秋について。 ア。 季節の思想。 秋について。 ア。 季節の思想。 太宰治全集3。 筑摩全集類聚版太宰治全集。 生活のつぶやき。 佐吉さん呑気だなあ。 時間を間違えたんだよ。 歩くよりほかは無い。 この駅にはもとからバスも何も無いのだ。 あバスだ。 今はバスもあるのか。 おいバスが来たようだ。 あれに乗ろう。 佐吉さん。 僕貧乏になってしまったよ。 君の三島の家には僕の寝る部屋があるかい。 なにせ二階の客人はすごいのだ。 東京の銀座を歩いたってあれ位の男っぷりはまず無いね。 喧嘩もやけに強くて牢に入ったこともあるんだよ。 唐手を知って居るんだ。 見ろこの柱を。 へこんで居るずら。 これは二階の客人がちょいとぶん殴って見せた跡だよ。 あんな出鱈目を言ってはいけないよ。 僕が顔を出されなくなるじゃないか。 誰も本気に聞いちゃ居ません。 始めから嘘だと思って聞いて居るのですよ。 話が面白ければきゃつら喜んで居るんです。 そうかね。 芸術家ばかり居るんだね。 でもこれからはあんな嘘はつくなよ。 僕は落ちつかないんだ。 ロマネスク。 酒が強いと言ったら何と言ったって二階の客人にかなう者はあるまい。 毎晩二合徳利で三本飲んでちょっと頬っぺたが赤くなる位だ。 それから気軽に立っておい佐吉さん銭湯へ行こうよと言い出すのだから相当だろう。 風呂へ入って悠々と日本|剃刀で髯を剃るんだ。 傷一つつけたことが無い。 俺の髯まで時々剃られるんだ。 それで帰って来たら又一仕事だ。 落ちついたもんだよ。 さいちゃん。 お祭を見に行ったらいい。 私は男はきらいじゃ。 酒好きの人は酒屋の前を通るとぞっとするほどいやな気がするもんでしょう。 あれと同じじゃ。 なあんだ何時来たんだい。 ゆうべまた徹夜でばくちだな。 帰れ帰れ。 お客さんを連れて来たんだ。 早く着物を着た方がいい。 風邪を引くぜ。 ああ帰りしなに電話をかけてビイルとそれから何か料理を此所へすぐに届けさせてくれよ。 お祭が面白くないから此所で死ぬほど飲むんだ。 へえ。 江島のお父さんですよ。 江島を可愛くって仕様が無いんですよ。 へえと言いましたね。 見せるったら見ねえのか。 屋根へ上ればよく見えるんだ。 おれが負ってやるっていうのにさ負さりなよぐずぐずして居ないで負さりなよ。 ううむどっこいしょ。 大丈夫だ大丈夫。 ロマネスク。 店は汚くても酒はいいのだ。 五十年間お酒の燗ばかりしているじいさんが居るのだ。 三島で由緒のある店ですよ。 うなぎとそれから海老のおにがら焼と茶碗蒸し四つずつ此所で出来なければ外へ電話を掛けてとって下さい。 それからお酒。 いらないよそんなに沢山。 無駄なことはおよしなさい。 大デュマなんて面白いじゃあないですか。 ボードレエルの詩だってなかなか変ったものですね。 こないだなんといったかなあシュニッツラアとかいう人の短篇読んでみましたけれどあの人うまいですねえ。 誰がために鐘は鳴る。 誰がために鐘は鳴る。 見つけた。 お父さん。 唐人お吉。 唐人お吉。 あのそこは私見つけた席ですの。 若い女の欠点。 愛。 本当の意味の。 本来の。 本当の。 本当の。 世の中。 なぜ。 中心はずれの子だ。 いま。 つくる。 開かずの扉。 久原房之助。 死んだ妹を思い出します。 自分はポオズをつくりすぎてポオズに引きずられている嘘つきの化けものだ。 自然になりたい素直になりたい。 マダム・キュリイ。 このまま見合いに行こうかしら。 こんな髪にはどんな色の花を挿したらいいの。 和服のときには帯はどんなのがいいの。 どなたと見合いなさるの。 もち屋はもち屋と言いますからね。 あなたはだんだん俗っぽくなるのね。 お父さん。 みんなを愛したい。 ジャピイ。 もうこれからさきは生きる楽しみがなくなってしまった。 あなたを見たって私はほんとうはあまり楽しみを感じない。 ゆるしてお呉れ。 幸福もお父さんがいらっしゃらなければ来ないほうがよい。 おや雨かな。 雨だれの音が聞えるね。 こんなお料理ちっともおいしくございません。 なんにもないので私の窮余の一策なんですよ。 この子もだんだん役に立つようになりましたよ。 おねえちゃん。 おまえ百までわしゃ九十九まで。 ああ疲れた疲れた。 なにしろ話がややこしくて。 あなたはこないだから『裸足の少女』を見たい見たいと言ってたでしょう。 そんなに行きたいなら行ってもよござんす。 そのかわり今晩はちょっとお母さんの肩をもんで下さい。 働いて行くのならなおさら楽しいでしょう。 裸足の少女。 ああいいアンマさんだ。 天才ですね。 そうでしょう。 心がこもっていますからね。 でもあたしの取柄はアンマ上下それだけじゃないんですよ。 それだけじゃ心細いわねえ。 もっといいとこもあるんです。 夏の靴がほしいと言っていたからきょう渋谷へ行ったついでに見て来たよ。 靴も高くなったねえ。 いいのそんなに欲しくなくなったの。 でもなければ困るでしょう。 うん。 金はある。 新雑誌を発刊するつもり。 君も手伝え。 新現実。 お順につめる。 ホットニュウス。 こちら音楽家でしょう。 なぜ。 綺麗な手。 ピアノのほうでしょう。 何ピアノ。 ピアノの掃除だって出来やしねえ。 そいつの手はただ痩せているだけなんだよ。 痩せた男が音楽家ならガンジー翁にオーケストラの指揮が出来るという理窟になる。 聞いた。 馬鹿野郎だお前は。 あれか。 あの女がそうか。 ちっともよかあ無えじゃないか。 これでお前の男もすたった。 どだい君亭主のある女と。 それは。 もうとうに私どもは夫婦わかれをしているのです。 私どもは気が合いません。 いやそれあ君たち夫婦の事は君たち夫婦でなければわからない。 僕の知った事じゃない。 どだい興味が無い。 また伊藤たちの恋愛がどんな具合いに進展しているのかそれもちっとも知りたくない。 うんこの焼酎はなかなかいい。 君君もう一ぱいくれ。 それから水をくれ。 おういおかみさんここへも何か食べるものをくれ。 しかし少くとも僕は他人の夫婦の離合集散や恋愛のてんまつなどに失敬千万な興味などを持つようなそんな下品な男でだけは無いつもりだ。 じつになんにも興味が無い。 ただこの伊藤に向って一こと言って置きたい事があるんだ。 そのために今晩ここへ立寄らせてもらったんだ。 おい伊藤君。 僕は君と絶交する。 しかしそれは僕の意志ではないんだ。 君はこの恋愛の進展につれて君自身僕のところへ来にくくなるだろう。 謂わば互いにてれ臭く気まずくなり僕は君に敬遠せられ僕の意志に依らずとも自然に絶交の形になるだろう。 言いたいのはそれだけだ。 では失敬する。 馬鹿野郎。 あの失礼ですが。 はじめておめにかかります。 僕はこんなものですがうちの伊藤君がこれまでいろいろお世話になりましていちど僕もご挨拶にあがろうと思いながらつい。 すると君は編輯部長か。 つまり伊藤の兄貴分なのだね。 僕は君をうらむ。 なぜこうなる前に君は伊藤に忠告しなかったんだ。 へっぽこ部長だお前は。 かえって伊藤をそそのかしたんじゃないか。 どだいその赤いネクタイが気に食わん。 ネクタイはすぐに取りかえます。 僕もこれはあまり結構ではないと思っていたんです。 そう結構でない。 そう知りながらどうして伊藤に忠告しなかったんだ。 忠告を。 いいえネクタイの事です。 ネクタイなんかどうだっていい。 お前の服装なんかどうだってかまやしない。 問題は僕が伊藤と絶交するという事だけなんだ。 それだけだ。 あともう言う事は無い。 失敬する。 みんな馬鹿野郎ばっかりだ。 酒乱にはかなわねえ。 腕力も強そうだしさ。 仕末が悪いよ。 とにかく伊藤。 先生のあとを追って行ってあやまって来てくれ。 僕もこんどの君の恋愛にはハラハラしていたんだがしかし出来たものは仕様が無えしなあ。 あいつこそわからずやの馬鹿野郎だがあれでまたこれからうちの雑誌には書かねえなんて反り身になって言い出しやがったらかなわねえ。 行ってくれ。 行ってそうしてまあいい加減ごまかしを言ってあやまるんだな。 御教訓に依って目がさめましたなんて言ってね。 先生お送りします。 来たか。 もう一軒飲もう。 自動車を拾え。 自動車を。 どこへ。 新宿だ。 一ぱい飲んでフウラフラ。 二はい飲んでグウラグラ。 フウラフラのグウラグラ。 伊藤はこんどいくつになったんだい。 若いなあ。 おどろいた。 それじゃまあ無理もないがしかし女の事は気をつけろ。 僕は何もあの女が特に悪いというのじゃない。 あのひとの事は僕は何も知らん。 また知ろうとも思わない。 いやよしんば知っていたってとやかく言う資格は僕には無い。 僕は局外者だ。 どだい何も興味が無いんだ。 だけど僕にはなぜだかお前ひとりを惜しむ気持があるんだ。 惜しい。 すき好んで自分から地獄行きを志願する必要は無いと思うんだ。 君のいまの気持くらい僕だって知ってるさ。 そりゃお前の百倍もそれ以上ものたくさんの女に惚れられたものだ。 本当さ。 しかしいつでも地獄の思いだったなあ。 わからねえんだ。 女の気持がわからなくなって来るんだ。 僕はね人類猿類などという動物学上の区別の仕方はあれは間違いだと思っている。 男類女類猿類とこう来なくちゃいけない。 全然種属がちがうのだ。 からだがちがっているのと同様にその思考の方法も会話の意味も匂い音風景などに対する反応の仕方もまるっきり違っているのだ。 女のからだにならない限り絶対に男類には理解できない不思議な世界に女というものは平然と住んでいるのだ。 君はためしてみた事があるかね。 駅のプラットフォームに立ってやや遠い風景を眺めそれからちょっと二三寸腰を低くしてもういちど眺めるとその前方の同じ風景がまるで全然かわって見える。 二三寸背丈が高いか低いかに依ってもそれだけ人生観世界観が違って来るのだ。 いわんや君男体と女体とではそのひどい差はお話にならん。 別の世界に住んでいるのだ。 僕たちには青く見えるものが女には赤く見えているのかも知れない。 そうして赤い色の事を青い色と称するのだと思い込んで澄ましてそのように言っているので僕たち男類は女類と理解し合ったと安易にやにさがったりなどしているのだがとんでもないひとり合点かも知れないぜ。 僕たちが焼酎を一升飲んでグウラグラになったちょうどあれくらいの気持でこの女類という生き物がまじめな顔つきをして買い物やら何やらしてまた男類を批評などしているのではないのかね。 焼酎一升たしかにそれくらいだ。 しらふで前後不覚でそうしてお隣りの奥さんと井戸端で世間話なんかしているのだからね。 実に不思議だ。 たしかに女類同志の会話には僕たち男類に到底わからないまるっきり違った別の意味がふくまっているのだ。 僕たち男類が聞いておよそ世につまらないものは女類同志の会話だからね。 前後不覚どころかまるで発狂気味のように思われる。 実に不可解。 え。 わかったかい。 女類と男類が理解し合うという事はそれはご無理というものなんだぜ。 そんな甘ったれた考えを持っていたんじゃあ僕はここで予言してもいい。 君はあの女に裏切られる。 必ず裏切られる。 いやあの女ひとりに就いて言っているんじゃない。 あのひとの個人的な事情なんか僕は何も知らない。 僕はただ動物学のほうから女類一般の概論を述べただけだ。 女類は金が好きだからなあ。 死人の額に三角の紙がはられてそれに『シ』の字が書かれてあるように女類の額には例外無く金の『カ』の字を書いた三角の紙がぴったりはられているんだよ。 死ぬというんです。 わかれたら生きておれないと言うんです。 何だか薬を持っているんです。 それを飲んで死ぬというんです。 生れてはじめての恋だと言うんです。 お前は気がへんになってるんじゃないか馬鹿野郎。 さっきから何を聞いていたのだ馬鹿野郎。 僕はサジを投げた。 ここはどこだ四谷か。 四谷から帰れ馬鹿野郎。 よくもまあ僕の前でそんな阿呆くさい事がのめのめと言えたものだ。 いまに死ぬのはお前のほうだろう。 女はへん何のかのと言ったって結局は金さ。 運転手さん四谷で馬鹿がひとり降りるぜ。 僕は先月ここの店の勘定を払ったかどうか。 お勘定は要りません。 出て行っていただきます。 なんだ怒っていやがる。 男類女類猿類が気にさわったかな。 だって本当ならば仕様が無い。 馬鹿乱暴はよせ。 男類女類猿類まさにしかりだ。 間違ってはいない。 眼をさませ。 こら動物博士。 四つ這いのままで退却しろ。 男類女類猿類いや女類男類猿類の順かいや猿類男類女類かな。 いやいや猿類女類男類の順か。 ああ痛え。 乱暴はいかん。 猿類女類男類か。 香典千円ここへ置いて行くぜ。 清貧譚。 新潮。 新釈諸国噺。 我が物ゆゑに裸川。 新潮。 裸川。 親戚にひとりくらいそのような馬鹿がいるのも浮世の味。 貧病の妙薬金用丸よろずによし。 この金は使われぬぞ。 このまま使っては果報負けがしてわしは死ぬかも知れない。 お前はわしを殺すつもりか。 まさかそのような夜叉でもあるまい。 飲もう。 飲まなければ死ぬであろう。 おお雪が降って来た。 久し振りで風流の友と語りたい。 お前はこれから一走りして近所の友人たちを呼んで来るがいい。 山崎熊井宇津木大竹磯月村この六人を呼んで来い。 いや短慶|坊主も加えて七人。 大急ぎで呼んで来い。 帰りは酒屋に寄ってさかなはまあ有合せでよかろう。 これは御一同ようこそ。 大みそかをよそにして雪見酒も一興かと存じごぶさたのお詫びも兼ね今夕お招き致しましたところさっそくおいで下さってうれしく思います。 どうかごゆるり。 いやおかまい下さるな。 それがしは貧のため久しく酒に遠ざかりお恥ずかしいが酒の飲み方を忘れ申した。 御同様。 それがしもただいま二三杯つづけさまに飲みまことに変な気持でこのさきどうすればよいのか酒の酔い方を忘れてしまいました。 きょうは御一同に御|披露したい珍物がございます。 あなたがたは御懐中の御都合のわるい時にはいさぎよくお酒を遠ざけつつましくお暮しなさるから大みそかでお困りにはなってもこの原田ほどはお苦しみなさるまいがわしはどうも金に困るとなおさら酒を飲みたいたちでそのために不義理の借金が山積して年の瀬を迎えるたびにさながら八大地獄を眼前に見るような心地が致す。 ついには武士の意地も何も捨て親戚に泣いて助けを求めるなどという不面目の振舞いに及びことしもとうとう身寄りの者からこのとおり小判十両の合力を受けどうやら人並の正月を迎える事が出来るようになりましたがこの仕合せをわしひとりで受けると果報負けがして死ぬかも知れませんのできょうは御一同をお招きして大いに飲んでいただこうと思い立った次第であります。 なあんだはじめからそうとわかって居れば遠慮なんかしなかったのに。 あとで会費をとられるんじゃないかと心配しながら飲んで損をした。 そう承ればこのお酒をうんと飲みその仕合せにあやかりたい。 家へ帰ると思わぬところから書留が来ているかも知れない。 よい親戚のある人は仕合せだ。 それがしの親戚などはあべこべにそれがしの懐をねらっているのだからつまらない。 しかししばらく振りで小判十両てのひらに載せてみるとこれでなかなか重いものでございます。 いかがです順々にこれをてのひらに載せてやって下さいませんか。 お金と思えばいやしいがこれはお金ではございません。 これこの包紙にちゃんと書いてあります。 貧病の妙薬金用丸よろずによしと書いてございます。 その親戚の奴がしゃれてこう書いて寄こしたのですがさあどうぞお廻しになって御覧になって下さい。 やおかげさまにてよい年忘れ思わず長座を致しました。 ちょっと。 小判が一枚足りませんな。 ああいやこれは。 これはそれ御一同のお見えになる前にわしが酒屋へ一両支払いさきほどわしが持ち出した時には九両何も不審はございません。 いやいやそうでない。 それがしがさきほど手のひらに載せたのはたしかに十枚の小判。 行燈のひかり薄しといえどもこの山崎の眼光には狂いはない。 この上はそれがしまっぱだかになって身の潔白を立て申す。 おのおのがた見とどけたか。 時も時つまらぬ俳句を作り申した。 貧病の薬いただく雪あかり。 おのおのがたそれがしの懐に小判一両たしかにあります。 いまさら着物を脱いで打ち振うまでもござらぬ。 思いも寄らぬ災難。 言い開きもめめしい。 ここで命を。 誰もそなたを疑ってはいない。 そなたばかりでなく自分らも皆その日暮しのあさましい貧者ながら時に依って懐中に一両くらいの金子は持っている事もあるさ。 貧者は貧者同志死んで身の潔白を示そうというそなたの気持はわかるがしかし誰ひとりそなたを疑う人も無いのに切腹などは馬鹿らしいではないか。 お言葉は有難いがそのお情も冥途への土産。 一両|詮議の大事の時生憎と一両ふところに持っているというこの間の悪さ。 御一同が疑わずともこのぶざまは消えませぬ。 世の物笑い一期の不覚。 面目なくて生きて居られぬ。 いかにもこの懐中の一両はそれがし昨日かねて所持せし徳乗の小柄を坂下の唐物屋十左衛門方へ一両二分にて売って得た金子には相違なけれどもいまさらかかる愚痴めいた申開きも武士の恥辱。 何も申さぬ。 死なせ給え。 不運の友をいささか不憫と思召さばわが自害の後に坂下の唐物屋へ行きその事たしかめかばねの恥をたのむ。 おや。 そこにあるよ。 なんだそんなところにあったのか。 燈台もと暗しですね。 うせ物はとかくへんてつもないところから出る。 それにつけても平常の心掛けが大切。 いやまったく人騒がせの小判だ。 おかげで酔いがさめました。 飲み直しましょう。 あれ。 小判はここに。 いやこれもあやかりもの。 めでたい。 十両の小判が時に依って十一両にならぬものでもない。 よくある事だ。 まずはお収め。 それがよい。 ご親戚のお方ははじめから十一両つつんで寄こしたのに違いない。 左様なにせ洒落たお方のようだから十両と見せかけその実は十一両といういたずらをなさったのでしょう。 なるほどそれも珍趣向。 粋な思いつきです。 とにかくお収めを。 そんな事でわしを言いくるめようたって駄目です。 馬鹿にしないで下さい。 失礼ながらみなさん一様に貧乏なのをわしひとり十両の仕合せにめぐまれて天道さまにも御一同にも相すまなく心苦しくて落ちつかず酒でも飲まなけりゃやり切れなくなって今夕御一同を御招待してわしの過分の仕合せの厄払いをしようとしたのにさらにまた降ってわいた奇妙な災難十両でさえ持てあましている男に意地悪くもう一両押しつけるとは御一同も人が悪すぎますぞ。 原田内助貧なりといえども武士のはしくれお金も何も欲しくござらぬ。 この一両のみならずこちらの十両もみなさんお持ち帰り下さい。 馬鹿にしないで下さいよ。 十両の金が十一両に化けるなんてそんな人の悪い冗談はやめて下さいよ。 どなたかがさっきこっそりお出しになったのでしょう。 それにきまっています。 短慶どのの難儀を見るに見かねその急場を救おうとしてどなたか所持の一両をそっとお出しになったのに違いない。 つまらぬ小細工をしたものです。 わしの小判は重箱の蓋の裏についていたのです。 行燈の傍に落ちていた金はどなたかの情の一両にきまっています。 その一両をこのわしに押しつけるとはまるですじみちが立っていません。 そんなにわしが金を欲しがっていると思召さるか。 貧者には貧者の意地があります。 くどく言うようだけれども十両持っているのさえわしは心苦しく世の中がいやになっていた折も折さらに一両を押しつけられるとは天道さまにも見放されたかわしの武運もこれまで腹かき切ってもこの恥は雪がなければならぬ。 わしは酒飲みの馬鹿ですが御一同にだまされて金が子を産んだとやにさがるほど耄碌はしていません。 さあこの一両お出しになった方はあっさりと収めて下さい。 さあ申し出て下さい。 そのお方は情の深い立派なお方だ。 わしは一生その人の従僕になってもよい。 一文の金でも惜しいこの大みそかによくぞ一両そしらぬ振りして行燈の傍に落し短慶どのの危急を救って下された。 貧者は貧者同志短慶どののつらい立場を見かねてご自分の大切な一両を黙って捨てたとは天晴れの御人格。 原田内助敬服いたした。 その御立派なお方がこの七人の中にたしかにいるのです。 名乗って下さい。 堂々と名乗って出て下さい。 ながくおひきとめも無礼と存じます。 どうしてもお名乗りが無ければいたしかたがない。 この一両はこの重箱の蓋に載せて玄関の隅に置きます。 おひとりずつお帰り下さい。 そうしてこの小判の主はどうか黙って取ってお持ち帰り願います。 そのような処置はいかがでしょう。 式台の右の端最も暗いところへ置いて来ましたから小判の主でないお方にはあるか無いか見定める事も出来ません。 そのままお帰り下さい。 小判の主だけ手さぐりで受取って何気なくお帰りなさるよう。 それではどうぞ山崎老から。 ああいや襖はぴったりしめて行って下さい。 そうして山崎老が玄関を出てその足音が全く聞えなくなった時に次のお方がお立ち下さい。 どなたでしょうね。 わからん。 お酒はもう無いか。 おいおい無茶をするな。 小僧酒でも飲んで行け。 才兵衛さんや。 人は神代から着物を着ていたのですよ。 そうですか。 はだかになって五体あぶない勝負も夏は涼しい事でしょうが冬は寒くていけませんでしょうねえ。 角力をやめろと言うのでしょう。 いやいや決してやめろとは言いませんが同じ遊びでも楊弓などどうでしょうねえ。 あれは女子供の遊びです。 大の男があんな小さい弓をふしくれ立った手でひねくりまわし百発百中の腕前になってみたところでどろぼうに襲われて射ようとしてもどろぼうが笑い出しますしさかなを引く猫にあてても描はかゆいとも思やしません。 そうだろうねえ。 それではあの十種香とか言ってさまざまの香を嗅ぎわける遊びは。 あれもつまらん。 香を嗅ぎわけるほどの鼻があったらめしのこげるのを逸早く嗅ぎ出し下女に釜の下の薪をひかせたら少しは家の仕末のたしになるでしょう。 なるほどね。 ではあの蹴鞠は。 足さばきがどうのこうのと言って稽古しているようですが塀を飛び越えずに門をくぐって行ったって仔細はないし闇夜には提灯をもって静かに歩けば溝へ落ちる心配もない。 何もあんなに苦労して足を軽くする必要はありません。 いかにもそのとおりだ。 でも人間には何か愛嬌が無くちゃいけないんじゃないかねえ。 茶番の狂言なんか稽古したらどうだろうねえ。 家に寄り合いがあった時などあれをやってみんなにお見せすると――。 冗談を言っちゃいけない。 あれは子供の時こそ愛嬌もありますが髭の生えた口からまかり出でたるは太郎冠者も見る人が冷汗をかきますよ。 お母さんだけが膝をすすめてうまいなんてほめて近所のもの笑いの種になるくらいのものです。 それもそうだねえ。 ではあの活花は。 ああもうよして下さい。 あなたは耄碌しているんじゃないですか。 あれは雲の上の奥深きお方々が野辺に咲く四季の花をごらんになる事が少いので深山の松かしわを取り寄せて生きてあるままの姿を御眼の前に眺めてお楽しみなさるためにはじめた事でわしたち下々の者が庭の椿の枝をもぎ取り鉢植えの梅をのこぎりで切って床の間に飾ったって何の意味もないじゃないですか。 花はそのままに眺めて楽しんでいるほうがいいのだ。 やっぱり角力が一ばんいいかねえ。 大いにおやり。 お父さんも角力がきらいじゃないよ。 若い時にはやったものです。 才兵衛やまあここへお坐り。 まあたいへん鬚が伸びているじゃないか剃ったらどうだい。 髪もそんなに蓬々とさせてどれちょっと撫でつけてあげましょう。 かまわないで下さい。 これは角力の乱れ髪と言って粋なものなんです。 おやそうかい。 それでも粋なんて言葉を知ってるだけたのもしいじゃないか。 お前はことしいくつだい。 知ってる癖に。 十九だったね。 あたしがこの家にお嫁に来たのはお父さんが十九お母さんが十五の時でしたがお前のお父さんたらもうその前から道楽の仕放題でねえ十六の時から茶屋酒の味を覚えたとやらで着物の着こなしでも何でもそれこそ粋でねえあたしと一緒になってからもしばしば上方へのぼりいいひとをたくさんこしらえていまこそあんなどっちを向いてるのだかわからないような変な顔だがわかい時にはあれでなかなか綺麗な顔でちょっとそんなに俯向いたところなどいまのお前にそっくりですよ。 お前もお父さんに似てまつげが長いからうつむいた時の顔に愁えがあってきっと女には好かれますよ。 上方へ行って島原などの別嬪さんを泣かせるなんてのは男と生れて何よりの果報だろうじゃないか。 なんだつまらない。 女を泣かせるには殴るに限る。 角力で言えば張手というやつだ。 こいつを二つ三つくらわせたら泣かぬ女はありますまい。 泣かせるのが果報だったらわしはこれからいよいよ角力の稽古をはげんで世界中の女を殴って泣かせて見せます。 何を言うのです。 まるで話がちがいますよ。 才兵衛お前は十九だよ。 お前のお父さんは十九の時にはもう茶屋遊びでも何でも一とおり修行をすましていたのですよ。 まあお前も花見がてらに上方へのぼって島原へでも行って遊んで千両二千両使ったってへるような財産でなし気に入った女でもあったら身請してどこか景色のいい土地にしゃれた家でも建てその女のひととしばらくままごと遊びなんかして見るのもいいじゃないか。 お前の好きな土地にお前の気ままの立派なお屋敷をこしらえてあげましょう。 そうしてあたしのほうから米油味噌塩醤油薪炭四季折々のお二人の着換え何でもとどけてお金だってほしいだけ送ってあげるしその女のひと一人だけで淋しいならばお妾を京からもう二三人呼び奇せてその他振袖のわかい腰元三人それから中居茶の間御物縫いの女それから下働きのおさんどん二人お小姓二人小坊主一人あんま取の座頭一人御酒の相手に歌うたいの伝右衛門御料理番一人駕籠かき二人御草履取大小二人手代一人まあざっとこれくらいつけてあげるつもりですから悪い事は言わないまあ花見がてらに――。 上方へはいちど行ってみたいと思っていました。 お前さえその気になってくれたらあとはもう立派なお屋敷をつくってお妾でも腰元でもあんま取の座頭でも――。 そんなのはつまらない。 上方には黒獅子という強い大関がいるそうです。 なんとかしてその黒獅子を土俵の砂に埋めて――。 まなんて情無い事を考えているのです。 好きな女と立派なお屋敷に暮して酒席のなぐさみには伝右衛門を――。 その屋敷には土俵がありますか。 おれならばお内儀さまのおっしゃるとおりにするんだが。 当り前さ。 蝦夷が島の端でもいい立派なお屋敷でそんな栄華のくらしを三日でもいいあとは死んでもいい。 声が高い。 若旦那に聞えるとあの張手とかいう凄いのを二つ三つお見舞いされるぞ。 そいつはごめんだ。 まだ子供です。 ごらんのとおりの子供です。 お見のがしを。 でもあんな髭をはやして分別顔でりきんでいるさまは石川五右衛門の釜うでを思い出させます。 うるさい。 お師匠の鰐口様がいつかおっしゃった。 夫婦が仲良くするとあたら男盛りも腕の力が抜けるとおっしゃった。 お前も角力取の女房ではないか。 それくらいの事を知らないでどうする。 わしは女ぎらいだ。 摩利支天に願掛けてわしは一生女に近寄らないつもりなのだ。 馬鹿者め。 めそめそしてないで早くそっちへ蒲団敷いて寝ろ。 よせよせ。 おいおい。 おれだおれだよ。 あお師匠。 おなつかしゅう。 桑盛様の御総領ならば私のほうでも不足はございませんが時に桑盛さまの御宗旨は。 ええとそれは。 はっきりはわかりませぬがたしか浄土宗で。 それならばお断り申します。 私の家では代々の法華宗で殊にも私の代になりましてから深く日蓮様に帰依仕って朝夕|南無妙法蓮華経のお題目を怠らず娘にもそのように仕込んでありますのでいまさら他宗へ嫁にやるわけには行きません。 あなたも縁談の橋渡しをしようというほどの男ならそれくらいの事を調べてからおいでになったらどうです。 いやあの私は。 私は代々の法華宗の日蓮様で朝夕南無妙法蓮華経と。 何を言っているのです。 あなたに嫁をやるわけじゃあるまいし桑盛様が浄土宗ならばいかほど金銀を積んでもまたその御総領が御発明で男振りがよくっても私はいやと申します。 日蓮様に相すみません。 あんな陰気くさい浄土宗などどこがいいのです。 よくもこの代々の法華宗の家へ娘がほしいなんて申込めたものだ。 あなたの顔を見てさえ胸くそが悪い。 お帰り下さい。 そなたはどう思うか。 こんな馬鹿らしい話をわざわざ殿へ言上するなんてちと不謹慎だとは思わぬか。 世に化物なし不思議なし猿の面は赤し犬の足は四本にきまっている。 人魚だなんて子供のお伽噺ではあるまいしいいとしをしたお歴々が額にはくれないの鶏冠も呆れるじゃないか。 のう玄斎よしその人魚とやらの怪しい魚類が北海に住んでいたとしてもさそんな古来ためしの無い妖怪を射とめるにはこちらにも神通力が無くてはかなわぬ。 なまなかの腕では退治が出来まい。 鳥に羽あり魚に鰭ありさ。 なかなかどうして飛ぶ小鳥泳ぐ金魚を射とめるのも容易の事じゃないのにそんな上半身水晶とやらの化物を退治するのにはまず弓矢八幡大菩薩頼光綱八郎田原藤太みんなのお力をたばにしたくらいの腕前でもなけれや間に合いますまい。 いや論より証拠それがしの泉水の金魚なそなたも知っているだろうわずかの浅水をたのしみにひらひら泳ぎまわってござるがせんだって退屈のあまり雀の小弓で二百本ばかり射かけてみたがこれにさえ当らぬもの金内殿もおおかた海上でにわかの旋風に遭い動転して流れ寄る腐木にはっしと射込んだのでなければさいわいだがのう。 それは貴殿の無学のせいだ。 とかく生半可の物識りに限って世に不思議なし化物なしと実もふたも無いような言い方をして澄し込んでいるものですがそもそもこの日本の国は神国なり日常の道理を越えたる不思議の真実炳として存す。 貴殿のお屋敷の浅い泉水とくらべられては困ります。 神国三千年山海万里のうちにはおのずから異風奇態の生類あるまじき事に非ず古代にも仁徳天皇の御時飛騨に一身両面の人出ずる天武天皇の御宇に丹波の山家より十二角の牛出ずる文武天皇の御時慶雲四年六月十五日にたけ八丈よこ一丈二尺一頭三面の鬼異国より来るかかる事どもも有るなればこのたびの人魚何か疑うべき事に非ず。 それこそ生半可の物識り。 それがしは議論を好まぬ。 議論は軽輩功をあせっている者同志のやる事です。 子供じゃあるまいし。 青筋たてて空論をたたかわしてもお互い自説を更に深く固執するような結果になるだけのものさ。 議論はつまらぬ。 それがしは何も人魚はこの世に無いと言っているのではござらぬ。 見た事が無いと言っているだけの事だ。 金内殿もお手柄ついでにその人魚とやらを御前に御持参になればよかったのに。 武士には信の一字が大事ですぞ。 手にとって見なければ信ぜられぬとはさてさてあわれむべき御心魂。 それ心に信無くばこの世に何の実体かあらん。 手に取って見れども信ぜずば見ざるもひとしき仮寝の夢。 実体の承認は信より発す。 然して信は心の情愛を根源とす。 貴殿の御心底には一片の情愛なし信義なし。 見られよ金内殿は貴殿の毒舌に遭い先刻より身をふるわし血涙をしぼって泣いてござるわ。 金内殿は貴殿とは違ってうそなど言う仁ではござらぬ。 日頃の金内殿の実直を貴殿はよもや知らぬとは申されますまい。 それ殿がお立ちだ。 御不興と見える。 やれやれ馬鹿どもには迷惑いたす。 頭の血のめぐりの悪い事を実直と申すのかも知れぬが夢や迷信をまことしやかに言い伝え世をまどわすのはこの実直者に限る。 おのれよくもほざいた。 金内殿お察し申す。 そなたも武士すでに御覚悟もあろうがいついかなる場合もこの武蔵はそなたの味方です。 いかにしてもきゃつをこのままでは。 かたじけなく存じます。 さきほどの百右衛門のかずかずの悪口聞き捨てになりがたく金内軽輩ながらおのれまっぷたつと思いながらも殿の御前なり忍ぶべからざるを忍んでただくやし涙にむせていましたがもはや覚悟のほどが極りました。 ただいまこれより追い駈けてかの百右衛門を一刀のもとに切り捨てるのは最も易い事ですがそれでは家中の人たちは金内は百右衛門のために嘘を見破られてくやしさの余り刃傷に及んだと言いそれがしの人魚の話もいよいようろんの事になって御貴殿にも御迷惑をおかけする結果に相成りますからどうせもうすたりものになったこの身死におくれついでに今すこし命ながらえ鮭川の入海を詮議して弓矢八幡お見捨てなくかの人魚の死骸を見つけた時は金内の武運もいまだ尽きざる証拠是を持参して一家中に見せしかるのち百右衛門を心置きなく存分に打ち据えこの身もうれしく切腹の覚悟。 武蔵が無用の出しゃばりしてそなたの手柄を殿に御披露したのがわるかった。 わけもない人魚の論などはじめてあたら男を死なせねばならぬ。 ゆるせ金内来世は武士に生れぬ事じゃのう。 留守は心配ないぞ。 お父さまはへんね。 さようでございます。 お金をたくさん持って出たじゃないの。 容易ならぬ事と存じます。 胸騒ぎがする。 どのような事が起るかわかりませぬ。 見苦しい事の無いようにこれからすぐに家の内外を綺麗に掃除いたしましょう。 金内殿は出かけられましたか。 はい。 お金をたくさん持って出かけました。 永い旅になるかも知れぬ。 留守中お困りの事があったら少しも遠慮なくこの武蔵のところへ相談にいらっしゃい。 これは当座のお小遣い。 なあに大丈夫だ。 若い衆たちはあんな事を言っているけれどおれたちはたしかにこの海におさむらいの射とめた人魚が沈んでいると見込んでいるだ。 このあたりの海にはな昔からいろいろな不思議なさかながいまして若い衆たちにはわからねえ事だ。 おれたちの子供の頃にもなこの沖におきなという大魚があらわれて偉い騒ぎをしました。 嘘でも何でも無いその大きさは二三里いやもっと大きいかも知れねえ。 誰もその全身を見たものがねえのです。 そのさかなが現われる時には海の底が雷のように鳴って風もねえのに大波が起って鯨なんてやつも東西に逃げ走って漁の船もやあれおきなが来たぞうと叫び合って早々に浜に漕ぎ戻りやがておきなが海の上に浮んでそのさまは大きな島がにわかに沖にいくつも出来たみたいでこれはおきなの背中や鰭が少しずつ見えたのでして全体の大きさはとてもとてもそんなもんじゃありやしねえ。 はかり知る事が出来ねえのだ。 このおきなは小さなさかなには見むきもしねえでもっぱら鯨ばかりたべて生きているのだそうでして二十|尋三十尋の鯨をたばにして呑み込んでその有様は鯨が鰯を呑むみたいだってんだから凄いじゃねえか。 だから鯨は海の底が鳴ればさあ大変と東西に散って逃げますだ。 おっかないさかなもあったものさ。 蝦夷の海には昔からこんな化物みたいなさかながいろいろあっただ。 おさむらいの人魚の話だっておれたちはちっとも驚きやしねえ。 それはきっとこの入海にいやがったに違いねえのだ。 なんの不思議もねえ事だ。 二里三里のおきなが泳ぎ廻っていた海だものないまにおれたちはきっとその人魚の死骸を見つけておさむらいの一分とやらを立てさせてあげますぞ。 たのむ。 それがしはたしかにこの入海で怪しい魚を射とめたのだ。 弓矢八幡誓言する。 たのむ。 なお一そう精出してあの人魚の鱗一枚髪一筋でも捜し当てておくれ。 鞠死のう。 はい。 待て待てえ。 えいつまらない事になった。 ようしこうなったら人魚の論もくそも無い。 武蔵は怒った。 本当に怒った。 怒った時の武蔵には理窟も何も無いのだ。 道理にはずれていようが何であろうがそんな事はかまわない。 人魚なんて問題じゃない。 そんなものはあったって無くったって同じ事だ。 いまはただ憎い奴を一刀両断に切り捨てるまでだ。 こら漁師馬を貸せ。 この二人の娘さんが乗るのだ。 早く捜して来い。 その泣き顔が気に食わぬ。 かたきのいるのがわからんか。 これからすぐ馬で城下に引返し百右衛門の屋敷に躍り込み首級を挙げて金内殿にお見せしないと武士の娘とは言わせぬぞ。 めそめそするな。 百右衛門殿というと。 あの青崎百右衛門殿の事でしょうか。 そうよあいつにきまっている。 思い当る事がございます。 かねてあの青崎百右衛門殿はいいとしをしながらお嬢様に懸想してうるさく縁組を申し入れお嬢様はあのような鷲鼻のお嫁になるくらいなら死んだほうがいいとおっしゃるしそれで旦那様も――。 そうかそれで事情がはっきりわかった。 きゃつめ一生独身主義だの女ぎらいだのと抜かしていながら蔭ではなあんだ振られた男じゃないかだらしがない。 いよいよ見下げ果てたやつだ。 かなわぬ恋の仕返しに金内殿をいじめるとは憎さが余って笑止千万。 暗闇に鬼。 下戸ならぬこそ。 色好まざらむ男は。 あれあれいやらし。 男のくせにそんなちぢれ髪に油なんか附けて鏡を覗き込んできゅっと口をひきしめたりにっこり笑ったりいやいやをして見たり馬鹿げたひとり芝居をしていったいそれは何の稽古のつもりですどだいあなたは正気ですかわかっていますよあさましい。 あたしの田舎の父は男というものは野良姿のままで手足の爪の先には泥をつめて眼脂も拭かず肥桶をかついでお茶屋へ遊びに行くのが自慢だそれが出来ない男はみんな茶屋女の男めかけになりたくて行くやつだとおっしゃっていたわよそんなちぢれ髪を撫でつけてあなたはそれで茶屋の婆芸者の男めかけにでもなる気なのでしょうわかっていますよけちんぼのあなたの事ですからなるべくお金を使わず婆芸者にでも泣きついて男めかけにしてもらってあわよくば向うからお小遣いをせしめてやろうといういいえわかっていますよくやしかったら肥桶をかついでお出掛けなさい出来ないでしょうなんだいそんな裏だか表だかわからないような顔をして鏡をのぞき込んでにっこり笑ったりしてああきたないそんな事をするひまがあったら鼻毛でも剪んだらどう。 伸びていますよくやしかったら肥桶をかついで。 あたしだって悋気をいい事だとは思っていなかったのですけれどお父さんやお母さんがお喜びになるのでついあんな大声を挙げてわるかったわね。 浮気は男の働きと言いますものねえ。 そうともそうとも。 それについて。 このごろどうも養父養母が続いて死にわしも何だか心細くてからだ工合いが変になった。 俗に三十は男の厄年というからね。 ひとつ上方へのぼってゆっくり気保養でもして来ようと思うよ。 それについて。 あいあい。 一年でも二年でもゆっくり御養生しておいでなさい。 まだお若いのですものねえ。 いまから分別顔してけちくさく暮していたら永生き出来ませんよ。 男のかたは五十くらいからけちになるといいのですよ。 三十のけちんぼうは早すぎます。 見っともないわ。 そんなのは芝居では悪役ですよ。 若い時には思い切り派手に遊んだほうがいいの。 あたしも遊ぶつもりよ。 かまわないでしょう。 いいともいいとも。 わしたちがいくら遊んだってぐらつく財産じゃない。 蔵の金銀にもすこし日のめを見せてやらなくちゃ可哀想だ。 それではお言葉に甘えて一年ばかり京大阪で気保養をして来ますからね。 留守中はせいぜい朝寝でもしておいしいものを食べていなさい。 上方のはやりの着物や帯をどんどん送ってよこしますからね。 ごめん。 さいぜんそなたの店から受け取ったお金の中に一粒贋の銀貨がまじっていた。 取かえていただきたい。 は。 それはどうも相すみませんでしたがもう店をしまいましたから来年にしていただけませんか。 いや待つ事は出来ぬ。 まだ除夜の鐘のさいちゅうだ。 拙者もこの金でことしの支払いをしなければならぬ。 借金取りが表に待っている。 困りましたなあ。 もう店をしまってお金はみな蔵の中に。 ふざけるな。 百両千両のかねではない。 たかが銀一粒だ。 これほどの家で手許に銀一粒の替が無いなど冗談を言ってはいけない。 おやその顔つきはどうした。 無いのか。 本当に無いのか。 何も無いのか。 おい青砥。 少し給料をましてやろうか。 お前の給料をもっとよくするようにと夢のお告げがありました。 夢のお告げなんてあてになるものじゃありません。 そのうちに藤綱の首を斬れというお告げがあったらあなたはどうします。 きっと私を斬る気でしょう。 さてさてたわけた牛ではある。 川に小便をするとはもったいない。 むだである。 畑にしたならよい肥料になるものを。 あった。 なにあった。 銭はあったか。 銭はあったか。 たしかにあったか。 へえございました。 三文ございました。 おとどけ致します。 動くな動くな。 その場を捜せ。 たしかにそこだ。 私はその場に落したのだ。 いま思い出した。 たしかにそこだ。 さらに八文ある筈だ。 落したものは落した場所にあるにきまっている。 それ。 皆の者銭は三文見つかったぞ。 さらに精出してそこな下郎の周囲を捜せ。 兄貴はやっぱり勘がいいな。 何か秘伝でもあるのかね。 教えてくれよ。 おれはもう凍えて死にそうだ。 どうしたらそんなにうまく捜し出せるのか。 なあに秘伝というほどの事でもないが問題は足の指だよ。 足の指。 そうさ。 おまえたちは手でさぐるからいけない。 おれのようにほうらこんな工合に足の指先でさぐると見つかる。 おや。 あった。 なにあったか。 銭はあったか。 へえございました。 二文ばかり。 動くな。 動くな。 その場を捜せ。 それ。 皆の者そこな下郎は殊勝であるぞ。 負けず劣らずはげめつっこめ。 あった。 やああった。 さて浅田とやらこのたびの働きは見事であったのう。 そちのお蔭で国土の重宝はよみがえった。 さらに一両の褒美をとらせる。 川に落ちた銭はいたずらに朽ちるばかりであるが人の手から手へ渡った金はいつまでも生きて世にとどまりて人のまわり持ち。 さればさあの青砥はとんだ間抜けだ。 おれの腹掛けから取り出した銭とも知らないで。 さいぜん汝の青砥をだました自慢話を聞き胸くそが悪くなり酒を飲む気もしなくなった。 浅田お前はひどい男だ。 つねからお前の悧巧ぶった馬面が癪にさわっていたのだがこれほどふざけた奴とは知らなかった。 程度があるぞ馬鹿野郎。 青砥のせっかくの高潔な志もお前の無智な小細工で泥棒に追銭みたいなばからしい事になってしまった。 人をたぶらかすのは泥棒よりもなお悪い事だ。 恥かしくないか。 天命のほどもおそろしい。 世の中をそんなになめるといまにとんでもない事になるにきまっているのだ。 おれはもうお前たちとの附合いはごめんこうむる。 きょうよりのちは赤の他人と思っていただきたい。 おれはこれから親孝行をするんだ。 笑っちゃいけねえ。 おれはこんな世の中のあさましい実相を見るとなぜだかふっと親孝行をしたくなって来るのだ。 これまでもちょいちょいそんな事はあったがもうもうきょうというきょうはあいそが尽きた。 さっぱりと足を洗って親孝行をするんだ。 人間は親に孝行しなければ犬畜生と同じわけのものになるんだ。 笑っちゃいけねえ。 父上母上きょうまでの不孝の罪はゆるして下さい。 わかるであろう。 川底に朽ちたる銭は国のまる損。 人の手に渡りし金は世のまわり持ち。 お父さま。 落したお金が十一文だという事がどうしてわかりました。 おおその事か。 お律はませた子だの。 よい事をたずねる。 父は毎朝小銭を四十文ずつ火打袋にいれてお役所に行くのです。 きょうはお役所で三文使い火打袋には三十七文残っていなければならぬ筈のところ二十六文しか残っていませんでしたからそれ落したのはいくらになるであろうか。 でもお父さまはけさお役所へいらっしゃる途中お寺の前であたしと逢い非人に施せといって二文あたしに下さいました。 うんそうであった。 忘れていた。 下郎思い知ったか。 せんだってあなたに差し上げた銭十一文は私の腹掛けから取り出したものでございますからあれは私に返して下さい。 神崎どのこのたびは運悪く私が留守番にまわりましたが私のかわりに末子の丹三郎が仕合せとお供の端に加えられましたからまああれの土産話でもたのしみにして待っている事に致しましょう。 それにつけてもあれも初旅なりばかり大きくてもまだほんの子供ゆえ諸事よろしくたのみますぞ。 あすは早朝の出発ゆえもはやおやすみなさるよう。 遊山の旅だ。 かまわぬ。 のう蛸め。 はあ。 捨て置け。 あとから追いつく。 もしもし。 御出発でございます。 へえ。 ばかに早いな。 若殿もとうにお仕度がお出来になりました。 若殿はあれからぐっすりお休みになられたらしいからな。 おれはあれからいろいろな事を考えてなかなか眠られなかった。 それにお前の親爺のいびきがうるさくてな。 おそれいります。 忠義もつらいよ。 おれだって毎夜若殿の遊び相手をやらされてへとへとなんだよ。 お察し申して居ります。 うんまったくやり切れないんだ。 たまにはお前が代ってくれてもよさそうなものだ。 はお相手を申したく心掛けて居りますが私は狐拳など出来ませんので。 お前たちは野暮だからな。 固いばかりが忠義じゃない。 狐拳くらい覚えて置けよ。 はあ。 それにしてももう皆様が御出発でございますから。 何がそれにしてもだ。 お前たちはおれを馬鹿にしているんだ。 ゆうべもその事を考えてくやしくて眠れなかったんだ。 おれも親爺と一緒に来ればよかった。 親から離れて旅に出るとどんなに皆に気がねをしなけりゃならぬものかお前にはわかるまい。 おれは国元を出発してこのかた肩身のせまい思いばかりしている。 人間って薄情なものだ。 親の眼のとどかないところではどんなにでもその子を邪険に扱うんだからな。 いやお前たちの事を言っているんじゃない。 お前たち親子は立派なものさ。 立派すぎておつりが来らあ。 このたびの蝦夷見物がすんだならおれはお前たち親子の事を逐一国元の殿様と親爺にお知らせするつもりだ。 おれにはなんでもわかっているんだ。 お前の親爺はずいぶんお前を可愛がっているらしいじゃないか。 隠さなくたっていい。 ゆうべこの宿に着いた時お前の親爺はこれ勝太郎足の豆には焼酎でも吹いて置けと言ったのをおれは聞いたぞ。 おれにはあんな事は言わない。 皆の見ている前ではいやにおれに親切にしてみせるがへンおれにはちゃんとわかっているんだ。 実の親子の情はさすがに争われないものだ。 焼酎でも吹いて置けか。 あとでその残りの焼酎を親子二人で仲良く飲み合ったろうどうだ。 おれには一滴も酒を飲ませないばかりか狐拳さえやめさせようとしやがるんだから面白くないよ。 ゆうべはつくづく考えた。 ごめんこうむっておれはもう少し寝るよ。 こうしててくてく歩いているのも気のきかない話じゃないか。 やっぱり馬のほうがいいでしょうか。 なに馬。 馬も悪くはないがしかしまあ一長一短というところだろうな。 本当に。 人間も鳥のように空を飛ぶ事が出来たらいいと思う事がありますね。 馬鹿な事を言っている。 空を飛ぶ必要はないが。 空を飛ぶ必要はないが」とまた繰返して言い「眠りながら歩くという事は出来ないものかね。 それはむずかしいでしょうね。 馬の上なら眠りながら歩くという事も出来ますけれど。 うんあれは。 あれはまた野暮なものだ。 眼が覚めてここはどこかと聞いても馬は答えてくれないからね。 うまい事をおっしゃる。 お前もまた野暮な男だ。 思いやりというものがない。 はあ。 見ればわかるじゃないか。 おれはもう歩けなくなっているのだ。 おれはこんなに太っているから股ずれが出来て人に知られぬ苦労をして歩いているのだ。 見ればわかりそうなものだ。 肩を貸してやれ。 はい。 ごめんこうむる。 こう見えても森岡丹後の子だ。 お前のような年少の者の肩にしなだれかかって峠を越えたという風聞がもし国元に達したならば父や兄たちの面目が丸つぶれじゃないか。 お前たち親子はぐるになって森岡の一家を嘲弄する気なのであろう。 式部。 蛸にも駕籠をやれ。 はただいま。 水かさ刻一刻とつのる様子なればきょうはこの金谷の宿に一泊。 なんだこれがあの有名な大井川か。 淀川の半分も無いじゃないか。 国元の猪名川よりも武庫川よりも小さいじゃないか。 のう蛸。 これしきの川が渡れぬなんて式部も耄碌したようだ。 いかにも。 私などは国元の猪名川を幼少の頃より毎日のように馬で渡ってなれて居りますのでこんな小さい川がたといどんなに水を増してもおそろしいとは思いませぬがしかし生れつき水癲癇と申してどのように弓馬の武芸に達していてもこの水を見るとおそろしくぶるぶる震えるという奇病があってしかもこれは親から子へ遺伝するものだそうで。 奇妙な病気もあるものだ。 まさか式部はその水癲癇とやらいう病気でもあるまいがどうだ蛸めわれら二人抜け駈けてこの濁流に駒をすすめかの宇治川先陣佐々木と梶原の如く相競って共に向う岸に渡って見せたら臆病の式部はじめ供の者たちも仕方なく後からついて来るだろう。 なんとしてもきょうのうちにこの大井川を渡って島田の宿に着かなければ西国武士の名折れだぞ。 蛸めつづけ。 おやめなさいおやめなさい。 式部かねて承るに大井川の川底の形状変転常なくその瀬その淵の深浅は川越しの人夫さえ踏違えることしばしば有りとの事いわんや他国のわれら抜山の勇ありといえども血気だけではこの川渡ることむずかしく式部はきょう一日その水癲癇とやら奇病にでも何にでも相成りますからどうか式部の奇病をあわれに思召して川を越える事はあすになさって下さい。 ちえ残念。 蛸め。 式部は卑怯だ。 かまわぬつづけ。 それ。 若殿につづけ。 若殿は野暮だ。 思いやりも何も無い。 おれは実は馬は何よりも苦手なのだ。 何もかも目茶苦茶だ。 これも皆あなたの言葉から起った難儀です。 でもまあいまはそんな事を言っていたって仕様がありません。 すぐに若殿の後を追いましょう。 わしたちは果して生きて向う岸に行き着けるかどうかこの大水では心もとない。 けれどもわしは国元を出る時あなたの親御の丹後どのから丹三郎儀はまだほんの子供しかも初旅の事ゆえ諸事よろしくたのむと言われました。 その一言が忘れかねわしはきょうまで我慢に我慢を重ねてあなたの世話を見て来ました。 いまこの濁流を渡ってあなたの身にもしもの事があったならきょうまでのわしの苦労もそれこそ水の泡になります。 馬は一ばん元気のいいのをあなたのために取って置きました。 せがれの勝太郎を先に立て瀬踏みをさせますからあなたは何でもただ馬の首にしがみついて勝太郎の後について行くといい。 すぐあとにわしがついて守って行きますから心配せず大浪をかぶってもあわてず馬の首から手を離したりせぬように。 すみません。 そちに頼みがある。 はい。 流れに飛び込んで死んでおくれ。 丹三郎はわしの苦労の甲斐も無く横浪をかぶって鞍がくつがえり流れに呑まれて死にました。 そもそもあの丹三郎儀はかの親の丹後どのより預り来れる義理のある子です。 丹三郎ひとりが溺れ死んでお前が助かったとあれば丹後どのの手前この式部の武士の一分が立ちがたい。 ここを聞きわけておくれ。 時刻をうつさずいますぐ川に飛び込み死んでおくれ。 何でもないさ。 いままで通り旅人をやっつけようよ。 でも。 女ばかりじゃ駄目よ。 かえってあたしたちのほうで着物をはぎとられてしまうわよ。 弱虫弱虫。 男の身なりをして刀を持って行けばなんでもない。 やいこらとこんな工合いに男のひとみたいな太い声で呼びとめるとどんな旅人だって震え上るにきまっている。 でもおさむらいはこわいな。 じいさんばあさんか女のひとり旅かにやけた商人かそんな人たちを選んでおどかしたらきっと成功するわよ。 面白いじゃないの。 あたしはあの熊の毛皮を頭からかぶって行こう。 うまくいくといいけど。 とにかくそれじゃやって見ましょう。 あたしたちはどうでもいいけどお母さんにお怪我があっては大変だからお母さんはお留守番してあたしたちの獲物をおとなしく待っているのよ。 お夏やお前この白絹をどうする気なの。 どうするって姉さんあたしはこれで鉢巻をたくさんこしらえるつもりなの。 白絹の鉢巻は勇しくって立派な親分さんみたいに見えるわよ。 お父さんもお仕事の時には絹の白鉢巻をしてお出かけになったわね。 まあそんなつまらない。 ねいい子だから姉さんにそれをゆずってくれない。 こんど何かまたいいものが手にはいった時には姉さんはみんなお前にあげるから。 いやよ。 いやいや。 あたしは前から真白な鉢巻をほしいと思っていたのよ。 旅人をおどかすのに白鉢巻でもしてないと気勢があがらなくて工合いがわるいわ。 そんな馬鹿な事を言わないでね後生だから。 いや。 姉さんしつっこいわよ。 ごめんねもう要らないわよ。 姉さん。 こわい。 ななに。 姉さんごめんあたしは悪い子よ。 あたしは姉さんをたったいままで殺そうと思っていたの。 姉さん。 あたしだってもう十六よ。 綺麗な着物を欲しいのよ。 でもあたしはこんな不器量な子だからお洒落をすると笑われるかと思ってわざと男の子みたいな事ばかり言っていたのよ。 ごめんね。 姉さんあたしはこのお正月に晴衣が一枚ほしくてあたしの絹を紅梅に染めてそうして姉さんの絹を裏地にしようと思って姉さんあたしはいけない子よ姉さんを刀で突いてそうしてお母さんには姉さんが旅人に殺されたと申し上げるつもりでいたの。 いまあの火葬の煙を見たらもう何もかもいやになってあたしはもう生きて行く気がしなくなった。 何を言うの。 ゆるすもゆるさぬもそれはあたしの事ですよ。 あたしこそお前を突き殺して絹を奪おうと思ってあの煙を見たら悲しくなってあたしの反物を谷底へ投げ込んだのじゃないの。 なんだたかが七八十両の借金で先代からのこの老舗をつぶすなんて法は無い。 ことしの暮は万事わしたちが引受けますからもう一度まあねばってみなさい。 来年こそはこの身代にも一花咲かせて見せて下さい。 子供さんにもお年玉を奮発して下職への仕着も紋無しの浅黄にするといまからでも間に合いますからお金の事など心配せずまあわしたちに委せて大船に乗った気で一つ思い切り派手に年越しをするんだね。 お内儀もそんなめそめそしてないでせっかくのいい髪をもったいないちゃんと綺麗に結っておちめを人に見せないところが女房の働き。 正月の塩鮭もわしの家で三本買って置いたから一本すぐにとどけさせます。 笑う門には福が来る。 どうもこの家は陰気でいけねえ。 さあ雨戸をみんなあけてことしの家中の塵芥をさっぱりと掃き出してのんきに福の神の御入来を待つがよい。 万事はわしたちが引受けました。 よし来た算盤よこせ畜生めあの米屋の八右衛門はわしの先代の別家なのに義理も恩も人情も忘れてどこよりもせわしく借りを責め立てやがっておのれ今に見ろと思っていたが畜生めこんど来たらあの皺面に小判をたたきつけてもう来年からはどんなにわしにお世辞を言っても聞かぬ振りして米は八右衛門の隣りの与七の家から現金で買って帰りにはあいつの家の前で小便でもして来る事だ。 とにかくあの神棚の桝をおろせ。 久しぶりで山吹の色でも拝もう。 いよいよ無いにきまった。 もうよい捜すな。 桝一ぱいの小判をまさか鼠がそっくりひいて行ったわけでもあるまい。 福の神に見はなされたのだ。 よくよく福運の無い家と見える。 いい笑い草だ。 八右衛門の勘定はどうなるのだ。 むだな喜びをしただけにあとのつらさがこたえるわい。 まあどうしましょう。 ひどいいたずらをなさる人もあるものですねえ。 お金を下さってよろこばせてそうしてすぐにまた取り上げるとはあんまりですわねえ。 何を言う。 そなたはあの誰か盗んだとでも思っているのか。 ええ疑うのは悪い事だけれどもまさか小判がひとりでふっと溶けて消えるわけは無し宵からこの座敷にはあの十人のお客様のほかに出入りした人も無しお帰りになるとすぐにあたしが表の戸に錠をおろして――。 いやいやそのようなおそろしい事を考えてはいけない。 小判は神隠しに遭ったのだ。 わしたちの信心の薄いせいだ。 あのように情深いご近所のお方たちを疑うなどはとんでもない事だ。 百両のお金をちらと拝ませていただいただけでも有難いと思わなければならぬ。 それに生れてはじめてあれほどの大酒を飲む事も出来たしもともとお金は無いものとあきらめて。 ああそれにしても一夜のうちに笑ったり泣いたりなんてまあ馬鹿らしい身の上になったのだろう。 いいなぶりものにされました。 百両くださると見せかけてそっとお持ち帰りになっていまごろは赤い舌を出して居られるのに違いない。 ええ十人が十人とも腹を合せてあたしたちに百両を見せびらかしあたしたちが泣いて拝む姿を楽しみながら酒を飲もうという魂胆だったのですよ。 人を馬鹿にするにもほどがある。 あなたは口惜しくないのですか。 あたしはもう恥ずかしくてこの世に生きて居られない。 恩人の悪口は言うな。 この世がいやになったのはわしも同様。 しかし人を恨んで死ぬのは地獄の種だ。 お情の百両をわが身の油断から紛失した申しわけに死ぬのならばわしにも覚悟はあるが。 理窟はどうだっていいじゃないの。 あたしは地獄へ落ちたっていい。 恨み死を致します。 こんなひどい仕打ちをされて世間のもの笑いになってなお生き延びるなんて事はとても出来ません。 よしもう言うな。 死にやいいんだ。 かりそめにも一夜の恩人たちを訴えるわけにもいかずいや疑う事さえ不埒な事ださりとてこのまま生き延びる工夫もつかず女房何も言わずにわしと一緒に死のうじゃないか。 この世ではそなたにも苦労をかけたが夫婦は二世と言うぞ。 このたび百両の金子紛失の件とにもかくにもそちたちの過怠その場に居合せながら大金の紛失に気附かざりしとは察するところ意地汚く酒を過し大酔に及んだがためと思われる。 飲酒の戒もさる事ながら人の世話をするなら素知らぬ振りしてあっさりやったらよかろう。 救われた人を眼の前に置いてしつっこく酒など飲んでおのれの慈善をたのしむなどは浅間しい。 早く夫婦二人きりにさせて諸支払いの算用をさせるようにしむけてやるのがまことの情だ。 なまなかの情はかえって人を罪におとす。 以後は気を附けよ。 罰としてきょうからあの表に張り出してある番附の順序に従って一日に一組ずつここにある太鼓に棒をとおしてそれぞれ女房と二人でかつぎ役所の門を出て西へ二丁歩いて杉林の中を通り抜けさらに三丁畑の間の細道を歩きさらに一丁坂をのぼって八幡宮に参り八幡宮のお札をもらって同じ道をまっすぐに帰って来るよう固く申しつける。 ああ重い。 あなたはどうなの。 重くないの。 ばかにうれしそうに歩いているわね。 お祭りじゃないんですよ。 子供じゃあるまいしこんな赤い大鼓をかついでお宮まいりだなんて板倉様も意地が悪い。 もうもうあたしは人の世話なんてごめんですよ。 あなたたちは人の世話にかこつけてお酒を飲んで騒ぎたいのでしょう。 ばかばかしい。 おまけにこんな赤い太鼓をかつがせられていい見せ物にされて――。 まあそう言うな。 ものは考え様だ。 どうだいさっきのお役所の前の人出は。 わしは生れてからあんなに人に囃された事は無い。 人気があるぜわしたちは。 何を言ってるの。 道理であなたはけさからそわそわしてあの着物この着物と三度も着かえてそれからちょっと薄化粧なさってたわね。 そうでしょう。 白状しなさい。 馬鹿な事を言うな。 馬鹿な。 しかしいい天気だ。 お父さん。 亡くなったお母さんがあたしたちのこんないい恰好を見て草葉の蔭で泣いていらっしゃるでしょうねえ。 お父さんはまあ自業自得で仕方がないとしてもあたしにまでこんな赤い太鼓の片棒かつがせてチンドン屋みたいな事をさせてさお母さんはきっとお父さんをうらんで化けて出るわよ。 おどかしちゃいけねえ。 何もわしだって好きでかついでいるわけじゃないしまた年頃のお前にこんな判じ物みたいなものを担がせるのも心苦しいとは思っている。 あんな事を言っている。 心苦しいだなんてそんな気のきいた言葉をどこで覚えて来たの。 おかしいわよ。 お父さんにはこの太鼓がよく似合ってよ。 お父さんは派手好きだから赤いものがとてもよく似合うわ。 こんど真赤なお羽織を一枚こしらえてあげましょうね。 からかっちゃいけねえ。 だるまじゃあるまいし赤い半纏なんてのはお祭りにだって着て出られるわけのものじゃない。 でもお父さんは年中お祭りみたいにそわそわしているあんなのをお祭り野郎ってんだと陰口たたいていた人があったわよ。 誰だひでえ奴だ誰がそんな事を言ったんだ。 そのままにはして置けねえ。 あたしよあたしが言ったのよ。 何のかのと近所に寄合いをこしらえさせてお祭り騒ぎをしようとたくらんでばかりいるんだもの。 いい気味だわ。 ばちが当ったんだわ。 お奉行様はやっぱりえらいな。 お父さんのお祭り野郎を見抜いてこらしめのためこんな真赤なお祭りの太鼓をかつがせて改心させようと思っていらっしゃるのに違いない。 こん畜生。 太鼓をかついでいなけれやぶん殴ってやるんだがえい徳兵衛ふびんさに持前の親分|肌のところを見せてやったばっかりにつまらねえ事になった。 持前だって。 親分肌だって。 おかしいわよお父さん。 自分でそんな事を言うのは耄碌の証拠よ。 もっとしっかりしなさいね。 この野郎黙らんか。 あなたもしかし妙な人ですね。 ふだんあんなにけちでお客さんの煙草ばかり吸っているほどの人がこんどに限って馬鹿にあっさり十両なんて大金を出したわね。 そりゃあね男の世界はまた違ったものさ。 義を見てせざるは勇なき也。 常日頃の倹約もあのような慈善に備えて――。 いい加減を言ってるわ。 あたしゃ知っていますよ。 あなたは前からあの徳兵衛さんのおかみさんをへんにほめていらっしゃったわね。 思召しがあるんじゃない。 いいとしをしてまあそんな鬼がくしゃみして自分でおどろいてるみたいな顔をして思召しも呆れるじゃないのいいえあたしゃ知っていますよあなたとしを考えてごらんなさい孫が三人もあるくせにお隣りのおかみさんにへんな色目を使ったりなんかしてあなたはそれでも人間ですか人間の道を知っているのですかいいえあたしにはわかっていますよおかげでこんな重い太鼓なんか担がせられてあいたたたあたしゃまた神経痛が起って来た。 あしたからあなたがごはんをたくのですよ。 薪も割ってもらわなくちゃこまるし糠味噌もよく掻きまわして井戸は遠いからいい気味だ毎朝|手桶に五はいくんで来て台所の水甕にあいたたた馬鹿な亭主を持ったばかりにあたしは十年寿命をちぢめた。 いやこのたびは御苦労であった。 太鼓の担ぎ賃としてこれは些少ながらそれがしからの御礼だ。 失礼ではあろうが笑って受取ってもらいたい。 風邪をひいて二三日寝込んだ夫婦もあったとかもはや本服したろうがお見舞いとして別に一封包んで置いた。 こだわり無く収めていただきたい。 このたび仲間の窮迫を見かねて金十両ずつ出し合って救ったとは近頃めずらしい美挙いつまでもその心掛けを忘れぬよう。 それにもかかわらずあのような重い太鼓をかつがせその上男どもはだいぶ女連にやられていたようで気の毒に思っている。 まあ何事も水に流してこの後は仲良く家業にはげむよう。 ところでこの中の一組太鼓をかついで杉林にさしかかった頃から女房が悪鬼に憑かれたように物狂わしく騒ぎ立て亭主の過去のふしだらを一つ一つ挙げてののしり亭主が如何になだめても静まらずいよいよ大声で喚き散らすゆえ亭主は困却し果て杉林を抜けて畑にさしかかった頃あたりをはばかる小さい声で騒ぐなうらむな太鼓の難儀もいましばしの辛抱百両の金はわしたちのもの家へ帰ってから戸棚の引出しをあけて見ろと不思議な事を言った。 言った者には覚えのある筈。 いやそれがしは神通力も何も持っていない。 あの赤い太鼓は重かったであろう。 あの中に小坊主ひとりいれて置いた。 委細はその小坊主から聞いて知った。 言った者をいまここで名指しをするのは容易だがこの者とてはじめは真の情愛を以てこのたびの美挙に参加したのに違いなく酒の酔いに心が乱れふっと手をのばしただけの事と思われる。 命はたすける。 おかみの慈悲に感じ今夜人目を避けて徳兵衛の家の前にかの百両の金子を捨てよ。 然る後は当人の心次第恥を知る者ならば都から去れ。 おかみに於いてはとやかくの指図無し。 一同立て。 以上。 ものには堪忍という事がある。 この心掛けを忘れてはいけない。 ちっとはつらいだろうが我慢をするさ。 夜の次には朝が来るんだ。 冬の次には春が来るさ。 きまり切っているんだ。 世の中は陰陽陰陽陰陽と続いて行くんだ。 仕合せと不仕合せとは軒続きさ。 ひでえ不仕合せのすぐお隣りは一陽来復の大吉さ。 ここの道理を忘れちゃいけない。 来年はこれあ何としても大吉にきまった。 その時にはお前も芝居の変り目ごとに駕籠で出掛けるさ。 それくらいの贅沢はゆるしてあげます。 かまわないから出掛けなさい。 お金は少し残して置いた。 この中からお前の正月のお小遣いをのけてあとは借金取りに少しずつばらまいてやって無くなったら寝ちまえ。 借金取りの顔が見えないようにあちら向きに寝ると少しは気が楽だよ。 ものには堪忍という事がある。 きょう一日の我慢だ。 あちら向きに寝て死んだ振りでもしているさ。 世の中は陰陽陰陽。 婆はいるか。 ほうここはまだみそかの支払いもすまないと見えてあるわあるわ書附けが。 ここに取りちらかしてある書附け全部で三四十両くらいのものか。 世はさまざま|〆て三四十両の支払いをすます事も出来ずに大晦日を迎える家もありまたわしの家のように呉服屋の支払いだけでも百両お金は惜しいと思わぬが奥方のあんな衣裳道楽は大勢の使用人たちの手前しめしのつかぬ事もありこんどは少しひかえてもらわなくては困るです。 こらしめのため里へかえそうかなどと考えているうちにあいにくと懐姙でしかもきょうこの大晦日のいそがしい中に産気づいて早朝から家中が上を下への大混雑。 生れぬさきから乳母を連れて来るやら取揚婆を三人も四人も集めてばかばかしい。 だいたい大長者から嫁をもらったのがわしの不覚。 奥方の里からけさは大勢見舞いに駈けつけそれ山伏それ祈祷取揚婆をこっちで三人も四人も呼んで来てあるのにそれでも足りずに医者を連れて来て次の間に控えさせこれは何やら早め薬とかいって鍋でぐつぐつ煮てござる。 安産のまじないに要るとか言って子安貝海馬松茸の石づき何の事やらわけのわからぬものを四方八方に使いを走らせて取寄せつくづく金持の大袈裟な騒ぎ方にあいそがつきました。 旦那様はこんな時には家にいぬものだと言われてこれさいわいすたこらここへ逃げて来ました。 まるでこれでは借金取りに追われて逃げて来たような形です。 きょうは大晦日だからそんな男もあるでしょうね。 気の毒なものだ。 いったいどんな気持だろう。 酒を飲んでも酔えないでしょうね。 いやもう人さまざまあはははは。 時にどうです。 言うも野暮だがもちろん大晦日の現金払いで子供の生れるまでここで一日あそばせてくれませんか。 たまにはこんな小さい家でこっそり遊ぶのも悪くない。 おや正月の鯛を買いましたね。 小さい。 家が小さいからって遠慮しなくたっていいでしょう。 何も縁起ものだ。 もっと大きいのを買ったらどう。 やれうれしや。 鯛など買わずにこの金は亭主に隠して置いてあたしの帯でも買いましょう。 おほほほ。 ことしの年の暮は貧乏神と覚悟していたのにこのような大黒様が舞い込んでこれで来年中の仕合せもきまりました。 お礼を申し上げますよ旦那。 さあまあどうぞ。 いやですよこんな汚い台所などにお坐りになっていらしては。 洒落すぎますよ。 あんまり恐縮で冷汗が出るじゃありませんか。 なんぼ何でもお人柄にかかわりますよ。 どうも長者のお旦那に限って台所口がお好きで困ってしまいます。 貧乏所帯の台所がよっぽどもの珍らしいと見える。 さ粋にも程度がございます。 どうぞ奥へ。 何しろたべものにはわがままな男ですからそこは油断なくたのむ。 これは卵ですか。 へえお口に合いますかどうですか。 この辺は卵の産地か。 何か由緒があらば聞きたい。 いいえ卵に由緒も何も。 これはお産に縁があるかと思って婆の志。 それにまたおいしい料理の食べあきたお旦那はよくうで卵など酔興に召し上りますのでおほほ。 それでわかった。 いや結構。 卵の形はいつ見てもよい。 いっその事これに目鼻をつけてもらいましょうか。 よう卵に目鼻の御入来。 ああいやだ。 また一つとしをとるのよ。 ことしのお正月に十九の春なんてお客さんにからかわれ羽根を突いてもたのしく何かいい事もあるかと思ってうかうか暮しているうちにあなた一夜明けるともう二十じゃないの。 はたちなんていやねえ。 たのしいのは十代かぎり。 こんな派手な振袖ももう来年からはおかしいわね。 ああいやだ。 思い出した。 その帯をたたく手つきで思い出した。 ちょうどいまから二十年前お前さんは花屋の宴会でわしの前に坐りいまと同じ事を言いそんな手つきで帯をたたいたがあの時にもたしか十九と言った。 それから二十年|経っているからお前さんはことし三十九だ。 十代もくそもない来年は四十代だ。 四十まで振袖を着ていたらもう振袖に名残も無かろう。 からだが小さいから若く見えるがいまだに十九とはひどいじゃないか。 わしは仏さんではないよ。 縁起でもない。 拝むなよ。 興覚めるね。 酒でも飲もう。 まあお旦那。 おめでとうございます。 どうしても御男子ときまりました。 何が。 のんきでいらっしゃる。 お宅のお産をお忘れですか。 あそうか。 生れたか。 いいえそれはわかりませんがいまねこの婆が畳算で占ってみたところあなた三度やり直しても同じ事どうしても御男子。 私の占いは当りますよ。 旦那おめでとうございます。 いやいやそう改ってお祝いを言われても痛みいる。 それこれはお祝儀。 まあどうしましょうねえ。 暮からこのようなうれしい事ばかり。 思えばきょうあけがたの夢に千羽の鶴が空に舞い四海波押しわけて万亀が泳ぎ。 あの本当でございますよ旦那。 眼がさめてからやれ不思議な有難い夢よとひどく気がかりになっていたところにあなたいきなお旦那がお産のすむまで宿を貸せと台所口から御入来ですものねえ夢はやっぱり正夢これも日頃のお不動信心のおかげでございましょうか。 おほほ。 わかったわかった。 めでたいよ。 ところで何か食うものはないか。 おやまあ。 どうかと心配して居りましたのに卵はお気に召したと見え残らずおあがりになってしまった。 すいなお方はこれだから好きさ。 たべものにあきたお旦那にはこんなものがずいぶん珍らしいと見える。 さそれではこんど何を差し上げましょうか。 数の子などいかが。 数の子か。 あらだってお産にちなんで数の子ですよ。 ねえつぼみさん。 縁起ものですものねえ。 ちょっと洒落た趣向じゃありませんか。 お旦那はそんな酔興なお料理がいちばん好きだってさ。 いまあの婆はつぼみさんと言ったがお前さんの名はつぼみか。 ええそうよ。 あの花の蕾のつぼみか。 くどいわねえ。 何度言ったって同じじゃないの。 あなただって頭の毛が薄いくせに何を言ってるの。 ひどいわひどいわ。 あなたお金ある。 すこしはある。 あたしに下さい。 こまっているのよ。 本当にことしの暮ほど困った事は無い。 上の娘をよそにかたづけてまず一安心と思っていたらそれがあなた一年経つか経たないうちに乞食のような身なりで赤子をかかえ四五日まえにあたしのところへ帰って来て亭主が手拭いをさげて銭湯へ出かけてそれっきり他の女のところへ行ってしまったと泣きながら言うけれど馬鹿らしい話じゃありませんか。 娘もぼんやりだけどその亭主もひどいじゃありませんか。 育ちがいいとかいってのっぺりした顔の俳諧だか何だかお得意なんだそうであたしははじめっから気がすすまなかったのに娘が惚れ込んでしまっているものだから仕方なく一緒にさせたら銭湯へ行ってそのまま家へ帰らないとはあんまり人を踏みつけていますよ。 笑い事じゃない。 娘はこれから赤子をかかえてどうなるのです。 それではお前さんに孫もあるのだね。 あります。 馬鹿にしないで下さい。 あたしだって人間のはしくれです。 子も出来れば孫も出来ます。 なんの不思議も無いじゃないか。 お金を下さいよ。 あなたたいへんなお金持だっていうじゃありませんか。 いやそんなでもないが少しならあるよ。 ああめでたい。 婆の占いが男の子とはうれしいね。 なかなか話せる婆ではないか。 お酒でもうんと飲んで騒ぎましょうか。 あれわいさのさ。 まだ日が暮れぬか。 冗談でしょう。 おひるにもなりません。 さてさて日が永い。 お前さんはもう帰れ。 わしはこれから一寝入りだ。 眼が覚めた頃にはお産もすんでいるだろう。 本当にもう帰ってくれ。 その顔を二度とふたたび見せてくれるな。 ええ帰ります。 ついでにおひるごはんをここでごちそうになりましょう。 やあここにいた。 旦那ひどいじゃないか。 てっきりこの界隈と見込みをつけ一軒一軒さがしていやもう大骨折さ。 無いものはいただこうとは申しませんがこうしてのんきそうに遊ぶくらいのお金があったら少しはこっちにも廻してくれるものですよ。 ええとことしの勘定は。 あとのお勘定は正月五日までに。 どうもねえ友人から泣きつかれて判を押してやったがその友人が破産したとやらこちらまでとんだ迷惑。 金を貸すとも判は押すなとはここのところだ。 とかく大晦日には思わぬ事がしゅったい致す。 この姿では外へも出られぬ。 暗くなるまでここで一眠りさせていただきましょう。 馬鹿というのはまだ少し脈のある人の事。 金魚のえさか。 えさだ。 おやあれは利左じゃないか。 利左だ間違いない。 あの右肩をちょっと上げて歩く癖はむかしから利左の癖であれがまた小粋だと言ってわしにも右肩を上げて歩けとうるさくすすめる女があって閉口した事がある。 利左に違いない。 それ呼びとめろ。 利左お前はひどい。 吉州にはわしも少し惚れていたが何もお前そんなわしはお前を恨みに思ったりなんかしてやしないよ。 黙って姿を消すなんて水くさいじゃないか。 そうよそうよ。 どんなつらい事情があったって一言くらいわしたちに挨拶して行くのが本当だぞ。 困った事が起った時にはお互い様さ。 茶屋酒のんで騒ぐばかりが友達じゃない。 見ればひでえ身なりでまあこれがあの月夜の利左かい。 わしたちにたった一言でも知らせてくれたらこんな事になりはしなかったのにぼうふら売りとは洒落が過ぎらあ。 利左でも逢えてよかった。 どこへ行ったかと心配していたのだ。 お前がいなくなったら淋しくてなあ。 上方の遊びもつまらなくなってこうして江戸へ出て来たがお前と一緒でないとどこの遊びも面白くない。 ここで逢うたが百年目さ。 どうだいこれからわしたちと一緒に上方へ帰ってまた昔のように四人で派手に遊ぼうじゃないか。 お金の事や何かは心配するな。 口はばったいがわしたち三人が附いている。 お前の一生は引受けた。 何を言っていやがる。 人の世話など出来る面かよ。 わざわざこの利左をなぶりに上方からやって来たのか。 御苦労な事だ。 こっちはこれが好きでやっているのさ。 かまわないでくれ。 遊びの果は皆こんなものだ。 ふん。 いまにお前たちだってどんな事になるかわかったものじゃない。 一生引受けたは笑わせやがる。 でもまあ昔の馴染甲斐に江戸の茶碗酒でも一ぱい振舞ってやろうか。 利左は落ぶれてもお前たちのごちそうにはならんよ。 酒を飲みたかったら附いて来い。 あはは。 おやじこれだけある。 昔の朋輩におごってやるんだ。 茶碗で四はい。 おいまごまごしてないでここへ腰かけて飲めよ。 茶碗酒の味も忘れられぬ。 ああうめえ。 時に利左いまでもやはり吉州と。 いまでもとは何だ。 粋人らしくもねえ。 口のききかたに気をつけろ。 その女ゆえに御覧のとおりのぼうふら売りさ。 悪い事は言わねえ。 お前たちもいい加減に茶屋遊びを切り上げたほうがいいぜ。 上方一と言われた女も手活の花として眺めると三日|経てば萎れる。 いまじゃ長屋のかかになってひとつき風呂へ行かなくても平気でいる。 子供もあるのか。 あたりめえよ。 間の抜けた事を聞くな。 親にも似ねえ猿みたいな顔をした四つの男の子が根っからの貧乏人の子らしく落ちついて長屋で遊んでいやがる。 見せてやろうか。 少しはお前たちのいましめになるかも知れねえ。 連れて行ってくれ。 吉州にも逢いたい。 見たらあいそが尽きるぜ。 ここだこの家だ。 三人はいったら坐るところが無いぞ。 おいお客さまだぞ。 そのお三人のうち伊豆屋吉郎兵衛さまお帰り下さいまし。 そのお方には昔お情にあずかった事がございます。 いやそれはお固い。 昔の事はさらりと水に流して。 そうだそうだ。 長屋の嬶にお情もくそもあるものか。 自惚ちゃいけねえ。 座蒲団なんて洒落たものはねえぞ。 お茶くらいは出す。 まあ。 坊やは寒そうだな。 着物を着るのがいやなんですって。 妙な癖で着物を着せてもすぐ脱いでああしてはだかで寝るんです。 疳の虫のせいでしょうよ。 うそだうそだ。 坊はさっき溝へ落ちて着るものが無くなったからこうして寝かされて着物のかわくのを待っているのだ。 ふざけた真似をするな。 人の家へやって来てお茶も飲まずに帰りそのうえこんな犬の糞みたいなものを門口に捨てやがって人間の附き合いの法も知らねえ鼻ったれ小僧め。 よくもよくも月夜の利左をなめやがったな。 もう二度とふたたびお前たちの鼻の下の長いつらを見たくねえ。 これを持ってとっとと帰れ。 馬鹿にするな。 いやひどいめに遭った。 それにしても吉州もきたない女になりやがった。 色即是空か。 ほんとうに。 わしはもうきょうから遊びをやめるよ。 卒堵婆小町を眼前にありありと見ました。 出家でもしたいところだね。 わしはもう殺されるのではないかと思った。 おちぶれた昔の友達ほどおそろしいものはない。 路で逢ってもこちらから言葉をかけるのは遠慮すべきものかも知れない。 誰だい一ばん先に言葉をかけたのは。 わしではないよ。 わしはただ吉州にひとめ逢いたくてそれで。 お前だよ。 お前が一ばんさきに走って行って一ばんさきに声をかけておまけにまたあいつの家へ連れて行ってくれなんてつまらぬ事を言い出したのもみんなお前じゃないか。 つつしむべきは好色の念だねえ。 面目ない。 以後はふっつり道楽をやめる。 改心のついでにその足もとに散らばっているお金を拾い集めたらどうだ。 これだって天下の宝だ。 むかし青砥左衛門尉藤綱さまが。 滑川を渡りし時だろう。 わかったわかった。 わしは土方人足というところか。 さがしますよ拾いますよ。 こうして一つ一つにして拾ってみるとお金のありがたさがわかって来るよ。 お前たちも少し手伝ってごらん。 まじめな気持ちになりますよ。 男は女にふられるくらいでなくちゃ駄目なものだ。 本当にそのお心掛けが大事ですわね。 無礼者。 吉野山やがて出でじと思ふ身を花散りなばと人や待つらむ。 吉野山やがて出でんと思ふ身を花散る頃はお迎へたのむ。 擂鉢の底。 あちょいと。 いいえきょうは郵便来ていません。 あなたは青木大蔵さん。 そうですね。 ええそうです。 似ています。 なんですか。 幸吉さんを知っていますか。 内藤幸吉さんを。 ご存じでしょう。 内藤幸吉ですか。 ええそうです。 存じませんね。 そうですか。 あなたはおくには津軽のほうでしょう。 こちらへいらっしゃい。 雨がひどくなりました。 ええ。 津軽でしょう。 そうです。 それじゃたしかだ。 あなたは幸吉さんの兄さんです。 へんなことをおっしゃいますね。 いいえもうそれに違いないのです。 似ていますよ。 幸吉さんよろこぶだろうなあ。 それじゃあとでまた。 すぐに幸吉さんに知らせてあげますからね。 もしもしお客さんですよ。 とおして呉れ。 ひと違いなんです。 お気の毒ですがひと違いなんです。 ばかばかしいのです。 いいえ。 おつるの子です。 お忘れでしょうか。 母はあなたの乳母をしていました。 そうか。 そうか。 そうですか。 これあひどいね。 まったくひどいね。 そうか。 ほんとうですか。 は。 いつかお逢いしたいと思っていました。 起きないか。 田舎では一番でもよそにはもっとできる子がたくさんいます。 つるは甲府にいたのですか。 え父がこの土地で店をひらいて居りました。 甲斐絹問屋につとめて居られた――。 え谷村の丸三という店に奉公して居りましたがのちに独立して甲府で呉服屋をはじめました。 お達者ですか。 はなくなりました。 それじゃ御両親とも。 そうなんです。 母が死んだのはごぞんじなんですね。 知っています。 私が高等学校へはいったとしに聞きました。 十二年まえです。 僕が十三でちょうど小学校を卒業したとしでした。 それから五年経って僕が中学校を卒業する直前に父は狂い死しました。 母が死んでからもう元気がないようでしたがそれからすこしまあ遊びはじめたのでしょうね店は可成大きかったのですが衰運の一途でした。 あのときは全国的に呉服屋がいけないようでした。 いろいろ苦しいこともあったのでしょう。 いけない死にかたをしました井戸に飛びこみました。 世間には心臓|痲痺ということにしてありますけれど。 つるはいくつでなくなったのですか。 母ですか。 母は三十六でなくなりました。 立派な母でした。 死ぬる直前まであなたの名前を言っていました。 出ませんか。 おいそがしいですか。 ああ出ましょう。 一緒に晩御飯でもたべますか。 雨もはれたようですね。 今夜はね計画があるのですよ。 ああそうですか。 だまってつき合って下さい。 承知しました。 どこへでも行きます。 でもよく逢えたねえ。 ええお名前はまえから母に朝夕聞かされて失礼ですがほんとうの兄のような気がしていつかはお逢いできるだろうと奇妙に楽観していたのです。 へんですねいつかは逢えると確信していたので僕はのんきでしたよ。 僕さえ丈夫で生きていたら。 私が十歳くらいで君が三つか四つくらいのときいちど逢ったことがあるんじゃないかしら。 つるがお盆のとき小さい色の白い子を連れて来てその子がたいへん行儀がよくおとなしいので私はちょっとその子を嫉妬したものだがあれが君だったのかしら。 僕かも知れません。 よく覚えていないのです。 大きくなってから母にそう言われてぼんやり思い出せるような気がしました。 なんでも永い旅でした。 お家のまえにきれいな川が流れていました。 川じゃないよ。 あれは溝だ。 庭の池の水があふれてあそこへ流れて来ているのだ。 そうですか。 それから大きなさるすべりの木がお家のまえに在りました。 まっかな花がたくさん咲いていました。 さるすべりじゃないだろう。 ねむの木なら一本あるよ。 それもそんなに大きくない。 君はそのころ小さかったから溝でも木でもなんでも大きく大きく見えたのだろう。 そうかも知れませんね。 そのほかのことはちっともなんにも覚えていません。 あなたのお顔ぐらいは覚えて置いてもよかったのに。 三つか四つのころでは記憶にないのが当りまえさ。 けれどどうだいはじめて逢った兄なるものはあんな安宿でごろごろしていて風采もぱっとせずさびしくないか。 いいえ。 さっきの郵便屋さんは君のお友達かね。 そうです。 親友です。 萩野君と言います。 いい人ですよ。 あの人はこんどは手柄をたてました。 まえから僕があの人にあなたのことを言ってあかして居りましたのであの人もあなたのお名前を知ってしまってそうしてたびたびあなたのところへ郵便配達しているうちにふとこのひとじゃないかと思ったのだそうです。 五六日まえ僕のところへ来てそんなことを言いますから僕もわくわくしてどんな人かと聞きましたらただ宿へ郵便を投げこむだけなのだから顔は見たことがないと言います。 それならこんどは様子をそれとなく内偵してみてくれもし人ちがいだと醜態だからと妹まで一緒になって大騒ぎでした。 妹さんもあるのですか。 ええ私と四つちがうのですから二十一です。 すると君は。 二十五ですね。 私とは六つちがうわけだ。 どこかへおつとめですか。 そこのデパアトです。 デパアトはいまいそがしいでしょう。 景気がいいのだそうですね。 とてもたいへんです。 こないだも一日仕入が早かったばかりに三万円ちかくもうけました。 永いことおつとめなのですか。 中学校を卒業してすぐです。 家がなくなったもので皆に同情されて父の知り合いの人たちのお世話もあってあのデパアトの呉服部にはいることができたのです。 皆さん親切です。 妹も一階につとめているのですよ。 偉いですね。 わがままでだめです。 いいえ君だって偉いさ。 ちっともしょげないで。 やるだけのことをやっているだけです。 ここです。 よすぎる。 たかいんじゃないか。 いいのです。 かまいません。 たかいぞきっとこの家は。 僕もはじめてなんですが。 いいんだ。 かまわない。 ここでなくちゃいけないんだ。 さはいりましょう。 大丈夫かなあ。 はじめっから計画していたんです。 今夜はどこへでもつき合うって約束してくれたんじゃないですか。 よしはいろう。 表二階の八畳がいい。 やあ階段もひろくしたんだね。 なんだはじめてでもなさそうじゃないか。 いいえはじめてなんです。 八畳は暗くてだめかな。 十畳のほうはあいていますか。 ここはちっともかわらんな。 おや床の間が少しちがったかな。 ここはね僕の家だったのです。 いつかいちどは来てみたいと思っていたのですが。 あそうか。 どうりで家のつくりが料理屋らしくないと思った。 あそうか。 この部屋にはね店の品物がたくさん積みこまれて僕たちはその反物で山をこさえたり谷をこさえたりしてそれに登って遊んだものです。 ここはこんなに日当りがいいでしょう。 だもんだから母はちょうどあなたのお坐りになっていらっしゃるその辺に坐ってよく仕立物をしていました。 十年もむかしのことですがこの部屋へ来てみるとやっぱし昔のことがいちいちはっきり思い出されます。 ああむかい側もおんなじだ。 久留島さんだ。 そのおとなりが糸屋さん。 そのまた隣が秤り屋さん。 ちっとも変っていないんだなあ。 や富士が見える。 まっすぐに見える。 ごらんなさい。 昔とおんなじだ。 ねかえろうよ。 いけないよ。 ここでは酒も呑めないよ。 もうわかったからかえりましょう。 わるい計画だったね。 いいえ感傷なんか無いんです。 もうどうせ他人の家です。 でも久しぶりに来て見ると何でもかんでも珍らしく僕はうれしいのです。 お酒呑みますか。 僕はビイルだと少しは呑めるのですけれど。 日本酒はだめか。 好きじゃないんです。 父は酒乱。 私は酒乱じゃないけどかなり好きなほうだ。 それじゃ私はお酒を呑むから君はビイルにし給え。 君そこに呼鈴があるじゃないか。 あそうか。 僕の家だったころにはこんなものなかった。 だけどいいねえ。 乳兄弟っていいものだねえ。 血のつながりというものは少し濃すぎてべとついてかなわないところがあるけれど乳兄弟ってのは乳のつながりだ。 爽やかでいいね。 ああきょうはよかった。 ねさっきも言うように君は私に逢ってさぞやがっかりなさったことでしょうねえ。 いやわかっている。 弁解は聞きたくない。 私が大学の先生くらいになっていたら君はもっと早く私の東京の家を捜し出してそうして君は君の妹さんと二人で私を訪ねて来た筈だ。 いや弁解は聞きたくないね。 ところが私はいまこれときまった家さえ無いどうも自分ながら意気地のない作家だ。 ちっとも有名でない。 私には青木大蔵という名前のほかにもうひとつ小説を書くときにだけ使っているへんな名前がある。 あるけれどもそれは言わない。 言ったってどうせ君たちは知りやしない。 いちどだって聞いたこともないようなへんな名前である。 言うだけ損だ。 けれども君軽蔑しちゃいかんよ。 世の中には私たちみたいな種類の人間もたしかに必要なんだ。 なくてはかなわぬ重要な歯車の一つだ。 私はそれを信じている。 だから苦しくてもこうして頑張って生きている。 死ぬもんか。 自愛。 人間これを忘れてはいかん。 結局たよるものはこの気持ひとつだ。 いまに私だって偉くなるさ。 なんだこんな家の一つや二つ。 立派に買いもどしてみせる。 しょげるなしょげるな。 自愛。 これを忘れてさえいなけれあ大丈夫だ。 しょげちゃいけない。 いいか君のお父さんとそれから君のお母さんとおふたりが力を合せてこの家を建設した。 それから運がわるくまたこの家を手放した。 けれども私がもし君のお父さんお母さんだったらべつにそれを悲しまないね。 子供が二人とも立派に成長してよその人にもうしろ指一本さされず爽快にその日その日を送ってこんなに嬉しいことないじゃないか。 大勝利だ。 ヴィクトリイだ。 なんだいこんな家の一つや二つ。 恋着しちゃいけない。 投げ捨てよ過去の森。 自愛だ。 私がついている。 泣くやつがあるか。 どこでも知っていやがる。 母は御不浄を一ばん綺麗にお掃除していました。 萩野さんはとても似ているというんだけど。 そうだそうだ。 幸吉さんは私とは他人だ。 血のつながりなんか無いんだ。 乳のつながりだけなんだ。 似ていてたまるか。 私みたいな酒呑みはだめだ。 そんなことない。 私たちうれしいのよ。 しっかりやって下さいね。 あんまりお酒のんじゃいけない。 あれはなんだ。 鷺です。 郵便屋さんですよ。 玄関まで。 書留ですか。 いいえ。 ちょっとお目にかかりたいんですって。 やまだおやすみだったのですね。 ゆうべは酔ったんですってね。 なんともありませんか。 これ幸吉さんの妹さんから。 なんですかそれは。 ゆうべあなたがそう言ったそうじゃないですか。 なんにも世話なんか要らない。 部屋に飾る花が一つあればそれでたくさんだって。 そうかなあ。 そんなこと言ったかなあ。 いやどうもありがとう。 幸吉さんと妹さんにもそう言って下さい。 ゆうべはほんとうに失礼しました。 いつもはあんなじゃないのですからこわがらないでどんどん宿へ遊びに来て下さいって。 でも言っていましたよ。 仕事の邪魔になるから宿へ来るなって言われたのでそのうちお仕事がすんでからみんなで御岳へ遊びに行くんだとそう言っていましたよ。 そうか。 そんなばかなこと私が言ったのかねえ。 仕事のほうはどうにでも都合がつくのだから御岳へでもどこへでもきっと一緒に行きますとそう言って下さい。 私はいつでもいいんです。 早いほどいいなあ。 二三日中に行きたいなあ。 どうでもそこはあなたたちの都合のいいようにとそう言って下さい。 私はほんとうにいつでもいいのですからね。 承知しました。 僕も一緒に行くんです。 これからもよろしく。 あ焼けたね。 ええ焼ける家だったのですね。 父も母も仕合せでしたね。 あ裏二階のほうにも火がまわっちゃったらしいな。 全焼ですね。 微笑。 なんだろう。 すぐ裏に公園の動物園があるのよ。 ライオンなんか逃げ出しちゃたいへんね。 ハムレット。 ハムレット。 ハムレット。 新ハムレット。 ハムレット。 新評註ハムレット。 新評註ハムレット。 ハムレット。 ハムレット。 ハムレット。 新ハムレット。 時と亡霊。 皆も疲れたろうね。 御苦労でした。 先王がまことに突然亡くなってその涙も乾かぬうちにわしのような者が位を継ぎまた此の度はガーツルードと新婚の式を行いわしとしても具合の悪い事でしたがすべて此のデンマークの為です。 皆とも充分に相談の上でいろいろ取りきめた事ですから地下の兄先王も皆の私心無き憂国の情にめんじてわしたちを許してくれるだろうと思う。 まことに此の頃のデンマークはノーウエーとも不仲でありいつ戦争が起るかも知れず王位は一日も空けて置く事が出来なかったのです。 王子ハムレットは若冠ゆえ皆のすすめに依ってわしが王位にのぼったのですがわしとても先王ほどの手腕は無し徳望も無ければまたごらんのとおり風采もあがらず血をわけた実の兄弟とも思われぬくらいに不敏の弟なのですから果して此の重責に堪え得るかどうか外国の侮りを受けずにすむかどうか頗る不安に思って居りましたところかねて令徳の誉高いガーツルードどのが一生わしの傍にいて国の為わしの力になってくれる事になりましたのでもはや王城の基礎も確固たりデンマークも安泰と思います。 皆も御苦労でした。 先王が亡くなられてから今日までもう二箇月にもなりますがわしには何もかも夢のようです。 でも皆の聡明な助言に依ってどうやら大過なくここまではやって来ました。 いかにも未熟の者ですから皆も今日以後変らず忠勤の程を見せわしを安心させて下さい。 ああ忘れていた。 レヤチーズがわしに何か願いがあるとか言っていましたね。 なんですか。 はい。 実はフランスへもう一度遊学に行かせていただきたいと思っているのでございますが。 その事でしたらかまいません。 君にも此の二箇月間ずいぶん働いてもらいました。 もうこちらはどうやら一段落ですからゆっくり勉強しておいでなさい。 恐れいります。 君の父にも相談した上の事でしょうね。 ポローニヤスどうですか。 はい。 どうにもうるさく頼みますのでとうとう昨夜私も根負け致しましてそれでは王さまにお願いして見よと申し聞かせた次第でございます。 ヘッヘどうも若いものにはフランスの味が忘れかねるようでございます。 無理もない。 レヤチーズ子供にとっては王の裁可よりも父の許しのほうが大事です。 一家の和合はそのまま王への忠義です。 父の許しがあったならばそれでよい。 からだを損わぬ程度に遊んでおいで。 若い時には遊ぶのにも張り合いがあるからうらやましい。 ハムレットはこのごろ元気が無いようですが君もフランスへ行きたいのですか。 僕ですか。 からかわないで下さい。 僕は地獄へ行くんです。 何をぷんぷんしているのです。 あそうか。 君はウイッタンバーグの大学へまた行きたいと言っていましたね。 でもそれは怺えて下さい。 わしからお願いします。 君はもうすぐ此のデンマークの王位を継がなければならぬ人です。 今は国もめんどうな時ですからわしが仮に王位に即きましたが此の危機が去って人々の心も落ちつけばわしは君に跡を継いでもらってゆっくり休息したいと思って居ります。 それゆえ君はいまからわしの傍にいて少しずつ政治を見習うように心掛けなければいけません。 いやわしを助けてもらいたいのです。 どうか大学へ行くのはあきらめて下さい。 これは父としての願いでもあるのです。 君がいなくなると王妃だって淋しがるでしょう。 君はこのごろ健康を害しているようにも見えます。 レヤチーズ――。 はい。 君はいい父を持って仕合せだね。 ハムレットなんという事をおっしゃるのです。 私にはあなたがふてくされているようにしか思われません。 そんな厭味な気障な態度はおよしなさい。 不満があるなら男らしくはっきりおっしゃって下さい。 私はそんな言いかたはきらいです。 はっきり言いましょうか。 わかっています。 わしは此の機会に君と二人きりでゆっくり話してみたい。 王妃もそんなに怒るものではありません。 若い者には若い者の正当な言いぶんがある筈です。 わしにも反省しなければならぬ事がまだまだあるように思われます。 ハムレット泣かずともよい。 なにそら涙ですよ。 この子は小さい時からつくり泣きが上手だったのです。 あまりいたわらずにうんとお叱りになって下さい。 ガーツルード言葉をつつしみなさい。 ハムレットはあなたひとりの子ではありません。 ハムレットはデンマーク国の王子です。 それだから私も言うのです。 ハムレットだってもう二十三になります。 いつまで甘えているのでしょう。 私は生みの母として此の子を恥ずかしく思います。 ごらん下さい。 きょうは王の初|謁見式だというのにこの子ばかりはわざと不吉な喪服なんかを着て自分では悲壮のつもりで居るのでしょうがそれがどんなに私たちを苦しめる事なのかこの子は思ってもみないのです。 私にはこの子の考えている事くらいなんでもわかります。 この喪服だって私たちへのいやがらせです。 先王の死をもはや忘れたのかという当てつけのつもりなのでしょう。 誰も忘れてやしません。 心の中では誰だって深く悲しんでいるのですがいまはその悲しみに沈んでばかりも居られません。 私たちはデンマークの国を思わなければいけません。 デンマークの民を思わなければいけません。 私たちには悲しむ事さえ自由ではないのです。 自分の身であって自分のものではないのです。 ハムレットにはそれがちっともわかっていないのです。 いやそれは酷だ。 そんな追いつめるような言いかたをしてはいけません。 人を無益に傷つけるだけの事です。 王妃には生みの母という安心があってその愛情を頼みすぎてそんな事を言うのでしょうが若い者にとっては陰の愛情よりもあらわれた言葉のほうが重大なのです。 わしにも覚えがあります。 言葉に拠って自分の全部が決定されるような気がするものです。 王妃もきょうはどうかしていますよ。 ハムレットが喪服を着ていたって少しも差しつかえ無いと思います。 少年の感傷は純粋なものです。 それをわしたちの生活に無理に同化させようとするのは罪悪です。 大事にしてやらなければいけません。 わしたちこそこの少年の純粋を学ばなければいけないのかも知れません。 わかるとは思っていながらいつのまにやらわしたちは大事なものを失っている場合もあるのです。 とにかくわしはハムレットと二人きりでゆっくり話してみたいと思いますからみんなは暫く向うへ行っていて下さい。 そんならお願い致します。 私も少し言いすぎたようですがでもあなたも義理ある仲だと思って此の子に優しくしすぎるようです。 それではいつまで経ってもこの子は立派になりません。 先王がおいでになったとしてもきょうの此の子の態度にはきっとお怒りになり此の子をお打ちになったでしょう。 打ったらいいんだ。 また何をおっしゃる。 もっと素直におなりなさい。 ハムレットここへお坐りなさい。 厭ならそのままでいい。 わしも立って話しましょう。 ハムレット大きくなったね。 もうわしと脊丈が同じくらいだ。 これからもどんどん大人になるでしょう。 でもも少し太らなければいけませんね。 ずいぶん痩せている。 顔色もこのごろよくないようです。 自重して下さいよ。 君の将来の重大な責務を考えて下さい。 きょうはここで二人きりでゆっくり話してみましょう。 わしは前から二人きりになれる機会を待っていたのです。 わしも思っているところを虚心|坦懐に申しますから君も遠慮なさらず率直になんでも言って下さい。 どんなに愛し合っていても口に出してそれと言わなければその愛が互いにわからないでいる事だって世の中にはままあるのです。 人類は言葉の動物という哲学者の意見もわしにはわかるような気がします。 きょうはよく二人で話合ってみましょう。 わしも此の二箇月間はいそがしく君と落ちついて話をする機会もなかった。 全くそのひまが無かったのです。 ゆるして下さい。 君のほうでもまたなんだかわしと顔を合せるのを避けてばかりいましたね。 わしが部屋へはいると君はいつでもぷいと部屋から出て行きます。 わしはその度毎にどんなに淋しかったか。 ハムレット。 顔を挙げなさい。 そうしてわしの問いにはっきりまじめに答えて下さい。 わしは君に聞きたい事がある。 君はわしをきらいなのですか。 わしはいまでは君の父です。 君はわしのような父を軽蔑しているのですか。 憎んでいるのですか。 さはっきりと答えて下さい。 一言でいい。 聞かせて下さい。 Alittlemorethankin,andlessthankind.。 なんだって。 よく聞きとれなかった。 ふざけてはいけません。 わしはまじめに尋ねているのです。 語呂合せのようなしゃれた答えかたはしないで下さい。 人生は芝居ではないのです。 はっきり言っている筈です。 叔父さん。 あなたはいい叔父さんだったけど――。 いやな父だというのですね。 実感はいつわれませんからね。 いや有難う。 よく言ってくれました。 そのようにいつでもはっきり言ってくれるといいのです。 真実の言葉に対してはわしは決して怒りません。 実はわしも君とそっくりな実感を持っているのです。 何も君そんなに顔色を変えてわしを睨む事は無いじゃないか。 君は少し表情が大袈裟ですね。 わかい頃は誰しもそうなんだが君は自分ではずいぶん手ひどい事を他人に言っていながら自分が何か一言でも他人から言われると飛び上って騒ぎたてる。 君が他人から言われて手痛いように他人だって君にずけずけ言われてどんなに手痛いか君はそんな事は思ってもみないのですからね。 そんな決してそんな――ばからしい。 僕はいつでもせっぱつまってくるしまぎれに言ってるのです。 ずけずけなんて言った覚えはありません。 だからそれが君だけでは無いと言うのです。 わしたちだっていつでもせっぱつまって言っているのです。 精一ぱいで生きているのです。 わしたちには何か力の余裕と自信が満ちているように君たちには見えるのかも知れないが同じ事です。 君たちとほとんど同じ事なのです。 一日を息災に暮し得てはほっとして神にお礼を申している有様なのです。 ことにもわしはハムレット王家の血を受けて生れて来た男です。 君もご存じのようにハムレット王家の血の中には優柔不断な弱い気質が流れて居ります。 先王もわしも幼い時から泣き虫でした。 わしたち二人が庭で遊んでいるのを他国の使臣などが見て女の子と間違ったものです。 二人そろって病弱でした。 侍医も二人の完全な成長を疑っていたようでした。 けれども先王はその後の修養に依ってあのように立派な賢王になられました。 宿命を意志でもって変革する事が出来るとわしは今では信じて居ります。 先王がそのよいお手本です。 わしは今懸命に努力しています。 何とかして此のデンマークの為に強い支柱になってやりたいと思っています。 本当に精一ぱいなのです。 けれどもいまわしを一ばん苦しめているものはハムレットご存じですか君です。 君はさっき実感はあらそわれないとか言いましたがわしもそのとおり君を我が子と思えないのです。 もっとはっきり言いましょう。 君は可愛い甥でした。 わしは君を利巧な甥としてしんから愛して来ました。 君だって先王がおいでの頃はこの山羊のおじさんになついていました。 わしの顔が山羊に似ているのを一ばんさきに見つけたのはわしの可愛い甥でした。 叔父さんもよろこんで山羊のおじさんになっていました。 あの頃がなつかしいね。 いまではわしと君は親子です。 そうして心は千里も万里も離れました。 むかしの二人の愛情がそのまま憎悪に変ってしまった。 わしたちが親子になったのが不仕合せのもとでした。 でもこれはこのままにしては置けません。 ハムレットわしには一つお願いがあります。 あざむいて下さい。 せめて臣下の見ている前だけでも君の実感をあざむいて下さい。 わしと仲の良い振りをしていて下さい。 いやな事でしょう。 くるしい事です。 でもその他に方法がありません。 王家の不和は臣下の信頼を失い民の心を暗くしついには外国に侮られます。 さっき王妃も言いましたがわしたちの場合は自分のからだであって自分のものではないのです。 すべて此のデンマークの為に父祖の土の為に自分の感情は捨てなければなりません。 此のデンマークの土も海も民もやがては君の掌に渡されるのです。 わしたちはいま協力しなければいけません。 わしを愛してくれとは申しません。 わしだって君を心の底から我が子と呼んで抱きしめる程の愛情は打ち明けたところどうしても感ぜられない状態なのですから君にだけ無理に愛せよ等とは言えません。 ただ人の見ている前だけでいいのです。 それがお互いのくるしい義務です。 天意だと思います。 これには従わなければいけません。 愛への潔癖よりも義務への忍従のほうが神の悦び賞するところだと信じます。 またはじめは身振りだけの愛の挨拶であっても次第にそこから本当の愛が滲んで湧いて来る事だってあると思います。 わかりました。 それくらいの事は僕にだってわかっています。 僕はめんどうくさいんです。 僕をも少し遊ばせて置いて下さい。 叔父さん僕から一つお願いします。 僕をまたウイッタンバーグの大学へ行かせて下さい。 二人だけの時は叔父と呼んでも一向かまいませんが王妃や臣下のいる前では必ず父と呼ぶことを約束しなければなりません。 こんなつまらぬ事をとがめだてするのはわしはつらくて恥ずかしいのですがそんな些細の形式がデンマーク国の運命にさえ影響します。 わしは此の事をさっきから君にたのんでいるのです。 そうですか。 どうも。 君はどうしてそうなんでしょう。 わしがちょっとでもむきになって何か言うとすぐぷんとしてそんな軽薄な返事をしてわしの言葉をはぐらかしてしまいます。 叔父さんいや王こそ僕のお願いをはぐらかします。 僕はウイッタンバーグへ行きたいんです。 それだけなんです。 本当ですか。 わしはそれを嘘だと思っています。 だから聞えぬ振りをしようと思っていたのです。 大学へまた行きたいというのは君の本心ではありません。 それは口実にすぎません。 君はそんな事を言ってただわしに反抗してみているだけなのです。 わしだって知っています。 若いころの驕慢の翼はただ意味も無くはばたいてみたいものです。 やたらにもがきたいのです。 わしはそれを動物的な本能だと思っています。 その動物的な本能にさまざま理想や正義の理窟を結びつけて呻いているのです。 わしは断言できる。 君はよし先王が生きておいでになってもきっといまごろは先王に反抗している。 そうして先王を軽蔑し憎みわからずやだと陰口をきき先王を手こずらせているでしょう。 そんな年ごろなのです。 君の反抗は肉体的なものです。 精神的なものではありません。 いま君はウイッタンバーグへ行ってもその結果がわしには眼に見えるようです。 君は大学の友人たちから英雄のように迎えられるでしょう。 旧弊な家風に反抗し頑迷冷酷な義父と戦い自由を求めて再び大学へ帰って来た真実の友正義潔白の王子として接吻乾盃の雨を浴びるでしょう。 でもそのような異様の感激はなんであろう。 わしはそれを生理的感傷と呼びたいのです。 犬が芝生に半狂乱でからだをこすりつけている有様とよく似ていると思います。 少し言いすぎました。 わしはその若い感激を全部否定しようとは思いません。 それは神から与えられた一つの時期です。 必ずとおらなければならぬ火の海です。 けれども人は一日も早くそこから這いあがらなければいけません。 当りまえの事です。 充分に狂い焦げつきそうして一刻も早く目ざめる。 それが最上の道です。 わしだって君も知っているように決して聡明な人間ではありませんでした。 いや実に劣った馬鹿でした。 いまでもわしははっきり目ざめているとは言えません。 けれどもわしは君にだけは失敗させたくないと思っています。 君は学友たちのその場かぎりの喝采の本質を調べてみた事がありますか。 あれはふしだらの先輩を得たという安堵です。 お互いに悪徳と冒険を誇り合いやがて薄汚い無能の老いぼれに墜落させ合うばかりです。 わしはわしの愚かな経験から君に言い聞かせているのです。 わしは永いあいだ放埒な大学生々活をして来ました。 そうしていまに残っているものは何でしょう。 何もありません。 ただいやらしい思い出です。 呻くばかりの慚愧です。 惰性の官能です。 わしはその悪習慣をもてあましました。 いまだってなおその処理にくるしんで居ります。 レヤチーズの場合はちがいます。 あれには出世という希望があります。 出世という希望のあるうちは人はデカダンスに落ちいる事はありません。 君にはその希望がありません。 落ちてみたい情熱だけです。 君は既に三箇年間大学の生活をして来ました。 もう充分なのです。 再び昔の学友たちとあの熱狂を繰り返したらこんどは取りかえしのつかぬ事になるかも知れません。 少年の頃の不名誉の傷は皆の大笑いのうちに容易になおりますが二十三歳の一個の男子の失態の傷はなまぐさくなかなか拭き取り難いものです。 自重して下さい。 大学生たちは無責任な強烈な言葉で君をそそのかすだけです。 わしにはよくわかっています。 さっき臣下の前ではわしは他の理由で君の大学行きを止めましたがいやたしかにあの時申した事も重要な理由でしたがそれよりもわしには君のいまの驕慢の翼が心配だったのです。 その翼の情熱の行方が心配だったのです。 さっき臣下の前で申した事も君には心掛けて置いてもらいたいすなわちわしの傍にいて実際の政治を見習うようにしてもらいたいけれどもそんな政治上の思惑の他にわしは君の父としていや愚かな先輩の義務として君の冒険に忠告したかったのです。 わしは君にまことの父としての愛情が実感せられないとも言いましたがけれども人間の義務感はまた別のものです。 わしは君の役に立ちたい。 わしの愚かな経験からやっと得た結論を君に教えて君を守りたいと思っているのです。 君を立派に育てたいと念じているのです。 それを疑ってはいけません。 君はデンマーク国の王子です。 二無き大事な身の上です。 もっと自覚を深めて下さい。 レヤチーズなどと一緒にして考えてはいけません。 レヤチーズは君の一臣下に過ぎません。 フランスへ行くのも将来その身に箔をつけたい為です。 だからあの抜け目の無いポローニヤスだってゆるしたのです。 君にはそんな必要がありません。 どうかウイッタンバーグへ行くのは怺えて下さい。 これはもうお願いではありません。 命令です。 わしには君を立派な王に育て上げる義務があります。 この王城にとどまり間もなく佳い姫を迎える事にしようではないかハムレット。 僕は何もレヤチーズの真似をしようとは思っていません。 なんでもないんです。 僕はただ――。 よしよしわかっています。 昔の学友たちと逢いたくなったのでしょう。 わしにも打ち明けられぬ事が出来たのでしょう。 そんならウイッタンバーグまで行く必要はいよいよありません。 ホレーショーをわしが呼んで置きました。 ホレーショーを。 うれしそうですね。 あれは君の一ばんの親友でしたね。 わしもあれの誠実な性格を高く評価して居ります。 もうウイッタンバーグを出発した筈です。 ありがとう。 それでは握手しましょう。 話合ってみるとなんでもない。 これからだんだん仲良くなるでしょう。 どうもきょうは君にも失礼な事を言いましたが悪く思わないで下さい。 饗宴の合図の大砲が鳴っています。 皆も待ちかねている事でしょう。 一緒にまいりましょう。 あの僕はも少しここでひとりで考えていたいんです。 どうぞおさきに。 わあ退屈した。 くどくどと同じ事ばかり言っていやがる。 このごろ急にもっともらしい顔になって神妙な事を言っているが何を言ったって駄目さ。 自己弁解ばかりじゃないか。 もとをただせば山羊のおじさんさ。 お酒を飲んで酔っぱらってしょっちゅうお父さんに叱られてばかりいたじゃないか。 僕をそそのかしてお城の外の女のところへ遊びに連れていったのもあの山羊のおじさんじゃないか。 あそこの女は叔父さんの事を豚のおばけだと言っていたんだ。 山羊ならまだしも上品な名前だ。 がらでないんだ。 がらでないんだ。 可哀そうなくらいだ。 資格がないのさ。 王さまの資格がないんだ。 山羊の王さまなんて僕には滑稽で仕方が無い。 でも叔父さんは油断がならん。 見抜いていやがった。 僕が本当はウイッタンバーグなんかに行く気が無いという事を知っていやがった。 油断がならん。 蛇の路はへびか。 ああホレーショーに逢いたい。 誰でもいい。 昔の友人に逢いたい。 聞いてもらいたい事があるんだ。 相談したい事があるのだ。 ホレーショーを呼んでくれたとは山羊のおじさん大出来だ。 道楽した者にはまたへんな勘のよさがある。 いったい山羊めどこまで知っているものかな。 ああ僕も堕落した。 堕落しちゃった。 お父さんがなくなってからは僕の生活も滅茶滅茶だ。 お母さんは僕よりも山羊のおじさんのほうに味方してすっかり他人になってしまったし僕は狂ってしまったんだ。 僕は誇りの高い男だ。 僕は自分のこのごろの恥知らずの行為を思えばたまらない。 僕はいまでは誰の悪口も言えないような男になってしまった。 卑劣だ。 誰に逢ってもおどおどする。 ああどうすればいいんだ。 ホレーショー。 父は死に母は奪われおまけにあの山羊のおばけがいやにもったいぶって僕にお説教ばかりする。 いやらしい。 きたならしい。 ああでもそれよりも僕にはもっと苦しい焼ける思いのものがあるのだ。 いや何もかもだ。 みんな苦しい。 いろんな事が此の二箇月間ごちゃまぜになって僕を襲った。 くるしい事がこんなに一緒に次から次と起るものだとは知らなかった。 苦しみが苦しみを生み悲しみが悲しみを生み溜息が溜息をふやす。 自殺。 のがれる法はそれだけだ。 荷作りくらいはおまえがしてくれたっていいじゃないか。 ああいそがしい。 船はもう帆に風をはらんで待っているのだ。 おいその哲学小辞典を持って来ておくれ。 これを忘れちゃ一大事だ。 フランスの貴婦人たちは哲学めいた言葉がお好きなんだ。 おいこのトランクの中に香水をちょっと振り撒いておくれ。 紳士の高尚な心構えだ。 よしこれで荷作りが出来た。 さあ出発だ。 オフィリヤ留守中はお父さんのお世話をよくたのんだぞ。 何をぼんやりしているのさ。 此の頃なんだか眠たそうな顔ばかりしているようだが思春期は眠いものと見えるね。 あたしにも苦しい事があるのよと思う宵にもぐうぐうと寝るという小唄があるけどそっくりお前みたいだ。 あんまり居眠りばかりしてないでたまにはフランスの兄さんに音信をしろよ。 すまいとばし思うて。 なんだいそれあ。 へんな言葉だ。 いやになるね。 だって坪内さまが――。 ああそうか。 坪内さんも東洋一の大学者だが少し言葉に凝り過ぎる。 すまいとばし思うて。 とはひどいなあ。 媚びてるよ。 いやいや坪内さんのせいだけじゃない。 お前自身がこのごろ少しいやらしくなっているのだ。 気をつけなさい。 兄さんにはなんでもわかる。 口紅をそんなに赤く塗ったりしてげびてるじゃないか。 不潔だ。 なんだいいやになまめきやがって。 ごめんなさい。 ちぇっ。 すぐ泣きやがる。 兄さんにはなんでも全部わかっているのだぞ。 いままでわざと知らぬ振りしていたのだがそれでも遠まわしにそれとなくお前の反省をうながして来た筈なのにお前はてんで気にもとめない。 のぼせあがっているんだから仕様が無い。 僕はなるべくならばこんなくだらない事には口を出したくなかったんだ。 けがらわしい。 でもきょうはどうにも僕の留守の間の事が心配になってつい言い出してしまったのだがこうなればいっそ全部お前に言って置いたほうがよいかも知れない。 いいかあの人の事はあきらめろ。 馬鹿な事だ。 わかり切った事だ。 あの人がどんな身分の方かそれを考えたらわかる事だ。 出来ない相談だよ。 断々乎として僕は反対だ。 いまはっきり言って置く。 お前のたった一人の兄としてまたなくなられたお母さんの身代りとして僕は断然不承知だ。 お父さんはのんきだからまだ御存じないようだがもしお父さんに知られたらどんな事になるか。 お父さんは責任上いまの重職を辞さなければならぬ。 僕の前途もまっくらやみだ。 お前はてて無し子を抱えて乞食にでもなるさ。 いいかあの人にこう言ってくれレヤチーズの妹をなぐさみものにしたならばどいつこいつの容赦は無いどのようなお身分の方であっても生かして置けぬとレヤチーズが鬼神に誓って言っていましたとそう伝えてくれ。 兄さん。 そんなひどい事をおっしゃってはいけません。 あの方は――。 馬鹿野郎。 まだそんな寝言を言っていやがる。 薄汚い。 それではもっとはっきり言ってあげる。 僕の反対するのは何もあの人のお身分のせいばかりではないのだ。 僕はあの人をきらいなのだ。 大きらいだ。 あの人はニヒリストだ。 道楽者だ。 僕は小さい時からあの人の遊び相手を勤めて来たからよく知っている。 あの人はとても利巧だった。 ませていた。 なんにでも直ぐに上達した。 弓剣術乗馬それに詩やら劇やら僕には不思議でならぬくらいによく出来た。 けれども少しも熱が無い。 一とおり上達するとすぐにやめてしまうのだ。 あきっぽいのだ。 僕にはあんな性格の人はいやだ。 他人の心の裏を覗くのが素早くて自分ひとり心得顔してにやにやしている。 いやな人だよ。 僕たちの懸命の努力を笑っているのだ。 あんなのを軽薄才士というのだ。 いやに様子ぶっていやがる。 その癖王さまや王妃さまに何か言われると大勢の臣下の前もはばからずめそめそ泣き出す。 女の腐ったみたいな奴だ。 オフィリヤお前は何も知らない。 けれども僕は知っている。 あの人は全然たのみにならぬ人だ。 男は此のデンマークに森の木の葉の数よりも多く居るのだ。 兄さんはその中でも一ばん強い一ばん優しい一ばん誠実なそして誰よりも綺麗な顔の青年をお前の為に見つけてあげる。 ね兄さんを信じておくれ。 お前は今まで兄さんの言う事なら何でも信じてくれたじゃないか。 そうして兄さんはお前を一度もだました事は無かったね。 そうだろう。 よしわかったね。 お願いだからあの人の事はもうきょう限りあきらめろ。 こんどあの人が何かお前にうるさく言ったらレヤチーズが生かして置けぬと怒っていましたと知らせてやれ。 あの人は意気地が無いから蒼くなって震え上るに相違ない。 わかったね。 もし万一まあそんな事もあるまいけれどお前が僕の留守中に何か恥知らずの無分別でも起したなら兄さんはお前たち二人を本当にそのままでは置かぬぞ。 怒ったら誰よりもこわい兄さんだという事をお前は知っているね。 ではさあ笑って別れよう。 兄さんは本当はお前を信頼しているのだよ。 さようなら。 兄さんもお元気で。 ありがとう。 留守中はよろしく頼むよ。 なんだか心配だな。 そうだ一つ神さまの前で兄さんに誓言してくれ。 どうも気がかりだ。 兄さんまだお疑いになるの。 いやそんなわけじゃないけど。 じゃまあいいや。 大丈夫だね。 安心していいね。 僕はこんな問題にはあまりしつこく口出ししたくないんだ。 兄としてみっともない事だからね。 なんだまだこんなところにいたのか。 さっきいとま乞いに来たからもうとっくに出発したものとばかり思っていた。 さあさあ出発。 おっと待て待て。 わかれるに当ってもう一度遊学の心得を申し聞かせよう。 ああそれはすでに三度いやたしかに四回うかがいましたけど。 何度だっていい。 十度くりかえしても不足でない。 いいかまず第一に学校の成績を気にかけるな。 学友が五十人あったらその中で四十番くらいの成績が最もよろしい。 間違っても一番になろうなどと思うな。 ポローニヤスの子供ならそんなに頭のいい筈がない。 自分の力の限度を知りあきらめて謙譲に学ぶ事。 これが第一。 つぎには落第せぬ事。 カンニングしてもかまわないから落第だけはせぬ事。 落第は一生お前の傷になります。 としとってお前が然るべき重職に就いた時人はお前の昔のカンニングは忘れても落第の事は忘れず何かと目まぜ袖引きうしろ指さして笑います。 学校はもともと落第させないように出来ているものです。 それを落第するのは必ず学生のほうから無理に好んで志願する結果なのです。 感傷だね。 教師に対する反抗だね。 見栄だね。 くだらない正義感だね。 かえって落第を名誉のように思って両親を泣かせている学生もあるがあれはとしとって出世しかけた時に後悔します。 学生の頃はカンニングは最大の不名誉落第こそは英雄の仕業と信じているものだが実社会に出るとそれは逆だった事に気がつきます。 カンニングは不名誉に非ず落第こそは敗北の基と心掛ける事。 なあに学校を出て後でその頃の学友と思い出話をしてごらん。 たいていカンニングしているものだよ。 そうしてそれをお互いに告白しても肩を叩き合って大笑いしてそれっきりです。 後々の傷にはなりません。 けれども落第はちがいますよ。 それを告白しても人はそんなに無邪気に笑って聞きのがしてはくれません。 お前はどこやら軽蔑されてしまいます。 出世のさまたげ卑屈の基。 人生は学生々活にだけあると思うととんだ間違い。 よくよく気をつけて抜け目なくやっておくれ。 ポローニヤスの子じゃないか。 つぎに学友の選びかたに就いて。 これもまた重大です。 一学年上の学生を必ずひとり友人にして置かなければならぬ。 試験の要領を聞くためだ。 試験官の採点の癖を教えてもらえる。 さらにもうひとり同学年の秀才と必ず親交を結ばなければならぬ。 ノオトを貸してもらいまた試験の時にはお前の座席のすぐ隣りに坐ってもらうためであります。 学友はその二人だけで充分です。 不要の交友は不要の出費。 さて次は金銭に就いて。 これはとりわけ注意を要する。 金銭の貸借一切まかりならん。 借りる事はもとより不埒貸す事もならん。 餓死するとも借金はするな。 世の中は人を餓死させないように出来ています。 うき世の人は娘を嫁にやった事は忘れても一両を他人に貸してやった事は忘れません。 一両を十両にして返されてもやはり自分の貸してやった一両の事だけは忘れません。 これまた永く出世のさまたげ。 大望を抱く男は一厘の借金もせぬものです。 貸す事もならん。 お前から借りた男は必ずお前の悪口を言うだろう。 自分で借りて肩身が狭くお前をけむったいものだから必ずどこかでお前の陰口をたたきます。 すなわちやがて不和の基。 お互いの友情に傷つくような事があっては残念ですからわざとお貸し致しませんとはっきり言って相手の申し込みを断われるくらいの男でなければ将来の大成はまずむずかしいね。 よいか。 金銭の取りあつかいには気をつけるのですよ。 借りても駄目。 貸しても駄目。 つぎに飲酒。 適度に行え。 けれども必ずひとりで飲むな。 ひとりの飲酒は妄想の発端気鬱の拍車。 飲めども飲めども気の晴れるものではない。 一週一回学友と飲め。 それもこちらから誘うのはまずい。 向うから誘われ渋々応じるように心掛けるのが利巧者だ。 意気込んで応じるのは馬鹿のあわて者です。 飲酒の作法はむずかしい。 泥酔してへどを吐くは禁物。 すべての人に侮られる。 大声でわめいて誰かれの差別なく喧嘩口論を吹っ掛けるのも人に敬遠されるばかりで何一ついい事が無い。 なるべくなら末席に坐り周囲の議論を熱心に拝聴しいちいち深く首肯している姿こそ最も望ましいのだがつい酒を過した時にはそれもむずかしくなる。 その時には突然立ち上ってのども破れよとばかり大学の歌を歌え。 歌い終ったらにこにこ笑ってまた酒を飲むべし。 相手からあまりしつこく口論を吹っかけられた場合には屹っとなって相手の顔を見つめやがて静かに君も淋しい男だねとこう言え。 いかな論客でもぐにゃぐにゃになる。 けれどもなるべくならば笑って柳に風と受け流すが上乗。 宴が甚だ乱れかけて来たならば躊躇せずそっと立って宿へ帰るという癖をつけなさい。 何かいい事があるかといつまでも宴席に愚図愚図とどまっているような決断の乏しい男では立身出世の望みが全くないね。 帰る時にはたしかな学友を選んでその者に充分の会費を手渡す事を忘れるな。 三両の会費であったら五両。 五両の会費であったら十両置いてさっと引き上げるのがいい男です。 人を傷つけずまたお前も傷つかずそうしてお前の評判は自然と高くなるだろう。 ああそれから飲酒に於いて最も注意を要する事がもう一つあります。 それは酒の席に於いてはいかなる約束もせぬ事。 これはよくよく気をつけぬととんだ事になる。 飲酒は感激を呼び気宇も高大になる。 いきおい自分の力の限度以上の事をうかと引き受け酔いが醒めて蒼くなって後悔してももう及ばぬ。 これは破滅の第一歩。 酔って約束をしてはならぬ。 つぎには女。 これもまたやむを得ない。 ただあの自惚れだけは警戒しなさい。 お前はポローニヤスの子だ。 父と同様に女に惚れられる柄でない。 お前は小さい時から大鼾きをかく子であった事を忘れてはいけない。 あのような大鼾きでは女房以外の女なら必ず閉口します。 女の誘惑に逢った時お前はきっとあの大鼾きを思い出す事にしなさい。 いいか。 フランスできらわれてもデンマークにはお前でなければいけないという綺麗な娘もいるんだからそこはお父さんにまかせて向うではあまり自惚れないほうがよい。 若い時の女遊びは女を買うのではなく自分の男を見せびらかしに行くんだから自惚れこそは最大の敵と思っていなさい。 さて次は――。 賭博です。 五両だけ損して笑って帰る事です。 儲けてはいけませんのです。 その次は――。 服装の事です。 いいシャツを着て目立たぬ上衣を着るのです。 その次は――。 宿のおばさんに手土産を忘れぬ事です。 あまり親しくしてもいけないのです。 その次は――。 日記をつける事と固パンを買って置く事と鼻毛を時々はさむ事とああもう船が出ます。 お父さんお達者で。 むこうに着いたらゆっくりお便りを差し上げます。 オフィリヤさようならさっき兄さんの言った事を忘れちゃいかんよ。 あもう行ってしまった。 なんて素早い奴だ。 でもまああれくらい言って置いたらいいだろう。 送金の限度に就いて言うのを忘れたがあ散策の必要も言い忘れたがまあまた後で手紙で言ってやる事にしよう。 おやオフィリヤ顔色がよくないよ。 兄さんが何かお前に無理な事を言ったんだね。 わかっていますよ。 お前にお小使い銭をねだったのでしょう。 お父さんから貰うだけでは不足だからこれからも毎月こっそり何程かずつ送るようにお前をおどかして命令したんだ。 いやそれに違いない。 わるい奴さ。 いいえお父さんちがいます。 兄さんはそんなつまらないお方じゃないわ。 大丈夫よ。 いまのようなこまかい御注意などなさらなくても兄さんはみんな心得ていらっしゃるのに。 それあそうさ。 当り前の事だ。 二十三にもなってあれくらいの事を心得ていないでどうする。 同じ年齢でもハムレットさまなどに較べると三倍も大人だ。 レヤチーズは此の親爺よりも偉くなる子です。 でもあんなにやかましくこまごま言ってやるのはわしの深く考えた上での計略なんだ。 あの子だってうるさいとは思っていながら自分に何かとやかましく言ってくれる者が在るという思いはまたあれにとって生きて行く張り合いになるのです。 あれの行末をずいぶん心配している者がここに一人いるという事をあれに知ってもらったらわしはそれで満足なのだ。 いろいろうるさい注意も与えてやりましたがなにみな出鱈目ですよ。 どうだっていい事ばかりです。 レヤチーズにはレヤチーズの生活流儀があるでしょう。 時代もかわっているでしょう。 レヤチーズは自由にやって行っていいのです。 ただ一つわしが心配して気をもんでいるのだという事実だけを知ってもらえたらいいのです。 それを覚えている限りあれは決して堕落しません。 わしはなくなったお母さんと二人分気をもんでいるのだ。 それをあの子に知ってもらいたかったのです。 あの子はそれさえ覚えていたらそれを覚えている限りはああわしは同じ事ばかり言っている。 老いの繰り言という奴だ。 わしもいつの間にかとしをとったよ。 オフィリヤここへお坐りさあお父さんと並んで坐ろう。 これでよし。 まあもう少しお父さんの愚痴も聞いておくれ。 お前はこのごろだんだんお母さんに似て来たね。 わしはなんだかお前のお母さんと話をしているような気がするよ。 お母さんも草葉の蔭で喜んでいるだろう。 レヤチーズはあのように丈夫に育ったしお前も優しくおとなしくてわしの身のまわりの世話をよくしてくれる。 お前の事はお城の外の人たちまで褒めちぎっているそうだ。 ポローニヤスのような親からよくもあんな器量よしが生れたものだとけしからぬがまあいいそんな噂さえわしは聞いている。 本当にお父さんはいまは仕合せな筈だ。 何ひとつ不足は無い筈なんだがオフィリヤ聞いておくれお父さんはこのごろなんだかふっととても心細くなる時があるのだ。 お父さんはもう死ぬんじゃないか。 いやおどろく事は無い。 何も無理に死のうと言うのではない。 お父さんはいつも百歳いや百九歳くらいまでなんとかして生きていたいと大真面目に考えていたものです。 レヤチーズの立派に出世した姿を見て大いに褒めてこれでわしも全く安心したと断言してそれから死にたいと思っていました。 慾の深い話さ。 でもお父さんは本気にそれを念じていました。 わしにはいまわし自身の楽しみというものは何もない。 ただお前たちのために生きていなければならぬと思っていたのだ。 母のない子というものはどんなに可愛いものかレヤチーズだってお前だって知るまい。 わしは子供のためにはどんなつらい事だってします。 お父さんはねこんな事まで考えていた。 つまり人生には最後の褒め役が一人いなければならん。 たとえばレヤチーズの場合レヤチーズもこれから人に褒められたいばかりにさまざま努力するだろうがそんな時に世の中の人全部があれを軽薄に褒めてもわしだけは仲々に褒めてやるまい。 早く褒められると早く満足してしまう。 わしだけはいつまでも気むずかしい顔をしていよう。 かえって侮辱をしてやろう。 しかし最後には必ず褒めます。 謂わば最高の褒め役になろう。 大いに褒める。 天に聞えるほどの大声で褒める。 その時あれはいままで努力して来てよかったと思うだろう。 生きている事を神さまに感謝するだろう。 わしはその最後に褒める大声になりたくてどうしても百九歳いや百八歳でもよいそれまで生きているように心掛けて来たものだがこのごろそれがひどくばからしくなって来た。 褒めたくても怺えて小言をいうのは怒りたいところを我慢するのと同じくらいにつらいものです。 そんなつらい役はお父さんでなければ引き受ける人はあるまい。 親馬鹿というんだね。 親の慾だ。 お父さんはレヤチーズをうんともっと立派にさせたくてそんなつらい役をも引き受けようと思っていたんだがなんだかこのごろ淋しくなった。 いやお父さんはまだまだこれからもお前たちにはこごとを言いますよ。 さっきもレヤチーズにはあんなに口うるさくこごとを言いました。 けれども言った後でお父さんはふっと心細くなるのです。 つまりね教育というものはそんなお父さんの考えているような心の駈引きだけのものじゃないという事がぼんやりわかって来たのです。 子供は親のそんな駈引きをいつの間にか見破ってしまいます。 どうだいわしにしてはたいへんな進歩だろう。 レヤチーズはしっかりしているけれどもやっぱり男だけにまだ単純なところがあります。 お父さんの巧妙な駈引きに乗せられてむきになって努力するところがあります。 それはあれのいいところだ。 それを知っているからお父さんもレヤチーズには時々駈引きをしてしかも成功しています。 さっきお父さんが大声でさまざまの注意を与えてやりましたがレヤチーズはうるさいと思っていながらやっぱりお父さんの気をもんでいる事を知って心底に生き甲斐を感じて出発したのです。 けれどもオフィリヤねえオフィリヤもっとこっちへお寄り。 お父さんがさっきから何を言いたがっているのかわかりますか。 あたしを叱っていらっしゃるのです。 それだ。 すぐそれだ。 お父さんはねそれだからお前がこわいのです。 このごろめっきりこわくなった。 お前にはわしの駈引きが通じない。 すぐ見破ってしまう。 以前はそうでもなかったがねえ。 オフィリヤ。 ――そうです。 さっきからお父さんはお前の事ばかり言っていたのです。 本当にお前の事ばかり心配して言っていたのです。 叱ってやしない。 叱ってやしないけれどなぜお父さんにもっとはっきり言ってくれないのですか。 お父さんにはそれが淋しいのだ。 レヤチーズの事なんかわしはそんなに心配していません。 あれは大声で叱ってやるといつでもしゃんとなる子です。 けれどもオフィリヤわしはこのごろお前を叱る事が出来ない。 強い口調でものを言いつける事も出来ない。 お父さんがふっと心細くなるのもそのためです。 百九歳まで生きるのがいやになって来たのもそのためです。 教育は心の駈引きでないという事がわかって来たのもそのためです。 最高の褒め役なんてものがばからしくなったのもそのためです。 もう死ぬんじゃないかという気がして来たのもオフィリヤ何もかもお前のためです。 オフィリヤ泣く事は無い。 さあお父さんにお前の苦しいと思っている事をなんでも言って聞かせなさい。 さっきからお父さんはお前が言い出すのを今か今かと待っていたのだ。 だからあんな意味もない愚痴めいた事を矢鱈に述べてお前のほうからも気軽く言い出せるようにしてやっていたのだがどうもお父さんはやっぱり駈引きが多くていけないね。 ごめんよ。 お父さんはずるくていけないね。 さあもうお父さんも計略はしないからお前もお父さんを信頼して思い切って言ってみなさい。 これ立ってどこへ行くのだ。 逃げなくてもよい。 さお坐り。 それではお父さんから言ってあげます。 オフィリヤお前はさっき兄さんからひどく怒られていたようだね。 送金の事なんかじゃ無かったんでしょう。 お父さんひどい。 もうたくさんです。 よしわかった。 オフィリヤ。 お前はばかだねえ。 レヤチーズの怒るのも無理はない。 わしはけさ或る下役からいやな忠告を受けた。 寝耳に水の忠告であったがお前のこのごろの打ち沈んでいる様子と思い合せてもしやと思った。 わしはそうでない事を信じたかったがとにかくお前の心を傷つけない程度にそれとなく優しく尋ねてみようと思った。 わしはそのとおりに精一ぱいに優しくいたわって尋ねたつもりだ。 けれどもお前は頑固にだまっていておまけにここから逃げて行こうとさえした。 けれどももうわかりました。 オフィリヤお前たちの恋愛は卑怯だねえ。 少しも無邪気なところが無い。 濁っている。 なぜわしたちにそんなに隠さなければならなかったのか。 相手のお方の態度も見上げたものさ。 てんとして喪服なぞをお召しになってご自身の不義は棚にあげかえって王や王妃にいや味をおっしゃる。 いまの若い者の恋愛とはそんなものかねえ。 好きなら好きでよい。 身分のちがいもあるがそれもいまは昔ほどやかましくはない筈だ。 なぜ無邪気に打ち明けてくれなかったのです。 クローヂヤスさまだってもののわからぬおかたではない。 わしだって若い時には間違いもやらかした。 わるいようにはしなかったのだ。 でももうおそい。 こんなに評判が立ってからだと具合が悪い。 馬鹿だ。 お前たちは馬鹿だ。 だめですよ。 いくら泣いてもだめですよ。 お父さんも呆れました。 それで。 レヤチーズは全部を知っているのかね。 いいえ。 兄さんはそんな事なら生かして置けないと言っていました。 そうだろう。 レヤチーズの言いそうな事だ。 まあレヤチーズには黙っているさ。 此の上あいつが飛び出して来たらいよいよ事だ。 いやな話だねえ。 女の子はこれだからいやだ。 ふんオフィリヤ。 お前はクイーンの冠を取りそこねた。 しばらくだったな。 よく来てくれたね。 どうだいウイッタンバーグは。 どんな具合だい。 みな相変らずかね。 寒いですねえこちらは。 磯の香がしますね。 海からまっすぐに風が吹きつけて来るのだからかなわない。 こちらは毎晩こんなに寒いのですか。 いや今夜はこれでも暖いほうだよ。 一時は寒かったがねえ。 これからは暖くなる一方だ。 もうデンマークもやがて春さ。 ところでどうだねみな元気かね。 王子さま。 僕たちの事より御自身はいかがです。 へんな言いかたをするね。 何か僕に就いて悪い噂でも立っているのかね。 ウイッタンバーグは口がうるさいからなあ。 ホレーショー。 君はへんだよ。 何だかよそよそしいね。 いいえ決してへんな事はありません。 本当に王子さまあんたは大丈夫なんですか。 ああ寒い。 王子さまか。 そんな筈じゃ無かったがねえ。 おい以前のようにハムレットと呼んでくれ。 すっかり他人になってしまったね。 君はいったい何しにエルシノアへ来たんだ。 ごめんごめん。 相変らずのハムレットさまですね。 すぐ怒る。 案外にお元気だ。 大丈夫のようですね。 いやな言いかたをするなあ。 何か悪い噂を聞いて来たのに違いない。 なんだい。 どんな噂だい言ってごらん。 叔父さんが君に要らない事を言ってやったんだろう。 きっとそうだ。 ちっとも知りゃしない癖に要らない事ばかり言いやがる。 いいえ王さまのお手紙は情のこもったものでした。 王子が退屈しているから話相手になりにやって来てくれという勿体ない程ごていねいな文面でした。 ありがたいお手紙でした。 嘘をつけ。 何か他の事もその手紙に書いてあったに違いない。 君だけは嘘をつかない男だと思っていたがねえ。 ハムレットさま。 ホレーショーは昔ながらのあなたの親友です。 いい加減の事は申しません。 それでは全部僕がウイッタンバーグで耳にした事をそのまま申し上げましょう。 どうもここは寒いですねえ。 部屋へ帰りましょう。 どうして僕をこんなところへ引っぱり出して来たのです。 顔を見るなりものも言わずこんな寒い真暗なところへ連れて来てやあしばらくだねとおっしゃるのでは僕だって疑ってみたくなりますよ。 何を疑うのだ。 そうか。 だいたいわかったような気がする。 でもそれは驚いたなあ。 おわかりになりましたか。 とにかくお部屋へ帰りましょう。 僕はジャケツを着て来なかったので。 いやここで話してくれ。 僕もそれに就いて君に大いに聞いてもらいたい事があるんだ。 山ほどあるんだ。 他の人に聞かれちゃまずいんだ。 ここなら大丈夫だ。 寒いだろうけれど我慢してくれ。 どうも人間は秘密を持つようになると壁に耳が本当にあるような気がして来る。 僕もこのごろは少し疑い深くなったよ。 お察し致します。 このたびはお嘆きも深かった事と存じます。 故王には僕も両三度お目にかかった事がございましたけれど――。 それどころじゃないんだ。 嘆きがめらめら燃え出したよ。 まあとにかく君がウイッタンバーグで聞いて来たという事をまず話してみないか。 寒かったらほら僕の外套をあげるよ。 文明国にあんまり永く留学していると皮膚も上品になるようだね。 おそれいります。 ジャケツを着て来なかったものでどうもいけません。 では外套を遠慮なく拝借いたします。 はあもう大丈夫です。 だいぶ暖かになりました。 ありがとう存じます。 早く話してみないかね。 君はデンマークへ寒がりに来たみたいだ。 まったく寒いですね。 どうも失礼いたしました。 ハムレットさま。 では申し上げます。 おやそこの暗闇に人が立っているような気がしますけど。 何を言うのだ。 あれは柳じゃないか。 その下に幽かに白く光っているのは小川だ。 川幅は狭いけれどちょっと深い。 ついこないだ迄は凍っていたんだがもう溶けて勢いよく流れている。 僕よりももっと臆病だね。 どうも文明国に永く留学していると――。 感覚も上品になるようであります。 じゃ誰も聞いていませんね。 どんな大事を申し上げてもかまいませんね。 いやにもったいをつけやがる。 僕がはじめからここは絶対に大丈夫だって言ってるじゃないか。 それだから君をここへ引っぱって来たんだ。 それでは申し上げます。 おどろいてはいけません。 ハムレットさま。 大学の連中はあなたの御乱心を噂して居ります。 乱心。 それあまた滅茶だ。 僕は艶聞か何かだと思っていた。 ばかばかしい。 見たらわかるじゃないか。 どこからそんな噂が出たのだろう。 ははあわかった。 叔父さんの宣伝だな。 またそんな事をおっしゃる。 王さまがなんでそんなつまらぬ宣伝をなさいますものか。 絶対にちがいます。 ばかにはっきり否定するね。 山羊の叔父さんはあれでなかなかロマンチストだからな。 僕と親子になったらかえって心は千里万里も離れて愛情は憎悪に変ったなんてひとりでひがんで悲壮がっているような人なんだからこんどはまたぐっと趣向を変えて先王が死に嗣子のハムレットはその悲しみに堪え得ず気鬱発狂。 この一家の不幸を脊負い敢然立ったる新王こそはクローヂヤス。 芝居にしたらいいところだ。 叔父さんの宣伝さ。 叔父さんは自分を何とかして引き立て大いに人気を取りたいものだから僕を此の頃ばか扱いにしているんだ。 いろいろ苦心してもったいをつけているよ。 見ていて可哀そうなくらいだ。 でも僕を気違いだなんて言いふらすのはどうかと思うなあ。 ひどい。 叔父さんは悪いひとだ。 もう一度申し上げますがこれは王さまの宣伝ではありません。 ハムレットさま。 お気の毒に。 あなたは何もご存じないのですね。 大学に伝わって来ている噂はそんななまやさしいものではありません。 ああ僕はもう言えない。 なんだい。 いやに深刻ぶった口調じゃないか。 君は叔父さんから何か言いつけられたね。 僕の反省をうながすようにとか何とか。 そうなんだろう。 もう一度申し上げます。 王さまのお手紙にはただ話相手になってやってくれとだけ書かれてございました。 王さまはよもや僕があなたのところにこんな恐ろしい噂をもたらそう等とは夢にも思召されなかった事と存じます。 そうかなあ。 いやそうかも知れん。 もし叔父さんが大学にそんな噂を撒きちらしたのなら君を僕のところへ呼び寄せてくれるなんて危い事はしない筈だからね。 君がやって来たらみんなばれちゃうんだからね。 叔父さんでないとすると誰の仕業だろうね。 わからなくなって来た。 とにかく僕が発狂したというんだからひどいや。 もっとも今の僕にはいっそ気でも違ったら仕合せだろうと思うくらいに苦しい事もあるんだけどね。 これはまああとで話そう。 ホレーショー。 噂というのはそれだけかい。 なんだかつづきがあるようじゃないか。 言ってごらん。 僕は平気だよ。 平気だ。 どうしても言わなければいけないでしょうか。 よせよ。 自分から言い出して置きながらいまになってそんな卑怯な逃げかたをするなんて。 ウイッタンバーグじゃそんな呻くようなきざな台詞が流行っているのかね。 そんなら申し上げます。 そんなにホレーショーの誠実を侮辱なさるんだったら申し上げます。 本当に平気でお聞き流し願います。 つまらないとるにも足らぬ噂です。 臣ホレーショーはもとよりそんな不埒な噂は信じていません。 どうだっていいよそんな事は。 僕は不機嫌になった。 君もそんな固くるしい言いかたをするという事をはじめて知ったよ。 申し上げます。 その噂はこのごろエルシノア王城に幽霊が出るという――。 それあまたひどい。 ホレーショー本気かね。 僕は笑っちゃったよ。 ばかばかしい。 ウイッタンバーグの大学も落ちたねえ。 あの独自の科学精神をどこへやった。 もっともこのごろ大学では劇の研究が盛んなそうだから中でも頭の悪い馬鹿な研究生がそんな下手なドラマを案出したのかも知れないね。 それにしても幽霊とはなんて貧弱な想像力だ。 それを面白がってわやわや騒ぎ立てているとは大学もこのごろは質が落ちたものさ。 幽霊にハムレットの発狂。 三文芝居にでもありそうな外題だ。 叔父さんは僕に大学はつまらないからよせと言ってくれたが本当だ。 叔父さんのほうがよっぽど頭がいいや。 そんなくだらない連中と交際して僕まで一緒になって幽霊騒ぎをするようになっては叔父さんもこんどは心底から閉口だろう。 も少し気のきいた噂を立てないものかね。 僕は信じていないのです。 けれども母校の悪口はおっしゃらないで下さい。 僕は何だか不愉快です。 しっけい。 君は別だよ。 叔父さんも君の事だけはほめていたよ。 誠実な男だと言っていた。 わざわざ僕がウイッタンバーグまで行かずともホレーショーひとりをこちらへ呼び寄せたならばそれでいいと言っていた。 僕は本当は大学へなど行きたくなかったんだけどでも君にだけは逢いたかった。 忠誠をお誓い致します。 なお言葉を返すようですがただいまの奇怪の噂は決して我がウイッタンバーグ大学から出たものではありません。 それだけは母校の名誉のために申し上げて置きたいと思います。 その噂はこのエルシノアの城下より起り次第にデンマーク一国にひろがりとうとう外国の大学にいる者どもの耳にまではいって来たものであります。 いかにも無礼な言語道断の噂なのでこのごろはホレーショーも気が鬱してなりません。 ハムレットさまはきょうまで少しもご存じなかったのですか。 知らんよそんな馬鹿げた事は。 それにしてもずいぶん広くひろがってしまったものらしいねえ。 あんまりひろがると馬鹿らしいと笑っても居られなくなるからね。 叔父さんやポローニヤスたちは知っているのかしら。 いったいあの人たちはどこに耳を持っているんだろう。 聞えても聞えぬふりをしているのかな。 腹黒いからなああの人たちは。 ホレーショーいったいそれはどんな幽霊なんだい。 少し気になって来た。 その前にはっきりお伺いして置きたい事があります。 かまいませんか。 ホレーショー僕は君をこわくなって来たよ。 早く言ってくれ。 なんでもいいから早く言ってしまってくれ。 あんまりそんなに勿体ぶると僕は君と絶交したくなりそうだ。 申し上げます。 申し上げてしまったらなんでも無い事なのかも知れません。 きっとまたあなたがひどくお笑いになってそれだけですむ事なのでしょう。 何だか僕にもそんな明るい気がして来ました。 それでも念のために一つお伺いして置きますがハムレットさまあなたは勿論現王のお人がらを信じていらっしゃいますね。 意外の質問だね。 そいつはちょっと難問だ。 こまるね。 なんと言ったらいいのかなあ。 むずかしいんだ。 いいじゃないかそんな事は。 どうだっていいじゃないか。 いいえいけません。 この際それをはっきり伺って置かないと僕は何も申し上げる事が出来ません。 手きびしいねえ。 君は変ったねえ。 ばかに頑固になった。 もとはこんなじゃ無かったがねえ。 まあいいや。 御返事しましょう。 なんだって今更そんな事を僕に聞くんだね。 叔父さんはだらしないところもあるけどでもそんなに悪いひとじゃないんだ。 でも人がらを信じるかと聞かれると僕もちょっと困るんだ。 何か叔父さんに就いて悪い噂でもあるのかね。 それあいろいろ人は言うだろう。 なんにしてもこんどは少しまずかったからね。 でもあれはもちろん叔父さんひとりできめた訳じゃ無いんだ。 そんな事は出来るもんじゃない。 ポローニヤスをはじめ群臣の評定に依って取りきめられた事なんだ。 僕だって今すぐ位に即けるほどの男じゃない。 いまデンマークはむずかしい時らしいからね。 ノーウエーともいつ戦争が起るかわかったものじゃない。 僕にはまだ自信が無いんだ。 叔父さんが位に即いてくれて僕はかえって気楽になった。 本当だよ。 僕はもう暫く君たちと自由に冗談を言い合って遊んでいたいよ。 なんでもないんだ。 もともと叔父と甥の仲じゃないか。 一ばん近い肉親だ。 それあ僕は叔父さんには何かと我がままを言うよ。 いやがらせを言ってやる事もある。 軽蔑してやる事もある。 わざとすねてろくに返事もしてやらない時だってずいぶんある。 でもそれは叔父と甥の間の事だ。 僕は甘えているのかも知れない。 でもそれくらいの事は叔父さんだってわかってくれていると思うんだ。 僕はやっぱり叔父さんをたよりにしているところもあるんだからね。 いい叔父さんだよ。 気が弱いんだ。 政治の手腕だってたいした事は無いだろうしそれに何といったってもとをただせば山羊のおじさんなんだからねがっかりしちゃうよ。 いろいろ努力しているようだけどもともとがらでないんだからね。 気の毒なんだ。 お父さんと呼べって言うんだけど僕には出来ない。 お母さんもまたまずい事をしたものさ。 ハムレット王家の基礎を固めるためにはそれが一ばんいいと皆が言うので母もその気になったらしいがどんなものかねえ。 あの人たちはもうとしをとっているしまあ茶飲友達でも作るような気持で結婚したんだろうが僕にはやっぱり何だかてれくさいな。 でも僕はそんな事はあまり深く考えないようにしているんだ。 仕様がないじゃないか。 人の子としてあれこれ親の事を下劣に詮索するのは許すべからざる悪徳だ。 そんな下等の子は人間の仲間入り出来ない。 そうじゃないかね。 一時はたまらなく淋しかったけれど僕は今では考えないようにしている。 僕ひとりの愛憎の念に拠って世の中が動いているものでもないんだしねまああの人たちの事はあの人たちに任せるより他は無いよ。 どうだね。 答弁はこれくらいで許してくれよ。 どうもいろいろ複雑なんだ。 だけど叔父さんは悪いひとじゃない。 それだけはたしかだ。 小さい策士かも知れないけれど決して大きい悪党じゃない。 何が出来るもんか。 ありがとう。 ハムレットさま。 それを伺って僕は全く安心しました。 どうかこれからも王さまを変らず信じてあげて下さい。 僕もいまの王さまを好きなのです。 文化人でいらっしゃる。 情の厚いお方だと思う。 ハムレットさまのいまの御意見は僕に百倍の勇気を与えて下さいました。 僕からお礼申します。 ハムレットさまはやっぱり昔のままに明朗ですねえ。 純真の判断には曇りが無い。 いいなあ僕は嬉しくなっちゃった。 おだてちゃいけない。 急に御機嫌がよくなったじゃないか。 勝手な奴さ。 ホレーショー君もやっぱり昔のままのおっちょこちょいだよ。 それで。 噂ってのは何さ。 僕が乱心して幽霊が出てそれから何が出たんだ。 鼠でも出たか。 鼠どころかいや実に愚劣だ。 言語道断だ。 けしからぬ。 デンマークの恥だ。 ハムレットさまお話しましょう。 いやどうにも無礼千万奇怪至極尾籠低級。 もういいそんな下手な形容詞ばかり並べられても閉口だ。 君もウイッタンバーグの劇研究会に入会したのかね。 まずそんなところです。 ちょっと憂国の詩人という役を演じてみたかったのです。 僕は本当はもう安心しちゃったのです。 さっきハムレットさまからあんな明快な判断を承って心に遊びの余裕が出ました。 ハムレットさま笑っちゃいけませんよ実にばからしい噂が立っているのです。 あなたはきっとお笑いになるでしょう。 でもこれはデンマークの国中にひろがり外国の大学にいる僕たちの耳にまではいって来ているんですからただ笑ってすます訳にもいかないと思うんです。 大いに取りしまりの必要があります。 笑っちゃいけませんよ。 どうも僕も申し上げるのが馬鹿馬鹿しくなって来ました。 先王の幽霊が毎晩あらわれてかたきをとっておくれって頼むんだそうですよハムレットさまあなたに。 僕にかい。 へんだなあ。 まったく。 なっちゃいないんです。 その上ばからしいまだつづきがあるんです。 その幽霊の曰くです我輩はクローヂヤスに殺されたクローヂヤスはわが妃に恋慕し――。 そいつあひどい。 恋慕はひどい。 お母さんは総入歯だぜ。 だから笑っちゃいけませんと言ったじゃないですか。 まあお聞きなさい。 つづきがあるんです。 妃を横取り王位も共に得んとして我輩の昼寝の折に油断を見すまし忍び寄りわが耳に注ぎ入れたる大毒薬というわけなんですがね念がいってるでしょう。 やよハムレット汝孝行の心あらば此のうらみゆめゆめ忍ぶ事なかれと。 よせ。 たとえ幽霊にもせよ父の声色をやたらに真似るのは止し給え。 死者の事は厳粛にそっとして置いてやってくれ。 少し冗談が過ぎたようだね。 ごめんなさい。 うっかり調子に乗りました。 決して故王の御遺徳を忘却したわけではありません。 あまり馬鹿らしい話なのでついふざけ過ぎてしまいました。 ごめんなさい。 心ならずもハムレットさまの御愁傷の筋に触れてしまいました。 どうもホレーショーはおっちょこちょいでいけません。 いやなんでもないんだ。 僕こそ大声で怒鳴ったりなんかして失礼した。 わがままなんだよ。 気にかけないでくれ。 それからその幽霊はどうなるんだね。 話してくれよ。 奇想天外じゃないか。 はいその幽霊は毎晩のようにハムレットさまの枕もとに立ってそう申しますのでハムレットさまは恐怖やら疑心やら苦悶やらでとうとう御乱心あそばされたという根も葉も無い話でございます。 あり得る事だ。 え。 あり得る事だろうよ。 ホレーショー僕は何だか気持が悪くなった。 ひどい噂を立てやがる。 やっぱり申し上げないほうがよかったんじゃないでしょうか。 いや聞かせてもらって大いによかった。 汝孝行の心あらばか。 ははんホレーショーその噂は本当だよ。 僕はお人好しだったよ。 何をおっしゃる。 つむじを曲げるとはその事です。 はしたない民の噂に過ぎません。 どこに根拠があるのです。 君にはわからん。 僕はくやしいのです。 わからんだろうね。 根も葉も無い事で侮辱をうけるのとはっきりした根拠があって噂を立てられるのとどっちがくやしいものか考えてごらん。 僕は必ずその根拠を見つける。 ハムレット王家の者お父さんも叔父さんもお母さんも僕もまるっきり根拠の無い事でそんなに民に嘲弄されているのは僕として我慢が出来ん。 何か根拠があるのだろうよ。 そんなにまことしやかに言い伝えられている程だから或いは本当にあり得る事かも知れないじゃないか。 何か根拠があったならかえって僕も気が楽だ。 根拠も何も無い不当の侮辱には僕は堪えられない。 ハムレット王家は民に嘲弄せられたのだ。 叔父さんも可哀そうに。 せっかく一生懸命努力しているところなのにそんな噂を立てられちゃ台無しだ。 ひど過ぎる。 不愉快だ。 僕が直接叔父さんに尋ねてやる。 何か根拠を突きとめてやらなくちゃ気がすまん。 ホレーショー手伝ってくれるね。 そんなら責任は僕にあります。 ああ。 僕に任せて下さいませんか。 ハムレットさま失礼ですがあなたは少しすねています。 僕にはあなたが悪くすねて居られるのだとしか思われない。 あなたはさっきあれほど濁りなくお笑いになっていらっしゃったじゃありませんか。 もとより根も葉も無い不埒な噂なのです。 王さまにぶしつけにお尋ねになるなんてとんでもない事です。 いたずらに王さまをお苦しめなさるだけです。 僕はあなたの先刻の明快な御判断をあくまでも信じたい。 あなたはもうお忘れになったのですか。 王さまを信頼なさっているとおっしゃったじゃありませんか。 あれは出鱈目だったのですか。 程度があるよ。 侮辱にも程度があるよ。 僕の父が幽霊になってそんな不潔な無智な事をおっしゃるようなお方だと思っているのか。 わあ何もかも馬鹿げている。 そんならいっそ僕も本当に乱心してやろうか。 よろこぶだろう。 ホレーショー僕はすねた。 すねてやるとも。 わからん君にはわからん。 あとでゆっくり御相談申したいと思います。 臣ホレーショー一代の失態でした。 こんなに興奮なさるとは思いも寄りませんでした。 ハムレットさま相変らずですね。 ああ相変らずだよ。 相変らずのお天気屋だよ。 おっちょこちょいは僕のほうでもらってもいいぜ。 僕は修養が足りんよ。 こんなに馬鹿にされてまでにこにこ笑って居れるほどの大人物じゃないんだ。 ホレーショーその外套を返しておくれ。 こんどは僕のほうで寒くなった。 お返し致します。 ハムレットさまいずれ明日ゆっくりお話いたしたいと存じますが。 望むところだ。 ホレーショー怒ったのかい。 ああ浪の音が聞えるね。 ホレーショー僕は今夜もっと大事の秘密も君に聞いてもらいたいと思っていたんだけども少しつき合ってくれないか。 今の噂に就いてももっと話合ってみたいしそれからも一つ僕には苦しい秘密があるんだよ。 いずれ明日お互いに落ちついてからにしていただきたく存じます。 今夜はおゆるし下さい。 僕もゆっくり考えてみたいと思っています。 僕は何せジャケツを着て居りませんので。 勝手にし給え。 君は人の興奮の純粋性を信じないから駄目だ。 じゃまあゆっくりお休み。 ホレーショー僕は不仕合せな子だね。 存じて居ります。 ホレーショーはいつでもあなたの味方です。 私が王にお願いしてあなたをウイッタンバーグからお呼びするように致しました。 ハムレットにはゆうべもう逢いましたでしょうね。 どうでしたか。 まるでだめだったでしょう。 どうして急にあんなになったのでしょう。 言う事は少しも取りとめがなくすぐぷんと怒るかと思えば矢鱈に笑ったりそうかと思えば大勢の臣下のいる前でしくしく泣いて見せたりまたあらぬ事を口走って王にあなた食ってかかったりするのです。 あの子ひとりの為に私はどんなにつらい思いをするかわかりません。 以前も気の弱いどこかいじけたところのある子でしたがでもあれ程ではありませんでした。 気がむくととても奇抜なお道化を発明して私たちを笑わせてくれたものでした。 たいへん無邪気なところもありました。 なくなった父のとしとってからの子ですから父もずいぶん可愛がって私も大事な一人きりの子ですしなんでもあの子の好きなようにさせて育てましたがそれがあの子の為によくなかったようでした。 どうも両親のとしとってからの子は劣るようです。 いつまでも両親を頼りにして甘えていけません。 あの子はなくなった父を好きでして大学へはいるようになっても休暇でお城へ帰るともう朝から晩まで父のお居間にいりびたりでした。 子供の頃には尚ひどくてちょっとでも父が見えなくなるともう不機嫌でどこへいらっしゃったかとみんなに尋ね廻って閉口でした。 その父があんな不慮の心臓病とやらで突然おなくなりになったものですからあの子はもうどうしていいかわからなくなったのでしょう。 先王がおなくなりになってから急に目立っていけなくなりました。 それに私がまあみっともない事ですが此のデンマークの為とあってクローヂヤスどのと名目ばかりですが夫婦になったという事もあの子にとっては意外な事件でよっぽど気持を暗くさせたのではないかと思います。 いろいろ考えてみるとあの子が可哀そうにもなります。 無理もないとも思います。 でもあの子だってデンマーク国の王子ハムレットです。 やがては位を継がなければならぬ人です。 父や母が一時に身辺から去ったといっていつまでも泣いたりすねたりしていると第一臣下に見くびられます。 いまは大事なところだと思います。 私がクローヂヤスどのと結婚したとは言っても別段よそのお城へ行くわけでなし今までどおりにやっぱりハムレットの実母として一緒に暮して行く筈ですしまた現在の王ももともと他人ではなしハムレットとあんなに仲のよかった叔父上なのですからハムレットさえこの頃のひがんだ気持をちょっと持ち直してくれたらすべてが円満におだやかに行くものと私は思います。 クローヂヤスどのも昔のような軽薄の行状をつつしみいまは先王に劣らぬ立派な業績を挙げようとして一生懸命なのです。 ハムレットの事もずいぶん心配して居られます。 義理ある仲ですからいろいろ遠慮もある事でしょう。 私がその二人の仲にはいっていつもはらはらしています。 ハムレットはてんでもう叔父上をばかにしているのですもの。 あれではいけません。 かりにも父となり子となったからにはハムレットもも少し礼儀を弁えなければいけません。 もう昔の山羊のおじさんではないのですものね。 デンマークは今あぶない時なのだそうです。 ノーウエーではもう国境に兵隊を繰り出しているという噂さえあるじゃありませんか。 本当にそんな大事な時になんという事でしょう。 ハムレットさえ機嫌よく私たちになついてくれたらこのエルシノア王城の人心も治り王も意を強うして外国との交渉に専心出来ますのに。 ばかな子ですよ。 デンマーク国の王子だという自覚が足りないと思います。 二十三にもなって女の子のようにいつまでも先王や母の後を追っています。 ホレーショーあなたはことしいくつになります。 はいおかげさまで二十二歳になりました。 そうでしょう。 ハムレットはあなたより一つ兄の筈だと思っていました。 まるで逆です。 あなたのほうが五つも年上のように見えます。 おからだも御丈夫のようだし学校の成績もいいそうですし何よりも態度が落ちついていらっしゃる。 お父さんもお母さんも変りなくお達者でいますか。 ありがとう存じます。 相かわらず田舎の城でのんきに暮して居ります。 御仁政のおかげでございます。 私はあなたのお母さんをうらやましく思います。 こんな立派なお子さんがおありだとどんなに楽しみな事でしょう。 それに較べてハムレットはもう私はあんな具合だと末の見込みも無いような気がします。 ささいな悲しみにも動転して泣くやらふてくされるやら――。 お言葉に逆らうようですがハムレットさまはいや王子さまはいやハムレットさまは決してそのように劣ったお方ではございません。 僕の尊敬している唯一のお方です。 僕こそつまらぬおっちょこちょいなのです。 僕はいつでもハムレットさまに叱られてばかりいるのです。 僕はハムレットさまを大好きです。 だから僕はハムレットさまの前に立つといつもしどろもどろになります。 ハムレットさまはとても頭がいいから僕の言おうとしている事は言わないさきから御承知になっています。 やりきれないくらいです。 それは何もあの子の美点ではありません。 あなたが親友をかばう気持もわかりますが何もあの子の欠点を特に挙げて褒めるには及びません。 あの子は小さい時から人の顔いろを読みとるのが素早かったのです。 それはかえって性質のいじけている証拠なのです。 立派な男子には不必要な事です。 お言葉に逆らうようですがそんなにいちいちハムレットさまを悪くおっしゃるのはいけないと思います。 僕の母は僕より先に寝室へひっこんだ事は一度もありませんでした。 僕が寝るまでは起きていました。 さきに寝よと僕が言ってもお前は私ひとりの子ではないいまに王さまの立派なお家来になるべき人です。 私はお前を王さまからお預り申しているのです失礼な事があってはならぬと言って決してさきに寝ませんでした。 僕のような取り柄のない子供でもそんなにまともに敬愛されるとそれではしっかりやろうと思うようになります。 王妃さまはあんまりハムレットさまを悪く言いすぎます。 それではハムレットさまの立つ瀬が無くなります。 王妃さまだってさきほどおっしゃったではございませんか。 ハムレットさまはデンマーク国の王子だとおっしゃったのをお忘れでございますか。 ハムレットさまはデンマーク国の王子です。 王妃さまおひとりのお子ではございません。 また僕たちがこれから身命を献げてお守り申すべき御主人です。 ハムレットさまをもっと大事にしてあげて下さい。 おやおやあなたから逆に頼まれるとは思い掛けない事でした。 ハムレットへの一途の忠誠の気持はわかりますがやはり子供ですね。 そんな思い上ったものの言いかたはこれからは許しませんよ。 実の親子の真情は他のものにはわからぬ場合が多いものです。 決してとやかく口出ししてはならぬものです。 あなたのお母さんも本当に賢母のようで私と流儀が違うようですがけれどもそれは私でさえとやかく言ってはならぬ事です。 親子の事は親子に任せるのがいいのです。 臣下の場合と王家の場合とではずいぶん事情もちがいますから一時の熱狂から無礼の指図はこれからは許しませんよ。 時にハムレットはあなたに何か申しましたか。 はい別に何も――。 急にそんなに固くならなくてもいいのです。 さっきの元気はどうしました。 ハムレットに似ていると言われますよ。 男の子なら男らしく叱られても悪びれずはっきり応答するものです。 ハムレットはまた私たちの悪口を言っていたでしょう。 そうですね。 お言葉に逆らういやお言葉にお言葉に――お逆らい――。 何を言っているのです。 男はあんまりびくびくするのもみっともないものです。 無闇な指図の他はお逆らいでも何でも許してあげますから男らしくもっとはっきり言いなさい。 ハムレットは私たちの事を何と言っていました。 お気の毒だと御同情申して居られました。 御同情。 お気の毒。 へんですね。 あなたはまたかばっているのですね。 ハムレットからいろいろ口どめされたのでしょう。 いいえお言葉に逆らうようですがハムレットさまは口どめなどとそんな卑怯な事をなさるお方ではありません。 ハムレットさまはその人に面とむかって言えない事は陰でも決して申しません。 言いたい事があると必ず面と向って申します。 大学時代もそうだったしいまだってそうです。 だからハムレットさまはいつもそんばかりしています。 あなたはハムレットの事になるとすぐそんなに口をとがらせて大声になりますがよっぽど気が合っているものと見える。 ハムレットは身分を忘れもの惜しみという事も知らない質だから目下の者には人気があるようですね。 王妃さま。 何をか言わむです。 僕はもうお答え致しません。 あなたの事を言ったのではありません。 あなたはハムレットの親友じゃありませんか。 ハムレットだけでなく私だってあなたを頼りにしています。 こうしてお話を伺っているうちにいろいろ私にもわかって来る事があるのです。 そんなにすぐ怒るところなど本当にハムレットそっくりです。 いまの若い人たちは少しずつどこか似ていますね。 そんなに蒼い顔をなさらずもっと打ち解けて私になんでも話して聞かせて下さい。 ハムレットが他人の陰口を言わない子だという事もあなたから伺ってはじめて知りました。 もしそれが本当なら私だってうれしく思います。 あの子にも案外いいところがあったのかも知れません。 だから僕がさっき――。 もうよい。 ぶんを越えた指図はゆるしません。 あなたたちは興奮し易くていけません。 ハムレットはまた何だって私たちを気の毒だの何だのと殊勝な事を言っているんでしょう。 ふだんのあの子らしくも無いじゃありませんか。 本当かしら。 王妃さま。 僕でさえ王妃さまをお気の毒に思います。 またそんな事を言う。 としよりをからかうのはあなたたちの悪い癖です。 私がどうして気の毒なのです。 さはっきり言ってみて下さい。 私はそんな思わせぶりの言いかたは大きらいなのです。 申し上げます。 王妃さまはハムレットさまのお心を何もご存じないからです。 ハムレットさまはゆうべホレーショーにこう言いました。 僕がこのように若冠ゆえ叔父上にも母上にも御迷惑をおかけする事が多くてお気の毒だとしみじみ申して居りました。 叔父上が位に即いて下さって僕はどんなに助かるかわからないとも申して居りました。 ハムレットさまは現王の愛情を信じていらっしゃるのです。 或いはわがままを申し或いはいやがらせをおっしゃる事がありましてもそれは叔父上と甥の間の愛情に安心して居られるからであります。 一ばん近い肉親じゃないかなんでもないんだ僕は甘えているのかも知れないがでも叔父上だってわかって下さってもいいものを愛情が憎悪に変ったなどと叔父上はおひとりでひがんでおいでになるのだから可笑しいと申して居られたくらいです。 僕は叔父上を本当は好きなんだとも申していました。 それを伺ってホレーショーは泣くほど嬉しく有難く思いました。 デンマーク万歳を心の中で叫びました。 ハムレットさまは立派な王子です。 みだりに人を疑いません。 御判断は麦畑を吹く春の風のように温く爽やかであります。 一点の凝滞もありません。 王妃さまの事はもちろん生みの御母上として絶対の信頼と誇りとを以てホレーショーに語って下さいます。 この度の御結婚に就いても人の子としてとやかくそれを下劣に批判申し上げるのは最大の悪徳人間の仲間いりが出来ないと申して居ります。 誰が。 誰が人間の仲間いりが出来ないのです。 はっきりもう一度言ってみて下さい。 はっきり申し上げている筈でございます。 王妃の御結婚を人の子としてとやかく卑しく想像するような下等な奴は死んだほうがいいという意味であります。 ハムレットさまの御気質は高潔です。 明快であります。 山中の湖水のように澄んで居ります。 ホレーショーはゆうべはハムレットさまから数々の尊い御教訓を得たのであります。 ハムレットさまは僕たち学友一同の手本であります。 たいへんですね。 ハムレットをそんなに褒めていただいては私まで顔が赤くなります。 あなたの尊敬している子はあの子ではなくてどこかよそのハムレットという名前の立派な子なのでしょう。 私にはあの子がそんな男らしい口をきける子だとはどうしても思えません。 あなたはどうしてそんなに言い繕うのですか。 生みの母ほど子の性質をいいえ子の弱点を知っているものはありません。 それはそのまま母の弱点でもあるからです。 私だって欠点の無い人間じゃないのです。 私の人間としての到らなさは可哀そうにあの子にも伝わっているのです。 私はあの子の事に就いてはあの子の右足の小指の黒い片端爪まで知り抜いているのです。 あなたが私をうまく言いくるめようたってそれは出来ません。 もっと打ち明けた話を聞かせて下さい。 あなたは何か隠して居られる。 ハムレットがいまのあなたのおっしゃったようにものわかりのいい素直な子だったら私も心配はありません。 けれども私には信じられないのです。 あなたが私にまるっきり嘘をついていると思いません。 あなたは嘘の不得手な純真なお子です。 またあの子にもいまあなたのおっしゃったようなあっさりした一面がたしかにある事も私はとうから存じて居ります。 ゆうべはあなたにそのいい一面も見せたのでしょう。 けれどもあなたは他に何か隠して居られる。 あの子の此の頃の様子を見たってすぐにわかる事ですがあの子の本心は決していまのあなたのお言葉どおりに曇りなく割り切れているようでないのです。 ただ肉親という事実に安心し甘えて駄々をこねているのだとはどうしても私には思われません。 ホレーショーどうですか。 本当のところを知らせて下さい。 母としての愛ゆえに疑い深くなるのです。 あなたが懸命にハムレットを弁護して下さるのは私も内心は嬉しく思っているのです。 なんで嬉しくない事がありましょう。 ハムレットはいいお友達を持って仕合せです。 でも私の心配はもっと深いところにあるのです。 あの子が何か苦しい事でもあるならば率直に此の母に打ち明けてくれたらいいと私ひとりははらはらしているのにハムレットは言を左右にしてごまかしてばかりいるのです。 ハムレットの今の難儀に母も一緒に飛び込んで誰にも知られず解決したいと念じているのです。 わかりますか。 母はおろかなものです。 さっきからあなたに意地の悪いような事ばかり申しましたが決してハムレットを憎くて言っているのではないのです。 こんな事はあんまり当り前すぎて言うのも恥ずかしいのですが私が此の世で一ばん愛しているのはあの子です。 やっぱりハムレットです。 愛しすぎているほどです。 あの子がひとりで悶えているさまを私は見て居られないのです。 お願いです。 ホレーショー私の力になって下さい。 ハムレットはどんな事でくるしんでいるのですか。 あなたはご存じない筈がありません。 王妃さま。 僕は存じていないのです。 まだそんな――。 いいえ残念ながら僕は本当に知らないのです。 ゆうべ実は僕大失態を致しました。 たしかにハムレットさまには王妃さまのおっしゃるように特別な内心の苦悩がおありのようでした。 それを僕にたいへん聞かせたい御様子でありましたが僕はジャケツを着て居りませんでしたので非常に寒く落ちついて承る事が出来ませんでした。 僕は馬鹿であります。 なんのお役にも立ちません。 お役に立たないばかりかゆうべはかえって罪をさえ犯しました。 王妃さまとんでもない事になってしまいました。 僕はウイッタンバーグからわざわざ放火をしにやって来たようなものでした。 ゆうべは僕はベッドの中で唸りました。 少しも眠られませんでした。 責任はすべて僕にあるのです。 此の始末はなんとしても僕が必ず致します。 きょうはこれからハムレットさまとゆっくり話合うつもりであります。 何をおっしゃる事やら。 私にはちっともわかりません。 あなたたちのおっしゃる話はまるで雲からレエスが降って来るようなわけのわからない事ばかりで何が何やらさっぱり見当もつきません。 それは一体どんな意味なのです。 何かハムレットと言い争いでもしたのですか。 それならば私が仲裁をしてあげてもいいのです。 わけもない哲学の議論でもはじめたのでしょう。 そんなに心配する事はありません。 王妃さま。 僕たちは子供ではありません。 そんな単純な事ではないのです。 僕は平和な御家庭に火を放けました。 僕はユダです。 ユダより劣った男です。 僕は愛している人たち全部を裏切ってしまいました。 急に泣き出したりして立派な男の子がみっともない。 どうしたらいいのです。 あなたたちはいつでもそんなユダが火を放けたのなんのとお芝居のような大袈裟なきざな事を言い合ってそうして泣いたり笑ったりして遊んでいるのですか。 けっこうな遊戯です。 たのもしい事です。 ホレーショーおさがりなさい。 きょうは許してあげますがこれからは気をつけて下さい。 ここにいたのか。 ずいぶん捜しました。 おおホレーショーも。 ちょうどよい。 けさ挨拶に来てくれた時にはわしはいそがしくてろくに話も出来ませんでしたがいろいろ君に相談をしたい事もあったのです。 元気が無いじゃないか。 どうかしたのですか。 ホレーショーはもうおさがり。 ユダが火を放けたのなんのと言って大の男が泣いて見せるのですもの。 なんの役にも立ちやしません。 ユダが火を放けた。 初耳です。 何かわけがあるのでしょう。 王妃はすぐ怒るからいけません。 ホレーショーはまじめな人物です。 あとでゆっくり話してみましょう。 失礼いたしました。 実に不覚でありました。 王妃さまから子の母として御真情を承りつい胸が一ぱいになってあらぬ事まで口走りました。 お許し願いたく存じます。 見苦しい姿をお目にかけました。 ホレーショーお待ちなさい。 退出せずともよい。 ここにいなさい。 君にも聞かせて置きたい事があります。 もっとこっちへ来なさい。 大きい声では言えない事です。 ガーツルードわしは驚いたよ。 わかったのです。 ハムレットのいらいらしているわけがやっとわかりました。 そう。 やはり私たちの事で。 いいえ責任はすべて僕にあるのです。 僕は必ずや――。 二人とも何を言っているのです。 まあ落ちつきましょう。 わしもここへ坐ります。 ホレーショーおかけなさい。 君にも相談に乗ってもらいたいのです。 わしはいまポローニヤスから聞いて驚いたのです。 まったく思いも寄らぬ事でした。 ポローニヤスはわしに辞表を提出しました。 わしはとにかく一応はお預りして置く事にしましたが王妃おどろいてはいけませんよ。 落ちついて聞いて下さい。 困った事です。 オフィリヤが――。 オフィリヤが。 そうですか。 一度私も疑ってみた事がありました。 まあ立たずにガーツルードお坐りなさい。 坐って落ちついてゆっくり考えてみて下さい。 ホレーショーお聞きのとおり面目次第も無い事です。 そうでしたか。 やっぱり張本人がいたのですね。 オフィリヤといえばポローニヤスどのの娘さんですね。 あんな美しい顔をしていながらこの平和なハムレット王家に対して根も葉も無い不埒の中傷を捏造しデンマーク一国はおろかウイッタンバーグの大学まで噂を撒きちらすとは油断のならぬものですね。 で原因は何でしょう。 やはりかなわぬ恋の恨みとかまたは――。 ホレーショーあなたはやはりおさがり下さい。 何もわかってやしません。 夢のような事ばかり言っています。 オフィリヤは妊娠したというのです。 王妃。 つつしみなさい。 わしはまだそこまでは言っていません。 男として言いにくい事でした。 はっきり言うのは残酷です。 女は女のからだには敏感です。 オフィリヤの此の頃の不快の様子を見れば誰だって一度は疑ってみます。 ばからしい。 ホレーショー眼が醒めましたか。 夢のようです。 無理もない。 わしだって夢のようです。 でもこれはこのまま溜息ついて見ているわけに行きません。 それでホレーショー君に一つお願いがあります。 君はハムレットの親友の筈ですね。 これまで何でも互いに打ち明けて語り合っていた仲でしたね。 はいきのうまではそのつもりで居りましたがいまはもう自信がなくなりました。 そんなにしょげて見せる必要はありません。 落ちついて考えてみるとそんなに意外な大きい事件でもありません。 この二箇月間故王のお葬いやらわしが位を継いだお祝いやらまた婚儀やらで城中はごったがえしの大騒ぎでした。 その混乱の中にハムレットひとりは故王になくなられた悲しみに堪え得ず優しい慰めの言葉を或る人に求めたのです。 オフィリヤです。 悲しみと恋が倒錯したのだと思います。 ハムレットだっていまはオフィリヤにどんな気持を抱いているかそれはわかりません。 おそらく今は少し冷くなりかけているのではないかと思う。 それだったら簡単です。 オフィリヤがしばらく田舎へ引き籠ったらそれで万事が解決します。 城中にはすでに噂もひろまっているようでポローニヤスもその事をいたく恐縮していましたがどんなひどい噂だって六箇月|経ったら忘れられます。 オフィリヤの事はポローニヤスが巧みに処理してくれるでしょうしわしとしても出来るだけの事はしてあげるつもりでいます。 それはわしたちに任せて置いていいのです。 オフィリヤの生涯が台無しになるようなまずい事は決してしません。 そこは安心するように。 とにかく君からハムレットによく話してみてくれませんか。 ハムレットの心の底のいつわりの無いところもよく聞き訊してみて下さい。 決して悪いようにはしないつもりです。 ホレーショーいやな役ですねえ。 私だったら断ります。 ハムレットがし出かした事ですものハムレットに責任を負ってもらって一切あの子ひとりにやらせてみたらいいのに。 王はハムレットに御理解がありすぎるようですね。 王のお若い頃お遊びなされた時のお気持といまの男の子の気持とはまた違うところもございますからねえ。 なに男の気持というものは昔も今も変りはありません。 ハムレットはいまに此のわしに心から頭をさげるようになるでしょう。 ホレーショーどう思います。 僕は僕はハムレットさまに聞いてみたい事があります。 おおそれがよい。 よくしんそこのいつわらぬところを聞き訊しわしたちの意向もおだやかに伝えてやって下さい。 君を見込んでお願いします。 ハムレットはイギリスから姫を迎える事になっているのですから。 私はオフィリヤに聞いてみたい事があります。 ハムレットさま。 ああびっくりした。 なんだポローニヤスじゃないか。 そんな薄暗いところに立って何をなさっているのです。 あなたをお待ち申していました。 ハムレットさま。 なんです。 気味の悪い。 放して下さい。 僕はいまホレーショーを捜しているのです。 ホレーショーがどこにいるか知りませんか。 他所話はおよし下さい。 ハムレットさま。 わしはけさ辞表を提出しました。 辞表を。 なぜです。 何か問題が起ったのですか。 軽率ですね。 あなたはいまのエルシノア王城に無くてはかなわぬ人です。 何をおっしゃる。 あなたのその無心なお顔にポローニヤスはいま迄だまされて来ました。 わしは城中の残念な噂をやっときのう耳にしました。 噂を。 なあんだその事か。 でもあれは重大です。 僕だってあなたをだましていたわけではないのです。 あんないやな噂を聞かされてそれでも知らぬ振りしてとぼけている事などとても僕には出来ません。 本当に僕も知らなかったのです。 実はゆうべ或る人からはじめて聞かされおどろいたのです。 けれどもあなたが今までご存じなかったとは意外です。 日頃のあなたらしくも無いじゃありませんか。 ちょっと迂濶でしたね。 本当にご存じなかったのですか。 そんな事は無いでしょう。 もし本当にご存じなかったとしたらそれは引責辞職の問題も起るでしょうけどでもあなたほどの人がご存じなかったという筈は無い。 ハムレットさま失礼ながら正気でいらっしゃいますか。 なんですって。 ばかにしないで下さい。 見ればわかるじゃないですか。 まさかあなたまであの噂を信じていらっしゃるわけじゃないでしょうね。 嘘の天才。 よくもそんな白々しい口がきけるものだ。 ハムレットさまそんな浅墓な韜晦はやめて下さい。 若い者なら若い者らしくもっと素直におっしゃったらいかがです。 とても隠し切れるものではありません。 わしはきのう直接当人から聞いてしまいました。 なんですいったいなんの事を言っているのです。 ポローニヤス言葉が過ぎやしませんか。 僕はあなたの主人だとか何とかそんな事は考えていませんがあなたの言葉はたとい親しい友人同志の間であっても笑っては済まされん。 僕は御推量のとおりだらしのない弱虫の道楽者です。 何一つあなた達のお手伝いが出来ません。 けれども僕だってデンマーク国の為にはいつでも命を捨てるつもりなのだ。 ハムレット王家の将来に就いても心をくだいている筈だ。 ポローニヤス言葉が過ぎます。 何をそんなにこわい顔をして怒っているのです。 失敬ですよ。 見上げたものです。 涙も出ません。 これがわしの二十年間手塩にかけてお育て申したお子さまか。 ハムレットさまポローニヤスは夢のようです。 困りますね。 ポローニヤスもおとしをとられたようですね。 往年の智慧者も僕の乱心などを信じるようじゃおしまいだ。 乱心。 そうですあなたはたしかに気が狂って居られる。 むかしのハムレットさまはなんぼなんでもこれほどじゃなかった。 寄ってたかって僕を本物の気違いにしようとしている。 それではポローニヤスあなた迄があの噂を本当に全部信じているのですね。 信じるも何も。 いまさら何をおっしゃる。 もういい加減にそんな卑怯な言いかたはおよしなさい。 卑怯だと。 何が卑怯だ。 僕はどうして卑怯なのだ。 あなたこそ失敬至極じゃないか。 僕にはあなたにおわびしなければならぬ事もあるのだしこれまでずいぶんあなたには遠慮して来た。 いまだって殴りつけてもやりたい気持を何度も抑えてあなたと話しているのです。 するとあなたはいよいよ僕を見くびって聞き捨てならぬ悪口雑言を並べたてる。 僕ももう容赦しません。 ポローニヤス僕ははっきり言います。 あなたは不忠の臣だ。 叔父上の悪事の噂を信じ母上を嘲笑し僕を本物の気違いにしようとしている。 ハムレット王家のおそるべき裏切者だ。 辞表を提出するまでも無い。 即刻姿を消してもらいたい。 なるほどいろいろの手があるものだ。 そういう出方をなさろうとは智慧者のポローニヤスにも考え及ばぬ事でした。 ポローニヤスもお言葉のようにとしをとったものと見えます。 なるほどいやな噂がもう一つあった。 此の際にそのほうだけを騒ぎ立てご自分の不仕鱈な噂のほうは二の次にしようとなさる。 ご自分の悪事を言われたくないばかりにやたらに他人の噂を大事件のように言いふらし困ったことさ等と言って思案|投首なるほど聡明な御態度です。 醜聞の風向をちょいと変える。 クローヂヤスさまこそいい迷惑だ。 あ痛い。 ハムレットさまひどい何をなさる。 殴りましたね。 おう痛い。 気違いにあっちゃかなわない。 もう一方の頬を殴ってやろうか。 あなたの頬はひどく油切っているから殴り甲斐があります。 僕はあなたとこれ以上話をしたくない。 お待ちなさい。 逃げようたって逃がしません。 ハムレットさまあなたは卑怯です。 あなたのおかげでわしの一家は滅茶滅茶です。 わしは田舎にひっこんで貧乏な百姓|親爺として余生を送らなければならなくなりました。 レヤチーズも可哀想に。 いさんでフランスへ出かけていったのに呼び戻さなければなりますまい。 あの子の将来もまっくら闇です。 それからあの――。 オフィリヤは僕と結婚します。 御心配に及びません。 ポローニヤスあなたがそれほどまで僕を憎んでいるんだったら僕もはっきり申しましょう。 僕はあなたをもっと濶達な文化人だと思っていた。 もっと軽快なものわかりのいい人だと思っていました。 やがては僕の味方になってくれる人だろうとさえ思っていました。 あなたにはおわびしなければならぬ事がありました。 その事に就いてはいずれゆっくり相談をするつもりで居りました。 あなたに力になっていただきたいと思っていました。 ご存じのように僕は今叔父上とも母上ともどうしてもうまく折合いが附かず困って居ります。 僕だって何も好きこのんであの人たちと気まずくしているわけではないのですがどうもいけないのです。 こだわりを感じるのです。 しっくり行かないのです。 僕はあの人たちに僕のくるしい秘密を打ち明ける事がどうしても出来ず夜も眠られぬ程ひとりで悶えていました。 何としてもあの人たちを信頼する事が出来ぬのです。 打ち明けて相談するとかえってひどく悪い結果になるような気がして僕は此の頃あの人たちと逢うのを避けるようにさえなりました。 こわいのです。 なんだかとても暗いいやな気がするのです。 あの人たちと顔を合せると僕はただおどおどするばかりです。 なんにも言えなくなるのです。 あの人たちだって悪い人ではない。 いつも僕の事を心配してくれています。 それはわかっている。 あるいは深く愛していて下さるのかも知れないがけれども僕はいやなんだ。 相談するのがいやなんだ。 ポローニヤス僕はあなたを最後の力とたのんでいました。 どうにも仕様が無くなればあなたに何もかも打ち明けておゆるしを願い今後の事も相談しようと思っていました。 あなたはきっと僕たちの事をゆるして下さるだろうとなぜだかそんな気がしていたのです。 さっきあなたに呼びとめられひやっとしました。 来たなと思いました。 ちょうどよい機会だこちらから全部打ち明けてやろうと覚悟してあなたの顔を見ると真蒼でひどく取乱して居られる様子なので急にいやになり逃げようとしたらあなたが僕の腕をつかんで辞表を出したのなんのと大変な事を言うので僕は他にも何か事件が起きたのかしらんと思いあなたに尋ねたらあなたは城中の噂とおっしゃったのであああれかと早合点してしまったわけなのです。 決して故意にはぐらかしたのではありません。 僕は卑怯な男ではないのです。 御弁舌さわやかでございます。 なかなかたくみに言いのがれをなさる。 けれどもポローニヤスはもうだまされません。 何も今さらそんなにクローヂヤスさまや王妃さまの事を出し抜けに問題になさる必要が無いじゃありませんか。 あなたはそれをてれ隠しの道具に使っていらっしゃるのだ。 こじつけです。 やはりなんだかごまかそうとしていらっしゃる。 もっと当面の問題をはっきりお伺いしたいのです。 疑い深いね。 そんなにしつっこく追及されると僕も開き直ってもっと馬鹿正直に言ってやりたくなります。 きのう迄は僕の悩みは一つしか無かった。 オフィリヤ。 それだけです。 けれどもゆうべ僕はもう一つの不愉快極まる話を聞いてしまったのです。 もうオフィリヤどころでは無いと言えばあなたはすぐに醜聞の風向きを変えるのてれ隠しの道具に使うのと冷笑しますが決してそんなことはない。 僕はゆうべはくるしみましたよ。 淋しかった。 たまらなく淋しかった。 ベッドの中で泣きました。 何もかもばからしく腹立たしくやり切れない思いでした。 二つの問題が異様にからみ合って手がつけられない。 オフィリヤどころでは無いというのは言いかたがまずいのでオフィリヤの事も念頭より離れずそれに今度の恐ろしい疑惑が覆いかぶさり乱雲がもくもく湧き立ち流れかさなり僕の苦しみが三倍にも五倍にもふくれあがってゆうべは本当に一睡も出来ませんでした。 発狂したらいっそ気楽だ。 ポローニヤスわかりますか。 あなたから城中の残念な噂と言われてオフィリヤの事か。 とちらと考えてもみたのですが僕にはその事よりももっと色濃くもう一つの噂のほうが問題だったのでついそのほうに話を持って行きましたが決して故意にそらとぼけたわけではないのです。 そんな出方もあったかなどと言われると僕は実にどうにも不愉快だ。 殴ったのは僕の失態でした。 ごめんなさい。 かっとしちゃったのです。 でもあなたもこれからはあんな不愉快な言いかたはしないで下さい。 オフィリヤの事なら心配は要りません。 結婚します。 あたり前の事です。 どんな障害があっても結婚しなければいけません。 僕はオフィリヤを愛しています。 ただ僕のくるしんでいるのは王と王妃に僕たちの事を告白しそのおゆるしを得る事です。 僕はあの人たちに打ち明けてお願いするのはなんとしてもいやなのです。 死んだほうがいい。 ことにもゆうべあんな噂を耳にしたのでなおさら打ち明けるのが苦痛になった。 僕はとにかくあの噂の根元を突きとめてみたい。 何かある。 きっとある。 僕にはそんな予感がする。 根も葉も無い噂だとしたなら僕は幸福だ。 かえってそれを機会にあの人たちに僕の日頃の無礼を素直に詫びて釈然と笑い合う事が出来るようになるかも知れない。 とにかく僕はあの噂の真偽をもっと追及してみたい。 すべてはそれからだ。 ポローニヤスわかりますか。 オフィリヤの事はしばらくそっとして置いて下さい。 無責任な事は致しません。 ああポローニヤス僕もなんだか勇気を得ました。 きょうから僕は勇気のある男になるんだ。 くるしさのとても逃げられぬどん底まで落ちると人は新しい勇気を得るものだね。 どうだかあぶないものです。 ハムレットさまあなたはお若い。 あなた達のおっしゃる事はなんだかわしには信用できない。 新しい勇気とおっしゃるけれど勇気ばかりでもの事がうまく行くものではありません。 また勇気を得たのなんのとその場かぎりの興奮から軽薄な大袈裟な事ばかりを言い散らす人は昔からなまけもののお体裁屋にきまって居ります。 くるしいの淋しいの乱雲が湧き立ったのという気障な言葉は見どころのある男子の口にせぬものです。 とても本気では聞いて居られぬ言葉です。 もう薄鬚も生えているのに情無い。 いつまでいい気な夢を見ているのでしょう。 もっとしっかりして下さい。 いまのあなたのお話でとにかくオフィリヤを一時のなぐさみものになさるおつもりでは無かったという事だけはわかりました。 あなたをお痛わしく思います。 けれども真の難関はこれからです。 及ばずながらポローニヤスも御助勢申し上げますがあなたももっとしっかりして下さらなければ困ります。 本当にお願い致します。 乱雲がもくもく湧き立ったのなんのという言葉はこれからはなるべくおっしゃらないように。 とてもまともには聞いて居られません。 なんというまずい事ばかりおっしゃるのでしょう。 あなたもそろそろ子供の父になるのですよ。 だからだからそれだから僕はくるしんでいるのです。 くるしい時にくるしいと言ってはいけないのですか。 なぜですか。 僕はいつでも思っていることをそのまま言っているだけです。 素直に言っているのです。 本当に淋しいから淋しいと言うのです。 勇気を得たから勇気を得たと言うのです。 なんの駈け引きも間隙も無いのです。 精一ぱいの言葉です。 乱雲が覆いかぶさったという言葉もあなたには大袈裟な下手な形容のように聞えるかも知れませんが僕にとってはそのまま目に見えるような事実なのです。 皮膚感触なのです。 真実といっていいかも知れない。 僕はあなたをオフィリヤとの血のつながりに依ってやっぱり愛しているのだからそれで安心して僕の真実をそのままお伝えしようと思っているのだ。 ちぇっ。 僕はどうも人を信頼し過ぎる。 愛に夢中になりすぎる。 どうだっていいじゃありませんかハムレットさま。 世の中は哲学の教室でもなしあなただって失礼ながら聖人賢者におなりになるおつもりでもございますまい。 愛だの真実だの乱雲だのと賢者の口真似をなさっている間にもオフィリヤのおなかが刻一刻と大きくなります。 それだけはたしかに目に見える事実です。 わしはいまあなたに愛されたって安心されたってちっとも有難い事はありません。 かえって迷惑ですよ。 いまはただオフィリヤの事が――。 だからそれだからああわからんあなたにはわからん。 それは安心していてもいいのですよ。 ただ僕のくるしさは――。 くるしさという言葉はない事にしましょう。 脊中がぞくぞくする。 あなたはさっきからその言葉をもう百回はおっしゃっています。 くるしいのはあなただけではありません。 わしの一家だってあなたのおかげで滅茶滅茶なのですよ。 わしはもう辞表を提出しました。 あすにも此の王城から出て行かなければなりません。 事態は切迫しているのです。 ハムレットさまお力を貸していただきとう存じます。 第一にあなたのためそれからポローニヤス一家のために執るべき手段はひとつしかありません。 わしもゆうべ眠らずに考えました。 執るべき手段を考えました。 ハムレットさまお力を貸していただきとう存じます。 ポローニヤス急にあらたまってどうしたのです。 僕みたいな若輩があなたの力になるなんてとんでもない。 からかわないで下さい。 あなたこそ夢でも見ているのではありませんか。 ゆめ。 そう夢かも知れません。 けれどもこれこそは窮余の一策だ。 ハムレットさまポローニヤスの忠誠を信じますか。 いやそんな事はどうでもいい。 つまらぬ事を言いました。 ハムレットさまあなたは正義を愛しますか。 気味が悪い。 急にロマンチストになりましたね。 まるで逆になった。 こんどは僕が現実主義者になりそうだ。 あなたの口から正義だの忠誠だのという言葉を伺えるとは思いませんでした。 いったいどうしたのです。 そんなにうなだれてしまってどうしたのです。 何を考えているのです。 ハムレットさまわしは悪い人間ですねえ。 おそろしい事を考えていました。 娘の幸福のためには王をさえ裏切ろうとする人間です。 全部打ち明けて申し上げます。 ああいけないホレーショーがやって来ました。 ハムレットさまひどいひどいなあ。 僕は大恥をかきましたよ。 だまっているのだからひどいよ。 もっともゆうべは僕もいけませんでした。 僕が要らない事ばかりおしゃべりしてそれに何せ寒かったものですからあなたのお話をよく聞こうとしなかったのが失敗のもとでした。 でももうわかりました。 ポローニヤスどのこのたびはどうもとんだ事でしたねえ。 御心配でしょう。 それで。 ハムレットさまはいったいどういう御意向なのですか。 此の際ハムレットさまの御意向が一ばん問題になると思うのですがね。 ひとりで何を早合点しているのだ。 相変らずそそっかしいねえ君は。 何をそんなに騒いでいるのだ。 僕が君に恥をかかせた覚えは無いよ。 だめだめ。 とぼけたって駄目です。 僕はいま王さまから一切を聞いて来たのですからね。 いや笑い事じゃない。 慎重に考えなければいけない事です。 そういう君こそなんだかにやにや笑っているじゃないか。 ひやかしちゃだめだよ。 いったい何を聞いて来たのさ。 なあんだそんなにお顔を赤くなさっている癖にまだとぼけようとしている。 かえって僕のほうでてれくさくってくすぐったくてつい笑わざるを得ざる有様でございます。 畜生め。 とうとう見破りやがったな。 畜生め行くぞ。 よし来た組打ちならば負けやしません。 さあどうだ。 これでもか。 平気平気。 畜生め一ひねりだ。 おっちょこちょいの此の咽をこんな具合にしめつけるとぴいと鳴るから奇妙なものさ。 およしなさいおよしなさい。 なんです。 こんな廊下でいきなり組打ちをはじめるなんて乱暴じゃありませんか。 お二人とも悪ふざけはおよしなさい。 わけがわからん。 そんなにお二人ともげらげら笑って掴み合いしていったいどうしたのです。 よして下さい。 いまはそんな悪ふざけをしている場合ではありません。 お互いにも少し緊張する事にしましょうよ。 さあさもういい加減におよしなさい。 ホレーショーどのもいったいどうしたのです。 ここは大学と違うのですよ。 ポローニヤスあなたにはわからんよ。 僕たちはひどくてれくさい時にはこうして滅茶な組打ちをする事にしているんだ。 こうでもしなけれあおさまりがつかんじゃないか。 まったくですよ。 僕はまんまとだまされていたのだからなあ。 ハムレットさまひどいよ。 そんなでもないさ。 これにもいろいろわけがありましてね。 へッへ。 ああそんな下品な笑いかたをなさってなんという事です。 わけもなんにもありゃしない。 事件は実に単純です。 ホレーショーどのまあもっとこっちへおいでなさい。 おやおやあなたの上衣の裾は破れたじゃありませんか。 どうもあなたがたは乱暴でいけません。 うちのレヤチーズもずいぶん乱暴者のようですがでもあなたがた程ではありませんよ。 まあハムレットさまも落ちつきなさい。 いまは重大な時です。 笑ってふざけている場合ではありません。 ホレーショーどのもこれからはわしたちの力になって下さらなければいけません。 これからは此の三人でさまざま相談も致したいと思います。 それで。 ホレーショーどのはいま王さまからどんな事を伺って来たのです。 聞かせて下さい。 わしはきょうからハムレットさまのお味方なのですから信頼してなんでも知らせて下さい。 王さまはあなたになんとおっしゃったのですか。 おどろいた夢のようだとおっしゃっていましたよ。 それから僕の悪口も言っていたろう。 ひがんじゃいけません。 王さまはなかなかわかっていらっしゃる。 いやどうだかな。 とにかくおどろいていらっしゃる。 要領を得ない。 もっとはっきりおっしゃって下さい。 王さまの御意見はどうなんですか。 いやそれがそのいや実に古くさい。 ばかばかしい。 僕はあきれましたよ。 僕にはハムレットさまのお気持はわかっているんだ。 けれども王さまはひどい勘違いをなさっているので僕は呆れました。 おそれつつしんで退出したのですけれどいやひどいなあ。 わかったよ。 とても許されぬと言うんだろう。 イギリスから姫を迎えると言うんだろう。 わかっているよ。 そのとおり。 いやまだひどい。 ハムレットさまのお気持もそろそろ冷くなっている筈だと思うとおっしゃっておいででした。 だからオフィリヤさんをしばらく田舎へ引き籠らせてそれで万事を解決させる。 人の噂も二箇月だとか五箇月だとかいや六箇月だったかな。 とにかくそんな具合の御意見でした。 悪いようにはしないそうです。 王さまも決して悪意でおっしゃっているのではないのです。 それだけは誤解なさらぬように。 ただ王さまは勘違いなさって居られるだけなんだ。 僕はとにかくハムレットさまに王さまの御厚志をお伝えするように言いつかったというわけなのです。 王妃さまはなんだかひとりで笑って居られました。 ハムレットさまのお気持をよくわかっておいでの御様子でありました。 だから決して絶望というわけではないのです。 此の際王妃さまにお願いするのですね。 王さまはだめです。 根っからいけません。 つまり古いという事になりますかねえ。 ホレーショーいい加減の事を言うのはよせよ。 古い新しいの問題じゃない。 現世主義者はいつでもそうなんだ。 叔父さんは現世の幸福を信じているんだ。 叔父さんとしては当然の意見だ。 僕だってそれくらいの事ははじめっから知っていたさ。 問題はそこだよ。 そこが苦しいところなんだ。 忍従か脱走か正々堂々の戦闘かあるいはまたいつわりの妥協か欺瞞か懐柔かtobe,ornottobe,どっちがいいのか僕にはわからん。 わからないからくるしいのだ。 二度。 くるしいという言葉を二度もおっしゃいました。 あなたはすぐにそんな大袈裟な哲学めいた事を口走って意味も無い溜息ばかり吐いてまるで下手な役者の真似みたいな表情をなさいますが実にみっともない。 王さまのお言葉はわしだって覚悟していました。 これしきの事で取乱してはいけません。 ポローニヤスには王さまの御処置がわかっていました。 だからわしも辞表を提出したのです。 いまはたのみとすべきはハムレットさまあなただけです。 わしにはわしの考えがあります。 ホレーショーどのも御助勢下さい。 すべてハムレットさまのためです。 さあホレーショーどの誓って下さい。 わしのこれから言う事を必ず他言しないと誓って下さい。 どうしたのです。 ポローニヤスどの急に鹿爪らしくなってしまいましたね。 ハムレットさまのためです。 誓言はおいやなのですか。 誓いますよ誓いますよ。 なんだか木に竹を継いだみたいに唐突なのでめんくらったのです。 誓いますよ。 ハムレットさまのためならどんないやな事だって致します。 あなたを信頼します。 それでは申し上げます。 ハムレットさまさっきちょっと言いかけてホレーショーどのが来たので止しましたが実はこのごろの城中のもう一つの暗い噂あれをポローニヤスは信じています。 なに。 信じている。 ばかめ。 あなたこそ気が狂った。 さもなくばあなたこそいやな噂を種に王をおどかし無理矢理オフィリヤを僕の妃に押しつけようとする卑劣|下賤の魂胆なのだ。 きたないきたない。 ポローニヤスあなたはさっき言いましたね。 わしは娘の幸福のためには王をさえ裏切ろうとする人間だわしは悪い人間だと呟いていましたね。 僕はあの時はなんの事やらわけがわからなかったがもうはっきりわかりました。 ポローニヤスあなたはおそろしい人だ。 ちがう。 ちがいます。 わしの気持が変ったのです。 はじめから全部申し上げましょう。 わしが先王の幽霊の噂を耳にしたのはごく最近の事でした。 困った事だと思っていました。 そのうち王にも御相談申し上げ適当の対策を講ずるつもりで居りましたがこのごろ王の御様子を窺うとなんだか曇りがあるのです。 わしは相談を躊躇しました。 なぜだか相談しにくいのです。 はっきり申し上げましょう。 わしは少しずつ王さまを疑うようになって来たのでした。 まさかと思いながらも王の御様子を拝見しているとなんだかいやな暗い気持がして来るのです。 わしはその気持をいままで誰にも打ち明けず自分ひとりの胸に畳んでおのずから明朗に解決される日を待っていました。 杞憂であってくれたらいいとひそかに念じていたのです。 けれどもさっき娘が不憫のあまりふいと恐ろしい手段を考えました。 ただいまハムレットさまのおっしゃったような陋劣な事を考えました。 けれどもポローニヤスは不忠の臣ではありません。 それは信じて下さい。 ほんの一瞬ちらと考えてみただけです。 ゆうべ一晩眠らずに考えたというのは嘘でした。 つい興奮して心にも無い虚飾を申しました。 としはとっても子供の事になるとわしもハムレットさまのように大袈裟な言葉をつい言いたくなります。 一瞬ほんの一瞬だけ考えてすぐにその陋劣に身震いしこんどは逆に猛烈に正義という魂魄を好きになりました。 たまらなく好きになりました。 オフィリヤの事よりもまずあの不吉な噂の真偽をたしかめる。 その事こそ臣下の義務いや人間の義務だと気が附きました。 ハムレットさまいまではわしはあなた達の味方です。 きょうからはわしも青年の仲間に入れていただくつもりなのです。 青年の正義。 世の中に信頼できるものはそれだけです。 へんですねえ。 こっちがてれてしまいます。 なんだかへんだ。 ホレーショー人生には予期せぬ事ばかり起るものだねえ。 僕は信じます。 ポローニヤスどのありがとう。 僕は信じますよ。 感激しました。 でもなんだかへんだなあ。 唐突すぎる。 へんな事はありません。 あなた達こそ臆病なのです。 わしはもう破れかぶれなのかも知れません。 いやちがう。 正義だ。 正義。 いい言葉だ。 わしは突貫しますよ。 お力を貸して下さい。 三人でまず王さまをためしてみましょう。 失礼な事かも知れないが何も皆正義のためだ。 王さまの顔色を探ってみましょう。 たしかな証拠をつきとめましょう。 いかがです。 わしには一ついい考えがあるのです。 相談に乗って下さい。 何も皆正義のためです。 わしの行くべき路はそれだけです。 正義のほうで顔負けしますよ。 ポローニヤスあなたは錯乱しています。 いいとしをしてみっともない。 落ちつきなさい。 あなたはいったいあのばかな噂を本気に信じているのですか。 嘘でしょう。 なんだか底に魂胆がありそうですね。 情無い事をおっしゃる。 ハムレットさまあなたは可哀想なお子です。 なんにも御存じないのです。 ああいけない。 ポローニヤスどのもうおよし下さい。 王さまはいいお方です。 ハムレットさまだって心の底では王さまをお慕い申しているのですよ。 いまさらそんな薄気味わるい事はおっしゃらないで下さい。 いけないいけないああ僕はまた寒くなって来ました。 震える。 全身が震える。 ポローニヤス重大な事ですよ。 浮薄な言動はつつしみなさい。 たしかに信ずべき節があるのですか。 残念ながら――ございます。 ははんホレーショー僕たちが冗談に疑って遊んでいたらそれが本当だってさ。 なんて事だい。 馬鹿笑いが出るよ。 あたたかになりましたね。 ことしはいつもより春が早く来そうな気がします。 芝生もこころもち薄みどり色になって来た様じゃありませんか。 早く春が来ればよい。 冬はもうたくさんです。 ごらん小川の氷も溶けてしまった。 柳の芽というものはやわらかくて本当に可愛いものですね。 あの芽がのびて風に吹かれ白い葉裏をちらちら見せながらそよぐ頃にはこの辺いっぱいに様々の草花も乱れ咲きます。 金鳳花いらくさ雛菊それから紫蘭あの紫蘭の花のことをしもじもの者たちはなんと呼んでいるかオフィリヤはご存じかな。 顔を赤くしたところを見るとご存じのようですね。 あの人たちはどんなみだらな言葉でも気軽に口にするので私にはかえって羨やましい。 オフィリヤたちはあの紫蘭の花を何と呼んでいるのですか。 まさかあの露骨な名前で呼んでいるわけでもないでしょう。 いいえ王妃さまあたしたちだってやっぱり同じ事でございます。 幼い時に無心に呼び馴れてしまいましたのでついいまでも口から滑って出るのです。 あたしばかりではなくよそのお嬢さん達だってみんな平気であの露骨な名を言って澄まして居ります。 おやおやそうですか。 いまの娘さん達のあけっぱなしなのには驚きます。 そのほうがかえって罪が無くてさっぱりしているのかも知れませんけど。 いいえ。 でも男のひとの居る前では気を附けて死人の指なぞという名で呼んでいますの。 なるほどそうでしょうね。 さすがに男のひとの前では言えないというのも面白い。 けれども死人の指とはまた考えたものですね。 死人の指。 なるほどねえ。 そんな感じがしない事もない。 可哀そうな花。 金の指輪をはめた死人の指。 おや悲しくもないのに涙が出ました。 こんな歳になってつまらぬ花の事で涙を流すなんて私もずいぶんお馬鹿ですね。 女はいくつになってもやっぱり甘えたがっているものなのですね。 女にはかならず女のくだらなさがあるものなのでしょう。 どう仕様も無いものですね。 こんな歳になってもまだデンマークの国よりは雛菊の花一輪のほうを本当はこっそり愛しているのですもの。 女はだめですね。 いいえ女だけでなく私にはこのごろ人間というものがひどく頼りなくなって来ました。 よっぽど立派そうに見える男のかたでもなに本心は一様にびくびくもので他人の思惑ばかりを気にして生きているものだという事がやっとこのごろわかって来ました。 人間というものはみじめな可哀そうなものですね。 成功したの失敗したの利巧だの馬鹿だの勝ったの負けたのと眼の色を変えて力んで朝から晩まで汗水流して走り廻ってそうしてだんだんとしをとるそれだけの事をする為に私たちは此の世の中に生れて来たのかしら。 虫と同じ事ですね。 ばかばかしい。 どんな悲しいつらい事があってもデンマークのためという事を忘れずきょうまで生きて努めて来たのですが私は馬鹿です。 だまされました。 先王にも現王にもまたハムレットにもみんなにだまされていたのです。 デンマークのためという言葉はなんだか大きい崇高な意味を持っているようで私はいつでもデンマークのためとばかり思ってくるしい事でも悲しい事でも怺えて来ました。 神さまからいただいた尊い仕事をしているのだという誇りがあったものですからずいぶん淋しい時でも我慢が出来たのです。 私が神さまから特に選ばれて重い役目を言いつけられている人間だという自負があったからこそ忍従の生活を黙って続けて来たのですがいま考えてみるとばからしい。 私のような弱い腕でどんな仕事が出来るものですか。 人は私のひそかな懸命の覚悟なぞにはお構い無しに勝ったの負けたのと情ないきょろきょろ細かい気遣いだけで日を送ってそうして時々なんの目的も無しに卑劣な事件などを起して周囲の人の運命をどしどし変えて行くのです。 それから後がまたお互い責任のなすり合いでたいへんです。 私ひとりがデンマークの為だのハムレット王家の為だのと緊張してみたところで濁流に浮んでいる藁のようです押し流されてしまいます。 本当にばからしい。 オフィリヤ。 からだの調子はどうですか。 え。 べつに。 隠さずともよい。 私は知っているのですから。 御安心なさい。 私だってハムレットの母としてあなたをいとしく思っています。 きょうは顔色もいいようですね。 もう気分がわるくなるような事は無くなりましたか。 はい。 王妃さまお礼の言葉もございません。 実はけさ眼が覚めたらすっと胸がひらけてものの臭いも平気になりました。 きのう迄は自分のからだの匂いも夜具やら下着やらの臭いもまるで韮のようでどんなに香水を振りかけても我慢が出来ずひとりで泣いて居りました。 でもけさは悪い夢から覚めたようにすっとからだも軽くなりスウプも幾日ぶりかで本当においしかった。 何かの拍子にまたきのう迄のあんな地獄の気分に落ちるのではないかとまだ少し心配でございます。 自分のからだがこわれもののような気がしてはらはらしています。 いまだっておっかなびっくりでなるべく静かに呼吸しながら一歩一歩こわごわ芝生を踏んでいます。 もう大丈夫なのかしら。 あんなつらい思いを二度くりかえすのはいやでございます。 ええもう大丈夫ですとも。 これからは食慾もすすむ一方です。 本当にあなたはなんにもご存じないのですねえ。 無理もない。 これからは私が相談相手になってあげてもよい。 あなたはさっきから何でも思ったとおりに正直におっしゃるので私は可愛くなりました。 悪びれず大胆に言う人を私は好きです。 いいえ王妃さま。 あたしはきのう迄嘘ばかりついていましたの。 ひとをだますという事ほどくるしいつらい地獄はございませぬ。 でももう嘘をつく必要は無くなりました。 みんなに知られてしまいました。 からだの具合もさいわい今朝からこんなにすっきりして来ましたしもうこれからはいじけずに昔のとおりにお転婆なオフィリヤになるのです。 本当に此の二箇月毎日毎日意外な事ばかり続いてゆめのようでございます。 なにゆめのような思いはあなたばかりではありません。 誰もかれも此の二箇月間はおそろしい夢を見ているような気持でした。 先王がおいでなされた頃の平和はいま考えるとまるで嘘のような気さえ致します。 あんなにお城の中もまたデンマークの国も希望に満ちて一日一日を送り迎えしていたような時代はもう二度と帰って来る事はありますまい。 誰がどうわるいというのでも無いのにすっかり陰気に濁ってしまって溜息と意地悪い囁きだけがエルシノアの城にもまたデンマークの国中にも満ち満ちているような気がします。 きっと何かひどく悪い事が起る悲惨な事が起るというような不吉な予感を覚えます。 せめてハムレットだけでもしっかりしていてくれるといいのですけれどあの子はあなたの事で半狂乱の様子ですし他の人だって自分の地位や面目の事ばかり心配してあちこち走り廻っているような具合ですからちっとも頼りになりません。 女も浅墓なものですが男のひともあんまり利巧とは言えませんね。 あなた達にはまだわかっていないでしょうが男のひとはそれは気の毒なくらい私たちの事を考えているものなのですよ。 そんなにお笑いになってはいけません。 本当なんです。 私は自惚れて言っているわけではありません。 男のひとは口では何のかのと立派そうな事を言っていながら実のところはね可愛い奥さんの思惑ばかりを気にして生きているものなのです。 立身も成功も勝利もみんな可愛い奥さんひとりを喜ばせたい心からです。 いろんな理窟をつけて努力して居りますがなに可愛い女にほめられたいばかりなのです。 だらしの無い話ですね。 可哀想なくらいです。 私は此の頃それに気がついてびっくりしました。 いいえがっかりしました。 私は男の世界を尊敬してまいりました。 私たちにはとてもわからぬ高いくるしい理想の中に住んでいるものとばかり思っていました。 及ばずながら私たちはその背後でせめて身のまわりのお世話でもしてあげてわずかなお手伝いをしたいと念じていたのですがばかばかしいその背後のお手伝いの女こそ男のひとたちの生きる唯一の目当だったとはまるで笑い話ですね。 背後からそっとマントを着せてあげようとするとくるりとこちらを向いてしまうのですからまごついてしまいます。 理想だの哲学だの苦悩だのとわけのわからんような事を言ってずいぶん空の高いところを眺めているような恰好をしていますがなに実は女の思惑ばかりを気にしているのです。 ほめられたい好かれたいばかりの身振りです。 私には此の頃男がくだらなく見えて仕様がありません。 オフィリヤたちにはわからない事です。 あなたなどにはまだハムレットなんかがいい男に見えて仕様がないのでしょうね。 あの子は馬鹿な子です。 周囲の人気が大事でうき身をやつしているのです。 わかい頃にはお友達や何かの評判が一ばん大事なものらしい。 馬鹿な子です。 根からの臆病者のくせに無鉄砲な事ばかりやらかしてお友達やオフィリヤにはほめられるでしょうがさて後の始末が自分では何も出来ないものですから泣きべそをかいてひとりですねているのです。 そうして内心は私たちをあてにしているのです。 私たちが後の始末をしてくれるのをすねながら待っているのです。 気障な思いあがった哲学めいた事ばかり言ってホレーショーたちを無責任に感服させてそうして蔭では哲学者どころか私たちに甘えてお菓子をねだっているような具合なんですから話になりません。 甘えっ子ですよ。 朝から晩まで周囲の者にほめられて可愛がられていたいのです。 その場かぎりの喝采が欲しくていつも軽薄な工夫をしています。 あんな出鱈目な生きかたをして本当に将来どうなることでしょう。 あなたの兄さんのレヤチーズなどはハムレットと同じ歳なのにもうちゃんと世の中のからくりを知っていらっしゃる。 いいえそれが兄のかえって悪いところでございます。 王妃さまはたったいまよほど立派そうに見える男のかたでも本心は一様にびくびくもので他人の思惑ばかりを気にして生きているものだ等とおっしゃっていながらすぐそのお口の裏からレヤチーズをおほめになるなんて可笑しゅうございます。 兄だってやっぱり本心はそんなところでございましょう。 それは兄がハムレットさまに較べては少し武骨でしっかり者のところもありますけれどでもあんまりはっきり割り切れた気持で涼しく生きている者はかえって私たちを淋しくさせます。 あたしは兄を決してきらいではないのですけどでも兄に何でも打ち明けて語ろうという親しい気持は起りません。 父に対しても同じ事でございます。 あたしはわるい娘いけない妹なのかも知れません。 仕方が無いのでございます。 肉親にしたしみを感じないでかえって――。 ハムレットだけに親しみを感じているというわけですね。 つまらない。 およしなさいよ。 恋に夢中になっている時には誰だって自分の父や兄をきらいになります。 当り前の事じゃありませんか。 本当にあなた達の言うことを真面目に聞いていると馬鹿を見ます。 何を言う事やら。 いいえ王妃さま。 あたしは夢中ではございませぬ。 あたしはこんな事になってしまう前からずっと以前からおしたい申して居りました。 いいえハムレットさまでなく王妃さまをこっそり懸命におしたい申して居りました。 そのうちについハムレットさまとこんなになって喜びやらくるしみやら意外の思いやらいろんな事がございましたがあたしには失礼ながら王妃さまを母上とお呼びして甘える事が出来るようになるのではないかしらという淡い期待が何にも増してうれしかったのでございます。 お信じ下さいませ。 あたしは小さい時から王妃さまをどんなに敬いそうしてどんなに好きで好きでたまらなかったか王妃さまにはおわかりになりますまい。 あたしは今まで身振りでもものの言い様でも何でもかでも王妃さまの真似ばかりしてまいりました。 ごめんなさい。 王妃さまのお身分のせいでは無しにただ女性として魅力あるおかたいいおかたすばらしいおかたああなんと申し上げたらいいのでしょう王妃さまあたしをお笑い下さいませ。 あたしは馬鹿な娘です。 ハムレットさまがもし王妃さまのお子でなかったらあたしだってこんな間違いは起こさなかったろうと思います。 あたしはみだらな女ではございませぬ。 王妃さまの大事な大事なお子さまですからあたしも大事におあずかりしようと思ったのです。 可愛い冗談ばかりおっしゃる。 あなた達はふいと思いついた言葉をそのまままことしやかに言い出すのでいつも私たちは閉口します。 あなたが私を少しでも好きだとしたらそれはやっぱり私の身分のせいです。 身分がきらきらしているのでそれに眼がくらんでのぼせ気味になって何でもかでも矢鱈に素晴らしく見えるようになったのでしょう。 私はつまらないお婆さんです。 あなたがハムレットを拒み得なかったのもハムレットの身分のせいです。 王妃の大事な子供だからあなたも大事にしようと思いました等という突飛な意見は私ひとりは笑って聞き流して許してもあげますが他のひとにそんな事を言ったらあなたは白痴か気違い扱いにされてしまいます。 あなたが私を母と呼んで甘えたいそれが一ばんの喜びだと無邪気そうにおっしゃっていましたがわかり切った事です。 それはあなたがデンマーク国の王子の妃になる事の喜びを申し述べているのに過ぎません。 王子の妃になって王妃を母と呼べる身分になるのはデンマーク国の女の子と生れて最上のよろこびの筈です。 あたり前の話です。 あなた達は自分の俗な野心を無邪気な甘えた言いかたで巧みに塗りかえるから油断がなりません。 うっかりだまされます。 今の若い人たちはなんにも知らぬ振りをして子供っぽい口をきいて私たちを笑わせながら実はどうしてちゃっかり俗な打算をしているのだからいやになります。 ほんとうに抜け目がなくてずるいんだから。 ちがいます王妃さま。 どうしてそんなに意地わるくどこまでもお疑いになるのでしょう。 あたしにはそんな大それた浅墓な野心などはございません。 あたしはただ王妃さまを本当に好きなのでございます。 泣くほど好きです。 あたしの生みの母はあたしの小さい時になくなりましたけれどいま生きていても王妃さまほどではないだろうと思います。 王妃さまにはあたしのなくなった母よりももっと優しくそうして素晴らしい魅力がございます。 あたしは王妃さまのためにはいつ死んでもいいと思っています。 王妃さまのようなおかたを母上とお呼びして一生つつましく暮したいといつも空想して居りました。 ご身分の事などはいちども考えたことがございません。 不忠の娘でございます。 やっぱりあたしには母が無いので一そうお慕いする気持が強いのかも知れません。 本当にあたしにはなんの野心もございません。 なさけ無い事をおっしゃいます。 あたしはハムレットさまのご身分をさえ忘れていました。 ただ王妃さまのお乳の匂いがハムレットさまのおからだのどこかに感ぜられてそれゆえたまらなくおいとしく思われとうとうこんな恥ずかしい身になりました。 あたしはちっとも打算をしませんでした。 それは神さまの前ではっきり誓うことが出来ます。 王子さまの妃になって出世しようなどとそんな大それた野心は本当に夢に見たことさえございません。 あたしはただ王妃さまの遠いつながりをわが身に感じている事が出来ればそれで幸福なのでございます。 あたしはもうみんなあきらめて居ります。 いまは王妃さまのお孫を無事に産みお丈夫に育てる事だけがたのしみでございます。 あたしは自分を仕合せな女だと思って居ります。 ハムレットさまに捨てられてもあたしは子供と二人で毎日たのしく暮して行けます。 王妃さま。 オフィリヤにはオフィリヤの誇りがございます。 ポローニヤスの娘として恥ずかしからぬ智慧もきかぬ気もございます。 あたしはなんでも存じて居ります。 ハムレットさまにただわくわく夢中になってあのおかたこそ世界中で一ばん美しい完璧な勇士だ等とは決して思って居りません。 失礼ながらお鼻が長過ぎます。 お眼が小さく眉も太すぎます。 お歯もひどく悪いようですしちっともお綺麗なおかたではございません。 脚だって少し曲って居りますしそれにお可哀そうなほどのひどい猫脊です。 お性格だって決して御立派ではございません。 めめしいとでも申しましょうかひとの陰口ばかりを気にしていつもいらいらなさって居ります。 いつかの夜など信じられるのはお前だけだ僕は人にだまされ利用されてばかりいる僕は可哀想な子なのだからお前だけでも僕を捨てないでおくれと聞いていて浅間しくなるほど気弱い事をおっしゃって両手で顔を覆い泣く真似をなさいました。 どうしてあんな気障なお芝居をなさるのでしょう。 そうしてちょっとでもあたしが慰めの言葉を躊躇している時にはたちまち声を荒くしてああ僕は不幸だ誰も僕のくるしみをわかってくれない僕は世界中で一ばん不幸だ孤独だ等とおっしゃって髪の毛をむしりせつなそうに呻くのでございます。 ご自分をむりやり悲劇の主人公になさらなければ気がすまないらしい御様子でありました。 突然立ち上って壁にはっしとコーヒー茶碗をぶっつけてみじんにしてしまう事もございます。 そうかと思うとたいへんな御機嫌で世の中に僕以上に頭脳の鋭敏な男は無いのだ僕は稲妻のような男だ僕にはなんでもわかっているのだ悪魔だって僕を欺く事が出来ない僕がその気にさえなればどんな事だって出来るどんな恐ろしい冒険にでも僕は必ず成功する僕は天才だ等とおっしゃってあたしが微笑んで首肯くといやお前は僕を馬鹿にしているお前は僕を法螺吹きだと思っているのに違いないお前は僕を信じないからだめだこんどはひどく調子づいて御自分の事を滅茶苦茶に悪くおっしゃいます。 僕は実は法螺吹きなんだ。 山師だよ。 いんちきだ。 みんなに見破られて笑われているのだ。 知らないのはお前だけだよ。 お前はなんて馬鹿な奴だ。 だまされているのだよ。 僕にまんまとだまされているのさ。 ああ僕もみじめな男だ。 世の中の皆から相手にされなくなってたったひとりお前みたいな馬鹿だけをつかまえて威張っている。 だらしがないねえ等とそれはもうとめどもなく聞いているあたしのほうで泣きたくなる程御自分の事を平気であざ笑いつづけるのです。 そうかと思うと一時間も鏡の前に立って御自分のお顔をさまざまにゆがめて眺めていらっしゃる事もございます。 長いお鼻が気になるらしく鏡をごらんになりながらちょいちょいつまみ上げてみたり等なさるのであたしも噴き出してしまいます。 けれどもあたしはあのお方を好きです。 あんなお方は世界中に居りません。 どこやらとてもすぐれたところがあるようにあたしには思われます。 いろいろな可笑しな欠点があるにしてもどこやらに神の御子のような匂いが致します。 あたしだって誇りの高い女です。 ただやたらに男のかたを買い被り有頂天になるような事はございません。 たとい御身分が王子さまであってもむやみに御胸におすがりするような事は致しません。 ハムレットさまは此の世で一ばんお情の深いおかたです。 お情が深いから御自分をもてあましてしまってお心もお言葉も乱れるのです。 きっとそうです。 王妃さまだってハムレットさまのいいところはちゃんとご存じの癖に。 何が何やらあなた達の言う事はまるで筋道がとおっていません。 私を慕っているからハムレットをも好きになった等とへんな理窟を言うかと思うとこんどはひどくハムレットの悪口をおっしゃってすぐにまたその口の下からハムレット程いいひとは世の中にはいない神の御子だなんて浅間しい勿体ない事をおっしゃる。 私のようなお婆さんをつかまえて素晴らしい魅力があるのなんのと馬鹿らしい事を口走るかと思えばいいえちっとも夢中になっていないもう諦めている等と殊勝な事をおっしゃる。 いったいどこをどう聞けばいいのか私は困ってしまいます。 あなたもハムレットの影響を受けたのでしょう。 第一の高弟とでもいうところでしょうか。 ホレーショーだけかと思ったらあなたもなかなか優秀なお弟子のようです。 王妃さまからそんなに言われるとあたしもしょげてしまいます。 あたしは感じた事をいつわらずそのまんま申し上げた筈でございます。 あたしの申し上げた事は皆ほんとうなのです。 あれこれと食いちがうのはきっとあたしの言いかたが下手なせいでしょう。 あたしは王妃さまにだけは嘘をつくまいと思っていますしまた嘘をついてもそれにだまされるような王妃さまでもございませんからあたしは感じた事思っている事をのこらず全部申し上げようとあせるのですが申し上げたいと思う心ばかりがさきに走っていって言葉が愚図愚図してのろくさくてなかなか心の中のものをそっくり言い現わす事が出来ません。 あたしは神さまに誓って申し上げますがあたしは正直でございます。 あたしは愛しているおかたにだけは正直になろうと思います。 あたしは王妃さまを好きなので一言も嘘を申し上げまいと努めているのでございますが努力すればする程あたしの言葉が下手になります。 人間の正直な言葉ほど滑稽でとぎれとぎれで出鱈目に聞えるものはないと思えばなんだか無性に悲しくなります。 あたしの言葉はしどろもどろでちっとも筋道がとおらないかも知れませんがでも心の中のものはちゃんと筋道が立っているのです。 その心の中のまんまるいものがなんだかむずかしくてなかなか言葉で簡単には言い切れないのです。 だからいろいろ断片的に申し上げてその断片をつなぎ合せて全部の感じをお目にかけようとあせるのですけれどもなんだか言えば言う程へまになって困ります。 あたしは愛しすぎているのかも知れません。 常識を知らないのかも知れません。 みんなハムレットから教えられた理窟でしょう。 いまの若い人たちは自己弁解の理窟ばかり達者でいやになります。 そんな気取った言いかたをなさらずいっそこう言ったらどうですか。 あたしはわからなくなりました胸が一ぱいですとだけおっしゃれば私たちにはかえってよくわかります。 あなたは他の事だと悪びれず大胆にはきはきおっしゃっていい子なのにハムレットの事になるとへんな理窟ばかりおっしゃってご自分の恥ずかしさを隠そうとなさる。 あなたはまだ私にすみませんというお詫びをさえ言っていません。 王妃さま。 心からすみませんと思って居ればなぜだかその言葉が口から出ないものでございます。 あたしたちの今度の行いがすみませんという一言でゆるされるものとは思われませぬ。 あたしのからだ一めんにすみませんという文字が青いインキで隙間も無く書き詰められているような気がしているのですけれどなぜだか王妃さまにすみませんと申し上げる事が出来ないのです。 白々しい気がするのです。 ずいぶんいけない事をしていながらただすみませんと一言だけ言ってそれで許してもらおうなんて考えるのは自分の罪をそんな意識していない図々しい人のするわざです。 あたしにはとても出来ません。 ハムレットさまだってやはり同じ事でいまお苦しみなさっていらっしゃるのだと思います。 何かでつぐないをしなければいけないとあせっていらっしゃるのだと思います。 ハムレットさまもあたしもこのごろ考えている事はどうして王妃さまにお詫びをしようかという苦しみだけでございます。 王妃さまはいまお淋しい御境遇なのですからあたしたちはお慰めしなければならないのについこんな具合になってしまってかえって御心配をおかけしてこんな事は悪いとか馬鹿とかそんな簡単な言葉ではとても間に合いません。 死ぬる以上につらい思いがございます。 あたしは王妃さまをずっと昔から本当にお慕い申していたのです。 それは本当でございます。 一生に一ぺんでも王妃さまに褒められたいと念じてお行儀にも学問にも努めてまいりましたのにまああたしは何というお馬鹿でしょう。 つい狂って王妃さまに一ばんすまない事を致しました。 ハムレットさまだってあたしに負けずにいいえあたし以上に王妃さまを敬いなつかしがっていらっしゃいます。 あたしたちは王妃さまがいつまでもお達者でお元気で居られるように祈っています。 生きておいでのうちにはきっとつぐないをしてお目にかけましょうとあたしはハムレットさまにしみじみお話申し上げた夜もございました。 王妃さま王妃さまあら。 ごめんなさい。 泣くまいとさっきから我慢して心にも無い意地悪い事ばかり言っていました。 オフィリヤ私はあなたからそんなに優しく言われ慕われるとせつなくなります。 この胸が張り裂けるようでした。 オフィリヤあなたはいい子だね。 あなたはきっと正直な子です。 おずるいところもあるようだけどでもまあ無邪気な意識しない嘘はとがめだてするものでない。 そんな嘘こそかえって美しいのだからね。 オフィリヤこの世の中で無邪気な娘の言葉ほど綺麗で楽しいものはないねえ。 それに較べると私たちはきたない。 いやらしい。 疲れている。 あなたたちがそれでも私をしんから愛してくれていつまでも生きていてくれと祈っているという言葉を聞いて私はたまらなくなりました。 あああなたたちの為にだけでも私は生きていなければならないのにオフィリヤゆるしておくれ。 王妃さま何をおっしゃいます。 まるであべこべでございます。 王妃さまは何か他の悲しい事を思い出されたのでございましょう。 おおちょうどよい。 ここに腰掛がございます。 さお坐りなさってお心を落ちつけて下さいませ。 王妃さまがそんなにお泣きなさるとあたし迄が泣きたくなります。 さこう並んで腰かけましょう。 おや王妃さま。 これは先王さまの御臨終の時の腰掛でございましたね。 先王さまがお庭の此の腰掛にお坐りになって日向ぼっこをなされていると急に御様子がお悪くなりあたしたちの駈けつけた時にはもう悲しいお姿になって居られました。 あれはあたしが新調の赤いドレスをその朝はじめて着てみた日の事でございましたがあたしは悲しいやらくやしいやらで自分の赤いドレスが緑色に見えてなりませんでした。 うんと悲しい時には赤い色が緑色に見えるようでございます。 オフィリヤもうおよし。 私は間違った。 私にはもうなんにも希望が無いのです。 何もかもつまらない。 オフィリヤあなたはこれからは気を附けて生きて行くのですよ。 王妃さまお言葉がよくわかりませぬ。 でもオフィリヤの事ならもう御心配いりません。 あたしはハムレットさまのお子を育てます。 馬鹿だ。 馬鹿だ馬鹿だ。 僕は大馬鹿野郎だ。 いったいなんの為に生きているのか。 朝起きて食事をしてうろうろして夜になれば寝る。 そうしていつも遊ぶ事ばかり考えている。 三種類の外国語に熟達したがそれもただ外国の好色|淫猥の詩を読みたい為であった。 僕の空想の胃袋は他のひとの五倍も広くて十倍も貪慾だ。 満腹という事を知らぬ。 もっともっとと強い刺戟を求めるのだ。 けれども僕は臆病でなまけものだからたいていは刺戟へのあこがれだけで終るのだ。 形而上の山師。 心の内だけの冒険家。 書斎の中の航海者。 つまり僕はとるにも足らぬ夢想家だ。 あれこれと刺戟を求めて歩いて結局はオフィリヤなどにひっかかりそうしてそれっきりだ。 どうやら僕はオフィリヤにまいってしまっているらしい。 だらしの無い話だ。 ドンファンを気取って修行の旅に出かけてまず手はじめにとひとりの小娘をやっとの事で口説き落したがその娘さんと別れるのがくるしくて一生そこに住み込んで身を固めたという笑い話。 まず小手しらべに田舎娘をだましてみて女ごころというものを研究しそれからおもむろにドンファン修行に旅立とうという所存でいたのにその田舎娘ひとりの研究に人生七十年を使ってしまったという笑い話。 僕は深刻な表情をしていながら喜劇のヒロオだ。 案外道化役者の才能があるのかも知れぬ。 このごろの僕の周囲は笑い話で一ぱいだ。 たわむれに邪推してみてふざけていたらたしかな証拠があります等と興覚めの恐ろしい事を真顔で言われて総毛立った。 冗談から駒が出たとはこの事だ。 入歯のおふくろが横恋慕されたというのも相当の喜劇だ。 ポローニヤスが急に仔細らしく正義の士に早変りしたというのも噴飯ものだ。 僕がやがてパパになるというのも奇想天外いやそれよりも何よりも今夜の此の朗読劇こそ圧巻だ。 ポローニヤスはたしかに少し気が変になっているのだ。 一挙に三十年も四十年も若返り異様にはしゃぎ出して朗読劇をやろうなんて言い出すのだから呆れる。 イギリスの女流詩人のなんだかひどく甘ったるい大時代の作品をポローニヤスが見つけて来てこれを台本にして三人で朗読劇をやろうと言い出す始末なのだから恐れいる。 しかもポローニヤスの役は花嫁というのだから滅茶だ。 なるほどその詩の内容はいまの叔父上と母にとってはちょっと手痛いかも知れない。 ポローニヤスは此の朗読劇に王と王妃を招待して劇の進行中にお二人がどんな顔をなさるかためしてみようという魂胆なのだが馬鹿な事を考えたものだ。 たとい真蒼な顔をなさったところでそれがどんな証拠になるものか。 また平気で笑っていたとてそれが無罪の証拠になるとは限らぬ。 お二人の感覚の鋭敏遅鈍の判定は出来るだろうが有罪無罪の判定にはなりやしない。 全くポローニヤスはどうかしている。 馬鹿らしいとは思っていながら僕も又だらし無い。 オフィリヤの親爺のご機嫌をそこねたくないばかりにそれはいい考えだなんてお追従を言ってホレーショーにも賛成を強要し三人で朗読の稽古をはじめたのはきょうの昼過ぎだ。 ホレーショーは最初あんなに気がすすまないような事を言っていながら稽古がはじまると急に活気づいて来てウイッタンバーグの劇研究会仕込みとかいう奇妙な台詞まわしで黄色い声を張りあげていた。 あいつは本当に正直な男だ。 自分の感情をちっとも加工しないで言動にあらわす。 どんなへまを演じても何だか綺麗だ。 いやらしいところが無い。 しんから謙譲なあきらめを知っている男だ。 それに較べて此の僕はああ馬鹿だ。 大馬鹿野郎だ。 僕はあきらめる事を知らない。 僕の慾には限りが無い。 世界中の女をひとり残らず一度は自分のものにしてみたい等と途方も無い事をのほほん顔で空想しているような馬鹿なのだ。 世界中の人間にしんから敬服されたいものだ僕の俊敏の頭脳と卓抜の手腕と厳酷の人格を時折ちらと見せてあらゆる人間に瞠目させたい等と頬杖ついてうっとり思案してもみるのだがさて僕には何も出来ない。 世界中の女どころかお隣りの娘さんひとりを持てあまして死ぬほど苦しい思いをしている。 卓抜の手腕どころか僕には国の政治はなんにもわからぬ。 瞠目されるどころか人にだまされてばかりいる。 人をこわがってばかりいる。 人を畏敬してばかりいる。 人が僕にかたちばかりのお辞儀をしても僕はそのお辞儀をまごころからのものだと思い込んでたちまち有頂天発狂気味にさえなってその人の御期待にお報いせずんばあるべからずと心にも無い英雄の身振りを示し取りかえしのつかぬ事になったりしてみんなに嘲笑せられるくらいが落ちさ。 人に悪口を言われてもその人の敵意には気が附かずみんな僕の為を思って言いにくい悪口でも無理に言ってくれるのだありがたいこの御厚情にはいつの日かお報いせずんばあるべからずと心の中の手帳にその人の名を恩人として明記して置くという始末なのだ。 人から軽蔑せられてもかえってそれを敬意か愛情と勘違い恐悦がったりして五六年|経って一夜ふっとその軽蔑だった事に気附いて畜生。 と思うのだがいや実にめでたい。 かと思うとその反面に打算の強いところもあって友人達に優しくしてやって心の隅ではかならずひそかに情は人のためならず等と考えているんだからやりきれない男さ。 底の知れない馬鹿とは僕の事だ。 どだい僕にはどんな人が偉いんだかどんな人が悪いんだかその区別さえはっきりしない。 淋しい顔をしている人がなんだか偉そうに見えて仕様が無い。 ああ可哀想だ。 人間が可哀想だ。 僕もホレーショーも可哀想。 ポローニヤスもオフィリヤも叔父さんもお母さんもみんなみんな可哀想だ。 僕には昔から軽蔑感も憎悪も怒りも嫉妬も何も無かった。 人の真似をして憎むの軽蔑するのと騒ぎ立てていただけなんだ。 実感としては何もわからない。 人を憎むとはどういう気持のものか人を軽蔑する嫉妬するとはどんな感じか何もわからない。 ただ一つ僕が実感として此の胸が浪打つほどによくわかる情緒はおう可哀想という思いだけだ。 僕はこの感情一つだけで二十三年間を生きて来たんだ。 他には何もわからない。 けれども可哀想だと思っていながら僕には何も出来ないんだ。 ただそう思ってそれを言葉で上手に言いあらわす事さえ出来ずまして行動に於てはその胸の内の思いと逆な現象ばかりがあらわれる。 なんの事は無い僕はなまけ者の大馬鹿なんだ。 何の役にも立ちやしない。 ああ可哀想だ。 まったく笑い事じゃない。 ホレーショーも叔父さんも母もポローニヤスもみんな可哀想だ。 僕のいのちが役に立つなら誰にでも差し上げます。 このごろ僕には人間がいよいよ可哀想に思われて仕様がないんだ。 無い智慧をしぼって懸命に努めてもみんな悪くなる一方じゃないか。 ああいそがしい。 おやハムレットさまはもうこちらへおいでになっていたのですか。 どうですこれはちょっとした舞台でしょう。 わしが先刻毛氈やら空箱やらを此の部屋に持ち込んでこんな舞台を作ったのです。 なあにこれくらいの舞台で充分に間に合いますよ。 朗読劇でございますから幕も背景も要りません。 そうでしょう。 でも何も無いというのも淋しいのでここへ蘇鉄の鉢を一つ置いてみました。 どうですこの植木鉢一つで舞台がぐんと引き立って見えるじゃありませんか。 可哀想に。 なんですって。 何が可哀想なんです。 蘇鉄の鉢をここへ置いちゃいけないとおっしゃるのですか。 それじゃもっと舞台の奥のほうに飾りましょうか。 なるほどそう言われてみるとこの舞台の端に置かれたんじゃ蘇鉄の鉢も可哀想だ。 いまにも舞台から落っこちそうですものね。 ポローニヤス可哀想なのはあなただよ。 いやあなただけでは無く叔父さんも母もみんな可哀想だ。 生きている人間みんなが可哀想だ。 精一ぱいに堪えて生きているのにたのしく笑える一夜さえ無いじゃないか。 いまさらまた何をおっしゃる。 可哀想だなんて縁起でも無い。 あなたはひとの折角の計画に水を差して興覚めさせるような事ばかりおっしゃる。 わしはただあなたのお為を思って此の度のこんな子供だましのような事をも計画してみたのですよ。 わしはあなた達の正義潔癖の心に共鳴を感じ真理探求の仲間に参加させてもらったのです。 他にはなんの野心もないのです。 此の度のあの怪しからぬ噂がいったいどこ迄事実なのか此の朗読劇を御覧にいれてためしてみようという――。 わかったわかった。 ポローニヤスあなたはいかにも正義の士だよ。 見上げたものです。 けれども自分ひとりの正義感が他人の平穏な家庭生活を滅茶滅茶にぶちこわす事もあります。 どちらがどう悪いというのでは無い。 はじめから人間はそんな具合に間がわるく出来ているのだ。 叔父さんが何か悪い事をしているという証拠を得たとてどうなろう。 僕たちみんなが以前より一そう可哀想になるだけじゃないか。 いやハムレットさま失礼ながらまだお若い。 もし此のこころみに依って王さまに何のうしろ暗いところも無かったという事がわかったらわしたちは申す迄も無くデンマークの国民ひとしくほっと安堵の吐息をもらし幸福な笑顔が城中に満ちるでしょう。 正義は必ずしも人の非を挙げて責めるものではなくある時には無実の罪を証明してその人を救ってやるものです。 ポローニヤスはその万一の幸福な結果をも期待しているのです。 万一。 万一そんな結果になったらああそれは奇蹟に近いいやしかしまあとにかくやってみましょう。 その後の事はポローニヤスに任せて下さい。 決して悪いようには致しません。 ポローニヤス一生懸命だね。 可哀想に。 僕にはみんなわかっているよ。 ああいやだ。 叔父さんがたといどんな事をしていたってかまわないじゃないか。 叔父さんは叔父さんの流儀で精一ぱいに生き伸びているだけなんだ。 僕の気持はどうやらくるりと変ったようだ。 けさまであんなに叔父さんを悪く言いあのいまわしい噂の根元を突きとめなければなんて騒ぎ立てていたのだがポローニヤスあれはあなたに見事ぐさりと突かれたように醜聞の風向きを変えるためだったのかも知れぬ。 やっぱりてれ隠しの道具に使っているだけの事だったのかも知れぬ。 先刻あなたからたしかな証拠が残念ながらありますと言われて急に叔父さんを可哀想になってしまった。 可哀想だ。 叔父さんは精一ぱいなのだ。 叔父さんはそんな馬鹿な悪い事の出来る人じゃない。 叔父さんは僕以上に弱い人なんだ。 一生懸命に努めているのだ。 ああ僕は馬鹿だ。 叔父さんを冗談にも一時疑っていたなんて僕はおっちょこちょいの恥知らずだ。 ポローニヤスもう正義ごっこはやめにしようよ。 この軽薄な遊戯がどんな恐ろしい結果になるかああその恐ろしい結果を考えると生きて居られない気持がする。 どうもあなたは大袈裟でいけません。 けさほどはくるしいとい言葉の連続ただいまは可哀想の連発。 どこで教えられて来たのかひとつ覚えみたいに連発していらっしゃる。 世の中は情緒だけのものじゃありません。 正義と意志です。 立派に生き果すためには憐憫や反省は大の禁物。 あなたはオフィリヤの事だけを考えて居ればそれでいいのです。 ハムレットさまに較べるとホレーショーどのなんかは淡泊で無邪気で本当に青年らしい単純な夢の中で生きています。 少しは見習いなさいよ。 ホレーショーどのはもう此の朗読劇の底の魂胆を忘れてしまったかのようにただただ芝居をするという事の嬉しさに浮かれあんなに熱心に稽古をしていたじゃありませんか。 あれでいいのです。 あなたは台詞の稽古は充分ですか。 間もなくお客さまたちがここへお見えになりますよ。 ホレーショーどのがいま皆さまをお誘い申しにあがったのです。 あのひとはたいへんな張りきりかたですね。 内心は花嫁の役のほうをやりたかったらしいんですけどあの役はわしでなければうまく出来ない。 おやもうお客さまたちがやって来たようです。 やあ今夜はお招きを有難う。 ホレーショーがウイッタンバーグ仕込みの名調子を聞かせてくれるというので皆を連れて拝聴にまいりました。 ほんの近親の者たちばかりでこういう催しをするのは実にたのしいものですね。 一家|団欒というものがやっぱり人生の最高の幸福なのかも知れない。 わしにはこのごろたのしい事がなくなりました。 人生はどうも重苦しい事ばかりです。 本当に今夜は有難う。 ハムレットもきょうは元気のようですね。 親友のホレーショーと遊んでいると機嫌もなおるものと見える。 これからは時々こんな催し事をするがよい。 ハムレットの気も晴れるでしょう。 はい実はわしもその積りでとしを忘れて青年の劇団に加入させてもらいました。 まず此のたびの御即位と御婚儀のお祝いのためつぎにはハムレットさまのお気晴し最後にホレーショーどのの外国仕込みの発声法|御披露のためこの発声法は又格別に見事なもので。 ひやかしちゃ困ります。 発声法などと言われてはかえって声が出なくなります。 さあ王妃さまどうぞ。 観客席はそちらでございます。 どうぞお坐り下さいまし。 足もとから鳥が飛び立つように朗読劇なんかどうしてはじめる事にしたのでしょう。 ハムレットの気まぐれかポローニヤスの悪智慧かホレーショーはいい加減におだてられて使われているようですし何にしても合点のゆかぬ事ですね。 ガーツルード。 芝居の通人はそんなわかり切った事は言わぬものです。 さあ皆もお坐り。 うむなかなか舞台もよく出来た。 ポローニヤスの装置ですか。 意外にも器用ですね。 人はそれでもどこかに取柄があるものだ。 たしかに。 いまにもっと器用なところを御覧にいれます。 さてそれではハムレットさま舞台へあがりましょう。 ホレーショーどのもどうぞ。 アルプスの山よりも高いような気がする。 断頭台にのぼるかよいしょ。 初演の時はどなたでも舞台が高くて目まいがします。 僕は三度目だから大丈夫。 あ。 足が滑った。 ホレーショーどの気を附けて下さい。 空箱を寄せ集めて作ったのですからでこぼこがあるのです。 では皆さま。 わたしたち三人これこそは正義の劇団。 こよいはイギリスの或る女流作家の傑作『迎え火』という劇詩を演出して御覧にいれまする。 不馴れの老爺もまじっている劇団ゆえむさくるしいところもございましょうが御海容のほど願い上げます。 ホレーショーどのは外国仕込みの人気俳優まず御挨拶はそちらから。 え。 僕はその何もいや困ります。 僕はただ花聟の役を演じてみたいと思っているだけなのです。 かく申す拙者は花嫁の役を演じ上げます。 気味が悪い。 ポローニヤスどのはお酒に酔っているらしい。 酒どころか。 もっとひどい。 あの眼つきを見なさい。 僕は亡霊の役だそうです。 ポローニヤス早くはじめたらどうですか。 観客が酔っぱらい劇団だと言っていますよ。 なに酔ってないのはわしだけさ。 ばかばかしいがはじめましょう。 では皆さま。 よして下さい。 ハムレットいい加減におよしなさい。 これは一体誰の猿智慧なんです。 ばかばかしくて見て居られません。 どうせいやがらせをなさる積りならも少し気のきいた事でやって下さい。 あなたがたは卑怯です。 陋劣です。 私はおさきに失礼します。 なんだか吐きそうになりました。 ちっとも怒る事はありません。 面白いじゃないか。 まだ此のつづきもあるようです。 ポローニヤスの花嫁はお手柄でした。 もっと強く抱いてと息をつめて哀願するところもよかったしあたしはだめだわと言ってがくりと項垂れるところなど実に乙女の感じが出ていました。 うまいものですね。 お褒めにあずかっておそれいります。 ポローニヤスあとでわしの居間にちょっとおいでを願います。 ハムレットは台本に無い台詞まで言っていましたね。 でもなんだか熱が無かった。 表情が投げやりでした。 私は失礼いたします。 こんな下手くその芝居はごめんです。 ポローニヤスの花嫁には海坊主の花聟でなければ釣合がとれません。 ではおさきに。 まあお待ちなさい。 ハムレットもう此の芝居はすんだのですか。 ああすみました。 もっとつづきもあるんですけどどうだっていいんです。 もうよしましょう。 芝居を演ずるのが真の目的ではなかったのですから。 さあみなさんお帰り下さい。 どうも今夜はお退屈さまでした。 そんなところだろうと思っていました。 さあガーツルードそれではわしも一緒に失礼しましょう。 いやなかなか面白かった。 ホレーショーウイッタンバーグ仕込みの名調子はどもりどもり言うところに特色があるようですね。 いやしい声をお耳にいれました。 どうも此の朗読劇に於ては僕は少し役不足でありました。 ポローニヤスはあとでちょっとわしの居間に。 では失礼。 一筋縄では行かぬわい。 なにほどの事も無かったようですねえ。 当り前さ。 王妃は怒り王は笑った。 それだけの事がわかったとてそれが何の鍵になるのだ。 ポローニヤスあなたは馬鹿だよ。 オフィリヤ可愛さに少しやきがまわったようですね。 わしとお前だけは雨風にたたかれながら飛び廻り泣き叫び駈けめぐる。 なに事件はこれから急転直下です。 まあ見ていて下さい。 裏切りましたねポローニヤス。 子供たちをそそのかしてあんな愚にも附かぬ朗読劇なんかをはじめていったいどうしたのです。 気がへんになったんじゃないですか。 自重して下さい。 わしにはたいていわかっています。 君はあんなふざけた事をしてわしたちをおどかし自分の娘の失態を容赦させようとたくらんでいるのでしょう。 ポローニヤスやっぱりあなたも親馬鹿ですね。 なぜ直接にわしに相談しないのですか。 うらみがあるならからりとそのまま打ち明けてみたらいいのだ。 君は不正直です。 陰険です。 それもつまらぬ小細工ばかり弄して男らしい乾坤一擲の大陰謀などはまるで出来ない。 ポローニヤス少しは恥ずかしく思いなさい。 あんな喙の青いハムレットだのホレーショーだのと一緒になって歯の浮くようなきざな文句を読みあげていったい君はどうしたのです。 なにが朗読劇だ。 遠い向うの遠い向うのとおちょぼ口して二度くりかえして読みあげた時にはわしは全身鳥肌になりました。 ひどかったねえ。 見ているほうが恥ずかしくわしは涙が出ました。 君はもとから神経が繊細でそれはまた君の美点でもあり四方八方にこまかく気をくばってくれて遠い将来の事まで何かと心配しわしに進言してくれるのでわしは大変たすかり君でなくてはならぬと心から感謝したのもしくも思っていたのですがそれが同時に君の欠点でもあって豪放|磊落の気風に乏しく物事にこせこせして愚痴っぽく思っていることをそのまま言わずへんに紳士ふうに言い繕う癖があります。 詩人肌とでもいうのでしょうかね。 どうも陰気でいけません。 胸の中にいつもうらみを抱いているように見えるものですから城中の者どもにもけむったがられあまり好かれないようじゃありませんか。 たいして悪い事も出来ない癖にどこやら陰険に見えるのです。 性格がめめしいのです。 濁っているのです。 この王にしてこの臣ありとでも言うところなのでしょう。 ポローニヤスのめめしいところは王さまからの有難い影響でございましょう。 血迷って何を言うのです。 無礼です。 何を言うのです。 そのふくれた顔つきはまるで別人のように見えます。 ポローニヤス君は本当にどうかしているのではないですか。 さきほどはあんな薄気味のわるい黄色い声を出して花嫁とやらのいやらしい役を演じもともと神経が羸弱でしょげたり喜んだり気分のむらの激しい人だから何かちょっとした事件に興奮して地位も年齢も忘れておどり出したというわけかでもそれにも程度があるポローニヤスとわしとは三十年間謂わばまあ同じ屋根の下で暮して来たようなものですが今夜のように程度を越えた醜態ははじめてだこれには或いは深いわけがあるのかも知れぬゆっくり問いただしてみましょうと思ってわしは君をここへお呼びしたのですがなんという事です。 一言のお詫びどころか顔つきを変えてこのわしに食ってかかる。 ポローニヤス。 さ落ちついてはっきり答えて下さい。 君はいったいなんだってあんな子守っ子だって笑ってしまうような甘ったるい芝居を年甲斐もなくはじめる気になったのですか。 とにかくあの芝居はいや朗読劇かとにかくあのくだらない朗読劇は君の発案ではじめたものに違いない。 わしにはちゃんとわかっています。 ハムレットだってホレーショーだってもっと気のきいた台本を択びます。 あんな大仰な身震いせざるを得ないくらいの古くさい台本は君でなくては択べません。 何もかも君の仕業です。 さポローニヤス答えて下さい。 なんだってあんな無礼な馬鹿な真似をするのです。 王さまは御聡明でいらっしゃるのですからべつにポローニヤスがお答え申さずともすべて御洞察のことと存じます。 こんどは又ばか丁寧にいや味を言う。 すねたのですか。 ポローニヤスそんな気取った表情はおよしなさい。 ハムレットそっくりですよ。 君もハムレットのお弟子になったのですか。 さっき王妃から聞いた事ですがこのごろあちこちにハムレットのお弟子があらわれているそうですね。 ホレーショーはあれは前からハムレットには夢中で口の曲げかたまでハムレットの真似をしているのですがこのごろはまたわかい女のお弟子も出来たそうです。 それからまたただいまはおじいさんのお弟子も出来たようです。 ハムレットもこんなにどしどし立派な後継者が出来て心丈夫の事でしょう。 ポローニヤスいいとしをしてそんなにすねるものではありません。 不満があるならからりと打ち明けてみたらどうですか。 オフィリヤの事ならわしはもう覚悟をきめています。 おそれながら問題はオフィリヤではございません。 あれの運命はもうきまって居ります。 田舎のお城に忍んで行ってひそかにおなかを小さくするだけの事です。 そうしてわしは職を辞しレヤチーズの遊学は中止。 わしたち一家は没落です。 それはもうきまっている事です。 ポローニヤスはあきらめて居ります。 ハムレットさまはやはりイギリスから姫をお迎えなさらなければなりませぬ。 一国の安危にかかわる事です。 オフィリヤも不憫ではありますが国の運命にはかえられませぬ。 ポローニヤス一家はいかなる不幸にも堪え忍んで生きて行くつもりでございますからその点は御安心下さい。 さて問題はオフィリヤではございませぬ。 問題は正義です。 正義。 不思議な事を言いますね。 正義。 青年の正義です。 ポローニヤスはそれに共鳴したという形になっているのでございます。 王さまいまこそポローニヤスはつつまず全部を申し上げます。 なんだか朗読劇のつづきでも聞かされているような気がします。 へんに芝居くさく調子づいて来たじゃありませんか。 王さまポローニヤスは真面目です。 王さまこそそんなに茶化さずに真剣にお聞きとりを願います。 まず第一にわしから王さまにお伺い申し上げたい事がございます。 王さまはこのごろの城中の実に不愉快千万の噂に就いてどうお考えになって居られますか。 なんですか君の言う事はよくわからないのですがオフィリヤの噂だったらわしはけさはじめて君から聞いて知ったのでそれまでには夢にも思い設けなかった事でした。 おとぼけなさってはいけません。 オフィリヤの事などいまは問題でございません。 それはもう解決したも同然であります。 わしのいまお伺い申しているものはもっと大きくおそろしくなかなか解決のむずかしい問題でございます。 王さまは本当に何もご存じないのですか。 お心当りが無いのでしょうか。 そんな筈はない。 そんな筈は――。 知っている。 みな知っています。 先王の死因に就いてけしからぬ臆測が囁き交されているという事はわしも承知して居ります。 怒るよりもわしは自分の不徳を恥ずかしく思いました。 そんな途方も無い滅茶な噂がまことしやかに言い伝えられるのもわしの人徳のいたらぬせいです。 わしはたまらなく淋しく思っています。 けれども噂はひろがるばかりでこのごろは外国の人の耳にもはいっている様子でありますからこのままわしが自らを責めて不徳を嘆いているだけではいよいよ噂も勢いを得てとりかえしのつかぬ事態に立ちいたるかも知れぬと思いこの噂の取締りに就いて君と相談してみたいと考えていたところでした。 わしはまあ平気ですが王妃はやはり女ですからずいぶん此の噂には気を病んでこのごろは夜もよく眠っていない様子であります。 このまま荏苒時を過ごしていたなら王妃は死んでしまいます。 わしたちのつらい立場を知りもせぬ癖にわかい者たちは何かと軽薄な当てこすりやら厭味やらを言ってひとの懸命の生きかたを遊戯の道具に使っています。 なさけ無い事と思っていたらこんどは君までどんな理由かわかりませんがわかい者の先に立って躍り狂っているのだから本当に世の中がいやになります。 ポローニヤスまさか君まであの噂を信じているわけじゃないだろうね。 信じて居ります。 なに。 いいえ信じて居りません。 けれどもわしは信じている振りをしていようと思っています。 ポローニヤスのこれが置土産の忠誠でございます。 王さまいやクローヂヤスさま。 三十余年間臣ポローニヤスのみならず家族の者まで御寵愛と御庇護を得てまいりました。 此度オフィリヤの残念なる失態に依りおいとましなければならなくなってポローニヤスの胸中にはさまざまの感慨が去来いたして居ります。 つらい別離の御挨拶を申し上げる前に一つ忠誠の置き土産御高恩の万分の一をお報いしたくてけさほどからわかい人たちに対して最善と思われる手段を講じて置きました。 わかい人たちはあの噂をはじめは冗談みたいに扱ってたわむれに大袈裟に騒ぎまわっていたのですがわしはその騒ぎを否定せずかえってあの噂には根拠があるあの噂は本当だと教えてあげました。 ポローニヤス。 それがなんの忠誠です。 若い者をそそのかし蜚語を撒きちらして忠誠も御恩報じもないものだ。 ポローニヤス君の罪は単に辞職くらいではすまされません。 わしは君を見そこなった。 こんなくだらぬ男だとは思わなかった。 お怒りはあと廻しにしていただきたく思います。 もしポローニヤスの此度の手段が間違って居りましたらどんな御処刑でも甘んじてお受け致します。 クローヂヤスさまおそれながら此度の奇怪の噂は意外なほど広く諸方に伝えられもみ消そうとすればするほど噂の火の手はさかんになり尋常一様の手段ではとても防ぐ事の出来ぬと見てとりましたので死中に活を求める手段すなわちわしが頗る軽率に騒ぎ出して若い人たちに興覚めさせ王に同情の集るように仕組んだものでございますが果してもうハムレットさまもホレーショーもいまではわしが正義正義と連呼して熱狂する有様に閉口し王さまの弁護をさえ言い出している始末でございます。 この風潮が城中の奥から起ってやがてざわざわ四方に流れていって噂の火焔を全部消しとめてくれるのも遠い将来ではございますまい。 すべてがうまく行ったようです。 噂というものはこちらでもみ消そうとするとかえって拡がりこちらから逆に大いに扇いでやると興覚めして自然と消えてしまうものでございます。 わしだっていいとしをして若い人たちにまじってやれ正義だの理想だのと歯の浮くような気障な事を言ってとうとうあの花嫁の役まで演じなければならなくなりずいぶんつらい思いをしました。 いま考えても冷汗が湧きます。 微衷をお汲み取り願い上げます。 よく言った。 見事な申し開きでありました。 けれどもポローニヤスわしは子供ではありません。 そんな馬鹿げた弁解をどうして信じる事が出来ましょう。 信じたくても馬鹿らしくてつい失笑してしまいます。 噂の火の手を消すために逆に大いに扇いだなんてそんな馬鹿な子供だましの言い繕いはハムレットあたりに聞かせてあげると或いは感服させる事が出来るかも知れんがわしにはただ滑稽に聞えますよ。 たいへんな忠臣もあったものだ。 ポローニヤスもう何も言うな。 ばからしくて聞いて居られぬ。 わしから言ってあげます。 君はガーツルードに昔から或る特種な感情を抱いて居った筈でした。 この度先王が急になくなってガーツルードが悲嘆の涙にくれていた時君の慰めの言葉には異様な真情がこもっていたのでわしにははっきりわかったのです。 不埒なやつだ。 あわれな男だとその時からわしは君をひそかに警戒していたのです。 ポローニヤス君はご自分では気が附かずただもういらいらしてオフィリヤの失態に極度に恐縮してみたりかと思うと唐突に正義だの潔癖だのと言い出して子供たちのお先棒をかついでわしたちに当り散らしたりまたは遽かに忠臣を気取ってみたりこのたびのオフィリヤの事件を転機としてしどろもどろに乱れていますがそれは君のきょうまで堪えに堪えて来た或る種の感情がいま頗る滑稽な形で爆発したというだけの事です。 君はご自分では気がつくまい。 ただもういらいらして老いのかんしゃく玉を誰かれの区別なくぶっつけてやりたいような気持なのでしょうがポローニヤスその気持は昔から或る名前で呼ばれてちゃんと規定されてあります。 さっきの朗読劇でハムレットの読み上げた言葉の中にもありましたね。 気がつきましたか。 嫉妬と呼ばれているようですね。 ぷ。 自惚れもたいがいになさいまし。 恋ゆえ人は盲目にもなるようです。 王さまこそどうかなさって居られます。 ご自分が恋していらっしゃると人も皆恋しているもののように見えるらしい。 とにかくその嫉妬とやらいうお言葉だけはお返し申し上げます。 ポローニヤスは男やもめの生活こそ永く致してまいりましたが不面目の色沙汰ばかりは致しませぬ。 王さまこそへんな嫉妬をなさって居られる。 本当に王さまの只今の御心情こそ嫉妬とお呼びして然るべきものと存じます。 永い間の秘めたる思いが先方にとどいて王さまもお喜びなさって居られるのが当然のところこんなわしみたいな野暮ったい老人にまで嫉妬なさるとはさてはお内の首尾があまり上乗でないとポローニヤス拝察つかまつりますがいかがなものでありましょう。 だまれ。 ポローニヤス気が狂ったか。 誰に向って言っているのだ。 娘の失態からもはや破れかぶれになっているものと見える。 いまの無礼の雑言だけでも充分に免職入牢の罪に価いします。 けがらわしい下賤の臆測はわしの最も憎むところのものだ。 ポローニヤス建設は永く崩壊は一瞬だね。 君の三十年間の忠勤も今宵の無礼であとかたも無く消失した。 はかないものだね。 人の運命なんて一寸さきも予測出来ないものだね。 どんな事になるものかまるっきりわからない。 宿命を意志でもって左右できるとわしは之まで信じていたがやっぱりどこかに神のお思召しというものもあるらしい。 ポローニヤス。 わしはついさきまで君をゆるして上げるつもりで居りました。 オフィリヤの事もわしは最悪の場合を覚悟していたのです。 ハムレットが真実オフィリヤにまいっていてわしたちの忠告に耳を傾けてくれそうも無い時には仕方がありませんイギリスの姫の事は断念してオフィリヤとの結婚をゆるしてあげるつもりでした。 王妃はもはやオフィリヤの味方になっています。 王妃はきょうの夕刻このわしに泣いて跪いてたのみました。 きょう迄わしを冷笑して来たガーツルードがはじめて誇りを捨ててたのみました。 わしとしても覚悟せざるを得なかった。 イギリスから姫を迎える事は重大な政策の一つではあったがわが家を不和にして迄それを敢行する勇気はわしには無いのだ。 わしは弱い。 良い政治家ではないようだ。 デンマーク国の運命よりも一家の平和を愛している。 よい夫よい父にさえなれたらそれで満足なのです。 わしには国王の資格が無いのかも知れぬ。 わしは君たちをゆるしてやろうと思っていました。 みんな弱い者同志だ。 助け合ってこれからも仲良くやって行こうと覚悟をきめた矢先にポローニヤス君はなんという馬鹿な男だろう。 ひとりでひがんで君たち一家がもう没落するものとばかり思い込み自暴自棄になってしまって王妃にはかなわぬ恋の意趣返しつまらぬ朗読劇などであてこすりを言いまた此のわしにははじめは忠臣の苦肉の策だ等と言いくるめようとして見破られると今度は居直って無礼千万の恐喝めいた悪口雑言をわめき立てる。 ポローニヤスわしはもう君たちを許すのがいやになった。 君はおろかだ。 見え透いている。 わしは人間の悪を許す事は出来ますが人間のおろかさは許す事が出来ない。 愚鈍は最大の罪悪だ。 ポローニヤス此度は職を辞するくらいでは済みませんよ。 わかっているでしょうね。 嘘だ。 嘘だ。 王さまのおっしゃる事はみな嘘だ。 ハムレットさまとオフィリヤとの結婚をゆるす気でいらっしゃったなんて嘘も嘘大嘘だ。 お弱い。 よい政治家ではない。 デンマーク国よりも一家の平和のほうを愛していらっしゃる。 何もかも嘘だ。 王さまほどのお強い卓抜の手腕をお持ちの政治家は欧洲にも数が少うございます。 ポローニヤスはかねてよりひそかに舌を巻いて居ります。 王さまおかくしになってはいけません。 此の部屋には王さまとポローニヤスと二人きり他には誰も居りません。 時刻ももはや丑満時です。 城内の者はもとより軒端に宿る小鳥たち天井裏に巣くう鼠のこらずぐっすり眠って居ります。 聞いている者は誰も無い。 さあおっしゃって下さい。 ポローニヤスは何もかもよく存じ上げて居るのです。 王さまは此の二箇月間ポローニヤスの失脚の機会をひそかにねらって居られた筈です。 つまらぬ※語ばかり言っている。 丑満時がどうしたというのです。 恥ずかしげもなく芝居がかった形容詞を並べたていったい何をそんなにいきまいているのですか。 みっともない。 ポローニヤスもうおさがりなさい。 追って申し渡す事があります。 いますぐお沙汰を承りましょう。 ポローニヤスは覚悟をしています。 とてものがれられぬとあきらめて居ります。 此の二箇月間わしは王さまにつけねらわれて居りました。 何か失態は無いものかと鵜の目鷹の目でさぐられていたのです。 わしはそれを知っていたので何事も王さまの御意向にさからわぬよう充分に気をつけてきのう迄はどうやら大過なく勤めて来たつもりで居りました。 わが子のレヤチーズをフランスへ遊学にやったのも一つには王さまの恐しい穿鑿の眼からのがれさせてやる為でもありました。 わしに失態が無くともレヤチーズが若い粗暴の振舞いから何かしくじりをしでかさぬものでもない。 レヤチーズに多少の落度でもあったなら待っていたとばかりに王さまはわしの一家を罰して葬り去るのは火を見るより明かな事ゆえわしは万全を期してレヤチーズをフランスへ逃がしてやりやれ安心と思うまもなく意外残念わしの一ばん信頼していたオフィリヤがとんでも無い間違いをやらかしているのをきのう知って足もとの土がざあっと崩れてもう駄目だと観念いたしました。 いまはせめてオフィリヤの幸福だけでもと藁一すじに縋る気持でけさほどハムレットさまに御相談申し上げたところ失礼ながらハムレットさまは未だお若く黒雲がもくもく湧き立ったとか乱雲が覆いかぶさったとかとりとめのない事を口走るばかりで一向にたよりにも何もなりませぬ。 よくおたずねしてみたらハムレットさまは只今オフィリヤの事よりも先王の死因に就いてのあの恐ろしい噂の事ばかり気にして居られて必ず噂の根元を突きとめてみたいと意気込んでおっしゃるような始末なのでこんな無分別なお若い人たちのなさる事を黙って傍観していると藪から蛇みたいなたいへんな結果が惹起するかも知れぬここはポローニヤス一世一代の策略または忠誠の置土産躊躇せずに若い人たちの疑惑を支持しまっさき駈けて正義を叫びあのような甘ったるい朗読劇を提唱し若い人たちのほうで呆れて興覚めするように仕組んだのだという事はまえにも申し上げましたが王さまはてんで信じて下さいませんでした。 わしの心の奥隅にはやはりオフィリヤがいじらしくなんとかしてあの子だけでも仕合せになれるように祈っているところもあったのでございましょう。 いやな疑惑を一刻も早くハムレットさまのお心から追い払ってあげてそうしてあとはオフィリヤの事ばかりを考えて下さるよう全力を挙げてオフィリヤの為にたたかって下さるようそのようなオフィリヤの為にもよかれと思って仕組んだところも無いわけではなかった。 けれども決してそればかりではございません。 王さまお信じ下さい。 人間にはよい事をしたいという本能があります。 ひとに感謝をされたいと思って生きているものです。 ポローニヤスはきょう一日王さまのため王妃さまのためハムレットさまのため忠誠の立派な置土産をしたつもりで居ります。 お褒めにあずかって当然のところおろかな言い繕いだの破れかぶれだのおっしゃって嘲笑なされはては嫉妬なぞと思いも掛けぬ濡衣を着せようとなさるのでポローニヤスもつい我慢ならず失礼な雑言を口走りました。 ポローニヤスはもはや観念して居ります。 王さまは此の二箇月間ポローニヤスがこのような窮地に落ちいるのを待ちに待って居られたのです。 さぞ本懐でございましょう。 ポローニヤスはなるほど馬鹿でございます。 デンマーク一ばんのおろか者でございます。 どうせこんな結果になるのがはじめからわかっていたのに忠誠の置土産などと要らざる義理立てをしたばかりにかえって不利な立場に押し込まれました。 御処罰も数段と重くなった事でございましょう。 