身体を抱き上げる。 「きょうは、私の方からお前にお願いがあるんだよ」  と少し真面目に帰りながら、二人の身の上話を初め、前の幕の通りの事を簡略に物語り、二人が真実の親子でない事を明らかにする。  その一言一句に肩をすぼめ、眼を閉じて魘えながらも、不思議なほど冷然と聞いていた呉羽は、やがて冷やかな黒い瞳をあげて微笑する。 「それで妾にお願いって仰言るのはドンナ事なの……」  轟氏は忽ちハラハラと涙を流し、熱誠を籠めた態度で、呉羽の両手を握る。 「……オ……俺は、お前を一人前に育て上げてから、両親の讐仇を討たせようと思って、そればっかりを楽しみの一本槍にして、今日まで生きて来たんだ」 「……まあ……そんな事……どうでもよくってよ。今までの通りに可愛がって下されば、あたしはそれでいいのよ」 「……ウウ……そ……それは……その通りだ。……と……ところがこの頃になって……俺は……俺に魔がさして来たんだ。もちろん最初の目的は決して……決して忘れやしない。必ず……必ず貫徹させて見せる。生蕃小僧は、お前の一生涯の讐敵だから、この間お前が頼んだように、誰にもわからない処で、一番恐ろしい……一番気持のいい方法で讐敵を取らしてやる決心をして、現在、極秘密の中に、この家の地下室でグングン準備を進めているところだが………」 「……アラッ……ホント……」 「ホントウだとも。もっとも二……二三年ぐらいはかかる見込だがね。骨が折れるから……」 「嬉しい。楽しみにして待っていますわ」 「……と……ところがだ。この頃になったら、その上に……も……もう一つの別の目的が……オ……俺の心に巣喰い初めたのだ。そそ……その目的を押付けようとすればする程……その思いが募って……弥増して来て……もうもう一日も我慢が……で……出来なくなって来たんだ」 「まあ。そのモウ一つの目的ってドンナ事?」 「オ……俺は……お前をホントウに俺のものにしたくなったのだ。ああ……」  轟氏は涙を滝のように流し、両手を顔に当てる。呉羽は本能的に飛退いて、傍の椅子を小楯に取り冷やかに笑う。 「まあ。あなた馬鹿ね。あたし今でも貴方のものじゃないの。この上に妾にどうしろって仰言るの……」 「ウ……嘘でもいいから……オ……俺の妻になったつもりで……俺に仕えてくれ」 「あら。厭な人。あなた妾を恋して、いらっしゃるのね」  轟氏は寝椅子からズルズルと辷り落ちてペッタリと両手を床に支える。乞食のようにペコペコと頭を下げる。 「そ……そうなんだ。タ……助けると思ってこの俺の思いを……」  呉羽、椅子の背中に掴まったまま、仕方なさそうに身を反らして高笑いする。 「ホホホホホホホホホホホ可笑しな方ね。ホホホホホホホホ……」  その笑い声の中に電燈が消えて、場内が真暗になっても、笑い声は依然として或は妖艶に、或は奇怪に、又は神秘的にそうして忽ちクスグッタそうに満場を蠱惑しいしい引き続いている。  そのうちにソノ笑い声が次第に淋しそうに、悲しそうに遠退いて行って、やがてフッツリと切れるトタンに舞台がパッと明るくなり、第二幕の第二場となる。  呉羽の姿は見えず。黒っぽいモーニングコートに縞ズボン白|胴衣の轟氏がタダ独りで、事務机の前の廻転椅子に腰をかけて、金口煙草を吹かしながら一時二十五分を示している正面の大時計を見ている。左側のカアテンを引いた窓|硝子の外に電光がしきりに閃めくと、窓の前の桜がスッカリ青葉になっているのが見える。その電光の前に覆面の生蕃小僧が現われコツコツと窓|硝子をたたく。  轟氏が立って行って開けてやると両足を棒のように巻いた生蕃小僧が、手袋を穿めた片手にピストルを持って這入って来る。 「ハハハ。よく約束を守ったな」  轟氏は用意の小切手を生蕃小僧に与える。 「この次は真昼間、玄関から堂々と這入って来い。夜は却って迷惑だ」 「卑怯な事をするんじゃあんめえな」 「俺も轟九蔵だ。貴様はモウ暫く放し飼いにしとく必要があるんだ。今日は特別だが、これから毎月五百円|宛呉れてやる。些くとも二三年は大丈夫と思え」 「そうしていつになったら俺を片付けようというんだな」 「それはまだわからん。貴様の頭から石油をブッ掛けて、火を放けて、狂い死させる設備がチャントこの家の地下室に出来かけているんだ。俺の新発明の見世物だがね……グラン・ギニョールの上手を行く興行だ。その第一回の開業式に貴様を使ってやるつもりだが……」 「そいつは有り難い思い付きだね。しかし断っておくが、俺はいつでも真打だよ。前座は貴様か、貴様の娘でなくちゃ御免蒙るよ」 「それもよかろう。しかしまだ見物人が居らん。一人頭千円以上取れる会員が、少くとも二三十人は集まらなくちゃ、今まで貴様にかけた経費の算盤が取れんからな。とにかく油断するなよ」 「ハハハ。それはこっちから云う文句だ。貴様が金を持っている限り、俺は貴様を生かしておく必要があるんだ。俺はまだ自分の弗箱に手を挟まれる程、耄碌しちゃいねえんだからな……ハハンだ」 「文句を云わずにサッサと帰れ。俺は睡いんだ」  轟氏、生蕃小僧が出て行った窓をピッタリと閉め、床の上の足跡を見まわし、葉巻に火を付けながら何か考え考え歩きまわっている中に、微かな電鈴の音を聞き付け、 「ハテナ。電話かな」  とつぶやきながら廊下へ出て行く。入れ代って大きな白い手柄の丸髷に翡翠の簪、赤い長襦袢、黒っぽい薄物の振袖、銀糸ずくめの丸帯、白足袋、フェルト草履という異妖な姿の呉羽が、左手の扉から登場し、奇怪な足跡に眼を附け、一つ一つに窓際まで見送って引返し、机の上の小切手帳を覗き込んで何やら首肯き、唇をキッと噛んで部屋の中をジロジロ見まわしながら考えている中に突然、ポンと手を打合わせてニッコリ笑い、残忍な眼付で入口の扉を振返りつつ、机の上の短剣型ナイフを取上げて素早く帯の間に隠すところへ、電話をすました轟氏が帰って来て悠々と扉を閉め、立っている呉羽と向い合ってギョッとする。 「ナ……何だ……何だ今頃……何か用か……」 「ハイ。きょう……昼間にお願い致しました事の、御返事を聞かして頂きに参りましたの」 「美鳥と結婚したいという話か」 「ええ……貴方の眼から御覧になったら、飼って在る小鳥が、籠の中から飛出したがっている位の、詰まらないお話かも知れませんけども……妾……あたしこの頃、急にそうして、今までの妾の間違った生活を清算したくてたまらなくなりましたの」 「ならん……そんな馬鹿な事は……俺の気持ちも知らないで……」 「ホホ。お憤りになったのね。ホホ。それあ今日までの永い間の貴方のお志は何度も申します通り、よくわかっておりますわ。……ですけど……あたしだって血の通っている人間で御座いますからね。最初から貴方のお人形さんに生れ付いている犬猫とは違いますからね。もうもう今までのような間違った、不自然な可愛がられ方には飽き飽きしてしまいましたわ」 「……カカ……勝手にしろ。馬鹿。俺のお蔭で生きているのが解らんか」 「どうしても、いけないって仰言るの……」 「ナランと云うたらナラン……」  と云い捨てて廻転椅子に腰をかけ、事務机の上を片付け初める。 「オヤ。紙小刀が無い。鞘はここに在るんだが……お前知らんか……」 「存じませんわ。ソンナもの……」 「彼品はトレード製の極上品なんだ。解剖刀よりも切れるんだから無くなると危険いんだ。鞘に納めとかなくちゃ……」 「よござんすわ。あたし、どうしても美鳥さんと結婚してみせるわ。キットこの家で美鳥さんに子守唄を唄わせて見せるわ」 「……………………」 「何と仰言ったって美鳥さんを逐出させるような残酷な事は、断じて、断じてさせないわ」 「……勝手にしろッ。コノ出来損ないの……カカ片輪者の……ババ馬鹿野郎ッ……」 「ネエ。いいでしょう……ねえ。ねえエ……あたしだってモウ……年頃なんですものオ……」  と云ううちに轟氏の背後から廻転椅子ごしに甘えかかるようにして頬をスリ寄せながら、帯の間から短剣を取出し、白い腕の蔭に隠して轟氏の胸に近付け、不意に両手で握って力任せにグッと刺す。 「ガッ……ナ何を……するッ……ガアッ……ムムムムム……」  その時に硝子窓の外から、最前の生蕃小僧が覆面の顔を覗かせる。電光イヨイヨ烈しくなる。  呉羽は虚空を掴んだままの轟氏の両手を避けながら、刺さっている刃物の十字形の※を、鼻紙で用心深く拭い上げ、事務机の一番下の曳出から生蕃小僧の脅迫状を探し出して、その中の一枚を元に返しながら懐中し、曳出の表面に残っている指紋に呼吸を吐きかけ吐きかけ念入りに鼻紙で拭き取っている中に、窓|硝子をコツコツとたたく音を聞付け、ハッとして振返る。  窓の外の生蕃小僧、覆面を除き、白い歯を露わしつつ眼を細くして笑い、ここを開けよという風に手真似をする。呉羽はわななく手で曳出しからピストルを取出し、襦袢の袖に包み、引金に指をかけながら近付き、やはり襦袢の袖でネジを捻じって窓を開ける。生蕃小僧は外に立ったまま依然として笑いながら声をひそめる。 「呉羽さん。相変らず綺麗ですなあ」 「……………………」 「私ゃこれで貴女の生命がけのファンなんだよ。ドンナに危い思いをしても、貴女の芝居ばっかりは一度も欠かした事はないし、ブロマイドだって千枚以上|蓄めているんだぜ。ハハ」 「……………………」 「しかし、心配しなくともいいんだよ。どうもしやせんから……あっしはねえ……」 「……………………」 「あっしはね。モウ御存じかも知れんが、貴女や、その轟さんとは相当、古いおなじみなんだ。あっしを手先に使って、貴女の御両親を殺させた、その轟九蔵って悪党に古い怨恨があるんでね。タッタ今二千円をイタブッて出て行ったばっかりのところなんだが……どうも彼奴の呉れっぷりが美事なんでね。万一、警察へ密告やしめえかと思って、途中の自働電話から彼奴を呼出して、もう一度用事が出来たからと云っておいて、引返してみたら、約束しておいた玄関の扉が開かない。おかしいなと思って、ここへ来て様子を見ているうちに、何もかも見てしまったんだがね……ヘヘヘ……何も心配しなくたっていいんだよ。呉羽さん。ちょうど、あっしが思っていた通りの事をアナタが遣ってくんなすったんだから、お礼を云いてえくれえのもんだ。お蔭であっしも奇麗サッパリと思い残すことがなくなりましたよ。ヘヘヘ……どうも、ありがとうがんす」 「……………………」 「ヘヘヘ。だから万一あっしが検挙られたって、決して今夜の事あ口を割りやしません。アンタのしなすった事は、何もかもアッシが背負って上げます。ドウセ首が百|在ったって足りねえ身体なんだからね。ハハハ」 「……………………」  呉羽はピストルを取落しヨロヨロと後退りして踏止まり、両袖を胸に抱き締めて一心に生蕃小僧の顔を見詰める。 「ハハハ。その代りにねお嬢さん。万が一にも、あっしが無事に逃走了せたら、どこかで、タッタ一度でもいいから、あっしの心を聞いて下さいよ……ね……」 「……………………」  生蕃小僧はうなだれたまま神に祈るようにつぶやく。遠雷の音……。 「しかし、それあ、あっしみてえな人間にとっちゃ、及びもねえ事かも知れねえ。だから万一御用を喰っちまえあ、貴女の罪を背負って行くのがタッタ一つの楽しみでさ。ヘヘヘ。あっしみてえな人間の心あ貴女みてえな女でなくちゃあ理解ってもれえねえからな」 「……………………」  生蕃小僧はチョット涙を拭いてニヤニヤと笑った。 「ヘヘヘ。それからね。チット未練がましい長文句になって済まねえが、明日の朝は、せめてアッシにお線香でも上げるつもりで、出来るだけ朝寝しておくんなさいね。その轟九蔵の死骸がアンマリ早く見付かっちゃ困るんだ。銀行へ行ってお金を受取らなくちゃなりませんからね。いいかね。お頼ん申しますよ」  と云う中に姿は闇の中に消えて、声だけが朗らかに残った。 「……オットット……その窓は、そのまんま開け放しといた方がいいね。閉め切っとくと、オマハンの首に縄がかかるんだ。ハハハハハハ……」  やがてバラバラと雨の音……烈しい電光……。  あとを見送った呉羽はホッとため息した。そうしてニッコリとあざみ笑いをしいしい入口の扉の把手を、袖口でシッカリと拭い上げてから、舞台正面、中央の青ずんだフットライトの前まで来ると、大きな眼をパチパチさせてビックリしたように場内一面の観衆を見まわした。……すると……その背後の天井裏から新調らしい、真白い緞子の幕がスルスルと降りて来て、一切の舞台面を霧のように蔽い隠した。 「ヒヒヒヒヒヒヒヒヒホホホホホホホホホハハハハハ……」  底の抜けるほど朗らかな、明るい呉羽の笑い声が、満場におののき渡った。  トタンに場内の片隅から、低いけれどもケタタマシイ、慌てた声が起った。 「芝居だよ芝居だよ。タカが芝居じゃないか。ビクビクするな。シッカリしろ……シッカリして舞台を……アッ。いけねえいけねえ。脳貧血脳貧血。チョット誰か……来て……」  そうした若い男の声が、一層モノスゴク場内を引締めた。  しかしその声の方向を振り向いて見る者すら居なかった。場内はさながらに数千の人間を詰めた巨大な花氷のように冷たく凝固してしまっていた。その中に呉羽の笑い声が今一度華やかに、誇りかに閃めき透り初めた。 「ホホホホホホハハハハハハ……。いかがで御座います皆様……おわかりになりまして? 轟九蔵を殺したのは私だったので御座いますよ。皆様からこれほどの身に余る御引立を受けまして、轟九蔵からあれほどまで可愛がられておりました私だったので御座いますよ。ホホホハハハハハ……。  ……その殺しましたホントの理由と申しますのは……どうぞ恐れ入りますが今晩のお芝居を、第一幕から今一度繰り返して御考え下さいまし。当劇場の探偵劇を御ひいき下さいます皆様は、すぐに御察し下さることと存じます。  ……私は、父の甘木柳仙が老年になってから生まれました長男だったので御座います。そうして只今も取って十九歳に相成ります甘木三枝と申す男の子なので御座います。ハハハハホホホホホ……私の実父の柳仙は旧弊な人間で御座いましたので、老人の一人子は、その子供の性を反対に取扱って育てますと……女の児は男の児の通りに……又男の児は女の児の通りにして育てますと、無事に成長させる事が出来る……とよくソンナ事を申します迷信から、わざわざ私を女の児という事にして三枝という名前を附けて役場に届けまして、それから何もかも女の児として育てられながら、だんだんと大きくなってまいりますうちに、私自身でも、自分が男だか、女だかわからない位、声から姿までも……心までも女らしくなってしまったので御座います。只今、こう申しております中にも皆様はまだ私を一人前の女と信じ切っておいでになる方が、かなり大勢おいでになる事で御座いましょう。ホホホホホホハハハハハハハハハ……。  ……ところがツイこの頃になりまして、そうした女性的な習慣に埋もれておりました私の心が、いつの間にか男性として眼醒め初めたので御座います。そうして今晩のお芝居で、お眼にかけました通りに、あの轟九蔵の執拗い変態的な愛がたまらなく厭になりまして、あの純真なソプラノ歌手の美鳥さんと一所になりたいばっかりに、止むに止まれない切ない気持から、あのような無鉄砲な事を仕出かしまして、満都の皆様方に、お詫の致しようもないお心づかいを、おさせ申したので御座います。そうしてその上にも因果な事には、女としての私に恋|焦れておりましたあの兇悪無残の殺人鬼、生蕃小僧が、女性としての私を恋する余りに、それこそ生命がけで私の罪悪をカバーしてくれましたお蔭で、やっと今日まで娑婆に生き永らえまして、おなつかしい皆様に今一度、斯様な舞台姿で、お目にかかる事が出来たので御座います」 「芝居だ芝居だ」 「スゴイスゴイ……」 「ああ……たまらねえ」  満場の人々のタメ息が一瞬間笹原を渡る風のように渦巻きドヨめいて直ぐに又ピッタリと静まった。 「……けれども皆様お聞き下さいまし。私は、こうして大罪を犯してしまいますと、今一度、夢から醒めたような気持になってしまいました。静かに自分自身を振り返る事が出来るようになりました。男性として眼醒めました私は、今度は男性としての良心に眼醒め初めたので御座います。私のような鬼とも獣とも、又は蛇だか鳥だかわかりませぬような性格の人間が、あの女神のように清らかな美鳥さんに恋をするのは間違っている。私のこの血腥い呼吸が、ミジンも曇りのないアノ美鳥さんのお顔にかかってはいけない。私のこの爛れ腐った指が、あの美鳥さんの清浄無垢の肉体にチョットでも触れるような事があってはならぬということを深く深く思い知りましたので、そうした私の心持を、ホンノ少しばかりでもいい、美鳥さんに理解って頂きたいばっかりに、このお芝居を思い付いたので御座います。……で御座いますからこのお芝居の終り次第に、私の持っておりますものの全部を、心ばかりの贐として、私の顧問を通じて美鳥さんに受取って頂く準備がモウちゃんと出来ているので御座います。……美鳥さんは私のこうした気持をキット受け入れて下さる事と信じます。そうしてあの可哀そうな殺人鬼、生蕃小僧の罪名が、すこしでも軽くなるように、心から世話して下さるに違いないと思います」 「シバイダ……シバイダ……」 「ホホホホ……まったくで御座いますわねえ。この世は何もかもお芝居で御座いますわねえ……。ですから私も、こうして最後のお芝居を打たして頂きまして、私の一生涯を貫いておりますこのノンセンスこの上もない怪奇探偵、邪妖劇の幕を閉じさして頂くので御座います。……生蕃小僧と手に手を取って絞首台へ登るような作りごとはモウどうしても出来なくなったからで御座います。私は、私の真実にだけ生きて行きたくなったからで御座います。  ……おなつかしい皆様……お名残り惜しゅう御座いますが天川呉羽は、もうコレッキリ永久に皆様の前から消失せなくてはなりませぬ。  ……では皆様……さようなら……御機嫌よう御過し下さいませ」  低く低く頭を下げた天川呉羽の、大きな水々しい前髪の蔭から玉のような涙がハラハラと滴り落ちるのが、フットライトに閃めいて見えた。 「シバイダ……シバイダ……」 「……バ馬鹿ッ……芝居じゃないゾッ……芝居じゃないんだぞッ……ト止めろッ……」  突然に叫び出した浴衣がけの若い男が一人、最前列の左側の見物席から、高い舞台の板張に飛付いて匍い上ろう匍い上ろうと藻掻き初めた。それを冷然と流し目に見た天川呉羽は、慌てず騒がず、内懐に手を入れて、キラリと光るニッケルメッキ五連発の旧式ピストルを取出した。自分の白い富士額の中央に押当ててシッカリと眼を閉じた……と思う中に、  ……轟然一発……。  美しい半面をサット真紅に染めた呉羽は、ニッコリと笑って両手を合わせた。背後の白幕に虹のような血飛沫を残しながら、フットライトの前にヒレ伏した。  トタンにヤット見物席から匍い上った浴衣がけの男が、飛び上るように呉羽の身体に取付いた。綺麗に分けた髪を振乱したまま正面に向って悲壮な声で叫んだ。 「ダ誰か来てくれッ。芝居じゃないゾッ」  それは大森署の文月巡査であった。その中に幕の横や下から笠支配人を先に立てた四五人が馳寄って来て、呉羽の身体を無造作に、向って左の方へ抱え上げて行った。  冷やかなベルの音に連れて、天井裏から真紅の本幕が静々と降り初めた。その幕の中央には眼も眩ゆい黄金色の巨大な金文字で「天川呉羽嬢へ」「段原万平」と刺繍してあった。  万雷の落ちるような大拍手、大喝采が場内を狂い渦巻いた。ビュービューと熱狂的な指笛を鳴らす者さえ居た。  そうして先を争う蛆虫の大群のようにゾロゾロウジャウジャと入口の方向へ雪頽れ初めた。 「シバイダ……シバイダ……」 「ドコマデモ徹底的な写実劇だ」 「スゴイスゴイ深刻劇だ」 「……バカ……そんなのないよ。怪奇心理劇てんだよコレア……」 「ああスゴかった」 「ステキだった」 「あすこまで行こうたあ思わなかった」  そうして又、思い出したように方々から振返って拍手の嵐を送るのであった。  しかし、その大勢の中にタッタ二人だけ、拍手しない者が居た。それは正面、特等席の中央に居る江馬|兄妹であった。  江馬兄妹はそこに作り附けられている人形使節か何ぞのように、無表情な両眼を一パイに見開いて、幕が降りてしまった舞台の中央を凝視していた。満場の人影が残らず消え失せてしまった後までもまだ揃って頬を硬ばらせたまま瞬一つせず、身動き一つしないまま一心に真紅の幕を凝視していた。  お腹の空いた狼が野道を歩いて来ますと、遠くに一人の赤ん坊が寝ているのを見つけました。狼は大喜びで走って来てみると、それは誰かが落した大きな人形でした。 「ええ、この役立たず奴が」  と狼はあと足で蹴散らかしました。 「乃公のたべ物にならない位ならば何だって人間の形をして生まれて来た」  人形はニコニコして答えました。 「お気の毒様ですね。あなたのように何でも可愛がる事を知らないものには私は役立たずに見えるでしょう。しかし人間の中には私を生命よりも大切な友達にして下さる方がいくらでもありますよ。私は狼のお役に立つよりも人間のお役に立った方がうれしいと思います」  あっしの洋行の土産話ですか。  イヤハヤどうも……あんまり古い事なんで忘れちゃいましたよ。何なら御勘弁願いたいもんで……ただもうビックリして面喰って、生命からがら逃げて帰って来たダケのお話でゲスから……。  ……ヘエ……あの話。あの話と申しますと? ヘエ。世界が丸いお蔭で、あっしが腸詰になり損なった話……。  うわあ。こいつあ驚いた。誰からお聞きになったんで。ヘエ。あの植木屋の六から……弱ったなあドウも。飛んでもねえ秘密をバラしやがって……アイツのお饒舌と来た日にゃ手が附けらんねえ。死んだ親父から聞きやがったんだナ畜生……誰にも話したこたあねえのに……。  ヘエヘエ。これあドウモ御馳走様でゲス。こうやって自分の手にかけたお座敷で、兄弟分がこしれえたお庭を眺めながら、旦那様のお相伴をして一杯頂戴出来るなんて職人|冥利の行止まりでげしょう。ヤッ、これあドウモ奥様のお酌で……どうぞお構い遊ばしませんで……手酌で頂戴いたしやす。チイット世界が丸過ぎるようで。ヘヘヘ。オットット……こぼれますこぼれます。  それじゃそのガリガリの一件から世界のマン丸いわけが、わかったてえお話を冒頭からやって見やすかね……ガリガリてなあ人間を豚や犬とゴッチャにして腸詰めにする器械の音なんで……ヘエ。亜米利加に今でも在る。旦那様も御存じ……ヘエヘエ……そのガリガリの中へあっしが這入り損ねたお話なんでゲスからアンマリ気持のいいお話じゃ御座んせん。亜米利加では人を殺すとアトがわからねえように腸詰めにしちまうんだそうですからね。今思い出してもゾッとしますよ。お酒のお肴になるようなお話じゃねえんで……何なら御免を蒙りてえんで……。  ヘエッ。奥様はソンナお話が大のお好きと仰言る……恐れ入りやしたなあドウモ。そんな話を聞いてる中に眼尻が釣上って来て自然と別嬪になる……新手の美容術……ウワア。エライ事になりましたなあドウモ。あっしの嬶なんぞはモウ以前に水天宮で轆轤首の見世物を見て帰って来ると、その晩、夜通し魘されやがったもんで……ほかじゃあ御座んせん。手前の首が抜けそうで心配になっちゃったんだそうです。……ヒヤア、抜ける抜けるとか何とか詰らねえ声を真夜中出しやがるんで……篦棒めえ、抜ける程の別嬪と思ってやがるのか……ってんで、背中を一つドヤシ付けてやりましたらヤット正気付きましたがね。あれがドウモいけなかったようで……とうとう一生涯、別嬪にならず仕舞いで、惜しい事をしましたよ。まったく。ヘヘヘ。世の中は変れば変るもんでげす。  あっしが二十七の年でゲスから三十年ばかり前のことでしょう……明治三十何年かのお正月の話でゲス。その時分は台湾の総督府で仕事さして頂いておりましたが、その春から夏へかけて亜米利加の聖路易てえ処で世界一の博覧会がオッ初まるてんで、日本の台湾からも烏龍茶の店を出して宣伝してはドウかてえお話が持上りました。その時分までは何でもカンでも舶来舶来ってんで紅茶でも何でもメード・イン・毛唐でねえと幅が利かねえのが癪だってんで……。印度産の極上品よりもズット芳香の高い、味の美い烏龍茶を一つ毛唐に宣伝してみろってえ、その時の民政長官の男爵様で、後藤新平てえ方が……ヘエ。その蛮爵様が号令をおかけになったんだそうで……あっしも一つ台湾風の大きなカフェエを、この博覧会の中へ建てに行かねえかってえ蛮爵様からのお言葉でしたがね、ビックリしやしたよマッタク。  自慢じゃ御座んせんが小学校を出たばかりのタタキ大工なんで……雀がチューチュー鴉がカアカア。チイチイパアパアが幼稚園の先生ぐれえの事しか知らねえ江戸ッ子一流の世間見ずでゲス。箱根の向うへ行ったら日本語でせえ通じなくなるんですから、洋行なんて事あ考えてみた事も御座んせん。  総督府の官舎を建てに台湾へ渡る時にも、乗っている船が陸地の見えない海の上を平気でドンドン走って行きますので、何だか妙な気持になっちゃいましてね。私たちを引率している藤村てえ工学士の方に聞いたら笑われましたよ。 「地球は丸いものだから心配しなくてもいいよ。イクラ行ったって、おしまいにはキット日本へ帰り着くんだから」 「ヘエ、誰か見た者がおりますかえ」 「見なくたってわかっている。日本男児の癖に意気地が無えんだナお前は……。天草の女を御覧……世界が丸いか四角いか、わかりもしない娘ッ子の中から世界中を股にかけて色んな人種を手玉に取って、お金を捲上げちゃあ日本の両親の処へ送るんだ。大したもんだよソレア。世界中のどこの隅々に行っても天草女の居ない処は無いんだよ」 「ヘエッ……成る程ねえ。そんなもんですかねえ」 「まったくだよ。洋行するとわかる」 「ヘエ、そんなに天草女ってものは大勢居るんもんですかねえ」 「居るか居ないか知らないが、外国では炭坑でも、金山でも護謨林でも開けると器械より先に、まず日本の天草女が行くんだ。それからその尻を嗅ぎ嗅ぎ毛唐の野郎がくっ付いて行って仕事を初める。町が出来る。鉄道がかかるという順序だ。善い事でも悪い事でも何でも、皮切りをやるのはドッチミチ日本の女だってえから豪気なもんだよ。まったく思いがけない処でヒョイヒョイ天草女にぶつかるんだからね」 「ヘエ。そんな女は、おしまいにドウなるんでしょうか」 「それアキマリ切っている。その中に世界の丸いことがホントウにわかって来ると、そこで一人前の女になって日本へ帰って来て、チャンと普通の結婚をするんだ。又……それ位の女でないと天草では嬶に招び手が無い事になっているんだから仕方がない」 「嫁入道具に地球儀を持ってくようなもんですね」 「まあソンナもんだ。だから天草には、世界の丸いことがわからないと洋行出来ないナンテ意気地の無い女は一匹も居ないんだよ」  あっしは余計な恥を掻いたんで赤くなっちゃいましたよ。それでもイクラか安心するにはしましたがね。  ですから亜米利加へ渡る時には相当、落付いておりましたよ。仲間の奴に……大工と左官とで、植木屋の六の親子も入れて十四五人ぐれえ居りましたっけが……そんな連中に基隆で買った七十銭の地球儀を見せびらかして、日本の小さい処を講釈して聞かせたりして片付いておりましたがね。その中に毎日毎日アンマリ長いこと海の上ばっかりを走って行くのに気が付くと妙なもので、理窟は呑込んでいる癖に、何となく心配になって来ました。今でも初めて洋行する人は、よくソンナような頭のヘンテコになる病気にかかるんだそうで、熱ぐらいあったかも知れません。別に何ともないのに、何だかミンナが欺されて島流しにされるんじゃねえか。佐渡が島へ金坑掘りに遣られるんじゃねえか……なんて考えているとドウモ頂くものが美味しく御座んせん。毎日毎日そのライスカレーとシチウとコロッケに飽きちゃったのかも知れませんがね。  その中に船の中で演芸会が初まりました。あっしがステテコを踊ることになったんで……船の中に派手な三桝模様の浴衣と……その頃まだ団十郎が生きておりました時分で……それから赤い褌木綿と、スリ鉦、太鼓、三味線なんぞがチャント揃ってたのには驚きましたよ。  当日になると中甲板の五六百人ぐらい這入る広間に舞台が出来て、そこへ一等の船客から吾々特別三等の連中まで一パイになって見物するんで、皮切りにヒョウキンな西洋人の船長が飛出して西洋手品を初める。ナカナカ鮮かなもんでしたが、これあ当り前でさあ。そのあとへ日本人が上ってヤッパリ西洋手品を使いましたがアンマリ冴えません。メード・イン・ジャパンが今でも幅の利かないのは手品ばっかりでしょう。その中にあっしのステテコの番が来たんで立上ろうとしているところへ今の植木屋の六の親父でゲス。その時はモウいい禿頭の赤ッ鼻でしたっけが、あっしから世界の丸い話を聞てからというもの毎日毎日甲板に出て、船の周囲をグルグルまわってゆく蓄音器のレコードみたいに平べったい海を見まわしながら首をひねっていた奴なんで……その日も、あっしと組になってステテコを踊ることになっていたんですが、そいつが派手な浴衣に赤褌のまんまボンヤリ甲板から降りて来やして、出の囃子を聞いているあっしの顔をジイッと穴のあくほど見ながら、小ッポケなドングリ眼をパチパチさせたもんです。 「おれあドウしてもわからねえ」 「何がわからねえ」 「世界が丸いてえ理窟が……」 「馬鹿だな手前は……イクラ云って聞かせたってわからねえ。台湾へ渡った時にヤットわかったって安心してたじゃねえか」 「それはお前だけだ。俺あアレからチットモ安心していねえんだ。不思議でしようがねえんだ」 「何が不思議だえ」 「だって考えても見ねえ。あの地球儀みてえなマン丸いものの上にドウしてコンナに水が溜まっているんだえ……。おまけに大きな浪が打ってるじゃねえか……ええ……」  そう聞くとあっしも頭の芯がジインとして考え込んじまいました。口では強いことを云いながら心の奥ではやっぱり心配していたんですね。そこが病気のセイだったかも知れませんが、図星を指されてハッとしたようなアンバイで変テコレンな眼のまわるような気もちになっちゃいました。そこいらがだんだん薄暗くなって気が遠くなって行くようなアンバイで……そのまんま引っくり返っちゃったらしいんです。気が弱かったんですね、あっしは……もっともその時にはモウ六の親父と一緒に揃ってソンナ病気にかかっていたんだそうですから仕方がありませんがね。妙な病気があればあったもんでゲス。癲癇なら差詰め地球癲癇だったのでしょうが、そんなオボエは毛頭なかったんで……自分でも、おかしいと思いましたよ。  ですから同じ病気にかかっていた六の親父も、あっしが引っくり返ったのを見ると直ぐに追っかけて引っくり返りやがったんだそうで……これは大変だと思ったトタンに世界中が平ベタクなったてんですからダラシのねえ野郎で……お蔭でステテコはオジャンになっちまいました。誰が云い出しものか知れませんが、モトモト平べったい処に住んでいる人間に「世界は丸い」なんて罪な御布告を出したものですよ。まったく、大本教のお筆先に引っかかったみてえで……それから亜米利加へ着くまで二週間ばかりの間、六の親父とあっしと二人で上甲板の病室に入れられてウンウン云っておりました。  アトから聞いてみると揃いも揃ったステテコが二人つながって引っくり返った。場違いのステテコだ……てんで船中の大評判になったんだそうで……おまけに二人とも……大変だ大変だ……とか何とか変な譫語を並べたもんですから、念のために血を取って調べてみると恐ろしいもんでゲス。浮気の痕跡がタップリと血の中に残っている。この白痴野郎ッ……てな毒の名前だったと思いますがね。ヘエ。そのゴノゴッケンの陽性なんで、テッキリ脳梅毒……何をするかわからねえということになって閉め込みを喰ったもんです。その又、船のお医者って奴がチャチな塩っぱい野郎だったのでしょう。その中にホントの病気の名前がわかったんだそうですが……。  ヘエ。その病気の名前でゲスか。エエト……そうそう六の親父のが「野垂れ死に」てえんで、あっしのが「鸚鵡・小便」てんだそうで……笑いごとじゃねえんで……ヘエ。ノスタレジイ……ノスタルジヤにホーム・シックでゲスかい。どうもおかしいと思った。お笑いになっちゃ困ります。二人とも熱が八度ばかり出ましたよ。日本へ帰ってから聞いてみたら舶来の神経衰弱なんだそうで……重いのがノスタレジイで軽いのがオーム・シッコてんだそうですが、ハイカラな病気があればあるもんですな。派手な浴衣の赤褌に、黄色い手拭の向う鉢巻がノスタレのオーム・シッコでウンウン云ってるんですから世話ありやせんや……。  それでも亜米利加へ上陸ると二人とも急に元気になりましてね。聖路易へ着くと直ぐに建前にかかりやした。藤村てえ工学士さんが引いてくれた図面の通りに台湾式の御殿を建てましたが大した評判でげしたよ。ソレアあっしとノスタレ爺の写真が大きく新聞に出ましたよ。ノスタレ爺の方は植木屋でゲスからその台湾館の前に作った日本式のお庭が大受けに受けちゃったんで……ノスタレ爺の野郎は雪舟の子孫だってえ事になったんですから呆れて物が云えませんや。あっしの方はモットおかしいんで……あっしはこれでも小手斧の癇持ちでげして、小手斧の木片が散らかるのが大嫌いでげす。そこで最初から手を附けた四十尺ばかりの美事な米松の棟木をコツンコツンと削して行く中に四十尺ブッ通しの継がった削屑をブッ放しちゃったんで、見ていた毛唐の技師が肝を潰したもんだそうです。その話が亜米利加中の新聞に出たってんで、あっしが船の中で退屈|凌ぎに作った箱根細工のカラクリ箱が、まだ博覧会の初まらねえ中にスッカリ売約済みになる。六の親父をお雪の旦那のピイピイモルガンて奴が買いに来るってなアンバイで大した景気でしたよ。毛唐って奴はつまらねえ事を感心するんですね。ヘヘヘ。  その中に屋根の反ックリ返った、破風造のお化けみてえな台湾館が赤や青で塗り上って、聖路易の博覧会がオッ初まる事になりますと、今のノスタレとオーム・シッコが二人でフロッキコートてえ活弁のお仕着せみてえなものを着込んで入口の処へ突立って、藤村さんから教わった通りの英語を、毎日毎日大きな声で怒鳴るんです。 「じゃぱん、がばめん、ふおるもさ、ううろんち、わんかぷ、てんせんす。かみんかみん」  お笑いになっちゃ困ります。何てえ意味だかチットモ知らなかったんで……最初の中は茶目好きの藤村さんが「右や左のお旦那様」を英語で教えたんじゃねえかと思ってましたがそうでもないらしいです。お大師様の「あぼきゃあ兵衛。露西亜のう、中村だあ」式の英語で、毛唐の厄払いか、荒神|祀りの文句じゃねえかとも考えてみましたがそうでもないらしんで……ズット後になって聞いてみましたら「日本専売局台湾烏龍茶一杯十銭、イラハイイラハイ」てんですから禁厭にも薬にもなれあしません。  もっともこのお祓いの文句の意味が、そんなに早くからわかってたら、あっしの生命は無かったかも知れません。舶来の腸詰になっちゃって、毛唐の糞小便に生れかわっていたかも知れねえんで……変テコなお話でゲスが人間の運てえものは、ドンナ事から廻り合わせて来るか知れたもんじゃ御座んせん。正直のところ「わんかぷ、てんせんす」と米の生る木があっしの生命の親なんで……。  とにかくソイツを訳のわからねえまんまに台湾館の前に突立って、滅法矢鱈に威勢よく怒鳴っているとドシドシ毛唐が這入って来る。台湾館の中では選抜き飛切りの台湾生れの別嬪が、英語ペラペラで烏龍茶の講釈をしながら一枚八|仙の芭蕉煎餅を出してお給仕をする。その毛唐らが這入りがけや出て行きがけにあっしとノスタレに五|仙か十|仙ずつ呉れて行きます。たまには一|弗も五|弗も呉れる奴が居る。そうかと思うと何も呉れねえでソッポ向いて行く猶太人みてえな奴も居るってな訳で、いいお小遣いになりやしたよ。  その中に英語がチットずつわかって参りやした。水の事を「ワラ」ってんで……ワラワセやがるてのは、これから初まったのかも知れません。舟に乗って来るのがナベゲタ。席亭話の鍋草履てえのと間違いそうですね。女の事が「レデー」ですから男の事が「デレー」かと思ったら豈計らんや「ゼニトルマン」でげす。成る程これあ理窟でゲスが失礼したくなりますね。奥さんのことが「マム」……「女はマモノ」ってえ洒落かも知れませんがドウカと思いますよ。「お早よう」てのが「グルモン」、こいつは「グル」だけでも間に合います。江戸ッ子の「コンチワ」が「チヤア」で済むようなもんでげしょう。今晩はが「グルナイ」。「勝手にしゃアガレ」てクッ付けてやりてえくれえで……「左様なら」が「グルバイ」……どうしてこう毛唐はグルグル云いたがるんだか……獣から人間になり立てみてえで……もっとも毛唐は毛の字が付くだけに手も足も毛ムクジャラですからね。女なんかでも顔はパヤパヤとした生ぶ毛だらけで身体中は鳥の毛を※ったようにブツブツだらけでゲス。傍へ寄ると動物園臭くって遣り切れませんがね。男でも女でも物を呉れるたんびに「タヌキ」と云ってやると喜んでいるんですからヤッパリ獣なんでげしょう。  ところが、その毛唐のタヌキ野郎に非道い目に合わされたお話なんで……獣だけに悪智恵にかけちゃ日本人は敵いませんや。  あっし等が人寄せをやっている台湾館の中には六人の台湾娘が居て、お茶の給仕をしておりました。そいつ等の名前は三十年も前の事ですから忘れちゃいましたが、何でもフン、パア、チョキ、ピン、キリ、ゲタってな八百屋の符牒みたいな苗字の女の子が、揃って台湾|選り抜きの別嬪ばかりなんで、年はみんな十七か八ぐれえの水の出花ってえ奴でしたが、最初っからの固いお布告で、そんな女たちに指一本でも指したら最後の助、お給金が貰えねえばかりでなく、亜米利加でタタキ放しにするという蛮爵様からの御達しなんで、おまけに藤村さんは藤村さんで、一足でも博覧会場から踏み出すことはならねえ。亜米利加の町にはギャングとかガメンとかいう奴がどこにでも居て昼日中でも強盗や人浚いをやらかす。気の弱い奴と見たらピストルで脅威かして大盗賊や密輸入の手先にしちまうから気を附けろ。一度ソンナ奴に狙われたら生きて日本に帰れねえからそう思えってサンザ威嚇かされておりましたからね。何の事あねえ不動様の金縛りを喰った山狼みてえな恰好で、みんな指を啣えて、唾液を呑み呑みソンナ女たちを眺めているばかりでした。  可哀相に女の出来ねえ職人たら歌を忘れたカナリアみてえなもんで……ヘエ。あっしゃ今でも気が若い方なんで、その頃はまだ三十になるやならずの元気一杯の奴が、青い瞳をしたセルロイドじゃあるめえし、言葉も通じなけあ西も東もわからねえ人間の山奥みてえな亜米利加三界へ連れて来られて、毎日毎日そんな別嬪たちの色目づかいを見せ付けられながら涙声を張り上げて、 「わんかぷ、てんせんす。かみんかみん」  をやらされているんですから、たまりませんや。ノスタレ爺もオームのオシッコも眼が釣上っちゃって、今にもポンポンパリパリと破裂しちまいそうな南京花火みてえな気もちになっちまいましてね。哀れとも愚かとも何とも早や、申上げようのない「ふおるもさ、ううろんち」が一|対、出来上ったもんでゲス。  ところがここに一つうまい事が持上りました。その女たちの中でも一等|捌けるピン嬢とチョキ嬢という二人がノスタレだかオシッコだかわかりませんが病気になっちゃったんで、とりあえずの埋め合わせに聖路易の支那料理屋に居たというチイチイっていうのとフイフイっていうのと二人の別嬪が手助けに来たんでげす。何しろ一人で卓子を六つ宛も持っているんで一人欠けても頬返しが附かないですからね。占めた。こいつは有難いことになったもんだと私は内心でゾクゾク喜んじゃいました。ねえ。そうでしょう。今まで居た女には指一本さしても不可なかったかも知れねえが、今度来た女なら差支えなかろう。しかも向うが二人前ならこっちも二人前と云いてえが、片っ方が禿頭の赤ッ鼻のノスタレじゃ問題にならねえ。若さといい、男前といい、一番|鬮の本鬮はドッチミチこっちのもんだがハテ。ドッチから先に箸を取ろうかテンデ、知らん顔をして「わんかぷ、てんせんす」のおまじないを唱えながら二三日ジッと様子を見ているとドウです。このチイ嬢とフイ嬢の二人が一緒に、あっしの方へ色目を使い初めたじゃ御座んせんか。  ヘヘ……どうも恐れ入りやす。おっとっと……こぼれます、こぼれます。どうもコンナに御馳走になったり、勝手なお惚気を聞かしたりしちゃ申訳御座んせんが、ここんところが一番恐ろしい話の本筋なんで致方が御座んせん。どっちみち混線させないようにお話しとかないと、あとで筋道がわからなくなりやすからね。ヘヘ、恐れ入りやす。  二人の中でもフイフイっていうのは、まだ十七か八の初々しい聡明そうな瞳をした、スンナリとした小娘でしたが、あっしに色目を使いはじめたのはドウヤラ此娘の方が先だったらしいんです。台湾館に来る匆々から何やら物を言いたそうな眼付きをして、あっしの方を見ておったように思いますがね。そいつを一方のチイチイって娘が感付いて横槍を入れたものらしいんです。ヘエヘエ。その通りその通り。あっしの取り合いっこが始った訳なんで、ヘヘヘ。ヘエヘエ。大した色男になっちゃったんで……油をかけちゃいけません。ああ暑い暑い……イエイエ。モウ頂けやせん。ロレツが廻らなくなっちゃ困るんで……アトにモノスゴイ話がつながってるんでゲスから……ヘエ。  ……というのはこのチイチイって奴が大変なものなんでげす。あとから聞いた話では支那人と伊太利人の混血娘だったそうですが、とても素晴らしい別嬪でげしたよソレア。おまけにテエブルの六ツは愚か二十でも三十でも持って来て下さい。一人で捌いて見せるからナンテ大それた熱を吹きやがって、来る早々から仲間に憎まれておりましたがね。生やさしい女じゃ御座んせんでしたよ。  そうですねえ。年はあれでも二十二三ぐらいでしたろうか、スッカリ若返りにしておりましたので一寸見はフイ嬢よりも可愛いくれえで、フイ嬢とお揃いの前髪を垂らして両方の耳ッ朶に大きな真珠をブラ下げた娘が、翡翠色の緞子の服の間から、支那一流の焦げ付くような真紅の下着の裾をビラ付かせながらジロリと使う色眼の凄かったこと……流石のあっしも一ぺんにダアとなっちゃったんで……流石のだけ余計かも知れませんが、誰だってアイツにぶつかったらタッタ一目のアタリ一発でげしょう。ハタからフイ嬢がオロオロ気を揉んでいるようでしたが、そうなるとモウ問題じゃ御座んせん。  その場でインキを二つ三つぶっ付け合うと……ヘエ……ウインクですか……どうも相すみません。亜米利加じゃインキの方が通りがいいんで……ツイうっかり、そのインキの方にきめちゃったんで……そいつに気が付くとフイ嬢が慌てて卓子の向うからあっしに手を振って見せましたが、そうなったら夢中でゲスから気にも止めません。ただその時にフイ嬢を振り返って睨み付けたチイ嬢の眼付の怖しかった事ばっかりは今でも骨身にコタえて記憶えております。その睨みにぶつかったフイ嬢が、真青になってフラフラとブッ倒おれそうになったんですからね。あっしもズット後になって、そのチイ嬢の睨みの恐ろしい意味がわかってスッカリ震え上がっちゃったもんですがね。  その晩のことです。あっしは台湾館の地下室で一緒に寝ているノスタレ爺に感づかれないようにソーッと起き出して、首尾よく台湾館を抜け出しちゃいました。それから約束通り噴水の横でチイ嬢に会って、演芸館の裏で夜間出勤のサンドウィチマンを二人買収して、チイ嬢と二人で薄い布張りの四角い箱の中に這入って、入口の看守にテケツだけ見せて会場を抜け出しました。アトから考えるとあっしゃこの時にいい二本棒に見立てられていたんですなあ。節劇の文句じゃ御座んせんが「殺されるとは露知らず」でゲス。屠所の羊どころじゃねえ。大喜びで腸詰になりに行ったんですからね。  博覧会の会場を出るともう、カイモク西だか東だかわからねえ聖路易の町つづきでさあ。イルミネーションの海の底を続きつながって流れて行く馬車と電車の洪水でサ。その頃はまだ亜米利加にも円タクなんてものが無かったんですからね。  あっしの先に立ったチイ嬢は、一町ばかり行った処の薄暗い町角に在るポストの下で立停まりましたから、あっしもその横で立停まって巻煙草に火を点けました。すると間もなく白い馬を二頭附けた立派な馬車が来て、ポストの前に止まりましたが、それを見るとチイ嬢はイキナリ広告の服を脱いで地面に放り出して、その馬車に飛乗って手招きするんです。ですからあっしも慌てて女の真似をして馬車に飛乗るトタンに、前後左右のスクリンを卸したチイ嬢があっしの首ッ玉にカジり付いてチュウッ……ヘヘヘ……どうも相すみません。ここがヤッパリその本筋なんで……このチュッてえ奴が腸詰の材料に合格の紫スタムプみてえなチューだったんで……実際眼が眩んじまいましたよマッタク。いい芳香が臓腑のドン底まで泌み渡りましたよ。そうなると香水だか肌の香だか解かれあしません。おまけにハッキリした日本語で、 「まあ……よく来てくれたねえ、アンタ」  と来たもんです。  トタンに前後の考えなんか、笠の台と一緒にどっかへふッ飛んじゃいましたね、キチガイが焼酎を飲んで火事見舞に来たようなアンバイなんで……暫くして女がスクリンを上げてから気が付いてみると、その馬車の走り方のスゴイのにチョット驚きましたよ。ほかの馬車をグングン抜いて行くので、金ピカ服の交通巡査が何度も何度も向うから近付いて来て手を揚げて制止にかかったようでしたが、私等の馬車に乗っている黒い頬鬚を生した絹帽の馭者がチョット鞭を揚げて合図みたいな真似をすると、どの巡査もどの巡査も直ぐにクルリと向うを向いて行っちまったんです。  それが右へ曲っても左に曲っても、どこまで行ってもどこまで行ってもそうなんですから、あっしはだんだん不思議になって来ましたが、アトから聞いてみると無理もない話です。その馭者というのが旦那様……聖路易切ってのギャングの大親分で、カント・デックてえ凄い奴だったそうです。聖路易の町中の巡査はミンナこのデックの乾分みてえなものだったってえんですから豪勢なもんで……しかも一緒に乗っている支那娘のチイ嬢と、もう一人のフイ嬢とは揃いも揃ってこのカント・デックの妾だって事がそんな時のあっしにわかったら、そのまんま目を眩しちゃったかも知れませんね。地球が丸いどころの騒ぎじゃ御座んせんからね。  それでなくとも何だか少々、薄ッ気味が悪くなりかけているところへ馬車が止って、一軒の立派な明るい店の前に着きました。チイ嬢はそこであっしのキタネエ首根ッ子に今一つキッスをしますと、あっしの手を引きながらその店の中に這入って行きましたが、それは大きなレコード屋だったんですね。スバラシイ花輪や流行児の歌い手らしい男や女の写真が、四方の壁一パイに並んでいる店の広間へ、縦横十文字に並んだ長椅子に凭りかかった毛唐と女唐とが、フロック張りの番頭や手代の鳴らすレコードを知らん顔をして聞いていたようです。  その横ッチョの木煉瓦張りの通路をやはり女に手を引かれながら通り抜けて、奥の行当りのドアを抜けるとヤット肩幅ぐらいの狭い廊下に出ました。その廊下は向う下りになっていて、黒いマットが一面に敷いて在るために足音も何もしないまま地下室へ降りて行くようになっていたらしいんですが、その中に右に曲ったり左に折れたりして扉を三つか四つぐらい潜って、もうだいぶ下へ降りたナ……と思ったトタンに廊下の天井に点いていた電燈が突然に消えちゃって真暗闇になっちまいました。それがチイ嬢の顔の見納めだったんで……今度目、見た時は夕刊の新聞で手錠をかけられた笑い顔で、その次に見たのはデックと並んで死刑の宣告を受けている写真ニュースの横顔でしたがね。  もちろんソン時のあっしにゃそんな事がわかりっこありゃせん。神様だって知らなかったんですから……それと一所に女も手を放しちゃったんですから、あっしはタッタ一人真暗闇の中に取残されちゃったんで……往生しましたよ。まったく。  それでもまだ自惚れが残っていたんですから感心なもんでげしょう。さては女がイタズラをしやがったんだナ……ヨオシ……その気ならこっちでも探り出して見せるぞ……てんで鬼ゴッコみたいに手探りで向うの方へ行きますと、いつの間にか廊下の行当りの扉を通り抜けて一つの立派な部屋に出ていたんですね。不意討ちにパッとアカリが点いたのを見ると、太陽が二十も三十も一時に出て来たようで今度こそホントウに腰を抜かすところでしたよ。何しろそこいら中反射鏡ダラケの部屋に、天井一パイの花電燈が点いたんですからね。  世の中には立派な部屋が在れば在るもんだと思いましたねえ。この節なら銀座へ行けあアレ位の部屋がザラに在るんですから格別驚かなかったかも知れませんがね。何の事はない、竜宮みてえな金ピカずくめの戸棚や、椅子、テーブル、花束や花輪で埋まった部屋なんで、ムンムンする香水の匂いで息が詰りそうな中にタッタ一人突立っている見窄らしいあっしの姿が、向うの壁一パイに篏め込んで在る大鏡に映ったのを見た時にゃ、思わずポケットへ手を当てましたよ。コンナ立派な部屋でチイ嬢を抱いて寝た日にゃ、イクラ取られるかわからないと思いましてね。そこまで来てもまだ瘡毒気が残っていたんですから大したもんでゲス。 「アハハハ。お金のこと心配してはイケマセン……ミスタ・ハルキチ……アハハハハ……」  だしぬけに大きな笑い声がしたのでビックリして振向きますと、あっしの背後の大きな蘭の葉陰から四十年輩の夜会服の紳士が、歩み出して来ました。その柔和な笑顔を見ると、たしかにどこかで会ったことの在る顔だとは思いましたが、どうしても思い出せません。真逆にツイ今サッキ乗って来た馬車の馭者が黒い頬髯を取ったものだとは気付きませんでしたので、多分台湾館に居る時にチップを余計に呉れたお客の一人じゃないかと思いながらホッとタメ息しておりますと、その紳士は右手を差出して、あっしと心安そうに握手しながら一層、眼を細くして申しました。しかも、それが片言まじりの日本語なんです。 「……アナタ……この家がドンナ家ですか、よく御存知でしょう。それですからメンド臭いお話やめましょうね。用事だけお話しましょうねえ。コチラへお出で下さい」  と私を手招きしながら部屋の隅の巨大な銀色の花瓶の処へ来ました。それは人間ぐらいの大きさの花瓶に蝦夷菊の花を山盛りに挿したもので、四五人がかりでもドウかと思われるのをその紳士は何の雑作もなく一人で抱え除けますと、その花瓶の向うの寄木細工の板壁の隅に小さな虫喰いみたいな穴が二つ三つ出来ております。その穴の一つに紳士が、時計の鎖に附いている鍵を突込みますとパタリと音がして二尺に二尺五寸ぐらいの壁板が開いて、奥の浅い十段ばかりに仕切った棚があらわれました。それがその毛唐の紳士が片言まじりの日本語と手真似で話すのを聞いてみるとこうなんです。  ――この秘密の棚を錠前を使わないで開けられるようにしてもらいたい。材料と道具は入用なだけ直ぐに取寄せてやる。お前は台湾館の横で売っている不思議な箱根細工のマジック箱を作った大工さんだろう。だからアノ箱根細工の通りにここへ秘密のカラクリを取付けてもらいたいのだ。そうしてその開き方を自分にだけ教えて、直ぐに日本へ帰ってもらいたいのだ。お金はイクラでも遣る――  と云うのです。毛唐人の大工なんてものは無器用でゲスからあの箱根細工のような細かい仕事が、お手本を見せられても真似られないらしいですね。  しかしあっしはこの時に虫が知らしたんでげしょう、何となく……これあイヤナ処へ来たナ……と思いましたよ。ちいっと虫の知らせ方が遅う御座んしたがね。とにかく…… 「これあ何に使う棚だい。その目的がわからなくちゃ作る事あ出来ねえ」  て云ってやりますとね。その毛唐がホンノちょっとの間でしたっけが青い眼を剥き出して恐しい顔になりましたよ。けれども直ぐに又モトの通りの柔和な顔に返って、前の通りの愛嬌のいい片言まじりの日本語で手真似を初めました。 「これは宝石の袋を仕舞っとく棚だ。私は昔からの宝石道楽で世界中の宝石を集めるのが楽しみなんだから、万一泥棒が這入っても心配のないようにコンナ仕事を頼むんだ。千|弗でも一万|弗でも欲しいだけお金を上げる。あの娘も附けてやっていいから是非どうか一つ請合って下さい」  てんで見かけに似合わずペコペコ頭を下げて頼むんです。 「私は亜米利加中に別荘を持っているのだから万一ここで貴方の仕事が気に入ったら、まだ方々で、お頼みしたいのだ。貴方に一生涯喰えるだけの賃金を上げる事が出来るのだ」  と顔を真赤にして揉み手をしいしいペコペコお辞儀をするんです。カント・デックは前からチャンと研究して、あっしを口説き落す手を考えていたらしいんですね。仕事の出来る日本人なら金を呉れて頭を下げさえすれあコロリと手に乗って来るものと思っていたらしいんですが、コイツが生憎なことに見当違いだったのです。イクラ「わんかぷ、てんせんす」だって時と場合によりけりです。支那人と違って日本人には虫の居どころって奴がありますからね。  あっしはデックの話を聞いている中にピインと来ちゃいました。さてはあのチイ嬢の色目は喰わせものだったのか、この毛唐人が俺をここまで引っぱり込むために囮に使ってやがったのか、この野郎、俺をいい二本棒に見立てやがったんだな、俺を女で釣って泥棒仕事のカラクリ細工に使おうとしやがったんだナ。して見るとコイツア飛んでもない処へマグレ込んで来ちゃったぞ。しかもここまで深入りしたからにゃトテも生きて日本にゃ帰れめえ……と気が付くと腰を抜かすドコロかあべこべに気持がシャンとなっちまいました。  ……妙な性分であっしは気が長い時にゃヤタラに長いんですが、何かの拍子にカーッとしちまうと、それから先が盲滅法に手ッ取り早いんで……篦棒めえ日本人じゃねえか。金やピストルに眼が眩んで毛唐の追剥や泥棒の手伝いが出来るかってんだ。「ふおるもさ、ううろんち」を知らねえかってんで、イキナリその毛唐に組付いて大腰をかけようとしたもんです。これでも柔道二段の腕前ですからね。  ヘエ。それあ見上げたもんでしたよ。そこんとこだけがね。アトがカラッキシ意気地が無えんで……。  今から考えてみるとあん時によく殺されなかったもんで……多分、出来ることならあっしを威かし上げて柔順しくして、彼の棚の扉の細工をさせようってえ腹だったのでしょう。……コイツは日本一の細工人に違いない。コイツを取逃がしたら二度と再びコンナ細工は出来っこねえ……ぐれえに考えていたのかも知れませんがアブネエもんでゲス。今から考えるとゾッとしますよ。  組み付いたと思った時にゃカント・デックに両腕をシッカリと掴まれておりました。しかもその指の力の強さったらありません。あっしの腕の骨が粉々になって行くような気持ちで、身体中が痺れ上っちゃいました。トテモ敵わないと思わせられましたね。手錠を引千切って逃げたっていう亜米利加でも指折りのカント・デックですから、柔道二段ぐれえじゃ歯が立ちませんや。  デック野郎はあっしの腕を掴んだまま顔の筋一つ動かさねえでニコニコしながら吐かしました。 「アナタ。憤るといけません。あたしカント・デックです。ゆっくりして下さい。面白いものを見せますから……」  と云ううちにあっしを廻転椅子みたいにクルリと向うむきにして軽々と抱え上げて、横のドアから出て行きました。 「いけねえいけねえ。俺あ明日っから又、台湾館の前に突立って怒鳴らなくちゃならねえ約束がして在るんだ。放してくれ放してくれ」  と大暴れに暴れたもんですが何の足しにもなりません。そのまんまその次の部屋だったか、その次の部屋だったか忘れましたが、小さな粗末な部屋へ抱え込まれますと、そこのコンクリートの荒壁に取付けられている一枚|硝子の小窓から向うの部屋を覗かせられました。ちょうど赤ちゃんがオシッコをさせられるようなアンバイ式にね……。  あっしは暴れるのをやめてボンヤリと見惚れてしまいましたよ。向うの部屋の状態がアンマリ非道いんで、呆れ返ってしまったんです。  ヘエ。それがドウモここではお話出来|難いんで……お二方お揃いの前ではねえ。ヘヘヘヘヘ……。  何の事あねえ。水溜りに湧いたお玉杓子でゲス。それがみんな丸裸体の人間ばっかりなんですから開いた口が閉がりませんや。相当に広い部屋でしたがね。大きな椰子や、橄欖や、ゴムの樹の植木鉢の間に、長椅子だのマットだの、クッションだの毛皮だのが大浪のように重なり合っている間を、甘ったるい恰好の裸虫連中が上になり下になりウジャウジャとのたくりまわっているんですからトテモ人間たあ思えませんよ。金魚鉢に鰌をブチ撒けたぐらいの騒ぎじゃ御座んせん。  不思議なものでね。そんなのを見せ付けられていながらエロ気分なんてコレンバカリも起りませんでしたよ。今|考えてもあの時の気持ばっかりはわかりませんがね。多分、冥途の土産……てえな気持で見ていたんでしょう。何がなしに見っともなくて、馬鹿馬鹿しくて、胸が悪くなるようで、横ッ腹の処がゾクゾクして無性に腹が立って来ましたが、そのあっしの耳へカント・デックの野郎が口を寄せて吐かしやがったもんです。 「あそこへ行きたいなら仕事をなさい」  あっしは又、あらん限りの死物狂いにアバレ初めました。部屋の中がムンムンと暑いので、汗みどろになってしまいましたが、何しろ太刀山みたいな強力に押えられているんでゲスから子供に捕まったバッタみてえなもんで……ウッカリすると手足が※げそうになるんです。 「そんなら今一つ面白いものを見せましょう」  と云うと今度はその小窓と反対側の低い扉を開けて、そこに掛かっている鉄の梯子伝いに奇妙な眩ぶしい広い部屋へ降りて来ました。日本へ帰って来てから早稲田大学へ仕事をしに行った時にヤットわかりましたが、あれが水銀燈というものだったのですね。部屋のズット向うの隅のアーク燈みてえな眩しい、妙な色の電燈が一つ点いているキリなんですが、その光りで見るとカント・デックの顔色から自分の手の甲の色までも、まるきり死人のような鉛色に見えるんです。それでなくともあっしはサッキから死物狂いに暴れたアトで精も気魂も尽き果てておりましたので、カント・デックの片手に吊下げられたまま死人のように手足をブラ下げながらそこいらを見まわしますと、それはどこかの工場の地下室としか思えません。コンクリートの天井と、床の間が頭の閊える位低い、ダダッ広い部屋になっているんで、ジメジメと濡れたタタキの上には机も、椅子も塵っ端一本散らかっておりません。ただ向うの隅の水銀燈の下に、大きな大理石の臼みたようなものがあって、その中で天井から突出たモートル仕掛けの鉄の棒がガリガリガリガリと廻転しているだけなんです。つまり特別|誂えの大きな肉挽器械ですね。博覧会の中で見たことのあるソーセージ製造器械なんです。  しかしスッカリくたびれ切って、物を考える力も何もなくなっていたあっしにはソレが何の意味なんだかサッパリわかりませんでした。……ハテナ……蓄音機屋の地下室が、腸詰工場になっているのか知らん。コンクリの床の上をズルズルと引き摺られながら、その臼の処へ連れて行かれましたが、別に怖くも何ともありませんでした。  けどもカント・デックに首ッ玉を押えられてその臼の中を覗かせられた時には、思わずゾッとして手足を縮めちゃいましたよ。その臼は、もちろん底抜けなんで、その底の抜けた穴の上にステキに大きな肉挽き器械のギザギザの渦巻きが、狼の歯みたいに銀色に光りながらグラグラグラと廻転しているのですから落っこったら最後、何もかもおしまいでさあ。頭から尻までゴチャゴチャになってしまうんですからドンナに有難いお経を聞かされたって成仏出来っこありません。 「あなた。この中に這入ること好きですか……仕事しますかしませんか」  流石のあっしも……流石でなくたってヘタバッちまいますよ。イクラ元気を出そう……好きじゃありません……と云おうと思っても身体中がコンクリートみたいになってガタガタ震え出すんですから仕様がありません。お笑いになりますけどもその場へ行って御覧なさい。ナカナカそう平気でいられるもんじゃ御座んせん。自分が何を考えていたか、今でも記憶えていない位なんで、多分気絶する一歩手前だったのでしょう。タッタ一つ眼に残っているのはあの鉛色の水銀燈のイヤアな光りだけなんで……まったくあの陰気臭い生冷めてえ光りばっかりは骨身に泌みて怖ろしゅうがしたよ。ネオン・サインが極楽の光りなら水銀燈は地獄のアカリなんでしょう。生きた人間でも死人に見えるんですからね。今思い出してもゾオッとしちまいますよ。  そこへカント・デックが何か合図をしたのでしょう。ズット背後の方の薄暗い処の扉が開いて、青い菜ッ葉服を着た顔中髯だらけの大男が一人トロッコをノロノロと押しながら出て来たんです。その時まで気が付かなかったんですが、その入口から肉挽器械の前まで幅の狭い軌道が敷いて在ったんで……その菜ッ葉服の男が押しているトロッコが、あっし等の眼の前まで来て停まりますと、そのトロッコの上に乗っているものの上に被せた白い布片をカント・デックが取除けました。そうして思わず「ワッ」と云って逃げ出そうとするあっしをガッシリと抱きすくめてしまいました。  それは若い女の丸裸体の死体だったのです。しかもその小さな下唇を前歯で噛み破ったらしく鼻の下から乳の間へかけてベットリとコビリ付いている血が、水銀燈に照らされて妙に黝ずんだ腮鬚みたいに見えるのです。おまけにその右の手の中に何かしら大切なものを握り込んでいるらしく、シッカリと握り固めている上から左の手を蔽いかぶせてピッタリと胸の上に押え付けている姿が、たまらなくイジラシイものに見えましたが、その黒い髪毛の前の方を切り下げている恰好がドウ見ても西洋人とは思えません。支那人か日本人に相違ないんで……。  そう思っている中に菜ッ葉服の大男が、カント・デックに腮でシャクられると直ぐに一つうなずいて菜ッ葉服の袖口をマクリ上げて、あっしの太股くれえある毛ムクジャラの腕を二本、突出しました。その熊みたいな手で何の雑作もなく女の手を解かせて、シッカリ握っている右手を開かせますと、中から見覚えのある台湾館|備付けの桃色の支那便箋を幾つにも折ったものが出て来ました。そのレターペーパの折り目を拡げたやつを受取ったカント・デックは、あっしの鼻の先にブラ下げて見せながら、今一度ニコニコと笑いました。赤チャンをあやすような顔で、あっしの顔を覗き込みましたがね。  それは筆と墨で書いた立派な日本文でした。多分、台湾館の事務室に在った藤村さんの硯箱を使ったものでしょう。昔の百人一首に書いて在るような立派な文字でしたがね。 「チイちゃんと一所に出かけてはいけません。チイちゃんは支那人です。亜米利加のギャングの手先です。わたくしはチイちゃんと一緒にギャングのメカケになった、かわいそうな日本の女です。あたしの事を日本の両親につたえて下さい。 天草|早浦生れ   ハル吉親方様中田フジ子より」  その死骸がフイ嬢の死骸だとわかると、あっしは何かしら叫びながら飛び付こうとしたように思います。今までに無い力が出たので、あぶなくデックを振り離すところでしたが、そのあっしの左の手首をガッシリと掴み止めたデックは面と向って立ちながら今一度ニヤニヤと笑って見せました。 「わかりましたか。仕事しますか」 「何をッ」  とか何とか怒鳴ったように思います。だしぬけに思いがけない力が出たもんで、鉄の噛締器みてえなデックの手を振放して、火の玉のようになって相手に飛びかかろうとしましたが間に合いませんでした。背後から菜ッ葉服の男に息の詰まるほどガッチリと抱きすくめられちゃったんです。そうして犬ころでも棄てるように軽々とデックの夜会服の腕の中へ投渡されちゃったんです。  あっしを受取ったデックは喰い付いたり引っ掻いたりするあっしの手と足を背後から束にしてギューと掴み締めてしまいました。それから何か英語で二言三言云ったと思うと毛ムクジャラの菜ッ葉服が、トロッコの上の女の身体を抱き上げて、何の雑作もなく傍の肉挽器械の中へ投込みました。  ……ヘエ。その時に肉挽き器械の中から聞えて来た恐ろしい声を、あっしは一生涯忘れないでしょう。フイ嬢はまだ生きてたんです。多分、日本人のあっしを救けるためにギャング仲間を裏切った廉で、デックの配下に拷問されて気絶していたものなんでしょう。  あっしもそのまんま気絶していたようです。 「じゃぱん、がばめん、ふおるもさ、ううろんち、わんかぷ、てんせんす。かみんかみん」  てお呼び声がどこからか聞えるように思ってフイッと眼を開いてみるてえと、コンクリート作りの馬|小舎みてえに狭い藁束だらけの床の上へ投げ出されているのに気が付きました。  片隅の扉の前に置いて在る汚いバケツの中を這い寄って覗いてみますと、ジャガ芋と肉のゴッタ煮の上にパンの塊まりと水と、牛乳の瓶が投込んで在ります。……つまり何ですね。まだあっしを殺す気じゃなかったのでしょう。あわよくば仲間に引っぱり込んで仕事をさせる気でいたのでしょう。  しかしあっしは助かったのが嬉しくも悲しくも何ともありませんでした。今から考えてみるとあの時はヨッポド頭が変テコになっていたんですね。やっぱり地球|癲癇の続きだったかも知れませんでしたがね。自分がどこに居るやら、どうなっているやらわからないまま、眼が醒めない前から続けていたらしい譫言を、そのまんま云いつづけておりました。 「じゃぱん、がばめん、ふおるもさ、ううろんち、わんかぷ、てんせんす。かみんかみん」  と繰り返し繰り返し大きな声で云ってたようですが、口癖ってものは恐ろしいものですね。  ところがこの御祈祷の文句のお蔭で、無事にこうやって日本に帰ることが出来たんですから、人間の運てえものはドコまでも不思議なもので……ヘエ……。  博覧会の方では大騒ぎだったそうです。あっしと二人の女がダシヌケに行方不明になったてんで警察に頼んだり何かして騒いだそうですが、わかる気づかいはありませんや。気の毒なのは藤村さんで、あっしの代りに礼服を着て台湾館の前に立たされて、代りが出来るまでノスタレ爺と一所に「わんかぷ、てんせんす」をやらされたもんだそうで、二三日やってる中にお尻のポケツへジャラジャラ銀貨が溜まったのはいいが、声がスッカリ嗄れちゃって電話にかかれなくなっちゃったそうで……無理もありませんや。木遣りなんか唄ったこたあねえんですからね。おまけに怒鳴りながらも、ずいぶん気も揉んだそうですからね。……多分あっしが二人の女を誘拐したんだろうテンデ、あべこべに世話あした支那料理店から台湾館が損害を取られそうになっちゃったそうで……大工の治公って奴はソンナ大それた人間じゃねえテンデ藤村さんが一生懸命、頑張ってくれたそうですがね。  そのうちに聖路易の何とか云いましたっけが、目貫の通りに在るホテルの七階の屋上に夜遅くなってから幽霊が出る。そいつがドウヤラ新聞に出た台湾館の行方不明の客呼び男らしいていう噂がホテルのお客さんたちの間に立ち初めました。馬鹿馬鹿しい怪談ですがね……治公がまだチャント生きているのに幽的が出る筈はないんですが、毛唐って奴は元来ゾッコン怪談が好きなんだそうで……つまらねえものを怪談にしちまう癖があるんだそうですが、そんな噂がどこともなく散り拡がって行く中に運よくギャング連中の耳に這入らないまに、藤村さんの耳に這入ったもんです。 「貴女……お聞きになりましたか、あのホテルのお化けの話を……」 「イイエ。まだ聞きませんわ。聞かして頂戴」 「一週間ばかり前からの事です。真夜中の二時頃……電車の絶まる頃になるとあのホテルの屋上庭園のマン中に在る旗竿の処へフロッキコートを着た日本人の幽霊が出るんです。ホラ直ぐそこに若いスマートな男と、赤っ鼻の禿頭が立っているでしょう。あの通りの姿で幽霊が出て来て、あの通りの事を云うんだそうです」 「アラ怖い……ホント……」 「ホントですとも……それがあの新聞に出た行方不明の……ホラ……ずっと前に来た時にあすこに立っていたでしょう。ミスタ・ハルコーっていうあの男の姿にソックリなんだそうです」 「まあ……ホテルじゃ困っているでしょうねえ」 「ところが反対ですよ。お蔭で屋上庭園に行く者は一人も居なくなった代りに、その声を聞きに行く者であのホテルは一パイなんだそうです。警察ではまだ知らないそうですが、あの日本人の行方不明事件はあのホテルと台湾館とが組んでやっている日本人一流の宣伝方法に違いないってミンナ云っておりますがね」 「シッ聞えるわよ。日本人に……」 「ナアニ。彼奴等は英語がわかりやしません。暗記した事だけを繰り返している忠実な奴隷なんですから……」  こんな話を入口の近くの卓でやっているのを小耳に挿んだ藤村さんが、指を折って数えてみると、ちょうどあっしが行方不明になってから八日目だったそうです。  藤村さんは西洋通ですから直ぐにピインと来たんでしょう。直ぐにその晩ホテルへ泊って、夜中の二時頃コッソリと屋上庭園へ来てみると世にも哀れっぽい微かな微かなあっしの声で、 「じゃぱアーん。がばアーンめんとオー。ふおるもっさあアー。うう……ろん……ちいイイイ。わんかぷう……ウ。てんせえんすう――ッ……」  てやっているんだそうです。そこで藤村さんは胸をドキドキさせながら抜き足、さし足その声の聞える方に近付いてみると、その声の主は屋上庭園のどこにも居ない。その向い側のメイ・フラワ・ビルデングの七階の片隅に在る真暗な小窓の中から聞えて来る事が、夜が更けて来るにつれてハッキリとわかって来た……というんです。  しかし亜米利加通の藤村さんは決して慌てませんでした。何喰わぬ顔をして翌る朝、台湾館へ帰って来ると直ぐに華盛頓の大使に頼んで、紐育のプレーグっていう腕っこきの警察官に頼んだものだそうです。  ちょうどそのプレーグっていう警察官は一生懸命になってギャングの巣を探していたところだったそうで、早速|紐育の警視庁へズキをまわして取っときの刑事や巡査を借りて聖路易へ乗込んで、土地の警察へも知らさないようにメイ・フラワ・ビルの様子を探ると、出入りする奴はみんな変装した前科者ばかりなんで、イヨイヨそれと目星を附けて水も洩らさねえように手配りをきめた二十人ばかりのプレーグの配下が、アッという間もないうちにメイ・フラワ・ビルの地下室から七階まで総マクリにしてしまいました。双方とも怪我人や死人が出来たりして一時は戦争みたいな騒ぎだったそうですが、あっしはチットも知りませんでした。そこから抱え出されて聖路易の市立病院の病床に寝かされても相も変らず「わんかぷ、てんせんす」をやっていたそうです。  ……ところで、まだ話があるんです。これからがホントに凄いんですね。  あっしがあらん限りの注射と滋養物のお蔭で、やっとモトの頭になって退院させられた時はもうユーカリの葉が散っちゃった秋の末で、博覧会なんかトックの昔におしまいになっておりました。退院すると直ぐに警察に呼び出されて、ほんの型ばかりの訊問を通訳附きで受けますと、領事さんからの旅費を貰って桑港から日本へ帰りましたが、その途中のことです。たしか出帆してから十日目ぐらいのお天気のいい朝でしたがね。あんまり航海が退屈なもんですから、眼が醒めても起き上る気がしません。そのまんま特別三等の寝床の中で足をツン伸ばしてアーッと一つ大きな欠伸をしたもんですが、そのトタンに桑港で知り合いの領事館の人からお土産に貰った小さな紙包みのことを思い出しました。ハテ何だったろうと思いながら、寝床の下のバスケットの中からその紙包を取り出して開けてみると、どうでげす。それが平べったいソーセージの缶なんで……。  コイツは占めたと思って飛び起きると、食堂から五十二|仙の日本ビールを一本買って来て、ベットの上にアグラを掻きながら、缶の蓋を開けて、美味そうな腸詰の横ッ腹をジャクナイフで薄く切り初めたもんですが、その中に何やらナイフの刃に搦まるものがあります。……ハテ……おかしいなと思いながら、そのナイフの刃を暗い窓あかりに透かしてみるとソイツが黒い女の髪の毛なんで……あっしはドキンとしましたよ。それでもマサカと思いながら今のソーセージの切口をよく見ると、薄桃色の肉の間に何だか白い三角|型のものが挟まっているようです。ハテナと思い思いホジクリ出してみると、そいつがどうです。三|分角ぐらいの薄桃色の紙片の端なんで……永いこと赤い肉の間に挟まってフヤケちゃっているんですから色合いなんかアテになりませんし、紙の質だって支那出来のレターペーパだか何だか、わかったもんじゃ御座んせんが、それでもその紙が、その黒い髪の毛と一つ所に這入っていたことだけは間違いねえんで……。  それでもマサカ……とは思いましたがドウモ変な心持ちになりましたよ。あっしに惚れていたフイ嬢が、あっしの身代りにソーセージになって、ここまで跟いて来たんじゃねえか……ナンテ考えておりますと、最早、ビールの肴どころじゃ御座んせん。こっちの頭がソーセージみたいにゴチャゴチャになっちまいました。世界の丸っこい道理がズンズンとわかって来るように思いましてね……まったく……ヘエ……。  ……ヘエ。どうも奥様……いろいろと御馳走様で……これで御免を蒙りやす。  昭和×年の十月三日午後六時半。  玄海洋の颱風雲を帯びた曇天がもうトップリと暮れていた。  下関の桟橋へ着いた七千|噸級の関釜連絡船、楽浪丸の一等船室から一人の見窄らしい西洋人がヒョロヒョロと出て来た。背丈が日本人よりも低い貧弱な老人で、何の病気かわからないが骨と皮ばかりに瘠せ衰えている。綺麗に剃り上げた頬の皺は、濡れた紙のように弾力を失って、甲板の上からトロンと見据えた大きな真珠色の瞳は、夢遊病者のソレのようにウットリと下関駅の灯を映している。白茶気た羅紗の旅行服に、銀鼠色のフェルト帽を眉深く冠って、カンガルー皮の靴を音もなく運んで来た姿は、幽霊さながらの弱々しい感じである。手荷物は赤帽に托したものらしい。瘠せ枯れた生白い手には細い、銀頭の竹のステッキを一本|抓んでいるきり、何も持っていない。甲板まで見送って来た連絡船のボーイ連にチョット脱帽したが、頭は真白く禿げたツルツル坊主であった。  ボーイ連も何となく彼の姿を奇妙に感じたのであろう。高い甲板の上から五六人、瞳を揃えて遠ざかって行く彼のうしろ姿を見送っていた。彼もタッタ一人でトボトボと税関の前アタリまで来ると何かしら不安を感じたらしく、眩しい電燈の下で立停まって、そこいらを見まわしていたが、その中に、三等船室の方から一人の背の高い、モーニングを着た、顔にアバタのある朝鮮人らしい紳士が降りて来るのを見ると、初めて安心したらしくチョコチョコと歩き出して、そのアトを追いかけ始めた。  朝鮮紳士はソンナ事を気付かぬらしくサッサと桟橋を渡って下関駅の改札口を出た。そのままコソコソと人ごみの蔭に隠れると何気もない体で振り返って、今の小さな西洋人が、新しいハンカチで額の汗を拭き拭き八時三十分発急行列車富士号の方へヨチヨチと歩いて行くのを見送ると、直ぐに公衆電報取扱所へ走り寄って、前から準備して書いていたらしい電報を一通打った。 「レコード」シモノセキツク」フジニノル」  打電先は東京銀座尾張町×丁目×番地、コンドル・レコード商会古川某であった。  打ってしまうと朝鮮紳士は自分の背後に順番を待っているらしいデップリした、色の黒い、人相の悪い中年の紳士を振り返ってジロリと睨み付けた……が……しかしその人相の悪い紳士は見向きもせずに、自分の電報を窓口に置いて切手を嘗めてトントンと叩き付けて差出した。そうして係員が受取るのを、やはり見向きもせずに駅を出て、程近い駅前の山陽ホテルにサッサと這入って行った。  山陽ホテルの駅前街路を見晴らす豪華な一室に、立派な緞子の支那服を着た、鬚髯と眉毛の長い巨漢が坐っていた。白々と肥満した恰好から、切れ目の長い一重瞼まで縦から見ても横から見ても支那人としか思えなかったが、その前にツカツカと近づいた今の人相の悪い紳士が恭しく一礼すると、その支那人風の巨漢は鮮やかなドッシリした日本語で喋舌り出した。 「ヤア。御苦労御苦労。どうだったね。結果は……」  人相の悪い紳士は苦笑いと一緒に頭を下げた。中禿の額の汗を拭き拭き椅子に腰をかけた序に支那人風の巨漢に顔をさし寄せて声を潜めた。 「満洲に這入ると直ぐに憲兵司令に命じまして、彼奴を国境脱出者と見做して手酷しく責めてみましたが、弱々しい爺の癖にナカナカ泥を吐きません」 「旅券を持っていなかったのか」 「持っておりましたが私がその前に掏り取っておいたのです。古い手ですが……旅券は完全なもので、東京××大使館|雇員を任命されて新に赴任する形式になっております。ここに持っておりますが」 「買収してみたかい」 「テンデ応じませんし、ホントウに何も知らないらしいのです。仕方がありませんから××領事へ紹介して旅券の再交付をして立たせましたが、チットも怪しむべき点はありません」 「そんな事だろうと思った。大抵の奴なら君の手にかかれば一も二もない筈だがね」 「それがホントウに何も知らないらしいのです。ただタイプライターが上手で、日本文字に精通しているというだけの爺としか見えませんから、仕方なしに××領事の了解を経てコチラへ立たせた訳ですが、しかし、どう考えても怪しい気がしてなりませんので取敢えず閣下に彼奴の写真をお送りしておいて、ここまでアトを跟けて来た訳ですが……」 「ウム。君の着眼は間違いない。彼奴は密使に相違ないと僕も思う。この頃、欧洲の時局が緊張して、露独の国境が険悪になったので、露国は満蒙、新疆方面にばかり力を入れる訳に行かぬ。じゃから遠からず東亜の武力工作をやめて、赤化宣伝工作に移るに違いないのじゃ。露国が一番恐れているのは日本の武力でもなければ、科学文化の力でもない。日本人の民族的に底強い素質じゃ。三千年来その良心として死守し、伝統して来た忠君愛国の信念じゃからのう。コイツを赤化してしまえば、東洋諸国は全部|露西亜のものと彼等は確信しているのじゃからのう」 「成る程」 「その赤化宣伝工作に関する重大なメッセージか何かを、彼奴がどこかに隠して持って来ているに違いないのじゃが……」 「昏睡させておいて鞄は勿論|彼奴の旅行服の縫目から、フェルト帽から、カンガルー靴の底まで念入りに調べましたが疑うべき点は一つも御座いません。ただ一つ……」 「何だ……」 「ただ一つ……」 「何がタダ一つだ……」 「あの老人を哈爾賓から見送って来た朝鮮人が、下関駅でタッタ今電報を打ちました。銀座尾張町のレコード屋の古川という男に打ったものですが……」 「ウムウム。あの男なら監視させておるから大丈夫じゃが……その電文の内容は……」 「レコード着いた。富士に乗る……というので……」 「しめたぞッ……それでええのじゃ」  支那人風の巨漢がイキナリ膝を打って大きな声を出した。 「エッ」  人相の悪い紳士は眼をパチクリさせた。  支那人風の巨漢は顔中に張切れんばかりの笑を浮かめて立上った。 「ハハハ。イヨイヨ人間レコードを使いおったわい」 「エッ……人間レコード……」 「ウム。露西亜で発明された人間レコードじゃ。本人は何一つ記憶せんのに脳髄にだけ電気吹込みで、複雑な文句を記憶させるという医学上の新発見を応用した人間レコードというものじゃ。ずっと以前からネバ河口の信号所の地下室で作り出して欧羅巴方面の密使に使用しておったものじゃが、この頃日本の機密探知手段が極度に巧妙になって来たのでヤリ切れなくなって使い始めたものに違いない。事によると今度が皮切りかも知れんて……」 「人間レコード……人間レコード……」 「ウム」  支那人風の巨漢は唖然となっている相手の顔を見下して大笑した。 「アハハハ。モウ手配はチャントしてあるよ。君の手におえん位の奴ならモウ人間レコードにきまっとるからのう。ハハハ」  山陽線の厚狭を出たばかりの特急列車、富士号がフル・スピードをかけて南に大曲りをしている。今まで列車の尻ベタに吸い付いていた真赤な三日月をヤット地平線上に振り離したばかりのところである。  展望車に接近した特別貸切室の扉の前に、二十二三ぐらいのスマートな青年ボーイが突立ったまま凭れかかってコクリコクリと居睡りをしている。その毛布の下から出た一本の細い、黒いゴム管が、ボーイの上衣の下から、何気なく後に廻わした左手の指先に伝わって、お尻の蔭の扉の鍵穴に刺さっている。音も何もしない。ボーイは帽子を傾けたままコクリコクリと動揺に揺られている。  そこへ水瓶とコップのお盆を抱えた十八九の綺麗な少年ボーイが爪先走りに通りかかったが、青年ボーイの前に来るとピタリと立停まって、伸び上りながら耳に口を寄せた。 「持って来ました」  青年ボーイは眼を青白く見開いて冷やかに笑った。無言のまま毛布と、黒い毛糸で包んだガス発生器らしいものと、ゴム管を一まとめにして毛布の中に丸め込んで弟分のボーイに渡すと、車掌用の合鍵とネジ廻しを使って迅速に扉の掛金と鍵を開いた。ハンカチで鼻を蔽いながら少年ボーイと二人で室内に這入ってガッチリと鍵を卸した。大急ぎで窓を開くと、つめたい夜気と共に、急に高まった列車の轟音が室内にみちみちた。  赤茶気た室内電燈に照らされた寝台の中には最前の小柄な瘠せ枯れた白人の老爺が、被布から脱け出してゴリゴリギューギューと鼾を掻いている。  青年ボーイが少年ボーイを振返った。 「列車の中に相棒は居ないね」  少年ボーイが簡単にうなずいた。青年ボーイが今一度冷笑した。 「フン。ここまで来れば東京まで一直線だからね。人間レコードだと思って安心していやがる」 「エッ。人間レコード……」  少年ボーイがビックリしたらしく眼を丸くした。青年ボーイの凄味に冴えかえった顔を見上げて唇をわななかした。 「ウン。この爺が人間レコードなんだよ。アンマリ度々人間レコードに使われるもんだからコンナに瘠せ衰えているんだ」 「人間レコード……」  少年ボーイはさながら生きた幽霊でも見るかのように、暗い逆光線をゲッソリと浮出させた老人の寝顔を見下した。 「ウン。今見てろ。このレコードを回転させて見せるから……」  青年ボーイの手が敏活に動き出した。老人の胸を掻き開いて、肋骨の並んだ乳の上に無色透明の液二筒と茶褐色の液一筒と都合三筒ほど、慣れた手付で注射をした。そのまま窓を閉めて扉の外へ出ると帽子を冠り直して、少年ボーイが捧げる水瓶とコップのお盆を受取って、ツカツカと展望車に歩み入った。ズッと向うの籐椅子のクッションに埋まっている、派手な姿した白人のお婆さんの前に近付いた。 「ヘイ。お待遠さま」 「アリガト」  そう云った口紅、頬紅の嫌味たらしいお婆さんが青年ボーイの手に何枚かの銀貨を渡すと、彼は帽子を脱いで意気地なくペコペコした。 「マア……キレイ……お月様……」  老婦人が指す方を見ると又も一曲りした列車の後尾に、醜い黄疸色をした巨大な三日月が沈みかかっていた。  青年ボーイはニッコリと笑って首肯いた。今一度帽子を脱いで展望車から出て行った。  一等車のボーイ室では少年ボーイが、山のように積上げた乗客の手荷物を片付けていた。トランク、信玄袋、亀の子|煎餅、バナナ籠、風呂敷包み……その下から出て来た、ビラの付かないズックの四角い鞄の中から受話器を取出して耳に当てた。そこへ帰って来た青年ボーイが身体で入口を蔽いながら笑った。 「馬鹿……見付かったらドウする」  少年ボーイは顔を真赤にした。慌てて受話器をズック鞄の中へ返したが、その眼は好奇心に輝いていた。 「何か聞こえるかい」 「ええ。あの爺のイビキの声が聞こえます。すこしイビキの調子が変ったようです」 「コードの連絡の工合はいいな」 「ええ上等です。あの豆電燈のマイクロフォンも、この部屋へ連絡している人絹コードも僕の新発明のパリパリですからね」 「ウン。今度のことがうまく行けばタンマリ貰えるぞ」 「ええ。僕は勲章が欲しいんですけど……」 「ハハ。今に貰ってやらあ……オット……モウ十分間過ぎちゃったぞ。それじゃもう一回注射して来るからな……録音器は大丈夫だろうな」 「ええ。一パイの十キロにしておきました。心配なのは鞄の内側の遮音装置だけです」 「ウム。毛布でも引っかけておけ。モトの通りに荷物を積んどけよ」 「聞いちゃいけないんですか。人間レコードの内容を……」 「ウン。仕方がない。こっちへ来い」 「モウ小郡に着きますよ」 「構うものか。五分間停車ぐらい‥‥」  二人はそのまま以前の特別貸切室に這入った。内側からガッチリと掛金をかけると、青年ボーイがポケットから注射器を出して、無色透明の液を一筒、寝台の上の老人の腕に消毒も何もしないまま注射した。  老人はモウ全くの死人同様になっていた。全身がグタグタになって、半分開いた瞼の中から覗いている青い瞳が硝子のように光り、ゲッソリと凹んだ両頬の間にポカンと開いた唇と、そこから剥き出された義歯がカラカラにカラビ付いて、さながらに木乃伊の出来たてのような気味の悪い感じをあらわしていた。  それから少年ボーイは枕元の豆電燈の球を抜いて、代りに白い六角の角砂糖ぐらいの小さなマイクロフォンを捻じ込んだ。そのまま二人は真暗になった車室のクッションに腰を卸して耳を澄ましていた。  列車の速力がダンダン緩くなって来て、蒼白いのや黄色いのや、色々の光線が窓|硝子を匐い辷った。やがて窓の外を大きな声が、 「小郡イ――イ。オゴオリイ――イ」  と怒鳴って行った。  青年ボーイが身動きしないまま傍の少年ボーイに囁いた。 「今のも録音機のフイルムに感じたろうか」 「感じてます。器械を列車の蓄電池と繋ぎ合わせて開け放していますから……まだ五十分ぐらいはフイルムが持ちますよ。今の貴方の声だって這入ってますよ」 「フフフ……」  二人は又、沈黙に陥った。青年ボーイは所在なさに紙巻を啣えて火を点けた。  少年ボーイが闇の中で手を出した。 「僕にも一本下さいな」 「馬鹿。フイルムに感じちゃうぞ」 「構いませんから下さい」 「手前。持ってるじゃないか」 「バットなら持ってます。貴方のは露西亜巻でしょう」 「よく知ってるな。ハハア。匂いでわかったナ」 「イイエ。見てたんです。さっき注射なすった時にあの爺のパジャマのポケットから……」 「シッ。フフフ……」  突然列車が烈しくガタガタと揺れた。小郡駅構内の上り線ポイントを通過したのだ。車室の中が又真暗くシインとなってしまった。  すると突然に列車の動揺にユスリ出されたような奇妙な声が、寝台の中から起って来た。それはカスレた金属性の、低い、老人の声で、しかもハッキリした日本語であった。夢のようにユックリと落付いた口調であった。 「日本の………、……、……、……、…………………諸君よ……諸君、民衆の民族的……のために……せよ……諸君……日本の…………が……土地……に目ざめ、成長する事を……のである」 「わかるかい」  と青年ボーイの声……。 「わかります。ソビエットの宣伝でしょう」  と少年ボーイの緊張に震えた声……。 「片山潜の口調だよ。これあ……」 「エッ片山潜……」 「そうだ。日本で××××運動をやって露西亜へ逃込んだ今年七十か八十ぐらいの老闘士だ。今東洋方面の宣伝係長みたいなものをやっている。彼奴の声だよ、これあ」 「どうしてわかります」 「この前コイツの宣伝レコードが日本に紛れ込んだ事がある。そいつを機密局の地下室で聞かせてもらったことがあるが、声までソックリだよ。人間レコードって恐ろしいもんだね」 「呆れた爺ですね。その片山って爺は……」 「ウン。あんまり学問をし過ぎちゃって頭が普通でなくなっているんだよ。医学上でヒポマニーという精神病だがね。普通の人間以上のことをしていなくちゃ生きていられないようになっているんだ。そいつを知らないもんだから日本の×の連中は片山潜といったら神様みたいに思っているんだ。ソイツを利用してソビエットが宣伝に使っているんだ」 「つまりこの声をレコードに移して、片山潜の肉声だと云って配るんですね」 「そのつもりらしいね。非道い真似をしやがる」  人間レコードの声は、なおも本物のレコードさながらに続く。 「……英仏の帝国主義政府は、日本のこの皇道精神の発露を公然と妨害しているが、これは単に自己の強盗的利益のために……支那分割の過程に割込んで新しい地域を掴む機会を得んとしている準備工作に過ぎない。  帝国主義戦争を製造する国際聯盟、及びリットン報告書が、日本を裡面より如何に煽動し、中国の国際管理と分割を如何に執拗に提議しているかは、欧洲政局の裡面が最よく見透かされ得るモスコーに居なければわからないであろう。  米国の汎アメリカニズムと×××××××の矛盾は益々増大しつつあると、中国国民党の走狗どもは云っているが、これは間違いである。米国が××××××しようとしていることは、彼等のヒリッピンの統治方法を見ればわかる事である。  これ等の工作の全部を一挙に覆し、地上から××と××の影を潜めしむる任務は×××××諸君の双肩にかかっている。支那をしてソビエット政府の光栄ある治下に置き、彼等|虎狼の爪牙から免れしむることは一に新興×××××諸君の奮起力にかかっている。  起て。奮起せよ。武装せよ。  全世界を×××××の治下に置け。  ××××万歳。  ×××××××万歳。  ××とソビエットの×××万歳。 」 「何だ。お前、ふるえてるじゃないか」 「ふるえてやしません。ソビエット帝国主義の宣伝の狡猾さが癪に触っているだけです」 「アハハ。ソビエット帝国主義はよかったナ。この宣伝に欺されてうっかりソビエットの治下に這入ったら最後、その国の労働者農民は、今のソビエットと同様に、運の尽きだからね。資本主義の国が人民から搾るものはお金だけ……ところがソビエット主義が人民から搾り取るものは血から涙から魂のドン底までと云っていいんだからね」 「しかし支那人は直ぐにソビエット主義に共鳴するでしょう」 「ウン。非常な共鳴のし方だ。ドエライ勢で新疆方面に拡がっているが、しかし支那人の考えている共産主義は、ホントウのソビエット主義とはすこし違うんだよ」 「ヘエ。ドンナ風に違うんですか」 「ホントの共産主義は要するに『他人のものは我が物。わが物は他人のもの』というんだろう」 「そうですね。まあそうですね」 「ところが支那人のは違うんだ。『他人の物は我が物。我が物は我が物』というんだから」 「アハハハハ」 「ワハッハッハッハッ」 「シッ……フイルムに残りますよ」 「……オヤ……。人間レコードが黙り込んだね。モウ済んだんじゃないかな」 「さあ、どうでしょうか。フイルムは三田尻まで大丈夫持ちますよ」 「号外号外。号外号外。号外号外。東都日報号外。吾外務当局の重大声明。ソビエット政府に対する重大抗議の内容。外交断絶の第一工作……号外号外」 「号外号外。売国奴古川某の捕縛号外。ソビエット連絡係逮捕の号外。号外号外。夕刊電報号外号外」  この二枚の号外を応接室の椅子の中で事務員の手から受取った東京|駐箚××大使は俄然として色を失った。やおらモーニングの巨体を起して眼の前の安楽椅子に旅行服のままかしこまっている弱々しい禿頭の老人の眼の前にその号外を突付けた。  老人は受取って眼鏡をかけた。ショボショボと椅子の中に縮み込んで読み終ったが、キョトンとして巨大な大使の顔を見上げた。  その顔を見下した××大使は見る見る鬼のような顔になった。イキナリ老人にピストルを突付けて威丈高になった。ハッキリとしたモスコー語で云った。 「どこかで喋舌ったナ。メッセージの内容を……」  老人は椅子から飛上った。ピストルを持つ毛ムクジャラの大使の腕に両手で縋り付いて喚めいた。 「ト……飛んでもない。わ……私は人間レコードです。ど……どうしてメッセージの内容を……知っておりましょう」 「黙れ。知っていたに違いない。それを知らぬふりをして日本に売ったに違いない。タッタ一人残っている日本人の連絡係の名前と一緒に……」 「ワッ……」  と云うなり老人は宙を飛んで扉の方へ逃げ出したが、その両手がまだ扉へ触れない中に高く空間に揚がった。キリキリと二三回回転して床の上に倒れた。扉の表面に赤い血の火花を焦げ附かしたまま……。  その扉が向うから開いて大使夫人が半分顔を出した。モジャモジャした金髪の下から青い瞳と、真赤な唇をポカンと開いて見せた。大使は慌ててまだ煙の出ているピストルを尻のポケットに押込んだ。 「まあ。どうしたの。アンタ」 「ナアニ。レコードを一枚壊したダケだよ。ハッハッハ」  ちょうどその頃、東京駅入口階上の食堂の片隅で、若い海軍軍医と中学生が紅茶を啜っていた。  ゴチャゴチャと出入りする人の足音や、皿小鉢の触れ合う音に紛れて二人は仲よく囁き合っているが、よく見ると、それは昨夜の富士列車に居た青年ボーイと少年ボーイであった。 「馬鹿に早く手をまわしたもんですね」 「ナアニ。昨夜の録音フイルムが、徳山から海軍飛行機に乗って大阪まで飛んで行く中に現像されると、そのまま夜の明けない中に東京に着いたんだよ。あの録音の後の方に在った英国、露西亜、支那の三国密約の内容を聞いたので外務省が初めて決心が出来たんだ。大ビラで売国奴の名を付けて古川某を引括る事が出来たんだ。みんな予定の行動だったのだよ。徳山と岡山と、広島と姫路にはそれぞれ水上飛行機が待機していたんだよ。今頃はモウ露満国境の守備兵が動き出しているだろう」  中学生が光栄に酔うたように顔を真赤にして紅茶を啜った。 「君の発明したオモチャが大した働きをした訳だよ。勲章ぐらいじゃないと思うね」 「……でも僕は気味が悪かったですよ。途中で怖くなっちゃったんです。あの人間レコードの声を聞いた時に……人間レコードって一体何ですかアレは……」  海軍軍医は左右を見まわした。一段と少年に顔を近付けて紅茶の皿を抱え込んだ。 「イイかい。絶対秘密だよ」 「大丈夫です」 「わかってみれば何でもない話だがね。つまりアンナ風な各国語に通じた正直な人間を高価い金でレコード用に雇っておいて、極めて重要なメッセージを送る場合に使うんだ。書類なんかイクラ隠したって見付かるし、暗号だって解けない暗号はないんだからね。本人に暗記さしておけばいいようなもんだが、日本人と違って外国人は買収が利くんだから、つまるところ、密書を持たせるよりも険難な事になるんだ。ことに露西亜なんかは世界中が敵で、秘密外交の必要な度合が一番高いもんだからトウトウアンナ事を発明したんだね。  先ずアンナ風に何も知らない人間を、昨夜みたいに麻酔さしておいて、スコポラミンと阿片の合剤を注射して、一層深い、奇妙な、変ダラケの昏睡に陥れる。それから十分ばかりしてコカインと、安息香酸と、アイヌの矢尻に使うブシという草の汁のアルカロイドの少量を配合した液を注射すると、本人は意識しないまま、脳髄の中の或る一部分が眼ざめる。そこへ電気吹込みしたレコードの文句を……ドウも肉声では工合が悪いようだがね。そのレコードの音を耳に当てがうと不思議なほどハッキリと記憶する。十枚分ぐらいは楽に這入るもんだがね。それから本人が眼をさますと、ただ頭が痛いばっかりで何一つ記憶していない。イクラ拷問されても、買収されても白状する事がないのだから、どこへ送っても秘密の洩れる心配がない……という事になるんだ。ところがその人間レコードを向うへ着いてから前の順序で麻酔させて、コカインを一筒注射すると、前に云った脳髄のどこかの一部分が眼を醒ますんだね。最近に聞いたレコードの文句を夢うつつにハッキリと繰返す事実が、モウ東京の大学で実験済みなんだ」 「ヘエ。その薬を貴方が発明したんですか」 「発明なんか出来るもんじゃない。盗んだんだよ。ペトログラードのネバ河口に在る信号所の地下室にこの人間レコード製造所が在ることを日本の機密局では大戦以前から知っていて、苦心惨憺して、その遣り方を盗んでおいたんだ。ところが露国は今まで、日本に対してだけこの手段を使ったことがない。つまり取っときにしといたのを今度初めて使いやがったんだ。一番重大なメッセージだからね」 「何故取っときにしたんでしょう」 「日本の医学は世界一だからね。怖かったんだよ。その上に人間レコードに度々なる奴は、なればなる程、注射がよく利いて、レコードの作用がハッキリなる代りに、薬の中毒で妙な顔色になって瘠せ衰えるんだ。気を付けていると直ぐに普通の人間と見分けが付くんだ」 「つまりアノ爺みたいになるんですね」 「そうだよ。永い事、和蘭に居た若島中将閣下は哈爾賓から飛行機で来たあの爺の写真を見ただけで、テッキリ人間レコードということがわかったという位だからね」 「若島中将……誰ですか。若島中将って……」 「日本の機密局長さ。支那服を着た立派な人だがね。僕等の親玉なんだ。君を海軍兵学校に入れてやるというのはその人さ……」  中学生は今一度真赤になった。 「でもあの小ちゃな爺さんは気の毒ですね」 「気の毒ぐらいじゃない。きょうの号外を見たら××大使に殺されやしまいかと思うんだがね。裏切者という疑いで……」 「エッ。殺されるんですか。何も知らないのに……」 「殺されるとも。ソビエットの唯物主義の奴等は血も涙もないんだからね。政治外交上の問題で少しでも疑わしい奴は片っ端から殺して行くのが奴等の方針だよ」 「残酷ですなあ」 「ナアニ。レコードを一枚壊すくらいにしか思ってやしないだろう。ハハハ」  太郎さんはしじゅう寝ぼけてしくじるので、口惜しくてたまりません。明日は運動会だから、決して寝ぼけずにちゃんと自分で支度をして、みんなを驚かしてやろうとかたく決心をして寝ました。  あくる朝大へん早く起きたものがありますから、太郎さんは飛び起きますと、お母さんが坐って、 「太郎さん、今日は雨がふって運動会がお休みになったのだよ。さっき先生がお寄りになったから本当です。ゆっくりお休みなさい」  と言われました。太郎さんは昨日先生が「雨が降ったら運動会はおやめ」と言われた事を思い出して、安心して眠りました。  しばらくすると又太郎さんはお母さんからゆすぶり起こされました。 「太郎さん、太郎さん、大変よ。お天気になったよ。運動会があるよ」  太郎さんは、寝ぼけてはならぬと、寝床の中で考えはじめました。どっちが本当だろうと考えてみましたが、どうしてもわかりません。 「さあさあ、太郎、起きろ起きろ」  と今度はお父さんの声がしました。 「お弁当は出来ていますよ」  と姉さんの声もきこえて来ました。仕方なしに太郎さんは起き上って、御飯を食べて袴をはいて新しい靴下と白足袋をはいて、それからもし運動会がなかった時の用心に昨日次の日の時間割に合わして本を詰めて置いた鞄を荷いで、学校に行きました。  来てみると運動場には誰もいず、一パイに水たまりが出来ています。教室に行ってみると、ここもガランとして鼠一匹おりません。  変だなと思っておうちへ帰ってみると、家中の人は皆、太郎さんの顔を見て一時に笑い出しました。  太郎さんは憤って、 「何故僕を笑うの。僕は寝ぼけていやしない。運動会がお休みの時の用心に鞄をちゃんと持って行ったんだ。そしたら学校に誰もいないんだ。教場にもいないから変でしょうがないんだ」  と泣き出しそうな顔をしました。  みんな死ぬ位笑いながら言いました。 「太郎さんはまだ寝ぼけているの。今日は日曜じゃないの。運動会がなければ学校はお休みですよ。お母さんが運動会があると言ったのがわるかったのね」  太郎さんは恥かしさと口惜しさにとうとう泣き出しました。お父さんはその背中を撫でて慰めて下さいました。 「感心感心。日曜までも勉強をする児はお前より他にない。泣くな泣くな」    能ぎらい  日本には「能ぎらい」と称する人が多い。否。多い処の騒ぎでなく、現在日本の大衆の百人中九十九人までは「能ぎらい」もしくは能に対して理解をもたない人々であるらしい。  ところがこの能ぎらいの人々について考えてみると能の性質がよくわかる。  目下日本で流行している音曲とか舞楽というものは随分沢山ある。上は宮中の雅楽から下は俗謡に到るまで数十百種に上るであろう。  ところでその中でも芸術的価値の薄いものほどわかり易くて面白いので、又、そんなものほど余計に大衆的のファンを持っているのは余儀ない次第である。つまりその中に「解り易い」とか「面白い」とか「うまい」とか「奇抜だ」とか「眼新しい」とか言う分子が余計に含まれているからで、演者や、観衆、もしくは聴衆が余り芸術的に高潮せずとも、ストーリーの興味や、リズムの甘さ、舞台面の迫真性、もしくは装飾美等に十分に酔って行く事が出来るからである。  然るに能はなかなかそうは行かない。第一流の名人が演じても、容易に共鳴出来ないので、坐り直して、深呼吸をして、臍下丹田に力を籠めて正視しても何処がいいのかわからない場合が多い。 「世の中に能ぐらい面白くないシン気臭い芸術はない。日増しのお経みたようなものを大勢で唸っている横で、鼻の詰まったようなイキンだ掛け声をしながら、間の抜けた拍子で鼓や太鼓をタタク。それに連れて煤けたお面を冠った、奇妙な着物を着た人間が、ノロマが蜘蛛の巣を取るような恰好でソロリソロリとホツキ歩くのだから、トテモ退屈で見ていられない。第一外題や筋がパッとしないし、文句の意味がチンプンカンプンでエタイがわからない。それを演ずるにも、泣くとか、笑うとか、怒るとかいう表情を顔に出さないでノホホンの仮面式に押し通すのだから、これ位たよりない芸術はない。二足か三足ソーッと歩いたばかりで何百里歩いた事になったり、相手もないのに切り結んだり、何万人もいるべき舞台面にタッタ二、三人しかいなかったりする。まるで芸術表現の詐欺取財だ。あんなものが高尚な芸術なら、水を飲んで酔っ払って、空気を喰って満腹するのは最高尚な生活であろう。お能というのは、おおかた、ほかの芸術の一番面白くない処や辛気臭い処、又は無器用な処や乙に気取った内容の空虚な処ばかりを取り集めて高尚がった芸術で、それを又ほかの芸術に向かない奴が、寄ってたかって珍重するのだろう……」  と言うような諸点がお能嫌いの人々の、お能に対する批難の要点らしく思われる。  更に今一歩進んで、 「能というものは要するに封建時代の芸術の名残りである。謡いも、舞いも、囃子も、すべてが伝統的の型を大切に繰り返すだけで、進歩も発達もない空虚なものである。手早く言えば一種の骨董芸術で、現代人に呼びかける処は一つもない。世紀から世紀へ流動転変して行く芸術の生命とは無論没交渉なものである」  なぞと言うのはまだ多少お能の存在価値を認める人々の言葉である。 「仮面を冠って舞うなんて芸術の原始時代の名残りだ。その証拠に能楽の歌や節や、囃子の間拍子や、舞いの表現方法までも幼稚で、西洋のソレとは比較にならない程不合理である。あんな芸術が盛んになるのは太平の余慶で、寧ろ亡国の前兆である」  と言うに到っては、正に致命的の酷評と言っていいであろう。    能好き  ところがそんな能ぎらいの人々の中の百人に一人か、千人に一人かが、どうかした因縁で、少しばかりの舞いか、謡いか、囃子かを習ったとする。そうすると不思議な現象が起る。  その人は今まで攻撃していた「能楽」の面白くない処が何とも言えず面白くなる。よくてたまらず、有難くてたまらないようになる。あの単調な謡いの節の一つ一つに言い知れぬ芸術的の魅力を含んでいる事がわかる。あのノロノロした張り合いのないように見えた舞いの手ぶりが非常な変化のスピードを持ち、深長な表現作用をあらわすものであると同時に、心の奥底にある表現欲をたまらなくそそる作用を持っている事が理解されて来る。どうしてこのよさが解らないだろうと思いながら、誰にでも謡って聞かせたくなる。処構わず舞って見せたくなる。万障繰り合わせて能を見に行きたくなる。  今まで見た実例によると、能ぎらいの度が強ければ強いほど、能好きになってからの熱度も高いようで、その変化の烈しさは実例を見なければトテモ信ぜられない。実に澄ましたものである。  しかし、そんな能好きの人々に何故そんなに「能」が有難いのか、「謡曲」が愉快なのかと訊いてみても、満足な返事の出来る人はあまりないようである。 「上品だからいい」「稽古に費用がかからないからいい」「不器用な者でも不器用なままやれるからいい」なぞといろいろな理屈がつけられている。又、実際そうには相違ないのである。しかし、それはホンの外面的の理由で「能のどこがいい」とか「謡いの芸術的生命と、自分の表現欲との間にコンナ霊的の共鳴がある」とか言うような根本的の説明には触れていない。要するに、 「能というものは、何だか解らないが、幻妙不可思議な芸術である。そのヨサをしみじみ感じながら、そのヨサの正体がわからない。襟を正して、夢中になって、涙ぐましい程ゾクゾクと共鳴して観ておりながら、何故そんな気持になるのか説明出来ない芸術である」  というのが衆口の一致する処らしい。  正直の処、筆者もこの衆口に一致してしまいたいので、これ以上に能のヨサの説明は出来ない事を自身にハッキリと自覚している。又、真実の処、能のヨサの正体をこれ以上に説明すると、第二義、第三義以下のブチコワシ的説明に堕するので、能のヨサを第一義的に自覚するには「日本人が、自分自身で、舞いか、囃子をやって見るのが一番捷径」と固く信じている者である。  これは、この記事の読者を侮辱する意味に取られると困るが決してそうでない。以下陳ぶる処の第二義以下の説明を読み終られたならば、筆者の真意の存する処を諒とせらるるであろう。    能という名前 「能」を説明しようとする劈頭第一に「能」という言葉の註釈からして行き詰まらねばならぬ。「能」という言葉自身は支那語の発音で、才能、天性、効力、作用、内的潜在力、など言ういろいろな意味が含まれているようである。しかしそんなものの美的表現と註釈しても、あまりに抽象的な、漠然たる感じで、あの松の絵を背景とした舞台面で行われる「お能」の感じとピッタリしない。「仮面と装束を中心生命とする綜合芸術」と註釈しても、何だか外国語を直訳したようで、日本の檜舞台で行われる、実物のお能の感じがない。とは言え「能」は事実上そんな物には違いないのであるが、言わば、そんなものを煎じ詰めて、ランビキにかけた精髄で、火を点ければ痕跡も止めず燃えてしまうようなものである。その感じ、もしくはそのあらわれを「能」と名付けた……とでも言うよりほかに言いようがないであろう。  別の方面から考えるとコンナ事も言える。人間の仕事もしくは動作は数限りない。歩く。走る。漕ぐ。押す。引く。馬に乗る。物を投げる。鉄鎚を振る。掴み合う。斬り合う。撃ち合う……なぞと無限に千差万別しているのであるが、そんな動作の一つ一つが繰り返し繰り返し洗練されて来ると、次第に能に近づいて来る。  たとえば、剣術の名手と名手が、静かに一礼して、立ち上って、勝敗を決する迄の一挙一動は、その悉くが五分も隙のない、洗練された姿態美の変化である。極度に充実緊張した、しかも、極度に軽い精神と肉体の調和である。その静止している時には、無限のスピードを含んだ霊的の高潮度が感ぜられる。又は烈しく切り結んでいるうちに、底知れぬ霊的の冷静味がリズム化して流れている事を、客観的にアリアリと感ぜられる。……そうした決闘はそれ自身が「能」である。  弓を弾く人は知っておられるであろう。弓を構えて、矢を打ち番えて、引き絞って、的に中った音を聞いてから、静かに息を抜くまでの刹那刹那に、言い知れぬ崇高な精神の緊張が、全身に均衡を取って、充実して、正しい、美しい、かつ無限の高速度をもった霊的リズムの裡に、変化し推移して行く事を、自分自身に感ずるであろう。能を演ずる者の気持よさはそこに根底を置いている。能の気品はそうした立脚点から生まれて来るのである。  こうした「能」のあらわれは、格風を崩さぬ物の師匠の挙動、正しいコーチと場数を踏んだスポーツマンのフォームやスタイルの到るところにも発見される。……否、そんな特殊の人々のみに限らず、広く一般の人々にも、能的境界に入り、又は能的表現をする人々が多々あるので、そうした実例は十字街頭の到る処に発見される。  千軍万馬を往来した将軍の風格、狂瀾怒涛に慣れた老船頭の態度等に現わるる、犯すべからざる姿態の均整と威厳は、見る人々に言い知れぬ美感と崇高感を与える。その他一芸一能に達した者、又は、或る単純な操作を繰り返す商人もしくは職人等のそうした動作の中には多少ともに能的分子を含んでいないものはない。  筆者をして言わしむれば、人間の身体のこなしと心理状態の中から一切のイヤ味を抜いたものが「能」である。そのイヤ味は、或る事を繰り返し鍛練する事によって抜き得るので、前に掲げた各例は明らかにこれを裏書している。  畢竟「能」は吾人の日常生活のエッセンスである。すべての生きた芸術、技術、修養の行き止まりである。洗練された生命の表現そのものである。そうして、その洗練された生命の表現によって、仮面と装束とを舞わせる舞台芸術を吾人は「能」と名付けて、鑑賞しているのである。  右に就いて私の師匠である喜多六平太氏は、筆者にコンナ話をした事がある。 「熊の一種で能という獣がいるそうです。この獣はソックリ熊の形でありながら、四ツの手足がない。だから能の字の下に列火がないのであるが、その癖に物の真似がトテモ上手で世界中で有りとあらゆるものの真似をすると言うのです。『能』というものは人間が形にあらわしてする物真似の無調法さや見っともなさを出来るだけ避けて、その心のキレイさと品よさで、すべてを現わそうとするもので、その能と言う獣の行き方と、おんなじ行き方だというので能と名付けたと言います。成る程、考えてみると手や足で動作の真似をしたり、眼や口の表情で感情をあらわしたり、背景で場面を見せたりするのは、技巧としては末の末ですからね」 「能」という名前の由来、もしくは「能」の神髄に関する説明で、これ位穿った要領を得た話はない。東洋哲学式に徹底していると思う。  二三年前の事、或る若いエスペランチストが私の処へ遊びに来ました序に、瑞西とかのエスペラントの雑誌へ「能」の事を投稿したいから、話してくれないかと頼みました。ところが生憎、私は能というものを外国人に紹介する程の頭も学問も持合わせておりません。東京で行われる一流の能さえもあまり見た事がないくらいの貧弱な一ファンに過ぎないのですから、そんな大それた話は出来ないと云ってあやまりましたら、それなら概念だけでもいいから、質問に応じてくれ。それを参考にして論文を書いて見るから……とナカナカ頑強で熱心なのです。そこで私は大胆にも承知をしまして、その青年の質問に答えたのですが、その質問が又、意外に組織立っているのに些からず驚かされた事でした。しかもその青年は私の答えを一々速記して日本文に直しておりましたので、その原稿を程経てから私の留守中に持って来て「閑な時に見てくれ」と云いおいて帰って行きました。  ところがその青年は、それっ切りパッタリと来なくなりました。住所が分らなくなったばかりでなく、年賀状も来なくなりましたので、どうしたのかと思っておりますと、この頃の人の噂に、その青年は深刻な左傾運動に関係して外国に放逐されたとの事で私は余りの事に茫然となった事でした。そうして一人の頭のいい、情熱の深い友達を失った事を心から悲しんだ事でした。  この原稿はその青年の生き形見で、ほんの処々筆を入ただけです。その青年の頭のよさと、私の無学さとが到る処に曝露している事と思いますが、却ってそうした点が一種の興味と共に何かの御参考になりはしまいかと思いまして編輯者のお手許に差出す事に致しました。一つにはその青年の思い出を葬り去るに忍びない私の或る気持ちが、こんな決心を敢てさしたのかも知れませぬけれども……。  長々しい私事を前置きに致しましたことを謹んでお詫び致します。      外人の能楽ファン 「能とは何ぞや」という標題は大き過ぎて気がひける。併し外に適当な題もないようだからこの題下に話をすすめる。  近来外国の芸術家、もしくは芸術愛好者たちが日本の「能」に着眼して、色々な研究をしていると聞いた。主として文学青年の噂を聞き噛ったのであるが、主として英米独仏人だそうである。中にも米国人は、例の珍らしいもの好きから「能」に接近する傾向があるが、同じアングロ・サクソン人種でも英国人のはそんな単純な意味の研究ではないらしい。何とかいう詩人は真正面から「能」を研究して批判しているし、ゴールドン・クレイグという劇通は裡面から英国の劇壇の新傾向を解剖して「劇の窮極の形の一つに仮面舞踊劇が存在する」というところから、日本の「能」の芸術的存在価値を裏書きしていると聞いた。又今から百年ばかり前に死んだ仮面劇の作者の墓石に刻み付けられた楽譜ようのものの正体が、どう研究しても分らなかったのが、この頃日本の能楽研究が盛んになるに連れて、その楽譜ようのものが打楽器の音譜である事が判明した……というような話も聞いている。その他にも能楽に就て論議された言葉が色々と発表されているので、そんな人々の意見を綜合すると概要こんな意味になる。  舞台という四角い、限られた枠の中に嵌め込まれるべき所作的表現である以上、その所作、扮装共に現実と同じものでは調和しないのが当然である。皿の絵はあくまで皿の絵式の非現実なものでなければならぬ。丸天井の絵はどこまでも丸天井式の夢幻的な構図着想でなければならぬ。その他、壁布の絵、衣裳の模様、人体の黥、その他何でも、芸術作品というものは、その盛り込まれる相手の形状、用途、環境、対象等の各条件によって、それらしいノンセンス味を加味して行かれねばならぬ。そこに現実としての虚偽があると同時に芸術としての真実が存在する。この意味で現実の断片を、そのまま舞台にはめ込むのは芸術上の大錯誤である。  舞台という特別な世界に嵌め込まれて、鑑賞さるべき所作芸術は、舞台という四角い箱に百パーセントまで調和する扮装と所作でなければならぬ。このために芝居に於て、俳優は、顔の化粧を強調し、動作を極度に突込み、表情を思い切り誇張する。舞台を区切る強い直線の力、フットライトの威力、音楽の波動、又は筋や言葉の緊張度等に圧倒されまい。これを支配して、これに調和して行こうとする。そうすると、その所作は次第に非現実なものになり、その扮装は自から舞台向きの特殊なものとなって来る。  作者も同じ苦心をする。舞台の上で進行する事件を現実通りにゴチャゴチャさせたり、間延びにしたりする事は出来ない。その場面場面の印象は、出来るだけ重立った、上手な役者の所作、科白等によって強調させるようにしなければならぬ。その脚色と名付くる非現実な統制によって、初めて舞台上の出来事が、観客の頭に百パーセントの印象をあたえる事になる。  けれども一方に、それが芝居である以上、全然現実から脱却する事は出来ない。ストーリーの面白味、背景、扮装の迫真、史実との一致なぞいう非芸術な要素を喜ぶ低級な観客や、低級な通人、批評家の勢力はいつの世にも絶えない。従て芝居は常住不断に舞台表現と、現実的な表現との中間に狭迷って行かねばならぬ。写実と非写実のチャンポンをやって行かねばならぬ。芝居芸術の悲哀はそこにある。  この煩悶を一掃するものは、舞台仮面劇、もしくは舞台仮面舞踏である。そうして日本の能楽はこの両者を打って一丸として渾然徹底したものでなければならぬ。舞台と仮面、仮面と打音楽器は、切っても切れぬ芸術的因縁を以て、一如に結び付いているものである。  吾人は希臘の仮面舞踊劇を今一度、モットモット深くかえりみる必要がある……。  ……というような考察は、英国の極めて高等な芸術家たちの論議に散見しているところだそうである。  その他、仏蘭西人は直観的に能の表現の尖鋭さを推賞し、独逸人は能楽のリズムを表現する間拍子が異常な発達を遂げているのに驚異して、これを科学的に分析研究しているという。  その他、曰く何、曰く何と色々な研究の話を聞いているが、外国語のわからない私には、直接に原書を読む事が出来ない。又訳書も無いらしいので、畢竟、噂の噂程度の引例にしかならないのを悲しむ。しかし、それでも、その研究や発表が上述の如く、能の根本義に触れている点は三嘆に価するので、日本人でもそんな風に能の根本精神に触れた考察をめぐらしているものはあまりあるまいと考えられる。  外国の最高知識階級に属する人々の能楽研究熱がコンナ風に盛んになるに連れて、日本来遊の外人達の間に、「日本に来て能ダンスを見なければ日本の芸術を語るに足らず」「キモノ、フジヤマ、ノウダンス」という傾向が高まって来た。中には自身で「能」を稽古して、西洋に帰ってから自国語で演出して見ようというような熱心家が出て来た。又は米国に行っている教授の世話で、在留邦人が年中行事として能を催す際に、米人のマダムや令嬢が囃方を受け持つ事にきめている向きがあるという。殊にそんな婦人の中でも、日本人の男性でも掌の痛さと、気合いの烈しさに辟易する大鼓を引き受けている人が居ると聞くに到っては、感心を通り越して瞠若の到りである。  斯様な調子で外国人の能楽研究が盛んになるに連れて、日本の芸術家は勿論、一般大衆が能に対して眼ざめて来た。ちょうど外人が日本の錦絵を賞讃して、その中に含まれている尖端的な芸術味を驚異玩味しつつ彼等の芸術に取り入れ初めて以来、日本の芸術家たちが足下から鳥が立ったように錦絵礼讃を初めたのと同一軌である。  こんな風潮がいい事か、わるい事かは別問題として、徳川時代に於ける錦絵画家の人知れぬ苦心は、かくして明治、大正、昭和の時代に於て酬いられつつある。同様に、足利時代以来五百年に亘って生れかわり死にかわりした代々の能楽師が、現在の能を完成するために費した底知れぬ苦心研鑽の努力は、今や漸く酬いられむとしつつある。  私は無学な、お国自慢の一能楽ファンである。だから斯様に日本の芸術……特に能楽価値を認めて、日本人に指示してくれる外人諸氏に対して一も二もなく感謝の頭を下げるものである。  けれども、それと同時に、次のような放言をする事を許してもらいたい。  有り体に云うと前述の錦絵は日本所産の芸術作品の中でもかなりに俗受け専門の低級浅薄なものであるが、それでもその中に含まれている画家と、彫刻師と、印刷者の苦心は、外国一流の芸術家たちを刺戟して、新生面を打開させるだけの偉大深刻な尖鋭さをもっている。  だから、純乎たる芸術価値のみを目標として、五百年の長い間俗家に媚びず……換言すれば興行本位、金銭本位とせずに、代を重ねた名人達の手によって、洗練に洗練しつくされて来た能の表現の尖鋭さ、芸術的白熱度の高さは、到底錦絵の比でない事を、局外者と雖も容易に想像し得るであろう……と。      能ぎらい  日本には「能ぎらい」と称する人が多い。否。多いどころの騒ぎでなく、現在日本の大衆の百人中九十九人までは「能ぎらい」もしくは能に対して理解を持たない人々であるらしい。  ところがこの能ぎらいの人々について考えてみると能の性質がよくわかる。  目下日本で流行している音曲とか舞楽というものは随分沢山ある。上は宮中の雅楽から下は俗謡に到るまで数十百種に上るであろう。  ところでその中でも芸術的価値の薄いものほどわかり易くて面白いので、又、そんなものほど余計に大衆的のファンを持っているのは余儀ない次第である。つまりその中に「解かり易い」とか「面白い」とか「うまい」とか「奇抜だ」とか「眼新しい」とかいう分子が余計に含まれているからで、演者や、観衆、もしくは聴衆があまり芸術的に高潮せずとも、ストーリーの興味や、リズムの甘さ、舞台面の迫真性、もしくは装飾美等に充分に酔って行く事が出来るからである。  然るに能はなかなかそうは行かない。第一流の名人が演じても、容易に共鳴出来ないので、座り直して、深呼吸をして、臍下丹田に力を籠めて正視してもどこがいいのかわからない場合が多い。 「世の中に能ぐらい面白くないシン気臭い芸術はない。日増しのお経みたようなものを大勢で唸っている横で、鼻の詰まったようなイキンだ掛け声をしながら、間の抜けた拍子で鼓や太鼓をタタク。それに連れて煤けたお面を冠った、奇妙な着物を着た人間が、ノロマが蜘蛛の巣を取るような恰好でソロリソロリとホツキ歩くのだからトテモ退屈で見ていられない。第一外題や筋がパッとしないし、文句の意味がチンプンカンプンでエタイがわからない。それを演ずるにも、泣くとか、笑うとか、怒るとかいう表情を顔に出さないでノホホンの仮面式に押し通すのだから、これ位たよりない芸術はない。二足か三足ソーッと歩いたばかりで何百里歩いた事になったり、相手も無いのに切り結んだり、何万人も居るべき舞台面にタッタ二三人しか居なかったりする。まるで芸術表現の詐欺取財だ。あんなものが高尚な芸術なら、水を飲んで酔っ払って、空気を喰って満腹するのは最高尚な生活であろう。お能というのは、おおかた、ほかの芸術の一番面白くない処や辛気臭い処、又は無器用な処や、乙に気取った内容の空虚な処ばかりを取集めて高尚がった芸術で、それを又ほかの芸術に向かない奴が、寄ってたかって珍重するのだろう……」  というような諸点がお能嫌いの人々の、お能に対する批難の要点らしく思われる。  