自ら墓穴を掘りました。 ああわしは眠っていました。 たくみな台詞まわしについうっとりしたのです。 ポローニヤス少し未練がましくないかね。 いまさら愚痴を並べてみてもはじまらぬ。 おさがりなさい。 わしの心はきまっています。 わるいお方だ。 王さまあなたはわるいお方です。 わしはあなたを憎みます。 申しましょうか。 あの事をわしは知らないと思っているのですか。 わしは見たのです。 此の眼でちゃんと見たのです。 二箇月前あれを一目見たばかりにそれ以来わしは不幸つづきなのだ。 王さまはわしに見られた事に気附いてそれからわしを失脚させようと鵜の目鷹の目になられたのです。 わしは王さまから嫌われてしまった。 そのうち必ずわしは窮地におとされて此の王城から追い払われるだろうとわしは覚悟をしていました。 ああ見なければよかった。 何も知らなければよかった。 正義。 先刻までは見せかけだけの正義の士であったがもういまは腹の底からわしは正義のために叫びたくなりました。 さがれ。 聞き捨てならぬ事を言う。 自分の過失を許してもらいたいばかりに何やら脅迫がましい事まで口走る。 不潔な老いぼれだ。 さがれ。 いやさがらぬ。 わしは見たのだ。 ふたつき前のあの日忘れもせぬ朝は凍えるように寒かったがひる少しまえから陽がさしてぽかぽか暖くなって先王はお庭にお出ましなさったがその時だその時。 乱心したな。 処罰はただいま与えてやる。 処罰いただきましょう。 わしは見たのだ。 見たから処罰をもらうのだ。 あ。 畜生。 短剣の処罰とは。 ゆるせ。 殺すつもりは無かったがつい鞘が走って突き刺した。 さきほどからの不埒の雑言これも自分の娘|可愛さのあまりに逆上したのだ不憫の老人と思い怺えて聞いていたのだがいよいよ図に乗りついには全く気が狂ったか奇怪な恐ろしい事までわめき散らすので前後のわきまえも無く短剣引き抜き突き刺した。 ゆるせ。 君の言葉も過ぎたのだ。 オフィリヤの事なら心配するな。 ポローニヤスわしの言う事がわかるか。 わしの顔がわかるか。 正義のためだ。 そうだ正義のためだ。 オフィリヤ鎧を出してくれ。 お父さんはいけないお父さんだったねえ。 涙。 わしのような者の眼からでもこんなに涙が湧いて出る。 この涙でわしの罪障が洗われてしまうとよいのだが。 ポローニヤス君は一体なにを見たのだ。 君の疑うのも無理がないのだ。 あっ。 誰だ。 そこに立っているのは誰だ。 逃げるな。 待て。 おおガーツルード。 そうか。 ポローニヤスが昨夜から姿を見せぬか。 それは少しへんだね。 でもまあたいした事は無かろう。 大人にはおとなの世界があるんだ。 見え透いた権謀術数を見破られていると知りながらも仔細らしい顔つきをしてあっちでひそひそこっちでこそこそ深く首肯き合ったり目くばせしたりなあにたいした事でも無い癖につまりその策略の身振りが楽しくてこたえられないばかりに矢鱈に集っては打ち合せとかいう愚劣な芝居をしたがるものさ。 叔父さんもポローニヤスもこせこせした権謀術数をなかなかお好きなようだから二人でゆうべ打ち合せてまた何か小細工をはじめているのかも知れぬ。 ゆうべの朗読劇にしたってあれにもポローニヤスの深慮遠謀があったのさ。 そうでも無ければあの人は気が狂ったのだ。 何か抜け目の無い小ざかしい魂胆があったのさ。 僕にはたいてい見当が附いている。 あの人たちはどうしてなかなかの曲者だよ。 もっとも曲者というものはたいてい浅墓で興覚めなけち臭い打算ばっかりやっている哀れな賤しい存在だがそれを見破ったからとてこちらでただ軽蔑してのほほん顔でいたならばひどい目に遭う。 うっかりしているとしてやられる。 黙殺したいいや蔑棄したい程いやな存在だが油断がならん。 僕ははじめポローニヤスの朗読劇を娘可愛さのあまり逆上して王や王妃にいや味を言うための計略とばかり思っていたがゆうべまたよく考えてみたらどうもそればかりでも無いらしい。 あの人たちのする事は一から十まで心理の駈引き巧妙卑劣の詐欺なのだからいやになる。 僕はゆうべやっと判って判ったらぎょっとした。 あの人たちはおそろしい。 一つも信用出来ない。 此の世の中にはやっぱり悪い人というものがいたのだ。 僕はこのとしになってやっと世の中に悪人というものが本当にいるのを発見した。 手柄にもなるまい。 あたりまえの発見だ。 僕はよっぽど頭が悪い。 おめでたい。 いまごろやっとそんな当然の事を発見しておどろいている始末なのだからたいしたものだよ。 底の知れないめでたい野郎だ。 ゆうべの朗読劇はあれはもともと叔父さんとポローニヤスとひそかにしめし合せてはじめた事だ。 それはたしかだ。 間違っていたらこの眼をくり抜いて差し上げてもよい。 もう僕はだまされない。 叔父さんは僕たちの疑惑の眼を避けたいばかりにポローニヤスと相談して僕たちを瞞着する目的であんな不愉快千万の仕組みを案出したのだ。 馬鹿にしていやがる。 僕たちは完全にあの人たちの笛に踊らされたというわけだ。 つまり叔父さんは自分のうしろ暗さをごまかそうとして先手を打ちポローニヤスに命じて僕たちを使嗾させあんな愚劣な朗読劇なんかで王をためさせてそれでも王は平気だから僕たちはがっかりしてあの恐ろしい疑いもおのずから僕たちの胸から消え去りやがては城中の人たちにも僕たちと同じ気持がそれからそれと伝ってすべての不吉な囁きは消滅するようになるだろうという浅墓な魂胆があったのだ。 僕の見当には狂いが無い。 叔父さんとポローニヤスははじめから同じ穴の狢だったのさ。 どうして僕はこんなわかり切った事に気がつかなかったのだろう。 どうもあの人たちのする事はあくどくていけない。 そんなにまでして僕たちをだまさなければいけないのか。 僕たちのほうではあの人たちをたのみにもしているし親しさも感じているし尊敬さえもしているのだからいつでも気をゆるして微笑みかけているのにあの人たちは決して僕たちに打ち解けてくれず絶えず警戒して何かと策略ばかりしているのだから悲しくなる。 なんという事だ。 二人でしめし合せて一人は検事に一人は被告になっていい加減の嘘の言い争いをして見せてほどよいところで証拠不充分無罪放免さ。 僕とホレーショーはその贋の検事に深刻な顔つきをしてお手伝いをしていい気持でいたんだからこれは後世までの笑い草にもなるだろう。 光栄極まる。 けれどもあの人たちの策略はたしかに一応は成功したのだ。 ホレーショーはもうこれで王さまも晴天白日ハムレット王家万万歳僕たちはたとい一時期でもあの噂を信じ王さまを疑っていたとは恥ずかしいあんな失礼な朗読劇なんかをやって後でお叱りがなければいいが等と言って全く叔父さんを信用しかえって自分たちの疑惑に恐縮していたし城中の人たちもそろそろ叔父さんを尊敬し直して来たようだ。 人の心は実にたわいが無いものだ。 風に吹かれる葦みたいに右にでも左にでもたやすく靡く。 僕だってあの朗読劇の直後にはポローニヤスが逆上し錯乱しているものとばかり思って叔父さんが気の毒でたまらず王の居間へ行ってお詫びしようかとさえ思ったものだがあとで落ち附いて考えてみると冗談じゃない僕たちはまんまと一杯くわされたのだという事がわかってぞっとした。 何か在るのだ。 あの不吉な噂は嘘でない。 叔父さんとポローニヤスは悪の一味だ。 いまは二人で腹を合せて悪の露見を必死になって防いでいる。 けれども僕にはわかるんだ。 僕の眼はごまかせない。 もうこうなれば僕も覚悟をきめなければならぬ。 あの人たちは悪い人だ。 ポローニヤスだってはじめから何もかも知っていたのだ。 それを正義だの青年の仲間だのと言って僕たちを言いくるめていい加減に踊らせたのだから天晴れな伎倆だ。 あの人が正義の仲間だったら天国は満員の鮨詰めで地獄のほうはがらあきだ。 いや失敬。 つい興奮し過ぎてポローニヤスが君のお父さんだという事を忘れていました。 でも僕はことさらに君の父ひとりを悪く言っているんじゃないからね叔父さんだって同じ事さ僕は世の中のおとな一般に就いて怒っているのだ。 そこは誤解のないように。 おや泣いているね。 どうしたのです。 お父さんの姿が見えないので心細いというわけか。 やっぱり心配なのかね。 大丈夫ですよ。 いまごろは王さまの内密の御命令でいそがしい仕事に没頭しているに違いない。 どんな仕事だかそれは僕にもわからぬがどうせろくな事でない。 泣いてなんかいないわよ。 眼にごみがはいったのでハンケチでこすっていたのよ。 ほらもうごみがとれました。 泣いてなんかいないでしょう。 ハムレットさまはいつでもあたしの気持をへんに大袈裟に察して下さるのであたしは時々噴き出したくなる事があるの。 あたしがただうっとりと夕焼けを眺めて綺麗だなあと思っているのにハムレットさまはあたしの肩にそっとお手を置かれてわかるよくるしいだろうねえけれども苦しいのは君だけじゃない夕焼けの悲しさは僕にだってよくわかるけれども怺えて生きて行こうもうしばらく僕ひとりの為にだけでも生きていておくれいっそ死にたいという思いを抱いてそれでも忍んで生きている人はこの世に何万人何十万人もいるのだよなんてまるであたしが死ぬ事でも考えているかのようにものものしい事をおっしゃるのであたしは可笑しくてくるしくなります。 あたしにはいま悲しい事なんか一つもありませんわ。 いつもあんたはへんにお察しがよすぎてひとりで大騒ぎをなさるのであたしはまごついてしまいます。 女なんてそんなにいつも深い事を考えているものではございません。 ぼんやり生きているものです。 父がゆうべから姿を見せぬので少しは心配でございますがでもあたしは父を信じて居ります。 父はハムレットさまのおっしゃるようなそんな悪い人ではございません。 あなたは気まぐれですからきょうはうんと悪くおっしゃってもまた明日はひどくお褒めになる事もございますのであたしはハムレットさまのお言葉はあまり気にかけない事にしているのですがでもただいまのように滅茶滅茶に父をお疑いになってこわい事をおっしゃるとあたしだって泣きたくなります。 父は気の弱い人です。 とても興奮し易いのです。 ゆうべの朗読劇とやらはあたしはこんなからだですから御遠慮して拝見しませんでしたけれどもし父が正義のためだと言ってはじめたものならきっとそのとおりそれは父の正義心から出た催し事だと思います。 父は小さい冗談のような嘘はしょっちゅう言ってあたしたちをだましますが決して大きなおそろしい嘘は言いません。 その点はまじめな人です。 潔癖です。 責任感も強い人です。 きのうはきっと父がハムレットさまたちの情熱に感激して前後の弁えも無く朗読劇なんかをはじめたのだろうと思います。 父をもう少し信頼してやって下さいませ。 おやおやきょうはどういう風の吹きまわしか紅唇火を吐くの盛観を呈している。 いつも此の調子でいてくれると僕も張り合いがあってうれしいのだが。 すぐそんなに茶化してしまうのでなんにも言いたくなくなります。 あたしはまじめに申し上げているのよ。 ハムレットさま。 あたしはきょうからなんでも思っている事をそのまま言ってしまうことにしたの。 ハムレットさまだって褒めてくださると思うわ。 いつもあたしが愚図愚図ためらったり言いかけてよしたりするとハムレットさまは御機嫌がお悪くなってお前は僕を信頼しないからいけない愛情の打算が強すぎるからそんなにどもってしまうのだとお教えになりました。 あたしは此の二箇月間まるで自信をなくしていたのでついめそめそして言いたい事も言えずに溜息ばかりついていたのです。 以前はそんなでも無かったのですが苦しい秘密を持つようになってからめっきり駄目になりました。 でもきのう王妃さまからさまざま優しいお言葉をいただいてすっかり元気になりました。 からだの具合もきのうから別のひとのようにすっきりしてまいりましたしもういまではハムレットさまのお子さまを産んで丈夫に育てるという希望だけで胸が一ぱいでございます。 あたしはいまは幸福です。 とてもなんだかうれしいの。 これからは昔のお転婆なオフィリヤにかえって誇りを高くもって考えている事をなんでもぽんぽん言おうと思うの。 ハムレットさまあなたは少し詭弁家よ。 ごめんなさい。 だってあなたのおっしゃる事はみんななんだかお芝居みたいなんですもの。 甘ったるいわ。 ごめんなさい。 あなたはいつでも酔っぱらってるみたいだわ。 ごめんなさい。 しょってるわ。 いやらしいわ。 深刻癖というものじゃないかしら。 あなたはいつでも御自分を悲劇の主人公にしなければ気がすまないらしいのね。 ごめんなさい。 だってそうなんですもの。 王さまだってまたあたしの父のポローニヤスだって決してハムレットさまのおっしゃるようなそんな悪い下劣な人じゃ無いわ。 ハムレットさまがひとりでひがんですねて居られるものだから王さまもあたしの父もまた王妃さまもとても弱っていらっしゃるのよ。 それだけの事だとあたしは思うの。 このごろなんだかいやな噂がお城にひろがっているようですけど誰も本気に噂しているわけじゃなかったのよ。 あたしのところの乳母や女中はそんな芝居が外国で流行っているそうですね面白く仕組まれた芝居ですねなんてのんびり言って居りますよ。 まさか此のデンマークの王さまと王妃さまの事だ等とはゆめにも思っていない様子でございます。 みんなのどかに王さまと王妃さまをお慕い申して居ります。 それでいいのだと思うわ。 本気に疑ってくるしんでいなさるのは此のエルシノア王城でハムレットさまあなたぐらいのものなのよ。 父がゆうべ正義の心から朗読劇をやったそうですがそれはまたどうした事でしょう。 ちょっとあたしにもわかりません。 きっと父は興奮したのよ。 とても興奮し易い父ですから。 あたしには父のする事をとやかく詮議立てする資格も無しまた女の子は父たちのなさることを詮議立てしたって何もわからないのが当り前の事ですからあたしははっきりとは言えませんけれどでもあたしは父を信じています。 また王さまをも信じています。 王妃さまはもとからあたしの尊敬の的でした。 なんでも無いのよ。 ハムレットさまひとりが計略だの曲者だの駈引きだのとおっしゃっていかにも周囲に悪い人ばかりうようよいるような事をおっしゃってたいへん緊張して居られますが滑稽だわ。 ごめんなさい。 だってあなたは敵もいないのに敵の影を御自分の空想でこしらえて油断がならんうっかりするとだまされる等と深刻がっていらっしゃるのですもの。 王さまだって王妃さまだってとってもハムレットさまを愛していらっしゃるのにどうしておわかりにならないのでしょう。 悪いお方なんかどこにもいないわ。 ハムレットさま。 あなただけが悪いお方なのかも知れないわ。 だってみんな平和になごやかにお暮しなさっているところへあなたがむずかしい理窟をおっしゃってみなさんを攻撃してくるしめてそうしてこの世の中であなたの愛情だけが純粋で献身的で――。 オフィリヤちょっと待った。 めそめそ泣かれるのも困るがそんな自信ありげな気焔を調子づいてあげられても閉口だ。 オフィリヤ君はきょうどうかしてるぞ。 君にはちっともわかっていない。 そうかなあ。 いままでそんな具合に僕を解釈していたのかなあ。 残念だね。 女ってのはいくら言って聞かせても駄目なものだ。 ちっともわかっていやしないじゃないか。 僕は甘いさ。 あるいは酔っぱらっているかも知れない。 いやらしい。 芝居臭い。 それもよかろう。 そう見えるんだったら仕方が無い。 けれども僕は絶対にいい気になっているわけではないし自分の愛情だけを純粋で献身的だと思いこみ人を矢鱈に攻撃してくるしめているわけでも無い。 むしろその逆だ。 僕はつまらない男なのだ。 だらしのない男なのだ。 僕はそれが恥ずかしくててんてこ舞いをしているのだ。 自分のいたらなさ悪徳をいやになるほど自分で知っているので身の置きどころが無いのだ。 僕は絶対に詭弁家ではない。 僕はリアリストだ。 なんでもみな正確に知っている。 自分の馬鹿さ加減も見っともなさも全部正確に知っている。 そればかりでは無い。 僕はひとのうしろ暗さに対しても敏感だ。 ひとの秘密を嗅ぎつけるのが早いのだ。 これは下劣な習性だ。 悪徳が悪徳を発見するという諺もあるけれどまさしくそのとおりひとの悪徳を素早く指摘できるのはその悪徳と同じ悪徳を自分も持っているからだ。 自分が不義をはたらいている時はひとの不義にも敏感だ。 誇りになるどころか実に恥ずべき嗅覚だ。 僕は不幸にしてそのいやらしい嗅覚を持っている。 僕の疑惑はいまだ一度もはずれた事が無いのだ。 オフィリヤ僕は不仕合せな子なんだよ。 君にはわかるまい。 僕には高邁なところが何も無い。 のらくらの臆病者のそうして過度の感覚の氾濫だけだ。 こんな子はこれから一体どうして生きて行ったらいいのだ。 オフィリヤ僕が叔父さんやお母さんやまたポローニヤスの悪口を言うのは何もあの人たちを軽蔑し嫌悪しているからでは無いのだ。 僕にはそんな資格が無い。 僕はうらめしいのだ。 いつもあの人たちに裏切られ捨てられるのがうらめしいのだ。 僕はあの人たちを信頼し心の隅では尊敬さえしているのにあの人たちはへんに僕を警戒し薄汚いものにでも触るようなおっかなびっくりの苦笑の態度で僕に接してあああの人たちはそんなに上品な人たちばかりなのかねえいつでも見事に僕を裏切る。 打ち明けて僕に相談してくれた事が一度も無い。 大声あげて僕をどやしつけてくれた事もかつて無い。 どうして僕をそんなにいやがるのだろう。 僕はいつでもあの人たちを愛している。 愛して愛して愛している。 いつでも命をあげるのだ。 けれどもあの人たちは僕を避けてかげでこそこそ僕を批判しこまったものさお坊ちゃんには等と溜息をついて上品ぶっていやがるのだ。 僕にはちゃんとわかっている。 僕はひがんでなんかいやしない。 僕はただ正確なところを知っているだけだ。 オフィリヤ少しはわかったか。 君までおとなの仲間入りをして僕に何やら忠告めいた事を言うとは情ないぞ。 孤独を知りたかったら恋愛せよと言った哲学者があったけど本当だなあ。 ああ僕は愛情に飢えている。 素朴な愛の言葉が欲しい。 ハムレットお前を好きだ。 と大声できっぱり言ってくれる人がないものか。 いいえ。 オフィリヤもこんどはなかなか負けませぬ。 ハムレットさまあなたは本当に言いのがれがお上手です。 ああ言えばこうおっしゃる。 しょっていると申し上げるとこんどは逆に僕ほどみじめな生きかたをしている男は無いとおっしゃる。 本当に御自分の悪いところがそんなにはっきりおわかりならただ御自分を嘲ってやっつけてばかりいないでいっそ黙ってその悪いところをお直しになるように努められたらどうかしら。 ただ御自分を嘲笑なさっていらっしゃるばかりでは意味ないわ。 ごめんなさい。 きっとあなたはひどい見栄坊なのよ。 ほんとうに困ってしまいます。 ハムレットさましっかりなさいませ。 愛の言葉が欲しい等と女の子のような甘い事もこれからはおっしゃらないようにして下さい。 みんなあなたを愛しています。 あなたは少し慾ばりなのです。 ごめんなさい。 だって人は本当に愛して居ればかえって愛の言葉など白々しくて言いたくなくなるものでございます。 愛している人には愛しているのだという誇りが少しずつあるものです。 黙っていてもいつかはわかってくれるだろうというつつましい誇りを持っているものです。 それをあなたはそのわずかな誇りを踏み躙って無理矢理口を引き裂いても愛の大声を叫ばせようとしているのです。 愛しているのは恥ずかしい事です。 また愛されているのも何だかきまりの悪い事です。 だからどんなに深く愛し合っていてもなかなか好きだとは言えないものです。 それを無理にも叫ばせようとするのは残酷です。 わがままです。 ハムレットさまあたしの愛が信ぜられなくともせめて王妃さまの御愛情だけでも信じてあげて下さいませ。 王妃さまはお気の毒です。 ハムレットさまおひとりをたよりにしていらっしゃいます。 きのうお庭で王妃さまはあたしの手をお取りになってひどくお泣きになりました。 意外だね。 君から愛の哲理を拝聴しようとは意外だね。 君はいつからそんな物知りになったのですか。 いい加減にやめるがよい。 小理窟を覚えた女は必ず男に捨てられますよ。 パウロが言っていますよ。 われ女の教うる事と男の上に権を執る事を許さずただ静かにすべしとね。 そうして女もし慎みと信仰と愛と潔きとに居らば子を生む事に因りて救わるべしと言い結んである。 人にものを教えようと思ったり男の頭を押えようとしないでただ静かに生れる子供の事を考えていなさいという意味だ。 いい子だから二度と再び変な理窟は言わないでくれ。 世界が暗くなってしまう。 察するところお母さんから悪智慧を附けられて妙に自信を得たのだろう。 お母さんはあれでなかなか理論家だからね。 いまにパウロの罰を受けるぞ。 こんど君がお母さんに逢ったらこう言ってやってくれ。 言葉の無い愛情なんて昔から一つも実例が無かった。 本当に愛しているのだから黙っているというのはたいへん頑固なひとりよがりだ。 好きと口に出して言う事は恥ずかしい。 それは誰だって恥ずかしい。 けれどもその恥ずかしさに眼をつぶって怒濤に飛び込む思いで愛の言葉を叫ぶところに愛情の実体があるのだ。 黙って居られるのは結局愛情が薄いからだ。 エゴイズムだ。 どこかに打算があるのだ。 あとあとの責任におびえているのだ。 そんなものが愛情と言えるか。 てれくさくて言えないというのはつまりは自分を大事にしているからだ。 怒濤へ飛び込むのがこわいのだ。 本当に愛しているならば無意識に愛の言葉も出るものだ。 どもりながらでもよい。 たった一言でもよい。 せっぱつまった言葉が出るものだ。 猫だって鳩だって鳴いてるじゃないか。 言葉のない愛情なんて古今東西どこを捜してもございませんでしたとお母さんにそう伝えてくれ。 愛は言葉だ。 言葉が無くなれや同時にこの世の中に愛情も無くなるんだ。 愛が言葉以外に実体として何かあると思っていたら大間違いだ。 聖書にも書いてあるよ。 言葉は神と共に在り言葉は神なりき之に生命ありこの生命は人の光なりきと書いてあるからお母さんに読ませてあげるんだね。 いいえ決して王妃さまから教えられて申し上げているのではございません。 あたしはあたしの思っていることを精一ぱいに申し上げているだけなのです。 ハムレットさまあなたはおそろしい事をおっしゃいます。 もし愛情が言葉以外に無いものだとしたならあたしは愛情なんかつまらないものだと思います。 そんなものはいっそ無いほうがよい。 ただ世の中をわずらわしくするだけです。 あたしにはどうしてもハムレットさまのおっしゃる事は信じられません。 神さまが居ります。 神さまは黙っていてそうして皆を愛して居ります。 神さまはおまえを好きだ。 なんて決して叫びはいたしません。 けれども神さまは愛して居ります。 みんなを森を草も花も河も娘もおとなも悪い人もみんなを一様に黙って愛して下さいます。 おさない事を言っている。 君の信仰しているものはそれは邪教の偶像だ。 神さまはちゃんと言葉を持って居られる。 考えてごらん。 一ばんはじめ僕たちに神さまの存在をはっきり教えてくれたものはなんだろう。 言葉じゃないか。 福音じゃないか。 キリストはだから――おや叔父さんが多勢の侍者を引きつれて血相かえてやって来た。 きょう此の大広間で何か儀式でもあるのかしら。 ここはふだんめったに使わない部屋だからオフィリヤとこっそり逢うのに適当だと思ってちょいちょいオフィリヤをここへ呼び出す事にしていたのだがこんな不意の事もあるから油断が出来ない。 オフィリヤさあそこのドアから早く逃げ出せ。 議論はこの次にまたゆっくりしよう。 これからはいろいろ教育してあげる。 そうだそのドアだ。 なんて素早い奴だ。 風のように逃げちゃった。 恋は女を軽業師にするらしいとはまずい洒落だ。 ああハムレット。 はじまりましたよ。 戦争がはじまりましたよ。 レヤチーズの船が犠牲になりました。 ただいま知らせがはいりました。 レヤチーズたちの乗って行った船がカテガット海峡にさしかかるといずこからともなくノーウエーの軍艦が忽然と姿をあらわし矢庭に発砲したという。 こちらは商船たまったものでない。 けれどもレヤチーズは勇敢であった。 おびえる船員を叱咤し激励しみずからは上甲板に立って銃を構え弾丸のあるかぎり撃ちまくったのです。 敵の砲弾はわがマストに命中したちまち帆がめらめら燃え上った。 さらに一弾は船腹に命中し鈍い音をたてて炸裂しぐらりと船は傾いてもはや窮した。 この時レヤチーズははじめてボートの支度を下知して四五の船客をまずボートに抱き乗せつぎに船員の妻子のある者にも避難を命じ自分は屈強のいのち知らずの若い船員五六名と共に船に居残りおのおの剣を抜いて敵兵の襲来を待機した。 一兵といえども祖国の船に寄せつけじとレヤチーズは死ぬる覚悟ヘラクレスの如く泰然自若たるものがあったという。 敵艦の者も此の勇者の姿を望見しおじ恐れてただわが帆船のまわりをうろつきそのおのずから炎上し沈没するのを待つより他はなかったのだ。 レヤチーズは悲壮にも船と運命を共にしたのです。 惜しい男だ。 父に似ぬまことの忠臣いや父の名を恥ずかしめぬ天晴れの勇者です。 わしたちはレヤチーズの赤心に報いなければならぬ。 いまはデンマークも立つべき時です。 ノーウエーとの永年の不和がとうとう爆発したのです。 わしはけさその急報に接しただちに決意しました。 神は正義に味方をします。 戦えばわがデンマークは必ず勝ちます。 なに前から機会をねらっていたのだ。 レヤチーズは尊い犠牲になってくれました。 父子そろっていやレヤチーズの霊は必ず手厚く祭ってやろう。 それが国王としてのわしの義務だ。 レヤチーズ。 僕と同じ二十三歳。 竹馬の友。 少し頑固で怒りっぽく僕には少し苦手だったがでもいい奴だった。 死んだのか。 オフィリヤが聞いたら卒倒するだろう。 ここにいなくてさいわいだった。 レヤチーズ。 その身に箔をつけるため将来のおのれの出世に備えるためフランスに遊学の途端に降って湧いた災難その時とっさに自分の野望をからりと捨てデンマーク国の名誉を守るために一身を犠牲にして悔いる色が無かった。 僕は負けたよ。 レヤチーズ。 君は僕をきらいだったね。 僕だって君を好いてはいなかった。 オフィリヤの事が起ってからは君を恐怖さえしていた。 僕たちは幼い時からはげしい競争をして来た。 好敵手だった。 表面は微笑み合いながらも互いに憎んでいた。 僕には君が邪魔だったよ。 けれども君はやっぱり偉いやつだ。 父上――。 はじめて父上と呼んでくれましたね。 さすがにデンマーク国の王子です。 国の運命のためにはすべての私情を捨てましょう。 本日これからこの広間に群臣を集めて重大の布告をいたします。 ハムレット立派な将軍振りを見せて下さい。 いいえ弱い一兵卒になりましょう。 僕はレヤチーズに負けました。 ポローニヤスはどうしていますか。 あの人の胸中にも悲痛なものがあるでしょうね。 それはもちろんの事です。 わしは充分になぐさめてやるつもりで居ります。 さて王妃はいったいどうしたのでしょう。 けさから姿が見えぬのです。 いまホレーショーに捜させているのですが君は見かけませんでしたか。 きょうの布告の式には王妃も列席してないと具合がわるい。 やっぱりこんな時にはポローニヤスがいないと不便ですね。 ではポローニヤスは。 もう此の城にいないのですか。 どこかへ出発したのですか。 叔父さんそんなに顔色を変えてどうしたのです。 どうもしやしません。 このデンマーク国興廃の大事な朝にポローニヤス一個人の身の上などは問題になりません。 そうでしょう。 わしははっきり言いますがポローニヤスはいまこの城にいないのです。 あれは不忠の臣です。 もっとくわしい事情はいまは言うべき時ではない。 いずれよい機会に堂々と包みかくさず発表します。 何かあったな。 ゆうべ何かあったな。 叔父さんのあわてかたは戦争の興奮ばかりでも無いようだ。 僕もうっかりレヤチーズの壮烈な最後に熱狂し身辺の悶着を忘れていた。 叔父さんは御自分のうしろ暗さをこんどの戦争でごまかそうとしているのかも知れぬ。 案外これは――。 何をひとりでぶつぶつ言っているのです。 ハムレット。 君は馬鹿だ。 大馬鹿だ。 ふざけるのもいい加減にし給え。 戦争は冗談や遊戯ではないのだ。 このデンマークでいま不真面目なのは君だけだ。 君がそれほど疑うならわしもむきになって答えてあげる。 ハムレットあの城中の噂は事実です。 いやわしが先王を毒殺したというのはあやまり。 わしにはただそれを決意した一夜があったそれだけだ。 先王は急に病気でなくなられた。 ハムレット君はそれでもわしを罰する気ですか。 恋のためだ。 くやしいがまさにそれだ。 ハムレットさあわしは全部を言いました。 君はわしを罰するつもりですか。 神さまにおたずねしたらいいでしょう。 ああお父さん。 いいえ叔父さんあなたじゃない。 僕には僕のお父さんがあったのだ。 可哀想なお父さん。 きたない裏切者の中でにこにこ笑って生きていたお父さん。 裏切者はこのとおり。 あ。 ハムレット気が狂ったか。 短剣引き抜き振りかざすと見るより早く自分自身の左の頬を切り裂いた。 馬鹿なやつだ。 それ血が流れて汚い。 それは一体なんの芝居だ。 わしを切るのかと思ったらくるりと切先をかえて自分自身の頬に傷をつけ居った。 自殺の稽古か新型の恐喝か。 オフィリヤの事なら心配せんでもよいのに馬鹿な奴だ。 君が凱旋した時には必ず添わしてあげるつもりだ。 泣く事はない。 戦争がはじまれば君も一方の指揮者なのです。 そんなに泣いては部下の信頼を失いますよ。 ああそれ上衣にまで血が流れて来た。 誰かハムレットを向うへ連れて行って手当をしてあげなさい。 戦争の興奮で気がへんになったのかも知れぬ。 意気地の無い奴だ。 おおホレーショー何事です。 取り乱した姿でごめん。 ああ王妃さまがあの庭園の小川に――。 飛び込んだか。 手おくれでございました。 覚悟の御最後と見受けられます。 喪服を召され小さい銀の十字架を右の手のひらの中に固く握って居られました。 気が弱い。 わしを助けてくれる筈の人がこの大事の時に馬鹿な身勝手の振舞いをしてくれた。 わしが悪いのではない。 あの人が弱かったのだ。 他人の思惑に負けたのだ。 気の毒な。 ええっ。 汚辱の中にいながらも堪え忍んで生きている男もいるのだ。 死ぬ人はわがままだ。 わしは死なぬ。 生きてわしの宿命を全うするのだ。 神は必ずやわしのような孤独の男を愛してくれる。 強くなれ。 クローヂヤス。 恋を忘れよ。 虚栄を忘れよ。 デンマーク国の名誉という最高の旗じるし一つのために戦え。 ハムレット腹の中では君以上に泣いている男がいますよ。 信じられない。 僕の疑惑は僕が死ぬまで持ちつづける。 他にもっと適当な講師がたくさんいる筈です。 やあ。 親友。 イデオロギスト。 忘れたか。 知っている。 あがらないか。 久しぶりだなあ。 何年振りだ。 いや何十年振りだ。 おい二十何年振りだよ。 お前がこっちに来ているという事は前から聞いていたがなかなか俺も畑仕事がいそがしくてな遊びに来れないでいたのだよ。 お前もなかなかの酒飲みになったそうじゃないか。 うわっはっはっは。 お前は俺と喧嘩した事を忘れたか。 しょっちゅう喧嘩をしたものだ。 そうだったかな。 そうだったかなじゃない。 これ見ろこの手の甲に傷がある。 これはお前にひっかかれた傷だ。 お前の左の向う脛にもたしかに傷がある筈だ。 あるだろう。 たしかにある筈だよ。 それは俺がお前に石をぶっつけた時の傷だ。 いやよくお前とは喧嘩をしたものだ。 ところでお前に一つ相談があるんだがな。 クラス会だ。 どうだいやか。 大いに飲もうじゃないか。 出席者が十人として酒を二斗これは俺が集める。 それは悪くないけど二斗はすこし多くないか。 いや多くない。 ひとりに二升無くては面白くない。 しかし二斗なんてお酒が集まるか。 集まらないかも知れん。 わからないがやってみる。 心配するな。 しかしいくら田舎だってこの頃は酒も安くはないんだからお前にそこは頼む。 それじゃさきにこれだけあずかって置いてくれ。 あとはまたあとで。 待ってくれ。 それは違う。 きょうは俺は金をもらいに来たのではない。 ただ相談に来たのだ。 お前の意見を聞きに来たのだ。 どうせそれあお前からは千円くらいは出してもらわないといけない事になるだろうがしかしきょうは相談かたがた昔の親友の顔を見たくて来たのだ。 まあいいから俺にまかせてそんな金なんかひっこめてくれ。 そうか。 酒は無いのか。 お前のところにはいつでも二升や三升はあると聞いているんだ。 飲ませろ。 かかはいないのか。 かかのお酌で一ぱい飲ませろ。 よし。 じゃこっちへ来い。 散らかっているぜ。 いやかまわない。 文学者の部屋というのはみんなこんなものだ。 俺も東京にいた頃いろんな文学者と附き合いがあったからな。 やっぱりでもいい部屋だな。 さすがに立派な普請だ。 庭の眺めもいい。 柊があるな。 柊のいわれを知っているか。 知らない。 知らないのか。 そのいわれは大にして世界的小にしては家庭またお前たちの書く材料になる。 なんだろうねそのいわれは。 こんど教える。 柊のいわれ。 ウイスキイだけどかまわないか。 いいとも。 かかがいないか。 お酌をさせろよ。 女房はいない。 そう言わずに。 ここへ呼んで来てお酌をさせろよ。 お前のかかのお酌で一ぱい飲んでみたくてやって来たのだ。 いいじゃないか。 女房のお酌だとかえって酒がまずくなるよ。 このウイスキイは。 昔なら三流品なんだけどでもメチルではないから。 まむし焼酎に似ている。 でもあんまりぐいぐいやるとあとで一時に酔いが出て来て苦しくなるよ。 へえ。 おかど違いでしょう。 俺は東京でサントリイを二本あけた事だってあるのだ。 このウイスキイはそうだな六〇パーセントくらいかな。 まあ普通だ。 たいして強くない。 もう無い。 ああそう。 人生の真実。 学問。 俺の東京時代は。 お前もしかし東京では女でしくじったが。 俺だって実は東京時代にあぶないところまでいった事があるんだ。 もう少しでお前と同じような大しくじりをするところまでいったんだ。 本当だよ。 じっさいそこまでいったんだ。 しかし俺は逃げたよ。 うん逃げた。 それでも女というものはいったん思い込んだ男を忘れかねると見えるな。 うわっはっは。 いまでも手紙を寄こすのだよ。 うふふ。 こないだも餅を送ってよこした。 女は馬鹿なものだよまったく。 女に惚れられようとしたら顔でも駄目だ金でも駄目だ気持だよ心だよ。 じっさい俺も東京時代はあばれたものだ。 考えてみるとあの頃は無論お前も東京にいて芸者を泣かせたりなんかして遊んでいた筈だがいちども俺と逢わなかったのは不思議だな。 お前はいったいあの頃はおもにどの方面で遊んでいたのだ。 女で大しくじり。 ただ金のあるにまかせて色男ぶって芸者を泣かせてやにさがっていたのではない。 たべないか。 くだものを食べると酔いがさめてまた大いに飲めるようになるよ。 俺は政治はきらいだ。 われわれ百姓は政治なんて何も知らなくていいのだ。 実際の俺たちの暮しに少しでも得になる事をしてくれたらそっちへつく。 それでいいだろう。 現物を眼の前に持って来て俺たちの手に握らせたらそっちへつく。 それでいいわけではないか。 われわれ百姓には野心は無いんだ。 受けた恩はきっとそれだけかえしてやる。 それはもうわれわれ百姓の正直なところだ。 進歩党も社会党もどうだっていいんだ。 われわれ百姓は田を作り畑を耕やしていたらそれでいいのだ。 しかしこないだの選挙ではお前も兄貴のために運動したろう。 いや何もひとつもしなかった。 この部屋で毎日自分の仕事をしていた。 嘘だ。 いかにお前が文学者で政治家でないとしてもそこは人情だ。 兄貴のために大いにやったに違いない。 俺はな学問も何も無い百姓だがしかし人情というものは持っている。 俺は政治はきらいだ。 野心も何も無い。 社会党だの進歩党だのと言ったっておそれるところは無いと思っているのだがしかし人情は持っている。 俺はなお前の兄貴とは別に近づきでも何でもないがしかし少くともお前は俺と同級生でもあり親友だろう。 ここが人情だ。 俺は誰にたのまれなくてもお前の兄貴に一票いれた。 われわれ百姓は政治も何も知らなくていい。 この人情一つだけを忘れなければそれでいいと思うがどうだ。 俺はしかし何もお前の兄貴の家来になりたがっているというわけじゃないんだよ。 そんなにこの俺を見下げ果ててもらっては困るよ。 お前の家だって先祖をただせば油売りだったんだ。 知っているか。 俺は俺の家の婆から聞いた。 油一合買ってくれた人には飴玉一つ景品としてやったんだ。 それが当った。 また川向うの斎藤だっていまこそあんな大地主で威張りかえっているけれども三代前には川に流れている柴を拾いそれを削って串を作り川からとった雑魚をその串にさして焼いて一文とか二文とかで売ってもうけたものなんだ。 また大池さんの家なんか路傍に桶を並べて路行く人に小便をさせてその小便が桶一ぱいになるとそれを百姓たちに売ってもうけたのがいまの財産のはじまりだ。 金持ちなんてもとをただせば皆こんなものだ。 俺の一族はいいかこの地方では一ばん古い家柄という事になっているんだ。 何でも祖先は京都の人で。 婆の話だからあてにはならんがとにかくちゃんとした系図は在るのだ。 それではやはり公卿の出かも知れない。 うんまあそれははっきりはわからないがたいていその程度のところなのだ。 俺だけはこんな汚い身なりで毎日田畑に出ているがしかし俺の兄はお前も知っているだろう大学を出た。 大学の野球の選手で新聞にしょっちゅう名前が出ていたではないか。 弟もいま大学へはいっている。 俺は感ずるところがあって百姓になったがしかし兄でも弟でもいまではこの俺に頭があがらん。 なにせ東京は食糧が無いんで兄は大学を出て課長をしているがいつも俺に米を送ってよこせという手紙だ。 しかし送るのがたいへんでな。 兄が自分で取りに来たらそうしたら俺はいくらでも背負わさせてやるんだがやっぱり東京の役所の課長ともなれば米を背負いに来るわけにもいかんらしいな。 お前だっていま何か不自由なものがあったらいつでも俺の家へ来い。 俺はなお前にただで酒を飲ませてもらおうとは思ってないよ。 百姓というものは正直なもんだ。 受けた恩はかならずきっちりとそれだけ返す。 いやもうお前のお酌では飲まん。 かかを呼んで来い。 かかのお酌でなければ俺は飲まん。 もう俺は飲まんよ。 かかを連れて来い。 お前が連れて来なければ俺が行って引っぱって来る。 かかはどこにいるんだ。 寝室か。 寝る部屋か。 俺は天下の百姓だ。 平田一族を知らないかあ。 よしそんなら連れて来る。 つまらねえ女だよ。 いいか。 おい昔の小学校時代の親友が遊びに見えているからちょっと挨拶に出てくれ。 このかたは僕の小学校時代の親友で平田さんというのだ。 小学校時代にはしょっちゅう喧嘩してこのかたの右だか左だかの手の甲に僕のひっ掻いた傷跡がまだ残っていてねだからきょうはその復讐においでなすったというわけだ。 まあこわい。 どうぞよろしく。 やあ固苦しい挨拶はごめんだ。 奥さんまあこっちへずっと寄ってお酌をしてください。 奥さん。 いまも修治に言っていたのだが何か不自由なものがあったら俺の家へ来なさい。 なんでもある。 芋でも野菜でも米でも卵でも鶏でも。 馬肉はどうですたべますか俺は馬の皮をはぐのは名人なんだたべるなら取りに来なさい馬の脚一本背負わせてかえします。 雉はどうです山鳥のほうがおいしいかな。 俺は鉄砲撃ちなんだ。 鉄砲撃ちの平田といえばこのへんでは知らない者は無いんだ。 お好みに応じて何でも撃ってあげますよ。 鴨はどうです。 鴨ならあすの朝でも田圃へ出て十羽くらいすぐ落して見せる。 朝めし前に五十八羽撃ち落した事さえあるんだ。 嘘だと思うなら橋のそばの鍛冶屋の笠井三郎のところへ行って聞いて見ろ。 あの男は俺の事なら何でも知っている。 鉄砲撃ちの平田と言えばこの地方の若い者は絶対服従だ。 そうだあしたの晩おい文学者俺と一緒に八幡様の宵宮に行ってみないか。 俺が誘いに来る。 若い者たちの大喧嘩があるかも知れないのだ。 どうもなあ不穏な形勢なんだ。 そこへ俺が飛び込んで行って待った。 と言うのだ。 ちょうど幡随院の長兵衛というところだ。 俺はもう命も何も惜しくねえ。 俺が死んだって俺には財産があるんだからなかかや子供は困る事がない。 おい文学者。 あしたの晩はぜひ一緒に行こうじゃないか。 俺の偉いところを見せてやる。 毎日こんな奥の部屋でまごまごしていたっていい文学は出来ない。 大いに経験をひろくしなければいけない。 いったいお前はどういうものを書いているのだ。 うふふ。 芸者小説か。 お前は苦労を知らないから駄目だ。 俺はもうかかを三度とりかえた。 あとのかかほど可愛いもんだ。 お前はどうだ。 お前だって二人か。 三人か。 奥さんどうです修治はあなたを可愛がるか。 俺はこれでも東京で暮した事のある男でね。 煙草はここにたくさんあるからこれを吸い給え。 煙管はめんどうくさいだろう。 われわれ百姓はこんなものを持っているのだよ。 お前たちは馬鹿にするだろうがしかし便利なものだ。 雨の降る中でも火打石はカチカチとやりさえすれば火が出る。 こんど俺は東京へ行く時これを持参して銀座のまんなかでカチカチとやってやろうと思うんだ。 お前ももうすぐ東京へ帰るのだろう。 遊びに行くよ。 お前の家は東京のどこにあるのだ。 罹災してねどこへ行ったらいいかまだきまっていないよ。 そうか罹災したのか。 はじめて聞いた。 それじゃいろいろ特配をもらったろう。 こないだ罹災者に毛布の配給があったようだが俺にくれ。 くれよ。 俺はジャンパーを作るのだ。 わりにいい毛布らしいじゃないか。 くれよ。 どこにあるのだ。 俺は帰りに持って行くぞ。 これは俺の流儀でな。 ほしいものがあったらこれ持って行く。 と言ってもらってしまう。 そのかわりお前が俺のところへ来たらお前もそうするとよい。 俺は平気だ。 何を持って行ったってかまわないよ。 俺はそんな流儀の男だ。 礼儀だの何だのめんどうくさい事はきらいなのだ。 いいか毛布はもらって行くぞ。 立派な。 毛布はよせよ。 ケチだなあお前は。 やあ奥さん。 手数をかけるなあ。 食うものなんか何も要りませんからさあここへ来てお酌をしてください。 修治のお酌ではもう飲む気がしない。 ケチくさくていけない。 殴ってやろうか。 奥さん俺はね東京時代にねずいぶん喧嘩が強かったですよ。 柔道もねちょっとやりました。 いまだってこんな修治みたいなのは一ひねりですよ。 いつでもね修治があなたに威張ったら俺に知らせなさい。 思いきりぶん殴ってやりますから。 どうです奥さん東京にいた時もこっちへ来てからも修治に対して俺ほどこんな無遠慮に親しく口をきける男は無かったろう。 何せ昔の喧嘩友達だから修治も俺には気取る事が出来やしない。 こまった酒乱さ。 いやわるかったよあやまるよお辞儀をします。 わるかったよあやまるよ。 かくして主はのがれ去り給えり。 忍耐。 大勇と小勇。 孤独。 うわあっ。 酔って来たあっ。 やっぱりウイスキイはいいな。 よく酔う。 奥さんさあお酌をしてくれ。 もっとこっちへ来なさいよ。 俺はねどんなに酔っても正気は失わん。 きょうはお前たちのごちそうになったがこんどは是非ともお前たちにごちそうする。 俺のうちに来いよ。 しかし俺の家には何も無いぞ。 鶏は養ってあるがあれは絶対につぶすわけにいかん。 ただの鶏じゃないのだ。 シャモと言ってな喧嘩をさせる鶏だ。 ことしの十一月にシャモの大試合があってその試合に全部出場させるつもりでただいま訓練中なんだがぶざまな負けかたをしたやつだけをひねりつぶして食うつもりだ。 だから十一月まで待つんだね。 まあ大根の二三本くらいはあげますよ。 酒も無い何も無い。 だからこうして飲みに来たんだ。 鴨一羽そのうちとったら進呈するがねしかしそれには条件がある。 その鴨を俺と修治と奥さんと三人で食ってその時に修治はウイスキイを出してそうしてその鴨の肉をだなまずいなんて言ったら承知しねえぞ。 こんなまずいものなんて言ったら承知しねえ。 俺がせっかく苦心して撃ちとった鴨だ。 おいしいと言ってもらいたい。 いいか約束したぞ。 おいしい。 うまい。 と言うのだぞ。 うわっはっはっは。 奥さん百姓というものはこういうものだ。 馬鹿にされたらもう縄きれ一本だってくれてやるのはいやだ。 百姓とつき合うにはこつがある。 いいか奥さん。 気取ってはいかん気取っては。 なあに奥さんだって俺のかかと同じ事で夜になれば。 子供が奥で泣いているようですから。 いかん。 お前のかかはいかん。 俺のかかはあんなじゃないよ。 俺が行ってひっぱって来る。 馬鹿にするな。 俺の家庭はいい家庭なんだ。 子供は六人あるが夫婦円満だぞ。 嘘だと思うなら橋のそばの鍛冶屋の三郎のところへ行って聞いてみろ。 かかの部屋はどこだ。 寝室を見せろ。 お前たちの寝る部屋を見せろよ。 よせよせ。 あんな女を相手にするな。 久し振りじゃないか。 たのしく飲もう。 お前たちは夫婦仲が悪いな。 俺はそうにらんだ。 へんだぞ。 何かある。 俺はそうにらんだ。 へん。 面白くない。 ひとつ歌でもやらかそうか。 全く附き合いの無かった。 それあいい。 ぜひ一つたのむ。 さ帰るぞ俺は。 お前のかかには逃げられたしお前のお酌では酒がまずいしそろそろ帰るぞ。 クラス会はそれじゃ仕方が無い俺が奔走してやるからな後はよろしくたのむよ。 きっと面白いクラス会になると思うんだ。 きょうはごちそうになったな。 ウイスキイはもらって行く。 おいおい。 それじゃないよ。 ケチな真似をするな。 新しいのがもう一本押入れの中にあるだろう。 知っていやがる。 煙草は。 うむそれも必要だ。 俺は煙草のみだからな。 威張るな。 つくだ煮。 わるくないね。 海老のつくだ煮じゃないか。 よく手にはいったね。 しなびてしまって。 しなびてしまっても海老は海老だ。 僕の大好物なんだ。 海老の髭にはカルシウムが含まれているんだ。 おしんこおいしいねえ。 ちょうど食べ頃だ。 僕は小さい時から白菜のおしんこが一ばん好きだった。 白菜のおしんこさえあれば他におかずは欲しくなかった。 サクサクしてこの歯ざわりがこたえられねえや。 お塩もこのごろお店に無いので。 おしんこを作るのにも思いきり塩を使う事が出来なくなりました。 もっと塩をきかせるとおいしくなるんでしょうけど。 いやこれくらいがちょうどいい。 塩からいのは僕はいやなんだ。 今夜は。 そうか何も無いか。 こういう夜もまた一興だ。 工夫しよう。 そうだ海苔茶漬にしよう。 粋なものなんだ。 海苔を出してくれ。 無いのよ。 このごろ海苔はどこの店にも無いのです。 へんですねえ。 私は買物は下手なほうではなかったのですけどこのごろは肉もおさかなもなんにも買えませんので市場で買物籠さげて立ったまま泣きべそを掻く事があります。 梅干があるかい。 ございます。 我慢するんだ。 なんでもないじゃないか。 米と野菜さえあれば人間は結構生きていけるものだ。 日本はこれからよくなるんだ。 どんどんよくなるんだ。 いま僕たちがじっと我慢して居りさえすれば日本は必ず成功するのだ。 僕は信じているのだ。 新聞に出ている大臣たちの言葉をそのまま全部そっくり信じているのだ。 思う存分にやってもらおうじゃないか。 いまが大事な時なんだそうだ。 我慢するんだ。 女中さんに三べんもお辞儀をした。 苦心さんたんして持って来たんだぜ。 久し振りだろう。 牛の肉だ。 くすりか何かのような気がして。 ちっとも食欲が起らないわ。 まあ食べてみなさい。 おいしいだろう。 みんな食べなさい。 僕はたくさん食べて来たのだ。 お顔にかかわりますよ。 私はそんなに食べたくもないのですから女中さんに頭をさげたりなどこれからはなさらないで下さい。 牛の肉だぞ。 あがりたまえ。 あがりたまえ。 あがりたまえ。 僕の仕事なんかどうだっていいさ。 なんだいあれは。 趣味でキリストごっこなんかにふけっていやがって鼻持ちならない深刻ぶった臭い言葉ばかり並べてそうして本当はただちょっと気取ったエゴイストじゃないか。 けれども私は私と附き合った人をひとりも堕落させませんでした。 先生お早うす。 ほんとうにこれは君の三思三省すべきところだ。 その火絶やすな。 この馬車はどこへ行くのですか。 さあどこへでも。 タキシイだよ。 銀座へ行ってくれますか。 銀座は遠いよ。 電車で行けよ。 思い煩うな。 空飛ぶ鳥を見よ。 播かず。 刈らず。 蔵に収めず。 悪魔はひとりすすり泣く。 忠直卿行状記。 殿様もこのごろはなかなかの御上達だ。 負けてあげるほうも楽になった。 あははは。 あの先輩もこのごろはなかなかの元気じゃないか。 もういたわってあげる必要もないようだ。 あははは。 お前はおれを偉いと思うか。 思いません。 そうか。 忠直卿行状記。 流行作家。 ひとつ奥さん。 いかがです。 いただきません。 あ失礼。 つい酔いすぎて。 あら。 そんなもの食べてなんともありません。 流行作家。 静子が来ていませんか。 いいえ。 本当ですか。 どうしたのです。 家はちらかっていますから外へ出ましょう。 そうですね。 どうもいけません。 こんどはしくじりました。 薬がききすぎました。 いただきません。 変ったなあ。 ヒステリイですね。 さあそれが。 とにかく僕がわるいんです。 おだて過ぎたのです。 薬がききすぎました。 あたしは天才だ。 いつ飛び出したんです。 きのうです。 なあんだ。 それじゃ何も騒ぐ事はないじゃないですか。 僕の女房だって僕があんまりお酒を飲みすぎると里へ行って一晩泊って来る事がありますよ。 それとこれとは違います。 静子は芸術家として自由な生活をしたいんだそうです。 お金をたくさん持って出ました。 たくさん。 ちょっと多いんです。 それはいけませんね。 静子はあなたの小説をいつも読んでいましたからきっとあなたのお家へお邪魔にあがっているんじゃないかと――。 冗談じゃない。 僕は――。 いったいどんな画をかくんです。 変っています。 本当に天才みたいなところもあるんです。 へえ。 おあがりなさい。 どこへ行っていたのですか。 草田さんがとても心配していましたよ。 あなたは芸術家ですか。 何を言っているのです。 きざな事を言ってはいけません。 草田さんも閉口していましたよ。 玻璃子ちゃんのいるのをお忘れですか。 アパートを捜しているのですけど。 このへんにありませんか。 奥さんどうかしていますね。 もの笑いの種ですよ。 およしになって下さい。 ひとりで仕事をしたいのです。 家を一軒借りてもいいんですけど。 薬がききすぎたと草田さんも後悔していましたよ。 二十世紀には芸術家も天才もないんです。 あなたは俗物ね。 草田のほうがまだ理解があります。 あなたは何しに来たのですか。 お帰りになったらどうですか。 帰ります。 画をお見せしましょうか。 たくさんです。 たいていわかっています。 そう。 さようなら。 どうかよろしく静子に説いてやって下さい。 僕は奥さんにたいへん軽蔑されている人間ですからとてもお役には立ちません。 無茶ですね。 草田ノ家ヘカエリナサイ。 静子さんの絵を見たいのですがあなたのところにありませんか。 ない。 御自分で全部破ってしまったそうじゃないですか。 天才的だったのですがね。 あんなにわがままじゃいけません。 書き損じのデッサンでもなんでもとにかく見たいのです。 ありませんか。 待てよ。 デッサンが三枚ばかり私のところに残っていたのですがそれをあのひとが此の間やって来て私の目の前で破ってしまいました。 誰かあの人の絵をこっぴどくやっつけたらしくそれからはもうあそうだありましたありましたまだ一枚のこっています。 うちの娘がたしか水彩を一枚持っていた筈です。 見せて下さい。 ちょっとお待ち下さい。 よかったよかった。 娘が秘蔵していたので助かりました。 いま残っているのはおそらく此の水彩いちまいだけでしょう。 私はもう一万円でも手放しませんよ。 見せて下さい。 なにをなさる。 つまらない絵じゃありませんか。 あなた達はお金持の奥さんにおべっかを言っていただけなんだ。 そうして奥さんの一生を台無しにしたのです。 あの人をこっぴどくやっつけた男というのは僕です。 そんなにつまらない絵でもないでしょう。 私にはいまの新しい人たちの画はよくわかりませんけど。 や修治。 や慶四郎。 御苦労様だったな。 君は。 戦災というやつだ。 念いりに二度だ。 そう。 しかしまあよかったね。 うんよかった。 もう少しで死ぬとこでしたよ。 そうだろうそうだろう。 いや駄目なんだ。 これだ。 そうか。 酒はどうだい。 酒もあるぜ。 肺病には煙草はいけないが酒は体質に依ってはかえって具合いのいいことがある。 飲みたいな。 何もう胸のほうはすっかりいいんだけれどもね煙草はどうも咳が出ていけない。 酒ならいいんだ。 イトウで皆とわかれる時にもじゃんじゃん飲んだよ。 イトウ。 そう。 伊豆の伊東温泉さ。 あそこで半年ばかり療養していたんだ。 中支に二年南方に一年いて病気でたおれて伊東温泉で療養という事になったんだがいま思うと伊東温泉の六箇月が一ばん永かったような気がするな。 からだが治ってまたこれから戦地へ行かなくちゃならんのかと思ったら流石にどうもいやだったが終戦と聞いて実はほっとしたんだ。 仲間とわかれる時には大いに飲んだ。 君がきょう帰るのを君のうちでは知っているのか。 知らないだろう。 近く帰れるようになるかも知れんという事は葉書で言ってやって置いたが。 それはひどいよ。 妻子も金木の家へ来ているんだろう。 うん召集と同時に女房と子供はこっちの家へ疎開させて置いた。 なあに知らせるに及ばんさ。 外国|土産でもたくさんあるんならいいけどどうもねえ何もありやしないんだ。 これを持って行き給え。 ねこれは上等酒だとかいう話だよ。 持って行き給え。 金木にもねいまはお酒はちっとも無いんだよ。 これを持って行って久し振りで女房のお酌で飲むさ。 君のお酌なら飲んでもいいな。 いや僕は遠慮しよう。 細君から邪魔者あつかいにされてもつまらない。 とにかくこれは持って行ってくれ。 君がきょう帰るという事を家に知らせていないとすると君の家ではきょうはお酒の支度が出来ないにきまっている。 君はお酒を飲みたいんだろう。 どうもさっきからこの風呂敷包を見る君の眼がただ事でなかったよ。 飲みたいに違いないさ。 持って行き給え。 そうしてみんな飲んでしまってくれ。 いや一緒に飲もう。 今夜君がこれをさげて僕の家へ遊びに来てくれたら一ばん有難いんだがな。 それはごめんだ。 それだけはまっぴらだ。 二三日経ってからなら。 じゃあ二三日経ってからでもいいから遊びに来てくれ。 この酒は要らないよ。 僕の家にだってあるだろう。 無い無い。 金木にはいままるっきり清酒が無いんだ。 とにかくきょうはこの酒を君が持って行かなくちゃいけない。 兵隊さん雨に濡れてしまいますよ。 ツネちゃん疎開しないのか。 あなたたちと一緒よ。 死んだって焼けたってかまやしないじゃないの。 すごいものだね。 雀でも撃って見ようかな。 どうしたの。 どいてくれお前が目ざわりでいけないのだ。 どけどけ。 はいはい。 どうしたの。 どうしたの。 ほんとうにどうしたの。 あ。 雀じゃないわよ。 ごめんごめんごめん。 どうした。 どうするの。 療養所で手当をしてもらおう。 やあどうも。 ツネちゃんじゃないか。 馬鹿何を言ってやがる。 足か。 きのう木炭の配給を取りに一里も歩いて足に豆が出来たんだとか言っている。 砂子村。 尊敬。 進はばかに重厚になったじゃないか。 急に老けたね。 むずかしい人生問題がたくさんあるんだ。 僕はこれから戦って行くんです。 たとえば学校の試験制度などに就いて――。 わかったよ。 でもそんなに毎日怖い顔をして力んでいなくてもいいじゃないか。 このごろ少し痩せたようだぜ。 あとでマタイの六章を読んであげよう。 なんじら断食するとき偽善者のごとく悲しき面容をすな。 彼らは断食することを人に顕さんとてその顔色を害うなり。 誠に汝らに告ぐ彼らは既にその報を得たり。 なんじは断食するとき頭に油をぬり顔を洗え。 これ断食することの人に顕れずして隠れたるに在す汝の父にあらわれん為なり。 さらば隠れたるに見たまう汝の父は報い給わん。 微笑もて正義を為せ。 人に顕さんとて。 重厚。 よしたほうがいいぜ。 むずかしい人生問題がたくさんあるんです。 たとえば試験制度に就いて――。 偉い人物になれ。 坊ちゃん。 もうこれでおわかれなんだ。 はかないものさ。 実際教師と生徒の仲なんていい加減なものだ。 教師が退職してしまえばそれっきり他人になるんだ。 君達が悪いんじゃない教師が悪いんだ。 じっせえ教師なんて馬鹿野郎ばっかりさ。 男だか女だかわからねえ野郎ばっかりだ。 こんな事を君たちに向って言っちゃ悪いけど俺はもう我慢が出来なくなったんだ。 教員室の空気がさ。 無学だ。 エゴだ。 生徒を愛していないんだ。 俺はもう二年間も教員室で頑張って来たんだ。 もういけねえ。 クビになる前に俺のほうからよした。 きょうこの時間だけでおしまいなんだ。 もう君たちとは逢えねえかも知れないけどお互いにこれからうんと勉強しよう。 勉強というものはいいものだ。 代数や幾何の勉強が学校を卒業してしまえばもう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが大間違いだ。 植物でも動物でも物理でも化学でも時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。 日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ将来君たちの人格を完成させるのだ。 何も自分の知識を誇る必要はない。 勉強してそれからけろりと忘れてもいいんだ。 覚えるということが大事なのではなくて大事なのはカルチベートされるということなんだ。 カルチュアというのは公式や単語をたくさん暗記している事でなくて心を広く持つという事なんだ。 つまり愛するという事を知る事だ。 学生時代に不勉強だった人は社会に出てからもかならずむごいエゴイストだ。 学問なんて覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。 けれども全部忘れてしまってもその勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。 これだ。 これが貴いのだ。 勉強しなければいかん。 そうしてその学問を生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。 ゆったりと真にカルチベートされた人間になれ。 これだけだ俺の言いたいのは。 君たちとはもうこの教室で一緒に勉強は出来ないね。 けれども君たちの名前は一生わすれないで覚えているぞ。 君たちもたまには俺の事を思い出してくれよ。 あっけないお別れだけど男と男だ。 あっさり行こう。 最後に君たちの御健康を祈ります。 礼。 今度の試験のことは心配しないで。 先生さよなら。 先生さよなら。 まぼろし。 君はスポーツマンか。 やる気かおい。 スポーツマンだったら恥ずかしく思え。 チキショッ。 信仰。 いちどお前に相談しようと思っていたんだがなこんど蹴球部に一年生の新入が十五人もあったんだ。 みんななっちゃいねえんだ。 つまらねえのをたくさん入れても部の質が落ちるばかりだしなあ俺だって張り合いがねえや。 考えて置いて呉れ。 多くたってかまわないじゃないか。 練習を張り切ってやれぁだめな奴はへたばるしいいやつは残るだろうしさ。 そうもいかねえ。 進め竜騎兵。 進め竜騎兵。 伯父さん。 一人の邪魔者の常に我身に附き纏うあり其名を称して正直と云う。 一人の邪魔者の常に我身に附き纏うあり其名を称して受験と云う。 どこへ受けるのかね。 きまっていません。 しかしみんなも。 四年から受けるならばちょっと受けてみましょうなんてひやかしの気分からでなく必ず合格しようという覚悟をきめて受けなくてはいかん。 ふらついた気持で受けて落ちるともう落ちる癖がついて五年になってから受けてももうだめになっている場合が多い。 よくよく慎重に考えて決定するように。 罪と罰。 父。 アバ父よ。 木村もあれと同じのを持ってるよ。 ほしいか。 ほんと。 人種がちがったね。 体は衣に勝るならずや。 ドイツ語がむずかしくってねえ。 出来た人は。 なんだ誰も出来んのか。 芹川やってごらん。 芹川には実際かなわんなあ。 教員室でもみんなお前を可愛いと言ってるぜ。 学校がいやなんだ。 とてもだめなんだ。 自活したいなあ。 学校っていやなところさ。 だけどいやだいやだと思いながら通うところに学生生活の尊さがあるんじゃないのかね。 パラドックスみたいだけど学校は憎まれるための存在なんだ。 僕だって学校は大きらいなんだけどでも中学校だけでよそうとは思わなかったがなあ。 そうですね。 明暗。 なにごとも辛抱して――。 はい。 兄弟なかよく――。 はい。 辛抱して。 兄弟なかよく。 僕の将来の目標がいつのまにやらきまっていました。 芹川の家には科学者の血が無いからな。 父帰る。 父親。 まあ考えたほうがいいぜ。 あのいただけないんざますのよ。 でもまあ一ぱい。 オホホホホ。 ではまあほんのチョッピリ。 あらまあ。 進ちゃん鼻の下に黒い毛が生えて来たじゃないの。 しっかりなさいよ。 芹川の家には淫蕩の血が流れているらしい。 誠実。 あそびにいらっしゃい。 うん。 坊や。 坊や。 はい。 下谷から遊びに来いって言って来たんだけど行きたくないんだ。 こんな風の強い日にひでえや。 でも行くって返事したんだろ。 行かなくちゃいけない。 あいたた。 にわかに覚ゆる腹痛。 そんなにいやならはじめからはっきり断ったらよかったのに。 むこうじゃ待っているぜ。 お前は四方八方のいい子になりたがるからいけない。 はっきり断ったらいいんでしょう。 坊やかい。 新年おめでとう。 はいおめでとう。 姉ちゃんが待ってるぜ。 早くおいでよ。 あのうおなかが痛いんですけど。 俊雄君にもよろしく。 基督教に於ける訓練。 夫婦ってどんな事を話しているもんだろう。 さあ何も話していねえだろう。 そうだろうねえ。 汝の兄弟より利息を取べからず。 ああエルサレムエルサレム予言者たちを殺し遣されたる人々を石にて撃つ者よ牝鶏のその雛を翼の下に集むるごとく我なんじの子どもを集めんと為しこと幾度ぞや。 吾人が小過失を懺悔するは他に大過失なき事を世人に信ぜしめんが為のみ。 おやお帰りなさい。 きょうはお早かったじゃないの。 うむ仕事の話がいい工合にまとまってね。 それはよござんした。 お風呂へおいでになりますか。 おい君。 お友達になって下さい。 どうだったい。 だめか。 きまってるじゃないか。 へえ。 本当かい。 お前がわるいんだ。 ごめんごめんごめん。 無理ですよ。 ねえまだ十七なのに無理ですよ。 お父さんでもいらっしゃったらねえ。 喧嘩じゃないよ。 ばか。 喧嘩じゃないよ。 最後。 歩こうか。 そうね。 荷物は僕が持ちますから。 いいよ。 しかし日本の警察は世界一じゃありませんかね。 お母さんには何も知らせてないからね。 一高なんかを受けさせて悪かったな。 兄さんがいけなかったんだ。 お前の日記を見たよ。 あれを見て兄さんも一緒に家出をしたくなったくらいだ。 でもそいつぁ滑稽だったろうな。 無理もねえなんて僕まで眼のいろを変えてあたふたと家出してみたところでまるでナンセンスだものね。 木島もおどろくだろう。 そうして木島もあの日記を読んでこれも家出だ。 そうしてお母さんも梅やもみんな家出してみんなであたらしくまた一軒家を借りたなんて。 R大学のほうの発表はいつだい。 六日。 R大学のほうはパスだろうと思うけどどうだいパスならずっとやって行く気かい。 やって行ってもいいんだけど――。 はっきり言ったほうがいいぜ。 やって行く気は無いんだろう。 無いんだ。 楽に話そう。 実はね兄さんも先月大学のほうはよした。 いつまでもむだに授業科ばかり納めているのも意味がないしね。 これから十年計画でなんとかしていい小説を書いてみるつもりだ。 いま迄書いて来たものはみんなだめだ。 いい気なものだったよ。 てんでなっちゃいないんだ。 生活がだらしなかったんだね。 ひとりで大家気取りで徹夜なんかしてさ。 ことしから新規蒔直しでやってみるつもりだ。 進もひとつどうだいことしから一緒に勉強してみないか。 勉強。 もういちど一高を受けるの。 何を言ってるんだ。 もうそんな無理は言わんよ。 受験勉強だけが勉強じゃない。 お前の日記にも書いてあったじゃないか。 将来の目標がいつのまにやらきまっていましたなんて書いてあったけどあれは嘘かい。 嘘じゃないけど本当は僕にもよくわからないんだ。 はっきりきまっているような気がしているんだけど具体的になんだかわからない。 映画俳優。 まさか。 そうなんだよ。 お前は映画俳優になりたいんだよ。 何も悪い事がないじゃないか。 日本一の映画俳優だったら立派なものじゃないか。 お母さんもよろこぶだろう。 兄さん怒ってるの。 怒ってやしない。 けれども心配だ。 非常に心配だ。 進お前は十七だね。 何になるにしてもまだまだ勉強しなければいけない。 それはわかってるね。 僕は兄さんと違って頭がわるいからほかには何も出来そうもないんだ。 だから俳優なんて事も考えるのだけど――。 僕がわるいんだ。 僕が無責任にお前を芸術の雰囲気なんかに巻き込んでしまったのがいけなかったんだ。 どうも不注意だった。 罰だ。 兄さん。 そんなに芸術って悪いものなの。 失敗したら悲惨だからねえ。 でもお前はこれからその方の勉強を一生懸命にやって行くつもりならば兄さんだって何も反対はしないよ。 反対どころか一緒に助け合って勉強して行こうと思っている。 まあこれから十年の修業だ。 やって行けるかい。 やって行きます。 そうか。 それならまずR大学へも行け。 卒業するしないは別としてとにかくR大学へはいりなさい。 大学生生活も少しは味わって置いたほうがいいよ。 約束するね。 それからいますぐ映画なんかのほうへ行こうと思わず五六年いや七八年でもどこか一流のいい劇団へかよって基本的な技術をみっちり仕込んでもらうんだ。 どこの劇団へはいるかそいつはまたあとで二人で研究しよう。 そこまでだ。 不服は無いだろう。 兄さんは眠くなって来たよ。 眠ろう。 もう十年くらい細々ながら生活するくらいのお金はある。 心配無用だ。 おらはおぼえただ。 おらもおぼえただ。 あすこの穴にぶち込めばええだ。 やってごらんなさい。 おらはおぼえただ。 むさぼるように。 なに。 ひめたる祈りを書いたのさ。 わあっ。 夜明け前。 夜明け前。 ええ寝ちまえ。 お前は美男子だよ。 明日の試験は何だい。 遠足の試験だい。 骨が折れるぜ。 お菓子に気をつけろってんだ。 おれぁ相撲部じゃねえよ。 二十五円の靴だってさ。 お酒飲んでそれから紅葉を見に行こうよ。 お酒でたくさんだい。 進パスしたぜ。 見事合格って木島から電報が来たぜ。 木島さんもおおげさだなあ。 バンザイだなんてばかにしてるよ。 木島もしんから嬉しかったのだろう。 木島にとってはR大学だって眼がくらむくらい立派な大学なんだ。 また事実何大学だってその内容は同じ様なものだ。 種も仕掛けも無い。 僕もきょうはそんな感じがするぜ。 狐にだまされているみたいだね。 いや本当にいまだまされているのかも知れん。 どうも変だ。 突くのけええ。 突くんだばここの押入れん中ん球取ってくれせええ。 どうしたんだろう今夜は。 意志と行動が全く離れているみたいだ。 僕の頭が変になっているのかしら。 なにせ進が大学生になったというところあたりからきょうはあやしい日だという気がしていたよ。 あいけねえ。 こんにちは。 こんにちは。 この代数の問題を解いて下さい。 この問題を解いて下さい。 出来そうもないなあ。 だってあんたは大学へはいったんでしょう。 どこからお聞きになったのですか。 きのう電報が来たそうじゃないですか。 川越のおばさんから聞きましたよ。 ああそうですか。 やっとはいったのです。 進はろくに受験勉強もしていなかったようですからあなたにも解けないようなむずかしい問題はやはり解けないでしょうよ。 そうでしょうか。 僕はまた四年から大学へはいる程の秀才ならこんな問題くらいわけなく解けるだろうと思ってお願いに来たんですけど本当に失礼しました。 この因数分解の問題はなかなかむずかしいんですよ。 僕も来年高等師範へ受けてみようと思っているんです。 僕は秀才でないから五年から受けます。 はははは。 あんな人もいるからなあ。 狐には穴あり鳥には塒か。 視よ。 新郎をとらるる日きたらん。 おらも三つの時写真とってもらっただ。 三つん時。 そうだだ。 おらは帽子かぶってとっただ。 だけんどおらは覚えてねえだ。 遊びにいらっしゃい。 写真をとってあげますよ。 こっちへいらっしゃい。 お菓子をあげるぜ。 だしぬけにお菓子をあげるなんて言ったら子供だって侮辱を感ずるよ。 そんな気で来たんじゃないというプライドがあるんだよ。 ばかだなあ。 これだから繁夫さんにも反感を持たれるんだよ。 ついさっきちょっと遊びに来たの。 姉さんどうしたの。 馬鹿な事を言うんだ。 馬鹿だよあれは。 兄弟仲良く。 R大にはいったんだって。 よせばいいのに。 商大はいいからねえ。 綴方教室。 綴方教室。 俳優芸術論。 解放された演劇。 去年の今頃だったねえ姉さんが行ったのは。 あれからもう一年か。 一年でも一箇月でもいったんお嫁に行った者が理由もなく帰るなんて法はないんだ。 進は妙に興味を持ってるらしいじゃないか。 高邁な芸術家らしくもないぜ。 友あり遠方より来る。 また楽しからずや。 たいくつしている時に庭先から友人が上酒を一升それに鴨一羽などの手土産をさげてよう。 と言ってあらわれた時にはうれしいからな。 本当にこの人生で最もたのしい瞬間かも知れない。 また。 芝居入門。 芹川は居らんか。 なんだ誰も居らんじゃないか。 おいチゴさん。 芹川はどこにいるか知らんか。 芹川は僕ですけど。 なんだそうか。 しっけいしっけい。 蹴球部の者だがねちょっと来てくれないか。 これがその芹川進だ。 そうか。 君はもう蹴球をよしたのかい。 えよしたんです。 考え直してみないかね。 惜しいじゃないか。 中学時代にあんなに鳴らしていたのにさ。 僕は――。 雑誌部へならはいってもいいと思ってるんですけど。 文学か。 だめか。 君を欲しいと思っていたんだがねえ。 だめなんです。 いやにはっきりしていやがる。 いや。 無理にひっぱったって仕様がねえ。 なんでも好きな事を一生懸命にやったほうがいいんだ。 芹川はからだを悪くしているらしい。 からだは丈夫です。 いまはちょっと風邪気味なんですけど。 そうか。 ひょうきんな奴だ。 蹴球部へも時々遊びに来いよ。 ありがとう。 あら坊やは少し痩せたわね叔母さん。 あ坊やはよしてくれ。 いつまでも坊やじゃねえんだ。 まあ。 痩せる筈さ。 大病になっちゃったんだよ。 きょうやっと起きて歩けるようになったんだ。 おい叔母さんお茶をくれ。 のどが乾いて仕様がねえんだ。 なんですその口のききかたは。 すっかり不良になっちゃったのね。 不良にもなるさ。 兄さんだってこのごろは毎晩お酒を飲んで帰るんだ。 兄弟そろって不良になってやるんだ。 お茶をくれ。 進ちゃん。 兄さんはお前に何か言ったの。 何も言やしねえ。 お前が大病したって本当。 ああちょっとね。 心配のあまり熱が出たんだ。 兄さんが毎晩お酒を飲んで帰るって本当。 そうさ。 兄さんもすっかり人が変ったぜ。 叔母さんお茶をくれよ。 はいはい。 どうにか大学へはいってやれ一安心と思うとすぐにこんな不良の真似を覚えるし。 不良。 僕はいつ不良になったんだい。 叔母さんこそ不良じゃないか。 なんだいチョッピリ女史のくせに。 まなんという事です。 私にまであくたれ口をきいて。 ごらん。 姉さんが泣いちゃったじゃないの。 私は知っているんですよ。 兄さんにけしかけられて子供のくせにあばれ込んで来たつもりなんだろうけどみっともない楽屋がちゃんと知れていますよ。 いったいチョッピリ女史なんてなんの事です。 少し言葉をつつしみなさい。 チョッピリ女史ってのはね叔母さんの綽名だよ。 僕のうちじゃそう呼ぶ事にしているんだ。 知らなかったのかい。 それじゃお茶をチョッピリいただきますよ。 麹町でもいい子供ばかりあって仕合わせだねえ。 進ちゃんいい子だからもうお帰り。 家へ帰って兄さんにね言いたい事があるならこんな子供なんかを使って寄こさず男らしくご自分でおいでなさいってそう言っておくれ。 なんだい陰でこそこそしているばかりでいっこうに此の頃は目黒へも姿を見せないじゃないか。 兄さんには私からうんと言ってやりたい事があるんです。 毎晩酒を飲んで帰るって。 だらしがない。 兄さんの悪口は言わないで下さい。 叔母さんこそ言葉をつつしんだらどうですか。 僕は何も兄さんにけしかけられてここへ来たんじゃないよ。 子供子供って甘く見ちゃ困るね。 僕にだっていい人と悪い人の見わけはつくんだ。 僕はきょう叔母さんと喧嘩しに来たんだ。 兄さんに関係は無い事だ。 兄さんはこんどの事に就いては誰にもなんにも言ってやしない。 そうしてひとりで心配しているんだ。 兄さんは卑怯な人じゃないぜ。 さお菓子はどう。 おいしいカステラだよ。 叔母さんにはなんでもちゃんと判ってるんだからつまらない悪たれ口はきかないでお菓子でもたべてきょうはまあお帰り。 お前は大学生になったらすっかり人が変ったねえ。 家にいてもお母さんにそんな乱暴な口をきくのかね。 カステラ。 いただきます。 おいしいね。 叔母さん怒っちゃいけない。 お茶をもう一ぱいおくれ。 叔母さん僕はこんどの事に就いてはなんにも知っちゃいないんだけどだけど姉さんの気持もわかるような気がするよ。 何を言うことやら。 お前なんかにはわかりゃしないよ。 さどうかな。 でもはっきりした原因はきっとあるに相違ない。 それぁね。 お前みたいな子供に言ったって仕様がないけどアリもアリも大アリさ。 だいいちお前結婚してから一年も経っているのに財産がいくら収入がいくらという事をてんで奥さんに知らせないってのはどういうものかねあやしいじゃないか。 鈴岡さんはそれぁいまこそ少しは羽振りがいいようだけど元をただせばお前たちのお父さんの家来じゃないか。 私ゃ知っていますよ。 お前たちはまだ小さくて知ってないかも知れんが私ゃよく知っていますよ。 それぁもうずいぶんお世話になったもんだ。 いいじゃないかそんな事は。 いいえよかないよ。 謂わばまあこっちは主筋ですよ。 それをなんだい麹町にも此の頃はとんとごぶさたましてや私の存在なんてどだいもう忘れているんですよ。 それぁもう私はどうせこんな独身のはんぱ者なんだからひとさまから馬鹿にされても仕様がないけれどもいやしくもお前こちらは主筋の――。 脱線してるよ叔母さん。 もういいわよ。 そんな事よりねえ進ちゃん。 お前も兄さんも下谷の家をとってもきらっているんでしょう。 俊雄さんの事なんかお前たちはもうてんで馬鹿にして――。 そんな事はない。 だってことしのお正月にも来てくれなかったしお前たちばかりでなく親戚の人も誰ひとり下谷へは立ち寄ってくれないんだもの。 あたしも考えたの。 ことしのお正月なんか進ちゃんの来るのをとっても楽しみにして待っていたのよ。 鈴岡も進ちゃんをしんから可愛がって坊や坊やって言っていつも噂をしているのに。 腹が痛かったんだ腹が。 それぁ行かないのが当り前さ。 どだい向うから来やしないんだものね。 麹町にもとんとごぶさただそうだし私のところへなんか年始状だって寄こしゃしない。 それぁもう私なんかは――。 いけませんでした。 鈴岡も書生流というのかなんというのか麹町や目黒にだけでなくご自分の親戚のおかた達にもまるでもうごぶさただらけなんです。 私が何か言うと親戚は後廻しだと言ってそれっきりなんですもの。 それでいいじゃないか。 まったく肉親の者にまで他人行儀のめんどうくさい挨拶をしなければならんとなると男は仕事も何も出来やしない。 そう思う。 そうさ。 心配しなくていいぜ。 このごろ兄さんと毎晩おそくまでお酒を飲み歩いている相手は誰だか知ってるかい。 鈴岡さんだよ。 大いに共鳴しているらしい。 しょっちゅう鈴岡さんから電話が来るんだ。 ほんとう。 当り前じゃないか。 鈴岡さんはね毎朝尻端折して自分で部屋のお掃除をしているそうだ。 そうしてね俊雄君が赤いたすきを掛けてご飯の支度さ。 僕はその話を兄さんから聞いて下谷の家をがぜん好きになっちゃった。 でも坊やだけはよしてくれねえかな。 あらためます。 だって鈴岡がそう言うもんだから私までつい口癖になって。 僕も悪かったし兄さんだってうっかりしてたところがあったんだ。 叔母さんごめんね。 さっきはあんな乱暴な事ばかり言って。 それぁ私だってまるくおさまったらこれに越した事はないと思っていたさ。 だけど進ちゃんも利巧になったねえ。 舌を巻いたよ。 でもねあのチョッピリだの何だのと言って年寄りをひやかすのだけはやめておくれ。 あらためます。 兄さんお水を持って来てあげようか。 要らねえよ。 兄さんネクタイをほどいてあげようか。 要らねえよ。 兄さんズボンを寝押してあげようか。 うるせえな。 早く寝ろ。 風邪はもういいのか。 風邪なんて忘れちゃったよ。 僕はきょう目黒へ行って来たんだよ。 学校をさぼったな。 学校の帰りに寄って来たんだよ。 姉さんがね兄さんによろしくって言ってたぜ。 聞く耳は持たんと言ってやれ。 進もいい加減にあの姉さんをあきらめたほうがいいぜ。 よその人だ。 姉さんは僕たちの事をとっても思っているんだねえ。 ほろりとしちゃった。 何を言ってやがる。 早く寝ろ。 そんなつまらぬ事に関心を持っているようではとても日本一の俳優にはなれやしない。 このごろさっぱり勉強もしていないようじゃないか。 兄さんにはなんでもよくわかっているんだぜ。 兄さんだってちっとも勉強してないじゃないか。 毎日お酒ばかり飲んで。 生意気言うな生意気を。 鈴岡さんにすまないと思うから――。 だから鈴岡さんをよろこばせてあげたらいいじゃないか。 姉さんは鈴岡さんをちっともきらいじゃないんだとさ。 お前にはそう言うんだよ。 進もとうとう買収されたな。 カステラなんかで買収されてたまるもんか。 チョッピリいや叔母さんがいけないんだよ。 叔母さんがけしかけたんだ。 財産を知らせないとか何とか下品な事を言っていたぜ。 でもそいつは重大じゃないんだ。 本当は僕たちがいけなかったんだ。 なぜだ。 どこがいけないんだ。 僕は失敬して寝るぜ。 兄さん。 姉さんが泣いていたぜ。 兄さんが毎晩そとへ出てお酒を飲んで夜おそくまで帰って来ないと言ったら姉さんはめそめそ泣いたぜ。 それあぁ泣くわけだ。 自分でわがままを言ってみんなを苦しめているんだから。 進そこから煙草をとってくれ。 そうしてね進も兄さんも下谷の家が大きらいなんだろう。 って言ってたぜ。 へえ。 妙な事を言いやがる。 だってそうだったじゃないか。 いまは違うけど前は兄さんだって下谷の家へちっとも遊びに行かなかったじゃないか。 お前も行かなかったぞ。 そう僕も悪かったんだ。 なにせ柔道四段だっていうんでこわくってね。 俊雄君の事もお前はひどく軽蔑してたぜ。 軽蔑ってわけじゃないけどなんだか逢いたくなかったんだ。 気が重くてね。 でもこれからは仲良くするんだ。 よく考えてみたらいい顔だった。 ばか。 鈴岡さんも俊雄君もとてもいい人だよ。 やっぱり苦労して来た人たちは違うね。 以前だって悪い人だとは思っていなかったけどまた悪い人だと思ったら姉さんをお嫁になんかやりゃしないんだけどあんなにいい人だとは思わなかった。 こんどつくづくそう思った。 姉さんには鈴岡さんのよさがまだよくわかっていないんだ。 なんだい僕たちが遊びに行かないから鈴岡さんとわかれるって言うのかい。 ちっともなってないじゃないか。 それがわがままというものなんだ。 十九や二十のお嬢さんじゃあるまいしなんてざまだ。 それぁ姉さんにだって鈴岡さんのよさくらいちゃんとわかっているんだ。 その鈴岡さんと僕たちとどうも気が合わないらしいというので姉さんは考えてしまったんだ。 姉さんはとても兄さんや僕の事を大事にしているんだぜ。 僕たちもいけなかったんだよ。 よそへ嫁にやったから他人だなんてそんな事は無いと思うよ。 じゃいったい僕にどうしろっていうんだ。 別にどうしなくてもいいんだ。 姉さんはもう大喜びだよ。 兄さんと鈴岡さんがこのごろ毎晩お酒を飲んで共鳴してるって僕が言ったら姉さんはほんと。 と言ってその時の嬉しそうな顔ったら。 そうか。 よしわかった。 僕も悪い。 十二時か進かまわないから鈴岡さんに電話をかけていますぐ兄さんがお伺いしますからってそれから朝日タクシイにも電話をかけて大至急一台たのんでくれ。 その間に僕はちょっとお母さんに話して来るから。 進ちゃん。 きょうだい仲良く――。 おはようございます。 まあいい。 もう学校の様子もだいたいわかったからそろそろ本格的に演劇の勉強をはじめたいと思っているんだけど兄さん早くいい先生のところへ連れて行ってね。 今夜はひどく真面目に考え込んでいると思ったらその事か。 よし。 あした津田さんのところへ行って相談してみよう。 どんな先生がいいのかとにかく津田さんのところへ行って聞いてみようよ。 あした一緒に行こう。 これをみんなお読みになったの。 とても読めるもんじゃないよ。 でもこうして並べて置くと必ず読む時が来るものだ。 大きくなったね。 男っぷりもよくなった。 R大。 高石君は元気かね。 ええいま僕たちにサムエル・バトラのエレホンを教えているんですけどなんだか煮え切らない人ですね。 口が悪いね。 いまからそんなんじゃ末が思いやられるね。 毎日兄さんと二人で僕たちの悪口を言ってるんだろう。 まあそんなところです。 弟ははじめからR大を卒業する気はないらしいんです。 君の悪影響だよそれは。 何も君弟さんまで君の道づれにしなくたっていいじゃないか。 ええ全く僕の責任なんです。 役者になりたいって言うんですが――。 役者。 思い切ったもんだねえ。 まさか活動役者じゃないだろうね。 映画です。 映画。 それぁ君問題だぜ。 僕もずいぶん考えたんですけど弟はひどく苦しくなるときまって映画俳優になろうと決心するらしいんです。 子供の事ですからそこに筋道立った理由なんか無いのですがそれだけ宿命的なものがあるんじゃないかと僕は思ったんです。 気持の楽な時うっとり映画俳優をあこがれるなんてのは話になりませんけどいのちの瀬戸際になるとふっと映画俳優を考えつくらしいのですが僕はそれを神の声のように思っているのです。 そいつを信じたいような気がするんです。 そう言ったって君親戚や何かの反対もあるだろうしとにかく問題だねえそれは。 親戚の反対やなんかは僕がひき受けます。 僕だって学校は中途でよしてしまうしそれに小説家志願と来ているんですからもう親戚の反対には馴れたものです。 君が平気だって弟さんが――。 僕だって平気です。 そうかねえ。 たいへんな兄弟もあったものだ。 どうでしょうか。 演劇のいい先生が無いでしょうか。 やっぱり五六年は基本的な勉強をしなければいけないと思いますし――。 それはそうだ。 勉強しなけれぁいかん。 勉強しなけれぁ。 だからいい先生を紹介して下さい。 斎藤市蔵氏はどうでしょうか。 弟もあの人を尊敬しているようですし僕もやはりあんなクラシックの人がいいと思うんですけど――。 斎藤さんか。 いけませんか。 津田さんは斎藤市蔵氏とはお親しいんでしょう。 親しいってわけじゃないけどなにせ僕たちの大学時代からの先生だ。 でもいまの若い人たちにはどうかな。 それは紹介してあげてもいいよだけどそれからどうするんだ。 斎藤さんの内弟子にでもはいるのかね。 まさか。 まあ演劇するものの覚悟などを時たま拝聴に行く程度だろうと思いますけどまずどの劇団がいいかそんな事も伺いたいのでしょう。 劇団。 映画俳優じゃないのかね。 映画俳優はサンボルですよ。 それの現実にこだわっているわけじゃないんです。 とにかく日本一いや世界一の役者になりたいんですよ。 だからまず斎藤氏の意見なども聞いていい劇団へはいって五年でも十年でも演技を磨きたいという覚悟なのです。 あとは映画に出ようが歌舞伎に出ようが問題ではないわけです。 ばかに手まわしがいいね。 あながち春の一夜の空想でもないわけなんだね。 冗談じゃない。 僕が失敗しても弟だけは成功させたいと思っているんです。 いや二人とも成功しなければいかん。 とにかく勉強だ。 君たちはいまのところ暮しの心配もないようだからまあ気長にみっちりやるんだね。 めぐまれた環境を無駄にしてはいかん。 だけど役者とはおどろいたなあ。 とに角それじゃ斎藤さんに紹介の手紙を書きましょう。 持って行ってみなさい。 頑固な人だからね玄関払いを食うかも知れんぞ。 その時にはまたもう一度津田さんに紹介状を書いていただきます。 芹川もいつのまにやら図々しくなってしまいやがった。 この図々しさが作品にも少し出るといいんだがねえ。 僕も十年計画でやり直すつもりです。 一生だ。 一生の修業だよ。 このごろ作品を書いているかね。 はあどうもむずかしくて。 書いていないようだね。 君は日常生活のプライドにこだわりすぎていけない。 四十になっても五十になってもくるしさに増減は無いね。 どうも本郷は憂鬱だね。 僕みたいに帝大を中途でよした者にはこの大学の建物は恐怖の的だ。 何だかこっちが卑屈になってやり切れない。 犯罪者みたいな気がして来るんだ。 上野へでも行ってみるか。 本郷はもうたくさんだ。 でもまあよかった。 僕もきょうは一生懸命だったんだぜ。 とうとう津田さんも紹介状を書いてくれたんだから大成功だ。 津田さんはあれでなかなかつむじ曲りのところがあってねちょっと気持にひっかかるものが出来るともうだめなんだ。 こんりんざいだめだね。 ちっとも油断が出来ないんだ。 きょうはよかった。 不思議にすらすら行ったね。 進の態度がよかったのかな。 津田さんはあんな冗談ばかり言ってるけどずいぶん鋭く人を観察しているからね。 うしろにも目がついているみたいだ。 進はまあどうやら及第したんだね。 安心するのはまだ早いぞ。 これから斎藤氏という難関もある。 なかなかの頑固者らしいじゃないか。 津田さんもちょっと首をかしげていたね。 まあ誠実をもってあたってみるさ。 紹介状持ってるだろう。 ちょっと見せてくれ。 見てもいいの。 かまわない。 紹介状というものはね持参の当人が見てもかまわないようにわざと封をしていないものなんだ。 ほらそうだろう。 一応こっちでも眼をとおして置いたほうがいいんだよ。 読んでみよう。 いやこれぁひどいなあ。 簡単すぎるよ。 こんな程度で大丈夫なのかなあ。 これでいいのかしら。 いいんだろうよ。 でもここに友人芹川進君と書いてあるがこの友人というところが泣かせどころなのかも知れない。 ごはんにしようか。 そうしよう。 芝居街道五十年。 我は復活なり生命なり我を信ずる者は死ぬとも生きん。 凡そ生きて我を信ずる者は永遠に死なざるべし。 汝これを信ずるか。 ま。 おどろいた。 先生は御在宅ですか。 さあ。 紹介状を持って来ましたけど。 そうですか。 少しお待ち下さい。 ご用はなんでしょうか。 御指南を受けに来ました。 いったい先生はいらっしゃるのですか。 いらっしゃいます。 紹介状をごらんにいれましたか。 いいえ。 なあんだ。 お仕事中ですの。 またいらっしゃいません。 いつごろおひまになりますか。 さあ二三日たったらどうでしょうかしら。 それでは。 五月三日の今ごろまたお伺い致します。 その時はよろしくお願いします。 はあ。 その女は何者かというのが問題だ。 いくつくらいだったね。 綺麗なひとかい。 わからんよ僕には。 狂女じゃないかと思うんだけど。 まさか。 それはねやっぱり女中さんだよ。 秘書を兼ねたる女中というところだ。 女学校は卒業してるね。 だからもう十九いや二十を越えてるかも知れん。 こんど兄さんが行ったらいい。 場合に依っては僕が行かなくちゃならないかも知れないがまだその必要は無いようだ。 お前はそんなにしょげてるけどきょうはちっとも失敗じゃなかったんだよ。 お前にしては大出来だ。 五月三日にまた来るとはっきり言って来ただけでも大成功だよ。 その女のひとはお前に好意を持っているらしい。 いや本当さ。 ふつうの玄関払いとは性質がちがうようだ。 脈があるよ。 お仕事中は面会謝絶と極っているんだけど特にお前のためにどうにかして取りついであげようと思ったんだが奥さんか誰かに邪魔されてそれが出来なかったんだな。 きっとそうだよ。 だからこんどはお前もその女のひとをにらんだりなんかしないでも少しあいそよくしてあげるんだね。 ちゃんとお辞儀をしてね。 しまった。 きょうは帽子もとらない。 そうだろ。 帽子もぬがずにただはったと睨んでいたんじゃふつうだったらまず交番に引渡されるところだ。 その女のひとに理解があったからたすかったのだ。 来月の三日にはしっかりやるさ。 日本一。 あら。 いまおでかけのところなのよ。 ちょうどいいわお話してごらんなさい。 先生。 津田さんからの紹介状――。 乗りたまえ。 よござんしたね。 こないだはずいぶん怒ってお帰りになりましたのよ。 行ってらっしゃいまし。 どちらへおいでになるんですか。 神田だ。 何も。 怒って帰る事はない。 はあ。 津田君とはどんな知り合いなのかね。 は兄さんが小説を見てもらっているんです。 津田君の手紙はれいに依って要領を得ないが――。 俳優になりたいんです。 俳優。 いい劇団へはいってみっちり修業したいと思うんです。 どんな劇団がいいのか教えてください。 劇団。 いい劇団。 そんなものは無いよ。 いい劇団が無いんですか。 無い。 こんど鴎座で先生の『武家物語』が上演されるようですね。 あそこで。 研修生を募集している。 そうですか。 それにはいったほうがいいんですか。 やっぱりだめなんですか。 誰でも勝手に応募できるのかしら。 試験があるんでしょう。 わからん。 君は――どこで降りる。 麹町です。 麹町。 遠い。 どうも失礼いたしました。 聞きしにまさる傑物だねえ。 どうかしているんだよきっと。 いやそうじゃない。 とてもしっかりしている。 世界的な文豪を以て任じている人はそれくらいのところが無くちゃいけない。 しかしお前もよくねばったものだねえ。 案外あつかましいところがある。 めくら蛇に怯じずの流儀だがでも大成功だ。 けがの功名でお前はちょっと好感を持たれたかも知れない。 馬鹿言ってら。 てんで何も話してくれないんだよ。 気味が悪かったぜ。 いやたしかに好意を持たれている。 一緒に自動車に乗せたというのはただ事でない。 思うにあの女のひとがうまく取りなして置いてくれたんだね。 津田さんの紹介状だって案外見えないところで大働きをしているのかも知れない。 せっかく書いていただいて悪口を言うのはいけない。 いまになって考えると立派な紹介状のようだった気もする。 まず大成功だ。 それじゃこれから鴎座へ電話を掛けて研究生募集の事を問い合せて見るんだね。 だって鴎座がいいとは言わなかったんだよ。 わるいとも言わなかったろう。 わからんと言ってた。 それでいいんだよ。 僕には斎藤氏の気持がわかるね。 やっぱり苦労人だよ斎藤氏は。 その辺からまあぼつぼつ始めてみたらいいだろうという事なんだよ。 そうだろうか。 さあこれからはお前がなんでもひとりでやってごらん。 五月八日。 じゃすぐですね。 それで。 試験は。 九日に新富町の研究所で行います。 へええ。 何時からですか。 午後一時ジャストに研究所へお集りを願います。 課目は。 課目は。 どんな試験をするんですか。 それは申し上げられません。 へええ。 それじゃどうも。 簡単な試験なんだろう。 なあに僕には別な佳い道があるのだ。 なあに。 映画俳優論。 俳優芸術論。 解放された演劇。 近代劇論。 芝居街道五十年。 チェホフのドラマツルギー。 芝居入門。 演劇|論叢。 築地小劇場史。 演出論。 映画俳優術。 演出者ノオト。 花伝書。 役者論語。 申楽談義。 俳優芸術論。 芝居街道五十年。 お前の顔は役者に向かない顔である。 生ける屍。 床屋へ行ったか。 新世界。 お前はサシスセソがうまく言えないようだね。 妄言多謝だ。 お前は僕なんかに較べると問題にならないほどうまいんだ。 でもあしたは本職の役者の前でやるのだからちょっと今夜は酷評して緊褌一番をうながしてみたんだがね。 なに上出来だよ。 番号札をお渡し致します。 午後一時ジャスト。 お名前を呼びますから御返事を願います。 それでは一番のおかたどうぞ。 二ばんのおかたどうぞ。 三ばんのおかたどうぞ。 はい。 おいくつですか。 履歴書に書いてなかった。 ええでも――。 十七です。 父兄の承諾はたしかですね。 もちろんです。 ではどうぞ。 こっちへ来いよ。 こんどは多少優秀かな。 学校はどこだ。 R大です。 としはなんぼ。 十七です。 お父さんのゆるしを得たか。 お父さんはいませんよ。 なくなられたのですか。 承諾書に書いてあった筈です。 気骨|稜々だね。 見どころありかね。 演技部ですか文芸部ですか。 なんですか。 役者になるのか。 脚本家になるのか。 どっちだ。 役者です。 しからばたずねる。 鴎座。 役者の使命は何か。 それは人間がどんな使命を持って生れたかというような質問と同じ事でまことしやかないつわりの返答はいくらでも言えるのですが僕はその使命はまだわかりませんと答えたいのです。 妙な事を言うね。 マッチないか。 役者の使命はね外に向っては民衆の教化内に於ては集団生活の模範的実践。 そうじゃないかね。 それは役者に限らず教化団体の人なら誰でも心掛けていなければならぬ事でだから僕がさっき言ったようにそんな立派そうな抽象的な言葉は本当にいくらでも言えるんです。 そうしてそれはみんなうそです。 そうかね。 そういう考えかたも面白いね。 朗読をお願いしましょう。 何をお願いしましょうか。 このひとは程度が高いそうですから。 伯父ワーニャ。 ファウスト。 この部分をお願いします。 一ぺん黙読して自信を得てから朗読して下さい。 僕には朗読できません。 ほかの所を読みます。 うまい。 満点だ。 二三日中に通知する。 筆記試験は無いのですか。 生意気言うな。 君は僕たちを軽蔑しに来たのか。 いいえ。 だって筆記試験も――。 筆記試験は。 時間の都合でしないのです。 朗読だけでたいていわかりますから。 君に言って置きますがいまから台詞の選り好みをするようでは見込みがありませんよ。 俳優の資格として大事なものは才能ではなくてやはり人格です。 横沢さんは満点をつけても僕は君には零点をつけます。 それじゃ。 平均五十点だ。 まあきょうは帰れ。 おういつぎは四ばん四ばん。 大事なものは才能ではなくてやはり人格だ。 だめだめ。 みごと落第です。 なんだばかに嬉しそうな顔をしているじゃないか。 だめな事はないんだろう。 いやだめなんだ。 戯曲朗読は零点だった。 零点。 本当かい。 人格がだめなんだそうだ。 でもね才能は――。 何をそんなににやにや笑っているんだ。 零点をもらってよろこぶ事はないだろう。 ところがあるんだ。 及第だ。 絶対に落第じゃない。 二三日中に合格通知が来るよ。 だけど不愉快な劇団だなあ。 なってないんだ。 落第したほうが名誉なくらいだ。 僕は合格してもあの劇団へははいらないんだ。 上杉氏なんかと一緒に勉強するのはまっぴらです。 そうだねえ。 ちょっと幻滅だねえ。 どうだいもういちど斎藤氏のところへ相談に行ってみないか。 あんな劇団はいやだと進の感じた事を率直に言ってみたらどうだろう。 どの劇団も皆あんなものだからがまんしてはいれと先生が言ったら仕方が無い。 はいるさ。 それとも他にまたいい劇団を紹介してくれるかも知れない。 とにかく試験は受けましたという報告だけでもして置いたほうがいい。 どうだい。 うん。 今回の審査の結果五名を研究生として合格させた。 貴君もその一人である。 明日午後六時研究所へおいであれ。 成就の扉の開いているのを見た時は己達はかえって驚いて立ち止まる。 進は合格してもあまり嬉しそうでないじゃないか。 考えてみます。 パイナップルの汁ならどんぶりに一ぱいでも楽に飲めるね。 うん。 それに氷のぶっかきをいれて飲むとさらにおいしいだろうね。 懸賞に応募するなんて自分を粗末にする事じゃないのかな。 作品がもったいない。 でもあたったら二千円だ。 お金でもとれるんでなかったら小説なんてばからしい。 最後の晩餐。 最後の晩餐。 最後の晩餐。 十四章。 汝穢わしき物は何も食う勿れ。 汝らが食うべき獣蓄は是なり即ち牛羊山羊牡鹿羚羊小鹿※※麈※など。 凡て獣蓄の中蹄の分れ割れて二つの蹄を成せる反蒭獣は汝ら之を食うべし。 但し反蒭者と蹄の分れたる者の中汝らの食うべからざる者は是なり即ち駱駝兎および山鼠是らは反蒭ども蹄わかれざれば汝らには汚れたる者なり。 また豚是は蹄わかるれども反蒭ことをせざれば汝らには汚たる者なり汝ら是等の物の肉を食うべからずまたその死体に捫るべからず。 水におる諸の物の中是のごとき者を汝ら食うべし即ち凡て翅と鱗のある者は皆汝ら之を食うべし。 凡て翅と鱗のあらざる者は汝らこれを食うべからず是は汝らには汚たる者なり。 また凡て潔き鳥は皆汝らこれを食うべし。 但し是等は食うべからず即ち※黄鷹鳶※鷹黒鷹の類各種の鴉の類鴕鳥梟鴎雀鷹の類鸛鷺白鳥※※大鷹※鶴鸚鵡の類鷸および蝙蝠また凡て羽翼ありて匍ところの者は汝らには汚たる者なり汝らこれを食うべからず。 凡て羽翼をもて飛ぶところの潔き物は汝らこれを食うべし。 凡そ自ら死たる者は汝ら食うべからず。 ああ信仰うすき者よ何ぞパン無きことを語り合うか。 未だ悟らぬか。 五つのパンを五千人に分ちてその余を幾筐ひろいまた七つのパンを四千人に分ちてその余を幾籃ひろいしかを覚えぬか。 我が言いしはパンの事にあらぬを何ぞ悟らざる。 人間の悲惨を知らずに神をのみ知ることは傲慢を惹き起す。 物質的な鎖と束縛とを甘受せよ。 我は今精神的な束縛からのみ汝を解き放つのである。 凡て汝の手に堪うる事は力をつくしてこれを為せ。 御意のままになし給え。 おやいらっしゃい。 先生は。 いらっしゃいますわよ。 重大な要件でお目に――。 何が可笑しいのです。 僕はぜひとも先生にお目にかかりたいのです。 はいはい。 鴎座に受けて合格しました。 試験はとてもいい加減なものでした。 一事は万事です。 きょうの午後六時に鴎座の研究所へ来いという通知をきのうもらいましたが行きたくありません。 迷っています。 教えて下さい。 じみな修業をしたいのです。 芹川進。 はいご返事。 なんですかこれは。 ご返事です。 春秋座へはいれって言うのですか。 そうじゃないでしょうか。 これは無理ですよ。 先生の紹介状でもあったらとにかく。 ひとりでやれ。 お前はもう自分の為の人間であることは許されていない。 大安。 賭博者。 当分おわかれですわね。 なあんだ。 みっともない。 結婚しちゃおうか。 兄さん前から気がついていたの。 わからん。 さっき泣き出したのでおや。 と思ったんだ。 兄さんも杉野さんを好きなの。 好きじゃないねえ。 僕よりとしが上だよ。 じゃなぜ結婚するの。 だって泣くんだもの。 しまった。 花火だね。 線香花火だ。 女殺油地獄。 雁。 葉桜。 女殺油地獄。 葉桜。 雁。 今夜の御感想をお聞かせ下さい。 団員志望者であります。 手続きを教えて下さい。 進。 春秋座から手紙が来てるぜ。 お前は兄さんにかくれてこっそり血判の歎願書を出したんじゃないか。 お父さんが生きていたらなんと言うだろうねえ。 うちの馬鹿が来ていませんか。 このごろさっぱり逢いませんが。 ギタを持って出たからきっとあなたの所だとばかり思ってちょっとお寄りしてみたのですが。 僕はもうギタはやめました。 そうでしょう。 いいとしをしていつまでもあんな楽器をいじくりまわしているのは感心出来ません。 いやお邪魔しました。 もしあのばかが来ましたならば。 あなたからも説教してやって下さい。 行ってまいります。 なんだもう行くのか。 神の国は何に似たるか。 一粒の芥種のごとし。 育ちて樹となれ。 しばらくお待ち下さいまし。 どうもお待ちどおさまでした。 お名前をお呼び致しますから。 どうぞこちらへ。 やあいらっしゃい。 筆記試験をさせていただきます。 雁。 お書きになりました方はその答案をお持ちになってどうぞこちらへ。 何を読みますか。 ファウスト。 どうぞ。 ファウスト。 ファウスト。 桜の園。 御苦労さまです。 もう一つこちらからのお願い。 はあ。 ただいま向うでお書きになった答案をここで読みあげて下さい。 答案。 これですか。 ええ。 よろしゅうございます。 その答案は置いて行ってどうぞ控室でお待ちになっていて下さい。 お坐りなさい。 あぐらあぐら。 芹川さんでしたね。 大学はつづけておやりになるつもりですか。 考え中です。 両方は無理ですよ。 それは。 採用されてから。 それゃまあそうですが。 まだ採用ときまっているわけでもないのですものね。 愚問だったかな。 失礼ですが兄さんはまだお若いようですね。 はあ二十六です。 兄さんおひとりの承諾で大丈夫でしょうか。 それは大丈夫です。 兄さんはとても頑張りますから。 頑張りますか。 ファウストをお読みになったのですね。 あなたがひとりで選んだのですか。 いいえ兄さんにも相談しました。 それじゃ兄さんが選んで下さったのですね。 いいえ兄さんと相談してもなかなかきまらないので僕がひとりできめてしまったのです。 失礼ですけどファウストがよくわかりますか。 ちっともわかりません。 でもあれには大事な思い出があるんです。 そうですか。 思い出があるんですか。 スポーツは何をおやりです。 中学時代に蹴球を少しやりました。 いまはよしていますけど。 選手でしたか。 春秋座のどこが気にいりましたか。 べつに。 え。 じゃなぜ春秋座へはいろうと思ったのですか。 僕はなんにも知らないんです。 立派な劇団だとはぼんやり思っていたのですけど。 ただまあふらりと。 いいえ僕は役者にならなけれぁ他に行くところが無かったんです。 それで困って或る人に相談したらその人は紙に春秋座と書いてくれたんです。 紙にですか。 その人はなんだか変なのです。 僕が相談に行った時は風邪気味だとかいって逢ってくれなかったのです。 だから僕は玄関でいい劇団を教えて下さいって洋箋に書いて女中さんだか秘書だかとてもよく笑う女のひとにそれを手渡して取りついでもらったんです。 するとその女のひとが奥から返事の紙を持って来たんです。 けれどもその紙には春秋座と三文字書かれていただけなんです。 どなたですかそれは。 僕の先生です。 でもそれは僕がひとりで勝手にそう思い込んでいるので向うでは僕なんかを全然問題にしていないかも知れません。 でも僕はその人を僕の生涯の先生だときめてしまっているんです。 僕はまだその人とたった一回しか話をした事がないんです。 追いかけて行って自動車に一緒に乗せてもらったんです。 いったいどなたですか。 どうやら劇壇のおかたらしいですね。 それは言いたくないんです。 たったいちど自動車に乗せてもらって話をしたきりなのにもうその人の名前を利用するような事になるとさもしいみたいだからいやなんです。 わかりました。 それで。 その人が春秋座と書いて下さったのでまっすぐにこっちへ飛び込んで来たというわけですね。 そうです。 ただ春秋座へはいれって言ったって無理ですと僕はその時に女中さんに不平を言ったんです。 すると襖の陰からひとりでやれっ。 と怒鳴ったんです。 先生が襖の陰に立って聞いていたんです。 だから僕はびっくりして――。 痛快な先生ですね。 斎藤先生でしょう。 それは言われないんです。 僕がもっと偉くなってから教えます。 そうですか。 それじゃこれだけでよろしゅうございます。 どうもきょうは御苦労さまでした。 食事はすみましたね。 はあいただきました。 それでは二三日中にまた何か通知が行くかも知れませんがもし二三日中に何も通知が無かった場合にはまたもういちどその先生のところへ相談にいらっしゃるのですね。 そのつもりで居ります。 健康診断を致しますから八日正午左記の病院に此の状持参にておいで下さい。 よかったですね。 はじめの願書は樺太新京などからも来てざっと六百通ちかく集ったのですよ。 でもまだわからないんでしょう。 さあどうでしょうかね。 よかったねえよかったねえ進はやっぱり役者になるのがよかったんだ。 六百人の中から二人とは凄いじゃないか。 偉いねえありがとう僕はもうどんなに嬉しいか――。 善く且つ高貴に行動する人間は唯だその事実だけに拠っても不幸に耐え得るものだということを私は証拠立てたいと願う。 つとめ。 文学公論。 やっぱり小説は三十すぎなければ駄目だね。 芹川さんはいつも憂鬱そうですね。 あっちへ行け。 君は毎日毎日ちがう本をポケットにいれて来るそうだね。 本当に読んでるのかい。 私は三十まで大根と言われていました。 そうしていまでも私は自分を大根だと思っています。 善く且つ高貴に行動する人間は唯だその事実だけに拠っても不幸に耐え得るものだということを私は証拠立てたいと願う。 助六。 坊ちゃん。 色彩間苅豆。 助六。 坊ちゃん。 なんだろうね。 夫婦|喧嘩の仲裁はごめんだな。 進ちゃんけさの都新聞読んだ。 いいえ。 一大事よ。 ごらん。 どうぞよろしく。 いよいよ。 本格的になって来たね。 お祝いの意味でこれから支那料理でも食べに行こう。 だけどこんなに大袈裟になって来ると心配ね。 お母さんにはまだ知らせないほうがいいんじゃない。 もちろんさ。 いずれわかる事だろうけどでももう少しお母さんが達者になってから全部を申し上げる事にしているんだ。 とにかくこれは僕の責任なんだから。 責任だなんてそんな固苦しい事は考えなくてもいいさ。 役者でもなんでもまじめにやって行けたら立派なもんだ。 十七で五十円の月給を取るなんてちょっと出来ない事だぜ。 三十円ですよ。 いや三十円の月給なら手当やなんかで六十円にはなるものなんだ。 どうぞよろしく。 すぐわかりました。 進さんだという事がすぐにわかりました。 どんな扮装をしていてもやっぱりわかるものですね。 僕が一ばんさきに見つけたのです。 すぐわかりました。 僕の掛声は聞えましたか。 楽屋にすしか何かとどけさせようか。 いいんだよ。 春秋座ではそんな事はしないんだ。 そうか。 坊ちゃん。 やおめでとう。 勧進帳。 歌行燈。 紅葉狩。 弥生。 わかい時から名誉を守れ。 あたしゃ孤独だ。 かれは人を喜ばせるのが何よりも好きであった。 小僧の神様。 いいお天気ですね。 いいお天気です。 江戸へおいでになりますか。 はい江戸へ帰ります。 江戸のおかたですね。 どちらからのお帰りですか。 さうですか。 菊がお好きとはたのもしい事です。 菊に就いては私にもいささか心得があります。 菊は苗の良し悪しよりも手当の仕方ですよ。 さうですかね。 私はやつぱり苗が良くなくちやいけないと思つてゐるんですが。 たとへばですね――。 もう私は何も言ひません。 理論なんてばからしいですよ。 実際私の作つた菊の花をお見せするより他はありません。 それはさうです。 それぢやどうです。 これからまつすぐに江戸の私の家まで一緒にいらして下さいませんか。 ひとめでいいから私の菊を見てもらひたいものです。 ぜひさうしていただきたい。 私たちはそんなのんきな身分ではありません。 これから江戸へ出てつとめ口を捜さなければいけません。 そんな事はなんでもない。 まづ私の家へいらしてゆつくり休んでそれからお捜しになつたつておそくは無い。 とにかく私の家の菊をいちど御覧にならなくちやいけません。 これはたいへんな事になりました。 実は私たち沼津の者で私の名前は陶本三郎と申しますが早くから父母を失ひ姉と二人きりで暮してゐました。 このごろになつて急に姉が沼津をいやがりましてどうしても江戸へ出たいと言ひますので私たちは身のまはりのものを一さい整理してただいま江戸へ上る途中なのです。 江戸へ出たところで何の目当もございませんし思へば心細い旅なのです。 のんきに菊の花など議論してみる場合ぢや無かつたのでした。 私も菊の花はいやでないものですからつい余計のおしやべりをしてしまひました。 もうよしませう。 どうかあなたも忘れて下さい。 これでおわかれ致します。 考へてみるといまの私たちは菊の花どころでは無かつたのです。 待ち給へ。 そんな事ならなほさら私の家へ来てもらはなくちやいかん。 くよくよし給ふな。 私だつてひどく貧乏だが君たちを世話する事ぐらゐは出来るつもりです。 まあいいから私に任せて下さい。 姉さんも一緒だとおつしやつたがどこにゐるんです。 姉さんこれあいけない。 とんだ人のところに世話になつちやつたね。 ええ。 でものんきでかへつていいわ。 庭も広いやうだしこれからお前がせいぜい佳い菊を植ゑてあげて御恩報じをしたらいいのよ。 おやおや姉さんはこんなところにずつと永く居るつもりなのですか。 さうよ。 私はここが気に入つたわ。 どうなさいました。 何か御用ですか。 見て下さい。 あなたたちの痩馬が私の畑を滅茶滅茶にしてしまひました。 私は死にたいくらゐです。 なるほど。 それで。 馬はどうしました。 馬なんかどうだつていい。 逃げちやつたんでせう。 それは惜しい。 何をおつしやる。 あんな痩馬。 痩馬とはひどい。 あれは利巧な馬です。 すぐ様さがしに行つて来ませう。 こんな菊畑なんかどうでもいい。 なんですつて。 君は私の菊畑を侮蔑するのですか。 三郎やあやまりなさい。 あんな痩馬は惜しくありません。 私が逃がしてやつたのです。 それよりもこの荒された菊畑をすぐに手入れしておあげなさいよ。 御恩報じのいい機会ぢやないの。 なあんだ。 そんなつもりだつたのかい。 まあいいやうにして置いて下さい。 どうもけさほどは失礼いたしました。 ところでどうです。 いまも姉と話合つた事でしたがお見受けしたところ失礼ながらあまり楽なお暮しでもないやうですし私に半分でも畑をお貸し下さればいい菊を作つて差し上げませうからそれを浅草あたりへ持ち出してお売りになつたらよろしいではありませんか。 ひとつ大いに佳い菊を作つて差し上げたいと思ひます。 お断り申す。 君も卑劣な男だねえ。 私は君を風流な高士だとばかり思つてゐたがいやこれは案外だ。 おのれの愛する花を売つて米塩の資にする等とはもつての他です。 菊を凌辱するとはこの事です。 おのれの高い趣味を金銭に換へるなぞとはああけがらはしいお断り申す。 天から貰つた自分の実力で米塩の資を得る事は必ずしも富をむさぼる悪業では無いと思ひます。 俗といつて軽蔑するのは間違ひです。 お坊ちやんの言ふ事です。 いい気なものです。 人はむやみに金を欲しがつてもいけないがけれどもやたらに貧乏を誇るのもいやみな事です。 私はいつ貧乏を誇りました。 私には祖先からの多少の遺産もあるのです。 自分ひとりの生活にはそれで充分なのです。 これ以上の富は望みません。 よけいなおせつかいはやめて下さい。 それは狷介といふものです。 狷介結構です。 お坊ちやんでもかまひません。 私は私の菊と喜怒哀楽を共にして生きて行くだけです。 それはわかりました。 ところでどうでせう。 あの納屋の裏のはうに十坪ばかりの空地がありますがあれだけでも私たちにしばらく拝借ねがへないでせうか。 私は物惜しみをする男ではありません。 納屋の裏の空地だけでは不足でせう。 私の菊畑の半分はまだ何も植ゑてゐませんからその半分もお貸し致しませう。 ご自由にお使ひ下さいなほ断つて置きますが私は菊を作つて売らう等といふ下心のある人たちとはおつき合ひ致しかねますからけふからは他人と思つていただきます。 承知いたしました。 お言葉に甘えてそれでは畑も半分だけお借りしませう。 なほあの納屋の裏に菊の屑の苗がたくさん捨てられて在りますけれどあれも頂戴いたします。 そんなつまらぬ事をいちいちおつしやらなくてもよろしい。 ううむ。 いらつしやい。 お待ちしてゐました。 負けました。 私は潔よい男ですからね負けた時にははつきり負けたと申し上げます。 どうか君の弟子にして下さい。 これまでの行きがかりはさらりと。 さらりと水に流す事に致しませう。 けれども――。 いやそのさきはおつしやらないで下さい。 私はあなたのやうな潔癖の精神は持つてゐませんので御推察のとほり菊を少しづつ売つて居ります。 けれどもどうか軽蔑なさらないで下さい。 姉もいつもその事を気にかけて居ります。 私たちだつて精一ぱいなのです。 私たちにはあなたのやうに父祖の遺産といふものもございませんしほんたうに菊でも売らなければのたれ死にするばかりなのです。 どうかお見逃し下さつてこれを機会にまたおつき合ひ願ひます。 いやいやさう言はれると痛み入ります。 私だつて何も君たち姉弟を嫌つてゐるわけではないのです。 殊にこれからは君を菊の先生としていろいろ教へてもらはうと思つてゐるのですからどうか私こそよろしくお願ひ致します。 君の菊の花の作り方にはなんだか秘密があるやうだ。 そんな事はありません。 私はこれまで全部あなたにお伝へした筈です。 あとは指先の神秘です。 それは私にとつても無意識なものでなんと言つてお伝へしたらいいのか私にもわかりません。 つまり才能といふものなのかも知れません。 それぢや君は天才で私は鈍才だといふわけだね。 いくら教へてもだめだといふわけだね。 そんな事をおつしやつては困ります。 或いは私の菊作りはいのちがけで之を美事に作つて売らなければごはんをいただく事が出来ないのだといふそんなせつぱつまつた気持で作るから花も大きくなるのではないかとも思はれます。 あなたのやうに趣味でお作りになる方はやはり好奇心や自負心の満足だけなのですから。 さうですか。 私にも菊を売れと言ふのですね。 君は私にそんな卑しい事をすすめて恥づかしくないかね。 いいえそんな事を言つてゐるのではありません。 あなたはどうしてさうなんでせう。 姉さんと結婚して下さい。 私には結納のお金も無いし妻を迎へる資格がありません。 君たちはこのごろお金持ちになつたやうだからねえ。 いいえみんなあなたのものです。 姉ははじめからそのつもりでゐたのです。 結納なんてものも要りません。 あなたがこのまま私の家へおいで下されたらそれでいいのです。 姉はあなたをお慕ひ申して居ります。 いやそんな事はどうでもいい。 私には私の家があります。 入り婿はまつぴらです。 私も正直に言ひますが君の姉さんを嫌ひではありません。 はははは。 けれども入り婿は男子として最も恥づべき事です。 お断り致します。 帰つて姉さんにさう言ひなさい。 清貧がいやでなかつたらいらつしやいと。 清貧はいやぢやないわ。 困るね。 この火鉢だつてこの花瓶だつてみんなお前の家のものぢやないか。 女房の持ち物を亭主が使ふのは実に面目ない事なのだ。 こんなものは持つて来ないやうにしてくれ。 お前のおかげで私もたうとう髪結ひの亭主みたいになつてしまつた。 女房のおかげで家が豊かになるといふ事は男子として最大の不名誉なのだ。 私の三十年の清貧もお前たちの為に滅茶滅茶にされてしまつた。 私が悪かつたのかも知れません。 私はただあなたの御情にお報いしたくていろいろ心をくだいて今まで取計つて来たのですがあなたがそれほど深く清貧に志して居られるとは存じ寄りませんでした。 ではこの家の道具も私の新築の家もみんなすぐ売り払ふやうにしませう。 そのお金をあなたがお好きなやうに使つてしまつて下さい。 ばかな事を言つてはいけない。 私ともあらうものがそんな不浄なお金を受け取ると思ふか。 ではどうしたらいいのでせう。 三郎だつてあなたに御恩報じをしようと思つて毎日菊作りに精出してはうばうのお屋敷にせつせと苗をおとどけしてはお金をまうけてゐるのです。 どうしたらいいのでせう。 あなたと私たちとはまるで考へかたがあべこべなんですもの。 わかれるより他は無い。 清い者は清く濁れる者は濁つたままで暮して行くより他は無い。 私には人にかれこれ命令する権利は無い。 私がこの家を出て行きませう。 あしたから私はあの庭の隅に小屋を作つてそこで清貧を楽しみながら寝起きする事に致します。 あなたの潔癖もあてになりませんわね。 姉さんもう私は酒を飲んでもいいのだよ。 家にお金もたくさんたまつたし私がゐなくなつてももう姉さんたちは一生あそんで暮せるでせう。 菊を作るのにも厭きちやつた。 亦他異無し。 何か最近の御感想を聞かせて下さい。 困りました。 困りましたでは私のほうで困ります。 何か聞かせて下さい。 人間は正直でなければならないと最近つくづく感じます。 おろかな感想ですがきのうも道を歩きながらつくづくそれを感じました。 ごまかそうとするから生活がむずかしくややこしくなるのです。 正直に言い正直に進んで行くと生活は実に簡単になります。 失敗という事が無いのです。 失敗というのはごまかそうとしてごまかし切れなかった場合の事を言うのです。 それから無慾ということも大事ですね。 慾張るとどうしてもちょっとごまかしてみたくなりますしごまかそうとするといろいろややこしくなって遂に馬脚をあらわしてつまらない思いをするようになります。 わかり切った感想ですがでもこれだけの事を体得するのに三十四年かかりました。 お若い頃の作品をいま読みかえしてどんな気がしますか。 むかしのアルバムを繰りひろげて見ているような気がします。 人間は変っていませんが服装は変っていますね。 その服装を微笑ましい気で見ている事もあります。 何か主義とでもいったようなものを持っていますか。 生活に於いてはいつも愛という事を考えていますがこれは私に限らず誰でも考えている事でしょう。 ところがこれはむずかしいものです。 愛などと言うと甘ったるいもののようにお考えかも知れませんがむずかしいものですよ。 愛するという事はどんな事だか私にはまだわからない。 めったに使えない言葉のような気がする。 自分ではたいへん愛情の深い人のような気がしていてもまるでその逆だったという場合もあるのですからね。 とにかくむずかしい。 さっきの正直という事と少しつながりがあるような気もする。 愛と正直。 わかったようなわからないようなとにかく私にはまだわからないところがある。 正直は現実の問題愛は理想まあそんなところに私の主義とでもいったようなものがひそんでいるのかも知れませんが私にはまだはっきりわからないのです。 あなたはクリスチャンですか。 教会には行きませんが聖書は読みます。 世界中で日本人ほどキリスト教を正しく理解できる人種は少いのではないかと思っています。 キリスト教に於いても日本はこれから世界の中心になるのではないかと思っています。 最近の欧米人のキリスト教は実にいい加減のものです。 そろそろ展覧会の季節になりましたが何かごらんになりましたか。 まだどこの展覧会も見ていませんがこのごろ画をたのしんでかいている人が実に少い。 すこしもよろこびが無い。 生命力が貧弱です。 ばかに威張ったような事ばかり言ってすみませんでした。 なんだ。 おまえは大臣の前にでも坐っているつもりなのか。 提燈行列です。 街へ出て見よう。 はあ。 よかった。 おれは泣かなかった。 そうでしょうか。 そうかなあ。 泣きませんでした。 よかった。 日本はもうこれでいいのだよ。 よかった。 よかった。 これでもういいのだ。 やあ諸君おめでとう。 お礼まわりはへんですね。 皇室典範に拠れば――。 皇室典範とはまた大きく出たじゃないか。 山椒魚。 山椒魚。 人格者。 十字街。 これからはこのような作品を理解できないと文学を語る資格が無いのだ。 こんなのがいいんです。 山椒魚。 夜ふけと梅の花。 大丈夫だ。 夜ふけと梅の花。 谷間。 谷間。 夜ふけと梅の花。 俺にも相当な考えがあるんだ。 井伏鱒二選集。 青ヶ島大概記。 青ヶ島大概記。 青ヶ島大概記。 井伏の小説は井伏の将棋と同じだ。 槍を歩のように一つずつ進める。 井伏の小説は決して攻めない。 巻き込む。 吸い込む。 遠心力よりも求心力が強い。 井伏の小説は泣かせない。 読者が泣こうとするとふっと切る。 井伏の小説は実に逃げ足が早い。 古人の吝嗇に就いて。 アフリカに於ける羅馬軍の大将アッチリウス・レグルスはカルタゴ人に打ち勝って光栄の真中にあったのに本国に書を送って全体で僅か七アルペントばかりにしかならぬ自分の地処の管理を頼んでおいた小作人が農具を奪って遁走したことを訴え且つ妻子が困っているといけないから帰国してその始末を致したいと暇を乞うた。 老いたるカトンはサルジニア総督時代には徒歩で巡視をした。 お供と云えば唯国の役人を一人つれたきりでいや最も屡々自分で行李を持って歩いた。 彼は一エキュ以上する着物を着たことがない一日に一文以上市場に払ったことがないと自慢した。 また田舎にある自分の家は外側に壁土をつけないものばかりだと自慢した。 また伝うる所によればホメロスは唯一人しか下僕を持ったことがなかった。 プラトンは三人。 ストワ派の頭ゼノンは唯の一人も持たなかった。 チベリウス・グラックスは国のために任に赴いた時羅馬最高位の人であったのに一日に唯の五文半しか支給せられなかった。 青ヶ島大概記。 青ヶ島大概記。 手伝いましょう。 どんどんお書きになってください。 僕がそれを片はしから清書いたしますから。 ここはどう書いたらいいものかな。 どんなところですか。 うん噴火の所なんだがね。 君は噴火でどんな場合が一ばんこわいかね。 石が降ってくるというじゃありませんか。 石の雨に当ったらかなわねえ。 そうかね。 島山鳴動して猛火は炎々と右の火穴より噴き出だし火石を天空に吹きあげ息をだにつく隙間もなく火石は島中へ降りそそぎ申し候。 大石の雨も降りしきるなり。 大なる石は虚空より唸りの風音をたて隕石のごとく速かに落下し来り直ちに男女を打ちひしぎ候。 小なるものは天空たかく舞いあがり大虚を二三日とびさまよひ候。 おれは勉強しだいでは谷崎潤一郎には成れるけれども井伏鱒二には成れない。 青ヶ島大概記。 あのね。 何ですか。 あのね谷崎潤一郎がね僕の青ヶ島を賞めていたそうだ。 佐藤さんがそう云ってた。 うれしいですか。 うん。 早稲田界隈。 後輩。 後輩。 よかったねえ。 どうなることかと思った。 よかったねえ。 旅。 宿命的。 旅。 ついに。 降りかた。 降りて。 旅行上手。 お部屋は一つしか空いて居りませんがそれはきょう東京から井伏先生という方がおいでになるからよろしく頼むと或る人からお電話でしたからすみませんけど。 はあ。 修行。 人間は一緒に旅行をするとその旅の道連れの本性がよくわかる。 おれは君とちがつてどうやらおめでたいやうである。 おれは處女でない妻をめとつて三年間その事實を知らずにすごした。 こんなことは口に出すべきではないかも知れぬ。 いまは幸福さうに編物へ熱中してゐる妻に對してもむざんである。 また世の中のたくさんの夫婦に對してもいやがらせとなるであらう。 しかしおれは口に出す。 君のとりすました顏をなぐりつけてやりたいからだ。 おれはヴアレリイもプルウストも讀まぬ。 おほかたおれは文學を知らぬのであらう。 知らぬでもよい。 おれは別なもつとほんたうのものを見つめてゐる。 人間を。 人間といふ謂はば市場の蒼蠅を。 それゆゑおれにとつては作家こそすべてである。 作品は無である。 どういふ傑作でも作家以上ではない。 作家を飛躍し超越した作品といふものは讀者の眩惑である。 君はいやな顏をするであらう。 讀者にインスピレエションを信じさせたい君はおれの言葉を卑俗とか生野暮とかといやしめるにちがひない。 そんならおれはもつとはつきり言つてもよい。 おれはおれの作品がおれのためになるときだけ仕事をするのである。 君がまさしく聰明ならばおれのこんな態度をこそ鼻で笑へる筈だ。 笑へないならば今後かしこさうに口まげる癖をよし給へ。 おれはいま君をはづかしめる意圖からこの小説を書かう。 この小説の題材はおれの恥さらしとなるかも知れぬ。 けれども決して君に憐憫の情を求めまい。 君より高い立場に據つて人間のいつはりない苦惱といふものを君の横面にたたきつけてやらうと思ふのである。 おれの妻はおれとおなじくらゐの嘘つきであつた。 ことしの秋のはじめおれは一篇の小説をしあげた。 それはおれの家庭の仕合せを神に誇つた短篇である。 おれは妻にもそれを讀ませた。 妻はそれをひくく音讀してしまつてからいいわと言つた。 さうしておれにだらしない動作をしかけた。 おれはどれほどのろまでもかういふ妻のそぶりの蔭にただならぬ氣がまへを見てとらざるを得なかつたのである。 おれは妻のそんな不安がどこからやつて來たのかそれを考へて三夜をつひやした。 おれの疑惑はひとつのくやしい事實にかたまつて行くのであつた。 おれもやはり十三人目の椅子に坐るべきおせつかいな性格を持つてゐた。 おれは妻をせめたのである。 このことにもまた三夜をつひやした。 妻はかへつておれを笑つてゐた。 ときどきは怒りさへした。 おれは最後の奸策をもちゐた。 その短篇にはおれのやうな男に處女がさづかつた歡喜をさへ書きしるされてゐるのであつたがおれはその箇所をとりあげて妻をいぢめたのである。 おれはいまに大作家になるのであるからこの小説もこののち百年は世の中にのこるのだ。 するとお前はこの小説とともに百年のちまで嘘つきとして世にうたはれるであらうと妻をおどかした。 無學の妻は果しておびえた。 しばらく考へてからたうとうおれに囁いた。 たつたいちどと囁いたのである。 おれは笑つて妻を愛撫した。 わかいころの怪我であるゆゑそれはなんでもないことだと妻に元氣をつけてやつておれはもつとくはしく妻に語らせるのであつた。 ああ妻はしばらくして二度と訂正した。 それから三度と言つた。 おれは尚も笑ひつづけながらどんな男かとやさしく尋ねた。 おれの知らない名前であつた。 妻がその男のことを語つてゐるうちにおれは手段でなく妻を抱擁した。 これはみじめな愛慾である。 同時に眞實の愛情である。 妻はつひに六度ほどと吐きだして聲を立てて泣いた。 その翌る朝妻はほがらかな顏つきをしてゐた。 あさの食卓に向ひ合つて坐つたとき妻はたはむれに兩手あはせておれを拜んだ。 おれも陽氣に下唇を噛んで見せた。 すると妻はいつそうくつろいだ樣子をしてくるしい。 とおれの顏を覗いたでないか。 おれはすこしと答へた。 おれは君に知らせてやりたい。 どんな永遠のすがたでもきつと卑俗で生野暮なものだといふことを。 その日をおれはどうして過したかこれも君に教へて置かう。 こんなときには妻の顏を妻の脱ぎ捨ての足袋を妻にかかはり合ひのある一切を見てはいけない。 妻のそのわるい過去を思ひ出すからといふだけでない。 おれと妻との最近までの安樂だつた日を追想してしまふからである。 その日おれはすぐ外出した。 ひとりの少年の洋畫家を訪れることにきめたのである。 この友人は獨身であつた。 妻帶者の友人はこの場合ふむきであらう。 おれはみちみちおれの頭腦がからつぽにならないやうに警戒した。 昨夜のことが入りこむすきのないほどおれは別な問題について考へふけるのであつた。 人生や藝術の問題はいくぶん危險であつた。 殊に文學はてきめんにあのなまな記憶を呼び返す。 おれは途上の植物について頭をひねつた。 からたちは灌木である。 春のをはりに白色の花をひらく。 何科に屬するかは知らぬ。 秋いますこし經つと黄いろい小粒の實がなるのだ。 それ以上を考へつめると危い。 おれはいそいで別な植物に眼を轉ずる。 すすき。 これは禾本科に屬する。 たしか禾本科と教はつた。 この白い穗はをばなといふのだ。 秋の七草のひとつである。 秋の七草とははぎききやうかるかやなでしこそれからをばな。 もう二つ足りないけれどなんであらう。 六度ほど。 だしぬけに耳へささやかれたのである。 おれはほとんど走るやうにして足を早めた。 いくたびとなく躓いた。 この落葉は。 いや植物はよさう。 もつと冷いものを。 もつと冷いものを。 よろめきながらもおれは陣容をたて直したのである。 おれはAプラスBの二乘の公式を心のなかで誦した。 そのつぎにはAプラスBプラスCの二乘の公式について研究した。 君は不思議なおももちを裝うておれの話を聞いてゐる。 けれどもおれは知つてゐる。 おそらくは君もおれのやうな災難を受けたときにはいやもつと手ぬるい問題にあつてさへ君の日ごろの高雅な文學論を持てあまして數學はおろかかぶと蟲いつぴきにさへとりすがらうとするであらう。 おれは人體の内臟器官の名稱をいちいち數へあげながら友人の居るアパアトに足を踏みいれた。 友人の部屋の扉をノツクしてから廊下の東南の隅につるされてある丸い金魚鉢を見あげ泳いでゐる四つの金魚についてその鰭の數をしらべた。 友人はまだ寢てゐたのであつた。 片眼だけをしぶくあけて出て來た。 友人の部屋へはひつておれはやうやくほつとした。 いちばん恐ろしいのは孤獨である。 なにかおしやべりをしてゐると助かる。 相手が女だと不安だ。 男がよい。 とりわけ好人物の男がよい。 この友人はかういふ條件にかなつてゐる。 おれは友人の近作について饒舌をふるつた。 それは二十號の風景畫であつた。 彼にしては大作の部類である。 水の澄んだ沼のほとりに赤い屋根の洋館が建つてゐる畫であつた。 友人はそれを内氣らしくカンヴアスを裏がへしにして部屋の壁へ寄せかけて置いたのにおれは躊躇せずそれをまたひつくりかへして眺めたのである。 おれはそのときどんな批評をしたのであらうか。 もし君の藝術批評が立派なものであるとしたならおれはそのときの批評もまんざらではなかつたやうである。 なぜと言つておれもまた君のやうに一言なかるべからず式の批評をしたからである。 モチイフについて色彩について構圖についておれはひとわたり難癖をつけることができた。 能ふかぎりの概念的な言葉でもつて。 友人はいちいちおれの言ふことを承認した。 いやいやおれは始めから友人に言葉をさしはさむ餘裕をさへ與へなかつたほどおしやべりをつづけたのである。 しかしかういふ饒舌もしんから安全ではない。 おれはほどよいところで打ち切つてこの年少の友に將棋をいどんだ。 ふたりは寢床のうへに坐つてくねくねと曲つた線のひかれてあるボオル紙へ駒をならべ早い將棋をなんばんとなくさした。 友人はときどき永いふんべつをしておれに怒られへどもどとまごつくのであつた。 たとへ一瞬時でもおれは手持ちぶさたな思ひをしたくなかつたのである。 こんなせつぱつまつた心がまへは所詮ながくつづかぬものである。 おれは將棋にさへ危機を感じはじめた。 やうやく疲勞を覺へたのだ。 よさうと言つておれは將棋の道具をとりのけその寢床のなかへもぐり込んだ。 友人もおれとならんで仰向けにころがり煙草をふかした。 おれはうつかり者。 休止はおれにとつては大敵なのだつた。 かなしい影がもうはやいくどとなくおれの胸をかすめる。 おれはさてさてと意味もなく呟いてはその大きい影を追ひはらつてゐた。 とてもこのままではならぬ。 おれは動いてゐなければいけないのだ。 君はこれを笑ふであらうか。 おれは寢床へ腹這ひになつて枕元に散らばつてあつた鼻紙をいちまい拾ひ折紙細工をはじめたのである。 まづこの紙を對角線に沿うて二つに折つてそれをまた二つに疊んでかうやつて袋を作つてそれからこちらの端を折つてこれは翼こちらの端を折つてこれはくちばしかういふ工合ひにひつぱつてここのちひさい孔からぷつと息を吹きこむのである。 これは鶴。 よく似てゐるがあなたは妹ぢやないのですね。 あなたは誰ですか。 私はうちを間違へたやうです。 仕方がありません。 同じやうなものですものね。 あなたの手はどうしてそんなに汚いのです。 かうして寢ながら見てゐるとあなたの喉や何かはひどくきれいなのに。 汚いことをしたからです。 私だつて知つてゐます。 だからかうして珠數やお經の本で隱さうとしてゐるのです。 私は色の配合のために珠數とお經の本とを持つて歩いてゐるのです。 黒いころもには青と朱の二色がよくうつつて私のすがたもまさつて見えます。 讀みませうか。 ええ。 おふみさまです。 夫人間ノ浮生ナル相ヲツラツラ觀ズルニオホヨソハカナキモノハコノ世ノ始中終マボロシノゴトクナル一期ナリ――てれくさくて讀まれるものか。 べつなのを讀みませう。 夫女人ノ身ハ五障三從トテオトコニマサリテカカルフカキツミノアルナリコノユヘニ一切ノ女人ヲバ――馬鹿らしい。 いい聲だ。 もつとつづけなさいよ。 僕は一日一日退屈でたまらないのです。 誰ともわからぬひとの訪問を驚きもしなければ好奇心も起さずなんにも聞かないでかうして眼をつぶつてらくらくと話し合へるといふことが僕もそんな男になれたといふことがうれしいのです。 あなたはどうですか。 いいえ。 だつて仕方がありませんもの。 お伽噺がおすきですか。 すきです。 蟹の話をいたしませう月夜の蟹の痩せてゐるのは砂濱にうつるおのが醜い月影におびえ終夜ねむらずよろばひ歩くからであります。 月の光のとどかない深い海のゆらゆら動く昆布の森のなかにおとなしく眠り龍宮の夢でも見てゐる態度こそゆかしいのでせうけれども蟹は月にうかされただ濱邊へとあせるのです。 砂濱へ出るやたちまちおのが醜い影を見つけおどろきかつはおそれるのです。 ここに男ありここに男あり蟹は泡をふきつつさう呟き呟きよろばひ歩くのです。 蟹の甲羅はつぶれ易い。 いいえ形からしてつぶされるやうにできてゐます。 蟹の甲羅のつぶれるときはくらつしゆといふ音が聞えるさうです。 むかしいぎりすの或る大きい蟹は生まれながらに甲羅が赤くて美しかつた。 この蟹の甲羅はいたましくもつぶされかけました。 それは民衆の罪なのでせうか。 またはかの大蟹のみづから招いたむくいなのでせうか。 大蟹はひと日その白い肉のはみ出た甲羅をせつなげにゆさぶりゆさぶりとあるカフヱへはひつたのでした。 カフヱにはたくさんの小蟹がむれつどひ煙草をくゆらしながら女の話をしてゐました。 そのなかの一匹ふらんす生れの小蟹は澄んだ眼をしてかの大蟹のすがたをみつめました。 その小蟹の甲羅には東洋的な灰色のくすんだ縞がいつぱいに交錯してゐました。 大蟹は小蟹の視線をまぶしさうにさけつつこつそり囁いたといふのです。 『おまへくらつしゆされた蟹をいぢめるものぢやないよ。 』ああその大蟹に比較すれば小さくて小さくて見るかげもないまづしい蟹がいま北方の海原から恥を忘れてうかれ出た。 月の光にみせられたのです。 砂濱へ出てみて彼もまたおどろいたのでした。 この影はこのひらべつたい醜い影はほんたうにおれの影であらうか。 おれは新しい男である。 しかしおれの影を見給へ。 もうはやおしつぶされかけてゐる。 おれの甲羅はこんなに不格好なのだらうか。 こんなに弱弱しかつたのだらうか。 小さい小さい蟹はさう呟きつつよろばひ歩くのでした。 おれには才能があつたのであらうか。 いやいやあつたとしてもそれはをかしい才能だ。 世わたりの才能といふものだ。 お前は原稿を賣り込むのに編輯者へどんな色目をつかつたか。 あの手。 この手。 泣き落しならば目ぐすりを。 おどかしの手か。 よい着物を着やうよ。 作品に一言も注釋を加へるな。 退屈さうにかう言ひ給へ。 『もしよかつたら。 』甲羅がうづく。 からだの水氣が乾いたやうだ。 この海水のにほひだけがおれのたつたひとつのとりえだつたのに。 潮の香がうせたならああおれは消えもいりたい。 もいちど海へはひらうか。 海の底の底の底へもぐらうか。 なつかしきは昆布の森。 遊牧の魚の群。 小蟹はあへぎあへぎ砂濱をよろばひ歩いたのでした。 浦の苫屋のかげでひとやすみ。 腐りかけたいさり舟のかげでひとやすみ。 この蟹や。 何處の蟹。 百傳ふ。 角鹿の蟹。 横去ふ。 何處に到る。 どうしたのです。 いいえ。 もつたいないのです。 これは古事記の。 罰があたりますよ。 はばかりはどこでせうかしら。 部屋を出て廊下を右手へまつすぐに行きますと杉の戸板につきあたります。 それが扉です。 秋にもなりますと女人は冷えますので。 私は寢なければなりません。 もう十二時なのです。 かまひませんでせうか。 かまひません。 この蒲團は不思議な模樣ですね。 ガラス繪みたいだわ。 いいえ。 掛蒲團は要らないのです。 私はこのままで寢るのです。 さうですか。 私の顏をよく見てゐて下さい。 みるみる眠つてしまひます。 それからすぐきりきりと齒ぎしりをします。 すると如來樣がおいでになりますの。 如來樣ですか。 ええ。 佛樣が夜遊びにおいでになります。 毎晩ですの。 あなたは退屈をしていらつしやるのださうですからよくごらんになればいいわ。 なにをお斷りしたのもそのためなのです。 如來樣ですか。 さうです。 のつぴきならなくなつて出て來ました。 なんだか臭いな。 やはりさうですか。 この象が死んでゐるのです。 樟腦をいれてしまつてゐたのですがやはり匂ふやうですね。 いま生きた白象はなかなか手にはひりませんのでしてね。 ふつうの象でもかまはないのに。 いや如來のていさいから言つてもさうはいかないのです。 ほんたうに私はこんな姿をしてまで出しやばりたくはないのです。 いやな奴等がひつぱり出すのです。 佛教がさかんになつたさうですね。 ああ如來樣。 早くどうにかして下さい。 僕はさつきから臭くて息がつまりさうで死ぬ思ひでゐたのです。 お氣の毒でした。 あなた。 私がここへ現はれたとき滑稽ではなかつたかしら。 如來の現はれかたにしては少しぶざまだと思はなかつたでせうか。 思つたとほりを言つて下さい。 いいえ。 たいへん結構でした。 御立派だと思ひましたよ。 ほほ。 さうですか。 それで安心しました。 私はさつきからそれだけが氣がかりでならなかつたのです。 私は氣取り屋なのかも知れませんね。 これで安心して歸れます。 ひとつあなたにいかにも如來らしい退去のすがたをおめにかけませう。 しまつた。 おかえりなさいまし。 ごはんはおすみですか。 お戸棚におむすびがございますけど。 やありがとう。 坊やはどうです。 熱はまだありますか。 ごめん下さい。 ごめん下さい。 大谷さん。 大谷さん。 いらっしゃるんでしょう。 なんだい。 なんだいではありませんよ。 こんなちゃんとしたお家もあるくせにどろぼうを働くなんてどうした事です。 ひとのわるい冗談はよしてあれを返して下さい。 でなければ私はこれからすぐ警察に訴えます。 何を言うんだ。 失敬な事を言うな。 ここはお前たちの来るところでは無い。 帰れ。 帰らなければ僕のほうからお前たちを訴えてやる。 先生いい度胸だね。 お前たちの来るところではないとは出かした。 呆れてものが言えねえや。 他の事とは違う。 よその家の金をあんた冗談にも程度がありますよ。 いままでだって私たち夫婦はあんたのためにどれだけ苦労をさせられて来たかわからねえのだ。 それなのにこんな今夜のような情ねえ事をし出かしてくれる。 先生私は見そこないましたよ。 ゆすりだ。 恐喝だ。 帰れ。 文句があるならあした聞く。 たいへんな事を言いやがるなあ先生すっかりもう一人前の悪党だ。 それではもう警察へお願いするより手がねえぜ。 勝手にしろ。 いらっしゃいまし。 やこれは奥さんですか。 こんな夜中にあがりまして。 おっとそいつあいけない。 放せ。 刺すぞ。 どろぼう。 およしなさいまし。 どちらにもお怪我があってはなりませぬ。 あとの始末は私がいたします。 そうですねとうさん。 気ちがいに刃物です。 何をするかわかりません。 ちきしょう。 警察だ。 もう承知できねえ。 すみません。 どうぞおあがりになってお話を聞かして下さいまし。 私でもあとの始末は出来るかも知れませんから。 どうぞおあがりになってどうぞ。 きたないところですけど。 何とおっしゃっても私どもの気持はもうきまっています。 しかしこれまでの経緯は一応奥さんに申し上げて置きます。 はあどうぞ。 おあがりになって。 そうしてゆっくり。 いやそんなゆっくりもしておられませんが。 そのままでどうぞ。 お寒いんですから本当にそのままでお願いします。 家の中には火の気が一つも無いのでございますから。 ではこのままで失礼します。 どうぞ。 そちらのお方もどうぞそのままで。 畳が汚うございますからどうぞこんなものでもおあてになって。 はじめてお目にかかります。 主人がこれまでたいへんなご迷惑ばかりおかけしてまいりましたようでまた今夜は何をどう致しました事やらあのようなおそろしい真似などしておわびの申し上げ様もございませぬ。 何せあのような変った気象の人なので。 奥さん。 まことに失礼ですがいくつにおなりで。 あの私でございますか。 ええ。 たしか旦那は三十でしたね。 はあ私はあの四つ下です。 すると二十六いやこれはひどい。 まだそんなですか。 いやその筈だ。 旦那が三十ならばそりゃその筈だけどおどろいたな。 私もさきほどから。 感心しておりました。 こんな立派な奥さんがあるのにどうして大谷さんはあんなにねえ。 病気だ。 病気なんだよ。 以前はあれほどでもなかったんだがだんだん悪くなりやがった。 実は奥さん。 私ども夫婦は中野駅の近くに小さい料理屋を経営していまして私もこれも上州の生れで私はこれでも堅気のあきんどだったのでございますが道楽気が強いというのでございましょうか田舎のお百姓を相手のケチな商売にもいや気がさしてかれこれ二十年前この女房を連れて東京へ出て来まして浅草の或る料理屋に夫婦ともに住込みの奉公をはじめましてまあ人並に浮き沈みの苦労をしてすこし蓄えも出来ましたのでいまのあの中野の駅ちかくに昭和十一年でしたか六畳一間に狭い土間附きのまことにむさくるしい小さい家を借りまして一度の遊興費がせいぜい一円か二円の客を相手の心細い飲食店を開業いたしましてそれでもまあ夫婦がぜいたくもせず地道に働いて来たつもりでそのおかげか焼酎やらジンやらを割にどっさり仕入れて置く事が出来ましてその後の酒不足の時代になりましてからもよその飲食店のように転業などせずにどうやら頑張って商売をつづけてまいりましてまたそうなるとひいきのお客もむきになって応援をして下さって所謂あの軍官の酒さかながこちらへも少しずつ流れて来るような道をひらいて下さるお方もあり対米英戦がはじまってだんだん空襲がはげしくなって来てからも私どもには足手まといの子供は無し故郷へ疎開などする気も起らずまあこの家が焼ける迄はと思ってこの商売一つにかじりついて来てどうやら罹災もせず終戦になりましたのでほっとしてこんどは大ぴらに闇酒を仕入れて売っているという手短かに語るとそんな身の上の人間なのでございます。 けれどもこうして手短かに語るとさして大きな難儀も無く割に運がよく暮して来た人間のようにお思いになるかも知れませんが人間の一生は地獄でございまして寸善尺魔とはまったく本当の事でございますね。 一寸の仕合せには一尺の魔物が必ずくっついてまいります。 人間三百六十五日何の心配も無い日が一日いや半日あったらそれは仕合せな人間です。 あなたの旦那の大谷さんがはじめて私どもの店に来ましたのは昭和十九年の春でしたかとにかくその頃はまだ対米英戦もそんなに負けいくさでは無くいやそろそろもう負けいくさになっていたのでしょうが私たちにはそんな実体ですか真相ですかそんなものはわからずここ二三年頑張ればどうにかこうにか対等の資格で和睦が出来るくらいに考えていまして大谷さんがはじめて私どもの店にあらわれた時にもたしか久留米絣の着流しに二重廻しを引っかけていた筈でけれどもそれは大谷さんだけでなくまだその頃は東京でも防空服装で身をかためて歩いている人は少くたいてい普通の服装でのんきに外出できた頃でしたので私どももその時の大谷さんの身なりを別段だらし無いとも何とも感じませんでした。 大谷さんはその時おひとりではございませんでした。 奥さんの前ですけれどもいやもう何も包みかくし無く洗いざらい申し上げましょう旦那は或る年増女に連れられて店の勝手口からこっそりはいってまいりましたのです。 もっとももうその頃は私どもの店も毎日おもての戸は閉めっきりでその頃のはやり言葉で言うと閉店開業というやつでほんの少数の馴染客だけ勝手口からこっそりはいりそうしてお店の土間の椅子席でお酒を飲むという事は無く奥の六畳間で電気を暗くして大きい声を立てずにこっそり酔っぱらうという仕組になっていましてまたその年増女というのはそのすこし前まで新宿のバアで女給さんをしていたひとでその女給時代に筋のいいお客を私の店に連れて来て飲ませて私の家の馴染にしてくれるというまあ蛇の道はへびという工合いの附合いをしておりましてそのひとのアパートはすぐ近くでしたので新宿のバアが閉鎖になって女給をよしましてからもちょいちょい知合いの男のひとを連れてまいりまして私どもの店にもだんだん酒が少くなりどんなに筋のいいお客でも飲み手がふえるというのは以前ほど有難くないばかりか迷惑にさえ思われたのですがしかしその前の四五年間ずいぶん派手な金遣いをするお客ばかりたくさん連れて来てくれたのでございますからその義理もあってその年増のひとから紹介された客には私どももいやな顔をせずお酒を差し上げる事にしていたのでした。 だから旦那がその時その年増のひと秋ちゃんといいますがそのひとに連れられて裏の勝手口からこっそりはいって来ても別に私どもも怪しむ事なくれいのとおり奥の六畳間に上げて焼酎を出しました。 大谷さんはその晩はおとなしく飲んでお勘定は秋ちゃんに払わせてまた裏口からふたり一緒に帰って行きましたが私には奇妙にあの晩の大谷さんのへんに静かで上品な素振りが忘れられません。 魔物がひとの家にはじめて現われる時にはあんなひっそりしたういういしいみたいな姿をしているものなのでしょうか。 その夜から私どもの店は大谷さんに見込まれてしまったのでした。 それから十日ほど経ってこんどは大谷さんがひとりで裏口からまいりましていきなり百円紙幣を一枚出していやその頃はまだ百円と言えば大金でしたいまの二三千円にもそれ以上にも当る大金でしたそれを無理矢理私の手に握らせてたのむと言って気弱そうに笑うのです。 もう既にだいぶ召上っている様子でしたがとにかく奥さんもご存じでしょうあんな酒の強いひとはありません。 酔ったのかと思うと急にまじめなちゃんと筋のとおった話をするしいくら飲んでも足もとがふらつくなんて事はついぞ一度も私どもに見せた事は無いのですからね。 人間三十前後は謂わば血気のさかりで酒にも強い年頃ですがしかしあんなのは珍らしい。 その晩もどこかよそでかなりやって来た様子なのにそれから私の家で焼酎を立てつづけに十杯も飲みまるでほとんど無口で私ども夫婦が何かと話しかけてもただはにかむように笑ってうんうんとあいまいに首肯き突然何時ですかと時間をたずねて立ち上りお釣をと私が言いますといやいいと言いそれは困りますと私が強く言いましたらにやっと笑ってそれではこの次まであずかって置いて下さいまた来ますと言って帰りましたが奥さん私どもがあのひとからお金をいただいたのはあとにもさきにもただこの時いちど切りそれからはもうなんだかんだとごまかして三年間一銭のお金も払わずに私どものお酒をほとんどひとりで飲みほしてしまったのだから呆れるじゃありませんか。 いやまったく笑い事では無いんだがあまり呆れて笑いたくもなります。 じっさいあれほどの腕前を他のまともな方面に用いたら大臣にでも博士にでもなんにでもなれますよ。 私ども夫婦ばかりでなくあの人に見込まれてすってんてんになってこの寒空に泣いている人間が他にもまだまだある様子だ。 げんにあの秋ちゃんなど大谷さんと知合ったばかりにいいパトロンには逃げられるしお金も着物も無くしてしまうしいまはもう長屋の汚い一部屋で乞食みたいな暮しをしているそうだがじっさいあの秋ちゃんは大谷さんと知合った頃にはあさましいくらいのぼせて私たちにも何かと吹聴していたものです。 だいいちご身分が凄い。 四国の或る殿様の別家の大谷男爵の次男でいまは不身持のため勘当せられているがいまに父の男爵が死ねば長男と二人で財産をわける事になっている。 頭がよくて天才というものだ。 二十一で本を書いてそれが石川|啄木という大天才の書いた本よりももっと上手でそれからまた十何冊だかの本を書いてとしは若いけれども日本一の詩人という事になっている。 おまけに大学者で学習院から一高帝大とすすんでドイツ語フランス語いやもうおっそろしい何が何だか秋ちゃんに言わせるとまるで神様みたいな人でしかしそれもまたまんざら皆うそではないらしく他のひとから聞いても大谷男爵の次男で有名な詩人だという事に変りはないのでこんなうちの婆までいいとしをして秋ちゃんと競争してのぼせ上ってさすがに育ちのいいお方はどこか違っていらっしゃるなんて言って大谷さんのおいでを心待ちにしているていたらくなんですからたまりません。 いまはもう華族もへったくれも無くなったようですが終戦前までは女を口説くにはとにかくこの華族の勘当息子という手に限るようでした。 へんに女がくわっとなるらしいんです。 やっぱりこれはそのいまはやりの言葉で言えば奴隷根性というものなんでしょうね。 私なんぞは男のそれもすれっからしと来ているのでございますからたかが華族のいや奥さんの前ですけれども四国の殿様のそのまた分家のおまけに次男なんてそんなのは何も私たちと身分のちがいがあろう筈が無いと思っていますしまさかそんなあさましくくわっとなったりなどはしやしません。 ですけれどもやはり何だかどうもあの先生は私にとっても苦手でしてもうこんどこそどんなにたのまれてもお酒は飲ませまいと固く決心していても追われて来た人のように意外の時刻にひょいとあらわれ私どもの家へ来てやっとほっとしたような様子をするのを見るとつい決心もにぶってお酒を出してしまうのです。 酔っても別に馬鹿騒ぎをするわけじゃないしあれでお勘定さえきちんとしてくれたらいいお客なんですがねえ。 自分で自分の身分を吹聴するわけでもないし天才だのなんだのとそんな馬鹿げた自慢をした事もありませんし秋ちゃんなんかがあの先生の傍で私どもにあの人の偉さに就いて広告したりなどすると僕はお金がほしいんだここの勘定を払いたいんだとまるっきり別な事を言って座を白けさせてしまいます。 あの人が私どもに今までお酒の代を払った事はありませんがあのひとのかわりに秋ちゃんが時々支払って行きますしまた秋ちゃんの他にも秋ちゃんに知られては困るらしい内緒の女のひともありましてそのひとはどこかの奥さんのようでそのひとも時たま大谷さんと一緒にやって来ましてこれもまた大谷さんのかわりに過分のお金を置いて行く事もありまして私どもだって商人でございますからそんな事でもなかった日にはいくら大谷先生であろうが宮様であろうがそんなにいつまでもただで飲ませるわけにはまいりませんのです。 けれどもそんな時たまの支払いだけではとても足りるものではなくもう私どもの大損でなんでも小金井に先生の家があってそこにはちゃんとした奥さんもいらっしゃるという事を聞いていましたのでいちどそちらへお勘定の相談にあがろうと思ってそれとなく大谷さんにお宅はどのへんでしょうとたずねる事もありましたがすぐ勘附いて無いものは無いんだよどうしてそんなに気をもむのかね喧嘩わかれは損だぜなどといやな事を言います。 それでも私どもは何とかして先生のお家だけでも突きとめて置きたくて二三度あとをつけてみた事もありましたがそのたんびにうまく巻かれてしまうのです。 そのうちに東京は大空襲の連続という事になりまして何が何やら大谷さんが戦闘帽などかぶって舞い込んで来て勝手に押入れの中からブランデイの瓶なんか持ち出してぐいぐい立ったまま飲んで風のように立ち去ったりなんかしてお勘定も何もあったものでなくやがて終戦になりましたのでこんどは私どもも大っぴらで闇の酒さかなを仕入れて店先には新しいのれんを出しいかに貧乏の店でも張り切ってお客への愛嬌に女の子をひとり雇ったり致しましたがまたもやあの魔物の先生があらわれましてこんどは女連れでなく必ず二三人の新聞記者や雑誌記者と一緒にまいりましてなんでもこれからは軍人が没落して今まで貧乏していた詩人などが世の中からもてはやされるようになったとかいうその記者たちの話でございまして大谷先生はその記者たちを相手に外国人の名前だか英語だか哲学だか何だかわけのわからないようなへんな事を言って聞かせてそうしてひょいと立って外へ出てそれっきり帰りません。 記者たちは興覚め顔にあいつどこへ行きやがったんだろうそろそろおれたちも帰ろうかなど帰り支度をはじめ私はお待ち下さい先生はいつもあの手で逃げるのですお勘定はあなたたちから戴きますと申します。 おとなしく皆で出し合って支払って帰る連中もありますが大谷に払わせろおれたちは五百円生活をしているんだと言って怒る人もあります。 怒られても私はいいえ大谷さんの借金がいままでいくらになっているかご存じですか。 もしあなたたちがその借金をいくらでも大谷さんから取って下さったら私はあなたたちにその半分は差し上げますと言いますと記者たちも呆れた顔を致しましてなんだ大谷がそんなひでえ野郎とは思わなかったこんどからはあいつと飲むのはごめんだおれたちには今夜は金は百円も無いあした持って来るからそれまでこれをあずかって置いてくれと威勢よく外套を脱いだりなんかするのでございます。 記者というものは柄が悪いと世間から言われているようですけれども大谷さんにくらべるとどうしてどうして正直であっさりして大谷さんが男爵の御次男なら記者たちのほうが公爵の御総領くらいの値打があります。 大谷さんは終戦後は一段と酒量もふえて人相がけわしくなりこれまで口にした事の無かったひどく下品な冗談などを口走りまた連れて来た記者を矢庭に殴ってつかみ合いの喧嘩をはじめたりまた私どもの店で使っているまだはたち前の女の子をいつのまにやらだまし込んで手に入れてしまった様子で私どもも実に驚きまったく困りましたが既にもう出来てしまった事ですから泣き寝入りの他は無く女の子にもあきらめるように言いふくめてこっそり親御の許にかえしてやりました。 大谷さん何ももう言いません拝むからこれっきり来ないで下さいと私が申しましても大谷さんは闇でもうけているくせに人並の口をきくな僕はなんでも知っているぜと下司な脅迫がましい事など言いましてまたすぐ次の晩に平気な顔してまいります。 私どもも大戦中から闇の商売などしてその罰が当ってこんな化け物みたいな人間を引受けなければならなくなったのかも知れませんがしかし今晩のようなひどい事をされてはもう詩人も先生もへったくれもないどろぼうです私どものお金を五千円ぬすんで逃げ出したのですからね。 いまはもう私どもも仕入れに金がかかって家の中にはせいぜい五百円か千円の現金があるくらいのものでいや本当の話売り上げの金はすぐ右から左へ仕入れに注ぎ込んでしまわなければならないんです。 今夜私どもの家に五千円などという大金があったのはもうことしも大みそかが近くなって来ましたし私が常連のお客さんの家を廻ってお勘定をもらって歩いてやっとそれだけ集めてまいりましたのでしてこれはすぐ今夜にでも仕入れのほうに手渡してやらなければもう来年の正月からは私どもの商売をつづけてやって行かれなくなるようなそんな大事な金で女房が奥の六畳間で勘定して戸棚の引出しにしまったのをあのひとが土間の椅子席でひとりで酒を飲みながらそれを見ていたらしく急に立ってつかつかと六畳間にあがって無言で女房を押しのけ引出しをあけその五千円の札束をわしづかみにして二重まわしのポケットにねじ込み私どもがあっけにとられているうちにさっさと土間に降りて店から出て行きますので私は大声を挙げて呼びとめ女房と一緒に後を追い私はこうなればもうどろぼう。 と叫んで往来のひとたちを集めてしばってもらおうかとも思ったのですがとにかく大谷さんは私どもとは知合いの間柄ですしそれもむごすぎるように思われ今夜はどんな事があっても大谷さんを見失わないようにどこまでも後をつけて行きその落ちつく先を見とどけておだやかに話してあの金をかえてしてもらおうとまあ私どもも弱い商売でございますから私ども夫婦は力を合せやっと今夜はこの家をつきとめてかんにん出来ぬ気持をおさえて金をかえして下さいとおんびんに申し出たのにまあ何という事だナイフなんか出して刺すぞだなんてまあなんという。 文明の果の大笑い。 ああいかん。 こわいんだ。 こわいんだよ僕は。 こわい。 たすけてくれ。 フランソワ・ヴィヨン。 坊や。 綺麗なお池でしょ。 昔はねこのお池に鯉トトや金トトがたくさんたくさんいたのだけれどもいまはなんにもいないわねえ。 つまんないねえ。 あのおばさんお金は私が綺麗におかえし出来そうですの。 今晩かでなければあしたとにかくはっきり見込みがついたのですからもうご心配なさらないで。 おやまあそれはどうも。 おばさん本当よ。 かくじつにここへ持って来てくれるひとがあるのよ。 それまで私は人質になってここにずっといる事になっていますの。 それなら安心でしょう。 お金が来るまで私はお店のお手伝いでもさせていただくわ。 へえ。 しかし奥さんお金ってものは自分の手に握ってみないうちはあてにならないものですよ。 いいえそれがね本当にたしかなのよ。 だから私を信用しておもて沙汰にするのはきょう一日待って下さいな。 それまで私はこのお店でお手伝いしていますから。 お金がかえって来ればそりゃもう何も。 何せことしもあと五六日なのですからね。 ええだからそれだからあの私はおや。 お客さんですわよ。 いらっしゃいまし。 おばさんすみません。 エプロンを貸して下さいな。 や美人を雇いやがった。 こいつあ凄い。 誘惑しないで下さいよ。 お金のかかっているからだですから。 百万ドルの名馬か。 名馬も雌は半値だそうです。 けんそんするなよ。 これから日本は馬でも犬でも男女同権だってさ。 ねえさんおれは惚れた。 一目惚れだ。 がしかしお前は子持ちだな。 いいえ。 これはこんど私どもが親戚からもらって来た子ですの。 これでもうやっと私どもにもあとつぎが出来たというわけですわ。 金も出来たし。 いろも出来借金も出来。 何にしますか。 よせ鍋でも作りましょうか。 ねえさんちょっと。 へえ。 いらっしゃいまし。 お酒でございますか。 クリスマスおめでとうって言うの。 なんていうの。 もう一升くらいは飲めそうね。 あのねえさんすみませんがねここのご主人にないないお話し申したい事がございますのですけどちょっとここへご主人を。 大谷が帰ってまいりました。 会ってやって下さいまし。 でも連れの女のかたに私のことは黙っていて下さいね。 大谷が恥かしい思いをするといけませんから。 いよいよ来ましたね。 私のことは黙っててね。 そのほうがよろしいのでしたらそうします。 飲みましょうよね飲みましょう。 クリスマスですもの。 奥さんありがとうございました。 お金はかえして戴きました。 そう。 よかったわね。 全部。 ええきのうのあの分だけはね。 これまでのが全部でいくらなの。 ざっとまあ大負けに負けて。 二万円。 それだけでいいの。 大負けに負けました。 おかえし致します。 おじさんあすから私をここで働かせてくれない。 ねそうして。 働いて返すわ。 へえ。 奥さんとんだおかるだね。 たいがいそんなところだろうとは思っていましたがしかし奥さんあなたはよくその方角にお気が附きましたね。 大谷さんのお友だちにでも頼んだのですか。 ええそりゃもう。 帰りませんか。 なぜはじめからこうしなかったのでしょうね。 とっても私は幸福よ。 女には幸福も不幸も無いものです。 そうなの。 そう言われるとそんな気もして来るけどそれじゃ男の人はどうなの。 男には不幸だけがあるんです。 いつも恐怖と戦ってばかりいるのです。 わからないわ私には。 でもいつまでも私こんな生活をつづけて行きとうございますわ。 椿屋のおじさんもおばさんもとてもいいお方ですもの。 馬鹿なんですよあのひとたちは。 田舎者ですよ。 あれでなかなか慾張りでね。 僕に飲ませておしまいにはもうけようと思っているのです。 そりゃ商売ですもの当り前だわ。 だけどそれだけでも無いんじゃない。 あなたはあのおかみさんをかすめたでしょう。 昔ね。 おやじはどう。 気附いているの。 ちゃんと知っているらしいわ。 いろも出来借金も出来といつか溜息まじりに言ってたわ。 僕はねキザのようですけど死にたくて仕様が無いんです。 生れた時から死ぬ事ばかり考えていたんだ。 皆のためにも死んだほうがいいんです。 それはもうたしかなんだ。 それでいてなかなか死ねない。 へんなこわい神様みたいなものが僕の死ぬのを引きとめるのです。 お仕事がおありですから。 仕事なんてものはなんでもないんです。 傑作も駄作もありやしません。 人がいいと言えばよくなるし悪いと言えば悪くなるんです。 ちょうど吐くいきと引くいきみたいなものなんです。 おそろしいのはねこの世の中のどこかに神がいるという事なんです。 いるんでしょうね。 え。 いるんでしょうね。 私にはわかりませんわ。 そう。 その奥さんはどこにいらっしゃるの。 どこにいるのか知りませんがねすくなくとも椿屋のさっちゃんよりは上品で綺麗だ。 やけるわね。 大谷さんみたいな人となら私は一夜でもいいから添ってみたいわ。 私はあんなずるいひとが好き。 これだからねえ。 また傘をお借りしますわ。 傘ならおれも持っている。 お送りしましょう。 はばかりさま。 ひとり歩きには馴れていますから。 いやお宅は遠い。 知っているんだ。 おれも小金井のあの近所の者なんだ。 お送りしましょう。 おばさん勘定をたのむ。 知っているのです。 おれはねあの大谷先生の詩のファンなのですよ。 おれもね詩を書いているのですがね。 そのうち大谷先生に見ていただこうと思っていたのですがね。 どうもねあの大谷先生がこわくてね。 ありがとうございました。 またお店で。 ええさようなら。 ごめん下さい。 大谷さんごめん下さい。 奥さんごめんなさい。 かえりにまた屋台で一ぱいやりましてね実はねおれの家は立川でね駅へ行ってみたらもう電車がねえんだ。 奥さんたのみます。 泊めて下さい。 ふとんも何も要りません。 この玄関の式台でもいいのだ。 あしたの朝の始発が出るまでごろ寝させて下さい。 雨さえ降ってなけやその辺の軒下にでも寝るんだがこの雨ではそうもいかねえ。 たのみます。 主人もおりませんしこんな式台でよろしかったらどうぞ。 すみません。 ああ酔った。 誰もいないの。 うん。 おやじはまだ仕入れから帰らないしばあさんはちょっといままでお勝手のほうにいたようだったけどいませんか。 ゆうべはおいでにならなかったの。 来ました。 椿屋のさっちゃんの顔を見ないとこのごろ眠れなくなってね十時すぎにここを覗いてみたらいましがた帰りましたというのでね。 それで。 泊っちゃいましたよここへ。 雨はざんざ降っているし。 あたしもこんどからこのお店にずっと泊めてもらう事にしようかしら。 いいでしょうそれも。 そうするわ。 あの家をいつまでも借りてるのは意味ないもの。 やあまた僕の悪口を書いている。 エピキュリアンのにせ貴族だってさ。 こいつは当っていない。 神におびえるエピキュリアンとでも言ったらよいのに。 さっちゃんごらんここに僕のことを人非人なんて書いていますよ。 違うよねえ。 僕は今だから言うけれども去年の暮にねここから五千円持って出たのはさっちゃんと坊やにあのお金で久し振りのいいお正月をさせたかったからです。 人非人でないからあんな事も仕出かすのです。 人非人でもいいじゃないの。 私たちは生きていさえすればいいのよ。 戦争が終ったらこんどはまた急に何々主義だの何々主義だのあさましく騒ぎまわって演説なんかしているけれども私は何一つ信用できない気持です。 主義も思想もへったくれも要らない。 男は嘘をつく事をやめて女は慾を捨てたらそれでもう日本の新しい建設が出来ると思う。 いやごもっとも。 しかしそれは逆じゃありませんか。 男が慾を捨て女が嘘をつく事をやめるとこう来なくてはいけません。 そりゃまたなぜです。 まあどっちでも同じ様なものですがしかし女の嘘は凄いものです。 私はことしの正月いやもう身の毛もよだつような思いをしました。 それ以来私はてんで女というものを信用しなくなりました。 うちの女房なんかあんな薄汚い婆でもあれで案外ほかに男をこしらえているかも知れない。 いやそれは本当にわからないものですよ。 私。 いやきょうは。 お願いがあって来たのです。 絶対に秘密にして置いて下さい。 脱走事件です。 たぶんこの町には先例の無かった事でしょう。 あなたの御親戚の圭吾さんね入隊していないんです。 いやしかしあれは。 あれはたしかに私が青森の部隊の営門まで送りとどけた筈ですが。 そうです。 それは私も知っています。 しかし向うの憲兵隊から彼ははじめから来ていないという電話です。 いったいならば憲兵がこちらへ捜査に来る筈なのですがこの大雪でどうにもならぬ。 依ってまず先に内々の捜査を言いつけて来たのです。 それで私はあなたに一つお願いがあるのです。 ほう感心だのう。 おれのうちの女房などは晩げのめし食うとすぐに赤ん坊に添寝してそれっきりぐうぐう大鼾だ。 夜なべもくそもありやしねえ。 お前はさすがに出征兵士の妻だけあって感心だ感心だ。 ばばちゃは寝たか。 ばばちゃは寝て夢でも見るのが一ばんの楽しみだべ。 うんまあそんなところかも知れない。 お前もなかなか苦労が多いの。 しかしいまの時代は日本国中に仕合せな人はひとりもねえのだからなつらくてもしばらくの我慢だ。 何か思いに余る心配事でも起った時にはおれのところへ相談に来ればいいしのう。 有難うごす。 きょうはまたどこからかのお帰りですか。 おそいねす。 おれか。 いやどこの帰りでもねえ。 まっすぐにここさ来たのだ。 まっすぐにここさ来た。 実はのきょうはお前に大事なお願いがあって来たのだ。 はあ。 いや針仕事をしながらでいい落ちついて聞いてくれ。 これはお国のためというよりはこの町のためいやお前たち一家のために是非とも聞きいれてくれろ。 だいいちには圭吾自身のためまたお前のためまたばばちゃのためそれからお前たちの祖先子孫のため何としてもこんどのおれの願い一つだけは聞きいれてくれねばいけねえ。 なんだべねす。 驚いてはいけねえとは言ってもいや誰だって驚くに違いないが実はなさきほど警察の署長さんがおれの家へおいでになって。 のう圭吾も心得違いしたものだがしかしどんな人でもいちどは魔がさすというか魔がつくというか妙な間違いを起したがるものだ。 これはハシカのようなもので人間の持って生れた心の毒をいちどは外へ吹き出さなければならねえものらしい。 だから起した間違いは仕方のねえ事としてその間違いをそれ以上に大きな騒ぎにしないように努めるのがお前やおれのまごころというものでないか。 署長さんも決して悪いようにはしないと言っている。 あれはひとをだましたりなどしない人だ。 この町の名誉のためここ二三日中に圭吾が見つかりさえすれば何とかうまく全然おかみのお叱りのないように取りはからうと言っている。 署長もおれも黙っている。 この町の誰にも絶対に言わぬ。 どうかたのむ。 圭吾はきっとお前のところへ帰って来る。 帰って来たらもう何も考える事は要らないすぐにおれのところへ知らせに来てくれ。 それがだいいちに圭吾のためお前のためばばちゃのため祖先子孫のためだ。 なんぼう馬鹿だかのう。 お前もつらいところだ。 それは重々察している。 しかしいま日本ではお前よりも何倍もつらい思いをしているひとがかず限りなくあるのだからお前もここはこらえてくれろ。 必ず必ず圭吾が帰って来たらおれのところに知らせてくれ。 たのむ。 おれは今までお前たちにものを頼んだ事はいちども無かったがこんどだけはこれこのとおりおれは手をついてお前にお願いする。 いまお前は咳をしたか。 いいえ。 それではいまの咳は誰のだ。 お前には聞えなかったか。 さあべつになんにも。 来てるんでないか。 おいお前だましてはだめだ。 圭吾はあの馬小屋にいるんでないか。 安心してけせ。 わたしも馬鹿でごいせん。 来たら来たとかならずあなたのところさ知らせに行きます。 その時はどうかよろしくお願いします。 おうそうか。 さっきの咳ばらいはおれの空耳であったべな。 こうなるとどうも男よりも女子のほうがしっかりしている。 それではどうかよろしくたのむよ。 はあ承知しました。 馬鹿。 命をそまつにするな。 で。 どうしたのです。 いたのですか。 いるもいないも。 二日も前から来ていたんですよ。 ひどいじゃありませんか。 二日も前に帰って来てそうして嫁と相談して馬小屋の屋根裏のこの辺ではマギと言っていますがまあ乾草や何かを入れて置くところですなそこへ隠れていたのです。 もちろん嫁の入智慧です。 母は盲目だしいい加減にだましてそうしてこっそり馬小屋のマギに圭吾をかくし三度々々の食事をそこへ運んでいたのだそうですよ。 あとで圭吾がそう言っていました。 なにあの嫁なんか一言も何も言いません。 いまもって知らん振りです。 あの晩に私が行って嫁にあれほど腹の底を打ち割った話をしてそうして男一匹手をついてお願いしたのにまああの落ちつき払った顔。 かえって馬小屋のマギで聞いていた圭吾のほうで申しわけ無くなってあなた馬小屋の梁に縄をかけ首をくくって死のうとしたのです。 署長は私と別れてからも商売柄その辺をうろついて見張っていたのでしょう馬小屋でたしかに人の気配がするので土間からそっと覗いてみると圭吾がぶらりです。 そこでもって馬鹿。 命をそまつにするな。 と叫びひきずりおろしたところへ私たちが駈けつけたというわけでしたがその署長の馬鹿。 という声と共に私たちは立ち上り思わず顔を見合せその時の嫁のまるでもう余念なさそうに首をかしげて馬小屋の物音に耳を澄ました恰好はいやもうほとんど神の如くでした。 おそろしいものです。 そうして私たちは馬小屋へ駈けつけ圭吾は署長にとらえられてもう嫁のまっかな嘘が眼前にばれているのに嫁は私のうしろから圭吾のほうを覗いて見て『いつもどったのだべ。 』と小声で言い私はあとで圭吾から二日前に既に帰っていたという事を聞かなかったらこの嫁が圭吾の帰宅をその時までまったく知らなかったのだと永遠に信じていたでしょうきっとそうです。 嫁はもうそれっきり何も言わず時々うすら笑いさえ顔に浮べ何を考えているのやら何と思っているのやらまるでもうわかりません。 色気を感じさせないところが偉いと私は尊敬をしていたのですがやっぱりちょっと男に色気を起させるくらいの女のほうが善良で正直なのかも知れません。 何が何やらもう私は女の言う事はてんで信用しない事にしました。 圭吾はすぐに署長の証明書を持って青森に出かけ何事も無く勤務して終戦になってすぐ帰宅しいまはまた夫婦仲良さそうに暮していますが私はあの嫁には呆れてしまいましたからめったに圭吾の家へはまいりません。 よくまあしかしあんなに洒唖々々と落ちついて嘘をつけたものです。 女があんなに平気で嘘をつく間は日本はだめだと思いますがどうでしょうか。 それは女は日本ばかりでなく世界中どこでも同じ事でしょう。 しかし。 そのお嫁さんはあなたに惚れてやしませんか。 そんな事はありません。 しかしうちの女房とあの嫁とは仲が悪かったです。 何か無いかねえ。 きょうはちょっとふうがわりの主人公を出してみたいのだが。 老人がいいな。 ゆうべ私はつくづく考えてみたのだけれど。 人間のうちで一ばんロマンチックな種属は老人であるということがわかったの。 老婆はだめ。 おじいさんで無くちゃだめ。 おじいさんがこう縁側にじっとして坐っているともうそれだけでロマンチックじゃないの。 素晴らしいわ。 老人か。 よしそれにしよう。 なるべく甘い愛情ゆたかな綺麗な物語がいいな。 こないだのガリヴァ後日物語は少し陰惨すぎた。 僕はこのごろまたブランドを読み返しているのだがどうも肩が凝る。 むずかしすぎる。 僕にやらせて下さい。 僕に。 僕は僕はこう思いますねえ。 僕はそのおじいさんはきっと大数学者じゃないかと思うのです。 きっとそうだ。 偉い数学者なんだ。 もちろん博士さ。 世界的なんだ。 いまは数学が急激にどんどん変っているときなんだ。 過渡期がはじまっている。 世界大戦の終りごろ一九二〇年ごろから今日まで約十年の間にそれは起りつつある。 数学の歴史も振りかえって見ればいろいろ時代と共に変遷して来たことは確かです。 まず最初の階段は微積分学の発見時代に相当する。 それからがギリシャ伝来の数学に対する広い意味の近代的数学であります。 こうして新しい領分が開けたわけですからその開けた直後は高まるというよりも寧ろ広まる時代拡張の時代です。 それが十八世紀の数学であります。 十九世紀に移るあたりに矢張りかかる階段があります。 すなわちこの時も急激に変った時代です。 一人の代表者を選ぶならば例えばGauss.gaussです。 急激にどんどん変化している時代を過渡期というならば現代などはまさに大過渡期であります。 やたらに煩瑣でそうして定理ばかり氾濫していままでの数学は完全に行きづまっている。 一つの暗記物に堕してしまった。 このとき数学の自由性を叫んで敢然立ったのはいまのそのおじいさんの博士であります。 えらいやつなんだ。 もし探偵にでもなったらどんな奇怪な難事件でもちょっと現場を一まわりしてたちまちぽんと解決してしまうにちがいない。 そんな頭のいいおじいさんなのだ。 とにかくCantorの言うたように。 数学の本質はその自由性に在る。 たしかにそうだ。 自由性とはFreiheitの訳です。 日本語では自由という言葉ははじめ政治的の意味に使われたのだそうですからFreiheitの本来の意味としっくり合わないかも知れない。 Freiheitとはとらわれない拘束されない素朴のものを指していうのです。 freiでない例は卑近な所に沢山あるが多すぎてかえって挙げにくい。 たとえば僕のうちの電話番号はご存じの通り4823ですがこの三|桁と四|桁の間にコンマをいれて4,823と書いている。 巴里のように48|23とすればまだしも少しわかりよいのに何でもかでも三|桁おきにコンマを附けなければならぬというのはこれはすでに一つの囚れであります。 老博士はこのようなすべての陋習を打破しようと努めているのであります。 えらいものだ。 真なるもののみが愛すべきものであるとポアンカレが言っている。 然り。 真なるものを簡潔に直接とらえ来ったならばそれでよい。 それに越したことがない。 空論をお話して一向とりとめがないけれどそれは恐縮でありますが丁度このごろ解析概論をやっているのでちょっと覚えているのですが一つの例として級数についてお話したい。 二重もしくは二重以上の無限級数の定義には二種類あるのではないかと思われる。 図を書いてお目にかけるとよくわかるのですが謂わばフランス式とドイツ式と二つある。 結果は同じ様なことになるのだがフランス式のほうはすべての人に納得の行くようにいかにも合理的な立場である。 けれどもいまの解析の本すべてが不思議に言い合せたように平気でドイツ式一方である。 伝統というものは何か宗教心をさえ起させるらしい。 数学界にもそろそろこの宗教心がはいりこんで来ている。 これは絶対に排撃しなければならない。 老博士はこの伝統の打破に立ったわけであります。 このごろでは解析学の始めに集合論を述べる習慣があります。 これについても不審があります。 たとえば絶対|収斂の場合昔は順序に無関係に和が定るという意味に用いられていました。 それに対して条件的という語がある。 今では絶対値の級数が収斂する意味に使うのです。 級数が収斂し絶対値の級数が収斂しないときには項の順序をかえて任意のlimitにtendさせることができるということから絶対値の級数が収斂しなければならぬということになるからそれでいいわけだ。 要するに。 要するに。 伝統ということになりまするとよほどのあやまちも気がつかずに見逃してしまうが問題は微細なところに沢山あるのです。 もっと自由な立場で極く初等的な万人むきの解析概論の出ることを切に希望している次第であります。 ただいまお話ございましたようにその老博士はたいへん高邁のお志を持って居られます。 高邁のお志にはいつも逆境がつきまといます。 これはもう絶対に正確の定理のようでございます。 老博士もやはり世に容れられず奇人よ変人よと近所のひとたちに言われてときどきは流石に侘びしく今夜もひとりステッキ持って新宿へ散歩に出ました。 夏のころのこれはお話でございます。 新宿はたいへんな人出でございます。 博士はよれよれの浴衣に帯を胸高にしめそうして帯の結び目を長くうしろに垂れさげてまるで鼠の尻尾のよういかにもお気の毒の風采でございます。 それに博士はひどい汗かきなのに今夜はハンカチを忘れて出て来たのでいっそう惨めなことになりました。 はじめは掌でお顔の汗を拭い払って居りましたがとてもそんなことで間に合うような汗ではございませぬ。 それこそまるで滝のよう額から流れ落ちる汗は一方は鼻筋を伝い一方はこめかみを伝いざあざあ顔中を洗いつくしてそうしてみんな顎を伝って胸に滑り込みその気持のわるさったらちょうど油壺一ぱいの椿油を頭からどろどろ浴びせかけられる思いで老博士もこれには参ってしまいました。 とうとう浴衣の袖で素早く顔の汗を拭いまた少し歩いては人に見つからぬようさっと袖で拭い拭いしているうちにもうその両袖ながら夕立に打たれたようにびしょ濡れになってしまいました。 博士はもともと無頓着なお方でございましたけれどもこのおびただしい汗には困惑しちゃいましてついに一軒のビヤホールに逃げ込むことに致しました。 ビヤホールにはいって扇風器のなまぬるい風に吹かれていたらそれでも少し汗が収りました。 ビヤホールのラジオはそのとき大声で時局講話をやっていました。 ふとその声に耳をすまして考えてみるとどうもこれは聞き覚えのある声でございます。 あいつでは無いかな。 と思っていたら果してその講話のおわりにアナウンサアがそのあいつの名前を閣下という尊称を附して報告いたしました。 老博士は耳を洗いすすぎたい気持になりました。 そのあいつというのは博士と高等学校大学ともにともに机を並べて勉強して来た男なのですが何かにつけて要領よくいまは文部省の立派な地位にいてときどき博士もそのあいつと同窓会などで顔を合せることがございましてそのたびごとにあいつは博士を無用に嘲弄するのでございます。 気のきかないげびたちっともなっていない陳腐な駄洒落を連発して取り巻きのものもまた可笑しくもないのに手を拍たんばかりにそのあいつの一言一言に笑い興じていちどは博士も席を蹴って憤然と立ちあがりましたがそのとき卓上から床にころげ落ちて在った一箇の蜜柑をぐしゃと踏みつぶしておどろきの余りひッという貧乏くさい悲鳴を挙げたので満座抱腹絶倒して博士のせっかくの正義の怒りも悲しい結果になりました。 けれども博士はあきらめません。 いつかはあいつをぶんなぐるつもりで居ります。 そいつのいやなだみ声をたったいまラジオで聞いて博士は不愉快でたまりませぬ。 ビイルをがぶがぶ飲みました。 もともと博士はお酒にはあまり強いほうではございません。 たちまち酩酊いたしました。 辻占売の女の子がビヤホールにはいって来ました。 博士はこれこれと小さい声でやさしく呼んでおまえとしはいくつだい。 十三か。 そうか。 するともう五年いや四年いや三年たてばおよめに行けますよ。 いいかね。 十三に三を足せばいくつだ。 え。 などと数学博士も酔うといくらかいやらしくなります。 少ししつこく女の子をからかいすぎたのでとうとう博士は女の子の辻占を買わなければならない仕儀にたちいたりました。 博士はもともと迷信を信じません。 けれども今夜は先刻のラジオのせいもあり気が弱っているところもございましたのでふいとその辻占で自分の研究運命の行く末をためしてみたくなりました。 人は生活に破れかけて来るとどうしても何かの予言にすがりつきたくなるものでございます。 悲しいことでございます。 その辻占はあぶり出し式になって居ります。 博士はマッチの火でとろとろ辻占の紙を焙り酔眼をかっと見ひらいて注視しますとはじめはなんだか模様のようで心もとなく思われましたがそのうちにだんだん明確に古風な字体のひら仮名がありありと紙に現われました。 読んでみます。 おのぞみどおり博士は莞爾と笑いました。 いいえ莞爾どころではございませぬ。 博士ほどのお方がえへへへとそれは下品な笑い声を発してぐっと頸を伸ばしてあたりの酔客を見廻しましたが酔客たちは格別相手になっては呉れませぬ。 それでも博士は意に介しなさることなく酔客ひとりひとりにははおのぞみどおりへへへへすみませんほほほなぞとそれは複雑な笑い声を若々しく笑いわけ撒きちらして皆に挨拶いたしいまは全く自信を恢復なされて悠々とそのビヤホールをお出ましになりました。 外はぞろぞろ人の流れたいへんでございます。 押し合いへし合いみんな一様に汗ばんでそれでもすまして歩いています。 歩いていても何ひとつこれという目的は無いのでございますがけれどもみなさんその日常が侘びしいから何やらひそかな期待を抱懐していらしてそうしてすまして夜の新宿を歩いてみるのでございます。 いくら新宿の街を行きつ戻りつ歩いてみてもいいことはございませぬ。 それはもうきまって居ります。 けれども幸福はそれをほのかに期待できるだけでもそれは幸福なのでございます。 いまのこの世の中ではそう思わなければなりませぬ。 老博士はビヤホールの廻転ドアからくるりと排出されよろめきその都会の侘びしい旅雁の列に身を投じたちまちもまれ押されて泳ぐような恰好で旅雁と共に流れて行きます。 けれども今夜の老博士はこの新宿の大群衆の中でおそらくは一ばん自信のある人物なのでございます。 幸福をつかむ確率が最も大きいのでございます。 博士はときどき思い出してはにやにや笑いまたひとりひそかにこっくり首肯してもっともらしく眉を上げて吃っとなってみたりあるいは全くの不良青少年のようにひゅうひゅう下手な口笛をこころみたりなどして歩いているうちにどしんと博士にぶつかった学生があります。 けれどもそれはあたりまえです。 こんな人ごみではぶつかるのがあたりまえでございます。 なんということもございません。 学生はそのまま通りすぎて行きます。 しばらくしてまたどしんと博士にぶつかった美しい令嬢があります。 けれどもこれもあたりまえです。 こんな混雑ではぶつかるのはあたりまえのことでございます。 なんということもございませぬ。 令嬢は通りすぎて行きます。 幸福はまだまだおあずけでございます。 変化は背後からやって来ました。 とんとん博士の脊中を軽く叩いたひとがございます。 こんどはほんとう。 どうも僕には描写がうまくできんので――いやできんこともないがきょうは少しめんどうくさい。 簡潔にやってしまいましょう。 博士がうしろを振りむくと四十ちかいふとったマダムが立って居ります。 いかにも奇妙な顔の小さい犬を一匹だいている。 ふたりはこんな話をした。 ――御幸福。 ――ああ仕合せだ。 おまえがいなくなってからすべてがよろしくすべてがつまりおのぞみどおりだ。 ――ちぇっ若いのをおもらいになったんでしょう。 ――わるいかね。 ――ええわるいわ。 あたしが犬の道楽さえよしたらいつでもまたあなたのところへ帰っていいってそうちゃんと約束があったじゃないの。 ――よしてやしないじゃないか。 なんだこんどの犬はまたひどいじゃないか。 これはひどいね。 蛹でも食って生きているような感じだ。 妖怪じみている。 ああ胸がわるい。 ――そんなにわざわざ蒼い顔して見せなくたっていいのよ。 ねえプロや。 おまえの悪口言ってるのよ。 吠えておやり。 わんと言って吠えておやり。 ――よせよせ。 おまえは相変らず厭味な女だ。 おまえと話をしていると私はいつでも脊筋が寒い。 プロ。 なにがプロだ。 も少し気のきいた名前をつけんかね。 無智だ。 たまらん。 ――いいじゃないの。 プロフェッサアのプロよ。 あなたをおしたい申しているのよ。 いじらしいじゃないの。 ――たまらん。 ――おやおや。 やっぱりお汗が多いのねえ。 あらお袖なんかで拭いちゃみっともないわよ。 ハンケチないの。 こんどの奥さん気がきかないのね。 夏の外出にはハンケチ三枚と扇子あたしはいちどだってそれを忘れたことがない。 ――神聖な家庭にけちをつけちゃ困るね。 不愉快だ。 ――おそれいります。 ほらハンケチあげるわよ。 ――ありがとう。 借りて置きます。 ――すっかり他人におなりなすったのねえ。 ――別れたら他人だ。 このハンケチやっぱり昔のままのいや犬のにおいがするね。 ――まけおしみ言わなくっていいの。 思い出すでしょう。 どう。 ――くだらんことを言うな。 たしなみの無い女だ。 ――あらどっちが。 やっぱりこんどの奥さんにもあんなに子供みたいに甘えかかっていらっしゃるの。 およしなさいよいいとしをしてみっともない。 きらわれますよ。 朝寝たまま足袋をはかせてもらったりして。 ――神聖な家庭にけちをつけちゃこまるね。 私はいま仕合せなんだからね。 すべてがうまくいっている。 ――そうしてやっぱり朝はスウプ。 卵を一つ入れるの。 二つ入れるの。 ――二つだ。 三つのときもある。 すべておまえのときより豊富だ。 どうも私はいまになって考えてみるにおまえほど口やかましい女は世の中にそんなに無いような気がする。 おまえはどうして私をあんなにひどく叱ったのだろう。 私はわが家にいながらまるで居候の気持だった。 三杯目にはそっと出していた。 それはたしかだ。 私はあのじぶんにはずいぶん重大な研究に着手していたんだぜ。 おまえにはそんなことちっともわかってやしない。 ただもう私のチョッキのボタンがどうのこうの煙草の吸殻がどうのこうのそんなこと朝から晩までがみがみ言っておかげで私は研究も何もめちゃめちゃだ。 おまえとわかれてたちどころに私はチョッキのボタンを全部むしり取ってしまってそれから煙草の吸殻をかたっぱしからぽんぽんコーヒー茶碗にほうりこんでやった。 あれは愉快だった。 実に痛快であった。 ひとりで涙の出るほど大笑いした。 私は考えれば考えるほどおまえにはひどいめにあっていたのだ。 あとからあとから腹が立つ。 いまでも私は充分に怒っている。 おまえはいったいにひとをいたわることを知らない女だ。 ――すみません。 あたし若かったのよ。 かんにんしてね。 もうもうあたし判ったわ。 犬なんか問題じゃなかったのね。 ――また泣く。 おまえはいつでもその手を用いた。 だがもうだめさ。 私はいま万事がおのぞみどおりなのだからね。 どこかでお茶でも飲むか。 ――だめ。 あたしいまはっきりわかったわ。 あなたとあたしは他人なのね。 いいえむかしから他人なのよ。 心の住んでいる世界が千里も万里もはなれていたのよ。 一緒にいたってお互い不幸の思いをするだけよ。 もうきれいにおわかれしたいの。 あたしねちかく神聖な家庭を持つのよ。 ――うまく行きそうかね。 ――大丈夫。 そのかたはね職工さんよ。 職工長。 そのかたがいなければ工場の機械が動かないんですって。 大きい山みたいな感じのしっかりした方。 ――私とはちがうね。 ――ええ学問は無いの。 研究なんかなさらないわ。 けれどもなかなか腕がいいの。 ――うまく行くだろう。 さようなら。 ハンケチ借りて置くよ。 ――さようなら。 あ帯がほどけそうよ。 むすんであげましょう。 ほんとうにいつまでもいつまでも世話を焼かせて。 奥さんによろしくね。 ――うん。 機会があればね。 あたしもう結末がわかっちゃった。 それはきっとこうなのよ。 博士がそのマダムとわかれてから沛然と夕立ち。 どうりでむしむし暑かった。 散歩の人たちは蜘蛛の子を散らすようにぱあっと飛び散りどこへどう消え失せたのかお化けみたいたったいままであんなにたくさん人がいたのに須臾にして巷は閑散新宿の舗道には雨あしだけが白くしぶいて居りました。 博士は花屋さんの軒下に肩をすくめて小さくなって雨宿りしています。 ときどき先刻のハンケチを取り出してちょっと見てまたあわてて袂にしまいこみます。 ふと花を買おうかと思います。 お宅で待っていらっしゃる奥さんへお土産に持って行けばきっと奥さんがよろこんでくれるだろうと思いました。 博士が花を買うなどこれは全く生れてはじめてのことでございます。 今夜はちょっと調子が変なの。 ラジオ辻占先夫人犬ハンケチいろいろのことがございました。 博士は花屋へたいへんな決意を以て突入してそれからまごつきまごつき大汗かいてそれでも薔薇の大輪三本買いました。 ずいぶん高いのにはおどろきました。 逃げるようにして花屋から躍り出てそれから円タク拾ってお宅へまっしぐら。 郊外の博士のお宅には電燈があかあかと灯って居ります。 たのしいわが家。 いつもあたたかく博士をいたわりすべてがうまくいって居ります。 玄関へはいるなり――ただいま。 と大きい声で言ってたいへんなお元気です。 家の中はしんとして居ります。 それでも博士は委細かまわず花束持ってどんどん部屋へ上っていって奥の六畳の書斎へはいり――ただいま。 雨にやられて困ったよ。 どうです。 薔薇の花です。 すべてがおのぞみどおり行くそうです。 机の上に飾られて在る写真に向って話かけているのです。 先刻きれいにわかれたばかりのマダムの写真でございます。 いいえでもいまより十年わかいときの写真でございます。 美しく微笑んでいました。 うん。 だいたい。 そんなところでよろしかろう。 けれども――。 けれどもだね君たちは一つ重要な点を語り落している。 それはその博士の容貌についてである。 物語には容貌が重大である。 容貌を語ることに依ってその主人公に肉体感を与えまた聞き手にその近親の誰かの顔を思い出させ物語全体にインチメートなひとごとでない思いを抱かせることができるものです。 僕の考えるところに依ればその老博士は身長五尺二寸体重十三貫弱たいへんな小男である。 容貌について言うなれば額は広く高く眉は薄く鼻は小さく口が大きくひきしまり眉間に皺白い頬ひげはふさふさと伸び銀ぶちの老眼鏡をかけまず丸顔である。 おや。 家の門のところにフロック着たへんなおじいさん立っています。 さる程に大波羅には五条橋を毀ち寄せ掻楯に掻いて待つ所に源氏即ち押し寄せて鬨を咄と作りければ清盛鯢波に驚いて物具せられけるが冑を取つて逆様に著給へば侍共『おん冑逆様に候ふ』と申せば臆してや見ゆらんと思はれければ『主上渡らせ給へば敵の方へ向はば君をうしろになしまゐらせんが恐なる間逆様には著るぞかし心すべき事にこそ』と宣ふ。 忠義かぶり。 新中納言知盛卿小船に乗つて急ぎ御所の御船へ参らせ給ひて『世の中は今はかくと覚え候ふ。 見苦しき者どもをば皆海へ入れて船の掃除召され候へ』とて掃いたり拭うたり塵拾ひ艫舳に走り廻つて手づから掃除し給ひけり。 女房達『やや中納言殿軍のさまは如何にや如何に』と問ひ給へば『只今珍らしき吾妻男をこそ御覧ぜられ候はんずらめ』とてからからと笑はれければ。 与一鏑を取つて番ひ能つ引いてひやうと放つ。 小兵といふ条十二束三伏弓はつよし鏑は浦響くほどに長鳴して過たず扇の要ぎは一寸ばかり置いてひいふつとぞ射切つたる。 鏑は海に入りければ扇は空へぞあがりける。 春風に一もみ二もみ揉まれて海へさつとぞ散つたりける。 皆紅の扇の夕日の輝くに白波の上に漂ひ浮きぬ沈みぬゆられけるを沖には平家舷を叩きて感じたり。 陸には源氏箙をたたいてどよめきけり。 あまりの面白さに感に堪へずや思はれけん平家のかの船の中より齢五十ばかりなる男の黒革威の鎧著たるが白柄の長刀杖につき扇立たる所に立つて舞ひすましたり。 伊勢三郎義盛与一が後に歩ませ寄つて『御諚にてあるぞ。 これをも亦仕れ』といひければ与一今度は中差取つて番ひ能つ引いてひやうと放つ。 舞ひすましたる男の真只中をひやうつと射て舟底へ真逆様に射倒す。 ああ射たりといふ者もありいやいや情なしといふ者も多かりけり。 平家の方には静まり返つて音もせず。 源氏は又箙を叩いてどよめきけり。 いけませぬ。 いいえしかし。 御父君は御父君和子には和子の流儀もあらうにまそれからさきは女子の差出口など無用になされ。 それにつけても。 弓の勝負のあとの御酒宴とはいへ少し狼藉がすぎますな。 これくらゐでいいのです。 これでいいのです。 どうも私は宴会は苦手で。 武芸のあとの酒盛りならまあ意味もあつて我慢も出来るといふものでございますがなんともつかぬ奇妙な御酒宴もこのごろはたくさんあつて。 しかし。 婦女子を相手の酒もまたやめられぬものです。 さうでせうか。 あなたもひどく御風流になられましたな。 酒は士気を旺盛にするためのものとばかり私は聞いて居りましたがいろいろとまたその他にも酒の功徳があるものらしい。 え何事でございませう。 はあ。 弓馬の薦めがたたりましたかな。 お互ひに仕合せなことです。 申し上げます。 罪無き者が召取られて居りまする。 越後国は三味庄の――。 なんだそれか。 あれはもうすみました。 左衛門尉どのの処置至当なりとの将軍家の仰せがございました。 あなたはまたなんだつてあんな事件に。 尼御台さまのお口添もございまする。 いまいちどお取調のほどひとへにお願ひ申し上げまする。 このたびの和田左衛門尉さまの御処置はまつたくもつて道理にはづれ無実の罪に泣く地頭代をはじめその親類縁者一同の身の上見るに忍びざるものございまするに依つて尼御台さまにもいたく御懸念の御様子にございまする。 はい。 このごろは神妙のやうでございます。 は。 いやこの頃はさつぱり何事も存じませぬ。 は。 おそれながら申し上げまする。 魚の心は水の底に住んでみなければわかりませぬ。 鳥の心も樹上の巣に生涯を託してみなければわかりませぬ。 閑居の気持も全く同様一切を放下し方丈の庵にあけくれ起居してみなければわかるものではござりませぬ。 そこの妙諦を私が口で何と申し上げてもおそらく御理解は難からうかと存じまする。 されば。 物慾を去る事はむしろ容易に出来もしまするが名誉を求むる心を棄て去る事はなかなかの難事でござりました。 瑜伽論にも『出世ノ名声ハ譬ヘバ血ヲ以テ血ヲ洗フガ如シ』とございまするやうにこの名誉心といふものは金を欲しがる心よりもさらに醜く奇怪にしてまことにやり切れぬものでござりました。 ただいまの御賢明のお尋ねに依り蓮胤日頃の感懐をまつすぐに申し述べまするが蓮胤世捨人とは言ひながらもこの名誉の慾を未だ全く捨て去る事が出来ずに居りまする。 姿は聖人に似たりといへども心は不平に濁りて騒ぎすみかを山中に営むといへども人を恋はざる一夜も無くこれ貧賤の報のみづから悩ますところかはたまた妄心のいたりて狂せるかとわれとわが心に問ひかけてみましても更に答へはござりませぬ。 御念仏ばかりが救ひでござりまする。 おのが血族との争ひでござります。 いまはただ大仰でない歌だけが好ましく存ぜられます。 和歌といふものは人の耳をよろこばしめ素直に人の共感をそそつたらそれで充分のもので高く気取つた意味など持たせるものでないやうな気も致しまする。 さきごろ参議雅経どのより御垂教を得て当将軍家のお歌数十首を拝読いたしましたところこれこそ蓮胤日頃あこがれ求めて居りました和歌の姿ぞとまことに夜の明けたるやうな気が致しまして雅経どのからのお誘ひもあり老齢を忘れて日野外山の草庵より浮かれ出てはるばるあづまへまかり出ましたといふ言葉に嘘はござりませぬがまた一つにはこれほど秀抜の歌人の御身辺に恐れながら直言を奉るほどの和歌のお仲間がおひとりもございませぬ御様子が心許なくかくては真珠も曇るべしと老人のおせつかいではございまするがやもたてもたまらぬ気持でこのやうに見苦しいざまをもかへりみずまかり出ましたやうなわけもござりまする。 いいえすがたは爽やかしらべは天然の妙音まことに眼のさめる思ひのお歌ばかりでございまするがおゆるし下さりませ無頼の世捨人の言葉でございます嘘をおよみにならぬやうに願ひまする。 真似事でございます。 たとへば恋のお歌など。 将軍家には恐れながら未だ真の恋のこころがおわかりなさらぬ。 都の真似をなさらぬやう。 これが蓮胤の命にかけても申し上げて置きたいところでござります。 世にも優れた歌人にまします故にこそあたら惜しさに居たたまらずこのやうに申し上げるのでござります。 雁によする恋雲によする恋または衣によする恋このやうな題はいまではもはや都の冗談に過ぎぬのでござりましてその洒落の手振りをただ形だけ真似てもつともらしくお作りになつてはとんだあづまの片田舎のいやお聞き捨て願ひ上げます。 あづまにはあづまの情がある筈でござります。 それだけをまつすぐにおよみ下さいませ。 ユヒソメテ馴レシタブサノ濃紫オモハズ今ニアサカリキトハといふお歌などこれがあの天才将軍のお歌かと蓮胤はいぶかしく存じました。 御身辺にお仲間がいらつしやりませぬからいいえたくさんいらつしやつてもこの蓮胤の如く。 方丈記。 方丈記。 方丈記。 身に余る面目。 義盛づれの老骨を――。 おゆるしなさいますか。 なにしろ。 あの和田平太胤長といふのはこのたびの陰謀の張本人のひとりでございますから御子息の義直義重などの伴類のものと同様に御赦免はむづかしからうとは存じましたが一族九十八人がずらりと居並んでの歎願にはいや驚きまして一応お取次ぎだけは致して置かうと存じましてただいま申し上げてみたやうな次第でございますが和田氏もきのふ御子息の御宥免にあづかつたばかりなのにさらに今日は主謀者たる甥の御赦免まで願ひ出るとはちと虫がよすぎるとは思ひましたもののなにしろあの頑固の老人の事でございますから是が非でもこの懇願一つはお聞きいれ賜りたしとぴたりと坐つて動きませんのでいやとにかくこれは――。 それでは私が申渡してまゐりませう。 今後の事もありますから少しきびしく申渡してやらうと存じますがいかがです。 正しい。 御申請の件御許容に能はず。 ただいま人から承りましたが囚人胤長の屋敷を。 それだけはお取消しを願ひます。 ひどく悪い先例になります。 謀叛人の領地をその一族の者に。 いやこればかりはいけませぬ。 お心の程は拝察できまするが今後のこともあります。 くどくは申し上げませぬ。 お心を鬼になさいませ。 大事です。 反逆の徒輩の処置は大事です。 幕府の安危にかかはる事です。 胤長の屋敷は一時私がおあづかり致しませう。 他の者にあづけますとその者がまた和田一族につまらぬ恨みを買ひます。 私が憎まれ役になります。 将軍家にはかかはりの無い事に致します。 私情の意地で申し上げるのではありませぬ。 幕府千年の安泰のためです。 くどくは申し上げませぬ。 いくさの最中にはこれくらゐのものでちやうどいいのです。 将軍家には戦ふ者の心がわかつて居られませぬ。 詞は古きを慕ひ心は新しきを求め及ばぬまでも高き姿を願ひて。 たとひ一年間でも将軍家が幕府をお留守になさるとは先例の無い事でおだやかでございません。 どのやうな御資格で御渡宋なさるのでございませうか。 案内役が陳和卿では不安でございます。 方丈記。 この船で。 本当に宋へ行かうとなされたのかな。 さあとにかく鎌倉からちよつとでもお遁れになつてみたいやうな御様子に拝されました。 でもあの医王山の長老とかいふ事だけは信じてゐたのではないか。 いいえあれは偶然に符合いたしましたところを興がつて居られたといふだけの事でもつともそれは誰にしたつて自分の前身は知りたいものでございますしたとひ信じないにしても医王山の長老などといふ御立派なところではしなくも一致したといふのはわるいお気もなさるまいと思はれます。 うまい事を言ふ。 ここへ坐らう。 浜はやつぱり涼しい。 私はこの頃毎晩のやうにここへ来て蟹をつかまへては焼いて食べます。 蟹を。 法師だつてなまぐさは食ふさ。 私は蟹が好きでな。 もつとも私のやうな乱暴な法師も無いだらうが。 いいえ乱暴どころかかへつてお気が弱すぎるやうに私どもには見受けられます。 それは将軍家の前では別だ。 あの時だけは全く閉口だ。 自分のからだがきたならしく見えて来てたまらない。 どうもあの人はまへから苦手だ。 あの人は私をひどく嫌つてゐるらしい。 あの人たちには私のやうに小さい時からあちこち移り住んで世の中の苦労をして来た男といふものが薄汚く見えて仕様が無いものらしい。 私はあの人に底知れずさげすまれてゐるやうな気がする。 あんな生れてから一度も世間の苦労を知らずに育つて来た人たちにはへんな強さがある。 しかし叔父上も変つたな。 お変りになりましたでせうか。 変つた。 ばかになつた。 まあよさう。 蟹でもつかまへて来ようか。 あの唐船の下に不思議なくらゐたくさん蟹が集るのだ。 陳和卿も公暁のために苦心して蟹の巣を作つてくれたやうなものです。 しかしあれも馬鹿な男だ。 残忍でございます。 およしになつたらいかがです。 とらない人には食べさせないよ。 蟹は痛いとも思つてゐません。 なんだ今夜のはみんな雌か。 雌の蟹は肉が少くてつまらない。 焚火をしよう。 少し手伝つて下さい。 食べなさい。 いやとても。 それでは私がひとりで食べる。 私は蟹が好きなんだ。 どうしてだかひどく好きなんだ。 死なうかと思つてゐるんだ。 え。 死なうと思つてゐるのです。 死んでしまふんだ。 鎌倉へ来たのが間違ひでした。 こんどはたしかに祖母上の落度です。 私は一生京都にゐなければならなかつたのだ。 京都がそんなにお好きですか。 まだ私の気持がおわかりにならぬと見える。 京都はいやなところです。 みんな見栄坊です。 嘘つきです。 口ばかり達者で反省力も責任感も持つてゐません。 だから私の住むのにちやうどいいところなのです。 軽薄な野心家には都ほど住みよいところはありません。 そんなに御自身を卑下なさらなくとも。 叔父上があれほど京都を慕つてゐながらなぜいちども京都へ行かぬのかそのわけをご存じですか。 それは故右大将家の頃から京都とはあまり接近せぬ御方針で故右大将さまさへたつた二度御上洛なさつたきりで――。 しかし思ひ立つたら宋へでも渡らうとする将軍家です。 邪魔をなさるお方もございませうし――。 それもある。 へんな用心をして叔父上の上京をさまたげてゐる人もある。 けれどもそれだけではないんだ。 叔父上には京都がこはいのです。 まさか。 あれほどお慕ひしていらつしやるのに。 いやこはいんだ。 京都の人たちは軽薄で口が悪い。 そのむかしの木曾殿のれいもある事だ。 将軍家といふ名ばかり立派だが京の御所の御儀式の作法一つにもへどもどとまごつきずんぐりむつつりした田舎者言葉は関東訛りと来てゐるしそれに叔父上はあばたですあばた将軍とすぐに言はれる。 おやめなさいませ。 将軍家は微塵もそんな事をお気にしてはいらつしやらない。 失礼ながら禅師さまとはちがひます。 さうですか。 将軍家が気にしてゐなくたつて人から見ればあばたはあばただ。 祖父の故右大将だつて頭でつかちなもんだから京都へ行つたとたんにもう大頭将軍といふ有難くもないお名前を頂戴してあんな下賤の和卿などにさへいい加減にあしらはれて贈り物をつつかへされたりさんざん赤恥をかかされてゐるんだ。 京都といふのはそんないやなところなのです。 けれども右大将家はやつぱり偉い。 京都の人から馬鹿にされようがどうされようがちつとも気にしてはゐないんだ。 関東の長者の実力を信じて落ちついてゐたんだ。 ところが失礼ですけれども当将軍家はさうではないのです。 とても平気で居られない。 田舎者と言はれるのが死ぬよりつらいらしいので困つた事になるのです。 野暮な者ほど華奢で繊細なものにあこがれる傾きがあるやうだがあの人の御日常を拝見するにただ都の人から笑はれまいための努力だけそれだけなんだ。 あの人には京都がこはくて仕様がないんだ。 まぶしすぎるんだ。 京都へ行つても京都の人に笑はれないくらゐのものになつてから京都へ行きたいと念じてゐるのだ。 それに違ひないのだ。 やたらに官位の昇進をお望みになるのもそれだ。 京都の人にいやしめられたくないのだ。 大いにもつたいをつけてから京都へ行きたいのだらうがそんな努力はだめだめ。 みんなだめ。 せいぜいまあ田舎公卿とでもいふやうな猿に冠を着けさせた珍妙な姿のお公卿が出来上るだけだ。 田舎者のくせに都の人の身振りを真似るくらゐ浅間しく滑稽なものは無いのだ。 都の人はそんな者をまるで人間でないみたいに考へてゐるのだ。 私も京都へはじめて行つた時にはずいぶんまごついた。 くやし泣きに泣いた事もある。 けれども私の生来の軽薄な見栄坊の血が京の水によく合ふと見えていまではもう結局自分の落ちつくところは京都ではなからうかと思ふやうにさへなつてゐる。 私は山師だ。 山師は絶対に田舎では生きて行けない。 また田舎の人も山師を決して許さない。 田舎の人は冗談も何も無くけちくさくてただ固い。 けれどもあれはまたあれでいいのだ。 ただ黙つて田舎に住んでゐる人の中に本当の偉い人間といふものが見つかるやうな気もする。 いけないのは田舎者のくせに都の人と風流を競ひ奇妙に上品がつてゐる奴とそれから私のやうに田舎へ落ちて来た山師だ。 私はまさか陳和卿のやうに将軍家の前でわあわあ泣きはしないけれどもどうしてだかつい卑屈なあいそ笑ひなどしてしまつて自分で自分がいやになつていやになつてたまらないいけないいけない。 このままぢやいけない。 死ぬんだ。 私は死ぬんだ。 叔父上は私の山師を見抜いてゐる。 陳和卿と同類くらゐに考へてゐる。 私はきらはれてゐる。 さうして私だつてあの田舎者を冠つけた猿みたいに滑稽なものだと思つてゐるんだ。 あははお互ひに極度にさげすみ合つてゐるのだから面白い。 源家は昔から親子兄弟の仲が悪いんだ。 ところで将軍家はこのごろ本当に気が違つてゐるのださうぢやないか。 思ひ当るところがあるでせう。 誰がいやどなたがそのやうなけしからぬ事を――。 みんな言つてゐる。 相州も言つてゐた。 気が違つてゐるのだから将軍家が何をおつしやつてもさからはずにはいはいと言つてゐなさいつて相州が私に教へた。 祖母上だつて言つてゐる。 あの子は生れつき白痴だつたのですと言つてゐた。 尼御台さままで。 さうだ。 北条家の人たちにはそんな馬鹿なところがあるんだ。 気違ひだの白痴だのそんな事はめつたに言ふべき言葉ぢやないんだ。 殊に私をつかまへて言ふとは馬鹿だ。 油断してはいけない。 私は前将軍のいやまあそんな事はどうでもいいがとにかく北条家の人たちは根つからの田舎者で本気に将軍家の発狂やら白痴やらを信じてゐるんだから始末が悪い。 あの人たちはまさか陰謀なんて事は考へてゐないだらうが気違ひだの白痴だのと思ひ込むと誰はばからずそれを平気で言ひ出すもんだから妙な結果になつてしまふ事もある。 みんな馬鹿だ。 馬鹿ばつかりだ。 あなただつて馬鹿だ。 叔父上があなたを私のところへ寄こしたのは淋しいだらうからお話相手なんてそんな生ぬるい目的ぢやないんだ。 私の様子をさぐらうと――。 いいえちがひます。 将軍家はそんないやしい事をお考へになるお方ではございませぬ。 さうですか。 それだからあなたは馬鹿だといふのだ。 なんでもいい。 みんな馬鹿だ。 鎌倉中を見渡してまあ真人間は叔父上の御台所くらゐのところか。 ああ食つた。 すつかり食べてしまつた。 私は蟹を食べてゐるうちは何だか熱中して胸がわくわくしてそれこそ発狂してゐるみたいな気持になるんだ。 つまらぬ事ばかり言つたやうに思ひますが将軍家に手柄顔して御密告なさつてもかまひません。 馬鹿。 あぶないあぶない。 鎌倉には気違ひがはやると見える。 叔父上もいい御家来衆ばかりあつて仕合せだ。 禅師さまにはふたたび京都へおいでになりたいやうな御様子でございました。 文学の敵と言ったら大袈裟だが最近の文学に就いてそれを毒すると思われるものまあそういったようなもの。 私は私の仇敵をひしと抱擁いたします。 息の根を止めて殺してやろう下心。 芸術は常に一の拘束の結果であります。 芸術が自由であればそれだけ高く昇騰すると信ずることは凧のあがるのを阻むのはその糸だと信ずることであります。 カントの鳩は自分の翼を束縛する此の空気が無かったならばもっとよく飛べるだろうと思うのですがこれは自分が飛ぶためには翼の重さを托し得る此の空気の抵抗が必要だということを識らぬのです。 同様にして芸術が上昇せんが為には矢張り或る抵抗のお蔭に頼ることが出来なければなりません。 大芸術家とは束縛に鼓舞され障害が踏切台となる者であります。 伝える所ではミケランジェロがモオゼの窮屈な姿を考え出したのは大理石が不足したお蔭だと言います。 アイスキュロスは舞台上で同時に用い得る声の数が限られている事に依てそこで止むなくコオカサスに鎖ぐプロメトイスの沈黙を発明し得たのであります。 ギリシャは琴に絃を一本附け加えた者を追放しました。 芸術は拘束より生れ闘争に生き自由に死ぬのであります。 いい子。 いや有難うございました。 お蔭で私の芸術も鼓舞されました。 闘争に生き。 心中の敵最も恐るべし。 いいの。 あたしはきちんと仕末いたします。 はじめから覚悟していたことなのです。 ほんとうにもう。 それはいけない。 おまえの覚悟というのは私にわかっている。 ひとりで死んでゆくつもりかでなければ身ひとつでやけくそに落ちてゆくかそんなところだろうと思う。 おまえにはちゃんとした親もあれば弟もある。 私はおまえがそんな気でいるのを知っていながらはいそうですかとすまして見ているわけにゆかない。 死のうか。 一緒に死のう。 神さまだってゆるして呉れる。 成功よ。 大成功。 十五円も貸しやがった。 ばかねえ。 それはお手柄だ。 あわせて三十円じゃないか。 ちょっとした旅行ができるね。 恋人どうしはね。 こうして活動を見ていながらこうやって手を握り合っているものだそうだ。 死ぬのよさないか。 ええどうぞ。 あたしひとりで死ぬつもりなんですから。 すしは困るな。 でもあたしはたべたい。 おいしいか。 まずい。 ああまずい。 水上に行こうね。 あそんならあたし甘栗を買って行かなくちゃ。 おばさんがねたべたいたべたい言ってたの。 ねあたしこんな恰好をしておばさん変に思わないかしら。 かまわないさ。 ふたりで浅草へ活動見にいってその帰りに主人がよっぱらって水上のおばさんとこに行こうってきかないからそのまま来ましたって言えばそれでいい。 それもそうね。 おばさんおどろくでしょうね。 よろこぶだろう。 きっと。 おい私はいい子かね。 自分ばかりいい子になろうとしているのかね。 だけどもね。 おまえはまだそんなに不仕合せじゃないのだよ。 だっておまえはふつうの女だもの。 わるくもなければよくもない本質からふつうの女だ。 けれども私はちがう。 たいへんな奴だ。 どうやらこれはふつう以下だ。 女房にあいそをつかされてそれだからとてどうにもならずこうしてうろうろ女房について廻っているのはどんなに見っともないものか私は知っている。 おろかだ。 けれども私はいい子じゃない。 いい子はいやだ。 なにも私が人がよくて女にだまされそうしてその女をあきらめ切れず女にひきずられて死んで芸術の仲間たちから純粋だ世間の人たちから気の弱いよい人だったなどそんないい加減な同情を得ようとしているのではないのだよ。 おれはおれ自身の苦しみに負けて死ぬのだ。 なにもおまえのために死ぬわけじゃない。 私にもいけないところがたくさんあったのだ。 ひとに頼りすぎた。 ひとのちからを過信した。 そのこともまたそのほかの恥ずかしい数々の私の失敗も私自身知っている。 私はなんとかしてあたりまえのひとの生活をしたくてどんなにいままで努めて来たかおまえにもそれは少しわかっていないか。 わら一本それにすがって生きていたのだ。 ほんの少しの重さにもその藁が切れそうで私は一生懸命だったのに。 わかっているだろうね。 私が弱いのではなくてくるしみが重すぎるのだ。 これは愚痴だ。 うらみだ。 けれどもそれを口に出してはっきり言わなければひとはいやおまえだって私の鉄面皮の強さを過信してあの男はくるしいくるしい言ったってポオズだ身振りだと軽く見ている。 いやいいんだ。 おまえを非難しているんじゃないのです。 おまえはいいひとだ。 いつでもおまえは素直だった。 言葉のままに信じたひとだ。 おまえを非難しようとは思わない。 おまえよりもっともっと学問がありずいぶん古い友だちでも私の苦しさを知らなかった。 私の愛情を信じなかった。 むりもないのだ。 私はつまり下手だったのさ。 わかりました。 もういいのよ。 ほかのひとに聞えたらたいへんじゃないの。 なんにもわかっていないんだなあ。 おまえには私がよっぽどばかに見えているんだね。 私はねいま自分でいい子になろうとしているところが心のどこかの片隅にやっぱりひそんでいるのではないかしらとそれで苦しんでいるのだよ。 おまえと一緒になって六七年にもなるけれどおまえはいちどもいやそんなことでおまえを非難しようとは思わない。 むりもないことなのだ。 おまえの責任ではない。 冗談じゃないよ。 なんで私がいい子なものか。 人は私をなんと言っているか嘘つきのなまけものの自惚れやのぜいたくやの女たらしのそのほかまだまだおそろしくたくさんの悪い名前をもらっている。 けれども私はだまっていた。 一ことの弁解もしなかった。 私には私としての信念があったのだ。 けれどもそれは口に出して言っちゃいけないことだ。 それではなんにもならなくなるのだ。 私はやっぱり歴史的使命ということを考える。 自分ひとりの幸福だけでは生きて行けない。 私は歴史的に悪役を買おうと思った。 ユダの悪が強ければ強いほどキリストのやさしさの光が増す。 私は自身を滅亡する人種だと思っていた。 私の世界観がそう教えたのだ。 強烈なアンチテエゼを試みた。 滅亡するものの悪をエムファサイズしてみせればみせるほど次に生れる健康の光のばねもそれだけ強くはねかえって来るそれを信じていたのだ。 私はそれを祈っていたのだ。 私ひとりの身の上はどうなってもかまわない。 反立法としての私の役割が次に生れる明朗に少しでも役立てばそれで私は死んでもいいと思っていた。 誰も笑ってほんとうにしないかも知れないが実際それはそう思っていたものだ。 私はそんなばかなのだ。 私は間違っていたかも知れないね。 やはりどこかで私は思いあがっていたのかも知れないね。 それこそ甘い夢かも知れない。 人生は芝居じゃないのだからね。 おれは敗けてどうせ近く死ぬのだからせめて君だけでもしっかりやって呉れという言葉はこれは間違いかも知れないね。 一命すてて創った屍臭ふんぷんのごちそうは犬も食うまい。 与えられた人こそいいめいわくかもわからない。 われひと共に栄えるのでなければ意味をなさないのかも知れない。 寒いのね。 こんなに寒いと思わなかったわ。 東京ではもうセル着て歩いているひとだってあるのよ。 あそこを右。 きっとまだ寝ていることよ。 ええもすこしさき。 よしストップ。 あとは歩く。 あたしに叩かせて。 あたしがおばさんを起すのよ。 それがねえおばさんのとこに行こうってきかないのよ。 芸術家って子供ね。 よく来たねえ。 おそろしく寒いね。 お酒のみたいな。 だいじょうぶかい。 ああもうからだはすっかりいいんだ。 ふとったろう。 ああ重い。 おばさんこれおじさんのを借りたわよ。 おじさんが持っていってもいいと言ったの。 寒くってかなやしない。 あたし疲れてしまいました。 お風呂へはいってそれからひとねむり仕様と思うの。 したの野天風呂に行けるかしら。 ええ行けるそうです。 おじさんたちも毎日はいりに行ってるんですって。 あの辺かな。 でも雪が深くてのぼれないでしょう。 もっと下流がいいかな。 水上の駅のほうには雪がそんなになかったからね。 おいもう一晩のばさないか。 ええ。 どうでもいいけど。 でもお金たりなくなるかも知れないわよ。 いくらのこってんだい。 ねえおまえはやっぱり私の肉親に敗れたのだね。 どうもそうらしい。 そうよあたしはどうせ気にいられないお嫁よ。 いやそうばかりは言えないぞ。 たしかにおまえにも努力の足りないところがあった。 もういいわよ。 たくさんよ。 理くつばかり言ってるのね。 だからきらわれるのよ。 ああそうか。 おまえはおれをきらいだったのだね。 しつれいしたよ。 ひと寝いりしてから出発だ。 決行決行。 さあもう起きるのだよ。 出発だ。 あもうそんな時間になったの。 いやおひるすこしすぎただけだが私はもうかなわん。 おいおばさんが来たよ。 これなあ。 真綿だよ。 うちで紡いでこしらえた。 何もないのでな。 ありがとう。 おばさんまそんな心配して。 おだいじに行きなよ。 おばさんもお達者で。 おばさん握手。 酔ってるのよ。 もはやゆうよはならんね。 ええ。 ここにしよう。 薬のことは私でなくちゃわからない。 どれどれおまえはこれだけのめばいい。 すくないのねえ。 これだけで死ねるの。 はじめのひとはそれだけで死ねます。 私はしじゅうのんでいるからおまえの十倍はのまなければいけないのです。 生きのこったらめもあてられんからなあ。 じゃあおわかれだ。 生き残ったやつはつよく生きるんだぞ。 おいかず枝。 しっかりしろ。 生きちゃった。 ふたりとも生きちゃった。 おばさん。 いたいよう。 胸がいたいよう。 かず枝ここは宿ではないんだよ。 おばさんなんていないのだよ。 おばさん寒いよう。 火燵もって来てよう。 とうさんすみません。 残念だなあ。 かず枝のやつ宿の娘みたいに夜寝るときは亭主とおかみの間に蒲団ひかせてのんびり寝ていた。 おかしなやつだね。 かず枝もかあいそうだね。 海は海の見えるのはどちら側です。 海が見えるよ。 もうすぐ見えるよ。 浦島太郎さんの海が見えるよ。 ほら。 海だ。 ごらん海だよああ海だ。 ね大きいだろうね海だよ。 川だわねえお母さん。 川。 ああ川。 川じゃないよ。 海だよ。 てんでまるで違うじゃないか。 川だなんてひどいじゃないか。 芸術新聞。 親にさえ顔を踏まれたことはない。 一生おぼえております。 そうです。 あなたは。 やあ。 やはりそうでしたか。 お忘れかもしれないけれどかれこれ二十年ちかくまえ私はKで馬車やをしていました。 ごらんの通り。 私もいまは落ちぶれました。 とんでもない。 小説をお書きなさるんだったらそれはなかなか出世です。 ところで。 お慶がいつもあなたのお噂をしています。 おけい。 お慶ですよ。 お忘れでしょう。 お宅の女中をしていた――。 幸福ですか。 ええもうどうやら。 かまいませんでしょうか。 こんどあれを連れていちどゆっくりお礼にあがりましょう。 子供がねえあなたここの駅につとめるようになりましてなそれが長男です。 それから男女女その末のが八つでことし小学校にあがりました。 もう一安心。 お慶も苦労いたしました。 なんというかまあお宅のような大家にあがって行儀見習いした者はやはりどこかちがいましてな。 おかげさまでした。 お慶もあなたのお噂しじゅうして居ります。 こんどの公休にはきっと一緒にお礼にあがります。 それじゃきょうは失礼いたします。 お大事に。 来たのですか。 きょう私これから用事があって出かけなければなりません。 お気の毒ですがまたの日においで下さい。 なかなか。 頭のよさそうな方じゃないか。 あのひとはいまに偉くなるぞ。 そうですともそうですとも。 あのかたはお小さいときからひとり変って居られた。 目下のものにもそれは親切に目をかけて下すった。 先生梅。 ああ梅。 やっぱり梅は紅梅よりもこんな白梅のほうがいいようですね。 いいものだ。 先生花はおきらいですか。 たいへん好きだ。 美人だね。 美人じゃありませんよ。 そうかね二八と見えたが。 疲れたね休もうか。 そうですね。 向うの茶店は見はらしがよくていいだろうと思うんですけど。 同じ事だよ。 近いほうがいい。 何かたべたいね。 そうですね。 甘酒かおしるこか。 何かたべたいね。 さあほかに何もおいしいものなんてないでしょう。 親子どんぶりのようなものがないだろうか。 どんぶりも大きいしごはんの量も多いね。 でもまずかったでしょう。 まずいね。 先生見事な緋鯉でしょう。 見事だね。 先生これ鮎。 やっぱり姿がいいですね。 ああ泳いでるね。 こんどは鰻です。 面白いですね。 みんな砂の上に寝そべっていやがる。 先生どこを見ているんですか。 うん鰻。 生きているね。 やあ。 君山椒魚だ。 山椒魚。 たしかに山椒魚だ。 生きているじゃないか君おそるべきものだねえ。 はじめてだ。 はじめて見た。 いや前にも幾度か見たことがあるような気がするがこんなに真近かにあからさまに見たのははじめてだ。 君古代のにおいがするじゃないか。 深山の巒気が立ちのぼるようだ。 ランキのランは言うという字に糸を二つに山だ。 深山の精気といってもいいだろう。 おどろくべきものだ。 ううむ。 山椒魚がお気にいったとは意外です。 どこがそんなにいいんでしょう。 もっとも僕たちの先輩で山椒魚の小説をお書きになった方もあるにはありますけど。 そうだろう。 必ずやそれは傑作でしょう。 君たちにはまだまだこの幽玄なけものいや魚類いや。 これはなんといったものかな。 水族つまりおっとせいの類だねおっとせい――。 なんだこないだの一物はあれは両棲類中の有尾類。 わからんかな。 それ読んで字の如しじゃないか。 しっぽがあるから有尾類さ。 あははは。 しかし。 あれは興味の深い動物そうじゃまさしく珍動物とでも称すべきでありましょう。 面妖の老頭にしていかぬ老頭なり。 伯耆国は淀江村の百姓太郎左衛門が五十八年間手塩にかけて――。 身のたけ一丈頭の幅は三尺――。 いかぬ老頭。 いかぬ老頭。 山椒魚はどれどこに。 見世物になっているのです。 淀江村。 それならたしかだ。 いくらだ。 一丈です。 何を言っている。 ねだんだよ。 十銭です。 安いね。 嘘だろう。 いいえ軍人と子供は半額ですけど。 軍人と子供。 それは入場料ではないか。 私はその山椒魚を買うつもりなんだよ。 お金も準備して来た。 先生大丈夫ですか。 大丈夫だ。 一尺二十円として六尺あれば百二十円七尺あれば百四十円一丈あったら二百円と私は汽車の中で考えて来た。 君すまないが見世物の大将をここへ連れて来てくれないか。 それから宿の者にお酒を言いつけてやあこの部屋は汚いなあ君はよくこんな部屋で生活が出来るねまあ我慢しようここでその大将とお酒を飲みながらゆっくり話合ってみようじゃないか商談には饗応がつきものだ。 君たのむ。 あのへんな事を言うようだけど。 前の見せ物のね大将を僕の部屋に連れて来てくれませんか。 いや実はねあの見せ物の怪魚をねあいつをねぜひとも買いたいという人があるんです。 それは僕の先生なんだがしっかりした人ですから信用してもらいたいとにかくそう言って大将をね連れて来て下さいませんか。 お願いします。 相当の高い値で買ってもいいような事もその先生は言っておりますからね。 とにかくちょっとひとつお願いします。 君どうぞ君どうぞ。 まあ一つ飲み給え。 遠慮は要りません。 さあ。 はあ。 こんな恰好でごめん下さい。 なには。 あの店のほうは。 ちょっといま休ませて来ました。 君は大将でしょうね。 見せ物の大将に違いないでしょうね。 はいや。 委せられております。 うむ。 ゆずってくれるでしょうね。 は。 あれは山椒魚でしょう。 おそれいります。 実は私はあの山椒魚を長い間さがしていました。 伯耆国淀江村。 うむ。 失礼ですが旦那がたは学校関係の。 いやどこにも関係は無い。 そちらの書生さんは文士だ。 未だ無名の文士だ。 私は失敗者だ。 小説も書いた画もかいた政治もやった女に惚れた事もある。 けれどもみんな失敗まあ隠者そう思っていただきたい。 大隠は朝市に隠ると。 へへ。 まあご隠居で。 手きびしい。 一つ飲み給え。 もうたくさん。 それではこれで失礼します。 待った待った。 どうしたという事だ。 話はこれからです。 その話がたいていわかったもんで失礼しようと思ったのです。 旦那間が抜けて見えますぜ。 手きびしい。 まあ坐り給え。 私にはひまがないのです。 旦那山椒魚を酒のさかなにしようたってそれあ無理です。 気持の悪い事をおっしゃる。 それは誤解です。 山椒魚を焼いてたべる人があるという事は書物にも出ていたが私は食べない。 食べて下さいと言われても私は箸をつけないでしょう。 山椒魚の肉を酒のさかなにするなんて私はそんな豪傑でない。 私は山椒魚を尊敬している。 出来る事ならわが庭の池に迎え入れてそうして朝夕これと相親しみたいと思っているのですがね。 だからそれが気にくわないというのです。 医学の為とかあるいは学校の教育資料とか何とかそんな事なら話はわかるが道楽隠居が緋鯉にも飽きたドイツ鯉もつまらぬ山椒魚はどうだろう朝夕相親しみたいまあ一つ飲めそんなふざけたお話にまともにつき合っておられますか。 酔狂もいい加減になさい。 こっちは大事な商売をほったらかして来ているんだ。 唐変木め。 ばかばかしいのを通り越して腹が立ちます。 これは弱った。 有閑階級に対する鬱憤積怨というやつだ。 なんとか事態をまるくおさめる工夫は無いものか。 これはどうも意外の風雲。 ごまかしなさんな。 見えすいていますよ。 落ちついた振りをしていても火燵の中の膝頭がさっきからがくがく震えているじゃありませんか。 けしからぬ。 これはひどく下品になって来た。 よろしい。 それではこちらもざっくばらんにぶっつけましょう。 一尺二十円どうです。 一尺二十円なんの事です。 まことに伯耆国淀江村の百姓の池から出た山椒魚ならば身のたけ一丈ある筈だ。 それは書物にも出ている事です。 一尺二十円一丈ならば二百円。 はばかりながら三尺五寸だ。 一丈の山椒魚がこの世に在ると思い込んでいるところがいじらしいじゃないか。 三尺五寸。 小さい。 小さすぎる。 伯耆国淀江村の――。 およしなさい。 見世物の山椒魚はどれでもこれでもみんな伯耆国は淀江村から出たという事になっているんだ。 昔からそういう事になっているんだ。 小さすぎる。 悪かったね。 あれでも私ら親子三人を感心に養ってくれているんだ。 一万円でも手放しやしない。 一尺二十円とは笑わせやがる。 旦那間が抜けて見えますぜ。 すべてだめだ。 口の悪いのは私の親切さ。 突飛な慾は起さぬがようござんす。 それではごめんこうむります。 お送りする。 君手帖に書いて置いてくれ給え。 趣味の古代論者多忙の生活人に叱咤せらる。 そもそも南方の強か北方の強か。 趣味の古代論者多忙の生活人に叱咤せらる。 南方の強か北方の強か。 めし食って大汗かくもげびた事と柳多留にあったけれどもどうもこんなに子供たちがうるさくてはいかにお上品なお父さんといえども汗が流れる。 お父さんはお鼻に一ばん汗をおかきになるようね。 いつもせわしくお鼻を拭いていらっしゃる。 それじゃお前はどこだ。 内股かね。 お上品なお父さんですこと。 いや何もお前医学的な話じゃないか。 上品も下品も無い。 私はね。 このお乳とお乳のあいだに涙の谷。 心には悩みわずらう。 おもてには快楽。 通人。 誰か人を雇いなさい。 どうしたってそうしなければいけない。 唖の次男を斬殺す。 ×日正午すぎ×区×町×番地×商何某さんは自宅六畳間で次男何某君の頭を薪割で一撃して殺害自分はハサミで喉を突いたが死に切れず附近の医院に収容したが危篤同家では最近二女某さんに養子を迎えたが次男が唖の上に少し頭が悪いので娘可愛さから思い余ったもの。 涙の谷。 涙の谷。 度胸。 誰かひとを雇いなさい。 でもなかなか来てくれるひともありませんから。 捜せばきっと見つかりますよ。 来てくれるひとが無いんじゃ無いいてくれるひとが無いんじゃないかな。 私がひとを使うのが下手だとおっしゃるのですか。 そんな。 仕事部屋のほうへ出かけたいんだけど。 これからですか。 そう。 どうしても今夜のうちに書き上げなければならない仕事があるんだ。 今夜は私妹のところへ行って来たいと思っているのですけど。 だからひとを雇って。 いらっしゃい。 飲もう。 きょうはまたばかに綺麗な縞を。 わるくないでしょう。 あなたの好く縞だと思っていたの。 きょうは夫婦喧嘩でね陰にこもってやりきれねえんだ。 飲もう。 今夜は泊るぜ。 だんぜん泊る。 お父さまは。 お寺へ。 お寺へ。 何しに。 お盆でしょう。 だからお父さまがお寺まいりに行ったの。 そう。 早く帰って来るかしら。 さあどうでしょうね。 マサ子がおとなしくしていたら早くお帰りになるかも知れないわ。 お母さまマサ子のお豆に花が咲いているわ。 どれどれあらほんとう。 いまにお豆がたくさん生るわよ。 暑かったでしょう。 はだかになったら。 けさお盆の特配でビイルが二本配給になったの。 ひやして置きましたけどお飲みになりますか。 そいつは凄いね。 お母さんと一本ずつ飲みましょうか。 お相手をしますわ。 昼の酒は酔うねえ。 あらほんとうからだじゅうまっかですわ。 マサ子もお父さまとご一緒だとパンパがおいしいようね。 ああそうかきょうは巴里祭だ。 七月十四日この日はね革命。 バスチーユのね牢獄を攻撃してね民衆がねあちらからもこちらからも立ち上ってそれ以来フランスの春こうろうの花の宴が永遠に永遠にだよ永遠に失われる事になったのだけどねでも破壊しなければいけなかったんだ永遠に新秩序の新道徳の再建が出来ない事がわかっていながらもそれでも破壊しなければいけなかったんだ革命いまだ成らずと孫文が言って死んだそうだけれども革命の完成というものは永遠に出来ない事かも知れないしかしそれでも革命を起さなければいけないんだ革命の本質というものはそんな具合いにかなしくて美しいものなんだそんな事をしたって何になると言ったってそのかなしさと美しさとそれから愛。 こりゃどうもお父さんは泣き上戸らしいぞ。 どうもいかん。 酔いすぎた。 フランス革命で泣いちゃった。 すこし寝るよ。 ふとっていまチねえべっぴんちゃんでチねえ。 可愛いでしょう。 子供を見てるとながいきしたいとお思いにならない。 うむ。 川。 小。 あの睡眠剤が無かったかしら。 ございましたけどあたしゆうべ飲んでしまいましたわ。 ちっともききませんでしたの。 飲みすぎるとかえってきかないんです。 六錠くらいがちょうどいいんです。 いっそ発狂しちゃったら気が楽だ。 あたしもそうよ。 正しいひとは苦しい筈が無い。 つくづく僕は感心する事があるんだ。 どうして君たちはそんなにまじめでまっとうなんだろうね。 世の中を立派に生きとおすように生れついた人とそうでない人とはじめからはっきり区別がついているんじゃないかしら。 いいえ鈍感なんですのよあたしなんかは。 ただ。 ただ。 ただねあなたがお苦しそうだとあたしも苦しいの。 なんだつまらない。 いいのよいいのよ。 なんとも思ってやしないわよ。 エキスキュウズミイ。 ドンマイドンマイ。 でもお痩せになりましたわ。 君だって痩せたようだぜ。 余計な心配をするからそうなります。 いいえだからそう言ったじゃないの。 なんとも思ってやしないわよって。 いいのよあたしは利巧なんですから。 ただね時々はでえじにしてくんな。 大事にしているつもりなんだがね。 風にも当てず大事にしているつもりなんだ。 君は本当にいいひとなんだ。 つまらない事を気にかけずちゃんとプライドを持って落ちついていなさいよ。 僕はいつでも君の事ばかり思っているんだ。 その点に就いては君はどんなに自信を持っていても持ちすぎるという事は無いんだ。 でもあなたお変りになったわよ。 変るもんか。 変りやしないさ。 ただもうこの頃は暑いんだ。 暑くてかなわない。 夏はどうもエキスキュウズミイだ。 にくいひと。 小。 頭がいたくてね暑気に負けたのだろう。 信州のあの温泉あのちかくには知ってる人もいるしいつでもおいでお米持参の心配はいらないとその人が言っているんだ。 二三週間静養して来たい。 このままだと僕は気が狂いそうだ。 とにかく東京から逃げたいんだ。 お留守のあいだにピストル強盗がはいったらどうしよう。 強盗に申し上げたらいいさあたしの亭主は気違いですよって。 ピストル強盗も気違いにはかなわないだろう。 無いわ。 どうしたのでしょう。 空巣にはいられたのかしら。 売ったんだ。 まあ素早い。 そこがピストル強盗よりも凄いところさ。 それじゃ何を着ていらっしゃるの。 開襟シャツ一枚でいいよ。 さるすべりはこれは一年置きに咲くものかしら。 そうなんでしょうね。 自分がこの女の人と死ぬのは恋のためではない。 自分はジャーナリストである。 ジャーナリストは人に革命やら破壊やらをそそのかして置きながらいつも自分はするりとそこから逃げて汗などを拭いている。 実に奇怪な生き物である。 現代の悪魔である。 自分はその自己嫌悪に堪えかねてみずから革命家の十字架にのぼる決心をしたのである。 ジャーナリストの醜聞。 それはかつて例の無かった事ではあるまいか。 自分の死が現代の悪魔を少しでも赤面させ反省させる事に役立ったらうれしい。 お父さ。 おどさ。 おどさ。 おどさ。 おどさ。 瀟洒典雅。 オペラの怪人。 め組の喧嘩。 いのち。 なんてまあ哀しい男だろう。 生を棄てて逃げ去るのは罪悪だと人は言う。 しかし僕に死を禁ずるその同じ詭弁家が時には僕を死の前にさらしたり死に赴かせたりするのだ。 彼等の考え出すいろいろな革新は僕の周囲に死の機会を増し彼等の説くところは僕を死に導きまたは彼等の定める法律は僕に死を与えるのだ。 あ鳴つた。 近いやうだね。 ええ。 どうもこの壕は窮屈で。 さうかね。 しかしこれくらゐでちやうどいいのだよ。 あまり深いと生埋めの危険がある。 でももすこし広くしてもいいでせう。 うむまあさうだがいまは土が凍つて固くなつてゐるから掘るのが困難だ。 そのうちに。 もう春だねえ。 桜が咲いた。 さうですか。 ちよつとどいて下さい。 ここをお掃除しますから。 時になんだね。 いよいよ春になつたね。 燕も来た。 春宵一刻価千金か。 ごちそうさまでござりました。 そろそろ私もごはんにしよう。 よい眺めぢやなう。 こりやいい孫が出来た。 頬から子供が生れる事はござりません。 いのちにかかはるものではないでせうね。 なあにこはい事なんか無いさ。 遠慮には及びませぬて。 人間すべからく酔ふべしぢや。 まじめにも程度がありますよ。 阿波聖人とは恐れいる。 お見それ申しましたよ。 偉いんだつてねえ。 この瘤が雨に打たれてヒンヤリするのも悪くないわい。 こりやどうもヒンヤリしすぎて寒くなつた。 はいごめんよ。 ちよつとごめんよ。 やあこれはいい座敷だ。 どうですみなさんも。 この座敷には偉いお婆さんも聖人もゐませんからどうか遠慮なくどうぞ。 これはいけない。 あるわい。 や月が出てゐる。 春宵一刻――。 気持よささうに酔つてゐる。 なんてまあ下手な踊りだ。 ひとつ私の手踊りでも見せてあげませうかい。 やそれは困ります。 私の孫ですよ。 おはやうござります。 いやあ。 お帰りなさいまし。 おみおつけが冷たくなりまして。 いや冷たくてもいいさ。 あたためるには及びませんよ。 瘤がしなびたやうですね。 うむ。 破れて水が出たのでせう。 うむ。 また水がたまつて腫れるんでせうね。 さうだらう。 旦那。 先生。 お母さん。 お父さんの瘤はどうしてそんなに赤いのかしら。 蛸の頭みたいね。 さうねでも木魚を頬ぺたに吊してゐるやうにも見えるわね。 うるさい。 これは駄目だ。 ヨシヨシワタシモコノコブヲゼヒトモトツテモラヒマセウ。 傑作意識。 ふつつかながら。 是は阿波の鳴門に一夏を送る僧にて候。 さても此浦は平家の一門果て給ひたる所なれば痛はしく存じ毎夜此磯辺に出でて御経を読み奉り候。 磯山に暫し岩根のまつ程に暫し岩根のまつ程に誰が夜舟とは白波に楫音ばかり鳴門の浦静かなる今宵かな浦静かなる今宵かな。 きのふ過ぎけふと暮れ明日またかくこそ有るべけれ。 待つて下さい。 いま逃げられてはたまりません。 逃げろ逃げろ。 鍾馗かも知れねえ。 いいえ鍾馗ではございません。 お願ひがございます。 この瘤をどうかどうかとつて下さいまし。 何瘤。 なんださうかあれはこなひだの爺さんからあづかつてゐる大事の品だがしかしお前さんがそんなに欲しいならやつてもいい。 とにかくあの踊りは勘弁してくれ。 せつかくの酔ひが醒める。 たのむ。 放してくれ。 これからまた別なところへ行つて飲み直さなくちやいけねえ。 たのむ。 たのむから放せ。 おい誰かこの変な人にこなひだの瘤をかへしてやつてくれ。 欲しいんださうだ。 不正。 兄さんには冒険心が無いから駄目ね。 ケチだわ。 いやさうぢやない。 男振りがよすぎるんだよ。 好奇心を爆発させるのも冒険また好奇心を抑制するのもやつぱり冒険どちらも危険さ。 人には宿命といふものがあるんだよ。 人はなぜお互ひ批評し合はなければ生きて行けないのだらう。 砂浜の萩の花も這ひ寄る小蟹も入江に休む鴈も何もこの私を批評しない。 人間も須くかくあるべきだ。 人おのおの生きる流儀を持つてゐる。 その流儀をお互ひ尊敬し合つて行く事が出来ぬものか。 誰にも迷惑をかけないやうに努めて上品な暮しをしてゐるのにそれでも人は何のかのと言ふ。 うるさいものだ。 もしもし浦島さん。 もしもし。 無理もねえよ。 わかるさ。 なんだお前。 こなひだ助けてやつた亀ではないか。 まだこんなところにうろついてゐたのか。 うろついてゐたのかとは情無い。 恨むぜ若旦那。 私はかう見えてもあなたに御恩がへしをしたくてあれから毎日毎晩この浜へ来て若旦那のおいでを待つてゐたのだ。 それは浅慮といふものだ。 或いは無謀とも言へるかも知れない。 また子供たちに見つかつたらどうする。 こんどは生きては帰られまい。 気取つてゐやがる。 また捕まへられたらまた若旦那に買つてもらふつもりさ。 浅慮で悪うござんしたね。 私はどうしたつて若旦那にもう一度お目にかかりたかつたんだから仕様がねえ。 この仕様がねえといふところが惚れた弱味よ。 心意気を買つてくんな。 身勝手な奴だ。 なあんだ若旦那。 自家撞着してゐますぜ。 さつきご自分で批評がきらひだなんておつしやつてた癖にご自分では私の事を浅慮だの無謀だのこんどは身勝手だのさかんに批評してやがるぢやないか。 若旦那こそ身勝手だ。 私には私の生きる流儀があるんですからね。 ちつとはみとめて下さいよ。 私のは批評ではないこれは訓戒といふものだ。 諷諫といつてもよからう。 諷諫耳に逆ふもその行を利すといふわけのものだ。 気取らなけれあいい人なんだが。 いやもう私は何も言はん。 私のこの甲羅の上に腰かけて下さい。 お前はまあ何を言ひ出すのです。 私はそんな野蛮な事はきらひです。 亀の甲羅に腰かけるなどはそれは狂態と言つてよからう。 決して風流の仕草ではない。 どうだつていいぢやないかそんな事は。 こつちは先日のお礼としてこれから竜宮城へ御案内しようとしてゐるだけだ。 さあ早く私の甲羅に乗つて下さい。 何竜宮。 おふざけでない。 お前はお酒でも飲んで酔つてゐるのだらう。 とんでもない事を言ひ出す。 竜宮といふのは昔から歌に詠まれまた神仙譚として伝へられてゐますがあれはこの世には無いものねわかりますか。 あれは古来私たち風流人の美しい夢あこがれと言つてもいいでせう。 たまらねえ。 風流の講釈はあとでゆつくり伺ひますからまあ私の言ふ事を信じてとにかく私の甲羅に乗つて下さい。 あなたはどうも冒険の味を知らないからいけない。 おやお前もやつぱりうちの妹と同じ様な失礼な事を言ふね。 いかにも私は冒険といふものはあまり好きでない。 たとへばあれは曲芸のやうなものだ。 派手なやうでもやはり下品だ。 邪道と言つていいかも知れない。 宿命に対する諦観が無い。 伝統に就いての教養が無い。 めくら蛇におぢずとでもいふやうな形だ。 私ども正統の風流の士のいたく顰蹙するところのものだ。 軽蔑してゐると言つていいかも知れない。 私は先人のおだやかな道をまつすぐに歩いて行きたい。 ぷ。 その先人の道こそ冒険の道ぢやありませんか。 いや冒険なんて下手な言葉を使ふから何か血なまぐさくて不衛生な無頼漢みたいな感じがして来るけれども信じる力とでも言ひ直したらどうでせう。 あの谷の向う側にたしかに美しい花が咲いてゐると信じ得た人だけが何の躊躇もなく藤蔓にすがつて向う側に渡つて行きます。 それを人は曲芸かと思つて或いは喝采し或いは何の人気取りめがと顰蹙します。 しかしそれは絶対に曲芸師の綱渡りとは違つてゐるのです。 藤蔓にすがつて谷を渡つてゐる人はただ向う側の花を見たいだけなのです。 自分がいま冒険をしてゐるなんてそんな卑俗な見栄みたいなものは持つてやしないんです。 なんの冒険が自慢になるものですか。 ばかばかしい。 信じてゐるのです。 花のある事を信じ切つてゐるのです。 そんな姿をまあ仮に冒険と呼んでゐるだけです。 あなたに冒険心が無いといふのはあなたには信じる能力が無いといふ事です。 信じる事は下品ですか。 信じる事は邪道ですか。 どうもあなたがた紳士は信じない事を誇りにして生きてゐるのだからしまつが悪いや。 それはね頭のよさぢやないんですよ。 もつと卑しいものなのですよ。 吝嗇といふものです。 損をしたくないといふ事ばかり考へてゐる証拠ですよ。 御安心なさい。 誰もあなたにものをねだりやしませんよ。 人の深切をさへあなたたちは素直に受取る事を知らないんだからなあ。 あとのお返しが大変だなんてね。 いやどうも風流の士なんてのはケチなもんだ。 ひどい事を言ふ。 妹や弟にさんざん言はれて浜へ出るとこんどは助けてやつた亀にまで同じ様な失敬な批評を加へられる。 どうもわれとわが身に伝統の誇りを自覚してゐない奴は好き勝手な事を言ふものだ。 一種のヤケと言つてよからう。 私には何でもよくわかつてゐるのだ。 私の口から言ふべき事では無いがお前たちの宿命と私の宿命にはたいへんな階級の差がある。 生れた時からもう違つてゐるのだ。 私のせゐではない。 それは天から与へられたものだ。 しかしお前たちにはそれがよつぽど口惜しいらしい。 何のかのと言つて私の宿命をお前たちの宿命にまで引下さうとしてゐるがしかし天の配剤人事の及ばざるところさ。 お前は私を竜宮へ連れて行くなどと大法螺を吹いて私と対等の附合ひをしようとたくらんでゐるらしいがもういい私には何もかもよくわかつてゐるのだからあまり悪あがきしないでさつさと海の底のお前の住居へ帰れ。 なんだせつかく私が助けてやつたのにまた子供たちに捕まつたら何にもならぬ。 お前たちこそ人の深切を素直に受け取る法を知らぬ。 えへへ。 せつかく助けてやつたは恐れいる。 紳士はこれだからいやさ。 自分がひとに深切を施すのはたいへんの美徳でさうして内心いささか報恩などを期待してゐるくせにひとの深切にはいやもうひどい警戒であいつと対等の附合ひになつてはかなはぬなどと考へてゐるんだからげつそりしますよ。 それぢや私だつて言ひますがあなたが私を助けてくれたのは私が亀でさうしていぢめてゐる相手は子供だつたからでせう。 亀と子供ぢやあその間にはひつて仲裁してもあとくされがありませんからね。 それに子供たちには五文のお金でも大金ですからね。 しかしまあ五文とは値切つたものだ。 私はも少し出すかと思つた。 あなたのケチには呆れましたよ。 私のからだの値段がたつた五文かと思つたら私は情無かつたね。 それにしてもあの時相手が亀と子供だつたからあなたは五文でも出して仲裁したんだ。 まあ気まぐれだね。 しかしあの時の相手が亀と子供でなくまあたとへば荒くれた漁師が病気の乞食をいぢめてゐたのだつたらあなたは五文はおろか一文だつて出さずいやただ顔をしかめて急ぎ足で通り過ぎたに違ひないんだ。 あなたたちは人生の切実の姿を見せつけられるのをとてもいやがるからね。 それこそ御自身の高級な宿命に糞尿を浴びせられたやうな気がするらしい。 あなたたちの深切は遊びだ。 享楽だ。 亀だから助けたんだ。 子供だからお金をやつたんだ。 荒くれた漁師と病気の乞食の場合はまつぴらなんだ。 実生活の生臭い風にお顔を撫でられるのがとてもとてもいやなんだ。 お手をよごすのがいやなのさ。 なんてねこんなのを聞いたふうの事と言ふんですよ浦島さん。 あなたは怒りやしませんね。 だつて私はあなたを好きなんだものいや怒るかな。 あなたのやうに上流の宿命を持つてゐるお方たちは私たち下賤のものに好かれる事をさへ不名誉だと思つてゐるらしいのだから始末がわるい。 殊に私は亀なんだからな。 亀に好かれたんぢやあ気味がわるいかしかしまあ勘弁して下さいよ好き嫌ひは理窟ぢや無いんだ。 あなたに助けられたから好きといふわけでも無いしあなたが風流人だから好きといふのでも無い。 ただふつと好きなんだ。 好きだからあなたの悪口を言つてあなたをからかつてみたくなるんだ。 これがつまり私たち爬虫類の愛情の表現の仕方なのさ。 どうもね爬虫類だからね蛇の親類なんだからね信用のないのも無理がねえよ。 しかし私はエデンの園の蛇ぢやないはばかりながら日本の亀だ。 あなたに竜宮行きをそそのかして堕落させようなんてたくらんでゐるんぢやねえのだ。 心意気を買つてくんな。 私はただあなたと一緒に遊びたいのだ。 竜宮へ行つて遊びたいのだ。 あの国にはうるさい批評なんか無いのだ。 みんなのんびり暮してゐるよ。 だから遊ぶにはもつて来いのところなんだ。 私は陸にもかうして上つて来れるしまた海の底へももぐつて行けるから両方の暮しを比較して眺める事が出来るのだがどうも陸上の生活は騒がしい。 お互ひ批評が多すぎるよ。 陸上生活の会話の全部が人の悪口かでなければ自分の広告だ。 うんざりするよ。 私もちよいちよいかうして陸に上つて来たお蔭で陸上生活に少しかぶれてそれこそ聞いたふうの批評なんかを口にするやうになつてどうもこれはとんでもない悪影響を受けたものだと思ひながらもこの批評癖にもやめられぬ味がありまして批評の無い竜宮城の暮しにもちよつと退屈を感ずるやうになつたのです。 どうも悪い癖を覚えたものです。 文明病の一種ですかね。 いまでは私は自分が海の魚だか陸の虫だかわからなくなりましたよ。 たとへばあの鳥だか獣だかわからぬ蝙蝠のやうなものですね。 悲しき性になりました。 まあ海底の異端者とでもいつたやうなところですかね。 だんだん故郷の竜宮城にも居にくくなりましてねしかしあそこは遊ぶにはいいところだそれだけは保証します。 信じて下さい。 歌と舞ひと美食と酒の国です。 あなたたち風流人にはもつて来いの国です。 あなたはさつき批評はいやだとつくづく慨歎してゐたではありませんか竜宮には批評はありませんよ。 本当になあそんな国があつたらなあ。 あれまだ疑つてゐやがる。 私は嘘をついてゐるのぢやありません。 なぜ私を信じないんです。 怒りますよ。 実行しないでただあこがれて溜息をついてゐるのが風流人ですか。 いやらしいものだ。 それぢやまあ仕方が無い。 仰せに随つてお前の甲羅に腰かけてみるか。 言ふ事すべて気にいらん。 腰かけてみるかとは何事です。 腰かけてみるのも腰かけるのも結果に於いては同じぢやないか。 疑ひながらためしに右へ曲るのも信じて断乎として右へ曲るのもその運命は同じ事です。 どつちにしたつて引返すことは出来ないんだ。 試みたとたんにあなたの運命がちやんときめられてしまふのだ。 人生には試みなんて存在しないんだ。 やつてみるのはやつたのと同じだ。 実にあなたたちは往生際が悪い。 引返す事が出来るものだと思つてゐる。 わかつたよわかつたよ。 それでは信じて乗せてもらはう。 よし来た。 ちよつと眼をつぶつて。 水深千尋。 吐いてもいいか。 なんだへどを吐くのか。 きたねえ船客だな。 おや馬鹿正直にまだ眼をつぶつてゐやがる。 これだから私は太郎さんが好きさ。 もう眼をあいてもよござんすよ。 眼をあいてよもの景色をごらんになつたら胸の悪いのなんかすぐになほつてしまひます。 竜宮か。 何を言つてるんだ。 まだやつと水深千尋ぢやないか。 竜宮は海底一万尋だ。 へええ。 海つてものは広いもんだねえ。 浜育ちのくせに山奥の猿みたいな事を言ふなよ。 あなたの家の泉水よりは少し広いさ。 あれは何だ。 雲かね。 冗談言つちやいけねえ。 海の中に雲なんか流れてゐやしねえ。 それぢや何だ。 墨汁一滴を落したやうな感じだ。 単なる塵芥かね。 間抜けだねあなたは。 見たらわかりさうなものだ。 あれは鯛の大群ぢやないか。 へえ。 微々たるものだね。 あれでも二三百匹はゐるんだらうね。 馬鹿だな。 本気で云つてゐるのか。 それぢやあ二三千か。 しつかりしてくれ。 まづざつと五六百万。 五六百万。 おどかしちやいけない。 あれは鯛ぢやないんだ。 海の火事だ。 ひどい煙だ。 あれだけの煙だとさうさね日本の国を二十ほど寄せ集めたくらゐの広大の場所が燃えてゐる。 嘘をつけ。 海の中で火が燃えるもんか。 浅慮浅慮。 水の中だつて酸素があるんですからね。 火の燃えないわけはない。 ごまかすな。 それは無智な詭弁だ。 冗談はさて置いていつたいあのゴミのやうなものは何だ。 やつぱり鯛かね。 まさか火事ぢやあるまい。 いや火事だ。 いつたいあなた陸の世界の無数の河川が昼夜をわかたず海にそそぎ込んでもそれでも海の水が増しもせず減りもせずいつも同じ量をちやんと保つて居られるのはどういふわけか考へてみた事がありますか。 海のはうだつて困りますよ。 あんなにじやんじやん水を注ぎ込まれちや処置に窮しますよ。 それでまあ時々あんな工合ひにして不用な水を焼き捨てるのですな。 やあ燃える燃える大火事だ。 なにちつとも煙が広がりやしない。 いつたいあれは何さ。 さつきから少しも動かないところを見るとさかなの大群でもなささうだ。 意地わるな冗談なんか云はないで教へておくれ。 それぢや教へてあげませう。 あれはね月の影法師です。 またかつぐんぢやないか。 いいえ海の底には陸の影法師は何も写りませんが天体の影法師はやはり真上から落ちて来ますから写るのです。 月の影法師だけでなく星辰の影法師も皆写ります。 だから竜宮ではその影法師をたよりに暦を作り四季を定めます。 あの月の影法師はまんまるより少し欠けてゐますからけふは十三夜かな。 ちよつとまた眼をつぶつて。 ここはちやうど竜宮の入口になつてゐるのです。 人間が海の底を探険してもたいていここが海底のどんづまりだと見極めて引上げて行くのです。 ここを越えて行くのは人間ではあなたが最初でまた最後かも知れません。 眼をあいてごらん。 あれは何だ。 山か。 さうです。 竜宮の山か。 さうです。 まつ白ぢやないか。 雪が降つてゐるのかしら。 どうも高級な宿命を持つてゐる人は考へる事も違ひますね。 立派なものだ。 海の底にも雪が降ると思つてゐるんだからね。 しかし海の底にも火事があるさうだし。 雪だつて降るだらうさ。 何せ酸素があるんだから。 雪と酸素ぢや縁が遠いや。 縁があつてもまづ風と桶屋くらゐの関係ぢやないか。 ばかばかしい。 そんな事で私をおさへようたつて駄目さ。 どうもお上品なお方たちは洒落が下手だ。 雪はよいよい帰りはこはいつてのはどんなもんだい。 あんまりうまくもねえか。 それでも酸素よりはいいだらう。 さんそネツと来るか。 はくそみたいだ。 酸素はどうも助からねえ。 ところであの山は。 ところでとは大きく出たぢやないか。 ところであの山は雪が降つてゐるのではないのです。 あれは真珠の山です。 真珠。 いや嘘だらう。 たとひ真珠を十万粒二十万粒積み重ねたつてあれくらゐの高い山にはなるまい。 十万粒二十万粒とはケチな勘定の仕方だ。 竜宮では真珠を一粒二粒なんてそんなこまかい算へ方はしませんよ。 一山二山とやるね。 一山は約三百億粒だとかいふ話だが誰もそれをいちいち算へた事も無い。 それを約百万|山くらゐ積み重ねるとまづざつとあれくらゐの峰が出来る。 真珠の捨場には困つてゐるんだ。 もとをただせばさかなの糞だからね。 静かだね。 おそろしいくらゐだ。 地獄ぢやあるまいね。 しつかりしてくれ若旦那。 王宮といふものは皆このやうに静かなものだよ。 丹後の浜の大漁踊りみたいな馬鹿騒ぎを年中やつてゐるのが竜宮だなんて陳腐な空想をしてゐたんぢやねえのか。 あはれなものだ。 簡素幽邃といふのがあなたたちの風流の極致だらうぢやないか。 地獄とはあさましい。 馴れてくるとこの薄暗いのが何とも言へずやはらかく心を休めてくれる。 足許に気をつけて下さいよ。 滑つてころんだりしては醜態だ。 あれあなたはまだ草履をはいてゐるね。 脱ぎなさいよ失礼な。 何だこの道は。 気持が悪い。 道ぢやない。 ここは廊下ですよ。 あなたはもう竜宮城へはひつてゐるのです。 さうかね。 竜宮には雨も降らなければ雪も降りません。 だから陸上の家のやうにあんな窮屈な屋根や壁を作る必要は無いのです。 でも門には屋根があつたぢやないか。 あれは目じるしです。 門だけではなく乙姫のお部屋にも屋根や壁はあります。 しかしそれもまた乙姫の尊厳を維持するために作られたもので雨露を防ぐためのものではありません。 そんなものかね。 その乙姫の部屋といふのはどこにあるの。 見渡したところ冥途もかくや蕭寂たる幽境一木一草も見当らんぢやないか。 どうも田舎者には困るね。 でつかい建物やごてごてした装飾には口をあけておつたまげてもこんな幽邃の美には一向に感心しない。 浦島さんあなたの上品もあてにならんね。 もつとも丹後の荒磯の風流人ぢや無理もないがね。 伝統の教養とやらも聞いて冷汗が出るよ。 正統の風流人とはよくも言つた。 かうして実地に臨んでみると田舎者まる出しなんだから恐れいる。 人真似こまねの風流ごつこはまあこれからはやめるんだね。 だつて何も見えやしないんだもの。 だから足許に気をつけなさいつて云つてるぢやありませんか。 この廊下はただの廊下ぢやないんですよ。 魚の掛橋ですよ。 よく気をつけてごらんなさい。 幾億といふ魚がひしとかたまつて廊下の床みたいな工合ひになつてゐるのですよ。 これはひどい。 悪い趣味だ。 これがすなはち簡素幽邃の美かね。 さかなの背中を踏んづけて歩くなんて野蛮きはまる事ぢやないか。 だいいちこのさかなたちに気の毒だ。 こんな奇妙な風流は私のやうな田舎者にはわかりませんねえ。 いいえ。 私たちはここに毎日集つて乙姫さまの琴の音に聞き惚れてゐるのです。 魚の掛橋は風流のために作つてゐるのではありません。 かまはずどうかお通り下さい。 さうですか。 私はまたこれも竜宮の装飾の一つかと思つて。 それだけぢやあるまい。 ひよつとしたらこの掛橋も浦島の若旦那を歓迎のために乙姫さまが特にさかなたちに命じて。 あこれ。 まさかそれほど私は自惚れてはゐません。 でもねお前はこれを廊下の床のかはりだなんていい加減を言ふものだから私もついそのさかなたちが踏まれて痛いかと思つてね。 さかなの世界には床なんてものは必要がありません。 これがまあ陸上の家にたとへたならば廊下の床にでも当るかと思つて私はあんな説明をしてあげたので決していい加減を言つたんぢやない。 なにさかなたちは痛いなんて思ふもんですか。 海の底ではあなたのからだだつて紙一枚の重さくらゐしか無いのですよ。 何だかご自分のからだがふはふは浮くやうな気がするでせう。 私はもう何も信じる気がしなくなつた。 これだから私は冒険といふものはいやなんだ。 だまされたつてそれを看破する法が無いんだからね。 ただもう道案内者の言ふ事に従つてゐなければいけない。 これはこんなものだと言はれたらそれつきりなんだからね。 実に冒険は人を欺く。 琴の音も何もちつとも聞えやしないぢやないか。 あなたはどうも陸上の平面の生活ばかりしてゐるから目標は東西南北のいづれかにあるとばかり思つていらつしやる。 しかし海にはもう二元の方向がある。 すなはち上と下です。 あなたはさつきから乙姫の居所を前方にばかり求めていらつしやる。 ここにあなたの重大なる誤謬が存在してゐたわけだ。 なぜあなたは頭上を見ないのです。 また脚下を見ないのです。 海の世界は浮いて漂つてゐるものです。 さつきの正門もまたあの真珠の山だつてみんな少し浮いて動いてゐるのです。 あなた自身がまた上下左右にゆられてゐるので他の物の動いてゐるのがわからないだけなのです。 あなたはさつきからずいぶん前方にお進みになつたやうに思つていらつしやるかも知れないけれどまあ同じ位置ですね。 かへつて後退してゐるかも知れない。 いまは潮の関係でずんずんうしろに流されてゐます。 さうしてさつきから見ると百尋くらゐみんな一緒に上方に浮きました。 まあとにかくこの魚の掛橋をもう少し渡つてみませう。 ほうら魚の背中もだんだんまばらになつて来たでせう。 足を踏みはづさないやうに気をつけて下さいよ。 なに踏みはづしたつてすとんと落下する気づかひはありませんがね何せあなたも紙一枚の重さなんだから。 つまりこの橋は断橋なのです。 この廊下を渡つても前方には何も無い。 しかし脚下を見よです。 おいさかなども少しどけ若旦那が乙姫さまに逢ひに行くのだ。 こいつらはかうして竜宮城の本丸の天蓋をなしてゐるやうなものです。 海月なす漂へる天蓋とでも言つたらあなたたち風流人は喜びますかね。 不思議な曲ですね。 あれは何といふ曲ですか。 聖諦。 せいてい。 神聖の聖の字にあきらめ。 ああさう聖諦。 これからはお前の言ふ事は何でも信じるよ。 聖諦。 なるほどなあ。 さあここから飛び降りますよ。 あぶない事はありません。 かうして両腕をひろげて一歩足を踏み出すとゆらゆらと気持よく落下します。 この魚の掛橋の尽きたところから真つすぐに降りて行くとちやうど竜宮の正殿の階段の前に着くのです。 さあ何をぼんやりしてゐるのです。 飛び降りますよいいですか。 これも真珠かね。 珠を見れば何でも真珠だ。 真珠は捨てられてあんなに高い山になつてゐるぢやありませんか。 まあちよつとその珠を手で掬つてごらんなさい。 あ霰だ。 冗談ぢやない。 ついでにそれを口の中に入れてごらん。 うまい。 さうでせう。 これは海の桜桃です。 これを食べると三百年間老いる事が無いのです。 さうかいくつ食べても同じ事か。 私はどうも老醜といふものがきらひでね。 死ぬのはそんなにこはくもないけれどどうも老醜だけは私の趣味に合はない。 もつと食べて見ようかしら。 笑つてゐますよ。 上をごらんなさい。 乙姫さまがお迎へに出てゐます。 やあけふはまた一段とお綺麗。 乙姫か。 きまつてゐるぢやありませんか。 何をへどもどしてゐるのです。 さあ早く御挨拶をなさい。 でも何と言つたらいいんだい。 私のやうなものが名乗りを挙げてみたつてどうにもならんしどだいどうも私たちの訪問は唐突だよ。 意味が無いよ。 帰らうよ。 乙姫さまはあなたの事なんかもうとうにご存じですよ。 階前万里といふぢやありませんか。 観念してただていねいにお辞儀しておけばいいのです。 またたとひ乙姫さまがあなたの事を何もご存じ無くつたつて乙姫さまは警戒なんてケチくさい事はてんで知らないお方ですから何も斟酌には及びません。 遊びに来ましたよと言へばいい。 まさかそんな失礼な。 ああ笑つていらつしやる。 とにかくお辞儀をしよう。 ていねいすぎる。 いやになるね。 あなたは私の恩人ぢやないか。 も少し威厳のある態度を示して下さいよ。 へたへたと最敬礼なんかして上品もくそもあつたものぢやない。 それ乙姫さまのお招きだ。 行きませう。 さあちやんと胸を張つておれは日本一の好男子でさうして最上級の風流人だといふやうな顔をして威張つて歩くのですよ。 あなたは私たちに対してはひどく高慢な乙な構へ方をするけれども女にはからきし意気地が無いんですね。 いやいや高貴なお方にはそれ相当の礼を尽さなければ。 どうです悪くないでせう。 ああなに。 この花はこの紫の花は綺麗だね。 これですか。 これは海の桜桃の花です。 ちよつと菫に似てゐますね。 この花びらを食べるとそれは気持よく酔ひますよ。 竜宮のお酒です。 それからあの岩のやうなものあれは藻です。 何万年も経つてゐるのでこんな岩みたいにかたまつてゐますがでも羊羹よりも柔いくらゐのものです。 あれは陸上のどんなごちそうよりもおいしいですよ。 岩によつて一つづつみんな味はひが違ひます。 竜宮ではこの藻を食べて花びらで酔ひのどが乾けば桜桃を含み乙姫さまの琴の音に聞き惚れ生きてゐる花吹雪のやうな小魚たちの舞ひを眺めて暮してゐるのです。 どうですか竜宮は歌と舞ひと美食と酒の国だと私はお誘ひする時にあなたに申し上げた筈ですがどうですか御想像と違ひましたか。 わかつてゐますよ。 あなたの御想像はまあドンヂヤンドンヂヤンの大騒ぎで大きなお皿に鯛のさしみやら鮪のさしみ赤い着物を着た娘つ子の手踊りさうしてやたらに金銀珊瑚綾錦のたぐひが――。 まさか。 私はそれほど卑俗な男ではありません。 しかし私は自分を孤独な男だと思つてゐた事などありましたがここへ来て真に孤独なお方にお目にかかり私のいままでの気取つた生活が恥かしくてならないのです。 あのかたの事ですか。 あのかたは何も孤独ぢやありませんよ。 平気なものです。 野心があるから孤独なんて事を気に病むので他の世界の事なんかてんで問題にしてなかつたら百年千年ひとりでゐたつて楽なものです。 それこそれいの批評が気にならない者にとつてはね。 ところであなたはどこへ行かうてんですか。 いやなにべつに。 だつてお前あのお方が――。 乙姫はべつにあなたをどこかへ案内しようとしてゐるわけぢやありません。 あのかたはもうあなたの事なんか忘れてゐますよ。 あのかたはこれからご自分のお部屋に帰るのでせう。 しつかりして下さい。 ここが竜宮なんですこの場所が。 ほかにどこもご案内したいやうなところもありません。 まあここでお好きなやうにして遊んでゐるのですね。 これだけぢや不足なんですか。 いぢめないでくれよ。 私はいつたいどうしたらいいんだ。 だつてあのお方がお迎へに出て下さつてゐたのでべつに私は自惚れたわけぢやないけどあのお方のあとについて行くのが礼儀だと思つたんだよ。 べつに不足だなんて考へてやしないよ。 それだのに私に何か別ないやらしい下心でもあるみたいなへんな言ひ方をするんだもの。 お前はじつさい意地が悪いよ。 ひどいぢやないか。 私は生れてからこんなに体裁の悪い思ひをした事は無いよ。 本当にひどいよ。 そんなに気にしちやいけない。 乙姫はおつとりしたものです。 そりや陸上からはるばるたづねて来た珍客ですものそれにあなたは私の恩人ですからねお出迎へするのは当り前ですよ。 さらにまたあなたは気持はさつぱりしてゐるし男つぷりは佳しと来てゐるから。 いやこれは冗談ですよへんにまた自惚れられちやかなはない。 とにかく乙姫はご自分の家へやつて来た珍客を階段まで出迎へてさうして安心してあとはあなたのお気の向くままに勝手に幾日でもここで遊んでいらつしやるやうにと素知らぬ振りしてああしてご自分のお部屋に引上げて行くといふわけのものぢやないんですかね。 実は私たちにも乙姫の考へてゐる事はあまりよく判らないのです。 何せどうにもおつとりしてゐますから。 いやさう言はれてみると私には少し判りさうな気がして来たよ。 お前の推察もだいたいに於いて間違ひはなささうだ。 つまりこんなのが真の貴人の接待法なのかも知れない。 客を迎へて客を忘れる。 しかも客の身辺には美酒珍味が全く無雑作に並べ置かれてある。 歌舞音曲も別段客をもてなさうといふ露骨な意図でもつて行はれるのではない。 乙姫は誰に聞かせようといふ心も無くて琴をひく。 魚どもは誰に見せようといふ衒ひも無く自由に嬉々として舞ひ遊ぶ。 客の讃辞をあてにしない。 客もまたそれにことさらに留意して感服したやうな顔つきをする必要も無い。 寝ころんで知らん振りしてゐたつて構はないわけです。 主人はもう客の事なんか忘れてゐるのだ。 しかも自由に振舞つてよいといふ許可は与へられてゐるのだ。 食ひたければ食ふし食ひたくなければ食はなくていいんだ。 酔つて夢うつつに琴の音を聞いてゐたつて敢へて失礼には当らぬわけだ。 ああ客を接待するにはすべからくこのやうにありたい。 何のかのとろくでも無い料理をうるさくすすめてくだらないお世辞を交換しをかしくもないのに矢鱈におほほと笑ひまあ。 なんて珍らしくもない話に大仰に驚いて見せたり一から十まで嘘ばかりの社交を行ひ天晴れ上流の客あしらひをしてゐるつもりのケチくさい小利口の大馬鹿野郎どもにこの竜宮の鷹揚なもてなし振りを見せてやりたい。 あいつらはただ自分の品位を落しやしないかそれだけを気にしてわくわくしてさうして妙に客を警戒してひとりでからまはりして実意なんてものは爪の垢ほども持つてやしないんだ。 