更に今一歩進んで、 「能というものは要するに封建時代の芸術の名残りである。謡も、舞も、囃子も、すべてが伝統的の型を大切に繰り返すだけで、進歩も発達もない空虚なものである。手早く云えば一種の骨董芸術で、現代人に呼びかけるところは一つもない。世紀から世紀へ流動転変して行く芸術の生命とは無論没交渉なものである」  なぞと云うのは、まだ多少お能の存在価値を認める人々の言葉である。 「仮面を冠って舞うなんて芸術の原始時代の名残りだ。その証拠に能楽の謡の節や、囃子の間拍子や、舞の表現方法までも幼稚で、西洋のソレとは比較にならない程不合理である。あんな芸術が盛んになるのは太平の余慶で、寧ろ亡国の前兆である」  と云うに到っては、正に致命的の酷評と云っていいであろう。      能 好 き  ところがそんな能ぎらいの人々の中の百人に一人か、千人に一人かが、どうかした因縁で、少しばかりの舞か、謡か、囃子かを習ったとする。そうすると不思議な現象が起る。  その人は今まで攻撃していた「能楽」の面白くないところが何ともいえず面白くなる。よくてたまらず、有り難くてたまらないようになる。あの単調な謡の節の一つ一つに云い知れぬ芸術的の魅力を含んでいる事がわかる。あのノロノロした張り合いのないように見えた舞の手ぶりが、非常な変化のスピードを持ち、深長な表現作用をあらわすものであると同時に、心の奥底にある表現慾をたまらなくそそる作用を持っている事が理解されて来る。どうしてこのよさが解らないだろうと思いながら誰にでも謡って聞かせたくなる。処構わず舞って見せたくなる。万障繰り合わせて能を見に行きたくなる。  今まで見た実例によると、能ぎらいの度が強ければ強いほど、能好きになってからの熱度も高いようで、その変化の烈しさは実例を見なければトテモ信ぜられない。実に澄ましたものである。  しかし、そんな能好きの人々に何故そんなに「能」が有難いのか、「謡曲」が愉快なのかと訊いてみても満足な返事の出来る人はあまりないようである。 「上品だからいい」「稽古に費用がかからないからいい」「不器用な者でも不器用なままやれるからいい」なぞと色々な理屈がつけられている。又、実際、そうには相違ないのであるが、しかし、それはホンの外面的の理由で、「能のどこがいい」とか「謡の芸術的生命と、自分の表現慾との間にコンナ霊的の共鳴がある」とかいうような根本的の説明には触れていない。要するに、 「能というものは、何だか解からないが幻妙不可思議な芸術である。そのヨサを沁みじみ感じながら、そのヨサの正体がわからない。襟を正して、夢中になって、涙ぐましい程ゾクゾクと共鳴して観ておりながら、何故そんな気持ちになるのか説明出来ない芸術である」  というのが衆口の一致するところらしい。  正直のところ、筆者もこの衆口に一致してしまいたいので、この以上に能のヨサの説明は出来ない事を自身にハッキリと自覚している。又、真実のところ、能のヨサの正体をこれ以上に説明すると、第二義、第三義以下のブチコワシ的説明に堕するので、能のヨサを第一義的に自覚するには、「日本人が、自分自身で、舞か、囃子をやって見るのが一番|捷径」と固く信じている者である。  これは、この記事の読者を侮辱する意味に取られると困るが決してそうでない。以下|陳ぶるところの第二義以下の説明を読み終られたならば、筆者の真意の存するところを諒とせらるるであろう。      能という名前 「能」を説明しようとする劈頭第一に「能」という言葉の註釈からして行き詰まらねばならぬ。 「能」という言葉自身は支那語の発音で、才能、天性、効力、作用、内的潜在力、などいう色々な意味が含まれているようである。しかしそんなものの美的表現と註釈しても、あまりに抽象的な、漠然たる感じで、あの松の絵を背景とした舞台面で行われる「お能」の感じとピッタリしない。「仮面と装束を中心生命とする綜合芸術」と註釈しても、何だか外国語を直訳したようで、日本の檜舞台で行われる、実物のお能の感じがない。とはいえ「能」は事実上そんな物には違いないのであるが、云わば、そんなものを煎じ詰めて、ランビキにかけた精髄で、火を点ければ痕跡も止めず燃えてしまうようなものである。その感じ、もしくは、そのあらわれを「能」と名付けた……とでも云うよりほかに云いようがないであろう。  別の方面から考えるとコンナ事も云える。人間の仕事もしくは動作は数限りない。歩く。走る。漕ぐ。押す。引く。馬に乗る。物を投げる。鉄鎚を振る。掴み合う。斬り合う。撃ち合う……なぞと無限に千差万別しているのであるが、そんな動作の一つ一つが繰り返し繰り返し洗練されて来ると、次第に能に近づいて来る。  たとえば、剣術の名手と名手が、静かに一礼して、立ち上って、勝敗を決する迄の一挙一動は、その悉くが五分の隙のない、洗練された姿態美の変化である。極度に充実緊張した、しかも、極度に軽い精神と肉体の調和である。その静止している時には、無限のスピードを含んだ霊的の高潮度が感ぜられる。又は烈しく切り結んでいるうちに、底知れぬ霊的の冷静味がリズム化して流れている事を、客観的にアリアリと感ぜられる。……そうした決闘はそれ自身が「能」である。  弓を弾く人は知って居られるであろう。弓を構えて、矢を打ち番えて、引き絞って、的に中った音を聞いてから、静かに息を抜くまでの刹那刹那に、云い知れぬ崇高な精神の緊張が、全身に均衡を取って充実して、正しい、美しい、且つ無限の高速度をもった霊的リズムの裡に、変化し推移して行く事を、自分自身に感ずるであろう。能を演ずる者の気持ちよさはそこに根柢を置いている。能の気品はそうした立脚点から生れて来るのである。  こうした「能」のあらわれは、格風を崩さぬ物の師匠の挙動、正しいコーチと場数を踏んだスポーツマンのフォームやスタイルの到るところにも発見される。……否、そのような特殊の人々のみに限らず、広く一般の人々にも、能的境界に入り、又は能的表現をする人々が多々あるので、そうした実例は十字街頭の到る処に発見される。  千軍万馬を往来した将軍の風格、狂瀾怒濤に慣れた老船頭の態度等に現わるる、犯すべからざる姿態の均整と威厳は見る人々に云い知れぬ美感と崇高感を与える。その他一芸一能に達した者、又は、或る単純な操作を繰り返す商人もしくは職人等のそうした動作の中には多少ともに能的分子を含んでいないものはない。  筆者をして云わしむれば人間の身体のこなしと、心理状態の中から一切のイヤ味を抜いたものが「能」である。そのイヤ味は、或る事を繰返し鍛錬することによって抜き得るので、前に掲げた各例は明かにこれを裏書している。  畢竟「能」は吾人の日常生活のエッセンスである。すべての生きた芸術、技術、修養の行き止まりである。洗練された生命の表現そのものである。そうして、その洗練された生命の表現によって、仮面と装束とを舞わせる舞台芸術を吾人は「能」と名付けて、鑑賞しているのである。  右に就いて私の師匠である喜多|六平太氏は、筆者にコンナ話をした事がある。 「熊の一種で能という獣が居るそうです。この獣はソックリ熊の形でありながら、四ツの手足が無い。だから能の字の下に列火が無いのであるが、その癖に物の真似がトテモ上手で世界中に有とあらゆるものの真似をするというのです。『能』というものは人間が形にあらわしてする物真似の無調法さや見っともなさを出来るだけ避けて、その心のキレイさと品よさで、すべてを現わそうとするもので、その能という獣の行き方と、おんなじ行き方だというので能と名付けたと云います。成る程、考えてみると手や足で動作の真似をしたり、眼や口の表情で感情をあらわしたり、背景で場面を見せたりするのは、技巧としては末の末ですからね」 「能」という名前の由来、もしくは「能」の神髄に関する説明で、これ位|穿った要領を得た話はない。東洋哲学式に徹底していると思う。      能と芝居  能と芝居とを比較してみる。前述の六平太氏の話が具体的に説明されるばかりでなく、芸術界に於ける能の立場が一層ハッキリとなると思う。  誰でも知っている通り、一般の芝居の舞台面には写実の分子が夥しく含まれている。……背景をパノラマ式にする。月を切り抜いて見せる。雨や雪を降らせる。前景には本物の家や木立を並べる。火を燃やし湯を沸かす。生きた猿や馬を曳き出す。風や浪の音。鳥や虫の声。汽車の音まで写実を利かせる。又、斬られると血を流し、死にかけると青い粉を顔に塗るなど、数えれば数限りもない。  併し遺憾ながら似せ物は本物に敵わない。小豆と石油缶の音は、実物の汽車よりも間の抜けた音を出す。人工のスパークは大空のスパークほど凄くない。結局するところ、そのような写実装置の真実味を観客に受け取らせるのはその中で芝居をやる俳優の技巧、心境、腕前という事になる。ドンナ立派な背景や大道具、小道具を使っても、役者がヘボだと、ただそんな物の並んでいるだけの、間の抜けた舞台面になる。これに反して名優が演ずると、すべての道具が生きて来る事が誰の眼にもわかる。  そこを悟ったものかドウかわからぬが、この頃の新しい劇で背景を白と黒の線、又は単純色幕の組合わせで感じだけ扱って行く研究が行われているとか聞いた。多分西洋の事と思うが、それでもその背景の感じを活かすのがその出演者の腕一つである事は云う迄もない。  こうした出演者の表現能力のみをもって舞台面を一パイにして行く行き方に、日本では所作事式のものが色々ある。中には背景の代りに合唱隊や、囃方が、むき出しに並んでいるのもあるが、そんなものは出演者の表現力に掻き消されて、チットモ邪魔にならない。のみならずその合唱隊や囃子方の揃った服装や、気合い揃った動きは、気分的に厳粛な背景を作って、演舞者の所作があらわす気分を、弥が上にも引っ立てて行く。観客の観賞心理を深め、陶酔気分を高めて、純乎たる芸術の世界まで観客の頭を高めて行く。  そのようなものを見る観客のアタマは、写実一方の舞台に感心する観衆のソレよりも遥かに進歩している。芸術的に洗練、純化されている。それは人の好き好きで、どちらが高いの低いのというのは間違っているという意見も時々聞くが、芝居好きになればなる程、背景や所作の写実的なのが低級なものに感ぜられて来る……というのは衆口の一致するところである。そうしてこの傾向が進んで来ると、或る個人の一定の型による舞台表現によって、その人間の個性……すなわち芸力や持ち味が如何に発揮されるかを見て喜ぶという傾向になる。歌舞伎十八番なぞはその一例で、平生の芝居でも、誰の何々はこうこう……なぞいうところに観衆のこうした観賞欲が含まれている。  もっと進んだ芝居好きになると、扮装も背景も無い素舞いを見て随喜の涙をこぼすのがある。  能はこうした舞台表現の中でも、一番いい処……すなわち芸術的に格調の高い処ばかりを撰り抜いて綜合、研成して来たものである。      能の起原  能は今から数百年前……たしかな事は記憶しないが、日本が今の王政でなく、その前の徳川幕府以前の、戦国時代のモウ一ツ以前の足利将軍時代に出来たもので、その当時はこれを猿楽と云っていた。この猿楽が能の初まりである事は確実らしいので、能の曲目に選ばれている伝説や史実に、その以前の鎌倉時代以後の事がないのを見てもわかる。  猿楽の前身が何であったかに就いては、色々な学者の説があるそうであるが、私にはわからない。もしかするとその頃までに相当発達していたであろう芝居、物真似、田楽、狂言、民謡、又は神楽、雅楽、催馬楽なぞいうものの中から、芸術的に高潮した……イイナア……と思われる処だけを抜き萃めて、仮面舞踊として演出しているうちに一つの演出の型が出来上ったのかも知れない。たとえば主演者と助演者の科白や、所作の振り割りとか、舞、謡、囃子の演出に関する芸術的責任の分野とか、次第、道行き、一声、サシ、下歌、上歌、初同、サシクセ、ロンギ、笛の舞、切りというような演出の順序とかいうものが、舞、謡、囃子の舞台効果を目標として洗練されて行くうちに自から生れ出たものではないかとも考えられる。それに色々な出来事や、物語を嵌め込んで、能と名付けて興行したものかとも考えられるのであるが、しかし、これは要するに一ツの推量で、当てにはならない。正直に云うと私は只、猿楽と名の付いた以後の「能」に就いてしか考え得ないのである。  その猿楽という名前が、どこから来たものかという事に就いても、色々の説があるらしいが、私にはサッパリわからない。能はよく物の真似をして舞うために、よく人の真似をする猿の名を冠せたものではあるまいかという人もあるそうであるが、もしそうとすれば、現在の舞の手ぶりの中には、その真似の分子も沢山あると同時に、真似でなくて直接にその物をそのままに現わす舞い方が又、非常に沢山あるのを考え合わせると、その原始的な物真似から蝉脱して来た表現の進化が、如何に甚しいかがわかる。      脚  本  能としての作曲の型が出来ると同時に、その型に当て嵌った脚本が沢山に出来たらしい。現在伝わっている曲の名前だけでも千何百とかいう位である。  しかし、そんな作者、もしくは脚色家は、極めて少数であったらしく思われる。すなわち作者の名前として伝わっているのが極めて少数である事……能に盛り込まれている人生観や、宗教観、又は、その文句や脚色にニジミ出している個性や癖なぞに、共通的なにおいがかなり多い事……なぞから、そうした事実があらかた察せられる。もしかすると、全部同一人ではないかとさえ疑わるる位である。  ところで、そんなに沢山に出来た能の曲目は、能の興隆と共に次第に減少して来た。すなわち、芸術的価値の低い……演る方も、見る方も張り合いがない……という種類のものは、だんだん舞い捨てられて、遂に現在の二百番内外にまで減少してしまった。その二百番の中でも近来久しく上演されないもので、遠からず廃曲になりそうなのが何十という程ある。一方に、アトに残った芸術価値の高い、僅少な能の曲目は繰り返し繰り返し演出されて、益々洗練を重ねられる。演出価値と観賞価値とを同時に高められて行く。ほかの芸術が新作新作といって無限に殖えて行くのとは全然正反対の進化向上の仕方を「能」はして行くので、このような芸術は世界にあまり類例があるまい。事によると、世界唯一のものかも知れないと思われる。  なお、こうした珍らしい「能」の進化については、もっとよく考えてから今一度話してみたい。能の根本生命……即ち能のヨサはそこから生れて来るのだから……。      囃  子  能の初期時代は、能をやる人間が、現在の素人のように、めいめいに入れ代り立ち代り、舞ったり、謡ったり、囃したりしたものではあるまいかと思う。  ところがその後、各人の天分、好き嫌い等の色々な事情で次第次第に分業になって来ると同時に、その楽器の種類も太鼓、大鼓、小鼓、笛の四ツになってしまったらしい。しかもその一つ一つのために一人の芸術家が一代を擲って修業する事になったものと考えられる。従ってその専門とする器楽の演出の、能のリズムに対するタッチが必然的に洗練され、且つ高められて来た事は云うまでもない。  尚、能の演出の中に鈴、琵琶、鼓の一種でカッコなぞいうものが取り入れてあるが、これは舞を助ける小道具、作物の一種とも見るべきもので実際には奏しない。尤も鈴だけは音を立てて拍子を取るが、これは狂言方と云って能役者とは別種の、道化役みたようなものが、三番叟という舞の中に限って使うに過ぎない。  尚、前述の太鼓、大鼓、小鼓の三種は能楽演出のリズムを、打音の間拍子で囃すのであるが、そのリズムに対するタッチは全然能楽一流の行き方である。科学的には全然説明出来ないと考えられる位で、容易に説明出来ないからここには略する。笛も亦能楽独特の行き方で、謡の音階や間拍子に合わせるような事は絶対にない。謡の中で吹く時は、謡の音調と全然かけ離れた非音階音を引きまわしたり、波打たせたりしつつ、謡と三種の楽器とが作るリズムの裏を美しく取り扱って、舞台気分を高潮させるに止まる。しかし謡から離れて笛ばかりで舞台気分を作る時は、音階音の中間音を取り交ぜた、独得のリズムを以て舞のテムポに調和させつつ、三種の打音楽をリードして行くので、これとても科学的に的確な説明は出来ないと考えられる。唯、芸術的、もしくは批判的な説明で辛うじて理解されはしまいかと考えられる位だから、矢張りここには略する事にしよう。  これを要するに、謡に合わせて演奏する伴奏楽器は一つも無い事になるのであるが、これは謡というものの間拍子や節扱いが、極めて自由に、非論理的に、もしくは非科学的に出来ていて雑音を到る処に用いたり、調子を勝手に変改したりする場合が非常に多いので、これと合奏する事は絶対に不可能だからである。一面から見れば音階音で以て声楽と合わせる伴奏楽器は舞台表現上極めて低級な役割りしかつとめ得ない……同時に能の楽器は現在の四種類以上に増加する必要は絶対にないという事が、能を見るたんびに直感される。      仮  面  仮面は装束と共に能の中心生命を支配するもので、主演者が着けている仮面と装束の舞台効果以外に能は存在しない。換言すれば仮面の芸術的生命がその曲の生命になるので、この目的を一刹那でも忘れた舞、謡、囃子は如何に上手でもその一刹那だけ舞台面上の邪魔な存在になる事が、観ている方で一々、手に取る如くわかる。あとでその演者がイクラ巧妙に弁解しても実際にそう感ずるのだから仕方がない。  これを逆に云うと、その曲の最高潮した、あらゆる感触を表現すべく、仮面は遺憾ないものでなければならぬ。無表情の中にあらゆる表情を含んでいなければならぬ。無気分のうちに、あらゆる気分を漂わし得るほどのものでなければならぬ……という最も不自然な……同時に最も自然な要求に合したものでなければならぬ。  そんな六ケしい芸術表現は理屈上この世に存在していよう筈がないのであるが、他国は知らず、日本には沢山に在るので、能を見るたんびに、思い半ばに過ぐるものである。ただ不思議というよりほかに仕様がないくらいである。  私の知っている大学生で、世界各国の仮面を研究している人があるが、その人の話によると、現在の能の仮面が生まれる迄には、いろいろな研究が遂げられたものらしい。奈良や京都に在る古代の仮面を見てもわかる事で、頭からスッポリ冠ったり、顔半分を突込んだり、鼻や、眼玉や、口が動くようにしたり、そのほか様々の舞台効果を目標とした極端な表情の仮面が行われた。そのあげくヤット現在の中庸を取った無表情式のものが生まれた訳で、能が生まれたのも多分それと一緒ではなかったかと考えられる。  能の仮面は、そうした高潮した芸術的要素を含んだものだけに、昔の芸術家が精英を尽して、続々と製作したものらしい。その種類も初めは随分多かったらしいが、これも、能の曲目が減るのと同様の意味……すなわち能式の進化の途中で振い落されて、現在では全く用いられないものや、殆んど用いられぬものが、そのままに夥しく残っている。  その代り、或る種類のものは盛んに使用される。たとえば処女、年増、武者、若い男、爺、天狗なぞで、これはそんなものを仕組んだ曲が割合に多く残っているせいでもある。      装  束  現在の能の扮装を見た人は、到る処に思い切った時代錯誤や、身分錯誤? を発見して驚き呆れらるるであろう。  芝居ならば裸一貫であるべき漁師が、大臣と同じ袴を穿いたり、キチガイの乞食女が宮女と同様のキモノを着ていたり、そうかと思うと大昔の軍人と、中昔の軍人とが同じ扮装であったりするので、話だけ聞くと嘘のようであるが、それでいて表現能率は充分に上って行く。否。史実なぞによって扮装を凝らす芝居なぞよりも遥かに舞台効果が大きいのである。  こうした現象は、やはり扮装の能的単純化から来たものである。すなわち昔は、その役々によって色々の扮装をしたものが、舞台効果を主として洗練されて行くうちに、次第に単純化され共通化されてしまったもので、現在でも、そうした方向にドシドシ進化しつつある。譬えば大昔の軍人と中昔の軍人と、又は身分の高い狂女と低い狂女とを区別するために、写実的な服装を着せたとすると、仮面という非現実なものの表現とは全然照応しない事になる。服装が写実的ならば、顔も写実的に化粧でも塗って、それらしくメーキアップしなければならぬので、そうなると又パノラマ式の背景がなければならず、演者の挙動や言葉も写実式に行かなければウツラなくなる。すなわち、芝居になってしまって、「舞う」という事が不可能になり、「能」の本領を喪う事になって来るであろう。それよりも軍人なら軍人、狂女なら狂女という風に一定した……仮面に一番よくうつると同時に最も舞台効果ある服装の洗練純美化されたものを着せる。あれは軍人、あれは狂女と一眼でわかるようにする。すなわち観客に余計な頭を使わせないで、ただ仮面と、キモノと、舞台との非現実的に美しい調和の裡に、その主演者の表現能力のみを味わせた方が、はるかに舞曲らしいであろう。      造り物と小道具  これは能の舞台面に用いる家とか舟とか、樹木とか、又は演出を補助する糸車、鏡、桶、釣竿、なぞいうものであるが、これも初めはかなり写実的なもので種類も沢山あったのを、次第に単純化されたり、廃棄されたりして来た形跡がある。  たとえば船は一々布で張って、船の形にしていたのが、今日では只、四角い枠の前後に、半楕円形に曲げた竹を取りつけて、それから白い布で巻いただけである。丁度小児がチョークで描いた西洋浴槽みたようなもので、船の位置だけを見せるようなものである。それを船頭が一人で提げて来ても誰も笑わない。否。もう一歩進んで、その船さえも無しに海上の表現をした方が、仮面舞踊の表現としては自然だと考えられている位である。そのほかの家、門、車、樹木等も皆前の舟と同様な単純な、象徴的な形のもので、仮面の装束の象徴的な表現と如何にして調和させるかという舞台効果のみを主眼として選択、改廃されて来たものである。  その他、日月星辰、風雨明暗、山川草木等の森羅万象に関する背景、その他の大道具、小道具、舞台設備等いうものは絶無で、ひたすらに舞い手の表現力によって、実物以上に深刻に美しく印象させられて行くばかりである。  一方から見れば、昔沢山にあった大道具、小道具は、次第に舞い手と謡い手と囃し手の表現能力の中に取り入れられて消滅してしまった……という事が出来る。      出 演 者  ここに云う出演者は地謡いと囃方と後見とを除いたもので、扮装をして出て来る、曲中の人物のみを指す。  これも昔は必要に応じて、各種の人物を大勢出したものを、出来るだけ少数にして舞台効果を高めるべく努力して来た。多数の人間を登場さして舞台面の空弱な処を埋めたり、その人数の多さに依って演出の価値を向上させたりする行き方とは正反対である。  能楽では、何万という登場者があるべき舞台面を僅かに二人か三人で片付ける事が珍らしくない。そうしてその何万という群集の感じは演者の表現力……逆に云えば観客の芸術的直感力に訴えて現実以上に印象深く描き表わされるので、受ける感じの美くしさも亦幾層倍するのである。すなわち現実に何万人を並べた感じは、見物に客観的な事実感を与えるだけの力しかないが、それが舞い手……殊に仮面の舞台効果によって描きあらわされると、それだけの人間が居る気分、もしくは情緒だけが観客に受け取られるばかりで、そんな夥しい実在物の息苦しい、重々しい、且つ間の抜けた感じは絶対に受けない事になるのである。  現在の能で最も出演者の多いのは十四五名であるが、これは特別で、普通は五六名以下である。その中で見た眼に感銘が深く、演る方も気が乗って緊張した舞台面を作り得るのは二人切りのもので、曲そのものもよく出来ているのが多いし、曲の数も亦|些くない。  その出演者は、主演者一人、主演者補助一人又は数人、子役一人もしくは数名、助演者一人、助演者補助一人又は数名の五種類で、大別すると主演者の一団と助演者の一団となる。二人切りの能は主演者と助演者と二人だけである。  能の曲目の大部分は主演者一人を舞わせるのを主眼としてあるので、その他の四種類の登場者は、その主演者の相手役、背景、もしくは主演者の舞を釣り出すべき舞台気分の演出役として登場して、主演者の演出を引立てる事のみに専念する。従って動き等も主演者より遥かに些いのが通例である。  尚この他に、狂言方という一種の道化役があって、能の一要素となっているが、こちらは私に体験がないから説明を略する。ただ、前述の助演者の一団と、狂言方の一団とは、主演者の一団と相|対峙して、それぞれ専門的の研究を遂げ、一家を成している事を付言しておく。      監  督  能を見ると、前述の舞い手、謡い手、囃方のほかに、謡い手と同じ礼装をした人間が一人もしくは二人、舞台の後方に座っている。これは後見というもので、二人居る場合には、向って左側に居るのが舞台監督、右側に居るのがその補助者である。  監督はその能の一曲の初めから終るまでの舞台面に対して一切の責任を持っている。  譬えば出演中の主演者とか、その他の登場者とかに事故が出来て演主が不可能になった場合は、礼服のまま代って勤める。だから監督は通常の場合、主演者と同等以上の芸力がなければならぬ。第一流の人が主演者となった場合には、止むを得ずその主演者の最高の弟子が監督を引き受ける。又監督はその能の舞台面に於ける凡ての欠点を、謡、舞、囃子、装束、道具、その他何によらず出来るだけ眼に付かぬように正さねばならぬ。すなわちその能の最後の責任は常に監督の双肩に在るので、監督が確りしていないと主演者は安心して舞えない。  ここでチョット演出に関する出演者の責任関係を述べる。囃子のリズムをリードする責任者は普通太鼓で、太鼓が出ると、太鼓がリード役になる。そうして囃方は一団となって地謡いや主演者、助演者の謡もしくは笛のリズムにくっ付いて行く。  合唱の責任者は中央の一人で、合唱全部をリードしつつ、舞い手の舞いぶりや謡いぶりにリードされつつ調和し変化して行く。  舞い手は自分の仮面と装束とによって全局のリズムを支配しつつ、背後の監督に対して責任を負いつつ舞う。=註に曰く=これは私だけの考えかも知れない。しかし能はかくあるべきものと思う。何故かと云うと、観客に対して責任を負う芸術は必ずや極めて堕落したものに違いないからで、結局、向う受け本位の芸術となるからである。芸術のための芸術として能が存在している以上、舞い手は観客の観賞眼を本位としてはならぬ。自分の芸の欠点を最も看破し易い位置に座っている監督の耳目に対して責任を負いつつ舞い謡うのが正直と思う。  こう云って来ると、能の全局面で、観客に対して責任を負うている者は監督唯一人となる。しかもその演出が失敗した場合は全然監督の責任に帰するが、無事成功の場合は監督の手柄にはならない。唯楽屋に這入ってから、舞い手にお礼を云われるだけである。馬鹿馬鹿しい話であるが、能の真面目はそこに在ると思う。  尚、前に述べたような間違いのない場合には監督の責任は極めて単純である。只常に緊張した注意を全局に払って居ればよい。そうして舞い手が扮装する場合、又は笠とか杖とか、刀とか扇とかを棄てる場合は一定しているから、その場合に眼立たぬ態度で拾って来る。又は造物、床几等を出したり入れたり按配したりする加減に注意するので、そんな仕事のない能では、初めからしまいまで唯座っているきりである。  いずれにしても能の舞台面で一番エライ人は、何と云っても監督で、その舞台面の現実的な守り神である。  能は常に以上の諸要素を以て、舞台面上に別|乾坤を形成して行く。      彫刻のたとえ  能楽は過去現在未来を貫いて、如何なる方面に進化して行きつつあるか……という事は以上述べて来たところに依って、あらかた察せられた事と思う。  併し、尚ここに別項を設けて、今|些しハッキリと私見を述べておきたいと思う。  すなわち、能楽の進化の中心を一直線にして云いあらわすと繁雑から単純へ……換言すれば外形的から内面的へ……客観から主観へ……写実から抽象へ……もう一つ突込んで云えば物質から精神へ……という事になる。  私は思う。すべての芸術の進化の方面は唯二つしかない……と……。  たとえば先ず、ここに一人の芸術家アルファがあらわれて、初めて彫刻という芸術を創始したとする。そうして一生の中にA、B、C、D、E……という風に色々の標題の彫刻を作って死ぬ。  そうするとその後を嗣いだ弟子のビータは、師たり、先輩たるアルファの残した作品を観賞研究し、更に今一歩進んだ芸術的心境を盛り込んだL、M、N、O、P、Q……という数百千の彫刻を作って死ぬ。その次のガムマも亦同様の仕事を繰返して死ぬ……という順序で、人類世界に存在する彫刻作品の数は殖えるばかり。すなわち、その芸術が進歩向上して行くに連れて、新しい作品が無限に数を増して行く……という……これが芸術の進化の一方法で、現在地球の表面上に於ける大部分の芸術はこの方法によって進化向上しつつあるようである。  然るに今一つの進化の仕方はこれと正反対で、進歩すると共に減って行くという行き方である。  すなわち、第一代の彫刻家Aが作った甲乙丙丁以下数百千の彫刻を第二代のBが鑑賞し批判しつつ、毎日毎日精魂を凝らして眺めているうちに、どうも気に入らぬ処が出来て来る。あそこを削ったら……又は、あそこを今少し高めたら……とか思うようになる。そんな処を甲乙丙丁の一つ一つに就いて、慎重に研究しては直し、直しては研究しつつ、一生を終る。そのあとを第三代のCが引き受けて、やはり同じ仕事を繰り返しつつ、その彫刻の価値を益々向上させて死ぬ。一方に、BもCも手を入れる気にならぬような、つまらないものは、そのままに残って、第四代のDに渡る。  こうして代を重ねて行くうちに、第一代のAが作った数千の彫刻の中で、芸術的価値の高いものは益々手を入れられてよくなるし、手を入れる張合いのないようなものは、いつまでも放ったらかされて、忘れられてしまう。遂には廃棄せられて、毀れてしまう。すなわち現世に存在する彫刻の数が減って行くのであるが、そんな事は、些しも気にかけられずに益々よいものを良くして悪いものを棄てて行こうとする。最も芸術的に高潮した作品が一つでも残れば……という考えで進んで行く。  これは「減って行く進化の形式」であるが、これと正反対の「殖えて行く進化の形式」を執る世界一般の芸術も、つまるところ同じ所に行きつくのであるまいか……只、その途中に於て、時間的、空間的に恐ろしく大きな無駄をする事は明らかな道理で、能のように減って行く式の進化の方法を執る方が遥かに有利ではあるまいか……芸術的に高潮して行く度合いが何層倍か早くはあるまいかと考えられる。従って世界中でただ独り? そうした形式で進化して来た能は、つまるところ世界中で最高度に洗練された芸術である。そうして常にその時代の芸術と格段な距離を作ってトップを切り、且つこれをリードして行く芸術であるという三段論法が大掴みながら考えられる。  こうした芸術進化の二方式の優劣論は暫くお預りとして、事実「能」は斯様な進化の方法を非常な努力と自信の下に執って来た、世界に稀な芸術である。しかもそうした進化の方法の有利さを実際に証明しつつあり、且つ将来に於て益々証明せんとしている。云わば吾等日本民族が、先祖代々から、子々孫々に到るまで、総がかりで完成すべく努めている綜合芸術のエッセンスであろう。  ヘブライ文化が基督教を、支那文化が儒教を、印度文化が仏教をそれぞれ数千年がかりで生んだ。その通りに何千年か、何万年か生存すべき日本民族の一代がかりで能を完成しつつある。酔い易い日本民族が、終始一貫した努力を払って……。      能楽成立以前  能の曲の内容をよくよく翫味してみると、実に雑然として混沌たるものがある。乞食歌もあれば、お経文もある。純日本式の思想もあれば、支那、印度の思想も取り入れられている。装束の模様、彫刻の刀法、その他、何から何まで陳紛漢紛のゴモクタ芸術であるが、それを純日本人式の芸術的表現力を以て、最高度に統一支配して、透きとおるほど切実に観る者、聴くものに迫って来る。そうした事実を尚深く遡って考えると、能が出来る迄には雅楽、幸若舞、田楽、何々舞、何々狂言なぞいう、能楽の前身とも云うべきものが非常に発達していたらしい。しかもそうした諸般の演出物は、或は芸術的の迷妄に陥り、又は民衆に媚びて堕落し、又は儀礼的に高踏し過ぎて、芸術的の迷妄や行き詰りに陥りつつも、何かしらより高尚な、より充実した……或るタマラナイ表現慾を満足させ得べき芸術……すなわち能を生み出すべく、生みの悩みを続けていたものらしい。  そのような慾求の中から生まれたものが能である事を信じたい。能は、こしらえたものでなく、出来たものである事を私は飽く迄も信じたい。  私は学者でないから、そのような事を如実に考証する力はないが、今日迄色々聞いた話や、又は能の各曲が「いつ頃、誰の手によって出来たものである」というハッキリした記録が無いらしい事実なぞを考え合わせると、どうもそんな気がしてならない。  能の作者は色々伝えられているようであるが、どれも彼もが結び付けて伝えたらしい感じがする。且つ、義太夫なぞは、手を付けた三味線引きや、初めて興行された劇場の種類、初めて演出した俳優や人形使いの名前なぞと一所に、作者の名前が演出の手法の上に大きな影響をするものと聞いたが、能ではそんな事は絶対に顧慮されない。従って能の作者の名前は時代と共に忘れられて行く。  能の作者は、かくして結局、神秘的存在となって行くように思うのは私が無学だからであろうか。それとも思い做しであろうか。  いずれにしても私は自分の無学と共に確信している。能は作ったものでない。自然と生れ出たものである。そうして事実上、生まれ出たものと同様の生命と進化力を持っている。進化の途中に在る色々な不完全さと、どこまで向上するかわからぬ溌溂さを持っている。  能は日本民族最高の表現慾が生んだものに相違ない。作者の有無に拘わらず……と……。      曲の進化  最初に能の曲目が千番か二千番存在していたとすると、能役者の表現慾は、その中でもいいものを今一度|演って見たいと要求する。一方に観客の観賞慾も亦同様に、あれを今一度見たいと願う。双方|相俟って、ここに真剣な芸術の研成機運が生まれる。即ち玄人と素人、芸術と批評、実際と理想……と、そうした裏と表の両面から篩にかけて選み出されたものはキット内容の充実した……舞台表現として成功した曲にきまっている。  そこでこれを幾度も幾度も繰返し繰返し演出してみると、まだ足りない処や余計な処があるのが発見される。全体から見てはいいけれども焦点がハッキリしない……重点の置き処がズレている。……出来過ぎた処がある……ダレた処がある……ああでもない、こうでもいけない……と演出される度毎に洗練され、煎じ詰められて来る。  こうして洗練されて来るうちに、洗練し甲斐のない事が判明して来た曲目は一つ一つに棄てられて行く。すなわちどこか喰い足りないために見物が見たがらないし、役者の方も張り合いがないというわけで、次第に演ずる度合いが些くなって行く。それでも暫くは保存されているが、遂には廃せられてしまう。  これに反して、いいものはわるいものよりもはるかに度数をかけて洗練される結果、いよいよ立派なものになって行く。後世の人々の血も涙も無い観賞眼、又は演者の芸術的良心によって益々芸術的に光ったものとなされて行く。……全体の調和と変化が極く必要な部分だけ残されて、曲の緊張味とか、余裕とかいうものが、あくまでも適当に按配され、シックリさせられて行く。その装束の極めて小さな部分、舞の一手、謡の一句一節、鼓の手の一粒に到るまでも、古名人が代を重ねて洗練して来た芸術的良心の純真純美さが籠もって来る。  かくして能の表現は次第次第に写実を脱却して象徴? へ……俗受けを棄てて純真へ……華麗から率直へ……客観から主観へ……最高の芸術的良心の表現へ……透徹した生命の躍動へと進化して行く。画で云えば、未来派、構成派、感覚派、印象派なぞいう式の表現のなやみは夙くの昔に通過してしまった。狩野派、土佐派、何々流式の線や色の主張も、飄逸も、洒脱も、雄渾も、枯淡も棄て、唯一気に生命本源へ突貫して行く芸術になってしまった。そうした遺跡が現在の能の中に重なり合い、閃めき合いつつ残っている。真剣な玄人は知、不知の中にそうした進化の跡を辿り味わいつつ自分の芸を向上させつつある。一心に能を渇仰し、欣求しつつある。……技巧から魂へ……魂から霊へ……霊から一如へ……。  だから目下の能は、芝居なぞに比較すると、その表現が遥かに単純率直である。元始のままの処が残っている。元始の状態へ逆戻りしつつある処さえあるらしい。しかしその表現の内容、陰影、余韻などいう芸術的の要素は新作新作と大衆に迎合して行く他の芸術と比較されぬくらい深く、鋭く、貴く、美しく純化され、一如化されて来ている。  一方にその舞、謡、囃子は、手法が簡単であるために、あまり天分のない素人にまでも習われ易くなっている。そうしてこれを習ってみると、初め異様に、不可解に感ぜられていた舞の手、謡の節、囃子の一クサリの中から、理屈なしに或る気持ちのいい芸術的の感銘を受けられる。そこに含まれている古人の芸術的良心……すなわちそんな単純さにまで洗練された人間性の純真純美さが天分に応じ、練習に応じて、次第次第に深く感得されるようになっている。すなわち能は非常に高踏的な芸術であると同時に、一方から見ると、極端に大衆的になっている。貴族的であると同時に平民的であり得るところまで、単純素朴化され、純真純美化されている。  この道理は小謡の一節、囃子の一クサリ、舞の一と手を習っても、直に不言不語の裡にうなずかれる。昨日の喰わず嫌いが、きょうは能狂になるくらい端的である。  尚、能の進化は家元制度を参考すると一層よく解る。      家元制度  能は日本の封建時代から生れて来たものであるから、能を職分とする者が世襲制度を執るのは自然の傾向かも知れぬ。しかし、能楽が家元制度の下に発達したに就いては別にモット深い、万止むを得ない理由がある。  能楽の主演者の家元に五つの流派がある。金春、金剛、観世、宝生、喜多がそれである。  金春の流風は古雅なプリミチブな技巧を多く含んだ流儀で、極く昔の能楽の姿や精神を見るにはこの流儀の演出を見るがいいようである。  金剛流は金春を今些し世俗向きにしたようなもので、写実的要素やキワドイ変化の手法を多く取り入れられているようである。  観世流は以上の如く変化して来た能楽に、又一転期を劃したもので、部分的にも全体的にも華麗円満な演出を理想としている。金春を下絵、金剛を荒彫りとすれば、観世は彫り上げて磨きをかけて角々を丸くしたようなもので、見方によっては金春の古雅を転化して円満味とし、金剛の尖鋭さを消化して華麗味としたものかとも考えられる。能楽愛好者の九十何パーセントがこの流儀に属しているのは無理もない。  宝生流は観世流に次いで起ったものだそうである。その流風は観世の円満味を多角的に分解し、華麗味を直線的に引直して、威厳を増した……とでも形容しようか。その流儀の主張は謹厳剛直に在るらしく、殊にその謡方にそうした特徴があらわれている。  観世は円満華麗という能の肉付を尊重し、宝生は謹厳剛直という能の骨格を見せていると評しようか。観世の下手がイヤ味になり、宝生の下手が滑稽味に陥り易いのを見ても二流の主張の相違がわかる。いずれにしても二者共にその流風は完成されたものとなっていて、その主張が一般の能楽同好者によく理解される。現在ポピュラーな流儀としてこの二流が動かすべからざる根柢を張っているのは当然である。  喜多流は最も新しく起ったものである。その主張は外面から見れば各流のいい処ばかり採ったもの……即ち各流の無駄な表現を除いて演出を単純化したもので、素直、玲朗をモットーとしている。内面的に云えば在来の能の表現を一層求心的にしたもので、喜多流の能が完成すれば最も単純な、最も透徹した仮面舞台表現が出現する訳である。  尚この他に梅若派というのが最近に観世流から分派したが、一流と認めるか認めないかで紛議中と聞くからここには略する。唯、その一派の芸風は観世の円満華麗を一層あらわにキワドくしたようなものである事を云い添えるだけにしておく。  以上の五流は、それぞれ家元制度によって分派され、守護され、洗練されて来たものであるが、その家元制度の内容はナカナカ複雑多様である。      家元の組織と仕事  家元の組織と仕事は、流儀によって異同があるが、ここではいい加減に取捨して話す。  能楽の家元はそれぞれ自流所属の舞台、楽屋、住宅を持ち、自流の能の演出、発表に必要な舞い手、又は謡い手として必要な内弟子を養っている。理想を云えば、助演者や、囃方、狂言方までも自流専属のものを養って、自流の主張と調和させ、演出を徹底せしむべく教養したいのであるが、これは色々な関係から中々実現し難い事情に在る。だから現在では何流の家元でも自流の内弟子だけしか養成していない。  その内弟子は日本国中の同流の愛好者から紹介されたり、又は自ら望んで来たり、又は内弟子の有力者や、家元自身が見込んで連れて来た者なぞ色々である。皆家元の家来もしくは書生同様に育てられるので、稚いうちは学校に遣ってもらう、傍ら兄弟子から芸を仕込まれたり、自分で研究したりする。つまり一種の天才教育である。  やがて一通り芸が出来るようになると、教授の資格を貰い、舞台に出演を許される。同時に家元の所に来る素人のお弟子にお稽古をつける事になるが、その収入は無論家元のものになる。その他に自分自身で素人のお弟子の家に出稽古に行くが、これは自分の収入となる。そうして軈て相当の年輩となり、独立の見込みが立つと、家元の寄食生活を出て、家を持つ。  家元は、これ等の内弟子を教養すると同時に、各地方地方でその流派の盛んな処へ自分の弟子を稽古に遣る。その振り割りは家元の責任であり且つ権利であるが、なるべく不平の起らぬようにしてやらねばならぬ。そうした地盤の事や何かで弟子仲間に紛擾が起れば、無論家元が裁判せねばならぬ。  又、家元は各地方に散在する教授とか師範とかいうものの芸道を取り締り、且つ指導せねばならぬので、これを怠るとその流儀の衰亡を招くわけになる。同時に、その師範や教授、又は内弟子が教えている素人弟子の免状を発行してその料金を取る。教えている師範や教授の免状も同様である。  又家元は自流の舞台で毎月、又は年に何回の能を催し入場料を取る。又、自流の名を冠した会を起し、会費を取り、いろいろの催しや、刊行物なぞを出しているのもある。  又、家元は自流に属する謡本や、その他、能楽関係の書類の刊行権、又は版権を持っていて、重要な収入として取扱っている。  又、家元は自分自身にも身分ある人々の処や何かの処へ稽古をつけに行く。又、中央都市や地方の定期の会、その他の催しに於ける演能の諾否を決定し、曲目を撰み、出演者の役割りをきめる。  又、家元は、自流の能楽の演出、維持、興隆その他に就いて、他流の主演者、助演者、狂言方、囃方等との極めて面倒な交渉の最後の決定権を握るほかに、流儀内の素人、玄人を通じて来る芸道上の質問その他に就いて最後の断定を与え、流儀の向上普及、堕落防止に努め、傍ら装束、仮面等を手入れ新調しつつ、能楽の向上研成を期せねばならぬ。  こう説明して来ると家元というものはなかなか大変なもので、生やさしい人物がなれるものでない。最高級の芸術家と、政治家と、興行家とを兼ねたような仕事が、実際上一人で兼ねられるものか知らんと思う人もあるらしいが、実際上出来ても出来なくても、能楽の家元となった以上そうしなければならぬ理由がある。  元来能楽の家元というものは、政治や何かの方で云う大統領とか、首相とか、親分なぞいう実世間的な仕事をするものと違って、自流の芸術的主張を維持し研成する任務を持っている、芸術本位の世界の中心人物である。  ところで、政治や何かだと代議制度とか、共和制度とかでやって行けるかも知れないが、芸術の世界はそうは行かない。家元が自身鍛練した芸風によって、自流の世界を統一薫化すると同時に、他流の世界と闘って自流の流是を貫いて行かねばならぬ。だから、家元ばかりはドンナ事があっても衣食に困らないようにして、芸道の研究に生涯を捧げ、時流に媚びず、批評家に過またれず、一意専心、自己の信念に向って精進せねばならぬ。  家元は自己の芸が能楽の向上進化の中心線に合致していると信ずる以上、自己の演出が天下一般に理解されなくともよい。自他の流儀の玄人、素人に笑われてもよい。自流の最上級の二三人に理解されるだけでよい。否、時としてはそのような人間最高の理解さえも求めずに、一意信念に向って邁進しなければならぬ。一切の他人から下手とか邪道とか認められて、自流の権威が地に堕ちても構わぬ決心さえ必要である。  実際そのような高級な芸術家が昔居たらしいが、後世からはなかなかわからない。  しかし普通の場合は家元の芸のよしあしに伴って流儀が盛衰興亡するのが原則となっていると同時に、自分の芸を中心とした弟子を養ったり、宣伝をしたり、家元としての体面を保ったり、交際を広めたりしなければ、その流儀は世俗の軽蔑を受けることになる。極めて上流の生活を営みつつ、所謂親分の仕事をやって行かねば結局喰えない事になる。  芸というものは人間の仕事として最後のもので、無用の閑事業中の無用の閑事業である。その中でも亦、最高第一等の閑事業と見られている能……非常に尨大で、しかも娯楽的の実用価値さえも含まぬと考えられている能を保存して、発展向上させるためには、色々の無理や矛盾が出来て来るのは止むを得ない。能楽家はこうした無理や矛盾と、寝ても醒めても闘わねばならぬ。わけても新興の流儀に属する人々は特にそうである。  前記の諸収入を基礎とした、芸術家、興行家、兼政治家式の家元中心制度が生まれるのは誠に是非もない事である。  各流の家元の中には、芸が下手なばかりでなく、品性や品行の点にも大きな欠陥を持った人も随分あった。随って前記の諸収入が「流儀のため」という目的以外の、家元の私的生活に濫費された例は珍しくないようである。しかしそれでも極端でない限り、家元として保護され、尊敬されて来た例が、やはり珍らしくない。この事実は吾国民の芸術愛好慾が、如何に底強いかを裏書しているとも考えられる。  又一面から見て、能楽は絵や彫刻なぞと違って、後に残らない。何月何日に何流の何某が舞った何々の曲は、それを見た人の印象に残り、話に伝わるのみである。今にトーキーか何かで伝わるようになるかも知れぬが……。だから、その流儀の勢力拡張のためばかりでなく、その流儀の保存のために、家元の世襲制度が必要となって来る。      家元の世襲制度  家元の世襲制度には実子後継と養子後継と二種類ある。実子後継の方は、どうにも工合がわるいらしい。どんな名人でも実子が自分の天分を受け継いでいるとは限らない。受け継いでいるように見えても実は単に、見慣れ聞き慣れ、見よう見真似に過ぎなかったりする。本当に受け継いでいるにしても、親の贔屓目という本能が邪魔をして徹底した教育鍛練が行われ難い。又、子は子で、親の威光や、お譲りの名前や技巧に依頼する心が無意識に働らくので、修業に弛みが出来るらしい。吾が子を思い切り仮借せずに鍛い上げた例話が芸界の美談として残っているが、その間にも親子の情愛が動くのは止むを得ない。純一な芸道教育にまで徹底し得なかった消息がたやすくうかがわれる。  これに反して養子制度の方は工合よく行くもののようである。ここに一人の名人があって、能楽はかくあるべきものと信じて苦心研鑽をして来た結果、前途に疑いもない大光明を認め、遂に一流の開祖となって旧来の各流と相対峙し、弟子を養い、流風を宣揚するとする。同時にその人は当時第一流の芸術家や名僧智識達にも容易に理解されない程の深遠な芸術の哲理を体得しているので、どうかしてこれを後世に伝えたいと思うが、これを理解するものが一人も無いとする。  普通の芸術だと、こうした玄妙を後世に伝えるのは不可能である。殊に色にも音にも残らないものならば、結局一人一代限りとなるべき筈であるが、能楽に限ってはこれを後世に伝える事が必ずしも不可能でない。  その方法が家元の養子制度である。  能は前にも述べたように、代々の名人上手によって洗練に洗練を重ねられて来た型に自己を当てはめて、更にソレを洗練に洗練した型を残す……という方法で、代を重ねて向上して来たもので、能とは要するに、人間の表現慾の極致、芸術的良心の精髄を、色にも型にも残らぬ型というものによって伝えて行くものである。だから、その型を理解し得ないものは、その型は舞えない事になっており、その一節、その一クサリと全曲との関係を味い得ないものには、その曲は謡えず囃せない事になっている。  たとえば邯鄲という曲に於て、主演者の盧生という人物が、能を終って引っこみがけに、自分の持っていた団扇を、舞台に置き忘れたまま幕に入る型がある。これは昔或る名人が、本当に人生を達観した盧生の気持ちになっていたために、本当に置き忘れて引っ込んだので、今以て、いい型として残っているが、サテ誰もこの型を再びやる者が居ない。何となれば、忘れようとして忘れたのは本当に忘れたのではない。真実の型とは云えないから誰一人として演るものが居ない。或はこの型が残ったために、後世に於ても永久にこの型をやる者が無くなるかも知れぬ。  能の型は、それ程に神聖なもので、その境地に本当に這入った者でなければ、その型の精神はわからない。その演者の個性がそこまで洗練され、その人間の芸術的良心が、そこまで高潮されなければ、絶対に体得出来ないのが能の型であるという事が断言出来る。この意味から、或る一流の家元となった名人は、色々な深刻な、高潮した型を残して、後世に伝えようとする。しかし生やさしい者には伝えられない。  こうなると吾児の幸福なぞは問題でない。吾児以外の誰でもいい。若い、頭のある、見込みのある者を自身に教育して、その人間の「能」を自分の程度にまで向上させて、自分の型を理解させるよりほかに方法がなくなる。そこで、一所懸命になって、そんな人間を探し出して、自分の流派の後継者として、精彩を尽して薫育をする。  その教育方法は、随分、思い切って手酷いもので、時と場合によってはその養子の生命をさえかえりみない。これに堪え得ないような芸術的向上心の薄いものは、将来の流儀の精神と、物質的繁栄の根元たるべき家元の地位を預けるに足らぬ者と考えられているようである。  尤もかような厳しい教育は、凡ての芸術教育に在り勝ちの傾向で、能楽に限った事ではないようであるが、しかし、能楽者の子弟の教育は特に斯様に厳格でなければならぬ大きな理由がある。  前にも述べた通り、「能楽」という芸術は、新作物を受け付けぬどころでなく、逆に旧作のものの中でも芸術価値の薄いものは、容赦なく自然消滅をさせつつ発達向上して行く芸術である。だから現在選み残されている二百番足らずの曲目のドレ一つとして古名人の心血を絞っていないものはない。その一節、一手、一句切りと雖も、実に古人の生涯を賭した百繰千練の賜でないものはないのである。能の隅々までも行き渡っている、云い知れぬ「アリガタサ」や「ヨサ」はかくして生み出され、伝えられたものに外ならないのである。  後に生れた者は素人も玄人も共に、そんな古人の苦心をソックリそのまま無代価で頂戴している。その「ヨサ」や「アリガタサ」を学ぶだけの苦労で、これを楽しみ、これによって衣食する事が出来るのである。よしや古人の苦心なぞ理解し得ずとも、習った通りに演じておりさえすれば、トニモカクニモおまんまが喰って行けるのである。  こうした「芸の祖先」の恩を知らない玄人は能を知らない者である。能楽師たる資格のない者である。素人と玄人との本当の区別はこの心がけの在る無しによって決定する。  新作物を出すなぞいう者は、やはり能の使命を理解し得ない芸術界の浅薄児、狂躁輩である。流石に玄人にこのような企てをする人が居ないのはさもあるべき事である。  しかし玄人でも、こうして生まれた能のヨサ、有り難さが解かっていながらに、一と通り芸が出来るようになると、自分独りで豪くなったように思って、恣に羽根を伸したり、新手を編み出したりする者があれば、それは能楽界の外道である。能の堕落の誘因にこそなれ、能楽向上の足しにはならない。  能を今日に伝えた先祖代々の苦心を察して、その恩を忘れない能楽師ならば、その芸は如何に下手でも、必ず能としての本当の品位を保っているものである。現代に於て名ある達者上手でも、この心掛けのない人の芸は、表面如何に立派でも、その奥に能楽独得の芸的高貴さが光らない。 「心を空しくして恩を感じ、身を励ます」という事は人間最高の心掛けである。この心を片時も忘るる時は、その片時から芸が堕落しはじめる。  能はかくして人間最高の心がけを要求する芸術である……その心掛けのみを唯一の中心生命として今日に伝わり、生きて輝やき、時代に超然として、時代芸術のトップを切って行きつつある。だから少し油断をすると直ぐに堕落し易い。況んや今日のように能楽師が各自にめいめいの芸を売って生活しなければならなくなれば尚更である。祖先が折角向上させた能を堕落させて大衆に媚びつつ生活して行くのを当然の権利と心得、結局能楽を自滅させるに到るであろう事は明白である。  能楽師の芸術教育が特に厳格でなければならぬ理由は最早説明を要しないであろう。  能楽師はこの意味でその子弟を鍛えねばならぬ。その型の仕込みの一つ一つに諸先輩の苦労を思い知らせねばならぬ。自分の相伝された時の艱難を覚らせねばならぬ。「先祖代々の形容に絶した苦心の集積を譲り受けて衣食するのだぞ。そのおかげで他人の師となって、尊敬を受けて行く事が出来るのだぞ。この恩のわからない奴は能のわからない奴だぞ」……という心をどこまでもタタキ込んで行かねばならぬ。  これが能楽師たる者の最高の職分である。  これが能の生命の根源である。  ところが能をやる者は人間である。人間である以上、めいめい自分の頭の程度に能を解釈して勝手に羽根を伸ばしたい。一番イヤな恩なぞは感じたくない……というのが人情である。そうして識らず識らずの間に自分の芸を堕落させて大衆に迎合して行く。能楽界の外道となって行くのが多い勝ちである。  これを喰い止めて行く最後の責任者は家元である。家元が祖先の恩を忘れたならば、その流儀の能は遠からず、あらゆる意味に於て滅亡して行く。否。その忘れた瞬間から滅亡し初める。  家元は、そんな事を考え得ない内弟子、囃方、狂言師、素人弟子の中心に立って、敢然としてこの精神を支持し宣揚して行かねばならぬ。  そうしてこの精神と、芸との両方を兼ね備え得る見込のある子供を養い取って、自分の後を継がせねばならぬ。  これが家元の職分の初め終りである。  能楽に家元制度が厳存している理由はここに在る。      養子の勉強  その家元の養子は初めは家元の厳しい教育によって一通りの事を習いおぼえる。  ところが、その養子が家元の見込通りに相当の天分を持った児であるとすれば、必然的に旧来の型なるものに疑問を起して、自分の個性もしくは哲学から出直して、研究のやり直しをはじめる。そうして人間最高の表現が能である。能の最高の表現が自流の家元、すなわち養父の型であるという事を徹底的に理解するまで研究する。  その養子の若い、元気な表現慾は、この間に、ありとあらゆる芸術的向上の過程を経る。たとえば象徴、写実、又は印象派、未来派、感覚派なぞいう、あらゆる芸術表現の行き方を、それと名は知らないままに色々と試みては行き詰まり、行き詰まっては又新しく試みる。他流のやり方を採り入れたり、打ち毀したりして悶え、迷妄し、鍛練する。その苦しみが如何に悽愴たるものがあるかは門外漢の想像し得るところでない。  こうして苦しむ間が大抵、十五六歳から二十四五歳ぐらい迄の間ではないかと思われる。無論能の研究は一代がかりどころではない。今日の能と雖も、まだ甚しい未成品に相違ないので、行き止まりは絶対にないのであるが、ここに云うのは天才児が能―芸術、人生―霊というものに根本的に疑いをいだき、結局、本当に能の精神を理解して、自己の本来の面目にドカンとブツカリ得る時期を云うので、しかも、それは一般の少年少女が「世界苦」を懐いて憂悶、焦慮する時期と一致している筈と思われるから、斯く推定するのである。  いずれにしてもその第二代の養子はかくして、第一代の家元がタッタ一人で相手なしに研究し向上して来た境域にまで、比較的若いうちに達する事が出来る。それは勿論その養父たる家元の鞭撻指導の御蔭に相違ないのであるが、その時には、前に述べた芸の恩というものが、自分の嘗めた苦心によってその養子の骨の髄にまで徹していると同時に、その養子は相伝された型を、養父家元の真似でなく、全然自分の本来の面目として表現し得る迄になっているので、その間にすこしの模倣も迷信もない。そうして更にその以上に自己の表現を洗練しよう……即ち自流の能楽の境地を高めようと苦心し修養する。  しかし古来の名人が、代を重ねて洗練して残した型は実に表現の極致、芸術的良心の精髄とも云うべきものである。これを理解するさえ容易でない。演出するのは尚更である。  それを更にそれ以上に洗練して、新しい型を残すのは尋常人の出来る事でない。僅に極く小さい一部分を改めて終るのは上乗の部で、大抵は流儀の番人で終るのが多い。ウッカリすると古人の型の理解し得ぬものを残して死ぬ家元も珍らしくない。そうしてその何代目かの後の英才が、その書き残された不可解の型の説明を見て、膝を打って感嘆する……というような事が多いらしい。  ところで、前に云った養子が幸いにして前代以上の芸を養い、第二代の家元を継ぐ事になると、層一層、自奮自励して流風を向上させ、倍一倍絶妙の境界に達する。そうすると彼は又、その境地に於て得た型を後世に残すべく然るべき器量の養子を求めるといった段取りになる。  家元制度の性質と、能楽の向上発達の径路の大要は以上述べた通りである。      能の定型  以上述ぶるような家元制度に依って、擁護され、洗練されて来た能楽は、現在どの程度まで発達して来ているか。その舞、謡、囃子の三大要素はどんな風に組み合わせられているか。その部分的要素である舞の手の一つ、謡の一節、囃子の一手は、全局とどんな表現的因果関係を持っているか……なぞいう事は、容易に説明が出来ないと思う。又、出来たと思っても結局一人呑込みになる虞があると思う。  それは何故か。  能の舞の型、節、文句等には無意味なものが多い。皮相を見ると「ただ昔からそう伝えられているものを、そうやっているばかりである」という式のものが大部分を占めているかの観がある。又、能楽関係者も一般にそんな風に考えて、唯|無暗に習った手法をその通りに固守して、それを教えて飯を喰うのを本分と心得ている向きが多いらしい。筆者がここに書くような事を考えるのは「芸術の邪道」と考えているらしいので、そんなところから見ると「能」は伝統的な因襲一点張りなもので、昔の舞踊の残骸という評が相当の勢力を持っているのも無理はない。  笛は大部分定型的な呂律を、定型的なタイムを踏んで繰り返すに過ぎぬ。大鼓も小鼓も、太鼓も四ツか三ツかの僅少な音の変化によって八、六、四、二の拍子を扱って行くに過ぎぬ。しかも、それが何の意味も表情も成さぬもので、その原則の無味単調さ、到底西洋音楽の比ではない。表情や、模倣の変化が自由勝手に、無量無辺に許されているものとは比べものにならないくらい、一律簡単に定型的されている。  謡の文句も似たようなものが多いが、節に到っては類型の多い事呆るるばかりで、少数の例を除いては各曲共に二三十の同型の節で満たされていると云っていい。  舞の型も同様である。舞手の歩く道すじは十中八九まで舞台上の同じ線路で、その手ぶりも亦十中八九同じ定型である。装束、仮面等も同様で、大体に於て似たり寄ったりであるが、更にその脚色の類型と、進行の形式の各曲共に共通した点が多い事は、実に甚しいものがある。  だから能を好まない人は、能は何遍見ても聞いても同じ事ばかりやっているように見える訳である。  ところが、能を見慣れて来ると、この何等の変化もない定型的な演出の一ツ一ツ、一刹那一刹那に云い知れぬ表現の変化が重畳していることが理屈なしに首肯されて来る。能楽二百番――もしくは一曲の中に繰返される定型の、ドレ一つとして同一の表現をしていない事が、不言不語の中にわかって来る。そうしてその定型のすべてがあの四角い、白木の舞台表面上の表現として最高級に有効で、且つスピード的に、又は内面的に充実され得る最も理想的な表現形式である……すなわち何回繰返されても飽きないものである事が、鑑賞眼の向上と共に理解されて来る。無論説明の範囲外に於てである。      定型の表現作用  たとえば直立不動の姿勢から二三歩進み出て立ち止りつつ右手をすこし前に出す。次には足と手を、うしろへ引いてもとの直立不動の姿勢に還る……という極めて簡単な舞の手があるとする。そうしてその前半の進み出る方をシカケと名付け、後半をヒラキと名付けるとする。  このシカケ、開きという舞の手は、舞曲中の到る処に、繰り返して出て来る定型であるが、この定型があらわす意味は不可思議なほど沢山にある。或る時は、自分がこうこうな性格の者である……という意味を表現し、或る時はここはこうこうな処である……と描写して直感的に観客を首肯させる。又は……これから舞いはじめる……とか……これから狂う……とか……これが私の誇りである……境界である……悲しみである……喜びである……とか……ここが大切な処である……とか……これから曲の気分がかわる……とか……これで一段落である……とかいう心を如実に見せ、又は山川草木、日月星辰、四時花鳥の環境や、その変化推移をさながらに抽象して観客の主観と共鳴させるなぞ、その変化応用は到底筆舌の及ぶ範囲でない。  謡の節も同様である。  たとえばシオリと云ってその人の最高潮の音調を使う一節がある。そのシオリの最高潮の一部は非音階音にまで跳ね上げる位高いのであるが、これは咏嘆、賞讃、喜怒哀楽はもとより、曲の気分の転換、結末のしめくくり、曲中の最高、最美、最大、最深等の表現に用いらるるのみならず、シカケ、ヒラキの型と同じく、曲中の山川草木等のあらゆる背景、もしくは対象等の存在をこの一節によって深刻に抽象して直接聴者に霊的の感銘をあたえる。その応用の広い事は到底擬音的な音楽なぞと比較し得るところでない。  その他囃子の手の中でも只一回、指一本で、軽く鼓の表面に触れるだけで、宇宙間の森羅万象と喜怒哀楽、その他のあらゆる芸術表現の使命を達し得る。指一本の一接触で主観客観を超越した万象の感じを直感させ得るという、法螺話としか思えない素晴らしい実例なぞが、まだいくらでもあるが、ここには煩を避ける。ただ、そんな表現実例が、能楽の舞台面に於ける日常茶飯の出来事で、微塵の誇張も含んでいない……能を見慣れている人が、いつもながら三嘆するところである事を念のために書き添えておく。  ところで……斯様に極めて簡単な定型によって、どうしてあのように色々な意味が表現出来るのであろう。または、あんな簡単、率直な定型が、どうしてあんなに色々に美しく感ぜられるのであろう……という事は、能楽愛好者の皆不思議がるところであると同時に、説明に苦しむところである。殊に能楽を、定型の伝統的な因襲とばかり考えている人々にとっては無理もない事である。  しかしこれと反対に、能の進歩向上を認め、現在に於ても日々夜々に洗練されリファインされつつあるもの、という事を認め得る人々に対しては容易に説明され得ると思う。  すなわち、あらゆる舞の手が、繰り返し繰り返し演ぜられて行くうちに、次第次第に洗練されて単純な緊張したものになって来る。対象物の形や動きを真似した客観的表現……自己の意志感情を表現した主観的なシグサ……又は自己の姿態美をあらわすだけの無意味な動作……そんな舞の手が、それぞれに、それぞれの目的に向って高潮し、洗練されて或る極点まで来ると、そのような意味を皆含んだ……そうしてそれ等の表現形式を超越した、或る一つの単なる定型に帰納されてしまう。たとえば「向うに木がある」「山がある」「月がある」なぞの指し示す型と、「これから私は……」「可哀相な私……」なぞと自分を指すシグサと、「ああ嬉しい」「この狂おしさ」なぞという意味で胸を押える型と……「俺は強いぞ」とか「サア来い」とかいう心で腕を張る型と……それ等の型のすべては前に述べたシカケ、ヒラキの型の一手によってあらわされ得ると同時に、それが最も緊張した、姿態美の精髄をあらわす舞台表現だという事が、洗練の結果わかって来る。同時に裡面から考えると、このシカケ、ヒラキが、そうした色々の表現を煎じ詰めた最高の表現という事が理解される事になるので、ここに「シカケ、開き」という定型が生れ出る事になる。  ところで斯様にして「シカケ、ヒラキ」という定型が生れ出ると、その応用の範囲が又、頗る広いことがわかる。  たとえば「俺は鬼である」という心を表わすのに、昔は両手を額の上に持って来て恐ろしい顔をして見せたかも知れぬ。しかし、それは鬼の形を真似したに止まるもので、「俺は鬼だぞ」という充実した心持ちはあらわされ得ない。寧ろ、すこし前に進み出て右手を心持前にし、静かに退いて、もとの姿勢に復る方が「自分は鬼」という心持の表現に合致している。事実、演者がその心持でシカケてヒラクと、観者は主観的に演者を鬼と感じて終うので扮装の有無には拘わらない。扮装していれば尚鬼である。これに反して仮令、鬼の姿をしていても、その心なしにシカケ、ヒラキをやれば、観者はチットモそんな感じを受けない。「鬼の姿をした者が手足を動かしている」程度の感じしか受けないのは無論である。  又は「あすこに山が見える」という場合に、向うを指して山の形を両手で描いて見せたのが昔の表現であったとする。今でも手踊りや何かの中にはこの程度の表現を見受けるが、しかし、それは単に山の形を真似ただけで何等の主観的表現を含まない。それよりも「ああ山が見える」という心で静かにシカケ、ヒラキの型を演じた方が充実した舞台印象を観客にあたえつつ、自己の表現慾を最高度に満たす事が出来る。平たく云えば観衆は、何も舞手に山の方向や形状を教えてもらわなくてもいいので、そんなものが実在していない事は皆知っている。指したとてその方をふり返るものは一人も居ない。それよりも、その舞手が山に対した気持を如何に描きあらわすか……はるかに山に対した人間の詩的情緒を、如何なる姿態美の律動によって高潮させつつ表現するかを玩味すべくあくがれ待っているので、その美的律動に共鳴して演者の美的主観と自分の主観とを冥合させ、向上させ、超越さすべく、あくがれ望んでいる……数百千の観衆が息を凝らしている……型の種類なぞは寧ろどうでもよろしい。期待するところはその演者の情緒の律動的表現から来る霊感である……というのが見物の心であると同時に舞手の心に外ならぬのである。  だから、もっと進歩した表現になると、只一歩不動の姿勢のまま進み出ただけで、あらゆる心持があらわされ得る事になる。否。更にもっと進んだ型になると、突立ったまま、もしくは座ったまま全く動かなくともいいことになるので、現に能の中には、そうした無所作の所作ともいうべき型によって、格外の風趣を首肯させて行くところが非常に多い。  又節調の例で云えばシオリとても同様である。  たとえば嬉しさを表現する時には躍り上るような音階を通じて最高音に達し、悲しみをあらわす事には嫋々切々として、ためらいつつ最高音に達するように節づけたとする。又最美の姿を咏嘆しあらわすには円味をもった、柔らかな変化を以て最高音に導き、曲の段落を高潮させるためには急角度の変化を以てしたとする。しかしそれはいずれも音でもって感情や風物の感じを模倣しただけのもので、芝居の科白が悲しい時に泣き、腹を立て怒号する真似をするのと皮一重の相違でしかあり得ない。舞の芸的主観の洗練味を極度まで要求する能の舞台面では、それが却って不自然な、充実しない表現になって終う。曲の終末のクライマクスを現わす最高音でも同様で、ヤタラに高音を連続し、又は突然急調の変化を用いて観衆を刺戟するのは弱い方法であると同時に、そんな無茶な事は肉声では出来難い。だから、自然に、楽に発し得る肉声を次第に高くしてその一部に最高音……もしくは最高音を指す曲線をあらわし、又自然に平音に復する……という声の型を作ってこれをシオリと名付ける。そのシオリと名付ける声の型を、前に述べた色々の心持ちで謡う時は、その通りの気持が、前の模倣的な節扱いよりも遥かに自由自在に、且つ切実に、深刻にあらわれる。すなわち声の定型の妙味は、舞の定型の妙味と少しも違わない。      不自然、不調和、不合理の美  以上は能の舞、謡、囃子に定型的な……無意味なものが何故に多いか。それが何故模倣、写実の千差万別的な表現よりも変化が多いか。直説法式に深刻な舞台効果をあらわすか。演者と観者の主観を一如の美しさに結び付けるかという理由の一端を、辛うじて説明したものである。  しかし、能の各種の表現には、以上の如き説明も及ばない全然無意味、不合理、もしくは不調和と見えるものが決して些くない。  何等の感激もないところに足拍子を踏む。美しい風景をあらわす場合に、観客に背中を向けて歩くという最も舞台効果の弱い表現をする。最も感激の深かるべきところを、一直線に通過する。そうかと思うと、格別大した意味のないところで技巧を凝らすなぞいう例がザラに在る。能楽が無意味の固まりのように思えるのは無理もない。  ところがよくよく味わってみると、その無意味な変化は、全体の気分の上から出て来たものであったり、又は不合理、不調和に見えたものは、表現の裏の無表現でもって全体の緊張味を裏書きしたものであったりする事が折りに触れて理解されて来る。そうしてその無意味、もしくは不調和な表現ほど能らしい、高潮した表現に見えて来るので、能はここまで洗練されたものかと、屡々歎息させられる。  欧米の近代芸術は単純、無意味、不調和、もしくは突飛な線や、面や、色彩を使って、人力で表現し得べからざるものを表現すべく試みているようであるが、そのような表現法も能は到る処に試みているので、寧ろ能楽の最も得意とするところである。  とはいえ、斯様にして洗練されて来た、舞、謡、囃子が、どんな風に集まり合って能を組み立てているか……という具体的の説明は依然として絶対に出来ないと思う。日本に生れて日本の詩歌伝説に共鳴し、日本語の光りと陰影に慣れ親しみ、八拍子の序破急に対する感覚を遺伝し、舞のリズムと打音楽の調和を喜び得る純日本人ですら、能を見物して唯よかったとか、悪かったとか云うだけで、何故という質問に答え得ない位だから――。  能のわかるアタマは特殊のアタマとさえ考えられている位だから……。  けれども、そもそも「舞」とか「謡」とか「囃子」とかいうものの本来の使命はどこに在るか……その本来の使命が「能」ではどんな風に果されつつあるか……という事に就いて、私一個人の無鉄砲な意見を述べる事は出来ようと思う。そうして、その意見を首肯……もしくは反対される人々が、各自の意見によりて能を考察されたならば、或は能をドン底から理解される事になりはしまいかと思う。私が説明し得ないところを氷解されはしまいかと思う。  これは私が好んでする奇矯な論法ではない。 「能」は如何なる方向からでも玩味、批判され得る一個の人格だから……。 「能」はアトムから人間にまで進化して来て、更に又もとのアトムにまで洗練、純化されつつある綜合芸術だから……。      定型の根本義  舞い、謡い、囃すという事は人間最高の仕事である。  人間文化が次第に向上して、一切の言葉が純化されて詩歌となって問答される。これに共鳴した人々が楽器で囃す。同時に人間の一切の起居動作が洗練されて舞となって舞うようになったならば、それは人類文化の最高のあらわれでなければならぬ。日本、支那、印度、西洋の各国に於ても、或る文化種族がその栄華を極めた時、即ちその文化的能力を極度に発揮した時、日常事にふれて詩歌を以て相語り、舞を以て仕事を行った時代があったそうである。  又、かような事も考えられる。  主観的に云えば蝶は蜜を求めて飛びまわっているのであろうが、人間の眼に映ずる蝶の生活は、春のひねもすを舞い明かし舞い暮しているとも考えられる。すくなくとも蝶が蜜を求めて飛びまわる姿は、その美しい翅と、変化に富んだ飛び方の曲節によって、春の風物気分とシックリ調和しているので「蝶は無意識に舞っている」と云えるであろう。  その蝶の舞を今一層深く観察してみる。  蝶のあの美しい姿は開闢以来、あらゆる進化の道程を経て、あの姿にまで洗練されて来たものである。同様にその飛びまわりつつ描く直線曲線が、全然無意味なままに相似ていて、バッタの一足飛びや、トンボの飛行機式なんぞとは比べものにならない程、美的なリズムに満ち満ちているところを見ると、蝶には他の翅虫たちよりも遥かに勝れた美意識があるように見える。そうしてその美意識によって春の野の花に調和し、春の日の麗らかさを高潮さすべく、最もふさわしい舞い姿にまで、代を重ねて洗練されて来たのが、あの蝶の舞い型であると考えられる。  鳥の歌も同様である。  ある種類の鳥の唄う諧調は、全然無意味のまま、相似通っていて、春の日の麗らかさに調和し、駘蕩の気分を高潮さすべく、最もふさわしい諧調にまで、元始以来洗練され、遺伝されて来ている諧調の定型であるかのように思われる。  そうしてその蝶の舞いぶり、鳥の唄いぶりが、人間のそれと比べて甚しく無意味であるだけそれだけ、春の日の心と調和し、且つその心を高潮させて行くものである事は皆人の直感するところであろう。  人間の世界は有意味の世界である。大自然の無意味に対して、人間はする事なす事有意味でなければ承知しない。芸術でも、宗教でも、道徳でも、スポーツでも、遊戯でも、戦争でも、犯罪でも何でも……。  能はこの有意味ずくめの世界から人間を誘い出して、無意味の舞と、謡と、囃子との世界の陶酔へ導くべく一切が出来上っている。そうしてその一曲の中でも一番無意味な笛の舞というものが、いつも最高の意味を持つ事になっている。勿論多少は、劇的の場面を最高としてあるものもあるが、大部分は笛の舞を中心としている。  その曲の最もありふれた形式の一つを挙ぐれば、先ず日常生活に原因する悲劇的場面から初まって、その悲劇の主人公が次第に狂的、超人的な心理状態に入る。同時にその言、意味のある普通の文句から、次第に無意味な詩歌的気分と音調とを帯びて来る。その気分を数名の合唱隊が受けて謡う。それに連れて主人公が舞い出す。  かようにして舞台面の気持はやがて散文も詩も通り越し、劇も身ぶりも、当て振りも、情緒や風趣をあらわす舞も、グングンと超越して、全然無意味な、気分も情緒も何もない、ただ、能としての最高潮の美をあらわす笛の舞に入る。その時に謡が美しく行き詰まりつつ消えて行く。  この笛の舞は、よほど能の好きな人でもわからない退屈なものと見倣されている。それほど高い芸術価値を持っているものである。  すなわち能は、まず現実世界の人間に、分り易い簡単な劇を選み出して見せる。そうして観衆の頭を引き付けておいて、その中から気分と意味とを取り交ぜた舞踊を抽出して見せる。それから最後に、無意味な、無気分な、只美しい、品のいい、音と形ばかりの、笛の舞の世界をあらわして最高の芸術愛好者を酔わせて了うのである。  この笛の舞が最高潮に達して終りかける時、舞手は、笛の舞を舞い出した時の気分と照応した謡を謡い出す。そのうちに笛が止んで囃子の段落が来る。そのあとから謡手が謡い出して、劇でいう切りの気分に入り、調子よく舞い謡いつつ最高潮に達して終る。  以上は能の作曲の一つの定型と云っていいであろう。  筆者は酒が一滴も飲めないのに、友達は皆酒豪ばかりと言っていい。しかも現代を超越した呑仙士ばかりで、奇抜、痛快の形容を絶した逸話をノベツに提供して、筆者の神経衰弱を吹き飛ばしてくれる。  福岡の九州日報社という民政系の新聞社にいる頃、社員で酒を飲まないのは私一人であった。  私と一緒に地方版の編集をやっていた松石という男は、月末近くなると、茶褐色に変色したカンカン帽を持って、一巡する。一銭入れる者もあれば、十銭入れるものも在る。運よく原川社長が来合わせると五十銭ぐらい入れて貰ったりして感激の涙に咽んで帰って来る。  むろんその金で飲みに行くのだ。飲まないと頭が変テコになって仕事が続かないので、止むを得ない義金募集なのだそうだ。  ある時、松石君、大枚三円なにがしを収穫したので、帰り途のウドン屋に寄って大いに飲んだ。傍で飲んでいたサラリーマン風の男と非常な親友になって、スッカリ肝胆照してしまった。将来、死生を共にしようと言う処まで高潮したので、とにかく今夜は俺の家に来いと言う事になって、グデングデンになっている奴を引っぱって帰ると、出迎えた細君に残りのバラ銭を一掴み投げ与えた。大至急に酒を命じて二階に上った。  それから二階で又盛んに飲んで、歌って、死生の契りを固めているうちに、とうとう飲み潰れて二人ともグウグウ寝てしまった。  あくる朝松石君が眼を醒ますと、傍に知らない男が寝ている。ハテ、何処の宿屋に泊ったのか知らん……と思って天井や床の間を見廻すと、たしかに自分の家である。  松石君は仰天して二階から駈け降りた。台所で赤ん坊を背負って茶漬を喰っている細君を捕えて詰問した。 「二階の男はアリャ何だい」  細君も仰天した。 「……まあ……アナタ御存じないの」 「知るもんか。あんな奴……」 「あら嫌だ。昨夜、貴方が親友親友って言って連れて来て、二階でお酒をお飲みになったじゃないの。そうして仲よく抱き合ってお寝みになったじゃないの」 「馬鹿言え。俺あ今朝初めて見たんだ」  細君は青くなってしまった。 「まったく御存じないの」 「ウン。全く……」  そんな問答をしているうちに、松石君はやっと昨夜の事を思い出したので、思わず頭を掻いて赤面したと言う。 「困るわねえ。貴方にも……まだ寝ているんでしょう」 「ウン。眼をウッスリと半分開いて、気持よさそうに口をアングリしていやがる」 「気色の悪い。早く起してお遣んなさいよ。モウ十時ですよ」 「イヤ。俺が起しに行っちゃ工合が悪い。お前、起して来い」 「嫌ですよ。馬鹿馬鹿しい」 「でもあいつが起きなきゃあ、俺が二階へ上る事が出来ない。洋服も煙草も二階へ置いて来ちゃったんだ」 「困るわねえ」 「弱ったなア」  そのうちに二階の男が起きたらしくゴトゴトと物音がし始めた。  ……と思ううちに突然、百雷の落ちるような音を立てて、一気に梯子段を駈け降りた。玄関で自分の靴に足を突込むと、バタバタと往来へ走り出て、いずこともなく消え失せて行った。  夫婦は眼を丸くして顔を見合わせた。  腹を抱えて笑い出した。 「よかったわね、ホホホホ」 「アハハハ。ああ助かった。奴さん気まりが悪かったんだぜ」 「それよりも早く二階へ行って御覧なさいよ。何かなくなってやしないこと……」  松石君の古いカンカン帽が、その日から新しくなった。昨夜の親友が間違えて行ってくれたものだったという話。  同じ社友で、国原三五郎というのがいる。これに準社友の芋倉長江画伯を取り合わせると古今の名コンビで、弥次喜多以上の悲惨事を到る処に演出する。  大正何年であったか正月の三日に、国原がフロックコートで初出社をすると、左手の甲に仰山らしく繃帯をしている。見ると夥しく黒血がニジンで乾干付いている。トテモ痛そうである。 「どうしたんだい。正月|※々……」  と聞いてみると国原は、酒腫れに腫れた赤黒い入道顔を撫でまわした。 「ウン。昨日社長の処で一杯飲んで帰りがけに、芋倉長江が嬉しいと言ってここに喰い付きやがったんだ。俺を西洋の貴婦人と間違えてキッスするのかと思っていたら、飛び上る程痛くなったから大腰で投げ飛ばして遣ったんだ。まだズキズキするが、右手でなくてよかった」  と言って涙ぐんでいる。  そこへ当の芋倉長江画伯が、死人のような青い顔に宗匠頭巾、灰色の十徳という扮装で茫々然と出社して来た。見ると向う歯が二本、根元からポッキリ折れて妙な淋しい顔になっている。私は驚いて、 「ずいぶん非道く啖い付いたもんだね」  と慰めて? 遣ったら、長江画伯イヨイヨ茫然とした淋しい顔になって眼をパチパチさせた。 「イヤ。これはいつ打たれたのか、わからないのです」  と謙遜? するのを横合いから国原が引き取った。 「ウン。それは僕が知っとる。僕が君を投げ飛ばして遣ったら、君はイヨイヨ嬉しいと言って横に立っていた電信柱に喰い付きよった。その時に柱に打ち付けて在る針金に前歯が引っかかって折れたんだ。僕は君の熱心なのに感心して見ておったよ」  という話。  トタンに私は酒が飲みたくなった。いまだ嘗て電信柱に啖い付くほど嬉しい眼に合った事がなかったから……。  ……ああ……酔うた酔うた。  ……どうだ斎木……モ一つ行こう。脊髄癆ぐらい酒を飲めば癒るよ。ちょっとも酔わんじゃないか君は……。  ナニ……恐ろしい暴風雨だ?……。  ウン。近来珍らしい二百二十|日だよ。夜半過ぎたら風速四十|米突を越すかも知れん。……おまけにここは朝鮮最南端の絶影島だ。玄海灘と釜山の港内を七分三分に見下ろした巌角の上の一軒家と来ているんだからね。一層風当りがヒドイ訳だよ。……世界の涯に来たような気がする……ハハハ。しかしこの家なら大丈夫だよ。その覚悟で建てた赤|煉瓦の温突式だからね。憚りながら酒樽と米だけは、ちゃんとストックして在るんだ。十日や十五日シケ続けたって驚かないよ。ハハハ……。  イヤ。よく来てくれた。吾輩の竹馬の友といったら、今では君一人なんだからね。もう一人居た福岡県知事の佐々木が、ツイこの間死んでしまったからね……ウン。太っ腹ないい男だったが、可愛相な事をしたよ。何でも視察旅行の途中で、自動車もろ共、谷へ落ちたというんだが、人間、何で死ぬか知れたもんじゃないね。……しかも、その跡に残ったタッタ一人の君が二十年振りに、貴重な静養休暇を利用して、この天涯の素浪人、轟雷雄の隠れ家を叩きに来ようとは思わなかったよ。  イヤ……実に意外だった。君の顔を見た瞬間に、故郷の禿山が彷彿として眼前に浮んだね。イヤ。禿げているから云うんじゃない……アハハハ。今夜はこの風を肴に飲み明かそうじゃないか。お互いに「頭禿げてもお酒は止まぬ」組だったじゃないか。ハッハッハッ。風が凪いだら一つ東莱温泉へ案内しよう。あすこでモウ一度|俗腸を洗って、大いに天下国家を……。  ナニ……吾輩が首になった原因を話せと云うのか……。  ハハハハ。それあ話しても宜え。吾輩としては俯仰天地に愧じない事件で首を飛ばされたんだから、イクラ話しても構わんには構わんが、しかしだ。君はホントウに吾輩の云う事を事実と信じて聞いてくれるかね。エエ……?……。  イヤ。失敬失敬。それはわかっとる。重々わかっとる。君が吾輩を信じてくれる事はトコトンまで疑わんが、しかしそれでも吾輩の休職の裏面に潜む事件の真相なるものが、到底、常識では信ぜられんくらい悽愴、惨憺、醜怪、非道を極めたものがあるから、特に念を押す訳だよ。  手早い話が、吾輩の首をフッ飛ばした事件の真相を突込んで行くと一つのスバラシイ復讐事件にブツカッて来るんだ。しかもその事件の主人公というのは、吹けば飛ぶような貧乏|老爺に過ぎないのに、その相手というと南朝鮮各道の検事、判事、警察署長、その他の有力者六十余名というのだから容易じゃないだろう。……のみならず、その復讐事件の真相なるものをモウ一つ奥の方へ手繰って行くと、現在、内地朝鮮の官界、政界、実業界に根強い勢力を張り廻わしている巨頭株の首を珠数繋ぎにしなければならぬという、日本空前の大疑獄が持ち上って来る事、請合いだ。……しかもソイツが又、全国の爆薬取締に関する重大秘密から、社会主義者、不逞鮮人の策動に引っかかって行く。もしくは張作霖、段祺瑞を中心とする満洲、支那政局の根本動力にまで影響するかも知れんという……実に売国奴以上に戦慄すべき彼等、巨頭株連中の非国家的行為が、真正面から蜂の巣を突っついたように、曝露して来るかも知れないんだが……それでも構わんか……君は……。  もちろんこれは吾輩一流の酔った紛れの大風呂敷じゃないんだぜ。相手が普通の人間なら兎も角だ。農商務大臣と製鉄所長官の首を一度に絞めて、前内閣を引っくり返した堅田検事総長から、懐刀と頼まれている斎木検事正のお耳に、この話が這入ったとなると問題だろう。メッタにお聞き棄てにならん事を、知って知り抜いて饒舌りよるのじゃが宜えか。  アッハッハッハッハッ。イヤ。決してオベッカじゃないよ。持ち上げよるでも何でもない。シラ真剣の打明け話だ。……フウン。多分ソンナ事じゃろうと思うてワザワザ訪ねて来た……ウンウン。流石は商売人だけある。アハハハ。イヤ。馬鹿にしとる訳じゃない。そんなら尚の事、話し甲斐があるんだ。……実は吾輩もこの問題に就いては千秋の遺恨を含んでいるんだからね。今云った朝野の巨頭連は、馬鹿正直な吾輩一人を蹴落して、自分等の不正事実を蔽い隠そうと試みているのだ。吾輩の事業の隠れたる後援者であった山内正俊閣下が、去年の十一月に物故されて以来、吾輩が木から落ちた猿同然、手も足も出なくなっている事を、彼奴等はチャンと知っていやがるんだ。彼奴等の肉を裂き、骨をしゃぶっても飽き足りない思いを抱きながら吾輩は、この釜山港口、絶影島の一角に隠れて、自分の食う魚を釣っていたんだ。  ナニ……何だって。君の今度の旅行は、そのための秘密調査が目的だ……? 温泉巡りとは真赤な偽り……脊髄カリエスの静養休暇は検事総長と打合わせた芝居に過ぎん……?  ……エエッ……何という。ホントウかいそれあ。ヘエ――ッ……。  こいつは一番、驚いたね。いくら何でも、チイット炯眼過ぎやせんか……それは……。  何を隠そう吾輩は現在、この事件に関する詳細な報告書をあの机の上に書きかけとるんだ。しかしこれほどの怪事件はチョイトほかに類例が無いし、問題が又ドエラク大きいもんだから、あの報告書が出来上っても、どこへ出したら宜えかチョット見当が附かんで困っておったところだが……まさかソコを探知して受取りに来たんじゃあるまいな……君は……。  フウン。そうだろう。そこまでは知らなかった筈だ。  ……フウン……しかし奇怪な投書が検事総長の処へ来ている……ヘエ。どんな投書だ……。  何だ。持って来ているのか。ドレドレ見せ給え……。  ……ヤッ……これは血書じゃないか。しかも立派な美濃紙が十枚以上在る。大変な努力だぞ。これは……投函局が佐賀県の呼子か……おかしいな。あすこにも吾輩の乾児が居るには居るが……大正九年八月十五日……憂国の一青年より……堅田検事総長閣下……フーム。無論、吾輩が書いたんじゃないよ。書体を見ればわかる。……ウーム……と……。 「私ハ貴官ノ正シイ御心ヲ信ジテコノ手紙ヲ書キマス。  水産翁、轟雷雄先生ガ免職ニナリマシタ裡面ニハ、国家ノタメニナラヌ重大秘密ガアリマス。大正八年十月十四日ノ午後一時カラ二時ノ間ニ、××デ警察署長ガ三人ト、判事ヤ検事ガ四人ト、松島|見番ノ芸妓二名ガ殺サレタ事件ノ原因ヲ調ベテ下サイ。貴官ノホカニ、コノ真相ヲ調ベ切ル人ハアリマセン。  貴官ガコノ事件ヲ、本気デ調査サレタ事ガワカリマシタラ私ガ貴官ノ御宅ニ出頭シテ、真相ヲオ話シシマス。何トナレバ右ノ九人ノ人間ガ死ンダ事件ノ裏面ニ潜ム恐ロシイ爆弾売買ノ真相ヲオ話シ出来ルモノハ、私一人シカ居リマセンカラ。  モシ貴官ガ今年一パイ、コノ問題ヲ調ベズニ打チ棄テテオカレタナラバ、貴官モ爆弾売リノ仲間ト認メマス。ソウシテ私ハ別ノ手段デ、モットモット皆サンニ、思イ知ラセマス。ドウゾドウゾ国家ノタメニ御調ベヲ願イマス」  ウーム。検事総長を威嚇した訳だな。  ……成る程……この投書は二十歳内外の不規則な学問をした青年が、字引引き引き一生懸命に書いたものらしいという見込だね。ウム。「芸妓」とか「爆弾」とかいう難しい文字が特に、活字の通りに正しく書いてあるので推定した……成る程なあ。感心なもんだな。ウーム……それからタッタ一語だけ使ってある「調べ切る」という言葉が「調べ得る」という意味で使った九州北部の方言であるところから察すると、この青年は国家問題に昂奮し易い福岡県下の出身かも知れぬと云うんだね。……賛成だ。吾輩|双手を挙げて賛成するね。お互いに福岡生れだから、こうした青年の気持ちがよくわかるんだよ。とにかく生命がけのスゴイ奴に違いない。そこでこの投書を信用して、君が出張して来たという訳か、吾輩の心当りを探るべく……。  何……まだ話がある……。ハハア……書いた奴の詮索は後廻しか。事実の有無が何より先に問題だと云うんだね。如何にも如何にも……そこで朝鮮総督府へ公文書で問合わせた。成る程……そういった司法官や芸妓が同月、同日の殆んど同時刻に死傷する程の事件ならば、総督府でも知らない筈はないからな。面白い面白い……そうしたらドンナ回答が来た……。ナニ……。 「管轄違いだ。返答の限りに非ず」  と突放して来た。怪しからんじゃないか。……回答した奴は何者だ。フウン。わからんというのか。ただ総督府の太鼓判がベッタリと捺してあるだけだ。……いよいよ以て怪しからんじゃないか。  ハハア。その手が例の「朝鮮モンロー主義」だというのか。ハッハッ。「朝鮮モンロー主義」はよかったね。……フーン……朝鮮の奴等はそんなに威張るのかなあ。燈台|下暗しで知らなかった。……フーン……内地の官庁から朝鮮に這入って来たものは、いつもこの式で、書類でも人間でもピンピン撥ね付ける。事務上の連絡が全く取れないが、総督府が独立した官制になっているのだからドウにも手のつけようがない……ヘエー……そうかなあ。……吾輩なんかは絶対にソンナ方針じゃなかったよ。内地から来たものは特に優遇する方針だったから、チットモ気が付かなかったがね……だから首になったんだ……成る程。そうかも知れん。ハッハッハッ……。  それあ君等としちゃ癪に触ったろう。特に司法関係の仕事は内鮮に跨った問題が多いんだからね。一々その手で撥ねられちゃあ遣り切れないだろうよ。成る程。……債券や紙幣の偽造が、朝鮮に逃げ込むと捕まらなくなるのはそのためだ。遺恨骨髄に徹している……成る程。それあそうだろう。  そこでこっちもグ――ッと来たから、 「内地に於ける銃砲火薬類取締上、調査の必要あり。至急回答ありたし」  と当てズッポーで威かしてやったら、今度は方向を違えた釜山警察署から報告が来た。……ハハア……総督府の奴、物騒と見て取って責任を回避しおったな。卑怯な奴だ。……その報告書がコレか……成る程。総督府宛の内容のものを、そのままコッピーにして送って来た訳だな。ウンウン。朱線を引いた処が要点か。 「……如何なる方面より風聞せられしものなるや判明せざれど、右類似の事件は当署管内に於て確かに発生せし事|有之……」  ……いかにも、コイツは多少名文らしいね。チョイト絡んで来たところが気に入ったよ。 「去る大正八年十月十四日、午後一時頃、釜山公会堂に於て、轟総督府技師の「爆弾漁業」に関する講演中、同技師が見本として提出したる二個の漁業用爆弾が過って炸裂し、傍聴者たりし判検事、署長等七名の死者を出したる事件あり。……」  プッ……馬鹿な。朝鮮官吏の低能と来たら底が知れない。コンナ事でお茶が濁せたらお慰みだ。警察の発表なら誰でも信用すると思っているんだから恐ろしい。そこで……と……。 「……右は前記轟技師の不注意より起りしものなりしと同時に、当局の威信に関する事故なりしを以て、秘密裡に善後の処置を為し、轟技師の休職を以て万事の落着を見たり。……右御回答申上候」  アッハッハッハッハッ。イヤ巧んだり拵らえたり。インチキ、ペテン、ヨタも亦、甚しい。朝鮮官吏の腐敗堕落が、ここまで甚しかろうとは……ナニ。そんな事情もアラカタ察していた。なるほど……総督府が、釜山署と慣れ合いで事実を隠蔽すると同時に、責任を回避しているものと睨んだ……従ってこの事件は、総督府にもコタエル程度の重大事件だったに相違ない……その通りその通り。命中率、正に百二十パアセントだよ。朝鮮モンロー主義をギューといわせる事この一挙に在りか。ハハハハ。愉快愉快。そう来なくちゃ面白くない。  そこで直ぐに君の部下を釜山に密行さした。ウムウム。その部下が釜山に着くと、何よりも先に松島遊廓に上って散財した。ハハハハ。ナカナカ洒落とるじゃないか……成る程。それからその翌る日、帰りしなに、コッソリ公会堂に立寄って、内部の様子を一眼見ると、その朝の連絡船で東京に引返して、釜山署の報告はインチキに相違なしという復命をした……ヘエッ……こいつは驚いた。どうしてわかったんだ。タッタそれだけの仕事で……。  ハハア。その男の調査によると松島|見番で二人の芸妓が変死したのは事実だった……正にその通りだ。それを警察が強制して失綜届を出させている。葬式も法事も許さない。芸妓屋と親元は泣きの涙で怨んでいるが、泣く児と地頭に勝たれない。ソレッキリの千秋楽になっている……ソイツも正にその通りだ。……のみならず問題の公会堂を覗いてみると建った時のまんま修理した形跡が無い。十人近くの人間が爆死する位なら建物の損害が出ない筈はなかろう……というのか。  ……ウム。エライッ……。  豪いもんだなあ。そんなにも頭が違うものかなあ内地の役人は……そこで検事総長と打合わせた結果、極秘密裡に君が遣って来て、直接、吾輩の口から真相を聴く段取りになった……ウムッ。有難いっ。痛快だっ。イヤ多謝……多謝……とりあえず一杯|献こう。  君の着眼は正に金的だったよ。  朝鮮モンロー主義……売国巨頭株の一掃……手に唾して俟つべしだ。とりあえず前祝に大白を挙げるんだ。  ナニ……その売国巨頭株の姓名を具体的に云ってくれ……よし云おう。ビックリするな。  貴族院議員、正四位、勲三等、子爵、赤沢事嗣……これが金毛九尾の古狐で、今度の事件の一番奥から糸を操っている黒頭巾だ。君等がよく取逃がす呑舟の魚という奴だ。……ハッハッ知らなかったろう。彼奴の若い時は例の郡司大尉の隠れたる後援者で、東洋切っての漁業通だという事を、誰にも感付かせないように、極力警戒しているんだからね。北洋工船、黒潮漁業の両会社は彼奴の臍繰り金で動いていると云っていい位だ。……その次が現在大阪で底曳大尽と謳われている荒巻珍蔵……発動機船底曳網の総元締だ。知っているだろう。それから京城の鶏林朝報社長、林逞策。あれで巨万の富豪なんだよ。代議士|恋塚佐六郎……三保の松原に宏大な別荘を構えている……アレだ。お次は大連の貿易商で満鉄の大株主|股旅由高。それから最後の大物が、現民友会の幹事長、兼、弗箱と呼ばれている釜松秀五郎、逓信次官、雲田融……と……まあザットこれ位にしておこう。どうだい。驚いたか。  こいつ等の仕事の正体かね。無論、話すとも。話さなくてどうするもんか。君は吾輩唯一の竹馬の友だ。廃物同様の吾輩の話が、君等の仕事の参考になるのは、吾輩の無上の光栄とし、且つ欣快とするところだ。況んや君の手によって、極度の乱脈に陥っている現下の銃砲火薬取締が廓清されると同時に、今云った連中にこの遺恨を報ずる事が出来たとすれば、吾輩の本懐、何をかこれに加えんだ。吾輩の一身なんかドウなったって構わない。  ウンウン。実にお誂向きのところに来てくれたよ。註文したって無い大暴風雨に取巻かれた一軒屋だ。聴いている者は飯爨きの林だけだ。ウン。あの若い朝鮮人だよ。彼奴なら聴いても差支えないどころか、吾輩の話のタッタ一人の証人なんだ。吾輩が死んでも、彼奴の報告を聞けば一目瞭然なんだ。年は若いが、生やさしい奴じゃないんだよ彼奴は……追々わかるがね……ウン。  ところでドウダイ。モウ一パイ……ウン話すから飲め。脊髄癆なんてヨタを飛ばした罰だ。落ち付いてくれなくちゃ話が出来ん。 「酒を酌んで君に与う君自ら寛うせよ  人情の翻覆波瀾に似たり」  だろう……お得意の詩吟はどうしたい。ハハハハ。お互いに水産講習所時代は面白かったナア……。  ウン面白かった。  しかし君は途中で法律畑へ転じたもんだから、吾輩がタッタ一人、頑張って水産界へ深入りした。……少々脱線するようだがここから話さないと筋道が通らないからね……しかも内地の近海漁業は二千五百年来発達し過ぎる位発達して、極度の人口過剰に陥っている。残っている仕事はお互い同志の漁場の争奪以外に無いというのが、維新後の水産界の状態だった。  然るにこれに反して朝鮮はどうだ。南鮮沿海の到る処が処女漁場で取巻かれているじゃないか。況んや露領|沿海州に於てをやだ。……これに進出しないでドウなるものか。日本内地三千万の人口過剰を如何せん……というのが吾輩の在学当時からの持論だったが……ウン。君も散々聞かされた……そこで卒業と同時に、火の玉のようになって日本を飛び出して朝鮮に渡ったのが、ちょうど水産調査所官制が公布された明治二十六年の春だったが、その時の吾輩の資本というのが、牛乳配達をして貯蓄した十二円なにがしと、千金丹二百枚の油紙包みと来ているんだから、正に押川春浪の冒険小説だろう。  ……ウン……そこでモウ一つ脱線するが、その頃の朝鮮人が千金丹を珍重する事といったら非常なものだった。君は千金丹を記憶しているだろう。甘草に、肉桂粉に薄荷といったようなものを二寸四方位の板に練り固めて、縦横十文字に切り型を入れて金粉や銀粉がタタキ付けてある。無害無効の清涼剤だが、その一枚を三十か四十かに割った三角の一片を出せば、かなりの富豪が三拝九拝して一晩泊めてくれる。一枚の三分の一でも呉れようもんなら、その頃の郡守といって、県知事以上の権威を持った大名役人が、逆立ちをしながら沿岸を案内してくれるというのだから、まるでお伽話だろう。おまけに吾輩は内地の騎兵軍曹の古服を着て、山高帽に長靴、赤|毛布に仕込杖……笑っちゃいけない。ちょうどその頃、先輩の玄洋社連が、大院君を遣付けるべく、烏帽子直垂で驢馬に乗って、京城に乗込んでいるんだぜ。……その吾輩が長髯を扱きながら名刺を突き出すと、ハガキ位の金縁を取った厚紙に……日本帝国政府視察官、医典博士、勲三等、轟雷雄……と一号活字で印刷してある。意訳すると豪胆、勇壮、この上なしの偉人という名前なんだから、大抵の奴が眼を眩わしたね。最小限|華族ぐらいには、到る処で買冠られたもんだ。  この勢いで北は図満江の鮭から、南は対州の鰤に到るまで、透きとおるように調べ上げる事十年間……今度は内地に帰って、水産講習所長の紹介状を一本、大上段に振り冠りながら、沿海の各県庁、水産試験場、著名の漁場漁港を巡廻し、三寸|不爛の舌頭を以て朝鮮出漁を絶叫する事、又、十二年間……折しもあれ日韓合併の事成るや、大河の決するが如き勢をもって朝鮮に移住する漁民だけが、前後を通じて五十万という盛況を見つつ今日に及んだ。歴代の統監、総督の中でも山内正俊大将閣下は、特に吾輩の功績を認めて、一躍、総督府の技師に抜擢し、大佐相当官の礼遇を賜う事になった。苟くも事、朝鮮の産業に関する限り、米原物産伯爵、浦上水産翁と雖も、一応は必ず、吾輩、轟技師に伺いを立てなければ、物を云う事が出来ないという……吾輩の得意想うべしだったね。  ところでここまではよかった。ここまではトントン拍子に事が運んだが、これから先が大変な事になった。引くに引かれぬ鞘当てから、日本全国を潜行する無量無辺の不正ダイナマイトを正面に廻わして、アアリャジャンジャンと斬結ぶ事になった。しかもソイツが結局、吾輩タッタ一人の死物狂い的白熱戦になって来たんだから遣り切れない。  或は吾輩一流の野性が祟ったのかも知れないがね。  そのソモソモの狃れ初めというのは、実につまらないキッカケからだった。  今も云う通り吾輩は、総督府のお役人になってしまった。一介の漁師としては正に位、人臣を極めるところまで舞い上って来た訳だが、サテ、そうなってみるとドウモ調子が面白くない。朝鮮|緘しの金モール燦然たる飴売り服や、四角八面のフロックコートを一着に及んで、左様然らばの勲何等|風を吹かせるのが、どう考えても吾輩の性に合わなかったんだね。正直正銘のところ山内閣下から轟……轟といって可愛がらるよりも、五十万の荒くれ漁夫どもから「おやじおやじ」と呼び付けられる方が、ドレ位嬉しいかわからない。この心境は知る人ぞ知るだ。トウトウ思い切ってこうした心事を、山内さんの前で露骨に白状したら、山内さんあのビリケン頭に汗を掻いて大笑したよ。……あんなに笑ったのを見た事が無いと、同席の藁塚産業課長が云っておったがね。  その結果、現官のままの吾輩を中心にして東洋水産組合というものが認可されて本拠を釜山の魚市場に近い岩角の上に置いた。費用は五十万の漁民から一戸当り毎年二十銭ずつ、各道の官庁から切ってもらって、半官半民的に漁民の指導保護、福利増進に資すると同時に北は露領沿海州から、西は大連沖、支那海まで進出して宜しいという鼻息を、総督から内々で吹き込まれた……というと実に素晴らしい、堂々たる事業に相違ない。吾輩の生命の棄て処が出来たというので、躍り上って喜んだものだが、サテ実際に仕事を初めてみると、何より先に驚ろかされたのは組合費が集まらない事だった。  アタジケナイ話だが、一年の一戸当りがタッタ二十銭とはいうものの、税金と違って罰則が無い。おまけに遣りっ放しの海上生活者が相手なんだから徴収困難は最初から覚悟していたが、半分以下に見て七千円の予算が、その又半分も覚束ない。吾輩の本俸手当を全部タタキ込んでも建物の家賃と、タッタ一人の事務員の月給と、小使の給料に足りないのだから屁古垂れたよ……実際……。  ところが一方に吾輩が総督府を飛出して、水産組合を作ったという評判は、忽ちの中に全鮮へ伝わったらしいんだね。到る処から「おやじおやじ」の引張り凧だ。……行ってみると漁場の争奪、漁師の喧嘩、発動機船|底曳網の横暴取締り、魚市場の揉め事、税金の陳情なぞ、あらん限りのイザコザを持ち掛けて来る上に、序だからというので子供の名附親から、嫁取り、婿取りの相談、養子の橋渡し、船の命名進水式、金比羅様、恵比須様の御勧請に到るまで、押すな押すなで殺到して来る。その忙しい事といったらお話にならない。  しかし吾輩は嬉しかった。何をいうにも内地から遥々の海上を吾輩が自身に水先案内して、それぞれの漁場に居付かせてやった、吾児同然の荒くれ漁師どもだ。その可愛さといったら何ともいえない。経費なんかはどうでもなれという気になって、東奔西走しているうちに妙なものだね。到る処の漁村の背後に青々、渺茫たる水田が拡がって行った。同時に漁獲がメキメキと増加して、総督府の統計に上る鯖だけでも、年額七百万円を超過するという勢いだ。その又一方に組合費の納入成績はグングン下落して、何とも云いもしないのに、タッタ一人の事務員が尻に帆をかけるという奇現象を呈する事になったが、それでも吾輩喜んだね。鮮海漁業の充実期して待つべし……更に金鞭を挙げて沿海州に向うべし……というので大白を挙げて万歳を三唱しているところへ、思いもかけないドエライ騒動が持ち上って来た。ウッカリすると折角、根を張りかけた鮮海の漁業をドン底までタタキ付けられるかも知れない大暴風が北九州の一角から吹き初めたもんだ。  ……というのはほかでもない。海上の大秘密……爆弾漁業の横行だった。  ところで又一つ脱線するが、ここいらで所謂、漁業界の魔王、爆弾漁業の正体と、その横行の真原因を明らかにしておかないと困るのだ。世間に知られていない……永いこと官憲の手によって暗から暗に葬られて来た事実だが、実は今夜の話の興味の全部を裏書する重大問題だからね。  何だ……大いに遣ってくれ。非常に参考になる……ウン遣るよ。徹底的にやるよ。君なんか無論初耳だろうが、実に戦慄すべき国家問題だからね。  由来海上の仕事には神秘とか、秘密とかいう奴が、滅法矢鱈に多いものだが、その中でもこの爆弾漁業という奴は、超特級のスゴモノなんだ。  何故かというと一般社会ではこの爆弾漁業横行の原因を、利益が大きいから……とか何とかいう単純な、唯物的な理由でもってアッサリ片づけているようだが、永年、漁夫の中を転がりまわって、半風子を分け合った吾輩の眼から見ると、その奥にモウ一つ深い心理的な理由があるのだ。すなわち一言にして蔽うと、この爆弾漁業なるものこそ、吾が日本の国民性に最も適合した漁業法……怪しからんと云ったって事実なんだから仕方がない。イザ戦争となると直ぐに肉弾をブッ付ける。海では水雷艇の突撃戦に血を湧かしたがる。油断すると爆薬を積んだ飛行機を敵艦にブッ付けようかという、万事、極端まで行かなければ虫が納まらないのを、大和魂の精髄と心得ている日本人だ。……最初は九州の炭坑地方の河川で、慰み半分に工業用ダイナマイトを使って極く内々で遣っていた奴が、こいつは面白いというので玄海|洋に乗り出すと、見る見る非常な勢いで氾濫し始めた。  君等は気が付かなかったかも知れんが、明治四十年前後まで、関西の市場に大勢力を占めていた対州鰤という奴が在った。魚市場へ行ってみると、黒い背甲を擦剥いて赤身を露した奴がズラリと並んで飛ぶように売れて行ったものだが、これは春先から対州の沿岸を洗い初める暖流に乗って来た鰤の大群が、沿岸一面に盛り上る程、押合いヘシ合いしたために出来たコスリ傷だ。いわば対州鰤の一つの特徴になっていたくらい盛んなものだった。  ところが、それほど盛大を極めていた鰤の周遊が、爆弾漁業の進出以来、五六年の中に絶滅してしまった。勿論、対州の官憲が、在住漁民と協力して極力取締を励行したものだが、何をいうにも相手が爆弾を持っている連中だから厄介だ。間誤間誤すると鰤の代りに、こっちの胴体が飛ばされてしまう。殉職した警官や、藻屑になった漁民が何人あるかわからない……といった状態で、アレヨアレヨといううちに、対州鰤をアトカタもなくタタキ付けた連中が、今度は鋒先を転じて南鮮沿海の鯖を逐いまわし始めた。  彼奴等が乗っている船は、どれもこれも申合わせたように一丈かそこらの木ッ葉船だ。一挺の櫓と一枚か二枚の継ぎ矧ぎ帆で、自由自在に三十六|灘を突破しながら、「絶海遥かにめぐる赤間関」と来る。そこで眼ざす鯖の群れが青海原に見えて来ると、一人は艫にまわって潮銹の付いた一挺櫓を押す。一人は手製の爆弾と巻線香を持って舳先に立ち上るのだ。このバッテリーの呼吸がうまく合わないと、生命がけのファインプレイが出来ないのだ。  手製の爆弾というのは何でもない。炭坑夫が使うダイナマイト……俗にハッパという奴だ。ビンツケみたいにネバネバした奴を二三本握り固めて、麻糸でギリギリギリと巻き立てて手鞠ぐらいの大きさになったら、それで出来上りだ。ここまでは誰でも出来るが、そいつを左手に持ちながら立ち上って、波の下に渦巻く魚群を見い見い導火線を切る。この導火線の寸法なるものが又、彼奴等の永年の熟練から来ているので、所謂、教化別伝の秘術という奴だろう。魚群の巨大さや深さによって咄嗟の間に見計らいを付けるのだからナカナカ難かしい。……その導火線を差込んだ爆薬を右手に持ち換えて……左利きの奴も時々居るそうだが……片手に火を付けた巻線香を持ちながら、両方の切り口を唇に近付ける。背後を振り返って、 「ソロソロ漕げ……ソロソロ……ソロソロ……」  と呼吸を計っているうちに、鯖の群れ工合を見て導火線の切口と、線香の火をクッ付けて……フッ……と吹く。……シュッシュッと……来た奴をモウ一度、見計らって一気に投げる。はるかの水面に落ちて泡を引きながらグングン沈む。水面下に大渦を巻いている鯖の大群の中心に来たと思う頃、ビシイインという震動が船に来て、波の間から電光形の潮飛沫が迸る。……ソレッ……というので漕ぎ付けるとサア浮くわ浮くわ。何しろ何十万ともわからない魚群の中心で破裂するんだからタマラない。五六間四方ぐらいは背骨が切れる。臓腑が吹き出す。十四五間四方ぐらいは急激|脳震盪を起して引っくり返る。その外側の二十間四方ぐらいの奴は眼をまわして、あとからあとから海面が真白になる程浮き上る。その中を漕ぎまわる。掬う。漕ぐ。掬う。瞬くうちに船一パイになったら、残余はソレキリ打っちゃらかしだ。勿体ないが惜しい事はない。タカダカ三円か五円ソコラの一発だからね。マゴマゴして巡邏船にでも見付かったら面倒だ。  それあ危険な事といったら日本一だろう。その導火線を切り損ねて、手足や頭を飛ばした奴が又、何百何千居るか知れないんだが、そんなのは公々然と治療も出来なければ葬式も出せない。十中八九は水葬礼だが、これとても惜しい生命じゃないらしい。  論より証拠……春鯖から秋鯖の時季にかけて、南朝鮮の津々浦々をまわって見たまえ。到る処に白首の店が、押すな押すなで軒を並べて、弦歌の声、湧くが如しだ。男も女も、老爺も若造も、手拍子を揃えて歌っているんだ。 「百円|紙幣がア  浮いて来たア  百円|紙幣がア  浮いて来たア  ドオンと一発  掴み取りイ  浮いたア浮いたア  エッサッサア  浮いたア浮いたア  エッサッサア  お前が抱かれて くれるならア  片手や片足   何のそのオー  首でも胴でも  スットコトン  明日の生命が  スットコトン  スットコスットコスットコトン  浮いたア浮いたア  エッサッサア  百円|紙幣がア  浮いて来たア……」  と来るんだ。どうだい……コイツが止められるかどうか考えてみたまえ。  こうして財布の底までハタイてしまうと、明日は又「一葉の扁舟、万里の風」だ。「海上の明月、潮と共に生ず」だ。彼等の鴨緑江節を聞き給え……。 「朝鮮とオ――  内地ざかいのアノ日本海イ――  揚げたア――片帆がア――アノよけれエ――ど――もオ――。ヨイショ……  月は涯てし――も――ヨッコラ波枕ヨオ――いつか又ア――女郎衆のオ――膝枕ア――」  と来るんだから遣り切れないだろう。海国男児の真骨頂だね。  そのうちに又、ドオンと来る。五千、一万の鯖が船一パイに盛り上る。コイツを発動機船の沖買いが一|尾二三銭か四五銭ぐらいの現金で引取って、持って来る処が下関の彦島か六連島あたりだ。そこで一|尾七八銭当りで上陸して、汽車に乗って大阪へ着くとドンナに安くても十四五銭以下では泳がない。君等は二十銭以下の大鯖を喰った事があるかい。無いだろう。どの位儲かるかは、この一事を以て推して知るべしだよ。  ところでサア……こうなると所謂、資本家連中が棄てておかない。今でも××の海岸にズラリと軒を並べている※友とか|○金とかいう網元へ船を漕ぎ付けた漁師が、仕事をさしてくれと頼むかね……そうすると店の番頭か手代みたような奴が、物蔭へ引っぱり込んで、片手で投げるような真似をしながら「遣るか」と訊く。そこで手を振って「飛んでもない……そんな事は……」とか何とか云おうものなら、文句なしに追払いだ。誰一人雇い手が無いというのだから凄いだろう。  そればかりじゃない。そうした各地の網元の背景には皆それぞれの金権、政権が動いているのだ。その頭株が最初に云ったような連中だが、その配下に到っては数限りもない。みんなこの爆薬の密売買だの爆弾漁業だので産を成した輩ばかりだ。しかも彼等が爆弾漁業者……略して「ドン」と云うが、そのドン連中に渡すダイナマイトというのが、一本残らず小石川の砲兵工廠から出たものだ。梅や、桜や、松、鶴、亀の刻印を打ったパリパリなんだから舌を捲くだろう。  どこから手に入れるかって君、聞くだけ野暮だよ。強ちに北九州ばかりとは云わない。全国各地の炭山、金山、鉱山の中に、本気で試掘を出願しているのがドレ位あると思う。些くとも半分以上はこの「ドン」欲しさの試掘願いだと云っても過言じゃない。しかもその願書の裏を手繰って行くと又一つ残らず、最初に云った巨頭連中の中の、どれかに引っかかって行く事は、吾輩が首を賭けて保証していいのだ。……同時に彼等巨頭連が、こうした非合法手段で巨万の富を作りつつ、一方に極力、不正漁業を奨励して天与の産業を破壊している事その事が、如何に赤い主義者や、不逞鮮人の兇悪運動を庇護、助長しているか。日本民族の将来の発展に対して、如何に甚しい障害を与えているか……という事実は、吾輩が改めて説明する迄もないだろう。  ところが今云った巨頭連中は、そんな事なんかテンデ問題にしていないのだ。……勅令……内務省令、糞を啖らえだ。いよいよ団結を固くして、益々大資本を集中しつつ、全国的に鋭敏な爆薬取引網を作って行く。それが現在、ドレ位の大きさと深さを持っているかはあの報告書を引っぱり出す迄もない。吾輩の話だけでもアラカタ見当が付くだろう。  そこで、こんな風に爆弾漁業が大仕掛になって横行し始めると、何よりも先にタマラないのは、云う迄もなく南鮮沿海五十万の普通漁民だ。  しかも絶滅して行くのは鯖ばかりじゃない。全然爆薬の音を聞かされた事のない、ほかの魚群までもが、テンキリ一匹も岸に寄付かなくなるんだから事、重大だろう。  ……ウン……それあ実際、不思議な現象なんだ。専門の漁師に聞いたって、この重大現象の理由はわからない。魚同志が沖で知らせ合うんだろう……ぐらいの説明で片附けている……いわば海洋の神秘作用と云ってもいい怪現象なんだが、コイツを科学的に研究してみると何でもない。頗る簡単な理由なんだ。  そもそも鯖とか、鰯とかいう廻游魚類が、沿岸に寄って来る理由はタッタ一つ……その沿岸の水中一面に発生するプランクトンといって、寒冷紗の目にヤット引っかかる程度の原生虫、幼虫、緑草、珪草、虫藻なぞいう微生物を喰いに来るのが目的なんだ。  だからその寄って来る魚群を温柔しく網で引いて取ればプランクトンはいつまでもいつまでも居残ってあとからあとから魚群を迎える事になる。発動機船の底曳網でも、かなり徹底的に、沿海の魚獲を引泄って行くには行くが、それでもプランクトンだけは確実に残して行くのだ。  ところが爆漁と来ると正反対だ。あっちでもズドン、こっちでもビシンと爆発して、生き残った魚群の神経に猛烈な印象をタタキ込むばかりでない。そこいらの水とおんなじ位に微弱なプランクトンの一粒一粒を、そのショックの伝わる限りステキに遠い処までも一ペンに死滅させて行くんだからタマラない。……対州が何よりのお手本だ。……餌の無い海に用はないというので、魚群は年々、陸地から遠ざかって行くばかり……朝鮮海峡をサッサと素通りするようになる。年額七百万円の鯖が五百万、二百万と見る見るうちにタタキ下げられて行く。税金が納められないどころの騒ぎじゃない。小網元の倒産が踵を接して陸続する。吾輩が植え付けた五十万の漁民が、眼の前でバタバタと飢死して行くのだ。  ここに於て吾輩は猛然として立上った。実際、臓腑のドン底から慄え上ってしまったのだ。……爆弾漁業、殲滅すべし。鮮海五十万の漁民を救わざるべからず……というので、第一着に総督府の諒解を得て、各道の司法当局に檄を飛ばした。続いて東京の各省の諒解の下に、北九州、山陰、山陽の各県水産試験場、南鮮の各重要諸港で、十二|節以上の発動機船を準備してもらった奴に、武装警官を乗組ませて、ドン船と見たら容赦なく銃口を向けさせる。これは対州の警察が嘗めさせられた苦い経験から割出した最後手段だ。一方にその頃まだ鎮海湾に居た水雷艇隊を動かしてもらって、南鮮沿海を櫛の歯で梳くように一掃してもらう事になった。……というのは吾輩が、司令官の武重中将を膝詰談判で動かした結果だったがね。  とにかくコンナ調子で、爆弾漁業を本気で掃蕩し始めたのはこの時が最初だったものだから、その騒動といったらなかったよ。南鮮沿海に煮えくり返るような評判だった。  ところがここに、お恥かしい事には、吾輩、元来、漁師向きに生れ附いただけあって、頭が単純に出来ているんだね。そんな風に吾輩の弁力のあらん限りを動員して、爆弾漁業と青眼に切り結んだところは立派だったが、その当の相手の爆弾漁業者の背景に、どんな大きな力が隠れているか……彼等が何故に砲兵工廠の「花スタンプ」附きの爆薬を使っているか……なぞいう事を、その頃まで夢にも念頭に置いていなかったんだから何にもならない……。要するに単純な、無鉄砲な漁師どものアバズレ仕事とばかり思い込んでいたものだから、一気に片付けるつもりで追いまわしてみると、どうしてどうして。水雷艇や巡邏船が百艘や二百艘かかったってビクともしない相手である事が、一二年経つうちに、だんだんと判明って来たもんだ。  第一に驚かされたのは彼奴等の船の数だった。石川や浜の真砂どころではない。慶南、慶北沿海の警察の留置場が、満員するほど引っ捕えても、どこをドウしたかわからないくらい夥しい船が、抜けつ潜りつ荒しまわる。朝鮮名物の蠅と同様、南鮮沿海に鉄条網でも張り廻わさなければ防ぎ切れそうに見えないのだ。  それから第二に手を焼いたのは、その密漁手段の巧妙なことだ。「ドーン」という音を聞き付けた見張りの水雷艇が、テッキリあの舟だというので乗付けて見ると、果せるかなビチビチした鯖を満載している。そこで「この鯖をドウして獲ったか」と詰問すると澄ましたものだ。古ぼけた一本釣の道具を出して「ちょうど大群に行き当りましたので……」という。「しかしタッタ今聞えたのは確かに爆薬の音だ。ほかに船が居ないから貴様達に違いあるまい」と睨み付けると頭を掻てセセラ笑いながら「そんなら舟を陸に着けますから一つ調べておくんなさい」と来る。そこで云う通りにしてみると成る程、巻線香のカケラも見当らないから……ナアーンダイ……というので釈放する。  実に張合いのない話だが、しかし考えてみると無理もないだろう。水兵や警官は漁師じゃないんだからね。爆弾船の連中が持っている一本釣の道具が、本物かそれとも胡麻化し用の役に立たないものかといったような鑑別が一眼で出来よう筈がない。とりあえず糸を引切ってみればタッタ今まで使ったものかどうかは吾々の眼に一目瞭然なんだが……爆弾船に無くてはならぬ巻線香だって、イザという時に海に投げ込めばアトカタもない。もっとも生命から二番目のダイナマイトはなかなか手離さないが、その隠匿しどころが亦、実に、驚ろくべく巧妙なものなんだ。帆柱を立てる腕木を刳り抜いたり、船の底から丈夫な糸で吊したり、沢庵漬の肉を抉って詰め込んだり、飯櫃の底を二重にしていたりする。そのほか、狭い舟の中でアラユル巧妙な細工をしている上に、万一あぶないとなれば鼻の先で手を洗う振りをしながらソッと水の中に落し込む。その大胆巧妙さといったら実に舌を捲くばかりで、天勝の手品以上の手練を持っているんだからトテモ生やさしい事で捕まるものでない。何しろ彼奴等は対州鰤時代に手厳しい体験を潜って来ているのだからね。……そこで吾輩はモウ一度、引返して、各道の判検事や警察官に、爆弾船の検挙、裁判方法を講演してまわるという狼狽のし方だ。泥棒を見て縄を綯うのじゃない。追っかけながら藁を打つんだから、およそ醜態といってもコレ位の醜態はなかったね。  ところがここで又一つ……一番最後に驚ろかされたのは、吾輩のそうした講演を聞きに来ている警察官や、判検事連中の態度だ。先生方がお役目半分に、渋々聞きに来ている態度はまあいいとして、その大部分が本当に気乗りがしていないばかりじゃない。何となく吾輩の演説を冷笑的な気分で聞いている事が、最初から吾輩の頭にピインと来たもんだ。これは演壇に慣れた人間に特有の直感だがね……のみならず中には反抗的な態度や、嘲笑的な語気でもって質問を浴びせて来る奴が居る。しかもその質問というのが十人が十人|紋切型だ。 「一体、爆弾漁業というものは違法なものでしょうか。……巾着網よりも底曳網の方が有利だ……底曳網よりも爆弾漁業の方が多量の収穫を挙げる……というだけの話で、要するに比較的収益が多いというだけのものじゃないですか。……だからこれを犯罪とせずに正当の漁業として認可したら却って国益になりはしまいか。これを禁止するのは炭坑夫にダイナマイトを使うな……というのと、おなじ意味になるのじゃないですか」  と云うのだ。……どうも法律屋の議論というものは吾輩に苦手なんでね。吾々みたいな粗笨っぽい頭では、どこに虚構が在るか見当が附かないんだ。そこで止むを得ず受太刀にまわって、南鮮沿海の漁民五十万の死活に関する所以を懇々と説明すると、 「それならばその普通漁民も、ほかの方法で鯖を獲る方針にしたらいいでしょう。