なんだいありや。 お酒一ぱいにも飲ませてやつたぞいただきましたぞといふやうな証文を取かはしてゐたんぢやかなはない。 さうその調子。 しかしあまりそんなに興奮して心臓痲痺なんか起されても困る。 まこの藻の岩に腰をおろして桜桃の酒でも飲むさ。 桜桃の花びらだけでははじめての人には少し匂ひが強すぎるかも知れないから桜桃五六粒と一緒に舌の上に載せるとしゆつと溶けて適当に爽涼のお酒になります。 まぜ合せの仕方一つでいろんな味に変化しますからまあご自分で工夫してお好きなやうなお酒を作つてお飲みなさい。 これはいい。 まさに憂ひの玉帚だ。 憂ひ。 何か憂鬱な事でもあるのですか。 いやべつにそんなわけではないがあははは。 どこへ行くんだらう。 お部屋でせう。 さつきからお前はお部屋お部屋と言つてゐるがそのお部屋はいつたいどこにあるの。 何もどこにも見えやしないぢやないか。 ずつと向う乙姫の歩いて行く方角のずつと向うに何か見えませんか。 ああさう云はれて見ると何かあるやうだね。 あれか。 小さいものだね。 乙姫がひとりおやすみになるのに大きい御殿なんか要らないぢやありませんか。 さう言へばまあさうだが。 あのお方は何かねいつもあんなに無口なのかね。 ええさうです。 言葉といふものは生きてゐる事の不安から芽ばえて来たものぢやないですかね。 腐つた土から赤い毒きのこが生えて出るやうに生命の不安が言葉を醗酵させてゐるのぢやないのですか。 よろこびの言葉もあるにはありますがそれにさへなほいやらしい工夫がほどこされてゐるぢやありませんか。 人間はよろこびの中にさへ不安を感じてゐるのでせうかね。 人間の言葉はみんな工夫です。 気取つたものです。 不安の無いところには何もそんないやらしい工夫など必要ないでせう。 私は乙姫がものを言つたのを聞いた事が無い。 しかしまた黙つてゐる人によくありがちの皮裏の陽秋といふんですかそんな胸中ひそかに辛辣の観察を行ふなんて事も乙姫は決してなさらない。 何も考へてやしないんです。 ただああして幽かに笑つて琴をかき鳴らしたりまたこの広間をふらふら歩きまはつて桜桃の花びらを口に含んだりして遊んでゐます。 実にのんびりしたものです。 さうかね。 あのお方もやつぱりこの桜桃の酒を飲むかね。 まつたくこれはいいからなあ。 これさへあれば何も要らない。 もつといただいてもいいかしら。 ええどうぞ。 ここへ来て遠慮なんかするのは馬鹿げてゐます。 あなたは無限に許されてゐるのです。 ついでに何か食べてみたらどうです。 目に見える岩すべて珍味です。 油つこいのがいいですか。 軽くちよつと酸つぱいやうなのがいいですか。 どんな味のものでもありますよ。 ああ琴の音が聞える。 寝ころんで聞いてもいいんだらうね。 あああ酔つて寝ころぶのはいい気持だ。 ついでに何か食べてみようかな。 雉の焼肉みたいな味の藻があるかね。 あります。 それとそれから桑の実のやうな味の藻は。 あるでせう。 しかしあなたも妙に野蛮なものを食べるのですね。 本性暴露さ。 私は田舎者だよ。 これが風流の極致だつてさ。 わあどうもいかん。 淋しいわい。 なんのわけだかわからないがどうもいかん。 おい亀。 何とかまた景気のいい悪口でも言つてくれ。 お前はさつきから何も一こともものを言はんぢやないか。 怒つてゐるのかね。 私が竜宮から食ひ逃げ同様で帰るのをお前は怒つてゐるのかね。 ひがんぢやいけねえ。 陸上の人はこれだからいやさ。 帰りたくなつたら帰るさ。 どうでもあなたの気の向いたやうにとはじめから何度も言つてるぢやないか。 でも何だかお前元気が無いぢやないか。 さう言ふあなたこそ妙にしよんぼりしてゐるぜ。 私やどうもお迎へはいいけれどこのお見送りつてやつは苦手だ。 行きはよいよいかね。 洒落どころぢやありません。 どうもこのお見送りつてやつは気のはづまねえものだ。 溜息ばかり出て何を言つてもしらじらしくいつそもうこの辺でお別れしてしまひたいやうなものだ。 やつぱりお前も淋しいのかね。 こんどはずいぶんお前のお世話にもなつたね。 お礼を言ひます。 あのお方はやつぱりあそこでたつたひとりで遊んでゐるのだらうね。 私にこんな綺麗な貝をくれたがこれはまさか食べるものぢやないだらうな。 ちよつと竜宮にゐるうちにあなたもばかに食ひ意地が張つて来ましたね。 それだけは食べるものでは無いやうです。 私にもよくわかりませんがその貝の中に何かはひつてゐるのぢやないんですか。 しかし私はエデンの園の蛇ではないはばかりながら日本の亀だ。 でもその貝はあけて見ないはうがいいかも知れません。 きつとその中には竜宮の精気みたいなものがこもつてゐるのでせうから。 それを陸上であけたら奇怪な蜃気楼が立ち昇りあなたを発狂させたり何かするかも知れないし或いはまた海の潮が噴出して大洪水を起す事なども無いとは限らないしとにかく海底の酸素を陸上に放散させてはどうせろくな事が起らないやうな気がしますよ。 さうかも知れないね。 あんな高貴な竜宮の雰囲気がもしこの貝の中にひめられてあるとしたら陸上の俗悪な空気にふれた時には戸惑ひして大爆発でも起すかも知れない。 まあこれはかうしていつまでも大事に家の宝として保存して置くことにしよう。 あけてはならぬ。 あけてはならぬ。 あけるな。 浦島さん。 希望。 希望。 希望。 希望。 聖諦。 あけてはならぬ。 面当て。 実に悲惨な身の上になつたものさ。 気の毒だ。 希望。 狸さん可哀想ね。 可哀想。 可哀想。 やりかたが汚い。 女らしさ。 男らしく。 よろこんでくれ。 おれは命拾ひをしたぞ。 爺さんの留守をねらつてあの婆さんをえいとばかりにやつつけて逃げて来た。 おれは運の強い男さ。 何も私がよろこぶわけは無いぢやないの。 きたないわよそんなに唾を飛ばして。 それにあの爺さん婆さんは私のお友達よ。 知らなかつたの。 さうか。 知らなかつた。 かんべんしてくれ。 さうと知つてゐたらおれは狸汁にでも何にでもなつてやつたのに。 いまさらそんな事を言つたつてもうおそいわ。 あのお家の庭先に私が時々あそびに行つてさうしておいしいやはらかな豆なんかごちそうになつたのをあなただつて知つてたぢやないの。 それだのに知らなかつたなんて嘘ついてひどいわ。 あなたは私の敵よ。 ゆるしてくれよ。 おれはほんとに知らなかつたのだ。 嘘なんかつかない。 信じてくれよ。 本当にもうお前にそんなに怒られるとおれはもう死にたくなるんだ。 何を言つてるの。 食べる事ばかり考へてるくせに。 助平の上にまた食ひ意地がきたないつたらありやしない。 見のがしてくれよ。 おれは腹がへつてゐるんだ。 まつたくいまのおれのこの心苦しさがお前にわかつてもらへたらなあ。 傍へ寄つて来ちや駄目だつて言つたら。 くさいぢやないの。 もつとあつちへ離れてよ。 あなたはとかげを食べたんだつてね。 私は聞いたわよ。 それからああ可笑しいウンコも食べたんだつてね。 まさか。 まさかねえ。 上品ぶつたつて駄目よ。 あなたのそのにほひはただの臭みぢやないんだから。 それぢやあねこんど一ぺんだけゆるしてあげる。 あれ寄つて来ちや駄目だつて言ふのに。 油断もすきもなりやしない。 よだれを拭いたらどう。 下顎がべろべろしてるぢやないの。 落ついてよくお聞き。 こんど一ぺんだけは特別にゆるしてあげるけれどでも条件があるのよ。 あの爺さんはいまごろはきつとひどく落胆して山に柴刈りに行く気力も何も無くなつてゐるでせうから私たちはその代りに柴刈りに行つてあげませうよ。 一緒に。 お前も一緒に行くのか。 おいや。 いやなものか。 けふこれからすぐに行かうよ。 あしたにしませうねあしたの朝早く。 けふはあなたもお疲れでせうしそれにおなかも空いてゐるでせうから。 ありがたい。 おれはあしたお弁当をたくさん作つて持つて行つて一心不乱に働いて十貫目の柴を刈つてさうして爺さんの家へとどけてあげる。 さうしたらお前はおれをきつと許してくれるだらうな。 仲よくしてくれるだらうな。 くどいわね。 その時のあなたの成績次第でね。 もしかしたら仲よくしてあげるかも知れないわ。 えへへ。 その口が憎いや。 苦労させるぜこんちきしやう。 おれはもう。 おれはもうどんなに嬉しいかいつそ男泣きに泣いてみたいくらゐだ。 これ見ろ。 手にこんなに豆が出来た。 ああ手がひりひりする。 のどが乾く。 おなかも空いた。 とにかく大労働だつたからなあ。 ちよつと休息といふ事にしようぢやないか。 お弁当でも開きませうかね。 うふふふ。 ずいぶん眠つたのね。 もう私も柴を一束こしらへたからこれから背負つて爺さんの庭先まで持つて行つてあげませうよ。 ああさうしよう。 やけにおなかが空いた。 かうおなかが空くともうとても眠つて居られるものぢやない。 おれは敏感なんだ。 どれそれではおれも刈つた柴を大急ぎで集めて下山としようか。 お弁当ももうからになつたしこの仕事を早く片づけてそれからすぐに食べ物を捜さなくちやいけない。 あなたさきに歩いてよ。 この辺には蛇がゐるんで私こはくて。 蛇。 蛇なんてこはいもんか。 見つけ次第おれがとつて。 おれがとつて殺してやる。 さあおれのあとについて来い。 やつぱり男のひとつてこんな時にはたのもしいものねえ。 おだてるなよ。 けふはお前ばかにしをらしいぢやないか。 気味がわるいくらゐだぜ。 まさかおれをこれから爺さんのところに連れて行つて狸汁にするわけぢやあるまいな。 あははは。 そいつばかりはごめんだぜ。 あらそんなにへんに疑ふならもういいわよ。 私がひとりで行くわよ。 いやそんなわけぢやない。 一緒に行くがねおれは蛇だつて何だつてこの世の中にこはいものなんかありやしないがどうもあの爺さんだけは苦手だ。 狸汁にするなんて言ひやがるからいやだよ。 どだい下品ぢやないか。 少くともいい趣味ぢやないと思ふよ。 おれはあの爺さんの庭先の手前の一本榎のところまでこの柴を背負つて行くからあとはお前が運んでくれよ。 おれはあそこで失敬しようと思ふんだ。 どうもあの爺さんの顔を見るとおれは何とも言へず不愉快になる。 おや。 何だいあれは。 へんな音がするね。 なんだらう。 お前にも聞えないか。 何だかカチカチと音がする。 当り前ぢやないの。 ここはカチカチ山だもの。 カチカチ山。 ここがかい。 ええ知らなかつたの。 うん。 知らなかつた。 この山にそんな名前があるとは今日まで知らなかつたね。 しかしへんな名前だ。 嘘ぢやないか。 あらだつて山にはみんな名前があるものでせう。 あれが富士山だしあれが長尾山だしあれが大室山だしみんなに名前があるぢやないの。 だからこの山はカチカチ山つていふ名前なのよ。 ねほらカチカチつて音が聞える。 うん聞える。 しかしへんだな。 いままでおれはいちどもこの山でこんな音を聞いた事が無い。 この山で生れて三十何年かになるけれどもこんな――。 まあ。 あなたはもうそんな年なの。 こなひだ私に十七だなんて教へたくせにひどいぢやないの。 顔が皺くちやで腰も少し曲つてゐるのに十七とはへんだと思つてゐたんだけどそれにしても二十も年をかくしてゐるとは思はなかつたわ。 それぢやあなたは四十ちかいんでせうまあずいぶんね。 いや十七だ十七。 十七なんだ。 おれがかう腰をかがめて歩くのは決してとしのせゐぢやないんだ。 おなかが空いてゐるから自然にこんな恰好になるんだ。 三十何年といふのはあれはおれの兄の事だよ。 兄がいつも口癖のやうにさう言ふのでついおれもうつかりあんな事を口走つてしまつたんだ。 つまりちよつと伝染したつてわけさ。 そんなわけなんだよ君。 さうですか。 でもあなたにお兄さんがあるなんてはじめて聞いたわ。 あなたはいつか私におれは淋しいんだ孤独なんだよ親も兄弟も無いこの孤独の淋しさがお前わからんかねなんておつしやつてたぢやないの。 あれはどういふわけなの。 さうさう。 まつたく世の中はこれでなかなか複雑なものだからねえそんなに一概には行かないよ。 兄があつたり無かつたり。 まるで意味が無いぢやないの。 めちや苦茶ね。 うん実はね兄はひとりあるんだ。 これは言ふのもつらいが飲んだくれのならず者でねおれはもう恥づかしくて面目なくて生れて三十何年間いや兄がだよ兄が生れて三十何年間といふものこのおれに迷惑のかけどほしさ。 それもへんね。 十七のひとが三十何年間も迷惑をかけられたなんて。 世の中には一口で言へない事が多いよ。 いまぢやもうおれのはうからあれは無いものと思つて勘当しておや。 へんだねキナくさい。 お前なんともないか。 いいえ。 さうかね。 気のせゐかなあ。 あれあれ何だか火が燃えてゐるやうなパチパチボウボウつて音がするぢやないか。 それやその筈よ。 ここはパチパチのボウボウ山だもの。 嘘つけ。 お前はついさつきここはカチカチ山だつて言つた癖に。 さうよ同じ山でも場所に依つて名前が違ふのよ。 富士山の中腹にも小富士といふ山があるしそれから大室山だつて長尾山だつてみんな富士山と続いてゐる山ぢやないの。 知らなかつたの。 うん知らなかつた。 さうかなあここがパチパチのボウボウ山とはおれが三十何年間いや兄の話に依ればここはただの裏山だつたがいやこれはばかに暖くなつて来た。 地震でも起るんぢやねえだらうか。 何だかけふは薄気味の悪い日だ。 やあこれはひどく暑い。 きやあつ。 あちちちちひでえあちちちち助けてくれ柴が燃えてる。 あちちちち。 ああくるしい。 いよいよおれも死ぬかも知れねえ。 思へばおれほど不仕合せな男は無い。 なまなかに男振りが少し佳く生れて来たばかりに女どもがかへつて遠慮しておれに近寄らない。 いつたいにどうも上品に見える男は損だ。 おれを女ぎらひかと思つてゐるのかも知れねえ。 なあにおれだつて決して聖人ぢやない。 女は好きさ。 それだのに女はおれを高邁な理想主義者だと思つてゐるらしくなかなか誘惑してくれない。 かうなればいつそ大声で叫んで走り狂ひたい。 おれは女が好きなんだ。 あいてえいてえ。 どうもこの火傷といふものは始末がわるい。 づきづき痛む。 やつと狸汁から逃れたかと思ふとこんどはわけのわからねえボウボウ山とかいふのに足を踏み込んだのが運のつきだ。 あの山はつまらねえ山であつた。 柴がボウボウ燃え上るんだからひどい。 三十何年。 何を隠さうおれあことし三十七さへへんわるいかもう三年経てば四十だわかり切つた事だ理の当然といふものだ見ればわかるぢやないか。 あいたたたそれにしてもおれが生れてから三十七年間あの裏山で遊んで育つて来たのだがつひぞいちどもあんなへんな目に遭つた事が無い。 カチカチ山だのボウボウ山だの名前からして妙に出来てる。 はて不思議だ。 仙金膏はいかが。 やけど切傷色黒に悩むかたはゐないか。 おうい仙金膏。 へえどちらさまで。 こつちだ穴の奥だよ。 色黒にもきくかね。 それはもう一日で。 ほほう。 や。 お前は兎。 ええ兎には違ひありませんが私は男の薬売りです。 ええもう三十何年間この辺をかうして売り歩いてゐます。 ふう。 しかし似た兎もあるものだ。 三十何年間さうかお前がねえ。 いや歳月の話はよさう。 糞面白くもない。 しつつこいぢやないか。 まあそんなわけのものさ。 ところでおれにその薬を少しゆづつてくれないか。 実はちよつと悩みのある身なのでな。 おやひどい火傷ですねえ。 これはいけない。 ほつて置いたら死にますよ。 いやおれはいつそ死にてえ。 こんな火傷なんかどうだつていいんだ。 それよりもおれはいまその容貌の――。 何を言つていらつしやるんです。 生死の境ぢやありませんか。 やあ背中が一ばんひどいですね。 いつたいこれはどうしたのです。 それがねえ。 パチパチのボウボウ山とかいふきざな名前の山に踏み込んだばつかりにねえいやもうとんだ事になつてねえおどろきましたよ。 まつたくねえ。 ばかばかしいつたらありやしないのさ。 お前にも忠告して置きますがねあの山へだけは行つちやいけないぜ。 はじめカチカチ山といふのがあつてそれからいよいよパチパチのボウボウ山といふ事になるんだがあいつあいけない。 ひでえ事になつちやふ。 まあいい加減にカチカチ山あたりでごめんかうむつて来るんですな。 へたにボウボウ山などに踏み込んだが最期かくの如き始末だ。 あいててて。 いいですか。 忠告しますよ。 お前はまだ若いやうだからおれのやうな年寄りの言はいや年寄りでもないがとにかくばかにしないでこの友人の言だけは尊重して下さいよ。 何せ体験者の言なのだから。 あいてててて。 ありがたうございます。 気をつけませう。 ところでどうしませうお薬は。 御深切な忠告を聞かしていただいたお礼としてお薬代は頂戴いたしません。 とにかくその背中の火傷に塗つてあげませう。 ちやうど折よく私が来合せたからよかつたやうなもののさうでもなかつたらあなたはもう命を落すやうな事になつたかも知れないのです。 これも何かのお導きでせう。 縁ですね。 縁かも知れねえ。 ただなら塗つてもらはうか。 おれもこのごろは貧乏でなどうも女に惚れると金がかかつていけねえ。 ついでにその膏薬を一滴おれの手のひらに載せて見せてくれねえか。 どうなさるのです。 いやはあなんでもねえ。 ただちよつと見たいんだよ。 どんな色合ひのものだかな。 色は別に他の膏薬とかはつてもゐませんよ。 こんなものですが。 あそれはいけません。 顔に塗るにはその薬は少し強すぎます。 とんでもない。 いや放してくれ。 後生だから手を放せ。 お前にはおれの気持がわからないんだ。 おれはこの色黒のため生れて三十何年間どのやうに味気ない思ひをして来たかわからない。 放せ。 手を放せ。 後生だから塗らせてくれ。 少くともおれの顔は目鼻立ちは決して悪くないと思ふんだ。 ただこの色黒のために気がひけてゐたんだ。 もう大丈夫だ。 うわつ。 これはひどい。 どうもひりひりする。 強い薬だ。 しかしこれくらゐの強い薬でなければおれの色黒はなほらないやうな気もする。 わあひどい。 しかし我慢するんだ。 ちきしやうめこんどあいつがおれと逢つた時うつとりおれの顔に見とれてうふふおれはもうあいつが恋わづらひしたつて知らないぞ。 おれの責任ぢやないからな。 ああひりひりする。 この薬はたしかに効く。 さあもうかうなつたら背中にでもどこにでもからだ一面に塗つてくれ。 おれは死んだつてかまはん。 色白にさへなつたら死んだつてかまはんのだ。 さあ塗つてくれ。 遠慮なくべたべたと威勢よくやつてくれ。 ううむ何ともない。 この薬はたしかに効く。 わああひどい。 水をくれ。 ここはどこだ。 地獄か。 かんにんしてくれ。 おれは地獄へ落ちる覚えは無えんだ。 おれは狸汁にされるのがいやだつたからそれで婆さんをやつつけたんだ。 おれにとがは無えのだ。 おれは生れて三十何年間色が黒いばつかりに女にいちどももてやしなかつたんだ。 それからおれは食慾がああそのためにおれはどんなにきまりの悪い思ひをして来たか。 誰も知りやしないのだ。 おれは孤独だ。 おれは善人だ。 眼鼻立ちは悪くないと思ふんだ。 遊びに来ましたよ。 うふふ。 あら。 やありがたう。 心配無用だよ。 もう大丈夫だ。 おれには神さまがついてゐるんだ。 運がいいのだ。 あんなボウボウ山なんて屁の河童さ。 河童の肉はうまいさうで。 何とかしてそのうち食べてみようと思つてゐるんだがね。 それは余談だがしかしあの時は驚いたよ。 何せどうもたいへんな火勢だつたからね。 お前のはうはどうだつたね。 べつに怪我も無い様子だがよくあの火の中を無事で逃げて来られたね。 無事でもないわよ。 あなたつたらひどいぢやないの。 あのたいへんな火事場に私ひとりを置いてどんどん逃げて行つてしまふんだもの。 私は煙にむせてもう少しで死ぬところだつたのよ。 私はあなたを恨んだわ。 やつぱりあんな時につい本心といふものがあらはれるものらしいのね。 私にはもうあなたの本心といふものがこんどはつきりわかつたわ。 すまねえ。 かんにんしてくれ。 実はおれもひどい火傷をしておれにはひよつとしたら神さまも何もついてゐねえのかも知れないさんざんの目に遭つちやつたんだ。 お前はどうなつたか決してそれを忘れてゐたわけぢやなかつたんだが何せどうもたちまちおれの背中が熱くなつてお前を助けに行くひまも何も無かつたんだよ。 わかつてくれねえかなあ。 おれは決して不実な男ぢやねえのだ。 火傷つてやつもなかなか馬鹿にできねえものだぜ。 それにあの仙金膏とか疝気膏とかあいつあいけない。 いやもうひどい薬だ。 色黒にも何もききやしない。 色黒。 いや何。 どろりとした黒い薬でねこいつあ強い薬なんだ。 お前によく似た小さい奇妙な野郎が薬代は要らねえと言ふからおれもついものはためしだと思つて塗つてもらふ事にしたのだがいやはやどうもただの薬つてのもあれはお前気をつけたはうがいいぜ油断も何もなりやしねえおれはもう頭のてつぺんからキリキリと小さい竜巻が立ち昇つたやうな気がしてどうとばかりに倒れたんだ。 ふん。 自業自得ぢやないの。 ケチンボだから罰が当つたんだわ。 ただの薬だからためしてみたなんてよくもまあそんな下品な事を恥づかしくもなく言へたものねえ。 ひでえ事を言ふ。 しかしおれは運のいい男だなあ。 どんな目に遭つても死にやしない。 神さまがついてゐるのかも知れねえ。 お前も無事でよかつたがおれも何といふ事もなく火傷がなほつてかうしてまた二人でのんびり話が出来るんだものなあ。 ああまるで夢のやうだ。 ねあなたはこの河口湖にそりやおいしい鮒がうようよゐる事をご存じ。 知らねえ。 ほんとかね。 おれが三つの時おふくろが鮒を一匹捕つて来ておれに食べさせてくれた事があつたけれどもあれはおいしい。 おれはどうも不器用といふわけではないが決してさういふわけではないが鮒なんて水の中のものを捕へる事が出来ねえのでどうもあいつはおいしいといふ事だけは知つてゐながらそれ以来三十何年間いやははははつい兄の口真似をしちやつた。 兄も鮒は好きでなあ。 さうですかね。 私はどうも鮒など食べたくもないけれどでもあなたがそんなにお好きなのならばこれから一緒に捕りに行つてあげてもいいわよ。 さうかい。 でもあの鮒つてやつは素早いもんでなあおれはあいつを捕へようとしても少しで土左衛門になりかけた事があるけれども。 お前に何かいい方法があるのかね。 網で掬つたらわけは無いわ。 あの※※島の岸にこのごろとても大きい鮒が集つてゐるのよ。 ね行きませう。 あなた舟は。 漕げるの。 うむ。 漕げないことも無いがね。 その気になりやなあに。 漕げるの。 ぢやちやうどいいわ。 私にはね小さい舟が一艘あるけどあんまり小さすぎて私たちふたりは乗れないの。 それに何せ薄い板切れでいい加減に作つた舟だから水がしみ込んで来て危いのよ。 でも私なんかどうなつたつてあなたの身にもしもの事があつてはいけないからあなたの舟をこれからふたりで一緒に力を合せて作りませうよ。 板切れの舟は危いからもつと岩乗に泥をこねつて作りませうよ。 すまねえなあ。 おれはもう泣くぜ。 泣かしてくれ。 おれはどうしてこんなに涙もろいか。 ついでにお前ひとりでその岩乗ないい舟を作つてくれないか。 なたのむよ。 おれは恩に着るぜ。 お前がそのおれの岩乗な舟を作つてくれてゐる間におれはちよつとお弁当をこさへよう。 おれはきつと立派な炊事係りになれるだらうと思ふんだ。 さうね。 ふむ悪くない。 お前はしかしずいぶん器用な娘だねえ。 またたく間にこんな綺麗な舟一艘つくり上げてしまふのだからねえ。 神技だ。 お前はきつと舟を漕ぐのも上手だらうねえ。 おれだつて舟の漕ぎ方くらゐ知らないわけではまさかそんな知らないと云ふわけでは決して無いんだがけふはひとつわが女房のお手並を拝見したい。 おれも昔は舟の漕ぎ方にかけては名人とかまたは達者とか言はれたものだがけふはまあ寝転んで拝見といふ事にしようかな。 かまはないからおれの舟の舳をお前の舟の艫にゆはへ附けておくれ。 舟も仲良くぴつたりくつついて死なばもろとも見捨てちやいやよ。 敷島。 敷島。 おおいい景色。 青春の純真。 純真。 青春の純真。 ひやあ。 水だ水だ。 これはいかん。 うるさいわね。 泥の舟だものどうせ沈むわ。 わからなかつたの。 わからん。 理解に苦しむ。 筋道が立たぬ。 それは御無理といふものだ。 お前はまさかこのおれをいやまさかそんな鬼のやうないやまるでわからん。 お前はおれの女房ぢやないか。 やあ沈む。 少くとも沈むといふ事だけは眼前の真実だ。 冗談にしたつてあくどすぎる。 これはほとんど暴力だ。 やあ沈む。 おいお前どうしてくれるんだ。 お弁当がむだになるぢやないか。 このお弁当箱には鼬の糞でまぶした蚯蚓のマカロニなんか入つてゐるのだ。 惜しいぢやないか。 あつぷ。 ああたうとう水を飲んぢやつた。 おいたのむひとの悪い冗談はいい加減によせ。 おいおいその綱を切つちやいかん。 死なばもろとも夫婦は二世切つても切れねえ縁の艫綱あいけねえ切つちやつた。 助けてくれ。 おれは泳ぎが出来ねえのだ。 白状する。 昔は少し泳げたのだが狸も三十七になるとあちこちの筋が固くなつてとても泳げやしないのだ。 白状する。 おれは三十七なんだ。 お前とは実際としが違ひすぎるのだ。 年寄りを大事にしろ。 敬老の心掛けを忘れるな。 あつぷ。 ああお前はいい子だないい子だからそのお前の持つてゐる櫂をこつちへ差しのべておくれおれはそれにつかまつてあいたたた何をするんだ痛いぢやないか櫂でおれの頭を殴りやがつてよしさうかわかつた。 お前はおれを殺す気だなそれでわかつた。 あいたたたあいたたたひどいぢやないか。 おれはお前にどんな悪い事をしたのだ。 惚れたが悪いか。 おおひどい汗。 お伽草紙。 お伽草紙。 私の桃太郎。 日本一。 私の桃太郎物語。 お伽草紙。 日本一。 お伽草紙。 お伽草紙。 代表的人物。 お爺さん。 お爺さん。 お爺さん。 お爺さん。 さあ下着類を皆脱いでここへ出して下さい。 洗ひます。 この次。 早く出して下さいよ。 ほら襦袢の襟なんか油光りしてゐるぢやありませんか。 この次。 え。 何ですつて。 わかるやうに言つて下さい。 この次。 けふは寒い。 もう冬ですもの。 けふだけぢやなくあしたもあさつても寒いにきまつてゐます。 そんな工合ひに家の中でじつと炉傍に坐つてゐる人と井戸端へ出て洗濯してゐる人とどつちが寒いか知つてゐますか。 わからない。 お前の井戸端は習慣になつてゐるから。 冗談ぢやありません。 私だつて何も洗濯をしにこの世に生れて来たわけぢやないんですよ。 さうかい。 さあ早く脱いで寄こして下さいよ。 代りの下着類はいつさいその押入の中にはひつてゐますから。 風邪をひく。 ぢやあよござんす。 あれ汚い。 ルミやお前も淋しいかい。 さうか。 洗濯をするために生れて来たのではないと言ひやがる。 あれでもまだ色気があると見える。 あなたはどうなの。 おれかおれはさうさな本当の事を言ふために生れて来た。 でもあなたは何も言ひやしないぢやないの。 世の中の人は皆嘘つきだから話を交すのがいやになつたのさ。 みんな嘘ばつかりついてゐる。 さうしてさらに恐ろしい事はその自分の嘘にご自身お気附きになつてゐない。 それは怠け者の言ひのがれよ。 ちよつと学問なんかすると誰でもそんな工合に横着な気取り方をしてみたくなるものらしいのね。 あなたはなんにもしてやしないぢやないの。 寝てゐて人を起こすなかれといふ諺があつたわよ。 人の事など言へるがらぢや無いわ。 それもさうだが。 しかしおれのやうな男もあつていいのだ。 おれは何もしてゐないやうに見えるだらうがまんざらさうでもない。 おれでなくちや出来ない事もある。 おれの生きてゐる間おれの真価の発揮できる時機が来るかどうかわからぬがしかしその時が来たらおれだつて大いに働く。 その時まではまあ沈黙して読書だ。 どうだか。 意気地無しの陰弁慶に限つてよくそんな負け惜しみの気焔を挙げるものだわ。 廃残の御隠居とでもいふのかしらあなたのやうなよぼよぼの御老体はかへらぬ昔の夢を未来の希望と置きかへてさうしてご自身を慰めてゐるんだわ。 お気の毒みたいなものよ。 そんなのは気焔にさへなつてやしない。 変態の愚癡よ。 だつてあなたは何もいい事をしてやしないんだもの。 さう言へばまあそんなものかも知れないが。 しかしおれだつていま立派に実行してゐる事が一つある。 それは何かつて言へば無慾といふ事だ。 言ふは易くして行ふは難いものだよ。 うちのお婆さんなどおれみたいな者ともう十何年も連添うて来たのだからいい加減に世間の慾を捨ててゐるかと思つてゐたらどうもさうでもないらしい。 まだあれで何か色気があるらしいんだね。 それが可笑しくてついひとりで噴き出したやうな次第だ。 色気なんかありませんよ。 おや。 あなたは誰と話をしてゐたのです。 誰か若い娘さんの声がしてゐましたがね。 あのお客さんはどこへいらつしやいました。 お客さんか。 いいえあなたは今たしかに誰かと話をしてゐましたよ。 それも私の悪口をね。 まあどうでせう私にものを言ふ時にはいつも口ごもつて聞きとれないやうな大儀さうな言ひ方ばかりする癖にあの娘さんにはまるで人が変つたみたいにあんな若やいだ声を出してたいへんごきげんさうにおしやべりしていらしたぢやないの。 あなたこそまだ色気がありますよ。 ありすぎてべたべたです。 さうかな。 しかし誰もゐやしない。 からかはないで下さい。 あなたはいつたいこの私を何だと思つていらつしやるのです。 私はずいぶん今までこらへて来ました。 あなたはもうてんで私を馬鹿にしてしまつてゐるのですもの。 そりやもう私は育ちもよくないし学問も無いしあなたのお話相手が出来ないかも知れませんがでもあんまりですわ。 私だつて若い時からあなたのお家へ奉公にあがつてあなたのお世話をさせてもらつてそれがまあこんな事になつてあなたの親御さんもあれならばなかなかしつかり者だしせがれと一緒にさせても――。 嘘ばかり。 おやどこが嘘なのです。 私がどんな嘘をつきました。 だつてさうぢやありませんか。 あの頃あなたの気心を一ばんよく知つてゐたのは私ぢやありませんか。 私でなくちや駄目だつたんです。 だから私が一生あなたのめんだうを見てあげる事になつたんぢやありませんか。 どこがどんな工合ひに嘘なのです。 それを聞かして下さい。 みんな嘘さ。 あの頃のお前の色気つたら無かつたぜ。 それだけさ。 それはいつたいどんな意味です。 私にはわかりやしません。 馬鹿にしないで下さい。 私はあなたの為を思つてあなたと一緒になつたのですよ。 色気も何もありやしません。 あなたもずいぶん下品な事を言ひますね。 ぜんたい私があなたのやうな人と一緒になつたばかりに朝夕どんなに淋しい思ひをしてゐるかあなたはご存じ無いのです。 たまには優しい言葉の一つも掛けてくれるものです。 他の夫婦をごらんなさい。 どんなに貧乏をしてゐても夕食の時などには楽しさうに世間話をして笑ひ合つてゐるぢやありませんか。 私は決して慾張り女ではないんです。 あなたのためならどんな事でも忍んで見せます。 ただ時たまあなたから優しい言葉の一つも掛けてもらへたら私はそれで満足なのですよ。 つまらない事を言ふ。 そらぞらしい。 もういい加減あきらめてゐるかと思つたらまだそんなきまりきつた泣き言を並べて局面転換を計らうとしてゐる。 だめですよ。 お前の言ふ事なんざみんなごまかしだ。 その時々の安易な気分本位だ。 おれをこんな無口な男にさせたのはお前です。 夕食の時の世間話なんてたいていは近所の人の品評ぢやないか。 悪口ぢやないか。 それもれいの安易な気分本位でやたらと人の陰口をきく。 おれはいままでお前が人をほめたのを聞いた事がない。 おれだつて弱い心を持つてゐる。 お前にまきこまれてつい人の品評をしたくなる。 おれにはそれがこはいのだ。 だからもう誰とも口をきくまいと思つた。 お前たちにはひとの悪いところばかり眼について自分自身のおそろしさにまるで気がついてゐないのだからな。 おれはひとがこはい。 わかりました。 あなたは私にあきたのでせう。 こんな婆が鼻について来たのでせう。 私にはわかつてゐますよ。 さつきのお客さんはどうしました。 どこに隠れてゐるのです。 たしかに若い女の声でしたわね。 あんな若いのが出来たら私のやうな婆さんと話をするのがいやになるのももつともです。 なんだい無慾だの何だのと悟り顔なんかしてゐても相手が若い女だとすぐもうわくわくして声まで変つてぺちやくちやとお喋りをはじめるのだからいやになります。 それならそれでよい。 よかありませんよ。 あのお客さんはどこにゐるのです。 私だつて挨拶を申さなければお客さんに失礼ですよ。 かう見えても私はこの家の主婦ですからね挨拶をさせて下さいよ。 あんまり私を蹈みつけにしてはだめです。 これだ。 え。 冗談ぢやない。 雀がものを言ひますか。 言ふ。 しかもなかなか気のきいた事を言ふ。 どこまでもそんなに意地悪く私をからかふのですね。 ぢやあよござんす。 そんな気のきいた事を言はせないやうに舌をむしり取つてしまひませう。 あなたはふだんからどうもこの雀を可愛がりすぎます。 私にはそれがいやらしくて仕様が無かつたんですよ。 ちやうどいい案配だ。 あなたがあの若い女のお客さんを逃がしてしまつたのなら身代りにこの雀の舌を抜きます。 いい気味だ。 可愛さうにたうとう死んでしまつたぢやないの。 なに死にやしない。 気が遠くなつただけだよ。 でもかうしていつまでも雪の上に倒れてゐるとこごえて死んでしまふわよ。 それはさうだ。 どうにかしなくちやいけない。 困つた事になつた。 こんな事にならないうちにあの子が早く出て行つてやればよかつたのに。 いつたいあの子はどうしたのだ。 お照さん。 さう誰かにいたづらされて口に怪我をしたやうだがあれからさつぱりこのへんに姿を見せんぢやないか。 寝てゐるのよ。 舌を抜かれてしまつたのでなんにも言へずただぽろぽろ涙を流して泣いてゐるわよ。 さうか舌を抜かれてしまつたのか。 ひどい悪戯をするやつもあつたものだなあ。 ええそれはねこのひとのおかみさんよ。 悪いおかみさんではないんだけれどあの日は虫のゐどころがへんだつたのでせういきなりお照さんの舌をひきむしつてしまつたの。 お前見てたのかい。 ええおそろしかつたわ。 人間つてあんな工合ひに出し抜けにむごい事をするものなのね。 やきもちだらう。 おれもこのひとの家の事はよく知つてゐるけれどどうもこのひとはおかみさんを馬鹿にしすぎてゐたよ。 おかみさんを可愛がりすぎるのも見ちやをられないものだがあんなに無愛想なのもよろしくない。 それをまたお照さんはいいことにしていやにこの旦那といちやついてゐたからね。 まあみんな悪い。 ほつて置け。 あらあなたこそやきもちを焼いてゐるんぢやない。 あなたはお照さんを好きだつたのでせう。 隠したつてだめよ。 この大竹藪で一ばんの美声家はお照さんだつていつか溜息をついて言つてたぢやないの。 やきもちを焼くなんてそんな下品な事をするおれではない。 がしかし少くともお前よりはお照のはうが声が佳くてしかも美人だ。 ひどいわ。 喧嘩はおよしつまらない。 それよりもこのひとをいつたいどうするの。 ほつて置いたら死にますよ。 可哀想に。 どんなにお照さんに逢ひたいのか毎日毎日この竹藪を捜して歩いてさうしてたうとうこんな有様になつてしまつて気の毒ぢやないの。 このひとはきつと実のあるひとだわ。 なにばかだよ。 いいとしをして雀の子のあとを追ひ廻すなんて呆れたばかだよ。 そんな事を言はないでね逢はしてあげませうよ。 お照さんだつてこのひとに逢ひたがつてゐるらしいわ。 でももう舌を抜かれて口がきけないのだからねえこのひとがお照さんを捜してゐるといふ事を言つて聞かせてあげても藪のあの奥で寝たままぽろぽろ涙を流してゐるばかりなのよ。 このひとも可哀想だけれどもお照さんだつてそりや可哀想よ。 ねあたしたちの力で何とかしてあげませうよ。 おれはいやだ。 おれはどうも色恋の沙汰には同情を持てないたちでねえ。 色恋ぢやないわ。 あなたにはわからない。 ねみなさん何とかして逢はせてあげたいものだわねえ。 こんな事は理窟ぢやないんですもの。 さうともさうとも。 おれが引受けた。 なにわけはない。 神さまにたのむんだ。 理窟抜きでなんとかして他の者のために尽してやりたいと思つた時には神さまにたのむのが一ばんいいのだ。 おれのおやぢがいつかさう言つて教へてくれた。 そんな時には神さまはどんな事でも叶へて下さるさうだ。 まあみんなちよつとここで待つてゐてくれ。 おれはこれから鎮守の森の神さまにたのんで来るから。 あらおめざめ。 ああ。 ここはどこだらう。 すずめのお宿。 さう。 お前はそれではあの舌切雀。 いいえお照さんは奥の間で寝てゐます。 私はお鈴。 お照さんとは一ばんの仲良し。 さうか。 それではあの舌を抜かれた小雀の名はお照といふの。 ええとても優しいいいかたよ。 早く逢つておあげなさい。 可哀想に口がきけなくなつて毎日ぽろぽろ涙を流して泣いてゐます。 逢ひませう。 どこに寝てゐるのですか。 ご案内します。 ここですおはひり下さい。 ごゆつくり。 いかが。 いやもうたくさん。 しかしこれはよいお酒だ。 お気に召しましたか。 笹の露です。 よすぎる。 え。 よすぎる。 あらお照さんが笑つてゐるわ。 何か言ひたいのでせうけれど。 言へなくたつていいのさ。 さうだね。 さそれでは失礼しよう。 また来る。 まあもうお帰りになるの。 こごえて死にさうになるまで竹藪の中を捜し歩いていらしてやつとけふ逢へたくせに優しいお見舞ひの言葉一つかけるではなし――。 優しい言葉だけはごめんだ。 お照さんいいの。 おかへししても。 どつちもどつちだわね。 それぢやあまたどうぞいらして下さいね。 来ます。 ここはどこだね。 竹藪の中です。 はて。 竹籔の中にこんな妙な家があつたかしら。 あるんです。 でも普通のひとには見えないんです。 竹藪のあの入口のところでけさのやうに雪の上に俯伏していらしたら私たちはいつでもここへご案内いたしますわ。 それはありがたい。 せつかくおいで下さつてもおもてなしも出来なくて恥かしう存じます。 せめて雀の里のお土産のおしるしにこの葛籠のうちどれでもお気に召したものをお邪魔でございませうがお持ち帰り下さいまし。 要らないよそんなもの。 おれの履物はどこにあります。 困りますわ。 どれか一つ持つて帰つて下さいよ。 あとで私はお照さんに怒られます。 怒りやしない。 あの子は決して怒りやしない。 おれは知つてゐる。 ところで履物はどこにあります。 きたない藁靴をはいて来た筈だが。 捨てちやひました。 はだしでお帰りになるといいわ。 それはひどい。 それぢや何か一つお土産を持つてお帰りになつてよ。 後生お願ひ。 みんな大きい。 大きすぎる。 おれは荷物を持つて歩くのはきらひです。 ふところにはひるくらゐの小さいお土産はありませんか。 そんなご無理をおつしやつたつて――。 そんなら帰る。 はだしでもかまはない。 荷物はごめんだ。 ちよつと待つてねちよつと。 お照さんに聞いて来るわ。 はいこれはお照さんの簪。 お照さんを忘れないでね。 またいらつしやい。 おやそれは何です。 稲の穂。 稲の穂。 いまどき珍らしいぢやありませんか。 どこから拾つて来たのです。 拾つて来たのぢやない。 をかしいぢやありませんか。 このごろ毎日竹藪の中をうろついてぼんやり帰つて来てけふはまた何だかいやに嬉しさうな顔をしてそんなものを持ち帰りもつたい振つて筆立に挿したりなんかしてあなたは何か私に隠してゐますね。 拾つたのでなければどうしたのです。 ちやんと教へて下さつたつていいぢやありませんか。 雀の里からもらつて来た。 まあそんな事本気であなたは言つてゐるのですか。 そんな出鱈目をこの私が信じると思つておいでなのですか。 嘘にきまつてゐますさ。 私は知つてゐますよ。 こなひだからさうこなひだほらあの若い娘のお客さんが来た頃からあなたはまるで違ふ人になつてしまひました。 妙にそはそはしてさうして溜息ばかりついてまるでそれこそ恋のやつこみたいです。 みつともない。 いいとしをしてさ。 隠したつて駄目ですよ。 私にはわかつてゐるのですから。 いつたいその娘はどこに住んでゐるのです。 まさか藪の中ではないでせう。 私はだまされませんよ。 藪の中に小さいお家があつてそこにお人形みたいな可愛い娘さんがゐてうつふそんな子供だましのやうな事を言つてごまかさうたつて駄目ですよ。 もしそれが本当ならばこんどいらした時にそのお土産の葛籠とかいふものでも一つ持つて来て見せて下さいな。 出来ないでせう。 どうせ作りごとなんだから。 その不思議な宿の大きい葛籠でも背負つて来て下さつたらそれを証拠に私だつて本当にしないものでもないがそんな稲の穂などを持つて来てそのお人形さんの簪だなんてよくもまあそのやうなばからしい出鱈目が言へたもんだ。 男らしくあつさり白状なさいよ。 私だつてわけのわからぬ女ではないつもりです。 なんのお妾さんの一人や二人。 おれは荷物はいやだ。 おやさうですか。 それでは私が代りにまゐりませうか。 どうですか。 竹藪の入口で俯伏して居ればいいのでせう。 私がまゐりませう。 それでもいいのですか。 あなたは困りませんか。 行くがいい。 まあ図々しい。 嘘にきまつてゐるのに行くがいいなんて。 それでは本当に私はやつてみますよ。 いいのですか。 どうやら葛籠がほしいやうだね。 ええさうですともさうですとも私はどうせ慾張りですからね。 そのお土産がほしいのですよ。 それではこれからちよつと出掛けてお土産の葛籠の中でも一ばん重い大きいやつを貰つて来ませう。 おほほ。 ばからしいが行つて来ませう。 私はあなたのその取り澄したみたいな顔つきが憎らしくて仕様が無いんです。 いまにその贋聖者のつらの皮をひんむいてごらんにいれます。 雪の上に俯伏して居れば雀のお宿に行けるなんてあははは馬鹿な事だがでもどれそれではひとつお言葉に従つてちよつと行つてまゐりませうか。 あとであれは嘘だなどと言つてもききませんよ。 いや女房のおかげです。 あれには苦労をかけました。 ぼくさ。 弟の影繪。 秋の夜。 もし戰爭が起つたなら。 好奇心。 山中鹿之助。 鳩の家。 かつぽれ。 鳩の家。 かつぽれ。 鳩の家。 牛盜人。 皿屋敷。 俊徳丸。 奪ひ合ひ。 奪ひ合ひ。 あざみ草。 むかしむかしそのむかし。 あれは紀のくにみかんぶね。 けだものの機械。 美貌の友。 どこへ行って何をするにしても親という二字だけは忘れないでくれよ。 チャンや。 親という字は一字だよ。 うんまあ仮りに一字が三字であってもさ。 パンドラの匣。 ちょっと旦那書いてくれや。 書いてくれや。 いくら。 四拾円。 竹内トキさん。 あい。 竹内トキさん。 四拾円。 御本人ですか。 そうでごいせん。 娘です。 あい。 わしの末娘でごいす。 なるべくなら御本人をよこして下さい。 御本人はあの世へ行ったでごいす。 旦那。 書いてくれや。 いくら。 四拾円。 象の夢でも見ていたのでごいしょうか。 ばかな夢を見るもんでごいす。 けえっ。 増産が来た。 まったくですよ。 クソ真面目な色男気取りの議論が国をほろぼしたんです。 気の弱いはにかみ屋ばかりだったらこんな事にまでなりやしなかったんだ。 竹内トキさん。 あい。 旦那。 きょうはうけ出しの紙は要らないんでごいす。 入金でごいす。 娘の保険がさがりましてやっぱり娘の名儀でこんにち入金のつもりでごいす。 それは結構でした。 きょうは僕のほうがうけ出しなんです。 このウィスキイにはね二十六歳の処女のいのちが溶け込んでいるんだよ。 これを飲むと僕の小説にもめっきり艶っぽさが出て来るという事になるかも知れない。 ウソウソ。 お父さんはまたてれ隠しの作り話をおっしゃってる。 ねえ坊や。 あの鴎外先生のおっしゃいますることには。 勉強いたして居ります。 勉強いたして居ります。 勉強いたして居ります。 面白い面白い。 勉強いたして居ります。 智慧ある人。 どれ書見なといたそうか。 玉を懐いて罪あり。 悪因縁。 地震。 親切。 埋木。 アルフォンス・ド・ステルニイ氏は十一月にブルクセルに来て自ら新曲悪魔の合奏を指揮すべし。 父。 黄金杯。 一人者の死。 いつの日か君帰ります。 玉を懐いて罪あり。 労働。 地震。 地震の一篇は尺幅の間に無限の煙波を収めたる千古の傑作なり。 女の決闘。 新居。 書見いたそうか。 女の決闘。 塔の上の鶏。 女の決闘。 蛙。 どうしても分らない。 御垂教を得れば幸甚である。 あなたの御関係なすってお出でになる男の事を或る偶然の機会で承知しました。 その手続はどうでも好いことだから申しません。 わたくしはその男の妻だと只今まで思っていた女です。 わたくしはあなたの人柄を推察してこう思います。 あなたは決して自分のなすった事の成行がどうなろうとその成行のために前になすった事の責を負わない方ではありますまい。 又あなたは御自分に対して侮辱を加えた事の無い第三者を侮辱して置きながらその責を逃れようとなさる方でも決してありますまい。 わたくしはあなたがたびたび拳銃で射撃をなさる事を承っています。 わたくしはこれまで武器と云うものを手にした事がありませんからあなたのお腕前がどれだけあろうとも拳銃射撃はわたくしよりあなたの方がお上手だと信じます。 だからわたくしはあなたに要求します。 それは明日午前十時に下に書き記してある停車場へ拳銃御持参でお出で下されたいと申す事です。 この要求を致しますのにわたくしの方で対等以上の利益を有しているとは申されません。 わたくしも立会人を連れて参りませんからあなたもお連れにならないように希望いたします。 序でながら申しますがこの事件に就いて前|以て問題の男に打明ける必要は無いと信じます。 その男にはわたくしが好い加減な事を申して今明日の間遠方に参っていさせるように致しました。 その下に書いた苗字を読める位に消してある。 なま。 この位稽古しましたらそろそろ人間の猟をしに出掛けられますでしょうね。 冷淡さ。 そっけなさ。 目前の事実。 女の決闘。 女の決闘。 ロシヤの医科大学の女学生が或晩の事何の学科やらの。 女の決闘。 女の決闘。 尊敬しているからこそ甘えて失礼もするのだ。 私はあの人を愛していない。 あなたはほんとに愛しているの。 どうしたの。 見つかった感づかれた。 あなたよりはあなたの奥さんの方がきっぱりして居るようです。 私に決闘を申込んで来ました。 そうかやっぱりそうか。 あいつはそんな無茶なことをやらかしておれの声名に傷つけ心からの復讐をしようとしている。 変だと思っていたのだ。 ゆうべおれにいつにないやさしい口調であなたも今月はずいぶんお仕事をなさいましたし気休めにどこか田舎へ遊びにいらっしゃい。 お金も今月はどっさり余分にございます。 あなたのお疲れのお顔を見ると私までなんだか苦しくなります。 この頃私にも少しずつ芸術家の辛苦というものがわかりかけてまいりました。 とそんなことをぬかすのでおれもははあこれは何かあるなと感づき何食わぬ顔してそれに同意し今朝旅行に出たふりしてまた引返し家の中庭の隅にしゃがんで看視していたのだ。 夕方あいつは家を出て何時何処で誰から聞いて知っていたのかお前のこの下宿へ真直にやって来ておかみと何やら話していたがやがて出て来てこんどは下町へ出かけある店の飾り窓の前にひたと吸いついて動かなんだ。 その飾り窓には野鴨の剥製やら鹿の角やらいたちの毛皮などあり私は遠くから見ていたのであるがはじめは何の店やら判断がつかなかった。 そのうちにあいつはすっと店の中へ入ってしまったので私も安心してその店に近づいて見ることが出来たのだがなんと驚いたいや驚いたというのは嘘でああそうかというような合点の気持だったのかな。 野鴨の剥製やら鹿の角やらいたちの毛皮に飾られて十数挺の猟銃が黒い銃身を鈍く光らせて飾り窓の下に沈んで横になっていた。 拳銃もある。 私には皆わかるのだ。 人生がこのような黒い銃身の光とじかに結びつくなどはふだんはとても考えられぬことであるがその時の私のうつろな絶望の胸にはとてもリリカルにしみて来たのだ。 銃身の黒い光はこれはいのちの最後の詩だと思った。 パアンと店の裏で拳銃の音がする。 つづいて又一発。 私は危く涙を落しそうになった。 そっと店の扉を開け内を窺っても店はがらんとして誰もいない。 私は入った。 相続く銃声をたよりにずんずん奥へすすんだ。 みると薄暮の中庭で女房と店の主人が並んで立って今しも女房が主人に教えられ最初の一発を的に向ってぶっ放すところであった。 女房の拳銃は火を放った。 けれども弾丸は三歩程前の地面に当りはじかれて窓に当った。 窓ガラスはがらがらと鳴ってこわれどこか屋根の上に隠れて止っていた一群の鳩が驚いて飛立ってたださえ暗い中庭をさっと一層暗くした。 私は再び涙ぐむのを覚えた。 あの涙は何だろう。 憎悪の涙か恐怖の涙か。 いやいやひょっとしたら女房への不憫さの涙であったかも知れないね。 とにかくこれでわかった。 あれはそんな女だ。 いつでも冷たく忍従してそのくせやるとなったら世間を顧慮せずやりのける。 ああおれはそれを頼もしい性格と思ったことさえある。 芋の煮付が上手でね。 今は危い。 お前さんが殺される。 おれの生れてはじめての恋人が殺される。 もうこれが私の生涯で唯一の女になるだろうその大事な人をその人をあれがいま殺そうとしている。 おれはそこまで見届けていまお前さんのとこへ駈込んで来た。 お前は――。 それは御苦労さまでした。 生れてはじめての恋人だの唯一の宝だのそれは一体なんのことです。 所詮はあなた芸術家としてのひとり合点ひとりでほくほく享楽しているだけのことではないの。 気障だねえ。 お止しなさい。 私はあなたを愛していない。 あなたはどだい美しくないもの。 私が少しでもあなたに関心を持っているとしたらそれはあなたの特異な職業に対してであります。 市民を嘲って芸術を売ってそうして市民と同じ生活をしているというのはなんだか私には不思議な生物のように思われ私はそれを探求してみたかったというまあ理窟を言えばそうなるのですがでも結局なんにもならなかった。 なんにも無いのね。 めちゃめちゃだけが在るのね。 私は科学者ですから不可解なものわからないものには惹かれるの。 それを知り極めないと死んでしまうような心細さを覚えます。 だから私はあなたに惹かれた。 私には芸術がわからない。 私には芸術家がわからない。 何かあると思っていたの。 あなたを愛していたんじゃないわ。 私は今こそ芸術家というものを知りました。 芸術家というものは弱いてんでなっちゃいない大きな低能児ね。 それだけのものつまり智能の未発育ないくら年とってもそれ以上は発育しない不具者なのね。 純粋とは白痴のことなの。 無垢とは泣虫のことなの。 あああ何をまたそんな蒼い顔をして私を見つめるの。 いやだ。 帰って下さい。 あなたは頼りにならないお人だ。 いまそれがわかった。 驚いて度を失いただうろうろして見せるだけでそれが芸術家の純粋な所以なのですか。 おそれいりました。 どうとも勝手に。 さきほどは御免なさい。 大きな白痴。 あした決闘を見においで。 私が奥さんを殺してあげる。 いやならあなたのお家にじっとひそんで奥さんのお帰りを待っていなさい。 見に来なければ奥さんを無事に帰してあげるわよ。 えなんだって。 わけの分らんことをお前さんは言ったね。 あさましい。 理性を失った女性の姿はどうしてこんなに動物の臭いがするのだろう。 汚い。 下等だ。 毛虫だ。 助けまい。 あの男を撃つより先にやはりこの女と私は憎しみをもって勝敗を決しよう。 あの男が此所へ来ているかどうか私は知らない。 見えないようだ。 どうでもよい。 いまは目前のこのあさはかな取乱した下等な雌馬だけが問題だ。 お互に六発ずつ打つ事にしましょうね。 あなたがお先へお打ちなさい。 ようございます。 女の決闘。 愛します。 恋情。 虚栄。 今血が出てしまって死ぬるのだ。 これで敵を討った。 復讐と云うものはこんなに苦い味のものか知ら。 あのどうぞわたくしを縛って下さいましわたくしは決闘を致しまして人を一人殺しました。 それを聞いて役場の書記二人はこれまで話に聞いた事も無い出来事なので女房の顔を見て微笑んだ。 少し取り乱しているが上流の奥さんらしく見える人が変な事を言うと思ったのである。 書記等は多分これはどこかから逃げて来た女気違だろうと思った。 女房は是非縛って貰いたいと云って相手を殺したと云う場所を精しく話した。 それから人を遣って調べさせて見ると相手の女学生はおおよそ一時間前に頸の銃創から出血して死んだものらしかった。 それから二本の白樺の木の下の寂しい所に物を言わぬ証拠人として拳銃が二つ棄ててあるのを見出した。 拳銃は二つ共込めただけの弾丸を皆打ってしまってあった。 そうして見ると女房の持っていた拳銃の最後の一弾が気まぐれに相手の体に中ろうと思ってとうとうその強情を張り通したものと見える。 女房は是非この儘抑留して置いて貰いたいと請求した。 役場ではその決闘と云うものが正当な決闘であったなら女房の受ける処分は禁獄に過ぎぬから別に名誉を損ずるものではないと説明して聞かせたけれど女房は飽くまで留めて置いて貰おうとした。 女房は自分の名誉を保存しようとは思っておらぬらしい。 たったさっきまでその名誉のために一命を賭したのでありながら今はその名誉を有している生活と云うものがそこに住う事もそこで呼吸をする事も出来ぬ雰囲気の無い空間になったようにどこへか押し除けられてしまったように思われるらしい。 丁度死んでしまったものがもう用が無くなったのでこれまで骨を折って覚えた言語その外の一切の物を忘れてしまうように女房は過去の生活を忘れてしまったものらしい。 女房は市へ護送せられて予審に掛かった。 そこで未決檻に入れられてから女房は監獄長や判事や警察医や僧侶に繰り返して切に頼み込んでこれまで夫としていた男に衝き合せずに置いて貰う事にした。 そればかりでは無い。 その男の面会に来ぬようにして貰った。 それから色色な秘密らしい口供をしたり又わざと矛盾する口供をしたりして予審を二三週間長引かせた。 その口供が故意にしたのであったと云う事は後になって分かった。 或る夕方女房は檻房の床の上に倒れて死んでいた。 それを見附けて女の押丁が抱いて寝台の上に寝かした。 その時女房の体が着物だけの目方しかないのに驚いた。 女房は小鳥が羽の生えた儘で死ぬようにその着物を着た儘で死んだのである。 跡から取調べたり周囲の人を訊問して見たりすると女房は檻房に入れられてから絶食して死んだのであった。 渡された食物を食わぬと思われたり又無理に食わせられたりすまいと思って人の見る前では呑み込んで直ぐそれを吐き出したこともあったらしい。 丁度相手の女学生が頸の創から血を出して萎びて死んだように絶食して次第に体を萎びさせて死んだのである。 女の決闘。 小鳥が羽の生えた儘で死ぬようにその着物を着た儘で死んだのである。 法師の結婚。 いいえ私はどちらも生きてくれと念じていました。 どちらも生きてくれと念じていました。 どちらも生きてくれと念じていました。 よろしい信頼しましょう。 事実。 真実。 芸術家。 醜いものだけを正体として信じ美しい願望も人間には在るということを忘れているのは間違いであります。 先日お出でになった時大層御尊信なすってお出での様子でお話になったあのイエス・クリストのお名に掛けてお願致します。 どうぞ二度とお尋下さいますな。 わたくしの申す事を御信用下さい。 わたくしの考では若しイエスがまだ生きてお出でなされたならあなたがわたくしの所へお出でなさるのをお遮りなさる事でしょう。 昔天国の門に立たせて置かれたあの天使のようにイエスは燃える抜身を手にお持になってわたくしのいる檻房へ這入ろうとする人をお留なさると存じます。 わたくしはこの檻房からわたくしの逃げ出して来た元の天国へ帰りたくありません。 よしや天使が薔薇の綱をわたくしの体に巻いて引入れようとしたとてわたくしは帰ろうとは思いません。 なぜと申しますのにわたくしがそこで流した血は決闘でわたくしの殺したあの女学生の創から流れて出た血のようにもう元へは帰らぬのでございます。 わたくしはもう人の妻でも無ければ人の母でもありません。 もうそんなものには決してなられません。 永遠になられません。 ほんにこの永遠と云うたっぷり涙を含んだ二字をあなた方どなたでも理解して尊敬して下されば好いと存じます。 わたくしはあの陰気な中庭に入り込んで生れてから初めて拳銃と云うものを打って見ました時自分が死ぬる覚悟で致しましてそれと同時に自分の狙っている的は即ち自分の心の臓だと云う事が分かりました。 それから一発一発と打つたびにわたくしは自分で自分を引き裂くような愉快を味いました。 この心の臓はもとは夫や子供の側でセコンドのように打っていて時を過ごして来たものでございます。 それが今は数知れぬ弾丸に打ち抜かれています。 こんなになった心の臓をどうして元の場所へ持って行かれましょう。 よしやあなたが主御自身であってもわたくしを元へお帰しなさる事はお出来になりますまい。 神様でも鳥よ虫になれとは仰ゃる事が出来ますまい。 先にその鳥の命をお断ちになってからでもそう仰ゃる事は出来ますまい。 わたくしを生きながら元の道へお帰らせなさることのお出来にならないのも同じ道理でございます。 幾らあなたでも人間のお詞でそんな事を出来そうとは思召しますまい。 わたくしはあなたの教で禁じてある程自分の意志の儘に進んで参って跡を振り返っても見ませんでした。 それはわたくし好く存じています。 併しどなただってわたくしにお前の愛しようは違うから別な愛しようをしろと仰ゃる事は出来ますまい。 あなたの心の臓はわたくしの胸には嵌まりますまい。 又わたくしのはあなたのお胸には嵌まりますまい。 あなたはわたくしを謙遜を知らぬ我慾の強いものだと仰ゃるかも知れませんがそれと同じ権利でわたくしはあなたを気の狭い卑屈な方だと申す事も出来ましょう。 あなたの尺度でわたくしをお測りになってその尺度が足らぬからと言ってわたくしを度はずれだと仰ゃる訳には行きますまい。 あなたとわたくしとの間には対等の決闘は成り立ちません。 お互に手に持っている武器が違います。 どうぞもうわたくしの所へ御出で下さいますな。 切にお断申します。 わたくしの為には自分の恋愛が丁度自分の身を包んでいる皮のようなものでございました。 若しその皮の上に一寸した染が出来るとか一寸した創が付くとかしますとわたくしはどんなにしてでもそれを癒やしてしまわずには置かれませんでした。 わたくしはその恋愛が非常に傷けられたと存じました時その為に長煩いで腐って行くように死なずに意識して真っ直ぐに立った儘で死のうと思いました。 わたくしは相手の女学生の手で殺して貰おうと思いました。 そうしてわたくしの恋愛を潔く公然と相手に奪われてしまおうと存じました。 それが反対になってわたくしが勝ってしまいました時わたくしは唯名誉を救っただけで恋愛を救う事が出来なかったのに気が付きました。 総ての不治の創の通りに恋愛の創も死ななくては癒えません。 それはどの恋愛でも傷けられると恋愛の神が侮辱せられてその報いに犠牲を求めるからでございます。 決闘の結果は予期とは相違していましたが兎に角わたくしは自分の恋愛を相手に渡すのに身を屈めて余儀なくせられて渡すのでは無く名誉を以て渡そうとしたのだと云うだけの誇を持っています。 どうぞ聖者の毫光を御尊敬なさると同じお心持で勝利を得たものの額の月桂冠を御尊敬なすって下さいまし。 どうぞわたくしの心の臓をお労わりなすって下さいまし。 あなたの御尊信なさる神様と同じようにわたくしを大胆に偉大に死なせて下さいまし。 わたくしは自分の致した事を一人で神様の前へ持って参ろうと存じます。 名誉ある人妻として持って参ろうと存じます。 わたくしは十字架に釘付けにせられたように自分の恋愛に釘付けにせられて数多の創から血を流しています。 こんな恋愛がこの世界でこの世界にいる人妻のために正当な恋愛でありましたかどうでしたかそれはこれから先の第三期の生活に入ったなら分かるだろうと存じます。 わたくしがこの世に生れる前と生れてからとで経験しました第一期第二期の生活ではそれが教えられずにしまいました。 精神。 勉強。 女音。 わたくしは女でございます。 そもそも女というものは。 卓に向いその時たまたま記憶に甦って来た曾遊のスコットランドの風景を偲ぶ詩を二三行書くともなく書きとどめ新刊の書物の数頁を読むともなく読み終ると『いやに胸騒ぎがするな』と呟きながら小机の抽斗から拳銃を取り出したが傍のソファに悠然と腰を卸してから胸に銃口を当てて引金を引いた。 女の決闘。 尊敬して居ればこそ安心して甘えるのだ。 小説。 小説。 女の決闘。 あなたならこの女房になんと答えますか。 この牧師さんはたいへん軽蔑されてやっつけられているようですがこれはこれでいいのでしょうか。 あなたはこの遺書をどう思います。 女は恋をすればそれっきりです。 ただ見ているより他はありません。 狐には穴あり鳥には塒されども人の子には枕するところ無し。 おまえにもお世話になるね。 おまえの寂しさはわかっている。 けれどもそんなにいつも不機嫌な顔をしていてはいけない。 寂しいときに寂しそうな面容をするのはそれは偽善者のすることなのだ。 寂しさを人にわかって貰おうとしてことさらに顔色を変えて見せているだけなのだ。 まことに神を信じているならばおまえは寂しい時でも素知らぬ振りして顔を綺麗に洗い頭に膏を塗り微笑んでいなさるがよい。 わからないかね。 寂しさを人にわかって貰わなくてもどこか眼に見えないところにいるお前の誠の父だけがわかっていて下さったならそれでよいではないか。 そうではないかね。 寂しさは誰にだって在るのだよ。 ペテロやシモンは漁人だ。 美しい桃の畠も無い。 ヤコブもヨハネも赤貧の漁人だ。 あのひとたちにはそんな一生を安楽に暮せるような土地がどこにも無いのだ。 この女を叱ってはいけない。 この女のひとは大変いいことをしてくれたのだ。 貧しい人にお金を施すのはおまえたちにはこれからあとあといくらでも出来ることではないか。 私にはもう施しが出来なくなっているのだ。 そのわけは言うまい。 この女のひとだけは知っている。 この女が私のからだに香油を注いだのは私の葬いの備えをしてくれたのだ。 おまえたちも覚えて置くがよい。 全世界どこの土地でも私の短い一生を言い伝えられる処には必ずこの女の今日の仕草も記念として語り伝えられるであろう。 シオンの娘よ懼るな視よなんじの王は驢馬の子に乗りて来り給う。 ダビデの子にホサナ讃むべきかな主の御名によりて来る者いと高き処にてホサナ。 おまえたちみな出て失せろ私の父の家を商いの家にしてはならぬ。 おまえたちこの宮をこわしてしまえ私は三日の間にまた建て直してあげるから。 禍害なるかな偽善なる学者パリサイ人よ汝らは酒杯と皿との外を潔くす然れども内は貪慾と放縦とにて満つるなり。 禍害なるかな偽善なる学者パリサイ人よ汝らは白く塗りたる墓に似たり外は美しく見ゆれども内は死人の骨とさまざまの穢とに満つ。 斯のごとく汝らも外は正しく見ゆれども内は偽善と不法とにて満つるなり。 蛇よ蝮の裔よなんじら争でゲヘナの刑罰を避け得んや。 ああエルサレムエルサレム予言者たちを殺し遣されたる人々を石にて撃つ者よ牝鶏のその雛を翼の下に集むるごとく我なんじの子らを集めんと為しこと幾度ぞや然れど汝らは好まざりき。 ああ私のすることはおまえにはわかるまい。 あとで思い当ることもあるだろう。 私がもしおまえの足を洗わないならおまえと私とはもう何の関係も無いことになるのだ。 ペテロよ足だけ洗えばもうそれでおまえの全身は潔いのだああおまえだけでなくヤコブもヨハネもみんな汚れの無い潔いからだになったのだ。 けれども。 みんなが潔ければいいのだが。 私がおまえたちの足を洗ってやったわけを知っているか。 おまえたちは私を主と称えまた師と称えているようだがそれは間違いないことだ。 私はおまえたちの主または師なのにそれでもなおおまえたちの足を洗ってやったのだからおまえたちもこれからは互いに仲好く足を洗い合ってやるように心がけなければなるまい。 私はおまえたちといつ迄も一緒にいることが出来ないかも知れぬからいまこの機会におまえたちに模範を示してやったのだ。 私のやったとおりにおまえたちも行うように心がけなければならぬ。 師は必ず弟子より優れたものなのだからよく私の言うことを聞いて忘れぬようになさい。 おまえたちのうちの一人が私を売る。 私がいまその人に一つまみのパンを与えます。 その人はずいぶん不仕合せな男なのです。 ほんとうにその人は生れて来なかったほうがよかった。 お父さ。 おどさ。 おどさ。 おどさ。 おどさ。 行ってもすぐ帰って来るのでは意味がないそれからどんな事があっても阿片だけは吸わないように。 大隅さんのお嫁さんが見つかりました。 大丈夫ですか。 大隅君はあれでなかなかむずかしいのですよ。 写真を北京へ送ってやったのです。 すると大隅さんから是非という御返事がまいりました。 いやこれはお見せ出来ません。 大隅さんに悪いような気がします。 少し感傷的なあまい事なども書かれてありますから。 まあ御推察を願います。 それはよかった。 まとめてやったらどうですか。 僕ひとりでは駄目です。 あなたにも御助力ねがいたい。 きょうこれから先方へ申込みに行こうと思っているのですがあなたのところに大隅さんの最近の写真がありませんか。 先方に見せなければいけません。 最近は大隅君からあまり便りがないのですが三年ほど前に北京から送って寄こした写真なら一二枚あったと思います。 これはいい。 髪の毛も濃くなったようですね。 でも光線の加減でそんなに濃く写ったのかも知れませんよ。 いやそんな事はない。 このごろいい薬が発明されたそうですからね。 イタリヤ製のいい薬があるそうです。 北京で彼はそのイタリヤ製をひそかに用いたのかも知れない。 小坂です。 これは。 僕のほうからお伺いしなければならなかったのに。 いや。 どうも。 これは。 さあ。 まあ。 どうぞ。 大隅君からこんな電報がまいりましてね。 ○オクッタとありますがこの○というのは百円の事です。 これを結納金としてあなたのほうへ差上げよという意味らしいのですが何せどうも突然の事で何が何やら。 ごもっともでございます。 山田さんが郷里へお帰りになりましたので私共も心細く存じておりましたところ昨年の暮に大隅さんから直接私どものほうへお便りがございましていろいろ都合もあるから式は来年の四月まで待ってもらいたいという事で私共もそれを信じて今まで待っておりましたようなわけでございます。 そうですか。 それはさぞ御心配だったでしょう。 でも大隅君だって決して無責任な男じゃございませんから。 はい。 存じております。 山田さんもそれは保証していらっしゃいました。 僕だって保証いたします。 いや。 ちょっと。 あ。 これは。 さあどうぞ。 このたびはまことに――。 幾久しゅうお願い申上げます。 はじめてお目にかかります。 正子の姉でございます。 は幾久しゅうお願い申上げます。 末永くお願い申します。 やおめでとう。 よろしく願います。 さひとつ。 あいにくどうもお相手を申上げる者がいないので。 ――私も若い時には大酒を飲んだものですがいまはもうさっぱり駄目になりました。 失礼ですがおいくつで。 九でございます。 五十。 いいえ六十九で。 それはお達者です。 先日はじめてお目にかかった時からそう思っていたのですが御士族でいらっしゃるのではございませんか。 おそれいります。 会津の藩士でございます。 剣術などもお幼い頃から。 いいえ。 父にはなんにも出来やしません。 おじいさまは槍の――。 槍。 さどうぞ。 おいしいものは何もございませんがどうぞお箸をおつけになって下さい。 それお酌をせんかい。 しっかりひとつ召し上って下さい。 さどうぞしっかり。 あのお写真は。 どなたです。 あら。 きょうははずして置けばよかったのに。 こんなおめでたい席に。 まあいい。 長女の婿でございます。 おなくなりに。 ええでも。 決してお気になさらないで下さい。 そりゃもう皆さまがもったいないほど――。 兄さんがいらっしゃったらきょうはどんなにお喜びだったでしょうね。 あいにく私のところも出張中で。 御出張。 ええもう長いんですの。 私の事も子供の事もちっとも心配していない様子でただお庭の植木の事ばっかり言って寄こします。 あれは庭木が好きだから。 どうぞビイルをしっかり。 瀬川さんだったら大隅君にも不服は無い筈です。 けれども瀬川さんはなかなか気むずかしいお方ですから引受けて下さるかどうかとにかくきょうこれから私が先生のお宅へお伺いして懇願してみましょう。 ありがとうございます。 何せお嫁さんのおじいさんは槍の名人だそうですからね大隅君だって油断は出来ません。 そこのところを先生から大隅君によく注意してやったほうがいいと思います。 あいつはどうものんき過ぎますから。 それは心配ないだろう。 武家の娘はかえって男を敬うものだ。 それよりもどうだろう。 大隅の頭はだいぶ禿げ上っていたようだが。 たぶん大丈夫だろうと思います。 北京から送られて来た写真を見ましたがあれ以上進捗していないようです。 なんでもいまはイタリヤ製のいい薬があるそうですしそれに先方の小坂吉之助氏だってずいぶん見事な――。 それはとしとってから禿げるのは当りまえの事だが。 おめでとう。 やあこのたびは御苦労。 どてらに着換えたら。 うむ拝借しよう。 ついでに君新しいパンツが無いか。 しかし東京はのんきだな。 そうかね。 のんきだ。 北京はこんなもんじゃないぜ。 緊張の足りないところもあるだろうねえ。 ある。 酒だってあるし。 お料理だってこんなにたくさん出来るじゃないか。 君たちはめぐまれ過ぎているんだ。 疲れたろう。 寝ないか。 ああ寝よう。 夕刊を枕頭に置いてくれ。 君はめっきり尻の軽い男になったな。 鬚を剃らないか。 そんな必要も無いだろう。 きょうはでも小坂さんの家へ行くんだろう。 うむ行って見ようか。 なかなかの美人のようだぜ。 君が見ないさきに僕が拝見するのは失礼だと思ったからほんのちらと瞥見したばかりだがでも桜の花のような印象を受けた。 君は女にはあまいからな。 立派な家庭だぜ。 縁談などの時にはたいてい自分の地位やら財産やらをほのめかしたがるものらしいが小坂のお父さんはそんな事は一言もおっしゃらなかった。 ただ君を信じると言っていた。 武士だからな。 それだから僕だってわざわざ北京から出かけて来たんだ。 そうでもなくっちゃあ――。 何しろ名誉の家だからな。 名誉の家。 長女の婿は三四年前に北支で戦死家族はいま小坂の家に住んでいる筈だ。 次女の婿はこれは小坂の養子らしいが早くから出征していまは南方に活躍中とか聞いていたが君は知らなかったのかい。 そうかあ。 一ばん大事のことじゃないか。 どうしてそれを知らせてくれなかったんだ。 僕は大恥をかいたよ。 どうだっていいさ。 よかないよ。 大事なことだ。 山田君も山田君だ。 そんな大事なことを一言も僕に教えてくれなかったというのは不親切だ。 僕はこんどの世話はごめんこうむる。 僕はもう小坂さんの家へは顔出しできない。 君がきょう行くんだったらひとりで行けよ。 僕はもういやだ。 君がひとりで行ったらいいだろう。 僕には他に用事もあるんだ。 どうもあいつはいけません。 結婚に感激を持っていません。 てんで問題にしていないんです。 ただもうやたらに天下国家ばかり論じてそうして私を叱るのです。 そんな事はあるまい。 てれているんだろう。 大隅君はうれしい時に限って不機嫌な顔をする男なんだ。 悪い癖だが無くて七癖というからまあ大目に見てやるんだね。 時にどうだ頭のほうは。 大丈夫です。 現状維持というところです。 それは大慶のいたりだ。 それではもう何も恐れる事は無い。 私も大威張りで媒妁できる。 何せ相手のお嬢さんはひどく若くて綺麗だそうだから実は心配していたのだ。 まったく。 あいつにはもったいないくらいのお嫁さんです。 だいいち家庭が立派だ。 相当の実業家らしいのですが財産やら地位やらを一言も広告しないばかりか名誉の家だって事さえ素振りにあらわさずつつましく涼しく笑って暮しているのですからね。 あんな家庭はめったにあるもんじゃない。 名誉の家。 きょうはじめてお嫁さんと逢うんだというのに十一時頃まで悠々と朝寝坊しているんですからね。 ぶん殴ってやりたいくらいだ。 喧嘩をしちゃいかん。 どうも同じクラスの者は大学を出てからも仲の良いくせにつまらないところで張合って喧嘩をしたがる傾向がある。 大隅君はてれているんだよ。 大隅君だって小坂さんの御家庭を尊敬しているさ。 君以上かも知れない。 だからなおさらてれているんだよ。 大隅君はもういいとしだし頭髪もそろそろ薄くなっているしてれくさくってどうしていいかわからない気持なんだろう。 そこを察してやらなければいけない。 表現がまずいんだよ。 どうしていいかわからなくなって天下国家を論じて君を叱ってみたりまた十一時まで朝寝坊してみたりさまざま工夫しているのだろうがどうもあれは昔から感覚がいいくせに表現のまずい男だった。 いたわってやれよ。 君ひとりをたのみにしているんだ。 君はやいているんだろう。 小坂さんとこへ行って来たか。 行って来た。 いい家庭だろう。 いい家庭だ。 ありがたく思え。 思う。 あんまり威張るな。 あすは瀬川先生のとこへ御挨拶に行け。 仰げば尊しわが師の恩という歌を忘れるな。 おまえがわるいんだ。 ちょっと手違いがありまして大隅君のモオニングが間に合わなくなりまして。 はあ。 よろしゅうございます。 こちらでなんとか致しましょう。 おい。 お前のところにモオニングがあったろう。 電話をかけて直ぐ持って来させるように。 いやよ。 お留守のあいだはいやよ。 なんだ。 何を言うのです。 他人に貸すわけじゃあるまいし。 お父さん。 そりゃ当り前よ。 お父さんにはわからない。 お帰りの日まではどんなに親しい人にだって手をふれさせずになんでもそっくりそのままにして置かなければ。 ばかな事を。 ばかじゃないわ。 うちのモオニングを貸してあげましょう。 少しナフタリン臭くなっているかも知れませんけどね。 うちのひとにはもうなんにも要らないのです。 モオニングがこんな晴れの日にお役に立ったらうちのひとだってよろこぶ事でございましょう。 ゆるして下さるそうです。 はいや。 君は仕合せものだぞ。 上の姉さんが君に家宝のモオニングを貸して下さるそうだ。 あそう。 下の姉さんは貸さなかったがわかるかい。 下の姉さんも偉いね。 上の姉さんよりもっと偉いかも知れない。 わかるかい。 わかるさ。 煙草がなくなっちゃったな。 ああ。 僕もねさっきから煙草吸いたくて。 買って来よう。 ため。 や。 しっけいしっけい。 煙草あるかい。 僕もやっと今しがた来たばかりでどうもおそくなって。 まいいさ。 僕もねきょうから生田組の撮影がはじまっているのでてんてこ舞いさ。 はり切っていますね。 芸術の制作衝動と。 芸術の制作衝動と日常の生活意慾とを完全に一致させてすすむということはなかなか稀なことだと思われますがあなたはそれを素晴らしくやってのけて居られるように見受けられます。 美しいことです。 僕はうらやましくてならない。 そんなでもないさ。 うちの撮影所見たいか。 ぜひとも。 オーライ。 カムオン。 それはねもう一粒のごはんつぶをすりつぶしそれを糊にしてもう一粒のごはんつぶに塗ってつけたらいいでしょう。 新やん。 新やん。 ちっともお変りにならないのね。 あたしさっきひとめ見てちゃんとわかったわ。 でも撮影中でしょうだもんだからだまってごめんなさいね。 ほんとうにおひさしぶりでございました。 お国では皆様おかわりございませぬでしょうか。 あとみとみだね。 よく来たねえ。 新やんこそよくおいで下さいました。 あたしゆっくりお話申しあげたいのですけれどいまとってもいそがしいのであそうそう九時にね新橋駅のまえでお待ち申して居ります。 ほんのちょっとでよろしゅうございますからあのほんとにお願い申しあげます。 おいやでしょうけれどほんとに。 ああいいよ。 いいとも。 あたしなんでも知っててよ。 新やんのことあたし残らず聞いて知っています。 新やんあなたはちっとも悪いことしなかったのよ。 立派なものよ。 あたし昔から信じていたわ。 新やんはいいひとよ。 ずいぶんお苦しみなさいましたのね。 あたしあちこちの人から聞いてみんな知っているわ。 でも新やん勇気を出してね。 あなたは負けたのじゃないわ。 負けたとしたらそれは神さまに負けたのよ。 だって新やんは神さまになろうとしたんだ。 いけないわ。 あたしだって苦労したわよ。 新やんの気持ちもよくわかるわ。 新やんは或る瞬間人間としての一ばん高い苦しみをしたのよ。 うんと誇っていいわ。 あたし信じてる。 人間だもの誰だって欠点あるわ。 新やんずいぶんいいことなさいました。 てれちゃだめよ。 自信もって当然のお礼を要求していいのよ。 新やんどうして立派なものよ。 あたし汚い世界にいるからそのことよくわかるの。 それごらん。 おまえがそんな鳥の羽根なんかつけた帽子をかぶっているものだからみんな笑っているじゃないか。 みっともないよ。 僕は女の銘仙の和服姿が一ばん好きだ。 何がおかしい。 おまえはへんに生意気になったね。 さっきも僕がだまって聞いているといい気になって婦人雑誌でたったいま読んで来たようなきざなことを言いやがる。 僕はおまえなんかに慰めてもらおうとは思っていない。 女はもっと女らしくするがいい。 不愉快だ。 僕はもうかえる。 話なんてほかに何もないんだろう。 なるほど君は幸福だ。 けれどもこの写真には君がはいっていないね。 どうしたの。 それは当りまえだ。 僕は二三の悪いことをしたからこの記念写真にはいる資格がないのだ。 それは当りまえだ。 僕にはとてもその資格がないのだ。 よく来たねえ。 姉さん僕は親不孝だろうか。 ブルジョア・シッペル。 坂井ですが。 用事ってなんだい。 あんな手紙よこしちゃいけないよ。 僕はこれでもいそがしいのだからね。 ごめんなさいまし。 よくおいで下さいましたこと。 いい家じゃないか。 やあ庭もひろいんだね。 これじゃ家賃も高いだろう。 虚栄か。 ふん。 むりしないほうがいいぞ。 ふざけるのもいい加減にし給え。 どこがいったい一生の大事なんです。 結構な身分じゃないか。 わざわざ僕は遠いところからやって来たんだぜ。 どこをどう聞けばいいのだ。 田舎のものたちがおまえをあきらめて全然交渉をたっているのならそれはそれでいいじゃないか。 弟がどうなったって男だ。 どうにかやって行くだろう。 おまえに責任は無い。 あとはおまえの自由じゃないか。 なんだばかばかしい。 ええそれが。 あたし結婚しようかと思っていますの。 いいだろう。 僕の知ったことじゃない。 は。 あのそれに就いて――。 さっさと言ったらいいだろう。 おまえは一たい僕をなんだと思ってんだい。 むかしからおまえにはこんな工合になんのかのと僕にうるさくかまいたがる癖があったね。 よくないよ。 僕にはからかわれているとしか思われない。 いいえ。 決してそんな。 お願いがございます。 ひとつ弟に説いてやって下さるわけには――。 僕がかい。 何を説くんだ。 それはおまえのわがままだ。 エゴイズムだ。 虫がよすぎる。 ばかなやつだ。 大ばかだ。 なんだと思っていやがんだ。 あの。 とにかく。 弟に。 おういとみや。 僕は知らんぞ。 おい君。 君は誰だ。 坂井さんですか。 僕はくにでいちどお目にかかったことがございます。 お忘れになったことと思いますが。 ああ君はとみやの弟さんですね。 ええそうです。 何か僕にお話があるとか。 あるよ。 あるとも。 言って置くけれどもね僕はいま非常に不愉快なんだ。 実にどうにも不愉快だ。 君の姉さんはあれはばかだよ。 僕は君の味方だ。 僕はものを隠して置けないたちだからみんな言っちまうがね君の姉さんはちかく結婚したいっていうんだ。 相手はなかなか立派な人なんだそうだ。 いやそれはいいんだ。 結構なことだ。 僕の知ったことじゃない。 けれどもそのあとがいけない。 さもしい。 なんのことはない君を邪魔にしているんだ。 僕は君を信じている。 ひとめ見て僕にはわかる。 君たち学生はいや僕だって同じようなものだが努力の方針を見失っているだけだ。 いやその表現を失っているだけだ。 学問の持って行きどころが無いじゃないか。 世の中が君たちのその胸の中に埋もれている誠実を理解してくれないだけのことだ。 姉に捨てられたら僕のとこに来い。 一緒にやって行こう。 なに僕だっていつまでもうろうろしているつもりはないのだ。 僕はこんな無益な侮辱を受けたことはない。 女中の走り使いなんかやらされてたまるものか。 だいいちその相手の男なるものもだらしないじゃないか。 女房の弟ひとり養えなくてどうする。 いいえ。 僕は。 養ってもらおうなどと思いません。 ただ僕を不潔なものとして遠ざけようとする精神がたまらないのです。 僕にだって理想があります。 そうだ。 そうとも。 どうせそいつはろくな男じゃない。 いずれにもせよ僕の知ったことじゃない。 勝手にするがいいととみやにそう言って置いて呉れ。 僕は非常に不愉快だ。 かえります。 僕をなんだと思ってんだ。 いいえかえります。 弟がそんなにいやなら僕がひきとるとそう言って置いてくれ。 失礼ですが。 養うのひきとるのとそんな問題は古いと思います。 だい一あなたには人間ひとり養う余裕ございますか。 自身の行為の覚悟がいま一ばん急な問題ではないのでしょうか。 ひとのことよりまずご自分の救済をして下さい。 そうして僕たちに見せて下さい。 目立たないことであっても僕たちは尊敬します。 どんなにささやかでも個人の努力をちからを信じます。 むかしばらばらに取り壊し渾沌の淵に沈めた自意識を単純に素朴に強く育て直すことが僕たちの一ばん新しい理想になりました。 いまごろまだ自意識の過剰だのニヒルだのを高尚なことみたいに言っている人はたしかに無智です。 やあ。 君は君ははっきりそう思うか。 僕だけではございません。 自己の中にアルプスの嶮にまさる難所があってそれを征服するのに懸命です。 僕たちはそれを為しとげた人を個人英雄という言葉で呼んでナポレオンよりも尊敬して居ります。 ありがとう。 それはいいことだ。 いいことなんだ。 僕は君たちの出現を待っていたのです。 好人物と言われて笑わればかと言われて指弾され廃人と言われて軽蔑されてもだまってこらえて待っていた。 どんなにどんなに待っていたか。 作戦図にあたれり。 なかなかいいひとじゃないか。 僕もあのひと好きだ。 姉さん結婚してもいいぜ。 苦労したからね。 十年の恋報いられたり。 共栄。 生活とは何ですか。 わびしさを堪える事です。 敗北とは何ですか。 悪に媚笑する事です。 悪とは何ですか。 無意識の殴打です。 意識的の殴打は悪ではありません。 自信とは何ですか。 将来の燭光を見た時の心の姿です。 現在の。 それは使いものになりません。 ばかです。 あなたには自信がありますか。 あります。 芸術とは何ですか。 すみれの花です。 つまらない。 つまらないものです。 芸術家とは何ですか。 豚の鼻です。 それはひどい。 鼻はすみれの匂いを知っています。 きょうは少し調子づいているようですね。 そうです。 芸術はその時の調子で出来ます。 それっきり。 それっきり。 先生と言われる程の。 やまと新報。 鶴。 むさぼり食う。 作家。 やまと新報。 鶴。 華厳。 文学月報。 たしかな事。 華厳。 へちまの花。 華厳。 あこがれて。 こんな筈ではなかった。 貧窮問答。 ありがとう。 光陰。 瘤。 百日紅。 私は無学で下手な作家。 芸術的。 正確を期する事。 芸術的。 チエホフ的に。 エホバを畏るるは知識の本なり。 たしかな事。 エホバを畏るるは知識の本なり。 芸術的な雰囲気。 へちまの花。 汝ら見られんために己が義を人の前にて行わぬように心せよ。 せめて。 なんじら祈るとき偽善者の如くあらざれ。 彼らは人に顕さんとて会堂や大路の角に立ちて祈ることを好む。 かよわい。 かよわく。 思想を感覚する。 哲学。 何しるでえ。 あてにならねえ。 非常時だに。 自惚れちゃいけない。 誰が君なんかに本気で恋をするものか。 ためしてみたのだ。 むかし坂田藤十郎という偉い役者がいてね。 いい加減言うじゃあ。 寄るな。 寄るな。 誰も君に寄りやしないじゃないか。 坐り給え。 僕が悪かったよ。 銃後の女性は皆君のようにしっかりしていなければいけないね。 何しるでえ。 毎日たいへんですね。 毎日たいへんですね。 毎日たいへんですね。 五十円。 へちまの花。 ひでえ部屋にいやがる。 鶯が六羽いるというのはこの襖か。 なるほど六羽いる。 部屋を換えたまえ。 はあ。 僕は井原です。 仕事の邪魔になったようですね。 いいえそれどころか。 足もとから鳥が飛び立った。 作家。 作家。 出エジプト記。 私小説。 エホバを畏るるは知識の本なり。 出エジプト記。 口重く舌重き。 我儕エジプトの地に於いて肉の鍋の側に坐り飽までにパンを食いし時にエホバの手によりて死にたらばよかりしものを。 汝はこの曠野に我等を導きいだしてこの全会を飢に死なしめんとするなり。 五十円。 奴隷の平和。 傑作。 作家は仕事をしなければならぬ。 傑作。 天才とはいつでも自身を駄目だと思っている人たちである。 書きたくないことだけをしのんで書き困難と思われたる形式だけをえらんで創りデパートの紙包さげてぞろぞろ路ゆく小市民のモラルの一切を否定し十九歳の春わが名は海賊の王チャイルド・ハロルド清らなる一行の詩の作者たそがれうなだれつつ街をよぎれば家々の門口よりほの白き乙女の影走り寄りて桃金嬢の冠を捧ぐとか真なるもの美なるもの兀鷹の怒鳩の愛四季を通じて五月の風夕立ちはれては青葉したたりいずかたよりぞレモンの香やさしき人のみ住むという太陽の国果樹の園あこがれ求めて梶は釘づけただまっしぐらの冒険旅行わが身は船長にして一等旅客同時に老練の司厨長嵐よ来い。 竜巻よ来い。 弓矢来い。 氷山来い。 渦まく淵を恐れず暗礁おそれず誰ひとり知らぬ朝出帆さらばふるさとわかれの言葉いいも終らずたちまち坐礁不吉きわまる門出であった。 新調のその船の名は細胞文芸井伏鱒二林房雄久野豊彦崎山兄弟舟橋聖一藤田郁義井上幸次郎その他数氏未だほとんど無名にしてそれぞれ辻馬車鷲の巣十字街青空驢馬等々の同人雑誌の選手なりしを手紙で頼んで小説の原稿もらい地方に於ては堂々の文芸雑誌表紙三度刷百頁近きもの六百部刷って創刊号三十部くらい売れたであろうか。 もすこし売りたく二号には古屋信子の原稿もらって私末代までの恥辱逢う人逢う人に笑われるなどの挿話まで残して三号出し損害かれこれ五百円それでも三号雑誌と言われたくなくてただそれだけの理由でもってむりやり四号印刷してそのときの編輯後記『今迄で三回出したけれど何時だって得意な気持で出した覚えがないのである。 罵倒号など僕の死ぬ迄思い出させては赤面させる代物らしいのである。 どんな雑誌の編輯後記を見ても大した気焔なのが羨ましいとも感じて居る。 僕は恥辱を忍んで言うのだけれどなんの為に雑誌を作るのか実は判らぬのである。 単なる売名的のものではなかろうか。 それなら止した方がいいのではあるまいか。 いつも僕はつらい思いをしている。 こんなものを――そんな感じがして閉口して居る。 殆ど自分一人で何から何迄やって来たのだがそれだけ余計に僕は此の雑誌にこだわって居る。 此の雑誌を出してからは僕は自分の所謂素質というものにとても不安を感じて来た。 他人の悪口も言えなくなったし。 こんな意気地のない狡猾な奴になったのがやたらに淋しく思われもするのだ。 事毎にいい子に成りたがるからいけないのだ。 編輯上にも色々変った計画があったのだが気おくれがして一つもやれなかった。 心にも無いこんなじみなものにして了った。 自分の小才を押えて仕事をするのは苦しいもんであると僕は思う。 事実とても苦しかった。 』先夜ひそかに如上の文章を読みかえしてみておのが思念の風貌十春秋ほとんど変っていないことを知るに及んで呆然たりいやいや十春秋一日の如く変らぬわが眉間の沈痛の色に今更ながらうんざりしたのである。 わが名は安易の敵有頂天の小姑あした死ぬる生命お金ある宵はすなわち富者万燈の祭礼一朝めざむれば天井の板わが家のそれに非ずあやしげの青い壁紙に大小星のかたちの銀紙ちらしたる三円天国死んで死に切れぬ傷のいたみわが友中村地平かくのごとき朝ラジオ体操の音楽を聞き声を放って泣いたそうな。 シンデレラ姫の物語を考えついた人はよっぽどお話にもなにもならないほど不仕合せな人なのだ。 マッチ売の娘の物語を考えついた人もまた煙草のみたいが叶わずマッチ点火しては焔をみつめほそぼそ青い焔の尾をひいて消えるまた点火涙でぼやけてマッチの火あるいは金殿玉楼くらいに見えたかも知れない。 年一年とくらしが苦しくわが絶望の書もどうにも気はずかしく夜半の友モラルの否定もいまは金縁看板の習性の如くにさえ見え言いたくなき内容困難の形式十春秋それをのみ繰りかえし繰りかえしいまではどうやらこの露地が住み良くたそがれの頃翼を得てここかしこを意味なく飛翔するわが身は蝙蝠ああいやらしき毛の生えた鳥歯のある蛾生きた蛙を食うというこのごろこれら魔性怪性のものを憎むことしきり。 これらこそ安易の夢無智の快楽十年まえ太陽の国果樹の園をあこがれ求めて船出した十九の春の心にかえりあたたかき真昼さくらの花の吹雪を求め泥の海蝙蝠の巣船橋とやらの漁師まちより髭も剃らずに出て来た男ゆるし給え。 紳士ならびに淑女諸君。 私もまた幸福クラブの誕生を最もよろこぶ者のひとりでございます。 わが名は狭き門の番卒困難の王安楽のくらしをして居るときこそ窓のそと荒天の下の不仕合せをのみ見つめわが頬は涙に濡れほの暗きランプの灯にてひとり哀しき絶望の詩をつくりおのれ苦しく命のほどさえ危き夜には薄き化粧ズボンにプレス頬には一筋微笑の皺夕立ちはれて柳の糸しずかに垂れたる下の折目正しき軽装のひとこれがこの世の不幸の者今宵死ぬる命かしかもかれ友を訪れて語るはこの生のよろこび青春の歌間抜けの友は調子に乗りレコオド持ち出しこは乾杯の歌勝利の歌歌え歌わむなど騒々しきを夜も更けたりまたの日にこそと約したまたの日ああ香煙|濛々の底仏間の奥隅屏風の陰白き四角の布切れの下鼻孔には綿いやはやこれは失礼いたしました。 幸福クラブ誕生の日にかかる不吉の物語いやあやまりますあやまります。 さてこの暗黒の時に当り毎月いちどこのご結構のサロンに集い一人一題世にも幸福の物語を囁き交わさむとの御趣旨ちかごろ聞かぬ御卓見私たのまれもせぬに御一同に代りあらためて主催者側へお礼を申し合せてこの会以後休みなくひらかれますよう一心に希望して居ることを言い添えそれでは私御指命を拝し今宵第一番の語り手たる光栄を得させていただきます。 私ただいま年に二つ三つそれも雑誌社のお許しを得て一篇十分くらいの時間があればたいてい読み切れるようなそうして読後十分くらいできれいさっぱり忘れられてしまうようなたいへんあっさりした短篇小説二つ三つ書かせていただき年収六十円ひと月平均いくらになりましょうかお待ち下さい。 すこし言いすぎました。 おゆるし下さい。 たいへんの失言でございました。 取消させていただきます。 幸福クラブ誕生の第一の夕しかし最初の話手が陰惨酷烈とうてい正視できぬある種の生活断面をちらとでもお目にかけたとあっては重大の問題ゆゆしき責任を感じます。 ありがたいことには神様今いちどだけ私をおゆるし下さいました。 たそがれ部屋の四隅のくらがりに何やら蠢めき人の心も死にたくなるころぱっと灯がついてもの皆がいきいきと背戸の小川に放たれた金魚の如くよみがえるから不思議です。 このシャンデリヤおそらく御当家の女中さんが廊下でスイッチをひねった結果さっと光の洪水私の失言も何も一切合切ひっくるめて押し流しまるで異った国の樹陰でぽかっと眼をさましたような思いで居られるこの機を逃さず素知らぬ顔をして話題をかえひそかに冷汗|拭うて思うことにはああかのドアの陰いまだ相見ぬ当家のお女中さんこそわが命の親この笑いの波も灯のおかげどうやら順風の様子一路平安を念じつつ綱を切ってするする出帆題は作家の友情について。 私はこのバナナを食うたびごとに思い出す。 三年まえ私は中村地平という少し気のきいた男とのべつまくなしに議論していて半年ほどをむだに費やしたことがございます。 そのころかれは二三の創作を発表し地平さん地平さんと呼ばれて大いに仕合せであった。 地平もそのころおのれを仕合せとは思わず何かと心労多かったことであったようだがそれより三年たって今日精も根も使いはたして洋服の中に腐りかけた泥がいっぱいだぶだぶたまってああ夕立よざっと降れ銀座のまんなかであろうと二重橋ちかきお広場であろうとごめん蒙って素裸になり石鹸ぬたくって夕立ちにこの身を洗わせたくてたまらぬ思いにこがれつつ会社への忠義のため炎天の下の一匹の蟻わが足は蠅取飴の地獄に落ちたが如くに――いやまたしても除名の危機おゆるし下さいつまり友人中村地平がそのようなきょうの日ふと三年まえのことを思ってあああのころはよかったなといても立っても居られぬほどの貴き苦悶を万々むりのおねがいなれどもできるだけ軽く諸君の念頭に置いてもらってそうしてその地獄の日々より三年まえ顔あわすより早く罵詈雑言はじめはしかつめらしくプウシキンの怪談趣味についてドオデエの通俗性についてさらに一転斎藤実と岡田啓介に就いて人物|月旦再転してはバナナは美味なりや否や三転しては一女流作家の身の上についてさらに逆転お互いの身なり風俗殺したき憎しみもて左右にわかれてあくる日は又早朝よりめしを五杯たべて見苦しい。 いやそういう君の上品ぶりの古陋頑迷それから各々ひらき直っていったい君の小説――云云とおたがいの腹の底のどこかしらでゆるせぬ反撥しのびがたき敵意あの小説はなんだいとてんから認めていなかったのだからうまく折合う道理はなし或る日地平はかれの家の裏庭にかねて栽培のトマトことのほか赤く粒も大なるもの二十個あまり風呂敷に包めるをわが玄関の式台にどさんと投げつけるが如くに置いて風呂敷かえしたまえほかの家へ持って行く途中なのだが重くていやだからここへ置いて行くトマトいやだろう風呂敷かえせとてれくさがって不機嫌になり面伏せたまま私の二階の部屋へどんどん足音たかくあがっていって私もすこしむっとなり階段のぼる彼のうしろ姿にほかへ持って行くものをここへ置かずともいい僕はトマト好きじゃないんだこんなトマトなどにうつつを抜かしていやがるからろくな小説もできないなど有り合せの悪口を二つ三つ浴びせてやったが地平おのれのぶざまに身も世もなきほど恥じらいその日は将棋をしても指角力してもすこぶるまごつき全くなっていなかった。 地平は私と同じで五尺七寸しかも毛むくじゃらの男ゆえたいへん貧乏を恐れてまた大男に洗いざらしの浴衣無精鬚に焼味噌のさがりたるこの世に二つ無き無体裁とちゃんと心得て居るゆえそれだけ貧にはもろかった。 そのころ地平縞の派手な春服を新調して部屋の中で一度私に着せて見せてすぐおのが失態に気づいてそそくさと脱ぎ捨ててつんとすまして見せたがかれこの服を死ぬるほど着て歩きたくけれどもこうして部屋の中でだけ着てうろうろしているのには理由があった。 かれの吉祥寺の家は実姉とその旦那さんとふたりきりの住居でかれがそこの日当りよすぎるくらいの離れ座敷八畳一間を占領しかれに似ず小さくそそたる実の姉様が何かとかれの世話を焼きよい小説家として美事に花咲くようきらきら光るストオヴを設備しまた部屋の温度のほどを知るために寒暖計さえ柱に掛けられ二十六歳のかれにとっては姉のそのような心労ひとつひとついやらしく恥ずかしく私がたずねて行くと五尺七寸の中村地平は眼にもとまらぬ早業でその寒暖計をかくすのだ。 その頃生活派と呼ばれ一様に三十歳を越して奥様子供すでに一家のあるじそうして地味の小説を書いておとなしく一日一日を味いつつ生きて居る一群の作家があってその謂わば生活派の作家のうちの二三人が地平の家のまわりに居住していた。 もちろん地平の先輩である。 かれはときたまからだをちぢめてそれら諸先輩に文学上の多くの不審を子供のような曇りなき眼で小説と記録とちがいますか。 小説と日記とちがいますか。 『創作』という言葉を誰がいつごろ用いたのでしょうなど傍の者のはらはらするようなそれでいて至極もっともの昨夜寝てから暗闇の中じっと息をころして考えに考え抜いた揚句の果の質問らしく誠実あふれいかにもして解き聞かせてもらいたげの態度なれば先輩も面くらいそこのところがわかればねえなどと呟きひどく弱って頭をかかえいよいよ腐って沈思黙考地平は知らずきょとんと部屋の窓の外風に吹かれて頬かむり飛ばして女房に追わせる畑の中の百姓夫婦を眺めて居る。 そのように一種不思議のおくめんなき人柄を持っていた地平でも流石におのれ一人縞の春服を着て歩けなかった。 生活派の人たちにすまないと言うのである。 私はそれについても地平はだめだ芸術家はいつでも堂々としていたい鼠のように逃げぐち計りを捜しているのでは将来の大成がむずかしい僕もそのうち支那服を着てみるつもりであるなどああそのころはお互いがまだまだ仕合せであったのだ。 三年たって私は死ぬるよりほかに全くもって生きてゆく路がなくなった。 昨年の春えい幸福クラブ除名するならするがよい熊の月の輪のような赤い傷跡をつけてそうして一年後のきょうも尚一杯ビイル呑んで上気すれば縄目がありあり浮んで来るそのような死にそこないの友人のために井伏鱒二氏檀一雄氏それに地平も加えて三人私の実兄を神田淡路町の宿屋に訪れもう一箇年お金くださいとたのんで呉れた。 その日井伏さんと檀君とふたりさきに出掛けて地平は用事のために一足おくれてその実兄の宿へ行く途中荻窪の私の家へほんの鳥渡立ち寄って私の就職のことで二三打ち合せてから井伏さんたちのあとを追って荻窪の駅へ私も駅まで見送っていってふたり並んで歩くのだが地平女のようにぬかるみを細心に拾い拾いして歩くのだ。 そのような大事のときでもその緊張をほぐしたい私の悪癖がそっと鎌首もたげてちらと地平の足もとを覗いてやられた。 停車場まできつく顔をそむけて地平がなにを言ってもただうんうんとうなずいていた。 地平はわざわざ服を着かえて来て呉れた。 縞の模様の派手な春服。 地平のほうではそのまえに二三度泣いたすがたを私に見つけられたことがあってそれがまた私の地平軽蔑のたねになったのであるが私はそのときはじめてのことなり見せたくなくてそのうちに両肩がびくついて眼先が見えなくなってひどくこまった。 一年すぎて私の生活がまたもやそろそろ困って二三の人にめいわくかけて昨夜地平と或る会合の席上思いがけなく顔を合せお互い少し弱って不自然であった。 私はバット一本ビイル一滴のめぬからだになってしまって淋しいどころの話でなかった。 地平はお酒を呑んで泣いていた。 私もお酒が呑めたら泣くにきまっている。 そのようなへんな気持でいまは地平のことのほかには何一つ語れず書けぬ状態ゆえたまにはくつろぎおゆるし下さい。 渡る世間に鬼がないという言葉がございますけれどほんとうだと思います。 それにこのごろ涙もろくなってしまってどうしたのでしょう地平のこと佐藤さんのこと佐藤さんの奥様のこと井伏さんのこと井伏さんの奥さんのこと家人の叔父吉沢さんのこと飛島さんのこと檀君のこと山岸外史の愛情順々にお知らせしようつもりでございましたが私の話の長びくほど後に控えた深刻力作氏のお邪魔になるだけのことゆえどこで切っても関わぬ物語かりに喝采と標題をうってひとりおのれの心境をいたわること以上の如くでございます。 官僚が悪い。 清く明るくほがらかに。 官僚。 ただいま。 やあお父さんが帰って来た。 まあお父さんいったいどこへ行っていらしたんです。 あちこちあちこち。 皆めしはすんだのか。 買ったのかい。 これを。 これはマサ子のよ。 お母さんと一緒に吉祥寺へ行って買って来たのよ。 それはよかったねえ。 高かったろう。 いくらだった。 高い。 いったいお前はどこからそんな大金を算段出来たの。 お父さんの一晩のお酒代にも足りないのに大金だなんて。 めしにしよう。 番組。 私は税金をおさめないつもりでいます。 私は借金で暮しているのです。 私は酒も飲みます。 煙草も吸います。 いずれも高い税金がついてそのために私の借金は多くなるばかりなのです。 この上またあちこち金を借りに歩いて税金をおさめる力が私にはありません。 それに私は病弱だから副食物や注射液や薬品のためにも借金をします。 私はいま非常に困難な仕事をしているのです。 少くともあなたよりは苦しい仕事をしているのです。 自分でもほとんど発狂しているのではないかと思うほど仕事のことばかり考えつめているんです。 酒も煙草もまたおいしい副食物もいまの日本人にはぜいたくだやめろと言う事になったら日本に一人もいい芸術家がいなくなります。 それだけは私断言できます。 おどかしているのではありません。 あなたはさっきから政府だの国家だのさも一大事らしくもったい振って言っていますが私たちを自殺にみちびくような政府や国家はさっさと消えたほうがいいんです。 誰も惜しいと思やしません。 困るのはあなたたちだけでしょう。 何せクビになるんだから。 何十年かの勤続も水泡に帰するんだから。 そうしてあなたの妻子が泣くんだから。 ところがこっちはもう仕事のためにずっと前から妻子を泣かせどおしなんだ。 好きで泣かせているんじゃない。 仕事のためにどうしてもそこまで手がまわらないのだ。 それをまあ何だい。 ニヤニヤしながらそこを何とか御都合していただくんですなあだなんてとんでもない。 首をくくらせる気か。 おい見っともないぞ。 そのニヤニヤ笑いはやめろ。 あっちへ行け。 みっともない。 私は社会党の右派でも左派でもなければ共産党員でもない。 芸術家というものだ。 覚えて置き給え。 不潔なごまかしが何よりもきらいなんだ。 どだいあなたはなめていやがる。 そんな当りさわりの無いいい加減な事を言って所謂民衆をなだめ納得させる事が出来ると思っているのか。 たった一言でいい君の立場の実情を言え。 君の立場の実情を。 さよかすんません。 おい。 ラジオを消してくれ。 家。 いかがでございました。 いやもうさんざんさ。 いえいえどうしてかいとう乱麻を断つというところでしたよ。 かいとうとは怪しい刀と書くんだろう。 冗談じゃない。 どだいあんな質問者とは頭の構造がちがいますよ。 何せこっちは千軍万馬の。 きょうの録音はいつ放送になるんです。 知らん。 とにかくあの放送はたのしみだなあ。 いまにこの箱からお父さんのお声が聞えて来ますよ。 たからくじ。 修繕の仕様が無い。 たからくじ。 おねがいします。 だめですよ。 きょうはもう。 苦労を忘れさせるような。 お願いします。 時計をごらん時計を。 おねがいします。 あしたになさいねあしたに。 きょうでなければあたし困るんです。 官僚の悪。 官僚的。 ほまれ。 お前の顔はどう見たって狐以外のものではないんだ。 よく覚えて置くがええぞ。 ケツネのつらは口がとがって髭がある。 あの髭は右が三本左が四本ケツネの屁というものはたまらねえ。 そこらいちめん黄色い煙がもうもうとあがってな犬はそれを嗅ぐとくるくるくるっとまわってぱたりとたおれる。 いや嘘でねえ。 お前の顔は黄色いな。 妙に黄色い。 われとわが屁で黄色く染まったに違いない。 や臭い。 さてはお前やったな。 いややらかした。 どだいお前は失敬じゃないか。 いやしくも軍人の鼻先で屁をたれるとは非常識きわまるじゃないか。 おれはこれでも神経質なんだ。 鼻先でケツネのへなどやらかされてとても平気では居られねえ。 うるさい餓鬼だ興がさめる。 おれは神経質なんだ。 馬鹿にするな。 あれはお前の子か。 これは妙だ。 ケツネの子でも人間の子みたいな泣き方をするとはおどろいた。 どだいお前はけしからんじゃないか子供を抱えてこんな商売をするとは虫がよすぎるよ。 お前のような身のほど知らずのさもしい女ばかりいるから日本は苦戦するのだ。 お前なんかは薄のろの馬鹿だから日本は勝つとでも思っているんだろう。 ばかばか。 どだいもうこの戦争は話にならねえのだ。 ケツネと犬さ。 くるくるっとまわってぱたりとたおれるやつさ。 勝てるもんかい。 だからおれは毎晩こうして酒を飲んで女を買うのだ。 悪いか。 悪い。 狐がどうしたっていうんだい。 いやなら来なけれあいいじゃないか。 いまの日本でこうして酒を飲んで女にふざけているのはお前たちだけだよ。 お前の給料はどこから出てるんだ。 考えても見ろ。 あたしたちの稼ぎの大半はおかみに差し上げているんだ。 おかみはその金をお前たちにやってこうして料理屋で飲ませているんだ。 馬鹿にするな。 女だもの子供だって出来るさ。 いま乳呑児をかかえている女はどんなにつらい思いをしているかお前たちにはわかるまい。 あたしたちの乳房からはもう一滴の乳も出ないんだよ。 からの乳房をピチャピチャ吸っていやもうこのごろは吸う力さえないんだ。 ああそうだよ狐の子だよ。 あごがとがって皺だらけの顔で一日中ヒイヒイ泣いているんだ。 見せてあげましょうかね。 それでもあたしたちは我慢しているんだ。 それをお前たちはなんだい。 やあ来た。 とうとう来やがった。 さあ逃げましょう早く。 それ危いしっかり。 たのむわ兵隊さん。 も少し向こうのほうへ逃げましょうよ。 ここで犬死にしてはつまらない。 逃げられるだけは逃げましょうよ。 こんないいところはほかにないわ。 あたしたちは仕合せだわ。 いつまでもここにいてこの赤ちゃんの背中をあたためふとらせてあげたいわ。 群集。 死のう。 バンザイ。 恐縮。 感激を覚えた。 まとまる。 ぶん。 戦争を望遠鏡で見ただけで戦争を書いている人たち。 ものを見る眼。 割に素直に書かれて在ると思いますからいい作品だと思いますからどうかよろしくお願いいたします。 私みたいな不徳の者が兵隊さんの原稿を持ち込みするということに唐突の思いをなされるかも知れませんがけれども人間の真情はまたおのずから別のもので私だって。 私だって。 なんだ太宰ってそんな変ったやつでも無いじゃないか。 私は君を裏切ることは無い。 遊戯文学。 ぶん。 病気はもういいのですか。 ええふつうの人より丈夫です。 どんな工合だったんですか。 五年まえのことです。 噂では。 ずいぶんひどかったように聞いていますが。 酒を呑んでいるうちになおりました。 それはへんですね。 どうしたのでしょうね。 なおっていないのかも知れませんけれどまあなおったことにしているのです。 際限がないですものね。 酒はたくさん呑みますか。 ふつうの人くらいは呑みます。 どう思いますこのごろの他の人の小説をどう思います。 そうですねえ。 あんまり読んでいないのですが何かいいのがありますか。 読めばたいてい感心するのですがとにかく皆よくさっさと書けるものだと不思議な気さえするのです。 皮肉じゃ無いんです。 からだが丈夫なのでしょうかね。 実に皆すらすら書いています。 Aさんのあれ読みましたか。 ええ雑誌をいただいたので読みました。 あれはひどいじゃないか。 そうかなあ。 僕には面白かったんですが。 もっとひどい作品だってたくさんあるんじゃ無いですか。 何もあれを殊更に非難するては無いと思うんですが。 どんなものでしょう。 何せ僕はよく知らんので。 Bさんを知っていますか。 ええ知っています。 こんどあのひとに小説を書いていただくことになっていますが。 ああそれはいいですね。 Bさんはとてもいい人です。 ぜひ書いてもらいなさい。 きっといま素晴しいのが書けると思います。 Bさんには以前僕もお世話になったことがあります。 あなたはどうです。 書けますか。 僕はだめです。 まるっきりだめです。 下手くそなんですね。 恋愛を物語りながらつい演説口調になったりなんかしてひとりで呆れて笑ってしまうことがあります。 そんなことは無いだろう。 あなたはこれまで若いジェネレエションのトップを切っていたのでしょう。 冗談じゃない。 このごろはまるでファウストですよ。 あの老博士の書斎での呟きがよくわかるようになりました。 ひどくふけちゃったんですね。 ナポレオンが三十すぎたらもうわが余生はなどと言っていたそうですがあれが判って可笑しくて仕様が無い。 余生ということをあなた自身に感じるのですか。 僕はナポレオンじゃ無いしそんなまさかそんなまるで違うのですがでもふっと余生を感じることがありますね。 僕はまさかファウスト博士みたいにまさか万巻の書を読んだわけでは無いんですがでもあれに似た虚無をふっと感じることがあるんですね。 そんなことじゃ仕様が無いじゃないですか。 あなたは失礼ですけどおいくつですか。 僕は三十一です。 それじゃCさんより一つ若い。 Cさんはいつ逢っても元気ですよ。 文学論でもなんでも実にてきぱき言います。 あの人の眼は実にいい。 そうですね。 Cさんは僕の高等学校の先輩ですがいつもうるんだ情熱的な眼をしていますね。 あの人もこれからどんどん書きまくるでしょう。 僕はあの人を好きですよ。 あなたは一体。 小説を書くに当ってどんな信条を持っているのですか。 たとえばヒュウマニティだとか愛だとか社会正義だとか美だとかそんなもの文壇に出てから現在までまたこれからも持ちつづけて行くだろうと思われるもの何か一つでもありますか。 あります。 悔恨です。 悔恨の無い文学は屁のかっぱです。 悔恨告白反省そんなものから近代文学がいや近代精神が生れた筈なんですね。 だから――。 なるほど。 そんな潮流がいま文壇に無くなってしまったのですね。 それじゃあなたは梶井基次郎などを好きでしょうね。 このごろどうしてだかいよいよ懐かしくなって来ました。 僕は古いのかも知れませんね。 僕はちっとも自分の心を誇っていません。 誇るどころか実にいやらしいものだと恥じています。 宿業という言葉はどういう意味だかよく知りませんけれどでもそれに近いものを自身に感じています。 罪の子というとへんに牧師さんくさくなっていけませんがなんといったらいいのかなあおれは悪い事をいつかやらかしたおれは汚ねえ奴だという意識ですね。 その意識をどうしても消すことができないので僕はいつでも卑屈なんです。 どうも自分でも閉口なのですが――でも。 ポオズでなく。 信仰。 おいお金をくれ。 いくらある。 さあ四五円はございましょう。 使ってもいいか。 ええ少しは残して下さいね。 わかってる。 九時ごろ迄には帰る。 だんな。 へんな事を言うようですけれど。 あのうだんなのお知合いの人で私みたいのをもらって下さるようなかた無いでしょうか。 さあ。 無いこともないだろうけど僕なんかにそんなことたのんだって仕様がないですよ。 ええでも心易いお客さん皆にたのんで置こうと思って。 へんだね。 だんだんとしとるばかりですしね。 私は初めてじゃないのですから少しおじいさんでもかまわないのです。 そんないいところなぞ望んでいませんから。 でも僕は心当りないですよ。 ええそんなに急ぐのでないから心掛けて置いて下さいまし。 あのう私名刺があるんですけれど。 裏にここの住所も書いて置きましたからもし適当のかたが見つかったらごめんどうでもハガキか何かでちょっと教えて下さいまし。 ほんとうにごめいわくさまです。 子供が幾人あっても私のほうはかまいませんから。 ほんとうに。 探してみますけれど約束はできませんよ。 お勘定をねがいます。 おい炭は大丈夫かね。 無くなるという話だが。 大丈夫でしょう。 新聞が騒ぐだけですよ。 そのときはそのときでどうにかなりますよ。 そうかね。 ふとんをしいてくれ。 今晩は仕事は休みだ。 待つ。 敷金は二つですか。 そうですか。 いいえ失礼ですけれどそれでは五十円だけ納めさせていただきます。 いいえ。 私ども持っていましたところで使ってしまいます。 あの貯金のようなものですものな。 ほほ。 明朝すぐに引越しますよ。 敷金はそのおりごあいさつかたがた持ってあがりましょうね。 いけないでしょうかしら。 ああ。 やっとお引越しがおわりましたよ。 こんな恰好でおかしいでしょう。 うちの女です。 よろしく。 これはおおやさん。 いらっしゃい。 いらっしゃいませ。 おなじくらいですな。 横になりませんか。 あああ。 疲れましたね。 おや。 かげろう。 不思議ですねえ。 ごらんなさいよ。 いまじぶんかげろうが。 木下さん。 困りますよ。 これはいただけません。 なにもございませんけれど。 そうか。 そうか。 それではさきにごはんをたべましょう。 お話はそれからゆっくりいたしましょうよ。 自由天才流。 ああ。 あれは嘘ですよ。 なにか職業がなければこのごろの大家さんたちは貸してくれないということを聞きましたのでまあんな出鱈目をやったのです。 怒っちゃいけませんよ。 これは古道具屋で見つけたのです。 こんなふざけた書家もあるものかとおどろいて三十銭かいくらで買いました。 文句も北斗七星とばかりでなんの意味もないものですから気にいりました。 私はげてものが好きなのですよ。 失礼ですけれど無職でおいでですか。 そうなんです。 けれども御心配は要りませんよ。 いいえ。 僕ははっきり言いますけれどこの五円の切手がだいいちに気がかりなのです。 ほんとうに。 木下がいけないのですの。 こんどの大家さんはわかくて善良らしいとかそんな失礼なことを言いましてあのむりにあんなおかしげな切手を作らせましたのでございますの。 ほんとうに。 そうですか。 そうですか。 僕もおどろいたのです。 敷金の。 そうですか。 わかりました。 あした持ってあがりましょうね。 銀行がやすみなのです。 あなたはさっき職業がないようなことをおっしゃったけれどそれでは何か研究でもしておられるのですか。 研究。 なにを研究するの。 私は研究がきらいです。 よい加減なひとり合点の註釈をつけることでしょう。 いやですよ。 私は創るのだ。 なにをつくるのです。 発明かしら。 これは面白くなったですねえ。 そうですよ。 発明ですよ。 無線電燈の発明だよ。 世界じゅうに一本も電柱がなくなるというのはどんなにさばさばしたことでしょうね。 だいいちあなたちゃんばら活動のロケエションが大助かりです。 私は役者ですよ。 だめでございますよ。 酔っぱらったのですの。 いつもこんな出鱈目ばかり申してこまってしまいます。 お気になさらぬように。 なにが出鱈目だ。 うるさい。 おおやさん私はほんとに発明家ですよ。 どうすれば人間有名になれるかこれを発明したのです。 それごらん。 膝を乗りだして来たじゃないか。 これだ。 いまのわかいひとたちはみんなみんな有名病という奴にかかっているのです。 少しやけくそなしかも卑屈な有名病にね。 君いやあなた飛行家におなり。 世界一周の早まわりのレコオド。 どうかしら。 死ぬる覚悟で眼をつぶってどこまでも西へ西へと飛ぶのだ。 眼をあけたときには群集の山さ。 地球の寵児さ。 たった三日の辛抱だ。 どうかしら。 やる気はないかな。 意気地のない野郎だねえ。 ほっほっほ。 いや失礼。 それでなければ犯罪だ。 なあにうまくいきますよ。 自分さえがっちりしてれあなんでもないんだ。 人を殺すもよしものを盗むもよしただ少しおおがかりな犯罪ほどよいのですよ。 大丈夫。 見つかるものか。 時効のかかったころ堂々と名乗り出るのさ。 あなたもてますよ。 けれどもこれは飛行機の三日間にくらべると十年間くらいの我慢だからあなたがた近代人には鳥渡ふむきですね。 よし。 それではちょうどあなたにむくくらいのつつましい方法を教えましょう。 君みたいな助平ったれの小心ものの薄志弱行の徒輩には醜聞という恰好の方法があるよ。 まずまあこの町内では有名になれる。 人の細君と駈落ちしたまえ。 え。 君を好きだ。 私も君を好きなのだよ。 よし。 万歳。 万歳。 先晩はどうも。 いいえ。 あなたこれは木曾川の上流ですよ。 ペンキ画のほうがよいのですよ。 ほんとうの木曾川よりはね。 いいえ。 ペンキ画だからよいのでしょう。 ええ。 これでも苦労したものですよ。 良心のある画ですね。 これを画いたペンキ屋の奴この風呂へは決して来ませんよ。 来るのじゃないでしょうか。 自分の画を眺めながらしずかにお湯にひたっているというのもわるくないでしょう。 はだかのすがたを見ないうちは気を許せないのです。 いいえ。 男と男とのあいだのことですよ。 ええ。 まだ風呂から帰らないのですか。 そう。 はて。 僕と風呂で一緒になりましてね。 遊びに来いとおっしゃったものですから。 あてになりませんのでございますよ。 それではしつれいいたします。 あら。 すこしお待ちになったら。 お茶でもめしあがれ。 木下を信用しないほうがよござんすよ。 なぜですか。 だめなんですの。 出鱈目は天才の特質のひとつだと言われていますけれど。 その瞬間瞬間の真実だけを言うのです。 豹変という言葉がありますね。 わるくいえばオポチュニストです。 天才だなんて。 まさか。 威張るのですの。 そうですか。 木下さんはあれでやはり何か考えているのでしょう。 それならほんとの休息なんてないわけですね。 なまけてはいないのです。 風呂にはいっているときでも爪を切っているときでも。 まあ。 だからいたわってやれとおっしゃるの。 いいえ。 しつれいしましょう。 ああ。 またまいります。 僕です。 ああ。 おおやさん。 おあがり。 もうおやすみですか。 え。 いいえ。 かまいません。 一日いっぱい寝ているのです。 ほんとうに。 こうして寝ているといちばん金がかからないものですから。 どうもしばらくです。 屋賃は当分だめですよ。 マダムが逃げました。 どうしてです。 きらわれましたよ。 ほかに男ができたのでしょう。 そんな女なのです。 いつごろです。 さあ先月の中旬ごろだったでしょうか。 あがらない。 いいえ。 きょうは他に用事もあるし。 恥かしいことでしょうけれど私は女の親元からの仕送りで生活していたのです。 それがこんなになって。 なぜ働かないのかしら。 働けないからです。 才能がないのでしょう。 冗談じゃない。 いいえ。 働けたらねえ。 それでは困るじゃないですか。 僕のほうも困るしあなただっていつまでもこうしている訳にいきますまい。 ええ。 それはなんとかします。 あてがあります。 あなたには感謝しています。 もうすこし待っていただけないでしょうか。 もうすこし。 それではいずれまた参ります。 ないものは頂戴いたしません。 そうですか。 どうもわざわざ。 四十二の一白水星。 気の多いとしまわりで弱ります。 いつもほんとうに相すみません。 こんどは大丈夫ですよ。 しごとが見つかりました。 おいていちゃん。 おおやさんだよ。 ご挨拶をおし。 うちの女です。 どんなお仕事でしょう。 小説です。 え。 いいえ。 むかしから私は文学を勉強していたのですよ。 ようやくこのごろ芽が出たのです。 実話を書きます。 実話と言いますと。 つまりないことを事実あったとして報告するのです。 なんでもないのさ。 何県何村何番地とか大正何年何月何日とかその頃の新聞で知っているであろうがとかいう文句を忘れずにいれて置いてあとは必ずないことを書きます。 つまり小説ですねえ。 ほんとうによいのですか。 困りますよ。 大丈夫。 大丈夫。 ええ。 あなたごらんなさい。 その胸像の額をごらんください。 よごれているでしょう。 仕様がないんです。 どうしたのです。 なに。 てい子のむかしのあれの胸像なんだそうです。 たったひとつの嫁入り道具ですよ。 キスするのです。 おいやのようですね。 けれども世の中はこんな工合いになっているのです。 仕様がありませんよ。 見ていると感心に花を毎日とりかえます。 きのうはダリヤでした。 おとといは蛍草でした。 いやアマリリスだったかな。 コスモスだったかしら。 いや。 お仕事のほうはもうはじめているのですか。 ああそれは。 そろそろはじめていますけれど大丈夫ですよ。 私はほんとうは文学書生なんですからね。 でもあなたのほんとうははあてになりませんからね。 ほんとうはというそんな言葉でまたひとつ嘘の上塗りをしているようで。 やこれは痛い。 そうぽんぽん事実を突きたがるものじゃないな。 私はねむかし森鴎外ご存じでしょう。 あの先生についたものですよ。 あの青年という小説の主人公は私なのです。 はじめて聞きました。 でもあれは失礼ですがもっとおっとりしたお坊ちゃんのようでしたけれど。 これはひどいなあ。 あの時代にはあれでよかったのです。 でも今ではあの青年もこんなになってしまうのです。 私だけではないと思うのですが。 それはつまり抽象して言っているのでしょうか。 いいえ。 私のことを言っているのですけれど。 まあきょうは僕はこれで帰りましょう。 きっとお仕事をはじめて下さい。 やあ。 薄茶でございますよ。 茶をたてているのです。 こんなに暑いときにはこれに限るのですよ。 一杯いかが。 どうしてまた。 風流ですね。 いいえ。 おいしいからのむのです。 わたくし実話を書くのがいやになりましてねえ。 へえ。 書いていますよ。 こんなのを書きたいと思いまして文献を集めているのですよ。 ねえ。 この写真がいいでしょう。 これは渡り鳥が海のうえで深い霧などに襲われたとき方向を見失い光りを慕ってただまっしぐらに飛んだ罰で燈台へぶつかりばたばたと死んだところなのですよ。 何千万という死骸です。 渡り鳥というのは悲しい鳥ですな。 旅が生活なのですからねえ。 ひとところにじっとしておれない宿命を負うているのです。 わたくしこれを一元描写でやろうと思うのさ。 私という若い渡り鳥がただ東から西西から東とうろうろしているうちに老いてしまうという主題なのです。 仲間がだんだん死んでいきましてね。 鉄砲で打たれたり波に呑まれたり飢えたり病んだり巣のあたたまるひまもない悲しさ。 あなた。 沖の鴎に潮どき聞けばという唄がありますねえ。 わたくしいつかあなたに有名病についてお話いたしましたけどなに人を殺したり飛行機に乗ったりするよりはもっと楽な法がありますわ。 しかも死後の名声という附録つきです。 傑作をひとつ書くことなのさ。 これですよ。 それではまあその傑作をお書きなさい。 お帰りですか。 薄茶をもひとつ。 いや。 不思議です。 きょうは来るとたしかにそう思っていたのです。 いや不思議です。 それで朝からこんな仕度をしてお待ち申していました。 不思議だな。 まあどうぞ。 どうです。 お仕事ができましたか。 それが駄目でした。 この百日紅に油蝉がいっぱいたかって朝っから晩までしゃあしゃあ鳴くので気が狂いかけました。 いやほんとうですよ。 かなわないのでこんなに髪を短くしたりさまざまこれで苦心をしたのですよ。 でもきょうはよくおいでくださいました。 ずっとこっちにいたのですか。 ええ。 ほかに行くところもないのですものねえ。 ああ。 お土産を持って来ましたよ。 ありがとう。 貧すれば貪すという言葉がありますねえ。 まったくだと思いますよ。 清貧なんてあるものか。 金があったらねえ。 どうしたのです。 へんに搦みつくじゃないか。 百日紅がまだ咲いていますでしょう。 いやな花だなあ。 もう三月は咲いていますよ。 散りたくても散れぬなんて気のきかない樹だよ。 あなた。 私はまたひとりものですよ。 まえから聞こうと思っていたのですがどうしたのだろう。 あなたは莫迦に浮気じゃないか。 いいえ。 みんな逃げてしまうのです。 どう仕様もないさ。 しぼるからじゃないかな。 いつかそんな話をしていましたね。 失礼だがあなたは女の金で暮していたのでしょう。 あれは嘘です。 ほんとうは私の田舎からの仕送りがあるのです。 いいえ。 私は女房をときどきかえるのがほんとうだと思うね。 あなた。 箪笥から鏡台までみんな私のものです。 女房は着のみ着のままで私のうちへ来てそれからまたそのままいつでも帰って行けるのです。 私の発明だよ。 莫迦だね。 金があればねえ。 金がほしいのですよ。 私のからだは腐っているのだ。 五六丈くらいの滝に打たせて清めたいのです。 そうすればあなたのようなよい人とももっともっとわけへだてなくつき合えるのだし。 そんなことは気にしなくてよいよ。 ホープはいいですよ。 甘くもないし辛くもないしなんでもない味なものだから好きなんだ。 だいいち名前がよいじゃないか。 小説を書いたのです。 十枚ばかり。 そのあとがつづかないのです。 刺激がないからいけないのだと思ってこんな試みまでもしてみたのですよ。 一生懸命に金をためて十二三円たまったからそれを持ってカフェへ行きもっともばからしく使って来ました。 悔恨の情をあてにしたわけですね。 それで書けましたか。 駄目でした。 小説というものはつまらないですねえ。 どんなによいものを書いたところで百年もまえにもっと立派な作品がちゃんとどこかにできてあるのだもの。 もっと新しいもっと明日の作品が百年まえにできてしまっているのですよ。 せいぜい真似るだけだねえ。 そんなことはないだろう。 あとのひとほど巧いと思うな。 どこからそんなだいそれた確信が得られるの。 軽々しくものを言っちゃいけない。 どこからそんな確信が得られるのだ。 よい作家はすぐれた独自の個性じゃないか。 高い個性を創るのだ。 渡り鳥にはそれができないのです。 けれど無性格は天才の特質だともいうね。 あなたも子供ではないのだから莫迦なことはよい加減によさないか。 僕だってこの家をただ遊ばせて置いてあるのじゃないよ。 地代だって先月からまた少しあがったしそれに税金やら保険料やら修繕費用なんかで相当の金をとられているのだ。 ひとにめいわくをかけて素知らぬ顔のできるのはこの世ならぬ傲慢の精神かそれとも乞食の根性かどちらかだ。 甘ったれるのもこのへんでよし給え。 あああ。 こんな晩に私が笛でも吹けたらなあ。 おおやさん。 電燈をとめられているのです。 夜爪を切ると死人が出るそうですね。 この風呂で誰か死んだのですよ。 おおやさん。 このごろは私爪と髪ばかり伸びて。 おおやさん。 お正月早々こんな話をするのもなんですけれど私はいまほんとうに気が狂いかけているのです。 うちの座敷へ小さい蜘蛛がいっぱい出て来て困っています。 このあいだひとりで退屈まぎれに火箸の曲ったのを直そうと思ってかちんかちん火鉢のふちにたたきつけていたらあなた女房が洗濯を止し眼つきをかえて私の部屋へかけこんで来ましてねえてっきり気ちがいになったと思ったそう言うのですよ。 かえって私のほうがぎょっとしました。 あなたお金ある。 いやいいんです。 それでもうこの二三日すっかりくさってお正月もうちではわざとなんの仕度もしないのですよ。 ほんとうにわざわざおいで下さいましたのに。 私たちなんのおかまいもできませんし。 新しい奥さんができたのですか。 ああ。 昨年の暮からまたこっちへ来ましたのでございますよ。 それは。 こっちが恋いしくなったものですから。 木下さんはどうしています。 相変らずでございます。 ほんとうに相すみません。 困るですね。 僕はこのあいだ喧嘩をしてしまいました。 いったい何をしているのです。 だめなんでございます。 まるで気ちがいですの。 でもあれで何かきっと考えていますよ。 ええ。 華族さんになってそれからお金持ちになるんですって。 いや。 そんなことでなしに何かお仕事でもはじめていませんか。 もう骨のずいからの怠けものです。 どうしたのでしょう。 失礼ですがいくつなのですか。 四十二歳だとか言っていましたが。 さあ。 まだ三十まえじゃないかしら。 うんと若いのでございますのよ。 いつも変りますのではっきりは私にもわかりませんのですの。 どうするつもりかな。 勉強なんかしていないようですね。 あれで本でも読むのですか。 いいえ新聞だけ。 新聞だけは感心に三種類の新聞をとっていますの。 ていねいに読むことよ。 政治面をなんべんもなんべんも繰りかえして読んでいます。 友だちもないようですね。 ええ。 みんなに悪いことをしていますからもうつきあえないのだそうです。 どんな悪いことを。 それがつまらないことなのですの。 ちっともなんともないことなのです。 それでも悪いことですって。 あのひとものの善し悪しがわからないのでございますのよ。 そうだ。 そうです。 善いことと悪いことがさかさまなのです。 いいえ。 はっきりさかさまならまだいいのでございます。 目茶目茶なんですのよそれが。 だから心細いの。 逃げられますわよあれじゃ。 あのひとそれはごきげんを取るのですけれど。 私のあとに二人も来ていましたそうですね。 ええ。 季節ごとに変えるようなものだわ。 真似しましたでしょう。 なんです。 真似をしますのよあのひと。 あのひとに意見なんてあるものか。 みんな女からの影響よ。 文学少女のときには文学。 下町のひとのときには小粋に。 わかってるわ。 まさか。 そんなチエホフみたいな。 そんならいま木下さんが骨のずいからのものぐさをしているのはつまりあなたを真似しているというわけなのですね。 ええ。 私そんな男のかたが好きなの。 もすこしまえにそれを知ってくださいましたなら。 でももうおそいの。 私を信じなかった罰よ。 むかえに来たのだよ。 今晩は。 おおやさん。 なにかやっていますか。 もうほって置いて下さい。 そのほかに話すことがないじゃあるまいし。 私はねこのあいだから手相をやっていますよ。 ほら太陽線が私のてのひらに現われて来ています。 ほら。 ねね。 運勢がひらける証拠なのです。 前略。 ――なるほど道化の華の方が作者の生活や文学観を一杯に盛っているが私見によれば作者目下の生活に厭な雲ありて才能の素直に発せざる憾みあった。 道化の華。 海。 僕。 海。 僕。 道化の華。 道化の華。 作者目下の生活に厭な雲ありて云々。 世間。 金銭関係。 まあそれでもよかった。 無難でよかった。 世間。 間抜け。 あこれはお仕事中ですね。 いやなに。 キクちゃん。 こないだあなたの未来の旦那さんに逢ったよ。 そう。 どうでした。 すこうしキザね。 そうでしょう。 まあでもあんなところさ。 そりゃもう僕にくらべたらどんな男でもあほらしく見えるんだからね。 我慢しな。 そりゃそうね。 とめてくれ。 うちまで歩いて行けそうもないんだ。 このままで寝ちまうからね。 たのむよ。 お寒くありません。 いや寒くない。 窓から小便してもいいかね。 かまいませんわ。 そのほうが簡単でいいわ。 キクちゃんも時々やるんじゃねえか。 停電ですの。 こりゃいけねえ。 キクちゃんの机の上にクレーヴの奥方という本があったね。 あの頃の貴婦人はね宮殿のお庭やまた廊下の階段の下の暗いところなどで平気で小便をしたものなんだ。 窓から小便をするという事もだから本来は貴族的な事なんだ。 お酒お飲みになるんだったらありますわ。 貴族は寝ながら飲むんでしょう。 いや貴族は暗黒をいとうものだ元来が臆病なんだからね。 暗いとこわくて駄目なんだ。 蝋燭が無いかね。 蝋燭をつけてくれたら飲んでもいい。 どこへ置きましょう。 燭台は高きに置けとバイブルに在るから高いところがいい。 その本箱の上へどうだろう。 お酒は。 コップで。 深夜の酒はコップに注げとバイブルに在る。 まだもう一ぱいぶんくらいございますわ。 いやこれだけでいい。 さあもう一眠りだ。 キクちゃんもおやすみ。 この蝋燭は短いね。 もうすぐなくなるよ。 もっと長い蝋燭が無いのかね。 それだけですの。 足袋をおぬぎになったら。 なぜ。 そのほうがあたたかいわよ。 おやこの子はまたおしっこ。 おしっこをたれるたんびにこの子はわなわなふるえる。 僕はたしかだ。 誰も知らない。 だるま寒くないか。 寒くない。 ほんとうに寒くないか。 寒くない。 ほんとうに。 寒くない。 この子はだるまがお好きなようだ。 いつまでも黙ってだるまを見ている。 坊や痛いか。 痛いか。 狐の嫁入り婿さん居ない。 そうもく。 草木。 修ッちゃあ。 修ッちゃあ。 虚構の春。 小説。 先日お母上様のお言いつけによりお正月用の餅と塩引一包キウリ一|樽お送り申し上げましたところ御手紙に依ればキウリ不着の趣き御手数ながら御地停車場を御調べ申し御返事|願上候以上は奥様へ御申伝え下されたく以下二三言私明けて二十八年間十六歳の秋より四十四歳の現在まで津島家出入りの貧しき商人全く無学の者に候が御無礼せんえつわきまえつつの苦言いまは延々すべき時に非ずと心得られ候まま汗顔平伏お耳につらきこと開陳暫時おゆるし被下度候。 噂に依ればこのごろ又々借銭の悪癖萌え出で一面識なき名士などにまで借銭の御申込しかも犬の如き哀訴歎願おまけに断絶を食いてんとして恥じず借銭どこが悪いお約束の如くに他日返却すれば向うさまへもごめいわくは無しこちらも一命たすかる思いどこがわるいと先日もそれがために奥様へ火鉢投じてガラス戸二枚破損の由話半分としても暗涙とどむる術ございませぬ。 貴族院議員勲二等の御家柄貴方がた文学者にとっては何も誇るべき筋みちのものに無之古くさきものに相違なしと存じられ候がお父上おなくなりのちの天地一人のお母上様を思い私めに顔たてさせ然るべしと存じ候。 『われひとりを悪者として勘当除籍家郷追放の現在いよいよわれのみをあしざまにののしりそれがために四方八方うまく治まり居る様子』などのお言葉おうらめしく存じあげ候。 今しばしお名あがり家ととのうたるのちは御兄上様御姉上様何条もってあしざまに申しましょうや。 必ずその様の曲解御無用に被存候。 先日も山木田様へお嫁ぎの菊子姉上様よりしんからのおなげき承り私芝居のようなれども政岡の大役をお引き受け申しきらいのお方なればたとえ御主人筋にてもかほどの世話はごめんにて私のみに非ず菊子姉上様も貴方へのお世話のため御嫁先の立場も困ることあるべしと存じられ候ところもむりしての御奉仕ゆえ本日かぎりよそからの借銭は必ず必ず思いとどまるよう万やむを得ぬ場合は当方へ御申越|願度くでき得る限りの御辛抱ねがいたくこのこと兄上様へ知れると一大事につき今回の所は私が一時御立替御用立|申上候間此の点お含み置かれるよう願上候。 重ねて申しあげ候が私とてきらいのお方にはかれこれうるさく申し上げませぬこのことお含みの上御養生御自愛まことに願上候。 着物が来ている。 中畑さんから送って来たのだ。 なんだかいい着物らしいよ。 はじめましょうはじめましょう。 修治さんちょっと。 今日はおめでとうございます。 きょうの料理はまずしい料理で失礼ですがこれは北さんと私とが修治さんのためにまかなったものですから安心してお受けなさって下さい。 私たちも先代以来なみなみならぬお世話になって居りますからこんな機会に少しでもお報いしたいと思っているのです。 中畑さんのお骨折りです。 このたびの着物も袴も中畑さんがあなたの御親戚をあちこち駈け廻ってほうぼうから寄附を集めて作って下さったのですよ。 まあしっかりおやりなさい。 結納金を半分かえしてもらえねえかな。 あてにしていたんだ。 何をおっしゃる。 あなたはそれだからいけない。 なんて事を考えているんだ。 あなたはそれだからいけない。 少しもよくなっていないじゃないですか。 そんな事を言うなんてまるでだめじゃないですか。 はなむけはなむけ。 太宰先生は君たちに親切ですかね。 ええたいへん親切よ。 兄さんからおゆるしが出たのですか。 出たわけじゃ無いんでしょう。 それは兄さんの立場としてまだまだゆるすわけにはいかない。 だからそれはそれとして私の一存であなたを連れて行くのです。 なに大丈夫です。 あぶないな。 のこのこ出掛けて行って玄関払いでも食わされて大きい騒ぎになったらそれこそ藪蛇ですからね。 も少しこのままそっとして置きたいな。 そんな事はない。 私が連れて行ったら大丈夫。 考えてもごらんなさい。 失礼な話ですがおくにのお母さんだってもう七十ですよ。 めっきり此頃衰弱なさったそうだ。 いつどんな事になるかわかりやしませんよ。 その時このままの関係でいたんじゃまずい。 事がめんどうですよ。 そうですね。 そうでしょう。 だからいま此の機会に私が連れて行きますからまあお家の皆さんに逢って置きなさい。 いちど逢って置くとこんど何事が起ってもあなたも気易くお家へ駈けつけることが出来るというものです。 そんなにうまくいくといいけどねえ。 なあにうまくいきますよ。 あなたは柳生十兵衛のつもりでいなさい。 私は大久保彦左衛門の役を買います。 お兄さんは但馬守だ。 かならずうまくいきますよ。 但馬守だって何だって彦左の横車にはかないますまい。 けれども。 なるべくならそんな横車なんか押さないほうがいいんじゃないかな。 僕にはまだ十兵衛の資格はないし下手に大久保なんかが飛び出したらとんでもない事になりそうな気がするんだけど。 責任を持ちます。 結果がどうなろうと私が全部責任を負います。 大舟に乗った気で彦左にここはまかせて下さい。 風向きが変りましたよ。 実は兄さんが東京へ来ているんです。 なあんだ。 それじゃこの旅行は意味が無い。 いいえ。 くにへ行って兄さんに逢うのが目的じゃない。 お母さんに逢えたらいいんだ。 私はそう思いますよ。 でも兄さんの留守に僕たちが乗り込むのはなんだか卑怯みたいですが。 そんな事は無い。 私はゆうべ兄さんに逢ってちょっと言って置いたんです。 修治をくにへ連れて行くと言ったのですか。 いいえそんな事は言えない。 言ったら兄さんは北君そりゃ困るとおっしゃるでしょう。 内心はどうあってもとにかくそうおっしゃらなければならない立場です。 だから私はゆうべお逢いしてもなんにも言いませんよ。 言ったらぶちこわしです。 ただね私は東北のほうにちょっと用事があってあすの七時の急行で出発するつもりだけどついでに津軽のお宅のほうへ立寄らせていただくかも知れませんよとだけ言って置いたのです。 それでいいんです。 兄さんが留守ならかえって都合がいいくらいだ。 北さんが青森へ遊びに行くと言ったら兄さん喜んだでしょう。 ええお家のほうへ電話してほうぼう案内するように言いつけようとおっしゃったのですが私は断りました。 兄さんはいつ帰るのかしら。 まさかきょう一緒の汽車で――。 そんな事はない。 茶化しちゃいけません。 こんどは町長さんを連れて来ていましたよ。 ちょっと手数のかかる用事らしい。 くにへ行っても兄さんに逢えないとなるとだいぶ張合いが無くなりますね。 なに兄さんとは此の後またいつでもお逢い出来ますよ。 それよりも問題はお母さんです。 なにせ七十いや六十九ですかね。 おばあさんにも逢えるでしょうね。 もう九十ちかい筈ですけど。 それから五所川原の叔母にも逢いたいし――。 もちろん皆さんにお逢い出来ます。 あなたを連れて行くという事をはっきり中畑さんに知らせると中畑さんも立場に困るのです。 中畑さんは知らない何も知らないそうして五所川原の停車場に私を迎えに来ます。 そうしてはじめてあなたを見ておどろくという形にしなければ中畑さんはあとで兄さんに対して具合いの悪い事になります。 中畑君は知っていながらなぜとめなかったと言われるかもしれません。 けれども中畑さんは知らないのだ五所川原の停車場へ私を迎えに来てはじめて知って驚いたのだ。 そうしてまあせっかく東京からやって来たのだしひとめお母さんに逢わせましたという事になれば中畑さんの責任も軽い。 あとは全部私が責任を負いますが私は大久保彦左衛門だから但馬守が怒ったって何だって平気です。 でも中畑さんは知っているんでしょう。 だからそこが微妙なところなのです。 七ジタツ。 それでもういいのです。 新ハムレット。 いくら。 ――せん。 え。 ――せん。 北さんいまの駅売の言葉がわかりましたか。 そうでしょう。 わからないでしょう。 僕でさえわからなかったんだ。 いやきざに江戸っ子ぶってこんな事を言うのじゃないのです。 僕だって津軽で生れて津軽で育った田舎者です。 津軽なまりを連発して東京では皆に笑われてばかりいるのです。 けれども十年故郷を離れて突然純粋の津軽言葉に接したところがわからない。 てんでわからなかった。 人間ってあてにならないものですね。 十年はなれているともうお互いの言葉さえわからなくなるんだ。 来ていなければならぬ筈だが。 来た。 来た。 これは私の責任ですからね。 あとは万事よろしく。 承知承知。 この辺はみんな兄さんの田でしょうね。 そうです。 見渡すかぎりみんなそうです。 けれどもことしは不作ですよ。 案外ちいさいな。 いいえどうして。 お城です。 お墓。 修ッちゃあよく来たナ。 逢いたいと思うていたね。 ワレはなんにも言わねどもいちど逢いたいと思うていたね。 飲みなさい。 うん。 便所は。 なあんだ。 ご自分の家へ来てそんな事を聞くひとがありますか。 池の水蓮は今年はまあ三十二も咲きましたよ。 嘘でも何でも無い三十二咲きましたてば。 受け取って下さいよ。 お寺参りのお賽銭か何かに使って下さい。 僕にはお金がたくさんあるんだ。 僕が自分で働いて得たお金なんだから受け取って下さい。 どうしたのです。 痩せましたね。 ええ盲腸炎をやりましてね。 そいつあいけない。 やっぱり無理だったのですね。 なにせあの時の北さんは強行軍だったからなあ。 壽。 ひまわり。 ひまわり。 ひまわり。 やあたいへん結構な住居じゃないか。 戦災をまぬかれたとは悪運つよしだ。 同居人がいないのかね。 それはどうもぜいたくすぎるね。 いやもっとも女ばかりの家庭でしかもこんなにきちんとお掃除の行きとどいている家にはかえって同居をたのみにくいものだ。 同居させてもらっても窮屈だろうからね。 しかし奥さんがこんなに近くに住んでいるとは思わなかった。 お家がM町とは聞いていたけどしかし人間てまが抜けているものですね僕はこっちへ流れて来てもう一年ちかくなるのに全然ここの標札に気がつかなかった。 この家の前をよく通るんですがねマーケットに買い物に行く時はかならずここの路をとおるんですよ。 いや僕もこんどの戦争ではひどいめに遭いましてね結婚してすぐ召集されてやっと帰ってみると家は綺麗に焼かれて女房は留守中に生れた男の子と一緒に千葉県の女房の実家に避難していて東京に呼び戻したくても住む家が無いという現状ですからねやむを得ず僕ひとりそこの雑貨店の奥の三畳間を借りて自炊生活ですよ今夜はひとつ鳥鍋でも作って大ざけでも飲んでみようかと思ってこんな買物籠などぶらさげてマーケットをうろついていたというわけなんだがやけくそですよもうこうなればね。 自分でも生きているんだか死んでいるんだかわかりやしない。 お気の毒に。 ウメちゃんすみません。 やあ鳥鍋ですか失礼ながら奥さん僕は鳥鍋にはかならず糸こんにゃくをいれる事にしているんだがねおねがいしますついでに焼豆腐があるとなお結構ですな。 単にねぎだけでは心細い。 ウメちゃんすみません。 そうかねご主人もついに生死不明かいやもうそれは十中の八九は戦死だね仕様が無い奥さん不仕合せなのはあなただけでは無いんだからね。 僕なんかは奥さん。 住むに家無く最愛の妻子と別居し家財道具を焼き衣類を焼き蒲団を焼き蚊帳を焼き何も一つもありやしないんだ。 僕はね奥さんあの雑貨店の奥の三畳間を借りる前にはね大学の病院の廊下に寝泊りしていたものですよ。 医者のほうが患者よりも数等みじめな生活をしている。 いっそ患者になりてえくらいだった。 ああ実に面白くない。 みじめだ。 奥さんあなたなんかいいほうですよ。 ええそうね。 そう思いますわ。 本当に私なんか皆さんにくらべて仕合せすぎると思っていますの。 そうですともそうですとも。 こんど僕の友人を連れて来ますからねみんなまあこれは不幸な仲間なんですからねよろしく頼まざるを得ないというようなわけなんですね。 そりゃもう。 光栄でございますわ。 奥さんすみませんがこのこたつに一つ火をいれて下さいな。 それからまたこないだみたいにお酒の算段をたのみます。 日本酒が無かったら焼酎でもウイスキイでもかまいませんからねそれから食べるものはあそうそう奥さん今夜はねすてきなお土産を持参しました召上れ鰻の蒲焼。 寒い時は之に限りますからね一|串は奥さんに一串は我々にという事にしていただきましょうかそれからおい誰か林檎を持っていた奴があったな惜しまずに奥さんに差し上げろインドといってあれは飛び切り香り高い林檎だ。 奥さまなぜあんな者たちと雑魚寝なんかをなさるんです。 私あんなだらしない事はきらいです。 ごめんなさいね。 私いやと言えないの。 奥さまずいぶんおやつれになりましたわね。 あんなお客のつき合いなんかおよしなさいよ。 ごめんなさいね。 私には出来ないの。 みんな不仕合せなお方ばかりなのでしょう。 私の家へ遊びに来るのがたった一つの楽しみなのでしょう。 いやいやそうじゃあるまい。 たしかに君とあやしいと俺はにらんでいる。 あのおばさんだって君。 何を言ってやがる。 俺は愛情でここへ遊びに来ているんじゃないよ。 ここはね単なる宿屋さ。 ウメちゃんすまないけどねあすの朝はお風呂をわかして下さいね。 今井先生は朝風呂がお好きですから。 だからそれだから私はお客が大きらいだったのです。 こうなったらもうあのお客たちがお医者なんだからもとのとおりのからだにして返してもらわなければ私は承知できません。 だめよそんな事をお客さまたちに言ったら。 お客さまたちは責任を感じてしょげてしまいますから。 だってこんなにからだが悪くなって奥さまはこれからどうなさるおつもり。 やはり起きてお客の御接待をなさるのですか。 雑魚寝のさいちゅうに血なんか吐いたらいい見世物ですわよ。 里へいちど帰ります。 ウメちゃんが留守番をしていてお客さまにお宿をさせてやって下さい。 あの方たちにはゆっくりやすむお家が無いのですから。 そうしてね私の病気の事は知らせないで。 やこれはどこかへお出かけ。 いいんですのかまいません。 ウメちゃんすみません客間の雨戸をあけて。 どうぞ先生おあがりになって。 かまわないんですの。 笠井一。 厳粛のことを語る。 と。 なあんてね。 人らしい人になりたい。 雉も泣かずば撃たれまいに。 狂言の神。 江の島の海は殺風景であった。 深田久弥の間抜野郎。 精神の女性。 一対一。 そのうち勝負をつけましょうと言い私もそれをたのしみにしていたのに。 人間のもっとも悲痛の表情は涙でもなければ白髪でもなしまして眉間の皺ではない。 最も苦悩の大いなる場合人はだまって微笑んでいるものである。 拝復。 お言いつけの原稿用紙五百枚御入手の趣小生も安心いたしました。 毎度の御引立あり難く御礼申しあげます。 しかもこのたびの御手簡には小生ごときにまで誠実懇切の御忠告あまり文壇通をふりまわさぬようとの御言葉。 何だかどしんとたたきのめされた気持でその日は自転車をのり廻しながら一日中考えさせられました。 というのは実を言えば貴下と吉田さんにはそういった苦言をいつの日か聞かされるのではないかとかねて予感といった風のものがあってこの痛いところをざくり突かれた形だったからです。 然しそう言いながらも御手紙はうれしく拝見いたしました。 そうして貴下の御心配下さる事柄に対して小生としても既に訂正しつつあるということを御報告したいのです。 それは前陳の予感があったというそれだけでもうなずいて頂けると思います。 何はしかれ御手紙をうれしく拝見したことをもう一度申し上げて万事は御察し願うと共に貴下をして小生を目してきらいではない程のことでは済まされぬ本当に好きだといって貰うように心掛けることにいたします。 吉田さんへも宜しく御伝え下され度小生と逢っても小生が照れぬよう無言のうちに有無相通ずるものあるよう御取はからい置き下され度右御願い申しあげます。 なおこの事既に貴下のお耳に這入っているかも知れませんが英雄文学社の秋田さんのおっしゃるところに依れば先々月の所謂新人四名の作品のうち貴下のが一番評判がよかったのでまたこの次に依頼することになっているという話です。 私は商人のくせにひとに対して非常に好ききらいがあってすきな人のよい身のうえ話は自分のことのようにうれしいのです。 私は貴下が好きなので如上の自分の喜びを頒つ意味と若し秋田さんの話が貴下に初耳ならば御仕事をなさる上にこの御知らせが幾分なりとも御役に立つのではないかと実はこの手紙を書きました。 そうして貴下の潔癖が私のこのやりかたを又怒られるのではないかとも一応は考えてみましたが私の気持ちが純粋である以上若しこれを怒るならばそれは怒る方が間違いだと考えて敢えてこの御知らせをする次第です。 但し貴下に考慮に入れて貰いたいのは私のきらいな人というのは私の店の原稿用紙をちっとも買ってくれない人を指して居るのではなく文壇に在って芸術家でもなんでもない心の持主を意味して居ります。 尠くともこの間に少しも功利的の考えを加えて居らぬことです。 せめてこのことだけでも貴下にかって貰いたいものです。 ――まだまだ言いたいことがあるのですけれども私の不文が貴下をして誤解させるのを恐れるのと明日又かせがなければならぬ身の時間の都合で今はこれをやめて雨天休業の時にでもゆっくり言わせて貰います。 なお秋田さんの話は深沼家から聞きましたが貴下にこの手紙書いたことが知れていらぬ饒舌したように思われては心外であるのみならず秋田さんに対しても一寸責任を感じますので貴下だけの御含みにして置いて頂きたいと思います。 然し私は話の次手にお得意先の二三の作家へただまんぜんと太宰さんのが一ばん評判がよかったのだそうですね位のことはいうかも分りません。 そうしてかかることについても作家の人物|月旦やめよという貴下の御|叱正の内意がよく分るのですけれども私には言いぶんがあるのです。 まだまだ言いたいことがあると申し上げる所以なのです。 いずれ書きます。 どうぞからだを大事にして下さい。 不文意をつくしませぬが御判読下さいまし。 十一月二十八日深夜二時。 十五歳八歳当歳の寝息を左右に聞きながら蒲団の中腹這いのままの無礼を謝しつつ。 田所|美徳。 太宰治様。 拝啓。 歴史文学所載の貴文愉快に拝読いたしました。 上田など小生一高時代からの友人ですが人間的に実にイヤな奴です。 而るに吉田潔なるものが何か十一月号で上田などの肩を持ってぶすぶすいってるようですが若し宜しいようでしたら匿名でも結構ですから何かアレについて一言御書き下さる訳には参りませんかしら。 十二月号を今|編輯していますので一両日中に頂けますと何よりです。 どうか御聞きとどけ下さいますよう御願い申します。 十一月二十九日。 栗飯原梧郎。 太宰治様。 ヒミツ絶対に厳守いたします。 本名で御書き下さらば尚うれしく存じます。 拝復。 めくら草子の校正たしかにいただきました。 御配慮恐入ります。 只今校了をひかえ何かといそがしくしております。 いずれ。 匆々。 相馬閏二。 近頃君は妙に威張るようになったな。 恥かしいと思えよ。 いまさら他の連中なんかと比較しなさんな。 お池の岩の上の亀の首みたいなところがあるぞ。 稿料はいったら知らせてくれ。 どうやら君より俺の方が楽しみにしているようだ。 たかだか短篇二つや三つの註文でもう天下の太宰治じゃあちょいと心細いね。 君は有名でない人間の嬉しさを味わないで済んでしまったんだね。 吉田潔。 太宰治へ。 ダヌンチオは十三年間黙って湖畔で暮していた。 美しいことだね。 何かの本で君のことを批評した言葉のなかに傲慢の芸術云々という個所があった。 評者は君の芸術がそれを失くした時一層面白い云々と述べていた。 ぼくはこの意見に反対だ。 ぼくには太宰治が泣き虫に見えてならぬ。 ぼくが太宰治を愛する所以でもあります。 暴言ならば多謝。 この泣き虫はしかし岩のようだ。 飛沫を浴びて歯を食いしばっている――。 ずいぶん逢わないな。 ――Heisnotwhathewas.か。 世田谷林彪太郎。 太宰治様。 貴兄の短篇集のほうは年内に少しでも校正刷お目にかけることができるだろうと存じます。 貴兄の御厚意身に沁みて感佩しています。 或いは御厚意裏切ること無いかと案じています。 では取急ぎ要用のみ。 前略後略のまま。 大森書房内高折茂。 太宰学兄。 僕はこの頃|緑雨の本をよんでいます。 この間うちは文部省出版の明治天皇御集をよんでいました。 僕は日本民族の中で一ばん血統の純粋な作品を一度よみたく存じとりあえず歴代の皇室の方々の作品をよみました。 その結果明治以降の大学の俗学たちの日本芸術の血統上の意見の悉皆を否定すべき見解にたどりつきつつあります。 君はいつも筆の先を尖がらせてものかくでしょう。 僕は君に初めて送る手紙のために筆の先をハサミで切りました。 もちろんこのハサミは検閲官のハサミでありません。 その上君はダス・マンということを知っているでしょう。 デル・マンではありません。 だから僕は君の作品に於て作品からマンの加減乗除を考えません。 自信を持つということは空中|楼閣を築く如く愉快ではありませんか。 ただそのために君は筆の先をとぎ僕はハサミを使いそのときいささかの滞りもなく僕も人を理解したと称します。 法隆寺の塔を築いた大工はかこいをとり払う日まで建立の可能性を確信できなかったそうです。 それでいてこれは凡そ自信とは無関係と考えます。 のみならず彼は建立が完成されても囲をとり払うとともに塔が倒れてもやはり発狂したそうです。 こういう芸術体験上の人工の極致を知っているのはおそらく君でしょう。 それゆえあなたは表情さえ表現しようとする当節誇るべき唯一のことと愚按いたします。 あなたが御病気にもかかわらず酒をのみ煙草を吸っていると聞きました。 それであなたは朝や夕べに手洗をつかうことも誇るがいいでしょう。 そういう精神が涵養されなかったために未だに日本新文学が傑作を生んでいない。 あなたはもっと誇りを高く高くするがいい。 永野喜美代。 太宰治君。 わずかな興を覚えた時にも彼はそれを確める為に大声を発して笑ってみた。 ささやかな思い出に一滴の涙が眼がしらに浮ぶときにも彼はここぞと鏡の前に飛んでゆき自らの悲歎に暮れたる侘しき姿をほれぼれと眺めた。 取るに足らぬ女性の嫉妬から些かの掠り傷を受けても彼は怨みの刃を受けたように得意になりたかだか二万|法の借金にも彼はなどと傲語してみる。 彼は偉大なのらくら者悒鬱な野心家華美な薄倖児である。 彼を絶えず照した怠惰の青い太陽は天が彼に賦与した才能の半ばを蒸発させ蚕食した。 巴里若しくは日本高円寺の恐るべき生活の中に往々見出し得るこの種の『半偉人』の中でもサミュエルは特に『失敗せる傑作』を書く男であった。 彼は彼の制作よりも寧ろ彼の為人の裡に詩を輝かす病的空想的の人物であった。 未だ見ぬ太宰よ。 ぶしつけごめん下さい。 どうやら君は早合点をしたようだ。 君はボオドレエルを掴むつもりでボ氏の作品中の人物を両眼充血させて追いかけていた様だ。 我は花にして花作り我は傷にして刃打つ掌にして打たるる頬四肢にして拷問車死刑囚にして死刑執行人。 それではかなわぬ。 むべなるかな君を作中人物的作家よと称して扇のかげひそかに苦笑をかわす宗匠作家このごろ更に数をましている有様。 しっかりたのみましたよだあさん。 ほほほほほ。 ごぞんじより。 笑っちゃいかん。 僕は金森重四郎という三十五歳の男だ。 妻もいることだしばかにするな。 いったいどうしたというのだ。 ばか。 拝啓。 益々御健勝の段慶賀の至りに存じます。 さて今回本紙に左の題材にて貴下の御寄稿をお願い致したく御多忙中恐縮ながら左記条項お含みの上|何卒御承引のほどお願い申上げます。 一締切は十二月十五日。 一分量は四百字詰原稿十枚。 一題材は春の幽霊についてコント。 寸志一枚八円にて何卒。 不馴れの者ゆえ失礼の段多かるべしと存じられ候が只管御|寛恕御承引のほどお願い申上げます。 師走九日。 『大阪サロン』編輯部高橋安二郎。 なお挿絵のサンプルとして三画伯の花鳥図同封御撰定のうえ大体の図柄御指示下されば幸甚に存上候。 前略。 ゆるし玉え。 新聞きり抜きお送りいたします。 なぜこんなものを切り抜いて置いたのか私自身にも判明せず。 今夜フランス製百にちかい青蛙あそんでいる模様の紅とみどりの絹笠かぶせた電気スタンドを十二円すこしで買いました。 書斎の机上に飾りひさしぶりの読書したくなって机のまえに正坐しまず机の引き出しを整理しさいころが出て来たので二三度いや正確に三度机のうえでころがしてみてそれから片方に白いふさふさの羽毛を附したる竹製の耳掻きを見つけて耳穴を掃除し二十種にあまるジャズ・ソングの歌詞をしるせる豆手帳のペエジをめくり小声で歌い歌いおわって引き出しの隅一粒の南京豆をぽんと口の中にほうり込む。 かなしい男なのです。 そのとき出て来たものはこの同封の切り抜きです。 何かお役に立ち得るような気がいたします。 私は白髪の貴方を見てから死にたい。 ことしの秋私はあなたの小説をよみました。 へんな話ですけれども私は友人のところであの小説を読んでそれから酒を呑んでそのうちにおうおう大声を放って泣いて途中も大声で泣きながら家へかえってふとんを頭からかぶって寝てぐっすりと眠りました。 朝起きたときには全部忘却して居りましたが今夜この切り抜きがまた貴方を思い出させました。 理由は私にもよく呑みこめませぬがとにかくお送り申します。 ――『慢性モヒ中毒。 無苦痛根本療法発明完成。 主効慢性|阿片モルヒネパビナールパントポンナルコポンスコポラミンコカインヘロインパンオピンアダリン等中毒。 白石国太郎先生創製ネオ・ボンタージン。 文献無代贈呈。 』――『寄席芝居の背景は約十枚でこと足ります。 野面。 塀外。 海岸。 川端。 山中。 宮前。 貧家。 座敷。 洋館なぞでこれがどの狂言にでも使われます。 だから床の間の掛物は年が年中朝日と鶴。 警察病院事務所応接室なぞは洋館の背景一つで間に合いますしまた云々。 』――『チャプリン氏を総裁に創立された馬鹿笑いクラブ。 左記の三十種の事物について語れば即時除名のこと。 四十歳。 五十歳。 六十歳。 白髪。 老妻。 借銭。 仕事。 子息令嬢の思想。 満洲国。 その他。 』――あとの二つは講談社の本の広告です。 近日短篇集お出しの由この広告文を盗みなさい。 お読み下さい。 ね。 うまいもんでしょう。 私に油断してはいけません。 私は貴方の右足の小指の黒い片端爪さえ知っているのですよ。 この五葉の切りぬきを貴方はこっそり赤い文箱に仕舞い込みました。 どうです。 いやいや無理して破ってはいけません。 私を知っていますか。 知る筈はない。 私は二十九歳の医者です。 ネオ・ボンタージンの発明者しかも永遠の文学青年白石国太郎先生でありますぞ。 白石国太郎は冗談ですがいつでもおいで下さい。 私はばかのように見えながら実社会においてはなかなかのやり手なんだそうです。 お手紙くだされば私の力で出来る範囲内でベストをつくします。 貴方はもっともっと才能を誇ってよろし。 芝区赤羽町一番地白石生。 太宰治大先生。 或る種の実感を以って『大先生』と一点不自然でなくお呼びできます。 大先生とはむかしはばかの異名だったそうですがいまはそんなことがない様で何よりと愚考いたします。 治兄。 兄の評判大いによろしい。 そこで何か随筆を書くよう学芸のものに頼んだところ大乗気で却って向うから是非書かしてくれということだ。 新人の立場からといったようなものがいい由。 七八枚。 二日か三日にわけて掲載。 アプトデートのテエマで書いてくれ。 期日は明後日正午まで。 稿料一枚二円五十銭。 よきもの書け。 ちかいうちに遊びに行く。 材料あげるから政治小説かいてみないか。 君にはまだ無理かな。 東京日日新聞社政治部小泉邦録。 謹啓。 一面識ナキ小生ヨリノ失礼ナル手紙御読了|被下度候。 小生日本人ノウチデ宗教家トシテハ内村鑑三氏芸術家トシテハ岡倉天心氏教育家トシテハ井上哲次郎氏以上三氏ノ他ノ文章ハ文章ニ似テ文章ニアラザルモノトシテモッパラ洋書ニ親シミツツアルモ最近貴殿ノ文章発見シ世界ニ類ナキ銀鱗躍動マコトニ間一髪アヤウクハカナキ高尚ノ美ヲ蔵シ居ルコト観破|仕リ以来貴作ヲ愛読シ居ル者ニテ最近貴殿著作集『晩年』トヤラム出版ノオモムキ聞キ及ビ候ガ御面倒ナガラ発行所ト如何ナル御作集録致サレ候ヤマタ貴殿ノ諸作ニ対スル御自身ノ感懐ヲモ御モラシ被下度伏シテ願上候。 御返信ネガイタク参銭切手二枚。 葉書一枚。 同封仕リ候。 封書葉書御意ノ召スガママニ御染筆ネガイ上候。 ナオマタ切手モシクハ葉書御不用ノ際ハソノママ御返送ノホドオ願イ申上候。 太宰治殿。 清瀬次春。 二伸。 当地ハ成田山新勝寺オヨビ三里塚ノ近クニ候エバ当地ニ御光来ノ節ハ御案内仕ル可ク候。 俺たち友人にだけでもけちなポオズをよしたらなにか損をするのかね。 ちょっと日本中に類のない愚劣|頑迷の御手簡ただいま覗いてみました。 太宰。 なんだ。 『許す。 』とはなんだ。 馬鹿。 ふんと鼻で笑って両手にまるめて窓から投げたら桐の枝に引かかったっけ。 俺は君よりも優越している人間だし君は君もいうように『ひかれ者の小唄』で生きているのだし僕はもっと正しい欲求で生きている。 君の文学とかいうものがどんなに巧妙なものだか知らないがタカが知れているではないか。 君の文学は猿面冠者のお道化に過ぎんではないか。 僕はいつも思っていることだ。 君はせいぜい一人の貴族に過ぎない。 けれども僕は王者を自ら意識しているのだ。 僕は自分より位の低いものから訳のわからない手紙を貰ったくらいにしか感じなかった。 僕は自分の感情を偽って書いてはいない。 よく読んで見給え。 僕の位は天位なのだ。 君のは人爵に過ぎぬ。 許すなんて芝居の台詞がかった言葉は君みたいの人は僕に向って使えないのだよ。 君は君の身のほどについて話にならんほどの誤算をしている。 ただ君は年齢も若いのだしまだ解らぬことが沢山あるのだし僕にもそういう時代があったのだから黙っていただけの話だ。 君のこのたびの手紙の文章についてはいろいろ解釈してみたが『こんどだけ』という君の誇張された思い上りは許し難い。 きっぱりと黙殺することに腹を決めたのだが恰度今日仕事の机にむかって坐った時ふと返事でも書いてみるかという気になってこれを書いた。 じたい二十歳台の若者と酒汲みかわすなんて厭なものだと思っていたのだ。 君は二十九歳十カ月くらいのところだね。 芸者ひとり招べない。 碁ひとつ打てん。 つけられた槍だ。 いつでもお相手するがしかし君は佐藤春夫ほどのこともない。 僕はあの男のためには春夫論を書いた。 けれども君に対しては常に僕の姿を出して語らなければ場面にならないのだ。 君は長沢伝六と同じように――むろんあれほどひどくはないがけれどもやっぱり僕の価値を知らない。 君は僕の『つぼ』をうったことは曾つてないのだ。 倉田百三か山本有三かね。 『宗教』といわれてその程度のことしか思い浮ばんのかね。 僕は君のダス・ゲマイネを見たと思ったよ。 けれども別に僕は怒りもしなかった。 するとなんだい『ゆるす』っていうのは。 僕は君が『許して呉れ。 』というのをそう表現したのかとさえ思ったほどである。 それからずっと後でなにか道を歩いていた時ははあと漸く多少思ったこともある。 けれどもそれは僕が次第にほんとの姿を現わし始めたことに過ぎないのだ。 あの夜はこの温情家たる僕にひとつの明確な酷点を教示した。 君のゆるせなかったものそれは僕の酷点のひとつに相違ない。 『われ太陽の如く生きん。 』僕の足もとに膝まずいて君が許せないと感じたものを白状して御覧。 君はそういう場合まるで非芸術のように頑固で理由なしにただ左を右と言ったものだが温良に正直にすべてを語って御覧。 誰も聞いていないのだよ。 一生に最初の一度。 嘘でもまたひかれ者の小唄でもないもの。 まともなことを正直に僕に訴えて見給え。 君はなにか錯覚に墜ちている。 僕を太陽のように利用し給え。 この手紙を正当に最後のものにするかも知れぬ。 僕は頑固者は嫌いである。 それは黙殺にしか値しない。 それは田舎者だ。 『君は何を許し難かったのか。 』恥かしがらずに僕に話して見給え。 はじらいを。 君は僕に惚れているのだ。 どうかね。 ゆるすなんて美しい寡婦のようなことを言いなさんな。 僕は君が僕に献身的に奉仕しなければもう船橋の大本教に行かぬつもりだ。 僕たち二三の友人つね日頃どんなに君につくして居るか。 どれだけこらえてゆずってやって居るか。 どれだけ苦しいお金を使って居るか。 きょうの君にはそれら実相を知らせてあげたい。 知ったとたんに君は裏の線路に飛び込むだろう。 さなくば僕の泥足に涙ながして接吻する。 君にしてなおも一片の誠実を具有していたなら。 吉田潔。 拝呈。 過刻は失礼。 『道化の華』早速一読|甚だおもしろく存じ候。 無論及第点をつけ申し候。 『なにひとつ真実を言わぬ。 けれどもしばらく聞いているうちには思わぬ拾いものをすることがある。 彼等の気取った言葉のなかにときどきびっくりするほど素直なひびきの感ぜられることがある。 』という篇中のキイノートをなす一節がそのままうつして以てこの一篇の評語とすることが出来ると思います。 ほのかにもあわれなる真実の蛍光を発するを喜びます。 恐らく真実というものはこういう風にしか語れないものでしょうからね。 病床の作者の自愛を祈るあまり慵斎主人特に一書を呈す。 何とぞおとりつぎ下さい。 十日深夜否十一日朝午前二時頃なるべし。 深沼太郎。 吉田潔様|硯北。 どうだい。 これなら信用するだろう。 いま大わらわでお礼状を書いている始末だ。 太陽の裏には月ありで君からもお礼状を出して置いて下さい。 吉田潔。 幸福な病人へ。 謹啓。 御多忙中を大変恐縮に存じますが本紙新年号文芸面のために左の玉稿たまわりたくよろしくお願いいたします。 一先輩への手紙。 二三枚半。 三一枚二円余。 四今月十五日。 なお御面倒でしょうが同封のハガキで御都合折り返しお知らせ下さいますようお願いいたします。 東京市|麹町区内幸町武蔵野新聞社文芸部長沢伝六。 太宰治様侍史。 おハガキありがとう。 元旦号には是非お願いいたします。 おひまがありましたら十枚以上を書いていただきたい。 小泉君と先般|逢ったが相変らず元気あの男の野性的親愛は実に暖くて良い。 あの男をもっと偉くしたい。 私は明日からしばらく西津軽北津軽両郡の凶作地を歩きます。 今年の青森県農村のさまは全く悲惨そのもの。 とてもまともには見られない生活が行列をなし群落をなして存在している。 貴兄のお兄上は県会の花。 昨今ますます青森県の重要人物らしい貫禄を具えて来ました。 なかなか立派です。 人の応待など出来て来ました。 あのまま伸びたら良い人物になり社会的の働きに於いてもすぐれたる力量を示すのも遠い将来ではございますまい。 二十五歳で町長重役頭取。 二十九歳で県会議員。 男ぶりといい頭脳といいそれに大へんの勉強家。 愚弟太宰治氏なかなかつらかろと御推察申しあげます。 ほんとに。 三日深夜。 粉雪さらさら。 北奥新報社整理部辻田吉太郎。 アザミの花をお好きな太宰君。 太宰先生。 一大事。 きょう学校からのかえりみち本屋へ立ち寄り一時間くらい立読していたが心細いことになっているのだよ。 講談|倶楽部の新年附録全国長者番附を見たが僕の家も君の家もきれいに姿を消して居る。 いやだね。 君の家が百五十万僕のが百十万。 去年までは確かにその辺だった。 毎年僕はあれを覗いて親爺が金ない金ないと言っても安心していたのだがこんどだけは本当らしいぞ。 対策を考究しようじゃないか。 こまった。 こまった。 清水忠治。 太宰先生か。 冠省。 へんな話ですがお金が必要なんじゃないですか。 二百八十円を限度として東京朝日新聞よろず案内欄へジュムゲジュムゲジュムゲのポンタン百円食いたい。 呑みたい。 イモクテネ。 と小さい広告おだしになればその日のうちにお金お送り申します。 五年まえおたがいに帝大の学生でした。 あなたは藤棚の下のベンチに横わりいい顔をして昼寝していました。 私の名はカメよカメよと申します。 きょうは妙に心もとない手紙拝見。 熱の出る心配があるのにビイルをのんだというのは君の手落ちではないかと考えます。 君に酒をのむことを教えたのは僕ではないかと思いますが万一にも君が酒で失敗したなら僕の責任のような気がして僕は甚だ心苦しいだろう。 すっかり健康になるまで酒は止したまえ。 もっとも酒について僕は人に何も言う資格はない。 君の自重をうながすだけのことである。 送金を減らされたそうだが減らされただけ生活をきりつめたらどんなものだろう。 生活くらい伸びちぢみ自在になるものはない。 至極簡単である。 原稿もそろそろ売れて来るようになったので書きなぐらないように書きためて大きい雑誌に送ること重要事項である。 君は世評を気にするから急に淋しくなったりするのかもしれない。 押し強くなくては自滅する。 春になったら房州南方に移住して漁師の生活など見ながら保養するのも一得ではないかと思います。 いずれは仕事に区切りがついたら萱野君といっしょに訪ねたいと思います。 しばらく会わないので萱野君の様子はわからない。 きょう只今徹夜にて仕事中後略のまま。 津島修二様。 早川生。 玉稿昨日|頂戴しました。 先日貴兄からのハガキどういう理由だかはっきりしなかったところ昨日の原稿を読んで意味がよくわかりました。 先日の僕の依頼に就て態度がいけなかったら御免なさい。 実はあの手紙大変忙しい時間に社の同僚と手分けして約二十通ちかくを書かねばならなかったので君の分だけ個人的な通信を書いている時機がなかった。 稿料のことを書かないのは却って不徳義|故誰にでも書くことにしている。 一緒に依頼した共通の友人菊地千秋君にもその他の諸君にもみんな同文のものを書いただけだ。 君にだけ特別個人的に書けばよかったのであろうがそういう時間がなかったことは前述の通りだ。 あの依頼の手紙を書いて君の気持を害う結果になろうとは夢にも思わなかったし悪意をもってああいうことをお願いするほど愚かな者もいないだろう。 君が神経質になり過ぎているものとしか僕には考えられない。 君が僕に友情を持っていてくれるのなら君こそそういう小さなことを悪く曲解する必要はないではないか。 尤も君が痛罵したような態度を平生僕がとっているとすれば僕は反省しなければならぬし自分の生活に就ても考えなければならない事実考えてもいる。 君がほんとの芸術家ならああいう依頼の手紙を書く者と貰う者とどちらがわびしい気持ちで生きているかは容易に了解できることと思う。 兎に角あの原稿は徹頭徹尾君のそういう思い過しに出ているものだから大変お気の毒だけれども書き直してはくれないだろうか。 どうしても君が嫌だと云えば致し方がないけれどもこういう誤解や邪推に出発したことで君と喧嘩したりするのは僕は嫌だ。 僕が君を侮じょくしたと君は考えたらしいけれど兎に角僕は君のあの原稿の極端なる軽べつにやられて昨夜は殆んど一睡もしなかった。 先日のあの僕の手紙のことに関する誤解は一掃してほしい。 そして原稿も書き直してほしい。 これはお願いだ。 君はああいうことで非常に怒ったけれどそういうことを一々怒っていては僕など一日に幾度怒っていなければならぬか数えあげられるものではない。 君が精いっぱいに生きているように僕だって精いっぱいで生きているのだ。 君のこれからのことや僕のこれからのことやそういうことはこんど会った時話したい。 一度君の病床に訪ねていろいろ話したいと思っているのだけれど僕も大変多忙な上に少々神経衰弱気味で参っているのだ。 正月にでもなったらゆっくりお訪ねできることと思う。 永野吉田両君には先夜会った。 神経をたかぶらせないでお身お大事に勉強してほしい。 社の余暇を盗んで書いたので意を尽せないところが多いだろうが折り返し御返事をまちます。 武蔵野新聞社学芸部長沢伝六。 太宰治様。 追伸尚原稿書き直して戴ければ二十五日までで結構だ。 それから写真を一枚同封して下さい。 いろいろ面倒な御願いで恐縮だがなにとぞよろしく。 乱筆乱文多謝。 ちかごろ毎夜の如く太宰兄についての薄気味わるい夢ばかり見る。 変りはあるまいな。 誓います。 誰にも言いません。 苦しいことがあるのじゃないか。 事を行うまえにたのむ僕にちょっと耳打ちして呉れ。 一緒に旅に出よう。 上海でも南洋でも君の好きなところへ行こう。 君の好いている土地なら津軽だけはごめんだけれどあとは世界中いずこの果にてもやがて僕もその土地を好きに思うようになります。 これぼっちも疑いなし。 旅費くらいは私かせぎます。 ひとり旅をしたいなら私はお供いたしませぬ。 君なにもしていないだろうね。 大丈夫だろうね。 さあ私に明朗の御返事下さい。 黒田重治。 太宰治学兄。 貴翰拝誦。 病気|恢復のおもむきにてなによりのことと思います。 土佐から帰って以来仕事に追われ見舞にも行けないが病気がよくなればそれでいいと思っている。 今日は十五日締切の小説で大童になっているところ。 新ロマン派の君の小説が深沼氏の推讃するところとなって君が発奮する気になったとは二重のよろこびである。 自信さえあれば万事はそれでうまく行く。 文壇も社会もみんな自信だけの問題だと小生痛感している。 その自信を持たしてくれるのは自分の仕事の出来栄えである。 循環する理論である。 だから自信のあるものが勝ちである。 拙宅の赤んぼさんは大介という名前の由。 小生旅行中に女房が勝手につけた名前で小生の気に入らない名前である。 しかし最早や御近所へ披露してしまった後だから泣寝入りである。 後略のまま頓首。 大事にしたまえ。 萱野君旅行から帰って来た由。 早川俊二。 津島君。 返事よこしてはいけないと言われて返事を書く。 一長篇のこと。 云われるまでもなく早まった気がして居る。 屑物屋へはらうつもりで承知してしまったのだがこれはしばらく取消しにしよう。 この手紙といっしょに延期するむね葉書かいた。 どうせ来年の予定だったから来年までには僕も何とかなるつもりでいた――がそれまでに一人前になれるかどうか疑問に思われて来た。 『新作家』へは今度書いた百枚ほどのもの連載しようと思っている。 あの雑誌はいつまでも僕を無名作家にしたがっている。 『月夜の華』というのだ。 下手くそにいっていたとしてもむしろこの方を宣伝して呉れ。 提灯をもつことなんて一番やさしいことなんだから。 二僕と君との交友がとかく色眼鏡でみられるのは仕方がないのではないかな。 中畑というのにも僕は一度あってるきりだし世間さまに云わせたら僕が君をなんとかしてケチをつけたい破目に居そうにみえるのではないかしら。 僕だけの耳へでも僕が君をいやみに言いふらして居るらしい噂が聞えてくる。 そして人からいろいろ忠告されたりする。 構わんじゃろ。 君と僕が対立的にみられるのは僕にはかえって面白いくらいだ。 たとえばポオとレニンが比較されてポオがレニンに策士だといって蔭口をきいたといった風なゴシップは愉快だからな。 何よりも僕の考えていることは友人面をしてのさばりたくないことだ。 君の手紙のうれしかったのはそんな秘れた愛情の支持者があの中にいたことだ。 君が神なら僕も神だ。 君が葦なら――僕も葦だ。 三それから君の手紙はいくぶんセンチではなかったか。 というのはよみながら僕は涙が出るところだったからだ。 それを僕のセンチに帰するのは好くない。 ぼくは恋文を貰った小娘のように顔をあからめていた。 四これが君の手紙への返事だったら破いて呉れ。 僕としては依頼文のつもりだった。 たった一つ僕のこんどの小説を宣伝して呉れということ。 五昨日不愉快な客が来て太宰治は巧くやったねと云った。 僕は不愛想に答えた。 『彼は僕たちが出したのです』――今日つくづく考えなおしている。 こんなのがデマの根になるのではないか――と。 『ええ』といっておけば好いのかもしれない。 それともまた『彼は立派な作家です』と言えばいいのか。 ぼくはいままでほど自由な気持で君のことを饒舌れなくなったのを哀しむ。 君も僕も差支えないとしても聞く奴が駑馬なら君と僕の名に関る。 太宰治は一寸偉くなりすぎたからいかんのだ。 これじゃ僕も肩を並べに行かなくては。 漕ぎ着こう。 六長沢の小説よんだか。 『神秘文学』のやつ。 あんな安直な友情のみせびらかしは僕は御免だ。 正直なのかもしれないが文学ってやつはもっとひねくれてるんじゃないかしら。 長沢に期待すること少くなった。 これも哀しいことの一つだ。 七長沢にも会いたいと思いながら会わずにいる。 ぼくはセンチになると水いらずで雑誌を作ることばかり考える。 君はどんな風に考えるかしらんが僕と君と二人だけでいる世界だけが一番美しいのではないだろうか。 八無理をしてはいかん。 君は馬鹿なことを言った。 君が先に出て先にくたばる術はない。 僕たちを待たなくてはいかん。 それまでは少くとも十年健康で待たなくてはいかん。 根気が要る。 僕は指にタコができた。 九これからは太宰治がじゃんじゃん僕なんかを宣伝する時になったようだ。 僕なんかほくほく悦に入っている。 『こんなのが仲間にいるとみんな得をするからな。 』と今度ぼくは誰かに言ってやろうともくろんでいる。 『虎の威を借る云々』とドバどもはいいふらすだろう。 そしたら『あいつは虎でないとでもいうのか』と逆襲してやる。 『そして僕が狐でないと誰が言いましたか。 』十君不看双眼色不語似無愁――いい句だ。 では元気で僕のことを宣伝して呉れと筆をとること右の如し。 林彪太郎。 太宰治様|机下。 メクラソウシニテヲアワセル。 めくら草紙を読みました。 あの雑誌のうちあの八頁だけを読みました。 あなたは病気骨の髄を犯しても不倒である必要があります。 これは僕の最大限の君への心の言葉。 きょう僕は疲れて大へん疲れて字も書きづらいのですが急に君へ手紙を出す必要をその中で感じましたので一筆。 お正月は大和国桜井へかえる。 永野喜美代。 君は君の読者にかこまれても赤面してはいけない。 頬被りもよせ。 この世の中に生きて行くためには。 ところでめくら草紙だが晦渋ではあるけれども一つの頂点傑作の相貌を具えていた。 君は以後讃辞を素直に受けとる修行をしなければいけない。 吉田生。 はじめて手紙を差上げる無礼何卒お許し下さい。 お蔭様で私たちの雑誌『春服』も第八号をまた出せるようになりました。 最近同人に少しも手紙を書かないので連中の気持は判りませんがぼくの云いたいのはもうお手許迄とどいているに違いない『春服』八号中の拙作のことであります。 興味がなかったら後は読まないで下さい。 あれは昨年十月ぼくの負傷直前の制作です。 いまぼくはあれに対して全然気恥しい気持見るのもいやな気持に駆られています。 太宰さんの葉書なりと一枚欲しく思っています。 ぼくはいまある女の子の家に毎晩のように遊びに行っては無駄話をして一時頃帰ってきます。 大して惚れていないのにせんだって真面目に求婚して承諾されました。 その帰り可笑しく噴き出している最中――いやどんな気持だったかわかりません。 ぼくはいつも真面目でいたいと思っているのです。 東京に帰って文学|三昧に耽りたくてたまりません。 このままだったらいっそ死んだ方が得なような気がします。 誰もぼくに生半可な関心なぞ持っていて貰いたくありません。 東京の友達だっておふくろだって貴方だってそうです。 お便り下さい。 それよりお会いしたい。 大ウソ。 中江種一。 太宰さん。 拝啓。 その後失礼して居ります。 先週の火曜日にそちらの様子見たく思い船橋に出かけようと立ち上った処に君からの葉書|来り中止。 一昨夜突然永野喜美代参り君から絶交状送られたとかその夜は遂に徹夜ぼくも大変心配していた処只今永野よりの葉書にてほどなく和解できた由うけたまわり大いに安堵いたしました。 永野の葉書には『太宰治氏を十年の友と安んじ居ること真情|吐露してお伝え下され度く』とあるから原因が何であったかは知らぬが益々交友の契を固くせられるようぼくからも祈ります。 永野喜美代ほどの異質近頃沙漠の花ほどにもめずらしく何卒良き交友続けられることおねがい申します。 さてその後のからだの調子お知らせ下さい。 ぼく余りお邪魔しに行かぬよう心掛け手紙だけでも時々書こうと思い筆を執るとえい面倒行ってしまえということになる。 手紙というもの実にまどろこしくぼくには不得手。 屡々自分で何をかいたのか呆れる有様。 近頃の句一つ。 自嘲。 歯こぼれし口の寂さや三ッ日月。 やっぱり四五日中にそちらに行ってみたく思うが如何。 不一。 黒田重治。 太宰治様。 お問い合せの玉稿五六日まえすでに拝受いたしました。 きょうまでお礼|逡巡欠礼の段おいかりなさいませぬようお願い申します。 玉稿をめぐり小さい騒ぎがございました。 太宰先生私は貴方をあくまでも支持いたします。 私とて同じ季節の青年でございます。 いまはぶちまけて申しあげます。 当雑誌の記者二名貴方と決闘すると申しています。 玉稿ふざけて居る。 田舎の雑誌と思ってばかにして居る。 おれたちの眼の黒いうちは採用させぬ。 生意気な身のほど知らず等々たいへんな騒ぎでございました。 私には成算ございましたので二三日様子を見てそれから貴方へ御寄稿のお礼かたがたこのたびの事件のてんまつ大略申し述べようと思って居りましたところかれら意外にもけさ編輯主任たる私には一言の挨拶もなく書留郵便にて玉稿御返送敢行いたせし由承知いたしいまは私と彼等二人の正義づらとの面目問題でございます。 かならず厳罰に附しおわびの万分の一当方の誠意かっていただきたく飛行郵便にて玉稿の書留より一足さきに額の滝油汗ふきふき平身低頭のおわび以上の如くでございます。 なお寸志おしるしだけにても御送り申そうかと考えましたがこれ又かえって失礼に当りはせぬか心にかかりいまは訥吃蹌踉七重の膝を八重に折り曲げての平あやまり他日つぐない内心固く期して居ります。 俗への憤怒。 貴方への申しわけなさ。 文字さえ乱れて細くまた太くひょろひょろ小粒が駈けまわり突如牛ほどの岩石の落下この悪筆乱筆にはわれながら驚き呆れて居ります。 創刊第一号からこんな手違いを起し不吉きわまりなくそれを思うと泣きたくなります。 このごろみんな一オクタアヴくらい調子が変化して居るのにお気附きございませぬか。 私はもとより私の周囲の者まですべて。 大阪サロン編輯部高橋安二郎。 太宰先生。 前略。 しつれい申します。 玉稿本日別封書留にてお送りいたしました。 むかしの同僚高橋安二郎君がこのごろ病気がいけなくなり太宰氏ほか三人の中堅新進の作家へ本社編輯部の名をいつわりとんでもない御手紙さしあげて居ることが最近判明いたしました。 高橋君はたしか三十歳。 おととしの秋社員全部のピクニックの日ふだん好きな酒も呑まず青い顔をして居りましたがすすきの穂を口にくわえて同僚の面前にのっそり立ちふさがり薄目つかって相手の顔から胸胸から脚脚から靴なめまわすように見あげ見おろす。 帰途夕日を浴びてながいながいひとりごとがはじまり見事な血したたるが如き紅葉の大いなる枝を肩にかついで下腹部を殊更に前へつき出しぶらぶら歩いて君誰にも言っちゃいけないよ藤村先生ねあの人背中一ぱいに三百円以上のお金をかけて刺青したのだよ。 背中一ぱいに金魚が泳いで居る。 いやちがったおたまじゃくしが一千匹以上うようよしているのだ。 山高帽子が似合うようではどだい作家じゃない。 僕はこの秋から支那服着るのだ。 白足袋をはきたい。 白足袋はいておしるこたべていると泣きたくなるよ。 ふぐを食べて死んだひとの六十パアセントは自殺なんだよ。 君秘密は守って呉れるね。 藤村先生の戸籍名は河内山そうしゅんというのだ。 そのような大へんな秘密を高橋の呼吸が私の耳朶をくすぐって頗る弱ったほどそれほど近く顔を寄せてこっそり教えて呉れましたが高橋君はもともと文学青年だったのです。 六七年まえのことでございますが当時信濃の山々奥深くにたてこもって創作三昧しずかに一日一日を生きて居られた藤村島崎先生から百枚ちかくの約束の玉稿ぜひともいただいて来るようまして此のたびは他の雑誌社に奪われる危険もあり如才なく立ちまわれよと編輯長に言われてふだんから生真面目の人しかもそのころは未だ二十代山の奥竹の柱の草庵に文豪とたった二人囲炉裏を挟んで徹宵お話うけたまわれるのだと期待緊張それがために顔もやや青ざめ同僚たちのにぎやかな声援にもいちいち口を引きしめては深くうなずき決意のほどを見せるのです。 廻転ドアにわれとわが身を音たかく叩きつけ一直線に旅立ったときのひょろ長い後姿には笑ってすまされないものがございました。 四日目の朝しょんぼりびしょ濡れになって社へ帰ってまいりました。 やられたのです。 かれの言いぶんに拠れば字義どおりの一足ちがい宿の朝ごはんの後熱い番茶に梅干いれてふうふう吹いて呑んだのが失敗のもとそれがために五分おくれて大事になったとのこと二人の給仕もいれて十六人の社員こぞって同情いたしました。 私なども編あげ靴の紐を結び直したばかりにやはり他社のものに先をこされてあやうく首切られそうになったかなしい経験がございます。 高橋君はすぐ編輯長に呼ばれて三時間直立不動の姿勢でもって説教きかされお説教中五たび六たび編輯長をその場で殺そうと決意したそうでございます。 とうとう仕舞いには卒倒おびただしき鼻血。 私たちなんにも申し合わせなかったのにそのあくる日二人の給仕は例外ほかの社員ことごとく辞表をしたためて持って来ていたのでございます。 そうしてくやしくてみんな編輯長室のまえの薄暗い廊下でひしと一かたまりにかたまってことにも私どうにもこうにも我慢ならずかたわらの友人の声しのばせての歔欷に誘われ大声放って泣きました。 あのときの一種崇高の感激は生涯にいちどあるか無しかの貴重のものと存じます。 ああ不要のことのみ書きつらねました。 おゆるし下さい。 高橋君はそれ以後作家に限らずいささかでも人格者と名のつく人物一人の例外なく蛇蝎視して先生と呼ばれるほどの嘘を吐きなどの川柳をときどき雑誌の埋草に使っていましたがあれほどお慕いしていた藤村先生の『ト』の字も口に出しませぬ。 よほどの事があったにちがいございませぬ。 昨年の春健康いよいよ害ねて今は明確に退社して居ります。 百日くらいまえに私はかれの自宅の病室を見舞ったのでございます。 月光が彼のベッドのあらゆるくぼみに満ちあふれ掬えると思いました。 高橋は両の眉毛をきれいに剃り落していました。 能面のごとき端正の顔は月の光の愛撫に依り金属のようにつるつるしていました。 名状すべからざる恐怖のため私の膝頭が音たててふるえるので私は電気をつけようと嗄れた声で主張いたしました。 そのとき高橋の顔に三歳くらいの童子の泣きべそに似た表情が一瞬ぱっと開くより早く消えうせた。 『まるで気違いみたいだろう。 』ともちまえの甘えるような鼻声で言って寒いほど高貴の笑顔に化していった。 私は医師を呼びあくる日精神病院に入院させた。 高橋は静かに謂わばそろそろと狂っていったのである。 味わいの深い狂いかたであると思惟いたします。 ああ。 あなたの小説をにっぽん一だと申して幾度となく繰り返し繰り返し拝読して居る様子で貴作ロマネスクはすでに諳誦できる程度に修行したとか申して居たのに。 むかしの佳き人たちの恋物語あるいはとくべつに楽しかった御旅行の追憶さては先生御自身のきよらかなるロマンス等々病床の高橋君に書き送る形式にて四枚月末までにおねがい申しあげます。 大阪サロン編輯部春田一男。 太宰治様。 君の葉書読んだ。 単なる冷やかしに過ぎんではないか。 君は真実の解らん人だね。 つまらんと思う。 吉田潔。 冠省。 首くくる縄切れもなし年の暮。 私も大兄お言いつけのものと同額の金子入用にて八方|狂奔。 岩壁切りひらいて行きましょう。 死ぬるのはいつにても可能。 たまには後輩のいうことにも留意して下さい。 永野喜美代。 先日は御手紙|有難う。 又電報もいただいた。 原稿はどういうことにしますか。 君の気がむいたようにするのが一番いいと思う。 〆切は二十五六日頃までは待てるのです。 小生ただいま居所不定だから御通信はすべて社|宛に下さる様。 住所がきまったならお報せする。 要用のみで失敬。 武蔵野新聞社学芸部長沢伝六。 太宰さん。 とうとう正義温情の徒にみごと一ぱい食わせられましたね。 はじめから御注意申しあげて置いたらこんなことにはならなかったのでございますが雑誌はどこでもそうらしいですがひとりの作家を特に引きたててやることは固く禁じられて居りますしそのうえこの社には重役附きのスパイが多くこれからもあることゆえものやわらかの人物には気をつけて下さいまし。 軽々しくふるまってはいけません。 春田はどんな言葉でおわびをしたのかわかりませぬけれど貴方に書き直しさせたと言ってこの二三日大自慢でそれだけ私は小さくなっていなければならずまことに味気ないことになりました。 太宰さんあなたもよくない。 春田がどのような巧言を並べたてたかは存じませぬけれど何もあんなにセンチメンタルな手紙を春田へ与える必要ございません。 醜態です。 猛省ねがいます。 私ちゃんとあなたのための八十円用意していたのに春田などにたのんでは十円も危い。 作家を困らせるのを雑誌記者の天職と心得て居るのだから始末がわるい。 私ひとりでやきもきしてたって仕様がない。 太宰さん。 あなたの御意見はどうなんです。 こんなになめられて口惜しく思いませんか。 私はあなたのお家のことたいてい知って居ります。 あなたの読者だからです。 背中の痣の数まで知って居ります。 春田など太宰さんの小説ひとつ読んでいないのです。 私たちの雑誌の性質上サロンの出いりも繁く席上太宰さんの噂など出ますけれどそのような時には春田夏田になってしまって熱狂の身ぶりよろしく筆にするに忍びぬ下劣の形容詞を一分間二十発くらいの割合いで猛射撃。 可成りの変質者なのです。 以後浮気は固くつつしまなければいけません。 このみそかはそれじゃ困るのでしょう。 私はもうお世話ごめん被ります。 八十円のお金よそへまわしてしまいました。 おひとりでやってごらんなさい。 そんな苦労もちっとは身になります。 八方ふさがったときには御相談下さい。 苦しくてもぶていさいでも死なずにいて下さい。 不思議なもので大きい苦しみのつぎにはきっと大きいたのしみが来ます。 そうしてこれは数学の如くに正確です。 あせらず御養生専一にねがいます。 来春は東京の実家へかえって初日を拝むつもりです。 その折お逢いできればといささかたのしみにして居ります。 良薬の苦味おゆるし下さい。 おそらくは貴方を理解できる唯一人の四十男無二の小市民高橋九拝。 太宰治学兄。 突然のおたよりお許し下さい。 私はあなたと瓜二つだ。 いや私とあなたこの二人のみに非ず。 青年の没個性自己喪失はいまの世紀の特徴と見受けられます。 以下必ず一読せられよ。 刺し殺される日を待って居る。 私は或る期間穴蔵の中で陰鬱なる政治運動に加担していた。 月のない夜私ひとりだけ逃げた。 残された仲間はすべていのちを失った。 私は大地主の子である。 転向者の苦悩。 なにを言うのだ。 あれほどたくみに裏切っていまさらゆるされると思っているのか。 裏切者なら裏切者らしく振舞うがいい。 私は唯物史観を信じている。 唯物論的弁証法に拠らざればどのような些々たる現象をも把握できない。 十年来の信条であった。 肉体化さえされて居る。 十年後もまた変ることなし。 けれども私は労働者と農民とが私たちに向けて示す憎悪と反撥とをいささかも和げてもらいたくないのである。 例外を認めてもらいたくないのである。 私は彼等の単純なる勇気を二なく愛して居るがゆえに二なく尊敬して居るがゆえに私は私の信じている世界観について一言半句も言い得ない。 私の腐った唇から明日の黎明を言い出すことはゆるされない。 裏切者なら裏切者らしく振舞うがいい。 『職人ふぜい。 』と噛んで吐き出し『水呑百姓。 』と嗤いののしりそうして刺し殺される日を待って居る。 かさねて言う私は労働者と農民とのちからを信じて居る。 私は派手な衣服を着る。 私は甲高い口調で話す。 私は独り離れて居る。 射撃し易くしてやって居るのである。 私の心にもなき驕慢の擬態もまた射手への便宜を思っての振舞いであろう。 自棄の心からではない。 私を葬り去ることはすなわち建設への一歩である。 この私の誠実をさえ疑う者は人間でない。 私はつねに真実を語った。 その結果人々は私を非常識と呼んだ。 誓って言う。 私は私ひとりのために行動したことはなかった。 このごろあなたの少しばかりの異風がゆがめられたポンチ画がたいへん珍重されているということを寂しいとは思いませんか。 親友からの便りである。 私はその一葉のはがきを読み海を見に出かけた。 途中麦が一寸ほど伸びている麦畑の傍にさしかかり突然ぐしゃっと涙が鼻にからまって来てそれから声を放って泣いた。 泣き泣き歩きながら私をわかって呉れている人も在るのだと思った。 生きていてよかった。 私を忘れないで下さい。 私はあなたを忘れていた。 その未見の親友の純粋なるくやしさがそのまま私の血管にも移入された。 私は家へかえって原稿用紙をひろげた。 『私は無頼の徒ではない。 』具体的に言って呉れ。 私はどんな迷惑をおかけしたか。 私は借銭をかえさなかったことはない。 私はゆえなく人の饗応を受けたことはない。 私は約束を破ったことはない。 私はひとの女と私語を交えたことはない。 私は友の陰口を言ったことさえない。 昨夜床の中でじっとして居ると四方の壁からひそひそ話声がもれて来る。 ことごとく私に就いての悪口である。 ときたま私の親友の声をさえ聞くのである。 私を傷つけなければ君たちは生きて行けないのだろうね。 殴りたいだけ殴れ。 踏みにじりたいだけ踏みにじるがいい。 嗤いたいだけ嗤え。 そのうちにふと気がついて顔を赧くするときが来るのだ。 私はじっとしてその時期を待っていた。 けれども私は間違っていた。 小市民というものはこちらが頭を低くすればするほどそれだけのしかかって来るものであった。 そう気がついたとき私はふたたび起きあがることが出来ぬほどに背骨を打ちくだかれていたようだ。 私はこのごろ肉親との和解を夢に見る。 かれこれ八年ちかく私は故郷へ帰らない。 かえることをゆるされないのである。 政治運動を行ったからであり情死を行ったからであり卑しい女を妻に迎えたからである。 私は仲間を裏切りそのうえ生きて居れるほどの恥知らずではなかった。 私は私を思って呉れていた有夫の女と情死を行った。 女を拒むことができなかったからである。 そののち私は現在の妻を迎えた。 結婚前の約束を守ったまでのことである。 私十九歳より二十三歳まで四年間土曜日ごとに逢っていたが私はいちどもまじわりをしなかった。 けれども肉親たちは私を知らない。 よそに嫁いで居る姉が私の一度ならず二度三度の醜態のためにその嫁いで居る家のものたちに顔むけができずに夜々泣いて私をうらんでいるということや私の生みの老母が私あるがために亡父の跡を嗣いで居る私の長兄に対してことごとく面目を失い針のむしろに坐った思いで居るということやまた私の長兄は私あるがためにくにの名誉職を辞したとか辞そうとしたとかとにかく二十数人の肉親すべて私があたりまえの男に立ちかえって呉れるよう神かけて祈って居るというふうの噂話を仄聞することがあるのである。 けれども私は弁解しない。 いまこそ血のつながりというものを信じたい。 長兄が私の小説を読んで呉れる夢のうれしさよ。 佐藤春夫の顔が私の亡父の顔とあんなに似ていなかったら私はあの客間へ二度と行かなかったかも知れない。 肉親との和解の夢からさめて夜半しれものふと親孝行をしたく思う。 そのような夜半には私もまた菊池寛のところへ手紙を出そうかサンデー毎日の三千円大衆文芸へ応募しようか何とぞして芥川賞をもらいたいものだなどと思いを千々にくだいてみるのであるが夜のしらじらと明け放れると共にそのような努力が何故とも知らず馬鹿くさく果無く思われ『やがて死ぬるいのち。 』という言葉だけがありがたくその日も為すところなく迎えてそうして送っていただけなのである。 けれども――一日読書をしてはその研究発表。 風邪で三日ほど寝ては病床閑語。 二時間の旅をしては芭蕉みたいな旅日記。 それから面白くも楽しくもなんともない創作にあらざる小説。 これが日本の文壇の現状のようである。 苦悩を知らざる苦悩者の数のおびただしさよ。 私は今迄自己を語る場合にどうやら少しはにかみ過ぎていたようだ。 きょうよりのち私はあるがままの自身を語る。 それだけのことである。 語らざれば憂い無きに似たりとか。 私は言葉を軽蔑していた。 瞳の色でこと足りると思っていた。 けれどもそれはこの愚かしき世の中には通じないことであった。 苦しいときには『苦しい。 』とせいぜい声高に叫ばなければいけないようだ。 黙っていたらいつしか人は私を馬扱いにしてしまった。 私はいま取りかえしのつかない事がらを書いている。 人は私の含羞多きむかしの姿をなつかしむ。 けれども君のその嘆声はいつわりである。 一得一失こそものの成長に追随するさだめではなかったか。 永い眼でものを見る習性をこそ体得しよう。 甲斐なく立たむ名こそ惜しけれ。 なんじら断食するときかの偽善者のごとく悲しき面容をすな。 キリストだけは知っていた。 けれども神の子の苦悩に就いてはパリサイびとでさえみとめぬわけにはいかなかったのである。 私はしばらくかの偽善者の面容を真似ぶ。 百千の迷の果私は私の態度をきめた。 いまとなっては私はおのが苦悩の歴史をつとめて厳粛に物語るよりほかはなかろう。 てれないように。 てれないように。 私も亦地平線のかなた久遠の女性を見つめている。 きょうの日まで私はその女性についてほんの断片的にしか語らず私ひとりの胸にひめていた。 けれども私の誇るべき一先輩が早く書かなけれあ君子供が雪兎を綿でくるんで机の引き出しにしまって置くようなもので溶けてしまうじゃないか。 あとでひとりで楽しまむものと机の引き出しそっと覗いてみたときには溶けてしまって南天の赤い目玉が二つのこっていたという正吉の失敗とかいう漫画をうちの子供たち読んでいたが美しい追憶もそんなものだよパッション失わぬうちに書け鉄は赤いうちに打つべしと言われているよ。 私はけれども聞えぬふりした。 しらじらしくよそごとのみを興ありげに話すのだ。 兎どころか私のふるさとでは美しい女さえ溶けてしまうのです。 吹雪の夜にわがやの門口に行倒れていた唇の赤い娘を助けてきれいな上に無口で働きものゆえ一緒に世帯を持ってそのうちにだんだんあたたかくなると共にあのきれいなお嫁も痩せて元気がなくなり玉のようなからだもなんだかおとろえて家の中が暗くなった。 主は心細さに堪えかね一日たらいにお湯を汲みいれてむりやりお嫁に着物を脱がせお嫁の背中を洗ってやった。 お嫁はしくしく泣きながら背中洗ってくれているやさしかった主にむかって『私が死んでも――』と言いかけてさらさらと絹ずれの音がしてお嫁のすがたが見えなくなった。 たらいの中には桜貝の櫛と笄が浮んでいるだけであった。 雪女お湯に溶けてしまったという物語。 私は尚も言葉をつづけて私考えますに葛の葉の如くこの雪女郎のお嫁が懐妊しそのお腹をいためて生んだ子があったとしたならそうして子供が成長して雪の降る季節になれば雪の野山母をあこがれ歩くものとしたならこの物語世界の人ことごとくを充分にうっとりさせ得ると信じて居る。 そう言いむすんだとき見よ世界の人の中のひとり私の先輩も頬を染めて浮かれだしサロンの空気がたいへんパッショネエトにされてしまっていつしか私のひめにひめたるお湯にも溶けぬ雪女について問われるがままに語って聞かせて居たのである。 ――年齢。 ――十九です。 やくどしです。 女このとしには必ず何かあるようです。 不思議のことに思われます。 ――小柄だね。 ――ええでもマネキン嬢にもなれるのです。 ――というと。 ――全部が一まわり小さいので写真ひきのばせばほとんど完璧の調和を表現し得るでしょう。 両脚がしなやかに伸びて草花の茎のようで皮膚がほどよく冷い。 ――どうかね。 ――誇張じゃないんです。 私あのひとに関してはどうしても嘘をつけない。 ――あんまりひどくだましたからだ。 ――おどろいたな。 けれども全くそうなんです。 私二十一歳の冬に角帯しめて銀座へ遊びにいってその晩女が私の部屋までついて来てあなたの名まえなんていうの。 と聞くからちょうどそこに海野三千雄ねあの人の創作集がころがっていて私は海野三千雄と答えてしまった。 女は私を三十一二歳と思っているらしくもすこし有名の人かと思ったとほっと肩を落して溜息をついて私はあのときぐらい有名になりたく思ったことございませぬ。 のどがからから枯渇してくろい煙をあげて焼けるほどに有名を欲しました。 海野三千雄といえばひところ文壇でいちばん若くていい小説もかいていました。 その夜から私学生服を着ている時のほかにはどこへ行っても海野三千雄で押しとおさなければならなくなった。 いちどにせものをつとめると不安で不安で夜のめも眠れずそれでいてそのにせもの勤めをよそうとはせずかえって完璧の一点のすきのないにせものになろうとそのほうにだけ心をくだくものです。 不思議なものです。 ――面白いね。 つづけたまえ。 ――たった一度きりの女なら海野三千雄もよろしゅうございましょうが二度三度|逢っているうちに窮屈になってひとりで悶悶転転いたしました。 女はその後新聞の学芸欄などに眼をとおす様子できょうあなたの写真が出ていた。 ちっとも似ていない。 どうしてあんなに顔をしかめるの。 私お友達に笑われちゃった。 ――君はむかしなにか政治運動していたとかそのころのことかね。 ――はそうです。 私文化運動は性に合わず殊にもプロレタリヤ小説ほどおめでたいものはないと思っていましたから学生とは離れて穴蔵の仕事ばかりをしていました。 いつか私の高等学校時代からの友人がおっかなびっくり或る会合の末席に列していていまにこの辺全部の地区のキャップが来るぞとまえぶれがあってその会合に出ているアルバイタアたちでさえ少し興奮してざわめきわたって或る小地区の代表者として出席していた私のその友人はもう夢みるような心地でやがて時間に一秒の狂いもなくみしみし階段の足音が聞えてやあといいながらはいって来たひょろ長い男の顔がはじめはまぶしくてはっきり見えなかったがよく見るとその金ぶち眼鏡のにやけた男がまごうかたなき私ええこの私だったのでかれあのときのうれしさは忘じがたいといまでもよく申しています。 天にも昇るうれしさだったそうです。 もちろんそのときにはちらと瞳で笑い合ったきりでお互い知らんふりをしていました。 あんな運動をして毎日追われてくらしていてふとこちらの陣営に思いがけない旧友の顔を見つけたときほどうれしいことがございませぬ。 ――よくつかまらなかったね。 ――ばかだからつかまるのです。 またつかまっても一週間やそこらで助かる手もあるのです。 そのうちに私スパイだと言われたり何かしていやになって仲間から逃げることだけ考えていました。 そのころは毎夜帝国ホテルにとまっていました。 やはり作家海野三千雄の名前で。 名刺もつくらせそれからホテルの海野先生へゲンコウタノムの電報速達電話すべて私自身で発して居りました。 ――不愉快なことをしたものだね。 ――厳粛なるべき生活を茶化してもてあそびものにしているのが不愉快なのでしょう。 ごもっともでございますが当時そんなことでもしなければ私おそらくは三十種類以上の原因で自殺してしまっています。 ――でもそのときだってやっぱり情死おこなったんだろう。 ――ええ女が帝国ホテルへ遊びに来て僕がボオイに五円やってその晩女は私の部屋へ宿泊しました。 そうしてその夜ふけに私は死ぬるよりほかに行くところがないと何かの拍子にふと口から滑り出てその一言がとても女の心にきいたらしくあたしも死ぬると申しました。 ――それじゃああなたと呼べば死のうよと答えるそんなところだ。 極端にわかりが早くなってしまっている。 君たちだけじゃないようだぜ。 ――そうらしいのです。 私の解放運動など先覚者として一身の名誉のためのものと言って言えないこともなくそのほうでどんどん出世しているうちは面白く張り合いもございましたがスパイ説など出て来たんでは遠からず失脚ですしとにかくいやでした。 ――女はその後どうなったね。 ――女はその帝国ホテルのあくる日に死にました。 ――あそうか。 ――そうなんです。 鎌倉の海に薬品を呑んで飛びこみました。 言い忘れましたがこの女はなかなかの知識人で似顔絵がたいへん巧かった。 心が高潔だったので実物よりも何層倍となく美しい顔を画きしかもその画には秋風のような断腸のわびしさがにじみ出て居りました。 画はたいへん実物の特徴をとらえていてしかもノオブルなのです。 どうもことしの正月あたりからこう泣癖がついてしまって困って居ります。 先日も佐渡情話とか言う浪花節のキネマを見てどうしてもがまんができずとうとう大声をはなって泣きだしてそのあくる朝厠でそのキネマの新聞広告を見ていたらまた嗚咽が出て来て家人に怪しまれはては大笑いになってもはや二度とキネマへ連れて行けぬという家人の意見でございました。 もういいのです。 つづきを申しましょう。 十年まえの話です。 なぜあのとき私が鎌倉をえらんだのか長いこと私の疑問でございましたがきのうほんのきのうやっと思い当りました。 私小学生のころ学芸大会に鎌倉名所の朗読したことがございましてその折練習に練習を重ねてほとんど諳誦できるくらいになってしまいました。 七里ヶ浜の磯づたいというあの文章です。 きっと子供ながらその風景にあこがれそれがしみついて離れず潜在意識として残っていてそれがその鎌倉行になってあらわれたのではなかろうかと考えわが身をいじらしく存じました。 鎌倉に下車してから私は女にお金を財布ぐるみ渡してしまいましたが女は私の豪華な三徳の中を覗いてあらたった一枚。 と小声で呟き私は身を切られるほど恥かしく思ったのを忘れずに居る。 私は少しめちゃめちゃになっておれはほんとうは二十六歳だとそれでもまだ五歳も多く告白してみせましたが女はたった二十六。 といって黒めがちの眼をくるっと大きく開いてそれから指折りかぞえたいへんたいへんと笑いながら言って首をちぢめて見せましたがなんの意味だったのかしらいまさら尋ねる便りもございませんがたいへん気にかかります。 ――あかるいうちに飛び込んだのかね。 ――いいえ。 それでも名所をあるきまわってはちまん様のまえで飴を買って食べましたが私そのとき右の奥歯の金冠二本をだめにしてしまっていまでもそのままにして放って置いてあるのですが時々しくしくいたみます。 ――ふっと思い出したがヴェルレエヌねあの人一日教会へ韋駄天走りに走っていってさあ私はざんげする告白する何もかも白状するざんげ聴聞僧はどこに居られるさあさあ私は言ってしまうとたいへんな意気込でざんげをはじめたそうですが聴聞僧は清浄の眉をそよとも動がすことなく窓のそとの噴水を見ていてヴェルレエヌの泣きわめきつつ語りつづけるめんめんの犯罪史の一瞬の切れ目にすぽんと投入した言葉は『あなたはけものと交った経験をお持ちですか。 』ヴェル氏仰天してころげるようにして廊下へ飛び出し命からがら逃げかえったそうで僕はどうも人のざんげを聞くことが得手じゃないのです。 いまはやりの言葉で言えば心臓が弱いのです。 かの勇猛果敢なざんげ聴聞僧の爪のあかでもせんじて呑みたいほうでね。 ――ざんげじゃない。 のろけじゃない。 救いを求めているのでもない。 私は女の美しさを主張しているのです。 それだけの事です。 こうなって来るとお仕舞いまで申しあげます。 女は歩きながらずいぶん思いつめたような口調でかえらない。 と小声で言った。 あたしはあなたのおめかけになります。 家から一歩も外へ出るなとあればじっとしてうちに隠れて居ります。 一生涯日かげ者でもいいの。 私は鼻で笑った。 人の誠実を到底理解できずおのれの自尊心を満足させるためには万骨を枯らして尚平然たる姿の二十一歳自矜の怪物骨のずいからの虚栄の子女のひとの久遠の宝石真珠の塔二つなく尊い贈りものをろくろく見もせずぽんと路のかたわらのどぶに投げ捨ていまの私のかたちは果して軽快そのものであったろうかなどそんなことだけを気にしている。 ――はははは。 今夜はなかなか能弁だね。 ――笑いごとではないのです。 そのような奇妙な『ヴァイオリンよりはケエスが大事式』のその方面に於ける最もきびしい反省をしてみるのでした。 江の島の橋のたもとに新宿へ三十分渋谷へ三十八分と一字一字二尺平方くらいの大きさで書かれて居る私設電車の絵看板ちらと見てさっさと橋をわたりはじめた。 からころと駒下駄の音が私を追いかけ私のすぐ背後まで来てからゆっくりあるいてあたしきめてしまいました。 もう大丈夫よ先刻までの私は軽蔑されてもしかたがないんだ。 ――非常に素直な人なんだね。 ――そうですそうです。 判って呉れましたね。 やっぱりお話し申しあげてよかった。 もっともっと聞いて下さい。 ――よし。 ぜひとも聞かせて下さい。 竹やお茶。 ――飛びこむよりさきにまず薬を呑んだのです。 私が呑んでそれから私が微笑みながら姫や敵のひげむじゃに抱かれるよりは父と一緒に死にたまえ。 少しも早うこの毒を呑んで死んでお呉れ。 そんなたわむれの言葉を交しながらゆとりある態度で呑みおわってそれから大きいひらたい岩にふたりならんで腰かけて両脚をぶらぶらうごかしながら静かに薬のきく時を待って居ました。 私はいま徹頭徹尾死なねばならぬ。 きのうきょう二日あそんでそれがためすでにかの穴蔵の仕事の十指にあまる連絡の線を切断。 組織はふたたび収拾し能わぬほどの大混乱火事よりも雷よりもくらべものにならぬほどの一種|凄烈のごったがえし。 それらの光景は私にとって手にのせて見るよりも確実であった。 キャップの裏切。 逃走。 そのうえに海野三千雄のにせ者の一件が大手をひろげて立っていた。 女に告白できるくらいならそれができるたちの男であったなら二十一歳すでにこれほど傷だらけにならずにすんで居たにちがいない。 やがて女は帯をほどいてこのけしの花模様の帯はあたしのフレンドからの借りものゆえここへこうかけて置こうとよどみなく告白しながらその帯をきちんと畳んで背後の樹木に垂れかけ私たちはたいへんやわらかなおっとりした気持ちでおとなしく話し合いそれから城ヶ島とおぼしきあたり明滅する燈台の灯を眺めていました。 どんな話をしたでしょうか。 自分でも忘却してしまいましたが私自身が女に好かれて好かれて困るという嘘言を節度もなしにだらだら並べてこの女難の系統は私の祖父から発していて祖父が若いとき女の綱渡り名人が村にやって来て三人の女綱渡りすべて祖父が頬被りとったらその顔に見とれて傘かた手にはっと掛声かけてまた祖父を見おろしするする渡りかけてはすとんすとんと墜落するので一座のかしらから苦情が出てはては村中の大けんかになったとさ等大嘘を物語ってやって事実の祖父の赤黒く全く気品のない羅漢様に似た四角の顔を思い出し危く吹き出すところであった。 女は信じてそれでは私は八人の女のひとにうらまれる訳なのね。 ああ私は仕合せだ。 『勝利者』とうっとりつぶやいて星空を見あげていました。 突然くすりがきいてきて女はひゅうひゅうと草笛の音に似た声を発してくるしいくるしいと水のようなものを吐いて岩のうえを這いずりまわっていた様子で私はその吐瀉物をあとへ汚くのこして死ぬのはなんとしても心残りであったからマントの袖で拭いてまわっていつしか私にも薬がきいてぬらぬら濡れている岩の上を踏みぬめらかし踏みすべりまっくろぐろの四足獣のどに赤熱の鉄火箸を五寸も六寸も突き通されやがてその鬼の鉄棒は胸に到り腹にいたりそのころにはもはや二つの動くむくろ黒い四足獣がゆらゆらあるいた。 折りかさなって岩からてんらくざぶと浪をかぶってはじめ引き寄せ一瞬後はお互いぐんと相手を蹴飛ばしたちまち離れて謂わば蚊よりも弱い声『海野さあん。 』私の名ではなかった。 十年まえの師走ちょうどいまごろの季節の出来ごとです。 ――なるほどなるほどおい竹や。 ウオトカ。 ――太宰さん。 白ばくれちゃいけない。 私のこの話をどう結んでくれるのです。 これは勿論あなたの身の上じゃない。 みんな私の身の上だ。 けれども私はこれを発表するときに雑誌社だって考えます。 どこの鰯の頭か知れない男の告白よりはぱっとしないがとにかく新進の小説家太宰さんのざんげ話として広告したいところです。 この私の苦心の創作を買って下さい。 同文の予備役なおこちらに三冊ございます。 その三冊とも五十円は安い。 太宰さん。 おどろいたでしょう。 みんなウソ。 おどかしてみたのさ。 おどろいた。 ずっとまえに君が私とお酒のみながらこの話教えて呉れたじゃないか。 きょう日曜の雨たいくつでたまらぬがお金はなし君のとこへも行けず天候の不満を君に向けて爆破どうだすこしはぎょっとしたか。 このぶんでは僕も小説家になれそうだね。 はじめの感想文はあれは支那のブルジョア雑誌から盗んだものだが岩の上の場面などは僕が書いた。 息もつかせぬ名文章だったろう。 これから一時間文士になろうかどうか思い迷ってみることにする。 失礼。 おからだ気をつけて。 こんどの日曜日に行く。 うちから林檎が来ているが取りに来て下さい。 清水忠治。 叔父上様。 謹啓。 文学の道あせる事無用と確信致し居る者に候。 空を見雑念せず。 陽と遊び短慮せず。 健康第一と愚考致し候。 ゆるゆる御精進おたのみ申し上候。 昨日は又創作『ほっとした話』一篇御恵送|被下厚く御礼申上候。 来月号を飾らせていただきたくお礼|如此御座候。 諷刺文芸編輯部五郎合掌。 お手紙さしあげます。 べつに申しあげることもないのでペンもしぶりますが読んでいただければうれしいと思います。 自分勝手なことで大へんはずかしく思いますがおゆるしください。 御記憶がうすくなって居られると考えますが二月頃新宿のモナミで同人雑誌『青い鞭』のことでおめにかかりそしてその時のわかれ方が非常に本意なく思われていつもすまなく感じていて自分ひとりでわるびれた気持になっています。 いつかお詫びの手紙を出そうと念じながらもひとりぎめの間のわるさの為に出しそびれて何かのきっかけをと思いあなたの『晩年』とかいうのが出たらそのときのことにしようと最近心にきめていましたところ今日本屋であなたの一文を拝見して無しょうにかなしくなり話しかけたくなりました。 それでも心のどこかでびくびくしていてこまります。 あの夜僕はとりみだし荒んだ歩調で階段を降りました。 そしてそのとりみだし方も純粋でなかったようではずかしく思いだしては首をちぢめています。 その夜斎藤君はおもわせぶりであるとあなたにいわれたために心がうつろになりさびしくなっていてそれだけですでにおろおろして居たのです。 僕が帰ることになったとき先に払った同人費を還すからというとき僕は心の中で五円|儲かったと叫んだのです。 そして何か云われたのに二円五十銭ずつ二回に払ったのですがと答えたときの自分自身の見えすいた狡さのために自らをひくくしたはずかしさと棄鉢をおぼえました。 そればかりでなく五円儲かったということばはその二三日前によんだ貴作『逆行』の中にあることばがそのままにうかんだしろものに過ぎず新宿駅のまえでぼんやりして居りました。 あのはげしかった会合のことがらをはっきりと掴めもせずに自分の去就についてどうしたら下手をやらずにすむかを考えていたようでした。 駅のまえでしばらく白犬のようにうろうろしてこのまま下宿へ帰ろうかと考えましたがこれきりあなた達と別れてしまうのかと思われてさびしくなりました。 今すぐ会場へ引返してみたところでと叱られるくらいがおちであろうと永いことさまよいました。 人に甘え世に甘え自分にないものを何かしらんかくし持ってあるが如くに見せかけるその思わせぶりを人もあろうにあなたに指さされかなしかった。 ああめそめそしたことを書いて御免下さい。 私はその夜の五円を極めて有効に一点濁らず使用いたしました。 生涯の記念としていまなおその折のメモを失くさず『青い鞭』のペエジの間にはさんで蔵して在るのです。 三銭切手十枚三十銭。 南京豆十銭。 チェリイ十銭。 みのり十五銭。 椿の切枝二本十五銭。 眼医者八十銭。 ゲエテとクライストプロレゴーメナ歌行燈三冊七十銭。 鴨肉百目七十銭。 ねぎ五銭。 サッポロ黒ビイル一本三十五銭。 シトロン十五銭。 銭湯五銭。 六年ぶりでゆたかでした。 使い切れずポケットにはまだ充分に。 それから一年ちかく二三度会った太宰治のおもかげを忘じがたくこくめいに頭へ影をおとしている面接の記憶をいとおしみながら何十回かの立読みをつづけて来た。 一言半句こころにきざまれているような気がしています。 本屋から千葉の住所を諳記して来てかきとって置いたのが去年の八月である。 それを役立てることが今迄できなかったけれども。 『太宰どん。 白十字にてまつ。 クロダ。 』大学の黒板にかかれてあったのは先日であったろうか。 『右者事務室に出頭すべし津島修治。 』文学部事務所にその掲示は久しくかけられてあった。 僕は太宰治を友人であるごとくに語りそしてさびしいおもいをした。 太宰治は芸術賞をもらわなかった。 僕は藤田大吉という人の作品を決して読むまいと心にちかった。 僕はそんなに他人の文章を読まないけれども道化の華ダス・ゲマイネ理解できないのではなくけれども満足ができなかった。 之は書くぞ書くぞという気合と気魄の小説である。 本物の予告篇だと思っていた。 そして今に本物があらわれるかと思っているとその日その日が晩年であったということばがほんとうなのかとうたがわれて来た。 健康をそこね写真はすきとおってやせていた。 そして太宰治は有名になり僕は近づけない気がした。 僕には道化の華が理解できないのだと思った。 僕は太宰治にヴァイオリンのようなせつなさを感ずるのはそのリリシズムに於てであった。 太宰治の本質はそこにあるのだと僕は思っている。 それが間違いであるといわれても僕はなかなかこの考えを捨てまいと思っている。 リリシズムの野を出でていばらに裂かれた傷口に布をあてずにあらわに陽にさらしている痛々しさを感じてならない。 二月の事件の日女の寝巻について語っていたと小説にかかれているけれども青年将校たちと同じような壮烈なものをそういう筆者自身へ感じられてならない。 それはうらやましさよりもいたましさに胸がつまる。 僕は何ごともどっちつかずにして来てこの二年間で法科の課程を三分の一それも不充分にしか卒えていない。 しかも他になにもできないのであった。 そういったアマツール的な気持からはただ太宰治のくるしみを肉体的に感じてくるばかりで傍観者として呆然としているばかりである。 僕自身へ巣くう生半可な態度はおそらくいつまでもつづくことと思われます。 僕の健康は人に思われてるほどわるくはないと思うけれども何事にも本気になれない。 二三日何事かへ本気になったならば僕自身をほろぼしてしまいそうでならない。 本気になれぬ。 そういうことで勿論何事も出来る筈はないけれどもそれでごく満足しています。 『ユーモアについて。 』と題し中学時代のあなたの演説をぼくは中学校一の秀才というささやきとそれからあなたの大人びたゼスチュア以外におもいだせないけれども多くの人達は太宰治をしらずに青森中学校の先輩津島修治の噂をします。 青森の新町の北谷の書店の前で高等学校の帽子をかぶっていたのへ中学生がお辞儀した。 あなたはやはり会釈を返したときこちらが知っているのにむこうが知らないことはさびしいと思ったがあなたに返礼されただけでそれでもいささか満足であった。 僕は今年で大学を終らなければならないけれども出来るかどうかあやぶまれますけれども卒業することにきめて居ります。 文学といえばじつのあることは少しも出来るはずなく風景や女の人にみとれてくらしています。 『双葉』という少女雑誌で僕の皿絵という小説がおめにふれたとすればと汗するおもいがしました。 という人にあって聞きました。 トラホームだの頸腺腫だのX彎曲だのというくだりはあなたにいいといわれたばかりにどこへでも持って歩いていたのです。 『新ロマン派』で追記風にある同人雑誌のある人をほめていたことばを見てねたましく思ったこともあります。 何をかいたか自信がありません。 これだけでもうヘトヘトです。 毎日毎日つかれている。 何ごとをするのでもなく。 ほとんど休んでばかり居れば日曜もたのしくなく夜ねても一日がおわったといういこいではなくてあしたがあるというつかれを覚えています。 健康をねがって終日をくらす。 今は弱いというだけで病気はありません。 老人のごとき皮膚をあわれみ夜裸身に牛乳をあびる。 青春を得るみちなきかと。 非常に失礼な手紙だと思います。 文体もあやふやで申しわけありません。 でもほっとしています。 明日の朝になればだせなくなるといけませんからすぐだします。 おひまのときにおたよりいただけたらと思います。 おからだお大事にねがいます。 斎藤武夫拝。 太宰治様。 御手紙拝見。 お金の件お願いに背いて申し訳ないがとても急には出来ない。 実は昨年県会議員選挙に立候補してお蔭で借金へ毎月|可成とられるので閉口。 選挙のとき小泉邦録君から五十円送って貰った。 これだけでも早くお返ししたいと思い乍ら未だにお返し出来ずにいる始末。 五十円位の金が出来ないのは何んとも羞しいがさりとてその辺を借金に廻るのは小生にはちょっと出来ない。 貴兄が小生の友情を信じて寄せた申越しに対し重ね重ねすまない。 しかし出来ないことをねちねちしているのも嫌だから早速この手紙を書いた次第。 悪く思わないでくれ。 小生昨今文学にしばらく遠ざかっているので貴兄の活躍ぶりも詳しくは接していないが貴兄の力には期待して居りますので必ずや相当以上の活動をしていることと思って居ります。 返す返す済まないが右の事情を御賢察のうえ御|寛恕下さい。 しかし貴兄からこう頼まれたが工面出来ないかと友達連に相談をかけても良いものならばまた可能性の生れて来る余地あるやも知れぬがこれは貴兄に対する礼儀でないと思うので右とり急ぎ。 辻田吉太郎。 太宰兄。 手紙など書きもの言わんとすれば君ぞありぬる。 ああよき友よ。 家内にせんにはちとま心たらわず愛人とせんには縹緻わるく妻妾となさんとすればもの腰粗雑にして鴉声なり。 ああ不足なり。 不足なり。 月よ。 汝天地の美人よ。 月やはものを思わする。 吉田潔。 太宰治さん。 再々悪筆をお目にかける失礼お許し下さいまし。 一つには私たちの同人雑誌『春服』が目茶苦茶になりかかったわびしさから二つにはぼく自身のステールネスから最後にあなたがぼく如きものに好意をお持ち下され居る由昨晩の松村と云う『春服』同人の手紙が伝えてくれたので加うるに性来の図々しさを以て御迷惑を省みず狎書を差し上げる次第です。 友人の松村と言う男が塩田カジョー関タッチイ大庄司清喜この三人そろって船橋のお宅へお邪魔した際の拙作に関するあなたの御意見あとでその三人から又聞きしたのをそのまま私へ知らせてよこしました。 亦『新ロマン派』十二月号にも拙作に関する感想をお洩しになったこと『新潮』一月号掲載の貴作中一少女に『春服』を携えさせたこと等あなたの御心づかいを伝えてくれました。 早速今日街の五六軒の本屋をまわって二誌を探したのですが『新潮』はどこでも売切れてばかりいましたし『新ロマン派』は来ていない模様でした。 ぼくはあなたに御礼を書くのではないのです。 御礼だけかいて済まして居られる身分になれたらそれはすがすがしいことです。 がきいて頂きたいことがあるのだ相談にのって頂きたい力になって貰いたいと手前勝手な台辞ばかりならべるのはなんとも恥しい話です。 あなたはカジョーにぼくの経歴人物についてきいて下さったかも知れません。 がカジョーは多分あいつは宣伝の好きな男だからけれどもこれはカジョーへの悪意ではありません。 ぼくの自己弁解です。 ぼくは幼年時身体が弱くてジフテリヤや赤痢で二三度|昏絶致しました。 八つのとき『毛谷村六助』を買って貰ったのが文学青年になりそめです。 親爺はその頃|妾を持っていたようです。 いまぼくの愛しているお袋は男に脅迫されて箱根に駈落しました。 お袋は新子と名を改めて復帰致しました。 ぼくの物心ついた頃親爺は貧乏官吏から一先ず息をつけていたのですが肺病になり一家を挙げて鎌倉に移りました。 父はその昔一世を驚倒せしめた歴史家です。 二十四歳にして新聞社長になり株ですって陋巷に史書をあさりペン一本の生活もしました。 小説も書いたようです。 大町|桂月福本日南等と交友あり桂月を罵って仙をてらうと云いつつおのれも某伯某男某子等の知遇を受け熱烈な皇室中心主義者いっこくな官吏孤高|狷介読書追及倦まざる史家癇癪持の父親として一生を終りました。 十三歳の時です。 その二年前小学六年の時ぼくの受持教師は鎌倉大仏殿の坊主でした。 その影響でぼくは別荘の坊ちゃんとしての我儘なしたいほうだいを止めて執偏奇的な宗教家神秘家になりました。 ぼくは現実に神をみたのです。 一方豆本熱は病こうこうに入って蒐集した長篇講談はぼくの背を越しました。 作文の時間には指名されて朗読しました。 『新聞』と云う題で夕刊売の話を書き級中を泣かせました。 俳句を地方新聞にも出されました。 ぼくは幼ないジレッタント同志で廻覧雑誌を作りました。 当時歌人を志していた高校生の兄が大学に入る為帰省しぼくの美文的フォルマリズムの非を説いて子規の『竹の里歌話』をすすめ『赤い鳥』に自由詩を書かせました。 当時作る所の『波』一篇は白秋氏に激賞され後選ばれてアルス社『日本児童詩集』にのりました。 父が死んだ年兄は某中学校に教べんを取りました。 父の死は肺病の為でもあったのですが震災で土佐国から連れてきた祖父を死なし又祖父を連れてくる際の口論の為叔父の首をくくらしまた叔父の死の一因であった従弟の狂気等も原因して居たかも知れません。 加えて兄のソシャリストになった心痛もあったでしょう。 事実兄はぼくを中学の寄宿舎に置くと一家を連れて上京自分は××組合の書記長になり学校にストライキを起しくびになりお袋達が鎌倉に逃げかえった後も豚箱からインテリに活動しました。 同志の一人はうちに来て寄宿から帰ったぼくと姉を兄貴への心服の上に感化しました。 三・一五が起り兄は転向結婚嫁と母の仲悪るく兄夫婦はぼく達を置いて東京で暮していました。 人道主義的なマルキストであり感傷的な文学少年数学の出来なかったぼくはひどい自涜の為もあったのでしょう学校に友達なく全く一人で姉近所のW大生小学時代の親友兄夫婦も加えてプリント雑誌『素描』を二年続けました。 兄の運動の為父の財産はなくなり鎌倉の別荘は人に貸し一家は東京に舞い戻り兄夫婦も一緒になりました。 中学の終りからテニスを始めていたぼくはテニスのおかげで一夜に二寸ずつ伸びる思いで長身肥満W高等学院自涜の一年を消費した後W大学ボート部に入りました。 一年後ぼくはレギュラーになり二年後第十回オリンピック選手としてアメリカに行きました。 当時二十歳六尺十九貫五百紅顔の少年であります。 ボートは大変|下手でした。 先輩ばかりでちいさくなっていました。 往復の船中の恋愛帰ってきたぼくは歓迎会ずくめの有頂天さのあまり多少神経衰弱だったのです。 ぼくが帰国したとき前年義姉を失った兄は家に帰りコンムニュスト党資金局の一員でした。 あにを熱愛していたぼくはマルキシズムの理論的影響失せなかったぼくは直に共鳴して鎌倉の別荘を売ったぼくの学費を盗みだして兄に渡し自分も学内にR・Sを作りました。 関タッチイはそのメンバーであり彼の下宿はアジトでした。 その頃自殺を企て実行もした元気のない塩田カジョーと知り合ったのです。 タッチイがへまをしてつかまりました。 タッチイは頑張ってくれたのでしたがぼくはその前から家を飛びだしもぐっていた兄にならって殆んど狂気しかかっているヒステリイの母をみすててぼくも一週間逃げ歩きました。 家の様子をみにきたぼくは姉に掴りました。 学資がなく学校も止めさせられぼくは義兄の世話で月給十八円で或る写真工場につとめに出ました。 母と共に二間の長屋に住んで。 ――ぼくは直ちに職場に組織を作りキャップとなり仕事を終えると街で上の線と逢いきっ茶店で顔をこわばらせて秘密書類を交換しました。 その内僅か四五カ月。 間もなくプロバカートル事件が起り逃げてきて転向し再び経済記者に返った兄の働きでぼくも学校に戻れました。 転向後だったので兄は二カ月ぼくは大した事もなかったので半日豚箱に置かれました。 職場にいた頃機関雑誌に僕はミューレンの焼き直し童話や片岡鉄兵氏ばりのプロレタリア小説を書いていました。 十銭で買った『カラマゾーフの兄弟』の感激もありましたろう。 貧乏大学生の話殊に嫁を貰ってからの兄との遠慮はぼくにまた幼年時からの理想小説家を希望させたのです。 最初の一年はぼくは無我夢中で訳の分らぬ小説を書き投書しました。 急にスポーツをやめた故か人の顔をみると涙がでる生つばがわく少しほてる。 からだが松葉で一面に痛がゆくなる。 『芸術博士』に応募して落ちた時など帯を首にまきつけました。 ドストエフスキイ流行直前彼にこってタッチイを臭い文学理論でなやましそのほかの友人すべてをもひんしゅくさせたことと思います。 兄の新妻の弟山口定雄がワセダ独文で『鼻』という同人雑誌を出していましたので彼に頼み鼻の一員にして貰い一作を載せたのが昨年の暮なのです。 『鼻』に嫌気がさしていた山口を誘い彼の親友岡田と大体の計画をきめてからぼくは先ず神崎森の同感を得次に関タッチイを口説きに小日向に上りました。 タッチイを強引に加入させるとカジョー神戸がついてきてくれました。 かくしてタッチイの命名になる『春服』が生れました。 タッチイは顔がひろくて山村カツ西豊野を加えカジョーもまた努力してくれて伊牟田氏を入れてくれました。 カジョーとは段々仲が良くなりぼくの臭さも彼許してくれてきましたようです。 『春服』創刊から二号にかけてぼくは昨年暮から今年の三月頃まで就職に狂奔しました。 幸いぼくは母方の祖父の友人の世話で現在の会社に入れて貰いました。 その頃から益々兄と仲が悪く蔵書一切を売って旅に出ようと決心したりしました。 兄はぼくが文学をやめるのを極度に軽べつします。 兄貴に食わして貰うのは卒業後不可能です。 母の悲歎を思えば神崎の如き文学青年の生活も出来ないし一つには会社員と云う生活もしてみたかったのです。 会社に入って一月半君は肉体が良いから朝鮮か満洲に行って貰いたいと頼まれました。 母や兄と一緒の窮屈なる生活に嫌気がさしまた新しい生活もしたさにぼくは朝鮮に来ました。 満洲より朝鮮が小説になる気もしたのですがこれは会社員になったのと同様色々な自分の意見からより色々な必然の為でしょう。 『青年の思想はおのれの行動の弁解に過ぎぬ。 』H先生の言葉みたいなものです。 ぼくはここ迄を昨夜女郎にショールを買えないと云い訳に行きちょいの間を行き婆さんの借金を三円払ってやり正月に連れだしてやる約束を迫まれ所で今月は師走です。 洋服屋がきて虎の子の十円を持って行きました。 未だ一円残っていますがこれで散髪屋に行き――後五十銭残りますがこれもいっそ費って宵越のぜにア持たねエクリスマスを迎えようかと愚考しています。 ぼくはここ迄昨夜二時帰宅後五時まで書きました。 今同じ部屋に居る会社の給仕君と床屋に行って来ました。 加藤|咄堂氏のラジオを聞いてきました。 帰りに菓子四十銭ピジョン一箱で完全に文無しになりました。 今シェストフ『自明の超克』『虚無の創造』を読んでいます。 彼は云います『一般に伝記というものは何でも語っているが只我々にとって重要なことは除外しているものだ。 』ぼくは前の饒舌を読み返してイヤになる。 差し上げまいかとも思ったのですが一遍書いたものはもう僕と異ったものですから虚飾にみちた自家広告も愛嬌だと思い続けて自己嫌悪を連ねようと考えたのですがシェストフで誤魔化して置きます。 御免なさい。 さて現在のぼくの生活ですが会社は朝の九時半から六七時頃迄です。 ぼくの仕事は机上事務もありますが本来は外交員です。 自動車屋会社の購買商店等をまわり一種の御用聞きをつとめるのです。 大抵は鼻先で追い返されますしヘイヘイもみ手で行かねばならないので意気地ない話ですがイヤでたまりません。 それだけならいいんですが地方の出張所にいる連中夫婦ものばかりですし小姑根性というのか蔭口皮肉殊に自分のお得意先をとられたくないようで雑用ばかりさせるし悪口ついでにうんとならべると女の腐ったような本社の御機嫌とりに忙しいくびの心配ばかりしている。 他人の月給をそねみ生活を批評し自分の不平例えば出張旅費の計算で陰で悪口の云い合い出張|成金めとか奥さんがかおを歪めて何々さんは出張ばかりで――うちなんか三日の出張で三十円ためてかえりましたよ。 すると一方の奥さんはうちは出張してもまアそれだけ下の人達にするからよ。 けれども主任さんは二等旅費で三等にばかり乗るのですよ。 けちねエ。 然し奥さん出張すると靴は痛む洋服は切れるYシャツは汚れる随分|煩さいのです。 殊に小人数ですから家族的気分でいいとかいいながらそれだけ競争もはげしくぼくなど御意見を伺わされに四六時中ですから――それに商売の性質から客の接待休日日曜出勤居残り等多く勉強する閑はありません。 気をつかうのでつかれます。 月給六十五円それと加俸五割で計九十七円五十銭の給金です。 金というものの正体不明で相手に出来ないので損ばかりしています。 もう大分借金が出来ました。 もう他人の悪口を云い他人に同情する年でもありますまい止めます。 もう給仕君床に入りました。 ぼくに盛んに英語を聞くので閉口です。 所でぼくは語学がなにも出来ないのです。 所でぼくも床に入って書いています。 給仕君煩さいので寝てからにしましょう。 ラジオのアナウンスみたいな手紙の書き方をお許し下さい。 ぼくにはこの方が純粋なような気がするのです。 亦シェストフを写します『チエホフの作品の独創性や意義はそこにある。 例えば喜劇「かもめ。 雑多な事実。 近頃の君の葉書に一つとして見るべきものがない。 非常に惰弱になって巧言令色である。 少からず遺憾に思っている。 吉田生。 一言。 僕は僕もバイロンに化け損ねた一匹の泥狐であることを教えられ化けていることに嫌気が出て恋の相手に絶交状を書いた。 自分の生活はすべて嘘であり偽でありもう何ごとも信ぜず絶望の穴に落ち入る。 きょうより以後あなたの文学をみとめない。 さようなら。 御写真ください。 道化の華は人殺し文学であるか。 いやざっとウォーミングアップ。 太宰さんどうやらひっかかったらしい。 手ごたえあり。 私に興味を感じたらお仕舞までお読み下さい。 僕はまだ二十歳の少年なので貴重なお時間を割いて戴くのも心苦しいまでに有難く存じます。 まず僕がどの程度に少年であるか自己紹介させて下さい。 十五六歳の頃佐藤春夫先生と芥川龍之介先生に心酔しました。 十七歳の頃マルクスとレエニンに心酔しました。 ところが十八歳になるとまた『芥川』に逆戻りして辻潤氏に心酔しました。 『芥川』を透してアナトール・フランスをボードレエルをE・A・ポーを愛読しました。 それから文学を留守にして幻燈の街に出かけたりとやかくやして現在の僕になりました。 僕は文学をやるのに語学の必要を感じつつ外国語はさておき日本語の勉強をすらやらないで便便として過してます。 自分の生活を盲動だと思って然し人生そのものが盲動さと自問自答しています。 二十歳の少年の分際でこれはあまり諦めがよすぎるかも知れません。 シェストフ的不安とは何であるか僕は知りません。 ジッドは『狭き門』を読んだ切りで純情な青年の恋物語でありシンセリティの尊さを感じたくらいでとにかく浅学|菲才の僕であります。 これで失礼申します。 私はとんでもない無礼をいたしました。 私の身のほどを只今はっと知りました。 候文ならいくらでもなんでも。 他人からの借衣ならたとい五つ紋の紋附きでもすまして着て居られる。 あれですね。 それでは唄わせていや書かせていただきます。 拝啓。 小生儀異性の一友人にすすめられ『めくら草紙』を読みそれから『ダス・ゲマイネ』を読みたちどころに太宰治ファンに相成候ものにしてこれはファン・レターと御承知|被下度候。 『新ロマン派』も十月号より購読致し『もの想う葦』を読ませて戴き居候。 知性の極というものはの馬場の言葉に小生いや何も言うことは無之候。 映画ファンならばこの辺でプロマイドサインを願う可きと存候え共そして小生も何か太宰治さまよりの『サイン』に似たもの欲しとは存じ候え共いけませんでしょうか。 御伺い申上候。 かかる原稿用紙様の手紙にて礼を失し候段甚謝仕候。 敬具。 十二月二十二日。 太宰治様。 わが名はなでしことやら夕顔とやらあざみとやら。 追伸この手紙に僕は言い足りない或は言い過ぎたことの自己嫌悪を感じ『ダス・ゲマイネ』のうちの言葉『しどろもどろの看板』を感じる。 太宰さんこれはだめです。 だいいち私に異性の友人などいつできたのだろう。 全部ウソです。 サインなんか不要です。 私は貴下の――いやむずかしくなって来ました。 御返事かならず不要です。 そんなものいやです。 おかしくって。 私たちの作家が出たというのはうれしいことです。 苦しくとも生きて下さい。 あなたのうしろにはものが言えない自己喪失の亡者が十万うようよして居ります。 日本文学史に私たちの選手を出し得たということはうれしい。 雲霞のごときわれわれに表現を与えて呉れた作家の出現をよろこぶ者でございます。 私たち十万の青年実社会に出て果して生きとおせるか否か厳粛の実験が貴下の一身に於いて黙々と行われて居ります。 以上書いたことで私はまだ少年の域を脱せず『高所の空気強い空気』であるあなたに手紙を書いたり逢ったりすることに依りて『凍える危険』を感ずる者である。 まことに敬畏する態度で私はこの手紙一本きりであなたから逃げ出す。 めくら蜘蛛願わくば小雀に対して寛大であられんことを。 勿論お作は誰よりも熱心に愛読します心算もう一言。 ――君に黄昏が来はじめたのだ君は稲妻を弄んだ。 あまり深く太陽を見つめすぎた。 それではたまらないめくら草紙の作者にこの言葉あてはまるや否や――ストリンドベルグの『ダマスクスへ』よりの言葉である。 とああ気取った書き方をして了った。 もうこれ以上書かないけれども太宰治様。 僕はあなたの処へ飛んで行って暗いところで話し度い。 改造にあなたが書けば改造を買い中公にあなたが書けば中公を買う。 そしてわざと三円の借金をかえさざる。 頓首。 私は女です。 拝復。 君ガ自重ト自愛トヲ祈ル。 高邁ノ精神ヲ喚起シ兄ガ天稟ノ才能ヲ完成スルハ君ガ天ト人トヨリ賦与サレタル天職ナルヲ自覚サレヨ。 徒ラニ夢ニ悲泣スル勿レ。 努メテ厳粛ナル五十枚ヲ完成サレヨ。 金五百円ハヤガテ君ガモノタルベシトゾ。 八拾円ニテマント新調二百円ニテ衣服ト袴ト白|足袋ト一揃イ御新調ノ由二百八拾円ノ豪華版ノ御慶客。 早朝門ニ立チテオ待チ申シテイマス。 太宰治様。 深沢太郎。 謹啓。 其の後御無沙汰いたして居りますが御健勝ですか。 御伺い申しあげます。 二三日前から太宰君に原稿料として二十円を送るようにたびたびハガキや電報を貰っているのですが社の稿料は六円五十銭しかあげられず小生ただいま金がなく漸く十円だけ友人に本日借りることができました。 四度も書き直してくれてお気の毒千万なのですが計十五円だけお送りいたします。 おおみそかを控えそれでも平気でぱっぱっ使ってしまいますゆえあなたの方で保管適当にお渡し下さいまし。 もっと送ってあげたく思いましたが僕もいっぱいの生活でどうにもできません。 麹町区内幸町武蔵野新聞社文芸部長沢伝六。 太宰治様令閨様。 師走厳冬の夜半はね起きてしるせる。 一私は下劣でない。 二私はけれども独りで創った。 三誰か見ている。 四『あたしもすっかり貧乏してしまってね。 』五こんな筈ではなかった。 六蛇身清姫。 七『おまえをちらと見たのが不幸のはじめ。 』八いまごろ太宰寝てか起きてか。 九『あたら才能を。 』十筋骨質。 十一かんなん汝を玉にせむ。 一箇条つかんでノオトしている間に三十倍四十倍百千ほども言葉を逃がす。 S。 前略。 その後いよいよ御静養のことと思い安心しておりましたところ風のたよりにきけば貴兄このごろ薬品注射によって束の間の安穏を願っていらるる由。 甚だもっていかがわしきことと思います。 薬品注射の末おそろしさに関しては貴兄すでに御存じ寄りのことと思いますので今はくり返し申しません。 しかしそれは恋人を思いあきらめるがごとき大発心にてどうか思いあきらめて下さるよう切望いたします。 仏典に申す『勇猛精進』とはこのあたりの決心をうながす意味の言葉かと思います。 実は参上して申述べ度きところでありますが貴兄も一家の主人で子供ではなし手紙で申してもききわけて頂けると信じ手紙で申します。 どこか温い土地か温泉に行って静かに思索してはいかがでしょう。 青森の兄さんとも相談してよろしくとりはからわれるよう老婆心までに申し上げます。 或いは最早や温泉行きの手筈もついていることかと思います。 温泉に引越したら御様子願い上げます。 北沢君なんかといっしょに訪ね小生もその附近の宿にしばらく逗留してみたいと思います。 奥さんによろしく。 頓首。 早川俊二。 津島修治様。 三拾円しか出来ない。 いのちがけということをきいて心配いたして居りますがどんなんですか。 本当は二十日ごろまでに兄より何か委細のおしらせあるかと待って居たのですが。 こうして離れているとお互いの生活に対する認識不足が多いのでいろいろ困難なことにぶつかると思います。 命がけというのでお送りするわけです。 それも私の生活とても決して余裕がないのでサラリイの前がりをしてやるわけです。 勿体ぶるわけではないんです。 そしてゼイタクしているわけではありません。 教師として普通人の考えるが如き生活をひたすらしているのではありません。 嘗て君も私も若き血を燃やしたる仕事があった筈です。 それをです。 そのためにです。 それに子供がうまれて以来フラウが肺病私が肺病で火の車にちかい。 であるから三〇でがまんしてくれ。 そして出来るなら返して呉れ。 こっちがイノチがけになってしまうから。 文壇ゴシップ小説その他に於ける君の生活態度がどんなものかを大体知っている。 しかし私はそれを君のすべてであるとは信じたくない。 元気を出せ。 いのちがけの死ぬのそんな奴があるか。 気質沢猛保。 悪習は除去すべきである。 本郷区千駄木町五十吉田潔。 言わなければならぬと思いながら言えない。 夏休みになったら手紙をかこうと決心した。 手紙をかき度い。 かかなければならぬと思いながらなぜかけないのかということを考えた。 『人は人を嘲うべきものでない』と言って呉れても未だかけなかった。 手紙がぼくを決める。 手紙をかく決心がついた。 明日から絵を一枚描く。 そして一層決心をかためる。 一週間で絵が大体出来る。 それから蔦に行って手紙をかく。 手紙をかかなかったら東京へ帰らない。 どうなるにしても手紙をかいてからです。 『青い鞭』創刊号うけとりました。 私は実行します。 創ったもの何もなくただこんな絵を描こうと思っただけで貴方に認められようとし実行しない自身に焦心していました。 船橋から帰る日私への徹底的な絶望と思って私がかなしんだ貴方の言葉は今特に絶対必要なありがたい力をあたえてくれています。 ピカソもマチスも見方によっては一笑に付されることを実行している。 私のこの頃描いた絵は実行でなく申し訳であったと思います。 ぼくは長い長い手紙をかきたかったのだ。 一分のスキもない手紙など『手紙が仲々出来ない』といったりしたことを千家君は誤解したらしい。 手紙をかくと誓った日までは努力した。 その日から君にものを言うに努力はない。 一晩中よんでいられるような長い手紙をかこうと思ったのだ。 ぼくはいたちでない。 ぼくは自分をりんごの木の様に重っぽく感ずることがある。 他の奴とは口もきき度くない。 君にだけならどんなことでも言える。 この手紙を信じてくれなかったらぼくは死ぬ。 敬四郎拝。 拝啓。 突然ぶしつけなお願いですが私を先生の弟子にして下さいませんか。 私はダス・ゲマイネを読みいまなお読んでいます。 私は十九歳。 京都府立京都第一中学校を昨年卒業し来年三高文丙か早稲田か大阪薬専かへ行くつもりです。 小説家になるつもりで必死の勉強しています。 先生どうか私を弟子にして下さい。 それにはどんな手続きが必要でしょうか。 偉大なる霊魂はただ偉大なる霊魂によって発見せられるのみであると辻潤が言っています。 私は少しポンチを画く才能をもち文学に対する敏感さをも持っています。 上品な育ちです。 けれども少しヘンテコです。 クリスチャンでもありスティルネリアンでもあるというあわれな男です。 どうか御返事を下さい。 太宰イズムが恐ろしい勢で私たちのグルウプにしみ込みました。 殆ど喜死しました。 さよなら御返事をお待ちしています。 三重県|北牟婁郡九鬼港気仙仁一。 追白。 私は刺青をもって居ります。 先生の小説に出て来る模様と同一の図柄にいたしました。 背中一ぱいに青い波がゆれてまっかな薔薇の大輪を鯖に似て喙の尖った細長い魚が四匹花びらにおのが胴体をこすりつけて遊んでいます。 田舎の刺青師ゆえ薔薇の花など手がけたことがない様で薔薇の大輪取るに足らぬ猿のお面そっくりで一時は私も部屋を薄暗くして寝て大へんつまらなく思いましたが仕合せのことには私よほどの工夫をしなければわが背中見ること能わず四季を通じて半袖のシャツを着るように心がけましたので少しずつ忘れて来年は三高文丙へ受験いたします。 先生私はどうしたらいいでしょう。 教えて呉れよ。 おれは山田わかを好きです。 きっと腕力家と存じます。 私の親爺やおふくろは時折私を怒らせてぴしゃっと頬をなぐられます。 けれども親爺おふくろどちらも弱いので私に復讐など思いもよらぬことです。 父は現役の陸軍中佐でございますがちっともふとらずおかしなことにはいつまで経っても五尺一寸です。 痩せてゆくだけなのです。 余ほどくやしいのでしょう。 私の頭を撫でて泣きます。 ひょっとしたら私はひどく不仕合せの子なのかも知れぬ。 私は平和主義者なのできのうも十畳の部屋のまんなかに一人あぐらをかいて坐ってあたりをきょろきょろ見まわしていましたが部屋の隅がはっきりわかって人間けんかの弱いほど困ることがない。 汽船荷一。 おくるしみの御様子みんなみんないまのあなたのお苦しみと丁度同じくらいの苦しみを忍んで生きて居るのです。 創作ここ半年くらいは発表ひき受ける雑誌ございませぬ。 作家のおそかれ早かれ必ず通らなければならぬどん底。 これはジャアナリストのあいだの黙契にていたしかたございませぬ。 二十円同封。 これは私とりあえずおたてかえ申して置きますゆえ気のむいたとき三四枚の旅日記でも御寄稿下さい。 このお金で五六日の貧しき旅をなさるようおすすめ申します。 私ひとり残されてもあなたを信じて居ります。 大阪サロン編輯部高橋安二郎。 春田はクビになりました。 私がその様に取りはからいました。 奥さんからの御報告に依ればお酒もたばこも止したそうでお察しいたします。 そのかわりバナナを一日に二十本ずつ妻楊枝日に三十本は確実尖端をしゅろの葉のごとくちぢに噛みくだいて所かまわず吐きちらしてあるいて居られる由またさしたる用事もなきに床より抜け出てうろついてあるいて電燈の笠に頭をぶっつけ三つもこわせし由すべて承り奥さんの一難去ってまた一難の御嘆息もさこそと思いますが太宰ひとりがわるいのじゃない。 みんながよってたかってもの笑いのたねにしてしまってぼくはそれについて二三人の人物に殺すともゆるしがたき憤怒をおぼえる。 太宰恥じるところなし。 顔をあげて歩けよ。 クロ。 太宰様その後とんとごぶさた。 文名日一日と御隆盛要らぬお世辞と言われても少々くらいの御|叱正にはおどろきませぬ。 さきごろは又『めくら草紙』圧倒的にて私『もの思う葦』を毎月拝読いたし厳格の修養の資とさせていただいて居ります。 すこしずつ危げなく着々と出世して行くお若い人たちのうしろすがたお見送りたてまつることこの世に生きとし生きて在る者のもっとも尊き御光を拝する気持ちで昨日は神棚の掃除いたしこの上は吉田様の御出世御栄達を祈るのみでございます。 思えば不思議の御縁でございます。 太宰様は一年間に原稿用紙三百枚それもただ机のうえにきちんと飾ってかたわらに万年筆いつお伺いしてみても原稿用紙いちまいも減った様子が見えず早川さんと無言で将棋もしくは昼寝私にとっては一番わるいお客でございましたがそれでもあの辺の作家へお品をとどけての帰途は必ずお寄り申しあげお茶のごちそうにあずかりきっとあらわれるお方とひそかにたのしみにして居りました。 けっして人の陰口をきかずよその人の消息をお話申しあげてもつまらなそうにして私の商売のことのみたいへん熱心に御研究でございました。 私の目に狂いはなくきのうも某劇作大家の御面前にてこの自慢話一席ご披露して大成功でございました。 叱られてもいたしかたございません。 以後決して他でお噂申しませぬゆえ此のたびに限り御|寛恕ください。 とんだところで大失敗いたしました。 さてお言いつけの原稿用紙今月はじめ五百枚をおとどけ申しましたばかりのところまた五百枚の御註文一驚つかまつりました。 千枚昨夜お送り申しました。 だまって御受納下さいまし。 第一小説集いまだ出版のはこびにいたりませぬか。 出版記念会には私鶴亀うたい申し心のよろこびの万一をお伝えいたしたくただし深沼家に於いては私の鶴亀わめき出ずる様の会には出席いたさぬゆえこのぶんでは出版記念会も深沼家全員出席の会ほかに深沼家欠席鶴亀出現の会と二つ行わずばなるまいなど深沼家の取沙汰でございます。 尚このたびは『英雄文学』にいよいよ創作御執筆の由私の今月はじめの御注進すこしはお役に立ちましたことと存じ以後もぬからず御報告申上べくいつも年がいなく騒ぎたて私ひとり合点の不文わけわからずともその辺よろしく御判読下さいまし。 師走もあと一両日商人尻に火のついた思いでございます。 深夜三時ころなるべし。 田所美徳。 太宰治様。 御手紙拝見いたしました。 御窮状の程深く拝察致します。 こんな御返事申し上ることが自分でも不愉快だし殊にあなたにどう響くかが分るだけに一寸書きしぶっていたのですが今月は自分でも馬鹿なことを仕出かして大変困っているのです。 従って到底御用立出来ませんから悪しからず御了承下さい。 これは全く事実の問題です。 気持ちの上のかけ引なぞ全くございませぬ。 あなたに対する誠意の変らぬことを若し出来れば信じて下さい。 窓の下歳の市の売り出しにて笑いさざめきがここまで聞えてまいります。 おからだ御大事にねがいます。 太宰治様。 細野鉄次郎。 罰です。 女ひとりを殺してまで作家になりたかったの。 もがきあがいて作家たる栄光得てざまを見ろ麻薬中毒者という一匹の虫。 よもやこうなるとは思わなかったろうね。 地獄の女性より。 謹啓。 太宰様。 おそらくこれは女性から貴方に差しあげる最初の手紙と存じます。 貴方は女だから男はあなたにやさしくしてやりけれども女はあなたを嫉妬して居ります。 先日お友達のところであなたのお手紙を読んでたいへん不愉快の思いをいたしました。 そのお友達はふたいとこというのでしょうか大叔父というのでしょうかたいへんややこしくそれでもたしかに血のつながりでございます。 日本大学の夜学に通っています。 電気技師になるとのお話でもう二年経てば私はこのお友達のところへお嫁にまいります。 夜に大学へ行き朝には京王線の新築された小さい停車場の助役さんの肩書でべんとう持って出掛けます。 この助役さんは貴方へ一週間にいちどずつ親兄弟にも言わぬ大事のことがらを申し述べてそうして四週間に一度ずつ下女のようにごみっぽい字で二三行かいたお葉書いただきアルバムのようなものに貼って来る人来る人にたいへんのはしゃぎかたで見せて私は涙ぐむことさえあります。 ときどきは寝てからも読むと見えてそのアルバムを蒲団の下にかくしていて日曜の朝でございます私は謙さんを起しに行ってそうしてそのアルバムを見つけ謙さんは見つけられてたいへん顔を赤くして死にものぐるいで私からひったくりました。 私はうんと大声はりあげて泣きました。 たいへんつまらないお葉書です。 貴方は読者の目をもっともっと高くかわなければいけない。 愛読者ですというてお手紙さしあげることは男としてご出世まえの男として必死のことと存じます。 作家は人間でないのだから人間の誠実がわからない。 貴方のアルバムのお葉書十七枚ございましたがお約束でもしてあるようにこんどは何々の何月号に何枚かきました。 こんどは何々という題で何百頁の小説集を出します。 ほかのこと言うても判らぬとでもお思いなのですか。 謙さんは小学校のときどんなに学問できたか知っていますか。 また私だって学業とお針ではひとに負けたことがございません。 これからはおハガキお断り申します。 謙さんが可愛そうでございます。 たいてい何か小説発表の五六日まえにおハガキお書きになるのね。 挨拶状五十枚もお出しになったのでございますか。 私たち寄席のお師匠さんが新作読むまえに耳ふさぎと申しておそばかすしを廻しますがすしをごちそうになってから新作もの承りますと不思議なものです。 たいへんご立派に聞えます。 違うところございませんのね。 謙さんはあなたを尊敬して居るのではございません。 そんなにひとり合点なさいましてはとんでもないことになりましょう。 貴方のお小説のどこをまたどんな言葉で申して居るか私はあんまり謙さんのお心ありがたくてレコオドに含ませてあなたへお送りしたく存じます。 どんな雑誌にお書きになろうと他にもファンがどんなにたくさんおいでになろうと謙さんにはちっとも問題でございませぬ。 そうして謙さんは人間としてどうしてもあなたより上でございますからあなた御自身でお気のつかないところをよく細心御注意なされそうして貴方をかばっています。 私たちの二年後の家庭の幸福について少しでもお考え下さいましたならば貴方様も以後謙さんへあんな薄汚いもの寄こさないで下さい。 いつでも私たちの争いのもとです。 さいわいにもあなたに少しでも人間らしいお心がございましたら今後態度をおあらため下さることを確信いたします。 ゆめにさえ疑い申しませぬ。 明瞭に申しますれば私は貴方も貴方の小説も共に好みませぬ。 毛虫のついた青葉のしたをくぐり抜ける気持ちでございます。 一刻も早くさよなら。 太宰治先生平河多喜。 知らないお人へこっそり手紙かくこときっと生涯にいちどのことでございましょう。 帯のあいだにかくした手紙出したりかくしたりして立ったままたいへん考えました。 そんなに金がほしいのかね。 けさまたまた新聞よろず案内欄でたしかに君と思われる男のたしかに私と思われる男へあてたSOSを発見おそれいって居る。 おかしなものできのうまでは大いにみずみずしい男もお金のSOS発してからは興味さく然目もあてられぬのはどうしたことであろう。 君はジュムゲジュムゲイモクテネなどの気ちがいの呪文の言葉をはたして誦したかどうか。 その呪文を述べたときに君はどのような顔つきをしたか自ら称して最高級最低級の両意識家とやらの君が百円の金銭のために小生如き住所も身分も不明のものにチンチンおあずけをするそのときの表情を知りたく思うゆえこのつぎにエッセエをどこか雑誌へ発表の折に一箇条他の読者にはわからなくてもよしぼく一人のために百言ついやせ。 XでありYでありしかも最も重大なことには百円あそんでいるお金の持ち主より。 そのおかかえ作家太宰治へ。 太宰治君。 誰も知るまいと思ってあさましいことをやめよ。 自重をおすすめします。 太宰さん。 私も一二夜のちには二十五歳。 私二十五歳より小説かいて三十歳で売れるようになってそれから家の財産すこしわけてもらってそれから田舎の約束している近眼のひとと結婚します。 さきに男の児それから女の児それから男男男女。 という順序で子供をつくり四男が風邪のこじれから肺炎おこして五歳で死んでそれからすっかり老いこんでそれでも年に二篇ずつしっかりした小説かいて五十三歳で死にます。 私の父も五十三歳で死んでみんなが父をほめていました。 ちょうどいい年ごろなのでしょう。 まえまえからお話あった『英雄文学』よりの御註文の小説完成雑誌社へお送り申しました由いまからその作品の期待で胸がふくれる。 きっと傑作でございましょう。 前略。 小説完成の由。 大慶なり。 破れるほどの喝采にてまたもわれら同業者の生活をおびやかす下心と見受けたり。 おめでとう。 『英雄文学』社のほうへ送った由も少し稿料よろしきほうへ送ったらよかったろうに。 でもまあ大みそかお正月百円くらい損してもいいから一日もはやく現なま掴みたい心理これは私たちマゲモノ作家も君たち純文学者も変りない様子。 よい初春が来るよう。 萱野鉄平。 先日お母上様のお言いつけによりお正月用の餅と塩引一包キウリ一|樽お送り申しあげましたところ御手紙に依ればキウリ不着の趣き御手数ながら御地停車場を御調べ申し御返事願上|候以上は奥様へ御申伝え下されたく以下二三言私明けて二十八年間十六歳の秋より四十四歳の現在まで津島家出入りの貧しき商人全く無学の者に候が御無礼せんえつわきまえつつの苦言今は延々すべきときに非ずと心得られ候まま汗顔平伏お耳につらきこと開陳暫時おゆるし被下度候。 噂に依ればこのごろ又々借銭の悪癖萌え出で一面識なき名士などにまで借銭の御申込しかも犬の如き哀訴嘆願おまけに断絶を食いてんとして恥じず借銭どこが悪いお約束の如くに他日返却すれば向うさまへもごめいわくなしこちらも一命たすかる思いどこがわるいと先日もそれがために奥様へ火鉢投じてガラス戸二枚破損の由話半分としても暗涙とどむる術ございませぬ。 貴族院議員勲二等の御家柄貴方がた文学者にとっては何も誇るべき筋みちのものに無之古くさきものに相違なしと存じられ候がお父上おなくなりのちの天地一人のお母上様を思い私めに顔たてさせ然るべしと存じ候。 『われひとりを悪者として勘当除籍家郷追放の現在いよいよわれのみをあしざまにののしりそれがために四方八方うまく治まり居る様子』などのお言葉おうらめしく存じあげ候。 今しばしお名あがり家ととのうたるのちは御兄上様御姉上様何条もってあしざまに申しましょうや。 必ずその様の曲解御無用に被存候。 先日も山木田様へお嫁ぎの菊子姉上様よりしんからのおなげき承り私芝居のようなれども政岡の大役お引き受け申しきらいのお方なればたとえ御主人筋にてもかほどの世話はごめんにて私のみに非ず菊子姉上様も貴方のお世話のため御嫁先の立場も困ることあるべしと存じられ候もむりしての御奉仕ゆえ本日かぎりよそからの借銭は必ず必ず思いとどまるよう万やむを得ぬ場合は当方へ御申越願度くでき得る限りの御辛抱ねがいたくこのこと兄上様へ知れると小生の一大事につき今回の所は小生一時御立替御用立申上候間此の点お含み置かれるよう願上候。 重ねて申しあげ候が私とてきらいのお方にはかれこれうるさく申し上げませぬこのことお含みの上御養生御自愛願上候。 青森県金木町山形宗太。 太宰治先生。 末筆ながらめでたき御越年祈居候。 謹賀新年。 献春。 あけましておめでとう。 賀正。 頌春献寿。 献春。 冠省。 ただいま原稿拝受。 何かのお間違いでございましょう。 当社ではおたのみした記憶これ無く不取敢別封にて御返送お受取願い上ます。 『英雄文学』編輯部R。 謹賀新春。 賀正。 頌春。 謹賀新年。 謹賀新年。 謹賀新年。 謹賀新年。 賀春。 おめでとございます。 新年のおよろこび申し納めます。 賀春。 謹賀新年。 頌春。 賀春。 頌春献寿。 なんぼ売れた。 なんも。 そだべそだべ。 スワなんぼ売れた。 もう店しまうべえ。 秋土用すぎで山さ来る奴もねえべ。 お父。 おめえなにしに生きでるば。 判らねじゃ。 くたばった方あいいんだに。 そだべなそだべな。 阿呆阿呆。 阿呆。 おど。 奥様。 私のこんにち在るは。 こんにち在るは。 おいそれではそろそろあの一目盛をはじめるからな玄関をしめて錠をおろしてそれから雨戸もしめてしまいなさい。 人に見られて羨やましがられても具合いが悪いからな。 ごめん下さい。 来たな。 どなた。 月の夜雪の朝花のもとにても心のどかに物語して盃出したるよろずの興を添うるものなり。 いらっしゃい。 こんにちは。 旦那。 いけないねえ少し水をやったほうがいい。 いらっしゃあい。 どうもありがとう。 きょうは鯛の塩焼があるよ。 ありがたい。 大好物。 そいつあよかった。 鯛の塩焼と聞いちゃたまらねえや。 豚の煮込みもあるよ。 なに豚の煮込み。 待っていました。 次は豚の煮込みと来たか。 わるくないなあ。 おやじ話せるぞ。 ぼく豚の煮込みいらない。 いくら。 ああきょうは食った。 おやじもっと何かおいしいものは無いか。 たのむもう一皿。 うれしい。 僕の意志の強さを信じて呉れるね。 すみません。 こんどこそ飲まないからね。 なにさ。 かんにんしてね。 だめよお酒飲みの真似なんかして。 ありがとう。 もう飲まない。 たんとたんとからかいなさい。 おや僕は僕はほんとうに飲んでいるのだよ。 だって。 誓ったのだもの。 飲むわけないわ。 ここではお芝居およしなさいね。 あいつも。 女が好きだったらしいな。 お前もそろそろ年貢のおさめ時じゃねえのか。 やつれたぜ。 全部やめるつもりでいるんです。 オベリスク。 オベリスク。 とし。 全部やめるつもり。 それは結構だがいったいお前には女が幾人あるんだい。 いま考えるとまるで僕は狂っていたみたいなんですよ。 とんでもなく手をひろげすぎて。 案外殊勝な事を言いやがる。 もっとも多情な奴に限って奇妙にいやらしいくらい道徳におびえてそこがまた女に好かれる所以でもあるのだがね。 男振りがよくて金があって若くておまけに道徳的で優しいと来たらそりゃもてるよ。 当り前の話だ。 お前のほうでやめるつもりでも先方が承知しないぜこれは。 そこなんです。 泣いてるんじゃねえだろうな。 いいえ雨で眼鏡の玉が曇って。 いやその声は泣いてる声だ。 とんだ色男さ。 何かいい工夫が無いものでしょうか。 無いね。 お前が五六年外国にでも行って来たらいいだろうがしかしいまは簡単に洋行なんか出来ない。 いっそその女たちを全部一室に呼び集め蛍の光でも歌わせていや仰げば尊しのほうがいいかなお前が一人々々に卒業証書を授与してねそれからお前は発狂の真似をしてまっぱだかで表に飛び出し逃げる。 これならたしかだ。 女たちもさすがに呆れてあきらめるだろうさ。 失礼します。 僕はあのここから電車で。 まあいいじゃないか。 つぎの停留場まで歩こう。 何せこれはお前にとって重大問題だろうからな。 二人で対策を研究してみようじゃないか。 いいえもう僕ひとりで何とか。 いやいやお前ひとりでは解決できない。 まさかお前死ぬ気じゃないだろうな。 実に心配になって来た。 女に惚れられて死ぬというのはこれは悲劇じゃない喜劇だ。 いやファースというものだ。 滑稽の極だね。 誰も同情しやしない。 死ぬのはやめたほうがよい。 うむ名案。 すごい美人をどこからか見つけて来てねそのひとに事情を話しお前の女房という形になってもらってそれを連れてお前のその女たち一人々々を歴訪する。 効果てきめん。 女たちは皆だまって引下る。 どうだやってみないか。 秘訣。 田島さん。 ええっとどなただったかな。 あらいやだ。 へえ。 さては相当ため込んだね。 いやにりゅうとしてるじゃないか。 あらいやだ。 君にたのみたい事があるのだがね。 あなたはケチで値切ってばかりいるから。 いや商売の話じゃない。 ぼくはもうそろそろ足を洗うつもりでいるんだ。 君はまだ相変らずかついでいるのか。 あたりまえよ。 かつがなきゃおまんまが食べられませんからね。 でもそんな身なりでも無いじゃないか。 そりゃ女性ですもの。 たまには着飾って映画も見たいわ。 きょうは映画か。 そう。 もう見て来たの。 あれ何ていったかしらアシクリゲ。 膝栗毛だろう。 ひとりでかい。 あらいやだ。 男なんておかしくって。 そこを見込んで頼みがあるんだ。 一時間いや三十分でいい顔を貸してくれ。 いい話。 君に損はかけない。 ここ何か自慢の料理でもあるの。 そうだなトンカツが自慢らしいよ。 いただくわ。 私おなかが空いてるの。 それから何が出来るの。 たいてい出来るだろうけどいったいどんなものを食べたいんだい。 ここの自慢のもの。 トンカツの他に何か無いの。 ここのトンカツは大きいよ。 ケチねえ。 あなたはだめ。 私奥へ行って聞いて来るわ。 引受けてくれるね。 バカだわあなたは。 まるでなってやしないじゃないの。 そうさ全くなってやしないから君にこうして頼むんだ。 往生しているんだよ。 何もそんなめんどうな事をしなくてもいやになったらふっとそれっきりあわなけれあいいじゃないの。 そんな乱暴な事は出来ない。 相手の人たちだってこれから結婚するかも知れないしまた新しい愛人をつくるかも知れない。 相手のひとたちの気持をちゃんときめさせるようにするのが男の責任さ。 ぷ。 とんだ責任だ。 別れ話だの何だのと言ってまたイチャつきたいのでしょう。 