朝鮮沿海に魚が居なくなったら、露領へでも南洋にでも進出したらいいじゃないですか」  と漁業通を通り越したような無茶を云い出す。ドウセ無責任と無智をサラケ出した逃げ口上だがね。そこで吾輩が躍起となって、 「それでも銃砲火薬類の取締上、由々しき問題ではないか」  と逆襲すると、 「それは内地の司法当局の仕事で吾々に責任はありません」  と逃げる。実に腸が煮えくり返るようだが、何を云うにもソウいう相手にお願いしなければ取締りが出来ないのだから止むを得ない。情なく情なく頭を下げて、 「とにかくソンナ事情ですから、折角定着しかけた五十万の南鮮漁民を助けると思って、何分の御声援を……」  と頼み入ると、彼等は冷然たるもので、 「それはまあ、総督府の命令なら遣って見ましょうが、何しろ吾々は陸上の仕事だけでも手が足りないのですからね」  といったような棄科白でサッサと引上げてしまう。怪しからんといったってコレ位、怪しからん話はない。無念……残念……と思いながら彼奴等の退場する背後姿を、壇上から睨み付けた事が何度あったかわからないが、思えばこの時の吾輩こそ、大馬鹿の大馬鹿の三太郎だったのだね。  こんな事実が度重なるうちに……吾輩ヤット気が付いたもんだ。君だってここまで聞いて来れば大抵、感付いているだろう。……ウンウン。その通りなんだ。明言したって構わない。爆弾密売買の元締連中の手が朝鮮の司法関係にまで行きまわっているんだ。何しろその当時の朝鮮の官吏と来たら、総督府の官制が発布されたばかりの殖民地気分のホヤホヤ時代だからね。月給の高価いのを目標に集まって来たような連中ばかりだから、内地の官吏よりもズット素質が落ちていたのは止むを得ないだろう。……それと気が付いた吾輩は、それこそ地団太を踏んで口惜しがったものだ。地団太の踏み方がチットばかり遅かったが仕方がない。  そこでボンヤリながらもそうと気が付くと同時に吾輩は、ピッタリと講演を止めてしまって、爆弾漁業の本拠|探りに没頭したもんだ。先ず手頃の人間で吾輩のスパイになってくれる者は居ないか……と頻りに近まわりの人間を物色してみたが、それにしてもウッカリした奴にこの大事は明かせない。何しろ五十万人の死活問題を背負って立つだけの器量と、覚悟を持った奴でなければならない上に、ドンの背景となっている連中が又、ドレ位の大物なのか見当が付かないのだから、とりあえず佐倉宗五郎以上の鉄石心が必要だ。もちろん組合の費用は全部、費消っても構わない覚悟はきめていた訳だがそれでも多寡は知れている。それを承知で活躍する人間といったら、当然、吾輩以上の道楽|気が無くちゃならんだろう……ハテ……そんな素晴らしい変り者が、この世界に居るか知らんと、眼を皿のようにして見廻わしているところへ、天なる哉、命なる哉。思いもかけない風来坊が吾輩の懐中へ転がり込んで来る段取りになった。  ……ところでドウダイもう一パイ……相手をしてくれんと吾輩が飲めん。飲まんと舌が縺れるというアル中患者だから止むを得んだろう……取調べの一手にソンナのが在りやせんか……アッハッハッ……。  ナニ。この三杯酢かい。こいつは大丈夫だよ。林青年の手料理だが、新鮮無類の「北枕」……一名ナメラという一番スゴイ鰒の赤肝だ。御覧の通り雁皮みたいに薄切りした奴を、二時間以上も谷川の水でサラシた斯界極上の珍味なんだ。コイツを味わわなければ共に鰒を語るに足らずという……どうだい……ステキだろう。ハハハ……酒の味が違って来るだろう。  いよいよこれから吾輩が、林の親仁を使って爆弾漁業退治に取りかかる一幕だ。サア返杯……。  ナニ。林のおやじ……? ウン。あの若い朝鮮人……林の親父だよ。まだ話さなかったっけな……アハハハ。少々酔ったと見えて話が先走ったわい。  何を隠そうあの林という青年は朝鮮人じゃないんだ。林友吉という爆弾漁業者の一人息子で、友太郎という立派な日本人だ。彼奴の一身上の事を話すと、優に一篇の哀史が出来上るんだが、要するに彼奴のおやじの林友吉というのは筑後|柳河の漁師だった。ところが若いうちに、自分の嬶と、その間男をした界隈切っての無頼漢を叩き斬って、八ツになる友太郎を一人引っ抱えたまま、着のみ着のままで故郷を飛出して爆弾漁業者の群に飛び込んだという熱血漢だ。  ところがこの友吉という親仁が、持って生れた利かぬ気の上に、一種の鋭い直感力を持っていたらしいんだね。いつの間にか爆薬密売買の手筋を呑み込んでしまって、独力で格安な品物を仕入れては仲間に売る。彼等仲間で云う「抜け玉」とか「コボレ」とかいう奴だ。そうかと思うと沖買いの呼吸を握り込んで「売るなら買おう」「買うなら売るぞ」「捕るなら腕で来い」といったスゴイ調子で南鮮沿海を荒しまわる事五年間……忰の友太郎も十歳の年から櫓柄に掴まって玄海の荒浪を押し切った。……親父と一所に料理屋へも上った……というんだから相当のシロモノだろう。  然るにコイツが、ほかの爆弾連中の気に入らなかった……というよりも、彼等の背後から統制している巨頭連の眼障りになって来た……と云った方が適切だろう。  忘れもしない明治四十五年の九月の五日だった。吾輩がこの絶影島の裏手の方へ、タッタ一人で一本釣に出た帰り途にフト見ると、遥かの海岸の浪に包まれた岩の上に、打ち上げられたような人間一人横たわっている。その上に十二三ぐらいの子供が取り縋って泣いている様子だから、可怪しいと思い思い、危険を冒して近寄ってみると、倒れているのは瘠せコケた中年男だが、全身紫色になった血まみれ姿だ。そこでいよいよ驚きながら、何はともあれ子供と一所に舟へ収容して、シクシク泣いている奴に様子を聞いてみると、こんな話だ。 「……ウチの父さんが昨日、この向うでドンをやっていたら、どこからか望遠鏡で覗いていた水雷艇に捕まって、釜山の警察に引っぱって行かれた。……その時にウチはメチャクチャに泣き出して、父さんの頸にカジリ付いて、イクラ叱られても離れなかった。……そうしたら警察の奥の方から出て来た紋付袴の立派な人が、ウチ達をジロジロ見て、警部さんに許してやれと云うたので、タッタ一晩、警察に寝かされただけで、きょうの正午過ぎに釈放された上に、舟まで返してもろうた。父さんは大層喜んで、お前の手柄だと云って賞めてくれた。  ……そうしたら又……釜山の南浜から船に乗って、絶影島を廻ると間もなく、荒くれ男を大勢載せた、正体のわからない発動機船が一艘、どこからか出て来て、父さんを捉まえて踏んだり蹴ったりしたから、ウチもその中の一人の向う脛に噛み付いてやったら、一気に海へ蹴込まれてしもうた。……ウチの父さんは、平生から小型な、鱶捕りの短導火線弾を四ツ五ツと、舶来の器械|燐寸を準備していた。これさえ在れば発動機船の一艘二艘、物は言わせんと云うとったのに、釜山の警察で取上げられてしもうたお蔭で負けてしもうた。それが残念で残念で仕様がない。  ……そのうちに発動機船は、父さんの身体を海に投込んでウチ達の舟を曳いたまま、どこかへ行ってしもうた。その時に波の間を泳いでいたウチは直ぐに父さんの身体に取り付いて、頭を抱えながら仰向き泳ぎをして、一生懸命であの岩の上まで来たけれど、向うが絶壁で登りようがない。そのうちに汐がさして来て、岩の上が狭くなったから、どこかへ泳いで行くつもりで、父さんの耳に口を当て、「待っておいで……讐敵を取ってやるから」と云うていた。そうしたら先生が来て助けてくれた。……ウチは今年十二になる。ドンは怖くない。面白い……」  というのだ。ウン。とてもシッカリした奴なんだ。第一そういう面魂が尋常じゃなかったよ。お乳母日傘でハトポッポーなんていった奴とは育ちが違うんだからね……。  ……ウンウン。そうなんだ。つまり彼等仲間の所謂「私刑」に処せられた訳だ。その紋付袴の男が誰だったか、今だに調べてもいないが、むろん調べる迄もない。林友吉の頭脳と仕事ぶりを警戒していた、釜山の有力者の一人に相違ないのだ。そいつが友吉親子の顔を見知っていたので、それとなく貰い下げて追い放した奴を、外海で待伏せていた配下の奴が殺ったものに違いないね。……もっとも友吉おやじがその筋の手にかかったのはこの時が皮切りだったから、或は余計な事でも饒舌られては困る……という算段だったかも知れないがね……。  とにかく、そんな訳で舟を漕ぎ漕ぎ友太郎の話を聞いて行くうちにアラカタの事情がわかると吾輩大いに考えたよ。……待て待て……この子供を育て上げて、この復讐心を利用しながら爆薬漁業の裏道を探らせたら、存外面白い成績が上がるかも知れん。かなり気の永い話だが五年や十年で絶滅する不正爆薬ではあるまいし、急がば廻われという事もある。それにはこの死骸を極秘密裡に片付けて、忰を日蔭物にしないようにしなければならぬ。普通の墓地に葬って墓を建ててやらねばならぬが、何とか名案は無いものか……と色々考えまわしているうちに釜山港に這入った。そこで夕暗に紛れて本町一丁目の魚市場の蔭に舟を寄せると、吾輩の麦稈帽を眉深に冠せた友吉の屍体を、西洋手拭で頬冠りした吾輩の背中に帯で括り付けた。片手に友太郎の手を索いて、程近い渡船場|際の医者の家へ辿り付いたものだが、その苦心といったらなかったよ。夕方になると市が立って、朝鮮人がゾロゾロ出て来る処だからね。  ところで又、その医者というのが吾輩の親友で、鶴髪、童顔、白髯という立派な風采の先生だったが、トテモ仕様のない泥酔漢の貧乏|老爺なんだ。そいつが吾輩と同様|独身者の晩酌で、羽化登仙しかけているところへ、友吉の屍体を担ぎ込んで、何でもいいから黙って死亡診断書を書いてくれと云うと、鶴髪童顔先生フラフラの大ニコニコで念入りに診察していたが、そのうちに大声で笑い出したものだ。 「……アッハッハッハッ。折角持って来なすったが、これは死亡診断を書く訳にいかんわい。まだ脈が在るようじゃ。アッハッハッハッハッ……」  という御託宣だ。……馬鹿馬鹿しい。何を吐かす……とは思ったが、忰が飛び上って喜ぶし、呑兵衛ドクトルも、 「……拙者が請合って預かろう。行くか行かんか注射をしてみたい……」  と云うから、どうでもなれと思って勝手にさしておいたら……ドウダイ。二日目の朝になったら眼を開いて口を利くようになった。  傷口も処々乾いて来た。熱も最早引き加減……という報告じゃないか。呑兵衛先生、案外の名医だったんだね。おまけに忰の友太郎が又、古今無双の親孝行者で、二晩の間ツラリともしない介抱ぶりには、流石のワシも泣かされた……という老|医師の涙語りだ。  そこで吾輩もヤット安心して、組合の仕事に没頭しているうちに、忘れるともなく忘れていると、二三週間経つうちに、それまでチョイチョイ吾輩の処へ飲みに来ていた老|医師がパッタリと来なくなった。……ハテ。可笑しい……もしや患者の容態が変ったのじゃないか知らん。それとも呑兵衛先生御自身が、中気にでもかかったのじゃないか知らん……考えているうちに、急に心配になって来たから、チットばかりの金を懐中に入れて、医院の門口から覗き込んでみると、開いた口が三十分ばかり塞がらなかった。  鬚だらけの脱獄囚みたいな友吉おやじと、鶴髪童顔、長髯の神仙じみた老ドクトルが、グラグラ煮立った味噌汁と虎鰒の鉢を真中に、片肌脱ぎか何かの差向いで、熱燗のコップを交換しているじゃないか。おまけに酌をしている忰の友太郎を捕まえて、 「……野郎。この事を轟の親方に告口しやがったらタラバ蟹の中へタタキ込むぞ」  と怒鳴っているのには腰を抜かしたよ。医者が医者なら病人も病人だ。世の中にはドンナ豪傑がいるか知れたものじゃない。……むろん吾輩の方から低頭平身して仲間に入れてもらったが、その席上で友吉おやじは吾輩の前に両手を突いて涙を流した。 「……もうもうドン商売は思い切りました。これを御縁に貴方の乾児にして、小使でも何でもいい一生を飼殺しにして下さい。忰を一人前の人間に仕立てて下さい。給金なんぞは思いも寄らぬ。生命でも何でも差出します」  という誠意満面の頼みだ。  吾輩が、そこで大呑込みに呑込んだのは云うまでもない。  そこで今まで使っていた鮮人に暇を出して、鬚だらけの友吉おやじを追い使う事になったが、そのうちに機会を見て、吾輩の胸中を打明けてみると、友吉おやじ驚くかと思いの外平気の平左でアザ笑ったものだ。 「……へへへ……そのお話なら私がスパイになるまでも御座いません。とりあえず私が存じておりますだけ饒舌ってみましょう。それで足りなければ探っても見ましょうが……」  と云うのでベラベラ遣り出したのを聞いている中に吾輩ふるえ上ってしまったよ。この貧乏な瘠せおやじが、天下無双の爆薬密売買とドン漁業通の上に、所謂、千里眼、順風耳の所有者だという事をこの時がこの時まで知らなかったんだからね。  とりあえず匕首を咽喉元に突付けられたような気がしたのは、対州から朝鮮に亘るドン漁業の十数年来の根拠地が、吾輩の足元の釜山|絶影島だという事実だった。 「……それが虚構だと云わっしゃるなら、この窓の処へ来て見さっせえ。あの向うに見える絶影島のズット右手に立派な西洋館が建っておりましょう。あの御屋敷は、先生の御親友で釜山一番の乾物問屋の親方さんのお屋敷と思いますが、あの西洋館の地下室に詰まっている乾物の中味をお調べになった事がありますかね」  と来たもんだ。  燈台|下暗しにも何にも、吾輩はその親友と前の晩に千芳閣で痛飲したばかりのところだったから、言句も出ずに赤面させられてしまった。 「……お気に障ったら御免なさいですが、林友吉は決してお座なりは申しまっせん。日本内地から爆薬を、一番安く踏み倒おして買うのが、あのお屋敷なんです。アラカタ一本七十五銭平均ぐらいにしか当りますまい。お顔と財産が利いている上に現金払いですから、安全な事はこの上なしですがね。  ……爆弾の出先は何といっても九州の炭坑が第一です。一本十銭か十五銭ぐらいで坑夫に売るのですが、その本数を事務所で誤間化して一本三十銭から五十銭で売り出す……ズット以前の取引ですと手頃の柳行李に一パイ詰めた奴を、どこかの横路次で、顔のわからない夕方に出会った鳥打帽子のインバネス同志が右から左に、無言で現金と引き換える……だから揚げられても相手の顔は判然らん判然らんで突張り通したものですが、今ではソンナ苦労はしません。電車や汽車の中で大ビラに鞄を交換するのです。……売る奴は大抵炭坑関係かその地方の人間で、買う奴は専門の仲買いか、各地の網元の手先です。そんな連中の鞄の持ち方は、仲間に這入っていると直ぐにわかりますからね。以心伝心で、傍に寄って来て鞄を並べておいてから、平気な顔で煙草の火を借りる。一所に食堂に行って話をきめる。途中の廊下で金を渡して、駅に着いてから相手の鞄を片手に……左様なら……と来るのが紋切型です。三等車で遣ってもおなじ事ですが、決して間違いはありません。一度でもインチキを遣った奴は、永い日の目を見た例がありませんからね。  ……そんな仲買連中は若松や福岡にもポツリポツリ居るには居ります。しかしそんな爆薬のホントウに集まる根城というのが、四国の土佐海岸だという事は、いかな轟先生でも御存じなかったでしょう。今の貴族院の議員になって御座る赤沢という華族様の生れ故郷と申上げたら、おわかりになりましょうが、昔から爆弾村と云われた処で、今の赤沢様が、その総元締をして御座るのです。その又、総元締の配下になって御座る大元締というのが、やはり日本でも指折りの豪い人達ばっかりですが、その人達の手から爆弾村へ集まって来た爆薬が、チッポケな帆舟に乗って宇和島をまわって、周防灘から関門海峡をノホホンで通り抜けます。昨日の朝の西南風なら一先ず六連沖へ出て、日本海にマギリ込みましょう。それから今朝の北東風に片尻をかけて、ちょうど今時分、釜山沖へかかる順序ですが……ホーラ御覧なさい。あの馬山通いの背後から一艘、二艘……そのアトから追付いて来る足の速いのも……アノ三艘の片帆の中で、どれでもええから捕まえて、船頭と話して御覧なさい。四国|訛りじゃったら舟の中に、一|梱や二|梱の爆薬は請合います。松魚の荷に作ってあるかも知れませんが、あの乾物屋さんに宛てた送り状なら税関でも大ビラでしょう。荷物を跟けてみたら一ぺんにわかる事です。  ……そのほかに爆薬の出る処は、大連と上海ですが、上海のは大きい代りに滅多に出ません。おまけに英国か仏蘭西製の上等品で、高価い上に使い勝手が違うのが疵です。大連のはやはり日本の桜印か松印ですが、これは大連から逆戻りして来る分量よりも、奥地へ這入る分量の方がヨッポド大きい。……どこへ落ち付くのか用が無いから探っても見ませんが、大連、営口から、満洲の奥地へ這入る爆薬は大変なものです。その中の一箱か二箱がタマに抜け出して朝鮮へ来るので、ドウカすると内地のものより安い事があります。これは支那の兵隊か役人が盗んで来たものだそうですが、それだけに油断も出来ません。非道い奴になると玉蜀黍の喰い殻に油を浸した奴を、柳行李一パイ百円ぐらいで掴まされた事があるそうです。  ……ところでイヨイヨ朝鮮内地に来ますと、ソンナ爆薬の集まる処が、この釜山の外に二三箇所あります。  ……慶北の九龍浦は何といっても釜山の次でしょう。もっとも釜山に来た爆薬は、あのお屋敷の地下室に這入るだけですが、九龍浦の方はチット乱暴で、人里離れた海岸の砂の中に埋めて在るのです。私が今度、こんな目に会いましたのも、多分、この案内を嗅ぎ付けた事を知って、釜山の方へ手をまわしたのでしょう。  ……それから九龍浦の次は浦項と江口で、ここは将来有力な爆薬の根拠地になる見込みがあります。この三個所は釜山と違って、巡査か警部補ぐらいが駐在している処ですから、丸め込むにしても大した手数はかからんでしょう。裁判所の連中でも、みんな美味い事をしておりますので、その地方地方での一番の有力者が皆、爆薬の元締になっているのですから世話が焼けません。……そのほか四五月頃の巨文島、五、六、七月頃の巨済島入佐村、九、十、十一月の釜山、方魚津、甘浦、九龍浦、浦項、元山方面へ行って御覧なさい。先生のように爆薬漁業を不正漁業なんて云っている役人は一人も居りませんよ。ドン大明神様々というので、駐在巡査でも一身代作っている者が居る位です。尋常に巾着網や、長瀬網を引いている奴は、馬鹿みたようなもんで……ヘエ……。  ……そのほかに爆薬の出て来る処は無いか……と仰言るのですか。ヘエ。それあ在るという噂は確かに聞いておりますが、本当か虚構かは私も保証出来ません。つまりそこ、ここの火薬庫の主任が、一生一代の大きなサバを読んで渡すことがあるそうで、古い話ですが大阪や、目黒の火薬庫の爆発はその帳尻を誤魔化すために遣ったものだとも云います。そのほか大勢で火薬庫を襲撃した事件も在ると申しますがドンナものでしょうか。新聞には出ていたそうですが……。  ……そんな大物の捌け口が、ドン方面ばっかりで無い事は保証出来ます。露西亜や、支那に売込んで行く様子も、この眼で見たんですからいつでも現場に御案内致しますが、しかし値段のところはちょっと見当が付きかねます。何でも長城から哈爾賓を越えると爆薬の値段が二倍になる。露西亜境の黒龍江を渡ると四倍になるんだそうですが、これは拳銃でも何でも、禁制品はミンナ同じ事でしょう。売国行為だか何だか存じませんが、儲かる事は請合いで……エヘヘヘヘヘヘ……」  黙って聞いていた吾輩は、この笑い声を聞くと同時に横ッ腹からゾーッとして来たよ。話の内容がアンマリ凄いのと、思い切りヒネクレた友吉|親仁の、平気な話ぶりに打たれたんだね。吾輩はその時にドッカリと椅子にヘタバリ込んだ。腕を組んで瞑目沈思したもんだ。気を落付けようとしたが武者振いが出て仕様がなかったもんだ。  しかしその中に机を一つドカンと敲いて決心を据えると吾輩は、友吉親子を連れてコッソリと××を脱け出した。何よりも先に対岸の福岡県に馳け付けて旧友の佐々木知事を説伏せて、出来たばっかりの警備船、袖港丸を試運転の名目で借り出した。速力十六|節という優秀な密漁船の追跡用だったが、まだ乗組員も何も定まっていなかった。こいつに油と食糧を積込んで、友吉親子に操縦法を仕込みながら西は大連、営口から南は巨済島、巨文島、北は元山、清津、豆満江から、露領沿海州に到るまで要所要所を視察してまわること半年余り……いかな太っ腹の佐々木知事も内心大いに心配していたというが、それはその筈だ。電報一本、葉書一枚行く先から出さないのだからね。大いに謝罪ってガチャガチャになった船を返すと、その足で釜山に引返して、友吉親子もろ共に山内閣下にお目にかかった。むろん官邸の一室で、十時|過に勝手口から案内されたもんだが、思いもかけない藁塚産業課長が同席して、吾輩と友吉おやじの視察談を、夜通しがかりに聞き取ってくれたのには感謝したよ。友吉親子一代の光栄だね。  その結果、藁塚産業課長が急遽上京して、内務省、司法省、農商務省、陸海軍省と重要な打合わせをする。その結果、朝鮮各道の警察、裁判所に厳重な達示が廻わって、銃砲火薬類取締の粛正、不正漁業徹底|殲滅の指令が下る。しかも総督府から指導のために出張した検事正や、警視連の指す処が一々不思議なほど図星に中る。各地の有力者が続々と検挙される。その留守宅の床下や地下室、所有漁場の海岸の砂ッ原、岩穴の奥、又は妾宅の天井裏や泉水の底なぞから、続々証拠物件が引上げられるという、実に疾風迅雷式の手配りだ。ここいらが山内式のスゴ味だったかも知れないがね。  それあ嬉しかったとも……吹けば飛ぶような吾々の報告が物をいい過ぎる位、いったんだからね。  しかしソンナ事はオクビにも出せない。むろん総督府の方でも御同様だったに違いないが、その代りに今後、爆薬漁業の取締に就いて、万事、漁業組合長、轟技師の指導を受くべし……といったような命令が、各道の官庁にまわったらしい。吾輩の講演を依頼する向きがソレ以来、激増して来たのには面喰った。一時は、お座敷がブツカリ合って遣り繰りが付かないほどの盛況を逞したもんだ。流石のドン様ドン様連中も、最早イケナイと覚悟したらしいんだね。実に現金な、浅墓な話だとは思ったが、しかし悪い気持ちはしなかったよ。とにもかくにもソンナ調子で南鮮沿海からドンの声が消え失せてしまった。それに連れて沿岸から遠ざかっていた鯖の廻遊が、ダンダンと海岸線へ接近し初めたので、漁師連中は喜ぶまいことか……轟様轟様……というので後光がさすような持て方だ。  吾輩の得意、想うべしだね。「ソレ見ろ」というので友吉おやじと赤い舌を出し合ったが、これというのも要するに、あの呑兵衛|老医師のお蔭だというので、三人が寄ると触ると、大白を挙げて万歳を三唱したものだ。  ハッハッ……その通りその通り。どうも吾輩の癖でね。じきに大白を挙げたくなるから困るんだ。汝元来一本槍に生れ付いているんだから仕方がない。スッカリ良い気持になって到る処にメートルを上げていたのが不可なかった。思いもかけぬ間違いから自分の首をフッ飛ばすような大惨劇にぶつかる事になった。ドン漁業に対する吾輩の認識不足が、骨髄に徹して立証される事になったのだ。  ……どうしてって君、わからんかね……と……云いたいところだが、そういう吾輩も実をいうと気が付かなかった。朝鮮沿海からドンの音が一掃されたので、最早大願成就……金比羅様に願ほどきをしてもよかろう……と思ったのが豈計らんやの油断大敵だった。ドンの音は絶えても、内地の爆弾取締りは依然たる穴だらけだろう。ちっとも取締った形跡が無いのだ。藁塚産業課長の膝詰談判が、今度は「内地モンロー主義」にぶつかっていた事実を、ドンドコドンまで気付かずにいたのだ。  その証拠というのは外でもない。山内さんが内地へ引上げて内閣を組織されるようになった大正五年以後、折角、引締まっていた各道の役人の箍がグングン弛んで来たものらしい。それから間もなく大正八年の春先になると、一旦、終熄していた爆弾漁業がモリモリと擡頭して来た。……一度|逐い捲くられた鯖の群れが、岸に寄って来るに連れて、内地から一直線に満洲や咸鏡北道へ抜けていた爆薬が、モウ一度南鮮沿海でドカンドカンと物をいい出すのは当然の帰結だからね。おまけに今度は全体の遣口が、以前よりもズット合理的になって来たらしく、友吉|親仁の千里眼、順風耳を以てしてもナカナカ見当が付けにくい。……これは後から判明した話だが、彼奴等は一時南鮮の孤島、欲知島の燈台守を買収してここを爆弾の溜りにしていた事がある。しかも燈台の上から高度の望遠鏡で、水雷艇や巡邏船を監視して、色々な信号を発していた……というのだから、如何にその仕事が統制的で、大仕掛であったかが想像されるだろう。  然るに、ソンナ程度にまでドン漁業が深刻化しつつ擡頭して来ている事を、夢にも知らなかった吾輩はアタマから呑んでかかったものだ。……懲り性もない鼠賊ども……俺が居るのを知らないか。来るなら来い。タッタ一ヒネリだぞ……というので、腕に縒を掛けて釜山一帯の当局連中を鞭撻にかかったものだが、その手初めとして取りあえず慶尚南道の有志、役人、司法当局四十余名を釜山公会堂に召集して、爆弾漁業|勦滅の大講演会を開く事になった。これに各地方の有力者二十余名、臨時傍聴者三百余名を加えた有力この上もない聴衆を向うに廻わして吾輩が、連続二日間の爆弾演説をこころみる……というのだから、吾輩の意気、応に衝天の概があったね。  大正八年……昨年の十月十四日……そうだ。山内さんが死なれる前の月の出来事だ。その第一|日の午前十時から「爆弾漁業の弊害」という題下に、堂々三時間に亘った概論を終ると、満場、割るるが如き大喝采だ。そのアトから各地の有力者の中でも代表的な五六名が、吾輩の休憩室に押掛けて来て頗る非常附きの持上げ方だ。 「……イヤ感佩致しました。聴衆の感動は非常なものです。先生の御熱誠の力でしょう。三時間もの大演説がホンノちょっとの間にしか感じられませんでした。当局連中もスッカリ感激してしまって、今更のように切歯扼腕しているような次第で……私共も一度はドンで年貢を納めさせられた前科者ばかりですが、今日の御演説を承りまして初めて眼が醒めました。何でもカンでも轟先生が朝鮮に御座る間は悪い事は出来んなア……とタッタ今も話しながらこっちへ参りましたような事で……アハハハ……イヤ、恐れ入ります。……ところでここに一つ無理な御相談がありますが御承諾願えますまいか。……というのは、ほかでもありません。本日集まっている当局連中の中には、先生の御講演を一度以上拝聴している者が多いのです。……ですから取締方法なぞを詳しく承わっているにはいるのですが、しかし遺憾ながら爆弾漁業なるものの遣り方を実際に見た者が生憎、一人も居ないのです。そのために先生の御高説を拝聴しましても、何となく机上の空論といったような感じに陥り易い。……何とかしてその遣り方を実地に見せて頂きながら、御講演を承る事が出来たら……ちょうど先生が海の上で、水産学校の卒業生を捉まえて御指導になるような塩梅式にですね……お願い出来たら、それこそ本格にピッタリと来るだろう。将来どれ位、実地の参考になるか知れん……という註文を受けましたものですから、まことに道理千万と思いまして、実は御相談に伺った次第ですが……如何でしょうか。ちょうど申分のない凪ぎ続きですし、明日の上天気も万に一つ外れませんし……乗船は御承知の博多通いで甲板の広い慶北丸が、船渠を出たばかりで遊んでおりますから、万一御許しが願えましたら、私共が引受けて万般の準備を整えたい考えでおります。……それから実演をする人間ですが、これは只今、釜山署に四人ばかり現行犯がブチ込んで在りますから、あの連中に遣れと云ったら、遣らんとは申しますまい……その方が聴き手の方でも身が入りはしますまいか」  という辞令の妙をつくした懇談だ。  ところで吾輩もこの相談にはチョッコン面喰ったね。コンナ計劃が違法か、違法でないかは、希望者が司法官連中と来ているんだから、先ず先ず別問題としても、そうした思い附きの奇抜さ加減には取敢えず度肝を抜かれたよ。殺人犯を捕える参考のために、人殺しの実演を遣らせるようなもんだからね。……しかし何をいうにもこの談判委員を承った連中というのが、人を丸める事にかけては専門の一流揃いと来ているんだ。如何にも研究熱の旺盛な余りに出たらしい脂切った口調で、柔らかく、固く持かけて来たもんだから吾輩ウッカリ乗せられてしまった。……少々演説が利き過ぎたかな……ぐらいの自惚れ半分で、文句なしに頭を縦に振らせられてしまったが……しかし……というので吾輩の方からも一つの条件を持ち出したもんだ。 「……というのは、ほかの問題でもない。その爆弾漁業の実演者についてこっちにも一つ心当りがあるのだ。その人間はズット以前にドンを遣っていた経験のある人間だが、当局の諸君は勿論の事、一般の漁業関係の諸君が、その人間の過去を絶対に問わない約束をするなら、その生命がけの仕事に推薦してみよう。現在ではスッカリ改心して、実直な仕事をしているばかりでなく、素敵もない爆弾漁業通だから将来共に、君等のお役に立つ人間じゃないかと思うが……」  と切り出してみた。これはかねてから日蔭者でいた林友吉を、どうかして大手を振って歩けるようにして遣りたいと思っていた矢先だったから、絶好の機会と思って提案した訳だったがね。  するとこの計略が図に当って、忽ちのうちに警察、裁判所連の諒解を得た。……それは一体どんな人間だ……と好奇の眼を光らせる連中もいるという調子だったから、吾輩、手を揉み合わせて喜んだね。早速横ッ飛びに本町の事務室に帰って来て、小使部屋を覗いてみると、友吉|親仁は忰と差向いでヘボ将棋を指している。そいつを捕まえてこの事を相談すると、喜ぶかと思いのほか、案外極まる不機嫌な面を膨らましたもんだ。 「それはドウモ困ります。私は日蔭者で沢山なので、先生のために生命を棄てるよりほかに何の望みもない人間です。あんなヘッポコ役人の御機嫌を取って、罪を赦してもらう位いなら、モウ一度、玄海灘で褌の洗濯をします。まあ御免蒙りまっしょう」  というニベもない挨拶だ。将棋盤から顔も上げようとしない。このおやじがコンナ調子になったら梃でも動かない前例があるから弱ったよ。 「しかし俺が承知したんだから遣ってくれなくちゃ困るじゃないか。今更、そんな人間はいなかったとは云えんじゃないか」  とハラハラしながら高飛車をかけて見ると、おやじはイヨイヨ面を膨らました。 「それだから先生は困るというのです。アノ飲み助のお医者さんも云い御座った。先生は演説病に取付かれて御座るから世間の事はチョットもわからん。しかしあの病気ばっかりは薬の盛りようがないと云って御座ったがマッタクじゃ。……一体先生は、アイツ等が本気で爆漁実演を見たがっていると思うていなさるのですか」  と手駒を放り出して突っかかって来た。イヤ。受太刀にも何にも吾輩、返事に詰まってしまったよ。実をいうと二日間の講演をタッタ三時間に値切られてしまった不平が、まだどこかにコビリ付いていたんだからね。こう云われると頭が妙に混線してしまった。そのまま眼をパチパチさせていると、おやじはイヨイヨ勢い込んで突っかかって来る。 「……先生は駄目だよ。演説バッカリ上手で、カンが働らかんからダメだ。その役人連中の云い草一つで、チャンと向うの腹が見え透いているじゃありませんか。……ツイこの間も云うたでしょう。今度初まった爆弾漁業の仕事ぶりが、どうも私の腑に落ちんところがある。この前のドン退治の時と違うて検挙の数がまことに少ないし、評判もサッパリ立たん。その癖に、下関から上がる鯖の模様を船頭連中に問うてみるとトテモ大層なものじゃ……昔の何層倍に当るかわからんという。値段も五六年前の半分か、三分の一というから生やさしい景気じゃない。不思議な事もあればあるもの……理屈がサッパリわからんと思うとったが、わからんも道理じゃ。彼奴等はこの前に懲りて、用心に用心を踏んで仕事に掛かってケツカル。朝鮮中の役所という役所の当り当りにスッカリ手を廻わして、仲間外れの抜け漁業ばっかりを検挙させよるから、吾々の眼に止まらんです。……今来ているそこ、ここの有力者というのは、一人残らずそのドン仲間の親分株で、役人連中は皆、薬のまわっとるテレンキューばっかりに違いありません。そいつ等が、先生に睨まれんように、わざと頬冠りをして聞きに来とるに違いないのです。それじゃケニ先生の演説が聞きともないバッカリに、そげな桁行れの註文を出しよったのです。……それが先生にはわかりませんか……」  と眼の色を変えて腕を捲くったもんだ。  今から考えるとこの時に、このおやじの云う事を聞いていたら、コンナ眼にも会わずに済んだんだね。……このおやじの千里眼、順風耳のモノスゴサを今となって身ぶるいするほど思い知らされたものだが、しかしこの時には所謂、騎虎の勢いという奴だった。そういう友吉おやじを頭から笑殺してしまったものだ。 「アハハハ。馬鹿な。それは貴様一流の曲り根性というものだ。お前は役人とか金持ちとかいうと、直ぐに白い眼で見る癖があるから不可ん。……よしんば貴様の云うのが事実としても尚更の事じゃないか。知らん顔をして註文通りにして遣った方が、こっちの腹を見透かされんで、ええじゃないか。……アトは又アトの考えだ。……とにかく今度の仕事は俺に任せて云う事を聴け。承知しろ承知しろ……」  と詭弁まじりに押付けたが、そうなると又、無学おやじだけに吾輩よりも単純だ。云う事を云ってしまった形でションボリとなって、 「それあ先生が是非にという命令なら遣らんとは云いません。腕におぼえも在りますから……」  と承知した。するとその時に廿歳になっていた忰の友太郎も、親父が行くならというので艫櫓を受持ってくれたから吾輩、ホッと安心したよ。友太郎はその時分まで、南浜鉄工所に出て、発動機の修繕工を遣る傍ら、大学の講義録を取って勉強していたもんだが、それでも櫓柄を握らしたらそこいらの船頭は敵わなかった。よく吾輩の釣のお供を申付けて見せびらかしていた位だったからね。  そこでこの二人を連れて、釜山公会堂に引返して、判事や検事連に紹介したが見覚えている者は一人も居なかった。……断っておくが友吉おやじは、再生以来スッカリ天窓が禿げ上ってムクムク肥っていた上に、ゴマ塩の山羊髯を生やしていたものだから、昔の面影はアトカタも無かったのだ。又忰の友太郎も十二の年から八年も経っていたのだから釜山署で泣いた顔なぞ記憶している奴が居よう筈はない。そこで釜山署に押収しておった不正ダイナマイトを十本ばかり受取った友吉親子は早速準備に取りかかる。吾輩も、午後の講演をやめて明日の実地講演の腹案にかかった。……先ずドンを実演させて、捕った魚の被害状態をそれぞれ程度分けにして見せる。これは魚市場から間接にドン犯人を検挙するために必要欠くべからざる智識なんだ。それから爆薬製作の実地見学という、つまり逆の順序プログラムだったが、実をいうと吾輩もドン漁業の実際を見るのは、生れて初めてだったから、細かいプログラムは作れない。臨機応変でやっつける方針にきめていた。  一方に各地の有志連は慶北丸をチャーターして万般の準備を整える。一方に吾輩を千芳閣に招待して御機嫌を取ったりしているうちに、その日は註文通りの静かな金茶色に暮れてしまった。  ところが翌る朝になってみると又、驚いた。勿論、新聞記事には一行も書いて無かったが、向うの本桟橋の突端に横付けしている慶北丸が新しい万国旗で満艦飾をしている。五百|噸足らずのチッポケな船だったが、まるで見違えてしまっている上に、デッキの上は丸で宴会場だ。手摺からマストまで紅白の布で巻き立てて、毛氈や絨壇を敷き詰めた上に、珍味|佳肴が山積して在る。それに乗込んだ一行五十余名と一所に、地元の釜山はいうに及ばず、東莱、馬山から狩り集めた、芸妓、お酌、仲居の類いが十四五名入り交って足の踏む処もない……皆、船に強い奴ばかりを選りすぐったものらしく、十時の出帆前から弦歌の声、湧くが如しだ。  友吉親子が漕いで行く小舟に乗って、近づいて行った吾輩は、この体態を見て一種の義憤を感じたよ。……何とも知れない馬鹿にされたような気持ちになったもんだが、しかし今更、後へ引く訳には行かない。不承不承にタラップへ乗附けると忽ち歓呼の声湧くが如き歓迎ぶりだ。すぐに甲板へ引っぱり上げられて先ず一杯、先ず一杯と盃責めにされる。モトヨリ内兜を見せる吾輩ではなかったので、引つぎ引つぎ傾けているうちに、忘れるともなく友吉親子の事を忘れていた。  そのうちに慶北丸はソロリソロリと沖合いに出る。美事な日本晴れの朝凪ぎで、さしもの玄海灘が内海か外海かわからない。絶影島を中心に左右へ引きはえる山影、岩角は宛然たる名画の屏風だ。十月だから朝風は相当冷めたかったが、船の中はモウ十二分に酒がまわって、処々乱痴気騒ぎが初まっている。吾輩の講演なんかどこへ飛んで行ったか訳がわからない状態だ。……そのうちに吾輩はフト思い出して……一体、友吉親子はドウしているだろうと船尾へまわってみると、船の艫から出した長い綱に引かれた小舟の上に、チョコナンと向い合った親子が、揺られながらついて来る。何か二人で議論をしているようにも見えたが、吾輩が、 「オーイ。酒を遣ろうかあア……」  と怒鳴ると友吉|親仁が振り返って手を振った。 「……要りませえん。不要不要。それよりもこっちへお出でなさあアイ」  と手招きをしている。その態度がナカナカ熱心で、親子とも両手をあげて招くのだ。 「いかんいかん。こっちはなア……お前達の仕事を見ながら、講演をしなくちゃならん」  と怒鳴ったが、コイツがわからなかったらしい。忰の友太郎がグイグイ綱を手繰って船を近寄せると、推進機の飛沫の中から吾輩を振り仰いで怒鳴った。 「……先生……先生……講演なんかお止めなさい。おやめなさい。あんな奴等に講演したって利き目はありません。それよりも御一所に鯖を捕って釜山へ帰りましょう。黙ってこの綱を解けば、いつ離れたかわかりませんから……」  というその態度がヤハリ尋常じゃなかったが、しかし遺憾ながら、その時の吾輩には気付かれなかった。 「イヤ。ソンナ事は出来ん。向うに誠意がなくとも、こっちには責任があるからなア。……ところで仕事はまだ沖の方で遣るのか」 「ええもうじきです、しかし暫く器械の音を止めてからでないと鯖は浮きません。どっちみち船から見えんくらい遠くに離れて仕事をするんですからこっちへ入らっしゃい。大切な御相談があるのです……どうぞ……先生……お願いですから……」 「馬鹿な事を云うな。行けんと云うたら行けん。それよりもなるべく船の近くで遣るようにしろ。器械の方はいつでも止めさせるから……」 「器械はコチラから止めさせます。どうぞ先生……」  と云う声を聞き捨てて吾輩は又、甲板に引返して行ったが、この時の友太郎の異様な熱誠ぶりを、知らん顔をしてソッポを向いていた友吉|親仁の態度を怪しまなかったのが、吾輩|一期の失策だった。或はイクラかお神酒がまわっていたせいかも知れないがね。  ところで甲板に引返してみると船はモウ十四海里も西へ廻っていて、絶影島は山の蔭になってしまっていた。そのうちに機械の音がピッタリと止まったから、扨はここから初めるのかな……と思って立上ると、飲んでいる連中も気が附いたと見えて、我勝ちに上甲板や下甲板の舷へ雪崩かかって来た。 「どこだどこだ。どこに鯖がいるんだ」  とキョロキョロする者もいれば、眼の前の山々に猥雑な名前を附けながら活弁マガイの潰れ声で説明するヒョーキン者もいる。中には芸者を舷へ押し付けてキャアキャア云わしている者もいた。  その鼻の先の海面へ、友吉おやじの禿頭が、忰に艫櫓を押させながら、悠々と廻わって来た。見ると赤ん坊の頭ぐらいの爆弾と、火を点けた巻線香を両手に持って、船橋に立っている吾輩の顔を見い見い、何かしら意味ありげにニヤニヤ笑っている。忰の方は向うむきになっていたので良くわからなかったが、吾輩が見下しているうちに二度ばかり袖口で顔を拭いた。泣いているようにも見えたが、多分、潮飛沫でもかかったんだろうと思って、気にも止めずにいたもんだ。  ……しかし……そのせいでもあるまいが、吾輩はこの時にヤット友吉おやじの態度を、おかしいと思い初めたものだ。  第一……前にも云った通り吾輩はドンの実地作業を生れて初めて見るのだから、詳しい手順はわからなかったが、それでも友吉おやじの持っている爆弾が、嘗て実見した押収品のドンよりもズット大きいように感じられた。……のみならず、まだ魚群も見えないのに巻線香に火を点けているのが、腑に落ちないと思ったが、しかし何しろ初めて見る仕事だからハッキリした疑いの起しようがない。これが友吉おやじ一流の遣り方かな……ぐらいに考えて一心に看守っているだけの事であった。  一方、甲板の上では「シッカリ遣れエ」という酔っ払いの怒号や、ハンカチを振りながらキーキー声で声援する芸妓連中の声が入乱れて、トテモ煮えくり返るような景気だ。そのうちに慶北丸の惰力がダンダンと弛んで来て、小船の方が先に出かかると、友吉おやじは忰に命じて櫓を止めさせた。……と思ううちに、その舳先に仁王立ちになった向う鉢巻の友吉おやじが、巻線香と爆弾を高々と差し上げながら、何やら饒舌り初めた。  船の中が忽ちピッタリと静かになった。吾輩も、友吉おやじが吾輩の代りになって講演を初めるのかと思って、ちょっと度肝を抜かれたが、間もなく非常な興味をもって、皆と一緒に傾聴した。  友吉おやじの塩辛声は、少々上ずっていたが、よく透った。ことに頭から日光を浴びたその顔色は頗る平然たるもので、寧ろ勇気凜々たるものがあった。 「……皆さん……聞いておくんなさい。私はこの爆弾を投げて、生命がけの芸当をやっつける前に、ちょっと演説の真似方を遣らしてもらいます。白状しますが私は今から十四年ほど前に、柳河で嬶と、嬶の間男をブチ斬ってズラカッタ林友吉というお尋ね者です。……それから後五年ばかりというものこのドン商売に紛れ込みまして、海の上を逃げまわっておりましたが、その間に警察署とか裁判所とか、津々浦々の有志とか、お金持ちとかいう人達が、吾々に生命がけの仕事をさせながら、どんなに美味い汁を吸うて御座るかという証拠をピンからキリまで見てまわりました。爆弾の隠匿し処などもアラカタ残らず、探り出してしまったものです。  ……それが恐ろしかったので御座んしょう。警察と裁判所と、有志の人達が棒組んで、この私を袋ダタキにして絶影島の裏海岸に捨てて下さった御恩バッカリは今でも忘れておりません。そう云うたら思い当んなさる人が皆さんの中にも一人や二人は御座る筈ですが。へへへへへへへへへへ……」  この笑い声を聞くと同時に、船の中で「キャ――ッ」という弱々しい叫びが起って、一人の仲居が引っくり返った。その拍子に近まわりの者が、ちょっとザワ付いたように見えたが、又もピッタリと静かになった。……友吉の気魄に呑まれた……とでも形容しようか……。相手が恐ろしい爆弾を持っているので、蛇に魅入られた蛙みたような心理状態に陥っていたものかも知れない。  友吉おやじの顔色は、その悲鳴と一所に、益々冷然と冴え返って来た。 「……アンタ方は、ええ気色な人達だ。罪人を捕まえて生命がけの仕事をさせながら、芸者を揚げて酒を飲んで、高見の見物をしているなんて……お役人が聞いて呆れる。私は轟先生の御命令じゃから不承不承にここまで来るには来てみたが、モウモウ堪忍袋の緒が切れた。持って生れたカンシャク玉が承知せん。  ……アンタ方は日本の役人の面よごしだ。……ええかね。……これはアンタ方に絞られたドン仲間の恩返しだよ。コイツを喰らってクタバッてしまえ……」  と云ううちに爆弾の導火線を悠々と巻線香にクッ付けて、タッタ一吹きフッと吹くとシューシューいう奴を片手に、 「へへへへ……」  と笑いながら船首の吃水線下に投げ付けた。……トタンに轟然たる振動と、芸者連中の悲鳴が耳も潰れるほど空気を劈いた。それを見上げた友吉おやじは又も、 「へへへへへへへ……」  と笑いながら、今一つの爆弾を揚板の下から取出して導火線に火を点けた。それを頭の上に差し上げて、 「……コレ外道サレッ……」  と大喝しながら投げ出したと思ったが、その時遅く彼の時早く、シューシューと火を噴く黒い爆弾がおやじの手から三尺ばかりも離れたと見るうちに、眼も眩むような黄色い閃光がサッと流れた。同時に灰色の煙がムックリと小舟の全体を引っ包んだ中から、友吉おやじの手か、足か、顔か、それとも舷か、板子か、何だかわからない黒いものが八方に飛び散ってポチャンポチャンと海へ落ちた。そうしてその煙が消え失せた時には、半分|水船になった血まみれの小舟が、肉片のヘバリ付いた艫櫓を引きずったまま、のた打ちまわる波紋の中に漂っていた。  不思議な事に吾輩は、その間じゅう何をしていたか全く記憶していない。危険いとも、恐ろしいとも何とも感じないまま船橋の上から見下ろしていたものだ。恐らく側に立っていた船長も同様であったろうと思う。……友吉おやじの演説をハッキリと聞いて、二つの爆弾が炸裂するのを眼の前に見ていながら、一種の催眠術にかかったような気持ちで、両手をポケットに突込んだなりに、棒のように硬直していたように思う。ただ、その石のように握り締めた両手の拳の間から、生温るい汗がタラタラと迸しり流れるのをハッキリと意識していたものだが、「手に汗を握る」という形容はアンナ状態を指したものかも知れん。  船の甲板は、むろん一瞬間に修羅場と化していた。今の今まで、抱き合ったり、吸付き合ったりしていた男や女が、先を争って舷側に馳け付けた。そこへ誰だかわからないが非常汽笛を鳴らした者がいたので一層騒ぎが深刻化してしまった。  船体はいつの間にか十度ばかり左舷に傾いて、まだまだ傾きそうな動揺を見せていたが、そのために酔った連中の足元がイヨイヨ定まらなくなったらしい。折重なって辷り倒れる。その上から狼藉していた杯盤がガラガラガラと雪崩かかる。その中を押し合い、ヘシ合い、突飛ばし合いながら両舷のボートに乗移ろうとする。上から上から這いかかり乗りかかる。怪我をする。血を流す。嘔吐く。気絶する。その上から踏み躙る。警官も役人も有志も芸妓も有ったもんじゃない。皆血相の変った引歪んだ顔ばかりで、醜態、狼狽、叫喚、大叫喚の活地獄だ。その上から非常汽笛が真白く、モノスゴク、途切れ途切れに鳴り響くのだ。  左右の舷側に吊した四隻のカッター端舟はセイゼイ廿人も乗れる位のもので在ったろうか。一|艘毎に素早い船員が飛乗って、声を嗄らして制止しているが耳に入れる者なんか一人も居ない。我勝ちに飛乗る、縋り付く、オールを振廻すという状態で、あぶなくて操作が出来ない。そのうちに左舷の船尾から猛烈な悲鳴が湧き起ったから、振り返ってみると、今しも人間を山盛りにして降りかけた端舟が、操作を誤って片っ方の吊綱だけ弛めたために、逆釣りになってブラ下がった。同時に満載していた人間がドブンドブンと海へ落ちてしまったのだ。海の深さはそこいらで十五六|尋も在ったろうか……。  それを見た瞬間に吾輩はヤット我に返った……これは俺の責任……といったような感じにヒドク打たれたように思う。  傍を見ると船長が吾輩と同じ恰好でボンヤリと突立っている。肩をたたいて見たが、唖然として吾輩を振り返るばかりだ。船橋の下の光景に気を呑まれていたんだろう。  吾輩はその横で背広服を脱いで、メリヤスの襯衣とズボン下だけになった。メリヤスを一枚着ていると大抵な冷めたい海でも凌げる事を体験していたからね。それから船橋の前にブラ下げて在った浮袋を一個引っ抱えて上甲板へ馳け降りた。船尾から落ちた連中を救けて水舟に取付かせてやるつもりだった。それからボートの前の連中を整理して狼狽させないようにしようと思い思いモウ一つ下甲板へ馳け降りると、その階段の昇り口の暗い処でバッタリとこの船の運転士に行き会った。よく吾輩の処へ議論を吹っかけに来る江戸ッ子の若造で、友吉とも心安い、来島という柔道家だったが、これも猿股一つになって、真黒な腕に浮袋を抱え込んでいた。 「……あっ……轟先生。ちょうどいい。一所に来て下さい」  と云ううちに吾輩を引っぱって、客室の横の階段から廊下伝いに混雑を避けながら、誰も居ない船首へ出た。その時に非常汽笛がパッタリと鳴り止んだので、急に淋しく、モノスゴクなったような気がしたが、そこで改めて来島の顔を見ると、眼に泪を一パイ溜め、青い顔をしている。友太郎の事を考えているのだろうと思ったが、しかし二人とも口には出さなかった。来島は落付いて云った。 「……轟先生……損害は軽いんです。汽笛なんか鳴らしたから不可なかったんです。……傾いだ原因はまだ判然りませんが、船底の銅版と、木板の境い目二尺に五尺ばかりグザグザに遣られただけなんです。都合よく反対に傾いだお蔭で、モウ水面に出かかっているんですから、外から仕事をした方が早いと思うんです。済みませんが先生、この道具袋を持って飛込んでくれませんか。水夫も火夫もみんなポンプに掛り切っていて手が足りないんですから……浮袋を離してはいけませんよ。仕事が出来ませんから……いいですか……」  吾輩は一も二もなくこの若造の命令に従って海に飛込んだ。イザとなると覚悟のいい奴には敵わないね。  ところが、それから引続いた来島の働らき振りには吾輩イヨイヨ舌を捲かされたもんだよ。溺れている人間なんか見向きもしない。一生懸命で、上からブラ下げた綱に縋りながら、船の横っ腹に取付いて、穴の周囲にポンポンポンと釘を打ち並べると、八番ぐらいの銅線を縦横十文字に引っかけまわした。その上から帆布を当てがって、片っ方から順々に大釘で止めて行く……最後に残った一尺四方ばかりの穴から猛烈に走り込む水を、針金に押し当てがった帆布で巧みにアシライながら遮り止めてしまった。その上からモウ二枚|帆布を当てがって、周囲をピッシリ釘付けにして、その上からモウ一つ、流れていた櫂を三本並べながら、鎹釘で頑丈にタタキ付けてしまった。どこで研究したものか知らないが、百人ばかりの生命の親様だ。思わず頭が下がったよ。  その吾々が仕事をしている二三|間向うには、端舟の釣綱が二本、中途から引っ切れたままブラ下がっていた。切れ落ちたボートは人間を満載したまま一度デングリ返しを打った奴が、十間ばかり離れた処に漂流していたが、その周囲には人間の手が、干大根を並べたようにビッシリと取付いている。……にも拘わらず、その尻の切れた二本の綱には、上から上から取付いてブラ下がって来る人間が、重なり重なり繋がり合っているのだ。芸者、紳士、警官、お酌、判事、検事、等々々といった順序に重なり合った珍妙極まる人間の数珠玉なんだ。しかもその一つ一つが「助けてくれ助けてくれ」と五色の悲鳴をあげているのだから、平生なら抱腹絶倒の奇観なんだが、この時はドウシテ……その一人一人が絶体絶命の真剣なんだから遣り切れない。巡査の握り拳の上に芸者のお尻がノシかかって来る。仲居の股倉が有志の肩に馬乗りになる。「降りちゃ不可ん降りちゃ不可ん」と下から怒鳴っているんだから堪らない。ズルリズルリと下がって来るうちに、見る見る綱が詰まって来てポチャンポチャンと海へ陥ち込む。そのまま、 「……アアッ……ああッ……」  と藻掻き狂いながらブクブクブクと沈んで行く。その表情のムゴタラシサ……それを上から見い見いブラ下がっている連中の悲鳴のモノスゴサといったらなかったよ。  そんな光景を見殺しにしながら仕事をしていた吾輩は、仕事が済むとモウ矢も楯もたまらない。道具袋を海にタタッ込んで、抜手を切って沖合いの小舟に泳ぎ付いた。血だらけの櫓柄を洗って、臍に引っかけると水舟のまま漕ぎ戻して、そこいらのブクブク連中をアラカタ舷の周囲に取付かせてしまったので、とりあえずホッとしたもんだ。  その間に来島は本船に上って、帆布で塞いだ穴の内側から、本式にピッタリと板を打付けた。一層|馬力をかけて水を汲み出す一方に、在らん限りの品物を海に投込む。ボートの連中を艙口から収容すると、今度は船員が漕ぎながら人間を拾い集める。綱を持った水夫を飛込ましてブカブカ遣っている連中を拾い集める。上って来た奴は片っ端から二等室に担ぎ込んで水を吐かせる。摩擦する。人工呼吸を施すなどして、ヤットの事で取止めた頭数を勘定してみると、警官、役人、有志、人夫を合わせて、七名の人間が死んでいる。そのほかに芸妓二名の行方がわからない……という事が判明した。これは男連中が腕力に任せて先を争った結果で、同時に女を見殺しにした事実を雄弁に物語っているのだ。お酌や仲居が一人も飛込まないで助かったのは、お客や姉さん等に対して遠慮勝ちな彼等の平生の癖が、コンナ場合にも出たんじゃないかと思うがね。イヤ。冗談じゃないんだ。危急の場合に限って平生の習慣が一番よく出るもんだからね。  ところがその中に西寄りの北風が吹き初めて、急に寒くなったせいでもあったろうか。死骸を並べた二等室の広間に青い顔をして固まり合っていた、生き残りの連中が騒ぎ初めた。当てもないのに立ち上りながら異口同音に、 「……帰ろう帰ろう。風邪を引きそうだ……」 「船長を呼べ船長を呼べ……」  とワメキ出したのには呆れ返ったよ。イクラ現金でもアンマリ露骨過ぎる話だからね。片隅で屍体の世話を焼いていた丸裸の来島運転士も、これを聞くと顔色を変えて立上ったもんだ。あらん限りの醜態を見せ付けられてジリジリしていたんだからね。 「……何ですって……帰るんですって……いけませんいけません。まだ仕事があるんです」 「……ナンダ……何だ貴様は……水夫か……」 「この船の運転士です。……船の修繕はもうスッカリ出来上っているんですから、済みませんがモウ暫く落付いていて下さい。これから屍体の捜索にかかろうというところですからね」 「……探してわかるのか……」 「……わからなくたって仕方がありません。行方不明の屍体を打っちゃらかして、日の暮れないうちに帰ったら、貴方がたの責任問題になるんじゃないですか。……モウ一度探しに来るったって、この広ッパじゃ見当が付きませんよ」  と詰め寄ったが、裁判所や、警察連中は、何を憤っているのか、白い眼をして吾輩と来島の顔を見比べているばかりであった。すると又その中に大勢の背後の方で、 「……アア寒い寒い……」  と大きな声を出しながら、四|合瓶の喇叭を吹いていた一人が、ヒョロヒョロと前に出て来た。トロンとした眼を据えて、 「……何だ何だ。わからないのは芸妓だけじゃないか。芸妓なんぞドウでもいい……」  とウッカリ口を辷らしたから堪まらない。隅ッ子の方に固まっていた雛妓が「ワッ」と泣き出す……トタンに来島の血相が又も一変して真青になった。 「……何ですか貴方は……芸妓なんぞドウでもいいたあ何です」 「……バカア……好色漢……そんな事を云うたて雛妓は惚れんぞ……」 「……惚れようが惚れまいがこっちの勝手だ。フザケやがって……芸妓だって同等の人間じゃねえか。好色漢がドウしたんだ……手前等あ役人の癖に……」  と云いさしたので吾輩は……ハッ……としたが間に合わなかった。二三人の警官と有志らしい男が一人か二人、素早く立上って来島と睨み合った。しかし来島は眉一つ動かさなかった。心持ち笑い顔を冴え返らしただけであった。 「……何だ……貴様は社会主義者か……」 「……篦棒めえ人道主義者だ……このまんま帰れあ死体遺棄罪じゃあねえか。不人情もいい加減にするがいい……手前等あタッタ今までその芸妓を……」 「黙れ黙れッ。貴様等の知った事じゃない。吾々が命令するのだ。帰れと云ったら帰れッ……」 「……ヘン……帰らないよ。海員の義務って奴が在るんだ。芸妓だろうが何だろうが……」 「……馬鹿ッ……反抗するカッ……」  と云ううちに前に居た癇癪持ちらしい警官が、来島の横ッ面を一つ、平手でピシャリとハタキ付けた。トタンに来島が猛然として飛かかろうとしたから、吾輩が逸早く遮り止めて力一パイ睨み付けて鎮まらした。来島は柔道三段の腕前だったからね。打棄っておくと警官の一人や二人絞め倒おしかねないんだ。  そのうちに来島は、吾輩の顔を見てヒョッコリと頭を一つ下げた。そのまま火の出るような眼付きで一同を見まわしていたが、突然にクルリと身を飜すと、入口の扉をパタンと閉めて飛び出して行った。吾輩もそのアトから、何の意味もなしに飛出して行ったが、来島の影はどこにも見えない。船橋に上って見ると船はもう轟々と唸りながら半回転しかけていた。  その一面に白波を噛み出した曇り空の海上の一点を凝視しているうちに吾輩は、裸体のまんま石のように固くなってしまったよ。吾輩の足下に大波瀾を捲き起して消え失せた友吉親子と、無情なく見棄てられた二人の芸妓の事を思うと、何ともいえない悽愴たる涙が、滂沱として止まるところを知らなかったのだ。……  ……ドウダイ……これが吾輩の首無し事件の真相だ。君等の耳には最、トックの昔に這入っている事と思っていたんだが……秘密にすべく余りに事件が大き過ぎるからね。  ウンウンその通りその通り。朝鮮の内部で喰い止めて内地へ伝わらないように必死的の運動をしたものに相違ないね。司法官連中にも弱い尻が在るからな。旅費日当を貰って聴きに来た講演をサボって、芸者を揚げて舟遊山をした……その酒の肴に前科者を雇って、生命がけの不正漁業を実演させたとなったら事が穏やかでないからな。  ナニ、吾輩に対する嫌疑かい。  それあ無論かかったとも。……かかったにも何にも、お話にならないヒドイ嫌疑だ。人間の運命が傾き初めると意外な事ばかり続くものらしいね。  その翌る朝の事だ。善後の処置について御相談したい事があるからというので、釜山|府尹官舎の応接間に呼び付けられてみると、どうだい。昨日の事件は吾輩と、友吉おやじと、慶北丸の運転士来島とが腹を合わせた何かの威嚇手段じゃないか。その背後には在鮮五十万の漁民の社会主義的、思想運動の力が動いているのじゃないかというので、根掘り葉掘り訊問されたもんだ。どこから考え付いたものか解からんが馬鹿馬鹿し過ぎて返事も出来ない。よっぽど面喰って、血迷っていたんだね。……しかもその入れ代り立代り訊問する連中の中心に立った人間というのが誰でもない。昨日、イの一番に芸妓を突飛ばして船尾のボートに噛り付いた釜山の署長と予審判事と検事の三人組と来ているんだ。或は一種の責任問題から、この三人が先鋒に立たされたものかも知れないがね。……その背後には慶北、全南あたりの司法官が五六名、容易ならぬ眼色を光らしている。表面は事件の善後策に関する相談と称しながら、事実は純然たる秘密訊問に相違なかったのだ。  吾輩は勿論、癪に障ったから、都合のいい返事を一つもしてやらなかった。当り前なら法律と算盤の前には頭を下げる事にきめている吾輩だったが、あの時には、前の日に死んだ友吉おやじのヒネクレ根性が、爆薬の臭気とゴッチャになって、吾輩の鼻の穴から臓腑へ染み渡っていたらしいね。 「吾輩の講演を忌避して、船遊山を思い立ったのは誰でしたっけね」  と空っトボケてやったもんだ。  すると誰だか知らない検事か判事みたような男が背後の方から、 「それでも友吉親子を推薦したのは貴下ではなかったか」  と突込んで来たから、わざとその男の顔を見い見い冷笑してやった。 「……ハハハ……その事ならアンマリ突込まれん方が良くはないですか。実は昨晩、弁護士に調べさせてみますと、友吉の前科はズット以前に時効にかかっていたものだそうです。私は法律を知らないのですが……それでなくとも拘留中の現行犯人を引出して、犯罪の実演をさせるよりは無難だろうと思って、実は、あの男を推薦した次第でしたが……それでも貴方がたの法律眼から御覧になると、現行犯を使った方が合理的な意味になりますかな……」  と乙に絡んで捻じ返してくれた。吾れながら感心するくらい頭がヒネクレて来たもんだからね……ところが流石は商売柄だ。これ位の逆襲には凹まなかった。 「そんな事を議論しているのじゃない。友吉おやじに、あんな乱暴を働らかした責任は当然ソッチに在る筈だ。その責任を問うているのだ」  と吾輩の一番痛いところを刺して来た。その時には吾輩、思わずカッとなりかけたもんだ……が、しかしここが大事なところと思ったから、わざと平気な顔で空を嘯いて見せた。 「……成る程……その責任なら当方で十分十二分に負いましょうよ。……しかし爆弾を投げさせた心理的の動機はこの限りに非ずだから、そのつもりでおってもらいたいですな。無辜の人間に生命がけの不正を働らかせながら、芸妓を揚げて高見の見物をしようとした諸君の方が悪いにきまっているのだから……諸君は友吉おやじの最後の演説を記憶しておられるだろう……」  と云って満座の顔を一つ一つに見廻わしたら、一名残らず眼を白黒させていたよ。 「……しかし……あれは元来……有志連中が計画したもので……」  と隅の方から苦しそうな弁解をした者がいたので、吾輩は思わず噴飯させられた。 「……アハハ。そうでしたか。ちっとも知りませんでした。……しかし拙者が拝見したところでは、有志の連中には余り酔った者はいなかったようである。実際に泥酔して乱痴気騒ぎを演じたのは諸君ばかりのように見受けたが、違っていたか知らん。序にお尋ねするが一体、諸君は講演の第二日の報告を、何と書かれるつもりですか。参考のために承っておきたい。まさか公会堂で演説中に爆弾が破裂したとも書けまいし……困った問題ですなあ……これは……」  と冷やかしてやった。ところがコイツが一等コタエたらしいね。イキナリ、 「……ケ……怪しからん……」  と来たもんだ。眼先の見えない唐変木もあったもんだね。 「……そ……そんな事に就いては職務上、君等の干渉を受ける必要はない。君はただ訊問に答えておればいいのだ」  と頭ごなしに引っ被せて来た。……ところが又、こいつを聞くと同時に、最前から捻じれるだけ捻じれていた吾輩の神経がモウ一と捻じりキリキリ決着のところまで捻じ上ってしまったから止むを得ない。モウこれまでだ。談判破裂だ……と思うと、フロックの腕を捲くって坐り直したもんだ。 「……ハハア……これは訊問ですか。面白い……訊問なら訊問で結構ですから、一つ正式の召喚状を出してもらいましょうかね。その上で……如何にも吾輩が最初から計画してやった仕事に相違ない……という事にして、洗い泄い泥水を吐き出しましょうかね。要するに諸君の首が繋がりさえすれあ、ほかに文句はないでしょう……」  と喰らわしてやったら、連中の顔色が一度にサッと変ったよ。 「……エヘン……吾輩は多分、終身懲役か死刑になるでしょう。君等のお誂え向きに饒舌ればね……ウッカリすると社会主義者の汚名を着せられるかも知れないが、ソレも面白いだろう。日本民族の腸が……特に朝鮮官吏の植民地根性が、ここまで腐り抜いている以上、吾輩がタッタ一人で、いくらジタバタしたって爆弾漁業の勦滅は……」 「……黙り給えッ……司直に対して僭越だぞ……」 「何が僭越だ。令状を執行されない以上、官等は君等の上席じゃないか……」  と開き直ってくれたが、その時に横合いから釜山署長が、慌てて割込んで来た。 「……そ……それじゃ丸で喧嘩だ。まあまあ……」 「……喧嘩でもいいじゃないか。こっちから売ったおぼえはないが、ドウセ友吉おやじの鬱憤晴らしだ」 「……そ……そんな事を云ったらアンタの不利になる……」 「……不利は最初から覚悟の前だ。出る処へ出た方がメチャメチャになって宜い……」 「……だ……だからその善後策を……」 「何が善後策だ。吾輩の善後策はタッタ一つ……漁民五十万の死活問題あるのみだ。お互いの首の五十や六十、惜しい事はチットモない。真相を発表するのは吾輩の自由だからね」 「そ……それでは困る。御趣旨は重々わかっているからそこをどっちにも傷の附かんように、胸襟を開いて懇談を……」 「それが既に間違っているじゃないか。死んだ人間はまだ沖に放りっ放しになっているのに何が善後策だ。その弔慰の方法も講じないまま自分達の尻ぬぐいに取りかかるザマは何だ。況んや自分達の失態を蔽うために、孤立無援の吾輩をコケ威しにかけて、何とか辻褄を合わさせようとする醜態はどうだ」 「……………」 「ソッチがそんな了簡ならこっちにも覚悟がある。……憚りながら全鮮五十万の漁民を植え付けて来た三十年間には、何遍、血の雨を潜ったかわからない吾輩だ。骨が舎利になるともこの真相を発表せずには措かないから……」 「……イヤ。その御精神は重々、相わかっております。誤解されては困ります。爆弾漁業の取締りに就いて今後共に一層の注意を払う覚悟でおりますが、しかし、それはそれとしてとりあえず今度の事件だけに就いての善後策を、今日、この席上で……」  とか何とか云いながら上席らしい胡麻塩頭の一人が改まって頭を下げ初めた。それに連れて二三人頭を下げたようであったが、内心ヨッポド屁古垂れたらしいね。しかし吾輩はモウ欺されなかった。 「……待って下さい。その交換条件ならこっちから御免を蒙りましょう。陛下の赤子、五十万の生霊を救う爆弾漁業の取締りは、誰でも無条件で遣らなければならぬ神聖な事業ですからね。今後、絶対に君等のお世話を受けたくない考えでいるのです。……ですから君等の職権で、勝手な報告を作って出されたらいいでしょう。……吾輩は忙がしいからこれで失礼する」 「……まあまあ……そう急き込まずと……」 「いいや失敬する。安閑と君等の尻拭いを研究している隙はない。……何よりも気の毒なのは死んだ二人の芸者だ。林友吉や、お互いの災難は一種の自業自得に過ぎないが、芸妓となるとそうは行かん。何も知らないのに巻添えを喰わされたばかりじゃない。面倒臭いといって沖に放り出されて鯖の餌食にされたんだから、気の毒も可愛想も通り越している。君等には関係のない事かも知れんが、これから行って大いに弔問してやらなくちゃならん。……もっとも今更、線香を附けてやったって成仏出来まいとは思うがね。ハッハッハッハッハッ……」  といった調子で、今まで溜まっていた毒気を一度に吹っかけながら退場してくれた。……ハハハハ。イヤ。痛快だったよ。何の事はない役人連中、蚊を突っついて藪を出した形になった。おまけにアトから聞いてみると、当日来なかった連中の中の十人ばかりが風邪を引いて、宿屋に寝ていたというのだから吾輩イヨイヨ溜飲を下げたもんだよ。  とはいうものの……白状するが吾輩は、そのアトから直ぐに有志連中が調停に来るものと思って、実は手具脛を引いて待っていたもんだ。……来やがったらドウセ破れカブレの刷毛序でだ。思い切り向う脛を掻っ払ってくれようと思って、一週間ばかり心待ちに待っていたがトウトウ来ない。可怪しいと思って様子を探っていると、これも慌てて海に飛び込んだ頭株の四五人が、ヒドイ風邪を引いて寝てしまった。しかも、その中の一人は急性肺炎……モウ一人は心臓麻痺でポックリ死んでしまったので、それやこそ……死んだ友吉の祟りだ。友吉風友吉風というので何ともない奴までオゾ毛を慄って蒲団を引っ冠っているという……実に滑稽なお話だが、とにかくソレくらい恐ろしかったんだね。友吉たるもの以て瞑すべしだろう。……もっとも一方から考えてみると有志連中は懲役に行っても職業を首にされる心配はない。だから役人連中に泣き付かれない限り調停に立つ必要もない。又、泣き付かれたにしたところが、二度と吾輩を丸め込む見込みはない……というないないの三拍子が揃っているんだから、知らん顔をして寝ていたんだろう。……但新聞社には遺憾なく手を廻わしたものと見えて、一行も書かなかった。だから結局、死んだ奴が死に損という事になった訳だ。  不人情なものさね。  しかし真剣なところが「友吉風邪」ぐらいの事で癒える吾輩の腹ではなかった。  芸者や友吉は成仏しても、吾輩が成仏出来ない。吾輩が観念しても五十万人の怨みを如何せんだ。……ドウするか見ろ……というので事件の翌る日から毎日事務所に立て籠もって向う鉢巻でこの報告書を書き初めたもんだが、サテ取りかかってみるとナカナカ容易でない。演説の方なら十時間でも一気|呵成だが、文章となると考えばかりが先走って困るんだ。おまけに唯一の参考書類兼|活字引ともいうべき友吉おやじが居ないんだからね。ヤタラに興奮するばかりで紙数がチットも捗どらない。  その間に有志連中の方では如才なく事を運んだらしい。吾輩との妥協を絶望と見て取って暗々裡に事件を揉み消すと同時に、同じような手段でもって総督府の誰かを動かしたものと見える。吾輩の本官を首にした上に、各道で好意的に手続きをしていた組合費の徴収をピッタリと停止してしまった。実に陰険、悪辣な報復手段だ。山内さんが生きて御座ったらコンナ事にはならないんだがね。せめてもの便りになる、藁塚産業部長までも中風で、郷里の青森県に寝て御座るんだから吾輩、陸に上った河童も同然だった。もっとも恩給を停止されなかったのが、せめてもの拾い物だったかも知れないが……ハッハッ……。  そこで吾輩は断然思い切ってこの絶影島の一角にこの一軒屋を建てて自炊生活を初めた。妻子を持たない吾輩にとっては格別の苦労じゃないからね。ここで本腰を入れて報告を書く決心をしたもんだが、書けば書くほど、朝鮮官吏の植民地根性が癪に障って来る。同時にこの素晴らしい爆薬の取次網を蔽うべく、内地、朝鮮の有力者連中が、如何に非国家的な黒幕を張り廻わしているかが、アリアリと吾輩の眼底に映じて来た。友吉おやじの云い遺した言葉が、マザマザと耳に響いて来て、ペンを持つ手がブルブルと震え出すようになった。……そうだよ。或は酒精中毒から来た一種の神経衰弱かも知れないがね。しまいにはボンヤリしてしまって、ワケのワカラナイ泪ばかりがボロボロ落ちて来るんだ。コンナ事ではいけないと思って、焦せれば焦せるほど筆がいう事を聞かなくなるんだ。呑兵衛老医も心配して、 「そいつは立派な動脈硬化じゃ。萎縮腎も一所に来ているようじゃ。漢法に書痙という奴があるがアンタのは酒痙じゃろう。今に杯が持たれぬようになるよ。ハハハハ。とにかく暫く書くのを止めた方が宜え。そうなるとイヨイヨ気が急くのが病気の特徴じゃが、そこで無理をしよると脳髄の血管がパンクする虞れがある。そうなったら万事休すじゃ。拙者もアンマリ飲みに来んようにしよう」  といったアンバイで、気の毒そうに威かしやがるんだ。  そこで吾輩も殆んど筆を投ぜざるを得なくなった。刀折れ、矢|竭きた形だね。  ……蒼天蒼天……吾輩の一生もこのまんま泣き寝入りになるのか。回天の事業、独力を奈何せん……と人知れず哀号を唱えているところへ又、天なる哉、命なる哉と来た。……彼の林青年……友吉の忰の友太郎が今年の盂蘭盆の十二日の晩に、ヒョッコリと帰って来たのには胆を潰したよ。  ちょうどその十二日の正午過ぎの事だった。友吉の大好物だった虎鰒を、絶壁の下から投上げてくれた漁師があったからね。今の呑兵衛|老医と、非番だった慶北丸の来島運転士を、その漁師に言伝て呼寄せると、この縁側で月を相手に一杯やりながら、心ばかりの弔意を表しているところだった。何とかカンとか云っているうちに呑兵衛ドクトルもずるずるべったりに座り込んだ訳だ。  むろん話といったら外にない。友吉おやじで持ち切りだ。 「結局、友吉おやじは諦めるとしても、あの忰の友太郎だけは惜しかったですね」  と来島が暗涙を浮かめて云った。 「……ウン。吾輩も諦らめ切れん。あの時に櫓柄へヘバリ付いていた肉の一片をウッカリ洗い落してしまったが、あれは多分、友太郎のだったかも知れない。今思い出しても涙が出るよ」  呑兵衛ドクトルも眼を赤くして関羽鬚をしごいた。 「……ハハア……それは惜しい事じゃったなあ。あの子供の親孝心には拙者も泣かされたものじゃったが……その肉を拙者がアルコール漬にして保存しておきたかったナ。広瀬中佐の肉のアルコール漬がどこぞに保存して在るという話じゃが……ちょうど忠孝の対照になるからのう……」 「飛んでもない。役人に見せたら忠と不忠の対照でさあ。僕を社会主義者と間違える位ですからね……ハハハハ……」 「ウン……間違えたと云やあ思い出すが、吾輩に一つ面目ない話があるんだ。あんまり面目ないから今まで誰にも話さずにいたんだが……ホラ……吾輩と君とで慶北丸の横ッ腹を修繕してしまうと、君は直ぐに綱にブラ下ってデッキに引返したろう。吾輩は沖の水舟を拾うべく、抜手を切って泳ぎ出した……あの時の話なんだ。実際、この五十余年間にあの時ぐらい、ミジメな心理状態に陥った事はなかったよ」 「……ヘエ。溺れかかったんですか」 「……馬鹿な……溺れかかった位なら、まだ立派な話だがね……」 「……ヘエッ。どうしたんですか……」 「……その小舟に泳ぎ付く途中で、何だか判然らないものが水の中から、イキナリ吾輩の左足にカジリ付いたんだ。ピリピリと痛いくらいにね」 「……ヘエ。何ですかそれは……」 「何だかサッパリわからなかったが、ちょうどアノ辺に鱶の寄る時候だったからね。ここへ来たら大変だぞ……と泳ぎながら考えている矢先だったもんだから仰天したよ。咄嗟の間にソレだと思って狼狽したらしい。ガブリと潮水を呑まされながら、死に物狂いに蹴放して、無我夢中で舟に這い上ると、ヤット落付いてホッとしたもんだが……」 「……結局……何でしたか……それあ……」 「……ウン。それから釜山の事務所に帰って、銭湯に飛込むと、何か知らピリピリと足に泌みるようだから、おかしいなと思い思い、上框の燈火の下に来てよく見ると……どうだ。その左の足首の処に女の髪が二三本、喰い込むようにシッカリと巻き付いて、シクリシクリと痛んでいるじゃないか……しかも、そいつを抓み取ろうとしても、肉に喰い込んでいてナカナカ取れない。……吾輩、思わずゾッとして胸がドキンドキンとしたもんだよ。多分、水面下でお陀仏になりかけていた芸者の髪の毛だったろうと思うんだが、今思い出しても妙な気持になる。……女という奴は元来、吾輩の苦手なんだがね。ハハハハ……」  といったような懐旧談で、頻りに悽愴がってシンミリしている鼻の先へ、庭先の月見草の中から、白い朝鮮服を着て、長い煙管を持った奴がノッソリと現われて来たもんだ。  三人はその時にハッとさせられたようだった。しかし、そのうちに長い煙管が眼に付くと、  ……ナアンダ朝鮮公か……コンナ処まで浮かれて来るなんて呑気な奴も在るもんだ。アッチへ行け。|何も無い|何も無い。  というので手を振って見せたが動かない。そのうちに気が付いて見るとそれが擬いもない友太郎だったのにはギョッとさせられたよ。噂をすれば影どころじゃない。テッキリ幽霊……と思ったらしい。三人が三人とも坐り直したもんだ。  ……ハハハ……ナアニ。聞いて見たら不思議でも何でもないんだ。  何よりも先に××沖で例の一件を遣付けた時の話だが……慶北丸に引かれた小船で、沖へ揺られて行く途中で早くも親父の顔を見て取った友太郎がハッとしたものだそうだ。そこでもしやと思って親父の図星を刺してみると果して「その通りだ。モウ勘弁ならん」と冷笑している。……これはいけない。こうなったら取返しの附かない親父だと思うには思ったが、何ぼ何でも吾輩の一身が案じられたもんだから一生懸命に親父の無鉄砲を諫めにかかったが……モウ駄目だった。 「……ナアニ。心配するな。轟先生の泳ぎは神伝流の免許取りだから一所に沈む気遣いはない。アトで拾い上げて大急ぎで釜山に帰るんだ。そのうちに先生を説伏せて組合の巡邏船、鶏林丸に食糧と油を積んで、その夜の中にズラカッてしまう。真直に露領沿海州へ抜けて俺の知っている海岸で冬籠りの準備をする。春になったら砂金|採りだ。誰も寄り付けない絶壁の滝壺の中に一パイ溜まっているのを、お前と二人で見た事が在るだろう。……あすこへ行くんだ……あの瀑布の上の方を爆薬でブチ壊して閉塞いでしまえばモウこっちのもんだ。儲かるぜそれあ……轟先生は元来、正直過ぎるからイカン。役人の居る処はドウセイ性に合わん事を御存じないんだ。あんな人を一生貧乏さしといては相済まん。……朝鮮はモウ嫌じゃ嫌じゃ。西比利亜が取れたら沿海州へ行くと口癖に云うて御座ったから、コレ位、宜え機会はない。モウ西比利亜には日本軍がワンワン這入っとるから喜んで御座るにきまっとる……それでも嫌なら今の中に貴様もデッキに上っとれ。……俺が一人で遣っ付けてくれる。轟先生の演説ぐらいで正気附く野郎等じゃない……」  という見幕だったのでトテも歯の立てようがなかった。しかし、それでも折角の先生の苦心がこれで打切りになるのか……親父の一代もコレ切りになるのか……といったような事を色々考えているうちに胸が一パイになってしまった。  ところが虫が知らせたのであろう。そう思っているうちにその言葉が遺言になってしまった。自分も一所に海へタタキ込まれてしまったが、間もなく正気に帰ってみると、水船の舷側にヘバリ付いてブカブカ遣っていることがわかった……ちょうど向側だったから甲板の上から見えなかったんだね。おまけにどこにも怪我一つしたような感じがしない。  そこでコンナ処に居ては険呑だと気が付いたから、出来るだけ深く水の底を潜って、慶北丸の左舷の艙口から機関室に潜り込んだ。そこいらに干して在った菜ッ葉服を着込んで、原油と粉炭を顔に塗付けると知らん顔をしてポンプに掛かっていたが、混雑のサナカだったから誰にもわからなかった。スレ違った来島にも気付かれないで、無事に釜山へ帰り着いた……そこで又、吾輩の処へ帰ったら物騒だと考えたから、そのままドン仲間に紛れ込んで、海上を流浪する事十箇月……その片手間に親の讐敵だというので、潜行爆薬の抜け道を探るべく、あらん限りの冒険をこころみていたが、お蔭で字が読めるようになっていた上に、朝鮮語と、柳河語と、東京弁が自由自在に利いたので非常に便利な事が多かった。  すると又そのうちに吾輩がタッタ一人で、淋しい絶影島の離れ家に引込んだ話を風の便りに聞いたので、これには何か仔細が在りそうだ。まだ帰るにはチット早いが、ソーッと様子を見てやろうと思って、一番お得意の朝鮮人に化けて帰って来てみると、なつかしい三人の声が聞こえて来る。それが一つ残らずあの世から聞いているような話ばかりなのでタマラなくなってここへ出て来ました。こうなったら、愈々先生と死生を共にするばかりです。朝鮮人に化けていたら一所に居ても大丈夫でしょう。親父と同様に使って下さい。ドンナ事でも致しますから親父の讐仇を討たして下さい……という涙ながらの物語りだ。どうだい。今時には珍らしい青年だろう。  この青年と、吾輩の半|出来の報告書を一所にして提供したら、いい加減お役に立つだろう。この二つを拠所にして君が霊腕を揮ったらドンの絶滅期して俟つべしじゃないか。  ウンウン。彼の青年を君が引受けてくれると云うのか。ウンウン。そいつは有難い。東京の夜学校に通わしてくれる。……死んだ親父がドレ位喜ぶか知れないぜ。  この密告書はアイツの筆跡に相違ないよ。ここに来て吾輩の窮状を見ると間もなく書上げて、識合いの船頭に頼んで、呼子から投函さしたものに違いないんだ。コイツが君の手にかかって物をいうとなれば、友吉おやじイヨイヨ以て瞑すべしだ。コレ位大きな復讐はないからね。  ああ愉快だ。胸が一パイになった。アハハハ。笑わないでくれ。吾輩決して泣き上戸じゃないつもりだが……オイオイ友。友。友太郎……そこに居るか。チョット出て来い。遠慮する事はない。来いと云うたらここへ来い。アトを閉めて……サア来た……どうだい。立派な青年だろう。今では吾輩の忰みたようなもんだ。御挨拶しろ。御挨拶を……この人が吾輩の親友……有名な斎木検事正だ。ハハハハ。驚いたか。貴様の血で書いた手紙が御役に立ったんだ。そのためにわざわざ斎木君が来てくれたんだ。貴様の親父の仇敵を討ちに……。  ……何だ何だ。泣く奴があるか……馬鹿……いくつになるんだ。……サア。こっちへ来てお酌をしろ。笑ってお酌をしろといったら。貴様も日本男児じゃないか……アハハハ……。  斎木君……一杯受けてくれ給え……吾輩も飲むよ。……風速実に四十|米突……愉快だ。実に愉快だ。飲んで飲んで飲み死んでも遺憾はないよ……。 「今日、君を送る、須く酔いを尽すべしイ……明朝、相憶うも、路、漫々たりイ……じゃないか、アハハハハ……」  ある国で第一番の上手というお医者さんが、ある町に招かれて来ました。お医者さんは町に着くと直ぐ、 「ここの人はどうして一日を過ごしていますか」  と尋ねました。  町の人はこう答えました。 「別に変った生活もしませんが、私達は日の出前に起床し、日が暮れて床に就き、明るいうちはせっせと働いて日を送っています。又|餓じい時はお腹を一パイにするだけ御飯を食べます」  と答えました。  お医者さんは、 「それでは私はここにおっても仕事がありません。そんな生活をする人達はいつも健全で医者の厄介になる事がありませんから」  と言ってさっさとここを立ち去りました。      はしがき 「鼻の表現」なぞいう標題を掲げますと、人を馬鹿にしている――大方おしまいにお化粧品の効能書きでも出て来るのじゃないかと、初めから鼻であしらってしまわれる方が無いとも限りません。  しかし「鼻の表現」の一篇は、そんな不真面目なものではないのであります。初めからおしまい迄、「鼻の表現」なるものを、大にしては人類の盛衰、小にしては個人の死活にも関する大問題として極めて真面目に研究を進めて行ったものである事を、前以って御断り致しておきます。  それならば、この「鼻の表現」の一篇は独特の研究に依って編み出された新しい表現法であるかと云うに、これも左様でない事を御承知おき願わねばなりませぬ。  昔から人類の中には随分この鼻の表現という問題に就いて苦心研鑽を重ねた人が多いのであります。唯明らかに「鼻の表現」と銘を打って公表したり、又は直接に「これは鼻の事である」と裏書をしていないだけで、その道を得た人の多い事、そうしてこれに就いて述べてある心得の夥しい事、書物だけにしても山を築くは愚か、殆ど想像も及ばぬであろうと考えられる位であります。  それならば何故に「鼻」と名乗って研究しなかったか。又は如何なる仔細で「鼻の表現」として公表しなかったか。この仔細又は理由の在るところはこの全篇を読み終られましたならば成る程と膝を打たれるところがあるでありましょう。要するに「鼻の表現」の一篇はそれ等の受け売りであります。それ等の書物の中から必要に随って文句や意味を選み出しては綴り合わせ、綴り合わせては拾い出して、恰も一個人の意見であるかのようにして研究を進めて行ったものに過ぎませぬ。  これは一つは、今日迄に遂げられた各方面の先覚者の研究が実に到れり尽せりで、新発見のつもりで研究を進めて行っても直ぐに鼻が閊えるからで、今一つは、この研究に一々|独逸式の例証を引いていたら、たった一つの問題の上に実に千百無数の各方面の説を積み上げなければならぬ事になります。それでは第一煩に堪えません。それよりも註釈をそっくりそのまま受け売りにして説明致しました方が早わかりであると信ぜられるからであります。  前口上はこれ位に致しまして、早速本論に取りかかります。      鼻の使命とは?        ――懐疑と解釈のいろいろ  鏡にうつる御自分の鼻を御覧になると、御満足御不満足は別問題と致しまして、鼻の恰好その物に就いて一種のぼんやりとした疑問を懐かれた方が些くないであろうと考えられます。些くとも一生に一度位はきっと……  鼻ってものはどうしてこんなに高くなっているのか知らん……  何故こんな恰好をしているのであろう……  物を嗅いだり呼吸をしたりするほかには何の役にも立たないのか知らん……  なぞと考えられた御経験がおありになる事と想像されます。さもなくとも誰でも一寸気になるものだけに、お茶受け話しか何かにこの疑問を持ち出して、結局は矢張りお茶受程度の無駄話に落ちてしまった……なぞいう御記憶も矢張り一生に一度位はおありになる事と推測されます。  ここで強いて鼻なるものの正体に解釈を下しますといろいろな事になります。  人間万事を実用一点張りで解釈して行こうとする人は先ず…… 「鼻というものは元来不必要なものである。平面の上に穴が二つ開いているだけで結構用は足りるものである。耳朶が音を受ける程にも役に立たない。臭を吸い寄せる目的で高まっているものならば、もっとずっと長くなって穴はその先端になければならぬ」  というところに気付かれるでありましょう。 「これは大方鼻をかむという刺激が積り積ってこんな事になったのじゃないか」  なぞいう解釈を下している人もあります。 「しかしそれにしては鼻の頭が丸過ぎるし、左右の根っ株もふくれ過ぎている」  という事も同時に気付かれるであろうと考えられます。  これに反してもっと気取った人の中にはこんな解釈を下しておられる向きもあります。 「鼻というものは万有進化の道程に於て一つの有力な条件と見られている美的方面の原理に則って出来たものである。一つは眉毛と同様に顔面の装飾のため。それから今一つは、その文化向上のプライドを何等かの方法に依って標示したいという内的の刺激からこんな風に発達して来たものである。その証拠には下等動物程鼻が低くて、上等動物ほど鼻が高い。要するに鼻は、ピラミッドの芸術的価値と自由女神像の宗教的価値とを一つにした意味をもっているものである。鼻というものは只それだけのものである」  ところがもっと神経の鋭い人は、こうした断定があるにしてもまだまだ不満足が感ぜられるに違いありません。依然としてこの鼻に対して懐疑の念を持ち続けられるに違いありませぬ。 「たしかに何等かの使命を持っているものに違いない。もっともっと高潮した意義を含む存在の理由……人間の内的生活に対して何等かの深い関係を持っているもののように思われてならぬ……そうして又見れば見る程不思議な恰好……恐ろしく神秘的なもののような……同時に又恐ろしく無意義なるもののような……」  こうしてとうとう要領を得ずじまいに終られる方が多いであろうと考えられます。  しかしこの疑問に対してもっと突込んで研究して行こうというのは、いずれにしても余程の閑人か又はかなりの生まれ損ないでなければなりませぬ。この忙しい世の中に自分の鼻を睨んで考え詰めるというような人は滅多にあるまいと想像されます。  実際上世間では千人中の九百九十八人か九人位までは、生活の問題とその慰安|或は特別のお楽しみ筋なんぞのために寸暇も無い位頭を使っておられるように見受けられます。 「鼻の表現なんてあるかないか当になったものじゃない。あったにしたところが、持って生れた親ゆずりの鼻だ、動きの取れない作り付の鼻だ、鼻だけに惚れる奴がありゃあ格別、今日迄鼻の御厄介になって飯を喰った覚えはない。どうなろうとこうなろうといらざる心配だ。鼻の落ちない苦労だけで沢山だ。鼻の下の方がどれ位大切だか知れない。ひとの鼻の世話を焼いてるより自分の鼻糞でも掃除してろ」  とお叱りを受けそうであります。  こうなると鼻も可哀相で、折角顔のお城の御本丸に生ぶ声を挙げながらとんだお客分扱いにされてしまいます。      方向と位置と        ――鼻の静的表現  こんな御意見は詰まるところ、 「鼻は無いと困る。見っともなくて極りが悪いから」  というだけで、それ以上には鼻の表現の価値も権威も認められぬという事であります。  しかし如何程この意見を固守される方でも、御自分の鼻が御自分の向って行かれる方向を示している事だけは相違なく御認め下さるであろうと信ぜられます。 「どこへ行くんだ」 「鼻の向いた方へ」  なぞいった調子で、鼻がその持主の行く方向を示す事、船の舳と同様であるという事は、三尺の童子と雖も容易に認め得るところであります。  同時に鼻が時々自分というもののすべてを代表する意味に於て認められている事も明かな事実であります。 「この鼻様がいるのを知らぬか」  とか、 「この鼻を見忘れたか」  なぞいう古い科白もある位で、大抵の場合自分というものを示す全権公使には鼻が指定されるようであります。  この二つの実例は何でもない事のようでありますが、鼻というものの表現……否、その鼻の持主のすべての表現と絶対の関係を持っているものであります。  しかし普通の場合に於てはそこまで重大な意義を認められておりませぬ。極めて軽い意味で前者は本人の意志を表明し、後者はその存在を提示するもの位にしか考えられておりませぬ。      その恰好と人物        ――鼻の静的表現  鼻は又その恰好に依ってその持主の性格、意志、感性なぞを表明しているものとも考えられておるようであります。それかあらぬか鼻にはいろんな名称があって、その名前を聞いただけでもその感じがわかる位であります。  尤もこれ等の名称は芸術家や人類学者又は骨相学者なぞが各その立場立場に依ってそのつけ方を違えているのだそうでありますが、鼻の表現の研究材料としてはその名前と感じだけがわかればよろしいのであります。  先ず和製では、野生的の勇気を表わす「獅子鼻」を筆頭に、意地の悪い感じを与える「鷲鼻」、お人好しと見られる「団子鼻」、無智を示す「蓮切鼻」、無能を示す「トンネル鼻」、慌て者を表白するという「二連銃」、むずかし屋を表明する「碇鼻」、分別を見せる「鉤鼻」、又は物々しい「二段鼻」、安っぽい「抓み鼻」なぞいうのがあります。  意気筋では、よくは存じませぬが、江戸前の「ツンケン型」、上方式の「京人形型」、「オキャーセ型」、「アキマヘン型」、「バッテン型」なぞいうのが、その地方地方のこうした社会の気前を代表しているのだそうであります。  これを人類学的に分類致しますと、「アイヌ型」「コーカサス型」「モンゴリア型」「天孫型」「アレイ型」なぞの数種になる。いずれも本来はその文化程度を標示している筈のものだと申します。  一方舶来では各人種それぞれに共通の標準型があって、各その国民性もしくは民族性を代表しているそうであります。先ず上品な「希臘型」、勇敢な「羅馬型」、悪ごすそうな「猶太型」、高慢チキな「アングロサクソン型」、意地の強い「ゲルマン型」、単純な「スラブ型」、そのほかいろいろ。下って「ニグロ型」「食人種型」「擬人猿類型」、就中「狒狒型」「猩猩型」なぞいうものがありますが、もうこの辺になると、呑だくれの異名か好色漢の綽名か、又は進化論者が人類侮辱の刷毛序につけた醜名か、その辺のところがはっきりしません。先ず「赤っ鼻」や「潰れ鼻」又は「ポカン鼻」なぞいう病的表現と一所にここでは唯敬意だけ払っておく事に致します。  初対面の場合なぞは、この鼻の恰好から来る感じをソックリそのままその人の全人格の感じと認められている場合がたまにあるようであります。つまり鼻の恰好も一つの表現として見れば見られぬ事はないようであります。しかし鼻の方向や位置がその人の意志や存在を示す場合と違って、鼻の恰好が即ちその人の人格の表現であるとイキナリ決定して了うのは、あまりに早計でチト物騒ではあるまいかと考えられるようであります。  近来西洋では、 「学問のある女性の鼻の方が、学問の無い女性のそれよりも高い」  という統計が出来ているそうであります。つまり鼻の低い女性でも学問さえすれば鼻が高くなるという……まるで落し話しでありますが、「その人類の文化程度は建築物の高さとあらかた一致する」というのと同じ論法で真面目に伝えられているそうであります。  そんなところからみれば鼻の形と人間の素養、性格なぞとはまるきり関係が無いとは言えないかも知れませぬ――否、大いにあってもらいたいものであります。  学問のある人の鼻は高く、人格者の鼻は端正に、無学文盲の鼻はヒシャゲて、悪人の鼻はねじくれていたら、世界の文化はどれ位向上し、人類の生活はどれ位幸福になるか知れませぬ。さらに今一歩を進めて、すべての男女の鼻が義務教育終了程度、中等学校程度、専門学校程度、学士、博士、大博士程度とそれぞれ高さが違って行く位になったら、世界の文運はどれ位進展するか知れますまい。  ところが実際から見るとこんな事例は先ず認め難いのであります。それどころか却って正反対の現象がのべたらに上って来るのであります。西洋人は生れながらにして日本人よりも学者という訳ではありませぬ。ニグロの中にも印伊人を凌ぐ学者がいるのであります。些くともこれは大勢同志を比較した統計で、ふだん出合頭に鼻の高し低しを見てその人間の文化程度を測定するのは大間違いの初まりではあるまいかと考えられます。  尤も一方にこんな事実も多少はあり得ないと限らないのであります。  元来自分の鼻の恰好というものは存外に気にかかるものでありまして、一度鏡で見ておきますとどうかした時によく思い出すものであります。威勢のいい獅子鼻なぞを持っている人は、自分の鼻に対してもじっとしておられない場合が無いとも限らない。他人でも初対面の時なぞは一寸頼もしそうな鼻に思えて、ついおだてて見る気になる。一方不景気な抓み鼻を持っている人は、何だか顔を出しても出し栄がしないような気がするし、他人も目星をつけないままについ引込思案になるような事がないとも云えませぬ。  ところでこれが何しろ長い間の事でありますから、チョイチョイそんな気になっているうちには幾分性格にも差し響いて来る。つまり自分の鼻の恰好に感化を受けるという事も全く無いとは保障出来ないのであります。これは顔付でも同様で、多少共にこの傾向を持った人が存外多いものではないかと考えられます。  しかしこれは何と云っても愚かな話で、何も自分の鼻の恰好に義理を立てて余計な苦労を求める必要はあるまいと考えられます。持って生まれた根性と持って生まれた鼻の恰好とは、偶然に一致していない限り全く無関係なものであります。いくら鼻に義理を立てようとしても、本心に無い事である限り、そうそうは立て切れるものであるまいと思われます。  事実上その例証はいくらでもあります。  高利貸のような凄い鼻を持っている人でも交際って見ると存外無欲な人であったり、チョイとした愛嬌タップリの鼻の持主でも意想外に兇暴残忍な奴がいたりします。高徳な人の鼻の穴が正面から底まで見えたり、下司張った奴の鼻の恰好が芝居の殿様のようであったりするといったような実例はザラにあります。「人は見かけに依らぬもの」という格言が鼻にも通用するものであるならば、この格言の出来た理由の一つにこんな実例も加えて決して差し支えあるまいと思われる程、左様に多いのであります。 その人の先天的もしくは後天的の性格と鼻の恰好との間にはこれと云って取り立てる程の関係はない。 鼻の恰好から来る感じをその人の性格その他の表現と見るのは間違いと断定して大過は無い。  こうした判断のしかたは非常な危険を伴うものである。  という事はここまで研究して参りますと一目瞭然するのであります。      鼻と諦め        ――鼻の静的表現  以上は人体に於ける鼻の位置、高低、恰好等から見た鼻の表現の研究でありますが、この種の表現は元来固定的|且つ先天的なもので、人間の力で変化させる事は先ず出来ないものとなっております。蓮切鼻の人は死ぬまで蓮切鼻でいる。希臘型のを授かった人は睡っている間も希臘型というのが原則として認められております。  そのために又ここに一つの鼻の表現に対して大きな誤解を持っている人が頗る多い事になって来ております。  即ち鼻は絶対に静的なもので、眼や口なぞのように動的な表現力は全然持っていない。耳と同様に一種の飾りに過ぎぬものと昔から認められている事であります。逆に云えば、人間の意志や感情又は性格なぞいうものは何の影響をも鼻に与え得ないという事になります。  これは一般の人々ばかりではありませぬ。かなり進んだ頭を持った芸術家でも同様であります。芝居のお化粧なぞを見ましても鼻の動的表現の方は初めから問題にしないで、只鼻の恰好に現われる感じばかりを活かすべく苦心されてあるように見えます。  喜怒色に現わさずという事をすべての修養の根本、社交の第一義とまでに尊重して来た東洋の人々を相手とする芸術家の間に「鼻の動的表現」が問題とならぬのは、無理からぬと云えば云えぬ理由もあります。しかしこれと反対に表情を極度に誇張しようと努めている西洋の芸術家や婦人達の間にも「鼻の動的表現」、言葉を換えて云えば「鼻の表情」とでもいうべきものが独立して研究されたという事を未だ嘗て一度も承わった事が無いのであります。  活動やお芝居なぞを見ておりましても一層この感じを深く裏書きされるのであります。世界を挙げて人類は鼻の表現を一切打ち忘れて、鼻以外の表現法ばかりを研究しているものときめかかって差し支えないようであります。  大袈裟なところでは眉が逆立ちをしたり、眼が宙釣りになったり、口が反りくり返ったりします。デリケートなところでは唇がふるえたり、眼尻に漣が流れたり、眉がそっと近寄ったりします。その他頬がふくれたり、顳※がビクビクしたり、歯がガッシガッシしたりする。しまいには赤い舌までが飛び出して、上唇や下唇をなめずりまわし、又はペロリと長く垂れ下ったりします。  その上に足の踏み方、手の動かし方、肩のゆすぶり方、腰のひねり方、又はお尻の振り方なぞいう、顔面表現の動的背景ともいうべき大道具までが参加して、縦横無尽千変万化、殆ど無限ともいうべき各種の表現を行って着々と成果を挙げているのであります。  然るにその中央のお眼通り正座に控えた鼻ばかりはいつも無でいるようであります。只のっそりぼんやりとかしこまったり、胡坐をかいたり、寝ころんだりしております。精々奮発したところで暑い時に汗をかいたり、寒い時に赤くなったりする位の静的表現しか出来ない。たまに動的表現が出来たかと思うと、それは美味しいにおいを嗅ぎ付けてヒコ付いたのであったなぞいう次第であります。どちらにしても恐ろしく低級な、殆ど無いと云ってもいい位な表現力しか持たぬものとして、人類の大部分に諦められているようであります。  その中でもこの鼻の表現力に対する女性たちの諦め方は、特にお気の毒とも何とも申し上げようが無い位であります。  容色の美醜は特に鼻の静的表現、即ち鼻の恰好に依って大変な違いが出来て来ますので、鼻に動的の表現が無い限りどうにも誤魔化しようが無いのであります。然るに天はなかなかこの鼻を思う通りの美的条件に合わせて生み付けてくれませぬので、たった鼻一つで売れ口の遅れるような実例が方々に出来て来るのであります。このような女性は毎日鏡を見るたんびに、遺伝という学問を編み出した学者を呪ったり、自分の鼻に似た恰好の鼻を持っている肉親の方を怨んだりしておられます。又は白粉の濃淡や頬紅の掛け引きなんぞでせめて正面から見た感じなりと誤魔化そうと、明け暮れどれ位苦心惨憺しておられるか知れませぬ。  隆鼻術は、こんな方々のこんな心理状態が社会に鬱積して生み出した医道の副産物であります。もしこれが百発百中|※粉細工のように人間の鼻を改造し得る迄に発達致しましたならば、それこそ副産物どころでない、仁術中の仁術と推賞しても差し支えないであろうと考えられます。      動的表現能力        ――鼻の動的表現  これを要するに、眼や口と同様に数限りない表現が鼻にも存在するということを、確信を以て断言し得る人はあまりあるまいと考えられます。  しかし又それと同時に、鼻というものは絶対に動的表現の能力を持たぬものと断定し得る人もあまり沢山はありますまい。つまるところ、あると云えばあるような、無いと思えばないような位のところが最も常識的な考え方であろうと思われます。  ところでそれはそれでいいとして、もしこの鼻の動的表現、即ち「鼻の表情」と名付けられるものが実際に於て絶対に無いものとしたらどんな事になるでしょうか。  怒った鼻を持った人はどんなに柔和な表情をして見せても、鼻だけはいつも顔の真中でこれを裏切って「怪しからん奴だ」という感じを相手に与えるもの……又貧相な鼻の人は如何に脂切った景気のいい人相をしていても内実はいつもピイピイ風車と他人に見られるものと思い諦めている人がもしあったとしたら、その鼻は如何に呪わしいものでありましょうか。  これに反して鼻の表情なるものがもし存在するとなりましたならば、そんな人にとっては実に天来の福音として歓迎されるに違いありません。  同時に女神像のような恰好の好い鼻やエジプト犬のようなとおった鼻すじを持っていて、自分の鼻はいつも大得意で鏡を覗いている時の通りの感じを他人にも与えているものと信じていた人々にとっては、この「鼻の表現」の存在は実に青天の霹靂とも言うべき不安と脅威とを齎すものでなければなりませぬ。  鼻にも表情がある。  美しい鼻でも心掛けようでは醜く見える。見っともない恰好の鼻でも了簡一つでは美しい感じを他人に与える。うっかり出来ないと思われるに違いありませぬ。  さらに一歩を進めて、この鼻なるものは断じてそんな表現界の死物ではない。又は中風病みか鉛毒に罹った役者位にしか顔の舞台面の表現に役に立たぬものではない。他の眼や口なぞいう動的役者以上に多くの表現をそれ等以上に深刻に表現するものである。顔面表現の大立物である。  しかも顔面表現のみならず、その人の全身の表現と深厚なる関係を持っているものである。もしこの鼻の表現と鼻以外のすべての表情とが一致しない時は、その人の表現は全然失敗となる。その人の表情は尽くその純な美しさを失って決して相手に徹底せぬ。  もし又この鼻の表現を自由に支配して他の各部の表現と一致共鳴させる事が出来たならば、二重、三重、否、数重の意味を同時に表現することが出来る。芸術的の表現の場合なぞは殊にそうで、この技術を体得した人は千古の名優と称して差し支えない。又この事実を認めぬ時は如何に表情が巧みであっても後代に感銘を残す程の役者には絶対になり得ないものである事がわかったら、どんな事になるでしょうか。  更に更に一歩を進めて、この鼻の表現を研究し練磨し修養をするということが人生終極の目的と一致するものである。大は歴史の推移転変から小は個人同士の離合集散まで、殆どこの「鼻の表現」に依って影響され支配されぬものは無いときまったら、そもそもどんな騒ぎが持上るでしょうか。  鼻に表情があるということすら信じ得ない程に常識の勝った人々には、とてもこんな事は信ぜられますまい。要するに一種の詭弁か又は思い違いの深入りしたものに過ぎぬ。邪宗信者の感話位のねうちしか無い話である。現代の文明社会に生きて行く人々又は芸術家なぞが真剣に頭を突込むべき問題でない。肩の表現すら西洋人に及ばぬ日本人が「鼻の表現」なぞ云い出すのは、一種の負け惜しみか山っ子ではないか位にしか考えられぬであろうと考えられます。      古人の研究        ――鼻の動的表現  鼻の表現の存在、表現の方法、及びその価値に就いての研究応用、及びその影響は昔から鼻が閊える程存在している事は前に申述べた通りであります。  その権威は厳として宇宙に磅※し、その光輝は燦として天地を照破し、その美徳は杳として万生を薫化しております。唯これ等の事実が無意識の裡に認められて、無意識の裡に行われておりまするために、今日鼻の表現なる言葉を標示する事が、甚だ事新しい奇異な感じをそそるに過ぎないのであります。  事実上鼻の表現なるものに就いて真正面から堂々と論じてある例はあまり見当らないようであります。  しかしそれでも鼻という文字や言葉を使って鼻の表現の存在、方法、価値なぞいうものを端的に裏書してある実例はかなり発見する事が出来るのであります。  劈頭第一に掲げなければならぬのは、能楽喜多流の『舞い方及び作法の概要』と名づくる心得書の中に示されてある「鼻の表現」に関する一|齣であります。  既に人が舞台に立って舞いを舞うという場合にその姿勢をどうしたら乱さずに保てるか、その眼や口の表現は如何なる心の落ち着きに依って正しく発露する事が出来るかという事から芸道の活き死にを説明してある中で「鼻」という項にこんな事が書いてあります。 鼻は不動のものなれば心するに及ばざる如くなれども、鼻うごめかすと俗にも云ふ如く心の色何となく此処に映るものなり、心に慢りある時の如き最もよく鼻にて知らるゝものなれば意を止む可し  この能楽というものはその開祖以来代々の名人が受け継いでは演練し、演練しては研究して些しずつ改良を加えつつ次の代に残して行ったもので、つまり時代とか流行とかを超越した民衆最高の芸術的良心を対象物として永久に亘って完成に近付けて行かるべき民族的芸術だそうであります。それゆえにこれに就いて云い残された言葉は、いずれも数代を隔てて現出した名人たちが如何にもとうなずき合ったものばかり、一寸手軽く云っている一句でも、よく穿鑿して見ると非常に深遠重大な意義を含んでいるのだそうであります。  鼻の表現に就いての心得もその通りで、これだけの言葉のうちに代々の舞台上の聖人の惨憺たる研鑽の結果が籠められている事は申すまでもないのであります。 「心の色が鼻にうつる」  という事は取りも直さず鼻の表現の事であります。ここで成る程と早くも膝を打たれる人はやがてこの「心」と「鼻」とが如何に密接な「表現の関係」を持っているかという事を、如々実々に了解されるお方であります。  第一今の「鼻うごめかす」という事は、内心大得意の場合に「どうだ、おれはえらいだろう」という気持から鼻をうそうそさせる、又は「オホン」とか「ウフン」とかいう気分が鼻の頭の処に浮き出して来る事を云うので、別嬪の奥様御同伴の時、競技で勝った場合、試験に及第した時、わけても芸自慢の方が舞台に立たれる時なぞによく見受けられる表現であります。  勿論この際その鼻の色合いや恰好は別にどうといって変化する訳ではありませぬ。眼や口とても格別鼻の表現に加勢をする訳ではないので、只チンと済ましてニッコリともしないのであります。そのままにこの気分がどことなく鼻の頭に浮き出して来るので、 「心の色が鼻にうつる」  とは如何にもよくこの間の兼ね合いを云い現わしてあると、今更に感心させられるのであります。さらに、 「心の底の慢りが最もよく鼻に現われる」  という事は、本来この鼻の静的表現の中に自己の存在的価値を代表する意味がある。もしくは前に掲げました一説「人類文化向上のプライドを標示したいという内的刺激に依って出来た」という「鼻の進化論」なぞと関連しているように思われる。即ち鼻柱出現の第一の使命がその辺にあるために、こうした気分が動もすれば高潮して表現され易いのではないかと考え合わされまして、古人の研究の微妙さ又は鼻の表現研究の面白さに思わず一膝進めたくなる位であります。      意志、感情、性格        ――鼻の動的表現  しかし「鼻の表現」の実例はなかなかこれ位のものではありませぬ。小説、講談、文芸物、その他普通世間に云い伝えられていながら、鼻の表現としてはっきりと認められていない文句や言葉だけでもかなりの数に達するのであります。 「鼻にかける」という表現は、前の「鼻うごめかす」というのと同じような心理状態から出て来るものであります。「天下の色男は吾輩で御座い」なぞいうのがそれであります。持参金付きのお嫁さんなぞにもよくこの気持が出ているものだそうで、そのほか身分、容色、家柄なぞ、何でも本人の腹にあるものがこの気持ちの根拠地となるものらしく見受けられます。 「お天狗――鼻高々」なぞいうのは、この気持ちが今一層高潮して現われた場合の形容詞で、鼻が高かろうが低かろうがそんな事は些しもこの気持ちの表現に影響しませぬ。  これに反して「鼻じろむ」というのは、強敵にぶつかって「到底|叶わぬ」と気が付いたり、又は物の見事にしくじったりした場合なぞに心の底の悲観や落胆が鼻に現われたもので、何だか鼻の頭の油の気や毒気がスーッと抜けて行くような気がするものだそうであります。  古い文章なぞに「鼻うちかむ」という言葉があります。これは何かに非道く感激同情した涙ぐましい鼻の表現を形容したものらしく思われます。涙というものは沢山に出ると涙管から吸い込まれて鼻の方へ抜けて来るものだそうで、その辺からこんな言葉が出たものかも知れませぬ。お芝居で孝行者に同情した近所の者なぞは矢鱈に鼻をこすり上げます。又忠臣を手討ちにする殿様やそれを憐れむ奥方なぞがそっと鼻の下に手を当てます。つまりこうしてこうした舞台上の鼻の表現を補けるためではないかと考えられます。 「鼻であしらう」というのは頗る簡短明瞭で、相手を頭から相手にしない軽蔑し切った表現を云ったものでありましょう。 「鼻つき合い」というのは、これが両方からブツカッてスパークを発した場合で、局外者から見るとハラハラするような、面白いような表現を双方から見せ合っているものであります。 「鼻につく」という言葉は、始めのうちは珍らしさに紛れていた臭味がだんだんとわかって来てうんざりした、嫌になった、飽き飽きしたという、多少前の「鼻|白む」というのと似通ったような表現であります。これが極端になると普通の嫌なものに出合った時と同様に「鼻をしかめる」、もっと高潮すると「鼻をそむける」なぞいう表現にかわります。又同じような表現で「鼻をつまむ」というのは臭いという意味から転化したもので、「鼻もちならぬ」という表現に手の表現を添えたものであります。尚「鼻つまみ」というのは、主として人物に対してのみ用いられる形容詞で鼻の表現ではありませぬが、鼻の表現から転化したものである事はいう迄もありませぬ。  尚これは少々コジ付けの嫌いがありますが、「鼻ぐすり」という言葉があります。この種の薬を用いるのに何も特別に鼻という文字を担ぎ出さなくともよさそうに思われるのでありますが、実はしっかりした拠り処があるのであります。  つまり相手が兼ねてから見せていた「不賛成」とか「怪しからん」という不快な鼻の表情が、このお薬を用いると遠からずか忽ちにかボヤケてしまって、曖昧な表現にかわります。トドのつまり、まあ考えて見ようから「止むを得ぬ」程度までに変化して終うから、かように名前をつけたものと推察されるのであります。つまりこの薬が如何に相手の感情に利いて、その鼻の表現に如何に芽出度い変化を及ぼすかという事が、無意識の中に一般に認められているからでありましょう。  以上は主として感情から来た鼻の表現の中で昔から言い慣らわして来た言葉を拾い出したものでありますが、またこの他に刹那的又は半永久的もしくは永久的に現われる意志や性格又はそれ等のすべてを綜合した鼻の表現として認められているものも些くないのであります。「鼻を明ける」とか「鼻を明けてくれる」とかいう言葉なぞはその代表的なものの一つで、一方の決然たる意志を示すと共に、相手方の高慢チキな鼻の表現が引くり返って「アッケラカン」と空虚になった鼻の表現を期待した言葉であります。 「鼻を折る」とか「折られる」とかいうのもこれと同様の意味で、こちらの「どうするか見ろ」とかかって行く意気組と共に、先方の同じような突張り返った鼻の表現がタタキ落とされるかヘシ曲げられるかして、「もう堪忍」とか「無念」とかいうセンチメンタルな表現になるのを形容した言葉であります。 「鼻息が荒い」というのは、決して凹まないという猛烈な意気組が鼻の先に横溢して、意志や感情の風雨雷電をはためかしているのを鼻息になぞらえたものでありましょう。 「鼻っ張りが強い」という言葉は、「五分も引かぬ」「理が非でも勝つ」という意志が鼻っ柱に充実している場合を指す事は明らかであります。見様に依ってはこの表現が如何なる場合にも連続して発揮されるため、その本人の性格の象徴として認められているものとも考えられるのであります。 「鼻息を殺す」という形容詞も同様に鼻の表現の一つとして認められ得るのであります。これは「息を凝らす」とか「詰める」とかいう言葉の代りに用いられるので、それよりももっと緊張した感じを見せる表現として認められているようであります。即ち「息を殺す」という方は他人の武術や運動の勝敗なぞを見る時に主として用いられるようでありますが、「鼻息を殺す」という気分は直接自分に利害関係のある問題に対して現わす事が多いようであります。つまり形勢|奈何とか様子如何にというような場合に自分の意志、感情、妄想なぞいうものをピタリと押え付けた気持ちを云ったものであります。かようするとその気持ちは平生とはまるで違って、眼はあらゆる注意力を奥深く輝かせ、口はあらゆる意志を一文字に啣え込む。耳はすべての響に対して底の底まで澄み渡る。同時に鼻の頭のすべての表現は八方に消え失せて、只|無暗に強く深く冴え渡った緊張味だけが全身の気組を代表して残っているという事になるのであります。  泥棒や掏摸、刑事、巡査、その他の司法官又は武術家、運動家なぞの鼻の頭には、この気分がコビリ付いてふだんに緊張した表現を見せているのがあります。 「鼻息を窺う」というのもこれに似た気分であります。但しこれは相手が人間であって、しかも自分よりも上手に対して「鼻息を殺した」場合の形容詞と認めて差し支えありません。  自分の鼻の表現を一切引き締めて、相手の気分の虚実に乗じてやろう、弱味があったらつけ込もう、強味があったら受け流そう、笑ったら笑ってやろう、泣いたら泣いてやろう、そうして相手を動かしてやろうというので、前に述べました「鼻ぐすり」の代りに掛け引き一つで行こうとする極めて徳用向きな――同時に千番に一番の兼ね合迄に緊張した鼻の表現であります。  この表現を高潮させるには、先ず自分の性格、意志、感情なぞと同時に阿吽の呼吸までも相手にわからぬようにソーッと殺して終うので、この辺は自分の「鼻息を窺っ」ているようにも見えます。同時に無意識にせよ有意識にせよ、相手の鼻の表現に対して極めて刹那的且つ連続的な注意力と理解力とを同時に集中して働かせていなければなりませぬ。それ程さようにデリケートな、そして或る一面から見れば暗い感じを持った鼻の表現で、時勢が進むに連れまして生存競争に打ち勝とうとするものは何人も是非共この表現の方法を一応は心得ていなければならぬものだそうでございます。  主として性格を表わす分では、前に挙げました「鼻つまみ」の外にもっと主観的な形容の方では「鼻下長」とか「鼻毛が長い」という言葉もあります。もあります位ではない、随分と方々で承わるようであります。  御知合いの中においでになるかも知れませぬが、お美しい夫人を持たれて内心恐悦がっておられるお方や、すこし渋皮の剥けた異性さえ見れば直ぐにデレリボーッとなられる各位の鼻の表現を指したもので、何も必ずしも具体的に鼻の下や鼻毛が長いという意味ではありません。唯そうした方々のそういったような心理状態を鼻が表現しているために、こういったような形容詞を用いたものらしく考えられるのであります。  その証拠には事実上の鼻下長の方でも、随分鼻の下や鼻毛の切り詰まった方が多いのであります。これに反して鼻の下がレッテルの落ちたビール瓶のようにのろりとしていたり、鼻毛が埃を珠数つなぎにする程長かったりする人でも、猛烈に奥様を虐待される方があります。  つまり異性に対して恍惚としていられる方の気持はともかくもダレていて、天下泰平ノンビリフンナリしているところがあります。そのために鼻の付近に緊張味が無くなって、鼻の穴が縦に伸びて中の鼻毛でも見えそうな気分を示すので、これは誠に是非も無い鼻の表現と申し上ぐべきでありましょう。 「鼻毛をよむ」というのは、こうした鼻の表現と相対性を持った言葉であります。但し鼻という言葉が使ってはありますが鼻の表現とは認めにくいので、先ず鼻の表現の副産物といった位の格でありましょう。ただその態度のうちに相手をすっかり馬鹿にし切って鼻毛までも数え得るという冷静さと同時に、上っ面だけは甘ったれたのんびりした気分から鼻毛でも勘定して見ようかという閑日月が出て来る。その気持ちを代表した睡そうな薄笑いがそうした場合の女性の鼻の表現に上ってはいまいかと想像し得る位の事であります。  これに反して純然たる性格を代表した鼻の表現の批評に「意地悪根性の鼻まがり、ぬかるみ辷ってツンのめろ」という俚謡があります。「ぬかるみ辷って」云々は余計な言葉のようでありますが、実は左様でないので、相手があまり嵩にかかって意地悪を発揮して来る、こちらを圧倒すべく鼻がイヤに下を向いて折れ曲って来るような感じを与える、此奴がツンノメッテヒシャゲてしまったら嘸いい心持ちであろうという心を唄ったもので、小供が大人にいじめられて安全地帯まで逃げ出した時なぞによくこんな事を云ってはやし立てているのを見受けます。 「鼻がつまったような奴」という形容詞は一寸珍らしく感ぜられるかも知れませぬが、あるにはあります。これも前のと同様に純然たる性格の表現で、一寸当世向きしないような感じを与えるものであります。  相手が茫々たる無感覚でちっとも鼻の表現をしない、時々腹の底で薄笑いしているようにも見える、この方を馬鹿にしているようにも見えるし尊敬しているようにも見える、わかったのやらわからぬのやら賛成やら不賛成やらサッパリ判然せぬ、大人物やら小人物やら大馬鹿やら大利口やらそれすら見当が付かない、無意味か有意味か知らず、ただ空しく有耶無耶としているもののように見える場合に云うので、極端にえらい人やえらくない人、大人物を装うものや負け惜しみの強い卑怯者、又はいくらか頭のわるい人の鼻によく現われるニューッとした表現であります。  蓄膿症や鼻加答児なぞで鼻の中が始終グズグズして、判断力や決断力の鈍った人なぞにも多く見受けられるようであります。      馬鹿囃子        ――鼻の動的表現  昔から認められている「鼻の表現」の数々をここまで研究して参りますと、どうしても問題にしない訳に参りませぬのは、「おかめ」と「ヒョットコ」と「天狗」のお面であります。  いずれも子供衆のお相手|位のもので、真面目腐って研究するのは馬鹿馬鹿しいようでありますが、お伽噺の中に人生の大問題が含まれているように、この三通りのお面にもなかなか容易ならぬ意味が含まれているのであります。  これ等のお面の表現の中心になっておりまする三様の鼻の表現は、人間の性格を三つの方面に分解して、その一つ一つの方面を芸術的に誇張された鼻の表現に依って代表させたものと見るのが最も早わかりで面白くて、しかも意味が深長なようであります。 「天狗」はその才能、通力なぞいうものに対する極度の誇りを、その素破らしく高い鼻に依って表明しております。そうして鼻以外の処は眼を怒らし歯を噛みしめ顎鬚を翻して、 「何が来ても恐れ入らないぞ、何を持って来ても満足を与えないぞ、おれ様がどんなに豪いか知らないのか」  と、虚勢を張った表現をしております。 「おかめ」はこれと正反対に、普通以下に低いその鼻の形でそんなプライドが少しもない心を見せております。同時にその眼は細く波打ち口はすぼまり頬ペタは笑くぼを高やかに盛り上げて、 「すっかり満足致しておりまする。何もかも勿体ない位面白くておかしい事ばかり。只もう嬉しくて嬉しくて」  という表現を作っております。その表現はそのチョッピリとした鼻の背景として、そうした気分を弥が上にも引っ立てているかのように見えます。「おかめ」の一名をお多福というのは、こうして現在のすべてに満足している気持ちを云ったものと推察されるようであります。  畢竟するところ、この二つの鼻の表現は人間の性格の両方向の行き詰りで、「天狗」は極度の増長と高慢を――又「おかめ」は極度の謙遜と無知無能とを表現しているのであります。  然るに「ヒョットコ」となると、その高慢も謙遜もありませぬ。全く明け放しの鼻の表現をしております。  すべてに対して驚いております、不思議がっております、ビクビクしております、うろたえております、ヒョットコヒョットコしております。只色気を見せる鼻毛と、喰毛を見せる口だけが並外れて長いという、つまり極度に文化程度の低下した無知無能な性格を表わしております。地方に依りまして「ヒョットコ」の一名を「モグラ」というのは、土から顔を出して眼をパチクリさせるなり慌ててもとの土にもぐり込む※鼠の鼻の表現に似た表現だからではありますまいか。  この三種の仮面はかようにして、いずれもその思い切り誇張された鼻の形に依って、一時的もしくは永久的に現われる人間の性格の三つの傾向を代表させております。  この三種類の鼻の表現が代表する人間の性格の三つの傾向は、大きく云うと人類の文化――小さく云えば個人の性格と非常に深い関係があるのであります。即ち人間の性格は、この三つの中どちらに傾いてもその向上発展は望まれなくなるのであります。その代りこの三つのお面が自覚さえすれば直に進歩発達の道に入ることが出来るのであります。「天狗」の自慢が消え、「おかめ」の無知無能が眼覚め、「ヒョットコ」がその色気と喰気から救われるのであります。  この三つの傾向を自覚というものに依って取り纏めて行くところに人間の性格の向上進展があるので、この三種類の鼻の表現を取り合わせて人間らしい高さと恰好に加減して行くところに、鼻の表現の根本原理が含まれているのではないかと考えられます。