ほんとに助平そうなツラをしている。 おいおいあまり失敬な事を言ったら怒るぜ。 失敬にも程度があるよ。 食ってばかりいるじゃないか。 キントンが出来ないかしら。 まだ何か食う気かい。 胃拡張とちがうか。 病気だぜ君は。 いちど医者に見てもらったらどうだい。 さっきからずいぶん食ったぜ。 もういい加減によせ。 ケチねえあなたは。 女はたいていこれくらい食うの普通だわよ。 もうたくさんなんて断っているお嬢さんや何かあれはただ色気があるから体裁をとりつくろっているだけなのよ。 私ならいくらでも食べられるわよ。 いやもういいだろう。 ここの店はあまり安くないんだよ。 君はいつもこんなにたくさん食べるのかね。 じょうだんじゃない。 ひとのごちそうになる時だけよ。 それじゃねこれからいくらでも君に食べさせるからぼくの頼み事も聞いてくれ。 でも私の仕事を休まなければならないんだから損よ。 それは別に支払う。 君のれいの商売で儲けるぶんくらいはその都度きちんと支払う。 ただあなたについて歩いていたらいいの。 まあそうだ。 ただし条件が二つある。 よその女のひとの前では一言もものを言ってくれるな。 たのむぜ。 笑ったりうなずいたり首を振ったりまあせいぜいそれくらいのところにしていただく。 もう一つはひとの前でものを食べない事。 ぼくと二人きりになったらそりゃいくら食べてもかまわないけどひとの前ではまずお茶一ぱいくらいのところにしてもらいたい。 その他お金もくれるんでしょう。 あなたはケチでごまかすから。 心配するな。 ぼくだっていま一生懸命なんだ。 これが失敗したら身の破滅さ。 フクスイの陣ってとこね。 フクスイ。 バカ野郎ハイスイの陣だよ。 あらそう。 先生。 こんちは。 きょうは女房を連れて来ました。 疎開先からこんど呼び寄せたのです。 女房の髪をね一ついじってやって下さい。 銀座にもどこにもあなたほどの腕前のひとは無いってうわさですからね。 グッド・バイ。 そんなにうまくも無いじゃないの。 何が。 パーマ。 これでもうおしまい。 そう。 あんな事でもうわかれてしまうなんてあの子も意久地が無いね。 ちょっとべっぴんさんじゃないか。 あのくらいの器量なら。 やめろ。 あの子だなんて失敬な呼び方はよしてくれ。 おとなしいひとなんだよあのひとは。 君なんかとは違うんだ。 とにかく黙っていてくれ。 君のその鴉の声みたいなのを聞いていると気が狂いそうになる。 おやおやおそれいりまめ。 いい加減にやめてくれねえかなあ。 ケチねえ。 これからまた何か食うんだろう。 そうねきょうは我慢してあげるわ。 財布をかえしてくれ。 これからは五千円以上使ってはならん。 そんなには使わないわ。 いや使った。 あとでぼくが残金を調べてみればわかる。 一万円以上はたしかに使った。 こないだの料理だって安くなかったんだぜ。 そんならよしたらどう。 私だって何もすき好んであなたについて歩いているんじゃないわよ。 だれ。 なんだあなたか。 なぜ来たの。 あそびに来たのだけどね。 でもまた出直して来てもいいんだよ。 何かこんたんがあるんだわ。 むだには歩かないひとなんだから。 いやきょうは本当に。 もっとさっぱりなさいよ。 あなた少しニヤケ過ぎてよ。 ニヤケているんじゃない。 キレイというものなんだ。 君はきょうはまたきたな過ぎるじゃないか。 きょうはねちょっと重いものを背負ったから少し疲れていままで昼寝をしていたの。 ああそういいものがある。 お部屋へあがったらどう。 割に安いのよ。 あなたカラスミなんか好きでしょう。 酒飲みだから。 大好物だ。 ここにあるのかい。 ごちそうになろう。 冗談じゃない。 お出しなさい。 君のする事なす事を見ているとまったく人生がはかなくなるよ。 その手はひっこめてくれ。 カラスミなんて要らねえや。 あれは馬が食うもんだ。 安くしてあげるったらばかねえ。 おいしいのよ本場ものだから。 じたばたしないでお出し。 少しもらおうか。 もう四枚。 バカ野郎いい加減にしろ。 ケチねえ一ハラ気前よく買いなさい。 鰹節を半分に切って買うみたい。 ケチねえ。 よし一ハラ買う。 そら一枚二枚三枚四枚。 これでいいだろう。 手をひっこめろ。 君みたいな恥知らずを産んだ親の顔が見たいや。 私も見たいわ。 そうしてぶってやりたいわ。 捨てりゃネギでもしおれて枯れるってさ。 なんだ身の上話はつまらん。 コップを借してくれ。 これからウイスキイとカラスミだ。 うんピイナツもある。 これは君にあげる。 本場もの。 召し上れ。 味の素はサーヴィスよ。 気にしなくたっていいわよ。 君は自分でお料理した事ある。 やれば出来るわよ。 めんどうくさいからしないだけ。 お洗濯は。 バカにしないでよ。 私はどっちかと言えばきれいずきなほうだわ。 きれいずき。 この部屋はもとから汚くて手がつけられないのよ。 それに私の商売が商売だからどうしたって部屋の中がちらかってね。 見せましょうか押入れの中を。 おしゃれなんか一週間にいちどくらいでたくさん。 べつに男に好かれようとも思わないしふだん着はこれくらいでちょうどいいのよ。 でもそのモンペはひどすぎるんじゃないか。 非衛生的だ。 なぜ。 くさい。 上品ぶったってダメよ。 あなただっていつも酒くさいじゃないの。 いやなにおい。 くさい仲というものさね。 ケンカするほど深い仲ってね。 ピアノが聞えるね。 あなたにも音楽がわかるの。 音痴みたいな顔をしているけど。 ばか僕の音楽通を知らんな君は。 名曲ならば一日一ぱいでも聞いていたい。 あの曲は何。 ショパン。 へえ。 私は越後獅子かと思った。 君もしかしいままで誰かと恋愛した事はあるだろうね。 ばからしい。 あなたみたいな淫乱じゃありませんよ。 言葉をつつしんだらどうだい。 ゲスなやつだ。 恋愛と淫乱とは根本的にちがいますよ。 君はなんにも知らんらしいね。 教えてあげましょうかね。 ああ酔った。 すきっぱらに飲んだのでひどく酔った。 ちょっとここへ寝かせてもらおうか。 だめよ。 ばかにしないで。 見えすいていますよ。 泊りたかったら五十万いや百万円お出し。 何も君そんなに怒る事は無いじゃないか。 酔ったからここへちょっと。 だめだめお帰り。 ゆるしてくれえ。 どろぼう。 あのう僕の靴をすまないけど。 それからひものようなものがありましたらお願いします。 眼鏡のツルがこわれましたから。 ありがとう。 もしもし。 田島ですがねこないだは酔っぱらいすぎてあはははは。 女がひとりでいるとねいろんな事があるわ。 気にしてやしません。 いや僕もあれからいろいろ深く考えましたがね結局ですね僕が女たちと別れて小さい家を買って田舎から妻子を呼び寄せ幸福な家庭をつくるという事ですねこれは道徳上悪い事でしょうか。 あなたの言う事何だかわけがわからないけど男のひとは誰でもお金がうんとたまるとそんなケチくさい事を考えるようになるらしいわ。 それがだから悪い事でしょうか。 けっこうな事じゃないの。 どうもよっぽどあなたはためたな。 お金の事ばかり言ってないで道徳のねつまり思想上のねその問題なんですがね君はどう考えますか。 何も考えないわ。 あなたの事なんか。 それはまあ無論そういうものでしょうが僕はねこれはねいい事だと思うんです。 そんならそれでいいじゃないの。 電話を切るわよ。 そんな無駄話はいや。 しかし僕にとっては本当に死活の大問題なんです。 僕は道徳はやはり重んじなけりゃならんと思っているんです。 たすけて下さい僕をたすけて下さい。 僕はいい事をしたいんです。 へんねえ。 また酔った振りなんかしてばかな真似をしようとしているんじゃないでしょうね。 あれはごめんですよ。 からかっちゃいけません。 人間には皆善事を行おうとする本能がある。 電話を切ってもいいんでしょう。 他にもう用なんか無いんでしょう。 さっきからおしっこが出たくて足踏みしているのよ。 ちょっと待って下さいちょっと。 一日三千円でどうです。 ごちそうがつくの。 いやそこをたすけて下さい。 僕もこの頃どうも収入が少くてね。 一本でなくちゃいや。 それじゃ五千円。 そうして下さい。 これは道徳の問題ですからね。 おしっこが出たいのよ。 もうかんにんして。 五千円でたのみます。 ばかねえあなたは。 オベリスク。 自分はケイ子の兄でありますが。 雑誌社のものですけど水原先生にちょっと画の相談。 ダメです。 風邪をひいて寝ています。 仕事は当分ダメでしょう。 いいかい。 たぶん大丈夫だと思うけどねそこに乱暴な男がひとりいてねもしそいつが腕を振り上げたら君は軽くこう取りおさえて下さい。 なあに弱いやつらしいんですがね。 サヨナラ。 グッド・バイ。 思い出。 黄昏のころ私は叔母と並んで門口に立っていた。 叔母は誰かをおんぶしているらしくねんねこを着ていた。 その時のほのぐらい街路の静けさを私は忘れずにいる。 叔母はてんしさまがお隠れになったのだと私に教えていきがみさまと言い添えた。 いきがみさまと私も興深げに呟いたような気がする。 それから私は何か不敬なことを言ったらしい。 叔母はそんなことを言うものでないお隠れになったと言えと私をたしなめた。 どこへお隠れになったのだろうと私は知っていながらわざとそう尋ねて叔母を笑わせたのを思い出す。 思い出。 もし戦争が起ったなら。 という題を与えられて地震雷火事|親爺それ以上に怖い戦争が起ったなら先ず山の中へでも逃げ込もう逃げるついでに先生をも誘おう先生も人間僕も人間いくさの怖いのは同じであろうと書いた。 此の時には校長と次席訓導とが二人がかりで私を調べた。 どういう気持で之を書いたかと聞かれたので私はただ面白半分に書きましたといい加減なごまかしを言った。 次席訓導は手帖へ『好奇心』と書き込んだ。 それから私と次席訓導とが少し議論を始めた。 先生も人間僕も人間と書いてあるが人間というものは皆おなじものかと彼は尋ねた。 そう思うと私はもじもじしながら答えた。 私はいったいに口が重い方であった。 それでは僕と此の校長先生とは同じ人間でありながらどうして給料が違うのだと彼に問われて私は暫く考えた。 そしてそれは仕事がちがうからでないかと答えた。 鉄縁の眼鏡をかけ顔の細い次席訓導は私のその言葉をすぐ手帖に書きとった。 私はかねてから此の先生に好意を持っていた。 それから彼は私にこんな質問をした。 君のお父さんと僕たちとは同じ人間か。 私は困って何とも答えなかった。 小学校四五年のころ末の兄からデモクラシイという思想を聞き母までデモクラシイのため税金がめっきり高くなって作米の殆どみんなを税金に取られると客たちにこぼしているのを耳にして私はその思想に心弱くうろたえた。 そして夏は下男たちの庭の草刈に手つだいしたり冬は屋根の雪おろしに手を貸したりなどしながら下男たちにデモクラシイの思想を教えた。 そうして下男たちは私の手助けを余りよろこばなかったのをやがて知った。 私の刈った草などは後からまた彼等が刈り直さなければいけなかったらしいのである。 新思想。 歴史家。 思想家。 私はなぜ何々主義者になったか。 思想。 思想の発展。 私には思想なんてものはありませんよ。 すききらいだけですよ。 ところで。 あなたのその幼時のデモクラシイはその後どんな形で発展しましたか。 さあどうなりましたかわかりません。 死線を越えて。 三つの予言。 四つの予言。 余は如何にして何々主義者になりしか。 死ぬには及ばない。 君は同志だ。 見込みのある男。 大物。 戦略。 戦略。 おめえみたいなブルジョアの坊ちゃんに革命なんて出来るものか。 本当の革命はおれたちがやるんだ。 勇気。 以前私は情熱を傾けて支那の社会を攻撃した文章を書いた事がありましたけれどもそれも実はやっぱりつまらないものでした。 支那の社会は私がそんなに躍起となって攻撃している事をちっとも知りやしなかったのです。 ばかばかしい。 どうもなんですねえ娯楽味を忘れてはなりませんですねえ。 実にこの娯楽味を忘れてはなりませぬです。 なんだいこれは。 誰しもはじめはお手本に拠って習練を積むのですが一個の創作家たるものがいつまでもお手本の匂いから脱する事が出来ぬというのはまことに腑甲斐ない話であります。 はっきり言うと君は未だに誰かの調子を真似しています。 そこに目標を置いているようです。 〈芸術的〉というあやふやな装飾の観念を捨てたらよい。 生きる事は芸術でありません。 自然も芸術でありません。 さらに極言すれば小説も芸術でありません。 小説を芸術として考えようとしたところに小説の堕落が胚胎していたという説を耳にした事がありますが自分もそれを支持して居ります。 創作に於いて最も当然に努めなければならぬ事は〈正確を期する事〉であります。 その他には何もありません。 風車が悪魔に見えた時にはためらわず悪魔の描写をなすべきであります。 また風車がやはり風車以外のものには見えなかった時はそのまま風車の描写をするがよい。 風車が実は風車そのものに見えているのだけれどもそれを悪魔のように描写しなければ〈芸術的〉でないかと思ってさまざま見え透いた工夫をしてロマンチックを気取っている馬鹿な作家もありますがあんなのは一生かかったって何一つ掴めない。 小説に於いては決して芸術的雰囲気をねらってはいけません。 あれはお手本のあねさまの絵の上に薄い紙を載せ震えながら鉛筆で透き写しをしているような全く滑稽な幼い遊戯であります。 一つとして見るべきものがありません。 雰囲気の醸成を企図する事はやはり自涜であります。 〈チエホフ的に〉などと少しでも意識したならばかならず無慙に失敗します。 無闇に字面を飾りことさらに漢字を避けたり不要の風景の描写をしたりみだりに花の名を記したりする事は厳に慎しみただ実直に印象の正確を期する事一つに努力してみて下さい。 君には未だ君自身の印象というものが無いようにさえ見える。 それではいつまで経っても何一つ正確に描写する事が出来ない筈です。 主観的たれ。 強い一つの主観を持ってすすめ。 単純な眼を持て。 無法松の一生。 重慶から来た男。 無法松。 芸術的。 無法松。 芸術的。 優秀場面。 重慶から来た男。 芸術的。 傑作。 芸術的。 芸術。 教育界でそんなことをしてばかだ。 帰去来。 帰去来。 もういちど故郷を見る機会。 こんども私が責任を持ちます。 奥さんとお子さんを連れていらっしゃい。 帰去来。 しかし大丈夫ですか。 女房や子供などを連れていって玄関払いを食らわされたら目もあてられないからな。 そんな事は無い。 去年の夏はどうだったのですか。 あのあとでお二人とも文治さんに何か言われはしなかったですか。 北さんどうですか。 それあ兄さんの立場として。 御親戚のかた達の手前もあるしよく来たとは言えません。 けれども私が連れて行くんだったら大丈夫だと思うのです。 去年の夏の事もあとで兄さんと東京でお逢いしたら兄さんは私にただ一こと北君は人が悪いなあとそれだけ言っただけです。 怒ってなんかいやしません。 そうですか。 中畑さんのほうはどうでしたか。 何か兄さんに言われやしませんでしたか。 いいえ。 私には一こともなんにもおっしゃいませんでした。 いま迄は私があなたに何か世話でもするとあとで必ずちょっとした皮肉をおっしゃったものですが去年の夏の事に限ってなんにも兄さんはおっしゃいませんでした。 そうですか。 あなた達にご迷惑がかからない事でしたら私は連れていってもらいたいのです。 母に逢いたくないわけは無いんだしまた去年の夏には文治兄さんに逢うことが出来ませんでしたがこんどこそ逢いたい。 連れていって下さると私は大いにありがたいのですが女房のほうはどうですか。 こんどはじめて亭主の肉親たちに逢うのですから女は着物だのなんだのめんどうな事もあるでしょうしちょっと大儀がるかも知れません。 そこは北さんから一つ女房に説いてやって下さい。 私から言ったんじゃあいつは愚図々々いうにきまっていますから。 よろしくお願い致します。 いつになさいますか。 まあ綺麗。 いちど林檎のみのっているところを見たいと思っていました。 よく来て下さいました。 いつ来るかいつ来るかと気が気じゃなかった。 とにかくこれで私も安心しました。 お母さんは黙っていらっしゃるけどとてもあなた達を待っているご様子でしたよ。 蕩児の帰宅。 トランクは持って行かないほうがよいねそうでしょう。 兄さんからまだゆるしが出ているわけでもないのにトランクなどさげて――。 わかりました。 景色のいいところですね。 案外明るい土地ですね。 そうかね。 僕にはそうも見えないが。 あれは岩木山だ。 富士山に似ているっていうので津軽富士。 こっちの低い山脈はぼんじゅ山脈というのだ。 あれが馬禿山だ。 あれが。 兄さんの家だ。 いやちがった。 右の方のちょっと大きいやつだ。 あの娘さんは誰。 女中だろう。 挨拶なんか要らない。 シゲちゃん。 常居。 常居。 ああ。 いろいろ御心配をかけました。 文治兄さんだ。 さあ。 二三日前からお待ちになって本当にお待ちになって。 よく来た。 こんどはゆっくりして行くんでしょう。 さあどうだか。 去年の夏みたいにやっぱり二三時間でおいとまするような事になるんじゃないかな。 北さんのお話ではそれがいいという事でした。 僕はなんでも北さんの言うとおりにしようと思っているのですから。 でもこんなにお母さんが悪いのに見捨てて帰る事が出来ますか。 いずれそれは北さんと相談して――。 何もそんなに北さんにこだわる事は無いでしょう。 そうもいかない。 北さんには僕は今までずいぶん世話になっているんだから。 それはまあそうでしょう。 でも北さんだってまさか――。 いやだから北さんに相談してみるというのです。 北さんの指図に従っていると間違いないのです。 北さんはまだ兄さんと二階で話をしているようですが何かややこしい事でも起っているんじゃないでしょうか。 私たち親子三人ゆるしも無くのこのこ乗り込んで――。 そんな心配は要らないでしょう。 英治さんだってあなたにすぐ来いって速達を出したそうじゃないの。 それはいつですか。 僕たちは見ませんでしたよ。 おや。 私たちはまたその速達を見ておいでになったものとばかり――。 そいつあまずかったな。 行きちがいになったのですね。 そいつあまずい。 妙に北さんが出しゃばったみたいな形になっちゃった。 まずい事は無いでしょう。 一日でも早く駈けつけたほうがいいんですもの。 光ちゃんですよ。 なかなかべっぴんになったでしょう。 べっぴんになりました。 色が白くなった。 時々くるしくなるようです。 がんばって。 園子の大きくなるところを見てくれなくちゃ駄目ですよ。 あなた。 かぜを引きますよ。 園子は。 眠りました。 大丈夫かね。 寒くないようにして置いたかね。 ええ。 叔母さんが毛布を持って来て貸して下さいました。 どうだいみんないいひとだろう。 ええ。 これから私たちどうなるの。 わからん。 今夜はどこへ泊るの。 そんな事僕に聞いたって仕様が無いよ。 いっさい北さんの指図にしたがわなくちゃいけないんだ。 十年来そんな習慣になっているんだ。 北さんを無視して直接兄さんに話掛けたりすると騒動になってしまうんだ。 そういう事になっているんだよ。 わからんかね。 僕には今なんの権利も無いんだ。 トランク一つ持って来る事さえできないんだからね。 なんだかちょっと北さんを恨んでるみたいね。 ばか。 北さんの好意は身にしみてわかっているさ。 けれども北さんが間にはいっているので僕と兄さんとの仲も妙にややこしくなっているようなところもあるんだ。 どこまでも北さんのお顔を立てなければならないしわるい人はひとりもいないんだし――。 本当にねえ。 北さんがせっかく連れて来て下さるというのにおことわりするのも悪いと思って私や園子までお供して来てそれで北さんにご迷惑がかかったのでは私だって困るわ。 それもそうだ。 うっかりひとの世話なんかするもんじゃないね。 僕という難物の存在がいけないんだ。 全くこんどは北さんもお気の毒だったよ。 わざわざこんな遠方へやって来て僕たちからもまた兄さんたちからもそんなに有難がられないと来ちゃさんざんだ。 僕たちだけでもここはなんとかして北さんのお顔の立つように一工夫しなければならぬところなんだろうけれどあいにくそんな力はねえや。 下手に出しゃばったら滅茶々々だ。 まあしばらくこうしてまごまごしているんだね。 お前は病室へ行って母の足でもさすっていなさい。 おふくろの病気ただそれだけを考えていればいいんだ。 まあこんなところに。 ごはんですよ。 美知子さんも一緒にどうぞ。 速達が行きちがいになりまして。 ありがとうございました。 おかげさまでした。 僕たちは今晩このまま金木へ泊ってもかまわないのですか。 それあ構わないでしょう。 なにせお母さんがあんなにお悪いのですから。 じゃ私たちはもう二三日金木の家へ泊めてもらって――それは図々しいでしょうか。 お母さんの容態に依りますな。 とにかくあした電話で打ち合せましょう。 北さんは。 あした東京へ帰ります。 たいへんですね。 去年の夏も北さんはすぐにお帰りになったしことしこそ青森の近くの温泉にでも御案内しようと私たちは準備して来たのですけど。 いやお母さんがあんなに悪いのに温泉どころじゃありません。 じっさいこんなに容態がお悪くなっているとは思わなかった。 案外でした。 あなたに払っていただいた汽車賃はあとで計算しておかえし致しますから。 冗談じゃない。 お帰りの切符も私が買わなければならないところです。 そんな御心配はよして下さい。 いやはっきり計算してみましょう。 中畑さんのところにあずけて置いたあなた達の荷物もあした早速中畑さんにたのんで金木のお家へとどけさせる事にしましょう。 もうそれで私の用事は無い。 停車場はこっちでしたね。 もうお見送りは結構ですよ。 本当にもう。 北さん。 何か兄さんに言われましたか。 いいえ。 そんな心配はもうなさらないほうがいい。 私は今夜はいい気持でした。 文治さんと英治さんとあなたと立派な子供が三人ならんで坐っているところを見たら涙が出るほどうれしかった。 もう私は何も要らない。 満足です。 私ははじめから一文の報酬だって望んでいなかった。 それはあなただってご存じでしょう。 私はただあなた達兄弟三人を並べて坐らせて見たかったのです。 いい気持です。 満足です。 修治さんもまあこれからしっかりおやりなさい。 私たち老人はそろそろひっこんでいい頃です。 常居。 小間。 お母さんはどうしてもだめですか。 まあこんどはむずかしいと思わねばいけない。 困ったこんどは困った。 地球の分配。 受取れよこの世界を。 受取れこれはお前たちのものだ。 お前たちにおれはこれを遺産として永遠の領地として贈ってやる。 さあ仲好く分け合うのだ。 その七割は俺のものだ。 ええ情ない。 なんで私一人だけが皆からかまって貰えないのだ。 この私があなたの一番忠実な息子が。 勝手に夢の国でぐずぐずしていて。 何も俺を怨むわけがない。 お前は一体何処にいたのだ。 皆が地球を分け合っているとき。 私はあなたのお傍に。 目はあなたのお顔にそそがれて耳は天上の音楽に聞きほれていました。 この心をお許し下さい。 あなたの光に陶然と酔って地上の事を忘れていたのを。 どうすればいい。 地球はみんな呉れてしまった。 秋も狩猟も市場ももう俺のものでない。 お前が此の天上に俺といたいなら時々やって来い。 此所はお前の為に空けて置く。 陸の王者。 心の王者。 天候居士。 あいたたた。 君ひどいじゃないか。 僕のおなかをいやというほど踏んでいったぞ。 あぶないんだ。 この川は。 危険なんだ。 僕は君を救助しに来たんだ。 君はばかだね。 僕がここに寝ているのも知らずに顔色かえて駈けて行きやがる。 見たまえ。 僕のおなかのここんとこに君の下駄の跡がくっきり附いてるじゃないか。 君がここんとこを踏んづけて行ったのだぞ。 見たまえ。 見たくない。 けがらわしい。 早く着物を着たらどうだ。 君は子供でもないじゃないか。 失敬なやつだ。 君はこの公園の番人かい。 何もそんなに怒ること無いじゃないか。 あぶないんだ。 この川は。 泳いじゃいけない。 人喰い川と言われているのだ。 それにこの川の水は東京市の水道に使用されているんだ。 清浄にして置かなくちゃいけない。 知ってるよそんなこと。 坐らないかね君も。 そんなにふくれていると君の顔はさむらいみたいに見えるね。 むかしの人の顔だ。 足利時代と桃山時代とどっちがさきか知ってるか。 知らないよ。 じゃ徳川十代将軍は誰だか知ってるかい。 知らん。 なんにも知らないんだなあ。 君は学校の先生じゃないのかい。 そんなもんじゃない。 僕は。 小説を書いているんだ。 小説家というもんだ。 そうかね。 小説家って頭がわるいんだね。 君はガロアを知ってるかい。 エヴァリスト・ガロア。 聞いた事があるような気がする。 ちえっ外国人の名前だとみんな一緒くたに聞いたような気がするんだろう。 なんにも知らない証拠だ。 ガロアは数学者だよ。 君にはわかるまいがなかなか頭がよかったんだ。 二十歳で殺されちゃった。 君もも少し本を読んだらどうかね。 なんにも知らないじゃないか。 可哀そうなアベルの話を知ってるかい。 ニイルス・ヘンリク・アベルさ。 そいつも数学者かい。 ふん知っていやがる。 ガウスよりも頭がよかったんだよ。 二十六で死んじゃったのさ。 自信がないんだよ僕は。 へん。 自信がないなんて言える柄かよ。 せめてガロアくらいでなくちゃそんないい言葉が言えないんだよ。 ガロアが四月にまっぱだかで川を泳いだとその本に書いていたかね。 何を言ってやがる。 頭が悪いなあ。 そんなことでおさえた気でいやがる。 それだから大人はいやなんだ。 僕は君に親切で教えてやっているんじゃないか。 先輩としての利己主義を暗黙のうちに正義に化す。 おい君。 タンタリゼーションってのはどうせたかの知れてるものだ。 かえって今じゃ通俗だ。 本当に頭のいい奴は君みたいな気取った言いかたはしないものだ。 君こそずいぶん頭が悪い。 様子ぶってるだけじゃ無いか。 先輩が一体どうしたというのだ。 誰も君を後輩だなんて思ってやしない。 君がひとりで勝手に卑屈になっているだけじゃないか。 君は誰に言っているんだい。 僕にそんなこと言ったってわかりやしない。 弱るね。 そうか。 失敬した。 とにかく立たないか。 君に言いたい事があるんだ。 怒ったのかね。 仕様がねえなあ。 弱い者いじめを始めるんじゃないだろうね。 僕のほうが弱い者かも知れない。 どっちがどうだか判ったものじゃない。 とにかく起きて上衣を着たまえ。 へん本当に怒っていやがる。 どっこいしょ。 上衣なんてありやしない。 嘘をつけ。 貧を衒う。 安価なヒロイズムだ。 さっさと靴をはいて僕と一緒に来たまえ。 靴なんてありやしない。 売っちゃったんだよ。 君はまさか。 きのう迄はあったんだよ。 要らなくなったから売っちゃった。 シャツならあるさ。 はだかでここまで来られるものか。 僕の下宿は本郷だよ。 ばかだね君は。 はだしで来たわけじゃないだろうね。 ああ陸の上は不便だ。 バイロンは水泳している間だけは自分の跛を意識しなくてよかったんだ。 だから水の中に居ることを好んだのさ。 本当に本当に水の中では靴も要らない。 上衣も要らない。 貴賤貧富の別が無いんだ。 君はバイロンかい。 君は跛でもないじゃないか。 それに人間は水の中にばかり居られるものじゃない。 嫉妬さ。 妬けているんだよ君は。 老いぼれのぼんくらは若い才能に遭うといたたまらなくなるものさ。 否定し尽すまでは堪忍できないんだ。 ヒステリイを起しちゃうんだから仕様が無い。 話があるんなら話を聞くよ。 だらしが無いねえ君は。 僕をどこかへ引っぱって行こうというのか。 ゆっくり話をしてみたいんだがね。 君はさっきから僕を無学だの低能だのと称しているが僕だって多少は名の有る男だ。 事実無学であり低能ではあるがけれども君よりはましだと思っている。 君には僕を侮辱する資格は無いのだ。 君の不当の暴言に対して僕も返礼しなければならぬ。 なあんだ僕と遊びたがっていやがる。 君もよっぽどひまなんだね。 何かおごれよ。 おなかがすいた。 ごまかしてはいかん。 君は今或る種の恐怖を感じていなければならぬところだ。 とにかく僕と一緒に来給え。 天候居士。 僕の母はね死んだのだよ。 僕の父はね恥ずかしい商売をしているんだよ。 聞いたら驚くよ。 僕は田舎者だよ。 モラルなんて無いんだ。 ピストルが欲しいな。 パンパンと電線をねらって撃つと電線は一本ずつプツンプツンと切れるんだ。 日本はせまいな。 かなしい時には素はだかで泳ぎまくるのが一番いいんだ。 どうして悪いんだろう。 なんにも出来やしないじゃないか。 めったな事は言われねえ。 説教なんてまっぴらだ。 本を読めば書いてあらあ。 放って置いてくれたっていいじゃないか。 僕はねさえき五一郎って言うんだよ。 数学はあまり得意じゃないんだ。 怪談が一ばん好きだ。 でもねおばけの出方には十三とおりしか無いんだ。 待てよ提燈ヒュウのモシモシがあるから十四種類だ。 つまらないよ。 親子どんぶりがあるかね。 待て待て。 親子どんぶりはいくらだね。 五十銭でございます。 それでは親子どんぶり一つだ。 一つでいい。 それから番茶を一ぱい下さい。 ちえっ。 ちゃっかりしていやがら。 君は学生かい。 きのうまでは学生だったんだ。 きょうからはちがうんだ。 どうでもいいじゃないかそんな事は。 そうだね。 僕もあまり人の身の上に立ちいることは好まない。 深く立ちいって聞いてみたって僕には何も世話の出来ない事がわかっているんだから。 俗物だね君は。 申しわけばかり言ってやがる。 目茶苦茶や。 ああ目茶苦茶なんだ。 たくさん言いたい事もあったんだけれどいやになった。 だまって景色でも見ているほうがいいね。 そんな身分になりたいよ。 僕なんてだまっていたくてもだまって居れない。 心にもない道化でも言っていなけれや生きて行けないんだ。 それは誰の事を言っているんだ。 僕の事じゃないか。 僕はきのう迄良家の家庭教師だったんだぜ。 低能のひとり娘に代数を教えていたんだ。 僕だって教えるほど知ってやしない。 教えながら覚えるという奴さ。 そこはごまかしがきくんだけども幇間の役までさせられて。 食べたらどうかね。 君は。 食べないの。 僕は要らない。 いただきます。 どうぞ。 孔雀だよ。 いま鳴いたのは孔雀だよ。 僕の名はね。 僕の名はね佐伯五一郎って言うんだよ。 覚えて置いてね。 僕はきっと御恩返しをしてやるよ。 君はいい人だね。 泣いたりなんかして僕はだらしがないなあ。 僕はごはんを食べていると時々むしょうに侘しくなるんだ。 悲しい事ばかり一度にどっと思い出しちゃうんだ。 僕の父はね恥ずかしい商売をしているんだ。 田舎の小学校の先生だよ。 二十年以上も勤めてそれでも校長になれないんだ。 頭が悪いんだよ。 息子の僕にさえ恥ずかしがっているんだよ。 生徒もみんなばかにしているんだ。 マンケという綽名だよ。 だから僕は偉くならなくちゃいけないんだ。 小学校の先生がなぜそんなに恥ずかしい商売なんだ。 僕だって小説が書けなくなったら田舎の小学校の先生になろうと思っている。 本当に良心をもって情熱をぶち込める仕事はこの二つしか世の中に無いと思っている。 知らないんだよ君は。 知らないんだよ。 村の金持の子供には先生のほうから御機嫌をとらなくちゃいけないんだ。 校長や村長との関係もそれやややこしいんだぜ。 言いたくもねえや。 僕は先生なんていやだ。 僕は本気に勉強したかったんだ。 勉強したらいいじゃないか。 さっきの元気はどうしたんだい。 だらしの無い奴だ。 男は泣くものじゃないよ。 そら鼻でもかんでしゃんとし給え。 なんと言ったらいいのかなあ。 へんな気持なんだよ。 親爺を喜ばせようと思って勉強していてもなんだか落ちつかないんだよ。 五次方程式が代数的に解けるものだかどうだか発散級数の和が有ろうと無かろうと今はそんな迂遠な事をこね廻している時じゃないって誰かに言われているような気がするのだ。 個人の事情を捨てろってこないだも上級の生徒に言われたよ。 でもそんな事を言う生徒はたいてい頭の悪い不勉強な奴にきまっているんだ。 だからなんだかへんな気持になっちゃうんだよ。 迂遠な学問なんかをしている時じゃ無い。 肉体をぶっつけて行く練習だけの時代なのかしら。 考えるととても心細くなるんだよ。 君はそれを怠惰のいい口実にして学校をよしちゃったんだな。 事大主義というんだよ。 大地震でも起って世界がひっくりかえったらなんて事ばかり夢想している奴なんだね君は。 たった一日だけの不安を生涯の不安とすり変えて騒ぎまわっているのだ。 君は秩序のネセシティを信じないかね。 ヴァレリイの言葉だけれどもね。 法律も制度も風俗も昔からちっとは気のきいた思想家にいつでも攻撃され軽蔑されて来たものだ。 事実またそれを揶揄し皮肉るのはいい気持のものさ。 けれどもその皮肉はどんなに安易な危険な遊戯であるか知らなければならぬ。 なんの責任も無いんだからね。 法律制度風俗それがどんなにくだらなく見えてもそれが無いところには知識も自由も考えられない。 大船に乗っていながら大船の悪口を言っているようなものさ。 海に飛び込んだら死ぬばかりだ。 知識も自由思想も断じて自然の産物じゃない。 自然は自由でもなく自然は知識の味方をするものでもないと言うんだ。 知識は自然と戦って自然を克服し人為を建設する力だ。 謂わば人工の秩序への努力だ。 だからどうしても秩序とは反自然的な企画なんだがそれでも人は秩序に拠らなければ生き伸びて行く事が出来なくなっているというんだがね。 君が時代に素直で勉強を放擲しようとする気持もわかるけれど秩序の必然性を信じて静かに勉強を続けて行くのも亦この際勇気のある態度じゃないのかね。 発散級数の和でも楕円函数でも大いに研究するんだね。 どうかね。 わかったかね。 ヴァレリイってのはフランスの人でしょう。 そうだ。 一流の文明批評家だ。 フランスの人だったらだめだ。 なぜ。 戦敗国じゃないか。 亡国の言辞ですよ。 君は人がいいからだめだなあ。 そいつの言ってる秩序ってのは古い昔の秩序の事なんだ。 古典擁護に違いない。 フランスの伝統を誇っているだけなんですよ。 うっかりだまされるところだった。 いやいや。 そういう事は無い。 秩序って言葉は素晴しいからなあ。 僕はフランス人の秩序なんて信じないけれど強い軍隊の秩序だけは信じているんだ。 僕にはぎりぎりに苛酷の秩序が欲しいのだ。 うんと自分をしばってもらいたいのだ。 僕たちはみんな戦争に行きたくてならないのだよ。 生ぬるい自由なんて飼い殺しと同じだ。 何も出来やしないじゃないか。 卑屈になるばかりだ。 銃後はややこしくてむずかしいねえ。 何を言ってやがる。 君は一ばん骨の折れるところからのがれようとしているだけなんだ。 千の主張よりも一つの忍耐。 いや千の知識よりも一つの行動。 そうして君に出来る唯一の行動はまっぱだかで人喰い川を泳ぐだけのものじゃないか。 ぶんを知らなくちゃいけない。 さっきはあれは特別なんだよ。 どうもごちそうさま。 事情があったんだよ。 聞いてくれるかね。 言ってみ給え。 言ってみたってどうにもならんけどこのごろ僕は目茶苦茶なんだよ。 中学だけは家のお金で卒業できたのだけれどあとが続かなかったんだ。 貧乏なんだよ。 僕は数学をもっと勉強したかったから父に無断で高等学校に受けてはいったんだ。 葉山さんを知ってるかい。 葉山圭造。 いつか鉄道の参与官か何かやっていた。 代議士だよ。 知らないね。 代議士なんてのは知らないね。 金持なのかい。 まあそうだ。 僕の郷土の先輩なんだ。 郷土の先輩なんて可笑しなものさ。 同じお国|訛があるだけさ。 僕はその人からお金をもらっていやただもらっていたわけじゃ無いんだ。 僕は教えていたんだ。 教えながら教わっていたのかね。 女学校三年の娘がひとりいるんだ。 団子みたいだ。 なっちゃいない。 ほのかな恋愛かね。 ばか言っちゃいけない。 僕にはプライドがあるんだ。 このごろだんだんそいつが僕を小使みたいに扱って来たんだよ。 奥さんもいけないんだがね。 とうとうきのう我慢出来なくなっちゃって――。 僕はつまらないんだよそういう話は。 世の中の概念でしか無い。 歩けば疲れるという話と同じ事だ。 君はお坊ちゃん育ちだな。 人から金をもらうつらさを知らないんだ。 概念的だっていい。 そんな平凡な苦しさを君は知らないんだ。 僕だってそれや知っているつもりだがね。 わかり切った事だ。 胸に畳んで言わないだけだ。 それじゃ君は映画の説明が出来るかね。 映画の説明。 そうさ。 娘がこの春休みに北海道へ旅行に行ってそうして十六ミリというのかね北海道の風景をどっさり撮影して来たというわけさ。 おそろしく長いフィルムだ。 僕もちょっと見せてもらったがね。 しどろもどろの実写だよ。 こんどそれを葉山さんのサロンで公開するんだそうだ。 所謂お友達を集めてね。 ところがその愚劣な映画の弁士を勤めてお客の御機嫌を取り結ぶのが僕の役目なんだそうだ。 それあいい。 いいじゃないか。 北海道の春はいまだ浅くして――。 本気で言ってるのかね。 僕なら平気でやってのけるね。 自己優越を感じている者だけが真の道化をやれるんだ。 そんな事で憤慨して制服をたたき売るなんて意味ないよ。 ヒステリズムだ。 どうにも仕様がないものだから川へ飛びこんで泳ぎまわったりしてセンチメンタルみたいじゃないか。 傍観者はなんとでも言えるさ。 僕には出来ない。 君は嘘つきだ。 じゃこれから君はどうするつもりなんだい。 わかり切った事じゃないか。 いつまでも川で泳いでいるつもりなのか。 帰るより他は無いんだ。 元の生活に帰り給え。 僕は忠告する。 君は自分の幼い正義感に甘えているんだ。 映画説明をやるんだね。 なんだいたった一晩の屈辱じゃないか。 堂々とやるがいい。 僕が代ってやってもいいくらいだ。 君に出来るものか。 出来るとも。 出来るよ。 早春の北海道。 ここです。 くまもとう。 くまもとくん。 はい。 佐伯だあ。 あがってもいいかあ。 どうぞ。 ディリッタンティなんだ。 ブルジョアさ。 待って下さい。 おひとり。 お二人。 お二人だ。 どなた。 佐伯君一緒の人は誰ですか。 知らない。 木村武雄木村武雄。 僕を木村武雄と呼んでくれ給え。 木村たけお。 木村武雄くんと一緒に来たんだがね。 木村たけお。 木村武雄くんですか。 木村武雄という者ですが。 お願いがあってやって来たんですけど。 おゆるし下さい。 初対面のおかたとはお逢いするのが苦しいのです。 何を言ってやがる。 相変らず鼻持ちならねえ。 その鼻のことです。 私は鼻を虫に刺されました。 こんな見苦しい有様で初対面のおかたと逢うのは何よりつらい事です。 人間は第一印象が大事ですから。 ばかばかしい。 佐伯君少し乱暴じゃありませんか。 僕は親にさえこういう醜い顔を見せた事はないのですからね。 読書かね。 里見八犬伝か。 面白そうだね。 君はいつでも読まない本を机の上にひろげて置いて読んでる本は必ず机の下に隠して置くんだね。 妙な癖があるんだね。 軽蔑し給うな。 里見八犬伝は立派な古典ですね。 日本的ロマンの。 元祖ですね。 たしかにそんなところもありますね。 僕は最近またぼちぼち読み直してみているんですけれども。 へへ。 君はどうしてそんなぼちぼち読み直しているなんて嘘ばかり言うんだね。 いつでも必ずそう言うじゃないか。 読みはじめたと言ったっていいと思うがね。 軽蔑し給うな。 里見八犬伝をはじめて読む人なんか無いよ。 読み直しているのに違いない。 熊本君。 制服と帽子。 あの僕の制服と帽子ですか。 佐伯君僕は不愉快ですよ。 僕をあまり軽蔑しないで下さい。 いったいこの人はなんですか。 いやならよせ。 無理に頼むわけじゃないんだ。 君こそ失礼だぞ。 そこにいる人はいい人なんだ。 君みたいなエゴイストじゃないんだ。 いやいや。 僕だってエゴイストです。 佐伯君がいやだというのを僕が無理を言ってここへ連れて来てもらったのですから。 事情を申し上げてもいいんだけどとにかく僕から頼むのです。 一晩だけ貸して下さい。 あしたの朝早く必ずお返し致します。 勝手にお使い下さい。 僕は存じません。 よそうよ。 僕はどうなったっていいんだ。 それあいかん。 君は今になってそんな事を言い出すのは卑怯だ。 それじゃまるで僕が君にからかわれてここまでやって来たようなものだ。 なんですか。 佐伯君がまた何かはじめたのですか。 深い事情があるようですね。 もういいんだ。 僕は熊本なんかにものを頼みたくないんだ。 僕は帰るぞ。 待て待て。 君には帰るところは無い筈だ。 熊本君だって制服を貸さないとは言ってないんだ。 君はだだっ子と言われても仕様が無いよ。 そうですとも。 だだっ子と言われても仕様が無いですとも。 僕はお貸ししないとは言ってないんですからね。 僕はエゴイストじゃありません。 お気に召しますかどうですか。 いや結構です。 ここで失礼して着換えさせていただきます。 よせよ。 なってないじゃないか。 そうですね。 どういう御身分のおかたか存じませんけれどこれでは私の洋服の評判まで悪くなります。 かまわない。 大丈夫だ。 こんな学生を僕は前に本郷で見た事があるよ。 秀才はたいていこんな恰好をしているようだ。 帽子がてんで頭にはいらんじゃないか。 いっそまっぱだかで歩いたほうがいいくらいだ。 僕の帽子は決して小さいほうではありません。 僕の頭のサイズは普通です。 ソクラテスと同じなんです。 さあ行こう。 熊本君もそこまでどうです。 一緒にお茶でも飲みましょう。 熊本は勉強中なんだ。 これからまたぼちぼち八犬伝を読み直すのだから。 僕はかまいません。 なんだか面白くなりそうですね。 あなたは青春を恢復したファウスト博士のようです。 するとメフィストフェレスはこの佐伯君という事になりますね。 これがむく犬の正体か。 旅の学生か。 滑稽至極じゃ。 どこかでお茶でも飲みましょう。 そうですねえ。 せっかくお近づきになったのですし。 しかし女の子のいるところは割愛しましょう。 きょうは鼻がこんなに赤いのですから。 人間の第一印象は重大ですよ。 僕をはじめて見た女の子なら僕が生まれた時からこんなに鼻が赤くてしかもこの後も永久に赤いのだと独断するにきまっています。 じゃミルクホールはどうでしょう。 どこだっていいじゃないか。 お茶に誘うなんてのはお互早く別れたい時に用いる手なんだ。 僕は人から追っぱらわれる前にはいつでもお茶を飲まされた。 それはどういう意味なんですか。 へんな事を言い給うな。 僕とこのかたとお茶を飲むのはお互の親和力の結果です。 純粋なんだ。 僕たちは里見八犬伝に於て共鳴し合ったのです。 止し給え。 止し給え。 どうして君たちはそんなに仲が悪いんだ。 佐伯の態度もよくないぞ。 熊本君は紳士なんだ。 懸命なんだよ。 人の懸命な生きかたを嘲笑するのは間違いだ。 君こそ嘲笑している癖に。 君は老獪なだけなんだ。 はいろう。 あそこでゆっくり話そう。 佐伯君はいけません。 悪魔です。 ご存じですか。 きのう留置場から出たばかりなんですよ。 知りません。 全然知りません。 坐り給え。 刺すぞ。 はははは。 恥ずかしくてきりきり舞いした揚句の果にはそんな殺伐なポオズをとりたがるものさ。 覚えがあるよ。 ナイフでも振り上げないことにはどうにも形がつかなくなったのだろう。 待って下さい。 そのナイフは僕のナイフです。 佐伯君君はひどいじゃないか。 そのナイフは僕の机の左の引出しにはいっていたんでしょう。 君はさっき僕に無断で借用したのにちがいありません。 僕は人間の名誉というものを重んずる方針なのだから敢えて盗んだとは言いません。 早く返して下さい。 僕は大事にしていたんだ。 僕はこの人に帽子と制服とだけはお貸ししたけれど君にナイフまではお貸しした覚えが無いのです。 返して下さい。 僕はお姉さんからもらったんだ。 大事にしていたんですよ。 返して下さい。 そんなに乱暴に扱われちゃ困りますよ。 そのナイフには小さい鋏も缶切りもその他三種類の小道具が附いているんですよ。 デリケエトなんですよ。 ごしょうだから返して下さい。 返すよ。 返すよ。 返してやるよ。 さあ何とでも言うがいい。 五一郎君。 そんなふてくされたものの言いかたをするものじゃないよ。 君らしくも無いじゃないか。 猫撫で声はよしてくれ。 げろが出そうだ。 はっきり負けた奴にそんなに優しくお説教をはじめるのはいい気持のものらしいね。 君はくだらない奴だね。 ああそうさ。 だからはじめから言ってるじゃねえか。 説教なんかまっぴらだって言ったじゃないか。 放って置いてくれたっていいんだ。 なんですか。 さてどうしたのですか。 あなたのおっしゃる事にもまた佐伯君の申す事にも一応は首肯できるような気がするのですけれどもっとつき進めた話を伺わないことには。 コオヒイにしますか。 それとも何か食べますか。 とにかく何か注文いたしましょう。 ゆっくり話し合ってみたら或は一致点に到達できるかも知れませんからね。 君はもう帰ったらどうだい。 ナイフも返してやったし制服と帽子も今すぐこの人が返してあげるそうだ。 ステッキを忘れないようにしろよ。 そんなに軽蔑しなくてもいいじゃないですか。 僕だって君の力になってやろうと思っているのですよ。 そうだそうだ。 熊本君はこのとおり僕に制服やら帽子やらを貸してくれたし謂わば大事な人だ。 ここにいてもらったほうがいい。 コオヒイ三つだ。 母ちゃんお風呂へ行った。 もうすぐ帰って来るよ。 ああそうか。 どうしましょう。 待っていましょう。 ここは女の子がいないから気がとても楽です。 ビイルを飲めばいいじゃないか。 そこにずらりと並んである。 おい。 ビイルだったらお母さんがいなくても出来るわけだね。 栓抜きとコップを三つ持って来ればいいんだから。 僕は飲みませんよ。 アルコオルは罪悪です。 僕はアカデミックな態度をとろうと思います。 誰も君に。 飲めと言ってやしないよ。 へんな事を言わないでお姉さんに叱られますと言ったほうが早わかりだ。 君は飲むつもりですか。 止し給え。 僕は忠告します。 君はおとといもビイルを飲んだそうじゃないですか。 留置場にとめられたって学校じゃ評判なんですよ。 よし佐伯も飲んじゃいかん。 僕がひとりで飲もう。 アルコオルは本当に罪悪なんだ。 なるべくは飲まぬほうがいいのだ。 ああまずいな。 僕もアルコオルはきらいなんだ。 でもビイルはそんなに酔わないからいいんだ。 アカデミックな態度ばかりは失いたくありませんからね。 そうですとも。 私たちはパルナシヤンです。 パルナシヤン。 象牙の塔か。 五一郎君。 僕にはなんでも皆わかっているのだよ。 さっき君が僕に風呂敷包みを投げつけて逃げ出そうとした時はっと皆わかってしまったのだ。 君は僕をだましたね。 いや責めるのじゃない。 人を責めるなんてむずかしい事だ。 僕はわかったけれども何も言えなかったのだ。 言うのがつらくていっそ知らん振りしていようかとさえ思ったのだがいまビイルの酔いを借りてとうとう言い出したわけだ。 いや考えてみると君が僕に言わせるようにしむけてくれたのかも知れないね。 ビイルを見つけてくれたのは君なんだから。 なるほど。 佐伯君にはそんな遠大な思いやりがあってビイルのことを言い出したというわけですね。 なるほど。 そんなばかな思いやりってあるものか。 僕はただそのほら――。 わかってるよ。 僕の機嫌を取ろうとしたのだ。 いやそう言っちゃいけない。 この場の空気を明るくしようと努めてくれたのさ。 佐伯はこれまで生活の苦労をして来たからそんな事には敏感なんだ。 よく気が附く。 熊本君はそれと反対でいつでも自分の事ばかり考えている。 いやそれは。 そんなことは主観の問題です。 五一郎君。 僕は君を責めるんじゃないよ。 人を責める資格は僕には無いんだ。 責めたっていいじゃないか。 君はいつでも自己弁解ばかりしているね。 僕たちはもう大人の自己弁解には聞き厭きてるんだ。 誰もかれもおっかなびっくりじゃないか。 一も二も無く僕たちを叱りとばせばそれでいいんだ。 大人の癖に愛だの理解だのって甘ったるい事ばかり言って子供の機嫌をとっているじゃないか。 いやらしいぞ。 それあまあそうだがね。 君のその主張せざるを得ない内心の怒りには同感出来るがその主張の言葉には間違いが在るね。 わかるかね。 大人も子供も同じものなんだよ。 からだが少し薄汚くなっているだけだ。 子供が大人に期待しているように大人もそれと同じ様に君たちをたのみにしているものなのだ。 だらしの無い話さ。 でもそれは本当なんだ。 力とたのんでいるのだ。 信じられませんね。 君たちだってずるいんだ。 だらし無いぞ。 少し優しくするとすぐ程度を越えていい気になるしちょっと強く言おうと思うと言われぬ先から泣きべそをかいて逃げたがるじゃないか。 君たちに自信を持ってもらいたくて愛だの理解だのと遠廻しに言っているのに君たちはそれを軽蔑する。 君たちがも少し強かったらそれは安心して叱りとばしてやる事も出来るんだ。 君たちさえ――。 水掛け論だ。 くだらない。 そんな言い古された事を僕たちは考えているんじゃないよ。 しっかりした人間とはどんなものだかそれを見せてもらいたいんだ。 そうですね。 酒を飲む人の話は信用出来ませんからね。 僕はだめだ。 けれども僕は絶望していないんだ。 酒だってたまにしか飲まないんだ。 冷水摩擦だって毎日やっているんだ。 青年よ若き日のうちに享楽せよ。 青春は空に過ぎずしかして弱冠は無知に過ぎず。 ああ残念。 あの狂おしい青春の頃に我もし学にいそしみ風習のよろしき社会にこの身を寄せていたならばいま頃は家も持ち得て快き寝床もあろうに。 ばからしい。 悪童の如く学び舎を叛き去った。 いまそのことを思い出す時わが胸は張り裂けるばかりの思いがする。 何もそんなに卑下して見せなくたっていいじゃないか。 ごめんよ。 君は知っているね。 僕は恥ずかしかったんだ。 本当の事をどうしても言えなかったんだ。 でも僕は嘘つきじゃない。 たった一つだけ嘘を言ったんだ。 映画の会はおとといやっちゃったんだ。 僕は説明しちゃったんだ。 だから僕はおとといの夜会が済んでから制服も靴も売り払って街でビイルを飲んでお巡りさんに見つかってそれから――。 わかってる。 君に罪は無いんだ。 みんな話の行きがかりだ。 僕がそそっかしいんだよ。 君ははじめから僕が渋谷へなど来るのをいやがっていたんだものね。 うん。 言い直すひまが無かったんだよ。 僕はなんぼ何でも映画の説明なんてそんなだらし無い事をやっちゃったとは言えなかったんだよ。 だからね。 そこんところを嘘ついちゃったんだよ。 ごめんね。 留置場へ入れられた事なんかを君に言うと君に嫌われると思ったんだ。 僕はだめなんだよ。 葉山にもいままでお世話になっているんだし映画説明なんてばからしいとは思ったけれど最後のお礼のつもりでおとといの晩大勢の女の子の前でやっちゃったんだよ。 やっちゃってからいけないと思った。 もう僕はだめになったと思った。 見込みの無い男だと思った。 僕にもビイルを一ぱい下さい。 僕はいまは嬉しいのだ。 何だかぞくぞく嬉しいのだ。 木村君君は偉い人だね。 君みたいに何も気取らないで僕たちと一緒に心配したりしょげたりしてくれると僕たちには何だか勇気が出て来るのだ。 こうしては居られないと思うんだ。 勉強しようとしんから思うようになるんだ。 僕は心の弱さを隠さない人を信頼する。 乾杯だ。 熊本も立て。 喜びのための一ぱいのビイルは罪悪で無い。 悲しみ苦悩を消すための杯は恥じよ。 ではほんの一ぱいだけ。 僕は事情をよく知らんのですからねほんのお附合いですよ。 事情なんかどうだっていいじゃないか。 僕の出発を君は喜んでくれないのか。 君はエゴイストだ。 いやちがいます。 僕は物事を綿密に考えてみたいんだ。 納得出来ない祝宴には附和雷同しません。 僕は科学的なんです。 ちえっ。 自分を科学的という奴はきまって科学を知らないんだ。 科学への迷信的なあこがれだ。 無学者の証拠さ。 よせよせ。 熊本君はてれているんだ。 君のおくめんも無い感激振りに辟易したんだ。 知識人のデリカシイなんだよ。 古い型のね。 乾杯します。 僕はビイルを飲むとくしゃみするんです。 僕はその事を科学的と言ったんです。 正確だ。 佐伯君の出発をお祝いいたします。 あしたからまた学校へ出て来て下さい。 ありがとう。 熊本がいつもこんなに優しく勇敢であるように祈っています。 佐伯君にも熊本君にも欠点があります。 僕にも欠点があります。 助け合って行きたいと思います。 よし。 よろこびのための酒は一杯だけにして止めよう。 よろこびをアルコオルの口実にしてはならぬ。 君たちもこれからなるべくならビイルを飲むな。 カール・ヒルティ先生の曰く諸君は教養ある学生であるから酒を飲んでも乱に陥らない。 故に無害である。 否時には健康上有益である。 しかし諸君を真似て飲む中学生又は労働者たちは自らを制することが出来ぬため酒に溺れその為に身を亡す危険が多い。 だから諸君は彼等のために。 彼等のために酒を飲むなと。 彼等のためばかりではない。 僕たちの為にも酒を飲むな。 僕たちは悪い時代に育ち悪い教育を受け暗い学問をした。 飲酒は誇りであり正義感の表現でさえあったのだ。 僕たちのこの悪癖を綺麗に抜くのは至難である。 君たちに頼む。 君たちさえ清潔な明るい習慣を作ってくれたら僕たちの暗黒の虫も遠からずそれに従うだろう。 僕たちに負けてはならぬ。 打ち勝て。 以上一般論は終りだ。 どうも僕はこんなわかり切ったような概念論は不得手なのだ。 どんなつまらない本にだってそんな事はちゃんと書かれてあるんだからね。 なるべくなら僕は清潔な強い明るいなんてそんな形容詞を使いたくないんだ。 自分のからだに傷をつけてそこから噴き出た言葉だけで言いたい。 下手くそでもいい自分の血肉を削った言葉だけをどもりながら言いたい。 どうも一般論はてれくさい。 演説はこれでやめる。 佐伯君僕に二十円くらいあるんだがねこれで制服と靴とを買い戻し給え。 また外形はもとの生活に帰るのだ。 葉山氏の家にも辛抱して行き給え。 わびしい時には下宿で毛布をかぶって勉強するのだ。 それが一ばん華やかな青春だ。 何くそと固パンかじって勉強し給え。 約束するね。 わかってるよ。 そんな事を言ってると君の顔はまるで昔のさむらいみたいに見えるね。 明治時代だ。 古くさいな。 士族のお生まれではないでしょうか。 熊本君ここに二十円あります。 これで佐伯の制服と制帽と靴を買い戻してやって下さい。 要らないよそんなもの。 いや君にあげるわけじゃないんだ。 熊本君の友情を見込んで一時おあずけするだけだ。 わかりました。 たしかにおあずかり致します。 他日佐伯君の学業成った暁には――。 いやそれには及びません。 ここを出ましょう。 街を少し歩いて見ましょう。 おい佐伯その風呂敷包みは重くないか。 僕がかわりに持ってやろう。 いいんだ僕によこせ。 よし来た。 アル・テル・ナ・テ・ヴ・マンと。 知ってるかい。 どっこいしょのうんとこしょって意味なんだ。 フロオベエルはこの言葉一つに三箇月も苦心したんだぞ。 歌を歌おう。 いいかい。 一緒に歌うのだよ。 アインツワイドライ。 アインツワイドライ。 アインツワイドライ。 よし。 ああ消えはてし青春の愉楽の行衛今いずこ心のままに興じたる黄金の時よ玉の日よ汝帰らずその影を求めて我は歎くのみああ移り行く世の姿ああ移り行く世の姿塵をかぶりて若人の帽子は古び粗衣は裂け長剣は錆をこうむりてしたたる光今いずこ宴の歌も消えうせつ刃音拍車の音もなしああ移り行く世の姿ああ移り行く世の姿されど正しき若人の心は永久に冷むるなし勉めの日にも嬉戯のつどいの日にも輝きつ古りたる殻は消ゆるとも実こそは残れ我が胸にその実を犇と護らなんその実を犇と護らなん。 なんだ誰も歌ってやしないじゃないか。 もう一ぺん。 アインツワイドライ。 おいおい。 宵の口からそんなに騒いで歩いては悪いじゃないか。 君はどこの学生だ。 隠さずに言ってみ給え。 おいおい。 おい僕は帰るぞ。 君は眠っちゃったじゃないか。 だらしないね。 眠った。 僕が。 そうさ。 可哀そうなアベルの話を聞かせているうちに君はぐうぐう眠っちゃったじゃないか。 君は仙人みたいだったぞ。 まさか。 ゆうべからちっとも寝ないで仕事をしていたものだから疲れが出ちゃったんだね。 永いこと眠っていたかい。 なに十分か十五分かな。 ああ寒くなった。 僕はもう帰るぜ。 しっけい。 待ち給え。 君は高等学校の生徒じゃなかったかね。 あたり前さ。 大学へはいる迄は高等学校さ。 君はほんとうに頭が悪いね。 いつから大学生になったんだい。 ことしの三月さ。 そうかね。 君は佐伯五一郎というんだろう。 寝呆けていやがる。 僕はそんな名前じゃないよ。 そうかね。 じゃ何だってこの川をはだかで泳いだりしたんだね。 この川が気に入ったからさ。 それくらいの気まぐれはゆるしてくれたっていいじゃないか。 へんな事を聞くようだが君の友人に熊本君という人がいないかね。 ちょっとこう気取った人で。 熊本。 ――無いね。 やはり工科かね。 そうじゃないんだ。 みんな夢かな。 僕はその熊本君にも逢いたいんだがね。 何を言ってやがる。 寝呆けているんだよ。 しっかりし給え。 僕は帰るぜ。 ああしっけい。 君君。 勉強し給えよ。 大きにお世話だ。 おやきょうはお一人。 おめずらしい。 カルピスをおくれ。 火。 なんです。 あなたは私のペーパーナイフなどお知りでないだろうね。 銀のが。 なくなったんだがね。 存じて居ります。 僕が頂戴いたしました。 何をしているのだ。 ばかなやつだ。 あたし。 十郎様をいけないお方だとばかり存じていました。 ペーパーナイフかね。 ペーパーナイフを盗むなんてへんなやつだ。 でも綺麗だと思ったのなら仕様が無い。 母上がよくない。 ろくに読めもしない洋書なんかを買い込んでただページを切ってそれだけでお得意たいへんなお道楽だ。 いいえ。 奥様はご立派なお方です。 あたし親兄弟の蔭口きくかたいやです。 君はいくつだね。 十九歳になります。 もうお帰り。 誰にも言いやしない。 いいから早く出て行って呉れないか。 道理で話が合うと思った。 おい何か悪い事をしに行こうか。 も少し後悔してみたい。 きょうはいやだ。 おやおや。 まさか死ぬ気じゃないだろうね。 いいかい。 読むぞ。 アグリパイナはロオマの王者カリギュラの妹君として生れた。 漆黒の頭髪と小麦色の頬と痩せた鼻とを持った小柄の婦人であった。 極端に吊りあがった二つの眼は山中の湖沼の如くつめたく澄んでいた。 純白のドレスを好んで着した。 アグリパイナには乳房が無いと宮廷に集う伊達男たちが囁き合った。 美女ではなかった。 けれどもその高慢にして悧※たとえば五月の青葉の如く花無き清純のそそたる姿態は当時のみやび男の一二のものにかえって狂おしい迄の魅力を与えた。 アグリパイナはおのれの仕合せに気がつかないくらいに仕合せであった。 兄は一点非なき賢王としてカイザアたる孤高の宿命に聡くも殉ぜむとする凄烈の覚悟を有しせめてわがひとりの妹アグリパイナにこそまこと人らしき自由を得させたいものと無言の庇護を怠らなかった。 アグリパイナの男性侮辱はきわめて自然に行われしかも歴史的なる見事さにまで達した。 時の唇薄き群臣どもはこの事実を以てアグリパイナの類まれなる才女たる証左となしいよいよやんやの喝采を惜しまなかった。 アグリパイナの不幸はアグリパイナの身体の成熟と共にはじまった。 彼女の男性嘲笑はその結婚に依り完膚無きまでに返報せられた。 婚礼の祝宴の夜アグリパイナはその新郎の荒飲の果の思いつきに依り新郎|手飼の数匹の老猿をけしかけられ饗筵につらなれる好色の酔客たちを狂喜させた。 新郎の名はブラゼンバート。 もともと戦慄に依ってのみ生命の在りどころを知るたちの男であった。 アグリパイナは唇を噛んでこの凌辱に堪えた。 いつの日かこの目前の男性たちすべてに今宵の無礼を悔いさせてやるのだと心ひそかに神に誓った。 けれどもその雪辱の日はなかなかに来なかった。 ブラゼンバートの暴圧には限りがなかった。 こころよい愛撫のかわりに歯齦から血の出るほどの殴打があった。 水辺のしずかな散歩のかわりに砂塵濛々の戦車の疾駈があった。 相剋の結合は含羞の華をひらいた。 アグリパイナはみごもった。 ブラゼンバートはこの事実を知って大笑した。 他意は無かった。 ただおかしかったのである。 アグリパイナはほとんど復讐を断念していた。 この子だけはと弱草一すじのたのみをそこにつないだ。 その子は夏の真昼に生れた。 男子であった。 膚やわらかく唇赤き弱々しげの男子であった。 ドミチウスと呼ばれた。 父君ブラゼンバートは嬰児と初の対面を為しそのやわらかき片頬をむずと抓りあげうむ奇態のものじゃヒッポのよい玩具が出来たわと言い放ち腹をゆすって笑った。 ヒッポとはブラゼンバートお気にいりの牝獅子の名であった。 アグリパイナは産後のやつれた頬に冷い微笑を浮べて応答した。 この子はあなたのお子ではございませぬ。 この子はきっとヒッポの子です。 そのヒッポの子ネロが三歳の春を迎えてブラゼンバートは石榴を種子ごと食って激烈の腹痛に襲われ呻吟転輾の果死亡した。 アグリパイナは折しも朝の入浴中なりしをその死の確報に接しものも言わずに浴場から躍り出て濡れた裸体に白布一枚をまとい息ひきとった婿君の部屋のまえを素通りして風の如く駈け込んでいった部屋はネロの部屋であった。 三歳のネロをひしと抱きしめ助かったドミチウスや私たちは助かったのだよと呻くがごとく囁き涙と接吻でネロの花顔をめちゃめちゃにした。 その喜びも束の間であった。 実の兄カリギュラ王の発狂である。 昨日のやさしき王は一朝にしてロオマ史屈指の暴君たるの栄誉を担った。 かつて叡智に輝やける眉間には短剣で切り込まれたような無慙に深い立皺がきざまれ細く小さい二つの眼には狐疑の焔が青く燃え侍女たちのそよ風ほどの失笑にも将卒たちの高すぎる廊下の足音にも許すことなく苛酷の刑罰を課した。 陰鬱の冷括吠えずして噛む一匹の病犬に化していた。 一夜三人の兵卒はアグリパイナの枕頭にひっそり立った。 一人は死刑の宣告書を持ち一人は宝石ちりばめたる毒杯を一人は短剣の鞘を払って。 『何ごとぞ。 』アグリパイナは威厳を失わずきっと起き直って難詰した。 応えは無かった。 宣告書は手交せられた。 ちらと眼をくれ『このような死罪を言い渡されるような理由はない。 そこ退け下賤の者。 』応えは無かった。 理由はおまえに覚えがある筈そう言ってカリギュラ王は戸口に姿を現わした。 今朝おまえはドミチウスめを抱いて庭園を散歩しながらドミチウスや私たちはどうしてこんなに不仕合せなのだろうねと恨みごとを並べて居った。 わしはそれを聞いてしまった。 隠すな。 謀叛の疑い充分。 ドミチウスと二人で死ぬがよい。 『ドミチウスを殺してはいけません。 』アグリパイナの必死の抗議の声は天来のそれの如く厳粛に響き渡る。 『ドミチウスはあなたのものでない。 また私のものでもございません。 ドミチウスは神の子です。 ドミチウスは美しい子です。 ドミチウスはロオマの子です。 ドミチウスを殺してはいけません。 』疑懼のカリギュラはくすと笑った。 よしよし。 罪一等を減じてあげよう。 遠島じゃ。 ドミチウスを大事にするがよい。 アグリパイナはネロと共に艦に乗せられ南海の一孤島に流された。 単調の日が続いた。 ネロは島の牛の乳を飲みまるまると肥えふとり猛く美しく成長した。 アグリパイナはネロの手をひいて孤島の渚を逍遥し水平線のかなたを指さしドミチウスやロオマはきっとあの辺だよ。 早くロオマへ帰りたいねロオマはこの世で一ばん美しい都だよそう教えて涙にむせた。 ネロは無心に波とたわむれていた。 その頃ロオマは騒動であった。 蒼ざめたカリギュラ王はその臣下の手に依って弑せられるところとなり彼には世嗣は無く全く孤独の身の上だったしこの後誰が位にのぼるのか群臣万民ふるえるほどの興奮を以て私議し合っていた。 後継はさだめられた。 カリギュラの叔父クロオジヤス。 当時すでに五十歳を越えていた。 宮廷に於ける諸勢力に対し過不足ないようことさらに当らずさわらずの人物が選定せられたのである。 クロオジヤスは申し分なき好人物にしてその条件に適っている如く見えた。 ロオマ一ばんの貝殻蒐集家として知られていた。 黒薔薇栽培にも一家言を持っていた。 王位についてみてもかれには何だか居心地のわるい思いであった。 恐縮であった。 むやみ矢鱈に特赦大赦を行った。 わけても孤島に流されているアグリパイナとネロの身の上を恐ろしきものに思い可哀そうでならぬからと誰にとも無き言いわけを頬あからめて呟きつつその二人への赦免の書状に署名を為した。 赦免状を手にした孤島のアグリパイナは狂喜した。 凱旋の女王の如く誇らしげに胸を張ってドミチウスやおまえの世の中が来たと叫びネロを抱いて裸足のまま屋外に駈け出し花一輪無き荒磯を舞うが如く歩きまわりそれから立ちどまって永いことすすり泣いた。 アグリパイナはロオマへ帰って来てもう恐ろしい人はいないぞとのびのびと四肢をのばしてふと背後に痛い視線を感じた。 クロオジヤスの后メッサライナ。 メッサライナはアグリパイナの瞳をひとめ見てこれはあぶないと思った。 烈々の野望の焔を見てとった。 メッサライナにはブリタニカスと呼ばれる世子があった。 父のクロオジヤスに似ておっとりしていた。 ネロの美貌を盛夏の日まわりにたとえるならばブリタニカスは秋のコスモスであった。 ネロは十一歳。 ブリタニカスは九歳。 奇妙な事件が起った。 ネロが昼寝していたとき誰とも知られぬやわらかき手がネロの鼻孔と口とを水に濡れた薔薇の葉二枚でもって覆いこれを窒息させ死にいたらしめむと企てた。 アグリパイナは憤怒に蒼ざめ――。 待て待て。 ひとの忍耐にも限りがある。 一体それは何だね。 ネロの伝記だ。 暴君ネロ。 あいつだってそんなに悪い奴でも無かったのさ。 これから面白くなるのだがな。 アグリパイナはこんなにネロを大事に大事に育てネロを王位にまで押し上げてやりたく思ってあらゆる悪計を用いる。 はてはクロオジヤスの后になりすましてそうしてクロオジヤスを毒殺する。 それからもっともっと悪いことをする。 おかげでネロは位についた。 それから――。 ネロも悪い事をする。 いやアグリパイナはネロの恋を邪魔して――。 うむなるほど。 ネロはそれゆえ母をなくした。 お母さんおゆるし下さい私はあなたのものじゃない。 母は苦しい息の下から囁く。 おまえお母さんが憎いかい。 まあそんなところさ。 追い詰められた人たちはきっときっと血族相食をはじめる。 よせよ。 どうも古い。 大時代だ。 まるで映画物語じゃないか。 呑むか。 敢えて辞さない。 ロオマの人のために。 滅亡の階級のために。 チェリオ。 てるはいますか。 僕は美濃です。 あ。 てる坊。 しつれいします。 え。 なぜ来たの。 あたしは手癖がわるいのよ。 追い出されたのよ。 あたしの家きたなくて驚いたでしょう。 でもおねがいばかにしないでね。 家の人たちみんなやさしいのだもの。 一生懸命やっているのよ。 笑っているの。 なぜだまっているの。 君にはおむこさんがあるのだね。 あらあたしこんな恰好してみっとも無いのね。 このごろろくすっぽ髪も結わないのよ。 あの人とわかれること出来ないか。 僕はなんでもする。 どんな苦しい事でもこらえる。 いいんだいいんだ。 いいんだだいじょうぶだ。 お互い死なない事だけは約束しよう。 なんて言いながら危いのは僕のほうなんだからなあ。 伝統。 文学というもの。 おいおい滝谷君。 ちょっと。 少しは親爺の気持もいたわってやったほうがいいと思うぜ。 はあ。 君はいくつ。 二十三です。 若いなあ。 もういいんだ。 帰ってもいいんだ。 お金あるかい。 あります。 二十円置いて行け。 帰ってもいいですか。 ありがとう。 君を忘れやしないよ。 金木町のW。 私は十年も故郷へ帰らずまたいまは肉親たちと音信さえ不通の有様なので金木町のW様を思い出すことができず残念に存じて居ります。 どなたさまでございましたでしょうか。 おついでの折は汚い家ですがお立ち寄り下さい。 十一月二日の夜六時ごろやはり青森県出身の旧友が二人拙宅へ来る筈ですからどうかその夜はおいで下さい。 お願いいたします。 待つ。 何か失敗なかったかね。 失敗しなかったかね。 わるいこと言わなかったかね。 酒の追憶。 ねえさん。 飲ませて。 たのむわ。 わかる小梅さん気持はわかるだけど駄目。 茶碗酒の荒事なんてあなた私を殺してからお飲み。 申し上げてもよろしゅうございますか。 ああいいとも。 何でも言っておくれ。 どうせ私はあれの事には呆れはてているのだから。 それならば申し上げます。 驚きなすってはいけませんよ。 だいじょうぶだってば。 あの若旦那は深夜台所へ忍び込みあのひやざけ。 げえっ。 海豹。 君酒を飲むんだろう。 そんな言いかたをするなよ。 しかし飲むんだろう。 飲んでもいい。 飲んでもいいじゃない。 飲みたいんだろう。 おうい。 台所にまだ五ん合くらいお酒が残っているだろう。 持って来なさい。 瓶のままでいい。 五ん合。 お燗をつけなくていいんですか。 かまわないだろう。 その茶呑茶碗にでもついでやりなさい。 相変らずいい下着を着ているな。 しかし君はわざと下着の見えるような着附けをしているけれどもそれは邪道だぜ。 ひや酒ってのはこれや水みたいなものじゃないか。 ちっとも何とも無い。 そうかね。 いまに酔うさ。 帰ろう。 そうか。 送らないぜ。 いい下着。 もうひとりのおかたは。 いやそれがこいつなんです。 それからこれはどうもケチくさい話なんですがこれを半分だけ今夜二人で飲むという事にさせていただきたいんですけど。 あそう。 おい。 何か瓶を持って来てくれないか。 いいえそうじゃないんです。 半分は今夜ここで二人で飲んで半分はお宅へ置いて行かせていただくつもりなんです。 なあんだそんなら一緒に今夜全部飲んでしまいましょう。 ではきょうはこれくらいにしておいとまします。 いやいけません。 ウイスキイがまだ少し残っている。 いやそれは残して置きなさい。 あとで残っているのに気が附いた時にはまたわるくないものですよ。 どうします。 アペリチイフは。 ウイスキイが少し残っていてよ。 いいえもう丸山さんからいただいております。 新宿の秋田ご存じでしょう。 あそこでね今夜さいごのサーヴィスがあるそうです。 まいりましょう。 岡島さんは見えないようだね。 いや岡島さんの家はねきのうの空襲で丸焼けになったんです。 それじゃあ来られない。 気の毒だねえせっかくのこんないいチャンス。 わあよく来たものだ。 酒も飲むがね酒と一緒にビイルを持って来てくれ。 チャンポンにしなければ俺は酔えないんだよ。 国を出る時や玉の肌いまじゃ槍傷刀傷。 どれ小便をして来よう。 ひやはからだに毒ですよ。 道徳の適性。 何を言ったって君結局は君の自己弁護じゃないか。 私はこういう随筆は下手なのでは無いかと思う。 私には未だ随筆が書けないのかも知れない。 随筆には虚構は許されないのであって。 熊の手。 内村鑑三の思い出。 或夏信州の沓掛の温泉で先生がいたずらに私の子供にお湯をぶっかけられた所子供が泣き出した。 先生は悲し相な顔をして『俺のすることは皆こんなもんだ親切を仇にとられる。 』と言われた。 なま。 人間歴史の実相。 観念野郎。 本日は晴天なりれいの散歩など試みしに紅梅早も咲きたり天地有情春あやまたず再来す。 誰もそれを認めてくれなくても自分ひとりでは一流の道を歩こうと努めているわけである。 だから毎日要らない苦労をたいへんしなければならぬわけである。 自分でもばかばかしいと思うことがある。 ひとりで赤面していることもある。 ちっとも流行しないが自分では相当のもののつもりで出処進退つつしみつつしみ言動している。 大事のまえの小事には戒心の要がある。 つまらぬ事で蹉跌してはならぬ。 常住坐臥に不愉快なことがあったとしても腹をさすって笑っていなければならぬ。 いまに傑作を書く男ではないかなどともっともらしい口調で間抜けた感慨を述べている。 頭が悪いのではないかと思う。 たまに新聞社から随筆の寄稿をたのまれ勇奮して取りかかるのであるがこれも駄目あれも駄目と破り捨てたかだか十枚前後の原稿に三日も四日も沈吟している。 流石と読者に膝を打たせるほどの光った随筆を書きたい様子なのである。 あまり沈吟していたらそのうちに何がなんだかわからなくなって来た。 随筆というものがどんなものだかわからなくなってしまったのである。 本箱を捜して本を二冊取り出した。 『枕草子』と『伊勢物語』の二冊である。 これに拠って日本古来の随筆の伝統をさぐって見ようと思ったのである。 何かにつけて愚鈍な男である。 けれども。 おまえ日記をつけているようだね。 ちょっと貸しなさい。 貸さなくてもいいがそれでは僕は酒を飲まなくてはならぬ。 愛とは何だ。 わかるか。 愛とは義務の遂行である。 悲しいね。 またいう愛とは道徳の固守である。 更にいう愛とは肉体の抱擁である。 いずれも聞くべき言ではある。 そうかも知れない。 正確かも知れない。 けれどももう一つもう一つ何か在るのだ。 いいか愛とは――おれにもわからない。 そいつがわかったらな。 手工の巧みならん事を祈るお祭り。 あんたはいい。 あんたはいいのです。 ビイルなんか飲んで上品がっていたって仕様がないじゃねえか。 ありがとう。 ハバカリサマ。 あれが佐渡だね。 そうです。 灯が見えるかね。 佐渡は寝たかよ灯が見えぬというのは起きていたら灯が見えるという反語なのだから灯が見える筈だね。 見えません。 そうかね。 それじゃあの唄は嘘だね。 あれは何という島ですか。 さあもう見えて来ました。 もうすぐですか。 もう十|分でございます。 パパさっきの島は。 佐渡ですよ。 パパもよくわからないのですがね。 つまり島の形がこんなぐあいに。 こんなぐあいになっていて汽船がここを走っているので島が二つあるように見えたのでしょう。 工。 だんな。 よし行こう。 どこへですか。 そこへ行くのさ。 はは。 お客が多いのかね。 いいえもう駄目です。 九月すぎるとさっぱりいけません。 君は東京のひとかね。 へへ。 福田旅館はここではいいほうなんだろう。 今夜これから直ぐに相川まで行ってしまおうかとも思っていたのだが雨も降っているし心細くなっているところへ君が声をかけたんだ。 提燈を見たら福田旅館と書かれていたのでここへ一泊ときめてしまったんだ。 僕は新潟の人から聞いて来たんだ。 提燈を見てはっと思い出したのだ。 君のところが一等いい宿屋だと皆言っていたよ。 おそれいります。 ほんのあばらやですよ。 この島の名産は何かね。 はい海産物ならたいていのものがたくさんとれます。 そうかね。 君は佐渡の生れかね。 はい。 内地へ行って見たいと思うかね。 いいえ。 そうだろう。 白米はおいしいね。 そうでしょうか。 お茶をいただきましょう。 お粗末さまでした。 いや。 まちを見て来ます。 よしつね。 お酒を飲みに来たのです。 料理は要らないのです。 宿でごはんを食べて来たばかりなんだ。 蟹も鮑も蠣もみんな宿でたべて来ました。 お勘定の心配をしてそう言うわけではないのです。 いやその心配もありますけれどそれよりも料理がむだですよ。 むだな事です。 僕は何も食べません。 お酒を二三本飲めばいいのです。 でもせっかくこしらえてしまったのですからどうぞめしあがって下さい。 芸者衆でも呼びましょうか。 そうね。 料理をたべませんか。 僕は宿でたべて来たばかりなのです。 むだですよ。 たべて下さい。 たべなさいよ。 客の前でたべるのが恥ずかしいのでしたら僕は帰ってもいいのです。 あとで皆でたべて下さい。 もったいないよ。 いただきます。 眠くなって来た。 帰ります。 死ぬほど淋しいところ。 ゆうべよしつねという料理屋に行ったがつまらなかった。 たてものは大きいが悪いところだね。 ええ。 このごろ出来た家ですよ。 古くからの寺田屋などは格式もあっていいそうです。 そうです。 格式のある家でなければだめです。 寺田屋へ行けばよかった。 お客さんは料理屋などおきらいかと思っていました。 きらいじゃないさ。 行っていらっしゃい。 四十の男。 彼が旅に出かけようと思ったのはもとより定った用事のためではなかったとしても兎も角それは内心の衝動だったのだ。 彼はその衝動を抑制して旅に出なかった時には自己に忠実でなかったように思う。 自己を欺いたように思う。 見なかった美しい山水や失われた可能と希望との思いが彼を悩ます。 よし現存の幸福が如何に大きくともこの償い難き喪失の感情は彼に永遠の不安を与える。 お風呂へはいりたいのですが。 さあお風呂は四時半からですけど。 どこか名所は無いだろうか。 さあ。 こんなに寒くなりましたから。 金山があるでしょう。 ええことしの九月から誰にも中を見せない事になりました。 お昼のお食事はどういたしましょう。 たべません。 夕食を早めにして下さい。 それは茶わんむしですよ。 食べて行きなさい。 そうか。 鉱山の人たちだね。 奪い合い。 青んぼ。 青んぼ。 めし。 いいかねいいかねはじめるぞ。 はい。 おれはことし三十になる。 孔子は三十にして立つと言ったがおれは立つどころでは無い。 倒れそうになった。 生き甲斐を身にしみて感じることが無くなった。 強いて言えばおれはめしを食うとき以外は生きていないのである。 ここに言う『めし』とは生活形態の抽象でもなければ生活意慾の概念でもない。 直接にあの茶碗一ぱいのめしのことを指して言っているのだ。 あのめしを噛むその瞬間の感じのことだ。 動物的な満足である。 下品な話だ。 紅燈に行きてふたたび帰らざる人をまことのわれと思ふや。 十字街。 苦笑に終る。 やあしまった。 おれはウメカワじゃ無いんだ。 青んぼ。 めし。 なんだいこれは。 号令口調というんだね。 孔子|曰くはひどいね。 青んぼ。 あかいカンナ。 矢車の花いとし。 あかいカンナの花でした。 私の心に似ています。 云々。 矢車の花いとし。 一つ二つ三つ私のたもとに入れました。 云々。 十字街。 あかいカンナの花でした。 私の心に似ています。 青んぼ。 あッ菊池寛だ。 感情装飾。 この春は仏心なども出で酒もあり肴もあるをよろこばぬなり。 おじさんを知ってるだろう。 おじさんを忘れちゃいけない。 はいこれはおじさんから。 もう夢川利一なんて名前はよすことにした。 堂々辻馬桂治でやってみるつもりだ。 兄さん。 折ったな。 降りて来い。 枝を折ったのはおれだ。 それはおれの木だ。 おかしいか。 おかしい。 海を渡って来たろう。 うん。 なんだか知れぬがおおきい海を。 うん。 やっぱりおれと同じだ。 ふるさとが同じなのさ。 一目見ると判る。 おれたちの国のものはみんな耳が光っているのだよ。 よせよせ。 こっちへ手むかっているのじゃないよ。 ほえざるという奴さ。 毎朝あんなにして太陽に向って吠えたてるのだ。 これはみんな猿か。 そうだよ。 しかしおれたちとちがう猿だ。 ふるさとがちがうのさ。 ここはどこだろう。 おれも知らないのだよ。 しかし日本ではないようだ。 そうか。 でもこの木は木曾樫のようだが。 そうでないよ。 枝の生えかたがちがうしそれに木肌の日の反射のしかただって鈍いじゃないか。 もっとも芽が出てみないと判らぬけれど。 どうして芽が出ないのだ。 春から枯れているのさ。 おれがここへ来たときにも枯れていた。 あれから四月五月六月と三つきも経っているがしなびて行くだけじゃないか。 これはことに依ったら挿木でないかな。 根がないのだよきっと。 あっちの木はもっとひどいよ。 奴等のくそだらけだ。 坐らないか。 話をしよう。 ここはいいところだろう。 この島のうちではここがいちばんいいのだよ。 日が当るし木があるしおまけに水の音が聞えるし。 おれは日本の北方の海峡ちかくに生れたのだ。 夜になると波の音が幽かにどぶんどぶんと聞えたよ。 波の音っていいものだな。 なんだかじわじわ胸をそそるよ。 おれには水の音よりも木がなつかしいな。 日本の中部の山の奥の奥で生れたものだから。 青葉の香はいいぞ。 それあいいさ。 みんな木をなつかしがっているよ。 だからこの島にいる奴は誰にしたって一本でも木のあるところに坐りたいのだよ。 ここをおれの場所にするのにこんな苦労をしたのさ。 おれは知らなかったものだから。 いいのだよ。 構わないのだよ。 おれはひとりぼっちなのだ。 いまからここをふたりの場所にしてもいい。 だがもう枝を折らないようにしろよ。 おどろくなよ。 毎日こうなのだ。 どうなるのだ。 みんなおれたちを狙っている。 見せ物だよ。 おれたちの見せ物だよ。 だまって見ていろ。 面白いこともあるよ。 何を言っているのだ。 教えて呉れ。 あの子供たちは何を言っているのだ。 いつ来て見ても変らないとほざいたのだよ。 そうか。 すると君は嘘をついていたのだね。 ふびんだったから。 泣くのはやめろよ。 どうにもならぬ。 あの石塀の上に細長い木の札が立てられているだろう。 おれたちには裏の薄汚く赤ちゃけた木目だけを見せているがあのおもてにはなんと書かれてあるか。 人間たちはそれを読むのだよ。 耳の光るのが日本の猿だと書かれてあるのさ。 いやもしかしたらもっとひどい侮辱が書かれてあるのかも知れないよ。 みんな知らないのか。 知るものか。 知っているのはおそらくおれと君とだけだよ。 なぜ逃げないのだ。 君は逃げるつもりか。 逃げる。 こわくないか。 よせよせ。 降りて来いよ。 ここはいいところだよ。 日が当るし木があるし水の音が聞えるしそれにだいいちめしの心配がいらないのだよ。 そもさん何者。 さればわづかにまねごと師。 氣にするがものもない幽靈か。 ハロルドのマント羽織つた莫斯科ツ子。 他人の癖の飜案か。 はやり言葉の辭書なのか。 いやさてもぢり言葉の詩とでもいつたところぢやないかよ。 あなた後悔しないやうに。 だまつて居れば名を呼ぶし近寄つて行けば逃げ去るのだ。 放してくれ。 通信。 ヘルマンとドロテア。 風の便り。 風の便り。 風の便り。 私べつに惡いことをするのではありませんからわざと葉書にかきます。 忘れてゐました。 新年おめでたうございます。 彼が大學へはひつてからは小説に心をそそられなかつた。 文豪として名高くなることはいまの彼にとつてゆめのゆめだ。 小説を書いてたとへばそれが傑作として世に喧傳され有頂天の歡喜を得たとしてもそれは一瞬のよろこびである。 おのれの作品に對する傑作の自覺などあり得ない。 はかない一瞬間の有頂天がほしくて五年十年の屈辱の日を送るといふことは彼には納得できなかつた。 彼にはただ情熱のもつとも直截なはけ口が欲しかつたのである。 考へることよりも唄ふことよりもだまつてのそのそ實行したはうがほんたうらしく思へた。 ゲエテよりもナポレオン。 ゴリキイよりもレニン。 ああ。 樣といふ字のこの不器用なくづしかたに彼は見覺えがあつたのである。 五年前の賀状を思ひ出したのであつた。 彼はそれに眼をとめた。 妻がふるさとの彼の父へ林檎が着いたことを知らせにしたためた手紙であつた。 投げて置かないですぐ出すといい。 さう呟きつつふと首をかしげた。 ああ。 樣といふ字のこの不器用なくづしかたに彼は見覺えがあつたのである。 チエホフ書翰集。 オネーギン。 オネーギン。 チエホフ書翰集。 風の便り。 オネーギン。 わたしがあなたにお手紙を書くそのうへ何をつけたすことがいりませう。 もうこれで筆をおきます。 讀み返すのもおそろしい羞恥の念と恐怖の情で消えもいりたい思ひがします。 けれども私は高潔無比のお心をあてにしながらひと思ひに私の運をあなたのお手にゆだねます。 タチアナより。 オネーギン樣。 通信。 群盜。 新生。 鶴。 鶴。 鶴。 鶴。 鶴。 鶴。 ヘルマンとドロテア。 野鴨。 あらし。 そもさん何者。 さればわずかにまねごと師。 気にするがものもない幽霊か。 ハロルドのマント羽織った莫斯科ッ子。 他人の癖の飜案か。 はやり言葉の辞書なのか。 いやさてもじり言葉の詩とでもいったところじゃないかよ。 あなた後悔しないように。 だまって居れば名を呼ぶし近寄って行けば逃げ去るのだ。 放してくれ。 通信。 ヘルマンとドロテア。 風の便り。 風の便り。 風の便り。 私べつに悪いことをするのではありませんからわざと葉書にかきます。 忘れていました。 新年おめでとうございます。 彼が大学へはいってからは小説に心をそそられなかった。 文豪として名高くなることはいまの彼にとってゆめのゆめだ。 小説を書いてたとえばそれが傑作として世に喧伝され有頂天の歓喜を得たとしてもそれは一瞬のよろこびである。 おのれの作品に対する傑作の自覚などあり得ない。 はかない一瞬間の有頂天がほしくて五年十年の屈辱の日を送るということは彼には納得できなかった。 彼にはただ情熱のもっとも直截なはけ口が欲しかったのである。 考えることよりも唄うことよりもだまってのそのそ実行したほうがほんとうらしく思えた。 ゲエテよりもナポレオン。 ゴリキイよりもレニン。 ああ。 様という字のこの不器用なくずしかたに彼は見覚えがあったのである。 五年前の賀状を思い出したのであった。 彼はそれに眼をとめた。 妻がふるさとの彼の父へ林檎が着いたことを知らせにしたためた手紙であった。 投げて置かないですぐ出すといい。 そう呟きつつふと首をかしげた。 ああ。 様という字のこの不器用なくずしかたに彼は見覚えがあったのである。 チエホフ書翰集。 オネーギン。 オネーギン。 チエホフ書翰集。 風の便り。 オネーギン。 わたしがあなたにお手紙を書くそのうえ何をつけたすことがいりましょう。 もうこれで筆をおきます。 読み返すのもおそろしい羞恥の念と恐怖の情で消えもいりたい思いがします。 けれども私は高潔無比のお心をあてにしながらひと思いに私の運をあなたのお手にゆだねます。 タチアナより。 オネーギン様。 通信。 群盗。 新生。 鶴。 鶴。 鶴。 鶴。 鶴。 鶴。 ヘルマンとドロテア。 野鴨。 あらし。 和平建国。 下々の手前達が兎や角と御政事向の事を取沙汰致すわけでは御座いませんが先生昔から唐土の世には天下太平の兆には綺麗な鳳凰とかいう鳥が舞い下ると申します。 然し当節のように何も彼も一概に綺麗なものや手数のかかったもの無益なものは相成らぬと申してしまった日には鳳凰なんぞは卵を生む鶏じゃ御座いませんからいくら出て来たくも出られなかろうじゃ御座いませんか。 外のものは兎に角と致して日本一お江戸の名物と唐天竺まで名の響いた錦絵まで御差止めに成るなぞは折角天下太平のお祝いを申しに出て来た鳳凰の頸をしめて毛をむしり取るようなものじゃ御座いますまいか。 散柳窓夕栄。 視察。 国策型。 視察。 生活感情。 一生活人。 愛と信実。 においませんか。 僕のからだくさいでしょう。 いやなんともない。 そうですか。 においませんか。 二三日前からにんにくを食べているんです。 あんまりくさいようだったら帰ります。 いやなんともない。 三田さんの事は野営地で知り何とも言えない気持でした。 桔梗と女郎花の一面に咲いている原で一しお淋しく思いました。 あまり三田さんらしい死に方なので。 自分もいま暫くで三田さんの親友として恥かしからぬ働きをしてお目にかける事が出来るつもりでありますが。 顔が綺麗だって事は一つの不幸ですね。 隊には小生よりも背の大きな兵隊が二三人居ります。 しかしながらスマートというものは八寸五分迄に限るという事を発見いたしました。 僕の顔にだって欠点はあるんですよ誰も気がついていないかも知れませんけど。 哲学者のような。 三田さんはあんなに真面目な人ですからね僕はかなわないんですよ。 三田さんの言う事はいちいちもっともだと思うし僕はどうしたらいいのかわからなくなってしまうのですよ。 人間は真面目でなければいけないがしかしにやにや笑っているからといってその人を不真面目ときめてしまうのも間違いだ。 とても苦しい。 何か激励の言葉を送ってよこして下さい。 激励の言葉を。 立派な言葉。 三田君はどうです。 いいほうだ。 いちばんいいかも知れない。 こんどの三田さんの詩は傑作ですよ。 どうか一つゆっくり読んでみて下さい。 いいほうだ。 詩。 いちばんいい。 詩人気質。 散華。 三田君はやっぱりいいやつだねえ。 実にいいところがある。 いいほうだ。 いちばんいいかも知れない。 そうかなあ。 我はその手に釘の痕を見わが指を釘の痕にさし入れわが手をその脅に差入るるにあらずば信ぜじ。 どうかなあ。 死んで下さい。 死んで下さい。 いちばんいい詩人。 三田君はいい。 たしかにいい。 いちばんよい。 やっぱりそうか。 三田君がアッツ玉砕の神の一柱であった事をただいま新聞で知りました。 三田君を偲ぶために何かよい御計画でもありましたならばお知らせ下さい。 北極星。 三田の弟さんだ。 僕のうちでも林檎と駒下駄をもらった。 林檎はまだ少しすっぱいようだから二三日置いてたべるといいかも知れない。 駒下駄は僕と君とお揃いのを一足ずつ。 気持のいいお土産だろう。 詩を全部載せますか。 まあそんな事になるだろうな。 初期のはあんまりよくなかったようですが。 そんな事を言ったって。 こりゃどうも太宰のさきには死なれないね。 どんな事を言われるかわかりゃしない。 春の絵巻。 質実な作家が質実な作家として認められることはこれは大変なことで。 愛はこの世に存在する。 きっと在る。 見つからぬのは愛の表現である。 その作法である。 私にはあなたの胃袋や骨組だけが見えてあなたの白い膚が見えません。 私は悲しいめくらです。 私小説と懺悔。 風にもあてず。 惚れざるはなし。 他人。 センチメンタリスト。 あなたは私ひとりのものにするにはよすぎます。 こんなのじゃ仕様がない。 文藝。 罪と罰。 田園交響楽。 阿部一族。 女の決闘。 わが子を語れ。 女の決闘。 臆病な苦労。 自信の無さ。 なんですか。 植えられてしまったとはどんなことですか。 いいえねその庭の隅に薔薇が植えられて在るでしょう。 それがだまされて買ったんです。 私とどんな関係があるんですか。 おかしなことを言うじゃないですか。 私の顔を見て植えられたとはおかしなことを言うじゃないですか。 君のことを言ってるんじゃないよ。 先日私はだまされて不愉快だからそのことを言っているのですよ。 君はそんなものの言いかたをしちゃいけないよ。 へん。 こごとを聞きに来たようなものだ。 お互い一対一じゃねえか。 五厘でも一銭でももうけさせてもらったら私は商人だ。 どんなにでもへえへえしてあげるがそうでもなけれあ何もお前さんにこごとを聞かされるようなことはねえんだ。 それあ理窟だ。 そんなら僕だって理窟を言うが君は僕を訪ねて来たんじゃないか。 訪ねたからそれがどうしました。 私だって一家のあるじだ。 こごとなんて聞きたくないや。 だまされたなんて言うけれどこうして植えてたのしんでいるじゃないですか。 それあたのしんでいる。 僕は四円もとられたんだぜ。 安いもんじゃないですか。 カフェへ行って酒を呑むことを考えなさい。 カフェなんかへは行かないよ。 行きたくても行けないんだ。 四円なんて僕にはおそろしく痛かったんですよ。 痛かったかどうかこっちの知ったことじゃないんです。 そんなに痛かったらあっさり白状して断ればよかったんだ。 それが僕の弱さだ。 断れなかったんだ。 そんなに弱くてどうしますか。 男一匹そんなに弱くてよくこの世の中に生きて行けますね。 僕もそう思うんだ。 だからこれからは要らないときにははっきり要らないと断ろうと覚悟していたのだ。 そこへ君が来たというわけなんだ。 はははは。 そういうわけですか。 なるほどねえ。 わかりました。 おいとましましょう。 こごとを聞きに来たんじゃないんだからなあ。 一対一だ。 そっくりかえっていることは無いんだ。 その作家の日常の生活がそのまま作品にもあらわれて居ります。 ごまかそうたってそれは出来ません。 生活以上の作品は書けません。 ふやけた生活をしていていい作品を書こうたってそれは無理です。 どうやら『文人』の仲間入り出来るようになったのがそんなに嬉しいのかね。 宗匠頭巾をかぶって『どうも此頃の青年はテニヲハの使用が滅茶で恐れ入りやす。 』などはげろが出そうだ。 どうやら『先生』と言われるようになったのがそんなに嬉しいのかね。 八卦見だって先生と言われています。 どうやら世の中から名士の扱いを受けて映画の試写やら相撲の招待をもらうのがそんなに嬉しいのかね。 此頃すこしはお金がはいるようになったそうだがそれがそんなに嬉しいのかね。 小説を書かなくたって名士の扱いを受ける道があったでしょう。 殊にお金は他にもうける手段はいくらでもあったでしょうに。 立身出世かね。 小説を書きはじめた時のあの悲壮ぶった覚悟のほどはどうなりました。 けちくさいよ。 ばかに気取ってるじゃないか。 それでも何か書いたつもりでいるのかね。 時評に依るとお前の心境いよいよ澄み渡ったそうだねあはは。 家庭の幸福か。 妻子のあるのはお前ばかりじゃありませんよ。 図々しいねえ。 此頃めっきり色が白くなったじゃないか。 万葉を読んでいるんだってね。 読者をあんまりだまさないで下さい。 図に乗ってあんまり人をなめているとみんなばらしてやりますよ。 僕が知らないと思っているのですか。 責任が重いんだぜ。 わからないかね。 一日一日責任が重くなっているんだぜ。 もっとまともに苦しもうよ。 まともに生き切る努力をしようぜ。 明日の生活の計画よりはきょうの没我のパッションが大事です。 戦地に行った人たちの事を考えろ。 正直はいつの時代でも美徳だと思います。 ごまかそうたってだめですよ。 明日の立派な覚悟よりきょうのつたない献身がいま必要であります。 お前たちの責任は重いぜ。 こんなに丈ばかり大きくなって私はどんなに恥ずかしい事か。 そろそろ実をつけなければならないのだけれどもおなかに力が無いからいきむ事が出来ないの。 みんなは葦だと思うでしょう。 やぶれかぶれだわ。 トマトさんちょっと寄りかからせてね。 なんだなんだ竹じゃないか。 本気でおっしゃるの。 気にしちゃいけねえ。 お前さんは夏|痩せなんだよ。 粋なものだ。 ここの主人の話に拠ればお前さんは芭蕉にも似ているそうだ。 お気に入りらしいぜ。 葉ばかり伸びるものだから私を揶揄なさっているのよ。 ここの主人はいい加減よ。 私ここの奥さんに気の毒なの。 それや真剣に私の世話をして下さるのだけれども私は背丈ばかり伸びて一向にふとらないのだもの。 トマトさんだけはどうやら実を結んだようね。 ふんどうやらね。 もっとも俺は下品な育ちだから放って置かれても実を結ぶのさ。 軽蔑し給うな。 これでも奥さんのお気に入りなんだからね。 この実は俺の力瘤さ。 見給えうんと力むとほらむくむく実がふくらむ。 も少し力むとこの実があからんで来るのだよ。 ああすこし髪が乱れた。 散髪したいな。 僕は孤独なんだ。 大器晩成の自信があるんだ。 早く毛虫に這いのぼられる程の身分になりたい。 どれきょうも高邁の瞑想にふけるか。 僕がどんなに高貴な生まれであるか誰も知らない。 クルミのチビは何を言っているのかしら。 不平家なんだわきっと。 不良少年かも知れない。 いまに私が花咲けばさだめしいやらしい事を言って来るに相違ない。 用心しましょう。 あれ私のお尻をくすぐっているのは誰。 隣りのチビだわ。 本当に本当にチビの癖に根だけは一人前に張っているのね。 高邁な瞑想だなんてとんでもない奴さ。 知らん振りしてやりましょう。 どれこう葉を畳んで眠った振りをしていましょういまはたった二枚しか葉が無いけれども五年|経ったら美しい花が咲くのよ。 どうにもこうにも話にならねえ。 ゴミじゃ無え。 こう見えたってにんじんの芽だ。 一箇月前から一分も伸びねえ。 このまんまであった。 永遠にわしゃこうだろう。 みっともなくていけねえ。 誰かわしを抜いてくれないか。 やけくそだよ。 あははは。 馬鹿笑いが出ちゃった。 地盤がいけないのですね。 石ころだらけで私はこの白い脚を伸ばす事が出来ませぬ。 なんだか毛むくじゃらの脚になりました。 ごぼうの振りをしていましょう。 私は素直にあきらめているの。 私は今はこんなに小さくてもやがて一枚の座蒲団になるんですって。 本当かしら。 なんだか自嘲したくて仕様が無いの。 軽蔑しないでね。 ええとこう行ってこうからむのか。 なんて不細工な棚なんだ。 からみ附くのに大骨折りさ。 でもこの棚を作る時にここの主人と細君とは夫婦喧嘩をしたんだからね。 細君にせがまれたらしくばかな主人はもっともらしい顔をしてこの棚を作ったのだがいやどうにも不器用なので細君が笑いだしたら主人の汗だくで怒って曰くさそれではお前がやりなさいへちまの棚なんて贅沢品だ生活の様式を拡大するのは僕はいやなんだ僕たちはそんな身分じゃないと妙に興覚めな事を言い出したので細君も態度も改めそれは承知して居りますでもへちまの棚くらいは在ってもいいと思いますこんな貧乏な家にでもへちまの棚が出来るのだというのはなんだか奇蹟みたいで素晴しい事だと思います私の家にでもへちまの棚が出来るなんて嘘みたいで私は嬉しくてなりませんと哀れな事を主張したので主人はまた渋々この棚の製作を継続しやがった。 どうもここの主人は少し細君に甘いようだて。 どれどれ親切を無にするのも心苦しいええとこう行ってこうからみ附けっていうわけかああ実に不細工な棚である。 からみ附かせないように出来ている。 意味ないよ。 僕は不仕合わせなへちまかも知れぬ。 ここの庭ではやはり私が女王だわ。 いまはこんなにからだが汚れて葉の艶も無くなっちゃったけれどこれでも先日までは次々と続けて十輪以上も花が咲いたものだわ。 ご近所の叔母さんたちがおお綺麗と言ってほめるとここの主人が必ずぬっと部屋から出て来て叔母さんたちにだらし無くぺこぺこお辞儀するので私はとても恥ずかしかったわ。 あたまが悪いんじゃないかしら。 主人はとても私を大事にしてくれるのだけれどいつも間違った手入ればかりするのよ。 私が喉が乾いて萎れかけた時にはただうろうろして奥さんをひどく叱るばかりで何も出来ないの。 あげくの果には私の大事な新芽を気が狂ったみたいにちょんちょん摘み切ってしまってうむこれでどうやらなんて真顔で言って澄ましているのよ。 私は苦笑したわ。 あたまが悪いのだから仕方がないのね。 あの時新芽をあんなに切られなかったら私はたしかに二十は咲けたのだわ。 もう駄目。 あんまり命かぎり咲いたものだから早く老い込んじゃった。 私は早く死にたい。 おやあなたは誰。 我輩をせめて竜の鬚とでも呼んでくれ給え。 ねぎじゃないの。 見破られたか。 面目ない。 何を言ってるの。 ずいぶん細いねぎねえ。 ええ面目ない。 地の利を得ないのじゃ。 世が世ならいや敗軍の将愚痴は申さぬ。 我輩はこう寝るぞ。 是生滅法。 盛者必衰。 いっそ化けて出ようか知ら。 新佐渡情話。 兄いもうと。 大谷日出夫という役者はたのもしくていいわ。 あの人が出て来るとなんだか安心ですの。 決して負けることがないのです。 芸術映画は退屈です。 何事も芸の極致は同じであります。 極致。 敗者の糧。 映画でも見ようか。 あ。 髪の毛。 いいえ。 爵位があるから貴族だというわけにはいかないんだぜ。 爵位が無くても天爵というものを持っている立派な貴族のひともあるしおれたちのように爵位だけは持っていても貴族どころか賤民にちかいのもいる。 岩島なんてのはあんなのはまったく新宿の遊廓の客引き番頭よりももっとげびてる感じじゃねえか。 こないだも柳井の兄貴の結婚式にあんちきしょうタキシイドなんか着てなんだってまたタキシイドなんかを着て来る必要があるんだそれはまあいいとしてテーブルスピーチの時にあの野郎ゴザイマスルという不可思議な言葉をつかったのにはげっとなった。 気取るという事は上品という事とぜんぜん無関係なあさましい虚勢だ。 高等|御下宿と書いてある看板が本郷あたりによくあったものだけれどもじっさい華族なんてものの大部分は高等|御乞食とでもいったようなものなんだ。 しんの貴族はあんな岩島みたいな下手な気取りかたなんかしやしないよ。 おれたちの一族でもほんものの貴族はまあママくらいのものだろう。 あれはほんものだよ。 かなわねえところがある。 おむすびがどうしておいしいのだか知っていますか。 あれはね人間の指で握りしめて作るからですよ。 かず子やお母さまがいま何をなさっているかあててごらん。 お花を折っていらっしゃる。 おしっこよ。 塩辛かったかしら。 お上手に出来ました。 かず子はまだ駄目なのね。 朝御飯が一番おいしくなるようにならなければ。 お母さまは。 おいしいの。 そりゃもう。 私は病人じゃないもの。 かず子だって病人じゃないわ。 だめだめ。 あ。 なに。 お母さまもさっき何かお思い出しになったのでしょう。 どんな事。 忘れたわ。 私の事。 いいえ。 直治の事。 そう。 かも知れないわ。 覚悟。 あきらめてしまったつもりなんだけどおいしいスウプをいただいて直治を思ってたまらなくなった。 もっと直治によくしてやればよかった。 大丈夫よ。 直治は大丈夫よ。 直治みたいな悪漢はなかなか死ぬものじゃないわよ。 死ぬひとはきまっておとなしくて綺麗でやさしいものだわ。 直治なんて棒でたたいたって死にやしない。 それじゃかず子さんは早死にのほうかな。 あらどうして。 私なんか悪漢のおデコさんですから八十歳までは大丈夫よ。 そうなの。 そんならお母さまは九十歳までは大丈夫ね。 ええ。 意地わるね。 蝮の卵だ。 焼いちゃおう。 何をしていらっしゃるのですか。 蝮の卵を燃やしているのです。 蝮が出るとこわいんですもの。 大きさはどれくらいですか。 うずらの卵くらいで真白なんです。 それじゃただの蛇の卵ですわ。 蝮の卵じゃないでしょう。 生の卵はなかなか燃えませんよ。 さあみんな拝むのよ。 可哀そうな事をするひとね。 蝮かと思ったらただの蛇だったの。 けれどちゃんと埋葬してやったから大丈夫。 あの蛇は。 卵の母親。 そうそうよ。 けさからお庭を歩きまわっていたのよ。 そうでしょう。 卵を捜しているのですよ。 可哀そうに。 お母さまおいでなさる。 だってお願いしていたのだもの。 きめましたよ。 きめたって何を。 全部。 だって。 どんなお家だか見もしないうちに。 和田の叔父さまがいい所だとおっしゃるのだもの。 私はこのまま眼をつぶってそのお家へ移って行ってもいいような気がする。 そうね。 それではかず子も眼をつぶるわ。 どうなさったの。 伊豆へ行きたくなくなったの。 いいえ。 お母さま。 お顔色がお悪いわ。 なんでもないの。 かず子がいるからかず子がいてくれるから私は伊豆へ行くのですよ。 かず子がいてくれるから。 かず子がいなかったら。 死んだほうがよいのです。 お父さまの亡くなったこの家でお母さまも死んでしまいたいのよ。 お母さま思ったよりもいい所ね。 そうね。 だいいち空気がいい。 清浄な空気です。 本当に。 おいしい。 ここの空気はおいしい。 次にはお座敷からの眺めがよい。 やわらかな景色ねえ。 空気のせいかしら。 陽の光がまるで東京と違うじゃないの。 光線が絹ごしされているみたい。 すこしこのまま寝かして。 お母さま。 肺炎になるかも知れませんでございます。 けれども肺炎になりましても御心配はございません。 入院したほうが。 いやその必要はございませんでしょう。 きょうは一つ強いお注射をしてさし上げますからお熱もさがる事でしょう。 名医かも知れないわ。 大奥さまはもはや御病気ではございません。 でございますからこれからは何をおあがりになっても何をなさってもよろしゅうございます。 本当に名医だわ。 私はもう病気じゃない。 お母さま障子をあけましょうか。 雪が降っているのよ。 もう病気じゃない。 こうして坐っていると以前の事が皆ゆめだったような気がする。 私は本当は引越し間際になって伊豆へ来るのがどうしてもなんとしてもいやになってしまったの。 西片町のあのお家に一日でも半日でも永くいたかったの。 汽車に乗った時には半分死んでいるような気持でここに着いた時もはじめちょっと楽しいような気分がしたけど薄暗くなったらもう東京がこいしくて胸がこげるようで気が遠くなってしまったの。 普通の病気じゃないんです。 神さまが私をいちどお殺しになってそれから昨日までの私と違う私にしてよみがえらせて下さったのだわ。 おひめさま。 中井さん。 起きて下さい火事です。 はい直ぐ行きます。 お母さま心配しないで大丈夫休んでいらして。 火事だ。 火事だ。 お別荘が火事だ。 おどろいたでしょう。 どうしたのですか。 私がいけなかったのです。 消したつもりの薪を。 わかりました。 お母さんは。 お座敷にやすませておりますの。 ひどくおどろいていらして。 しかしまあ。 家に火がつかなくてよかった。 なにね薪がちょっと燃えただけなんです。 ボヤとまでも行きません。 そうですか。 よくわかりました。 では帰りますからどうぞお母さんによろしく。 それではね今夜の事はべつにとどけない事にしますから。 二宮さんはどう言われました。 とどけないっておっしゃいました。 なんでもない事だったのね。 燃やすための薪だもの。 どうしたのよ。 どうしたのよ。 いま私はじめて聞いてまあゆうべはいったいどうしたのよ。 すみません。 すみませんも何も。 それよりもお嬢さん警察のほうは。 いいんですって。 まあよかった。 でもお嬢さんがおひとりで廻るのがおいやだったら私も一緒について行ってあげますよ。 ひとりで行ったほうがいいのでしょう。 ひとりで行ける。 そりゃひとりで行ったほうがいいの。 ひとりで行くわ。 昨夜は申しわけない事を致しました。 これから気をつけますからどうぞおゆるし下さいまし。 村長さんによろしく。 ゆうべはごめんなさい。 まだどこかへ行くの。 ええこれからよ。 ご苦労さまね。 これからも気をつけて下さいよ。 宮様だか何さまだか知らないけれども私は前からあんたたちのままごと遊びみたいな暮し方をはらはらしながら見ていたんです。 子供が二人で暮しているみたいなんだからいままで火事を起さなかったのが不思議なくらいのものだ。 本当にこれからは気をつけて下さいよ。 ゆうべだってあんたあれで風が強かったらこの村全部が燃えたのですよ。 代人ではいけないのでしょうか。 軍からあなたに徴用が来たのだから必ず本人でなければいけない。 戦争には必ず勝つ。 戦争には必ず勝つがしかし皆さんが軍の命令通りに仕事しなければ作戦に支障を来し沖縄のような結果になる。 必ず言われただけの仕事はやってほしい。 それからこの山にもスパイが這入っているかも知れないからお互いに注意すること。 皆さんもこれからは兵隊と同じに陣地の中へ這入って仕事をするのであるから陣地の様子は絶対に他言しないように充分に注意してほしい。 あいつがスパイか。 なぜあんな事を言うのかしら。 外人みたいだから。 あなたもあたしをスパイだと思っていらっしゃる。 いいえ。 私日本人ですわ。 おい君。 君はこっちへ来給え。 毎日つらいでしょう。 きょうは一つこの材木の見張番をしていて下さい。 ここに立っているのですか。 ここは涼しくて静かだからこの板の上でお昼寝でもしていて下さい。 もし退屈だったらこれはお読みかも知れないけど。 こんなものでも読んでいて下さい。 トロイカ。 ありがとうございます。 うちにも本のすきなのがいましていま南方に行っていますけど。 ああそう。 あなたの御主人なのですね。 南方じゃあたいへんだ。 とにかくきょうはここで見張番という事にしてあなたのお弁当はあとで自分が持って来てあげますからゆっくり休んでいらっしゃい。 お弁当を持って来ました。 おひとりでつまらないでしょう。 やあきょうは御苦労さまでした。 もうお帰りになってよろしい。 貴重なる経験談。 夏の花が好きなひとは夏に死ぬっていうけれども本当かしら。 私はねむの花が好きなんだけれどもここのお庭には一本も無いのね。 夾竹桃がたくさんあるじゃないの。 あれはきらいなの。 夏の花はたいていすきだけどあれはおきゃんすぎて。 私なら薔薇がいいな。 だけどあれは四季咲きだから薔薇の好きなひとは春に死んで夏に死んで秋に死んで冬に死んで四度も死に直さなければいけないの。 すこし休まない。 きょうはちょっとかず子さんと相談したい事があるの。 なあに。 死ぬお話なんかはまっぴらよ。 前から聞いていただきたいと思っていた事ですけどねお互いに気分のいい時に話そうと思ってきょうまで機会を待っていたの。 どうせいい話じゃあ無いのよ。 でもきょうは何だか私もすらすら話せるような気がするもんだからまああなたも我慢しておしまいまで聞いて下さいね。 実はね直治は生きているのです。 五六日前に和田の叔父さまからおたよりがあってね叔父さまの会社に以前つとめていらしたお方でさいきん南方から帰還して叔父さまのところに挨拶にいらしてその時よもやまの話の末にそのお方が偶然にも直治と同じ部隊でそうして直治は無事でもうすぐ帰還するだろうという事がわかったの。 でもね一ついやな事があるの。 そのお方の話では直治はかなりひどい阿片中毒になっているらしいと。 また。 そう。 またはじめたらしいの。 けれどもそれのなおらないうちは帰還もゆるされないだろうからきっとなおして来るだろうとそのお方も言っていらしたそうです。 叔父さまのお手紙ではなおして帰って来たとしてもそんな心掛けの者ではすぐどこかへ勤めさせるというわけにはいかぬいまのこの混乱の東京で働いてはまともの人間でさえ少し狂ったような気分になる中毒のなおったばかりの半病人ならすぐ発狂気味になって何を仕出かすかわかったものでないそれで直治が帰って来たらすぐこの伊豆の山荘に引取ってどこへも出さずに当分ここで静養させたほうがよいそれが一つ。 それからねえかず子叔父さまがねえもう一つお言いつけになっているのだよ。 叔父さまのお話ではもう私たちのお金がなんにも無くなってしまったんだって。 貯金の封鎖だの財産税だのでもう叔父さまもこれまでのように私たちにお金を送ってよこす事がめんどうになったのだそうです。 それでね直治が帰って来てお母さまと直治とかず子と三人あそんで暮していては叔父さまもその生活費を都合なさるのにたいへんな苦労をしなければならぬからいまのうちにかず子のお嫁入りさきを捜すかまたは御奉公のお家を捜すかどちらかになさいというまあお言いつけなの。 御奉公って女中の事。 いいえ叔父さまがねほらあの駒場の。 あの宮様なら私たちとも血縁つづきだし姫宮の家庭教師をかねて御奉公にあがってもかず子がそんなに淋しく窮屈な思いをせずにすむだろうとおっしゃっているのです。 他につとめ口が無いものかしら。 他の職業はかず子にはとても無理だろうとおっしゃっていました。 なぜ無理なの。 ねなぜ無理なの。 いやだわ。 私そんな話。 私がこんな地下足袋をこんな地下足袋を。 いつだかおっしゃったじゃないの。 かず子がいるからかず子がいてくれるからお母さまは伊豆へ行くのですよとおっしゃったじゃないの。 かず子がいないと死んでしまうとおっしゃったじゃないの。 だからそれだからかず子はどこへも行かずにお母さまのお傍にいてこうして地下足袋をはいてお母さまにおいしいお野菜をあげたいとそればっかり考えているのに直治が帰って来るとお聞きになったら。 急に私を邪魔にして宮様の女中に行けなんてあんまりだわあんまりだわ。 貧乏になってお金が無くなったら私たちの着物を売ったらいいじゃないの。 このお家も売ってしまったらいいじゃないの。 私には何だって出来るわよ。 この村の役場の女事務員にだって何にだってなれるわよ。 役場で使って下さらなかったらヨイトマケにだってなれるわよ。 貧乏なんてなんでもない。 お母さまさえ私を可愛がって下さったら私は一生お母さまのお傍にいようとばかり考えていたのにお母さまは私よりも直治のほうが可愛いのね。 出て行くわ。 私は出て行く。 どうせ私は直治とは昔から性格が合わないのだから三人一緒に暮していたらお互いに不幸よ。 私はこれまで永いことお母さまと二人きりで暮したのだからもう思い残すことは無い。 これから直治がお母さまとお二人で水いらずで暮してそうして直治がたんとたんと親孝行をするといい。 私はもういやになった。 これまでの生活がいやになった。 出て行きます。 きょうこれからすぐに出て行きます。 私には行くところがあるの。 かず子。 だましたのよ。 お母さまは私をおだましになったのよ。 直治が来るまで私を利用していらっしゃったのよ。 私はお母さまの女中さん。 用がすんだからこんどは宮様のところに行けって。 お前は馬鹿だねえ。 そうよ馬鹿よ。 馬鹿だからだまされるのよ。 馬鹿だから邪魔にされるのよ。 いないほうがいいのでしょう。 貧乏ってどんな事。 お金ってなんの事。 私にはわからないわ。 愛情をお母さまの愛情をそれだけを私は信じて生きて来たのです。 私さえいなかったらいいのでしょう。 出て行きます。 私には行くところがあるの。 かず子。 はい。 私は生れてはじめて和田の叔父さまのお言いつけにそむいた。 お母さまはねいま叔父さまに御返事のお手紙を書いたの。 私の子供たちの事は私におまかせ下さいと書いたの。 かず子着物を売りましょうよ。 二人の着物をどんどん売って思い切りむだ使いしてぜいたくな暮しをしましょうよ。 私はもうあなたに畑仕事などさせたくない。 高いお野菜を買ったっていいじゃないの。 あんなに毎日の畑仕事はあなたには無理です。 かず子。 はい。 行くところがあるというのはどこ。 細田さま。 昔の事を言ってもいい。 どうぞ。 あなたが山木さまのお家から出て西片町のお家へ帰って来た時お母さまは何もあなたをとがめるような事は言わなかったつもりだけどでもたった一ことだけって言ったわね。 おぼえている。 そしたらあなたは泣き出しちゃって私も裏切ったなんてひどい言葉を使ってわるかったと思ったけど。 お母さまがねあの時裏切られたって言ったのはあなたが山木さまのお家を出て来た事じゃなかったの。 山木さまからかず子は実は細田と恋仲だったのですと言われた時なの。 そう言われた時には本当に私は顔色が変る思いでした。 だって細田さまにはあのずっと前から奥さまもお子さまもあってどんなにこちらがお慕いしたってどうにもならぬ事だし。 恋仲だなんてひどい事を。 山木さまのほうでただそう邪推なさっていただけなのよ。 そうかしら。 あなたはまさかあの細田さまをまだ思いつづけているのじゃないでしょうね。 行くところってどこ。 細田さまのところなんかじゃないわ。 そう。 そんならどこ。 お母さま私ねこないだ考えた事だけれども人間が他の動物とまるっきり違っている点は何だろう言葉も智慧も思考も社会の秩序もそれぞれ程度の差はあっても他の動物だって皆持っているでしょう。 信仰も持っているかも知れないわ。 人間は万物の霊長だなんて威張っているけどちっとも他の動物と本質的なちがいが無いみたいでしょう。 ところがねお母さまたった一つあったの。 おわかりにならないでしょう。 他の生き物には絶対に無くて人間にだけあるもの。 それはねひめごとというものよ。 いかが。 ああそのかず子のひめごとがよい実を結んでくれたらいいけどねえ。 お母さまは毎朝お父さまにかず子を幸福にして下さるようにお祈りしているのですよ。 お母さまさっきはごめんなさい。 いい頸巻してはるな。 グウ。 お母さま。 はい。 とうとう薔薇が咲きました。 お母さまご存じだった。 私はいま気がついた。 とうとう咲いたわ。 知っていました。 あなたにはそんな事がとても重大らしいのね。 そうかも知れないわ。 可哀そう。 いいえあなたにはそういうところがあるって言っただけなの。 お勝手のマッチ箱にルナアルの絵を貼ったりお人形のハンカチイフを作ってみたりそういう事が好きなのね。 それにお庭の薔薇のことだってあなたの言うことを聞いていると生きている人の事を言っているみたい。 子供が無いからよ。 わあひでえ。 趣味のわるい家だ。 来々軒。 シュウマイありますと貼りふだしろよ。 笑われます。 どう。 お母さまは変った。 変った変った。 やつれてしまった。 早く死にゃいいんだ。 こんな世の中にママなんてとても生きて行けやしねえんだ。 あまりみじめで見ちゃおれねえ。 私は。 げびて来た。 男が二三人もあるような顔をしていやがる。 酒は。 今夜は飲むぜ。 もしもし。 大丈夫でしょうか。 焼酎を召し上っているのですけど。 焼酎って。 あのメチル。 いいえメチルじゃありませんけど。 飲んでも病気にならないのでしょう。 ええでも。 飲ませてやって下さい。 お咲さんのところで飲んでいるんですって。 そう。 阿片のほうはよしたのかしら。 あなたはごはんをすませなさい。 それから今夜は三人でこの部屋におやすみ。 直治のお蒲団をまんなかにして。 南方のお話をお母さまに聞かせてあげたら。 何も無い。 何も無い。 忘れてしまった。 日本に着いて汽車に乗って汽車の窓から水田がすばらしく綺麗に見えた。 それだけだ。 電気を消せよ。 眠られやしねえ。 舌が痛いんですって。 そいつあきっと心理的なものなんだ。 夜口をあいておやすみになるんでしょう。 だらしがない。 マスクをなさい。 ガーゼにリバノール液でもひたしてそれをマスクの中にいれて置くといい。 それは何療法っていうの。 美学療法っていうんだ。 でもお母さまはマスクなんかきっとおきらいよ。 ねえお母さま。 マスクをなさる。 致します。 リバノールっていい薬なのね。 このマスクをかけていると舌の痛みが消えてしまうのですよ。 あ。 ママ。 僕を叱って下さい。 どういう工合いに。 弱虫。 って。 そう。 弱虫。 もういいでしょう。 御返事を。 御返事を下さい。 そうしてそれが必ず快報であるように。 僕はさまざまの屈辱を思い設けてひとりで呻いています。 芝居をしているのではありません。 絶対にそうではありません。 お願いいたします。 僕は恥ずかしさのために死にそうです。 誇張ではないのです。 毎日毎日御返事を待って夜も昼もがたがたふるえているのです。 僕に砂を噛ませないで。 壁から忍び笑いの声が聞えて来て深夜床の中で輾転しているのです。 僕を恥ずかしい目に逢わせないで。 姉さん。 上原さんってどんな方。 小柄で顔色の悪いぶあいそな人でございます。 でもアパートにいらっしゃる事はめったにございませぬです。 たいてい奥さんと六つ七つの女のお子さんとお二人がいらっしゃるだけでございます。 この奥さんはそんなにお綺麗でもございませぬけれどもお優しくてよく出来たお方のようでございます。 あの奥さんになら安心してお金をあずける事が出来ます。 女房はいま子供と一緒に配給物を取りに。 出ましょうか。 お酒でも飲むといいんだけど。 え。 いいえ弟さん。 アルコールのほうに転換するといいんですよ。 僕も昔麻薬中毒になった事があってねあれは人が薄気味わるがってねアルコールだって同じ様なものなんだがアルコールのほうは人は案外ゆるすんだ。 弟さんを酒飲みにしちゃいましょう。 いいでしょう。 私いちどお酒飲みを見た事がありますわ。 新年に私が出掛けようとした時うちの運転手の知合いの者が自動車の助手席で鬼のような真赤な顔をしてぐうぐう大いびきで眠っていましたの。 私がおどろいて叫んだら運転手がこれはお酒飲みで仕様が無いんですと言って自動車からおろして肩にかついでどこかへ連れて行きましたの。 骨が無いみたいにぐったりして何だかそれでもぶつぶつ言っていて私あの時はじめてお酒飲みってものを見たのですけど面白かったわ。 僕だって酒飲みです。 あらだって違うんでしょう。 あなただって酒飲みです。 そんな事はありませんわ。 私はお酒飲みを見た事があるんですもの。 まるで違いますわ。 それでは弟さんも酒飲みにはなれないかも知れませんがとにかく酒を飲む人になったほうがいい。 帰りましょう。 おそくなると困るんでしょう。 いいえかまわないんですの。 いや実はこっちが窮屈でいけねえんだ。 ねえさん。 会計。 うんと高いのでしょうか。 少しなら私持っているんですけど。 そう。 そんなら会計はあなただ。 足りないかも知れませんわ。 それだけあればもう二三軒飲める。 馬鹿にしてやがる。 どこかへまた飲みにおいでになりますか。 いやもうたくさん。 タキシーを拾ってあげますからお帰りなさい。 ひめごと。 私には恋人があるの。 知っています。 細田でしょう。 どうしても思い切る事が出来ないのですか。 まさかそのおなかの子は。 私上原さんに逢ったわ。 いいお方ね。 これから上原さんと一緒にお酒を飲んで遊んだらどう。 お酒ってとても安いものじゃないの。 お酒のお金くらいだったら私いつでもあなたにあげるわ。 薬屋の払いの事も心配しないで。 どうにかなるわよ。 女大学。 あなたものを売ってこれから先どのくらい生活して行けるの。 半歳か一年くらい。 眠いの。 眠くて仕方がないの。 疲れているのよ。 眠くなる神経衰弱でしょう。 そうでしょうね。 女大学。 こいかしら。 お母さまをすきなのね。 いいえ偉いお方。 お断りしてもいいのでしょう。 そりゃもう。 私も無理な話だと思っていたわ。 あのお断りの手紙いまごろ軽井沢のほうに着いている事と存じます。 私よく考えましたのですけど。 そうですか。 でもそれはもう一度よくお考えになってみて下さい。 私はあなたを何と言ったらいいか謂わば精神的には幸福を与える事が出来ないかも知れないがその代り物質的にはどんなにでも幸福にしてあげる事が出来る。 これだけははっきり言えます。 まあざっくばらんの話ですが。 お言葉のその幸福というのが私にはよくわかりません。 生意気を申し上げるようですけどごめんなさい。 チェホフの妻への手紙に子供を生んでおくれ私たちの子供を生んでおくれって書いてございましたわね。 ニイチェだかのエッセイの中にも子供を生ませたいと思う女という言葉がございましたわ。 私子供がほしいのです。 幸福なんてそんなものはどうだっていいのですの。 お金もほしいけど子供を育てて行けるだけのお金があったらそれでたくさんですわ。 あなたは珍らしい方ですね。 誰にでも思ったとおりを言える方だ。 あなたのような方と一緒にいると私の仕事にも新しい霊感が舞い下りて来るかも知れない。 私に恋のこころが無くてもいいのでしょうか。 女のかたはそれでいいんです。 女のひとはぼんやりしていていいんですよ。 でも私みたいな女はやっぱり恋のこころが無くては結婚を考えられないのです。 私もう大人なんですもの。 来年はもう三十。 あなたは恋をなさってはいけません。 あなたは恋をしたら不幸になります。 恋をなさるならもっと大きくなってからになさい。 三十になってからになさい。 このお別荘をお売りになるとかいう噂を聞きましたが。 ごめんなさい。 桜の園を思い出したのです。 あなたがお買いになって下さるのでしょう。 かもめ。 ミルクを沸したからいらっしゃい。 寒いからうんと熱くしてみたの。 あの方と私とはどだい何も似合いませんでしょう。 似合わない。 私こんなにわがままだしそれに芸術家というものをきらいじゃないしおまけにあの方にはたくさんの収入があるらしいしあんな方と結婚したらそりゃいいと思うわ。 だけどダメなの。 かず子はいけない子ね。 そんなにダメでいながらこないだあの方とゆっくり何かとたのしそうにお話をしていたでしょう。 あなたの気持がわからない。 あらだって面白かったんですもの。 もっといろいろ話をしてみたかったわ。 私たしなみが無いのね。 いいえべったりしているのよ。 かず子べったり。 アップはね髪の毛の少いひとがするといいのよ。 あなたのアップは立派すぎて金の小さい冠でも載せてみたいくらい。 失敗ね。 かず子がっかり。 だってお母さまはいつだったかかず子は頸すじが白くて綺麗だからなるべく頸すじを隠さないようにっておっしゃったじゃないの。 そんな事だけは覚えているのね。 少しでもほめられた事は一生わすれません。 覚えていたほうがたのしいもの。 こないだあの方からも何かとほめられたのでしょう。 そうよ。 それでべったりになっちゃったの。 私と一緒にいると霊感がああたまらない。 私芸術家はきらいじゃないんですけどあんな人格者みたいにもったいぶってるひとはとてもダメなの。 直治の師匠さんはどんなひとなの。 よくわからないけどどうせ直治の師匠さんですもの札つきの不良らしいわ。 札つき。 面白い言葉ね。 札つきならかえって安全でいいじゃないの。 鈴を首にさげている子猫みたいで可愛らしいくらい。 札のついていない不良がこわいんです。 そうかしら。 あなたと一緒にいると苦労を忘れる。 きょう寒かったからでしょう。 あすになればなおります。 御心配はございません。 おくすりをお飲みになればなおります。 お注射はいかがでしょうか。 その必要はございませんでしょう。 おかぜでございますからしずかにしていらっしゃると間もなくおかぜが抜けますでしょう。 わかりましたわかりました。 お熱の原因がわかりましてございます。 左肺に浸潤を起しています。 でもご心配は要りません。 お熱は当分つづくでしょうけれどもおしずかにしていらっしゃったらご心配はございません。 よかったわねお母さま。 ほんの少しの浸潤なんてたいていのひとにあるものよ。 お気持を丈夫にお持ちになっていさえしたらわけなくなおってしまいますわ。 ことしの夏の季候不順がいけなかったのよ。 夏はきらい。 かず子は夏の花もきらい。 夏の花の好きなひとは夏に死ぬっていうから私もことしの夏あたり死ぬのかと思っていたら直治が帰って来たので秋まで生きてしまった。 それでももう夏がすぎてしまったのですからお母さまの危険期も峠を越したってわけなのね。 お母さまお庭の萩が咲いていますわ。 それから女郎花われもこう桔梗かるかや芒。 お庭がすっかり秋のお庭になりましたわ。 十月になったらきっとお熱も下るでしょう。 僕などもね屋台にはいってうどんの立食いでさ。 うまいもまずいもありゃしません。 いかがでございました。 この村の先生は胸の左のほうに浸潤があるとかおっしゃっていましたけど。 なに大丈夫だ。 まあよかったわねお母さま。 大丈夫なんですって。 バリバリ音が聞えているぞ。 浸潤ではございませんの。 違う。 気管支カタルでは。 違う。 音とても悪いの。 バリバリ聞えてるの。 右も左も全部だ。 だってお母さまはまだお元気なのよ。 ごはんだっておいしいおいしいとおっしゃって。 仕方がない。 うそだわ。 ねそんな事ないんでしょう。 バタやお卵や牛乳をたくさん召し上ったらなおるんでしょう。 おからだに抵抗力さえついたら熱だって下るんでしょう。 うんなんでもたくさん食べる事だ。 ね。 そうでしょう。 トマトも毎日五つくらいは召し上っているのよ。 うんトマトはいい。 じゃあ大丈夫ね。 なおるわね。 しかしこんどの病気は命取りになるかも知れない。 そのつもりでいたほうがいい。 二年。 三年。 わからない。 とにかくもう手のつけようが無い。 先生はなんとおっしゃっていたの。 熱さえ下ればいいんですって。 胸のほうは。 たいした事もないらしいわ。 ほらいつかのご病気の時みたいなのよきっと。 いまに涼しくなったらどんどんお丈夫になりますわ。 ああお母さまはお元気なのだ。 きっと大丈夫なのだ。 ああ橋が沈んでいる。 きょうはどこへも行けない。 ここのホテルでやすみましょう。 たしか空いた部屋があった筈だ。 寒くない。 ええ少し。 霧でお耳が濡れてお耳の裏が冷たい。 お母さまはどうなさるのかしら。 あのお方はお墓の下です。 あ。 お母さま。 何してるの。 いまね私眠っていたのよ。 そう。 何をしているのかしらと思っていたの。 永いおひる寝ね。 御夕飯のお献立は。 ご希望がございます。 いいの。 なんにも要らない。 きょうは九度五分にあがったの。 どうしたんでしょう。 九度五分なんて。 なんでもないの。 ただ熱の出る前がいやなのよ。 頭がちょっと痛くなって寒気がしてそれから熱が出るの。 まぶしいからつけないで。 暗いところでじっと寝ていらっしゃるのおいやでしょう。 眼をつぶって寝ているのだから同じことよ。 ちっともさびしくない。 かえってまぶしいのがいやなの。 これからずっとお座敷の灯はつけないでね。 経済学入門。 社会革命。 あなたは更級日記の少女なのね。 もう何を言っても仕方が無い。 読んだ。 ごめんね。 読まなかったの。 なぜ。 どうして。 表紙の色がいやだったの。 へんなひと。 そうじゃないんでしょう。 本当は私をこわくなったのでしょう。 こわかないわ。 私表紙の色がたまらなかったの。 そう。 ご無事で。 もしこれが永遠の別れなら永遠にご無事で。 バイロン。 ごめんなさいね。 まだ起きていらっしゃる。 眠くないの。 ええちっとも眠くないの。 社会主義のご本を読んでいたら興奮しちゃいましたわ。 そう。 お酒ないの。 そんな時にはお酒を飲んでやすむとよく眠れるんですけどね。 お母さま。 手なんともないの。 なんでもないの。 これくらいなんでもないの。 いつから腫れたの。 お母さまの手が腫れて。 もうだめなの。 あなた気が附かなかった。 あんなに腫れたらもう駄目なの。 近いぞそりゃ。 ちぇっつまらねえ事になりやがった。 私もう一度なおしたいの。 どうかしてなおしたいの。 なんにもいい事が無えじゃねえか。 僕たちにはなんにもいい事が無えじゃねえか。 お母さままた直治のあのマスクをなさったら。 毎日いそがしくて疲れるでしょう。 看護婦さんをやとって頂戴。 お弱りになりましたね。 先生のお宿は。 また長岡です。 予約してありますからご心配無用。 このご病人はひとの事など心配なさらずもっとわがままに召し上りたいものは何でもたくさん召し上るようにしなければいけませんね。 栄養をとったらよくなります。 明日またまいります。 看護婦をひとり置いて行きますから使ってみて下さい。 だめなの。 そうでしょう。 つまらねえ。 衰弱がばかに急激にやって来たらしいんだ。 今明日もわからねえと言っていやがった。 ほうぼうへ電報を打たなくてもいいかしら。 それは叔父さんにも相談したが叔父さんはいまはそんな人集めの出来る時代では無いと言っていた。 来ていただいてもこんな狭い家ではかえって失礼だしこの近くにはろくな宿もないし長岡の温泉にだって二部屋も三部屋も予約は出来ないつまり僕たちはもう貧乏でそんなお偉らがたを呼び寄せる力が無えってわけなんだ。 叔父さんはすぐあとで来る筈だがでもあいつは昔からケチで頼みにも何もなりゃしねえ。 ゆうべだってもうママの病気はそっちのけで僕にさんざんのお説教だ。 ケチなやつからお説教されて眼がさめたなんて者は古今東西にわたって一人もあった例が無えんだ。 姉と弟でもママとあいつとではまるで雲泥のちがいなんだからなあいやになるよ。 でも私はとにかくあなたはこれから叔父さまにたよらなければ。 まっぴらだ。 いっそ乞食になったほうがいい。 姉さんこそこれから叔父さんによろしくおすがり申し上げるさ。 私には。 私には行くところがあるの。 縁談。 きまってるの。 いいえ。 自活か。 はたらく婦人。 よせよせ。 自活でもないの。 私ね革命家になるの。 へえ。 奥さまが何かご用のようでございます。 何。 お水。 夢を見たの。 そう。 どんな夢。 蛇の夢。 お縁側の沓脱石の上に赤い縞のある女の蛇がいるでしょう。 見てごらん。 いませんわお母さま。 夢なんてあてになりませんわよ。 あなたの靴下をあむんでしょう。 それならもう八つふやさなければはくとき窮屈よ。 新聞に陛下のお写真が出ていたようだけどもういちど見せて。 お老けになった。 いいえこれは写真がわるいのよ。 こないだのお写真なんかとてもお若くてはしゃいでいらしたわ。 かえってこんな時代をお喜びになっていらっしゃるんでしょう。 なぜ。 だって陛下もこんど解放されたんですもの。 泣きたくてももう涙が出なくなったのよ。 お母さま。 私いままでずいぶん世間知らずだったのね。 いままでって。 それではいまは世間を知っているの。 世間はわからない。 私にはわからない。 わかっているひとなんか無いんじゃないの。 いつまで経ってもみんな子供です。 なんにもわかってやしないのです。 直治はどこ。 お母さまがお呼びですよ。 わあまた愁歎場か。 汝等はよく我慢してあそこに頑張っておれるね。 神経が太いんだね。 薄情なんだね。 我等は何とも苦しくて実に心は熱すれども肉体よわくとてもママの傍にいる気力は無い。 ああわかりましたよ。 わかりましたよ。 先生早く楽にして下さいな。 忙しいでしょう。 忙しかったでしょう。 いいえ。 帯のなかに金銀または銭を持つな。 旅の嚢も二枚の下衣も鞋も杖も持つな。 視よ我なんじらを遣すは羊を豺狼のなかに入るるが如し。 この故に蛇のごとく慧く鴿のごとく素直なれ。 人々に心せよそれは汝らを衆議所に付し会堂にて鞭たん。 また汝等わが故によりて司たち王たちの前に曳かれん。 かれら汝らを付さば如何なにを言わんと思い煩うな言うべき事はその時さずけられるべし。 これ言うものは汝等にあらず其の中にありて言いたまう汝らの父の霊なり。 又なんじら我が名のために凡ての人に憎まれん。 されど終まで耐え忍ぶものは救わるべし。 この町にて責めらるる時はかの町に逃れよ。 誠に汝らに告ぐなんじらイスラエルの町々を巡り尽さぬうちに人の子は来るべし。 身を殺して霊魂をころし得ぬ者どもを懼るな身と霊魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ。 われ地に平和を投ぜんために来れりと思うな平和にあらず反って剣を投ぜん為に来れり。 それ我が来れるは人をその父より娘をその母より嫁をその姑※より分たん為なり。 人の仇はその家の者なるべし。 我よりも父または母を愛する者は我に相応しからず。 我よりも息子または娘を愛する者は我に相応しからず。 又おのが十字架をとりて我に従わぬ者は我に相応しからず。 生命を得る者はこれを失い我がために生命を失う者はこれを得べし。 恋。 愛。 きょう私東京へ行ってもいい。 お友だちのところへ久し振りで遊びに行ってみたいの。 二晩か三晩泊って来ますからあなた留守番してね。 お炊事はあのかたにたのむといいわ。 ごめん下さいまし。 上原さん。 どちらさまでしょうか。 いいえあのう。 先生は。 いらっしゃいません。 はあ。 でも行く先はたいてい。 遠くへ。 いいえ。 荻窪ですの。 駅の前の白石というおでんやさんへおいでになればたいてい行く先がおわかりかと思います。 あそうですか。 あらおはきものが。 あいにく電球が二つとも切れてしまいましてこのごろの電球は馬鹿高い上に切れ易くていけませんわね主人がいると買ってもらえるんですけどゆうべもおとといの晩も帰ってまいりませんので私どもはこれで三晩無一文の早寝ですのよ。 ありがとうございました。 阿佐ヶ谷ですよきっと。 阿佐ヶ谷駅の北口をまっすぐにいらしてそうですね一丁半かな。 金物屋さんがありますからねそこから右へはいって半丁かな。 柳やという小料理屋がありますからね先生このごろは柳やのおステさんと大あつあつでいりびたりだかなわねえ。 たったいまお帰りになりましたが大勢さんでこれから西荻のチドリのおばさんのところへ行って夜明しで飲むんだとかおっしゃっていましたよ。 チドリ。 西荻のどのへん。 よく存じませんのですけどね何でも西荻の駅を降りて南口の左にはいったところだとかとにかく交番でお聞きになったらわかるんじゃないでしょうか。 何せ一軒ではおさまらないひとでチドリに行く前にまたどこかにひっかかっているかも知れませんですよ。 チドリへ行ってみます。 さようなら。 乾杯。 じゃ失敬。 上原さんあそこのね上原さんあそこのねあああというところですがねあれはどんな工合いに言ったらいいんですか。 あああですか。 あああですか。 あああだ。 あああチドリの酒は安くねえといったような塩梅だね。 お金の事ばっかり。 二羽の雀は一銭とはありゃ高いんですか。 安いんですか。 一厘も残りなく償わずばという言葉もあるし或者には五タラント或者には二タラント或者には一タラントなんてひどくややこしい譬話もあるしキリストも勘定はなかなかこまかいんだ。 それにあいつあ酒飲みだったよ。 妙にバイブルには酒の譬話が多いと思っていたら果せるかなだ視よ酒を好む人と非難されたとバイブルに録されてある。 酒を飲む人でなくて酒を好む人というんだから相当な飲み手だったに違いねえのさ。 まず一升飲みかね。 よせよせ。 あああ汝らは道徳におびえてイエスをダシに使わんとす。 チエちゃん飲もう。 ギロチンギロチンシュルシュルシュ。 おなかがおすきになりません。 ええでも私パンを持ってまいりましたから。 何もございませんけど。 この部屋でお食事をなさいまし。 あんな呑んべえさんたちの相手をしていたら一晩中なにも食べられやしません。 お坐りなさいここへ。 チエ子さんも一緒に。 おういキヌちゃんお酒が無い。 はいはい。 ちょっと。 ここへも二本。 それからねキヌちゃんすまないけど裏のスズヤさんへ行ってうどんを二つ大いそぎでね。 お蒲団をおあてなさい。 寒くなりましたね。 お飲みになりませんか。 みなさんお強いのね。 先生持ってまいりました。 何せうちの社長ったらがっちりしていますからね二万円と言ってねばったのですがやっと一万円。 小切手か。 いいえ現なまですが。 すみません。 まあいいや受取りを書こう。 直さんは。 知らないわ。 直さんの番人じゃあるまいし。 この頃何か上原さんとまずい事でもあったんじゃないの。 いつも必ず一緒だったのに。 ダンスのほうがすきになったんですって。 ダンサアの恋人でも出来たんでしょうよ。 直さんたらまあお酒の上にまた女だから始末が悪いね。 先生のお仕込みですもの。 でも直さんのほうがたちが悪いよ。 あんなお坊ちゃんくずれは。 あの。 私直治の姉なんですの。 お顔がよく似ていらっしゃいますもの。 あの土間の暗いところにお立ちになっていたのを見て私はっと思ったわ。 直さんかと。 左様でございますか。 こんなむさくるしいところへよくまあ。 それで。 あの上原さんとは前から。 ええ六年前にお逢いして。 お待ちどおさま。 召し上れ。 熱いうちに。 いただきます。 これだけであとをごまかしちゃだめですよ。 持って来るよ。 あとの支払いは来年だ。 あんな事を。 とにかくね。 これから東京で生活して行くにはだねコンチワァという軽薄きわまる挨拶が平気で出来るようでなければとても駄目だね。 いまのわれらに重厚だの誠実だのそんな美徳を要求するのは首くくりの足を引っぱるようなものだ。 重厚。 誠実。 ペップッだ。 生きて行けやしねえじゃないか。 もしもだねコンチワァを軽く言えなかったらあとは道が三つしか無いんだ一つは帰農だ一つは自殺もう一つは女のヒモさ。 その一つも出来やしねえ可哀想な野郎にはせめて最後の唯一の手段。 上原二郎にたかって痛飲。 泊るところがねえんだろ。 私。 ざこ寝が出来るか。 寒いぜ。 無理でしょう。 お可哀そうよ。 そんならこんなところへ来なけれあいいんだ。 仕様がねえな。 福井さんのとこへでもたのんでみようかな。 チエちゃん連れて行ってくれないか。 いや女だけだと途中が危険か。 やっかいだな。 かあさんこのひとのはきものをこっそりお勝手のほうに廻して置いてくれ。 僕が送りとどけて来るから。 私ざこ寝でも何でも出来ますのに。 うん。 二人っきりになりたかったのでしょう。 そうでしょう。 これだからいやさ。 ずいぶんお酒を召し上りますのね。 毎晩ですの。 そう毎日。 朝からだ。 おいしいの。 お酒が。 まずいよ。 お仕事は。 駄目です。 何を書いてもばかばかしくってそうしてただもう悲しくって仕様が無いんだ。 いのちの黄昏。 人類の黄昏。 芸術の黄昏。 それもキザだね。 ユトリロ。 ああユトリロ。 まだ生きていやがるらしいね。 アルコールの亡者。 死骸だね。 最近十年間のあいつの絵はへんに俗っぽくてみな駄目。 ユトリロだけじゃないんでしょう。 他のマイスターたちも全部。 そう衰弱。 しかし新しい芽も芽のままで衰弱しているのです。 霜。 フロスト。 世界中に時ならぬ霜が降りたみたいなのです。 木の枝って美しいものですわねえ。 うん花と真黒い枝の調和が。 いいえ私花も葉も芽も何もついていないこんな枝がすき。 これでもちゃんと生きているのでしょう。 枯枝とちがいますわ。 自然だけは衰弱せずか。 お風邪じゃございませんの。 いやいやさにあらず。 実はねこれは僕の奇癖でねお酒の酔いが飽和点に達するとたちまちこんな工合のくしゃみが出るんです。 酔いのバロメーターみたいなものだね。 恋は。 え。 どなたかございますの。 飽和点くらいにすすんでいるお方が。 なんだひやかしちゃいけない。 女はみな同じさ。 ややこしくていけねえ。 ギロチンギロチンシュルシュルシュ実はひとりいや半人くらいある。 私の手紙ごらんになって。 見た。 ご返事は。 僕は貴族はきらいなんだ。 どうしてもどこかに鼻持ちならない傲慢なところがある。 あなたの弟の直さんも貴族としては大出来の男なんだが時々ふっととても附き合い切れない小生意気なところを見せる。 僕は田舎の百姓の息子でねこんな小川の傍をとおると必ず子供のころ故郷の小川で鮒を釣った事やめだかを掬った事を思い出してたまらない気持になる。 けれども君たち貴族はそんな僕たちの感傷を絶対に理解できないばかりか軽蔑している。 ツルゲーネフは。 あいつは貴族だ。 だからいやなんだ。 でも猟人日記。 うんあれだけはちょっとうまいね。 あれは農村生活の感傷。 あの野郎は田舎貴族というところで妥協しようか。 私もいまでは田舎者ですわ。 畑を作っていますのよ。 田舎の貧乏人。 今でも僕をすきなのかい。 僕の赤ちゃんが欲しいのかい。 しくじった。 惚れちゃった。 しくじった。 行くところまで行くか。 キザですわ。 この野郎。 電報電報。 福井さん電報ですよ。 上原か。 そのとおり。 プリンスとプリンセスと一夜の宿をたのみに来たのだ。 どうもこう寒いとくしゃみばかり出てせっかくの恋の道行もコメディになってしまう。 たのむ。 アトリエは寒くていけねえ。 二階を借りるぜ。 おいで。 お料理屋のお部屋みたいね。 うん成金趣味さ。 でもあんなヘボ画かきにはもったいない。 悪運が強くて罹災もしやがらねえ。 利用せざるべからずさ。 さあ寝よう寝よう。 ここへ寝給え。 僕は帰る。 あしたの朝迎えに来ます。 便所は階段を降りてすぐ右だ。 こうしなければご安心が出来ないのでしょう。 まあそんなところだ。 あなたおからだを悪くしていらっしゃるんじゃない。 喀血なさったでしょう。 どうしてわかるの。 実はこないだかなりひどいのをやったのだけど誰にも知らせていないんだ。 お母さまのお亡くなりになる前とおんなじ匂いがするんですもの。 死ぬ気で飲んでいるんだ。 生きているのが悲しくて仕様が無いんだよ。 わびしさだの淋しさだのそんなゆとりのあるものでなくて悲しいんだ。 陰気くさい嘆きの溜息が四方の壁から聞えている時自分たちだけの幸福なんてある筈は無いじゃないか。 自分の幸福も光栄も生きているうちには決して無いとわかった時ひとはどんな気持になるものかね。 努力。 そんなものはただ飢餓の野獣の餌食になるだけだ。 みじめな人が多すぎるよ。 キザかね。 いいえ。 恋だけだね。 おめえの手紙のお説のとおりだよ。 そう。 ひがんでいたのさ。 僕は百姓の子だから。 私いま幸福よ。 四方の壁から嘆きの声が聞えて来ても私のいまの幸福感は飽和点よ。 くしゃみが出るくらい幸福だわ。 でももうおそいなあ。 黄昏だ。 朝ですわ。 へへいくら気取ったって同じ人間じゃねえか。 世紀の不安。 母。 母。 それではおいとま致します。 なぜ。 でも。 すぐ帰りますわよ。 またまいります。 そう。 正直。 友人がみな怠けて遊んでいる時自分ひとりだけ勉強するのはてれくさくておそろしくてとてもだめだからちっとも遊びたくなくても自分も仲間入りして遊ぶ。 へえ。 それが貴族|気質というものかねいやらしい。 僕はひとが遊んでいるのを見ると自分も遊ばなければ損だと思って大いに遊ぶね。 立派なお仕事。 これは直治が或る女のひとに内緒に生ませた子ですの。 東京八景。 東京八景。 東京八景。 魚服記。 思い出。 海豹。 東京八景。 けれども私は少しずつどうやら阿呆から眼ざめていた。 遺書を綴った。 「思い出。 思い出。 滅び。 思い出。 晩年。 楽屋裏。 海豹。 魚服記。 そんな評判なんかになる筈は無いんだがね。 いい気になっちゃいけないよ何かの間違いかもわからない。 魚服記。 何かの間違いかもわからない。 思い出。 晩年。 大本営発表。 戦時日本の新聞。 うつくしい。 芸術家。 あひるの子。 思い出。 ダス・ゲマイネ。 虚構の春。 右大臣|実朝。 右大臣実朝。 忠臣。 余はもともと戦争を欲せざりき。 余は日本軍閥の敵なりき。 余は自由主義者なり。 火の鳥。 親が破産しかかってせっぱつまり見えすいたつらい嘘をついている時子供がそれをすっぱ抜けるか。 運命窮まると観じて黙って共に討死さ。 科学精神の持主。 日本の味方。 君のあの手紙を読んだ。 そう。 すぐ破ってくれましたか。 ああ破った。 津軽のつたなさ。 津軽。 新釈|諸国噺。 惜別。 お伽草子。 お伽草子。 文化人。 成功者。 嘘をつけ。 君の憂鬱は食料不足よりも道徳の煩悶だろう。 新文化。 文化。 津軽の百姓。 サロン思想。 パンドラの匣。 自由主義者ってのはあれはいったい何ですかね。 フランスでは。 リベルタンってやつがあってこれがまあ自由思想を謳歌してずいぶんあばれ廻ったものです。 十七世紀と言いますからいまから三百年ほど前の事ですがね。 こいつらは主として宗教の自由を叫んであばれていたらしいです。 なんだあばれんぼうか。 ええまあそんなものです。 たいていは無頼漢みたいな生活をしていたのです。 芝居なんかで有名なあの鼻の大きいシラノねあの人なんかも当時のリベルタンのひとりだと言えるでしょう。 時の権力に反抗して弱きを助ける。 当時のフランスの詩人なんてのもたいていもうそんなものだったのでしょう。 日本の江戸時代の男伊達とかいうものにちょっと似ているところがあったようです。 なんて事だい。 それじゃあ幡随院の長兵衛なんかも自由主義者だったわけですかねえ。 そりゃそう言ってもかまわないと思います。 もっともいまの自由主義者というのはタイプが少し違っているようですがフランスの十七世紀のリベルタンってやつはまあたいていそんなものだったのです。 花川戸の助六も鼠小僧の次郎吉も或いはそうだったのかも知れませんね。 へええそんなわけの事になるますかねえ。 いったいこの自由思想というものは。 その本来の姿は反抗精神です。 破壊思想といっていいかも知れない。 圧制や束縛が取りのぞかれたところにはじめて芽生える思想ではなくて圧制や束縛のリアクションとしてそれらと同時に発生し闘争すべき性質の思想です。 よく挙げられる例ですけれども鳩が或る日神様にお願いした『私が飛ぶ時どうも空気というものが邪魔になって早く前方に進行できない。 どうか空気というものを無くして欲しい。 』神様はその願いを聞き容れてやった。 然るに鳩はいくらはばたいても飛び上る事が出来なかった。 つまりこの鳩が自由思想です。 空気の抵抗があってはじめて鳩が飛び上る事が出来るのです。 闘争の対象の無い自由思想はまるでそれこそ真空管の中ではばたいている鳩のようなもので全く飛翔が出来ません。 似たような名前の男がいるじゃないか。 あ。 そんな意味で言ったのではありません。 これはカントの例証です。 僕は現代の日本の政治界の事はちっとも知らないのです。 しかし多少は知っていなくちゃいけないね。 これから若い人みんなに選挙権も被選挙権も与えられるそうだから。 自由思想の内容はその時その時で全く違うものだと言っていいだろう。 真理を追究して闘った天才たちはことごとく自由思想家だと言える。 わしなんかは自由思想の本家本元はキリストだとさえ考えている。 思い煩うな空飛ぶ鳥を見よ播かず刈らず蔵に収めずなんてのは素晴らしい自由思想じゃないか。 わしは西洋の思想はすべてキリストの精神を基底にして或いはそれを敷衍し或いはそれを卑近にし或いはそれを懐疑し人さまざまの諸説があっても結局聖書一巻にむすびついていると思う。 科学でさえそれと無関係ではないのだ。 科学の基礎をなすものは物理界に於いても化学界に於いてもすべて仮説だ。 肉眼で見とどける事の出来ない仮説から出発している。 この仮説を信仰するところからすべての科学が発生するのだ。 日本人は西洋の哲学科学を研究するよりさきにまず聖書一巻の研究をしなければならぬ筈だったのだ。 わしは別にクリスチャンではないがしかし日本が聖書の研究もせずにただやたらに西洋文明の表面だけを勉強したところに日本の大敗北の真因があったと思う。 自由思想でも何でもキリストの精神を知らなくては半分も理解できない。 十年一日の如き不変の政治思想などは迷夢に過ぎない。 キリストもいっさい誓うなと言っている。 明日の事を思うなとも言っている。 実に自由思想家の大先輩ではないか。 狐には穴あり鳥には巣ありされど人の子には枕するところ無しとはまた自由思想家の嘆きといっていいだろう。 一日も安住を許されない。 その主張は日々にあらたにまた日にあらたでなければならぬ。 日本に於いて今さら昨日の軍閥官僚を罵倒してみたってそれはもう自由思想ではない。 それこそ真空管の中の鳩である。 真の勇気ある自由思想家ならいまこそ何を措いても叫ばなければならぬ事がある。 天皇陛下万歳。 この叫びだ。 昨日までは古かった。 古いどころか詐欺だった。 しかし今日に於いては最も新しい自由思想だ。 十年前の自由と今日の自由とその内容が違うとはこの事だ。 それはもはや神秘主義ではない。 人間の本然の愛だ。 アメリカは自由の国だと聞いている。 必ずや日本のこの真の自由の叫びを認めてくれるに違いない。 どうもこの紀元二千|七百年のお祭りの時には二千|七百年と言うかあるいは二千|七百年と言うか心配なんだね非常に気になるんだね。 僕は煩悶しているのだ。 君は気にならんかね。 ううむ。 そう言われると非常に気になる。 そうだろう。 どうもねななひゃくねんというらしいんだ。 なんだかそんな気がするんだ。 だけど僕の希望をいうならしちひゃくねんと言ってもらいたいんだね。 どうもななひゃくでは困る。 いやらしいじゃないか。 電話の番号じゃあるまいしちゃんと正しい読みかたをしてもらいたいものだ。 何とかしてその時はしちひゃくと言ってもらいたいのだがねえ。 しかしまた。 もう百年あとにはしちひゃくでもないしななひゃくでもないし全く別な読みかたも出来ているかも知れない。 たとえばぬぬひゃくとでもいう――。 大本営陸海軍部発表。 帝国陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり。 知ってるよ。 知ってるよ。 西太平洋ってどの辺だね。 サンフランシスコかね。 西太平洋といえば日本のほうの側の太平洋でしょう。 そうか。 しかしそれは初耳だった。 アメリカが東で日本が西というのは気持の悪い事じゃないか。 日本は日出ずる国と言われまた東亜とも言われているのだ。 太陽は日本からだけ昇るものだとばかり僕は思っていたのだがそれじゃ駄目だ。 日本が東亜でなかったというのは不愉快な話だ。 なんとかして日本が東でアメリカが西と言う方法は無いものか。 これからは大変ですわねえ。 いいえ何も出来ませんのでねえ。 日本は本当に大丈夫でしょうか。 大丈夫だからやったんじゃないか。 かならず勝ちます。 そうか。 どうも縁の下を這いまわるのは敵前上陸に劣らぬ苦しみです。 こんな汚い恰好で失礼。 まあよく御用意が出来て。 ええなにせ隣組長ですから。 新潮。 帝国・米英に宣戦を布告す。 園子が難儀していますよ。 なあんだ。 お前たちには信仰が無いからこんな夜道にも難儀するのだ。 僕には信仰があるから夜道もなお白昼の如しだね。 ついて来い。 生れて来なければよかった。 K僕を憎いだろうね。 ああ。 死んでくれたらいいと思うことさえあるの。 いくら。 お金じゃない。 死にたくなった。 うん。 いまごろになると毎年きまっていけなくなるらしいのね。 寒さがこたえるのかしら。 羽織ないの。 おやおや素足で。 こういうのが粋なんだそうだ。 誰がそう教えたの。 誰も教えやしない。 誰かいいひとがないものかねえ。 Kとふたりで旅行したいのだけれど。 小説は。 書けない。 たばこのむ。 たべない。 ひとことでもものを言えばそれだけみんなを苦しめるような気がしてむだにくるしめるような気がしていっそだまって微笑んで居ればいいのだろうけれど僕は作家なのだから何かものを言わなければ暮してゆけない作家なのだからずいぶん骨が折れます。 僕には花一輪をさえほどよく愛することができません。 ほのかな匂いを愛ずるだけではとてもがまんができません。 突風の如く手折って掌にのせて花びらむしってそれからもみくちゃにしてたまらなくなって泣いて唇のあいだに押し込んでぐしゃぐしゃに噛んで吐き出して下駄でもって踏みにじってそれから自分で自分をもて余します。 自分を殺したく思います。 僕は人間でないのかも知れない。 僕はこのごろほんとうにそう思うよ。 僕はあのサタンではないのか。 殺生石。 毒きのこ。 まさか吉田御殿とは言わない。 だって僕は男だもの。 どうだか。 Kは僕を憎んでいる。 僕の八方美人を憎んでいる。 ああわかった。 Kは僕の強さを信じている。 僕の才を買いかぶっている。 そうして僕の努力をひとしれぬ馬鹿な努力をごぞんじないのだ。 らっきょうの皮をむいてむいてしんまでむいて何もない。 きっとある何かあるそれを信じてまたべつのらっきょうの皮をむいてむいて何もないこの猿のかなしみわかる。 ゆきあたりばったりの万人をことごとく愛しているということは誰をも愛していないということだ。 ここにも僕の宿命がある。 何もないということ嘘だわ。 このどてらの柄はこの青い縞はこんなに美しいじゃないの。 ああ。 さっきのらっきょうの話。 ええ。 あなたは現在を信じない。 いまのこの刹那を信じることできる。 刹那は誰の罪でもない。 誰の責任でもない。 それは判っている。 けれどもそれは僕にとっていのちのよろこびにはならない。 死ぬる刹那の純粋だけは信じられる。 けれどもこの世のよろこびの刹那は――。 あとの責任がこわいの。 どうにもあとしまつができない。 花火は一瞬でも肉体は死にもせずぶざまにいつまでも残っているからね。 美しい極光を見た刹那に肉体もともに燃えてあとかたもなく焼失してしまえばたすかるのだがそうもいかない。 意気地がないのね。 ああもう言葉はいやだ。 なんとでも言える。 刹那のことは刹那主義者に問えだ。 手をとって教えてくれる。 みんな自分の料理法のご自慢だ。 人生への味附けだ。 思い出に生きるかいまのこの刹那に身をゆだねるかそれとも――将来の希望とやらに生きるか案外そんなところから人間の馬鹿と悧巧のちがいができて来るのかも知れない。 あなたはばかなの。 およしよK。 ばかも悧巧もない。 僕たちはもっとわるい。 教えて。 ブルジョア。 K僕のおなかのここんとこに傷跡があるだろう。 これ盲腸の傷だよ。 Kの脚だって長いけれど僕の脚ほらずいぶん長いだろう。 できあいのズボンじゃだめなんだ。 何かにつけて不便な男さ。 ねえよい悪事って言葉ないかしら。 よい悪事。 雨。 谷川だ。 すぐこの下を流れている。 朝になってみるとこの浴場の窓いっぱい紅葉だ。 すぐ鼻のさきにおやと思うほど高い山が立っている。 ときどき来るの。 いいえ。 いちど。 死にに。 そうだ。 そのとき遊んだ。 遊ばない。 今夜は。 なあんだそれがKのよい悪事か。 なあんだ。 僕はまた――。 なに。 僕と一緒に死ぬのかと思った。 ああ。 わるい善行って言葉もあるわよ。 私たちふたりで居ると心中しそうで危いから今夜は寝ないで番をして下さいな。 死神が来たら追っ払うんですよ。 承知いたしました。 まさかのときには三人心中というてもあります。 片方割れた下駄。 歩かない馬。 破れた三味線。 写らない写真機。 つかない電球。 飛ばない飛行機。 それから――。 早く早く。 真実。 え。 真実。 野暮だなあ。 じゃあ忍耐。 むずかしいのねえ私は苦労。 向上心。 デカダン。 おとといのお天気。 私。 僕。 じゃあ私も――私。 だってむずかしいんだもの。 K冗談だろうね。 真実も向上心もKご自身も役に立たないなんて冗談だろうね。 僕みたいな男だっても生きて居る限りはなんとかして立派に生きていたいとあがいているのだ。 Kはばかだ。 おかえり。 あなたのまじめさをあなたのまじめな苦しさをそんなに皆に見せびらかしたいの。 かえる。 東京へかえる。 お金くれ。 かえる。 ごめんなさい。 ひとをひとをいたわるのもほどほどにするがいい。 鶺鴒。 せきれいはステッキに似ているなんていい加減の詩人ね。 あの鶺鴒はもっときびしくもっとけなげでどだい人間なんてものを問題にしていない。 紅葉って派手な花なのね。 ゆうべは――。 ねむれた。 Kが生きているうち僕は死なないね。 ブルジョアってわるいものなの。 わるいやつだと僕は思う。 わびしさも苦悩も感謝もみんな趣味だ。 ひとりよがりだ。 プライドだけで生きている。 ひとの噂だけを気にしていて。 そこに自分の肉体が在ると思っているのね。 富めるものの天国に入るは――。 人なみの仕合せはむずかしいらしいよ。 この旅行が無事にすむと。 僕はKに何か贈り物しようか。 十字架。 ああミルク。 Kやっぱり怒っているね。 ゆうべかえるなんて乱暴なこと言ったのあれ芝居だよ。 僕――舞台中毒かも知れない。 一日にいちど何かこうきざに気取ってみなければ気がすまないのだ。 生きて行けないのだ。 いまだってここにこうやって坐っていても死ぬほど気取っているつもりなのだよ。 恋は。 自分の足袋のやぶれが気にかかってそれで失恋してしまった晩もある。 ねえ私の顔どう。 どうって。 きれい。 わかく見える。 Kそんなにさびしいのか。 Kおぼえて置くがいい。 Kは良妻賢母でそれから僕は不良少年ひとの屑だ。 あなただけ。 あどうも。 くるしむことは自由だ。 よろこぶこともそのひとの自由だ。 ところが私自由じゃない。 両方とも。 Kうしろに五六人男がいるね。 どれがいい。 まんなかのが。 菊はむずかしいからねえ。 ああ古い古い。 あいつの横顔晶助兄さんにそっくりじゃないか。 ハムレット。 だって私は男のひと他にそんなに知らないのだもの。 あなたは。 丙種。 私は甲種なのね。 私は山を見ていたのじゃなくってよ。 ほらこの眼のまえの雨だれの形を見ていたの。 みんなそれぞれ個性があるのよ。 もったいぶってぽたんと落ちるのもあるしせっかちに痩せたまま落ちるのもあるし気取ってぴちゃんと高い音たてて落ちるのもあるしつまらなそうにふわっと風まかせに落ちるのもあるし――。 こどものじぶん。 絵葉書に針でもってぷつぷつ穴をあけてランプの光に透かしてみるとその絵葉書の洋館や森や軍艦にきれいなイルミネエションがついて――あれを思い出さない。 僕はこんなけしき。 幻燈で見たことがある。 みんなぼっとかすんで。 寒いね。 お湯にはいってから出て来ればよかった。 私たちもうなんにも欲しいものがないのね。 ああみんなお父さんからもらってしまった。 あなたの死にたいという気持――。 わかっている。 僕たち。 どうして独力で生活できないのだろうね。 さかなやをやったっていいんだ。 誰もやらせてくれないよ。 みんな意地わるいほど私たちを大切にしてくれるからね。 そうなんだよK。 僕だってずいぶん下品なことをしたいのだけれどみんな笑って――。 いっそ一生釣りでもして阿呆みたいに暮そうかな。 だめさ。 魚の心がわかりすぎて。 たいていわかるだろう。 僕がサタンだということ。 僕に愛された人はみんなだいなしになってしまうということ。 私にはそう思えないの。 誰もおまえを憎んでいない。 偽悪趣味。 甘い。 ああこのお宮の石碑みたい。 僕いちばん単純なことを言おうか。 Kまじめな話だよ。 いいかい。 僕を――。 よして。 わかっているわよ。 ほんとう。 私はなんでも知っている。 私は自分がおめかけの子だってことも知っています。 K。 僕たち――。 あ危い。 とまれ。 とまれ。 誰もさわるな。 純真。 子供の純真性は尊い。 うむ子供の純真性は大事だ。 誠。 純真。 純真。 純真。 散らず散らずみ。 いや散りず散りずみ。 ちがいます。 散りみ散りみず。 展覧会の招待日みたいだ。 きょう来ていいことをしたね。 あたし桜を見ていると蛙の卵のあのかたまりを思い出して――。 それはいけないね。 くるしいだろうね。 ええとても。 困ってしまうの。 なるべく思い出さないようにしているのですけれど。 いちどでもあの卵のかたまりを見ちゃったので――離れないの。 僕は食塩の山を思い出すのだが。 蛙の卵よりはいいのね。 あたしは真白い半紙を思い出す。 だって桜にはにおいがちっとも無いのだもの。 秋について。 ア。 季節の思想。 生活のつぶやき。 佐吉さん呑気だなあ。 時間を間違えたんだよ。 歩くよりほかは無い。 この駅にはもとからバスも何も無いのだ。 あバスだ。 今はバスもあるのか。 おいバスが来たようだ。 あれに乗ろう。 佐吉さん。 僕貧乏になってしまったよ。 君の三島の家には僕の寝る部屋があるかい。 なにせ二階の客人はすごいのだ。 東京の銀座を歩いたってあれ位の男っぷりはまず無いね。 喧嘩もやけに強くて牢に入ったこともあるんだよ。 唐手を知って居るんだ。 見ろこの柱を。 へこんで居るずら。 これは二階の客人がちょいとぶん殴って見せた跡だよ。 あんな出鱈目を言ってはいけないよ。 僕が顔を出されなくなるじゃないか。 誰も本気に聞いちゃ居ません。 始めから嘘だと思って聞いて居るのですよ。 話が面白ければきゃつら喜んで居るんです。 そうかね。 芸術家ばかり居るんだね。 でもこれからはあんな嘘はつくなよ。 僕は落ちつかないんだ。 ロマネスク。 酒が強いと言ったら何と言ったって二階の客人にかなう者はあるまい。 毎晩二合徳利で三本飲んでちょっと頬っぺたが赤くなる位だ。 それから気軽に立っておい佐吉さん銭湯へ行こうよと言い出すのだから相当だろう。 風呂へ入って悠々と日本|剃刀で髯を剃るんだ。 傷一つつけたことが無い。 俺の髯まで時々剃られるんだ。 それで帰って来たら又一仕事だ。 落ちついたもんだよ。 さいちゃん。 お祭を見に行ったらいい。 私は男はきらいじゃ。 酒好きの人は酒屋の前を通るとぞっとするほどいやな気がするもんでしょう。 あれと同じじゃ。 なあんだ何時来たんだい。 ゆうべまた徹夜でばくちだな。 帰れ帰れ。 お客さんを連れて来たんだ。 早く着物を着た方がいい。 風邪を引くぜ。 ああ帰りしなに電話をかけてビイルとそれから何か料理を此所へすぐに届けさせてくれよ。 お祭が面白くないから此所で死ぬほど飲むんだ。 へえ。 江島のお父さんですよ。 江島を可愛くって仕様が無いんですよ。 へえと言いましたね。 見せるったら見ねえのか。 屋根へ上ればよく見えるんだ。 おれが負ってやるっていうのにさ負さりなよぐずぐずして居ないで負さりなよ。 ううむどっこいしょ。 大丈夫だ大丈夫。 ロマネスク。 店は汚くても酒はいいのだ。 五十年間お酒の燗ばかりしているじいさんが居るのだ。 三島で由緒のある店ですよ。 うなぎとそれから海老のおにがら焼と茶碗蒸し四つずつ此所で出来なければ外へ電話を掛けてとって下さい。 それからお酒。 いらないよそんなに沢山。 無駄なことはおよしなさい。 大デュマなんて面白いじゃあないですか。 ボードレエルの詩だってなかなか変ったものですね。 こないだなんといったかなあシュニッツラアとかいう人の短篇読んでみましたけれどあの人うまいですねえ。 誰がために鐘は鳴る。 誰がために鐘は鳴る。 見つけた。 お父さん。 唐人お吉。 唐人お吉。 あのそこは私見つけた席ですの。 若い女の欠点。 愛。 本当の意味の。 本来の。 本当の。 本当の。 世の中。 なぜ。 中心はずれの子だ。 いま。 つくる。 開かずの扉。 久原房之助。 死んだ妹を思い出します。 自分はポオズをつくりすぎてポオズに引きずられている嘘つきの化けものだ。 自然になりたい素直になりたい。 マダム・キュリイ。 このまま見合いに行こうかしら。 こんな髪にはどんな色の花を挿したらいいの。 和服のときには帯はどんなのがいいの。 どなたと見合いなさるの。 もち屋はもち屋と言いますからね。 あなたはだんだん俗っぽくなるのね。 お父さん。 みんなを愛したい。 ジャピイ。 もうこれからさきは生きる楽しみがなくなってしまった。 あなたを見たって私はほんとうはあまり楽しみを感じない。 ゆるしてお呉れ。 幸福もお父さんがいらっしゃらなければ来ないほうがよい。 おや雨かな。 雨だれの音が聞えるね。 こんなお料理ちっともおいしくございません。 なんにもないので私の窮余の一策なんですよ。 この子もだんだん役に立つようになりましたよ。 おねえちゃん。 おまえ百までわしゃ九十九まで。 ああ疲れた疲れた。 なにしろ話がややこしくて。 あなたはこないだから『裸足の少女』を見たい見たいと言ってたでしょう。 そんなに行きたいなら行ってもよござんす。 そのかわり今晩はちょっとお母さんの肩をもんで下さい。 働いて行くのならなおさら楽しいでしょう。 裸足の少女。 ああいいアンマさんだ。 天才ですね。 そうでしょう。 心がこもっていますからね。 でもあたしの取柄はアンマ上下それだけじゃないんですよ。 それだけじゃ心細いわねえ。 もっといいとこもあるんです。 夏の靴がほしいと言っていたからきょう渋谷へ行ったついでに見て来たよ。 靴も高くなったねえ。 いいのそんなに欲しくなくなったの。 でもなければ困るでしょう。 うん。 金はある。 新雑誌を発刊するつもり。 君も手伝え。 新現実。 お順につめる。 ホットニュウス。 こちら音楽家でしょう。 なぜ。 綺麗な手。 ピアノのほうでしょう。 何ピアノ。 ピアノの掃除だって出来やしねえ。 そいつの手はただ痩せているだけなんだよ。 痩せた男が音楽家ならガンジー翁にオーケストラの指揮が出来るという理窟になる。 聞いた。 馬鹿野郎だお前は。 あれか。 あの女がそうか。 ちっともよかあ無えじゃないか。 これでお前の男もすたった。 どだい君亭主のある女と。 それは。 もうとうに私どもは夫婦わかれをしているのです。 私どもは気が合いません。 いやそれあ君たち夫婦の事は君たち夫婦でなければわからない。 僕の知った事じゃない。 どだい興味が無い。 また伊藤たちの恋愛がどんな具合いに進展しているのかそれもちっとも知りたくない。 うんこの焼酎はなかなかいい。 君君もう一ぱいくれ。 それから水をくれ。 おういおかみさんここへも何か食べるものをくれ。 しかし少くとも僕は他人の夫婦の離合集散や恋愛のてんまつなどに失敬千万な興味などを持つようなそんな下品な男でだけは無いつもりだ。 じつになんにも興味が無い。 ただこの伊藤に向って一こと言って置きたい事があるんだ。 そのために今晩ここへ立寄らせてもらったんだ。 おい伊藤君。 僕は君と絶交する。 しかしそれは僕の意志ではないんだ。 君はこの恋愛の進展につれて君自身僕のところへ来にくくなるだろう。 謂わば互いにてれ臭く気まずくなり僕は君に敬遠せられ僕の意志に依らずとも自然に絶交の形になるだろう。 言いたいのはそれだけだ。 では失敬する。 馬鹿野郎。 あの失礼ですが。 はじめておめにかかります。 僕はこんなものですがうちの伊藤君がこれまでいろいろお世話になりましていちど僕もご挨拶にあがろうと思いながらつい。 すると君は編輯部長か。 つまり伊藤の兄貴分なのだね。 僕は君をうらむ。 なぜこうなる前に君は伊藤に忠告しなかったんだ。 へっぽこ部長だお前は。 かえって伊藤をそそのかしたんじゃないか。 どだいその赤いネクタイが気に食わん。 ネクタイはすぐに取りかえます。 僕もこれはあまり結構ではないと思っていたんです。 そう結構でない。 そう知りながらどうして伊藤に忠告しなかったんだ。 忠告を。 いいえネクタイの事です。 ネクタイなんかどうだっていい。 お前の服装なんかどうだってかまやしない。 問題は僕が伊藤と絶交するという事だけなんだ。 それだけだ。 あともう言う事は無い。 失敬する。 みんな馬鹿野郎ばっかりだ。 酒乱にはかなわねえ。 腕力も強そうだしさ。 仕末が悪いよ。 とにかく伊藤。 先生のあとを追って行ってあやまって来てくれ。 僕もこんどの君の恋愛にはハラハラしていたんだがしかし出来たものは仕様が無えしなあ。 あいつこそわからずやの馬鹿野郎だがあれでまたこれからうちの雑誌には書かねえなんて反り身になって言い出しやがったらかなわねえ。 行ってくれ。 行ってそうしてまあいい加減ごまかしを言ってあやまるんだな。 御教訓に依って目がさめましたなんて言ってね。 先生お送りします。 来たか。 もう一軒飲もう。 自動車を拾え。 自動車を。 どこへ。 新宿だ。 一ぱい飲んでフウラフラ。 二はい飲んでグウラグラ。 フウラフラのグウラグラ。 伊藤はこんどいくつになったんだい。 若いなあ。 おどろいた。 それじゃまあ無理もないがしかし女の事は気をつけろ。 僕は何もあの女が特に悪いというのじゃない。 あのひとの事は僕は何も知らん。 また知ろうとも思わない。 いやよしんば知っていたってとやかく言う資格は僕には無い。 僕は局外者だ。 どだい何も興味が無いんだ。 だけど僕にはなぜだかお前ひとりを惜しむ気持があるんだ。 惜しい。 すき好んで自分から地獄行きを志願する必要は無いと思うんだ。 君のいまの気持くらい僕だって知ってるさ。 そりゃお前の百倍もそれ以上ものたくさんの女に惚れられたものだ。 本当さ。 しかしいつでも地獄の思いだったなあ。 わからねえんだ。 女の気持がわからなくなって来るんだ。 僕はね人類猿類などという動物学上の区別の仕方はあれは間違いだと思っている。 男類女類猿類とこう来なくちゃいけない。 全然種属がちがうのだ。 からだがちがっているのと同様にその思考の方法も会話の意味も匂い音風景などに対する反応の仕方もまるっきり違っているのだ。 女のからだにならない限り絶対に男類には理解できない不思議な世界に女というものは平然と住んでいるのだ。 君はためしてみた事があるかね。 駅のプラットフォームに立ってやや遠い風景を眺めそれからちょっと二三寸腰を低くしてもういちど眺めるとその前方の同じ風景がまるで全然かわって見える。 二三寸背丈が高いか低いかに依ってもそれだけ人生観世界観が違って来るのだ。 いわんや君男体と女体とではそのひどい差はお話にならん。 別の世界に住んでいるのだ。 僕たちには青く見えるものが女には赤く見えているのかも知れない。 そうして赤い色の事を青い色と称するのだと思い込んで澄ましてそのように言っているので僕たち男類は女類と理解し合ったと安易にやにさがったりなどしているのだがとんでもないひとり合点かも知れないぜ。 僕たちが焼酎を一升飲んでグウラグラになったちょうどあれくらいの気持でこの女類という生き物がまじめな顔つきをして買い物やら何やらしてまた男類を批評などしているのではないのかね。 焼酎一升たしかにそれくらいだ。 しらふで前後不覚でそうしてお隣りの奥さんと井戸端で世間話なんかしているのだからね。 実に不思議だ。 たしかに女類同志の会話には僕たち男類に到底わからないまるっきり違った別の意味がふくまっているのだ。 僕たち男類が聞いておよそ世につまらないものは女類同志の会話だからね。 前後不覚どころかまるで発狂気味のように思われる。 実に不可解。 え。 わかったかい。 女類と男類が理解し合うという事はそれはご無理というものなんだぜ。 そんな甘ったれた考えを持っていたんじゃあ僕はここで予言してもいい。 君はあの女に裏切られる。 必ず裏切られる。 いやあの女ひとりに就いて言っているんじゃない。 あのひとの個人的な事情なんか僕は何も知らない。 僕はただ動物学のほうから女類一般の概論を述べただけだ。 女類は金が好きだからなあ。 死人の額に三角の紙がはられてそれに『シ』の字が書かれてあるように女類の額には例外無く金の『カ』の字を書いた三角の紙がぴったりはられているんだよ。 死ぬというんです。 わかれたら生きておれないと言うんです。 何だか薬を持っているんです。 それを飲んで死ぬというんです。 生れてはじめての恋だと言うんです。 お前は気がへんになってるんじゃないか馬鹿野郎。 さっきから何を聞いていたのだ馬鹿野郎。 僕はサジを投げた。 ここはどこだ四谷か。 四谷から帰れ馬鹿野郎。 よくもまあ僕の前でそんな阿呆くさい事がのめのめと言えたものだ。 いまに死ぬのはお前のほうだろう。 女はへん何のかのと言ったって結局は金さ。 運転手さん四谷で馬鹿がひとり降りるぜ。 僕は先月ここの店の勘定を払ったかどうか。 お勘定は要りません。 出て行っていただきます。 なんだ怒っていやがる。 男類女類猿類が気にさわったかな。 だって本当ならば仕様が無い。 馬鹿乱暴はよせ。 男類女類猿類まさにしかりだ。 間違ってはいない。 眼をさませ。 こら動物博士。 四つ這いのままで退却しろ。 男類女類猿類いや女類男類猿類の順かいや猿類男類女類かな。 いやいや猿類女類男類の順か。 ああ痛え。 乱暴はいかん。 猿類女類男類か。 香典千円ここへ置いて行くぜ。 清貧譚。 新潮。 新釈諸国噺。 我が物ゆゑに裸川。 新潮。 裸川。 親戚にひとりくらいそのような馬鹿がいるのも浮世の味。 貧病の妙薬金用丸よろずによし。 この金は使われぬぞ。 このまま使っては果報負けがしてわしは死ぬかも知れない。 お前はわしを殺すつもりか。 まさかそのような夜叉でもあるまい。 飲もう。 飲まなければ死ぬであろう。 おお雪が降って来た。 久し振りで風流の友と語りたい。 お前はこれから一走りして近所の友人たちを呼んで来るがいい。 山崎熊井宇津木大竹磯月村この六人を呼んで来い。 いや短慶|坊主も加えて七人。 大急ぎで呼んで来い。 帰りは酒屋に寄ってさかなはまあ有合せでよかろう。 これは御一同ようこそ。 大みそかをよそにして雪見酒も一興かと存じごぶさたのお詫びも兼ね今夕お招き致しましたところさっそくおいで下さってうれしく思います。 どうかごゆるり。 いやおかまい下さるな。 それがしは貧のため久しく酒に遠ざかりお恥ずかしいが酒の飲み方を忘れ申した。 御同様。 それがしもただいま二三杯つづけさまに飲みまことに変な気持でこのさきどうすればよいのか酒の酔い方を忘れてしまいました。 きょうは御一同に御|披露したい珍物がございます。 あなたがたは御懐中の御都合のわるい時にはいさぎよくお酒を遠ざけつつましくお暮しなさるから大みそかでお困りにはなってもこの原田ほどはお苦しみなさるまいがわしはどうも金に困るとなおさら酒を飲みたいたちでそのために不義理の借金が山積して年の瀬を迎えるたびにさながら八大地獄を眼前に見るような心地が致す。 ついには武士の意地も何も捨て親戚に泣いて助けを求めるなどという不面目の振舞いに及びことしもとうとう身寄りの者からこのとおり小判十両の合力を受けどうやら人並の正月を迎える事が出来るようになりましたがこの仕合せをわしひとりで受けると果報負けがして死ぬかも知れませんのできょうは御一同をお招きして大いに飲んでいただこうと思い立った次第であります。 なあんだはじめからそうとわかって居れば遠慮なんかしなかったのに。 あとで会費をとられるんじゃないかと心配しながら飲んで損をした。 そう承ればこのお酒をうんと飲みその仕合せにあやかりたい。 家へ帰ると思わぬところから書留が来ているかも知れない。 よい親戚のある人は仕合せだ。 それがしの親戚などはあべこべにそれがしの懐をねらっているのだからつまらない。 しかししばらく振りで小判十両てのひらに載せてみるとこれでなかなか重いものでございます。 いかがです順々にこれをてのひらに載せてやって下さいませんか。 お金と思えばいやしいがこれはお金ではございません。 これこの包紙にちゃんと書いてあります。 貧病の妙薬金用丸よろずによしと書いてございます。 その親戚の奴がしゃれてこう書いて寄こしたのですがさあどうぞお廻しになって御覧になって下さい。 やおかげさまにてよい年忘れ思わず長座を致しました。 ちょっと。 小判が一枚足りませんな。 ああいやこれは。 これはそれ御一同のお見えになる前にわしが酒屋へ一両支払いさきほどわしが持ち出した時には九両何も不審はございません。 いやいやそうでない。 それがしがさきほど手のひらに載せたのはたしかに十枚の小判。 行燈のひかり薄しといえどもこの山崎の眼光には狂いはない。 この上はそれがしまっぱだかになって身の潔白を立て申す。 おのおのがた見とどけたか。 時も時つまらぬ俳句を作り申した。 貧病の薬いただく雪あかり。 おのおのがたそれがしの懐に小判一両たしかにあります。 いまさら着物を脱いで打ち振うまでもござらぬ。 思いも寄らぬ災難。 言い開きもめめしい。 ここで命を。 誰もそなたを疑ってはいない。 そなたばかりでなく自分らも皆その日暮しのあさましい貧者ながら時に依って懐中に一両くらいの金子は持っている事もあるさ。 貧者は貧者同志死んで身の潔白を示そうというそなたの気持はわかるがしかし誰ひとりそなたを疑う人も無いのに切腹などは馬鹿らしいではないか。 お言葉は有難いがそのお情も冥途への土産。 一両|詮議の大事の時生憎と一両ふところに持っているというこの間の悪さ。 御一同が疑わずともこのぶざまは消えませぬ。 世の物笑い一期の不覚。 面目なくて生きて居られぬ。 いかにもこの懐中の一両はそれがし昨日かねて所持せし徳乗の小柄を坂下の唐物屋十左衛門方へ一両二分にて売って得た金子には相違なけれどもいまさらかかる愚痴めいた申開きも武士の恥辱。 何も申さぬ。 死なせ給え。 不運の友をいささか不憫と思召さばわが自害の後に坂下の唐物屋へ行きその事たしかめかばねの恥をたのむ。 おや。 そこにあるよ。 なんだそんなところにあったのか。 燈台もと暗しですね。 うせ物はとかくへんてつもないところから出る。 それにつけても平常の心掛けが大切。 いやまったく人騒がせの小判だ。 おかげで酔いがさめました。 飲み直しましょう。 あれ。 小判はここに。 いやこれもあやかりもの。 めでたい。 十両の小判が時に依って十一両にならぬものでもない。 よくある事だ。 まずはお収め。 それがよい。 ご親戚のお方ははじめから十一両つつんで寄こしたのに違いない。 左様なにせ洒落たお方のようだから十両と見せかけその実は十一両といういたずらをなさったのでしょう。 なるほどそれも珍趣向。 粋な思いつきです。 とにかくお収めを。 そんな事でわしを言いくるめようたって駄目です。 馬鹿にしないで下さい。 失礼ながらみなさん一様に貧乏なのをわしひとり十両の仕合せにめぐまれて天道さまにも御一同にも相すまなく心苦しくて落ちつかず酒でも飲まなけりゃやり切れなくなって今夕御一同を御招待してわしの過分の仕合せの厄払いをしようとしたのにさらにまた降ってわいた奇妙な災難十両でさえ持てあましている男に意地悪くもう一両押しつけるとは御一同も人が悪すぎますぞ。 原田内助貧なりといえども武士のはしくれお金も何も欲しくござらぬ。 この一両のみならずこちらの十両もみなさんお持ち帰り下さい。 馬鹿にしないで下さいよ。 十両の金が十一両に化けるなんてそんな人の悪い冗談はやめて下さいよ。 どなたかがさっきこっそりお出しになったのでしょう。 それにきまっています。 短慶どのの難儀を見るに見かねその急場を救おうとしてどなたか所持の一両をそっとお出しになったのに違いない。 つまらぬ小細工をしたものです。 わしの小判は重箱の蓋の裏についていたのです。 行燈の傍に落ちていた金はどなたかの情の一両にきまっています。 その一両をこのわしに押しつけるとはまるですじみちが立っていません。 そんなにわしが金を欲しがっていると思召さるか。 貧者には貧者の意地があります。 くどく言うようだけれども十両持っているのさえわしは心苦しく世の中がいやになっていた折も折さらに一両を押しつけられるとは天道さまにも見放されたかわしの武運もこれまで腹かき切ってもこの恥は雪がなければならぬ。 わしは酒飲みの馬鹿ですが御一同にだまされて金が子を産んだとやにさがるほど耄碌はしていません。 さあこの一両お出しになった方はあっさりと収めて下さい。 さあ申し出て下さい。 そのお方は情の深い立派なお方だ。 わしは一生その人の従僕になってもよい。 一文の金でも惜しいこの大みそかによくぞ一両そしらぬ振りして行燈の傍に落し短慶どのの危急を救って下された。 貧者は貧者同志短慶どののつらい立場を見かねてご自分の大切な一両を黙って捨てたとは天晴れの御人格。 原田内助敬服いたした。 その御立派なお方がこの七人の中にたしかにいるのです。 名乗って下さい。 堂々と名乗って出て下さい。 ながくおひきとめも無礼と存じます。 どうしてもお名乗りが無ければいたしかたがない。 この一両はこの重箱の蓋に載せて玄関の隅に置きます。 おひとりずつお帰り下さい。 そうしてこの小判の主はどうか黙って取ってお持ち帰り願います。 そのような処置はいかがでしょう。 式台の右の端最も暗いところへ置いて来ましたから小判の主でないお方にはあるか無いか見定める事も出来ません。 そのままお帰り下さい。 小判の主だけ手さぐりで受取って何気なくお帰りなさるよう。 それではどうぞ山崎老から。 ああいや襖はぴったりしめて行って下さい。 そうして山崎老が玄関を出てその足音が全く聞えなくなった時に次のお方がお立ち下さい。 どなたでしょうね。 わからん。 お酒はもう無いか。 おいおい無茶をするな。 小僧酒でも飲んで行け。 才兵衛さんや。 人は神代から着物を着ていたのですよ。 そうですか。 はだかになって五体あぶない勝負も夏は涼しい事でしょうが冬は寒くていけませんでしょうねえ。 角力をやめろと言うのでしょう。 いやいや決してやめろとは言いませんが同じ遊びでも楊弓などどうでしょうねえ。 あれは女子供の遊びです。 大の男があんな小さい弓をふしくれ立った手でひねくりまわし百発百中の腕前になってみたところでどろぼうに襲われて射ようとしてもどろぼうが笑い出しますしさかなを引く猫にあてても描はかゆいとも思やしません。 そうだろうねえ。 それではあの十種香とか言ってさまざまの香を嗅ぎわける遊びは。 あれもつまらん。 香を嗅ぎわけるほどの鼻があったらめしのこげるのを逸早く嗅ぎ出し下女に釜の下の薪をひかせたら少しは家の仕末のたしになるでしょう。 なるほどね。 ではあの蹴鞠は。 足さばきがどうのこうのと言って稽古しているようですが塀を飛び越えずに門をくぐって行ったって仔細はないし闇夜には提灯をもって静かに歩けば溝へ落ちる心配もない。 何もあんなに苦労して足を軽くする必要はありません。 いかにもそのとおりだ。 でも人間には何か愛嬌が無くちゃいけないんじゃないかねえ。 茶番の狂言なんか稽古したらどうだろうねえ。 家に寄り合いがあった時などあれをやってみんなにお見せすると――。 冗談を言っちゃいけない。 あれは子供の時こそ愛嬌もありますが髭の生えた口からまかり出でたるは太郎冠者も見る人が冷汗をかきますよ。 お母さんだけが膝をすすめてうまいなんてほめて近所のもの笑いの種になるくらいのものです。 それもそうだねえ。 ではあの活花は。 ああもうよして下さい。 あなたは耄碌しているんじゃないですか。 あれは雲の上の奥深きお方々が野辺に咲く四季の花をごらんになる事が少いので深山の松かしわを取り寄せて生きてあるままの姿を御眼の前に眺めてお楽しみなさるためにはじめた事でわしたち下々の者が庭の椿の枝をもぎ取り鉢植えの梅をのこぎりで切って床の間に飾ったって何の意味もないじゃないですか。 花はそのままに眺めて楽しんでいるほうがいいのだ。 やっぱり角力が一ばんいいかねえ。 大いにおやり。 お父さんも角力がきらいじゃないよ。 若い時にはやったものです。 才兵衛やまあここへお坐り。 まあたいへん鬚が伸びているじゃないか剃ったらどうだい。 髪もそんなに蓬々とさせてどれちょっと撫でつけてあげましょう。 かまわないで下さい。 これは角力の乱れ髪と言って粋なものなんです。 おやそうかい。 それでも粋なんて言葉を知ってるだけたのもしいじゃないか。 お前はことしいくつだい。 知ってる癖に。 十九だったね。 あたしがこの家にお嫁に来たのはお父さんが十九お母さんが十五の時でしたがお前のお父さんたらもうその前から道楽の仕放題でねえ十六の時から茶屋酒の味を覚えたとやらで着物の着こなしでも何でもそれこそ粋でねえあたしと一緒になってからもしばしば上方へのぼりいいひとをたくさんこしらえていまこそあんなどっちを向いてるのだかわからないような変な顔だがわかい時にはあれでなかなか綺麗な顔でちょっとそんなに俯向いたところなどいまのお前にそっくりですよ。 お前もお父さんに似てまつげが長いからうつむいた時の顔に愁えがあってきっと女には好かれますよ。 上方へ行って島原などの別嬪さんを泣かせるなんてのは男と生れて何よりの果報だろうじゃないか。 なんだつまらない。 女を泣かせるには殴るに限る。 角力で言えば張手というやつだ。 こいつを二つ三つくらわせたら泣かぬ女はありますまい。 泣かせるのが果報だったらわしはこれからいよいよ角力の稽古をはげんで世界中の女を殴って泣かせて見せます。 何を言うのです。 まるで話がちがいますよ。 才兵衛お前は十九だよ。 お前のお父さんは十九の時にはもう茶屋遊びでも何でも一とおり修行をすましていたのですよ。 まあお前も花見がてらに上方へのぼって島原へでも行って遊んで千両二千両使ったってへるような財産でなし気に入った女でもあったら身請してどこか景色のいい土地にしゃれた家でも建てその女のひととしばらくままごと遊びなんかして見るのもいいじゃないか。 お前の好きな土地にお前の気ままの立派なお屋敷をこしらえてあげましょう。 そうしてあたしのほうから米油味噌塩醤油薪炭四季折々のお二人の着換え何でもとどけてお金だってほしいだけ送ってあげるしその女のひと一人だけで淋しいならばお妾を京からもう二三人呼び奇せてその他振袖のわかい腰元三人それから中居茶の間御物縫いの女それから下働きのおさんどん二人お小姓二人小坊主一人あんま取の座頭一人御酒の相手に歌うたいの伝右衛門御料理番一人駕籠かき二人御草履取大小二人手代一人まあざっとこれくらいつけてあげるつもりですから悪い事は言わないまあ花見がてらに――。 上方へはいちど行ってみたいと思っていました。 お前さえその気になってくれたらあとはもう立派なお屋敷をつくってお妾でも腰元でもあんま取の座頭でも――。 そんなのはつまらない。 上方には黒獅子という強い大関がいるそうです。 なんとかしてその黒獅子を土俵の砂に埋めて――。 まなんて情無い事を考えているのです。 好きな女と立派なお屋敷に暮して酒席のなぐさみには伝右衛門を――。 その屋敷には土俵がありますか。 おれならばお内儀さまのおっしゃるとおりにするんだが。 当り前さ。 蝦夷が島の端でもいい立派なお屋敷でそんな栄華のくらしを三日でもいいあとは死んでもいい。 声が高い。 若旦那に聞えるとあの張手とかいう凄いのを二つ三つお見舞いされるぞ。 そいつはごめんだ。 まだ子供です。 ごらんのとおりの子供です。 お見のがしを。 でもあんな髭をはやして分別顔でりきんでいるさまは石川五右衛門の釜うでを思い出させます。 うるさい。 お師匠の鰐口様がいつかおっしゃった。 夫婦が仲良くするとあたら男盛りも腕の力が抜けるとおっしゃった。 お前も角力取の女房ではないか。 それくらいの事を知らないでどうする。 わしは女ぎらいだ。 摩利支天に願掛けてわしは一生女に近寄らないつもりなのだ。 馬鹿者め。 めそめそしてないで早くそっちへ蒲団敷いて寝ろ。 よせよせ。 おいおい。 おれだおれだよ。 あお師匠。 おなつかしゅう。 桑盛様の御総領ならば私のほうでも不足はございませんが時に桑盛さまの御宗旨は。 ええとそれは。 はっきりはわかりませぬがたしか浄土宗で。 それならばお断り申します。 私の家では代々の法華宗で殊にも私の代になりましてから深く日蓮様に帰依仕って朝夕|南無妙法蓮華経のお題目を怠らず娘にもそのように仕込んでありますのでいまさら他宗へ嫁にやるわけには行きません。 あなたも縁談の橋渡しをしようというほどの男ならそれくらいの事を調べてからおいでになったらどうです。 いやあの私は。 私は代々の法華宗の日蓮様で朝夕南無妙法蓮華経と。 何を言っているのです。 あなたに嫁をやるわけじゃあるまいし桑盛様が浄土宗ならばいかほど金銀を積んでもまたその御総領が御発明で男振りがよくっても私はいやと申します。 日蓮様に相すみません。 あんな陰気くさい浄土宗などどこがいいのです。 よくもこの代々の法華宗の家へ娘がほしいなんて申込めたものだ。 あなたの顔を見てさえ胸くそが悪い。 お帰り下さい。 そなたはどう思うか。 こんな馬鹿らしい話をわざわざ殿へ言上するなんてちと不謹慎だとは思わぬか。 世に化物なし不思議なし猿の面は赤し犬の足は四本にきまっている。 人魚だなんて子供のお伽噺ではあるまいしいいとしをしたお歴々が額にはくれないの鶏冠も呆れるじゃないか。 のう玄斎よしその人魚とやらの怪しい魚類が北海に住んでいたとしてもさそんな古来ためしの無い妖怪を射とめるにはこちらにも神通力が無くてはかなわぬ。 なまなかの腕では退治が出来まい。 鳥に羽あり魚に鰭ありさ。 なかなかどうして飛ぶ小鳥泳ぐ金魚を射とめるのも容易の事じゃないのにそんな上半身水晶とやらの化物を退治するのにはまず弓矢八幡大菩薩頼光綱八郎田原藤太みんなのお力をたばにしたくらいの腕前でもなけれや間に合いますまい。 いや論より証拠それがしの泉水の金魚なそなたも知っているだろうわずかの浅水をたのしみにひらひら泳ぎまわってござるがせんだって退屈のあまり雀の小弓で二百本ばかり射かけてみたがこれにさえ当らぬもの金内殿もおおかた海上でにわかの旋風に遭い動転して流れ寄る腐木にはっしと射込んだのでなければさいわいだがのう。 それは貴殿の無学のせいだ。 とかく生半可の物識りに限って世に不思議なし化物なしと実もふたも無いような言い方をして澄し込んでいるものですがそもそもこの日本の国は神国なり日常の道理を越えたる不思議の真実炳として存す。 貴殿のお屋敷の浅い泉水とくらべられては困ります。 神国三千年山海万里のうちにはおのずから異風奇態の生類あるまじき事に非ず古代にも仁徳天皇の御時飛騨に一身両面の人出ずる天武天皇の御宇に丹波の山家より十二角の牛出ずる文武天皇の御時慶雲四年六月十五日にたけ八丈よこ一丈二尺一頭三面の鬼異国より来るかかる事どもも有るなればこのたびの人魚何か疑うべき事に非ず。 それこそ生半可の物識り。 それがしは議論を好まぬ。 議論は軽輩功をあせっている者同志のやる事です。 子供じゃあるまいし。 青筋たてて空論をたたかわしてもお互い自説を更に深く固執するような結果になるだけのものさ。 議論はつまらぬ。 それがしは何も人魚はこの世に無いと言っているのではござらぬ。 見た事が無いと言っているだけの事だ。 金内殿もお手柄ついでにその人魚とやらを御前に御持参になればよかったのに。 武士には信の一字が大事ですぞ。 手にとって見なければ信ぜられぬとはさてさてあわれむべき御心魂。 それ心に信無くばこの世に何の実体かあらん。 手に取って見れども信ぜずば見ざるもひとしき仮寝の夢。 実体の承認は信より発す。 然して信は心の情愛を根源とす。 貴殿の御心底には一片の情愛なし信義なし。 見られよ金内殿は貴殿の毒舌に遭い先刻より身をふるわし血涙をしぼって泣いてござるわ。 金内殿は貴殿とは違ってうそなど言う仁ではござらぬ。 日頃の金内殿の実直を貴殿はよもや知らぬとは申されますまい。 それ殿がお立ちだ。 御不興と見える。 やれやれ馬鹿どもには迷惑いたす。 頭の血のめぐりの悪い事を実直と申すのかも知れぬが夢や迷信をまことしやかに言い伝え世をまどわすのはこの実直者に限る。 おのれよくもほざいた。 金内殿お察し申す。 そなたも武士すでに御覚悟もあろうがいついかなる場合もこの武蔵はそなたの味方です。 いかにしてもきゃつをこのままでは。 かたじけなく存じます。 さきほどの百右衛門のかずかずの悪口聞き捨てになりがたく金内軽輩ながらおのれまっぷたつと思いながらも殿の御前なり忍ぶべからざるを忍んでただくやし涙にむせていましたがもはや覚悟のほどが極りました。 ただいまこれより追い駈けてかの百右衛門を一刀のもとに切り捨てるのは最も易い事ですがそれでは家中の人たちは金内は百右衛門のために嘘を見破られてくやしさの余り刃傷に及んだと言いそれがしの人魚の話もいよいようろんの事になって御貴殿にも御迷惑をおかけする結果に相成りますからどうせもうすたりものになったこの身死におくれついでに今すこし命ながらえ鮭川の入海を詮議して弓矢八幡お見捨てなくかの人魚の死骸を見つけた時は金内の武運もいまだ尽きざる証拠是を持参して一家中に見せしかるのち百右衛門を心置きなく存分に打ち据えこの身もうれしく切腹の覚悟。 武蔵が無用の出しゃばりしてそなたの手柄を殿に御披露したのがわるかった。 わけもない人魚の論などはじめてあたら男を死なせねばならぬ。 ゆるせ金内来世は武士に生れぬ事じゃのう。 留守は心配ないぞ。 お父さまはへんね。 さようでございます。 お金をたくさん持って出たじゃないの。 容易ならぬ事と存じます。 胸騒ぎがする。 どのような事が起るかわかりませぬ。 見苦しい事の無いようにこれからすぐに家の内外を綺麗に掃除いたしましょう。 金内殿は出かけられましたか。 はい。 お金をたくさん持って出かけました。 永い旅になるかも知れぬ。 留守中お困りの事があったら少しも遠慮なくこの武蔵のところへ相談にいらっしゃい。 これは当座のお小遣い。 なあに大丈夫だ。 若い衆たちはあんな事を言っているけれどおれたちはたしかにこの海におさむらいの射とめた人魚が沈んでいると見込んでいるだ。 このあたりの海にはな昔からいろいろな不思議なさかながいまして若い衆たちにはわからねえ事だ。 おれたちの子供の頃にもなこの沖におきなという大魚があらわれて偉い騒ぎをしました。 嘘でも何でも無いその大きさは二三里いやもっと大きいかも知れねえ。 誰もその全身を見たものがねえのです。 そのさかなが現われる時には海の底が雷のように鳴って風もねえのに大波が起って鯨なんてやつも東西に逃げ走って漁の船もやあれおきなが来たぞうと叫び合って早々に浜に漕ぎ戻りやがておきなが海の上に浮んでそのさまは大きな島がにわかに沖にいくつも出来たみたいでこれはおきなの背中や鰭が少しずつ見えたのでして全体の大きさはとてもとてもそんなもんじゃありやしねえ。 はかり知る事が出来ねえのだ。 このおきなは小さなさかなには見むきもしねえでもっぱら鯨ばかりたべて生きているのだそうでして二十|尋三十尋の鯨をたばにして呑み込んでその有様は鯨が鰯を呑むみたいだってんだから凄いじゃねえか。 だから鯨は海の底が鳴ればさあ大変と東西に散って逃げますだ。 おっかないさかなもあったものさ。 蝦夷の海には昔からこんな化物みたいなさかながいろいろあっただ。 おさむらいの人魚の話だっておれたちはちっとも驚きやしねえ。 それはきっとこの入海にいやがったに違いねえのだ。 なんの不思議もねえ事だ。 二里三里のおきなが泳ぎ廻っていた海だものないまにおれたちはきっとその人魚の死骸を見つけておさむらいの一分とやらを立てさせてあげますぞ。 たのむ。 それがしはたしかにこの入海で怪しい魚を射とめたのだ。 弓矢八幡誓言する。 たのむ。 なお一そう精出してあの人魚の鱗一枚髪一筋でも捜し当てておくれ。 鞠死のう。 はい。 待て待てえ。 えいつまらない事になった。 ようしこうなったら人魚の論もくそも無い。 武蔵は怒った。 本当に怒った。 怒った時の武蔵には理窟も何も無いのだ。 道理にはずれていようが何であろうがそんな事はかまわない。 人魚なんて問題じゃない。 そんなものはあったって無くったって同じ事だ。 いまはただ憎い奴を一刀両断に切り捨てるまでだ。 こら漁師馬を貸せ。 この二人の娘さんが乗るのだ。 早く捜して来い。 その泣き顔が気に食わぬ。 かたきのいるのがわからんか。 これからすぐ馬で城下に引返し百右衛門の屋敷に躍り込み首級を挙げて金内殿にお見せしないと武士の娘とは言わせぬぞ。 めそめそするな。 百右衛門殿というと。 あの青崎百右衛門殿の事でしょうか。 そうよあいつにきまっている。 思い当る事がございます。 かねてあの青崎百右衛門殿はいいとしをしながらお嬢様に懸想してうるさく縁組を申し入れお嬢様はあのような鷲鼻のお嫁になるくらいなら死んだほうがいいとおっしゃるしそれで旦那様も――。 そうかそれで事情がはっきりわかった。 きゃつめ一生独身主義だの女ぎらいだのと抜かしていながら蔭ではなあんだ振られた男じゃないかだらしがない。 いよいよ見下げ果てたやつだ。 かなわぬ恋の仕返しに金内殿をいじめるとは憎さが余って笑止千万。 暗闇に鬼。 下戸ならぬこそ。 色好まざらむ男は。 あれあれいやらし。 男のくせにそんなちぢれ髪に油なんか附けて鏡を覗き込んできゅっと口をひきしめたりにっこり笑ったりいやいやをして見たり馬鹿げたひとり芝居をしていったいそれは何の稽古のつもりですどだいあなたは正気ですかわかっていますよあさましい。 あたしの田舎の父は男というものは野良姿のままで手足の爪の先には泥をつめて眼脂も拭かず肥桶をかついでお茶屋へ遊びに行くのが自慢だそれが出来ない男はみんな茶屋女の男めかけになりたくて行くやつだとおっしゃっていたわよそんなちぢれ髪を撫でつけてあなたはそれで茶屋の婆芸者の男めかけにでもなる気なのでしょうわかっていますよけちんぼのあなたの事ですからなるべくお金を使わず婆芸者にでも泣きついて男めかけにしてもらってあわよくば向うからお小遣いをせしめてやろうといういいえわかっていますよくやしかったら肥桶をかついでお出掛けなさい出来ないでしょうなんだいそんな裏だか表だかわからないような顔をして鏡をのぞき込んでにっこり笑ったりしてああきたないそんな事をするひまがあったら鼻毛でも剪んだらどう。 伸びていますよくやしかったら肥桶をかついで。 あたしだって悋気をいい事だとは思っていなかったのですけれどお父さんやお母さんがお喜びになるのでついあんな大声を挙げてわるかったわね。 浮気は男の働きと言いますものねえ。 そうともそうとも。 それについて。 このごろどうも養父養母が続いて死にわしも何だか心細くてからだ工合いが変になった。 俗に三十は男の厄年というからね。 ひとつ上方へのぼってゆっくり気保養でもして来ようと思うよ。 それについて。 あいあい。 一年でも二年でもゆっくり御養生しておいでなさい。 まだお若いのですものねえ。 いまから分別顔してけちくさく暮していたら永生き出来ませんよ。 男のかたは五十くらいからけちになるといいのですよ。 三十のけちんぼうは早すぎます。 見っともないわ。 そんなのは芝居では悪役ですよ。 若い時には思い切り派手に遊んだほうがいいの。 あたしも遊ぶつもりよ。 かまわないでしょう。 いいともいいとも。 わしたちがいくら遊んだってぐらつく財産じゃない。 蔵の金銀にもすこし日のめを見せてやらなくちゃ可哀想だ。 それではお言葉に甘えて一年ばかり京大阪で気保養をして来ますからね。 留守中はせいぜい朝寝でもしておいしいものを食べていなさい。 上方のはやりの着物や帯をどんどん送ってよこしますからね。 ごめん。 さいぜんそなたの店から受け取ったお金の中に一粒贋の銀貨がまじっていた。 取かえていただきたい。 は。 それはどうも相すみませんでしたがもう店をしまいましたから来年にしていただけませんか。 いや待つ事は出来ぬ。 まだ除夜の鐘のさいちゅうだ。 拙者もこの金でことしの支払いをしなければならぬ。 借金取りが表に待っている。 困りましたなあ。 もう店をしまってお金はみな蔵の中に。 ふざけるな。 百両千両のかねではない。 たかが銀一粒だ。 これほどの家で手許に銀一粒の替が無いなど冗談を言ってはいけない。 おやその顔つきはどうした。 無いのか。 本当に無いのか。 何も無いのか。 おい青砥。 少し給料をましてやろうか。 お前の給料をもっとよくするようにと夢のお告げがありました。 夢のお告げなんてあてになるものじゃありません。 そのうちに藤綱の首を斬れというお告げがあったらあなたはどうします。 きっと私を斬る気でしょう。 さてさてたわけた牛ではある。 川に小便をするとはもったいない。 むだである。 畑にしたならよい肥料になるものを。 あった。 なにあった。 銭はあったか。 銭はあったか。 たしかにあったか。 へえございました。 三文ございました。 おとどけ致します。 動くな動くな。 その場を捜せ。 たしかにそこだ。 私はその場に落したのだ。 いま思い出した。 たしかにそこだ。 さらに八文ある筈だ。 落したものは落した場所にあるにきまっている。 それ。 皆の者銭は三文見つかったぞ。 さらに精出してそこな下郎の周囲を捜せ。 兄貴はやっぱり勘がいいな。 何か秘伝でもあるのかね。 教えてくれよ。 おれはもう凍えて死にそうだ。 どうしたらそんなにうまく捜し出せるのか。 なあに秘伝というほどの事でもないが問題は足の指だよ。 足の指。 そうさ。 おまえたちは手でさぐるからいけない。 おれのようにほうらこんな工合に足の指先でさぐると見つかる。 おや。 あった。 なにあったか。 銭はあったか。 へえございました。 二文ばかり。 動くな。 動くな。 その場を捜せ。 それ。 皆の者そこな下郎は殊勝であるぞ。 負けず劣らずはげめつっこめ。 あった。 やああった。 さて浅田とやらこのたびの働きは見事であったのう。 そちのお蔭で国土の重宝はよみがえった。 さらに一両の褒美をとらせる。 川に落ちた銭はいたずらに朽ちるばかりであるが人の手から手へ渡った金はいつまでも生きて世にとどまりて人のまわり持ち。 さればさあの青砥はとんだ間抜けだ。 おれの腹掛けから取り出した銭とも知らないで。 さいぜん汝の青砥をだました自慢話を聞き胸くそが悪くなり酒を飲む気もしなくなった。 浅田お前はひどい男だ。 つねからお前の悧巧ぶった馬面が癪にさわっていたのだがこれほどふざけた奴とは知らなかった。 程度があるぞ馬鹿野郎。 青砥のせっかくの高潔な志もお前の無智な小細工で泥棒に追銭みたいなばからしい事になってしまった。 人をたぶらかすのは泥棒よりもなお悪い事だ。 恥かしくないか。 天命のほどもおそろしい。 世の中をそんなになめるといまにとんでもない事になるにきまっているのだ。 おれはもうお前たちとの附合いはごめんこうむる。 きょうよりのちは赤の他人と思っていただきたい。 おれはこれから親孝行をするんだ。 笑っちゃいけねえ。 おれはこんな世の中のあさましい実相を見るとなぜだかふっと親孝行をしたくなって来るのだ。 これまでもちょいちょいそんな事はあったがもうもうきょうというきょうはあいそが尽きた。 さっぱりと足を洗って親孝行をするんだ。 人間は親に孝行しなければ犬畜生と同じわけのものになるんだ。 笑っちゃいけねえ。 父上母上きょうまでの不孝の罪はゆるして下さい。 わかるであろう。 川底に朽ちたる銭は国のまる損。 人の手に渡りし金は世のまわり持ち。 お父さま。 落したお金が十一文だという事がどうしてわかりました。 おおその事か。 お律はませた子だの。 よい事をたずねる。 父は毎朝小銭を四十文ずつ火打袋にいれてお役所に行くのです。 きょうはお役所で三文使い火打袋には三十七文残っていなければならぬ筈のところ二十六文しか残っていませんでしたからそれ落したのはいくらになるであろうか。 でもお父さまはけさお役所へいらっしゃる途中お寺の前であたしと逢い非人に施せといって二文あたしに下さいました。 うんそうであった。 忘れていた。 下郎思い知ったか。 せんだってあなたに差し上げた銭十一文は私の腹掛けから取り出したものでございますからあれは私に返して下さい。 神崎どのこのたびは運悪く私が留守番にまわりましたが私のかわりに末子の丹三郎が仕合せとお供の端に加えられましたからまああれの土産話でもたのしみにして待っている事に致しましょう。 それにつけてもあれも初旅なりばかり大きくてもまだほんの子供ゆえ諸事よろしくたのみますぞ。 あすは早朝の出発ゆえもはやおやすみなさるよう。 遊山の旅だ。 かまわぬ。 のう蛸め。 はあ。 捨て置け。 あとから追いつく。 もしもし。 御出発でございます。 へえ。 ばかに早いな。 若殿もとうにお仕度がお出来になりました。 若殿はあれからぐっすりお休みになられたらしいからな。 おれはあれからいろいろな事を考えてなかなか眠られなかった。 それにお前の親爺のいびきがうるさくてな。 おそれいります。 忠義もつらいよ。 おれだって毎夜若殿の遊び相手をやらされてへとへとなんだよ。 お察し申して居ります。 うんまったくやり切れないんだ。 たまにはお前が代ってくれてもよさそうなものだ。 はお相手を申したく心掛けて居りますが私は狐拳など出来ませんので。 お前たちは野暮だからな。 固いばかりが忠義じゃない。 狐拳くらい覚えて置けよ。 はあ。 それにしてももう皆様が御出発でございますから。 何がそれにしてもだ。 お前たちはおれを馬鹿にしているんだ。 ゆうべもその事を考えてくやしくて眠れなかったんだ。 おれも親爺と一緒に来ればよかった。 親から離れて旅に出るとどんなに皆に気がねをしなけりゃならぬものかお前にはわかるまい。 おれは国元を出発してこのかた肩身のせまい思いばかりしている。 人間って薄情なものだ。 親の眼のとどかないところではどんなにでもその子を邪険に扱うんだからな。 いやお前たちの事を言っているんじゃない。 お前たち親子は立派なものさ。 立派すぎておつりが来らあ。 このたびの蝦夷見物がすんだならおれはお前たち親子の事を逐一国元の殿様と親爺にお知らせするつもりだ。 おれにはなんでもわかっているんだ。 お前の親爺はずいぶんお前を可愛がっているらしいじゃないか。 隠さなくたっていい。 ゆうべこの宿に着いた時お前の親爺はこれ勝太郎足の豆には焼酎でも吹いて置けと言ったのをおれは聞いたぞ。 おれにはあんな事は言わない。 皆の見ている前ではいやにおれに親切にしてみせるがへンおれにはちゃんとわかっているんだ。 実の親子の情はさすがに争われないものだ。 焼酎でも吹いて置けか。 あとでその残りの焼酎を親子二人で仲良く飲み合ったろうどうだ。 おれには一滴も酒を飲ませないばかりか狐拳さえやめさせようとしやがるんだから面白くないよ。 ゆうべはつくづく考えた。 ごめんこうむっておれはもう少し寝るよ。 こうしててくてく歩いているのも気のきかない話じゃないか。 やっぱり馬のほうがいいでしょうか。 なに馬。 馬も悪くはないがしかしまあ一長一短というところだろうな。 本当に。 人間も鳥のように空を飛ぶ事が出来たらいいと思う事がありますね。 馬鹿な事を言っている。 空を飛ぶ必要はないが。 空を飛ぶ必要はないが」とまた繰返して言い「眠りながら歩くという事は出来ないものかね。 それはむずかしいでしょうね。 馬の上なら眠りながら歩くという事も出来ますけれど。 うんあれは。 あれはまた野暮なものだ。 眼が覚めてここはどこかと聞いても馬は答えてくれないからね。 うまい事をおっしゃる。 お前もまた野暮な男だ。 思いやりというものがない。 はあ。 見ればわかるじゃないか。 おれはもう歩けなくなっているのだ。 おれはこんなに太っているから股ずれが出来て人に知られぬ苦労をして歩いているのだ。 見ればわかりそうなものだ。 肩を貸してやれ。 はい。 ごめんこうむる。 こう見えても森岡丹後の子だ。 お前のような年少の者の肩にしなだれかかって峠を越えたという風聞がもし国元に達したならば父や兄たちの面目が丸つぶれじゃないか。 お前たち親子はぐるになって森岡の一家を嘲弄する気なのであろう。 式部。 蛸にも駕籠をやれ。 はただいま。 水かさ刻一刻とつのる様子なればきょうはこの金谷の宿に一泊。 なんだこれがあの有名な大井川か。 淀川の半分も無いじゃないか。 国元の猪名川よりも武庫川よりも小さいじゃないか。 のう蛸。 これしきの川が渡れぬなんて式部も耄碌したようだ。 いかにも。 私などは国元の猪名川を幼少の頃より毎日のように馬で渡ってなれて居りますのでこんな小さい川がたといどんなに水を増してもおそろしいとは思いませぬがしかし生れつき水癲癇と申してどのように弓馬の武芸に達していてもこの水を見るとおそろしくぶるぶる震えるという奇病があってしかもこれは親から子へ遺伝するものだそうで。 奇妙な病気もあるものだ。 まさか式部はその水癲癇とやらいう病気でもあるまいがどうだ蛸めわれら二人抜け駈けてこの濁流に駒をすすめかの宇治川先陣佐々木と梶原の如く相競って共に向う岸に渡って見せたら臆病の式部はじめ供の者たちも仕方なく後からついて来るだろう。 なんとしてもきょうのうちにこの大井川を渡って島田の宿に着かなければ西国武士の名折れだぞ。 蛸めつづけ。 おやめなさいおやめなさい。 式部かねて承るに大井川の川底の形状変転常なくその瀬その淵の深浅は川越しの人夫さえ踏違えることしばしば有りとの事いわんや他国のわれら抜山の勇ありといえども血気だけではこの川渡ることむずかしく式部はきょう一日その水癲癇とやら奇病にでも何にでも相成りますからどうか式部の奇病をあわれに思召して川を越える事はあすになさって下さい。 ちえ残念。 蛸め。 式部は卑怯だ。 かまわぬつづけ。 それ。 若殿につづけ。 若殿は野暮だ。 思いやりも何も無い。 おれは実は馬は何よりも苦手なのだ。 何もかも目茶苦茶だ。 これも皆あなたの言葉から起った難儀です。 でもまあいまはそんな事を言っていたって仕様がありません。 すぐに若殿の後を追いましょう。 わしたちは果して生きて向う岸に行き着けるかどうかこの大水では心もとない。 けれどもわしは国元を出る時あなたの親御の丹後どのから丹三郎儀はまだほんの子供しかも初旅の事ゆえ諸事よろしくたのむと言われました。 その一言が忘れかねわしはきょうまで我慢に我慢を重ねてあなたの世話を見て来ました。 いまこの濁流を渡ってあなたの身にもしもの事があったならきょうまでのわしの苦労もそれこそ水の泡になります。 馬は一ばん元気のいいのをあなたのために取って置きました。 せがれの勝太郎を先に立て瀬踏みをさせますからあなたは何でもただ馬の首にしがみついて勝太郎の後について行くといい。 すぐあとにわしがついて守って行きますから心配せず大浪をかぶってもあわてず馬の首から手を離したりせぬように。 すみません。 そちに頼みがある。 はい。 流れに飛び込んで死んでおくれ。 丹三郎はわしの苦労の甲斐も無く横浪をかぶって鞍がくつがえり流れに呑まれて死にました。 そもそもあの丹三郎儀はかの親の丹後どのより預り来れる義理のある子です。 丹三郎ひとりが溺れ死んでお前が助かったとあれば丹後どのの手前この式部の武士の一分が立ちがたい。 ここを聞きわけておくれ。 時刻をうつさずいますぐ川に飛び込み死んでおくれ。 何でもないさ。 いままで通り旅人をやっつけようよ。 でも。 女ばかりじゃ駄目よ。 かえってあたしたちのほうで着物をはぎとられてしまうわよ。 弱虫弱虫。 男の身なりをして刀を持って行けばなんでもない。 やいこらとこんな工合いに男のひとみたいな太い声で呼びとめるとどんな旅人だって震え上るにきまっている。 でもおさむらいはこわいな。 じいさんばあさんか女のひとり旅かにやけた商人かそんな人たちを選んでおどかしたらきっと成功するわよ。 面白いじゃないの。 あたしはあの熊の毛皮を頭からかぶって行こう。 うまくいくといいけど。 とにかくそれじゃやって見ましょう。 あたしたちはどうでもいいけどお母さんにお怪我があっては大変だからお母さんはお留守番してあたしたちの獲物をおとなしく待っているのよ。 お夏やお前この白絹をどうする気なの。 どうするって姉さんあたしはこれで鉢巻をたくさんこしらえるつもりなの。 白絹の鉢巻は勇しくって立派な親分さんみたいに見えるわよ。 お父さんもお仕事の時には絹の白鉢巻をしてお出かけになったわね。 まあそんなつまらない。 ねいい子だから姉さんにそれをゆずってくれない。 こんど何かまたいいものが手にはいった時には姉さんはみんなお前にあげるから。 いやよ。 いやいや。 あたしは前から真白な鉢巻をほしいと思っていたのよ。 旅人をおどかすのに白鉢巻でもしてないと気勢があがらなくて工合いがわるいわ。 そんな馬鹿な事を言わないでね後生だから。 いや。 姉さんしつっこいわよ。 ごめんねもう要らないわよ。 姉さん。 こわい。 ななに。 姉さんごめんあたしは悪い子よ。 あたしは姉さんをたったいままで殺そうと思っていたの。 姉さん。 あたしだってもう十六よ。 綺麗な着物を欲しいのよ。 でもあたしはこんな不器量な子だからお洒落をすると笑われるかと思ってわざと男の子みたいな事ばかり言っていたのよ。 ごめんね。 姉さんあたしはこのお正月に晴衣が一枚ほしくてあたしの絹を紅梅に染めてそうして姉さんの絹を裏地にしようと思って姉さんあたしはいけない子よ姉さんを刀で突いてそうしてお母さんには姉さんが旅人に殺されたと申し上げるつもりでいたの。 いまあの火葬の煙を見たらもう何もかもいやになってあたしはもう生きて行く気がしなくなった。 何を言うの。 ゆるすもゆるさぬもそれはあたしの事ですよ。 あたしこそお前を突き殺して絹を奪おうと思ってあの煙を見たら悲しくなってあたしの反物を谷底へ投げ込んだのじゃないの。 なんだたかが七八十両の借金で先代からのこの老舗をつぶすなんて法は無い。 ことしの暮は万事わしたちが引受けますからもう一度まあねばってみなさい。 来年こそはこの身代にも一花咲かせて見せて下さい。 子供さんにもお年玉を奮発して下職への仕着も紋無しの浅黄にするといまからでも間に合いますからお金の事など心配せずまあわしたちに委せて大船に乗った気で一つ思い切り派手に年越しをするんだね。 お内儀もそんなめそめそしてないでせっかくのいい髪をもったいないちゃんと綺麗に結っておちめを人に見せないところが女房の働き。 正月の塩鮭もわしの家で三本買って置いたから一本すぐにとどけさせます。 笑う門には福が来る。 どうもこの家は陰気でいけねえ。 さあ雨戸をみんなあけてことしの家中の塵芥をさっぱりと掃き出してのんきに福の神の御入来を待つがよい。 万事はわしたちが引受けました。 よし来た算盤よこせ畜生めあの米屋の八右衛門はわしの先代の別家なのに義理も恩も人情も忘れてどこよりもせわしく借りを責め立てやがっておのれ今に見ろと思っていたが畜生めこんど来たらあの皺面に小判をたたきつけてもう来年からはどんなにわしにお世辞を言っても聞かぬ振りして米は八右衛門の隣りの与七の家から現金で買って帰りにはあいつの家の前で小便でもして来る事だ。 とにかくあの神棚の桝をおろせ。 久しぶりで山吹の色でも拝もう。 いよいよ無いにきまった。 もうよい捜すな。 桝一ぱいの小判をまさか鼠がそっくりひいて行ったわけでもあるまい。 福の神に見はなされたのだ。 よくよく福運の無い家と見える。 いい笑い草だ。 八右衛門の勘定はどうなるのだ。 むだな喜びをしただけにあとのつらさがこたえるわい。 まあどうしましょう。 ひどいいたずらをなさる人もあるものですねえ。 お金を下さってよろこばせてそうしてすぐにまた取り上げるとはあんまりですわねえ。 何を言う。 そなたはあの誰か盗んだとでも思っているのか。 ええ疑うのは悪い事だけれどもまさか小判がひとりでふっと溶けて消えるわけは無し宵からこの座敷にはあの十人のお客様のほかに出入りした人も無しお帰りになるとすぐにあたしが表の戸に錠をおろして――。 いやいやそのようなおそろしい事を考えてはいけない。 小判は神隠しに遭ったのだ。 わしたちの信心の薄いせいだ。 あのように情深いご近所のお方たちを疑うなどはとんでもない事だ。 百両のお金をちらと拝ませていただいただけでも有難いと思わなければならぬ。 それに生れてはじめてあれほどの大酒を飲む事も出来たしもともとお金は無いものとあきらめて。 ああそれにしても一夜のうちに笑ったり泣いたりなんてまあ馬鹿らしい身の上になったのだろう。 いいなぶりものにされました。 百両くださると見せかけてそっとお持ち帰りになっていまごろは赤い舌を出して居られるのに違いない。 ええ十人が十人とも腹を合せてあたしたちに百両を見せびらかしあたしたちが泣いて拝む姿を楽しみながら酒を飲もうという魂胆だったのですよ。 人を馬鹿にするにもほどがある。 あなたは口惜しくないのですか。 あたしはもう恥ずかしくてこの世に生きて居られない。 恩人の悪口は言うな。 この世がいやになったのはわしも同様。 しかし人を恨んで死ぬのは地獄の種だ。 お情の百両をわが身の油断から紛失した申しわけに死ぬのならばわしにも覚悟はあるが。 理窟はどうだっていいじゃないの。 あたしは地獄へ落ちたっていい。 恨み死を致します。 こんなひどい仕打ちをされて世間のもの笑いになってなお生き延びるなんて事はとても出来ません。 よしもう言うな。 死にやいいんだ。 かりそめにも一夜の恩人たちを訴えるわけにもいかずいや疑う事さえ不埒な事ださりとてこのまま生き延びる工夫もつかず女房何も言わずにわしと一緒に死のうじゃないか。 この世ではそなたにも苦労をかけたが夫婦は二世と言うぞ。 このたび百両の金子紛失の件とにもかくにもそちたちの過怠その場に居合せながら大金の紛失に気附かざりしとは察するところ意地汚く酒を過し大酔に及んだがためと思われる。 飲酒の戒もさる事ながら人の世話をするなら素知らぬ振りしてあっさりやったらよかろう。 救われた人を眼の前に置いてしつっこく酒など飲んでおのれの慈善をたのしむなどは浅間しい。 早く夫婦二人きりにさせて諸支払いの算用をさせるようにしむけてやるのがまことの情だ。 なまなかの情はかえって人を罪におとす。 以後は気を附けよ。 罰としてきょうからあの表に張り出してある番附の順序に従って一日に一組ずつここにある太鼓に棒をとおしてそれぞれ女房と二人でかつぎ役所の門を出て西へ二丁歩いて杉林の中を通り抜けさらに三丁畑の間の細道を歩きさらに一丁坂をのぼって八幡宮に参り八幡宮のお札をもらって同じ道をまっすぐに帰って来るよう固く申しつける。 ああ重い。 あなたはどうなの。 重くないの。 ばかにうれしそうに歩いているわね。 お祭りじゃないんですよ。 子供じゃあるまいしこんな赤い大鼓をかついでお宮まいりだなんて板倉様も意地が悪い。 もうもうあたしは人の世話なんてごめんですよ。 あなたたちは人の世話にかこつけてお酒を飲んで騒ぎたいのでしょう。 ばかばかしい。 おまけにこんな赤い太鼓をかつがせられていい見せ物にされて――。 まあそう言うな。 ものは考え様だ。 どうだいさっきのお役所の前の人出は。 わしは生れてからあんなに人に囃された事は無い。 人気があるぜわしたちは。 何を言ってるの。 道理であなたはけさからそわそわしてあの着物この着物と三度も着かえてそれからちょっと薄化粧なさってたわね。 そうでしょう。 白状しなさい。 馬鹿な事を言うな。 馬鹿な。 しかしいい天気だ。 お父さん。 亡くなったお母さんがあたしたちのこんないい恰好を見て草葉の蔭で泣いていらっしゃるでしょうねえ。 お父さんはまあ自業自得で仕方がないとしてもあたしにまでこんな赤い太鼓の片棒かつがせてチンドン屋みたいな事をさせてさお母さんはきっとお父さんをうらんで化けて出るわよ。 おどかしちゃいけねえ。 何もわしだって好きでかついでいるわけじゃないしまた年頃のお前にこんな判じ物みたいなものを担がせるのも心苦しいとは思っている。 あんな事を言っている。 心苦しいだなんてそんな気のきいた言葉をどこで覚えて来たの。 おかしいわよ。 お父さんにはこの太鼓がよく似合ってよ。 お父さんは派手好きだから赤いものがとてもよく似合うわ。 こんど真赤なお羽織を一枚こしらえてあげましょうね。 からかっちゃいけねえ。 だるまじゃあるまいし赤い半纏なんてのはお祭りにだって着て出られるわけのものじゃない。 でもお父さんは年中お祭りみたいにそわそわしているあんなのをお祭り野郎ってんだと陰口たたいていた人があったわよ。 誰だひでえ奴だ誰がそんな事を言ったんだ。 そのままにはして置けねえ。 あたしよあたしが言ったのよ。 何のかのと近所に寄合いをこしらえさせてお祭り騒ぎをしようとたくらんでばかりいるんだもの。 いい気味だわ。 ばちが当ったんだわ。 お奉行様はやっぱりえらいな。 お父さんのお祭り野郎を見抜いてこらしめのためこんな真赤なお祭りの太鼓をかつがせて改心させようと思っていらっしゃるのに違いない。 こん畜生。 太鼓をかついでいなけれやぶん殴ってやるんだがえい徳兵衛ふびんさに持前の親分|肌のところを見せてやったばっかりにつまらねえ事になった。 持前だって。 親分肌だって。 おかしいわよお父さん。 自分でそんな事を言うのは耄碌の証拠よ。 もっとしっかりしなさいね。 この野郎黙らんか。 あなたもしかし妙な人ですね。 ふだんあんなにけちでお客さんの煙草ばかり吸っているほどの人がこんどに限って馬鹿にあっさり十両なんて大金を出したわね。 そりゃあね男の世界はまた違ったものさ。 義を見てせざるは勇なき也。 常日頃の倹約もあのような慈善に備えて――。 いい加減を言ってるわ。 あたしゃ知っていますよ。 あなたは前からあの徳兵衛さんのおかみさんをへんにほめていらっしゃったわね。 思召しがあるんじゃない。 いいとしをしてまあそんな鬼がくしゃみして自分でおどろいてるみたいな顔をして思召しも呆れるじゃないのいいえあたしゃ知っていますよあなたとしを考えてごらんなさい孫が三人もあるくせにお隣りのおかみさんにへんな色目を使ったりなんかしてあなたはそれでも人間ですか人間の道を知っているのですかいいえあたしにはわかっていますよおかげでこんな重い太鼓なんか担がせられてあいたたたあたしゃまた神経痛が起って来た。 あしたからあなたがごはんをたくのですよ。 薪も割ってもらわなくちゃこまるし糠味噌もよく掻きまわして井戸は遠いからいい気味だ毎朝|手桶に五はいくんで来て台所の水甕にあいたたた馬鹿な亭主を持ったばかりにあたしは十年寿命をちぢめた。 いやこのたびは御苦労であった。 太鼓の担ぎ賃としてこれは些少ながらそれがしからの御礼だ。 失礼ではあろうが笑って受取ってもらいたい。 風邪をひいて二三日寝込んだ夫婦もあったとかもはや本服したろうがお見舞いとして別に一封包んで置いた。 こだわり無く収めていただきたい。 このたび仲間の窮迫を見かねて金十両ずつ出し合って救ったとは近頃めずらしい美挙いつまでもその心掛けを忘れぬよう。 それにもかかわらずあのような重い太鼓をかつがせその上男どもはだいぶ女連にやられていたようで気の毒に思っている。 まあ何事も水に流してこの後は仲良く家業にはげむよう。 ところでこの中の一組太鼓をかついで杉林にさしかかった頃から女房が悪鬼に憑かれたように物狂わしく騒ぎ立て亭主の過去のふしだらを一つ一つ挙げてののしり亭主が如何になだめても静まらずいよいよ大声で喚き散らすゆえ亭主は困却し果て杉林を抜けて畑にさしかかった頃あたりをはばかる小さい声で騒ぐなうらむな太鼓の難儀もいましばしの辛抱百両の金はわしたちのもの家へ帰ってから戸棚の引出しをあけて見ろと不思議な事を言った。 言った者には覚えのある筈。 いやそれがしは神通力も何も持っていない。 あの赤い太鼓は重かったであろう。 あの中に小坊主ひとりいれて置いた。 委細はその小坊主から聞いて知った。 言った者をいまここで名指しをするのは容易だがこの者とてはじめは真の情愛を以てこのたびの美挙に参加したのに違いなく酒の酔いに心が乱れふっと手をのばしただけの事と思われる。 命はたすける。 おかみの慈悲に感じ今夜人目を避けて徳兵衛の家の前にかの百両の金子を捨てよ。 然る後は当人の心次第恥を知る者ならば都から去れ。 おかみに於いてはとやかくの指図無し。 一同立て。 以上。 ものには堪忍という事がある。 この心掛けを忘れてはいけない。 ちっとはつらいだろうが我慢をするさ。 夜の次には朝が来るんだ。 冬の次には春が来るさ。 きまり切っているんだ。 世の中は陰陽陰陽陰陽と続いて行くんだ。 仕合せと不仕合せとは軒続きさ。 ひでえ不仕合せのすぐお隣りは一陽来復の大吉さ。 ここの道理を忘れちゃいけない。 来年はこれあ何としても大吉にきまった。 その時にはお前も芝居の変り目ごとに駕籠で出掛けるさ。 それくらいの贅沢はゆるしてあげます。 かまわないから出掛けなさい。 お金は少し残して置いた。 この中からお前の正月のお小遣いをのけてあとは借金取りに少しずつばらまいてやって無くなったら寝ちまえ。 借金取りの顔が見えないようにあちら向きに寝ると少しは気が楽だよ。 ものには堪忍という事がある。 きょう一日の我慢だ。 あちら向きに寝て死んだ振りでもしているさ。 世の中は陰陽陰陽。 婆はいるか。 ほうここはまだみそかの支払いもすまないと見えてあるわあるわ書附けが。 ここに取りちらかしてある書附け全部で三四十両くらいのものか。 世はさまざま|〆て三四十両の支払いをすます事も出来ずに大晦日を迎える家もありまたわしの家のように呉服屋の支払いだけでも百両お金は惜しいと思わぬが奥方のあんな衣裳道楽は大勢の使用人たちの手前しめしのつかぬ事もありこんどは少しひかえてもらわなくては困るです。 こらしめのため里へかえそうかなどと考えているうちにあいにくと懐姙でしかもきょうこの大晦日のいそがしい中に産気づいて早朝から家中が上を下への大混雑。 生れぬさきから乳母を連れて来るやら取揚婆を三人も四人も集めてばかばかしい。 だいたい大長者から嫁をもらったのがわしの不覚。 奥方の里からけさは大勢見舞いに駈けつけそれ山伏それ祈祷取揚婆をこっちで三人も四人も呼んで来てあるのにそれでも足りずに医者を連れて来て次の間に控えさせこれは何やら早め薬とかいって鍋でぐつぐつ煮てござる。 安産のまじないに要るとか言って子安貝海馬松茸の石づき何の事やらわけのわからぬものを四方八方に使いを走らせて取寄せつくづく金持の大袈裟な騒ぎ方にあいそがつきました。 旦那様はこんな時には家にいぬものだと言われてこれさいわいすたこらここへ逃げて来ました。 まるでこれでは借金取りに追われて逃げて来たような形です。 きょうは大晦日だからそんな男もあるでしょうね。 気の毒なものだ。 いったいどんな気持だろう。 酒を飲んでも酔えないでしょうね。 いやもう人さまざまあはははは。 時にどうです。 言うも野暮だがもちろん大晦日の現金払いで子供の生れるまでここで一日あそばせてくれませんか。 たまにはこんな小さい家でこっそり遊ぶのも悪くない。 おや正月の鯛を買いましたね。 小さい。 家が小さいからって遠慮しなくたっていいでしょう。 何も縁起ものだ。 もっと大きいのを買ったらどう。 やれうれしや。 鯛など買わずにこの金は亭主に隠して置いてあたしの帯でも買いましょう。 おほほほ。 ことしの年の暮は貧乏神と覚悟していたのにこのような大黒様が舞い込んでこれで来年中の仕合せもきまりました。 お礼を申し上げますよ旦那。 さあまあどうぞ。 いやですよこんな汚い台所などにお坐りになっていらしては。 洒落すぎますよ。 あんまり恐縮で冷汗が出るじゃありませんか。 なんぼ何でもお人柄にかかわりますよ。 どうも長者のお旦那に限って台所口がお好きで困ってしまいます。 貧乏所帯の台所がよっぽどもの珍らしいと見える。 さ粋にも程度がございます。 どうぞ奥へ。 何しろたべものにはわがままな男ですからそこは油断なくたのむ。 これは卵ですか。 へえお口に合いますかどうですか。 この辺は卵の産地か。 何か由緒があらば聞きたい。 いいえ卵に由緒も何も。 これはお産に縁があるかと思って婆の志。 それにまたおいしい料理の食べあきたお旦那はよくうで卵など酔興に召し上りますのでおほほ。 それでわかった。 いや結構。 卵の形はいつ見てもよい。 いっその事これに目鼻をつけてもらいましょうか。 よう卵に目鼻の御入来。 ああいやだ。 また一つとしをとるのよ。 ことしのお正月に十九の春なんてお客さんにからかわれ羽根を突いてもたのしく何かいい事もあるかと思ってうかうか暮しているうちにあなた一夜明けるともう二十じゃないの。 はたちなんていやねえ。 たのしいのは十代かぎり。 こんな派手な振袖ももう来年からはおかしいわね。 ああいやだ。 思い出した。 その帯をたたく手つきで思い出した。 ちょうどいまから二十年前お前さんは花屋の宴会でわしの前に坐りいまと同じ事を言いそんな手つきで帯をたたいたがあの時にもたしか十九と言った。 それから二十年|経っているからお前さんはことし三十九だ。 十代もくそもない来年は四十代だ。 四十まで振袖を着ていたらもう振袖に名残も無かろう。 からだが小さいから若く見えるがいまだに十九とはひどいじゃないか。 わしは仏さんではないよ。 縁起でもない。 拝むなよ。 興覚めるね。 酒でも飲もう。 まあお旦那。 おめでとうございます。 どうしても御男子ときまりました。 何が。 のんきでいらっしゃる。 お宅のお産をお忘れですか。 あそうか。 生れたか。 いいえそれはわかりませんがいまねこの婆が畳算で占ってみたところあなた三度やり直しても同じ事どうしても御男子。 私の占いは当りますよ。 旦那おめでとうございます。 いやいやそう改ってお祝いを言われても痛みいる。 それこれはお祝儀。 まあどうしましょうねえ。 暮からこのようなうれしい事ばかり。 思えばきょうあけがたの夢に千羽の鶴が空に舞い四海波押しわけて万亀が泳ぎ。 あの本当でございますよ旦那。 眼がさめてからやれ不思議な有難い夢よとひどく気がかりになっていたところにあなたいきなお旦那がお産のすむまで宿を貸せと台所口から御入来ですものねえ夢はやっぱり正夢これも日頃のお不動信心のおかげでございましょうか。 おほほ。 わかったわかった。 めでたいよ。 ところで何か食うものはないか。 おやまあ。 どうかと心配して居りましたのに卵はお気に召したと見え残らずおあがりになってしまった。 すいなお方はこれだから好きさ。 たべものにあきたお旦那にはこんなものがずいぶん珍らしいと見える。 さそれではこんど何を差し上げましょうか。 数の子などいかが。 数の子か。 あらだってお産にちなんで数の子ですよ。 ねえつぼみさん。 縁起ものですものねえ。 ちょっと洒落た趣向じゃありませんか。 お旦那はそんな酔興なお料理がいちばん好きだってさ。 いまあの婆はつぼみさんと言ったがお前さんの名はつぼみか。 ええそうよ。 あの花の蕾のつぼみか。 くどいわねえ。 何度言ったって同じじゃないの。 あなただって頭の毛が薄いくせに何を言ってるの。 ひどいわひどいわ。 あなたお金ある。 すこしはある。 あたしに下さい。 こまっているのよ。 本当にことしの暮ほど困った事は無い。 上の娘をよそにかたづけてまず一安心と思っていたらそれがあなた一年経つか経たないうちに乞食のような身なりで赤子をかかえ四五日まえにあたしのところへ帰って来て亭主が手拭いをさげて銭湯へ出かけてそれっきり他の女のところへ行ってしまったと泣きながら言うけれど馬鹿らしい話じゃありませんか。 娘もぼんやりだけどその亭主もひどいじゃありませんか。 育ちがいいとかいってのっぺりした顔の俳諧だか何だかお得意なんだそうであたしははじめっから気がすすまなかったのに娘が惚れ込んでしまっているものだから仕方なく一緒にさせたら銭湯へ行ってそのまま家へ帰らないとはあんまり人を踏みつけていますよ。 笑い事じゃない。 娘はこれから赤子をかかえてどうなるのです。 それではお前さんに孫もあるのだね。 あります。 馬鹿にしないで下さい。 あたしだって人間のはしくれです。 子も出来れば孫も出来ます。 なんの不思議も無いじゃないか。 お金を下さいよ。 あなたたいへんなお金持だっていうじゃありませんか。 いやそんなでもないが少しならあるよ。 ああめでたい。 婆の占いが男の子とはうれしいね。 なかなか話せる婆ではないか。 お酒でもうんと飲んで騒ぎましょうか。 あれわいさのさ。 まだ日が暮れぬか。 冗談でしょう。 おひるにもなりません。 さてさて日が永い。 お前さんはもう帰れ。 わしはこれから一寝入りだ。 眼が覚めた頃にはお産もすんでいるだろう。 本当にもう帰ってくれ。 その顔を二度とふたたび見せてくれるな。 ええ帰ります。 ついでにおひるごはんをここでごちそうになりましょう。 やあここにいた。 旦那ひどいじゃないか。 てっきりこの界隈と見込みをつけ一軒一軒さがしていやもう大骨折さ。 無いものはいただこうとは申しませんがこうしてのんきそうに遊ぶくらいのお金があったら少しはこっちにも廻してくれるものですよ。 ええとことしの勘定は。 あとのお勘定は正月五日までに。 どうもねえ友人から泣きつかれて判を押してやったがその友人が破産したとやらこちらまでとんだ迷惑。 金を貸すとも判は押すなとはここのところだ。 とかく大晦日には思わぬ事がしゅったい致す。 この姿では外へも出られぬ。 暗くなるまでここで一眠りさせていただきましょう。 馬鹿というのはまだ少し脈のある人の事。 金魚のえさか。 えさだ。 おやあれは利左じゃないか。 利左だ間違いない。 あの右肩をちょっと上げて歩く癖はむかしから利左の癖であれがまた小粋だと言ってわしにも右肩を上げて歩けとうるさくすすめる女があって閉口した事がある。 利左に違いない。 それ呼びとめろ。 利左お前はひどい。 吉州にはわしも少し惚れていたが何もお前そんなわしはお前を恨みに思ったりなんかしてやしないよ。 黙って姿を消すなんて水くさいじゃないか。 そうよそうよ。 どんなつらい事情があったって一言くらいわしたちに挨拶して行くのが本当だぞ。 困った事が起った時にはお互い様さ。 茶屋酒のんで騒ぐばかりが友達じゃない。 見ればひでえ身なりでまあこれがあの月夜の利左かい。 わしたちにたった一言でも知らせてくれたらこんな事になりはしなかったのにぼうふら売りとは洒落が過ぎらあ。 利左でも逢えてよかった。 どこへ行ったかと心配していたのだ。 お前がいなくなったら淋しくてなあ。 上方の遊びもつまらなくなってこうして江戸へ出て来たがお前と一緒でないとどこの遊びも面白くない。 ここで逢うたが百年目さ。 どうだいこれからわしたちと一緒に上方へ帰ってまた昔のように四人で派手に遊ぼうじゃないか。 お金の事や何かは心配するな。 口はばったいがわしたち三人が附いている。 お前の一生は引受けた。 何を言っていやがる。 人の世話など出来る面かよ。 わざわざこの利左をなぶりに上方からやって来たのか。 御苦労な事だ。 こっちはこれが好きでやっているのさ。 かまわないでくれ。 遊びの果は皆こんなものだ。 ふん。 いまにお前たちだってどんな事になるかわかったものじゃない。 一生引受けたは笑わせやがる。 でもまあ昔の馴染甲斐に江戸の茶碗酒でも一ぱい振舞ってやろうか。 利左は落ぶれてもお前たちのごちそうにはならんよ。 酒を飲みたかったら附いて来い。 あはは。 おやじこれだけある。 昔の朋輩におごってやるんだ。 茶碗で四はい。 おいまごまごしてないでここへ腰かけて飲めよ。 茶碗酒の味も忘れられぬ。 ああうめえ。 時に利左いまでもやはり吉州と。 いまでもとは何だ。 粋人らしくもねえ。 口のききかたに気をつけろ。 その女ゆえに御覧のとおりのぼうふら売りさ。 悪い事は言わねえ。 お前たちもいい加減に茶屋遊びを切り上げたほうがいいぜ。 上方一と言われた女も手活の花として眺めると三日|経てば萎れる。 いまじゃ長屋のかかになってひとつき風呂へ行かなくても平気でいる。 子供もあるのか。 あたりめえよ。 間の抜けた事を聞くな。 親にも似ねえ猿みたいな顔をした四つの男の子が根っからの貧乏人の子らしく落ちついて長屋で遊んでいやがる。 見せてやろうか。 少しはお前たちのいましめになるかも知れねえ。 連れて行ってくれ。 吉州にも逢いたい。 見たらあいそが尽きるぜ。 ここだこの家だ。 三人はいったら坐るところが無いぞ。 おいお客さまだぞ。 そのお三人のうち伊豆屋吉郎兵衛さまお帰り下さいまし。 そのお方には昔お情にあずかった事がございます。 いやそれはお固い。 昔の事はさらりと水に流して。 そうだそうだ。 長屋の嬶にお情もくそもあるものか。 自惚ちゃいけねえ。 座蒲団なんて洒落たものはねえぞ。 お茶くらいは出す。 まあ。 坊やは寒そうだな。 着物を着るのがいやなんですって。 妙な癖で着物を着せてもすぐ脱いでああしてはだかで寝るんです。 疳の虫のせいでしょうよ。 うそだうそだ。 坊はさっき溝へ落ちて着るものが無くなったからこうして寝かされて着物のかわくのを待っているのだ。 ふざけた真似をするな。 人の家へやって来てお茶も飲まずに帰りそのうえこんな犬の糞みたいなものを門口に捨てやがって人間の附き合いの法も知らねえ鼻ったれ小僧め。 よくもよくも月夜の利左をなめやがったな。 もう二度とふたたびお前たちの鼻の下の長いつらを見たくねえ。 これを持ってとっとと帰れ。 馬鹿にするな。 いやひどいめに遭った。 それにしても吉州もきたない女になりやがった。 色即是空か。 ほんとうに。 わしはもうきょうから遊びをやめるよ。 卒堵婆小町を眼前にありありと見ました。 出家でもしたいところだね。 わしはもう殺されるのではないかと思った。 おちぶれた昔の友達ほどおそろしいものはない。 路で逢ってもこちらから言葉をかけるのは遠慮すべきものかも知れない。 誰だい一ばん先に言葉をかけたのは。 わしではないよ。 わしはただ吉州にひとめ逢いたくてそれで。 お前だよ。 お前が一ばんさきに走って行って一ばんさきに声をかけておまけにまたあいつの家へ連れて行ってくれなんてつまらぬ事を言い出したのもみんなお前じゃないか。 つつしむべきは好色の念だねえ。 面目ない。 以後はふっつり道楽をやめる。 改心のついでにその足もとに散らばっているお金を拾い集めたらどうだ。 これだって天下の宝だ。 むかし青砥左衛門尉藤綱さまが。 滑川を渡りし時だろう。 わかったわかった。 わしは土方人足というところか。 さがしますよ拾いますよ。 こうして一つ一つにして拾ってみるとお金のありがたさがわかって来るよ。 お前たちも少し手伝ってごらん。 まじめな気持ちになりますよ。 男は女にふられるくらいでなくちゃ駄目なものだ。 本当にそのお心掛けが大事ですわね。 無礼者。 吉野山やがて出でじと思ふ身を花散りなばと人や待つらむ。 吉野山やがて出でんと思ふ身を花散る頃はお迎へたのむ。 擂鉢の底。 あちょいと。 いいえきょうは郵便来ていません。 あなたは青木大蔵さん。 そうですね。 ええそうです。 似ています。 なんですか。 幸吉さんを知っていますか。 内藤幸吉さんを。 ご存じでしょう。 内藤幸吉ですか。 ええそうです。 存じませんね。 そうですか。 あなたはおくには津軽のほうでしょう。 こちらへいらっしゃい。 雨がひどくなりました。 ええ。 津軽でしょう。 そうです。 それじゃたしかだ。 あなたは幸吉さんの兄さんです。 へんなことをおっしゃいますね。 いいえもうそれに違いないのです。 似ていますよ。 幸吉さんよろこぶだろうなあ。 それじゃあとでまた。 すぐに幸吉さんに知らせてあげますからね。 もしもしお客さんですよ。 とおして呉れ。 ひと違いなんです。 お気の毒ですがひと違いなんです。 ばかばかしいのです。 いいえ。 おつるの子です。 お忘れでしょうか。 母はあなたの乳母をしていました。 そうか。 そうか。 そうですか。 これあひどいね。 まったくひどいね。 そうか。 ほんとうですか。 は。 いつかお逢いしたいと思っていました。 起きないか。 田舎では一番でもよそにはもっとできる子がたくさんいます。 つるは甲府にいたのですか。 え父がこの土地で店をひらいて居りました。 甲斐絹問屋につとめて居られた――。 え谷村の丸三という店に奉公して居りましたがのちに独立して甲府で呉服屋をはじめました。 お達者ですか。 はなくなりました。 それじゃ御両親とも。 そうなんです。 母が死んだのはごぞんじなんですね。 知っています。 私が高等学校へはいったとしに聞きました。 十二年まえです。 僕が十三でちょうど小学校を卒業したとしでした。 それから五年経って僕が中学校を卒業する直前に父は狂い死しました。 母が死んでからもう元気がないようでしたがそれからすこしまあ遊びはじめたのでしょうね店は可成大きかったのですが衰運の一途でした。 あのときは全国的に呉服屋がいけないようでした。 いろいろ苦しいこともあったのでしょう。 いけない死にかたをしました井戸に飛びこみました。 世間には心臓|痲痺ということにしてありますけれど。 つるはいくつでなくなったのですか。 母ですか。 母は三十六でなくなりました。 立派な母でした。 死ぬる直前まであなたの名前を言っていました。 出ませんか。 おいそがしいですか。 ああ出ましょう。 一緒に晩御飯でもたべますか。 雨もはれたようですね。 今夜はね計画があるのですよ。 ああそうですか。 だまってつき合って下さい。 承知しました。 どこへでも行きます。 でもよく逢えたねえ。 ええお名前はまえから母に朝夕聞かされて失礼ですがほんとうの兄のような気がしていつかはお逢いできるだろうと奇妙に楽観していたのです。 へんですねいつかは逢えると確信していたので僕はのんきでしたよ。 僕さえ丈夫で生きていたら。 私が十歳くらいで君が三つか四つくらいのときいちど逢ったことがあるんじゃないかしら。 つるがお盆のとき小さい色の白い子を連れて来てその子がたいへん行儀がよくおとなしいので私はちょっとその子を嫉妬したものだがあれが君だったのかしら。 僕かも知れません。 よく覚えていないのです。 大きくなってから母にそう言われてぼんやり思い出せるような気がしました。 なんでも永い旅でした。 お家のまえにきれいな川が流れていました。 川じゃないよ。 あれは溝だ。 庭の池の水があふれてあそこへ流れて来ているのだ。 そうですか。 それから大きなさるすべりの木がお家のまえに在りました。 まっかな花がたくさん咲いていました。 さるすべりじゃないだろう。 ねむの木なら一本あるよ。 それもそんなに大きくない。 君はそのころ小さかったから溝でも木でもなんでも大きく大きく見えたのだろう。 そうかも知れませんね。 そのほかのことはちっともなんにも覚えていません。 あなたのお顔ぐらいは覚えて置いてもよかったのに。 三つか四つのころでは記憶にないのが当りまえさ。 けれどどうだいはじめて逢った兄なるものはあんな安宿でごろごろしていて風采もぱっとせずさびしくないか。 いいえ。 さっきの郵便屋さんは君のお友達かね。 そうです。 親友です。 萩野君と言います。 いい人ですよ。 あの人はこんどは手柄をたてました。 まえから僕があの人にあなたのことを言ってあかして居りましたのであの人もあなたのお名前を知ってしまってそうしてたびたびあなたのところへ郵便配達しているうちにふとこのひとじゃないかと思ったのだそうです。 五六日まえ僕のところへ来てそんなことを言いますから僕もわくわくしてどんな人かと聞きましたらただ宿へ郵便を投げこむだけなのだから顔は見たことがないと言います。 それならこんどは様子をそれとなく内偵してみてくれもし人ちがいだと醜態だからと妹まで一緒になって大騒ぎでした。 妹さんもあるのですか。 ええ私と四つちがうのですから二十一です。 すると君は。 二十五ですね。 私とは六つちがうわけだ。 どこかへおつとめですか。 そこのデパアトです。 デパアトはいまいそがしいでしょう。 景気がいいのだそうですね。 とてもたいへんです。 こないだも一日仕入が早かったばかりに三万円ちかくもうけました。 永いことおつとめなのですか。 中学校を卒業してすぐです。 家がなくなったもので皆に同情されて父の知り合いの人たちのお世話もあってあのデパアトの呉服部にはいることができたのです。 皆さん親切です。 妹も一階につとめているのですよ。 偉いですね。 わがままでだめです。 いいえ君だって偉いさ。 ちっともしょげないで。 やるだけのことをやっているだけです。 ここです。 よすぎる。 たかいんじゃないか。 いいのです。 かまいません。 たかいぞきっとこの家は。 僕もはじめてなんですが。 いいんだ。 かまわない。 ここでなくちゃいけないんだ。 さはいりましょう。 大丈夫かなあ。 はじめっから計画していたんです。 今夜はどこへでもつき合うって約束してくれたんじゃないですか。 よしはいろう。 表二階の八畳がいい。 やあ階段もひろくしたんだね。 なんだはじめてでもなさそうじゃないか。 いいえはじめてなんです。 八畳は暗くてだめかな。 十畳のほうはあいていますか。 ここはちっともかわらんな。 おや床の間が少しちがったかな。 ここはね僕の家だったのです。 いつかいちどは来てみたいと思っていたのですが。 あそうか。 どうりで家のつくりが料理屋らしくないと思った。 あそうか。 この部屋にはね店の品物がたくさん積みこまれて僕たちはその反物で山をこさえたり谷をこさえたりしてそれに登って遊んだものです。 ここはこんなに日当りがいいでしょう。 だもんだから母はちょうどあなたのお坐りになっていらっしゃるその辺に坐ってよく仕立物をしていました。 十年もむかしのことですがこの部屋へ来てみるとやっぱし昔のことがいちいちはっきり思い出されます。 ああむかい側もおんなじだ。 久留島さんだ。 そのおとなりが糸屋さん。 そのまた隣が秤り屋さん。 ちっとも変っていないんだなあ。 や富士が見える。 まっすぐに見える。 ごらんなさい。 昔とおんなじだ。 ねかえろうよ。 いけないよ。 ここでは酒も呑めないよ。 もうわかったからかえりましょう。 わるい計画だったね。 いいえ感傷なんか無いんです。 もうどうせ他人の家です。 でも久しぶりに来て見ると何でもかんでも珍らしく僕はうれしいのです。 お酒呑みますか。 僕はビイルだと少しは呑めるのですけれど。 日本酒はだめか。 好きじゃないんです。 父は酒乱。 私は酒乱じゃないけどかなり好きなほうだ。 それじゃ私はお酒を呑むから君はビイルにし給え。 君そこに呼鈴があるじゃないか。 あそうか。 僕の家だったころにはこんなものなかった。 だけどいいねえ。 乳兄弟っていいものだねえ。 血のつながりというものは少し濃すぎてべとついてかなわないところがあるけれど乳兄弟ってのは乳のつながりだ。 爽やかでいいね。 ああきょうはよかった。 ねさっきも言うように君は私に逢ってさぞやがっかりなさったことでしょうねえ。 いやわかっている。 弁解は聞きたくない。 私が大学の先生くらいになっていたら君はもっと早く私の東京の家を捜し出してそうして君は君の妹さんと二人で私を訪ねて来た筈だ。 いや弁解は聞きたくないね。 ところが私はいまこれときまった家さえ無いどうも自分ながら意気地のない作家だ。 ちっとも有名でない。 私には青木大蔵という名前のほかにもうひとつ小説を書くときにだけ使っているへんな名前がある。 あるけれどもそれは言わない。 言ったってどうせ君たちは知りやしない。 いちどだって聞いたこともないようなへんな名前である。 言うだけ損だ。 けれども君軽蔑しちゃいかんよ。 世の中には私たちみたいな種類の人間もたしかに必要なんだ。 なくてはかなわぬ重要な歯車の一つだ。 私はそれを信じている。 だから苦しくてもこうして頑張って生きている。 死ぬもんか。 自愛。 人間これを忘れてはいかん。 結局たよるものはこの気持ひとつだ。 いまに私だって偉くなるさ。 なんだこんな家の一つや二つ。 立派に買いもどしてみせる。 しょげるなしょげるな。 自愛。 これを忘れてさえいなけれあ大丈夫だ。 しょげちゃいけない。 いいか君のお父さんとそれから君のお母さんとおふたりが力を合せてこの家を建設した。 それから運がわるくまたこの家を手放した。 けれども私がもし君のお父さんお母さんだったらべつにそれを悲しまないね。 子供が二人とも立派に成長してよその人にもうしろ指一本さされず爽快にその日その日を送ってこんなに嬉しいことないじゃないか。 大勝利だ。 ヴィクトリイだ。 なんだいこんな家の一つや二つ。 恋着しちゃいけない。 投げ捨てよ過去の森。 自愛だ。 私がついている。 泣くやつがあるか。 どこでも知っていやがる。 母は御不浄を一ばん綺麗にお掃除していました。 萩野さんはとても似ているというんだけど。 そうだそうだ。 幸吉さんは私とは他人だ。 血のつながりなんか無いんだ。 乳のつながりだけなんだ。 似ていてたまるか。 私みたいな酒呑みはだめだ。 そんなことない。 私たちうれしいのよ。 しっかりやって下さいね。 あんまりお酒のんじゃいけない。 あれはなんだ。 鷺です。 郵便屋さんですよ。 玄関まで。 書留ですか。 いいえ。 ちょっとお目にかかりたいんですって。 やまだおやすみだったのですね。 ゆうべは酔ったんですってね。 なんともありませんか。 これ幸吉さんの妹さんから。 なんですかそれは。 ゆうべあなたがそう言ったそうじゃないですか。 なんにも世話なんか要らない。 部屋に飾る花が一つあればそれでたくさんだって。 そうかなあ。 そんなこと言ったかなあ。 いやどうもありがとう。 幸吉さんと妹さんにもそう言って下さい。 ゆうべはほんとうに失礼しました。 いつもはあんなじゃないのですからこわがらないでどんどん宿へ遊びに来て下さいって。 でも言っていましたよ。 仕事の邪魔になるから宿へ来るなって言われたのでそのうちお仕事がすんでからみんなで御岳へ遊びに行くんだとそう言っていましたよ。 そうか。 そんなばかなこと私が言ったのかねえ。 仕事のほうはどうにでも都合がつくのだから御岳へでもどこへでもきっと一緒に行きますとそう言って下さい。 私はいつでもいいんです。 早いほどいいなあ。 二三日中に行きたいなあ。 どうでもそこはあなたたちの都合のいいようにとそう言って下さい。 私はほんとうにいつでもいいのですからね。 承知しました。 僕も一緒に行くんです。 これからもよろしく。 あ焼けたね。 ええ焼ける家だったのですね。 父も母も仕合せでしたね。 あ裏二階のほうにも火がまわっちゃったらしいな。 全焼ですね。 微笑。 なんだろう。 すぐ裏に公園の動物園があるのよ。 ライオンなんか逃げ出しちゃたいへんね。 ハムレット。 ハムレット。 ハムレット。 新ハムレット。 ハムレット。 新評註ハムレット。 新評註ハムレット。 ハムレット。 ハムレット。 ハムレット。 新ハムレット。 時と亡霊。 皆も疲れたろうね。 御苦労でした。 先王がまことに突然亡くなってその涙も乾かぬうちにわしのような者が位を継ぎまた此の度はガーツルードと新婚の式を行いわしとしても具合の悪い事でしたがすべて此のデンマークの為です。 皆とも充分に相談の上でいろいろ取りきめた事ですから地下の兄先王も皆の私心無き憂国の情にめんじてわしたちを許してくれるだろうと思う。 まことに此の頃のデンマークはノーウエーとも不仲でありいつ戦争が起るかも知れず王位は一日も空けて置く事が出来なかったのです。 王子ハムレットは若冠ゆえ皆のすすめに依ってわしが王位にのぼったのですがわしとても先王ほどの手腕は無し徳望も無ければまたごらんのとおり風采もあがらず血をわけた実の兄弟とも思われぬくらいに不敏の弟なのですから果して此の重責に堪え得るかどうか外国の侮りを受けずにすむかどうか頗る不安に思って居りましたところかねて令徳の誉高いガーツルードどのが一生わしの傍にいて国の為わしの力になってくれる事になりましたのでもはや王城の基礎も確固たりデンマークも安泰と思います。 皆も御苦労でした。 先王が亡くなられてから今日までもう二箇月にもなりますがわしには何もかも夢のようです。 でも皆の聡明な助言に依ってどうやら大過なくここまではやって来ました。 いかにも未熟の者ですから皆も今日以後変らず忠勤の程を見せわしを安心させて下さい。 ああ忘れていた。 レヤチーズがわしに何か願いがあるとか言っていましたね。 なんですか。 はい。 実はフランスへもう一度遊学に行かせていただきたいと思っているのでございますが。 その事でしたらかまいません。 君にも此の二箇月間ずいぶん働いてもらいました。 もうこちらはどうやら一段落ですからゆっくり勉強しておいでなさい。 恐れいります。 君の父にも相談した上の事でしょうね。 ポローニヤスどうですか。 はい。 どうにもうるさく頼みますのでとうとう昨夜私も根負け致しましてそれでは王さまにお願いして見よと申し聞かせた次第でございます。 ヘッヘどうも若いものにはフランスの味が忘れかねるようでございます。 無理もない。 レヤチーズ子供にとっては王の裁可よりも父の許しのほうが大事です。 一家の和合はそのまま王への忠義です。 父の許しがあったならばそれでよい。 からだを損わぬ程度に遊んでおいで。 若い時には遊ぶのにも張り合いがあるからうらやましい。 ハムレットはこのごろ元気が無いようですが君もフランスへ行きたいのですか。 僕ですか。 からかわないで下さい。 僕は地獄へ行くんです。 何をぷんぷんしているのです。 あそうか。 君はウイッタンバーグの大学へまた行きたいと言っていましたね。 でもそれは怺えて下さい。 わしからお願いします。 君はもうすぐ此のデンマークの王位を継がなければならぬ人です。 今は国もめんどうな時ですからわしが仮に王位に即きましたが此の危機が去って人々の心も落ちつけばわしは君に跡を継いでもらってゆっくり休息したいと思って居ります。 それゆえ君はいまからわしの傍にいて少しずつ政治を見習うように心掛けなければいけません。 いやわしを助けてもらいたいのです。 どうか大学へ行くのはあきらめて下さい。 これは父としての願いでもあるのです。 君がいなくなると王妃だって淋しがるでしょう。 君はこのごろ健康を害しているようにも見えます。 レヤチーズ――。 はい。 君はいい父を持って仕合せだね。 ハムレットなんという事をおっしゃるのです。 私にはあなたがふてくされているようにしか思われません。 そんな厭味な気障な態度はおよしなさい。 不満があるなら男らしくはっきりおっしゃって下さい。 私はそんな言いかたはきらいです。 はっきり言いましょうか。 わかっています。 わしは此の機会に君と二人きりでゆっくり話してみたい。 王妃もそんなに怒るものではありません。 若い者には若い者の正当な言いぶんがある筈です。 わしにも反省しなければならぬ事がまだまだあるように思われます。 ハムレット泣かずともよい。 なにそら涙ですよ。 この子は小さい時からつくり泣きが上手だったのです。 あまりいたわらずにうんとお叱りになって下さい。 ガーツルード言葉をつつしみなさい。 ハムレットはあなたひとりの子ではありません。 ハムレットはデンマーク国の王子です。 それだから私も言うのです。 ハムレットだってもう二十三になります。 いつまで甘えているのでしょう。 私は生みの母として此の子を恥ずかしく思います。 ごらん下さい。 きょうは王の初|謁見式だというのにこの子ばかりはわざと不吉な喪服なんかを着て自分では悲壮のつもりで居るのでしょうがそれがどんなに私たちを苦しめる事なのかこの子は思ってもみないのです。 私にはこの子の考えている事くらいなんでもわかります。 この喪服だって私たちへのいやがらせです。 先王の死をもはや忘れたのかという当てつけのつもりなのでしょう。 誰も忘れてやしません。 心の中では誰だって深く悲しんでいるのですがいまはその悲しみに沈んでばかりも居られません。 私たちはデンマークの国を思わなければいけません。 デンマークの民を思わなければいけません。 私たちには悲しむ事さえ自由ではないのです。 自分の身であって自分のものではないのです。 ハムレットにはそれがちっともわかっていないのです。 いやそれは酷だ。 そんな追いつめるような言いかたをしてはいけません。 人を無益に傷つけるだけの事です。 王妃には生みの母という安心があってその愛情を頼みすぎてそんな事を言うのでしょうが若い者にとっては陰の愛情よりもあらわれた言葉のほうが重大なのです。 わしにも覚えがあります。 言葉に拠って自分の全部が決定されるような気がするものです。 王妃もきょうはどうかしていますよ。 ハムレットが喪服を着ていたって少しも差しつかえ無いと思います。 少年の感傷は純粋なものです。 それをわしたちの生活に無理に同化させようとするのは罪悪です。 大事にしてやらなければいけません。 わしたちこそこの少年の純粋を学ばなければいけないのかも知れません。 わかるとは思っていながらいつのまにやらわしたちは大事なものを失っている場合もあるのです。 とにかくわしはハムレットと二人きりでゆっくり話してみたいと思いますからみんなは暫く向うへ行っていて下さい。 そんならお願い致します。 私も少し言いすぎたようですがでもあなたも義理ある仲だと思って此の子に優しくしすぎるようです。 それではいつまで経ってもこの子は立派になりません。 先王がおいでになったとしてもきょうの此の子の態度にはきっとお怒りになり此の子をお打ちになったでしょう。 打ったらいいんだ。 また何をおっしゃる。 もっと素直におなりなさい。 ハムレットここへお坐りなさい。 厭ならそのままでいい。 わしも立って話しましょう。 ハムレット大きくなったね。 もうわしと脊丈が同じくらいだ。 これからもどんどん大人になるでしょう。 でもも少し太らなければいけませんね。 ずいぶん痩せている。 顔色もこのごろよくないようです。 自重して下さいよ。 君の将来の重大な責務を考えて下さい。 きょうはここで二人きりでゆっくり話してみましょう。 わしは前から二人きりになれる機会を待っていたのです。 わしも思っているところを虚心|坦懐に申しますから君も遠慮なさらず率直になんでも言って下さい。 どんなに愛し合っていても口に出してそれと言わなければその愛が互いにわからないでいる事だって世の中にはままあるのです。 人類は言葉の動物という哲学者の意見もわしにはわかるような気がします。 きょうはよく二人で話合ってみましょう。 わしも此の二箇月間はいそがしく君と落ちついて話をする機会もなかった。 全くそのひまが無かったのです。 ゆるして下さい。 君のほうでもまたなんだかわしと顔を合せるのを避けてばかりいましたね。 わしが部屋へはいると君はいつでもぷいと部屋から出て行きます。 わしはその度毎にどんなに淋しかったか。 ハムレット。 顔を挙げなさい。 そうしてわしの問いにはっきりまじめに答えて下さい。 わしは君に聞きたい事がある。 君はわしをきらいなのですか。 わしはいまでは君の父です。 君はわしのような父を軽蔑しているのですか。 憎んでいるのですか。 さはっきりと答えて下さい。 一言でいい。 聞かせて下さい。 Alittlemorethankin,andlessthankind.。 なんだって。 よく聞きとれなかった。 ふざけてはいけません。 わしはまじめに尋ねているのです。 語呂合せのようなしゃれた答えかたはしないで下さい。 人生は芝居ではないのです。 はっきり言っている筈です。 叔父さん。 あなたはいい叔父さんだったけど――。 いやな父だというのですね。 実感はいつわれませんからね。 いや有難う。 よく言ってくれました。 そのようにいつでもはっきり言ってくれるといいのです。 真実の言葉に対してはわしは決して怒りません。 実はわしも君とそっくりな実感を持っているのです。 何も君そんなに顔色を変えてわしを睨む事は無いじゃないか。 君は少し表情が大袈裟ですね。 わかい頃は誰しもそうなんだが君は自分ではずいぶん手ひどい事を他人に言っていながら自分が何か一言でも他人から言われると飛び上って騒ぎたてる。 君が他人から言われて手痛いように他人だって君にずけずけ言われてどんなに手痛いか君はそんな事は思ってもみないのですからね。 そんな決してそんな――ばからしい。 僕はいつでもせっぱつまってくるしまぎれに言ってるのです。 ずけずけなんて言った覚えはありません。 だからそれが君だけでは無いと言うのです。 わしたちだっていつでもせっぱつまって言っているのです。 精一ぱいで生きているのです。 わしたちには何か力の余裕と自信が満ちているように君たちには見えるのかも知れないが同じ事です。 君たちとほとんど同じ事なのです。 一日を息災に暮し得てはほっとして神にお礼を申している有様なのです。 ことにもわしはハムレット王家の血を受けて生れて来た男です。 君もご存じのようにハムレット王家の血の中には優柔不断な弱い気質が流れて居ります。 先王もわしも幼い時から泣き虫でした。 わしたち二人が庭で遊んでいるのを他国の使臣などが見て女の子と間違ったものです。 二人そろって病弱でした。 侍医も二人の完全な成長を疑っていたようでした。 けれども先王はその後の修養に依ってあのように立派な賢王になられました。 宿命を意志でもって変革する事が出来るとわしは今では信じて居ります。 先王がそのよいお手本です。 わしは今懸命に努力しています。 何とかして此のデンマークの為に強い支柱になってやりたいと思っています。 本当に精一ぱいなのです。 けれどもいまわしを一ばん苦しめているものはハムレットご存じですか君です。 君はさっき実感はあらそわれないとか言いましたがわしもそのとおり君を我が子と思えないのです。 もっとはっきり言いましょう。 君は可愛い甥でした。 わしは君を利巧な甥としてしんから愛して来ました。 君だって先王がおいでの頃はこの山羊のおじさんになついていました。 わしの顔が山羊に似ているのを一ばんさきに見つけたのはわしの可愛い甥でした。 叔父さんもよろこんで山羊のおじさんになっていました。 あの頃がなつかしいね。 いまではわしと君は親子です。 そうして心は千里も万里も離れました。 むかしの二人の愛情がそのまま憎悪に変ってしまった。 わしたちが親子になったのが不仕合せのもとでした。 でもこれはこのままにしては置けません。 ハムレットわしには一つお願いがあります。 あざむいて下さい。 せめて臣下の見ている前だけでも君の実感をあざむいて下さい。 わしと仲の良い振りをしていて下さい。 いやな事でしょう。 くるしい事です。 でもその他に方法がありません。 王家の不和は臣下の信頼を失い民の心を暗くしついには外国に侮られます。 さっき王妃も言いましたがわしたちの場合は自分のからだであって自分のものではないのです。 すべて此のデンマークの為に父祖の土の為に自分の感情は捨てなければなりません。 此のデンマークの土も海も民もやがては君の掌に渡されるのです。 わしたちはいま協力しなければいけません。 わしを愛してくれとは申しません。 わしだって君を心の底から我が子と呼んで抱きしめる程の愛情は打ち明けたところどうしても感ぜられない状態なのですから君にだけ無理に愛せよ等とは言えません。 ただ人の見ている前だけでいいのです。 それがお互いのくるしい義務です。 天意だと思います。 これには従わなければいけません。 愛への潔癖よりも義務への忍従のほうが神の悦び賞するところだと信じます。 またはじめは身振りだけの愛の挨拶であっても次第にそこから本当の愛が滲んで湧いて来る事だってあると思います。 わかりました。 それくらいの事は僕にだってわかっています。 僕はめんどうくさいんです。 僕をも少し遊ばせて置いて下さい。 叔父さん僕から一つお願いします。 僕をまたウイッタンバーグの大学へ行かせて下さい。 二人だけの時は叔父と呼んでも一向かまいませんが王妃や臣下のいる前では必ず父と呼ぶことを約束しなければなりません。 こんなつまらぬ事をとがめだてするのはわしはつらくて恥ずかしいのですがそんな些細の形式がデンマーク国の運命にさえ影響します。 わしは此の事をさっきから君にたのんでいるのです。 そうですか。 どうも。 君はどうしてそうなんでしょう。 わしがちょっとでもむきになって何か言うとすぐぷんとしてそんな軽薄な返事をしてわしの言葉をはぐらかしてしまいます。 叔父さんいや王こそ僕のお願いをはぐらかします。 僕はウイッタンバーグへ行きたいんです。 それだけなんです。 本当ですか。 わしはそれを嘘だと思っています。 だから聞えぬ振りをしようと思っていたのです。 大学へまた行きたいというのは君の本心ではありません。 それは口実にすぎません。 君はそんな事を言ってただわしに反抗してみているだけなのです。 わしだって知っています。 若いころの驕慢の翼はただ意味も無くはばたいてみたいものです。 やたらにもがきたいのです。 わしはそれを動物的な本能だと思っています。 その動物的な本能にさまざま理想や正義の理窟を結びつけて呻いているのです。 わしは断言できる。 君はよし先王が生きておいでになってもきっといまごろは先王に反抗している。 そうして先王を軽蔑し憎みわからずやだと陰口をきき先王を手こずらせているでしょう。 そんな年ごろなのです。 君の反抗は肉体的なものです。 精神的なものではありません。 いま君はウイッタンバーグへ行ってもその結果がわしには眼に見えるようです。 君は大学の友人たちから英雄のように迎えられるでしょう。 旧弊な家風に反抗し頑迷冷酷な義父と戦い自由を求めて再び大学へ帰って来た真実の友正義潔白の王子として接吻乾盃の雨を浴びるでしょう。 でもそのような異様の感激はなんであろう。 わしはそれを生理的感傷と呼びたいのです。 犬が芝生に半狂乱でからだをこすりつけている有様とよく似ていると思います。 少し言いすぎました。 わしはその若い感激を全部否定しようとは思いません。 それは神から与えられた一つの時期です。 必ずとおらなければならぬ火の海です。 けれども人は一日も早くそこから這いあがらなければいけません。 当りまえの事です。 充分に狂い焦げつきそうして一刻も早く目ざめる。 それが最上の道です。 わしだって君も知っているように決して聡明な人間ではありませんでした。 いや実に劣った馬鹿でした。 いまでもわしははっきり目ざめているとは言えません。 けれどもわしは君にだけは失敗させたくないと思っています。 君は学友たちのその場かぎりの喝采の本質を調べてみた事がありますか。 あれはふしだらの先輩を得たという安堵です。 お互いに悪徳と冒険を誇り合いやがて薄汚い無能の老いぼれに墜落させ合うばかりです。 わしはわしの愚かな経験から君に言い聞かせているのです。 わしは永いあいだ放埒な大学生々活をして来ました。 そうしていまに残っているものは何でしょう。 何もありません。 ただいやらしい思い出です。 呻くばかりの慚愧です。 惰性の官能です。 わしはその悪習慣をもてあましました。 いまだってなおその処理にくるしんで居ります。 レヤチーズの場合はちがいます。 あれには出世という希望があります。 出世という希望のあるうちは人はデカダンスに落ちいる事はありません。 君にはその希望がありません。 落ちてみたい情熱だけです。 君は既に三箇年間大学の生活をして来ました。 もう充分なのです。 再び昔の学友たちとあの熱狂を繰り返したらこんどは取りかえしのつかぬ事になるかも知れません。 少年の頃の不名誉の傷は皆の大笑いのうちに容易になおりますが二十三歳の一個の男子の失態の傷はなまぐさくなかなか拭き取り難いものです。 自重して下さい。 大学生たちは無責任な強烈な言葉で君をそそのかすだけです。 わしにはよくわかっています。 さっき臣下の前ではわしは他の理由で君の大学行きを止めましたがいやたしかにあの時申した事も重要な理由でしたがそれよりもわしには君のいまの驕慢の翼が心配だったのです。 その翼の情熱の行方が心配だったのです。 さっき臣下の前で申した事も君には心掛けて置いてもらいたいすなわちわしの傍にいて実際の政治を見習うようにしてもらいたいけれどもそんな政治上の思惑の他にわしは君の父としていや愚かな先輩の義務として君の冒険に忠告したかったのです。 わしは君にまことの父としての愛情が実感せられないとも言いましたがけれども人間の義務感はまた別のものです。 わしは君の役に立ちたい。 わしの愚かな経験からやっと得た結論を君に教えて君を守りたいと思っているのです。 君を立派に育てたいと念じているのです。 それを疑ってはいけません。 君はデンマーク国の王子です。 二無き大事な身の上です。 もっと自覚を深めて下さい。 レヤチーズなどと一緒にして考えてはいけません。 レヤチーズは君の一臣下に過ぎません。 フランスへ行くのも将来その身に箔をつけたい為です。 だからあの抜け目の無いポローニヤスだってゆるしたのです。 君にはそんな必要がありません。 どうかウイッタンバーグへ行くのは怺えて下さい。 これはもうお願いではありません。 命令です。 わしには君を立派な王に育て上げる義務があります。 この王城にとどまり間もなく佳い姫を迎える事にしようではないかハムレット。 僕は何もレヤチーズの真似をしようとは思っていません。 なんでもないんです。 僕はただ――。 よしよしわかっています。 昔の学友たちと逢いたくなったのでしょう。 わしにも打ち明けられぬ事が出来たのでしょう。 そんならウイッタンバーグまで行く必要はいよいよありません。 ホレーショーをわしが呼んで置きました。 ホレーショーを。 うれしそうですね。 あれは君の一ばんの親友でしたね。 わしもあれの誠実な性格を高く評価して居ります。 もうウイッタンバーグを出発した筈です。 ありがとう。 それでは握手しましょう。 話合ってみるとなんでもない。 これからだんだん仲良くなるでしょう。 どうもきょうは君にも失礼な事を言いましたが悪く思わないで下さい。 饗宴の合図の大砲が鳴っています。 皆も待ちかねている事でしょう。 一緒にまいりましょう。 あの僕はも少しここでひとりで考えていたいんです。 どうぞおさきに。 わあ退屈した。 くどくどと同じ事ばかり言っていやがる。 このごろ急にもっともらしい顔になって神妙な事を言っているが何を言ったって駄目さ。 自己弁解ばかりじゃないか。 もとをただせば山羊のおじさんさ。 お酒を飲んで酔っぱらってしょっちゅうお父さんに叱られてばかりいたじゃないか。 僕をそそのかしてお城の外の女のところへ遊びに連れていったのもあの山羊のおじさんじゃないか。 あそこの女は叔父さんの事を豚のおばけだと言っていたんだ。 山羊ならまだしも上品な名前だ。 がらでないんだ。 がらでないんだ。 可哀そうなくらいだ。 資格がないのさ。 王さまの資格がないんだ。 山羊の王さまなんて僕には滑稽で仕方が無い。 でも叔父さんは油断がならん。 見抜いていやがった。 僕が本当はウイッタンバーグなんかに行く気が無いという事を知っていやがった。 油断がならん。 蛇の路はへびか。 ああホレーショーに逢いたい。 誰でもいい。 昔の友人に逢いたい。 聞いてもらいたい事があるんだ。 相談したい事があるのだ。 ホレーショーを呼んでくれたとは山羊のおじさん大出来だ。 道楽した者にはまたへんな勘のよさがある。 いったい山羊めどこまで知っているものかな。 ああ僕も堕落した。 堕落しちゃった。 お父さんがなくなってからは僕の生活も滅茶滅茶だ。 お母さんは僕よりも山羊のおじさんのほうに味方してすっかり他人になってしまったし僕は狂ってしまったんだ。 僕は誇りの高い男だ。 僕は自分のこのごろの恥知らずの行為を思えばたまらない。 僕はいまでは誰の悪口も言えないような男になってしまった。 卑劣だ。 誰に逢ってもおどおどする。 ああどうすればいいんだ。 ホレーショー。 父は死に母は奪われおまけにあの山羊のおばけがいやにもったいぶって僕にお説教ばかりする。 いやらしい。 きたならしい。 ああでもそれよりも僕にはもっと苦しい焼ける思いのものがあるのだ。 いや何もかもだ。 みんな苦しい。 いろんな事が此の二箇月間ごちゃまぜになって僕を襲った。 くるしい事がこんなに一緒に次から次と起るものだとは知らなかった。 苦しみが苦しみを生み悲しみが悲しみを生み溜息が溜息をふやす。 自殺。 のがれる法はそれだけだ。 荷作りくらいはおまえがしてくれたっていいじゃないか。 ああいそがしい。 船はもう帆に風をはらんで待っているのだ。 おいその哲学小辞典を持って来ておくれ。 これを忘れちゃ一大事だ。 フランスの貴婦人たちは哲学めいた言葉がお好きなんだ。 おいこのトランクの中に香水をちょっと振り撒いておくれ。 紳士の高尚な心構えだ。 よしこれで荷作りが出来た。 さあ出発だ。 オフィリヤ留守中はお父さんのお世話をよくたのんだぞ。 何をぼんやりしているのさ。 此の頃なんだか眠たそうな顔ばかりしているようだが思春期は眠いものと見えるね。 あたしにも苦しい事があるのよと思う宵にもぐうぐうと寝るという小唄があるけどそっくりお前みたいだ。 あんまり居眠りばかりしてないでたまにはフランスの兄さんに音信をしろよ。 すまいとばし思うて。 なんだいそれあ。 へんな言葉だ。 いやになるね。 だって坪内さまが――。 ああそうか。 坪内さんも東洋一の大学者だが少し言葉に凝り過ぎる。 すまいとばし思うて。 とはひどいなあ。 媚びてるよ。 いやいや坪内さんのせいだけじゃない。 お前自身がこのごろ少しいやらしくなっているのだ。 気をつけなさい。 兄さんにはなんでもわかる。 口紅をそんなに赤く塗ったりしてげびてるじゃないか。 不潔だ。 なんだいいやになまめきやがって。 ごめんなさい。 ちぇっ。 すぐ泣きやがる。 兄さんにはなんでも全部わかっているのだぞ。 いままでわざと知らぬ振りしていたのだがそれでも遠まわしにそれとなくお前の反省をうながして来た筈なのにお前はてんで気にもとめない。 のぼせあがっているんだから仕様が無い。 僕はなるべくならばこんなくだらない事には口を出したくなかったんだ。 けがらわしい。 でもきょうはどうにも僕の留守の間の事が心配になってつい言い出してしまったのだがこうなればいっそ全部お前に言って置いたほうがよいかも知れない。 いいかあの人の事はあきらめろ。 馬鹿な事だ。 わかり切った事だ。 あの人がどんな身分の方かそれを考えたらわかる事だ。 出来ない相談だよ。 断々乎として僕は反対だ。 いまはっきり言って置く。 お前のたった一人の兄としてまたなくなられたお母さんの身代りとして僕は断然不承知だ。 お父さんはのんきだからまだ御存じないようだがもしお父さんに知られたらどんな事になるか。 お父さんは責任上いまの重職を辞さなければならぬ。 僕の前途もまっくらやみだ。 お前はてて無し子を抱えて乞食にでもなるさ。 いいかあの人にこう言ってくれレヤチーズの妹をなぐさみものにしたならばどいつこいつの容赦は無いどのようなお身分の方であっても生かして置けぬとレヤチーズが鬼神に誓って言っていましたとそう伝えてくれ。 兄さん。 そんなひどい事をおっしゃってはいけません。 あの方は――。 馬鹿野郎。 まだそんな寝言を言っていやがる。 薄汚い。 それではもっとはっきり言ってあげる。 僕の反対するのは何もあの人のお身分のせいばかりではないのだ。 僕はあの人をきらいなのだ。 大きらいだ。 あの人はニヒリストだ。 道楽者だ。 僕は小さい時からあの人の遊び相手を勤めて来たからよく知っている。 あの人はとても利巧だった。 ませていた。 なんにでも直ぐに上達した。 弓剣術乗馬それに詩やら劇やら僕には不思議でならぬくらいによく出来た。 けれども少しも熱が無い。 一とおり上達するとすぐにやめてしまうのだ。 あきっぽいのだ。 僕にはあんな性格の人はいやだ。 他人の心の裏を覗くのが素早くて自分ひとり心得顔してにやにやしている。 いやな人だよ。 僕たちの懸命の努力を笑っているのだ。 あんなのを軽薄才士というのだ。 いやに様子ぶっていやがる。 その癖王さまや王妃さまに何か言われると大勢の臣下の前もはばからずめそめそ泣き出す。 女の腐ったみたいな奴だ。 オフィリヤお前は何も知らない。 けれども僕は知っている。 あの人は全然たのみにならぬ人だ。 男は此のデンマークに森の木の葉の数よりも多く居るのだ。 兄さんはその中でも一ばん強い一ばん優しい一ばん誠実なそして誰よりも綺麗な顔の青年をお前の為に見つけてあげる。 ね兄さんを信じておくれ。 お前は今まで兄さんの言う事なら何でも信じてくれたじゃないか。 そうして兄さんはお前を一度もだました事は無かったね。 そうだろう。 よしわかったね。 お願いだからあの人の事はもうきょう限りあきらめろ。 こんどあの人が何かお前にうるさく言ったらレヤチーズが生かして置けぬと怒っていましたと知らせてやれ。 あの人は意気地が無いから蒼くなって震え上るに相違ない。 わかったね。 もし万一まあそんな事もあるまいけれどお前が僕の留守中に何か恥知らずの無分別でも起したなら兄さんはお前たち二人を本当にそのままでは置かぬぞ。 怒ったら誰よりもこわい兄さんだという事をお前は知っているね。 ではさあ笑って別れよう。 兄さんは本当はお前を信頼しているのだよ。 さようなら。 兄さんもお元気で。 ありがとう。 留守中はよろしく頼むよ。 なんだか心配だな。 そうだ一つ神さまの前で兄さんに誓言してくれ。 どうも気がかりだ。 兄さんまだお疑いになるの。 いやそんなわけじゃないけど。 じゃまあいいや。 大丈夫だね。 安心していいね。 僕はこんな問題にはあまりしつこく口出ししたくないんだ。 兄としてみっともない事だからね。 なんだまだこんなところにいたのか。 さっきいとま乞いに来たからもうとっくに出発したものとばかり思っていた。 さあさあ出発。 おっと待て待て。 わかれるに当ってもう一度遊学の心得を申し聞かせよう。 ああそれはすでに三度いやたしかに四回うかがいましたけど。 何度だっていい。 十度くりかえしても不足でない。 いいかまず第一に学校の成績を気にかけるな。 学友が五十人あったらその中で四十番くらいの成績が最もよろしい。 間違っても一番になろうなどと思うな。 ポローニヤスの子供ならそんなに頭のいい筈がない。 自分の力の限度を知りあきらめて謙譲に学ぶ事。 これが第一。 つぎには落第せぬ事。 カンニングしてもかまわないから落第だけはせぬ事。 落第は一生お前の傷になります。 としとってお前が然るべき重職に就いた時人はお前の昔のカンニングは忘れても落第の事は忘れず何かと目まぜ袖引きうしろ指さして笑います。 学校はもともと落第させないように出来ているものです。 それを落第するのは必ず学生のほうから無理に好んで志願する結果なのです。 感傷だね。 教師に対する反抗だね。 見栄だね。 くだらない正義感だね。 かえって落第を名誉のように思って両親を泣かせている学生もあるがあれはとしとって出世しかけた時に後悔します。 学生の頃はカンニングは最大の不名誉落第こそは英雄の仕業と信じているものだが実社会に出るとそれは逆だった事に気がつきます。 カンニングは不名誉に非ず落第こそは敗北の基と心掛ける事。 なあに学校を出て後でその頃の学友と思い出話をしてごらん。 たいていカンニングしているものだよ。 そうしてそれをお互いに告白しても肩を叩き合って大笑いしてそれっきりです。 後々の傷にはなりません。 けれども落第はちがいますよ。 それを告白しても人はそんなに無邪気に笑って聞きのがしてはくれません。 お前はどこやら軽蔑されてしまいます。 出世のさまたげ卑屈の基。 人生は学生々活にだけあると思うととんだ間違い。 よくよく気をつけて抜け目なくやっておくれ。 ポローニヤスの子じゃないか。 つぎに学友の選びかたに就いて。 これもまた重大です。 一学年上の学生を必ずひとり友人にして置かなければならぬ。 試験の要領を聞くためだ。 試験官の採点の癖を教えてもらえる。 さらにもうひとり同学年の秀才と必ず親交を結ばなければならぬ。 ノオトを貸してもらいまた試験の時にはお前の座席のすぐ隣りに坐ってもらうためであります。 学友はその二人だけで充分です。 不要の交友は不要の出費。 さて次は金銭に就いて。 これはとりわけ注意を要する。 金銭の貸借一切まかりならん。 借りる事はもとより不埒貸す事もならん。 餓死するとも借金はするな。 世の中は人を餓死させないように出来ています。 うき世の人は娘を嫁にやった事は忘れても一両を他人に貸してやった事は忘れません。 一両を十両にして返されてもやはり自分の貸してやった一両の事だけは忘れません。 これまた永く出世のさまたげ。 大望を抱く男は一厘の借金もせぬものです。 貸す事もならん。 お前から借りた男は必ずお前の悪口を言うだろう。 自分で借りて肩身が狭くお前をけむったいものだから必ずどこかでお前の陰口をたたきます。 すなわちやがて不和の基。 お互いの友情に傷つくような事があっては残念ですからわざとお貸し致しませんとはっきり言って相手の申し込みを断われるくらいの男でなければ将来の大成はまずむずかしいね。 よいか。 金銭の取りあつかいには気をつけるのですよ。 借りても駄目。 貸しても駄目。 つぎに飲酒。 適度に行え。 けれども必ずひとりで飲むな。 ひとりの飲酒は妄想の発端気鬱の拍車。 飲めども飲めども気の晴れるものではない。 一週一回学友と飲め。 それもこちらから誘うのはまずい。 向うから誘われ渋々応じるように心掛けるのが利巧者だ。 意気込んで応じるのは馬鹿のあわて者です。 飲酒の作法はむずかしい。 泥酔してへどを吐くは禁物。 すべての人に侮られる。 大声でわめいて誰かれの差別なく喧嘩口論を吹っ掛けるのも人に敬遠されるばかりで何一ついい事が無い。 なるべくなら末席に坐り周囲の議論を熱心に拝聴しいちいち深く首肯している姿こそ最も望ましいのだがつい酒を過した時にはそれもむずかしくなる。 その時には突然立ち上ってのども破れよとばかり大学の歌を歌え。 歌い終ったらにこにこ笑ってまた酒を飲むべし。 相手からあまりしつこく口論を吹っかけられた場合には屹っとなって相手の顔を見つめやがて静かに君も淋しい男だねとこう言え。 いかな論客でもぐにゃぐにゃになる。 けれどもなるべくならば笑って柳に風と受け流すが上乗。 宴が甚だ乱れかけて来たならば躊躇せずそっと立って宿へ帰るという癖をつけなさい。 何かいい事があるかといつまでも宴席に愚図愚図とどまっているような決断の乏しい男では立身出世の望みが全くないね。 帰る時にはたしかな学友を選んでその者に充分の会費を手渡す事を忘れるな。 三両の会費であったら五両。 五両の会費であったら十両置いてさっと引き上げるのがいい男です。 人を傷つけずまたお前も傷つかずそうしてお前の評判は自然と高くなるだろう。 ああそれから飲酒に於いて最も注意を要する事がもう一つあります。 それは酒の席に於いてはいかなる約束もせぬ事。 これはよくよく気をつけぬととんだ事になる。 飲酒は感激を呼び気宇も高大になる。 いきおい自分の力の限度以上の事をうかと引き受け酔いが醒めて蒼くなって後悔してももう及ばぬ。 これは破滅の第一歩。 酔って約束をしてはならぬ。 つぎには女。 これもまたやむを得ない。 ただあの自惚れだけは警戒しなさい。 お前はポローニヤスの子だ。 父と同様に女に惚れられる柄でない。 お前は小さい時から大鼾きをかく子であった事を忘れてはいけない。 あのような大鼾きでは女房以外の女なら必ず閉口します。 女の誘惑に逢った時お前はきっとあの大鼾きを思い出す事にしなさい。 いいか。 フランスできらわれてもデンマークにはお前でなければいけないという綺麗な娘もいるんだからそこはお父さんにまかせて向うではあまり自惚れないほうがよい。 若い時の女遊びは女を買うのではなく自分の男を見せびらかしに行くんだから自惚れこそは最大の敵と思っていなさい。 さて次は――。 賭博です。 五両だけ損して笑って帰る事です。 儲けてはいけませんのです。 その次は――。 服装の事です。 いいシャツを着て目立たぬ上衣を着るのです。 その次は――。 宿のおばさんに手土産を忘れぬ事です。 あまり親しくしてもいけないのです。 その次は――。 日記をつける事と固パンを買って置く事と鼻毛を時々はさむ事とああもう船が出ます。 お父さんお達者で。 むこうに着いたらゆっくりお便りを差し上げます。 オフィリヤさようならさっき兄さんの言った事を忘れちゃいかんよ。 あもう行ってしまった。 なんて素早い奴だ。 でもまああれくらい言って置いたらいいだろう。 送金の限度に就いて言うのを忘れたがあ散策の必要も言い忘れたがまあまた後で手紙で言ってやる事にしよう。 おやオフィリヤ顔色がよくないよ。 兄さんが何かお前に無理な事を言ったんだね。 わかっていますよ。 お前にお小使い銭をねだったのでしょう。 お父さんから貰うだけでは不足だからこれからも毎月こっそり何程かずつ送るようにお前をおどかして命令したんだ。 いやそれに違いない。 わるい奴さ。 いいえお父さんちがいます。 兄さんはそんなつまらないお方じゃないわ。 大丈夫よ。 いまのようなこまかい御注意などなさらなくても兄さんはみんな心得ていらっしゃるのに。 それあそうさ。 当り前の事だ。 二十三にもなってあれくらいの事を心得ていないでどうする。 同じ年齢でもハムレットさまなどに較べると三倍も大人だ。 レヤチーズは此の親爺よりも偉くなる子です。 でもあんなにやかましくこまごま言ってやるのはわしの深く考えた上での計略なんだ。 あの子だってうるさいとは思っていながら自分に何かとやかましく言ってくれる者が在るという思いはまたあれにとって生きて行く張り合いになるのです。 あれの行末をずいぶん心配している者がここに一人いるという事をあれに知ってもらったらわしはそれで満足なのだ。 いろいろうるさい注意も与えてやりましたがなにみな出鱈目ですよ。 どうだっていい事ばかりです。 レヤチーズにはレヤチーズの生活流儀があるでしょう。 時代もかわっているでしょう。 レヤチーズは自由にやって行っていいのです。 ただ一つわしが心配して気をもんでいるのだという事実だけを知ってもらえたらいいのです。 それを覚えている限りあれは決して堕落しません。 わしはなくなったお母さんと二人分気をもんでいるのだ。 それをあの子に知ってもらいたかったのです。 あの子はそれさえ覚えていたらそれを覚えている限りはああわしは同じ事ばかり言っている。 老いの繰り言という奴だ。 わしもいつの間にかとしをとったよ。 オフィリヤここへお坐りさあお父さんと並んで坐ろう。 これでよし。 まあもう少しお父さんの愚痴も聞いておくれ。 お前はこのごろだんだんお母さんに似て来たね。 わしはなんだかお前のお母さんと話をしているような気がするよ。 お母さんも草葉の蔭で喜んでいるだろう。 レヤチーズはあのように丈夫に育ったしお前も優しくおとなしくてわしの身のまわりの世話をよくしてくれる。 お前の事はお城の外の人たちまで褒めちぎっているそうだ。 ポローニヤスのような親からよくもあんな器量よしが生れたものだとけしからぬがまあいいそんな噂さえわしは聞いている。 本当にお父さんはいまは仕合せな筈だ。 何ひとつ不足は無い筈なんだがオフィリヤ聞いておくれお父さんはこのごろなんだかふっととても心細くなる時があるのだ。 お父さんはもう死ぬんじゃないか。 いやおどろく事は無い。 何も無理に死のうと言うのではない。 お父さんはいつも百歳いや百九歳くらいまでなんとかして生きていたいと大真面目に考えていたものです。 レヤチーズの立派に出世した姿を見て大いに褒めてこれでわしも全く安心したと断言してそれから死にたいと思っていました。 慾の深い話さ。 でもお父さんは本気にそれを念じていました。 わしにはいまわし自身の楽しみというものは何もない。 ただお前たちのために生きていなければならぬと思っていたのだ。 母のない子というものはどんなに可愛いものかレヤチーズだってお前だって知るまい。 わしは子供のためにはどんなつらい事だってします。 お父さんはねこんな事まで考えていた。 つまり人生には最後の褒め役が一人いなければならん。 たとえばレヤチーズの場合レヤチーズもこれから人に褒められたいばかりにさまざま努力するだろうがそんな時に世の中の人全部があれを軽薄に褒めてもわしだけは仲々に褒めてやるまい。 早く褒められると早く満足してしまう。 わしだけはいつまでも気むずかしい顔をしていよう。 かえって侮辱をしてやろう。 しかし最後には必ず褒めます。 謂わば最高の褒め役になろう。 大いに褒める。 天に聞えるほどの大声で褒める。 その時あれはいままで努力して来てよかったと思うだろう。 生きている事を神さまに感謝するだろう。 わしはその最後に褒める大声になりたくてどうしても百九歳いや百八歳でもよいそれまで生きているように心掛けて来たものだがこのごろそれがひどくばからしくなって来た。 褒めたくても怺えて小言をいうのは怒りたいところを我慢するのと同じくらいにつらいものです。 そんなつらい役はお父さんでなければ引き受ける人はあるまい。 親馬鹿というんだね。 親の慾だ。 お父さんはレヤチーズをうんともっと立派にさせたくてそんなつらい役をも引き受けようと思っていたんだがなんだかこのごろ淋しくなった。 いやお父さんはまだまだこれからもお前たちにはこごとを言いますよ。 さっきもレヤチーズにはあんなに口うるさくこごとを言いました。 けれども言った後でお父さんはふっと心細くなるのです。 つまりね教育というものはそんなお父さんの考えているような心の駈引きだけのものじゃないという事がぼんやりわかって来たのです。 子供は親のそんな駈引きをいつの間にか見破ってしまいます。 どうだいわしにしてはたいへんな進歩だろう。 レヤチーズはしっかりしているけれどもやっぱり男だけにまだ単純なところがあります。 お父さんの巧妙な駈引きに乗せられてむきになって努力するところがあります。 それはあれのいいところだ。 それを知っているからお父さんもレヤチーズには時々駈引きをしてしかも成功しています。 さっきお父さんが大声でさまざまの注意を与えてやりましたがレヤチーズはうるさいと思っていながらやっぱりお父さんの気をもんでいる事を知って心底に生き甲斐を感じて出発したのです。 けれどもオフィリヤねえオフィリヤもっとこっちへお寄り。 お父さんがさっきから何を言いたがっているのかわかりますか。 あたしを叱っていらっしゃるのです。 それだ。 すぐそれだ。 お父さんはねそれだからお前がこわいのです。 このごろめっきりこわくなった。 お前にはわしの駈引きが通じない。 すぐ見破ってしまう。 以前はそうでもなかったがねえ。 オフィリヤ。 ――そうです。 さっきからお父さんはお前の事ばかり言っていたのです。 本当にお前の事ばかり心配して言っていたのです。 叱ってやしない。 叱ってやしないけれどなぜお父さんにもっとはっきり言ってくれないのですか。 お父さんにはそれが淋しいのだ。 レヤチーズの事なんかわしはそんなに心配していません。 あれは大声で叱ってやるといつでもしゃんとなる子です。 けれどもオフィリヤわしはこのごろお前を叱る事が出来ない。 強い口調でものを言いつける事も出来ない。 お父さんがふっと心細くなるのもそのためです。 百九歳まで生きるのがいやになって来たのもそのためです。 教育は心の駈引きでないという事がわかって来たのもそのためです。 最高の褒め役なんてものがばからしくなったのもそのためです。 もう死ぬんじゃないかという気がして来たのもオフィリヤ何もかもお前のためです。 オフィリヤ泣く事は無い。 さあお父さんにお前の苦しいと思っている事をなんでも言って聞かせなさい。 さっきからお父さんはお前が言い出すのを今か今かと待っていたのだ。 だからあんな意味もない愚痴めいた事を矢鱈に述べてお前のほうからも気軽く言い出せるようにしてやっていたのだがどうもお父さんはやっぱり駈引きが多くていけないね。 ごめんよ。 お父さんはずるくていけないね。 さあもうお父さんも計略はしないからお前もお父さんを信頼して思い切って言ってみなさい。 これ立ってどこへ行くのだ。 逃げなくてもよい。 さお坐り。 それではお父さんから言ってあげます。 オフィリヤお前はさっき兄さんからひどく怒られていたようだね。 送金の事なんかじゃ無かったんでしょう。 お父さんひどい。 もうたくさんです。 よしわかった。 オフィリヤ。 お前はばかだねえ。 レヤチーズの怒るのも無理はない。 わしはけさ或る下役からいやな忠告を受けた。 寝耳に水の忠告であったがお前のこのごろの打ち沈んでいる様子と思い合せてもしやと思った。 わしはそうでない事を信じたかったがとにかくお前の心を傷つけない程度にそれとなく優しく尋ねてみようと思った。 わしはそのとおりに精一ぱいに優しくいたわって尋ねたつもりだ。 けれどもお前は頑固にだまっていておまけにここから逃げて行こうとさえした。 けれどももうわかりました。 オフィリヤお前たちの恋愛は卑怯だねえ。 少しも無邪気なところが無い。 濁っている。 なぜわしたちにそんなに隠さなければならなかったのか。 相手のお方の態度も見上げたものさ。 てんとして喪服なぞをお召しになってご自身の不義は棚にあげかえって王や王妃にいや味をおっしゃる。 いまの若い者の恋愛とはそんなものかねえ。 好きなら好きでよい。 身分のちがいもあるがそれもいまは昔ほどやかましくはない筈だ。 なぜ無邪気に打ち明けてくれなかったのです。 クローヂヤスさまだってもののわからぬおかたではない。 わしだって若い時には間違いもやらかした。 わるいようにはしなかったのだ。 でももうおそい。 こんなに評判が立ってからだと具合が悪い。 馬鹿だ。 お前たちは馬鹿だ。 だめですよ。 いくら泣いてもだめですよ。 お父さんも呆れました。 それで。 レヤチーズは全部を知っているのかね。 いいえ。 兄さんはそんな事なら生かして置けないと言っていました。 そうだろう。 レヤチーズの言いそうな事だ。 まあレヤチーズには黙っているさ。 此の上あいつが飛び出して来たらいよいよ事だ。 いやな話だねえ。 女の子はこれだからいやだ。 ふんオフィリヤ。 お前はクイーンの冠を取りそこねた。 しばらくだったな。 よく来てくれたね。 どうだいウイッタンバーグは。 どんな具合だい。 みな相変らずかね。 寒いですねえこちらは。 磯の香がしますね。 海からまっすぐに風が吹きつけて来るのだからかなわない。 こちらは毎晩こんなに寒いのですか。 いや今夜はこれでも暖いほうだよ。 一時は寒かったがねえ。 これからは暖くなる一方だ。 もうデンマークもやがて春さ。 ところでどうだねみな元気かね。 王子さま。 僕たちの事より御自身はいかがです。 へんな言いかたをするね。 何か僕に就いて悪い噂でも立っているのかね。 ウイッタンバーグは口がうるさいからなあ。 ホレーショー。 君はへんだよ。 何だかよそよそしいね。 いいえ決してへんな事はありません。 本当に王子さまあんたは大丈夫なんですか。 ああ寒い。 王子さまか。 そんな筈じゃ無かったがねえ。 おい以前のようにハムレットと呼んでくれ。 すっかり他人になってしまったね。 君はいったい何しにエルシノアへ来たんだ。 ごめんごめん。 相変らずのハムレットさまですね。 すぐ怒る。 案外にお元気だ。 大丈夫のようですね。 いやな言いかたをするなあ。 何か悪い噂を聞いて来たのに違いない。 なんだい。 どんな噂だい言ってごらん。 叔父さんが君に要らない事を言ってやったんだろう。 きっとそうだ。 ちっとも知りゃしない癖に要らない事ばかり言いやがる。 いいえ王さまのお手紙は情のこもったものでした。 王子が退屈しているから話相手になりにやって来てくれという勿体ない程ごていねいな文面でした。 ありがたいお手紙でした。 嘘をつけ。 何か他の事もその手紙に書いてあったに違いない。 君だけは嘘をつかない男だと思っていたがねえ。 ハムレットさま。 ホレーショーは昔ながらのあなたの親友です。 いい加減の事は申しません。 それでは全部僕がウイッタンバーグで耳にした事をそのまま申し上げましょう。 どうもここは寒いですねえ。 部屋へ帰りましょう。 どうして僕をこんなところへ引っぱり出して来たのです。 顔を見るなりものも言わずこんな寒い真暗なところへ連れて来てやあしばらくだねとおっしゃるのでは僕だって疑ってみたくなりますよ。 何を疑うのだ。 そうか。 だいたいわかったような気がする。 でもそれは驚いたなあ。 おわかりになりましたか。 とにかくお部屋へ帰りましょう。 僕はジャケツを着て来なかったので。 いやここで話してくれ。 僕もそれに就いて君に大いに聞いてもらいたい事があるんだ。 山ほどあるんだ。 他の人に聞かれちゃまずいんだ。 ここなら大丈夫だ。 寒いだろうけれど我慢してくれ。 どうも人間は秘密を持つようになると壁に耳が本当にあるような気がして来る。 僕もこのごろは少し疑い深くなったよ。 お察し致します。 このたびはお嘆きも深かった事と存じます。 故王には僕も両三度お目にかかった事がございましたけれど――。 それどころじゃないんだ。 嘆きがめらめら燃え出したよ。 まあとにかく君がウイッタンバーグで聞いて来たという事をまず話してみないか。 寒かったらほら僕の外套をあげるよ。 文明国にあんまり永く留学していると皮膚も上品になるようだね。 おそれいります。 ジャケツを着て来なかったものでどうもいけません。 では外套を遠慮なく拝借いたします。 はあもう大丈夫です。 だいぶ暖かになりました。 ありがとう存じます。 早く話してみないかね。 君はデンマークへ寒がりに来たみたいだ。 まったく寒いですね。 どうも失礼いたしました。 ハムレットさま。 では申し上げます。 おやそこの暗闇に人が立っているような気がしますけど。 何を言うのだ。 あれは柳じゃないか。 その下に幽かに白く光っているのは小川だ。 川幅は狭いけれどちょっと深い。 ついこないだ迄は凍っていたんだがもう溶けて勢いよく流れている。 僕よりももっと臆病だね。 どうも文明国に永く留学していると――。 感覚も上品になるようであります。 じゃ誰も聞いていませんね。 どんな大事を申し上げてもかまいませんね。 いやにもったいをつけやがる。 僕がはじめからここは絶対に大丈夫だって言ってるじゃないか。 それだから君をここへ引っぱって来たんだ。 それでは申し上げます。 おどろいてはいけません。 ハムレットさま。 大学の連中はあなたの御乱心を噂して居ります。 乱心。 それあまた滅茶だ。 僕は艶聞か何かだと思っていた。 ばかばかしい。 見たらわかるじゃないか。 どこからそんな噂が出たのだろう。 ははあわかった。 叔父さんの宣伝だな。 またそんな事をおっしゃる。 王さまがなんでそんなつまらぬ宣伝をなさいますものか。 絶対にちがいます。 ばかにはっきり否定するね。 山羊の叔父さんはあれでなかなかロマンチストだからな。 僕と親子になったらかえって心は千里万里も離れて愛情は憎悪に変ったなんてひとりでひがんで悲壮がっているような人なんだからこんどはまたぐっと趣向を変えて先王が死に嗣子のハムレットはその悲しみに堪え得ず気鬱発狂。 この一家の不幸を脊負い敢然立ったる新王こそはクローヂヤス。 芝居にしたらいいところだ。 叔父さんの宣伝さ。 叔父さんは自分を何とかして引き立て大いに人気を取りたいものだから僕を此の頃ばか扱いにしているんだ。 いろいろ苦心してもったいをつけているよ。 見ていて可哀そうなくらいだ。 でも僕を気違いだなんて言いふらすのはどうかと思うなあ。 ひどい。 叔父さんは悪いひとだ。 もう一度申し上げますがこれは王さまの宣伝ではありません。 ハムレットさま。 お気の毒に。 あなたは何もご存じないのですね。 大学に伝わって来ている噂はそんななまやさしいものではありません。 ああ僕はもう言えない。 なんだい。 いやに深刻ぶった口調じゃないか。 君は叔父さんから何か言いつけられたね。 僕の反省をうながすようにとか何とか。 そうなんだろう。 もう一度申し上げます。 王さまのお手紙にはただ話相手になってやってくれとだけ書かれてございました。 王さまはよもや僕があなたのところにこんな恐ろしい噂をもたらそう等とは夢にも思召されなかった事と存じます。 そうかなあ。 いやそうかも知れん。 もし叔父さんが大学にそんな噂を撒きちらしたのなら君を僕のところへ呼び寄せてくれるなんて危い事はしない筈だからね。 君がやって来たらみんなばれちゃうんだからね。 叔父さんでないとすると誰の仕業だろうね。 わからなくなって来た。 とにかく僕が発狂したというんだからひどいや。 もっとも今の僕にはいっそ気でも違ったら仕合せだろうと思うくらいに苦しい事もあるんだけどね。 これはまああとで話そう。 ホレーショー。 噂というのはそれだけかい。 なんだかつづきがあるようじゃないか。 言ってごらん。 僕は平気だよ。 平気だ。 どうしても言わなければいけないでしょうか。 よせよ。 自分から言い出して置きながらいまになってそんな卑怯な逃げかたをするなんて。 ウイッタンバーグじゃそんな呻くようなきざな台詞が流行っているのかね。 そんなら申し上げます。 そんなにホレーショーの誠実を侮辱なさるんだったら申し上げます。 本当に平気でお聞き流し願います。 つまらないとるにも足らぬ噂です。 臣ホレーショーはもとよりそんな不埒な噂は信じていません。 どうだっていいよそんな事は。 僕は不機嫌になった。 君もそんな固くるしい言いかたをするという事をはじめて知ったよ。 申し上げます。 その噂はこのごろエルシノア王城に幽霊が出るという――。 それあまたひどい。 ホレーショー本気かね。 僕は笑っちゃったよ。 ばかばかしい。 ウイッタンバーグの大学も落ちたねえ。 あの独自の科学精神をどこへやった。 もっともこのごろ大学では劇の研究が盛んなそうだから中でも頭の悪い馬鹿な研究生がそんな下手なドラマを案出したのかも知れないね。 それにしても幽霊とはなんて貧弱な想像力だ。 それを面白がってわやわや騒ぎ立てているとは大学もこのごろは質が落ちたものさ。 幽霊にハムレットの発狂。 三文芝居にでもありそうな外題だ。 叔父さんは僕に大学はつまらないからよせと言ってくれたが本当だ。 叔父さんのほうがよっぽど頭がいいや。 そんなくだらない連中と交際して僕まで一緒になって幽霊騒ぎをするようになっては叔父さんもこんどは心底から閉口だろう。 も少し気のきいた噂を立てないものかね。 僕は信じていないのです。 けれども母校の悪口はおっしゃらないで下さい。 僕は何だか不愉快です。 しっけい。 君は別だよ。 叔父さんも君の事だけはほめていたよ。 誠実な男だと言っていた。 わざわざ僕がウイッタンバーグまで行かずともホレーショーひとりをこちらへ呼び寄せたならばそれでいいと言っていた。 僕は本当は大学へなど行きたくなかったんだけどでも君にだけは逢いたかった。 忠誠をお誓い致します。 なお言葉を返すようですがただいまの奇怪の噂は決して我がウイッタンバーグ大学から出たものではありません。 それだけは母校の名誉のために申し上げて置きたいと思います。 その噂はこのエルシノアの城下より起り次第にデンマーク一国にひろがりとうとう外国の大学にいる者どもの耳にまではいって来たものであります。 いかにも無礼な言語道断の噂なのでこのごろはホレーショーも気が鬱してなりません。 ハムレットさまはきょうまで少しもご存じなかったのですか。 知らんよそんな馬鹿げた事は。 それにしてもずいぶん広くひろがってしまったものらしいねえ。 あんまりひろがると馬鹿らしいと笑っても居られなくなるからね。 叔父さんやポローニヤスたちは知っているのかしら。 いったいあの人たちはどこに耳を持っているんだろう。 聞えても聞えぬふりをしているのかな。 腹黒いからなああの人たちは。 ホレーショーいったいそれはどんな幽霊なんだい。 少し気になって来た。 その前にはっきりお伺いして置きたい事があります。 かまいませんか。 ホレーショー僕は君をこわくなって来たよ。 早く言ってくれ。 なんでもいいから早く言ってしまってくれ。 あんまりそんなに勿体ぶると僕は君と絶交したくなりそうだ。 申し上げます。 申し上げてしまったらなんでも無い事なのかも知れません。 きっとまたあなたがひどくお笑いになってそれだけですむ事なのでしょう。 何だか僕にもそんな明るい気がして来ました。 それでも念のために一つお伺いして置きますがハムレットさまあなたは勿論現王のお人がらを信じていらっしゃいますね。 意外の質問だね。 そいつはちょっと難問だ。 こまるね。 なんと言ったらいいのかなあ。 むずかしいんだ。 いいじゃないかそんな事は。 どうだっていいじゃないか。 いいえいけません。 この際それをはっきり伺って置かないと僕は何も申し上げる事が出来ません。 手きびしいねえ。 君は変ったねえ。 ばかに頑固になった。 もとはこんなじゃ無かったがねえ。 まあいいや。 御返事しましょう。 なんだって今更そんな事を僕に聞くんだね。 叔父さんはだらしないところもあるけどでもそんなに悪いひとじゃないんだ。 でも人がらを信じるかと聞かれると僕もちょっと困るんだ。 何か叔父さんに就いて悪い噂でもあるのかね。 それあいろいろ人は言うだろう。 なんにしてもこんどは少しまずかったからね。 でもあれはもちろん叔父さんひとりできめた訳じゃ無いんだ。 そんな事は出来るもんじゃない。 ポローニヤスをはじめ群臣の評定に依って取りきめられた事なんだ。 僕だって今すぐ位に即けるほどの男じゃない。 いまデンマークはむずかしい時らしいからね。 ノーウエーともいつ戦争が起るかわかったものじゃない。 僕にはまだ自信が無いんだ。 叔父さんが位に即いてくれて僕はかえって気楽になった。 本当だよ。 僕はもう暫く君たちと自由に冗談を言い合って遊んでいたいよ。 なんでもないんだ。 もともと叔父と甥の仲じゃないか。 一ばん近い肉親だ。 それあ僕は叔父さんには何かと我がままを言うよ。 いやがらせを言ってやる事もある。 軽蔑してやる事もある。 わざとすねてろくに返事もしてやらない時だってずいぶんある。 でもそれは叔父と甥の間の事だ。 僕は甘えているのかも知れない。 でもそれくらいの事は叔父さんだってわかってくれていると思うんだ。 僕はやっぱり叔父さんをたよりにしているところもあるんだからね。 いい叔父さんだよ。 気が弱いんだ。 政治の手腕だってたいした事は無いだろうしそれに何といったってもとをただせば山羊のおじさんなんだからねがっかりしちゃうよ。 いろいろ努力しているようだけどもともとがらでないんだからね。 気の毒なんだ。 お父さんと呼べって言うんだけど僕には出来ない。 お母さんもまたまずい事をしたものさ。 ハムレット王家の基礎を固めるためにはそれが一ばんいいと皆が言うので母もその気になったらしいがどんなものかねえ。 あの人たちはもうとしをとっているしまあ茶飲友達でも作るような気持で結婚したんだろうが僕にはやっぱり何だかてれくさいな。 でも僕はそんな事はあまり深く考えないようにしているんだ。 仕様がないじゃないか。 人の子としてあれこれ親の事を下劣に詮索するのは許すべからざる悪徳だ。 そんな下等の子は人間の仲間入り出来ない。 そうじゃないかね。 一時はたまらなく淋しかったけれど僕は今では考えないようにしている。 僕ひとりの愛憎の念に拠って世の中が動いているものでもないんだしねまああの人たちの事はあの人たちに任せるより他は無いよ。 どうだね。 答弁はこれくらいで許してくれよ。 どうもいろいろ複雑なんだ。 だけど叔父さんは悪いひとじゃない。 それだけはたしかだ。 小さい策士かも知れないけれど決して大きい悪党じゃない。 何が出来るもんか。 ありがとう。 ハムレットさま。 それを伺って僕は全く安心しました。 どうかこれからも王さまを変らず信じてあげて下さい。 僕もいまの王さまを好きなのです。 文化人でいらっしゃる。 情の厚いお方だと思う。 ハムレットさまのいまの御意見は僕に百倍の勇気を与えて下さいました。 僕からお礼申します。 ハムレットさまはやっぱり昔のままに明朗ですねえ。 純真の判断には曇りが無い。 いいなあ僕は嬉しくなっちゃった。 おだてちゃいけない。 急に御機嫌がよくなったじゃないか。 勝手な奴さ。 ホレーショー君もやっぱり昔のままのおっちょこちょいだよ。 それで。 噂ってのは何さ。 僕が乱心して幽霊が出てそれから何が出たんだ。 鼠でも出たか。 鼠どころかいや実に愚劣だ。 言語道断だ。 けしからぬ。 デンマークの恥だ。 ハムレットさまお話しましょう。 いやどうにも無礼千万奇怪至極尾籠低級。 もういいそんな下手な形容詞ばかり並べられても閉口だ。 君もウイッタンバーグの劇研究会に入会したのかね。 まずそんなところです。 ちょっと憂国の詩人という役を演じてみたかったのです。 僕は本当はもう安心しちゃったのです。 さっきハムレットさまからあんな明快な判断を承って心に遊びの余裕が出ました。 ハムレットさま笑っちゃいけませんよ実にばからしい噂が立っているのです。 あなたはきっとお笑いになるでしょう。 でもこれはデンマークの国中にひろがり外国の大学にいる僕たちの耳にまではいって来ているんですからただ笑ってすます訳にもいかないと思うんです。 大いに取りしまりの必要があります。 笑っちゃいけませんよ。 どうも僕も申し上げるのが馬鹿馬鹿しくなって来ました。 先王の幽霊が毎晩あらわれてかたきをとっておくれって頼むんだそうですよハムレットさまあなたに。 僕にかい。 へんだなあ。 まったく。 なっちゃいないんです。 その上ばからしいまだつづきがあるんです。 その幽霊の曰くです我輩はクローヂヤスに殺されたクローヂヤスはわが妃に恋慕し――。 そいつあひどい。 恋慕はひどい。 お母さんは総入歯だぜ。 だから笑っちゃいけませんと言ったじゃないですか。 まあお聞きなさい。 つづきがあるんです。 妃を横取り王位も共に得んとして我輩の昼寝の折に油断を見すまし忍び寄りわが耳に注ぎ入れたる大毒薬というわけなんですがね念がいってるでしょう。 やよハムレット汝孝行の心あらば此のうらみゆめゆめ忍ぶ事なかれと。 よせ。 たとえ幽霊にもせよ父の声色をやたらに真似るのは止し給え。 死者の事は厳粛にそっとして置いてやってくれ。 少し冗談が過ぎたようだね。 ごめんなさい。 うっかり調子に乗りました。 決して故王の御遺徳を忘却したわけではありません。 あまり馬鹿らしい話なのでついふざけ過ぎてしまいました。 ごめんなさい。 心ならずもハムレットさまの御愁傷の筋に触れてしまいました。 どうもホレーショーはおっちょこちょいでいけません。 いやなんでもないんだ。 僕こそ大声で怒鳴ったりなんかして失礼した。 わがままなんだよ。 気にかけないでくれ。 それからその幽霊はどうなるんだね。 話してくれよ。 奇想天外じゃないか。 はいその幽霊は毎晩のようにハムレットさまの枕もとに立ってそう申しますのでハムレットさまは恐怖やら疑心やら苦悶やらでとうとう御乱心あそばされたという根も葉も無い話でございます。 あり得る事だ。 え。 あり得る事だろうよ。 ホレーショー僕は何だか気持が悪くなった。 ひどい噂を立てやがる。 やっぱり申し上げないほうがよかったんじゃないでしょうか。 いや聞かせてもらって大いによかった。 汝孝行の心あらばか。 ははんホレーショーその噂は本当だよ。 僕はお人好しだったよ。 何をおっしゃる。 つむじを曲げるとはその事です。 はしたない民の噂に過ぎません。 どこに根拠があるのです。 君にはわからん。 僕はくやしいのです。 わからんだろうね。 根も葉も無い事で侮辱をうけるのとはっきりした根拠があって噂を立てられるのとどっちがくやしいものか考えてごらん。 僕は必ずその根拠を見つける。 ハムレット王家の者お父さんも叔父さんもお母さんも僕もまるっきり根拠の無い事でそんなに民に嘲弄されているのは僕として我慢が出来ん。 何か根拠があるのだろうよ。 そんなにまことしやかに言い伝えられている程だから或いは本当にあり得る事かも知れないじゃないか。 何か根拠があったならかえって僕も気が楽だ。 根拠も何も無い不当の侮辱には僕は堪えられない。 ハムレット王家は民に嘲弄せられたのだ。 叔父さんも可哀そうに。 せっかく一生懸命努力しているところなのにそんな噂を立てられちゃ台無しだ。 ひど過ぎる。 不愉快だ。 僕が直接叔父さんに尋ねてやる。 何か根拠を突きとめてやらなくちゃ気がすまん。 ホレーショー手伝ってくれるね。 そんなら責任は僕にあります。 ああ。 僕に任せて下さいませんか。 ハムレットさま失礼ですがあなたは少しすねています。 僕にはあなたが悪くすねて居られるのだとしか思われない。 あなたはさっきあれほど濁りなくお笑いになっていらっしゃったじゃありませんか。 もとより根も葉も無い不埒な噂なのです。 王さまにぶしつけにお尋ねになるなんてとんでもない事です。 いたずらに王さまをお苦しめなさるだけです。 僕はあなたの先刻の明快な御判断をあくまでも信じたい。 あなたはもうお忘れになったのですか。 王さまを信頼なさっているとおっしゃったじゃありませんか。 あれは出鱈目だったのですか。 程度があるよ。 侮辱にも程度があるよ。 僕の父が幽霊になってそんな不潔な無智な事をおっしゃるようなお方だと思っているのか。 わあ何もかも馬鹿げている。 そんならいっそ僕も本当に乱心してやろうか。 よろこぶだろう。 ホレーショー僕はすねた。 すねてやるとも。 わからん君にはわからん。 あとでゆっくり御相談申したいと思います。 臣ホレーショー一代の失態でした。 こんなに興奮なさるとは思いも寄りませんでした。 ハムレットさま相変らずですね。 ああ相変らずだよ。 相変らずのお天気屋だよ。 おっちょこちょいは僕のほうでもらってもいいぜ。 僕は修養が足りんよ。 こんなに馬鹿にされてまでにこにこ笑って居れるほどの大人物じゃないんだ。 ホレーショーその外套を返しておくれ。 こんどは僕のほうで寒くなった。 お返し致します。 ハムレットさまいずれ明日ゆっくりお話いたしたいと存じますが。 望むところだ。 ホレーショー怒ったのかい。 ああ浪の音が聞えるね。 ホレーショー僕は今夜もっと大事の秘密も君に聞いてもらいたいと思っていたんだけども少しつき合ってくれないか。 今の噂に就いてももっと話合ってみたいしそれからも一つ僕には苦しい秘密があるんだよ。 いずれ明日お互いに落ちついてからにしていただきたく存じます。 今夜はおゆるし下さい。 僕もゆっくり考えてみたいと思っています。 僕は何せジャケツを着て居りませんので。 勝手にし給え。 君は人の興奮の純粋性を信じないから駄目だ。 じゃまあゆっくりお休み。 ホレーショー僕は不仕合せな子だね。 存じて居ります。 ホレーショーはいつでもあなたの味方です。 私が王にお願いしてあなたをウイッタンバーグからお呼びするように致しました。 ハムレットにはゆうべもう逢いましたでしょうね。 どうでしたか。 まるでだめだったでしょう。 どうして急にあんなになったのでしょう。 言う事は少しも取りとめがなくすぐぷんと怒るかと思えば矢鱈に笑ったりそうかと思えば大勢の臣下のいる前でしくしく泣いて見せたりまたあらぬ事を口走って王にあなた食ってかかったりするのです。 あの子ひとりの為に私はどんなにつらい思いをするかわかりません。 以前も気の弱いどこかいじけたところのある子でしたがでもあれ程ではありませんでした。 気がむくととても奇抜なお道化を発明して私たちを笑わせてくれたものでした。 たいへん無邪気なところもありました。 なくなった父のとしとってからの子ですから父もずいぶん可愛がって私も大事な一人きりの子ですしなんでもあの子の好きなようにさせて育てましたがそれがあの子の為によくなかったようでした。 どうも両親のとしとってからの子は劣るようです。 いつまでも両親を頼りにして甘えていけません。 あの子はなくなった父を好きでして大学へはいるようになっても休暇でお城へ帰るともう朝から晩まで父のお居間にいりびたりでした。 子供の頃には尚ひどくてちょっとでも父が見えなくなるともう不機嫌でどこへいらっしゃったかとみんなに尋ね廻って閉口でした。 その父があんな不慮の心臓病とやらで突然おなくなりになったものですからあの子はもうどうしていいかわからなくなったのでしょう。 先王がおなくなりになってから急に目立っていけなくなりました。 それに私がまあみっともない事ですが此のデンマークの為とあってクローヂヤスどのと名目ばかりですが夫婦になったという事もあの子にとっては意外な事件でよっぽど気持を暗くさせたのではないかと思います。 いろいろ考えてみるとあの子が可哀そうにもなります。 無理もないとも思います。 でもあの子だってデンマーク国の王子ハムレットです。 やがては位を継がなければならぬ人です。 父や母が一時に身辺から去ったといっていつまでも泣いたりすねたりしていると第一臣下に見くびられます。 いまは大事なところだと思います。 私がクローヂヤスどのと結婚したとは言っても別段よそのお城へ行くわけでなし今までどおりにやっぱりハムレットの実母として一緒に暮して行く筈ですしまた現在の王ももともと他人ではなしハムレットとあんなに仲のよかった叔父上なのですからハムレットさえこの頃のひがんだ気持をちょっと持ち直してくれたらすべてが円満におだやかに行くものと私は思います。 クローヂヤスどのも昔のような軽薄の行状をつつしみいまは先王に劣らぬ立派な業績を挙げようとして一生懸命なのです。 ハムレットの事もずいぶん心配して居られます。 義理ある仲ですからいろいろ遠慮もある事でしょう。 私がその二人の仲にはいっていつもはらはらしています。 ハムレットはてんでもう叔父上をばかにしているのですもの。 あれではいけません。 かりにも父となり子となったからにはハムレットもも少し礼儀を弁えなければいけません。 もう昔の山羊のおじさんではないのですものね。 デンマークは今あぶない時なのだそうです。 ノーウエーではもう国境に兵隊を繰り出しているという噂さえあるじゃありませんか。 本当にそんな大事な時になんという事でしょう。 ハムレットさえ機嫌よく私たちになついてくれたらこのエルシノア王城の人心も治り王も意を強うして外国との交渉に専心出来ますのに。 ばかな子ですよ。 デンマーク国の王子だという自覚が足りないと思います。 二十三にもなって女の子のようにいつまでも先王や母の後を追っています。 ホレーショーあなたはことしいくつになります。 はいおかげさまで二十二歳になりました。 そうでしょう。 ハムレットはあなたより一つ兄の筈だと思っていました。 まるで逆です。 あなたのほうが五つも年上のように見えます。 おからだも御丈夫のようだし学校の成績もいいそうですし何よりも態度が落ちついていらっしゃる。 お父さんもお母さんも変りなくお達者でいますか。 ありがとう存じます。 相かわらず田舎の城でのんきに暮して居ります。 御仁政のおかげでございます。 私はあなたのお母さんをうらやましく思います。 こんな立派なお子さんがおありだとどんなに楽しみな事でしょう。 それに較べてハムレットはもう私はあんな具合だと末の見込みも無いような気がします。 ささいな悲しみにも動転して泣くやらふてくされるやら――。 お言葉に逆らうようですがハムレットさまはいや王子さまはいやハムレットさまは決してそのように劣ったお方ではございません。 僕の尊敬している唯一のお方です。 僕こそつまらぬおっちょこちょいなのです。 僕はいつでもハムレットさまに叱られてばかりいるのです。 僕はハムレットさまを大好きです。 だから僕はハムレットさまの前に立つといつもしどろもどろになります。 ハムレットさまはとても頭がいいから僕の言おうとしている事は言わないさきから御承知になっています。 やりきれないくらいです。 それは何もあの子の美点ではありません。 あなたが親友をかばう気持もわかりますが何もあの子の欠点を特に挙げて褒めるには及びません。 あの子は小さい時から人の顔いろを読みとるのが素早かったのです。 それはかえって性質のいじけている証拠なのです。 立派な男子には不必要な事です。 お言葉に逆らうようですがそんなにいちいちハムレットさまを悪くおっしゃるのはいけないと思います。 僕の母は僕より先に寝室へひっこんだ事は一度もありませんでした。 僕が寝るまでは起きていました。 さきに寝よと僕が言ってもお前は私ひとりの子ではないいまに王さまの立派なお家来になるべき人です。 私はお前を王さまからお預り申しているのです失礼な事があってはならぬと言って決してさきに寝ませんでした。 僕のような取り柄のない子供でもそんなにまともに敬愛されるとそれではしっかりやろうと思うようになります。 王妃さまはあんまりハムレットさまを悪く言いすぎます。 それではハムレットさまの立つ瀬が無くなります。 王妃さまだってさきほどおっしゃったではございませんか。 ハムレットさまはデンマーク国の王子だとおっしゃったのをお忘れでございますか。 ハムレットさまはデンマーク国の王子です。 王妃さまおひとりのお子ではございません。 また僕たちがこれから身命を献げてお守り申すべき御主人です。 ハムレットさまをもっと大事にしてあげて下さい。 おやおやあなたから逆に頼まれるとは思い掛けない事でした。 ハムレットへの一途の忠誠の気持はわかりますがやはり子供ですね。 そんな思い上ったものの言いかたはこれからは許しませんよ。 実の親子の真情は他のものにはわからぬ場合が多いものです。 決してとやかく口出ししてはならぬものです。 あなたのお母さんも本当に賢母のようで私と流儀が違うようですがけれどもそれは私でさえとやかく言ってはならぬ事です。 親子の事は親子に任せるのがいいのです。 臣下の場合と王家の場合とではずいぶん事情もちがいますから一時の熱狂から無礼の指図はこれからは許しませんよ。 時にハムレットはあなたに何か申しましたか。 はい別に何も――。 急にそんなに固くならなくてもいいのです。 さっきの元気はどうしました。 ハムレットに似ていると言われますよ。 男の子なら男らしく叱られても悪びれずはっきり応答するものです。 ハムレットはまた私たちの悪口を言っていたでしょう。 そうですね。 お言葉に逆らういやお言葉にお言葉に――お逆らい――。 何を言っているのです。 男はあんまりびくびくするのもみっともないものです。 無闇な指図の他はお逆らいでも何でも許してあげますから男らしくもっとはっきり言いなさい。 ハムレットは私たちの事を何と言っていました。 お気の毒だと御同情申して居られました。 御同情。 お気の毒。 へんですね。 あなたはまたかばっているのですね。 ハムレットからいろいろ口どめされたのでしょう。 いいえお言葉に逆らうようですがハムレットさまは口どめなどとそんな卑怯な事をなさるお方ではありません。 ハムレットさまはその人に面とむかって言えない事は陰でも決して申しません。 言いたい事があると必ず面と向って申します。 大学時代もそうだったしいまだってそうです。 だからハムレットさまはいつもそんばかりしています。 あなたはハムレットの事になるとすぐそんなに口をとがらせて大声になりますがよっぽど気が合っているものと見える。 ハムレットは身分を忘れもの惜しみという事も知らない質だから目下の者には人気があるようですね。 王妃さま。 何をか言わむです。 僕はもうお答え致しません。 あなたの事を言ったのではありません。 あなたはハムレットの親友じゃありませんか。 ハムレットだけでなく私だってあなたを頼りにしています。 こうしてお話を伺っているうちにいろいろ私にもわかって来る事があるのです。 そんなにすぐ怒るところなど本当にハムレットそっくりです。 いまの若い人たちは少しずつどこか似ていますね。 そんなに蒼い顔をなさらずもっと打ち解けて私になんでも話して聞かせて下さい。 ハムレットが他人の陰口を言わない子だという事もあなたから伺ってはじめて知りました。 もしそれが本当なら私だってうれしく思います。 あの子にも案外いいところがあったのかも知れません。 だから僕がさっき――。 もうよい。 ぶんを越えた指図はゆるしません。 あなたたちは興奮し易くていけません。 ハムレットはまた何だって私たちを気の毒だの何だのと殊勝な事を言っているんでしょう。 ふだんのあの子らしくも無いじゃありませんか。 本当かしら。 王妃さま。 僕でさえ王妃さまをお気の毒に思います。 またそんな事を言う。 としよりをからかうのはあなたたちの悪い癖です。 私がどうして気の毒なのです。 さはっきり言ってみて下さい。 私はそんな思わせぶりの言いかたは大きらいなのです。 申し上げます。 王妃さまはハムレットさまのお心を何もご存じないからです。 ハムレットさまはゆうべホレーショーにこう言いました。 僕がこのように若冠ゆえ叔父上にも母上にも御迷惑をおかけする事が多くてお気の毒だとしみじみ申して居りました。 叔父上が位に即いて下さって僕はどんなに助かるかわからないとも申して居りました。 ハムレットさまは現王の愛情を信じていらっしゃるのです。 或いはわがままを申し或いはいやがらせをおっしゃる事がありましてもそれは叔父上と甥の間の愛情に安心して居られるからであります。 一ばん近い肉親じゃないかなんでもないんだ僕は甘えているのかも知れないがでも叔父上だってわかって下さってもいいものを愛情が憎悪に変ったなどと叔父上はおひとりでひがんでおいでになるのだから可笑しいと申して居られたくらいです。 僕は叔父上を本当は好きなんだとも申していました。 それを伺ってホレーショーは泣くほど嬉しく有難く思いました。 デンマーク万歳を心の中で叫びました。 ハムレットさまは立派な王子です。 みだりに人を疑いません。 御判断は麦畑を吹く春の風のように温く爽やかであります。 一点の凝滞もありません。 王妃さまの事はもちろん生みの御母上として絶対の信頼と誇りとを以てホレーショーに語って下さいます。 この度の御結婚に就いても人の子としてとやかくそれを下劣に批判申し上げるのは最大の悪徳人間の仲間いりが出来ないと申して居ります。 誰が。 誰が人間の仲間いりが出来ないのです。 はっきりもう一度言ってみて下さい。 はっきり申し上げている筈でございます。 王妃の御結婚を人の子としてとやかく卑しく想像するような下等な奴は死んだほうがいいという意味であります。 ハムレットさまの御気質は高潔です。 明快であります。 山中の湖水のように澄んで居ります。 ホレーショーはゆうべはハムレットさまから数々の尊い御教訓を得たのであります。 ハムレットさまは僕たち学友一同の手本であります。 たいへんですね。 ハムレットをそんなに褒めていただいては私まで顔が赤くなります。 あなたの尊敬している子はあの子ではなくてどこかよそのハムレットという名前の立派な子なのでしょう。 私にはあの子がそんな男らしい口をきける子だとはどうしても思えません。 あなたはどうしてそんなに言い繕うのですか。 生みの母ほど子の性質をいいえ子の弱点を知っているものはありません。 それはそのまま母の弱点でもあるからです。 私だって欠点の無い人間じゃないのです。 私の人間としての到らなさは可哀そうにあの子にも伝わっているのです。 私はあの子の事に就いてはあの子の右足の小指の黒い片端爪まで知り抜いているのです。 あなたが私をうまく言いくるめようたってそれは出来ません。 もっと打ち明けた話を聞かせて下さい。 あなたは何か隠して居られる。 ハムレットがいまのあなたのおっしゃったようにものわかりのいい素直な子だったら私も心配はありません。 けれども私には信じられないのです。 あなたが私にまるっきり嘘をついていると思いません。 あなたは嘘の不得手な純真なお子です。 またあの子にもいまあなたのおっしゃったようなあっさりした一面がたしかにある事も私はとうから存じて居ります。 ゆうべはあなたにそのいい一面も見せたのでしょう。 けれどもあなたは他に何か隠して居られる。 あの子の此の頃の様子を見たってすぐにわかる事ですがあの子の本心は決していまのあなたのお言葉どおりに曇りなく割り切れているようでないのです。 ただ肉親という事実に安心し甘えて駄々をこねているのだとはどうしても私には思われません。 ホレーショーどうですか。 本当のところを知らせて下さい。 母としての愛ゆえに疑い深くなるのです。 あなたが懸命にハムレットを弁護して下さるのは私も内心は嬉しく思っているのです。 なんで嬉しくない事がありましょう。 ハムレットはいいお友達を持って仕合せです。 でも私の心配はもっと深いところにあるのです。 あの子が何か苦しい事でもあるならば率直に此の母に打ち明けてくれたらいいと私ひとりははらはらしているのにハムレットは言を左右にしてごまかしてばかりいるのです。 ハムレットの今の難儀に母も一緒に飛び込んで誰にも知られず解決したいと念じているのです。 わかりますか。 母はおろかなものです。 さっきからあなたに意地の悪いような事ばかり申しましたが決してハムレットを憎くて言っているのではないのです。 こんな事はあんまり当り前すぎて言うのも恥ずかしいのですが私が此の世で一ばん愛しているのはあの子です。 やっぱりハムレットです。 愛しすぎているほどです。 あの子がひとりで悶えているさまを私は見て居られないのです。 お願いです。 ホレーショー私の力になって下さい。 ハムレットはどんな事でくるしんでいるのですか。 あなたはご存じない筈がありません。 王妃さま。 僕は存じていないのです。 まだそんな――。 いいえ残念ながら僕は本当に知らないのです。 ゆうべ実は僕大失態を致しました。 たしかにハムレットさまには王妃さまのおっしゃるように特別な内心の苦悩がおありのようでした。 それを僕にたいへん聞かせたい御様子でありましたが僕はジャケツを着て居りませんでしたので非常に寒く落ちついて承る事が出来ませんでした。 僕は馬鹿であります。 なんのお役にも立ちません。 お役に立たないばかりかゆうべはかえって罪をさえ犯しました。 王妃さまとんでもない事になってしまいました。 僕はウイッタンバーグからわざわざ放火をしにやって来たようなものでした。 ゆうべは僕はベッドの中で唸りました。 少しも眠られませんでした。 責任はすべて僕にあるのです。 此の始末はなんとしても僕が必ず致します。 きょうはこれからハムレットさまとゆっくり話合うつもりであります。 何をおっしゃる事やら。 私にはちっともわかりません。 あなたたちのおっしゃる話はまるで雲からレエスが降って来るようなわけのわからない事ばかりで何が何やらさっぱり見当もつきません。 それは一体どんな意味なのです。 何かハムレットと言い争いでもしたのですか。 それならば私が仲裁をしてあげてもいいのです。 わけもない哲学の議論でもはじめたのでしょう。 そんなに心配する事はありません。 王妃さま。 僕たちは子供ではありません。 そんな単純な事ではないのです。 僕は平和な御家庭に火を放けました。 僕はユダです。 ユダより劣った男です。 僕は愛している人たち全部を裏切ってしまいました。 急に泣き出したりして立派な男の子がみっともない。 どうしたらいいのです。 あなたたちはいつでもそんなユダが火を放けたのなんのとお芝居のような大袈裟なきざな事を言い合ってそうして泣いたり笑ったりして遊んでいるのですか。 けっこうな遊戯です。 たのもしい事です。 ホレーショーおさがりなさい。 きょうは許してあげますがこれからは気をつけて下さい。 ここにいたのか。 ずいぶん捜しました。 おおホレーショーも。 ちょうどよい。 けさ挨拶に来てくれた時にはわしはいそがしくてろくに話も出来ませんでしたがいろいろ君に相談をしたい事もあったのです。 元気が無いじゃないか。 どうかしたのですか。 ホレーショーはもうおさがり。 ユダが火を放けたのなんのと言って大の男が泣いて見せるのですもの。 なんの役にも立ちやしません。 ユダが火を放けた。 初耳です。 何かわけがあるのでしょう。 王妃はすぐ怒るからいけません。 ホレーショーはまじめな人物です。 あとでゆっくり話してみましょう。 失礼いたしました。 実に不覚でありました。 王妃さまから子の母として御真情を承りつい胸が一ぱいになってあらぬ事まで口走りました。 お許し願いたく存じます。 見苦しい姿をお目にかけました。 ホレーショーお待ちなさい。 退出せずともよい。 ここにいなさい。 君にも聞かせて置きたい事があります。 もっとこっちへ来なさい。 大きい声では言えない事です。 ガーツルードわしは驚いたよ。 わかったのです。 ハムレットのいらいらしているわけがやっとわかりました。 そう。 やはり私たちの事で。 いいえ責任はすべて僕にあるのです。 僕は必ずや――。 二人とも何を言っているのです。 まあ落ちつきましょう。 わしもここへ坐ります。 ホレーショーおかけなさい。 君にも相談に乗ってもらいたいのです。 わしはいまポローニヤスから聞いて驚いたのです。 まったく思いも寄らぬ事でした。 ポローニヤスはわしに辞表を提出しました。 わしはとにかく一応はお預りして置く事にしましたが王妃おどろいてはいけませんよ。 落ちついて聞いて下さい。 困った事です。 オフィリヤが――。 オフィリヤが。 そうですか。 一度私も疑ってみた事がありました。 まあ立たずにガーツルードお坐りなさい。 坐って落ちついてゆっくり考えてみて下さい。 ホレーショーお聞きのとおり面目次第も無い事です。 そうでしたか。 やっぱり張本人がいたのですね。 オフィリヤといえばポローニヤスどのの娘さんですね。 あんな美しい顔をしていながらこの平和なハムレット王家に対して根も葉も無い不埒の中傷を捏造しデンマーク一国はおろかウイッタンバーグの大学まで噂を撒きちらすとは油断のならぬものですね。 で原因は何でしょう。 やはりかなわぬ恋の恨みとかまたは――。 ホレーショーあなたはやはりおさがり下さい。 何もわかってやしません。 夢のような事ばかり言っています。 オフィリヤは妊娠したというのです。 王妃。 つつしみなさい。 わしはまだそこまでは言っていません。 男として言いにくい事でした。 はっきり言うのは残酷です。 女は女のからだには敏感です。 オフィリヤの此の頃の不快の様子を見れば誰だって一度は疑ってみます。 ばからしい。 ホレーショー眼が醒めましたか。 夢のようです。 無理もない。 わしだって夢のようです。 でもこれはこのまま溜息ついて見ているわけに行きません。 それでホレーショー君に一つお願いがあります。 君はハムレットの親友の筈ですね。 これまで何でも互いに打ち明けて語り合っていた仲でしたね。 はいきのうまではそのつもりで居りましたがいまはもう自信がなくなりました。 そんなにしょげて見せる必要はありません。 落ちついて考えてみるとそんなに意外な大きい事件でもありません。 この二箇月間故王のお葬いやらわしが位を継いだお祝いやらまた婚儀やらで城中はごったがえしの大騒ぎでした。 その混乱の中にハムレットひとりは故王になくなられた悲しみに堪え得ず優しい慰めの言葉を或る人に求めたのです。 オフィリヤです。 悲しみと恋が倒錯したのだと思います。 ハムレットだっていまはオフィリヤにどんな気持を抱いているかそれはわかりません。 おそらく今は少し冷くなりかけているのではないかと思う。 それだったら簡単です。 オフィリヤがしばらく田舎へ引き籠ったらそれで万事が解決します。 城中にはすでに噂もひろまっているようでポローニヤスもその事をいたく恐縮していましたがどんなひどい噂だって六箇月|経ったら忘れられます。 オフィリヤの事はポローニヤスが巧みに処理してくれるでしょうしわしとしても出来るだけの事はしてあげるつもりでいます。 それはわしたちに任せて置いていいのです。 オフィリヤの生涯が台無しになるようなまずい事は決してしません。 そこは安心するように。 とにかく君からハムレットによく話してみてくれませんか。 ハムレットの心の底のいつわりの無いところもよく聞き訊してみて下さい。 決して悪いようにはしないつもりです。 ホレーショーいやな役ですねえ。 私だったら断ります。 ハムレットがし出かした事ですものハムレットに責任を負ってもらって一切あの子ひとりにやらせてみたらいいのに。 王はハムレットに御理解がありすぎるようですね。 王のお若い頃お遊びなされた時のお気持といまの男の子の気持とはまた違うところもございますからねえ。 なに男の気持というものは昔も今も変りはありません。 ハムレットはいまに此のわしに心から頭をさげるようになるでしょう。 ホレーショーどう思います。 僕は僕はハムレットさまに聞いてみたい事があります。 おおそれがよい。 よくしんそこのいつわらぬところを聞き訊しわしたちの意向もおだやかに伝えてやって下さい。 君を見込んでお願いします。 ハムレットはイギリスから姫を迎える事になっているのですから。 私はオフィリヤに聞いてみたい事があります。 ハムレットさま。 ああびっくりした。 なんだポローニヤスじゃないか。 そんな薄暗いところに立って何をなさっているのです。 あなたをお待ち申していました。 ハムレットさま。 なんです。 気味の悪い。 放して下さい。 僕はいまホレーショーを捜しているのです。 ホレーショーがどこにいるか知りませんか。 他所話はおよし下さい。 ハムレットさま。 わしはけさ辞表を提出しました。 辞表を。 なぜです。 何か問題が起ったのですか。 軽率ですね。 あなたはいまのエルシノア王城に無くてはかなわぬ人です。 何をおっしゃる。 あなたのその無心なお顔にポローニヤスはいま迄だまされて来ました。 わしは城中の残念な噂をやっときのう耳にしました。 噂を。 なあんだその事か。 でもあれは重大です。 僕だってあなたをだましていたわけではないのです。 あんないやな噂を聞かされてそれでも知らぬ振りしてとぼけている事などとても僕には出来ません。 本当に僕も知らなかったのです。 実はゆうべ或る人からはじめて聞かされおどろいたのです。 けれどもあなたが今までご存じなかったとは意外です。 日頃のあなたらしくも無いじゃありませんか。 ちょっと迂濶でしたね。 本当にご存じなかったのですか。 そんな事は無いでしょう。 もし本当にご存じなかったとしたらそれは引責辞職の問題も起るでしょうけどでもあなたほどの人がご存じなかったという筈は無い。 ハムレットさま失礼ながら正気でいらっしゃいますか。 なんですって。 ばかにしないで下さい。 見ればわかるじゃないですか。 まさかあなたまであの噂を信じていらっしゃるわけじゃないでしょうね。 嘘の天才。 よくもそんな白々しい口がきけるものだ。 ハムレットさまそんな浅墓な韜晦はやめて下さい。 若い者なら若い者らしくもっと素直におっしゃったらいかがです。 とても隠し切れるものではありません。 わしはきのう直接当人から聞いてしまいました。 なんですいったいなんの事を言っているのです。 ポローニヤス言葉が過ぎやしませんか。 僕はあなたの主人だとか何とかそんな事は考えていませんがあなたの言葉はたとい親しい友人同志の間であっても笑っては済まされん。 僕は御推量のとおりだらしのない弱虫の道楽者です。 何一つあなた達のお手伝いが出来ません。 けれども僕だってデンマーク国の為にはいつでも命を捨てるつもりなのだ。 ハムレット王家の将来に就いても心をくだいている筈だ。 ポローニヤス言葉が過ぎます。 何をそんなにこわい顔をして怒っているのです。 失敬ですよ。 見上げたものです。 涙も出ません。 これがわしの二十年間手塩にかけてお育て申したお子さまか。 ハムレットさまポローニヤスは夢のようです。 困りますね。 ポローニヤスもおとしをとられたようですね。 往年の智慧者も僕の乱心などを信じるようじゃおしまいだ。 乱心。 そうですあなたはたしかに気が狂って居られる。 むかしのハムレットさまはなんぼなんでもこれほどじゃなかった。 寄ってたかって僕を本物の気違いにしようとしている。 それではポローニヤスあなた迄があの噂を本当に全部信じているのですね。 信じるも何も。 いまさら何をおっしゃる。 もういい加減にそんな卑怯な言いかたはおよしなさい。 卑怯だと。 何が卑怯だ。 僕はどうして卑怯なのだ。 あなたこそ失敬至極じゃないか。 僕にはあなたにおわびしなければならぬ事もあるのだしこれまでずいぶんあなたには遠慮して来た。 いまだって殴りつけてもやりたい気持を何度も抑えてあなたと話しているのです。 するとあなたはいよいよ僕を見くびって聞き捨てならぬ悪口雑言を並べたてる。 僕ももう容赦しません。 ポローニヤス僕ははっきり言います。 あなたは不忠の臣だ。 叔父上の悪事の噂を信じ母上を嘲笑し僕を本物の気違いにしようとしている。 ハムレット王家のおそるべき裏切者だ。 辞表を提出するまでも無い。 即刻姿を消してもらいたい。 なるほどいろいろの手があるものだ。 そういう出方をなさろうとは智慧者のポローニヤスにも考え及ばぬ事でした。 ポローニヤスもお言葉のようにとしをとったものと見えます。 なるほどいやな噂がもう一つあった。 此の際にそのほうだけを騒ぎ立てご自分の不仕鱈な噂のほうは二の次にしようとなさる。 ご自分の悪事を言われたくないばかりにやたらに他人の噂を大事件のように言いふらし困ったことさ等と言って思案|投首なるほど聡明な御態度です。 醜聞の風向をちょいと変える。 クローヂヤスさまこそいい迷惑だ。 あ痛い。 ハムレットさまひどい何をなさる。 殴りましたね。 おう痛い。 気違いにあっちゃかなわない。 もう一方の頬を殴ってやろうか。 あなたの頬はひどく油切っているから殴り甲斐があります。 僕はあなたとこれ以上話をしたくない。 お待ちなさい。 逃げようたって逃がしません。 ハムレットさまあなたは卑怯です。 あなたのおかげでわしの一家は滅茶滅茶です。 わしは田舎にひっこんで貧乏な百姓|親爺として余生を送らなければならなくなりました。 レヤチーズも可哀想に。 いさんでフランスへ出かけていったのに呼び戻さなければなりますまい。 あの子の将来もまっくら闇です。 それからあの――。 オフィリヤは僕と結婚します。 御心配に及びません。 ポローニヤスあなたがそれほどまで僕を憎んでいるんだったら僕もはっきり申しましょう。 僕はあなたをもっと濶達な文化人だと思っていた。 もっと軽快なものわかりのいい人だと思っていました。 やがては僕の味方になってくれる人だろうとさえ思っていました。 あなたにはおわびしなければならぬ事がありました。 その事に就いてはいずれゆっくり相談をするつもりで居りました。 あなたに力になっていただきたいと思っていました。 ご存じのように僕は今叔父上とも母上ともどうしてもうまく折合いが附かず困って居ります。 僕だって何も好きこのんであの人たちと気まずくしているわけではないのですがどうもいけないのです。 こだわりを感じるのです。 しっくり行かないのです。 僕はあの人たちに僕のくるしい秘密を打ち明ける事がどうしても出来ず夜も眠られぬ程ひとりで悶えていました。 何としてもあの人たちを信頼する事が出来ぬのです。 打ち明けて相談するとかえってひどく悪い結果になるような気がして僕は此の頃あの人たちと逢うのを避けるようにさえなりました。 こわいのです。 なんだかとても暗いいやな気がするのです。 あの人たちと顔を合せると僕はただおどおどするばかりです。 なんにも言えなくなるのです。 あの人たちだって悪い人ではない。 いつも僕の事を心配してくれています。 それはわかっている。 あるいは深く愛していて下さるのかも知れないがけれども僕はいやなんだ。 相談するのがいやなんだ。 ポローニヤス僕はあなたを最後の力とたのんでいました。 どうにも仕様が無くなればあなたに何もかも打ち明けておゆるしを願い今後の事も相談しようと思っていました。 あなたはきっと僕たちの事をゆるして下さるだろうとなぜだかそんな気がしていたのです。 さっきあなたに呼びとめられひやっとしました。 来たなと思いました。 ちょうどよい機会だこちらから全部打ち明けてやろうと覚悟してあなたの顔を見ると真蒼でひどく取乱して居られる様子なので急にいやになり逃げようとしたらあなたが僕の腕をつかんで辞表を出したのなんのと大変な事を言うので僕は他にも何か事件が起きたのかしらんと思いあなたに尋ねたらあなたは城中の噂とおっしゃったのであああれかと早合点してしまったわけなのです。 決して故意にはぐらかしたのではありません。 僕は卑怯な男ではないのです。 御弁舌さわやかでございます。 なかなかたくみに言いのがれをなさる。 けれどもポローニヤスはもうだまされません。 何も今さらそんなにクローヂヤスさまや王妃さまの事を出し抜けに問題になさる必要が無いじゃありませんか。 あなたはそれをてれ隠しの道具に使っていらっしゃるのだ。 こじつけです。 やはりなんだかごまかそうとしていらっしゃる。 もっと当面の問題をはっきりお伺いしたいのです。 疑い深いね。 そんなにしつっこく追及されると僕も開き直ってもっと馬鹿正直に言ってやりたくなります。 きのう迄は僕の悩みは一つしか無かった。 オフィリヤ。 それだけです。 けれどもゆうべ僕はもう一つの不愉快極まる話を聞いてしまったのです。 もうオフィリヤどころでは無いと言えばあなたはすぐに醜聞の風向きを変えるのてれ隠しの道具に使うのと冷笑しますが決してそんなことはない。 僕はゆうべはくるしみましたよ。 淋しかった。 たまらなく淋しかった。 ベッドの中で泣きました。 何もかもばからしく腹立たしくやり切れない思いでした。 二つの問題が異様にからみ合って手がつけられない。 オフィリヤどころでは無いというのは言いかたがまずいのでオフィリヤの事も念頭より離れずそれに今度の恐ろしい疑惑が覆いかぶさり乱雲がもくもく湧き立ち流れかさなり僕の苦しみが三倍にも五倍にもふくれあがってゆうべは本当に一睡も出来ませんでした。 発狂したらいっそ気楽だ。 ポローニヤスわかりますか。 あなたから城中の残念な噂と言われてオフィリヤの事か。 とちらと考えてもみたのですが僕にはその事よりももっと色濃くもう一つの噂のほうが問題だったのでついそのほうに話を持って行きましたが決して故意にそらとぼけたわけではないのです。 そんな出方もあったかなどと言われると僕は実にどうにも不愉快だ。 殴ったのは僕の失態でした。 ごめんなさい。 かっとしちゃったのです。 でもあなたもこれからはあんな不愉快な言いかたはしないで下さい。 オフィリヤの事なら心配は要りません。 結婚します。 あたり前の事です。 どんな障害があっても結婚しなければいけません。 僕はオフィリヤを愛しています。 ただ僕のくるしんでいるのは王と王妃に僕たちの事を告白しそのおゆるしを得る事です。 僕はあの人たちに打ち明けてお願いするのはなんとしてもいやなのです。 死んだほうがいい。 ことにもゆうべあんな噂を耳にしたのでなおさら打ち明けるのが苦痛になった。 僕はとにかくあの噂の根元を突きとめてみたい。 何かある。 きっとある。 僕にはそんな予感がする。 根も葉も無い噂だとしたなら僕は幸福だ。 かえってそれを機会にあの人たちに僕の日頃の無礼を素直に詫びて釈然と笑い合う事が出来るようになるかも知れない。 とにかく僕はあの噂の真偽をもっと追及してみたい。 すべてはそれからだ。 ポローニヤスわかりますか。 オフィリヤの事はしばらくそっとして置いて下さい。 無責任な事は致しません。 ああポローニヤス僕もなんだか勇気を得ました。 きょうから僕は勇気のある男になるんだ。 くるしさのとても逃げられぬどん底まで落ちると人は新しい勇気を得るものだね。 どうだかあぶないものです。 ハムレットさまあなたはお若い。 あなた達のおっしゃる事はなんだかわしには信用できない。 新しい勇気とおっしゃるけれど勇気ばかりでもの事がうまく行くものではありません。 また勇気を得たのなんのとその場かぎりの興奮から軽薄な大袈裟な事ばかりを言い散らす人は昔からなまけもののお体裁屋にきまって居ります。 くるしいの淋しいの乱雲が湧き立ったのという気障な言葉は見どころのある男子の口にせぬものです。 とても本気では聞いて居られぬ言葉です。 もう薄鬚も生えているのに情無い。 いつまでいい気な夢を見ているのでしょう。 もっとしっかりして下さい。 いまのあなたのお話でとにかくオフィリヤを一時のなぐさみものになさるおつもりでは無かったという事だけはわかりました。 あなたをお痛わしく思います。 けれども真の難関はこれからです。 及ばずながらポローニヤスも御助勢申し上げますがあなたももっとしっかりして下さらなければ困ります。 本当にお願い致します。 乱雲がもくもく湧き立ったのなんのという言葉はこれからはなるべくおっしゃらないように。 とてもまともには聞いて居られません。 なんというまずい事ばかりおっしゃるのでしょう。 あなたもそろそろ子供の父になるのですよ。 だからだからそれだから僕はくるしんでいるのです。 くるしい時にくるしいと言ってはいけないのですか。 なぜですか。 僕はいつでも思っていることをそのまま言っているだけです。 素直に言っているのです。 本当に淋しいから淋しいと言うのです。 勇気を得たから勇気を得たと言うのです。 なんの駈け引きも間隙も無いのです。 精一ぱいの言葉です。 乱雲が覆いかぶさったという言葉もあなたには大袈裟な下手な形容のように聞えるかも知れませんが僕にとってはそのまま目に見えるような事実なのです。 皮膚感触なのです。 真実といっていいかも知れない。 僕はあなたをオフィリヤとの血のつながりに依ってやっぱり愛しているのだからそれで安心して僕の真実をそのままお伝えしようと思っているのだ。 ちぇっ。 僕はどうも人を信頼し過ぎる。 愛に夢中になりすぎる。 どうだっていいじゃありませんかハムレットさま。 世の中は哲学の教室でもなしあなただって失礼ながら聖人賢者におなりになるおつもりでもございますまい。 愛だの真実だの乱雲だのと賢者の口真似をなさっている間にもオフィリヤのおなかが刻一刻と大きくなります。 それだけはたしかに目に見える事実です。 わしはいまあなたに愛されたって安心されたってちっとも有難い事はありません。 かえって迷惑ですよ。 いまはただオフィリヤの事が――。 だからそれだからああわからんあなたにはわからん。 それは安心していてもいいのですよ。 ただ僕のくるしさは――。 くるしさという言葉はない事にしましょう。 脊中がぞくぞくする。 あなたはさっきからその言葉をもう百回はおっしゃっています。 くるしいのはあなただけではありません。 わしの一家だってあなたのおかげで滅茶滅茶なのですよ。 わしはもう辞表を提出しました。 あすにも此の王城から出て行かなければなりません。 事態は切迫しているのです。 ハムレットさまお力を貸していただきとう存じます。 第一にあなたのためそれからポローニヤス一家のために執るべき手段はひとつしかありません。 わしもゆうべ眠らずに考えました。 執るべき手段を考えました。 ハムレットさまお力を貸していただきとう存じます。 ポローニヤス急にあらたまってどうしたのです。 僕みたいな若輩があなたの力になるなんてとんでもない。 からかわないで下さい。 あなたこそ夢でも見ているのではありませんか。 ゆめ。 そう夢かも知れません。 けれどもこれこそは窮余の一策だ。 ハムレットさまポローニヤスの忠誠を信じますか。 いやそんな事はどうでもいい。 つまらぬ事を言いました。 ハムレットさまあなたは正義を愛しますか。 気味が悪い。 急にロマンチストになりましたね。 まるで逆になった。 こんどは僕が現実主義者になりそうだ。 あなたの口から正義だの忠誠だのという言葉を伺えるとは思いませんでした。 いったいどうしたのです。 そんなにうなだれてしまってどうしたのです。 何を考えているのです。 ハムレットさまわしは悪い人間ですねえ。 おそろしい事を考えていました。 娘の幸福のためには王をさえ裏切ろうとする人間です。 全部打ち明けて申し上げます。 ああいけないホレーショーがやって来ました。 ハムレットさまひどいひどいなあ。 僕は大恥をかきましたよ。 だまっているのだからひどいよ。 もっともゆうべは僕もいけませんでした。 僕が要らない事ばかりおしゃべりしてそれに何せ寒かったものですからあなたのお話をよく聞こうとしなかったのが失敗のもとでした。 でももうわかりました。 ポローニヤスどのこのたびはどうもとんだ事でしたねえ。 御心配でしょう。 それで。 ハムレットさまはいったいどういう御意向なのですか。 此の際ハムレットさまの御意向が一ばん問題になると思うのですがね。 ひとりで何を早合点しているのだ。 相変らずそそっかしいねえ君は。 何をそんなに騒いでいるのだ。 僕が君に恥をかかせた覚えは無いよ。 だめだめ。 とぼけたって駄目です。 僕はいま王さまから一切を聞いて来たのですからね。 いや笑い事じゃない。 慎重に考えなければいけない事です。 そういう君こそなんだかにやにや笑っているじゃないか。 ひやかしちゃだめだよ。 いったい何を聞いて来たのさ。 なあんだそんなにお顔を赤くなさっている癖にまだとぼけようとしている。 かえって僕のほうでてれくさくってくすぐったくてつい笑わざるを得ざる有様でございます。 畜生め。 とうとう見破りやがったな。 畜生め行くぞ。 よし来た組打ちならば負けやしません。 さあどうだ。 これでもか。 平気平気。 畜生め一ひねりだ。 おっちょこちょいの此の咽をこんな具合にしめつけるとぴいと鳴るから奇妙なものさ。 およしなさいおよしなさい。 なんです。 こんな廊下でいきなり組打ちをはじめるなんて乱暴じゃありませんか。 お二人とも悪ふざけはおよしなさい。 わけがわからん。 そんなにお二人ともげらげら笑って掴み合いしていったいどうしたのです。 よして下さい。 いまはそんな悪ふざけをしている場合ではありません。 お互いにも少し緊張する事にしましょうよ。 さあさもういい加減におよしなさい。 ホレーショーどのもいったいどうしたのです。 ここは大学と違うのですよ。 ポローニヤスあなたにはわからんよ。 僕たちはひどくてれくさい時にはこうして滅茶な組打ちをする事にしているんだ。 こうでもしなけれあおさまりがつかんじゃないか。 まったくですよ。 僕はまんまとだまされていたのだからなあ。 ハムレットさまひどいよ。 そんなでもないさ。 これにもいろいろわけがありましてね。 へッへ。 ああそんな下品な笑いかたをなさってなんという事です。 わけもなんにもありゃしない。 事件は実に単純です。 ホレーショーどのまあもっとこっちへおいでなさい。 おやおやあなたの上衣の裾は破れたじゃありませんか。 どうもあなたがたは乱暴でいけません。 うちのレヤチーズもずいぶん乱暴者のようですがでもあなたがた程ではありませんよ。 まあハムレットさまも落ちつきなさい。 いまは重大な時です。 笑ってふざけている場合ではありません。 ホレーショーどのもこれからはわしたちの力になって下さらなければいけません。 これからは此の三人でさまざま相談も致したいと思います。 それで。 ホレーショーどのはいま王さまからどんな事を伺って来たのです。 聞かせて下さい。 わしはきょうからハムレットさまのお味方なのですから信頼してなんでも知らせて下さい。 王さまはあなたになんとおっしゃったのですか。 おどろいた夢のようだとおっしゃっていましたよ。 それから僕の悪口も言っていたろう。 ひがんじゃいけません。 王さまはなかなかわかっていらっしゃる。 いやどうだかな。 とにかくおどろいていらっしゃる。 要領を得ない。 もっとはっきりおっしゃって下さい。 王さまの御意見はどうなんですか。 いやそれがそのいや実に古くさい。 ばかばかしい。 僕はあきれましたよ。 僕にはハムレットさまのお気持はわかっているんだ。 けれども王さまはひどい勘違いをなさっているので僕は呆れました。 おそれつつしんで退出したのですけれどいやひどいなあ。 わかったよ。 とても許されぬと言うんだろう。 イギリスから姫を迎えると言うんだろう。 わかっているよ。 そのとおり。 いやまだひどい。 ハムレットさまのお気持もそろそろ冷くなっている筈だと思うとおっしゃっておいででした。 だからオフィリヤさんをしばらく田舎へ引き籠らせてそれで万事を解決させる。 人の噂も二箇月だとか五箇月だとかいや六箇月だったかな。 とにかくそんな具合の御意見でした。 悪いようにはしないそうです。 王さまも決して悪意でおっしゃっているのではないのです。 それだけは誤解なさらぬように。 ただ王さまは勘違いなさって居られるだけなんだ。 僕はとにかくハムレットさまに王さまの御厚志をお伝えするように言いつかったというわけなのです。 王妃さまはなんだかひとりで笑って居られました。 ハムレットさまのお気持をよくわかっておいでの御様子でありました。 だから決して絶望というわけではないのです。 此の際王妃さまにお願いするのですね。 王さまはだめです。 根っからいけません。 つまり古いという事になりますかねえ。 ホレーショーいい加減の事を言うのはよせよ。 古い新しいの問題じゃない。 現世主義者はいつでもそうなんだ。 叔父さんは現世の幸福を信じているんだ。 叔父さんとしては当然の意見だ。 僕だってそれくらいの事ははじめっから知っていたさ。 問題はそこだよ。 そこが苦しいところなんだ。 忍従か脱走か正々堂々の戦闘かあるいはまたいつわりの妥協か欺瞞か懐柔かtobe,ornottobe,どっちがいいのか僕にはわからん。 わからないからくるしいのだ。 二度。 くるしいという言葉を二度もおっしゃいました。 あなたはすぐにそんな大袈裟な哲学めいた事を口走って意味も無い溜息ばかり吐いてまるで下手な役者の真似みたいな表情をなさいますが実にみっともない。 王さまのお言葉はわしだって覚悟していました。 これしきの事で取乱してはいけません。 ポローニヤスには王さまの御処置がわかっていました。 だからわしも辞表を提出したのです。 いまはたのみとすべきはハムレットさまあなただけです。 わしにはわしの考えがあります。 ホレーショーどのも御助勢下さい。 すべてハムレットさまのためです。 さあホレーショーどの誓って下さい。 わしのこれから言う事を必ず他言しないと誓って下さい。 どうしたのです。 ポローニヤスどの急に鹿爪らしくなってしまいましたね。 ハムレットさまのためです。 誓言はおいやなのですか。 誓いますよ誓いますよ。 なんだか木に竹を継いだみたいに唐突なのでめんくらったのです。 誓いますよ。 ハムレットさまのためならどんないやな事だって致します。 あなたを信頼します。 それでは申し上げます。 ハムレットさまさっきちょっと言いかけてホレーショーどのが来たので止しましたが実はこのごろの城中のもう一つの暗い噂あれをポローニヤスは信じています。 なに。 信じている。 ばかめ。 あなたこそ気が狂った。 さもなくばあなたこそいやな噂を種に王をおどかし無理矢理オフィリヤを僕の妃に押しつけようとする卑劣|下賤の魂胆なのだ。 きたないきたない。 ポローニヤスあなたはさっき言いましたね。 わしは娘の幸福のためには王をさえ裏切ろうとする人間だわしは悪い人間だと呟いていましたね。 僕はあの時はなんの事やらわけがわからなかったがもうはっきりわかりました。 ポローニヤスあなたはおそろしい人だ。 ちがう。 ちがいます。 わしの気持が変ったのです。 はじめから全部申し上げましょう。 わしが先王の幽霊の噂を耳にしたのはごく最近の事でした。 困った事だと思っていました。 そのうち王にも御相談申し上げ適当の対策を講ずるつもりで居りましたがこのごろ王の御様子を窺うとなんだか曇りがあるのです。 わしは相談を躊躇しました。 なぜだか相談しにくいのです。 はっきり申し上げましょう。 わしは少しずつ王さまを疑うようになって来たのでした。 まさかと思いながらも王の御様子を拝見しているとなんだかいやな暗い気持がして来るのです。 わしはその気持をいままで誰にも打ち明けず自分ひとりの胸に畳んでおのずから明朗に解決される日を待っていました。 杞憂であってくれたらいいとひそかに念じていたのです。 けれどもさっき娘が不憫のあまりふいと恐ろしい手段を考えました。 ただいまハムレットさまのおっしゃったような陋劣な事を考えました。 けれどもポローニヤスは不忠の臣ではありません。 それは信じて下さい。 ほんの一瞬ちらと考えてみただけです。 ゆうべ一晩眠らずに考えたというのは嘘でした。 つい興奮して心にも無い虚飾を申しました。 としはとっても子供の事になるとわしもハムレットさまのように大袈裟な言葉をつい言いたくなります。 一瞬ほんの一瞬だけ考えてすぐにその陋劣に身震いしこんどは逆に猛烈に正義という魂魄を好きになりました。 たまらなく好きになりました。 オフィリヤの事よりもまずあの不吉な噂の真偽をたしかめる。 その事こそ臣下の義務いや人間の義務だと気が附きました。 ハムレットさまいまではわしはあなた達の味方です。 きょうからはわしも青年の仲間に入れていただくつもりなのです。 青年の正義。 世の中に信頼できるものはそれだけです。 へんですねえ。 こっちがてれてしまいます。 なんだかへんだ。 ホレーショー人生には予期せぬ事ばかり起るものだねえ。 僕は信じます。 ポローニヤスどのありがとう。 僕は信じますよ。 感激しました。 でもなんだかへんだなあ。 唐突すぎる。 へんな事はありません。 あなた達こそ臆病なのです。 わしはもう破れかぶれなのかも知れません。 いやちがう。 正義だ。 正義。 いい言葉だ。 わしは突貫しますよ。 お力を貸して下さい。 三人でまず王さまをためしてみましょう。 失礼な事かも知れないが何も皆正義のためだ。 王さまの顔色を探ってみましょう。 たしかな証拠をつきとめましょう。 いかがです。 わしには一ついい考えがあるのです。 相談に乗って下さい。 何も皆正義のためです。 わしの行くべき路はそれだけです。 正義のほうで顔負けしますよ。 ポローニヤスあなたは錯乱しています。 いいとしをしてみっともない。 落ちつきなさい。 あなたはいったいあのばかな噂を本気に信じているのですか。 嘘でしょう。 なんだか底に魂胆がありそうですね。 情無い事をおっしゃる。 ハムレットさまあなたは可哀想なお子です。 なんにも御存じないのです。 ああいけない。 ポローニヤスどのもうおよし下さい。 王さまはいいお方です。 ハムレットさまだって心の底では王さまをお慕い申しているのですよ。 いまさらそんな薄気味わるい事はおっしゃらないで下さい。 いけないいけないああ僕はまた寒くなって来ました。 震える。 全身が震える。 ポローニヤス重大な事ですよ。 浮薄な言動はつつしみなさい。 たしかに信ずべき節があるのですか。 残念ながら――ございます。 ははんホレーショー僕たちが冗談に疑って遊んでいたらそれが本当だってさ。 なんて事だい。 馬鹿笑いが出るよ。 あたたかになりましたね。 ことしはいつもより春が早く来そうな気がします。 芝生もこころもち薄みどり色になって来た様じゃありませんか。 早く春が来ればよい。 冬はもうたくさんです。 ごらん小川の氷も溶けてしまった。 柳の芽というものはやわらかくて本当に可愛いものですね。 あの芽がのびて風に吹かれ白い葉裏をちらちら見せながらそよぐ頃にはこの辺いっぱいに様々の草花も乱れ咲きます。 金鳳花いらくさ雛菊それから紫蘭あの紫蘭の花のことをしもじもの者たちはなんと呼んでいるかオフィリヤはご存じかな。 顔を赤くしたところを見るとご存じのようですね。 あの人たちはどんなみだらな言葉でも気軽に口にするので私にはかえって羨やましい。 オフィリヤたちはあの紫蘭の花を何と呼んでいるのですか。 まさかあの露骨な名前で呼んでいるわけでもないでしょう。 いいえ王妃さまあたしたちだってやっぱり同じ事でございます。 幼い時に無心に呼び馴れてしまいましたのでついいまでも口から滑って出るのです。 あたしばかりではなくよそのお嬢さん達だってみんな平気であの露骨な名を言って澄まして居ります。 おやおやそうですか。 いまの娘さん達のあけっぱなしなのには驚きます。 そのほうがかえって罪が無くてさっぱりしているのかも知れませんけど。 いいえ。 でも男のひとの居る前では気を附けて死人の指なぞという名で呼んでいますの。 なるほどそうでしょうね。 さすがに男のひとの前では言えないというのも面白い。 けれども死人の指とはまた考えたものですね。 死人の指。 なるほどねえ。 そんな感じがしない事もない。 可哀そうな花。 金の指輪をはめた死人の指。 おや悲しくもないのに涙が出ました。 こんな歳になってつまらぬ花の事で涙を流すなんて私もずいぶんお馬鹿ですね。 女はいくつになってもやっぱり甘えたがっているものなのですね。 女にはかならず女のくだらなさがあるものなのでしょう。 どう仕様も無いものですね。 こんな歳になってもまだデンマークの国よりは雛菊の花一輪のほうを本当はこっそり愛しているのですもの。 女はだめですね。 いいえ女だけでなく私にはこのごろ人間というものがひどく頼りなくなって来ました。 よっぽど立派そうに見える男のかたでもなに本心は一様にびくびくもので他人の思惑ばかりを気にして生きているものだという事がやっとこのごろわかって来ました。 人間というものはみじめな可哀そうなものですね。 成功したの失敗したの利巧だの馬鹿だの勝ったの負けたのと眼の色を変えて力んで朝から晩まで汗水流して走り廻ってそうしてだんだんとしをとるそれだけの事をする為に私たちは此の世の中に生れて来たのかしら。 虫と同じ事ですね。 ばかばかしい。 どんな悲しいつらい事があってもデンマークのためという事を忘れずきょうまで生きて努めて来たのですが私は馬鹿です。 だまされました。 先王にも現王にもまたハムレットにもみんなにだまされていたのです。 デンマークのためという言葉はなんだか大きい崇高な意味を持っているようで私はいつでもデンマークのためとばかり思ってくるしい事でも悲しい事でも怺えて来ました。 神さまからいただいた尊い仕事をしているのだという誇りがあったものですからずいぶん淋しい時でも我慢が出来たのです。 私が神さまから特に選ばれて重い役目を言いつけられている人間だという自負があったからこそ忍従の生活を黙って続けて来たのですがいま考えてみるとばからしい。 私のような弱い腕でどんな仕事が出来るものですか。 人は私のひそかな懸命の覚悟なぞにはお構い無しに勝ったの負けたのと情ないきょろきょろ細かい気遣いだけで日を送ってそうして時々なんの目的も無しに卑劣な事件などを起して周囲の人の運命をどしどし変えて行くのです。 それから後がまたお互い責任のなすり合いでたいへんです。 私ひとりがデンマークの為だのハムレット王家の為だのと緊張してみたところで濁流に浮んでいる藁のようです押し流されてしまいます。 本当にばからしい。 オフィリヤ。 からだの調子はどうですか。 え。 べつに。 隠さずともよい。 私は知っているのですから。 御安心なさい。 私だってハムレットの母としてあなたをいとしく思っています。 きょうは顔色もいいようですね。 もう気分がわるくなるような事は無くなりましたか。 はい。 王妃さまお礼の言葉もございません。 実はけさ眼が覚めたらすっと胸がひらけてものの臭いも平気になりました。 きのう迄は自分のからだの匂いも夜具やら下着やらの臭いもまるで韮のようでどんなに香水を振りかけても我慢が出来ずひとりで泣いて居りました。 でもけさは悪い夢から覚めたようにすっとからだも軽くなりスウプも幾日ぶりかで本当においしかった。 何かの拍子にまたきのう迄のあんな地獄の気分に落ちるのではないかとまだ少し心配でございます。 自分のからだがこわれもののような気がしてはらはらしています。 いまだっておっかなびっくりでなるべく静かに呼吸しながら一歩一歩こわごわ芝生を踏んでいます。 もう大丈夫なのかしら。 あんなつらい思いを二度くりかえすのはいやでございます。 ええもう大丈夫ですとも。 これからは食慾もすすむ一方です。 本当にあなたはなんにもご存じないのですねえ。 無理もない。 これからは私が相談相手になってあげてもよい。 あなたはさっきから何でも思ったとおりに正直におっしゃるので私は可愛くなりました。 悪びれず大胆に言う人を私は好きです。 いいえ王妃さま。 あたしはきのう迄嘘ばかりついていましたの。 ひとをだますという事ほどくるしいつらい地獄はございませぬ。 でももう嘘をつく必要は無くなりました。 みんなに知られてしまいました。 からだの具合もさいわい今朝からこんなにすっきりして来ましたしもうこれからはいじけずに昔のとおりにお転婆なオフィリヤになるのです。 本当に此の二箇月毎日毎日意外な事ばかり続いてゆめのようでございます。 なにゆめのような思いはあなたばかりではありません。 誰もかれも此の二箇月間はおそろしい夢を見ているような気持でした。 先王がおいでなされた頃の平和はいま考えるとまるで嘘のような気さえ致します。 あんなにお城の中もまたデンマークの国も希望に満ちて一日一日を送り迎えしていたような時代はもう二度と帰って来る事はありますまい。 誰がどうわるいというのでも無いのにすっかり陰気に濁ってしまって溜息と意地悪い囁きだけがエルシノアの城にもまたデンマークの国中にも満ち満ちているような気がします。 きっと何かひどく悪い事が起る悲惨な事が起るというような不吉な予感を覚えます。 せめてハムレットだけでもしっかりしていてくれるといいのですけれどあの子はあなたの事で半狂乱の様子ですし他の人だって自分の地位や面目の事ばかり心配してあちこち走り廻っているような具合ですからちっとも頼りになりません。 女も浅墓なものですが男のひともあんまり利巧とは言えませんね。 あなた達にはまだわかっていないでしょうが男のひとはそれは気の毒なくらい私たちの事を考えているものなのですよ。 そんなにお笑いになってはいけません。 本当なんです。 私は自惚れて言っているわけではありません。 男のひとは口では何のかのと立派そうな事を言っていながら実のところはね可愛い奥さんの思惑ばかりを気にして生きているものなのです。 立身も成功も勝利もみんな可愛い奥さんひとりを喜ばせたい心からです。 いろんな理窟をつけて努力して居りますがなに可愛い女にほめられたいばかりなのです。 だらしの無い話ですね。 可哀想なくらいです。 私は此の頃それに気がついてびっくりしました。 いいえがっかりしました。 私は男の世界を尊敬してまいりました。 私たちにはとてもわからぬ高いくるしい理想の中に住んでいるものとばかり思っていました。 及ばずながら私たちはその背後でせめて身のまわりのお世話でもしてあげてわずかなお手伝いをしたいと念じていたのですがばかばかしいその背後のお手伝いの女こそ男のひとたちの生きる唯一の目当だったとはまるで笑い話ですね。 背後からそっとマントを着せてあげようとするとくるりとこちらを向いてしまうのですからまごついてしまいます。 理想だの哲学だの苦悩だのとわけのわからんような事を言ってずいぶん空の高いところを眺めているような恰好をしていますがなに実は女の思惑ばかりを気にしているのです。 ほめられたい好かれたいばかりの身振りです。 私には此の頃男がくだらなく見えて仕様がありません。 オフィリヤたちにはわからない事です。 あなたなどにはまだハムレットなんかがいい男に見えて仕様がないのでしょうね。 あの子は馬鹿な子です。 周囲の人気が大事でうき身をやつしているのです。 わかい頃にはお友達や何かの評判が一ばん大事なものらしい。 馬鹿な子です。 根からの臆病者のくせに無鉄砲な事ばかりやらかしてお友達やオフィリヤにはほめられるでしょうがさて後の始末が自分では何も出来ないものですから泣きべそをかいてひとりですねているのです。 そうして内心は私たちをあてにしているのです。 私たちが後の始末をしてくれるのをすねながら待っているのです。 気障な思いあがった哲学めいた事ばかり言ってホレーショーたちを無責任に感服させてそうして蔭では哲学者どころか私たちに甘えてお菓子をねだっているような具合なんですから話になりません。 甘えっ子ですよ。 朝から晩まで周囲の者にほめられて可愛がられていたいのです。 その場かぎりの喝采が欲しくていつも軽薄な工夫をしています。 あんな出鱈目な生きかたをして本当に将来どうなることでしょう。 あなたの兄さんのレヤチーズなどはハムレットと同じ歳なのにもうちゃんと世の中のからくりを知っていらっしゃる。 いいえそれが兄のかえって悪いところでございます。 王妃さまはたったいまよほど立派そうに見える男のかたでも本心は一様にびくびくもので他人の思惑ばかりを気にして生きているものだ等とおっしゃっていながらすぐそのお口の裏からレヤチーズをおほめになるなんて可笑しゅうございます。 兄だってやっぱり本心はそんなところでございましょう。 それは兄がハムレットさまに較べては少し武骨でしっかり者のところもありますけれどでもあんまりはっきり割り切れた気持で涼しく生きている者はかえって私たちを淋しくさせます。 あたしは兄を決してきらいではないのですけどでも兄に何でも打ち明けて語ろうという親しい気持は起りません。 父に対しても同じ事でございます。 あたしはわるい娘いけない妹なのかも知れません。 仕方が無いのでございます。 肉親にしたしみを感じないでかえって――。 ハムレットだけに親しみを感じているというわけですね。 つまらない。 およしなさいよ。 恋に夢中になっている時には誰だって自分の父や兄をきらいになります。 当り前の事じゃありませんか。 本当にあなた達の言うことを真面目に聞いていると馬鹿を見ます。 何を言う事やら。 いいえ王妃さま。 あたしは夢中ではございませぬ。 あたしはこんな事になってしまう前からずっと以前からおしたい申して居りました。 いいえハムレットさまでなく王妃さまをこっそり懸命におしたい申して居りました。 そのうちについハムレットさまとこんなになって喜びやらくるしみやら意外の思いやらいろんな事がございましたがあたしには失礼ながら王妃さまを母上とお呼びして甘える事が出来るようになるのではないかしらという淡い期待が何にも増してうれしかったのでございます。 お信じ下さいませ。 あたしは小さい時から王妃さまをどんなに敬いそうしてどんなに好きで好きでたまらなかったか王妃さまにはおわかりになりますまい。 あたしは今まで身振りでもものの言い様でも何でもかでも王妃さまの真似ばかりしてまいりました。 ごめんなさい。 王妃さまのお身分のせいでは無しにただ女性として魅力あるおかたいいおかたすばらしいおかたああなんと申し上げたらいいのでしょう王妃さまあたしをお笑い下さいませ。 あたしは馬鹿な娘です。 ハムレットさまがもし王妃さまのお子でなかったらあたしだってこんな間違いは起こさなかったろうと思います。 あたしはみだらな女ではございませぬ。 王妃さまの大事な大事なお子さまですからあたしも大事におあずかりしようと思ったのです。 可愛い冗談ばかりおっしゃる。 あなた達はふいと思いついた言葉をそのまままことしやかに言い出すのでいつも私たちは閉口します。 あなたが私を少しでも好きだとしたらそれはやっぱり私の身分のせいです。 身分がきらきらしているのでそれに眼がくらんでのぼせ気味になって何でもかでも矢鱈に素晴らしく見えるようになったのでしょう。 私はつまらないお婆さんです。 あなたがハムレットを拒み得なかったのもハムレットの身分のせいです。 王妃の大事な子供だからあなたも大事にしようと思いました等という突飛な意見は私ひとりは笑って聞き流して許してもあげますが他のひとにそんな事を言ったらあなたは白痴か気違い扱いにされてしまいます。 あなたが私を母と呼んで甘えたいそれが一ばんの喜びだと無邪気そうにおっしゃっていましたがわかり切った事です。 それはあなたがデンマーク国の王子の妃になる事の喜びを申し述べているのに過ぎません。 王子の妃になって王妃を母と呼べる身分になるのはデンマーク国の女の子と生れて最上のよろこびの筈です。 あたり前の話です。 あなた達は自分の俗な野心を無邪気な甘えた言いかたで巧みに塗りかえるから油断がなりません。 うっかりだまされます。 今の若い人たちはなんにも知らぬ振りをして子供っぽい口をきいて私たちを笑わせながら実はどうしてちゃっかり俗な打算をしているのだからいやになります。 ほんとうに抜け目がなくてずるいんだから。 ちがいます王妃さま。 どうしてそんなに意地わるくどこまでもお疑いになるのでしょう。 あたしにはそんな大それた浅墓な野心などはございません。 あたしはただ王妃さまを本当に好きなのでございます。 泣くほど好きです。 あたしの生みの母はあたしの小さい時になくなりましたけれどいま生きていても王妃さまほどではないだろうと思います。 王妃さまにはあたしのなくなった母よりももっと優しくそうして素晴らしい魅力がございます。 あたしは王妃さまのためにはいつ死んでもいいと思っています。 王妃さまのようなおかたを母上とお呼びして一生つつましく暮したいといつも空想して居りました。 ご身分の事などはいちども考えたことがございません。 不忠の娘でございます。 やっぱりあたしには母が無いので一そうお慕いする気持が強いのかも知れません。 本当にあたしにはなんの野心もございません。 なさけ無い事をおっしゃいます。 あたしはハムレットさまのご身分をさえ忘れていました。 ただ王妃さまのお乳の匂いがハムレットさまのおからだのどこかに感ぜられてそれゆえたまらなくおいとしく思われとうとうこんな恥ずかしい身になりました。 あたしはちっとも打算をしませんでした。 それは神さまの前ではっきり誓うことが出来ます。 王子さまの妃になって出世しようなどとそんな大それた野心は本当に夢に見たことさえございません。 あたしはただ王妃さまの遠いつながりをわが身に感じている事が出来ればそれで幸福なのでございます。 あたしはもうみんなあきらめて居ります。 いまは王妃さまのお孫を無事に産みお丈夫に育てる事だけがたのしみでございます。 あたしは自分を仕合せな女だと思って居ります。 ハムレットさまに捨てられてもあたしは子供と二人で毎日たのしく暮して行けます。 王妃さま。 オフィリヤにはオフィリヤの誇りがございます。 ポローニヤスの娘として恥ずかしからぬ智慧もきかぬ気もございます。 あたしはなんでも存じて居ります。 ハムレットさまにただわくわく夢中になってあのおかたこそ世界中で一ばん美しい完璧な勇士だ等とは決して思って居りません。 失礼ながらお鼻が長過ぎます。 お眼が小さく眉も太すぎます。 お歯もひどく悪いようですしちっともお綺麗なおかたではございません。 脚だって少し曲って居りますしそれにお可哀そうなほどのひどい猫脊です。 お性格だって決して御立派ではございません。 めめしいとでも申しましょうかひとの陰口ばかりを気にしていつもいらいらなさって居ります。 いつかの夜など信じられるのはお前だけだ僕は人にだまされ利用されてばかりいる僕は可哀想な子なのだからお前だけでも僕を捨てないでおくれと聞いていて浅間しくなるほど気弱い事をおっしゃって両手で顔を覆い泣く真似をなさいました。 どうしてあんな気障なお芝居をなさるのでしょう。 そうしてちょっとでもあたしが慰めの言葉を躊躇している時にはたちまち声を荒くしてああ僕は不幸だ誰も僕のくるしみをわかってくれない僕は世界中で一ばん不幸だ孤独だ等とおっしゃって髪の毛をむしりせつなそうに呻くのでございます。 ご自分をむりやり悲劇の主人公になさらなければ気がすまないらしい御様子でありました。 突然立ち上って壁にはっしとコーヒー茶碗をぶっつけてみじんにしてしまう事もございます。 そうかと思うとたいへんな御機嫌で世の中に僕以上に頭脳の鋭敏な男は無いのだ僕は稲妻のような男だ僕にはなんでもわかっているのだ悪魔だって僕を欺く事が出来ない僕がその気にさえなればどんな事だって出来るどんな恐ろしい冒険にでも僕は必ず成功する僕は天才だ等とおっしゃってあたしが微笑んで首肯くといやお前は僕を馬鹿にしているお前は僕を法螺吹きだと思っているのに違いないお前は僕を信じないからだめだこんどはひどく調子づいて御自分の事を滅茶苦茶に悪くおっしゃいます。 僕は実は法螺吹きなんだ。 山師だよ。 いんちきだ。 みんなに見破られて笑われているのだ。 知らないのはお前だけだよ。 お前はなんて馬鹿な奴だ。 だまされているのだよ。 僕にまんまとだまされているのさ。 ああ僕もみじめな男だ。 世の中の皆から相手にされなくなってたったひとりお前みたいな馬鹿だけをつかまえて威張っている。 だらしがないねえ等とそれはもうとめどもなく聞いているあたしのほうで泣きたくなる程御自分の事を平気であざ笑いつづけるのです。 そうかと思うと一時間も鏡の前に立って御自分のお顔をさまざまにゆがめて眺めていらっしゃる事もございます。 長いお鼻が気になるらしく鏡をごらんになりながらちょいちょいつまみ上げてみたり等なさるのであたしも噴き出してしまいます。 けれどもあたしはあのお方を好きです。 あんなお方は世界中に居りません。 どこやらとてもすぐれたところがあるようにあたしには思われます。 いろいろな可笑しな欠点があるにしてもどこやらに神の御子のような匂いが致します。 あたしだって誇りの高い女です。 ただやたらに男のかたを買い被り有頂天になるような事はございません。 たとい御身分が王子さまであってもむやみに御胸におすがりするような事は致しません。 ハムレットさまは此の世で一ばんお情の深いおかたです。 お情が深いから御自分をもてあましてしまってお心もお言葉も乱れるのです。 きっとそうです。 王妃さまだってハムレットさまのいいところはちゃんとご存じの癖に。 何が何やらあなた達の言う事はまるで筋道がとおっていません。 私を慕っているからハムレットをも好きになった等とへんな理窟を言うかと思うとこんどはひどくハムレットの悪口をおっしゃってすぐにまたその口の下からハムレット程いいひとは世の中にはいない神の御子だなんて浅間しい勿体ない事をおっしゃる。 私のようなお婆さんをつかまえて素晴らしい魅力があるのなんのと馬鹿らしい事を口走るかと思えばいいえちっとも夢中になっていないもう諦めている等と殊勝な事をおっしゃる。 いったいどこをどう聞けばいいのか私は困ってしまいます。 あなたもハムレットの影響を受けたのでしょう。 第一の高弟とでもいうところでしょうか。 ホレーショーだけかと思ったらあなたもなかなか優秀なお弟子のようです。 王妃さまからそんなに言われるとあたしもしょげてしまいます。 あたしは感じた事をいつわらずそのまんま申し上げた筈でございます。 あたしの申し上げた事は皆ほんとうなのです。 あれこれと食いちがうのはきっとあたしの言いかたが下手なせいでしょう。 あたしは王妃さまにだけは嘘をつくまいと思っていますしまた嘘をついてもそれにだまされるような王妃さまでもございませんからあたしは感じた事思っている事をのこらず全部申し上げようとあせるのですが申し上げたいと思う心ばかりがさきに走っていって言葉が愚図愚図してのろくさくてなかなか心の中のものをそっくり言い現わす事が出来ません。 あたしは神さまに誓って申し上げますがあたしは正直でございます。 あたしは愛しているおかたにだけは正直になろうと思います。 あたしは王妃さまを好きなので一言も嘘を申し上げまいと努めているのでございますが努力すればする程あたしの言葉が下手になります。 人間の正直な言葉ほど滑稽でとぎれとぎれで出鱈目に聞えるものはないと思えばなんだか無性に悲しくなります。 あたしの言葉はしどろもどろでちっとも筋道がとおらないかも知れませんがでも心の中のものはちゃんと筋道が立っているのです。 その心の中のまんまるいものがなんだかむずかしくてなかなか言葉で簡単には言い切れないのです。 だからいろいろ断片的に申し上げてその断片をつなぎ合せて全部の感じをお目にかけようとあせるのですけれどもなんだか言えば言う程へまになって困ります。 あたしは愛しすぎているのかも知れません。 常識を知らないのかも知れません。 みんなハムレットから教えられた理窟でしょう。 いまの若い人たちは自己弁解の理窟ばかり達者でいやになります。 そんな気取った言いかたをなさらずいっそこう言ったらどうですか。 あたしはわからなくなりました胸が一ぱいですとだけおっしゃれば私たちにはかえってよくわかります。 あなたは他の事だと悪びれず大胆にはきはきおっしゃっていい子なのにハムレットの事になるとへんな理窟ばかりおっしゃってご自分の恥ずかしさを隠そうとなさる。 あなたはまだ私にすみませんというお詫びをさえ言っていません。 王妃さま。 心からすみませんと思って居ればなぜだかその言葉が口から出ないものでございます。 あたしたちの今度の行いがすみませんという一言でゆるされるものとは思われませぬ。 あたしのからだ一めんにすみませんという文字が青いインキで隙間も無く書き詰められているような気がしているのですけれどなぜだか王妃さまにすみませんと申し上げる事が出来ないのです。 白々しい気がするのです。 ずいぶんいけない事をしていながらただすみませんと一言だけ言ってそれで許してもらおうなんて考えるのは自分の罪をそんな意識していない図々しい人のするわざです。 あたしにはとても出来ません。 ハムレットさまだってやはり同じ事でいまお苦しみなさっていらっしゃるのだと思います。 何かでつぐないをしなければいけないとあせっていらっしゃるのだと思います。 ハムレットさまもあたしもこのごろ考えている事はどうして王妃さまにお詫びをしようかという苦しみだけでございます。 王妃さまはいまお淋しい御境遇なのですからあたしたちはお慰めしなければならないのについこんな具合になってしまってかえって御心配をおかけしてこんな事は悪いとか馬鹿とかそんな簡単な言葉ではとても間に合いません。 死ぬる以上につらい思いがございます。 あたしは王妃さまをずっと昔から本当にお慕い申していたのです。 それは本当でございます。 一生に一ぺんでも王妃さまに褒められたいと念じてお行儀にも学問にも努めてまいりましたのにまああたしは何というお馬鹿でしょう。 つい狂って王妃さまに一ばんすまない事を致しました。 ハムレットさまだってあたしに負けずにいいえあたし以上に王妃さまを敬いなつかしがっていらっしゃいます。 あたしたちは王妃さまがいつまでもお達者でお元気で居られるように祈っています。 生きておいでのうちにはきっとつぐないをしてお目にかけましょうとあたしはハムレットさまにしみじみお話申し上げた夜もございました。 王妃さま王妃さまあら。 ごめんなさい。 泣くまいとさっきから我慢して心にも無い意地悪い事ばかり言っていました。 オフィリヤ私はあなたからそんなに優しく言われ慕われるとせつなくなります。 この胸が張り裂けるようでした。 オフィリヤあなたはいい子だね。 あなたはきっと正直な子です。 おずるいところもあるようだけどでもまあ無邪気な意識しない嘘はとがめだてするものでない。 そんな嘘こそかえって美しいのだからね。 オフィリヤこの世の中で無邪気な娘の言葉ほど綺麗で楽しいものはないねえ。 それに較べると私たちはきたない。 いやらしい。 疲れている。 あなたたちがそれでも私をしんから愛してくれていつまでも生きていてくれと祈っているという言葉を聞いて私はたまらなくなりました。 あああなたたちの為にだけでも私は生きていなければならないのにオフィリヤゆるしておくれ。 王妃さま何をおっしゃいます。 まるであべこべでございます。 王妃さまは何か他の悲しい事を思い出されたのでございましょう。 おおちょうどよい。 ここに腰掛がございます。 さお坐りなさってお心を落ちつけて下さいませ。 王妃さまがそんなにお泣きなさるとあたし迄が泣きたくなります。 さこう並んで腰かけましょう。 おや王妃さま。 これは先王さまの御臨終の時の腰掛でございましたね。 先王さまがお庭の此の腰掛にお坐りになって日向ぼっこをなされていると急に御様子がお悪くなりあたしたちの駈けつけた時にはもう悲しいお姿になって居られました。 あれはあたしが新調の赤いドレスをその朝はじめて着てみた日の事でございましたがあたしは悲しいやらくやしいやらで自分の赤いドレスが緑色に見えてなりませんでした。 うんと悲しい時には赤い色が緑色に見えるようでございます。 オフィリヤもうおよし。 私は間違った。 私にはもうなんにも希望が無いのです。 何もかもつまらない。 オフィリヤあなたはこれからは気を附けて生きて行くのですよ。 王妃さまお言葉がよくわかりませぬ。 でもオフィリヤの事ならもう御心配いりません。 あたしはハムレットさまのお子を育てます。 馬鹿だ。 馬鹿だ馬鹿だ。 僕は大馬鹿野郎だ。 いったいなんの為に生きているのか。 朝起きて食事をしてうろうろして夜になれば寝る。 そうしていつも遊ぶ事ばかり考えている。 三種類の外国語に熟達したがそれもただ外国の好色|淫猥の詩を読みたい為であった。 僕の空想の胃袋は他のひとの五倍も広くて十倍も貪慾だ。 満腹という事を知らぬ。 もっともっとと強い刺戟を求めるのだ。 けれども僕は臆病でなまけものだからたいていは刺戟へのあこがれだけで終るのだ。 形而上の山師。 心の内だけの冒険家。 書斎の中の航海者。 つまり僕はとるにも足らぬ夢想家だ。 あれこれと刺戟を求めて歩いて結局はオフィリヤなどにひっかかりそうしてそれっきりだ。 どうやら僕はオフィリヤにまいってしまっているらしい。 だらしの無い話だ。 ドンファンを気取って修行の旅に出かけてまず手はじめにとひとりの小娘をやっとの事で口説き落したがその娘さんと別れるのがくるしくて一生そこに住み込んで身を固めたという笑い話。 まず小手しらべに田舎娘をだましてみて女ごころというものを研究しそれからおもむろにドンファン修行に旅立とうという所存でいたのにその田舎娘ひとりの研究に人生七十年を使ってしまったという笑い話。 僕は深刻な表情をしていながら喜劇のヒロオだ。 案外道化役者の才能があるのかも知れぬ。 このごろの僕の周囲は笑い話で一ぱいだ。 たわむれに邪推してみてふざけていたらたしかな証拠があります等と興覚めの恐ろしい事を真顔で言われて総毛立った。 冗談から駒が出たとはこの事だ。 入歯のおふくろが横恋慕されたというのも相当の喜劇だ。 ポローニヤスが急に仔細らしく正義の士に早変りしたというのも噴飯ものだ。 僕がやがてパパになるというのも奇想天外いやそれよりも何よりも今夜の此の朗読劇こそ圧巻だ。 ポローニヤスはたしかに少し気が変になっているのだ。 一挙に三十年も四十年も若返り異様にはしゃぎ出して朗読劇をやろうなんて言い出すのだから呆れる。 イギリスの女流詩人のなんだかひどく甘ったるい大時代の作品をポローニヤスが見つけて来てこれを台本にして三人で朗読劇をやろうと言い出す始末なのだから恐れいる。 しかもポローニヤスの役は花嫁というのだから滅茶だ。 なるほどその詩の内容はいまの叔父上と母にとってはちょっと手痛いかも知れない。 ポローニヤスは此の朗読劇に王と王妃を招待して劇の進行中にお二人がどんな顔をなさるかためしてみようという魂胆なのだが馬鹿な事を考えたものだ。 たとい真蒼な顔をなさったところでそれがどんな証拠になるものか。 また平気で笑っていたとてそれが無罪の証拠になるとは限らぬ。 お二人の感覚の鋭敏遅鈍の判定は出来るだろうが有罪無罪の判定にはなりやしない。 全くポローニヤスはどうかしている。 馬鹿らしいとは思っていながら僕も又だらし無い。 オフィリヤの親爺のご機嫌をそこねたくないばかりにそれはいい考えだなんてお追従を言ってホレーショーにも賛成を強要し三人で朗読の稽古をはじめたのはきょうの昼過ぎだ。 ホレーショーは最初あんなに気がすすまないような事を言っていながら稽古がはじまると急に活気づいて来てウイッタンバーグの劇研究会仕込みとかいう奇妙な台詞まわしで黄色い声を張りあげていた。 あいつは本当に正直な男だ。 自分の感情をちっとも加工しないで言動にあらわす。 どんなへまを演じても何だか綺麗だ。 いやらしいところが無い。 しんから謙譲なあきらめを知っている男だ。 それに較べて此の僕はああ馬鹿だ。 大馬鹿野郎だ。 僕はあきらめる事を知らない。 僕の慾には限りが無い。 世界中の女をひとり残らず一度は自分のものにしてみたい等と途方も無い事をのほほん顔で空想しているような馬鹿なのだ。 世界中の人間にしんから敬服されたいものだ僕の俊敏の頭脳と卓抜の手腕と厳酷の人格を時折ちらと見せてあらゆる人間に瞠目させたい等と頬杖ついてうっとり思案してもみるのだがさて僕には何も出来ない。 世界中の女どころかお隣りの娘さんひとりを持てあまして死ぬほど苦しい思いをしている。 卓抜の手腕どころか僕には国の政治はなんにもわからぬ。 瞠目されるどころか人にだまされてばかりいる。 人をこわがってばかりいる。 人を畏敬してばかりいる。 人が僕にかたちばかりのお辞儀をしても僕はそのお辞儀をまごころからのものだと思い込んでたちまち有頂天発狂気味にさえなってその人の御期待にお報いせずんばあるべからずと心にも無い英雄の身振りを示し取りかえしのつかぬ事になったりしてみんなに嘲笑せられるくらいが落ちさ。 人に悪口を言われてもその人の敵意には気が附かずみんな僕の為を思って言いにくい悪口でも無理に言ってくれるのだありがたいこの御厚情にはいつの日かお報いせずんばあるべからずと心の中の手帳にその人の名を恩人として明記して置くという始末なのだ。 人から軽蔑せられてもかえってそれを敬意か愛情と勘違い恐悦がったりして五六年|経って一夜ふっとその軽蔑だった事に気附いて畜生。 と思うのだがいや実にめでたい。 かと思うとその反面に打算の強いところもあって友人達に優しくしてやって心の隅ではかならずひそかに情は人のためならず等と考えているんだからやりきれない男さ。 底の知れない馬鹿とは僕の事だ。 どだい僕にはどんな人が偉いんだかどんな人が悪いんだかその区別さえはっきりしない。 淋しい顔をしている人がなんだか偉そうに見えて仕様が無い。 ああ可哀想だ。 人間が可哀想だ。 僕もホレーショーも可哀想。 ポローニヤスもオフィリヤも叔父さんもお母さんもみんなみんな可哀想だ。 僕には昔から軽蔑感も憎悪も怒りも嫉妬も何も無かった。 人の真似をして憎むの軽蔑するのと騒ぎ立てていただけなんだ。 実感としては何もわからない。 人を憎むとはどういう気持のものか人を軽蔑する嫉妬するとはどんな感じか何もわからない。 ただ一つ僕が実感として此の胸が浪打つほどによくわかる情緒はおう可哀想という思いだけだ。 僕はこの感情一つだけで二十三年間を生きて来たんだ。 他には何もわからない。 けれども可哀想だと思っていながら僕には何も出来ないんだ。 ただそう思ってそれを言葉で上手に言いあらわす事さえ出来ずまして行動に於てはその胸の内の思いと逆な現象ばかりがあらわれる。 なんの事は無い僕はなまけ者の大馬鹿なんだ。 何の役にも立ちやしない。 ああ可哀想だ。 まったく笑い事じゃない。 ホレーショーも叔父さんも母もポローニヤスもみんな可哀想だ。 僕のいのちが役に立つなら誰にでも差し上げます。 このごろ僕には人間がいよいよ可哀想に思われて仕様がないんだ。 無い智慧をしぼって懸命に努めてもみんな悪くなる一方じゃないか。 ああいそがしい。 おやハムレットさまはもうこちらへおいでになっていたのですか。 どうですこれはちょっとした舞台でしょう。 わしが先刻毛氈やら空箱やらを此の部屋に持ち込んでこんな舞台を作ったのです。 なあにこれくらいの舞台で充分に間に合いますよ。 朗読劇でございますから幕も背景も要りません。 そうでしょう。 でも何も無いというのも淋しいのでここへ蘇鉄の鉢を一つ置いてみました。 どうですこの植木鉢一つで舞台がぐんと引き立って見えるじゃありませんか。 可哀想に。 なんですって。 何が可哀想なんです。 蘇鉄の鉢をここへ置いちゃいけないとおっしゃるのですか。 それじゃもっと舞台の奥のほうに飾りましょうか。 なるほどそう言われてみるとこの舞台の端に置かれたんじゃ蘇鉄の鉢も可哀想だ。 いまにも舞台から落っこちそうですものね。 ポローニヤス可哀想なのはあなただよ。 いやあなただけでは無く叔父さんも母もみんな可哀想だ。 生きている人間みんなが可哀想だ。 精一ぱいに堪えて生きているのにたのしく笑える一夜さえ無いじゃないか。 いまさらまた何をおっしゃる。 可哀想だなんて縁起でも無い。 あなたはひとの折角の計画に水を差して興覚めさせるような事ばかりおっしゃる。 わしはただあなたのお為を思って此の度のこんな子供だましのような事をも計画してみたのですよ。 わしはあなた達の正義潔癖の心に共鳴を感じ真理探求の仲間に参加させてもらったのです。 他にはなんの野心もないのです。 此の度のあの怪しからぬ噂がいったいどこ迄事実なのか此の朗読劇を御覧にいれてためしてみようという――。 わかったわかった。 ポローニヤスあなたはいかにも正義の士だよ。 見上げたものです。 けれども自分ひとりの正義感が他人の平穏な家庭生活を滅茶滅茶にぶちこわす事もあります。 どちらがどう悪いというのでは無い。 はじめから人間はそんな具合に間がわるく出来ているのだ。 叔父さんが何か悪い事をしているという証拠を得たとてどうなろう。 僕たちみんなが以前より一そう可哀想になるだけじゃないか。 いやハムレットさま失礼ながらまだお若い。 もし此のこころみに依って王さまに何のうしろ暗いところも無かったという事がわかったらわしたちは申す迄も無くデンマークの国民ひとしくほっと安堵の吐息をもらし幸福な笑顔が城中に満ちるでしょう。 正義は必ずしも人の非を挙げて責めるものではなくある時には無実の罪を証明してその人を救ってやるものです。 ポローニヤスはその万一の幸福な結果をも期待しているのです。 万一。 万一そんな結果になったらああそれは奇蹟に近いいやしかしまあとにかくやってみましょう。 その後の事はポローニヤスに任せて下さい。 決して悪いようには致しません。 ポローニヤス一生懸命だね。 可哀想に。 僕にはみんなわかっているよ。 ああいやだ。 叔父さんがたといどんな事をしていたってかまわないじゃないか。 叔父さんは叔父さんの流儀で精一ぱいに生き伸びているだけなんだ。 僕の気持はどうやらくるりと変ったようだ。 けさまであんなに叔父さんを悪く言いあのいまわしい噂の根元を突きとめなければなんて騒ぎ立てていたのだがポローニヤスあれはあなたに見事ぐさりと突かれたように醜聞の風向きを変えるためだったのかも知れぬ。 やっぱりてれ隠しの道具に使っているだけの事だったのかも知れぬ。 先刻あなたからたしかな証拠が残念ながらありますと言われて急に叔父さんを可哀想になってしまった。 可哀想だ。 叔父さんは精一ぱいなのだ。 叔父さんはそんな馬鹿な悪い事の出来る人じゃない。 叔父さんは僕以上に弱い人なんだ。 一生懸命に努めているのだ。 ああ僕は馬鹿だ。 叔父さんを冗談にも一時疑っていたなんて僕はおっちょこちょいの恥知らずだ。 ポローニヤスもう正義ごっこはやめにしようよ。 この軽薄な遊戯がどんな恐ろしい結果になるかああその恐ろしい結果を考えると生きて居られない気持がする。 どうもあなたは大袈裟でいけません。 けさほどはくるしいとい言葉の連続ただいまは可哀想の連発。 どこで教えられて来たのかひとつ覚えみたいに連発していらっしゃる。 世の中は情緒だけのものじゃありません。 正義と意志です。 立派に生き果すためには憐憫や反省は大の禁物。 あなたはオフィリヤの事だけを考えて居ればそれでいいのです。 ハムレットさまに較べるとホレーショーどのなんかは淡泊で無邪気で本当に青年らしい単純な夢の中で生きています。 少しは見習いなさいよ。 ホレーショーどのはもう此の朗読劇の底の魂胆を忘れてしまったかのようにただただ芝居をするという事の嬉しさに浮かれあんなに熱心に稽古をしていたじゃありませんか。 あれでいいのです。 あなたは台詞の稽古は充分ですか。 間もなくお客さまたちがここへお見えになりますよ。 ホレーショーどのがいま皆さまをお誘い申しにあがったのです。 あのひとはたいへんな張りきりかたですね。 内心は花嫁の役のほうをやりたかったらしいんですけどあの役はわしでなければうまく出来ない。 おやもうお客さまたちがやって来たようです。 やあ今夜はお招きを有難う。 ホレーショーがウイッタンバーグ仕込みの名調子を聞かせてくれるというので皆を連れて拝聴にまいりました。 ほんの近親の者たちばかりでこういう催しをするのは実にたのしいものですね。 一家|団欒というものがやっぱり人生の最高の幸福なのかも知れない。 わしにはこのごろたのしい事がなくなりました。 人生はどうも重苦しい事ばかりです。 本当に今夜は有難う。 ハムレットもきょうは元気のようですね。 親友のホレーショーと遊んでいると機嫌もなおるものと見える。 これからは時々こんな催し事をするがよい。 ハムレットの気も晴れるでしょう。 はい実はわしもその積りでとしを忘れて青年の劇団に加入させてもらいました。 まず此のたびの御即位と御婚儀のお祝いのためつぎにはハムレットさまのお気晴し最後にホレーショーどのの外国仕込みの発声法|御披露のためこの発声法は又格別に見事なもので。 ひやかしちゃ困ります。 発声法などと言われてはかえって声が出なくなります。 さあ王妃さまどうぞ。 観客席はそちらでございます。 どうぞお坐り下さいまし。 足もとから鳥が飛び立つように朗読劇なんかどうしてはじめる事にしたのでしょう。 ハムレットの気まぐれかポローニヤスの悪智慧かホレーショーはいい加減におだてられて使われているようですし何にしても合点のゆかぬ事ですね。 ガーツルード。 芝居の通人はそんなわかり切った事は言わぬものです。 さあ皆もお坐り。 うむなかなか舞台もよく出来た。 ポローニヤスの装置ですか。 意外にも器用ですね。 人はそれでもどこかに取柄があるものだ。 たしかに。 いまにもっと器用なところを御覧にいれます。 さてそれではハムレットさま舞台へあがりましょう。 ホレーショーどのもどうぞ。 アルプスの山よりも高いような気がする。 断頭台にのぼるかよいしょ。 初演の時はどなたでも舞台が高くて目まいがします。 僕は三度目だから大丈夫。 あ。 足が滑った。 ホレーショーどの気を附けて下さい。 空箱を寄せ集めて作ったのですからでこぼこがあるのです。 では皆さま。 わたしたち三人これこそは正義の劇団。 こよいはイギリスの或る女流作家の傑作『迎え火』という劇詩を演出して御覧にいれまする。 不馴れの老爺もまじっている劇団ゆえむさくるしいところもございましょうが御海容のほど願い上げます。 ホレーショーどのは外国仕込みの人気俳優まず御挨拶はそちらから。 え。 僕はその何もいや困ります。 僕はただ花聟の役を演じてみたいと思っているだけなのです。 かく申す拙者は花嫁の役を演じ上げます。 気味が悪い。 ポローニヤスどのはお酒に酔っているらしい。 酒どころか。 もっとひどい。 あの眼つきを見なさい。 僕は亡霊の役だそうです。 ポローニヤス早くはじめたらどうですか。 観客が酔っぱらい劇団だと言っていますよ。 なに酔ってないのはわしだけさ。 ばかばかしいがはじめましょう。 では皆さま。 よして下さい。 ハムレットいい加減におよしなさい。 これは一体誰の猿智慧なんです。 ばかばかしくて見て居られません。 どうせいやがらせをなさる積りならも少し気のきいた事でやって下さい。 あなたがたは卑怯です。 陋劣です。 私はおさきに失礼します。 なんだか吐きそうになりました。 ちっとも怒る事はありません。 面白いじゃないか。 まだ此のつづきもあるようです。 ポローニヤスの花嫁はお手柄でした。 もっと強く抱いてと息をつめて哀願するところもよかったしあたしはだめだわと言ってがくりと項垂れるところなど実に乙女の感じが出ていました。 うまいものですね。 お褒めにあずかっておそれいります。 ポローニヤスあとでわしの居間にちょっとおいでを願います。 ハムレットは台本に無い台詞まで言っていましたね。 でもなんだか熱が無かった。 表情が投げやりでした。 私は失礼いたします。 こんな下手くその芝居はごめんです。 ポローニヤスの花嫁には海坊主の花聟でなければ釣合がとれません。 ではおさきに。 まあお待ちなさい。 ハムレットもう此の芝居はすんだのですか。 ああすみました。 もっとつづきもあるんですけどどうだっていいんです。 もうよしましょう。 芝居を演ずるのが真の目的ではなかったのですから。 さあみなさんお帰り下さい。 どうも今夜はお退屈さまでした。 そんなところだろうと思っていました。 さあガーツルードそれではわしも一緒に失礼しましょう。 いやなかなか面白かった。 ホレーショーウイッタンバーグ仕込みの名調子はどもりどもり言うところに特色があるようですね。 いやしい声をお耳にいれました。 どうも此の朗読劇に於ては僕は少し役不足でありました。 ポローニヤスはあとでちょっとわしの居間に。 では失礼。 一筋縄では行かぬわい。 なにほどの事も無かったようですねえ。 当り前さ。 王妃は怒り王は笑った。 それだけの事がわかったとてそれが何の鍵になるのだ。 ポローニヤスあなたは馬鹿だよ。 オフィリヤ可愛さに少しやきがまわったようですね。 わしとお前だけは雨風にたたかれながら飛び廻り泣き叫び駈けめぐる。 なに事件はこれから急転直下です。 まあ見ていて下さい。 裏切りましたねポローニヤス。 子供たちをそそのかしてあんな愚にも附かぬ朗読劇なんかをはじめていったいどうしたのです。 気がへんになったんじゃないですか。 自重して下さい。 わしにはたいていわかっています。 君はあんなふざけた事をしてわしたちをおどかし自分の娘の失態を容赦させようとたくらんでいるのでしょう。 ポローニヤスやっぱりあなたも親馬鹿ですね。 なぜ直接にわしに相談しないのですか。 うらみがあるならからりとそのまま打ち明けてみたらいいのだ。 君は不正直です。 陰険です。 それもつまらぬ小細工ばかり弄して男らしい乾坤一擲の大陰謀などはまるで出来ない。 ポローニヤス少しは恥ずかしく思いなさい。 あんな喙の青いハムレットだのホレーショーだのと一緒になって歯の浮くようなきざな文句を読みあげていったい君はどうしたのです。 なにが朗読劇だ。 遠い向うの遠い向うのとおちょぼ口して二度くりかえして読みあげた時にはわしは全身鳥肌になりました。 ひどかったねえ。 見ているほうが恥ずかしくわしは涙が出ました。 君はもとから神経が繊細でそれはまた君の美点でもあり四方八方にこまかく気をくばってくれて遠い将来の事まで何かと心配しわしに進言してくれるのでわしは大変たすかり君でなくてはならぬと心から感謝したのもしくも思っていたのですがそれが同時に君の欠点でもあって豪放|磊落の気風に乏しく物事にこせこせして愚痴っぽく思っていることをそのまま言わずへんに紳士ふうに言い繕う癖があります。 詩人肌とでもいうのでしょうかね。 どうも陰気でいけません。 胸の中にいつもうらみを抱いているように見えるものですから城中の者どもにもけむったがられあまり好かれないようじゃありませんか。 たいして悪い事も出来ない癖にどこやら陰険に見えるのです。 性格がめめしいのです。 濁っているのです。 この王にしてこの臣ありとでも言うところなのでしょう。 ポローニヤスのめめしいところは王さまからの有難い影響でございましょう。 血迷って何を言うのです。 無礼です。 何を言うのです。 そのふくれた顔つきはまるで別人のように見えます。 ポローニヤス君は本当にどうかしているのではないですか。 さきほどはあんな薄気味のわるい黄色い声を出して花嫁とやらのいやらしい役を演じもともと神経が羸弱でしょげたり喜んだり気分のむらの激しい人だから何かちょっとした事件に興奮して地位も年齢も忘れておどり出したというわけかでもそれにも程度があるポローニヤスとわしとは三十年間謂わばまあ同じ屋根の下で暮して来たようなものですが今夜のように程度を越えた醜態ははじめてだこれには或いは深いわけがあるのかも知れぬゆっくり問いただしてみましょうと思ってわしは君をここへお呼びしたのですがなんという事です。 一言のお詫びどころか顔つきを変えてこのわしに食ってかかる。 ポローニヤス。 さ落ちついてはっきり答えて下さい。 君はいったいなんだってあんな子守っ子だって笑ってしまうような甘ったるい芝居を年甲斐もなくはじめる気になったのですか。 とにかくあの芝居はいや朗読劇かとにかくあのくだらない朗読劇は君の発案ではじめたものに違いない。 わしにはちゃんとわかっています。 ハムレットだってホレーショーだってもっと気のきいた台本を択びます。 あんな大仰な身震いせざるを得ないくらいの古くさい台本は君でなくては択べません。 何もかも君の仕業です。 さポローニヤス答えて下さい。 なんだってあんな無礼な馬鹿な真似をするのです。 王さまは御聡明でいらっしゃるのですからべつにポローニヤスがお答え申さずともすべて御洞察のことと存じます。 こんどは又ばか丁寧にいや味を言う。 すねたのですか。 ポローニヤスそんな気取った表情はおよしなさい。 ハムレットそっくりですよ。 君もハムレットのお弟子になったのですか。 さっき王妃から聞いた事ですがこのごろあちこちにハムレットのお弟子があらわれているそうですね。 ホレーショーはあれは前からハムレットには夢中で口の曲げかたまでハムレットの真似をしているのですがこのごろはまたわかい女のお弟子も出来たそうです。 それからまたただいまはおじいさんのお弟子も出来たようです。 ハムレットもこんなにどしどし立派な後継者が出来て心丈夫の事でしょう。 ポローニヤスいいとしをしてそんなにすねるものではありません。 不満があるならからりと打ち明けてみたらどうですか。 オフィリヤの事ならわしはもう覚悟をきめています。 おそれながら問題はオフィリヤではございません。 あれの運命はもうきまって居ります。 田舎のお城に忍んで行ってひそかにおなかを小さくするだけの事です。 そうしてわしは職を辞しレヤチーズの遊学は中止。 わしたち一家は没落です。 それはもうきまっている事です。 ポローニヤスはあきらめて居ります。 ハムレットさまはやはりイギリスから姫をお迎えなさらなければなりませぬ。 一国の安危にかかわる事です。 オフィリヤも不憫ではありますが国の運命にはかえられませぬ。 ポローニヤス一家はいかなる不幸にも堪え忍んで生きて行くつもりでございますからその点は御安心下さい。 さて問題はオフィリヤではございませぬ。 問題は正義です。 正義。 不思議な事を言いますね。 正義。 青年の正義です。 ポローニヤスはそれに共鳴したという形になっているのでございます。 王さまいまこそポローニヤスはつつまず全部を申し上げます。 なんだか朗読劇のつづきでも聞かされているような気がします。 へんに芝居くさく調子づいて来たじゃありませんか。 王さまポローニヤスは真面目です。 王さまこそそんなに茶化さずに真剣にお聞きとりを願います。 まず第一にわしから王さまにお伺い申し上げたい事がございます。 王さまはこのごろの城中の実に不愉快千万の噂に就いてどうお考えになって居られますか。 なんですか君の言う事はよくわからないのですがオフィリヤの噂だったらわしはけさはじめて君から聞いて知ったのでそれまでには夢にも思い設けなかった事でした。 おとぼけなさってはいけません。 オフィリヤの事などいまは問題でございません。 それはもう解決したも同然であります。 わしのいまお伺い申しているものはもっと大きくおそろしくなかなか解決のむずかしい問題でございます。 王さまは本当に何もご存じないのですか。 お心当りが無いのでしょうか。 そんな筈はない。 そんな筈は――。 知っている。 みな知っています。 先王の死因に就いてけしからぬ臆測が囁き交されているという事はわしも承知して居ります。 怒るよりもわしは自分の不徳を恥ずかしく思いました。 そんな途方も無い滅茶な噂がまことしやかに言い伝えられるのもわしの人徳のいたらぬせいです。 わしはたまらなく淋しく思っています。 けれども噂はひろがるばかりでこのごろは外国の人の耳にもはいっている様子でありますからこのままわしが自らを責めて不徳を嘆いているだけではいよいよ噂も勢いを得てとりかえしのつかぬ事態に立ちいたるかも知れぬと思いこの噂の取締りに就いて君と相談してみたいと考えていたところでした。 わしはまあ平気ですが王妃はやはり女ですからずいぶん此の噂には気を病んでこのごろは夜もよく眠っていない様子であります。 このまま荏苒時を過ごしていたなら王妃は死んでしまいます。 わしたちのつらい立場を知りもせぬ癖にわかい者たちは何かと軽薄な当てこすりやら厭味やらを言ってひとの懸命の生きかたを遊戯の道具に使っています。 なさけ無い事と思っていたらこんどは君までどんな理由かわかりませんがわかい者の先に立って躍り狂っているのだから本当に世の中がいやになります。 ポローニヤスまさか君まであの噂を信じているわけじゃないだろうね。 信じて居ります。 なに。 いいえ信じて居りません。 けれどもわしは信じている振りをしていようと思っています。 ポローニヤスのこれが置土産の忠誠でございます。 王さまいやクローヂヤスさま。 三十余年間臣ポローニヤスのみならず家族の者まで御寵愛と御庇護を得てまいりました。 此度オフィリヤの残念なる失態に依りおいとましなければならなくなってポローニヤスの胸中にはさまざまの感慨が去来いたして居ります。 つらい別離の御挨拶を申し上げる前に一つ忠誠の置き土産御高恩の万分の一をお報いしたくてけさほどからわかい人たちに対して最善と思われる手段を講じて置きました。 わかい人たちはあの噂をはじめは冗談みたいに扱ってたわむれに大袈裟に騒ぎまわっていたのですがわしはその騒ぎを否定せずかえってあの噂には根拠があるあの噂は本当だと教えてあげました。 ポローニヤス。 それがなんの忠誠です。 若い者をそそのかし蜚語を撒きちらして忠誠も御恩報じもないものだ。 ポローニヤス君の罪は単に辞職くらいではすまされません。 わしは君を見そこなった。 こんなくだらぬ男だとは思わなかった。 お怒りはあと廻しにしていただきたく思います。 もしポローニヤスの此度の手段が間違って居りましたらどんな御処刑でも甘んじてお受け致します。 クローヂヤスさまおそれながら此度の奇怪の噂は意外なほど広く諸方に伝えられもみ消そうとすればするほど噂の火の手はさかんになり尋常一様の手段ではとても防ぐ事の出来ぬと見てとりましたので死中に活を求める手段すなわちわしが頗る軽率に騒ぎ出して若い人たちに興覚めさせ王に同情の集るように仕組んだものでございますが果してもうハムレットさまもホレーショーもいまではわしが正義正義と連呼して熱狂する有様に閉口し王さまの弁護をさえ言い出している始末でございます。 この風潮が城中の奥から起ってやがてざわざわ四方に流れていって噂の火焔を全部消しとめてくれるのも遠い将来ではございますまい。 すべてがうまく行ったようです。 噂というものはこちらでもみ消そうとするとかえって拡がりこちらから逆に大いに扇いでやると興覚めして自然と消えてしまうものでございます。 わしだっていいとしをして若い人たちにまじってやれ正義だの理想だのと歯の浮くような気障な事を言ってとうとうあの花嫁の役まで演じなければならなくなりずいぶんつらい思いをしました。 いま考えても冷汗が湧きます。 微衷をお汲み取り願い上げます。 よく言った。 見事な申し開きでありました。 けれどもポローニヤスわしは子供ではありません。 そんな馬鹿げた弁解をどうして信じる事が出来ましょう。 信じたくても馬鹿らしくてつい失笑してしまいます。 噂の火の手を消すために逆に大いに扇いだなんてそんな馬鹿な子供だましの言い繕いはハムレットあたりに聞かせてあげると或いは感服させる事が出来るかも知れんがわしにはただ滑稽に聞えますよ。 たいへんな忠臣もあったものだ。 ポローニヤスもう何も言うな。 ばからしくて聞いて居られぬ。 わしから言ってあげます。 君はガーツルードに昔から或る特種な感情を抱いて居った筈でした。 この度先王が急になくなってガーツルードが悲嘆の涙にくれていた時君の慰めの言葉には異様な真情がこもっていたのでわしにははっきりわかったのです。 不埒なやつだ。 あわれな男だとその時からわしは君をひそかに警戒していたのです。 ポローニヤス君はご自分では気が附かずただもういらいらしてオフィリヤの失態に極度に恐縮してみたりかと思うと唐突に正義だの潔癖だのと言い出して子供たちのお先棒をかついでわしたちに当り散らしたりまたは遽かに忠臣を気取ってみたりこのたびのオフィリヤの事件を転機としてしどろもどろに乱れていますがそれは君のきょうまで堪えに堪えて来た或る種の感情がいま頗る滑稽な形で爆発したというだけの事です。 君はご自分では気がつくまい。 ただもういらいらして老いのかんしゃく玉を誰かれの区別なくぶっつけてやりたいような気持なのでしょうがポローニヤスその気持は昔から或る名前で呼ばれてちゃんと規定されてあります。 さっきの朗読劇でハムレットの読み上げた言葉の中にもありましたね。 気がつきましたか。 嫉妬と呼ばれているようですね。 ぷ。 自惚れもたいがいになさいまし。 恋ゆえ人は盲目にもなるようです。 王さまこそどうかなさって居られます。 ご自分が恋していらっしゃると人も皆恋しているもののように見えるらしい。 とにかくその嫉妬とやらいうお言葉だけはお返し申し上げます。 ポローニヤスは男やもめの生活こそ永く致してまいりましたが不面目の色沙汰ばかりは致しませぬ。 王さまこそへんな嫉妬をなさって居られる。 本当に王さまの只今の御心情こそ嫉妬とお呼びして然るべきものと存じます。 永い間の秘めたる思いが先方にとどいて王さまもお喜びなさって居られるのが当然のところこんなわしみたいな野暮ったい老人にまで嫉妬なさるとはさてはお内の首尾があまり上乗でないとポローニヤス拝察つかまつりますがいかがなものでありましょう。 だまれ。 ポローニヤス気が狂ったか。 誰に向って言っているのだ。 娘の失態からもはや破れかぶれになっているものと見える。 いまの無礼の雑言だけでも充分に免職入牢の罪に価いします。 けがらわしい下賤の臆測はわしの最も憎むところのものだ。 ポローニヤス建設は永く崩壊は一瞬だね。 君の三十年間の忠勤も今宵の無礼であとかたも無く消失した。 はかないものだね。 人の運命なんて一寸さきも予測出来ないものだね。 どんな事になるものかまるっきりわからない。 宿命を意志でもって左右できるとわしは之まで信じていたがやっぱりどこかに神のお思召しというものもあるらしい。 ポローニヤス。 わしはついさきまで君をゆるして上げるつもりで居りました。 オフィリヤの事もわしは最悪の場合を覚悟していたのです。 ハムレットが真実オフィリヤにまいっていてわしたちの忠告に耳を傾けてくれそうも無い時には仕方がありませんイギリスの姫の事は断念してオフィリヤとの結婚をゆるしてあげるつもりでした。 王妃はもはやオフィリヤの味方になっています。 王妃はきょうの夕刻このわしに泣いて跪いてたのみました。 きょう迄わしを冷笑して来たガーツルードがはじめて誇りを捨ててたのみました。 わしとしても覚悟せざるを得なかった。 イギリスから姫を迎える事は重大な政策の一つではあったがわが家を不和にして迄それを敢行する勇気はわしには無いのだ。 わしは弱い。 良い政治家ではないようだ。 デンマーク国の運命よりも一家の平和を愛している。 よい夫よい父にさえなれたらそれで満足なのです。 わしには国王の資格が無いのかも知れぬ。 わしは君たちをゆるしてやろうと思っていました。 みんな弱い者同志だ。 助け合ってこれからも仲良くやって行こうと覚悟をきめた矢先にポローニヤス君はなんという馬鹿な男だろう。 ひとりでひがんで君たち一家がもう没落するものとばかり思い込み自暴自棄になってしまって王妃にはかなわぬ恋の意趣返しつまらぬ朗読劇などであてこすりを言いまた此のわしにははじめは忠臣の苦肉の策だ等と言いくるめようとして見破られると今度は居直って無礼千万の恐喝めいた悪口雑言をわめき立てる。 ポローニヤスわしはもう君たちを許すのがいやになった。 君はおろかだ。 見え透いている。 わしは人間の悪を許す事は出来ますが人間のおろかさは許す事が出来ない。 愚鈍は最大の罪悪だ。 ポローニヤス此度は職を辞するくらいでは済みませんよ。 わかっているでしょうね。 嘘だ。 嘘だ。 王さまのおっしゃる事はみな嘘だ。 ハムレットさまとオフィリヤとの結婚をゆるす気でいらっしゃったなんて嘘も嘘大嘘だ。 お弱い。 よい政治家ではない。 デンマーク国よりも一家の平和のほうを愛していらっしゃる。 何もかも嘘だ。 王さまほどのお強い卓抜の手腕をお持ちの政治家は欧洲にも数が少うございます。 ポローニヤスはかねてよりひそかに舌を巻いて居ります。 王さまおかくしになってはいけません。 此の部屋には王さまとポローニヤスと二人きり他には誰も居りません。 時刻ももはや丑満時です。 城内の者はもとより軒端に宿る小鳥たち天井裏に巣くう鼠のこらずぐっすり眠って居ります。 聞いている者は誰も無い。 さあおっしゃって下さい。 ポローニヤスは何もかもよく存じ上げて居るのです。 王さまは此の二箇月間ポローニヤスの失脚の機会をひそかにねらって居られた筈です。 つまらぬ※語ばかり言っている。 丑満時がどうしたというのです。 恥ずかしげもなく芝居がかった形容詞を並べたていったい何をそんなにいきまいているのですか。 みっともない。 ポローニヤスもうおさがりなさい。 追って申し渡す事があります。 いますぐお沙汰を承りましょう。 ポローニヤスは覚悟をしています。 とてものがれられぬとあきらめて居ります。 此の二箇月間わしは王さまにつけねらわれて居りました。 何か失態は無いものかと鵜の目鷹の目でさぐられていたのです。 わしはそれを知っていたので何事も王さまの御意向にさからわぬよう充分に気をつけてきのう迄はどうやら大過なく勤めて来たつもりで居りました。 わが子のレヤチーズをフランスへ遊学にやったのも一つには王さまの恐しい穿鑿の眼からのがれさせてやる為でもありました。 わしに失態が無くともレヤチーズが若い粗暴の振舞いから何かしくじりをしでかさぬものでもない。 レヤチーズに多少の落度でもあったなら待っていたとばかりに王さまはわしの一家を罰して葬り去るのは火を見るより明かな事ゆえわしは万全を期してレヤチーズをフランスへ逃がしてやりやれ安心と思うまもなく意外残念わしの一ばん信頼していたオフィリヤがとんでも無い間違いをやらかしているのをきのう知って足もとの土がざあっと崩れてもう駄目だと観念いたしました。 いまはせめてオフィリヤの幸福だけでもと藁一すじに縋る気持でけさほどハムレットさまに御相談申し上げたところ失礼ながらハムレットさまは未だお若く黒雲がもくもく湧き立ったとか乱雲が覆いかぶさったとかとりとめのない事を口走るばかりで一向にたよりにも何もなりませぬ。 よくおたずねしてみたらハムレットさまは只今オフィリヤの事よりも先王の死因に就いてのあの恐ろしい噂の事ばかり気にして居られて必ず噂の根元を突きとめてみたいと意気込んでおっしゃるような始末なのでこんな無分別なお若い人たちのなさる事を黙って傍観していると藪から蛇みたいなたいへんな結果が惹起するかも知れぬここはポローニヤス一世一代の策略または忠誠の置土産躊躇せずに若い人たちの疑惑を支持しまっさき駈けて正義を叫びあのような甘ったるい朗読劇を提唱し若い人たちのほうで呆れて興覚めするように仕組んだのだという事はまえにも申し上げましたが王さまはてんで信じて下さいませんでした。 わしの心の奥隅にはやはりオフィリヤがいじらしくなんとかしてあの子だけでも仕合せになれるように祈っているところもあったのでございましょう。 いやな疑惑を一刻も早くハムレットさまのお心から追い払ってあげてそうしてあとはオフィリヤの事ばかりを考えて下さるよう全力を挙げてオフィリヤの為にたたかって下さるようそのようなオフィリヤの為にもよかれと思って仕組んだところも無いわけではなかった。 けれども決してそればかりではございません。 王さまお信じ下さい。 人間にはよい事をしたいという本能があります。 ひとに感謝をされたいと思って生きているものです。 ポローニヤスはきょう一日王さまのため王妃さまのためハムレットさまのため忠誠の立派な置土産をしたつもりで居ります。 お褒めにあずかって当然のところおろかな言い繕いだの破れかぶれだのおっしゃって嘲笑なされはては嫉妬なぞと思いも掛けぬ濡衣を着せようとなさるのでポローニヤスもつい我慢ならず失礼な雑言を口走りました。 ポローニヤスはもはや観念して居ります。 王さまは此の二箇月間ポローニヤスがこのような窮地に落ちいるのを待ちに待って居られたのです。 さぞ本懐でございましょう。 ポローニヤスはなるほど馬鹿でございます。 デンマーク一ばんのおろか者でございます。 どうせこんな結果になるのがはじめからわかっていたのに忠誠の置土産などと要らざる義理立てをしたばかりにかえって不利な立場に押し込まれました。 御処罰も数段と重くなった事でございましょう。 自ら墓穴を掘りました。 ああわしは眠っていました。 たくみな台詞まわしについうっとりしたのです。 ポローニヤス少し未練がましくないかね。 いまさら愚痴を並べてみてもはじまらぬ。 おさがりなさい。 わしの心はきまっています。 わるいお方だ。 王さまあなたはわるいお方です。 わしはあなたを憎みます。 申しましょうか。 あの事をわしは知らないと思っているのですか。 わしは見たのです。 此の眼でちゃんと見たのです。 二箇月前あれを一目見たばかりにそれ以来わしは不幸つづきなのだ。 王さまはわしに見られた事に気附いてそれからわしを失脚させようと鵜の目鷹の目になられたのです。 わしは王さまから嫌われてしまった。 そのうち必ずわしは窮地におとされて此の王城から追い払われるだろうとわしは覚悟をしていました。 ああ見なければよかった。 何も知らなければよかった。 正義。 先刻までは見せかけだけの正義の士であったがもういまは腹の底からわしは正義のために叫びたくなりました。 さがれ。 聞き捨てならぬ事を言う。 自分の過失を許してもらいたいばかりに何やら脅迫がましい事まで口走る。 不潔な老いぼれだ。 さがれ。 いやさがらぬ。 わしは見たのだ。 ふたつき前のあの日忘れもせぬ朝は凍えるように寒かったがひる少しまえから陽がさしてぽかぽか暖くなって先王はお庭にお出ましなさったがその時だその時。 乱心したな。 処罰はただいま与えてやる。 処罰いただきましょう。 わしは見たのだ。 見たから処罰をもらうのだ。 あ。 畜生。 短剣の処罰とは。 ゆるせ。 殺すつもりは無かったがつい鞘が走って突き刺した。 さきほどからの不埒の雑言これも自分の娘|可愛さのあまりに逆上したのだ不憫の老人と思い怺えて聞いていたのだがいよいよ図に乗りついには全く気が狂ったか奇怪な恐ろしい事までわめき散らすので前後のわきまえも無く短剣引き抜き突き刺した。 ゆるせ。 君の言葉も過ぎたのだ。 オフィリヤの事なら心配するな。 ポローニヤスわしの言う事がわかるか。 わしの顔がわかるか。 正義のためだ。 そうだ正義のためだ。 オフィリヤ鎧を出してくれ。 お父さんはいけないお父さんだったねえ。 涙。 わしのような者の眼からでもこんなに涙が湧いて出る。 この涙でわしの罪障が洗われてしまうとよいのだが。 ポローニヤス君は一体なにを見たのだ。 君の疑うのも無理がないのだ。 あっ。 誰だ。 そこに立っているのは誰だ。 逃げるな。 待て。 おおガーツルード。 そうか。 ポローニヤスが昨夜から姿を見せぬか。 それは少しへんだね。 でもまあたいした事は無かろう。 大人にはおとなの世界があるんだ。 見え透いた権謀術数を見破られていると知りながらも仔細らしい顔つきをしてあっちでひそひそこっちでこそこそ深く首肯き合ったり目くばせしたりなあにたいした事でも無い癖につまりその策略の身振りが楽しくてこたえられないばかりに矢鱈に集っては打ち合せとかいう愚劣な芝居をしたがるものさ。 叔父さんもポローニヤスもこせこせした権謀術数をなかなかお好きなようだから二人でゆうべ打ち合せてまた何か小細工をはじめているのかも知れぬ。 ゆうべの朗読劇にしたってあれにもポローニヤスの深慮遠謀があったのさ。 そうでも無ければあの人は気が狂ったのだ。 何か抜け目の無い小ざかしい魂胆があったのさ。 僕にはたいてい見当が附いている。 あの人たちはどうしてなかなかの曲者だよ。 もっとも曲者というものはたいてい浅墓で興覚めなけち臭い打算ばっかりやっている哀れな賤しい存在だがそれを見破ったからとてこちらでただ軽蔑してのほほん顔でいたならばひどい目に遭う。 うっかりしているとしてやられる。 黙殺したいいや蔑棄したい程いやな存在だが油断がならん。 僕ははじめポローニヤスの朗読劇を娘可愛さのあまり逆上して王や王妃にいや味を言うための計略とばかり思っていたがゆうべまたよく考えてみたらどうもそればかりでも無いらしい。 あの人たちのする事は一から十まで心理の駈引き巧妙卑劣の詐欺なのだからいやになる。 僕はゆうべやっと判って判ったらぎょっとした。 あの人たちはおそろしい。 一つも信用出来ない。 此の世の中にはやっぱり悪い人というものがいたのだ。 僕はこのとしになってやっと世の中に悪人というものが本当にいるのを発見した。 手柄にもなるまい。 あたりまえの発見だ。 僕はよっぽど頭が悪い。 おめでたい。 いまごろやっとそんな当然の事を発見しておどろいている始末なのだからたいしたものだよ。 底の知れないめでたい野郎だ。 ゆうべの朗読劇はあれはもともと叔父さんとポローニヤスとひそかにしめし合せてはじめた事だ。 それはたしかだ。 間違っていたらこの眼をくり抜いて差し上げてもよい。 もう僕はだまされない。 叔父さんは僕たちの疑惑の眼を避けたいばかりにポローニヤスと相談して僕たちを瞞着する目的であんな不愉快千万の仕組みを案出したのだ。 馬鹿にしていやがる。 僕たちは完全にあの人たちの笛に踊らされたというわけだ。 つまり叔父さんは自分のうしろ暗さをごまかそうとして先手を打ちポローニヤスに命じて僕たちを使嗾させあんな愚劣な朗読劇なんかで王をためさせてそれでも王は平気だから僕たちはがっかりしてあの恐ろしい疑いもおのずから僕たちの胸から消え去りやがては城中の人たちにも僕たちと同じ気持がそれからそれと伝ってすべての不吉な囁きは消滅するようになるだろうという浅墓な魂胆があったのだ。 僕の見当には狂いが無い。 叔父さんとポローニヤスははじめから同じ穴の狢だったのさ。 どうして僕はこんなわかり切った事に気がつかなかったのだろう。 どうもあの人たちのする事はあくどくていけない。 そんなにまでして僕たちをだまさなければいけないのか。 僕たちのほうではあの人たちをたのみにもしているし親しさも感じているし尊敬さえもしているのだからいつでも気をゆるして微笑みかけているのにあの人たちは決して僕たちに打ち解けてくれず絶えず警戒して何かと策略ばかりしているのだから悲しくなる。 なんという事だ。 二人でしめし合せて一人は検事に一人は被告になっていい加減の嘘の言い争いをして見せてほどよいところで証拠不充分無罪放免さ。 僕とホレーショーはその贋の検事に深刻な顔つきをしてお手伝いをしていい気持でいたんだからこれは後世までの笑い草にもなるだろう。 光栄極まる。 けれどもあの人たちの策略はたしかに一応は成功したのだ。 ホレーショーはもうこれで王さまも晴天白日ハムレット王家万万歳僕たちはたとい一時期でもあの噂を信じ王さまを疑っていたとは恥ずかしいあんな失礼な朗読劇なんかをやって後でお叱りがなければいいが等と言って全く叔父さんを信用しかえって自分たちの疑惑に恐縮していたし城中の人たちもそろそろ叔父さんを尊敬し直して来たようだ。 人の心は実にたわいが無いものだ。 風に吹かれる葦みたいに右にでも左にでもたやすく靡く。 僕だってあの朗読劇の直後にはポローニヤスが逆上し錯乱しているものとばかり思って叔父さんが気の毒でたまらず王の居間へ行ってお詫びしようかとさえ思ったものだがあとで落ち附いて考えてみると冗談じゃない僕たちはまんまと一杯くわされたのだという事がわかってぞっとした。 何か在るのだ。 あの不吉な噂は嘘でない。 叔父さんとポローニヤスは悪の一味だ。 いまは二人で腹を合せて悪の露見を必死になって防いでいる。 けれども僕にはわかるんだ。 僕の眼はごまかせない。 もうこうなれば僕も覚悟をきめなければならぬ。 あの人たちは悪い人だ。 ポローニヤスだってはじめから何もかも知っていたのだ。 それを正義だの青年の仲間だのと言って僕たちを言いくるめていい加減に踊らせたのだから天晴れな伎倆だ。 あの人が正義の仲間だったら天国は満員の鮨詰めで地獄のほうはがらあきだ。 いや失敬。 つい興奮し過ぎてポローニヤスが君のお父さんだという事を忘れていました。 でも僕はことさらに君の父ひとりを悪く言っているんじゃないからね叔父さんだって同じ事さ僕は世の中のおとな一般に就いて怒っているのだ。 そこは誤解のないように。 おや泣いているね。 どうしたのです。 お父さんの姿が見えないので心細いというわけか。 やっぱり心配なのかね。 大丈夫ですよ。 いまごろは王さまの内密の御命令でいそがしい仕事に没頭しているに違いない。 どんな仕事だかそれは僕にもわからぬがどうせろくな事でない。 泣いてなんかいないわよ。 眼にごみがはいったのでハンケチでこすっていたのよ。 ほらもうごみがとれました。 泣いてなんかいないでしょう。 ハムレットさまはいつでもあたしの気持をへんに大袈裟に察して下さるのであたしは時々噴き出したくなる事があるの。 あたしがただうっとりと夕焼けを眺めて綺麗だなあと思っているのにハムレットさまはあたしの肩にそっとお手を置かれてわかるよくるしいだろうねえけれども苦しいのは君だけじゃない夕焼けの悲しさは僕にだってよくわかるけれども怺えて生きて行こうもうしばらく僕ひとりの為にだけでも生きていておくれいっそ死にたいという思いを抱いてそれでも忍んで生きている人はこの世に何万人何十万人もいるのだよなんてまるであたしが死ぬ事でも考えているかのようにものものしい事をおっしゃるのであたしは可笑しくてくるしくなります。 あたしにはいま悲しい事なんか一つもありませんわ。 いつもあんたはへんにお察しがよすぎてひとりで大騒ぎをなさるのであたしはまごついてしまいます。 女なんてそんなにいつも深い事を考えているものではございません。 ぼんやり生きているものです。 父がゆうべから姿を見せぬので少しは心配でございますがでもあたしは父を信じて居ります。 父はハムレットさまのおっしゃるようなそんな悪い人ではございません。 あなたは気まぐれですからきょうはうんと悪くおっしゃってもまた明日はひどくお褒めになる事もございますのであたしはハムレットさまのお言葉はあまり気にかけない事にしているのですがでもただいまのように滅茶滅茶に父をお疑いになってこわい事をおっしゃるとあたしだって泣きたくなります。 父は気の弱い人です。 とても興奮し易いのです。 ゆうべの朗読劇とやらはあたしはこんなからだですから御遠慮して拝見しませんでしたけれどもし父が正義のためだと言ってはじめたものならきっとそのとおりそれは父の正義心から出た催し事だと思います。 父は小さい冗談のような嘘はしょっちゅう言ってあたしたちをだましますが決して大きなおそろしい嘘は言いません。 その点はまじめな人です。 潔癖です。 責任感も強い人です。 きのうはきっと父がハムレットさまたちの情熱に感激して前後の弁えも無く朗読劇なんかをはじめたのだろうと思います。 父をもう少し信頼してやって下さいませ。 おやおやきょうはどういう風の吹きまわしか紅唇火を吐くの盛観を呈している。 いつも此の調子でいてくれると僕も張り合いがあってうれしいのだが。 すぐそんなに茶化してしまうのでなんにも言いたくなくなります。 あたしはまじめに申し上げているのよ。 ハムレットさま。 あたしはきょうからなんでも思っている事をそのまま言ってしまうことにしたの。 ハムレットさまだって褒めてくださると思うわ。 いつもあたしが愚図愚図ためらったり言いかけてよしたりするとハムレットさまは御機嫌がお悪くなってお前は僕を信頼しないからいけない愛情の打算が強すぎるからそんなにどもってしまうのだとお教えになりました。 あたしは此の二箇月間まるで自信をなくしていたのでついめそめそして言いたい事も言えずに溜息ばかりついていたのです。 以前はそんなでも無かったのですが苦しい秘密を持つようになってからめっきり駄目になりました。 でもきのう王妃さまからさまざま優しいお言葉をいただいてすっかり元気になりました。 からだの具合もきのうから別のひとのようにすっきりしてまいりましたしもういまではハムレットさまのお子さまを産んで丈夫に育てるという希望だけで胸が一ぱいでございます。 あたしはいまは幸福です。 とてもなんだかうれしいの。 これからは昔のお転婆なオフィリヤにかえって誇りを高くもって考えている事をなんでもぽんぽん言おうと思うの。 ハムレットさまあなたは少し詭弁家よ。 ごめんなさい。 だってあなたのおっしゃる事はみんななんだかお芝居みたいなんですもの。 甘ったるいわ。 ごめんなさい。 あなたはいつでも酔っぱらってるみたいだわ。 ごめんなさい。 しょってるわ。 いやらしいわ。 深刻癖というものじゃないかしら。 あなたはいつでも御自分を悲劇の主人公にしなければ気がすまないらしいのね。 ごめんなさい。 だってそうなんですもの。 王さまだってまたあたしの父のポローニヤスだって決してハムレットさまのおっしゃるようなそんな悪い下劣な人じゃ無いわ。 ハムレットさまがひとりでひがんですねて居られるものだから王さまもあたしの父もまた王妃さまもとても弱っていらっしゃるのよ。 それだけの事だとあたしは思うの。 このごろなんだかいやな噂がお城にひろがっているようですけど誰も本気に噂しているわけじゃなかったのよ。 あたしのところの乳母や女中はそんな芝居が外国で流行っているそうですね面白く仕組まれた芝居ですねなんてのんびり言って居りますよ。 まさか此のデンマークの王さまと王妃さまの事だ等とはゆめにも思っていない様子でございます。 みんなのどかに王さまと王妃さまをお慕い申して居ります。 それでいいのだと思うわ。 本気に疑ってくるしんでいなさるのは此のエルシノア王城でハムレットさまあなたぐらいのものなのよ。 父がゆうべ正義の心から朗読劇をやったそうですがそれはまたどうした事でしょう。 ちょっとあたしにもわかりません。 きっと父は興奮したのよ。 とても興奮し易い父ですから。 あたしには父のする事をとやかく詮議立てする資格も無しまた女の子は父たちのなさることを詮議立てしたって何もわからないのが当り前の事ですからあたしははっきりとは言えませんけれどでもあたしは父を信じています。 また王さまをも信じています。 王妃さまはもとからあたしの尊敬の的でした。 なんでも無いのよ。 ハムレットさまひとりが計略だの曲者だの駈引きだのとおっしゃっていかにも周囲に悪い人ばかりうようよいるような事をおっしゃってたいへん緊張して居られますが滑稽だわ。 ごめんなさい。 だってあなたは敵もいないのに敵の影を御自分の空想でこしらえて油断がならんうっかりするとだまされる等と深刻がっていらっしゃるのですもの。 王さまだって王妃さまだってとってもハムレットさまを愛していらっしゃるのにどうしておわかりにならないのでしょう。 悪いお方なんかどこにもいないわ。 ハムレットさま。 あなただけが悪いお方なのかも知れないわ。 だってみんな平和になごやかにお暮しなさっているところへあなたがむずかしい理窟をおっしゃってみなさんを攻撃してくるしめてそうしてこの世の中であなたの愛情だけが純粋で献身的で――。 オフィリヤちょっと待った。 めそめそ泣かれるのも困るがそんな自信ありげな気焔を調子づいてあげられても閉口だ。 オフィリヤ君はきょうどうかしてるぞ。 君にはちっともわかっていない。 そうかなあ。 いままでそんな具合に僕を解釈していたのかなあ。 残念だね。 女ってのはいくら言って聞かせても駄目なものだ。 ちっともわかっていやしないじゃないか。 僕は甘いさ。 あるいは酔っぱらっているかも知れない。 いやらしい。 芝居臭い。 それもよかろう。 そう見えるんだったら仕方が無い。 けれども僕は絶対にいい気になっているわけではないし自分の愛情だけを純粋で献身的だと思いこみ人を矢鱈に攻撃してくるしめているわけでも無い。 むしろその逆だ。 僕はつまらない男なのだ。 だらしのない男なのだ。 僕はそれが恥ずかしくててんてこ舞いをしているのだ。 自分のいたらなさ悪徳をいやになるほど自分で知っているので身の置きどころが無いのだ。 僕は絶対に詭弁家ではない。 僕はリアリストだ。 なんでもみな正確に知っている。 自分の馬鹿さ加減も見っともなさも全部正確に知っている。 そればかりでは無い。 僕はひとのうしろ暗さに対しても敏感だ。 ひとの秘密を嗅ぎつけるのが早いのだ。 これは下劣な習性だ。 悪徳が悪徳を発見するという諺もあるけれどまさしくそのとおりひとの悪徳を素早く指摘できるのはその悪徳と同じ悪徳を自分も持っているからだ。 自分が不義をはたらいている時はひとの不義にも敏感だ。 誇りになるどころか実に恥ずべき嗅覚だ。 僕は不幸にしてそのいやらしい嗅覚を持っている。 僕の疑惑はいまだ一度もはずれた事が無いのだ。 オフィリヤ僕は不仕合せな子なんだよ。 君にはわかるまい。 僕には高邁なところが何も無い。 のらくらの臆病者のそうして過度の感覚の氾濫だけだ。 こんな子はこれから一体どうして生きて行ったらいいのだ。 オフィリヤ僕が叔父さんやお母さんやまたポローニヤスの悪口を言うのは何もあの人たちを軽蔑し嫌悪しているからでは無いのだ。 僕にはそんな資格が無い。 僕はうらめしいのだ。 いつもあの人たちに裏切られ捨てられるのがうらめしいのだ。 僕はあの人たちを信頼し心の隅では尊敬さえしているのにあの人たちはへんに僕を警戒し薄汚いものにでも触るようなおっかなびっくりの苦笑の態度で僕に接してあああの人たちはそんなに上品な人たちばかりなのかねえいつでも見事に僕を裏切る。 打ち明けて僕に相談してくれた事が一度も無い。 大声あげて僕をどやしつけてくれた事もかつて無い。 どうして僕をそんなにいやがるのだろう。 僕はいつでもあの人たちを愛している。 愛して愛して愛している。 いつでも命をあげるのだ。 けれどもあの人たちは僕を避けてかげでこそこそ僕を批判しこまったものさお坊ちゃんには等と溜息をついて上品ぶっていやがるのだ。 僕にはちゃんとわかっている。 僕はひがんでなんかいやしない。 僕はただ正確なところを知っているだけだ。 オフィリヤ少しはわかったか。 君までおとなの仲間入りをして僕に何やら忠告めいた事を言うとは情ないぞ。 孤独を知りたかったら恋愛せよと言った哲学者があったけど本当だなあ。 ああ僕は愛情に飢えている。 素朴な愛の言葉が欲しい。 ハムレットお前を好きだ。 と大声できっぱり言ってくれる人がないものか。 いいえ。 オフィリヤもこんどはなかなか負けませぬ。 ハムレットさまあなたは本当に言いのがれがお上手です。 ああ言えばこうおっしゃる。 しょっていると申し上げるとこんどは逆に僕ほどみじめな生きかたをしている男は無いとおっしゃる。 本当に御自分の悪いところがそんなにはっきりおわかりならただ御自分を嘲ってやっつけてばかりいないでいっそ黙ってその悪いところをお直しになるように努められたらどうかしら。 ただ御自分を嘲笑なさっていらっしゃるばかりでは意味ないわ。 ごめんなさい。 きっとあなたはひどい見栄坊なのよ。 ほんとうに困ってしまいます。 ハムレットさましっかりなさいませ。 愛の言葉が欲しい等と女の子のような甘い事もこれからはおっしゃらないようにして下さい。 みんなあなたを愛しています。 あなたは少し慾ばりなのです。 ごめんなさい。 だって人は本当に愛して居ればかえって愛の言葉など白々しくて言いたくなくなるものでございます。 愛している人には愛しているのだという誇りが少しずつあるものです。 黙っていてもいつかはわかってくれるだろうというつつましい誇りを持っているものです。 それをあなたはそのわずかな誇りを踏み躙って無理矢理口を引き裂いても愛の大声を叫ばせようとしているのです。 愛しているのは恥ずかしい事です。 また愛されているのも何だかきまりの悪い事です。 だからどんなに深く愛し合っていてもなかなか好きだとは言えないものです。 それを無理にも叫ばせようとするのは残酷です。 わがままです。 ハムレットさまあたしの愛が信ぜられなくともせめて王妃さまの御愛情だけでも信じてあげて下さいませ。 王妃さまはお気の毒です。 ハムレットさまおひとりをたよりにしていらっしゃいます。 きのうお庭で王妃さまはあたしの手をお取りになってひどくお泣きになりました。 意外だね。 君から愛の哲理を拝聴しようとは意外だね。 君はいつからそんな物知りになったのですか。 いい加減にやめるがよい。 小理窟を覚えた女は必ず男に捨てられますよ。 パウロが言っていますよ。 われ女の教うる事と男の上に権を執る事を許さずただ静かにすべしとね。 そうして女もし慎みと信仰と愛と潔きとに居らば子を生む事に因りて救わるべしと言い結んである。 人にものを教えようと思ったり男の頭を押えようとしないでただ静かに生れる子供の事を考えていなさいという意味だ。 いい子だから二度と再び変な理窟は言わないでくれ。 世界が暗くなってしまう。 察するところお母さんから悪智慧を附けられて妙に自信を得たのだろう。 お母さんはあれでなかなか理論家だからね。 いまにパウロの罰を受けるぞ。 こんど君がお母さんに逢ったらこう言ってやってくれ。 言葉の無い愛情なんて昔から一つも実例が無かった。 本当に愛しているのだから黙っているというのはたいへん頑固なひとりよがりだ。 好きと口に出して言う事は恥ずかしい。 それは誰だって恥ずかしい。 けれどもその恥ずかしさに眼をつぶって怒濤に飛び込む思いで愛の言葉を叫ぶところに愛情の実体があるのだ。 黙って居られるのは結局愛情が薄いからだ。 エゴイズムだ。 どこかに打算があるのだ。 あとあとの責任におびえているのだ。 そんなものが愛情と言えるか。 てれくさくて言えないというのはつまりは自分を大事にしているからだ。 怒濤へ飛び込むのがこわいのだ。 本当に愛しているならば無意識に愛の言葉も出るものだ。 どもりながらでもよい。 たった一言でもよい。 せっぱつまった言葉が出るものだ。 猫だって鳩だって鳴いてるじゃないか。 言葉のない愛情なんて古今東西どこを捜してもございませんでしたとお母さんにそう伝えてくれ。 愛は言葉だ。 言葉が無くなれや同時にこの世の中に愛情も無くなるんだ。 愛が言葉以外に実体として何かあると思っていたら大間違いだ。 聖書にも書いてあるよ。 言葉は神と共に在り言葉は神なりき之に生命ありこの生命は人の光なりきと書いてあるからお母さんに読ませてあげるんだね。 いいえ決して王妃さまから教えられて申し上げているのではございません。 あたしはあたしの思っていることを精一ぱいに申し上げているだけなのです。 ハムレットさまあなたはおそろしい事をおっしゃいます。 もし愛情が言葉以外に無いものだとしたならあたしは愛情なんかつまらないものだと思います。 そんなものはいっそ無いほうがよい。 ただ世の中をわずらわしくするだけです。 あたしにはどうしてもハムレットさまのおっしゃる事は信じられません。 神さまが居ります。 神さまは黙っていてそうして皆を愛して居ります。 神さまはおまえを好きだ。 なんて決して叫びはいたしません。 けれども神さまは愛して居ります。 みんなを森を草も花も河も娘もおとなも悪い人もみんなを一様に黙って愛して下さいます。 おさない事を言っている。 君の信仰しているものはそれは邪教の偶像だ。 神さまはちゃんと言葉を持って居られる。 考えてごらん。 一ばんはじめ僕たちに神さまの存在をはっきり教えてくれたものはなんだろう。 言葉じゃないか。 福音じゃないか。 キリストはだから――おや叔父さんが多勢の侍者を引きつれて血相かえてやって来た。 きょう此の大広間で何か儀式でもあるのかしら。 ここはふだんめったに使わない部屋だからオフィリヤとこっそり逢うのに適当だと思ってちょいちょいオフィリヤをここへ呼び出す事にしていたのだがこんな不意の事もあるから油断が出来ない。 オフィリヤさあそこのドアから早く逃げ出せ。 議論はこの次にまたゆっくりしよう。 これからはいろいろ教育してあげる。 そうだそのドアだ。 なんて素早い奴だ。 風のように逃げちゃった。 恋は女を軽業師にするらしいとはまずい洒落だ。 ああハムレット。 はじまりましたよ。 戦争がはじまりましたよ。 レヤチーズの船が犠牲になりました。 ただいま知らせがはいりました。 レヤチーズたちの乗って行った船がカテガット海峡にさしかかるといずこからともなくノーウエーの軍艦が忽然と姿をあらわし矢庭に発砲したという。 こちらは商船たまったものでない。 けれどもレヤチーズは勇敢であった。 おびえる船員を叱咤し激励しみずからは上甲板に立って銃を構え弾丸のあるかぎり撃ちまくったのです。 敵の砲弾はわがマストに命中したちまち帆がめらめら燃え上った。 さらに一弾は船腹に命中し鈍い音をたてて炸裂しぐらりと船は傾いてもはや窮した。 この時レヤチーズははじめてボートの支度を下知して四五の船客をまずボートに抱き乗せつぎに船員の妻子のある者にも避難を命じ自分は屈強のいのち知らずの若い船員五六名と共に船に居残りおのおの剣を抜いて敵兵の襲来を待機した。 一兵といえども祖国の船に寄せつけじとレヤチーズは死ぬる覚悟ヘラクレスの如く泰然自若たるものがあったという。 敵艦の者も此の勇者の姿を望見しおじ恐れてただわが帆船のまわりをうろつきそのおのずから炎上し沈没するのを待つより他はなかったのだ。 レヤチーズは悲壮にも船と運命を共にしたのです。 惜しい男だ。 父に似ぬまことの忠臣いや父の名を恥ずかしめぬ天晴れの勇者です。 わしたちはレヤチーズの赤心に報いなければならぬ。 いまはデンマークも立つべき時です。 ノーウエーとの永年の不和がとうとう爆発したのです。 わしはけさその急報に接しただちに決意しました。 神は正義に味方をします。 戦えばわがデンマークは必ず勝ちます。 なに前から機会をねらっていたのだ。 レヤチーズは尊い犠牲になってくれました。 父子そろっていやレヤチーズの霊は必ず手厚く祭ってやろう。 それが国王としてのわしの義務だ。 レヤチーズ。 僕と同じ二十三歳。 竹馬の友。 少し頑固で怒りっぽく僕には少し苦手だったがでもいい奴だった。 死んだのか。 オフィリヤが聞いたら卒倒するだろう。 ここにいなくてさいわいだった。 レヤチーズ。 その身に箔をつけるため将来のおのれの出世に備えるためフランスに遊学の途端に降って湧いた災難その時とっさに自分の野望をからりと捨てデンマーク国の名誉を守るために一身を犠牲にして悔いる色が無かった。 僕は負けたよ。 レヤチーズ。 君は僕をきらいだったね。 僕だって君を好いてはいなかった。 オフィリヤの事が起ってからは君を恐怖さえしていた。 僕たちは幼い時からはげしい競争をして来た。 好敵手だった。 表面は微笑み合いながらも互いに憎んでいた。 僕には君が邪魔だったよ。 けれども君はやっぱり偉いやつだ。 父上――。 はじめて父上と呼んでくれましたね。 さすがにデンマーク国の王子です。 国の運命のためにはすべての私情を捨てましょう。 本日これからこの広間に群臣を集めて重大の布告をいたします。 ハムレット立派な将軍振りを見せて下さい。 いいえ弱い一兵卒になりましょう。 僕はレヤチーズに負けました。 ポローニヤスはどうしていますか。 あの人の胸中にも悲痛なものがあるでしょうね。 それはもちろんの事です。 わしは充分になぐさめてやるつもりで居ります。 さて王妃はいったいどうしたのでしょう。 けさから姿が見えぬのです。 いまホレーショーに捜させているのですが君は見かけませんでしたか。 きょうの布告の式には王妃も列席してないと具合がわるい。 やっぱりこんな時にはポローニヤスがいないと不便ですね。 ではポローニヤスは。 もう此の城にいないのですか。 どこかへ出発したのですか。 叔父さんそんなに顔色を変えてどうしたのです。 どうもしやしません。 このデンマーク国興廃の大事な朝にポローニヤス一個人の身の上などは問題になりません。 そうでしょう。 わしははっきり言いますがポローニヤスはいまこの城にいないのです。 あれは不忠の臣です。 もっとくわしい事情はいまは言うべき時ではない。 いずれよい機会に堂々と包みかくさず発表します。 何かあったな。 ゆうべ何かあったな。 叔父さんのあわてかたは戦争の興奮ばかりでも無いようだ。 僕もうっかりレヤチーズの壮烈な最後に熱狂し身辺の悶着を忘れていた。 叔父さんは御自分のうしろ暗さをこんどの戦争でごまかそうとしているのかも知れぬ。 案外これは――。 何をひとりでぶつぶつ言っているのです。 ハムレット。 君は馬鹿だ。 大馬鹿だ。 ふざけるのもいい加減にし給え。 戦争は冗談や遊戯ではないのだ。 このデンマークでいま不真面目なのは君だけだ。 君がそれほど疑うならわしもむきになって答えてあげる。 ハムレットあの城中の噂は事実です。 いやわしが先王を毒殺したというのはあやまり。 わしにはただそれを決意した一夜があったそれだけだ。 先王は急に病気でなくなられた。 ハムレット君はそれでもわしを罰する気ですか。 恋のためだ。 くやしいがまさにそれだ。 ハムレットさあわしは全部を言いました。 君はわしを罰するつもりですか。 神さまにおたずねしたらいいでしょう。 ああお父さん。 いいえ叔父さんあなたじゃない。 僕には僕のお父さんがあったのだ。 可哀想なお父さん。 きたない裏切者の中でにこにこ笑って生きていたお父さん。 裏切者はこのとおり。 あ。 ハムレット気が狂ったか。 短剣引き抜き振りかざすと見るより早く自分自身の左の頬を切り裂いた。 馬鹿なやつだ。 それ血が流れて汚い。 それは一体なんの芝居だ。 わしを切るのかと思ったらくるりと切先をかえて自分自身の頬に傷をつけ居った。 自殺の稽古か新型の恐喝か。 オフィリヤの事なら心配せんでもよいのに馬鹿な奴だ。 君が凱旋した時には必ず添わしてあげるつもりだ。 泣く事はない。 戦争がはじまれば君も一方の指揮者なのです。 そんなに泣いては部下の信頼を失いますよ。 ああそれ上衣にまで血が流れて来た。 誰かハムレットを向うへ連れて行って手当をしてあげなさい。 戦争の興奮で気がへんになったのかも知れぬ。 意気地の無い奴だ。 おおホレーショー何事です。 取り乱した姿でごめん。 ああ王妃さまがあの庭園の小川に――。 飛び込んだか。 手おくれでございました。 覚悟の御最後と見受けられます。 喪服を召され小さい銀の十字架を右の手のひらの中に固く握って居られました。 気が弱い。 わしを助けてくれる筈の人がこの大事の時に馬鹿な身勝手の振舞いをしてくれた。 わしが悪いのではない。 あの人が弱かったのだ。 他人の思惑に負けたのだ。 気の毒な。 ええっ。 汚辱の中にいながらも堪え忍んで生きている男もいるのだ。 死ぬ人はわがままだ。 わしは死なぬ。 生きてわしの宿命を全うするのだ。 神は必ずやわしのような孤独の男を愛してくれる。 強くなれ。 クローヂヤス。 恋を忘れよ。 虚栄を忘れよ。 デンマーク国の名誉という最高の旗じるし一つのために戦え。 ハムレット腹の中では君以上に泣いている男がいますよ。 信じられない。 僕の疑惑は僕が死ぬまで持ちつづける。 他にもっと適当な講師がたくさんいる筈です。 やあ。 親友。 イデオロギスト。 忘れたか。 知っている。 あがらないか。 久しぶりだなあ。 何年振りだ。 いや何十年振りだ。 おい二十何年振りだよ。 お前がこっちに来ているという事は前から聞いていたがなかなか俺も畑仕事がいそがしくてな遊びに来れないでいたのだよ。 お前もなかなかの酒飲みになったそうじゃないか。 うわっはっはっは。 お前は俺と喧嘩した事を忘れたか。 しょっちゅう喧嘩をしたものだ。 そうだったかな。 そうだったかなじゃない。 これ見ろこの手の甲に傷がある。 これはお前にひっかかれた傷だ。 お前の左の向う脛にもたしかに傷がある筈だ。 あるだろう。 たしかにある筈だよ。 それは俺がお前に石をぶっつけた時の傷だ。 いやよくお前とは喧嘩をしたものだ。 ところでお前に一つ相談があるんだがな。 クラス会だ。 どうだいやか。 大いに飲もうじゃないか。 出席者が十人として酒を二斗これは俺が集める。 それは悪くないけど二斗はすこし多くないか。 いや多くない。 ひとりに二升無くては面白くない。 しかし二斗なんてお酒が集まるか。 集まらないかも知れん。 わからないがやってみる。 心配するな。 しかしいくら田舎だってこの頃は酒も安くはないんだからお前にそこは頼む。 それじゃさきにこれだけあずかって置いてくれ。 あとはまたあとで。 待ってくれ。 それは違う。 きょうは俺は金をもらいに来たのではない。 ただ相談に来たのだ。 お前の意見を聞きに来たのだ。 どうせそれあお前からは千円くらいは出してもらわないといけない事になるだろうがしかしきょうは相談かたがた昔の親友の顔を見たくて来たのだ。 まあいいから俺にまかせてそんな金なんかひっこめてくれ。 そうか。 酒は無いのか。 お前のところにはいつでも二升や三升はあると聞いているんだ。 飲ませろ。 かかはいないのか。 かかのお酌で一ぱい飲ませろ。 よし。 じゃこっちへ来い。 散らかっているぜ。 いやかまわない。 文学者の部屋というのはみんなこんなものだ。 俺も東京にいた頃いろんな文学者と附き合いがあったからな。 やっぱりでもいい部屋だな。 さすがに立派な普請だ。 庭の眺めもいい。 柊があるな。 柊のいわれを知っているか。 知らない。 知らないのか。 そのいわれは大にして世界的小にしては家庭またお前たちの書く材料になる。 なんだろうねそのいわれは。 こんど教える。 柊のいわれ。 ウイスキイだけどかまわないか。 いいとも。 かかがいないか。 お酌をさせろよ。 女房はいない。 そう言わずに。 ここへ呼んで来てお酌をさせろよ。 お前のかかのお酌で一ぱい飲んでみたくてやって来たのだ。 いいじゃないか。 女房のお酌だとかえって酒がまずくなるよ。 このウイスキイは。 昔なら三流品なんだけどでもメチルではないから。 まむし焼酎に似ている。 でもあんまりぐいぐいやるとあとで一時に酔いが出て来て苦しくなるよ。 へえ。 おかど違いでしょう。 俺は東京でサントリイを二本あけた事だってあるのだ。 このウイスキイはそうだな六〇パーセントくらいかな。 まあ普通だ。 たいして強くない。 もう無い。 ああそう。 人生の真実。 学問。 俺の東京時代は。 お前もしかし東京では女でしくじったが。 俺だって実は東京時代にあぶないところまでいった事があるんだ。 もう少しでお前と同じような大しくじりをするところまでいったんだ。 本当だよ。 じっさいそこまでいったんだ。 しかし俺は逃げたよ。 うん逃げた。 それでも女というものはいったん思い込んだ男を忘れかねると見えるな。 うわっはっは。 いまでも手紙を寄こすのだよ。 うふふ。 こないだも餅を送ってよこした。 女は馬鹿なものだよまったく。 女に惚れられようとしたら顔でも駄目だ金でも駄目だ気持だよ心だよ。 じっさい俺も東京時代はあばれたものだ。 考えてみるとあの頃は無論お前も東京にいて芸者を泣かせたりなんかして遊んでいた筈だがいちども俺と逢わなかったのは不思議だな。 お前はいったいあの頃はおもにどの方面で遊んでいたのだ。 女で大しくじり。 ただ金のあるにまかせて色男ぶって芸者を泣かせてやにさがっていたのではない。 たべないか。 くだものを食べると酔いがさめてまた大いに飲めるようになるよ。 俺は政治はきらいだ。 われわれ百姓は政治なんて何も知らなくていいのだ。 実際の俺たちの暮しに少しでも得になる事をしてくれたらそっちへつく。 それでいいだろう。 現物を眼の前に持って来て俺たちの手に握らせたらそっちへつく。 それでいいわけではないか。 われわれ百姓には野心は無いんだ。 受けた恩はきっとそれだけかえしてやる。 それはもうわれわれ百姓の正直なところだ。 進歩党も社会党もどうだっていいんだ。 われわれ百姓は田を作り畑を耕やしていたらそれでいいのだ。 しかしこないだの選挙ではお前も兄貴のために運動したろう。 いや何もひとつもしなかった。 この部屋で毎日自分の仕事をしていた。 嘘だ。 いかにお前が文学者で政治家でないとしてもそこは人情だ。 兄貴のために大いにやったに違いない。 俺はな学問も何も無い百姓だがしかし人情というものは持っている。 俺は政治はきらいだ。 野心も何も無い。 社会党だの進歩党だのと言ったっておそれるところは無いと思っているのだがしかし人情は持っている。 俺はなお前の兄貴とは別に近づきでも何でもないがしかし少くともお前は俺と同級生でもあり親友だろう。 ここが人情だ。 俺は誰にたのまれなくてもお前の兄貴に一票いれた。 われわれ百姓は政治も何も知らなくていい。 この人情一つだけを忘れなければそれでいいと思うがどうだ。 俺はしかし何もお前の兄貴の家来になりたがっているというわけじゃないんだよ。 そんなにこの俺を見下げ果ててもらっては困るよ。 お前の家だって先祖をただせば油売りだったんだ。 知っているか。 俺は俺の家の婆から聞いた。 油一合買ってくれた人には飴玉一つ景品としてやったんだ。 それが当った。 また川向うの斎藤だっていまこそあんな大地主で威張りかえっているけれども三代前には川に流れている柴を拾いそれを削って串を作り川からとった雑魚をその串にさして焼いて一文とか二文とかで売ってもうけたものなんだ。 また大池さんの家なんか路傍に桶を並べて路行く人に小便をさせてその小便が桶一ぱいになるとそれを百姓たちに売ってもうけたのがいまの財産のはじまりだ。 金持ちなんてもとをただせば皆こんなものだ。 俺の一族はいいかこの地方では一ばん古い家柄という事になっているんだ。 何でも祖先は京都の人で。 婆の話だからあてにはならんがとにかくちゃんとした系図は在るのだ。 それではやはり公卿の出かも知れない。 うんまあそれははっきりはわからないがたいていその程度のところなのだ。 俺だけはこんな汚い身なりで毎日田畑に出ているがしかし俺の兄はお前も知っているだろう大学を出た。 大学の野球の選手で新聞にしょっちゅう名前が出ていたではないか。 弟もいま大学へはいっている。 俺は感ずるところがあって百姓になったがしかし兄でも弟でもいまではこの俺に頭があがらん。 なにせ東京は食糧が無いんで兄は大学を出て課長をしているがいつも俺に米を送ってよこせという手紙だ。 しかし送るのがたいへんでな。 兄が自分で取りに来たらそうしたら俺はいくらでも背負わさせてやるんだがやっぱり東京の役所の課長ともなれば米を背負いに来るわけにもいかんらしいな。 お前だっていま何か不自由なものがあったらいつでも俺の家へ来い。 俺はなお前にただで酒を飲ませてもらおうとは思ってないよ。 百姓というものは正直なもんだ。 受けた恩はかならずきっちりとそれだけ返す。 いやもうお前のお酌では飲まん。 かかを呼んで来い。 かかのお酌でなければ俺は飲まん。 もう俺は飲まんよ。 かかを連れて来い。 お前が連れて来なければ俺が行って引っぱって来る。 かかはどこにいるんだ。 寝室か。 寝る部屋か。 俺は天下の百姓だ。 平田一族を知らないかあ。 よしそんなら連れて来る。 つまらねえ女だよ。 いいか。 おい昔の小学校時代の親友が遊びに見えているからちょっと挨拶に出てくれ。 このかたは僕の小学校時代の親友で平田さんというのだ。 小学校時代にはしょっちゅう喧嘩してこのかたの右だか左だかの手の甲に僕のひっ掻いた傷跡がまだ残っていてねだからきょうはその復讐においでなすったというわけだ。 まあこわい。 どうぞよろしく。 やあ固苦しい挨拶はごめんだ。 奥さんまあこっちへずっと寄ってお酌をしてください。 奥さん。 いまも修治に言っていたのだが何か不自由なものがあったら俺の家へ来なさい。 なんでもある。 芋でも野菜でも米でも卵でも鶏でも。 馬肉はどうですたべますか俺は馬の皮をはぐのは名人なんだたべるなら取りに来なさい馬の脚一本背負わせてかえします。 雉はどうです山鳥のほうがおいしいかな。 俺は鉄砲撃ちなんだ。 鉄砲撃ちの平田といえばこのへんでは知らない者は無いんだ。 お好みに応じて何でも撃ってあげますよ。 鴨はどうです。 鴨ならあすの朝でも田圃へ出て十羽くらいすぐ落して見せる。 朝めし前に五十八羽撃ち落した事さえあるんだ。 嘘だと思うなら橋のそばの鍛冶屋の笠井三郎のところへ行って聞いて見ろ。 あの男は俺の事なら何でも知っている。 鉄砲撃ちの平田と言えばこの地方の若い者は絶対服従だ。 そうだあしたの晩おい文学者俺と一緒に八幡様の宵宮に行ってみないか。 俺が誘いに来る。 若い者たちの大喧嘩があるかも知れないのだ。 どうもなあ不穏な形勢なんだ。 そこへ俺が飛び込んで行って待った。 と言うのだ。 ちょうど幡随院の長兵衛というところだ。 俺はもう命も何も惜しくねえ。 俺が死んだって俺には財産があるんだからなかかや子供は困る事がない。 おい文学者。 あしたの晩はぜひ一緒に行こうじゃないか。 俺の偉いところを見せてやる。 毎日こんな奥の部屋でまごまごしていたっていい文学は出来ない。 大いに経験をひろくしなければいけない。 いったいお前はどういうものを書いているのだ。 うふふ。 芸者小説か。 お前は苦労を知らないから駄目だ。 俺はもうかかを三度とりかえた。 あとのかかほど可愛いもんだ。 お前はどうだ。 お前だって二人か。 三人か。 奥さんどうです修治はあなたを可愛がるか。 俺はこれでも東京で暮した事のある男でね。 煙草はここにたくさんあるからこれを吸い給え。 煙管はめんどうくさいだろう。 われわれ百姓はこんなものを持っているのだよ。 お前たちは馬鹿にするだろうがしかし便利なものだ。 雨の降る中でも火打石はカチカチとやりさえすれば火が出る。 こんど俺は東京へ行く時これを持参して銀座のまんなかでカチカチとやってやろうと思うんだ。 お前ももうすぐ東京へ帰るのだろう。 遊びに行くよ。 お前の家は東京のどこにあるのだ。 罹災してねどこへ行ったらいいかまだきまっていないよ。 そうか罹災したのか。 はじめて聞いた。 それじゃいろいろ特配をもらったろう。 こないだ罹災者に毛布の配給があったようだが俺にくれ。 くれよ。 俺はジャンパーを作るのだ。 わりにいい毛布らしいじゃないか。 くれよ。 どこにあるのだ。 俺は帰りに持って行くぞ。 これは俺の流儀でな。 ほしいものがあったらこれ持って行く。 と言ってもらってしまう。 そのかわりお前が俺のところへ来たらお前もそうするとよい。 俺は平気だ。 何を持って行ったってかまわないよ。 俺はそんな流儀の男だ。 礼儀だの何だのめんどうくさい事はきらいなのだ。 いいか毛布はもらって行くぞ。 立派な。 毛布はよせよ。 ケチだなあお前は。 やあ奥さん。 手数をかけるなあ。 食うものなんか何も要りませんからさあここへ来てお酌をしてください。 修治のお酌ではもう飲む気がしない。 ケチくさくていけない。 殴ってやろうか。 奥さん俺はね東京時代にねずいぶん喧嘩が強かったですよ。 柔道もねちょっとやりました。 いまだってこんな修治みたいなのは一ひねりですよ。 いつでもね修治があなたに威張ったら俺に知らせなさい。 思いきりぶん殴ってやりますから。 どうです奥さん東京にいた時もこっちへ来てからも修治に対して俺ほどこんな無遠慮に親しく口をきける男は無かったろう。 何せ昔の喧嘩友達だから修治も俺には気取る事が出来やしない。 こまった酒乱さ。 いやわるかったよあやまるよお辞儀をします。 わるかったよあやまるよ。 かくして主はのがれ去り給えり。 忍耐。 大勇と小勇。 孤独。 うわあっ。 酔って来たあっ。 やっぱりウイスキイはいいな。 よく酔う。 奥さんさあお酌をしてくれ。 もっとこっちへ来なさいよ。 俺はねどんなに酔っても正気は失わん。 きょうはお前たちのごちそうになったがこんどは是非ともお前たちにごちそうする。 俺のうちに来いよ。 しかし俺の家には何も無いぞ。 鶏は養ってあるがあれは絶対につぶすわけにいかん。 ただの鶏じゃないのだ。 シャモと言ってな喧嘩をさせる鶏だ。 ことしの十一月にシャモの大試合があってその試合に全部出場させるつもりでただいま訓練中なんだがぶざまな負けかたをしたやつだけをひねりつぶして食うつもりだ。 だから十一月まで待つんだね。 まあ大根の二三本くらいはあげますよ。 酒も無い何も無い。 だからこうして飲みに来たんだ。 鴨一羽そのうちとったら進呈するがねしかしそれには条件がある。 その鴨を俺と修治と奥さんと三人で食ってその時に修治はウイスキイを出してそうしてその鴨の肉をだなまずいなんて言ったら承知しねえぞ。 こんなまずいものなんて言ったら承知しねえ。 俺がせっかく苦心して撃ちとった鴨だ。 おいしいと言ってもらいたい。 いいか約束したぞ。 おいしい。 うまい。 と言うのだぞ。 うわっはっはっは。 奥さん百姓というものはこういうものだ。 馬鹿にされたらもう縄きれ一本だってくれてやるのはいやだ。 百姓とつき合うにはこつがある。 いいか奥さん。 気取ってはいかん気取っては。 なあに奥さんだって俺のかかと同じ事で夜になれば。 子供が奥で泣いているようですから。 いかん。 お前のかかはいかん。 俺のかかはあんなじゃないよ。 俺が行ってひっぱって来る。 馬鹿にするな。 俺の家庭はいい家庭なんだ。 子供は六人あるが夫婦円満だぞ。 嘘だと思うなら橋のそばの鍛冶屋の三郎のところへ行って聞いてみろ。 かかの部屋はどこだ。 寝室を見せろ。 お前たちの寝る部屋を見せろよ。 よせよせ。 あんな女を相手にするな。 久し振りじゃないか。 たのしく飲もう。 お前たちは夫婦仲が悪いな。 俺はそうにらんだ。 へんだぞ。 何かある。 俺はそうにらんだ。 へん。 面白くない。 ひとつ歌でもやらかそうか。 全く附き合いの無かった。 それあいい。 ぜひ一つたのむ。 さ帰るぞ俺は。 お前のかかには逃げられたしお前のお酌では酒がまずいしそろそろ帰るぞ。 クラス会はそれじゃ仕方が無い俺が奔走してやるからな後はよろしくたのむよ。 きっと面白いクラス会になると思うんだ。 きょうはごちそうになったな。 ウイスキイはもらって行く。 おいおい。 それじゃないよ。 ケチな真似をするな。 新しいのがもう一本押入れの中にあるだろう。 知っていやがる。 煙草は。 うむそれも必要だ。 俺は煙草のみだからな。 威張るな。 つくだ煮。 わるくないね。 海老のつくだ煮じゃないか。 よく手にはいったね。 しなびてしまって。 しなびてしまっても海老は海老だ。 僕の大好物なんだ。 海老の髭にはカルシウムが含まれているんだ。 おしんこおいしいねえ。 ちょうど食べ頃だ。 僕は小さい時から白菜のおしんこが一ばん好きだった。 白菜のおしんこさえあれば他におかずは欲しくなかった。 サクサクしてこの歯ざわりがこたえられねえや。 お塩もこのごろお店に無いので。 おしんこを作るのにも思いきり塩を使う事が出来なくなりました。 もっと塩をきかせるとおいしくなるんでしょうけど。 いやこれくらいがちょうどいい。 塩からいのは僕はいやなんだ。 今夜は。 そうか何も無いか。 こういう夜もまた一興だ。 工夫しよう。 そうだ海苔茶漬にしよう。 粋なものなんだ。 海苔を出してくれ。 無いのよ。 このごろ海苔はどこの店にも無いのです。 へんですねえ。 私は買物は下手なほうではなかったのですけどこのごろは肉もおさかなもなんにも買えませんので市場で買物籠さげて立ったまま泣きべそを掻く事があります。 梅干があるかい。 ございます。 我慢するんだ。 なんでもないじゃないか。 米と野菜さえあれば人間は結構生きていけるものだ。 日本はこれからよくなるんだ。 どんどんよくなるんだ。 いま僕たちがじっと我慢して居りさえすれば日本は必ず成功するのだ。 僕は信じているのだ。 新聞に出ている大臣たちの言葉をそのまま全部そっくり信じているのだ。 思う存分にやってもらおうじゃないか。 いまが大事な時なんだそうだ。 我慢するんだ。 女中さんに三べんもお辞儀をした。 苦心さんたんして持って来たんだぜ。 久し振りだろう。 牛の肉だ。 くすりか何かのような気がして。 ちっとも食欲が起らないわ。 まあ食べてみなさい。 おいしいだろう。 みんな食べなさい。 僕はたくさん食べて来たのだ。 お顔にかかわりますよ。 私はそんなに食べたくもないのですから女中さんに頭をさげたりなどこれからはなさらないで下さい。 牛の肉だぞ。 あがりたまえ。 あがりたまえ。 あがりたまえ。 僕の仕事なんかどうだっていいさ。 なんだいあれは。 趣味でキリストごっこなんかにふけっていやがって鼻持ちならない深刻ぶった臭い言葉ばかり並べてそうして本当はただちょっと気取ったエゴイストじゃないか。 けれども私は私と附き合った人をひとりも堕落させませんでした。 先生お早うす。 ほんとうにこれは君の三思三省すべきところだ。 その火絶やすな。 この馬車はどこへ行くのですか。 さあどこへでも。 タキシイだよ。 銀座へ行ってくれますか。 銀座は遠いよ。 電車で行けよ。 思い煩うな。 空飛ぶ鳥を見よ。 播かず。 刈らず。 蔵に収めず。 悪魔はひとりすすり泣く。 忠直卿行状記。 殿様もこのごろはなかなかの御上達だ。 負けてあげるほうも楽になった。 あははは。 あの先輩もこのごろはなかなかの元気じゃないか。 もういたわってあげる必要もないようだ。 あははは。 お前はおれを偉いと思うか。 思いません。 そうか。 忠直卿行状記。 流行作家。 ひとつ奥さん。 いかがです。 いただきません。 あ失礼。 つい酔いすぎて。 あら。 そんなもの食べてなんともありません。 流行作家。 静子が来ていませんか。 いいえ。 本当ですか。 どうしたのです。 家はちらかっていますから外へ出ましょう。 そうですね。 どうもいけません。 こんどはしくじりました。 薬がききすぎました。 いただきません。 変ったなあ。 ヒステリイですね。 さあそれが。 とにかく僕がわるいんです。 おだて過ぎたのです。 薬がききすぎました。 あたしは天才だ。 いつ飛び出したんです。 きのうです。 なあんだ。 それじゃ何も騒ぐ事はないじゃないですか。 僕の女房だって僕があんまりお酒を飲みすぎると里へ行って一晩泊って来る事がありますよ。 それとこれとは違います。 静子は芸術家として自由な生活をしたいんだそうです。 お金をたくさん持って出ました。 たくさん。 ちょっと多いんです。 それはいけませんね。 静子はあなたの小説をいつも読んでいましたからきっとあなたのお家へお邪魔にあがっているんじゃないかと――。 冗談じゃない。 僕は――。 いったいどんな画をかくんです。 変っています。 本当に天才みたいなところもあるんです。 へえ。 おあがりなさい。 どこへ行っていたのですか。 草田さんがとても心配していましたよ。 あなたは芸術家ですか。 何を言っているのです。 きざな事を言ってはいけません。 草田さんも閉口していましたよ。 玻璃子ちゃんのいるのをお忘れですか。 アパートを捜しているのですけど。 このへんにありませんか。 奥さんどうかしていますね。 もの笑いの種ですよ。 およしになって下さい。 ひとりで仕事をしたいのです。 家を一軒借りてもいいんですけど。 薬がききすぎたと草田さんも後悔していましたよ。 二十世紀には芸術家も天才もないんです。 あなたは俗物ね。 草田のほうがまだ理解があります。 あなたは何しに来たのですか。 お帰りになったらどうですか。 帰ります。 画をお見せしましょうか。 たくさんです。 たいていわかっています。 そう。 さようなら。 どうかよろしく静子に説いてやって下さい。 僕は奥さんにたいへん軽蔑されている人間ですからとてもお役には立ちません。 無茶ですね。 草田ノ家ヘカエリナサイ。 静子さんの絵を見たいのですがあなたのところにありませんか。 ない。 御自分で全部破ってしまったそうじゃないですか。 天才的だったのですがね。 あんなにわがままじゃいけません。 書き損じのデッサンでもなんでもとにかく見たいのです。 ありませんか。 待てよ。 デッサンが三枚ばかり私のところに残っていたのですがそれをあのひとが此の間やって来て私の目の前で破ってしまいました。 誰かあの人の絵をこっぴどくやっつけたらしくそれからはもうあそうだありましたありましたまだ一枚のこっています。 うちの娘がたしか水彩を一枚持っていた筈です。 見せて下さい。 ちょっとお待ち下さい。 よかったよかった。 娘が秘蔵していたので助かりました。 いま残っているのはおそらく此の水彩いちまいだけでしょう。 私はもう一万円でも手放しませんよ。 見せて下さい。 なにをなさる。 つまらない絵じゃありませんか。 あなた達はお金持の奥さんにおべっかを言っていただけなんだ。 そうして奥さんの一生を台無しにしたのです。 あの人をこっぴどくやっつけた男というのは僕です。 そんなにつまらない絵でもないでしょう。 私にはいまの新しい人たちの画はよくわかりませんけど。 や修治。 や慶四郎。 御苦労様だったな。 君は。 戦災というやつだ。 念いりに二度だ。 そう。 しかしまあよかったね。 うんよかった。 もう少しで死ぬとこでしたよ。 そうだろうそうだろう。 いや駄目なんだ。 これだ。 そうか。 酒はどうだい。 酒もあるぜ。 肺病には煙草はいけないが酒は体質に依ってはかえって具合いのいいことがある。 飲みたいな。 何もう胸のほうはすっかりいいんだけれどもね煙草はどうも咳が出ていけない。 酒ならいいんだ。 イトウで皆とわかれる時にもじゃんじゃん飲んだよ。 イトウ。 そう。 伊豆の伊東温泉さ。 あそこで半年ばかり療養していたんだ。 中支に二年南方に一年いて病気でたおれて伊東温泉で療養という事になったんだがいま思うと伊東温泉の六箇月が一ばん永かったような気がするな。 からだが治ってまたこれから戦地へ行かなくちゃならんのかと思ったら流石にどうもいやだったが終戦と聞いて実はほっとしたんだ。 仲間とわかれる時には大いに飲んだ。 君がきょう帰るのを君のうちでは知っているのか。 知らないだろう。 近く帰れるようになるかも知れんという事は葉書で言ってやって置いたが。 それはひどいよ。 妻子も金木の家へ来ているんだろう。 うん召集と同時に女房と子供はこっちの家へ疎開させて置いた。 なあに知らせるに及ばんさ。 外国|土産でもたくさんあるんならいいけどどうもねえ何もありやしないんだ。 これを持って行き給え。 ねこれは上等酒だとかいう話だよ。 持って行き給え。 金木にもねいまはお酒はちっとも無いんだよ。 これを持って行って久し振りで女房のお酌で飲むさ。 君のお酌なら飲んでもいいな。 いや僕は遠慮しよう。 細君から邪魔者あつかいにされてもつまらない。 とにかくこれは持って行ってくれ。 君がきょう帰るという事を家に知らせていないとすると君の家ではきょうはお酒の支度が出来ないにきまっている。 君はお酒を飲みたいんだろう。 どうもさっきからこの風呂敷包を見る君の眼がただ事でなかったよ。 飲みたいに違いないさ。 持って行き給え。 そうしてみんな飲んでしまってくれ。 いや一緒に飲もう。 今夜君がこれをさげて僕の家へ遊びに来てくれたら一ばん有難いんだがな。 それはごめんだ。 それだけはまっぴらだ。 二三日経ってからなら。 じゃあ二三日経ってからでもいいから遊びに来てくれ。 この酒は要らないよ。 僕の家にだってあるだろう。 無い無い。 金木にはいままるっきり清酒が無いんだ。 とにかくきょうはこの酒を君が持って行かなくちゃいけない。 兵隊さん雨に濡れてしまいますよ。 ツネちゃん疎開しないのか。 あなたたちと一緒よ。 死んだって焼けたってかまやしないじゃないの。 すごいものだね。 雀でも撃って見ようかな。 どうしたの。 どいてくれお前が目ざわりでいけないのだ。 どけどけ。 はいはい。 どうしたの。 どうしたの。 ほんとうにどうしたの。 あ。 雀じゃないわよ。 ごめんごめんごめん。 どうした。 どうするの。 療養所で手当をしてもらおう。 やあどうも。 ツネちゃんじゃないか。 馬鹿何を言ってやがる。 足か。 きのう木炭の配給を取りに一里も歩いて足に豆が出来たんだとか言っている。 砂子村。 尊敬。 進はばかに重厚になったじゃないか。 急に老けたね。 むずかしい人生問題がたくさんあるんだ。 僕はこれから戦って行くんです。 たとえば学校の試験制度などに就いて――。 わかったよ。 でもそんなに毎日怖い顔をして力んでいなくてもいいじゃないか。 このごろ少し痩せたようだぜ。 あとでマタイの六章を読んであげよう。 なんじら断食するとき偽善者のごとく悲しき面容をすな。 彼らは断食することを人に顕さんとてその顔色を害うなり。 誠に汝らに告ぐ彼らは既にその報を得たり。 なんじは断食するとき頭に油をぬり顔を洗え。 これ断食することの人に顕れずして隠れたるに在す汝の父にあらわれん為なり。 さらば隠れたるに見たまう汝の父は報い給わん。 微笑もて正義を為せ。 人に顕さんとて。 重厚。 よしたほうがいいぜ。 むずかしい人生問題がたくさんあるんです。 たとえば試験制度に就いて――。 偉い人物になれ。 坊ちゃん。 もうこれでおわかれなんだ。 はかないものさ。 実際教師と生徒の仲なんていい加減なものだ。 教師が退職してしまえばそれっきり他人になるんだ。 君達が悪いんじゃない教師が悪いんだ。 じっせえ教師なんて馬鹿野郎ばっかりさ。 男だか女だかわからねえ野郎ばっかりだ。 こんな事を君たちに向って言っちゃ悪いけど俺はもう我慢が出来なくなったんだ。 教員室の空気がさ。 無学だ。 エゴだ。 生徒を愛していないんだ。 俺はもう二年間も教員室で頑張って来たんだ。 もういけねえ。 クビになる前に俺のほうからよした。 きょうこの時間だけでおしまいなんだ。 もう君たちとは逢えねえかも知れないけどお互いにこれからうんと勉強しよう。 勉強というものはいいものだ。 代数や幾何の勉強が学校を卒業してしまえばもう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが大間違いだ。 植物でも動物でも物理でも化学でも時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。 日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ将来君たちの人格を完成させるのだ。 何も自分の知識を誇る必要はない。 勉強してそれからけろりと忘れてもいいんだ。 覚えるということが大事なのではなくて大事なのはカルチベートされるということなんだ。 カルチュアというのは公式や単語をたくさん暗記している事でなくて心を広く持つという事なんだ。 つまり愛するという事を知る事だ。 学生時代に不勉強だった人は社会に出てからもかならずむごいエゴイストだ。 学問なんて覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。 けれども全部忘れてしまってもその勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。 これだ。 これが貴いのだ。 勉強しなければいかん。 そうしてその学問を生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。 ゆったりと真にカルチベートされた人間になれ。 これだけだ俺の言いたいのは。 君たちとはもうこの教室で一緒に勉強は出来ないね。 けれども君たちの名前は一生わすれないで覚えているぞ。 君たちもたまには俺の事を思い出してくれよ。 あっけないお別れだけど男と男だ。 あっさり行こう。 最後に君たちの御健康を祈ります。 礼。 今度の試験のことは心配しないで。 先生さよなら。 先生さよなら。 まぼろし。 君はスポーツマンか。 やる気かおい。 スポーツマンだったら恥ずかしく思え。 チキショッ。 信仰。 いちどお前に相談しようと思っていたんだがなこんど蹴球部に一年生の新入が十五人もあったんだ。 みんななっちゃいねえんだ。 つまらねえのをたくさん入れても部の質が落ちるばかりだしなあ俺だって張り合いがねえや。 考えて置いて呉れ。 多くたってかまわないじゃないか。 練習を張り切ってやれぁだめな奴はへたばるしいいやつは残るだろうしさ。 そうもいかねえ。 進め竜騎兵。 進め竜騎兵。 伯父さん。 一人の邪魔者の常に我身に附き纏うあり其名を称して正直と云う。 一人の邪魔者の常に我身に附き纏うあり其名を称して受験と云う。 どこへ受けるのかね。 きまっていません。 しかしみんなも。 四年から受けるならばちょっと受けてみましょうなんてひやかしの気分からでなく必ず合格しようという覚悟をきめて受けなくてはいかん。 ふらついた気持で受けて落ちるともう落ちる癖がついて五年になってから受けてももうだめになっている場合が多い。 よくよく慎重に考えて決定するように。 罪と罰。 父。 アバ父よ。 木村もあれと同じのを持ってるよ。 ほしいか。 ほんと。 人種がちがったね。 体は衣に勝るならずや。 ドイツ語がむずかしくってねえ。 出来た人は。 なんだ誰も出来んのか。 芹川やってごらん。 芹川には実際かなわんなあ。 教員室でもみんなお前を可愛いと言ってるぜ。 学校がいやなんだ。 とてもだめなんだ。 自活したいなあ。 学校っていやなところさ。 だけどいやだいやだと思いながら通うところに学生生活の尊さがあるんじゃないのかね。 パラドックスみたいだけど学校は憎まれるための存在なんだ。 僕だって学校は大きらいなんだけどでも中学校だけでよそうとは思わなかったがなあ。 そうですね。 明暗。 なにごとも辛抱して――。 はい。 兄弟なかよく――。 はい。 辛抱して。 兄弟なかよく。 僕の将来の目標がいつのまにやらきまっていました。 芹川の家には科学者の血が無いからな。 父帰る。 父親。 まあ考えたほうがいいぜ。 あのいただけないんざますのよ。 でもまあ一ぱい。 オホホホホ。 ではまあほんのチョッピリ。 あらまあ。 進ちゃん鼻の下に黒い毛が生えて来たじゃないの。 しっかりなさいよ。 芹川の家には淫蕩の血が流れているらしい。 誠実。 あそびにいらっしゃい。 うん。 坊や。 坊や。 はい。 下谷から遊びに来いって言って来たんだけど行きたくないんだ。 こんな風の強い日にひでえや。 でも行くって返事したんだろ。 行かなくちゃいけない。 あいたた。 にわかに覚ゆる腹痛。 そんなにいやならはじめからはっきり断ったらよかったのに。 むこうじゃ待っているぜ。 お前は四方八方のいい子になりたがるからいけない。 はっきり断ったらいいんでしょう。 坊やかい。 新年おめでとう。 はいおめでとう。 姉ちゃんが待ってるぜ。 早くおいでよ。 あのうおなかが痛いんですけど。 俊雄君にもよろしく。 基督教に於ける訓練。 夫婦ってどんな事を話しているもんだろう。 さあ何も話していねえだろう。 そうだろうねえ。 汝の兄弟より利息を取べからず。 ああエルサレムエルサレム予言者たちを殺し遣されたる人々を石にて撃つ者よ牝鶏のその雛を翼の下に集むるごとく我なんじの子どもを集めんと為しこと幾度ぞや。 吾人が小過失を懺悔するは他に大過失なき事を世人に信ぜしめんが為のみ。 おやお帰りなさい。 きょうはお早かったじゃないの。 うむ仕事の話がいい工合にまとまってね。 それはよござんした。 お風呂へおいでになりますか。 おい君。 お友達になって下さい。 どうだったい。 だめか。 きまってるじゃないか。 へえ。 本当かい。 お前がわるいんだ。 ごめんごめんごめん。 無理ですよ。 ねえまだ十七なのに無理ですよ。 お父さんでもいらっしゃったらねえ。 喧嘩じゃないよ。 ばか。 喧嘩じゃないよ。 最後。 歩こうか。 そうね。 荷物は僕が持ちますから。 いいよ。 しかし日本の警察は世界一じゃありませんかね。 お母さんには何も知らせてないからね。 一高なんかを受けさせて悪かったな。 兄さんがいけなかったんだ。 お前の日記を見たよ。 あれを見て兄さんも一緒に家出をしたくなったくらいだ。 でもそいつぁ滑稽だったろうな。 無理もねえなんて僕まで眼のいろを変えてあたふたと家出してみたところでまるでナンセンスだものね。 木島もおどろくだろう。 そうして木島もあの日記を読んでこれも家出だ。 そうしてお母さんも梅やもみんな家出してみんなであたらしくまた一軒家を借りたなんて。 R大学のほうの発表はいつだい。 六日。 R大学のほうはパスだろうと思うけどどうだいパスならずっとやって行く気かい。 やって行ってもいいんだけど――。 はっきり言ったほうがいいぜ。 やって行く気は無いんだろう。 無いんだ。 楽に話そう。 実はね兄さんも先月大学のほうはよした。 いつまでもむだに授業科ばかり納めているのも意味がないしね。 これから十年計画でなんとかしていい小説を書いてみるつもりだ。 いま迄書いて来たものはみんなだめだ。 いい気なものだったよ。 てんでなっちゃいないんだ。 生活がだらしなかったんだね。 ひとりで大家気取りで徹夜なんかしてさ。 ことしから新規蒔直しでやってみるつもりだ。 進もひとつどうだいことしから一緒に勉強してみないか。 勉強。 もういちど一高を受けるの。 何を言ってるんだ。 もうそんな無理は言わんよ。 受験勉強だけが勉強じゃない。 お前の日記にも書いてあったじゃないか。 将来の目標がいつのまにやらきまっていましたなんて書いてあったけどあれは嘘かい。 嘘じゃないけど本当は僕にもよくわからないんだ。 はっきりきまっているような気がしているんだけど具体的になんだかわからない。 映画俳優。 まさか。 そうなんだよ。 お前は映画俳優になりたいんだよ。 何も悪い事がないじゃないか。 日本一の映画俳優だったら立派なものじゃないか。 お母さんもよろこぶだろう。 兄さん怒ってるの。 怒ってやしない。 けれども心配だ。 非常に心配だ。 進お前は十七だね。 何になるにしてもまだまだ勉強しなければいけない。 それはわかってるね。 僕は兄さんと違って頭がわるいからほかには何も出来そうもないんだ。 だから俳優なんて事も考えるのだけど――。 僕がわるいんだ。 僕が無責任にお前を芸術の雰囲気なんかに巻き込んでしまったのがいけなかったんだ。 どうも不注意だった。 罰だ。 兄さん。 そんなに芸術って悪いものなの。 失敗したら悲惨だからねえ。 でもお前はこれからその方の勉強を一生懸命にやって行くつもりならば兄さんだって何も反対はしないよ。 反対どころか一緒に助け合って勉強して行こうと思っている。 まあこれから十年の修業だ。 やって行けるかい。 やって行きます。 そうか。 それならまずR大学へも行け。 卒業するしないは別としてとにかくR大学へはいりなさい。 大学生生活も少しは味わって置いたほうがいいよ。 約束するね。 それからいますぐ映画なんかのほうへ行こうと思わず五六年いや七八年でもどこか一流のいい劇団へかよって基本的な技術をみっちり仕込んでもらうんだ。 どこの劇団へはいるかそいつはまたあとで二人で研究しよう。 そこまでだ。 不服は無いだろう。 兄さんは眠くなって来たよ。 眠ろう。 もう十年くらい細々ながら生活するくらいのお金はある。 心配無用だ。 おらはおぼえただ。 おらもおぼえただ。 あすこの穴にぶち込めばええだ。 やってごらんなさい。 おらはおぼえただ。 むさぼるように。 なに。 ひめたる祈りを書いたのさ。 わあっ。 夜明け前。 夜明け前。 ええ寝ちまえ。 お前は美男子だよ。 明日の試験は何だい。 遠足の試験だい。 骨が折れるぜ。 お菓子に気をつけろってんだ。 おれぁ相撲部じゃねえよ。 二十五円の靴だってさ。 お酒飲んでそれから紅葉を見に行こうよ。 お酒でたくさんだい。 進パスしたぜ。 見事合格って木島から電報が来たぜ。 木島さんもおおげさだなあ。 バンザイだなんてばかにしてるよ。 木島もしんから嬉しかったのだろう。 木島にとってはR大学だって眼がくらむくらい立派な大学なんだ。 また事実何大学だってその内容は同じ様なものだ。 種も仕掛けも無い。 僕もきょうはそんな感じがするぜ。 狐にだまされているみたいだね。 いや本当にいまだまされているのかも知れん。 どうも変だ。 突くのけええ。 突くんだばここの押入れん中ん球取ってくれせええ。 どうしたんだろう今夜は。 意志と行動が全く離れているみたいだ。 僕の頭が変になっているのかしら。 なにせ進が大学生になったというところあたりからきょうはあやしい日だという気がしていたよ。 あいけねえ。 こんにちは。 こんにちは。 この代数の問題を解いて下さい。 この問題を解いて下さい。 出来そうもないなあ。 だってあんたは大学へはいったんでしょう。 どこからお聞きになったのですか。 きのう電報が来たそうじゃないですか。 川越のおばさんから聞きましたよ。 ああそうですか。 やっとはいったのです。 進はろくに受験勉強もしていなかったようですからあなたにも解けないようなむずかしい問題はやはり解けないでしょうよ。 そうでしょうか。 僕はまた四年から大学へはいる程の秀才ならこんな問題くらいわけなく解けるだろうと思ってお願いに来たんですけど本当に失礼しました。 この因数分解の問題はなかなかむずかしいんですよ。 僕も来年高等師範へ受けてみようと思っているんです。 僕は秀才でないから五年から受けます。 はははは。 あんな人もいるからなあ。 狐には穴あり鳥には塒か。 視よ。 新郎をとらるる日きたらん。 おらも三つの時写真とってもらっただ。 三つん時。 そうだだ。 おらは帽子かぶってとっただ。 だけんどおらは覚えてねえだ。 遊びにいらっしゃい。 写真をとってあげますよ。 こっちへいらっしゃい。 お菓子をあげるぜ。 だしぬけにお菓子をあげるなんて言ったら子供だって侮辱を感ずるよ。 そんな気で来たんじゃないというプライドがあるんだよ。 ばかだなあ。 これだから繁夫さんにも反感を持たれるんだよ。 ついさっきちょっと遊びに来たの。 姉さんどうしたの。 馬鹿な事を言うんだ。 馬鹿だよあれは。 兄弟仲良く。 R大にはいったんだって。 よせばいいのに。 商大はいいからねえ。 綴方教室。 綴方教室。 俳優芸術論。 解放された演劇。 去年の今頃だったねえ姉さんが行ったのは。 あれからもう一年か。 一年でも一箇月でもいったんお嫁に行った者が理由もなく帰るなんて法はないんだ。 進は妙に興味を持ってるらしいじゃないか。 高邁な芸術家らしくもないぜ。 友あり遠方より来る。 また楽しからずや。 たいくつしている時に庭先から友人が上酒を一升それに鴨一羽などの手土産をさげてよう。 と言ってあらわれた時にはうれしいからな。 本当にこの人生で最もたのしい瞬間かも知れない。 また。 芝居入門。 芹川は居らんか。 なんだ誰も居らんじゃないか。 おいチゴさん。 芹川はどこにいるか知らんか。 芹川は僕ですけど。 なんだそうか。 しっけいしっけい。 蹴球部の者だがねちょっと来てくれないか。 これがその芹川進だ。 そうか。 君はもう蹴球をよしたのかい。 えよしたんです。 考え直してみないかね。 惜しいじゃないか。 中学時代にあんなに鳴らしていたのにさ。 僕は――。 雑誌部へならはいってもいいと思ってるんですけど。 文学か。 だめか。 君を欲しいと思っていたんだがねえ。 だめなんです。 いやにはっきりしていやがる。 いや。 無理にひっぱったって仕様がねえ。 なんでも好きな事を一生懸命にやったほうがいいんだ。 芹川はからだを悪くしているらしい。 からだは丈夫です。 いまはちょっと風邪気味なんですけど。 そうか。 ひょうきんな奴だ。 蹴球部へも時々遊びに来いよ。 ありがとう。 あら坊やは少し痩せたわね叔母さん。 あ坊やはよしてくれ。 いつまでも坊やじゃねえんだ。 まあ。 痩せる筈さ。 大病になっちゃったんだよ。 きょうやっと起きて歩けるようになったんだ。 おい叔母さんお茶をくれ。 のどが乾いて仕様がねえんだ。 なんですその口のききかたは。 すっかり不良になっちゃったのね。 不良にもなるさ。 兄さんだってこのごろは毎晩お酒を飲んで帰るんだ。 兄弟そろって不良になってやるんだ。 お茶をくれ。 進ちゃん。 兄さんはお前に何か言ったの。 何も言やしねえ。 お前が大病したって本当。 ああちょっとね。 心配のあまり熱が出たんだ。 兄さんが毎晩お酒を飲んで帰るって本当。 そうさ。 兄さんもすっかり人が変ったぜ。 叔母さんお茶をくれよ。 はいはい。 どうにか大学へはいってやれ一安心と思うとすぐにこんな不良の真似を覚えるし。 不良。 僕はいつ不良になったんだい。 叔母さんこそ不良じゃないか。 なんだいチョッピリ女史のくせに。 まなんという事です。 私にまであくたれ口をきいて。 ごらん。 姉さんが泣いちゃったじゃないの。 私は知っているんですよ。 兄さんにけしかけられて子供のくせにあばれ込んで来たつもりなんだろうけどみっともない楽屋がちゃんと知れていますよ。 いったいチョッピリ女史なんてなんの事です。 少し言葉をつつしみなさい。 チョッピリ女史ってのはね叔母さんの綽名だよ。 僕のうちじゃそう呼ぶ事にしているんだ。 知らなかったのかい。 それじゃお茶をチョッピリいただきますよ。 麹町でもいい子供ばかりあって仕合わせだねえ。 進ちゃんいい子だからもうお帰り。 家へ帰って兄さんにね言いたい事があるならこんな子供なんかを使って寄こさず男らしくご自分でおいでなさいってそう言っておくれ。 なんだい陰でこそこそしているばかりでいっこうに此の頃は目黒へも姿を見せないじゃないか。 兄さんには私からうんと言ってやりたい事があるんです。 毎晩酒を飲んで帰るって。 だらしがない。 兄さんの悪口は言わないで下さい。 叔母さんこそ言葉をつつしんだらどうですか。 僕は何も兄さんにけしかけられてここへ来たんじゃないよ。 子供子供って甘く見ちゃ困るね。 僕にだっていい人と悪い人の見わけはつくんだ。 僕はきょう叔母さんと喧嘩しに来たんだ。 兄さんに関係は無い事だ。 兄さんはこんどの事に就いては誰にもなんにも言ってやしない。 そうしてひとりで心配しているんだ。 兄さんは卑怯な人じゃないぜ。 さお菓子はどう。 おいしいカステラだよ。 叔母さんにはなんでもちゃんと判ってるんだからつまらない悪たれ口はきかないでお菓子でもたべてきょうはまあお帰り。 お前は大学生になったらすっかり人が変ったねえ。 家にいてもお母さんにそんな乱暴な口をきくのかね。 カステラ。 いただきます。 おいしいね。 叔母さん怒っちゃいけない。 お茶をもう一ぱいおくれ。 叔母さん僕はこんどの事に就いてはなんにも知っちゃいないんだけどだけど姉さんの気持もわかるような気がするよ。 何を言うことやら。 お前なんかにはわかりゃしないよ。 さどうかな。 でもはっきりした原因はきっとあるに相違ない。 それぁね。 お前みたいな子供に言ったって仕様がないけどアリもアリも大アリさ。 だいいちお前結婚してから一年も経っているのに財産がいくら収入がいくらという事をてんで奥さんに知らせないってのはどういうものかねあやしいじゃないか。 鈴岡さんはそれぁいまこそ少しは羽振りがいいようだけど元をただせばお前たちのお父さんの家来じゃないか。 私ゃ知っていますよ。 お前たちはまだ小さくて知ってないかも知れんが私ゃよく知っていますよ。 それぁもうずいぶんお世話になったもんだ。 いいじゃないかそんな事は。 いいえよかないよ。 謂わばまあこっちは主筋ですよ。 それをなんだい麹町にも此の頃はとんとごぶさたましてや私の存在なんてどだいもう忘れているんですよ。 それぁもう私はどうせこんな独身のはんぱ者なんだからひとさまから馬鹿にされても仕様がないけれどもいやしくもお前こちらは主筋の――。 脱線してるよ叔母さん。 もういいわよ。 そんな事よりねえ進ちゃん。 お前も兄さんも下谷の家をとってもきらっているんでしょう。 俊雄さんの事なんかお前たちはもうてんで馬鹿にして――。 そんな事はない。 だってことしのお正月にも来てくれなかったしお前たちばかりでなく親戚の人も誰ひとり下谷へは立ち寄ってくれないんだもの。 あたしも考えたの。 ことしのお正月なんか進ちゃんの来るのをとっても楽しみにして待っていたのよ。 鈴岡も進ちゃんをしんから可愛がって坊や坊やって言っていつも噂をしているのに。 腹が痛かったんだ腹が。 それぁ行かないのが当り前さ。 どだい向うから来やしないんだものね。 麹町にもとんとごぶさただそうだし私のところへなんか年始状だって寄こしゃしない。 それぁもう私なんかは――。 いけませんでした。 鈴岡も書生流というのかなんというのか麹町や目黒にだけでなくご自分の親戚のおかた達にもまるでもうごぶさただらけなんです。 私が何か言うと親戚は後廻しだと言ってそれっきりなんですもの。 それでいいじゃないか。 まったく肉親の者にまで他人行儀のめんどうくさい挨拶をしなければならんとなると男は仕事も何も出来やしない。 そう思う。 そうさ。 心配しなくていいぜ。 このごろ兄さんと毎晩おそくまでお酒を飲み歩いている相手は誰だか知ってるかい。 鈴岡さんだよ。 大いに共鳴しているらしい。 しょっちゅう鈴岡さんから電話が来るんだ。 ほんとう。 当り前じゃないか。 鈴岡さんはね毎朝尻端折して自分で部屋のお掃除をしているそうだ。 そうしてね俊雄君が赤いたすきを掛けてご飯の支度さ。 僕はその話を兄さんから聞いて下谷の家をがぜん好きになっちゃった。 でも坊やだけはよしてくれねえかな。 あらためます。 だって鈴岡がそう言うもんだから私までつい口癖になって。 僕も悪かったし兄さんだってうっかりしてたところがあったんだ。 叔母さんごめんね。 さっきはあんな乱暴な事ばかり言って。 それぁ私だってまるくおさまったらこれに越した事はないと思っていたさ。 だけど進ちゃんも利巧になったねえ。 舌を巻いたよ。 でもねあのチョッピリだの何だのと言って年寄りをひやかすのだけはやめておくれ。 あらためます。 兄さんお水を持って来てあげようか。 要らねえよ。 兄さんネクタイをほどいてあげようか。 要らねえよ。 兄さんズボンを寝押してあげようか。 うるせえな。 早く寝ろ。 風邪はもういいのか。 風邪なんて忘れちゃったよ。 僕はきょう目黒へ行って来たんだよ。 学校をさぼったな。 学校の帰りに寄って来たんだよ。 姉さんがね兄さんによろしくって言ってたぜ。 聞く耳は持たんと言ってやれ。 進もいい加減にあの姉さんをあきらめたほうがいいぜ。 よその人だ。 姉さんは僕たちの事をとっても思っているんだねえ。 ほろりとしちゃった。 何を言ってやがる。 早く寝ろ。 そんなつまらぬ事に関心を持っているようではとても日本一の俳優にはなれやしない。 このごろさっぱり勉強もしていないようじゃないか。 兄さんにはなんでもよくわかっているんだぜ。 兄さんだってちっとも勉強してないじゃないか。 毎日お酒ばかり飲んで。 生意気言うな生意気を。 鈴岡さんにすまないと思うから――。 だから鈴岡さんをよろこばせてあげたらいいじゃないか。 姉さんは鈴岡さんをちっともきらいじゃないんだとさ。 お前にはそう言うんだよ。 進もとうとう買収されたな。 カステラなんかで買収されてたまるもんか。 チョッピリいや叔母さんがいけないんだよ。 叔母さんがけしかけたんだ。 財産を知らせないとか何とか下品な事を言っていたぜ。 でもそいつは重大じゃないんだ。 本当は僕たちがいけなかったんだ。 なぜだ。 どこがいけないんだ。 僕は失敬して寝るぜ。 兄さん。 姉さんが泣いていたぜ。 兄さんが毎晩そとへ出てお酒を飲んで夜おそくまで帰って来ないと言ったら姉さんはめそめそ泣いたぜ。 それあぁ泣くわけだ。 自分でわがままを言ってみんなを苦しめているんだから。 進そこから煙草をとってくれ。 そうしてね進も兄さんも下谷の家が大きらいなんだろう。 って言ってたぜ。 へえ。 妙な事を言いやがる。 だってそうだったじゃないか。 いまは違うけど前は兄さんだって下谷の家へちっとも遊びに行かなかったじゃないか。 お前も行かなかったぞ。 そう僕も悪かったんだ。 なにせ柔道四段だっていうんでこわくってね。 俊雄君の事もお前はひどく軽蔑してたぜ。 軽蔑ってわけじゃないけどなんだか逢いたくなかったんだ。 気が重くてね。 でもこれからは仲良くするんだ。 よく考えてみたらいい顔だった。 ばか。 鈴岡さんも俊雄君もとてもいい人だよ。 やっぱり苦労して来た人たちは違うね。 以前だって悪い人だとは思っていなかったけどまた悪い人だと思ったら姉さんをお嫁になんかやりゃしないんだけどあんなにいい人だとは思わなかった。 こんどつくづくそう思った。 姉さんには鈴岡さんのよさがまだよくわかっていないんだ。 なんだい僕たちが遊びに行かないから鈴岡さんとわかれるって言うのかい。 ちっともなってないじゃないか。 それがわがままというものなんだ。 十九や二十のお嬢さんじゃあるまいしなんてざまだ。 それぁ姉さんにだって鈴岡さんのよさくらいちゃんとわかっているんだ。 その鈴岡さんと僕たちとどうも気が合わないらしいというので姉さんは考えてしまったんだ。 姉さんはとても兄さんや僕の事を大事にしているんだぜ。 僕たちもいけなかったんだよ。 よそへ嫁にやったから他人だなんてそんな事は無いと思うよ。 じゃいったい僕にどうしろっていうんだ。 別にどうしなくてもいいんだ。 姉さんはもう大喜びだよ。 兄さんと鈴岡さんがこのごろ毎晩お酒を飲んで共鳴してるって僕が言ったら姉さんはほんと。 と言ってその時の嬉しそうな顔ったら。 そうか。 よしわかった。 僕も悪い。 十二時か進かまわないから鈴岡さんに電話をかけていますぐ兄さんがお伺いしますからってそれから朝日タクシイにも電話をかけて大至急一台たのんでくれ。 その間に僕はちょっとお母さんに話して来るから。 進ちゃん。 きょうだい仲良く――。 おはようございます。 まあいい。 もう学校の様子もだいたいわかったからそろそろ本格的に演劇の勉強をはじめたいと思っているんだけど兄さん早くいい先生のところへ連れて行ってね。 今夜はひどく真面目に考え込んでいると思ったらその事か。 よし。 あした津田さんのところへ行って相談してみよう。 どんな先生がいいのかとにかく津田さんのところへ行って聞いてみようよ。 あした一緒に行こう。 これをみんなお読みになったの。 とても読めるもんじゃないよ。 でもこうして並べて置くと必ず読む時が来るものだ。 大きくなったね。 男っぷりもよくなった。 R大。 高石君は元気かね。 ええいま僕たちにサムエル・バトラのエレホンを教えているんですけどなんだか煮え切らない人ですね。 口が悪いね。 いまからそんなんじゃ末が思いやられるね。 毎日兄さんと二人で僕たちの悪口を言ってるんだろう。 まあそんなところです。 弟ははじめからR大を卒業する気はないらしいんです。 君の悪影響だよそれは。 何も君弟さんまで君の道づれにしなくたっていいじゃないか。 ええ全く僕の責任なんです。 役者になりたいって言うんですが――。 役者。 思い切ったもんだねえ。 まさか活動役者じゃないだろうね。 映画です。 映画。 それぁ君問題だぜ。 僕もずいぶん考えたんですけど弟はひどく苦しくなるときまって映画俳優になろうと決心するらしいんです。 子供の事ですからそこに筋道立った理由なんか無いのですがそれだけ宿命的なものがあるんじゃないかと僕は思ったんです。 気持の楽な時うっとり映画俳優をあこがれるなんてのは話になりませんけどいのちの瀬戸際になるとふっと映画俳優を考えつくらしいのですが僕はそれを神の声のように思っているのです。 そいつを信じたいような気がするんです。 そう言ったって君親戚や何かの反対もあるだろうしとにかく問題だねえそれは。 親戚の反対やなんかは僕がひき受けます。 僕だって学校は中途でよしてしまうしそれに小説家志願と来ているんですからもう親戚の反対には馴れたものです。 君が平気だって弟さんが――。 僕だって平気です。 そうかねえ。 たいへんな兄弟もあったものだ。 どうでしょうか。 演劇のいい先生が無いでしょうか。 やっぱり五六年は基本的な勉強をしなければいけないと思いますし――。 それはそうだ。 勉強しなけれぁいかん。 勉強しなけれぁ。 だからいい先生を紹介して下さい。 斎藤市蔵氏はどうでしょうか。 弟もあの人を尊敬しているようですし僕もやはりあんなクラシックの人がいいと思うんですけど――。 斎藤さんか。 いけませんか。 津田さんは斎藤市蔵氏とはお親しいんでしょう。 親しいってわけじゃないけどなにせ僕たちの大学時代からの先生だ。 でもいまの若い人たちにはどうかな。 それは紹介してあげてもいいよだけどそれからどうするんだ。 斎藤さんの内弟子にでもはいるのかね。 まさか。 まあ演劇するものの覚悟などを時たま拝聴に行く程度だろうと思いますけどまずどの劇団がいいかそんな事も伺いたいのでしょう。 劇団。 映画俳優じゃないのかね。 映画俳優はサンボルですよ。 それの現実にこだわっているわけじゃないんです。 とにかく日本一いや世界一の役者になりたいんですよ。 だからまず斎藤氏の意見なども聞いていい劇団へはいって五年でも十年でも演技を磨きたいという覚悟なのです。 あとは映画に出ようが歌舞伎に出ようが問題ではないわけです。 ばかに手まわしがいいね。 あながち春の一夜の空想でもないわけなんだね。 冗談じゃない。 僕が失敗しても弟だけは成功させたいと思っているんです。 いや二人とも成功しなければいかん。 とにかく勉強だ。 君たちはいまのところ暮しの心配もないようだからまあ気長にみっちりやるんだね。 めぐまれた環境を無駄にしてはいかん。 だけど役者とはおどろいたなあ。 とに角それじゃ斎藤さんに紹介の手紙を書きましょう。 持って行ってみなさい。 頑固な人だからね玄関払いを食うかも知れんぞ。 その時にはまたもう一度津田さんに紹介状を書いていただきます。 芹川もいつのまにやら図々しくなってしまいやがった。 この図々しさが作品にも少し出るといいんだがねえ。 僕も十年計画でやり直すつもりです。 一生だ。 一生の修業だよ。 このごろ作品を書いているかね。 はあどうもむずかしくて。 書いていないようだね。 君は日常生活のプライドにこだわりすぎていけない。 四十になっても五十になってもくるしさに増減は無いね。 どうも本郷は憂鬱だね。 僕みたいに帝大を中途でよした者にはこの大学の建物は恐怖の的だ。 何だかこっちが卑屈になってやり切れない。 犯罪者みたいな気がして来るんだ。 上野へでも行ってみるか。 本郷はもうたくさんだ。 でもまあよかった。 僕もきょうは一生懸命だったんだぜ。 とうとう津田さんも紹介状を書いてくれたんだから大成功だ。 津田さんはあれでなかなかつむじ曲りのところがあってねちょっと気持にひっかかるものが出来るともうだめなんだ。 こんりんざいだめだね。 ちっとも油断が出来ないんだ。 きょうはよかった。 不思議にすらすら行ったね。 進の態度がよかったのかな。 津田さんはあんな冗談ばかり言ってるけどずいぶん鋭く人を観察しているからね。 うしろにも目がついているみたいだ。 進はまあどうやら及第したんだね。 安心するのはまだ早いぞ。 これから斎藤氏という難関もある。 なかなかの頑固者らしいじゃないか。 津田さんもちょっと首をかしげていたね。 まあ誠実をもってあたってみるさ。 紹介状持ってるだろう。 ちょっと見せてくれ。 見てもいいの。 かまわない。 紹介状というものはね持参の当人が見てもかまわないようにわざと封をしていないものなんだ。 ほらそうだろう。 一応こっちでも眼をとおして置いたほうがいいんだよ。 読んでみよう。 いやこれぁひどいなあ。 簡単すぎるよ。 こんな程度で大丈夫なのかなあ。 これでいいのかしら。 いいんだろうよ。 でもここに友人芹川進君と書いてあるがこの友人というところが泣かせどころなのかも知れない。 ごはんにしようか。 そうしよう。 芝居街道五十年。 我は復活なり生命なり我を信ずる者は死ぬとも生きん。 凡そ生きて我を信ずる者は永遠に死なざるべし。 汝これを信ずるか。 ま。 おどろいた。 先生は御在宅ですか。 さあ。 紹介状を持って来ましたけど。 そうですか。 少しお待ち下さい。 ご用はなんでしょうか。 御指南を受けに来ました。 いったい先生はいらっしゃるのですか。 いらっしゃいます。 紹介状をごらんにいれましたか。 いいえ。 なあんだ。 お仕事中ですの。 またいらっしゃいません。 いつごろおひまになりますか。 さあ二三日たったらどうでしょうかしら。 それでは。 五月三日の今ごろまたお伺い致します。 その時はよろしくお願いします。 はあ。 その女は何者かというのが問題だ。 いくつくらいだったね。 綺麗なひとかい。 わからんよ僕には。 狂女じゃないかと思うんだけど。 まさか。 それはねやっぱり女中さんだよ。 秘書を兼ねたる女中というところだ。 女学校は卒業してるね。 だからもう十九いや二十を越えてるかも知れん。 こんど兄さんが行ったらいい。 場合に依っては僕が行かなくちゃならないかも知れないがまだその必要は無いようだ。 お前はそんなにしょげてるけどきょうはちっとも失敗じゃなかったんだよ。 お前にしては大出来だ。 五月三日にまた来るとはっきり言って来ただけでも大成功だよ。 その女のひとはお前に好意を持っているらしい。 いや本当さ。 ふつうの玄関払いとは性質がちがうようだ。 脈があるよ。 お仕事中は面会謝絶と極っているんだけど特にお前のためにどうにかして取りついであげようと思ったんだが奥さんか誰かに邪魔されてそれが出来なかったんだな。 きっとそうだよ。 だからこんどはお前もその女のひとをにらんだりなんかしないでも少しあいそよくしてあげるんだね。 ちゃんとお辞儀をしてね。 しまった。 きょうは帽子もとらない。 そうだろ。 帽子もぬがずにただはったと睨んでいたんじゃふつうだったらまず交番に引渡されるところだ。 その女のひとに理解があったからたすかったのだ。 来月の三日にはしっかりやるさ。 日本一。 あら。 いまおでかけのところなのよ。 ちょうどいいわお話してごらんなさい。 先生。 津田さんからの紹介状――。 乗りたまえ。 よござんしたね。 こないだはずいぶん怒ってお帰りになりましたのよ。 行ってらっしゃいまし。 どちらへおいでになるんですか。 神田だ。 何も。 怒って帰る事はない。 はあ。 津田君とはどんな知り合いなのかね。 は兄さんが小説を見てもらっているんです。 津田君の手紙はれいに依って要領を得ないが――。 俳優になりたいんです。 俳優。 いい劇団へはいってみっちり修業したいと思うんです。 どんな劇団がいいのか教えてください。 劇団。 いい劇団。 そんなものは無いよ。 いい劇団が無いんですか。 無い。 こんど鴎座で先生の『武家物語』が上演されるようですね。 あそこで。 研修生を募集している。 そうですか。 それにはいったほうがいいんですか。 やっぱりだめなんですか。 誰でも勝手に応募できるのかしら。 試験があるんでしょう。 わからん。 君は――どこで降りる。 麹町です。 麹町。 遠い。 どうも失礼いたしました。 聞きしにまさる傑物だねえ。 どうかしているんだよきっと。 いやそうじゃない。 とてもしっかりしている。 世界的な文豪を以て任じている人はそれくらいのところが無くちゃいけない。 しかしお前もよくねばったものだねえ。 案外あつかましいところがある。 めくら蛇に怯じずの流儀だがでも大成功だ。 けがの功名でお前はちょっと好感を持たれたかも知れない。 馬鹿言ってら。 てんで何も話してくれないんだよ。 気味が悪かったぜ。 いやたしかに好意を持たれている。 一緒に自動車に乗せたというのはただ事でない。 思うにあの女のひとがうまく取りなして置いてくれたんだね。 津田さんの紹介状だって案外見えないところで大働きをしているのかも知れない。 せっかく書いていただいて悪口を言うのはいけない。 いまになって考えると立派な紹介状のようだった気もする。 まず大成功だ。 それじゃこれから鴎座へ電話を掛けて研究生募集の事を問い合せて見るんだね。 だって鴎座がいいとは言わなかったんだよ。 わるいとも言わなかったろう。 わからんと言ってた。 それでいいんだよ。 僕には斎藤氏の気持がわかるね。 やっぱり苦労人だよ斎藤氏は。 その辺からまあぼつぼつ始めてみたらいいだろうという事なんだよ。 そうだろうか。 さあこれからはお前がなんでもひとりでやってごらん。 五月八日。 じゃすぐですね。 それで。 試験は。 九日に新富町の研究所で行います。 へええ。 何時からですか。 午後一時ジャストに研究所へお集りを願います。 課目は。 課目は。 どんな試験をするんですか。 それは申し上げられません。 へええ。 それじゃどうも。 簡単な試験なんだろう。 なあに僕には別な佳い道があるのだ。 なあに。 映画俳優論。 俳優芸術論。 解放された演劇。 近代劇論。 芝居街道五十年。 チェホフのドラマツルギー。 芝居入門。 演劇|論叢。 築地小劇場史。 演出論。 映画俳優術。 演出者ノオト。 花伝書。 役者論語。 申楽談義。 俳優芸術論。 芝居街道五十年。 お前の顔は役者に向かない顔である。 生ける屍。 床屋へ行ったか。 新世界。 お前はサシスセソがうまく言えないようだね。 妄言多謝だ。 お前は僕なんかに較べると問題にならないほどうまいんだ。 でもあしたは本職の役者の前でやるのだからちょっと今夜は酷評して緊褌一番をうながしてみたんだがね。 なに上出来だよ。 番号札をお渡し致します。 午後一時ジャスト。 お名前を呼びますから御返事を願います。 それでは一番のおかたどうぞ。 二ばんのおかたどうぞ。 三ばんのおかたどうぞ。 はい。 おいくつですか。 履歴書に書いてなかった。 ええでも――。 十七です。 父兄の承諾はたしかですね。 もちろんです。 ではどうぞ。 こっちへ来いよ。 こんどは多少優秀かな。 学校はどこだ。 R大です。 としはなんぼ。 十七です。 お父さんのゆるしを得たか。 お父さんはいませんよ。 なくなられたのですか。 承諾書に書いてあった筈です。 気骨|稜々だね。 見どころありかね。 演技部ですか文芸部ですか。 なんですか。 役者になるのか。 脚本家になるのか。 どっちだ。 役者です。 しからばたずねる。 鴎座。 役者の使命は何か。 それは人間がどんな使命を持って生れたかというような質問と同じ事でまことしやかないつわりの返答はいくらでも言えるのですが僕はその使命はまだわかりませんと答えたいのです。 妙な事を言うね。 マッチないか。 役者の使命はね外に向っては民衆の教化内に於ては集団生活の模範的実践。 そうじゃないかね。 それは役者に限らず教化団体の人なら誰でも心掛けていなければならぬ事でだから僕がさっき言ったようにそんな立派そうな抽象的な言葉は本当にいくらでも言えるんです。 そうしてそれはみんなうそです。 そうかね。 そういう考えかたも面白いね。 朗読をお願いしましょう。 何をお願いしましょうか。 このひとは程度が高いそうですから。 伯父ワーニャ。 ファウスト。 この部分をお願いします。 一ぺん黙読して自信を得てから朗読して下さい。 僕には朗読できません。 ほかの所を読みます。 うまい。 満点だ。 二三日中に通知する。 筆記試験は無いのですか。 生意気言うな。 君は僕たちを軽蔑しに来たのか。 いいえ。 だって筆記試験も――。 筆記試験は。 時間の都合でしないのです。 朗読だけでたいていわかりますから。 君に言って置きますがいまから台詞の選り好みをするようでは見込みがありませんよ。 俳優の資格として大事なものは才能ではなくてやはり人格です。 横沢さんは満点をつけても僕は君には零点をつけます。 それじゃ。 平均五十点だ。 まあきょうは帰れ。 おういつぎは四ばん四ばん。 大事なものは才能ではなくてやはり人格だ。 だめだめ。 みごと落第です。 なんだばかに嬉しそうな顔をしているじゃないか。 だめな事はないんだろう。 いやだめなんだ。 戯曲朗読は零点だった。 零点。 本当かい。 人格がだめなんだそうだ。 でもね才能は――。 何をそんなににやにや笑っているんだ。 零点をもらってよろこぶ事はないだろう。 ところがあるんだ。 及第だ。 絶対に落第じゃない。 二三日中に合格通知が来るよ。 だけど不愉快な劇団だなあ。 なってないんだ。 落第したほうが名誉なくらいだ。 僕は合格してもあの劇団へははいらないんだ。 上杉氏なんかと一緒に勉強するのはまっぴらです。 そうだねえ。 ちょっと幻滅だねえ。 どうだいもういちど斎藤氏のところへ相談に行ってみないか。 あんな劇団はいやだと進の感じた事を率直に言ってみたらどうだろう。 どの劇団も皆あんなものだからがまんしてはいれと先生が言ったら仕方が無い。 はいるさ。 それとも他にまたいい劇団を紹介してくれるかも知れない。 とにかく試験は受けましたという報告だけでもして置いたほうがいい。 どうだい。 うん。 今回の審査の結果五名を研究生として合格させた。 貴君もその一人である。 明日午後六時研究所へおいであれ。 成就の扉の開いているのを見た時は己達はかえって驚いて立ち止まる。 進は合格してもあまり嬉しそうでないじゃないか。 考えてみます。 パイナップルの汁ならどんぶりに一ぱいでも楽に飲めるね。 うん。 それに氷のぶっかきをいれて飲むとさらにおいしいだろうね。 懸賞に応募するなんて自分を粗末にする事じゃないのかな。 作品がもったいない。 でもあたったら二千円だ。 お金でもとれるんでなかったら小説なんてばからしい。 最後の晩餐。 最後の晩餐。 最後の晩餐。 十四章。 汝穢わしき物は何も食う勿れ。 汝らが食うべき獣蓄は是なり即ち牛羊山羊牡鹿羚羊小鹿※※麈※など。 凡て獣蓄の中蹄の分れ割れて二つの蹄を成せる反蒭獣は汝ら之を食うべし。 但し反蒭者と蹄の分れたる者の中汝らの食うべからざる者は是なり即ち駱駝兎および山鼠是らは反蒭ども蹄わかれざれば汝らには汚れたる者なり。 また豚是は蹄わかるれども反蒭ことをせざれば汝らには汚たる者なり汝ら是等の物の肉を食うべからずまたその死体に捫るべからず。 水におる諸の物の中是のごとき者を汝ら食うべし即ち凡て翅と鱗のある者は皆汝ら之を食うべし。 凡て翅と鱗のあらざる者は汝らこれを食うべからず是は汝らには汚たる者なり。 また凡て潔き鳥は皆汝らこれを食うべし。 但し是等は食うべからず即ち※黄鷹鳶※鷹黒鷹の類各種の鴉の類鴕鳥梟鴎雀鷹の類鸛鷺白鳥※※大鷹※鶴鸚鵡の類鷸および蝙蝠また凡て羽翼ありて匍ところの者は汝らには汚たる者なり汝らこれを食うべからず。 凡て羽翼をもて飛ぶところの潔き物は汝らこれを食うべし。 凡そ自ら死たる者は汝ら食うべからず。 ああ信仰うすき者よ何ぞパン無きことを語り合うか。 未だ悟らぬか。 五つのパンを五千人に分ちてその余を幾筐ひろいまた七つのパンを四千人に分ちてその余を幾籃ひろいしかを覚えぬか。 我が言いしはパンの事にあらぬを何ぞ悟らざる。 人間の悲惨を知らずに神をのみ知ることは傲慢を惹き起す。 物質的な鎖と束縛とを甘受せよ。 我は今精神的な束縛からのみ汝を解き放つのである。 凡て汝の手に堪うる事は力をつくしてこれを為せ。 御意のままになし給え。 おやいらっしゃい。 先生は。 いらっしゃいますわよ。 重大な要件でお目に――。 何が可笑しいのです。 僕はぜひとも先生にお目にかかりたいのです。 はいはい。 鴎座に受けて合格しました。 試験はとてもいい加減なものでした。 一事は万事です。 きょうの午後六時に鴎座の研究所へ来いという通知をきのうもらいましたが行きたくありません。 迷っています。 教えて下さい。 じみな修業をしたいのです。 芹川進。 はいご返事。 なんですかこれは。 ご返事です。 春秋座へはいれって言うのですか。 そうじゃないでしょうか。 これは無理ですよ。 先生の紹介状でもあったらとにかく。 ひとりでやれ。 お前はもう自分の為の人間であることは許されていない。 大安。 賭博者。 当分おわかれですわね。 なあんだ。 みっともない。 結婚しちゃおうか。 兄さん前から気がついていたの。 わからん。 さっき泣き出したのでおや。 と思ったんだ。 兄さんも杉野さんを好きなの。 好きじゃないねえ。 僕よりとしが上だよ。 じゃなぜ結婚するの。 だって泣くんだもの。 しまった。 花火だね。 線香花火だ。 女殺油地獄。 雁。 葉桜。 女殺油地獄。 葉桜。 雁。 今夜の御感想をお聞かせ下さい。 団員志望者であります。 手続きを教えて下さい。 進。 春秋座から手紙が来てるぜ。 お前は兄さんにかくれてこっそり血判の歎願書を出したんじゃないか。 お父さんが生きていたらなんと言うだろうねえ。 うちの馬鹿が来ていませんか。 このごろさっぱり逢いませんが。 ギタを持って出たからきっとあなたの所だとばかり思ってちょっとお寄りしてみたのですが。 僕はもうギタはやめました。 そうでしょう。 いいとしをしていつまでもあんな楽器をいじくりまわしているのは感心出来ません。 いやお邪魔しました。 もしあのばかが来ましたならば。 あなたからも説教してやって下さい。 行ってまいります。 なんだもう行くのか。 神の国は何に似たるか。 一粒の芥種のごとし。 育ちて樹となれ。 しばらくお待ち下さいまし。 どうもお待ちどおさまでした。 お名前をお呼び致しますから。 どうぞこちらへ。 やあいらっしゃい。 筆記試験をさせていただきます。 雁。 お書きになりました方はその答案をお持ちになってどうぞこちらへ。 何を読みますか。 ファウスト。 どうぞ。 ファウスト。 ファウスト。 桜の園。 御苦労さまです。 もう一つこちらからのお願い。 はあ。 ただいま向うでお書きになった答案をここで読みあげて下さい。 答案。 これですか。 ええ。 よろしゅうございます。 その答案は置いて行ってどうぞ控室でお待ちになっていて下さい。 お坐りなさい。 あぐらあぐら。 芹川さんでしたね。 大学はつづけておやりになるつもりですか。 考え中です。 両方は無理ですよ。 それは。 採用されてから。 それゃまあそうですが。 まだ採用ときまっているわけでもないのですものね。 愚問だったかな。 失礼ですが兄さんはまだお若いようですね。 はあ二十六です。 兄さんおひとりの承諾で大丈夫でしょうか。 それは大丈夫です。 兄さんはとても頑張りますから。 頑張りますか。 ファウストをお読みになったのですね。 あなたがひとりで選んだのですか。 いいえ兄さんにも相談しました。 それじゃ兄さんが選んで下さったのですね。 いいえ兄さんと相談してもなかなかきまらないので僕がひとりできめてしまったのです。 失礼ですけどファウストがよくわかりますか。 ちっともわかりません。 でもあれには大事な思い出があるんです。 そうですか。 思い出があるんですか。 スポーツは何をおやりです。 中学時代に蹴球を少しやりました。 いまはよしていますけど。 選手でしたか。 春秋座のどこが気にいりましたか。 べつに。 え。 じゃなぜ春秋座へはいろうと思ったのですか。 僕はなんにも知らないんです。 立派な劇団だとはぼんやり思っていたのですけど。 ただまあふらりと。 いいえ僕は役者にならなけれぁ他に行くところが無かったんです。 それで困って或る人に相談したらその人は紙に春秋座と書いてくれたんです。 紙にですか。 その人はなんだか変なのです。 僕が相談に行った時は風邪気味だとかいって逢ってくれなかったのです。 だから僕は玄関でいい劇団を教えて下さいって洋箋に書いて女中さんだか秘書だかとてもよく笑う女のひとにそれを手渡して取りついでもらったんです。 するとその女のひとが奥から返事の紙を持って来たんです。 けれどもその紙には春秋座と三文字書かれていただけなんです。 