その証拠には人間が無自覚であればあるだけこんな鼻の表現に陥り易い。同様に国家や民族がこの三つの傾向のうちのどれかに囚われた時、その国家や民族の運命は下り坂となるのであります。  こんな風に観察して参りますと、この三つのお面が活躍する「お神楽」というものは、鼻の表現によって象徴された無自覚な性格の分解踊りとも見られるようであります。同時に馬鹿囃子という音曲の名前も、まことにふさわしいものとなって来るのであります。  かの三つの鼻の表現が、この馬鹿囃子に連れて動きまわる。極めて低級な芸術的価値しかない伝統的な踊りをおどる。そのつまらない単調子さのうちにどことなく騒々しいような、淋しいような――面白いような、自烈度いような気がする。人生の或る基調に触れて人の心をひきつけるようなところがある。  ……実は永遠に無自覚な人類生活の悲哀を「鼻の表現」と「馬鹿囃子」に依って象徴した最も哲学的な舞踊劇である、人生もしくは宇宙その物の諷刺である……という事を、舞っているものも見ている人も、知らずにいるのではあるまいかと考えられて来るのであります。      本来無表現        ――鼻の動的表現  この他古今の文献、詩歌小説、演劇講談、落語俗謡、その他の言語文章、絵画彫刻なぞいうもの、又は外国語等にも亘って調べましたならば、随分沢山の鼻の表現が現われて来るであろうと想像されます。しかし以上述べましただけでも「鼻の表現」は存在するものである、就中その動的表現は意想外に夥しいもので、しかも顔面の表現の中で最も偉大な役割を勤めているものであるという事があらかた御諒解出来たであろう事を信じます。  しかし或る一部にはまだこの鼻の表現について疑いを有しておられる方が無いとも限りませぬ。 「それはそんな気がするだけで、コジ付けと云えば云われぬ事もないが」  と考えられる方がおられる事と思います。これはかような方面にあまり興味を持たれぬ方々の云い草でありましょうが、同時に「表現」とか「表情」とかいう方面に特殊の注意を払っておられる人々はかような疑問を挿まれはしまいかと推測されるのであります。 「鼻の表現というのは一種の錯覚に過ぎぬ。顔面の他の部分の表現が鼻を中心として飛び違うために、その十字線が丁度鼻の上に結ばって一種の錯覚を起すものである。強ちに鼻ばかりが本心の動き方を表現し得るものでない。寧ろ鼻というものは舞台の中心に置かれた作り物と見るべきが至当で、その場面の表現は他の役者が遣るからその作り物にも意義が出て来るのと同じわけのものではないか」  この二つの疑問や反駁は詰るところ同じ意味で、誠に御尤も至極な理屈と申し上げなければなりませぬ。  事実上鼻はヒクヒクと動いたり、時々赤くなったり白けたりする外何等の変化も見えませぬ。  仮りに「鼻の表現というものがあると云うから一つ正体を見届けてやろう」という篤志家があって、他人と向い合った時なぞに相手の鼻ばかりをギョロギョロと見詰めておられたとします。生憎な事にはそんな場合に限ってかどうかわかりませぬが、とにかく相手の鼻は何等の表現を見せませぬ。色や形を微塵もかえませぬ。  これに反して眼や口や眉は盛んに活躍します。その表現はその変化の刹那刹那に悉く鼻を中心として焦点を結んで、こちらの顔に飛びかかって来るように思われます。  しかし鼻はそんな場合でも吾不関焉と済ましております。まるで嵐の中に在る鉄筋コンクリートの建築物のようで、只風景の中心の締りにだけなっているかの観があります。意志のお天気の変り工合や感情の風雲なぞの動き工合で色や形の感じが違って行くように見えるだけであります。  ……矢っ張り鼻には動的の表現は無い……変化の出来ないものに表現力のあろう筈がない  ……あっても他動的で自動的ではないにきまっている……  という事になります。  この観察は悉く中っているのであります。鼻は本来自動的には極めて単純な表現力しか持たない……本来無表情と見られても差し支えない事を鼻自身も直に肯定するに吝なるものでないと信じられるのであります。  ところがその本来無表現を自認している鼻が、その本来無表現をそのままにあらゆる自動的表現をするから奇妙であります。有意識無意識のあらゆる方面に於ける内的実在もしくはその変化を、如何なる繊細深遠な範囲程度迄も自在に表現し得るから不思議であります。  人間のあらゆる表現を受け持つ顔の舞台面に於て眉や眼や唇なぞが受け持つ役は実に無限と云ってもよろしい程であります。しかしその中にはどうしても鼻でなければ受け持ち得ない役が又どの位あるか判らないのであります。鼻が登場しなければ眼や口がいくら騒いでも象徴し躍動せしめ得ない表現が、矢張り無限と言ってもいい位にあるのであります。  手近い例を挙げましても今までに出て来た……  ……鼻をうごめかす……  ……鼻にかける……  ……鼻じろむ……  ……鼻であしらう……  ……鼻っ張りが強い……  ……鼻毛が長い……  というような感じの中一つでも眼や口に出来るのがありましょうか。  眼尻を下げても鼻毛はよまれぬ人が沢山にあります。腮が突張っているのは受け身に強い表現で、働きかけの烈しい鼻っ張りとは場面が違います。鼻であしらうのと腮でしゃくるのとは、初対面の軽蔑と旧対面の傲慢程感じが相違しております。眉をひそめて唇を震わしただけでは「鼻じろむ」の感じは出せませぬ。殊に自慢高慢に到っては、鼻にかけてうごめかすより他にかけてうごめかし処が無いのであります。これ等の事実を考え合わされましたならば、鼻の表現の可能不可能問題は自ら解決されるであろうと考えられます。      鼻の審判        ――鼻の動的表現  時は紀元前千二百三十四年、埃及はナイル河の上空に天地の神々が寄り集って、物々しい光景を呈しました。これはこの時に死亡しました埃及王ダメス二世の鼻の裁判が開かれるためでありました。  埃及国の慣わしと致しまして、人間は死にますとすぐに神の法廷に召されて審判を受けます。即ちその心臓を秤にかけられて罪の軽重を秤られ、罪無き者は神と合し、罪の軽いものは禽獣草木に生れ換り、悪業の深い者は魔神のために喰ってしまわれる事になっておりました。  ダメス王はその統治する埃及国に於きまして、世界最初の文化の真盛りの時代を作った名王でありました。従ってその鼻の高さは世界最初のレコードを見せておりましたために、特別に天地の諸神の注意を惹きまして、扨こそかような御念入り裁判が開かれたものと察せられました。  その時の裁判の情景は、その法廷の記録係タータというものに依って詳細に記録されて今日に伝えられております。これに依って見ますと、鼻の表現的使命は、既に紀元前一千二百余年前に於て明確に決定されているのであります。  タータの記録した象形文字は、次のごとく訳されております。  ……………………………………………………  正面中央の高座、白雲黒雲の帳の中には、太陽を象徴した天地諸神の主神ホリシス神が、風雨雷電の神を従えて座を構えておる様子であります。  その左右中段には四十二人の判官が、笏形の杖を持って整然と着席しております。  下段右側には動的表現界の代表者、犢、犬、猫、鷹、甲虫、鰐、紅鶴等の神々が列座し、左側には静的表現界の代表者、月、星、山、川、木、草、石等の神々が居流れております。  その中央に黄金の鼻輪に繋がれて引き出されたのが、今日の被告ダメス王の鼻で、その背後には同じ王の眉と眼と口と耳とが証人として出廷着座しております。  ダメス王の鼻の前には一基の天秤がありまして、豹の頭を持ったマスピス神が鼻の罪量を計るべく跪き、その直ぐうしろには記録係タータが矢立てを持って、眼を瞠り耳を澄まして突立っております。その又うしろには頭が鰐、身体が獅子、尻は河馬という奇怪な姿の魔神ラマムが、罪の決定し次第に鼻を喰べさせてもらおうと待ち構えております。  これ等はすべて、この空前絶後の鼻の裁判開始前の光景であります。  やがて正面上段の白雲黒雲の帳が開かれますと、水晶の玉座の上に朝の雲、夕の雲、五色七彩の袖眼も眩く、虹霓の後光鮮かにホリシス神が出現しまして、赫燿たる顔色に遍く法廷を白昼の如く照し出します。同時に正面中央の二名の判官が立ち上って、「鼻の裁判開廷の理由書」を同音に読み上げます。 「被告ダメス王の鼻は、王の顔面の静的動的両表現界の中央に位し、王の存命中傲然として何等の動的表現をなさむ。王の眼、眉、口等が無量の動的表現を以て王の知徳を国民に知らしむべく努力したるにも拘らず、国民の尊信は悉く王の鼻にのみ集中せり。その状|恰も王のすべての表現の功を奪えるに似たり。凡そ無為徒食して他の功労を奪う者は重罪者たるべき事、神則人法共に知るところなり。依ってこの裁判を開き、ダメス王の鼻の罪の有無を諸神の批判に措き、ホリシス神の御名に依って処断せむと欲するものなり」  読み終った判官の一人は厳然としてダメス王の鼻に問いました。 「被告ダメス王の鼻よ、汝に於て弁疏せむと欲するところあれば速に述べよ」  ダメス王の鼻は面倒臭そうに唯一言、 「弁疏無し」  と答えました。  この態度を見た満廷の諸神は、皆驚きの評を発しました。今まで死後の裁判に引き出されて、怖れ戦きつつ自分の善行を陳べ立てぬものは只の一人も無かったのであります。既に木乃伊にされたダメス王自身でさえも、一平民と同様に法廷の甃にひれ伏した位でありました。然るにその鼻ばかりが王の生前の威儀を保ち、神々を恐れる気ぶりも見せぬという事は、実に前代未聞の事であったからであります。  顔を見合わせた判官たちは、次々に立ってダメス王の鼻の訊問を初めました。 問…被告ダメス王の鼻よ、汝は汝自身に静的と動的の両表現界のいずれに属するものと信ずるや。 答…予は両表現界の代表者なり。 問…王の眼、口、眉等は王の生前、各独立してその固有の動的表現をなし得たり。汝は独立して何等かの表現をなし得たる記憶ありや。 答…無し。 問…被告ダメス王の鼻よ。汝は汝自身に非ざればなし得ざる表現として他に認められたるものありや。 答…無限にあり。 問…そは他の顔面表現係の補助を受けてなし得たるものに非ざるなきか。 答…記憶せず。 問…この事に就いて考えたる事なきや。 答…考えてなし得る表現は尽く虚偽なり。生命は刻々に流転す。予はその真実を知るのみ。 問…知りしのみにて表現はせざりしか。 答…記憶せず。 問…王の眼、口等は王の命に依ってその敵手たるキタ人、エチオピア人、アッシリア人、リビア人、又はその愛する女性等に対し屡虚偽の表現をなせり。而して屡その虚偽なる事を看破されたり。王の本心を知り得る汝は窃にこれを表現したる事なきや。 答…記憶せず。 問…然からば汝は如何なる能力を自信して王の表現のすべての代表者なりと云うか。 答…予はダメス王の鼻なり。 問…王の動作もしくは静的表現の成果のすべてを盗みしに非ざるか。 答…知ってこれを代表せしのみ。 問…ダメス王は汝が王のすべてを知れる事を知れりや。 答…知らず。 問…何故に知らざるか。 答…自惚れのために。 問…汝の知り且つ代表せる範囲とは、王自身の有意識界、無意識界、動的表現界、静的表現界のすべてを意味するか。 答…それ以上。 問…王の生前死後の総てを含むか。 答…それ以上。 問…王を中心とする自界他界、宇宙万有、地獄天堂の過去現在未来までもか。 答…それ以上。 問…叱! 汝はホリシス神の御前にある事を忘れたるか。 答…ホリシス神が予の前に在るを知るのみ。 問…咄! 然らば汝は神なるか。 答…人間の鼻なり。 問…汝の答弁は尽くその真なる事をホリシス神に誓い得るか。 答…誓うに及ばず。 問…言語道断! 何故に。 答…ダメス王の鼻、神の鼻に非ず。  独立|不羈、神を神とも思わず、ダメス王の鼻はこうして遂に神の法廷を威圧して終いました。その答弁は一つ一つに諸神を驚かすばかりでありました。真実か虚偽か、本気か冗談か、平気か狂気か、イカサマ師か怪物か、そうして有罪か無罪か判断に苦しむ大胆さ、しかも生前の主人ダメス王の真価値は勿論、神の権威の軽重までも計りそうな意気組を示しております。  只ホリシス神の御機嫌のみは益麗しいと見えまして、その顔色は益晴れやかに輝き渡りました。  これに力を得た判官の一人は立ち上って、眉と眼と口と耳の四人の証人に向って、鼻の言葉の真実であるか否やを問いました。然るに驚くべし、眉は最前から逆立ちをしております。同様に眼は色が変り果てております。口は顋が外れたと見えまして開きっ放しになっております。耳は大熱に浮かされて火のように赤く燃え上っております。今まで友達と思っていた鼻が、生前の温柔さにも似ず余りに無法な方言をするのに驚かされて、巻き添いを喰いはしまいかという極度の恐怖から、かように正気を失ったものと察せられました。命に依って現われた法廷の掃除人、蟻の神は四人の証人をそのままにダメス王の木乃伊の寝棺に返してしまいました。  判官は仕方なしに仮りに鼻の答弁を真実と認めて、これに依って検事と弁護士とに罪の有無を論争させる事にしました。      権威と使命        ――鼻の動的表現  検事の役目を承わった動的表現界の代表者、犢の神は鼻息荒く立ち上って、劈頭左の如く論じ出しました。 「被告ダメス王の鼻には動的表現があったと認めなければなりませぬ。動的表現界に於ける詐欺行為者と認める訳には参りませぬ。ダメス王の鼻は王の生前に於て眼や口その他の動的表現係より受けたる恩義に酬ゆるために王の死後、『動的表現をなしたる記憶無し』と主張している者である事を先程よりの答弁の中に充分に認める事が出来たのであります」  この言葉は又法廷の全部をどよめかすに充分でありました。検事が真先に被告の無罪を主張するという事も空前絶後の一つに数えられたからであります。しかも後半の議論に依って、犢の神が果してダメス王の鼻の弁護をしているものか、していないものかがわからなくなってしまいました。これこそ世界最初の詭弁ではあるまいかと、益一同の耳を引っ立てさせたのであります。 「ダメス王の鼻の無罪を主張する理由は、左の三ヶ条に尽きております。  第一には、王の鼻が何等かの理由無しに王の顔の真中に存在する筈がないのであります。眼や口なぞいう動的表現役者の真中に取り囲まれながら、悠然として静的表現を守っていられる筈はない。矢張り何等かの動的表現の使命を持っているものと認められなければなりません。  第二には、鼻という言葉を用いなければ説明の出来ない表現が沢山に存在する事であります。便宜上だけでもよろしい。鼻という文字を使わなければ受け取れない表現の形容が頗る多いので、どうしても鼻の動的表現を認めなければならぬ事になるのであります。  第三には、錯覚でも何でもよろしい、鼻というものの動的表現の可能性を認めなければ、社会風教上その他万事につけて不都合なのであります。すべての鼻に絶対に動的表現が無いとすると、眼や口だけで表わしている意志や感情、性格なぞが全然虚偽であっても、その虚偽である事が永久に判明しないで済む事になるのであります。どんな悪心を蔵している奴でも顔付がニコニコしている以上、その悪人である事が永久に露顕しないで終る事が無いとも限りませぬ。ダメス王の虚偽の表現は、その鼻に依って裏切られていたものと認めた方が、神の戒め、人の恐れとして誠に結構な実例を残すことになるのであります。さもない限り世間は虚偽の表現のみに埋め尽されて、世道人心は忽ちに腐敗し去るのであります。神は地上に何等の神的表現を見せませぬ。けれども下界の人間は、天体地上の万象を悉く神として尊信しております。さらに恐れ多い事ながら、それ等のすべての主宰として、これ等のすべてを知ろし召す唯一神の神的御在位をも信じ奉っているのであります。況んやこの明知赫燿たる神の法廷に於て、ダメス王のすべてを知っている鼻が、その有意識界無意識界の変化に対して、何等かの表現能力を持っている事を認め得られない筈はありませぬ」  果せる哉、検事の論告は、矢張り検事の役目に背いたものでありませんでした。この三ヶ条の議論は表面上、鼻の動的表現能力存在の可能性を極力主張しているようでありますが、よく考えて見ると左様でないのでありました。いくら鼻が動的表現に埋もれていても、何ぼ形容詞が沢山にあっても、何程都合がよくっても、又は鼻が神様と同格のものであるとしても、眼や口と同じような表現を鼻に押しつけるのは無理であるという事を、深く深く認めさせようという議論の立て方でありました。 「動的表現界に於ける鼻の詐欺行為」は、こうして尽く肯定本料に依って埋めつくされそうに見えました。  この巧妙なる論告に対して静的表現界の代表者、月の神は立上りました。冷やかな態度でかような弁護をしました。 「私は鼻の動的表現を認める事が出来ませぬ。最前の審問に於て、ダメス王の鼻は――記憶せず――と云い抜けて、暗にその無能力を認めております。  すべて動的表現をするものは、色か形か何かを動かしていなければなりませぬ。波を切りわけて行く船の舳は、動的表現をしていなければなりませぬ。嵐の前に黒ずんで行く海も同様であります。船も海も生命があります。動的表現は悉く生命を持っているものでなければ出来ないのであります。  色も形もかえ得ないものは、総て静的表現しか持たないものと考えなければなりませぬ。死物と同様に見なければなりませぬ。牛の鼻も人間の鼻もこの意味に於て死物同様であります。静的表現ばかりしか持ちませぬ。  ダメス王の鼻も同様でなければなりませぬ。王の鼻の表現は、死んでも生きても何等の変化も無い筈であります。色彩を施された王の木像の鼻とすこしも変りが無い筈であります。仮令ダメス王の鼻が、その生前に於て眼に止まらぬ位の僅かな変化で、その本人や性格を極めて微弱に表わしておったとしても、眼に見えぬ変化が人に感動を与える筈はありませぬ。鼻の動的表現は悉く錯覚であります。ダメス王の鼻は、王の顔面に築かれたピラミッドに過ぎませぬ」  この強い、そうして静かな議論は、その一言一句が悉く生と死――動と静の反語ばかりで成り立っている事を並いる神々に認めさせました。同時に鼻は生き物である、神秘世界の産物である、鼻の動的表現は理屈では認められぬ、ただ事実上にのみ存在し得るという事を深く深くうなずかせました。  法廷のそこここに溜息の評が洩れました。月の神はさらに議論を続けました。 「但し、これだけの事実は認められます。ダメス王の鼻が王自身の表現界の王であった事は、恰もダメス王が埃及国の王であったと同様でありました。王の顔面の表現機関は王の鼻の左右大臣であり、その他の全身各部の表現作用は、その召使であり奴隷でありました。しかしこれ等の事実は、そのままに動的表現が不可能である事を証明していたのであります。王の鼻はこれ等の表現の補助を受けなければ、何等の動的表現もなし得なかったのであります。そうしてこれ等の補助機関が細かに動き得れば得る程、王の鼻の表現は殖えて行ったのであります。  ダメス王の鼻は、王の意志、感情、性格、その他王自身に就て、王の知らない事共までも存じていると申します。しかし、知っているということは、表現し得るという事ではありませぬ。  王の鼻は、その知っている事、感じている事をその臣下たる動的表現係の各大臣に申し付けて表現させました。そうして自分自身の表現であるかの如くに装いました。眼や口には出来ぬ、鼻でなくては到底ここまで深く現わし得ぬものと見られていた表現でも、それは王の鼻が他の表現機関を巧に使い別けて、二重三重の表現をさせて、その表現の中心に結ばった感じを自分の表現と見せかけたものであります。人々はこれ等はすべてを王の鼻の表現と認めまして、これに嘆服し、これを崇拝しました。しかし実は王の鼻は、何等の表現をもしないのでありました。只顔の真中の王座に反り返っているのでありました。  王の顔面の総ての表現が、その鼻の表現と認められていた事、恰も埃及国内のすべての出来事が王の責任と認められていた如くでありました。王の全身の表現が、その鼻に依って代表されて他人に受け渡しをされていた事、恰も埃及国の全権が、ダメス王に依って掌握され、ダメス王の名に依って他国と批准交換されていた如くでありました。しかも王は太平楽の裡に無為徒食しておりました。  王の鼻が総ての表現を代表する事が出来たのは、その鼻自身が無表現だからでありました。  王の鼻の動的表現の可能性は、その絶対不動のところにあったのであります。  すべて動的活社会の統一的代表者は、不動的人格の所有者でなければなりませぬ。  同様に動的表現の支配的象徴者は、不動的表現の具有物でなければなりませぬ。  ダメス王の王座はこの如くにして、埃及の国家組織の中心に自ら胚胎した事でありました。  王の鼻の座もこの如くにして、王の顔面の中央に天然自然と開設されたものに相違ありませぬ。  王の鼻の動的表現が無から有を生じた事は、かようにして遺憾なく証明されるのであります。その動的表現の存在はかようにして否定され得るのであります。  その間に何等の不可思議もありませぬ。  何等の予質もありませぬ。  人間の知識では驚異に値するかも知れませぬ。しかし神の国に於いては、不可解の存在は許されませぬ。予質の神秘は認められませぬ」  月の神はかようにしてダメス王の鼻の動的表現能力を絶対に否定して、席に着きました。同時に並居る諸神は悉く絶対に、鼻の動的表現能力を認め得たのでありました。そうしてこの時、月の神と犢の神とが人知れず顔を見合わせてニッコリと笑いました。これを気付いていたのは只記録係タータの神ばかりでありました。  ここに於て四十二名の判官は別室に退いて、一つの判決文を作りました。そうして再び打ち揃って着席の上、中央の二名が立ち上って同音に読み上げました。 「ダメス王は無為徒食せるが故に国家の罪人とは認められざりき。王の鼻も又何等の動的表現を有せざりしという理由のもとに、動的表現界の罪人として認めらるべきものに非ず。その表現界統一の功績は、埃及に於けるダメス王の沿蹟と等しく万人の敬仰礼讃を受くべきものに属す」  次いで鼻はその黄金の鼻輪を除かれまして、正面の天秤の一方に載せられました。マスピス神はその反対の秤に、誠実を表す鳥の羽根を載せて罪の軽重を計量しましたが、左右の秤は物の見事に平均して、今の判決の真実である事を証明しました。  ダメス王の鼻は、ロルス神に導かれて正面の上段、ホリシス神の御前に進み寄りました。ホリシス神はこれを掌の上に招き載せて一同に見せながら、玉音朗かに宣言をされました。 「鼻は人間の神である。人界の動静両表現界を主宰させるために余が代理として遣わしたものである。  独立不動と不羈の向上――は余が秘密に授けた鼻の使命であった。  ダメス王の鼻が、この使命を最もよく発揮して、ここに人類界最高の記録を破り得た事を嘉する。さらにその死後に於ける裁判に於ても、この本領を空前絶後にまで発揮し得た事を嘉する。  人類の文化は最早絶頂に達した。最早鼻の神秘は破れて差し支えない時が来た。ダメス王の鼻に依って月の神と犢の神がこれを破った。ダメス王の鼻以前にダメス王の鼻無く、ダメス王の鼻以後にダメス王の鼻は無いのである。  ダメス王の鼻は、魔神ラマムに与えらるべきものでない。  余――ホリシスに与えらるべきものである」  と云ううちにホリシス神はダメス王の鼻を口に入れてムシャムシャと喰ってしまいました。  最前から秤の傍に待っていたラマムはこの様子を見ると、ベロベロと舌なめずりをしながら他の鼻を探しに暗黒世界に去りました。  満廷の諸神は開いた口が塞がりませんでした。  ……………………………………………………  これは三千年前の神の裁判の判決でありますが、これを二十一世紀の今日に於ける鼻の表現の実際に徴して見ると、どんな事になるでありましょうか。      無意識の表現        ――鼻の動的表現  三千年前の「タータの記録」に依りますと、鼻は絶対不動という事になっておりますが、今日では多少動いたり色が変ったりする鼻も珍らしくないようであります。これはタータの記録があまりに哲学的に論じてあるためか、又は今日の人類がそれだけに進化したためか、どちらかでなければなりませぬ。  しかしいずれにしましても、鼻が独力を以て動的表現をなし得ない事は先ず事実と認めて差し支えありますまい。鼻がたった一人で如何に色を換え、形を換え、手を変え品をかえて見ても、結局それは何を意味しているのか判然しませぬ。眼だけが細く波打って笑いを見せ、口だけがへの字になって怒りを見せるのとは同日の論でないのであります。  しかし同時に鼻が些しでも鼻以外の表現能力の補助を受けると、直ちに驚くべき表現力を発揮し得る事は、事実が証明しているのであります。さながら竜の水を得たるが如く、又は虎の山に凭れるが如く無辺際に亘って活躍して、鼻以外の表現能力が発揮し得ない範囲にまでも遠く深く及ぶものであります。  ここに於て鼻の表現能力は如何なる哲学、如何なる宗教、如何なる芸術も解決し得ない不可思議その者となって来るのであります。  永久に解決出来ない神秘で、しかも眼前にある明白な事実となって来るのであります。  所詮、鼻は表現界中央の重鎮……表現界のドミナントであります。  偉い人はたった一人でいる時は、宿賃の工面は愚か車の後押も出来ません。しかるにこれにいったん有意有能な同志や乾児がくっつくと、無限不動の裡にその同志や乾児の総ての能力以上の価値を示す事が出来るのであります。又鼻は、顔面表現の舞台面に於ける千両役者とも見る事が出来るのであります。  ……御注進御注進、一大事一大事……ナ、何事じゃ……と慌てふためく動的はした役者よりも、舞台の真中に神色自若としている千両役者の方が、はるかに深い感動を見物に与えるようなものであります。  鼻は云わずして云う者以上に云い、泣かずして泣く者以上に泣き、笑わずして笑う者以上に笑い、怒らずして怒る者以上に怒る好個の千両役者であります。  同時に鼻は、他の動的表現係がいくら騒いでいる場合でも、その騒ぎが本物でない限り一切これに関係しない。却ってその騒ぎの裡面の真相を、不変不動の中に発表して行くという英雄的真面目さを持っているのであります。  眼が表す悲しみや怒り、口が示す喜びや悲しみ、そんな通り一遍、一目瞭然の表現は、鼻には無いと云ってもいい位であります。  鼻の表現はもっと深刻であります。  もっと真率であります。  もっとデリケートであります。  それだけに有意識的に相手に認められ難い。  それだけに無意識的に相手に深い感銘を与えるのであります。  眼や口がその人間の感情や意志を現わして相手の感情を刺激するものならば、鼻はその魂を表して相手の魂に感じさせるものであります。世に云う以心伝心という事は、鼻の存在に依ってその可能性を裏書きされると云っても決して過言ではあるまいと考えられます。      全霊の真相        ――鼻の動的表現  鼻はその人の全霊の真相を表明するものであります。そうして最も忠実にこの任務を果しているものであります。  ここまで研究して参りますと、鼻の静的表現なぞは全く問題でなくなって参ります。  その人の本心が喜ばない以上、鼻は決して喜びの色を見せませぬ。そうして内心不平であれば遠慮なくムッとした色を見せ、残念であれば差し構い無しに怨めしい色をほのめかしているのであります。 「妾はもうとても皆様の御噂にかかるような顔じゃ御座いませんよ。毎日鏡を見るたんびに親を怨んでいるので御座いますよ」  と如何にも口惜しそうに云っていても、鼻ばかりは正直に、 「そう云っとかないと悪いからね」  という気持ちをうごめかしているのであります。  世間への義理や家内への示しのため、親類会議の真中へ一人息子を呼び出して、 「久離切っての勘当」  を云い渡す親達の怒った眼と正反対に涙ぐましい鼻の表現――そこにすっかり現われている千万無量の胸のうちは、その座にいる人々をして道理至極とうなずかせずには措きません。 「あの後家さんはいつも呑気そうに気さくな事ばかり云っては人を笑わしているけれど、流石にどことなく淋しそうな顔をしているわね」  と界隈の噂に上るのは、その後家さんの鼻の表現が他人にうつるからであります。心の貞節や人知れぬ涙を決して人に見せまいとする悩みから湧くこの世の淋しさが、まざまざと鼻に現われて来るからであります。  情ない時、しくじった時、困った時、又はギャフンと参った時なぞは、その気持が特に著しく鼻にあらわれるものであります。 「ナアニ。何でもないよ。アハハハ」  と笑いながら、鼻はすっかりしょげている。 「人間到る所青山ありさ」  なぞ達観したような事を云いながら、鼻だけはゲッソリして白茶気ている。甚だしいのになると、何だか水洟でもシタタリ落ちそうで、今些しで泣き笑いにでもなろうかという、極度に悲観した心理状態を見せているものさえあります。  かようにして眼や口なぞが如何に努力をしても、その人間の本心から湧き出して来る感情が鼻の上に現われるのばかりは瞞着する事が出来ないように出来ているのであります。  同様に鼻はその本人の真底の意志を少しも偽らずに表明しているものであります。  意志がグラグラしている以上、鼻は如何なる場合でも決意の閃きを見せませぬ。如何に威勢よく飛び出しても、心から行こうという気がなければ鼻は必ず進まぬ色をしているのであります。  惚れたお方を婿殿にと図星をさされた娘がテレ隠しに、 「妾あんな人はいや」  と口では云いながら飛び立つ思いを見せた鼻の表現がある――一方に嫌な男の処へ行けという親の前に両手を突いて温柔しく、 「私はどうでも」  という進まぬ鼻の表情……仮令それが悲し気に痛々しくなってやがてホロリと一雫しないまでも、ここを見損ねた親たちや仲人は、あったら娘を一生不幸の淵に沈淪させる事になるのであります。 「オッと来り承知の助。さあさあ何でも持って来い。すっかり俺が片付けてやる」  といった程度の安請合いに対する誠意の有る無しは、その眼よりも口よりも真中でニヤニヤ笑っているところに最もよく現われていなければなりませぬ。 「何様も御馳走様になりまして。お珍らしいものばかり。イヤ頂戴致します」  と云いながらちっとも頂戴する気にならない気もちは、細く波打つ眼とおちょぼ口との間にありありと見えすいているものであります。  男と死ぬ約束をして奉公先からそれとなく暇乞いに来た娘が帰るさに、 「身体を大切にしておくれ」  と云われて、 「アイヨ」  と笑った眼つき口もと。その間に云い知れぬ悲しい決意を示す鼻の表現……それがそれとなく気にかかって、 「ああ。無分別な事でも仕出かしてくれなければよいが」  という物思い……。  その他「重々恐れ入りました」という奴の鼻が「今に見ろ」という気ぶりを見せ、「貴方はおえらいですよ」と賞める鼻が「賞めたい事はちっともない」と裏書きし、「妾もうお芝居は見飽きちゃったのよ」と見栄を言いながら実は行きたい鼻の先のジレンマなぞ、数え立てると随分あります。  鼻の表現がその本人の意志を偽らないと同様に、その本人の性格を表現する場合でも決してその真相を誤らないのであります。  性格が愚鈍である以上、その鼻の尖端に才気の閃きは決して見る事が出来ないのであります。いくら謹み返っていても性得ガサツ者である限り、鼻は何となくソワソワしているものであります。 「もう私は今度でこりごりしました。ふっつり道楽を思い止まりました。ふだんの御恩がわかりました。何卒今度切りですから、助けると思って今一度お金を頂戴」  と両手を突いて涙をこぼしている息子の鼻が、昔の通りニューとしている。こんなのはテッペンから、 「糞でも喰らえ、この野郎。今度切りが何遍あるんだ。トットと出てうせろ」  とたたき出されます。 「何だ喧嘩だ。喧嘩なら持って来い。俺が相手になってやる。篦棒めえ、誰だと思っていやがるんだ」  と大見得を切って立ち上っても、臆病者の鼻の表現は必ず魘えた色を見せております。  小田原評定の場合なぞ、真中へ出て理屈をこねまわしている鼻が案外無責任らしく見える一方に、隅っこで黙って聞いている鼻が却って頼もし気に見える事なぞはよくあります。  こんな例は挙げたら限りも無い事でありますからこれ位で略します。  いずれにしても、鼻が如何に忠実に各種の表現の主役をつとめているものであるか。その補助機関が如何に誤魔化そうとしても鼻の表現ばかりは偽る事が出来ないものであるという事は、右に挙げました実例だけでも一通り説明し尽されている事と信じます。  極めて大掴みに考えて見ますと、鼻以外の表現はその人の上っ面の表現だけを受け持っているもののようであります。偽ろうと思えば偽り得る範囲に限られていると見て大した過ちは無いようであります。  それ以外のものは全部鼻が受け持って表現していると考えてよろしいようで、しかも又この任務は断じて奪う事は出来ないのが原則と認めて差し支えありませぬ。手で撫でても、ハンケチで拭いても、又は別誂えの咳払いをしても、鼻の表現ばかりは掻き消す事も吹き払う事も出来ないのであります。  よく出鱈目や茶羅鉾を云って他人を瞞着しようとする時又は気がさしたり図星を刺されたり素ッ破抜かれたりした場合なぞに、手が思わず鼻の処に行ったり又は何となくエヘンが出たりするのは、鼻の頭の表現が無意識に気にかかるからで、何とかして誤魔化さねばその事実を鼻に裏書きされるか又は反証を挙げられそうな気もちから起った反射運動に他ならないのであります。      表現の受け渡し        ――鼻の動的表現 ▼鼻の表現は眼にも止まらず心にも残らぬ。 ▼しかも不断にその人の真実の奥底まで表現してソックリそのまま相手に感銘させている。 ▼そして鼻自身は知らん顔をしている。 ▼その相手の感銘にこっちの鼻以外の表現で瞞したり乱したりする事が出来る。 ▼しかし鼻の表現だけは偽る事も誤魔化す事も出来ない。  この事実の如何に一般に認められていないかという事は驚くべきものがあります。それは恰も一般人士が常に自分の鼻に導かれて歩行しながら、些しも鼻の御厄介になった覚えはないと考えておられるのと同比例しはしまいかと考えられる位であります。  同時にこの偽り得る表現と偽り得ない表現とが如何に入れ交り飛び違って日常の交際に活躍していることでしょうか。舌筆に尽されぬ位複雑多角形な人類生活の各種の場面に出合った人々の、形容も出来ぬ位込み入った各種の表現が、如何に巧みに、或いは如何にゴチャゴチャと刹那的に行われつつある事でしょうか。そうして如何なる反応と共鳴とを交換しつつある事でしょうか。 「こんな高価い帯地が買えるものかね」  と番頭さんには云いながら、「欲しいわねえ」という鼻の表現を御主人に振り向けられます。御主人はさり気なく葉巻の煙をさり気なく吹き上げながら、 「そうだなあ」  と鼻だけニッタリとさせて、「ネーアナタ」を期待しておられます。序に「些し困るけどお前のためなら」という恩着せがましい表情を鼻の御隅に添え付けておられる……といったような場面はちょいちょい拝見するようであります。この表現を見分けるか見分けぬかが又番頭さんの腕前の分かれるところで、この潮合に乗りかけて、 「その代り柄や色合はしっかり致しておりますから却って御徳用でゲス。第一|見栄が他のものとは全く御覧の通り違いますから……近頃ではどなた様も消費経済とかいう思召で却ってこのようなのが、エヘヘヘヘヘ」  とか何とか思い切って踏ん込めば、最後の「ネーアナタ」と「止むを得ぬ」とを同時に占領する事が出来るのであります。 「あなたの御蔭で私は起死回生の思いを致しました。御鴻恩は死んでも忘却致しませぬ」 「どう致しまして。畢竟あなたの御運がいいので……何しろ結構で御座いました」  というような会話が如何にもまことしやかに取り換わされます。ところがお礼を云われた方では何だか物足りないような気がしている。 「あいつどうも本当に有難がっていないらしい。世話をして見ると案外軽薄な奴に見える。一寸一杯喰わされたかな」  という一種の不愉快と不安が湧いている。そのような場合はきっと相手の鼻が衷心からの感謝の意を表明していないためで、 「こう云っときゃあ喜ぶだろう。又頼む時にも都合がいいから」  位の有難さしか感じていないその熱誠の度合いがそっくりそのまま鼻の頭に顕われていて、その眼や口が表現している熱度よりも著しく低い度合を示しているからであります。 「お宅に伺いますとついのんびりして了うので御座いますよ。ほんとに気が置けなくて……それにまあいつも晴々した見晴らしで御座いますこと……オヤ坊ちゃんおとなしですこと……一寸|入らっしゃい、抱っこしましょう」  と口では云いながら、内心実はつまらない。長居したくない。ほんの義理で来ているので、うちにはまだ用事がドッサリあるとノツソツしていると、眼や口はニコニコしながら鼻だけどことなくソワソワしております。  デリケートな相手になると直にこれに感じて、ちっとも落ち着かぬまますっかり落ち着いたふりをして、 「ホントニ御ゆっくり遊ばせな。お久し振りですから」  とか何とかバツを合わせながら障子の蔭で鼻の頭をイライラさせつつ、急いでゆっくりとお茶やお菓子を出します。  双方のびやかにお茶を嘗てお菓子を嗅いで眼や口を細くして語り合いながら、お互いの鼻同志はとっくに気がさし合ってウンザリしている。いい加減シビレが切れたところで、 「アノ……では……又」 「アラまあお宜しいじゃ御座いませんか」  と立ち上って玄関へ出る。ここで初めてどちらもホッとした鼻の表現を見せ合いながら、イソイソと出て行かれる。一方はサッサと引込まれるといったような御経験は、特におつとめの些ない、率直を重んぜられる吾が日本の御婦人方にとってお珍らしいであろうと考えられます。  田舎から出てきた叔父さんが天下泰平の長逗留をする。これに閉口した若夫婦が、 「お国のお子さん方は淋しいでしょうね」  と親切そうに云う時の鼻の表現を見損ねた叔父さんは、 「有難う。そのうちに学校が済んだら三人共呼び寄せるかね」  と飛んでもない感謝を表明する事になります。その時に見合わせる若夫婦の鼻の表現……。 「死にたい、死にたい」  と云いながら死にたい気ぶりも見えぬ姑の鼻。どうぞそう願えますなら――と云いたい一パイのところを、 「アレ、又あんな事。後生ですからおっしゃらずに」  と打ち消す嫁の取りなし顔の鼻の表現。そこに起こる明暗|二た道の鼻の表現の撫で合いとつつき合いは、あまり有りふれ過ぎております。  寧ろ姑の方でニヤニヤ笑いながら、 「私はノラ見たいな女が好きだよ」  というキルク抜式の鼻の表現――これに対するお嫁さんがまたエヘヘンと云う見得で、 「私は矢張り乃木大将の夫人式が本当と信じますわ」  と応えるサイダ抜式鼻の表現――この対照の方が表現派向きかも知れませぬ。      鼻と実社会        ――鼻の動的表現  こうして鼻の表現は、その大小、深浅、厚薄取り取りをそのままに、無意識の裡に相手に感応させております。相手も又無意識のまま感応に相当する意志や感情を動かしてその鼻に表現しているのであります。  この点に気付かない人が多いのと同比例に、世の中の事が思い通りに行かぬ人が多いらしいのであります。そうしてそこに鼻の表現の使命が遺憾なく裏書きされているのであります。 「おれがこんなにお百度を踏むのに、彼奴は何だって賛成しないのだろう」 「妾がこれだけ口説いているのに、あの旦突は何故身請してくれないのだろう」 「親仁はどうして僕を信用してくれないんだろう」 「彼奴威かしても知らん顔していやがる」  なぞよく承わる事でありますが、これはさも有るべき事で、御本人の誠意が無い限り鼻が決してその誠意を裏書きしてくれないからであります。お向う様を怨むよりお手前の鼻に文句をつけた方が早わかりかも知れませぬ。このほか…… 「親仁は癪に障るけど、おふくろが可哀相だから帰って来た」  という意気地無しの土性骨。 「奥様がおかわいそう」  という居候のねらい処。 「一ひねりだぞ」  と睨む空威張。 「会いとうて会いとうて」  という空涙。いずれもすっかり鼻に現われて相手の反感を買っているのであります。  しかもこうした鼻の表現の影響は単に差し向いの場合に限られたものではありませぬ。もっと大きな世間的の行事又は社会的の運動――そんなものにも現われて、その如何に偉大深刻なものであるかを切実に証明しているのであります。 「資本家を倒すのは人類のためだ」  と揚言しながら「実はおれ自身のためだ」というさもしい欲求―― 「労働運動は多数を恃む卑怯者の群れだ」  と罵倒しながら「おれの儲け処が貴様達にわかるものか」という陋劣な本心―― 「多数党如何に横暴なりとも正義が許さぬぞ」  という物欲しさ―― 「本大臣は充分責任を負うております」  という不誠意――  どれもこれもその云う口の下からの鼻の表現に依って値打ちは付けられて、天下の軽侮嘲弄を買い、同時にその成功不成功を未然に判断させているのであります。  鼻の表現は随分遠方からでも見えるらしいのであります。  議会壇上に立って満場の選良に対して、 「本大臣は本日ここに諸君に見ゆる光栄を有する事を喜ぶ」  とか何とか音吐朗々とやっております。然るに内心では、 「ヤレヤレ又馬の糞議員共が寄り集まった。此奴等と見え透いた議論をしなければ日が暮らされぬのか。要するに余計な手数なんだが、馬鹿馬鹿しい」  という考えでおりますと、不思議に議場の隅に生あくびを噛み殺す奴が出て来るのであります。御同様に議員さんが立ち上って、 「国家のために政府案に賛成するのだ」  と拳固をふりまわしているのを見ると、 「これも役目だから」  という気持がスッカリ鼻の表現をだれさせているために、「国家のため」という言葉が根っから感動を与えないのがあります。  数万の聴衆を飽かせない大雄弁家でも、 「とにかくおれの演説はうまいだろう」  という気もちを鼻の頭にブラ下げて壇を下れば、人々の頭には演説の趣旨は一つも残らずに只、 「うまいもんだなあ」  という印象だけが残ります。うっかりすると「演説使い」だとか「雄弁売り」――又は時と場合では「偽国士」とか「似而非愛国者」とかいう尊号を受ないとも限りませぬ。  喰い詰めた宗教家はよく十字街頭に立ちます。鬚だらけの穢い姿に殊勝気な眼付、口もとして、 「アア天よ。この恵まれざる人々を……」  なぞやっております。しかしその下から、 「皆さん、欲をお離れなさい。そして私に御喜捨をなさい。私が神様に取次いで上げますから」  という情ない心境をその日に焼けた鼻に表現しておりまするために、人々に嘲笑冷視を以て迎えられております。  彼等はこれを知らずして只|徒らに天を仰いで空しく世道人心の頽廃を浩歎しているのであります。思い切って鼻を往来の塵に埋めて、 「どうぞや、どうぞ」  と言う乞食よりも賢明でないものである事を同時にその鼻が表明しているのであります。      悪魔の鼻        ――悪魔式鼻の表現  こうして鼻の表現は絶対に偽る事は出来ないものでしょうか。どんなにうまい口前で如何ように眼や口を使いわけても、それが心にもない事である限りいつも鼻の表現に裏切られていなければならぬ筈のものでありましょうか。喜怒色に表わさずというモットーを文字通りに守り得る程の社交的人物でも、鼻ばかりは常に喜怒を表わしていなければならぬ筈のものでありましょうか。  フットライトの中に浮き出してあでやかに笑いまわる舞姫の鼻の表現のわびしさは、絶対に拭い除ける事の出来ないものでしょうか。展望車の安楽椅子に金口を輪に吹く紳士の鼻の淋しさは、何とも包む術はないものでしょうか。リモシンのフクント硝子の裡に行く人をふり返らすボネットの蔭からチラリと見える白い鼻の愁い、悲壮な最後を遂げた名士の棺側に付添いながら金モール服揚々たる八の字鬚の誇り……これ等の表現は絶対的に不可抗力のあらわれとして諦められなければならないものでありましょうか。  鼻の表現は眼や口なんぞと同じように支配する事は絶対に出来ないものと決っているものでありましょうか。  もしこの鼻の表現を自由自在に使いこなして、如何なる出鱈目でも嘘っ八でも決して他人に看破されない位に充実した鼻の表現でもって、その真実である事を裏書きして行く事が出来るものがいるとしたら、その者は如何に恐るべき成功を世渡りの上に博する事が出来るでありましょうか。  如何なる残忍酷薄な奴でもその鼻の表現に、自由自在に熱情の光を輝かす事が出来るものとしたならば、その人間の運命は如何に光明に満ち満ちたものとなり、その人間以外の社会生活は如何に暗黒な不安の裡に鎖される事でしょうか。  ここに「悪魔の鼻」と題しましたのは、この鼻の表現をある程度まで自由に支配しうる種族が人間社会にかなり沢山に存在しているのを総括して研究し批判して見たいためであります。  一面から申しますれば、眼付きや口もとの表現で他人を欺き得るものはまだ徹底的に欺き得るものとは云えない……悪魔の名を冠らせるに足りない。鼻の表現に依って人を欺き得たもの――即ち全然虚偽の表現を徹頭徹尾真実の表現と見せかけて他人を心から感動せしめ得るものこそ真の悪魔でなければならぬという見方から、かように悪魔式鼻の表現なるものを仮定した次第であります。  先ず悪魔の鼻の研究に先だって是非とも研究しておかなければならぬ鼻が一種類あります。それは名優と称する人種の鼻であります。      名優の鼻        ――悪魔式鼻の表現  昔から名優と名を付けられた程の人々は、その身体のこなしや眼や口の表現は勿論、鼻の表現までも遺憾なく支配し得たものと認め得べき理由があります。  泣く時は衷心から泣き、笑う時は腹の底から笑う。怒る時は鼻柱から眉宇にかけて暗澹たる色を漲らし、落胆する時は鼻の表現があせ落ちて行くのが手に取るように見えるまで悄気返る。悠々たる態度の裡に無限の愁いを含ませ、怒気満面の中に万斛の涙を湛え、ニコニコイソイソとしているうちに腹一パイの不平をほのめかす。  これが所謂腹芸という奴で、こうして名優の心の底の変化は腹の底から鼻の頭へ表現されて、自由自在に見物に感動を与える事、恰も無線電信のそれの如くであります……。しきりにシカメ面をして涙を拭う真似をしていながら、鼻だけはノホホンとしているために見物には何の感動をも与え得ないヘッポコ役者の表現法とは、その根底の在り処が違うのであります。  彼等名優がどうしてこのような不可思議な術を弄する事が出来るかという疑問は、昔から既に解決されております。その人物になり切ってしまう――その境界になり切ってしまう――という芸術界の最大の標語がそれであります。  その人物になり切ってしまう――見物の中にいい女がいようと、道具方が不行届であろうと、相手方がまずかろうと、人気があろうと無かろうと、そんな事は一切お構い無しに、すべての娑婆世界の利害損失の観念、即ち自己から離れてしまって、その持ち役の人物の性格や身の上を自分の事と思い込んで終う。その持ち役の人物と扮装と科白と仕草とに自分の本心を明け渡して終う。  その境界になり切ってしまう――すべての実世間の時間と空間とを脱却して、舞台上の時間と空間に魂の底まではまり込んでしまう。舞台の道具立て、入れかわり立ちかわる役者の表現、そこに移りかわってゆく出来事と気分、そこにしか自分の生命は無いようになってしまう。      実在する悪魔        ――悪魔式鼻の表現  然るにここに、この名優式の鼻の表現法を堂々と実世間で御披露に及んで、名優以上の木戸銭や纏頭を取っているものがザラにいるのには驚かされるのであります。  その主なるものは、毒婦とか色魔とか悪党とか又は横着政治家とか名づけられる種類であります。この他その商売商売に依っていろいろの悪魔性を帯びた者がいくらもあるに違いありませぬが、ここにはこの四つを代表的なものとして取り扱って見る事に致します。  彼等がその鼻の表現を使いわける代価として望むものはいろいろあります。男女の貞操を手はじめに、金銭、貴金属、衣服、財産、その他何でも……わけても横着政治家となりますとずっと狙い処が大きくなって、名誉権勢、地位人望、利権領土、その他あらゆるものを鼻の表現で釣り寄せようとするのであります。  毒婦とか色魔とかが異性を操る事の自由自在さは全く驚くべきものがあります。何方にしても嘘とわかっているのにどうしてあんなに根こそげ欺されるのであろうと、さながらに魔術のように感ぜられるのであります。  これには引っかけられる側の自惚れや色気や意志の弱さなぞもありましょう。又は引っかける側の弁才や容色もありましょう。しかしその中にも働きかける側の表現の上手なこと――わけても鼻の先の気分の扱い方の巧なために、受け身側に徹底的の感動を与えるためであることも無論であります。 「それでは私に死ねとおっしゃるのですね」  と云うと、相手の異性は真青になってしまうのであります。これはその鼻が本当に死にたいという切り詰まった表現をしていると同時に、あなたより他に思う人は無いという気心を裏書きしているからであります。同様に、 「あなたとならばドコマデモ……」  という月並みな文句で相手をグンニャリトロリとさせて終うのは、その秋波が五分もすかさぬ冴え加減を見せると一所に、その鼻の表現がその場合にふさわしい真実味をあらわしているからであります。  これが少々ハイカラなのになって来ると、 「あなたを恋してはじめて私の卑しいすべてが私をさいなみ初めました」  と告白するその鼻が、その謙遜と誠意とをもって自己のアラを蔽い、且つ相手の同情を動かすべく如何につつましいつらさを示しているか。 「私のようなもののためにあなたのような貴いお美しい方の生涯を傷つけるという事はあまりに残酷だと思うと、つい気が引けて……」  と恥じらいを含んだ鼻の表現が、如何に相手の気を引き動かすに充分であるか、そうしてその自尊心をゾッとするまでに満足させるか……。      毒婦、色魔、悪党        ――悪魔式鼻の表現  敵は本能寺にあり、相手の生血を吸い取り得れば――相手を丸裸になし得れば――又はどこかに売りこかし得れば、あとは野となれ山となれ――泣こうが喚めこうが発狂しようが、どこを風が吹くという鼻の表現で取り付く島もなくふり捨ててしまうのであります。  毒婦や色魔は世間を摺れ枯らした結果、すべてに対して捨て鉢であると同時に高を括っているのであります。すべてに対して絶対に冷やかな態度を執り得ると同時に、その相手に対して寸分の未練も残さないのであります。鵜の毛で突いた程でも未練があればそれが直ぐにこちらの弱味……鼻の表現の変化の妨げ……になる事をよく心得ているので、いつ何時でも「嫌なら嫌でいい」という態度を取り得るまでに腹を締めているのであります。  ですからすべての執着や気がかりを離れて、どんな気もちにでもなる事が出来るのであります。名優と同じように、その境界や場面のうちで最も相手の弱点を捕え得べき感情や意志を腹の底から表現する事が出来るのであります。真そこから泣き、笑い、怒り、怨み、拗ね、甘ったれ、しなだれかかり、威し、すかし、あやなす事が出来るのであります。  悪党とても同様であります。彼等は実世間を舞台とし背景として名優の鼻の表現法を行うものであります。  彼等は無言の裡に満腔の涙をその鼻の表現に浮き上らせて、相手の真実の感銘を誘います。彼等は物事が如何に思う壺にはまっても、そんな事はこっちの本旨ではないという、冷然たる鼻の表現を示し得るのであります。 「おれを引き渡すなら引渡せ。そうなりゃあ貴様も地獄の道連だぞ」  と度胸をきめた鼻の表現の物凄さは、大抵の向う見ずでも震え上らせずにはおきませぬ。 「思いもかけぬ御|尋ね。何と申開きを致してよいやら。露おぼえの無い事……」  とひれ伏した鼻の表現の神妙さ。一通りのお役人なら一杯喰わされるにきまっております。  彼等の偉大なものになると、泰平の世に何十万石の知行とか何万両の財産とかを手に入れるため、十数年もしくは数十年の間忠実無二の性格を鼻の頭に輝かしつつ明かし暮らす事が出来るのであります。明日こそ毒殺してくれようという当の相手の主人の前に出て、「恐悦至極」の表現を鼻の頭に捧げ奉る事が出来るのであります。  本心を殺して時節を見る事を知らずに正面から諫言をする一刻者の鼻の表現のうちに当然含まれている良心の輝き、主人に対する怨恨、不平、さかしら振り、そのようなものがいろいろ主人の反感を買うのとうらはらに、悪党たちの柔和な、へり下った鼻の表現が着々として成果を収めて行くのは無理もない事であります。  こうして回を重ねた揚句、事|遂に発覚して首の座に坐って、いよいよこれで一代記の読み切りという処まで来ても、彼等悪党は自若として鼻の表現をたじろがせずに一命を終るものすら珍らしくないのであります。      横着政治家        ――悪魔式鼻の表現  横着政治家も亦この例に洩れません。殊にマキャベリー式政治家に鼻の表現を使いわけるタチの人が多いようであります。  この種政治家は事実でもない事を事実として吹聴して人を驚かしたり、確信も無い事を実際に出来るかのように世間に認めさせたりしなければならぬ場合に数限りなく出合うために、つい有意識無意識の間に鼻の表現の使い方をおぼえ込んでしまうのであります。  老人に会えば「旧式の教育法を復活しない限り国家は滅亡の他ない」と悠然として長大息し、青年と席を同じくしては「日本文化の時代遅れ」を慨然として痛論します。軍人に出会って、世界の帝国主義が事実上に高潮しつつある事を厳然として指摘するかと思えば、社会主義者の顔を見ては、人類社会に於ける形而上と形而下のすべてが宗教、政治、芸術、経済の各方面に亘って民衆化し共産化しつつある事を決然として断言します。  みんなを一所に聞いていると何の事やらさっぱり見当がつきませぬが、相手は皆一人一人に本当だと思って傾聴し感激し共鳴しているのであります。つまり本人はその都度別の人間になって衷心からそう信じて云うから、鼻の頭までも熱誠と確信の光りを帯て来るので、これに影響された相手は、如何にもあの人は感心だ。話せる人物だ。えらいお方だと思うようになる。そこが又横着政治家御本人の狙うところなのであります。  さらに大嫌いの先輩に腹の底からの好意を示し、真誠無双の国士に白い眼を見せ、資本家のノラ息子の人格に絶大の敬意を払い、失脚者の孝行息子を無下に軽侮した鼻の表現を以て迎える。又は有力家の前に堂々たる容儀を整え、金銭の奴隷に下足を揃えて御機嫌を伺う。しかも微塵も鼻の表現をたじろがせずに常に先方に遺憾なき感動を与えるのをお茶の子仕事と心得ているのであります。  彼等は幾度か身の毛も竦立つ浮き沈みに出合った揚句、所謂「度胸一つがすべての資本」という悟りを開いております。あらゆる失敗をやってあらん限りの恥を掻き上げた結果、羞恥心が思い切り摺り切れております。 一、すべてに対する未練、執着、気がかり、気兼ね等から超脱する事 一、すべてを冷眼視し得る度胸で本心のゆらめきを圧迫し去る事 一、如何なる俄作りの感情、お座なりの意志、間に合わせの信念でも直に本心一パイに充実させ得るように心掛ける事  といったような術を天然自然と会得しております。猫を冠るは愚かな事、獅子でも豚でも蛙でも蛇でも、何の皮でも自由自在に脱けかわり被りかわる事が出来るのであります。  こうしてその心にすこしのわだかまりも不安も無しに如何なる場面にでもしっくりと落ち着き合う事が出来るのであります。  どんな気分にでもゆったりと調和し合う事が出来るのであります。  ここに於て…… ……鼻の表現はその本心や性格の色彩を現わす。故にその本心や性格を変化させ得るものは、その鼻の表現を支配する事が出来る……  という逆定理が完全に彼等のものとなって来るのであります。この逆定理を応用してその本心を打ち消し、その性格を隠して、鼻の表現をさながらにそれらしく変化させて行く事が出来るのであります。  この逆定理を舞台上の修業で手に入れたものは直に名優となる事が出来るのであります。同様に実世間の舞台面で修得したものは直に悪魔式鼻の表現の大家、毒婦、色魔、悪党、横着政治家となり得るのであります。そうしてこの程度まで鼻の表現を研究し得れば、最早所謂、機略縦横、神出鬼没の行き止まりとして世間から一種の敬意を払われるので、しかもこれを世渡りの秘訣、処生法の免許皆伝と心得ている人が又|頗る多いように見受けられるのであります。  この悪魔式鼻の表現に威かされたり、感銘したり、共鳴したりする人も又頗る多いように見受けられます。そのままに世の中は滔々として動き流れて行くのであります。  しかしこれを正しい鼻の表現法から見れば、極めて浅薄な皮相的な研究法で、鼻の表現の真諦に入る階梯とはならないのであります。却って一つの大きな邪道と見るべきものである事をここに特に力を入れて闡明しておきたいのであります。  鼻の表現法の真意義の研究に入るには、先ずその邪道なるものを飽く迄も知り抜いていなければ、その真意義なるものがはっきりとわかりにくいのみならず、却ってこの邪道に陥って又と再び本通りに帰る事が出来ないようになる恐れがあるのであります。  鼻の表現法の邪道なるものは、一度踏み込んでみると中中面白いものであります。大抵の奴はこの邪道でコロリコロリと参る……俗物は色気や欲気で誘い出し、君子はその道を以てこれを欺くといった風に、その効果が眼の前に現われます。どんな場合でもフン詰まらず、如何なる逆境でも順境に引っくり返す事が出来て、世間はどこまでも拡がって行くように見える。とうとうこれに浮されて、一生しんみりした鼻の表現の価値を認めず人間らしいつき合いの味を知らずに、しかも得々として眼をつぶる者さえ些なくないのであります。      正表現、邪表現        ――悪魔式鼻の表現  このような人々は悪魔に一生を捧げ尽した人と云うべきでありましょう。否、虚偽を以て真実を弄びつくすのでありますから、この人等をこそ悪魔と呼ぶべきではありますまいか。何等社会に与かるところなくして、社会からあらゆるものを奪い取るからであります。  その中でも偉い奴になると栄燿栄華心に任せ、権威名望意に従わざる無く、上は神仏の眼を眩まし、下は人界の純美を穢し去って、傲然として人間の愚を冷笑しつつ土の中に消え込むからであります。これを羨みこれを慕う凡俗の群は、踵を揃えてこれに学びこれに倣って、万古に尽きせぬ濁流を人類文化の裡面に逆流させるからであります。  それならそれでもいいじゃないかと功利派の人は云うかも知れませぬが、左様ばかり行かぬから困るのであります。悪魔式の鼻の表現は矢張り悪魔式鼻の表現で、どうしても正しい鼻の表現とは違うのであります。如何に巧みに、如何に徹底的に装っていても、必ずはっきりと見分けのつくところがあるのであります。  鼻の表現研究の面白味はここに到って益高潮して来るのであります。  最初から只今までズーッと述べて参りました鼻の表現の実例は、これを大別すると二通りになるのであります。  前の方に述べました実例は、主として鼻の表現を支配し得ぬ人々で、これを支配するは愚なこと、そんな表現機関が自分の顔の真中に存在している事すら夢にも気付かずにいた人々がその大部分を占めているのであります。  それからおしまいの方に悪魔式鼻の表現法として挙げましたのは、虚偽であれ何であれ、兎にも角にも鼻の表現を支配し得る人々で、中には鼻の表現法を悉く飲み込んでいる人もあるそうであります。そんな人は先ず世間では珍らしい方でありましょう。  ところでこの鼻の表現の支配し得る人々が何故に相手に深い感動を与え得るかと云うと、その眼や口や身ぶりの表現が鼻の表現と悉く一致しているからであります。だから本心からそう云っているように見える。思っているように察せられる。信ぜられる。  だから相手も疑わない。共鳴する。本気になる。とどのつまりが真っ赤な偽ものを真実至誠の者と認めて、身命を惜しまず奉公するという順序になって来るのであります。  個人もしくは民衆を徹底的に動かすものは真情の流露、至誠の発動であるという事は、今衆口の一致するところであります。而して真情の流露する時、至誠の発動するところ、必ずや全身のすべての表現の渾然たる一致を見なければならぬ筈であります。  本当に喜んでいるものならば、その全身の表現はその上っ面の表現機関たる眼や口や身ぶりはもとより、鼻の表現までも一貫して徹底的に喜んでいる筈であります。  衷心からそう信じているものならば、その鼻の表現は他の表現機関ともろともに徹頭徹尾確信の輝きに満ちていなければなりませぬ。  こうしてその人のすべての表現が鼻のために少しも裏切られていない事が相手にわかった時に初めて、その人の表現が純一であると認められ得るのであります。その人の真剣味や至誠の力が相手を動かし得るものなのであります。  すべての表現の渾然たる一致――それが相手たる個人及び民衆に及ぼす影響の偉大さ――この機微を盗んで或る程度まで成功しているものがかの名優、その他仮りに悪魔式鼻の表現家と名づけた人々であります。  この中でも名優は商売でありますし、その表現は或る意味に於て実社会と直接交渉が無いのでありますから咎むべきではありませぬが、その他の人々は遺憾ながら知恵の果を盗み過ぎて食傷した猿と評する外ありませぬ。  この種の人々はその最大限度に於て仮りの本心、仮りの性格に依ってその鼻の表現を支配し得るに止まるので、まだ本当に本心や性格を改め得るとは云えませぬ。況んや持って生れた魂とか根性とかいうもの――ハイカラな言葉で云えば、大にしては国民性、小にしては個性と名づけられているもの――即ち鼻の表現のあらゆる変化の根柢を作っているそのものまでも転換し支配し得るわけではありませぬ。それ程|左様に深刻偉大な鼻の表現の研究者とは云えないのであります。  如何に徹底した悪魔式の鼻の表現であっても、無欲にして明鏡の如くに澄み切った心――悪魔以上に廓然冷々たる態度を以てこれに対すれば、その底の底に悪魔らしい明智と胆力に対する確信の誇りが浮き上っているのがわけもなく見え透くのであります。さもなくとも普通人でも冷静な気持でこれに対するか、又は初めから呑んでかかるかすれば、大抵この種の鼻の表現使用者の腹の底――世間人間を馬鹿にし切っている気持ちがありありと見抜かれるのであります。況んや万に一つにも鼻の表現法の真髄に体達した人にこれ等の悪魔式鼻の表現が出会ったならば、すぐに根こそげ本性を見破られるでありましょう      何となき疑い        ――悪魔式鼻の表現  悪魔はあらゆる霊智の存在を無視し、世間人間を馬鹿にしております。その無視しているところにその本性を看破される原因が存在し、その馬鹿にしているところに馬鹿にされる原因が潜んでいるのであります。  更にこれを名優の鼻の表現と比較すれば一目瞭然であります。名優の鼻の表現の根本基調を作しているものはその芸術に対する熱誠只一つでありますが、悪魔の鼻の表現の基調をなしているものは、大胆さ、図々しさ、冷淡さ、狡猾さなぞで、決して澄み切った明るい表現とは見えないのであります。況してやその表現の根底が仮りの本心、仮りの性格であるに於てをやであります。  鼻の表現はこれ等を飽く迄も如実に写し出します。それは如何に上等の硝子で張った鏡でも、横から見れば必ず硝子の厚みがわかると同時に濃淡二様の二重映像が見えるのと同じ道理であります。如何なる悪魔の二重三重の底意でもさながらにその鼻に写し出されるのであります。  更にこの事実が相手方の共鳴又は反響の程度に依ってありありと証拠立てられるに到っては、鼻の表現研究に対して無限の興味を感じないわけには参りませぬ。 「人民保護の警官が人民を斬るとはなに事ぞ」  と大道演説壇上で男泣きに泣く人を民衆は神様として担ぎ上げます。しかしこの人のためなら生命を捨ててもと思うものはただの一人も無いのであります。  天下を窺う奸物の部下に就くものは、恩賞に眼がくれた欲張りか情誼にほだされた愚物か、又は奸物を承知でくっ付いた奸物かに限られているようであります。聡明|敏慧抜群の士でも、権謀術策を以て人を率いようとする限り、その部下に心服されないという実例は、昔から数多く伝えられているようであります。 「添われぬ位なら一層死にます」  と親には云いながら、女には土壇場で、 「お前はおれを欺すのじゃあるまいね」  と今一度念を押したくなるのは、その女の鼻の表現の底に横たわる冷やかな或るものに感じている証拠ではありますまいか。  云い寄る男に心は引き付けられながら、親しい学友にそっと手紙を見せて、 「あたしどうしようかと思っているのよ」  と相談をして見るのは、相手の言葉と鼻の表現とにそぐわないところがあるのにいつとなく感じた不安からでありましょう。  悪魔式鼻の表現の苦手は、いつでも音なしい正直な人間か又は数等|上手を行く明眼達識の士かであります。このような人々の無欲な静かな、そうして澄み切った眼は、悪魔式鼻の表現家の最も忌み嫌うところであります。  うっかりするといたいけな小児たちまでも、恐るべき苦手となる事が些なくないのであります。家内眷族が尽く信用し切っている叔父さんや伯母さんを、お嬢さんや坊ちゃんがどういう訳だか好かない事があるのであります。 「あの人は嫌い」とか「あの人は嘘|吐き」とか、別に欺しもしないのに平気で宣告する事があります。これはその純潔な澄み切った心の鏡に、愛想のいい相手の鼻の表現の底に横たわる或るものがチラリチラリとうつるからで、いくら御機嫌を取っても誠意を示しても益反感を買うばかりとなる事すら珍らしくないのであります。  偽った鼻の表現の価値がどれ位のものであるか、同時に鼻がその人の二重三重の底意までも如何にデリケートな程度にまで写し出すものであるかという事は、今まで挙げました例証で最早充分に御了解出来た事と思います。      記憶と鼻        ――悪魔式鼻の表現  更にこの鼻の表現の邪道――掴ませものの鼻の表現――悪魔式鼻の表現を根本的に裏切り得る一種の鼻の表現があります。  それは人間の記憶に対する鼻の表現であります。  心に暗い記憶が浮かめば、その人の鼻の表現は自然と暗くなって来るものであります。快濶な輝きが見えなくなって、しまいには黙り込んでしまうようになります。甚だしくなると眼までも閉じて、これを打ち消そうと試みる位になります。しかもそうすればする程|益その記憶がありありとなって来る。同時に鼻の表現は益暗くなって来るのであります。  明るい記憶が浮んだ場合は、又これと正反対の結果を鼻の表現に現わすという事は、誰しも容易に認め得る事実であります。  鼻はその記憶の深浅、大小、濃淡から、これに対する良心の反映の明暗、厚薄まで一々残る方なく写し出すのであります。  その結果が如何に恐るべき影響を自分以外の者に及ぼし、その影響が如何に自分に反射して来るものであるか、十目の見るところ十指の指すところ、如何に隠しても隠し切れぬものであるか、神様は見通しという因果関係が如何にして出来て来るものであるかという研究は、さらに鼻の表現に新生面を与えるものでなければなりませぬ。  ここに男性というものがあると仮定します。  その男性なるものは極度に婦人を侮辱し蹂躙する事を得意とする性格を持っていると仮定します。その鼻の表現が如何に記憶に支配されて相手の婦人に影響して行くか……。  昨日は女優、今日はウエイトレス、明日は女学生、明後日は交換嬢と、到る処に手を握り締め涙を流して、 「あなたは僕の未来の妻です」  と身をふるわせ得る鳥打帽……。 「きっと身受けして本妻に」  と行く先々で嬉しがらせる金鎖……。  或いは又、吾が家の前で今一度口を拭って、 「ああくたびれた。どうも用事が長引いてね……」  と鞄一パイのお土産を荷ぎ込む中折れ……。こんな方々が如何に色男で才子で信用があっても、変態心理の所有者でない限りその心に残っている記憶の影を踏み消す訳に参りませぬ。如何に相手に真剣の愛を注いでいる如く如何に巧に装っているにしても、同時に一方に一件の事を思い出さぬわけには行きませぬ。  すべて知られてならぬ事は、知られてならぬ場合に限って特別にハッキリと心に浮かむものであります。長い事忘れていた借銭でも、貸した奴の顔を見ると忽ちに思い出すようなもので、まことに生憎千万なものであります。  色事なぞは取りわけても左様なので、隠そうと思えば思う程ハッキリと思い出します。  真剣になろうとすればする程アデな調子になります。  そこでそこいらが何となくクスグッタクなる、コソバユクなる。「ウフン」とか「エヘン」とか「オホン」とか「ウニャムニャ」とかいう誤魔化し気分、又はその当時のモテ加減なぞを思い出して浮っかり出た「ニヤニヤ」とか「ウフウフ」とかいう気持ちが、鼻の表現の中を往来明滅するのを禁ずる事は出来ないのであります。  このような場合には相手の婦人が鼻の研究者でない限り、又は余程の明眼達識の女性でない限り、もしくは特別の注意を男性の表現に払っていない限り気が付かないのが普通であります。しかしこれは有意識にそれと突き止め得ないだけで、無意識的には必ずこの男性の鼻の表現の裡面を往来する怪しい気分に感付いているものなのであります。女がゾッコン惚れ込んでいればいるだけ、この方面に対する神経は緊張しているものであります。      偽表現の影響        ――悪魔式鼻の表現  旦那様を信用し切っている奥様でもいつの間にか一件を感付いて御座るというのは、こんな消息があるからであります。  男性が念には念を入れてその隠し事の気ぶりを晦まし、又は知恵の限りを絞ってその秘密の足跡を掻き消していればいるだけ、それだけその努力と苦心の痕は鼻の表現の底に暗い影となって残っているものであります。極めてヒステリックな婦人又は極めて順良な女性には又特にこのような点に敏感なのが多いようであります。  このような女性は動もすると理屈なしの不意打ちに男性の言葉を「ウソ」だと否定し、男性が隠し切っている心理状態を思いも寄らぬ方面から抉り出して痛烈な攻撃を加えることがあります。又は眼の前ではさり気なく男の言葉にうなずいていても、いつかどこかで人知れず袖を噛みしめていることなぞがあります。  二人切りになった時、妙にしおれた様子をしていて、 「どうしたのか」  と尋ねても理由を云わない。あれかこれかと問い詰めた揚句ワッとばかりに泣き出すので、やっとわかるなぞいうのがあります。  もっとヒステリーなのになると、夫の顔を見るたんびに何だか淋しくたよりなくなる。男の顔を見るのが物悲しく心苦しくなる。理屈も何も無いままにこの世が心細くわびしく思われて来て、 「あたしこの頃何だか変なの。あたし一人でいたくて仕様がないの。どうぞ構わないで頂戴」  なぞ云いながら、自分でも何故そんな気もちになるのだかわからない。身に余る晴れやかな男の親切の裡に、たよりなさ、わびしさがますます深く感ぜられて来る。 「これがヒステリーというものでないかしら」  なぞ考えているうちに、とうとう本物のヒステリーにかかってしまう。かかってから初めて潜在意識を意識して、 「あなたは妾を欺していらっしゃるでしょう」  と正面から開き直り得るような事になるのであります。  こんなのになると、いくら云いわけをしてもあやまっても頑として聴き入れないようであります。眼玉が灰落しのように凹み、胸が洗濯板のようになって、怨み死にに死ぬまでもであります。  鼻の表現の影響の深刻さ、ここに到って実に身の毛も竦立つ位であります。  一方にこうして女性に図星を指された場合、男性はその面目上|憤るのが十中八、九のように見受けられます。ジロリと睨んだだけで相手を押え付けてしまう千両役者もありますが、大抵の場合それだけでは気が済みませぬ。 「そんな卑しい男と思うか」  とか何とか眼も口も頬も額も、身体中の表現をむずつかして自分の心底の公明正大を証明しようとします。その中には世間の習慣に楯つこうとする女性の生意気さに対する憤り、今までに与えた恩誼に対する相手の無自覚さに対する不満なぞいう良心の錯覚もまじっているのであります。その錯覚の勢いで相手を圧倒すると同時に、自分の正しからぬ鼻の表現を誤魔化そうと試みるのであります。  しかし生憎にも鼻はいつもこの表現を裏切っているのであります。その暗い記憶に対する気の引け加減は、眼や口が怒りの表現で大車輪になってるさなかにも、鼻の表現にちゃんと居残っているのであります。      馬鹿にされる        ――悪魔式鼻の表現  少々余談に亘りますが、男性の中でも夫と名付くる種類の中には、どうかすると吾家に帰って来るたんびに、初めから怒鳴り込んで来るのがあります。  さもなくとも何か知ら機嫌が悪くて、事毎に難癖をつける。まごまごすると烈火のように爆発するなぞいう難物があります。この心理状態を解剖すると非常に複雑になりますが、要するに吾が家に近付くに従って、前に述べました原則に従って暗い記憶が鮮かに解って来る。それにつれて嬶や子供の何も知らぬ顔付きが、恰も良心の刺激その物のように腹立たしいものにかわって行く。その罪の無い鼻の表現に対する自分の暗い鼻の表現が、無意識のうちに気がかりになって、苛立たしい不愉快な気持ちになって行く。それをそうとは自分でも意識し得罪も無い枕を投げるような事にもなる。又はこのような心理状態を自分で認めていながらのテレ隠しもあるという次第で、鼻の表現がその暗さと空虚さを使いわけて、このような怒りの表現を一々裏切って行く点に変りは無いのであります。  ですからしまいには女子供にまで馬鹿にされて、「ソラお帰りだ」とか「又初まった」位にしか扱われぬ事になります。本人もこの程度の成功に満足して、「とにかく一件がバレなければいい」というような情ない日を送る事になります。自分の鼻の表現に呪われた男ほどミジメなものはありませぬ。  その他、自分の良心に対する女性の正面攻撃に出合った場合、男性の執る態度や手段はいくらでもあります。利口なのや馬鹿なの、気の長いのや短いのなぞに依って種々雑多に千変万化しますが、いずれにしても鼻の表現に裏切られる事は免れ得ませぬ。本当に前非を後悔して、悄然として異性の膝の前に「お許し」を哀願しない限り、自分自身の鼻の表現の根底を作っている本心の「お許し」も出ませぬ。鼻の表現の底を往来する「暗い記憶の影」は除かれない事になります。  ありとあらゆる男性は、皆申し合せたようにこのお許しの哀願を忌避します。忌避するためにジタバタ致します。知恵のあらん限りを絞って、掛引きのあらん限りを試みます。芝居や小説のタネが尽きませぬ。鼻の表現研究の興味も尽きない事になるのであります。  しかし又世間は御方便なもので、一方から見るとこの鼻の表現の影響は、こう迄厳密に男女関係に当てはまって行きませぬ。  つまり男性ばかりでなく相手の女性の鼻の表現――本心や性格にもいろいろな条件が付いていて、男性の鼻の表現に対する感覚が鈍っているのであります。惚れた弱味や惚れない強味、先入主や後入主、自惚れや贔負目、身の可愛さや子の可愛さなぞいう物質的や精神的な条件が、底も知れぬ位入れ交って淀みつ流れつしております。その上をその日その日の気分の風が吹き、その時その時の感情の波が立ち騒ぐといった調子で、相手の鼻の表現を底の底まで映し出しながらも、風に吹かれ波に消され、又は流れに引かれて、思うがままの態度を取りにくいのが普通であります。そのために笑って済ます切なさもあれば、泣き寝入りのあわれさもあります。一方には女郎の千枚|起請や旅役者の夫婦約束が、何の苦もなく相手を自殺させるなぞいう奇蹟が続々と起って来ることになるのであります。  悪魔式鼻の表現はこの間に活躍して縦横|無礙にその効果を挙げるので、鼻の表現研究の必要もここに到って又|益甚だしくなるのであります。      貞操と鼻        ――悪魔式鼻の表現  近来「男子の姦通罪を認めよ」とか「認めるな」とかいう問題が次第に八釜しくなって、議会にかけるとかかけぬとか騒がれているようになりました。  現代の社会組織とか、この中に行われる習慣とか、又は一般道徳とかいうものを標準にされる法律では、こんな問題が問題になるかも知れませぬ。市役所に出す婚姻届が絶大の権威を持つ法律では、こんな研究が八釜しい研究材料となるかも知れませぬ。しかし鼻の表現研究の原則から見れば全く問題とするに足りませぬ。研究する事すら馬鹿馬鹿しい位であります。  妻は常に夫に対して純真純美な鼻の表現を見せていなければならぬと同時に、夫は常に妻に対して公明正大な鼻の表現を示していなければなりませぬ。仮り染めにも鼻の表現に暗い影響を及ぼすような、暗い心理的経過を持ってはなりませぬ。これは誰にでもわかり切った問題で、又それだけの事であります。  法律の御厄介にならねばならぬような貞操関係を持つ夫婦は、世間的には夫婦かも知れませぬが、人間的には夫婦でありませぬ。市役所の戸籍面では夫婦かも知れませぬが、鼻の表現上の夫婦関係は消滅しているのであります。そんな事ならば初めから夫婦にならぬ方がよろしい。否、初めから恋をせぬ方がよろしい。生涯|互に独身主義を守って只一時限りの……又は売り物買い物の低級な性愛や性欲で満足を買って行くがよろしい……と云いたくなりますが、これは机上の空論で実際はなかなかそうは行きませぬ。  世間に習慣というものを生み出した人間が、その習慣の根本原理に対する無理解のある限り――社会というものを組織した人類が、その社会組織の原則に対する無自覚のある限り――又は異性同士が、「性欲」と「恋」と「愛」とに対して無区別、無分別である限り――さらに突込んで云えば、相手の本心の動き方や性格のかたまり方の美しさよりも、肉体や容貌や挙動なぞの美醜――さらに今一つ突込んで云えば、鼻の表現よりも、鼻以外の表現の方が愛の対象としての価値を定める条件としてより多く重んぜられている限り、男女関係の悲喜劇は永久に地球表面上から絶滅しないのであります。警察に出る捜索願いが絶えないわけであります。船板塀に見越しの松や、売れなくともよい小売店の影は決して世の中から消え失せない道理であります。下等のところでは肉の切り売りをする五燭光の影、上等なのでは良心の卸問屋に輝く百燭光の燦めきが夜の世間から退散しない筈であります。  つまるところ遺憾ながら、問題は矢張り法律の必要な世界に逆戻りして来るので、結局原則は原則、実際は実際という事になります。親同志で勝手に取り決めた不見転式の許嫁が幸福やら、合わせ物、離れ物式が真理やら、今の世の中ではわからない事になって来ます。  日本ではまだ戦国時代の婦人邪魔物的観念、封建時代の人間の消費経済や血統保存、又は家庭経済の成り立ちから来た道徳的習慣なぞが残っております。そのために婦人は多少に拘らず束縛されて、貞操を破り難い立場に置かれておりまして、その貞操に対する道徳的習慣は、殆どその良心の鋭敏さ――純潔無垢な恋の発露と一致せねばならぬ位に切り詰められております。道徳の方からは、「貞女両夫に見えず」なぞと睨み付けられているし、習慣の方からは世間の口端という奴が「女にあれがあってはねえ」と冷たい眼で見詰められております。女性の良心はこの点では、直に行き詰らせられるのであります。  一面から見れば日本の文化程度は、形而上だけでも婦人の貞操に就いて進歩している、純愛の原則に合致し得る迄に突き詰られ、理想化されていると云ってよろしいでしょう。  これに対して男性の貞操はさほどに切り詰められておりませぬ。理想化されておりませぬ。道徳も習慣も男性の貞操に関しては、明瞭した定義を下しかねているようで、却って「男の働きだから仕方がない」なぞと女性の方を押え付けるような傾向さえある位であります。そうして男性の貞操はいつ迄も非文化的、利己的、動物的であるままに放任されているかの観があります。従って男性は神聖なる恋、又は純粋なる愛を婦人と共に享楽する機会を永遠に奪われているかのように見えます。  これに対して近頃「男子の貞操」が問題になりかけて来たのは、誠にさもあるべき事であります。太平楽の並べ合いをする「男女同権」の意味からでなく、家庭和楽のすすめ合いをする「男女同義務」の上から見て――鼻の表現研究の行き方である恋愛至上主義、即ち文化生活向上の意味から見て、取り敢ず大白を挙げて慶賀すべき現象と考えられるのであります。  ところが男性の貞操に対する道徳観念、又は性的欲求に対する習慣は、なかなかこれ位の威で改良されそうな気色はありませぬ。「男性の貞操に関する法律」が婦人議会で可決されて、婦人の司法官に依ってビシビシ執行されない限り、一般の男性は依然として旧来の道徳と習慣の中に活躍するものと考えるのが至当でありましょう。そんな法律を男性は一笑に付して、益つけあがるでありましょう。自分の良心の許可まで受けている気になって――否、良心の批難の方が時代遅れの世間知らず位に考えて――甚だしきに到っては男性の愛と女性の愛とはその根本の要素に格段の相違があるものなぞと悟りを開いて、盛んに性欲の漏電や性愛の混線をやるに決っております。  さながらに漬物の味見でもするように、異性の性愛の芽立ちから薹立ち迄、又は生なれから本なれへと漁り歩きます。デカダンの非道いのになると、腐りのまわった捨てものが一番いいなぞと云い出す位で、どこ迄行っても男性の良心は行き詰まりませぬ。真の愛を味覚する機会を見出だしませぬ。  こうして男性なるものは、その愛の第一義を二方面にも三方面にも、或は二重にも三重にも使いわけて当り前だという顔をしております。そうしなければエラくないのだという、生存競争場裡の虚栄心までこれに手伝って、そればかりのために死に物狂いに働くはまだしも、不義理、不人情、不道徳はまだしも、詐欺、横領、泥棒なぞまでしても各方面の第一義に入れ上げようとします。  イヤハヤまことに御盛んな事で、容易に寄りつける沙汰ではありませぬ。法律で禁止しようが、社会課で宣伝しようが、救世軍が我鳴り立てようがビクともしませぬ。天の岩戸の昔よりという意気組であります。  只ここに鼻の表現なるものが存在して、かような人類文化の頽廃を随所随時に喰い止めて、悪魔式の表現を片っ端から裏切っているのであります。人間の表現を純真にして、社会生活を純美に導くべく、悪魔式鼻の表現を絶滅すべく、鼻という鼻の一つ毎に活躍を続けているのであります。  ずっと前にも研究致しましたように、鼻の表現なるものはその持ち主の意志、感情、信念等の変化を表すと共に、その誠意の充実の程度迄も一々細やかに写し出すものでありますが、これが女性に対するとどうなるか。  実意のある無しが、鼻の表現にすっかり現われるという事になります。事実上口先でどんなにうまい事を云っても、実意のある無しは鼻の表現に依ってチャンと相手に感じているので、只相手の神経の鋭敏さ、又は気持ちの静かさに依って、その感じ方に早し遅しがあるだけの違いであります。  如何に大勢の女性を同時に愛し得る男性でも、その相手の一人と差し向いでいる間は常に第一義の愛を求めているものであります。相手が純真純美の愛を捧げて身も魂も打ち込んで来る事を望んでいるものであります。  これは人情の自然、まことに止むを得ないところで、エイ子にはビー子とシー子の存在を秘密にして偕老同穴を誓っている。ビー子にはエイ子とシー子の事に就いて口を拭うて共白髪を誓う。シー子の前では又、お前こそ俺のいの一番のシー子さんだと言明する。いずれも注文に応じて即座に情死を承知する位の第一義を挑発しようと努めているのであります。  尤も中には「情夫があったら添わしてやろう」式に恐ろしく大きく世話に砕けたのもあります。しかしこれは相手の第一義式の性愛が望まれないために、思い切ってその第二義第三義以下の愛に対する期待までも捨ててしまって、性愛とは方面違いの人類愛的精神状態に入ったものと見るべきであります。しかも普通の場合に於ては、わざとそういう気前を見せて、せめて相手の深い感謝の念だけでもつなぎ止めようという、一種の未練や負け惜しみから来ております。又は周囲に対するテレ隠しや、相手に対する面当などの意味も含まれていない事は無いと考えられます。些くともこの言葉が第一義式性愛から出たものでない事は、こうした種類の黒焼の元祖、大星由良之助氏も承知の前であったであろう事を疑い得ないのであります。  要するにこの種の男性は、自分の第二義第三義以下の性愛を以てしても、相手の女性に求むるところのものは、常にその第一義の性愛であります。そのためには自分の愛が、第一義もしくはそれ以上に高潮したものである事を、相手の女性のそれぞれに対してふんだんに示さなければなりませぬ。男性の本心はそこに大きな空虚を感じない訳には行かないのであります。  この空虚が鼻の表現に顕われて、その実意のある無しを証明するのであります。  仮令その相手が貞操の切り売りをする女性であっても、多少に拘らず本心に眼ざめる力を持っている限り、又は世間というものに対して幾分でも眼醒め得る理智的の力を持っている限り、この種の鼻の表現に対する感得力は持っているものであります。仮令それが惚れたはれたの真只中、浮いた浮いたの真最中でも、相手の女性はこの感得力だけは別にチャンと取っておいて、暗黙の裡に男性の心理状態を研究し続けているものであります。  殊にこの傾向は、意地で世間を振り切ったというような、一種緊張した境地を歩む女性、又は男に飽き果てたという極度の濁りから出た、一種の澄み切った気分を楽しむ婦人、或は又全く何にも知らぬポッとした女性に最も甚だしいのであります。こんなのになると金にあかし、望みに明かしてもうんと云わない。「殺す」と威しても、勝手にしろと鼻であしらうようなのすら見受けられるのであります。  ここまで来ると鼻の表現の価値の神聖無上さは実に天地の富にも換え難い位で、女性は只男性の鼻の表現のために生きていると云っても差支えないのであります。 「何の二千石君と寝よ」という凄いのが出て来るのもこの理由からであります。 「身体は売っても心は売らぬ」という篦棒なのが出て来るのもこの意義からであります。  ここに到っては如何なる悪魔式表現も倒退三千里――七里ケッパイの外ないのであります。      記憶と鼻        ――悪魔式鼻の表現  人間に記憶というものが存在する限り、如何に古い出来事でも必ずその鼻の表現に影響を与えずには措かぬ。同時に人間に鼻というものが存在する限り、その誠意の有無、虚実の程度は証明されずに済まぬ。鼻の使命はそこに在るという事は、ここまで鼻の表現を研究して来られた方が信じて疑われぬところであろう事を信じて疑いませぬ。  然るに一般の人々はこんな事を夢にも気付きませぬ。すべての人は他人に見られさえしなければ、どんな悪い事をしてもわからぬものと考えておられるようであります。もっと端的に云えば、世間では腹の悪いものが勝だという意見の方が昔から勝を占めているようであります。  これは至極|尤もな話であります。  少くとも現在の社会では心からの正直者が大抵の場合、損をしているように見えます。それと同時に現在偉くなっている人々は、大抵他人を見殺しにしたり、又は他人の精神上や物質上の損害を自分の出世の犠牲にして知らぬ顔をする事の上手な人ばかりであるように見受けられます。だから俺もそうしないと損だというように考えられているようで、男の児なぞは小説などを読み得る年頃になると、ボツボツこんな迷いを起こす。そうして三十か四十になると、吾が児の純な鼻の表現を見て、 「まだ世間知らずだなあ」  なぞと悲観するという。悪魔式鼻の表現研究者の卵は、こうして人間到る処に孵化しつつあるのであります。  これを防止するためには「鼻の表現」の価値と権威とを宣伝するのが一番の近道であります。大きな鼻の絶頂に意志や感情を象徴した五色の旗を立てたポスターなぞは、最も眼新しくて面白かろうとさえ考えられる位であります。いずれにしてもその人間の腹の底にあるものは必ず鼻の表現に現われるのであるという事を、出来るだけ深く明らかに全世界の人類に知らせるのが何より急務であろうと考えられます。  善因善果、悪因悪果、悔い改めよの、心を入れ換えよの、やれ神罰の、仏罰の、天の怒り地の祟り、親罰、子罰、嬶罰のと、四方八方からの威し文句の宣伝ビラが昔から到る処ふり撒かれておりますが、近頃の人間は頓と相手にしなくなりました。恰も往来の塵同様、ハイカラ風の吹き散らすに任せ、文化の雨がタタキ流すに任せております。  しかし鼻の表現ばかりはそうは行かぬ。「天に口なし、鼻を以て云わしむる」という事を覿面に証拠立てるものであるという事が、もし本当に人類全体にわかったらどうでしょう。今云っている言葉、今やっている表現が、本当に心から出たのであるかどうかという事を即座に判決する裁判官が、自分の顔の真中に控えているという事が真実に一般に自覚されたらどうでしょう。 「そんな事があるものか」と笑う人の鼻の表現にはきっと負け惜みの色が動いているものであるという事が判明したら、そもそもどんな事になるでありましょうか。  鼻の無い方が世間に何人おられるか存じませぬが、そんな方はお気の毒ですからここではイジメませぬ。さもない限りすべての鼻の持主は、正に人類文化の大革命、表現界の大恐慌として狼狽されるに違いありませぬ。      鼻と文化生活        ――悪魔式鼻の表現  悪魔式鼻の表現の弱点をここ迄|抉り付けて来ますと、きっと次のように反対論者が世界中から攻撃の矢を向けるに違いありません。 鼻の表現は人の心をアケスケに見せるという事はよくわかった。それが又人類文化向上の原動力だという理屈もよくわかった。しかしこの道理を人類全体が自覚したとしたら変な事になってしまいはしないか。 第一自分の鼻がそんな物騒なものだとわかったら、うっかり口も利けなくなる。人類文化の改良どころか社会生活の破滅になりはしないか。 たった一度しか買わぬのに「毎度有難う」と云う商売人、又かと思ういやなお客に「ホントニお久し振りね」と云う芸者、「貴国の軍備縮小に満腔の敬意を払う」と云う外交官、「とんだ御不幸で」と駈け付ける新聞記者、その他到る処の御世辞や御愛嬌は片っ端からフン詰まりになって、人間到る処、篦棒とブッキラ棒のたたき合いになってしまう。そうなれば人類文化の運の尽ではないか。これを以てこれを見れば、鼻の表現の研究宣伝は不可能である。可能であっても不賛成である。  ……と……。  ……まことに事理明白な次第でありますが、幸か不幸かこの御心配は御無用である事を、横町の黒犬と竪町の白犬とが往来の真中で証明してくれるのであります。  横町の黒犬と竪町の白犬とは初めて曲り角で出会うや否や、俄然として態度を緊張させます。ソロソロと近寄って、ウンウンと嗅ぎ合ってその同性同志である事がわかる……何等の利害関係のない赤の他犬である事が判明すると、憤然として鼻に皺を寄せます。やおら白い眼と白い牙をむいて「何だ貴様は」という表現をします。甚だしきに到っては、何等の理由なしに大怒号大叫喚の修羅の巷を演出したりします。  これは畜生同志が初めて出会った時の心理状態を有りのままに見せた表現でありますが、遺憾ながら万物の霊長たる人間にも、この性質を発見する事が出来るのであります。子供ならば、学校が違ったり部落が違ったりすると、ただ訳もなく睨み合います。大人になってもこの心理作用はなかなか消え失せないので、電車の中や汽車の中、その他到る処にこの気分の発露を見受けられますようで……尤も理由なしに咬み合いは始めませんが、一寸足でも踏むか横っ腹でも突くと、何だこの野郎、失敬な奴だという気持になります。甚だしいのになると、それをきっかけに電車の二三台位は訳なく止めるような事になるので、その云い草や理屈が如何に文化的であっても、要するに野蛮時代から潜在的に遺伝して来た動物性の暴露である事は疑いを容れませぬ。  ですから……これでは人類の共同的文化生活は永久に覚束ない……とあって発明されたのが儀礼とかお世辞とかいう奴であります。さすがに吾々の祖先は万物の霊長だけあって、途中で出会うたんびに一々尻を嗅ぎまわってイガミ合っていては、手数が大変だという事を直ぐに覚ったのでありましょう。  そこで「ウヌが人間ならオレも人間だ。向うへ行きたけりゃ手前の方からよけて通れ」という鼻の表現を和らげて、「貴殿が紳士なら拙者もゼントルマンで御座る」「御免遊ばせ」「失礼を」で行き違います。奇特な人は他家のお葬いにでも帽子を脱ぐといった塩梅式になります。  これを以てこれを見れば、礼儀作法とか御愛嬌や御挨拶なぞというものは、共同生活の本義から割り出された四海同胞主義、それからまた煎じ出された博愛の精神を標準目標として出来たものと考えられます。商売上の掛引にせよ何にせよ、相手に好感を与えねばならぬという人類共通の本心から出たものである事は間違いないようであります。  同時に精神上から見ても物質上から云っても、世間はだんだん実質本位になって来ます。お世辞でも中味のある方がいい。礼式でも無駄なのは廃してしまえというので、精神上物質上充実されたものでなければ人が相手にしなくなるのは当り前であります。  これが次第に拡充されて来ると、当世流行の人類愛迄漕ぎつけます。赤の他人にでも奉仕する。知らぬ人間でも尊敬をする。何人も欺し得ず、何ものも傷付け得ぬところまで行き付くのであります。つまり現在の人間がやっているおべっかやお追従は、人間が動物から進化して純愛の一大団結たるべき下稽古――霊的文化の世界を組織すべき手習いをやっているものと見るが至当でありましょう。  鼻の表現研究の主目標は、ここにあるのであります。  この光明に達し得る最上の近道が、鼻の表現の研究に外ならないのであります。 「イヤアどうも。一度是非お伺いしなければならぬとはいつも考えながら、ついどうも」  という鼻の表現の内容が如何に充実していないものであるかという事は、本人自身もよくわかっている筈であります。 「アラチョイト。旦那にはどこかでお眼にかかったようだわ。妾こんや嬉しいわ」  という鼻の表現が如何に三十円に値せぬかは、通人ならぬ御客様でも一眼でおわかりの事と存じます。 「お蔭様で助かります」  という仏面と、 「抵当が欲しけりゃ持って行け」  という閻魔面とのどちらにも、横着を極めた鼻の表現が共通して存在している事は誰しも認め得るところでありましょう。  鼻の表現はこうして常にその誠意の有無を裏書して、相手の警戒心を挑発します。「嘘から出たまこと」でも「真事から出たウソ」でもそのままソックリ写し出して、鼻の表現の邪道の研究範囲を狭くして行きます。三千年前から聖人が心配していた世道人心が、今日迄も案外|廃れ切らないのは、偏にこの鼻の表現の御蔭ではありますまいかと考えられる位であります。  親の罪を引き受けて「私が致しました」というしおらしい孝子の鼻の表現と、自分の罪を他人になすり付けて「一向に存じませぬ」と白を切る悪党の済まし切った鼻の表現は、どうしても違わなければなりませぬ。同時にあらゆる証拠が揃っていながら「冤罪だな」と名奉行が心付き、又はなんの証拠もなくて反証ばかりあがっていながらテッキリ此奴と名判官が睨むのは、その無私公明、青空止水の如き心鏡に、被告人の鼻の表現がありありと映ったものに違いありませぬ。  かようにして鼻の表現は、人間に記憶力なるものが存在する限り法律上の罪悪をも映し出すので、こうなると現代の証拠裁判なぞいうものは甚だ不確なものとなります。指紋などの研究よりも何よりも、先ず鼻の表現の研究の方が刻下の急務ではあるまいかと考えられる位であります。  かようにして法律上の罪悪、又は道徳上の汚行は、その犯行者本人の鼻の表現に依って呪われて行くのであります。この境界を超脱した純正純美なる鼻の表現の持ち主こそ真の紳士、真の淑女と呼ばるべき人々で、人類文化生活の共同的向上は、このような人々に依ってこそ達成せらるべきであります。学識財産、身分の高下、服装の如何等に依ってこの尊号を奉る事が人類堕落の原因である事は説明する迄もないのであります。      輪廻転生        ――運命と鼻の表現  その人の個性及び、その個性がその人の修養と経験とで研き上げられた人格とが、鼻の表現の変化の根柢を作っている事は、今まで研究して参りましたところに依って最早充分に了解の事と信ぜられます。鼻の表現に現われた喜怒哀楽の基調が卑しいものであるか、高尚なものであるか、又は狡いものであるか、正直なものであるかという事は、その底に表現されている、その人間の性格を見れば一目瞭然するのであります。  勇者の鼻は鉄壁をも貫く気合を見せております。智者の鼻は研磨まされた心鏡の光を現わしております。仁者の鼻は和かい静かな気持を示しております。聖者の鼻からは上品な清らかな霊感を受るのであります。  さもない凡人たちの鼻でも、つつましやかな人の鼻はしおらしく控えております。高ぶった奴の鼻はツンと済ましております。意久地なしの鼻は高くても低く見え、図々しい奴の鼻はヒシャゲていてもニューと上わ反りになっているかの表現をしております。  これに対する相手の感じよう、又は世間の反響は、直にその鼻の持ち主の運命となって来るのであります。即ち鼻はその持ち主の運命を支配していると云っても差し支えないのであります。  これを逆に観察致しますと、こうした運命に支配されて、或は悲観し、或は楽観し、又はこれに対抗して行く意志や感情や信念は積り積って行く中に、更にその人の性格を作って行くものであります。即ちその人の性格は、その人の経歴の縮図で、その性格をすっかり見せている鼻の表現は、その人の将来の運命と共にその持主の経歴も象徴しているのであります。  その人の性格の基礎となるべき個性の中には、先天的の分子、即ち遺伝に依って稟け継いだ性質が多分に含まれている事は学者の証明するところであります。その先天性の中には、動物性もあれば人間性もあります。動物性というのは吾々の祖先が猿か猫か何かであった時代に体験して来た性質で、子供の時に只わけも無く木に登って見たり、動物を生殺しにして玩弄にして見たり、又は無意味に暗黒を恐れたりするのは、この性質の発露だそうであります。  人間性というのは、これが洪積世以後人間にまで進化してから各種の体験に依って作り上げた特性で、こんなのが通有性と固有性とを問わずゴチャゴチャと遺伝されている事は申すまでもありませぬ。そうしてその固有性を基礎として築き上げられたその人の性格は、その鼻の表現に依って他人に反映して、その人の将来の運命を支配すると同様に、その通有性はその人の属する国家、民族の各個人の個性に含まれている通有性と共鳴して、その通有性に適合した社会を組織し、これにふさわしい宗教、芸術、学術、技術を生み、そうしてその国の民族の盛衰消長を支配して行くのであります。  動物性と人間性……固有性と通有性……ただ個性というものの中にも、これだけの複雑広大な因子が含まれております。これがオギャーと生れてから後の修養や経験に依って整理淘汰されたものが、その人の性格となり、これが向上洗練されたものが、その人の人格となる。そうして子孫に伝わるとでも申しましょうか。  顔面中央の一肉団……本来不動、無表現の鼻柱はかくしてその人の個性、性格、人格を表明すると共に、父母未生以前の因果、弥勒の出世以後の因縁までも同時に眼の前に結び止めて、輪廻転生のあらたかさをさながらに拝ませているのであります。吾々の生涯に積んだ悪業善行は、こうして子々孫々の後までも鼻の表現の中を流転して、その運命を支配して行くのであります。  ずっと前に研究を致しました…… 「鼻の表現能力は、その無表現のところに在る……  無から有を生ずるところに在る……  不変不動のまま千変万化するところにある……  造化の妙理、自然の大作用はここにも窺う事が出来る……」  という事実が如何に驚異に値するか……ただ言語道断。気を呑み声を呑で「鼻」の前に低頭平身する他ありませぬ。  昔から偉人とか傑士とか、又は苦労人と呼ばれる人々は、多少に拘らず無意識の裡にこの間の消息を飲み込んでおったもののようであります。 「人品骨柄卑しからぬものと見えた。召し抱えよう程に名を問うて参れ」  といったような話があります。この人品骨柄卑しからぬという見処は、その鼻の表現にあるので、眼や口が如何に清らかであっても鼻の表現が卑しかったら落第であります。  如何に経歴を偽っても、又は柔和な人相をしていても、 「此奴油断のならぬ奴」  と思わせるのは、その胡乱な経歴から来た性格が鼻に現われているからであります。  戦場|場数の豪の者、千軍万馬を往来した驍将の鼻には、どことなく荒涼凄惨たる戦場の殺気を彷彿せしむべき或るものがあります。  泥水商売に身も心も浸して来た鼻には、血も涙も褪せ果てた見すぼらしい本心の姿が見えるというのは、さもあるべき事でありましょう。  この故に大聖孔子は、一野翁老子の前に頭が上らなかったのではありますまいか。  かかるが故に、歴山大王は一乞食学者ダイオゼニアスを奈何ともする事が出来なかったのではないでしょうか。  賤が伏せ屋の見すぼらしい母子が只の人でないと眼をつけられ、綾羅錦繍の裡に侍ずかるる貴婦人がお里を怪しまるるそもそもの理由も、亦ここにあるのではありますまいか。  骨相学者や運命判断の原理は別としましても、その人の経歴と性格と運命とが、鼻の表現を中心として循環転変して行きつつある事は疑う余地ありませぬ。  この道理は歴史の上にも現われて、成る程と思わせられる事が甚だ多いのであります。  歴史上に活躍する人物の性格と、これに対する群集心理との結合は何に依って成り立っているか。何に依って認められ、何に依って反響を招きつつあるか。  思うてここに到る時、鼻の表現の権威の偉大さに驚かざるを得ないのであります。  世界の歴史は誇張した意味でなしに、鼻の表現の歴史と見て差し支えないのであります。  人類文化の推移は掛け引き無しのところ、鼻の表現の推移と考えられるのであります。      スフィンクス        ――運命と鼻の表現  世界歴史の表面に鼻を向けるに先立って、是非一度研究しておかねばならぬのは、前に御紹介致しました世界最古の文明国エジプトはナイル河畔に、数千年の昔から横たわっているスフィンクスの鼻の表現であります。  青藍色に澄み切った大空の燦爛たる烈日の下に燃え上る褐色の沙漠の一端、暗黒の大陸を貫いて南から北へ流るるナイル河の氾濫に育まれたエジプトの文化は、実に奇怪を極めたものでありました。  滴るばかりの緑の野に金光|赫々として輝くファラオの武威は、各王の死後の住家である三角塔と、その功績を地表高く捧ぐる方光塔と、迷い入ったら最後、容易に出口を発見し得ぬという螺堂を生みました。又不可思議をそのまま神として崇拝する万有神教は、輪廻転生の説と木乃伊とを生みました。その中にわけても不可思議の建造物として、今日迄全世界の学者に首をひねらしているスフィンクスの大石像を生み出したという事は、エジプトの文化の奇怪さを一層強く裏書きしているものではありますまいか。  この石像の不可思議が今日迄解決されないままに「謎語」の象徴として中学校の教科書にまで載せられている事は、あまりに知れ渡り過ぎている事実であります。その「謎語」の「謎語」たる所以は、その姿が人面獣身であるところにあるという事も亦あまりに有名な事実であります。  然るにここに注目すべきは、そのスフィンクス像の鼻は偶然か天意か知らず、いつの間にか欠け落ちている事であります。その欠け落ちたのは勿論後世の探検家に発見される以前の事で、本来高かったものか低かったものか、又はどんな恰好をしていたものか、今日からは全く見当のつけようがないのであります。  鼻の表現の研究が世界歴史に触れるに当っては、是非ともこの事実を問題としない訳には参りませぬ。スフィンクスの鼻が欠け落ちているために、如何にそのスフィンクスたる表現を強めているか。スフィンクスの象徴している意味が、如何にスフィンクスられているかということは、「鼻の表現」に与えられた一つの謎語として……人類に与えられた永久に新しい、そうして永久に古い「謎語」として深い注意を払わない訳には参りませぬ。  人類の作った宗教的、哲学的、又は芸術的の芸術品には、そのいずれの一つとして意味の無いものはありませぬ。その中にただ一つ「謎語」と名付けられて残っている、世界最大最古の象徴的芸術品――「彼は彼自身である」という解釈より外に適当な解釈を下された事の無い「謎語」の像――その「謎語」たる彼自身の真面目を標榜しているべきスフィンクスの鼻の表現が、何故とも何事とも知らず欠け落ちている。「謎語」の二乗になっているという事は、「世界歴史が鼻の表現の歴史である。人類の文化が鼻の表現の表現である。それを人類は知らないでいる」という天の啓示ではありますまいか。  一方から見ますと、人類進化の道程は先ず獣から発している事を証せられております。同様に人類文化の推移は、獣心から人心に進むところに在ると解かれております。数千年前にこの意味を象徴し得たエジプトの万有崇拝教が作った文化は、そのスフィンクスの鼻の表現に於てもこれを象徴し得なかった理由はありませぬ。  しかし同時に、このデザインを建てた程の芸術家ならば、キットこのスフィンクスの鼻の表現を残しておく事が、永久に人類を鼻の表現に対して無自覚に終らしむる所以である事を考え得ぬ筈はありませぬ。  ここに於てかその芸術家は、この大作品を当時の埃及王の御覧に供した後、或る夜|窃に梯子を持って行って、その鼻の表現を自然の作用であるかのように欠き落したのではあるまいかとも考えられます。  いずれにしてもスフィンクスのスフィンクスたる所以は、その鼻の表現が無くなっているところにあります。そこにあらゆる芸術的判断、又は宗教的哲学的の思索を超越した「謎語」としての価値が感得されるのであります。  折れたビナス像の腕を再造するという事は、芸術上の大問題になっております。それ程の文化程度に進んだ現代の人類が、スフィンクスの鼻に対し何等の問題を起こさないという事は更に更に大きな「謎語」ではありますまいか。  スフィンクスは世界の終りまで、鼻を再造してもらう事は出来ないでありましょうか。      クレオパトラ        ――運命と鼻の表現  鼻の欠け落ちた大怪像スフィンクスの傍に住んでいた女王クレオパトラの鼻が、世界の歴史を支配したという事も亦、何等かの暗示を人類に与えずには措きませぬ。些くとも鼻の表現の研究上、かのスフィンクスと相対して、最も奇抜な、そして興味津々たるコントラストを見せている事を否定する訳に参りませぬ。 「彼女――クレオパトラの鼻が、今|些し低かったならば、羅馬の歴史を通じて世界の歴史に変化を与えたであろう」  という云い伝えが、もし彼女の鼻の静的表現の高さに就いてのみ解説されたものであるとするならば、どうしても鼻の表現の真相を穿ったものとは考えられませぬ。少くとも近所にスフィンクスが控えている以上、今些し意味深長な理由があるものと考えたいのであります。  クレオパトラは美人の代名詞として今日迄も謳われている位の容色の持ち主であったそうであります。その女性としてのプライドが如何に高かったかは想像するに難くありませぬ。同時に世界文化の先進国たるエジプトの女王たるプライドが、如何に極度以上にまでその鼻の表現を高潮しおった事でありましょうか。彼女の鼻が今些し低かったならば云々という言葉は、この場合精神的方面からの批判と見るが至当ではあるまいかと考えられます。  シーザーは、はるばる羅馬から彼女を見物に来て、この超世界的の女王の鼻の表現を見ると、そのまま黙って羅馬に帰ってしまったと伝えられております。  傲岸不屈、世界を眼下に見るシーザーの鼻の表現が、如何なる男性をも自己の美と女王としての権威の膝下に屈服せしめなければ措かぬというクレオパトラの鼻の表現と相容れ得なかった事は、想像するに難くありませぬ。  こうして世界の運命は、男性と女性の最高のプライドの鉢合せに依って決せられたのであります。  これに反してアントニーは、彼女の鼻の外面的美的条件を見ただけで、これに惑溺したのだそうであります。そうして引き続いてクレオパトラに愛せられたところを見ると、アントニーの鼻の表現は余程のお人好しか好色漢の色彩を帯びたものであったろうと想像されます。  男性の性格の両面とも云うべき「愛」と「功名」――これを代表したこの二つの鼻の表現が、彼女の鼻に対して結んだ因果関係――それに依って支配された二英雄の運命――それに依って支配された羅馬の将来――それに依って運命づけられた世界の今日――。  それは世界歴史の頁の大部分を犠牲とし、不可思議の国|埃及の王宮を舞台面として演出された、至大至高の鼻の表現劇ではなかったでしょうか。今日の人類の文化は、未だこの鼻の表現劇の影響から免れ得ていないのではありますまいか。  クレオパトラとアントニーは、各自分の鼻の表現に依って支配された運命に従って、スフィンクスの膝下に斃れたと伝えられております。  一方シーザーは、羅馬に於てブルタスの刃に刺されました。これはその鼻の野心満々たる表現が、識らず識らずの裡に民衆の反感を買っていたのではないかと想像する事が出来るのであります。      人類史と謎語        ――運命と鼻の表現  こうして世界歴史の表面を飾る人々の鼻の表現は、人類進化の道程に於ける何等かの意義を象徴して、その時代の人々を導きました。それ等の人々の盛衰興亡に一新紀元を劃し、それ等の人々が作る文化の栄枯消長に一転機を与えました。そうして後世の人々に、何等かの霊的又は物的の暗示を残して行きました。  骸骨の塔の高さを誇る鼻の種族は、敵を見る事草木の如き剽悍無残の鼻を真っ先に立てて、毒矢毒槍を揮いました。  版図の大を誇る鼻の一団は、智勇豪邁、気宇万軍を圧する鼻に従ってこれに殉じました。  石から大理石に、大理石から銅に、銅から金銀に、その文化の光明を誇る鼻の群れは、公明聡慧一世に冠たる鼻を仰いでその徳を讃美しました。  現界の富強を希わず、神界の福楽を欣求する鼻を貴ぶあつまりは、崇高幽玄、霊物を照破する鼻に帰依して財宝身命を捧げました。  吾れに従う人々の安息の地を求むべく、燦たる北斗星の光を心あてに、沙漠をうれいさまようた鼻がありました。  精神的にも物質的にも茫々たる不毛の国土を開拓して、隆々たる文化を育みつつ、世界を併呑すべく雄視した鼻がありました。  高潔|沈毅な鼻の表現に万軍の信頼を集めつつ、天地を震撼する大魔王の鼻を一撃のもとに打ち砕いた英雄がありました。  文化的爛熟期に入った列国代表者のデリケートな鼻の表現の間を、新興民族の蛮勇を象徴した鼻の表現で、片っ端から押しわけて行った巨人がありました。  吾民族の文化的実力を過早に自惚れて大戦争を起こし、遂に滅亡に近い運命を招いた帝王の鼻がありました。  断頭台上に端然として告別の辞を述べ、信念と慈愛の表現を万世に残して、人々の涙を絞らせる美人の鼻がありました。  出しゃばりたい一パイの鼻の表現をふりまわして、数十万の生命を弄び殺した女王の鼻がありました。  戦争の惨禍を坐視し得ぬ鼻の表現から、世界的の博愛事業を生み出して、今日まで幾千万の人々をして人類愛に感泣せしめつつある婦人がありました。  天体の推移を睨み詰めつつ、古井戸に落ちた鼻の表現がありました。  徳業にいそしんで九年面壁した鼻がありました。  寡頭政治から民衆政治へ移すべく、街頭に怒号する鼻がありました。  宗乗の誤謬を匡すべく、火に灼かれる迄も正理を標榜した鼻がありました。  形式を破って自由の天地を打開すべく熱狂した鼻がありました。  伝統の文化から個性の文化へ導くべく悶死した鼻がありました。  高い鼻を見ると、無意識にこれを礼拝しました。  大きい鼻に出合うと、無条件でその庇護を受けようとしました。  強い鼻にぶつかると、訳も無くこれに服従しました。  その代り些しでも弱い鼻は圧倒しよう、小さい鼻は併呑しよう、低い鼻は蹂躙しようと、互に押し合いへし合いました。  こうして世界の歴史は芋を洗うように転変し、その文化は雑草のように興亡しました。  ……………………………………………………  テン テレツク テレツク ツ  テン テレツク テレツク ツ  という囃子に連れて、恐ろしく高い鼻と、無暗に低い鼻と、全く開け放しの鼻と、三種の鼻が現われてヒョコリヒョコリと踊りまわる。  世界歴史の表面を見渡していると、どことなくこんな感じがします。  現代の人類社会の生活を見渡しても、こんな気持ちがして仕方がない時があります。  何だかタヨリナイような――可笑しいような――自烈度いような――のんびりしたような――面白いような――馬鹿馬鹿しいような――有意義なような――無意義なような――。  世界はどこまで行っても、おかめとヒョットコと天狗の踊りに過ぎないものでしょうか。  人類の生活はどこ迄行っても、馬鹿囃子位のものなのでしょうか。  そうして人類の鼻の表現は、行き詰まったところがこの三つの鼻の表現のうちどれかになってしまうよりほかに、仕方がないものでしょうか。  人間というものは、そんなつまらない使命のために生れて来ているものでしょうか。  これは一つの大きな謎語であります。      万有進化と鼻        ――運命と鼻の表現 「謎語」という言葉はかの埃及の大怪像スフィンクスを呼び出す言葉であります。  世界中の鼻の表現のうちで、この鼻の表現研究上の根本的疑問を解決する事が出来るものは、かの鼻の欠け落ちたスフィンクス像よりほかにありませぬ。  スフィンクスは黙ってこの疑問を解決しております。  ――頭は人間――身体は獣――と。  スフィンクスが出現してから二千年以上|経って後、人間はやっとこの暗示を解決する事が出来ました。そうしてこう云いました。  ――獣から人間へ――  この理屈を説き証したものが進化論と名付けられております。  進化論の説くところに依りますと、この――獣から人間へ――という事は、天地間、ありとあらゆる森羅万象が進化しているという事実の一端を示した事になるのであります。  ――無生物から生物へ――  ――生物から植物と動物へ――  ――植物は――苔から草へ――草から木へ――  ――動物は――虫から魚へ――魚から鳥獣へ――鳥獣から人間へ――  皆進化している――  この進化の原動力は「自己の愛護と向上発展」云々――  何だか中等学校のお講義めいて来ましたが、この証明に依ると、何だか宇宙自身にも本来の「自己の愛護と向上進展」があるそうであります。そうしてその進化の方向は、矢張り進化論の説明と同じ方向であるスフィンクスの暗示、  ――獣から人間へ――  というのに一致しているのではないかと考えられます。これが宇宙進化の鼻の向うところで、これがスフィンクスの鼻に依って表現されていたのではありますまいか。  昔は交通が不便でありましたために、お釈迦様やイエス様は、その当時の文化の先進国たる埃及へ洋行された事はなかったものと見えます。もしあんな頭のいい人が一度でも埃及へ行ってスフィンクスを見ましたならば、あんな説法の仕方をしなかったであろう、その流れを汲む人々が今日になってあんなに進化論と喧嘩をしなくてもよかったろうにと、今更遺憾に堪えませぬ。  しかしその上に今一つ遺憾な事を云えば、その進化論も、獣から人間が出て来たところまでしか証明しておりませぬ。人間からこんどは何になるかという事に就いては少しも説明を加えておりませぬ。  ……スフィンクスもここまでしか暗示しておりませぬ。 「それから先は説明の限りに非ず」  というのか、 「それから先はわからぬ」  というのか、それとも又、 「それから先はおしまい」  というのかわかりませぬ。鼻の表現を隠して知らん顔をしております。そうしてこれを永久の謎語として人類に暗示しつつ、沙漠の方を向いております。  そこでおかめとヒョットコと天狗様とが飛び出して、馬鹿囃子を初めなければならぬ事になります。  スフィンクスから欠き落とされた表現は、数千里を隔てた日本に吹き散って来ました。  そうしてその中からヒョットコとおかめと天狗様が生れたのではないかと思われる位、スフィンクスと馬鹿囃子の関係は密接なものがあるのであります。  まことに突飛といって、これ位突飛な対照はありませぬ。しかし何しろ古今独歩の鼻の表現の中に現われた、最も偉大不可思議なる神様達の因縁事でありますから、とても人智の及ぶところではありませぬ。只謹んで神意を伺い奉るよりほか致し方ないのであります。      呪われた鼻        ――運命と鼻の表現  獣からやっとこさと人間へ進化して来た鼻は、初めて地面から手を離して四方をキョロキョロ見廻しました。ここまではスフィンクスの暗示に依って進化して来たのでありますが、これから先どこに向って進化向上していいか見当がつかなかったからであります。  意地の悪いスフィンクスは折角ここまで連れて来ながら、その鼻の表現を隠して人間を五里霧中に突放しました。  突放された人間がヒョットコでありました。  ヒョットコは見る物毎に驚きました、呆れました。人間の五官の世界が果しもなく広く美しく眩しく荘厳に不可思議なのに肝を潰してしまいました。えらい処へ来たと思いました。大変なものばかりであると思いました。そのために鼻の穴がスッカリ開け放しになってしまいました。  オッカナビックリ歩きまわって見ました。しかしいくら歩きまわっても、只驚くべき怪しむべき事ばかりで、行っても行っても同じ風が吹いているという事だけがわかりました。どこへどう落ち着いて、どんなに日を送っていいか、まるっきり見当がつかなくなりました。  スッカリスフィンクスに馬鹿にされてしまいました。  仕方がないのでヒョットコは、遂に色気と喰い気に逆もどりをしました。昔|獣であった時代からこれを生命と守り通して来た利己心――生命の保存と永続の二つの本能のいとなみに凝り固まりました。  姿は人間でありながら、心は昔の獣のまま喰って惚れて生きている――  ――絶対の無自覚の姿! 「オホホホホホホ」  とおかめがこれを見て笑い出しました。 「マア、面白い事。おかしい事。一寸ヒョットコさん、御覧なさいよ。何て奇麗なお月様でしょう。何て明るいお太陽様でしょう。妾すっかり感心しちゃったわよ。こんな有難い事は無いわよ。ホントに勿体ない――嬉しい事……オホホホホ」  おかめはこうして総てに満足しました。この上に何物も望みませんでした。  人間の五官を備えている事だけに満足し切って、空虚な喜びに生きている――  ――消極的の無自覚の姿!  この無知無能に対して、恐ろしく憤慨したのは天狗様でした。 「おれは貴様達のような無自覚なものじゃないぞ。何物にも満足するような無知なものではないぞ。如何なる事でも為し遂げ得る能力を持っているぞ。あらゆる向上力と通力とを持っているぞ」  こうして総てを眼下に見下して、自分だけ慢心してしまいました。たった一人で、俺は人間以上のものだと威張り腐って生きているようになりました。  自覚心があり過ぎて、却って無自覚と同じ事になってしまいました。ちっとでも他の生物より優越したところがあれば、直に満足をするようになりました。――スフィンクスが終極の目標を示さないために――  そうしてすべてにこの自覚の誇りを宣伝すべく、全世界を飛びまわりはじめました。  ――鼻ばかり高く突き出しながら――  ――積極的無自覚の姿!  ……………………………………………………  ――おかめとヒョットコと天狗様――この三つはこうして人間の無自覚――スフィンクスの鼻の表現から生まれました。  いずれも絶対の馬鹿の表現であります。  無自覚に凝り固まった鼻の表現であります。  永久にスフィンクスに呪われた姿であります。  子供のオモチャにしかならぬ程度のものであります。  こうなりたくないために――スフィンクスの呪いにかかりたくないために――子供のオモチャにしかならぬ程度の一生を送りたくないために、噴火口や瀑布に飛び込む人すらある位であります。  その他の人々は、しかもそうは考えませぬ。