どなたですかそれは。 僕の先生です。 でもそれは僕がひとりで勝手にそう思い込んでいるので向うでは僕なんかを全然問題にしていないかも知れません。 でも僕はその人を僕の生涯の先生だときめてしまっているんです。 僕はまだその人とたった一回しか話をした事がないんです。 追いかけて行って自動車に一緒に乗せてもらったんです。 いったいどなたですか。 どうやら劇壇のおかたらしいですね。 それは言いたくないんです。 たったいちど自動車に乗せてもらって話をしたきりなのにもうその人の名前を利用するような事になるとさもしいみたいだからいやなんです。 わかりました。 それで。 その人が春秋座と書いて下さったのでまっすぐにこっちへ飛び込んで来たというわけですね。 そうです。 ただ春秋座へはいれって言ったって無理ですと僕はその時に女中さんに不平を言ったんです。 すると襖の陰からひとりでやれっ。 と怒鳴ったんです。 先生が襖の陰に立って聞いていたんです。 だから僕はびっくりして――。 痛快な先生ですね。 斎藤先生でしょう。 それは言われないんです。 僕がもっと偉くなってから教えます。 そうですか。 それじゃこれだけでよろしゅうございます。 どうもきょうは御苦労さまでした。 食事はすみましたね。 はあいただきました。 それでは二三日中にまた何か通知が行くかも知れませんがもし二三日中に何も通知が無かった場合にはまたもういちどその先生のところへ相談にいらっしゃるのですね。 そのつもりで居ります。 健康診断を致しますから八日正午左記の病院に此の状持参にておいで下さい。 よかったですね。 はじめの願書は樺太新京などからも来てざっと六百通ちかく集ったのですよ。 でもまだわからないんでしょう。 さあどうでしょうかね。 よかったねえよかったねえ進はやっぱり役者になるのがよかったんだ。 六百人の中から二人とは凄いじゃないか。 偉いねえありがとう僕はもうどんなに嬉しいか――。 善く且つ高貴に行動する人間は唯だその事実だけに拠っても不幸に耐え得るものだということを私は証拠立てたいと願う。 つとめ。 文学公論。 やっぱり小説は三十すぎなければ駄目だね。 芹川さんはいつも憂鬱そうですね。 あっちへ行け。 君は毎日毎日ちがう本をポケットにいれて来るそうだね。 本当に読んでるのかい。 私は三十まで大根と言われていました。 そうしていまでも私は自分を大根だと思っています。 善く且つ高貴に行動する人間は唯だその事実だけに拠っても不幸に耐え得るものだということを私は証拠立てたいと願う。 助六。 坊ちゃん。 色彩間苅豆。 助六。 坊ちゃん。 なんだろうね。 夫婦|喧嘩の仲裁はごめんだな。 進ちゃんけさの都新聞読んだ。 いいえ。 一大事よ。 ごらん。 どうぞよろしく。 いよいよ。 本格的になって来たね。 お祝いの意味でこれから支那料理でも食べに行こう。 だけどこんなに大袈裟になって来ると心配ね。 お母さんにはまだ知らせないほうがいいんじゃない。 もちろんさ。 いずれわかる事だろうけどでももう少しお母さんが達者になってから全部を申し上げる事にしているんだ。 とにかくこれは僕の責任なんだから。 責任だなんてそんな固苦しい事は考えなくてもいいさ。 役者でもなんでもまじめにやって行けたら立派なもんだ。 十七で五十円の月給を取るなんてちょっと出来ない事だぜ。 三十円ですよ。 いや三十円の月給なら手当やなんかで六十円にはなるものなんだ。 どうぞよろしく。 すぐわかりました。 進さんだという事がすぐにわかりました。 どんな扮装をしていてもやっぱりわかるものですね。 僕が一ばんさきに見つけたのです。 すぐわかりました。 僕の掛声は聞えましたか。 楽屋にすしか何かとどけさせようか。 いいんだよ。 春秋座ではそんな事はしないんだ。 そうか。 坊ちゃん。 やおめでとう。 勧進帳。 歌行燈。 紅葉狩。 弥生。 わかい時から名誉を守れ。 あたしゃ孤独だ。 かれは人を喜ばせるのが何よりも好きであった。 小僧の神様。 いいお天気ですね。 いいお天気です。 江戸へおいでになりますか。 はい江戸へ帰ります。 江戸のおかたですね。 どちらからのお帰りですか。 さうですか。 菊がお好きとはたのもしい事です。 菊に就いては私にもいささか心得があります。 菊は苗の良し悪しよりも手当の仕方ですよ。 さうですかね。 私はやつぱり苗が良くなくちやいけないと思つてゐるんですが。 たとへばですね――。 もう私は何も言ひません。 理論なんてばからしいですよ。 実際私の作つた菊の花をお見せするより他はありません。 それはさうです。 それぢやどうです。 これからまつすぐに江戸の私の家まで一緒にいらして下さいませんか。 ひとめでいいから私の菊を見てもらひたいものです。 ぜひさうしていただきたい。 私たちはそんなのんきな身分ではありません。 これから江戸へ出てつとめ口を捜さなければいけません。 そんな事はなんでもない。 まづ私の家へいらしてゆつくり休んでそれからお捜しになつたつておそくは無い。 とにかく私の家の菊をいちど御覧にならなくちやいけません。 これはたいへんな事になりました。 実は私たち沼津の者で私の名前は陶本三郎と申しますが早くから父母を失ひ姉と二人きりで暮してゐました。 このごろになつて急に姉が沼津をいやがりましてどうしても江戸へ出たいと言ひますので私たちは身のまはりのものを一さい整理してただいま江戸へ上る途中なのです。 江戸へ出たところで何の目当もございませんし思へば心細い旅なのです。 のんきに菊の花など議論してみる場合ぢや無かつたのでした。 私も菊の花はいやでないものですからつい余計のおしやべりをしてしまひました。 もうよしませう。 どうかあなたも忘れて下さい。 これでおわかれ致します。 考へてみるといまの私たちは菊の花どころでは無かつたのです。 待ち給へ。 そんな事ならなほさら私の家へ来てもらはなくちやいかん。 くよくよし給ふな。 私だつてひどく貧乏だが君たちを世話する事ぐらゐは出来るつもりです。 まあいいから私に任せて下さい。 姉さんも一緒だとおつしやつたがどこにゐるんです。 姉さんこれあいけない。 とんだ人のところに世話になつちやつたね。 ええ。 でものんきでかへつていいわ。 庭も広いやうだしこれからお前がせいぜい佳い菊を植ゑてあげて御恩報じをしたらいいのよ。 おやおや姉さんはこんなところにずつと永く居るつもりなのですか。 さうよ。 私はここが気に入つたわ。 どうなさいました。 何か御用ですか。 見て下さい。 あなたたちの痩馬が私の畑を滅茶滅茶にしてしまひました。 私は死にたいくらゐです。 なるほど。 それで。 馬はどうしました。 馬なんかどうだつていい。 逃げちやつたんでせう。 それは惜しい。 何をおつしやる。 あんな痩馬。 痩馬とはひどい。 あれは利巧な馬です。 すぐ様さがしに行つて来ませう。 こんな菊畑なんかどうでもいい。 なんですつて。 君は私の菊畑を侮蔑するのですか。 三郎やあやまりなさい。 あんな痩馬は惜しくありません。 私が逃がしてやつたのです。 それよりもこの荒された菊畑をすぐに手入れしておあげなさいよ。 御恩報じのいい機会ぢやないの。 なあんだ。 そんなつもりだつたのかい。 まあいいやうにして置いて下さい。 どうもけさほどは失礼いたしました。 ところでどうです。 いまも姉と話合つた事でしたがお見受けしたところ失礼ながらあまり楽なお暮しでもないやうですし私に半分でも畑をお貸し下さればいい菊を作つて差し上げませうからそれを浅草あたりへ持ち出してお売りになつたらよろしいではありませんか。 ひとつ大いに佳い菊を作つて差し上げたいと思ひます。 お断り申す。 君も卑劣な男だねえ。 私は君を風流な高士だとばかり思つてゐたがいやこれは案外だ。 おのれの愛する花を売つて米塩の資にする等とはもつての他です。 菊を凌辱するとはこの事です。 おのれの高い趣味を金銭に換へるなぞとはああけがらはしいお断り申す。 天から貰つた自分の実力で米塩の資を得る事は必ずしも富をむさぼる悪業では無いと思ひます。 俗といつて軽蔑するのは間違ひです。 お坊ちやんの言ふ事です。 いい気なものです。 人はむやみに金を欲しがつてもいけないがけれどもやたらに貧乏を誇るのもいやみな事です。 私はいつ貧乏を誇りました。 私には祖先からの多少の遺産もあるのです。 自分ひとりの生活にはそれで充分なのです。 これ以上の富は望みません。 よけいなおせつかいはやめて下さい。 それは狷介といふものです。 狷介結構です。 お坊ちやんでもかまひません。 私は私の菊と喜怒哀楽を共にして生きて行くだけです。 それはわかりました。 ところでどうでせう。 あの納屋の裏のはうに十坪ばかりの空地がありますがあれだけでも私たちにしばらく拝借ねがへないでせうか。 私は物惜しみをする男ではありません。 納屋の裏の空地だけでは不足でせう。 私の菊畑の半分はまだ何も植ゑてゐませんからその半分もお貸し致しませう。 ご自由にお使ひ下さいなほ断つて置きますが私は菊を作つて売らう等といふ下心のある人たちとはおつき合ひ致しかねますからけふからは他人と思つていただきます。 承知いたしました。 お言葉に甘えてそれでは畑も半分だけお借りしませう。 なほあの納屋の裏に菊の屑の苗がたくさん捨てられて在りますけれどあれも頂戴いたします。 そんなつまらぬ事をいちいちおつしやらなくてもよろしい。 ううむ。 いらつしやい。 お待ちしてゐました。 負けました。 私は潔よい男ですからね負けた時にははつきり負けたと申し上げます。 どうか君の弟子にして下さい。 これまでの行きがかりはさらりと。 さらりと水に流す事に致しませう。 けれども――。 いやそのさきはおつしやらないで下さい。 私はあなたのやうな潔癖の精神は持つてゐませんので御推察のとほり菊を少しづつ売つて居ります。 けれどもどうか軽蔑なさらないで下さい。 姉もいつもその事を気にかけて居ります。 私たちだつて精一ぱいなのです。 私たちにはあなたのやうに父祖の遺産といふものもございませんしほんたうに菊でも売らなければのたれ死にするばかりなのです。 どうかお見逃し下さつてこれを機会にまたおつき合ひ願ひます。 いやいやさう言はれると痛み入ります。 私だつて何も君たち姉弟を嫌つてゐるわけではないのです。 殊にこれからは君を菊の先生としていろいろ教へてもらはうと思つてゐるのですからどうか私こそよろしくお願ひ致します。 君の菊の花の作り方にはなんだか秘密があるやうだ。 そんな事はありません。 私はこれまで全部あなたにお伝へした筈です。 あとは指先の神秘です。 それは私にとつても無意識なものでなんと言つてお伝へしたらいいのか私にもわかりません。 つまり才能といふものなのかも知れません。 それぢや君は天才で私は鈍才だといふわけだね。 いくら教へてもだめだといふわけだね。 そんな事をおつしやつては困ります。 或いは私の菊作りはいのちがけで之を美事に作つて売らなければごはんをいただく事が出来ないのだといふそんなせつぱつまつた気持で作るから花も大きくなるのではないかとも思はれます。 あなたのやうに趣味でお作りになる方はやはり好奇心や自負心の満足だけなのですから。 さうですか。 私にも菊を売れと言ふのですね。 君は私にそんな卑しい事をすすめて恥づかしくないかね。 いいえそんな事を言つてゐるのではありません。 あなたはどうしてさうなんでせう。 姉さんと結婚して下さい。 私には結納のお金も無いし妻を迎へる資格がありません。 君たちはこのごろお金持ちになつたやうだからねえ。 いいえみんなあなたのものです。 姉ははじめからそのつもりでゐたのです。 結納なんてものも要りません。 あなたがこのまま私の家へおいで下されたらそれでいいのです。 姉はあなたをお慕ひ申して居ります。 いやそんな事はどうでもいい。 私には私の家があります。 入り婿はまつぴらです。 私も正直に言ひますが君の姉さんを嫌ひではありません。 はははは。 けれども入り婿は男子として最も恥づべき事です。 お断り致します。 帰つて姉さんにさう言ひなさい。 清貧がいやでなかつたらいらつしやいと。 清貧はいやぢやないわ。 困るね。 この火鉢だつてこの花瓶だつてみんなお前の家のものぢやないか。 女房の持ち物を亭主が使ふのは実に面目ない事なのだ。 こんなものは持つて来ないやうにしてくれ。 お前のおかげで私もたうとう髪結ひの亭主みたいになつてしまつた。 女房のおかげで家が豊かになるといふ事は男子として最大の不名誉なのだ。 私の三十年の清貧もお前たちの為に滅茶滅茶にされてしまつた。 私が悪かつたのかも知れません。 私はただあなたの御情にお報いしたくていろいろ心をくだいて今まで取計つて来たのですがあなたがそれほど深く清貧に志して居られるとは存じ寄りませんでした。 ではこの家の道具も私の新築の家もみんなすぐ売り払ふやうにしませう。 そのお金をあなたがお好きなやうに使つてしまつて下さい。 ばかな事を言つてはいけない。 私ともあらうものがそんな不浄なお金を受け取ると思ふか。 ではどうしたらいいのでせう。 三郎だつてあなたに御恩報じをしようと思つて毎日菊作りに精出してはうばうのお屋敷にせつせと苗をおとどけしてはお金をまうけてゐるのです。 どうしたらいいのでせう。 あなたと私たちとはまるで考へかたがあべこべなんですもの。 わかれるより他は無い。 清い者は清く濁れる者は濁つたままで暮して行くより他は無い。 私には人にかれこれ命令する権利は無い。 私がこの家を出て行きませう。 あしたから私はあの庭の隅に小屋を作つてそこで清貧を楽しみながら寝起きする事に致します。 あなたの潔癖もあてになりませんわね。 姉さんもう私は酒を飲んでもいいのだよ。 家にお金もたくさんたまつたし私がゐなくなつてももう姉さんたちは一生あそんで暮せるでせう。 菊を作るのにも厭きちやつた。 亦他異無し。 何か最近の御感想を聞かせて下さい。 困りました。 困りましたでは私のほうで困ります。 何か聞かせて下さい。 人間は正直でなければならないと最近つくづく感じます。 おろかな感想ですがきのうも道を歩きながらつくづくそれを感じました。 ごまかそうとするから生活がむずかしくややこしくなるのです。 正直に言い正直に進んで行くと生活は実に簡単になります。 失敗という事が無いのです。 失敗というのはごまかそうとしてごまかし切れなかった場合の事を言うのです。 それから無慾ということも大事ですね。 慾張るとどうしてもちょっとごまかしてみたくなりますしごまかそうとするといろいろややこしくなって遂に馬脚をあらわしてつまらない思いをするようになります。 わかり切った感想ですがでもこれだけの事を体得するのに三十四年かかりました。 お若い頃の作品をいま読みかえしてどんな気がしますか。 むかしのアルバムを繰りひろげて見ているような気がします。 人間は変っていませんが服装は変っていますね。 その服装を微笑ましい気で見ている事もあります。 何か主義とでもいったようなものを持っていますか。 生活に於いてはいつも愛という事を考えていますがこれは私に限らず誰でも考えている事でしょう。 ところがこれはむずかしいものです。 愛などと言うと甘ったるいもののようにお考えかも知れませんがむずかしいものですよ。 愛するという事はどんな事だか私にはまだわからない。 めったに使えない言葉のような気がする。 自分ではたいへん愛情の深い人のような気がしていてもまるでその逆だったという場合もあるのですからね。 とにかくむずかしい。 さっきの正直という事と少しつながりがあるような気もする。 愛と正直。 わかったようなわからないようなとにかく私にはまだわからないところがある。 正直は現実の問題愛は理想まあそんなところに私の主義とでもいったようなものがひそんでいるのかも知れませんが私にはまだはっきりわからないのです。 あなたはクリスチャンですか。 教会には行きませんが聖書は読みます。 世界中で日本人ほどキリスト教を正しく理解できる人種は少いのではないかと思っています。 キリスト教に於いても日本はこれから世界の中心になるのではないかと思っています。 最近の欧米人のキリスト教は実にいい加減のものです。 そろそろ展覧会の季節になりましたが何かごらんになりましたか。 まだどこの展覧会も見ていませんがこのごろ画をたのしんでかいている人が実に少い。 すこしもよろこびが無い。 生命力が貧弱です。 ばかに威張ったような事ばかり言ってすみませんでした。 なんだ。 おまえは大臣の前にでも坐っているつもりなのか。 提燈行列です。 街へ出て見よう。 はあ。 よかった。 おれは泣かなかった。 そうでしょうか。 そうかなあ。 泣きませんでした。 よかった。 日本はもうこれでいいのだよ。 よかった。 よかった。 これでもういいのだ。 やあ諸君おめでとう。 お礼まわりはへんですね。 皇室典範に拠れば――。 皇室典範とはまた大きく出たじゃないか。 山椒魚。 山椒魚。 人格者。 十字街。 これからはこのような作品を理解できないと文学を語る資格が無いのだ。 こんなのがいいんです。 山椒魚。 夜ふけと梅の花。 大丈夫だ。 夜ふけと梅の花。 谷間。 谷間。 夜ふけと梅の花。 俺にも相当な考えがあるんだ。 井伏鱒二選集。 青ヶ島大概記。 青ヶ島大概記。 青ヶ島大概記。 井伏の小説は井伏の将棋と同じだ。 槍を歩のように一つずつ進める。 井伏の小説は決して攻めない。 巻き込む。 吸い込む。 遠心力よりも求心力が強い。 井伏の小説は泣かせない。 読者が泣こうとするとふっと切る。 井伏の小説は実に逃げ足が早い。 古人の吝嗇に就いて。 アフリカに於ける羅馬軍の大将アッチリウス・レグルスはカルタゴ人に打ち勝って光栄の真中にあったのに本国に書を送って全体で僅か七アルペントばかりにしかならぬ自分の地処の管理を頼んでおいた小作人が農具を奪って遁走したことを訴え且つ妻子が困っているといけないから帰国してその始末を致したいと暇を乞うた。 老いたるカトンはサルジニア総督時代には徒歩で巡視をした。 お供と云えば唯国の役人を一人つれたきりでいや最も屡々自分で行李を持って歩いた。 彼は一エキュ以上する着物を着たことがない一日に一文以上市場に払ったことがないと自慢した。 また田舎にある自分の家は外側に壁土をつけないものばかりだと自慢した。 また伝うる所によればホメロスは唯一人しか下僕を持ったことがなかった。 プラトンは三人。 ストワ派の頭ゼノンは唯の一人も持たなかった。 チベリウス・グラックスは国のために任に赴いた時羅馬最高位の人であったのに一日に唯の五文半しか支給せられなかった。 青ヶ島大概記。 青ヶ島大概記。 手伝いましょう。 どんどんお書きになってください。 僕がそれを片はしから清書いたしますから。 ここはどう書いたらいいものかな。 どんなところですか。 うん噴火の所なんだがね。 君は噴火でどんな場合が一ばんこわいかね。 石が降ってくるというじゃありませんか。 石の雨に当ったらかなわねえ。 そうかね。 島山鳴動して猛火は炎々と右の火穴より噴き出だし火石を天空に吹きあげ息をだにつく隙間もなく火石は島中へ降りそそぎ申し候。 大石の雨も降りしきるなり。 大なる石は虚空より唸りの風音をたて隕石のごとく速かに落下し来り直ちに男女を打ちひしぎ候。 小なるものは天空たかく舞いあがり大虚を二三日とびさまよひ候。 おれは勉強しだいでは谷崎潤一郎には成れるけれども井伏鱒二には成れない。 青ヶ島大概記。 あのね。 何ですか。 あのね谷崎潤一郎がね僕の青ヶ島を賞めていたそうだ。 佐藤さんがそう云ってた。 うれしいですか。 うん。 早稲田界隈。 後輩。 後輩。 よかったねえ。 どうなることかと思った。 よかったねえ。 旅。 宿命的。 旅。 ついに。 降りかた。 降りて。 旅行上手。 お部屋は一つしか空いて居りませんがそれはきょう東京から井伏先生という方がおいでになるからよろしく頼むと或る人からお電話でしたからすみませんけど。 はあ。 修行。 人間は一緒に旅行をするとその旅の道連れの本性がよくわかる。 おれは君とちがつてどうやらおめでたいやうである。 おれは處女でない妻をめとつて三年間その事實を知らずにすごした。 こんなことは口に出すべきではないかも知れぬ。 いまは幸福さうに編物へ熱中してゐる妻に對してもむざんである。 また世の中のたくさんの夫婦に對してもいやがらせとなるであらう。 しかしおれは口に出す。 君のとりすました顏をなぐりつけてやりたいからだ。 おれはヴアレリイもプルウストも讀まぬ。 おほかたおれは文學を知らぬのであらう。 知らぬでもよい。 おれは別なもつとほんたうのものを見つめてゐる。 人間を。 人間といふ謂はば市場の蒼蠅を。 それゆゑおれにとつては作家こそすべてである。 作品は無である。 どういふ傑作でも作家以上ではない。 作家を飛躍し超越した作品といふものは讀者の眩惑である。 君はいやな顏をするであらう。 讀者にインスピレエションを信じさせたい君はおれの言葉を卑俗とか生野暮とかといやしめるにちがひない。 そんならおれはもつとはつきり言つてもよい。 おれはおれの作品がおれのためになるときだけ仕事をするのである。 君がまさしく聰明ならばおれのこんな態度をこそ鼻で笑へる筈だ。 笑へないならば今後かしこさうに口まげる癖をよし給へ。 おれはいま君をはづかしめる意圖からこの小説を書かう。 この小説の題材はおれの恥さらしとなるかも知れぬ。 けれども決して君に憐憫の情を求めまい。 君より高い立場に據つて人間のいつはりない苦惱といふものを君の横面にたたきつけてやらうと思ふのである。 おれの妻はおれとおなじくらゐの嘘つきであつた。 ことしの秋のはじめおれは一篇の小説をしあげた。 それはおれの家庭の仕合せを神に誇つた短篇である。 おれは妻にもそれを讀ませた。 妻はそれをひくく音讀してしまつてからいいわと言つた。 さうしておれにだらしない動作をしかけた。 おれはどれほどのろまでもかういふ妻のそぶりの蔭にただならぬ氣がまへを見てとらざるを得なかつたのである。 おれは妻のそんな不安がどこからやつて來たのかそれを考へて三夜をつひやした。 おれの疑惑はひとつのくやしい事實にかたまつて行くのであつた。 おれもやはり十三人目の椅子に坐るべきおせつかいな性格を持つてゐた。 おれは妻をせめたのである。 このことにもまた三夜をつひやした。 妻はかへつておれを笑つてゐた。 ときどきは怒りさへした。 おれは最後の奸策をもちゐた。 その短篇にはおれのやうな男に處女がさづかつた歡喜をさへ書きしるされてゐるのであつたがおれはその箇所をとりあげて妻をいぢめたのである。 おれはいまに大作家になるのであるからこの小説もこののち百年は世の中にのこるのだ。 するとお前はこの小説とともに百年のちまで嘘つきとして世にうたはれるであらうと妻をおどかした。 無學の妻は果しておびえた。 しばらく考へてからたうとうおれに囁いた。 たつたいちどと囁いたのである。 おれは笑つて妻を愛撫した。 わかいころの怪我であるゆゑそれはなんでもないことだと妻に元氣をつけてやつておれはもつとくはしく妻に語らせるのであつた。 ああ妻はしばらくして二度と訂正した。 それから三度と言つた。 おれは尚も笑ひつづけながらどんな男かとやさしく尋ねた。 おれの知らない名前であつた。 妻がその男のことを語つてゐるうちにおれは手段でなく妻を抱擁した。 これはみじめな愛慾である。 同時に眞實の愛情である。 妻はつひに六度ほどと吐きだして聲を立てて泣いた。 その翌る朝妻はほがらかな顏つきをしてゐた。 あさの食卓に向ひ合つて坐つたとき妻はたはむれに兩手あはせておれを拜んだ。 おれも陽氣に下唇を噛んで見せた。 すると妻はいつそうくつろいだ樣子をしてくるしい。 とおれの顏を覗いたでないか。 おれはすこしと答へた。 おれは君に知らせてやりたい。 どんな永遠のすがたでもきつと卑俗で生野暮なものだといふことを。 その日をおれはどうして過したかこれも君に教へて置かう。 こんなときには妻の顏を妻の脱ぎ捨ての足袋を妻にかかはり合ひのある一切を見てはいけない。 妻のそのわるい過去を思ひ出すからといふだけでない。 おれと妻との最近までの安樂だつた日を追想してしまふからである。 その日おれはすぐ外出した。 ひとりの少年の洋畫家を訪れることにきめたのである。 この友人は獨身であつた。 妻帶者の友人はこの場合ふむきであらう。 おれはみちみちおれの頭腦がからつぽにならないやうに警戒した。 昨夜のことが入りこむすきのないほどおれは別な問題について考へふけるのであつた。 人生や藝術の問題はいくぶん危險であつた。 殊に文學はてきめんにあのなまな記憶を呼び返す。 おれは途上の植物について頭をひねつた。 からたちは灌木である。 春のをはりに白色の花をひらく。 何科に屬するかは知らぬ。 秋いますこし經つと黄いろい小粒の實がなるのだ。 それ以上を考へつめると危い。 おれはいそいで別な植物に眼を轉ずる。 すすき。 これは禾本科に屬する。 たしか禾本科と教はつた。 この白い穗はをばなといふのだ。 秋の七草のひとつである。 秋の七草とははぎききやうかるかやなでしこそれからをばな。 もう二つ足りないけれどなんであらう。 六度ほど。 だしぬけに耳へささやかれたのである。 おれはほとんど走るやうにして足を早めた。 いくたびとなく躓いた。 この落葉は。 いや植物はよさう。 もつと冷いものを。 もつと冷いものを。 よろめきながらもおれは陣容をたて直したのである。 おれはAプラスBの二乘の公式を心のなかで誦した。 そのつぎにはAプラスBプラスCの二乘の公式について研究した。 君は不思議なおももちを裝うておれの話を聞いてゐる。 けれどもおれは知つてゐる。 おそらくは君もおれのやうな災難を受けたときにはいやもつと手ぬるい問題にあつてさへ君の日ごろの高雅な文學論を持てあまして數學はおろかかぶと蟲いつぴきにさへとりすがらうとするであらう。 おれは人體の内臟器官の名稱をいちいち數へあげながら友人の居るアパアトに足を踏みいれた。 友人の部屋の扉をノツクしてから廊下の東南の隅につるされてある丸い金魚鉢を見あげ泳いでゐる四つの金魚についてその鰭の數をしらべた。 友人はまだ寢てゐたのであつた。 片眼だけをしぶくあけて出て來た。 友人の部屋へはひつておれはやうやくほつとした。 いちばん恐ろしいのは孤獨である。 なにかおしやべりをしてゐると助かる。 相手が女だと不安だ。 男がよい。 とりわけ好人物の男がよい。 この友人はかういふ條件にかなつてゐる。 おれは友人の近作について饒舌をふるつた。 それは二十號の風景畫であつた。 彼にしては大作の部類である。 水の澄んだ沼のほとりに赤い屋根の洋館が建つてゐる畫であつた。 友人はそれを内氣らしくカンヴアスを裏がへしにして部屋の壁へ寄せかけて置いたのにおれは躊躇せずそれをまたひつくりかへして眺めたのである。 おれはそのときどんな批評をしたのであらうか。 もし君の藝術批評が立派なものであるとしたならおれはそのときの批評もまんざらではなかつたやうである。 なぜと言つておれもまた君のやうに一言なかるべからず式の批評をしたからである。 モチイフについて色彩について構圖についておれはひとわたり難癖をつけることができた。 能ふかぎりの概念的な言葉でもつて。 友人はいちいちおれの言ふことを承認した。 いやいやおれは始めから友人に言葉をさしはさむ餘裕をさへ與へなかつたほどおしやべりをつづけたのである。 しかしかういふ饒舌もしんから安全ではない。 おれはほどよいところで打ち切つてこの年少の友に將棋をいどんだ。 ふたりは寢床のうへに坐つてくねくねと曲つた線のひかれてあるボオル紙へ駒をならべ早い將棋をなんばんとなくさした。 友人はときどき永いふんべつをしておれに怒られへどもどとまごつくのであつた。 たとへ一瞬時でもおれは手持ちぶさたな思ひをしたくなかつたのである。 こんなせつぱつまつた心がまへは所詮ながくつづかぬものである。 おれは將棋にさへ危機を感じはじめた。 やうやく疲勞を覺へたのだ。 よさうと言つておれは將棋の道具をとりのけその寢床のなかへもぐり込んだ。 友人もおれとならんで仰向けにころがり煙草をふかした。 おれはうつかり者。 休止はおれにとつては大敵なのだつた。 かなしい影がもうはやいくどとなくおれの胸をかすめる。 おれはさてさてと意味もなく呟いてはその大きい影を追ひはらつてゐた。 とてもこのままではならぬ。 おれは動いてゐなければいけないのだ。 君はこれを笑ふであらうか。 おれは寢床へ腹這ひになつて枕元に散らばつてあつた鼻紙をいちまい拾ひ折紙細工をはじめたのである。 まづこの紙を對角線に沿うて二つに折つてそれをまた二つに疊んでかうやつて袋を作つてそれからこちらの端を折つてこれは翼こちらの端を折つてこれはくちばしかういふ工合ひにひつぱつてここのちひさい孔からぷつと息を吹きこむのである。 これは鶴。 よく似てゐるがあなたは妹ぢやないのですね。 あなたは誰ですか。 私はうちを間違へたやうです。 仕方がありません。 同じやうなものですものね。 あなたの手はどうしてそんなに汚いのです。 かうして寢ながら見てゐるとあなたの喉や何かはひどくきれいなのに。 汚いことをしたからです。 私だつて知つてゐます。 だからかうして珠數やお經の本で隱さうとしてゐるのです。 私は色の配合のために珠數とお經の本とを持つて歩いてゐるのです。 黒いころもには青と朱の二色がよくうつつて私のすがたもまさつて見えます。 讀みませうか。 ええ。 おふみさまです。 夫人間ノ浮生ナル相ヲツラツラ觀ズルニオホヨソハカナキモノハコノ世ノ始中終マボロシノゴトクナル一期ナリ――てれくさくて讀まれるものか。 べつなのを讀みませう。 夫女人ノ身ハ五障三從トテオトコニマサリテカカルフカキツミノアルナリコノユヘニ一切ノ女人ヲバ――馬鹿らしい。 いい聲だ。 もつとつづけなさいよ。 僕は一日一日退屈でたまらないのです。 誰ともわからぬひとの訪問を驚きもしなければ好奇心も起さずなんにも聞かないでかうして眼をつぶつてらくらくと話し合へるといふことが僕もそんな男になれたといふことがうれしいのです。 あなたはどうですか。 いいえ。 だつて仕方がありませんもの。 お伽噺がおすきですか。 すきです。 蟹の話をいたしませう月夜の蟹の痩せてゐるのは砂濱にうつるおのが醜い月影におびえ終夜ねむらずよろばひ歩くからであります。 月の光のとどかない深い海のゆらゆら動く昆布の森のなかにおとなしく眠り龍宮の夢でも見てゐる態度こそゆかしいのでせうけれども蟹は月にうかされただ濱邊へとあせるのです。 砂濱へ出るやたちまちおのが醜い影を見つけおどろきかつはおそれるのです。 ここに男ありここに男あり蟹は泡をふきつつさう呟き呟きよろばひ歩くのです。 蟹の甲羅はつぶれ易い。 いいえ形からしてつぶされるやうにできてゐます。 蟹の甲羅のつぶれるときはくらつしゆといふ音が聞えるさうです。 むかしいぎりすの或る大きい蟹は生まれながらに甲羅が赤くて美しかつた。 この蟹の甲羅はいたましくもつぶされかけました。 それは民衆の罪なのでせうか。 またはかの大蟹のみづから招いたむくいなのでせうか。 大蟹はひと日その白い肉のはみ出た甲羅をせつなげにゆさぶりゆさぶりとあるカフヱへはひつたのでした。 カフヱにはたくさんの小蟹がむれつどひ煙草をくゆらしながら女の話をしてゐました。 そのなかの一匹ふらんす生れの小蟹は澄んだ眼をしてかの大蟹のすがたをみつめました。 その小蟹の甲羅には東洋的な灰色のくすんだ縞がいつぱいに交錯してゐました。 大蟹は小蟹の視線をまぶしさうにさけつつこつそり囁いたといふのです。 『おまへくらつしゆされた蟹をいぢめるものぢやないよ。 』ああその大蟹に比較すれば小さくて小さくて見るかげもないまづしい蟹がいま北方の海原から恥を忘れてうかれ出た。 月の光にみせられたのです。 砂濱へ出てみて彼もまたおどろいたのでした。 この影はこのひらべつたい醜い影はほんたうにおれの影であらうか。 おれは新しい男である。 しかしおれの影を見給へ。 もうはやおしつぶされかけてゐる。 おれの甲羅はこんなに不格好なのだらうか。 こんなに弱弱しかつたのだらうか。 小さい小さい蟹はさう呟きつつよろばひ歩くのでした。 おれには才能があつたのであらうか。 いやいやあつたとしてもそれはをかしい才能だ。 世わたりの才能といふものだ。 お前は原稿を賣り込むのに編輯者へどんな色目をつかつたか。 あの手。 この手。 泣き落しならば目ぐすりを。 おどかしの手か。 よい着物を着やうよ。 作品に一言も注釋を加へるな。 退屈さうにかう言ひ給へ。 『もしよかつたら。 』甲羅がうづく。 からだの水氣が乾いたやうだ。 この海水のにほひだけがおれのたつたひとつのとりえだつたのに。 潮の香がうせたならああおれは消えもいりたい。 もいちど海へはひらうか。 海の底の底の底へもぐらうか。 なつかしきは昆布の森。 遊牧の魚の群。 小蟹はあへぎあへぎ砂濱をよろばひ歩いたのでした。 浦の苫屋のかげでひとやすみ。 腐りかけたいさり舟のかげでひとやすみ。 この蟹や。 何處の蟹。 百傳ふ。 角鹿の蟹。 横去ふ。 何處に到る。 どうしたのです。 いいえ。 もつたいないのです。 これは古事記の。 罰があたりますよ。 はばかりはどこでせうかしら。 部屋を出て廊下を右手へまつすぐに行きますと杉の戸板につきあたります。 それが扉です。 秋にもなりますと女人は冷えますので。 私は寢なければなりません。 もう十二時なのです。 かまひませんでせうか。 かまひません。 この蒲團は不思議な模樣ですね。 ガラス繪みたいだわ。 いいえ。 掛蒲團は要らないのです。 私はこのままで寢るのです。 さうですか。 私の顏をよく見てゐて下さい。 みるみる眠つてしまひます。 それからすぐきりきりと齒ぎしりをします。 すると如來樣がおいでになりますの。 如來樣ですか。 ええ。 佛樣が夜遊びにおいでになります。 毎晩ですの。 あなたは退屈をしていらつしやるのださうですからよくごらんになればいいわ。 なにをお斷りしたのもそのためなのです。 如來樣ですか。 さうです。 のつぴきならなくなつて出て來ました。 なんだか臭いな。 やはりさうですか。 この象が死んでゐるのです。 樟腦をいれてしまつてゐたのですがやはり匂ふやうですね。 いま生きた白象はなかなか手にはひりませんのでしてね。 ふつうの象でもかまはないのに。 いや如來のていさいから言つてもさうはいかないのです。 ほんたうに私はこんな姿をしてまで出しやばりたくはないのです。 いやな奴等がひつぱり出すのです。 佛教がさかんになつたさうですね。 ああ如來樣。 早くどうにかして下さい。 僕はさつきから臭くて息がつまりさうで死ぬ思ひでゐたのです。 お氣の毒でした。 あなた。 私がここへ現はれたとき滑稽ではなかつたかしら。 如來の現はれかたにしては少しぶざまだと思はなかつたでせうか。 思つたとほりを言つて下さい。 いいえ。 たいへん結構でした。 御立派だと思ひましたよ。 ほほ。 さうですか。 それで安心しました。 私はさつきからそれだけが氣がかりでならなかつたのです。 私は氣取り屋なのかも知れませんね。 これで安心して歸れます。 ひとつあなたにいかにも如來らしい退去のすがたをおめにかけませう。 しまつた。 おかえりなさいまし。 ごはんはおすみですか。 お戸棚におむすびがございますけど。 やありがとう。 坊やはどうです。 熱はまだありますか。 ごめん下さい。 ごめん下さい。 大谷さん。 大谷さん。 いらっしゃるんでしょう。 なんだい。 なんだいではありませんよ。 こんなちゃんとしたお家もあるくせにどろぼうを働くなんてどうした事です。 ひとのわるい冗談はよしてあれを返して下さい。 でなければ私はこれからすぐ警察に訴えます。 何を言うんだ。 失敬な事を言うな。 ここはお前たちの来るところでは無い。 帰れ。 帰らなければ僕のほうからお前たちを訴えてやる。 先生いい度胸だね。 お前たちの来るところではないとは出かした。 呆れてものが言えねえや。 他の事とは違う。 よその家の金をあんた冗談にも程度がありますよ。 いままでだって私たち夫婦はあんたのためにどれだけ苦労をさせられて来たかわからねえのだ。 それなのにこんな今夜のような情ねえ事をし出かしてくれる。 先生私は見そこないましたよ。 ゆすりだ。 恐喝だ。 帰れ。 文句があるならあした聞く。 たいへんな事を言いやがるなあ先生すっかりもう一人前の悪党だ。 それではもう警察へお願いするより手がねえぜ。 勝手にしろ。 いらっしゃいまし。 やこれは奥さんですか。 こんな夜中にあがりまして。 おっとそいつあいけない。 放せ。 刺すぞ。 どろぼう。 およしなさいまし。 どちらにもお怪我があってはなりませぬ。 あとの始末は私がいたします。 そうですねとうさん。 気ちがいに刃物です。 何をするかわかりません。 ちきしょう。 警察だ。 もう承知できねえ。 すみません。 どうぞおあがりになってお話を聞かして下さいまし。 私でもあとの始末は出来るかも知れませんから。 どうぞおあがりになってどうぞ。 きたないところですけど。 何とおっしゃっても私どもの気持はもうきまっています。 しかしこれまでの経緯は一応奥さんに申し上げて置きます。 はあどうぞ。 おあがりになって。 そうしてゆっくり。 いやそんなゆっくりもしておられませんが。 そのままでどうぞ。 お寒いんですから本当にそのままでお願いします。 家の中には火の気が一つも無いのでございますから。 ではこのままで失礼します。 どうぞ。 そちらのお方もどうぞそのままで。 畳が汚うございますからどうぞこんなものでもおあてになって。 はじめてお目にかかります。 主人がこれまでたいへんなご迷惑ばかりおかけしてまいりましたようでまた今夜は何をどう致しました事やらあのようなおそろしい真似などしておわびの申し上げ様もございませぬ。 何せあのような変った気象の人なので。 奥さん。 まことに失礼ですがいくつにおなりで。 あの私でございますか。 ええ。 たしか旦那は三十でしたね。 はあ私はあの四つ下です。 すると二十六いやこれはひどい。 まだそんなですか。 いやその筈だ。 旦那が三十ならばそりゃその筈だけどおどろいたな。 私もさきほどから。 感心しておりました。 こんな立派な奥さんがあるのにどうして大谷さんはあんなにねえ。 病気だ。 病気なんだよ。 以前はあれほどでもなかったんだがだんだん悪くなりやがった。 実は奥さん。 私ども夫婦は中野駅の近くに小さい料理屋を経営していまして私もこれも上州の生れで私はこれでも堅気のあきんどだったのでございますが道楽気が強いというのでございましょうか田舎のお百姓を相手のケチな商売にもいや気がさしてかれこれ二十年前この女房を連れて東京へ出て来まして浅草の或る料理屋に夫婦ともに住込みの奉公をはじめましてまあ人並に浮き沈みの苦労をしてすこし蓄えも出来ましたのでいまのあの中野の駅ちかくに昭和十一年でしたか六畳一間に狭い土間附きのまことにむさくるしい小さい家を借りまして一度の遊興費がせいぜい一円か二円の客を相手の心細い飲食店を開業いたしましてそれでもまあ夫婦がぜいたくもせず地道に働いて来たつもりでそのおかげか焼酎やらジンやらを割にどっさり仕入れて置く事が出来ましてその後の酒不足の時代になりましてからもよその飲食店のように転業などせずにどうやら頑張って商売をつづけてまいりましてまたそうなるとひいきのお客もむきになって応援をして下さって所謂あの軍官の酒さかながこちらへも少しずつ流れて来るような道をひらいて下さるお方もあり対米英戦がはじまってだんだん空襲がはげしくなって来てからも私どもには足手まといの子供は無し故郷へ疎開などする気も起らずまあこの家が焼ける迄はと思ってこの商売一つにかじりついて来てどうやら罹災もせず終戦になりましたのでほっとしてこんどは大ぴらに闇酒を仕入れて売っているという手短かに語るとそんな身の上の人間なのでございます。 けれどもこうして手短かに語るとさして大きな難儀も無く割に運がよく暮して来た人間のようにお思いになるかも知れませんが人間の一生は地獄でございまして寸善尺魔とはまったく本当の事でございますね。 一寸の仕合せには一尺の魔物が必ずくっついてまいります。 人間三百六十五日何の心配も無い日が一日いや半日あったらそれは仕合せな人間です。 あなたの旦那の大谷さんがはじめて私どもの店に来ましたのは昭和十九年の春でしたかとにかくその頃はまだ対米英戦もそんなに負けいくさでは無くいやそろそろもう負けいくさになっていたのでしょうが私たちにはそんな実体ですか真相ですかそんなものはわからずここ二三年頑張ればどうにかこうにか対等の資格で和睦が出来るくらいに考えていまして大谷さんがはじめて私どもの店にあらわれた時にもたしか久留米絣の着流しに二重廻しを引っかけていた筈でけれどもそれは大谷さんだけでなくまだその頃は東京でも防空服装で身をかためて歩いている人は少くたいてい普通の服装でのんきに外出できた頃でしたので私どももその時の大谷さんの身なりを別段だらし無いとも何とも感じませんでした。 大谷さんはその時おひとりではございませんでした。 奥さんの前ですけれどもいやもう何も包みかくし無く洗いざらい申し上げましょう旦那は或る年増女に連れられて店の勝手口からこっそりはいってまいりましたのです。 もっとももうその頃は私どもの店も毎日おもての戸は閉めっきりでその頃のはやり言葉で言うと閉店開業というやつでほんの少数の馴染客だけ勝手口からこっそりはいりそうしてお店の土間の椅子席でお酒を飲むという事は無く奥の六畳間で電気を暗くして大きい声を立てずにこっそり酔っぱらうという仕組になっていましてまたその年増女というのはそのすこし前まで新宿のバアで女給さんをしていたひとでその女給時代に筋のいいお客を私の店に連れて来て飲ませて私の家の馴染にしてくれるというまあ蛇の道はへびという工合いの附合いをしておりましてそのひとのアパートはすぐ近くでしたので新宿のバアが閉鎖になって女給をよしましてからもちょいちょい知合いの男のひとを連れてまいりまして私どもの店にもだんだん酒が少くなりどんなに筋のいいお客でも飲み手がふえるというのは以前ほど有難くないばかりか迷惑にさえ思われたのですがしかしその前の四五年間ずいぶん派手な金遣いをするお客ばかりたくさん連れて来てくれたのでございますからその義理もあってその年増のひとから紹介された客には私どももいやな顔をせずお酒を差し上げる事にしていたのでした。 だから旦那がその時その年増のひと秋ちゃんといいますがそのひとに連れられて裏の勝手口からこっそりはいって来ても別に私どもも怪しむ事なくれいのとおり奥の六畳間に上げて焼酎を出しました。 大谷さんはその晩はおとなしく飲んでお勘定は秋ちゃんに払わせてまた裏口からふたり一緒に帰って行きましたが私には奇妙にあの晩の大谷さんのへんに静かで上品な素振りが忘れられません。 魔物がひとの家にはじめて現われる時にはあんなひっそりしたういういしいみたいな姿をしているものなのでしょうか。 その夜から私どもの店は大谷さんに見込まれてしまったのでした。 それから十日ほど経ってこんどは大谷さんがひとりで裏口からまいりましていきなり百円紙幣を一枚出していやその頃はまだ百円と言えば大金でしたいまの二三千円にもそれ以上にも当る大金でしたそれを無理矢理私の手に握らせてたのむと言って気弱そうに笑うのです。 もう既にだいぶ召上っている様子でしたがとにかく奥さんもご存じでしょうあんな酒の強いひとはありません。 酔ったのかと思うと急にまじめなちゃんと筋のとおった話をするしいくら飲んでも足もとがふらつくなんて事はついぞ一度も私どもに見せた事は無いのですからね。 人間三十前後は謂わば血気のさかりで酒にも強い年頃ですがしかしあんなのは珍らしい。 その晩もどこかよそでかなりやって来た様子なのにそれから私の家で焼酎を立てつづけに十杯も飲みまるでほとんど無口で私ども夫婦が何かと話しかけてもただはにかむように笑ってうんうんとあいまいに首肯き突然何時ですかと時間をたずねて立ち上りお釣をと私が言いますといやいいと言いそれは困りますと私が強く言いましたらにやっと笑ってそれではこの次まであずかって置いて下さいまた来ますと言って帰りましたが奥さん私どもがあのひとからお金をいただいたのはあとにもさきにもただこの時いちど切りそれからはもうなんだかんだとごまかして三年間一銭のお金も払わずに私どものお酒をほとんどひとりで飲みほしてしまったのだから呆れるじゃありませんか。 いやまったく笑い事では無いんだがあまり呆れて笑いたくもなります。 じっさいあれほどの腕前を他のまともな方面に用いたら大臣にでも博士にでもなんにでもなれますよ。 私ども夫婦ばかりでなくあの人に見込まれてすってんてんになってこの寒空に泣いている人間が他にもまだまだある様子だ。 げんにあの秋ちゃんなど大谷さんと知合ったばかりにいいパトロンには逃げられるしお金も着物も無くしてしまうしいまはもう長屋の汚い一部屋で乞食みたいな暮しをしているそうだがじっさいあの秋ちゃんは大谷さんと知合った頃にはあさましいくらいのぼせて私たちにも何かと吹聴していたものです。 だいいちご身分が凄い。 四国の或る殿様の別家の大谷男爵の次男でいまは不身持のため勘当せられているがいまに父の男爵が死ねば長男と二人で財産をわける事になっている。 頭がよくて天才というものだ。 二十一で本を書いてそれが石川|啄木という大天才の書いた本よりももっと上手でそれからまた十何冊だかの本を書いてとしは若いけれども日本一の詩人という事になっている。 おまけに大学者で学習院から一高帝大とすすんでドイツ語フランス語いやもうおっそろしい何が何だか秋ちゃんに言わせるとまるで神様みたいな人でしかしそれもまたまんざら皆うそではないらしく他のひとから聞いても大谷男爵の次男で有名な詩人だという事に変りはないのでこんなうちの婆までいいとしをして秋ちゃんと競争してのぼせ上ってさすがに育ちのいいお方はどこか違っていらっしゃるなんて言って大谷さんのおいでを心待ちにしているていたらくなんですからたまりません。 いまはもう華族もへったくれも無くなったようですが終戦前までは女を口説くにはとにかくこの華族の勘当息子という手に限るようでした。 へんに女がくわっとなるらしいんです。 やっぱりこれはそのいまはやりの言葉で言えば奴隷根性というものなんでしょうね。 私なんぞは男のそれもすれっからしと来ているのでございますからたかが華族のいや奥さんの前ですけれども四国の殿様のそのまた分家のおまけに次男なんてそんなのは何も私たちと身分のちがいがあろう筈が無いと思っていますしまさかそんなあさましくくわっとなったりなどはしやしません。 ですけれどもやはり何だかどうもあの先生は私にとっても苦手でしてもうこんどこそどんなにたのまれてもお酒は飲ませまいと固く決心していても追われて来た人のように意外の時刻にひょいとあらわれ私どもの家へ来てやっとほっとしたような様子をするのを見るとつい決心もにぶってお酒を出してしまうのです。 酔っても別に馬鹿騒ぎをするわけじゃないしあれでお勘定さえきちんとしてくれたらいいお客なんですがねえ。 自分で自分の身分を吹聴するわけでもないし天才だのなんだのとそんな馬鹿げた自慢をした事もありませんし秋ちゃんなんかがあの先生の傍で私どもにあの人の偉さに就いて広告したりなどすると僕はお金がほしいんだここの勘定を払いたいんだとまるっきり別な事を言って座を白けさせてしまいます。 あの人が私どもに今までお酒の代を払った事はありませんがあのひとのかわりに秋ちゃんが時々支払って行きますしまた秋ちゃんの他にも秋ちゃんに知られては困るらしい内緒の女のひともありましてそのひとはどこかの奥さんのようでそのひとも時たま大谷さんと一緒にやって来ましてこれもまた大谷さんのかわりに過分のお金を置いて行く事もありまして私どもだって商人でございますからそんな事でもなかった日にはいくら大谷先生であろうが宮様であろうがそんなにいつまでもただで飲ませるわけにはまいりませんのです。 けれどもそんな時たまの支払いだけではとても足りるものではなくもう私どもの大損でなんでも小金井に先生の家があってそこにはちゃんとした奥さんもいらっしゃるという事を聞いていましたのでいちどそちらへお勘定の相談にあがろうと思ってそれとなく大谷さんにお宅はどのへんでしょうとたずねる事もありましたがすぐ勘附いて無いものは無いんだよどうしてそんなに気をもむのかね喧嘩わかれは損だぜなどといやな事を言います。 それでも私どもは何とかして先生のお家だけでも突きとめて置きたくて二三度あとをつけてみた事もありましたがそのたんびにうまく巻かれてしまうのです。 そのうちに東京は大空襲の連続という事になりまして何が何やら大谷さんが戦闘帽などかぶって舞い込んで来て勝手に押入れの中からブランデイの瓶なんか持ち出してぐいぐい立ったまま飲んで風のように立ち去ったりなんかしてお勘定も何もあったものでなくやがて終戦になりましたのでこんどは私どもも大っぴらで闇の酒さかなを仕入れて店先には新しいのれんを出しいかに貧乏の店でも張り切ってお客への愛嬌に女の子をひとり雇ったり致しましたがまたもやあの魔物の先生があらわれましてこんどは女連れでなく必ず二三人の新聞記者や雑誌記者と一緒にまいりましてなんでもこれからは軍人が没落して今まで貧乏していた詩人などが世の中からもてはやされるようになったとかいうその記者たちの話でございまして大谷先生はその記者たちを相手に外国人の名前だか英語だか哲学だか何だかわけのわからないようなへんな事を言って聞かせてそうしてひょいと立って外へ出てそれっきり帰りません。 記者たちは興覚め顔にあいつどこへ行きやがったんだろうそろそろおれたちも帰ろうかなど帰り支度をはじめ私はお待ち下さい先生はいつもあの手で逃げるのですお勘定はあなたたちから戴きますと申します。 おとなしく皆で出し合って支払って帰る連中もありますが大谷に払わせろおれたちは五百円生活をしているんだと言って怒る人もあります。 怒られても私はいいえ大谷さんの借金がいままでいくらになっているかご存じですか。 もしあなたたちがその借金をいくらでも大谷さんから取って下さったら私はあなたたちにその半分は差し上げますと言いますと記者たちも呆れた顔を致しましてなんだ大谷がそんなひでえ野郎とは思わなかったこんどからはあいつと飲むのはごめんだおれたちには今夜は金は百円も無いあした持って来るからそれまでこれをあずかって置いてくれと威勢よく外套を脱いだりなんかするのでございます。 記者というものは柄が悪いと世間から言われているようですけれども大谷さんにくらべるとどうしてどうして正直であっさりして大谷さんが男爵の御次男なら記者たちのほうが公爵の御総領くらいの値打があります。 大谷さんは終戦後は一段と酒量もふえて人相がけわしくなりこれまで口にした事の無かったひどく下品な冗談などを口走りまた連れて来た記者を矢庭に殴ってつかみ合いの喧嘩をはじめたりまた私どもの店で使っているまだはたち前の女の子をいつのまにやらだまし込んで手に入れてしまった様子で私どもも実に驚きまったく困りましたが既にもう出来てしまった事ですから泣き寝入りの他は無く女の子にもあきらめるように言いふくめてこっそり親御の許にかえしてやりました。 大谷さん何ももう言いません拝むからこれっきり来ないで下さいと私が申しましても大谷さんは闇でもうけているくせに人並の口をきくな僕はなんでも知っているぜと下司な脅迫がましい事など言いましてまたすぐ次の晩に平気な顔してまいります。 私どもも大戦中から闇の商売などしてその罰が当ってこんな化け物みたいな人間を引受けなければならなくなったのかも知れませんがしかし今晩のようなひどい事をされてはもう詩人も先生もへったくれもないどろぼうです私どものお金を五千円ぬすんで逃げ出したのですからね。 いまはもう私どもも仕入れに金がかかって家の中にはせいぜい五百円か千円の現金があるくらいのものでいや本当の話売り上げの金はすぐ右から左へ仕入れに注ぎ込んでしまわなければならないんです。 今夜私どもの家に五千円などという大金があったのはもうことしも大みそかが近くなって来ましたし私が常連のお客さんの家を廻ってお勘定をもらって歩いてやっとそれだけ集めてまいりましたのでしてこれはすぐ今夜にでも仕入れのほうに手渡してやらなければもう来年の正月からは私どもの商売をつづけてやって行かれなくなるようなそんな大事な金で女房が奥の六畳間で勘定して戸棚の引出しにしまったのをあのひとが土間の椅子席でひとりで酒を飲みながらそれを見ていたらしく急に立ってつかつかと六畳間にあがって無言で女房を押しのけ引出しをあけその五千円の札束をわしづかみにして二重まわしのポケットにねじ込み私どもがあっけにとられているうちにさっさと土間に降りて店から出て行きますので私は大声を挙げて呼びとめ女房と一緒に後を追い私はこうなればもうどろぼう。 と叫んで往来のひとたちを集めてしばってもらおうかとも思ったのですがとにかく大谷さんは私どもとは知合いの間柄ですしそれもむごすぎるように思われ今夜はどんな事があっても大谷さんを見失わないようにどこまでも後をつけて行きその落ちつく先を見とどけておだやかに話してあの金をかえてしてもらおうとまあ私どもも弱い商売でございますから私ども夫婦は力を合せやっと今夜はこの家をつきとめてかんにん出来ぬ気持をおさえて金をかえして下さいとおんびんに申し出たのにまあ何という事だナイフなんか出して刺すぞだなんてまあなんという。 文明の果の大笑い。 ああいかん。 こわいんだ。 こわいんだよ僕は。 こわい。 たすけてくれ。 フランソワ・ヴィヨン。 坊や。 綺麗なお池でしょ。 昔はねこのお池に鯉トトや金トトがたくさんたくさんいたのだけれどもいまはなんにもいないわねえ。 つまんないねえ。 あのおばさんお金は私が綺麗におかえし出来そうですの。 今晩かでなければあしたとにかくはっきり見込みがついたのですからもうご心配なさらないで。 おやまあそれはどうも。 おばさん本当よ。 かくじつにここへ持って来てくれるひとがあるのよ。 それまで私は人質になってここにずっといる事になっていますの。 それなら安心でしょう。 お金が来るまで私はお店のお手伝いでもさせていただくわ。 へえ。 しかし奥さんお金ってものは自分の手に握ってみないうちはあてにならないものですよ。 いいえそれがね本当にたしかなのよ。 だから私を信用しておもて沙汰にするのはきょう一日待って下さいな。 それまで私はこのお店でお手伝いしていますから。 お金がかえって来ればそりゃもう何も。 何せことしもあと五六日なのですからね。 ええだからそれだからあの私はおや。 お客さんですわよ。 いらっしゃいまし。 おばさんすみません。 エプロンを貸して下さいな。 や美人を雇いやがった。 こいつあ凄い。 誘惑しないで下さいよ。 お金のかかっているからだですから。 百万ドルの名馬か。 名馬も雌は半値だそうです。 けんそんするなよ。 これから日本は馬でも犬でも男女同権だってさ。 ねえさんおれは惚れた。 一目惚れだ。 がしかしお前は子持ちだな。 いいえ。 これはこんど私どもが親戚からもらって来た子ですの。 これでもうやっと私どもにもあとつぎが出来たというわけですわ。 金も出来たし。 いろも出来借金も出来。 何にしますか。 よせ鍋でも作りましょうか。 ねえさんちょっと。 へえ。 いらっしゃいまし。 お酒でございますか。 クリスマスおめでとうって言うの。 なんていうの。 もう一升くらいは飲めそうね。 あのねえさんすみませんがねここのご主人にないないお話し申したい事がございますのですけどちょっとここへご主人を。 大谷が帰ってまいりました。 会ってやって下さいまし。 でも連れの女のかたに私のことは黙っていて下さいね。 大谷が恥かしい思いをするといけませんから。 いよいよ来ましたね。 私のことは黙っててね。 そのほうがよろしいのでしたらそうします。 飲みましょうよね飲みましょう。 クリスマスですもの。 奥さんありがとうございました。 お金はかえして戴きました。 そう。 よかったわね。 全部。 ええきのうのあの分だけはね。 これまでのが全部でいくらなの。 ざっとまあ大負けに負けて。 二万円。 それだけでいいの。 大負けに負けました。 おかえし致します。 おじさんあすから私をここで働かせてくれない。 ねそうして。 働いて返すわ。 へえ。 奥さんとんだおかるだね。 たいがいそんなところだろうとは思っていましたがしかし奥さんあなたはよくその方角にお気が附きましたね。 大谷さんのお友だちにでも頼んだのですか。 ええそりゃもう。 帰りませんか。 なぜはじめからこうしなかったのでしょうね。 とっても私は幸福よ。 女には幸福も不幸も無いものです。 そうなの。 そう言われるとそんな気もして来るけどそれじゃ男の人はどうなの。 男には不幸だけがあるんです。 いつも恐怖と戦ってばかりいるのです。 わからないわ私には。 でもいつまでも私こんな生活をつづけて行きとうございますわ。 椿屋のおじさんもおばさんもとてもいいお方ですもの。 馬鹿なんですよあのひとたちは。 田舎者ですよ。 あれでなかなか慾張りでね。 僕に飲ませておしまいにはもうけようと思っているのです。 そりゃ商売ですもの当り前だわ。 だけどそれだけでも無いんじゃない。 あなたはあのおかみさんをかすめたでしょう。 昔ね。 おやじはどう。 気附いているの。 ちゃんと知っているらしいわ。 いろも出来借金も出来といつか溜息まじりに言ってたわ。 僕はねキザのようですけど死にたくて仕様が無いんです。 生れた時から死ぬ事ばかり考えていたんだ。 皆のためにも死んだほうがいいんです。 それはもうたしかなんだ。 それでいてなかなか死ねない。 へんなこわい神様みたいなものが僕の死ぬのを引きとめるのです。 お仕事がおありですから。 仕事なんてものはなんでもないんです。 傑作も駄作もありやしません。 人がいいと言えばよくなるし悪いと言えば悪くなるんです。 ちょうど吐くいきと引くいきみたいなものなんです。 おそろしいのはねこの世の中のどこかに神がいるという事なんです。 いるんでしょうね。 え。 いるんでしょうね。 私にはわかりませんわ。 そう。 その奥さんはどこにいらっしゃるの。 どこにいるのか知りませんがねすくなくとも椿屋のさっちゃんよりは上品で綺麗だ。 やけるわね。 大谷さんみたいな人となら私は一夜でもいいから添ってみたいわ。 私はあんなずるいひとが好き。 これだからねえ。 また傘をお借りしますわ。 傘ならおれも持っている。 お送りしましょう。 はばかりさま。 ひとり歩きには馴れていますから。 いやお宅は遠い。 知っているんだ。 おれも小金井のあの近所の者なんだ。 お送りしましょう。 おばさん勘定をたのむ。 知っているのです。 おれはねあの大谷先生の詩のファンなのですよ。 おれもね詩を書いているのですがね。 そのうち大谷先生に見ていただこうと思っていたのですがね。 どうもねあの大谷先生がこわくてね。 ありがとうございました。 またお店で。 ええさようなら。 ごめん下さい。 大谷さんごめん下さい。 奥さんごめんなさい。 かえりにまた屋台で一ぱいやりましてね実はねおれの家は立川でね駅へ行ってみたらもう電車がねえんだ。 奥さんたのみます。 泊めて下さい。 ふとんも何も要りません。 この玄関の式台でもいいのだ。 あしたの朝の始発が出るまでごろ寝させて下さい。 雨さえ降ってなけやその辺の軒下にでも寝るんだがこの雨ではそうもいかねえ。 たのみます。 主人もおりませんしこんな式台でよろしかったらどうぞ。 すみません。 ああ酔った。 誰もいないの。 うん。 おやじはまだ仕入れから帰らないしばあさんはちょっといままでお勝手のほうにいたようだったけどいませんか。 ゆうべはおいでにならなかったの。 来ました。 椿屋のさっちゃんの顔を見ないとこのごろ眠れなくなってね十時すぎにここを覗いてみたらいましがた帰りましたというのでね。 それで。 泊っちゃいましたよここへ。 雨はざんざ降っているし。 あたしもこんどからこのお店にずっと泊めてもらう事にしようかしら。 いいでしょうそれも。 そうするわ。 あの家をいつまでも借りてるのは意味ないもの。 やあまた僕の悪口を書いている。 エピキュリアンのにせ貴族だってさ。 こいつは当っていない。 神におびえるエピキュリアンとでも言ったらよいのに。 さっちゃんごらんここに僕のことを人非人なんて書いていますよ。 違うよねえ。 僕は今だから言うけれども去年の暮にねここから五千円持って出たのはさっちゃんと坊やにあのお金で久し振りのいいお正月をさせたかったからです。 人非人でないからあんな事も仕出かすのです。 人非人でもいいじゃないの。 私たちは生きていさえすればいいのよ。 戦争が終ったらこんどはまた急に何々主義だの何々主義だのあさましく騒ぎまわって演説なんかしているけれども私は何一つ信用できない気持です。 主義も思想もへったくれも要らない。 男は嘘をつく事をやめて女は慾を捨てたらそれでもう日本の新しい建設が出来ると思う。 いやごもっとも。 しかしそれは逆じゃありませんか。 男が慾を捨て女が嘘をつく事をやめるとこう来なくてはいけません。 そりゃまたなぜです。 まあどっちでも同じ様なものですがしかし女の嘘は凄いものです。 私はことしの正月いやもう身の毛もよだつような思いをしました。 それ以来私はてんで女というものを信用しなくなりました。 うちの女房なんかあんな薄汚い婆でもあれで案外ほかに男をこしらえているかも知れない。 いやそれは本当にわからないものですよ。 私。 いやきょうは。 お願いがあって来たのです。 絶対に秘密にして置いて下さい。 脱走事件です。 たぶんこの町には先例の無かった事でしょう。 あなたの御親戚の圭吾さんね入隊していないんです。 いやしかしあれは。 あれはたしかに私が青森の部隊の営門まで送りとどけた筈ですが。 そうです。 それは私も知っています。 しかし向うの憲兵隊から彼ははじめから来ていないという電話です。 いったいならば憲兵がこちらへ捜査に来る筈なのですがこの大雪でどうにもならぬ。 依ってまず先に内々の捜査を言いつけて来たのです。 それで私はあなたに一つお願いがあるのです。 ほう感心だのう。 おれのうちの女房などは晩げのめし食うとすぐに赤ん坊に添寝してそれっきりぐうぐう大鼾だ。 夜なべもくそもありやしねえ。 お前はさすがに出征兵士の妻だけあって感心だ感心だ。 ばばちゃは寝たか。 ばばちゃは寝て夢でも見るのが一ばんの楽しみだべ。 うんまあそんなところかも知れない。 お前もなかなか苦労が多いの。 しかしいまの時代は日本国中に仕合せな人はひとりもねえのだからなつらくてもしばらくの我慢だ。 何か思いに余る心配事でも起った時にはおれのところへ相談に来ればいいしのう。 有難うごす。 きょうはまたどこからかのお帰りですか。 おそいねす。 おれか。 いやどこの帰りでもねえ。 まっすぐにここさ来たのだ。 まっすぐにここさ来た。 実はのきょうはお前に大事なお願いがあって来たのだ。 はあ。 いや針仕事をしながらでいい落ちついて聞いてくれ。 これはお国のためというよりはこの町のためいやお前たち一家のために是非とも聞きいれてくれろ。 だいいちには圭吾自身のためまたお前のためまたばばちゃのためそれからお前たちの祖先子孫のため何としてもこんどのおれの願い一つだけは聞きいれてくれねばいけねえ。 なんだべねす。 驚いてはいけねえとは言ってもいや誰だって驚くに違いないが実はなさきほど警察の署長さんがおれの家へおいでになって。 のう圭吾も心得違いしたものだがしかしどんな人でもいちどは魔がさすというか魔がつくというか妙な間違いを起したがるものだ。 これはハシカのようなもので人間の持って生れた心の毒をいちどは外へ吹き出さなければならねえものらしい。 だから起した間違いは仕方のねえ事としてその間違いをそれ以上に大きな騒ぎにしないように努めるのがお前やおれのまごころというものでないか。 署長さんも決して悪いようにはしないと言っている。 あれはひとをだましたりなどしない人だ。 この町の名誉のためここ二三日中に圭吾が見つかりさえすれば何とかうまく全然おかみのお叱りのないように取りはからうと言っている。 署長もおれも黙っている。 この町の誰にも絶対に言わぬ。 どうかたのむ。 圭吾はきっとお前のところへ帰って来る。 帰って来たらもう何も考える事は要らないすぐにおれのところへ知らせに来てくれ。 それがだいいちに圭吾のためお前のためばばちゃのため祖先子孫のためだ。 なんぼう馬鹿だかのう。 お前もつらいところだ。 それは重々察している。 しかしいま日本ではお前よりも何倍もつらい思いをしているひとがかず限りなくあるのだからお前もここはこらえてくれろ。 必ず必ず圭吾が帰って来たらおれのところに知らせてくれ。 たのむ。 おれは今までお前たちにものを頼んだ事はいちども無かったがこんどだけはこれこのとおりおれは手をついてお前にお願いする。 いまお前は咳をしたか。 いいえ。 それではいまの咳は誰のだ。 お前には聞えなかったか。 さあべつになんにも。 来てるんでないか。 おいお前だましてはだめだ。 圭吾はあの馬小屋にいるんでないか。 安心してけせ。 わたしも馬鹿でごいせん。 来たら来たとかならずあなたのところさ知らせに行きます。 その時はどうかよろしくお願いします。 おうそうか。 さっきの咳ばらいはおれの空耳であったべな。 こうなるとどうも男よりも女子のほうがしっかりしている。 それではどうかよろしくたのむよ。 はあ承知しました。 馬鹿。 命をそまつにするな。 で。 どうしたのです。 いたのですか。 いるもいないも。 二日も前から来ていたんですよ。 ひどいじゃありませんか。 二日も前に帰って来てそうして嫁と相談して馬小屋の屋根裏のこの辺ではマギと言っていますがまあ乾草や何かを入れて置くところですなそこへ隠れていたのです。 もちろん嫁の入智慧です。 母は盲目だしいい加減にだましてそうしてこっそり馬小屋のマギに圭吾をかくし三度々々の食事をそこへ運んでいたのだそうですよ。 あとで圭吾がそう言っていました。 なにあの嫁なんか一言も何も言いません。 いまもって知らん振りです。 あの晩に私が行って嫁にあれほど腹の底を打ち割った話をしてそうして男一匹手をついてお願いしたのにまああの落ちつき払った顔。 かえって馬小屋のマギで聞いていた圭吾のほうで申しわけ無くなってあなた馬小屋の梁に縄をかけ首をくくって死のうとしたのです。 署長は私と別れてからも商売柄その辺をうろついて見張っていたのでしょう馬小屋でたしかに人の気配がするので土間からそっと覗いてみると圭吾がぶらりです。 そこでもって馬鹿。 命をそまつにするな。 と叫びひきずりおろしたところへ私たちが駈けつけたというわけでしたがその署長の馬鹿。 という声と共に私たちは立ち上り思わず顔を見合せその時の嫁のまるでもう余念なさそうに首をかしげて馬小屋の物音に耳を澄ました恰好はいやもうほとんど神の如くでした。 おそろしいものです。 そうして私たちは馬小屋へ駈けつけ圭吾は署長にとらえられてもう嫁のまっかな嘘が眼前にばれているのに嫁は私のうしろから圭吾のほうを覗いて見て『いつもどったのだべ。 』と小声で言い私はあとで圭吾から二日前に既に帰っていたという事を聞かなかったらこの嫁が圭吾の帰宅をその時までまったく知らなかったのだと永遠に信じていたでしょうきっとそうです。 嫁はもうそれっきり何も言わず時々うすら笑いさえ顔に浮べ何を考えているのやら何と思っているのやらまるでもうわかりません。 色気を感じさせないところが偉いと私は尊敬をしていたのですがやっぱりちょっと男に色気を起させるくらいの女のほうが善良で正直なのかも知れません。 何が何やらもう私は女の言う事はてんで信用しない事にしました。 圭吾はすぐに署長の証明書を持って青森に出かけ何事も無く勤務して終戦になってすぐ帰宅しいまはまた夫婦仲良さそうに暮していますが私はあの嫁には呆れてしまいましたからめったに圭吾の家へはまいりません。 よくまあしかしあんなに洒唖々々と落ちついて嘘をつけたものです。 女があんなに平気で嘘をつく間は日本はだめだと思いますがどうでしょうか。 それは女は日本ばかりでなく世界中どこでも同じ事でしょう。 しかし。 そのお嫁さんはあなたに惚れてやしませんか。 そんな事はありません。 しかしうちの女房とあの嫁とは仲が悪かったです。 何か無いかねえ。 きょうはちょっとふうがわりの主人公を出してみたいのだが。 老人がいいな。 ゆうべ私はつくづく考えてみたのだけれど。 人間のうちで一ばんロマンチックな種属は老人であるということがわかったの。 老婆はだめ。 おじいさんで無くちゃだめ。 おじいさんがこう縁側にじっとして坐っているともうそれだけでロマンチックじゃないの。 素晴らしいわ。 老人か。 よしそれにしよう。 なるべく甘い愛情ゆたかな綺麗な物語がいいな。 こないだのガリヴァ後日物語は少し陰惨すぎた。 僕はこのごろまたブランドを読み返しているのだがどうも肩が凝る。 むずかしすぎる。 僕にやらせて下さい。 僕に。 僕は僕はこう思いますねえ。 僕はそのおじいさんはきっと大数学者じゃないかと思うのです。 きっとそうだ。 偉い数学者なんだ。 もちろん博士さ。 世界的なんだ。 いまは数学が急激にどんどん変っているときなんだ。 過渡期がはじまっている。 世界大戦の終りごろ一九二〇年ごろから今日まで約十年の間にそれは起りつつある。 数学の歴史も振りかえって見ればいろいろ時代と共に変遷して来たことは確かです。 まず最初の階段は微積分学の発見時代に相当する。 それからがギリシャ伝来の数学に対する広い意味の近代的数学であります。 こうして新しい領分が開けたわけですからその開けた直後は高まるというよりも寧ろ広まる時代拡張の時代です。 それが十八世紀の数学であります。 十九世紀に移るあたりに矢張りかかる階段があります。 すなわちこの時も急激に変った時代です。 一人の代表者を選ぶならば例えばGauss.gaussです。 急激にどんどん変化している時代を過渡期というならば現代などはまさに大過渡期であります。 やたらに煩瑣でそうして定理ばかり氾濫していままでの数学は完全に行きづまっている。 一つの暗記物に堕してしまった。 このとき数学の自由性を叫んで敢然立ったのはいまのそのおじいさんの博士であります。 えらいやつなんだ。 もし探偵にでもなったらどんな奇怪な難事件でもちょっと現場を一まわりしてたちまちぽんと解決してしまうにちがいない。 そんな頭のいいおじいさんなのだ。 とにかくCantorの言うたように。 数学の本質はその自由性に在る。 たしかにそうだ。 自由性とはFreiheitの訳です。 日本語では自由という言葉ははじめ政治的の意味に使われたのだそうですからFreiheitの本来の意味としっくり合わないかも知れない。 Freiheitとはとらわれない拘束されない素朴のものを指していうのです。 freiでない例は卑近な所に沢山あるが多すぎてかえって挙げにくい。 たとえば僕のうちの電話番号はご存じの通り4823ですがこの三|桁と四|桁の間にコンマをいれて4,823と書いている。 巴里のように48|23とすればまだしも少しわかりよいのに何でもかでも三|桁おきにコンマを附けなければならぬというのはこれはすでに一つの囚れであります。 老博士はこのようなすべての陋習を打破しようと努めているのであります。 えらいものだ。 真なるもののみが愛すべきものであるとポアンカレが言っている。 然り。 真なるものを簡潔に直接とらえ来ったならばそれでよい。 それに越したことがない。 空論をお話して一向とりとめがないけれどそれは恐縮でありますが丁度このごろ解析概論をやっているのでちょっと覚えているのですが一つの例として級数についてお話したい。 二重もしくは二重以上の無限級数の定義には二種類あるのではないかと思われる。 図を書いてお目にかけるとよくわかるのですが謂わばフランス式とドイツ式と二つある。 結果は同じ様なことになるのだがフランス式のほうはすべての人に納得の行くようにいかにも合理的な立場である。 けれどもいまの解析の本すべてが不思議に言い合せたように平気でドイツ式一方である。 伝統というものは何か宗教心をさえ起させるらしい。 数学界にもそろそろこの宗教心がはいりこんで来ている。 これは絶対に排撃しなければならない。 老博士はこの伝統の打破に立ったわけであります。 このごろでは解析学の始めに集合論を述べる習慣があります。 これについても不審があります。 たとえば絶対|収斂の場合昔は順序に無関係に和が定るという意味に用いられていました。 それに対して条件的という語がある。 今では絶対値の級数が収斂する意味に使うのです。 級数が収斂し絶対値の級数が収斂しないときには項の順序をかえて任意のlimitにtendさせることができるということから絶対値の級数が収斂しなければならぬということになるからそれでいいわけだ。 要するに。 要するに。 伝統ということになりまするとよほどのあやまちも気がつかずに見逃してしまうが問題は微細なところに沢山あるのです。 もっと自由な立場で極く初等的な万人むきの解析概論の出ることを切に希望している次第であります。 ただいまお話ございましたようにその老博士はたいへん高邁のお志を持って居られます。 高邁のお志にはいつも逆境がつきまといます。 これはもう絶対に正確の定理のようでございます。 老博士もやはり世に容れられず奇人よ変人よと近所のひとたちに言われてときどきは流石に侘びしく今夜もひとりステッキ持って新宿へ散歩に出ました。 夏のころのこれはお話でございます。 新宿はたいへんな人出でございます。 博士はよれよれの浴衣に帯を胸高にしめそうして帯の結び目を長くうしろに垂れさげてまるで鼠の尻尾のよういかにもお気の毒の風采でございます。 それに博士はひどい汗かきなのに今夜はハンカチを忘れて出て来たのでいっそう惨めなことになりました。 はじめは掌でお顔の汗を拭い払って居りましたがとてもそんなことで間に合うような汗ではございませぬ。 それこそまるで滝のよう額から流れ落ちる汗は一方は鼻筋を伝い一方はこめかみを伝いざあざあ顔中を洗いつくしてそうしてみんな顎を伝って胸に滑り込みその気持のわるさったらちょうど油壺一ぱいの椿油を頭からどろどろ浴びせかけられる思いで老博士もこれには参ってしまいました。 とうとう浴衣の袖で素早く顔の汗を拭いまた少し歩いては人に見つからぬようさっと袖で拭い拭いしているうちにもうその両袖ながら夕立に打たれたようにびしょ濡れになってしまいました。 博士はもともと無頓着なお方でございましたけれどもこのおびただしい汗には困惑しちゃいましてついに一軒のビヤホールに逃げ込むことに致しました。 ビヤホールにはいって扇風器のなまぬるい風に吹かれていたらそれでも少し汗が収りました。 ビヤホールのラジオはそのとき大声で時局講話をやっていました。 ふとその声に耳をすまして考えてみるとどうもこれは聞き覚えのある声でございます。 あいつでは無いかな。 と思っていたら果してその講話のおわりにアナウンサアがそのあいつの名前を閣下という尊称を附して報告いたしました。 老博士は耳を洗いすすぎたい気持になりました。 そのあいつというのは博士と高等学校大学ともにともに机を並べて勉強して来た男なのですが何かにつけて要領よくいまは文部省の立派な地位にいてときどき博士もそのあいつと同窓会などで顔を合せることがございましてそのたびごとにあいつは博士を無用に嘲弄するのでございます。 気のきかないげびたちっともなっていない陳腐な駄洒落を連発して取り巻きのものもまた可笑しくもないのに手を拍たんばかりにそのあいつの一言一言に笑い興じていちどは博士も席を蹴って憤然と立ちあがりましたがそのとき卓上から床にころげ落ちて在った一箇の蜜柑をぐしゃと踏みつぶしておどろきの余りひッという貧乏くさい悲鳴を挙げたので満座抱腹絶倒して博士のせっかくの正義の怒りも悲しい結果になりました。 けれども博士はあきらめません。 いつかはあいつをぶんなぐるつもりで居ります。 そいつのいやなだみ声をたったいまラジオで聞いて博士は不愉快でたまりませぬ。 ビイルをがぶがぶ飲みました。 もともと博士はお酒にはあまり強いほうではございません。 たちまち酩酊いたしました。 辻占売の女の子がビヤホールにはいって来ました。 博士はこれこれと小さい声でやさしく呼んでおまえとしはいくつだい。 十三か。 そうか。 するともう五年いや四年いや三年たてばおよめに行けますよ。 いいかね。 十三に三を足せばいくつだ。 え。 などと数学博士も酔うといくらかいやらしくなります。 少ししつこく女の子をからかいすぎたのでとうとう博士は女の子の辻占を買わなければならない仕儀にたちいたりました。 博士はもともと迷信を信じません。 けれども今夜は先刻のラジオのせいもあり気が弱っているところもございましたのでふいとその辻占で自分の研究運命の行く末をためしてみたくなりました。 人は生活に破れかけて来るとどうしても何かの予言にすがりつきたくなるものでございます。 悲しいことでございます。 その辻占はあぶり出し式になって居ります。 博士はマッチの火でとろとろ辻占の紙を焙り酔眼をかっと見ひらいて注視しますとはじめはなんだか模様のようで心もとなく思われましたがそのうちにだんだん明確に古風な字体のひら仮名がありありと紙に現われました。 読んでみます。 おのぞみどおり博士は莞爾と笑いました。 いいえ莞爾どころではございませぬ。 博士ほどのお方がえへへへとそれは下品な笑い声を発してぐっと頸を伸ばしてあたりの酔客を見廻しましたが酔客たちは格別相手になっては呉れませぬ。 それでも博士は意に介しなさることなく酔客ひとりひとりにははおのぞみどおりへへへへすみませんほほほなぞとそれは複雑な笑い声を若々しく笑いわけ撒きちらして皆に挨拶いたしいまは全く自信を恢復なされて悠々とそのビヤホールをお出ましになりました。 外はぞろぞろ人の流れたいへんでございます。 押し合いへし合いみんな一様に汗ばんでそれでもすまして歩いています。 歩いていても何ひとつこれという目的は無いのでございますがけれどもみなさんその日常が侘びしいから何やらひそかな期待を抱懐していらしてそうしてすまして夜の新宿を歩いてみるのでございます。 いくら新宿の街を行きつ戻りつ歩いてみてもいいことはございませぬ。 それはもうきまって居ります。 けれども幸福はそれをほのかに期待できるだけでもそれは幸福なのでございます。 いまのこの世の中ではそう思わなければなりませぬ。 老博士はビヤホールの廻転ドアからくるりと排出されよろめきその都会の侘びしい旅雁の列に身を投じたちまちもまれ押されて泳ぐような恰好で旅雁と共に流れて行きます。 けれども今夜の老博士はこの新宿の大群衆の中でおそらくは一ばん自信のある人物なのでございます。 幸福をつかむ確率が最も大きいのでございます。 博士はときどき思い出してはにやにや笑いまたひとりひそかにこっくり首肯してもっともらしく眉を上げて吃っとなってみたりあるいは全くの不良青少年のようにひゅうひゅう下手な口笛をこころみたりなどして歩いているうちにどしんと博士にぶつかった学生があります。 けれどもそれはあたりまえです。 こんな人ごみではぶつかるのがあたりまえでございます。 なんということもございません。 学生はそのまま通りすぎて行きます。 しばらくしてまたどしんと博士にぶつかった美しい令嬢があります。 けれどもこれもあたりまえです。 こんな混雑ではぶつかるのはあたりまえのことでございます。 なんということもございませぬ。 令嬢は通りすぎて行きます。 幸福はまだまだおあずけでございます。 変化は背後からやって来ました。 とんとん博士の脊中を軽く叩いたひとがございます。 こんどはほんとう。 どうも僕には描写がうまくできんので――いやできんこともないがきょうは少しめんどうくさい。 簡潔にやってしまいましょう。 博士がうしろを振りむくと四十ちかいふとったマダムが立って居ります。 いかにも奇妙な顔の小さい犬を一匹だいている。 ふたりはこんな話をした。 ――御幸福。 ――ああ仕合せだ。 おまえがいなくなってからすべてがよろしくすべてがつまりおのぞみどおりだ。 ――ちぇっ若いのをおもらいになったんでしょう。 ――わるいかね。 ――ええわるいわ。 あたしが犬の道楽さえよしたらいつでもまたあなたのところへ帰っていいってそうちゃんと約束があったじゃないの。 ――よしてやしないじゃないか。 なんだこんどの犬はまたひどいじゃないか。 これはひどいね。 蛹でも食って生きているような感じだ。 妖怪じみている。 ああ胸がわるい。 ――そんなにわざわざ蒼い顔して見せなくたっていいのよ。 ねえプロや。 おまえの悪口言ってるのよ。 吠えておやり。 わんと言って吠えておやり。 ――よせよせ。 おまえは相変らず厭味な女だ。 おまえと話をしていると私はいつでも脊筋が寒い。 プロ。 なにがプロだ。 も少し気のきいた名前をつけんかね。 無智だ。 たまらん。 ――いいじゃないの。 プロフェッサアのプロよ。 あなたをおしたい申しているのよ。 いじらしいじゃないの。 ――たまらん。 ――おやおや。 やっぱりお汗が多いのねえ。 あらお袖なんかで拭いちゃみっともないわよ。 ハンケチないの。 こんどの奥さん気がきかないのね。 夏の外出にはハンケチ三枚と扇子あたしはいちどだってそれを忘れたことがない。 ――神聖な家庭にけちをつけちゃ困るね。 不愉快だ。 ――おそれいります。 ほらハンケチあげるわよ。 ――ありがとう。 借りて置きます。 ――すっかり他人におなりなすったのねえ。 ――別れたら他人だ。 このハンケチやっぱり昔のままのいや犬のにおいがするね。 ――まけおしみ言わなくっていいの。 思い出すでしょう。 どう。 ――くだらんことを言うな。 たしなみの無い女だ。 ――あらどっちが。 やっぱりこんどの奥さんにもあんなに子供みたいに甘えかかっていらっしゃるの。 およしなさいよいいとしをしてみっともない。 きらわれますよ。 朝寝たまま足袋をはかせてもらったりして。 ――神聖な家庭にけちをつけちゃこまるね。 私はいま仕合せなんだからね。 すべてがうまくいっている。 ――そうしてやっぱり朝はスウプ。 卵を一つ入れるの。 二つ入れるの。 ――二つだ。 三つのときもある。 すべておまえのときより豊富だ。 どうも私はいまになって考えてみるにおまえほど口やかましい女は世の中にそんなに無いような気がする。 おまえはどうして私をあんなにひどく叱ったのだろう。 私はわが家にいながらまるで居候の気持だった。 三杯目にはそっと出していた。 それはたしかだ。 私はあのじぶんにはずいぶん重大な研究に着手していたんだぜ。 おまえにはそんなことちっともわかってやしない。 ただもう私のチョッキのボタンがどうのこうの煙草の吸殻がどうのこうのそんなこと朝から晩までがみがみ言っておかげで私は研究も何もめちゃめちゃだ。 おまえとわかれてたちどころに私はチョッキのボタンを全部むしり取ってしまってそれから煙草の吸殻をかたっぱしからぽんぽんコーヒー茶碗にほうりこんでやった。 あれは愉快だった。 実に痛快であった。 ひとりで涙の出るほど大笑いした。 私は考えれば考えるほどおまえにはひどいめにあっていたのだ。 あとからあとから腹が立つ。 いまでも私は充分に怒っている。 おまえはいったいにひとをいたわることを知らない女だ。 ――すみません。 あたし若かったのよ。 かんにんしてね。 もうもうあたし判ったわ。 犬なんか問題じゃなかったのね。 ――また泣く。 おまえはいつでもその手を用いた。 だがもうだめさ。 私はいま万事がおのぞみどおりなのだからね。 どこかでお茶でも飲むか。 ――だめ。 あたしいまはっきりわかったわ。 あなたとあたしは他人なのね。 いいえむかしから他人なのよ。 心の住んでいる世界が千里も万里もはなれていたのよ。 一緒にいたってお互い不幸の思いをするだけよ。 もうきれいにおわかれしたいの。 あたしねちかく神聖な家庭を持つのよ。 ――うまく行きそうかね。 ――大丈夫。 そのかたはね職工さんよ。 職工長。 そのかたがいなければ工場の機械が動かないんですって。 大きい山みたいな感じのしっかりした方。 ――私とはちがうね。 ――ええ学問は無いの。 研究なんかなさらないわ。 けれどもなかなか腕がいいの。 ――うまく行くだろう。 さようなら。 ハンケチ借りて置くよ。 ――さようなら。 あ帯がほどけそうよ。 むすんであげましょう。 ほんとうにいつまでもいつまでも世話を焼かせて。 奥さんによろしくね。 ――うん。 機会があればね。 あたしもう結末がわかっちゃった。 それはきっとこうなのよ。 博士がそのマダムとわかれてから沛然と夕立ち。 どうりでむしむし暑かった。 散歩の人たちは蜘蛛の子を散らすようにぱあっと飛び散りどこへどう消え失せたのかお化けみたいたったいままであんなにたくさん人がいたのに須臾にして巷は閑散新宿の舗道には雨あしだけが白くしぶいて居りました。 博士は花屋さんの軒下に肩をすくめて小さくなって雨宿りしています。 ときどき先刻のハンケチを取り出してちょっと見てまたあわてて袂にしまいこみます。 ふと花を買おうかと思います。 お宅で待っていらっしゃる奥さんへお土産に持って行けばきっと奥さんがよろこんでくれるだろうと思いました。 博士が花を買うなどこれは全く生れてはじめてのことでございます。 今夜はちょっと調子が変なの。 ラジオ辻占先夫人犬ハンケチいろいろのことがございました。 博士は花屋へたいへんな決意を以て突入してそれからまごつきまごつき大汗かいてそれでも薔薇の大輪三本買いました。 ずいぶん高いのにはおどろきました。 逃げるようにして花屋から躍り出てそれから円タク拾ってお宅へまっしぐら。 郊外の博士のお宅には電燈があかあかと灯って居ります。 たのしいわが家。 いつもあたたかく博士をいたわりすべてがうまくいって居ります。 玄関へはいるなり――ただいま。 と大きい声で言ってたいへんなお元気です。 家の中はしんとして居ります。 それでも博士は委細かまわず花束持ってどんどん部屋へ上っていって奥の六畳の書斎へはいり――ただいま。 雨にやられて困ったよ。 どうです。 薔薇の花です。 すべてがおのぞみどおり行くそうです。 机の上に飾られて在る写真に向って話かけているのです。 先刻きれいにわかれたばかりのマダムの写真でございます。 いいえでもいまより十年わかいときの写真でございます。 美しく微笑んでいました。 うん。 だいたい。 そんなところでよろしかろう。 けれども――。 けれどもだね君たちは一つ重要な点を語り落している。 それはその博士の容貌についてである。 物語には容貌が重大である。 容貌を語ることに依ってその主人公に肉体感を与えまた聞き手にその近親の誰かの顔を思い出させ物語全体にインチメートなひとごとでない思いを抱かせることができるものです。 僕の考えるところに依ればその老博士は身長五尺二寸体重十三貫弱たいへんな小男である。 容貌について言うなれば額は広く高く眉は薄く鼻は小さく口が大きくひきしまり眉間に皺白い頬ひげはふさふさと伸び銀ぶちの老眼鏡をかけまず丸顔である。 おや。 家の門のところにフロック着たへんなおじいさん立っています。 さる程に大波羅には五条橋を毀ち寄せ掻楯に掻いて待つ所に源氏即ち押し寄せて鬨を咄と作りければ清盛鯢波に驚いて物具せられけるが冑を取つて逆様に著給へば侍共『おん冑逆様に候ふ』と申せば臆してや見ゆらんと思はれければ『主上渡らせ給へば敵の方へ向はば君をうしろになしまゐらせんが恐なる間逆様には著るぞかし心すべき事にこそ』と宣ふ。 忠義かぶり。 新中納言知盛卿小船に乗つて急ぎ御所の御船へ参らせ給ひて『世の中は今はかくと覚え候ふ。 見苦しき者どもをば皆海へ入れて船の掃除召され候へ』とて掃いたり拭うたり塵拾ひ艫舳に走り廻つて手づから掃除し給ひけり。 女房達『やや中納言殿軍のさまは如何にや如何に』と問ひ給へば『只今珍らしき吾妻男をこそ御覧ぜられ候はんずらめ』とてからからと笑はれければ。 与一鏑を取つて番ひ能つ引いてひやうと放つ。 小兵といふ条十二束三伏弓はつよし鏑は浦響くほどに長鳴して過たず扇の要ぎは一寸ばかり置いてひいふつとぞ射切つたる。 鏑は海に入りければ扇は空へぞあがりける。 春風に一もみ二もみ揉まれて海へさつとぞ散つたりける。 皆紅の扇の夕日の輝くに白波の上に漂ひ浮きぬ沈みぬゆられけるを沖には平家舷を叩きて感じたり。 陸には源氏箙をたたいてどよめきけり。 あまりの面白さに感に堪へずや思はれけん平家のかの船の中より齢五十ばかりなる男の黒革威の鎧著たるが白柄の長刀杖につき扇立たる所に立つて舞ひすましたり。 伊勢三郎義盛与一が後に歩ませ寄つて『御諚にてあるぞ。 これをも亦仕れ』といひければ与一今度は中差取つて番ひ能つ引いてひやうと放つ。 舞ひすましたる男の真只中をひやうつと射て舟底へ真逆様に射倒す。 ああ射たりといふ者もありいやいや情なしといふ者も多かりけり。 平家の方には静まり返つて音もせず。 源氏は又箙を叩いてどよめきけり。 いけませぬ。 いいえしかし。 御父君は御父君和子には和子の流儀もあらうにまそれからさきは女子の差出口など無用になされ。 それにつけても。 弓の勝負のあとの御酒宴とはいへ少し狼藉がすぎますな。 これくらゐでいいのです。 これでいいのです。 どうも私は宴会は苦手で。 武芸のあとの酒盛りならまあ意味もあつて我慢も出来るといふものでございますがなんともつかぬ奇妙な御酒宴もこのごろはたくさんあつて。 しかし。 婦女子を相手の酒もまたやめられぬものです。 さうでせうか。 あなたもひどく御風流になられましたな。 酒は士気を旺盛にするためのものとばかり私は聞いて居りましたがいろいろとまたその他にも酒の功徳があるものらしい。 え何事でございませう。 はあ。 弓馬の薦めがたたりましたかな。 お互ひに仕合せなことです。 申し上げます。 罪無き者が召取られて居りまする。 越後国は三味庄の――。 なんだそれか。 あれはもうすみました。 左衛門尉どのの処置至当なりとの将軍家の仰せがございました。 あなたはまたなんだつてあんな事件に。 尼御台さまのお口添もございまする。 いまいちどお取調のほどひとへにお願ひ申し上げまする。 このたびの和田左衛門尉さまの御処置はまつたくもつて道理にはづれ無実の罪に泣く地頭代をはじめその親類縁者一同の身の上見るに忍びざるものございまするに依つて尼御台さまにもいたく御懸念の御様子にございまする。 はい。 このごろは神妙のやうでございます。 は。 いやこの頃はさつぱり何事も存じませぬ。 は。 おそれながら申し上げまする。 魚の心は水の底に住んでみなければわかりませぬ。 鳥の心も樹上の巣に生涯を託してみなければわかりませぬ。 閑居の気持も全く同様一切を放下し方丈の庵にあけくれ起居してみなければわかるものではござりませぬ。 そこの妙諦を私が口で何と申し上げてもおそらく御理解は難からうかと存じまする。 されば。 物慾を去る事はむしろ容易に出来もしまするが名誉を求むる心を棄て去る事はなかなかの難事でござりました。 瑜伽論にも『出世ノ名声ハ譬ヘバ血ヲ以テ血ヲ洗フガ如シ』とございまするやうにこの名誉心といふものは金を欲しがる心よりもさらに醜く奇怪にしてまことにやり切れぬものでござりました。 ただいまの御賢明のお尋ねに依り蓮胤日頃の感懐をまつすぐに申し述べまするが蓮胤世捨人とは言ひながらもこの名誉の慾を未だ全く捨て去る事が出来ずに居りまする。 姿は聖人に似たりといへども心は不平に濁りて騒ぎすみかを山中に営むといへども人を恋はざる一夜も無くこれ貧賤の報のみづから悩ますところかはたまた妄心のいたりて狂せるかとわれとわが心に問ひかけてみましても更に答へはござりませぬ。 御念仏ばかりが救ひでござりまする。 おのが血族との争ひでござります。 いまはただ大仰でない歌だけが好ましく存ぜられます。 和歌といふものは人の耳をよろこばしめ素直に人の共感をそそつたらそれで充分のもので高く気取つた意味など持たせるものでないやうな気も致しまする。 さきごろ参議雅経どのより御垂教を得て当将軍家のお歌数十首を拝読いたしましたところこれこそ蓮胤日頃あこがれ求めて居りました和歌の姿ぞとまことに夜の明けたるやうな気が致しまして雅経どのからのお誘ひもあり老齢を忘れて日野外山の草庵より浮かれ出てはるばるあづまへまかり出ましたといふ言葉に嘘はござりませぬがまた一つにはこれほど秀抜の歌人の御身辺に恐れながら直言を奉るほどの和歌のお仲間がおひとりもございませぬ御様子が心許なくかくては真珠も曇るべしと老人のおせつかいではございまするがやもたてもたまらぬ気持でこのやうに見苦しいざまをもかへりみずまかり出ましたやうなわけもござりまする。 いいえすがたは爽やかしらべは天然の妙音まことに眼のさめる思ひのお歌ばかりでございまするがおゆるし下さりませ無頼の世捨人の言葉でございます嘘をおよみにならぬやうに願ひまする。 真似事でございます。 たとへば恋のお歌など。 将軍家には恐れながら未だ真の恋のこころがおわかりなさらぬ。 都の真似をなさらぬやう。 これが蓮胤の命にかけても申し上げて置きたいところでござります。 世にも優れた歌人にまします故にこそあたら惜しさに居たたまらずこのやうに申し上げるのでござります。 雁によする恋雲によする恋または衣によする恋このやうな題はいまではもはや都の冗談に過ぎぬのでござりましてその洒落の手振りをただ形だけ真似てもつともらしくお作りになつてはとんだあづまの片田舎のいやお聞き捨て願ひ上げます。 あづまにはあづまの情がある筈でござります。 それだけをまつすぐにおよみ下さいませ。 ユヒソメテ馴レシタブサノ濃紫オモハズ今ニアサカリキトハといふお歌などこれがあの天才将軍のお歌かと蓮胤はいぶかしく存じました。 御身辺にお仲間がいらつしやりませぬからいいえたくさんいらつしやつてもこの蓮胤の如く。 方丈記。 方丈記。 方丈記。 身に余る面目。 義盛づれの老骨を――。 おゆるしなさいますか。 なにしろ。 あの和田平太胤長といふのはこのたびの陰謀の張本人のひとりでございますから御子息の義直義重などの伴類のものと同様に御赦免はむづかしからうとは存じましたが一族九十八人がずらりと居並んでの歎願にはいや驚きまして一応お取次ぎだけは致して置かうと存じましてただいま申し上げてみたやうな次第でございますが和田氏もきのふ御子息の御宥免にあづかつたばかりなのにさらに今日は主謀者たる甥の御赦免まで願ひ出るとはちと虫がよすぎるとは思ひましたもののなにしろあの頑固の老人の事でございますから是が非でもこの懇願一つはお聞きいれ賜りたしとぴたりと坐つて動きませんのでいやとにかくこれは――。 それでは私が申渡してまゐりませう。 今後の事もありますから少しきびしく申渡してやらうと存じますがいかがです。 正しい。 御申請の件御許容に能はず。 ただいま人から承りましたが囚人胤長の屋敷を。 それだけはお取消しを願ひます。 ひどく悪い先例になります。 謀叛人の領地をその一族の者に。 いやこればかりはいけませぬ。 お心の程は拝察できまするが今後のこともあります。 くどくは申し上げませぬ。 お心を鬼になさいませ。 大事です。 反逆の徒輩の処置は大事です。 幕府の安危にかかはる事です。 胤長の屋敷は一時私がおあづかり致しませう。 他の者にあづけますとその者がまた和田一族につまらぬ恨みを買ひます。 私が憎まれ役になります。 将軍家にはかかはりの無い事に致します。 私情の意地で申し上げるのではありませぬ。 幕府千年の安泰のためです。 くどくは申し上げませぬ。 いくさの最中にはこれくらゐのものでちやうどいいのです。 将軍家には戦ふ者の心がわかつて居られませぬ。 詞は古きを慕ひ心は新しきを求め及ばぬまでも高き姿を願ひて。 たとひ一年間でも将軍家が幕府をお留守になさるとは先例の無い事でおだやかでございません。 どのやうな御資格で御渡宋なさるのでございませうか。 案内役が陳和卿では不安でございます。 方丈記。 この船で。 本当に宋へ行かうとなされたのかな。 さあとにかく鎌倉からちよつとでもお遁れになつてみたいやうな御様子に拝されました。 でもあの医王山の長老とかいふ事だけは信じてゐたのではないか。 いいえあれは偶然に符合いたしましたところを興がつて居られたといふだけの事でもつともそれは誰にしたつて自分の前身は知りたいものでございますしたとひ信じないにしても医王山の長老などといふ御立派なところではしなくも一致したといふのはわるいお気もなさるまいと思はれます。 うまい事を言ふ。 ここへ坐らう。 浜はやつぱり涼しい。 私はこの頃毎晩のやうにここへ来て蟹をつかまへては焼いて食べます。 蟹を。 法師だつてなまぐさは食ふさ。 私は蟹が好きでな。 もつとも私のやうな乱暴な法師も無いだらうが。 いいえ乱暴どころかかへつてお気が弱すぎるやうに私どもには見受けられます。 それは将軍家の前では別だ。 あの時だけは全く閉口だ。 自分のからだがきたならしく見えて来てたまらない。 どうもあの人はまへから苦手だ。 あの人は私をひどく嫌つてゐるらしい。 あの人たちには私のやうに小さい時からあちこち移り住んで世の中の苦労をして来た男といふものが薄汚く見えて仕様が無いものらしい。 私はあの人に底知れずさげすまれてゐるやうな気がする。 あんな生れてから一度も世間の苦労を知らずに育つて来た人たちにはへんな強さがある。 しかし叔父上も変つたな。 お変りになりましたでせうか。 変つた。 ばかになつた。 まあよさう。 蟹でもつかまへて来ようか。 あの唐船の下に不思議なくらゐたくさん蟹が集るのだ。 陳和卿も公暁のために苦心して蟹の巣を作つてくれたやうなものです。 しかしあれも馬鹿な男だ。 残忍でございます。 およしになつたらいかがです。 とらない人には食べさせないよ。 蟹は痛いとも思つてゐません。 なんだ今夜のはみんな雌か。 雌の蟹は肉が少くてつまらない。 焚火をしよう。 少し手伝つて下さい。 食べなさい。 いやとても。 それでは私がひとりで食べる。 私は蟹が好きなんだ。 どうしてだかひどく好きなんだ。 死なうかと思つてゐるんだ。 え。 死なうと思つてゐるのです。 死んでしまふんだ。 鎌倉へ来たのが間違ひでした。 こんどはたしかに祖母上の落度です。 私は一生京都にゐなければならなかつたのだ。 京都がそんなにお好きですか。 まだ私の気持がおわかりにならぬと見える。 京都はいやなところです。 みんな見栄坊です。 嘘つきです。 口ばかり達者で反省力も責任感も持つてゐません。 だから私の住むのにちやうどいいところなのです。 軽薄な野心家には都ほど住みよいところはありません。 そんなに御自身を卑下なさらなくとも。 叔父上があれほど京都を慕つてゐながらなぜいちども京都へ行かぬのかそのわけをご存じですか。 それは故右大将家の頃から京都とはあまり接近せぬ御方針で故右大将さまさへたつた二度御上洛なさつたきりで――。 しかし思ひ立つたら宋へでも渡らうとする将軍家です。 邪魔をなさるお方もございませうし――。 それもある。 へんな用心をして叔父上の上京をさまたげてゐる人もある。 けれどもそれだけではないんだ。 叔父上には京都がこはいのです。 まさか。 あれほどお慕ひしていらつしやるのに。 いやこはいんだ。 京都の人たちは軽薄で口が悪い。 そのむかしの木曾殿のれいもある事だ。 将軍家といふ名ばかり立派だが京の御所の御儀式の作法一つにもへどもどとまごつきずんぐりむつつりした田舎者言葉は関東訛りと来てゐるしそれに叔父上はあばたですあばた将軍とすぐに言はれる。 おやめなさいませ。 将軍家は微塵もそんな事をお気にしてはいらつしやらない。 失礼ながら禅師さまとはちがひます。 さうですか。 将軍家が気にしてゐなくたつて人から見ればあばたはあばただ。 祖父の故右大将だつて頭でつかちなもんだから京都へ行つたとたんにもう大頭将軍といふ有難くもないお名前を頂戴してあんな下賤の和卿などにさへいい加減にあしらはれて贈り物をつつかへされたりさんざん赤恥をかかされてゐるんだ。 京都といふのはそんないやなところなのです。 けれども右大将家はやつぱり偉い。 京都の人から馬鹿にされようがどうされようがちつとも気にしてはゐないんだ。 関東の長者の実力を信じて落ちついてゐたんだ。 ところが失礼ですけれども当将軍家はさうではないのです。 とても平気で居られない。 田舎者と言はれるのが死ぬよりつらいらしいので困つた事になるのです。 野暮な者ほど華奢で繊細なものにあこがれる傾きがあるやうだがあの人の御日常を拝見するにただ都の人から笑はれまいための努力だけそれだけなんだ。 あの人には京都がこはくて仕様がないんだ。 まぶしすぎるんだ。 京都へ行つても京都の人に笑はれないくらゐのものになつてから京都へ行きたいと念じてゐるのだ。 それに違ひないのだ。 やたらに官位の昇進をお望みになるのもそれだ。 京都の人にいやしめられたくないのだ。 大いにもつたいをつけてから京都へ行きたいのだらうがそんな努力はだめだめ。 みんなだめ。 せいぜいまあ田舎公卿とでもいふやうな猿に冠を着けさせた珍妙な姿のお公卿が出来上るだけだ。 田舎者のくせに都の人の身振りを真似るくらゐ浅間しく滑稽なものは無いのだ。 都の人はそんな者をまるで人間でないみたいに考へてゐるのだ。 私も京都へはじめて行つた時にはずいぶんまごついた。 くやし泣きに泣いた事もある。 けれども私の生来の軽薄な見栄坊の血が京の水によく合ふと見えていまではもう結局自分の落ちつくところは京都ではなからうかと思ふやうにさへなつてゐる。 私は山師だ。 山師は絶対に田舎では生きて行けない。 また田舎の人も山師を決して許さない。 田舎の人は冗談も何も無くけちくさくてただ固い。 けれどもあれはまたあれでいいのだ。 ただ黙つて田舎に住んでゐる人の中に本当の偉い人間といふものが見つかるやうな気もする。 いけないのは田舎者のくせに都の人と風流を競ひ奇妙に上品がつてゐる奴とそれから私のやうに田舎へ落ちて来た山師だ。 私はまさか陳和卿のやうに将軍家の前でわあわあ泣きはしないけれどもどうしてだかつい卑屈なあいそ笑ひなどしてしまつて自分で自分がいやになつていやになつてたまらないいけないいけない。 このままぢやいけない。 死ぬんだ。 私は死ぬんだ。 叔父上は私の山師を見抜いてゐる。 陳和卿と同類くらゐに考へてゐる。 私はきらはれてゐる。 さうして私だつてあの田舎者を冠つけた猿みたいに滑稽なものだと思つてゐるんだ。 あははお互ひに極度にさげすみ合つてゐるのだから面白い。 源家は昔から親子兄弟の仲が悪いんだ。 ところで将軍家はこのごろ本当に気が違つてゐるのださうぢやないか。 思ひ当るところがあるでせう。 誰がいやどなたがそのやうなけしからぬ事を――。 みんな言つてゐる。 相州も言つてゐた。 気が違つてゐるのだから将軍家が何をおつしやつてもさからはずにはいはいと言つてゐなさいつて相州が私に教へた。 祖母上だつて言つてゐる。 あの子は生れつき白痴だつたのですと言つてゐた。 尼御台さままで。 さうだ。 北条家の人たちにはそんな馬鹿なところがあるんだ。 気違ひだの白痴だのそんな事はめつたに言ふべき言葉ぢやないんだ。 殊に私をつかまへて言ふとは馬鹿だ。 油断してはいけない。 私は前将軍のいやまあそんな事はどうでもいいがとにかく北条家の人たちは根つからの田舎者で本気に将軍家の発狂やら白痴やらを信じてゐるんだから始末が悪い。 あの人たちはまさか陰謀なんて事は考へてゐないだらうが気違ひだの白痴だのと思ひ込むと誰はばからずそれを平気で言ひ出すもんだから妙な結果になつてしまふ事もある。 みんな馬鹿だ。 馬鹿ばつかりだ。 あなただつて馬鹿だ。 叔父上があなたを私のところへ寄こしたのは淋しいだらうからお話相手なんてそんな生ぬるい目的ぢやないんだ。 私の様子をさぐらうと――。 いいえちがひます。 将軍家はそんないやしい事をお考へになるお方ではございませぬ。 さうですか。 それだからあなたは馬鹿だといふのだ。 なんでもいい。 みんな馬鹿だ。 鎌倉中を見渡してまあ真人間は叔父上の御台所くらゐのところか。 ああ食つた。 すつかり食べてしまつた。 私は蟹を食べてゐるうちは何だか熱中して胸がわくわくしてそれこそ発狂してゐるみたいな気持になるんだ。 つまらぬ事ばかり言つたやうに思ひますが将軍家に手柄顔して御密告なさつてもかまひません。 馬鹿。 あぶないあぶない。 鎌倉には気違ひがはやると見える。 叔父上もいい御家来衆ばかりあつて仕合せだ。 禅師さまにはふたたび京都へおいでになりたいやうな御様子でございました。 文学の敵と言ったら大袈裟だが最近の文学に就いてそれを毒すると思われるものまあそういったようなもの。 私は私の仇敵をひしと抱擁いたします。 息の根を止めて殺してやろう下心。 芸術は常に一の拘束の結果であります。 芸術が自由であればそれだけ高く昇騰すると信ずることは凧のあがるのを阻むのはその糸だと信ずることであります。 カントの鳩は自分の翼を束縛する此の空気が無かったならばもっとよく飛べるだろうと思うのですがこれは自分が飛ぶためには翼の重さを托し得る此の空気の抵抗が必要だということを識らぬのです。 同様にして芸術が上昇せんが為には矢張り或る抵抗のお蔭に頼ることが出来なければなりません。 大芸術家とは束縛に鼓舞され障害が踏切台となる者であります。 伝える所ではミケランジェロがモオゼの窮屈な姿を考え出したのは大理石が不足したお蔭だと言います。 アイスキュロスは舞台上で同時に用い得る声の数が限られている事に依てそこで止むなくコオカサスに鎖ぐプロメトイスの沈黙を発明し得たのであります。 ギリシャは琴に絃を一本附け加えた者を追放しました。 芸術は拘束より生れ闘争に生き自由に死ぬのであります。 いい子。 いや有難うございました。 お蔭で私の芸術も鼓舞されました。 闘争に生き。 心中の敵最も恐るべし。 いいの。 あたしはきちんと仕末いたします。 はじめから覚悟していたことなのです。 ほんとうにもう。 それはいけない。 おまえの覚悟というのは私にわかっている。 ひとりで死んでゆくつもりかでなければ身ひとつでやけくそに落ちてゆくかそんなところだろうと思う。 おまえにはちゃんとした親もあれば弟もある。 私はおまえがそんな気でいるのを知っていながらはいそうですかとすまして見ているわけにゆかない。 死のうか。 一緒に死のう。 神さまだってゆるして呉れる。 成功よ。 大成功。 十五円も貸しやがった。 ばかねえ。 それはお手柄だ。 あわせて三十円じゃないか。 ちょっとした旅行ができるね。 恋人どうしはね。 こうして活動を見ていながらこうやって手を握り合っているものだそうだ。 死ぬのよさないか。 ええどうぞ。 あたしひとりで死ぬつもりなんですから。 すしは困るな。 でもあたしはたべたい。 おいしいか。 まずい。 ああまずい。 水上に行こうね。 あそんならあたし甘栗を買って行かなくちゃ。 おばさんがねたべたいたべたい言ってたの。 ねあたしこんな恰好をしておばさん変に思わないかしら。 かまわないさ。 ふたりで浅草へ活動見にいってその帰りに主人がよっぱらって水上のおばさんとこに行こうってきかないからそのまま来ましたって言えばそれでいい。 それもそうね。 おばさんおどろくでしょうね。 よろこぶだろう。 きっと。 おい私はいい子かね。 自分ばかりいい子になろうとしているのかね。 だけどもね。 おまえはまだそんなに不仕合せじゃないのだよ。 だっておまえはふつうの女だもの。 わるくもなければよくもない本質からふつうの女だ。 けれども私はちがう。 たいへんな奴だ。 どうやらこれはふつう以下だ。 女房にあいそをつかされてそれだからとてどうにもならずこうしてうろうろ女房について廻っているのはどんなに見っともないものか私は知っている。 おろかだ。 けれども私はいい子じゃない。 いい子はいやだ。 なにも私が人がよくて女にだまされそうしてその女をあきらめ切れず女にひきずられて死んで芸術の仲間たちから純粋だ世間の人たちから気の弱いよい人だったなどそんないい加減な同情を得ようとしているのではないのだよ。 おれはおれ自身の苦しみに負けて死ぬのだ。 なにもおまえのために死ぬわけじゃない。 私にもいけないところがたくさんあったのだ。 ひとに頼りすぎた。 ひとのちからを過信した。 そのこともまたそのほかの恥ずかしい数々の私の失敗も私自身知っている。 私はなんとかしてあたりまえのひとの生活をしたくてどんなにいままで努めて来たかおまえにもそれは少しわかっていないか。 わら一本それにすがって生きていたのだ。 ほんの少しの重さにもその藁が切れそうで私は一生懸命だったのに。 わかっているだろうね。 私が弱いのではなくてくるしみが重すぎるのだ。 これは愚痴だ。 うらみだ。 けれどもそれを口に出してはっきり言わなければひとはいやおまえだって私の鉄面皮の強さを過信してあの男はくるしいくるしい言ったってポオズだ身振りだと軽く見ている。 いやいいんだ。 おまえを非難しているんじゃないのです。 おまえはいいひとだ。 いつでもおまえは素直だった。 言葉のままに信じたひとだ。 おまえを非難しようとは思わない。 おまえよりもっともっと学問がありずいぶん古い友だちでも私の苦しさを知らなかった。 私の愛情を信じなかった。 むりもないのだ。 私はつまり下手だったのさ。 わかりました。 もういいのよ。 ほかのひとに聞えたらたいへんじゃないの。 なんにもわかっていないんだなあ。 おまえには私がよっぽどばかに見えているんだね。 私はねいま自分でいい子になろうとしているところが心のどこかの片隅にやっぱりひそんでいるのではないかしらとそれで苦しんでいるのだよ。 おまえと一緒になって六七年にもなるけれどおまえはいちどもいやそんなことでおまえを非難しようとは思わない。 むりもないことなのだ。 おまえの責任ではない。 冗談じゃないよ。 なんで私がいい子なものか。 人は私をなんと言っているか嘘つきのなまけものの自惚れやのぜいたくやの女たらしのそのほかまだまだおそろしくたくさんの悪い名前をもらっている。 けれども私はだまっていた。 一ことの弁解もしなかった。 私には私としての信念があったのだ。 けれどもそれは口に出して言っちゃいけないことだ。 それではなんにもならなくなるのだ。 私はやっぱり歴史的使命ということを考える。 自分ひとりの幸福だけでは生きて行けない。 私は歴史的に悪役を買おうと思った。 ユダの悪が強ければ強いほどキリストのやさしさの光が増す。 私は自身を滅亡する人種だと思っていた。 私の世界観がそう教えたのだ。 強烈なアンチテエゼを試みた。 滅亡するものの悪をエムファサイズしてみせればみせるほど次に生れる健康の光のばねもそれだけ強くはねかえって来るそれを信じていたのだ。 私はそれを祈っていたのだ。 私ひとりの身の上はどうなってもかまわない。 反立法としての私の役割が次に生れる明朗に少しでも役立てばそれで私は死んでもいいと思っていた。 誰も笑ってほんとうにしないかも知れないが実際それはそう思っていたものだ。 私はそんなばかなのだ。 私は間違っていたかも知れないね。 やはりどこかで私は思いあがっていたのかも知れないね。 それこそ甘い夢かも知れない。 人生は芝居じゃないのだからね。 おれは敗けてどうせ近く死ぬのだからせめて君だけでもしっかりやって呉れという言葉はこれは間違いかも知れないね。 一命すてて創った屍臭ふんぷんのごちそうは犬も食うまい。 与えられた人こそいいめいわくかもわからない。 われひと共に栄えるのでなければ意味をなさないのかも知れない。 寒いのね。 こんなに寒いと思わなかったわ。 東京ではもうセル着て歩いているひとだってあるのよ。 あそこを右。 きっとまだ寝ていることよ。 ええもすこしさき。 よしストップ。 あとは歩く。 あたしに叩かせて。 あたしがおばさんを起すのよ。 それがねえおばさんのとこに行こうってきかないのよ。 芸術家って子供ね。 よく来たねえ。 おそろしく寒いね。 お酒のみたいな。 だいじょうぶかい。 ああもうからだはすっかりいいんだ。 ふとったろう。 ああ重い。 おばさんこれおじさんのを借りたわよ。 おじさんが持っていってもいいと言ったの。 寒くってかなやしない。 あたし疲れてしまいました。 お風呂へはいってそれからひとねむり仕様と思うの。 したの野天風呂に行けるかしら。 ええ行けるそうです。 おじさんたちも毎日はいりに行ってるんですって。 あの辺かな。 でも雪が深くてのぼれないでしょう。 もっと下流がいいかな。 水上の駅のほうには雪がそんなになかったからね。 おいもう一晩のばさないか。 ええ。 どうでもいいけど。 でもお金たりなくなるかも知れないわよ。 いくらのこってんだい。 ねえおまえはやっぱり私の肉親に敗れたのだね。 どうもそうらしい。 そうよあたしはどうせ気にいられないお嫁よ。 いやそうばかりは言えないぞ。 たしかにおまえにも努力の足りないところがあった。 もういいわよ。 たくさんよ。 理くつばかり言ってるのね。 だからきらわれるのよ。 ああそうか。 おまえはおれをきらいだったのだね。 しつれいしたよ。 ひと寝いりしてから出発だ。 決行決行。 さあもう起きるのだよ。 出発だ。 あもうそんな時間になったの。 いやおひるすこしすぎただけだが私はもうかなわん。 おいおばさんが来たよ。 これなあ。 真綿だよ。 うちで紡いでこしらえた。 何もないのでな。 ありがとう。 おばさんまそんな心配して。 おだいじに行きなよ。 おばさんもお達者で。 おばさん握手。 酔ってるのよ。 もはやゆうよはならんね。 ええ。 ここにしよう。 薬のことは私でなくちゃわからない。 どれどれおまえはこれだけのめばいい。 すくないのねえ。 これだけで死ねるの。 はじめのひとはそれだけで死ねます。 私はしじゅうのんでいるからおまえの十倍はのまなければいけないのです。 生きのこったらめもあてられんからなあ。 じゃあおわかれだ。 生き残ったやつはつよく生きるんだぞ。 おいかず枝。 しっかりしろ。 生きちゃった。 ふたりとも生きちゃった。 おばさん。 いたいよう。 胸がいたいよう。 かず枝ここは宿ではないんだよ。 おばさんなんていないのだよ。 おばさん寒いよう。 火燵もって来てよう。 とうさんすみません。 残念だなあ。 かず枝のやつ宿の娘みたいに夜寝るときは亭主とおかみの間に蒲団ひかせてのんびり寝ていた。 おかしなやつだね。 かず枝もかあいそうだね。 海は海の見えるのはどちら側です。 海が見えるよ。 もうすぐ見えるよ。 浦島太郎さんの海が見えるよ。 ほら。 海だ。 ごらん海だよああ海だ。 ね大きいだろうね海だよ。 川だわねえお母さん。 川。 ああ川。 川じゃないよ。 海だよ。 てんでまるで違うじゃないか。 川だなんてひどいじゃないか。 芸術新聞。 親にさえ顔を踏まれたことはない。 一生おぼえております。 そうです。 あなたは。 やあ。 やはりそうでしたか。 お忘れかもしれないけれどかれこれ二十年ちかくまえ私はKで馬車やをしていました。 ごらんの通り。 私もいまは落ちぶれました。 とんでもない。 小説をお書きなさるんだったらそれはなかなか出世です。 ところで。 お慶がいつもあなたのお噂をしています。 おけい。 お慶ですよ。 お忘れでしょう。 お宅の女中をしていた――。 幸福ですか。 ええもうどうやら。 かまいませんでしょうか。 こんどあれを連れていちどゆっくりお礼にあがりましょう。 子供がねえあなたここの駅につとめるようになりましてなそれが長男です。 それから男女女その末のが八つでことし小学校にあがりました。 もう一安心。 お慶も苦労いたしました。 なんというかまあお宅のような大家にあがって行儀見習いした者はやはりどこかちがいましてな。 おかげさまでした。 お慶もあなたのお噂しじゅうして居ります。 こんどの公休にはきっと一緒にお礼にあがります。 それじゃきょうは失礼いたします。 お大事に。 来たのですか。 きょう私これから用事があって出かけなければなりません。 お気の毒ですがまたの日においで下さい。 なかなか。 頭のよさそうな方じゃないか。 あのひとはいまに偉くなるぞ。 そうですともそうですとも。 あのかたはお小さいときからひとり変って居られた。 目下のものにもそれは親切に目をかけて下すった。 先生梅。 ああ梅。 やっぱり梅は紅梅よりもこんな白梅のほうがいいようですね。 いいものだ。 先生花はおきらいですか。 たいへん好きだ。 美人だね。 美人じゃありませんよ。 そうかね二八と見えたが。 疲れたね休もうか。 そうですね。 向うの茶店は見はらしがよくていいだろうと思うんですけど。 同じ事だよ。 近いほうがいい。 何かたべたいね。 そうですね。 甘酒かおしるこか。 何かたべたいね。 さあほかに何もおいしいものなんてないでしょう。 親子どんぶりのようなものがないだろうか。 どんぶりも大きいしごはんの量も多いね。 でもまずかったでしょう。 まずいね。 先生見事な緋鯉でしょう。 見事だね。 先生これ鮎。 やっぱり姿がいいですね。 ああ泳いでるね。 こんどは鰻です。 面白いですね。 みんな砂の上に寝そべっていやがる。 先生どこを見ているんですか。 うん鰻。 生きているね。 やあ。 君山椒魚だ。 山椒魚。 たしかに山椒魚だ。 生きているじゃないか君おそるべきものだねえ。 はじめてだ。 はじめて見た。 いや前にも幾度か見たことがあるような気がするがこんなに真近かにあからさまに見たのははじめてだ。 君古代のにおいがするじゃないか。 深山の巒気が立ちのぼるようだ。 ランキのランは言うという字に糸を二つに山だ。 深山の精気といってもいいだろう。 おどろくべきものだ。 ううむ。 山椒魚がお気にいったとは意外です。 どこがそんなにいいんでしょう。 もっとも僕たちの先輩で山椒魚の小説をお書きになった方もあるにはありますけど。 そうだろう。 必ずやそれは傑作でしょう。 君たちにはまだまだこの幽玄なけものいや魚類いや。 これはなんといったものかな。 水族つまりおっとせいの類だねおっとせい――。 なんだこないだの一物はあれは両棲類中の有尾類。 わからんかな。 それ読んで字の如しじゃないか。 しっぽがあるから有尾類さ。 あははは。 しかし。 あれは興味の深い動物そうじゃまさしく珍動物とでも称すべきでありましょう。 面妖の老頭にしていかぬ老頭なり。 伯耆国は淀江村の百姓太郎左衛門が五十八年間手塩にかけて――。 身のたけ一丈頭の幅は三尺――。 いかぬ老頭。 いかぬ老頭。 山椒魚はどれどこに。 見世物になっているのです。 淀江村。 それならたしかだ。 いくらだ。 一丈です。 何を言っている。 ねだんだよ。 十銭です。 安いね。 嘘だろう。 いいえ軍人と子供は半額ですけど。 軍人と子供。 それは入場料ではないか。 私はその山椒魚を買うつもりなんだよ。 お金も準備して来た。 先生大丈夫ですか。 大丈夫だ。 一尺二十円として六尺あれば百二十円七尺あれば百四十円一丈あったら二百円と私は汽車の中で考えて来た。 君すまないが見世物の大将をここへ連れて来てくれないか。 それから宿の者にお酒を言いつけてやあこの部屋は汚いなあ君はよくこんな部屋で生活が出来るねまあ我慢しようここでその大将とお酒を飲みながらゆっくり話合ってみようじゃないか商談には饗応がつきものだ。 君たのむ。 あのへんな事を言うようだけど。 前の見せ物のね大将を僕の部屋に連れて来てくれませんか。 いや実はねあの見せ物の怪魚をねあいつをねぜひとも買いたいという人があるんです。 それは僕の先生なんだがしっかりした人ですから信用してもらいたいとにかくそう言って大将をね連れて来て下さいませんか。 お願いします。 相当の高い値で買ってもいいような事もその先生は言っておりますからね。 とにかくちょっとひとつお願いします。 君どうぞ君どうぞ。 まあ一つ飲み給え。 遠慮は要りません。 さあ。 はあ。 こんな恰好でごめん下さい。 なには。 あの店のほうは。 ちょっといま休ませて来ました。 君は大将でしょうね。 見せ物の大将に違いないでしょうね。 はいや。 委せられております。 うむ。 ゆずってくれるでしょうね。 は。 あれは山椒魚でしょう。 おそれいります。 実は私はあの山椒魚を長い間さがしていました。 伯耆国淀江村。 うむ。 失礼ですが旦那がたは学校関係の。 いやどこにも関係は無い。 そちらの書生さんは文士だ。 未だ無名の文士だ。 私は失敗者だ。 小説も書いた画もかいた政治もやった女に惚れた事もある。 けれどもみんな失敗まあ隠者そう思っていただきたい。 大隠は朝市に隠ると。 へへ。 まあご隠居で。 手きびしい。 一つ飲み給え。 もうたくさん。 それではこれで失礼します。 待った待った。 どうしたという事だ。 話はこれからです。 その話がたいていわかったもんで失礼しようと思ったのです。 旦那間が抜けて見えますぜ。 手きびしい。 まあ坐り給え。 私にはひまがないのです。 旦那山椒魚を酒のさかなにしようたってそれあ無理です。 気持の悪い事をおっしゃる。 それは誤解です。 山椒魚を焼いてたべる人があるという事は書物にも出ていたが私は食べない。 食べて下さいと言われても私は箸をつけないでしょう。 山椒魚の肉を酒のさかなにするなんて私はそんな豪傑でない。 私は山椒魚を尊敬している。 出来る事ならわが庭の池に迎え入れてそうして朝夕これと相親しみたいと思っているのですがね。 だからそれが気にくわないというのです。 医学の為とかあるいは学校の教育資料とか何とかそんな事なら話はわかるが道楽隠居が緋鯉にも飽きたドイツ鯉もつまらぬ山椒魚はどうだろう朝夕相親しみたいまあ一つ飲めそんなふざけたお話にまともにつき合っておられますか。 酔狂もいい加減になさい。 こっちは大事な商売をほったらかして来ているんだ。 唐変木め。 ばかばかしいのを通り越して腹が立ちます。 これは弱った。 有閑階級に対する鬱憤積怨というやつだ。 なんとか事態をまるくおさめる工夫は無いものか。 これはどうも意外の風雲。 ごまかしなさんな。 見えすいていますよ。 落ちついた振りをしていても火燵の中の膝頭がさっきからがくがく震えているじゃありませんか。 けしからぬ。 これはひどく下品になって来た。 よろしい。 それではこちらもざっくばらんにぶっつけましょう。 一尺二十円どうです。 一尺二十円なんの事です。 まことに伯耆国淀江村の百姓の池から出た山椒魚ならば身のたけ一丈ある筈だ。 それは書物にも出ている事です。 一尺二十円一丈ならば二百円。 はばかりながら三尺五寸だ。 一丈の山椒魚がこの世に在ると思い込んでいるところがいじらしいじゃないか。 三尺五寸。 小さい。 小さすぎる。 伯耆国淀江村の――。 およしなさい。 見世物の山椒魚はどれでもこれでもみんな伯耆国は淀江村から出たという事になっているんだ。 昔からそういう事になっているんだ。 小さすぎる。 悪かったね。 あれでも私ら親子三人を感心に養ってくれているんだ。 一万円でも手放しやしない。 一尺二十円とは笑わせやがる。 旦那間が抜けて見えますぜ。 すべてだめだ。 口の悪いのは私の親切さ。 突飛な慾は起さぬがようござんす。 それではごめんこうむります。 お送りする。 君手帖に書いて置いてくれ給え。 趣味の古代論者多忙の生活人に叱咤せらる。 そもそも南方の強か北方の強か。 趣味の古代論者多忙の生活人に叱咤せらる。 南方の強か北方の強か。 めし食って大汗かくもげびた事と柳多留にあったけれどもどうもこんなに子供たちがうるさくてはいかにお上品なお父さんといえども汗が流れる。 お父さんはお鼻に一ばん汗をおかきになるようね。 いつもせわしくお鼻を拭いていらっしゃる。 それじゃお前はどこだ。 内股かね。 お上品なお父さんですこと。 いや何もお前医学的な話じゃないか。 上品も下品も無い。 私はね。 このお乳とお乳のあいだに涙の谷。 心には悩みわずらう。 おもてには快楽。 通人。 誰か人を雇いなさい。 どうしたってそうしなければいけない。 唖の次男を斬殺す。 ×日正午すぎ×区×町×番地×商何某さんは自宅六畳間で次男何某君の頭を薪割で一撃して殺害自分はハサミで喉を突いたが死に切れず附近の医院に収容したが危篤同家では最近二女某さんに養子を迎えたが次男が唖の上に少し頭が悪いので娘可愛さから思い余ったもの。 涙の谷。 涙の谷。 度胸。 誰かひとを雇いなさい。 でもなかなか来てくれるひともありませんから。 捜せばきっと見つかりますよ。 来てくれるひとが無いんじゃ無いいてくれるひとが無いんじゃないかな。 私がひとを使うのが下手だとおっしゃるのですか。 そんな。 仕事部屋のほうへ出かけたいんだけど。 これからですか。 そう。 どうしても今夜のうちに書き上げなければならない仕事があるんだ。 今夜は私妹のところへ行って来たいと思っているのですけど。 だからひとを雇って。 いらっしゃい。 飲もう。 きょうはまたばかに綺麗な縞を。 わるくないでしょう。 あなたの好く縞だと思っていたの。 きょうは夫婦喧嘩でね陰にこもってやりきれねえんだ。 飲もう。 今夜は泊るぜ。 だんぜん泊る。 お父さまは。 お寺へ。 お寺へ。 何しに。 お盆でしょう。 だからお父さまがお寺まいりに行ったの。 そう。 早く帰って来るかしら。 さあどうでしょうね。 マサ子がおとなしくしていたら早くお帰りになるかも知れないわ。 お母さまマサ子のお豆に花が咲いているわ。 どれどれあらほんとう。 いまにお豆がたくさん生るわよ。 暑かったでしょう。 はだかになったら。 けさお盆の特配でビイルが二本配給になったの。 ひやして置きましたけどお飲みになりますか。 そいつは凄いね。 お母さんと一本ずつ飲みましょうか。 お相手をしますわ。 昼の酒は酔うねえ。 あらほんとうからだじゅうまっかですわ。 マサ子もお父さまとご一緒だとパンパがおいしいようね。 ああそうかきょうは巴里祭だ。 七月十四日この日はね革命。 バスチーユのね牢獄を攻撃してね民衆がねあちらからもこちらからも立ち上ってそれ以来フランスの春こうろうの花の宴が永遠に永遠にだよ永遠に失われる事になったのだけどねでも破壊しなければいけなかったんだ永遠に新秩序の新道徳の再建が出来ない事がわかっていながらもそれでも破壊しなければいけなかったんだ革命いまだ成らずと孫文が言って死んだそうだけれども革命の完成というものは永遠に出来ない事かも知れないしかしそれでも革命を起さなければいけないんだ革命の本質というものはそんな具合いにかなしくて美しいものなんだそんな事をしたって何になると言ったってそのかなしさと美しさとそれから愛。 こりゃどうもお父さんは泣き上戸らしいぞ。 どうもいかん。 酔いすぎた。 フランス革命で泣いちゃった。 すこし寝るよ。 ふとっていまチねえべっぴんちゃんでチねえ。 可愛いでしょう。 子供を見てるとながいきしたいとお思いにならない。 うむ。 川。 小。 あの睡眠剤が無かったかしら。 ございましたけどあたしゆうべ飲んでしまいましたわ。 ちっともききませんでしたの。 飲みすぎるとかえってきかないんです。 六錠くらいがちょうどいいんです。 いっそ発狂しちゃったら気が楽だ。 あたしもそうよ。 正しいひとは苦しい筈が無い。 つくづく僕は感心する事があるんだ。 どうして君たちはそんなにまじめでまっとうなんだろうね。 世の中を立派に生きとおすように生れついた人とそうでない人とはじめからはっきり区別がついているんじゃないかしら。 いいえ鈍感なんですのよあたしなんかは。 ただ。 ただ。 ただねあなたがお苦しそうだとあたしも苦しいの。 なんだつまらない。 いいのよいいのよ。 なんとも思ってやしないわよ。 エキスキュウズミイ。 ドンマイドンマイ。 でもお痩せになりましたわ。 君だって痩せたようだぜ。 余計な心配をするからそうなります。 いいえだからそう言ったじゃないの。 なんとも思ってやしないわよって。 いいのよあたしは利巧なんですから。 ただね時々はでえじにしてくんな。 大事にしているつもりなんだがね。 風にも当てず大事にしているつもりなんだ。 君は本当にいいひとなんだ。 つまらない事を気にかけずちゃんとプライドを持って落ちついていなさいよ。 僕はいつでも君の事ばかり思っているんだ。 その点に就いては君はどんなに自信を持っていても持ちすぎるという事は無いんだ。 でもあなたお変りになったわよ。 変るもんか。 変りやしないさ。 ただもうこの頃は暑いんだ。 暑くてかなわない。 夏はどうもエキスキュウズミイだ。 にくいひと。 小。 頭がいたくてね暑気に負けたのだろう。 信州のあの温泉あのちかくには知ってる人もいるしいつでもおいでお米持参の心配はいらないとその人が言っているんだ。 二三週間静養して来たい。 このままだと僕は気が狂いそうだ。 とにかく東京から逃げたいんだ。 お留守のあいだにピストル強盗がはいったらどうしよう。 強盗に申し上げたらいいさあたしの亭主は気違いですよって。 ピストル強盗も気違いにはかなわないだろう。 無いわ。 どうしたのでしょう。 空巣にはいられたのかしら。 売ったんだ。 まあ素早い。 そこがピストル強盗よりも凄いところさ。 それじゃ何を着ていらっしゃるの。 開襟シャツ一枚でいいよ。 さるすべりはこれは一年置きに咲くものかしら。 そうなんでしょうね。 自分がこの女の人と死ぬのは恋のためではない。 自分はジャーナリストである。 ジャーナリストは人に革命やら破壊やらをそそのかして置きながらいつも自分はするりとそこから逃げて汗などを拭いている。 実に奇怪な生き物である。 現代の悪魔である。 自分はその自己嫌悪に堪えかねてみずから革命家の十字架にのぼる決心をしたのである。 ジャーナリストの醜聞。 それはかつて例の無かった事ではあるまいか。 自分の死が現代の悪魔を少しでも赤面させ反省させる事に役立ったらうれしい。 お父さ。 おどさ。 おどさ。 おどさ。 おどさ。 瀟洒典雅。 オペラの怪人。 め組の喧嘩。 いのち。 なんてまあ哀しい男だろう。 生を棄てて逃げ去るのは罪悪だと人は言う。 しかし僕に死を禁ずるその同じ詭弁家が時には僕を死の前にさらしたり死に赴かせたりするのだ。 彼等の考え出すいろいろな革新は僕の周囲に死の機会を増し彼等の説くところは僕を死に導きまたは彼等の定める法律は僕に死を与えるのだ。 あ鳴つた。 近いやうだね。 ええ。 どうもこの壕は窮屈で。 さうかね。 しかしこれくらゐでちやうどいいのだよ。 あまり深いと生埋めの危険がある。 でももすこし広くしてもいいでせう。 うむまあさうだがいまは土が凍つて固くなつてゐるから掘るのが困難だ。 そのうちに。 もう春だねえ。 桜が咲いた。 さうですか。 ちよつとどいて下さい。 ここをお掃除しますから。 時になんだね。 いよいよ春になつたね。 燕も来た。 春宵一刻価千金か。 ごちそうさまでござりました。 そろそろ私もごはんにしよう。 よい眺めぢやなう。 こりやいい孫が出来た。 頬から子供が生れる事はござりません。 いのちにかかはるものではないでせうね。 なあにこはい事なんか無いさ。 遠慮には及びませぬて。 人間すべからく酔ふべしぢや。 まじめにも程度がありますよ。 阿波聖人とは恐れいる。 お見それ申しましたよ。 偉いんだつてねえ。 この瘤が雨に打たれてヒンヤリするのも悪くないわい。 こりやどうもヒンヤリしすぎて寒くなつた。 はいごめんよ。 ちよつとごめんよ。 やあこれはいい座敷だ。 どうですみなさんも。 この座敷には偉いお婆さんも聖人もゐませんからどうか遠慮なくどうぞ。 これはいけない。 あるわい。 や月が出てゐる。 春宵一刻――。 気持よささうに酔つてゐる。 なんてまあ下手な踊りだ。 ひとつ私の手踊りでも見せてあげませうかい。 やそれは困ります。 私の孫ですよ。 おはやうござります。 いやあ。 お帰りなさいまし。 おみおつけが冷たくなりまして。 いや冷たくてもいいさ。 あたためるには及びませんよ。 瘤がしなびたやうですね。 うむ。 破れて水が出たのでせう。 うむ。 また水がたまつて腫れるんでせうね。 さうだらう。 旦那。 先生。 お母さん。 お父さんの瘤はどうしてそんなに赤いのかしら。 蛸の頭みたいね。 さうねでも木魚を頬ぺたに吊してゐるやうにも見えるわね。 うるさい。 これは駄目だ。 ヨシヨシワタシモコノコブヲゼヒトモトツテモラヒマセウ。 傑作意識。 ふつつかながら。 是は阿波の鳴門に一夏を送る僧にて候。 さても此浦は平家の一門果て給ひたる所なれば痛はしく存じ毎夜此磯辺に出でて御経を読み奉り候。 磯山に暫し岩根のまつ程に暫し岩根のまつ程に誰が夜舟とは白波に楫音ばかり鳴門の浦静かなる今宵かな浦静かなる今宵かな。 きのふ過ぎけふと暮れ明日またかくこそ有るべけれ。 待つて下さい。 いま逃げられてはたまりません。 逃げろ逃げろ。 鍾馗かも知れねえ。 いいえ鍾馗ではございません。 お願ひがございます。 この瘤をどうかどうかとつて下さいまし。 何瘤。 なんださうかあれはこなひだの爺さんからあづかつてゐる大事の品だがしかしお前さんがそんなに欲しいならやつてもいい。 とにかくあの踊りは勘弁してくれ。 せつかくの酔ひが醒める。 たのむ。 放してくれ。 これからまた別なところへ行つて飲み直さなくちやいけねえ。 たのむ。 たのむから放せ。 おい誰かこの変な人にこなひだの瘤をかへしてやつてくれ。 欲しいんださうだ。 不正。 兄さんには冒険心が無いから駄目ね。 ケチだわ。 いやさうぢやない。 男振りがよすぎるんだよ。 好奇心を爆発させるのも冒険また好奇心を抑制するのもやつぱり冒険どちらも危険さ。 人には宿命といふものがあるんだよ。 人はなぜお互ひ批評し合はなければ生きて行けないのだらう。 砂浜の萩の花も這ひ寄る小蟹も入江に休む鴈も何もこの私を批評しない。 人間も須くかくあるべきだ。 人おのおの生きる流儀を持つてゐる。 その流儀をお互ひ尊敬し合つて行く事が出来ぬものか。 誰にも迷惑をかけないやうに努めて上品な暮しをしてゐるのにそれでも人は何のかのと言ふ。 うるさいものだ。 もしもし浦島さん。 もしもし。 無理もねえよ。 わかるさ。 なんだお前。 こなひだ助けてやつた亀ではないか。 まだこんなところにうろついてゐたのか。 うろついてゐたのかとは情無い。 恨むぜ若旦那。 私はかう見えてもあなたに御恩がへしをしたくてあれから毎日毎晩この浜へ来て若旦那のおいでを待つてゐたのだ。 それは浅慮といふものだ。 或いは無謀とも言へるかも知れない。 また子供たちに見つかつたらどうする。 こんどは生きては帰られまい。 気取つてゐやがる。 また捕まへられたらまた若旦那に買つてもらふつもりさ。 浅慮で悪うござんしたね。 私はどうしたつて若旦那にもう一度お目にかかりたかつたんだから仕様がねえ。 この仕様がねえといふところが惚れた弱味よ。 心意気を買つてくんな。 身勝手な奴だ。 なあんだ若旦那。 自家撞着してゐますぜ。 さつきご自分で批評がきらひだなんておつしやつてた癖にご自分では私の事を浅慮だの無謀だのこんどは身勝手だのさかんに批評してやがるぢやないか。 若旦那こそ身勝手だ。 私には私の生きる流儀があるんですからね。 ちつとはみとめて下さいよ。 私のは批評ではないこれは訓戒といふものだ。 諷諫といつてもよからう。 諷諫耳に逆ふもその行を利すといふわけのものだ。 気取らなけれあいい人なんだが。 いやもう私は何も言はん。 私のこの甲羅の上に腰かけて下さい。 お前はまあ何を言ひ出すのです。 私はそんな野蛮な事はきらひです。 亀の甲羅に腰かけるなどはそれは狂態と言つてよからう。 決して風流の仕草ではない。 どうだつていいぢやないかそんな事は。 こつちは先日のお礼としてこれから竜宮城へ御案内しようとしてゐるだけだ。 さあ早く私の甲羅に乗つて下さい。 何竜宮。 おふざけでない。 お前はお酒でも飲んで酔つてゐるのだらう。 とんでもない事を言ひ出す。 竜宮といふのは昔から歌に詠まれまた神仙譚として伝へられてゐますがあれはこの世には無いものねわかりますか。 あれは古来私たち風流人の美しい夢あこがれと言つてもいいでせう。 たまらねえ。 風流の講釈はあとでゆつくり伺ひますからまあ私の言ふ事を信じてとにかく私の甲羅に乗つて下さい。 あなたはどうも冒険の味を知らないからいけない。 おやお前もやつぱりうちの妹と同じ様な失礼な事を言ふね。 いかにも私は冒険といふものはあまり好きでない。 たとへばあれは曲芸のやうなものだ。 派手なやうでもやはり下品だ。 邪道と言つていいかも知れない。 宿命に対する諦観が無い。 伝統に就いての教養が無い。 めくら蛇におぢずとでもいふやうな形だ。 私ども正統の風流の士のいたく顰蹙するところのものだ。 軽蔑してゐると言つていいかも知れない。 私は先人のおだやかな道をまつすぐに歩いて行きたい。 ぷ。 その先人の道こそ冒険の道ぢやありませんか。 いや冒険なんて下手な言葉を使ふから何か血なまぐさくて不衛生な無頼漢みたいな感じがして来るけれども信じる力とでも言ひ直したらどうでせう。 あの谷の向う側にたしかに美しい花が咲いてゐると信じ得た人だけが何の躊躇もなく藤蔓にすがつて向う側に渡つて行きます。 それを人は曲芸かと思つて或いは喝采し或いは何の人気取りめがと顰蹙します。 しかしそれは絶対に曲芸師の綱渡りとは違つてゐるのです。 藤蔓にすがつて谷を渡つてゐる人はただ向う側の花を見たいだけなのです。 自分がいま冒険をしてゐるなんてそんな卑俗な見栄みたいなものは持つてやしないんです。 なんの冒険が自慢になるものですか。 ばかばかしい。 信じてゐるのです。 花のある事を信じ切つてゐるのです。 そんな姿をまあ仮に冒険と呼んでゐるだけです。 あなたに冒険心が無いといふのはあなたには信じる能力が無いといふ事です。 信じる事は下品ですか。 信じる事は邪道ですか。 どうもあなたがた紳士は信じない事を誇りにして生きてゐるのだからしまつが悪いや。 それはね頭のよさぢやないんですよ。 もつと卑しいものなのですよ。 吝嗇といふものです。 損をしたくないといふ事ばかり考へてゐる証拠ですよ。 御安心なさい。 誰もあなたにものをねだりやしませんよ。 人の深切をさへあなたたちは素直に受取る事を知らないんだからなあ。 あとのお返しが大変だなんてね。 いやどうも風流の士なんてのはケチなもんだ。 ひどい事を言ふ。 妹や弟にさんざん言はれて浜へ出るとこんどは助けてやつた亀にまで同じ様な失敬な批評を加へられる。 どうもわれとわが身に伝統の誇りを自覚してゐない奴は好き勝手な事を言ふものだ。 一種のヤケと言つてよからう。 私には何でもよくわかつてゐるのだ。 私の口から言ふべき事では無いがお前たちの宿命と私の宿命にはたいへんな階級の差がある。 生れた時からもう違つてゐるのだ。 私のせゐではない。 それは天から与へられたものだ。 しかしお前たちにはそれがよつぽど口惜しいらしい。 何のかのと言つて私の宿命をお前たちの宿命にまで引下さうとしてゐるがしかし天の配剤人事の及ばざるところさ。 お前は私を竜宮へ連れて行くなどと大法螺を吹いて私と対等の附合ひをしようとたくらんでゐるらしいがもういい私には何もかもよくわかつてゐるのだからあまり悪あがきしないでさつさと海の底のお前の住居へ帰れ。 なんだせつかく私が助けてやつたのにまた子供たちに捕まつたら何にもならぬ。 お前たちこそ人の深切を素直に受け取る法を知らぬ。 えへへ。 せつかく助けてやつたは恐れいる。 紳士はこれだからいやさ。 自分がひとに深切を施すのはたいへんの美徳でさうして内心いささか報恩などを期待してゐるくせにひとの深切にはいやもうひどい警戒であいつと対等の附合ひになつてはかなはぬなどと考へてゐるんだからげつそりしますよ。 それぢや私だつて言ひますがあなたが私を助けてくれたのは私が亀でさうしていぢめてゐる相手は子供だつたからでせう。 亀と子供ぢやあその間にはひつて仲裁してもあとくされがありませんからね。 それに子供たちには五文のお金でも大金ですからね。 しかしまあ五文とは値切つたものだ。 私はも少し出すかと思つた。 あなたのケチには呆れましたよ。 私のからだの値段がたつた五文かと思つたら私は情無かつたね。 それにしてもあの時相手が亀と子供だつたからあなたは五文でも出して仲裁したんだ。 まあ気まぐれだね。 しかしあの時の相手が亀と子供でなくまあたとへば荒くれた漁師が病気の乞食をいぢめてゐたのだつたらあなたは五文はおろか一文だつて出さずいやただ顔をしかめて急ぎ足で通り過ぎたに違ひないんだ。 あなたたちは人生の切実の姿を見せつけられるのをとてもいやがるからね。 それこそ御自身の高級な宿命に糞尿を浴びせられたやうな気がするらしい。 あなたたちの深切は遊びだ。 享楽だ。 亀だから助けたんだ。 子供だからお金をやつたんだ。 荒くれた漁師と病気の乞食の場合はまつぴらなんだ。 実生活の生臭い風にお顔を撫でられるのがとてもとてもいやなんだ。 お手をよごすのがいやなのさ。 なんてねこんなのを聞いたふうの事と言ふんですよ浦島さん。 あなたは怒りやしませんね。 だつて私はあなたを好きなんだものいや怒るかな。 あなたのやうに上流の宿命を持つてゐるお方たちは私たち下賤のものに好かれる事をさへ不名誉だと思つてゐるらしいのだから始末がわるい。 殊に私は亀なんだからな。 亀に好かれたんぢやあ気味がわるいかしかしまあ勘弁して下さいよ好き嫌ひは理窟ぢや無いんだ。 あなたに助けられたから好きといふわけでも無いしあなたが風流人だから好きといふのでも無い。 ただふつと好きなんだ。 好きだからあなたの悪口を言つてあなたをからかつてみたくなるんだ。 これがつまり私たち爬虫類の愛情の表現の仕方なのさ。 どうもね爬虫類だからね蛇の親類なんだからね信用のないのも無理がねえよ。 しかし私はエデンの園の蛇ぢやないはばかりながら日本の亀だ。 あなたに竜宮行きをそそのかして堕落させようなんてたくらんでゐるんぢやねえのだ。 心意気を買つてくんな。 私はただあなたと一緒に遊びたいのだ。 竜宮へ行つて遊びたいのだ。 あの国にはうるさい批評なんか無いのだ。 みんなのんびり暮してゐるよ。 だから遊ぶにはもつて来いのところなんだ。 私は陸にもかうして上つて来れるしまた海の底へももぐつて行けるから両方の暮しを比較して眺める事が出来るのだがどうも陸上の生活は騒がしい。 お互ひ批評が多すぎるよ。 陸上生活の会話の全部が人の悪口かでなければ自分の広告だ。 うんざりするよ。 私もちよいちよいかうして陸に上つて来たお蔭で陸上生活に少しかぶれてそれこそ聞いたふうの批評なんかを口にするやうになつてどうもこれはとんでもない悪影響を受けたものだと思ひながらもこの批評癖にもやめられぬ味がありまして批評の無い竜宮城の暮しにもちよつと退屈を感ずるやうになつたのです。 どうも悪い癖を覚えたものです。 文明病の一種ですかね。 いまでは私は自分が海の魚だか陸の虫だかわからなくなりましたよ。 たとへばあの鳥だか獣だかわからぬ蝙蝠のやうなものですね。 悲しき性になりました。 まあ海底の異端者とでもいつたやうなところですかね。 だんだん故郷の竜宮城にも居にくくなりましてねしかしあそこは遊ぶにはいいところだそれだけは保証します。 信じて下さい。 歌と舞ひと美食と酒の国です。 あなたたち風流人にはもつて来いの国です。 あなたはさつき批評はいやだとつくづく慨歎してゐたではありませんか竜宮には批評はありませんよ。 本当になあそんな国があつたらなあ。 あれまだ疑つてゐやがる。 私は嘘をついてゐるのぢやありません。 なぜ私を信じないんです。 怒りますよ。 実行しないでただあこがれて溜息をついてゐるのが風流人ですか。 いやらしいものだ。 それぢやまあ仕方が無い。 仰せに随つてお前の甲羅に腰かけてみるか。 言ふ事すべて気にいらん。 腰かけてみるかとは何事です。 腰かけてみるのも腰かけるのも結果に於いては同じぢやないか。 疑ひながらためしに右へ曲るのも信じて断乎として右へ曲るのもその運命は同じ事です。 どつちにしたつて引返すことは出来ないんだ。 試みたとたんにあなたの運命がちやんときめられてしまふのだ。 人生には試みなんて存在しないんだ。 やつてみるのはやつたのと同じだ。 実にあなたたちは往生際が悪い。 引返す事が出来るものだと思つてゐる。 わかつたよわかつたよ。 それでは信じて乗せてもらはう。 よし来た。 ちよつと眼をつぶつて。 水深千尋。 吐いてもいいか。 なんだへどを吐くのか。 きたねえ船客だな。 おや馬鹿正直にまだ眼をつぶつてゐやがる。 これだから私は太郎さんが好きさ。 もう眼をあいてもよござんすよ。 眼をあいてよもの景色をごらんになつたら胸の悪いのなんかすぐになほつてしまひます。 竜宮か。 何を言つてるんだ。 まだやつと水深千尋ぢやないか。 竜宮は海底一万尋だ。 へええ。 海つてものは広いもんだねえ。 浜育ちのくせに山奥の猿みたいな事を言ふなよ。 あなたの家の泉水よりは少し広いさ。 あれは何だ。 雲かね。 冗談言つちやいけねえ。 海の中に雲なんか流れてゐやしねえ。 それぢや何だ。 墨汁一滴を落したやうな感じだ。 単なる塵芥かね。 間抜けだねあなたは。 見たらわかりさうなものだ。 あれは鯛の大群ぢやないか。 へえ。 微々たるものだね。 あれでも二三百匹はゐるんだらうね。 馬鹿だな。 本気で云つてゐるのか。 それぢやあ二三千か。 しつかりしてくれ。 まづざつと五六百万。 五六百万。 おどかしちやいけない。 あれは鯛ぢやないんだ。 海の火事だ。 ひどい煙だ。 あれだけの煙だとさうさね日本の国を二十ほど寄せ集めたくらゐの広大の場所が燃えてゐる。 嘘をつけ。 海の中で火が燃えるもんか。 浅慮浅慮。 水の中だつて酸素があるんですからね。 火の燃えないわけはない。 ごまかすな。 それは無智な詭弁だ。 冗談はさて置いていつたいあのゴミのやうなものは何だ。 やつぱり鯛かね。 まさか火事ぢやあるまい。 いや火事だ。 いつたいあなた陸の世界の無数の河川が昼夜をわかたず海にそそぎ込んでもそれでも海の水が増しもせず減りもせずいつも同じ量をちやんと保つて居られるのはどういふわけか考へてみた事がありますか。 海のはうだつて困りますよ。 あんなにじやんじやん水を注ぎ込まれちや処置に窮しますよ。 それでまあ時々あんな工合ひにして不用な水を焼き捨てるのですな。 やあ燃える燃える大火事だ。 なにちつとも煙が広がりやしない。 いつたいあれは何さ。 さつきから少しも動かないところを見るとさかなの大群でもなささうだ。 意地わるな冗談なんか云はないで教へておくれ。 それぢや教へてあげませう。 あれはね月の影法師です。 またかつぐんぢやないか。 いいえ海の底には陸の影法師は何も写りませんが天体の影法師はやはり真上から落ちて来ますから写るのです。 月の影法師だけでなく星辰の影法師も皆写ります。 だから竜宮ではその影法師をたよりに暦を作り四季を定めます。 あの月の影法師はまんまるより少し欠けてゐますからけふは十三夜かな。 ちよつとまた眼をつぶつて。 ここはちやうど竜宮の入口になつてゐるのです。 人間が海の底を探険してもたいていここが海底のどんづまりだと見極めて引上げて行くのです。 ここを越えて行くのは人間ではあなたが最初でまた最後かも知れません。 眼をあいてごらん。 あれは何だ。 山か。 さうです。 竜宮の山か。 さうです。 まつ白ぢやないか。 雪が降つてゐるのかしら。 どうも高級な宿命を持つてゐる人は考へる事も違ひますね。 立派なものだ。 海の底にも雪が降ると思つてゐるんだからね。 しかし海の底にも火事があるさうだし。 雪だつて降るだらうさ。 何せ酸素があるんだから。 雪と酸素ぢや縁が遠いや。 縁があつてもまづ風と桶屋くらゐの関係ぢやないか。 ばかばかしい。 そんな事で私をおさへようたつて駄目さ。 どうもお上品なお方たちは洒落が下手だ。 雪はよいよい帰りはこはいつてのはどんなもんだい。 あんまりうまくもねえか。 それでも酸素よりはいいだらう。 さんそネツと来るか。 はくそみたいだ。 酸素はどうも助からねえ。 ところであの山は。 ところでとは大きく出たぢやないか。 ところであの山は雪が降つてゐるのではないのです。 あれは真珠の山です。 真珠。 いや嘘だらう。 たとひ真珠を十万粒二十万粒積み重ねたつてあれくらゐの高い山にはなるまい。 十万粒二十万粒とはケチな勘定の仕方だ。 竜宮では真珠を一粒二粒なんてそんなこまかい算へ方はしませんよ。 一山二山とやるね。 一山は約三百億粒だとかいふ話だが誰もそれをいちいち算へた事も無い。 それを約百万|山くらゐ積み重ねるとまづざつとあれくらゐの峰が出来る。 真珠の捨場には困つてゐるんだ。 もとをただせばさかなの糞だからね。 静かだね。 おそろしいくらゐだ。 地獄ぢやあるまいね。 しつかりしてくれ若旦那。 王宮といふものは皆このやうに静かなものだよ。 丹後の浜の大漁踊りみたいな馬鹿騒ぎを年中やつてゐるのが竜宮だなんて陳腐な空想をしてゐたんぢやねえのか。 あはれなものだ。 簡素幽邃といふのがあなたたちの風流の極致だらうぢやないか。 地獄とはあさましい。 馴れてくるとこの薄暗いのが何とも言へずやはらかく心を休めてくれる。 足許に気をつけて下さいよ。 滑つてころんだりしては醜態だ。 あれあなたはまだ草履をはいてゐるね。 脱ぎなさいよ失礼な。 何だこの道は。 気持が悪い。 道ぢやない。 ここは廊下ですよ。 あなたはもう竜宮城へはひつてゐるのです。 さうかね。 竜宮には雨も降らなければ雪も降りません。 だから陸上の家のやうにあんな窮屈な屋根や壁を作る必要は無いのです。 でも門には屋根があつたぢやないか。 あれは目じるしです。 門だけではなく乙姫のお部屋にも屋根や壁はあります。 しかしそれもまた乙姫の尊厳を維持するために作られたもので雨露を防ぐためのものではありません。 そんなものかね。 その乙姫の部屋といふのはどこにあるの。 見渡したところ冥途もかくや蕭寂たる幽境一木一草も見当らんぢやないか。 どうも田舎者には困るね。 でつかい建物やごてごてした装飾には口をあけておつたまげてもこんな幽邃の美には一向に感心しない。 浦島さんあなたの上品もあてにならんね。 もつとも丹後の荒磯の風流人ぢや無理もないがね。 伝統の教養とやらも聞いて冷汗が出るよ。 正統の風流人とはよくも言つた。 かうして実地に臨んでみると田舎者まる出しなんだから恐れいる。 人真似こまねの風流ごつこはまあこれからはやめるんだね。 だつて何も見えやしないんだもの。 だから足許に気をつけなさいつて云つてるぢやありませんか。 この廊下はただの廊下ぢやないんですよ。 魚の掛橋ですよ。 よく気をつけてごらんなさい。 幾億といふ魚がひしとかたまつて廊下の床みたいな工合ひになつてゐるのですよ。 これはひどい。 悪い趣味だ。 これがすなはち簡素幽邃の美かね。 さかなの背中を踏んづけて歩くなんて野蛮きはまる事ぢやないか。 だいいちこのさかなたちに気の毒だ。 こんな奇妙な風流は私のやうな田舎者にはわかりませんねえ。 いいえ。 私たちはここに毎日集つて乙姫さまの琴の音に聞き惚れてゐるのです。 魚の掛橋は風流のために作つてゐるのではありません。 かまはずどうかお通り下さい。 さうですか。 私はまたこれも竜宮の装飾の一つかと思つて。 それだけぢやあるまい。 ひよつとしたらこの掛橋も浦島の若旦那を歓迎のために乙姫さまが特にさかなたちに命じて。 あこれ。 まさかそれほど私は自惚れてはゐません。 でもねお前はこれを廊下の床のかはりだなんていい加減を言ふものだから私もついそのさかなたちが踏まれて痛いかと思つてね。 さかなの世界には床なんてものは必要がありません。 これがまあ陸上の家にたとへたならば廊下の床にでも当るかと思つて私はあんな説明をしてあげたので決していい加減を言つたんぢやない。 なにさかなたちは痛いなんて思ふもんですか。 海の底ではあなたのからだだつて紙一枚の重さくらゐしか無いのですよ。 何だかご自分のからだがふはふは浮くやうな気がするでせう。 私はもう何も信じる気がしなくなつた。 これだから私は冒険といふものはいやなんだ。 だまされたつてそれを看破する法が無いんだからね。 ただもう道案内者の言ふ事に従つてゐなければいけない。 これはこんなものだと言はれたらそれつきりなんだからね。 実に冒険は人を欺く。 琴の音も何もちつとも聞えやしないぢやないか。 あなたはどうも陸上の平面の生活ばかりしてゐるから目標は東西南北のいづれかにあるとばかり思つていらつしやる。 しかし海にはもう二元の方向がある。 すなはち上と下です。 あなたはさつきから乙姫の居所を前方にばかり求めていらつしやる。 ここにあなたの重大なる誤謬が存在してゐたわけだ。 なぜあなたは頭上を見ないのです。 また脚下を見ないのです。 海の世界は浮いて漂つてゐるものです。 さつきの正門もまたあの真珠の山だつてみんな少し浮いて動いてゐるのです。 あなた自身がまた上下左右にゆられてゐるので他の物の動いてゐるのがわからないだけなのです。 あなたはさつきからずいぶん前方にお進みになつたやうに思つていらつしやるかも知れないけれどまあ同じ位置ですね。 かへつて後退してゐるかも知れない。 いまは潮の関係でずんずんうしろに流されてゐます。 さうしてさつきから見ると百尋くらゐみんな一緒に上方に浮きました。 まあとにかくこの魚の掛橋をもう少し渡つてみませう。 ほうら魚の背中もだんだんまばらになつて来たでせう。 足を踏みはづさないやうに気をつけて下さいよ。 なに踏みはづしたつてすとんと落下する気づかひはありませんがね何せあなたも紙一枚の重さなんだから。 つまりこの橋は断橋なのです。 この廊下を渡つても前方には何も無い。 しかし脚下を見よです。 おいさかなども少しどけ若旦那が乙姫さまに逢ひに行くのだ。 こいつらはかうして竜宮城の本丸の天蓋をなしてゐるやうなものです。 海月なす漂へる天蓋とでも言つたらあなたたち風流人は喜びますかね。 不思議な曲ですね。 あれは何といふ曲ですか。 聖諦。 せいてい。 神聖の聖の字にあきらめ。 ああさう聖諦。 これからはお前の言ふ事は何でも信じるよ。 聖諦。 なるほどなあ。 さあここから飛び降りますよ。 あぶない事はありません。 かうして両腕をひろげて一歩足を踏み出すとゆらゆらと気持よく落下します。 この魚の掛橋の尽きたところから真つすぐに降りて行くとちやうど竜宮の正殿の階段の前に着くのです。 さあ何をぼんやりしてゐるのです。 飛び降りますよいいですか。 これも真珠かね。 珠を見れば何でも真珠だ。 真珠は捨てられてあんなに高い山になつてゐるぢやありませんか。 まあちよつとその珠を手で掬つてごらんなさい。 あ霰だ。 冗談ぢやない。 ついでにそれを口の中に入れてごらん。 うまい。 さうでせう。 これは海の桜桃です。 これを食べると三百年間老いる事が無いのです。 さうかいくつ食べても同じ事か。 私はどうも老醜といふものがきらひでね。 死ぬのはそんなにこはくもないけれどどうも老醜だけは私の趣味に合はない。 もつと食べて見ようかしら。 笑つてゐますよ。 上をごらんなさい。 乙姫さまがお迎へに出てゐます。 やあけふはまた一段とお綺麗。 乙姫か。 きまつてゐるぢやありませんか。 何をへどもどしてゐるのです。 さあ早く御挨拶をなさい。 でも何と言つたらいいんだい。 私のやうなものが名乗りを挙げてみたつてどうにもならんしどだいどうも私たちの訪問は唐突だよ。 意味が無いよ。 帰らうよ。 乙姫さまはあなたの事なんかもうとうにご存じですよ。 階前万里といふぢやありませんか。 観念してただていねいにお辞儀しておけばいいのです。 またたとひ乙姫さまがあなたの事を何もご存じ無くつたつて乙姫さまは警戒なんてケチくさい事はてんで知らないお方ですから何も斟酌には及びません。 遊びに来ましたよと言へばいい。 まさかそんな失礼な。 ああ笑つていらつしやる。 とにかくお辞儀をしよう。 ていねいすぎる。 いやになるね。 あなたは私の恩人ぢやないか。 も少し威厳のある態度を示して下さいよ。 へたへたと最敬礼なんかして上品もくそもあつたものぢやない。 それ乙姫さまのお招きだ。 行きませう。 さあちやんと胸を張つておれは日本一の好男子でさうして最上級の風流人だといふやうな顔をして威張つて歩くのですよ。 あなたは私たちに対してはひどく高慢な乙な構へ方をするけれども女にはからきし意気地が無いんですね。 いやいや高貴なお方にはそれ相当の礼を尽さなければ。 どうです悪くないでせう。 ああなに。 この花はこの紫の花は綺麗だね。 これですか。 これは海の桜桃の花です。 ちよつと菫に似てゐますね。 この花びらを食べるとそれは気持よく酔ひますよ。 竜宮のお酒です。 それからあの岩のやうなものあれは藻です。 何万年も経つてゐるのでこんな岩みたいにかたまつてゐますがでも羊羹よりも柔いくらゐのものです。 あれは陸上のどんなごちそうよりもおいしいですよ。 岩によつて一つづつみんな味はひが違ひます。 竜宮ではこの藻を食べて花びらで酔ひのどが乾けば桜桃を含み乙姫さまの琴の音に聞き惚れ生きてゐる花吹雪のやうな小魚たちの舞ひを眺めて暮してゐるのです。 どうですか竜宮は歌と舞ひと美食と酒の国だと私はお誘ひする時にあなたに申し上げた筈ですがどうですか御想像と違ひましたか。 わかつてゐますよ。 あなたの御想像はまあドンヂヤンドンヂヤンの大騒ぎで大きなお皿に鯛のさしみやら鮪のさしみ赤い着物を着た娘つ子の手踊りさうしてやたらに金銀珊瑚綾錦のたぐひが――。 まさか。 私はそれほど卑俗な男ではありません。 しかし私は自分を孤独な男だと思つてゐた事などありましたがここへ来て真に孤独なお方にお目にかかり私のいままでの気取つた生活が恥かしくてならないのです。 あのかたの事ですか。 あのかたは何も孤独ぢやありませんよ。 平気なものです。 野心があるから孤独なんて事を気に病むので他の世界の事なんかてんで問題にしてなかつたら百年千年ひとりでゐたつて楽なものです。 それこそれいの批評が気にならない者にとつてはね。 ところであなたはどこへ行かうてんですか。 いやなにべつに。 だつてお前あのお方が――。 乙姫はべつにあなたをどこかへ案内しようとしてゐるわけぢやありません。 あのかたはもうあなたの事なんか忘れてゐますよ。 あのかたはこれからご自分のお部屋に帰るのでせう。 しつかりして下さい。 ここが竜宮なんですこの場所が。 ほかにどこもご案内したいやうなところもありません。 まあここでお好きなやうにして遊んでゐるのですね。 これだけぢや不足なんですか。 いぢめないでくれよ。 私はいつたいどうしたらいいんだ。 だつてあのお方がお迎へに出て下さつてゐたのでべつに私は自惚れたわけぢやないけどあのお方のあとについて行くのが礼儀だと思つたんだよ。 べつに不足だなんて考へてやしないよ。 それだのに私に何か別ないやらしい下心でもあるみたいなへんな言ひ方をするんだもの。 お前はじつさい意地が悪いよ。 ひどいぢやないか。 私は生れてからこんなに体裁の悪い思ひをした事は無いよ。 本当にひどいよ。 そんなに気にしちやいけない。 乙姫はおつとりしたものです。 そりや陸上からはるばるたづねて来た珍客ですものそれにあなたは私の恩人ですからねお出迎へするのは当り前ですよ。 さらにまたあなたは気持はさつぱりしてゐるし男つぷりは佳しと来てゐるから。 いやこれは冗談ですよへんにまた自惚れられちやかなはない。 とにかく乙姫はご自分の家へやつて来た珍客を階段まで出迎へてさうして安心してあとはあなたのお気の向くままに勝手に幾日でもここで遊んでいらつしやるやうにと素知らぬ振りしてああしてご自分のお部屋に引上げて行くといふわけのものぢやないんですかね。 実は私たちにも乙姫の考へてゐる事はあまりよく判らないのです。 何せどうにもおつとりしてゐますから。 いやさう言はれてみると私には少し判りさうな気がして来たよ。 お前の推察もだいたいに於いて間違ひはなささうだ。 つまりこんなのが真の貴人の接待法なのかも知れない。 客を迎へて客を忘れる。 しかも客の身辺には美酒珍味が全く無雑作に並べ置かれてある。 歌舞音曲も別段客をもてなさうといふ露骨な意図でもつて行はれるのではない。 乙姫は誰に聞かせようといふ心も無くて琴をひく。 魚どもは誰に見せようといふ衒ひも無く自由に嬉々として舞ひ遊ぶ。 客の讃辞をあてにしない。 客もまたそれにことさらに留意して感服したやうな顔つきをする必要も無い。 寝ころんで知らん振りしてゐたつて構はないわけです。 主人はもう客の事なんか忘れてゐるのだ。 しかも自由に振舞つてよいといふ許可は与へられてゐるのだ。 食ひたければ食ふし食ひたくなければ食はなくていいんだ。 酔つて夢うつつに琴の音を聞いてゐたつて敢へて失礼には当らぬわけだ。 ああ客を接待するにはすべからくこのやうにありたい。 何のかのとろくでも無い料理をうるさくすすめてくだらないお世辞を交換しをかしくもないのに矢鱈におほほと笑ひまあ。 なんて珍らしくもない話に大仰に驚いて見せたり一から十まで嘘ばかりの社交を行ひ天晴れ上流の客あしらひをしてゐるつもりのケチくさい小利口の大馬鹿野郎どもにこの竜宮の鷹揚なもてなし振りを見せてやりたい。 あいつらはただ自分の品位を落しやしないかそれだけを気にしてわくわくしてさうして妙に客を警戒してひとりでからまはりして実意なんてものは爪の垢ほども持つてやしないんだ。 なんだいありや。 お酒一ぱいにも飲ませてやつたぞいただきましたぞといふやうな証文を取かはしてゐたんぢやかなはない。 さうその調子。 しかしあまりそんなに興奮して心臓痲痺なんか起されても困る。 まこの藻の岩に腰をおろして桜桃の酒でも飲むさ。 桜桃の花びらだけでははじめての人には少し匂ひが強すぎるかも知れないから桜桃五六粒と一緒に舌の上に載せるとしゆつと溶けて適当に爽涼のお酒になります。 まぜ合せの仕方一つでいろんな味に変化しますからまあご自分で工夫してお好きなやうなお酒を作つてお飲みなさい。 これはいい。 まさに憂ひの玉帚だ。 憂ひ。 何か憂鬱な事でもあるのですか。 いやべつにそんなわけではないがあははは。 どこへ行くんだらう。 お部屋でせう。 さつきからお前はお部屋お部屋と言つてゐるがそのお部屋はいつたいどこにあるの。 何もどこにも見えやしないぢやないか。 ずつと向う乙姫の歩いて行く方角のずつと向うに何か見えませんか。 ああさう云はれて見ると何かあるやうだね。 あれか。 小さいものだね。 乙姫がひとりおやすみになるのに大きい御殿なんか要らないぢやありませんか。 さう言へばまあさうだが。 あのお方は何かねいつもあんなに無口なのかね。 ええさうです。 言葉といふものは生きてゐる事の不安から芽ばえて来たものぢやないですかね。 腐つた土から赤い毒きのこが生えて出るやうに生命の不安が言葉を醗酵させてゐるのぢやないのですか。 よろこびの言葉もあるにはありますがそれにさへなほいやらしい工夫がほどこされてゐるぢやありませんか。 人間はよろこびの中にさへ不安を感じてゐるのでせうかね。 人間の言葉はみんな工夫です。 気取つたものです。 不安の無いところには何もそんないやらしい工夫など必要ないでせう。 私は乙姫がものを言つたのを聞いた事が無い。 しかしまた黙つてゐる人によくありがちの皮裏の陽秋といふんですかそんな胸中ひそかに辛辣の観察を行ふなんて事も乙姫は決してなさらない。 何も考へてやしないんです。 ただああして幽かに笑つて琴をかき鳴らしたりまたこの広間をふらふら歩きまはつて桜桃の花びらを口に含んだりして遊んでゐます。 実にのんびりしたものです。 さうかね。 あのお方もやつぱりこの桜桃の酒を飲むかね。 まつたくこれはいいからなあ。 これさへあれば何も要らない。 もつといただいてもいいかしら。 ええどうぞ。 ここへ来て遠慮なんかするのは馬鹿げてゐます。 あなたは無限に許されてゐるのです。 ついでに何か食べてみたらどうです。 目に見える岩すべて珍味です。 油つこいのがいいですか。 軽くちよつと酸つぱいやうなのがいいですか。 どんな味のものでもありますよ。 ああ琴の音が聞える。 寝ころんで聞いてもいいんだらうね。 あああ酔つて寝ころぶのはいい気持だ。 ついでに何か食べてみようかな。 雉の焼肉みたいな味の藻があるかね。 あります。 それとそれから桑の実のやうな味の藻は。 あるでせう。 しかしあなたも妙に野蛮なものを食べるのですね。 本性暴露さ。 私は田舎者だよ。 これが風流の極致だつてさ。 わあどうもいかん。 淋しいわい。 なんのわけだかわからないがどうもいかん。 おい亀。 何とかまた景気のいい悪口でも言つてくれ。 お前はさつきから何も一こともものを言はんぢやないか。 怒つてゐるのかね。 私が竜宮から食ひ逃げ同様で帰るのをお前は怒つてゐるのかね。 ひがんぢやいけねえ。 陸上の人はこれだからいやさ。 帰りたくなつたら帰るさ。 どうでもあなたの気の向いたやうにとはじめから何度も言つてるぢやないか。 でも何だかお前元気が無いぢやないか。 さう言ふあなたこそ妙にしよんぼりしてゐるぜ。 私やどうもお迎へはいいけれどこのお見送りつてやつは苦手だ。 行きはよいよいかね。 洒落どころぢやありません。 どうもこのお見送りつてやつは気のはづまねえものだ。 溜息ばかり出て何を言つてもしらじらしくいつそもうこの辺でお別れしてしまひたいやうなものだ。 やつぱりお前も淋しいのかね。 こんどはずいぶんお前のお世話にもなつたね。 お礼を言ひます。 あのお方はやつぱりあそこでたつたひとりで遊んでゐるのだらうね。 私にこんな綺麗な貝をくれたがこれはまさか食べるものぢやないだらうな。 ちよつと竜宮にゐるうちにあなたもばかに食ひ意地が張つて来ましたね。 それだけは食べるものでは無いやうです。 私にもよくわかりませんがその貝の中に何かはひつてゐるのぢやないんですか。 しかし私はエデンの園の蛇ではないはばかりながら日本の亀だ。 でもその貝はあけて見ないはうがいいかも知れません。 きつとその中には竜宮の精気みたいなものがこもつてゐるのでせうから。 それを陸上であけたら奇怪な蜃気楼が立ち昇りあなたを発狂させたり何かするかも知れないし或いはまた海の潮が噴出して大洪水を起す事なども無いとは限らないしとにかく海底の酸素を陸上に放散させてはどうせろくな事が起らないやうな気がしますよ。 さうかも知れないね。 あんな高貴な竜宮の雰囲気がもしこの貝の中にひめられてあるとしたら陸上の俗悪な空気にふれた時には戸惑ひして大爆発でも起すかも知れない。 まあこれはかうしていつまでも大事に家の宝として保存して置くことにしよう。 あけてはならぬ。 あけてはならぬ。 あけるな。 浦島さん。 希望。 希望。 希望。 希望。 聖諦。 あけてはならぬ。 面当て。 実に悲惨な身の上になつたものさ。 気の毒だ。 希望。 狸さん可哀想ね。 可哀想。 可哀想。 やりかたが汚い。 女らしさ。 男らしく。 よろこんでくれ。 おれは命拾ひをしたぞ。 爺さんの留守をねらつてあの婆さんをえいとばかりにやつつけて逃げて来た。 おれは運の強い男さ。 何も私がよろこぶわけは無いぢやないの。 きたないわよそんなに唾を飛ばして。 それにあの爺さん婆さんは私のお友達よ。 知らなかつたの。 さうか。 知らなかつた。 かんべんしてくれ。 さうと知つてゐたらおれは狸汁にでも何にでもなつてやつたのに。 いまさらそんな事を言つたつてもうおそいわ。 あのお家の庭先に私が時々あそびに行つてさうしておいしいやはらかな豆なんかごちそうになつたのをあなただつて知つてたぢやないの。 それだのに知らなかつたなんて嘘ついてひどいわ。 あなたは私の敵よ。 ゆるしてくれよ。 おれはほんとに知らなかつたのだ。 嘘なんかつかない。 信じてくれよ。 本当にもうお前にそんなに怒られるとおれはもう死にたくなるんだ。 何を言つてるの。 食べる事ばかり考へてるくせに。 助平の上にまた食ひ意地がきたないつたらありやしない。 見のがしてくれよ。 おれは腹がへつてゐるんだ。 まつたくいまのおれのこの心苦しさがお前にわかつてもらへたらなあ。 傍へ寄つて来ちや駄目だつて言つたら。 くさいぢやないの。 もつとあつちへ離れてよ。 あなたはとかげを食べたんだつてね。 私は聞いたわよ。 それからああ可笑しいウンコも食べたんだつてね。 まさか。 まさかねえ。 上品ぶつたつて駄目よ。 あなたのそのにほひはただの臭みぢやないんだから。 それぢやあねこんど一ぺんだけゆるしてあげる。 あれ寄つて来ちや駄目だつて言ふのに。 油断もすきもなりやしない。 よだれを拭いたらどう。 下顎がべろべろしてるぢやないの。 落ついてよくお聞き。 こんど一ぺんだけは特別にゆるしてあげるけれどでも条件があるのよ。 あの爺さんはいまごろはきつとひどく落胆して山に柴刈りに行く気力も何も無くなつてゐるでせうから私たちはその代りに柴刈りに行つてあげませうよ。 一緒に。 お前も一緒に行くのか。 おいや。 いやなものか。 けふこれからすぐに行かうよ。 あしたにしませうねあしたの朝早く。 けふはあなたもお疲れでせうしそれにおなかも空いてゐるでせうから。 ありがたい。 おれはあしたお弁当をたくさん作つて持つて行つて一心不乱に働いて十貫目の柴を刈つてさうして爺さんの家へとどけてあげる。 さうしたらお前はおれをきつと許してくれるだらうな。 仲よくしてくれるだらうな。 くどいわね。 その時のあなたの成績次第でね。 もしかしたら仲よくしてあげるかも知れないわ。 えへへ。 その口が憎いや。 苦労させるぜこんちきしやう。 おれはもう。 おれはもうどんなに嬉しいかいつそ男泣きに泣いてみたいくらゐだ。 これ見ろ。 手にこんなに豆が出来た。 ああ手がひりひりする。 のどが乾く。 おなかも空いた。 とにかく大労働だつたからなあ。 ちよつと休息といふ事にしようぢやないか。 お弁当でも開きませうかね。 うふふふ。 ずいぶん眠つたのね。 もう私も柴を一束こしらへたからこれから背負つて爺さんの庭先まで持つて行つてあげませうよ。 ああさうしよう。 やけにおなかが空いた。 かうおなかが空くともうとても眠つて居られるものぢやない。 おれは敏感なんだ。 どれそれではおれも刈つた柴を大急ぎで集めて下山としようか。 お弁当ももうからになつたしこの仕事を早く片づけてそれからすぐに食べ物を捜さなくちやいけない。 あなたさきに歩いてよ。 この辺には蛇がゐるんで私こはくて。 蛇。 蛇なんてこはいもんか。 見つけ次第おれがとつて。 おれがとつて殺してやる。 さあおれのあとについて来い。 やつぱり男のひとつてこんな時にはたのもしいものねえ。 おだてるなよ。 けふはお前ばかにしをらしいぢやないか。 気味がわるいくらゐだぜ。 まさかおれをこれから爺さんのところに連れて行つて狸汁にするわけぢやあるまいな。 あははは。 そいつばかりはごめんだぜ。 あらそんなにへんに疑ふならもういいわよ。 私がひとりで行くわよ。 いやそんなわけぢやない。 一緒に行くがねおれは蛇だつて何だつてこの世の中にこはいものなんかありやしないがどうもあの爺さんだけは苦手だ。 狸汁にするなんて言ひやがるからいやだよ。 どだい下品ぢやないか。 少くともいい趣味ぢやないと思ふよ。 おれはあの爺さんの庭先の手前の一本榎のところまでこの柴を背負つて行くからあとはお前が運んでくれよ。 おれはあそこで失敬しようと思ふんだ。 どうもあの爺さんの顔を見るとおれは何とも言へず不愉快になる。 おや。 何だいあれは。 へんな音がするね。 なんだらう。 お前にも聞えないか。 何だかカチカチと音がする。 当り前ぢやないの。 ここはカチカチ山だもの。 カチカチ山。 ここがかい。 ええ知らなかつたの。 うん。 知らなかつた。 この山にそんな名前があるとは今日まで知らなかつたね。 しかしへんな名前だ。 嘘ぢやないか。 あらだつて山にはみんな名前があるものでせう。 あれが富士山だしあれが長尾山だしあれが大室山だしみんなに名前があるぢやないの。 だからこの山はカチカチ山つていふ名前なのよ。 ねほらカチカチつて音が聞える。 うん聞える。 しかしへんだな。 いままでおれはいちどもこの山でこんな音を聞いた事が無い。 この山で生れて三十何年かになるけれどもこんな――。 まあ。 あなたはもうそんな年なの。 こなひだ私に十七だなんて教へたくせにひどいぢやないの。 顔が皺くちやで腰も少し曲つてゐるのに十七とはへんだと思つてゐたんだけどそれにしても二十も年をかくしてゐるとは思はなかつたわ。 それぢやあなたは四十ちかいんでせうまあずいぶんね。 いや十七だ十七。 十七なんだ。 おれがかう腰をかがめて歩くのは決してとしのせゐぢやないんだ。 おなかが空いてゐるから自然にこんな恰好になるんだ。 三十何年といふのはあれはおれの兄の事だよ。 兄がいつも口癖のやうにさう言ふのでついおれもうつかりあんな事を口走つてしまつたんだ。 つまりちよつと伝染したつてわけさ。 そんなわけなんだよ君。 さうですか。 でもあなたにお兄さんがあるなんてはじめて聞いたわ。 あなたはいつか私におれは淋しいんだ孤独なんだよ親も兄弟も無いこの孤独の淋しさがお前わからんかねなんておつしやつてたぢやないの。 あれはどういふわけなの。 さうさう。 まつたく世の中はこれでなかなか複雑なものだからねえそんなに一概には行かないよ。 兄があつたり無かつたり。 まるで意味が無いぢやないの。 めちや苦茶ね。 うん実はね兄はひとりあるんだ。 これは言ふのもつらいが飲んだくれのならず者でねおれはもう恥づかしくて面目なくて生れて三十何年間いや兄がだよ兄が生れて三十何年間といふものこのおれに迷惑のかけどほしさ。 それもへんね。 十七のひとが三十何年間も迷惑をかけられたなんて。 世の中には一口で言へない事が多いよ。 いまぢやもうおれのはうからあれは無いものと思つて勘当しておや。 へんだねキナくさい。 お前なんともないか。 いいえ。 さうかね。 気のせゐかなあ。 あれあれ何だか火が燃えてゐるやうなパチパチボウボウつて音がするぢやないか。 それやその筈よ。 ここはパチパチのボウボウ山だもの。 嘘つけ。 お前はついさつきここはカチカチ山だつて言つた癖に。 さうよ同じ山でも場所に依つて名前が違ふのよ。 富士山の中腹にも小富士といふ山があるしそれから大室山だつて長尾山だつてみんな富士山と続いてゐる山ぢやないの。 知らなかつたの。 うん知らなかつた。 さうかなあここがパチパチのボウボウ山とはおれが三十何年間いや兄の話に依ればここはただの裏山だつたがいやこれはばかに暖くなつて来た。 地震でも起るんぢやねえだらうか。 何だかけふは薄気味の悪い日だ。 やあこれはひどく暑い。 きやあつ。 あちちちちひでえあちちちち助けてくれ柴が燃えてる。 あちちちち。 ああくるしい。 いよいよおれも死ぬかも知れねえ。 思へばおれほど不仕合せな男は無い。 なまなかに男振りが少し佳く生れて来たばかりに女どもがかへつて遠慮しておれに近寄らない。 いつたいにどうも上品に見える男は損だ。 おれを女ぎらひかと思つてゐるのかも知れねえ。 なあにおれだつて決して聖人ぢやない。 女は好きさ。 それだのに女はおれを高邁な理想主義者だと思つてゐるらしくなかなか誘惑してくれない。 かうなればいつそ大声で叫んで走り狂ひたい。 おれは女が好きなんだ。 あいてえいてえ。 どうもこの火傷といふものは始末がわるい。 づきづき痛む。 やつと狸汁から逃れたかと思ふとこんどはわけのわからねえボウボウ山とかいふのに足を踏み込んだのが運のつきだ。 あの山はつまらねえ山であつた。 柴がボウボウ燃え上るんだからひどい。 三十何年。 何を隠さうおれあことし三十七さへへんわるいかもう三年経てば四十だわかり切つた事だ理の当然といふものだ見ればわかるぢやないか。 あいたたたそれにしてもおれが生れてから三十七年間あの裏山で遊んで育つて来たのだがつひぞいちどもあんなへんな目に遭つた事が無い。 カチカチ山だのボウボウ山だの名前からして妙に出来てる。 はて不思議だ。 仙金膏はいかが。 やけど切傷色黒に悩むかたはゐないか。 おうい仙金膏。 へえどちらさまで。 こつちだ穴の奥だよ。 色黒にもきくかね。 それはもう一日で。 ほほう。 や。 お前は兎。 ええ兎には違ひありませんが私は男の薬売りです。 ええもう三十何年間この辺をかうして売り歩いてゐます。 ふう。 しかし似た兎もあるものだ。 三十何年間さうかお前がねえ。 いや歳月の話はよさう。 糞面白くもない。 しつつこいぢやないか。 まあそんなわけのものさ。 ところでおれにその薬を少しゆづつてくれないか。 実はちよつと悩みのある身なのでな。 おやひどい火傷ですねえ。 これはいけない。 ほつて置いたら死にますよ。 いやおれはいつそ死にてえ。 こんな火傷なんかどうだつていいんだ。 それよりもおれはいまその容貌の――。 何を言つていらつしやるんです。 生死の境ぢやありませんか。 やあ背中が一ばんひどいですね。 いつたいこれはどうしたのです。 それがねえ。 パチパチのボウボウ山とかいふきざな名前の山に踏み込んだばつかりにねえいやもうとんだ事になつてねえおどろきましたよ。 まつたくねえ。 ばかばかしいつたらありやしないのさ。 お前にも忠告して置きますがねあの山へだけは行つちやいけないぜ。 はじめカチカチ山といふのがあつてそれからいよいよパチパチのボウボウ山といふ事になるんだがあいつあいけない。 ひでえ事になつちやふ。 まあいい加減にカチカチ山あたりでごめんかうむつて来るんですな。 へたにボウボウ山などに踏み込んだが最期かくの如き始末だ。 あいててて。 いいですか。 忠告しますよ。 お前はまだ若いやうだからおれのやうな年寄りの言はいや年寄りでもないがとにかくばかにしないでこの友人の言だけは尊重して下さいよ。 何せ体験者の言なのだから。 あいてててて。 ありがたうございます。 気をつけませう。 ところでどうしませうお薬は。 御深切な忠告を聞かしていただいたお礼としてお薬代は頂戴いたしません。 とにかくその背中の火傷に塗つてあげませう。 ちやうど折よく私が来合せたからよかつたやうなもののさうでもなかつたらあなたはもう命を落すやうな事になつたかも知れないのです。 これも何かのお導きでせう。 縁ですね。 縁かも知れねえ。 ただなら塗つてもらはうか。 おれもこのごろは貧乏でなどうも女に惚れると金がかかつていけねえ。 ついでにその膏薬を一滴おれの手のひらに載せて見せてくれねえか。 どうなさるのです。 いやはあなんでもねえ。 ただちよつと見たいんだよ。 どんな色合ひのものだかな。 色は別に他の膏薬とかはつてもゐませんよ。 こんなものですが。 あそれはいけません。 顔に塗るにはその薬は少し強すぎます。 とんでもない。 いや放してくれ。 後生だから手を放せ。 お前にはおれの気持がわからないんだ。 おれはこの色黒のため生れて三十何年間どのやうに味気ない思ひをして来たかわからない。 放せ。 手を放せ。 後生だから塗らせてくれ。 少くともおれの顔は目鼻立ちは決して悪くないと思ふんだ。 ただこの色黒のために気がひけてゐたんだ。 もう大丈夫だ。 うわつ。 これはひどい。 どうもひりひりする。 強い薬だ。 しかしこれくらゐの強い薬でなければおれの色黒はなほらないやうな気もする。 わあひどい。 しかし我慢するんだ。 ちきしやうめこんどあいつがおれと逢つた時うつとりおれの顔に見とれてうふふおれはもうあいつが恋わづらひしたつて知らないぞ。 おれの責任ぢやないからな。 ああひりひりする。 この薬はたしかに効く。 さあもうかうなつたら背中にでもどこにでもからだ一面に塗つてくれ。 おれは死んだつてかまはん。 色白にさへなつたら死んだつてかまはんのだ。 さあ塗つてくれ。 遠慮なくべたべたと威勢よくやつてくれ。 ううむ何ともない。 この薬はたしかに効く。 わああひどい。 水をくれ。 ここはどこだ。 地獄か。 かんにんしてくれ。 おれは地獄へ落ちる覚えは無えんだ。 おれは狸汁にされるのがいやだつたからそれで婆さんをやつつけたんだ。 おれにとがは無えのだ。 おれは生れて三十何年間色が黒いばつかりに女にいちどももてやしなかつたんだ。 それからおれは食慾がああそのためにおれはどんなにきまりの悪い思ひをして来たか。 誰も知りやしないのだ。 おれは孤独だ。 おれは善人だ。 眼鼻立ちは悪くないと思ふんだ。 遊びに来ましたよ。 うふふ。 あら。 やありがたう。 心配無用だよ。 もう大丈夫だ。 おれには神さまがついてゐるんだ。 運がいいのだ。 あんなボウボウ山なんて屁の河童さ。 河童の肉はうまいさうで。 何とかしてそのうち食べてみようと思つてゐるんだがね。 それは余談だがしかしあの時は驚いたよ。 何せどうもたいへんな火勢だつたからね。 お前のはうはどうだつたね。 べつに怪我も無い様子だがよくあの火の中を無事で逃げて来られたね。 無事でもないわよ。 あなたつたらひどいぢやないの。 あのたいへんな火事場に私ひとりを置いてどんどん逃げて行つてしまふんだもの。 私は煙にむせてもう少しで死ぬところだつたのよ。 私はあなたを恨んだわ。 やつぱりあんな時につい本心といふものがあらはれるものらしいのね。 私にはもうあなたの本心といふものがこんどはつきりわかつたわ。 すまねえ。 かんにんしてくれ。 実はおれもひどい火傷をしておれにはひよつとしたら神さまも何もついてゐねえのかも知れないさんざんの目に遭つちやつたんだ。 お前はどうなつたか決してそれを忘れてゐたわけぢやなかつたんだが何せどうもたちまちおれの背中が熱くなつてお前を助けに行くひまも何も無かつたんだよ。 わかつてくれねえかなあ。 おれは決して不実な男ぢやねえのだ。 火傷つてやつもなかなか馬鹿にできねえものだぜ。 それにあの仙金膏とか疝気膏とかあいつあいけない。 いやもうひどい薬だ。 色黒にも何もききやしない。 色黒。 いや何。 どろりとした黒い薬でねこいつあ強い薬なんだ。 お前によく似た小さい奇妙な野郎が薬代は要らねえと言ふからおれもついものはためしだと思つて塗つてもらふ事にしたのだがいやはやどうもただの薬つてのもあれはお前気をつけたはうがいいぜ油断も何もなりやしねえおれはもう頭のてつぺんからキリキリと小さい竜巻が立ち昇つたやうな気がしてどうとばかりに倒れたんだ。 ふん。 自業自得ぢやないの。 ケチンボだから罰が当つたんだわ。 ただの薬だからためしてみたなんてよくもまあそんな下品な事を恥づかしくもなく言へたものねえ。 ひでえ事を言ふ。 しかしおれは運のいい男だなあ。 どんな目に遭つても死にやしない。 神さまがついてゐるのかも知れねえ。 お前も無事でよかつたがおれも何といふ事もなく火傷がなほつてかうしてまた二人でのんびり話が出来るんだものなあ。 ああまるで夢のやうだ。 ねあなたはこの河口湖にそりやおいしい鮒がうようよゐる事をご存じ。 知らねえ。 ほんとかね。 おれが三つの時おふくろが鮒を一匹捕つて来ておれに食べさせてくれた事があつたけれどもあれはおいしい。 おれはどうも不器用といふわけではないが決してさういふわけではないが鮒なんて水の中のものを捕へる事が出来ねえのでどうもあいつはおいしいといふ事だけは知つてゐながらそれ以来三十何年間いやははははつい兄の口真似をしちやつた。 兄も鮒は好きでなあ。 さうですかね。 私はどうも鮒など食べたくもないけれどでもあなたがそんなにお好きなのならばこれから一緒に捕りに行つてあげてもいいわよ。 さうかい。 でもあの鮒つてやつは素早いもんでなあおれはあいつを捕へようとしても少しで土左衛門になりかけた事があるけれども。 お前に何かいい方法があるのかね。 網で掬つたらわけは無いわ。 あの※※島の岸にこのごろとても大きい鮒が集つてゐるのよ。 ね行きませう。 あなた舟は。 漕げるの。 うむ。 漕げないことも無いがね。 その気になりやなあに。 漕げるの。 ぢやちやうどいいわ。 私にはね小さい舟が一艘あるけどあんまり小さすぎて私たちふたりは乗れないの。 それに何せ薄い板切れでいい加減に作つた舟だから水がしみ込んで来て危いのよ。 でも私なんかどうなつたつてあなたの身にもしもの事があつてはいけないからあなたの舟をこれからふたりで一緒に力を合せて作りませうよ。 板切れの舟は危いからもつと岩乗に泥をこねつて作りませうよ。 すまねえなあ。 おれはもう泣くぜ。 泣かしてくれ。 おれはどうしてこんなに涙もろいか。 ついでにお前ひとりでその岩乗ないい舟を作つてくれないか。 なたのむよ。 おれは恩に着るぜ。 お前がそのおれの岩乗な舟を作つてくれてゐる間におれはちよつとお弁当をこさへよう。 おれはきつと立派な炊事係りになれるだらうと思ふんだ。 さうね。 ふむ悪くない。 お前はしかしずいぶん器用な娘だねえ。 またたく間にこんな綺麗な舟一艘つくり上げてしまふのだからねえ。 神技だ。 お前はきつと舟を漕ぐのも上手だらうねえ。 おれだつて舟の漕ぎ方くらゐ知らないわけではまさかそんな知らないと云ふわけでは決して無いんだがけふはひとつわが女房のお手並を拝見したい。 おれも昔は舟の漕ぎ方にかけては名人とかまたは達者とか言はれたものだがけふはまあ寝転んで拝見といふ事にしようかな。 かまはないからおれの舟の舳をお前の舟の艫にゆはへ附けておくれ。 舟も仲良くぴつたりくつついて死なばもろとも見捨てちやいやよ。 敷島。 敷島。 おおいい景色。 青春の純真。 純真。 青春の純真。 ひやあ。 水だ水だ。 これはいかん。 うるさいわね。 泥の舟だものどうせ沈むわ。 わからなかつたの。 わからん。 理解に苦しむ。 筋道が立たぬ。 それは御無理といふものだ。 お前はまさかこのおれをいやまさかそんな鬼のやうないやまるでわからん。 お前はおれの女房ぢやないか。 やあ沈む。 少くとも沈むといふ事だけは眼前の真実だ。 冗談にしたつてあくどすぎる。 これはほとんど暴力だ。 やあ沈む。 おいお前どうしてくれるんだ。 お弁当がむだになるぢやないか。 このお弁当箱には鼬の糞でまぶした蚯蚓のマカロニなんか入つてゐるのだ。 惜しいぢやないか。 あつぷ。 ああたうとう水を飲んぢやつた。 おいたのむひとの悪い冗談はいい加減によせ。 おいおいその綱を切つちやいかん。 死なばもろとも夫婦は二世切つても切れねえ縁の艫綱あいけねえ切つちやつた。 助けてくれ。 おれは泳ぎが出来ねえのだ。 白状する。 昔は少し泳げたのだが狸も三十七になるとあちこちの筋が固くなつてとても泳げやしないのだ。 白状する。 おれは三十七なんだ。 お前とは実際としが違ひすぎるのだ。 年寄りを大事にしろ。 敬老の心掛けを忘れるな。 あつぷ。 ああお前はいい子だないい子だからそのお前の持つてゐる櫂をこつちへ差しのべておくれおれはそれにつかまつてあいたたた何をするんだ痛いぢやないか櫂でおれの頭を殴りやがつてよしさうかわかつた。 お前はおれを殺す気だなそれでわかつた。 あいたたたあいたたたひどいぢやないか。 おれはお前にどんな悪い事をしたのだ。 惚れたが悪いか。 おおひどい汗。 お伽草紙。 お伽草紙。 私の桃太郎。 日本一。 私の桃太郎物語。 お伽草紙。 日本一。 お伽草紙。 お伽草紙。 代表的人物。 お爺さん。 お爺さん。 お爺さん。 お爺さん。 さあ下着類を皆脱いでここへ出して下さい。 洗ひます。 この次。 早く出して下さいよ。 ほら襦袢の襟なんか油光りしてゐるぢやありませんか。 この次。 え。 何ですつて。 わかるやうに言つて下さい。 この次。 けふは寒い。 もう冬ですもの。 けふだけぢやなくあしたもあさつても寒いにきまつてゐます。 そんな工合ひに家の中でじつと炉傍に坐つてゐる人と井戸端へ出て洗濯してゐる人とどつちが寒いか知つてゐますか。 わからない。 お前の井戸端は習慣になつてゐるから。 冗談ぢやありません。 私だつて何も洗濯をしにこの世に生れて来たわけぢやないんですよ。 さうかい。 さあ早く脱いで寄こして下さいよ。 代りの下着類はいつさいその押入の中にはひつてゐますから。 風邪をひく。 ぢやあよござんす。 あれ汚い。 ルミやお前も淋しいかい。 さうか。 洗濯をするために生れて来たのではないと言ひやがる。 あれでもまだ色気があると見える。 あなたはどうなの。 おれかおれはさうさな本当の事を言ふために生れて来た。 でもあなたは何も言ひやしないぢやないの。 世の中の人は皆嘘つきだから話を交すのがいやになつたのさ。 みんな嘘ばつかりついてゐる。 さうしてさらに恐ろしい事はその自分の嘘にご自身お気附きになつてゐない。 それは怠け者の言ひのがれよ。 ちよつと学問なんかすると誰でもそんな工合に横着な気取り方をしてみたくなるものらしいのね。 あなたはなんにもしてやしないぢやないの。 寝てゐて人を起こすなかれといふ諺があつたわよ。 人の事など言へるがらぢや無いわ。 それもさうだが。 しかしおれのやうな男もあつていいのだ。 おれは何もしてゐないやうに見えるだらうがまんざらさうでもない。 おれでなくちや出来ない事もある。 おれの生きてゐる間おれの真価の発揮できる時機が来るかどうかわからぬがしかしその時が来たらおれだつて大いに働く。 その時まではまあ沈黙して読書だ。 どうだか。 意気地無しの陰弁慶に限つてよくそんな負け惜しみの気焔を挙げるものだわ。 廃残の御隠居とでもいふのかしらあなたのやうなよぼよぼの御老体はかへらぬ昔の夢を未来の希望と置きかへてさうしてご自身を慰めてゐるんだわ。 お気の毒みたいなものよ。 そんなのは気焔にさへなつてやしない。 変態の愚癡よ。 だつてあなたは何もいい事をしてやしないんだもの。 さう言へばまあそんなものかも知れないが。 しかしおれだつていま立派に実行してゐる事が一つある。 それは何かつて言へば無慾といふ事だ。 言ふは易くして行ふは難いものだよ。 うちのお婆さんなどおれみたいな者ともう十何年も連添うて来たのだからいい加減に世間の慾を捨ててゐるかと思つてゐたらどうもさうでもないらしい。 まだあれで何か色気があるらしいんだね。 それが可笑しくてついひとりで噴き出したやうな次第だ。 色気なんかありませんよ。 おや。 あなたは誰と話をしてゐたのです。 誰か若い娘さんの声がしてゐましたがね。 あのお客さんはどこへいらつしやいました。 お客さんか。 いいえあなたは今たしかに誰かと話をしてゐましたよ。 それも私の悪口をね。 まあどうでせう私にものを言ふ時にはいつも口ごもつて聞きとれないやうな大儀さうな言ひ方ばかりする癖にあの娘さんにはまるで人が変つたみたいにあんな若やいだ声を出してたいへんごきげんさうにおしやべりしていらしたぢやないの。 あなたこそまだ色気がありますよ。 ありすぎてべたべたです。 さうかな。 しかし誰もゐやしない。 からかはないで下さい。 あなたはいつたいこの私を何だと思つていらつしやるのです。 私はずいぶん今までこらへて来ました。 あなたはもうてんで私を馬鹿にしてしまつてゐるのですもの。 そりやもう私は育ちもよくないし学問も無いしあなたのお話相手が出来ないかも知れませんがでもあんまりですわ。 私だつて若い時からあなたのお家へ奉公にあがつてあなたのお世話をさせてもらつてそれがまあこんな事になつてあなたの親御さんもあれならばなかなかしつかり者だしせがれと一緒にさせても――。 嘘ばかり。 おやどこが嘘なのです。 私がどんな嘘をつきました。 だつてさうぢやありませんか。 あの頃あなたの気心を一ばんよく知つてゐたのは私ぢやありませんか。 私でなくちや駄目だつたんです。 だから私が一生あなたのめんだうを見てあげる事になつたんぢやありませんか。 どこがどんな工合ひに嘘なのです。 それを聞かして下さい。 みんな嘘さ。 あの頃のお前の色気つたら無かつたぜ。 それだけさ。 それはいつたいどんな意味です。 私にはわかりやしません。 馬鹿にしないで下さい。 私はあなたの為を思つてあなたと一緒になつたのですよ。 色気も何もありやしません。 あなたもずいぶん下品な事を言ひますね。 ぜんたい私があなたのやうな人と一緒になつたばかりに朝夕どんなに淋しい思ひをしてゐるかあなたはご存じ無いのです。 たまには優しい言葉の一つも掛けてくれるものです。 他の夫婦をごらんなさい。 どんなに貧乏をしてゐても夕食の時などには楽しさうに世間話をして笑ひ合つてゐるぢやありませんか。 私は決して慾張り女ではないんです。 あなたのためならどんな事でも忍んで見せます。 ただ時たまあなたから優しい言葉の一つも掛けてもらへたら私はそれで満足なのですよ。 つまらない事を言ふ。 そらぞらしい。 もういい加減あきらめてゐるかと思つたらまだそんなきまりきつた泣き言を並べて局面転換を計らうとしてゐる。 だめですよ。 お前の言ふ事なんざみんなごまかしだ。 その時々の安易な気分本位だ。 おれをこんな無口な男にさせたのはお前です。 夕食の時の世間話なんてたいていは近所の人の品評ぢやないか。 悪口ぢやないか。 それもれいの安易な気分本位でやたらと人の陰口をきく。 おれはいままでお前が人をほめたのを聞いた事がない。 おれだつて弱い心を持つてゐる。 お前にまきこまれてつい人の品評をしたくなる。 おれにはそれがこはいのだ。 だからもう誰とも口をきくまいと思つた。 お前たちにはひとの悪いところばかり眼について自分自身のおそろしさにまるで気がついてゐないのだからな。 おれはひとがこはい。 わかりました。 あなたは私にあきたのでせう。 こんな婆が鼻について来たのでせう。 私にはわかつてゐますよ。 さつきのお客さんはどうしました。 どこに隠れてゐるのです。 たしかに若い女の声でしたわね。 あんな若いのが出来たら私のやうな婆さんと話をするのがいやになるのももつともです。 なんだい無慾だの何だのと悟り顔なんかしてゐても相手が若い女だとすぐもうわくわくして声まで変つてぺちやくちやとお喋りをはじめるのだからいやになります。 それならそれでよい。 よかありませんよ。 あのお客さんはどこにゐるのです。 私だつて挨拶を申さなければお客さんに失礼ですよ。 かう見えても私はこの家の主婦ですからね挨拶をさせて下さいよ。 あんまり私を蹈みつけにしてはだめです。 これだ。 え。 冗談ぢやない。 雀がものを言ひますか。 言ふ。 しかもなかなか気のきいた事を言ふ。 どこまでもそんなに意地悪く私をからかふのですね。 ぢやあよござんす。 そんな気のきいた事を言はせないやうに舌をむしり取つてしまひませう。 あなたはふだんからどうもこの雀を可愛がりすぎます。 私にはそれがいやらしくて仕様が無かつたんですよ。 ちやうどいい案配だ。 あなたがあの若い女のお客さんを逃がしてしまつたのなら身代りにこの雀の舌を抜きます。 いい気味だ。 可愛さうにたうとう死んでしまつたぢやないの。 なに死にやしない。 気が遠くなつただけだよ。 でもかうしていつまでも雪の上に倒れてゐるとこごえて死んでしまふわよ。 それはさうだ。 どうにかしなくちやいけない。 困つた事になつた。 こんな事にならないうちにあの子が早く出て行つてやればよかつたのに。 いつたいあの子はどうしたのだ。 お照さん。 さう誰かにいたづらされて口に怪我をしたやうだがあれからさつぱりこのへんに姿を見せんぢやないか。 寝てゐるのよ。 舌を抜かれてしまつたのでなんにも言へずただぽろぽろ涙を流して泣いてゐるわよ。 さうか舌を抜かれてしまつたのか。 ひどい悪戯をするやつもあつたものだなあ。 ええそれはねこのひとのおかみさんよ。 悪いおかみさんではないんだけれどあの日は虫のゐどころがへんだつたのでせういきなりお照さんの舌をひきむしつてしまつたの。 お前見てたのかい。 ええおそろしかつたわ。 人間つてあんな工合ひに出し抜けにむごい事をするものなのね。 やきもちだらう。 おれもこのひとの家の事はよく知つてゐるけれどどうもこのひとはおかみさんを馬鹿にしすぎてゐたよ。 おかみさんを可愛がりすぎるのも見ちやをられないものだがあんなに無愛想なのもよろしくない。 それをまたお照さんはいいことにしていやにこの旦那といちやついてゐたからね。 まあみんな悪い。 ほつて置け。 あらあなたこそやきもちを焼いてゐるんぢやない。 あなたはお照さんを好きだつたのでせう。 隠したつてだめよ。 この大竹藪で一ばんの美声家はお照さんだつていつか溜息をついて言つてたぢやないの。 やきもちを焼くなんてそんな下品な事をするおれではない。 がしかし少くともお前よりはお照のはうが声が佳くてしかも美人だ。 ひどいわ。 喧嘩はおよしつまらない。 それよりもこのひとをいつたいどうするの。 ほつて置いたら死にますよ。 可哀想に。 どんなにお照さんに逢ひたいのか毎日毎日この竹藪を捜して歩いてさうしてたうとうこんな有様になつてしまつて気の毒ぢやないの。 このひとはきつと実のあるひとだわ。 なにばかだよ。 いいとしをして雀の子のあとを追ひ廻すなんて呆れたばかだよ。 そんな事を言はないでね逢はしてあげませうよ。 お照さんだつてこのひとに逢ひたがつてゐるらしいわ。 でももう舌を抜かれて口がきけないのだからねえこのひとがお照さんを捜してゐるといふ事を言つて聞かせてあげても藪のあの奥で寝たままぽろぽろ涙を流してゐるばかりなのよ。 このひとも可哀想だけれどもお照さんだつてそりや可哀想よ。 ねあたしたちの力で何とかしてあげませうよ。 おれはいやだ。 おれはどうも色恋の沙汰には同情を持てないたちでねえ。 色恋ぢやないわ。 あなたにはわからない。 ねみなさん何とかして逢はせてあげたいものだわねえ。 こんな事は理窟ぢやないんですもの。 さうともさうとも。 おれが引受けた。 なにわけはない。 神さまにたのむんだ。 理窟抜きでなんとかして他の者のために尽してやりたいと思つた時には神さまにたのむのが一ばんいいのだ。 おれのおやぢがいつかさう言つて教へてくれた。 そんな時には神さまはどんな事でも叶へて下さるさうだ。 まあみんなちよつとここで待つてゐてくれ。 おれはこれから鎮守の森の神さまにたのんで来るから。 あらおめざめ。 ああ。 ここはどこだらう。 すずめのお宿。 さう。 お前はそれではあの舌切雀。 いいえお照さんは奥の間で寝てゐます。 私はお鈴。 お照さんとは一ばんの仲良し。 さうか。 それではあの舌を抜かれた小雀の名はお照といふの。 ええとても優しいいいかたよ。 早く逢つておあげなさい。 可哀想に口がきけなくなつて毎日ぽろぽろ涙を流して泣いてゐます。 逢ひませう。 どこに寝てゐるのですか。 ご案内します。 ここですおはひり下さい。 ごゆつくり。 いかが。 いやもうたくさん。 しかしこれはよいお酒だ。 お気に召しましたか。 笹の露です。 よすぎる。 え。 よすぎる。 あらお照さんが笑つてゐるわ。 何か言ひたいのでせうけれど。 言へなくたつていいのさ。 さうだね。 さそれでは失礼しよう。 また来る。 まあもうお帰りになるの。 こごえて死にさうになるまで竹藪の中を捜し歩いていらしてやつとけふ逢へたくせに優しいお見舞ひの言葉一つかけるではなし――。 優しい言葉だけはごめんだ。 お照さんいいの。 おかへししても。 どつちもどつちだわね。 それぢやあまたどうぞいらして下さいね。 来ます。 ここはどこだね。 竹藪の中です。 はて。 竹籔の中にこんな妙な家があつたかしら。 あるんです。 でも普通のひとには見えないんです。 竹藪のあの入口のところでけさのやうに雪の上に俯伏していらしたら私たちはいつでもここへご案内いたしますわ。 それはありがたい。 せつかくおいで下さつてもおもてなしも出来なくて恥かしう存じます。 せめて雀の里のお土産のおしるしにこの葛籠のうちどれでもお気に召したものをお邪魔でございませうがお持ち帰り下さいまし。 要らないよそんなもの。 おれの履物はどこにあります。 困りますわ。 どれか一つ持つて帰つて下さいよ。 あとで私はお照さんに怒られます。 怒りやしない。 あの子は決して怒りやしない。 おれは知つてゐる。 ところで履物はどこにあります。 きたない藁靴をはいて来た筈だが。 捨てちやひました。 はだしでお帰りになるといいわ。 それはひどい。 それぢや何か一つお土産を持つてお帰りになつてよ。 後生お願ひ。 みんな大きい。 大きすぎる。 おれは荷物を持つて歩くのはきらひです。 ふところにはひるくらゐの小さいお土産はありませんか。 そんなご無理をおつしやつたつて――。 そんなら帰る。 はだしでもかまはない。 荷物はごめんだ。 ちよつと待つてねちよつと。 お照さんに聞いて来るわ。 はいこれはお照さんの簪。 お照さんを忘れないでね。 またいらつしやい。 おやそれは何です。 稲の穂。 稲の穂。 いまどき珍らしいぢやありませんか。 どこから拾つて来たのです。 拾つて来たのぢやない。 をかしいぢやありませんか。 このごろ毎日竹藪の中をうろついてぼんやり帰つて来てけふはまた何だかいやに嬉しさうな顔をしてそんなものを持ち帰りもつたい振つて筆立に挿したりなんかしてあなたは何か私に隠してゐますね。 拾つたのでなければどうしたのです。 ちやんと教へて下さつたつていいぢやありませんか。 雀の里からもらつて来た。 まあそんな事本気であなたは言つてゐるのですか。 そんな出鱈目をこの私が信じると思つておいでなのですか。 嘘にきまつてゐますさ。 私は知つてゐますよ。 こなひだからさうこなひだほらあの若い娘のお客さんが来た頃からあなたはまるで違ふ人になつてしまひました。 妙にそはそはしてさうして溜息ばかりついてまるでそれこそ恋のやつこみたいです。 みつともない。 いいとしをしてさ。 隠したつて駄目ですよ。 私にはわかつてゐるのですから。 いつたいその娘はどこに住んでゐるのです。 まさか藪の中ではないでせう。 私はだまされませんよ。 藪の中に小さいお家があつてそこにお人形みたいな可愛い娘さんがゐてうつふそんな子供だましのやうな事を言つてごまかさうたつて駄目ですよ。 もしそれが本当ならばこんどいらした時にそのお土産の葛籠とかいふものでも一つ持つて来て見せて下さいな。 出来ないでせう。 どうせ作りごとなんだから。 その不思議な宿の大きい葛籠でも背負つて来て下さつたらそれを証拠に私だつて本当にしないものでもないがそんな稲の穂などを持つて来てそのお人形さんの簪だなんてよくもまあそのやうなばからしい出鱈目が言へたもんだ。 男らしくあつさり白状なさいよ。 私だつてわけのわからぬ女ではないつもりです。 なんのお妾さんの一人や二人。 おれは荷物はいやだ。 おやさうですか。 それでは私が代りにまゐりませうか。 どうですか。 竹藪の入口で俯伏して居ればいいのでせう。 私がまゐりませう。 それでもいいのですか。 あなたは困りませんか。 行くがいい。 まあ図々しい。 嘘にきまつてゐるのに行くがいいなんて。 それでは本当に私はやつてみますよ。 いいのですか。 どうやら葛籠がほしいやうだね。 ええさうですともさうですとも私はどうせ慾張りですからね。 そのお土産がほしいのですよ。 それではこれからちよつと出掛けてお土産の葛籠の中でも一ばん重い大きいやつを貰つて来ませう。 おほほ。 ばからしいが行つて来ませう。 私はあなたのその取り澄したみたいな顔つきが憎らしくて仕様が無いんです。 いまにその贋聖者のつらの皮をひんむいてごらんにいれます。 雪の上に俯伏して居れば雀のお宿に行けるなんてあははは馬鹿な事だがでもどれそれではひとつお言葉に従つてちよつと行つてまゐりませうか。 あとであれは嘘だなどと言つてもききませんよ。 いや女房のおかげです。 あれには苦労をかけました。 ぼくさ。 弟の影繪。 秋の夜。 もし戰爭が起つたなら。 好奇心。 山中鹿之助。 鳩の家。 かつぽれ。 鳩の家。 かつぽれ。 鳩の家。 牛盜人。 皿屋敷。 俊徳丸。 奪ひ合ひ。 奪ひ合ひ。 あざみ草。 むかしむかしそのむかし。 あれは紀のくにみかんぶね。 けだものの機械。 美貌の友。 どこへ行って何をするにしても親という二字だけは忘れないでくれよ。 チャンや。 親という字は一字だよ。 うんまあ仮りに一字が三字であってもさ。 パンドラの匣。 ちょっと旦那書いてくれや。 書いてくれや。 いくら。 四拾円。 竹内トキさん。 あい。 竹内トキさん。 四拾円。 御本人ですか。 そうでごいせん。 娘です。 あい。 わしの末娘でごいす。 なるべくなら御本人をよこして下さい。 御本人はあの世へ行ったでごいす。 旦那。 書いてくれや。 いくら。 四拾円。 象の夢でも見ていたのでごいしょうか。 ばかな夢を見るもんでごいす。 けえっ。 増産が来た。 まったくですよ。 クソ真面目な色男気取りの議論が国をほろぼしたんです。 気の弱いはにかみ屋ばかりだったらこんな事にまでなりやしなかったんだ。 竹内トキさん。 あい。 旦那。 きょうはうけ出しの紙は要らないんでごいす。 入金でごいす。 娘の保険がさがりましてやっぱり娘の名儀でこんにち入金のつもりでごいす。 それは結構でした。 きょうは僕のほうがうけ出しなんです。 このウィスキイにはね二十六歳の処女のいのちが溶け込んでいるんだよ。 これを飲むと僕の小説にもめっきり艶っぽさが出て来るという事になるかも知れない。 ウソウソ。 お父さんはまたてれ隠しの作り話をおっしゃってる。 ねえ坊や。 あの鴎外先生のおっしゃいますることには。 勉強いたして居ります。 勉強いたして居ります。 勉強いたして居ります。 面白い面白い。 勉強いたして居ります。 智慧ある人。 どれ書見なといたそうか。 玉を懐いて罪あり。 悪因縁。 地震。 親切。 埋木。 アルフォンス・ド・ステルニイ氏は十一月にブルクセルに来て自ら新曲悪魔の合奏を指揮すべし。 父。 黄金杯。 一人者の死。 いつの日か君帰ります。 玉を懐いて罪あり。 労働。 地震。 地震の一篇は尺幅の間に無限の煙波を収めたる千古の傑作なり。 女の決闘。 新居。 書見いたそうか。 女の決闘。 塔の上の鶏。 女の決闘。 蛙。 どうしても分らない。 御垂教を得れば幸甚である。 あなたの御関係なすってお出でになる男の事を或る偶然の機会で承知しました。 その手続はどうでも好いことだから申しません。 わたくしはその男の妻だと只今まで思っていた女です。 わたくしはあなたの人柄を推察してこう思います。 あなたは決して自分のなすった事の成行がどうなろうとその成行のために前になすった事の責を負わない方ではありますまい。 又あなたは御自分に対して侮辱を加えた事の無い第三者を侮辱して置きながらその責を逃れようとなさる方でも決してありますまい。 わたくしはあなたがたびたび拳銃で射撃をなさる事を承っています。 わたくしはこれまで武器と云うものを手にした事がありませんからあなたのお腕前がどれだけあろうとも拳銃射撃はわたくしよりあなたの方がお上手だと信じます。 だからわたくしはあなたに要求します。 それは明日午前十時に下に書き記してある停車場へ拳銃御持参でお出で下されたいと申す事です。 この要求を致しますのにわたくしの方で対等以上の利益を有しているとは申されません。 わたくしも立会人を連れて参りませんからあなたもお連れにならないように希望いたします。 序でながら申しますがこの事件に就いて前|以て問題の男に打明ける必要は無いと信じます。 その男にはわたくしが好い加減な事を申して今明日の間遠方に参っていさせるように致しました。 その下に書いた苗字を読める位に消してある。 なま。 この位稽古しましたらそろそろ人間の猟をしに出掛けられますでしょうね。 冷淡さ。 そっけなさ。 目前の事実。 女の決闘。 女の決闘。 ロシヤの医科大学の女学生が或晩の事何の学科やらの。 女の決闘。 女の決闘。 尊敬しているからこそ甘えて失礼もするのだ。 私はあの人を愛していない。 あなたはほんとに愛しているの。 どうしたの。 見つかった感づかれた。 あなたよりはあなたの奥さんの方がきっぱりして居るようです。 私に決闘を申込んで来ました。 そうかやっぱりそうか。 あいつはそんな無茶なことをやらかしておれの声名に傷つけ心からの復讐をしようとしている。 変だと思っていたのだ。 ゆうべおれにいつにないやさしい口調であなたも今月はずいぶんお仕事をなさいましたし気休めにどこか田舎へ遊びにいらっしゃい。 お金も今月はどっさり余分にございます。 あなたのお疲れのお顔を見ると私までなんだか苦しくなります。 この頃私にも少しずつ芸術家の辛苦というものがわかりかけてまいりました。 とそんなことをぬかすのでおれもははあこれは何かあるなと感づき何食わぬ顔してそれに同意し今朝旅行に出たふりしてまた引返し家の中庭の隅にしゃがんで看視していたのだ。 夕方あいつは家を出て何時何処で誰から聞いて知っていたのかお前のこの下宿へ真直にやって来ておかみと何やら話していたがやがて出て来てこんどは下町へ出かけある店の飾り窓の前にひたと吸いついて動かなんだ。 その飾り窓には野鴨の剥製やら鹿の角やらいたちの毛皮などあり私は遠くから見ていたのであるがはじめは何の店やら判断がつかなかった。 そのうちにあいつはすっと店の中へ入ってしまったので私も安心してその店に近づいて見ることが出来たのだがなんと驚いたいや驚いたというのは嘘でああそうかというような合点の気持だったのかな。 野鴨の剥製やら鹿の角やらいたちの毛皮に飾られて十数挺の猟銃が黒い銃身を鈍く光らせて飾り窓の下に沈んで横になっていた。 拳銃もある。 私には皆わかるのだ。 人生がこのような黒い銃身の光とじかに結びつくなどはふだんはとても考えられぬことであるがその時の私のうつろな絶望の胸にはとてもリリカルにしみて来たのだ。 銃身の黒い光はこれはいのちの最後の詩だと思った。 パアンと店の裏で拳銃の音がする。 つづいて又一発。 私は危く涙を落しそうになった。 そっと店の扉を開け内を窺っても店はがらんとして誰もいない。 私は入った。 相続く銃声をたよりにずんずん奥へすすんだ。 みると薄暮の中庭で女房と店の主人が並んで立って今しも女房が主人に教えられ最初の一発を的に向ってぶっ放すところであった。 女房の拳銃は火を放った。 けれども弾丸は三歩程前の地面に当りはじかれて窓に当った。 窓ガラスはがらがらと鳴ってこわれどこか屋根の上に隠れて止っていた一群の鳩が驚いて飛立ってたださえ暗い中庭をさっと一層暗くした。 私は再び涙ぐむのを覚えた。 あの涙は何だろう。 憎悪の涙か恐怖の涙か。 いやいやひょっとしたら女房への不憫さの涙であったかも知れないね。 とにかくこれでわかった。 あれはそんな女だ。 いつでも冷たく忍従してそのくせやるとなったら世間を顧慮せずやりのける。 ああおれはそれを頼もしい性格と思ったことさえある。 芋の煮付が上手でね。 今は危い。 お前さんが殺される。 おれの生れてはじめての恋人が殺される。 もうこれが私の生涯で唯一の女になるだろうその大事な人をその人をあれがいま殺そうとしている。 おれはそこまで見届けていまお前さんのとこへ駈込んで来た。 お前は――。 それは御苦労さまでした。 生れてはじめての恋人だの唯一の宝だのそれは一体なんのことです。 所詮はあなた芸術家としてのひとり合点ひとりでほくほく享楽しているだけのことではないの。 気障だねえ。 お止しなさい。 私はあなたを愛していない。 あなたはどだい美しくないもの。 私が少しでもあなたに関心を持っているとしたらそれはあなたの特異な職業に対してであります。 市民を嘲って芸術を売ってそうして市民と同じ生活をしているというのはなんだか私には不思議な生物のように思われ私はそれを探求してみたかったというまあ理窟を言えばそうなるのですがでも結局なんにもならなかった。 なんにも無いのね。 めちゃめちゃだけが在るのね。 私は科学者ですから不可解なものわからないものには惹かれるの。 それを知り極めないと死んでしまうような心細さを覚えます。 だから私はあなたに惹かれた。 私には芸術がわからない。 私には芸術家がわからない。 何かあると思っていたの。 あなたを愛していたんじゃないわ。 私は今こそ芸術家というものを知りました。 芸術家というものは弱いてんでなっちゃいない大きな低能児ね。 それだけのものつまり智能の未発育ないくら年とってもそれ以上は発育しない不具者なのね。 純粋とは白痴のことなの。 無垢とは泣虫のことなの。 あああ何をまたそんな蒼い顔をして私を見つめるの。 いやだ。 帰って下さい。 あなたは頼りにならないお人だ。 いまそれがわかった。 驚いて度を失いただうろうろして見せるだけでそれが芸術家の純粋な所以なのですか。 おそれいりました。 どうとも勝手に。 さきほどは御免なさい。 大きな白痴。 あした決闘を見においで。 私が奥さんを殺してあげる。 いやならあなたのお家にじっとひそんで奥さんのお帰りを待っていなさい。 見に来なければ奥さんを無事に帰してあげるわよ。 えなんだって。 わけの分らんことをお前さんは言ったね。 あさましい。 理性を失った女性の姿はどうしてこんなに動物の臭いがするのだろう。 汚い。 下等だ。 毛虫だ。 助けまい。 あの男を撃つより先にやはりこの女と私は憎しみをもって勝敗を決しよう。 あの男が此所へ来ているかどうか私は知らない。 見えないようだ。 どうでもよい。 いまは目前のこのあさはかな取乱した下等な雌馬だけが問題だ。 お互に六発ずつ打つ事にしましょうね。 あなたがお先へお打ちなさい。 ようございます。 女の決闘。 愛します。 恋情。 虚栄。 今血が出てしまって死ぬるのだ。 これで敵を討った。 復讐と云うものはこんなに苦い味のものか知ら。 あのどうぞわたくしを縛って下さいましわたくしは決闘を致しまして人を一人殺しました。 それを聞いて役場の書記二人はこれまで話に聞いた事も無い出来事なので女房の顔を見て微笑んだ。 少し取り乱しているが上流の奥さんらしく見える人が変な事を言うと思ったのである。 書記等は多分これはどこかから逃げて来た女気違だろうと思った。 女房は是非縛って貰いたいと云って相手を殺したと云う場所を精しく話した。 それから人を遣って調べさせて見ると相手の女学生はおおよそ一時間前に頸の銃創から出血して死んだものらしかった。 それから二本の白樺の木の下の寂しい所に物を言わぬ証拠人として拳銃が二つ棄ててあるのを見出した。 拳銃は二つ共込めただけの弾丸を皆打ってしまってあった。 そうして見ると女房の持っていた拳銃の最後の一弾が気まぐれに相手の体に中ろうと思ってとうとうその強情を張り通したものと見える。 女房は是非この儘抑留して置いて貰いたいと請求した。 役場ではその決闘と云うものが正当な決闘であったなら女房の受ける処分は禁獄に過ぎぬから別に名誉を損ずるものではないと説明して聞かせたけれど女房は飽くまで留めて置いて貰おうとした。 女房は自分の名誉を保存しようとは思っておらぬらしい。 たったさっきまでその名誉のために一命を賭したのでありながら今はその名誉を有している生活と云うものがそこに住う事もそこで呼吸をする事も出来ぬ雰囲気の無い空間になったようにどこへか押し除けられてしまったように思われるらしい。 丁度死んでしまったものがもう用が無くなったのでこれまで骨を折って覚えた言語その外の一切の物を忘れてしまうように女房は過去の生活を忘れてしまったものらしい。 女房は市へ護送せられて予審に掛かった。 そこで未決檻に入れられてから女房は監獄長や判事や警察医や僧侶に繰り返して切に頼み込んでこれまで夫としていた男に衝き合せずに置いて貰う事にした。 そればかりでは無い。 その男の面会に来ぬようにして貰った。 それから色色な秘密らしい口供をしたり又わざと矛盾する口供をしたりして予審を二三週間長引かせた。 その口供が故意にしたのであったと云う事は後になって分かった。 或る夕方女房は檻房の床の上に倒れて死んでいた。 それを見附けて女の押丁が抱いて寝台の上に寝かした。 その時女房の体が着物だけの目方しかないのに驚いた。 女房は小鳥が羽の生えた儘で死ぬようにその着物を着た儘で死んだのである。 跡から取調べたり周囲の人を訊問して見たりすると女房は檻房に入れられてから絶食して死んだのであった。 渡された食物を食わぬと思われたり又無理に食わせられたりすまいと思って人の見る前では呑み込んで直ぐそれを吐き出したこともあったらしい。 丁度相手の女学生が頸の創から血を出して萎びて死んだように絶食して次第に体を萎びさせて死んだのである。 女の決闘。 小鳥が羽の生えた儘で死ぬようにその着物を着た儘で死んだのである。 法師の結婚。 いいえ私はどちらも生きてくれと念じていました。 どちらも生きてくれと念じていました。 どちらも生きてくれと念じていました。 よろしい信頼しましょう。 事実。 真実。 芸術家。 醜いものだけを正体として信じ美しい願望も人間には在るということを忘れているのは間違いであります。 先日お出でになった時大層御尊信なすってお出での様子でお話になったあのイエス・クリストのお名に掛けてお願致します。 どうぞ二度とお尋下さいますな。 わたくしの申す事を御信用下さい。 わたくしの考では若しイエスがまだ生きてお出でなされたならあなたがわたくしの所へお出でなさるのをお遮りなさる事でしょう。 昔天国の門に立たせて置かれたあの天使のようにイエスは燃える抜身を手にお持になってわたくしのいる檻房へ這入ろうとする人をお留なさると存じます。 わたくしはこの檻房からわたくしの逃げ出して来た元の天国へ帰りたくありません。 よしや天使が薔薇の綱をわたくしの体に巻いて引入れようとしたとてわたくしは帰ろうとは思いません。 なぜと申しますのにわたくしがそこで流した血は決闘でわたくしの殺したあの女学生の創から流れて出た血のようにもう元へは帰らぬのでございます。 わたくしはもう人の妻でも無ければ人の母でもありません。 もうそんなものには決してなられません。 永遠になられません。 ほんにこの永遠と云うたっぷり涙を含んだ二字をあなた方どなたでも理解して尊敬して下されば好いと存じます。 わたくしはあの陰気な中庭に入り込んで生れてから初めて拳銃と云うものを打って見ました時自分が死ぬる覚悟で致しましてそれと同時に自分の狙っている的は即ち自分の心の臓だと云う事が分かりました。 それから一発一発と打つたびにわたくしは自分で自分を引き裂くような愉快を味いました。 この心の臓はもとは夫や子供の側でセコンドのように打っていて時を過ごして来たものでございます。 それが今は数知れぬ弾丸に打ち抜かれています。 こんなになった心の臓をどうして元の場所へ持って行かれましょう。 よしやあなたが主御自身であってもわたくしを元へお帰しなさる事はお出来になりますまい。 神様でも鳥よ虫になれとは仰ゃる事が出来ますまい。 先にその鳥の命をお断ちになってからでもそう仰ゃる事は出来ますまい。 わたくしを生きながら元の道へお帰らせなさることのお出来にならないのも同じ道理でございます。 幾らあなたでも人間のお詞でそんな事を出来そうとは思召しますまい。 わたくしはあなたの教で禁じてある程自分の意志の儘に進んで参って跡を振り返っても見ませんでした。 それはわたくし好く存じています。 併しどなただってわたくしにお前の愛しようは違うから別な愛しようをしろと仰ゃる事は出来ますまい。 あなたの心の臓はわたくしの胸には嵌まりますまい。 又わたくしのはあなたのお胸には嵌まりますまい。 あなたはわたくしを謙遜を知らぬ我慾の強いものだと仰ゃるかも知れませんがそれと同じ権利でわたくしはあなたを気の狭い卑屈な方だと申す事も出来ましょう。 あなたの尺度でわたくしをお測りになってその尺度が足らぬからと言ってわたくしを度はずれだと仰ゃる訳には行きますまい。 あなたとわたくしとの間には対等の決闘は成り立ちません。 お互に手に持っている武器が違います。 どうぞもうわたくしの所へ御出で下さいますな。 切にお断申します。 わたくしの為には自分の恋愛が丁度自分の身を包んでいる皮のようなものでございました。 若しその皮の上に一寸した染が出来るとか一寸した創が付くとかしますとわたくしはどんなにしてでもそれを癒やしてしまわずには置かれませんでした。 わたくしはその恋愛が非常に傷けられたと存じました時その為に長煩いで腐って行くように死なずに意識して真っ直ぐに立った儘で死のうと思いました。 わたくしは相手の女学生の手で殺して貰おうと思いました。 そうしてわたくしの恋愛を潔く公然と相手に奪われてしまおうと存じました。 それが反対になってわたくしが勝ってしまいました時わたくしは唯名誉を救っただけで恋愛を救う事が出来なかったのに気が付きました。 総ての不治の創の通りに恋愛の創も死ななくては癒えません。 それはどの恋愛でも傷けられると恋愛の神が侮辱せられてその報いに犠牲を求めるからでございます。 決闘の結果は予期とは相違していましたが兎に角わたくしは自分の恋愛を相手に渡すのに身を屈めて余儀なくせられて渡すのでは無く名誉を以て渡そうとしたのだと云うだけの誇を持っています。 どうぞ聖者の毫光を御尊敬なさると同じお心持で勝利を得たものの額の月桂冠を御尊敬なすって下さいまし。 どうぞわたくしの心の臓をお労わりなすって下さいまし。 あなたの御尊信なさる神様と同じようにわたくしを大胆に偉大に死なせて下さいまし。 わたくしは自分の致した事を一人で神様の前へ持って参ろうと存じます。 名誉ある人妻として持って参ろうと存じます。 わたくしは十字架に釘付けにせられたように自分の恋愛に釘付けにせられて数多の創から血を流しています。 こんな恋愛がこの世界でこの世界にいる人妻のために正当な恋愛でありましたかどうでしたかそれはこれから先の第三期の生活に入ったなら分かるだろうと存じます。 わたくしがこの世に生れる前と生れてからとで経験しました第一期第二期の生活ではそれが教えられずにしまいました。 精神。 勉強。 女音。 わたくしは女でございます。 そもそも女というものは。 卓に向いその時たまたま記憶に甦って来た曾遊のスコットランドの風景を偲ぶ詩を二三行書くともなく書きとどめ新刊の書物の数頁を読むともなく読み終ると『いやに胸騒ぎがするな』と呟きながら小机の抽斗から拳銃を取り出したが傍のソファに悠然と腰を卸してから胸に銃口を当てて引金を引いた。 女の決闘。 尊敬して居ればこそ安心して甘えるのだ。 小説。 小説。 女の決闘。 あなたならこの女房になんと答えますか。 この牧師さんはたいへん軽蔑されてやっつけられているようですがこれはこれでいいのでしょうか。 あなたはこの遺書をどう思います。 女は恋をすればそれっきりです。 ただ見ているより他はありません。 狐には穴あり鳥には塒されども人の子には枕するところ無し。 おまえにもお世話になるね。 おまえの寂しさはわかっている。 けれどもそんなにいつも不機嫌な顔をしていてはいけない。 寂しいときに寂しそうな面容をするのはそれは偽善者のすることなのだ。 寂しさを人にわかって貰おうとしてことさらに顔色を変えて見せているだけなのだ。 まことに神を信じているならばおまえは寂しい時でも素知らぬ振りして顔を綺麗に洗い頭に膏を塗り微笑んでいなさるがよい。 わからないかね。 寂しさを人にわかって貰わなくてもどこか眼に見えないところにいるお前の誠の父だけがわかっていて下さったならそれでよいではないか。 そうではないかね。 寂しさは誰にだって在るのだよ。 ペテロやシモンは漁人だ。 美しい桃の畠も無い。 ヤコブもヨハネも赤貧の漁人だ。 あのひとたちにはそんな一生を安楽に暮せるような土地がどこにも無いのだ。 この女を叱ってはいけない。 この女のひとは大変いいことをしてくれたのだ。 貧しい人にお金を施すのはおまえたちにはこれからあとあといくらでも出来ることではないか。 私にはもう施しが出来なくなっているのだ。 そのわけは言うまい。 この女のひとだけは知っている。 この女が私のからだに香油を注いだのは私の葬いの備えをしてくれたのだ。 おまえたちも覚えて置くがよい。 全世界どこの土地でも私の短い一生を言い伝えられる処には必ずこの女の今日の仕草も記念として語り伝えられるであろう。 シオンの娘よ懼るな視よなんじの王は驢馬の子に乗りて来り給う。 ダビデの子にホサナ讃むべきかな主の御名によりて来る者いと高き処にてホサナ。 おまえたちみな出て失せろ私の父の家を商いの家にしてはならぬ。 おまえたちこの宮をこわしてしまえ私は三日の間にまた建て直してあげるから。 禍害なるかな偽善なる学者パリサイ人よ汝らは酒杯と皿との外を潔くす然れども内は貪慾と放縦とにて満つるなり。 禍害なるかな偽善なる学者パリサイ人よ汝らは白く塗りたる墓に似たり外は美しく見ゆれども内は死人の骨とさまざまの穢とに満つ。 斯のごとく汝らも外は正しく見ゆれども内は偽善と不法とにて満つるなり。 蛇よ蝮の裔よなんじら争でゲヘナの刑罰を避け得んや。 ああエルサレムエルサレム予言者たちを殺し遣されたる人々を石にて撃つ者よ牝鶏のその雛を翼の下に集むるごとく我なんじの子らを集めんと為しこと幾度ぞや然れど汝らは好まざりき。 ああ私のすることはおまえにはわかるまい。 あとで思い当ることもあるだろう。 私がもしおまえの足を洗わないならおまえと私とはもう何の関係も無いことになるのだ。 ペテロよ足だけ洗えばもうそれでおまえの全身は潔いのだああおまえだけでなくヤコブもヨハネもみんな汚れの無い潔いからだになったのだ。 けれども。 みんなが潔ければいいのだが。 私がおまえたちの足を洗ってやったわけを知っているか。 おまえたちは私を主と称えまた師と称えているようだがそれは間違いないことだ。 私はおまえたちの主または師なのにそれでもなおおまえたちの足を洗ってやったのだからおまえたちもこれからは互いに仲好く足を洗い合ってやるように心がけなければなるまい。 私はおまえたちといつ迄も一緒にいることが出来ないかも知れぬからいまこの機会におまえたちに模範を示してやったのだ。 私のやったとおりにおまえたちも行うように心がけなければならぬ。 師は必ず弟子より優れたものなのだからよく私の言うことを聞いて忘れぬようになさい。 おまえたちのうちの一人が私を売る。 私がいまその人に一つまみのパンを与えます。 その人はずいぶん不仕合せな男なのです。 ほんとうにその人は生れて来なかったほうがよかった。 お父さ。 おどさ。 おどさ。 おどさ。 おどさ。 行ってもすぐ帰って来るのでは意味がないそれからどんな事があっても阿片だけは吸わないように。 大隅さんのお嫁さんが見つかりました。 大丈夫ですか。 大隅君はあれでなかなかむずかしいのですよ。 写真を北京へ送ってやったのです。 すると大隅さんから是非という御返事がまいりました。 いやこれはお見せ出来ません。 大隅さんに悪いような気がします。 少し感傷的なあまい事なども書かれてありますから。 まあ御推察を願います。 それはよかった。 まとめてやったらどうですか。 僕ひとりでは駄目です。 あなたにも御助力ねがいたい。 きょうこれから先方へ申込みに行こうと思っているのですがあなたのところに大隅さんの最近の写真がありませんか。 先方に見せなければいけません。 最近は大隅君からあまり便りがないのですが三年ほど前に北京から送って寄こした写真なら一二枚あったと思います。 これはいい。 髪の毛も濃くなったようですね。 でも光線の加減でそんなに濃く写ったのかも知れませんよ。 いやそんな事はない。 このごろいい薬が発明されたそうですからね。 イタリヤ製のいい薬があるそうです。 北京で彼はそのイタリヤ製をひそかに用いたのかも知れない。 小坂です。 これは。 僕のほうからお伺いしなければならなかったのに。 いや。 どうも。 これは。 さあ。 まあ。 どうぞ。 大隅君からこんな電報がまいりましてね。 ○オクッタとありますがこの○というのは百円の事です。 これを結納金としてあなたのほうへ差上げよという意味らしいのですが何せどうも突然の事で何が何やら。 ごもっともでございます。 山田さんが郷里へお帰りになりましたので私共も心細く存じておりましたところ昨年の暮に大隅さんから直接私どものほうへお便りがございましていろいろ都合もあるから式は来年の四月まで待ってもらいたいという事で私共もそれを信じて今まで待っておりましたようなわけでございます。 そうですか。 それはさぞ御心配だったでしょう。 でも大隅君だって決して無責任な男じゃございませんから。 はい。 存じております。 山田さんもそれは保証していらっしゃいました。 僕だって保証いたします。 いや。 ちょっと。 あ。 これは。 さあどうぞ。 このたびはまことに――。 幾久しゅうお願い申上げます。 はじめてお目にかかります。 正子の姉でございます。 は幾久しゅうお願い申上げます。 末永くお願い申します。 やおめでとう。 よろしく願います。 さひとつ。 あいにくどうもお相手を申上げる者がいないので。 ――私も若い時には大酒を飲んだものですがいまはもうさっぱり駄目になりました。 失礼ですがおいくつで。 九でございます。 五十。 いいえ六十九で。 それはお達者です。 先日はじめてお目にかかった時からそう思っていたのですが御士族でいらっしゃるのではございませんか。 おそれいります。 会津の藩士でございます。 剣術などもお幼い頃から。 いいえ。 父にはなんにも出来やしません。 おじいさまは槍の――。 槍。 さどうぞ。 おいしいものは何もございませんがどうぞお箸をおつけになって下さい。 それお酌をせんかい。 しっかりひとつ召し上って下さい。 さどうぞしっかり。 あのお写真は。 どなたです。 あら。 きょうははずして置けばよかったのに。 こんなおめでたい席に。 まあいい。 長女の婿でございます。 おなくなりに。 ええでも。 決してお気になさらないで下さい。 そりゃもう皆さまがもったいないほど――。 兄さんがいらっしゃったらきょうはどんなにお喜びだったでしょうね。 あいにく私のところも出張中で。 御出張。 ええもう長いんですの。 私の事も子供の事もちっとも心配していない様子でただお庭の植木の事ばっかり言って寄こします。 あれは庭木が好きだから。 どうぞビイルをしっかり。 瀬川さんだったら大隅君にも不服は無い筈です。 けれども瀬川さんはなかなか気むずかしいお方ですから引受けて下さるかどうかとにかくきょうこれから私が先生のお宅へお伺いして懇願してみましょう。 ありがとうございます。 何せお嫁さんのおじいさんは槍の名人だそうですからね大隅君だって油断は出来ません。 そこのところを先生から大隅君によく注意してやったほうがいいと思います。 あいつはどうものんき過ぎますから。 それは心配ないだろう。 武家の娘はかえって男を敬うものだ。 それよりもどうだろう。 大隅の頭はだいぶ禿げ上っていたようだが。 たぶん大丈夫だろうと思います。 北京から送られて来た写真を見ましたがあれ以上進捗していないようです。 なんでもいまはイタリヤ製のいい薬があるそうですしそれに先方の小坂吉之助氏だってずいぶん見事な――。 それはとしとってから禿げるのは当りまえの事だが。 おめでとう。 やあこのたびは御苦労。 どてらに着換えたら。 うむ拝借しよう。 ついでに君新しいパンツが無いか。 しかし東京はのんきだな。 そうかね。 のんきだ。 北京はこんなもんじゃないぜ。 緊張の足りないところもあるだろうねえ。 ある。 酒だってあるし。 お料理だってこんなにたくさん出来るじゃないか。 君たちはめぐまれ過ぎているんだ。 疲れたろう。 寝ないか。 ああ寝よう。 夕刊を枕頭に置いてくれ。 君はめっきり尻の軽い男になったな。 鬚を剃らないか。 そんな必要も無いだろう。 きょうはでも小坂さんの家へ行くんだろう。 うむ行って見ようか。 なかなかの美人のようだぜ。 君が見ないさきに僕が拝見するのは失礼だと思ったからほんのちらと瞥見したばかりだがでも桜の花のような印象を受けた。 君は女にはあまいからな。 立派な家庭だぜ。 縁談などの時にはたいてい自分の地位やら財産やらをほのめかしたがるものらしいが小坂のお父さんはそんな事は一言もおっしゃらなかった。 ただ君を信じると言っていた。 武士だからな。 それだから僕だってわざわざ北京から出かけて来たんだ。 そうでもなくっちゃあ――。 何しろ名誉の家だからな。 名誉の家。 長女の婿は三四年前に北支で戦死家族はいま小坂の家に住んでいる筈だ。 次女の婿はこれは小坂の養子らしいが早くから出征していまは南方に活躍中とか聞いていたが君は知らなかったのかい。 そうかあ。 一ばん大事のことじゃないか。 どうしてそれを知らせてくれなかったんだ。 僕は大恥をかいたよ。 どうだっていいさ。 よかないよ。 大事なことだ。 山田君も山田君だ。 そんな大事なことを一言も僕に教えてくれなかったというのは不親切だ。 僕はこんどの世話はごめんこうむる。 僕はもう小坂さんの家へは顔出しできない。 君がきょう行くんだったらひとりで行けよ。 僕はもういやだ。 君がひとりで行ったらいいだろう。 僕には他に用事もあるんだ。 どうもあいつはいけません。 結婚に感激を持っていません。 てんで問題にしていないんです。 ただもうやたらに天下国家ばかり論じてそうして私を叱るのです。 そんな事はあるまい。 てれているんだろう。 大隅君はうれしい時に限って不機嫌な顔をする男なんだ。 悪い癖だが無くて七癖というからまあ大目に見てやるんだね。 時にどうだ頭のほうは。 大丈夫です。 現状維持というところです。 それは大慶のいたりだ。 それではもう何も恐れる事は無い。 私も大威張りで媒妁できる。 何せ相手のお嬢さんはひどく若くて綺麗だそうだから実は心配していたのだ。 まったく。 あいつにはもったいないくらいのお嫁さんです。 だいいち家庭が立派だ。 相当の実業家らしいのですが財産やら地位やらを一言も広告しないばかりか名誉の家だって事さえ素振りにあらわさずつつましく涼しく笑って暮しているのですからね。 あんな家庭はめったにあるもんじゃない。 名誉の家。 きょうはじめてお嫁さんと逢うんだというのに十一時頃まで悠々と朝寝坊しているんですからね。 ぶん殴ってやりたいくらいだ。 喧嘩をしちゃいかん。 どうも同じクラスの者は大学を出てからも仲の良いくせにつまらないところで張合って喧嘩をしたがる傾向がある。 大隅君はてれているんだよ。 大隅君だって小坂さんの御家庭を尊敬しているさ。 君以上かも知れない。 だからなおさらてれているんだよ。 大隅君はもういいとしだし頭髪もそろそろ薄くなっているしてれくさくってどうしていいかわからない気持なんだろう。 そこを察してやらなければいけない。 表現がまずいんだよ。 どうしていいかわからなくなって天下国家を論じて君を叱ってみたりまた十一時まで朝寝坊してみたりさまざま工夫しているのだろうがどうもあれは昔から感覚がいいくせに表現のまずい男だった。 いたわってやれよ。 君ひとりをたのみにしているんだ。 君はやいているんだろう。 小坂さんとこへ行って来たか。 行って来た。 いい家庭だろう。 いい家庭だ。 ありがたく思え。 思う。 あんまり威張るな。 あすは瀬川先生のとこへ御挨拶に行け。 仰げば尊しわが師の恩という歌を忘れるな。 おまえがわるいんだ。 ちょっと手違いがありまして大隅君のモオニングが間に合わなくなりまして。 はあ。 よろしゅうございます。 こちらでなんとか致しましょう。 おい。 お前のところにモオニングがあったろう。 電話をかけて直ぐ持って来させるように。 いやよ。 お留守のあいだはいやよ。 なんだ。 何を言うのです。 他人に貸すわけじゃあるまいし。 お父さん。 そりゃ当り前よ。 お父さんにはわからない。 お帰りの日まではどんなに親しい人にだって手をふれさせずになんでもそっくりそのままにして置かなければ。 ばかな事を。 ばかじゃないわ。 うちのモオニングを貸してあげましょう。 少しナフタリン臭くなっているかも知れませんけどね。 うちのひとにはもうなんにも要らないのです。 モオニングがこんな晴れの日にお役に立ったらうちのひとだってよろこぶ事でございましょう。 ゆるして下さるそうです。 はいや。 君は仕合せものだぞ。 上の姉さんが君に家宝のモオニングを貸して下さるそうだ。 あそう。 下の姉さんは貸さなかったがわかるかい。 下の姉さんも偉いね。 上の姉さんよりもっと偉いかも知れない。 わかるかい。 わかるさ。 煙草がなくなっちゃったな。 ああ。 僕もねさっきから煙草吸いたくて。 買って来よう。 ため。 や。 しっけいしっけい。 煙草あるかい。 僕もやっと今しがた来たばかりでどうもおそくなって。 まいいさ。 僕もねきょうから生田組の撮影がはじまっているのでてんてこ舞いさ。 はり切っていますね。 芸術の制作衝動と。 芸術の制作衝動と日常の生活意慾とを完全に一致させてすすむということはなかなか稀なことだと思われますがあなたはそれを素晴らしくやってのけて居られるように見受けられます。 美しいことです。 僕はうらやましくてならない。 そんなでもないさ。 うちの撮影所見たいか。 ぜひとも。 オーライ。 カムオン。 それはねもう一粒のごはんつぶをすりつぶしそれを糊にしてもう一粒のごはんつぶに塗ってつけたらいいでしょう。 新やん。 新やん。 ちっともお変りにならないのね。 あたしさっきひとめ見てちゃんとわかったわ。 でも撮影中でしょうだもんだからだまってごめんなさいね。 ほんとうにおひさしぶりでございました。 お国では皆様おかわりございませぬでしょうか。 あとみとみだね。 よく来たねえ。 新やんこそよくおいで下さいました。 あたしゆっくりお話申しあげたいのですけれどいまとってもいそがしいのであそうそう九時にね新橋駅のまえでお待ち申して居ります。 ほんのちょっとでよろしゅうございますからあのほんとにお願い申しあげます。 おいやでしょうけれどほんとに。 ああいいよ。 いいとも。 あたしなんでも知っててよ。 新やんのことあたし残らず聞いて知っています。 新やんあなたはちっとも悪いことしなかったのよ。 立派なものよ。 あたし昔から信じていたわ。 新やんはいいひとよ。 ずいぶんお苦しみなさいましたのね。 あたしあちこちの人から聞いてみんな知っているわ。 でも新やん勇気を出してね。 あなたは負けたのじゃないわ。 負けたとしたらそれは神さまに負けたのよ。 だって新やんは神さまになろうとしたんだ。 いけないわ。 あたしだって苦労したわよ。 新やんの気持ちもよくわかるわ。 新やんは或る瞬間人間としての一ばん高い苦しみをしたのよ。 うんと誇っていいわ。 あたし信じてる。 人間だもの誰だって欠点あるわ。 新やんずいぶんいいことなさいました。 てれちゃだめよ。 自信もって当然のお礼を要求していいのよ。 新やんどうして立派なものよ。 あたし汚い世界にいるからそのことよくわかるの。 それごらん。 おまえがそんな鳥の羽根なんかつけた帽子をかぶっているものだからみんな笑っているじゃないか。 みっともないよ。 僕は女の銘仙の和服姿が一ばん好きだ。 何がおかしい。 おまえはへんに生意気になったね。 さっきも僕がだまって聞いているといい気になって婦人雑誌でたったいま読んで来たようなきざなことを言いやがる。 僕はおまえなんかに慰めてもらおうとは思っていない。 女はもっと女らしくするがいい。 不愉快だ。 僕はもうかえる。 話なんてほかに何もないんだろう。 なるほど君は幸福だ。 けれどもこの写真には君がはいっていないね。 どうしたの。 それは当りまえだ。 僕は二三の悪いことをしたからこの記念写真にはいる資格がないのだ。 それは当りまえだ。 僕にはとてもその資格がないのだ。 よく来たねえ。 姉さん僕は親不孝だろうか。 ブルジョア・シッペル。 坂井ですが。 用事ってなんだい。 あんな手紙よこしちゃいけないよ。 僕はこれでもいそがしいのだからね。 ごめんなさいまし。 よくおいで下さいましたこと。 いい家じゃないか。 やあ庭もひろいんだね。 これじゃ家賃も高いだろう。 虚栄か。 ふん。 むりしないほうがいいぞ。 ふざけるのもいい加減にし給え。 どこがいったい一生の大事なんです。 結構な身分じゃないか。 わざわざ僕は遠いところからやって来たんだぜ。 どこをどう聞けばいいのだ。 田舎のものたちがおまえをあきらめて全然交渉をたっているのならそれはそれでいいじゃないか。 弟がどうなったって男だ。 どうにかやって行くだろう。 おまえに責任は無い。 あとはおまえの自由じゃないか。 なんだばかばかしい。 ええそれが。 あたし結婚しようかと思っていますの。 いいだろう。 僕の知ったことじゃない。 は。 あのそれに就いて――。 さっさと言ったらいいだろう。 おまえは一たい僕をなんだと思ってんだい。 むかしからおまえにはこんな工合になんのかのと僕にうるさくかまいたがる癖があったね。 よくないよ。 僕にはからかわれているとしか思われない。 いいえ。 決してそんな。 お願いがございます。 ひとつ弟に説いてやって下さるわけには――。 僕がかい。 何を説くんだ。 それはおまえのわがままだ。 エゴイズムだ。 虫がよすぎる。 ばかなやつだ。 大ばかだ。 なんだと思っていやがんだ。 あの。 とにかく。 弟に。 おういとみや。 僕は知らんぞ。 おい君。 君は誰だ。 坂井さんですか。 僕はくにでいちどお目にかかったことがございます。 お忘れになったことと思いますが。 ああ君はとみやの弟さんですね。 ええそうです。 何か僕にお話があるとか。 あるよ。 あるとも。 言って置くけれどもね僕はいま非常に不愉快なんだ。 実にどうにも不愉快だ。 君の姉さんはあれはばかだよ。 僕は君の味方だ。 僕はものを隠して置けないたちだからみんな言っちまうがね君の姉さんはちかく結婚したいっていうんだ。 相手はなかなか立派な人なんだそうだ。 いやそれはいいんだ。 結構なことだ。 僕の知ったことじゃない。 けれどもそのあとがいけない。 さもしい。 なんのことはない君を邪魔にしているんだ。 僕は君を信じている。 ひとめ見て僕にはわかる。 君たち学生はいや僕だって同じようなものだが努力の方針を見失っているだけだ。 いやその表現を失っているだけだ。 学問の持って行きどころが無いじゃないか。 世の中が君たちのその胸の中に埋もれている誠実を理解してくれないだけのことだ。 姉に捨てられたら僕のとこに来い。 一緒にやって行こう。 なに僕だっていつまでもうろうろしているつもりはないのだ。 僕はこんな無益な侮辱を受けたことはない。 女中の走り使いなんかやらされてたまるものか。 だいいちその相手の男なるものもだらしないじゃないか。 女房の弟ひとり養えなくてどうする。 いいえ。 僕は。 養ってもらおうなどと思いません。 ただ僕を不潔なものとして遠ざけようとする精神がたまらないのです。 僕にだって理想があります。 そうだ。 そうとも。 どうせそいつはろくな男じゃない。 いずれにもせよ僕の知ったことじゃない。 勝手にするがいいととみやにそう言って置いて呉れ。 僕は非常に不愉快だ。 かえります。 僕をなんだと思ってんだ。 いいえかえります。 弟がそんなにいやなら僕がひきとるとそう言って置いてくれ。 失礼ですが。 養うのひきとるのとそんな問題は古いと思います。 だい一あなたには人間ひとり養う余裕ございますか。 自身の行為の覚悟がいま一ばん急な問題ではないのでしょうか。 ひとのことよりまずご自分の救済をして下さい。 そうして僕たちに見せて下さい。 目立たないことであっても僕たちは尊敬します。 どんなにささやかでも個人の努力をちからを信じます。 むかしばらばらに取り壊し渾沌の淵に沈めた自意識を単純に素朴に強く育て直すことが僕たちの一ばん新しい理想になりました。 いまごろまだ自意識の過剰だのニヒルだのを高尚なことみたいに言っている人はたしかに無智です。 やあ。 君は君ははっきりそう思うか。 僕だけではございません。 自己の中にアルプスの嶮にまさる難所があってそれを征服するのに懸命です。 僕たちはそれを為しとげた人を個人英雄という言葉で呼んでナポレオンよりも尊敬して居ります。 ありがとう。 それはいいことだ。 いいことなんだ。 僕は君たちの出現を待っていたのです。 好人物と言われて笑わればかと言われて指弾され廃人と言われて軽蔑されてもだまってこらえて待っていた。 どんなにどんなに待っていたか。 作戦図にあたれり。 なかなかいいひとじゃないか。 僕もあのひと好きだ。 姉さん結婚してもいいぜ。 苦労したからね。 十年の恋報いられたり。 共栄。 生活とは何ですか。 わびしさを堪える事です。 敗北とは何ですか。 悪に媚笑する事です。 悪とは何ですか。 無意識の殴打です。 意識的の殴打は悪ではありません。 自信とは何ですか。 将来の燭光を見た時の心の姿です。 現在の。 それは使いものになりません。 ばかです。 あなたには自信がありますか。 あります。 芸術とは何ですか。 すみれの花です。 つまらない。 つまらないものです。 芸術家とは何ですか。 豚の鼻です。 それはひどい。 鼻はすみれの匂いを知っています。 きょうは少し調子づいているようですね。 そうです。 芸術はその時の調子で出来ます。 それっきり。 それっきり。 先生と言われる程の。 やまと新報。 鶴。 むさぼり食う。 作家。 やまと新報。 鶴。 華厳。 文学月報。 たしかな事。 華厳。 へちまの花。 華厳。 あこがれて。 こんな筈ではなかった。 貧窮問答。 ありがとう。 光陰。 瘤。 百日紅。 私は無学で下手な作家。 芸術的。 正確を期する事。 芸術的。 チエホフ的に。 エホバを畏るるは知識の本なり。 たしかな事。 エホバを畏るるは知識の本なり。 芸術的な雰囲気。 へちまの花。 汝ら見られんために己が義を人の前にて行わぬように心せよ。 せめて。 なんじら祈るとき偽善者の如くあらざれ。 彼らは人に顕さんとて会堂や大路の角に立ちて祈ることを好む。 かよわい。 かよわく。 思想を感覚する。 哲学。 何しるでえ。 あてにならねえ。 非常時だに。 自惚れちゃいけない。 誰が君なんかに本気で恋をするものか。 ためしてみたのだ。 むかし坂田藤十郎という偉い役者がいてね。 いい加減言うじゃあ。 寄るな。 寄るな。 誰も君に寄りやしないじゃないか。 坐り給え。 僕が悪かったよ。 銃後の女性は皆君のようにしっかりしていなければいけないね。 何しるでえ。 毎日たいへんですね。 毎日たいへんですね。 毎日たいへんですね。 五十円。 へちまの花。 ひでえ部屋にいやがる。 鶯が六羽いるというのはこの襖か。 なるほど六羽いる。 部屋を換えたまえ。 はあ。 僕は井原です。 仕事の邪魔になったようですね。 いいえそれどころか。 足もとから鳥が飛び立った。 作家。 作家。 出エジプト記。 私小説。 エホバを畏るるは知識の本なり。 出エジプト記。 口重く舌重き。 我儕エジプトの地に於いて肉の鍋の側に坐り飽までにパンを食いし時にエホバの手によりて死にたらばよかりしものを。 汝はこの曠野に我等を導きいだしてこの全会を飢に死なしめんとするなり。 五十円。 奴隷の平和。 傑作。 作家は仕事をしなければならぬ。 傑作。 天才とはいつでも自身を駄目だと思っている人たちである。 書きたくないことだけをしのんで書き困難と思われたる形式だけをえらんで創りデパートの紙包さげてぞろぞろ路ゆく小市民のモラルの一切を否定し十九歳の春わが名は海賊の王チャイルド・ハロルド清らなる一行の詩の作者たそがれうなだれつつ街をよぎれば家々の門口よりほの白き乙女の影走り寄りて桃金嬢の冠を捧ぐとか真なるもの美なるもの兀鷹の怒鳩の愛四季を通じて五月の風夕立ちはれては青葉したたりいずかたよりぞレモンの香やさしき人のみ住むという太陽の国果樹の園あこがれ求めて梶は釘づけただまっしぐらの冒険旅行わが身は船長にして一等旅客同時に老練の司厨長嵐よ来い。 竜巻よ来い。 弓矢来い。 氷山来い。 渦まく淵を恐れず暗礁おそれず誰ひとり知らぬ朝出帆さらばふるさとわかれの言葉いいも終らずたちまち坐礁不吉きわまる門出であった。 新調のその船の名は細胞文芸井伏鱒二林房雄久野豊彦崎山兄弟舟橋聖一藤田郁義井上幸次郎その他数氏未だほとんど無名にしてそれぞれ辻馬車鷲の巣十字街青空驢馬等々の同人雑誌の選手なりしを手紙で頼んで小説の原稿もらい地方に於ては堂々の文芸雑誌表紙三度刷百頁近きもの六百部刷って創刊号三十部くらい売れたであろうか。 もすこし売りたく二号には古屋信子の原稿もらって私末代までの恥辱逢う人逢う人に笑われるなどの挿話まで残して三号出し損害かれこれ五百円それでも三号雑誌と言われたくなくてただそれだけの理由でもってむりやり四号印刷してそのときの編輯後記『今迄で三回出したけれど何時だって得意な気持で出した覚えがないのである。 罵倒号など僕の死ぬ迄思い出させては赤面させる代物らしいのである。 どんな雑誌の編輯後記を見ても大した気焔なのが羨ましいとも感じて居る。 僕は恥辱を忍んで言うのだけれどなんの為に雑誌を作るのか実は判らぬのである。 単なる売名的のものではなかろうか。 それなら止した方がいいのではあるまいか。 いつも僕はつらい思いをしている。 こんなものを――そんな感じがして閉口して居る。 殆ど自分一人で何から何迄やって来たのだがそれだけ余計に僕は此の雑誌にこだわって居る。 此の雑誌を出してからは僕は自分の所謂素質というものにとても不安を感じて来た。 他人の悪口も言えなくなったし。 こんな意気地のない狡猾な奴になったのがやたらに淋しく思われもするのだ。 事毎にいい子に成りたがるからいけないのだ。 編輯上にも色々変った計画があったのだが気おくれがして一つもやれなかった。 心にも無いこんなじみなものにして了った。 自分の小才を押えて仕事をするのは苦しいもんであると僕は思う。 事実とても苦しかった。 』先夜ひそかに如上の文章を読みかえしてみておのが思念の風貌十春秋ほとんど変っていないことを知るに及んで呆然たりいやいや十春秋一日の如く変らぬわが眉間の沈痛の色に今更ながらうんざりしたのである。 わが名は安易の敵有頂天の小姑あした死ぬる生命お金ある宵はすなわち富者万燈の祭礼一朝めざむれば天井の板わが家のそれに非ずあやしげの青い壁紙に大小星のかたちの銀紙ちらしたる三円天国死んで死に切れぬ傷のいたみわが友中村地平かくのごとき朝ラジオ体操の音楽を聞き声を放って泣いたそうな。 シンデレラ姫の物語を考えついた人はよっぽどお話にもなにもならないほど不仕合せな人なのだ。 マッチ売の娘の物語を考えついた人もまた煙草のみたいが叶わずマッチ点火しては焔をみつめほそぼそ青い焔の尾をひいて消えるまた点火涙でぼやけてマッチの火あるいは金殿玉楼くらいに見えたかも知れない。 年一年とくらしが苦しくわが絶望の書もどうにも気はずかしく夜半の友モラルの否定もいまは金縁看板の習性の如くにさえ見え言いたくなき内容困難の形式十春秋それをのみ繰りかえし繰りかえしいまではどうやらこの露地が住み良くたそがれの頃翼を得てここかしこを意味なく飛翔するわが身は蝙蝠ああいやらしき毛の生えた鳥歯のある蛾生きた蛙を食うというこのごろこれら魔性怪性のものを憎むことしきり。 これらこそ安易の夢無智の快楽十年まえ太陽の国果樹の園をあこがれ求めて船出した十九の春の心にかえりあたたかき真昼さくらの花の吹雪を求め泥の海蝙蝠の巣船橋とやらの漁師まちより髭も剃らずに出て来た男ゆるし給え。 紳士ならびに淑女諸君。 私もまた幸福クラブの誕生を最もよろこぶ者のひとりでございます。 わが名は狭き門の番卒困難の王安楽のくらしをして居るときこそ窓のそと荒天の下の不仕合せをのみ見つめわが頬は涙に濡れほの暗きランプの灯にてひとり哀しき絶望の詩をつくりおのれ苦しく命のほどさえ危き夜には薄き化粧ズボンにプレス頬には一筋微笑の皺夕立ちはれて柳の糸しずかに垂れたる下の折目正しき軽装のひとこれがこの世の不幸の者今宵死ぬる命かしかもかれ友を訪れて語るはこの生のよろこび青春の歌間抜けの友は調子に乗りレコオド持ち出しこは乾杯の歌勝利の歌歌え歌わむなど騒々しきを夜も更けたりまたの日にこそと約したまたの日ああ香煙|濛々の底仏間の奥隅屏風の陰白き四角の布切れの下鼻孔には綿いやはやこれは失礼いたしました。 幸福クラブ誕生の日にかかる不吉の物語いやあやまりますあやまります。 さてこの暗黒の時に当り毎月いちどこのご結構のサロンに集い一人一題世にも幸福の物語を囁き交わさむとの御趣旨ちかごろ聞かぬ御卓見私たのまれもせぬに御一同に代りあらためて主催者側へお礼を申し合せてこの会以後休みなくひらかれますよう一心に希望して居ることを言い添えそれでは私御指命を拝し今宵第一番の語り手たる光栄を得させていただきます。 私ただいま年に二つ三つそれも雑誌社のお許しを得て一篇十分くらいの時間があればたいてい読み切れるようなそうして読後十分くらいできれいさっぱり忘れられてしまうようなたいへんあっさりした短篇小説二つ三つ書かせていただき年収六十円ひと月平均いくらになりましょうかお待ち下さい。 すこし言いすぎました。 おゆるし下さい。 たいへんの失言でございました。 取消させていただきます。 幸福クラブ誕生の第一の夕しかし最初の話手が陰惨酷烈とうてい正視できぬある種の生活断面をちらとでもお目にかけたとあっては重大の問題ゆゆしき責任を感じます。 ありがたいことには神様今いちどだけ私をおゆるし下さいました。 たそがれ部屋の四隅のくらがりに何やら蠢めき人の心も死にたくなるころぱっと灯がついてもの皆がいきいきと背戸の小川に放たれた金魚の如くよみがえるから不思議です。 このシャンデリヤおそらく御当家の女中さんが廊下でスイッチをひねった結果さっと光の洪水私の失言も何も一切合切ひっくるめて押し流しまるで異った国の樹陰でぽかっと眼をさましたような思いで居られるこの機を逃さず素知らぬ顔をして話題をかえひそかに冷汗|拭うて思うことにはああかのドアの陰いまだ相見ぬ当家のお女中さんこそわが命の親この笑いの波も灯のおかげどうやら順風の様子一路平安を念じつつ綱を切ってするする出帆題は作家の友情について。 私はこのバナナを食うたびごとに思い出す。 三年まえ私は中村地平という少し気のきいた男とのべつまくなしに議論していて半年ほどをむだに費やしたことがございます。 そのころかれは二三の創作を発表し地平さん地平さんと呼ばれて大いに仕合せであった。 地平もそのころおのれを仕合せとは思わず何かと心労多かったことであったようだがそれより三年たって今日精も根も使いはたして洋服の中に腐りかけた泥がいっぱいだぶだぶたまってああ夕立よざっと降れ銀座のまんなかであろうと二重橋ちかきお広場であろうとごめん蒙って素裸になり石鹸ぬたくって夕立ちにこの身を洗わせたくてたまらぬ思いにこがれつつ会社への忠義のため炎天の下の一匹の蟻わが足は蠅取飴の地獄に落ちたが如くに――いやまたしても除名の危機おゆるし下さいつまり友人中村地平がそのようなきょうの日ふと三年まえのことを思ってあああのころはよかったなといても立っても居られぬほどの貴き苦悶を万々むりのおねがいなれどもできるだけ軽く諸君の念頭に置いてもらってそうしてその地獄の日々より三年まえ顔あわすより早く罵詈雑言はじめはしかつめらしくプウシキンの怪談趣味についてドオデエの通俗性についてさらに一転斎藤実と岡田啓介に就いて人物|月旦再転してはバナナは美味なりや否や三転しては一女流作家の身の上についてさらに逆転お互いの身なり風俗殺したき憎しみもて左右にわかれてあくる日は又早朝よりめしを五杯たべて見苦しい。 いやそういう君の上品ぶりの古陋頑迷それから各々ひらき直っていったい君の小説――云云とおたがいの腹の底のどこかしらでゆるせぬ反撥しのびがたき敵意あの小説はなんだいとてんから認めていなかったのだからうまく折合う道理はなし或る日地平はかれの家の裏庭にかねて栽培のトマトことのほか赤く粒も大なるもの二十個あまり風呂敷に包めるをわが玄関の式台にどさんと投げつけるが如くに置いて風呂敷かえしたまえほかの家へ持って行く途中なのだが重くていやだからここへ置いて行くトマトいやだろう風呂敷かえせとてれくさがって不機嫌になり面伏せたまま私の二階の部屋へどんどん足音たかくあがっていって私もすこしむっとなり階段のぼる彼のうしろ姿にほかへ持って行くものをここへ置かずともいい僕はトマト好きじゃないんだこんなトマトなどにうつつを抜かしていやがるからろくな小説もできないなど有り合せの悪口を二つ三つ浴びせてやったが地平おのれのぶざまに身も世もなきほど恥じらいその日は将棋をしても指角力してもすこぶるまごつき全くなっていなかった。 地平は私と同じで五尺七寸しかも毛むくじゃらの男ゆえたいへん貧乏を恐れてまた大男に洗いざらしの浴衣無精鬚に焼味噌のさがりたるこの世に二つ無き無体裁とちゃんと心得て居るゆえそれだけ貧にはもろかった。 そのころ地平縞の派手な春服を新調して部屋の中で一度私に着せて見せてすぐおのが失態に気づいてそそくさと脱ぎ捨ててつんとすまして見せたがかれこの服を死ぬるほど着て歩きたくけれどもこうして部屋の中でだけ着てうろうろしているのには理由があった。 かれの吉祥寺の家は実姉とその旦那さんとふたりきりの住居でかれがそこの日当りよすぎるくらいの離れ座敷八畳一間を占領しかれに似ず小さくそそたる実の姉様が何かとかれの世話を焼きよい小説家として美事に花咲くようきらきら光るストオヴを設備しまた部屋の温度のほどを知るために寒暖計さえ柱に掛けられ二十六歳のかれにとっては姉のそのような心労ひとつひとついやらしく恥ずかしく私がたずねて行くと五尺七寸の中村地平は眼にもとまらぬ早業でその寒暖計をかくすのだ。 その頃生活派と呼ばれ一様に三十歳を越して奥様子供すでに一家のあるじそうして地味の小説を書いておとなしく一日一日を味いつつ生きて居る一群の作家があってその謂わば生活派の作家のうちの二三人が地平の家のまわりに居住していた。 もちろん地平の先輩である。 かれはときたまからだをちぢめてそれら諸先輩に文学上の多くの不審を子供のような曇りなき眼で小説と記録とちがいますか。 小説と日記とちがいますか。 『創作』という言葉を誰がいつごろ用いたのでしょうなど傍の者のはらはらするようなそれでいて至極もっともの昨夜寝てから暗闇の中じっと息をころして考えに考え抜いた揚句の果の質問らしく誠実あふれいかにもして解き聞かせてもらいたげの態度なれば先輩も面くらいそこのところがわかればねえなどと呟きひどく弱って頭をかかえいよいよ腐って沈思黙考地平は知らずきょとんと部屋の窓の外風に吹かれて頬かむり飛ばして女房に追わせる畑の中の百姓夫婦を眺めて居る。 そのように一種不思議のおくめんなき人柄を持っていた地平でも流石におのれ一人縞の春服を着て歩けなかった。 生活派の人たちにすまないと言うのである。 私はそれについても地平はだめだ芸術家はいつでも堂々としていたい鼠のように逃げぐち計りを捜しているのでは将来の大成がむずかしい僕もそのうち支那服を着てみるつもりであるなどああそのころはお互いがまだまだ仕合せであったのだ。 三年たって私は死ぬるよりほかに全くもって生きてゆく路がなくなった。 昨年の春えい幸福クラブ除名するならするがよい熊の月の輪のような赤い傷跡をつけてそうして一年後のきょうも尚一杯ビイル呑んで上気すれば縄目がありあり浮んで来るそのような死にそこないの友人のために井伏鱒二氏檀一雄氏それに地平も加えて三人私の実兄を神田淡路町の宿屋に訪れもう一箇年お金くださいとたのんで呉れた。 その日井伏さんと檀君とふたりさきに出掛けて地平は用事のために一足おくれてその実兄の宿へ行く途中荻窪の私の家へほんの鳥渡立ち寄って私の就職のことで二三打ち合せてから井伏さんたちのあとを追って荻窪の駅へ私も駅まで見送っていってふたり並んで歩くのだが地平女のようにぬかるみを細心に拾い拾いして歩くのだ。 そのような大事のときでもその緊張をほぐしたい私の悪癖がそっと鎌首もたげてちらと地平の足もとを覗いてやられた。 停車場まできつく顔をそむけて地平がなにを言ってもただうんうんとうなずいていた。 地平はわざわざ服を着かえて来て呉れた。 縞の模様の派手な春服。 地平のほうではそのまえに二三度泣いたすがたを私に見つけられたことがあってそれがまた私の地平軽蔑のたねになったのであるが私はそのときはじめてのことなり見せたくなくてそのうちに両肩がびくついて眼先が見えなくなってひどくこまった。 一年すぎて私の生活がまたもやそろそろ困って二三の人にめいわくかけて昨夜地平と或る会合の席上思いがけなく顔を合せお互い少し弱って不自然であった。 私はバット一本ビイル一滴のめぬからだになってしまって淋しいどころの話でなかった。 地平はお酒を呑んで泣いていた。 私もお酒が呑めたら泣くにきまっている。 そのようなへんな気持でいまは地平のことのほかには何一つ語れず書けぬ状態ゆえたまにはくつろぎおゆるし下さい。 渡る世間に鬼がないという言葉がございますけれどほんとうだと思います。 それにこのごろ涙もろくなってしまってどうしたのでしょう地平のこと佐藤さんのこと佐藤さんの奥様のこと井伏さんのこと井伏さんの奥さんのこと家人の叔父吉沢さんのこと飛島さんのこと檀君のこと山岸外史の愛情順々にお知らせしようつもりでございましたが私の話の長びくほど後に控えた深刻力作氏のお邪魔になるだけのことゆえどこで切っても関わぬ物語かりに喝采と標題をうってひとりおのれの心境をいたわること以上の如くでございます。 官僚が悪い。 清く明るくほがらかに。 官僚。 ただいま。 やあお父さんが帰って来た。 まあお父さんいったいどこへ行っていらしたんです。 あちこちあちこち。 皆めしはすんだのか。 買ったのかい。 これを。 これはマサ子のよ。 お母さんと一緒に吉祥寺へ行って買って来たのよ。 それはよかったねえ。 高かったろう。 いくらだった。 高い。 いったいお前はどこからそんな大金を算段出来たの。 お父さんの一晩のお酒代にも足りないのに大金だなんて。 めしにしよう。 番組。 私は税金をおさめないつもりでいます。 私は借金で暮しているのです。 私は酒も飲みます。 煙草も吸います。 いずれも高い税金がついてそのために私の借金は多くなるばかりなのです。 この上またあちこち金を借りに歩いて税金をおさめる力が私にはありません。 それに私は病弱だから副食物や注射液や薬品のためにも借金をします。 私はいま非常に困難な仕事をしているのです。 少くともあなたよりは苦しい仕事をしているのです。 自分でもほとんど発狂しているのではないかと思うほど仕事のことばかり考えつめているんです。 酒も煙草もまたおいしい副食物もいまの日本人にはぜいたくだやめろと言う事になったら日本に一人もいい芸術家がいなくなります。 それだけは私断言できます。 おどかしているのではありません。 あなたはさっきから政府だの国家だのさも一大事らしくもったい振って言っていますが私たちを自殺にみちびくような政府や国家はさっさと消えたほうがいいんです。 誰も惜しいと思やしません。 困るのはあなたたちだけでしょう。 何せクビになるんだから。 何十年かの勤続も水泡に帰するんだから。 そうしてあなたの妻子が泣くんだから。 ところがこっちはもう仕事のためにずっと前から妻子を泣かせどおしなんだ。 好きで泣かせているんじゃない。 仕事のためにどうしてもそこまで手がまわらないのだ。 それをまあ何だい。 ニヤニヤしながらそこを何とか御都合していただくんですなあだなんてとんでもない。 首をくくらせる気か。 おい見っともないぞ。 そのニヤニヤ笑いはやめろ。 あっちへ行け。 みっともない。 私は社会党の右派でも左派でもなければ共産党員でもない。 芸術家というものだ。 覚えて置き給え。 不潔なごまかしが何よりもきらいなんだ。 どだいあなたはなめていやがる。 そんな当りさわりの無いいい加減な事を言って所謂民衆をなだめ納得させる事が出来ると思っているのか。 たった一言でいい君の立場の実情を言え。 君の立場の実情を。 さよかすんません。 おい。 ラジオを消してくれ。 家。 いかがでございました。 いやもうさんざんさ。 いえいえどうしてかいとう乱麻を断つというところでしたよ。 かいとうとは怪しい刀と書くんだろう。 冗談じゃない。 どだいあんな質問者とは頭の構造がちがいますよ。 何せこっちは千軍万馬の。 きょうの録音はいつ放送になるんです。 知らん。 とにかくあの放送はたのしみだなあ。 いまにこの箱からお父さんのお声が聞えて来ますよ。 たからくじ。 修繕の仕様が無い。 たからくじ。 おねがいします。 だめですよ。 きょうはもう。 苦労を忘れさせるような。 お願いします。 時計をごらん時計を。 おねがいします。 あしたになさいねあしたに。 きょうでなければあたし困るんです。 官僚の悪。 官僚的。 ほまれ。 お前の顔はどう見たって狐以外のものではないんだ。 よく覚えて置くがええぞ。 ケツネのつらは口がとがって髭がある。 あの髭は右が三本左が四本ケツネの屁というものはたまらねえ。 