自分の満足するところに満足すりゃいいじゃないかといった調子で、めいめい行き得るところまで行って、これに満足し得意になる。あとは只驚いている。首をひねっている。感心している。喜んだりビクビクしたりしている。こんな鼻の表現がもしあったならば、その持ち主は同時にヒョットコであり、おかめであり、天狗様でなければなりませぬ。  スフィンクスに呪われた人でなければなりませぬ。      鉱物式や植物、動物式の性格        ――運命と鼻の表現  スフィンクスは埃及の万有神教から生れたものだけに、人間の鼻の表現の呪い方も森羅万象式で種々雑多に分かれております。しかしこれを大別しますと、無生物式と植物式と動物式の三つの呪い方にわかれるようであります。  凡そありとあらゆる人々はスフィンクスにこんな風に呪われながら、自分でもこれを知らず、これに囚われこれに満足して向上発展の意気を喪っているように見受けられます。  先ず無生物式に呪われているというのは、変化の無いつめたい石や金属の性質を帯びている鼻の表現であります。  男性では頑冥不霊の石塔の鼻や、微塵も色気の無い石部金吉の鼻、鉄のように頑強な性質、又は銅臭に囚われた人、或は金ピカ自慢の方なぞがこの部類であります。いずれにしても或る硬度にまで凝り固まった融通の利かぬタチで、中には合金や鍍金、流し金なぞで満足している人もあるという次第で、各とりどり様々にその持ち前の性格を鼻の表現に光らせております。  女性の方でも同様で、めいめいに御自分のプライドを鉱物や金属に思いなして、囚われておいでになるようであります。鉄や銅のように世帯向きの実用式性格を御自慢の向きもあれば、上流向きの銀子さんや金子さんを以て自ら任じておいでになる方もあります。又は御自分を水晶と見ておられる方もあれば、翡翠と見られる方もあります。ルビー嬢や真珠夫人、ダイヤ姫なぞと来ると、囚われても囚われ甲斐のある方で、家門の誇り、社交界のお飾りたるべく、皆もう後生大切に研きをかけては光り、光っては研きをかけつつ、身動きさえもそっとして、鼻の表現にそのプライドを輝かすばかりに夜を明かし日を暮しておいでになります。  お次に植物式に囚われた鼻の表現のうちで一番多く見うけるのは、極めて狭い処に極く小さな芽をふいて、チョッピリした枝葉を出して、イササカの花を咲かせ実を結んで満足している鼻であります。  これという実も花も持たぬままに、潤いを求めて地を這いまわる蘚苔のようなもの、又は風に任する浮草式生活の気楽さに囚われている者に到っては殊に夥しいのであります。恐ろしい毒に身を守って、虫も鳥も寄り付かぬのを誇りとするという、凄い珍しい囚われ方をした鼻の表現も、亦この部類に数えらるべきものでありましょう。  梅、桜、牡丹、芍薬、似たりや似たり杜若、花|菖蒲、萩、菊、桔梗、女郎花、西洋風ではチューリップ、薔薇、菫、ダリヤ、睡蓮、百合の花なぞ、とりどり様々の花に身をよそえて行く末は、何処の窓、誰が家の床の間に薫るとも知らず、泣きつ笑いつ、はかなくかぐわしい夢に浮かれる人々も亦、この中に数えねばならぬのではありますまいか。  しかも植物式の囚われ方をしたものの中で偉大なものになると、鳥を宿し、星を停め、雲を払い、風に吼えて、素晴らしい偉観を呈するのがあります。他の草木の根を覆えし、枝葉を枯らして自分のこやしにして終う一方、巻付いて来る蔦蔓から、皮肉に食い込んで来る寄生植物までも引き受けて、共々に盛んに芽を吹き、枝を延ばし、花を咲かせ、実を結んで、大得意になっておる鼻がそれであります。一家一門繁昌して「祝い芽出度」と囃されてニコニコと喜んで、 「アア、これでやっと眼が瞑れる」  と安心して閑日月を楽しもうという、このような鼻の表現が何となく物足りなく見えるのは、その表現が植物性を帯びているからではありますまいか。そこが人間の有難いところだと眼を細くしている鼻は、草木が茂り栄えるのをためつすがめつしている鼻と同じ鼻ではありますまいか。  いずれにしてもスフィンクスに呪われているには違いないので、ヒョットコの鼻は免れても、おかめの鼻は免れませぬ。  一方にスフィンクスから動物式に呪われている鼻では、こんなのが眼に付きます。 「俺はそんな外面的の誇り、植物式の生活には囚われないのだ。俺を束縛し得るものは無いのだ。おれは物質的に死ぬるとも精神界に活躍したいのだ」  と宗教界、芸術界、哲学界や他の思想界なぞいう様々な霊界に飛び出してはねまわります。鳥のように天空を翅り、獣のように猛威を競います。そうして分相応の地歩を占めつつ、これが安全第一だと草葉にすだき、これが最高の自由だと雲に啼き渡り、これが最大の真理だと曠野に吼えまわります。それぞれに露を吸い、果を食い、又は草を噛み、血を啜って持ち前の声を発揮しております。或は鼻の頭からやさしい長い触覚を出して、ソロリソロリと動かしながら、リンリンと人を哀れがらせ、嘴と鼻を兼帯にして阿呆阿呆と鳴き渡り、又は百獣を震い戦かせんと鼻息を吹き立てております。  こんなのはヒョットコやおかめの鼻は免れても、天狗たる事は免れませぬ。もちろんスフィンクスから動物式に呪われている事は間違いないので、よく天狗の身体が鳥や獣になぞらえてあるのも、こうした感じを象徴したものではあるまいかと考えられるのであります。  但しこんなのは端した天狗で、もっと上等の天狗になると、ちゃんと人間の形をして鼻ばかり高いのが出て来るのであります。これは精神的にも物質的にも囚われていないと自惚れた天狗様で、なかなか気の利いた通力を持っているものであります。 「外面的の生活に囚われた奴は人間の形をした植物である。又内面的な生活に囚われた奴は人間の心から動物に退化した奴である。何ものにも囚われぬ人間たる乃公の支配下に属すべきものである。  彼等は皆悉くおれの用を達しに来た者である。そうしてみんなおれの厄介にならなければ、何の役にも立たない奴ばかりである。生まれた甲斐の無い奴ばかりである。こんな天狗たちは元来おれの同胞であり後輩である。弟子たちである。同時にこんな後輩たちは、それぞれその囚われた鼻の表現で、おれに囚われてはいけない事を身を以て教えてくれたものである。或る意味から云えばおれの家族、分身である。恐ろしく心配をかける奴ばかりである。  けれ共また、飽く迄も可愛い奴である。  此奴等がいないと、此方輩は早速困る事になるのだ。  沙漠の中の一人ぼっちになるのだ。自滅する外はないのだ。此奴等がいるので、吾々も生き甲斐があるというものである。  それにしても此奴等がみんなおれ位にまでなり得たら、おれもどれ位気が楽になるか知れないがなあ。  ――やれやれ――」  と世界を見渡して、羽|団扇か何かで鼻の下を煽ぎながらニコニコと笑っております。  こんな大々的の天狗様になると、もう無暗にそこいらにはおりません。鼻も当り前よりはすこし高くて大きい位で、顔もそんなに恐ろしくはありませぬ。その代り正体もなかなか見せませぬので、草になったり木になったり、土百姓に化けたり、旅僧の姿をしたりして、方々の小天狗共を凹ませては、大天狗道に入らせようと努力しております。  ……いつの間にか世界は、天狗様ばかりになってしまいました。  中でも天狗の原産地たる吾国では、到る処の高山深谷に住んで、各雄名を轟かしております。先ず天狗道の開山として、天孫を導き奉った猿田彦の尊の流れとしては、鞍馬山の大僧正が何といっても日本天狗道の管長格でありましょう。九州では彦山の豊前坊、四国では白峯の相模坊、大山の伯耆坊、猪綱の三郎、富士太郎、大嶺の善鬼が一統、葛城天狗、高間山の一類、その他比良岳、横川岳、如意ヶ岳、高尾、愛宕の峯々に住む大天狗の配下に属する眷属は、  中天狗、小天狗、山水天狗、独天狗、赤天狗、青天狗、烏天狗、木っ葉天狗  といったようなもの共で、今日でも盛んに江湖専門の道場を開いて天狗道を奨励し、又は八方に爪を展ばし、翼を広げて、恰も大道の塵の如く、又は眼に見えぬ黴菌の如く、死ぬが死ぬまでも人間に取り付いております。否、死んでも銅像や記念碑、爵位勲等、生花、放鳥又は坊主の頭数、会葬者の人数、死亡広告の大きさやお墓の高さなぞに取り付いて行こうとするのであります。  世界のある限り、人間のある限り、天狗の取り付き処はなくなりそうに見えませぬ。      無限大の呪い        ――運命と鼻の表現  世界はいつになったら、これ等の呪われたる鼻の表現から救われる事が出来るでありましょうか――  いつになったら馬鹿囃子が止む事でしょうか――  スフィンクスはいつ迄も知らぬ顔をして、茫々たる沙漠を見つめております。  その上には日月星辰が晴れやかにめぐりめぐっております。その下には地球が刻々に零下二百七十四度に向って冷て行きつつあります。  四時が徐ろにそのまわりに移り変って行きます。風雨がこれを洗い、雷電がこれにはためきかかり、地震がこれをゆすぶりつつ、これを楽しませ、威かし、励ましております。万有はこれに和して、ドンドン進化の道程を進めて行きます。  ――獣から――人間へ――  ――人間から……?  スフィンクスは矢っ張り鼻の表現を見せませぬ。依然たる「謎語」の姿を固持しております。  吾々人類はどちらに向って進化したらいいでしょうか。  どうしたらいいでしょうか? この驚くべき大きさ――限りない長さを。この美しさ、楽しさ――この不思議さ、怪しさを。この騒々しさ、可笑しさ――この淋しさ、悲しさを。  この長たらしい馬鹿囃子――無味単調な茶番神楽を如何に踊ったらいいでしょうか。  矢っ張りすべてはおかめとヒョットコと天狗の面を離れませぬ。吾々は皆スフィンクスに呪われております。  こうなっては仕方がありませぬ。  吾々は自分の鼻の表現を研究するより他に方法がありませぬ。自分の鼻の表現の起こる源に探りを入れて、その根本を明らめて方向をきめる。そうしてその方向に時々刻々に油断なく進むよりほかに致し方ありませぬ。  うっかり立ち止まったり、屁古垂れたりしてスフィンクスに呪われないように――天狗かおかめかヒョットコなぞいうような馬鹿なお化けに取りつかれないように――人間一代の恥辱の姿にならぬように――  獣から人間へ――  物質界から精神界へ――  そうして人間から……?……へ  さて又精神界から……?……へ  自分自身がスフィンクスになって――  自分の鼻の表現を研究し完成して――  鼻の表現研究の必要がなくなっても――  これを超越してしまっても―― 「アハハハハハハハハハ」  ……まだ天狗様が笑っております。  ――自覚――自覚――飽く迄も――  ――いつ迄も――  そうして、生命のある限り――  地球の冷尽す限り――  鼻の表現を――新しく――新しく――  毎度、酒のお話で申訳ないが、今思い出しても腹の皮がピクピクして来る左党の傑作として記録して置く必要があると思う。  九州福岡の民政系新聞、九州日報社が政友会万能時代で経営難に陥っていた或る夏の最中の話……玄洋社張りの酒豪や仙骨がズラリと揃っている同社の編集部員一同、月給がキチンキチンと貰えないので酒が飲めない。皆、仕事をする元気もなく机の周囲に青褪めた豪傑面を陳列して、アフリアフリと死にかかった川魚みたいな欠伸をリレーしいしい涙ぐんでいる光景は、さながらに飢饉年の村会をそのままである。どうかして存分に美味い酒を飲む知恵はないかと言うので、出る話はその事バッカリ。そのうちに窮すれば通ずるとでも言うものか、一等呑助の警察廻り君が名案を出した。  今でも福岡に支社を持っている××麦酒会社は当時、九州でも一流の庭球の大選手を網羅していた。九州の実業庭球界でも××麦酒の向う処一敵なしと言う位で、同支社の横に千円ばかり掛けた堂々たる庭球コートを二つ持っていた。 「あの××麦酒に一つ庭球試合を申込んで遣ろうじゃないか」  と言うと、皆総立ちになって賛成した。 「果して御馳走に麦酒が出るか出ないか」  と遅疑する者もいたが、 「出なくともモトモトじゃないか」  と言うので一切の異議を一蹴して、直ぐに電話で相手にチャレンジすると、 「ちょうど選手も揃っております。いつでも宜しい」  と言う色よい返事である。 「それでは明日が日曜で夕刊がありませんから午前中にお願いしましょう。午後は仕事がありますから……五組で五回ゲーム。午前九時から……結構です。どうぞよろしく……」  という話が決定った。麦酒会社でも抜け目はない、新聞社と試合をすれば新聞に記事が出る……広告になると思ったものらしいが、それにしてもこっちの実力がわからないので作戦を立てるのに困ったと言う。  困った筈である。実はこっちでもヒドイ選手難に陥っていた。モトモトテニスらしいものが出来るのは、正直のところ一滴も酒の飲めない筆者の一組だけで、ほかは皆、支那の兵隊と一般、テニスなんてロクに見た事もない連中が吾も吾もと咽喉を鳴らして参加するのだから、鬼神壮烈に泣くと言おうか何と言おうか。主将たる筆者が弱り上げ奉ったこと一通りでない。 「オイ。主将。貴様は一滴も飲めないのだから選手たる資格はない。俺が大将になって遣るから貴様は退け。負けたら俺が柔道四段の腕前で相手をタタキ付けて遣るから。なあ」  と言うようなギャング張りが出て来たりして、主将のアタマがすっかり混乱してしまった。仕方なしにそいつを選手外のマネージャー格に仮装して同行を許すような始末……それから原稿紙にテニス・コートの図を描いて一同に勝敗の理屈を説明し始めたが、真剣に聞く奴は一人もいない。 「やってみたら、わかるだろう」  とか何とか言ってドンドン帰ってしまったのには呆れた。意気既に敵を呑んでいるらしかった。  翌る朝の日曜は青々と晴れたステキな庭球日和であった。方々から借り集めたボロラケットの五、六本を束にした奴を筆者が自身に担いで門を出た時には、お負けなしのところ四条|畷に向った楠|正行の気持がわかった。それから麦酒会社のコートに来てみると、新しくニガリを打って眩い白線がクッキリと引き廻して在る。その周囲を重役以下男女社員が犇々と取り囲んで、敵選手の練習を見ている処へ乗り込んだ時には、何かなしに全身を冷汗が流れた。早速の機転で、時間がないからと言って、こっちの選手の練習を謝絶した。  作戦として筆者の主将組が劈頭に出た。せめて一組でも倒して置きたい。アワよくば優退を残せるかも知れないと言う、自惚まじりの情ない了簡であったが、見事にアテが外れて、向うも主将の結城、本田というナンバー・ワン組が出て来たのには縮み上った。それだけで手も足も出ないまま三―〇のストレートで敗退した。後のミットモナサ……。あんなにもビールが飲みたかったのかと思うと眼頭が熱くなるくらいである。  先方は揃いの新しいユニフォームをチャンと着ているのに、こちらはワイシャツにセイラ・パンツ、古足袋、汗じみた冬中折れという街頭のアイスクリーム屋式が一番上等で、靴のままコートに上って叱られるもの。派手なメリンスの襦袢に赤い猿又一つ。西洋手拭の頬冠りというチンドン屋式。中には上半身裸体で屑屋みたいな継ぎハギの襤褸股引を突込んだ向う鉢巻で「サア来い」と躍り出るので、審判に雇われた大学生が腹を抱えて高い腰掛から降りて来るようなこと。むろんラケットの持ち方なんぞ知っていよう筈がない。サーブからして見送りのストライクばかりで、タマタマ当ったと思うと鉄網越しのホームラン……それでも本人は勝ったのか敗けたのか解らないまま、いつまでもコートの上でキョロキョロしている。悠々とゴム※を拾ったり何かしているので、相手がコートに匍い付いて笑っているが、それでもまだわからない。 「ナアーンダイ。敗けたのか」  と頬を膨らましてスゴスゴ引き退るトタンに大爆笑と大拍手が敵味方から一時に湧き返るという、空前絶後の不可思議な盛況裡に、無事に予定の退却となった。  それから予定の通りにコート外の草原の天幕張りの中でビールと抓み肴が出た。小使が二人で五十ガロン入の樽を抱えて来た時には選手一同、思わず嬉しそうな顔を見合わせた。同時に主将たる筆者は胸がドキドキとした。インチキが暴露たまま成功したのだから……。 「ええ。樽にすると小さく見えますがね。この樽一つ在れば五十人から百人ぐらいの宴会ならイツモ余りますので……どうぞ御遠慮なくお上り下さい」  と言う重役連の挨拶であったが、サテ、コップが配られると、さあ飲むわ飲むわ。筆者を除いた九名の選手と仮装マネージャーが、文字通りに長鯨の百川を吸うが如くである。 「ちょっと、コップでは面倒臭いですから、そのジョッキで……」  と言うなり七合入のジョッキで立て続けに息も吐かせない。 「お見事ですなあ。もう一つ……」  と重役の一人が味方の仮装マネージャーを浴びせ倒しに掛かっていたが、ナカナカ腰が砕けない模様である。そのうちに樽の中が泡ばかりになりかけて来ると、重役連中が一人逃げ二人逃げ、しまいには相手の選手までいなくなって、カンカン日の照る草原に天幕と空樽と、コップの林と、入れ代り立ち代り小便をする味方の選手ばかりになってしまった。中にも仮装マネージャーを先頭にラケットを両手に持った三人が、靴穿きのままコートに上って、 「勝った方がええ。勝った方がええ」  とダンスを踊っている。何が勝ったんだかわからない。苦々しい奴だと思っている筆者を皆して引っぱって、重役室に挨拶に行った。仕方なしに筆者が頭を下げて、 「どうも今日は御馳走様になりまして」  と言って切り上げようとすると、背後から酔眼朦朧たる仮装マネージャーが前に出て来て、わざとらしい舌なめずりをして見せた。銅羅声を張り上げた。 「ええ。午後の仕事がありませんと、もっとユックリ頂戴したかったのですが、残念です」  と止刺刀を刺した。  しかし往来に出るとさすがに一同、帽子を投げ上げラケットを振り廻して感激した。 「××麦酒会社万歳……九州日報万歳……」 「ボールは子供の土産に貰って行きまアス」  翌日の新聞に記事が出たかどうか記憶しない。        一 ……聖書に曰く「もし汝の右の眼、なんじを罪に陥さば、抉り出してこれを棄てよ……もし右の手、なんじを罪に陥さばこれを断り棄てよ。蓋、五体の一つを失うは、全身を地獄に投げ入れらるるよりは勝れり」と……。 ……けれどもトックの昔に断り棄てられた、私の右足の幽霊が私に取り憑いて、私に強盗、強姦、殺人の世にも恐ろしい罪を犯させている事がわかったとしたら、私は一体どうしたらいいのだろう。 ……私は悪魔になってもいいのかしら……。  右の膝小僧の曲り目の処が、不意にキリキリと疼み出したので、私はビックリして跳ね起きた。何かしら鋭い刃物で突き刺されたような痛みであった……  ……と思い思い、半分夢心地のまま、そのあたりと思う処を両手で探りまわしてみると……  ……私は又ドキンとした。眼がハッキリと醒めてしまった。  ……私の右足が無い……  私の右足は股の付根の処からスッポリと消失せている。毛布の上から叩いても……毛布をめくっても見当らない。小さな禿頭のようにブルブル震えている股の切口と、ブクブクした敷蒲団ばかりである。  しかし片っ方の左足はチャンと胴体にくっ付いている。縒れ縒れのタオル寝巻の下に折れ曲って、垢だらけの足首を覗かせている。それだのに右足はいくら探しても無い。タッタ今飛び上るほど疼んだキリ、影も形も無くなっている。  これはどうした事であろう……怪訝しい。不思議だ。  私はねぼけ眼をこすりこすり、そこいらを見まわした。  森閑とした真夜中である。  黒いメリンスの風呂敷に包まった十|燭の電燈が、眼の前にブラ下がっている。  窓の外には黒い空が垂直に屹立っている。  その電燈の向うの壁際にはモウ一つ鉄の寝台があって、その上に逞しい大男が向うむきに寝ている。脱けはだかったドテラの襟元から、半出来の龍の刺青をあらわして、まん中の薄くなったイガ栗頭と、鬚だらけの達磨みたいな横顔を見せている。  その枕元の茶器棚には、可愛い桃の小枝を挿した薬瓶が乗っかっている。妙な、トンチンカンな光景……。  ……そうだ。私は入院しているのだ。ここは東京の築地の奎洋堂という大きな外科病院の二等室なのだ。向うむきに寝ている大男は私の同室患者で、青木という大連の八百屋さんである。その枕元の桃の小枝は、昨日私の妹の美代子が、見舞いに来た時に挿して行ったものだ……。  ……こんな事をボンヤリと考えているうちに、又も右脚の膝小僧の処が、ズキンズキンと飛び上る程|疼んだ。私は思わず毛布の上から、そこを圧え付けようとしたが、又、ハッと気が付いた。  ……無い方の足が痛んだのだ……今のは……。  私は開いた口が塞がらなくなった。そのまま眼球ばかり動かして、キョロキョロとそこいらを見まわしていたようであったが、そのうちにハッと眼を据えると、私の全身がゾーッと粟立って来た。両方の眼を拳固で力一パイこすりまわした。寝台の足の先の処をジイッと凝視たまま、石像のように固くなった。  ……私の右足がニューとそこに突っ立っている。  それは私の右足に相違ない……瘠せこけた、青白い股の切り口が、薄桃色にクルクルと引っ括っている。……そのまん中から灰色の大腿骨が一寸ばかり抜け出している。……その膝っ小僧の曲り目の処へ、小さなミットの形をした肉腫が、血の気を無くしたまま、シッカリと獅噛み付いている。  ……それはタッタ今、寝台から辷り降りたまんまジッとしていたものらしい。リノリウム張りの床の上に足の平を当てて、尺蠖のように一本立ちをしていた。そうして全体の中心を取るかのように、薄くらがりの中でフウラリフウラリと、前後左右に傾いていたが、そのうちに心もち「く」の字|型に曲ったと思うと、普通の人間の片足がする通りに、ヒョコリヒョコリと左手の窓の方へ歩き出した。  私の心臓が二度ばかりドキンドキンとした。そうしてそのまま又、ピッタリと静まった。……と思うと同時に頭の毛が一本一本にザワザワザワザワと動きまわりはじめた。  そのうちに私の右足は、そうした私の気持を感じないらしく、悠々と四足か、五足ほど歩いて行ったと思うと、窓の下の白壁に、膝小僧の肉腫をブッ付けた。そこで又、暫くの間フウラリフウラリと躊躇していたが、今度は斜に横たおしになって、切っ立った壁をすこしずつ、爪探りをしながら登って行った。そうしてチョウド窓枠の処まで来ると、框に爪先をかけながら、又もとの垂直に返って、そのまま前後左右にユラリユラリと中心を取っていたが、やがて薄汚れた窓|硝子の中を、影絵のようにスッと通り抜けると、真暗い廊下の空間へ一歩踏み出した。 「……ア…アブナイッ……」  と私は思わず叫んだが間に合わなかった。私の右足が横たおしになって、窓の向う側の廊下に落ちた。森閑とした病院じゅうに「ドターン」という反響を作りながら………………。 「モシモシ……モシモシイ」  と濁った声で呼びながら、私の胸の上に手をかけて、揺すぶり起す者がある。ハッと気が付いて眼を見開くと、痛いほど眩しい白昼の光線が流れ込んだので、私は又シッカリと眼を閉じてしまった。 「モシモシ。新東さん新東さん。どうかなすったんですか。もうじき廻診ですよ」  という男の胴間声が、急に耳元に近づいて来た。  私は今一度、思い切って眼を見開いた。シビレの切れかかったボンノクボを枕に凭せかけたまま、ウソウソと四周を見まわした。  たしかに真昼間である。奎洋堂病院の二等室である。タッタ今、夢の中………どうしても夢としか思えない……で見た深夜の光景はアトカタも無い。今しがた私の右脚が出て行った廊下の、モウ一つ向うの窓の外には、和ごやかな太陽の光りが満ち満ちて、エニシダの黄色い花と、深緑の糸の乱れが、窓|硝子一パイになって透きとおっている。その向うの、ダリヤの花壇越しに見える特等病室の窓に、昨日までは見かけなかった白麻の、素晴らしいドローンウォークのカーテンが垂れかかっているのは、誰か身分のある人でも入院したのであろうか……。  ふり返ってみると右手の壁に、煤けた入院規則の印刷物が貼り付けてある。「医員の命令に服従すべし」とか「許可なくして外泊すべからず」とか「入院料は十日目|毎に支払うべし」とかいう、トテモ旧式な文句であったが、それを見ているうちに私はスッカリ吾に還る事が出来た。  私はこの春休みの末の日に、この外科病院に入院して、今から一週間ばかり前に、股の処から右足を切断してもらったのであった。それは、その右の膝小僧の上に大きな肉腫が出来たからで、私が母校のW大学のトラックで、ハイハードルの練習中にこしらえた小さな疵が、現在の医学では説明不可能な……しかも癌以上に恐ろしい生命取りだと云われている、肉腫の病原を誘い入れたものらしいという院長の説明であった。 「ハッハッハッハッ………どうしたんですか。大層|唸っておいでになりましたが。痛むんですか」  今しがた私を揺り起した青木という患者は、こう云って快闊に笑いながら半身を起した。私も同時に寝台の上に起き直ったが、その時に私はビッショリと盗汗を掻いているのに気が付いた。 「……イヤ……夢を見たんです……ハハハ……」  と私はカスレた声で笑いながら、右足の処の毛布を見た。……がもとよりそこに右足が在ろう筈は無い。ただ毛布の皺が山脈のように重なり合っているばかりである。私は苦笑も出来ない気持ちになった。 「ハハア。夢ですか。エヘヘヘヘ。それじゃもしや足の夢を御覧になったんじゃありませんか」 「エッ……」  私は又ギックリとさせられながら、そう云う青木のニヤニヤした鬚面をふり返った。どうして私の夢を透視したのだろうと疑いながら、その脂肪光りする赤黒い顔を凝視した。  この青木という男は、コンナ奇蹟じみた事を云い出す性質の人間では絶対になかった。長いこと大連に住んでいるお蔭で、言葉付きこそ少々|生温くなっているけれども、生れは生っ粋の江戸ッ子で、親ゆずりの青物屋だったそうであるが、女道楽で身代を左前にしたあげく、四五年前に左足の関節炎にかかって、この病院に這入ると、一と思いに股の中途から切断してもらったので、トウトウ身代限りの義足一本になってしまった。ところが、その時まで一緒に居た細君というのが又、世にも下らない女で、青木の義足がシミジミ嫌になったらしく、ほかの男と逃げてしまったので、青木の方でも占めたとばかり、早速なじみの芸者をそそのかして、合わせて三本足で道行きを極め込んだが、それから又、色々と苦労をしたあげくに、やっと大連で落ち付いて八百屋を開く事になった。すると又そのうちに、大勢の女を欺した天罰かして、今度は右の足首に関節炎が来はじめたのであったが、青木はそれを大連に沢山ある病院のどこにも見せずに、わざわざお金を算段して、昔なじみのこの病院に入院しに来た。……だから今度右の足を切られたら又、今の女房が逃げ出して、新しい女が入れ代りに来るに違いない。それが楽しみで楽しみで……と誰にも彼にも自慢そうにボカボカ話している。それくらい単純なアケスケな頭の持ち主である。だからタッタ今見たばかりの私の夢を云い当てるような、深刻な芸当が出来よう筈が無い。それとも、もしかしたら今、私が夢を見ているうちに、囈言か何か云ったのじゃないかしらん……なぞと一瞬間に考えまわしながら、独りで赤面していると、その眼の前で、青木はツルリと顔を撫でまわして、黄色い歯を一パイに剥き出して見せた。 「ハッハッハッ。驚いたもんでしょう。千里眼でしょう。多分そんな事だろうと思いましたよ。さっきから左足を伸ばしたり縮めたりして歩く真似をしていなすったんですからね。ハッハッハッ。おまけにアブナイなんて大きな声を出して……」 「……………」  私は無言のまま、首の処まで赤くなったのを感じた。 「ハッハッ。実は私もそんな経験があるんですよ。この病院で足を切ってもらった最初のうちは、よく足の夢を見たもんです」 「……足の夢……」  と私は口の中でつぶやいた。いよいよ煙に捲かれてしまいながら……。すると青木も、いよいよ得意そうにうなずいた。 「そうなんです。足を切られた連中は、よく足の夢を見るものなんです。それこそ足の幽霊かと思うくらいハッキリしていて、トッテモ気味がわるいんですがね」 「足の幽霊……」 「そうなんです。しかし幽霊には足が無いって事に、昔から相場が極っているんですから、足ばかりの幽霊と来ると、まことに調子が悪いんですが……もっともこっちが幽霊になっちゃ敵いませんがね。ハッハッハッ……」  唖然となっていた私は思わず微苦笑させられた。それを見ると青木は益々乗り気になって、片膝で寝台の端まで乗り出して来た。 「しかし何ですよ。そんな足の夢というものは、切った傷口が痛んでいるうちはチットモ見えて来ないんです。夜も昼も痛いことばっかりに気を取られているんですからね。ところがその痛みが薄らいで、傷口がソロソロ癒りかけて来ると、色んな変テコな事が起るんです。切り小口の神経の筋が縮んで、肉の中に引っ釣り込んで行く時なんぞは、特別にキンキン痛いのですが、それが実際に在りもしない膝っ小僧だの、足の裏だのに響くのです」  私は「成る程」とうなずいた。そうして感心した証拠に深い溜息をして見せた。青木は平生から無学文盲を自慢にしているけれども、世間が広い上に、根が話好きと来ているので、ナカナカ説明の要領がいい。 「実は私も、あんまり不思議なので、そん時院長さんに訊いたんですが、何でも足の神経っていう奴は、みんな背骨の下から三つ目とか四つ目とかに在る、神経の親方につながっているんだそうです。しかもその背骨の中に納まっている、神経の親方ってえ奴が、片っ方の足が無くなった事を、死ぬが死ぬまで知らないでいるんだそうでね。つまりその神経の親方はドコドコまでも両脚が生れた時と同様に、チャンとくっ付いたつもりでいるんですね。グッスリと寝込んでいる時なんぞは尚更のこと、そう思っている訳なんですが……ですから切られた方の神経の端ッコが痛み出すと、その親方が、そいつをズット足の先の事だと思ったり、膝っ節の痛みだと感違いしたりするんだそうで……むずかしい理窟はわかりませんが……とにかくソンナ訳なんだそうです。そのたんびにビックリして眼を醒ますと、タッタ今痛んだばかしの足が見えないので、二度ビックリさせられた事が何度あったか知れません。ハハハハハ」 「……僕は……僕はきょう初めてこんな夢を見たんですが……」 「ハハア。そうですか。それじゃモウ治りかけている証拠ですよ。もうじき義足がはめられるでしょう」 「ヘエ。そんなもんでしょうか」 「大丈夫です。そういう順序で治って行くのが、オキマリになっているんですからね……青木院長が請合いますよ。ハッハッハ」 「どうも……ありがとう」 「ところがですね……その義足が出来て来ると、まだまだ気色のわりい事が、いくらでもオッ始まるんですよ。こいつは経験の無い人に話してもホントにしませんがね。大連みたような寒い処に居ると、義足に霜やけがするんです。ハハハハハ。イヤ……したように思うんですがね。……とにかく義足の指の先あたりが、ムズムズして痒くてたまらなくなるんです。ですから義足のそこん処を、足袋の上から揉んだり掻いたりしてやると、それがチャント治るのです。夜なぞは外した義足を、煖房の這入った壁に立てかけて寝るんですが、大雪の降る前なぞは、その義足の爪先や、膝っ小僧の節々がズキズキするのが、一|間も離れた寝台の上に寝ている、こっちの神経にハッキリと感じて来るんです。気色の悪い話ですが、よくそれで眼を覚まさせられますので……とうとうたまらなくなって、夜中に起き上って、御苦労様に義足をはめ込んで、そこいらと思う処へ湯タンポを入れたりしてやると、綺麗に治ってしまいましてね。いつの間にか眠ってしまうんです。ハハハハ。馬鹿馬鹿しいたって、これぐらい馬鹿馬鹿しい話はありませんがね」 「ハア……つまり二重の錯覚ですね。神経の切り口の痛みが、脊髄に反射されて、無い処の痛みのように錯覚されたのを、もう一度錯覚して、義足の痛みのように感ずるんですね」  私はこんな理窟を云って気持ちのわるさを転換しようとした。青木の話につれて、タッタ今見た自分の足の幻影が、又も眼の前の灰色の壁の中から、クネクネと躍り出して来そうな気がして来たので……しかし青木は、そんな私の気持ちにはお構いなしに話をつづけた。 「ヘヘエ。成る程。そんな理窟のもんですかねえ。私も多分そんな事だろうと思っているにはいるんですが……ですから一緒に寝ている嬶がトテモ義足を怖がり始めましてね。どうぞ後生だから、枕元の壁に立てかけて寝る事だけは止してくれ……気味がわるくて寝られないからと云いますので、それから後は、冬になると寝台の下に別に床を取って、その中にこの義足を寝かして、湯タンポを入れて寝る事にしたんですが……ハハハハハ。まるで赤ん坊を寝かしたような恰好で、その方がヨッポド気味が悪いんですが、嬶はその方が安心らしく、よく眠るようになりましたよ。ハッハッハッ……でもヒョット支那人の泥棒か何かが這入りやがって……あっちでは泥棒といったら大抵チャンチャンなんで、それも旧の師走頃が一番多いんですが、そんな奴がコイツを見付けたら、胆っ玉をデングリ返すだろうと思いましてね。アッハッハッハッ」  私も仕方なしに青木の笑い声に釣られて、 「アハ……アハ……アハ……」  と力なく笑い出した。けれども、それに連れて、ヒドイ神経衰弱式の憂鬱が、眼の前に薄暗く蔽いかぶさって来るのを、ドウする事も出来なかった。  ……コツコツ……コツコツコツ……  とノックする音……。 「オ――イ」  と青木が大きな声で返事をすると同時に、足の先の処の扉が開いて、看護婦の白い服がバサバサと音を立てて這入って来た。それはシャクレた顔を女給みたいに塗りこくった女で、この病院の中でも一番生意気な看護婦であったが、手に持って来た大きな体温器をチョットひねくると、イキナリ私の鼻の先に突き付けた。外科病院の看護婦は、荒療治を見つけているせいか、どこでもイケゾンザイで生意気だそうで、この病院でも、コンナ無作法な仕打ちは珍らしくないのであった。だから私は温柔しく体温器を受け取って腋の下に挟んだ。 「こっちには寄こさないのかね」  と横合いから青木が頓狂な声を出した。すると出て行きかけた看護婦がツンとしたまま振り返った。 「熱があるのですか」 「大いにあるんです。ベラ棒に高い熱が……」 「風邪でも引いたんですか」 「お気の毒様……あなたに惚れたんです。おかげで死ぬくらい熱が……」 「タント馬鹿になさい」 「アハハハハハハハハ」  看護婦は怒った身ぶりをして出て行きかけた。 「……オットオット……チョットチョット。チョチョチョチョチョチョット……」 「ウルサイわねえ。何ですか。尿器ですか」 「イヤ。尿瓶ぐらいの事なら、自分で都合が出来るんですが……エエ。その何です。チョットお伺いしたいことがあるんです」 「イヤに御丁寧ね……何ですか」 「イヤ。別に何てこともないんですが……あの……向うの特別室ですね」 「ハア……舶来の飛び切りのリネンのカーテンが掛かって、何十円もするチューリップの鉢が、幾つも並んでいるのが不思議と仰有るのでしょう」 「……そ……その通りその通り……千里眼千里眼……尤もチューリップはここから見えませんがね。あれは一体どなた様が御入院遊ばしたのですか」 「あれはね……」  と看護婦は、急にニヤニヤ笑い出しながら引返して来た。真赤な唇をユの字型に歪めて私の寝台の端に腰をかけた。 「あれはね……青木さんがビックリする人よ」 「ヘエ――ッ。あっしの昔なじみか何かで……」 「プッ。馬鹿ねアンタは……乗り出して来たって駄目よ。そんな安っぽい人じゃないのよ」 「オヤオヤ……ガッカリ……」 「それあトテモ素敵な別嬪さんですよ。ホホホホホ……。青木さん……見たいでしょう」 「聞いただけでもゾ――ッとするね。どっかの筥入娘か何か……」 「イイエ。どうしてどうして。そんなありふれた御連中じゃないの」 「……そ……それじゃどこかの病院の看護婦さんか何か……」 「……プーッ……馬鹿にしちゃ嫌よ。勿体なくも歌原男爵の未亡人様よ」 「ゲ――ッ……あの千万長者の……」 「ホラ御覧なさい。ビックリするでしょう。ホッホッホ。あの人が昨夜入院した時の騒ぎったらなかってよ。何しろ歌原商事会社の社長さんで、不景気知らずの千万長者で、女盛りの未亡人で、新聞でも大評判の吸血鬼と来ているんですからね」 「ウ――ン。それが又何だってコンナ処へ……」 「エエ。それが又大変なのよ。何でもね。昨日の特急で、神戸の港に着いている外国人の処へ取引に行きかけた途中で、まだ国府津に着かないうちに、藤沢あたりから左のお乳が痛み出したっていうの……それでお附きの医者に見せると、乳癌かも知れないと云ったもんだから、すぐに自動車で東京に引返して、旅支度のまんま当病院へ入院したって云うのよ」 「フ――ン。それじゃ昨夜の夜中だな」 「そうよ。十二時近くだったでしょう。ちょうど院長さんがこの間から、肺炎で寝ていらっしゃるので、副院長さんが代りに診察したら、やっぱし乳癌に違いなかったの。おまけに痛んで仕様がないもんだから、副院長さんの執刀で今朝早く手術しちゃったのよ。バンカインの局部麻酔が利かないので、トウトウ全身麻酔にしちゃったけど、それあ綺麗な肌だったのよ。手入れも届いているんでしょうけど……副院長さんが真白いお乳に、ズブリとメスを刺した時には、妾、眼が眩むような思いをしたわよ、乳癌ぐらいの手術だったら、いつも平気で見ていたんだけど……美しい人はやっぱし得ね。同情されるから……」 「フ――ム、大したもんだな。ちっとも知らなかった。ウ――ム」 「アラ。唸っているわよこの人は……イヤアね。ホホホホホホ」 「唸りゃしないよ。感心しているんだ」 「だって手術を見もしないのにサア……」 「一体|幾歳なんだえその人は……」 「オホホホホホ。もう四十四五でしょうよ。だけどウッカリすると二十代ぐらいに見えそうよ。指の先までお化粧をしているから……」 「ヘエ――ッ。指の先まで……贅沢だな」 「贅沢じゃないわよ。上流の人はみんなそうよ。おまけに男妾だの、若い燕だのがワンサ取り巻いているんですもの……」 「呆れたもんだナ。そんなのを連れて入院したんかい」 「……まさか……。そんな事が出来るもんですか。現在附き添っているのは年老った女中頭が一人と、赤十字から来た看護婦が二人と、都合四人キリよ」 「でもお見舞人で一パイだろう」 「イイエ。玄関に書生さんが二人、今朝早くから頑張っていて、専務取締とかいう頭の禿た紳士のほかは、みんな玄関払いにしているから、病室の中は静かなもんよ。それでも自動車が後から後から押しかけて来て、立派な紳士が入れ代り立ち代り、名刺を置いては帰って行くの」 「フ――ン、豪気なもんだナ。ソ――ッと病室を覗くわけには行かないかナ」 「駄目よ。トテモ。妾達でさえ這入れないんですもの………。あの室に這入れるのは副院長さんだけよ」 「何だってソンナに用心するんだろう」 「それがね……それが泥棒の用心らしいから癪に障るじゃないの。威張っているだけでも沢山なのにサア」 「ウ――ム。シコタマ持ち込んでいるんだな」 「そうよ。何しろ旅支度のまんまで入院したんだから、宝石だけでも大変なもんですってサア」 「そんな物あ病院の金庫に入れとけあいいのに……」 「それがね。あの歌原未亡人っていうのは、日本でも指折りの宝石キチガイでね。世界でも珍らしい上等のダイヤを、幾個も仕舞い込んだ革のサックを、誰にもわからないように肌身に着けて持っているんですってさあ」 「厄介な道楽だナ。しかし、そんなものを持っている事がどうしてわかったんだ」 「それがトテモ面白いのよ。誰でも全身麻酔にかかると、飛んでもない秘密をペラペラ喋舌るもの………っていう事を歌原未亡人は誰からか聞いて知っていたんでしょう。副院長さんが、それでは全身麻酔に致しますよって云うと直ぐにね。懐の奥の方から小さな革のサックを出して、これを済みませんが貴方の手で、病院の金庫に入れといて下さいって云ったのよ。そうして全身麻酔にかかると間もなく、そのサックの中の宝石の事を、幾度も幾度も副院長に念を押して聞いたのでスッカリ解っちゃったのよ」 「フ――ン。じゃ副院長だけ信用されているんだナ」 「ええ。あんな男前の人だから、未亡人の気に入るくらい何でもないでしょうよ」 「ハハハハハ嫉いてやがら……」 「嫉けやしないけど危いもんだわ」 「何とかいったっけな。エート。胴忘れしちゃった。副院長の名前は……」 「柳井さんよ」 「そうそう。柳井博士、柳井博士。色男らしい名前だと思った。……畜生。うめえ事をしやがったな」 「オホホホ。あんたこそ嫉いてるじゃないの」 「ウ――ン。羨しいね。涎が垂れそうだ。一目でもいいからその奥さんを……」 「駄目よ。あんたはもう二三日うちに退院なさるんだから……」 「エッ。本当かい」 「本当ですとも。副院長さんがそう云っていたんだから大丈夫よ」 「フ――ン。俺が色男だもんだから、邪魔っけにして追払いやがるんだな」 「プーッ。まさか。新東さんじゃあるまいし……アラ御免なさいね。ホホホホ……」 「畜生ッ。お安くねえぞッ」 「バカねえ。外に聞こえるじゃないの。それよりも早く大連の奥さんの処へ行っていらっしゃい。キット、待ちかねていらっしゃるわよ」 「アハハハハ。スッカリ忘れていた。違えねえ違えねえ。エヘヘヘヘ……」  看護婦は眼を白くして出て行った。  私は情なくなった。こんな下等の病院の、しかも二等室に入院った事を、つくづく後悔しながら仰向けに寝ころんだ。体温器を出して見ると六度二分しか無い。二三日前から続いている体温である。……ああ早く退院したい……外の空気を吸いたい……と思い思い眼をつぶると、眼の前に白いハードルが幾つも幾つも並んで見えた。私にはもう永久に飛び越せないであろうハードルが……。  私はすっかりセンチメンタルになりながら、切断された股の付け根を、繃帯の上から撫でて見た。そうして眠るともなくウトウトしていると、突然に又もや扉の開く音がして、誰か二三人這入って来た気はいである。  眼を開いて見るとタッタ今噂をしていた柳井副院長が、新米らしい看護婦を二人従えて、ニコニコしながら近づいて来た。鼻眼鏡をかけた、背のスラリと高い、如何にも医者らしい好男子であるが、柔和な声で、 「どうです」  と等分に二人へ云いかけながら、先ず青木の脚の繃帯を解いた。色の黒い毛ムクジャラの脛のあたりを、拇指でグイグイと押しこころみながら、 「痛くないですな……ここも……こちらも……」  と訊いていたが、青木が一つ一つにうなずくと、フンフンと気軽そうにうなずいた。 「大変によろしいようです。もう二三日模様を見てから退院されたらいいでしょう。何なら今日の午後あたりは、ソロソロと外を歩いてみられてもいいです」 「エッ。もういいんですか」 「ええ。そうして、痛むか痛まないか様子を御覧になって、イヨイヨ大丈夫ときまってから、退院されるといいですな。御遠方ですから……」  青木は乞食みたいにピョコピョコと頭ばかり下げたが、よっぽど嬉しかったと見える。 「お蔭様で……お蔭様で……」  そう云う青木を看護婦と一緒に、尻目にかけながら副院長は、私の方に向き直った。そうして一と通り繃帯の下を見まわると、看護婦がさし出した膿盤を押し退けながら、私の顔を見て、女のようにニッコリした。 「もうあまり痛くないでしょう」  私は無愛想にうなずきつつ、ピカピカ光る副院長の鼻眼鏡を見上げた。又も、何とはなしに憂鬱になりながら……。 「体温は何ぼかね」  と副院長は傍の看護婦に訊いた。  私は無言のまま、最前から挟んでおいた体温器を取り出して、副院長の前にさし出した。 「六度二分。……ハハア……昨日とかわりませんな。貴方も経過が特別にいいようです。スッカリ癒合していますし、切口の恰好も理想的ですから、もう近いうちに義足の型が取れるでしょう」  私はやはり黙ったまま頭を下げた。われながら見すぼらしい恰好で……。「罪人は、罪を犯した時には、自分を罪人とも何とも思わないけれど、手錠をかけられると初めて罪人らしい気持になる」と聞いていたが、その通りに違いないと思った。手術を受けた時はチットもそんな気がしなかったが、タッタ今義足という言葉を聞くと同時に、スッカリ片輪らしい、情ない気もちになってしまった。 「……何なら今日の午後あたりから、松葉杖を突いて廊下を歩いて見られるのもいいでしょう。義足が出来たにしましても、松葉杖に慣れておかれる必要がありますからね」 「……どうです。私が云った通りでしょう」  と青木が如何にも自慢そうに横合いから口を出した。外出してもいいと聞いたので、一層浮き浮きしているらしい。 「新東さんは先刻から足の夢を見られたんですよ」  私は「余計な事を云うな」という風に、頬を膨らして青木の方を睨んだが、生憎、青木の顔は、副院長の身体の蔭になっているので通じなかった。  その中に副院長は青木の方へ向き直った。 「ハーア。足の夢ですか」 「そうなんです。先生。私も足が無くなった当時は、足の夢をよく見たもんですが、新東さんはきょう初めて見られたんで、トテも気味を悪がって御座るんです」 「アハハハハ。その足の夢ですか。ハハア。よくソンナ話を聞きますが、よっぽど気味がわるいものらしいですね」 「ねえ先生。あれは脊髄神経が見る夢なんでげしょう」 「ヤッ……こいつは……」  と柳井副院長は、チョット面喰ったらしく、頭を掻いて、苦笑した。 「えらい事を知っていますね貴方は……」 「ナアニ。私はこの前の時に、ここの院長さんから聞かしてもらったんです。脊髄神経の中に残っている足の神経が見る夢だ……といったようなお話を伺ったように思うんですが」 「アハハハハ。イヤ。何も脊髄神経に限った事はないんです。脳神経の錯覚も混っているでしょうよ」 「ヘヘーエ。脳神経……」 「そうです。何しろ手術の直後というものは、麻酔の疲れが残っていますし、それから後の痛みが非道いので、誰でも多少の神経衰弱にかかるのです。その上に運動不足とか、消化不良とかが、一緒に来る事もありますので、飛んでもない夢を見たり、酷く憂鬱になったりする訳ですね。中にはかなりに高度な夢遊病を起す人もあるらしいのですが……現にこの病院を夜中に脱け出して、日比谷あたりまで行って、ブッ倒れていた例がズット前にあったそうです。私は見なかったですけれども……」 「ヘエ、そいつあ驚きましたね。片っ方の足が無いのに、どうしてあんなに遠くまで行けるんでしょう」 「それあ解りませんがね。誰も見ていた人がないのですから。しかし、どうかして片足で歩いて行くのは事実らしいですな。欧洲大戦後にも、よく、そんな話をききましたよ。甚だしいのになると或る温柔しい軍人が、片足を切断されると間もなく夢中遊行を起すようになって、自分でも知らないうちに、他所のものを盗んで来る事が屡あるようになった。しかも、それはみんな自分が欲しいと思っていた品物ばかりなのに、盗んだ場所をチットモ記憶しないので困ってしまった。とうとうおしまいには遠方に居る自分の恋人を殺してしまったので、スッカリ悲観したらしく、その旨を書き残して自殺した……というような話が報告されていますがね」 「ブルブル。物騒物騒。まるっきり本性が変ってしまうんですね」 「まあそんなものです。つまり手でも足でも、大きな処を身体から切り離されると、今までそこに消費されていた栄養分が有り余って、ほかの処に押しかける事になるので、スッカリ身体の調子が変る人があるのは事実です」 「ナアル程、思い当る事がありますね」 「そうでしょう。ちょうど軍縮で国費が余るのと同じ理窟ですからね。手術前の体質は勿論、性格までも全然違ってしまう人がある訳です。神経衰弱になったり、夢中遊行を起したりするのは、そんな風に体質や性格が変化して行く、過渡時代の徴候だという説もあるくらいですが……」 「ヘエ――。道理で、私は足を切ってから、コンナにムクムク肥りましたよ。おまけに精力がとても強くなりましてね。ヘッヘッヘッ」  副院長は赤面しながら慌てて鼻眼鏡をかけ直した。同時に二人の看護婦も、赤い顔をしいしい扉の外へ辷り出た。 「しかし……」  と副院長は今一度鼻眼鏡をかけ直しながら、青木の冗談を打ち消すように言葉を続けた。 「しかし御参考までに云っておきますが、そんな夢中遊行を起す例は、大抵そんな遺伝性を持っている人に限られている筈です。殊に新東君なぞは、立派な教養を持っておられるんですから、そんな御心配は御無用ですよ。ハッハッハッ。まあお大切になさい。体力が恢復すれば、神経衰弱も治るのですから……」  副院長はコンナ固くるしいお世辞を云って、自分の饒舌り過ぎを取り繕いつつ、気取った態度で出て行った。  私はホッとしながら毛布にもぐり込んだ。徹底的にタタキ付けられた時と同様の残酷さを感じながら……。        二  午食が済むと、青木が寝台の隅で、シャツ一貫になって、重たい義足のバンドを肩から斜かいに吊り着けた。その上からメリヤスのズボンを穿いて、新しい紺飛白の袷を着ると、義足の爪先にスリッパを冠せてやりながら、大ニコニコでお辞儀をした。 「それじゃ出かけて参ります。今夜は片っ方の足が、どこかへ引っかかるかも知れませんが、ソン時は宜しくお頼み申しますよ。アハハハハハ。お妹さんのお好きな紅梅焼を買って来て上げますからナ。ワハハハハ」  と訳のわからない事を喋舌って噪ゃいでいるうちに、ゴトンゴトンと音を立てて出て行った。  青木の足音が聞えなくなると私もムックリ起き上った。タオル寝巻を脱いで、メリヤスのシャツを着て、その上から洗い立ての浴衣を引っかけた。最前看護婦が、枕元に立てかけて行った、病院|備え付の白木の松葉杖を左右に突っ張って、キマリわるわる廊下に出てみた。  云う迄もなく、コンナ姿をして人中に出るのは、生れて始めての経験であった。だから扉を締めがけに、片っ方の松葉杖の所置に困った時には、思わず胸がドキドキして、顔がカッカと熱くなるように思ったが、幸い廊下には誰も居なかったので、十歩も歩かないうちに、気持がスッカリ落ち着いて来た。  私は生れ付きの瘠せっぽちで、身軽く出来ている上に、ランニングの練習で身体のコナシを鍛え上げていたので、松葉杖の呼吸を呑み込むくらい何でもなかった。敷詰めた棕梠のマットの上を、片足で二十歩ばかりも漕いで行って、病院のまん中を通る大廊下に出た時には、もう片っ方の松葉杖が邪魔になるような気がしたくらい、調子よく歩いていた。その上に、久し振りに歩く気持よさと、持って生れた競争本能で、横を通り抜けて行く女の人を追い越して行くうちに、もう病院の大玄関まで来てしまった。  その玄関は入院しがけに、担架の上からチラリと天井を見ただけで、本当に見まわすのは今が初めてであった。花崗石と、木煉瓦と、蛇紋石と、ステインドグラスと、白ペンキ塗りの材木とで組上げた、華麗荘重なゴチック式で、その左側の壁に「御見舞受付……歌原家」という貼札がしてある。その横に、木綿の紋付きを着た頑固そうな書生が二人、大きな名刺受けを置いたデスクを前にして腰をかけているが、その受付のうしろへ曲り込んだ廊下は、急に薄暗くなって、ピカピカ光る真鍮の把手が四つ宛、両側に並んでいる。その一番奥の左手のノッブに白い繃帯が捲いてあるのが、問題の歌原未亡人の病室になっているのであった。  私はそこで暫く立ち止まっていた。ドンナ人間が歌原未亡人を見舞いに来るかと思ったので……けれどもそのうちに、受付係の書生が二人とも、ジロジロと私の顔を振り返り初めたので、私はさり気なく引返して、右手の廊下に曲り込んで行った。  その廊下には、大きな診察室兼手術室が、会計室と、外来患者室と、薬局とに向い合って並んでいたが、その薬局の前の廊下をモウ一つ右に曲り込むと、手術室と壁|一重になった標本室の前に出るのであった。  私はその標本室の青い扉の前で立ち止まった。素早く前後左右を見まわして、誰も居ない事をたしかめた。胸をドキドキさせながら、出来るだけ静かに真鍮の把手を廻してみると、誰の不注意かわからないが、鍵が掛かっていなかったので、私は音もなく扉の内側に辷り込む事が出来た。  標本室の内部は、廊下よりも二尺ばかり低いタタキになっていて、夥しい解剖学の書物や、古い会計の帳簿類、又は昇汞、石炭酸、クロロホルムなぞいう色々な毒薬が、新薬らしい、読み方も解らない名前を書いた瓶と一所に、天井まで届く数層の棚を、行儀よく並んで埋めている。そうしてソンナ棚の間を、二つほど奥の方へ通り抜けると、今度は標本ばかり並べた数列の棚の間に出るのであったが、換気法がいいせいか、そんな標本特有の妙な臭気がチットモしない。大小数百の瓶に納まっている外科参考の異類|異形な標本たちは、一様に漂白されて、お菓子のような感じに変ったまま、澄明なフォルマリン液の中に静まり返っている。  私はその標本の棚を一つ一つに見上げ見下して行った。そうして一番奥の窓際の処まで来ると、最上層の棚を見上げたまま立ち止まって、松葉杖を突っ張った。  私の右足がそこに立っているのであった。  それは最上層の棚でなければ置けないくらい丈の高い瓶の中に、股の途中から切り離された片足の殆んど全体が、こころもち「く」の字型に屈んだままフォルマリン液の中に突っ立っているのであった。それは最早、他の標本と同様に真白くなっていたし、足首から下は、棚の縁に遮られて見えなくなっていたが、その膝っ小僧の処に獅噛み付いている肉腫の形から、全体の長さから、肉付きの工合なぞを見ると、どうしても私の足に相違なかった。そればかりでなく、なおよく瞳を凝らしてみると、その瓶の外側に貼り付けてある紙布に、横文字でクシャクシャと病名らしいものが書いてある中に「23」という数字が見えるのは、私の年齢に相違無い事が直覚されたのであった。  私はソレを見ると、心の底からホッとした。  何を隠そう私は、これが見たいばっかりに、わざわざ病室を出て来たのであった。午前中に同室の青木だの、柳井副院長だのから聞かされた「足の幽霊」の話で、スッカリ神経を攪き乱された私は、もう二度と「足の夢」を見まい……今朝みたような気味のわるい「自分の足の幻影」にチョイチョイ悩まされるような事になっては、とてもタマラナイ……とスッカリ震え上がってしまったのであった。……のみならず私は、この上に足の夢を見続けていると、そのうちに副院長の話にあったような、片足の夢中遊行を起して、思いもかけぬ処へ迷い込んで行って、飛んでもない事を仕出かすような事にならないとも限らないと思ったのであった。……私たち兄妹は、早くから両親に別れたし、親類らしい親類も別に居ないのだから、私の血統に夢遊病の遺伝性が在るかどうか知らない。しかし、些くとも私は、小さい時からよく寝呆ける癖があったので、今でも妹によく笑われる位だから、私の何代か前の先祖の誰かにソンナ病癖があって、それが私の神経組織の中に遺伝していないとは、誰が保証出来よう。しかも、その遺伝した病癖が、今朝みたような「足の夢」に刺戟されて、極度に大きく夢遊し現われるような事があったら、それこそ大変である。否々……今朝から、あんな変テコな夢に魘されて、同室の患者に怪しまれるような声を立てたり、妙な動作をしたりしたところを見ると、将来そんな心配が無いとは、どうして云えよう。天にも地にもタッタ一人の妹に心配をかけるばかりでなく、両親がやっとの思いで残してくれた、無けなしの学費を、この上に喰い込むような事があったら、どうしよう。  私は今後絶対に足の夢を見ないようにしなければならぬ。私は自分の右足が無いという事を、寝た間も忘れないようにしなければならぬ義務がある。  それには取りあえず標本室に行って、自分の右足が立派な標本になっているソノ姿を、徹底的にハッキリと頭に印象づけておくのが一番であろう。 「貴方の足に出来ている肉腫は珍らしい大きなものですが……当病院の標本に頂戴出来ませんでしょうか。無論お名前なぞは書きませぬ。ただ御年齢と病歴だけ書かして頂くのですが、如何でしょうか……イヤ。大きに有り難う。それでは……」  と院長が頭を下げて、特に手術料を負けてくれた位だから、キット標本室に置いて在るに違い無い。その自分の右足が、巨大な硝子筒の中にピッタリと封じ籠められて、強烈な薬液の中に涵されて、漂白されて、コチンコチンに凝固させられたまま、確かに、標本室の一隅に蔵い込まれているに相違無い事を、潜在意識のドン底まで印象させておいたならば、それ以上に有効な足の幽霊封じは無いであろう。それに上越す精神的な「足禁め」の方法は無いであろう。  こう決心すると私は矢も楯もたまらなくなって、同室の青木が外出するのを今か今かと待っていたのであった。そうしてヤット今、その目的を遂げたのであった。果して足の幽霊封じに有効かドウカは別として……。  私のこうした心配は局外者から見たら、どんなにか馬鹿馬鹿しい限りであろう。あんまり神経過敏になり過ぎていると云って、笑われるに違い無いであろう事を、私自身にも意識し過ぎるくらい意識していた。だから副院長に話したら訳なく見せてもらえるであろう自分の足の標本を、わざわざ人目を忍んで見に来た位であったが、しかし、そうした私の行動がイクラ滑稽に見えたにしても、私自身にとっては決して、笑い事ではないのであった。この不景気のさ中に、妹と二人切りで、利子の薄い、限られた貯金を使って、ドウデモコウデモ学校を卒業しなければならないという、兄らしい意識で、いつも一パイに緊張して来た私は、もう自分ながら同情に堪えないくらい神経過敏になり切っていた。妹に話したら噴き出すかも知れないほど、臆病者になり切っていたのであった。それはもうこの時既に、逸早く私の心理に蔽いかかっていた、片輪者らしいヒガミ根性のせいであったかも知れないけれども……。  そう思い思い私は、変り果てた姿で、高い処に上がっている自分の足を見上げて、今一つホーッと溜息をした。  その溜息はホントウの意味で「一足お先きに」失敬した自分の足の行方を、眼の前に見届けた安心そのもののあらわれに外ならなかった。同時に、これからは断然足の夢を見まい……両脚のある時と同様に、快活に元気よくしよう……片輪者のヒガミ根性なぞを、ミジンも見せないようにして、他人様に対しよう……放ったらかしていた勉強もポツポツ始めよう。そうして妹に安心させよう……と心の底で固く固く誓い固めた溜め息でもあった。  私はアンマリ長い事あおむいて首が痛くなったので、頭をガックリとうつ向けて頸の骨を休めた。そのついでに、足下の棚の低い瓶の中に眠っている赤ん坊が、額の中央から鼻の下まで切り割られた痕を、太い麻糸でブツブツに縫い合わせられたまま、奇妙な泣き笑いみたような表情を凝固させているのを見返りながら、ソロソロと入口の扉の前に引返した。そこで耳を澄まして扉を開くと、幸い誰も居ない様子なので、大急ぎで廊下へ出た。そうして元来た道とは反対に、賄場の前の狭い廊下から、近道伝いに自分の室に帰ると、急にガッカリして寝台の上に這い上った。枕元に松葉杖を立てかけたまま、手足を投げ出して引っくり返ってしまった。  久しく身体を使わなかったせいか、僅かばかりの散歩のうちに非常に疲れてしまったらしい。私は思わずグッスリと眠ってしまった。しかし余り長く眠ったようにも思わないうちに眼を醒ますと、いつの間にか日が暮れていて、窓の外には青い月影が映っている。その光りで室の中も薄明くなっているが、青木はまだ帰っていないらしく、夜具を畳んだままの寝台の上に、私の松葉杖が二本とも並べて投げ出してある。大方、私が眠っているうちに看護婦が来て、室の掃除をしたものであろう。  いったい何時頃かしらんと思って、枕元の腕時計を月あかりに透かしてみると驚いた……四時をすこしまわっている。恐ろしくよく寝たものだ。ことによると時計が違っているのかも知れないが、それにしても病院中が森閑となっているのだから、真夜中には違い無いであろう。とにかく用を足して本当に寝る事にしようと思い思い、もう一度窓の外を振り返ると、その時にタッタ今まで真暗であった窓の向うの特等病室の電燈が、真白に輝き出しているのに気が付いた。こっちの窓一パイに乱れかかっているエニシダの枝|越に、白いドローンウォークの花模様が、青紫色の光明を反射さしているのがトテモ眩しくて美しかった。  私はその美しさに心を惹かるるともなく、ボンヤリと見惚れていたが、そのうちに又、奇妙な事に気が付いた。  気のせいか知れないけれども、病院中がヒッソリと寝鎮まっている中に、玄関の方向から特等室の前の廊下へかけては、何かしらバタバタと足音がしているようである。そう思って見ると、その特等室の眩しい電燈の光りまでもブルブルと震えているようで、人影は見えないけれども室の中まで何かしら混雑しているらしい気はいが感じられるようである。……もしかしたら歌原未亡人の容態が変ったのかも知れない……と思ううちに、どこか遠くからケタタマしく自動車の警笛が聞えて、素晴らしい速度でグングンこっちへ近付いて来た。そうして間もなく病院の前の曲り角で、二三度ブーブーと鳴らしながらピッタリと止まった。……と思って見ているうちに、今度は特等室の電燈がパッと消えた。ドローンウォークの花模様のネガチブをハッキリと、私の網膜に残したまま……。  その瞬間に……サテは歌原未亡人が死んだのだな……と私は直覚した。そうして……タッタ今死体を運び出して、自宅へ持って行くところだな……と考え付いた。  私はそう考え付きながらタッタ一人、腕を組んで微笑した……が……しかし……ナゼこの時に微笑したのか自分でもよく解らなかった。多分、一昨日の夜中から昨日の昼間へかけて、さしもに異常なセンセーションを病院中に捲き起した歌原未亡人……まだ顔も姿も知らないまんまに、私の悪夢の対象になりそうに思われて、怖くて怖くて仕様がなかったその当の本人が、案外手もなく、コロリと死んでしまったらしいので、チョット張り合い抜けがしたのが可笑しかったのであろう。それと同時に、介抱が巧く行かなかった当の責任者の副院長が、嘸かし狼狽しているだろうと想像した、嘲りの意味の微笑も交っていたように思う。とにかくこの時の私が、妙に冷静な、悪魔的な気分になりつつ、寝台から辷り降りたことは事実であった。それから悠々と片足をさし伸ばして、寝台の下のスリッパを探すべく、暗い床の上を爪先で掻きまわしたのであったが、不思議な事に、この時はいくら探してもスリッパが足に触れなかった。私は昨日が昨日まで、片っ方しか要らないスリッパを、両方とも、寝台の枕元の左側にキチンと揃えておく事にしていたのだから、ドッチかに探り当らない筈は無いのであったが……。  そんな事を考えまわしているうちに私は、何かしら、ドキンドキンとするような、気味のわるい予感に襲われたように思う。そうして尚も不思議に思い思い、慌てて片足をさし伸ばして、遠くの方まで爪先で引っ掻きまわしているうちに又、フト気が付いた。これは寝がけに松葉杖を突いて来たのだから、ウッカリして平生と違った処にスリッパを脱いだものに違い無い。それじゃイクラ探しても解らない筈だと、又も微苦笑しいしい電燈のスイッチをひねったが……その途端に私はツイ鼻の先に、思いもかけぬ人間の姿を発見したので、思わずアッと声を上げた。寝台のまん中に坐り直して、うしろ手を突いたまま固くなってしまった。  それは入口の扉の前に突っ立っている、副院長の姿であった。いつの間に這入って来たものかわからないが、大方私がまだ眠っているうちに、コッソリと忍び込んだものであろう。霜降りのモーニングを着て、派手な縞のズボンを穿いているが、鼻眼鏡はかけていなかった。髪の毛をクシャクシャにしたまま、青白い、冴え返るほどスゴイ表情をして、両手を高々と胸の上に組んで、私をジイと睨み付けているのであったが、その近眼らしい眩しそうな眼付きを見ると、発狂しているのではないらしい。鋭敏な理智と、深刻な憎悪の光りに満ち満ちているようである。  臆病者の私が咄嗟の間に、これだけの観察をする余裕を持っていたのは、吾ながら意外であった。それは多分、眼が醒めた時から私を支配していた、悪魔的な冷静さのお蔭であったろうと思うが、そのまま瞬きもせずに相手の瞳を見詰めていると、柳井副院長も、私に負けない冷静さで私の視線を睨み返しつつ、タッタ一言、白い唇を動かした。 「歌原未亡人は、貴方が殺したのでしょう」 「……………」  私は思わず息を詰めた。高圧電気に打たれたように全身を硬直さして、副院長の顔を一瞬間、穴の明くほど凝視した……が……その次の瞬間には、もう、全身の骨が消え失せたかと思うくらい力が抜けて来た。そのままフラフラと寝床の上にヒレ伏してしまったのであった。  私の眼の前が真暗になった。同時に気が遠くなりかけて、シイイインと耳鳴りがし初めた……と思う間もなく、私の頭の奥の奥の方から、世にもおそろしい、物すごい出来事の記憶がアリアリと浮かみ現われ初めた……と見るうちに、次から次へと非常な高速度でグングン展開して行った。……と同時に私の腋の下からポタポタと、氷のような汗が滴り初めた。  それはツイ今しがた、私が起き上る前の睡眠中に起った出来事であった。  私はマザマザとした夢中遊行を起しながら、この室をさまよい出て、思いもかけぬ恐ろしい大罪を平気で犯して来たのであった。しかも、その大罪に関する私の記憶は、普通の夢中遊行者のソレと同様に、夢遊発作のあとの疲れで、グッスリと眠り込んでいるうちに、あとかたもなく私の潜在意識の底に消え込んでしまっていたので、ツイ今しがた眼を醒ました時には、チットモ思い出し得ずにいたのであったが……そのタマラナイ浅ましい記憶がタッタ今、副院長の暗示的な言葉で刺戟されると同時に、いともアザヤカに……電光のように眼まぐるしく閃めき現われて来たのであった。  それは確かに私の夢中遊行に違い無いと思われた。  ……フト気が付いてみると私は、タオル寝巻に、黒い革のバンドを捲き付けて、一本足の素跣足のまま、とある暗い廊下の途中に在る青ペンキ塗りの扉の前に、ピッタリと身体を押し付けていた。そうして廊下の左右の外れにさしている電燈の光りを、不思議そうにキョロキョロと見まわしているところであった。  その時に私はチョット驚いた。……ここは一体どこなのだろう。俺は松葉杖を持たないまま、どうしてコンナ処まで来ているのだろう。そもそも俺は何の用事があってコンナペンキ塗りの扉の前にヘバリ付いているのだろう……と一生懸命に考え廻していたが、そのうちに、廊下の外れから反射して来る薄黄色い光線をタヨリに、頭の上の鴨居に取り付けてある瀬戸物の白い標札を読んでみると、小さなゴチック文字で「標本室」と書いてあることがわかった。  それを見た瞬間に私は、私の立っている場所がどこなのかハッキリとわかった。……と同時に私自身を、この真夜中にコンナ処まで誘い出して来た、或るおそろしい、深刻な慾望の目標が何であるかという事を、身ぶるいするほどアリアリと思い出したのであった。  私はソレを思い出すと同時に、暗がりの中で襟元をつくろった。前後を見まわしてニヤリと笑いながら、タオル寝巻の片袖で、手の先を念入りに包んで、眼の前の青ペンキ塗りの扉に手をかけたが、昼間の通りに何の苦もなく開いたので、そのまま影法師のように内側へ辷り込んで、コトリとも云わせずに扉を閉め切る事が出来た。  向うの窓の磨硝子から沁み込む、月の光りに照らし出されたタタキの上は、大地と同様にシットリとして冷めたかった。私はその上を片足で飛び飛び、向うの棚の端まで行ったが、その端の方に並んでいる小さな瓶の群の中でも、一番小さい一つを取り上げて、中を透かしてみると、何も這入っていないようである。キルクの栓を開けて嗅いでみても薬品らしい香気が全く無い。  私はその瓶を片手に持ったまま、室の隅に飛んで行って、そこに取り付けてある手洗場の水でゆすぎ上げて、指紋を残さないように龍口栓の周囲まで洗い浄めた。それからその瓶を懐中に入れて、又も一本足で小刻みに飛びながら棚の向う側に来たが、ちょうど下から三段目の眼の高さの処に並んだ、中位の瓶の中でも、タッタ一つホコリのたかっていない紫色のヤツを両袖で抱え卸して、月あかりに透かしてみると、白いレッテルに明瞭な羅馬字体で「CHLOROFORM」……「十ポンド」と印刷してあった。  その瓶の中に七分通り満たされている透明な、冷たい麻酔薬の動揺を両手に感じた時の、私の陶酔気分といったら無かった。この気持ちよさを味わいたいために、私はこの計画を思い立つのだと考えても、決して大袈裟ではないくらいに思った。  私はその瓶を大切に抱えたまま、ソロソロと月明りの磨硝子にニジリ寄った。窓の框に瓶の底を載せて、パラフィンを塗った固い栓を、矢張り袖口で捉えて引き抜いた。顔をそむけながら、その中の液体を少し宛小瓶の中に移してしまうと、両方の瓶の栓をシッカリと締めて、大きい方を元の棚に返し、小さい方を内懐に落し込んだ……が……その濡れた小瓶が、臍の上の処で直接に肌に触れて、ヒヤリヒヤリとするその気持ちよさ……。  それから私はソロソロと扉の処へ帰って来て、聴神経を遠くの方まで冴え返らせながら、ソット扉を細目に開いてみると、相変らず誰も居ない。病院中は地の底のようにシンカンと寝静まっている。  私の心は又も歓喜にふるえた。心臓がピクンピクンと喜び踊り出した。それを無理に押ししずめて廊下に出ると、ゼンマイ人形のようにピョンピョン飛び出したが、鍛えに鍛えた私の趾の弾力は、マットを敷いた床の上に何の物音も立てないばかりでなく、普通人が歩くよりも早い速度で飛んで行くのであった。  私の胸は又も躍った。  片足の人間がコンナに静かに、早い速度で飛んで行けるものとは誰が想像し得よう。これは中学時代からハードルで鍛え上げた私にだけ出来る芸当ではなかろうか。これならドンナ罪を犯しても知れる気づかいは無いであろう。……逃げる早さだって女なぞより早いかも知れないから、自分の病室に帰って来て寝ておれば、誰一人気づかないであろう。……俺は片足を無くした代りに、ドンナ悪事をしても決して見付からない天分を恵まれたのかも知れない……なぞと考えまわすうちに、モウ玄関の処まで来てしまった。  ……これは拙かった。こっちへ来てはいけなかった。やはり一先ず自分の病室に帰って、裏の廊下伝いに行かなければ……と私はその時に気が付いたが、そう思い思い壁の蔭からソッと首をさし伸ばしてみると、いい幸いに重症患者が居ないと見えて、玄関前の大廊下には人っ子一人影を見せていない。玄関の正面に掛かった大時計が、一時九分のところを指しながら……コクーン……コクーン……と金色の玉を振っているばかりである。  その大きな真鍮の振り子を見上げているうちに、私の胸が云い知れぬ緊張で一パイになって来た。  ……グズグズするな……。  ……ヤッチマエ……ヤッチマエ……。  と舌打ちする声が、廊下の隅々から聞えて来るように思ったので、我れ知らずピョンピョンと玄関を通り抜けて、向うの廊下のマットに飛び乗って行った。そうして昼間見た特等一号室の前まで来ると、チョットそこいらを見まわしながら、小腰を屈めて鍵穴のあたりへ眼を付けたが、不思議な事に鍵穴の向うは一面に仄白く光っているばかりで、室内の模様がチットモわからない。変だなと思って、なおよく瞳を凝らしてみると何の事だ。向う側の把手に捲き付けてある繃帯の端ッコが、ちょうど鍵穴の真向うにブラ下がっているのであった。  私はこの小さな失敗に思わず苦笑させられた。しかし又、そのお蔭で一層冷静に返りつつ、扉の縁と入口の柱の間の僅かな隙間に耳を押し当てて、暫くの間ジットしていたが、室の中からは何の物音も聞えて来ない。一人残らず眠っている気はいである。 「一般の入院患者さん達よ。病院泥棒が怖いと思ったら、ドアの把手を繃帯で巻いてはいけませんよ。すくなくとも夜中だけは繃帯を解いて鍵をかけておかないと剣呑ですよ。その証拠は……ホーラ……御覧の通り……」  とお説教でもしてみたいくらい軽い気持ちで……しかし指先は飽く迄も冷静に冴え返らせつつソーッと扉を引き開いた。その隙間から室の中を一渡り見まわして、四人の女が四人ともイギタナイ眠りを貪っている様子を見届けると、なおも用心深く室の中にニジリ込んで、うしろ手にシックリと扉を閉じた。  私は出来るだけ手早く仕事を運んだ。  室の中にムウムウ充満している女の呼吸と、毛髪と、皮膚と、白粉と、香水の匂いに噎せかえりながら、片手でクロロフォルムの瓶をシッカリと握り締めつつ、見事な絨毯の花模様の上を、膝っ小僧と両手の三本足で匍いまわった。第一に、歌原男爵未亡人の寝床の側に枕を並べている、人相のよくないお婆さんの枕元に在る鼻紙に、透明な液体をポタポタと落して、あぐらを掻いている鼻の穴にソーッと近づけた。しかし最初は手が震えていたらしく、薬液に濡れた紙を、お婆さんの顔の上で取り落しそうになったので、ヒヤリとして手を引っこめたが、そのうちにお婆さんの寝息の調子がハッキリと変って来たのでホッと安心した。同時にコレ位の僅かな分量で、一人の人間がヘタバルものならば、俺はチットばかり薬を持って来過ぎたな……と気が付いた。  その次には厚い藁蒲団と絹蒲団を高々と重ねた上に、仰向けに寝ている歌原未亡人の枕元に匍い寄って、そのツンと聳えている鼻の穴の前に、ソーッと瓶の口を近づけたが、何だか効果が無そうに思えたので、枕元に置いてあった脱脂綿を引きち切って、タップリと浸しながら嗅がしていると、ポーッと上気していたその顔が、いつとなく白くなったと思ううちに、何だか大理石のような冷たい感じにかわって来たようなので、又も慌てて手を引っこめた。  それから未亡人の向う側の枕元に、婦人雑誌を拡げて、その上に頬を押し付けている看護婦の前に手を伸ばしながら、チョッピリした鼻の穴に、夫人のお流れを頂戴させると、見ているうちにグニャグニャとなって横たおしにブツ倒れながら、ドタリと大きな音を立てたのには胆を冷やした。思わずハッとして手に汗を握った。すると又それと同時に、入口の近くに寝ていた一番若い看護婦が、ムニャムニャと寝返りをしかけたので、私は又、大急ぎでその方へ匍い寄って行って、残りの薬液の大部分を綿に浸して差し付けた。そうしてその看護婦がグッタリと仰向けに引っくり返ったなりに動かなくなると、その綿を鼻の上に置いたままソロソロと離れ退いた。……モウ大丈夫という安心と、スバラシイ何ともいえない或るものを征服し得た誇りとを、胸一パイに躍らせながら……。  私は、その嬉しさに駆られて、寝ている女たちの顔を見まわすべく、一本足で立ち上りかけたが、思いがけなくフラフラとなって、絨毯の上に後手を突いた。その瞬間にこれは多分、最前から室の中の息苦しい女の匂いに混っている、麻酔薬の透明な芳香に、いくらか脳髄を犯されたせいかも知れないと思った。……が……しかし、ここで眼を眩わしたり何かしたら大変な事になると思ったので、モウ一度両手を突いて、気を取り直しつつソロソロと立ち上った。並んで麻酔している女たちの枕元の、生冷たい壁紙のまん中に身体を寄せかけて、落ち付こう落ち付こうと努力しいしい、改めて室の中を見まわした。  室のまん中には雪洞型の電燈が一個ブラ下って、ホノ黄色い光りを放散していた。それはクーライト式になっていて、明るくすると五十|燭以上になりそうな、瓦斯入りの大きな球であったが、その光りに照し出された室内の調度の何一つとして、贅沢でないものはなかった。室の一方に輝き並んでいる螺鈿の茶棚、同じチャブ台、その上に居並ぶ銀の食器、上等の茶器、金色燦然たる大トランク、その上に置かれた枝垂れのベコニヤ、印度の宮殿を思わせる金糸の壁かけ、支那の仙洞を忍ばせる白鳥の羽箒なぞ……そんなものは一つ残らず、未亡人が入院した昨夜から、昨日の昼間にかけて運び込まれたものに相違ないが、トテモ病院の中とは思えない豪奢ぶりで、スースーと麻酔している女たちの夜具までも、赤や青の底眩ゆい緞子ずくめであった。  そんなものを見まわしているうちに、私は、タオル寝巻一枚の自分の姿が恥かしくなって来た。吾れ知らず襟元を掻き合せながら、男爵未亡人の寝姿に眼を移した。  白いシーツに包んだ敷蒲団を、藁蒲団の上に高々と積み重ねて、その上に正しい姿勢で寝ていた男爵未亡人は、麻酔が利いたせいか、離被架の中から斜かいに脱け出して、グルグル捲きの頭をこちら向きにズリ落して、胸の繃帯を肩の処まで露わしたまま、白い、肉付きのいい両腕を左右に投げ出した、ダラシない姿にかわっている。ムッチリした大きな身体に、薄光りする青地の長襦袢を巻き付けているのが、ちょうど全身に黥をしているようで、気味のわるいほど蠱惑的に見えた。  その姿を見返りつつ私は電球の下に進み寄って、絹房の付いた黒い紐を引いた。同時に室の中が眩しいほど蒼白くなったが、私はチットも心配しなかった。病室の中が夜中に明るくなるのは決して珍らしい事ではないので、窓の外から人が見ていても、決して怪しまれる気遣いは無いと思ったからである。  私はそのまま片足で老女の寝床を飛び越して、男爵未亡人の藁布団に凭たれかかりながら、横坐りに坐り込んだ。胸の上に置かれた羽根布団と離被架とを、静かに片わきへ引き除けて、寝顔をジイッと覗き込んだ。  麻酔のために頬と唇が白味がかっているとはいえ、電燈の光りにマトモに照し出されたその眼鼻立ち、青い絹に包まれているその肉体の豊麗さは何にたとえようもない。正にあたたかい柔かい、スヤスヤと呼吸する白大理石の名彫刻である。ラテン型の輪廓美と、ジュー型の脂肪美と併せ備えた肉体美である。限り無い精力と、巨万の富と、行き届いた化粧法とに飽満した、百パーセントの魅惑そのものの寝姿である……ことに、その腮から頸すじへかけた肉線の水々しいこと……。  私はややもするとクラクラとなりかける心を叱り付けながら、未亡人の枕元に光っている銀色の鋏を取り上げた。それは新しいガーゼを巻き付けた眼鏡型の柄の処から、薄っペラになった尖端まで一直線に、剣のように細くなっている、非常に鋭利なものであったが、その鋏を二三度開いたり、閉じたりして切れ味を考えると間もなく、未亡人の胸に捲き付けた夥しい繃帯を、容赦なくブスブスと切り開いて、先ず右の方の大きな、まん丸い乳房を、青白い光線の下に曝し出した。  その雪のような乳房の表面には、今まで締め付けていた繃帯の痕跡が淡紅色の海草のようにダンダラになってヘバリ付いていたが、しかし、私は溜息をせずにはいられなかった。  この女性が、エロの殿堂のように唄われているのは、その比類の無い美貌のせいではなかった。又はその飽く事を知らぬ恋愛技巧のせいでもなかった。この女性が今までに、あらゆる異性の魂を吸い寄せ迷い込ませて来たエロの殿堂の神秘力は、その左右の乳房の間の、白い、なめらかな皮肌の上に在る……底知れぬ×××××と、浮き上るほどの××××××を、さり気なくほのめき輝かしているミゾオチのまん中に在る……ということを眼のあたり発見した私は、それこそ生れて初めての思いに囚われて、思わず身ぶるいをさせられたのであった。  それから私は、瞬きも出来ないほどの高度な好奇心に囚われつつ、未亡人の左の肩から掛けられた繃帯を一気に切り離して、手術された左の乳房を光線に晒した。  見ると、まだ※衝が残っているらしく、こころもち潮紅したまま萎び潰れていて、乳首と肋とを間近く引き寄せた縫い目の処には、黒い血の塊がコビリ着いたまま、青白い光りの下にシミジミと戦きふるえていた。  私は余りの傷ましさに思わず眼を閉じさせられた。  ……片っ方の乳房を喪った偉大なヴィナス……  ……黄金の毒気に蝕ばまれた大理石像……  ……悪魔に噛じられたエロの女神……  ……天罰を蒙ったバムパイヤ……  なぞという無残な形容詞を次から次に考えさせられた。  けれども、そんな言葉を頭に閃めかしているうちに又、何とも知れない異常な衝動がズキズキと私の全身に疼き拡がって行くのを、私はどうする事も出来なくなって来た。この女の全身の肉体美と、痛々しい黒血を噛み出した乳房とを一所にして、明るい光線の下に晒してみたら……というようなアラレモナイ息苦しい願望が、そこいら中にノタ打ちまわるのを押し止めることが出来なくなったのであった。  私はそれでもジッと気を落ち着けて鋏を取り直した。軽い緞子の羽根布団を、寝床の下へ無造作に掴み除けて、未亡人の腹部に捲き付いている黒繻子の細帯に手をかけたのであったが、その時に私はフト奇妙な事に気が付いた。  それは幅の狭い帯の下に挟まっている、ザラザラした固いものの手触りであった。  私はその固いものが指先に触れると、その正体が未だよくわからないうちに、一種の不愉快な、蛇の腹に触ったような予感を受けたので、ゾッとして手を引っこめたが、又すぐに神経を取り直して両手をさしのばすと、その緩やかな黒繻子の帯を重なったまま引き上げて、容赦なくブツリブツリと切断して行った。そうしてその下の青い襦袢の襟に絡まり込んでいる、茶革のサック様のものを引きずり出したが、その二重に折り曲げられた蓋を無造作に開いて、紫|天鵞絨のクッションに埋められた宝石行列を一眼見ると、私はハッと息を呑んだ。……生れて初めて見る稲妻色の光りの束……底知れぬ深藍色の反射……静かに燃え立つ血色の焔……それは考える迄もなく、男爵未亡人の秘蔵の中でも一粒|選りのものでなければならなかった。生命と掛け換えの一粒一粒に相違なかった。  私はワナナク手で茶革の蓋を折り曲げて、タオル寝巻の内懐に落し込んだ。そうしてジッと未亡人の寝顔を見返りながら、堪らない残忍な、愉快な気持ちに満たされつつ、心の底から押し上げるように笑い出した。 「……ウフ……ウフ……ウフウフウフウフウフ……」  それから私がドンナ事を特一号室の中でしたか、全く記憶していない。ただ、いつの間にか私は一糸も纏わぬ素っ裸体になって、青白い肋骨を骸骨のように波打たせて、骨だらけの左手に麻酔薬の残った小瓶を……右手にはギラギラ光る舶来の鋏を振りまわしながら、瓦斯入り電球の下に一本足を爪立てて、野蛮人のようにピョンピョンと飛びまわっていた事を記憶しているだけである。そうしてその間じゅう心の底から、 「ウフウフウフ……アハアハアハ……」  と笑い続けていた事を、微に記憶しているようである……。……が……しかし、それは唯それだけであった。私の記憶はそこいらからパッタリと中絶してしまって、その次に気が付いた時には奇妙にも、やはり丸裸体のまま、貧弱な十|燭の光りを背にして、自分の病棟付きの手洗場の片隅に、壁に向って突っ立っていた。そうして片手で薄黒いザラザラした壁を押さえて、ウットリと窓の外を眺めながら、長々と放尿しているのであったが、その時に、眼の前のコンクリート壁に植えられた硝子の破片に、西に傾いた満月が、病的に黄色くなったまま引っかかっている光景が、タマラナク咽喉が渇いていたその時の気持ちと一緒に、今でも不思議なくらいハッキリと印象に残っているようである。  私はその時にはもう、今まで自分がして来た事をキレイに忘れていたように思う。そうしてユックリと放尿してしまうと、電球の真下の白いタイル張りの上に投げ出してある白いタオル寝巻きと、黒い革のバンドを取り上げて、不思議そうに検ためていた事を記憶えている。……俺はドウしてコンナに丸裸になったんだろう……と疑いながら……。しかし私は子供の時分から便所に這入る時に限って、冬でも着物を脱いで行く習慣があったので、多分夢うつつのうちに、そうした習慣を繰り返したのだろうと考え付くと、格別不思議にも感じなくなったように思う。そうして別に深い考えも無しに、どこかへ汚れでも着いていはしないかと思って、一通り裏表を検めて、バンドと一緒に二三度力強くハタイただけで、元の通りにキチンと着直した。それから片隅の手洗場のコックを捻って、勢よく噴き出る水のシブキに噎せかえりながら、ゴクゴクと腹一パイになるまで呑んだ。それから、そのあとで丁寧に手を洗ったのであったが、それとても平生よりイクラカ念入りに洗った位の事で、左右の掌には何の汚染も残っていなかったように思う。そうしてヤットコサと自分の室に帰ると、いつもの習慣通り、寝がけに枕元に引っかけておいた西洋手拭で、顔と手を拭いたが、その時にはもう死ぬ程ねむくなっていたので、スリッパを穿かずに出かけていたことなぞは、ミジンも気付かないまま、倒れるように寝台に這い上ったのであった。  私の記憶はここで又中絶してしまっている。そうしてタッタ今眼を醒ましても、まだその記憶を思い出さずにいた。……昼間からズーッと眠り続けたつもりでいたのであったが、そうした深い睡眠と、甚だしい記憶の喪失が、私の恐ろしい夢中遊行から来た疲労のせいであったことは、もはや疑う余地が無かった。しかも、そうしたタマラナイ、浅ましい記憶の全部を、現在眼の前で、副院長に図星を差された一|刹那に、電光のような超スピードで、ギラギラと恢復してしまった私は、もう坐っている力も無いくらい、ヘタバリ込んでしまったのであった。  ……相手はソンナ実例を知りつくしている、医学博士の副院長である。私の行動を隅から隅まで、研究しつくして来ているらしい人間である。神の審判の前に引き出されたも同然である……。  ……と……そんな事までハッキリと感付いてしまうと、私の腸のドン底から、浅ましい、おそろしい、タマラナイ胴ぶるいが起って来た。どうかして逃れる工夫は無いかと思い思い……その戦慄を押さえ付けようとすればする程、一層烈しく全身がわななき出すのであった。        三  その時に副院長の、柔かい弾力を含んだ声が、私の頭の上から落ちかかって来た。 「そうでしょう。それに違い無いでしょう」 「……………」 「歌原男爵夫人を殺したのは貴方に違い無いでしょう」  私は返事は愚、呼吸をする事も出来なくなった。寝台の上にひれ伏したまま胴震いを続けるばかりであった。  副院長はソット咳払いをした。 「……あの特等室の惨事が発見されたのは、今朝の三時頃の事です。隣家の二号室の附添看護婦が、あの廊下の突当りの手洗い場に行きかけると、あの室の扉が開いて、眩しい電燈の光りが廊下にさしている。それで看護婦はチョット不思議に思いながら、室の中を覗いたのですが、そのまま悲鳴をあげて、宿直の宮原君の処へ転がり込んで来たものです。私はその宮原君から掛かった電話を聞くとすぐに、中野の自宅からタクシーを飛ばして来たのですが、その時にはもう既に、京橋署の連中が大勢来ていて、検屍が済んでしまっておりましたし、犯人の手がかりを集められるだけ集めてあったらしいのです。ですから私は現場に立ち会っていた宮原君から、委細の報告を聞いた訳ですが、その話によりますと歌原男爵未亡人はミゾオチの処を、鋭利なトレード製の鋏で十サンチ近くも突き刺されている上に、暴行を加えられていた事が判明したのです。それから入口の近くに寝ていた看護婦も、麻酔が強過ぎたために、無残にも絶息している事が確かめられましたが、その上に犯人は、未亡人が大切にしていた宝石|容れのサックを奪って逃走している事が、間もなく眼を醒ました女中頭の婆さんの証言によって判明したのだそうです。  ……しかし、犯人が、それからどこへドウ踪跡を晦ましたかという事は、まだ的確に解っていないらしいのです。……室の中には分厚い絨毯が敷いてあるし、廊下は到る処にマットが張り詰めてありますから、足跡なぞは到底、判然しないだろうと思われるのですが、しかし、それでも警察側では犯人が夕方から、見舞人か患者に化て、この病院の中に紛れ込んでいたもので、出て行きがけには、明け放しになっていた屋上庭園から、玄関の露台に降りて、アスファルト伝いに逃走したものと見込みを付けているらしく、そんな方面の事を看護婦や医員に聞いておりましたそうです。私が来ました時にも官服や私服の連中が、屋根の上から、玄関のまわりを熱心に調査していたようです。  ……一方に歌原家からは、身内の人が四五人駈け付けて来ましたので、その筋の許可を得て、夫人の死体を引き渡したのが、今から約三十分ばかり前の事ですが……むろん確かな事はわかりませんけれども、その筋では、余程大胆な前科者か何かと考えているらしく、敷布団の血痕や、雪洞型の電球|蔽いに附着しているボンヤリした血の指紋なぞを調べながら「おんなじ手口だ」と云って肯き合ったり「田端だ田端だ」と口を辷らしていた……というような事実を聞きました。チョウド一週間ばかり前のこと、田端で同じような遣り口の後家さん殺があった事が、大きく新聞に書き立ててあったのですから、その筋では事によると、同じ犯人と睨んでいるのかも知れません。  ……併し私はまだ、それでも不安心のように思っておりますうちに、丁度玄関で帰りかけている旧友の予審判事に会いましたので、私はいい幸いと思いまして、特に力強く証言しておきました。歌原未亡人がこの病院に這入ったのは、まだ昨夜の事で、新聞にも何も出ていないのだから、これは多分、兼ねてから未亡人を付け狙っていた者が、急に思い付いて実行した事であろうと思う。この病院の現在患者は、皆相当の有産階級や知識階級である上に、動きの取れない重症患者や、身体の不自由な者ばかりで、こんな無鉄砲な、残忍兇暴な真似の出来るものは一人も居ない筈である……と……」  私は頭をシッカリと抱えたまま、長い、ふるえた溜息をした。それは今の話を聞いて取りあえず、気が遠くなる程安心すると同時に、わざわざこんな事を私に告げ知らせに来ている、副院長の心を計りかねて、何ともいえない生々しい不安に襲われかけたからであった。……だから……私はそう気付くと同時に、その溜息を途中で切って、続いて出る副院長の言葉を聞き澄ますべく、ピッタリと息を殺していた。 「……新東さん。御安心なさい。貴方は私がオセッカイをしない限り、永久に清浄な身体でおられるのです。すくなくとも社会的には晴天白日の人間として、大手を振って歩けるのです。……けれども貴方御自身の良心と同時に、私の眼を欺く事は出来ないのですよ。いいですか。……私は特一号室の出来事を耳にすると同時に、何よりも先に貴方の事を思い出しました。昨日の午前中に、貴方を回診した時の事を思い出したのです。あの夢遊病の話を聞いておられた貴方の、異様に憂鬱な表情を思い出したのです。そうして誰よりも先に貴方に疑いをかけながら、自動車を飛ばして来たのです。……そうして歌原未亡人の死体を家人に引き渡すとすぐに、病室の取片付け方を看護婦に命じて、新聞記者が来ても留守だと答えるように頼んでから、コッソリと裏廊下伝いにこの室に来て、貴方の寝台のまわりを手探りで探したのです。盗まれた茶皮のサックがどこかに隠して在りはしまいかと思って。  ……ところで私は先ず第一に、あなたの枕元に在る、その西洋手拭いを掴んでみたのですが、果せる哉です。タッタ今手を拭いたように裏表から濡れておりました。貴方がズット以前から熟睡しておられたものならば、そんな濡れ方をしている筈はないのです。それから私は気が付いて、あの向うの二等病室づきの手洗い場に行ってみましたが、手洗い場の龍口栓は十分に締まっていない上に、床のタイルの上に水滴が夥しく零れておりました。多分貴方は、コンナ事は怪しむに足りない。よくある事だからと思って、故意とソンナ風にして血痕を洗われたのかも知れませんが、私の眼から見るとそうは思われません。血痕という特別なものを、そこで洗い落された貴方が、貴方自身の心の秘密を胡麻化すためにそうされたので、頭のいい、技巧を弄し過ぎた洗い方だとしか思われないのです。  ……私はそれから正面に三つ並んでいる大便所を、一つ一つに開いてみましたが、あの一番左側の水洗式の壺の中に、キルクの栓が一個浮いているのを見逃しませんでした。マッチを擦ってみると、その水の表面にはホコリが一粒も浮いていない。つまり最近に流されたものである事を確かめて、イヨイヨ動かす事の出来ない確信を得ました。貴方はあの特一号室から出て来て、この室に品物を隠された後に、あすこに行って手足の血痕を洗い落されました。そうして愚にも、麻酔に使われた硝子の小瓶を、水洗式の壺に投げ込んで打ち砕いたあとで、水を放流されたまでは、誠に都合よく運ばれたのですが、その軽いコルクの栓が、U字型になっている便器の水堰を超え得ないで、烈しい水の渦巻きの中をクルクル回転したまま、又もとの水面に浮かみ上がって来るかどうかを見届けられなかったのは、貴方にも似合わない大きな手落ちでした。明日にも私が警官に注意をすれば、あの便所の中から瓶の破片を発見する事は、さして困難な仕事ではないだろうと思われます。……どうです。私がお話しする事に間違いがありますか」  私は私の身体の震えがいつの間にか止まっているのに気が付いた。そうして私が丸ッキリ知らない事までも、知っているように話す副院長の、不可思議な説明ぶりに、全身の好奇心を傾けながら耳を澄ましている私自身を発見したのであった。  ……何だか他人の事を聞いているような気持になりながら……。  その時に副院長は又一つ咳払いをした。そうして多少得意になったらしく、今迄より一層|滑かに、原稿でも読むようにスラスラと言葉を続けた。 「……警察の連中はたしかに方針を誤っているのです。十中八九までこの事件を、強力犯係の手に渡すに違い無いと思われます。その結果、この事件は必然的に迷宮に入って、有耶無耶の中に葬られる事になるでしょう。……しかし、かく申す私だけは、専門家ではありませんが、警察の連中に欠けている医学上の知識を持っている御蔭で、この事件の真相をタヤスク看破する事が出来たのです。この事件が当然智能犯係の手に廻るべきものである事を、一目で看破してしまったのです。  ……この事件は時日が経過するに連れて、非常に真相のわかり難い事件になるでしょう。……何故かというとこの事件は、すくなくとも三重の皮を冠っているのですからね……その表面から見ると疑いも無い普通の強窃盗事件ですが、その表面の皮を一枚めくって、事件の肉ともいうべき部分を覗いてみますと、極めて稀有な例ではありますが、夢遊病者が描き現わした一種特別の惨劇と見る事が出来るのです。夢中遊行者の行動は必ずしもフラフラヨロヨロとした、たよりのないものばかりに限られている訳ではありませんからね。普通人のようにシッカリした足取りで、普通人以上に巧妙な智慧を使って、複雑深刻を極めた犯罪を遂行する事があると、記録にも残っているくらいですが正にその通りです。貴方は、貴方特有の強健な趾と、アキレス腱の跳躍力を利用して、この事件を遂行されたに違い無いのです。あなた独得の明敏な頭脳と、スバラシク強健な足の跳躍力とを一緒にして、この惨劇を計画されたに相違無いのです。あなたは標本室の薬液を盗んで、四人の女を眠らせて、この兇行を遂げられたのです。そうして夫人の懐中を奪って、この室に帰って、その懐中を寝床の下に隠してから、知らぬ顔をして便所に行かれたのでしょう。そこで血痕を残らず洗い浄めた後に、初めて安心して眠られたのでしょう」  私は又も、肋骨が疼き出す程の、烈しい動悸に囚われてしまった。今の今まで他人の事のように思って耳を傾けていた事件の説明が、急角度に私の方に折れ曲って来たので……そうして身動きも出来ない理詰の十字架に、ヒシヒシと私を縛り付け初めたので……。 「……貴方は最早、それで十分に犯罪の痕跡を堙滅したと思っていられるかも知れませんが……しかし……もし……万が一にも私が、あの標本室に残された、貴方の重大な過失を発き立てたらドウでしょう。あなたが持って行かれた、あの小さな瓶のあとに残っている薄いホコリの輪と、クロロホルムの瓶の肩に、不用意に残された仔指らしい指紋の断片とを、司法当局の前に提出したらどうでしょう。……さもなくとも直接事件の調査に立ち会った宿直の宮原君が、警官から当病院内の麻酔薬の取扱方について質問された時に「それは平生、標本室の中に厳重に保管してある。しかもその標本室の鍵は、この通り、宿直に当ったものが肌身離さず持っているのだから、盗み出される気遣は絶対に無い」と答えていなかったらどうでしょう。そればかりでなく、その後で、警官たちが他の調査に気を取られている隙に、宮原君が念のため先廻りをして、標本室の扉に鍵が、掛かっているかどうかを確かめていなかったとしたら、どうでしょう。……あすこから麻酔薬を盗み出したものが確かにいる。……その人間の仔指の指紋はコレダという事を警官に突き止められたとしたら、ソモソモどんな事になったでしょうか」 「……………」 「……あなたはそれでも、すべてを夢中遊行のせいにして、知らぬ存ぜぬの一点張りで押し通されるかも知れませんね。又、司法当局も、あなたの平常の素行から推して、今夜の兇行を貴方の夢中遊行から起った事件と見做して、無罪の判決を下すかも知れませんネ。しかし……しかし、多分、その裁判には私も何かの証人として呼び出される事と思いますが……又、呼び出されないにしても、勝手に出席する権利があると思うのですが……その裁判に私が出席するとなれば、断じてソンナ手軽い裁判では済みますまいよ。どの方面から考えても、貴方は死刑を免れない事になるのですよ。……私は事件の真相のモウ一つ底の真相を知っているのですから……」  ……私は愕然として顔を上げた。  私は今の今まで私の胸の上に捲き付いて、肉に喰い込むほどギリギリと締まって来た鉄の鎖が、この副院長の最後の言葉を聞くと同時に、ブッツリと切れたように感じたのであった。そうして吾を忘れて、まともに副院長の顔を見上げた……その唇にほのめいている意地の悪い微笑を……その額に輝いている得意満面の光りを、臆面もなく見上げ見下す事が出来たのであった。……事件の真相の底……真相の底……私の知らないこの事件の真相の奥底……と、二三度心の中で繰返してみながら……。そうして、  ……この男は、まだこの上に、何を知っているのだろう……。  と疑い迷っているうちに、又もグッタリと寝台の上に突っ伏して、重ね合わせた手の甲に額の重みを押し付けたのであった。ヘトヘトに疲れた気持ちと、グングン高まって来る好奇心とを同時に感じながら……。  その時に副院長は、すこし音調を高くして言葉を継いだ。恰も私を冷やかすかのように……。 「……あなたはエライ人です。あなたはこんな仕事に対する隠れたる天才です。あなたは昨日の朝、足の夢を見られると同時に……そうしてあの有名な宝石|蒐集狂の未亡人が、入院した事を聞かれると同時に、この仕事の方針を立てられたのです。……否……あなたはズット前から、何かの本で夢遊病の事を研究しておられたもので、足の夢を見られたというのも、あなたがこの事件に就いて計画された一つの巧妙なトリックだったかも知れないのです。  ……その証拠というのは、特別に探すまでもありません。昨夜の出来事の全部が、その証拠になるのです。貴方は、あなたが遂行された歌原未亡人惨殺事件の要所要所に、夢遊病の特徴をハッキリとあらわしておられるのです。……雪洞型の電燈の笠にボヤケた血の指紋をコスリ付けられたところといい、一等若い、美しい看護婦の唇の上に、わざとクロロフォルムの綿を置きっ放しにして、殺してしまわれた残忍さといい……その綿は馬鹿な警官が、大切な証拠物件として持って行ったそうですが……そのほか男爵未亡人の枕元に在った鼻紙と、その上に置いて在った硝子製の吸呑器を蹴散らしたり、百|燭の電燈を点けっ放しにして出て行ったり、如何にも夢遊病者らしい手落ちを都合よく残しておられます。その中でも特に、男爵未亡人の着物や帯をムザムザと切断したり、繃帯を切り散らして、手術した局部を露出したり、最後に又、その兇行に使用した鋏を、モウ一度深く胸の疵口に刺し込んだまま出て行かれたりしているところは、百パーセントに夢中遊行者特有の残忍性をあらわしておられるのです。曾て専門の書類でそんな実例を読んだ事のある私とても、この事件に対する貴方の準備行為を見落していたならば……ただ、事件そのものだけを直視していたならば、物の見事に欺かれていたに違い無いと思われるほどです。あなたの天才的頭脳に飜弄されて、単純な夢遊病の発作と信じてしまったに違い無いと思って、人知れず身ぶるいをしたくらいです」 「……………」 「……どうです。私がこの以上にドンナ有力な証拠を握っているか、貴方にわかりますか。この惨劇の全体は、夢遊病の発作に見せかけた稀に見る智能犯罪である。貴方の天才的頭脳によって仕組まれた一つの恐ろしい喜劇に過ぎないと、私が断定している理由がおわかりになりますか」 「……………」 「……フフフフフ。よもや知るまいと思われても駄目ですよ、私は何もかも知っているのですよ。……貴方は昨日の午後のこと、同室の青木君が外出するのを待ちかねて、この室を出られたでしょう。そうしてあの特一号室の様子を見に、玄関先まで来られたでしょう。それから標本室へ行って、麻酔薬の瓶が在るかどうかを確かめられたでしょう。貴方はあの標本室の中に、いろんな薬瓶が置いてあるのを前からチャント知っておられたに違い無いのです。……そうでしょう……どうです……」 「……………」 「……ウフフフフフ、私がこの眼で見たのですから、間違いは無い筈です。それは貴方の巧妙な準備行為だったのです。私があの時に、あなたの散歩を許さなければコンナ事にはならなかったかも知れませんが、貴方は巧みに偶然の機会を利用されたのです。そうしてこの犯行を遂げられたのです」 「……………」 「……私の申上げたい事はこれだけです。私は決して貴方を密告するような事は致しません。私は貴方がW文科の秀才でいられる事を知っていますし、亡くなられた御両親の学界に対する御功績や、現在の御生活の状態までも、ある人から承って詳しく存じている者です。このような事を計画されるのは無理も無いと同情さえして上げているのです。ですからこそ……こうしてわざわざ貴方のために、忠告をしに来たのです」 「……………」 「……もう二度とコンナ事をされてはいけませんよ。人を殺すのは無論の事、かり初めにも貴重品を盗んだりされてはいけませんよ。貴方の有為な前途を暗闇にするような事をなすっては、第一あなたの純真な……お兄さん思いのお妹さんが可哀想ではありませんか。あの美しい、お兄様|大切と思い詰めておられる、可哀想なお妹さんの前途までも、永久に葬る事になるではありませんか」  副院長は声を励ましてこう云いながら、ポケットに手を突っ込んだ。そうして薄黒い懐中みたようなものを取り出すと、掌の中で軽々と投げ上げ初めた。 「……いいですか。これはタッタ今、あなたの寝台のシーツの下から探し出した、歌原未亡人の宝石入りのサックです。この事件と貴方とを結び付ける最後の証拠です。同時に貴方の夢中遊行が断じて夢中の遊行ではなかった、極めて鋭敏な、且つ、高等な常識を使った計画的な殺人、強盗行為に相違無かった事を、有力に裏書する証人なのです。もう一つ詳しく説明しますと、この中に在る宝石や紙幣の一つ一つを冷静に検査して行かれた貴方の指紋は、そのタッタ一ツでも間違いなく、貴方を絞首台上に引っぱり上げる力を持っているでしょう……それ程に恐ろしい唯一無上の証拠物件なのです。……ですから……コンナものを貴方が持っておられると大変な事になりますから、とりあえず私がお預かりして行くのです。もう間もなく、あの特等病室の汚れた藁蒲団を、人夫が来て片付ける筈ですから、その時に私が立ち会って、寝床の下から出て来たようにして報告しておいたらドンナものかと考えているところですが……むろんその前にこの中の指紋をキレイにしておかなければ何もなりませんが……ドチラにしても死んだ人には気の毒ですが、今更取返しが付かないのですから、後はこの病院の中から縄付きなどを出さないようにしなければなりません。すぐに病院の信用に響いて来ますからね……いいですか。……忘れてはいけませんよ。今夜の事はこの後ドンナ事があっても、二度と思い出してはいけない……他人に話してはならない。勿論お妹さんにも打ち明けてはいけません……という事を……」  そう云ううちに副院長は、ジリジリと後しざりをした。そうして扉のノッブに凭りかかったらしく、ガチャリと金属の触れ合う音がした。  その音を聞くと同時に、ベッドの上にヒレ伏したままの私の心の底から、形容の出来ない不可思議な、新しい戦慄が湧き起って、みるみる全身に満ちあふれ初めた。それにつれて私は奥歯をギリギリと噛み締めて、爪が喰い入る程シッカリと両手を握り締めさせられたのであった。  しかし、それは最前のような恐怖の戦慄ではなかった。  ……俺は無罪だ……どこまでも晴天白日の人間だ……  という力強い確信が、骨の髄までも充実すると同時に起った、一種の武者振るいに似た戦慄であった。  その時に副院長が後手で扉のノッブを捻った音がした。そうして強いて落ち付いた声で、 「……早く電燈を消してお寝みなさい。……そうして……よく考えて御覧なさい」  という声が私を押さえ付けるように聞えた。  途端に私は猛然と顔を上げた。出て行こうとする副院長を追っかけるように怒鳴った。 「……待てッ……」  それは病院の外まで聞えたろうと思うくらい、猛烈な喚めき声であった。そう云う私自身の表情はむろん解らなかったが、恐らくモノスゴイものであったろう。  副院長は明かに胆を潰したらしかった。不意を打たれて度を失った恰好で、クルリとこっちに向き直ると、まだ締まったままの扉を小楯に取るかのように、ピッタリと身体を寄せかけて突っ立った。電燈の光りをまともに浴びながら、切れ目の長い近眼を釣り上らして、瞬きもせずに私の顔を睨み付けた。  その真正面から私は爆発するように怒鳴り付けた。 「犯人は貴様だ……キ……貴様こそ天才なんだゾッ……」  副院長の身体がギクリと強直した。その顔色が見る見る紙のように白くなって来た。扉のノッブに縋ったままガタガタとふるえ出していることが、その縞のズボンを伝わる膝のわななきでわかった。  こうした急激の打撃の効果を、眼の前に見た私はイヨイヨ勢を得た。  その副院長の鼻の先に拳固を突き付けたまま、片膝でジリジリと前の方へニジリ出した。  ……と同時に洪水のように迸り出る罵倒の言葉が、口の中で戸惑いし初めた。 「……キ……貴様こそ天才なのだ。天才も天才……催眠術の天才なのだ。貴様は俺をカリガリ博士の眠り男みたいに使いまわして、コンナ酷たらしい仕事をさせたんだ。そうして俺のする事を一々蔭から見届けて、美味い汁だけを自分で吸おうと巧らんだのだ。……キット……キットそうに違い無いのだ。さもなければ……俺の知らない事まで、どうして知っているんだッ……」 「……………」 「……そうだ。キットそうに違い無いんだ。貴様は……貴様は昨日の正午過ぎに、俺がタッタ一人で午睡している処へ忍び込んで来て、俺に何かしら暗示を与えたのだ……否……そうじゃない……その前に俺を診察しに来た時から、何かの方法で暗示を与えて……俺の心理状態を思い通りに変化させて、こんな事件を起すように仕向けたのだ。そうだ……それに違い無いのだ」 「……………」  ……バタリ……と床の上に何か落ちる音がした。それは副院長の手から、床の上の暗がりに辷り落ちた、茶革の懐中の音に相違無かった。  しかし私はその方向には眼もくれなかった。のみならず、その音を聞くと同時にイヨイヨ自分の無罪を確信しつつ、メチャクチャに相手をタタキ付けてしまおうと焦燥った。 「……そうなんだ。それに違い無いのだ。俺に散歩を許したのは誰でもない貴様なんだ。標本室の扉の鍵をコッソリと開けておいたのも貴様だろう、クロロフォルムの瓶をあすこに置いたのも貴様かも知れない。……男爵未亡人を凌辱したのも貴様に違い無い。そうして残虐を逞ましくして茶革の懐中を奪って、俺の処へ……イヤ……イヤ……そうじゃない。そうじゃないんだ。……俺は決して嘘は云わない。俺は今夜偶然に夢中遊行を起したのだ。そうしてあの室に行って、四人の女を麻酔さして、未亡人の繃帯と帯とを切ったに違い無いのだ。けれども、それ以上の事は何もしていなかった……それ以上犯罪に属する仕事は……みんな貴様がした事なんだ。宿直員の話でも、その宝石に残っている俺の指紋の一件でも、ミンナ貴様の出まかせの嘘ッパチなんだ。貴様はただ偶然に、昨日の昼間、標本室に這入って行く俺の姿を見付けたに過ぎないんだ。それから今夜も、歌原未亡人の容態を監視するつもりか何かで、この病院に居残っているうちに、又も偶然に、俺の夢中遊行を見付けたので、あとからクッ付いて来て様子を見届けているうちに思い付いて、スッカリ計画を立ててしまったのだ。そうして俺が出て行ったあとでソノ計画通りにヤッツケて、一切の罪を俺に投げかけて、俺の口を閉ごうという巧らみの下に、わざわざこの室まで押しかけて来て……イヤッ……ソ……そうじゃないんだッ……。そ……そんな事じゃないんだッ……」  私は突然に素晴らしいインスピレーションに打たれたので、片膝を叩いて飛び上った。  私は私自身が徹底的に絶対無限に潔白である事を、遺憾なく証明し得るであろう、そのインスピレーションを眼の前に、凝視したまま、躍り上らむばかりに喚めき続けた。 「……オ……俺は何にもしていないんだ。昨日の夕方からこの室を出ないんだぞッ……チ畜生ッ……コ……この手拭は貴様が濡らしたんだ。その茶革のサックも貴様が持って来たんだ。そうして貴様はやっぱり催眠術の大家なんだッ」 「……………」 「俺はこの事件と……ゼ絶対に無関係なんだ……。俺は貴様の巧妙な暗示にかかって、昨日の午後から今までの間、この寝台の上で眠り続けていたんだ。そうして貴様から暗示された通りの夢を見続けていたんだ。夢遊病者が自分で知らない間に物を盗んだり、人を殺したりするという実例を貴様から話して聞かせられた……その通りの事を自分で実行している夢を見続けていたのだ。そうして丁度いい加減のところで貴様から眼を醒まさせられたのだ……それだけなんだ。タッタそれだけの事なんだ……」 「……………」 「しかも、そのタッタそれだけの事で、俺は貴様の身代りになりかけていたんだぞ。貴様がした通りの事を、自分でしたように思い込ませられて、貴様の一生涯の悪名を背負い込ませられて、地獄のドン底に落ち込ませられかけていたんだぞ。罪も報いも無いまんまに……本当は何もしないまんまに……エエッ。畜生ッ……」  私の眼が涙で一パイになって、相手の顔が見えなくなった。けれども構わずに私は怒鳴り続けた。 「……ええっ……知らなかった……知らなかった。俺は馬鹿だった。馬鹿だった。貴様が俺に夢遊病の話をして聞かせた言葉のうちに、こんなにまで巧妙な暗示が含まれていようとは、今の今まで気が付かなかった。エエッ……この悪魔……外道ッ……」  私はここ迄云いさすと堪まらなくなって、片手で涙を払い除けた。  そうして、なおも、相手を罵倒すべく、カッと眼を剥き出したが……そのままパチパチと瞬きをして、唾液をグッと呑み込んだ。呆れ返ったように自分の眼の前を見た。  いつの間に取り上げたものか、私の松葉杖の片ッ方が、副院長のクシャクシャになった髪毛の上に振り翳されている。二股になった撞木の方が上になって、両手で握り締められたままワナワナと震えている。……その下に、全く形相の変った相手の顔があった。……放神したようにダラリと開いた唇、真赤に血走ったまま剥き出された両眼、放散した瞳孔、片跛に釣り上った眉。額の中央にうねうねと這い出した青すじ……悪魔の表情……外道の仮面……。  その上に振り上げられた松葉杖のわななきが、次第次第に細かい戦慄にかわって行った。今にも私の頭の上に打ち下されそうに、みるみる緊張した静止に近づいて行くのを私は見た。  私はその杖の頭を見上げながら、寝床の上をジリジリと後しざって行った。片手をうしろに支えて、片手を松葉杖の方向にさし上げながら、大きな声を出しかけた。 「助けて下さア――イ」  ……と……。けれどもその声は不思議にも、まだ声にならないうちに、大きな、マン丸い固りになって、咽喉の奥の方に閊えてしまった。  ……何秒か……何世紀かわからぬ無限の時空が、一パイに見開いている私の眼の前を流れて行った。  ………………………………………………。 「……お兄さま……お兄様、お兄様……オニイサマってばよ……お起きなさいってばよ……」  ………………………………………………。  ……私はガバと跳ね起きた。……そこいらを見まわしたが、ただ無暗に眩しくて、ボ――ッと霞んでいるばかりで何も見えない。その眼のふちを何遍も何遍も拳固でコスリまわしたが、擦ればこする程ボ――ッとなって行った。  その肩をうしろから優しい女の手がゆすぶった。 「お兄様ってば……あたしですよ。美代子ですよ。ホホホホホ。モウ九時過ぎですよ。……シッカリなさいったら。ホホホホホホ」 「……………」 「お兄様は昨夜の出来ごと御存じなの……」 「……………」 「……まあ呆れた。何て寝呆助でしょう。モウ号外まで出ているのに……オンナジ処に居ながら御存じないなんて……」 「……………」 「……あのねお兄様。あのお向いの特等室で、歌原男爵の奥さんが殺されなすったのよ。胸のまん中を鋭い刃物で突き刺されてね。その胸の周囲に宝石やお金が撒き散らしてあったんですって……おまけに傍に寝ていた女の人達はみんな麻酔をかけられていたので、誰も犯人の顔を見たものが居ないんですってさ」 「……………」 「……ちょうど院長さんは御病気だし、副院長さんは昨夜から、稲毛の結核患者の処へ往診に行って、夜通し介抱していなすった留守中の事なので、大変な騒ぎだったんですってさあ。犯人はまだ捕まらないけど、歌原の奥さんを怨んでいる男の人は随分多いから、キットその中の誰かがした事に違い無いって書いてあるのよ。妾その号外を見てビックリして飛んで来たの……」  妹の声が次第に怖えた調子に変って来た。  するとその向うからモウ一つ大きな、濁った声が重なり合って来た。 「アハハハハハハ。新東さん。今帰りましたよ。あっしも号外を見て飛んで帰ったんです。ヒョットしたら貴方じゃあるめえかと思ってね、アハハハハハ。イヤもう表の方は大変な騒ぎです。そうしたら丁度玄関の処でお妹さんと御一緒になりましてね……ヘヘヘヘ……これはお土産ですよ。約束の紅梅焼です。お眼ざましにお二人でお上んなさい」 「……アラマア……どうも済みません。お兄さまってば、お兄さまってば、お礼を仰有いよ。こんなに沢山いいものを……まだ寝ぼけていらっしゃるの……」 「アハハハハ……ハ。又足の夢でも御覧になったんでしょう……」 「……まあ……足の夢……」 「ええ。そうなんです。足の夢は新東さんの十八番なんで……ヘエ。どうぞあしからずってね……ワハハハハハハハ」 「マア意地のわるい……オホホホホ……」 「…………………………………………」        一  チエ子は奇妙な児であった。  孤児院に居るうちは、ただむやみと可愛いらしい、あどけない一方の児であったが、五ツの年の春に、麹町の番町に住んでいる、或る船の機関長の家庭に貰われて来てから一年ばかり経つと、何となく、あたりまえの児と違って来た。  背丈けがあまり伸びない上に、子供のもちまえの頬の赤味が、いつからともなく消えうせて、透きとおるほど色が白くなるにつれて、フタカイ瞼の眼ばかりが大きく大きくなって行った。それと一緒に口数が少くなって、ちょっと見ると唖児ではないかと思われるほど、静かな児になった。そうして時たま口を利く時には、その大きな眼を一パイに見開いて、マジマジと相手の顔を見る。それから、その小さな下唇を、いく度もいく度も吸い込んだり出したりしているうちに、不意に、ハッキリした言葉つきで、飛んでもないマセた事を云い出したりするのであったが、それが又チエ子を、たまらない程イジラシイ悧溌な児に見せたので、両親は大自慢で可愛がるのであった。チエ子が一番わるい癖の朝寝坊でも、叱るどころでなく、かえって手数のかからない児だと云って、自慢の一ツにする位であった。  しかしチエ子にはもう一ツ奇妙な……しかしあまり人の目につかない特徴があった。それは何の影もない大空と屋根との境い目だの、木の幹の一部分だの、室の隅ッコだのを、ジイッと、いつまでもいつまでも見つめる癖で、すぐ近くから呼ばれているのに気がつかないで、空のまん中に浮いている雲だの、汚れた白壁の途中だのを一心に見上げていたりするのであった。  母親はこの癖に気付いているにはいたが、温柔しい児にはあり勝ちのことなので、さほど気にかけていなかった。いくら呼んでも来ない時に、 「チエ子さん……何を見ているのです……」  なぞと叱ることもあったが、本当に何を見ているのか、きいてみた事は一度もなかった。  ところが、チエ子が六ツになった年の秋の末のこと、外国航路についている父親から、真赤な鳥の羽根の外套を送って来た。それは和服にも着せられる、鐘型の風変りなもので、その深紅の色が何ともいえず上品に見えた。  母親は早速それをチエ子に着せて、自分も貴婦人みたようにケバケバしく着飾って、四谷へ活動を見に連れて行った。母親は、どちらかといえば痩せギスで、背丈けが普通の女以上にスラリとしているので、チエ子の手を引いて行くのはいくらか自烈度いらしかったが、それでも、二人とも新しいフェルトの草履を穿いて、イソイソとしていたので、誰が見てもホントウの親子に見えた。        二  活動が済むころから、風がヒュウヒュウ吹き出したので、かなり寒い、星だらけの夜になった。  その中を二人は手を引き合って帰って来たが、嫩葉女学校の横の人通りの絶えた狭い通りへ這入ると、チエ子が不意に立ち止まって母親を引き止めた。そうして、いつもよりもずっとハッキリした声を、建物と建物の間のくら暗に反響さした。 「……おかあさん……」  母親はビックリしたようにふり返った。 「何ですか……チエ子さん……」 「あそこに……お父さまのお顔があってよ」  と云いつつチエ子は、小さな指をさし上げて、高い高い女学校の屋根の上を指した。  母親はゾッとしたらしく、思わず引いている手に力を入れて叱りつけた。 「何です。そんな馬鹿らしいこと……」 「イイエ……おかあさん……あれはおとうさまのお顔よ。ネ……ホラ……お眼々があって、お鼻があって……お口も……ネ……ネ……ソウシテお帽子も……」 「……マア……気味のわるい……。お父様はお船に乗って西洋へ行っていらっしゃるのです。サ……早く行きましょう」 「デモ……アレ……あんなによく肖ててよ……ホラ……お眼々のところの星が一番よく光っててよ」  母親はだまって、チエ子の手をグングン引いてあるき出した。チエ子も一緒にチョコチョコ駈け出したが、暫くすると又、不意に口を利き出した。 「おかあさま……」 「……何ですか……」 「アノネ……おうちのお茶の間の壁が、こないだの地震の時に割れているでショ……ネ……ギザギザになって……あそこにどこかのオジサマやオバサマの顔があってよ。大きいのや小さいのや、いくつも並んで……ソウシテネ……ソウシテネ……また方々にいくつも人の顔があってよ。お隣りのお土蔵の壁だの、おうちの台所の天井だの、お向家の御門の板だの、梅の木の枝だの、木の葉の影法師だのをヨ――ク見ていると、いろんな人の顔に見えて来てよ。きょうお母様に見せていただいた活動のわるい王様でも、綺麗なお姉さまの顔でも、キットどこかにあってよ。明日になったら、あたしキット……アラ……お母さまチョット……あそこに……」  と云いさしてチエ子は又急に母親の手を引き止めた。 「……ホラ……あの電信柱の上に、小さな星がいくつも……ネ……ネ……いつもよくうちにいらっしゃる保険会社のオジサマの顔よ……お母様と仲よしの……ネ……」  母親はギックリしたように立ち竦んだ。下唇をジイと噛んでチエ子の顔を見下した。わなわなとふるえる白い指先で、鬢のほつれを撫で上げながら、おそろしそうにソロソロと、そこいらを見まわしていたが、何と思ったか突然に、邪慳にチエ子の手を振り離して小走りに駈け出した。 「アレ……おかあさまア……待って……」  とチエ子も駈け出したが、石ころに躓いてバッタリと倒おれた。その間に母親は大急ぎで横町へ外れてしまった。  チエ子はヒイヒイ泣きながら、起き上ってあとを追いかけた。泣いては立ち止まり、走り出しては泣きしながら、辻々の風に吹き散らされて行くかのように、いくつもいくつも御角を曲って、長いことかかってやっと、見おぼえのある横町の角まで来ると、お向家の御門の暗い軒燈の陰から、真白な、怖い顔をさし出して、こちらを見ている母親の顔が見つかった。  チエ子はそのまま立ち止まって、声高く泣き出した。        三  それから後、母親はあまりチエ子を可愛がらなくなった。 「……もうチエ子さんは、じき学校に行くのですから、独りでねんねし習わなくてはいけません」  と云って、茶の間に別の床を取って寝かして自分は一人で座敷の方に寝るようにした。活動なぞにも、それから一度も連れて行かないで、自分ばかり朝早くからお化粧をして出かけると、夜遅くまで帰って来ない日が続くようになった。帰りがけにチエ子の大好きな、絵本を買って来るようなこともなくなった。  けれどもチエ子は、別に淋しがるような様子はなかった。それかといって女中と遊ぶでもなく、今までの通り古い絵本を繰り返して拡げたり、いろんなものをジッと見つめたり、人の顔らしいものを地べたに描いては消したりして遊んだ。それから日が暮れて、女中と一緒にお茶の間で、御飯をたべてしまうと間もなく片隅に敷いてある寝床の中に、湯タンポを入れてもらって、小さな身体をもぐり込ませる。それでも朝寝坊は今までの通りにしたので、どうかすると二三日も母親の顔を見ないことがあった。 「どうしてあなたは、そんなに朝寝をするのですか」  或る朝、珍らしく出て行かなかった母親がこう尋ねると、チエ子はいつもの通り母親の顔を見つめながら、下唇をムツムツさしていたが、やがてオズオズとこう答えた。 「あのね……あたし、お母さまとおネンネしなくなってから、夜中にきっと眼がさめるの。ソウスルトネ……電燈が消えて真っ暗になっているの。ソウシテネ……上の方をジイ――と見ていると、お向家だの、お隣家だの、おうちのお庭にあるゴミクタだの、石ころだのが、いろんな人の顔になって、いくつもいくつも見えて来るの……ソウシテネ……それをヤッパシじいっと見ていると、そんな人の顔がみんな一緒になって、いつの間にかお父さまの顔になって来るのよ……ソウシテネ……それをモットモット、いつまでもいつまでも見ていると、おしまいにはキットあたしを見てニコニコお笑いになるの……ソウスルトネ……そのお父様と、いろんな事をして遊んでいる夢を見るの……大きな大きなお船に乗ってネ……綺麗な綺麗なところへ行ったり……ソレカラ……」 「いけないわねえ子供の癖に……夜中に睡られないなんて……困るわね……どうかしなくちゃ」  と云い云い母親は、こころもち青褪めた顔をして、チエ子の大きな眼をイマイマしそうに見つめていたが、やがて、急にわざとらしくニッコリして手を打った。 「……アッ……いいことがあるわよチエ子さん。お母さんがネ……おいしいお薬を買って来て上げましょうネ。ソレをのむとキッとよく睡られて、朝早く起きられますよ……ネ……晩によくオネンネをして、朝早く起きる癖をつけとかないと、今に学校に行くようになってから困りますからね……ネ……ネ……」  チエ子は不思議そうな顔をしいしい温柔しくうなずいた。そうしてその晩から、母親に丸薬をのまされて寝ることになったが、そのお蔭かして、あくる朝は割り合いに早く眼をさましたのであった。  それ以来母親はまた、不思議に家に居つくようになった。朝のお化粧もやめてしまったが、その代りに夕方になると急にソワソワし出して、お湯に行ったり、おめかしをしたりして、まだ明るいうちに夕飯を仕舞うと、女中とチエ子を追い立てるようにして寝かした。そうして、チエ子が一度でも朝寝をすると、その晩から丸薬を一粒|宛殖やしたので、一と月と経たないうちに、粒の数が最初の時の倍程になった。  チエ子は一日一日と瘠せ細って、顔色がわるくなって来た。        四  そのうちに、あくる年の二月の末になって、チエ子の父親が、長い航海から帰って来たが、玄関に駈け出して来たチエ子を見ると、ビックリして眼を瞭った。 「どうしてこんなになったのか」  と、短気らしく大きな腕を組んで、あとから出て来た母親にきいた。しかし母親がまじめな顔をして、何か二言三言云いわけをすると、間もなく納得したらしく、組んでいた腕をほどいて元気よくうなずきながら、靴をスポンスポンと脱いだ。  それから褞袍に着かえて、チエ子と並んで夕飯のお膳について、何本もお銚子を傾けた父親は、赤鬼のようになりながら大きな声で、今度初めて行った露西亜の話をした。そのあいまあいまにチエ子がこの頃は特別に温柔しくなった話をきかされたり、久し振りに結ったという母親の丸髷を賞めて、高笑いをしたりしていたが、そのあげく、思い出したように柱時計をふり返ってみると、飯茶碗をつき出して怒鳴った。 「オイ飯だ飯だ。貴様も早く仕舞って支度をしろ。これから三人で活動を見に行くんだ」 「エ…………」 「活動を見にゆくんだ……四谷に……」  お給仕盆をさし出しかけていた母親の顔がみるみる暗くなった。魘えたような眼つきで、チエ子と、父親の顔を見比べた。 「何だ……活動嫌いにでもなったのか」  と父親は箸を握ったまま妙な顔をした。母親は、泣き笑いみたような表情にかわりながら、うつむいて御飯をよそった。 「そうじゃありませんけど……あたし今夜何だか……頭が痛いようですの……」  父親は平手で顔を撫でまわした。 「フ――ン。そらあいかんぞ。半年ぶりに亭主が帰って来たのに、頭痛がするちう法があるか……アハハハハまあええわ、それじゃ去年送った、あの外套を出しとけ。チエ子の赤い羽根のやつを……。あれは俺が倫敦で買ったのじゃが、日本に持って来ると五十両以上するシロモノだ。ここいらの家の児であんなのを着とるのはなかろう……ウンないじゃろう。ない筈だ。ウン……。あれを着せて二人で行って来るからナ……貴様は頭痛がするんなら先に寝とれ……座敷に瓦斯ストーブを入れてナ……ハハ久し振りに川の字か。ハハン……しかし要心せんといかん……」 「それほどでもないんですけれど、永いこと丸髷に結わなかったせいかもしれません」  と母親は、お茶をさしながら甘えるような、悄気た声で云った。 「イヤ……いかんいかん。そんな事を云って無理をしちゃいかん。今年は上海のチブスがひどいからな。……ナニ俺か。俺は大丈夫だ。この上からマントを着てゆく。帽子は鳥打がええ。ウン。それからトランクの隅にポケットウイスキーがあるから、マントのポケットに入れとけ……日本は寒いからナ……ハハハハハ」        五  活動を見ながらウイスキーをチビリチビリやっていた父親は、いよいよいい機嫌になって帰りかけた。  四谷見付で電車を降りると、太い濁った声で、何か鼻唄を歌い歌い、チエ子と後になり先になりして来たが、やがて嫩葉女学校の横の暗いところに這入ると、ちょうど去年の秋に、母親と立ち止まったあたりで、チエ子は又ピッタリと立ち止まった。 「オイ。早く来んか。怖いのか……アアン……サ……お父さんが手を引いてやろ……」  と、二三間先へ行きかけた父親が、よろめきながら引返してみると、チエ子は暗い道のまん中に立ち止まって、一心に大空を見上げている。 「何だ……何を見とるのか」 「……あそこにお母さまの顔が……」 「フ――ン……どれどれ……どこに……」  と父親は腰を低くして、チエ子の指の先を透かしてみた。 「ハハア……あれか……ハハハハ……あれは星じゃないか。星霧ちうもんじゃよあれは……」 「……デモ……デモ……お母様のお顔にソックリよ……」 「ウ――ム。そう見えるかナア」 「……ネ……お父さま……あの小さな星がいくつもいくつもあるのがお母さまのお髪よ……いつも結っていらっしゃる……ネ……それから二つピカピカ光っているのがお口よ……ネ……」 「……ウーム。わからんな。ハハハハハ……ウンウンそれから……」 「それから白いモジャモジャしたお鼻があって、ソレカラ……アラ……アラ……あのオジサマの顔が……あんなところでお母さまのお顔とキッスをして……」 「アハハハハハハハ…………冗談じゃないぞチエ子……何だそのオジサマというのは……」 「……あたし、知らないの……デモネ……ずっと前から毎晩うちにいらっしてネ……お母様と一緒にお座敷でおねんねなさるのよ。あんなにニコニコしてキッスをしたり、お口をポカンとあいたり……」  と云いさしてチエ子は口を噤んだ。ビックリしたように眼を丸くして、父親の顔を見た。  しゃがんでいた父親は、いつの間にか闇の中に仁王立ちになっていた。両手をふところに突込んだまま、チエ子の顔を穴のあくほど睨みつけていた。  チエ子はそれを見上げながら、今にも泣き出しそうに眼をパチパチさした。そうして、云いわけをするかのようにモジモジと、小さな指をさし上げた。 「……こないだは……アソコに……お父さまのお顔があったのよ……」  巨大な四角いビルディングである。  窓という窓が残らずピッタリと閉め切ってあって、室という室が全然、暗黒を封じている。  その黒い、巨大な、四角い暗黒の一角に、黄色い、細い弦月が引っかかって、ジリ、ジリ、と沈みかかっている時刻である。  私はその暗黒の中心に在る宿直室のベッドの上に長くなって、隣室と境目の壁に頭を向けたまま、タッタ一人でスヤスヤと眠りかけている。  私は疲れている。考える力もないくらい睡むたがっている。  私の意識はグングンと零の方向に近づきつつある。無限の時空の中に無窮の抛物線を描いて落下しつつある。  その時に壁|一重向うの室からスヤスヤという寝息が聞こえて来た。私の寝息にピッタリと調子を合せた、私ソックリの寝息の音が……静かに……しずかに……。  ……壁一重向うの室にモウ一人の私が寝ているのだ。私の頭の方に頭を向けて、私の寝姿を鏡に映したように正反対の方向に足を伸ばしつつ、スヤスヤと睡りかけているのだ。  ……その壁の向うの私も疲れている。考える力もないくらい睡むたがっている。そうしてその意識がグングンと零の方向に近付きつつある。無限の時空の中に、無窮の抛物線を描いて……グングンと……。  私はガバと跳ね起きた。眼がパッチリと醒めた。隣の室が覗いてみたくなった。  しかし私は闇暗の中で半身を起したまま躊躇した。もし隣の室を覗いた時に、私と同じ私がスヤスヤと寝ていたとしたら、それはドンナに恐ろしい事だろう……とはいえ又、万に一つ隣の室に誰も居なかったとしたら、その恐ろしさが何層倍するだろう……と……。  私はそう思い思い何秒か……もしくは何分間か、眼の前の闇暗の核心をジーッと凝視していた。凝視していた……。  ……と……そのうちに或る突然な決心が私に襲いかかった。その決心に蹴飛ばされたように私は、素跣足のまま寝台を飛び降りた。宿直室を飛び出して、隣の室に通ずる、暗黒の廊下を突進した。  ……するとその途中で何かしら真黒い、人間のようなものと真正面から衝突したように思うと、二つの身体がドターンと人造石の床の上にたおれた。そのままウームと気絶してしまった。  巨大な深夜のビルディング全体が……アハ……アハ……アハ……と笑う声をハッキリと耳にしながら……。  拝呈 時下益々御清栄、奉慶賀候。陳者、予てより御通達の、潮流研究用と覚しき、赤|封蝋附きの麦酒瓶、拾得次第|届告仕る様、島民一般に申渡置候処、此程、本島南岸に、別小包の如き、樹脂封蝋附きの麦酒瓶が三個漂着致し居るを発見、届出申候。右は何れも約半里、乃至、一里余を隔てたる個所に、或は砂に埋もれ、又は岩の隙間に固く挟まれ居りたるものにて、よほど以前に漂着致したるものらしく、中味も、御高示の如き、官製|端書とは相見えず、雑記帳の破片様のものらしく候為め、御下命の如き漂着の時日等の記入は不可能と被為存候。然れ共、尚何かの御参考と存じ、三個とも封瓶のまま、村費にて御送附|申上候間、何卒御落手|相願度、此段|得貴意候 敬具     月   日 ××島村役場※  海洋研究所 御中 ◇第一の瓶の内容  ああ………この離れ島に、救いの船がとうとう来ました。  大きな二本のエントツの舟から、ボートが二艘、荒波の上におろされました。舟の上から、それを見送っている人々の中にまじって、私たちのお父さまや、お母さまと思われる、なつかしいお姿が見えます。そうして……おお……私たちの方に向って、白いハンカチを振って下さるのが、ここからよくわかります。  お父さまや、お母さまたちはきっと、私たちが一番はじめに出した、ビール瓶の手紙を御覧になって、助けに来て下すったに違いありませぬ。  大きな船から真白い煙が出て、今助けに行くぞ……というように、高い高い笛の音が聞こえて来ました。その音が、この小さな島の中の、禽鳥や昆虫を一時に飛び立たせて、遠い海中に消えて行きました。  けれども、それは、私たち二人にとって、最後の審判の日の※よりも怖ろしい響で御座いました。私たちの前で天と地が裂けて、神様のお眼の光りと、地獄の火焔が一時に閃めき出たように思われました。  ああ。手が慄えて、心が倉皇て書かれませぬ。涙で眼が見えなくなります。  私たち二人は、今から、あの大きな船の真正面に在る高い崖の上に登って、お父様や、お母様や、救いに来て下さる水夫さん達によく見えるように、シッカリと抱き合ったまま、深い淵の中に身を投げて死にます。そうしたら、いつも、あそこに泳いでいるフカが、間もなく、私たちを喰べてしまってくれるでしょう。そうして、あとには、この手紙を詰めたビール瓶が一本浮いているのを、ボートに乗っている人々が見つけて、拾い上げて下さるでしょう。  ああ。お父様。お母様。すみません。すみません、すみません、すみません。私たちは初めから、あなた方の愛子でなかったと思って諦らめて下さいませ。  又、せっかく、遠い故郷から、私たち二人を、わざわざ助けに来て下すった皆様の御親切に対しても、こんなことをする私たち二人はホントにホントに済みません。どうぞどうぞお赦し下さい。そうして、お父様と、お母様に懐かれて、人間の世界へ帰る、喜びの時が来ると同時に、死んで行かねばならぬ、不倖な私たちの運命を、お矜恤下さいませ。  私たちは、こうして私たちの肉体と霊魂を罰せねば、犯した罪の報償が出来ないのです。この離れ島の中で、私たち二人が犯した、それはそれは恐ろしい悖戻の報責なのです。  どうぞ、これより以上に懺悔することを、おゆるし下さい。私たち二人はフカの餌食になる価打しか無い、狂妄だったのですから……。  ああ。さようなら。 神様からも人間からも救われ得ぬ 哀しき二人より お父様 お母様 皆々様 ◇第二の瓶の内容  ああ。隠微たるに鑒たまう神様よ。  この困難から救わるる道は、私が死ぬよりほかに、どうしても無いので御座いましょうか。  私たちが、神様の足※と呼んでいる、あの高い崖の上に私がたった一人で登って、いつも二、三匹のフカが遊び泳いでいる、あの底なしの淵の中を、のぞいてみた事は、今までに何度あったかわかりませぬ。そこから今にも身を投げようと思ったことも、いく度であったか知れませぬ。けれども、そのたんびに、あの憐憫なアヤ子の事を思い出しては、霊魂を滅亡す深いため息をしいしい、岩の圭角を降りて来るのでした。私が死にましたならば、あとから、きっと、アヤ子も身を投げるであろうことが、わかり切っているからでした。        *  私と、アヤ子の二人が、あのボートの上で、附添いの乳母夫妻や、センチョーサンや、ウンテンシュさん達を、波に浚われたまま、この小さな離れ島に漂れついてから、もう何年になりましょうか。この島は年中夏のようで、クリスマスもお正月も、よくわかりませぬが、もう十年ぐらい経っているように思います。  その時に、私たちが持っていたものは、一本のエンピツと、ナイフと、一冊のノートブックと、一個のムシメガネと、水を入れた三本のビール瓶と、小さな新約聖書が一冊と……それだけでした。  けれども、私たちは幸福でした。  この小さな、緑色に繁茂り栄えた島の中には、稀に居る大きな蟻のほかに、私たちを憂患す禽、獣、昆虫は一匹も居ませんでした。そうして、その時、十一歳であった私と、七ツになったばかりのアヤ子と二人のために、余るほどの豊饒な食物が、みちみちておりました。キュウカンチョウだの鸚鵡だの、絵でしか見たことのないゴクラク鳥だの、見たことも聞いたこともない華麗な蝶だのが居りました。おいしいヤシの実だの、パイナプルだの、バナナだの、赤と紫の大きな花だの、香気のいい草だの、又は、大きい、小さい鳥の卵だのが、一年中、どこかにありました。鳥や魚なぞは、棒切れでたたくと、何ほどでも取れました。  私たちは、そんなものを集めて来ると、ムシメガネで、天日を枯れ草に取って、流れ木に燃やしつけて、焼いて喰べました。  そのうちに島の東に在る岬と磐の間から、キレイな泉が潮の引いた時だけ湧いているのを見付けましたから、その近くの砂浜の岩の間に、壊れたボートで小舎を作って、柔らかい枯れ草を集めて、アヤ子と二人で寝られるようにしました。それから小舎のすぐ横の岩の横腹を、ボートの古釘で四角に掘って、小さな倉庫みたようなものを作りました。しまいには、外衣も裏衣も、雨や、風や、岩角に破られてしまって、二人ともホントのヤバン人のように裸体になってしまいましたが、それでも朝と晩には、キット二人で、あの神様の足※の崖に登って、聖書を読んで、お父様やお母様のためにお祈りをしました。  私たちは、それから、お父様とお母様にお手紙を書いて大切なビール瓶の中の一本に入れて、シッカリと樹脂で封じて、二人で何遍も何遍も接吻をしてから海の中に投げ込みました。そのビール瓶は、この島のまわりを環る、潮の流れに連れられて、ズンズンと海中遠く出て行って、二度とこの島に帰って来ませんでした。私たちはそれから、誰かが助けに来て下さる目標になるように、神様の足※の一番高い処へ、長い棒切れを樹てて、いつも何かしら、青い木の葉を吊しておくようにしました。  私たちは時々|争論をしました。けれどもすぐに和平をして、学校ゴツコや何かをするのでした。私はよくアヤ子を生徒にして、聖書の言葉や、字の書き方を教えてやりました。そうして二人とも、聖書を、神様とも、お父様とも、お母様とも、先生とも思って、ムシメガネや、ビール瓶よりもズット大切にして、岩の穴の一番高い棚の上に上げておきました。私たちは、ホントに幸福で、平安でした。この島は天国のようでした。        *  かような離れ島の中の、たった二人切りの幸福の中に、恐ろしい悪魔が忍び込んで来ようと、どうして思われましょう。  けれども、それは、ホントウに忍び込んで来たに違いないのでした。  それはいつからとも、わかりませんが、月日の経つのにつれて、アヤ子の肉体が、奇蹟のように美しく、麗沢に長って行くのが、アリアリと私の眼に見えて来ました。ある時は花の精のようにまぶしく、又、ある時は悪魔のようになやましく……そうして私はそれを見ていると、何故かわからずに思念が曚昧く、哀しくなって来るのでした。 「お兄さま…………」  とアヤ子が叫びながら、何の罪穢れもない瞳を輝かして、私の肩へ飛び付いて来るたんびに、私の胸が今までとはまるで違った気もちでワクワクするのが、わかって来ました。そうして、その一度一度|毎に、私の心は沈淪の患難に付されるかのように、畏懼れ、慄えるのでした。  けれども、そのうちにアヤ子の方も、いつとなく態度がかわって来ました。やはり私と同じように、今までとはまるで違った…………もっともっとなつかしい、涙にうるんだ眼で私を見るようになりました。そうして、それにつれて何となく、私の身体に触るのが恥かしいような、悲しいような気もちがするらしく見えて来ました。  二人はちっとも争論をしなくなりました。その代り、何となく憂容をして、時々ソッと嘆息をするようになりました。それは、二人切りでこの離れ島に居るのが、何ともいいようのないくらい、なやましく、嬉しく、淋しくなって来たからでした。そればかりでなく、お互いに顔を見合っているうちに、眼の前が見る見る死蔭のように暗くなって来ます。そうして神様のお啓示か、悪魔の戯弄かわからないままに、ドキンと、胸が轟くと一緒にハッと吾に帰るような事が、一日のうち何度となくあるようになりました。  二人は互いに、こうした二人の心をハッキリと知り合っていながら、神様の責罰を恐れて、口に出し得ずにいるのでした。万一、そんな事をし出かしたアトで、救いの舟が来たらどうしよう…………という心配に打たれていることが、何にも云わないまんまに、二人同志の心によくわかっているのでした。  けれども、或る静かに晴れ渡った午後の事、ウミガメの卵を焼いて食べたあとで、二人が砂原に足を投げ出して、はるかの海の上を辷って行く白い雲を見つめているうちにアヤ子はフイと、こんな事を云い出しました。 「ネエ。お兄様。あたし達二人のうち一人が、もし病気になって死んだら、あとは、どうしたらいいでしょうネエ」  そう云ううちアヤ子は、面を真赤にしてうつむきまして、涙をホロホロと焼け砂の上に落しながら、何ともいえない、悲しい笑い顔をして見せました。        *  その時に私が、どんな顔をしたか、私は知りませぬ。ただ死ぬ程息苦しくなって、張り裂けるほど胸が轟いて、唖のように何の返事もし得ないまま立ち上りますと、ソロソロとアヤ子から離れて行きました。そうしてあの神様の足※の上に来て、頭を掻き※り掻き※りひれ伏しました。 「ああ。天にまします神様よ。  アヤ子は何も知りませぬ。ですから、あんな事を私に云ったのです。どうぞ、あの処女を罰しないで下さい。そうして、いつまでもいつまでも清浄にお守り下さいませ。そうして私も…………。  ああ。けれども…………けれども…………。  ああ神様よ。私はどうしたら、いいのでしょう。どうしたらこの患難から救われるのでしょう。私が生きておりますのはアヤ子のためにこの上もない罪悪です。けれども私が死にましたならば、尚更深い、悲しみと、苦しみをアヤ子に与えることになります、ああ、どうしたらいいでしょう私は…………。  おお神様よ…………。  私の髪毛は砂にまみれ、私の腹は岩に押しつけられております。もし私の死にたいお願いが聖意にかないましたならば、只今すぐに私の生命を、燃ゆる閃電にお付し下さいませ。  ああ。隠微たるに鑒給まう神様よ。どうぞどうぞ聖名を崇めさせ給え。み休徴を地上にあらわし給え…………」  けれども神様は、何のお示しも、なさいませんでした。藍色の空には、白く光る雲が、糸のように流れているばかり…………崖の下には、真青く、真白く渦捲きどよめく波の間を、遊び戯れているフカの尻尾やヒレが、時々ヒラヒラと見えているだけです。  その青澄んだ、底無しの深淵を、いつまでもいつまでも見つめているうちに、私の目は、いつとなくグルグルと、眩暈めき初めました。思わずヨロヨロとよろめいて、漂い砕くる波の泡の中に落ち込みそうになりましたが、やっとの思いで崖の端に踏み止まりました。…………と思う間もなく私は崖の上の一番高い処まで一跳びに引き返しました。その絶頂に立っておりました棒切れと、その尖端に結びつけてあるヤシの枯れ葉を、一思いに引きたおして、眼の下はるかの淵に投げ込んでしまいました。 「もう大丈夫だ。こうしておけば、救いの船が来ても通り過ぎて行くだろう」  こう考えて、何かしらゲラゲラと嘲り笑いながら、残狼のように崖を馳け降りて、小舎の中へ馳け込みますと、詩篇の処を開いてあった聖書を取り上げて、ウミガメの卵を焼いた火の残りの上に載せ、上から枯れ草を投げかけて焔を吹き立てました。そうして声のある限り、アヤ子の名を呼びながら、砂浜の方へ馳け出して、そこいらを見まわしました…………が…………。  見るとアヤ子は、はるかに海の中に突き出ている岬の大磐の上に跪いて、大空を仰ぎながらお祈りをしているようです。        *  私は二足三足うしろへ、よろめきました。荒浪に取り捲かれた紫色の大磐の上に、夕日を受けて血のように輝いている処女の背中の神々しさ…………。  ズンズンと潮が高まって来て、膝の下の海藻を洗い漂わしているのも心付かずに、黄金色の滝浪を浴びながら一心に祈っている、その姿の崇高さ…………まぶしさ…………。  私は身体を石のように固ばらせながら、暫くの間、ボンヤリと眼をみはっておりました。けれども、そのうちにフイッと、そうしているアヤ子の決心がわかりますと、私はハッとして飛び上がりました。夢中になって馳け出して、貝殻ばかりの岩の上を、傷だらけになって辷りながら、岬の大磐の上に這い上りました。キチガイのように暴れ狂い、哭き喚ぶアヤ子を、両腕にシッカリと抱き抱えて、身体中血だらけになって、やっとの思いで、小舎の処へ帰って来ました。  けれども私たちの小舎は、もうそこにはありませんでした。聖書や枯れ草と一緒に、白い煙となって、青空のはるか向うに消え失せてしまっているのでした。        *  それから後の私たち二人は、肉体も霊魂も、ホントウの幽暗に逐い出されて、夜となく、昼となく哀哭み、切歯しなければならなくなりました。そうしてお互い相抱き、慰さめ、励まし、祈り、悲しみ合うことは愚か、同じ処に寝る事さえも出来ない気もちになってしまったのでした。  それは、おおかた、私が聖書を焼いた罰なのでしょう。  夜になると星の光りや、浪の音や、虫の声や、風の葉ずれや、木の実の落ちる音が、一ツ一ツに聖書の言葉を※やきながら、私たち二人を取り巻いて、一歩一歩と近づいて来るように思われるのでした。そうして身動き一つ出来ず、微睡むことも出来ないままに、離れ離れになって悶えている私たち二人の心を、窺視に来るかのように物怖ろしいのでした。  こうして長い長い夜が明けますと、今度は同じように長い長い昼が来ます。そうするとこの島の中に照る太陽も、唄う鸚鵡も、舞う極楽鳥も、玉虫も、蛾も、ヤシも、パイナプルも、花の色も、草の芳香も、海も、雲も、風も、虹も、みんなアヤ子の、まぶしい姿や、息苦しい肌の香とゴッチャになって、グルグルグルグルと渦巻き輝やきながら、四方八方から私を包み殺そうとして、襲いかかって来るように思われるのです。その中から、私とおんなじ苦しみに囚われているアヤ子の、なやましい瞳が、神様のような悲しみと悪魔のようなホホエミとを別々に籠めて、いつまでもいつまでも私を、ジイッと見つめているのです。        *  鉛筆が無くなりかけていますから、もうあまり長く書かれません。  私は、これだけの虐遇と迫害に会いながら、なおも神様の禁責を恐れている私たちのまごころを、この瓶に封じこめて、海に投げ込もうと思っているのです。  明日にも悪魔の誘惑に負けるような事がありませぬうちに…………。  せめて二人の肉体だけでも清浄でおりますうちに……。        *  ああ神様…………私たち二人は、こんな苛責に会いながら、病気一つせずに、日に増し丸々と肥って、康強に、美しく長って行くのです、この島の清らかな風と、水と、豊穣な食物と、美しい、楽しい、花と鳥とに護られて…………。  ああ。何という恐ろしい責め苦でしょう。この美しい、楽しい島はもうスッカリ地獄です。  神様、神様。あなたはなぜ私たち二人を、一思いに屠殺して下さらないのですか…………。 ――太郎記す……… ◇第三の瓶の内容  オ父サマ。オ母サマ。ボクタチ兄ダイハ、ナカヨク、タッシャニ、コノシマニ、クラシテイマス。ハヤク、タスケニ、キテクダサイ。 市川 太郎 イチカワ アヤコ  イヤア。失敬失敬。李発君というのは君かい。九大法文科の二年生……ウンウン。麻雀を密輸入して学資にしているんだってね。ウム。感心感心。当世の若い人間は、ソレ位の意気が無くちゃ駄目だよ。ウンウン。僕は名刺を持たないが……。ハハア。王君から聞いて知っているか。成る程成る程。どうぞよろしく……ナニ。日本語が拙いから許してくれ。ナアニ。よく解るよ。それ位出来れあ沢山だよ。……ヤ……ドッコイショ……と……ああ忙しかった。どうだい葉巻を一本……何だ喫らないのか。それじゃ僕だけ失敬する。  ちょうど上海を出る間際に王君の店から電話がかかって、君の事を頼んで来たからね。とりあえず僕の船室に案内するように命じておいたんだが……ドウかね。気に入ったかね僕の部屋は……尤も気に入らないたって、これより立派な部屋が無いんだから仕方がないがね。ハハハハ……この船は荷物船だから、サルーンなんて気の利いたものは無いんだ。つまり荷物がお客様なんだから、人間の方が虐待されるんだ。堂々たる海牛丸、二千五百|噸の機関長が、コンナ部屋に跼まっているんだから推して知るべしだろう。ハハハ……迷惑だろうが長崎に着くまで、僕の寝台に寝てくれ給え。ナアニ僕は滅多にこの部屋で寝ないんだ。機関室の隅ッコにモウ一つ仕事部屋があるからね。毛布も枕もそこに置いて在るんだ。君のは今持って来さすからね。書物は無いが雑誌の古いのなら在る。持って来させようか。  ウンウン。  実は早く君の様子を見に来ようと思ったけれども、水先案内の野郎が乗っているうちは、機関室の方が、忙しいのでね。おまけに今日の奴は知らない奴だったが、新米と見えて、矢鱈に小面倒な文句ばかり並べやがったもんだからね。ナアニ、ここいらの水先案内なら、こっちが教えてやりたい位なんだが、新米でも何でも、水先を乗せるのが規則なんだから仕方がない。やっと今さっき水蒸汽で引上げて行きやがった。君見たろう……ウン……。もうこっちのもんだ。エコノミカル・スピードでブラリブラリと長崎へ着いて、ダンブロの荷物をタタキ上げれあ、後は南洋まわりと相場がきまっている。こう排日が非道くちゃ、荷物一つ動かないからね。ナアニ。済まない事があるものか。コンナ船に乗ったら、ソンナ小面倒な気兼ねは一切御無用だよ。国際的なルンペン船だからね。金儲けなら支那軍に売渡す鉄砲でも積込むんだ。怖いのは南支那海の三角波だけだよ。ハハハハ……。ナニ? 船賃? そんなもなあ要らないよ。王君がそう云やあしなかったかい。ウン。云ったけど気の毒だ。馬鹿な。納めるんなら十や二十の端た金じゃ駄目だよ。勿体なくも麻雀の密輸入じゃないか。百や二百じゃ承知しないぜ……ナニ……それじゃ算盤に合わない。それ見ろ、ハッハッハ。僕の好意で乗せてってやるんだ。他ならぬ王君の頼みだからね。上陸してから鰒でも奢り給え。それで沢山だ。ハハハ。お礼には及ばないよ。  それよりもドウだね。一つ機関室を見に来ないか。君と話しながら仕事をしよう。何も話の種だ。ホントウのドン底の地獄生活というのは、コンナ襤褸船の機関室だってことを、世間ではあまり知らないだろう。船底一枚下は地獄とか何とか云うけど、地獄の上に浮いた地獄があるなんて事は、船乗り以外には誰も知らない筈だからね。尤も知られた日にはコチトラの首が百あっても足りないがね。ハハハ。何も怖いことはないよ。閻魔大王の僕が御案内するんだから……。  ナニ……この部屋かい。大丈夫だよ。この鍵を預けとくからキチンと掛けておき給え。鍵は君が持っていた方が便利だろう。部屋を出るたんびに締りをしとく事だ。船員なんてな泥棒みたいな奴ばかりだからね……その鞄は寝台の下にブチ込んでおき給え。ウン。鍵を掛けて封印して在るね。それなら大丈夫だ。中味の麻雀が船員に見付かると五月蠅からね。何とかカンとか云やがって、一杯飲ませなけあ納まらないんだ。  ……こっちへ来たまえ。外はモウ涼しいね。二百廿日も無事平穏か……サッキの小蒸汽の煙がまだ見えてるぜ。引潮時だもんだから港口で流されているんだ。君には見えない。成る程。その眼鏡は紫外線|除けかね。イヤに黒いじゃないか。そいつを除れば見えるだろう。……見えないかい。慣れないせいだよ。船乗りになると遠い処の方がハッキリ見えるんだからね。アハハ。ヨタじゃないよ。  一体君はどうして王君と識合いになったんだい。ドウセお楽しみ筋だったのだろう。ハハハ。ナニそうじゃない。両替をするつもりで王君のレストランへ這入った。ウム。あすこのビフテキは安くて美味いからね。国際的に評判がいいんだ。ああそうか。君は初めてだったのか。這入ってみて立派なのに驚いた。当り前だ。あれ位の店はマルセールあたりにもチョット無いよ。表口はお粗末だがね。それよりも綺麗な女が大勢居たろう。ウン。引っかけてみたかい。ハハハハ。引っかけてみれあよかったのに。昼間だって構うものか。高級船員が行く処だからね。地階に立派な設備が出来ているんだ。技巧なら上海一だって云うぜ。僕はあすこの常連なんだ。五六百両借りがあるがね。王君は大きいから千両位まで貸すよ。尤も女に馴染が出来なくちゃ駄目だがね。ハッハッ。チョット失敬して便所へ行って来る。君もつき合うか……。  ウン……そんな事は全く知らなかったのか。無理もないね。ウンウン、麻雀買いの手筋なら何でも知っている。……この頃は蘇州へ行って自分で指図をして日本人向きに彫らせる。……上海のはいけないのかい。フウン。彫りは派手だけれども牌の出来は蘇州の方がいい……フウン。支那人と日本人の好みが違うかね。僕はカラッキシ素人なんだが。フウン。あの団子みたいな模様と、鳥の恰好が、特に日本人は八釜しい。そんなものかねえ。成る程。……日本内地では麻雀賭博が流行り出したかね。そんで密輸入の上物が売れ出した。つまり日本の麻雀が本格になりかけているんだね。今に支那式のルールが復活する……そうかねえ。とにかく面白いもんらしいね。ウンウン。それで蘇州へ行って麻雀を買い込んだ。ウンウン。帰りに小銭が無くなったから切るつもりで、王君のレストランへ偶然に這入った。料理を一皿註文して珈琲を飲んでいたら……酒は駄目なのかい君あ……そいつは話せんねえ。ダイナジンて奴を一杯御馳走しようと思っていたんだが。ジンの中へダイナマイト……つまりニトログリセリンが割ってあるんだ。トテモいい心持ちに酔うからね。ケープタウンで作り方を教わったんだが。……ウンウン。そこで珈琲を飲んでいたら女が大勢タカって来た。フフン。君はナカナカシャンだからなあ。おまけに貴公子然としているからなあ。ハッハッ。御愛想じゃないよ。ウン。それでどうした。無理矢理に奥へ引っぱり込まれた。アハハハ。上玉と見られたな。そこへ王君が出て来て最高級の御挨拶をした。アッハッハッハ。コイツは大笑いだ。王公一代の傑作だろう。滅多にお客を見損なう男じゃないがなあ。それからどうした……。  それから女どもを遠慮してもらって、王君と差向いになって事情を打ち明けたというのか。ポケットを裏返して見せた。ハッハッ。そんな事だろうと思った。正直だなあ君あ。ウンと飲んだり喰ったりしてから打明ければよかったに……ブチ殺されるもんか。王君は却って御馳走をして帰すよ。脅喝に来た奴でも温柔しく抓み出すばかりだからね。だから評判がいいんだがね。ウンウン。それから王君が同情してこの船を教えてくれた。フ――ン。君の親孝行に同情して教えてくれた。重慶にお母さんを一人養っている……タッタそれだけの理由かい。本当の事を云ってみたまえ。隠したって駄目だよ。この次に王君に会えばわかるんだ。ナアニ、どこへも聞こえやしないよ。機械の音が八釜しいから……ナニイ……何だって……。  ハハハ。ナアル程。そこで王君は大学をやめて、レストランのボーイになれって君に勧めたア?……アッハッハこいつあイヨイヨ傑作だ。二階の婦人専門のサルーンに出れば、最低千円のチップは請合うと云うのか。いかにも読めたわい。王公一目で君のスタイルに参ったんだね。学生にしちゃスマート過ぎるからな。そこで都合よく奥に引っぱり込んだんだ。やっぱり王公は眼が高えや。ハハハハ。今度|上海へ来たら是非モウ一度寄ってくれって?……ナカナカ執念深いな。……ナニ……今のチップの千円問題は僕に云っちゃいけないって? ハハハ馬鹿にしてやがら。僕の俸給と桁違いだもんだからソンナ事を云うんだ。行き届いた男だが、しかし中華人一流の要らざる心配だよ。まさか僕が雇われに行けあしめえし。ハッハッハッハッ……。  サア来た。……ここが機関室だ。この垂直の鉄梯子を降りるんだ。油でヌラヌラしているから気を付け給え。落ちたらコッパ微塵だよ。ウンなかなか君は身が軽いね。運動をやっているんだね。スキーにダンスか。そいつあモダンだ。女が惚れる筈だ。オット危ない……。  こっちへ来たまえ。……聞えないかい。オイオイ。こっちへ来たまえったら。このベルトに触らないように気を付けたまえ。  これが僕の仕事部屋だ。この椅子に掛け給え。アットット……。濡れてたかい。イヤ失敬失敬。暗いからわからなかった。茶瓶か何かそこへ置きやがったな。オヤオヤ。お尻がビショビショになっちゃったね。アッハハ。茶粕が付いてらあ。仕方がない。この鉄椅子に掛け給え。そのうちに乾くだろう。……見たまえ。ちょうどマン中の汽鑵が真正面に見えるだろう。忙しくなるとこの部屋に来て仕事を睨むんだ。時化の時なんぞは一週間位寝ない事があるんだぜ。  オーイ。誰か来い。……聞こえないか……君はチョットその呼鈴を押してくれたまえ。……何だボン州か。ウン。コック部屋に行って珈琲と菓子を貰って来い。普通のじゃ駄目だぞ。船長が上海で買込んだ奴があるんだ。コック部屋に無けあ船長室に在る筈だ。そいつを掻っ払って来い。なぐられるもんか。愚図愚図吐かしたら俺が命令たと云え。船長には貸しがあるんだ。……行って来い……。  ……どうだい。機関室ってものは這入ってみると存外荒っぽいだろう。聞えるかい。僕の云う事が。きこえる……ウン……ボン州ってな綽名だよ。……仏蘭西語の挨拶かと思った?……アハハハ大笑いだ。あの垂直の鉄梯子を降りたら、ドンナ人間でも本名が無くなるんだ。地獄の一丁目だからね。みんな戒名で呼び合うのが習慣になっているんだ。銀行泥棒上りが銀州、強盗前科が腕公、女殺しがエテ公、凡クラがボン州……モウ暫くすると君だって戒名を附けられるかも知れない。黒眼鏡とか何とかね。ハッハッハ……ナアニ。みんなここへ来れあ年季を入れるんだよ。何でも白状しちまうんだ。娑婆へ出れあ寿命の無い奴ばかりだからね。首と釣り換えで働きますという意味で、綺麗サッパリと白状しちまうんだ。だから僕の事を閻魔様と云うんだ。がそんな奴でないと、イザとなった時にタタキまわしが利かないから妙だよ。……見たまえ。あれが最旧式の宮原式ボイラーなんだ。二三十年前に出来た骨董品だが、博物館あたりへ寄附しても相当喜ぶシロモノだよ。ハッハッ。ナアニ大丈夫だよ。爆発なんかしないよ。出来は古いがガッチリしているからね。安全弁があんなに白いスチームを吐いているだろう……ブーブーいってるのが聞えるかい。ウン……見えるけど聞えない……慣れないからだよ。  アッ……蓋を明けた。眩しいだろう。  汽鑵の蓋を明けたんだよ。まるで太陽だろう。アハハ。もうあんなに白熱しているんだからね。あれで千二三百度ぐらいのもんだろうよ。それでもあの中へ人間一人ブチ込んだら、五分間で灰も残らないよ。美味そうな臭いだけは残るがねハッハッハッ。  人間をブチ込んだ事があるかって……あるともさ。人間ばかりじゃない。品物だって何だって面倒臭いものはミンナ打ち込むんだ。この間なんぞは鉄砲を積んで呉淞に這入りかけたら、その間際で船員の中に、スパイが二人|混っている事を発見したから、文句なしにブチ込んでくれたよ。ナアニ途中で波に渫われたと云いやあソレッキリだからね。  ……ヤ……ちょうど茶が来た。一杯飲んで行き給え。序にモウすこしすると面白い事が初まるから見て行き給え、今にわかるよ。トテモ面白い。簡単なバクチなんだ。見れば解るよ。  ハハハ……心配しなくともいい。地獄の珈琲だって麻酔薬も何も入ってやしないよ。君を眠らして、麻雀の十箱やそこら頂戴したって仕様がなかろう。第一君を殺るつもりならワザワザこんな処まで引張り込みやしないよ。学生の癖に意気地が無いんだなあ君ゃ。ハハハハハ。まあ珈琲を一杯飲み給え。スマタラ製だが非常に芳香が高いんだ。度胸が据って僕の話が面白くなるだろう。コンナ世界も在るって事が解れば、将来キット参考になるよ。トニカク徹底しているんだからねえ機関室の地獄生活は……。  成る程なあ。君等にとっちゃ学校を卒業するのが目下の急務だろうよ。最早ジキ試験が始まる……故郷にはお母さんが待っているか。フウン。そうかそうか。まあシッカリ遣り給え。しかし試験の候のっていうけど、今の学校の試験なんか甘いもんだよ。僕が機関長になった時の体験を話したら身の毛が竦つだろうよ君等は……まあ聞き給え……モウ船室には用は無いだろう。ナニ、書物を読みたい。書物なんかは大概にしとくがいいね。学校で習った事なんか実際の役に立ちやしないよ。理窟通りに機械が動くもんなら機関長は要らない。学者の思う通りに世の中がなるものなら、ボルセビキの理論は一と通りで済むんだ。ナカナカ学者だろう。ハッハッ。  オイ。ボン州。チョット来い。モウ一パイ茶を入れて来い。今度は紅茶だ。俺のはウイスキーを割って来るんだぞ。それからその扉を閉めておけ。八釜しいから……。  どうだい。こうして扉を閉めとくと機械の音がウッスリしか聞えないだろう。扉が厚いからね。しかしコンナに軽い騒音でも、機械のどこかに故障があると、直ぐにこっちの頭にピインと来るんだよ。故障の個所までチャント解るから不思議だろう。ナアニ。永年の経験さ。この部屋で寝ていると夜中に何か知らんハッとして眼を醒ます。ハテ。何で眼を醒ましたのかと思って、ボンヤリしていると果せる哉だ。コンナ風に雑然聞えて来る騒音の中のドレか一つが起している。ズット奥の小さなピストンのバルブがおかしいな……とか何とか直ぐに気が付く。そんな小さな音に眼を醒ます筈はないと思うかも知れないが、不思議なもので、機械のジャズが順調に行っているうちはグッスリ眠っているが、すこし調子が変るとフッと眼が醒める。同じ船に長く乗っていると船の機械全体が、自分の神経みたいになってしまうんだね。船が黒潮に乗ると同時に、運転手がポッカリと眼を醒ますようなもんだ。  まだ驚く話があるんだ。  今君が見たあの大きな汽鑵ね。あの正面の電球の下に時計みたいなものが在って、指針が一本ブルブル震えていたろう。あれが汽鑵の圧力計なんだが、あの圧力計の前に立って、あの指針が、二百|封度なら二百|封度の目盛りの上に、ピッタリと静止しているのを見た一瞬間に、この指針はこれから上るか……下るかっていうことがピンと頭に来るんだ。静止している指針がだよ。そいつがピンと来る位の頭にならなくちゃ、一人前の機関長たあ云えないんだ。同時に圧力がコレ位しか上らないところを見ると石炭が悪いんだな……とか……どこかに故障があるんだなとかいう直覚が来る。向うの港に着くまでに石炭が足りるか足りないかといったような問題まで、同時にピーンと来るんだから、あの指針一本がナカナカ馬鹿に出来ないんだ。ソウ……第六感とでもいうかね。  無論そこまで来るには僕も苦労したもんだよ。まあ聞き給え……。  ……オーイ……這入れえ……。  ……ヤッ来た来た。魔法瓶に入れて来たな。ボン州の癖に気が利いているじゃねえか。このウイスキーは誰のだ。何だ船長のか。イヨイヨ気が利いているぞ貴様は……勿体なくもK、O、K、じゃねえか。ステキステキ。どうだいチョッピリ、ウイスキーを入れようか。ナニ。奈良漬に酔う? ナカナカ日本通だね君ゃ。それじゃカステラを遣り給え。上海から逆輸入の長崎名物だ。吾輩の話の聞き賃だ。ハハハハ……オイオイ……野郎。あとを閉めねえか。馬鹿野郎……。  イヤ。全く久し振りにコンナ話をするがね。吾輩が機関長の試験を受けたのが二十一の年だった。イヤア君も二十一かい。そいつあ奇遇だね。ハハハハ。ところでソイツが満点試験と来ているから凄いだろう。ドレ位凄いか話してみなくちゃ解るまいがね。  何しろこっちは、無けなしの貯金に借金の上塗りした何十円也を試験料としてブチ込んでいる一方に、船乗片手間の独学と来ているんだから絶体絶命だ。高等数学の本なんかテンデわからない奴を、片ッ端から一冊分丸諳記さ。そんな無茶をやった事があるかい。無いだろう。トテモお話にならないんだ。兵庫の下宿の天井から、壁から、襖から、障子から、電燈の笠まで、公式を書いた紙をベタベタ貼り散らして寝床の中から眼を開ければ、直ぐに眼に付くようにしている。諳記した奴は引っペガして、新しいのを貼るという寸法だ。下宿の婆さんが驚いて、コンナに沢山にまあ。これは及第のおまじないですかって聞くんだ。成る程おまじないに違いないね。丸めて嚥んでしまいたいくらい大切なおまじないだからね。ハハハ。  それから当日試験場へ行くと、初日は筆記試験ばかりだったが、コイツは兎も角も満点を取って帰ったと見えて、明日の試験に出ろという通知が夕方下宿に届いた。  ところで翌る朝、勢い込んで試験場に来てみると驚いたね。七十何人居た受験者が、タッタ二人しきゃ居ないんだ。何かの間違いじゃないか知らんと思って一寸キョロキョロしたもんだよ。ナアニ。みんな振り落されたのさ。ホントウの満点試験だからね。綴字が一字違っていてもペケなんだから凄いよ。七十何人、試験料丸取られさ。これがお上の仕事でなけあ、金箔付きのパクリだろう。  僕と一緒に居残った奴は、島根県の何とかいう三十ばかりの鬚男だったが、広い教室のズット向うとこっちに離れて製図を遣るんだ。……お互に顔を見交して泣き笑いみたいな顔をし合ったっけ。…ところが翌る日行ってみると、今度はそいつがノックアウトされている。つまり一番年の若い僕だけがタッタ一人残った訳だが、心細いの何のってお話にならない。冥途の入口に一人ポッチで来たような気もちだ。しかし試験官は、それでも遠慮なんかミジンもしない。一匹もパスさせなくたって構わないんだから平気なもんさ。口頭試験で百三十ばかりの問題を立て続けにオッ冠せて来る。むろん片ッ端から即答さ。時計を睨みながら二三十秒ぐらい待ってくれるだけで、一分と過ぎたらその場で落第の宣告だ。恐らく僕の顔には血の気が無かったろうと思う。それでもヤットの思いで汗を拭き拭き受け流して行くうちに試験官がパッタリと帳面を閉じたから、落第じゃないかと思ってハッとしていると、その顔を見ながら試験官の奴ニッコリしやがってね。イヤ、御苦労でした。成績は満点です。あちらの室で茶を飲みましょう。……と早口で云った時には、思わずポオーッと気が遠くなったね。しかし、それでも嬉しかったから尻尾を振り振り、浮き足でクッ付いて行くと、廊下を一曲りした処の空部屋に僕を連れ込んで、熱い渋茶を一パイ御馳走した。その序に室の中をグルリと見まわすと、試験官の奴モウ一度ニヤリと笑ったもんだ。 「この室に石炭が何|噸、詰まるでしょうかね」  と冗談みたいに吐かしおってね……しかも、その顔付きたるや、断じて冗談じゃないんだ。たしかにまだ試験の中らしい面構えをしてケツカルんだ。考えてみるとサッキ満点を宣告した時には、ただ御苦労と云っただけで、お芽出度うとは吐かさなかった。チョックラ油断させておいて、不意打ちにタタキ落そうという寸法なんだ。こんなタチの悪い試験に引っかかった事があるかね……恐らく無いだろう。  そう気が付いた刹那に僕はモウ一度気が遠くなりかけたね。そいつを我慢すべく熱い茶を一杯グッと嚥み込むと、破れカブレの糞度胸を据えたもんだ。 「そうですねえ。六十|噸も這入りますかね」  と冗談みたいに返事してやったら、試験官|奴、眼を丸くしやがって、 「ヘエ。そんなに這入りますかね」  と吐かしやがった。おまけに附け加えて、 「室の容積というものは見損ない易いものでね。誰でも初めて船に乗って、石炭を積むとなると、この見込みが巧く行かないので、下級船員から馬鹿にされる事になるのですが……ハハン……」  と腮を撫でおった。……ナアニ。親切でソンナ事を云うもんか。ドギマギさせようという策略に違いないんだ。……ヘエ。それじゃ五十|噸ぐらいですか……とか何とか、お付き合いにでも云おうもんなら……ハイ。待ってました。九十九点九分九厘で落第……と来るんだろう。土に噛じり付いても試験料をパクリ上げようという腹なんだからヒドイよ。そん時には流石の僕も、思わずグッと来てしまったね。何しろ若かったもんだから……篦棒めえ。どうでもなれという気になったもんだ。 「……ええ……しかし六十噸というのは試験の解答ですよ。天井までギッチリの勘定ですが、しかし実際をいうと、この問題は非常識ですね。本当にこの部屋に、それだけの石炭を詰め込んだら、壁と床が持たないでしょう。エヘヘヘヘヘ……」  と冷やかし笑いをして見せたら、試験官の奴、塩っぱい面をして睨み付けたと思うと、プリプリして出て行きおった。そこで僕も土俵際で落第したもんだと諦めて、その晩は久し振りに酒を呷ってグッスリ寝込んでいるうちに、いつの間にか夜が明けたらしい。下宿の婆さんがユスブリ起して「モウ九時だっせ。お手紙が来とりまっせ」と云うんだ。むろん落第の通知だろう。見たってドウなるもんか。勝手にしやがれと思い思い、何だか気になるから開けてみたら、豈計らんやだ。試験官の直筆だったが及第も及第。とりあえずお芽出度う存ずる。就ては目下、当港に停泊中の病院船、十字丸、三千二百噸の機関長の補充として御乗船願いたいが、御|意嚮は如何でしょうか。月給、百何十円。云々……という孫悟空みたいな話だ。そんな時に又、頭が又シイーンとしちゃったね。明治四十年頃の百両といったら大したもんだ。幅が利くにも何にもドエライ出世だ。おまけに若い機関長のレコード破りというのが評判で、アタリ八方、持てたの候のってお話にならなかったが、実をいうとコイツが悪かったんだね。若い時の苦労は買ってもしろと云う位だ。あんまり早くから立身したり、世間に持てたりするのは碌な事じゃあないんだ。お蔭でスッカリ身体をヤクザにした上に、今の十字丸に乗ってから一年目に、瀬戸内海で推進機を振り落した。船に乗る時には十分に機械を調べて受取ったつもりだったが、推進機までブン擲っていなかったのが運の尽きだった。尤も瀬戸内だから助かったもんだ。ケープ沖か何かだったら、南極へ持って行かれたかも知れない。  ……コイツがケチの付き初めで、それ以来僕の乗る船に碌な事はない。新式タービンのパリパリが、ビスケー湾の檜舞台でヘタバッたり、アラスカ沖の難航で、陸地が鼻の先に見えながら、石炭が足りなくなったりする。そんな時には石炭の代りに、メリケン粉を汽鑵にブチ込んで、人間も船体も真白にしてしまったものだがね。もちろんこっちの手落ちだった事は一度もないんだが、不思議に運が悪いんだ。とうとうコンナ瓦落船に乗って、骨董みたいなお汽鑵の番をするところまで落ちぶれて来た訳だがね。ハッハッ……しかし、お蔭で君達の喜びそうな冒険を、イクラ体験して来たか知れやしない。今サッキ話しかけた推進機の一件を、モウ一度|印度洋で蒸し返した時なんぞは、今思い出してもゾッとする目に会ったね。ちょうど欧洲大戦のショッ端で、青島から脱け出した三千六百噸の独逸巡洋艦エムデンが、印度近海を狼みたいに暴れまわっている時分のことだ。  大阪商船の濠洲通いで、三洋丸という快速船があった。七千噸ばかりの客船だったが、コイツが航路を切り変えて、一かバチかの欧羅巴行きを思い立ったもんだが、今のエムデンを怖がって行くものがないというので、とりあえず僕が器械の方を引受けて、新嘉坡まで来たのが忘れもしない、大正三年の九月の十五日……暑い盛りだ。あすこでポートサイドからマルセール直航の男船客ばかりを三百五十何人と上等の紅茶を積めるだけ積んだ訳だが、コイツが無事に地中海へ這入れば、むろん大儲けさ。欧羅巴全体が敵も味方も咽喉を鳴らして待っている極上飛切りの紅茶バッカリと、金ずくを通り越したお客バッカリ満載しているんだからね。紀州の蜜柑船どころの騒ぎじゃない。三井の遣る事は凄いよ……そこで聯合艦隊の無電を受けながら、勇敢に印度洋のマン中目がけて乗り出してみるとドウダイ。陸影を離れてから間もない三日目の、二十三日の朝早く、無電技手が腰を抜かしたまま船橋から転がり落ちて来た。……昨夜の真夜中にエムデンが突然、向う岸のマドラス沖に現われて、石油タンクの行列を砲撃した。エドワード砲台が泡を喰って、闇夜の大砲をブッ放したが、その時には最早エムデンは居なかった。三洋丸はそのまんまで行けば、そろそろエムデンの逃路にぶつかるかも知れない。気を付けろ……といったような無電が、ビーッ……ビ――ッと這入って来たと云うんだ。  イヤモウ……みんな青くなったの候のって……覚悟の前とか何とか、大きな事を云っていた船長が、日本人の癖にイの一番に慌て出して、全速力で新嘉坡へ引返すと云い出したもんだ。つまりエムデンの死に物狂いのスピードが、先ず二十七八|節で、三洋丸のギリギリ決着が二十三四|節だから、見付かったら最後、物が云えないという算盤を取ったんだろう。しかも、それ位の算盤なら何もわざわざ、印度洋のマン中まで出て来て弾くが必要はないのだ。忠兵衛さんじゃあるまいし。大阪を出た時からチャンと見当が付いている筈なんだが、要するに今の無電と一所に、新規|蒔き直しの臆病風が、船長の襟元からビービービーッと吹っ込んだんだね。  そいつを一等運転手が腕ずくで押し止めようとする。そいつを又、乗客の中に居た、愛蘭の海軍将校上りが感付いて、船中に宣伝して廻ったから堪まらない。碧眼玉をギョロ付かした乗客が、吾れも吾れもと船長室へ押しかけて、土気色になった船長を取巻いて、ドウスルドウスルと小突きまわす。一等運転手と事務長が、仲に這入って間誤間誤する。船長の名前は勘弁してくれだが、国辱にも何にもお話にならない。エムデン艦長といいコントラストが出来上った。……結局、そんな連中で、寄ってタカって、一か八かのコンニャク押問答をフン詰まらせたあげく、僕がその評議のマン中に呼び出される事になったもんだ。  ……今以上にスピードが出せるか出せないか。それによってスエズへ直航するかしないか……又は新嘉坡へ引返すにしても、荷物を棄てるか、棄てないかを決定する……。  という問題を持ちかけて来たから、僕は占めたと思ったね。ここいらで一番、身代を作ってくれようかな……序に毛唐の胆っ玉をデングリ返してやるか……という気になって、ニッコリと一つ笑って見せたもんだ。 「お前さん方は運のいい船に乗り合わせたもんだ。一万|磅呉れるなら、速力を今よりも五|節だけ殖やしてやろう。むろん荷物は今のマンマで結構だ。モウ五|節速くなったら、いくらエムデンでも追付かないだろう……しかし物には用心という事がある。万一お前さん方が、五|節でもまだ足りないと思う場合にブツカルような事があったら、ソレ以上一|節毎に、一万|磅ずつ、奮発してもらいたい。それでも足りなけあ紅茶を棄てる事だ。全速力三十一|節まで請合う。それでも追付かなけあ諸君が海へ飛び込むだけの事た」  とチョッピリ威嚇してやったもんだが、毛唐の物分りの早いのには驚いたね。チョット別室で相談したと思う間もなく、シャンとした奴が五六人引返して来て、二千|磅の札束を僕の前に突き出した。むろんアトの八千|磅はポートサイドへ着いてから渡すという、立派な証文附きだったが、流石の僕もソン時には、チョット頭が下がったよ。何しろ大きな銀行が、ポケットの中でゴロゴロしていようという連中だからね。助かりたいのが一パイだったのだろう。船長や運転手までホッとしたような顔をしていたっけが、可笑しかったよソレア。何はともあれエムデン様々々々と拝みたくなったね。  ……というのはコンナ訳だ。  実をいうと三洋丸ぐらいの機械を持っていれあ、速力を五|節増すくらいの事は屁の河童なんだ。新しい機械の力はかなり内輪に見積ってあるもんだからね。……と云ったって、むろん船長や運転手なんかに出来る芸当じゃない。いわば僕一人の専売特許かも知れないがね。ずっと前、南支那海で海賊船がノサバッた時に、万一の場合を慮って、何度も何度も秘密で研究して、手加減をチャント呑込んでいたんだから訳はない。僕は機関室へ帰ると直ぐに、汽鑵の安全弁の弾条の間へ、鉄の切っ端を二三本コッソリと突込んで、赤い舌をペロリと出したものだ。  タッタそれだけで一万|磅の仕事になった訳だが、何を隠そうコイツは立派な条令違反なんだ。発見かったら最後、機関長の免状を取上げられるどころじゃない。ドエライ罰金を喰わせられた上に、懲役にブチ込まれる事になるんだから、ソレ位のねうちはあるだろう。況んや何百人の生命と釣りかえの問題だからね。  しかもタッタそれだけの手加減で、汽鑵の圧力がグングンせり上って、圧力計の針がギリギリ一パイのところまで逆立ちしてしまった。同時に推進機の廻転がブルンブルン高まる。速力が出たどころの騒ぎじゃない。素人が見たら倍ぐらい早くなったように思える。両舷を洗う浪の音がゴオオ……ッ……ゴオオオ――オオッと物凄く高まったもんだから、デッキに立っていた連中はスッカリ安心してしまったらしいね。今までの心配疲れも出て来たんだろう。一人一人に船室へ帰ってグーグー寝てしまった様子だ。そこで機械と睨めっくらをしていた僕も、この調子なら大丈夫と思って、椅子に腰をかけたままウトウトしていた……までは良かったが……アトが少々面白くなかった。  その翌る朝のまだ薄暗い中の事だ。ポートサイドで札ビラを切っている夢か何か見ている最中に、今の推進機の中軸になっている、一番デッカイ長い円棒が、中途からポッキリと折れたもんだ。急にスピードを掛けた馬力が、イの一番に円棒へコタえたんだね。  アッハッハッハッハッ……そん時には流石の吾輩も仰天したよ。折れると同時にキチガイみたいに廻転し出した機械の震動が、白河夜船のドン底まで響き渡ったもんだから、ウンもスンもあったもんじゃない。てっきりエムデンに遣られてゴースタンか何か掛けたものと、船長初め思い込んだらしいんだね。アッという間に船の中が、ワンワンワンワンと蜂の巣を突ッついたような騒ぎになった。船員も乗客も一斉にデッキを目がけて飛び出して来た。御丁寧な奴は卒倒ったという話だが……しかしこっちは眼を眩わすどころの騒ぎじゃない。ともかくも機械の運転を休止して、予備のシャフトを入れ換える事だ。  そうすると又、大変だ。この沖の只中で船を止めておくのは、エムデンの目標を晒しておくようなものだというので、乗客が血眼になって騒ぎ出した。船長はもとより運転手までが、七面鳥みたいに気を揉み初めたものだから、イヨイヨもって手が着けられなくなった。一方に船の方は呑気なもんだ。そんな騒ぎを載せたまんま、エムデンの居そうな方向へブラリブラリと漂流し始めた。二三百|尋もある海で碇なんか利きやしないからね。通りかかりの船なんか一艘だって見付かりっこない。SOSを打ってみても聯合艦隊が相手にしてくれない……というのだから、その騒動たるや推して知るべしだろう。  ……ところが又、生憎なことに、その円棒の入れ換えが、キッカリ一週間かかったもんだ。つまりその間じゅう、全然、機械の運転を休止して、行きなり放題に流れ廻わっていた訳だ。  ……何故……何故ったってマア考えてみたまえ。あの直径二|呎何|吋、全長二百何十|呎という、大一番の鋼鉄の円棒だ。重さなんかドレ位あるか、考えたってわかるもんじゃない。実際、傍へ寄ってみたまえ。これが人間の作ったものかと思うと、物が云えなくなる位ステキなもんだぜ。そいつを索条や鎖でジワジワと釣り上げるだけでも、チョットやソットの仕事じゃない。おまけにあの大揺れの中を、二日がかりで荷物を積み換えて、ヤット少しばかりお尻を持ち上げさした船のスクリュウの穴の中へ、ソーッと押し込もうというのだから、無理な註文だという事は最初からわかり切っているだろう。船渠の中で遣っても相当、骨の折れる仕事を、沖の只中で流されながら遣ろうというのだからね。……のみならず今も云う通り、七八千|噸の屋台を世界の涯まで押しまわろうという鋼鉄の丸太ン棒だ。ピカピカ磨き上げた上に油でヌラヌラしている奴だから、手がかりなんか全然無いんだ。ワイヤとチエンで、どんなに緊り縛り付けといたって、一旦辷り出したとなれあ、人間の力で止める事が出来ない。一|分辷ったら一|寸……一寸辷ったら一尺といった調子で、アトは辷り放題の、惰力の附き放題だ。遠慮も会釈もあったもんじゃない。ズラズラズラズラッと辷り出したが最後の助。鉄の板でも何でもボール紙みたいに突き破って、船の外へ頭を出すにきまっている。そのまま、ズルズルズッポリと外へ抜け出してしまったら、ソレッキリの千秋楽だ。取り返しが付かぬどころの騒ぎじゃない。飛び出しがけの置土産に巨大な穴でもコジ明けられた日には、本家本元の船体が助からない。シャフトのアトからブクブクブクと来るんだ。……ハッハッどうだい。わかるかね。シャフトの素晴らしさが。ウン。わかるだろう。コンナ篦棒な苦心した機関長はタントいないだろうと思うがね。  ところが世の中は御方便なものでね。険呑な仕事なら、自慢じゃないが、慣れっこになっている吾輩だ。尤も吾輩が乗ったからシャフトが折れたのかも知れないがね、ハッハッ。前以て、そんな間違いがないように、二重三重に念を入れて、不眠不休で仕事をしたから、ヤット一週間目に蒸汽を入れるところまで漕ぎ付けたんだが、その間の騒動ったらなかったね。一万|磅なんか無論立消えさ。糞でも喰らえという気で、押し切るには押し切ったが、実のところ寿命が縮まる思いをしたね。……乗客の方は無論の事さ。その時分に印度洋のマン中で、一週間も漂流するなんて事を、ウッカリ最初から云い出そうもんなら、気の早い奴は身投げぐらい、しかねないんだ。毛唐なんて存外、気の小さいもんだからね。すぐに思い詰める奴が出て来るんだ。その証拠に、明日明日で云い抜けながら仕事をして行くうちに、三日ばかり経ったら乗客が、一人も寝なくなってしまった。みんな神経衰弱にかかっちゃったらしいんだ。来る日も来る日もエムデンの目標になって浮いているんだから、考えて見れあ無理もないさ。こっちも無論エムデンが怖くないことはなかったが、怖いったって今更ドウにも仕様がない。タッタ一本しか無い予備シャフトを無駄にしたらそれこそホントウに運の尽きだからな。  そんな訳で、最初から腹を定めて仕事をしたお蔭で、ヤット船が動き出すには動き出したが、今度はモウ速力を出さない。八千|磅の証文をタタキ返して、安全弁の鉄片を引っこ抜いてしまった。すると又、そのうちに、乗客の中でも一番航海通の海軍将校上りが……サッキ話した慌て者さ……そいつが手ヒドイ神経衰弱に引っかかってしまった。機関長を殺せとか何とか喚めきやがって、ピストルを振りまわすので、トテモ物騒で寄り付けない。……とか何とか事務長が文句を云いに来たから、僕は眼の球の飛び出るほど怒鳴り付けてやった。 「……訳はない。そいつを機関室へ連れて来い。汽鑵へブチ込んでくれるから……いくらか正気付くだろう」  と云ってやったら事務長の奴、驚いて逃げて行ったっけ。ハッハッハッハッ……。  オーイ。這入れえ。オイオイ。這入れえ……。  何だ。ボン州か。何の用だ。ナニイ。チットモ聞えない。こっちへ這入れ。そうしてその扉を閉めろ……ちっとも聞えない。  どうしたんだ。……ウンウン……検査が済んだのか。恐ろしく恐ろしく手間取ったじゃないか。ウンウン真鍮張りのトランクの中に麻雀八|筥か……牌の中味は全部|刳抜いて綿ぐるみの宝石か……古い手だな……。  オットオット。待ち給え李君……今頃ピストル何か出したって間に合わないよ。君の背後の寝台の下に居る奴がスイッチを切ると、今君が腰をかけている鉄の床几に、千五百ボルトの電流が掛かるんだ。そのために君のお尻を濡らしておいたんだが、気が付かなかったかい。ハハハ……。  先刻から冗く説明しているじゃないか。あの垂直の鉄梯子を降りたら運の尽きだと……ハハハ。解ったかい。わかったらモウ一度腰を卸し給え。大丈夫だよ。まだ電流は来ていない。君を黒焦げにしちゃっちゃ、元も子もなくなるからね。ね。解ったろう。  君はこの船を普通の船と見て乗った訳じゃなかろう。最初から秘密があると睨んで虎穴に入ったんだろう。序にこの船の秘密を看破ってやれという気になってここまで降りて来たのは、いい度胸だったかも知れないが、そいつがドウモ感心しなかったね。  ナニ。あの宝石は模造品だって? ハハハ。そうかも知れないが模造品で結構だよ。頂戴する分には差支えなかろう。ナニ、皆|呉れるから生命だけは助けてくれか。ハハハハ……それは時と場合に依っては助けてやらない事もないが、それじゃ王君に済まない事になるんだ。王君からの電話に依ると君は目下|北平でヨボヨボしている白系露人の頭領、ホルワット将軍の秘書役だったが、日本の田中内閣が潰れてから、同将軍を支持する国が無くなったので見切りを付けて、共産軍の方へ寝返りを打ったサイ・メイ・ロン君に相違ないというんだ。それから君はツイこの頃になってG・P・Uの遊離細胞となって、上海に流れ込んで来ると間もなく、最近上海で国際スパイ兼、排日団体の首領として売り出している、青紅嬢の一|乾児となったもので、Rの四号というのはヤッパリ君の事らしいという王君の報告だがね。  ……ところでそのRの四号君が、ドレ位の腕前を持っているかということは、今云う通り経歴がヤヤコシイからサッパリ判然っていないんだが、とにかく一当り当って焦点を合わせてくれ、トランクの中味もまだ突止めていないが、近いうちに日支関係が緊張するのを見越して、上海の巨商|黄鶴号から、長崎の支店へ送るべく青紅嬢に委託された貴重品らしいという話だったがね。ハハハ。王君はナカナカ眼が高いよ。  ……ナニ……王君の正体は何だって聞くのか。……フフフ……それを聞いてドウするんだい。王君の親友が吾輩なんだから、大抵想像が付くだろう。序に吾輩はこの船の機関長でも何でもない。だから最前から饒舌り続けた経験談なんかは、ミンナ受け売りのゴッタ雑炊だ。トランクの中味がわかるまで君を釣っとくためのヨタだった……と云ったら、尚の事、焦点がハッキリしやしないか。ハッハッハッ……ナニ……日本のスパイ船……僕が参謀将校……ウフウフ。当らずと雖も遠からずと云っておくかね。  ……フーン。何だって、僕に秘密の相談がある? 何だ。云って見たまえ。ナニイ。聞いてる者が居ちゃ話せない。ウン。よしよし……。オイ。ボン州。こいつのオモチャを取り上げてくれ。モウ外に何も持っていないな。万年筆と名刺だけか。よしよし。それだけ残しとけ。後で書かせる事があるかも知れないから……それから手前等はこの室を出て、扉をピッタリと閉めておけ。用があったらベルを押すから……ナアニ。俺の事は心配するな。この坊ちゃんは話がよくわかっていらっしゃるんだからな……。  サア。誰も居ない。鍵穴まで閉がっているんだ。その秘密の相談というのを聞こうじゃないか。何だ何だ。何だって服を脱ぐんだ。ハハア。裏に縫い込んだな。G・P・Uの指令か。フウン。暗号だな。ウム。とうとう白状したね。日本の参謀本部が喜ぶだろう。青紅嬢が日本の諜報勤務を馬鹿にし過ぎたから君がコンナ眼に合うんだよ。  ……何だ。まだ着物を脱ぐのかい。まだ何か縫い込んであるのかい……アッ……。君は婦人ですな……。  イヤッ……これあどうも……最前から平気で色眼鏡を外したり、僕と一緒に男便所へ入ったりされるから真逆と思っておりましたが……ハハア……貴女がサイ・メイ・ロン君の青紅嬢で、同時にRの四号君。ウムムム。チットも知らなかった。イヤもう解りました解りました。ズボンは脱がなくともいいです。わかっております……アッ……。  ……ま……待った待った。待って下さい。ここじゃ困ります。危険です危険です。実際危険なんです。ま……ま……まあ着物を着て下さい。発見ると都合がわるい……早く服装を直して下さい。そうそう。それからの御相談です。そうそう……イヤ。Rの四号君が貴女だと解れば、一番喜ぶのは日本の参謀本部でしょう。G・P・Uの指令系統がわからなくて困っているらしいんですからね。貴女に敬意を表さして下さい。そうして一つ僕と握手して下さい。これでも理解は早いつもりです。ヘヘヘ。そうですそうです。これでも金儲けのために働いているコスモポリタンですからね。世界中が独裁政治と共産政治の二つに別れる……ドチラも金が儲からないとあれあコスモポリタンになった方が便利ですからね。世界中のインテリはみんな一種のコスモポリタン式エゴイストですからね。そうですそうです……貴女と握手すれば随分大きな金儲が出来ます。  済みませんがモウ一度腰をかけて下さい。ナアニ。外に聞えるもんですか。外の雑音の方が高いのですから……電流が来ているなんて云ったのは嘘の皮です。寝台の下には誰も居りません。御心配なら僕の椅子を取り換えて上げましょう。御覧なさい。コードも何も付いていないでしょう。ハハハ……。……いいですか……耳を貸して下さい。とりあえずここで必要な事だけ話しておきますから。いいですか……この船の正体は最早お察しでしょう。日本の参謀本部の無電一本でどこへでも行く船なんです。第一長崎へなんか行きやしません。嘘だと思われるならば甲板へ上って、羅針盤を覗いて御覧なさい。チャンと大連行きのコースを取っておりますから。実は大連からツイ今さっき無線電信が這入りましたのでね……この珈琲茶碗の内側に電文が暗号で書いてあります。この通り飲み残りを傾けると同時に出て来るでしょう。……あっちで又、似寄りの仕事があるのです。やっぱり王君のような人間が網を張っておりますからね。……そればかりじゃない。貴女が専門家ならすぐに気が付くでしょう。この船がタッタ今出しかけている速力に……二十一|節一パイに出しかけているところですからね。  ……ね。貴女と僕の立場が容易でない事がわかったでしょう。国事探偵としての貴女と僕の地位は、大将と兵卒ぐらい違うのですが、ここ暫くの間は僕に任せて下さらないと困りますよ。いいですか。貴女は依然として遊離細胞のR四号君ですよ。そのつもりで何でも僕の云うなりになって下さらないと……そうそう……それじゃいいですね。  とりあえず甲板の部屋へ帰りましょうね。あそこでユックリ御相談しましょう。ナアニ。この船の中では船長以下が僕の命令通りに動きますから、心配は要りません。問題は大連に着いてからです。大連から清津へ抜けて、あすこから浦塩へ抜ける途がありますから……露西亜語ならお手のものでしょう……ハラショ……済みませんがそのベルをモウ一度押して下さい。いくつでもよろしい。デッキの部屋へ二人分の寝床を支度させましょう。ヘヘヘ……オイ。ボン州、銀州、エテ公。チョット来い。用がある……ウン。扉を閉めてこっちへ這入れ……。こいつを押さえろッ……その万年筆を取上げろッ……毒|瓦斯らしいから……。  アハハ。どうです。身動きが出来ないでしょう。僕の部下は素早いでしょう。ハハハ。お断りしておきますが、今まで云った事はみんな嘘です。この船は国際的ルンペン船でもなけあ、日本の諜報船でも何でもない。貴女はまだ御存じないでしょうが、日本と支那の間を、荷物船に化て往復しているG・P・Uの海上本部K・G・M号です。そうして僕はこの船の船長ですよ。わかりましたか。ハハハ。……貴女がG・P・Uを裏切って、日本に隠れようとしていることを看破した王君が、取りあえず僕に引渡したんですが、お気の毒ながら……ナニ……僕の国籍? 名前……ヘヘヘ。今は日本語を使っているから日本人ですが、浦塩へ這入れば露西亜人で通りましょう。こいつ等は皆日本語のわかる朝鮮人ですが、国籍を持っている奴なんか一匹もこの船に居ないんですよ。……まあ……そんな事はどうでもよろしい。……ナニ……僕の日本語が巧妙過ぎる?……大きなお世話だ。お前さんの露西亜語ぐらいのもんさ。東京の寄席には漫談をやっている露西亜人が居るんだぜ。……ニチエウオ……オットその万年筆はソーッとその棚の上に置いとけ。落ちたら大変だぞ……そいつが恐ろしかったから呼んだんだ。序に着物を引っ剥いでくれい。ナイフで切り裂いても構わない。そうだそうだ……。  ハハハ……どうだ、驚いたか。女だろう。いい肉付きだ。  ナアニ……可哀相も糞もあるもんか。スッカリ引っ剥がしてしまえ。着物はこの寝台の上に並べろ。靴も……ズロースも……俺が後で検査してやるから。まだ別に日本内地のG・P・Uの名簿と暗号の鍵を隠して在る筈だからな。コイツ奴、日本の参謀本部に売り付ける了簡で持って来やがったんだ。危ねえの何のって……。  オット。痛い目を見せなくともいいんだ。女スパイには経験があるんだ。これ位の女になるとモウこの上に泥を吐く気づかいはないんだ。それよりも身体中をスッカリ調べろ。喰い付かれるなよ。誰か片手で頭の毛を掴んでろ。それからスパナか何か持って来て口をコジ開けるんだ。開けなけあそのナイフを噛ませて見ろ。強情な女だな……そうそう。金歯かアマルガムがあったらペンチで引っこ抜くんだ……血だらけで見えないか。懐中電燈を出せ。俺が見てやる……ウム。みんな綺麗な歯だ……よしよし……今度は鼻の穴だ……イイカ。唇をシッカリ抓んでろ。唾液でも吐きやがると穢いからな……ちょっとこの電燈を持っててくれ。動かすんじゃねえぞ。反射鏡を使うんだから……ウム。何も無いと……耳の穴はドウダ。ウム。よしよし。チャント掃除してやがる。学生らしくもなかったな。ハッハッ。髪の毛の中はドウダ。何も無いか。よしよし。それでよしと……。  そんならモウこの剥身に用は無いな。ハラショ。貴様達に呉れてやるから、そっちへ持って行って片付けろ……ナニ……。  何だ何だ……モウ一つ云う事がある。云ってみろ。ハハア……貴方がたを疑って済まなかった。G・P・Uを裏切ったのじゃない。裏切った形にして東京の×××大使館へ重大な密書を運ぶんだ……成る程……密書の内容は?……ウム。上海の排日で……上海の排日で……それがどうした……オイ……シッカリしろ……サ……ブランデーを飲ましてやる……シッカリしろ。上海の排日がどうした……ウム。上海の排日で、世界大戦の導火線を作る見込みが充分に付いた……×××は他の国と同盟せずにキャスチングボートを握ってくれ。……御要求の利権を承認する旨、本国へ取次いでくれ……何だ。それあ南京政府の密書か……そうじゃない。蒋介石の仕事か、フフウ、そいつあ問題が大きいぞ。……本文は万年筆の鞘に塗り込んである。これか……ナアル程。エボナイトじゃないわい。パラフィン塗りの紙細工か。ウマク細工したもんだ。……ウン。これが密書か。有難い有難い。コイツはドエライ金になるぞ。尤も若槻内閣へ売っちゃドッチミチ損だが……。ウム。ヤット本音を吐きやがった。……オイ姐さん。この船を密輸入目当ての海賊船たあ思わなかったかい。それよりもこの王さんの顔をモウ見忘れたのかい。チットばかり細工はしているが、あんまり見識り甲斐がなさ過ぎるじゃないか。眼付きを見ただけでも日本人とわかりそうなもんだが……アハハハ。姐さんにも似合わない。K・G・Mが海牛丸の洒落と気付かなかったばっかりにスッカリ底をハタイちゃったね。フフフ……。  ああくたぶれた。焦点が合わないので恐ろしく手間を喰わせやがった。女はドウモ苦手だ……ハハン……。モウいいから片付けちまえ。ホラッ……喰い付かれるなとタッタ今云ったじゃないか。見ろ……。  ……オイオイ。扉を開け放して行く奴があるか。馬鹿野郎。ハッハッ。アトは汽鑵へブチ込むんだぞ……ハッハッハッハッハッハッ……。  昭和二年の二月中旬のこと……S岳の絶頂の岩山が二三日灰色の雲に覆われているうちに、麓の村々へ白いものがチラチラし始めたと思うと、近年珍らしい大雪になった。  その麓のS岳村から五六町離れた山裾に、この界隈での物持と云われている藤沢病院が建っていた。田舎には珍らしい北欧型のスレート屋根を、古風な破風造りの母屋の甍と交錯さして、日が暮れても、ハッキリとした輪廓を、雪の中に描き現わしていたが、やがて、その玄関の左右から明るいのと、暗いのと、二いろの電燈が輝き出した。  向って右側の明るい窓は、この病院の薬局で、二段重ねの薬戸棚に囲まれた中央の調合台の前には、この家の養女として育って来た品夫が、白い看護婦服を着て、キチンと腰をかけていた。彼女の前のセピア色の平面には、きょう出された処方箋や、薬品の註文の写しや、新薬のビラの綴じ込みや、カード式の診断簿等というものが、色々の文房具や、薬品などと一緒に一パイに取り散らしてあった。  彼女の皮膚は厚化粧をしているかのように白かった。その頬と唇は臙脂をさしたかのように紅く、その睫と眉は植えたもののように濃く長かった。髪毛も同様に、仮髪かと思われるくらい豊かに青々としているのを、眥が釣り上がるほど引き詰めて、長い襟足の附け根のところに大きく無造作に渦巻かせていた。そうして、しなやかな身体を机に凭たせかけながら、切れ目の長い一重瞼を伏せて、黒澄んだ瞳を隙間もなく書類の上に走らせるのであったが、その表情は、ある時は十二三の小娘のように無邪気に、又、ある瞬間は二十四五の年増女のようにマセて見えた。又ある時は西洋の名画に在る聖母のように気高く……かと思うと、その次の刹那には芝居の毒婦のように妖艶にも……。  彼女はホントウに忙しいのであった。  近いうちに彼女と式を挙げる筈になっている藤沢家の養子で、前院長の甥に当る健策という医学士は、昨年の暮に、養父の玄洋氏が急性肺炎で死亡すると間もなく、大学の研究を中止して帰って来たのであったが、なかなかの元気者で、盛んに広告をして患者を殖やす上に、何から何まで大学式のキチョウメンな遣り方をするので、その忙しさといったら無かった。その中でも薬局と会計の仕事だけは、他人に任せない家風だったので、前の院長の時から引き続いて、品夫がタッタ一人で引き受けているのであったが、田舎の女学校出の彼女にとっては、独逸語の処方箋を読み分ける事からして容易ならぬ骨折りで、寧ろ超人間的の仕事といってもいい位であった。  しかし、そのうちに彼女はヤット仕事を終った。新薬の広告ビラを板の上に綴じ付けて、会計簿の上にキチンと置くと、ホッと溜息をしながら眼をあげて、正面の薬戸棚の間に懸かっている大きなボンボン時計を見た。その瞬間に時計は、彼女のこの上もない親切な伴侶ででもあるかのように、十一時の第一点を打ち出した。  その音が鳴りおわるまで彼女は、机の上にあらわな両腕を投げ出して、ウットリと眼を据えていた。唇をすこし開いたまま……そうして時計の音が一つ一つに室の中を渦巻いて、又、もとの真鍮の振り子の蔭に消え込んでしまうと、彼女は頭を使い切ってしまった人のように、両手を顔に当ててグッタリとなってしまった。  けれども、それはホンの一分か二分の間であった。……どこか隔たった室で話しているらしい男の声が、廊下に面した扉の間からホソボソと沁み込んで来るうちに……  ……品夫……  ……復讐……  ……という二つの言葉が偶然のように相前後してハッキリと響いて来ると、彼女はパッと顔を上げた。アヤツリ人形のように真正面を見据えて、何ともいえない怯えた表情をしながら、全身をヒッソリと硬ばらせたようであったが、やがて大急ぎで足下の反射ストーブを消して、頭の上にゆらめく百|燭光のスイッチを注意深くひねると、真暗になった薬戸棚の間を音もなく廊下に辷り出た。やはり真暗な玄関を隔てた向側に在る、患者控室の扉に近づいて、ソット鍵穴に眼を当てた。  患者控室は十畳ばかりのリノリウム張りであった。そのまん中には、薄暗い十燭の電燈がブラ下がっていたが、その下に据えられた大火鉢に近く、二人の男が長椅子を引き寄せてさし向いになりながら股火をしているのであった。  扉に背を向けているのは若い院長の健策で、糊の利いた診察服の前をはだけて、質素な黒|羅紗のチョッキと、ズボンを露わしている。背丈はあまり高くないが、その胸高に組んだ逞ましい腕や、怒った肩や、モシャモシャした頭や、健康そのもののように赤光りする顔つきは、まだ純然たる書生|型で、院長らしい気取った態度は微塵もない。ウッカリすると柔道かボートの現役選手に見られそうな風采である。  これに反して向い合った男は、蒼黒く肥った、背の高い、堂々たる風采のイガ栗頭であった。四十代に見える、鼻すじの通った貴族的な顔に、ロイド式の大きな黒眼鏡をかけて、上等の駱駝の襯衣を二枚重ねた上から、青縞の八反の褞袍を着ているが、首のまわりにクッキリと白くカラのあとが残っているのが何となく意気に見える。……もう久しく……正月の初め頃から、この病院の特等室に寝起きしている、黒木繁という患者で、元来欧洲航路のカーゴボートの一等運転手であったのが肺尖を患った揚句、この病院の新聞広告を見て静養しに来たものだそうである。東京育ちと名乗るだけに、金づかいが綺麗なばかりでなく、物ごしが上品で、見聞が広いために、いつとなく若い院長と懇意になって、無二の話相手にされているのであった。  二人の間にプープーと湯気を吹いているアルミの大薬鑵や、外の雪をチラチラと透かしながら一面に水滴をしたたらしている硝子窓は、二人が長い間話し込んでいる事を証明していた。しかも、その話の興味はかなりに高潮しているらしく、健策は長椅子に背を凭たせて、冷然と腕を組んだまま……又、黒木はその黒眼鏡をかけた魚のように無表情な顔を、火鉢の上にさし出したまま、双方睨み合いの姿で、緊張した沈黙に陥っているのであったが、やがて、黒木が固く結んでいた唇を開くと、相手の顔を見詰めたまま、長い溜息を一つした。そうしてポッツリと独言のように、 「……復讐……」  と云った。すると健策は、その言葉を待ちかねていたかのように大きく、一ツうなずいた……が、間もなく何かしらパッと赤面しながら微苦笑を浮かべた。 「……そうなんです……品夫は親の讐敵を討ちたいから、今|暫く結婚を延期してくれと云うのです。……あんまり馬鹿馬鹿しい云い草なので、実は僕も面喰っているのですがね……ハハハハハ」  黒木はしかし笑わなかった。なおも健策の顔を凝視しながら、躊躇しいしい問うた。 「……ヘエ……しかし、それには何か深い理由がおありになるでしょう?」 「ええ……それは、あるといえば在るようなものです。貴方のように世間を広く渡っておられる方に、その理由というのを聞いて頂いたら、何か適当な御意見が聞かれはしまいかと思って、実はお話しするんですがね……ほかに相談相手も無いしするもんですから……」 「ヘエ……私で宜しければですが……しかし、そんな立ち入った事を……」 「構いませんとも……誰も聞いている者はありませんから……ほかでもありません。……今もお話しする通り、品夫と僕の事は、死んだ養父の玄洋が、もうズット前から決定ていましたので、親類連中とも話し合って、去年の暮に式を挙げるばかりになっていたのが、養父の病気でツイ延び延びになってしまったんです。……それで、養父が亡くなりますと、正月の十一日でしたが……三七日の法事の時に、親類たちと相談をしまして、四十九日の法事が済んだら、間もなく式を挙げる事に決定したのですが、それを品夫が聞きますと、意外にも、頑強な反対論を持ち出しましてね……今までは別に異存も無いらしかったのですが……」 「ヘエ……妙ですな。それは……」 「エエ……妙なんです……。つまり養父の百箇日が来るまで遠慮したいと云うので……そのうちには品夫の実父の二十一回忌も来るしする事だから、そんな法事をスッカリ済ましてから、ゆっくりと式を挙げたいと云うのです」 「成る程……それなら御無理もないかも知れませんね……。初なお嬢さんは何となく結婚を怖がられるものですから」  健策は又も耳のつけ根まで赤くなった。 「……エエ……それは僕も知っています。しかし、そういう品夫の態度が恐しく真剣なので、僕はすこし気にかかりましてね。何となくトンチンカンな感じがしましたから……その時にこう云ってやったのです……。それは一応|尤もな意見だが……しかし、もう親類と相談をしてきめてしまった事だから、今更変更するのは面白くないだろう……と……」 「なるほど……これも御道理ですね」 「そう云いますと、今度は品夫の奴がメソメソ泣き出して、ウンともスンとも返事をしなくなったんです」 「ヘエ……なるほど……」 「……様子が変ですから僕はいよいよ気になりましてね……何故泣くのかと云って無理やりに、根掘り葉掘り尋ねますと、やっとの事で白状したのです。……つまり妾は、二十年|前に殺された、妾の実のお父さんの讐敵を討たなければ結婚をしない決心だと云うので……イヤもうトンチンカンにも、時代錯誤にも、お話しにならない奇抜な返答なのですが、本人はそれでも頗る付きの大真面目らしいので、僕はスッカリ面喰ってしまいました」 「ヘエ……それは……お驚きになったでしょう……」 「イヤもう、お話しするのも馬鹿馬鹿しい位ですがね……ですから僕も、始めは何かしら云い難い理由があるのを隠すために、そんな無茶を云うのじゃないか知らんとも思ってみたんですが、品夫の真剣な態度を見ると、どうもそうじゃないらしいんです……というのは、元来品夫は僕と違って文学屋で、女の癖に探偵小説だの、宗教関係の書物だのを無闇矢鱈に読みたがるのです。露西亜人が書いたとかいう黒い表紙の飜訳小説を取り寄せて、夜通しがかりで読んだりする位で……ですから、そんなものの影響を受けているのでしょう。ごく平凡なつまらない事までも、恐ろしく深刻に考え過ぎる癖があるのです。……それで、こんな事を空想したんじゃないかと気が付いたのですがね」 「ハハア……成る程……それはそうかも知れませんな。……しかしそれにしても妙ですナ。品夫さんのお父さんは二十年も前にお亡くなりになったので、顔もよく御存じ無い筈なのに、どうしてそのお父さんの讐仇の顔を見分けられるのでしょう」 「それが又奇抜なんです。品夫はその実父を殺した犯人が生きてさえおれば、一生に一度はキットこの村に帰って来るに違い無いと云うのです。何故かと云うと或る犯罪者が、自分の犯した罪悪の遺跡を、それとなく見てまわったり、それに関する人の噂を聞いたりすると、トテモたまらない愉快を感ずるものだと云うのです。つまり自分の罪を人知れず自白してみたい一種の心理と、犯罪者特有の冒険慾とが一所になって来るので、トテモ正しい人間の想像も及ばないスバラシイ魅力を持っているものだそうで……つまり、その犯した罪が大きければ大きい程……そうして犯人自身が知識階級であればある程、その魅力も何層倍の深さに感ぜられるものだと云うのです。……だから妾のお父様を殺した犯人は、ツイこの頃までも、そうした大きい魅力に引かされて、この村に帰ってみたくて堪らないでいたに違い無いが、ここにタッタ一人、その犯人の顔や特徴をよく知っておられる、うちの御養父様が生き残っておられた。……それでウッカリこの村に足を入れる事が出来ずにいたのだが、その御養父様がお亡くなりになった今日では、モウ怖い者は一人も居ないのだから、その犯人はスッカリ安心しているにちがい無い。そうして近いうちにこの村に遣って来るに違い無い……イヤ……事によると、もうそこいらに来ていて、妾の姿をジロジロ眺めているかも知れない……と云うので、恰で夢みたような事を主張するのです……しかも真剣に……」  熱心に傾聴していた黒木は今一度、長いため息をした。やはり相手の顔をみつめたまま……。 「成る程……婦人の想像力ぐらい恐ろしいものはありませんからね……真実以上の真実ですから……」 「……まったくです……しかし、その時はちょうど僕も品夫も、新規に引き受けた病院の仕事だの、遺産の整理だの、法事だのというものがゴチャゴチャと重なり合っていて、トテモ結婚どころの沙汰じゃなかったもんですから、そんな事を深く穿鑿する暇も無いままに放ったらかしておいたものですが……そうそう……それから品夫はコンナ事も附け加えて話しましたよ。何でもそれから二三日目の夕食の時でしたが、顔を赤くしながら……妾はこのあいだ御養父様の二七日の晩に、妾の身の上とソックリのコルシカ人の娘の話を読んで心から感心してしまった。その娘は、父親を殺したに違い無いと思っている男から婚約を申し込まれると、大喜びで直ぐに承諾をして、他からの申込みを全部断ってしまった。そうして結婚式の晩にその男を絞め殺す……という筋であったが、その中には、そうした自分の罪の遺跡に引きつけられつつ、犯罪を二重に楽しんで行こうとする犯人の気持ちと、その犯人のそうした執念深い慾望をキレイに断ち切って終うかどうかしなければ、どうしても気が済まない、生一本の娘の心理とが、タマラナイ程深刻に描きあらわしてあった……と云うのです。何でも品夫はその小説を読んでから、そんな気になったのじゃないかと思うんですが……」 「ハハア……」  と黒木はイヨイヨ感動したらしく、片手で鼻の下を撫でおろした。 「……仏蘭西か伊太利物らしい小説ですな。……けれども万に一つその通りになったら、お嬢さんは、トテモ素晴らしい直感力を持っておられる訳ですね」  健策も苦笑しながら、ツルリと顔を撫でまわした。 「どうも赤面の至りです。あんまり非常識な話なので……」 「……イヤ……しかし驚き入りましたナ。……実は私も品夫さんのお父さんに関する村の人の噂を二三聞いているにはいたのですが、大部分誇張だろうと思いましたし、もしかすると岡焼き連の中傷かも知れないと思いましたから、今の今までチットも信じていなかったのですが……」 「イヤ……村の者の噂は大部分事実なのです。品夫はたしかに氏素性のハッキリしない者の娘で、しかも変死者の遺児に相違無いのです。つまり、その犯人が捕まらないために、何もかもが有耶無耶に葬られた形になっているので……」 「ハハア。……してみると所謂迷宮事件ですな」 「そうなんです。品夫の父親が殺された事件は徹頭徹尾、迷宮でおしまいになっているのです。何しろ二十年も昔の事ですから、警察の仕事もいい加減なものだったでしょうし、おまけにこんな片田舎の高い山の上で行われた犯罪ですから、たしかな証拠なぞは一つも掴まれなかったらしいのです」 「成る程。しかし物的の証拠は無くとも、心的の証拠は何かあった訳ですね。犯人が仮想されていた位ですから……」 「それはそうです。その当時はたしかにそれに相違無いという犯人の目星がついていたのですが、今となっては、その犯人が捕まらないために、事件全体が五里霧中の未解決のままになっているのです。……ですから、そんなところから色々な噂も起って来るでしょうし、品夫も亦ソンナ事を探偵小説的に考え過ぎた結果、飛んでもない空想を抱くようになったのじゃないかと想像しているんですがね……貴方の御意見はどうだか知りませんが……」 「……そうですね……それはそうかも知れませんが……。しかし何しろ私も、そんな噂話があるという事を、看護婦を通じて聞いただけですから、シッカリした考えは申上げかねるのですが……」 「……成る程……それじゃその事件のあらましだけを、今から掻い抓んでお話してみましょうか。その時に立ち会った養父の話ですから、村の噂などよりもズット正確な訳ですが……聞いてくれますか貴方は……」 「……ヘエ。それは是非伺いたいものですが……しかし……御承知の通り私は、すこし興奮すると、すぐに睡れなくなる性質なので、それに時間も遅いようですし……」 「……イヤ。まだ十時位でしょう。眠れなかったら、あとで散薬か何か上げますから、それを服んだらいいでしょう。もう本当は退院されてもいい位に恢復しておられるのですから、一と晩ぐらい夜更かしをされても大丈夫ですよ……僕が請け合います……」 「アハハハハ……イヤ。散薬なら二三日前に頂戴したのがまだ残っていますが……」 「そうして適当な判断を下してくれませんか……品夫が外国の探偵小説にカブレて、そんな事を云い出したものか、それともほかに何か理由があっての事か……どうかというような事を……」 「ハハハハハ……ドウモそう性急に仰言っちゃ困りますがね。……婦人の心理というものは要するに、男にはわからない物だそうですから……」 「まったくです。全然不可解なんです」 「アハハ……イヤ……私も無論、御同様だろうとは思いますが……それじゃ、とにかくその事件の成行というものを伺った上で、一ツ考えさして頂きますかね」 「どうか願います……こうなんです。……品夫の父親というのは今から三十年ほど前に、親父の玄洋が、この村の獣医として東京から連れて来た、実松源次郎という男で、死んだ時が四十いくつとかいう事でした。生れは東北のC県で、T塚村という大村の、実松家という富豪の跡取息子だったそうですが、どうした理由か、故郷に親類が一人も居なくなったので、田地田畑をスッカリ金に換えて上京したものだそうです。そうして獣医学校に籍を置いて勉強しているうちに、同じ下宿に居た関係から私の養父の玄洋と懇意になったのだそうで……」 「ハハア。チョット……お話の途中ですが、その故郷の親類が一人も居なくなった理由というのは、今でもやはり、おわかりになっていないのですね」 「そうです。何故だかわからないままになっているのです……しかしタッタ一人その源次郎氏の甥というのが残っていたそうです。たしかに源次郎氏の姉の子供だと聞きましたが、それが、実松当九郎といって、この事件の犯人と眼指されている二十二三歳の青年なんです。尤も今は四十以上の年輩になっている訳で、ちょうど貴方位の年恰好だろうと思われるのですが」 「ハハア。どんな風采の男か、お聞きになりましたか」 「スラリとした色の白い……女のような美青年だったそうです。何でもズット以前から叔父の源次郎氏に学費を貢いでもらって、東京で勉強していたけれども、不良少年の誘惑がうるさいからこっちへ逃げて来たという話で……そうしてこの病院の加勢をしながら開業免状を取るというので、村外れの叔父の家から毎日通っていたそうですが、頭のステキにいい、何につけても器用な男で、人柄もごく温柔しい方だったので、養父の玄洋が惚れ込んでしまって、うちの養子にしようかなどと、養母に相談した事も、ある位だったそうです」 「ハハア。玄洋先生は余程開けたお方だったのですな」 「そうですね。養父はどっちかと云えば人を信じ易い性質だったのでしょう。品夫の実父の源次郎氏の事なども、獣医には惜しい立派な人物だと云って賞め千切っていたようですが、よく聞いてみるとそれ程の人物でもなかったようで、こんな村の獣医相当の人間だったのでしょう。一見して変り者に見える、黙り屋の無愛想者だったそうで、友達なども養父の玄洋以外に一人も無かったそうです。……趣味といっては唯銃猟だけだったそうですが、これは余程の名人だったらしく、十年ばかり居る間に、S岳界隈の山の案内は、所の猟師よりももっと詳しく知り尽していたという事で……気が向くと夜よなかでもサッサと支度して、鉄砲を荷いで出て行くので、あくる朝になって家の者が気が付く事が多い……そうして帰って来ると、いつもこの上なしの上機嫌で、その獲物を肴に一パイ飲りながら、メチャメチャに妻君を熱愛するのが又、近所|合壁の評判になっていたそうですがね。ハハハハハ。しかし、さもない時には、気が向かない限り、どこから迎えに来ても断って、酒ばかり飲んで寝ころんでいるといった調子で……金なども銀行や郵便局には預けずに、残らず現金にして、どこかにしまっておく……どこに隠しているかは妻君にも話さないという変り方だったそうです。……ただその妻君というのが、ソレ者上りらしい挨拶上手で、亭主の引きまわしがよかったために、やっと人気をつないでいたという事ですが……」 「なる程。そんな事で、とにかく琴瑟相和していた訳ですな」 「そうです……ところが、その甥の当九郎という青年が実松家に入り込むようになると、その夫婦仲が、どうも面白くなくなったそうです。……これは品夫が生れる前から、長いこと雇われていたお磯という婆さんの話ですが、何故かわからないけれども源次郎氏の当九郎に対する愛情というものは吾が児以上だったそうで、当九郎に対するアタリが悪いと云っては、いつも品夫の母親を叱ったものだそうです」 「ハハア……一種の変態ですかな」 「そうだったかも知れません……とにかく今までに無い夫婦喧嘩が、そんな事で時々起るようになったそうですが、そのうちに丁度今から二十年|前の事……品夫の母親が、品夫を生み落したまま産褥熱で死ぬと間もなく、甥の当九郎が又、何の理由も無しに、叔父の源次郎氏と私の養父へ宛てて、亜米利加へ行くという置き手紙をしたまま、行方不明になってしまったものだそうです」 「ハハア。成る程……ところでその甥はホントウに亜米利加へ行ったのでしょうか」 「サア……それが疑問の中心なので、その筋では、これが当九郎の叔父殺しの前提だと睨んでいたそうですが」 「成る程……尤も至極な疑問ですナ」 「……とにかく事件は、その甥が家出してから、三箇月ばかり経った後に……明治四十一年の三月の中旬でしたかに起ったものだそうで……源次郎氏は妻君に死に別れた上に、可愛がっていた甥にまで見棄てられて、赤ん坊の品夫と、お磯婆さんの三人切りになったので、多少|自棄気味もあったのでしょう。それから後暫くの間、殺生は無論の事、本職の獣医の方も放ったらかしにして、毎日のようにK市の遊廓に入り浸ったものだそうで、お磯婆さんや、養父の玄洋が泣いて諫めても、頑として聴き入れなかったという事です」 「……いかにも……。そんな性格の人は気の狭いものですからね。ほかに仕様がなかったのでしょう」 「ところがです……ところが、その三月の何日とかは、ちょうど今日のような大雪が降った揚句だったそうですが、その夕方の事、真赤に酔っ払った源次郎氏が雪だらけの姿で、久し振りに自分の家に帰って来ると、茶漬を二三杯掻き込んだまま、お磯が敷いた寝床にもぐり込んでグーグーと眠ってしまったそうです」 「話も何もせずにですか」 「無論、寝るが寝るまで一言も口を利かなかったそうです。これはいつもの事だったそうで……ですからお磯婆さんも別に怪しまなかったばかりでなく、久し振りに枕を高くして品夫と添寝をしたのだそうですが、あくる朝眼を醒ましてみると源次郎氏の姿が見えない。蒲団は藻抜けの空になっているし、台所の戸口が一パイに開け放されて月あかりが映しているので、どこに行ったのか知らんと家の内外を見まわったが、出て行ったあとで又、雪が降ったらしく、足跡も何も見えなかった。それから押入れを開けてみると、自慢のレミントンの二連銃と一緒に、狩猟の道具が消え失せている。台所を覗いてみると、冷飯を弁当に詰めて行った形跡があるという訳で、初めて狩猟に行った事がわかったのだそうです」 「……ヘエ……どうしてそう突然に狩猟に出かけたのでしょう」 「それがです。それがやはり甥の当九郎が誘き出したのだ……という説もあったそうですが、しかし一方に源次郎氏はいつでも雪さえ見れば山に出かける習慣があったので、この時も珍らしい大雪を見かけて堪らなくなって出かけたんだろう……という意見の方が有力だったそうです。……一方には又、そうした習慣があるのを当九郎も知っていたので、そこを狙って仕事をしたんだろうという説もあったそうですが、何しろ本人が唖に近いくらい無口な性質だったので、何一つわからず仕舞いになった訳ですが」 「その前に手紙か何か来た形跡は無かったでしょうか……甥の当九郎から……」 「お磯の記憶によると無かったそうです。……あとで家探しまでしてみたそうですが……」 「……成る程。それから……」 「それから先は頗る簡単です。あのS岳峠の一本榎という平地の一角に在る二丈ばかりの崖から、谷川に墜ちて死んでいる実松氏の屍体を、夜が明けてから通りかかった兎追いの学生連中が発見して、村の駐在所に報告したので、大騒ぎになったものだそうで……死因は谷川に墜ちた際に、岩角で後頭部を砕いたためで、外には些しも異状を認められなかったそうです。これはその屍体を診察した養父の話ですがね……」 「成る程……しかし屍体以外には……」 「屍体以外には、ポケットの中に油紙に包んだ巻煙草の袋と、マッチと、焼いた鯣が一枚這入っていたそうで、弁当箱の中味や、水筒の酒も減っていなかったそうです。……それからもう一つ胴巻の中から、二円何十銭入りの蟇口が一個出て来たそうですが、それが天にも地にも実松家の最後の財産だったそうで、源次郎氏がどこにか隠していた筈の現金は、あとかたもなく消え失せていたそうです。……尤もこれは事件後に村外れに在った源次郎氏の自宅を土台石まで引っくり返して調べた結果、判明した事実だそうですが……」 「成る程……それで殺人の動機が成立した訳ですね」 「そうなんです。尤もお金の多寡はハッキリわかりませんがね……それから、もう一つ重要なのは、屍体の左手にシッカリと握っていたレミントンの二連銃の中に、発射したままの散弾の薬莢が二発とも残っていた事だそうです」 「ハハア……詰め換えないままにですな」 「そうです。ほかの弾丸は、弾丸帯にキチンと並んでいて、一発も撃った形跡が無いし、弁当や水筒にも手がつけてないところを見ると、源次郎氏は、あの一本榎の平地へ登り着くと間もなく、何かに向って二発の散弾を発射した。そうして後を詰めかえる間もなく谷川に転げ落ちて死んだものらしいと云うのです」 「ヘー……その辺がどうも可笑しいようですな」 「おかしいんです……源次郎氏は、今もお話した通りあの辺の案内ならトテモ詳しい筈ですからね。おまけに月夜の雪の中ですから、足場は明るいにきまっているし、余程の強敵に出会って狼狽でもしなければ、そんな目に会う筈は無いと云うのです」 「いかにも……その考えは間違い無さそうですな」 「僕にもそう思えるのです。しかし何しろ、その屍体の上には、岩と一と続きに、雪がまん丸く積っていた位で、附近には何の足跡も無いために、犯人の手がかりが発見出来なくて困ったそうです」 「そうですねえ。あとから雪が降らなかったら何かしら面白いことが発見出来たかも知れませんが……」 「そうです。尤も雪というものは人間の足跡から先に消え初めるものだと村の猟師が云ったとかいうので、雪解けを待って今一度、現場附近を調べたそうですが、源次郎氏が通る前にS岳峠を越えた者は一人や二人じゃなかったらしいので……おまけに現場附近は、屍体を発見した学生連に踏み荒されているので、沢山の足跡が出るには出たそうですが、いよいよ見当が附かなくなるばかりだったそうです」 「……すると……つまりその捜索の結果は無効だったのですね」 「ええ……全然|得るところ無しで、K町の新聞が盛んに警察の無能をタタイたものだそうです。……しかしそのうちに乳飲児の品夫が、お磯婆さんと一緒に此家に引き取られて来るし、仮埋葬になっていた実松源次郎氏の遺骸も、正式に葬儀が行われるしで、事件は一先ず落着の形になったらしいのです。そうして色んな噂が立ったり消えたりしているうちに二十年の歳月が流れて今日に到った訳で……いわば品夫は、そうした二十年|前の惨劇がこの村に生み残した、唯一の記念と云ってもいい身の上なんです」  こう云って唾を嚥み込んだ健策の眉の間には、流石に一抹の悲痛の色が流れた。 「なるほど……それでは村の人が色んな噂を立てる筈ですね」  と黒木も憂鬱にうなずいた。けれどもそのうちに健策は、又も昂奮して来たらしく、心持顔を赤めながら語気を強めて云った。 「しかし誰が何と云っても、僕等二人の事は養父が決定て行った事ですから、絶対に動かす事は出来ない訳です……今更村の者の噂だの、親類の蔭口だのを問題にしちゃ、養父の位牌に対して相済みませんし、第一品夫自身がトテモ可哀想なものになるのです。彼女の味方になっていた養父もお磯婆さんも死んでしまって、今では全くの一人ぽっちになっているんですからね」 「御尤もです」  と黒木は又も深い溜息をしながらうなずいた。そうして気を換えるように云った。 「……ところで……これはお尋ねする迄も無い事ですが、品夫さんは実のお父様が亡くなられた時の事をスッカリ聞いておいでになるでしょうね」 「それは無論です。うちの養父母や、お磯婆さんから飽きる程繰り返して聞かされているでしょうし、又、村の者の噂や何かも直接間接に耳にしている筈ですから、恐らく誰よりも詳しく知っているでしょう。……とにもかくにも復讐をするという位ですからね……ハハハハ……」 「いかにも……しかしその復讐をされるというのは……どんな手段を取られるおつもりなのでしょう……」 「さあ……そこ迄は聞いていませんがね。アンマリ馬鹿馬鹿しい話ですから……それよりも、そんな事を云い出す品夫の気もちが、第一わからなくて困っているんです……ですから、こんな内輪話をお打ち明けした訳なんですが……」 「……成る程……」  と黒木は火鉢の灰を凝視めたままうなずいた。そうして暫く何か考えているようであったが、やがて静かに顔をあげると、依然として遠慮勝ちに問うた。 「それから……これも余計な差し出口ですが、品夫さんの戸籍謄本は取って御覧になりましたか?」 「ハア。養父が取っておいたのが一枚ありますが、実松源次郎の長女品夫と在るだけで、全く身よりたよりの無い孤児です。……三四年|前にわざわざC県まで人を遣って調べた事もあるそうですが、ずっと前から故郷に親戚が一人も居なくなっていたのは事実で、当九郎の両親の名前も知っている者が居ない位だったそうです……しかし、それがこの事件と何か関係があるのですか?」 「……イヤ……関係がある……という訳でもないのですが……」  黒木は何故か言葉尻を濁すと、前よりも一層憂鬱な態度で、腕を深く組みながら考え込んだ。その黒眼鏡の下の無表情な顔色を、健策はさり気なく眺めていたが、やがて片膝を抱え上げながら、所在なさそうにゆすぶり初めた。 「黒木さん。遠慮なさらなくともいいんですよ。……貴方とは、もう久しい間御懇意に願っていますし、ちょうど品夫の父親の二十一回忌に当る年に、こんな大雪が降るのも、何かの因縁だろうと思ってコンなお話をするんですからね……御腹蔵の無いところを打ち明けて下すった方が、却って功徳になるんですよ……ハハハハハ」  こう云ううちに健策は全く昂奮が静まったらしくノンビリした顔色になった。同時にいくらか話に飽きが来たらしく、あおむいて小さな欠伸を出しかけた。しかし黒木は依然として表情を動かさなかった。なおも腕を深く組んで何事か考えまわしているらしかったが、そのうちに両手で眼鏡をかけ直しながら、軽い溜息と一緒につぶやいた。 「サア……それをお話していいか……わるいか……」 「ハハハハハ。お話出来なければ無理に伺わなくともいいんですがね。……元来これは僕等二人の間に、秘密にしておくべき問題なんですから……しかし、くどいようですが、たとい品夫がドンナ身の上の女であろうとも、二人を結びつけている死人の意志は、絶対に動かす事が出来ない訳ですからね。よしんば品夫のためにこの家が滅亡するような事があっても、それが故人の希望なんですから、その辺の御心配は御無用ですよ……ただ参考のために承っておくに過ぎないのですからね。ハハハハハ、こう云っちゃ失礼かも知れませんが……」  健策は相手を皮肉るでもなくこう云って笑うと、思い切って大きな欠伸を一つした。硝子窓越しにチラチラ光る綿雪を見遣りながら……。 「……成る程……それでは……私の意見を……申してみますが……」  黒木はやっと決心したらしく、窮屈そうにこう云いながら、火鉢の横に転がっている大きな湯呑を取り上げて白湯を注いだ。すると健策もそれに倣って、長椅子の下から硝子コップを取り上げた。  二人の間には又も新らしい談話気分が漲った。健策はフウフウと湯気を吹きながら、剽軽な調子で云った。 「……どうか願います。品夫の一生の浮沈にかかわる事ですから……」  しかし黒木はどこまでも真面目な、無表情のうちにうなずいた。湯呑を片わきへ置きながら……。 「イヤ……重々御尤もです。それじゃ、お話できるだけ、してみましょうが、その前にもう一つお尋ねしたい事がありますので……」  健策もコップを畳の上に置きつつ、気軽にうなずいた。 「ハア。何なりと……」 「……イヤ。ほかでもありません。つまり品夫さんのお父様に関する今のお話ですがね……そのお父様が変死された事について、品夫さんは矢張り御自分一個の観察を下してお在でになるでしょうね」 「……観察というのは……」 「……そのお父さまの変死が、何故に他殺に相違ないか……というような事です」 「それは相当考えているでしょう。探偵小説好きですからね……しかしそんな事を面と向って尋ねた事は一度もありませんよ。もう過ぎ去ってしまった事ですし、そんな事を訊いて又泣き出されでもすると面倒ですから……」 「ハハア。成る程……それじゃ貴方は、貴方御自身だけで別の解釈を下しておられる訳ですナ」 「イヤ。解釈を下すという程でもありませんが、僕だけの常識で説明をつけておるので、手ッ取り早く云うと養父と同じ意見なのです。……要するに最小限度のところ、実松源次郎氏の変死を自殺、もしくは過失と認むべき点はどこにも無い……他殺に相違無いという事に就いては、疑う余地が無いと信じているのですが……」 「……では玄洋先生も初めから、実松氏の甥の所業と睨んでおられた訳ですな」 「まあそうなんです。しかし、これは要するに、今お話したような事実を土台にして、色々と推量をした結果、最後に生まれた結論に過ぎないので、元来が迷宮式の事件なのですから、あなたの方からモット有力な、根拠のある御意見が出たら、その方に頭を下げようと思っているのですが」 「イヤ。根拠と云われると困るのですが……有体に白状しますと、私の意見というのはタッタ今、あなたのお話を聞いているうちに、私の第六感が感じた判断に過ぎないのですからね」 「ホウ……タッタ今……第六感……」  と健策は眼を丸くして腮を撫でた。黒木は心持得意らしくうなずいた。 「そうです。私は永年、生命がけの海上生活をやって来たものですから、事件と直面した一刹那に受ける第六感、もしくは直感とでも申しますか……そんなものばかりで物事を解決して行く習慣が付いておりますので……この事件なぞも、そんなに長い事未解決になっている以上、その手で判断するよりほかに方法が無いと思うのですが」 「……成る程……素敵ですナ……」 「ええ。あまり素敵でもないかも知れませんが……しかし、それでも、そうした私一流の判断でこの事件を解釈して行きますと、只今の品夫さんの復讐論なぞは、全然無意義なものになってしまうのです。あなたの御註文通りにね……」 「エッ。全然無意味……僕の註文通りに……」  健策は一寸の間唖然となった。そうして眼をパチパチさせて面喰っていたが、まもなく落ち付きを取り返すと、テレ隠しらしく、両膝を無造作に抱え直してゆすぶり始めた。又も思い切って赤面しながら……。 「ハハア。イヨイヨ素敵ですな。是非聴かして下さい……その第六感というのを……」  黒木は赤ん坊をあやすように、鷹揚にうなずいた。 「無論お話します。……しかしその前に、先ず今のような第六感を受けなかった前の、私の平凡な常識判断から申しますと、元来かような迷宮式の事件というものは、色々な考え方があるものなので、それを或る一方からばかり見ているために、判断が中心を外れて来て、自然に迷宮を作るような事になるのだと思います……殊に人の噂とか、当局の眼とかいうものは、物事に疑いをかける癖が付いているので、色々な出来事の一ツ一ツが、何となくその疑いの方向に誇張して考えられたり無理に結び付けられたりし易い。そのためにいよいよ迷宮を深くして行き勝ちなものだと思いますがね」 「賛成ですね。成る程……」 「ところで、こう申上げては失礼かも知れませんが、あなたの御養父様のこの事件に対する判断や、御記憶なぞいうものは、どこまでも人情的……もしくは常識的になっておりますので……あなたも主としてその御養父様からお聞きになったお話を骨子として判断をなすった結果、同じ結論に到着されたものと思いますが……」 「その通りです……それで……」 「それでそのお話を、あなたから間接に承わったところによって考えまわしてみますと、この事件の内容はあらかた三ツの出来事に分解する事が出来ると思うのです」 「成る程……そこまでは僕等の考えと一致しているようです」 「……そうですか。それでは説明する迄も無いかも知れませんが、第一は単純な実松源次郎氏の墜死そのものです」 「いかにも……」 「その次は源次郎氏の貯金の紛失事件で、今一つはその甥の行方不明事件と、この三つが固まり合ったのが一ツの事件として判断されているのでしょう」 「敬服です。いよいよ敬服です」 「……ところで、この三ツの事件を組み合わせて、一ツの事件として観察してみますと、かなり恐ろしい事件に見えますね。……つまりその悪人の何とかいう青年が、大恩ある品夫さんのお父さんを、山の上で惨殺して、財産を奪って逃げた事になるので、この事件は、そうした残忍非道な性格によって行われた、計画的な犯行という事になるでしょう」 「全くその通りです。実松源次郎氏を殺さずとも、その恩義を忘れただけでも当九郎は大罪人だ……と養父は云っておりました」 「ところがです……ここで今一つお尋ねしますが貴方は……貴方のお養父様でもおなじ事ですが、この三ツの事件を別々に引き離してお考えになった事は、ありませんか」 「……………」  健策は膝を抱えたまま頭を強く左右に振った。思いもかけぬ……という風に……。黒木は白い歯を露わして微笑した。 「……ハハア。おありにならない。多分そうだろうと思いました。それならば試しに、この事件の三ツの要素を、一ツ一ツに分解して考えて御覧なさい。そんな有り触れた殺人事件なぞより数層倍恐ろしい……戦慄すべき出来事となって、貴方がたの眼に映じて来はしまいかと思われるのですが」 「……数層倍恐ろしい……」 「そうです……おわかりになりませんか」 「わかりません」 「ハハア。おわかりにならない……イヤ御尤もです。私の判断の根拠というのは、今も申します通り、極めて非常識なものですからね……しかし或る程度までは常識で説明出来るのです。否……却って私の考えの方が常識的ではないかと思われるのですが……」 「ハハア……それはどういう……」 「……まず……この事件の犯人と目されている今の……エエ。何とかいいましたね。ソウソウ当九郎……その甥の行方不明と、この事件とが結びつけられているのは一応もっとも千万な事と考えられます……というのは、源次郎氏の妻君と、忠義な乳母のお磯とを除いた村の人間の中で、源次郎氏が金を隠している場所を発見する可能性が一番強いのは、誰でもない……その甥の当九郎という事になるのですからね」 「いかにも……」 「……一方に叔父御の源次郎氏は、変人の常として、存外、用心深いところもあるので、支那人のように全財産を胴巻か何かに入れて、夜も昼も身に着けておく習慣があったかも知れない。それを又当九郎が推察したものとすると、その金を奪うためには是非とも源次郎氏を殺さなければならぬ事になるでしょう……」 「無論ですね……それは……」 「……そこで先ずその第一着手として、自分に嫌疑がかからぬように、亜米利加に行くと称して家出をした。それから相当の時日が経った後に姿をかえながら、兇器を携えて源次郎氏を附け狙っていると、そのうちに源次郎氏が、大雪に誘われて狩りに出かけるところを発見したので、好機到れりという訳で、村から遠く離れた、あの山の上の……何とかいう処でしたね……そうそう一本榎に待ち伏せて狙撃をした。……ところが雪の中の事ですから、思ったより早く相手に発見されて、第一弾が命中しなかった……というような事も考えられますが、とにも角にもその雪の山上で、物凄い撃ち合いが始まった事は、誰にも想像され得るでしょう。……しかし源次郎氏の武器が二連発の散弾銃で、当九郎の獲物がピストルの五連発か何かであったとすると、到底相手にはなり切れないので、源次郎氏は思わず後へ退って行くうちに、足場を誤って谷川に墜落した。そこで当九郎はその死骸から貯金だけを奪い取って、二円なにがし入りの蟇口を故意に残して立ち去ったもの……と想像する事が出来るでしょう」 「……驚いた……全くその通りです。養父の考えと一分一厘違いありません」 「そうでしょう……これが一番常識的な考え方で、前後を一貫した事実のすべてとピッタリ符合するのですからね」 「そうです。それ以外に考えようは無いと思われるのですが」 「そうでしょう……しかしここで、今一歩退いて別の方面から観察したら、どんなものでしょうか……つまりこの事件には、そのような犯人が全然居なかったとしたら、どんな事になるでしょうか」 「……エッ……犯人が居ない……」 「そうです。つまりその当九郎という甥が、この事件に結び付けられているのは、人々の想像に過ぎないとしたらどうでしょうか……実際と一致する想像は、よく正確な推理と混同され易いものですからね……甥の当九郎はホントウに青雲の志を懐いていたので、そのまま一直線に外国へ行ってしまって、この方面には全然寄り附かなかったとしたら……どうでしょうか……そんな事はあり得ないと云えましょうか」 「サア……それは……」 「……又……実松氏の貯金を無くしたのは誰でもない実松氏自身で、その金は遊興費か何かに費消されてしまったものとしたら、どうでしょうか。そんな風には考えられぬでしょうか」 「……………」 「……そういう風に三ツの出来事をバラバラにして、一ツ一ツに平凡な出来事として考えて行く方が、この事件を計画的な殺人と考えるよりも却って常識的で、非小説的ではないでしょうか……すなわち事実に近いと思われはしないでしょうか」 「……そ……そうすると……」  と健策は眼を光らせながら、すこし狼狽したように身を乗り出した。 「そうすると何ですか……実松氏が発射した二発の散弾は、やはり本当の獣か何かを狙ったものなんですね」 「イヤ……そこなのです」  と黒木は反対に反り身になった。さも得意そうに白湯を一口飲むと、悠々と舌なめずりをした。 「……私もそう考えたいのです。……が……そうばかりは考えられない別の理由があるのです。実を云うとこれから先が私の本当の直感ですがね」 「……その直感というのは……」  と健策は益々身を乗り出した。同時に黒木はいよいよ反りかえって行った。 「……手早く申しますと実松源次郎氏は、その払暁前の雪の中で、或る恐怖に襲われたのではないかと思われるのです」 「……或る恐怖……」 「さよう……つまり実際には居ない、或る怖るべき敵を、雪の中に認めて、その敵と闘うべく、二発の散弾を発射されたものではないかと考えられるのです。そうすれば一切の事実が何等の不自然も無しに……」 「……チョット待って下さい」  と健策は片手をあげた。次第に不安げな表情にかわりながら……。 「その怖るべき敵と云われるものの正体は何ですか……たとえば一種の精神病的な幻覚みたようなものですか」  黒木はキッパリとうなずいた。 「さよう……その幻影は要するに、実松氏固有の脅迫観念が生んだ、ある恐ろしいものの姿だったに違いありません。鳥だか、獣だか、何だかわかりませんが……」  健策は愕然となった。何事か思い当ったらしく唾液を嚥み込み嚥み込みした。しかし黒木は構わずに話を続けた。 「実松氏はその幻影と闘うべくレミントンの火蓋を切られたのです。しかし、もとより実際に居ない敵なのですから、いくら散弾でも命中する気づかいはありません。敵は益々眼の前に肉迫して来ましたので、実松氏は恐怖の余り夢中になって逃げ出した……そうしてお話しのような奇禍に遭われたのではなかったかと考えられるのです」 「ハハア……」  と健策はいよいよ不安らしくグッと唾液を嚥み込んだ。 「……しかしその証拠は……」 「……イヤ。証拠と云われると実に当惑するのですが……要するにこれは私の直感なのですから……しかし実松氏が、この甥の当九郎を愛しておられた程度が、普通の人情を超越していたらしい事実や、全財産を現金にして絶対秘密の場所に隠していたところなどを見ると、実松氏はどうしても、或る一種の超自然的な頭脳の持主としか思われないのです。従ってそうした脅迫観念に囚われ易い……」 「……イヤ……解りました……」  こう云いながら相手の話を遮り止めた健策は、急に長椅子の上に居住居を正した。踏みはだけた膝の上に両肱を突張って、二三度大きく唾を嚥み込むうちに、みるみる蒼白な顔になりながら、物凄い眼で相手を睨み付けた。唇をわななかせつつ肺腑を絞るような声を出した。 「……イヤ。よくわかりました。今まで全く気が付かずにいましたが、貴方の御意見を聞いているうちに何もかも解ってしまいました。……貴方は実松氏の超常識的な性格から割り出して、当九郎の無罪を主張していられるようです。つまり実松氏は……品夫の父は元来、深刻な精神病的の素質を遺伝している、変態的な性格の所有者であった。だから月の光りの強い、雪の真白い山の上で、一種の幻覚錯覚に陥って、自分でも予期しない自殺同様の、非業の最期を遂げたもの……と主張しておられるのでしょう」 「イヤ。ちょっとお待ち下さい」  と黒木が片手を揚げて制しかけた。健策の語気が、だんだん高まって来るのを怖れるかのように……。しかし健策はひるまなかった。黒木と同時に片手を揚げながら、なおも身体を乗り出した。 「イヤ。お待ち下さい。待って下さい。貴方は御存じないのです。そうした主張で、当九郎の無罪が証明出来るものと思っていられるようですが、そうした説明ならば、僕の方が専門なのです。いいですか。……今お話のような事実を、有名なデビーヌ式の素質遺伝の原則と照し合わせると、却って正反対の結論が生まれて来るのですよ。