そこらいちめん黄色い煙がもうもうとあがってな犬はそれを嗅ぐとくるくるくるっとまわってぱたりとたおれる。 いや嘘でねえ。 お前の顔は黄色いな。 妙に黄色い。 われとわが屁で黄色く染まったに違いない。 や臭い。 さてはお前やったな。 いややらかした。 どだいお前は失敬じゃないか。 いやしくも軍人の鼻先で屁をたれるとは非常識きわまるじゃないか。 おれはこれでも神経質なんだ。 鼻先でケツネのへなどやらかされてとても平気では居られねえ。 うるさい餓鬼だ興がさめる。 おれは神経質なんだ。 馬鹿にするな。 あれはお前の子か。 これは妙だ。 ケツネの子でも人間の子みたいな泣き方をするとはおどろいた。 どだいお前はけしからんじゃないか子供を抱えてこんな商売をするとは虫がよすぎるよ。 お前のような身のほど知らずのさもしい女ばかりいるから日本は苦戦するのだ。 お前なんかは薄のろの馬鹿だから日本は勝つとでも思っているんだろう。 ばかばか。 どだいもうこの戦争は話にならねえのだ。 ケツネと犬さ。 くるくるっとまわってぱたりとたおれるやつさ。 勝てるもんかい。 だからおれは毎晩こうして酒を飲んで女を買うのだ。 悪いか。 悪い。 狐がどうしたっていうんだい。 いやなら来なけれあいいじゃないか。 いまの日本でこうして酒を飲んで女にふざけているのはお前たちだけだよ。 お前の給料はどこから出てるんだ。 考えても見ろ。 あたしたちの稼ぎの大半はおかみに差し上げているんだ。 おかみはその金をお前たちにやってこうして料理屋で飲ませているんだ。 馬鹿にするな。 女だもの子供だって出来るさ。 いま乳呑児をかかえている女はどんなにつらい思いをしているかお前たちにはわかるまい。 あたしたちの乳房からはもう一滴の乳も出ないんだよ。 からの乳房をピチャピチャ吸っていやもうこのごろは吸う力さえないんだ。 ああそうだよ狐の子だよ。 あごがとがって皺だらけの顔で一日中ヒイヒイ泣いているんだ。 見せてあげましょうかね。 それでもあたしたちは我慢しているんだ。 それをお前たちはなんだい。 やあ来た。 とうとう来やがった。 さあ逃げましょう早く。 それ危いしっかり。 たのむわ兵隊さん。 も少し向こうのほうへ逃げましょうよ。 ここで犬死にしてはつまらない。 逃げられるだけは逃げましょうよ。 こんないいところはほかにないわ。 あたしたちは仕合せだわ。 いつまでもここにいてこの赤ちゃんの背中をあたためふとらせてあげたいわ。 群集。 死のう。 バンザイ。 恐縮。 感激を覚えた。 まとまる。 ぶん。 戦争を望遠鏡で見ただけで戦争を書いている人たち。 ものを見る眼。 割に素直に書かれて在ると思いますからいい作品だと思いますからどうかよろしくお願いいたします。 私みたいな不徳の者が兵隊さんの原稿を持ち込みするということに唐突の思いをなされるかも知れませんがけれども人間の真情はまたおのずから別のもので私だって。 私だって。 なんだ太宰ってそんな変ったやつでも無いじゃないか。 私は君を裏切ることは無い。 遊戯文学。 ぶん。 病気はもういいのですか。 ええふつうの人より丈夫です。 どんな工合だったんですか。 五年まえのことです。 噂では。 ずいぶんひどかったように聞いていますが。 酒を呑んでいるうちになおりました。 それはへんですね。 どうしたのでしょうね。 なおっていないのかも知れませんけれどまあなおったことにしているのです。 際限がないですものね。 酒はたくさん呑みますか。 ふつうの人くらいは呑みます。 どう思いますこのごろの他の人の小説をどう思います。 そうですねえ。 あんまり読んでいないのですが何かいいのがありますか。 読めばたいてい感心するのですがとにかく皆よくさっさと書けるものだと不思議な気さえするのです。 皮肉じゃ無いんです。 からだが丈夫なのでしょうかね。 実に皆すらすら書いています。 Aさんのあれ読みましたか。 ええ雑誌をいただいたので読みました。 あれはひどいじゃないか。 そうかなあ。 僕には面白かったんですが。 もっとひどい作品だってたくさんあるんじゃ無いですか。 何もあれを殊更に非難するては無いと思うんですが。 どんなものでしょう。 何せ僕はよく知らんので。 Bさんを知っていますか。 ええ知っています。 こんどあのひとに小説を書いていただくことになっていますが。 ああそれはいいですね。 Bさんはとてもいい人です。 ぜひ書いてもらいなさい。 きっといま素晴しいのが書けると思います。 Bさんには以前僕もお世話になったことがあります。 あなたはどうです。 書けますか。 僕はだめです。 まるっきりだめです。 下手くそなんですね。 恋愛を物語りながらつい演説口調になったりなんかしてひとりで呆れて笑ってしまうことがあります。 そんなことは無いだろう。 あなたはこれまで若いジェネレエションのトップを切っていたのでしょう。 冗談じゃない。 このごろはまるでファウストですよ。 あの老博士の書斎での呟きがよくわかるようになりました。 ひどくふけちゃったんですね。 ナポレオンが三十すぎたらもうわが余生はなどと言っていたそうですがあれが判って可笑しくて仕様が無い。 余生ということをあなた自身に感じるのですか。 僕はナポレオンじゃ無いしそんなまさかそんなまるで違うのですがでもふっと余生を感じることがありますね。 僕はまさかファウスト博士みたいにまさか万巻の書を読んだわけでは無いんですがでもあれに似た虚無をふっと感じることがあるんですね。 そんなことじゃ仕様が無いじゃないですか。 あなたは失礼ですけどおいくつですか。 僕は三十一です。 それじゃCさんより一つ若い。 Cさんはいつ逢っても元気ですよ。 文学論でもなんでも実にてきぱき言います。 あの人の眼は実にいい。 そうですね。 Cさんは僕の高等学校の先輩ですがいつもうるんだ情熱的な眼をしていますね。 あの人もこれからどんどん書きまくるでしょう。 僕はあの人を好きですよ。 あなたは一体。 小説を書くに当ってどんな信条を持っているのですか。 たとえばヒュウマニティだとか愛だとか社会正義だとか美だとかそんなもの文壇に出てから現在までまたこれからも持ちつづけて行くだろうと思われるもの何か一つでもありますか。 あります。 悔恨です。 悔恨の無い文学は屁のかっぱです。 悔恨告白反省そんなものから近代文学がいや近代精神が生れた筈なんですね。 だから――。 なるほど。 そんな潮流がいま文壇に無くなってしまったのですね。 それじゃあなたは梶井基次郎などを好きでしょうね。 このごろどうしてだかいよいよ懐かしくなって来ました。 僕は古いのかも知れませんね。 僕はちっとも自分の心を誇っていません。 誇るどころか実にいやらしいものだと恥じています。 宿業という言葉はどういう意味だかよく知りませんけれどでもそれに近いものを自身に感じています。 罪の子というとへんに牧師さんくさくなっていけませんがなんといったらいいのかなあおれは悪い事をいつかやらかしたおれは汚ねえ奴だという意識ですね。 その意識をどうしても消すことができないので僕はいつでも卑屈なんです。 どうも自分でも閉口なのですが――でも。 ポオズでなく。 信仰。 おいお金をくれ。 いくらある。 さあ四五円はございましょう。 使ってもいいか。 ええ少しは残して下さいね。 わかってる。 九時ごろ迄には帰る。 だんな。 へんな事を言うようですけれど。 あのうだんなのお知合いの人で私みたいのをもらって下さるようなかた無いでしょうか。 さあ。 無いこともないだろうけど僕なんかにそんなことたのんだって仕様がないですよ。 ええでも心易いお客さん皆にたのんで置こうと思って。 へんだね。 だんだんとしとるばかりですしね。 私は初めてじゃないのですから少しおじいさんでもかまわないのです。 そんないいところなぞ望んでいませんから。 でも僕は心当りないですよ。 ええそんなに急ぐのでないから心掛けて置いて下さいまし。 あのう私名刺があるんですけれど。 裏にここの住所も書いて置きましたからもし適当のかたが見つかったらごめんどうでもハガキか何かでちょっと教えて下さいまし。 ほんとうにごめいわくさまです。 子供が幾人あっても私のほうはかまいませんから。 ほんとうに。 探してみますけれど約束はできませんよ。 お勘定をねがいます。 おい炭は大丈夫かね。 無くなるという話だが。 大丈夫でしょう。 新聞が騒ぐだけですよ。 そのときはそのときでどうにかなりますよ。 そうかね。 ふとんをしいてくれ。 今晩は仕事は休みだ。 待つ。 敷金は二つですか。 そうですか。 いいえ失礼ですけれどそれでは五十円だけ納めさせていただきます。 いいえ。 私ども持っていましたところで使ってしまいます。 あの貯金のようなものですものな。 ほほ。 明朝すぐに引越しますよ。 敷金はそのおりごあいさつかたがた持ってあがりましょうね。 いけないでしょうかしら。 ああ。 やっとお引越しがおわりましたよ。 こんな恰好でおかしいでしょう。 うちの女です。 よろしく。 これはおおやさん。 いらっしゃい。 いらっしゃいませ。 おなじくらいですな。 横になりませんか。 あああ。 疲れましたね。 おや。 かげろう。 不思議ですねえ。 ごらんなさいよ。 いまじぶんかげろうが。 木下さん。 困りますよ。 これはいただけません。 なにもございませんけれど。 そうか。 そうか。 それではさきにごはんをたべましょう。 お話はそれからゆっくりいたしましょうよ。 自由天才流。 ああ。 あれは嘘ですよ。 なにか職業がなければこのごろの大家さんたちは貸してくれないということを聞きましたのでまあんな出鱈目をやったのです。 怒っちゃいけませんよ。 これは古道具屋で見つけたのです。 こんなふざけた書家もあるものかとおどろいて三十銭かいくらで買いました。 文句も北斗七星とばかりでなんの意味もないものですから気にいりました。 私はげてものが好きなのですよ。 失礼ですけれど無職でおいでですか。 そうなんです。 けれども御心配は要りませんよ。 いいえ。 僕ははっきり言いますけれどこの五円の切手がだいいちに気がかりなのです。 ほんとうに。 木下がいけないのですの。 こんどの大家さんはわかくて善良らしいとかそんな失礼なことを言いましてあのむりにあんなおかしげな切手を作らせましたのでございますの。 ほんとうに。 そうですか。 そうですか。 僕もおどろいたのです。 敷金の。 そうですか。 わかりました。 あした持ってあがりましょうね。 銀行がやすみなのです。 あなたはさっき職業がないようなことをおっしゃったけれどそれでは何か研究でもしておられるのですか。 研究。 なにを研究するの。 私は研究がきらいです。 よい加減なひとり合点の註釈をつけることでしょう。 いやですよ。 私は創るのだ。 なにをつくるのです。 発明かしら。 これは面白くなったですねえ。 そうですよ。 発明ですよ。 無線電燈の発明だよ。 世界じゅうに一本も電柱がなくなるというのはどんなにさばさばしたことでしょうね。 だいいちあなたちゃんばら活動のロケエションが大助かりです。 私は役者ですよ。 だめでございますよ。 酔っぱらったのですの。 いつもこんな出鱈目ばかり申してこまってしまいます。 お気になさらぬように。 なにが出鱈目だ。 うるさい。 おおやさん私はほんとに発明家ですよ。 どうすれば人間有名になれるかこれを発明したのです。 それごらん。 膝を乗りだして来たじゃないか。 これだ。 いまのわかいひとたちはみんなみんな有名病という奴にかかっているのです。 少しやけくそなしかも卑屈な有名病にね。 君いやあなた飛行家におなり。 世界一周の早まわりのレコオド。 どうかしら。 死ぬる覚悟で眼をつぶってどこまでも西へ西へと飛ぶのだ。 眼をあけたときには群集の山さ。 地球の寵児さ。 たった三日の辛抱だ。 どうかしら。 やる気はないかな。 意気地のない野郎だねえ。 ほっほっほ。 いや失礼。 それでなければ犯罪だ。 なあにうまくいきますよ。 自分さえがっちりしてれあなんでもないんだ。 人を殺すもよしものを盗むもよしただ少しおおがかりな犯罪ほどよいのですよ。 大丈夫。 見つかるものか。 時効のかかったころ堂々と名乗り出るのさ。 あなたもてますよ。 けれどもこれは飛行機の三日間にくらべると十年間くらいの我慢だからあなたがた近代人には鳥渡ふむきですね。 よし。 それではちょうどあなたにむくくらいのつつましい方法を教えましょう。 君みたいな助平ったれの小心ものの薄志弱行の徒輩には醜聞という恰好の方法があるよ。 まずまあこの町内では有名になれる。 人の細君と駈落ちしたまえ。 え。 君を好きだ。 私も君を好きなのだよ。 よし。 万歳。 万歳。 先晩はどうも。 いいえ。 あなたこれは木曾川の上流ですよ。 ペンキ画のほうがよいのですよ。 ほんとうの木曾川よりはね。 いいえ。 ペンキ画だからよいのでしょう。 ええ。 これでも苦労したものですよ。 良心のある画ですね。 これを画いたペンキ屋の奴この風呂へは決して来ませんよ。 来るのじゃないでしょうか。 自分の画を眺めながらしずかにお湯にひたっているというのもわるくないでしょう。 はだかのすがたを見ないうちは気を許せないのです。 いいえ。 男と男とのあいだのことですよ。 ええ。 まだ風呂から帰らないのですか。 そう。 はて。 僕と風呂で一緒になりましてね。 遊びに来いとおっしゃったものですから。 あてになりませんのでございますよ。 それではしつれいいたします。 あら。 すこしお待ちになったら。 お茶でもめしあがれ。 木下を信用しないほうがよござんすよ。 なぜですか。 だめなんですの。 出鱈目は天才の特質のひとつだと言われていますけれど。 その瞬間瞬間の真実だけを言うのです。 豹変という言葉がありますね。 わるくいえばオポチュニストです。 天才だなんて。 まさか。 威張るのですの。 そうですか。 木下さんはあれでやはり何か考えているのでしょう。 それならほんとの休息なんてないわけですね。 なまけてはいないのです。 風呂にはいっているときでも爪を切っているときでも。 まあ。 だからいたわってやれとおっしゃるの。 いいえ。 しつれいしましょう。 ああ。 またまいります。 僕です。 ああ。 おおやさん。 おあがり。 もうおやすみですか。 え。 いいえ。 かまいません。 一日いっぱい寝ているのです。 ほんとうに。 こうして寝ているといちばん金がかからないものですから。 どうもしばらくです。 屋賃は当分だめですよ。 マダムが逃げました。 どうしてです。 きらわれましたよ。 ほかに男ができたのでしょう。 そんな女なのです。 いつごろです。 さあ先月の中旬ごろだったでしょうか。 あがらない。 いいえ。 きょうは他に用事もあるし。 恥かしいことでしょうけれど私は女の親元からの仕送りで生活していたのです。 それがこんなになって。 なぜ働かないのかしら。 働けないからです。 才能がないのでしょう。 冗談じゃない。 いいえ。 働けたらねえ。 それでは困るじゃないですか。 僕のほうも困るしあなただっていつまでもこうしている訳にいきますまい。 ええ。 それはなんとかします。 あてがあります。 あなたには感謝しています。 もうすこし待っていただけないでしょうか。 もうすこし。 それではいずれまた参ります。 ないものは頂戴いたしません。 そうですか。 どうもわざわざ。 四十二の一白水星。 気の多いとしまわりで弱ります。 いつもほんとうに相すみません。 こんどは大丈夫ですよ。 しごとが見つかりました。 おいていちゃん。 おおやさんだよ。 ご挨拶をおし。 うちの女です。 どんなお仕事でしょう。 小説です。 え。 いいえ。 むかしから私は文学を勉強していたのですよ。 ようやくこのごろ芽が出たのです。 実話を書きます。 実話と言いますと。 つまりないことを事実あったとして報告するのです。 なんでもないのさ。 何県何村何番地とか大正何年何月何日とかその頃の新聞で知っているであろうがとかいう文句を忘れずにいれて置いてあとは必ずないことを書きます。 つまり小説ですねえ。 ほんとうによいのですか。 困りますよ。 大丈夫。 大丈夫。 ええ。 あなたごらんなさい。 その胸像の額をごらんください。 よごれているでしょう。 仕様がないんです。 どうしたのです。 なに。 てい子のむかしのあれの胸像なんだそうです。 たったひとつの嫁入り道具ですよ。 キスするのです。 おいやのようですね。 けれども世の中はこんな工合いになっているのです。 仕様がありませんよ。 見ていると感心に花を毎日とりかえます。 きのうはダリヤでした。 おとといは蛍草でした。 いやアマリリスだったかな。 コスモスだったかしら。 いや。 お仕事のほうはもうはじめているのですか。 ああそれは。 そろそろはじめていますけれど大丈夫ですよ。 私はほんとうは文学書生なんですからね。 でもあなたのほんとうははあてになりませんからね。 ほんとうはというそんな言葉でまたひとつ嘘の上塗りをしているようで。 やこれは痛い。 そうぽんぽん事実を突きたがるものじゃないな。 私はねむかし森鴎外ご存じでしょう。 あの先生についたものですよ。 あの青年という小説の主人公は私なのです。 はじめて聞きました。 でもあれは失礼ですがもっとおっとりしたお坊ちゃんのようでしたけれど。 これはひどいなあ。 あの時代にはあれでよかったのです。 でも今ではあの青年もこんなになってしまうのです。 私だけではないと思うのですが。 それはつまり抽象して言っているのでしょうか。 いいえ。 私のことを言っているのですけれど。 まあきょうは僕はこれで帰りましょう。 きっとお仕事をはじめて下さい。 やあ。 薄茶でございますよ。 茶をたてているのです。 こんなに暑いときにはこれに限るのですよ。 一杯いかが。 どうしてまた。 風流ですね。 いいえ。 おいしいからのむのです。 わたくし実話を書くのがいやになりましてねえ。 へえ。 書いていますよ。 こんなのを書きたいと思いまして文献を集めているのですよ。 ねえ。 この写真がいいでしょう。 これは渡り鳥が海のうえで深い霧などに襲われたとき方向を見失い光りを慕ってただまっしぐらに飛んだ罰で燈台へぶつかりばたばたと死んだところなのですよ。 何千万という死骸です。 渡り鳥というのは悲しい鳥ですな。 旅が生活なのですからねえ。 ひとところにじっとしておれない宿命を負うているのです。 わたくしこれを一元描写でやろうと思うのさ。 私という若い渡り鳥がただ東から西西から東とうろうろしているうちに老いてしまうという主題なのです。 仲間がだんだん死んでいきましてね。 鉄砲で打たれたり波に呑まれたり飢えたり病んだり巣のあたたまるひまもない悲しさ。 あなた。 沖の鴎に潮どき聞けばという唄がありますねえ。 わたくしいつかあなたに有名病についてお話いたしましたけどなに人を殺したり飛行機に乗ったりするよりはもっと楽な法がありますわ。 しかも死後の名声という附録つきです。 傑作をひとつ書くことなのさ。 これですよ。 それではまあその傑作をお書きなさい。 お帰りですか。 薄茶をもひとつ。 いや。 不思議です。 きょうは来るとたしかにそう思っていたのです。 いや不思議です。 それで朝からこんな仕度をしてお待ち申していました。 不思議だな。 まあどうぞ。 どうです。 お仕事ができましたか。 それが駄目でした。 この百日紅に油蝉がいっぱいたかって朝っから晩までしゃあしゃあ鳴くので気が狂いかけました。 いやほんとうですよ。 かなわないのでこんなに髪を短くしたりさまざまこれで苦心をしたのですよ。 でもきょうはよくおいでくださいました。 ずっとこっちにいたのですか。 ええ。 ほかに行くところもないのですものねえ。 ああ。 お土産を持って来ましたよ。 ありがとう。 貧すれば貪すという言葉がありますねえ。 まったくだと思いますよ。 清貧なんてあるものか。 金があったらねえ。 どうしたのです。 へんに搦みつくじゃないか。 百日紅がまだ咲いていますでしょう。 いやな花だなあ。 もう三月は咲いていますよ。 散りたくても散れぬなんて気のきかない樹だよ。 あなた。 私はまたひとりものですよ。 まえから聞こうと思っていたのですがどうしたのだろう。 あなたは莫迦に浮気じゃないか。 いいえ。 みんな逃げてしまうのです。 どう仕様もないさ。 しぼるからじゃないかな。 いつかそんな話をしていましたね。 失礼だがあなたは女の金で暮していたのでしょう。 あれは嘘です。 ほんとうは私の田舎からの仕送りがあるのです。 いいえ。 私は女房をときどきかえるのがほんとうだと思うね。 あなた。 箪笥から鏡台までみんな私のものです。 女房は着のみ着のままで私のうちへ来てそれからまたそのままいつでも帰って行けるのです。 私の発明だよ。 莫迦だね。 金があればねえ。 金がほしいのですよ。 私のからだは腐っているのだ。 五六丈くらいの滝に打たせて清めたいのです。 そうすればあなたのようなよい人とももっともっとわけへだてなくつき合えるのだし。 そんなことは気にしなくてよいよ。 ホープはいいですよ。 甘くもないし辛くもないしなんでもない味なものだから好きなんだ。 だいいち名前がよいじゃないか。 小説を書いたのです。 十枚ばかり。 そのあとがつづかないのです。 刺激がないからいけないのだと思ってこんな試みまでもしてみたのですよ。 一生懸命に金をためて十二三円たまったからそれを持ってカフェへ行きもっともばからしく使って来ました。 悔恨の情をあてにしたわけですね。 それで書けましたか。 駄目でした。 小説というものはつまらないですねえ。 どんなによいものを書いたところで百年もまえにもっと立派な作品がちゃんとどこかにできてあるのだもの。 もっと新しいもっと明日の作品が百年まえにできてしまっているのですよ。 せいぜい真似るだけだねえ。 そんなことはないだろう。 あとのひとほど巧いと思うな。 どこからそんなだいそれた確信が得られるの。 軽々しくものを言っちゃいけない。 どこからそんな確信が得られるのだ。 よい作家はすぐれた独自の個性じゃないか。 高い個性を創るのだ。 渡り鳥にはそれができないのです。 けれど無性格は天才の特質だともいうね。 あなたも子供ではないのだから莫迦なことはよい加減によさないか。 僕だってこの家をただ遊ばせて置いてあるのじゃないよ。 地代だって先月からまた少しあがったしそれに税金やら保険料やら修繕費用なんかで相当の金をとられているのだ。 ひとにめいわくをかけて素知らぬ顔のできるのはこの世ならぬ傲慢の精神かそれとも乞食の根性かどちらかだ。 甘ったれるのもこのへんでよし給え。 あああ。 こんな晩に私が笛でも吹けたらなあ。 おおやさん。 電燈をとめられているのです。 夜爪を切ると死人が出るそうですね。 この風呂で誰か死んだのですよ。 おおやさん。 このごろは私爪と髪ばかり伸びて。 おおやさん。 お正月早々こんな話をするのもなんですけれど私はいまほんとうに気が狂いかけているのです。 うちの座敷へ小さい蜘蛛がいっぱい出て来て困っています。 このあいだひとりで退屈まぎれに火箸の曲ったのを直そうと思ってかちんかちん火鉢のふちにたたきつけていたらあなた女房が洗濯を止し眼つきをかえて私の部屋へかけこんで来ましてねえてっきり気ちがいになったと思ったそう言うのですよ。 かえって私のほうがぎょっとしました。 あなたお金ある。 いやいいんです。 それでもうこの二三日すっかりくさってお正月もうちではわざとなんの仕度もしないのですよ。 ほんとうにわざわざおいで下さいましたのに。 私たちなんのおかまいもできませんし。 新しい奥さんができたのですか。 ああ。 昨年の暮からまたこっちへ来ましたのでございますよ。 それは。 こっちが恋いしくなったものですから。 木下さんはどうしています。 相変らずでございます。 ほんとうに相すみません。 困るですね。 僕はこのあいだ喧嘩をしてしまいました。 いったい何をしているのです。 だめなんでございます。 まるで気ちがいですの。 でもあれで何かきっと考えていますよ。 ええ。 華族さんになってそれからお金持ちになるんですって。 いや。 そんなことでなしに何かお仕事でもはじめていませんか。 もう骨のずいからの怠けものです。 どうしたのでしょう。 失礼ですがいくつなのですか。 四十二歳だとか言っていましたが。 さあ。 まだ三十まえじゃないかしら。 うんと若いのでございますのよ。 いつも変りますのではっきりは私にもわかりませんのですの。 どうするつもりかな。 勉強なんかしていないようですね。 あれで本でも読むのですか。 いいえ新聞だけ。 新聞だけは感心に三種類の新聞をとっていますの。 ていねいに読むことよ。 政治面をなんべんもなんべんも繰りかえして読んでいます。 友だちもないようですね。 ええ。 みんなに悪いことをしていますからもうつきあえないのだそうです。 どんな悪いことを。 それがつまらないことなのですの。 ちっともなんともないことなのです。 それでも悪いことですって。 あのひとものの善し悪しがわからないのでございますのよ。 そうだ。 そうです。 善いことと悪いことがさかさまなのです。 いいえ。 はっきりさかさまならまだいいのでございます。 目茶目茶なんですのよそれが。 だから心細いの。 逃げられますわよあれじゃ。 あのひとそれはごきげんを取るのですけれど。 私のあとに二人も来ていましたそうですね。 ええ。 季節ごとに変えるようなものだわ。 真似しましたでしょう。 なんです。 真似をしますのよあのひと。 あのひとに意見なんてあるものか。 みんな女からの影響よ。 文学少女のときには文学。 下町のひとのときには小粋に。 わかってるわ。 まさか。 そんなチエホフみたいな。 そんならいま木下さんが骨のずいからのものぐさをしているのはつまりあなたを真似しているというわけなのですね。 ええ。 私そんな男のかたが好きなの。 もすこしまえにそれを知ってくださいましたなら。 でももうおそいの。 私を信じなかった罰よ。 むかえに来たのだよ。 今晩は。 おおやさん。 なにかやっていますか。 もうほって置いて下さい。 そのほかに話すことがないじゃあるまいし。 私はねこのあいだから手相をやっていますよ。 ほら太陽線が私のてのひらに現われて来ています。 ほら。 ねね。 運勢がひらける証拠なのです。 前略。 ――なるほど道化の華の方が作者の生活や文学観を一杯に盛っているが私見によれば作者目下の生活に厭な雲ありて才能の素直に発せざる憾みあった。 道化の華。 海。 僕。 海。 僕。 道化の華。 道化の華。 作者目下の生活に厭な雲ありて云々。 世間。 金銭関係。 まあそれでもよかった。 無難でよかった。 世間。 間抜け。 あこれはお仕事中ですね。 いやなに。 キクちゃん。 こないだあなたの未来の旦那さんに逢ったよ。 そう。 どうでした。 すこうしキザね。 そうでしょう。 まあでもあんなところさ。 そりゃもう僕にくらべたらどんな男でもあほらしく見えるんだからね。 我慢しな。 そりゃそうね。 とめてくれ。 うちまで歩いて行けそうもないんだ。 このままで寝ちまうからね。 たのむよ。 お寒くありません。 いや寒くない。 窓から小便してもいいかね。 かまいませんわ。 そのほうが簡単でいいわ。 キクちゃんも時々やるんじゃねえか。 停電ですの。 こりゃいけねえ。 キクちゃんの机の上にクレーヴの奥方という本があったね。 あの頃の貴婦人はね宮殿のお庭やまた廊下の階段の下の暗いところなどで平気で小便をしたものなんだ。 窓から小便をするという事もだから本来は貴族的な事なんだ。 お酒お飲みになるんだったらありますわ。 貴族は寝ながら飲むんでしょう。 いや貴族は暗黒をいとうものだ元来が臆病なんだからね。 暗いとこわくて駄目なんだ。 蝋燭が無いかね。 蝋燭をつけてくれたら飲んでもいい。 どこへ置きましょう。 燭台は高きに置けとバイブルに在るから高いところがいい。 その本箱の上へどうだろう。 お酒は。 コップで。 深夜の酒はコップに注げとバイブルに在る。 まだもう一ぱいぶんくらいございますわ。 いやこれだけでいい。 さあもう一眠りだ。 キクちゃんもおやすみ。 この蝋燭は短いね。 もうすぐなくなるよ。 もっと長い蝋燭が無いのかね。 それだけですの。 足袋をおぬぎになったら。 なぜ。 そのほうがあたたかいわよ。 おやこの子はまたおしっこ。 おしっこをたれるたんびにこの子はわなわなふるえる。 僕はたしかだ。 誰も知らない。 だるま寒くないか。 寒くない。 ほんとうに寒くないか。 寒くない。 ほんとうに。 寒くない。 この子はだるまがお好きなようだ。 いつまでも黙ってだるまを見ている。 坊や痛いか。 痛いか。 狐の嫁入り婿さん居ない。 そうもく。 草木。 修ッちゃあ。 修ッちゃあ。 虚構の春。 小説。 先日お母上様のお言いつけによりお正月用の餅と塩引一包キウリ一|樽お送り申し上げましたところ御手紙に依ればキウリ不着の趣き御手数ながら御地停車場を御調べ申し御返事|願上候以上は奥様へ御申伝え下されたく以下二三言私明けて二十八年間十六歳の秋より四十四歳の現在まで津島家出入りの貧しき商人全く無学の者に候が御無礼せんえつわきまえつつの苦言いまは延々すべき時に非ずと心得られ候まま汗顔平伏お耳につらきこと開陳暫時おゆるし被下度候。 噂に依ればこのごろ又々借銭の悪癖萌え出で一面識なき名士などにまで借銭の御申込しかも犬の如き哀訴歎願おまけに断絶を食いてんとして恥じず借銭どこが悪いお約束の如くに他日返却すれば向うさまへもごめいわくは無しこちらも一命たすかる思いどこがわるいと先日もそれがために奥様へ火鉢投じてガラス戸二枚破損の由話半分としても暗涙とどむる術ございませぬ。 貴族院議員勲二等の御家柄貴方がた文学者にとっては何も誇るべき筋みちのものに無之古くさきものに相違なしと存じられ候がお父上おなくなりのちの天地一人のお母上様を思い私めに顔たてさせ然るべしと存じ候。 『われひとりを悪者として勘当除籍家郷追放の現在いよいよわれのみをあしざまにののしりそれがために四方八方うまく治まり居る様子』などのお言葉おうらめしく存じあげ候。 今しばしお名あがり家ととのうたるのちは御兄上様御姉上様何条もってあしざまに申しましょうや。 必ずその様の曲解御無用に被存候。 先日も山木田様へお嫁ぎの菊子姉上様よりしんからのおなげき承り私芝居のようなれども政岡の大役をお引き受け申しきらいのお方なればたとえ御主人筋にてもかほどの世話はごめんにて私のみに非ず菊子姉上様も貴方へのお世話のため御嫁先の立場も困ることあるべしと存じられ候ところもむりしての御奉仕ゆえ本日かぎりよそからの借銭は必ず必ず思いとどまるよう万やむを得ぬ場合は当方へ御申越|願度くでき得る限りの御辛抱ねがいたくこのこと兄上様へ知れると一大事につき今回の所は私が一時御立替御用立|申上候間此の点お含み置かれるよう願上候。 重ねて申しあげ候が私とてきらいのお方にはかれこれうるさく申し上げませぬこのことお含みの上御養生御自愛まことに願上候。 着物が来ている。 中畑さんから送って来たのだ。 なんだかいい着物らしいよ。 はじめましょうはじめましょう。 修治さんちょっと。 今日はおめでとうございます。 きょうの料理はまずしい料理で失礼ですがこれは北さんと私とが修治さんのためにまかなったものですから安心してお受けなさって下さい。 私たちも先代以来なみなみならぬお世話になって居りますからこんな機会に少しでもお報いしたいと思っているのです。 中畑さんのお骨折りです。 このたびの着物も袴も中畑さんがあなたの御親戚をあちこち駈け廻ってほうぼうから寄附を集めて作って下さったのですよ。 まあしっかりおやりなさい。 結納金を半分かえしてもらえねえかな。 あてにしていたんだ。 何をおっしゃる。 あなたはそれだからいけない。 なんて事を考えているんだ。 あなたはそれだからいけない。 少しもよくなっていないじゃないですか。 そんな事を言うなんてまるでだめじゃないですか。 はなむけはなむけ。 太宰先生は君たちに親切ですかね。 ええたいへん親切よ。 兄さんからおゆるしが出たのですか。 出たわけじゃ無いんでしょう。 それは兄さんの立場としてまだまだゆるすわけにはいかない。 だからそれはそれとして私の一存であなたを連れて行くのです。 なに大丈夫です。 あぶないな。 のこのこ出掛けて行って玄関払いでも食わされて大きい騒ぎになったらそれこそ藪蛇ですからね。 も少しこのままそっとして置きたいな。 そんな事はない。 私が連れて行ったら大丈夫。 考えてもごらんなさい。 失礼な話ですがおくにのお母さんだってもう七十ですよ。 めっきり此頃衰弱なさったそうだ。 いつどんな事になるかわかりやしませんよ。 その時このままの関係でいたんじゃまずい。 事がめんどうですよ。 そうですね。 そうでしょう。 だからいま此の機会に私が連れて行きますからまあお家の皆さんに逢って置きなさい。 いちど逢って置くとこんど何事が起ってもあなたも気易くお家へ駈けつけることが出来るというものです。 そんなにうまくいくといいけどねえ。 なあにうまくいきますよ。 あなたは柳生十兵衛のつもりでいなさい。 私は大久保彦左衛門の役を買います。 お兄さんは但馬守だ。 かならずうまくいきますよ。 但馬守だって何だって彦左の横車にはかないますまい。 けれども。 なるべくならそんな横車なんか押さないほうがいいんじゃないかな。 僕にはまだ十兵衛の資格はないし下手に大久保なんかが飛び出したらとんでもない事になりそうな気がするんだけど。 責任を持ちます。 結果がどうなろうと私が全部責任を負います。 大舟に乗った気で彦左にここはまかせて下さい。 風向きが変りましたよ。 実は兄さんが東京へ来ているんです。 なあんだ。 それじゃこの旅行は意味が無い。 いいえ。 くにへ行って兄さんに逢うのが目的じゃない。 お母さんに逢えたらいいんだ。 私はそう思いますよ。 でも兄さんの留守に僕たちが乗り込むのはなんだか卑怯みたいですが。 そんな事は無い。 私はゆうべ兄さんに逢ってちょっと言って置いたんです。 修治をくにへ連れて行くと言ったのですか。 いいえそんな事は言えない。 言ったら兄さんは北君そりゃ困るとおっしゃるでしょう。 内心はどうあってもとにかくそうおっしゃらなければならない立場です。 だから私はゆうべお逢いしてもなんにも言いませんよ。 言ったらぶちこわしです。 ただね私は東北のほうにちょっと用事があってあすの七時の急行で出発するつもりだけどついでに津軽のお宅のほうへ立寄らせていただくかも知れませんよとだけ言って置いたのです。 それでいいんです。 兄さんが留守ならかえって都合がいいくらいだ。 北さんが青森へ遊びに行くと言ったら兄さん喜んだでしょう。 ええお家のほうへ電話してほうぼう案内するように言いつけようとおっしゃったのですが私は断りました。 兄さんはいつ帰るのかしら。 まさかきょう一緒の汽車で――。 そんな事はない。 茶化しちゃいけません。 こんどは町長さんを連れて来ていましたよ。 ちょっと手数のかかる用事らしい。 くにへ行っても兄さんに逢えないとなるとだいぶ張合いが無くなりますね。 なに兄さんとは此の後またいつでもお逢い出来ますよ。 それよりも問題はお母さんです。 なにせ七十いや六十九ですかね。 おばあさんにも逢えるでしょうね。 もう九十ちかい筈ですけど。 それから五所川原の叔母にも逢いたいし――。 もちろん皆さんにお逢い出来ます。 あなたを連れて行くという事をはっきり中畑さんに知らせると中畑さんも立場に困るのです。 中畑さんは知らない何も知らないそうして五所川原の停車場に私を迎えに来ます。 そうしてはじめてあなたを見ておどろくという形にしなければ中畑さんはあとで兄さんに対して具合いの悪い事になります。 中畑君は知っていながらなぜとめなかったと言われるかもしれません。 けれども中畑さんは知らないのだ五所川原の停車場へ私を迎えに来てはじめて知って驚いたのだ。 そうしてまあせっかく東京からやって来たのだしひとめお母さんに逢わせましたという事になれば中畑さんの責任も軽い。 あとは全部私が責任を負いますが私は大久保彦左衛門だから但馬守が怒ったって何だって平気です。 でも中畑さんは知っているんでしょう。 だからそこが微妙なところなのです。 七ジタツ。 それでもういいのです。 新ハムレット。 いくら。 ――せん。 え。 ――せん。 北さんいまの駅売の言葉がわかりましたか。 そうでしょう。 わからないでしょう。 僕でさえわからなかったんだ。 いやきざに江戸っ子ぶってこんな事を言うのじゃないのです。 僕だって津軽で生れて津軽で育った田舎者です。 津軽なまりを連発して東京では皆に笑われてばかりいるのです。 けれども十年故郷を離れて突然純粋の津軽言葉に接したところがわからない。 てんでわからなかった。 人間ってあてにならないものですね。 十年はなれているともうお互いの言葉さえわからなくなるんだ。 来ていなければならぬ筈だが。 来た。 来た。 これは私の責任ですからね。 あとは万事よろしく。 承知承知。 この辺はみんな兄さんの田でしょうね。 そうです。 見渡すかぎりみんなそうです。 けれどもことしは不作ですよ。 案外ちいさいな。 いいえどうして。 お城です。 お墓。 修ッちゃあよく来たナ。 逢いたいと思うていたね。 ワレはなんにも言わねどもいちど逢いたいと思うていたね。 飲みなさい。 うん。 便所は。 なあんだ。 ご自分の家へ来てそんな事を聞くひとがありますか。 池の水蓮は今年はまあ三十二も咲きましたよ。 嘘でも何でも無い三十二咲きましたてば。 受け取って下さいよ。 お寺参りのお賽銭か何かに使って下さい。 僕にはお金がたくさんあるんだ。 僕が自分で働いて得たお金なんだから受け取って下さい。 どうしたのです。 痩せましたね。 ええ盲腸炎をやりましてね。 そいつあいけない。 やっぱり無理だったのですね。 なにせあの時の北さんは強行軍だったからなあ。 壽。 ひまわり。 ひまわり。 ひまわり。 やあたいへん結構な住居じゃないか。 戦災をまぬかれたとは悪運つよしだ。 同居人がいないのかね。 それはどうもぜいたくすぎるね。 いやもっとも女ばかりの家庭でしかもこんなにきちんとお掃除の行きとどいている家にはかえって同居をたのみにくいものだ。 同居させてもらっても窮屈だろうからね。 しかし奥さんがこんなに近くに住んでいるとは思わなかった。 お家がM町とは聞いていたけどしかし人間てまが抜けているものですね僕はこっちへ流れて来てもう一年ちかくなるのに全然ここの標札に気がつかなかった。 この家の前をよく通るんですがねマーケットに買い物に行く時はかならずここの路をとおるんですよ。 いや僕もこんどの戦争ではひどいめに遭いましてね結婚してすぐ召集されてやっと帰ってみると家は綺麗に焼かれて女房は留守中に生れた男の子と一緒に千葉県の女房の実家に避難していて東京に呼び戻したくても住む家が無いという現状ですからねやむを得ず僕ひとりそこの雑貨店の奥の三畳間を借りて自炊生活ですよ今夜はひとつ鳥鍋でも作って大ざけでも飲んでみようかと思ってこんな買物籠などぶらさげてマーケットをうろついていたというわけなんだがやけくそですよもうこうなればね。 自分でも生きているんだか死んでいるんだかわかりやしない。 お気の毒に。 ウメちゃんすみません。 やあ鳥鍋ですか失礼ながら奥さん僕は鳥鍋にはかならず糸こんにゃくをいれる事にしているんだがねおねがいしますついでに焼豆腐があるとなお結構ですな。 単にねぎだけでは心細い。 ウメちゃんすみません。 そうかねご主人もついに生死不明かいやもうそれは十中の八九は戦死だね仕様が無い奥さん不仕合せなのはあなただけでは無いんだからね。 僕なんかは奥さん。 住むに家無く最愛の妻子と別居し家財道具を焼き衣類を焼き蒲団を焼き蚊帳を焼き何も一つもありやしないんだ。 僕はね奥さんあの雑貨店の奥の三畳間を借りる前にはね大学の病院の廊下に寝泊りしていたものですよ。 医者のほうが患者よりも数等みじめな生活をしている。 いっそ患者になりてえくらいだった。 ああ実に面白くない。 みじめだ。 奥さんあなたなんかいいほうですよ。 ええそうね。 そう思いますわ。 本当に私なんか皆さんにくらべて仕合せすぎると思っていますの。 そうですともそうですとも。 こんど僕の友人を連れて来ますからねみんなまあこれは不幸な仲間なんですからねよろしく頼まざるを得ないというようなわけなんですね。 そりゃもう。 光栄でございますわ。 奥さんすみませんがこのこたつに一つ火をいれて下さいな。 それからまたこないだみたいにお酒の算段をたのみます。 日本酒が無かったら焼酎でもウイスキイでもかまいませんからねそれから食べるものはあそうそう奥さん今夜はねすてきなお土産を持参しました召上れ鰻の蒲焼。 寒い時は之に限りますからね一|串は奥さんに一串は我々にという事にしていただきましょうかそれからおい誰か林檎を持っていた奴があったな惜しまずに奥さんに差し上げろインドといってあれは飛び切り香り高い林檎だ。 奥さまなぜあんな者たちと雑魚寝なんかをなさるんです。 私あんなだらしない事はきらいです。 ごめんなさいね。 私いやと言えないの。 奥さまずいぶんおやつれになりましたわね。 あんなお客のつき合いなんかおよしなさいよ。 ごめんなさいね。 私には出来ないの。 みんな不仕合せなお方ばかりなのでしょう。 私の家へ遊びに来るのがたった一つの楽しみなのでしょう。 いやいやそうじゃあるまい。 たしかに君とあやしいと俺はにらんでいる。 あのおばさんだって君。 何を言ってやがる。 俺は愛情でここへ遊びに来ているんじゃないよ。 ここはね単なる宿屋さ。 ウメちゃんすまないけどねあすの朝はお風呂をわかして下さいね。 今井先生は朝風呂がお好きですから。 だからそれだから私はお客が大きらいだったのです。 こうなったらもうあのお客たちがお医者なんだからもとのとおりのからだにして返してもらわなければ私は承知できません。 だめよそんな事をお客さまたちに言ったら。 お客さまたちは責任を感じてしょげてしまいますから。 だってこんなにからだが悪くなって奥さまはこれからどうなさるおつもり。 やはり起きてお客の御接待をなさるのですか。 雑魚寝のさいちゅうに血なんか吐いたらいい見世物ですわよ。 里へいちど帰ります。 ウメちゃんが留守番をしていてお客さまにお宿をさせてやって下さい。 あの方たちにはゆっくりやすむお家が無いのですから。 そうしてね私の病気の事は知らせないで。 やこれはどこかへお出かけ。 いいんですのかまいません。 ウメちゃんすみません客間の雨戸をあけて。 どうぞ先生おあがりになって。 かまわないんですの。 笠井一。 厳粛のことを語る。 と。 なあんてね。 人らしい人になりたい。 雉も泣かずば撃たれまいに。 狂言の神。 江の島の海は殺風景であった。 深田久弥の間抜野郎。 精神の女性。 一対一。 そのうち勝負をつけましょうと言い私もそれをたのしみにしていたのに。 人間のもっとも悲痛の表情は涙でもなければ白髪でもなしまして眉間の皺ではない。 最も苦悩の大いなる場合人はだまって微笑んでいるものである。 拝復。 お言いつけの原稿用紙五百枚御入手の趣小生も安心いたしました。 毎度の御引立あり難く御礼申しあげます。 しかもこのたびの御手簡には小生ごときにまで誠実懇切の御忠告あまり文壇通をふりまわさぬようとの御言葉。 何だかどしんとたたきのめされた気持でその日は自転車をのり廻しながら一日中考えさせられました。 というのは実を言えば貴下と吉田さんにはそういった苦言をいつの日か聞かされるのではないかとかねて予感といった風のものがあってこの痛いところをざくり突かれた形だったからです。 然しそう言いながらも御手紙はうれしく拝見いたしました。 そうして貴下の御心配下さる事柄に対して小生としても既に訂正しつつあるということを御報告したいのです。 それは前陳の予感があったというそれだけでもうなずいて頂けると思います。 何はしかれ御手紙をうれしく拝見したことをもう一度申し上げて万事は御察し願うと共に貴下をして小生を目してきらいではない程のことでは済まされぬ本当に好きだといって貰うように心掛けることにいたします。 吉田さんへも宜しく御伝え下され度小生と逢っても小生が照れぬよう無言のうちに有無相通ずるものあるよう御取はからい置き下され度右御願い申しあげます。 なおこの事既に貴下のお耳に這入っているかも知れませんが英雄文学社の秋田さんのおっしゃるところに依れば先々月の所謂新人四名の作品のうち貴下のが一番評判がよかったのでまたこの次に依頼することになっているという話です。 私は商人のくせにひとに対して非常に好ききらいがあってすきな人のよい身のうえ話は自分のことのようにうれしいのです。 私は貴下が好きなので如上の自分の喜びを頒つ意味と若し秋田さんの話が貴下に初耳ならば御仕事をなさる上にこの御知らせが幾分なりとも御役に立つのではないかと実はこの手紙を書きました。 そうして貴下の潔癖が私のこのやりかたを又怒られるのではないかとも一応は考えてみましたが私の気持ちが純粋である以上若しこれを怒るならばそれは怒る方が間違いだと考えて敢えてこの御知らせをする次第です。 但し貴下に考慮に入れて貰いたいのは私のきらいな人というのは私の店の原稿用紙をちっとも買ってくれない人を指して居るのではなく文壇に在って芸術家でもなんでもない心の持主を意味して居ります。 尠くともこの間に少しも功利的の考えを加えて居らぬことです。 せめてこのことだけでも貴下にかって貰いたいものです。 ――まだまだ言いたいことがあるのですけれども私の不文が貴下をして誤解させるのを恐れるのと明日又かせがなければならぬ身の時間の都合で今はこれをやめて雨天休業の時にでもゆっくり言わせて貰います。 なお秋田さんの話は深沼家から聞きましたが貴下にこの手紙書いたことが知れていらぬ饒舌したように思われては心外であるのみならず秋田さんに対しても一寸責任を感じますので貴下だけの御含みにして置いて頂きたいと思います。 然し私は話の次手にお得意先の二三の作家へただまんぜんと太宰さんのが一ばん評判がよかったのだそうですね位のことはいうかも分りません。 そうしてかかることについても作家の人物|月旦やめよという貴下の御|叱正の内意がよく分るのですけれども私には言いぶんがあるのです。 まだまだ言いたいことがあると申し上げる所以なのです。 いずれ書きます。 どうぞからだを大事にして下さい。 不文意をつくしませぬが御判読下さいまし。 十一月二十八日深夜二時。 十五歳八歳当歳の寝息を左右に聞きながら蒲団の中腹這いのままの無礼を謝しつつ。 田所|美徳。 太宰治様。 拝啓。 歴史文学所載の貴文愉快に拝読いたしました。 上田など小生一高時代からの友人ですが人間的に実にイヤな奴です。 而るに吉田潔なるものが何か十一月号で上田などの肩を持ってぶすぶすいってるようですが若し宜しいようでしたら匿名でも結構ですから何かアレについて一言御書き下さる訳には参りませんかしら。 十二月号を今|編輯していますので一両日中に頂けますと何よりです。 どうか御聞きとどけ下さいますよう御願い申します。 十一月二十九日。 栗飯原梧郎。 太宰治様。 ヒミツ絶対に厳守いたします。 本名で御書き下さらば尚うれしく存じます。 拝復。 めくら草子の校正たしかにいただきました。 御配慮恐入ります。 只今校了をひかえ何かといそがしくしております。 いずれ。 匆々。 相馬閏二。 近頃君は妙に威張るようになったな。 恥かしいと思えよ。 いまさら他の連中なんかと比較しなさんな。 お池の岩の上の亀の首みたいなところがあるぞ。 稿料はいったら知らせてくれ。 どうやら君より俺の方が楽しみにしているようだ。 たかだか短篇二つや三つの註文でもう天下の太宰治じゃあちょいと心細いね。 君は有名でない人間の嬉しさを味わないで済んでしまったんだね。 吉田潔。 太宰治へ。 ダヌンチオは十三年間黙って湖畔で暮していた。 美しいことだね。 何かの本で君のことを批評した言葉のなかに傲慢の芸術云々という個所があった。 評者は君の芸術がそれを失くした時一層面白い云々と述べていた。 ぼくはこの意見に反対だ。 ぼくには太宰治が泣き虫に見えてならぬ。 ぼくが太宰治を愛する所以でもあります。 暴言ならば多謝。 この泣き虫はしかし岩のようだ。 飛沫を浴びて歯を食いしばっている――。 ずいぶん逢わないな。 ――Heisnotwhathewas.か。 世田谷林彪太郎。 太宰治様。 貴兄の短篇集のほうは年内に少しでも校正刷お目にかけることができるだろうと存じます。 貴兄の御厚意身に沁みて感佩しています。 或いは御厚意裏切ること無いかと案じています。 では取急ぎ要用のみ。 前略後略のまま。 大森書房内高折茂。 太宰学兄。 僕はこの頃|緑雨の本をよんでいます。 この間うちは文部省出版の明治天皇御集をよんでいました。 僕は日本民族の中で一ばん血統の純粋な作品を一度よみたく存じとりあえず歴代の皇室の方々の作品をよみました。 その結果明治以降の大学の俗学たちの日本芸術の血統上の意見の悉皆を否定すべき見解にたどりつきつつあります。 君はいつも筆の先を尖がらせてものかくでしょう。 僕は君に初めて送る手紙のために筆の先をハサミで切りました。 もちろんこのハサミは検閲官のハサミでありません。 その上君はダス・マンということを知っているでしょう。 デル・マンではありません。 だから僕は君の作品に於て作品からマンの加減乗除を考えません。 自信を持つということは空中|楼閣を築く如く愉快ではありませんか。 ただそのために君は筆の先をとぎ僕はハサミを使いそのときいささかの滞りもなく僕も人を理解したと称します。 法隆寺の塔を築いた大工はかこいをとり払う日まで建立の可能性を確信できなかったそうです。 それでいてこれは凡そ自信とは無関係と考えます。 のみならず彼は建立が完成されても囲をとり払うとともに塔が倒れてもやはり発狂したそうです。 こういう芸術体験上の人工の極致を知っているのはおそらく君でしょう。 それゆえあなたは表情さえ表現しようとする当節誇るべき唯一のことと愚按いたします。 あなたが御病気にもかかわらず酒をのみ煙草を吸っていると聞きました。 それであなたは朝や夕べに手洗をつかうことも誇るがいいでしょう。 そういう精神が涵養されなかったために未だに日本新文学が傑作を生んでいない。 あなたはもっと誇りを高く高くするがいい。 永野喜美代。 太宰治君。 わずかな興を覚えた時にも彼はそれを確める為に大声を発して笑ってみた。 ささやかな思い出に一滴の涙が眼がしらに浮ぶときにも彼はここぞと鏡の前に飛んでゆき自らの悲歎に暮れたる侘しき姿をほれぼれと眺めた。 取るに足らぬ女性の嫉妬から些かの掠り傷を受けても彼は怨みの刃を受けたように得意になりたかだか二万|法の借金にも彼はなどと傲語してみる。 彼は偉大なのらくら者悒鬱な野心家華美な薄倖児である。 彼を絶えず照した怠惰の青い太陽は天が彼に賦与した才能の半ばを蒸発させ蚕食した。 巴里若しくは日本高円寺の恐るべき生活の中に往々見出し得るこの種の『半偉人』の中でもサミュエルは特に『失敗せる傑作』を書く男であった。 彼は彼の制作よりも寧ろ彼の為人の裡に詩を輝かす病的空想的の人物であった。 未だ見ぬ太宰よ。 ぶしつけごめん下さい。 どうやら君は早合点をしたようだ。 君はボオドレエルを掴むつもりでボ氏の作品中の人物を両眼充血させて追いかけていた様だ。 我は花にして花作り我は傷にして刃打つ掌にして打たるる頬四肢にして拷問車死刑囚にして死刑執行人。 それではかなわぬ。 むべなるかな君を作中人物的作家よと称して扇のかげひそかに苦笑をかわす宗匠作家このごろ更に数をましている有様。 しっかりたのみましたよだあさん。 ほほほほほ。 ごぞんじより。 笑っちゃいかん。 僕は金森重四郎という三十五歳の男だ。 妻もいることだしばかにするな。 いったいどうしたというのだ。 ばか。 拝啓。 益々御健勝の段慶賀の至りに存じます。 さて今回本紙に左の題材にて貴下の御寄稿をお願い致したく御多忙中恐縮ながら左記条項お含みの上|何卒御承引のほどお願い申上げます。 一締切は十二月十五日。 一分量は四百字詰原稿十枚。 一題材は春の幽霊についてコント。 寸志一枚八円にて何卒。 不馴れの者ゆえ失礼の段多かるべしと存じられ候が只管御|寛恕御承引のほどお願い申上げます。 師走九日。 『大阪サロン』編輯部高橋安二郎。 なお挿絵のサンプルとして三画伯の花鳥図同封御撰定のうえ大体の図柄御指示下されば幸甚に存上候。 前略。 ゆるし玉え。 新聞きり抜きお送りいたします。 なぜこんなものを切り抜いて置いたのか私自身にも判明せず。 今夜フランス製百にちかい青蛙あそんでいる模様の紅とみどりの絹笠かぶせた電気スタンドを十二円すこしで買いました。 書斎の机上に飾りひさしぶりの読書したくなって机のまえに正坐しまず机の引き出しを整理しさいころが出て来たので二三度いや正確に三度机のうえでころがしてみてそれから片方に白いふさふさの羽毛を附したる竹製の耳掻きを見つけて耳穴を掃除し二十種にあまるジャズ・ソングの歌詞をしるせる豆手帳のペエジをめくり小声で歌い歌いおわって引き出しの隅一粒の南京豆をぽんと口の中にほうり込む。 かなしい男なのです。 そのとき出て来たものはこの同封の切り抜きです。 何かお役に立ち得るような気がいたします。 私は白髪の貴方を見てから死にたい。 ことしの秋私はあなたの小説をよみました。 へんな話ですけれども私は友人のところであの小説を読んでそれから酒を呑んでそのうちにおうおう大声を放って泣いて途中も大声で泣きながら家へかえってふとんを頭からかぶって寝てぐっすりと眠りました。 朝起きたときには全部忘却して居りましたが今夜この切り抜きがまた貴方を思い出させました。 理由は私にもよく呑みこめませぬがとにかくお送り申します。 ――『慢性モヒ中毒。 無苦痛根本療法発明完成。 主効慢性|阿片モルヒネパビナールパントポンナルコポンスコポラミンコカインヘロインパンオピンアダリン等中毒。 白石国太郎先生創製ネオ・ボンタージン。 文献無代贈呈。 』――『寄席芝居の背景は約十枚でこと足ります。 野面。 塀外。 海岸。 川端。 山中。 宮前。 貧家。 座敷。 洋館なぞでこれがどの狂言にでも使われます。 だから床の間の掛物は年が年中朝日と鶴。 警察病院事務所応接室なぞは洋館の背景一つで間に合いますしまた云々。 』――『チャプリン氏を総裁に創立された馬鹿笑いクラブ。 左記の三十種の事物について語れば即時除名のこと。 四十歳。 五十歳。 六十歳。 白髪。 老妻。 借銭。 仕事。 子息令嬢の思想。 満洲国。 その他。 』――あとの二つは講談社の本の広告です。 近日短篇集お出しの由この広告文を盗みなさい。 お読み下さい。 ね。 うまいもんでしょう。 私に油断してはいけません。 私は貴方の右足の小指の黒い片端爪さえ知っているのですよ。 この五葉の切りぬきを貴方はこっそり赤い文箱に仕舞い込みました。 どうです。 いやいや無理して破ってはいけません。 私を知っていますか。 知る筈はない。 私は二十九歳の医者です。 ネオ・ボンタージンの発明者しかも永遠の文学青年白石国太郎先生でありますぞ。 白石国太郎は冗談ですがいつでもおいで下さい。 私はばかのように見えながら実社会においてはなかなかのやり手なんだそうです。 お手紙くだされば私の力で出来る範囲内でベストをつくします。 貴方はもっともっと才能を誇ってよろし。 芝区赤羽町一番地白石生。 太宰治大先生。 或る種の実感を以って『大先生』と一点不自然でなくお呼びできます。 大先生とはむかしはばかの異名だったそうですがいまはそんなことがない様で何よりと愚考いたします。 治兄。 兄の評判大いによろしい。 そこで何か随筆を書くよう学芸のものに頼んだところ大乗気で却って向うから是非書かしてくれということだ。 新人の立場からといったようなものがいい由。 七八枚。 二日か三日にわけて掲載。 アプトデートのテエマで書いてくれ。 期日は明後日正午まで。 稿料一枚二円五十銭。 よきもの書け。 ちかいうちに遊びに行く。 材料あげるから政治小説かいてみないか。 君にはまだ無理かな。 東京日日新聞社政治部小泉邦録。 謹啓。 一面識ナキ小生ヨリノ失礼ナル手紙御読了|被下度候。 小生日本人ノウチデ宗教家トシテハ内村鑑三氏芸術家トシテハ岡倉天心氏教育家トシテハ井上哲次郎氏以上三氏ノ他ノ文章ハ文章ニ似テ文章ニアラザルモノトシテモッパラ洋書ニ親シミツツアルモ最近貴殿ノ文章発見シ世界ニ類ナキ銀鱗躍動マコトニ間一髪アヤウクハカナキ高尚ノ美ヲ蔵シ居ルコト観破|仕リ以来貴作ヲ愛読シ居ル者ニテ最近貴殿著作集『晩年』トヤラム出版ノオモムキ聞キ及ビ候ガ御面倒ナガラ発行所ト如何ナル御作集録致サレ候ヤマタ貴殿ノ諸作ニ対スル御自身ノ感懐ヲモ御モラシ被下度伏シテ願上候。 御返信ネガイタク参銭切手二枚。 葉書一枚。 同封仕リ候。 封書葉書御意ノ召スガママニ御染筆ネガイ上候。 ナオマタ切手モシクハ葉書御不用ノ際ハソノママ御返送ノホドオ願イ申上候。 太宰治殿。 清瀬次春。 二伸。 当地ハ成田山新勝寺オヨビ三里塚ノ近クニ候エバ当地ニ御光来ノ節ハ御案内仕ル可ク候。 俺たち友人にだけでもけちなポオズをよしたらなにか損をするのかね。 ちょっと日本中に類のない愚劣|頑迷の御手簡ただいま覗いてみました。 太宰。 なんだ。 『許す。 』とはなんだ。 馬鹿。 ふんと鼻で笑って両手にまるめて窓から投げたら桐の枝に引かかったっけ。 俺は君よりも優越している人間だし君は君もいうように『ひかれ者の小唄』で生きているのだし僕はもっと正しい欲求で生きている。 君の文学とかいうものがどんなに巧妙なものだか知らないがタカが知れているではないか。 君の文学は猿面冠者のお道化に過ぎんではないか。 僕はいつも思っていることだ。 君はせいぜい一人の貴族に過ぎない。 けれども僕は王者を自ら意識しているのだ。 僕は自分より位の低いものから訳のわからない手紙を貰ったくらいにしか感じなかった。 僕は自分の感情を偽って書いてはいない。 よく読んで見給え。 僕の位は天位なのだ。 君のは人爵に過ぎぬ。 許すなんて芝居の台詞がかった言葉は君みたいの人は僕に向って使えないのだよ。 君は君の身のほどについて話にならんほどの誤算をしている。 ただ君は年齢も若いのだしまだ解らぬことが沢山あるのだし僕にもそういう時代があったのだから黙っていただけの話だ。 君のこのたびの手紙の文章についてはいろいろ解釈してみたが『こんどだけ』という君の誇張された思い上りは許し難い。 きっぱりと黙殺することに腹を決めたのだが恰度今日仕事の机にむかって坐った時ふと返事でも書いてみるかという気になってこれを書いた。 じたい二十歳台の若者と酒汲みかわすなんて厭なものだと思っていたのだ。 君は二十九歳十カ月くらいのところだね。 芸者ひとり招べない。 碁ひとつ打てん。 つけられた槍だ。 いつでもお相手するがしかし君は佐藤春夫ほどのこともない。 僕はあの男のためには春夫論を書いた。 けれども君に対しては常に僕の姿を出して語らなければ場面にならないのだ。 君は長沢伝六と同じように――むろんあれほどひどくはないがけれどもやっぱり僕の価値を知らない。 君は僕の『つぼ』をうったことは曾つてないのだ。 倉田百三か山本有三かね。 『宗教』といわれてその程度のことしか思い浮ばんのかね。 僕は君のダス・ゲマイネを見たと思ったよ。 けれども別に僕は怒りもしなかった。 するとなんだい『ゆるす』っていうのは。 僕は君が『許して呉れ。 』というのをそう表現したのかとさえ思ったほどである。 それからずっと後でなにか道を歩いていた時ははあと漸く多少思ったこともある。 けれどもそれは僕が次第にほんとの姿を現わし始めたことに過ぎないのだ。 あの夜はこの温情家たる僕にひとつの明確な酷点を教示した。 君のゆるせなかったものそれは僕の酷点のひとつに相違ない。 『われ太陽の如く生きん。 』僕の足もとに膝まずいて君が許せないと感じたものを白状して御覧。 君はそういう場合まるで非芸術のように頑固で理由なしにただ左を右と言ったものだが温良に正直にすべてを語って御覧。 誰も聞いていないのだよ。 一生に最初の一度。 嘘でもまたひかれ者の小唄でもないもの。 まともなことを正直に僕に訴えて見給え。 君はなにか錯覚に墜ちている。 僕を太陽のように利用し給え。 この手紙を正当に最後のものにするかも知れぬ。 僕は頑固者は嫌いである。 それは黙殺にしか値しない。 それは田舎者だ。 『君は何を許し難かったのか。 』恥かしがらずに僕に話して見給え。 はじらいを。 君は僕に惚れているのだ。 どうかね。 ゆるすなんて美しい寡婦のようなことを言いなさんな。 僕は君が僕に献身的に奉仕しなければもう船橋の大本教に行かぬつもりだ。 僕たち二三の友人つね日頃どんなに君につくして居るか。 どれだけこらえてゆずってやって居るか。 どれだけ苦しいお金を使って居るか。 きょうの君にはそれら実相を知らせてあげたい。 知ったとたんに君は裏の線路に飛び込むだろう。 さなくば僕の泥足に涙ながして接吻する。 君にしてなおも一片の誠実を具有していたなら。 吉田潔。 拝呈。 過刻は失礼。 『道化の華』早速一読|甚だおもしろく存じ候。 無論及第点をつけ申し候。 『なにひとつ真実を言わぬ。 けれどもしばらく聞いているうちには思わぬ拾いものをすることがある。 彼等の気取った言葉のなかにときどきびっくりするほど素直なひびきの感ぜられることがある。 』という篇中のキイノートをなす一節がそのままうつして以てこの一篇の評語とすることが出来ると思います。 ほのかにもあわれなる真実の蛍光を発するを喜びます。 恐らく真実というものはこういう風にしか語れないものでしょうからね。 病床の作者の自愛を祈るあまり慵斎主人特に一書を呈す。 何とぞおとりつぎ下さい。 十日深夜否十一日朝午前二時頃なるべし。 深沼太郎。 吉田潔様|硯北。 どうだい。 これなら信用するだろう。 いま大わらわでお礼状を書いている始末だ。 太陽の裏には月ありで君からもお礼状を出して置いて下さい。 吉田潔。 幸福な病人へ。 謹啓。 御多忙中を大変恐縮に存じますが本紙新年号文芸面のために左の玉稿たまわりたくよろしくお願いいたします。 一先輩への手紙。 二三枚半。 三一枚二円余。 四今月十五日。 なお御面倒でしょうが同封のハガキで御都合折り返しお知らせ下さいますようお願いいたします。 東京市|麹町区内幸町武蔵野新聞社文芸部長沢伝六。 太宰治様侍史。 おハガキありがとう。 元旦号には是非お願いいたします。 おひまがありましたら十枚以上を書いていただきたい。 小泉君と先般|逢ったが相変らず元気あの男の野性的親愛は実に暖くて良い。 あの男をもっと偉くしたい。 私は明日からしばらく西津軽北津軽両郡の凶作地を歩きます。 今年の青森県農村のさまは全く悲惨そのもの。 とてもまともには見られない生活が行列をなし群落をなして存在している。 貴兄のお兄上は県会の花。 昨今ますます青森県の重要人物らしい貫禄を具えて来ました。 なかなか立派です。 人の応待など出来て来ました。 あのまま伸びたら良い人物になり社会的の働きに於いてもすぐれたる力量を示すのも遠い将来ではございますまい。 二十五歳で町長重役頭取。 二十九歳で県会議員。 男ぶりといい頭脳といいそれに大へんの勉強家。 愚弟太宰治氏なかなかつらかろと御推察申しあげます。 ほんとに。 三日深夜。 粉雪さらさら。 北奥新報社整理部辻田吉太郎。 アザミの花をお好きな太宰君。 太宰先生。 一大事。 きょう学校からのかえりみち本屋へ立ち寄り一時間くらい立読していたが心細いことになっているのだよ。 講談|倶楽部の新年附録全国長者番附を見たが僕の家も君の家もきれいに姿を消して居る。 いやだね。 君の家が百五十万僕のが百十万。 去年までは確かにその辺だった。 毎年僕はあれを覗いて親爺が金ない金ないと言っても安心していたのだがこんどだけは本当らしいぞ。 対策を考究しようじゃないか。 こまった。 こまった。 清水忠治。 太宰先生か。 冠省。 へんな話ですがお金が必要なんじゃないですか。 二百八十円を限度として東京朝日新聞よろず案内欄へジュムゲジュムゲジュムゲのポンタン百円食いたい。 呑みたい。 イモクテネ。 と小さい広告おだしになればその日のうちにお金お送り申します。 五年まえおたがいに帝大の学生でした。 あなたは藤棚の下のベンチに横わりいい顔をして昼寝していました。 私の名はカメよカメよと申します。 きょうは妙に心もとない手紙拝見。 熱の出る心配があるのにビイルをのんだというのは君の手落ちではないかと考えます。 君に酒をのむことを教えたのは僕ではないかと思いますが万一にも君が酒で失敗したなら僕の責任のような気がして僕は甚だ心苦しいだろう。 すっかり健康になるまで酒は止したまえ。 もっとも酒について僕は人に何も言う資格はない。 君の自重をうながすだけのことである。 送金を減らされたそうだが減らされただけ生活をきりつめたらどんなものだろう。 生活くらい伸びちぢみ自在になるものはない。 至極簡単である。 原稿もそろそろ売れて来るようになったので書きなぐらないように書きためて大きい雑誌に送ること重要事項である。 君は世評を気にするから急に淋しくなったりするのかもしれない。 押し強くなくては自滅する。 春になったら房州南方に移住して漁師の生活など見ながら保養するのも一得ではないかと思います。 いずれは仕事に区切りがついたら萱野君といっしょに訪ねたいと思います。 しばらく会わないので萱野君の様子はわからない。 きょう只今徹夜にて仕事中後略のまま。 津島修二様。 早川生。 玉稿昨日|頂戴しました。 先日貴兄からのハガキどういう理由だかはっきりしなかったところ昨日の原稿を読んで意味がよくわかりました。 先日の僕の依頼に就て態度がいけなかったら御免なさい。 実はあの手紙大変忙しい時間に社の同僚と手分けして約二十通ちかくを書かねばならなかったので君の分だけ個人的な通信を書いている時機がなかった。 稿料のことを書かないのは却って不徳義|故誰にでも書くことにしている。 一緒に依頼した共通の友人菊地千秋君にもその他の諸君にもみんな同文のものを書いただけだ。 君にだけ特別個人的に書けばよかったのであろうがそういう時間がなかったことは前述の通りだ。 あの依頼の手紙を書いて君の気持を害う結果になろうとは夢にも思わなかったし悪意をもってああいうことをお願いするほど愚かな者もいないだろう。 君が神経質になり過ぎているものとしか僕には考えられない。 君が僕に友情を持っていてくれるのなら君こそそういう小さなことを悪く曲解する必要はないではないか。 尤も君が痛罵したような態度を平生僕がとっているとすれば僕は反省しなければならぬし自分の生活に就ても考えなければならない事実考えてもいる。 君がほんとの芸術家ならああいう依頼の手紙を書く者と貰う者とどちらがわびしい気持ちで生きているかは容易に了解できることと思う。 兎に角あの原稿は徹頭徹尾君のそういう思い過しに出ているものだから大変お気の毒だけれども書き直してはくれないだろうか。 どうしても君が嫌だと云えば致し方がないけれどもこういう誤解や邪推に出発したことで君と喧嘩したりするのは僕は嫌だ。 僕が君を侮じょくしたと君は考えたらしいけれど兎に角僕は君のあの原稿の極端なる軽べつにやられて昨夜は殆んど一睡もしなかった。 先日のあの僕の手紙のことに関する誤解は一掃してほしい。 そして原稿も書き直してほしい。 これはお願いだ。 君はああいうことで非常に怒ったけれどそういうことを一々怒っていては僕など一日に幾度怒っていなければならぬか数えあげられるものではない。 君が精いっぱいに生きているように僕だって精いっぱいで生きているのだ。 君のこれからのことや僕のこれからのことやそういうことはこんど会った時話したい。 一度君の病床に訪ねていろいろ話したいと思っているのだけれど僕も大変多忙な上に少々神経衰弱気味で参っているのだ。 正月にでもなったらゆっくりお訪ねできることと思う。 永野吉田両君には先夜会った。 神経をたかぶらせないでお身お大事に勉強してほしい。 社の余暇を盗んで書いたので意を尽せないところが多いだろうが折り返し御返事をまちます。 武蔵野新聞社学芸部長沢伝六。 太宰治様。 追伸尚原稿書き直して戴ければ二十五日までで結構だ。 それから写真を一枚同封して下さい。 いろいろ面倒な御願いで恐縮だがなにとぞよろしく。 乱筆乱文多謝。 ちかごろ毎夜の如く太宰兄についての薄気味わるい夢ばかり見る。 変りはあるまいな。 誓います。 誰にも言いません。 苦しいことがあるのじゃないか。 事を行うまえにたのむ僕にちょっと耳打ちして呉れ。 一緒に旅に出よう。 上海でも南洋でも君の好きなところへ行こう。 君の好いている土地なら津軽だけはごめんだけれどあとは世界中いずこの果にてもやがて僕もその土地を好きに思うようになります。 これぼっちも疑いなし。 旅費くらいは私かせぎます。 ひとり旅をしたいなら私はお供いたしませぬ。 君なにもしていないだろうね。 大丈夫だろうね。 さあ私に明朗の御返事下さい。 黒田重治。 太宰治学兄。 貴翰拝誦。 病気|恢復のおもむきにてなによりのことと思います。 土佐から帰って以来仕事に追われ見舞にも行けないが病気がよくなればそれでいいと思っている。 今日は十五日締切の小説で大童になっているところ。 新ロマン派の君の小説が深沼氏の推讃するところとなって君が発奮する気になったとは二重のよろこびである。 自信さえあれば万事はそれでうまく行く。 文壇も社会もみんな自信だけの問題だと小生痛感している。 その自信を持たしてくれるのは自分の仕事の出来栄えである。 循環する理論である。 だから自信のあるものが勝ちである。 拙宅の赤んぼさんは大介という名前の由。 小生旅行中に女房が勝手につけた名前で小生の気に入らない名前である。 しかし最早や御近所へ披露してしまった後だから泣寝入りである。 後略のまま頓首。 大事にしたまえ。 萱野君旅行から帰って来た由。 早川俊二。 津島君。 返事よこしてはいけないと言われて返事を書く。 一長篇のこと。 云われるまでもなく早まった気がして居る。 屑物屋へはらうつもりで承知してしまったのだがこれはしばらく取消しにしよう。 この手紙といっしょに延期するむね葉書かいた。 どうせ来年の予定だったから来年までには僕も何とかなるつもりでいた――がそれまでに一人前になれるかどうか疑問に思われて来た。 『新作家』へは今度書いた百枚ほどのもの連載しようと思っている。 あの雑誌はいつまでも僕を無名作家にしたがっている。 『月夜の華』というのだ。 下手くそにいっていたとしてもむしろこの方を宣伝して呉れ。 提灯をもつことなんて一番やさしいことなんだから。 二僕と君との交友がとかく色眼鏡でみられるのは仕方がないのではないかな。 中畑というのにも僕は一度あってるきりだし世間さまに云わせたら僕が君をなんとかしてケチをつけたい破目に居そうにみえるのではないかしら。 僕だけの耳へでも僕が君をいやみに言いふらして居るらしい噂が聞えてくる。 そして人からいろいろ忠告されたりする。 構わんじゃろ。 君と僕が対立的にみられるのは僕にはかえって面白いくらいだ。 たとえばポオとレニンが比較されてポオがレニンに策士だといって蔭口をきいたといった風なゴシップは愉快だからな。 何よりも僕の考えていることは友人面をしてのさばりたくないことだ。 君の手紙のうれしかったのはそんな秘れた愛情の支持者があの中にいたことだ。 君が神なら僕も神だ。 君が葦なら――僕も葦だ。 三それから君の手紙はいくぶんセンチではなかったか。 というのはよみながら僕は涙が出るところだったからだ。 それを僕のセンチに帰するのは好くない。 ぼくは恋文を貰った小娘のように顔をあからめていた。 四これが君の手紙への返事だったら破いて呉れ。 僕としては依頼文のつもりだった。 たった一つ僕のこんどの小説を宣伝して呉れということ。 五昨日不愉快な客が来て太宰治は巧くやったねと云った。 僕は不愛想に答えた。 『彼は僕たちが出したのです』――今日つくづく考えなおしている。 こんなのがデマの根になるのではないか――と。 『ええ』といっておけば好いのかもしれない。 それともまた『彼は立派な作家です』と言えばいいのか。 ぼくはいままでほど自由な気持で君のことを饒舌れなくなったのを哀しむ。 君も僕も差支えないとしても聞く奴が駑馬なら君と僕の名に関る。 太宰治は一寸偉くなりすぎたからいかんのだ。 これじゃ僕も肩を並べに行かなくては。 漕ぎ着こう。 六長沢の小説よんだか。 『神秘文学』のやつ。 あんな安直な友情のみせびらかしは僕は御免だ。 正直なのかもしれないが文学ってやつはもっとひねくれてるんじゃないかしら。 長沢に期待すること少くなった。 これも哀しいことの一つだ。 七長沢にも会いたいと思いながら会わずにいる。 ぼくはセンチになると水いらずで雑誌を作ることばかり考える。 君はどんな風に考えるかしらんが僕と君と二人だけでいる世界だけが一番美しいのではないだろうか。 八無理をしてはいかん。 君は馬鹿なことを言った。 君が先に出て先にくたばる術はない。 僕たちを待たなくてはいかん。 それまでは少くとも十年健康で待たなくてはいかん。 根気が要る。 僕は指にタコができた。 九これからは太宰治がじゃんじゃん僕なんかを宣伝する時になったようだ。 僕なんかほくほく悦に入っている。 『こんなのが仲間にいるとみんな得をするからな。 』と今度ぼくは誰かに言ってやろうともくろんでいる。 『虎の威を借る云々』とドバどもはいいふらすだろう。 そしたら『あいつは虎でないとでもいうのか』と逆襲してやる。 『そして僕が狐でないと誰が言いましたか。 』十君不看双眼色不語似無愁――いい句だ。 では元気で僕のことを宣伝して呉れと筆をとること右の如し。 林彪太郎。 太宰治様|机下。 メクラソウシニテヲアワセル。 めくら草紙を読みました。 あの雑誌のうちあの八頁だけを読みました。 あなたは病気骨の髄を犯しても不倒である必要があります。 これは僕の最大限の君への心の言葉。 きょう僕は疲れて大へん疲れて字も書きづらいのですが急に君へ手紙を出す必要をその中で感じましたので一筆。 お正月は大和国桜井へかえる。 永野喜美代。 君は君の読者にかこまれても赤面してはいけない。 頬被りもよせ。 この世の中に生きて行くためには。 ところでめくら草紙だが晦渋ではあるけれども一つの頂点傑作の相貌を具えていた。 君は以後讃辞を素直に受けとる修行をしなければいけない。 吉田生。 はじめて手紙を差上げる無礼何卒お許し下さい。 お蔭様で私たちの雑誌『春服』も第八号をまた出せるようになりました。 最近同人に少しも手紙を書かないので連中の気持は判りませんがぼくの云いたいのはもうお手許迄とどいているに違いない『春服』八号中の拙作のことであります。 興味がなかったら後は読まないで下さい。 あれは昨年十月ぼくの負傷直前の制作です。 いまぼくはあれに対して全然気恥しい気持見るのもいやな気持に駆られています。 太宰さんの葉書なりと一枚欲しく思っています。 ぼくはいまある女の子の家に毎晩のように遊びに行っては無駄話をして一時頃帰ってきます。 大して惚れていないのにせんだって真面目に求婚して承諾されました。 その帰り可笑しく噴き出している最中――いやどんな気持だったかわかりません。 ぼくはいつも真面目でいたいと思っているのです。 東京に帰って文学|三昧に耽りたくてたまりません。 このままだったらいっそ死んだ方が得なような気がします。 誰もぼくに生半可な関心なぞ持っていて貰いたくありません。 東京の友達だっておふくろだって貴方だってそうです。 お便り下さい。 それよりお会いしたい。 大ウソ。 中江種一。 太宰さん。 拝啓。 その後失礼して居ります。 先週の火曜日にそちらの様子見たく思い船橋に出かけようと立ち上った処に君からの葉書|来り中止。 一昨夜突然永野喜美代参り君から絶交状送られたとかその夜は遂に徹夜ぼくも大変心配していた処只今永野よりの葉書にてほどなく和解できた由うけたまわり大いに安堵いたしました。 永野の葉書には『太宰治氏を十年の友と安んじ居ること真情|吐露してお伝え下され度く』とあるから原因が何であったかは知らぬが益々交友の契を固くせられるようぼくからも祈ります。 永野喜美代ほどの異質近頃沙漠の花ほどにもめずらしく何卒良き交友続けられることおねがい申します。 さてその後のからだの調子お知らせ下さい。 ぼく余りお邪魔しに行かぬよう心掛け手紙だけでも時々書こうと思い筆を執るとえい面倒行ってしまえということになる。 手紙というもの実にまどろこしくぼくには不得手。 屡々自分で何をかいたのか呆れる有様。 近頃の句一つ。 自嘲。 歯こぼれし口の寂さや三ッ日月。 やっぱり四五日中にそちらに行ってみたく思うが如何。 不一。 黒田重治。 太宰治様。 お問い合せの玉稿五六日まえすでに拝受いたしました。 きょうまでお礼|逡巡欠礼の段おいかりなさいませぬようお願い申します。 玉稿をめぐり小さい騒ぎがございました。 太宰先生私は貴方をあくまでも支持いたします。 私とて同じ季節の青年でございます。 いまはぶちまけて申しあげます。 当雑誌の記者二名貴方と決闘すると申しています。 玉稿ふざけて居る。 田舎の雑誌と思ってばかにして居る。 おれたちの眼の黒いうちは採用させぬ。 生意気な身のほど知らず等々たいへんな騒ぎでございました。 私には成算ございましたので二三日様子を見てそれから貴方へ御寄稿のお礼かたがたこのたびの事件のてんまつ大略申し述べようと思って居りましたところかれら意外にもけさ編輯主任たる私には一言の挨拶もなく書留郵便にて玉稿御返送敢行いたせし由承知いたしいまは私と彼等二人の正義づらとの面目問題でございます。 かならず厳罰に附しおわびの万分の一当方の誠意かっていただきたく飛行郵便にて玉稿の書留より一足さきに額の滝油汗ふきふき平身低頭のおわび以上の如くでございます。 なお寸志おしるしだけにても御送り申そうかと考えましたがこれ又かえって失礼に当りはせぬか心にかかりいまは訥吃蹌踉七重の膝を八重に折り曲げての平あやまり他日つぐない内心固く期して居ります。 俗への憤怒。 貴方への申しわけなさ。 文字さえ乱れて細くまた太くひょろひょろ小粒が駈けまわり突如牛ほどの岩石の落下この悪筆乱筆にはわれながら驚き呆れて居ります。 創刊第一号からこんな手違いを起し不吉きわまりなくそれを思うと泣きたくなります。 このごろみんな一オクタアヴくらい調子が変化して居るのにお気附きございませぬか。 私はもとより私の周囲の者まですべて。 大阪サロン編輯部高橋安二郎。 太宰先生。 前略。 しつれい申します。 玉稿本日別封書留にてお送りいたしました。 むかしの同僚高橋安二郎君がこのごろ病気がいけなくなり太宰氏ほか三人の中堅新進の作家へ本社編輯部の名をいつわりとんでもない御手紙さしあげて居ることが最近判明いたしました。 高橋君はたしか三十歳。 おととしの秋社員全部のピクニックの日ふだん好きな酒も呑まず青い顔をして居りましたがすすきの穂を口にくわえて同僚の面前にのっそり立ちふさがり薄目つかって相手の顔から胸胸から脚脚から靴なめまわすように見あげ見おろす。 帰途夕日を浴びてながいながいひとりごとがはじまり見事な血したたるが如き紅葉の大いなる枝を肩にかついで下腹部を殊更に前へつき出しぶらぶら歩いて君誰にも言っちゃいけないよ藤村先生ねあの人背中一ぱいに三百円以上のお金をかけて刺青したのだよ。 背中一ぱいに金魚が泳いで居る。 いやちがったおたまじゃくしが一千匹以上うようよしているのだ。 山高帽子が似合うようではどだい作家じゃない。 僕はこの秋から支那服着るのだ。 白足袋をはきたい。 白足袋はいておしるこたべていると泣きたくなるよ。 ふぐを食べて死んだひとの六十パアセントは自殺なんだよ。 君秘密は守って呉れるね。 藤村先生の戸籍名は河内山そうしゅんというのだ。 そのような大へんな秘密を高橋の呼吸が私の耳朶をくすぐって頗る弱ったほどそれほど近く顔を寄せてこっそり教えて呉れましたが高橋君はもともと文学青年だったのです。 六七年まえのことでございますが当時信濃の山々奥深くにたてこもって創作三昧しずかに一日一日を生きて居られた藤村島崎先生から百枚ちかくの約束の玉稿ぜひともいただいて来るようまして此のたびは他の雑誌社に奪われる危険もあり如才なく立ちまわれよと編輯長に言われてふだんから生真面目の人しかもそのころは未だ二十代山の奥竹の柱の草庵に文豪とたった二人囲炉裏を挟んで徹宵お話うけたまわれるのだと期待緊張それがために顔もやや青ざめ同僚たちのにぎやかな声援にもいちいち口を引きしめては深くうなずき決意のほどを見せるのです。 廻転ドアにわれとわが身を音たかく叩きつけ一直線に旅立ったときのひょろ長い後姿には笑ってすまされないものがございました。 四日目の朝しょんぼりびしょ濡れになって社へ帰ってまいりました。 やられたのです。 かれの言いぶんに拠れば字義どおりの一足ちがい宿の朝ごはんの後熱い番茶に梅干いれてふうふう吹いて呑んだのが失敗のもとそれがために五分おくれて大事になったとのこと二人の給仕もいれて十六人の社員こぞって同情いたしました。 私なども編あげ靴の紐を結び直したばかりにやはり他社のものに先をこされてあやうく首切られそうになったかなしい経験がございます。 高橋君はすぐ編輯長に呼ばれて三時間直立不動の姿勢でもって説教きかされお説教中五たび六たび編輯長をその場で殺そうと決意したそうでございます。 とうとう仕舞いには卒倒おびただしき鼻血。 私たちなんにも申し合わせなかったのにそのあくる日二人の給仕は例外ほかの社員ことごとく辞表をしたためて持って来ていたのでございます。 そうしてくやしくてみんな編輯長室のまえの薄暗い廊下でひしと一かたまりにかたまってことにも私どうにもこうにも我慢ならずかたわらの友人の声しのばせての歔欷に誘われ大声放って泣きました。 あのときの一種崇高の感激は生涯にいちどあるか無しかの貴重のものと存じます。 ああ不要のことのみ書きつらねました。 おゆるし下さい。 高橋君はそれ以後作家に限らずいささかでも人格者と名のつく人物一人の例外なく蛇蝎視して先生と呼ばれるほどの嘘を吐きなどの川柳をときどき雑誌の埋草に使っていましたがあれほどお慕いしていた藤村先生の『ト』の字も口に出しませぬ。 よほどの事があったにちがいございませぬ。 昨年の春健康いよいよ害ねて今は明確に退社して居ります。 百日くらいまえに私はかれの自宅の病室を見舞ったのでございます。 月光が彼のベッドのあらゆるくぼみに満ちあふれ掬えると思いました。 高橋は両の眉毛をきれいに剃り落していました。 能面のごとき端正の顔は月の光の愛撫に依り金属のようにつるつるしていました。 名状すべからざる恐怖のため私の膝頭が音たててふるえるので私は電気をつけようと嗄れた声で主張いたしました。 そのとき高橋の顔に三歳くらいの童子の泣きべそに似た表情が一瞬ぱっと開くより早く消えうせた。 『まるで気違いみたいだろう。 』ともちまえの甘えるような鼻声で言って寒いほど高貴の笑顔に化していった。 私は医師を呼びあくる日精神病院に入院させた。 高橋は静かに謂わばそろそろと狂っていったのである。 味わいの深い狂いかたであると思惟いたします。 ああ。 あなたの小説をにっぽん一だと申して幾度となく繰り返し繰り返し拝読して居る様子で貴作ロマネスクはすでに諳誦できる程度に修行したとか申して居たのに。 むかしの佳き人たちの恋物語あるいはとくべつに楽しかった御旅行の追憶さては先生御自身のきよらかなるロマンス等々病床の高橋君に書き送る形式にて四枚月末までにおねがい申しあげます。 大阪サロン編輯部春田一男。 太宰治様。 君の葉書読んだ。 単なる冷やかしに過ぎんではないか。 君は真実の解らん人だね。 つまらんと思う。 吉田潔。 冠省。 首くくる縄切れもなし年の暮。 私も大兄お言いつけのものと同額の金子入用にて八方|狂奔。 岩壁切りひらいて行きましょう。 死ぬるのはいつにても可能。 たまには後輩のいうことにも留意して下さい。 永野喜美代。 先日は御手紙|有難う。 又電報もいただいた。 原稿はどういうことにしますか。 君の気がむいたようにするのが一番いいと思う。 〆切は二十五六日頃までは待てるのです。 小生ただいま居所不定だから御通信はすべて社|宛に下さる様。 住所がきまったならお報せする。 要用のみで失敬。 武蔵野新聞社学芸部長沢伝六。 太宰さん。 とうとう正義温情の徒にみごと一ぱい食わせられましたね。 はじめから御注意申しあげて置いたらこんなことにはならなかったのでございますが雑誌はどこでもそうらしいですがひとりの作家を特に引きたててやることは固く禁じられて居りますしそのうえこの社には重役附きのスパイが多くこれからもあることゆえものやわらかの人物には気をつけて下さいまし。 軽々しくふるまってはいけません。 春田はどんな言葉でおわびをしたのかわかりませぬけれど貴方に書き直しさせたと言ってこの二三日大自慢でそれだけ私は小さくなっていなければならずまことに味気ないことになりました。 太宰さんあなたもよくない。 春田がどのような巧言を並べたてたかは存じませぬけれど何もあんなにセンチメンタルな手紙を春田へ与える必要ございません。 醜態です。 猛省ねがいます。 私ちゃんとあなたのための八十円用意していたのに春田などにたのんでは十円も危い。 作家を困らせるのを雑誌記者の天職と心得て居るのだから始末がわるい。 私ひとりでやきもきしてたって仕様がない。 太宰さん。 あなたの御意見はどうなんです。 こんなになめられて口惜しく思いませんか。 私はあなたのお家のことたいてい知って居ります。 あなたの読者だからです。 背中の痣の数まで知って居ります。 春田など太宰さんの小説ひとつ読んでいないのです。 私たちの雑誌の性質上サロンの出いりも繁く席上太宰さんの噂など出ますけれどそのような時には春田夏田になってしまって熱狂の身ぶりよろしく筆にするに忍びぬ下劣の形容詞を一分間二十発くらいの割合いで猛射撃。 可成りの変質者なのです。 以後浮気は固くつつしまなければいけません。 このみそかはそれじゃ困るのでしょう。 私はもうお世話ごめん被ります。 八十円のお金よそへまわしてしまいました。 おひとりでやってごらんなさい。 そんな苦労もちっとは身になります。 八方ふさがったときには御相談下さい。 苦しくてもぶていさいでも死なずにいて下さい。 不思議なもので大きい苦しみのつぎにはきっと大きいたのしみが来ます。 そうしてこれは数学の如くに正確です。 あせらず御養生専一にねがいます。 来春は東京の実家へかえって初日を拝むつもりです。 その折お逢いできればといささかたのしみにして居ります。 良薬の苦味おゆるし下さい。 おそらくは貴方を理解できる唯一人の四十男無二の小市民高橋九拝。 太宰治学兄。 突然のおたよりお許し下さい。 私はあなたと瓜二つだ。 いや私とあなたこの二人のみに非ず。 青年の没個性自己喪失はいまの世紀の特徴と見受けられます。 以下必ず一読せられよ。 刺し殺される日を待って居る。 私は或る期間穴蔵の中で陰鬱なる政治運動に加担していた。 月のない夜私ひとりだけ逃げた。 残された仲間はすべていのちを失った。 私は大地主の子である。 転向者の苦悩。 なにを言うのだ。 あれほどたくみに裏切っていまさらゆるされると思っているのか。 裏切者なら裏切者らしく振舞うがいい。 私は唯物史観を信じている。 唯物論的弁証法に拠らざればどのような些々たる現象をも把握できない。 十年来の信条であった。 肉体化さえされて居る。 十年後もまた変ることなし。 けれども私は労働者と農民とが私たちに向けて示す憎悪と反撥とをいささかも和げてもらいたくないのである。 例外を認めてもらいたくないのである。 私は彼等の単純なる勇気を二なく愛して居るがゆえに二なく尊敬して居るがゆえに私は私の信じている世界観について一言半句も言い得ない。 私の腐った唇から明日の黎明を言い出すことはゆるされない。 裏切者なら裏切者らしく振舞うがいい。 『職人ふぜい。 』と噛んで吐き出し『水呑百姓。 』と嗤いののしりそうして刺し殺される日を待って居る。 かさねて言う私は労働者と農民とのちからを信じて居る。 私は派手な衣服を着る。 私は甲高い口調で話す。 私は独り離れて居る。 射撃し易くしてやって居るのである。 私の心にもなき驕慢の擬態もまた射手への便宜を思っての振舞いであろう。 自棄の心からではない。 私を葬り去ることはすなわち建設への一歩である。 この私の誠実をさえ疑う者は人間でない。 私はつねに真実を語った。 その結果人々は私を非常識と呼んだ。 誓って言う。 私は私ひとりのために行動したことはなかった。 このごろあなたの少しばかりの異風がゆがめられたポンチ画がたいへん珍重されているということを寂しいとは思いませんか。 親友からの便りである。 私はその一葉のはがきを読み海を見に出かけた。 途中麦が一寸ほど伸びている麦畑の傍にさしかかり突然ぐしゃっと涙が鼻にからまって来てそれから声を放って泣いた。 泣き泣き歩きながら私をわかって呉れている人も在るのだと思った。 生きていてよかった。 私を忘れないで下さい。 私はあなたを忘れていた。 その未見の親友の純粋なるくやしさがそのまま私の血管にも移入された。 私は家へかえって原稿用紙をひろげた。 『私は無頼の徒ではない。 』具体的に言って呉れ。 私はどんな迷惑をおかけしたか。 私は借銭をかえさなかったことはない。 私はゆえなく人の饗応を受けたことはない。 私は約束を破ったことはない。 私はひとの女と私語を交えたことはない。 私は友の陰口を言ったことさえない。 昨夜床の中でじっとして居ると四方の壁からひそひそ話声がもれて来る。 ことごとく私に就いての悪口である。 ときたま私の親友の声をさえ聞くのである。 私を傷つけなければ君たちは生きて行けないのだろうね。 殴りたいだけ殴れ。 踏みにじりたいだけ踏みにじるがいい。 嗤いたいだけ嗤え。 そのうちにふと気がついて顔を赧くするときが来るのだ。 私はじっとしてその時期を待っていた。 けれども私は間違っていた。 小市民というものはこちらが頭を低くすればするほどそれだけのしかかって来るものであった。 そう気がついたとき私はふたたび起きあがることが出来ぬほどに背骨を打ちくだかれていたようだ。 私はこのごろ肉親との和解を夢に見る。 かれこれ八年ちかく私は故郷へ帰らない。 かえることをゆるされないのである。 政治運動を行ったからであり情死を行ったからであり卑しい女を妻に迎えたからである。 私は仲間を裏切りそのうえ生きて居れるほどの恥知らずではなかった。 私は私を思って呉れていた有夫の女と情死を行った。 女を拒むことができなかったからである。 そののち私は現在の妻を迎えた。 結婚前の約束を守ったまでのことである。 私十九歳より二十三歳まで四年間土曜日ごとに逢っていたが私はいちどもまじわりをしなかった。 けれども肉親たちは私を知らない。 よそに嫁いで居る姉が私の一度ならず二度三度の醜態のためにその嫁いで居る家のものたちに顔むけができずに夜々泣いて私をうらんでいるということや私の生みの老母が私あるがために亡父の跡を嗣いで居る私の長兄に対してことごとく面目を失い針のむしろに坐った思いで居るということやまた私の長兄は私あるがためにくにの名誉職を辞したとか辞そうとしたとかとにかく二十数人の肉親すべて私があたりまえの男に立ちかえって呉れるよう神かけて祈って居るというふうの噂話を仄聞することがあるのである。 けれども私は弁解しない。 いまこそ血のつながりというものを信じたい。 長兄が私の小説を読んで呉れる夢のうれしさよ。 佐藤春夫の顔が私の亡父の顔とあんなに似ていなかったら私はあの客間へ二度と行かなかったかも知れない。 肉親との和解の夢からさめて夜半しれものふと親孝行をしたく思う。 そのような夜半には私もまた菊池寛のところへ手紙を出そうかサンデー毎日の三千円大衆文芸へ応募しようか何とぞして芥川賞をもらいたいものだなどと思いを千々にくだいてみるのであるが夜のしらじらと明け放れると共にそのような努力が何故とも知らず馬鹿くさく果無く思われ『やがて死ぬるいのち。 』という言葉だけがありがたくその日も為すところなく迎えてそうして送っていただけなのである。 けれども――一日読書をしてはその研究発表。 風邪で三日ほど寝ては病床閑語。 二時間の旅をしては芭蕉みたいな旅日記。 それから面白くも楽しくもなんともない創作にあらざる小説。 これが日本の文壇の現状のようである。 苦悩を知らざる苦悩者の数のおびただしさよ。 私は今迄自己を語る場合にどうやら少しはにかみ過ぎていたようだ。 きょうよりのち私はあるがままの自身を語る。 それだけのことである。 語らざれば憂い無きに似たりとか。 私は言葉を軽蔑していた。 瞳の色でこと足りると思っていた。 けれどもそれはこの愚かしき世の中には通じないことであった。 苦しいときには『苦しい。 』とせいぜい声高に叫ばなければいけないようだ。 黙っていたらいつしか人は私を馬扱いにしてしまった。 私はいま取りかえしのつかない事がらを書いている。 人は私の含羞多きむかしの姿をなつかしむ。 けれども君のその嘆声はいつわりである。 一得一失こそものの成長に追随するさだめではなかったか。 永い眼でものを見る習性をこそ体得しよう。 甲斐なく立たむ名こそ惜しけれ。 なんじら断食するときかの偽善者のごとく悲しき面容をすな。 キリストだけは知っていた。 けれども神の子の苦悩に就いてはパリサイびとでさえみとめぬわけにはいかなかったのである。 私はしばらくかの偽善者の面容を真似ぶ。 百千の迷の果私は私の態度をきめた。 いまとなっては私はおのが苦悩の歴史をつとめて厳粛に物語るよりほかはなかろう。 てれないように。 てれないように。 私も亦地平線のかなた久遠の女性を見つめている。 きょうの日まで私はその女性についてほんの断片的にしか語らず私ひとりの胸にひめていた。 けれども私の誇るべき一先輩が早く書かなけれあ君子供が雪兎を綿でくるんで机の引き出しにしまって置くようなもので溶けてしまうじゃないか。 あとでひとりで楽しまむものと机の引き出しそっと覗いてみたときには溶けてしまって南天の赤い目玉が二つのこっていたという正吉の失敗とかいう漫画をうちの子供たち読んでいたが美しい追憶もそんなものだよパッション失わぬうちに書け鉄は赤いうちに打つべしと言われているよ。 私はけれども聞えぬふりした。 しらじらしくよそごとのみを興ありげに話すのだ。 兎どころか私のふるさとでは美しい女さえ溶けてしまうのです。 吹雪の夜にわがやの門口に行倒れていた唇の赤い娘を助けてきれいな上に無口で働きものゆえ一緒に世帯を持ってそのうちにだんだんあたたかくなると共にあのきれいなお嫁も痩せて元気がなくなり玉のようなからだもなんだかおとろえて家の中が暗くなった。 主は心細さに堪えかね一日たらいにお湯を汲みいれてむりやりお嫁に着物を脱がせお嫁の背中を洗ってやった。 お嫁はしくしく泣きながら背中洗ってくれているやさしかった主にむかって『私が死んでも――』と言いかけてさらさらと絹ずれの音がしてお嫁のすがたが見えなくなった。 たらいの中には桜貝の櫛と笄が浮んでいるだけであった。 雪女お湯に溶けてしまったという物語。 私は尚も言葉をつづけて私考えますに葛の葉の如くこの雪女郎のお嫁が懐妊しそのお腹をいためて生んだ子があったとしたならそうして子供が成長して雪の降る季節になれば雪の野山母をあこがれ歩くものとしたならこの物語世界の人ことごとくを充分にうっとりさせ得ると信じて居る。 そう言いむすんだとき見よ世界の人の中のひとり私の先輩も頬を染めて浮かれだしサロンの空気がたいへんパッショネエトにされてしまっていつしか私のひめにひめたるお湯にも溶けぬ雪女について問われるがままに語って聞かせて居たのである。 ――年齢。 ――十九です。 やくどしです。 女このとしには必ず何かあるようです。 不思議のことに思われます。 ――小柄だね。 ――ええでもマネキン嬢にもなれるのです。 ――というと。 ――全部が一まわり小さいので写真ひきのばせばほとんど完璧の調和を表現し得るでしょう。 両脚がしなやかに伸びて草花の茎のようで皮膚がほどよく冷い。 ――どうかね。 ――誇張じゃないんです。 私あのひとに関してはどうしても嘘をつけない。 ――あんまりひどくだましたからだ。 ――おどろいたな。 けれども全くそうなんです。 私二十一歳の冬に角帯しめて銀座へ遊びにいってその晩女が私の部屋までついて来てあなたの名まえなんていうの。 と聞くからちょうどそこに海野三千雄ねあの人の創作集がころがっていて私は海野三千雄と答えてしまった。 女は私を三十一二歳と思っているらしくもすこし有名の人かと思ったとほっと肩を落して溜息をついて私はあのときぐらい有名になりたく思ったことございませぬ。 のどがからから枯渇してくろい煙をあげて焼けるほどに有名を欲しました。 海野三千雄といえばひところ文壇でいちばん若くていい小説もかいていました。 その夜から私学生服を着ている時のほかにはどこへ行っても海野三千雄で押しとおさなければならなくなった。 いちどにせものをつとめると不安で不安で夜のめも眠れずそれでいてそのにせもの勤めをよそうとはせずかえって完璧の一点のすきのないにせものになろうとそのほうにだけ心をくだくものです。 不思議なものです。 ――面白いね。 つづけたまえ。 ――たった一度きりの女なら海野三千雄もよろしゅうございましょうが二度三度|逢っているうちに窮屈になってひとりで悶悶転転いたしました。 女はその後新聞の学芸欄などに眼をとおす様子できょうあなたの写真が出ていた。 ちっとも似ていない。 どうしてあんなに顔をしかめるの。 私お友達に笑われちゃった。 ――君はむかしなにか政治運動していたとかそのころのことかね。 ――はそうです。 私文化運動は性に合わず殊にもプロレタリヤ小説ほどおめでたいものはないと思っていましたから学生とは離れて穴蔵の仕事ばかりをしていました。 いつか私の高等学校時代からの友人がおっかなびっくり或る会合の末席に列していていまにこの辺全部の地区のキャップが来るぞとまえぶれがあってその会合に出ているアルバイタアたちでさえ少し興奮してざわめきわたって或る小地区の代表者として出席していた私のその友人はもう夢みるような心地でやがて時間に一秒の狂いもなくみしみし階段の足音が聞えてやあといいながらはいって来たひょろ長い男の顔がはじめはまぶしくてはっきり見えなかったがよく見るとその金ぶち眼鏡のにやけた男がまごうかたなき私ええこの私だったのでかれあのときのうれしさは忘じがたいといまでもよく申しています。 天にも昇るうれしさだったそうです。 もちろんそのときにはちらと瞳で笑い合ったきりでお互い知らんふりをしていました。 あんな運動をして毎日追われてくらしていてふとこちらの陣営に思いがけない旧友の顔を見つけたときほどうれしいことがございませぬ。 ――よくつかまらなかったね。 ――ばかだからつかまるのです。 またつかまっても一週間やそこらで助かる手もあるのです。 そのうちに私スパイだと言われたり何かしていやになって仲間から逃げることだけ考えていました。 そのころは毎夜帝国ホテルにとまっていました。 やはり作家海野三千雄の名前で。 名刺もつくらせそれからホテルの海野先生へゲンコウタノムの電報速達電話すべて私自身で発して居りました。 ――不愉快なことをしたものだね。 ――厳粛なるべき生活を茶化してもてあそびものにしているのが不愉快なのでしょう。 ごもっともでございますが当時そんなことでもしなければ私おそらくは三十種類以上の原因で自殺してしまっています。 ――でもそのときだってやっぱり情死おこなったんだろう。 ――ええ女が帝国ホテルへ遊びに来て僕がボオイに五円やってその晩女は私の部屋へ宿泊しました。 そうしてその夜ふけに私は死ぬるよりほかに行くところがないと何かの拍子にふと口から滑り出てその一言がとても女の心にきいたらしくあたしも死ぬると申しました。 ――それじゃああなたと呼べば死のうよと答えるそんなところだ。 極端にわかりが早くなってしまっている。 君たちだけじゃないようだぜ。 ――そうらしいのです。 私の解放運動など先覚者として一身の名誉のためのものと言って言えないこともなくそのほうでどんどん出世しているうちは面白く張り合いもございましたがスパイ説など出て来たんでは遠からず失脚ですしとにかくいやでした。 ――女はその後どうなったね。 ――女はその帝国ホテルのあくる日に死にました。 ――あそうか。 ――そうなんです。 鎌倉の海に薬品を呑んで飛びこみました。 言い忘れましたがこの女はなかなかの知識人で似顔絵がたいへん巧かった。 心が高潔だったので実物よりも何層倍となく美しい顔を画きしかもその画には秋風のような断腸のわびしさがにじみ出て居りました。 画はたいへん実物の特徴をとらえていてしかもノオブルなのです。 どうもことしの正月あたりからこう泣癖がついてしまって困って居ります。 先日も佐渡情話とか言う浪花節のキネマを見てどうしてもがまんができずとうとう大声をはなって泣きだしてそのあくる朝厠でそのキネマの新聞広告を見ていたらまた嗚咽が出て来て家人に怪しまれはては大笑いになってもはや二度とキネマへ連れて行けぬという家人の意見でございました。 もういいのです。 つづきを申しましょう。 十年まえの話です。 なぜあのとき私が鎌倉をえらんだのか長いこと私の疑問でございましたがきのうほんのきのうやっと思い当りました。 私小学生のころ学芸大会に鎌倉名所の朗読したことがございましてその折練習に練習を重ねてほとんど諳誦できるくらいになってしまいました。 七里ヶ浜の磯づたいというあの文章です。 きっと子供ながらその風景にあこがれそれがしみついて離れず潜在意識として残っていてそれがその鎌倉行になってあらわれたのではなかろうかと考えわが身をいじらしく存じました。 鎌倉に下車してから私は女にお金を財布ぐるみ渡してしまいましたが女は私の豪華な三徳の中を覗いてあらたった一枚。 と小声で呟き私は身を切られるほど恥かしく思ったのを忘れずに居る。 私は少しめちゃめちゃになっておれはほんとうは二十六歳だとそれでもまだ五歳も多く告白してみせましたが女はたった二十六。 といって黒めがちの眼をくるっと大きく開いてそれから指折りかぞえたいへんたいへんと笑いながら言って首をちぢめて見せましたがなんの意味だったのかしらいまさら尋ねる便りもございませんがたいへん気にかかります。 ――あかるいうちに飛び込んだのかね。 ――いいえ。 それでも名所をあるきまわってはちまん様のまえで飴を買って食べましたが私そのとき右の奥歯の金冠二本をだめにしてしまっていまでもそのままにして放って置いてあるのですが時々しくしくいたみます。 ――ふっと思い出したがヴェルレエヌねあの人一日教会へ韋駄天走りに走っていってさあ私はざんげする告白する何もかも白状するざんげ聴聞僧はどこに居られるさあさあ私は言ってしまうとたいへんな意気込でざんげをはじめたそうですが聴聞僧は清浄の眉をそよとも動がすことなく窓のそとの噴水を見ていてヴェルレエヌの泣きわめきつつ語りつづけるめんめんの犯罪史の一瞬の切れ目にすぽんと投入した言葉は『あなたはけものと交った経験をお持ちですか。 』ヴェル氏仰天してころげるようにして廊下へ飛び出し命からがら逃げかえったそうで僕はどうも人のざんげを聞くことが得手じゃないのです。 いまはやりの言葉で言えば心臓が弱いのです。 かの勇猛果敢なざんげ聴聞僧の爪のあかでもせんじて呑みたいほうでね。 ――ざんげじゃない。 のろけじゃない。 救いを求めているのでもない。 私は女の美しさを主張しているのです。 それだけの事です。 こうなって来るとお仕舞いまで申しあげます。 女は歩きながらずいぶん思いつめたような口調でかえらない。 と小声で言った。 あたしはあなたのおめかけになります。 家から一歩も外へ出るなとあればじっとしてうちに隠れて居ります。 一生涯日かげ者でもいいの。 私は鼻で笑った。 人の誠実を到底理解できずおのれの自尊心を満足させるためには万骨を枯らして尚平然たる姿の二十一歳自矜の怪物骨のずいからの虚栄の子女のひとの久遠の宝石真珠の塔二つなく尊い贈りものをろくろく見もせずぽんと路のかたわらのどぶに投げ捨ていまの私のかたちは果して軽快そのものであったろうかなどそんなことだけを気にしている。 ――はははは。 今夜はなかなか能弁だね。 ――笑いごとではないのです。 そのような奇妙な『ヴァイオリンよりはケエスが大事式』のその方面に於ける最もきびしい反省をしてみるのでした。 江の島の橋のたもとに新宿へ三十分渋谷へ三十八分と一字一字二尺平方くらいの大きさで書かれて居る私設電車の絵看板ちらと見てさっさと橋をわたりはじめた。 からころと駒下駄の音が私を追いかけ私のすぐ背後まで来てからゆっくりあるいてあたしきめてしまいました。 もう大丈夫よ先刻までの私は軽蔑されてもしかたがないんだ。 ――非常に素直な人なんだね。 ――そうですそうです。 判って呉れましたね。 やっぱりお話し申しあげてよかった。 もっともっと聞いて下さい。 ――よし。 ぜひとも聞かせて下さい。 竹やお茶。 ――飛びこむよりさきにまず薬を呑んだのです。 私が呑んでそれから私が微笑みながら姫や敵のひげむじゃに抱かれるよりは父と一緒に死にたまえ。 少しも早うこの毒を呑んで死んでお呉れ。 そんなたわむれの言葉を交しながらゆとりある態度で呑みおわってそれから大きいひらたい岩にふたりならんで腰かけて両脚をぶらぶらうごかしながら静かに薬のきく時を待って居ました。 私はいま徹頭徹尾死なねばならぬ。 きのうきょう二日あそんでそれがためすでにかの穴蔵の仕事の十指にあまる連絡の線を切断。 組織はふたたび収拾し能わぬほどの大混乱火事よりも雷よりもくらべものにならぬほどの一種|凄烈のごったがえし。 それらの光景は私にとって手にのせて見るよりも確実であった。 キャップの裏切。 逃走。 そのうえに海野三千雄のにせ者の一件が大手をひろげて立っていた。 女に告白できるくらいならそれができるたちの男であったなら二十一歳すでにこれほど傷だらけにならずにすんで居たにちがいない。 やがて女は帯をほどいてこのけしの花模様の帯はあたしのフレンドからの借りものゆえここへこうかけて置こうとよどみなく告白しながらその帯をきちんと畳んで背後の樹木に垂れかけ私たちはたいへんやわらかなおっとりした気持ちでおとなしく話し合いそれから城ヶ島とおぼしきあたり明滅する燈台の灯を眺めていました。 どんな話をしたでしょうか。 自分でも忘却してしまいましたが私自身が女に好かれて好かれて困るという嘘言を節度もなしにだらだら並べてこの女難の系統は私の祖父から発していて祖父が若いとき女の綱渡り名人が村にやって来て三人の女綱渡りすべて祖父が頬被りとったらその顔に見とれて傘かた手にはっと掛声かけてまた祖父を見おろしするする渡りかけてはすとんすとんと墜落するので一座のかしらから苦情が出てはては村中の大けんかになったとさ等大嘘を物語ってやって事実の祖父の赤黒く全く気品のない羅漢様に似た四角の顔を思い出し危く吹き出すところであった。 女は信じてそれでは私は八人の女のひとにうらまれる訳なのね。 ああ私は仕合せだ。 『勝利者』とうっとりつぶやいて星空を見あげていました。 突然くすりがきいてきて女はひゅうひゅうと草笛の音に似た声を発してくるしいくるしいと水のようなものを吐いて岩のうえを這いずりまわっていた様子で私はその吐瀉物をあとへ汚くのこして死ぬのはなんとしても心残りであったからマントの袖で拭いてまわっていつしか私にも薬がきいてぬらぬら濡れている岩の上を踏みぬめらかし踏みすべりまっくろぐろの四足獣のどに赤熱の鉄火箸を五寸も六寸も突き通されやがてその鬼の鉄棒は胸に到り腹にいたりそのころにはもはや二つの動くむくろ黒い四足獣がゆらゆらあるいた。 折りかさなって岩からてんらくざぶと浪をかぶってはじめ引き寄せ一瞬後はお互いぐんと相手を蹴飛ばしたちまち離れて謂わば蚊よりも弱い声『海野さあん。 』私の名ではなかった。 十年まえの師走ちょうどいまごろの季節の出来ごとです。 ――なるほどなるほどおい竹や。 ウオトカ。 ――太宰さん。 白ばくれちゃいけない。 私のこの話をどう結んでくれるのです。 これは勿論あなたの身の上じゃない。 みんな私の身の上だ。 けれども私はこれを発表するときに雑誌社だって考えます。 どこの鰯の頭か知れない男の告白よりはぱっとしないがとにかく新進の小説家太宰さんのざんげ話として広告したいところです。 この私の苦心の創作を買って下さい。 同文の予備役なおこちらに三冊ございます。 その三冊とも五十円は安い。 太宰さん。 おどろいたでしょう。 みんなウソ。 おどかしてみたのさ。 おどろいた。 ずっとまえに君が私とお酒のみながらこの話教えて呉れたじゃないか。 きょう日曜の雨たいくつでたまらぬがお金はなし君のとこへも行けず天候の不満を君に向けて爆破どうだすこしはぎょっとしたか。 このぶんでは僕も小説家になれそうだね。 はじめの感想文はあれは支那のブルジョア雑誌から盗んだものだが岩の上の場面などは僕が書いた。 息もつかせぬ名文章だったろう。 これから一時間文士になろうかどうか思い迷ってみることにする。 失礼。 おからだ気をつけて。 こんどの日曜日に行く。 うちから林檎が来ているが取りに来て下さい。 清水忠治。 叔父上様。 謹啓。 文学の道あせる事無用と確信致し居る者に候。 空を見雑念せず。 陽と遊び短慮せず。 健康第一と愚考致し候。 ゆるゆる御精進おたのみ申し上候。 昨日は又創作『ほっとした話』一篇御恵送|被下厚く御礼申上候。 来月号を飾らせていただきたくお礼|如此御座候。 諷刺文芸編輯部五郎合掌。 お手紙さしあげます。 べつに申しあげることもないのでペンもしぶりますが読んでいただければうれしいと思います。 自分勝手なことで大へんはずかしく思いますがおゆるしください。 御記憶がうすくなって居られると考えますが二月頃新宿のモナミで同人雑誌『青い鞭』のことでおめにかかりそしてその時のわかれ方が非常に本意なく思われていつもすまなく感じていて自分ひとりでわるびれた気持になっています。 いつかお詫びの手紙を出そうと念じながらもひとりぎめの間のわるさの為に出しそびれて何かのきっかけをと思いあなたの『晩年』とかいうのが出たらそのときのことにしようと最近心にきめていましたところ今日本屋であなたの一文を拝見して無しょうにかなしくなり話しかけたくなりました。 それでも心のどこかでびくびくしていてこまります。 あの夜僕はとりみだし荒んだ歩調で階段を降りました。 そしてそのとりみだし方も純粋でなかったようではずかしく思いだしては首をちぢめています。 その夜斎藤君はおもわせぶりであるとあなたにいわれたために心がうつろになりさびしくなっていてそれだけですでにおろおろして居たのです。 僕が帰ることになったとき先に払った同人費を還すからというとき僕は心の中で五円|儲かったと叫んだのです。 そして何か云われたのに二円五十銭ずつ二回に払ったのですがと答えたときの自分自身の見えすいた狡さのために自らをひくくしたはずかしさと棄鉢をおぼえました。 そればかりでなく五円儲かったということばはその二三日前によんだ貴作『逆行』の中にあることばがそのままにうかんだしろものに過ぎず新宿駅のまえでぼんやりして居りました。 あのはげしかった会合のことがらをはっきりと掴めもせずに自分の去就についてどうしたら下手をやらずにすむかを考えていたようでした。 駅のまえでしばらく白犬のようにうろうろしてこのまま下宿へ帰ろうかと考えましたがこれきりあなた達と別れてしまうのかと思われてさびしくなりました。 今すぐ会場へ引返してみたところでと叱られるくらいがおちであろうと永いことさまよいました。 人に甘え世に甘え自分にないものを何かしらんかくし持ってあるが如くに見せかけるその思わせぶりを人もあろうにあなたに指さされかなしかった。 ああめそめそしたことを書いて御免下さい。 私はその夜の五円を極めて有効に一点濁らず使用いたしました。 生涯の記念としていまなおその折のメモを失くさず『青い鞭』のペエジの間にはさんで蔵して在るのです。 三銭切手十枚三十銭。 南京豆十銭。 チェリイ十銭。 みのり十五銭。 椿の切枝二本十五銭。 眼医者八十銭。 ゲエテとクライストプロレゴーメナ歌行燈三冊七十銭。 鴨肉百目七十銭。 ねぎ五銭。 サッポロ黒ビイル一本三十五銭。 シトロン十五銭。 銭湯五銭。 六年ぶりでゆたかでした。 使い切れずポケットにはまだ充分に。 それから一年ちかく二三度会った太宰治のおもかげを忘じがたくこくめいに頭へ影をおとしている面接の記憶をいとおしみながら何十回かの立読みをつづけて来た。 一言半句こころにきざまれているような気がしています。 本屋から千葉の住所を諳記して来てかきとって置いたのが去年の八月である。 それを役立てることが今迄できなかったけれども。 『太宰どん。 白十字にてまつ。 クロダ。 』大学の黒板にかかれてあったのは先日であったろうか。 『右者事務室に出頭すべし津島修治。 』文学部事務所にその掲示は久しくかけられてあった。 僕は太宰治を友人であるごとくに語りそしてさびしいおもいをした。 太宰治は芸術賞をもらわなかった。 僕は藤田大吉という人の作品を決して読むまいと心にちかった。 僕はそんなに他人の文章を読まないけれども道化の華ダス・ゲマイネ理解できないのではなくけれども満足ができなかった。 之は書くぞ書くぞという気合と気魄の小説である。 本物の予告篇だと思っていた。 そして今に本物があらわれるかと思っているとその日その日が晩年であったということばがほんとうなのかとうたがわれて来た。 健康をそこね写真はすきとおってやせていた。 そして太宰治は有名になり僕は近づけない気がした。 僕には道化の華が理解できないのだと思った。 僕は太宰治にヴァイオリンのようなせつなさを感ずるのはそのリリシズムに於てであった。 太宰治の本質はそこにあるのだと僕は思っている。 それが間違いであるといわれても僕はなかなかこの考えを捨てまいと思っている。 リリシズムの野を出でていばらに裂かれた傷口に布をあてずにあらわに陽にさらしている痛々しさを感じてならない。 二月の事件の日女の寝巻について語っていたと小説にかかれているけれども青年将校たちと同じような壮烈なものをそういう筆者自身へ感じられてならない。 それはうらやましさよりもいたましさに胸がつまる。 僕は何ごともどっちつかずにして来てこの二年間で法科の課程を三分の一それも不充分にしか卒えていない。 しかも他になにもできないのであった。 そういったアマツール的な気持からはただ太宰治のくるしみを肉体的に感じてくるばかりで傍観者として呆然としているばかりである。 僕自身へ巣くう生半可な態度はおそらくいつまでもつづくことと思われます。 僕の健康は人に思われてるほどわるくはないと思うけれども何事にも本気になれない。 二三日何事かへ本気になったならば僕自身をほろぼしてしまいそうでならない。 本気になれぬ。 そういうことで勿論何事も出来る筈はないけれどもそれでごく満足しています。 『ユーモアについて。 』と題し中学時代のあなたの演説をぼくは中学校一の秀才というささやきとそれからあなたの大人びたゼスチュア以外におもいだせないけれども多くの人達は太宰治をしらずに青森中学校の先輩津島修治の噂をします。 青森の新町の北谷の書店の前で高等学校の帽子をかぶっていたのへ中学生がお辞儀した。 あなたはやはり会釈を返したときこちらが知っているのにむこうが知らないことはさびしいと思ったがあなたに返礼されただけでそれでもいささか満足であった。 僕は今年で大学を終らなければならないけれども出来るかどうかあやぶまれますけれども卒業することにきめて居ります。 文学といえばじつのあることは少しも出来るはずなく風景や女の人にみとれてくらしています。 『双葉』という少女雑誌で僕の皿絵という小説がおめにふれたとすればと汗するおもいがしました。 という人にあって聞きました。 トラホームだの頸腺腫だのX彎曲だのというくだりはあなたにいいといわれたばかりにどこへでも持って歩いていたのです。 『新ロマン派』で追記風にある同人雑誌のある人をほめていたことばを見てねたましく思ったこともあります。 何をかいたか自信がありません。 これだけでもうヘトヘトです。 毎日毎日つかれている。 何ごとをするのでもなく。 ほとんど休んでばかり居れば日曜もたのしくなく夜ねても一日がおわったといういこいではなくてあしたがあるというつかれを覚えています。 健康をねがって終日をくらす。 今は弱いというだけで病気はありません。 老人のごとき皮膚をあわれみ夜裸身に牛乳をあびる。 青春を得るみちなきかと。 非常に失礼な手紙だと思います。 文体もあやふやで申しわけありません。 でもほっとしています。 明日の朝になればだせなくなるといけませんからすぐだします。 おひまのときにおたよりいただけたらと思います。 おからだお大事にねがいます。 斎藤武夫拝。 太宰治様。 御手紙拝見。 お金の件お願いに背いて申し訳ないがとても急には出来ない。 実は昨年県会議員選挙に立候補してお蔭で借金へ毎月|可成とられるので閉口。 選挙のとき小泉邦録君から五十円送って貰った。 これだけでも早くお返ししたいと思い乍ら未だにお返し出来ずにいる始末。 五十円位の金が出来ないのは何んとも羞しいがさりとてその辺を借金に廻るのは小生にはちょっと出来ない。 貴兄が小生の友情を信じて寄せた申越しに対し重ね重ねすまない。 しかし出来ないことをねちねちしているのも嫌だから早速この手紙を書いた次第。 悪く思わないでくれ。 小生昨今文学にしばらく遠ざかっているので貴兄の活躍ぶりも詳しくは接していないが貴兄の力には期待して居りますので必ずや相当以上の活動をしていることと思って居ります。 返す返す済まないが右の事情を御賢察のうえ御|寛恕下さい。 しかし貴兄からこう頼まれたが工面出来ないかと友達連に相談をかけても良いものならばまた可能性の生れて来る余地あるやも知れぬがこれは貴兄に対する礼儀でないと思うので右とり急ぎ。 辻田吉太郎。 太宰兄。 手紙など書きもの言わんとすれば君ぞありぬる。 ああよき友よ。 家内にせんにはちとま心たらわず愛人とせんには縹緻わるく妻妾となさんとすればもの腰粗雑にして鴉声なり。 ああ不足なり。 不足なり。 月よ。 汝天地の美人よ。 月やはものを思わする。 吉田潔。 太宰治さん。 再々悪筆をお目にかける失礼お許し下さいまし。 一つには私たちの同人雑誌『春服』が目茶苦茶になりかかったわびしさから二つにはぼく自身のステールネスから最後にあなたがぼく如きものに好意をお持ち下され居る由昨晩の松村と云う『春服』同人の手紙が伝えてくれたので加うるに性来の図々しさを以て御迷惑を省みず狎書を差し上げる次第です。 友人の松村と言う男が塩田カジョー関タッチイ大庄司清喜この三人そろって船橋のお宅へお邪魔した際の拙作に関するあなたの御意見あとでその三人から又聞きしたのをそのまま私へ知らせてよこしました。 亦『新ロマン派』十二月号にも拙作に関する感想をお洩しになったこと『新潮』一月号掲載の貴作中一少女に『春服』を携えさせたこと等あなたの御心づかいを伝えてくれました。 早速今日街の五六軒の本屋をまわって二誌を探したのですが『新潮』はどこでも売切れてばかりいましたし『新ロマン派』は来ていない模様でした。 ぼくはあなたに御礼を書くのではないのです。 御礼だけかいて済まして居られる身分になれたらそれはすがすがしいことです。 がきいて頂きたいことがあるのだ相談にのって頂きたい力になって貰いたいと手前勝手な台辞ばかりならべるのはなんとも恥しい話です。 あなたはカジョーにぼくの経歴人物についてきいて下さったかも知れません。 がカジョーは多分あいつは宣伝の好きな男だからけれどもこれはカジョーへの悪意ではありません。 ぼくの自己弁解です。 ぼくは幼年時身体が弱くてジフテリヤや赤痢で二三度|昏絶致しました。 八つのとき『毛谷村六助』を買って貰ったのが文学青年になりそめです。 親爺はその頃|妾を持っていたようです。 いまぼくの愛しているお袋は男に脅迫されて箱根に駈落しました。 お袋は新子と名を改めて復帰致しました。 ぼくの物心ついた頃親爺は貧乏官吏から一先ず息をつけていたのですが肺病になり一家を挙げて鎌倉に移りました。 父はその昔一世を驚倒せしめた歴史家です。 二十四歳にして新聞社長になり株ですって陋巷に史書をあさりペン一本の生活もしました。 小説も書いたようです。 大町|桂月福本日南等と交友あり桂月を罵って仙をてらうと云いつつおのれも某伯某男某子等の知遇を受け熱烈な皇室中心主義者いっこくな官吏孤高|狷介読書追及倦まざる史家癇癪持の父親として一生を終りました。 十三歳の時です。 その二年前小学六年の時ぼくの受持教師は鎌倉大仏殿の坊主でした。 その影響でぼくは別荘の坊ちゃんとしての我儘なしたいほうだいを止めて執偏奇的な宗教家神秘家になりました。 ぼくは現実に神をみたのです。 一方豆本熱は病こうこうに入って蒐集した長篇講談はぼくの背を越しました。 作文の時間には指名されて朗読しました。 『新聞』と云う題で夕刊売の話を書き級中を泣かせました。 俳句を地方新聞にも出されました。 ぼくは幼ないジレッタント同志で廻覧雑誌を作りました。 当時歌人を志していた高校生の兄が大学に入る為帰省しぼくの美文的フォルマリズムの非を説いて子規の『竹の里歌話』をすすめ『赤い鳥』に自由詩を書かせました。 当時作る所の『波』一篇は白秋氏に激賞され後選ばれてアルス社『日本児童詩集』にのりました。 父が死んだ年兄は某中学校に教べんを取りました。 父の死は肺病の為でもあったのですが震災で土佐国から連れてきた祖父を死なし又祖父を連れてくる際の口論の為叔父の首をくくらしまた叔父の死の一因であった従弟の狂気等も原因して居たかも知れません。 加えて兄のソシャリストになった心痛もあったでしょう。 事実兄はぼくを中学の寄宿舎に置くと一家を連れて上京自分は××組合の書記長になり学校にストライキを起しくびになりお袋達が鎌倉に逃げかえった後も豚箱からインテリに活動しました。 同志の一人はうちに来て寄宿から帰ったぼくと姉を兄貴への心服の上に感化しました。 三・一五が起り兄は転向結婚嫁と母の仲悪るく兄夫婦はぼく達を置いて東京で暮していました。 人道主義的なマルキストであり感傷的な文学少年数学の出来なかったぼくはひどい自涜の為もあったのでしょう学校に友達なく全く一人で姉近所のW大生小学時代の親友兄夫婦も加えてプリント雑誌『素描』を二年続けました。 兄の運動の為父の財産はなくなり鎌倉の別荘は人に貸し一家は東京に舞い戻り兄夫婦も一緒になりました。 中学の終りからテニスを始めていたぼくはテニスのおかげで一夜に二寸ずつ伸びる思いで長身肥満W高等学院自涜の一年を消費した後W大学ボート部に入りました。 一年後ぼくはレギュラーになり二年後第十回オリンピック選手としてアメリカに行きました。 当時二十歳六尺十九貫五百紅顔の少年であります。 ボートは大変|下手でした。 先輩ばかりでちいさくなっていました。 往復の船中の恋愛帰ってきたぼくは歓迎会ずくめの有頂天さのあまり多少神経衰弱だったのです。 ぼくが帰国したとき前年義姉を失った兄は家に帰りコンムニュスト党資金局の一員でした。 あにを熱愛していたぼくはマルキシズムの理論的影響失せなかったぼくは直に共鳴して鎌倉の別荘を売ったぼくの学費を盗みだして兄に渡し自分も学内にR・Sを作りました。 関タッチイはそのメンバーであり彼の下宿はアジトでした。 その頃自殺を企て実行もした元気のない塩田カジョーと知り合ったのです。 タッチイがへまをしてつかまりました。 タッチイは頑張ってくれたのでしたがぼくはその前から家を飛びだしもぐっていた兄にならって殆んど狂気しかかっているヒステリイの母をみすててぼくも一週間逃げ歩きました。 家の様子をみにきたぼくは姉に掴りました。 学資がなく学校も止めさせられぼくは義兄の世話で月給十八円で或る写真工場につとめに出ました。 母と共に二間の長屋に住んで。 ――ぼくは直ちに職場に組織を作りキャップとなり仕事を終えると街で上の線と逢いきっ茶店で顔をこわばらせて秘密書類を交換しました。 その内僅か四五カ月。 間もなくプロバカートル事件が起り逃げてきて転向し再び経済記者に返った兄の働きでぼくも学校に戻れました。 転向後だったので兄は二カ月ぼくは大した事もなかったので半日豚箱に置かれました。 職場にいた頃機関雑誌に僕はミューレンの焼き直し童話や片岡鉄兵氏ばりのプロレタリア小説を書いていました。 十銭で買った『カラマゾーフの兄弟』の感激もありましたろう。 貧乏大学生の話殊に嫁を貰ってからの兄との遠慮はぼくにまた幼年時からの理想小説家を希望させたのです。 最初の一年はぼくは無我夢中で訳の分らぬ小説を書き投書しました。 急にスポーツをやめた故か人の顔をみると涙がでる生つばがわく少しほてる。 からだが松葉で一面に痛がゆくなる。 『芸術博士』に応募して落ちた時など帯を首にまきつけました。 ドストエフスキイ流行直前彼にこってタッチイを臭い文学理論でなやましそのほかの友人すべてをもひんしゅくさせたことと思います。 兄の新妻の弟山口定雄がワセダ独文で『鼻』という同人雑誌を出していましたので彼に頼み鼻の一員にして貰い一作を載せたのが昨年の暮なのです。 『鼻』に嫌気がさしていた山口を誘い彼の親友岡田と大体の計画をきめてからぼくは先ず神崎森の同感を得次に関タッチイを口説きに小日向に上りました。 タッチイを強引に加入させるとカジョー神戸がついてきてくれました。 かくしてタッチイの命名になる『春服』が生れました。 タッチイは顔がひろくて山村カツ西豊野を加えカジョーもまた努力してくれて伊牟田氏を入れてくれました。 カジョーとは段々仲が良くなりぼくの臭さも彼許してくれてきましたようです。 『春服』創刊から二号にかけてぼくは昨年暮から今年の三月頃まで就職に狂奔しました。 幸いぼくは母方の祖父の友人の世話で現在の会社に入れて貰いました。 その頃から益々兄と仲が悪く蔵書一切を売って旅に出ようと決心したりしました。 兄はぼくが文学をやめるのを極度に軽べつします。 兄貴に食わして貰うのは卒業後不可能です。 母の悲歎を思えば神崎の如き文学青年の生活も出来ないし一つには会社員と云う生活もしてみたかったのです。 会社に入って一月半君は肉体が良いから朝鮮か満洲に行って貰いたいと頼まれました。 母や兄と一緒の窮屈なる生活に嫌気がさしまた新しい生活もしたさにぼくは朝鮮に来ました。 満洲より朝鮮が小説になる気もしたのですがこれは会社員になったのと同様色々な自分の意見からより色々な必然の為でしょう。 『青年の思想はおのれの行動の弁解に過ぎぬ。 』H先生の言葉みたいなものです。 ぼくはここ迄を昨夜女郎にショールを買えないと云い訳に行きちょいの間を行き婆さんの借金を三円払ってやり正月に連れだしてやる約束を迫まれ所で今月は師走です。 洋服屋がきて虎の子の十円を持って行きました。 未だ一円残っていますがこれで散髪屋に行き――後五十銭残りますがこれもいっそ費って宵越のぜにア持たねエクリスマスを迎えようかと愚考しています。 ぼくはここ迄昨夜二時帰宅後五時まで書きました。 今同じ部屋に居る会社の給仕君と床屋に行って来ました。 加藤|咄堂氏のラジオを聞いてきました。 帰りに菓子四十銭ピジョン一箱で完全に文無しになりました。 今シェストフ『自明の超克』『虚無の創造』を読んでいます。 彼は云います『一般に伝記というものは何でも語っているが只我々にとって重要なことは除外しているものだ。 』ぼくは前の饒舌を読み返してイヤになる。 差し上げまいかとも思ったのですが一遍書いたものはもう僕と異ったものですから虚飾にみちた自家広告も愛嬌だと思い続けて自己嫌悪を連ねようと考えたのですがシェストフで誤魔化して置きます。 御免なさい。 さて現在のぼくの生活ですが会社は朝の九時半から六七時頃迄です。 ぼくの仕事は机上事務もありますが本来は外交員です。 自動車屋会社の購買商店等をまわり一種の御用聞きをつとめるのです。 大抵は鼻先で追い返されますしヘイヘイもみ手で行かねばならないので意気地ない話ですがイヤでたまりません。 それだけならいいんですが地方の出張所にいる連中夫婦ものばかりですし小姑根性というのか蔭口皮肉殊に自分のお得意先をとられたくないようで雑用ばかりさせるし悪口ついでにうんとならべると女の腐ったような本社の御機嫌とりに忙しいくびの心配ばかりしている。 他人の月給をそねみ生活を批評し自分の不平例えば出張旅費の計算で陰で悪口の云い合い出張|成金めとか奥さんがかおを歪めて何々さんは出張ばかりで――うちなんか三日の出張で三十円ためてかえりましたよ。 すると一方の奥さんはうちは出張してもまアそれだけ下の人達にするからよ。 けれども主任さんは二等旅費で三等にばかり乗るのですよ。 けちねエ。 然し奥さん出張すると靴は痛む洋服は切れるYシャツは汚れる随分|煩さいのです。 殊に小人数ですから家族的気分でいいとかいいながらそれだけ競争もはげしくぼくなど御意見を伺わされに四六時中ですから――それに商売の性質から客の接待休日日曜出勤居残り等多く勉強する閑はありません。 気をつかうのでつかれます。 月給六十五円それと加俸五割で計九十七円五十銭の給金です。 金というものの正体不明で相手に出来ないので損ばかりしています。 もう大分借金が出来ました。 もう他人の悪口を云い他人に同情する年でもありますまい止めます。 もう給仕君床に入りました。 ぼくに盛んに英語を聞くので閉口です。 所でぼくは語学がなにも出来ないのです。 所でぼくも床に入って書いています。 給仕君煩さいので寝てからにしましょう。 ラジオのアナウンスみたいな手紙の書き方をお許し下さい。 ぼくにはこの方が純粋なような気がするのです。 亦シェストフを写します『チエホフの作品の独創性や意義はそこにある。 例えば喜劇「かもめ。 雑多な事実。 近頃の君の葉書に一つとして見るべきものがない。 非常に惰弱になって巧言令色である。 少からず遺憾に思っている。 吉田生。 一言。 僕は僕もバイロンに化け損ねた一匹の泥狐であることを教えられ化けていることに嫌気が出て恋の相手に絶交状を書いた。 自分の生活はすべて嘘であり偽でありもう何ごとも信ぜず絶望の穴に落ち入る。 きょうより以後あなたの文学をみとめない。 さようなら。 御写真ください。 道化の華は人殺し文学であるか。 いやざっとウォーミングアップ。 太宰さんどうやらひっかかったらしい。 手ごたえあり。 私に興味を感じたらお仕舞までお読み下さい。 僕はまだ二十歳の少年なので貴重なお時間を割いて戴くのも心苦しいまでに有難く存じます。 まず僕がどの程度に少年であるか自己紹介させて下さい。 十五六歳の頃佐藤春夫先生と芥川龍之介先生に心酔しました。 十七歳の頃マルクスとレエニンに心酔しました。 ところが十八歳になるとまた『芥川』に逆戻りして辻潤氏に心酔しました。 『芥川』を透してアナトール・フランスをボードレエルをE・A・ポーを愛読しました。 それから文学を留守にして幻燈の街に出かけたりとやかくやして現在の僕になりました。 僕は文学をやるのに語学の必要を感じつつ外国語はさておき日本語の勉強をすらやらないで便便として過してます。 自分の生活を盲動だと思って然し人生そのものが盲動さと自問自答しています。 二十歳の少年の分際でこれはあまり諦めがよすぎるかも知れません。 シェストフ的不安とは何であるか僕は知りません。 ジッドは『狭き門』を読んだ切りで純情な青年の恋物語でありシンセリティの尊さを感じたくらいでとにかく浅学|菲才の僕であります。 これで失礼申します。 私はとんでもない無礼をいたしました。 私の身のほどを只今はっと知りました。 候文ならいくらでもなんでも。 他人からの借衣ならたとい五つ紋の紋附きでもすまして着て居られる。 あれですね。 それでは唄わせていや書かせていただきます。 拝啓。 小生儀異性の一友人にすすめられ『めくら草紙』を読みそれから『ダス・ゲマイネ』を読みたちどころに太宰治ファンに相成候ものにしてこれはファン・レターと御承知|被下度候。 『新ロマン派』も十月号より購読致し『もの想う葦』を読ませて戴き居候。 知性の極というものはの馬場の言葉に小生いや何も言うことは無之候。 映画ファンならばこの辺でプロマイドサインを願う可きと存候え共そして小生も何か太宰治さまよりの『サイン』に似たもの欲しとは存じ候え共いけませんでしょうか。 御伺い申上候。 かかる原稿用紙様の手紙にて礼を失し候段甚謝仕候。 敬具。 十二月二十二日。 太宰治様。 わが名はなでしことやら夕顔とやらあざみとやら。 追伸この手紙に僕は言い足りない或は言い過ぎたことの自己嫌悪を感じ『ダス・ゲマイネ』のうちの言葉『しどろもどろの看板』を感じる。 太宰さんこれはだめです。 だいいち私に異性の友人などいつできたのだろう。 全部ウソです。 サインなんか不要です。 私は貴下の――いやむずかしくなって来ました。 御返事かならず不要です。 そんなものいやです。 おかしくって。 私たちの作家が出たというのはうれしいことです。 苦しくとも生きて下さい。 あなたのうしろにはものが言えない自己喪失の亡者が十万うようよして居ります。 日本文学史に私たちの選手を出し得たということはうれしい。 雲霞のごときわれわれに表現を与えて呉れた作家の出現をよろこぶ者でございます。 私たち十万の青年実社会に出て果して生きとおせるか否か厳粛の実験が貴下の一身に於いて黙々と行われて居ります。 以上書いたことで私はまだ少年の域を脱せず『高所の空気強い空気』であるあなたに手紙を書いたり逢ったりすることに依りて『凍える危険』を感ずる者である。 まことに敬畏する態度で私はこの手紙一本きりであなたから逃げ出す。 めくら蜘蛛願わくば小雀に対して寛大であられんことを。 勿論お作は誰よりも熱心に愛読します心算もう一言。 ――君に黄昏が来はじめたのだ君は稲妻を弄んだ。 あまり深く太陽を見つめすぎた。 それではたまらないめくら草紙の作者にこの言葉あてはまるや否や――ストリンドベルグの『ダマスクスへ』よりの言葉である。 とああ気取った書き方をして了った。 もうこれ以上書かないけれども太宰治様。 僕はあなたの処へ飛んで行って暗いところで話し度い。 改造にあなたが書けば改造を買い中公にあなたが書けば中公を買う。 そしてわざと三円の借金をかえさざる。 頓首。 私は女です。 拝復。 君ガ自重ト自愛トヲ祈ル。 高邁ノ精神ヲ喚起シ兄ガ天稟ノ才能ヲ完成スルハ君ガ天ト人トヨリ賦与サレタル天職ナルヲ自覚サレヨ。 徒ラニ夢ニ悲泣スル勿レ。 努メテ厳粛ナル五十枚ヲ完成サレヨ。 金五百円ハヤガテ君ガモノタルベシトゾ。 八拾円ニテマント新調二百円ニテ衣服ト袴ト白|足袋ト一揃イ御新調ノ由二百八拾円ノ豪華版ノ御慶客。 早朝門ニ立チテオ待チ申シテイマス。 太宰治様。 深沢太郎。 謹啓。 其の後御無沙汰いたして居りますが御健勝ですか。 御伺い申しあげます。 二三日前から太宰君に原稿料として二十円を送るようにたびたびハガキや電報を貰っているのですが社の稿料は六円五十銭しかあげられず小生ただいま金がなく漸く十円だけ友人に本日借りることができました。 四度も書き直してくれてお気の毒千万なのですが計十五円だけお送りいたします。 おおみそかを控えそれでも平気でぱっぱっ使ってしまいますゆえあなたの方で保管適当にお渡し下さいまし。 もっと送ってあげたく思いましたが僕もいっぱいの生活でどうにもできません。 麹町区内幸町武蔵野新聞社文芸部長沢伝六。 太宰治様令閨様。 師走厳冬の夜半はね起きてしるせる。 一私は下劣でない。 二私はけれども独りで創った。 三誰か見ている。 四『あたしもすっかり貧乏してしまってね。 』五こんな筈ではなかった。 六蛇身清姫。 七『おまえをちらと見たのが不幸のはじめ。 』八いまごろ太宰寝てか起きてか。 九『あたら才能を。 』十筋骨質。 十一かんなん汝を玉にせむ。 一箇条つかんでノオトしている間に三十倍四十倍百千ほども言葉を逃がす。 S。 前略。 その後いよいよ御静養のことと思い安心しておりましたところ風のたよりにきけば貴兄このごろ薬品注射によって束の間の安穏を願っていらるる由。 甚だもっていかがわしきことと思います。 薬品注射の末おそろしさに関しては貴兄すでに御存じ寄りのことと思いますので今はくり返し申しません。 しかしそれは恋人を思いあきらめるがごとき大発心にてどうか思いあきらめて下さるよう切望いたします。 仏典に申す『勇猛精進』とはこのあたりの決心をうながす意味の言葉かと思います。 実は参上して申述べ度きところでありますが貴兄も一家の主人で子供ではなし手紙で申してもききわけて頂けると信じ手紙で申します。 どこか温い土地か温泉に行って静かに思索してはいかがでしょう。 青森の兄さんとも相談してよろしくとりはからわれるよう老婆心までに申し上げます。 或いは最早や温泉行きの手筈もついていることかと思います。 温泉に引越したら御様子願い上げます。 北沢君なんかといっしょに訪ね小生もその附近の宿にしばらく逗留してみたいと思います。 奥さんによろしく。 頓首。 早川俊二。 津島修治様。 三拾円しか出来ない。 いのちがけということをきいて心配いたして居りますがどんなんですか。 本当は二十日ごろまでに兄より何か委細のおしらせあるかと待って居たのですが。 こうして離れているとお互いの生活に対する認識不足が多いのでいろいろ困難なことにぶつかると思います。 命がけというのでお送りするわけです。 それも私の生活とても決して余裕がないのでサラリイの前がりをしてやるわけです。 勿体ぶるわけではないんです。 そしてゼイタクしているわけではありません。 教師として普通人の考えるが如き生活をひたすらしているのではありません。 嘗て君も私も若き血を燃やしたる仕事があった筈です。 それをです。 そのためにです。 それに子供がうまれて以来フラウが肺病私が肺病で火の車にちかい。 であるから三〇でがまんしてくれ。 そして出来るなら返して呉れ。 こっちがイノチがけになってしまうから。 文壇ゴシップ小説その他に於ける君の生活態度がどんなものかを大体知っている。 しかし私はそれを君のすべてであるとは信じたくない。 元気を出せ。 いのちがけの死ぬのそんな奴があるか。 気質沢猛保。 悪習は除去すべきである。 本郷区千駄木町五十吉田潔。 言わなければならぬと思いながら言えない。 夏休みになったら手紙をかこうと決心した。 手紙をかき度い。 かかなければならぬと思いながらなぜかけないのかということを考えた。 『人は人を嘲うべきものでない』と言って呉れても未だかけなかった。 手紙がぼくを決める。 手紙をかく決心がついた。 明日から絵を一枚描く。 そして一層決心をかためる。 一週間で絵が大体出来る。 それから蔦に行って手紙をかく。 手紙をかかなかったら東京へ帰らない。 どうなるにしても手紙をかいてからです。 『青い鞭』創刊号うけとりました。 私は実行します。 創ったもの何もなくただこんな絵を描こうと思っただけで貴方に認められようとし実行しない自身に焦心していました。 船橋から帰る日私への徹底的な絶望と思って私がかなしんだ貴方の言葉は今特に絶対必要なありがたい力をあたえてくれています。 ピカソもマチスも見方によっては一笑に付されることを実行している。 私のこの頃描いた絵は実行でなく申し訳であったと思います。 ぼくは長い長い手紙をかきたかったのだ。 一分のスキもない手紙など『手紙が仲々出来ない』といったりしたことを千家君は誤解したらしい。 手紙をかくと誓った日までは努力した。 その日から君にものを言うに努力はない。 一晩中よんでいられるような長い手紙をかこうと思ったのだ。 ぼくはいたちでない。 ぼくは自分をりんごの木の様に重っぽく感ずることがある。 他の奴とは口もきき度くない。 君にだけならどんなことでも言える。 この手紙を信じてくれなかったらぼくは死ぬ。 敬四郎拝。 拝啓。 突然ぶしつけなお願いですが私を先生の弟子にして下さいませんか。 私はダス・ゲマイネを読みいまなお読んでいます。 私は十九歳。 京都府立京都第一中学校を昨年卒業し来年三高文丙か早稲田か大阪薬専かへ行くつもりです。 小説家になるつもりで必死の勉強しています。 先生どうか私を弟子にして下さい。 それにはどんな手続きが必要でしょうか。 偉大なる霊魂はただ偉大なる霊魂によって発見せられるのみであると辻潤が言っています。 私は少しポンチを画く才能をもち文学に対する敏感さをも持っています。 上品な育ちです。 けれども少しヘンテコです。 クリスチャンでもありスティルネリアンでもあるというあわれな男です。 どうか御返事を下さい。 太宰イズムが恐ろしい勢で私たちのグルウプにしみ込みました。 殆ど喜死しました。 さよなら御返事をお待ちしています。 三重県|北牟婁郡九鬼港気仙仁一。 追白。 私は刺青をもって居ります。 先生の小説に出て来る模様と同一の図柄にいたしました。 背中一ぱいに青い波がゆれてまっかな薔薇の大輪を鯖に似て喙の尖った細長い魚が四匹花びらにおのが胴体をこすりつけて遊んでいます。 田舎の刺青師ゆえ薔薇の花など手がけたことがない様で薔薇の大輪取るに足らぬ猿のお面そっくりで一時は私も部屋を薄暗くして寝て大へんつまらなく思いましたが仕合せのことには私よほどの工夫をしなければわが背中見ること能わず四季を通じて半袖のシャツを着るように心がけましたので少しずつ忘れて来年は三高文丙へ受験いたします。 先生私はどうしたらいいでしょう。 教えて呉れよ。 おれは山田わかを好きです。 きっと腕力家と存じます。 私の親爺やおふくろは時折私を怒らせてぴしゃっと頬をなぐられます。 けれども親爺おふくろどちらも弱いので私に復讐など思いもよらぬことです。 父は現役の陸軍中佐でございますがちっともふとらずおかしなことにはいつまで経っても五尺一寸です。 痩せてゆくだけなのです。 余ほどくやしいのでしょう。 私の頭を撫でて泣きます。 ひょっとしたら私はひどく不仕合せの子なのかも知れぬ。 私は平和主義者なのできのうも十畳の部屋のまんなかに一人あぐらをかいて坐ってあたりをきょろきょろ見まわしていましたが部屋の隅がはっきりわかって人間けんかの弱いほど困ることがない。 汽船荷一。 おくるしみの御様子みんなみんないまのあなたのお苦しみと丁度同じくらいの苦しみを忍んで生きて居るのです。 創作ここ半年くらいは発表ひき受ける雑誌ございませぬ。 作家のおそかれ早かれ必ず通らなければならぬどん底。 これはジャアナリストのあいだの黙契にていたしかたございませぬ。 二十円同封。 これは私とりあえずおたてかえ申して置きますゆえ気のむいたとき三四枚の旅日記でも御寄稿下さい。 このお金で五六日の貧しき旅をなさるようおすすめ申します。 私ひとり残されてもあなたを信じて居ります。 大阪サロン編輯部高橋安二郎。 春田はクビになりました。 私がその様に取りはからいました。 奥さんからの御報告に依ればお酒もたばこも止したそうでお察しいたします。 そのかわりバナナを一日に二十本ずつ妻楊枝日に三十本は確実尖端をしゅろの葉のごとくちぢに噛みくだいて所かまわず吐きちらしてあるいて居られる由またさしたる用事もなきに床より抜け出てうろついてあるいて電燈の笠に頭をぶっつけ三つもこわせし由すべて承り奥さんの一難去ってまた一難の御嘆息もさこそと思いますが太宰ひとりがわるいのじゃない。 みんながよってたかってもの笑いのたねにしてしまってぼくはそれについて二三人の人物に殺すともゆるしがたき憤怒をおぼえる。 太宰恥じるところなし。 顔をあげて歩けよ。 クロ。 太宰様その後とんとごぶさた。 文名日一日と御隆盛要らぬお世辞と言われても少々くらいの御|叱正にはおどろきませぬ。 さきごろは又『めくら草紙』圧倒的にて私『もの思う葦』を毎月拝読いたし厳格の修養の資とさせていただいて居ります。 すこしずつ危げなく着々と出世して行くお若い人たちのうしろすがたお見送りたてまつることこの世に生きとし生きて在る者のもっとも尊き御光を拝する気持ちで昨日は神棚の掃除いたしこの上は吉田様の御出世御栄達を祈るのみでございます。 思えば不思議の御縁でございます。 太宰様は一年間に原稿用紙三百枚それもただ机のうえにきちんと飾ってかたわらに万年筆いつお伺いしてみても原稿用紙いちまいも減った様子が見えず早川さんと無言で将棋もしくは昼寝私にとっては一番わるいお客でございましたがそれでもあの辺の作家へお品をとどけての帰途は必ずお寄り申しあげお茶のごちそうにあずかりきっとあらわれるお方とひそかにたのしみにして居りました。 けっして人の陰口をきかずよその人の消息をお話申しあげてもつまらなそうにして私の商売のことのみたいへん熱心に御研究でございました。 私の目に狂いはなくきのうも某劇作大家の御面前にてこの自慢話一席ご披露して大成功でございました。 叱られてもいたしかたございません。 以後決して他でお噂申しませぬゆえ此のたびに限り御|寛恕ください。 とんだところで大失敗いたしました。 さてお言いつけの原稿用紙今月はじめ五百枚をおとどけ申しましたばかりのところまた五百枚の御註文一驚つかまつりました。 千枚昨夜お送り申しました。 だまって御受納下さいまし。 第一小説集いまだ出版のはこびにいたりませぬか。 出版記念会には私鶴亀うたい申し心のよろこびの万一をお伝えいたしたくただし深沼家に於いては私の鶴亀わめき出ずる様の会には出席いたさぬゆえこのぶんでは出版記念会も深沼家全員出席の会ほかに深沼家欠席鶴亀出現の会と二つ行わずばなるまいなど深沼家の取沙汰でございます。 尚このたびは『英雄文学』にいよいよ創作御執筆の由私の今月はじめの御注進すこしはお役に立ちましたことと存じ以後もぬからず御報告申上べくいつも年がいなく騒ぎたて私ひとり合点の不文わけわからずともその辺よろしく御判読下さいまし。 師走もあと一両日商人尻に火のついた思いでございます。 深夜三時ころなるべし。 田所美徳。 太宰治様。 御手紙拝見いたしました。 御窮状の程深く拝察致します。 こんな御返事申し上ることが自分でも不愉快だし殊にあなたにどう響くかが分るだけに一寸書きしぶっていたのですが今月は自分でも馬鹿なことを仕出かして大変困っているのです。 従って到底御用立出来ませんから悪しからず御了承下さい。 これは全く事実の問題です。 気持ちの上のかけ引なぞ全くございませぬ。 あなたに対する誠意の変らぬことを若し出来れば信じて下さい。 窓の下歳の市の売り出しにて笑いさざめきがここまで聞えてまいります。 おからだ御大事にねがいます。 太宰治様。 細野鉄次郎。 罰です。 女ひとりを殺してまで作家になりたかったの。 もがきあがいて作家たる栄光得てざまを見ろ麻薬中毒者という一匹の虫。 よもやこうなるとは思わなかったろうね。 地獄の女性より。 謹啓。 太宰様。 おそらくこれは女性から貴方に差しあげる最初の手紙と存じます。 貴方は女だから男はあなたにやさしくしてやりけれども女はあなたを嫉妬して居ります。 先日お友達のところであなたのお手紙を読んでたいへん不愉快の思いをいたしました。 そのお友達はふたいとこというのでしょうか大叔父というのでしょうかたいへんややこしくそれでもたしかに血のつながりでございます。 日本大学の夜学に通っています。 電気技師になるとのお話でもう二年経てば私はこのお友達のところへお嫁にまいります。 夜に大学へ行き朝には京王線の新築された小さい停車場の助役さんの肩書でべんとう持って出掛けます。 この助役さんは貴方へ一週間にいちどずつ親兄弟にも言わぬ大事のことがらを申し述べてそうして四週間に一度ずつ下女のようにごみっぽい字で二三行かいたお葉書いただきアルバムのようなものに貼って来る人来る人にたいへんのはしゃぎかたで見せて私は涙ぐむことさえあります。 ときどきは寝てからも読むと見えてそのアルバムを蒲団の下にかくしていて日曜の朝でございます私は謙さんを起しに行ってそうしてそのアルバムを見つけ謙さんは見つけられてたいへん顔を赤くして死にものぐるいで私からひったくりました。 私はうんと大声はりあげて泣きました。 たいへんつまらないお葉書です。 貴方は読者の目をもっともっと高くかわなければいけない。 愛読者ですというてお手紙さしあげることは男としてご出世まえの男として必死のことと存じます。 作家は人間でないのだから人間の誠実がわからない。 貴方のアルバムのお葉書十七枚ございましたがお約束でもしてあるようにこんどは何々の何月号に何枚かきました。 こんどは何々という題で何百頁の小説集を出します。 ほかのこと言うても判らぬとでもお思いなのですか。 謙さんは小学校のときどんなに学問できたか知っていますか。 また私だって学業とお針ではひとに負けたことがございません。 これからはおハガキお断り申します。 謙さんが可愛そうでございます。 たいてい何か小説発表の五六日まえにおハガキお書きになるのね。 挨拶状五十枚もお出しになったのでございますか。 私たち寄席のお師匠さんが新作読むまえに耳ふさぎと申しておそばかすしを廻しますがすしをごちそうになってから新作もの承りますと不思議なものです。 たいへんご立派に聞えます。 違うところございませんのね。 謙さんはあなたを尊敬して居るのではございません。 そんなにひとり合点なさいましてはとんでもないことになりましょう。 貴方のお小説のどこをまたどんな言葉で申して居るか私はあんまり謙さんのお心ありがたくてレコオドに含ませてあなたへお送りしたく存じます。 どんな雑誌にお書きになろうと他にもファンがどんなにたくさんおいでになろうと謙さんにはちっとも問題でございませぬ。 そうして謙さんは人間としてどうしてもあなたより上でございますからあなた御自身でお気のつかないところをよく細心御注意なされそうして貴方をかばっています。 私たちの二年後の家庭の幸福について少しでもお考え下さいましたならば貴方様も以後謙さんへあんな薄汚いもの寄こさないで下さい。 いつでも私たちの争いのもとです。 さいわいにもあなたに少しでも人間らしいお心がございましたら今後態度をおあらため下さることを確信いたします。 ゆめにさえ疑い申しませぬ。 明瞭に申しますれば私は貴方も貴方の小説も共に好みませぬ。 毛虫のついた青葉のしたをくぐり抜ける気持ちでございます。 一刻も早くさよなら。 太宰治先生平河多喜。 知らないお人へこっそり手紙かくこときっと生涯にいちどのことでございましょう。 帯のあいだにかくした手紙出したりかくしたりして立ったままたいへん考えました。 そんなに金がほしいのかね。 けさまたまた新聞よろず案内欄でたしかに君と思われる男のたしかに私と思われる男へあてたSOSを発見おそれいって居る。 おかしなものできのうまでは大いにみずみずしい男もお金のSOS発してからは興味さく然目もあてられぬのはどうしたことであろう。 君はジュムゲジュムゲイモクテネなどの気ちがいの呪文の言葉をはたして誦したかどうか。 その呪文を述べたときに君はどのような顔つきをしたか自ら称して最高級最低級の両意識家とやらの君が百円の金銭のために小生如き住所も身分も不明のものにチンチンおあずけをするそのときの表情を知りたく思うゆえこのつぎにエッセエをどこか雑誌へ発表の折に一箇条他の読者にはわからなくてもよしぼく一人のために百言ついやせ。 XでありYでありしかも最も重大なことには百円あそんでいるお金の持ち主より。 そのおかかえ作家太宰治へ。 太宰治君。 誰も知るまいと思ってあさましいことをやめよ。 自重をおすすめします。 太宰さん。 私も一二夜のちには二十五歳。 私二十五歳より小説かいて三十歳で売れるようになってそれから家の財産すこしわけてもらってそれから田舎の約束している近眼のひとと結婚します。 さきに男の児それから女の児それから男男男女。 という順序で子供をつくり四男が風邪のこじれから肺炎おこして五歳で死んでそれからすっかり老いこんでそれでも年に二篇ずつしっかりした小説かいて五十三歳で死にます。 私の父も五十三歳で死んでみんなが父をほめていました。 ちょうどいい年ごろなのでしょう。 まえまえからお話あった『英雄文学』よりの御註文の小説完成雑誌社へお送り申しました由いまからその作品の期待で胸がふくれる。 きっと傑作でございましょう。 前略。 小説完成の由。 大慶なり。 破れるほどの喝采にてまたもわれら同業者の生活をおびやかす下心と見受けたり。 おめでとう。 『英雄文学』社のほうへ送った由も少し稿料よろしきほうへ送ったらよかったろうに。 でもまあ大みそかお正月百円くらい損してもいいから一日もはやく現なま掴みたい心理これは私たちマゲモノ作家も君たち純文学者も変りない様子。 よい初春が来るよう。 萱野鉄平。 先日お母上様のお言いつけによりお正月用の餅と塩引一包キウリ一|樽お送り申しあげましたところ御手紙に依ればキウリ不着の趣き御手数ながら御地停車場を御調べ申し御返事願上|候以上は奥様へ御申伝え下されたく以下二三言私明けて二十八年間十六歳の秋より四十四歳の現在まで津島家出入りの貧しき商人全く無学の者に候が御無礼せんえつわきまえつつの苦言今は延々すべきときに非ずと心得られ候まま汗顔平伏お耳につらきこと開陳暫時おゆるし被下度候。 噂に依ればこのごろ又々借銭の悪癖萌え出で一面識なき名士などにまで借銭の御申込しかも犬の如き哀訴嘆願おまけに断絶を食いてんとして恥じず借銭どこが悪いお約束の如くに他日返却すれば向うさまへもごめいわくなしこちらも一命たすかる思いどこがわるいと先日もそれがために奥様へ火鉢投じてガラス戸二枚破損の由話半分としても暗涙とどむる術ございませぬ。 貴族院議員勲二等の御家柄貴方がた文学者にとっては何も誇るべき筋みちのものに無之古くさきものに相違なしと存じられ候がお父上おなくなりのちの天地一人のお母上様を思い私めに顔たてさせ然るべしと存じ候。 『われひとりを悪者として勘当除籍家郷追放の現在いよいよわれのみをあしざまにののしりそれがために四方八方うまく治まり居る様子』などのお言葉おうらめしく存じあげ候。 今しばしお名あがり家ととのうたるのちは御兄上様御姉上様何条もってあしざまに申しましょうや。 必ずその様の曲解御無用に被存候。 先日も山木田様へお嫁ぎの菊子姉上様よりしんからのおなげき承り私芝居のようなれども政岡の大役お引き受け申しきらいのお方なればたとえ御主人筋にてもかほどの世話はごめんにて私のみに非ず菊子姉上様も貴方のお世話のため御嫁先の立場も困ることあるべしと存じられ候もむりしての御奉仕ゆえ本日かぎりよそからの借銭は必ず必ず思いとどまるよう万やむを得ぬ場合は当方へ御申越願度くでき得る限りの御辛抱ねがいたくこのこと兄上様へ知れると小生の一大事につき今回の所は小生一時御立替御用立申上候間此の点お含み置かれるよう願上候。 重ねて申しあげ候が私とてきらいのお方にはかれこれうるさく申し上げませぬこのことお含みの上御養生御自愛願上候。 青森県金木町山形宗太。 太宰治先生。 末筆ながらめでたき御越年祈居候。 謹賀新年。 献春。 あけましておめでとう。 賀正。 頌春献寿。 献春。 冠省。 ただいま原稿拝受。 何かのお間違いでございましょう。 当社ではおたのみした記憶これ無く不取敢別封にて御返送お受取願い上ます。 『英雄文学』編輯部R。 謹賀新春。 賀正。 頌春。 謹賀新年。 謹賀新年。 謹賀新年。 謹賀新年。 賀春。 おめでとございます。 新年のおよろこび申し納めます。 賀春。 謹賀新年。 頌春。 賀春。 頌春献寿。 なんぼ売れた。 なんも。 そだべそだべ。 スワなんぼ売れた。 もう店しまうべえ。 秋土用すぎで山さ来る奴もねえべ。 お父。 おめえなにしに生きでるば。 判らねじゃ。 くたばった方あいいんだに。 そだべなそだべな。 阿呆阿呆。 阿呆。 おど。 奥様。 私のこんにち在るは。 こんにち在るは。 おいそれではそろそろあの一目盛をはじめるからな玄関をしめて錠をおろしてそれから雨戸もしめてしまいなさい。 人に見られて羨やましがられても具合いが悪いからな。 ごめん下さい。 来たな。 どなた。 月の夜雪の朝花のもとにても心のどかに物語して盃出したるよろずの興を添うるものなり。 いらっしゃい。 こんにちは。 旦那。 いけないねえ少し水をやったほうがいい。 いらっしゃあい。 どうもありがとう。 きょうは鯛の塩焼があるよ。 ありがたい。 大好物。 そいつあよかった。 鯛の塩焼と聞いちゃたまらねえや。 豚の煮込みもあるよ。 なに豚の煮込み。 待っていました。 次は豚の煮込みと来たか。 わるくないなあ。 おやじ話せるぞ。 ぼく豚の煮込みいらない。 いくら。 ああきょうは食った。 おやじもっと何かおいしいものは無いか。 たのむもう一皿。 うれしい。 僕の意志の強さを信じて呉れるね。 すみません。 こんどこそ飲まないからね。 なにさ。 かんにんしてね。 だめよお酒飲みの真似なんかして。 ありがとう。 もう飲まない。 たんとたんとからかいなさい。 おや僕は僕はほんとうに飲んでいるのだよ。 だって。 誓ったのだもの。 飲むわけないわ。 ここではお芝居およしなさいね。 あいつも。 女が好きだったらしいな。 お前もそろそろ年貢のおさめ時じゃねえのか。 やつれたぜ。 全部やめるつもりでいるんです。 オベリスク。 オベリスク。 とし。 全部やめるつもり。 それは結構だがいったいお前には女が幾人あるんだい。 いま考えるとまるで僕は狂っていたみたいなんですよ。 とんでもなく手をひろげすぎて。 案外殊勝な事を言いやがる。 もっとも多情な奴に限って奇妙にいやらしいくらい道徳におびえてそこがまた女に好かれる所以でもあるのだがね。 男振りがよくて金があって若くておまけに道徳的で優しいと来たらそりゃもてるよ。 当り前の話だ。 お前のほうでやめるつもりでも先方が承知しないぜこれは。 そこなんです。 泣いてるんじゃねえだろうな。 いいえ雨で眼鏡の玉が曇って。 いやその声は泣いてる声だ。 とんだ色男さ。 何かいい工夫が無いものでしょうか。 無いね。 お前が五六年外国にでも行って来たらいいだろうがしかしいまは簡単に洋行なんか出来ない。 いっそその女たちを全部一室に呼び集め蛍の光でも歌わせていや仰げば尊しのほうがいいかなお前が一人々々に卒業証書を授与してねそれからお前は発狂の真似をしてまっぱだかで表に飛び出し逃げる。 これならたしかだ。 女たちもさすがに呆れてあきらめるだろうさ。 失礼します。 僕はあのここから電車で。 まあいいじゃないか。 つぎの停留場まで歩こう。 何せこれはお前にとって重大問題だろうからな。 二人で対策を研究してみようじゃないか。 いいえもう僕ひとりで何とか。 いやいやお前ひとりでは解決できない。 まさかお前死ぬ気じゃないだろうな。 実に心配になって来た。 女に惚れられて死ぬというのはこれは悲劇じゃない喜劇だ。 いやファースというものだ。 滑稽の極だね。 誰も同情しやしない。 死ぬのはやめたほうがよい。 うむ名案。 すごい美人をどこからか見つけて来てねそのひとに事情を話しお前の女房という形になってもらってそれを連れてお前のその女たち一人々々を歴訪する。 効果てきめん。 女たちは皆だまって引下る。 どうだやってみないか。 秘訣。 田島さん。 ええっとどなただったかな。 あらいやだ。 へえ。 さては相当ため込んだね。 いやにりゅうとしてるじゃないか。 あらいやだ。 君にたのみたい事があるのだがね。 あなたはケチで値切ってばかりいるから。 いや商売の話じゃない。 ぼくはもうそろそろ足を洗うつもりでいるんだ。 君はまだ相変らずかついでいるのか。 あたりまえよ。 かつがなきゃおまんまが食べられませんからね。 でもそんな身なりでも無いじゃないか。 そりゃ女性ですもの。 たまには着飾って映画も見たいわ。 きょうは映画か。 そう。 もう見て来たの。 あれ何ていったかしらアシクリゲ。 膝栗毛だろう。 ひとりでかい。 あらいやだ。 男なんておかしくって。 そこを見込んで頼みがあるんだ。 一時間いや三十分でいい顔を貸してくれ。 いい話。 君に損はかけない。 ここ何か自慢の料理でもあるの。 そうだなトンカツが自慢らしいよ。 いただくわ。 私おなかが空いてるの。 それから何が出来るの。 たいてい出来るだろうけどいったいどんなものを食べたいんだい。 ここの自慢のもの。 トンカツの他に何か無いの。 ここのトンカツは大きいよ。 ケチねえ。 あなたはだめ。 私奥へ行って聞いて来るわ。 引受けてくれるね。 バカだわあなたは。 まるでなってやしないじゃないの。 そうさ全くなってやしないから君にこうして頼むんだ。 往生しているんだよ。 何もそんなめんどうな事をしなくてもいやになったらふっとそれっきりあわなけれあいいじゃないの。 そんな乱暴な事は出来ない。 相手の人たちだってこれから結婚するかも知れないしまた新しい愛人をつくるかも知れない。 相手のひとたちの気持をちゃんときめさせるようにするのが男の責任さ。 ぷ。 とんだ責任だ。 別れ話だの何だのと言ってまたイチャつきたいのでしょう。 ほんとに助平そうなツラをしている。 おいおいあまり失敬な事を言ったら怒るぜ。 失敬にも程度があるよ。 食ってばかりいるじゃないか。 キントンが出来ないかしら。 まだ何か食う気かい。 胃拡張とちがうか。 病気だぜ君は。 いちど医者に見てもらったらどうだい。 さっきからずいぶん食ったぜ。 もういい加減によせ。 ケチねえあなたは。 女はたいていこれくらい食うの普通だわよ。 もうたくさんなんて断っているお嬢さんや何かあれはただ色気があるから体裁をとりつくろっているだけなのよ。 私ならいくらでも食べられるわよ。 いやもういいだろう。 ここの店はあまり安くないんだよ。 君はいつもこんなにたくさん食べるのかね。 じょうだんじゃない。 ひとのごちそうになる時だけよ。 それじゃねこれからいくらでも君に食べさせるからぼくの頼み事も聞いてくれ。 でも私の仕事を休まなければならないんだから損よ。 それは別に支払う。 君のれいの商売で儲けるぶんくらいはその都度きちんと支払う。 ただあなたについて歩いていたらいいの。 まあそうだ。 ただし条件が二つある。 よその女のひとの前では一言もものを言ってくれるな。 たのむぜ。 笑ったりうなずいたり首を振ったりまあせいぜいそれくらいのところにしていただく。 もう一つはひとの前でものを食べない事。 ぼくと二人きりになったらそりゃいくら食べてもかまわないけどひとの前ではまずお茶一ぱいくらいのところにしてもらいたい。 その他お金もくれるんでしょう。 あなたはケチでごまかすから。 心配するな。 ぼくだっていま一生懸命なんだ。 これが失敗したら身の破滅さ。 フクスイの陣ってとこね。 フクスイ。 バカ野郎ハイスイの陣だよ。 あらそう。 先生。 こんちは。 きょうは女房を連れて来ました。 疎開先からこんど呼び寄せたのです。 女房の髪をね一ついじってやって下さい。 銀座にもどこにもあなたほどの腕前のひとは無いってうわさですからね。 グッド・バイ。 そんなにうまくも無いじゃないの。 何が。 パーマ。 これでもうおしまい。 そう。 あんな事でもうわかれてしまうなんてあの子も意久地が無いね。 ちょっとべっぴんさんじゃないか。 あのくらいの器量なら。 やめろ。 あの子だなんて失敬な呼び方はよしてくれ。 おとなしいひとなんだよあのひとは。 君なんかとは違うんだ。 とにかく黙っていてくれ。 君のその鴉の声みたいなのを聞いていると気が狂いそうになる。 おやおやおそれいりまめ。 いい加減にやめてくれねえかなあ。 ケチねえ。 これからまた何か食うんだろう。 そうねきょうは我慢してあげるわ。 財布をかえしてくれ。 これからは五千円以上使ってはならん。 そんなには使わないわ。 いや使った。 あとでぼくが残金を調べてみればわかる。 一万円以上はたしかに使った。 こないだの料理だって安くなかったんだぜ。 そんならよしたらどう。 私だって何もすき好んであなたについて歩いているんじゃないわよ。 だれ。 なんだあなたか。 なぜ来たの。 あそびに来たのだけどね。 でもまた出直して来てもいいんだよ。 何かこんたんがあるんだわ。 むだには歩かないひとなんだから。 いやきょうは本当に。 もっとさっぱりなさいよ。 あなた少しニヤケ過ぎてよ。 ニヤケているんじゃない。 キレイというものなんだ。 君はきょうはまたきたな過ぎるじゃないか。 きょうはねちょっと重いものを背負ったから少し疲れていままで昼寝をしていたの。 ああそういいものがある。 お部屋へあがったらどう。 割に安いのよ。 あなたカラスミなんか好きでしょう。 酒飲みだから。 大好物だ。 ここにあるのかい。 ごちそうになろう。 冗談じゃない。 お出しなさい。 君のする事なす事を見ているとまったく人生がはかなくなるよ。 その手はひっこめてくれ。 カラスミなんて要らねえや。 あれは馬が食うもんだ。 安くしてあげるったらばかねえ。 おいしいのよ本場ものだから。 じたばたしないでお出し。 少しもらおうか。 もう四枚。 バカ野郎いい加減にしろ。 ケチねえ一ハラ気前よく買いなさい。 鰹節を半分に切って買うみたい。 ケチねえ。 よし一ハラ買う。 そら一枚二枚三枚四枚。 これでいいだろう。 手をひっこめろ。 君みたいな恥知らずを産んだ親の顔が見たいや。 私も見たいわ。 そうしてぶってやりたいわ。 捨てりゃネギでもしおれて枯れるってさ。 なんだ身の上話はつまらん。 コップを借してくれ。 これからウイスキイとカラスミだ。 うんピイナツもある。 これは君にあげる。 本場もの。 召し上れ。 味の素はサーヴィスよ。 気にしなくたっていいわよ。 君は自分でお料理した事ある。 やれば出来るわよ。 めんどうくさいからしないだけ。 お洗濯は。 バカにしないでよ。 私はどっちかと言えばきれいずきなほうだわ。 きれいずき。 この部屋はもとから汚くて手がつけられないのよ。 それに私の商売が商売だからどうしたって部屋の中がちらかってね。 見せましょうか押入れの中を。 おしゃれなんか一週間にいちどくらいでたくさん。 べつに男に好かれようとも思わないしふだん着はこれくらいでちょうどいいのよ。 でもそのモンペはひどすぎるんじゃないか。 非衛生的だ。 なぜ。 くさい。 上品ぶったってダメよ。 あなただっていつも酒くさいじゃないの。 いやなにおい。 くさい仲というものさね。 ケンカするほど深い仲ってね。 ピアノが聞えるね。 あなたにも音楽がわかるの。 音痴みたいな顔をしているけど。 ばか僕の音楽通を知らんな君は。 名曲ならば一日一ぱいでも聞いていたい。 あの曲は何。 ショパン。 へえ。 私は越後獅子かと思った。 君もしかしいままで誰かと恋愛した事はあるだろうね。 ばからしい。 あなたみたいな淫乱じゃありませんよ。 言葉をつつしんだらどうだい。 ゲスなやつだ。 恋愛と淫乱とは根本的にちがいますよ。 君はなんにも知らんらしいね。 教えてあげましょうかね。 ああ酔った。 すきっぱらに飲んだのでひどく酔った。 ちょっとここへ寝かせてもらおうか。 だめよ。 ばかにしないで。 見えすいていますよ。 泊りたかったら五十万いや百万円お出し。 何も君そんなに怒る事は無いじゃないか。 酔ったからここへちょっと。 だめだめお帰り。 ゆるしてくれえ。 どろぼう。 あのう僕の靴をすまないけど。 それからひものようなものがありましたらお願いします。 眼鏡のツルがこわれましたから。 ありがとう。 もしもし。 田島ですがねこないだは酔っぱらいすぎてあはははは。 女がひとりでいるとねいろんな事があるわ。 気にしてやしません。 いや僕もあれからいろいろ深く考えましたがね結局ですね僕が女たちと別れて小さい家を買って田舎から妻子を呼び寄せ幸福な家庭をつくるという事ですねこれは道徳上悪い事でしょうか。 あなたの言う事何だかわけがわからないけど男のひとは誰でもお金がうんとたまるとそんなケチくさい事を考えるようになるらしいわ。 それがだから悪い事でしょうか。 けっこうな事じゃないの。 どうもよっぽどあなたはためたな。 お金の事ばかり言ってないで道徳のねつまり思想上のねその問題なんですがね君はどう考えますか。 何も考えないわ。 あなたの事なんか。 それはまあ無論そういうものでしょうが僕はねこれはねいい事だと思うんです。 そんならそれでいいじゃないの。 電話を切るわよ。 そんな無駄話はいや。 しかし僕にとっては本当に死活の大問題なんです。 僕は道徳はやはり重んじなけりゃならんと思っているんです。 たすけて下さい僕をたすけて下さい。 僕はいい事をしたいんです。 へんねえ。 また酔った振りなんかしてばかな真似をしようとしているんじゃないでしょうね。 あれはごめんですよ。 からかっちゃいけません。 人間には皆善事を行おうとする本能がある。 電話を切ってもいいんでしょう。 他にもう用なんか無いんでしょう。 さっきからおしっこが出たくて足踏みしているのよ。 ちょっと待って下さいちょっと。 一日三千円でどうです。 ごちそうがつくの。 いやそこをたすけて下さい。 僕もこの頃どうも収入が少くてね。 一本でなくちゃいや。 それじゃ五千円。 そうして下さい。 これは道徳の問題ですからね。 おしっこが出たいのよ。 もうかんにんして。 五千円でたのみます。 ばかねえあなたは。 オベリスク。 自分はケイ子の兄でありますが。 雑誌社のものですけど水原先生にちょっと画の相談。 ダメです。 風邪をひいて寝ています。 仕事は当分ダメでしょう。 いいかい。 たぶん大丈夫だと思うけどねそこに乱暴な男がひとりいてねもしそいつが腕を振り上げたら君は軽くこう取りおさえて下さい。 なあに弱いやつらしいんですがね。 サヨナラ。 グッド・バイ。 思い出。 黄昏のころ私は叔母と並んで門口に立っていた。 叔母は誰かをおんぶしているらしくねんねこを着ていた。 その時のほのぐらい街路の静けさを私は忘れずにいる。 叔母はてんしさまがお隠れになったのだと私に教えていきがみさまと言い添えた。 いきがみさまと私も興深げに呟いたような気がする。 それから私は何か不敬なことを言ったらしい。 叔母はそんなことを言うものでないお隠れになったと言えと私をたしなめた。 どこへお隠れになったのだろうと私は知っていながらわざとそう尋ねて叔母を笑わせたのを思い出す。 思い出。 もし戦争が起ったなら。 という題を与えられて地震雷火事|親爺それ以上に怖い戦争が起ったなら先ず山の中へでも逃げ込もう逃げるついでに先生をも誘おう先生も人間僕も人間いくさの怖いのは同じであろうと書いた。 此の時には校長と次席訓導とが二人がかりで私を調べた。 どういう気持で之を書いたかと聞かれたので私はただ面白半分に書きましたといい加減なごまかしを言った。 次席訓導は手帖へ『好奇心』と書き込んだ。 それから私と次席訓導とが少し議論を始めた。 先生も人間僕も人間と書いてあるが人間というものは皆おなじものかと彼は尋ねた。 そう思うと私はもじもじしながら答えた。 私はいったいに口が重い方であった。 それでは僕と此の校長先生とは同じ人間でありながらどうして給料が違うのだと彼に問われて私は暫く考えた。 そしてそれは仕事がちがうからでないかと答えた。 鉄縁の眼鏡をかけ顔の細い次席訓導は私のその言葉をすぐ手帖に書きとった。 私はかねてから此の先生に好意を持っていた。 それから彼は私にこんな質問をした。 君のお父さんと僕たちとは同じ人間か。 私は困って何とも答えなかった。 小学校四五年のころ末の兄からデモクラシイという思想を聞き母までデモクラシイのため税金がめっきり高くなって作米の殆どみんなを税金に取られると客たちにこぼしているのを耳にして私はその思想に心弱くうろたえた。 そして夏は下男たちの庭の草刈に手つだいしたり冬は屋根の雪おろしに手を貸したりなどしながら下男たちにデモクラシイの思想を教えた。 そうして下男たちは私の手助けを余りよろこばなかったのをやがて知った。 私の刈った草などは後からまた彼等が刈り直さなければいけなかったらしいのである。 新思想。 歴史家。 思想家。 私はなぜ何々主義者になったか。 思想。 思想の発展。 私には思想なんてものはありませんよ。 すききらいだけですよ。 ところで。 あなたのその幼時のデモクラシイはその後どんな形で発展しましたか。 さあどうなりましたかわかりません。 死線を越えて。 三つの予言。 四つの予言。 余は如何にして何々主義者になりしか。 死ぬには及ばない。 君は同志だ。 見込みのある男。 大物。 戦略。 戦略。 おめえみたいなブルジョアの坊ちゃんに革命なんて出来るものか。 本当の革命はおれたちがやるんだ。 勇気。 以前私は情熱を傾けて支那の社会を攻撃した文章を書いた事がありましたけれどもそれも実はやっぱりつまらないものでした。 支那の社会は私がそんなに躍起となって攻撃している事をちっとも知りやしなかったのです。 ばかばかしい。 どうもなんですねえ娯楽味を忘れてはなりませんですねえ。 実にこの娯楽味を忘れてはなりませぬです。 なんだいこれは。 誰しもはじめはお手本に拠って習練を積むのですが一個の創作家たるものがいつまでもお手本の匂いから脱する事が出来ぬというのはまことに腑甲斐ない話であります。 はっきり言うと君は未だに誰かの調子を真似しています。 そこに目標を置いているようです。 〈芸術的〉というあやふやな装飾の観念を捨てたらよい。 生きる事は芸術でありません。 自然も芸術でありません。 さらに極言すれば小説も芸術でありません。 小説を芸術として考えようとしたところに小説の堕落が胚胎していたという説を耳にした事がありますが自分もそれを支持して居ります。 創作に於いて最も当然に努めなければならぬ事は〈正確を期する事〉であります。 その他には何もありません。 風車が悪魔に見えた時にはためらわず悪魔の描写をなすべきであります。 また風車がやはり風車以外のものには見えなかった時はそのまま風車の描写をするがよい。 風車が実は風車そのものに見えているのだけれどもそれを悪魔のように描写しなければ〈芸術的〉でないかと思ってさまざま見え透いた工夫をしてロマンチックを気取っている馬鹿な作家もありますがあんなのは一生かかったって何一つ掴めない。 小説に於いては決して芸術的雰囲気をねらってはいけません。 あれはお手本のあねさまの絵の上に薄い紙を載せ震えながら鉛筆で透き写しをしているような全く滑稽な幼い遊戯であります。 一つとして見るべきものがありません。 雰囲気の醸成を企図する事はやはり自涜であります。 〈チエホフ的に〉などと少しでも意識したならばかならず無慙に失敗します。 無闇に字面を飾りことさらに漢字を避けたり不要の風景の描写をしたりみだりに花の名を記したりする事は厳に慎しみただ実直に印象の正確を期する事一つに努力してみて下さい。 君には未だ君自身の印象というものが無いようにさえ見える。 それではいつまで経っても何一つ正確に描写する事が出来ない筈です。 主観的たれ。 強い一つの主観を持ってすすめ。 単純な眼を持て。 無法松の一生。 重慶から来た男。 無法松。 芸術的。 無法松。 芸術的。 優秀場面。 重慶から来た男。 芸術的。 傑作。 芸術的。 芸術。 教育界でそんなことをしてばかだ。 帰去来。 帰去来。 もういちど故郷を見る機会。 こんども私が責任を持ちます。 奥さんとお子さんを連れていらっしゃい。 帰去来。 しかし大丈夫ですか。 女房や子供などを連れていって玄関払いを食らわされたら目もあてられないからな。 そんな事は無い。 去年の夏はどうだったのですか。 あのあとでお二人とも文治さんに何か言われはしなかったですか。 北さんどうですか。 それあ兄さんの立場として。 御親戚のかた達の手前もあるしよく来たとは言えません。 けれども私が連れて行くんだったら大丈夫だと思うのです。 去年の夏の事もあとで兄さんと東京でお逢いしたら兄さんは私にただ一こと北君は人が悪いなあとそれだけ言っただけです。 怒ってなんかいやしません。 そうですか。 中畑さんのほうはどうでしたか。 何か兄さんに言われやしませんでしたか。 いいえ。 私には一こともなんにもおっしゃいませんでした。 いま迄は私があなたに何か世話でもするとあとで必ずちょっとした皮肉をおっしゃったものですが去年の夏の事に限ってなんにも兄さんはおっしゃいませんでした。 そうですか。 あなた達にご迷惑がかからない事でしたら私は連れていってもらいたいのです。 母に逢いたくないわけは無いんだしまた去年の夏には文治兄さんに逢うことが出来ませんでしたがこんどこそ逢いたい。 連れていって下さると私は大いにありがたいのですが女房のほうはどうですか。 こんどはじめて亭主の肉親たちに逢うのですから女は着物だのなんだのめんどうな事もあるでしょうしちょっと大儀がるかも知れません。 そこは北さんから一つ女房に説いてやって下さい。 私から言ったんじゃあいつは愚図々々いうにきまっていますから。 よろしくお願い致します。 いつになさいますか。 まあ綺麗。 いちど林檎のみのっているところを見たいと思っていました。 よく来て下さいました。 いつ来るかいつ来るかと気が気じゃなかった。 とにかくこれで私も安心しました。 お母さんは黙っていらっしゃるけどとてもあなた達を待っているご様子でしたよ。 蕩児の帰宅。 トランクは持って行かないほうがよいねそうでしょう。 兄さんからまだゆるしが出ているわけでもないのにトランクなどさげて――。 わかりました。 景色のいいところですね。 案外明るい土地ですね。 そうかね。 僕にはそうも見えないが。 あれは岩木山だ。 富士山に似ているっていうので津軽富士。 こっちの低い山脈はぼんじゅ山脈というのだ。 あれが馬禿山だ。 あれが。 兄さんの家だ。 いやちがった。 右の方のちょっと大きいやつだ。 あの娘さんは誰。 女中だろう。 挨拶なんか要らない。 シゲちゃん。 常居。 常居。 ああ。 いろいろ御心配をかけました。 文治兄さんだ。 さあ。 二三日前からお待ちになって本当にお待ちになって。 よく来た。 こんどはゆっくりして行くんでしょう。 さあどうだか。 去年の夏みたいにやっぱり二三時間でおいとまするような事になるんじゃないかな。 北さんのお話ではそれがいいという事でした。 僕はなんでも北さんの言うとおりにしようと思っているのですから。 でもこんなにお母さんが悪いのに見捨てて帰る事が出来ますか。 いずれそれは北さんと相談して――。 何もそんなに北さんにこだわる事は無いでしょう。 そうもいかない。 北さんには僕は今までずいぶん世話になっているんだから。 それはまあそうでしょう。 でも北さんだってまさか――。 いやだから北さんに相談してみるというのです。 北さんの指図に従っていると間違いないのです。 北さんはまだ兄さんと二階で話をしているようですが何かややこしい事でも起っているんじゃないでしょうか。 私たち親子三人ゆるしも無くのこのこ乗り込んで――。 そんな心配は要らないでしょう。 英治さんだってあなたにすぐ来いって速達を出したそうじゃないの。 それはいつですか。 僕たちは見ませんでしたよ。 おや。 私たちはまたその速達を見ておいでになったものとばかり――。 そいつあまずかったな。 行きちがいになったのですね。 そいつあまずい。 妙に北さんが出しゃばったみたいな形になっちゃった。 まずい事は無いでしょう。 一日でも早く駈けつけたほうがいいんですもの。 光ちゃんですよ。 なかなかべっぴんになったでしょう。 べっぴんになりました。 色が白くなった。 時々くるしくなるようです。 がんばって。 園子の大きくなるところを見てくれなくちゃ駄目ですよ。 あなた。 かぜを引きますよ。 園子は。 眠りました。 大丈夫かね。 寒くないようにして置いたかね。 ええ。 叔母さんが毛布を持って来て貸して下さいました。 どうだいみんないいひとだろう。 ええ。 これから私たちどうなるの。 わからん。 今夜はどこへ泊るの。 そんな事僕に聞いたって仕様が無いよ。 いっさい北さんの指図にしたがわなくちゃいけないんだ。 十年来そんな習慣になっているんだ。 北さんを無視して直接兄さんに話掛けたりすると騒動になってしまうんだ。 そういう事になっているんだよ。 わからんかね。 僕には今なんの権利も無いんだ。 トランク一つ持って来る事さえできないんだからね。 なんだかちょっと北さんを恨んでるみたいね。 ばか。 北さんの好意は身にしみてわかっているさ。 けれども北さんが間にはいっているので僕と兄さんとの仲も妙にややこしくなっているようなところもあるんだ。 どこまでも北さんのお顔を立てなければならないしわるい人はひとりもいないんだし――。 本当にねえ。 北さんがせっかく連れて来て下さるというのにおことわりするのも悪いと思って私や園子までお供して来てそれで北さんにご迷惑がかかったのでは私だって困るわ。 それもそうだ。 うっかりひとの世話なんかするもんじゃないね。 僕という難物の存在がいけないんだ。 全くこんどは北さんもお気の毒だったよ。 わざわざこんな遠方へやって来て僕たちからもまた兄さんたちからもそんなに有難がられないと来ちゃさんざんだ。 僕たちだけでもここはなんとかして北さんのお顔の立つように一工夫しなければならぬところなんだろうけれどあいにくそんな力はねえや。 下手に出しゃばったら滅茶々々だ。 まあしばらくこうしてまごまごしているんだね。 お前は病室へ行って母の足でもさすっていなさい。 おふくろの病気ただそれだけを考えていればいいんだ。 まあこんなところに。 ごはんですよ。 美知子さんも一緒にどうぞ。 速達が行きちがいになりまして。 ありがとうございました。 おかげさまでした。 僕たちは今晩このまま金木へ泊ってもかまわないのですか。 それあ構わないでしょう。 なにせお母さんがあんなにお悪いのですから。 じゃ私たちはもう二三日金木の家へ泊めてもらって――それは図々しいでしょうか。 お母さんの容態に依りますな。 とにかくあした電話で打ち合せましょう。 北さんは。 あした東京へ帰ります。 たいへんですね。 去年の夏も北さんはすぐにお帰りになったしことしこそ青森の近くの温泉にでも御案内しようと私たちは準備して来たのですけど。 いやお母さんがあんなに悪いのに温泉どころじゃありません。 じっさいこんなに容態がお悪くなっているとは思わなかった。 案外でした。 あなたに払っていただいた汽車賃はあとで計算しておかえし致しますから。 冗談じゃない。 お帰りの切符も私が買わなければならないところです。 そんな御心配はよして下さい。 いやはっきり計算してみましょう。 中畑さんのところにあずけて置いたあなた達の荷物もあした早速中畑さんにたのんで金木のお家へとどけさせる事にしましょう。 もうそれで私の用事は無い。 停車場はこっちでしたね。 もうお見送りは結構ですよ。 本当にもう。 北さん。 何か兄さんに言われましたか。 いいえ。 そんな心配はもうなさらないほうがいい。 私は今夜はいい気持でした。 文治さんと英治さんとあなたと立派な子供が三人ならんで坐っているところを見たら涙が出るほどうれしかった。 もう私は何も要らない。 満足です。 私ははじめから一文の報酬だって望んでいなかった。 それはあなただってご存じでしょう。 私はただあなた達兄弟三人を並べて坐らせて見たかったのです。 いい気持です。 満足です。 修治さんもまあこれからしっかりおやりなさい。 私たち老人はそろそろひっこんでいい頃です。 常居。 小間。 お母さんはどうしてもだめですか。 まあこんどはむずかしいと思わねばいけない。 困ったこんどは困った。 地球の分配。 受取れよこの世界を。 受取れこれはお前たちのものだ。 お前たちにおれはこれを遺産として永遠の領地として贈ってやる。 さあ仲好く分け合うのだ。 その七割は俺のものだ。 ええ情ない。 なんで私一人だけが皆からかまって貰えないのだ。 この私があなたの一番忠実な息子が。 勝手に夢の国でぐずぐずしていて。 何も俺を怨むわけがない。 お前は一体何処にいたのだ。 皆が地球を分け合っているとき。 私はあなたのお傍に。 目はあなたのお顔にそそがれて耳は天上の音楽に聞きほれていました。 この心をお許し下さい。 あなたの光に陶然と酔って地上の事を忘れていたのを。 どうすればいい。 地球はみんな呉れてしまった。 秋も狩猟も市場ももう俺のものでない。 お前が此の天上に俺といたいなら時々やって来い。 此所はお前の為に空けて置く。 陸の王者。 心の王者。 天候居士。 あいたたた。 君ひどいじゃないか。 僕のおなかをいやというほど踏んでいったぞ。 あぶないんだ。 この川は。 危険なんだ。 僕は君を救助しに来たんだ。 君はばかだね。 僕がここに寝ているのも知らずに顔色かえて駈けて行きやがる。 見たまえ。 僕のおなかのここんとこに君の下駄の跡がくっきり附いてるじゃないか。 君がここんとこを踏んづけて行ったのだぞ。 見たまえ。 見たくない。 けがらわしい。 早く着物を着たらどうだ。 君は子供でもないじゃないか。 失敬なやつだ。 君はこの公園の番人かい。 何もそんなに怒ること無いじゃないか。 あぶないんだ。 この川は。 泳いじゃいけない。 人喰い川と言われているのだ。 それにこの川の水は東京市の水道に使用されているんだ。 清浄にして置かなくちゃいけない。 知ってるよそんなこと。 坐らないかね君も。 そんなにふくれていると君の顔はさむらいみたいに見えるね。 むかしの人の顔だ。 足利時代と桃山時代とどっちがさきか知ってるか。 知らないよ。 じゃ徳川十代将軍は誰だか知ってるかい。 知らん。 なんにも知らないんだなあ。 君は学校の先生じゃないのかい。 そんなもんじゃない。 僕は。 小説を書いているんだ。 小説家というもんだ。 そうかね。 小説家って頭がわるいんだね。 君はガロアを知ってるかい。 エヴァリスト・ガロア。 聞いた事があるような気がする。 ちえっ外国人の名前だとみんな一緒くたに聞いたような気がするんだろう。 なんにも知らない証拠だ。 ガロアは数学者だよ。 君にはわかるまいがなかなか頭がよかったんだ。 二十歳で殺されちゃった。 君もも少し本を読んだらどうかね。 なんにも知らないじゃないか。 可哀そうなアベルの話を知ってるかい。 ニイルス・ヘンリク・アベルさ。 そいつも数学者かい。 ふん知っていやがる。 ガウスよりも頭がよかったんだよ。 二十六で死んじゃったのさ。 自信がないんだよ僕は。 へん。 自信がないなんて言える柄かよ。 せめてガロアくらいでなくちゃそんないい言葉が言えないんだよ。 ガロアが四月にまっぱだかで川を泳いだとその本に書いていたかね。 何を言ってやがる。 頭が悪いなあ。 そんなことでおさえた気でいやがる。 それだから大人はいやなんだ。 僕は君に親切で教えてやっているんじゃないか。 先輩としての利己主義を暗黙のうちに正義に化す。 おい君。 タンタリゼーションってのはどうせたかの知れてるものだ。 かえって今じゃ通俗だ。 本当に頭のいい奴は君みたいな気取った言いかたはしないものだ。 君こそずいぶん頭が悪い。 様子ぶってるだけじゃ無いか。 先輩が一体どうしたというのだ。 誰も君を後輩だなんて思ってやしない。 君がひとりで勝手に卑屈になっているだけじゃないか。 君は誰に言っているんだい。 僕にそんなこと言ったってわかりやしない。 弱るね。 そうか。 失敬した。 とにかく立たないか。 君に言いたい事があるんだ。 怒ったのかね。 仕様がねえなあ。 弱い者いじめを始めるんじゃないだろうね。 僕のほうが弱い者かも知れない。 どっちがどうだか判ったものじゃない。 とにかく起きて上衣を着たまえ。 へん本当に怒っていやがる。 どっこいしょ。 上衣なんてありやしない。 嘘をつけ。 貧を衒う。 安価なヒロイズムだ。 さっさと靴をはいて僕と一緒に来たまえ。 靴なんてありやしない。 売っちゃったんだよ。 君はまさか。 きのう迄はあったんだよ。 要らなくなったから売っちゃった。 シャツならあるさ。 はだかでここまで来られるものか。 僕の下宿は本郷だよ。 ばかだね君は。 はだしで来たわけじゃないだろうね。 ああ陸の上は不便だ。 バイロンは水泳している間だけは自分の跛を意識しなくてよかったんだ。 だから水の中に居ることを好んだのさ。 本当に本当に水の中では靴も要らない。 上衣も要らない。 貴賤貧富の別が無いんだ。 君はバイロンかい。 君は跛でもないじゃないか。 それに人間は水の中にばかり居られるものじゃない。 嫉妬さ。 妬けているんだよ君は。 老いぼれのぼんくらは若い才能に遭うといたたまらなくなるものさ。 否定し尽すまでは堪忍できないんだ。 ヒステリイを起しちゃうんだから仕様が無い。 話があるんなら話を聞くよ。 だらしが無いねえ君は。 僕をどこかへ引っぱって行こうというのか。 ゆっくり話をしてみたいんだがね。 君はさっきから僕を無学だの低能だのと称しているが僕だって多少は名の有る男だ。 事実無学であり低能ではあるがけれども君よりはましだと思っている。 君には僕を侮辱する資格は無いのだ。 君の不当の暴言に対して僕も返礼しなければならぬ。 なあんだ僕と遊びたがっていやがる。 君もよっぽどひまなんだね。 何かおごれよ。 おなかがすいた。 ごまかしてはいかん。 君は今或る種の恐怖を感じていなければならぬところだ。 とにかく僕と一緒に来給え。 天候居士。 僕の母はね死んだのだよ。 僕の父はね恥ずかしい商売をしているんだよ。 聞いたら驚くよ。 僕は田舎者だよ。 モラルなんて無いんだ。 ピストルが欲しいな。 パンパンと電線をねらって撃つと電線は一本ずつプツンプツンと切れるんだ。 日本はせまいな。 かなしい時には素はだかで泳ぎまくるのが一番いいんだ。 どうして悪いんだろう。 なんにも出来やしないじゃないか。 めったな事は言われねえ。 説教なんてまっぴらだ。 本を読めば書いてあらあ。 放って置いてくれたっていいじゃないか。 僕はねさえき五一郎って言うんだよ。 数学はあまり得意じゃないんだ。 怪談が一ばん好きだ。 でもねおばけの出方には十三とおりしか無いんだ。 待てよ提燈ヒュウのモシモシがあるから十四種類だ。 つまらないよ。 親子どんぶりがあるかね。 待て待て。 親子どんぶりはいくらだね。 五十銭でございます。 それでは親子どんぶり一つだ。 一つでいい。 それから番茶を一ぱい下さい。 ちえっ。 ちゃっかりしていやがら。 君は学生かい。 きのうまでは学生だったんだ。 きょうからはちがうんだ。 どうでもいいじゃないかそんな事は。 そうだね。 僕もあまり人の身の上に立ちいることは好まない。 深く立ちいって聞いてみたって僕には何も世話の出来ない事がわかっているんだから。 俗物だね君は。 申しわけばかり言ってやがる。 目茶苦茶や。 ああ目茶苦茶なんだ。 たくさん言いたい事もあったんだけれどいやになった。 だまって景色でも見ているほうがいいね。 そんな身分になりたいよ。 僕なんてだまっていたくてもだまって居れない。 心にもない道化でも言っていなけれや生きて行けないんだ。 それは誰の事を言っているんだ。 僕の事じゃないか。 僕はきのう迄良家の家庭教師だったんだぜ。 低能のひとり娘に代数を教えていたんだ。 僕だって教えるほど知ってやしない。 教えながら覚えるという奴さ。 そこはごまかしがきくんだけども幇間の役までさせられて。 食べたらどうかね。 君は。 食べないの。 僕は要らない。 いただきます。 どうぞ。 孔雀だよ。 いま鳴いたのは孔雀だよ。 僕の名はね。 僕の名はね佐伯五一郎って言うんだよ。 覚えて置いてね。 僕はきっと御恩返しをしてやるよ。 君はいい人だね。 泣いたりなんかして僕はだらしがないなあ。 僕はごはんを食べていると時々むしょうに侘しくなるんだ。 悲しい事ばかり一度にどっと思い出しちゃうんだ。 僕の父はね恥ずかしい商売をしているんだ。 田舎の小学校の先生だよ。 二十年以上も勤めてそれでも校長になれないんだ。 頭が悪いんだよ。 息子の僕にさえ恥ずかしがっているんだよ。 生徒もみんなばかにしているんだ。 マンケという綽名だよ。 だから僕は偉くならなくちゃいけないんだ。 小学校の先生がなぜそんなに恥ずかしい商売なんだ。 僕だって小説が書けなくなったら田舎の小学校の先生になろうと思っている。 本当に良心をもって情熱をぶち込める仕事はこの二つしか世の中に無いと思っている。 知らないんだよ君は。 知らないんだよ。 村の金持の子供には先生のほうから御機嫌をとらなくちゃいけないんだ。 校長や村長との関係もそれやややこしいんだぜ。 言いたくもねえや。 僕は先生なんていやだ。 僕は本気に勉強したかったんだ。 勉強したらいいじゃないか。 さっきの元気はどうしたんだい。 だらしの無い奴だ。 男は泣くものじゃないよ。 そら鼻でもかんでしゃんとし給え。 なんと言ったらいいのかなあ。 へんな気持なんだよ。 親爺を喜ばせようと思って勉強していてもなんだか落ちつかないんだよ。 五次方程式が代数的に解けるものだかどうだか発散級数の和が有ろうと無かろうと今はそんな迂遠な事をこね廻している時じゃないって誰かに言われているような気がするのだ。 個人の事情を捨てろってこないだも上級の生徒に言われたよ。 でもそんな事を言う生徒はたいてい頭の悪い不勉強な奴にきまっているんだ。 だからなんだかへんな気持になっちゃうんだよ。 迂遠な学問なんかをしている時じゃ無い。 肉体をぶっつけて行く練習だけの時代なのかしら。 考えるととても心細くなるんだよ。 君はそれを怠惰のいい口実にして学校をよしちゃったんだな。 事大主義というんだよ。 大地震でも起って世界がひっくりかえったらなんて事ばかり夢想している奴なんだね君は。 たった一日だけの不安を生涯の不安とすり変えて騒ぎまわっているのだ。 君は秩序のネセシティを信じないかね。 ヴァレリイの言葉だけれどもね。 法律も制度も風俗も昔からちっとは気のきいた思想家にいつでも攻撃され軽蔑されて来たものだ。 事実またそれを揶揄し皮肉るのはいい気持のものさ。 けれどもその皮肉はどんなに安易な危険な遊戯であるか知らなければならぬ。 なんの責任も無いんだからね。 法律制度風俗それがどんなにくだらなく見えてもそれが無いところには知識も自由も考えられない。 大船に乗っていながら大船の悪口を言っているようなものさ。 海に飛び込んだら死ぬばかりだ。 知識も自由思想も断じて自然の産物じゃない。 自然は自由でもなく自然は知識の味方をするものでもないと言うんだ。 知識は自然と戦って自然を克服し人為を建設する力だ。 謂わば人工の秩序への努力だ。 だからどうしても秩序とは反自然的な企画なんだがそれでも人は秩序に拠らなければ生き伸びて行く事が出来なくなっているというんだがね。 君が時代に素直で勉強を放擲しようとする気持もわかるけれど秩序の必然性を信じて静かに勉強を続けて行くのも亦この際勇気のある態度じゃないのかね。 発散級数の和でも楕円函数でも大いに研究するんだね。 どうかね。 わかったかね。 ヴァレリイってのはフランスの人でしょう。 そうだ。 一流の文明批評家だ。 フランスの人だったらだめだ。 なぜ。 戦敗国じゃないか。 亡国の言辞ですよ。 君は人がいいからだめだなあ。 そいつの言ってる秩序ってのは古い昔の秩序の事なんだ。 古典擁護に違いない。 フランスの伝統を誇っているだけなんですよ。 うっかりだまされるところだった。 いやいや。 そういう事は無い。 秩序って言葉は素晴しいからなあ。 僕はフランス人の秩序なんて信じないけれど強い軍隊の秩序だけは信じているんだ。 僕にはぎりぎりに苛酷の秩序が欲しいのだ。 うんと自分をしばってもらいたいのだ。 僕たちはみんな戦争に行きたくてならないのだよ。 生ぬるい自由なんて飼い殺しと同じだ。 何も出来やしないじゃないか。 卑屈になるばかりだ。 銃後はややこしくてむずかしいねえ。 何を言ってやがる。 君は一ばん骨の折れるところからのがれようとしているだけなんだ。 千の主張よりも一つの忍耐。 いや千の知識よりも一つの行動。 そうして君に出来る唯一の行動はまっぱだかで人喰い川を泳ぐだけのものじゃないか。 ぶんを知らなくちゃいけない。 さっきはあれは特別なんだよ。 どうもごちそうさま。 事情があったんだよ。 聞いてくれるかね。 言ってみ給え。 言ってみたってどうにもならんけどこのごろ僕は目茶苦茶なんだよ。 中学だけは家のお金で卒業できたのだけれどあとが続かなかったんだ。 貧乏なんだよ。 僕は数学をもっと勉強したかったから父に無断で高等学校に受けてはいったんだ。 葉山さんを知ってるかい。 葉山圭造。 いつか鉄道の参与官か何かやっていた。 代議士だよ。 知らないね。 代議士なんてのは知らないね。 金持なのかい。 まあそうだ。 僕の郷土の先輩なんだ。 郷土の先輩なんて可笑しなものさ。 同じお国|訛があるだけさ。 僕はその人からお金をもらっていやただもらっていたわけじゃ無いんだ。 僕は教えていたんだ。 教えながら教わっていたのかね。 女学校三年の娘がひとりいるんだ。 団子みたいだ。 なっちゃいない。 ほのかな恋愛かね。 ばか言っちゃいけない。 僕にはプライドがあるんだ。 このごろだんだんそいつが僕を小使みたいに扱って来たんだよ。 奥さんもいけないんだがね。 とうとうきのう我慢出来なくなっちゃって――。 僕はつまらないんだよそういう話は。 世の中の概念でしか無い。 歩けば疲れるという話と同じ事だ。 君はお坊ちゃん育ちだな。 人から金をもらうつらさを知らないんだ。 概念的だっていい。 そんな平凡な苦しさを君は知らないんだ。 僕だってそれや知っているつもりだがね。 わかり切った事だ。 胸に畳んで言わないだけだ。 それじゃ君は映画の説明が出来るかね。 映画の説明。 そうさ。 娘がこの春休みに北海道へ旅行に行ってそうして十六ミリというのかね北海道の風景をどっさり撮影して来たというわけさ。 おそろしく長いフィルムだ。 僕もちょっと見せてもらったがね。 しどろもどろの実写だよ。 こんどそれを葉山さんのサロンで公開するんだそうだ。 所謂お友達を集めてね。 ところがその愚劣な映画の弁士を勤めてお客の御機嫌を取り結ぶのが僕の役目なんだそうだ。 それあいい。 いいじゃないか。 北海道の春はいまだ浅くして――。 本気で言ってるのかね。 僕なら平気でやってのけるね。 自己優越を感じている者だけが真の道化をやれるんだ。 そんな事で憤慨して制服をたたき売るなんて意味ないよ。 ヒステリズムだ。 どうにも仕様がないものだから川へ飛びこんで泳ぎまわったりしてセンチメンタルみたいじゃないか。 傍観者はなんとでも言えるさ。 僕には出来ない。 君は嘘つきだ。 じゃこれから君はどうするつもりなんだい。 わかり切った事じゃないか。 いつまでも川で泳いでいるつもりなのか。 帰るより他は無いんだ。 元の生活に帰り給え。 僕は忠告する。 君は自分の幼い正義感に甘えているんだ。 映画説明をやるんだね。 なんだいたった一晩の屈辱じゃないか。 堂々とやるがいい。 僕が代ってやってもいいくらいだ。 君に出来るものか。 出来るとも。 出来るよ。 早春の北海道。 ここです。 くまもとう。 くまもとくん。 はい。 佐伯だあ。 あがってもいいかあ。 どうぞ。 ディリッタンティなんだ。 ブルジョアさ。 待って下さい。 おひとり。 お二人。 お二人だ。 どなた。 佐伯君一緒の人は誰ですか。 知らない。 木村武雄木村武雄。 僕を木村武雄と呼んでくれ給え。 木村たけお。 木村武雄くんと一緒に来たんだがね。 木村たけお。 木村武雄くんですか。 木村武雄という者ですが。 お願いがあってやって来たんですけど。 おゆるし下さい。 初対面のおかたとはお逢いするのが苦しいのです。 何を言ってやがる。 相変らず鼻持ちならねえ。 その鼻のことです。 私は鼻を虫に刺されました。 こんな見苦しい有様で初対面のおかたと逢うのは何よりつらい事です。 人間は第一印象が大事ですから。 ばかばかしい。 佐伯君少し乱暴じゃありませんか。 僕は親にさえこういう醜い顔を見せた事はないのですからね。 読書かね。 里見八犬伝か。 面白そうだね。 君はいつでも読まない本を机の上にひろげて置いて読んでる本は必ず机の下に隠して置くんだね。 妙な癖があるんだね。 軽蔑し給うな。 里見八犬伝は立派な古典ですね。 日本的ロマンの。 元祖ですね。 たしかにそんなところもありますね。 僕は最近またぼちぼち読み直してみているんですけれども。 へへ。 君はどうしてそんなぼちぼち読み直しているなんて嘘ばかり言うんだね。 いつでも必ずそう言うじゃないか。 読みはじめたと言ったっていいと思うがね。 軽蔑し給うな。 里見八犬伝をはじめて読む人なんか無いよ。 読み直しているのに違いない。 熊本君。 制服と帽子。 あの僕の制服と帽子ですか。 佐伯君僕は不愉快ですよ。 僕をあまり軽蔑しないで下さい。 いったいこの人はなんですか。 いやならよせ。 無理に頼むわけじゃないんだ。 君こそ失礼だぞ。 そこにいる人はいい人なんだ。 君みたいなエゴイストじゃないんだ。 いやいや。 僕だってエゴイストです。 佐伯君がいやだというのを僕が無理を言ってここへ連れて来てもらったのですから。 事情を申し上げてもいいんだけどとにかく僕から頼むのです。 一晩だけ貸して下さい。 あしたの朝早く必ずお返し致します。 勝手にお使い下さい。 僕は存じません。 よそうよ。 僕はどうなったっていいんだ。 それあいかん。 君は今になってそんな事を言い出すのは卑怯だ。 それじゃまるで僕が君にからかわれてここまでやって来たようなものだ。 なんですか。 佐伯君がまた何かはじめたのですか。 深い事情があるようですね。 もういいんだ。 僕は熊本なんかにものを頼みたくないんだ。 僕は帰るぞ。 待て待て。 君には帰るところは無い筈だ。 熊本君だって制服を貸さないとは言ってないんだ。 君はだだっ子と言われても仕様が無いよ。 そうですとも。 だだっ子と言われても仕様が無いですとも。 僕はお貸ししないとは言ってないんですからね。 僕はエゴイストじゃありません。 お気に召しますかどうですか。 いや結構です。 ここで失礼して着換えさせていただきます。 よせよ。 なってないじゃないか。 そうですね。 どういう御身分のおかたか存じませんけれどこれでは私の洋服の評判まで悪くなります。 かまわない。 大丈夫だ。 こんな学生を僕は前に本郷で見た事があるよ。 秀才はたいていこんな恰好をしているようだ。 帽子がてんで頭にはいらんじゃないか。 いっそまっぱだかで歩いたほうがいいくらいだ。 僕の帽子は決して小さいほうではありません。 僕の頭のサイズは普通です。 ソクラテスと同じなんです。 さあ行こう。 熊本君もそこまでどうです。 一緒にお茶でも飲みましょう。 熊本は勉強中なんだ。 これからまたぼちぼち八犬伝を読み直すのだから。 僕はかまいません。 なんだか面白くなりそうですね。 あなたは青春を恢復したファウスト博士のようです。 するとメフィストフェレスはこの佐伯君という事になりますね。 これがむく犬の正体か。 旅の学生か。 滑稽至極じゃ。 どこかでお茶でも飲みましょう。 そうですねえ。 せっかくお近づきになったのですし。 しかし女の子のいるところは割愛しましょう。 きょうは鼻がこんなに赤いのですから。 人間の第一印象は重大ですよ。 僕をはじめて見た女の子なら僕が生まれた時からこんなに鼻が赤くてしかもこの後も永久に赤いのだと独断するにきまっています。 じゃミルクホールはどうでしょう。 どこだっていいじゃないか。 お茶に誘うなんてのはお互早く別れたい時に用いる手なんだ。 僕は人から追っぱらわれる前にはいつでもお茶を飲まされた。 それはどういう意味なんですか。 へんな事を言い給うな。 僕とこのかたとお茶を飲むのはお互の親和力の結果です。 純粋なんだ。 僕たちは里見八犬伝に於て共鳴し合ったのです。 止し給え。 止し給え。 どうして君たちはそんなに仲が悪いんだ。 佐伯の態度もよくないぞ。 熊本君は紳士なんだ。 懸命なんだよ。 人の懸命な生きかたを嘲笑するのは間違いだ。 君こそ嘲笑している癖に。 君は老獪なだけなんだ。 はいろう。 あそこでゆっくり話そう。 佐伯君はいけません。 悪魔です。 ご存じですか。 きのう留置場から出たばかりなんですよ。 知りません。 全然知りません。 坐り給え。 刺すぞ。 はははは。 恥ずかしくてきりきり舞いした揚句の果にはそんな殺伐なポオズをとりたがるものさ。 覚えがあるよ。 ナイフでも振り上げないことにはどうにも形がつかなくなったのだろう。 待って下さい。 そのナイフは僕のナイフです。 佐伯君君はひどいじゃないか。 そのナイフは僕の机の左の引出しにはいっていたんでしょう。 君はさっき僕に無断で借用したのにちがいありません。 僕は人間の名誉というものを重んずる方針なのだから敢えて盗んだとは言いません。 早く返して下さい。 僕は大事にしていたんだ。 僕はこの人に帽子と制服とだけはお貸ししたけれど君にナイフまではお貸しした覚えが無いのです。 返して下さい。 僕はお姉さんからもらったんだ。 大事にしていたんですよ。 返して下さい。 そんなに乱暴に扱われちゃ困りますよ。 そのナイフには小さい鋏も缶切りもその他三種類の小道具が附いているんですよ。 デリケエトなんですよ。 ごしょうだから返して下さい。 返すよ。 返すよ。 返してやるよ。 さあ何とでも言うがいい。 五一郎君。 そんなふてくされたものの言いかたをするものじゃないよ。 君らしくも無いじゃないか。 猫撫で声はよしてくれ。 げろが出そうだ。 はっきり負けた奴にそんなに優しくお説教をはじめるのはいい気持のものらしいね。 君はくだらない奴だね。 ああそうさ。 だからはじめから言ってるじゃねえか。 説教なんかまっぴらだって言ったじゃないか。 放って置いてくれたっていいんだ。 なんですか。 さてどうしたのですか。 あなたのおっしゃる事にもまた佐伯君の申す事にも一応は首肯できるような気がするのですけれどもっとつき進めた話を伺わないことには。 コオヒイにしますか。 それとも何か食べますか。 とにかく何か注文いたしましょう。 ゆっくり話し合ってみたら或は一致点に到達できるかも知れませんからね。 君はもう帰ったらどうだい。 ナイフも返してやったし制服と帽子も今すぐこの人が返してあげるそうだ。 ステッキを忘れないようにしろよ。 そんなに軽蔑しなくてもいいじゃないですか。 僕だって君の力になってやろうと思っているのですよ。 そうだそうだ。 熊本君はこのとおり僕に制服やら帽子やらを貸してくれたし謂わば大事な人だ。 ここにいてもらったほうがいい。 コオヒイ三つだ。 母ちゃんお風呂へ行った。 もうすぐ帰って来るよ。 ああそうか。 どうしましょう。 待っていましょう。 ここは女の子がいないから気がとても楽です。 ビイルを飲めばいいじゃないか。 そこにずらりと並んである。 おい。 ビイルだったらお母さんがいなくても出来るわけだね。 栓抜きとコップを三つ持って来ればいいんだから。 僕は飲みませんよ。 アルコオルは罪悪です。 僕はアカデミックな態度をとろうと思います。 誰も君に。 飲めと言ってやしないよ。 へんな事を言わないでお姉さんに叱られますと言ったほうが早わかりだ。 君は飲むつもりですか。 止し給え。 僕は忠告します。 君はおとといもビイルを飲んだそうじゃないですか。 留置場にとめられたって学校じゃ評判なんですよ。 よし佐伯も飲んじゃいかん。 僕がひとりで飲もう。 アルコオルは本当に罪悪なんだ。 なるべくは飲まぬほうがいいのだ。 ああまずいな。 僕もアルコオルはきらいなんだ。 でもビイルはそんなに酔わないからいいんだ。 アカデミックな態度ばかりは失いたくありませんからね。 そうですとも。 私たちはパルナシヤンです。 パルナシヤン。 象牙の塔か。 五一郎君。 僕にはなんでも皆わかっているのだよ。 さっき君が僕に風呂敷包みを投げつけて逃げ出そうとした時はっと皆わかってしまったのだ。 君は僕をだましたね。 いや責めるのじゃない。 人を責めるなんてむずかしい事だ。 僕はわかったけれども何も言えなかったのだ。 言うのがつらくていっそ知らん振りしていようかとさえ思ったのだがいまビイルの酔いを借りてとうとう言い出したわけだ。 いや考えてみると君が僕に言わせるようにしむけてくれたのかも知れないね。 ビイルを見つけてくれたのは君なんだから。 なるほど。 佐伯君にはそんな遠大な思いやりがあってビイルのことを言い出したというわけですね。 なるほど。 そんなばかな思いやりってあるものか。 僕はただそのほら――。 わかってるよ。 僕の機嫌を取ろうとしたのだ。 いやそう言っちゃいけない。 この場の空気を明るくしようと努めてくれたのさ。 佐伯はこれまで生活の苦労をして来たからそんな事には敏感なんだ。 よく気が附く。 熊本君はそれと反対でいつでも自分の事ばかり考えている。 いやそれは。 そんなことは主観の問題です。 五一郎君。 僕は君を責めるんじゃないよ。 人を責める資格は僕には無いんだ。 責めたっていいじゃないか。 君はいつでも自己弁解ばかりしているね。 僕たちはもう大人の自己弁解には聞き厭きてるんだ。 誰もかれもおっかなびっくりじゃないか。 一も二も無く僕たちを叱りとばせばそれでいいんだ。 大人の癖に愛だの理解だのって甘ったるい事ばかり言って子供の機嫌をとっているじゃないか。 いやらしいぞ。 それあまあそうだがね。 君のその主張せざるを得ない内心の怒りには同感出来るがその主張の言葉には間違いが在るね。 わかるかね。 大人も子供も同じものなんだよ。 からだが少し薄汚くなっているだけだ。 子供が大人に期待しているように大人もそれと同じ様に君たちをたのみにしているものなのだ。 だらしの無い話さ。 でもそれは本当なんだ。 力とたのんでいるのだ。 信じられませんね。 君たちだってずるいんだ。 だらし無いぞ。 少し優しくするとすぐ程度を越えていい気になるしちょっと強く言おうと思うと言われぬ先から泣きべそをかいて逃げたがるじゃないか。 君たちに自信を持ってもらいたくて愛だの理解だのと遠廻しに言っているのに君たちはそれを軽蔑する。 君たちがも少し強かったらそれは安心して叱りとばしてやる事も出来るんだ。 君たちさえ――。 水掛け論だ。 くだらない。 そんな言い古された事を僕たちは考えているんじゃないよ。 しっかりした人間とはどんなものだかそれを見せてもらいたいんだ。 そうですね。 酒を飲む人の話は信用出来ませんからね。 僕はだめだ。 けれども僕は絶望していないんだ。 酒だってたまにしか飲まないんだ。 冷水摩擦だって毎日やっているんだ。 青年よ若き日のうちに享楽せよ。 青春は空に過ぎずしかして弱冠は無知に過ぎず。 ああ残念。 あの狂おしい青春の頃に我もし学にいそしみ風習のよろしき社会にこの身を寄せていたならばいま頃は家も持ち得て快き寝床もあろうに。 ばからしい。 悪童の如く学び舎を叛き去った。 いまそのことを思い出す時わが胸は張り裂けるばかりの思いがする。 何もそんなに卑下して見せなくたっていいじゃないか。 ごめんよ。 君は知っているね。 僕は恥ずかしかったんだ。 本当の事をどうしても言えなかったんだ。 でも僕は嘘つきじゃない。 たった一つだけ嘘を言ったんだ。 映画の会はおとといやっちゃったんだ。 僕は説明しちゃったんだ。 だから僕はおとといの夜会が済んでから制服も靴も売り払って街でビイルを飲んでお巡りさんに見つかってそれから――。 わかってる。 君に罪は無いんだ。 みんな話の行きがかりだ。 僕がそそっかしいんだよ。 君ははじめから僕が渋谷へなど来るのをいやがっていたんだものね。 うん。 言い直すひまが無かったんだよ。 僕はなんぼ何でも映画の説明なんてそんなだらし無い事をやっちゃったとは言えなかったんだよ。 だからね。 そこんところを嘘ついちゃったんだよ。 ごめんね。 留置場へ入れられた事なんかを君に言うと君に嫌われると思ったんだ。 僕はだめなんだよ。 葉山にもいままでお世話になっているんだし映画説明なんてばからしいとは思ったけれど最後のお礼のつもりでおとといの晩大勢の女の子の前でやっちゃったんだよ。 やっちゃってからいけないと思った。 もう僕はだめになったと思った。 見込みの無い男だと思った。 僕にもビイルを一ぱい下さい。 僕はいまは嬉しいのだ。 何だかぞくぞく嬉しいのだ。 木村君君は偉い人だね。 君みたいに何も気取らないで僕たちと一緒に心配したりしょげたりしてくれると僕たちには何だか勇気が出て来るのだ。 こうしては居られないと思うんだ。 勉強しようとしんから思うようになるんだ。 僕は心の弱さを隠さない人を信頼する。 乾杯だ。 熊本も立て。 喜びのための一ぱいのビイルは罪悪で無い。 悲しみ苦悩を消すための杯は恥じよ。 ではほんの一ぱいだけ。 僕は事情をよく知らんのですからねほんのお附合いですよ。 事情なんかどうだっていいじゃないか。 僕の出発を君は喜んでくれないのか。 君はエゴイストだ。 いやちがいます。 僕は物事を綿密に考えてみたいんだ。 納得出来ない祝宴には附和雷同しません。 僕は科学的なんです。 ちえっ。 自分を科学的という奴はきまって科学を知らないんだ。 科学への迷信的なあこがれだ。 無学者の証拠さ。 よせよせ。 熊本君はてれているんだ。 君のおくめんも無い感激振りに辟易したんだ。 知識人のデリカシイなんだよ。 古い型のね。 乾杯します。 僕はビイルを飲むとくしゃみするんです。 僕はその事を科学的と言ったんです。 正確だ。 佐伯君の出発をお祝いいたします。 あしたからまた学校へ出て来て下さい。 ありがとう。 熊本がいつもこんなに優しく勇敢であるように祈っています。 佐伯君にも熊本君にも欠点があります。 僕にも欠点があります。 助け合って行きたいと思います。 よし。 よろこびのための酒は一杯だけにして止めよう。 よろこびをアルコオルの口実にしてはならぬ。 君たちもこれからなるべくならビイルを飲むな。 カール・ヒルティ先生の曰く諸君は教養ある学生であるから酒を飲んでも乱に陥らない。 故に無害である。 否時には健康上有益である。 しかし諸君を真似て飲む中学生又は労働者たちは自らを制することが出来ぬため酒に溺れその為に身を亡す危険が多い。 だから諸君は彼等のために。 彼等のために酒を飲むなと。 彼等のためばかりではない。 僕たちの為にも酒を飲むな。 僕たちは悪い時代に育ち悪い教育を受け暗い学問をした。 飲酒は誇りであり正義感の表現でさえあったのだ。 僕たちのこの悪癖を綺麗に抜くのは至難である。 君たちに頼む。 君たちさえ清潔な明るい習慣を作ってくれたら僕たちの暗黒の虫も遠からずそれに従うだろう。 僕たちに負けてはならぬ。 打ち勝て。 以上一般論は終りだ。 どうも僕はこんなわかり切ったような概念論は不得手なのだ。 どんなつまらない本にだってそんな事はちゃんと書かれてあるんだからね。 なるべくなら僕は清潔な強い明るいなんてそんな形容詞を使いたくないんだ。 自分のからだに傷をつけてそこから噴き出た言葉だけで言いたい。 下手くそでもいい自分の血肉を削った言葉だけをどもりながら言いたい。 どうも一般論はてれくさい。 演説はこれでやめる。 佐伯君僕に二十円くらいあるんだがねこれで制服と靴とを買い戻し給え。 また外形はもとの生活に帰るのだ。 葉山氏の家にも辛抱して行き給え。 わびしい時には下宿で毛布をかぶって勉強するのだ。 それが一ばん華やかな青春だ。 何くそと固パンかじって勉強し給え。 約束するね。 わかってるよ。 そんな事を言ってると君の顔はまるで昔のさむらいみたいに見えるね。 明治時代だ。 古くさいな。 士族のお生まれではないでしょうか。 熊本君ここに二十円あります。 これで佐伯の制服と制帽と靴を買い戻してやって下さい。 要らないよそんなもの。 いや君にあげるわけじゃないんだ。 熊本君の友情を見込んで一時おあずけするだけだ。 わかりました。 たしかにおあずかり致します。 他日佐伯君の学業成った暁には――。 いやそれには及びません。 ここを出ましょう。 街を少し歩いて見ましょう。 おい佐伯その風呂敷包みは重くないか。 僕がかわりに持ってやろう。 いいんだ僕によこせ。 よし来た。 アル・テル・ナ・テ・ヴ・マンと。 知ってるかい。 どっこいしょのうんとこしょって意味なんだ。 フロオベエルはこの言葉一つに三箇月も苦心したんだぞ。 歌を歌おう。 いいかい。 一緒に歌うのだよ。 アインツワイドライ。 アインツワイドライ。 アインツワイドライ。 よし。 ああ消えはてし青春の愉楽の行衛今いずこ心のままに興じたる黄金の時よ玉の日よ汝帰らずその影を求めて我は歎くのみああ移り行く世の姿ああ移り行く世の姿塵をかぶりて若人の帽子は古び粗衣は裂け長剣は錆をこうむりてしたたる光今いずこ宴の歌も消えうせつ刃音拍車の音もなしああ移り行く世の姿ああ移り行く世の姿されど正しき若人の心は永久に冷むるなし勉めの日にも嬉戯のつどいの日にも輝きつ古りたる殻は消ゆるとも実こそは残れ我が胸にその実を犇と護らなんその実を犇と護らなん。 なんだ誰も歌ってやしないじゃないか。 もう一ぺん。 アインツワイドライ。 おいおい。 宵の口からそんなに騒いで歩いては悪いじゃないか。 君はどこの学生だ。 隠さずに言ってみ給え。 おいおい。 おい僕は帰るぞ。 君は眠っちゃったじゃないか。 だらしないね。 眠った。 僕が。 そうさ。 可哀そうなアベルの話を聞かせているうちに君はぐうぐう眠っちゃったじゃないか。 君は仙人みたいだったぞ。 まさか。 ゆうべからちっとも寝ないで仕事をしていたものだから疲れが出ちゃったんだね。 永いこと眠っていたかい。 なに十分か十五分かな。 ああ寒くなった。 僕はもう帰るぜ。 しっけい。 待ち給え。 君は高等学校の生徒じゃなかったかね。 あたり前さ。 大学へはいる迄は高等学校さ。 君はほんとうに頭が悪いね。 いつから大学生になったんだい。 ことしの三月さ。 そうかね。 君は佐伯五一郎というんだろう。 寝呆けていやがる。 僕はそんな名前じゃないよ。 そうかね。 じゃ何だってこの川をはだかで泳いだりしたんだね。 この川が気に入ったからさ。 それくらいの気まぐれはゆるしてくれたっていいじゃないか。 へんな事を聞くようだが君の友人に熊本君という人がいないかね。 ちょっとこう気取った人で。 熊本。 ――無いね。 やはり工科かね。 そうじゃないんだ。 みんな夢かな。 僕はその熊本君にも逢いたいんだがね。 何を言ってやがる。 寝呆けているんだよ。 しっかりし給え。 僕は帰るぜ。 ああしっけい。 君君。 勉強し給えよ。 大きにお世話だ。 おやきょうはお一人。 おめずらしい。 カルピスをおくれ。 火。 なんです。 あなたは私のペーパーナイフなどお知りでないだろうね。 銀のが。 なくなったんだがね。 存じて居ります。 僕が頂戴いたしました。 何をしているのだ。 ばかなやつだ。 あたし。 十郎様をいけないお方だとばかり存じていました。 ペーパーナイフかね。 ペーパーナイフを盗むなんてへんなやつだ。 でも綺麗だと思ったのなら仕様が無い。 母上がよくない。 ろくに読めもしない洋書なんかを買い込んでただページを切ってそれだけでお得意たいへんなお道楽だ。 いいえ。 奥様はご立派なお方です。 あたし親兄弟の蔭口きくかたいやです。 君はいくつだね。 十九歳になります。 もうお帰り。 誰にも言いやしない。 いいから早く出て行って呉れないか。 道理で話が合うと思った。 おい何か悪い事をしに行こうか。 も少し後悔してみたい。 きょうはいやだ。 おやおや。 まさか死ぬ気じゃないだろうね。 いいかい。 読むぞ。 アグリパイナはロオマの王者カリギュラの妹君として生れた。 漆黒の頭髪と小麦色の頬と痩せた鼻とを持った小柄の婦人であった。 極端に吊りあがった二つの眼は山中の湖沼の如くつめたく澄んでいた。 純白のドレスを好んで着した。 アグリパイナには乳房が無いと宮廷に集う伊達男たちが囁き合った。 美女ではなかった。 けれどもその高慢にして悧※たとえば五月の青葉の如く花無き清純のそそたる姿態は当時のみやび男の一二のものにかえって狂おしい迄の魅力を与えた。 アグリパイナはおのれの仕合せに気がつかないくらいに仕合せであった。 兄は一点非なき賢王としてカイザアたる孤高の宿命に聡くも殉ぜむとする凄烈の覚悟を有しせめてわがひとりの妹アグリパイナにこそまこと人らしき自由を得させたいものと無言の庇護を怠らなかった。 アグリパイナの男性侮辱はきわめて自然に行われしかも歴史的なる見事さにまで達した。 時の唇薄き群臣どもはこの事実を以てアグリパイナの類まれなる才女たる証左となしいよいよやんやの喝采を惜しまなかった。 アグリパイナの不幸はアグリパイナの身体の成熟と共にはじまった。 彼女の男性嘲笑はその結婚に依り完膚無きまでに返報せられた。 婚礼の祝宴の夜アグリパイナはその新郎の荒飲の果の思いつきに依り新郎|手飼の数匹の老猿をけしかけられ饗筵につらなれる好色の酔客たちを狂喜させた。 新郎の名はブラゼンバート。 もともと戦慄に依ってのみ生命の在りどころを知るたちの男であった。 アグリパイナは唇を噛んでこの凌辱に堪えた。 いつの日かこの目前の男性たちすべてに今宵の無礼を悔いさせてやるのだと心ひそかに神に誓った。 けれどもその雪辱の日はなかなかに来なかった。 ブラゼンバートの暴圧には限りがなかった。 こころよい愛撫のかわりに歯齦から血の出るほどの殴打があった。 水辺のしずかな散歩のかわりに砂塵濛々の戦車の疾駈があった。 相剋の結合は含羞の華をひらいた。 アグリパイナはみごもった。 ブラゼンバートはこの事実を知って大笑した。 他意は無かった。 ただおかしかったのである。 アグリパイナはほとんど復讐を断念していた。 この子だけはと弱草一すじのたのみをそこにつないだ。 その子は夏の真昼に生れた。 男子であった。 膚やわらかく唇赤き弱々しげの男子であった。 ドミチウスと呼ばれた。 父君ブラゼンバートは嬰児と初の対面を為しそのやわらかき片頬をむずと抓りあげうむ奇態のものじゃヒッポのよい玩具が出来たわと言い放ち腹をゆすって笑った。 ヒッポとはブラゼンバートお気にいりの牝獅子の名であった。 アグリパイナは産後のやつれた頬に冷い微笑を浮べて応答した。 この子はあなたのお子ではございませぬ。 この子はきっとヒッポの子です。 そのヒッポの子ネロが三歳の春を迎えてブラゼンバートは石榴を種子ごと食って激烈の腹痛に襲われ呻吟転輾の果死亡した。 アグリパイナは折しも朝の入浴中なりしをその死の確報に接しものも言わずに浴場から躍り出て濡れた裸体に白布一枚をまとい息ひきとった婿君の部屋のまえを素通りして風の如く駈け込んでいった部屋はネロの部屋であった。 三歳のネロをひしと抱きしめ助かったドミチウスや私たちは助かったのだよと呻くがごとく囁き涙と接吻でネロの花顔をめちゃめちゃにした。 その喜びも束の間であった。 実の兄カリギュラ王の発狂である。 昨日のやさしき王は一朝にしてロオマ史屈指の暴君たるの栄誉を担った。 かつて叡智に輝やける眉間には短剣で切り込まれたような無慙に深い立皺がきざまれ細く小さい二つの眼には狐疑の焔が青く燃え侍女たちのそよ風ほどの失笑にも将卒たちの高すぎる廊下の足音にも許すことなく苛酷の刑罰を課した。 陰鬱の冷括吠えずして噛む一匹の病犬に化していた。 一夜三人の兵卒はアグリパイナの枕頭にひっそり立った。 一人は死刑の宣告書を持ち一人は宝石ちりばめたる毒杯を一人は短剣の鞘を払って。 『何ごとぞ。 』アグリパイナは威厳を失わずきっと起き直って難詰した。 応えは無かった。 宣告書は手交せられた。 ちらと眼をくれ『このような死罪を言い渡されるような理由はない。 そこ退け下賤の者。 』応えは無かった。 理由はおまえに覚えがある筈そう言ってカリギュラ王は戸口に姿を現わした。 今朝おまえはドミチウスめを抱いて庭園を散歩しながらドミチウスや私たちはどうしてこんなに不仕合せなのだろうねと恨みごとを並べて居った。 わしはそれを聞いてしまった。 隠すな。 謀叛の疑い充分。 ドミチウスと二人で死ぬがよい。 『ドミチウスを殺してはいけません。 』アグリパイナの必死の抗議の声は天来のそれの如く厳粛に響き渡る。 『ドミチウスはあなたのものでない。 また私のものでもございません。 ドミチウスは神の子です。 ドミチウスは美しい子です。 ドミチウスはロオマの子です。 ドミチウスを殺してはいけません。 』疑懼のカリギュラはくすと笑った。 よしよし。 罪一等を減じてあげよう。 遠島じゃ。 ドミチウスを大事にするがよい。 アグリパイナはネロと共に艦に乗せられ南海の一孤島に流された。 単調の日が続いた。 ネロは島の牛の乳を飲みまるまると肥えふとり猛く美しく成長した。 アグリパイナはネロの手をひいて孤島の渚を逍遥し水平線のかなたを指さしドミチウスやロオマはきっとあの辺だよ。 早くロオマへ帰りたいねロオマはこの世で一ばん美しい都だよそう教えて涙にむせた。 ネロは無心に波とたわむれていた。 その頃ロオマは騒動であった。 蒼ざめたカリギュラ王はその臣下の手に依って弑せられるところとなり彼には世嗣は無く全く孤独の身の上だったしこの後誰が位にのぼるのか群臣万民ふるえるほどの興奮を以て私議し合っていた。 後継はさだめられた。 カリギュラの叔父クロオジヤス。 当時すでに五十歳を越えていた。 宮廷に於ける諸勢力に対し過不足ないようことさらに当らずさわらずの人物が選定せられたのである。 クロオジヤスは申し分なき好人物にしてその条件に適っている如く見えた。 ロオマ一ばんの貝殻蒐集家として知られていた。 黒薔薇栽培にも一家言を持っていた。 王位についてみてもかれには何だか居心地のわるい思いであった。 恐縮であった。 むやみ矢鱈に特赦大赦を行った。 わけても孤島に流されているアグリパイナとネロの身の上を恐ろしきものに思い可哀そうでならぬからと誰にとも無き言いわけを頬あからめて呟きつつその二人への赦免の書状に署名を為した。 赦免状を手にした孤島のアグリパイナは狂喜した。 凱旋の女王の如く誇らしげに胸を張ってドミチウスやおまえの世の中が来たと叫びネロを抱いて裸足のまま屋外に駈け出し花一輪無き荒磯を舞うが如く歩きまわりそれから立ちどまって永いことすすり泣いた。 アグリパイナはロオマへ帰って来てもう恐ろしい人はいないぞとのびのびと四肢をのばしてふと背後に痛い視線を感じた。 クロオジヤスの后メッサライナ。 メッサライナはアグリパイナの瞳をひとめ見てこれはあぶないと思った。 烈々の野望の焔を見てとった。 メッサライナにはブリタニカスと呼ばれる世子があった。 父のクロオジヤスに似ておっとりしていた。 ネロの美貌を盛夏の日まわりにたとえるならばブリタニカスは秋のコスモスであった。 ネロは十一歳。 ブリタニカスは九歳。 奇妙な事件が起った。 ネロが昼寝していたとき誰とも知られぬやわらかき手がネロの鼻孔と口とを水に濡れた薔薇の葉二枚でもって覆いこれを窒息させ死にいたらしめむと企てた。 アグリパイナは憤怒に蒼ざめ――。 待て待て。 ひとの忍耐にも限りがある。 一体それは何だね。 ネロの伝記だ。 暴君ネロ。 あいつだってそんなに悪い奴でも無かったのさ。 これから面白くなるのだがな。 アグリパイナはこんなにネロを大事に大事に育てネロを王位にまで押し上げてやりたく思ってあらゆる悪計を用いる。 はてはクロオジヤスの后になりすましてそうしてクロオジヤスを毒殺する。 それからもっともっと悪いことをする。 おかげでネロは位についた。 それから――。 ネロも悪い事をする。 いやアグリパイナはネロの恋を邪魔して――。 うむなるほど。 ネロはそれゆえ母をなくした。 お母さんおゆるし下さい私はあなたのものじゃない。 母は苦しい息の下から囁く。 おまえお母さんが憎いかい。 まあそんなところさ。 追い詰められた人たちはきっときっと血族相食をはじめる。 よせよ。 どうも古い。 大時代だ。 まるで映画物語じゃないか。 呑むか。 敢えて辞さない。 ロオマの人のために。 滅亡の階級のために。 チェリオ。 てるはいますか。 僕は美濃です。 あ。 てる坊。 しつれいします。 え。 なぜ来たの。 あたしは手癖がわるいのよ。 追い出されたのよ。 あたしの家きたなくて驚いたでしょう。 でもおねがいばかにしないでね。 家の人たちみんなやさしいのだもの。 一生懸命やっているのよ。 笑っているの。 なぜだまっているの。 君にはおむこさんがあるのだね。 あらあたしこんな恰好してみっとも無いのね。 このごろろくすっぽ髪も結わないのよ。 あの人とわかれること出来ないか。 僕はなんでもする。 どんな苦しい事でもこらえる。 いいんだいいんだ。 いいんだだいじょうぶだ。 お互い死なない事だけは約束しよう。 なんて言いながら危いのは僕のほうなんだからなあ。 伝統。 文学というもの。 おいおい滝谷君。 ちょっと。 少しは親爺の気持もいたわってやったほうがいいと思うぜ。 はあ。 君はいくつ。 二十三です。 若いなあ。 もういいんだ。 帰ってもいいんだ。 お金あるかい。 あります。 二十円置いて行け。 帰ってもいいですか。 ありがとう。 君を忘れやしないよ。 金木町のW。 私は十年も故郷へ帰らずまたいまは肉親たちと音信さえ不通の有様なので金木町のW様を思い出すことができず残念に存じて居ります。 どなたさまでございましたでしょうか。 おついでの折は汚い家ですがお立ち寄り下さい。 十一月二日の夜六時ごろやはり青森県出身の旧友が二人拙宅へ来る筈ですからどうかその夜はおいで下さい。 お願いいたします。 待つ。 何か失敗なかったかね。 失敗しなかったかね。 わるいこと言わなかったかね。 酒の追憶。 ねえさん。 飲ませて。 たのむわ。 わかる小梅さん気持はわかるだけど駄目。 茶碗酒の荒事なんてあなた私を殺してからお飲み。 申し上げてもよろしゅうございますか。 ああいいとも。 何でも言っておくれ。 どうせ私はあれの事には呆れはてているのだから。 それならば申し上げます。 驚きなすってはいけませんよ。 だいじょうぶだってば。 あの若旦那は深夜台所へ忍び込みあのひやざけ。 げえっ。 海豹。 君酒を飲むんだろう。 そんな言いかたをするなよ。 しかし飲むんだろう。 飲んでもいい。 飲んでもいいじゃない。 飲みたいんだろう。 おうい。 台所にまだ五ん合くらいお酒が残っているだろう。 持って来なさい。 瓶のままでいい。 五ん合。 お燗をつけなくていいんですか。 かまわないだろう。 その茶呑茶碗にでもついでやりなさい。 相変らずいい下着を着ているな。 しかし君はわざと下着の見えるような着附けをしているけれどもそれは邪道だぜ。 ひや酒ってのはこれや水みたいなものじゃないか。 ちっとも何とも無い。 そうかね。 いまに酔うさ。 帰ろう。 そうか。 送らないぜ。 いい下着。 もうひとりのおかたは。 いやそれがこいつなんです。 それからこれはどうもケチくさい話なんですがこれを半分だけ今夜二人で飲むという事にさせていただきたいんですけど。 あそう。 おい。 何か瓶を持って来てくれないか。 いいえそうじゃないんです。 半分は今夜ここで二人で飲んで半分はお宅へ置いて行かせていただくつもりなんです。 なあんだそんなら一緒に今夜全部飲んでしまいましょう。 ではきょうはこれくらいにしておいとまします。 いやいけません。 ウイスキイがまだ少し残っている。 いやそれは残して置きなさい。 あとで残っているのに気が附いた時にはまたわるくないものですよ。 どうします。 アペリチイフは。 ウイスキイが少し残っていてよ。 いいえもう丸山さんからいただいております。 新宿の秋田ご存じでしょう。 あそこでね今夜さいごのサーヴィスがあるそうです。 まいりましょう。 岡島さんは見えないようだね。 いや岡島さんの家はねきのうの空襲で丸焼けになったんです。 それじゃあ来られない。 気の毒だねえせっかくのこんないいチャンス。 わあよく来たものだ。 酒も飲むがね酒と一緒にビイルを持って来てくれ。 チャンポンにしなければ俺は酔えないんだよ。 国を出る時や玉の肌いまじゃ槍傷刀傷。 どれ小便をして来よう。 ひやはからだに毒ですよ。 道徳の適性。 何を言ったって君結局は君の自己弁護じゃないか。 私はこういう随筆は下手なのでは無いかと思う。 私には未だ随筆が書けないのかも知れない。 随筆には虚構は許されないのであって。 熊の手。 内村鑑三の思い出。 或夏信州の沓掛の温泉で先生がいたずらに私の子供にお湯をぶっかけられた所子供が泣き出した。 先生は悲し相な顔をして『俺のすることは皆こんなもんだ親切を仇にとられる。 』と言われた。 なま。 人間歴史の実相。 観念野郎。 本日は晴天なりれいの散歩など試みしに紅梅早も咲きたり天地有情春あやまたず再来す。 誰もそれを認めてくれなくても自分ひとりでは一流の道を歩こうと努めているわけである。 だから毎日要らない苦労をたいへんしなければならぬわけである。 自分でもばかばかしいと思うことがある。 ひとりで赤面していることもある。 ちっとも流行しないが自分では相当のもののつもりで出処進退つつしみつつしみ言動している。 大事のまえの小事には戒心の要がある。 つまらぬ事で蹉跌してはならぬ。 常住坐臥に不愉快なことがあったとしても腹をさすって笑っていなければならぬ。 いまに傑作を書く男ではないかなどともっともらしい口調で間抜けた感慨を述べている。 頭が悪いのではないかと思う。 たまに新聞社から随筆の寄稿をたのまれ勇奮して取りかかるのであるがこれも駄目あれも駄目と破り捨てたかだか十枚前後の原稿に三日も四日も沈吟している。 流石と読者に膝を打たせるほどの光った随筆を書きたい様子なのである。 あまり沈吟していたらそのうちに何がなんだかわからなくなって来た。 随筆というものがどんなものだかわからなくなってしまったのである。 本箱を捜して本を二冊取り出した。 『枕草子』と『伊勢物語』の二冊である。 これに拠って日本古来の随筆の伝統をさぐって見ようと思ったのである。 何かにつけて愚鈍な男である。 けれども。 おまえ日記をつけているようだね。 ちょっと貸しなさい。 貸さなくてもいいがそれでは僕は酒を飲まなくてはならぬ。 愛とは何だ。 わかるか。 愛とは義務の遂行である。 悲しいね。 またいう愛とは道徳の固守である。 更にいう愛とは肉体の抱擁である。 いずれも聞くべき言ではある。 そうかも知れない。 正確かも知れない。 けれどももう一つもう一つ何か在るのだ。 いいか愛とは――おれにもわからない。 そいつがわかったらな。 手工の巧みならん事を祈るお祭り。 あんたはいい。 あんたはいいのです。 ビイルなんか飲んで上品がっていたって仕様がないじゃねえか。 ありがとう。 ハバカリサマ。 あれが佐渡だね。 そうです。 灯が見えるかね。 佐渡は寝たかよ灯が見えぬというのは起きていたら灯が見えるという反語なのだから灯が見える筈だね。 見えません。 そうかね。 それじゃあの唄は嘘だね。 あれは何という島ですか。 さあもう見えて来ました。 もうすぐですか。 もう十|分でございます。 パパさっきの島は。 佐渡ですよ。 パパもよくわからないのですがね。 つまり島の形がこんなぐあいに。 こんなぐあいになっていて汽船がここを走っているので島が二つあるように見えたのでしょう。 工。 だんな。 よし行こう。 どこへですか。 そこへ行くのさ。 はは。 お客が多いのかね。 いいえもう駄目です。 九月すぎるとさっぱりいけません。 君は東京のひとかね。 へへ。 福田旅館はここではいいほうなんだろう。 今夜これから直ぐに相川まで行ってしまおうかとも思っていたのだが雨も降っているし心細くなっているところへ君が声をかけたんだ。 提燈を見たら福田旅館と書かれていたのでここへ一泊ときめてしまったんだ。 僕は新潟の人から聞いて来たんだ。 提燈を見てはっと思い出したのだ。 君のところが一等いい宿屋だと皆言っていたよ。 おそれいります。 ほんのあばらやですよ。 この島の名産は何かね。 はい海産物ならたいていのものがたくさんとれます。 そうかね。 君は佐渡の生れかね。 はい。 内地へ行って見たいと思うかね。 いいえ。 そうだろう。 白米はおいしいね。 そうでしょうか。 お茶をいただきましょう。 お粗末さまでした。 いや。 まちを見て来ます。 よしつね。 お酒を飲みに来たのです。 料理は要らないのです。 宿でごはんを食べて来たばかりなんだ。 蟹も鮑も蠣もみんな宿でたべて来ました。 お勘定の心配をしてそう言うわけではないのです。 いやその心配もありますけれどそれよりも料理がむだですよ。 むだな事です。 僕は何も食べません。 お酒を二三本飲めばいいのです。 でもせっかくこしらえてしまったのですからどうぞめしあがって下さい。 芸者衆でも呼びましょうか。 そうね。 料理をたべませんか。 僕は宿でたべて来たばかりなのです。 むだですよ。 たべて下さい。 たべなさいよ。 客の前でたべるのが恥ずかしいのでしたら僕は帰ってもいいのです。 あとで皆でたべて下さい。 もったいないよ。 いただきます。 眠くなって来た。 帰ります。 死ぬほど淋しいところ。 ゆうべよしつねという料理屋に行ったがつまらなかった。 たてものは大きいが悪いところだね。 ええ。 このごろ出来た家ですよ。 古くからの寺田屋などは格式もあっていいそうです。 そうです。 格式のある家でなければだめです。 寺田屋へ行けばよかった。 お客さんは料理屋などおきらいかと思っていました。 きらいじゃないさ。 行っていらっしゃい。 四十の男。 彼が旅に出かけようと思ったのはもとより定った用事のためではなかったとしても兎も角それは内心の衝動だったのだ。 彼はその衝動を抑制して旅に出なかった時には自己に忠実でなかったように思う。 自己を欺いたように思う。 見なかった美しい山水や失われた可能と希望との思いが彼を悩ます。 よし現存の幸福が如何に大きくともこの償い難き喪失の感情は彼に永遠の不安を与える。 お風呂へはいりたいのですが。 さあお風呂は四時半からですけど。 どこか名所は無いだろうか。 さあ。 こんなに寒くなりましたから。 金山があるでしょう。 ええことしの九月から誰にも中を見せない事になりました。 お昼のお食事はどういたしましょう。 たべません。 夕食を早めにして下さい。 それは茶わんむしですよ。 食べて行きなさい。 そうか。 鉱山の人たちだね。 奪い合い。 青んぼ。 青んぼ。 めし。 いいかねいいかねはじめるぞ。 はい。 おれはことし三十になる。 孔子は三十にして立つと言ったがおれは立つどころでは無い。 倒れそうになった。 生き甲斐を身にしみて感じることが無くなった。 強いて言えばおれはめしを食うとき以外は生きていないのである。 ここに言う『めし』とは生活形態の抽象でもなければ生活意慾の概念でもない。 直接にあの茶碗一ぱいのめしのことを指して言っているのだ。 あのめしを噛むその瞬間の感じのことだ。 動物的な満足である。 下品な話だ。 紅燈に行きてふたたび帰らざる人をまことのわれと思ふや。 十字街。 苦笑に終る。 やあしまった。 おれはウメカワじゃ無いんだ。 青んぼ。 めし。 なんだいこれは。 号令口調というんだね。 孔子|曰くはひどいね。 青んぼ。 あかいカンナ。 矢車の花いとし。 あかいカンナの花でした。 私の心に似ています。 云々。 矢車の花いとし。 一つ二つ三つ私のたもとに入れました。 云々。 十字街。 あかいカンナの花でした。 私の心に似ています。 青んぼ。 あッ菊池寛だ。 感情装飾。 この春は仏心なども出で酒もあり肴もあるをよろこばぬなり。 おじさんを知ってるだろう。 おじさんを忘れちゃいけない。 はいこれはおじさんから。 もう夢川利一なんて名前はよすことにした。 堂々辻馬桂治でやってみるつもりだ。 兄さん。 折ったな。 降りて来い。 枝を折ったのはおれだ。 それはおれの木だ。 おかしいか。 おかしい。 海を渡って来たろう。 うん。 なんだか知れぬがおおきい海を。 うん。 やっぱりおれと同じだ。 ふるさとが同じなのさ。 一目見ると判る。 おれたちの国のものはみんな耳が光っているのだよ。 よせよせ。 こっちへ手むかっているのじゃないよ。 ほえざるという奴さ。 毎朝あんなにして太陽に向って吠えたてるのだ。 これはみんな猿か。 そうだよ。 しかしおれたちとちがう猿だ。 ふるさとがちがうのさ。 ここはどこだろう。 おれも知らないのだよ。 しかし日本ではないようだ。 そうか。 でもこの木は木曾樫のようだが。 そうでないよ。 枝の生えかたがちがうしそれに木肌の日の反射のしかただって鈍いじゃないか。 もっとも芽が出てみないと判らぬけれど。 どうして芽が出ないのだ。 春から枯れているのさ。 おれがここへ来たときにも枯れていた。 あれから四月五月六月と三つきも経っているがしなびて行くだけじゃないか。 これはことに依ったら挿木でないかな。 根がないのだよきっと。 あっちの木はもっとひどいよ。 奴等のくそだらけだ。 坐らないか。 話をしよう。 ここはいいところだろう。 この島のうちではここがいちばんいいのだよ。 日が当るし木があるしおまけに水の音が聞えるし。 おれは日本の北方の海峡ちかくに生れたのだ。 夜になると波の音が幽かにどぶんどぶんと聞えたよ。 波の音っていいものだな。 なんだかじわじわ胸をそそるよ。 おれには水の音よりも木がなつかしいな。 日本の中部の山の奥の奥で生れたものだから。 青葉の香はいいぞ。 それあいいさ。 みんな木をなつかしがっているよ。 だからこの島にいる奴は誰にしたって一本でも木のあるところに坐りたいのだよ。 ここをおれの場所にするのにこんな苦労をしたのさ。 おれは知らなかったものだから。 いいのだよ。 構わないのだよ。 おれはひとりぼっちなのだ。 いまからここをふたりの場所にしてもいい。 だがもう枝を折らないようにしろよ。 おどろくなよ。 毎日こうなのだ。 どうなるのだ。 みんなおれたちを狙っている。 見せ物だよ。 おれたちの見せ物だよ。 だまって見ていろ。 面白いこともあるよ。 何を言っているのだ。 教えて呉れ。 あの子供たちは何を言っているのだ。 いつ来て見ても変らないとほざいたのだよ。 そうか。 すると君は嘘をついていたのだね。 ふびんだったから。 泣くのはやめろよ。 どうにもならぬ。 あの石塀の上に細長い木の札が立てられているだろう。 おれたちには裏の薄汚く赤ちゃけた木目だけを見せているがあのおもてにはなんと書かれてあるか。 人間たちはそれを読むのだよ。 耳の光るのが日本の猿だと書かれてあるのさ。 いやもしかしたらもっとひどい侮辱が書かれてあるのかも知れないよ。 みんな知らないのか。 知るものか。 知っているのはおそらくおれと君とだけだよ。 なぜ逃げないのだ。 君は逃げるつもりか。 逃げる。 こわくないか。 よせよせ。 降りて来いよ。 ここはいいところだよ。 日が当るし木があるし水の音が聞えるしそれにだいいちめしの心配がいらないのだよ。 そもさん何者。 さればわづかにまねごと師。 氣にするがものもない幽靈か。 ハロルドのマント羽織つた莫斯科ツ子。 他人の癖の飜案か。 はやり言葉の辭書なのか。 いやさてもぢり言葉の詩とでもいつたところぢやないかよ。 あなた後悔しないやうに。 だまつて居れば名を呼ぶし近寄つて行けば逃げ去るのだ。 放してくれ。 通信。 ヘルマンとドロテア。 風の便り。 風の便り。 風の便り。 私べつに惡いことをするのではありませんからわざと葉書にかきます。 忘れてゐました。 新年おめでたうございます。 彼が大學へはひつてからは小説に心をそそられなかつた。 文豪として名高くなることはいまの彼にとつてゆめのゆめだ。 小説を書いてたとへばそれが傑作として世に喧傳され有頂天の歡喜を得たとしてもそれは一瞬のよろこびである。 おのれの作品に對する傑作の自覺などあり得ない。 はかない一瞬間の有頂天がほしくて五年十年の屈辱の日を送るといふことは彼には納得できなかつた。 彼にはただ情熱のもつとも直截なはけ口が欲しかつたのである。 考へることよりも唄ふことよりもだまつてのそのそ實行したはうがほんたうらしく思へた。 ゲエテよりもナポレオン。 ゴリキイよりもレニン。 ああ。 樣といふ字のこの不器用なくづしかたに彼は見覺えがあつたのである。 五年前の賀状を思ひ出したのであつた。 彼はそれに眼をとめた。 妻がふるさとの彼の父へ林檎が着いたことを知らせにしたためた手紙であつた。 投げて置かないですぐ出すといい。 さう呟きつつふと首をかしげた。 ああ。 樣といふ字のこの不器用なくづしかたに彼は見覺えがあつたのである。 チエホフ書翰集。 オネーギン。 オネーギン。 チエホフ書翰集。 風の便り。 オネーギン。 わたしがあなたにお手紙を書くそのうへ何をつけたすことがいりませう。 もうこれで筆をおきます。 讀み返すのもおそろしい羞恥の念と恐怖の情で消えもいりたい思ひがします。 けれども私は高潔無比のお心をあてにしながらひと思ひに私の運をあなたのお手にゆだねます。 タチアナより。 オネーギン樣。 通信。 群盜。 新生。 鶴。 鶴。 鶴。 鶴。 鶴。 鶴。 ヘルマンとドロテア。 野鴨。 あらし。 そもさん何者。 さればわずかにまねごと師。 気にするがものもない幽霊か。 ハロルドのマント羽織った莫斯科ッ子。 他人の癖の飜案か。 はやり言葉の辞書なのか。 いやさてもじり言葉の詩とでもいったところじゃないかよ。 あなた後悔しないように。 だまって居れば名を呼ぶし近寄って行けば逃げ去るのだ。 放してくれ。 通信。 ヘルマンとドロテア。 風の便り。 風の便り。 風の便り。 私べつに悪いことをするのではありませんからわざと葉書にかきます。 忘れていました。 新年おめでとうございます。 彼が大学へはいってからは小説に心をそそられなかった。 文豪として名高くなることはいまの彼にとってゆめのゆめだ。 小説を書いてたとえばそれが傑作として世に喧伝され有頂天の歓喜を得たとしてもそれは一瞬のよろこびである。 おのれの作品に対する傑作の自覚などあり得ない。 はかない一瞬間の有頂天がほしくて五年十年の屈辱の日を送るということは彼には納得できなかった。 彼にはただ情熱のもっとも直截なはけ口が欲しかったのである。 考えることよりも唄うことよりもだまってのそのそ実行したほうがほんとうらしく思えた。 ゲエテよりもナポレオン。 ゴリキイよりもレニン。 ああ。 様という字のこの不器用なくずしかたに彼は見覚えがあったのである。 五年前の賀状を思い出したのであった。 彼はそれに眼をとめた。 妻がふるさとの彼の父へ林檎が着いたことを知らせにしたためた手紙であった。 投げて置かないですぐ出すといい。 そう呟きつつふと首をかしげた。 ああ。 様という字のこの不器用なくずしかたに彼は見覚えがあったのである。 チエホフ書翰集。 オネーギン。 オネーギン。 チエホフ書翰集。 風の便り。 オネーギン。 わたしがあなたにお手紙を書くそのうえ何をつけたすことがいりましょう。 もうこれで筆をおきます。 読み返すのもおそろしい羞恥の念と恐怖の情で消えもいりたい思いがします。 けれども私は高潔無比のお心をあてにしながらひと思いに私の運をあなたのお手にゆだねます。 タチアナより。 オネーギン様。 通信。 群盗。 新生。 鶴。 鶴。 鶴。 鶴。 鶴。 鶴。 ヘルマンとドロテア。 野鴨。 あらし。 和平建国。 下々の手前達が兎や角と御政事向の事を取沙汰致すわけでは御座いませんが先生昔から唐土の世には天下太平の兆には綺麗な鳳凰とかいう鳥が舞い下ると申します。 然し当節のように何も彼も一概に綺麗なものや手数のかかったもの無益なものは相成らぬと申してしまった日には鳳凰なんぞは卵を生む鶏じゃ御座いませんからいくら出て来たくも出られなかろうじゃ御座いませんか。 外のものは兎に角と致して日本一お江戸の名物と唐天竺まで名の響いた錦絵まで御差止めに成るなぞは折角天下太平のお祝いを申しに出て来た鳳凰の頸をしめて毛をむしり取るようなものじゃ御座いますまいか。 散柳窓夕栄。 視察。 国策型。 視察。 生活感情。 一生活人。 愛と信実。 においませんか。 僕のからだくさいでしょう。 いやなんともない。 そうですか。 においませんか。 二三日前からにんにくを食べているんです。 あんまりくさいようだったら帰ります。 いやなんともない。 三田さんの事は野営地で知り何とも言えない気持でした。 桔梗と女郎花の一面に咲いている原で一しお淋しく思いました。 あまり三田さんらしい死に方なので。 自分もいま暫くで三田さんの親友として恥かしからぬ働きをしてお目にかける事が出来るつもりでありますが。 顔が綺麗だって事は一つの不幸ですね。 隊には小生よりも背の大きな兵隊が二三人居ります。 しかしながらスマートというものは八寸五分迄に限るという事を発見いたしました。 僕の顔にだって欠点はあるんですよ誰も気がついていないかも知れませんけど。 哲学者のような。 三田さんはあんなに真面目な人ですからね僕はかなわないんですよ。 三田さんの言う事はいちいちもっともだと思うし僕はどうしたらいいのかわからなくなってしまうのですよ。 人間は真面目でなければいけないがしかしにやにや笑っているからといってその人を不真面目ときめてしまうのも間違いだ。 とても苦しい。 何か激励の言葉を送ってよこして下さい。 激励の言葉を。 立派な言葉。 三田君はどうです。 いいほうだ。 いちばんいいかも知れない。 こんどの三田さんの詩は傑作ですよ。 どうか一つゆっくり読んでみて下さい。 いいほうだ。 詩。 いちばんいい。 詩人気質。 散華。 三田君はやっぱりいいやつだねえ。 実にいいところがある。 いいほうだ。 いちばんいいかも知れない。 そうかなあ。 我はその手に釘の痕を見わが指を釘の痕にさし入れわが手をその脅に差入るるにあらずば信ぜじ。 どうかなあ。 死んで下さい。 死んで下さい。 いちばんいい詩人。 三田君はいい。 たしかにいい。 いちばんよい。 やっぱりそうか。 三田君がアッツ玉砕の神の一柱であった事をただいま新聞で知りました。 三田君を偲ぶために何かよい御計画でもありましたならばお知らせ下さい。 北極星。 三田の弟さんだ。 僕のうちでも林檎と駒下駄をもらった。 林檎はまだ少しすっぱいようだから二三日置いてたべるといいかも知れない。 駒下駄は僕と君とお揃いのを一足ずつ。 気持のいいお土産だろう。 詩を全部載せますか。 まあそんな事になるだろうな。 初期のはあんまりよくなかったようですが。 そんな事を言ったって。 こりゃどうも太宰のさきには死なれないね。 どんな事を言われるかわかりゃしない。 春の絵巻。 質実な作家が質実な作家として認められることはこれは大変なことで。 愛はこの世に存在する。 きっと在る。 見つからぬのは愛の表現である。 その作法である。 私にはあなたの胃袋や骨組だけが見えてあなたの白い膚が見えません。 私は悲しいめくらです。 私小説と懺悔。 風にもあてず。 惚れざるはなし。 他人。 センチメンタリスト。 あなたは私ひとりのものにするにはよすぎます。 こんなのじゃ仕様がない。 文藝。 罪と罰。 田園交響楽。 阿部一族。 女の決闘。 わが子を語れ。 女の決闘。 臆病な苦労。 自信の無さ。 なんですか。 植えられてしまったとはどんなことですか。 いいえねその庭の隅に薔薇が植えられて在るでしょう。 それがだまされて買ったんです。 私とどんな関係があるんですか。 おかしなことを言うじゃないですか。 私の顔を見て植えられたとはおかしなことを言うじゃないですか。 君のことを言ってるんじゃないよ。 先日私はだまされて不愉快だからそのことを言っているのですよ。 君はそんなものの言いかたをしちゃいけないよ。 へん。 こごとを聞きに来たようなものだ。 お互い一対一じゃねえか。 五厘でも一銭でももうけさせてもらったら私は商人だ。 どんなにでもへえへえしてあげるがそうでもなけれあ何もお前さんにこごとを聞かされるようなことはねえんだ。 それあ理窟だ。 そんなら僕だって理窟を言うが君は僕を訪ねて来たんじゃないか。 訪ねたからそれがどうしました。 私だって一家のあるじだ。 こごとなんて聞きたくないや。 だまされたなんて言うけれどこうして植えてたのしんでいるじゃないですか。 それあたのしんでいる。 僕は四円もとられたんだぜ。 安いもんじゃないですか。 カフェへ行って酒を呑むことを考えなさい。 カフェなんかへは行かないよ。 行きたくても行けないんだ。 四円なんて僕にはおそろしく痛かったんですよ。 痛かったかどうかこっちの知ったことじゃないんです。 そんなに痛かったらあっさり白状して断ればよかったんだ。 それが僕の弱さだ。 断れなかったんだ。 そんなに弱くてどうしますか。 男一匹そんなに弱くてよくこの世の中に生きて行けますね。 僕もそう思うんだ。 だからこれからは要らないときにははっきり要らないと断ろうと覚悟していたのだ。 そこへ君が来たというわけなんだ。 はははは。 そういうわけですか。 なるほどねえ。 わかりました。 おいとましましょう。 こごとを聞きに来たんじゃないんだからなあ。 一対一だ。 そっくりかえっていることは無いんだ。 その作家の日常の生活がそのまま作品にもあらわれて居ります。 ごまかそうたってそれは出来ません。 生活以上の作品は書けません。 ふやけた生活をしていていい作品を書こうたってそれは無理です。 どうやら『文人』の仲間入り出来るようになったのがそんなに嬉しいのかね。 宗匠頭巾をかぶって『どうも此頃の青年はテニヲハの使用が滅茶で恐れ入りやす。 』などはげろが出そうだ。 どうやら『先生』と言われるようになったのがそんなに嬉しいのかね。 八卦見だって先生と言われています。 どうやら世の中から名士の扱いを受けて映画の試写やら相撲の招待をもらうのがそんなに嬉しいのかね。 此頃すこしはお金がはいるようになったそうだがそれがそんなに嬉しいのかね。 小説を書かなくたって名士の扱いを受ける道があったでしょう。 殊にお金は他にもうける手段はいくらでもあったでしょうに。 立身出世かね。 小説を書きはじめた時のあの悲壮ぶった覚悟のほどはどうなりました。 けちくさいよ。 ばかに気取ってるじゃないか。 それでも何か書いたつもりでいるのかね。 時評に依るとお前の心境いよいよ澄み渡ったそうだねあはは。 家庭の幸福か。 妻子のあるのはお前ばかりじゃありませんよ。 図々しいねえ。 此頃めっきり色が白くなったじゃないか。 万葉を読んでいるんだってね。 読者をあんまりだまさないで下さい。 図に乗ってあんまり人をなめているとみんなばらしてやりますよ。 僕が知らないと思っているのですか。 責任が重いんだぜ。 わからないかね。 一日一日責任が重くなっているんだぜ。 もっとまともに苦しもうよ。 まともに生き切る努力をしようぜ。 明日の生活の計画よりはきょうの没我のパッションが大事です。 戦地に行った人たちの事を考えろ。 正直はいつの時代でも美徳だと思います。 ごまかそうたってだめですよ。 明日の立派な覚悟よりきょうのつたない献身がいま必要であります。 お前たちの責任は重いぜ。 こんなに丈ばかり大きくなって私はどんなに恥ずかしい事か。 そろそろ実をつけなければならないのだけれどもおなかに力が無いからいきむ事が出来ないの。 みんなは葦だと思うでしょう。 やぶれかぶれだわ。 トマトさんちょっと寄りかからせてね。 なんだなんだ竹じゃないか。 本気でおっしゃるの。 気にしちゃいけねえ。 お前さんは夏|痩せなんだよ。 粋なものだ。 ここの主人の話に拠ればお前さんは芭蕉にも似ているそうだ。 お気に入りらしいぜ。 葉ばかり伸びるものだから私を揶揄なさっているのよ。 ここの主人はいい加減よ。 私ここの奥さんに気の毒なの。 それや真剣に私の世話をして下さるのだけれども私は背丈ばかり伸びて一向にふとらないのだもの。 トマトさんだけはどうやら実を結んだようね。 ふんどうやらね。 もっとも俺は下品な育ちだから放って置かれても実を結ぶのさ。 軽蔑し給うな。 これでも奥さんのお気に入りなんだからね。 この実は俺の力瘤さ。 見給えうんと力むとほらむくむく実がふくらむ。 も少し力むとこの実があからんで来るのだよ。 ああすこし髪が乱れた。 散髪したいな。 僕は孤独なんだ。 大器晩成の自信があるんだ。 早く毛虫に這いのぼられる程の身分になりたい。 どれきょうも高邁の瞑想にふけるか。 僕がどんなに高貴な生まれであるか誰も知らない。 クルミのチビは何を言っているのかしら。 不平家なんだわきっと。 不良少年かも知れない。 いまに私が花咲けばさだめしいやらしい事を言って来るに相違ない。 用心しましょう。 あれ私のお尻をくすぐっているのは誰。 隣りのチビだわ。 本当に本当にチビの癖に根だけは一人前に張っているのね。 高邁な瞑想だなんてとんでもない奴さ。 知らん振りしてやりましょう。 どれこう葉を畳んで眠った振りをしていましょういまはたった二枚しか葉が無いけれども五年|経ったら美しい花が咲くのよ。 どうにもこうにも話にならねえ。 ゴミじゃ無え。 こう見えたってにんじんの芽だ。 一箇月前から一分も伸びねえ。 このまんまであった。 永遠にわしゃこうだろう。 みっともなくていけねえ。 誰かわしを抜いてくれないか。 やけくそだよ。 あははは。 馬鹿笑いが出ちゃった。 地盤がいけないのですね。 石ころだらけで私はこの白い脚を伸ばす事が出来ませぬ。 なんだか毛むくじゃらの脚になりました。 ごぼうの振りをしていましょう。 私は素直にあきらめているの。 私は今はこんなに小さくてもやがて一枚の座蒲団になるんですって。 本当かしら。 なんだか自嘲したくて仕様が無いの。 軽蔑しないでね。 ええとこう行ってこうからむのか。 なんて不細工な棚なんだ。 からみ附くのに大骨折りさ。 でもこの棚を作る時にここの主人と細君とは夫婦喧嘩をしたんだからね。 細君にせがまれたらしくばかな主人はもっともらしい顔をしてこの棚を作ったのだがいやどうにも不器用なので細君が笑いだしたら主人の汗だくで怒って曰くさそれではお前がやりなさいへちまの棚なんて贅沢品だ生活の様式を拡大するのは僕はいやなんだ僕たちはそんな身分じゃないと妙に興覚めな事を言い出したので細君も態度も改めそれは承知して居りますでもへちまの棚くらいは在ってもいいと思いますこんな貧乏な家にでもへちまの棚が出来るのだというのはなんだか奇蹟みたいで素晴しい事だと思います私の家にでもへちまの棚が出来るなんて嘘みたいで私は嬉しくてなりませんと哀れな事を主張したので主人はまた渋々この棚の製作を継続しやがった。 どうもここの主人は少し細君に甘いようだて。 どれどれ親切を無にするのも心苦しいええとこう行ってこうからみ附けっていうわけかああ実に不細工な棚である。 からみ附かせないように出来ている。 意味ないよ。 僕は不仕合わせなへちまかも知れぬ。 ここの庭ではやはり私が女王だわ。 いまはこんなにからだが汚れて葉の艶も無くなっちゃったけれどこれでも先日までは次々と続けて十輪以上も花が咲いたものだわ。 ご近所の叔母さんたちがおお綺麗と言ってほめるとここの主人が必ずぬっと部屋から出て来て叔母さんたちにだらし無くぺこぺこお辞儀するので私はとても恥ずかしかったわ。 あたまが悪いんじゃないかしら。 主人はとても私を大事にしてくれるのだけれどいつも間違った手入ればかりするのよ。 私が喉が乾いて萎れかけた時にはただうろうろして奥さんをひどく叱るばかりで何も出来ないの。 あげくの果には私の大事な新芽を気が狂ったみたいにちょんちょん摘み切ってしまってうむこれでどうやらなんて真顔で言って澄ましているのよ。 私は苦笑したわ。 あたまが悪いのだから仕方がないのね。 あの時新芽をあんなに切られなかったら私はたしかに二十は咲けたのだわ。 もう駄目。 あんまり命かぎり咲いたものだから早く老い込んじゃった。 私は早く死にたい。 おやあなたは誰。 我輩をせめて竜の鬚とでも呼んでくれ給え。 ねぎじゃないの。 見破られたか。 面目ない。 何を言ってるの。 ずいぶん細いねぎねえ。 ええ面目ない。 地の利を得ないのじゃ。 世が世ならいや敗軍の将愚痴は申さぬ。 我輩はこう寝るぞ。 是生滅法。 盛者必衰。 いっそ化けて出ようか知ら。 新佐渡情話。 兄いもうと。 大谷日出夫という役者はたのもしくていいわ。 あの人が出て来るとなんだか安心ですの。 決して負けることがないのです。 芸術映画は退屈です。 何事も芸の極致は同じであります。 極致。 敗者の糧。 映画でも見ようか。 あ。 髪の毛。 いいえ。 爵位があるから貴族だというわけにはいかないんだぜ。 爵位が無くても天爵というものを持っている立派な貴族のひともあるしおれたちのように爵位だけは持っていても貴族どころか賤民にちかいのもいる。 岩島なんてのはあんなのはまったく新宿の遊廓の客引き番頭よりももっとげびてる感じじゃねえか。 こないだも柳井の兄貴の結婚式にあんちきしょうタキシイドなんか着てなんだってまたタキシイドなんかを着て来る必要があるんだそれはまあいいとしてテーブルスピーチの時にあの野郎ゴザイマスルという不可思議な言葉をつかったのにはげっとなった。 気取るという事は上品という事とぜんぜん無関係なあさましい虚勢だ。 高等|御下宿と書いてある看板が本郷あたりによくあったものだけれどもじっさい華族なんてものの大部分は高等|御乞食とでもいったようなものなんだ。 しんの貴族はあんな岩島みたいな下手な気取りかたなんかしやしないよ。 おれたちの一族でもほんものの貴族はまあママくらいのものだろう。 あれはほんものだよ。 かなわねえところがある。 おむすびがどうしておいしいのだか知っていますか。 あれはね人間の指で握りしめて作るからですよ。 かず子やお母さまがいま何をなさっているかあててごらん。 お花を折っていらっしゃる。 おしっこよ。 塩辛かったかしら。 お上手に出来ました。 かず子はまだ駄目なのね。 朝御飯が一番おいしくなるようにならなければ。 お母さまは。 おいしいの。 そりゃもう。 私は病人じゃないもの。 かず子だって病人じゃないわ。 だめだめ。 あ。 なに。 お母さまもさっき何かお思い出しになったのでしょう。 どんな事。 忘れたわ。 私の事。 いいえ。 直治の事。 そう。 かも知れないわ。 覚悟。 あきらめてしまったつもりなんだけどおいしいスウプをいただいて直治を思ってたまらなくなった。 もっと直治によくしてやればよかった。 大丈夫よ。 直治は大丈夫よ。 直治みたいな悪漢はなかなか死ぬものじゃないわよ。 死ぬひとはきまっておとなしくて綺麗でやさしいものだわ。 直治なんて棒でたたいたって死にやしない。 それじゃかず子さんは早死にのほうかな。 あらどうして。 私なんか悪漢のおデコさんですから八十歳までは大丈夫よ。 そうなの。 そんならお母さまは九十歳までは大丈夫ね。 ええ。 意地わるね。 蝮の卵だ。 焼いちゃおう。 何をしていらっしゃるのですか。 蝮の卵を燃やしているのです。 蝮が出るとこわいんですもの。 大きさはどれくらいですか。 うずらの卵くらいで真白なんです。 それじゃただの蛇の卵ですわ。 蝮の卵じゃないでしょう。 生の卵はなかなか燃えませんよ。 さあみんな拝むのよ。 可哀そうな事をするひとね。 蝮かと思ったらただの蛇だったの。 けれどちゃんと埋葬してやったから大丈夫。 あの蛇は。 卵の母親。 そうそうよ。 けさからお庭を歩きまわっていたのよ。 そうでしょう。 卵を捜しているのですよ。 可哀そうに。 お母さまおいでなさる。 だってお願いしていたのだもの。 きめましたよ。 きめたって何を。 全部。 だって。 どんなお家だか見もしないうちに。 和田の叔父さまがいい所だとおっしゃるのだもの。 私はこのまま眼をつぶってそのお家へ移って行ってもいいような気がする。 そうね。 それではかず子も眼をつぶるわ。 どうなさったの。 伊豆へ行きたくなくなったの。 いいえ。 お母さま。 お顔色がお悪いわ。 なんでもないの。 かず子がいるからかず子がいてくれるから私は伊豆へ行くのですよ。 かず子がいてくれるから。 かず子がいなかったら。 死んだほうがよいのです。 お父さまの亡くなったこの家でお母さまも死んでしまいたいのよ。 