……美青年当九郎は表面上柔和な人間に見えながら、その底には、やはり実松氏と同様の超自然的な性格を隠し持っていた……しかも大恩ある叔父を執念深く附け狙って殺すというような残忍冷酷を極めた、非良心的な先天性の所有者であり得た事が、科学的に証明されて来るのですよ。……いいですか……又、実松氏が極端な変人であると同時に、血腥い殺生を唯一の趣味としていた因縁も、その血腥い殺生行為のアトで、異常な性的の昂奮を見せるという、変態的な性格も、その故郷の血族の絶滅している理由も……そうして現在の品夫が、二十年|前の殺人犯人に凝視されているという脅迫観念や、復讐をしなければ止まぬというような偏執狂式の空想に囚われている原因も……何もかもがこの事件の核心となっているタッタ一ツの事実によって説明され得る……つまりT塚村の実松家は、ヒドイ精神病の系統であったと……」  相手の悽愴たる語気に呑まれて、急に赤くなり、又、青くなりつつ眼を瞠っていた黒木は、この時ヤッとの事でヘドモド坐り直した。両手をあげて迸り出る健策の言葉を押し止めた。 「……イヤ……お待ち……お待ち下さい。ソ……それは貴方の誤解です。私はただ品夫さんのお父さんの事だけを申しましたので……」 「……否……チットも構いません。公然と僕達の結婚に反対されても構いません」  健策は断乎とした態度でこう云い切った。云い知れぬ昂奮に全身を震わせながら……。 「……たといドンナ事があろうとも、僕は品夫を殺さない決心ですから……品夫を見棄てる気は毛頭無いのですから、何でもハッキリ云って下さい。……実松一家は、そんな恐ろしい精神病の遺伝系統のために、その故郷で絶滅してしまっている。そうして僅かに残った一滴の血が、めぐりめぐって現在藤沢家を亡ぼすべく流れ込もうとしている。その一滴の血が……品夫だと云われるのですね」 「……………」 「藤沢家のためには、品夫を見殺しにした方が利益だと云われるのですね……貴方は……」 「……………」 「……………」  二人は青い顔を見合わせたまま、石のように凝固してしまった。……ちょうどその時に、扉の外で何か倒れたような音がしたので……。  二人はハッとしながら同時に立ち上った。扉に近い健策が大急ぎで把手を引くと扉の外の暗いリノリウムの床に、白い服を着た品夫が横たわっていた。  健策は無言のまま跪いて脈を取った。そうして強いて落ちついた態度で、傍に突立っている黒木の顔を見上げると、如何にも苦々しげに頭を一つ下げた。 「……すみませんが……診察室の扉を開けてくれませんか……」  その夜の三時をすこし廻った頃であった。  品夫は作りつけの人形のように伏せていた長い睫を、静かに二三度|上下に動かすと、パッチリと眼を見開いた。そうして黒い瞳を空虚のように瞠りながら、仄暗い座敷の天井板を永い事見つめていた。  それから瞬一つせずに、頭をソロソロと左右に傾けて、白いずくめの寝具と、解かし流されたまま、枕の左右に乱れかかっている自分の髪毛を見た。それから、黒い風呂敷を冠せられている枕元の電気スタンド……床の間に自分が生けた水仙の花……その横の床柱に、白い診察着のまま倚りかかって腕を組んで睡っている健策の顔……その前の桐の丸火鉢の上で、仄かに湯気を吐いている鉄瓶……その蔭に掻巻を冠ったまま突伏している看護婦……そんなものの薄暗い姿を一ツ一ツに見まわした彼女は、その表情をすこしも動かさないまま、又、もとの通りにあおのけになって、しずかに眼を閉じて行った。  室の中は又も、雪の夜の静寂に帰った。シンシンと鳴る鉄瓶の音と、スヤスヤという看護婦の寝息と、雨戸の外でチョロチョロと樋を伝い落ちる雪水の音ばかりになった。  しかし品夫は、ほんとうに眠ったのではなかった。やがて眼を閉じたまま、唇の左右に何ともいえない冷たい微笑を浮かべたと思うと、瞼をウッスリと開きながら、ソロソロと起き上った。両手を前にさし伸べて……手探りをするように身体をうねうねと蜒らして……中心を取りかねているようであったが、そのうちに両手で夜具を押えつけると、スックリと寝床の上に立ち上った。  彼女はいつもねまきにしている、十六七歳時代の紅友禅の長襦袢を着せられていた。その上から紫|扱帯の古ぼけたのが一すじ、グルグルと巻き付けてあるきりであったが、そのふくらんだ自分の胸に取り縋るように、両方の掌をシッカリと押し当てて、素足のまま寝床を降りると、スラスラと畳の上を渡って、芭蕉布張りの襖に手をかけた。その時に、畳に引きはえた襦袢の裾が、枕元に近いお盆の上の注射器に触れてカラカラと音を立てた。それにつれて、睡っていた健策が、すこしばかり大きな寝息をしたが、品夫は別に見向きもせず、足を止めようともしなかった。  芭蕉布の襖が音もなく開くと、寒い風が一しきりスースーと流れ込んで来た。しかし品夫は、そのあとを閉める気も無いらしく、次の間の障子を今一つスーと開くと、そのまま明るい廊下へ出た。その廊下の一方は硝子雨戸になっていて、黒々と拭き込んだ板張りにも、外のお庭の雪の植込みの上にも、タッタ今晴れ渡ったばかりのニッケル色の空から、スバラシイ満月の光りがギラギラとふるえ落ちていたが、品夫は、やはり、そんな光景には眼もくれなかった。恰も何者かに導かれるように、半開きの瞳の前の冷たい空間を凝視しつつ、一直線に長い廊下を渡りつくしたが、その行き止まりに在る青ペンキ塗りの扉を開いて、薬局の廊下に這入ると、真暗なリノリウムの上を、やはり一直線に進んだらしく、間もなく突き当りの扉を押す音がした……と……やがて診察室の中央に吊るされた電球が、眼も眩むほど輝き出した。  暖かい奥座敷から、急に氷点以下の寒い処に出て来たせいか、品夫の血色は全く無くなっていた。顔も手足も、それこそ雪のように真白く透きとおっていたが、それが黒い髪を長々とうしろへ垂らして、燃え立つような長襦袢を裾も露わに引きはえつつ、青白い光線をふり仰いで眼を細くした姿は淫りがましいと云おうか、神々しいと形容しようか。人間の眼に触れてはならぬ妖艶しさの極み……そのものの姿であった。  しかし、雪に鎖された藤沢病院の、深夜の診察室に、こんな姿が立ち現われていようことは、誰一人思い及び得よう筈が無かった。すべては零下何度の空気に包まれて、シンカンと寝静まっていた。そのような静けさの中にスックリと立ち止まった品夫は、いかにも眩しそうなウッスリした眼つきで、そこいらを一渡り見まわしていたが、間もなく室の隅に置いてある四方硝子張りの戸棚に眼をつけると、ヒタヒタと歩み寄って、重たい硝子戸を半分ほど開いた。そこから白い片手を突込んで、方形の瀬戸引きバットに並んでいる数十のメスをあれかこれかと選んでいたが、やがてそのバットの外に、タッタ一つ投げ出してある大型の一本を取り上げた。  それは小さい薙刀の形をした薄ッペラなもので、普通の外科には必要の無い、屍体解剖用の円刃刀と称する、一番大きいメスであった。この病院では何か外の目的に使われているらしく、柄の近くには黒い銹の痕跡さえ見えていたが、彼女はそれを右手の指の中に、逆手にシッカリと握り込むと、背後の青白い光線に翳しながら二三度空中に振りまわして、キラキラと小さな稲妻を閃めかした。それを見上げながら品夫はニッコリと、小児のような無邪気な微笑を浮かべたが、そのままメスを右手に捧げて、左手で両袖を抱えつつ、開いたままの扉の間から、又もリノリウムの廊下に辷り出た……と……今度は左に折れて、泉水の上から、病室の方へ抜ける渡殿の薄暗がりを、ホノボノと足探りにして、第一の横廊下を左に折れ曲ったが、やがて、その行き詰まりに在る特等病室の前に来た。そうして、やはり何の躊躇もなく真鍮のノッブを引いた。  十|燭の電燈に照らされた鉄の寝台の上には、白い蒲団を頭から冠っている人間の姿がムックリと浮き上っていた。その上にメスを捧げたまま、品夫は何かしらジッと考え込んでいるようであったが、やがて上の蒲団を容赦なく引き除けると、髪毛を濛と空中に渦巻かせて、寝床の中に倒れ込むようにメスを振りおろした。その枕元から、白い散薬の包紙が一枚、ヒラヒラと床の上に舞い落ちた。 「ムム……オオッ……」と夢のような叫び声がして、白いタオル寝巻に包まれた、青黒い巨大な肉体が起き上りかけた。それはイガ栗頭の黒木繁であったが、毛ムクジャラの両腕を引き曲げて、寝巻の胸に沈み込んだメスの柄を、品夫の右腕と一緒に無手と掴んだ。  ……しかし、それをドウしようというような力はもう無かった。血走った白眼を剥き出して、相手の顔をクワッと覗き込んだが、乱れた髪毛の中を一眼見ると、そのまま両眼をシッカリと閉じて、シーツの上にのけぞった。 「……むむッ……チ……畜生ッ。もう……来……た……か……」  と切れ切れに叫びかけたが、その言葉尻にはヘンテコな節が付いて、流行唄の末尾のように意味を成さないまま、わななきふるえつつ消え失せた……と思う間もなく、喰い縛った歯の間から凩のような音を立てて、泡まじりの血を噴き出した。  しかし品夫は依然として手を弛めなかった。相手の腕の力が抜けて来れば来るほど、スブスブスブと深くメスを刺し込んで行った。そうして大浪を打つ患者の白いタオル寝巻の胸に、ムクムクムクと散り拡がって行く血の色を楽しむかのように、紅友禅の長襦袢の袖を、左手でだんだん高くまくり上げて、白い、透きとおるような二の腕を、力一パイにしなわせながら、ジロリジロリと前後左右を見まわしていたが、やがて眼の前の逞ましい胸が、一しきりモリモリモリと音を立てて反りかえって来たと思う間もなく、底深い、血腥い溜息と一所に、自然自然とピシャンコになって行くのを見ると品夫は、白い唇をシッカリと噛み締めたまま眼を細くして、メスを握り締めている自分の手首を凝視した。大きく、静かに、最後の呼吸を波打たせる相手の胸に、調子を合わせるかのように、彼女自身の呼吸を深く、深く、ゆるやかに張り拡げて行った。そうして相手の呼吸が全く絶えると同時に、彼女自身もピッタリと呼吸を止めて、彫像のように動かなくなった。 「……品夫ッ……」  という雷のような声が、廊下の方から飛び込んで来たのはその時であった。  ハッとした品夫は、一瞬間に身を退いた。夥しい髪毛を颯と背後にはね除けて、メスを握った右手を高く振り上げかけたが、白い服のまま仁王立ちになっている健策の真青な、引き歪められた顔を眼の前に見ると、急に身を反らして高らかに笑い出した。 「……ホホホホホホ。ホホホホあなた見ていらっしたの……ホホホホホホ。ステキだったでしょう……妾……とうとう讐敵を討ったのよ……」  品夫の手から辷り落ちたメスが、床の上に垂直に突立った。同時に気が弛んだらしくグッタリとなった品夫は、両頬を真赤に染めて羞恥ながら、健策の胸にしなだれかかった。血だらけの両手を白い診察服の襟にまわしながら、火のような眼をしてふり仰いだ。 「……ネ……わかったでしょう……。もう貴方と…………ても……いいのよ…………」  ある所にアア、サア、リイという三人の兄弟がありました。  その中で三番目のリイは一番|温柔しい児でしたが、ちいさい時に眼の病気をして、片っ方の眼がつぶっていましたので、二人の兄さんはメッカチメッカチとイジメてばかりおりました。  リイは外へ遊びに行っても、ほかの子供にやっぱしメッカチメッカチと笑われますので、いつもひとりポッチであそんでいましたが、感心なことに、どんなに笑われてもちっとも憤ったことがありませんでした。  ある時、三人の兄弟はお父さんとお母さんに連れられて、山一つ向うの町のお祭りを見に行きましたが、その時お父さんが、 「今日は三人に一つずつオモチャを買ってやるから、何でもいいものを云ってみろ」  と云われました。  アアは、 「何でも狙えばきっとあたる鉄砲がいい」  と云いました。サアは、 「何でも切れる刀が欲しい」  と云いました。又リイは、 「どこでも見える遠眼鏡が欲しい」  と云いました。  これを聞いたお父さんとお母さんはお笑いになって、 「お前達の云うものはみんな|六ヶしくてダメだ。それにアアのもサアのも、鉄砲だの刀だの、あぶないものばかりだ。そんなものを欲しがるものじゃない。リイを見ろ。一番ちいさいけれども温柔しいから、欲しがるものでもちっともあぶなくない。みんなリイの真似をしろ」  と、兄さん二人が叱られてしまいました。そうして何も買ってもらえずに、只お祭りを見たばかりでお家へ連れて帰られました。  アアとサアと二人の兄さんは大層|口惜しがって、今夜リイをウンとイジめてやろうと相談をしましたが、リイはチャンときいて知っておりました。  その晩、兄弟三人は揃って、 「お父さんお母さん、お先へ……」  と云って離れた室に寝ますと、間もなくアアとサアは起き上って、リイをつかまえて窓から外へ引ずり出して、そのまま窓をしめて寝てしまいましたが、リイは前から知っていましたから、声も出さずに兄さん達のする通りになっていました。  リイはそのまま窓の外の草原に立って、涙をポロポロこぼしながら東の方を見ていますと、向うの草山の方が明るくなって、黄色い大きなお月様がのぼって来ました。  リイはこんな大きなお月様を見たのは生れて初めてでしたから、ビックリして泣きやんで見ておりますと、不意にうしろの方からシャガレた声で、 「リイやリイや」  と云う声がしました。  リイはお月様を見ているところに不意にうしろから名前を呼ばれましたので、ビックリしてふり向きますと、そこには黒い三角の長い頭巾を冠り、同じように三角の長い外套を着た、顔色の青い、眼の玉の赤い、白髪のお婆さんが立っておりました。  そのお婆さんはニコニコ笑いながら、外套の下から小さな黒い棒を出してリイに渡しました。そうしてリイの耳にシャガレた低い声でこういいました。 「リイ、リイ、リイ  片目のリイ  この眼がね、眼にあてて  息つめて、アムと云え  すきなとこ、見られるぞ  リイ、リイ、リイ  片目のリイ  このめがね、眼に当てて  すきなとこ、のぞいたら  息つめて、マムと云え  どこへでも、ゆかれるぞ  アム、マム、ムニャムニャ」  と云うかと思うと、暗い家の蔭に這入ってそのまま消え失せてしまいました。  リイはビックリして立っておりましたが、やっと気がついて見ると、自分の手には一本の黒い棒をしっかりと握っております。  リイはいよいよ不思議に思いました。急いでその棒をお婆さんに返そうと思って、たった今お婆さんが消えて行った暗いところへ行きますと、そこは平たい壁ばかりで、お婆さんはどこへ行ったかわかりませんでした。  リイはどうしようかと思いましたが、それと一所に今のお婆さんが云ったことを思い出しまして、ためしに黒い棒を片っ方の眼に当てて、向うの山の上のお月様をのぞいて、教わった通り、 「アム」  と云って見ました。  リイはあんまり不思議なのに驚いて、棒を取り落そうとした位でした。  お月様の世界がリイの眼の前に見えたのです。  見渡す限り真白い雪のような土の上に、水晶のように透きとおった山や翡翠のようにキレイな海や川がありまして、銀の草や木が生え、黄金の実が生って、その美しさは眼も眩むほどです。その中に高い高い大きな大きな金剛石の御殿が建っていて、その中にあのお伽噺の中にある竜宮の乙姫様のような美しいお嬢さんがこちらの方を見て手招きをしております。  リイは急に行って見たくなりましたから、又教わった通り呼吸を詰めて、 「マム」  と言って見ました。  リイが遠眼鏡をのぞいて、「マム」と魔法の言葉を使いますと、向うに見えている月の世界のけしきがだんだん近寄って来ました。  宝石の身体に金銀の羽根を持った鳥や虫、または何とも云いようのない程美事な月の御殿の中の有り様や、そこに大勢の獣や鳥を連れて迎えに出て来た美しいお姫様の姿なぞが、ズンズン眼の前に近づいて来ました。  変だと思って遠眼鏡を眼から離しますと、これはどうでしょう。  リイはいつの間にか月の世界の真白な砂の上に立っておりまして、今までいた人間の世界は、向うに見える水晶の山の上にお盆のようにちいさくなって、紫色に美しく光っています。  あんまり不思議なことばかり続くので、リイは肝を潰して立っていますと、そこへ最前の美しいお姫様が来まして、 「まあリイさま、よく入らっしゃいました。最前からお待ちしておりました。私はこの月の世界の主人で月姫というもので御座います。どうぞゆっくり遊んで行って下さいまし」  と云ううちに、リイの手を取って月姫は御殿の中に連れて行って、いろんな御馳走をリイの前に並べました。  けれどもリイはその御馳走をたべようとはしませんでした。お父様やお母様や兄様たちにだまっておうちを出て月の世界に来たのですから、リイは心配で心配でたまらなくなりました。そうして又もや遠眼鏡を眼に当て、向うの水晶の山の上に見える人間の世界をのぞいて、息をつめて、 「アム」  と云いました。  そうすると又不思議です。  一番初めに見えたのは、自分のうちに一番兄さんのアアと二番目の兄さんのサアが寝ている枕元に最前の魔法使いのお婆さんがあらわれて、アアには何にでもあたる鉄砲をやり、サアには何でも斬れる刀をやっているところです。  二人の兄さんは望み通りのものを貰ったので、すぐ起き上って外へ飛び出して、王様のお城に行きまして、王様に家来にしてくれと頼みました。  王様は、二人の持っている不思議な宝物を見てたいそう感心をして、すぐに家来にしましたが、間もなく隣の国と戦争がはじまりますと、アアとサアは一番に飛び出して、アアは山の向うにいる敵の大将をたった一発で打ち倒しました。そのあとからサアが刀を抜いて、攻めて来る敵を片っぱしから刀も鎧も一打に切って切って切りまくりましたので、敵は大|敗けに敗けて逃げてしまいました。  その御褒美で、アアは王様の国を半分と一番目のお姫様を、サアはまた残りの半分と二番目のお姫様を貰って、二人共王様になり、お父様とお母様を半月|宛両方へ呼んで、大威張りをしているところまで見えました。  リイはあんまり早くいろんなことがはじまって行くので眼がまわるように思いましたが、それでもこの様子を見て安心をしまして遠眼鏡を眼から離しますと、最前から傍で見ていた月姫はニッコリしながら、 「人間の世界を御覧になりましたか」  と尋ねました。リイはだまってうなずきますと、月姫様はやはり笑いながら、 「あんまりいろんな事が早くかわって行くのでビックリなさったでしょう」 「ハイ。夜が明けたかと思うともう日が暮れます。そうして暗くなったと思うともう夜が明けています。あれはどうしたわけでしょう」  とリイは眼をまん丸にして尋ねました。 「それはこういうわけで御座います」  と月姫様は云いました。 「月の世界の一日は人間の世界の五万日になるのです。ですから、人間の世界の出来事を月の世界から見ると大変に早く見えるのです。もうあなたがその眼鏡を眼にお当てになってから、今までに三年ばかり経っているのですよ」 「エッ、三年にも……」  とリイはビックリしました。しかしもうお父様やお母様も自分のことを忘れておいでになるだろう。そうして二人の兄さんたちに孝行をされて喜んでおいでになるだろうと思いましたから、いよいよ本当に安心をしました。  そうして月の御殿に這入って、月姫と並んで腰をかけて、並んだ御馳走を食べましたが、そのおいしかったこと。それから鳥の歌、虫の音楽、獣の踊りなぞを見ましたが、そのおもしろかったこと……ほんとに月の世界はいいところだとリイは思いました。  そのうちにリイは又|家のことを思い出しました。  自分はこんなに面白く遊んでいるが、うちの人はどうしているだろうと思いながら、眼鏡を眼に当ててみますと……大変なことが見えました。  リイが人間の世界を遠眼鏡でのぞいた時は、もうこの前見た時から三十年も経っておりましたので、リイのお父さんやお母さんも、それからアアとサアのお妃の父親の王様も死んでしまって、アアもサアも立派な鬚を生やした王様になっておりました。  一番兄さんのアア王は今一本の手紙を書いて、弟のサア王の国へお使いに持たせてやっております。  その手紙にはこんなことが書いてありました。 「おれとお前とはこの国を半分|宛持っている。しかしおれはお前の兄さんだから、お前はおれの家来になって、お前の国をおれによこしてもいいと思う。そうすればお前はおれの一番いい家来にしてやる。けれどももしお前がイヤだと云うのなら、おれは何にでもあたる鉄砲を持っているから、ここからお前を狙って打ち殺してしまうぞ」  この手紙を見た弟のサアは大層|怒りました。 「いくら兄さんでも、半分|宛わけて貰ったこの国を取り上げるようなことを云うのは乱暴だ。そんな兄さんの云うことは聴かなくてもよい。鉄の鎧を着ていればいくら鉄砲だってこわいことはない。今から兄さんと戦争をしてやろう」  と、すぐに家来に戦の用意をさせました。  このことをきいた兄さんのアア王は大層|憤りまして、 「おのれ、サア王の憎い奴め。兄貴の云うことをきかないで戦争の用意をするなんて憎い奴だ。それならこっちから戦争をしかけて滅茶滅茶負かしてやれ」  と云うので、すぐに兵隊を呼び集めました。  アア王とサア王の妃はもともと姉さんと妹ですから、大変心配をしまして、いろいろに二人の王様の戦争の用意を止めようとしましたが、二人ともなかなか云うことをききません。  二人のお妃は只泣くよりほかはありませんでした。  この有様を月の世界から見たリイは、月姫にこう云いました。 「私はこの戦争を止めに行かなければなりません。そうして二人の兄さんが一生涯戦争をしないようにしなければなりません」  月姫はこれをきいて、 「ほんとに早く止めて上げて下さいまし。二人のお姉様がお可哀想です。けれども、どうしてこんな大戦争をお止めになるのですか」  と眼をまん丸にして尋ねました。  リイはニッコリ笑いながら、 「まあ見ていて御覧なさい」  と云ううちに又も遠眼鏡を眼に当てました。  リイは遠眼鏡を眼に当てながら、一番兄さんの宝物の鉄砲はどこにあるかと思いながら、 「アム」  と云いますと、すぐに兄さんのアア王のお城の宝庫が見えました。  その宝庫には強そうな兵隊がチャンと番をしておりまして、その庫の奥にある大きな鉄の宝箱の中に立派な鉄砲が一梃ちゃんと立てかけてありました。  リイはそれを見つけると喜んですぐに、 「マム」  と云いますと、もうその宝庫の中の宝箱の中の鉄砲のところへ来てしまいましたから、リイはその鉄砲を肩にかつぎました。  それから今度は次の兄さんのサア王のお城の方を向いて、宝物の刀はどこにあるだろうと遠眼鏡をのぞきながら、 「アム」  と云いますと、やっぱりそのお城の宝庫の中の宝箱の中にチャンと蔵ってありましたから、すぐに、 「マム」  と云うと、そこへ飛んで行ってその刀の紐を腰に結びつけました。  リイはそれからアア王とサア王の国の境目にある一番高い山の上に遠眼鏡の魔法で飛んで行って、そこの岩に腰をかけて、遠眼鏡で二人の兄さんのお城のようすを見ていました。  二人の兄さんはそんなことは知りません。両方とも有りたけの兵隊をみんな集めて戦の用意をしてしまいますと、家来を呼んで、 「あの宝の鉄砲を持って来い」 「あの宝の刀を持って来い」  と云いつけました。  両方の家来は宝庫の中の宝の箱を開いて見ますと、どちらも宝物が無くなっていますので、肝を潰して、 「お宝物の鉄砲が無くなっております」 「お宝物の刀が無くなっております」  と青くなって両方の王様に言いました。  両方の王様も青くなってしまいました。それは大変と、てんでに宝庫に駈け付けて調べて見ますと、番兵も庫の鍵もチャンとしていながら、中の刀と鉄砲だけ無くなっています。そうしてもとの鉄砲と刀とあったところに、どちらにも、 「お宝物はリイがいただいてまいりました。リイは国の境目の高い山の上にお待ちしております」  と書いた紙片が置いてありました。  両方の兄さんたちは憤るまいことか、 「さては弟のリイは泥棒の名人になったと見える。あの高い山を取り巻いて、リイを引っ捕えて宝物を取りもどせ」  と云うので、両方の国の兵隊が両方からその山をぐるりと取り巻いて、ズンズン攻めのぼって来ました。  ところがその山の絶頂まで攻めのぼって来るうちにすっかり日が暮れてしまいましたので、二人の兄さんは両方ともリイが逃げはしまいかと心配していましたが、間もなく東の方からまん丸いお月様がのぼって来ましたので、その月の光りでやっとわかった山道をズンズン登って山の絶頂に来ますと、そこにある高い岩の上に不思議にも昔のままの子供の姿のリイが刀と鉄砲を持って立っておりました。  兄さんのアア王と弟のサア王はこれを見ると、 「それ、あいつを弓で射ち殺せ」 「刀でたたき殺せ」  と云いましたので、両方の兵隊は一時に岩の下へ突貫して来ました。  リイは攻め寄せる兵隊を見てニコニコ笑いました。右手に刀、左手に鉄砲をさし上げて、 「みんな音なしくしろ。音なしくしないとこの鉄砲と刀とで一人も残らず殺してしまうぞ」  と云いました。  これを見ると、今までワイワイと勢よく攻めのぼって来た兵隊は、皆一時にドンドン逃げ出してしまって、あとにはただ二人のお兄さん、アア王とサア王とだけが残りました。  リイは二人の兄さんに向って岩の上からこう云いました。 「お二人のお兄さま、おききなさい。あなたがたはなぜそんなに喧嘩をなさるのですか」  二人のお兄さんはこれをきくと恥かしくなって、岩の下で顔を見合わせて真赤になりました。  リイは又こう云いました。 「お二人がえらくおなりになったのは、この鉄砲と刀のおかげです。けれども又こんなに喧嘩をなさるのも、この鉄砲と刀があるからです。お二人が仲よくさえなされば、この鉄砲も刀もいらぬ物ですから私がいただいてまいります」  と云ううちに、東の方に向って遠眼鏡でお月様をのぞきながら、 「アム」 「マム」  と一時に云いました。  そうすると、見るみるうちにリイの足は岩の上から離れて、刀と鉄砲を荷いだまま月の世界の方へ飛んでゆきました。  月の世界では月姫がリイを待っておりまして、 「よくお帰りになりました」  とお迎えに出て来ましたが、見るとリイの眼はいつの間にか両方とも開いておりましたので、月姫は又ビックリして、 「まあ。あなたの眼が両方とも開いていますよ」  と云いました。リイもこれを聞くとやっと気がつきまして、 「ヤア。ホントに。これは不思議だ。これは大かた今まで自分ひとりで遊んでいたのに、今度はお兄さんたちの仲直りをさせたので、神様がごほうびに開いて下すったのでしょう」 「ほんとにそうでございましょう。おめでとう御座います。さあお祝いにみんなで遊びましょう」  と大喜びで遊びはじめました。  山の上の岩の根本に残った二人の兄さんは、リイが天に飛び上って、お月様の方に行ってしまったのでビックリして抱き合いました。そうしてこんな事を約束しました。 「リイは神様になった。そうして月の世界からいつも私たちのすることを見ているに違いない。そうして私たちがわるいことをしたら、すぐにあの鉄砲で撃ったり、あの刀で斬ったりするに違いない。だからこれから仲よくしよう」  二人はそれから別々にお城へ帰りますと、ほんとうに仲よく暮らしました。  みなさんがわるいことをなすった時も、リイはあの月の世界から遠眼鏡で見ているかも知れません。        一 「百万円あったら、ああしよう……こうしよう」  と空想していた青年中村芳夫は、思いもかけぬ伯母の遺産を受け継いで一躍百万長者になった。  芳夫は早速数万円を投じて素破らしい邸宅を建てた。そこに美姫と、美酒と、山海の珍味を並べて、友達を集めて昼夜兼行の豪遊をこころみたために、百万円は瞬く間に無くなって、些なからぬ借財さえ出来た。その抵当に邸宅を取られた彼は、再びもとの通りの無一物になってしまった。        二 「不思議だ。奇怪だ。不可解だ。百万円を得ない前の自分と、失った後の自分との間には何等の相違もない。空想の百万円と実物の百万円とは、使用した結果から見ると全く同じものであった。おお百万円よ。お前は何のために自分に天降ったのか。何故にかくも無意義に自分から消え去ったのか。おお百万円よ。お前はどこへ行った」  芳夫は腕を組んでこう考えた。識っている限りの人々にこの疑問を提出して解決を求めた。        三  山本という社会学者は云った「百万円をお前から奪い去ったのは、百万円自身である。お前が識ったことではない」  松井という法律学者は云った「お前自身がお前から百万円を奪い去ったのだ」  村上という心理学者は云った「お前の百万円を奪ったものはお前の心の中に居る。お前の心の奥に隠れて、人知れずニヤニヤ笑っている」  又|空誉という高僧はこう説いた「百万円は無くなっていない。お前の心の中にチャンと隠されている。その百万円を取り返すには、お前から百万円を奪った、その心を探し出して殺して終うのが一番だ。そうすれば百万円の金は、自然とお前の身に帰って来る」  最後に万象という占断者はこう判じた「これは天地否という卦です。自然の事を自然の順序に考えて行くと、万事が否定的のフン詰まりになるという、実に不可思議な玄理をあらわした形です。すべての順序を逆にして、考えて行って御覧なさい。地天泰という卦になって一切が泰らかに解決されてゆきます」        四  芳夫は思案に余ったあげく、高山という名探偵を訪問して一切の経過を打明けて頼んだ。 「僕の百万円を奪った奴を見付け出して下さい。百万円を取り返して下さい。成功すれば謝礼としてその半額を呈上します」  名探偵は快よくうなずいた。 「どうか葉巻を一本吸う間待って下さい。考えますから」        五  葉巻が短かくなると、高山名探偵は窓の外へ投げ棄てた。組んでいた腕を解いて、事もなげに微笑した。 「百万円を奪った犯人は、あなたの心のほかに居ります」  芳夫は愕然とした。無言のまま眼を輝やかして一膝進めたが、名探偵は依然として微笑を続けた。 「それは一人の若い女性です。しかも非常な美人で、学識といい、心操といい、実に申分のない処女です」  芳夫は思わず叫んだ。 「それはどこに居りますか」 「それを探し出し得る人は世界中にあなた一人です」  芳夫は面喰った。独言のように云った。 「いったい……それは……どういうわけで……」  名探偵は厳粛な口調で説明した。 「あなたは百万円を得られる前に、いろんな計劃を立てられたでしょう。それはどれもこれもスバラシイ理想的なものだったでしょう」  芳夫は無言でうなずいた。 「けれども、その計劃の第一着手として、理想的な美少女を令夫人に迎えることを、あなたは全く忘れておられました。あなたが百万円を得られると同時に、そうした立派な令夫人を迎えておられましたならば、あなたの百万円は一文も無意義に費されずに済んだでしょう」  青年芳夫の眼から熱い涙がハラハラと溢れ落ちた。高山名探偵はその顔を凝視しつつ、断乎として云い切った。 「すなわち……あなたから、あなたの百万円を奪い去ったものは、あなたの未来の夫人たるべき、その美少女です。あなたはその美少女から百万円を奪い返すべき権利があります」        六  中村芳夫は、高山名探偵の、こうした炯眼と推理力に心から嘆服してしまった。涙と共に床の上にひれ伏した。 「どうぞ私と力を合わせて、その女を探して下さい。百万円の全部をあなたに捧げても構いませんから……」  名探偵は一議に及ばず引き受けた。  けれども芳夫青年から、百万円を奪い去ったであろうほどの、理想的な若い女性は容易に見つからなかった。稀に居るにはいたが、芳夫から百万を奪った犯人であることを告白して、結婚の申込を承諾する少女は一人も居なかった。  芳夫青年と高山名探偵は、とうとう乞食同様になって、野たれ死にをしてしまった。  豚吉は背の高さが当り前の半分位しかないのに、その肥り方はまた普通の人の二倍の上もあるので、村の人がみんなで豚吉という名をつけたのです。又、ヒョロ子も同じ村に生れた娘でしたが、背丈けが当り前の人の倍もあるのに、身体はステッキのように細くて瘠せていましたので、こんな名前を付けられたのです。  村の人はこの二人を珍らしがってヤイヤイ騒ぎますので、二人は外へ出ることも出来ません。そのうちに二人とも立派な大人になりました。  ある時、村の人たちの寄り合がありましたが、その時に誰か一人が、 「あの二人を夫婦にしたらなおなお珍らしかろう。村の名物になると思うがどうだ」  と云いますと、みんな一時に、 「それがいいそれがいい」  と手をたたいてよろこびまして、そこに居た二人の両親にこの事を話しますと、両親も、 「村の人がみんなですすめられるのならよろしゅう御座います」  と云いました。それから二人に聞いて見ますと、二人はまだ会ったことはありませんが、かねてからお互に人と違った身体を持っていることを思いやって、両方で可愛そうに思っていたところですから、喜んで承知いたしました。  村の人はいよいよ喜びました。 「サア面白いぞ。世界中にない珍らしい夫婦がこの村に出来るのだ。村中で寄ってたかって大祝いに祝え」  というので、大騒ぎをやって用意をしましたので、まるで殿様の御婚礼のような大仕かけな婚礼の支度が出来ました。  そうして、いよいよ婚礼の儀式がある晩となりますと、村中の人は皆、あらん限りの立派な着物を着飾って、神様の前の広場に集まりました。  神様の前の広場には、作り花で一パイに飾られたお儀式の場所が出来ていまして、そのうしろに出来た宴会場には、村の人々が作った御馳走やお酒が一パイに並んでいます。まわりには篝火がドンドン燃やしてありますので、そこいらは真昼のように明かるく見えました。  そのうちに、町から来た楽隊が賑やかな音楽を初めて、時間が来たことを知らせましたので、みんな神様の前に集まって、礼服を着た神主と一所に、珍らしい夫婦の豚吉とヒョロ子が来るのを今か今かと待ちました。  けれども、いくら待っても夫婦の姿は見えませんでした。  そのうちに、二人を迎えに行った美しい花馬車が二台帰って来ますと、それには二人の姿は見えず、二人の両親が泣きながら乗っておりましたが、みんなの前に来ますと、 「皆さん、申しわけありません。二人は逃げてしまいました」  と云いました。 「サア、大変だ」  と村中の人は騒ぎ出して、儀式も御馳走も打ち棄てて、大勢の人々が夜通しがかりで探しましたが、二人の姿はどこにも見えませんでした。  豚吉とヒョロ子は、こうして大勢の人々が騒いでいる時、村からずっと遠い山道を手を引き合ってのぼっておりました。 「ふたりで夫婦になったら、今迄よりもっともっと恥かしくなるよ」 「ほんとですわねえ。とても村には居られませんよ。けれどもみんな心配しているでしょうね」 「しかたがない。こうして出かけなければ、一生涯に外に出る時は無いからね」 「ほんとに情のう御座います。どうかして私たちの身体を当り前の人のようにする工夫は無いのでしょうか。私はいつもそのことを思うと悲しくて……」  とヒョロ子は泣き出しました。 「泣くな泣くな」  豚吉は慰さめました。 「それはおれでも同じことだ。今に都に行ったらば、よいお医者にかかって治してもらってやるから、泣くな泣くな」  こう云ってあるいているうちに、二人は山を越えて広い街道に出ますと、夜が明けました。  豚吉は今まで威張っておりましたが、ここまで来ると、身体が肥っておりますのでヘトヘトに疲れてしまいました。 「おれあもうあるけない」  と豚吉は泣きそうな声で云いました。 「まあ、あなたは何て弱い方でしょう。私がおぶってあげましょうか。あたしはこんなに瘠せてても、力はトテモ強いんですよ」 「馬鹿なことを云うもんじゃない。おれは人の三倍も四倍も重たいんだぞ。そんなことをして、大切なお前が二つに折れでもしたら大変じゃないか」 「いいえ、大丈夫ですよ。私は人の五倍も六倍も力があるのですから」 「いけないいけない。そんなことをしたらなお人に笑われる。それより休んだ方がいい。ああ、くたびれた」 「でも、あとから村の人が追っかけて来ますよ」 「虎が追っかけて来たって、おれはもう動くことが出来ない。休もう休もう」  と云ううちに、そこの草の上にドタンと尻もちをつきました。  ヒョロ子は困ってしまって、立ったまま四方を見まわしますと、ずっと遠方から馬車が一台来るのが見えました。ヒョロ子は喜ぶまいことか、大声をあげて、 「馬車屋サーン。早く来て頂戴よ――」  とハンケチを振りました。 「何、馬車が来た」  と豚吉も立ち上りましたが、背が低いので見えません。 「何だ、草ばかりで見えやしない」 「そんなことがあるもんですか。ソレ御覧なさい」  と云ううちに、豚吉を抱えて眼よりも高くさし上げました。 「アッ、見えた見えた。オーイ、馬車屋ア――。早く来――イ」  と豚吉も喜んでハンケチを振りました。  これを見た馬車屋のおやじはビックリしました。  大変に高い、大きな恰好をした人間が呼んでいる。早く行って見ようと思いましたので、馬の尻を鞭でたたいて宙を飛ばしてかけつけました。 「やあ、これあ珍しい御夫婦だ。おれああんた方のような珍らしい御夫婦は初めて見た。どうもえらく高い人だな。別嬪さんの方はまるで棹のようだ。それに又、旦那様の肥って御座ること、どうだ。まるで手まりのようだ」  と馬車屋は大きな声で云いながら近寄って来ましたので、夫婦は真赤になってしまいました。 「あたしはこんな馬車屋さんの馬車には乗らない。今にどんなことを云ってひやかすかわからないから」  とヒョロ子は云いました。 「馬鹿を云え。一所に乗って行かなければ何にもならないじゃないか……。どうだい、馬車屋さん。これから町まで倍のお金を払うから、大急ぎで乗せて行ってくれないか」  と云いました。  馬車屋は大きな手をふって云いました。 「滅相な。お金なんぞは一文も要りません。あんた方のような珍らしい夫婦を乗せるのは一生の話の種だ。さあさあ、乗ったり乗ったり」  と云ううちに、馬車のうしろの戸をあけてくれました。  ところが、その入り口が小さいので、豚吉の肥った身体がどうしても這入りません。しかたがありませんから、馬車の前の馭者台の処にお爺さんと並んで乗って、ヒョロ子だけ中に這入らせようとしますと、天井が低いので、ヒョロ子がしゃがんでも頭が支えます。そればかりでなく、豚吉が右側に乗ると馬車が右に引っくり返りそうになり、左に乗ると左側の車の心棒が曲りそうになります。 「これあ大変なお客様だ。折角|無代価で乗ってもらおうと思っているのに、二人共乗れないとは困ったな」 「おれも乗りたいけれども、これじゃ仕方がない」 「もうよしましょうや。あなたも些し辛棒しておあるきなさいよ」  こんなことを云っているうちに、馬車屋のお爺さんは不意に手をポンとたたいて、 「うまいことを思い付いた。二人とも馬車の屋根に乗んなさい。私がソロソロあるかせるから」 「ウン、それはいい思い付きだ」  と豚吉もよろこびました。けれども背が低いので登ることが出来ません。  それを見たヒョロ子は、イキナリ豚吉をうしろから抱えて、ヒョイと馬車の屋根に乗せまして、自分も飛び上がりました。  馬車屋のお爺さんはビックリして眼をまん丸にしていました。  馬車が動き出すと、屋根の上がまん丸くなって今にも落ちそうになりますので、夫婦はしっかり抱き合っていなければなりません。  そのうちに一つの村に来ますと、サア大変です。村の入り口に遊んでいた子供たちがすぐに見つけて、 「ヤア。定っぽの馬車の上に長い長い女と短い短い男と乗っている。おもしろいおもしろい」  と村へ走って帰りましたので、ちょうど朝御飯をたべていた人達は、皆一時に表に飛び出しました。見ると成る程、今までに見たことのない奇妙な夫婦が、馬車の上に乗ってソロリソロリとやって来ますので、皆不思議がってワイワイ云い初めました。 「珍らしい夫婦だな」 「兄妹だろうか」 「女の方は飴の人形を引き延したようだ」 「男の方はまるで踏み潰したようだ」 「どこへ行く人だろう」 「都へ見世物になりに行くんだろう」 「見世物になったら大評判だろうな」 「今なら無料だ」 「ヤア無料の見世物だ。みんな、来い来い。世界一の珍らしい夫婦だ。無料だ無料だ」  馬車の上からこれをきいた豚吉夫婦は真赤になって憤りましたが、今にも屋根から落ちそうなのでどうすることも出来ません。  けれどもヒョロ子はとうとう我慢し切れなくなって、馬車屋のお爺さんの横に掛けてあった鞭を取ると、いきなり馬のお尻を力一パイ打ちました。  豚吉とヒョロ子を乗せた馬はヒョロ子にいきなり尻を打たれましたので、ビックリしてドンドン駈け出しますと、間もなく村を出てしまいました。  ところが豚吉は、今まで馬車がゆっくりあるいてさえ落ちそうであったのに、それが矢のように走り出したのですからたまりません。 「アッ。大変。お爺さん、馬車を止めてくれ。落ちそうだ落ちそうだ。助けてくれ。アブナイアブナイ」  とヒョロ子に獅噛み付きました。  ヒョロ子も一生懸命になって豚吉を落ちないように押えておりましたが、馬車が村を出ると間もなく、そこにあった道のデコボコに馬車が引っかかってガタンガタンとはね上る拍子に、二人共抱き合ったまま馬車の屋根の上から往来へ転がり落ちました。  馬車屋のお爺さんの方は馬を引き止めようとして一生懸命に手綱を引っぱっていましたので、そのままドンドン駈けて行ってしまいました。 「ああ、危なかった」  と、豚吉はヒョロ子に助け起されながら云いました。 「ほんとに済みませんでした。私がいたずらをしたもんですから」  とヒョロ子はあやまりましたが、見ると自分の足もとに車屋さんの長い鞭が落ちています。 「アッ。これはさっきの車屋さんのだ。私が走って行って返して来ましょう」  とヒョロ子は駈け出しそうにしますと、豚吉は引き止めました。 「チョット待て。何だかたいそういいにおいがする」 「ほんとにおいしいにおいがしますね」 「ああ、おれはあの臭をきいたので、お腹がすっかりすいちゃった」 「まあ。あなたは喰いしんぼうね」 「だって、ゆうべから何もたべないんだもの」 「あたしなんか何日御飯をたべなくとも何ともないわ」 「おれあ日に十ペン御飯をたべても構わない。ああ、御飯がたべたい」 「そんな大きな声を出すものじゃありませんよ」  とヒョロ子は真赤になって止めました。  けれども、豚吉は鼻をヒョコヒョコさせながら、あたりを見まわしながらなおなお大きな声で云いました。 「このにおいは、御飯のにおいと、葱と豆腐のおみおつけの臭だが、一体どこから来るのだろう」 「そんな卑しいことを云うもんじゃありません。よその朝御飯ですから駄目ですよ」 「イヤ。あれを見ろ。あの森のかげにめしやと書いて旗が出ている。あすこだあすこだ」  と云ううちに、ドンドン駈け出して、そのうちへ這入って行きました。 「まあ、何て意地のキタナイ人でしょう。さっきは疲れてあるけないと云っていたのに、今はあんなにかけ出して……しかたがない。私も一所に御飯をたべましょう」  と云いながら、ヒョロ子もあとからかけ出して行きましたが、門口まで来ると、又立ち止まって、軒の先にさっきの鞭をよく見えるようにつきさして中に這入って行きました。  見ると、先に這入った豚吉は葱と豆腐のお汁を熱い御飯にかけて、フウフウ云いながら一生懸命で掻き込んでいます。 「まあ。あなたは何てみっともないたべ方をするんでしょう。そんなことをして喰べると人に笑われますよ」  と云いながら座りましたが、やがてめしやのおかみさんが持って来たお汁と御飯を引き寄せますと、お汁をちょっと嘗めまして、それからハンケチで口のまわりをよく拭いて、今度は御飯をほんの二粒か三粒ばかり固めて口の中に入れました。  夫婦はこんな風にして御飯をたべ初めましたが、豚吉の方はすぐに喰べてしまいましたけれども、ヒョロ子の方はなかなか済みません。やっぱり一粒か二粒|宛たべては、お汁をすこしずつ嘗るばかりです。豚吉は初めのうちは我慢してジッと待っておりましたけれども、とうとう我慢しきれなくて冷かし初めました。 「お前はまあ何て御飯のたべ方をするんだ。そんなたべ方をしていると、今にお正午になって、昼の御飯と一所になってしまうぞ」  これをきいたヒョロ子は、真赤になって豚吉を睨みました。 「黙っていらっしゃい。あなたのように牛か馬見たようなたべ方をするもんじゃありません。それに私は身体が細長いから、御飯の通る道も当り前の人より細長いのです。あなたみたいにドッサリ口に入れたら、すぐに詰まって死んでしまうのです。私が死ぬのが厭なら温柔しく待っていらっしゃい」  と、なかなか云う事をききません。豚吉は大きなあくびをして立ち上りました。 「ヤレヤレ大変なお嬢さんだ。待っているうちに、又お腹がすいて喰べたくなりそうだ。それじゃおれは外を散歩して来るから、ごゆっくり召し上れ」  と云って、裏の方へ出かけました。  豚吉は裏の方へ来て見ますと、ちょうど春で、野にはいろんな花が咲き、蝶が舞い、雲雀が舞っています。あんまりいい景色ですから、豚吉はぼんやり立って見ていますと、すぐ眼の前の古井戸の口で遊んでいた一人の女の児が、どうしたはずみか井戸の中へ落ちました。  豚吉は驚いて駈け寄りますと、暗い底の方から女の子の泣き声がきこえます。けれども、そこいらに梯子もなければ綱もありません。  豚吉は困りましたが、放っておけば女の児が死にそうですから、すぐに上衣を脱いで、ズボンを脱いで、シャツ一枚になって井戸の中へ真逆様に飛び込みました。  ところが身体が大きいものですから、底へ達きません。それどころか、ほんの入り口の処へ身体が一パイに引っかかって、動くこともどうすることも出来なくなりました。  豚吉は驚きました。 「助けてくれ助けてくれ」  と一生懸命で怒鳴りましたが、身体が井戸の口に塞がっているので外へはきこえず、おまけに下では女の児が泣き立てますので、その八釜しいこと、耳も潰れるばかりです。しまいには豚吉も情なくなって、オイオイ泣き出しました。下からは女の児が泣きます。けれども誰にもきこえませんので、助けに来てくれる人がありません。  その中に豚吉は声が涸てしまいました。  ところへ、井戸へ落ちた児のお母さんが、子供はどこに行ったかしらんと探しながらやって来ましたが、見ると、大きな短い足が二本、井戸の中からニューと突出てバタバタ動いています。驚いて走り寄って見ますと、大きな身体が井戸の口一パイになっていて、下の方から自分の子供の泣き声がきこえます。  お母さんは肝を潰すまいことか。 「まあ、妾の娘はどうしてこんなに急に大きくなったんだろう。何だか男のような恰好だけれど、泣いてる声をきくとうちの子のようだ。何にしても助けて見なければわからない」  と云いながら、急いでその足を捕えて引っぱって見ましたが、どうしてなかなか抜けそうにもありません。  お母さんはいよいよ慌てて村の方へ駈け出しました。 「助けて下さい。うちの娘が井戸の口一パイに引っかかって泣いています。早く誰か来て助けて下さい」  と泣きながらお母さんが叫びますと、村の人々はみんなビックリしました。 「それは珍らしい話だ。まさか井戸の水を飲んでそんなにふくれたんじゃあるまいが……行って見ろ行って見ろ」  と大勢押しかけて来ますと、成る程、井戸の中から大きな足が二本突出てバタバタやっている下から女の児の声がします。 「これは不思議だ。足は男のようだが、声は女の子の声だ」 「変だな」 「面白いな」 「奇妙だな」 「何でもいいから早く引っぱり出して見よう。そうすればわかる」 「そうだそうだ」  と云ううち、大勢寄ってたかって引っぱり初めましたが、身体が井戸の口にシッカリはまっている上に重たいのでなかなかぬけません。 「これはどうだ。中々抜けない」 「どうしたらいいだろう」 「仕方がない。車仕掛けで引き上げよう」 「そうだそうだ。それがいいそれがいい」  と云うので、今度は村長さんのところへ行って井戸の水汲み車を借りて来まして、綱の一方に豚吉の足を結びつけて、その綱を車に引っかけると、大勢でエイヤエイヤと引き初めました。  豚吉は驚きました。何をするかと思うと、大変な強い力でイキナリグングン足を引っぱられ初めましたので、今にも足が腰のつけ根から抜けてしまいそうで、その痛いこと痛いこと。 「痛い痛い。ヒイーッ」  と豚吉は死ぬような声を出し初めました。  これをきいた娘のお母さんは気が気でありません。 「あれ、もう止して下さい止して下さい。娘の足が抜けてしまいます。足が抜けて死んだら大変です」  と泣きながら止めましたので、村の人も引っぱるのを止めました。 「この上引っぱったら足が抜けるばかりだが、どうしたらいいだろう」  と村の人は相談を初めました。 「仕方がないから鍬を持って来て、まわりから掘り出そう」 「それがいいそれがいい」  と云うので、又みんな村へ帰って、めいめいに鋤や鍬を持って来て掘り初めました。 「みんな、気をつけろ。娘さんの腹へ鍬や鋤を打ちこむな」  と大変な騒ぎになりました。  ヒョロ子はそんなことは知りません。最前の通り、二粒か三粒|宛御飯を口に入れて、よく念を入れて噛んでは、お汁をほんのすこし嘗めながら、やっと御飯を一杯とお汁を一杯たべてしまいまして、又一杯食べようとしますと、何だか裏の方で人が騒いでいるようです。 「サア、人間掘りだ人間掘りだ」 「まだ生きているんだぞ」 「怪我させぬように掘出せ掘出せ」  と云う声もきこえます。 「マア、人間掘りなんて初めて聞いた。珍しいこと。御飯はもうおやめにして、ちょっと見てきましょう」  とお茶を飲んで立ち上って、腰をグッと屈めながら、低い裏の入り口から出て行って見ました。  ヒョロ子が裏へ出て見ると、向うの方で大勢人が寄って、土を掘りながら何か騒いでいます。何事かと思って近寄って見ると、こはいかに。豚吉の足が二本、井戸の中からニューと出ておりますから、驚いてすぐに走り寄って、その足を両方一時に掴まえて、 「ウーン」  と引っぱりますと、スッポンと抜けてしまいました。それと一所に下から女の児の泣き声が聞えて来ましたので、ヒョロ子は井戸の口から長い長い手を延ばして、女の児の手を捕まえて、スーッと引き上げて上へ出してやりました。  村の人はもうヒョロ子の力に驚き呆れて、口をポカンと開いたまま見ておりました。  女の児のお母さんは泣いて喜びました。  豚吉も嬉し泣きに泣きながら、脱いだ着物を着て、最前のめしやに帰って来て、ヒョロ子に今までのことをお話ししますと、ヒョロ子も涙を流して喜んで、 「それはよいことをなさいました」  とほめました。  ところが、いよいよ御飯の代金を払おうとしますと、豚吉のお金入れが見当りません。これはきっと最前の井戸のところに落して来たに違いないと思って、又探しに行って見ましたが、そこにもありません。  二人は顔を見合わせて、どうしたらいいか困っておりますと、表の入り口をガラリとあけて、最前馬に引っぱられて走って行った馬車屋のお爺さんが這入って来ました。そうして二人の顔を見ると喜んで、 「ヤア。あなた方はここに居りましたか。私は馬が急に駈け出しましたので、一生懸命で引き止めようとしましたが、どうしても止まりません。やっと向うの町の入り口まで来ると止まりました。それから、あなた方はどうなすったかと思って引き返して見ますと、ここの表の処に私の落した鞭が引っかかっています。それから入り口の処にお金入れが落ちておりましたが、これはもしやあなた方のじゃありませんか」  と云いました。  夫婦は馬車屋の親切に涙を流して喜びました。そうしてお礼を沢山に遣ったあとで、御飯の代金を払ってこの店を出ました。  豚吉夫婦はそれからだんだんと町に近付きましたが、町の入り口まで来ると、そこに大きな河がありまして、水がドンドン流れています。その上に橋が一つかかっていて、その橋を渡らなければ町へ這入られません。 「サア町へ来た。向うの町に這入ると、きっといいお医者が居るのだ。そうしたらお前も私も身体を当り前の恰好にしてもらえるのだ」  と云いながらその橋を渡ろうとしますと、橋のところの小さな小屋から二人の様子を見ていた番人が、 「モシモシ」  と呼び止めました。  豚吉とヒョロ子はうしろから呼び止められましたのでふり返って見ると、それは一人のお婆さんでした。そのお婆さんは二人の様子をジロジロと見ながら云いました。 「私はこの橋の番人だがね。お前さん方はこの橋を渡るならば渡り賃を置いて行かねばなりませんよ」 「そうですか。おいくらですか」  と豚吉は云いながらポケットからお金入れを出しますと、お婆さんは又こう云いました。 「けれども、当り前のねだんでは駄目ですよ。当り前だと一人分一銭|宛ですが、あなたの方は当り前の人間の倍位肥っていられますから、その倍の二銭いただきます。それからあっちの奥さんは、やっぱり当り前の人よりも背丈けが倍ぐらい長いようですから、やっぱり倍の二銭出して下さい」  これをきくと、豚吉は出しかけたお金を引っこめながら、 「おいおい、お婆さん。馬鹿なことを云ってはいけない。いかにも私の身体は他人の倍ぐらい肥っているが、背丈けは半分しかないから当り前の人間と同じことだ。あのヒョロ子でも背丈けは当り前の倍ぐらいあるが、その代り当り前の人間の半分位痩せているから、これも当り前の渡り賃でいいだろう。さあ二銭あげるから、これで勘弁しておくれ」  と云いました。  ところがこれを聞くと、お婆さんは大層|憤ってしまいまして、小さな小舎から出て来ると、橋のまん中に立って怒鳴りました。 「お前さん方は何です。人並|外れた身体をしながら当り前の橋賃でこの橋を渡ろうなんて、ずいぶん図々しい横着な人ですね。私を年寄りだと思って馬鹿にしているのだね。そんなことを云うなら、この橋はどんなことがあっても渡らせないから、そうお思い」  豚吉はその勢の恐ろしいのに驚いてふるえ上ってしまいました。けれどもこの橋を渡らなければ町へ行かれないのですから、豚吉は元気を出してお婆さんを睨み付けました。 「この婆は飛んでもない奴だ。貴様はだれに云いつかってこの橋の渡り賃を取るのだ」 「生意気なことをお云いでない。あの向うの橋の渡り口を御覧……あすこにお役所があるだろう。あのお役所の云い付けでここに番をしているのが、お前さんたちはわからないか。愚図愚図云うとお前さんたちの首に縄をつけて、あすこのお役人の所へ連れて行つて獄屋に打ち込んでしまうが、いいかい」  と大変な勢いです。豚吉は又青くなってしまいました。  さっきからこの様子を見ていたヒョロ子は、この時そっと豚吉の袖を引きまして、こう云いました。 「およしなさい。こんなお婆さんと喧嘩をするのは……。それよりもこの河は浅そうですから、私があなたを背負って渡りましょう」  と云いました。  豚吉はこう云われて河の方を見ましたが、成る程、河の水はザアザアと浅そうに見えて流れております。けれどもやっぱり何だか恐ろしそうですから、又元気を出して婆さんに云いました。 「いけない。いくらお役人に頼まれていても、一人の人間から二人前のお金を取っていいことはあるまい。何でも一銭でこの橋を渡らせろ」 「いけない。そんなことを云うなら、もう百円出してもこの橋は渡らせない。喧嘩するならお出で。私が相手になってやる」 「何を、この糞婆ア」  と云ううちに、豚吉は真赤に怒って、イキナリお婆さんに掴みかかって行きました。  豚吉は、何をこの梅干|婆と、馬鹿にしてつかみかかって行きました。ところがその強いこと、橋番のお婆さんはイキナリ豚吉を捕まえますと、手鞠のように河の中へ投げ込んでしまいました。  これを見ていたヒョロ子は驚きました。 「あれ、あぶない」  と云ううちに、自分も河の中へ飛び込んで、 「助けてくれ助けてくれ」  と叫びながら流れてゆく豚吉のあとから、長い足でザブザブと河の水を蹴立てて追っかけましたが、間もなく豚吉を捕まえまして、片手に提げて河を渡ると、今度は橋の向う側に上って来ました。  これを見ていたお婆さんはカンカンに憤って、橋を渡って追っかけて来ました。そうしてヒョロ子の腕を掴みながら、 「お前達は泥棒だ。橋の渡り賃を払わずにこの河を渡った者は懲役に行くのだ。サア来い。お役所に連れてゆくから」  と怒鳴りました。  豚吉はふるえ上がってしまいました。  けれどもヒョロ子は驚きません。婆さんに腕を掴まれたまま静かに云いました。 「そんなわからないことを云うものではありません。私たちはあの橋を渡らずにここまで来たのです。橋を渡っていませんから、お金も払わなくていいでしょう」  と云いましたけれども、お婆さんはなかなか承知しません。 「いけないいけない。何でもお金を払わなければいけない」  と大きな声を出しました。  さっきからこの様子を見ていたお役所の役人は、あんまり夫婦の姿が珍らしいので、みんな出て来て三人のまわりを取巻いてしまいました。そうするとお婆さんは益勢付いて、やっぱりヒョロ子の腕を掴んだまま怒鳴り立てました。 「お役人様。この夫婦は泥棒ですよ。橋賃を払わずにこの橋を渡ったのです」 「いいえ、違います」  と、流石に堪忍強いヒョロ子にも我慢しきれなくなって云いました。 「あなたが初め私達二人に倍のお金を払えと云ったから、私たちは河を渡ったのです」 「ウン、そんなら橋賃は払わなくてもいい」  と、一人の年|老った役人が云いました。これをきくとお婆さんは一層怒って、 「ええ、口惜しい。あなた方は泥棒の味方をするのですか。そんならこの腕をヘシ折ってやる」  と云ううちに、ヒョロ子の腕に両手をかけました。  ヒョロ子は驚きました。腕をへし折られては大変ですから、思わずその手を一振り振りますと、それに掴まっていたお婆さんは、まるで紙布のように宙に飛んで、河の中へポチャンと落ちてドンドン流れてゆきました。これを見た役人たちは、 「ヤッ、大変だ」  というので、みんな婆さんを助けに走ってゆきます。ヒョロ子もビックリして助けに行こうとしますと、今度は豚吉が腕を捕まえて離しません。 「今の間に逃げろ逃げろ」  と云ううちに、ヒョロ子を引っぱってドンドン逃げ出しました。  豚吉とヒョロ子夫婦は、成るたけ人の泊らない淋しそうな宿屋を探し出して泊りますと、豚吉の着物を乾かしたり、お昼御飯をたべたりしましたが、それから宿屋の番頭さんを呼んで尋ねました。 「私たちは見かけの通り、身体が長過ぎたり太過ぎたりするものですが、この町に私達の身体を当り前に治してくれるお医者さんは無いでしょうか」 「それはよいお医者があります」  とその番頭さんは云いました。 「この町の外れに一軒のきたないお医者様の家があります。そこの御主人は無茶先生と云って、無茶なことをするので名高いのですが、どんな無茶なことをされてもそれを我慢していると、不思議にいろんな病気がなおるのです」 「フーン。その無茶とはどんなことをするのだ」  と豚吉が心配そうにききました。 「それはいろいろありますが、わるいものをたべてお腹が痛いと云うと、口から手を突込んで腹の中をかきまわしたり、眼がわるいと云うと、クリ抜いて、よく洗って、お薬をふりかけて、又もとの穴に入れたりなされます」 「ワー大変だ。そんな恐ろしいお医者は御免だ」 「そうで御座いましょう。どなたもそれが恐ろしいので、その無茶先生のところへは行かれませぬ。そのために無茶先生はいつも貧乏です」 「もうほかにお医者は無いか」 「そうですね。只今ちょっと思い出しませんが」 「そうかい。又上手なお医者があったら知らせておくれ」 「かしこまりました」  と番頭さんは帰ってゆきました。 「あなたはその無茶先生のところへお出でになりませんか」  とヒョロ子が云いますと、豚吉は眼をまん丸にして手を振りました。 「おそろしやおそろしや。そんなお医者のところへ行って、殺されたらどうする」 「でも、どんな病気でも治るというではありませんか。一度ぐらい殺されても、又生き上ればよいではありませぬか」 「お前は女の癖に途方もないことを云う奴だ。もし生き上らなかったらどうする」 「そんなことをおっしゃっても、あなたはまだそのお医者が上手か下手か御存じないでしょう」 「お前も知らないだろう」 「ですから試しに行って見ようではありませんか。もしその先生のおかげで私たちの身体が当り前になれば、こんな芽出度いことはないでしょう」  とヒョロ子が一生懸命になってすすめますので、豚吉もためしに行って見ることにきめました。  豚吉とヒョロ子はそれから連れ立って町の外れへ来てみますと、成る程、そこに一軒のキタナイお医者様の札が出て、無茶病院という看板が出ております。ソレを見ると豚吉はもうふるえあがって、 「おれはいやだ。無茶病院という位だから、どんなヒドイ目に会わせられるかわからない。帰ろう帰ろう」  と引っかえしかけました。それをヒョロ子は押し止めまして、 「マアお待ちなさい。只先生に会ってお話をきくだけならいいじゃありませんか。そのあとで診てもらうかどうだかきめたらいいでしょう」  と、無理に豚吉の手を引いて中へ這入って行きました。  豚吉とヒョロ子は無茶病院に這入って、院長の無茶先生に会いますと、先生は髭もあたまも野蕃人のように長くのばして、素っ裸体で体操をしていましたが、二人の姿を見るとニコニコして裸体のまま出て来て、 「ヤア、よく来たよく来た。お前たちのような片輪は珍らしい。しかも夫婦揃って来るとは感心感心。おおかた当り前の身体に治してもらいに来たのだろう。よく来たよく来た。おれがすぐに治してやる。お前たちのような病人を治すものは世界中におれ一人しか居ないのだ。さあ、こっちへ来い」  と独りでしゃべりながら、豚吉の手を掴まえて奥の方へ引っぱって行こうとしました。 「一寸待って下さい」  と叫んで豚吉は手を引っこめました。 「あなたはどんなことをして私の身体を治して下さるのですか」 「アハハハハハハ。貴様はよっぽど弱虫だな。そんなことではお前の身体は治らないぞ。おれは貴様の背骨を引き抜いて長くしておいて、それにお前の身体を引きのばしたのを引っかけるのだ」 「ワッ」  と、豚吉はふるえ上って逃げ出そうとしました。それをヒョロ子はしっかりと押え付けて、又先生に尋ねました。 「それは痛くはありませんか」 「いいや、ちっとも痛いことはない。睡らしておいて、その間に済ませてしまうのだから」 「ああ、安心した。それじゃやってもらおう」  と豚吉が云いましたので、ヒョロ子はやっと豚吉の手を離しました。 「それじゃ、私の方はどうなさるのです」  と、今度はヒョロ子が心配そうに聞きました。 「アッハッハッ。貴様たちは夫婦共揃って弱虫だな。お前の方もおんなじことだよ。ちっとも知らない間に治すのだよ。しかし、そんなに恐ろしがるなら、ちっと面倒臭いが早く済むようにしてやろう。お前達はこれから獣の市場へ行って、生きた鹿と猪を一匹|宛買って来い。女の方には猪の背骨を入れて背を低くしてやる。男の方には鹿の背骨を入れて背を高くしてやる」 「エッ、猪と鹿の骨を」  と二人は眼をまん丸くしました。 「そうだ。そうすれば、お前達の骨を引っぱり延ばさなくてもいいから、わり合い早く済むのだ」  二人は顔を見合わせました。二人は猪や鹿の骨を背中に入れられるのは好きませんでしたけれども、一生片輪でいるよりもその方がいいので、 「では猪と鹿を買って来ます」  と云って、無茶先生の家を出ました。  豚吉とヒョロ子とは無茶先生の家を出て、この町の獣市場に来ましたが、どこを探しても鹿だの猪だのを売っているところはありません。みんな牛だの馬だの犬だの豚だのばかりです。二人はしかたなしに市場の主人に会って、 「どこかここいらに、生きた鹿だの猪だのを売っているところは無いか」  と尋ねますと、主人は頭を振って、 「鹿や猪の肉を売っているところはありますけれども、生きたのを売っているところはありません。動物園になら居るかも知れませんけれど、あそこのは見物に見せるためで売るのではありませんからダメでしょう。しかし、一体そんなものをあなた方は何になさるのですか」  と尋ねました。二人はきまりがわるう御座いましたけれども、困っているところでしたからわけをすっかり話しまして、どうかして助かる工夫は無いものかと相談をしますと、主人は腹を抱えて笑い出しました。  二人はおこってここを出て行こうとしますと、市場の主人は又押し止めて、 「ちょっと待って下さい」  と云いました。 「この町から一里ばかり離れたところの村に神様があって、きょうがちょうどお祭りの筈です。そこには毎年いろんな見世物が来ますが、その中には獣の見世物もあって、その中に猪や鹿も居る筈です。今年は来ているかどうかわかりませんが、行って御覧なさい。もしその見世物が居たら、お金さえ沢山出せば、ライオンでも象でも売ってくれるに違いないと思います。いっその事、あなた方は思い切ってライオンや象を買って、その骨を入れたら大きくて丈夫でよくはありませんか」  と又笑い出しました。  二人は腹が立ちましたけれども、折角いい事を教えてくれたのですから、御礼を云ってここを出まして、それから二人連れでエッチラオッチラ一里ばかり歩いてその村に来ますと、成る程、村中は大変な騒ぎで、今が祭りの最中です。  その中へ世にも珍らしい姿の夫婦がやって来たものですから、サア大変です。 「ヤア。見世物みたような珍らしい夫婦が来た」  というので、ワイワイワイワイ押しかけて来て、夫婦は歩くことも出来ません。  豚吉もヒョロ子も恥かしくなって逃げ出したくなりましたが、きょうは大切な用事で来たのですから逃げる訳に行きません。一生懸命で人を押しわけながら先ず神様へ参りまして、二人とも手を合わせて、 「どうぞ私どもの身体が当り前の人のように恰好よくなりますように」  とお祈りを上げまして、それからお宮のうしろの見世物の処へ来ますと、そこは前よりも一層賑やかで、音楽隊の音や見物を呼ぶ声が耳も潰れるようです。  夫婦はビックリして立止まって見ておりましたが、そのうちに向うの方に獣の絵看板を沢山に並べた一軒の見世物小舎が見つかりました。  豚吉とヒョロ子夫婦はその動物の見世物小屋の方へ行きますと、夫婦の珍らしい姿を見に集まったものがあとから黒山のようについて来ます。それを構わずに夫婦はやがてその見世物小屋の前に来て、お金を払って中に這入りますと、あとからついて来た黒山のように沢山の人間も、夫婦の珍らしい姿が見たさにわれもわれもとお金を払って中に這入りましたので、大きな見世物小屋が一パイになりました。  二人は中に這入って見ますと、象やライオンや大蛇や虎の中にまじって、猪や鹿もおりましたので大喜びしまして、表に出て入り口の番人にこの動物園の主人に会わしてくれまいかと頼みますと、その番人はニコニコしながら、 「私が主人です」  と云いました。 「ヤア。それは有り難い。それなら一つ、私達夫婦からお願いしたいことがあるがきいてくれないか」  と豚吉もニコニコして云いました。すると主人は又一層ニコニコしまして、二人の顔を見ながら、 「それならば私からもお願いしたいことがあります。しかし、ここでは忙しくてお話が出来ませんから、こちらへお出でなさい」  と、夫婦を自分達の宿屋へ連れてゆきました。  動物園の主人は宿屋へ来ますと、夫婦にお茶やお菓子を出してもてなしながら、 「あなた方のお頼みとはどんなことですか」  とききました。夫婦は代る代るに、自分達が世にも珍らしい片輪であることから、無茶先生のところへ来て治してもらおうと思ったこと、そうしたら無茶先生が鹿と猪を買って来いと言われたことまで話しまして、 「済まないが、お金はいくらでもあげるから、あなたの処に居る猪と鹿を私達に売ってくれまいか」  と頼みました。  動物園の主人はこれをききまして、 「それはお易いことです。今日でも売ってあげましょう。しかし、そんなことをなさらずとももっといい事がありますが、その方になすっちゃどうです」  と、又ニコニコしながら云いました。  豚吉は無茶先生から治してもらうよりももっといい事があると聞いて喜びまして、 「それはどんなことをするのですか」  と尋ねました。動物園の主人はエヘンと咳払いをしまして、 「それはこうです。あなた方は世にも珍らしいお身体をしておいでになるので、又そんなお身体に生れて来ようと思ってもできる事ではありません。それを治してしまうのは惜いことです。それよりも一層のこと、私に雇われて下さいませんか。そうすればお金はこちらからいくらでもあげます。あなた方が二人、私のところに居らるれば、毎日見物人が一パイで、私は山のようにお金を儲けることが出来ます。どうぞあなた方御夫婦で見世物になって下さいませんか」  とまじめ腐って云いました。  豚吉はこれを聞くと、今までニコニコしていたのに急に憤り出しまして、大きな声で動物園の主人を怒鳴りつけました。 「この馬鹿野郎、飛んでもないことを云う。おれたちはまだ見世物になるようなわるいことをしていない。貴様は何という失敬な奴だ」  と、真赤になって掴みかかろうとしました。  ヒョロ子は慌ててそれを押し止めまして、 「お待ちなさい。この動物園の御主人は何も御存じないからそんなことをおっしゃるのです。折角鹿や猪を売ってやろうとおっしゃるような親切な方に、そんなことを云うものではありません」  と云ってから、今度は青くなっている動物園の主人に向って、 「どうも私の主人は気が短いので、すぐ憤り出して済みません。けれども見世物になることだけはおことわり致します。ほんとのことを申しますと、私達は人から見られるのがイヤで、婚礼の晩に逃げ出して来たくらいです。きょうでも只鹿や猪の生きたのが欲しいばっかりに、あなたのところへ行きましたのです。ですから、済みませんが鹿と猪を売って下さいませんか」  とていねいに頼みました。  動物園の主人はガッカリした顔をしてきいておりましたが、やがてうなずきまして、 「それじゃよろしゅう御座います。売って上げましょう。今夜遅く、一時過ぎに入らっしゃい。生きた猪と鹿を箱ごと上げます。そうして車に積んで、無茶先生のところまで持たして上げますから」  と云いました。  夫婦は喜んでお礼を云いまして、そこを出て、一先ず町の宿屋へ帰りました。  豚吉とヒョロ子夫婦はその夜遅く動物の見世物小舎の前まで来ますと、もう見物人も何も居ず、音楽隊やそのほかの雇人も皆一人も居なくなって、表には主人がたった一人番をしておりましたが、二人を見ると、 「サアサア、こちらへお出でなさい。猪と鹿とをチャンと檻に入れておきました」  と、ニコニコして見世物小舎の中に案内しました。  ところが二人が何気なく見世物小舎に這入りますと間もなく、地の下に陥囲が仕かけてありましたので、二人ともその中に落ち込んだ上に、その又|陥囲の中に在った蹄係に手足を縛られて、身体を動かすことも出来なくなりました。  その時に動物園の主人は穴の上からのぞいて、大きな声で笑いました。 「アハハハハハ。ザマを見ろ。折角人が親切に雇ってお金を儲けさしてやろうと思ったのに、云うことをきかないからそんな眼に合わされるのだ。あしたからお前達を見世物にして、おれはお金をウンと儲けるつもりだ。サアみんな出て来い」  と云いますと、今まで隠れていた見世物の雇い人が出て来て、二人を押えつけて新しい檻の中に入れて、上から幕を冠せました。  檻に入れられるとすぐに豚吉はワーワー泣き出しましたが、ヒョロ子は泣きません。かえってニコニコしながら豚吉の耳に口を寄せて、 「泣かないでいらっしゃい。もうすこしするとこの檻から出られますから」  と云いました。豚吉は泣き止むと一所にビックリしまして、 「エッ。この檻の中からどうして逃げられるのだ」  と云いました。ヒョロ子は慌ててその口を押えて、 「黙っていらっしゃい。今にわかりますから。大きな声を出すと、逃げるときに見つかりますよ」  と云いましたので、豚吉は黙ってしまいました。  そのうちに動物園の主人が、 「サア、皆うちへ帰っていい。二人はもう檻へ入れたから大丈夫だ」  と云いますと、みんな帰ったようすで、そこいらが静かになりました。  ヒョロ子は真暗い檻の中で豚吉の耳に口を寄せて、 「サア待っていらっしゃい。二人でこの檻を出ますから」  と云いましたので、豚吉はビックリしました。やはり小さな声で云いました。 「どうして逃げるのだ。前には鉄の棒が立っているし、うしろの入り口には鍵がかかっているし、どこからも出るところは無いではないか」 「待って入らっしゃい。今にわかります。私が先に出て、あとからあなたが出られるようにして上げますから、ジッとして待っていらっしゃい」  と云ううちに、ヒョロ子は前に並んではめてある鉄の棒の間から足を出しました。それから身体を横にして少しゆすぶりますと、幅も厚さも当り前の人の半分しかないのですから、わけなくスーと外へ出ました。  それからヒョロ子は、外を包んだ幕をまくって外へ出て、そこいらから大きな丸太ん棒を拾って来て、豚吉が這入っている檻の鉄の格子の間に突込んでグイグイと押しますと、太い鉄の棒が一本外れました。  待ちかねた豚吉は慌ててその間から出ようとしましたが、まだ出られませんので、又一本外しましたが、まだ出られません。又一本、又一本と、都合五本外しましたら、やっと豚吉が出て来ることが出来ました。 「助かったア」  と豚吉は嬉しまぎれに叫びましたので、ヒョロ子はビックリして止めまして、 「そんな声を出してはいけません。誰か居たらどうします」  と云ううちに、檻の外にかかった幕を揚げて、見世物小屋の入口の処に来ますと、さっき居た主人はどこに行ったか見当りません。いいあんばいだと、二人は真暗な中をドシドシ逃げてゆきました。  動物園の見世物の主人はそんなことは知りません。  二人を檻に入れますとすぐに宿屋に帰って、自分の手下の中で画をよく書く者に、ヒョロ長いヒョロ子の姿とブタブタした豚吉の姿を描かせました。それを夜の明けぬうちに見世物小屋の上にあげさせました。それを眺めて動物園の主人はニコニコして、 「これでいいこれでいい。サアみんな寝ろ。あしたは見物が一パイに来るに違いないから、みんな早く起きて来るんだぞ」  あくる朝になりますと、見世物小舎の主人は、前の晩に豚吉夫婦を捕えて檻の中へ入れたり何かしたものですから疲れたと見えまして、たいそう朝寝をして眼を覚ましましたが、見ると雇人もまだみんなグーグーと睡っています。それを一人一人に起こして、揃って御飯を喰べて、見世物小舎の前に来て見ますと、この小舎の前はもう人間で中に這入れない位です。その人々は皆口々に、 「早く入り口をあけろあけろ」 「あの看板に出ている珍らしい夫婦を見せろ見せろ」  と怒鳴っています。それを早起きして来た動物の番人が一生懸命で止めています。  見世物小舎の主人は飛び上って喜びました。その大勢の人を押しわけて中に這入りますと、いきなり高い処に上って演説を初めました。 「サアサア皆さん、静かにして下さい。今から皆様にあの看板の通りの世界一の珍らしい夫婦を御目にかけます。あの夫婦は昨日この見世物小舎に見物に参りましたのですが、御覧の通り珍らしい姿ですから、私が百万円出して夫婦を買い取りまして皆様にお眼にかけることにしました。ですから、あれを御覧になりたいとおっしゃる方は、一人前一円|宛お出しにならねばお眼にかけません。サアサア皆さん。又と見られぬ世界一の珍らしい夫婦です。おかみさんの高さが一丈八尺もあって、旦那様の高さがたった三尺という百万円の珍夫婦……一円位は安いものです。入らっしゃい入らっしゃい」  これをきくと、何しろ大評判な上に又と見られないというので、われもわれもと一円出して、見る見るうちに中は一パイになってしまいました。  そうすると見世物小屋の主人は今度は中に這入って来て、見物の前に立ちまして、 「サアサア皆さん。よく御覧なさい。これが世界一の珍夫婦です」  と云ううちに、前にかかっていた幕を外しますと……どうでしょう……丈夫な鉄の格子が五本も外れて、中には夫婦の姿は見えません。  見世物小屋の主人は肝を潰しました。 「こりゃあどうじゃ。いつの間に逃げたんだろう。その上にこの丈夫な檻の格子を破るなんて何と恐ろしい力だろう」  と呆気に取られておりました。  けれども見物は承知しません。 「ヤアヤア。その珍らしい夫婦はどうしたんだどうしたんだ」  とわめきますので、見世物小屋の主人は頭を抱えて、 「昨夜、檻を破って逃げられたんです。たしかにこの中に入れといたんですが」  と云いましたけれども、見物はやっぱり承知しません。 「その檻を破るような人間があるものか。貴様は嘘をついているのだろう」  と、みんなワアワア騒ぎ出しました。これを見ると主人は慌てて、 「嘘じゃありません嘘じゃありません。御勘弁御勘弁」  と云いながら、頭を抱えて逃げ出しました。 「アレッ。畜生。嘘をついてお金を取って逃げようとするか。泥棒だ泥棒だ。殴っちまえ殴っちまえ」  と云ううちに大勢の見物人が上って来て、見世物小屋の主人をメチャメチャに殴り付て、踏んだり蹴ったりしますと、めいめいお金を取り返して帰って行ってしまいました。  その時に豚吉とヒョロ子は町の宿屋に帰ってグーグー寝ておりましたが、そのうちに二人共眼がさめて、 「これからどうしよう」  と相談を初めました。 「せっかく見世物の鹿や猪を見つけたかと思うと、あべこべにこっちが見世物にされそうになって、危いところをやっと助かった」  と豚吉が云いますと、ヒョロ子もほっとため息をして、 「無茶先生が待っていらっしゃるでしょう」  と云いました。そうすると豚吉は何か一生懸命に考えておりましたが、やがて不意に飛び上って喜んで、 「そうだそうだ。うまいことを考えた。おれはちょっと行って来る」  と云ううちに宿屋を飛び出しました。そうしてやがて帰って来たのを見ると、市場から大きな馬と小さな豚を一匹買っております。 「サア、どうだ。馬と鹿なら似ているだろう。豚と猪も似ているだろう。だから、馬と鹿の背骨も、豚と猪の背骨も似ているに違いない。これでいいかどうか、無茶先生のところへ持って行って見ようではないか」  ヒョロ子もこれを見て大層感心をしまして、 「ほんとにそれはいい思い付きですわね。どうして今までそんないい事に気が付かなかったでしょう」  と云うので、それから二人は連れ立って、馬と豚とを連れて無茶先生のところへ出かけました。  無茶先生は昨日の通り頭や髭を蓬々として裸で居りましたが、豚吉夫婦が生きた馬と豚を持って来たのを見ると腹を抱えて笑いました。 「アハハハハハハハ。鹿と猪の代りに馬と豚をつれて来たのは面白いな。お前たちさえよければ馬と豚の背骨でも構わない。入れかえてやろう。その代り鹿や猪よりも太くて、しかも長く持たないぞ」 「ヘエ。どれ位持つでしょうか」 「そうだな。鹿の背骨が千年持つならば、馬の背骨は五百年持つ。それから猪のがやはり千年持てば、豚のもやはりその半分の五百年持つのだ」 「それなら大丈夫です。私達は五百年の千年のと生きる筈はありませんから、せいぜいもう百年持てばいいのです」 「馬鹿野郎。まだ自分が死にもせぬのに、五百年生きるか千年生きるかどうしてわかる」 「ヤ。こいつは一本参りましたね」  と豚吉は頭をかきました。 「それじゃ私たちは五百年も生きるでしょうか」 「生きるとも生きるとも。馬や豚の背骨の中におれが長生きの薬を詰めて入れておけば、五百年位はわけなく生きる」 「ヤッ。そいつは有り難い。それじゃすぐに入れ換えて下さい」 「よし。こっちへ来い」  と云ううちに、無茶先生は豚吉とヒョロ子を連れて奥の手術場に連れ込みました。  無茶先生はやっぱり裸体のままの野蛮人見たような恐ろしい姿をして、まず豚吉をそこにある大きな四角い平たい石の上に寝かしました。  それから、夫婦が連れて来た二匹の獣のうち馬の方だけを手術場に引っぱり込んで、豚吉の横に立たせて、白い繃帯でめかくしをしました。  それから戸棚をあけて、一梃の大きな金槌とギラギラ光る出刃庖丁を持ち出して、まず金槌を握ると、馬の鼻づらをメカクシの上から力一パイなぐり付けましたので、馬はヒンとも云わずに床の上に四足を揃えてドタンとたおれました。  それから、驚いて真蒼になって見ている豚吉の頭の処へ来て、イキナリ金槌をふり上げましたので、豚吉は床の上にコロガリ落ちたまま腰を抜かしてしまいました。  ヒョロ子は肝を潰すまいことか、慌てて走り寄って無茶先生の手に縋りついて、 「マア。何をなさいます」  と叫びました。  無茶先生はヒョロ子に止められるとあべこべにビックリした顔をして、振り上げた金槌を下しながら怖い顔をして云いました。 「何だって止めるのだ。この金槌で豚吉の頭をなぐるばかりだ」 「マア、怖ろしい。そうしたら私の大切な豚吉さんは死んでしまうじゃありませんか」 「ウン、死ぬよ」 「死んだものに背骨を入れかえて背丈を高くしても、何の役に立ちますか」 「アハハハハ」  と無茶先生は笑い出しました。 「アハハハ、そうか。お前たちはこの金槌でなぐられて死ぬと、もう生き返らないと思って、そんなに心配をするのか。それなら心配することはない。今一度殴れば生き返るのだ。ソレ、この通り」  と云ううちに、無茶先生は傍にたおれている馬の額を金槌でコツンと打ちますと、死んだと思った馬は眼を開いてビックリしたように飛び起きました。無茶先生は大威張りで、又馬を打ちたおしました。 「それ見ろ、この通りだ。豚吉でもこの通り」  と、イキナリ豚吉の頭に金槌をふり上げますと、 「助けてくれッ」  と豚吉は泣き声を出しながら表の方へ駈け出したので、ヒョロ子も一所に走り出しました。そのあとから、生き残った豚もくっついて走って行きました。 「ヤア大変だ」  と無茶先生がその豚を裸のまんま追っかけました。 「貴様は殺したあとで肉を売って喰おうと思っていたのに……ヤーイ……豚ヤーイ」  と怒鳴りながら駈出しましたので、豚吉は自分の事かと思って一生懸命に走ります。そのあとからヒョロ子が走ります。そのあとから豚が走ります。そのあとから無茶先生が真裸体で走りますので、往来を通っている人はみんなビックリしました。 「何だろう」 「どうしたのだろう」 「行って見ろ行って見ろ」 「ワイワイワイワイ」  と集まって、往来一パイになってかけ出しました。  そのうちに無茶先生はやっと豚の尻尾を押えましたので、それを逃がすまいと一生懸命になっている隙に、豚吉とヒョロ子は一生懸命逃げて宿屋へ帰りましたが、自分たちの居間に這入ると二人はホッと一息しました。 「アア、驚いた。いくら死ななくても、あの金槌でゴツンとやられるのは御免だ」 「ホントに恐ろしゅう御座いましたね」  二人は話し合いました。 「おれあもう諦めた。一生涯片輪でもいい。おれたちの片輪を治してくれるお医者は無いものと思ってあきらめよう」 「ほんとに。あんな恐ろしい眼に遇うよりも片輪でいた方がいいかも知れません」  夫婦がこんなことを云っているところへ、表の方が大変騒がしくなりましたから、何事かと思って障子のすき間から夫婦でのぞいて見ますと、コハイカニ……表の通りは一パイの人で、みんな口々に、 「さっきこの家に走り込んだ珍らしい夫婦を見せろ見せろ」  と怒鳴り散らしております。  それをこの家の番頭さんが押し止めて、 「いけませんいけません。あれは私の家の大切なお客様ですから、私の方で勝手に見せるわけに参りません。もし見たいとお思いになるならば、私のうちにお泊り下さるよりほかに致し方ありません」  と大きな声で云っております。  往来の人々はそれを聞くと、 「そんならおれはここに待っていて、あの夫婦が出かけるのを待っている」  というものと、 「おれはこの家に泊って、是非ともあの夫婦を見るんだ」  というものと二つに別れましたが、泊る方の人々は、 「サア。番頭さん、泊めてくれろ。宿賃はいくらでも出す。ゼヒとも一ぺんあの珍らしい夫婦を見なければ――」  と番頭さんに云いましたが、番頭さんは又手を振りました。 「いけませんいけません。あなた方より先にこの宿に泊っている人でこの宿屋は一パイなのです」 「この野郎、嘘を吐くか」  とその人々は騒ぎ立ちました。 「貴様はうるさいものだからそんなことを云うのだ。泊めないと云うなら、表を押破って這入るぞ」  といううちに、われもわれもと番頭を押しのけてドンドン中へ這入って来ました。  これを聞くと豚吉はふるえながら、 「どうしよう」  といいます。ヒョロ子も何ともしようがないので、互に顔を見合わせておりますと、そのうちに下からドカドカと大勢の人が上がって来るようです。 「どこだどこだ」 「下の方には居ないようだ」 「二階だ二階だ」  といううちに、五六人ドカドカと二階の梯子段を飛び上って来る音をききますと、ヒョロ子は慌てて豚吉の方へ背中を向けて、 「サア、私におんぶなさい」  と云いました。そうして、 「どうするのだ」  と驚いている豚吉を捕えて背中に負うて、そこにあった帯で十文字にくくり付けますと、すぐに窓をあけて屋根の上に飛び出しました。  これを見付けた往来の人々は大騒ぎを初めました。 「ヤア。屋根に出て来たぞ。しかも男が女に背負さっているぞ。みんな出て来い。見ろ見ろ」  と口々に叫びました。  ヒョロ子はそれを見るとすぐに隣の屋根にヒョイと飛び移って、屋根を伝って、又その先の屋根へヒョイと飛び移って行きました。そうすると、これを見付けた宿屋の番頭が又大声を出して、 「ヤア。あの夫婦は喰い逃げだ。喰い逃げだ。みなさん、捕まえて下さいッ」  と叫びました。 「ソレッ、捕まえろ」  と、大勢の見物人も屋根伝いに逃げる二人のあとから往来の上をドンドン追っかけ初めました。  こうなるとヒョロ子も一生懸命です。屋根から屋根、軒から軒と、重たい豚吉を背負ったまま飛んでは走り飛んでは走りします。それを下から見物人が指さしながら、 「あっちへ逃げたぞ」 「こっちへ来たぞ」  と面白半分に追いまわします。そのうちに通りかかりの人々は皆、屋根の上を走る奇妙な夫婦の姿を見て驚いて、みんなと一所に走り出しますので、人数はだんだんに殖えるばかり。しまいには何千人とも何万人ともわからぬ位になって、ワアワアワアワアワアと町中の騒ぎになりました。  けれども、遠く離れた往来を通っている人には何事だかわかりません。 「何という騒ぎだろう」 「戦争でしょうか」 「鉄砲の音がしない」 「火事だろうか」 「煙が見えない」 「何だろう何だろう」 「行って見ろ行って見ろ」  駈け出すものや、屋根に上るものなぞが、あとからあとから出来て、騒ぎはいよいよ大きくなるばかり。中には転んで踏み潰されたり、屋根から落ちて怪我をしたり、又はブツカリ合って喧嘩を初めるものなぞがあって恐ろしい有様になりました。  そうなると警察もほっておくわけに行きませんので、ドンドン巡査を繰出します。消防も半鐘をたたいたので、近くの町や村々の消防や蒸気ポンプがわれもわれもと駈け付けましたが、何しろ騒ぎが大きいのと、どこの往来も人で一パイなので近寄ることが出来ません。一所になって、 「静まれ静まれ」  と叫ぶばかりなので、町中は引っくり返るような騒ぎです。  こちらはヒョロ子です。豚吉を背負ったまま高い屋根の上に立って四方を見渡しますと、見渡す限りの往来も屋根もみんな人間ばかりで、警察や消防も出て来ているようです。どっちを向いても逃げようがありません。 「ああ、情ないことになった。おれたちが片輪に生れたばっかりに、こんな騒ぎになった。もうとても助からぬ。捕まったら殺されるに違いない」  と、豚吉はヒョロ子の背中に掴まって、ブルブルふるえながらオイオイ泣き出しました。  ヒョロ子も涙を流しながら、 「ほんとにそうです。けれども私たちが結婚式の晩に村を逃げ出しさえしなければ、こんな眼に会わなかったでしょう。お父さんやお母様や親類の人達に御心配をかけた罰でしょう」  と云いました。 「そうじゃない」  と豚吉は怒鳴りました。 「あの橋を無理に渡って、こんな馬鹿ばかり居る町に来たからこんな眼に会うのだ」 「そうじゃありません。音なしくあの見世物師の云うことをきいて見世物になっておれば、こんなことにならなかったのです。檻を破ったり何かした罰です」 「そうじゃない。あの無茶先生に診せに行ったのがわるかったんだ」 「そうじゃありません。あの無茶先生がせっかく治してやろうとおっしゃったのを、逃げ出したからわるいのです」 「そうじゃない。お前がおれをこんなに背中に結び付けて、屋根の上を走ったりするもんだからこんな騒ぎになるのだ。お前は馬鹿だよ」 「馬鹿でもほかに仕方がありませんもの……」 「ああ、飛んだ女と夫婦になった」 「そんなら知りません。あなたをここに捨てて逃げてゆきます」 「イケナイ。そんなことをすると喰い付くぞ、この野郎」  と云うと、イキナリ豚吉はヒョロ子の髪毛を捕まえました。 「アア痛い。放して下さい放して下さい。逃げられませんから」  とヒョロ子は金切声を出しました。  これを見た往来の人々は、 「ヤア。あすこで夫婦喧嘩を初めた。今の間に捕まえろ」  というので梯子を持って来ますと、元気のいい二三人の青年が屋根の上に飛び上って来ました。  それを見ると、豚吉は慌ててヒョロ子の髪毛を放しながら、 「ソレ、捕まるぞ。逃げろ逃げろ」  と云いますと、ヒョロ子は夢中になって往来を隔てた向うの屋根に飛び移りました。 「ソレ、又逃げ出した」 「あっちへ行った」 「追っかけろ追っかけろ」  と追いまわし初めましたが、何しろ人数が多いのでヒョロ子夫婦はどっちへも逃げようがありません。それをあっちへ飛び、こっちへ飛びしているうちに、ヒョロ子は豚吉を背負ったままだんだん町外れの方へ来ましたが、その家の無くなりがけに小さい古ぼけた屋根が見えます。そこから先はもう家も何も無い上に、仕合わせと人間もまだ追い付いて来ていない様子で、往来には誰も居ないようですから、ヒョロ子は占めたと思いまして、高い屋根の上からその低い屋根の上に両足を揃えて飛び降りますと、その屋根は腐っていたものと見えまして、ヒョロ子と豚吉の重たさのためにズバリと破れました。そうしてその勢いでヒョロ子は豚吉を背負ったまま屋根の下の天井までも打ち抜いて、その下に寝ている人の腹の上にドシンと落ちかかりました。 「ギャッ。ウーン」  と云って、寝ている人はそのまま眼をまわしてしまいましたが、そのおかげでヒョロ子も豚吉も怪我をしないで起き上って見ますと、こは如何に……眼をまわしているのは無茶先生で、そこいらには鍋だの焜炉だの豚の骨だの肉だのが一面に散らばっております。その横には最前の馬もまだ足を投げ出して寝ています。 「まあ。大変よ、無茶先生ですよ。さっきの豚を捕まえて召し上って、寝ていらっしたところですよ。その上から私たちが落ちかかったのですよ……まあ、ほんとにどうしましょう」  とヒョロ子は泣声を出しました。 「心配するな。そこにあるバケツの水を頭からブッかけて見ろ」  と豚吉が背中から云いましたので、ヒョロ子はその通りに無茶先生の頭からブッかけますと、無茶先生は、 「ウーン。ブルブルブル」  と眼をさましました。そこへも一パイ頭からバケツの水をブッかけましたので、無茶先生は、 「ウワア。夕立だ、雷だ」  と云いながら飛び起きました。  その様子が可笑しかったので、ヒョロ子も豚吉も腹を抱えて笑い出しましたが、無茶先生は頭から濡れたまま眼をこすってよく見ますと、思いもかけぬヒョロ子が豚吉を背負って立っていますので、又驚きました。 「ヤア、お前達はどうしてここへ来たのだ」  と尋ねました。  ヒョロ子は落ちかかる豚吉をゆすり上げながら今までのことをお話ししますと、無茶先生は面白がってきいておりましたが、 「フーンそうか。それじゃ、町中の奴がお前達夫婦を見たいと云って追っかけまわしたのか。それは困ったろう。しかし、それというのも、お前たちがおれの云うことをきかないからこんなことになるのだ。おれの云うことをきいて背骨を入れかえてさえおけば、そんな眼に会わなくても済むのだった」  と云いましたので、ヒョロ子は豚吉も気まりがわるくなって、 「ほんとに済みませんでした。もうこれからどんなことをされても恐がりませんから、どうぞ当り前の人間にして下さい。今度でもうコリゴリしました」  と床の上に座ってあやまりました。無茶先生は大威張りで、 「よしよし。お前達がそんなにあやまるならば、今度は背骨だけでなく、身体中すっかりたたき直して、ビックリする位立派な人間に作りかえてやろう」 「ええっ。そんなことが出来ますか」 「ウン、出来るとも出来るとも。お前達はおれの腕前を知らないからそんなことを云うけれども、おれが持っている薬の力ならば、どんなことでも出来ないことはないのだ」 「ありがとう御座います。それではすぐに治して下さい」 「イヤイヤ、ここでは出来ぬ。それには支度が要るから、どこか鍛冶屋へ行かなければ駄目だ。今からすぐ行くことにしよう」  と、無茶先生はすぐにお薬を取り出して、鞄の中へ入れ初めました。  その時にはるか向うから、 「ワーッ、ワーッ」 「あすこの家に珍らしい夫婦が逃げ込んだ」 「無茶先生の家だ無茶先生の家だ」 「それ、押しかけろ押しかけろ」  と云う声がすると一所に、あとからあとから大勢の人間が押しかけて、無茶先生の家のまわりを一パイに取り巻いてしまいました。  無茶先生はこれを見ると真赤になって憤り出しました。 「こん畜生。来やがったな。よしよし、おれが追払ってやる。お前達は二人共鼻の穴にこの綿を詰めてジッとしていろ。そうして、馬鹿共が居なくなったら、すぐに逃げられるように用意していろ」  と云ううちに、無茶先生は自分の鼻の穴にも綿をドッサリ詰め込んで、丸|裸体のまま表に飛出して大勢の者を睨み付けますと、 「コラッ。貴様共は何しに来たんだッ」  と怒鳴り付けました。  すると、大勢の人の中から一人の大きな強そうな男が飛び出して来て、 「貴様は無茶先生か」  とききました。 「そうだ。貴様は何だ」 「おれはこの町の喧嘩の大将だが、今貴様のうちにヒョロ長い女がまん丸い男をおぶって逃げ込んだから捕まえに来たんだ」 「何だってその夫婦を捕まえるんだ」 「その夫婦は奇妙な姿で屋根から屋根へ飛び渡って町中を騒がしたんだ。そのため怪我人や死んだものが出来たんだ。それだから捕まえに来たんだ」 「馬鹿野郎。貴様たちがその夫婦を無理に見ようとしたから夫婦が逃げ出したんだろう。貴様たちの方がわるいのだ」 「こん畜生。貴様はあの夫婦に加勢をして、おれ達に見せまいとするのか」 「そんな夫婦はおれの処に居ない」 「居ないことがあるものか。あの屋根を見ろ。あんなに破れている。あすこから落ちこんだに違いない」 「そんなら云ってきかせる。夫婦はうちに居るけれども、貴様たちに渡すことは出来ない」 「こん畜生。貴様はおれがどれ位強いか知ってるか」 「知らない。いくら強くても構わない。おれが今追い払ってやる」 「追い払えるなら追い払って見ろ」 「ようし。見ていろ」  と云ううちに、無茶先生は隠して持っていた香水の瓶を取り出して、家のまわりにぐるりとふりまきました。  それを嗅ぐと、大勢の人は吾れ勝ちに嚔を初めて息もされない位で、しまいにはみんな苦しまぎれに眼をまわすものさえ出て来ました。  それを知らないであとからあとから押しかける町の人々はみんなクシャミを初めて、これはたまらぬと逃げ出します。大きな男の喧嘩大将も一生懸命我慢していましたが、とうとう我慢し切れなくなって、百も二百も続け様にクシャミをしているうちに地びたの上にヘタバッてしまいました。  けれども、遠くからこの様子を見ていた人は、みんなが嚔をしていることはわかりません。只、無茶先生の家のまわりを取り巻いている人が、みんなひっくり返って、上を向いたり下を向いたりして苦しんでいる有様しか見えませんから、驚きまして、 「コレは大変だ。あの無茶先生は大変な魔法使いに違いない。まごまごしているとみんな殺されるかも知れぬ」  というので、ドンドン逃げ出してゆきました。  大勢の人が無茶先生の香水に恐れて逃げて行きました。おかげでうしろの方に居た巡査さんや消防は、やっと前の方に出て来ることができましたが、その巡査さんや消防たちも無茶先生の香水のにおいを嗅ぐと、やっぱり同じこと一時にクシャミを初めまして、消防は鳶口を持ったまま、又巡査さんはサーベルを握ったまま、あっちでもこっちでも、 「ハクションハクション」 「ヘキシンヘキシン」 「フクシンフクシン」 「ファークショファークショ」 「ハアーッホンハアーッホン」  と云ううちに、みんな引っくり返ってしまいました。  この様子を見た大勢の人々はいよいよ驚いてしまいました。 「これは大変だ。巡査さんや消防までも無茶先生に殺されそうだ。早く兵隊さんを呼んで来て、無茶先生を殺してもらおう」  と、大急ぎで兵隊さんを呼びにゆきました。  けれども、無茶先生や豚吉やヒョロ子は鼻の穴に綿をつめておりますから、香水の香いもわからなければ嚔も出しません。 「サア、この間に逃げるんだ」  と無茶先生は云いながら、横にあった金槌を取り上げて、横に寝ている馬の頭をコツンと一つなぐり付けますと、馬はパッと生き上りました。それを表に引き出して、細引で口縄をつけると、無茶先生が裸体のまま鞄を持って一番先に乗ります。そのあとからヒョロ子が豚吉を背負って馬の背中に這い上りますと、無茶先生が手綱を取って、 「ハイヨーッ」  と云うと、広い往来を一目散に逃げ出した。  その時、うしろの方から勇ましいラッパの音がきこえて、兵隊さんが大勢、無茶先生の家へ押寄せましたが、見ると無茶先生と豚吉とヒョロ子は馬に乗ってドンドン逃げて行く様子です。 「ソレッ。魔法使いが逃げるぞ。打て打て」  と云ううちに、兵隊さんは横に並んでドンドン鉄砲を打出しましたが、ちょうどその時、兵隊さんはみんな無茶先生の香水のにおいを嗅ぎましたので、みんな一時にクシャミを初めて鉄砲を狙うことが出来ません。撃ってもクシャミをしながら撃つのですから、弾丸はとんでもない方へ行ってしまいます。その間に無茶先生と豚吉とヒョロ子を乗せた馬はドンドン逃げてしまいました。  やがて馬が或る山の麓まで来ますと、無茶先生は馬から下りまして、 「サア、ここまで来れば大丈夫だ」  と、ヒョロ子を馬から下ろしてやりますと、ヒョロ子も背中から豚吉を下ろしてやりました。そうして三人は鼻の穴の綿を取って棄てました。  無茶先生はそれから馬をもと来た道の方へ向けて、お尻をピシャリとたたきますと、馬は驚いてドンドン駈けてゆきました。  裸体のままの無茶先生は豚吉とヒョロ子を連れて、それからすこしばかり行ったところの町で一軒の宿屋に這入りました。  ところが宿屋の者は三人の奇妙な姿を見ると、恐ろしがってなかなか泊めてくれませんでしたから、それじゃ物置でもいいからと云いましたけれども泊めてくれません。そのうちにその宿屋の表には見物人が黒山のように集まりました。  無茶先生はとうとう怒り出してしまいました。 「この馬鹿野郎共。何が珍らしくてそんなに集まって来るのだ。人間だから裸で居るのもあれば、背の高いのもあれば低いのもあるのは当り前の事だ。それを珍らしがって見に来るなんて失敬な奴だ。又、この宿屋の奴もそうだ。おれたちのどこがわるいから泊めてくれないのだ。おれたちはみんな人間だぞ。人間が宿屋に泊めてくれというのが何がわるいのだ。愚図愚図云うと、貴様共をみんな盲にして終うぞ」  と云ううちに、鞄から小さな粉薬の瓶を出しました。  それを見ると豚吉は、 「おもしろいおもしろい」  と手を拍って喜びましたが、ヒョロ子は慌ててそれを止めまして、 「まあ、先生。そんな可愛そうなことをなさいますな。泊めてくれなければ、私たちは山の中に寝てもよろしゅう御座いますから」  と云いました。  そうすると無茶先生は、 「よし。それではやめてやろう。その代りおれは泊めてくれるまでここを動かない」  と云ううちにその粉薬を仕舞って、その宿屋の上り口のところにドッカリと座りますと、今度は鞄からパイプを出して、黒い色の煙草を詰めて、火をつけてスパリスパリと吸い初めました。  店の番頭は困ってしまいました。 「どうもそんなことをなすっては困ります。こんなに店の前に大勢人が居ては、ほかのお客さんが泊りに来られませんから早く出て行って下さい……」  と云いかけましたが、ヒョイと妙なことに気が付きました。  座ったままパイプを啣えて、スパリスパリと煙草を吸っている無茶先生の顔がだんだん黄色くなって行きます。オヤオヤと思っているうちにその顔色が赤くなって、それから紫色になって、見る見るうちに真っ黒になってしまいました。  番頭は肝を潰してしまいましたが、その時に不図気が付きますと、黒くなったのは無茶先生ばかりではありません。側に居た豚吉やヒョロ子はもとより、まわりを取り巻いている見物人も、無茶先生の煙草の煙に当ったものはみんな、顔色が黄色から赤へ、赤から紫へ、紫から黒へとなりかけています。  番頭はふるえ上って奥へ飛んで来て、御主人の前まで来ると腰を抜かしました。 「御主人様。大変です大変です」  と云いますと、主人と一緒に御飯をたべていたおかみさんも、子供も小僧さんも、みんなワッとお茶碗を投出して逃げてゆきそうにしました。  それを主人は止めながら、 「大変とは何です。あなたは一体どなたです」  と云いました。番頭は不思議そうに眼をキョロキョロさせながら答えました。 「私は番頭です」 「何、番頭。私の処にはあなたのような黒ん坊の番頭さんは居りません」 「エエッ。私が黒ん坊ですって。ああ、情ない。そんならやっぱりあの魔法使いにやられたのだ」  と云ううちに、番頭さんはそこへ泣きたおれてしまいました。 「何、魔法使いにやられた。それはどういうわけだ」  と、みんな番頭のまわりに集まってききました。  番頭は泣きながら、 「今、表に魔法使いが来ています、その魔法使いと喧嘩をしましたためにこんなに顔を染められたのです。ああ、情ない。ワアワアワア」  と、番頭はなおなお大きな声で泣き出しました。 「フーン、それは不思議なことだ。よしよし、おれが行って見てやろう。そんなに早く人の顔に墨を塗ることが出来るかどうか」  と云いながら立ち上って表へ行きますと、ほかのものもあとからゾロゾロくっついて表へ来てみました。  宿屋の主人が表に来て見ますと、無茶先生は相変らずパイプを啣えながらプカリプカリと煙を吹かしています。そうして、立っている人々も自分の顔が黒くなったのは知らずに、みんな無茶先生や豚吉やヒョロ子の黒くなった顔を面白そうに見ています。  宿屋の主人は驚き呆れて、開いた口が閉がらぬ位でしたが、やっと落ち付いて無茶先生に向って、 「これ、黒ん坊の魔法使い。お前は何の怨みがあって、おれのうちの番頭をあんなに黒ん坊にしてしまった」  と叱りました。  無茶先生はその時ニヤニヤ笑いながら、宿屋の主人の顔を見て云いました。 「貴様のうちに泊めてくれないからだ」 「何、泊めてくれないからだ」 「そうだ。だから泊めてくれるまでここを動かないつもりだ」  と、又白い煙を沢山に吹き出しました。主人はこれをきくと大層腹を立てました。 「馬鹿なことを云うな。おれのうちは貴様みたような生蕃人や、そんな片輪者なぞを泊めるようなうちじゃない。出てゆけ出てゆけ。泊めることはならぬ」 「アハハハハハ」  と無茶先生は笑いました。 「今に見ていろ。きっと、どうぞお泊り下さいと泣いて頼むようになるから」 「何糞。いくら貴様が魔法使いでも、おれはちっとも怖かないぞ。出てゆかねばこうだぞ」  と懐中からピストルを取り出して、無茶先生につき付けました。 「フフン。おれを殺したらあとで後悔するだけだ」  と無茶先生は落ち付いたもので、又も黒い鼻からと口からと白い煙をドッサリ吹き出しました。  そうするうちに見物人はみんなワイワイ騒ぎ出しました。 「ヤアヤア。宿屋の御主人の顔が蒼白くなった。赤くなった。もう紫になった。オヤオヤ真黒になってしまった。奥さんもお嬢さんも、坊ちゃんも小僧さんもみんな黒くなった。大変だ大変だ」  と騒ぎ立てましたが、そのうちに今度は自分たちの顔までも真黒になっていることに気が付きますと、サア大変です。 「ヤア。おれたちまでも魔法にかかった。大変だ大変だ。魔法使いを殺してしまえ」  と寄ってたかって、無茶先生へ掴みかかって来ました。  その時無茶先生は立ち上って、大勢を睨み付けながら怒り付けました。 「馬鹿野郎共。何が魔法だ。おれが色の黒くなる煙草を吸っているのを、貴様たちがボンヤリ立って見ているからだ。貴様たちの方がわるいのだ。それともおれを殺すなら殺せ。貴様たちは一生真黒いまま死んでしまうのだぞ。おれは白くなるお薬を知っているんだ。サア、殺すなら殺せ」  これを聞くと、みんな一時に静まりました。そうしてその中から一人のお爺さんが出て来て、 「私たちがわるう御座いました。どうぞそのお薬を教えて下さいませ」  とあやまりますと、ほかのものも地びたに手を突いて一生けんめいお詫びをしました。  それを見ると無茶先生はうなずいて、 「よしよし。それなら貴様たちからこの宿屋の主人に頼んで、おれたちを泊めてくれるようにしろ」  と云いました。  宿屋の主人はこの時まで、自分のおかみさんや子供達が真黒になって泣いているのを見て、ボンヤリ突立っておりましたが、忽ちピストルを取り落すと、無茶先生の前に跪いて、真黒な顔を畳にすり付けながら、 「どうぞどうぞお泊り下さいお泊り下さい」  とピョコピョコお辞儀をして、手を合わせて拝みました。それを見ると無茶先生は大威張りで、 「それ見ろ。おれの云う通りだ。そんなら泊ってやるからうんと御馳走するのだぞ」 「ヘイヘイ。どんな御馳走でもいたします」 「よし。それじゃ教えてやる。みんなの顔が黒くなったのは、この煙草の脂がくっついたのだ。だからお酒で洗えばすっかり落ちてしまう。サア、おれたちにもお酒を入れた風呂を沸かしてくれ。そうして、おれには特別にあとでお酒を沢山に持って来い。この煙草を吸ったので腹の中まで真黒になったから、お酒を飲んで洗わなくちゃならん。サア、豚吉も来い。ヒョロ子も来い」  と、大威張りでこの宿屋の一番上等の室へ通りました。  無茶先生のおかげで豚吉とヒョロ子はやっと宿屋へ泊りましたが、宿屋の主人が大急ぎで沸かしましたお酒のお風呂で身体を洗いますと、三人とももとの通りの姿になりました。又、ほかのものもみんな、無茶先生から教わった通りにお酒で顔を洗って、もとの通りの白ん坊になりましたので大喜びで、無茶先生の不思議な術に誰もかれも驚いてしまいました。  それを見た無茶先生は威張るまいことか、宿屋の主人が出した晩御飯の御馳走を喰べながら、豚吉と一緒にお酒を飲んで酔っ払って、大きな声で自慢を初めました。 「どうだ、みんな驚いたか。おれは当り前のお医者とは違うんだぞ。病気やなんか治すよりも、もっともっとえらいことが出来るんだぞ」  これを聞くと、無茶先生と一緒にお酒を飲んでいた豚吉も威張り出しました。 「おれは、きょう、兵隊が千人と巡査が一万人と消防が十万人、町の者が十万人で向って来たのをみんな追い散らして来たんだぞ」  これを聞いたヒョロ子はビックリしまして、 「そんなことを云うものじゃありません。もしこの町の巡査さんや兵隊さんがそれを聞いて、捕まえに来たらどうします」  と叱りました。けれども豚吉は平気なもので、なおの事大きな声を出して云いました。 「ナアニ。大丈夫だ。その時は又無茶先生に追い払ってもらうのだ」  と、つい本当のことを云いましたので、無茶先生もヒョロ子も腹を抱えて笑いました。  けれども宿屋の主人は何も知りませんので、いよいよ感心して驚いてしまいました。 「ヘエー。それはえらいお方ばかりですな。それじゃ無茶先生は当り前の病気ぐらいは訳なくお治し下さるで御座いましょうな」  と尋ねました。  無茶先生はやはり真裸のまんま、ガブガブお酒を飲みながら大威張りで答えました。 「おお。どんな病気でも治してやる。その代り一人治せばお酒を一斗|宛飲むぞ」 「それじゃお酒を一斗差し上げますから、私の妻の病気を治して下さいませぬか」 「どんな病気だ」 「何だかいつも頭が痛いと申しまして、御飯を食べる時のほか寝てばかりおりますが、どんなお医者に見せましても治りませぬ」 「よし、すぐに連れて来い」 「かしこまりました」  と、亭主は無茶先生たちの居る二階を降りてゆきましたが、間もなく手拭で鉢巻きをしたお神さんをおぶっこして上って来て、無茶先生の前にソッと卸しました。そのあとから上って来たさっきの番頭は、お酒を一斗樽ごと抱えて来て無茶先生の前に置きました。  無茶先生はその樽の栓を取ると、両手に抱えてグーグーグーグー一息に呑み初めましたが、やがて飲んでしまいますと、 「アー。久し振り樽ごとお酒を飲んで美味かった。ドレ、お神さん。顔を見せろ」  とお神さんの顎に手をかけて顔をジッと見ておりましたが、忽ち割れ鐘のような声で笑い出しました。 「アアアアアア。なるほど、頭が痛そうな顔をしているな。コレ、お神さん。お前はなあ、あんまり主人に我儘を云ったり、番頭や丁稚を叱りつけたりするから頭が痛いんだぞ。しかし、その病気はすぐなおるから心配するな。これから頭が痛い時はすぐに、主人にこうしてもらえ」  と云ううちに、右の手で岩のような拳固を作って、お神さんの右の横面をグワーンとなぐりつけました。お神さんは、 「ギャッ」  というなり眼をまわして、左の方へたおれかかりました。そこで無茶先生は今度は左の拳骨を固めて左側から横ッ面をポカーンとなぐりつけますと、眼をまわしていたお神さんはパッと眼をさまし、そこいらをキョロキョロ見まわしておりましたが、 「アラ。私の頭の痛いのが治ったよ。まあ、何という不思議なことでしょう。ほんとに無茶先生、有り難う御座いました」  と大喜びでお礼を云って降りて行きました。  この様子を見ていた宿屋の主人は、もう無茶先生のエライのに肝を潰してしまいました。 「ああ、ビックリしました。先生は何というエライお方でしょう。それではお序に私の息子の病気も治していただけますまいか」 「フーン。貴様の息子の病気は何だ」 「ヘエ。私の息子の病気は、いつもお腹が痛いお腹が痛いと云うて学校を休むのです。どんなお医者に見せても治りません」 「そうか。それはわけはない。おれが見なくとも病気はなおる」 「ヘエ。どうすればなおります」 「朝の御飯を喰べさせるな」 「そうすればなおりますか」 「そればかりではいけない。昼のお弁当を息子に持たせずに、学校の先生の処へお使いに持たしてやれ。どんなことがあっても朝御飯と昼御飯をうちで喰べさせるな。そうすればお腹が空くからイヤでも学校に行くようになる」 「成るほど。よくわかりました」 「サア。酒をもう一斗持って来い」 「ヘイ、只今持って来させます。それでは序に私のおやじがカンシャク持ちで困りますから、それも治して下さいませ」 「よしよし、つれて来い」  こうして無茶先生は家中の者の病気をみんな治してやりました。  先ずおやじのカンシャク頭は、テッペンをクリ抜いて蓋をするようにして、憤った時はその蓋を取ればなおるようにしてやりました。  お婆さんの禿頭は、頭の上を掻きむしって、毛の種を蒔いてやりました。  娘の低い鼻は、鼻の穴に突っかい棒を入れて高くしてやりました。  女中の居ねむりは、着物の襟にトゲを縫いつけて、うつむくと痛いように仕かけてやりました。  下男の腰が痛いのは、腰の処に太い鉄の釘を打ち込んで丈夫にしてやりました。  こうしてみんなの病気を治してやりましたので、無茶先生のまわりに大きい、小さいお酒の樽がいくつも積まれました。 「もう病人は居ないか」  と無茶先生が云いますと、宿屋の主人は畳にあたまをすりつけて、 「ありがとう御座います。この上はこの家中のものがみんな死なないようにして下さいませ」  といいました。 「ウン、そうか。それは一番|易いことだ」  と無茶先生は笑いながら云いました。 「サア。みんな、ここへ来て並べ」  と家中のものを眼の前に呼び寄せて、ズラリと並ばせました。 「サア、どうだ。みんな、死なないようにしてもらいたいか」  と尋ねますと、みんなそろって畳に頭をすりつけて、 「どうぞどうぞ死なないようにして下さいませ」  と拝みました。無茶先生は大威張りで、 「よし。そんなら何万年経ってもきっと死なないようにしてやる。その代り、おれの云うことをみんなきくか」 「ききますききます。私もどうぞヒョロ子と一所に何万年経っても死なないようにして下さい」  と、豚吉まで一所になって拝みました。  無茶先生は大笑いをしまして、 「アハハハハハ。貴様たちもそんな片輪でいながら死にたくないか。よしよし、それではみんなと一所におれの云うことをきけ。いいか。今からおれが歌うから、貴様たちはみんなそれに合わせて手をたたいて踊るのだ。その踊りが済めば、おれが一人一人に死なないように療治をしてやる」  と云いながら、無茶先生は又一つの樽に口をつけて、中のお酒をグーッと飲み干します。と今度はその次の樽をあけて、みんなに思う様飲ませました。中にはお酒の嫌いなものもありましたが、無茶先生のお医者が上手なことを知っておりますから、これを飲んだら死なないようになるに違いないと思いまして、一生懸命我慢してドッサリ飲みましたので、みんなヘベレケに酔っ払ってしまいました。そうして無茶先生に、 「早く歌を唄って下さい。踊りますから」  と催促をしました。  無茶先生は拳固で樽をポカンポカンとたたきながら、すぐに大きな声で歌い出しました。 「酒を飲め飲め歌って踊れ  人の生命は長過ぎる  生れない前死んだらあとは  何千何万何億年が  ハッと云う間もない短さを  生きている間に比べると  人の生命の何十年は  長くて長くてわからぬくらい  飲めや飲め飲め歌って踊れ  人の一生は長過ぎる  生れてすぐ死ぬ虫さえあるに  人の一生はちと長過ぎる  酒を飲め飲め歌って踊れ  飲んで歌って踊り死ね  サッサ飲め飲め死ぬ迄飲めよ  サッサ歌えや死ぬまで歌え  サッサおどれよ死ぬまで踊れ  一度死んだら又死なぬ」 「イヤア、こいつは面白い。素敵だ素敵だ」  と、酔っ払った豚吉がまっ先にドタドタ踊り出しますと、宿屋の主人もお神さんも、番頭や女中や子供までも、酔っ払ってはねまわります。しまいにはヒョロ子まで立ち上って、無茶先生のまわりをぐるぐるまわりながらヒョロリヒョロリと踊ってゆきます。大変な騒ぎです。  しかも一まわり歌が済む度毎に、無茶先生はお茶碗で一ぱい宛みんなにお酒を飲ませますので、酔っ払った人たちはなおのこと酔っ払って踊ります。そのうちにみんな疲れてヘトヘトになって、あっちへバタリ、こっちへバタリたおれて、とうとうみんな動けなくなってしまいまして、みんな虫の息で、 「もう、とてもお酒は飲めませぬ」 「踊りも踊れませぬ」 「早く死なないようにして下さい」  と頼みました。  その様子を見ると、無茶先生は歌をやめて、腹をかかえて笑い出しました。 「アハハハハ……面白かった。とうとうみんなおれに欺されて、動くことが出来なくなったな。それでは一つ死なないようにしてやろうか」  と云いながら、鞄の中から鉄槌を一つ取り出しました。  それを見ると豚吉は驚いて尋ねました。 「その鉄槌で何をなさるのですか」 「これでみんなの頭をたたき割って殺して終うのだ。いいか。一度死んでしまえば、今度はお前たちの望みどおりいつまでも死なないのだぞ。サア、覚悟しろ」  と云うや否や鉄槌をふり上げて睨みつけますと、酔っ払って動けなくなっていた宿屋の主人もお神さんも、番頭も女中も子供も一時に飛び起きて、 「ワア。人殺し」  と叫ぶと、吾れ勝ちに梯子段のところへ来て、あとからあとから転がり落ちて逃げてゆきました。只あとには、豚吉とヒョロ子だけが残っております。  無茶先生は豚吉のそばへ寄りまして、 「ウム、感心感心。貴様はこの鉄槌でなぐられたいのか」  と云いますと、今まで真赤に酔っていた豚吉は、真青になってふるえながら拝みました。 「オ、オ、お助けお助け。ワ、ワ、私は、コ、コ、腰が抜けて、ウ、ウ、ウ、ウ、ウ、動かれないのです」  と涙をポロポロこぼしました。 「ワハハハハハ。いつも意久地の無い奴だ。じゃあヒョロ子、お前はどうしたんだ。やっぱり腰が抜けたのか」  とゆすぶって見ましたが、もうグーグーとねむってしまって返事もしません。 「アハハハハ。そんなに沢山飲みもせぬのにヒドク酔っ払ったな。よしよし。そのまんま寝ていろ。コレ、豚吉、心配するな。今云ったのはおどかしだ。お前たちを殺そうなぞと俺が思うものか。出来ないことを頼むから、ちょっと胡魔化して踊らせてやったのだ」 「エッ。それじゃ今のは冗談ですか」 「そうだとも」 「ああ、安心した。それじゃもっとお酒を飲みます」 「サア飲め、沢山ある。おれも飲もう」  と、二人で樽を抱えてグーグー飲んでいるうちに、いつの間にか酔い倒れてしまいました。  やがて夜が更けて、家中が静かになって鼾の声ばかりきこえるようになりますと、表の方へゾロゾロゾロゾロと沢山の靴の音がきこえて来ましたが、その時ふッと眼をさました無茶先生が、何事かと思って雨戸のすき間からのぞいて見ますと、それは隣の町から無茶先生たちを捕えに来た兵隊の靴の音で、見る見るうちに三人の泊っている宿屋は兵隊に取り巻かれてしまいました。しかもその兵隊達はみんな、無茶先生の香水を嗅がせられて嚔の出ないように、鼻の上から白い布片をかぶせて用心をしています。  それを見ると無茶先生は可笑しいのを我慢しながら、 「よしよし。きのうおれに香水を嗅がされて死にそうになったので、魔法使いだと思って捕えに来たのだな。しかも鼻ばかり用心して来るなんて馬鹿な奴だ。そんならも一度驚かしてやる」  と独言を云って、鞄の中から小さな瓶を取り出して、中に這入っていた粉薬を傍にあった火鉢の灰の中へあけて、スッカリ掻きまわしてしまいました。  それから今度は下へ降りて、宿屋の台所へ行って塩を沢山と、物置へ行って六尺棒を一本と、大きな鋸を一梃と、縄の束を一把と取って、又二階へ帰りますと、何も知らずに寝ているヒョロ子と豚吉にシビレ薬を嗅がせ初めました。  宿屋を取り巻いた兵隊達は、鼠一匹逃がすまいと鉄砲を構えて待っております。  その中の大将は、出来るだけそっと表の戸をコジあけさせて、兵隊を四五人連れて宿屋の中に這入って、主人の寝ている枕元に来ますと、靴の先でコツコツと蹴って起しました。  お酒に酔っていい心持ちで寝ていた宿屋の主人は、何事かと思って眼をさましますと、自分の枕元に怖い顔をした大将と、鉄砲を持った兵隊が四五人立っていますので、夢ではないかと眼をこすって起き上りました。  その時大将は腰のサーベルを見せながら、 「大きな声を出すと斬ってしまうぞ。只おれが尋ねることだけ返事しろ。貴様の処には髪毛や髭を蓬々と生やした真裸の怖い顔の男と、背の高い女と低い男の三人が昨夜から泊まっているだろう」 「ヘヘイ」  と、宿屋の主人は寝床の上に手を突いて、ふるえながら返事をしました。 「その三人をおれたちは捕えに来たのだ。さあ、そいつどもの居る室に案内をしろ」 「カ、カシコマリマシタ」  と、宿屋の主人はガタガタふるえながら立ち上って、階段を先に立って上りました。  大将はサーベルをギラリと抜いて兵隊に眼くばせをしますと、兵隊も鉄砲に剣をつけてあとから上って行きました。  そうして三人の寝ている室の前まで来ますと、主人も大将も兵隊達もめいめいに室の裏と表にわかれて、戸や障子のすき間から中の様子をのぞきましたが、みんなハッと肝を潰しました。  無茶先生は、睡っているヒョロ子と豚吉を二人共丸|裸体にして、手は手、足は足、首は首、胴は胴に鋸でゴシゴシ引き切って、塩をふりかけて、傍にある空樽の中へ漬物のように押しこんでいます。そうして、一つの樽が一パイになると、又次の樽に詰めて、六つの樽を一パイにしますと、それぞれに蓋をして縄で縛り上げて、二つにわけて六尺棒の両端に括り付けました。  それから鞄から眼鏡を取り出してかけると、その鞄も一所に棒にくくり付けてしまって、火鉢の傍にドッカリと座りながら、 「サア来い。エヘンエヘン」  と咳払いをしました。  大将はこの様子を見るといよいよ驚き怖れましたが、思い切って大きな声で、 「サア、皆。魔法使いを捕えろッ」  と怒鳴りますと、四五人の兵隊は一時に室の裏表からドカドカと飛び込みましたが、無茶先生は驚きません。大きな声で笑いました。 「アハハハ。何だ、貴様たちは」 「兵隊だ」 「何しに来た」 「貴様たち三人を捕まえに来た」 「お前たちの鼻の頭にかぶせた布片は何だ」 「これは昨日のように貴様に香水を嗅がせられない要心だ」 「アハハハハ。いつおれが貴様たちに香水を嗅がせた」 「この野郎。隠そうと思ったって知っているぞ。貴様は無茶先生だろう」 「馬鹿を云え。おれは塩漬け売りだ。この通り荷物を作って、夜が明けたらすぐに売りに出かけようとするところだ。第一、貴様たち三人を捕えに来たと云うが、この室中にはおれ一人しか居ないじゃないか。ほかに居るなら探して見ろ」  と睨み付けました。その時 「嘘だッ」  と雷のように怒鳴りながら大将が飛び込んで来ました。  飛び込んで来た大将は刀をふり上げながら、無茶先生をグッと睨み付けました。 「この嘘|吐きの魔法使いめ。貴様が今しがた人間を塩漬けにしていたのを、おれはちゃんと見ていたぞ。そうして、一人しか居ないなぞと胡魔化そうとしたって駄目だぞ」 「アハハハハ。見ていたか」  と無茶先生は笑いました。 「見ていたのなら仕方がない。いかにもおれは自分が助かりたいばっかりに、二人の仲間を殺して塩漬けにしてしまった。サア、捕えるなら捕えて見ろ」 「何をッ……ソレッ」  と大将が眼くばせをしますと、大将と兵隊は一時に無茶先生を眼がけて斬りかかりましたが、彼の時遅くこの時早く無茶先生が投げた火鉢の灰が眼に這入りますと、大将も兵隊も忽ち眼が見えなくなって、一時に鉢合せをしてしまいました。 「これは大変」  と逃げようとしましても逃げ道がわかりません。壁や襖にぶつかったり、樽に躓いたりして、転んでは起き、起きては転ぶばかりです。 「ヤアヤア。大変だ大変だ。又魔法使いの魔法にかかった。みんな来て助けてくれ助けてくれ」  と大将が叫びますと、無茶先生も一所になって、 「助けてくれ助けてくれ。みんな来いみんな来い」  と叫びます。  これを外できいた兵隊たちは、 「ソレッ」  と云うので吾れ勝ちに家の中へ駈け込んで、ドンドン二階へ上って来ましたが、みんな無茶先生から灰をふりかけられて盲になってしまいます。そうして、とうとう家中は盲の兵隊で一パイになってしまいました。 「サア、どうだ。みんな眼が見えるようになりたいなら、静かにおれの云うことをきけ」  と、その時に無茶先生が怒鳴りますと、今まで慌て騒いでいた兵隊たちはみんな一時にピタリと静まりました。 「いいか、みんなきけ。今から一番|鶏が鳴くまでじっと眼をつぶっていろ。そうすれば眼が見えるようになる。おれはこれから二人の塩漬けの人間を生き上らせに行くんだ。邪魔をするとおれの屁の音をきかせるぞ。おれの屁の音をきくと、耳がつぶれて一生治らないのだぞ。ヤ、ドッコイショ」  と云ううちに、二人の塩漬けの樽と鞄を結びつけた棒を担ぎ上げて、まだお酒の残っている樽を右手に持ちながら梯子段を降り初めました。 「ヤアヤア。こいつは途方もなく重たいぞ。ああ、苦しい。屁が出そうだ屁が出そうだ。オットドッコイ。あぶないあぶない。屁の用心。屁の用心」  と云いながら、大威張りで降りて表へ出て行きましたが、兵隊たちはみんな耳へ指を詰めて眼をとじて、一生懸命小さくなっていましたので、誰も捕まえようとするものがありません。  そのうちに無茶先生は表へ出ますと、大きな声で、 「アア。やっとこれで安心した。ドレ、ここで一発放そうか」  と云ううちに、大きなオナラを一つブーッとやりました。  無茶先生のオナラをきいた兵隊たちは、 「大変だっ」  と耳を詰めましたが、あとは何の音もきこえません。  さてはほんとに耳が潰れたかと思っていますと、そのうちに、 「コケッコーコーオ」  と一番鶏の声がきこえました。 「オヤオヤ。一番鶏の声がきこえるくらいなら耳は潰れていないのだな。そんならあの屁は只の屁で、きいても耳は潰れないのだな。サテはおれたちは欺されたな」  と、一人の兵隊が眼を開いて見ますと、室の中にともっているあかりがよく見えます。 「ヤッ、眼があいた眼があいた。オイ、みんな眼をあけろ眼をあけろ。何でも見えるぞ……きこえるぞ」  と怒鳴りましたので、兵隊達は一時に起き上りました。そこへ大将も起きて来て、 「サア、魔法使いのあとを追っかけろ」  といいましたので、兵隊たちは勢い付いて八方に駈け出して無茶先生を探しましたが、まだあたりがまっ暗で、どこへ行ったかわかりませんでした。  無茶先生は、その時町を出てだいぶあるいていましたが、右手に持ったお酒の樽へ口をつけてグーグー飲みながら、 「ウーイ。美味い美味い。酔った酔った。エー、豚の塩漬けは入りませんか。ヒョロの塩漬けは入りませんかア。アッハッハッハッ。面白い面白い。エー、豚とヒョロの塩漬けやアーイ」  と怒鳴りながら、あっちへよろよろ、こっちへよろよろとしてゆきます。 「アー、誰も買いませんか。豚とヒョロの塩漬けだ。安い安い。百|斤が一銭だ一銭だ。アッハッハッハッ。面白い面白い。樽の中で手は手、足は足に別々になって寝ているんだ。眼がさめたら困るだろう。アハハハハ。誰か買わないか、豚とヒョロの無茶苦茶漬けやアイ」  とあるいているうちにだんだんと夜があけますと、いつの間にか道が間違って大変な山奥に来ています。 「イヤア、こいつは驚いた。酔っているものだから飛んでもないところへ来てしまった。これじゃ、いくら怒鳴ったって誰も買い手が無い筈だ。ああ、馬鹿馬鹿しい。ああ、くたぶれた。第一こんなに重くちゃ、これから担いでゆくのが大変だ。一つ生き上らして、自分で歩かしてやろう」  といいながら、無茶先生は二人を塩漬けにした樽を担いで、谷川の処へ降りて来ました。  無茶先生は山奥の谷川の処まで来ますと、お酒の樽の蓋をあけて、中から豚吉とヒョロ子の手や足や首や胴を取り出して、谷川の奇麗な水でよく洗いました。  それから鞄をあけて一つの膏薬の瓶を出して、切り口へ塗って、豚吉は豚吉、ヒョロ子はヒョロ子と、間違えないようにくっつけ合わせて、そこいらにあった藤蔓で縛ってしばらく寝かしておきますと、やがて二人ともグーグーといびきをかき初めました。  その時に無茶先生は、谷川のふちに生えていた細い草の葉を取って、二人の鼻の穴へソッと突込みますと、二人共一時に、 「ハックションハックション」  と嚔をしながら眼をさまして、起き上りました。 「ヤア。お早う」  と無茶先生が声をかけますと、二人とも眼をこすりながら、 「お早う御座いますお早う御座います」  とお辞儀をしましたが、又それと一所に二人とも飛び上って、 「アア、大変だ。咽喉がかわく咽喉がかわく。ああ、たまらない。腹の中じゅう塩だらけになったようだ」 「私も口の中が焼けるようよ。ああ、たまらない」  といううちに、二人とも谷川の処へ駈け寄って、ガブガブガブガブと水を飲み初めました。 「アハハハハハ」  と無茶先生は笑いました。 「咽喉がかわく筈だ。お前たちは塩漬けになっていたんだから」 「エッ。塩漬けに……」  と二人共ビックリして、水を飲むのを止めてふり向きました。 「ああ。おれはお前たちをこの樽に塩漬けにして、おれはやっとここまで逃げて来たんだ」  と、無茶先生が今までのことを話しますと、二人は夢のさめたように驚きました。そうして、いよいよ無茶先生のエライことがわかりまして、その足もとにひれ伏してお礼を云いました。  しかし、やがてヒョロ子は自分の身体のまわりを見まわしますと、泣きそうな顔になりました。 「けれども先生、私たちはこんなに裸体になりましたがどうしましょう。このまま道は歩かれませぬが、どことかに着物はありませぬでしょうか」 「まあ、待て待て」  と無茶先生はニコニコ笑いました。 「そんなに心配するな。ここは山奥だから誰も見はしない。だから恥ずかしいこともないのだ。お前たちの身体がどんなに長くても短くても笑うものは無いのだ。それよりもおれについて来い。これから長い長い旅をするのだ。そうするとおしまいにいい処へ連れて行ってやるから」  と云ううちに先に立って歩き出しました。  豚吉とヒョロ子は無茶先生のあとからついてゆきますと、無茶先生は包みを一つ抱えたまま先に立って、二人をだんだん山奥へ連れてゆきました。そのうちにお腹が空きますと、ちょうど秋の事で、方々に栗だの柿だの椎だの榧だのいろんな木の実が生っております。それを千切ってたべては行くのでしたが、都合のいい事はヒョロ子が当り前の人の二倍も背が高いので、いつも三人が食べ切れない程木の実を千切ることが出来ました。  そのうちになおなお山奥になりますと、鳥や獣が人間を見たことがないので珍らしそうに近寄って来ます。そうしてしまいには、友達のように身体をすりつけたり、頭にとまったりするようになりました。そんなのにヒョロ子は千切った木の実を遣りながら、 「まあ、先生。ここいらには猪や鹿がこんなに沢山居るのですね」  と云いましたので、無茶先生も豚吉も大笑いをしました。  こんな風にして何日も何日も旅を続けてゆくうちに、或る日ヒョロ子はシクシク泣き初めましたので、無茶先生がどうしたのかとききますと、ヒョロ子は涙を拭いながら、 「お父さんやお母さんに会いたくなりましたのです」  と申しました。それをきくと豚吉も一所に泣き出しました。 「私も早くうちへ帰りとう御座います。たった三人切りでこんな山の中をあるくのは淋しくて淋しくてたまりません」 「馬鹿な」  と、無茶先生は急に怖い顔になって二人を睨みつけました。 「何をつまらんことを云うのだ。お前たちは自分の姿を人が見て笑うのがつらいから村を逃げ出して来たのじゃないか。こうして山の中ばかりあるいていれば誰も笑う者が無いから、おれはお前たちをここへ連れて来たのだ。こうして一生山の中ばかりあるいていれば、これ位のん気なしあわせなことははいではないか」 「エッ……先生、それでは私たちは一生こうして山の中ばかり歩いていなければならないのですか」  と豚吉は叫びました。 「ああ。何という情ないことでしょう。私はもう笑われても構いませぬ。何故逃げ出したと叱られても構いませぬ。早くうちへ帰ってお父様やお母様にお眼にかかりとう御座います。どうぞどうぞ先生、私たちへうちへ帰る道を教えて下さいませ」  と、二人共地びたに坐わって、泣きながら無茶先生を拝みました。  そうすると無茶先生も立ち停まって、ジッと二人を見ていましたが、又怖い顔をして、 「それは本当か」  と尋ねました。 「本当で御座います本当で御座います。もうどんなことがあっても、両親や友達を欺して村を逃げ出したりなんぞしません」 「きっときっと親孝行を致します」  と、豚吉もヒョロ子も、涙をしゃくりながら無茶先生にあやまりました。  無茶先生はその時初めてニッコリしました。 「それをきいて安心した。おれは、お前たちが両親や友達にかくれて逃げて来たものだとわかったから、罰を当てたのだ。お前たちの身体をどんなに立派に作りかえても、心が立派にならなければ何もならないと思ったから、わざと両親が恋しくなるようにこんな山の中をいつまでも引っぱりまわしたのだ。けれどもお前たちがそんな心になれば、いつでもお前達の身体を立派な姿にしてやる。ちょうどいい。もう山奥は通り過ぎて人間の居る村に近付いている。あれ、あの音をきいて御覧」  と向うの方を指しました。  無茶先生が指した方を向いて豚吉とヒョロ子が耳を澄ましますと、一里か二里か、ズッと向うの方から、 「テンカンテンカンテンカンテンカン」  と鍛冶屋の音がきこえます。 「アッ、鍛冶屋の音が!」 「人間が居る」  と、二人は飛び上って喜びました。そうして無茶先生と一所に大急ぎでそちらへ近づきましたが、やがてとある崖の上へ出ますと、向うは一面の田圃で、すぐ眼の下には川が青々と流れて、その流れに沿うた道ばたの一軒の家から、最前の鉄槌の音が引っきりなしにきこえて来ます。 「ヤア。ちょうどいい処にあの鍛冶屋はあるな。よしよし、あの家を借りてお前たちを立派な姿に作りかえてやろう。ちょっと待て。あの家の様子を見て来るから」  といううちに無茶先生はグルリと崖のふちをまわって、その家の門の口へ来ました。  見るとこの家の主人は五十ばかりのお爺さんですが、独身者と見えてお神さんも子供も居ず、たった一人で一生懸命鉄槌で鉄敷をたたいて、テンカンテンカンと蹄鉄を作っています。それを見ると無茶先生は大きな口を開いて、 「アハハハハハ。テンカンテンカン」  と笑いました。  鍛冶屋のお爺さんは不意に門口から笑うものが居るので吃驚して顔をあげて見ますと、髪毛と髭を蓬々とさした真裸体の男が鞄を一つ下げて立っておりますので、大層腹を立てまして怒鳴り付けました。 「何だ、貴様は」 「おれは山男だ」 「山男が何だって鞄を持っているのだ」 「この中にはおれが山の草で作った薬が一パイに詰まっているのだ。どんな病気に利く薬でもあるのだ」  これをきくと鍛冶屋の爺さんは急にニコニコしまして、 「それあ有り難い。それじゃテンカンに利く薬もあるだろうな」  とききました。  無茶先生はトボケた顔をして、 「テンカンとはどんな病気だ。鉄槌で物をたたく病気か」  と尋ねますと、爺さんは頭を掻きながら、 「そうじゃない。不意に眼がまわって、引っくりかえって泡を吹く病気だ。わたしはその病気があるためにお神さんも貰えずに、たった一人で鍛冶屋をしているのだ」  と云ううちに泣きそうな顔になりました。 「ウン、その病気か。それならたった一度で利く薬がある。けれども只では遣れないぞ」 「エエ。それはもう私に出来ることでお前さんの望むことなら、何でも御礼にして上げる」 「それじゃ、まずこの仕事場を日の暮れるまで貸してくれ。それから町へお使いに行ってもらいたい」 「それはお易い御用です。今からでもよろしゅう御座います」 「よし、それではこの薬を飲め」  と、鞄の中から何やら抓んで、鍛冶屋の爺さんの掌に乗せてやりました。 「ヘイヘイ。これは有り難う御座います」  とピョコピョコお辞儀をしながらよくよく見ましたが、不思議なことに何べん眼をこすってもそのお薬が見えません。 「これは不思議だ。私の眼がわるくなったのか知らん」  とお爺さんは独言を云いました。 「見えるものか」  と無茶先生は笑いました。 「それは人間の眼には見えないほど小さな丸薬だ。それを飲めばどんなテンカンでもすぐになおる。嘘だと思うなら嘗めて見ろ」  お爺さんはすぐに舌を出して、自分の掌をペロリと嘗めて舌なめずりをしましたが、 「フーン。これは不思議だ。大層いいにおいがしますな。何だか腹の中まで涼しくなるような……」  と眼をキョロキョロさせました。 「それで貴様のテンカンは治ったのだ。そのお礼に貴様は今から町へお使いに行って来い。それはおれども三人の着物を買いにゆくのだ。おれはちょうど貴様と同じ位の身体だからお前の身体に合う上等の着物と、それから五尺五寸の女の着物と、五尺八寸の男の着物と買って来い。お金はここにある」  と、鞄の中から金貨を一掴み出してやりました。  お爺さんはその金を受け取らずに手を振って申しました。 「いけませんいけません。私の病気はビックリテンカンというので、何でもビックリすると眼がまわって引っくり返るのです。ですから、こんな淋しいところの一軒家に居るのです。とても賑やかな、ビックリすることばかりある町へはゆかれませんから、こればかりは勘弁して下さい」  と申しました。 「この馬鹿野郎」  と無茶先生は怒鳴りつけました。 「その病気はもう治ったのじゃないか。嘘かほんとか試しに行って見ろ。もし町へ出て眼がまわるようだったら、着物を買わずに帰って来い。その金はおれの薬の利かない罰に貴様に遣るから」 「えっ、こんなに沢山のお金を?」 「そうだ。その代り、何ともなかったら、着物を買って来ないと承知しないぞ」 「それはもうきっと買って来ます。それじゃためしに行って来ましょう」  と、お爺さんは大急ぎで支度をして出て行きました。  お爺さんがもう大分行ったと思うと、無茶先生はその家の表へ出て崖の上を見ながら、 「オーイ。降りて来――イ」  と呼びました。 「ハーイ」  と豚吉とヒョロ子が返事をしますと、やがて二人とも降りて来ましたが、久し振り人間の住む家を見ましたので、二人ともキョロキョロしておりました。  一方に、お使いに出たお爺さんは、二三町行った時うしろの方から誰か大きな声で呼ぶ声がしましたので、立ち止まって見ておりますと、やがて家のうしろの崖の上から恐ろしく背の高い女と背の低い男が、しかも丸裸で降りて来て自分の家に這入りましたので、お爺さんの胸は急にドキドキし初めました。そうして、これは何でも不思議なことが初まるに違いないと思いまして、ソッと引返して裏の方へまわって、そこにあった梯子を伝って屋根裏から天井へ這入って、家の中の様子をのぞきました。  鍛冶屋の爺さんが天井の節穴から覗いているとは知らずに、無茶先生は久し振り人間の住む家に這入ってキョロキョロしている豚吉とヒョロ子のうしろから鍛冶屋の鉄槌で頭を一つ宛なぐり付けますと、豚吉とヒョロ子はグーとも云わずに土の上にたおれてしまいました。  鍛冶屋の爺さんは驚きました。 「ヤア。これは大変だ。あの山男は人殺しだ」  と思わず声を立てるところでしたが、やっと我慢をしました。 「それにしてもあの殺された人間は何という不思議な姿であろう。男の方は横の丸さが当り前の人間の倍もあるのに、背丈けは半分しかない。又、女の方はヒョロヒョロ長くて、まるで竹棹のようだ。何という不思議なことであろう。あの山男はあの二人を殺して喰うのか知らん」  と、一生懸命息を詰めて見ておりました。  無茶先生はそれから鍛冶屋にありたけの鉄を集めて真赤に焼いて、たたき固めて、一つの大きなヤットコと鉄の箱を作りました。  それから鍛冶屋にありたけの炭を集めて、ドンドン炉の中にブチ込んで、一生懸命|※で火を吹き起しますと、その火の光りで家中が真赤になりました。 「オヤオヤ。家が焼けなければいいが」  と心配しいしい見ておりますと、無茶先生は鉄の箱をその上にかけて、水を一パイ汲んで、豚吉とヒョロ子をその中に投げ入れて、あとから真っ黒な薬を一掴み入れて煮初めました。 「サテ、煮て喰うのかな」  と思いながらお爺さんが見ておりますと、豚吉とヒョロ子は中の湯が煮立つにつれて真黒になって、まるで鉄のようになってしまいました。  それを大きなヤットコで挟み出して、鉄の箱の中の水を汲み出して外へ棄てて、鉄の箱も外へ出しますと、又も炭をドシドシ炉の中に入れて前よりも一層|非道く燃やしましたが、やがてその炭の火が眼も眩む程まっ赤におこると、無茶先生はさっきこしらえた大きなヤットコを取り出し、先ず豚吉を挟んで火の中へ、 「ドッコイショ」  と突込みました。 「ヤア大変だ。この山男は人間を焼いて喰う化け物だ。人間の丸焼きだ丸焼だ」  と、鍛冶屋のお爺さんはふるえ上って見ておりました。  ところが豚吉は焼けも焦げもしません。だんだん赤くなって、しまいには当り前の鉄と同じように美しい火花がパチパチと飛び出す位柔らかに焼けて来ました。  それを無茶先生はヤットコで引き出して、大きな鉄敷の上に乗せて、片手に大きな鉄槌をふり上げて、 「スッテンスッテンスッテン」  とたたきましたので、豚吉の身体はだんだん長く延びて来て、当り前の長さになりました。  それから又火に突込んで、焼いて柔らかくしては、又引き出してたたきます。そのうちに豚吉の眼も鼻も口も、身体や手足の恰好も、すっかり無茶先生の鉄槌でたたき直されて、ホントに立派な、絵のような美しい人間の姿になりました。 「イヤア。これは不思議だ。あの山男は魔法使いだ。けれども、あんなに鉄のようになった人間をあの山男はどうするのだろう。もとの通りに生かすことが出来るのか知らん」  と鍛冶屋の爺さんは独言を云いました。  無茶先生は豚吉の身体をたたき直しますと、そのまんま火の中へ入れて、今度はヒョロ子を引きずり出して、鉄敷の上に乗せて、二つにタタき屈げましたので、ちょうど当り前の人間の長さになりました。それを焼いてはたたき、たたいては焼いて、頭も尻も無い一つの大きな鉄の玉にしましたので、天井裏からのぞいていた鍛冶屋の爺さんは又肝を潰しました。 「ヤアヤア。あんな丸いものになった。人間の鉄の玉が出来上った。あの山男はあんなまん丸いものをもとの通りに生かすつもりか知らん」  と、なおも眼をこすって見ていますと、無茶先生は又も鉄槌を振り上げてその鉄の玉をたたいているうちに、丸い鉄のまん中から頭をたたき出しました。その次には、その頭の左右から両手をたたき出しました。そうしてその下に胴を作り、足を作ってしまいますと、今度は髪毛をたたき出し、眼鼻を刻みつけ、耳から手足の指から爪まで作りつけて、まるで女神のように美しい女としてしまいました。そうしてそれが済むと、豚吉と一所に並べて火の中に突込んで、その上から残った炭を山のように積み上げて、ブウブウ※を動かし初めました。  初め赤く焼けていた豚吉とヒョロ子は、だんだん白い光りを放つように焼けて、身体中から火花が眼も眩むほど飛び散り初めました。その時に無茶先生は両手でヤットコを握って、初めに豚吉を、その次にヒョロ子を引きずり出して、前を流れている川の中へドブンドブンと投げ込みました。  鍛冶屋のお爺さんはこれを見ると、慌てて天井を出て、裏の物置の屋根から裏庭へ飛び降りて、大急ぎで川のふちへ来ました。  見ると、豚吉とヒョロ子が沈んだ川の水の底からはグルングルングルグルグルと噴水のように湯気や泡が湧き出して、水の上に吹き上っておりましたが、やがてだんだんとその泡が小さくなって消えてしまいまして、青い水の上にポッカリと白い豚吉の身体が浮き上りました。見ると、それは当り前の人間とちっともかわりがないどころでなく、昔の豚吉とはまるで違った立派な姿になっているのでした。 「これは不思議」  と鍛冶屋のお爺さんが思う間もなく、今度はヒョロ子の身体が青い水の上に浮上りましたが、これも今までとはまるで違った美しい別嬪さんになっております。 「不思議不思議」  と、鍛冶屋の爺さんは手をたたいて申しました。  これをきいた無茶先生がヒョイとその方を見ますと、鍛冶屋の爺さんが立っていますので、無茶先生はビックリしまして、 「ヤア。貴様はもうお使いに行って来たのか。何という早い足だ。もしや今おれがしていたことを見はしまいな」  鍛冶屋の爺さんは見る見る真青になってふるえ上りまして、そこへ座ってしまいました。 「どうぞお許し下さいまし。魔法使いの山男様。私はすっかり見ていました。ああ恐ろしや、肝潰しや。又テンカンが起りそうだ。どうぞ生命ばかりはお助けお助け」  と手を合せて拝みながら、頭を往来の土の上にすりつけました。  無茶先生はこれをきくと、大きな眼玉を剥いて鍛冶屋の爺さんを睨みつけましたが、 「よしよし、見たら仕方がない。その代り今見たことを一口でも人に話すと、それだけビックリしても起らなくなったテンカンがまた起るようになるぞ。決して人に話すことはならぬぞ」  と叱りつけますと、お爺さんは大喜びです。 「エエ、エエ。それはもう決して人に話しません。どうぞお助けお助け」  と、また拝みました。 「よしよし。助けてやるから、あの二人の身体を水から上げろ。それから貴様の家へ連れ込んで、すっかり拭き上げて、貴様の布団を着せて寝かせ」 「ヘイヘイ。かしこまりました」  お爺さんは大勢いで二人を水から引き上げて、無茶先生の云いつけ通り家の中に担ぎ込んで、二人を寝かしました。 「コレコレ。それでは貴様は今から町へ行って、さっき頼んだ買物をして来い。それから腹が減ったから、喰い物とお酒を買って来い」 「ヘイヘイ。そして、その召し上りものはどんなものがよろしゅう御座りましょうか」 「それは葱を百本、玉葱を百個、大根を百本、薩摩芋を百斤、それから豚と牛とを十匹、七面鳥と鶏を十羽ずつ買って来い」 「えっ。それをあなたが一人で召し上るのですか」 「馬鹿野郎、そんなに一人で喰えるものか。葱は白いヒゲだけ、玉葱は皮だけ、大根は首だけ、薩摩芋は頭と尻だけ、豚は尻尾だけ、牛は舌だけ、七面鳥は足だけ、鶏は鳥冠だけ喰うのだ。それからお酒は一斗買って来い。ホラ、お金を遣る」 「ヘイヘイ」 「それからも一度云っておくが、どんなことがあっても貴様が見たことをシャベルなよ。魔法使いだといって兵隊や巡査でも来るとうるさいから。そればかりでない。貴様のテンカンもまた昔の通りになるのだぞ」 「ヘイヘイ、決して申しませぬ。それでは行って参ります」  と、鍛冶屋のお爺さんは車力を引いて町へ出かけました。  ところが、この鍛冶屋のお爺さんはまた困ったお爺さんで、何でも自分の見たことやきいたことを人に話したくて話したくてたまらない性質でした。 「これは困ったことになった。うっかりしゃべったら、おれの病気がもとの通りになるばかりでなく、あの山男を捕えに兵隊や巡査なんぞが来たら、おれの家はブチ壊されてしまうかも知れない。けれどもまた、あんな不思議な珍らしいことを見ておりながら、人に話すことが出来ないとは何という情ないことになったものだろう。ああ、困った困った」  と、独言を云い云い行くうちに、やっとのことで町に来ました。  さて、町に来て見ますと、その賑やかなこと、立派なこと。ビックリすることばかりです。けれどもお爺さんは驚きません。 「もうテンカンは治っているから大丈夫だ。それに、この町中の人が見たことのない不思議なものをおれは見ているんだぞ。おれは大変なことを知っているんだぞ。それを話したら、みんな驚いてテンカンを引くだろう。けれどもおれは話さないのだ。ドレ、ソロソロ買物をしようか」  と独言をいいながら、とある着物屋の門口まで来ました。  その着物屋では帽子や靴も一所に売っておりましたので、鍛冶屋のお爺さんは喜んで中へ這入って、 「若い男と女と、それから魔法使いの着物の中で一番上等のを下さい」  と云いました。店の主人はビックリしまして、 「ヘエ。若い男と女の方のお召し物は御座いますが、魔法使いの着物は御座いませぬ。一体それはどんなお方で御座いますか」  と尋ねました。鍛冶屋のお爺さんはそれが云いたくてたまらないのを我慢して、 「それは裸体の山男です」  と申しました。主人はいよいよ呆れてしまいました。 「山男さんの着物もこの店には御座いません」 「そんなら、その山男はお医者だからお医者の着物を下さい」 「ああ、お医者様のお召物なら上等の洋服が御座います。それを差し上げましょう」 「ああ、早くそれを出して下さい」  こう云って、三人の着物から帽子から靴まで買いましたが、店の主人は珍らしいお話が好きと見えて、その着物を包んでやりながら鍛冶屋のお爺さんに尋ねました。 「しかし、その山男でお医者さんで魔法使いのお方は、よほど不思議なお方で御座いますね。今どこにおいでになるお方で御座いますか」 「私のうちに居ります」 「ヘエッ。それじゃ若い男と女の方もあなたのお家においでなのですか」 「そうです」 「ヘエ……。それではどうしてこのような立派なお召物がお入り用なのですか」 「三人共丸裸なのです」 「ヘエーッ。それはどうしたわけですか」  と、店の主人は肝を潰してしまいました。  鍛冶屋の爺さんはもうそのわけが話したくてたまらなくなりましたが、話しては大変だと思いまして、慌てて着物や何かを風呂敷に包みながら答えました。 「そのわけはいわれません」  そうするとこの店の主人はいよいよききたくてたまらない様子で、眼をまん丸にしながら、 「その魔法使いの人はどうしてあなたの家に来られたのですか」  と尋ねました。鍛冶屋のお爺さんはいよいよ慌てて、お金を払って荷物を荷って出てゆこうとしました。その袖を店の主人はしっかりと捕えまして、 「それではたった一つお尋ね致します。それを答えて下さればこのお金は要りません。その品物はみんな無代価であげます」 「ヘエ。どんなことですか」 「あなたのお家はどこですか」  鍛冶屋のお爺さんは眼を白黒しましたが、 「それをいえば私は又テンカンを引きます」  と云ううちに、袖をふり切って表に飛び出して、荷物を荷いで車力を引きながらドンドン駈け出してゆきました。  それから鍛冶屋の爺さんは八百屋の門の口まで車力を引っぱって来ましたが、又考えました。 「待てよ。あの魔法使いの山男は葱は白いヒゲだけ、玉葱は皮だけ、大根は首だけ、芋は尻と頭だけと云ったぞ。そのほかの鷄や獣もみんなすこしずつしか喰べないと云ったぞ。そうして、その入り用なところはみんな棄ててしまうようなところばかりだから、お金を出して丸ごと買うのは馬鹿馬鹿しい。八百屋や肉屋へ行ってそこだけ貰って来れば、いくらでもある上に、持って帰るのに軽くていい。そうだそうだ」  鍛冶屋のお爺さんは八百屋へ這入って来まして、 「玉葱の皮と大根の首と、葱の白いヒゲと、お芋の頭と尻尾を下さい」  といいますと、八百屋の丁稚は笑い出しました。 「そんなものは八百屋には無いよ。丸ごとならあるけれど」 「ヘエ。それじゃどこにありますか」 「どこにも無いよ。料理屋へ行けばハキダメに棄ててあるけれども、キタナイからダメだ。やっぱり丸ごと買うよりほかはないよ」 「オヤオヤ、困ったな」 「けれども、お爺さんはそんなものを買って何にするんだい」  と、こう丁稚に云われますと、お爺さんは思わず、 「それは山男の魔法使い……」  といいかけましたが、すぐに最前無茶先生に云われたことを思い出しまして、眼を白黒して黙ってしまいました。  鍛冶屋のお爺さんは、それから今度は肉屋へ来まして、 「豚の尻尾と牛の舌と、七面鳥の足と、鶏の鳥冠を十匹分ずつ下さい」  と頼みました。肉屋のお神さんはやっぱりビックリしましたが、 「まあ、大変な御馳走をお作りになるのですね。七面鳥の足と鶏の鳥冠は十匹分ぐらい御座いますけれども、牛の舌と豚の尻尾は三匹分ずつしか御座いませぬ。あとは料理屋でもお探しになってはいかがですか」  と申しました。鍛冶屋のお爺さんはガッカリして、 「ああ。やっぱり料理屋に行かなければならぬのか」  と申しました。そうすると、肉屋のお神さんは不思議そうに眼を丸くしながら尋ねました。 「けれども、そんなに上等のお料理を誰がおつくりになるのですか」 「それは山男の魔法使い……」  と、鍛冶屋のお爺さんは又うっかりしゃべりかけましたが、急に首をちぢめて駈け出しました。  鍛冶屋のお爺さんはあちらこちらと尋ねまわって、とうとうこの町で第一等の料理屋を見つけ出しまして、そっと台所からのぞいて見ますと、広いその台所の向うには火がドンドン燃えて、湯気がフウフウ立っております。そのこちらの大きな大きな俎のまわりには、白い着物を着た料理人が大勢並んで野菜や肉を切っておりますが、葱の白いヒゲや玉葱の皮や、大根の首や薩摩芋の尻や頭なぞはドンドン切り棄てて、大きな樽の中に山のようになっております。 「ここだここだ。ここへ頼めば何でもあるに違いない」  と鍛冶屋の爺さんはうなずいて中に這入りまして、二つ三つお辞儀をしました。 「ちょっとお願い申します。その樽の中のものを私に売って下さいませんか」  と尋ねました。  料理人はふり返って見ますと、みすぼらしい爺さんが大きな包みをかついで立っていますので、 「何だ、貴様は」  と尋ねました。 「私は鍛冶屋で」 「かついでいるのは何だ」 「山男と、鉄で作った人間二人の着物で……」  これをきくと、十人ばかり居た料理人が、みな仕事をするのをやめて、鍛冶屋の爺さんの顔を見ました。 「何だ。山男と鉄で作った人間に着せるのだというのか」 「そうです」 「フーン。それは面白い珍らしい話だ。それじゃ、この樽の中のゴミクタは何のために買ってゆくのだ」 「それはその山男がたべるのです。まだこのほかに豚の尻尾と七面鳥の足と、鶏の鳥冠と牛の舌も買って来いと云いつけられました」 「何だ……それは又大変な上等の料理に使うものばかりではないか。そんなものを山男が喰べるのか」 「そうです」 「不思議だな」  と、みんな顔を見合わせました。  そうすると、その中で一番年を老った料理人が出て来て、鍛冶屋のお爺さんに尋ねました。 「オイ爺さん。お前にきくが、今云った豚の尻尾だの何だのはこの国でも第一等の御馳走で、喰べ方がちゃんときまっているのだからいいが、この樽の中に這入っている芋の切れ端だの大根の首だの、葱の白いヒゲだの玉葱の皮だのいうものは、どうしてたべるかおれたちも知らないのだ。お前はそれをどうして食べるか知っていはしないかい」 「ぞんじません。おおかたあの山男は魔法使いですから魔法のタネにするのでしょう」 「何、その山男が魔法使い?」 「そうです」 「それじゃ、その鉄で作った人間は何にするのだ」  鍛冶屋のお爺さんは又困ってしまいました。こんなに大勢に自分の見たことを話したら、どんなにビックリするか知れないと思うと、話したくて話したくてたまりませんでしたが、一生懸命で我慢をしまして、 「それは申し上げられません。どうぞお金はいくらでもあげますから、玉葱の皮と、葱の白いヒゲと大根の首と、豚の尻尾と、七面鳥の足と、牛の舌と鶏の鳥冠とを売って下さい」 「それは売ってやらぬこともないけれども、そのお話をしなければ売ってやることはできない」  鍛冶屋のお爺さんは泣きそうな顔になりました。 「どうぞ、そんな意地のわるいことを云わないで売って下さい。そのお話をすると、私は又テンカンを引かなければなりませんから」 「何、そのお話をするとテンカンを引く? それはいよいよ不思議な話だ。サア、そのお話をきかせろきかせろ」  といううちに、台所に居た人たちは皆、鍛冶屋のお爺さんのまわりに集まって来ました。  鍛冶屋のお爺さんはいよいよ困って、逃げ出そうかしらんと思っておりますところへ、この家の若い主人夫婦が出て参りまして、 「何だ何だ。みんな、何だってそんなに仕事を休んでいるのだ」  と叱りましたが、この話を女中からききますと、やっぱり眼を丸くしまして、 「おお、それは面白い。おれも玉葱の皮だの大根の首だのの料理はきいたことが無い。それに、山男の魔法使いだの鉄の人間だのいうものも見たことが無い。それではお爺さん。お前さんの云う通りの品物をみんな揃えてあげるから、お前さん、ごく内証で私達夫婦をつれて行ってくれないか。私たちはその玉葱の皮や何かのお料理が見たいから」  と云いました。けれども、お爺さんはなかなかききません。 「あの山男は鉄槌で人間をたたき殺して、火にくべて真赤に焼いて、たたき直したりするのですから、うっかり見つかると、私共はどんな魔法にかかるかわかりません」 「それはいよいよ不思議だ。なおの事その山男の魔法使いが見たくなった。是非つれて行ってくれ」 「いけませんいけません」  と、何遍も何遍も云い合いました。  その時にこの料理屋の二階に田舎のお爺さんが二人御飯を喰べさしてもらいに来ましたが、あんまり御飯が出来ませんので腹を立てて、手をパチパチとたたいて女中さんを呼びました。  いくらたたいても誰も来ないので、変に思って下へ降りて来ますと、大きな風呂敷包みを荷いだ一人のお爺さんを捕まえて、みんなで、 「連れてゆけ連れてゆけ」  と責めております。そこへ二人の爺さんの中の一人が近づいて、 「お前たちは一体どうしたのだ。御飯を食べさしてくれと云うのに、いつまでも持って来ないで困るじゃないか」  と云いました。すると若い主人夫婦が出て来て、 「どうも相済みませぬ。それはこんなわけで御座います」  と、くわしく鍛冶屋の爺さんのことを話しました。  そうすると二人のお爺さんは顔を見合わせていましたが、一人のお爺さんは、 「それはもしかしたら無茶先生じゃないかしらん」  と云いました。そうするとも一人のお爺さんも、 「私もそう思う。山男のようで魔法使いのようで裸体で、二人の若い男と女とを連れているのならば無茶先生かも知れない。そうして二人の男と女は豚吉とヒョロ子かも知れない。ちょっと、そのお前が荷いでいる風呂敷包みの中の着物を見せてくれないか」  と申しました。  鍛冶屋のお爺さんは、着物を見せる位構わないだろうと思いまして、そこの上り口に広げて見せますと、二人のお爺さんは不思議そうに眉をひそめました。 「これは不思議だ。豚吉とヒョロ子はこんな当り前の身体じゃない。それじゃ違うのかな」 「いや、そうでない」  と、又一人のお爺さんが頭をふって申しました。 「ねえ、鍛冶屋のお爺さん。お前さんは最前、その山男が人間を火に入れて焼いて、たたき直すように云ったが、その若い男や女もその山男がたたき直したのじゃないかい」 「そのたたき直さない前の男は豚のようで、女の方はヒョロ長くはなかったかい」  と両方から一時に尋ねました。  鍛冶屋のお爺さんは真青になってふるえ上りました。 「ド、ド、何卒……ソレ、そればかりは尋ねずにおいて下さい、ワ、私が又テンカン引きになりますから」 「何、テンカン引きになる」 「それはどうしたわけだ」 「ソ、ソレも云われません」  二人の爺さんは困ってしまいました。けれども、やがて二人とも鍛冶屋の爺さんの前に手をついて申しました。 「どうぞお願いですから詳しく話して下さい。何を隠しましょう。私共二人は豚吉とヒョロ子の親で、二人が婚礼の晩に逃げた日から二人を探してあるいているものです。そうしてある町へ行って、豚吉とヒョロ子が無茶先生という魔法使いのような上手なお医者に連れられて逃げ出して、それから次の町へ行ってサンザン兵隊や何かを困らして逃げたまま、どこへ行ったかわからなくなったことをききまして、おおかた山へ逃げ込んだのだろうと思いまして、山の中を探しているうち、ある谷川の処で塩の付いた樽をいくつも見つけました。これはきっと無茶先生が、豚吉とヒョロ子を塩漬けにしてここまで持って来られて、生き返らせられたのであろうと思いましたが、それから先は山が深くてとてもわかりませんから、一先ず村へ帰ることにきめて、今帰る途中なのです。ちょうどこの町へ来ました時、私たち二人はあんまり疲れましたので、この町で一番いい料理屋に行って、一番おいしい御馳走を食べようと思ってここへ来たところに、あなたにお眼にかかったのです。ですから、どうぞ隠さずに話をして下さいまし。そうして、その二人の若い男女が私共の児であるかどうか知らして下さいまし。そのためにあなたがテンカンをお引きになるようなら、私から無茶先生に願って、どんなよいお薬でも貰って上げます」  と、手を合わせ、涙を流して頼みました。  これをきくと、料理屋の主人の若夫婦も一所になって、鍛冶屋のお爺さんにお話をするようにすすめました。 「お前さんはその無茶先生とやらにテンカンを治していただいたのだろう。そうして、このことを話すと又テンカンを引くとおどかされたのだろう。けれども、無茶先生が魔法使いでなくお医者なら、そんなことはないではないか。それから、ほかの人には話してわるいかも知れないけれども、豚吉さんとヒョロ子さんのお父様になら話した方がいいのだ。話さない方がわるいのだ。早く本当のことを云って、二人のお父さんを喜ばせてお上げなさい」  こう云われますと、鍛冶屋のお爺さんもやっと安心をしまして、さっきから自分の家で見たりきいたりしたことを詳しく話しました。  鍛冶屋のお爺さんの話をきいた豚吉とヒョロ子のお父さんは飛び上って喜びました。 「それこそ豚吉とヒョロ子だ。私たちの大切な子だ。今からすぐに行って会わねばならぬ」  と、すぐにも出かける支度をしました。それを見ると又、料理屋の若い主人も大変な勢いになって、 「サア。みんな、仕事をやめろ。お客様も何も皆追い出してしまえ。そうして玉葱と、葱と、大根と芋と、豚と鶏と、七面鳥と、牛とありたけ買い集めて、車に積んで出かけろ。鍋や釜や七輪も沢山積んで、皆で押してゆけ。向うへ行って御馳走をするんだ。豚吉さんとヒョロ子さんが生れかわったお祝いをするのだ。そうして、世界一のエライお医者様の無茶先生にお眼にかかるんだ。お酒もドッサリ持って行くんだぞ。そんな珍らしい人達に御馳走しておけば、おれたちの家が名高くなってドンナに繁昌するかわからない」 「よろしゅう御座います」  というので、大勢の雇人はわれ勝ちにいろんな物を買い集めたり、車に積んだり、大騒ぎを初めましたので、最前から沢山に来ていたお客は誰も構い手が無くなって、プンプン怒ってみんな帰ってしまいました。  すっかり支度が済んで、何十台の車を引っぱって、二人のお父さんを先に立てて、鍛冶屋のお爺さんの家に着いた時はもう日暮れでした。  鍛冶屋のお爺さんはみんなを裏の方に隠しておいて、たった一人で、 「只今帰りました」  と云って這入ってゆきますと、無茶先生と豚吉とヒョロ子は三人共グーグー寝ていましたが、その中で無茶先生はお爺さんの声を聞くと起き上って、 「ヤア。御苦労御苦労。早かった早かった。そして着物は買って来たか」  と尋ねました。 「ヘイ、ここに御座います」  と、お爺さんは買った着物を出して見せました。 「ヤア、上等上等」  と無茶先生は喜んで、その着物を寝ている二人に着せまして自分も着ましたが、三人ともほんとによく似合いました。中にも豚吉とヒョロ子は今までの奇妙な姿とはまるで違って、殿様の御夫婦のように立派に見えました。無茶先生はニコニコして云いました。 「これでよしこれでよし。それでは玉葱や何かは買って来たか」 「ヘイ、買って参りました」 「よし。その玉葱を一つと庖丁を持って来い」 「ヘエ、たった一つですか」 「そうだ」 「何になさるのですか」 「何でもいい。早く持って来い」 「ヘイ。畏まりました」  と、鍛冶屋の爺さんが玉葱を一つと庖丁を持って来ますと、無茶先生はその玉葱を庖丁でサクリと二つに割って、その二つの切り口を豚吉とヒョロ子の上に当てがいました。  そうすると、今までグーグー寝ていた豚吉とヒョロ子は一時に、 「クシンクシン」  とクシャミをして眼を開きましたが、玉葱のにおいが眼にしみましたので、 「アッ。これはたまらぬ」 「何だか眼に沁みてよ」  と、二人共眼をこすって起き上りました。 「アア。すっかり眼がさめた」  と豚吉はあたりを見まわしましたが、ヒョロ子の姿を見るとビックリしまして、 「オヤッ。あなたはどなたです」  と大きな声で云いました。ヒョロ子もこう云われてヒョイと前を見ますと、見たこともない立派な人が居ますから驚いて、 「まあ。あなたはどなたですか。お声は豚吉さまのようですが……」  と云いかけて、無茶先生の顔を見ると又ビックリしまして、 「まあ、先生。私はこんな立派な姿になってどうしたんでしょう」  と叫びました。 「アハハハハハハ。驚いたか」  と、無茶先生は腹を抱えて笑いました。 「サア、鍛冶屋のおやじ。もう何もかも話していい時が来たぞ。二人にお前が見た通りのことを話してきかせろ。そうしたら、二人が豚吉とヒョロ子夫婦であることがわかるだろう」 「ヘイ。けれどもこのお話はもうよそで致しました」  と鍛冶屋の爺さんが恐る恐る申しました。 「何、よそで話した」 「ヘイ。それにつきましてお二人にお引き合わせする人があります」  と急いで裏へ行って、二人のお爺さんを引っぱって来ましたが、豚吉とヒョロ子はそれを見るとイキナリ飛び付きました。 「オオ、お父さん」 「そう云う声は豚吉か」 「アレ、お父様」 「そう云う声はヒョロ子か」 「お眼にかかりとう御座いました」 「おれも会いたかった。けれどもまあ何という立派な姿になったものだろう」 「お父様、お許し下さいませ。私たちが逃げたりなど致しましたためにどんなにか御心配をかけたことでしょう」 「イヤイヤ。そのことは心配するな。もう許してやる。それよりもよく無事で居てくれた。そうしてまあ何という美しい女になったことであろう。ああ、何だか夢のようだ」  と、親子四人、手を取り合って嬉し泣きに泣きました。  親子四人は揃って無茶先生の前に手をついてお礼を云いました。  そうすると無茶先生は長い黒い髭を撫でながら、 「イヤ。おれも二人のおかげで思うよういたずらが出来て面白かった。もうこれから乱暴はしないから安心しろ。それから、二人の名前も今までの通りの豚吉とヒョロ子では可笑しいであろう。おれがよい名をつけてやる。これから豚吉は歌吉、ヒョロ子は広子というがいい。おれも名前を牟田先生とかえよう。サア、これからお祝いに御馳走をするのだ」 「ヘイ、かしこまりました」  と、裏口から料理屋の若い夫婦が這入って来ました。  不意に知らない人間が這入って来ましたので、牟田先生も歌吉も広子もビックリしますと、二人のお父さんは料理屋での出来事を話しましたので、みんな面白がって大笑いを致しました。 「それはよく来てくれた」  と、牟田先生は料理屋の主人夫婦に御礼を云いました。 「それでは先ず玉葱の皮と葱の白いヒゲと、大根の首と芋の切れ端とでソップを作って、歌吉と広子に飲ませてくれ。そうすると、お腹の中に残っている鉄の錆がスッカリ抜けてしまうのだ。それから豚の尾と牛の舌と、鶏の鳥冠と七面鳥の足で第一等の料理を作ってくれ」 「かしこまりました」  と、それから料理屋の主人夫婦が大将になって、大勢がかりで火をドンドン起してお料理を作りまして、夜通しがかりで大祝いをしました。  そうして夜が明けますと、牟田先生や歌吉と広子の父親は料理屋の主人夫婦や雇い人にお金を沢山に遣って帰しました。鍛冶屋のおやじにも遣りました。  牟田先生と歌吉四人が無事に故郷に帰りますと、村中の人は皆集まって来て、牟田先生を一番いいお客として歌吉と広子の婚礼のやり直しをしましたが、皆二人の姿の立派になったのを驚くと一所に、牟田先生のエライのに感心をしました。  歌吉と広子はそれから村に居て、両親に孝行をしました。そうして牟田先生を崇めました。  牟田先生はこの村に居ていろんな病人を治してやり、自分も大層長生きをしました。  小さな鞄と大きな鞄と二つ店に並んでおりました。大きな鞄はいつも小さな鞄を馬鹿にして、 「お前なんぞはおれの口の中に入ってしまう」  と冷かしました。  二つの鞄は同じ時に同じ人に買われて、同じ家に行きました。すると小さな鞄の中にはお金や何か貴いものが詰められて、人間に大切に抱えられて行きます。大きな鞄はあべこべにつまらないものばかり詰められて、荷車に積まれたり投げ飛ばされたりしておりました。小さな鞄は大威張りで、 「大きな鞄の意気地なし」  と笑っておりました。大きな鞄は大層口惜しがって、自分をいじめる人間を怨んでおりました。  ある日大火事があってこの家の人が逃げ出す時、衣服と一緒に小さな鞄を大きな鞄の中に入れて逃げ出しました。大きな鞄はここで敵を取ってやろうと思って、火事が済んだあとで人が開けようとすると、口をしっかりと閉じて中の小さな鞄を出すまいとしました。人間は大層困っていろいろやってみましたが、どうしても開きません。 「この鞄は駄目だよ。口を開かなきゃ鞄の役に立ちはしない。中の小さな鞄が入り用だからしかたがない。こうしてやろう」  と言いながら横腹を切り破ってしまいました。  昔ある処に力の強い、何でも上手の男が二人おりました。二人共知らぬ者がない位名高かったのですから、どちらがえらいかわかりませんでした。  ある日二人は往来で出会うとお互いに自慢をはじめましたが、ただ口で言っただけではわからないので、とうとう決闘をする事になりました。  二人はピストルを持って来て撃ち合いをはじめましたが、どこを打っても弾丸が途中で打つかってどっちにも当りません。  次には剣を持って来て斬り合いましたが、打ち合うたんびに剣が折れて斬り合うことが出来ません。  二人はとうとう取り組み合いをはじめましたが、どちらも力が同じように強いので、取り組んだまま動く事が出来ません。そのうちに日は暮れるしおなかはすくし、二人とも疲れてイヤになって来ましたが、負けるのが口惜しいからやめる訳にゆきません。とうとう二人共閉口して一時に、 「助けてくれイ」  と叫びました。ちょうど空車を曳いて傍を通りかかった男は、ビックリして車をとめて、 「どうしたのですか」  と尋ねました。  二人がはじめからの事を話しますと、荷車曳きはため息をして、 「それは大変です。ではこうしたらどうです。私がお弁当を上げますからそれを二人で食べて、それから私についてお出でなさい。そうしたらうまく勝負をつけて上げます」  二人は喜んでお弁当をたべて、荷車曳きについて行きました。  荷車曳きは二人を連れて市場に行くと、いつもの倍もその上に荷物を積んで、二人に言いました。 「この車のあとを押して下さい。先に疲れた方が負けです。私が審判官になります」  二人は一所懸命に押しました。それから何里も行くうちに二人はもう死にそうにつかれましたが、それでもやっとこさ向うへ着きました。  荷車曳きはいつもの倍もある荷物を売って、お金を沢山に儲けました。  荷車曳きは二人にお礼を言って、行こうとしました。二人は驚いてひきとめて、 「一体どちらが勝ったのだ」  と尋ねました。 「どちらも負け勝ちなしです。負け勝ちがつけたいならば、明日も一ぺん今日の処へいらっしゃい。そうしても一ぺん車のあとを押して下さい」 「馬鹿にするな」  と二人は怒りました。しかし荷車曳きは平気で笑いました。 「私は、あなたがたが往来に棄ててお出でになる無駄な力を拾っただけです。お二人の力をこんな方に使ったら、馬を一匹養うよりもずっと役に立ちます。勿体ない事です」  二人は恥かしくなってコソコソ逃げて行きました。  それは可愛らしい、お河童さんの人形であった。丸裸体のまま……どこをみつめているかわからないまま……ニッコリと笑っていた。  ……時間と空間とを無視した……すべての空虚を代表した微笑であった。  ……真実無上の美くしさ……私は、その美くしさが羨ましくなった。云い知れず憎々しくなった。そのスベスベした肌の光りが無性に悲しく、腹立たしく、自烈度くなった。  その人形を壊してしまいたくなった。その微笑をメチャメチャにしたくなった。私は人形を抱き上げて、静かに首をねじって見た。するとその首は、殆んど音も立てないで、ポックリと折れた中から、竹の咽喉笛がヒョイと出て来た……人を馬鹿にしたように……。  私は面白くなった。  拳固を固めてポカリと頭をたたき割ったら、鋸屑の脳味噌がバラバラと崩れ落ちて来た。胴を掴み破ると、ボール紙の肋骨が飛び出した。その下から又、薄板の隔膜と反故紙の腸があらわれた。手足をポキポキとヘシ折ったら、中味は灰色の土の肉ばかりで、骨の処は空虚になっていることがわかった。  けれども人形は死ななかった。何もかもバラバラになったまま、可愛らしくニコニコしていた。  私はいよいよ苛立たしくなった。人形の破片を残らず古新聞に包んで、グルグルと押し丸めて、庭の隅のハキダメにタタキ込んだ。……こんな下らないものを作った人形師を咀いながら…………。  その古新聞紙はハキダメの中で雨にたたかれて破れた。メチャメチャになった人形の手足が、ゴミクタの中に散らばった。その中から可愛らしい硝子の片眼だけが、高い高い青空を見詰めながら、いつまでもいつまでも微笑していた。私はずっと後になってそれを発見した。そうして何かしらドキンとさせられた。  私は履物の踵で、その片眼を踏みつけた。全身の重みをかけてキリキリと廻転した。  白い太陽がキラキラと笑った。  昔、ある街の町外れで大勢の乞食が集まって日なたぼっこしながら話しをしておりましたが、その中で一人の若い乞食が大きな声を出して申しました。 「おい、皆聞け。俺が昨夜他家の軒下で寝ていると、白い着物を着た人が来て、俺について来いと云った。おれは何でもこれは福の神に違いないと思って従いて行って見ると、この街の真中の四辻に来て神様は、地面の上を指してそのまま消えてしまった。見るとそこには金剛石を鏤めた金の指環が……」  とまだ話してしまわない中に、横に居った跛の乞食が、持っていた松葉杖で、若い男の頭をコツンと打ちますと、若い男はウーンと云って引っくりかえりました。  乞食共は驚くまい事か、どうしたのかと聞きますと、跛はプンプン憤りながら、 「何、その指環は俺が或る金持ちから貰ったのを落したのだ。こん畜生は泥棒だ。俺は指環を取り返さなくちゃならない」  と云いながら、倒れた男を丸裸にして調べましたが、銅貨が二ツ三ツあった限で他に何もありませんでした。この様子を最前から見ていた禿頭の紳士がありました。この紳士はこの町で名高い吝ん坊でしたが、つかつかと乞食の処に近よりまして、その若い男の死骸を買おうと申しました。そして乞食仲間に少しばかりのお金を遣って、若い男の死骸を買い取って、馬車に乗せて家に持って帰りまして、自分の居間に寝かしてお医者を呼びにやりました。そしてお医者が来ると禿紳士は、家中のものを皆遠ざけて、若い乞食の死骸を見せて、極く内緒でこの死骸をズタズタに切って、金剛石の指環を探してくれと頼みました。  お医者は驚いて、私はそんな恐ろしい事は出来ませぬと断りますと、禿紳士は大層|憤って、それではお前も一緒に殺してしまうと云いますから、仕方なしに承知して、それでは家に行って、人の身体を切る器械を取って来てくれと頼みました。すると紳士は医者を室に閉じこめて、外から鍵をかけて、自分で器械を取りに行きました。  この様子を最前から窓かけの蔭に隠れて聞いていたのは、この禿紳士の娘と男の子でした。二人はお父さんが出て行くと直に駈け出して、お医者の袖に縋って、この乞食を助けてくれと頼みました。そして娘はお母様から頂いた金剛石入りの指環を出して、これをお父様に上げて下さいと申しました。お医者は涙を流して感心しました。そしていろいろ乞食を介抱しますと、上手なお医者ですから、間もなく生き返らしてしまいました。その時にお父様の禿紳士は器械を片手に持ちながら、息を切らして帰って来ましたが、この体を見ると大層|憤って、二人はどこから這入って来たかと叱りました。  その時お医者は一足進み出て、指環を紳士に見せながら申しました。 「お児様方は前からこの室にお出でになっておったのです。私はこの乞食を生かしました。そして飲み込んでいた指環を吐き出させました。ですから何卒乞食の生命だけはお助け下されますように。この指環はあなたに差し上げます」  禿紳士がその指環を一眼見ると、誰の指環かという事が直にわかりました。そしてそれと一所に自分の子供の美しい心がわかりまして、今までの自分の悪い行いを後悔しました。禿紳士はお医者に沢山のお礼を遣り、若い乞食を初め大勢の乞食を集めて、いろいろのものを遣って御馳走をしました。二人の子供にも御褒美をやった事は申すまでもありませぬ。その時に禿紳士は若い乞食に向って申しました。 「拾ったものは返さなくてはいけない。指環はどこに隠してあるのか」  若い乞食は頭をかきかき答えました。 「あれは本当の事では御座いませぬ。夢の話をしていたのに此奴が私の頭をなぐったのです」  と横に居る跛を指しました。跛も顔を真赤にして頭を掻きながら、 「私も夢で指環を落したのですが、此奴が夢の中で同じ所で拾ったのならば、屹度私のに違いないと思うと、急に腹が立ちましたから擲り付けたのです」  と申しましたから、皆腹を抱えて笑いました。  けれども禿紳士は笑わないで申しました。 「お前達の夢は正夢であった。御蔭で俺は善人になる事が出来た」 「じゃ、あの神様は本当の神様だったかしら」  と若い乞食が申しました。 「否、神様はここに居る。この二人の子供が俺の心を直した本当の神様だ」  と云って紳士は二人を抱き上げました。乞食共は一時に万歳を叫びました。  どこか遠くで一つか二つか鳴るボンボン時計の音を聞くと、睡むられずにいた玲子はソッと起上った。  屋根裏の窓に引っかかっている春の夜の黄色い片割月を見上げながら、洗い晒しの綿ネルの単衣一枚に細帯を一つ締めて、三階の物置の片隅に敷いてある薄ッペラな寝床から脱け出した。鼻を抓まれてもわからない暗黒の中を素跣足の手探りに狭い梯子段を二階のサロンに降りて来た。  ……この頃来なくなっている玲子の家庭教師の大学生、中林哲五郎先生に昨日の昼間、速達で出した手紙の文句を思い出しながら……。  中林先生。早く玲子を助けに来て下さい。  今のお母さんが去年の十二月にいらっして、先生が私の家に来て下さらなくなってからというもの玲子は泣いてばかりおりますの。先生がよく玲子にお話して聞かして下すった西洋の探偵小説とソックリの怖い怖い悲しい悲しいことばかりが玲子の家の中一パイに渦巻いております。  去年からコカイン中毒になって弱っておいでになったお父様が、二三日前に急に思い立って信州へ鳥の研究にお出かけになってからというもの、そんな怖い悲しいことが急に私のまわりに殖えて来ました。ですけども詳しいことは書いている隙がありません。  玲子の家に泥棒が這入りそうですの。そうしてお母様を殺しそうですの。私どうかしてお母様を助けて上げたくてしようがありませんけど、とても怖くて怖くてそんなことが出来そうにありません。  今朝、学校に行きがけに怖い顔をしたルンペンの小父さんから手紙を一通ことづかりました。お父様の所番地にいる根高弓子という女の人のアテナになっております。それを誰にもわからないように、お前のお母さんに渡せ……うまく渡さないとお前は、お母さんに殺されてしまうぞって言って怖い顔をして睨まれました。  うちのお母様は根高弓子なんていいません。大沢竜子っていうのですから、あたしどうしようかと思って、休みの時間に手紙をいじりまわしておりますといつの間にか封筒の下の方の糊が離れて中味が脱け出して来ましたの。そうして悪いことはわかっていたのですけど、あんまり心配ですから玲子はその手紙の中味を読んでしまいましたの。  玲子はビックリしてしまいました。そうして十二時の休みの時間に大急ぎでこの手紙を書きました。お友達からお金を借りて速達で出します。  そのルンペンの小父さんから貰った手紙には先生からお話に聞いた探偵実話ソックリの怖い怖いことが書いてありました。玲子の今のお母様のズット前のお婿さんが北海道の監獄から逃げ出して来て、久し振りにお母さんに出す手紙なのでした。  中林先生。あたし、どうしたらいいのでしょう。どうぞどうぞ直ぐにいらっして下さい。玲子にどうしたらいいか教えて下さい。かしこ。   三月二十二日大沢玲子より    中林先生様 御許に  ……梯子段が二度ばかりギシギシと音を立てた……玲子はハッと吾に返って立止まったが、それでもサロンに来ると、敷き詰めてある豪華な支那|絨氈のために足音が消されてしまったので、玲子はホッと安心した。今一度、真向うの仏蘭西窓の下側にコビリついている黄色い片割月を見上げたが、そのまま小さい身体とお河童さんを傾げながら白いマットを敷いた幅広い階段を小急ぎに降りて行った。  巨大な旧式洋館の大沢子爵邸内の春の夜はヒッソリ閑と静まり返って、階下玄関の大時計のユックリユックリとした振子の音が冴え返っていた。  玲子はその時計の針を見ようとしたが、近寄れば近寄るほど背が低くなって駄目なことがわかったので、思いきってその時計の横のスイッチを捻って、白い文字板の二時十分を指している長針と短針をチラリと見ると直ぐにまた、消してしまった。するとその時に二階の階段の上から、足音を忍ばして降りて来かかった派手な波斯模様の寝間着の裾と、白い、しなやかな素足の爪先がヒラヒラと、慌てて二階の方へ逃げ上って行ったが、しかし時計の方に気を取られていた玲子はチットモ気づかなかった。またも手探りで中庭に向っている廊下の途中にある小さな切戸の処へ来ると、その低い扉の中央にある小さな覗き窓にお河童さんの額を押しつけて青白い外の月夜を覗いた。そのままじっと動かなくなった。  その覗き窓の直ぐ下に大きなペンキ塗の犬小舎の屋根が月あかりに見えていた。それはズット前のこと、大沢家に泥棒が這入りかけたのを調べに来た刑事さんが「ここが一番物騒ですよ」と言ったので、玲子の父親の大沢子爵が、友人の村田大将から貰って来た黒竜江生れのセパードを繋いでいる小舎であった。そのセパードはアムールといってステキに大きい、人懐こい犬で、その中でも玲子と、玲子の先生の中林哲五郎には特別によく懐いているのであった。  しかしその時に玲子は別段にアムールの名を呼ぼうとはしなかった。ただ一心にその犬小舎の周囲を取巻く軒下の暗闇を見守っているきりであった。二時半を打っても三時を打っても……片割月が西側の森に隠れて、そこいらがすこし暗くなりかけても、一心に窓際に掴まっていた。そうして東の空が、ほのぼのと明けかかって来ると、玲子はほっとタメ息を一つして廊下を引返して玄関に出た。足音を忍ばしてまだ真暗な二階のサロンへ上って来た。  ところが玲子が三階の物置へ通ずる狭い板梯子へ片足を踏みかけようとした時に、サロンの天井に吊された美事なキリコ硝子のシャンデリアがパッと輝き出したので、玲子は思わずハッと身を縮めたまま背後を振り返った。あんまり急に明るくなったので眼をパチパチさせてみたが暫くは何も見えなかった。玲子は梯子段に片足を踏みかけて振返ったまま石のように固くなってしまった。 「あら……お母様……」  サロンの片隅の寝室に通ずるカーテンの蔭から美しい婦人の姿が徐々に現われた。それは三十四五かと見える前髪を縮らした美しいマダムで、全身が刺青のように青光りする波斯模様の派手な寝間着を着た、石竹色のしなやかな素足に、これも贅沢な刺繍のスリッパを穿いていたが、その顔は大理石を彫んだように真白く硬ばって、大きな美しい二つの瞳には真黒い怒りがみちみちていた。 「何をしているのです」  その声は低くて力があった。小柄な、瘠こけた、見すぼらしい姿の玲子は、たださえ色の悪い顔色を一層、青白く戦かしながらマダムの方へ向き直って、赤茶気たお河童さんをうなだれた。校長先生の前に呼出された時のように……。 「……はい……」 「はいではありません。子供の癖に真夜中に起きて家の中をノソノソ歩きまわるなんて……何て大胆な……恐ろしい娘でしょう……」  マダムの口調は憎しみにみちみちていた。玲子はモウぽとりぽとりと涙を滴らしながら普通さえ狭い肩をすぼめて、わなわなと震えていた。 「はい……あの……あの……泥棒が……」 「……泥棒……何が泥棒です……」 「あの……あの……このごろ……アムールが御飯を食べなくなりましたので……」  マダムの薄い唇に冷笑が浮かんだ。 「ほほほ。利いた風なことを言うものではありません。泥棒が家の犬を手馴ずけるために何か喰べ物でも遣っていると言うのですか」 「……………」 「ハッキリ返事をなさい」 「……ハ……ハイ……」 「何がハイです。うちのアムールは、そんなに手軽く他所の人に馴染むような馬鹿犬ではありません。それとも誰か怪しい者がこの家を狙っている証拠でもありますか」 「……………」 「ハッキリ返事をなさい」 「ハイ……ハ……ハイ……」 「あると言うのですか」 「……………」 「あなたは……どうしてソンナにしぶといのですか」  そういううちにマダムの背後に隠れていた白い肉付きのいい右手が前に出て来た。その手には黒い、短い、皮革の鞭がシナシナと撓っていた。  玲子は、それを見るなりグッタリと力を失ってしまった。今にも気絶しそうに左手の柱に掴まると、右手で懐中から一通の封筒を取出してマダムの方向へ差出した。ガックリとうなだれて涙をハラハラと流しながら……。  その封筒の文字を、遠くから一目見ると、マダムはハッと顔色を変えた。しかし又すぐに何も知らぬ白々しい顔になって冷笑した。 「ホホホ。神経過敏にも程があるわねえ、この児は……何です……見せて御覧なさい」  といううちにツカツカと近寄って来てその手紙を引ったくって無造作に封を破った。中味を拡げるとシャンデリアの方向に向けて読み初めた。  玲子は今にも鞭が降り落ちて来るかのように、その前にペタリと坐って両手で顔を蔽うた。 「ホホホ。この手紙がどうしたんですか……何ですって……『弓子、久し振りだなあ、よもや忘れはしまい。俺は十五年前に別れたお前の夫、沼霧匡作だ』……ホホ……何だか時代めいたお芝居みたいねえ。この弓子って誰なの……え……玲子さん……。お前さん、知っている人なの?……」 「……………」 「どうやらお前さんの知っている人らしいわねえ。こんな手紙を持っているところを見ると……ええ……と……『俺はお前のために俺の旧悪を密告されて、網走の監獄に十五年の刑期を喰込んだ。おまけに財産の全部をお前に持逃げされてしまった』……まあ恐ろしい女ですわねえ弓子っていうのは……ねえ玲子さん……」 「……………」 「ええと……『それでも俺はお前を怨まなかった。こうして苦心惨憺して三年前に脱獄してからというもの、それこそ生命を削る思いをして、お前を探しまわったことを考えても、お前なしに俺が生きてゆけない人間になりきっていることが、いくらかわかるだろう』……ホホホ。いよいよ安芝居のセリフじみて来たわねえ……『それにしてもお前はこの十五年の間に立派な悪党になったなあ。たった三人ではあったが東京の岡田子爵、越後の甘粕少将、京都の林男爵と、世間知らずの金持華族や、軍人上りの富豪なぞと次から次に結婚して、みんなお前のお得意のコカインの中毒患者にして次から次に自殺みたいな死に方をさせてしまった。そうしてソンナ連中の遺産を一人で掻き集めて栄耀栄華にふけりながら、よく、尻尾を押えられずに来られたもんだなあ、お前は……』……まあ怖い……そんなことがホントに出来るのかしら……。第一コカインなんてどこの薬屋でもお医者以外には決して売らないのに……『しかしお前がドンナに悪智恵の逞ましい毒婦であっても、俺が出て来たらモウ駄目だぞ。俺は根高弓子というお前の真実の名前から生れ故郷の両親の顔まで知っているのだ。東京の岡田雪子、新潟の甘粕花子、京都の林百合子という三つの変名も、今のお前の変名と一緒に知っているんだ。東京と、新潟と、京都の警察が、今でも雪子、花子、百合子の名前を聞くとピインと耳を立てるに違いないことを、お前自身もよく知っているだろう。俺がお前の今の名前を書いた一銭五|厘の葉書をタッタ一枚奮発しさえすれば、一週間経たない中に、お前の首に縄が巻き付くぐらいのことは最早、毒婦のお前にはわかり過ぎる位わかっているだろう』……まあ。脅迫してんのよ。この男の方が、よっぽど悪党だわ。ねえ……」 「……………」 「……きっと脅迫してお金にしようと思っているのよ、この男は……『けれども俺は、お前の今の仕事の邪魔をしようと思っているのじゃないから安心しろ。その代りにこの手紙を見た瞬間からお前が、俺の命令に絶対に服従しなければならぬことだけは、もうトックに覚悟しているだろう。一銭五厘のねうちが、どんなに恐ろしいものか、知り過ぎるくらい、知っているだろう。そうして俺の眼が、夜も昼も、お前の身のまわりに光っていることだけは感じているだろう』……」  ここまで読んで来ると流石にマダム竜子の声が、怪しく震えを帯びて来た。しかしマダムの竜子は何気なく咳払いをして、いかにも平気らしく先の方を読みつづけた。  玲子はその声に耳を澄ましているうちに、いつの間にか氷のような冷静さに帰っていた。春の夜の明け方の静けさにみちみちた大沢邸内のどこかに、微かに微かに人間が忍び込んで来る音が聞えるように思って一心に耳を澄ましながら、心の奥底を微かに微かに戦かしていた。  しかし手紙の方に気を取られていた大沢竜子はソンナことに気がつかないらしく、なおも平気な声をよそおいながら、玲子に聞えよがしに手紙の文句を読み続けて行った。 「『俺はお前に命令する。お前の家の金庫を開く暗号は、お前が知っている筈だ。お前はこの二三日の中にお前の家と、お前自身の全財産を現金に換えてしまえ。そうしてその仕事が済んだら、お前の寝室に青でも赤でもいいから色の変った電燈を点けろ。俺が直ぐに迎えに行く。犬は殺しておく方がいい。女中と、この手紙を持って行く娘は麻酔薬か何かで眠らせておけ。麻酔薬がなければ夕食後に殺しておいてもいい。後は俺が引受ける。絶対に誰にもわからない、お前にも決して面倒をかけない方法で片付けてやる。心配するな』……」 「……………」 「ああ。やっとわかったわ。ねえ玲子さん。この男はこの根高弓子の財産を横取りしてから、弓子を殺して高飛びするつもりよ。トテモ恐ろしい悪党よこの男は……呆れた……『念のために言っておくが、お前は今の娘の家庭教師の何とかいう若い大学生に惚れているようだ。お前が主人の留守中にあの大学生に何かイヤらしいことを言ったので、あの大学生が、お前の家に足踏みをしなくなったことも俺はチャンと知っている。それが今のところでは俺の一番の気がかりになっている。万一お前が、あの大学生に引かされてこの計劃を遣損なうようなことがあったら、俺はあの大学生とお前を縛って、お前の家の裏庭の古井戸に生きながら投げ込む準備をしていることを忘れるな。  お前のこれからの一生涯の幸福は、お前の財産全部を持って俺と一所に外国に逃げることだ。その準備もちゃんと出来ていることを忘れるな。……お前の昔の夫より……根高弓子どの』……ほほほほほ……玲子さん!」  いつの間にかほかのことばかり……中林先生のことばかり一心に考えていた玲子はビクッとして顔から手を離した。シャンデリアの下に美しく微笑んでいるマダム竜子の顔を見上げた。 「おまえこの手紙を通りがかりの人から言づかったの……」  玲子は黙ってうなずいた。 「どんな人だったの……」  母親の顔が今までに一度もないくらい優しい、柔和な、親切にみちみちた顔だったので、玲子は思わずホッとタメ息を吐いた。 「……あの……ルンペンみたいな人……」 「いくつぐらいの人だったの」 「……あの……よくわかりませんでしたけど、四十か五十くらいの髯をボオボオと生やした怖い顔の人……」 「ホホホホ。まあ呆れた人ねえ玲子さんは……あなたはねえ。きっと雑誌の小説ばかり読んでいるお蔭で、あたまが変テコになっていんのよ。だからコンナ手紙を貰うと、すぐに探偵小説みたいなことを考えて、夜中に起きたり何かして心配すんのよ」 「……………」 「この手紙はねえ。玲子さん。このごろ流行る幸運の手紙とおんなじに誰か物好きな人間がイタズラをするために出したものなのよ。その証拠にウチの大沢という名字がどこにも書いてないじゃないの。大抵のうちに当てはまるように書いてあるじゃないの。東京の郊外で主人が留守|勝で、奥さんが後妻で、娘があって、犬が飼ってある家だったら、そこいらにイクラでもある筈なんですからね。そんな家の娘にこの手紙をことづけて、中味を娘に知らしたら家庭悲劇を起させるくらい何でもないのですからね。そうしてその娘が本気に母親の悪いことを信じて、家を飛び出すか何かしたら、この手紙を出した悪戯の目的が達するのよ。この頃はソンナ悪戯を道楽にする人間がチョイチョイ方々に出て来るのよ。……ことによるとこれはソンナ風にして玲子さんを欺して家を飛び出さして、どこかへ親切ごかしに誘拐するつもりで出した手紙かも知れないね。そうして玲子さんはもう半分がトコ欺されていたのかも知れないわ。ねえ玲子さん……そうじゃない……ホホホ」 「……………」 「お母さんがいなかったら玲子さんは大変なことを仕出かして終うところだったかも知れないわ。……お母さんは玲子さんよりも年上です。玲子さんよりもズッとよく世間を知っているのですからね。こんな馬鹿な脅迫状にひっかかるような意気地のない、馬鹿な女じゃないのですからね。きょうにも夜が明けたら警視庁へ電話をかけて、この手紙のことを知らせれば直ぐにこの字を書いた本人が捕まるのですからね。そうしたらその男の正体がわかるでしょう。あたしが、そんな根高弓子なんていう女とは似ても似つかない女であることがハッキリするでしょう。……わかって玲子さん……」  玲子は眼をパチパチさせながら半分無意識にうなずいた。それでも何だか急に淋しくて、悲しくなって来たようなので、両手を顔に当ててシクシクと泣き出した。マダムの竜子はその背中を優しく撫でてやった。 「泣くことなんかチットモないわよ。玲子さん。あなたはこの手紙の中味を盗み読みしたり、先生に話したりはしないでしょうね」  玲子はお河童さんの頭を烈しく左右に振った。ブルブルッと身ぶるいするかのように……そうして急に恐ろしくなって来たために、泣声も出ないくらい息苦しくなって来た。 「ホホホ。意気地がないのねえ。あんまりアナタが神経過敏すぎるからよ。……ね。玲子さん……よござんすか。よしんばこの手紙が全部ほんとうで、お母さんが根高弓子という恐ろしい毒婦だったとしても、あなたはチットモ心配することはないのですよ。あたしの戸籍はチャントしていて、正しいアナタのお母さんに違いないのですからね。こんなケチなユスリにかかってビクビクするような子爵夫人じゃないんですからね。チェッ。馬鹿にしてるわよ。ホントニ……」  マダム竜子のこうした言葉尻は、貴夫人に似合わない下品な、毒々しい調子であった。玲子も両手を顔に当てたままビクッとした位であったが、竜子は直ぐに言葉を柔らげて今一度、玲子の背中を撫でてやった。 「サアサア玲子さん。モウじきに夜が明けますからね。早くおやすみなさい。明日は日曜ですからユックリと寝んねして、眼が醒めたら、あなたのお好きな中林先生の処へ遊びに行っていらっしゃい。……ね……そうして先生に今一度あなたに教えに来て下さるようにアナタから頼んでいらっしゃい。ね。ね。……さあさあ。それを楽しみにしてお寝みなさい。寝間着一つで風邪を引きますよ。サアサア。もう何も心配なことはないのですから……」  玲子は思いがけなく変った母親の、親切この上もない態度に絆されたらしく、なおもシクシク泣き続けていたが、その中にヤットの思いで立上った。涙を拭き拭き、 「おやすみなさい」  と言って顔を上げたが、その時にはもうマダム竜子は寝室に入ったらしく、入口のカーテンが微かに揺らぎ残っているだけであった。  玲子はまた急に悲しくなりながら、サルーンの電燈を消して、ギシギシと鳴る階段を手探りの足探りにして三階の方へ上って行った。  それから何分か、何十分か……ホンノちょっとばかり三階の寝床の中でウトウトしたと思ううちに突然、下の二階あたりから消魂しい物音が聞こえて来たので、玲子はフッと眼を見開いた。睡むいのを我慢しながらモウ青白く夜の明けている狭い梯子段を伝い降りて、母親の寝室のカーテンの中へ走り込んで行った。もしや……と胸を轟かしながら……母親を気づかいながら……。  けれども玲子は寝室の中へ一歩を踏み入れかけると同時にハッと立止まった。寝室の中の光景を一目見ると、入口の柱に獅噛みついてガタガタと震え出したのであった。  ツイ今しがたまでピンピンしていたマダムの竜子が、派手な寝間着のまま、寝台から床の上に引きずり卸されて、髪を振り乱したまま仰向けさまの大の字になって横わっている。その左の胸に血だらけになった白鞘の匕首が一本、深々と刺さっている。その屍体の背中の下から黒い血がムルムルと流れ出して高価な露西亜絨氈の花模様の上を浸み込んでは流れ、流れては浸み込みして大きな花ビラのように拡がってゆく。  そのほかには誰も居ない。  玲子はもうハアハアと息を切らして眼が眩んだようになっていた。髪の毛が一本一本に逆立って、身体中がガタガタと音を立てそうになるのをジッと我慢しながら、その惨死体がたしかに母親の竜子に違いないことを見定めると、玲子は思わずハッと飛上った。 「お母さまッ……」  と叫んで走り寄って、血だらけの胸に縋りついてワッとばかりに泣き伏した……。  ……と思ったがかの時遅くこの時早く、玲子はその屍体の一歩手前で、背後からシッカリと抱き止められていた。  そう気がついた玲子は、全身の血が一時にピッタリと冷え凍ったように思った。抱き止められたまま、またも石のように固くなって、手足を縮み込ませていた。その時に背後から抱き止めた人が声をかけた。それは静かな優しい声であった。 「玲子さん。屍体に触っちゃいけません。もうジキ警察の人が来ますから……」 「アラッ……中林先生……」  そう叫ぶと同時に玲子は緩んだ中林先生の腕の中でクルリと向き直って制服姿の胸に顔を埋めた。シッカリと縋りついたままワッとばかりに泣き出した。  中林先生は、その逞ましい腕に、泣いている玲子を軽々と抱き上げるようにして、サルーンへ連れて来た。そこのロココ式の長椅子の上に腰を卸して、泣き沈んでいる玲子のお河童さんを慰めるように撫でまわしてやった。そうして古びたネル一枚の見すぼらしい寝巻姿に包まれた瘠せ枯れている玲子の手足を見まわすと、その男らしい切れ目の長い眼に涙を一パイに浮かめた。汗まみれになった自分の髪毛を房々に撫で上げながら、赤ちゃんをあやすように言って聞かせた。 「可哀そうに……苦労させましたね、玲子さん……」  玲子は中林先生の肩に縋りながら一層烈しく泣き出した。 「玲子さん……僕は今のお母さんが初めてこの家に来られた時からこの女はイケナイ人だ……玲子さんのためにならない人だということを看破っていたのです。ですからこの家に来るのをやめて、あの女のすることを眼も離さずに見張っていたのです。玲子さんにも早く打ち明けようと思っていたのですが、玲子さんは頭はステキにいいんですけども心がトテモ正直ですから、もし僕が、あの女を疑っていることが、玲子さんを通じてあの女にわかって用心させるといけないと思いましたから、わざと黙っていて、あの女が玲子さんをイジメるのを知らん顔して見ていたのです。あなたも辛かったでしょう。しかし僕も辛かったですよ。ほんとにほんとにすみませんでした」 「イイエイイエ。先生。先生を怨む気持なんか……あたし……あたし……」 「まあまあ落ちついて聞いて下さい。あなたが、それでもあの女をホントの母親のように思って心から慕い、敬っていられるのを見て、僕がドンナに感心したことか……そうしてドンナに心配したことか……ね。玲子さん。わかって下さるでしょう、僕の心持は……」 「ええ。ええ。あたし先生ばっかりを、おたよりに……」 「そればかりじゃありません。毎日のようにお講義を聞いている大沢先生が日に増しお顔色が悪くなってゆかれるのに気がついた僕がどんなに気を揉んだことか……大沢先生は世界に知られている鳥の学者ですからね。いつまでもいつまでも生きていて頂かなければならぬ日本の国宝ともいうべき貴い方ですからね……それで思い切ってある日のこと大学校で大沢先生にお眼にかかって聞いてみると、大沢先生が御自分はお気づきにならないまんまにあの女から毒殺されかけておいでになることが、僕にハッキリとわかったのです。大沢先生は去年の秋口のある晩のこと、蒲団が薄かったので鼻風邪を引かれたのです。それで鼻が詰まってしまってアンマリ不愉快なので学校を休もうかと思っていられるところへ、あの女がすすめてコカインの霧吹器で先生の鼻の穴を吹いて上げると瞬く間に鼻がスッと透って、頭がハッキリして来ましたので、先生は大喜びで、そのスプレーをポケットに入れて学校に来られました。そうしてソレ以来、風邪を引かれなくとも頭をハッキリさせるために彼女の調合したコカインとアドレナレンのスプレーで鼻の穴をプープー吹かれるようになって、とうとう本物のコカイン中毒になられたのです。しかもそのコカインの分量をあの女がグングン強めて行ったのに違いありません。そうして大沢先生の心臓をグングン弱めて行ったに違いないのです。あの女は現在横浜の西洋人のお医者を情夫に持っているのですからね。そこから密輸入のコカインを自由自在に手に入れているに違いありません。そうして最後には何かモット強い……たとえば青酸加里か何かをスプレーの薬に使って、コカイン中毒で死なれたように見せかけるつもりだったのでしょう。トテモ怖ろしい女だったのですよ。アレは……ね。そうでしょう玲子さん」  玲子は眼を大きく大きく見開いて中林先生の顔を見上げて呼吸も吐けないでいた。その顔を見下しながら中林先生はニッコリと笑った。 「ところが悪いことは出来ないものです。それ以来、僕が毎日毎日あの女の行く先を探っている中に、あの女のアトを僕と同じように跟けまわしている一人のルンペンみたような男がいるのに気がつきました。そうしてツイこの四五日前のことです。そのルンペンがある酒場で酔っ払った時に……俺はモウ近い中に大金持になるんだぞ……と口走るのを聞きましたから、僕はハッとしました。イヨイヨ危ないナ……と思いましたから直ぐに大沢先生に何もかも打明けて、家を出て行って頂いたのです。心臓がもうかなり弱っていられるのを無理にそうして頂いたのです」  何もかも忘れて聞き惚れていた玲子はハッと気がついて、心からうなずいた。  中林先生の深い深い親切と智慧に、驚いて、感心してしまいながら、その乱れた髪毛の下に光る凜々しい瞳の光りを見上げていた。 「けれども玲子さん。お父さんのことは心配しなくともいいです。大沢先生が信州へ行かれたのは嘘なのです。先生は今東京の大学病院に這入ってコカイン中毒の治療をしておられるのですよ。そのうちに元気になって帰っておいでになるでしょう」 「まあッ……ホント……」  玲子は思わず中林先生の肩にかじりついた。その襟筋に熱い熱い感謝の涙を落しかけた。  中林先生も声をうるませた。 「ほんとうですともほんとうですとも。僕が附添って入院させたのですから。そうして何もかもお話しておいたのですから御心配に及びません。その時に何もかもおわかりになった大沢先生は僕の手を握って、玲子のことを頼む頼むと何度も言われましたから、僕も一生懸命になって気をつけているところへ、思いがけない昨日のお手紙でしょう。あの悪党女が、お父さんのお留守を利用して、自分一人だけでお金を盗んで逃げようとしているのを感づいた、もう一人の男の悪党が横合いから飛込んで、そのお金をあの女ごと引ったくろうとしているのです……そのためにはドンナ恐ろしい犠牲を払ってもいい覚悟をしているらしい。一刻も猶予しないつもりらしいことがわかりましたから、僕は直ぐにこの家に忍び込んで、どんなことが起るか待ち構えていたのです。それを知らずにあの男は、お父さんのお留守を幸いに忍び込んで、あの女を脅迫しようと思ったのでしょう。短刀を持って抜足、さし足この段々の下まで来ると、ちょうどその時にこのサローンであの女と玲子さんとの問答が初まったのです。そうしてあの手紙をあの女が読み初めたのです」  玲子は恐ろしかったその時のことを思い出して今更のように身体を縮めた。 「あの時のあの女の度胸のよかったこと……あんなにも恐ろしい手紙を読みながら平気の平左で、即座に玲子さんを欺して、この僕をオビキ寄せさせようとした、あの智慧の物すごかったこと……僕はあのルンペン男の背後に隠れて聞きながらゾッとしてしまいましたよ」  と言いさして中林先生はホッとふるえたタメ息をした。玲子もまたガタガタふるえ出しそうになったのを中林先生の腕に縋ってやっと我慢した。 「けれどもあの時にあの女がアノ手紙を読んだり、その文句を冷やかしたりさえしなければ、あの女は殺されなくともよかったのでしょう。『雉も啼かずば撃たれまいに……』という諺の通りであの女は命を取られる運命を自分で招きよせたのでした。……あの手紙を読んでいる中にあの女が、あの女の前の夫を馬鹿にしている。自分を怨んでいる前の夫の脱獄囚を嘲笑い振り棄てて自分一人でうまいことをして逃げようとしている。うっかりすると又、警察へ密告する気かも知れない……と気がついたのであの男はカアッとなってしまったのでしょう。玲子さんが三階へ上ると間もなくあの女の寝室へ忍び込んで、何をするかと思ううちに、一気に刺殺してしまったのです。つまり天罰を下したつもりなのですね。ですから僕は直ぐにあの男の背後から近付いて不意打ちの当て身を一つ喰わして電気|炬燵のコードでしっかりと縛って、あの寝室の隣りの標本室の大机の足にしっかりと縛りつけて、外から鍵を掛けておいたのです。あの大机の上には鳥の剥製を作る硝子の道具や、劇薬毒薬の瓶を山のように積み上げておきましたから、あの男は息を吹き返しても身動き一つ出来ないでしょう。……そのほかのものは殺人の現場の塵一本、動かしてないのですから、今にも警察の人が来て調べたら何もかもホントウのことがわかるでしょう。ただ一つ惜しいことにあの手紙は焼き棄ててしまってあるようですが、しかし中味の文句は僕がハッキリ記憶えておりますから大丈夫です。玲子さんも記憶えているでしょうね」  玲子は唇の色までなくしたまま中林先生の顔を見上げてうなずいた。  中林先生も一層、微笑を深めてうなずいた。 「それならばイヨイヨ大丈夫です。……何なら警察の人が来る前に今一度あのルンペン男の顔を見ておいてくれませんか。昨日の昼間あなたに手紙を渡した男に相違ないかどうか……」  しかし玲子はうなずかなかった。フト……たまらないほど心配なことを思い出したので、そのままスルリと中林先生の腕を抜けて一散に階下へ走り降りて行った。廊下の切戸を開く間も遅くお庭へ降りる石段の上に出ると、折から向うの木立ちを離れた太陽の光りに、マトモに射すくめられてしまった。同時に、大きな黒いものが真正面から玲子に飛びついて、彼女の涙だらけの顔をペロペロと嘗めまわした。 「おお。アムールや。よくまあ無事でいてくれたのね」  武雄さんはお母さんが亡くなられてから大層わるくなりました。今日も何か面白いいたずらは無いかと考えてお座敷に来ましたら、机の上にお祖母さんの眼鏡がありました。武雄さんは手を拍って喜んで、その眼鏡を懐に入れました。それからお父さんとお姉さんの眼鏡も探し出して一所に懐に入れて、どこかへ遊びに行きました。  お祖母さんがお座しきに帰って来られますと、眼鏡が無いのでまごまごしておられます。お父さんは支度して出かけようとなさいますと、大切な金ぶちが無くなっています。お姉さんが買いものから帰って来られますと、これも眼鏡がありません。 「ああ、きっと武雄さんよ。あたし困っちまうわ。眼鏡がなくちゃ、晩のお支度が出来やしない」 「弱ったな。俺も眼鏡が無くちゃ、向うへ行って用が足せない。仕方がない。やめる事にしよう」 「わたしも縫い物が出来やせん。お母さんが亡くなってからほんとに武雄はわるくなった」  と三人は顔見合わせて困ってしまいました。仕方がないから何もかもやめて、三人で手探りに晩の支度を初めました。  そのうちに御飯の火を焚き付ける段になると、お姉さんはマッチの箱の蓋がすこし開いているのを気が付かずにマッチを摺ったために、マッチ箱の中のマッチに火がついて一時に燃えて、姉さんは手にやけどをしてしまいました。  姉さんが泣き出しましたので、祖母さんがお座しきから出てくると、暗い処で摺鉢につまずいて足をたがわかしてしまいました。お父さんが驚いて介抱をし、今度は自分で御飯の支度をしようとしますと、今度は肝腎のマッチが無くなりました。どこを探しても見当らないので、お父さんは近所までマッチを買いに行かれた留守に、武雄さんが帰って来て、 「御飯御飯」  と怒鳴りながらお茶の間へ座り込みました。  お姉さんは泣いています。お祖母さんはうんうんうなっています。 「どうしたのです」  といくら尋ねても返事をしません。武雄さんはお腹が空いて泣き出しました。 「お母ちアん」  けれどもお母さんは返事も何にもなさいませんでした。そこへお父さんが帰って来られて、 「武雄、お母さんが見たければ、その眼鏡を三つとも掛けて見つけろ。そうして御飯を食べさせてもらえ」  と云って、お倉の中へ入れられました。  お倉の中へ入れられた武雄さんは、大あばれにあばれて泣きましたが、そのうちに泣く力も無くなる位お腹が空いてきました。力も何も無くなって冷たい板張りの上に寝ながら、「ああ、お母さんがいらっしゃると、こんな時には直ぐにあやまって御飯を食べさせて下さるのになあ」と思ってメソメソ泣いておりましたが、その中に不図、最前お父さんが、「そんなにお母さんに会いたければ、その眼鏡を三つともかけて探してみろ」と云われた言葉を思い出しました。  武雄さんは眼鏡を取り出して三つとも掛けて見ました。けれどもいつまで待っても何も見えません。しかし他にあてもありませんから、眼鏡をかけたままくら暗の中にじっとして、お母さんが見えるのを待っておりました。  すると不思議や、くら暗の中になつかしいなつかしいお母さんの姿がありありと見えて来ました。お母さんは悲しそうな顔をして、こうおっしゃいました。 「武雄や、お前はお母さまがいないからといっていたずらをするならば、私はもうお前を児と思いません。お前がお母さんの事を忘れないように、私の心もお前の傍へいつまでもつきまとうております。どんなに蔭でわるい事をしていても、お母さんはちゃんと見ております。お前がわるい事をすればお母さんが笑われるからです。このことを忘れないで、どうぞよい子になってちょうだい。よいか、武雄さん、忘れてはなりませんよ……」  と云ううちに、みるみるお母さんの姿は消えて見えなくなりました。 「お母さん、待って頂戴。堪忍して頂戴。アレお母さん」  と叫んで飛びつこうとしますと、これは夢で、いつの間にか武雄さんは床の上でねむっておりました。  その時お倉の戸があいて、お父さんが、 「さあ武雄、御飯を食べろ。これから悪い事をするときかないぞ」  とおっしゃいました。  武雄はそののちこの事をだれにも言いませんでしたが、武雄の音なしくなったのには誰もかれも皆驚いてしまいました。  実さんの精神分析と言っても、私が実さんの精神を分析するのじゃない。実さんが自分の精神を分析して見せる事が多いことを言うのである。モウ一歩進んで言うと、実さんの能は非常に精神分析的であるという……そのことを言うのである。 「喜多」の第何号であったか、誰であったか記憶しないが、いずれにしても最近の事のように記憶する。実さんの能は、喜多流内のほかの人のと違って一種異妖な感じがする……とタッタ一コト書いてあった。それを見た刹那に私は何かしらヒヤリとさせられるものがあった。さてはアレに気付いているのはオレ一人じゃないな……と思ったので……。同時にその異妖な感じの本源を、誰かが突き止めて明るみにサラケ出したら、妖怪実さんが、「ギャッ」と叫んで寂滅しはしまいか。平々凡々の喜多実となって、二度と能が舞えなくなりはしまいか……といったような気がしたので……。  女というものの気持はエタイがわからない。だから魅力があるのだ。と西洋の頭のいい奴が言ったそうである。だから実さんの能にあらわれる妖気もエタイがわかったら魅力がなくなるかも知れぬ。  実さんの風采は何だか能楽師らしくない。剣劇の親分か、ジゴマのエキストラみたいなスゴイ処がある。しかしよく気を付けてみると実さんの舞台上の妖気はその風采から出て来るのではない。その証拠には平常向い合って話していると、あの風采がソックリそのまま、実にタヨリない、涙ぐましい位のお坊ちゃんに見えて来る。無論、喧嘩なんぞは絶対に出来ないヘロヘロ腰の臆病者で、精神的のスゴミなんぞはミジンもない。  ところが実さんの能を見ると、六平太先生や粟谷、後藤の諸先生はもとより、他流の諸先生の何人とも全然違ったスゴ味が全体に横溢している。桜間金太郎氏の演出なぞは素人眼にはスゴミが横溢しているようであるが、よく見ているとそのスゴ味は金春一流の意識的な気合いから生まれたものであることが次第次第にわかって来る。これに反して実さんのは表面的にパッと来るスゴ味はない代りに、能全体が見れば見るほど悽愴たる感じがして来る。その間からシンシンと一種の妖気がほのめき出る。アレは何であろうか。  六平太先生のお能を見ていると花園の中を行くような……又は名画の連続を見るような有難い……トテモ気楽な気持になる。文句なしにいいお能だなと思わせられる。そのほか粟谷さんの宛転自在さ。後藤さんのお手本のようにコックリとした演出味なぞ、いずれも立派な明るい、舞台表現として頭を下げさせられるが、実さんのお能を見ると、そんなものがちっとも感じられない。サッパリ面白くない。暗い。つまらない。荒地の中で建築の骨組だけ見せられているような気持になることが多い。どうかすると面と装束を着た骸骨が、型通りに謡い舞っているように見えたり、又は何処かの拳闘の選手が、昔の大家の霊に魘されながら、醒めよう醒めようと苦悶しいしい演じているようにも見える。舞台の何処かで眼に見えない鬼火がトロトロと燃えているような……ソンナ時のスゴイこと……。そうしてただそれだけである。実さんのお能から感受されるものはソレ以外に何物もない。白い骸骨と青い鬼火だけ……これは何故であろうか。  これは説明しない方がいいかも知れない。又説明出来ないものかも知れない。現代の能楽界でタッタ一人そんな能を舞い得る青年として、ソッと取って置く方がいいかも知れない。この考えは同感の人が些くないであろうと思う。  ところが豈計らんやである。実さんは日常到るところで、そうした妖気の出て来る原因を公表している。そうして泣きそうな顔をしたり、アハハと笑ったりしている。わかったとかわからないとか言って……。つまり自分でもわかっていないのじゃないかとも思うが。  実さんと交際して第一に気付くのは世間的の知識がゼロと言うことである。銀座の往来の左右に電気ストーブを並べてパーッと暖かい空気を放射させる設備をなぜしないのだろう……などと真剣に質問する。内弟子の末輩とムキになって喧嘩したり、芸の上の議論でズブの素人と口角泡を飛ばす位の事は日常茶飯である。極端に言えば能以外の事は一種の痴呆と言っていいであろう。  ところが能の事となると、まるで違う。世間の事に対して非常識な程度にまで無関心であるのと正反対に、非常識な程度にまで突っ込んで研究する。勿論、能楽としての常識や技術は人の知らない間に知りつくし備えつくしているのは、十五の年に六平太先生の道成寺の鐘を引いた一事でもわかる。ホントか嘘か知らないが、他人に聞かれた時の用心に楽の中の拍子の数を数えたと言う話である。これなんかは一方から見たら馬鹿馬鹿しい話かも知れないが、とにかく万事がそんな風で、どこまで研究が行き届いているのか、吾々素人には見当が付かない。そうしてその上にその上にと自分の尻ベタに鞭打っている。家元としてコレ位出来ていればまず……なんて考え方は毛頭ない。しかも実さんの舞台上の妖気はそこから生まれて来るのだ。  実さんは「僕から能を除けばゼロだ。今に能では喰えなくなる時代が来たとしても仕方がない。ほかの事はやる気がしないからね」と淋しそうに言う。しかも内心は安心し切っているらしいので、死ぬまで謡いそうな決心がほの見える。そこに実さんの舞台上の妖気が生まれる第一の根本原因がある。  そんな気持だから実さんは毎日毎日寝ても醒めても自分の尻をタタイて、能の世界の奥へ奥へと盲進していなければ生きていられない。その結果、見物の批評とか、家元としての資格とか言ったような、世間的、もしくは人間的な研究の対照標準をトックの昔に超越してしまっている。そうしてこの頃では芸術とか非芸術とか言ったような相対的な批判区域までも一気に駈け抜けて、一望漠々たる砂漠を息のあらん限り走っては倒れ、倒れてはよろめき走りしているように見える。甚だ想像を逞しくした言い現わし方であるが、実さんの芸を見ているとソンナ気がするから仕方がない。実さんが舞台上に発散する妖気のあらわれは、そうした心境の奥の奥からほのめき出る痛々しい感じを多分に含んでいるのだ。  実さんは自分の一刹那の気持を分析する力が極めて強い。サシの型一つを練習するのに何十遍となくサシてみても、そのサシが純粋にならないと、忽ち両脚を踏みはだけて、両手を肩の処から振り千切るように振りまわす。それから又繰り返してサシてみても息が切れて、汗が出るばかりでうまく行かない。トウトウ悲鳴をあげて「誰か背後から突き飛ばしてくれ」と叫んだりする。それが十六、七の時代のことである。毎晩袴を穿いて、扇を抱いて寝ていてハッと眼をさますと、すぐに舞台に飛び上ったのもその頃の事だ。だから今でも実さんが舞台に立つと臓腑がキリキリと巻き締まって、毛穴がピッタリと閉じるのが眼に見えるように思う。血の気がなくなって、奥歯がギューと締まって夏も冬もわからなくなる……それが実さんの妖気の正体だ。能ではない。芸術でもない。悽愴たる鍛練の妖気だ。抜いただけで人が斬りたくなる剛鉄の妖気だ。  こうした性格の反映として実さんは非常に大先生の言葉を気にする。素人評を問題にもする。甚だ矛盾しているようであるが、実はチットモ矛盾していない。吾々から見ると何でもない事を飽くまで突張ったり、考えたりして持ち悩む。しかしそうしていろいろと分析して成る程というドン底がわかると、アトはケロリとして忘れてしまっている。つまり非常に欲が深いからで、一物も余さず分析しつくさねば止まぬ。一物も余さず分析しつくして見せる……という確信を持ってかかっているのだから、恐ろしい。その恐ろしさが、やはり舞台面の妖気となって随所に発散している。化学分析に伴う異臭と同様に精神分析の異臭が、実さんの舞台表現となって発散するのだ。硫酸か塩酸のようにスゴイ……。  だから実さんの恃むところは唯一つ「不退転の勇気」そのものである。鉄壁でも切りまくる。骨が舎利になっても前進する。そうしなければ一刻も生きていられないからだ。……昨日の成功は今日の不満になっている。讃められた演り方は二度とやらない。わかったらそれ以上のどうしていいかわからない処まで突き抜けて来なければ安心出来ない。或る時は口に凝り、或る時は扇に凝る。どうしていいかわからないから結局そんな事になるのだ。馬鹿も承知。キチガイも合点。決勝点なんか無論ない。お前は何処へ行くと聞かれても、何故そんなに走ると問われても、無論返事は出来ない。  かくして人間世界の戦場は通り越して、他人は勿論のこと自分でもわからない暗黒世界にグングン斬り込み斬り込んで行く。そのうちに夜が明けたら外に誰もいない。自分が相手だったことがわかるかも知れないが、その夜がナカナカ明けない。業劫以前から尽未来際に亙る虚無世界だから。だから実さんのハコビがあらわす妖気には、そうした虚無と暗黒のほのめきが深い。  自己分析の強い人間は自然ニヒリストになる。だから実さんは、自己の代りに能を否定し尽していると言える。同時に自己をドン底まで能として肯定すべく、自己芸風のすべてを破壊すべく努力している能楽界の闘士と言える。「僕は何もかもぶち壊してウッチャッてしまうんだ。その代りに拾い上げる時は何もかも一時だよ」と嘗て筆者に言った事がある。筆者はその時に笑って「スッカリ捨ててしまった時が拾い上げた時だ。しかし捨て切れるものじゃない。捨てても捨てても捨て切れないものが残ったまま一生を終るのが落ちだろう……」と笑ったことがある。それが実さんのヤハリ十七、八の時だ。  ところがこの頃、実さんに会って話しているうちに、「一声ってものは引っ張り加減がわからないので困るね」と言ったら、実さんはあの大眼玉をギョロ付かせて「一声はやさしいよ。次第が一番六カしい」と言った。それから間もなく或る人に次第を稽古しているのを聞いたら、何よりも先にそのモノスゴイ大きさの中から感ぜられる底知れぬ妖気に驚かされた。修羅道で敵手を喪った大将軍が、血刀を提げてクラ暗の中を見まわしているような悽愴たる感じが一パイに籠っていた。むろん曲柄とは全然合わない感じであったが、実さん自身は「こうしか謡えない」という顔をしていた。  実さんの中には芝居気もあればアテ気もある。お能気分はむろん充満している。しかし実さんはそんなものを皆タタキ殺して、その上に存在する絶対永久の虚無と闘っているのだ。うしろを振り向かずに前進しているのだ。しかもその虚無はあらゆる哲学、宗教、道徳、芸術の行き止まりに存在するものでなければならぬ。一切の机上の空論、中途半端な観念が何等の用もなさぬ真実の無間地獄……と聞いてはいるが、まだ実際に見た事はない。しかも実さんの舞台上の妖気は如実に、そうした虚無世界の存在を証明している……否……その意味で見なければ実さんの能は何等の価値をもあらわさないのだ。  南無阿弥陀仏と言いたくなるその妖気……その虚無世界……その中にさまよう実さんの芸的ルンペンぶり。  実さんは嘗て、いろいろな人の芸風を評した後にコンナ事を言った事がある。「アトに印象の残る能は能とは言えないね」と……これは一切の芸術界に対してこの上もなく不遜※越な反逆的言辞とも思われようが、しかし筆者は思わず頭を下げたのであった。万古の真理と思ったからである。そうして付け加えた。「能はそうした表現を生み出すために存在しているのだね」と。敢えてここに記して置く。  これを要するに実さんの芸は下手である。下手も下手、この上に洗練しようのない下手である。どうにも救いようのないルンペン的下手である。だから六平太先生も、あまり実さんには苦情を言われないのじゃないかと思う。  どうです実さん。ここいらで成仏してくれませんか。たまらないオイシイ能を見せてくれませんか。オムレツの焼き立てのような……タッタ一度でもいいです。  法医学者の不平を話せ。新聞に書くからって云うのかね。  アハハハハ。御免|蒙ろうよ。不平が云いたい位なら最初からコンナ仕事に頭を突込みやしないよ。モトモト物好きで這入った研究なんだから今更、不平を云ったって初まらないだろう。新聞になんか書かれたら、いい恥晒しだぜ。書いちゃいけないよ。いいかい。  ウン。といってそれあ在るには在るよ。  第一法医学なんていう名前からして不平だ。コンナ馬鹿馬鹿しい名前はないよ。  たしか明治二十四五年頃に、大先輩の片山先生が附けられた名前だと思うが、悪く云っちゃ相済まないんだがね。その前には鑑定医学、断訴医学、裁判医学なんて呼ばれていたもんだ。むろんソンナ名前の一つだって吾々の仕事を引っくるめた意味を含んだものはない。名前なんてドウでもよさそうなもんだが、妙なもんだね。自分の仕事を意味しない名前の学問を研究していると、石炭掘りに来て芋を掘らせられるような気がするよ。  現在当大学では吾輩の監督の下に、解剖、血清、細菌、検診、毒物、精神病、心理、詐病鑑定、災害検診なんて仕事を研究しているにはいるんだが……この範囲なら「法医学」と名附けられても文句はないんだが、それ位の研究じゃナカナカ責任は果されないんだ。  要するに、あらゆる科学智識を、百科全書式に応用して、法律上の諸問題を解決するっていうんだから、手ッ取早く云えば所謂、名探偵の助手みたいなもんだよ。  小説なんかに出て来る西洋の名探偵は、吾々が大勢がかりで、手を分けて研究している仕事をタッタ一人で研究し、知りつくしているんだから驚くよ。ソンナ頭脳がこの世に在り得るか、どうかという事からして問題だと思うがね。しかも、そいつを非常な機智と胆才でもって犯罪事件に応用して、的確に事件の真相を看破して行くんだから、名探偵の仕事ってものは頗る痛快な仕事に相違ないがね。吾々の仕事となるとナカナカそうは行かないんだ。医学関係の問題だけでも研究の余地が無限に拡がっているのに、医学以外のありとあらゆる不可思議現象に対して、責任ある断定を下さなければならないから往生するよ。  チョット呼ばれて裁判所に行っていると、この証文の墨色の真偽を鑑定しろと来るんだ。マルッキリ医者の仕事じゃないやね。  この帽子を冠った奴の職業と年齢を問う。この蠅は生後何箇月ぐらいで如何なる処に発生したるものなりや……なんかと来る。今に火星人類の指紋の有無を尋ねられるんじゃないかと思ってビクビクするね。しかもそのたんびに宣誓させられるんだから遣り切れないよ。法医学部専門の大英百科全書を買ってくれと、毎年毎年予算に出してはいるがね。ナカナカ買ってくれないので困っているんだ。イヤ、笑いごとじゃないんだよ。大英百科全書を引っくり返せば直ぐにわかる事を、ワザワザ吾輩の処へ尋ねに来る裁判所や、警察があるんだからね。チョイチョイ……。  その癖、鑑定は鑑定だけで、事件の真相になんか触れさせないまま追払われる事が、極めて多いんだ。吾々に支払う蚊の涙ほどの鑑定料が惜しいのかも知れないが、余計なところには一切|喙を容れさせないのだから詰まらない事|夥しい。  吾々だって人間だあね。紛糾した事件の一端を聞くと、直ぐに事件の真相に突込みたくならあね。憎い犯人をタタキ上げてみたくもなろうじゃないか。それを犯人の足跡の鑑定だけさせられて追払われたんじゃ、鰻丼の臭いだけを嗅がされたようなもんだ。  悪く云う訳じゃないが、裁判官だの、警察官なんてものは、めいめいに自分の専門の法律とか、犯罪に対する第六感とか、多年の経験とかいう、所謂、犯罪関係の高等常識ばかりに凝り固まっているんだから、普通一般の社会に関する高等常識にはドッチかというと欠けている傾きがあるね。  たとえば若い女が自殺したと聞くと、直ぐに恋愛関係じゃないかと疑いをかける。ストライキを起すとスワコソ社会主義という風に、手近い経験から来た概念的な犯罪常識をもって、一直線に片付けて行こうとする癖があるようだね。だから、その概念が間違っていたら運の尽きだよ。事件は片ッ端から迷宮に這入って行くんだからね。  コンナ事件があるんだ。  君も知っているだろう。ツイ近くのB町に起った虎列剌事件を……知っているが立消えになったから真相は知らないと云うのか。警察に尋ねたけれどもわからない……ウンウン。わからない筈だ。あれは大きな声では云えないが警察と裁判所の大失態だからね。ちょうど去年の秋の大演習を控えて、行幸を仰ごうという矢先だったもんだから県下一般、大狼狽を極めたらしいんだが、ソイツが立消えになった。そのまま行幸を仰いだというのだから、ドチラにしても責任は重大だろう。たしか県会で、警察当局が真相を質問されて、ギュウギュウ云わされたって話だ。  その真相というのは実に他愛のない、一場のナンセンス劇みたいなもんだがね。  君も知っている通り、B町っていうのは田舎のちょっとした町だ。あれで人家が二百戸ぐらい在るかなあ。  あの町の中央の警察署の隣家に斎藤という、長い天神髯を生やした開業医がある。年はもう六十近かったがナカナカ人格者という評判でね。五十ぐらいの奥さんと二十五六の一人息子の三人暮しだ。この一人息子は当大学出身の医学士で、M内科の副手になって論文を書いている秀才……という訳だ。  その天神髯の斎藤さんの飲み友達で、町外れの一軒屋に開業している西木という独身の獣医が在る。その娘で去年女学校を出たばかりの才媛……だったか、どうだか知らないが、とにかくステキな別嬪さんと、斎藤さんの息子の医学士と、早くから婚約が出来ていたんだね。博士になったら帰って来て父の業を継ぐ。同時に正式に結婚するという訳でね。よくある話だ。  ところが去年の夏だ。六月だっけか暑い晩に、天神髯の斎藤さんが、親友の西木獣医の処へ押しかけて行って、娘さんのお酌で酒を飲んだ。鰯のヌタに蒲鉾が肴だったというが、二人とも長酒で、そんな場合はいつも徹宵飲み明かすのが習慣だったので、娘さんは肴に心配をして近所の乾物屋から干鰯を買って準備していたというね。  ところがその晩に限ってどうしたものか二人とも、宵の口から口論を初めて、十一時頃にはモウ寝てしまった。斎藤さんがこの西木獣医家の蒲団に寝たのはこの時が初めてだったそうだがね。  議論は何でも国体に関する問題で、政党は必要だ。イヤ。不必要だ……といったような二人でよく遣る議論だったそうだが何しろ二人とも酔っ払っている上に、聞いていたのが若い娘さんだったもんだからドッチがドウ主張し合っているんだか、だんだんわからなくなってしまった。しまいには、お互の家庭教育の攻撃し合いになってソンナ奴の娘は貰わん。遣らん……というところから取っ組み合いになったので、仰天した娘さんが仲裁に這入って二人とも寝かし付けた。斎藤さんは近い処だから帰ると云ったが、ベロベロに酔っ払って危いので、ともかくもお迎えに奥さんが見えるまでという訳で欺して寝かし付けた。二人は寝てまでも「貴様は国賊だ」「何が国賊だ」と罵り合いながら睡ったというんだが、今も云う通り、若い娘さんが聞いたんだからね。その議論がドレ位の深刻さで闘わされたものか、わかりゃしないやね。  ところがその夜中になって大変な事が持上った。天神髯の斎藤さんが、恐ろしく苦悶し初めてスバラシク吐瀉し続けて人事不省に陥った。熱は出ていないが見る見るうちに脈が悪くなって、ビクビクと痙攣を起して固くなってしまった。まだ息の在るうちに、その皮膚を獣医の西木さんが抓んでみたら全く弾力を失ってしまっていたというんだ。  サア大変だ。コレラだというので、西木先生ステキに狼狽したんだね。時を移さず警察へ報告したので、B町中が忽ち引っくり返るような騒ぎだ。何しろB町は今秋の大演習の御野立所になる筈だったんだからね。西木、斎藤の両家は勿論のこと、前の日に斎藤さんの診察を受けた患者の家も勿論のこと、ヌタの材料を売った魚屋から、斎藤さんが喰いもしない干鰯を売った乾物屋まで、疾風迅雷式に猛烈な消毒、出入禁止だ。全く飛んだ災難だね。  ところが又、ここに一つ不思議というのは、その虎列剌の伝染系統が全くわからん。その当時はまだ夏の初めで、県下に虎列剌の虎の字も発生していなかった時分だ。斎藤さんも勿論、宅診、往診以外に遠くへ行った形跡はない、つまり所謂、無系統コレラ……天降り伝染という奴だね。  不思議だ不思議だといううちに県の衛生試験所へまわった斎藤さんの吐瀉物について大変な報告がB町の警察署に来た。 「検鏡の結果コレラ菌を認めず。但し著明の酸性反応を認む」  西洋の名探偵だったらここで哄笑一番するところだがね……イヤ。モット前に危険を予知して斎藤さんに忠告していたかも知れないがね。 「内科医が、獣医の家へ行ってお酒を飲んではいけませぬ。生命にかかわります」  とか何とか……。  ところが日本の田舎ではナカナカそうは行かない。  ……毒殺※……という感じが、この報告を聞いた刹那にB署員の頭にピインと来たんだね。そこで早速、内偵を進めてみると、生憎なことに獣医の西木さんは五六年前の開業当時に、斎藤先生から大枚二千何百円の借金をしている。それが一文も這入っていない……という事実が、斎藤さんの後家さんの口から判明した。斎藤の後家さんは、その刑事から聞いた話に非常に憤慨して、大急行で帰って来た息子の医学士を、斎藤さんの霊前に引据えると、刑事の面前で、 「ソンナ悪人の娘は、お前の嫁に貰う訳に行かぬ」  と涙ながらに申渡すという劇的シインが展開してしまった。  ソレッ……というので文句なしに西木獣医が引っぱられる。裁判所から予審判事が急行する。  斎藤さんの死骸は今一度大消毒の上、大学に廻されて解剖の手続きをする。そのゴタゴタの真最中に、馬鹿な話で、斎藤の息子の医学士と西木の娘が、厳重な青年団員の警戒をドウ誤魔化したものか手に手を取ってB町駅から入場券を買ってドロンを極めてしまった。上り列車に乗ったか下り列車に乗ったか、列車が行き違ったのでわからない……という言語道断な騒動になった。万一これが毒殺事件でなくて、真正の虎列剌だったらトテモ重大な黴菌だらけの道行だからね。B町の署長と町長は神様に手を合わせて、 「ドウゾ毒殺事件でありますように……」  と一心籠めて祈ったという話だが、同情に堪えないね。どうも若い者はコンナ風に思慮がなくて困るんだ。  そこでその息子の斎藤医学士が居た当大学のM内科でも棄てておけなくなった。M内科部長が事件後四日目か、五日目に、ヒョッコリ吾輩の処へ遣って来て、実はこれこれの事件だが、何とか一つ解決の方法はなかろうかという折入っての話だ。斎藤医学士はトテモ頭がよくて将来惜しい男だ。論文が通過したら何とかして洋行させたいと思っていたところなんだが……と暗涙を浮かべている。師弟の温情|掬すべし……という訳だね。  吾輩はその時に初めて詳しい話を聞いたんだが、どうも可笑しいと思ったよ。毒殺の動機が二千円にしてもアトには後家さんと証文が残っているんだから斎藤さんだけ殺したって何にもならん。国賊という意味で昂奮のあまり殺したにしても酒の中へ毒を入れる役は差詰め西木の娘さんだけだろうが、それもどうやら話がおかしい……といったような気がしたもんだから、取りあえず県の衛生課へ電話で問合わせてみると、 「斎藤医師の嚥下した毒物は目下分析中」  という愛想もコソもない返事だ。ナアニ、分析中でも何でもない。放ったらかしていたらしいんだ。「馬鹿にしてやがる。虎列剌でも何でもないものを……」といった調子だったのだろう。「虎列剌菌なし。酸性反応云々」までは顕微鏡とリトマスだけで直ぐにわかる。仕事が極めて簡単だが、アトの分析はナカナカ面倒臭いからね。県の役人なんてものは、こうした臨時の仕事となると、いつもいい加減にあしらうものらしいんだ。  そこで吾輩は止むを得ず、その翌日の土曜日の休講を利用して、ブラリとB町の西木家へ出張してみた。M内科部長の温情に敬意を払ってね。実は斎藤さんの死骸を解剖した方が早わかりなんだが、どこに引っかかっているのか、まだ看なかったし、酒を飲んだ現場を見たり、後家さんの話を聞いたりしておけば解決が早いと思った訳だ。……というと大層立派な御出張のようだが、しかし公式の責任はチットもないんだから、何の事はない一種の弥次馬だろう。フロックコートを着た……。  西木家を監視していた警官も、青年団員も、名刺を出すと訳なく通してくれたが、狭い穢ない家だった。四|間ぐらいの土低い普通の百姓家で、あまり流行っていない獣医さんの家らしかったが、ホルマリンと生石灰の臭気の非道いのには弱らされたよ。  青年団員に間取りを聞いた吾輩は、ハンカチで鼻を蔽いながらイキナリ薬局に這入って行った。実は吾輩、獣医の薬局なるものを見た事がなかったのでね。ドンナ薬と道具が、ドンナ工合に並んでいるものか後学のために見ておきたかったのだ。序にドンナ毒物が使用されたかもアラカタ見当が付くだろうと考えていた。  実は娘さんが居ると色々聞いてみたい事が在ったんだが、際どいところでドロンを極め込んでいるもんだから何もかも盲目探り同然だ。弥次馬探偵、弱ったよ……まったく……。  ところが案ずるよりも生むが易いとはこの事だね。みんな虎列剌を怖ろしがって、外から雨戸を目張りしただけで消毒したらしく、家の中の品物が一つも動かしてなかったのが非常な天祐であった。薬局といっても裏口の横の納戸みたいな四畳半の押入を利用したものに過ぎなかったが、そこの襖が半開きになっている。その鼻の先の中棚に直径一|寸五|分、高さ三寸位の茶色の薬瓶がタッタ一つ、向うの薬棚から取出したまま置いてある。白いレッテルには右から左へ横へ「吐酒石酸」という活字が四個行列している。白い吐酒石の結晶が瓶の周囲にバラバラと零れ散らかっているのが何よりも先に眼に付いた。  それを見た途端に、ハハア、これは吐酒石酸を飲み過ぎたんだナ……と思った。  吐酒石酸というのは毒薬自殺や何かの時に重宝な薬で、この薬をホンノちょっぴり人間に服ませると、忽ち胃袋のドン底まで吐瀉して終うから毒がまわらないうちに助かるんだ。牛馬が毒草を喰った時なんかにも同じ理屈で使用される薬なんだが、その代りに分量を誤ると、実に急劇、猛烈な吐瀉を起すために体内の水分がグングン欠乏する。下痢をしない虎列剌と似たり寄ったりの症状で、心臓麻痺を起して死ぬんだ。獣医さんが虎列剌と診断したのは無理もない。実は上出来の方かも知れないがね。  しかし本職の内科医の斎藤さんが、どうしてソンナに過量の吐酒石酸を服用したのか。よしんば酔っていたために分量を過ったにしても……どうして吐酒石酸を使用する必要があったのか……又は、どうして飲まされる機会にぶつかったのか……といったような事実が吾輩には、どうしても想像出来ない。コイツには弱ったね。大酒を飲む人や、胃の悪い人の中にはここで……ハハア……そうかと首肯く人が居るかも知れないが、天性の下戸で、頗る上等の胃袋を持っている吾輩には、全く見当の付けようがないのだ。つまり大酒飲の習慣に対する高等常識が、その時の吾輩にはなかったんだね。  大約三十分間も、その瓶と睨めっくらをしてボンヤリ考えていたっけが……。  それから途方に暮れたまま、来るともなく台所に来て水甕のまわりを見廻しているうちにヤットわかったね。水甕の上の杓子や笊を並べた棚の端に、重曹の瓶と匙が一本置いてあるんだ。  そいつを見ると疑問が一ペンに氷釈したよ。何でもない事なんだ。  吾輩は直ぐに西木家を出て程近い警察の横の斎藤家を訪うた。刺を通じて斎藤の後家さんに面会すると劈頭第一に質問をした。 「……大変に立ち入ったお尋ねごとですが、お亡くなりになった御主人は、お酒を呑み過ぎられますと、酒石酸と、重曹を一所にお口に入れて、水を飲んで大きなゲップを出される習慣が、お在りになりはしませんでしたか」  後家さんは痩せぎすの色の青い、多少ヒス的な感じのする品のいい婦人だった。可愛そうに最早チャントした切髪姿で納まって御座ったが、吾輩の奇問には流石にビックリしたらしく眼をパチパチさせたよ。 「まあ……どうして御存じで……主人はいつも御酒を頂きますたんびに重曹と、酒石酸を用いましたので……そうしないと二日酔をすると申しまして、御酒を頂きますたんびに……」 「それは夜中にお眼醒めになった時に、お一人でコッソリなさるのでしょう」  後家さんはイヨイヨ驚いたらしく眼を丸くしたよ。 「……まあ……よく御存じで……」 「その酒石酸の瓶をチョット拝見さして頂けますまいか」 「ハイ。この瓶で御座います」  といううちに後家さんは立上って、玄関横の薬局から白の結晶の詰まった茶色の瓶を持って来た。経一寸五分ぐらい、高さ三寸程……ちょうど西木家の吐酒石酸の瓶ぐらいの横腹に白いレッテルが貼ってあって、酒石酸と活字が三個右から左に並んでいる。後家さんは、それを吾輩の前に据えて、感慨無量という体で眼をしばたたいた。「これが何か、お調べのお役にでも立ちますので……」と云われた時には吾輩、気の毒とも何とも云いようがなかったね。 「イヤナニ……別に……ちょっと参考まで……」  と云って逃げるように斎藤家を辞して往来に出るとホッとしたもんだが、返す返すも馬鹿馬鹿しい話さね。  普通の内科医の処に在る吐酒石酸の瓶を見て見たまえ、高さ一寸かソコラの小さなものだ。これは人間に飲ませるのだから極く小量しか用意してないのだ。ところが図体の大きい牛馬に飲ませるとなるとトテモ少々では利かないから獣医の処に在る吐酒石酸の瓶は相当に大きいのが用意して在る。ちょうど内科医の処に在る酒石酸の瓶ぐらいあるんだ。  そいつを夜中に眼を醒ました、酔眼|朦朧たる斎藤さんが探し出したんだね。瓶の向う側に「吐」の字が隠れているのを見落して、アトの「酒石酸」の三字だけを見ると、これだこれだというので早速|匙で杓ってドッサリ口に入れた。台所に来て水を飲んで、それから悠々と重曹を流し込んだ結果、起ったナンセンス悲劇という事が、ここに到ってハッキリとわかったんだ。  むろんB町の警察署は、吾輩の説明で納得してくれたよ。西木獣医は即刻釈放されるし、そうなると斎藤の後家さんも頑張る理由がなくなったので伜の結婚を承諾した。医学士の内縁夫婦は、大阪の友人の処に隠れていたのを引っ張り戻されて、M内科部長の媒酌で正式に結婚したがね。将来絶対禁酒というので水盃で三三九度を遣ったそうだ。この間、子供が生まれたといって吾輩の処へ礼云いに来たっけが……どうも頭のいい人間に限ってシッカリしたところがないから駄目だよ。この頃の青年の特徴かも知れないがね。むろん書いちゃいけないぜ。この話は……みんな馬鹿だったという話だからね。ハハハ……。  炭焼きの勘太郎は妻も子も無い独身者で、毎日毎日奥山で炭焼|竈の前に立って煙の立つのを眺めては、淋しいなあと思っておりました。  今年も勘太郎は炭焼竈に楢の木や樫の木を一パイ詰めて、火を点けるばかりにして正月を迎えましたが、丁度二日の朝の初夢に不思議な夢を見ました。  勘太郎は睡っているうちに、どこからともなく悲しい小さい