お母さま思ったよりもいい所ね。 そうね。 だいいち空気がいい。 清浄な空気です。 本当に。 おいしい。 ここの空気はおいしい。 次にはお座敷からの眺めがよい。 やわらかな景色ねえ。 空気のせいかしら。 陽の光がまるで東京と違うじゃないの。 光線が絹ごしされているみたい。 すこしこのまま寝かして。 お母さま。 肺炎になるかも知れませんでございます。 けれども肺炎になりましても御心配はございません。 入院したほうが。 いやその必要はございませんでしょう。 きょうは一つ強いお注射をしてさし上げますからお熱もさがる事でしょう。 名医かも知れないわ。 大奥さまはもはや御病気ではございません。 でございますからこれからは何をおあがりになっても何をなさってもよろしゅうございます。 本当に名医だわ。 私はもう病気じゃない。 お母さま障子をあけましょうか。 雪が降っているのよ。 もう病気じゃない。 こうして坐っていると以前の事が皆ゆめだったような気がする。 私は本当は引越し間際になって伊豆へ来るのがどうしてもなんとしてもいやになってしまったの。 西片町のあのお家に一日でも半日でも永くいたかったの。 汽車に乗った時には半分死んでいるような気持でここに着いた時もはじめちょっと楽しいような気分がしたけど薄暗くなったらもう東京がこいしくて胸がこげるようで気が遠くなってしまったの。 普通の病気じゃないんです。 神さまが私をいちどお殺しになってそれから昨日までの私と違う私にしてよみがえらせて下さったのだわ。 おひめさま。 中井さん。 起きて下さい火事です。 はい直ぐ行きます。 お母さま心配しないで大丈夫休んでいらして。 火事だ。 火事だ。 お別荘が火事だ。 おどろいたでしょう。 どうしたのですか。 私がいけなかったのです。 消したつもりの薪を。 わかりました。 お母さんは。 お座敷にやすませておりますの。 ひどくおどろいていらして。 しかしまあ。 家に火がつかなくてよかった。 なにね薪がちょっと燃えただけなんです。 ボヤとまでも行きません。 そうですか。 よくわかりました。 では帰りますからどうぞお母さんによろしく。 それではね今夜の事はべつにとどけない事にしますから。 二宮さんはどう言われました。 とどけないっておっしゃいました。 なんでもない事だったのね。 燃やすための薪だもの。 どうしたのよ。 どうしたのよ。 いま私はじめて聞いてまあゆうべはいったいどうしたのよ。 すみません。 すみませんも何も。 それよりもお嬢さん警察のほうは。 いいんですって。 まあよかった。 でもお嬢さんがおひとりで廻るのがおいやだったら私も一緒について行ってあげますよ。 ひとりで行ったほうがいいのでしょう。 ひとりで行ける。 そりゃひとりで行ったほうがいいの。 ひとりで行くわ。 昨夜は申しわけない事を致しました。 これから気をつけますからどうぞおゆるし下さいまし。 村長さんによろしく。 ゆうべはごめんなさい。 まだどこかへ行くの。 ええこれからよ。 ご苦労さまね。 これからも気をつけて下さいよ。 宮様だか何さまだか知らないけれども私は前からあんたたちのままごと遊びみたいな暮し方をはらはらしながら見ていたんです。 子供が二人で暮しているみたいなんだからいままで火事を起さなかったのが不思議なくらいのものだ。 本当にこれからは気をつけて下さいよ。 ゆうべだってあんたあれで風が強かったらこの村全部が燃えたのですよ。 代人ではいけないのでしょうか。 軍からあなたに徴用が来たのだから必ず本人でなければいけない。 戦争には必ず勝つ。 戦争には必ず勝つがしかし皆さんが軍の命令通りに仕事しなければ作戦に支障を来し沖縄のような結果になる。 必ず言われただけの仕事はやってほしい。 それからこの山にもスパイが這入っているかも知れないからお互いに注意すること。 皆さんもこれからは兵隊と同じに陣地の中へ這入って仕事をするのであるから陣地の様子は絶対に他言しないように充分に注意してほしい。 あいつがスパイか。 なぜあんな事を言うのかしら。 外人みたいだから。 あなたもあたしをスパイだと思っていらっしゃる。 いいえ。 私日本人ですわ。 おい君。 君はこっちへ来給え。 毎日つらいでしょう。 きょうは一つこの材木の見張番をしていて下さい。 ここに立っているのですか。 ここは涼しくて静かだからこの板の上でお昼寝でもしていて下さい。 もし退屈だったらこれはお読みかも知れないけど。 こんなものでも読んでいて下さい。 トロイカ。 ありがとうございます。 うちにも本のすきなのがいましていま南方に行っていますけど。 ああそう。 あなたの御主人なのですね。 南方じゃあたいへんだ。 とにかくきょうはここで見張番という事にしてあなたのお弁当はあとで自分が持って来てあげますからゆっくり休んでいらっしゃい。 お弁当を持って来ました。 おひとりでつまらないでしょう。 やあきょうは御苦労さまでした。 もうお帰りになってよろしい。 貴重なる経験談。 夏の花が好きなひとは夏に死ぬっていうけれども本当かしら。 私はねむの花が好きなんだけれどもここのお庭には一本も無いのね。 夾竹桃がたくさんあるじゃないの。 あれはきらいなの。 夏の花はたいていすきだけどあれはおきゃんすぎて。 私なら薔薇がいいな。 だけどあれは四季咲きだから薔薇の好きなひとは春に死んで夏に死んで秋に死んで冬に死んで四度も死に直さなければいけないの。 すこし休まない。 きょうはちょっとかず子さんと相談したい事があるの。 なあに。 死ぬお話なんかはまっぴらよ。 前から聞いていただきたいと思っていた事ですけどねお互いに気分のいい時に話そうと思ってきょうまで機会を待っていたの。 どうせいい話じゃあ無いのよ。 でもきょうは何だか私もすらすら話せるような気がするもんだからまああなたも我慢しておしまいまで聞いて下さいね。 実はね直治は生きているのです。 五六日前に和田の叔父さまからおたよりがあってね叔父さまの会社に以前つとめていらしたお方でさいきん南方から帰還して叔父さまのところに挨拶にいらしてその時よもやまの話の末にそのお方が偶然にも直治と同じ部隊でそうして直治は無事でもうすぐ帰還するだろうという事がわかったの。 でもね一ついやな事があるの。 そのお方の話では直治はかなりひどい阿片中毒になっているらしいと。 また。 そう。 またはじめたらしいの。 けれどもそれのなおらないうちは帰還もゆるされないだろうからきっとなおして来るだろうとそのお方も言っていらしたそうです。 叔父さまのお手紙ではなおして帰って来たとしてもそんな心掛けの者ではすぐどこかへ勤めさせるというわけにはいかぬいまのこの混乱の東京で働いてはまともの人間でさえ少し狂ったような気分になる中毒のなおったばかりの半病人ならすぐ発狂気味になって何を仕出かすかわかったものでないそれで直治が帰って来たらすぐこの伊豆の山荘に引取ってどこへも出さずに当分ここで静養させたほうがよいそれが一つ。 それからねえかず子叔父さまがねえもう一つお言いつけになっているのだよ。 叔父さまのお話ではもう私たちのお金がなんにも無くなってしまったんだって。 貯金の封鎖だの財産税だのでもう叔父さまもこれまでのように私たちにお金を送ってよこす事がめんどうになったのだそうです。 それでね直治が帰って来てお母さまと直治とかず子と三人あそんで暮していては叔父さまもその生活費を都合なさるのにたいへんな苦労をしなければならぬからいまのうちにかず子のお嫁入りさきを捜すかまたは御奉公のお家を捜すかどちらかになさいというまあお言いつけなの。 御奉公って女中の事。 いいえ叔父さまがねほらあの駒場の。 あの宮様なら私たちとも血縁つづきだし姫宮の家庭教師をかねて御奉公にあがってもかず子がそんなに淋しく窮屈な思いをせずにすむだろうとおっしゃっているのです。 他につとめ口が無いものかしら。 他の職業はかず子にはとても無理だろうとおっしゃっていました。 なぜ無理なの。 ねなぜ無理なの。 いやだわ。 私そんな話。 私がこんな地下足袋をこんな地下足袋を。 いつだかおっしゃったじゃないの。 かず子がいるからかず子がいてくれるからお母さまは伊豆へ行くのですよとおっしゃったじゃないの。 かず子がいないと死んでしまうとおっしゃったじゃないの。 だからそれだからかず子はどこへも行かずにお母さまのお傍にいてこうして地下足袋をはいてお母さまにおいしいお野菜をあげたいとそればっかり考えているのに直治が帰って来るとお聞きになったら。 急に私を邪魔にして宮様の女中に行けなんてあんまりだわあんまりだわ。 貧乏になってお金が無くなったら私たちの着物を売ったらいいじゃないの。 このお家も売ってしまったらいいじゃないの。 私には何だって出来るわよ。 この村の役場の女事務員にだって何にだってなれるわよ。 役場で使って下さらなかったらヨイトマケにだってなれるわよ。 貧乏なんてなんでもない。 お母さまさえ私を可愛がって下さったら私は一生お母さまのお傍にいようとばかり考えていたのにお母さまは私よりも直治のほうが可愛いのね。 出て行くわ。 私は出て行く。 どうせ私は直治とは昔から性格が合わないのだから三人一緒に暮していたらお互いに不幸よ。 私はこれまで永いことお母さまと二人きりで暮したのだからもう思い残すことは無い。 これから直治がお母さまとお二人で水いらずで暮してそうして直治がたんとたんと親孝行をするといい。 私はもういやになった。 これまでの生活がいやになった。 出て行きます。 きょうこれからすぐに出て行きます。 私には行くところがあるの。 かず子。 だましたのよ。 お母さまは私をおだましになったのよ。 直治が来るまで私を利用していらっしゃったのよ。 私はお母さまの女中さん。 用がすんだからこんどは宮様のところに行けって。 お前は馬鹿だねえ。 そうよ馬鹿よ。 馬鹿だからだまされるのよ。 馬鹿だから邪魔にされるのよ。 いないほうがいいのでしょう。 貧乏ってどんな事。 お金ってなんの事。 私にはわからないわ。 愛情をお母さまの愛情をそれだけを私は信じて生きて来たのです。 私さえいなかったらいいのでしょう。 出て行きます。 私には行くところがあるの。 かず子。 はい。 私は生れてはじめて和田の叔父さまのお言いつけにそむいた。 お母さまはねいま叔父さまに御返事のお手紙を書いたの。 私の子供たちの事は私におまかせ下さいと書いたの。 かず子着物を売りましょうよ。 二人の着物をどんどん売って思い切りむだ使いしてぜいたくな暮しをしましょうよ。 私はもうあなたに畑仕事などさせたくない。 高いお野菜を買ったっていいじゃないの。 あんなに毎日の畑仕事はあなたには無理です。 かず子。 はい。 行くところがあるというのはどこ。 細田さま。 昔の事を言ってもいい。 どうぞ。 あなたが山木さまのお家から出て西片町のお家へ帰って来た時お母さまは何もあなたをとがめるような事は言わなかったつもりだけどでもたった一ことだけって言ったわね。 おぼえている。 そしたらあなたは泣き出しちゃって私も裏切ったなんてひどい言葉を使ってわるかったと思ったけど。 お母さまがねあの時裏切られたって言ったのはあなたが山木さまのお家を出て来た事じゃなかったの。 山木さまからかず子は実は細田と恋仲だったのですと言われた時なの。 そう言われた時には本当に私は顔色が変る思いでした。 だって細田さまにはあのずっと前から奥さまもお子さまもあってどんなにこちらがお慕いしたってどうにもならぬ事だし。 恋仲だなんてひどい事を。 山木さまのほうでただそう邪推なさっていただけなのよ。 そうかしら。 あなたはまさかあの細田さまをまだ思いつづけているのじゃないでしょうね。 行くところってどこ。 細田さまのところなんかじゃないわ。 そう。 そんならどこ。 お母さま私ねこないだ考えた事だけれども人間が他の動物とまるっきり違っている点は何だろう言葉も智慧も思考も社会の秩序もそれぞれ程度の差はあっても他の動物だって皆持っているでしょう。 信仰も持っているかも知れないわ。 人間は万物の霊長だなんて威張っているけどちっとも他の動物と本質的なちがいが無いみたいでしょう。 ところがねお母さまたった一つあったの。 おわかりにならないでしょう。 他の生き物には絶対に無くて人間にだけあるもの。 それはねひめごとというものよ。 いかが。 ああそのかず子のひめごとがよい実を結んでくれたらいいけどねえ。 お母さまは毎朝お父さまにかず子を幸福にして下さるようにお祈りしているのですよ。 お母さまさっきはごめんなさい。 いい頸巻してはるな。 グウ。 お母さま。 はい。 とうとう薔薇が咲きました。 お母さまご存じだった。 私はいま気がついた。 とうとう咲いたわ。 知っていました。 あなたにはそんな事がとても重大らしいのね。 そうかも知れないわ。 可哀そう。 いいえあなたにはそういうところがあるって言っただけなの。 お勝手のマッチ箱にルナアルの絵を貼ったりお人形のハンカチイフを作ってみたりそういう事が好きなのね。 それにお庭の薔薇のことだってあなたの言うことを聞いていると生きている人の事を言っているみたい。 子供が無いからよ。 わあひでえ。 趣味のわるい家だ。 来々軒。 シュウマイありますと貼りふだしろよ。 笑われます。 どう。 お母さまは変った。 変った変った。 やつれてしまった。 早く死にゃいいんだ。 こんな世の中にママなんてとても生きて行けやしねえんだ。 あまりみじめで見ちゃおれねえ。 私は。 げびて来た。 男が二三人もあるような顔をしていやがる。 酒は。 今夜は飲むぜ。 もしもし。 大丈夫でしょうか。 焼酎を召し上っているのですけど。 焼酎って。 あのメチル。 いいえメチルじゃありませんけど。 飲んでも病気にならないのでしょう。 ええでも。 飲ませてやって下さい。 お咲さんのところで飲んでいるんですって。 そう。 阿片のほうはよしたのかしら。 あなたはごはんをすませなさい。 それから今夜は三人でこの部屋におやすみ。 直治のお蒲団をまんなかにして。 南方のお話をお母さまに聞かせてあげたら。 何も無い。 何も無い。 忘れてしまった。 日本に着いて汽車に乗って汽車の窓から水田がすばらしく綺麗に見えた。 それだけだ。 電気を消せよ。 眠られやしねえ。 舌が痛いんですって。 そいつあきっと心理的なものなんだ。 夜口をあいておやすみになるんでしょう。 だらしがない。 マスクをなさい。 ガーゼにリバノール液でもひたしてそれをマスクの中にいれて置くといい。 それは何療法っていうの。 美学療法っていうんだ。 でもお母さまはマスクなんかきっとおきらいよ。 ねえお母さま。 マスクをなさる。 致します。 リバノールっていい薬なのね。 このマスクをかけていると舌の痛みが消えてしまうのですよ。 あ。 ママ。 僕を叱って下さい。 どういう工合いに。 弱虫。 って。 そう。 弱虫。 もういいでしょう。 御返事を。 御返事を下さい。 そうしてそれが必ず快報であるように。 僕はさまざまの屈辱を思い設けてひとりで呻いています。 芝居をしているのではありません。 絶対にそうではありません。 お願いいたします。 僕は恥ずかしさのために死にそうです。 誇張ではないのです。 毎日毎日御返事を待って夜も昼もがたがたふるえているのです。 僕に砂を噛ませないで。 壁から忍び笑いの声が聞えて来て深夜床の中で輾転しているのです。 僕を恥ずかしい目に逢わせないで。 姉さん。 上原さんってどんな方。 小柄で顔色の悪いぶあいそな人でございます。 でもアパートにいらっしゃる事はめったにございませぬです。 たいてい奥さんと六つ七つの女のお子さんとお二人がいらっしゃるだけでございます。 この奥さんはそんなにお綺麗でもございませぬけれどもお優しくてよく出来たお方のようでございます。 あの奥さんになら安心してお金をあずける事が出来ます。 女房はいま子供と一緒に配給物を取りに。 出ましょうか。 お酒でも飲むといいんだけど。 え。 いいえ弟さん。 アルコールのほうに転換するといいんですよ。 僕も昔麻薬中毒になった事があってねあれは人が薄気味わるがってねアルコールだって同じ様なものなんだがアルコールのほうは人は案外ゆるすんだ。 弟さんを酒飲みにしちゃいましょう。 いいでしょう。 私いちどお酒飲みを見た事がありますわ。 新年に私が出掛けようとした時うちの運転手の知合いの者が自動車の助手席で鬼のような真赤な顔をしてぐうぐう大いびきで眠っていましたの。 私がおどろいて叫んだら運転手がこれはお酒飲みで仕様が無いんですと言って自動車からおろして肩にかついでどこかへ連れて行きましたの。 骨が無いみたいにぐったりして何だかそれでもぶつぶつ言っていて私あの時はじめてお酒飲みってものを見たのですけど面白かったわ。 僕だって酒飲みです。 あらだって違うんでしょう。 あなただって酒飲みです。 そんな事はありませんわ。 私はお酒飲みを見た事があるんですもの。 まるで違いますわ。 それでは弟さんも酒飲みにはなれないかも知れませんがとにかく酒を飲む人になったほうがいい。 帰りましょう。 おそくなると困るんでしょう。 いいえかまわないんですの。 いや実はこっちが窮屈でいけねえんだ。 ねえさん。 会計。 うんと高いのでしょうか。 少しなら私持っているんですけど。 そう。 そんなら会計はあなただ。 足りないかも知れませんわ。 それだけあればもう二三軒飲める。 馬鹿にしてやがる。 どこかへまた飲みにおいでになりますか。 いやもうたくさん。 タキシーを拾ってあげますからお帰りなさい。 ひめごと。 私には恋人があるの。 知っています。 細田でしょう。 どうしても思い切る事が出来ないのですか。 まさかそのおなかの子は。 私上原さんに逢ったわ。 いいお方ね。 これから上原さんと一緒にお酒を飲んで遊んだらどう。 お酒ってとても安いものじゃないの。 お酒のお金くらいだったら私いつでもあなたにあげるわ。 薬屋の払いの事も心配しないで。 どうにかなるわよ。 女大学。 あなたものを売ってこれから先どのくらい生活して行けるの。 半歳か一年くらい。 眠いの。 眠くて仕方がないの。 疲れているのよ。 眠くなる神経衰弱でしょう。 そうでしょうね。 女大学。 こいかしら。 お母さまをすきなのね。 いいえ偉いお方。 お断りしてもいいのでしょう。 そりゃもう。 私も無理な話だと思っていたわ。 あのお断りの手紙いまごろ軽井沢のほうに着いている事と存じます。 私よく考えましたのですけど。 そうですか。 でもそれはもう一度よくお考えになってみて下さい。 私はあなたを何と言ったらいいか謂わば精神的には幸福を与える事が出来ないかも知れないがその代り物質的にはどんなにでも幸福にしてあげる事が出来る。 これだけははっきり言えます。 まあざっくばらんの話ですが。 お言葉のその幸福というのが私にはよくわかりません。 生意気を申し上げるようですけどごめんなさい。 チェホフの妻への手紙に子供を生んでおくれ私たちの子供を生んでおくれって書いてございましたわね。 ニイチェだかのエッセイの中にも子供を生ませたいと思う女という言葉がございましたわ。 私子供がほしいのです。 幸福なんてそんなものはどうだっていいのですの。 お金もほしいけど子供を育てて行けるだけのお金があったらそれでたくさんですわ。 あなたは珍らしい方ですね。 誰にでも思ったとおりを言える方だ。 あなたのような方と一緒にいると私の仕事にも新しい霊感が舞い下りて来るかも知れない。 私に恋のこころが無くてもいいのでしょうか。 女のかたはそれでいいんです。 女のひとはぼんやりしていていいんですよ。 でも私みたいな女はやっぱり恋のこころが無くては結婚を考えられないのです。 私もう大人なんですもの。 来年はもう三十。 あなたは恋をなさってはいけません。 あなたは恋をしたら不幸になります。 恋をなさるならもっと大きくなってからになさい。 三十になってからになさい。 このお別荘をお売りになるとかいう噂を聞きましたが。 ごめんなさい。 桜の園を思い出したのです。 あなたがお買いになって下さるのでしょう。 かもめ。 ミルクを沸したからいらっしゃい。 寒いからうんと熱くしてみたの。 あの方と私とはどだい何も似合いませんでしょう。 似合わない。 私こんなにわがままだしそれに芸術家というものをきらいじゃないしおまけにあの方にはたくさんの収入があるらしいしあんな方と結婚したらそりゃいいと思うわ。 だけどダメなの。 かず子はいけない子ね。 そんなにダメでいながらこないだあの方とゆっくり何かとたのしそうにお話をしていたでしょう。 あなたの気持がわからない。 あらだって面白かったんですもの。 もっといろいろ話をしてみたかったわ。 私たしなみが無いのね。 いいえべったりしているのよ。 かず子べったり。 アップはね髪の毛の少いひとがするといいのよ。 あなたのアップは立派すぎて金の小さい冠でも載せてみたいくらい。 失敗ね。 かず子がっかり。 だってお母さまはいつだったかかず子は頸すじが白くて綺麗だからなるべく頸すじを隠さないようにっておっしゃったじゃないの。 そんな事だけは覚えているのね。 少しでもほめられた事は一生わすれません。 覚えていたほうがたのしいもの。 こないだあの方からも何かとほめられたのでしょう。 そうよ。 それでべったりになっちゃったの。 私と一緒にいると霊感がああたまらない。 私芸術家はきらいじゃないんですけどあんな人格者みたいにもったいぶってるひとはとてもダメなの。 直治の師匠さんはどんなひとなの。 よくわからないけどどうせ直治の師匠さんですもの札つきの不良らしいわ。 札つき。 面白い言葉ね。 札つきならかえって安全でいいじゃないの。 鈴を首にさげている子猫みたいで可愛らしいくらい。 札のついていない不良がこわいんです。 そうかしら。 あなたと一緒にいると苦労を忘れる。 きょう寒かったからでしょう。 あすになればなおります。 御心配はございません。 おくすりをお飲みになればなおります。 お注射はいかがでしょうか。 その必要はございませんでしょう。 おかぜでございますからしずかにしていらっしゃると間もなくおかぜが抜けますでしょう。 わかりましたわかりました。 お熱の原因がわかりましてございます。 左肺に浸潤を起しています。 でもご心配は要りません。 お熱は当分つづくでしょうけれどもおしずかにしていらっしゃったらご心配はございません。 よかったわねお母さま。 ほんの少しの浸潤なんてたいていのひとにあるものよ。 お気持を丈夫にお持ちになっていさえしたらわけなくなおってしまいますわ。 ことしの夏の季候不順がいけなかったのよ。 夏はきらい。 かず子は夏の花もきらい。 夏の花の好きなひとは夏に死ぬっていうから私もことしの夏あたり死ぬのかと思っていたら直治が帰って来たので秋まで生きてしまった。 それでももう夏がすぎてしまったのですからお母さまの危険期も峠を越したってわけなのね。 お母さまお庭の萩が咲いていますわ。 それから女郎花われもこう桔梗かるかや芒。 お庭がすっかり秋のお庭になりましたわ。 十月になったらきっとお熱も下るでしょう。 僕などもね屋台にはいってうどんの立食いでさ。 うまいもまずいもありゃしません。 いかがでございました。 この村の先生は胸の左のほうに浸潤があるとかおっしゃっていましたけど。 なに大丈夫だ。 まあよかったわねお母さま。 大丈夫なんですって。 バリバリ音が聞えているぞ。 浸潤ではございませんの。 違う。 気管支カタルでは。 違う。 音とても悪いの。 バリバリ聞えてるの。 右も左も全部だ。 だってお母さまはまだお元気なのよ。 ごはんだっておいしいおいしいとおっしゃって。 仕方がない。 うそだわ。 ねそんな事ないんでしょう。 バタやお卵や牛乳をたくさん召し上ったらなおるんでしょう。 おからだに抵抗力さえついたら熱だって下るんでしょう。 うんなんでもたくさん食べる事だ。 ね。 そうでしょう。 トマトも毎日五つくらいは召し上っているのよ。 うんトマトはいい。 じゃあ大丈夫ね。 なおるわね。 しかしこんどの病気は命取りになるかも知れない。 そのつもりでいたほうがいい。 二年。 三年。 わからない。 とにかくもう手のつけようが無い。 先生はなんとおっしゃっていたの。 熱さえ下ればいいんですって。 胸のほうは。 たいした事もないらしいわ。 ほらいつかのご病気の時みたいなのよきっと。 いまに涼しくなったらどんどんお丈夫になりますわ。 ああお母さまはお元気なのだ。 きっと大丈夫なのだ。 ああ橋が沈んでいる。 きょうはどこへも行けない。 ここのホテルでやすみましょう。 たしか空いた部屋があった筈だ。 寒くない。 ええ少し。 霧でお耳が濡れてお耳の裏が冷たい。 お母さまはどうなさるのかしら。 あのお方はお墓の下です。 あ。 お母さま。 何してるの。 いまね私眠っていたのよ。 そう。 何をしているのかしらと思っていたの。 永いおひる寝ね。 御夕飯のお献立は。 ご希望がございます。 いいの。 なんにも要らない。 きょうは九度五分にあがったの。 どうしたんでしょう。 九度五分なんて。 なんでもないの。 ただ熱の出る前がいやなのよ。 頭がちょっと痛くなって寒気がしてそれから熱が出るの。 まぶしいからつけないで。 暗いところでじっと寝ていらっしゃるのおいやでしょう。 眼をつぶって寝ているのだから同じことよ。 ちっともさびしくない。 かえってまぶしいのがいやなの。 これからずっとお座敷の灯はつけないでね。 経済学入門。 社会革命。 あなたは更級日記の少女なのね。 もう何を言っても仕方が無い。 読んだ。 ごめんね。 読まなかったの。 なぜ。 どうして。 表紙の色がいやだったの。 へんなひと。 そうじゃないんでしょう。 本当は私をこわくなったのでしょう。 こわかないわ。 私表紙の色がたまらなかったの。 そう。 ご無事で。 もしこれが永遠の別れなら永遠にご無事で。 バイロン。 ごめんなさいね。 まだ起きていらっしゃる。 眠くないの。 ええちっとも眠くないの。 社会主義のご本を読んでいたら興奮しちゃいましたわ。 そう。 お酒ないの。 そんな時にはお酒を飲んでやすむとよく眠れるんですけどね。 お母さま。 手なんともないの。 なんでもないの。 これくらいなんでもないの。 いつから腫れたの。 お母さまの手が腫れて。 もうだめなの。 あなた気が附かなかった。 あんなに腫れたらもう駄目なの。 近いぞそりゃ。 ちぇっつまらねえ事になりやがった。 私もう一度なおしたいの。 どうかしてなおしたいの。 なんにもいい事が無えじゃねえか。 僕たちにはなんにもいい事が無えじゃねえか。 お母さままた直治のあのマスクをなさったら。 毎日いそがしくて疲れるでしょう。 看護婦さんをやとって頂戴。 お弱りになりましたね。 先生のお宿は。 また長岡です。 予約してありますからご心配無用。 このご病人はひとの事など心配なさらずもっとわがままに召し上りたいものは何でもたくさん召し上るようにしなければいけませんね。 栄養をとったらよくなります。 明日またまいります。 看護婦をひとり置いて行きますから使ってみて下さい。 だめなの。 そうでしょう。 つまらねえ。 衰弱がばかに急激にやって来たらしいんだ。 今明日もわからねえと言っていやがった。 ほうぼうへ電報を打たなくてもいいかしら。 それは叔父さんにも相談したが叔父さんはいまはそんな人集めの出来る時代では無いと言っていた。 来ていただいてもこんな狭い家ではかえって失礼だしこの近くにはろくな宿もないし長岡の温泉にだって二部屋も三部屋も予約は出来ないつまり僕たちはもう貧乏でそんなお偉らがたを呼び寄せる力が無えってわけなんだ。 叔父さんはすぐあとで来る筈だがでもあいつは昔からケチで頼みにも何もなりゃしねえ。 ゆうべだってもうママの病気はそっちのけで僕にさんざんのお説教だ。 ケチなやつからお説教されて眼がさめたなんて者は古今東西にわたって一人もあった例が無えんだ。 姉と弟でもママとあいつとではまるで雲泥のちがいなんだからなあいやになるよ。 でも私はとにかくあなたはこれから叔父さまにたよらなければ。 まっぴらだ。 いっそ乞食になったほうがいい。 姉さんこそこれから叔父さんによろしくおすがり申し上げるさ。 私には。 私には行くところがあるの。 縁談。 きまってるの。 いいえ。 自活か。 はたらく婦人。 よせよせ。 自活でもないの。 私ね革命家になるの。 へえ。 奥さまが何かご用のようでございます。 何。 お水。 夢を見たの。 そう。 どんな夢。 蛇の夢。 お縁側の沓脱石の上に赤い縞のある女の蛇がいるでしょう。 見てごらん。 いませんわお母さま。 夢なんてあてになりませんわよ。 あなたの靴下をあむんでしょう。 それならもう八つふやさなければはくとき窮屈よ。 新聞に陛下のお写真が出ていたようだけどもういちど見せて。 お老けになった。 いいえこれは写真がわるいのよ。 こないだのお写真なんかとてもお若くてはしゃいでいらしたわ。 かえってこんな時代をお喜びになっていらっしゃるんでしょう。 なぜ。 だって陛下もこんど解放されたんですもの。 泣きたくてももう涙が出なくなったのよ。 お母さま。 私いままでずいぶん世間知らずだったのね。 いままでって。 それではいまは世間を知っているの。 世間はわからない。 私にはわからない。 わかっているひとなんか無いんじゃないの。 いつまで経ってもみんな子供です。 なんにもわかってやしないのです。 直治はどこ。 お母さまがお呼びですよ。 わあまた愁歎場か。 汝等はよく我慢してあそこに頑張っておれるね。 神経が太いんだね。 薄情なんだね。 我等は何とも苦しくて実に心は熱すれども肉体よわくとてもママの傍にいる気力は無い。 ああわかりましたよ。 わかりましたよ。 先生早く楽にして下さいな。 忙しいでしょう。 忙しかったでしょう。 いいえ。 帯のなかに金銀または銭を持つな。 旅の嚢も二枚の下衣も鞋も杖も持つな。 視よ我なんじらを遣すは羊を豺狼のなかに入るるが如し。 この故に蛇のごとく慧く鴿のごとく素直なれ。 人々に心せよそれは汝らを衆議所に付し会堂にて鞭たん。 また汝等わが故によりて司たち王たちの前に曳かれん。 かれら汝らを付さば如何なにを言わんと思い煩うな言うべき事はその時さずけられるべし。 これ言うものは汝等にあらず其の中にありて言いたまう汝らの父の霊なり。 又なんじら我が名のために凡ての人に憎まれん。 されど終まで耐え忍ぶものは救わるべし。 この町にて責めらるる時はかの町に逃れよ。 誠に汝らに告ぐなんじらイスラエルの町々を巡り尽さぬうちに人の子は来るべし。 身を殺して霊魂をころし得ぬ者どもを懼るな身と霊魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ。 われ地に平和を投ぜんために来れりと思うな平和にあらず反って剣を投ぜん為に来れり。 それ我が来れるは人をその父より娘をその母より嫁をその姑※より分たん為なり。 人の仇はその家の者なるべし。 我よりも父または母を愛する者は我に相応しからず。 我よりも息子または娘を愛する者は我に相応しからず。 又おのが十字架をとりて我に従わぬ者は我に相応しからず。 生命を得る者はこれを失い我がために生命を失う者はこれを得べし。 恋。 愛。 きょう私東京へ行ってもいい。 お友だちのところへ久し振りで遊びに行ってみたいの。 二晩か三晩泊って来ますからあなた留守番してね。 お炊事はあのかたにたのむといいわ。 ごめん下さいまし。 上原さん。 どちらさまでしょうか。 いいえあのう。 先生は。 いらっしゃいません。 はあ。 でも行く先はたいてい。 遠くへ。 いいえ。 荻窪ですの。 駅の前の白石というおでんやさんへおいでになればたいてい行く先がおわかりかと思います。 あそうですか。 あらおはきものが。 あいにく電球が二つとも切れてしまいましてこのごろの電球は馬鹿高い上に切れ易くていけませんわね主人がいると買ってもらえるんですけどゆうべもおとといの晩も帰ってまいりませんので私どもはこれで三晩無一文の早寝ですのよ。 ありがとうございました。 阿佐ヶ谷ですよきっと。 阿佐ヶ谷駅の北口をまっすぐにいらしてそうですね一丁半かな。 金物屋さんがありますからねそこから右へはいって半丁かな。 柳やという小料理屋がありますからね先生このごろは柳やのおステさんと大あつあつでいりびたりだかなわねえ。 たったいまお帰りになりましたが大勢さんでこれから西荻のチドリのおばさんのところへ行って夜明しで飲むんだとかおっしゃっていましたよ。 チドリ。 西荻のどのへん。 よく存じませんのですけどね何でも西荻の駅を降りて南口の左にはいったところだとかとにかく交番でお聞きになったらわかるんじゃないでしょうか。 何せ一軒ではおさまらないひとでチドリに行く前にまたどこかにひっかかっているかも知れませんですよ。 チドリへ行ってみます。 さようなら。 乾杯。 じゃ失敬。 上原さんあそこのね上原さんあそこのねあああというところですがねあれはどんな工合いに言ったらいいんですか。 あああですか。 あああですか。 あああだ。 あああチドリの酒は安くねえといったような塩梅だね。 お金の事ばっかり。 二羽の雀は一銭とはありゃ高いんですか。 安いんですか。 一厘も残りなく償わずばという言葉もあるし或者には五タラント或者には二タラント或者には一タラントなんてひどくややこしい譬話もあるしキリストも勘定はなかなかこまかいんだ。 それにあいつあ酒飲みだったよ。 妙にバイブルには酒の譬話が多いと思っていたら果せるかなだ視よ酒を好む人と非難されたとバイブルに録されてある。 酒を飲む人でなくて酒を好む人というんだから相当な飲み手だったに違いねえのさ。 まず一升飲みかね。 よせよせ。 あああ汝らは道徳におびえてイエスをダシに使わんとす。 チエちゃん飲もう。 ギロチンギロチンシュルシュルシュ。 おなかがおすきになりません。 ええでも私パンを持ってまいりましたから。 何もございませんけど。 この部屋でお食事をなさいまし。 あんな呑んべえさんたちの相手をしていたら一晩中なにも食べられやしません。 お坐りなさいここへ。 チエ子さんも一緒に。 おういキヌちゃんお酒が無い。 はいはい。 ちょっと。 ここへも二本。 それからねキヌちゃんすまないけど裏のスズヤさんへ行ってうどんを二つ大いそぎでね。 お蒲団をおあてなさい。 寒くなりましたね。 お飲みになりませんか。 みなさんお強いのね。 先生持ってまいりました。 何せうちの社長ったらがっちりしていますからね二万円と言ってねばったのですがやっと一万円。 小切手か。 いいえ現なまですが。 すみません。 まあいいや受取りを書こう。 直さんは。 知らないわ。 直さんの番人じゃあるまいし。 この頃何か上原さんとまずい事でもあったんじゃないの。 いつも必ず一緒だったのに。 ダンスのほうがすきになったんですって。 ダンサアの恋人でも出来たんでしょうよ。 直さんたらまあお酒の上にまた女だから始末が悪いね。 先生のお仕込みですもの。 でも直さんのほうがたちが悪いよ。 あんなお坊ちゃんくずれは。 あの。 私直治の姉なんですの。 お顔がよく似ていらっしゃいますもの。 あの土間の暗いところにお立ちになっていたのを見て私はっと思ったわ。 直さんかと。 左様でございますか。 こんなむさくるしいところへよくまあ。 それで。 あの上原さんとは前から。 ええ六年前にお逢いして。 お待ちどおさま。 召し上れ。 熱いうちに。 いただきます。 これだけであとをごまかしちゃだめですよ。 持って来るよ。 あとの支払いは来年だ。 あんな事を。 とにかくね。 これから東京で生活して行くにはだねコンチワァという軽薄きわまる挨拶が平気で出来るようでなければとても駄目だね。 いまのわれらに重厚だの誠実だのそんな美徳を要求するのは首くくりの足を引っぱるようなものだ。 重厚。 誠実。 ペップッだ。 生きて行けやしねえじゃないか。 もしもだねコンチワァを軽く言えなかったらあとは道が三つしか無いんだ一つは帰農だ一つは自殺もう一つは女のヒモさ。 その一つも出来やしねえ可哀想な野郎にはせめて最後の唯一の手段。 上原二郎にたかって痛飲。 泊るところがねえんだろ。 私。 ざこ寝が出来るか。 寒いぜ。 無理でしょう。 お可哀そうよ。 そんならこんなところへ来なけれあいいんだ。 仕様がねえな。 福井さんのとこへでもたのんでみようかな。 チエちゃん連れて行ってくれないか。 いや女だけだと途中が危険か。 やっかいだな。 かあさんこのひとのはきものをこっそりお勝手のほうに廻して置いてくれ。 僕が送りとどけて来るから。 私ざこ寝でも何でも出来ますのに。 うん。 二人っきりになりたかったのでしょう。 そうでしょう。 これだからいやさ。 ずいぶんお酒を召し上りますのね。 毎晩ですの。 そう毎日。 朝からだ。 おいしいの。 お酒が。 まずいよ。 お仕事は。 駄目です。 何を書いてもばかばかしくってそうしてただもう悲しくって仕様が無いんだ。 いのちの黄昏。 人類の黄昏。 芸術の黄昏。 それもキザだね。 ユトリロ。 ああユトリロ。 まだ生きていやがるらしいね。 アルコールの亡者。 死骸だね。 最近十年間のあいつの絵はへんに俗っぽくてみな駄目。 ユトリロだけじゃないんでしょう。 他のマイスターたちも全部。 そう衰弱。 しかし新しい芽も芽のままで衰弱しているのです。 霜。 フロスト。 世界中に時ならぬ霜が降りたみたいなのです。 木の枝って美しいものですわねえ。 うん花と真黒い枝の調和が。 いいえ私花も葉も芽も何もついていないこんな枝がすき。 これでもちゃんと生きているのでしょう。 枯枝とちがいますわ。 自然だけは衰弱せずか。 お風邪じゃございませんの。 いやいやさにあらず。 実はねこれは僕の奇癖でねお酒の酔いが飽和点に達するとたちまちこんな工合のくしゃみが出るんです。 酔いのバロメーターみたいなものだね。 恋は。 え。 どなたかございますの。 飽和点くらいにすすんでいるお方が。 なんだひやかしちゃいけない。 女はみな同じさ。 ややこしくていけねえ。 ギロチンギロチンシュルシュルシュ実はひとりいや半人くらいある。 私の手紙ごらんになって。 見た。 ご返事は。 僕は貴族はきらいなんだ。 どうしてもどこかに鼻持ちならない傲慢なところがある。 あなたの弟の直さんも貴族としては大出来の男なんだが時々ふっととても附き合い切れない小生意気なところを見せる。 僕は田舎の百姓の息子でねこんな小川の傍をとおると必ず子供のころ故郷の小川で鮒を釣った事やめだかを掬った事を思い出してたまらない気持になる。 けれども君たち貴族はそんな僕たちの感傷を絶対に理解できないばかりか軽蔑している。 ツルゲーネフは。 あいつは貴族だ。 だからいやなんだ。 でも猟人日記。 うんあれだけはちょっとうまいね。 あれは農村生活の感傷。 あの野郎は田舎貴族というところで妥協しようか。 私もいまでは田舎者ですわ。 畑を作っていますのよ。 田舎の貧乏人。 今でも僕をすきなのかい。 僕の赤ちゃんが欲しいのかい。 しくじった。 惚れちゃった。 しくじった。 行くところまで行くか。 キザですわ。 この野郎。 電報電報。 福井さん電報ですよ。 上原か。 そのとおり。 プリンスとプリンセスと一夜の宿をたのみに来たのだ。 どうもこう寒いとくしゃみばかり出てせっかくの恋の道行もコメディになってしまう。 たのむ。 アトリエは寒くていけねえ。 二階を借りるぜ。 おいで。 お料理屋のお部屋みたいね。 うん成金趣味さ。 でもあんなヘボ画かきにはもったいない。 悪運が強くて罹災もしやがらねえ。 利用せざるべからずさ。 さあ寝よう寝よう。 ここへ寝給え。 僕は帰る。 あしたの朝迎えに来ます。 便所は階段を降りてすぐ右だ。 こうしなければご安心が出来ないのでしょう。 まあそんなところだ。 あなたおからだを悪くしていらっしゃるんじゃない。 喀血なさったでしょう。 どうしてわかるの。 実はこないだかなりひどいのをやったのだけど誰にも知らせていないんだ。 お母さまのお亡くなりになる前とおんなじ匂いがするんですもの。 死ぬ気で飲んでいるんだ。 生きているのが悲しくて仕様が無いんだよ。 わびしさだの淋しさだのそんなゆとりのあるものでなくて悲しいんだ。 陰気くさい嘆きの溜息が四方の壁から聞えている時自分たちだけの幸福なんてある筈は無いじゃないか。 自分の幸福も光栄も生きているうちには決して無いとわかった時ひとはどんな気持になるものかね。 努力。 そんなものはただ飢餓の野獣の餌食になるだけだ。 みじめな人が多すぎるよ。 キザかね。 いいえ。 恋だけだね。 おめえの手紙のお説のとおりだよ。 そう。 ひがんでいたのさ。 僕は百姓の子だから。 私いま幸福よ。 四方の壁から嘆きの声が聞えて来ても私のいまの幸福感は飽和点よ。 くしゃみが出るくらい幸福だわ。 でももうおそいなあ。 黄昏だ。 朝ですわ。 へへいくら気取ったって同じ人間じゃねえか。 世紀の不安。 母。 母。 それではおいとま致します。 なぜ。 でも。 すぐ帰りますわよ。 またまいります。 そう。 正直。 友人がみな怠けて遊んでいる時自分ひとりだけ勉強するのはてれくさくておそろしくてとてもだめだからちっとも遊びたくなくても自分も仲間入りして遊ぶ。 へえ。 それが貴族|気質というものかねいやらしい。 僕はひとが遊んでいるのを見ると自分も遊ばなければ損だと思って大いに遊ぶね。 立派なお仕事。 これは直治が或る女のひとに内緒に生ませた子ですの。 東京八景。 東京八景。 東京八景。 魚服記。 思い出。 海豹。 東京八景。 けれども私は少しずつどうやら阿呆から眼ざめていた。 遺書を綴った。 「思い出。 思い出。 滅び。 思い出。 晩年。 楽屋裏。 海豹。 魚服記。 そんな評判なんかになる筈は無いんだがね。 いい気になっちゃいけないよ何かの間違いかもわからない。 魚服記。 何かの間違いかもわからない。 思い出。 晩年。 大本営発表。 戦時日本の新聞。 うつくしい。 芸術家。 あひるの子。 思い出。 ダス・ゲマイネ。 虚構の春。 右大臣|実朝。 右大臣実朝。 忠臣。 余はもともと戦争を欲せざりき。 余は日本軍閥の敵なりき。 余は自由主義者なり。 火の鳥。 親が破産しかかってせっぱつまり見えすいたつらい嘘をついている時子供がそれをすっぱ抜けるか。 運命窮まると観じて黙って共に討死さ。 科学精神の持主。 日本の味方。 君のあの手紙を読んだ。 そう。 すぐ破ってくれましたか。 ああ破った。 津軽のつたなさ。 津軽。 新釈|諸国噺。 惜別。 お伽草子。 お伽草子。 文化人。 成功者。 嘘をつけ。 君の憂鬱は食料不足よりも道徳の煩悶だろう。 新文化。 文化。 津軽の百姓。 サロン思想。 パンドラの匣。 自由主義者ってのはあれはいったい何ですかね。 フランスでは。 リベルタンってやつがあってこれがまあ自由思想を謳歌してずいぶんあばれ廻ったものです。 十七世紀と言いますからいまから三百年ほど前の事ですがね。 こいつらは主として宗教の自由を叫んであばれていたらしいです。 なんだあばれんぼうか。 ええまあそんなものです。 たいていは無頼漢みたいな生活をしていたのです。 芝居なんかで有名なあの鼻の大きいシラノねあの人なんかも当時のリベルタンのひとりだと言えるでしょう。 時の権力に反抗して弱きを助ける。 当時のフランスの詩人なんてのもたいていもうそんなものだったのでしょう。 日本の江戸時代の男伊達とかいうものにちょっと似ているところがあったようです。 なんて事だい。 それじゃあ幡随院の長兵衛なんかも自由主義者だったわけですかねえ。 そりゃそう言ってもかまわないと思います。 もっともいまの自由主義者というのはタイプが少し違っているようですがフランスの十七世紀のリベルタンってやつはまあたいていそんなものだったのです。 花川戸の助六も鼠小僧の次郎吉も或いはそうだったのかも知れませんね。 へええそんなわけの事になるますかねえ。 いったいこの自由思想というものは。 その本来の姿は反抗精神です。 破壊思想といっていいかも知れない。 圧制や束縛が取りのぞかれたところにはじめて芽生える思想ではなくて圧制や束縛のリアクションとしてそれらと同時に発生し闘争すべき性質の思想です。 よく挙げられる例ですけれども鳩が或る日神様にお願いした『私が飛ぶ時どうも空気というものが邪魔になって早く前方に進行できない。 どうか空気というものを無くして欲しい。 』神様はその願いを聞き容れてやった。 然るに鳩はいくらはばたいても飛び上る事が出来なかった。 つまりこの鳩が自由思想です。 空気の抵抗があってはじめて鳩が飛び上る事が出来るのです。 闘争の対象の無い自由思想はまるでそれこそ真空管の中ではばたいている鳩のようなもので全く飛翔が出来ません。 似たような名前の男がいるじゃないか。 あ。 そんな意味で言ったのではありません。 これはカントの例証です。 僕は現代の日本の政治界の事はちっとも知らないのです。 しかし多少は知っていなくちゃいけないね。 これから若い人みんなに選挙権も被選挙権も与えられるそうだから。 自由思想の内容はその時その時で全く違うものだと言っていいだろう。 真理を追究して闘った天才たちはことごとく自由思想家だと言える。 わしなんかは自由思想の本家本元はキリストだとさえ考えている。 思い煩うな空飛ぶ鳥を見よ播かず刈らず蔵に収めずなんてのは素晴らしい自由思想じゃないか。 わしは西洋の思想はすべてキリストの精神を基底にして或いはそれを敷衍し或いはそれを卑近にし或いはそれを懐疑し人さまざまの諸説があっても結局聖書一巻にむすびついていると思う。 科学でさえそれと無関係ではないのだ。 科学の基礎をなすものは物理界に於いても化学界に於いてもすべて仮説だ。 肉眼で見とどける事の出来ない仮説から出発している。 この仮説を信仰するところからすべての科学が発生するのだ。 日本人は西洋の哲学科学を研究するよりさきにまず聖書一巻の研究をしなければならぬ筈だったのだ。 わしは別にクリスチャンではないがしかし日本が聖書の研究もせずにただやたらに西洋文明の表面だけを勉強したところに日本の大敗北の真因があったと思う。 自由思想でも何でもキリストの精神を知らなくては半分も理解できない。 十年一日の如き不変の政治思想などは迷夢に過ぎない。 キリストもいっさい誓うなと言っている。 明日の事を思うなとも言っている。 実に自由思想家の大先輩ではないか。 狐には穴あり鳥には巣ありされど人の子には枕するところ無しとはまた自由思想家の嘆きといっていいだろう。 一日も安住を許されない。 その主張は日々にあらたにまた日にあらたでなければならぬ。 日本に於いて今さら昨日の軍閥官僚を罵倒してみたってそれはもう自由思想ではない。 それこそ真空管の中の鳩である。 真の勇気ある自由思想家ならいまこそ何を措いても叫ばなければならぬ事がある。 天皇陛下万歳。 この叫びだ。 昨日までは古かった。 古いどころか詐欺だった。 しかし今日に於いては最も新しい自由思想だ。 十年前の自由と今日の自由とその内容が違うとはこの事だ。 それはもはや神秘主義ではない。 人間の本然の愛だ。 アメリカは自由の国だと聞いている。 必ずや日本のこの真の自由の叫びを認めてくれるに違いない。 どうもこの紀元二千|七百年のお祭りの時には二千|七百年と言うかあるいは二千|七百年と言うか心配なんだね非常に気になるんだね。 僕は煩悶しているのだ。 君は気にならんかね。 ううむ。 そう言われると非常に気になる。 そうだろう。 どうもねななひゃくねんというらしいんだ。 なんだかそんな気がするんだ。 だけど僕の希望をいうならしちひゃくねんと言ってもらいたいんだね。 どうもななひゃくでは困る。 いやらしいじゃないか。 電話の番号じゃあるまいしちゃんと正しい読みかたをしてもらいたいものだ。 何とかしてその時はしちひゃくと言ってもらいたいのだがねえ。 しかしまた。 もう百年あとにはしちひゃくでもないしななひゃくでもないし全く別な読みかたも出来ているかも知れない。 たとえばぬぬひゃくとでもいう――。 大本営陸海軍部発表。 帝国陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり。 知ってるよ。 知ってるよ。 西太平洋ってどの辺だね。 サンフランシスコかね。 西太平洋といえば日本のほうの側の太平洋でしょう。 そうか。 しかしそれは初耳だった。 アメリカが東で日本が西というのは気持の悪い事じゃないか。 日本は日出ずる国と言われまた東亜とも言われているのだ。 太陽は日本からだけ昇るものだとばかり僕は思っていたのだがそれじゃ駄目だ。 日本が東亜でなかったというのは不愉快な話だ。 なんとかして日本が東でアメリカが西と言う方法は無いものか。 これからは大変ですわねえ。 いいえ何も出来ませんのでねえ。 日本は本当に大丈夫でしょうか。 大丈夫だからやったんじゃないか。 かならず勝ちます。 そうか。 どうも縁の下を這いまわるのは敵前上陸に劣らぬ苦しみです。 こんな汚い恰好で失礼。 まあよく御用意が出来て。 ええなにせ隣組長ですから。 新潮。 帝国・米英に宣戦を布告す。 園子が難儀していますよ。 なあんだ。 お前たちには信仰が無いからこんな夜道にも難儀するのだ。 僕には信仰があるから夜道もなお白昼の如しだね。 ついて来い。 生れて来なければよかった。 K僕を憎いだろうね。 ああ。 死んでくれたらいいと思うことさえあるの。 いくら。 お金じゃない。 死にたくなった。 うん。 いまごろになると毎年きまっていけなくなるらしいのね。 寒さがこたえるのかしら。 羽織ないの。 おやおや素足で。 こういうのが粋なんだそうだ。 誰がそう教えたの。 誰も教えやしない。 誰かいいひとがないものかねえ。 Kとふたりで旅行したいのだけれど。 小説は。 書けない。 たばこのむ。 たべない。 ひとことでもものを言えばそれだけみんなを苦しめるような気がしてむだにくるしめるような気がしていっそだまって微笑んで居ればいいのだろうけれど僕は作家なのだから何かものを言わなければ暮してゆけない作家なのだからずいぶん骨が折れます。 僕には花一輪をさえほどよく愛することができません。 ほのかな匂いを愛ずるだけではとてもがまんができません。 突風の如く手折って掌にのせて花びらむしってそれからもみくちゃにしてたまらなくなって泣いて唇のあいだに押し込んでぐしゃぐしゃに噛んで吐き出して下駄でもって踏みにじってそれから自分で自分をもて余します。 自分を殺したく思います。 僕は人間でないのかも知れない。 僕はこのごろほんとうにそう思うよ。 僕はあのサタンではないのか。 殺生石。 毒きのこ。 まさか吉田御殿とは言わない。 だって僕は男だもの。 どうだか。 Kは僕を憎んでいる。 僕の八方美人を憎んでいる。 ああわかった。 Kは僕の強さを信じている。 僕の才を買いかぶっている。 そうして僕の努力をひとしれぬ馬鹿な努力をごぞんじないのだ。 らっきょうの皮をむいてむいてしんまでむいて何もない。 きっとある何かあるそれを信じてまたべつのらっきょうの皮をむいてむいて何もないこの猿のかなしみわかる。 ゆきあたりばったりの万人をことごとく愛しているということは誰をも愛していないということだ。 ここにも僕の宿命がある。 何もないということ嘘だわ。 このどてらの柄はこの青い縞はこんなに美しいじゃないの。 ああ。 さっきのらっきょうの話。 ええ。 あなたは現在を信じない。 いまのこの刹那を信じることできる。 刹那は誰の罪でもない。 誰の責任でもない。 それは判っている。 けれどもそれは僕にとっていのちのよろこびにはならない。 死ぬる刹那の純粋だけは信じられる。 けれどもこの世のよろこびの刹那は――。 あとの責任がこわいの。 どうにもあとしまつができない。 花火は一瞬でも肉体は死にもせずぶざまにいつまでも残っているからね。 美しい極光を見た刹那に肉体もともに燃えてあとかたもなく焼失してしまえばたすかるのだがそうもいかない。 意気地がないのね。 ああもう言葉はいやだ。 なんとでも言える。 刹那のことは刹那主義者に問えだ。 手をとって教えてくれる。 みんな自分の料理法のご自慢だ。 人生への味附けだ。 思い出に生きるかいまのこの刹那に身をゆだねるかそれとも――将来の希望とやらに生きるか案外そんなところから人間の馬鹿と悧巧のちがいができて来るのかも知れない。 あなたはばかなの。 およしよK。 ばかも悧巧もない。 僕たちはもっとわるい。 教えて。 ブルジョア。 K僕のおなかのここんとこに傷跡があるだろう。 これ盲腸の傷だよ。 Kの脚だって長いけれど僕の脚ほらずいぶん長いだろう。 できあいのズボンじゃだめなんだ。 何かにつけて不便な男さ。 ねえよい悪事って言葉ないかしら。 よい悪事。 雨。 谷川だ。 すぐこの下を流れている。 朝になってみるとこの浴場の窓いっぱい紅葉だ。 すぐ鼻のさきにおやと思うほど高い山が立っている。 ときどき来るの。 いいえ。 いちど。 死にに。 そうだ。 そのとき遊んだ。 遊ばない。 今夜は。 なあんだそれがKのよい悪事か。 なあんだ。 僕はまた――。 なに。 僕と一緒に死ぬのかと思った。 ああ。 わるい善行って言葉もあるわよ。 私たちふたりで居ると心中しそうで危いから今夜は寝ないで番をして下さいな。 死神が来たら追っ払うんですよ。 承知いたしました。 まさかのときには三人心中というてもあります。 片方割れた下駄。 歩かない馬。 破れた三味線。 写らない写真機。 つかない電球。 飛ばない飛行機。 それから――。 早く早く。 真実。 え。 真実。 野暮だなあ。 じゃあ忍耐。 むずかしいのねえ私は苦労。 向上心。 デカダン。 おとといのお天気。 私。 僕。 じゃあ私も――私。 だってむずかしいんだもの。 K冗談だろうね。 真実も向上心もKご自身も役に立たないなんて冗談だろうね。 僕みたいな男だっても生きて居る限りはなんとかして立派に生きていたいとあがいているのだ。 Kはばかだ。 おかえり。 あなたのまじめさをあなたのまじめな苦しさをそんなに皆に見せびらかしたいの。 かえる。 東京へかえる。 お金くれ。 かえる。 ごめんなさい。 ひとをひとをいたわるのもほどほどにするがいい。 鶺鴒。 せきれいはステッキに似ているなんていい加減の詩人ね。 あの鶺鴒はもっときびしくもっとけなげでどだい人間なんてものを問題にしていない。 紅葉って派手な花なのね。 ゆうべは――。 ねむれた。 Kが生きているうち僕は死なないね。 ブルジョアってわるいものなの。 わるいやつだと僕は思う。 わびしさも苦悩も感謝もみんな趣味だ。 ひとりよがりだ。 プライドだけで生きている。 ひとの噂だけを気にしていて。 そこに自分の肉体が在ると思っているのね。 富めるものの天国に入るは――。 人なみの仕合せはむずかしいらしいよ。 この旅行が無事にすむと。 僕はKに何か贈り物しようか。 十字架。 ああミルク。 Kやっぱり怒っているね。 ゆうべかえるなんて乱暴なこと言ったのあれ芝居だよ。 僕――舞台中毒かも知れない。 一日にいちど何かこうきざに気取ってみなければ気がすまないのだ。 生きて行けないのだ。 いまだってここにこうやって坐っていても死ぬほど気取っているつもりなのだよ。 恋は。 自分の足袋のやぶれが気にかかってそれで失恋してしまった晩もある。 ねえ私の顔どう。 どうって。 きれい。 わかく見える。 Kそんなにさびしいのか。 Kおぼえて置くがいい。 Kは良妻賢母でそれから僕は不良少年ひとの屑だ。 あなただけ。 あどうも。 くるしむことは自由だ。 よろこぶこともそのひとの自由だ。 ところが私自由じゃない。 両方とも。 Kうしろに五六人男がいるね。 どれがいい。 まんなかのが。 菊はむずかしいからねえ。 ああ古い古い。 あいつの横顔晶助兄さんにそっくりじゃないか。 ハムレット。 だって私は男のひと他にそんなに知らないのだもの。 あなたは。 丙種。 私は甲種なのね。 私は山を見ていたのじゃなくってよ。 ほらこの眼のまえの雨だれの形を見ていたの。 みんなそれぞれ個性があるのよ。 もったいぶってぽたんと落ちるのもあるしせっかちに痩せたまま落ちるのもあるし気取ってぴちゃんと高い音たてて落ちるのもあるしつまらなそうにふわっと風まかせに落ちるのもあるし――。 こどものじぶん。 絵葉書に針でもってぷつぷつ穴をあけてランプの光に透かしてみるとその絵葉書の洋館や森や軍艦にきれいなイルミネエションがついて――あれを思い出さない。 僕はこんなけしき。 幻燈で見たことがある。 みんなぼっとかすんで。 寒いね。 お湯にはいってから出て来ればよかった。 私たちもうなんにも欲しいものがないのね。 ああみんなお父さんからもらってしまった。 あなたの死にたいという気持――。 わかっている。 僕たち。 どうして独力で生活できないのだろうね。 さかなやをやったっていいんだ。 誰もやらせてくれないよ。 みんな意地わるいほど私たちを大切にしてくれるからね。 そうなんだよK。 僕だってずいぶん下品なことをしたいのだけれどみんな笑って――。 いっそ一生釣りでもして阿呆みたいに暮そうかな。 だめさ。 魚の心がわかりすぎて。 たいていわかるだろう。 僕がサタンだということ。 僕に愛された人はみんなだいなしになってしまうということ。 私にはそう思えないの。 誰もおまえを憎んでいない。 偽悪趣味。 甘い。 ああこのお宮の石碑みたい。 僕いちばん単純なことを言おうか。 Kまじめな話だよ。 いいかい。 僕を――。 よして。 わかっているわよ。 ほんとう。 私はなんでも知っている。 私は自分がおめかけの子だってことも知っています。 K。 僕たち――。 あ危い。 とまれ。 とまれ。 誰もさわるな。 純真。 子供の純真性は尊い。 うむ子供の純真性は大事だ。 誠。 純真。 純真。 純真。 散らず散らずみ。 いや散りず散りずみ。 ちがいます。 散りみ散りみず。 展覧会の招待日みたいだ。 きょう来ていいことをしたね。 あたし桜を見ていると蛙の卵のあのかたまりを思い出して――。 それはいけないね。 くるしいだろうね。 ええとても。 困ってしまうの。 なるべく思い出さないようにしているのですけれど。 いちどでもあの卵のかたまりを見ちゃったので――離れないの。 僕は食塩の山を思い出すのだが。 蛙の卵よりはいいのね。 あたしは真白い半紙を思い出す。 だって桜にはにおいがちっとも無いのだもの。 あゝいゝな。 この砂利がこの壺穴を穿るのです。 水がこの上を流れるでせう石が水の底でザラザラ動くでせう。 まはったりもするでせうだんだん岩が穿れて行くのです。 斯う云ふ溝は水の出るたんびにだんだん深くなるばかりです。 なぜなら流されて行く砂利はあまりこの高い所を通りません。 溝の中ばかりころんで行きます。 溝は深くなる一方でせう。 水の中をごらんなさい。 岩がたくさん縦の棒のやうになってゐます。 みんなこれです。 あゝ騎兵だ騎兵だ。 どごさ行ぐのだべ。 水馬演習でせう。 白い上着を着てゐるしきっと裸馬だらう。 こっちさ来るどいゝな。 来るよきっと。 大てい向ふ岸のあの草の中から出て来ます。 兵隊だって誰だって気持ちのいゝ所へは来たいんだ。 どうしてこの環出来だのす。 この出来かたはむづかしいのです。 膠質体のことをも少し詳しくやってからでなければわかりません。 けれどもとにかくこれは電気の作用です。 この環はリーゼガングの環と云ひます。 実験室でもこさへられます。 あとで土壌の方でも説明します。 腐植質|磐層といふものも似たやうなわけでできるのですから。 来た来たたうとうやって来た。 水馬演習だ。 向ふ側へ行かう。 なんだ今日はたゞ馬を水にならすためだ。 こゝの水少し干した方いゝな鉄梃を貸しませんか。 こゝら岩も柔いやうだな。 お暑うござんす。 なあにおうちの生徒さんぐらゐ大きな方ならあぶないこともないのですが一寸来て見た所です。 先生岩に何かの足痕あらんす。 あした石膏を用意して来よう。 イギリス海岸。 母昨夜土ぁ凍みだじゃぃ。 うん霜ぁ降ったのさ。 今日は畑ぁ土ぁぐじゃぐじゃづがべもや。 爺※ごぁ今朝も戻て来なぃがべが。 家でぁこったに忙がしでば。 爺※ごぁ今朝も戻て来なぃがべが。 うん。 けづな爺※ごだもな。 酔たぐれでばがり居で一向仕事|助けるもさないで。 今日も町で飲んでらべぁな。 うな|は爺※ごに肖るやなぃじゃぃ。 ダゴダアダゴダアダゴダア。 ツツンツツンチチツンツン。 ダア。 ゴーゴーガーガーキイミイガアアヨオワアゴゴーゴゴーゴゴー。 ホー善コォ。 ホー。 汝ぃの家さ今朝霜降ったが。 霜ぁおれぁの家さ降った。 うなぃの家さ降ったが。 うん降った。 わあああああああああ。 わああああ※ああああ。 カーカーココーコージャー。 じゃ汝あの音ぁ何の音だが覚だが。 奇体だな。 母こう云にしてガアガアど聞えるものぁ何だべ。 西根山の滝の音さ。 ばさん。 こう云にしてガアガアコーコーど鳴るものぁ何だべ。 天の邪鬼の小便の音さ。 ほう天の邪鬼の小便ぁ永ぃな。 アッハッハばさん。 天の邪鬼の小便ぁたまげだ永ぃな。 永ぃてさ天の邪鬼ぁいっつも小便垂れ通しさ。 兵隊さん。 兵隊さ※だなぃ。 鉄砲持ってなぃぞ。 兵隊さん。 兵隊さんだなぃ。 鉄砲持ってなぃぞ。 兵隊さん。 グルルルグルウユーリトルラズカルズユープレイトラウントビオッフナウスカッドアウエイテゥスクール。 ひばり焼げこひばりこんぶりこ。 じゃうなぃの爺※ごぁ酔ったぐれだが。 うんにゃおれぁの爺※ごぁ酔ったぐれだなぃ。 そだらうなぃの爺※ごど俺ぁの爺※ごど爺※ご取っ換ぇだらいがべじゃぃ。 取っ換ぇなぃどが。 なにしたど。 爺※ご取っ換ぇるど。 それよりもうなのごと山山のへっぴり伯父さ呉でやるべが。 じさん許せゆるせ取っ換ぇなぃはんてゆるせ。 松を火にたくいろりのそばでよるはよもやまはなしがはずむ母が手ぎわのだいこんなますこれがいなかのとしこしざかな。 第十三課。 何したど。 大根なますだど。 としこしざがなだど。 あんまりけづな書物だな。 なあにこの書物ぁ倹約教えだのだべも。 嘉ッコ猫ぉおれさ寄越せじゃ。 わがなぃんちゃ。 厭んた※ちゃ。 寄越せったら寄越せ。 嘉ッコぉ。 わあい。 寄越せじゃぁ。 厭※たぁ厭※たぁ厭※たったら。 そだら撲だぐじゃぃ。 いいが。 ガリガリッゴロゴロゴロゴロ。 お雷さんだ。 雹だ。 ホーォ。 ホーォ。 ホーォォ。 ホーォォー。 ホーォ。 ホーォ。 ほお雹だじゃぃ。 大きじゃぃ。 こったに大きじゃぃ。 俺家のなもこの位あるじゃぃ。 あ山山のへっぴり伯父。 しゅあんまり行っていけないったら。 カシオピイアもう水仙が咲き出すぞおまえのガラスの水車きっきとまわせ。 しゅ戻れったらしゅ。 アンドロメダあぜみの花がもう咲くぞおまえのラムプのアルコホルしゅうしゅと噴かせ。 とっといで。 ありがとう。 あいつは昨日木炭のそりを押して行った。 砂糖を買ってじぶんだけ帰ってきたな。 ひゅうなにをぐずぐずしているの。 さあ降らすんだよ。 降らすんだよ。 ひゅうひゅうひゅうひゅひゅう降らすんだよ飛ばすんだよなにをぐずぐずしているの。 こんなに急がしいのにさ。 ひゅうひゅう向うからさえわざと三人連れてきたじゃないか。 さあ降らすんだよ。 ひゅう。 ひゅうひゅうさあしっかりやるんだよ。 なまけちゃいけないよ。 ひゅうひゅう。 さあしっかりやってお呉れ。 今日はここらは水仙月の四日だよ。 さあしっかりさ。 ひゅう。 ひゅうひゅうなまけちゃ承知しないよ。 降らすんだよ降らすんだよ。 さあひゅう。 今日は水仙月の四日だよ。 ひゅうひゅうひゅうひゅうひゅう。 毛布をかぶってうつ向けになっておいで。 毛布をかぶってうつむけになっておいで。 ひゅう。 うつむけに倒れておいで。 ひゅう。 動いちゃいけない。 じきやむからけっとをかぶって倒れておいで。 倒れておいでひゅうだまってうつむけに倒れておいで今日はそんなに寒くないんだから凍えやしない。 倒れているんだよ。 だめだねえ。 ひゅうもっとしっかりやっておくれなまけちゃいけない。 さあひゅう。 おやおかしな子がいるねそうそうこっちへとっておしまい。 水仙月の四日だもの一人や二人とったっていいんだよ。 ええそうです。 さあ死んでしまえ。 倒れているんだよ。 動いちゃいけない。 動いちゃいけないったら。 そうそうそれでいいよ。 さあ降らしておくれ。 なまけちゃ承知しないよ。 ひゅうひゅうひゅうひゅひゅう。 そうして睡っておいで。 布団をたくさんかけてあげるから。 そうすれば凍えないんだよ。 あしたの朝までカリメラの夢を見ておいで。 あのこどもはぼくのやったやどりぎをもっていた。 さあしっかり今日は夜の二時までやすみなしだよ。 ここらは水仙月の四日なんだからやすんじゃいけない。 さあ降らしておくれ。 ひゅうひゅうひゅうひゅひゅう。 さあもうそろそろやすんでいいよ。 あたしはこれからまた海の方へ行くからねだれもついて来ないでいいよ。 ゆっくりやすんでこの次の仕度をして置いておくれ。 ああまあいいあんばいだった。 水仙月の四日がうまく済んで。 ずいぶんひどかったね。 ああ。 こんどはいつ会うだろう。 いつだろうねえしかし今年中にもう二へんぐらいのもんだろう。 早くいっしょに北へ帰りたいね。 ああ。 さっきこどもがひとり死んだな。 大丈夫だよ。 眠ってるんだ。 あしたあすこへぼくしるしをつけておくから。 ああもう帰ろう。 夜明けまでに向うへ行かなくちゃ。 まあいいだろう。 ぼくねどうしてもわからない。 あいつはカシオペーアの三つ星だろう。 みんな青い火なんだろう。 それなのにどうして火がよく燃えれば雪をよこすんだろう。 それはね電気|菓子とおなじだよ。 そらぐるぐるぐるまわっているだろう。 ザラメがみんなふわふわのお菓子になるねえだから火がよく燃えればいいんだよ。 ああ。 じゃさよなら。 さよなら。 さあおまえたちはぼくについておいで。 夜があけたからあの子どもを起さなけあいけない。 さあここらの雪をちらしておくれ。 もういいよ。 お父さんが来たよ。 もう眼をおさまし。 セロがおくれた。 トォテテテテテイここからやり直し。 はいっ。 セロっ。 糸が合わない。 困るなあ。 ぼくはきみにドレミファを教えてまでいるひまはないんだがなあ。 今の前の小節から。 はいっ。 ではすぐ今の次。 はいっ。 だめだ。 まるでなっていない。 このへんは曲の心臓なんだ。 それがこんながさがさしたことで。 諸君。 演奏までもうあと十日しかないんだよ。 音楽を専門にやっているぼくらがあの金沓鍛冶だの砂糖屋の丁稚なんかの寄り集りに負けてしまったらいったいわれわれの面目はどうなるんだ。 おいゴーシュ君。 君には困るんだがなあ。 表情ということがまるでできてない。 怒るも喜ぶも感情というものがさっぱり出ないんだ。 それにどうしてもぴたっと外の楽器と合わないもなあ。 いつでもきみだけとけた靴のひもを引きずってみんなのあとをついてあるくようなんだ困るよしっかりしてくれないとねえ。 光輝あるわが金星音楽団がきみ一人のために悪評をとるようなことではみんなへもまったく気の毒だからな。 では今日は練習はここまで休んで六時にはかっきりボックスへ入ってくれ給え。 ホーシュ君か。 ああくたびれた。 なかなか運搬はひどいやな。 何だと。 これおみやです。 たべてください。 誰がきさまにトマトなど持ってこいと云った。 第一おれがきさまらのもってきたものなど食うか。 それからそのトマトだっておれの畑のやつだ。 何だ。 赤くもならないやつをむしって。 いままでもトマトの茎をかじったりけちらしたりしたのはおまえだろう。 行ってしまえ。 ねこめ。 先生そうお怒りになっちゃおからだにさわります。 それよりシューマンのトロメライをひいてごらんなさい。 きいてあげますから。 生意気なことを云うな。 ねこのくせに。 いやご遠慮はありません。 どうぞ。 わたしはどうも先生の音楽をきかないとねむられないんです。 生意気だ。 生意気だ。 生意気だ。 では弾くよ。 何をひけと。 トロメライロマチックシューマン作曲。 そうか。 トロメライというのはこういうのか。 印度の虎狩。 先生もうたくさんです。 たくさんですよ。 ご生ですからやめてください。 これからもう先生のタクトなんかとりませんから。 だまれ。 これから虎をつかまえる所だ。 さあこれで許してやるぞ。 先生こんやの演奏はどうかしてますね。 どうだい。 工合をわるくしないかい。 舌を出してごらん。 ははあ少し荒れたね。 出してやるよ。 もう来るなよ。 ばか。 猫まだこりないのか。 鳥まで来るなんて。 何の用だ。 音楽を教わりたいのです。 音楽だと。 おまえの歌はかっこうかっこうというだけじゃあないか。 ええそれなんです。 けれどもむずかしいですからねえ。 むずかしいもんか。 おまえたちのはたくさん啼くのがひどいだけでなきようは何でもないじゃないか。 ところがそれがひどいんです。 たとえばかっこうとこうなくのとかっこうとこうなくのとでは聞いていてもよほどちがうでしょう。 ちがわないね。 ではあなたにはわからないんです。 わたしらのなかまならかっこうと一万云えば一万みんなちがうんです。 勝手だよ。 そんなにわかってるなら何もおれの処へ来なくてもいいではないか。 ところが私はドレミファを正確にやりたいんです。 ドレミファもくそもあるか。 ええ外国へ行く前にぜひ一度いるんです。 外国もくそもあるか。 先生どうかドレミファを教えてください。 わたしはついてうたいますから。 うるさいなあ。 そら三べんだけ弾いてやるからすんだらさっさと帰るんだぞ。 ちがいますちがいます。 そんなんでないんです。 うるさいなあ。 ではおまえやってごらん。 こうですよ。 かっこう。 何だい。 それがドレミファかい。 おまえたちにはそれではドレミファも第六|交響楽も同じなんだな。 それはちがいます。 どうちがうんだ。 むずかしいのはこれをたくさん続けたのがあるんです。 つまりこうだろう。 こらいいかげんにしないか。 かっこうかくうかっかっかっかっか。 こらとりもう用が済んだらかえれ。 どうかもういっぺん弾いてください。 あなたのはいいようだけれどもすこしちがうんです。 何だとおれがきさまに教わってるんではないんだぞ。 帰らんか。 どうかたったもう一ぺんおねがいです。 どうか。 ではこれっきりだよ。 くっ。 ではなるべく永くおねがいいたします。 いやになっちまうなあ。 かっこうかっこうかっこう。 えいこんなばかなことしていたらおれは鳥になってしまうんじゃないか。 かっこうかっこうかっこうかっかっかっかっかっ。 なぜやめたんですか。 ぼくらならどんな意気地ないやつでものどから血が出るまでは叫ぶんですよ。 何を生意気な。 こんなばかなまねをいつまでしていられるか。 もう出て行け。 見ろ。 夜があけるんじゃないか。 ではお日さまの出るまでどうぞ。 もう一ぺん。 ちょっとですから。 黙れっ。 いい気になって。 このばか鳥め。 出て行かんとむしって朝飯に食ってしまうぞ。 何だ硝子へばかだなあ。 いまあけてやるから待っていろったら。 こら狸おまえは狸汁ということを知っているかっ。 狸汁ってぼく知らない。 では教えてやろう。 狸汁というのはな。 おまえのような狸をなキャベジや塩とまぜてくたくたと煮ておれさまの食うようにしたものだ。 だってぼくのお父さんがねゴーシュさんはとてもいい人でこわくないから行って習えと云ったよ。 何を習えと云ったんだ。 おれはいそがしいんじゃないか。 それに睡いんだよ。 ぼくは小太鼓の係りでねえ。 セロへ合わせてもらって来いと云われたんだ。 どこにも小太鼓がないじゃないか。 そらこれ。 それでどうするんだ。 ではね『愉快な馬車屋』を弾いてください。 なんだ愉快な馬車屋ってジャズか。 ああこの譜だよ。 ふう変な曲だなあ。 よしさあ弾くぞ。 おまえは小太鼓を叩くのか。 ゴーシュさんはこの二番目の糸をひくときはきたいに遅れるねえ。 なんだかぼくがつまずくようになるよ。 いやそうかもしれない。 このセロは悪いんだよ。 どこが悪いんだろうなあ。 ではもう一ぺん弾いてくれますか。 いいとも弾くよ。 ああ夜が明けたぞ。 どうもありがとう。 おはいり。 先生この児があんばいがわるくて死にそうでございますが先生お慈悲になおしてやってくださいまし。 おれが医者などやれるもんか。 先生それはうそでございます先生は毎日あんなに上手にみんなの病気をなおしておいでになるではありませんか。 何のことだかわからんね。 だって先生先生のおかげで兎さんのおばあさんもなおりましたし狸さんのお父さんもなおりましたしあんな意地悪のみみずくまでなおしていただいたのにこの子ばかりお助けをいただけないとはあんまり情ないことでございます。 おいおいそれは何かの間ちがいだよ。 おれはみみずくの病気なんどなおしてやったことはないからな。 もっとも狸の子はゆうべ来て楽隊のまねをして行ったがね。 ははん。 ああこの児はどうせ病気になるならもっと早くなればよかった。 さっきまであれ位ごうごうと鳴らしておいでになったのに病気になるといっしょにぴたっと音がとまってもうあとはいくらおねがいしても鳴らしてくださらないなんて。 何てふしあわせな子どもだろう。 何だとぼくがセロを弾けばみみずくや兎の病気がなおると。 どういうわけだ。 それは。 はいここらのものは病気になるとみんな先生のおうちの床下にはいって療すのでございます。 すると療るのか。 はい。 からだ中とても血のまわりがよくなって大へんいい気持ちですぐ療る方もあればうちへ帰ってから療る方もあります。 ああそうか。 おれのセロの音がごうごうひびくとそれがあんまの代りになっておまえたちの病気がなおるというのか。 よし。 わかったよ。 やってやろう。 わたしもいっしょについて行きます。 どこの病院でもそうですから。 おまえさんもはいるかね。 おまえそこはいいかい。 落ちるときいつも教えるように足をそろえてうまく落ちたかい。 いい。 うまく落ちた。 大丈夫さ。 だから泣き声出すなというんだ。 もう沢山です。 どうか出してやってください。 なあんだこれでいいのか。 どうだったの。 いいかい。 気分は。 ああよくなったんだ。 ありがとうございます。 ありがとうございます。 ありがとうございますありがとうございます。 おいおまえたちはパンはたべるのか。 いえもうおパンというものは小麦の粉をこねたりむしたりしてこしらえたものでふくふく膨らんでいておいしいものなそうでございますがそうでなくても私どもはおうちの戸棚へなど参ったこともございませんしましてこれ位お世話になりながらどうしてそれを運びになんど参れましょう。 いやそのことではないんだ。 ただたべるのかときいたんだ。 ではたべるんだな。 ちょっと待てよ。 その腹の悪いこどもへやるからな。 あああ。 鼠と話するのもなかなかつかれるぞ。 アンコールをやっていますが何かみじかいものでもきかせてやってくださいませんか。 いけませんな。 こういう大物のあとへ何を出したってこっちの気の済むようには行くもんでないんです。 では楽長さん出て一寸挨拶してください。 だめだ。 おいゴーシュ君何か出て弾いてやってくれ。 わたしがですか。 君だ君だ。 さあ出て行きたまえ。 どこまでひとをばかにするんだ。 よし見ていろ。 印度の虎狩をひいてやるから。 こんやは変な晩だなあ。 ゴーシュ君よかったぞお。 あんな曲だけれどもここではみんなかなり本気になって聞いてたぞ。 一週間か十日の間にずいぶん仕上げたなあ。 十日前とくらべたらまるで赤ん坊と兵隊だ。 やろうと思えばいつでもやれたんじゃないか君。 よかったぜ。 いやからだが丈夫だからこんなこともできるよ。 普通の人なら死んでしまうからな。 ああかっこう。 あのときはすまなかったなあ。 おれは怒ったんじゃなかったんだ。 ぼくなんか落ちるとちゅうで目がまわらないだろうか。 よく目をつぶっていけばいいさ。 そうだ。 わすれていた。 ぼく水とうに水をつめておくんだった。 ぼくはね水とうのほかにはっか水を用意したよ。 すこしやろうか。 旅へ出てあんまり心持ちのわるいときはちょっと飲むといいっておっかさんがいったぜ。 なぜおっかさんはぼくへはくれないんだろう。 だからぼくあげるよ。 おっかさんをわるく思っちゃすまないよ。 ねあたしどんなとこへいくのかしら。 あたしだってわからないわどこへもいきたくないわね。 あたしどんなめにあってもいいからおっかさんとこにいたいわ。 だっていけないんですって。 風が毎日そういったわ。 いやだわね。 そしてあたしたちもみんなばらばらにわかれてしまうんでしょう。 ええそうよ。 もうあたしなんにもいらないわ。 あたしもよ。 今までいろいろわがままばっかしいってゆるしてくださいね。 あらあたしこそ。 あたしこそだわ。 ゆるしてちょうだい。 そらもう明るくなったぞ。 うれしいなあ。 ぼくはきっと黄金色のお星さまになるんだよ。 ぼくもなるよ。 きっとここから落ちればすぐ北風が空へつれてってくれるだろうね。 ぼくは北風じゃないと思うんだよ。 北風はしんせつじゃないんだよ。 ぼくはきっとからすさんだろうと思うね。 そうだ。 きっとからすさんだ。 からすさんはえらいんだよ。 ここから遠くてまるで見えなくなるまでひと息に飛んでゆくんだからね。 たのんだらぼくらふたりぐらいきっといっぺんに青ぞらまでつれていってくれるぜ。 たのんでみようか。 はやく来るといいな。 ぼくはいちばんはじめにあんずの王様のお城をたずねるよ。 そしておひめ様をさらっていったばけものを退治するんだ。 そんなばけものがきっとどこかにあるね。 うん。 あるだろう。 けれどもあぶないじゃないか。 ばけものは大きいんだよ。 ぼくたちなんか鼻でふきとばされちまうよ。 ぼくねいいもの持っているんだよ。 だからだいじょうぶさ。 見せようか。 そらね。 これおっかさんの髪でこさえた網じゃないの。 そうだよ。 おっかさんがくだすったんだよ。 なにかおそろしいことのあったときはこのなかにかくれるんだって。 ぼくねこの網をふところにいれてばけものに行ってね。 もしもし。 こんにちはぼくをのめますかのめないでしょう。 とこういうんだよ。 ばけものはおこってすぐのむだろう。 ぼくはそのときばけものの胃ぶくろのなかでこの網をだしてねすっかりかぶっちまうんだ。 それからおなかじゅうをめっちゃめちゃにこわしちまうんだよ。 そらばけものはチブスになって死ぬだろう。 そこでぼくはでてきてあんずのおひめ様をつれてお城に帰るんだ。 そしておひめ様をもらうんだよ。 ほんとうにいいね。 そんならそのときぼくはお客様になっていってもいいだろう。 いいともさ。 ぼく国を半分わけてあげるよ。 それからおっかさんへは毎日おかしやなんかたくさんあげるんだ。 ぼくくつが小さいや。 めんどうくさい。 はだしでいこう。 そんならぼくのとかえよう。 ぼくのはすこし大きいんだよ。 かえよう。 あちょうどいいぜ。 ありがとう。 わたしこまってしまうわおっかさんにもらった新しい外套が見えないんですもの。 はやくおさがしなさいよ。 どのえだにおいたの。 わすれてしまったわ。 こまったわね。 これからひじょうに寒いんでしょう。 どうしても見つけないといけなくってよ。 そらね。 いいぱんだろう。 ほしぶどうがちょっと顔をだしてるだろう。 はやくかばんへ入れたまえ。 もうお日さまがおでましになるよ。 ありがとう。 じゃもらうよ。 ありがとう。 いっしょにいこうね。 こまったわわたしどうしてもないわ。 ほんとうにわたしどうしましょう。 わたしとふたりでいきましょうよ。 わたしのをときどきかしてあげるわ。 こごえたらいっしょに死にましょうよ。 さよならおっかさん。 さよならおっかさん。 ことしもこれでまずさよならさよならっていうわけだ。 達二。 居るが。 達二。 あん居る。 善い童だはんてなおじぃさんど兄※ど上の原のすぐ上り口で草|刈ってるがら弁当持って行って来。 な。 それがら牛も連れてって草|食ぁせで来。 な。 兄※がら離れなよ。 あん行て来る。 行て来る。 今|草鞋穿ぐがら。 そだら行って来ら。 気ぃ付けで行げ。 上で兄※がら離れなよ。 あん。 ダーダースコダーダー。 夜の頭巾は鶏の黒尾月のあかりはしっ歩けしっ。 上さ行って好い草食え。 早ぐ歩げっ。 しっ。 馬鹿だな。 しっ。 歩げ。 しっ。 歩げ。 雨になるがも知れなぃな。 兄※。 居るが。 兄※。 来たぞ。 おおい。 ああい。 其処に居ろ。 今行ぐぞ。 善ぐ来たな。 牛も連れで来たのが。 弁当持ってが。 善ぐ来た。 今日ぁ午まがらきっと曇る。 俺もう少し草|集めて仕舞がらな此処らに居ろ。 おじいさん今来る。 腹減ったら弁当先に喰べてろ。 風呂敷ばあの馬さ結付けでおげ。 午まになったらまた来るがら。 うん。 此処に居る。 牛ぁ逃げる。 牛ぁ逃げる。 兄※。 牛ぁ逃げる。 兄※。 兄※。 牛ぁ逃げだ。 兄※。 兄※。 あ西さんあ東さんあ西さん。 あ南さん。 あ西さん。 兄※兄※居るが。 兄※。 伊佐戸の町の電気|工夫の童ぁ山男に手足ぃ縛らえてたふうだ。 さあみんな支度はいいが。 ダーダーダーダーダースコダーダー。 ダーダーダーダー。 ダースコダーダー。 危なぃ。 誰だ刀抜いだのは。 まだ町さも来なぃに早ぁじゃ。 ダーダーダーダー。 ダースコダーダー。 おいでなさい。 いいものをあげましょう。 そら。 干した苹果ですよ。 ありがどあなたはどなた。 わたし誰でもないわ。 一緒に向うへ行って遊びましょう。 あなた驢馬を有っていて。 驢馬は持ってません。 只の仔馬ならあります。 只の仔馬は大きくて駄目だわ。 そんならあなたは小鳥は嫌いですか。 小鳥。 わたし大好きよ。 あげましょう。 私はひわを有っています。 ひわを一|疋あげましょうか。 ええ。 欲しいわ。 あげましょう。 私今持って来ます。 ええ早くよ。 達二どこさ行く。 すぐ来るがら。 伊佐戸の町の電気工夫のむすこぁふらふらふらふらふら。 こりゃ山男。 出はって来。 切ってしまうぞ。 どうか御免御免。 何じょなことでも為んす。 うん。 そんだら許してやる。 蟹を百|疋捕って来。 ふう。 蟹を百疋。 それ丈けでようがすかな。 それがら兎を百疋捕って来。 ふう。 殺してきてもようがすか。 うんにゃ。 わが※なぃ。 生ぎだのだ。 ふうふう。 かしこまた。 小僧。 さあ来。 これから俺れの家来だ。 来う。 この刀はいい刀だな。 実に焼きをよぐかげである。 ばが。 奴の家来になどならなぃ。 殺さば殺せ。 仲々ず太ぃやづだ。 来ったら来ぅ。 行がない。 ようしそんだらさらって行ぐ。 あ居だが。 馬鹿だな。 奴は。 さ歩べ。 おおい達二。 居るが。 達二。 達二。 おおい。 居る居る。 兄なぁ。 おおい。 探したぞ。 こんたな処まで来て。 何して黙って彼処に居なぃがった。 おじいさんうんと心配してるぞ。 さ早く歩べ。 牛ぁ逃げだだも。 牛ぁ逃げだ。 はあそうが。 何にびっくりしたたがな。 すっかりぬれだな。 さあ俺のけら着ろ。 一向寒ぐなぃ。 兄※のなは大きくて引き擦るがらわが※なぃ。 そうが。 よしよし。 まず歩べ。 おじいさん火たいて待ってるがらな。 おじいさん居だ居だ。 達二ぁ居だ。 ああそうが。 心配した心配した。 ああ好がった。 おお達二。 寒がべぁさあ入れ。 おおむぞやな。 な。 何ぼが泣いだがな。 さあさあ団子たべろ。 食べろ。 な。 今こっちを焼ぐがらな。 全体何処まで行ってだった。 笹長根の下り口だ。 危ぃがった。 危ぃがった。 向うさ降りだらそれっ切りだったぞ。 さあ達二。 団子喰べろ。 ふん。 まるっきり馬こみだぃに食ってる。 さあさあこいづも食べろ。 おじいさん。 今のうぢに草|片附げで来るべが。 うんにゃ。 も少し待で。 またすぐ晴れる。 おらも弁当食うべ。 ああ心配した。 俺も虎こ山の下まで行って見で来た。 はあまんつ好がった。 雨も晴れる。 今朝ほんとに天気好がったのにな。 うん。 また好ぐなるさ。 あ雨|漏ってきた。 草少し屋根さかぶせろ。 おじいさん。 明るぐなった。 雨あ霽れだ。 うんうん。 そうが。 さあ弁当食ってで草|片附げべ。 達二。 弁当食べろ。 ぜんたいここらの山は怪しからんね。 鳥も獣も一疋も居やがらん。 なんでも構わないから早くタンタアーンとやって見たいもんだなあ。 鹿の黄いろな横っ腹なんぞに二三発お見舞もうしたらずいぶん痛快だろうねえ。 くるくるまわってそれからどたっと倒れるだろうねえ。 じつにぼくは二千四百円の損害だ。 ぼくは二千八百円の損害だ。 ぼくはもう戻ろうとおもう。 さあぼくもちょうど寒くはなったし腹は空いてきたし戻ろうとおもう。 そいじゃこれで切りあげよう。 なあに戻りに昨日の宿屋で山鳥を拾円も買って帰ればいい。 兎もでていたねえ。 そうすれば結局おんなじこった。 では帰ろうじゃないか。 どうも腹が空いた。 さっきから横っ腹が痛くてたまらないんだ。 ぼくもそうだ。 もうあんまりあるきたくないな。 あるきたくないよ。 ああ困ったなあ何かたべたいなあ。 喰べたいもんだなあ。 君ちょうどいい。 ここはこれでなかなか開けてるんだ。 入ろうじゃないか。 おやこんなとこにおかしいね。 しかしとにかく何か食事ができるんだろう。 もちろんできるさ。 看板にそう書いてあるじゃないか。 はいろうじゃないか。 ぼくはもう何か喰べたくて倒れそうなんだ。 どなたもどうかお入りください。 決してご遠慮はありません。 こいつはどうだやっぱり世の中はうまくできてるねえきょう一日なんぎしたけれどこんどはこんないいこともある。 このうちは料理店だけれどもただでご馳走するんだぜ。 どうもそうらしい。 決してご遠慮はありませんというのはその意味だ。 ことに肥ったお方や若いお方は大歓迎いたします。 君ぼくらは大歓迎にあたっているのだ。 ぼくらは両方兼ねてるから。 どうも変な家だ。 どうしてこんなにたくさん戸があるのだろう。 これはロシア式だ。 寒いとこや山の中はみんなこうさ。 当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはご承知ください。 なかなかはやってるんだ。 こんな山の中で。 それあそうだ。 見たまえ東京の大きな料理屋だって大通りにはすくないだろう。 注文はずいぶん多いでしょうがどうか一々こらえて下さい。 これはぜんたいどういうんだ。 うんこれはきっと注文があまり多くて支度が手間取るけれどもごめん下さいと斯ういうことだ。 そうだろう。 早くどこか室の中にはいりたいもんだな。 そしてテーブルに座りたいもんだな。 お客さまがたここで髪をきちんとしてそれからはきものの泥を落してください。 これはどうも尤もだ。 僕もさっき玄関で山のなかだとおもって見くびったんだよ。 作法の厳しい家だ。 きっとよほど偉い人たちがたびたび来るんだ。 鉄砲と弾丸をここへ置いてください。 なるほど鉄砲を持ってものを食うという法はない。 いやよほど偉いひとが始終来ているんだ。 どうか帽子と外套と靴をおとり下さい。 どうだとるか。 仕方ないとろう。 たしかによっぽどえらいひとなんだ。 奥に来ているのは。 ネクタイピンカフスボタン眼鏡財布その他金物類ことに尖ったものはみんなここに置いてください。 ははあ何かの料理に電気をつかうと見えるね。 金気のものはあぶない。 ことに尖ったものはあぶないと斯う云うんだろう。 そうだろう。 して見ると勘定は帰りにここで払うのだろうか。 どうもそうらしい。 そうだ。 きっと。 壺のなかのクリームを顔や手足にすっかり塗ってください。 クリームをぬれというのはどういうんだ。 これはね外がひじょうに寒いだろう。 室のなかがあんまり暖いとひびがきれるからその予防なんだ。 どうも奥にはよほどえらいひとがきている。 こんなとこで案外ぼくらは貴族とちかづきになるかも知れないよ。 クリームをよく塗りましたか耳にもよく塗りましたか。 そうそうぼくは耳には塗らなかった。 あぶなく耳にひびを切らすとこだった。 ここの主人はじつに用意|周到だね。 ああ細かいとこまでよく気がつくよ。 ところでぼくは早く何か喰べたいんだがどうも斯うどこまでも廊下じゃ仕方ないね。 料理はもうすぐできます。 十五分とお待たせはいたしません。 すぐたべられます。 早くあなたの頭に瓶の中の香水をよく振りかけてください。 この香水はへんに酢くさい。 どうしたんだろう。 まちがえたんだ。 下女が風邪でも引いてまちがえて入れたんだ。 いろいろ注文が多くてうるさかったでしょう。 お気の毒でした。 もうこれだけです。 どうかからだ中に壺の中の塩をたくさんよくもみ込んでください。 どうもおかしいぜ。 ぼくもおかしいとおもう。 沢山の注文というのは向うがこっちへ注文してるんだよ。 だからさ西洋料理店というのはぼくの考えるところでは西洋料理を来た人にたべさせるのではなくて来た人を西洋料理にして食べてやる家とこういうことなんだ。 これはそのつつつつまりぼぼぼくらが。 そのぼぼくらがうわあ。 遁げ。 いやわざわざご苦労です。 大へん結構にできました。 さあさあおなかにおはいりください。 うわあ。 うわあ。 だめだよ。 もう気がついたよ。 塩をもみこまないようだよ。 あたりまえさ。 親分の書きようがまずいんだ。 あすこへいろいろ注文が多くてうるさかったでしょうお気の毒でしたなんて間抜けたことを書いたもんだ。 どっちでもいいよ。 どうせぼくらには骨も分けて呉れやしないんだ。 それはそうだ。 けれどももしここへあいつらがはいって来なかったらそれはぼくらの責任だぜ。 呼ぼうか呼ぼう。 おいお客さん方早くいらっしゃい。 いらっしゃい。 いらっしゃい。 お皿も洗ってありますし菜っ葉ももうよく塩でもんで置きました。 あとはあなたがたと菜っ葉をうまくとりあわせてまっ白なお皿にのせるだけです。 はやくいらっしゃい。 へいいらっしゃいいらっしゃい。 それともサラドはお嫌いですか。 そんならこれから火を起してフライにしてあげましょうか。 とにかくはやくいらっしゃい。 いらっしゃいいらっしゃい。 そんなに泣いては折角のクリームが流れるじゃありませんか。 へいただいま。 じきもってまいります。 さあ早くいらっしゃい。 早くいらっしゃい。 親方がもうナフキンをかけてナイフをもって舌なめずりしてお客さま方を待っていられます。 わんわんぐゎあ。 わん。 にゃあおくゎあごろごろ。 旦那あ旦那あ。 おおいおおいここだぞ早く来い。 何のご用ですか。 私は洋傘直しですが何かご用はありませんか。 若しまた何か鋏でも研ぐのがありましたらそちらのほうもいたします。 ああそうですか。 一寸お待ちなさい。 主人に聞いてあげましょう。 どうかお願いいたします。 これだけお願いするそうです。 へい。 ええと。 この剪定鋏はひどく捩れておりますから鍛冶に一ぺんおかけなさらないと直りません。 こちらのほうはみんな出来ます。 はじめにお値段を決めておいてよろしかったらお研ぎいたしましょう。 そうですか。 どれだけですか。 こちらが八|銭こちらが十銭こちらの鋏は二|丁で十五銭にいたしておきましょう。 ようござんす。 じゃ願います。 水がありますか。 持って来てあげましょう。 その芝の上がいいですか。 どこでもあなたのすきな処でおやりなさい。 ええ水は私が持って参ります。 そうですか。 そこのかきねのこっち側を少し右へついておいでなさい。 井戸があります。 へい。 それではお研ぎいたしましょう。 ええ。 お折角ですねいい天気になりました。 もう一つお願いしたいんですがね。 何ですか。 これですよ。 これはどこでお買いになりました。 貰ったんですよ。 研ぎますか。 ええ。 それじゃ研いでおきましょう。 すぐ来ますからねじきに三時のやすみです。 もう出来たんですか。 ええ。 それでは代を持って来ました。 そっちは三十三|銭ですね。 お取り下さい。 それから私の分はいくらですか。 ありがとうございます。 剃刀のほうは要りません。 どうしてですか。 お負けいたしておきましょう。 まあ取って下さい。 いいえいただくほどじゃありません。 そうですか。 ありがとうございました。 そんなら一寸向うの番小屋までおいで下さい。 お茶でもさしあげましょう。 いいえもう失礼いたします。 それではあんまりです。 一寸お待ち下さい。 ええと仕方ないそんならまあ私の作った花でも見て行って下さい。 ええありがとう。 拝見しましょう。 そうですか。 では。 ね此の黄と橙の大きな斑はアメリカから直かに取りました。 こちらの黄いろは見ていると額が痛くなるでしょう。 ええ。 この赤と白の斑は私はいつでも昔の海賊のチョッキのような気がするんですよ。 ね。 それからこれはまっ赤な羽二重のコップでしょう。 この花びらは半ぶんすきとおっているので大へん有名です。 ですからこいつの球はずいぶんみんなで欲しがります。 ええ全く立派です。 赤い花は風で動いている時よりもじっとしている時のほうがいいようですね。 そうです。 そうです。 そして一寸あいつをごらんなさい。 ね。 そらその黄いろの隣りのあいつです。 あの小さな白いのですか。 そうですあれは此処では一番大切なのです。 まあしばらくじっと見詰めてごらんなさい。 どうです形のいいことは一等でしょう。 ずいぶん寂かな緑の柄でしょう。 風にゆらいで微かに光っているようです。 いかにもその柄が風に靱っているようです。 けれども実は少しも動いておりません。 それにあの白い小さな花は何か不思議な合図を空に送っているようにあなたには思われませんか。 ああそうですそうです見えました。 けれども何だか空のひばりの羽の動かしようがいや鳴きようがさっきと調子をちがえてきたではありませんか。 そうでしょうともそれですからごらんなさい。 あの花の盃の中からぎらぎら光ってすきとおる蒸気が丁度水へ砂糖を溶したときのようにユラユラユラユラ空へ昇って行くでしょう。 ええええそうです。 そしてそら光が湧いているでしょう。 おお湧きあがる湧きあがる花の盃をあふれてひろがり湧きあがりひろがりひろがりもう青ぞらも光の波で一ぱいです。 山脈の雪も光の中で機嫌よく空へ笑っています。 湧きます湧きます。 ふうチュウリップの光の酒。 どうです。 チュウリップの光の酒。 ほめて下さい。 ええこのエステルは上等です。 とても合成できません。 おやエステルだって合成だってそいつは素敵だ。 あなたはどこかの化学大学校を出た方ですね。 いいえ私はエステル工学校の卒業生です。 エステル工学校。 ハッハッハ。 素敵だ。 さあどうです。 一杯やりましょう。 チュウリップの光の酒。 さあ飲みませんか。 いややりましょう。 ようあなたの健康を祝します。 ようご健康を祝します。 いい酒です。 貧乏な僕のお酒はまた一層に光っておまけに軽いのだ。 けれどもぜんたいこれでいいんですか。 あんまり光が過ぎはしませんか。 いいえ心配ありません。 酒があんなに湧きあがり波を立てたり渦になったり花弁をあふれて流れてもあのチュウリップの緑の花柄は一寸もゆらぎはしないのです。 さあも一つおやりなさい。 ええありがとう。 あなたもどうです。 奇麗な空じゃありませんか。 やりますともおっと沢山沢山。 けれどもいくらこぼれたところでそこら一面チュウリップ酒の波だもの。 一面どころじゃありません。 そらのはずれから地面の底まですっかり光の領分です。 たしかに今は光のお酒が地面の腹の底までしみました。 ええええそうです。 おやごらんなさい向うの畑。 ね。 光の酒に漬っては花椰菜でもアスパラガスでも実に立派なものではありませんか。 立派ですね。 チュウリップ酒で漬けた瓶詰です。 しかし一体ひばりはどこまで逃げたでしょう。 どこまで逃げて行ったのかしら。 自分で斯んな光の波を起しておいてあとはどこかへ逃げるとは気取ってやがる。 あんまり気取ってやがる畜生。 まったくそうです。 こらひばりめ降りて来い。 ははぁやつ溶けたな。 こんなに雲もない空にかくれるなんてできないはずだ。 溶けたのですよ。 いいえあいつの歌ならあの甘ったるい歌ならさっきから光の中に溶けていましたがひばりはまさか溶けますまい。 溶けたとしたらその小さな骨を何かの網で掬い上げなくちゃなりません。 そいつはあんまり手数です。 まあそうですね。 しかしひばりのことなどはまあどうなろうと構わないではありませんか。 全体ひばりというものは小さなもので空をチーチクチーチク飛ぶだけのもんです。 まあそうですねそれでいいでしょう。 ところがおやおやあんなでもやっぱりいいんですか。 向うの唐檜が何だかゆれて踊り出すらしいのですよ。 唐檜ですか。 あいつはみんなで一小隊はありましょう。 みんな若いし擲弾兵です。 ゆれて踊っているようですが構いませんか。 なあに心配ありません。 どうせチュウリップ酒の中の景色です。 いくら跳ねてもいいじゃありませんか。 そいつは全くそうですね。 まあ大目に見ておきましょう。 大目に見ないといけません。 いい酒だ。 ふう。 すももも踊り出しますよ。 すももは墻壁仕立です。 ダイアモンドです。 枝がななめに交叉します。 一中隊はありますよ。 義勇中隊です。 やっぱりあんなでいいんですか。 構いませんよ。 それよりまああの梨の木どもをご覧なさい。 枝が剪られたばかりなので身体が一向釣り合いません。 まるで蛹の踊りです。 蛹踊とはそいつはあんまり可哀そうです。 すっかり悄気て化石してしまったようじゃありませんか。 石になるとは。 そいつはあんまりひどすぎる。 おおい。 梨の木。 木のまんまでいいんだよ。 けれども仲々人の命令をすなおに用いるやつらじゃないんです。 それより向うのくだものの木の踊りの環をごらんなさい。 まん中に居てきゃんきゃん調子をとるのがあれが桜桃の木ですか。 どれですか。 あああれですか。 いいえあいつは油桃です。 やっぱり巴丹杏やまるめろの歌は上手です。 どうです。 行って仲間にはいりましょうか。 行きましょう。 行きましょう。 おおい。 おいらも仲間に入れろ。 痛い畜生。 どうかなさったのですか。 眼をやられました。 どいつかにひどく引っ掻かれたのです。 そうでしょう。 全体駄目です。 どいつも満足の手のあるやつはありません。 みんなガリガリ骨ばかりおやいけないいけないすっかり崩れて泣いたりわめいたりむしりあったりなぐったり一体あんまり冗談が過ぎたのです。 ええ斯う世の中が乱れては全くどうも仕方ありません。 全くそうです。 そうら。 そら火です火です。 火がつきました。 チュウリップ酒に火がはいったのです。 いけないいけない。 はたけも空もみんなけむりしろけむり。 パチパチパチパチやっている。 どうも素敵に強い酒だと思いましたよ。 そうそうだからこれはあの白いチュウリップでしょう。 そうでしょうか。 そうです。 そうですとも。 ここで一番|大事な花です。 ああもうよほど経ったでしょう。 チュウリップの幻術にかかっているうちに。 もう私は行かなければなりません。 さようなら。 そうですかではさようなら。 ツェ。 おいツェねずみ。 お前んとこの戸棚の穴から金米糖がばらばらこぼれているぜ。 早く行ってひろいな。 止まれだれかっ。 ここから内へはいってならん。 早く帰れ。 帰れ帰れ。 どうだ。 金米糖がなかったかい。 いたちさん。 ずいぶんお前もひどい人だね。 私のような弱いものをだますなんて。 だましゃせん。 たしかにあったのや。 あるにはあってももう蟻が来てましたよ。 蟻がへい。 そうかい。 早いやつらだね。 みんな蟻がとってしまいましたよ。 私のような弱いものをだますなんて償うてください。 償うてください。 それはしかたない。 お前の行きようが少しおそかったのや。 知らん知らん。 私のような弱いものをだまして。 償うてください。 償うてください。 困ったやつだな。 ひとの親切をさかさまにうらむとは。 よしよし。 そんならおれの金米糖をやろう。 償うてください。 償うてください。 えいそれ。 持って行け。 てめえの持てるだけ持ってうせちまえ。 てめえみたいなぐにゃぐにゃした男らしくもねえやつはつらも見たくねえ。 早く持てるだけ持ってどっかへうせろ。 えい早く行ってしまえ。 てめえの取ったのこりなんかうじむしにでもくれてやらあ。 ツェねずみさんもうじき冬になるね。 ぼくらはまたかわいてミリミリ言わなくちゃならない。 お前さんも今のうちにいい夜具のしたくをしておいた方がいいだろう。 幸いぼくのすぐ頭の上にすずめが春持って来た鳥の毛やいろいろ暖かいものがたくさんあるからいまのうちにすこしおろして運んでおいたらどうだい。 僕の頭はまあ少し寒くなるけれど僕は僕でまたくふうをするから。 ねずみさんけがはないかい。 けがはないかい。 柱さん。 お前もずいぶんひどい人だ。 僕のような弱いものをこんな目にあわすなんて。 ねずみさんすまなかった。 ゆるしてください。 許してくれもないじゃないか。 お前さえあんなこしゃくなさしずをしなければ私はこんな痛い目にもあわなかったんだよ。 償っておくれ。 償っておくれ。 さあ償っておくれよ。 そんなことを言ったって困るじゃありませんか。 許してくださいよ。 いいや弱いものをいじめるのは私はきらいなんだから償っておくれ。 償っておくれ。 さあ償っておくれ。 これで毎朝お顔をお洗いなさい。 ねずちゃんおいで。 今夜のごちそうはあじのおつむだよ。 お前さんの食べる間わたしはしっかり押えておいてあげるから。 ね安心しておいで。 入り口をパタンとしめるようなそんなことをするもんかね。 わたしも人間にはもうこりこりしてるんだから。 おいでよ。 そら。 へんうまく言ってらあ。 へいへい。 よくわかりましてございます。 いずれおやじやせがれとも相談の上で。 またはいらない。 ねずみももう知ってるんだな。 ねずみの学校で教えるんだな。 しかしまあもう一日だけかけてみよう。 おいでおいで。 今夜はやわらかな半ぺんだよ。 えさだけあげるよ。 大丈夫さ。 早くおいで。 おやねずみ捕りさんほんとうにえさだけをくださるんですか。 おやお前は珍しいねずみだね。 そうだよ。 えさだけあげるんだよ。 そら早くお食べ。 おいしかったよ。 ありがとう。 そうかい。 よかったね。 またあすの晩おいで。 えい。 えさだけとって行きやがった。 ずるいねずみだな。 しかしとにかく中にはいったというのは感心だ。 そらきょうは鰯だぞ。 今晩はお約束どおり来てあげましたよ。 さあ食べなさい。 じゃあしたまた来て食べてあげるからね。 ブウ。 えい。 ずるいねずみだ。 しかし毎晩そんなにうまくえさだけ取られるはずがない。 どうもこのねずみ捕りめはねずみからわいろをもらったらしいぞ。 もらわん。 もらわん。 あんまり人を見そこなうな。 あああ毎日ここまでやって来るのも並みたいていのこっちゃない。 それにごちそうといったらせいぜい魚の頭だ。 いやになっちまう。 しかしまあせっかく来たんだからしかたない。 食ってやるとしようか。 ねずみ捕りさん。 今晩は。 お食べ。 ねずみとりさん。 あんまりひどいや。 この半ぺんはくさってます。 僕のような弱いものをだますなんてあんまりだ。 償ってください。 償ってください。 ピシャッ。 シインン。 ねずみ捕りさん。 ひどいや。 ひどいや。 ううくやしい。 ねずみ捕りさん。 あんまりだ。 しめた。 しめた。 とうとうかかった。 意地の悪そうなねずみだな。 さあ出て来い。 こぞう。 ドッテテドッテテドッテテドでんしんばしらのぐんたいははやさせかいにたぐいなしドッテテドッテテドッテテドでんしんばしらのぐんたいはきりつせかいにならびなし。 ドッテテドッテテドッテテド二本うで木の工兵隊六本うで木の竜騎兵ドッテテドッテテドッテテドいちれつ一万五千人はりがねかたくむすびたり。 おいはやくあるけ。 はりがねがたるむじゃないか。 もうつかれてあるけない。 あしさきが腐り出したんだ。 長靴のタールもなにももうめちゃくちゃになってるんだ。 はやくあるけあるけ。 きさまらのうちどっちかが参っても一万五千人みんな責任があるんだぞ。 あるけったら。 ドッテテドッテテドッテテドやりをかざれるとたん帽すねははしらのごとくなり。 ドッテテドッテテドッテテド肩にかけたるエボレット重きつとめをしめすなり。 ドッテテドッテテドッテテド寒さはだえをつんざくもなどて腕木をおろすべきドッテテドッテテドッテテド暑さ硫黄をとかすともいかでおとさんエボレット。 お一二お一二。 お一二お一二。 なみ足い。 おいっ。 ドッテテドッテテドッテテド右とひだりのサアベルはたぐいもあらぬ細身なり。 今晩はおまえはさっきから行軍を見ていたのかい。 ええ見てました。 そうかじゃ仕方ない。 ともだちになろうさあ握手しよう。 やっ。 ははあだいぶひびいたねこれでごく弱いほうだよ。 わしとも少し強く握手すればまあ黒焦げだね。 ドッテテドッテテドッテテドタールを塗れるなが靴の歩はばは三百六十尺。 おれは電気総長だよ。 電気総長というのはやはり電気の一種ですか。 わからん子供だな。 ただの電気ではないさ。 つまり電気のすべての長長というのはかしらとよむ。 とりもなおさず電気の大将ということだ。 大将ならずいぶんおもしろいでしょう。 はっはっは面白いさ。 それその工兵もその竜騎兵も向うのてき弾兵もみんなおれの兵隊だからな。 こらこらなぜわき見をするか。 有名なはなしをおまえは知ってるだろう。 そらむすこがエングランドロンドンにいておやじがスコットランドカルクシャイヤにいた。 むすこがおやじに電報をかけたおれはちゃんと手帳へ書いておいたがね。 おまえは英語はわかるかいねセンドマイブーツインスタンテウリイすぐ長靴送れとこうだろうするとカルクシャイヤのおやじめあわてくさっておれのでんしんのはりがねに長靴をぶらさげたよ。 はっはっはいや迷惑したよ。 それから英国ばかりじゃない十二月ころ兵営へ行ってみるとおいあかりをけしてこいと上等兵|殿に云われて新兵が電燈をふっふっと吹いて消そうとしているのが毎年五人や六人はある。 おれの兵隊にはそんなものは一人もないからな。 おまえの町だってそうだはじめて電燈がついたころはみんながよく電気会社では月に百|石ぐらい油をつかうだろうかなんて云ったもんだ。 はっはっはどうだもっともそれはおれのように勢力|不滅の法則や熱力学第二則がわかるとあんまりおかしくもないがねどうだぼくの軍隊は規律がいいだろう。 軍歌にもちゃんとそう云ってあるんだ。 ドッテテドッテテドッテテドでんしんばしらのぐんたいのその名せかいにとどろけり。 あいかん汽車がきた。 誰かに見附かったら大へんだ。 もう進軍をやめなくちゃいかん。 全軍かたまれいおいっ。 おや電燈が消えてるな。 こいつはしまった。 けしからん。 あぶない。 あかるくなったわあい。 実にしずかな晩ですねえ。 ええ。 蝎ぼしが向うを這っていますね。 あの赤い大きなやつを昔は支那では火と云ったんですよ。 火星とはちがうんでしょうか。 火星とはちがいますよ。 火星は惑星ですねところがあいつは立派な恒星なんです。 惑星恒星ってどういうんですの。 惑星というのはですね自分で光らないやつです。 つまりほかから光を受けてやっと光るように見えるんです。 恒星の方は自分で光るやつなんです。 お日さまなんかは勿論恒星ですね。 あんなに大きくてまぶしいんですがもし途方もない遠くから見たらやっぱり小さな星に見えるんでしょうね。 まあお日さまも星のうちだったんですわね。 そうして見ると空にはずいぶん沢山のお日さまがあらお星さまがあらやっぱり変だわお日さまがあるんですね。 まあそうです。 お星さまにはどうしてああ赤いのや黄のや緑のやあるんでしょうね。 星に橙や青やいろいろある訳ですか。 それは斯うです。 全体星というものははじめはぼんやりした雲のようなもんだったんです。 いまの空にも沢山あります。 たとえばアンドロメダにもオリオンにも猟犬座にもみんなあります。 猟犬座のは渦巻きです。 それから環状星雲というのもあります。 魚の口の形ですから魚口星雲とも云いますね。 そんなのが今の空にも沢山あるんです。 まああたしいつか見たいわ。 魚の口の形の星だなんてまあどんなに立派でしょう。 それは立派ですよ。 僕水沢の天文台で見ましたがね。 まああたしも見たいわ。 見せてあげましょう。 僕実は望遠鏡を独乙のツァイスに注文してあるんです。 来年の春までには来ますから来たらすぐ見せてあげましょう。 まあうれしい。 あなた本当にいつでも親切だわ。 ええそして僕はあなたの為ならばほかのどんなことでもやりますよ。 この詩集ごらんなさいませんか。 ハイネという人のですよ。 翻訳ですけれども仲々よくできてるんです。 まあお借りしていいんでしょうかしら。 構いませんとも。 どうかゆっくりごらんなすって。 じゃ僕もう失礼します。 はてな何か云い残したことがあるようだ。 お星さまのいろのことですわ。 ああそうそうだけどそれは今度にしましょう。 僕あんまり永くお邪魔しちゃいけないから。 あらいいんですよ。 僕又来ますからじゃさよなら。 本はあげてきます。 じゃさよなら。 樺の木さん。 お早う。 お早うございます。 わしはねどうも考えて見るとわからんことが沢山あるなかなかわからんことが多いもんだね。 まあどんなことでございますの。 たとえばだね草というものは黒い土から出るのだがなぜこう青いもんだろう。 黄や白の花さえ咲くんだ。 どうもわからんねえ。 それは草の種子が青や白をもっているためではないでございましょうか。 そうだ。 まあそう云えばそうだがそれでもやっぱりわからんな。 たとえば秋のきのこのようなものは種子もなし全く土の中からばかり出て行くもんだそれにもやっぱり赤や黄いろやいろいろあるわからんねえ。 狐さんにでも聞いて見ましたらいかがでございましょう。 何だ。 狐。 狐が何を云い居った。 何も仰っしゃったんではございませんがちょっとしたらご存知かと思いましたので。 狐なんぞに神が物を教わるとは一体何たることだ。 えい。 狐の如きは実に世の害悪だ。 ただ一言もまことはなく卑怯で臆病でそれに非常に妬み深いのだ。 うぬ畜生の分際として。 もうあなたの方のお祭も近づきましたね。 そうじゃ。 今日は五月三日あと六日だ。 しかしながら人間どもは不届だ。 近頃はわしの祭にも供物一つ持って来んおのれ今度わしの領分に最初に足を入れたものはきっと泥の底に引き擦り込んでやろう。 しっ。 ええもちろんそうなんです。 器械的に対称の法則にばかり叶っているからってそれで美しいというわけにはいかないんです。 それは死んだ美です。 全くそうですわ。 ほんとうの美はそんな固定した化石した模型のようなもんじゃないんです。 対称の法則に叶うって云ったって実は対称の精神を有っているというぐらいのことが望ましいのです。 ほんとうにそうだと思いますわ。 ですからどの美学の本にもこれくらいのことは論じてあるんです。 美学の方の本|沢山おもちですの。 ええよけいもありませんがまあ日本語と英語と独乙語のなら大抵ありますね。 伊太利のは新らしいんですがまだ来ないんです。 あなたのお書斎まあどんなに立派でしょうね。 いいえまるでちらばってますよそれに研究室兼用ですからねあっちの隅には顕微鏡こっちにはロンドンタイムス大理石のシィザアがころがったりまるっきりごったごたです。 まあ立派だわねえほんとうに立派だわ。 いつかの望遠鏡まだ来ないんですの。 ええいつかの望遠鏡ですか。 まだ来ないんです。 なかなか来ないです。 欧州航路は大分混乱してますからね。 来たらすぐ持って来てお目にかけますよ。 土星の環なんかそれぁ美しいんですからね。 樺の木さん。 お早う。 実にいい天気だな。 お早うございます。 いいお天気でございます。 天道というものはありがたいもんだ。 春は赤く夏は白く秋は黄いろく秋が黄いろになると葡萄は紫になる。 実にありがたいもんだ。 全くでございます。 わしはな今日は大へんに気ぶんがいいんだ。 今年の夏から実にいろいろつらい目にあったのだがやっと今朝からにわかに心持ちが軽くなった。 わしはいまなら誰のためにでも命をやる。 みみずが死ななけぁならんならそれにもわしはかわってやっていいのだ。 樺の木さんお早うそちらに居られるのは土神ですね。 わしは土神だ。 いい天気だ。 な。 お客さまのお出での所にあがって失礼いたしました。 これはこの間お約束した本です。 それから望遠鏡はいつかはれた晩にお目にかけます。 さよなら。 まあありがとうございます。 もうおしまいだもうおしまいだ望遠鏡望遠鏡望遠鏡。 こんなきれいな珍らしい皮を王様に差しあげてかざりにしてもらったらどんなに立派だろう。 おれの力はこの国さえもこわしてしまえる。 この猟師なんぞはなんでもない。 いまおれがいきをひとつすれば毒にあたってすぐ死んでしまう。 けれども私はさっきもうわるいことをしないと誓ったしこの猟師をころしたところで本当にかあいそうだ。 もはやこのからだはなげすててこらえてこらえてやろう。 いまこのからだをたくさんの虫にやるのはまことの道のためだ。 いま肉をこの虫らにくれておけばやがてはまことの道をもこの虫らに教えることができる。 お早う于※大寺の壁画の中の子供さんたち。 お早う。 于※大寺の壁画の中の子供さんたち。 お前は誰だい。 私は于※大寺を沙の中から掘り出した青木晃というものです。 何しに来たんだい。 あなたたちと一緒にお日さまをおがみたいと思ってです。 そうですか。 もうじきです。 ごらんそらインドラの網を。 ごらんそら風の太鼓。 ごらん蒼孔雀を。 誰かこの大河の水をさかさまにながれさせることのできるものがあるか。 陛下よそれはとても出来ないことでございます。 わたくしは自分の肉を売って生きているいやしい女である。 けれども今私のようないやしいものでさえできるまことのちからの大きいことを王様にお目にかけよう。 これこれどうしたのじゃ。 大ガンジスがさかさまにながれるではないか。 みんなはそちがこれをしたと申しているがそれはほんとうか。 はいさようでございます。 陛下よ。 どうしてそちのようないやしいものにこんな力があるのか何の力によるのか。 陛下よ私のこの河をさかさまにながれさせたのはまことの力によるのでございます。 でもそちのように不義でみだらで罪深くばかものを生けどってくらしているものにどうしてまことの力があるのか。 陛下よ全くおっしゃるとおりでございます。 わたくしは畜生同然の身分でございますが私のようなものにさえまことの力はこのようにおおきくはたらきます。 ではそのまことの力とはどんなものかおれのまえで話してみよ。 陛下よ。 私は私を買って下さるお方にはおなじくつかえます。 武士族の尊いお方をもいやしい穢多をもひとしくうやまいます。 ひとりをたっとびひとりをいやしみません。 陛下よこのまことのこころが今日ガンジス河をさかさまにながれさせたわけでございます。 兄さんくるみちょうだい。 そらとってごらん。 おいら何でも呉れてやるぜ。 あの銅の歯車だって欲しけややるよ。 雨雪とって来てやろか。 うん。 かえるなんざ潰れちまえ。 兄さんなぜあたいの青いおべべ裂いたの。 チュンセはポーセをたずねることはむだだ。 なぜならどんなこどもでもまたはたけではたらいているひとでも汽車の中で苹果をたべているひとでもまた歌う鳥や歌わない鳥青や黒やのあらゆる魚あらゆるけものもあらゆる虫もみんなみんなむかしからのおたがいのきょうだいなのだから。 チュンセがもしもポーセをほんとうにかあいそうにおもうなら大きな勇気を出してすべてのいきもののほんとうの幸福をさがさなければいけない。 それはナムサダルマプフンダリカサスートラというものである。 チュンセがもし勇気のあるほんとうの男の子ならなぜまっしぐらにそれに向って進まないか。 チュンセはいいこどもだ。 さァおまえはチュンセやポーセやみんなのためにポーセをたずねる手紙を出すがいい。 火薬を使って鳥をとってはなりません毒もみをして魚をとってはなりません。 署長さんにうんと叱られたぞ。 署長さんに叱られたかい。 叱られたよ。 署長さんの居るのを知らないで石をなげたんだよ。 するとあの沼の岸に署長さんが誰か三四人とかくれて毒もみをするものを押えようとしていたんだ。 なんと云って叱られた。 誰だ。 石を投げるものは。 おれたちは第一条の犯人を押えようと思って一日ここに居るんだぞ。 早く黙って帰れ。 って云った。 じゃきっと間もなくつかまるねえ。 そいつはもうたしかなんだよ。 僕の証拠というのはねゆうべお月さまの出るころ署長さんが黒い衣だけ着て頭巾をかぶってね変な人と話してたんだよ。 ねそらあの鉄砲打ちの小さな変な人ねそしてね『おいこんどはも少しよく粉にして来なくちゃいかんぞ。 』なんて云ってるだろう。 それから鉄砲打ちが何か云ったら『なんだ柏の木の皮もまぜておいた癖に一俵二|両だなんてあんまり無法なことを云うな。 』なんて云ってるだろう。 きっと山椒の皮の粉のことだよ。 あっそうだ。 あのね署長さんがね僕のうちから灰を二俵買ったよ。 僕持って行ったんだ。 ねそら山椒の粉へまぜるのだろう。 そうだ。 そうだ。 きっとそうだ。 毒もみ巡査なまずはよこせ。 署長さんご存じでしょうか近頃林野取締法の第一条をやぶるものが大変あるそうですがどうしたのでしょう。 はあそんなことがありますかな。 どうもあるそうですよ。 わたしの家の山椒の皮もはがれましたしそれに魚がたびたび死んでうかびあがるというではありませんか。 はあそんな評判がありますかな。 ありますとも。 どうもそしてその子供らがあなたのしわざだと云いますが困ったもんですな。 そいつは大へんだ。 僕の名誉にも関係します。 早速犯人をつかまえます。 何かおてがかりがありますか。 さあそうそうありますとも。 ちゃんと証拠があがっています。 もうおわかりですか。 よくわかってます。 実は毒もみは私ですがね。 あなた。 やっぱりそうでしたか。 そうです。 そんならもうたしかですね。 たしかですとも。 ああ面白かった。 おれはもう毒もみのことときたら全く夢中なんだ。 いよいよこんどは地獄で毒もみをやるかな。 とっこべとら子。 とっこべ。 とら。 とら。 あいやしばらく待て。 そちは何と申す。 へいへい。 私は六平と申します。 六平とな。 そちは金貸しを業と致しおるな。 へいへい。 御意の通りでございます。 手元の金子はすべて只今ご用立致しております。 いやいや拙者が借りようと申すのではない。 どうじゃ。 金貸しは面白かろう。 へい御冗談へいへい。 御意の通りで。 拙者に少しく不用の金子がある。 それに遠国に参る所じゃ。 預かっておいてもらえまいか。 もっとも拙者も数々敵を持つ身じゃ。 万一途中相果てたなれば金子はそのままそちに遣わす。 どうじゃ。 へい。 それはきっとお預かりいたしまするでございます。 左様か。 あいや。 金子はこれにじゃ。 そち自ら蓋を開いて一応改めくれい。 エイヤ。 はい。 ヤッ。 へい。 へい。 よろしゅうござります。 御意の通り一応お改めいたしますでござります。 どうじゃ。 これだけをそち一人で持ち参れるのかの。 もっともそちの持てるだけ預けることといたそうぞよ。 へい。 へい。 何の千両ばこの十やそこばこきっときっと持ち参るでござりましょう。 うむ。 左様か。 しからば。 いざ。 いざ持ち参れい。 へいへい。 ウントコショウントコショウウントコショ。 ウウウントコショ。 豪儀じゃ豪儀じゃそちは左程になけれどもそちの身に添う慾心が実に大力じゃ。 大力じゃのう。 ほめ遣わす。 ほめ遣わす。 さらばしかと預けたぞよ。 それ一芸あるものはすがたみにくし。 開けろ開けろ。 お帰りだ。 大尽さまのお帰りだ。 あれまあ父さん。 そったに砂利しょて何しただす。 とっこべとら子にだまされだ。 ああ欺されだ。 待て待て小吉。 もう一杯やれ待てったら。 源の大将。 源の大将。 それではお気をつけて。 おみやげをとっこべとらこに取られなぃようにアッハッハッハ。 ハッハッハ。 とっこべとらこだらおれの方で取って食ってやるべ。 わあ出た出た。 逃げろ。 逃げろ。 仕留めたぞ。 仕留めたぞ。 みんな来い。 さすがは畜生の悲しさもろいもんだ。 源の大将。 やっぱり古い狐だな。 まるで眼玉は火のようだったぞ。 おまけに毛といったら銀の針だ。 全く争われないもんだ。 口が耳まで裂けていたからな。 崇られまぃが。 心配するな。 あしたはみんなで川岸に油揚を持って行って置いて来るとしよう。 源の大将。 とっこべとら子。 煙山にエレッキのやなぎの木があるよ。 エレキの楊の木。 何するんだい。 慶次郎。 何するんだい。 さっきの楊の木ね煙山の楊の木ねどうしたって云うの。 今朝|権兵衛茶屋のとこで馬をひいた人がそう云っていたよ。 煙山の野原に鳥を吸い込む楊の木があるって。 エレキらしいって云ったよ。 行こうじゃないか。 見に行こうじゃないか。 どんなだろう。 きっと古い木だね。 行こう。 今日|僕うちへ一遍帰ってからさそいに行くから。 待ってるから。 どっちへ行こう。 さきに川原へ行って見ようよ。 あそこには古い木がたくさんあるから。 どの木だろうね。 さあどの木だか知らないよ。 まあ行って見ようや。 鳥が吸い込まれるって云うんだから見たらわかるだろう。 この木だろうか。 さっぱり鳥が居ないからわからないねえ。 鳥が来なくちゃわからないねえ。 うん鷹か何か来るといいねえ。 木の上を飛んでいてきっとよろよろしてしまうと僕はおもうよ。 きまってらあ殺生石だってそうだそうだよ。 きっと鳥はくちばしを引かれるんだね。 そうさ。 くちばしならきっと磁石にかかるよ。 楊の木に磁石があるのだろうか。 磁石だ。 ああ磁石だ。 やっぱり磁石だ。 どうして今日は斯う鳥がいないだろう。 みんなその楊の木に吸われてしまったのだろうか。 だって野原中の鳥がみんな吸いこまれるってそんなことはないだろう。 今のは吸い込まれたのだろうか。 そうかも知れないよ。 吸い込まれたのだねえだってあんまり急に落ちた。 もう死んだのかも知れないよ。 死んだのだねえ死ぬ前苦しがって泣いた。 石を投げて見ようか。 石を投げても遁げなかったら死んだんだ。 投げよう。 生きていたねえだまってみんな僕たちのこと見てたんだよ。 そうだよ。 石が届かないうちにみんな飛んだもねえ。 どこかにけれどほんとうの木はあるよ。 外へ行って見よう。 野原のうちどこか外の処だよ。 外へ行って見よう。 あごらんあんなに居たよ。 もうだめだよ。 帰ろう。 熊。 おれはてまえを憎くて殺したのでねえんだぞ。 おれも商売ならてめえも射たなけぁならねえ。 ほかの罪のねえ仕事していんだが畑はなし木はお上のものにきまったし里へ出ても誰も相手にしねえ。 仕方なしに猟師なんぞしるんだ。 てめえも熊に生れたが因果ならおれもこんな商売が因果だ。 やい。 この次には熊なんぞに生れなよ。 どうしても雪だよおっかさん谷のこっち側だけ白くなっているんだもの。 どうしても雪だよ。 おっかさん。 雪でないよあすこへだけ降るはずがないんだもの。 だから溶けないで残ったのでしょう。 いいえおっかさんはあざみの芽を見に昨日あすこを通ったばかりです。 雪でなけぁ霜だねえ。 きっとそうだ。 おかあさまはわかったよあれねえひきざくらの花。 なぁんだひきざくらの花だい。 僕知ってるよ。 いいえお前まだ見たことありません。 知ってるよ僕この前とって来たもの。 いいえあれひきざくらでありませんお前とって来たのきささげの花でしょう。 そうだろうか。 旦那さん先ころはどうもありがどうごあんした。 はあどうも今日は何のご用です。 熊の皮また少し持って来たます。 熊の皮か。 この前のもまだあのまましまってあるし今日ぁまんついいます。 旦那さんそう言わなぃでどうか買って呉んなさぃ。 安くてもいいます。 なんぼ安くても要らなぃます。 旦那さんお願だます。 どうが何ぼでもいいはんて買って呉なぃ。 いいます。 置いでお出れ。 じゃ平助小十郎さんさ二円あげろじゃ。 じゃおきの小十郎さんさ一杯あげろ。 おまえは何がほしくておれを殺すんだ。 ああおれはお前の毛皮と胆のほかにはなんにもいらない。 それも町へ持って行ってひどく高く売れるというのではないしほんとうに気の毒だけれどもやっぱり仕方ない。 けれどもお前に今ごろそんなことを言われるともうおれなどは何か栗かしだのみでも食っていてそれで死ぬならおれも死んでもいいような気がするよ。 もう二年ばかり待ってくれおれも死ぬのはもうかまわないようなもんだけれども少しし残した仕事もあるしただ二年だけ待ってくれ。 二年目にはおれもおまえの家の前でちゃんと死んでいてやるから。 毛皮も胃袋もやってしまうから。 婆さまおれも年|老ったでばな今朝まず生れで始めで水へ入るの嫌んたよな気するじゃ。 爺さん早ぐお出や。 行って来るじゃぃ。 おお小十郎おまえを殺すつもりはなかった。 これが死んだしるしだ。 死ぬとき見る火だ。 熊どもゆるせよ。 貝の火|兄弟商会。 先生ごく上等の蛋白石の注文があるのですがどうでしょうお探しをねがえませんでしょうか。 もっともごくごく上等のやつをほしいのです。 何せ相手がグリーンランドの途方もない成金ですからありふれたものじゃなかなか承知しないんです。 たびたびご迷惑でまことに恐れ入りますがいかがなもんでございましょう。 うん探してやろう。 蛋白石のいいのなら流紋玻璃を探せばいい。 探してやろう。 僕は実際一ぺんさがしに出かけたらきっともう足が宝石のある所へ向くんだよ。 そして宝石のある山へ行くと奇体に足が動かない。 直覚だねえ。 いやそれだから却って困ることもあるよ。 たとえば僕は一千九百十九年の七月にアメリカのジャイアントアーム会社の依嘱を受けて紅宝玉を探しにビルマへ行ったがねやっぱりいつか足は紅宝玉の山へ向く。 それからちゃんと見附かって帰ろうとしてもなかなか足があがらない。 つまり僕と宝石には一種の不思議な引力が働いている深く埋まった紅宝玉どもの日光の中へ出たいというその熱心が多分は僕の足の神経に感ずるのだろうね。 その時も実際困ったよ。 山から下りるのに十一時間もかかったよ。 けれどもそれがいまのバララゲの紅宝玉坑さ。 ははあそいつはどうもとんだご災難でございました。 しかしいかがでございましょう。 こんども多分はそんな工合に参りましょうか。 それはもうきっとそう行くね。 ただその時に僕が何かの都合のためにたとえばひどく疲れているとか狼に追われているとかあるいはひどく神経が興奮しているとかそんなような事情からふっとその引力を感じないというようなことはあるかもしれない。 しかしとにかく行って来よう。 二週間目にはきっと帰るから。 それでは何分お願いいたします。 これはまことに軽少ですが当座の旅費のつもりです。 そうかね。 では何分ともよろしくお願いいたします。 貝の火兄弟商会。 ふんこの川筋があやしいぞ。 たしかにこの川筋があやしいぞ。 これはいけない。 もう夜だ。 寝なくちゃなるまい。 今夜はずいぶん久しぶりで愉快な露天に寝るんだな。 うまいぞうまいぞ。 ところで草へ寝ようかな。 かれ草でそれはたしかにいいけれども寝ているうちに野火にやかれちゃ一言もない。 よしよしこの石へ寝よう。 まるでね台だ。 ふんふん実に柔らかだ。 いい寝台だぞ。 ははああいつらは岩頸だな。 岩頸だ岩頸だ。 相違ない。 諸君手っ取り早く云うならば岩頸というのは地殻から一寸頸を出した太い岩石の棒である。 その頸がすなわち一つの山である。 ええ。 一つの山である。 ふん。 どうしてそんな変なものができたというならそいつは蓋し簡単だ。 ええここに一つの火山がある。 熔岩を流す。 その熔岩は地殻の深いところから太い棒になってのぼって来る。 火山がだんだん衰えてその腹の中まで冷えてしまう。 熔岩の棒もかたまってしまう。 それから火山は永い間に空気や水のためにだんだん崩れる。 とうとう削られてへらされてしまいには上の方がすっかり無くなって前のかたまった熔岩の棒だけがやっと残るというあんばいだ。 この棒は大抵頸だけを出して一つの山になっている。 それが岩頸だ。 ははあ面白いぞつまりそのこれは夢の中のもやだもやもやもやもや。 そこでそのつまり鼠いろの岩頸だがなその鼠いろの岩頸がきちんと並んでお互に顔を見合せたりひとりで空うそぶいたりしているのは大変おもしろい。 ふふん。 ははあこいつらはラクシャンの四人兄弟だな。 よくわかった。 ラクシャンの四人兄弟だ。 よしよし。 何をぐずぐずしてるんだ。 潰してしまえ。 灼いてしまえ。 こなごなに砕いてしまえ。 早くやれっ。 全体何をぐずぐずしてるんだ。 砕いちまえ砕いちまえはね飛ばすんだ。 はね飛ばすんだよ。 火をどしゃどしゃ噴くんだ。 熔岩の用意っ。 熔岩。 早く。 畜生。 いつまでぐずぐずしてるんだ。 熔岩用意っ。 もう二百万年たってるぞ。 灰を降らせろ灰を降らせろ。 なぜ早く支度をしないか。 兄さん。 少しおやすみなさい。 こんなしずかな夕方じゃありませんか。 地球を半分ふきとばしちまえ。 石と石とを空でぶっつけ合せてぐらぐらする紫のいなびかりを起せ。 まっくろな灰の雲からかみなりを鳴らせ。 えい意気地なしども。 降らせろ降らせろきらきらの熔岩で海をうずめろ。 海から騰る泡で太陽を消せ生き残りの象から虫けらのはてまで灰を吸わせろえい畜生ども何をぐずぐずしてるんだ。 大兄さんあんまり憤らないで下さいよ。 イーハトブさんが向うの空で又笑っていますよ。 あんな銀の冠を僕もほしいなあ。 まあいいさお前もしっかり支度をして次の噴火にはあのイーハトブの位になれ。 十二ヶ月の中の九ヶ月をあの冠で飾れるのだぞ。 今夜はヒームカさんは見えないなあ。 あのまっ黒な雲のやつはほんとうにいやなやつだなあ今日で四日もヒームカさんやヒームカさんのおっかさんをマントの下にかくしてるんだ。 僕一つ噴火をやってあいつを吹き飛ばしてやろうかな。 大へん怒ってるね。 どうかしたのかい。 ええ。 あの東の雲のやつかい。 あいつは今夜は雨をやってるんだ。 ヒームカさんも蛇紋石のきものがずぶぬれだろう。 兄さん。 ヒームカさんはほんとうに美しいね。 兄さん。 この前ね僕ここからかたくりの花を投げてあげたんだよ。 ヒームカさんのおっかさんへは白いこぶしの花をあげたんだよ。 そしたら西風がねだまって持って行って呉れたよ。 そうかい。 ハッハ。 まあいいよ。 あの雲はあしたの朝はもう霽れてるよ。 ヒームカさんがまばゆい新らしい碧いきものを着てお日さまの出るころはきっと一番さきにお前にあいさつするぜ。 そいつはもうきっとなんだ。 だけど兄さん。 僕今度は何の花をあげたらいいだろうね。 もう僕のとこには何の花もないんだよ。 うんそいつはねおれの所にね桜草があるよそれをお前にやろう。 ありがとう兄さん。 やかましい何をふざけたことを云ってるんだ。 ヒームカってなんだ。 ヒームカって。 ヒームカって云うのはあの向うの女の子の山だろう。 よわむしめ。 あんなものとつきあうのはよせと何べんもおれが云ったじゃないか。 ぜんたいおれたちは火から生れたんだぞ青ざめた水の中で生れたやつらとちがうんだぞ。 兄さん。 ヒームカさんは血統はいいのですよ。 火から生れたのですよ。 立派なカンランガンですよ。 知ってるよ。 ヒームカはカンランガンさ。 火から生れたさ。 それはいいよ。 けれどもそんなら一体いつおれたちのようにめざましい噴火をやったんだ。 あいつは地面まで騰って来る途中でもう疲れてやめてしまったんだ。 今こそ地殻ののろのろのぼりや風や空気のおかげでおれたちと肩をならべているが元来おれたちとはまるで生れ付きがちがうんだ。 きさまたちにはまだおれたちの仕事がよくわからないのだ。 おれたちの仕事はな地殻の底の底でとけてとけてまるでへたへたになった岩漿や上から押しつけられて古綿のようにちぢまった蒸気やらを取って来ていざという瞬間には大きな黒い山の塊をまるで粉々に引き裂いて飛び出す。 煙と火とを固めて空に抛げつける。 石と石とをぶっつけ合せていなずまを起す。 百万の雷を集めて地面をぐらぐら云わせてやる。 丁度楢ノ木大学士というものがおれのどなりをひょっと聞いてびっくりして頭をふらふらゆすぶったようにだ。 ハッハッハ。 山も海もみんな濃い灰に埋まってしまう。 平らな運動場のようになってしまう。 その熱い灰の上でばかりおれたちの魂は舞踏していい。 いいか。 もうみんな大さわぎだ。 さてその煙が納まって空気が奇麗に澄んだときはこっちはどうだいつかまるで空へ届くくらい高くなってまるでそんなこともあったかというような顔をして銀か白金かの冠ぐらいをかぶってきちんとすましているのだぞ。 兄さん私はどうもそんなことはきらいです。 私はそんなまわりを熱い灰でうずめて自分だけ一人高くなるようなそんなことはしたくありません。 水や空気がいつでも地面を平らにしようとしているでしょう。 そして自分でもいつでも低い方低い方と流れて行くでしょう私はあなたのやり方よりは却ってあの方がほんとうだと思います。 水と空気かい。 あいつらは朝から晩まで俺らの耳のそば迄来て世界の平和の為にお前らの傲慢を削るとかなんとか云いながら毎日こそこそ俺らを擦って耗して行くがまるっきりうそさ。 何でもおれのきくとこに依るとあいつらは海岸のふくふくした黒土や美しい緑いろの野原に行って知らん顔をして溝を掘るやら濠をこさえるやらそれはどうも実にひどいもんだそうだ。 話にも何にもならんというこった。 兄さん。 なんだかそんなこじつけみたいなあてこすりみたいな芝居のせりふのようなものは一向あなたに似合いませんよ。 うんそうだもうあまりおれたちのがらにもない小理窟は止そう。 おれたちのお父さんにすまない。 お父さんは九つの氷河を持っていらしゃったそうだ。 そのころはここらは一面の雪と氷で白熊や雪狐やいろいろなけものが居たそうだ。 お父さんはおれが生れるときなくなられたのだ。 火が燃えている。 火が燃えている。 大兄さん。 大兄さん。 ごらんなさい。 だんだん拡がります。 熔岩用意っ。 灰をふらせろえい畜生何だ野火か。 誰かやったのか。 誰だ誰だ今ごろ。 なんだ野火か。 地面の挨をさらさらさらっと掃除するてまえなんぞに用はない。 石だ火だ。 熔岩だ。 用意っ。 ふん。 おい兄貴一吠えしようか。 一吠えってもう何十万年をきさまはぐうぐう寝ていたのだ。 それでもいくらかまだ力が残っているのか。 ない。 空が大へん軽くなったねあしたの朝はきっと晴れるよ。 ええ今夜は鷹が出ませんね。 さっきの野火で鷹の子供が焼けたのかな。 鷹の子供はもう余程毛も剛くなりました。 それに仲々強いからきっと焼けないで遁げたでしょう。 そんなら結構ださあもう兄さんたちはよくおやすみだ。 楢ノ木大学士と云うやつもよく睡っている。 さっきから僕等の夢を見ているんだぜ。 そんなら僕一つおどかしてやろう。 よせよせいたずらするなよ。 ふんここも角閃花崗岩。 こいつはうまい。 丁度いい。 どうもひとのうちの門口に立ってもしもし今晩は私は旅の者ですが日が暮れてひどく困っています。 今夜一晩|泊めて下さい。 たべ物は持っていますから支度はなんにも要りませんなんてへっこんなこと云うのはもう考えてもいやになる。 そこで今夜はここへ泊ろう。 うう寒い。 ふん実にしずかだ夜あけまでまだ三時間半あるな。 そんなに肱を張らないでお呉れ。 おれの横の腹に病気が起るじゃないか。 おや変なことを云うね一体いつ僕が肱を張ったね。 そんなに張っているじゃないかほんとうにお前この頃湿気を吸ったせいかひどくのさばり出して来たね。 おやそれは私のことだろうか。 お前のことじゃなかろうかねお前もこの頃は頭でみりみり私を押しつけようとするよ。 何がひどいんだよ。 お前こそこの頃はすこしばかり風を呑んだせいかまるで人が変ったように意地悪になったね。 はてね少しぐらい僕が手足をのばしたってそれをとやこうお前が云うのかい。 十万二千年|昔のことを考えてごらん。 十万何千年前とかがどうしたの。 もっと前のことさ十万百万千万年千五百の万年の前のあの時をお前は忘れてしまっているのかい。 まさか忘れはしないだろうがね。 忘れなかったら今になって僕の横腹を肱で押すなんて出来た義理かい。 どうも実に記憶のいいやつらだ。 ええ千五百の万年の前のその時をお前は忘れてしまっているのかい。 まさか忘れはしないだろうがねええ。 これはどうも実に恐れ入ったねいったい誰だ。 変に頭のいいやつは。 それはたしかにあなたは僕の先輩さ。 けれどもそれがどうしたの。 どうしたのじゃないじゃないか。 僕がやっと体骼と人格を完成してほっと息をついてるとお前がすぐ僕の足もとでどんな声をしたと思うね。 こんな工合さ。 もしホンブレンさまここの所で私もちっとばかり延びたいと思いまする。 どうかあなたさまのおみあしさきにでも一寸取りつかせて下さいませ。 まあこういうお前のことばだったよ。 ははあわかった。 ホンブレンさまと一人はホ※ンブレンドだ。 すると相手は誰だろう。 わからんなあ。 けれどもふふんこいつは面白い。 いよいよ今日も問答がはじまった。 しめしめこれだから野宿はやめられん。 それはたしかにその通りさけれどもそれに対してお前は何と答えたね。 いいえそいつは困りますどうかほかのお方とご相談下さいと斯んなに立派にはねつけたろう。 おやとにかくさ。 それでもお前はかまわず僕の足さきにとりついたんだよ。 まあそんなこと出来たもんだろうかね。 もっとも誰かさんはできたようさ。 あてこするない。 とりついたんじゃないよ。 お前の足が僕の体骼の頭のとこにあったんだよ。 僕はお前よりももっと前に生れたジッコさんを頼んだんだよ。 今だって僕はジッコさんは大事に大事にしてあげてるんだ。 はっはっはジッコさんというのは磁鉄鉱だねもうわかったさ喧嘩の相手はバイオタイトだ。 して見るとなんでもこの辺にさっきの花崗岩のかけらがあるねそいつの中の鉱物がかやかや物を云ってるんだね。 そうかい。 そんならいいよ。 お前のような恩知らずは早く粘土になっちまえ。 おや呪いをかけたね。 僕も引っ込んじゃいないよ。 さあお前のような。 一寸お待ちなさい。 あなた方は一体何をさっきから喧嘩してるんですか。 オーソクレさん。 かまわないで下さい。 あんまりこいつがわからないもんですからね。 双子さん。 どうかかまわないで下さい。 あんまりこいつが恩知らずなもんですからね。 ははあ双晶のオーソクレースが仲裁に入った。 これは実におもしろい。 まあ静かになさい。 僕たちは実に実に長い間|堅く堅く結び合ってあのまっくらなまっくらなとこで一緒にまわりからのはげしい圧迫やすてきな強い熱にこらえて来たではありませんか。 一時はあまりの熱と力にみんな一緒に気違いにでもなりそうなのをじっとこらえて来たではありませんか。 そうですそれは全くその通りです。 けれども苦しい間は人をたのんで楽になると人をそねむのはぜんたいいい事なんでしょうか。 何だって。 ちょっとちょっとちょっとお待ちなさい。 ね。 そして今やっとお日さまを見たでしょう。 そのお日さまも僕たちが前に土の底でコングロメレートから聞いたとは大へんなちがいではありませんか。 ええそれはもうちがってます。 コングロメレートのはなしではお日さまはまっかで空は茶いろなもんだと云っていましたが今見るとお日さまはまっ白で空はまっ青です。 あの人はうそつきでしたね。 さあしかしあのコングロメレートという方は前にただの砂利だったころはほんとうに空が茶いろだったかも知れませんね。 そうでしょうか。 とにかくうそをつくこととひとの恩を仇でかえすのとはどっちも悪いことですね。 何だと僕のことを云ってるのかい。 よしさあ僕も覚悟があるぞ。 決闘をしろ決闘を。 まあお待ちなさい。 ねあのお日さまを見たときのうれしかったこと。 どんなに僕らは叫んだでしょう。 千五百万年光というものを知らなかったんだもの。 あの時鋼の槌がギギンギギンと僕らの頭にひびいて来ましたね。 遠くの方で誰かがああお前たちもとうとうお日さまの下へ出るよと叫んでいたもう僕たちの誰と誰とが一緒になって誰と誰とがわかれなければならないか。 一向|判らなかったんですね。 さよならさよならってみんな叫びましたねえ。 そしたら急にパッと明るくなって僕たちは空へ飛びあがりましたねえ。 あの時僕はお日さまの外に何か赤い光るものを見たように思うんですよ。 それは僕も見たよ。 僕も見たんだよ何だったろうねあれは。 それはね明らかにたがねのさきから出た火花だよ。 パチッて云ったろう。 そして熱かったろう。 そんなら僕たちはこれからさきどうなるでしょう。 さああんまりこれから愉快なことでもないようですよ。 僕が前にコングロメレートから聞きましたがどうも僕らはこのまま又土の中にうずもれるかそうでなければ砂か粘土かにわかれてしまうだけなようですよ。 この小屋の中に居たって安心にもなりません。 内に居たって外に居たってたかが二千年もたって見れば結局おんなじことでしょう。 実にどうも達観してるね。 この小屋の中に居たって外に居たってたかが二千年も経って見れば粘土か砂のつぶになる実にどうも達観してる。 ああいたいたいたいた痛ぁいいたい。 バイオタさん。 どうしたのどうしたの。 早くプラジョさんをよばないとだめだ。 ははあプラジョさんというのはプラジオクレースで青白いから医者なんだな。 プラジョさんプラジョさん。 プラジョさん。 はあい。 バイオタさんがひどくおなかが痛がってます。 どうか早く診て下さい。 はあいなあにべつだん心配はありません。 かぜを引いたのでしょう。 ははあこいつらは風を引くと腹が痛くなる。 それがつまり風化だな。 プラジョさん。 お早くどうか願います。 只今気絶をいたしました。 はぁい。 いまだんだんそっちを向きますから。 ようっと。 はいはい。 これはなるほど。 ふふん。 一寸脈をお見せはい。 こんどはお舌ははあよろしい。 そして第十八へきかい予備面が痛いと。 なるほどふんふんいやわかりました。 どうもこの病気は恐いですよ。 それにお前さんのからだは大地の底に居たときから慢性りょくでい病にかかって大分|軟化してますからねどうも恢復の見込がありません。 お医者さん。 私の病気は何でしょう。 いつごろ私は死にましょう。 さよう病人が病名を知らなくてもいいのですがまあ蛭石病の初期ですね所謂ふう病の中の一つ。 俗にかぜは万病のもとと云いますがね。 それからええとも一つのご質問はあなたの命でしたかね。 さようまあ長くても一万年は持ちません。 お気の毒ですが一万年は持ちません。 あああさっきのホンブレンのやつの呪いが利いたんだ。 いやいや。 そんなことはない。 けだし風病にかかって土になることはけだしすべて吾人に免かれないことですから。 けだし。 ああプラジョさん。 どんな手あてをいたしたらよろしゅうございましょうか。 さあそう云う工合に泣いているのは一番よろしくありません。 からだをねじってあちこちのへきかいよび面にすきまをつくるのはなおさらよろしくありません。 その他風にあたれば病気のしょうけつを来します。 日にあたれば病勢がつのります。 霜にあたれば病勢が進みます。 露にあたれば病状がこう進します。 雪にあたれば症状が悪変します。 じっとしているのはなおさらよろしくありません。 それよりはその精神的に眼をつむって観念するのがいいでしょうわがこの恐れるところの死なるものはそもそも何であるかその本質はいかん生死|巌頭に立っておかしいぞはてなおかしいはてこれはいかんあいたいたいたいたいた。 プラジョさんプラジョさんしっかりなさい。 一体どうなすったのです。 うむ私もうむ風病のうちうむうむ。 苦しいでしょうこれはほんとうにお気の毒なことになりました。 うむうむいいえ苦しくありません。 うむ。 何かお手あていたしましょう。 うむうむ実はわたくしも地面の底からうむうむ大分カオリン病にかかっていたうむオーソクレさんオーソクレさん。 うむ今こそあなたにも明します。 あなたも丁度わたし同様の病気です。 うむ。 ああやっぱりさようでございましたか。 全く全く全く実に実にあいたいたいたいた。 ずいぶん神経|過敏な人だ。 すると病気でないものは僕とクォーツさんだけだ。 うむうむそのホンブレンもバイオタと同病。 あいたいたいた。 おやおやどなたもずいぶん弱い。 健康なのは僕一人。 うむうむそのクォーツさんもお気の毒ですがクウショウ中の瓦斯が病因です。 うむ。 あいたいたいたいた。 た。 ずいぶんひどい医者だ。 漢方の藪医だな。 とうとうみんな風化かな。 あいたいたいたいたたたた。 はてなみんな死んだのか。 あるいは僕だけ聞えなくなったのか。 ははあどうだいよいよ宿がきまって腹もできると野宿もそんなに悪くない。 さあもう一服やって寝よう。 あしたはきっとうまく行く。 その夢を今夜見るのも悪くない。 斯う納まって見ると我輩もさながら洞熊か洞窟住人だ。 ところでもう寝よう。 闇の向うで涛がぼとぼと鳴るばかり鳥も啼かなきゃ洞をのぞきに人も来ずと。 ふん斯んなあんばいか。 寝ろ寝ろ。 すっかり寝過ごしちゃった。 ところでおれは一体何のために歩いているんだったかな。 ええとよく思い出せないぞ。 たしかに昨日も一昨日も人の居ない処をせっせと歩いていたんだが。 いやもっと前から歩いていたぞ。 もう一年も歩いているぞ。 その目的はとはてな忘れたぞ。 こいつはいけない。 目的がなくて学者が旅行をするということはない必ず目的があるのだ。 化石じゃなかったかな。 ええとどうか第三紀の人類に就いてお調べを願いますと誰か云ったようだ。 いいやそうじゃない白堊紀の巨きな爬虫類の骨骼を博物館の方から頼まれてあるんですがいかがでございましょう一つお探しを願われますまいかと斯うじゃなかったかな。 斯うだ斯うだちがいない。 さあところでここは白堊系の頁岩だ。 もうここでおれは探し出すつもりだったんだ。 なるほどはじめてはっきりしたぞ。 さあ探せ恐竜の骨骼だ。 恐竜の骨骼だ。 おや出たぞ。 さあ見附けたぞ。 この足跡の尽きた所にはきっとこいつが倒れたまま化石している。 巨きな骨だぞ。 まず背骨なら二十米はあるだろう。 巨きなもんだぞ。 こいつはひどい。 我輩の足跡までこんなに深く入るというのは実際少し恐れ入った。 けれどもそれでも探求の目的を達することは達するな。 少し歩きにくいだけだ。 さあもう斯うなったらどこまでだって追って行くぞ。 こいつは変だ。 おまけにずいぶん暑いじゃないか。 ずいぶんいやな天気になった。 それにしてもこの太陽はあんまり赤い。 きっとどこかの火山が爆発をやった。 その細かな火山灰が正しく上層の気流に混じて地球を包囲しているな。 けれどもそれだからと云って我輩のこの追跡には害にならない。 もうこの足あとの終るところにあの途方もない爬虫の骨がころがってるんだ。 我輩はその地点を記録する。 もう一足だぞ。 さあここを一つ曲って見ろ。 すぐ向う側にその骨がある。 けれども事によったらすぐないかも知れない。 すぐなかったらも少し追って行けばいい。 それだけのことだ。 一体これはどうしたのだ。 中生代に来てしまったのか。 中生代がこっちの方へやって来たのか。 ああどっちでもおんなじことだ。 とにかくあすこに雷竜が居てこっちさえ見ればかけて来る。 大学士も魚も同じことだ。 見るなよ見るなよ。 僕はいまごくこっそりと戻るから。 どうかしばらくこっちを向いちゃいけないよ。 もういけない。 すっかりうまくやられちゃった。 いよいよおれも食われるだけだ。 大学士の号も一所になくなる。 雷竜はあんまりひどい。 前にも居るしうしろにも居る。 まあただ一つたよりになるのはこの岬の上だけだ。 そこに登っておれは助かるか助からないか事によったら新生代の沖積世が急いで助けに来るかも知れない。 さあもうたったこの岬だけだぞ。 とうとう来たぞ喰われるぞ。 なあんだ。 馬鹿にしてやがる。 もう睡れんぞ。 寒いなあ。 貝の火|兄弟商会。 先生お手紙でしたから早速とんで来ました。 大へんお早くお帰りでした。 ごく上等のやつをお見あたりでございましたか何せ相手がグリーンランドの途方もない成金ですからありふれたものじゃなかなか承知しないんです。 うん探して来たよ僕は一ぺん山へ出かけるともうどんなもんでも見附からんと云うことは断じてないけだしすべての宝石はみな僕をしたってあつまって来るんだね。 いやそれだから此度なんかもまったくひどく困ったよ。 殊に君注文が割合に柔らかな蛋白石だろう。 僕がその山へ入ったら蛋白石どもがみんなざらざら飛びついて来てもうどうしてもはなれないじゃないか。 それが君みんな貴蛋白石の火の燃えるようなやつなんだ。 望みのとおりみんな背嚢の中に納めてやりたいことはもちろんだったがそれでは僕も身動きもできなくなるのだから気の毒だったがその中からごくいいやつだけ撰んださ。 ははあそいつはどうも大へん結構でございました。 しかしそのお持ち帰りになりました分はいずれでございますか。 一寸拝見をねがいとう存じます。 ああ見せるよ。 ただ僕はあんな立派なやつだから事によったらもうすっかり曇ったじゃないかと思うんだ。 実際蛋白石ぐらいたよりのない宝石はないからね。 今日|虹のように光っている。 あしたは白いただの石になってしまう。 今日は円くて美しい。 あしたは砕けてこなごなだ。 そいつだねこわいのは。 しかしとにかく開いて見よう。 この背嚢さ。 なるほど。 先生困るじゃありませんか。 先生これでは何でもあんまりじゃありませんか。 何があんまりだ。 僕の知ったこっちゃない。 ひどい難儀をしてあるんだ。 旅費さえ返せばそれでよかろう。 さあ持って行け。 帰れ帰れ。 先生困ります。 あんまりです。 帰れ帰れもう来るな。 先生困ります。 あんまりです。 王子さま。 王子さま。 どちらにいらっしゃいますか。 はて王子さま。 おおい。 お早う。 遊びに来たよ。 王子さまお早うございます。 お前さっきからここにいたのかい。 何してたの。 お日さまを見ておりました。 お日さまは霧がかからないとまぶしくて見られません。 うん。 お日様は霧がかかると銀の鏡のようだね。 はいまた大きな蛋白石の盤のようでございます。 うん。 そうだね。 僕はあんな大きな蛋白石があるよ。 けれどもあんなに光りはしないよ。 僕はこんどもっといいのをさがしに行くんだ。 お前もいっしょに行かないか。 ねおい。 僕のもってるルビーの壺やなんかよりもっといい宝石はどっちへ行ったらあるだろうね。 虹の脚もとにルビーの絵の具皿があるそうです。 おい取りに行こうか。 行こう。 今すぐでございますか。 うん。 しかしルビーよりは金剛石の方がいいよ。 僕黄色な金剛石のいいのを持ってるよ。 そして今度はもっといいのを取って来るんだよ。 ね金剛石はどこにあるだろうね。 金剛石は山の頂上にあるでしょう。 うん。 そうだろうね。 さがしに行こうか。 ね。 行こうか。 王さまに申し上げなくてもようございますか。 王子さま王子さまどこにいらっしゃいますか。 王子さま。 さ行こう。 さおいで早く。 追いつかれるから。 さあも少し走ってこう。 もう誰も追いつきやしないよ。 そら虹だ。 早く行ってルビーの皿を取ろう。 早くおいでよ。 ここから虹は立ったんだね。 ルビーのお皿が落ちてないか知らん。 ね虹は向こうへ逃げるときルビーの皿もひきずって行ったんだね。 そうだろうと思います。 虹はいったいどこへ行ったろうね。 さあ。 ああすこにいる。 あすこにいる。 あんな遠くにいるんだよ。 森の向こうなんだね。 行ってみよう。 また逃げるでしょう。 行ってみようよ。 ね。 行こう。 ポッシャリポッシャリツイツイトン。 はやしのなかにふる霧は蟻のお手玉三角帽子の一寸法師のちいさなけまり。 ポッシャリポッシャリツイツイトン。 はやしのなかにふる霧はくぬぎのくろい実柏のかたい実のつめたいおちち。 誰だろう。 ね。 誰だろう。 あんなことうたってるのは。 二三人のようだよ。 ポッシャリポッシャリツイツイツイ。 はやしのなかにふるきりのつぶはだんだん大きくなりいまはしずくがポタリ。 ポッシャンポッシャンツイツイツイ。 はやしのなかにふるきりはいまにこあめにかぁわるぞ木はぁみんな青外套。 ポッシャンポッシャンポッシャンシャン。 誰だろう。 今のは。 雨を降らせたんだね。 ええ王子さま。 あなたのきものは草の実でいっぱいですよ。 誰だ今歌ったものはここへ出ろ。 はい。 何かご用でございますか。 今の歌はお前たちか。 なぜこんなに雨をふらせたのだ。 それは王子さま。 私どもの大事のご主人さま。 私どもは空をながめて歌っただけでございます。 そらをながめておりますときりがあめにかわるかどうかよくわかったのでございます。 そしてお前らはどうして歌ったり飛んだりしたのだ。 はい。 ここからは私どもの歌ったり飛んだりできる所になっているのでございます。 ご案内いたしましょう。 ねこのりんどうの花はお父さんの所の一等のコップよりも美しいんだね。 トパァスがいっぱいに盛ってあるよ。 ええ立派です。 うん。 僕このトパァスをはんけちへいっぱい持ってこうか。 けれどトパァスよりはダイアモンドの方がいいかなあ。 トパァスのつゆはツァランツァリルリンこぼれてきらめくサングサンガリンひかりの丘にすみながらなぁにがこんなにかなしかろ。 ほんとうにりんどうの花は何がかなしいんだろうね。 さあ私にはわかりません。 わからないねい。 こんなにきれいなんだもの。 ねごらんこっちのうめばちそうなどはまるで虹のようだよ。 むくむく虹が湧いてるようだよ。 ああそうだダイアモンドの露が一つぶはいってるんだよ。 きらめきのゆききひかりのめぐみにじはゆらぎ陽は織れどかなし。 青ぞらはふるいひかりはくだけ風のきしり陽は織れどかなし。 にじはなみだちきらめきは織るひかりのおかのこのさびしさ。 こおりのそこのめくらのさかなひかりのおかのこのさびしさ。 たそがれぐものさすらいの鳥ひかりのおかのこのさびしさ。 十力の金剛石はきょうも来ずめぐみの宝石はきょうも降らず十力の宝石の落ちざれば光の丘もまっくろのよる二人は腕を組んで棒のように立っていましたが王子はやっと気がついたように少しからだをかがめて「ねお前たちは何がそんなにかなしいの。 今|言った通りです。 十力の金剛石がまだ来ないのです。 十力の金剛石ってどんなものだ。 十力の金剛石はただの金剛石のようにチカチカうるさく光りはしません。 十力の金剛石はきらめくときもあります。 かすかににごることもあります。 ほのかにうすびかりする日もあります。 あるときは洞穴のようにまっくらです。 その十力の金剛石は春の風よりやわらかくある時はまるくあるときは卵がたです。 霧より小さなつぶにもなればそらとつちとをうずめもします。 それはたちまち百千のつぶにもわかれまた集まって一つにもなります。 十力の大宝珠はある時黒い厩肥のしめりの中に埋もれます。 それから木や草のからだの中で月光いろにふるい青白いかすかな脈をうちます。 それから人の子供の苹果の頬をかがやかします。 十力の金剛石は今日も来ない。 その十力の金剛石はまだ降らない。 おおあめつちを充てる十力のめぐみわれらに下れ。 来た来た。 ああとうとう来た。 十力の金剛石がとうとう下った。 ほろびのほのお湧きいでてつちとひととをつつめどもこはやすらけきくににしてひかりのひとらみちみてりひかりにみてるあめつちは。 王子|様王子|様。 こちらにおいででございますか。 こちらにおいででございますか。 王子|様。 おおい。 ここだよ。 爾の時に疾翔大力爾迦夷に告げて曰く諦に聴け諦に聴け善くこれを思念せよ我今|汝に梟鵄諸の悪禽離苦解脱の道を述べんと。 爾迦夷則ち両翼を開張し虔しく頸を垂れて座を離れ低く飛揚して疾翔大力を讃嘆すること三匝にして徐に座に復し拝跪して唯願うらく疾翔大力疾翔大力ただ我|等が為にこれを説きたまえ。 ただ我等が為にこれを説き給えと。 疾翔大力微笑して金色の円光を以て頭に被れるにその光遍く一座を照し諸鳥|歓喜充満せり。 則ち説いて曰く汝等審に諸の悪業を作る。 或は夜陰を以て小禽の家に至る。 時に小禽既に終日日光に浴し歌唄跳躍して疲労をなし唯唯甘美の睡眠中にあり。 汝等飛躍してこれを握む。 利爪深くその身に入り諸の小禽痛苦|又声を発するなし。 則ちこれを裂きて擅に※食す。 或は沼田に至り螺蛤を啄む。 螺蛤|軟泥中にあり心|柔※にして唯温水を憶う。 時に俄に身空中にあり或は直ちに身を破る悶乱声を絶す。 汝等これを※食するに又|懺悔の念あることなし。 斯の如きの諸の悪業挙げて数うるなし。 悪業を以ての故に更に又諸の悪業を作る。 継起して遂に竟ることなし。 昼は則ち日光を懼れ又人|及諸の強鳥を恐る。 心|暫くも安らかなるなし一度梟身を尽して又|新に梟身を得審に諸の苦患を被りて又|尽ることなし。 ただ今のご文は梟鵄守護章というて誰も存知の有り難いお経の中の一とこじゃ。 ただ今から暫時の間そのご文の講釈を致す。 みなの衆ようく心を留めて聞かしゃれ。 折角鳥に生れて来てもただ腹が空いた取って食う睡くなった巣に入るではなんの所詮もないことじゃぞよ。 それも鳥に生れてただやすやすと生きるというてもまことはただの一日とてもただごとではないのぞよこちらが一日生きるには雀やつぐみやたにしやみみずが十や二十も殺されねばならぬただ今のご文にあらしゃるとおりじゃ。 ここの道理をよく聴きわけて必らずうかうか短い一生をあだにすごすではないぞよ。 これからご文に入るじゃ。 子供らもこらえて睡るではないぞ。 よしか。 爾の時に疾翔大力爾迦夷に告げて曰くとまづ疾翔大力とはいかなるお方じゃかそれを話さなければならんじゃ。 疾翔大力と申しあげるは施身大菩薩のことじゃ。 もと鳥の中から菩提心を発して発願した大力の菩薩じゃ。 疾翔とは早く飛ぶということじゃ。 捨身菩薩がもとの鳥の形に身をなして空をお飛びになるときは一揚というて一はばたきに六千|由旬を行きなさる。 そのいわれより疾翔と申さるる大力というはお徳によってたとえ火の中水の中ただこの菩薩を念ずるものは捨身大菩薩必らず飛び込んでお救いになりその浄明の天上にお連れなさるその時火に入って身の毛一つも傷かず水に潜って羽塵ほどもぬれぬというそのお徳をば大力とこう申しあげるのじゃ。 されば疾翔大力とは捨身大菩薩を鳥より申しあげる別号じゃまあそう申しては失礼なれど鳥より仰ぎ奉る一つのあだ名じゃと斯う考えてよろしかろう。 さらば疾翔大力はいかなればとてわれわれ同様|賤しい鳥の身分よりその様なる結構のお身となられたか。 結構のことじゃ。 ご自分も又ほかの一切のものも本願のごとくにお救いなされることなのじゃ。 さほど尊いご身分にいかなことでなられたかとなればなかなか容易のことではあらぬぞよ。 疾翔大力さまはもとは一疋の雀でござらしゃったのじゃ。 南天竺のある家の棟に棲まわれた。 ある年非常な饑饉が来て米もとれねば木の実もならず草さえ枯れたことがござった。 鳥もけものもみな飢え死にじゃ人もばたばた倒れたじゃ。 もう炎天と飢渇の為に人にも鳥にも親兄弟の見さかいなくこの世からなる餓鬼道じゃ。 その時疾翔大力はまだ力ない雀でござらしゃったなれどつくづくこれをご覧じて世の浅間しさはかなさに泪をながしていらしゃれた。 中にもその家の親子二人子はまだ六つになるならず母親とてもその大飢渇にどこから食を得るでなしもうあすあすに二人もろとも見す見す餓死を待ったのじゃ。 この時疾翔大力は上よりこれをながめられあまりのことにしばしは途方にくれなされたが日ごろの恩を報ずるはただこの時と勇みたちつかれた羽をうちのばしはるか遠くの林まで親子の食をたずねたげな。 一念天に届いたかある大林のその中に名さえも知らぬ木なれども色もにおいもいと高き十の木の実をお見附けなされたじゃ。 さればもはや疾翔大力はわれを忘れて十たびその実をおのがあるじの棟に運び親子の上より落されたじゃ。 その十たび目はあまりの飢えと身にあまるその実の重さにまなこもくらみ五たび土に落ちたれどただ報恩の一念についご自分にはその実を啄みなさらなんだおもいとどいてその十番目の実を無事に親子に届けたときあまりの疲れと張りつめた心のゆるみについそのままにお倒れなされたじゃ。 されどもややあって正気に復し下の模様を見てあればいかにもその子は勢も増しただいたけなく悦んでいる如くなれども親はかの実も自らは口にせなんじゃいよいよ餓えて倒れるようす疾翔大力これを見てはやこの上はこの身を以て親の餌食とならんものといきなり堅く身をちぢめ息を殺してはりより床へと落ちなされたのじゃ。 その痛さより身は砕くるかと思えどもなおも命はあらしゃった。 されども慈悲もある人の生きたと見てはとても食べはせまいとて息を殺し眼をつぶっていられたじゃ。 そしてとうとう願かなってその親子をば養われたじゃ。 その功徳より疾翔大力様はついに仏にあわれたじゃ。 そして次第に法力を得てやがてはさきにも申した如く火の中に入れどもその毛一つも傷つかず水に入れどもその羽一つぬれぬという大力の菩薩となられたじゃ。 今このご文はこの大菩薩が悪業のわれらをあわれみて救護の道をば説かしゃれた。 その始めの方じゃ。 しばらく休んで次の講座で述べるといたす。 南無疾翔大力南無疾翔大力。 みなの衆しばらくゆるりとやすみなされ。 そら大の字やって見せようか。 大の字なんか何でもないよ。 大の字なんか僕だってできらあ。 できるかい。 できるならやってごらん。 そら。 何だい。 そればっかしかい。 そればっかしかい。 だってやったんならいいんだろう。 大の字にならなかったい。 ただの十の字だったい脚が開かないじゃないか。 おいおとなしくしろ。 みんなに笑われるぞ。 十の字ほうたての棒の二つある十の字があるだろうか。 二つに開かなかったい。 開いたよ。 何だ生意気な。 ほんとうにお前たちったら仕方ないねえ。 みなさんの見ていらっしゃる処でもうすぐきっと喧嘩するんだもの。 なぜ穂吉ちゃんのようにじっとおとなしくしていないんだろうねえ。 爾の時に疾翔大力爾迦夷に告げて曰く諦に聴け諦に聴け。 善くこれを思念せよ。 我今|汝に梟鵄諸の悪禽離苦解脱の道を述べんと。 爾迦夷則ち両翼を開張し虔しく頸を垂れて座を離れ低く飛揚して疾翔大力を讃嘆すること三匝にして徐に座に復し拝跪して唯願うらく疾翔大力疾翔大力ただ我|等が為にこれを説き給え。 ただ我等が為にこれを説き給えと。 疾翔大力|微笑して金色の円光を以て頭に被れるにその光|遍く一座を照し諸鳥|歓喜充満せり。 則ち説いて曰く汝等審に諸の悪業を作る。 或は夜陰を以て小禽の家に至る。 時に小禽|既に終日日光に浴し歌唄跳躍して疲労をなし唯唯甘美の睡眠中にあり。 汝等飛躍してこれを握む。 利爪深くその身に入り諸の小禽痛苦又声を発するなし。 則ちこれを裂きて擅に※食す。 或は沼田に至り螺蛤を啄む。 螺蛤|軟泥中にあり心|柔※にして唯温水を憶う。 時に俄に身空中にあり或は直ちに身を破る悶乱声を絶す。 汝等これを※食するに又|懺悔の念あることなし。 斯の如きの諸の悪業挙げて数うるなし。 悪業を以ての故に更に又諸の悪業を作る。 継起して遂に竟ることなし。 昼は則ち日光を懼れ又人|及諸の強鳥を恐る。 心|暫らくも安らかなることなし一度梟身を尽して又|新に梟身を得。 審に諸の苦患を被りて又尽くることなし。 で前の座では捨身菩薩を疾翔大力と呼びあげるわけあい又その願成の因縁をお話いたしたじゃが次に爾迦夷に告げて曰くとある。 爾迦夷というはこのとき我等と同様|梟じゃ。 われらのご先祖と一緒にお棲いなされたお方じゃ。 今でも爾迦夷|上人と申しあげて毎日十三日がご命日じゃ。 いずれの家でも梟の限りは十三日には楢の木の葉を取て参て爾迦夷上人さまにさしあげるということをやるじゃこれは爾迦夷さまが楢の木にお棲いなされたからじゃ。 この爾迦夷さまは早くから梟の身のあさましいことをご覚悟遊ばされ出離の道を求められたじゃげながとうとうその一心の甲斐あって疾翔大力さまにめぐりあいついにその尊い教を聴聞あって天上へ行かしゃれた。 その爾迦夷さまへのご説法じゃ。 諦に聴け諦に聴け。 善くこれを思念せよと。 心をしずめてよく聴けよ心をしずめてよく聴けよと斯うじゃ。 いずれの説法の座でもよくよく心をしずめ耳をすまして聴くことは大切なのじゃ。 上の空で聞いていたでは何にもならぬじゃ。 お前の眼は大きいねえ。 おいもう遁げて遊びに行こう。 どこへ。 実相寺の林さ。 行こうか。 うん行こう。 穂吉ちゃんも行かないか。 ううん。 我今|汝に梟鵄諸の悪禽離苦解脱の道を述べんということは。 やっぱり駄目だ。 穂吉さんももうあきらめているようだよ。 さっきまではばたばたばたばた云っていたけれどももう今はおとなしく臼の上にとまっているよ。 それから紐が何だか変ったようだよ。 前は右足だったが今度は左脚に結いつけられてそれに紐の色が赤いんだ。 けれどもただひとついいことはみんな大抵寝てしまったんだ。 さっきまで穂吉さんの眼を指で突っつこうとした子供などは腹かけだけして大の字になって寝ているよ。 この世界は全くこの通りじゃ。 ただもうみんなかなしいことばかりなのじゃ。 どうして又あんなおとなしい子が人につかまるような処に出たもんじゃろうなあ。 今朝あけ方近くなってから兄弟三人で出掛けたそうでございます。 いつも人の来るような処ではなかったのでございます。 そのうち朝日が出ましたので眩しさに三疋ともしばらく眼を瞑っていたそうでございます。 すると丁度子供が二人草刈りに来て居ましたそうで穂吉もそれを知らないうちに一人がそっとのぼって来て穂吉の足を捉まえてしまったと申します。 あああわれなことじゃふびんなはなしじゃあんなおとなしいいい子でも何の因果じゃやら。 できるなればわしなどで代ってやりたいじゃ。 穂吉さんはね臼の上をあるいていたよ。 あの赤の紐を引き裂こうとしていたようだったけれどなかなか容易じゃないんだ。 私はもうどこか隙間から飛び込んで行って手伝ってあげようと何べんも何べんも家のまわりを飛んで見たけれどどこにもあいてる所はないんだろう。 ほんとうに可哀そうだねえ穂吉さんはけれども泣いちゃいないよ。 あの家に猫は居ないようでございましたか。 ええ猫は居なかったようですよ。 きっと居ないんです。 ずいぶん暫らく私はのぞいていたんですけれどとうとう見えなかったのですから。 そんならまあ安心でございます。 ほんとうにみなさまに飛んだご迷惑をかけてお申し訳けもございません。 みんな穂吉の不注意からでございます。 いいえいいえそんなことはありません。 あんな賢いお子さんでも災難というものは仕方ありません。 もうそうなっては仕方ない。 お前は行って穂吉にそっと教えてやったらよかろうもうこの上は決してばたばたもがいたり怒って人に噛み付いたりしてはいけない。 今日中|誰もお前を殺さない処を見るときっと田螺か何かで飼って置くつもりだろうから今までのように温和しくして決して人に逆うなとな。 斯う云って教えて来たらよかろう。 そうじゃそうじゃ。 いい分別じゃ。 序に斯う教えて来なされ。 このようなひどい目におうて何悪いことしたむくいじゃと恨むようなことがあってはならぬ。 この世の罪も数知らずさきの世の罪も数かぎりない事じゃほどにこの災難もあるのじゃとよくあきらめてあんまりひとり嘆くでないあんまり泣けば心も沈みからだもとかく損ねるじゃたとえ足には紐があるとも今ここへ来てはじめてとまった処じゃといつも気軽でいねばならぬとな斯う云うて下され。 ああされどもされどもとられた者は又別じゃ。 何のさわりも無いものがとや斯う言うても何にもならぬ。 ああ可哀そうなことじゃ不愍なことじゃ。 ありがとうございます。 ありがとうございます。 もうきっとそう申し伝えて参ります。 斯んなお語を伝え聞いたらもう死んでもよいと申しますでございましょう。 いやいやそうじゃ。 斯うも云うて下され。 いくら飼われるときまっても子供心はもとより一向たよりないもの又近くには猫犬なども居ることじゃもし万一の場合はただあの疾翔大力のおん名を唱えなされとな。 そう云うて下され。 おお不愍じゃ。 ありがとうございます。 では行って参ります。 ああもしどうぞいのちのある間は朝夕二度私に聞えるよう高く啼いて呉れとおっしゃって下さいませ。 いいよ。 ではみなさん行って参ります。 みなの衆。 いつまで泣いてもはてないじゃ。 ここの世界は苦界という又忍土とも名づけるじゃ。 みんなせつないことばかり涙の乾くひまはないのじゃ。 ただこの上はわれらと衆生と早くこの苦を離れる道を知るのが肝要じゃ。 この因縁でみなの衆もよくよく心をひそめて聞きなされ。 ただ一人でも穂吉のことからまことに菩提の心を発すなれば穂吉の功徳又この座のみなの衆の功徳かぎりもあらぬことなれば必らずとくと聴聞なされや。 昨夜の続きを講じます。 爾の時に疾翔大力爾迦夷に告げて曰く諦に聴け諦に聴け。 善くこれを思念せよ。 我今|汝に梟鵄諸の悪禽離苦解脱の道を述べんと。 爾迦夷則ち両翼を開張し虔しく頸を垂れて座を離れ低く飛揚して疾翔大力を讃嘆すること三匝にして徐に座に復し拝跪して唯願うらく疾翔大力疾翔大力ただ我|等が為にこれを説き給え。 ただ我等が為にこれを説き給えと。 疾翔大力|微笑して金色の円光を以て頭に被れるにその光|遍く一座を照し諸鳥|歓喜充満せり。 則ち説いて曰く汝等審に諸の悪業を作る。 或は夜陰を以て小禽の家に至る。 時に小禽|既に終日日光に浴し歌唄跳躍して疲労をなし唯唯甘美の睡眠中にあり汝等飛躍してこれを握む。 利爪深くその身に入り諸の小禽痛苦又声を発するなし。 則ちこれを裂きて擅に※食す。 或は沼田に至り螺蛤を啄む。 螺蛤|軟泥中にあり心|柔※にして唯温水を憶う。 時に俄に身空中にあり或は直ちに身を破る悶乱声を絶す。 汝等これを※食するに又|懺悔の念あることなし。 斯の如きの諸の悪業挙げて数うるなし。 悪業を以ての故に更に又諸の悪業を作る。 継起して遂に竟ることなし。 昼は則ち日光を懼れ又人|及諸の強鳥を恐る。 心|暫らくも安らかなることなし。 一度梟身を尽して又|新に梟身を得審に諸の患難を被りて又尽くることなし。 で前の晩は諸鳥歓喜充満せりまで文の如くに講じたが此の席はその次じゃ。 則ち説いて曰くとこれは疾翔大力さまが爾迦夷上人のご懇請によって直ちに説法をなされたと斯うじゃ。 汝等|審に諸の悪業を作ると。 汝等というは元来はわれわれ梟や鵄などに対して申さるるのじゃがご本意は梟にあるのじゃあとのご文の罪相を拝するにみなわれわれのことじゃ。 悪業というは悪は悪いじゃ業とは梵語でカルマというてすべて過去になしたることのまだ報となってあらわれぬを業という善業悪業あるじゃ。 ここでは悪業という。 その事柄を次にあげなされたじゃ。 或は夜陰を以て小禽の家に至ると。 みなの衆他人事ではないぞよ。 よくよく自らの胸にたずねて見なされ。 夜陰とは夜のくらやみじゃ。 以てとはこれに乗じてというがようの意味じゃ。 夜のくらやみに乗じてと斯うじゃ。 小禽の家に至る。 小禽とは雀山雀四十雀ひわ百舌みそさざいかけすつぐみすべて形小にして力ないものはみな小禽じゃ。 その形小さく力無い鳥の家に参るというのじゃが参るというてもただ訪ねて参るでもなければ遊びに参るでもないじゃ内に深く残忍の想を潜め外又恐るべく悲しむべき夜叉相を浮べ密やかに忍んで参ると斯う云うことじゃ。 このご説法のころはわれらの心も未だ仲々善心もあったじゃ小禽の家に至るとお説きなさればはや聴法の者みな慄然として座に耐えなかったじゃ。 今は仲々そうでない。 今ならば疾翔大力さままだまだ強く烈しくご説法であろうぞよ。 みなの衆よくよく心にしみて聞いて下され。 次のご文は時に小禽|既に終日日光に浴し歌唄跳躍して疲労をなし唯々甘美の睡眠中にあり。 他人事ではないぞよ。 どうじゃ今朝も今朝とて穂吉どの処を替えてこの身の上じゃ。 みなの衆まず試しに自分がみそさざいにでもなったと考えてご覧じ。 な。 天道さまが東の空へ金色の矢を射なさるじゃ林樹は青く枝は揺るる楽しく歌をばうたうのじゃ仲よくおうた友だちと枝から枝へ木から木へ天道さまの光の中を歌って歌って参るのじゃひるごろならば涼しい葉陰にしばしやすんで黙るのじゃ又ちちと鳴いて飛び立つじゃ空の青板をめざすのじゃ又小流れに参るのじゃ心の合うた友だちとただ暫らくも離れずに歌って歌って参るのじゃさてお天道さまがおかくれなされるからだはつかれてとろりとなる油のごとく溶けるごとくじゃ。 いつかまぶたは閉じるのじゃ昼の景色を夢見るじゃからだは枝に留まれど心はなおも飛びめぐるたのしく甘いつかれの夢の光の中じゃ。 そのとき俄かにひやりとする。 夢かうつつか愕き見ればわが身は裂けて血は流れるじゃ。 燃えるようなる二つの眼が光ってわれを見詰むるじゃ。 どうじゃ声さえ発とうにも咽喉が狂うて音が出ぬじゃ。 これが則ち利爪深くその身に入り諸の小禽痛苦又声を発するなしの意なのじゃぞ。 されどもこれは取らるる鳥より見たるものじゃ。 捕る此方より眺むれば飛躍してこれを握むと斯うじゃ。 何の罪なく眠れるものをただ一打ととびかかり鋭い爪でその柔な身体をちぎる鳥は声さえよう発てぬこちらはそれを嘲笑いつつ引き裂くじゃ。 何たるあわれのことじゃ。 この身とて今は法師にて鳥も魚も襲わねど昔おもえば身も世もあらぬ。 ああ罪業のこのからだ夜毎夜毎の夢とては同じく夜叉の業をなす。 宿業の恐ろしさただただ呆るるばかりなのじゃ。 傷みはどうじゃ。 いくらか薄らいだかの。 折角こらえているようでございます。 よく物が申せないのでございます。 それでもどうしても今夜のお説教を聴聞いたしたいというようでございましたので。 もうどうかかまわずご講義をねがいとう存じます。 殊勝なお心掛けじゃ。 それなればこそたとえ脚をば折られても二度と父母の処へも戻ったのじゃ。 なれども健かな二本の脚を何|面白いこともないに捩って折って放すとは何という浅間しい人間の心じゃ。 放されましても二本の脚を折られてどうしてまあすぐ飛べましょう。 あの萱原の中に落ちてひいひい泣いていたのでございます。 それでも昼の間は誰も気付かずやっと夕刻私が顔を見ようと出て行きましたらこのていたらくでございまする。 うん。 尤じゃ。 なれども他人は恨むものではないぞよ。 みな自らがもとなのじゃ。 恨みの心は修羅となる。 かけても他人は恨むでない。 遁がしてやるよ。 あんまりひどいやつらだ。 こっちは何一つ向うの為に悪いようなことをしないんだ。 それをこんなことをしてよこす。 もうだまってはいられない。 何かし返ししてやろう。 火をつけようじゃないか。 今度|屑焼きのある晩に燃えてる長い藁を一本あの屋根までくわえて来よう。 なあに十本も二十本も運んでいるうちにはどれかすぐ燃えつくよ。 けれども火事で焼けるのはあんまり楽だ。 何かも少しひどいことがないだろうか。 戸のあいてる時をねらって赤子の頭を突いてやれ。 畜生め。 いやいやみなの衆それはいかぬじゃ。 これほど手ひどい事なれば必らず仇を返したいはもちろんの事ながらそれでは血で血を洗うのじゃ。 こなたの胸が霽れるときはかなたの心は燃えるのじゃ。 いつかはまたもっと手ひどく仇を受けるじゃこの身終って次の生までその妄執は絶えぬのじゃ。 遂には共に修羅に入り闘諍しばらくもひまはないじゃ。 必らずともにさようのたくみはならぬぞや。 穂吉穂吉しっかりおし。 穂吉しっかりするんだよ。 今お説教がはじまるから。 まあよかったね。 やっぱりつかれているんだろう。 さあ講釈をはじめよう。 みなの衆座にお戻りなされ。 今夜は二十六日じゃ来月二十六日はみなの衆も存知の通り二十六夜待ちじゃ。 月天子山のはを出でんとして光を放ちたまうとき疾翔大力爾迦夷波羅夷の三尊が東のそらに出現まします。 今宵は月は異なれどまことの心には又あらはれ給わぬことでない。 穂吉どのもただ一途に聴聞の志じゃげなでこれからさっそく講ずるといたそう。 穂吉どのさぞ痛かろう苦しかろうお経の文とて仲々耳には入るまいなれどそのいたみ悩みの心の中にいよいよ深く疾翔大力さまのお慈悲を刻みつけるじゃぞいいかやまことにそれこそ菩提のたねじゃ。 梟鵄救護章梟鵄救護章諸の仁者掌を合せて至心に聴き給え。 我今|疾翔大力が威神力を享けて梟鵄救護章の一節を講ぜんとす。 唯願うらくはかの如来大慈大悲我が小願の中に於て大神力を現じ給い妄言綺語の淤泥を化して光明|顕色の浄瑠璃となし浮華の中より清浄の青蓮華を開かしめ給わんことを。 至心欲願南無仏南無仏南無仏。 爾の時に疾翔大力爾迦夷に告げて曰く諦に聴け諦に聴け。 善くこれを思念せよ。 我今|汝に梟鵄諸の悪禽離苦解脱の道を述べんと。 爾迦夷|則ち両翼を開張し虔しく頸を垂れて座を離れ低く飛揚して疾翔大力を讃嘆すること三匝にして徐に座に復し拝跪して願うらく疾翔大力疾翔大力ただ我|等が為にこれを説き給え。 ただ我等が為にこれを説き給えと。 疾翔大力微笑して金色の円光を以て頭に被れるに諸鳥|歓喜充満せり。 則ち説いて曰く汝等|審に諸の悪業を作る。 或は夜陰を以て小禽の家に至る。 時に小禽|既に終日日光に浴し歌唄跳躍して疲労をなし唯唯甘美の睡眠中にあり汝等飛躍してこれを握む。 利爪深くその身に入り諸の小禽痛苦又声を発するなし則ちこれを裂きて擅に※食す。 或は沼田に至り螺蛤を啄む。 螺蛤|軟泥中にあり心|柔※にして唯温水を憶う。 時に俄に身空中にあり或は直ちに身を破る悶乱声を絶す。 汝等これを※食するに又|懺悔の念あることなし。 悪業を以ての故に更に又諸の悪業を作る。 継起して遂に竟ることなし。 昼は則ち日光を懼れ又人|及諸の強鳥を恐る。 心|暫らくも安らかなることなし。 一度梟身を尽して又|新に梟身を得。 審に諸の患難を被りて又尽くることなし。 で前の晩は斯の如きの諸の悪業挙げて数うることなしまで講じたが今夜はその次じゃ。 悪業を以ての故に更に又諸の悪業を作るとこれは誠に短いながら強いお語じゃ。 先刻人間に恨みを返すとの議があった節申した如くじゃ一の悪業によって一の悪果を見る。 その悪果故に又新なる悪業を作る。 斯の如く展転して遂にやむときないじゃ。 車輪のめぐれどもめぐれども終らざるが如くじゃ。 これを輪廻といい流転という。 悪より悪へとめぐることじゃ。 継起して遂に竟ることなしと云うがそれじゃ。 いつまでたっても終りにならぬどこどこまでも悪因悪果悪果によって新に悪因をつくる。 な。 斯うじゃ浮む瀬とてもあるまいじゃ。 昼は則ち日光を懼れ又人|及諸の強鳥を恐る。 心|暫らくも安らかなることなし。 これは流転の中のつらい模様をわれらにわかるよう直かに申されたのじゃ。 勿体なくも我等は光明の日天子をば憚かり奉る。 いつも闇とみちづれじゃ。 東の空が明るくなりて日天子さまの黄金の矢が高く射出さるればわれらは恐れて遁げるのじゃ。 もし白昼にまなこを正しく開くならばその日天子の黄金の征矢に伐たれるじゃ。 それほどまでに我等は悪業の身じゃ。 又人及諸の強鳥を恐る。 な。 人を恐るることは今夜今ごろ講ずることの限りでない。 思い合せてよろしかろう。 諸の強鳥を恐る。 鷹やはやぶさ又さほど強くはなけれども日中なれば烏などまで恐れねばならぬ情ない身じゃ。 はやぶさなれば空よりすぐに落ちて来てこなたが小鳥をつかむときと同じようなるありさまじゃたちまち空で引き裂かれるじゃ少しのさからいをしたとて何にもならぬげにもげにも浅間しくなさけないわれらの身じゃ。 心|暫らくも安らかなることなしとどうじゃみなの衆ただの一時でもゆっくりと何の心配もなく落ち着いたことがあるかの。 もういつでもいつでもびくびくものじゃ。 一度梟身を尽して又|新に梟身を得と斯うじゃ。 泣いて悔やんで悲しんでついには年老る病気になるあらんかぎりの難儀をしてそれで死んだらもうこの様な悪鳥の身を離れるかとならば仲々そうは参らぬぞや。 身に染み込んだ罪業から又梟に生れるじゃ。 斯の如くにして百|生二百生乃至劫をも亘るまでこの梟身を免れぬのじゃ。 審に諸の患難を蒙りて又尽くることなし。 もう何もかも辛いことばかりじゃ。 さて今東の空は黄金色になられた。 もう月天子がお出ましなのじゃ。 来月二十六夜ならばこのお光に疾翔大力さまを拝み申すじゃなれど今宵とて又拝み申さぬことでないみなの衆ようくまごころを以て仰ぎ奉るじゃ。 南無疾翔大力南無疾翔大力。 おや穂吉さん息つかなくなったよ。 ああそうですかバキチをご存じなんですか。 知ってますとも知ってますよ。 バキチをご存じなんですか。 小学校でご一緒ですか中学校でご一緒ですか。 いいやあいつは中学校なんど入りやしない。 やっぱり小学校ですか。 兵隊で一緒です。 ああ兵隊でそうですかあいつも一等卒でさねどうやってるかご存じですか。 さあ知りません。 隊で分れたきりですから。 ああそうですかそいじゃ私のほうがやっぱり詳しく知ってます。 この間まで馬喰をやってましたがね。 今ごろは何をしているか全く困ったもんですよ。 どうして馬喰をやめたでしょう。 だめでさあわっしもずいぶん目をかけました。 でもどうしてもだめなんです。 あいつは隊をさがってからもとの大工にならないで巡査を志願したのです。 そして巡査をやったんですか。 それぁやりました。 けれども間もなくやめたんです。 どうしてやめたんだろうなあ何でも隊に来る前は大工でとにかく暮していたと云うんですが。 それゃうそでさあ大工もほんのちょっとです。 土方をやめてなったんです。 その土方もまたちょっとです。 それから前は知りません。 土方ばかりじゃありません飴屋もやったて云いますよ。 巡査をどうしてやめたんです。 あんな巡査じゃだめでさああのお神明さんの池ねあすこに鯉が居るでしょう県の規則で誰にもとらせないんです。 ところがやっぱり夜のうちにこっそり行くものがあるんです。 それぁきっとよく捕れるんでしょう。 バキチはそれをきいたのです。 毎晩お神明さんの杉のうしろにかくれていて来るやつを見ていたそうですそしていよいよ網を入れて鯉が十|疋もとれたとき誰だっこらって出るんでしょう魚も網も置いたまま一目散に逃げるでしょうバキチは笑ってそいつを持って警察の小使室へ帰るんです。 変だねえなるほどねえ。 何でも五回か六回かそんなことがあったそうです。 そしたらある日|署長のとこへ差出人の名の書いてない変な手紙が行ったんです。 署長が見たら今のことでしょうけれども署長は笑ってました。 なぜって巡査なんてものは実際月給も僅かですしねくらしに困るものなんです。 なるほどねえそりゃそうだねえ。 ところがねえ次が大へんなんですよ耕牧舎の飼牛がね結核にかかっていたんですがある日とうとう死んだんです。 ところが病気のけだものは死んだら棄てなくちゃいけないでしょう。 けれども何せ売れば二三百にはなるんです。 誰だって惜しいとは思います。 耕牧舎でもこっそりそれを売っているらしいというんです。 行って見て来いってうわけでバキチが剣をがちゃつかせ耕牧舎へやって来たでしょう。 耕牧舎でもじっさい困ってしまったのです。 バキチが入って行きましたらいきなり一|疋の牛を叩いてあばれさせました。 牛もびっくりしましたねいきなり外に飛び出してバキチに突いてかかったんです。 バキチはすっかりまごついて一目散に警察へ遁げて帰ったんです。 そして署長のところへ行って耕牧舎では牛の皮だけはいで肉と骨はたしかに土に埋めていましたって報告したんです。 ところがそれが知れたでしょう。 町のものもみんな笑いました。 署長もすっかり怒ってしまいある朝|役所へ出るとすぐいきなりバキチを呼び出して斯う申し渡したと云います。 バキチきさまもだめなやつだよくよくだめなやつなんだ。 もう少し見所があると思ったのに牛につっかかれたくらいで職務も忘れて遁げるなんてもう今日限り免官だ。 すぐ服をぬげ。 と来たでしょう。 バキチのほうでももう大抵巡査があきていたんです。 へえそうですかやめましょう。 永々お世話になりましたって斯う云うんです。 そしてすぐ服をぬいだはいいんですが実はみじめなもんでした。 着物もシャツとずぼんだけもちろん財布もありません。 小使室から出されては寝む家さえないんです。 その昼間のうちはシャツとズボン下だけで頭をかかえて一日小使室に居ましたが夜になってからとうとう警部補にたたき出されてしまいました。 バキチはすっかり悄気切ってぶらぶら町を歩きまわってとうとう夜中の十二時にタスケの厩にもぐり込んだって云うんです。 馬もびっくりしましたぁねおどおどしながらはね起きて身構えをして斯うバキチに訊いたってんです。 バキチが横木の下の所で腹這いのまま云いました。 と馬が云いました。 馬がそう云ったんですか。 馬がそう云ったそうですよ。 わっしゃ馬から聞きやした。 ところがタスケの馬も馬でさあ面白がってオペラのようにふしをつけてだなんてやったもんです。 バキチもそこはのんきです。 やっぱりふしをつけながらとうなっていました。 そこへ丁度わたしが通りかかりました。 おいおいバキチあんまりみっともないざまはよせよ。 一体馬を盗もうってのか。 それとも宿がなくなって今夜|一晩とめてもらいたいと云うのか。 バキチが頭を掻きやした。 いやどっちもだけれども馬を盗むよりとまるよりまず第一におれは何かが食いたいんだ。 小岩井農場の北に黒い松の森が四つあります。 いちばん南が狼森でその次が笊森次は黒坂森北のはずれは盗森です。 この森がいつごろどうしてできたのかどうしてこんな奇体な名前がついたのかそれをいちばんはじめからすっかり知っているものはおれ一人だと黒坂森のまんなかの巨きな巌がある日威張ってこのおはなしをわたくしに聞かせました。 ずうっと昔岩手山が何べんも噴火しました。 その灰でそこらはすっかり埋まりました。 このまっ黒な巨きな巌もやっぱり山からはね飛ばされて今のところに落ちて来たのだそうです。 噴火がやっとしずまると野原や丘には穂のある草や穂のない草が南の方からだんだん生えてとうとうそこらいっぱいになりそれから柏や松も生え出ししまいにいまの四つの森ができました。 けれども森にはまだ名前もなくめいめい勝手におれはおれだと思っているだけでした。 するとある年の秋水のようにつめたいすきとおる風が柏の枯れ葉をさらさら鳴らし岩手山の銀の冠には雲の影がくっきり黒くうつっている日でした。 四人のけらを着た百姓たちが山刀や三本鍬や唐鍬やすべて山と野原の武器を堅くからだにしばりつけて東の稜ばった燧石の山を越えてのっしのっしとこの森にかこまれた小さな野原にやって来ました。 よくみるとみんな大きな刀もさしていたのです。 先頭の百姓がそこらの幻燈のようなけしきをみんなにあちこち指さして「どうだ。 いいとこだろう。 畑はすぐ起せるし森は近いしきれいな水もながれている。 それに日あたりもいい。 どうだ俺はもう早くからここと決めて置いたんだ。 しかし地味はどうかな。 うん。 地味もひどくよくはないがまたひどく悪くもないな。 さあそれではいよいよここときめるか。 よしそう決めよう。 おおいおおい。 ここだぞ。 早く来お。 早く来お。 ここへ畑起してもいいかあ。 いいぞお。 ここに家建ててもいいかあ。 ようし。 ここで火たいてもいいかあ。 いいぞお。 すこし木貰ってもいいかあ。 ようし。 冷たい冷たい。 たれか童ゃど知らないか。 しらない。 そんだらさがしに行くぞお。 来お。 狼森のまんなかで火はどろどろぱちぱち火はどろどろぱちぱち栗はころころぱちぱち栗はころころぱちぱち。 狼どの狼どの童しゃど返して呉ろ。 悪く思わないで呉ろ。 栗だのきのこだのうんとご馳走したぞ。 おらの道具知らないかあ。 知らないぞお。 さがしに行くぞお。 来お。 無い無い決して無い無い。 外をさがして無かったらもう一ぺんおいで。 こいつはどうもあやしいぞ。 笊森の笊はもっともだが中には何があるかわからない。 一つあけて見よう。 山男これからいたずら止めて呉ろよ。 くれぐれ頼むぞこれからいたずら止めで呉ろよ。 おらさも粟餅持って来て呉ろよ。 おらの粟知らないかあ。 知らないぞお。 さがしに行くぞ。 来お。 今日も粟餅だ。 ここには粟なんか無い無い決して無い。 ほかをさがしてもなかったらまたここへおいで。 あわもちだ。 あわもちだ。 おらはなっても取らないよ。 粟をさがすならもっと北に行って見たらよかべ。 粟を返して呉ろ。 粟を返して呉ろ。 おれはあけ方まっ黒な大きな足が空を北へとんで行くのを見た。 もう少し北の方へ行って見ろ。 名からしてぬすと臭い。 さあ粟返せ。 粟返せ。 何だと。 おれをぬすとだと。 そう云うやつはみんなたたき潰してやるぞ。 ぜんたい何の証拠があるんだ。 証人がある。 証人がある。 誰だ。 畜生そんなこと云うやつは誰だ。 黒坂森だ。 あいつの云うことはてんであてにならん。 ならん。 ならん。 ならんぞ。 畜生。 いやいやそれはならん。 ぬすとはたしかに盗森に相違ない。 おれはあけがた東の空のひかりと西の月のあかりとでたしかにそれを見届けた。 しかしみんなももう帰ってよかろう。 粟はきっと返させよう。 だから悪く思わんで置け。 一体盗森はじぶんで粟餅をこさえて見たくてたまらなかったのだ。 それで粟も盗んで来たのだ。 はっはっは。 お前たちは又わなをこしらえたな。 そんなことをして折角おいでになったお客さまにもしものことがあったらどうする。 学校の名誉に関するよ。 今日はもうお前たちみんな罰しなければならない。 ご参観でいらっしゃいますか。 ええぜひそう願いたいのです。 ご紹介はありますか。 画家のたけしさんです。 紹介状はお持ちですか。 紹介状はありませんがたけしさんは今はずいぶん偉いですよ。 美術学院の会員ですよ。 とにかく紹介状はお持ちにならないですね。 持ちません。 よろしゅうございます。 こちらへお出で下さい。 ただ今丁度ひるのやすみでございますが午后の課業をご案内いたします。 わなをみんな解け。 こんなことをして学校の名誉に関するじゃないか。 今に主謀者は処罰するぞ。 さあどうかお入り下さい。 どうぞスリッパをお召しなすって。 只今校長に申しますから。 ようこそいらっしゃいました。 さあさあどうぞお入り下さい。 運動場で生徒が大へん失礼なことをしましたそうで。 さあさあどうぞお入り下さい。 どうぞお入り。 さあどうかお掛け下さい。 ええと失礼ですがお職業はやはり学事の方ですか。 ええ農学校の教師です。 本日はおやすみでいらっしゃいますか。 はあ日曜です。 なるほどあなたの方では太陽|暦をお使いになる関係上日曜日がお休みですな。 そうするとおうちの方ではどうなるのですか。 左様左様至極ご尤なご質問です。 私の方は太陰暦を使う関係上月曜日が休みです。 いかがですか。 こちらの方では大学校へ進む生徒はずいぶん沢山ございますか。 へい。 実は本年は不思議に実業志望が多ございまして十三人の卒業生中十二人まで郷里に帰って勤労に従事いたして居ります。 ただ一人だけ大谷地大学校の入学試験を受けましてそれがいかにもうまく通りましたのでへい。 武田金一郎をどう処罰いたしましょう。 こちらは第三学年の担任です。 このお方は麻生農学校の先生です。 で武田金一郎をどう処罰したらいいかというのだね。 お客さまの前だけれども一寸呼んでおいで。 お前があの草わなを運動場にかけるようにみんなに云いつけたんだね。 そうです。 あんなことして悪いと思わないか。 今は悪いと思います。 けれどもかける時は悪いと思いませんでした。 どうして悪いと思わなかった。 お客さんを倒そうと思ったのじゃなかったからです。 どういう考でかけたのだ。 みんなで障碍物競争をやろうと思ったんです。 あのわなをかけることを学校では禁じているのだがお前はそれを忘れていたのか。 覚えていました。 そんならどうしてそんなことをしたのだ。 こう云う工合にお客さまが度々おいでになる。 それに運動場の入口にあんなものをこしらえて置いてもしお客さまに万一のことがあったらどうするのだ。 お前は学校で禁じているのを覚えていながらそれをするというのはどう云うわけだ。 わかりません。 わからないだろう。 ほんとうはわからないもんだ。 それはまあそれでよろしい。 お前たちはこのお方がそのわなにつまずいてお倒れなさったときはやしたそうだが又私もここで聞いていたがどうしてそんなことをしたか。 わかりません。 わからないだろう。 全くわからないもんだ。 わかったらまさかお前たちはそんなことしないだろうな。 では今日の所は私からよくお客さまにお詫を申しあげて置くからこれからよく気をつけなくちゃいけないよ。 いいか。 もう決して学校で禁じてあることをしてはならんぞ。 はいわかりました。 では帰って遊んでよろしい。 只今のようなわけで至って無邪気なので決して悪気があって笑ったりしたのではないようでございますからどうかおゆるしをねがいとう存じます。 どう致しまして。 私こそいきなりおうちの運動場へ飛び込んで来ていろいろ失礼を致しました。 生徒さん方に笑われるのなら却って私は嬉しい位です。 いやありがとうございます。 おい武村君。 君からもお礼を申しあげてくれ。 午后は第一学年は修身と護身第二学年は狩猟術第三学年は食品化学とこうなっていますがいずれもご参観になりますか。 さあみんな拝見いたしたいです。 たいへん面白そうです。 今朝からあがらなかったのが本当に残念です。 いやいずれ又おいでを願いましょう。 護身というのは修身といっしょになっているのですか。 ええ昨年までは別々でやりましたが却って結果がよくないようです。 なるほどそれに狩猟だなんてずいぶん高尚な学科もおやりですな。 私の方ではまあ高等専門学校や大学の林科にそれがあるだけです。 ははんなるほど。 けれどもあなたの方の狩猟と私の方の狩猟とは内容はまるでちがっていますからなははん。 あなたの方の狩猟は私の方の護身にはいり私の方の狩猟はさあ狩猟前業はあなたの方の畜産にでも入りますかなまあとにかくその時々でゆっくりご説明いたしましょう。 気をつけ。 番号。 右向け右。 前へ進め。 さあではご案内を致しましょう。 はじめに第一学年をご案内いたします。 第一教室第一学年担任者武井甲吉。 麻生農学校の先生です。 さあみんな立って。 ご挨拶に麻生農学校の校歌を歌うのです。 そら一二三。 最高の偽は正直なり。 そこで元来偽というのはいけないものです。 いくら上手に偽をついてもだめなのです。 賢い人がききますとちゃんと見わけがつくのです。 それは賢い人たちはその語のつりあいでほんとうかうそかすぐわかりまたその音ですぐわかりそれからそれを云うものの顔やかたちですぐわかります。 ですからうそというものはほんの一時はうまいように思われることがあっても必ずまもなくだめになるものです。 そこでこの格言の意味はもしも誰かが一つこんな工合のうそをついてこう云う工合にうまくやろうと考えるとします。 そのときもしよくその云うことを自分で繰り返し繰り返しして見ますといつの間にかどうもこれでは向うにわかるようだも少しこう云わなくてはいけないというような気がするのですそこで云いようをすっかり改めて又それを心の中で繰り返し繰り返しして見ますやっぱりそれでもいけないようだこうしようと考えます。 それもやっぱりだめなようだこうしようと思います。 こんな工合にして一生けん命考えて行きますととうとうしまいはほんとうのことになってしまうのです。 そんならそのほんとうのことを云ったら実際どうなるかと云うと実はかえってうまく偽をついたよりはいいことになるたとえすぐにはいけないことになったようでも結局は結局はいいことになる。 だからこの格言は又『正直は最良の方便なり』とも云われます。 そこで今の『正直は最良の方便』という格言はただ私たちがうそをつかないのがいいというだけではなく又丁度反対の応用もあるのです。 それは人間が私たちに偽をつかないのも又最良の方便です。 その一例を挙げますとわなです。 わなにはいろいろありますけれども一番こわいのはいかにもわなのような形をしたわなです。 それもごく仕掛けの下手なわなです。 これを人間の方から云いますとわなにもいろいろあるけれども一番狐のよく捕れるわなは昔からの狐わなだいかにも狐を捕るのだぞというような格好をした昔からの狐わなだと斯う云うわけです。 正直は最良の方便全くこの通りです。 武巣さん立って校長室へ行ってわなの標本を運んで来て下さい。 はいっ。 これはアメリカ製でホックスキャッチャーと云います。 ニッケル鍍金でこんなにぴかぴか光っています。 ここの環の所へ足を入れるとピチンと環がしまってもうとれなくなるのです。 もちろんこの器械は鎖か何かで太い木にしばり付けてありますから実際|一遍足をとられたらもうそれきりです。 けれども誰だってこんなピカピカした変なものにわざと足を入れては見ないのです。 第二教室第二年級担任武池清二郎。 そこで澱粉と脂肪と蛋白質とこの成分の大事なことはよくおわかりになったでしょう。 こんどはどんなたべものにこの三つの成分がどんな工合に入っているかそれを云います。 凡そ食物の中で滋養に富みそしておいしくまた見掛けも大へん立派なものは鶏です。 鶏は実際食物中の王と呼ばれる通りです。 今鶏の肉の成分の分析表をあげましょう。 みなさん帳面へ書いて下さい。 蛋白質は十八ポイント五パアセント脂肪は九ポイント三パーセント含水炭素は一ポイント二パーセントもあるのです。 鶏の肉はただこのように滋養に富むばかりでなく消化もたいへんいいのです。 殊に若い鶏の肉ならばもうほんとうに軟かでおいしいことと云ったら。 とてもお話ではわかりません。 食べたことのある方はおわかりでしょう。 で一般にこの鶏の肉に限らず鳥の肉には私たちの脳神経を養うに一番大事な燐がたくさんあるのです。 その鶏の卵も大へんいいのです。 成分は鶏の肉より蛋白質は少し少く脂肪は少し多いのです。 これは病人もよく使います。 それから次は油揚です。 油揚は昔は大へん供給が充分だったのですけれども今はどうもそんなじゃありません。 それで実はこれは廃れた食物であります。 成分は蛋白質が二二パアセント脂肪が十八ポイント七パアセント含水炭素が零ポイント九パアセントですがこれは只今ではあんまり重要じゃありません。 油揚の代りに近頃盛んになったのは玉蜀黍です。 これはけれども消化はあんまりよくありません。 時間がも少しですから次の教室をご案内いたしましょう。 第三教室は向うの端になって居ります。 第三学年担任者武原久助。 それで狩猟に前業と本業と後業とあることはよくわかったろう。 前業は養鶏を奨励すること本業はそれを捕ること後業はそれを喰べることと斯うである。 前業の養鶏奨励の方法はだんだん詳しく述べるつもりであるがまあその模範として一例を示そう。 先頃私が茨窪の松林を散歩していると向うから一人の黒い小倉服を着た人間の生徒が何か大へん考えながらやって来た。 私はすぐにその生徒の考えていることがわかったのでいきなり前に飛び出した。 すると向うでは少しびっくりしたらしかったので私はまず斯う云った。 『おいお前は私が何だか知ってるか。 』するとその生徒が云った。 『お前は狐だろう。 』『そうだ。 しかしお前は大へん何か考えて困っているだろう。 』『いいやなんにも考えていない。 』その生徒が云った。 その返事が実は大へん私に気に入ったのだ。 『そんなら私はお前の考えていることをあてて見ようか。 』『いいやいらない。 』その生徒が云った。 それが又大へん私の気に入った。 『お前は明後日の学芸会で何を云ったらいいか考えているだろう。 』『うん実はそうだ。 』『そうかそんなら教えてやろう。 あさってお前は養鶏の必要を云うがいい。 百姓の家にはこぼれて砂の入った麦や粟やいらない菜っ葉や何かたくさんあるんだ。 又|甘藍や何かには青むしもたかる。 それをみんな鶏に食べさせる。 鶏は大悦びでそれをたべる。 卵もうむ。 大へん得だと斯う云うがいい。 』私が云ったらその生徒は大へん悦んで厚く礼を述べて行った。 きっとあの生徒は学芸会でそれを云ったんだ。 するとみんなは勿論と思って早速養鶏をはじめる。 大きな鶏やひよっこや沢山できる。 そこで我々は早速本業にとりかかると斯う云うのだ。 なんだお前は僕に養鶏をすすめて置いて自分がそれを捕ろうというのか。 今日はここまでにして置きます。 ご感想はいかがですか。 正直を云いますと実は何だか頭がもちゃもちゃしましたのです。 アッハッハ。 それはどなたもそう仰います。 時に今日は野原で何かいいものをお見付けですか。 ええ火山弾を見附けました。 ごく不完全です。 一寸拝見。 実にいい標本です。 いかがです。 一つ学校へご寄附を願えませんでしょうか。 ええよろしゅうございます。 ではさよなら。 これで失礼|致します。 おまえはうずのしゅげはすきかいきらいかい。 大すきです。 誰だってあの人をきらいなものはありません。 けれどもあの花はまっ黒だよ。 いいえ黒く見えるときもそれはあります。 けれどもまるで燃えあがってまっ赤な時もあります。 はてなお前たちの眼にはそんなぐあいに見えるのかい。 いいえお日さまの光の降る時なら誰にだってまっ赤に見えるだろうと思います。 そうそう。 もうわかったよ。 お前たちはいつでも花をすかして見るのだから。 そしてあの葉や茎だって立派でしょう。 やわらかな銀の糸が植えてあるようでしょう。 私たちの仲間では誰かが病気にかかったときはあの糸をほんのすこうしもらって来てしずかにからだをさすってやります。 そうかい。 それで結局お前たちはうずのしゅげは大すきなんだろう。 そうです。 よろしい。 さよなら。 気をつけておいで。 ねえ雲がまたお日さんにかかるよ。 そら向こうの畑がもう陰になった。 走って来る早いねえもうから松も暗くなった。 もう越えた。 来た来た。 おおくらい。 急にあたりが青くしんとなった。 うんだけどもう雲が半分お日さんの下をくぐってしまったよ。 すぐ明るくなるんだよ。 もう出る。 そらああ明るくなった。 だめだい。 また来るよそらねもう向こうのポプラの木が黒くなったろう。 うん。 まるでまわり燈籠のようだねえ。 おいごらん。 山の雪の上でも雲のかげがすべってるよ。 あすこ。 そら。 ここよりも動きようがおそいねえ。 もうおりて来る。 ああこんどは早い早いまるで落ちて来るようだ。 もうふもとまで来ちゃった。 おやどこへ行ったんだろう見えなくなってしまった。 不思議だねえ雲なんてどこから出て来るんだろう。 ねえ西のそらは青じろくて光ってよく晴れてるだろう。 そして風がどんどん空を吹いてるだろう。 それだのにいつまでたっても雲がなくならないじゃないか。 いいやあすこから雲が湧いて来るんだよ。 そらあすこに小さな小さな雲きれが出たろう。 きっと大きくなるよ。 ああほんとうにそうだね大きくなったねえ。 もう兎ぐらいある。 どんどんかけて来る。 早い早い大きくなった白熊のようだ。 またお日さんへかかる。 暗くなるぜ奇麗だねえ。 ああ奇麗。 雲のへりがまるで虹で飾ったようだ。 今日は風があっていけませんね。 おやひばりさんいらっしゃい。 今日なんか高いとこは風が強いでしょうね。 ええひどい風ですよ。 大きく口をあくと風が僕のからだをまるで麦酒瓶のようにボウと鳴らして行くくらいですからね。 わめくも歌うも容易のこっちゃありませんよ。 そうでしょうね。 だけどここから見ているとほんとうに風はおもしろそうですよ。 僕たちも一ぺん飛んでみたいなあ。 飛べるどこじゃない。 もう二か月お待ちなさい。 いやでも飛ばなくちゃなりません。 今日は。 いいお天気です。 どうです。 もう飛ぶばかりでしょう。 ええもう僕たち遠いとこへ行きますよ。 どの風が僕たちを連れて行くかさっきから見ているんです。 どうです。 飛んで行くのはいやですか。 なんともありません。 僕たちの仕事はもう済んだんです。 こわかありませんか。 いいえ飛んだってどこへ行ったって野はらはお日さんのひかりでいっぱいですよ。 僕たちばらばらになろうたってどこかのたまり水の上に落ちようたってお日さんちゃんと見ていらっしゃるんですよ。 そうですそうです。 なんにもこわいことはありません。 僕だってもういつまでこの野原にいるかわかりません。 もし来年もいるようだったら来年は僕はここへ巣をつくりますよ。 ええありがとう。 ああ僕まるで息がせいせいする。 きっと今度の風だ。 ひばりさんさよなら。 僕もひばりさんさよなら。 じゃさよならお大事においでなさい。 さよならひばりさんさよならみなさん。 お日さんありがとうございました。 ああだめだ。 あんまりせわしく砂がわたしの歯にあたる。 どうだい此処は面白いかい。 面白いねえ。 ずうっとこっちに居たらどうだい。 居てもいいよ。 そうか。 それではそうしよう。 そういうことにしようじゃないか。 おいお前は時計は要らないか。 ぼくは時計は要らないよ。 まあ持って見ろいいもんだ。 なかなかいいね。 鎖もなくちゃだめだろう。 うんなかなか鎖はいいね。 靴をはいたらどうだろう。 ぼくは靴などはかないよ。 まあはいてみろいいもんだ。 なかなかいいね。 靴に飾りをつけなくちゃ。 うんなかなかいいね。 済まないが税金も高いから今日はすこうし川から水を汲んでくれ。 ああぼく水を汲んで来よう。 もう何ばいでも汲んでやるよ。 ああ稼ぐのは愉快だねえさっぱりするねえ。 済まないが税金がまたあがる。 今日は少うし森からたきぎを運んでくれ。 ああぼくたきぎを持って来よう。 いい天気だねえ。 ぼくはぜんたい森へ行くのは大すきなんだ。 ああせいせいした。 サンタマリア。 済まないが税金が五倍になった今日は少うし鍛冶場へ行って炭火を吹いてくれないか。 ああ吹いてやろう。 本気でやったらぼくもう息で石もなげとばせるよ。 ああつかれたなうれしいなサンタマリア。 苦しいです。 サンタマリア。 もうさようならサンタマリア。 おや何だって。 さよならだ。 ええさよならです。 サンタマリア。 何だいなりばかり大きくてからっきし意気地のないやつだなあ。 仲間へ手紙を書いたらいいや。 お筆も紙もありませんよう。 そらこれでしょう。 ぼくはずいぶん眼にあっている。 みんなで出て来て助けてくれ。 ぼくはずいぶん眼にあっている。 みんなで出てきて助けてくれ。 オツベルをやっつけよう。 おうでかけよう。 グララアガアグララアガア。 旦那あ象です。 押し寄せやした。 旦那あ象です。 おい象のやつは小屋にいるのか。 居る。 居る。 居るのか。 よし戸をしめろ。 戸をしめるんだよ。 早く象小屋の戸をしめるんだ。 ようし早く丸太を持って来い。 とじこめちまえ畜生めじたばたしやがるな丸太をそこへしばりつけろ。 何ができるもんか。 わざと力を減らしてあるんだ。 ようしもう五六本持って来い。 さあ大丈夫だ。 大丈夫だとも。 あわてるなったら。 おいみんなこんどは門だ。 門をしめろ。 かんぬきをかえ。 つっぱり。 つっぱり。 そうだ。 おいみんな心配するなったら。 しっかりしろよ。 今助けるから安心しろよ。 ありがとう。 よく来てくれてほんとに僕はうれしいよ。 なかなかこいつはうるさいねえ。 ぱちぱち顔へあたるんだ。 牢はどこだ。 まあよかったねやせたねえ。 ああありがとう。 ほんとにぼくは助かったよ。 ふんいいにおいだなあ。 うまいぞうまいぞ鈴蘭なんかまるでパリパリだ。 まるで僕は川の波の上で芸当をしているようだぞ。 この川を向こうへ跳び越えてやろうかな。 なあに訳ないさ。 けれども川の向こう側はどうも草が悪いからね。 ブルルルピイピイピイピイブルルルピイピイピイピイ。 大丈夫さ大丈夫さ。 おやどうかしたのかい。 たいへん顔色が悪いよ。 おっかさん僕ねもじゃもじゃの鳥の子のおぼれるのを助けたんです。 もじゃもじゃの鳥の子ってひばりかい。 たぶんひばりでしょう。 ああ頭がぐるぐるする。 おっかさんまわりが変に見えるよ。 ホモイさま。 あなたさまは私ども親子の大恩人でございます。 あなた方は先頃のひばりさんですか。 さようでございます。 先日はまことにありがとうございました。 せがれの命をお助けくださいましてまことにありがとう存じます。 あなた様はそのためにご病気にさえおなりになったとの事でございましたがもうおよろしゅうございますか。 私どもは毎日この辺を飛びめぐりましてあなたさまの外へお出なさいますのをお待ちいたしておりました。 これは私どもの王からの贈物でございます。 これは貝の火という宝珠でございます。 王さまのお言伝ではあなた様のお手入れしだいでこの珠はどんなにでも立派になると申します。 どうかお納めをねがいます。 ひばりさん僕はこんなものいりませんよ。 持って行ってください。 たいへんきれいなもんですから見るだけでたくさんです。 見たくなったらまたあなたの所へ行きましょう。 いいえ。 それはどうかお納めをねがいます。 私どもの王からの贈物でございますから。 お納めくださらないとまた私はせがれと二人で切腹をしないとなりません。 させがれ。 お暇をして。 さ。 おじぎ。 ご免くださいませ。 これは有名な貝の火という宝物だ。 これは大変な玉だぞ。 これをこのまま一生|満足に持っている事のできたものは今までに鳥に二人魚に一人あっただけだという話だ。 お前はよく気をつけて光をなくさないようにするんだぞ。 それは大丈夫ですよ。 僕は決してなくしませんよ。 そんなようなことはひばりも言っていました。 僕は毎日百|遍ずつ息をふきかけて百|遍ずつ紅雀の毛でみがいてやりましょう。 この玉はたいへん損じやすいという事です。 けれどもまた亡くなった鷲の大臣が持っていた時は大噴火があって大臣が鳥の避難のためにあちこちさしずをして歩いている間にこの玉が山ほどある石に打たれたりまっかな熔岩に流されたりしてもいっこうきずも曇りもつかないでかえって前よりも美しくなったという話ですよ。 そうだ。 それは名高いはなしだ。 お前もきっと鷲の大臣のような名高い人になるだろう。 よくいじわるなんかしないように気をつけないといけないぞ。 大丈夫だよ。 僕なんかきっと立派にやるよ。 玉は僕持って寝るんだからください。 ホウ。 やってるぞやってるぞ。 見える見える。 あそこが噴火口だ。 そら火をふいた。 ふいたぞ。 おもしろいな。 まるで花火だ。 おやおやおや火がもくもく湧いている。 二つにわかれた。 奇麗だな。 火花だ。 火花だ。 まるでいなずまだ。 そら流れ出したぞ。 すっかり黄金色になってしまった。 うまいぞうまいぞ。 そらまた火をふいた。 さあ早くおかおを洗って今日は少し運動をするんですよ。 どれちょっとお見せ。 まあ本当に奇麗だね。 お前がおかおを洗っている間おっかさんが見ていてもいいかい。 いいとも。 これはうちの宝物なんだからおっかさんのだよ。 カンカンカンカエコカンコカンコカン。 あなたはホモイさまでござりますか。 こんど貝の火がお前さまに参られましたそうで実に祝着に存じまする。 あの玉がこの前|獣の方に参りましてからもう千二百年たっていると申しまする。 いや実に私めも今朝そのおはなしを承わりまして涙を流してござります。 あなた様は私どもの恩人でございます。 どうかくれぐれもおからだを大事になされてくだされませ。 りすさん。 お早う。 りすさん。 今日もいっしょにどこか遊びに行きませんか。 おっかさん。 なんだかみんな変なぐあいですよ。 りすさんなんかもう僕を仲間はずれにしましたよ。 それはそうですよ。 お前はもう立派な人になったんだからりすなんか恥ずかしいのです。 ですからよく気をつけてあとで笑われないようにするんですよ。 おっかさん。 それは大丈夫ですよ。 それなら僕はもう大将になったんですか。 まあそうです。 うまいぞ。 うまいぞ。 もうみんな僕のてしたなんだ。 狐なんかもうこわくもなんともないや。 おっかさん。 僕ねりすさんを少将にするよ。 馬はね馬は大佐にしてやろうと思うんです。 そうだねけれどもあんまりいばるんじゃありませんよ。 大丈夫ですよ。 おっかさん僕ちょっと外へ行って来ます。 待て。 狐。 僕は大将だぞ。 へい。 存じております。 へいへい。 何かご用でございますか。 お前はずいぶん僕をいじめたな。 今度は僕のけらいだぞ。 へいお申し訳もございません。 どうかお赦しをねがいます。 特別に許してやろう。 お前を少尉にする。 よく働いてくれ。 へいへい。 ありがとう存じます。 どんな事でもいたします。 少しとうもろこしを盗んで参りましょうか。 いやそれは悪いことだ。 そんなことをしてはならん。 へいへい。 これからは決していたしません。 なんでもおいいつけを待っていたします。 そうだ。 用があったら呼ぶからあっちへ行っておいで。 ふん大将が鈴蘭の実を集めるなんておかしいや。 誰かに見つけられたらきっと笑われるばかりだ。 狐が来るといいがなあ。 むぐらむぐらむぐらもちお前は僕の偉くなったことを知ってるかい。 ホモイさんでいらっしゃいますか。 よく存じております。 そうか。 そんならいいがね。 僕お前を軍曹にするよ。 そのかわり少し働いてくれないかい。 へいどんなことでございますか。 鈴蘭の実を集めておくれ。 さあまことに恐れ入りますが私は明るい所の仕事はいっこう無調法でございます。 そうかい。 そんならいいよ。 頼まないから。 あとで見ておいで。 ひどいよ。 どうかご免をねがいます。 私は長くお日様を見ますと死んでしまいますので。 いいよ。 もういいよ。 だまっておいで。 ホモイさまどうか私どもに鈴蘭の実をお採らせくださいませ。 いいとも。 さあやってくれ。 お前たちはみんな僕の少将だよ。 ホモイ様。 私どもにも何かおいいつけをねがいます。 いいとも。 お前たちはみんな僕の大佐にする。 僕が呼んだらきっとかけて来ておくれ。 ホモイさまどうか私にもできるようなことをおいいつけください。 きっと立派にいたしますから。 お前なんかいらないよ。 今に狐が来たらお前たちの仲間をみんなひどい目にあわしてやるよ。 見ておいで。 おやどうしたのりすさん。 おっかさん。 僕の腕まえをごらん。 まだまだ僕はどんな事でもできるんですよ。 ホモイお前は少し熱がありはしないか。 むぐらをたいへんおどしたそうだな。 むぐらの家ではもうみんなきちがいのようになって泣いてるよ。 それにこんなにたくさんの実を全体誰がたべるのだ。 お前はもうだめだ。 貝の火を見てごらん。 きっと曇ってしまっているから。 ホモイさん。 昨日りすに鈴蘭の実を集めさせたそうですね。 どうです。 今日は私がいいものを見つけて来てあげましょう。 それは黄色でねもくもくしてね失敬ですがホモイさんあなたなんかまだ見たこともないやつですぜ。 それから昨日むぐらに罰をかけるとおっしゃったそうですね。 あいつは元来横着だから川の中へでも追いこんでやりましょう。 むぐらは許しておやりよ。 僕もう今朝許したよ。 けれどそのおいしいたべものは少しばかり持って来てごらん。 合点合点。 十分間だけお待ちなさい。 十分間ですぜ。 むぐらむぐらむぐらもち。 もうお前は許してあげるよ。 泣かなくてもいいよ。 さあおあがりなさい。 これは天国の天ぷらというもんですぜ。 最上等のところです。 こんなものどの木にできるのだい。 ヘン。 台所という木ですよ。 ダアイドコロという木ね。 おいしかったら毎日|持って来てあげましょう。 それでは毎日きっと三つずつ持って来ておくれ。 ね。 へい。 よろしゅうございます。 そのかわり私の鶏をとるのをあなたがとめてはいけませんよ。 いいとも。 それでは今日の分もう二つ持って来ましょう。 さよなら。 狐はいったい毎日何をしているんだろう。 お父さん。 いいものを持った来ましたよ。 あげましょうか。 まあちょっとたべてごらんなさい。 お前はこんなものを狐にもらったな。 これは盗んで来たもんだ。 こんなものをおれは食べない。 ホモイお前はもう駄目だ。 玉を見てごらん。 もうきっと砕けているから。 ホモイさん。 何かおもしろいことをしようじゃありませんか。 どんなこと。 むぐらを罰にするのはどうです。 あいつは実にこの野原の毒むしですぜ。 そしてなまけものですぜ。 あなたが一|遍許すって言ったのなら今日は私だけでひとつむぐらをいじめますからあなたはだまって見ておいでなさい。 いいでしょう。 うん毒むしなら少しいじめてもよかろう。 さあ走れ走らないと噛み殺すぞ。 ごめんください。 ごめんください。 シッシッ。 こらっ何をする。 ホモイ。 お前はもう駄目だぞ。 今日こそ貝の火は砕けたぞ。 出して見ろ。 ホモイ。 狐には気をつけないといけないぞ。 お父さん大丈夫ですよ。 狐なんかなんでもありませんよ。 僕には貝の火があるのですもの。 あの玉が砕けたり曇ったりするもんですか。 本当にねいい宝石だね。 お母さん。 僕はねうまれつきあの貝の火と離れないようになってるんですよ。 たとえ僕がどんな事をしたってあの貝の火がどこかへ飛んで行くなんてそんな事があるもんですか。 それに僕毎日百ずつ息をかけてみがくんですもの。 実際そうだといいがな。 カンカンカンカエコカンコカンコカン。 狐。 お早う。 いや昨日はびっくりしましたぜ。 ホモイさんのお父さんもずいぶんがんこですな。 しかしどうです。 すぐご機嫌が直ったでしょう。 今日は一つうんとおもしろいことをやりましょう。 動物園をあなたはきらいですか。 うん。 きらいではない。 そらこいつをかけておくととんぼでも蜂でも雀でもかけすでももっと大きなやつでもひっかかりますぜ。 それを集めて一つ動物園をやろうじゃありませんか。 やろう。 けれども大丈夫その網でとれるかい。 大丈夫ですとも。 あなたは早くパンを置いておいでなさい。 そのうちに私はもう百ぐらいは集めておきますから。 ははははご覧なさい。 もう四|疋つかまりましたよ。 ホモイさん。 どうかあなたのお力で助けてやってください。 私らは狐につかまったのです。 あしたはきっと食われます。 お願いでございます。 ホモイさん。 ホモイ。 気をつけろ。 その箱に手でもかけてみろ。 食い殺すぞ。 泥棒め。 ホモイ。 貝の火が曇ったのか。 たいへんお前の顔色が悪いよ。 どれお見せ。 なあにすぐ除れるよ。 黄色の火なんかかえって今までよりよけい燃えているくらいだ。 どれ紅雀の毛を少しおくれ。 まあご飯を食べよう。 今夜|一晩油に漬けておいてみろ。 それがいちばんいいという話だ。 まあご飯のしたくを忘れていた。 なんにもこさえてない。 一昨日のすずらんの実と今朝の角パンだけをたべましょうか。 うんそれでいいさ。 どれ油を出してやるかな。 ホモイ。 お前は馬鹿だぞ。 俺も馬鹿だった。 お前はひばりの子供の命を助けてあの玉をもらったのじゃないか。 それをお前は一昨日なんか生まれつきだなんて言っていた。 さあ野原へ行こう。 狐がまだ網を張っているかもしれない。 お前はいのちがけで狐とたたかうんだぞ。 もちろんおれも手伝う。 狐。 お前はよくもホモイをだましたな。 さあ決闘をしろ。 へん。 貴様ら三|疋ばかり食い殺してやってもいいが俺もけがでもするとつまらないや。 おれはもっといい食べものがあるんだ。 待てこら。 ありがとうございます。 ほんとうにたびたびおかげ様でございます。 どういたしまして私どもは面目次第もございません。 あなた方の王さまからいただいた玉をとうとう曇らしてしまったのです。 まあどうしたのでしょう。 どうかちょっと拝見いたしたいものです。 さあどうぞ。 オホンオホン。 もうこんなぐあいです。 どうかたくさん笑ってやってください。 たった六日だったな。 ホッホたった六日だったな。 ホッホ。 泣くな。 こんなことはどこにもあるのだ。 それをよくわかったお前はいちばんさいわいなのだ。 目はきっとまたよくなる。 お父さんがよくしてやるから。 な。 泣くな。 カンカンカンカエコカンコカンコカン。 舶来ウェスキイ一|杯二|厘半。 へいいらっしゃい。 みなさん。 一寸おやすみなさい。 なんですか。 舶来のウェクーというものがあるそうですね。 どんなもんですか。 ためしに一杯|呑ませて下さいませんか。 へい舶来のウェスキイですか。 一杯二厘半ですよ。 ようござんすか。 ええよござんす。 ウーイ。 これはどうもひどいもんだ。 腹がやけるようだ。 ウーイ。 おいみんなこれはきたいなもんだよ。 咽喉へはいると急に熱くなるんだ。 ああいい気分だ。 もう一杯下さいませんか。 はいはい。 こちらが一ぺんすんでからさしあげます。 こっちへも早く下さい。 はいはい。 お声の順にさしあげます。 さあこれはあなた。 いやありがとうウーイ。 ウフッウウどうもうまいもんだ。 こっちへも早く下さい。 はいこれはあなたです。 ウウイ。 おいもう一杯お呉れ。 こっちへ早くよ。 もう一杯早く。 へいへい。 どうぞお急きにならないで下さい。 折角はかったのがこぼれますから。 へいとこれはあなた。 いやありがとうウーイケホンケホンウーイうまいね。 どうも。 おいもう一杯おくれ。 も一杯お呉れったらよう。 早くよう。 さあ早くお呉れよう。 へいへい。 あなたさまはもう三百二杯目でございますがよろしゅうございますか。 いいよう。 お呉れったらお呉れよう。 へいへい。 よければさし上げます。 さあ。 ウーイうまい。 おい早くこっちへもお呉れ。 おい。 起きな。 勘定を払うんだよ。 さあ。 キーイキーイクヮアあ痛い誰だい。 ひとの頭を撲るやつは。 勘定を払いな。 あっそうそう。 勘定はいくらになっていますか。 お前のは三百四十二杯で八十五銭五厘だ。 どうだ。 払えるか。 何だい。 おまえは三銭二厘しかないのか。 呆れたやつだ。 さあどうするんだ。 警察へ届けるよ。 許して下さい。 許して下さい。 いいやいかん。 さあ払え。 ないんですよ。 許して下さい。 そのかわりあなたのけらいになりますから。 そうか。 よかろう。 それじゃお前はおれのけらいだぞ。 へい。 仕方ありません。 よしこの中にはいれ。 おいおい。 起きるんだよ。 勘定だ勘定だ。 キーイキーイクワァううい。 もう一杯お呉れ。 何をねぼけてんだよ。 起きるんだよ。 目をさますんだよ。 勘定だよ。 うういあああっ。 ううい。 何だい。 なぜひとの頭をたたくんだい。 いつまでねぼけてんだよ。 勘定を払え。 勘定を。 あっそうそう。 そうでしたね。 いくらになりますか。 お前のは六百杯で一円五十銭だよ。 どうだいそれ位あるかい。 ある位みんな出しますからどうかこれだけに負けて下さい。 うん一円二十銭もあるかい。 おやこれはたった一銭二厘じゃないか。 あんまり人をばかにするんじゃないぞ。 勘定の百分の一に負けろとはよくも云えたもんだ。 外国のことばで云えば一パーセントに負けて呉れと云うんだろう。 人を馬鹿にするなよ。 さあ払え。 早く払え。 だって無いんだもの。 なきゃおれのけらいになれ。 仕方ない。 そいじゃそうして下さい。 さあこっちへ来い。 あ痛っあ痛っ。 誰だい。 何だい。 おやじ。 よくもひとをなぐったな。 お前たちはわしの酒を呑んだ。 どの勘定も八十銭より下のはない。 ところがお前らは五銭より多く持っているやつは一人もない。 どうじゃ。 誰かあるか。 無かろう。 うん。 どうじゃ。 無かろう。 あるか。 無かろう。 そこでお前たちの仲間は前に二人お金を払うかわりにおれのけらいになるという約束をしたがお前たちはどうじゃ。 どうも仕方ない。 そうしようか。 そうお願いしよう。 どうかそうお願いいたします。 いいか。 この団体はカイロ団ということにしよう。 わしはカイロ団長じゃ。 あしたからはみんなおれの命令にしたがうんだぞ。 いいか。 仕方ありません。 さっぱり誰も仕事を頼みに来んな。 どうもこう仕事がなくちゃお前たちを養っておいても仕方ない。 俺もとうとう飛んだことになったよ。 それにつけても仕事のない時にいそがしい時の仕度をして置くことが最必要だ。 つまりその仕事の材料をこんな時に集めて置かないといかんな。 ついてはまず第一が木だがな。 今日はみんな出て行って立派な木を十本だけ十本じゃすくないええと百本百本でもすくないな千本だけ集めて来い。 もし千本集まらなかったらすぐ警察へ訴えるぞ。 貴様らはみんな死刑になるぞ。 その太い首をスポンと切られるぞ。 首が太いからスポンとはいかないシュッポォンと切られるぞ。 あまがえるさん。 昨日はどうもありがとう。 一体どうしたのですか。 今日は木を千本とのさまがえるに持っていかないといけないのです。 まだ九本しか見つかりません。 ケッケッケッケ。 千本持って来いというのなら千本持って行ったらいいじゃありませんか。 そらそこにあるそのけむりのようなかびの木などは一つかみ五百本にもなるじゃありませんか。 ふんふん。 よしよし。 さあみんな舶来ウィスキーを一杯ずつ飲んでやすむんだよ。 おいみんな。 集れ。 今日もどこからも仕事をたのみに来ない。 いいか今日はなあちこち花畑へ出て行って花の種をひろって来るんだ。 一人が百つぶずついや百つぶではすくない。 千つぶずついや千つぶもこんな日の長い時にあんまり少い。 万|粒ずつがいいかな。 万粒ずつひろって来い。 いいかもし来なかったらすぐお前らを巡査に渡すぞ。 巡査は首をシュッポンと切るぞ。 おいビチュコ。 一万つぶひろえそうかい。 いそがないとだめそうだよまだ三百つぶにしかならないんだもの。 さっき団長が百粒ってはじめに云ったねい。 百つぶならよかったねい。 うん。 その次に千つぶって云ったねい。 千つぶでもよかったねい。 ほんとうにねい。 おいらお酒をなぜあんなにのんだろうなあ。 おいらもそいつを考えているんだよ。 どうも一ぱい目と二杯目二杯目と三杯目みんな順ぐりに糸か何かついていたよ。 三百五十杯つながって居たとおいら今考えてるんだ。 全くだよ。 おっと急がないと大へんだ。 そうそう。 うん。 よし。 さあみんな舶来ウェスキーを一杯ずつのんで寝るんだよ。 とにかく大いに盛んにやらないといかんね。 そうでないと笑いものになってしまうだけだ。 全くだよ。 どうだろう一人前九十円ずつということにしたら。 うん。 それ位ならまあよかろうかな。 よかろうよ。 おやみんな起きたね今日は何の仕事をさせようかな。 どうも毎日仕事がなくて困るんだよ。 うん。 それは大いに同情するね。 今日は石を運ばせてやろうか。 おい。 みんな今日は石を一人で九十|匁ずつ運んで来い。 いや九十匁じゃあまり少いかな。 うん。 九百貫という方が口調がいいね。 そうだそうだ。 どれだけいいか知れないね。 おいみんな。 今日は石を一人につき九百貫ずつ運んで来い。 もし来なかったら早速警察へ貴様らを引き渡すぞ。 ここには裁判の方のお方もお出でになるのだ。 首をシュッポオンと切ってしまう位実にわけないはなしだ。 何だ。 のろまども。 今までかかってたったこれだけしか運ばないのか。 何という貴様らは意気地なしだ。 おれなどは石の九百貫やそこら三十分で運んで見せるぞ。 とても私らにはできません。 私らはもう死にそうなんです。 えい意気地なしめ。 早く運べ。 晩までに出来なかったらみんな警察へやってしまうぞ。 警察ではシュッポンと首を切るぞ。 ばかめ。 どうか早く警察へやって下さい。 シュッポンシュッポンと聞いていると何だか面白いような気がします。 えい馬鹿者め意気地なしめ。 えいガーアアアアアアアアア。 ガーアアアアアアア。 そらあたらしいご命令だ。 王さまの新らしいご命令。 王さまの新らしいご命令。 一個条。 ひとに物を云いつける方法。 ひとに物を云いつける方法。 第一ひとにものを云いつけるときはそのいいつけられるものの目方で自分のからだの目方を割って答を見つける。 第二云いつける仕事にその答をかける。 第三その仕事を一ぺん自分で二日間やって見る。 以上。 その通りやらないものは鳥の国へ引き渡す。 九千貫だよ。 おい。 みんな。 団長さん。 さあこれから晩までに四千五百貫目石をひっぱって下さい。 さあ王様の命令です。 引っぱって下さい。 さあこれを晩までに四千五百運べばいいのです。 ヨウイトヨウイトヨウイトヨウイトショ。 ヨウイトヨウイトヨウイトヨウイトショ。 王様の新らしいご命令。 王様の新らしいご命令。 すべてあらゆるいきものはみんな気のいいかあいそうなものである。 けっして憎んではならん。 以上。 王様の新らしいご命令。 ああみなさん私がわるかったのです。 私はもうあなた方の団長でもなんでもありません。 私はやっぱりただの蛙です。 あしたから仕立屋をやります。 おい。 ベッコ。 そこん処をも少しよくならして呉れ。 いいともさ。 おいおい。 ここへ植えるのはすずめのかたびらじゃないすずめのてっぽうだよ。 そうそう。 どっちもすずめなもんだからつい間違えてね。 ハッハッハ。 よう。 ビチュコ。 おい。 ビチュコそこの穴うめて呉れ。 いいかい。 そら投げるよ。 ようし来た。 ああしまった。 さあひっぱって呉れ。 よいしょ。 どうも実に立派だね。 だんだんペネタ形になるね。 うん。 うすい金色だね。 永遠の生命を思わせるね。 実に僕たちの理想だね。 この頃ヘロンの方ではゴム靴がはやるね。 うん。 よくみんなはいてるようだね。 僕たちもほしいもんだな。 全くほしいよ。 あいつをはいてなら栗のいがでも何でもこわくないぜ。 ほしいもんだなあ。 手に入れる工夫はないだろうか。 ないわけでもないだろう。 ただ僕たちのはヘロンのとは大きさも型も大分ちがうから拵え直さないと駄目だな。 うん。 それはそうさ。 さよならね。 ギッギッ。 野鼠さん野鼠さん。 もうしもうし。 ツン。 野鼠さん。 今晩は。 一つお前さんに頼みがあるんだがきいて呉れないかね。 いやそれはきいてあげよう。 去年の秋僕が蕎麦団子を食べてチブスになってひどいわずらいをしたときにあれほど親身の介抱を受けながらその恩を何でわすれてしまうもんかね。 そうか。 そんなら一つお前さんゴム靴を一足工夫して呉れないか。 形はどうでもいいんだよ。 僕がこしらえ直すから。 ああいいとも。 明日の晩までにはきっと持って来てあげよう。 そうか。 それはどうもありがとう。 ではお願いするよ。 さよならね。 野鼠さん。 野鼠さん。 もうし。 もうし。 そらカン蛙さん。 取ってお呉れ。 ひどい難儀をしたよ。 大へんな手数をしたよ。 命がけで心配したよ。 僕はお前のご恩はこれで払ったよ。 少し払い過ぎた位かしらん。 カン君カン君もう雲見の時間だよ。 おいおい。 カン君。 や君はもうゴム靴をはいてるね。 どこから出したんだ。 いやこれはひどい難儀をして大へんな手数をしてそれから命がけほど頭を痛くして取って来たんだ。 君たちにはとても持てまいよ。 歩いて見せようか。 そらいい工合だろう。 僕がこいつをはいてすっすっと歩いたらまるで芝居のようだろう。 まるでカーイのようだろうイーのようだろう。 うん実にいいね。 僕たちもほしいよ。 けれど仕方ないなあ。 仕方ないよ。 ルラさん今晩は。 何のご用ですか。 お父さんがおむこさんを探して来いって。 僕なんかはどうかなあ。 あるいは僕なんかもいいかもしれないな。 あらあたしもうきめたわ。 誰にさ。 あの方だわ。 おいカン君お嬢さんがきみにきめたとさ。 何をさ。 お嬢さんがおまえさんを連れて行くとさ。 お嬢さん今晩は僕に何か用があるんですか。 なるほどそうですか。 よろしい。 承知しました。 それで日はいつにしましょう。 式の日は。 八月二日がいいわ。 それがいいです。 そんならあたしうちへ帰ってみんなにそう云うわ。 ええ。 さよなら。 さよならね。 今日は僕はどうしてもみんなの所を歩いて明後日の式に招待して来ないといけないな。 今日は今日は。 どなたですか。 ああ君か。 はいり給え。 うんどうもひどい雨だね。 パッセン大街道も今日はいきものの影さえないぞ。 そうか。 ずいぶんひどい雨だ。 ところで君も知ってる通り明後日は僕の結婚式なんだ。 どうか来て呉れ給え。 うん。 そうそう。 そう云えばあの時あのちっぽけな赤い虫が何かそんなこと云ってたようだったね。 行こう。 ありがとう。 どうか頼むよ。 それではさよならね。 さよならね。 今日は今日は。 どなたですか。 ああ君か。 はいれ。 ありがとう。 どうもひどい雨だ。 パッセン大街道も今日はしんとしてるよ。 そうか。 ずいぶんひどいね。 ところで君も知ってるだろうが明後日僕の結婚式なんだ。 どうか来て呉れ給え。 ああそんなことどこかで聞いたっけねい。 行こう。 どうか。 ではさよならね。 さよならね。 今日は今日は。 はい。 やあ君か。 はいれ。 カンが来たろう。 うん。 いまいましいね。 全くだ。 畜生。 何とかひどい目にあわしてやりたいね。 僕がうまいこと考えたよ。 明日の朝ね雨がはれたら結婚式の前に一寸散歩しようと云ってあいつを引っぱり出してあそこの萱の刈跡をあるくんだよ。 僕らも少しは痛いだろうがまあ我慢してさ。 するとあいつのゴム靴がめちゃめちゃになるだろう。 うん。 それはいいね。 しかし僕はまだそれ位じゃ腹が癒えないよ。 結婚式がすんだらあいつらを引っぱり出してあの畑の麦をほした杭の穴に落してやりたいね。 上に何か木の葉でもかぶせて置こう。 それは僕がやって置くよ。 面白いよ。 それもいいね。 じゃ雨がはれたらね。 うん。 ではさよならね。 さよならね。 やあ今日はおめでとう。 お招き通りやって来たよ。 うんありがとう。 ところで式まで大分時間があるだろう。 少し歩こうか。 散歩すると血色がよくなるぜ。 そうだ。 では行こう。 三人で手をつないでこうね。 どうも雨あがりの空気は実にうまいね。 うん。 さっぱりして気持ちがいいね。 ああいい景色だ。 ここを通って行こう。 おい。 ここはよそうよ。 もう帰ろうよ。 いいや折角来たんだもの。 も少し行こう。 そら歩きたまえ。 おい。 よそうよ。 よして呉れよ。 ここは歩けないよ。 あぶないよ。 帰ろうよ。 「実にいい景色だねえ。 も少し急いで行こうか。 と二疋が両方からまだ破けないカン蛙のゴム靴を見ながら一緒に云いました。 「おい。 よそうよ。 冗談じゃない。 よそう。 あ痛っ。 あぁあとうとう穴があいちゃった。 どうだ。 この空気のうまいこと。 おい。 帰ろうよ。 ひっぱらないで呉れよ。 実にいい景色だねえ。 放して呉れ。 放して呉れ。 放せったら。 畜生。 おや君は何かに足をかじられたんだね。 そんなにもがかなくてもいいよ。 しっかり押えてやるから。 放せ放せ放せったら畜生。 まだかじってるかい。 そいつは大変だ。 早く逃げ給え。 走ろう。 さあ。 そら。 痛いよ。 放せったら放せ。 えい畜生。 早く早く。 そらもう大丈夫だ。 おや。 君の靴がぼろぼろだね。 どうしたんだろう。 君あんまり力を落さない方がいいよ。 靴なんかもうあったってないったってお嫁さんは来るんだから。 もう時間だろう。 帰ろう。 帰って待ってようか。 ね。 君。 こりゃむすめむこどのはあの三人の中のどれじゃ。 もっと向うへ行かないとよくわからないわ。 そうですとも。 間違っては大へんです。 よくおちついて。 あの方よ。 さあ新婚旅行だ。 僕たちはじきそこまで見送ろう。 ああここはみちが悪い。 おむこさん。 手を引いてあげよう。 ポトンバチャン。 おいどうしたのか。 おい。 あらお父さん三人この中へおっこっているわ。 もう死んだかもしれないわ。 占めた。 火が燃えるときは焔をつくる。 焔というものはよく見ていると奇体なものだ。 それはいつでも動いている。 動いているがやっぱり形もきまっている。 その色はずいぶんさまざまだ。 普通の焚火の焔なら橙いろをしている。 けれども木によりまたその場処によっては変に赤いこともあれば大へん黄いろなこともある。 硫黄を燃せばちょっと眼のくるっとするような紫いろの焔をあげる。 それから銅を灼くときは孔雀石のような明るい青い火をつくる。 こんなにいろはさまざまだがそれはみんなある同じ性質をもっている。 さっき云ったいつでも動いているということもそうだ。 それは火というものは軽いものでいつでも騰ろう騰ろうとしている。 それからそれは明るいものだ。 硫黄のようなお日さまの光の中ではよくわからない焔でもまっくらな処に持って行けば立派にそこらを明るくする。 火というものはいつでも照らそう照らそうとしているものだ。 それからも一つは熱いということだ。 火ならばなんでも熱いものだ。 それはいつでも乾かそう乾かそうとしている。 斯う云う工合に火には二つの性質がある。 なぜそうなのか。 それは火の性質だから仕方ない。 そう云う熱いもの乾かそうとするもの光るもの照らそうとするもの軽いもの騰ろうとするものそれを焔と呼ぶのだから仕方ない。 それからまたみんなは水をよく知っている。 水もやっぱり火のようにちゃんときまった性質がある。 それは物をつめたくする。 どんなものでも水にあってはつめたくなる。 からだをあつい湯でふいても却ってあとではすずしくなる。 夏に銅の壺に水を入れ壺の外側を水でぬらしたきれで固くつつんでおくならばきっとそれは冷えるのだ。 なんべんもきれをとりかえるとしまいにはまるで氷のようにさえなる。 このように水は物をつめたくする。 また水はものをしめらすのだ。 それから水はいつでも低い処へ下ろうとする。 鉢の中に水を入れるならまもなくそれはしずかになる。 阿耨達池やすべて葱嶺から南東の山の上の湖は多くは鏡のように青く平らだ。 なぜそう平らだかとならば水はみんな下に下ろうとしてお互い下れるとこまで落ち着くからだ。 波ができたら必ずそれがなおろうとする。 それは波のあがったとこが下ろうとするからだ。 このように水のつめたいことしめすこと下に行こうとすることは水の性質なのだ。 どうしてそうかと云うならばそれはそう云う性質のものを水と呼ぶのだから仕方ない。 それからまたみんなは小鳥を知っている。 鶯やみそさざいひわやまたかけすなどからだが小さく大へん軽い。 その飛ぶときはほんとうによく飛ぶ。 枝から枝へうつるときはその羽をひらいたのさえわからないくらい早く青ぞらを向うへ飛んで行くときは一つのふるえる点のようだ。 それほどこれらの鶯やひわなどは身軽でよく飛ぶ。 また一生けん命に啼く。 うぐいすならば春にはっきり啼く。 みそさざいならばからだをうごかすたびにもうきっと啼いているのだ。 これらの鳥のたくさん啼いている林の中へ行けばまるで雨が降っているようだ。 おまえたちはみんな知っている。 このように小さな鳥はよく飛びまたよく啼くものだ。 それはたべ物をとってしまっても啼くのをやめない。 またやすまない。 どうして疲れないかと思うほどよく飛びまたよく啼くものだ。 そんならなぜ鳥は啼くのかまた飛ぶのか。 おまえたちにはわかるだろう。 鳥はみな飛ばずにいられないで飛び啼かずに居られないで啼く。 それは生れつきなのだ。 さて斯う云うふうに火はあつく乾かし照らし騰る水はつめたくしめらせ下る鳥は飛びまたなく。 魚について獣についておまえたちはもうみんなその性質を考えることができる。 けれども一体どうだろう小鳥が啼かないでいられず魚が泳がないでいられないように人はどういうことがしないでいられないだろう。 人が何としてもそうしないでいられないことは一体どういう事だろう。 考えてごらん。 タルラ答えてごらん。 人は歩いたり物を言ったりいたします。 よろしい。 よくお前は答えた。 全く人はあるかないでいられない。 病気で永く床の上に居る人はどんなに歩きたいだろう。 ああただも一度二本の足でぴんぴん歩いてあの楽地の中の泉まで行きあの冷たい水を両手で掬って呑むことができたらそのまま死んでもかまわないと斯う思うだろう。 またお前の答えたように人は物を言わないでいられない。 考えたことをみんな言わないでいることは大へんにつらいことなのだ。 そのため病気にさえもなるのだ。 人がともだちをほしいのは自分の考えたどんなことでもかくさず話しまたかくさずに聴きたいからだ。 だまっているということは本統につらいことなのだ。 たしかに人は歩かないでいられないまた物を言わないでいられない。 けれども人にはそれよりももっと大切なものがないだろうか。 足や舌とも取りかえるほどもっと大切なものがないだろうか。 むずかしいけれども考えてごらん。 タルラも一度答えてごらん。 お前はどんなものとでもお前の足をとりかえないか。 お前はどんなものとでもお前の足をとりかえるのはいやなのか。 私は饑饉でみんなが死ぬとき若し私の足が無くなることで饑饉がやむなら足を切っても口惜しくありません。 そうだ。 おまえには歩くことよりも物を言うことよりももっとしないでいられないことがあった。 よくそれがわかった。 それでこそ私の弟子なのだ。 お前のお父さんは七年前の不作のとき祭壇に上って九日|祷りつづけられた。 お前のお父さんはみんなのためには命も惜しくなかったのだ。 ほかの人たちはどうだ。 ブランダ。 言ってごらん。 人が歩くことよりも言うことよりももっとしないでいられないのはいいことです。 そうだ。 私がそう言おうと思っていた。 すべて人は善いこと正しいことをこのむ。 善と正義とのためならば命を棄てる人も多い。 おまえたちはいままでにそう云う人たちの話を沢山きいて来た。 決してこれを忘れてはいけない。 人の正義を愛することは丁度鳥のうたわないでいられないと同じだ。 セララバアド。 お前は何か言いたいように見える。 云ってごらん。 人はほんとうのいいことが何だかを考えないでいられないと思います。 うん。 そうだ。 人はまことを求める。 真理を求める。 ほんとうの道を求めるのだ。 人が道を求めないでいられないことはちょうど鳥の飛ばないでいられないとおんなじだ。 おまえたちはよくおぼえなければいけない。 人は善を愛し道を求めないでいられない。 それが人の性質だ。 これをおまえたちは堅くおぼえてあとでも決して忘れてはいけない。 おまえたちはみなこれから人生という非常なけわしいみちをあるかなければならない。 たとえばそれは葱嶺の氷や辛度の流れや流沙の火やでいっぱいなようなものだ。 そのどこを通るときも決して今の二つを忘れてはいけない。 それはおまえたちをまもる。 それはいつもおまえたちを教える。 決して忘れてはいけない。 それではもう日中だからみんなは立ってやすみ食事をしてよろしい。 なつめの木だぞ。 なつめの木だ。 とれないかなあ。 あの木は高くてとどかない。 私どもはその実をとることができないのだ。 けれどもおまえたちは名高いヴェーッサンタラ大王のはなしを知っているだろう。 ヴェーッサンタラ大王は檀波羅蜜の行と云ってほしいと云われるものは何でもやった。 宝石でも着物でも喰べ物でもそのほか家でもけらいでも何でもみんな乞われるままに施された。 そしておしまいとうとう国の宝の白い象をもお与えなされたのだ。 けらいや人民ははじめは堪えていたけれどもついには国も亡びそうになったので大王を山へ追い申したのだ。 大王はお妃と王子王女とただ四人で山へ行かれた。 大きな林にはいったとき王子たちは林の中の高い樹の実を見てああほしいなあと云われたのだ。 そのとき大王の徳には林の樹もまた感じていた。 樹の枝はみな生物のように垂れてその美しい果実を王子たちに奉った。 これを見たものみな身の毛もよだち大地も感じて三べんふるえたと云うのだ。 いま私らはこの実をとることができない。 けれどももしヴェーッサンタラ大王のように大へんに徳のある人ならばそしてその人がひどく飢えているならば木の枝はやっぱりひとりでに垂れてくるにちがいない。 それどころでないその人は樹をちょっと見あげてよろこんだだけでもう食べたとおんなじことにもなるのだ。 ああこれは降って来る。 もうどんなに急いでもぬれないというわけにはいかない。 からだの加減の悪いものは誰々だ。 ひとりもないか。 畑のものや木には大へんいいけれどもまさか今日こんなに急に降るとは思わなかった。 私たちはもう帰らないといけない。 欝金しゃっぽのカンカラカンのカアン。 何というざまをしてあるくんだ。 まるで這うようなあんばいだ。 鼠のようだ。 どうだ弁解のことばがあるか。 赤いしゃっぽのカンカラカンのカアン。 うまいじつにうまい。 どうですすこし林のなかをあるこうじゃありませんか。 そうそうどちらもまだ挨拶を忘れていた。 ぼくからさきにやろう。 いいかいや今晩は野はらには小さく切った影法師がばら播きですねと。 ぼくのあいさつはこうだ。 わかるかい。 こんどは君だよ。 えへんえへん。 えっ今晩は。 よいお晩でございます。 えっ。 お空はこれから銀のきな粉でまぶされます。 ごめんなさい。 おい君行こう。 林へ行こう。 おれは柏の木大王のお客さまになって来ているんだ。 おもしろいものを見せてやるぞ。 よっとしょ。 どうかしたかい。 せらせらせら清作せらせらせらばあ。 へらへらへら清作へらへらへらばばあ。 もうお帰りかの。 待ってましたじゃ。 そちらは新らしい客人じゃな。 がその人はよしなされ。 前科者じゃぞ。 前科|九十八犯じゃぞ。 うそをつけ前科者だと。 おら正直だぞ。 なにを。 証拠はちゃんとあるじゃ。 また帳面にも載っとるじゃ。 貴さまの悪い斧のあとのついた九十八の足さきがいまでもこの林の中にちゃんと残っているじゃ。 あっはっは。 おかしなはなしだ。 九十八の足さきというのは九十八の切株だろう。 それがどうしたというんだ。 おれはちゃんと山主の藤助に酒を二|升買ってあるんだ。 そんならおれにはなぜ酒を買わんか。 買ういわれがない。 いやある沢山ある。 買え。 買ういわれがない。 おいおい喧嘩はよせ。 まん円い大将に笑われるぞ。 おつきさんおつきさんおっつきさんついお見外れしてすみませんあんまりおなりがちがうのでついお見外れしてすみません。 こよいあなたはときいろのむかしのきものつけなさるかしわばやしのこのよいはなつのおどりのだいさんややがてあなたはみずいろのきょうのきものをつけなさるかしわばやしのよろこびはあなたのそらにかかるまま。 うまいうまい。 よしよし。 夏のおどりの第三夜。 みんな順々にここに出て歌うんだ。 じぶんの文句でじぶんのふしで歌うんだ。 一等賞から九等賞まではぼくが大きなメタルを書いて明日枝にぶらさげてやる。 さあ来い。 へたな方の一等から九等まではあしたおれがスポンと切ってこわいとこへ連れてってやるぞ。 何を云うか。 無礼者。 何が無礼だ。 もう九本切るだけはとうに山主の藤助に酒を買ってあるんだ。 そんならおれにはなぜ買わんか。 買ういわれがない。 いやある沢山ある。 ない。 またはじまった。 まあぼくがいいようにするから歌をはじめよう。 だんだん星も出てきた。 いいかぼくがうたうよ。 賞品のうただよ。 一とうしょうは白金メタル二とうしょうはきんいろメタル三とうしょうはすいぎんメタル四とうしょうはニッケルメタル五とうしょうはとたんのメタル六とうしょうはにせがねメタル七とうしょうはなまりのメタル八とうしょうはぶりきのメタル九とうしょうはマッチのメタル十とうしょうから百とうしょうまであるやらないやらわからぬメタル。 さあ早くはじめるんだ。 早いのは点がいいよ。 おまえのうたは題はなんだ。 馬と兎です。 よしはじめ。 兎のみみはなが。 ちょっと待った。 鉛筆が折れたんだ。 ちょっと削るうち待ってくれ。 いや客人ありがとう。 林をきたなくせまいとのそのおこころざしはじつに辱けない。 いいえあとでこのけずり屑で酢をつくりますからな。 さあはじめて呉れ。 うさぎのみみはながいけどうまのみみよりながくない。 わあうまいうまい。 ああははああはは。 一とうしょう白金メタル。 ぼくのは狐のうたです。 よろしいはじめっ。 きつねこんこんきつねのこ月よにしっぽが燃えだした。 わあうまいうまい。 わっははわっはは。 第二とうしょうきんいろメタル。 こんどはぼくやります。 ぼくのは猫のうたです。 よろしいはじめっ。 やまねこにゃあごごろごろさとねこたっこごろごろ。 わあうまいうまい。 わっははわっはは。 第三とうしょう水銀メタル。 おいみんな大きいやつも出るんだよ。 どうしてそんなにぐずぐずしてるんだ。 わたしのはくるみの木のうたです。 よろしいみんなしずかにするんだ。 くるみはみどりのきんいろな風にふかれてすいすいすいくるみはみどりの天狗のおうぎ風にふかれてばらんばらんばらんくるみはみどりのきんいろな風にふかれてさんさんさん。 いいテノールだねえ。 うまいねえわあわあ。 第|四とうしょうニッケルメタル。 ぼくのはさるのこしかけです。 よしはじめ。 こざるこざるおまえのこしかけぬれてるぞ霧ぽっしゃんぽっしゃんぽっしゃんおまえのこしかけくされるぞ。 いいテノールだねえいいテノールだねえうまいねえうまいねえわあわあ。 第五とうしょうとたんのメタル。 わたしのはしゃっぽのうたです。 よろしい。 はじめ。 うこんしゃっぽのカンカラカンのカアンあかいしゃっぽのカンカラカンのカアン。 うまいうまい。 すてきだ。 わあわあ。 第六とうしょうにせがねメタル。 なんだこの歌にせものだぞ。 さっきひとのうたったのまねしたんだぞ。 だまれ無礼ものその方などの口を出すところでない。 なんだとにせものだからにせものと云ったんだ。 生意気いうとあした斧をもってきて片っぱしから伐ってしまうぞ。 なにをこしゃくな。 その方などの分際でない。 ばかを云えおれはあした山主の藤助にちゃんと二升酒を買ってくるんだ。 そんならなぜおれには買わんか。 買ういわれがない。 買え。 いわれがない。 よせよせにせものだからにせがねのメタルをやるんだ。 あんまりそう喧嘩するなよ。 さあそのつぎはどうだ。 出るんだ出るんだ。 わたしのは清作のうたです。 何だと。 まあ待ちたまえ。 君のうただって悪口ともかぎらない。 よろしい。 はじめ。 清作は一等卒の服を着て野原に行ってぶどうをたくさんとってきた。 と斯うだ。 だれかあとをつづけてくれ。 ホウホウ。 第|七とうしょうなまりのメタル。 わたしがあとをつけます。 よろしいはじめ。 清作は葡萄をみんなしぼりあげ砂糖を入れて瓶にたくさんつめこんだ。 おいだれかあとをつづけてくれ。 ホッホウホッホウホッホウ。 第八等ぶりきのメタル。 わたしがつぎをやります。 よしはじめっ。 清作が納屋にしまった葡萄酒は順序ただしくみんなはじけてなくなった。 わっはっはっはわっはっはっはホッホウホッホウホッホウ。 がやがやがや。 やかましい。 きさまらなんだってひとの酒のことなどおぼえてやがるんだ。 第|九とうしょう。 マッチのメタル。 さあ次だ次だ出るんだよ。 どしどし出るんだ。 これはいかん。 でろでろみんなでないといかん。 でろ。 こんどはメタルのうんといいやつを出すぞ。 早く出ろ。 のろづきおほんのろづきおほんおほんおほんごぎのごぎのおほんおほんおほん。 今晩は大王どのまた高貴の客人がた今晩はちょうどわれわれの方でも飛び方と握み裂き術との大試験であったのじゃがただいまやっと終わりましたじゃ。 ついてはこれから連合で大乱舞会をはじめてはどうじゃろう。 あまりにもたえなるうたのしらべがわれらのまどいのなかにまで響いて来たによってこのようにまかり出ましたのじゃ。 たえなるうたのしらべだと畜生。 よろしゅうござる。 しごく結構でござろう。 いざ早速とりはじめるといたそうか。 されば。 からすかんざえもんはくろいあたまをくうらりくらりとんびとうざえもんはあぶら一|升でとうろりとろりそのくらやみはふくろうのいさみにいさむもののふがみみずをつかむときなるぞねとりを襲うときなるぞ。 のろづきおほんおほんおほんごぎのごぎおほんおほんおほん。 どうもきみたちのうたは下等じゃ。 君子のきくべきものではない。 まあこんやはあんまり怒らないようにいたしましょう。 うたもこんどは上等のをやりますから。 みんな一しょにおどりましょう。 さあ木の方も鳥の方も用意いいか。 おつきさんおつきさんまんまるまるるるんおほしさんおほしさんぴかりぴりるるんかしわはかんかのかんからからららんふくろはのろづきおっほほほほほほん。 雨はざあざあざっざざざざざあ風はどうどうどっどどどどどうあられぱらぱらぱらぱらったたあ雨はざあざあざっざざざざざあ。 あっだめだ霧が落ちてきた。 赤いしゃっぽのカンカラカンのカアン。 おいこの町には咽喉のこわれた烏が二|疋いるんだよ。 おい。 演習はじめいおいっ出発。 大砲撃てっ。 分れっ解散。 があがあ遅くなって失敬。 今日の演習で疲れないかい。 かあおずいぶんお待ちしたわ。 いっこうつかれなくてよ。 そうか。 それは結構だ。 しかしおれはこんどしばらくおまえと別れなければなるまいよ。 あらどうしてまあ大へんだわ。 戦闘艦隊長のはなしではおれはあした山烏を追いに行くのだそうだ。 まあ山烏は強いのでしょう。 うん眼玉が出しゃばって嘴が細くてちょっと見掛けは偉そうだよ。 しかし訳ないよ。 ほんとう。 大丈夫さ。 しかしもちろん戦争のことだからどういう張合でどんなことがあるかもわからない。 そのときはおまえはねおれとの約束はすっかり消えたんだから外へ嫁ってくれ。 あらどうしましょう。 まあ大へんだわ。 あんまりひどいわあんまりひどいわ。 それではあたしあんまりひどいわかあおかあおかあおかあお。 泣くなみっともない。 そらたれか来た。 があ艦長殿点呼の時間でございます。 一同整列して居ります。 よろしい。 本艦は即刻帰隊する。 おまえは先に帰ってよろしい。 承知いたしました。 さあ泣くな。 あしたも一度列の中で会えるだろう。 丈夫でいるんだぞおいお前ももう点呼だろうすぐ帰らなくてはいかん。 手を出せ。 おれはあした戦死するのだ。 があ非常|召集があ非常召集。 突貫。 があがあがあがあがあ。 があ兵曹長。 その死骸を営舎までもって帰るように。 があ。 引き揚げっ。 かしこまりました。 けがは無いか。 誰かけがしたものは無いか。 観兵式用意っ集れい。 観兵式用意っ集れい。 報告きょうあけがたセピラの峠の上に敵艦の碇泊を認めましたので本艦隊は直ちに出動撃沈いたしました。 わが軍死者なし。 報告終りっ。 ギイギイご苦労だった。 ご苦労だった。 よくやった。 もうおまえは少佐になってもいいだろう。 おまえの部下の叙勲はおまえにまかせる。 ありがとうございます。 就ては敵の死骸を葬りたいとおもいますがお許し下さいましょうか。 よろしい。 厚く葬ってやれ。 失礼ですがあのお堂はどなたをおまつりしたのですか。 童子のです。 童子ってどう云う方ですか。 雁の童子と仰っしゃるのは。 雁の童子と仰っしゃるのはまるでこの頃あった昔ばなしのようなのです。 この地方にこのごろ降りられました天童子だというのです。 このお堂はこのごろ流沙の向う側にもあちこち建っております。 天のこどもが降りたのですか。 罪があって天から流されたのですか。 さあよくわかりませんがよくこの辺でそう申します。 多分そうでございましょう。 いかがでしょう聞かせて下さいませんか。 お急ぎでさえなかったら。 いいえ急ぎはいたしません。 私の聴いただけお話いたしましょう。 沙車に須利耶圭という人がございました。 名門ではございましたそうですがおちぶれて奥さまと二人ご自分は昔からの写経をなさり奥さまは機を織ってしずかにくらしていられました。 ある明方須利耶さまが鉄砲をもったご自分の従弟のかたとご一緒に野原を歩いていられました。 地面はごく麗わしい青い石で空がぼうっと白く見え雪もま近でございました。 須利耶さまがお従弟さまに仰っしゃるにはお前もさような慰みの殺生をもういい加減やめたらどうだと斯うでございました。 ところが従弟の方がまるですげなくやめられないとご返事です。 と須利耶さまは重ねておさとしになりました。 と従弟のかたは鉄砲を構えて走って見えなくなりました。 須利耶さまはその大きな黒い雁の列をじっと眺めて立たれました。 そのとき俄かに向うから黒い尖った弾丸が昇ってまっ先きの雁の胸を射ました。 雁は二三べん揺らぎました。 見る見るからだに火が燃え出し世にも悲しく叫びながら落ちて参ったのでございます。 弾丸がまた昇って次の雁の胸をつらぬきました。 それでもどの雁も遁げはいたしませんでした。 却って泣き叫びながらも落ちて来る雁に随いました。 第三の弾丸が昇り第四の弾丸がまた昇りました。 六発の弾丸が六|疋の雁を傷つけまして一ばんしまいの小さな一疋だけが傷つかずに残っていたのでございます。 燃え叫ぶ六疋は悶えながら空を沈みしまいの一疋は泣いて随いそれでも雁の正しい列は決して乱れはいたしません。 そのとき須利耶さまの愕ろきにはいつか雁がみな空を飛ぶ人の形に変っておりました。 赤い焔に包まれて歎き叫んで手足をもだえ落ちて参る五人それからしまいに只一人完いものは可愛らしい天の子供でございました。 そして須利耶さまはたしかにその子供に見覚えがございました。 最初のものはもはや地面に達しまする。 それは白い鬚の老人で倒れて燃えながら骨立った両手を合せ須利耶さまを拝むようにして切なく叫びますのにはもちろん須利耶さまは馳せ寄って申されました。 そのとき次々に雁が地面に落ちて来て燃えました。 大人もあれば美しい瓔珞をかけた女子もございました。 その女子はまっかな焔に燃えながら手をあのおしまいの子にのばし子供は泣いてそのまわりをはせめぐったと申しまする。 雁の老人が重ねて申しますにはと斯うでございます。 須利耶さまが申されました。 すると老人は手を擦って地面に頭を垂れたと思うともう燃えつきて影もかたちもございませんでした。 須利耶さまも従弟さまも鉄砲をもったままぼんやりと立っていられましたそうでいったい二人いっしょに夢を見たのかとも思われましたそうですがあとで従弟さまの申されますにはその鉄砲はまだ熱く弾丸は減っておりそのみんなのひざまずいた所の草はたしかに倒れておったそうでございます。 そしてもちろんそこにはその童子が立っていられましたのです。 須利耶さまはわれにかえって童子に向って云われました。 須利耶さまはごじぶんのうちへ戻られました。 途中の野原は青い石でしんとして子供は泣きながら随いて参りました。 須利耶さまは奥さまとご相談で何と名前をつけようか三四日お考えでございましたがそのうち話はもう沙車全体にひろがりみんなは子供を雁の童子と呼びましたので須利耶さまも仕方なくそう呼んでおいででございました。 沙車の春の終りには野原いちめん楊の花が光って飛びます。 遠くの氷の山からは白い何とも云えず瞳を痛くするような光が日光の中を這ってまいります。 それから果樹がちらちらゆすれひばりはそらですきとおった波をたてまする。 童子は早くも六つになられました。 春のある夕方のこと須利耶さまは雁から来たお子さまをつれて町を通って参られました。 葡萄いろの重い雲の下を影法師の蝙蝠がひらひらと飛んで過ぎました。 子供らが長い棒に紐をつけてそれを追いました。 子供らは棒を棄て手をつなぎ合って大きな環になり須利耶さま親子を囲みました。 須利耶さまは笑っておいででございました。 子供らは声を揃えていつものようにはやしまする。 と斯うでございます。 けれども一人の子供が冗談に申しまするにはみんなはどっと笑いましてそれからどう云うわけか小さな石が一つ飛んで来て童子の頬を打ちました。 須利耶さまは童子をかばってみんなに申されますのにはおまえたちは何をするんだこの子供は何か悪いことをしたか冗談にも石を投げるなんていけないぞ。 子供らが叫んでばらばら走って来て童子に詫びたり慰めたりいたしました。 或る子は前掛けの衣嚢から干した無花果を出して遣ろうといたしました。 童子は初めからお了いまでにこにこ笑っておられました。 須利耶さまもお笑いになりみんなを赦して童子を連れて其処をはなれなさいました。 そして浅黄の瑪瑙のしずかな夕もやの中でいわれました。 その時童子はお父さまにすがりながらと斯う申されたと伝えます。 また或る晩のこと童子は寝付けないでいつまでも床の上でもがきなさいました。 と仰っしゃりまする須利耶の奥さまは立って行って静かに頭を撫でておやりなさいました。 童子さまの脳はもうすっかり疲れて白い網のようになってぶるぶるゆれその中に赤い大きな三日月が浮かんだりそのへん一杯にぜんまいの芽のようなものが見えたりまた四角な変に柔らかな白いものがだんだん拡がって恐ろしい大きな箱になったりするのでございました。 母さまはその額が余り熱いといって心配なさいました。 須利耶さまは写しかけの経文に掌を合せて立ちあがられそれから童子さまを立たせて紅革の帯を結んでやり表へ連れてお出になりました。 駅のどの家ももう戸を閉めてしまって一面の星の下に棟々が黒く列びました。 その時童子はふと水の流れる音を聞かれました。 そしてしばらく考えてからとお尋ねです。 須利耶さまは沙漠の向うから昇って来た大きな青い星を眺めながらお答えなされます。 童子の脳は急にすっかり静まってそして今度は早く母さまの処にお帰りなりとうなりまする。 と申されながら須利耶さまの袂を引っ張りなさいます。 お二人は家に入り母さまが迎えなされて戸の環を嵌めておられますうちに童子はいつかご自分の床に登って着換えもせずにぐっすり眠ってしまわれました。 また次のようなことも申します。 ある日須利耶さまは童子と食卓にお座りなさいました。 食品の中に蜜で煮た二つの鮒がございました。 須利耶の奥さまは一つを須利耶さまの前に置かれ一つを童子にお与えなされました。 童子が申されました。 須利耶の奥さまは童子の箸をとって魚を小さく砕きながらと勧められます。 童子は母さまの魚を砕く間じっとその横顔を見ていられましたが俄かに胸が変な工合に迫ってきて気の毒なような悲しいような何とも堪らなくなりました。 くるっと立って鉄砲玉のように外へ走って出られました。 そしてまっ白な雲の一杯に充ちた空に向って大きな声で泣き出しました。 まあどうしたのでしょうと須利耶の奥さまが愕ろかれます。 どうしたのだろう行ってみろと須利耶さまも気づかわれます。 そこで須利耶の奥さまは戸口にお立ちになりましたら童子はもう泣きやんで笑っていられましたとそんなことも申し伝えます。 またある時須利耶さまは童子をつれて馬市の中を通られましたら一|疋の仔馬が乳を呑んでおったと申します。 黒い粗布を着た馬商人が来て仔馬を引きはなしもう一疋の仔馬に結びつけそして黙ってそれを引いて行こうと致しまする。 母親の馬はびっくりして高く鳴きました。 なれども仔馬はぐんぐん連れて行かれまする。 向うの角を曲ろうとして仔馬は急いで後肢を一方あげて腹の蠅を叩きました。 童子は母馬の茶いろな瞳をちらっと横眼で見られましたが俄かに須利耶さまにすがりついて泣き出されました。 けれども須利耶さまはお叱りなさいませんでした。 ご自分の袖で童子の頭をつつむようにして馬市を通りすぎてから河岸の青い草の上に童子を座らせて杏の実を出しておやりになりながらしずかにおたずねなさいました。 須利耶さまは何気ないふうでそんな成人のようなことを云うもんじゃないとは仰っしゃいましたが本統は少しその天の子供が恐ろしくもお思いでしたとまあそう申し伝えます。 須利耶さまは童子を十二のとき少し離れた首都のある外道の塾にお入れなさいました。 童子の母さまは一生けん命|機を織って塾料や小遣いやらを拵らえてお送りなさいました。 冬が近くて天山はもうまっ白になり桑の葉が黄いろに枯れてカサカサ落ちました頃ある日のこと童子が俄かに帰っておいでです。 母さまが窓から目敏く見付けて出て行かれました。 須利耶さまは知らないふりで写経を続けておいでです。 母さまは須利耶さまのほうに気兼ねしながら申されました。 と斯う申されます。 童子はしょんぼり庭から出られました。 それでもまた立ち停ってしまわれましたので母さまも出て行かれてもっと向うまでお連れになりました。 そこは沼地でございました。 母さまは戻ろうとしてまたと仰っしゃったのでしたが童子はやっぱり停まったまま家の方をぼんやり見ておられますので母さまも仕方なくまた振り返って蘆を一本|抜いて小さな笛をつくりそれをお持たせになりました。 童子はやっと歩き出されました。 そして遥かに冷たい縞をつくる雲のこちらに蘆がそよいでやがて童子の姿が小さく小さくなってしまわれました。 俄かに空を羽音がして雁の一列が通りました時須利耶さまは窓からそれを見て思わずどきっとなされました。 そうして冬に入りましたのでございます。 その厳しい冬が過ぎますとまず楊の芽が温和しく光り沙漠には砂糖水のような陽炎が徘徊いたしまする。 杏やすももの白い花が咲き次では木立も草地もまっ青になりもはや玉髄の雲の峯が四方の空を繞る頃となりました。 ちょうどそのころ沙車の町はずれの砂の中から古い沙車大寺のあとが掘り出されたとのことでございました。 一つの壁がまだそのままで見附けられそこには三人の天童子が描かれことにその一人はまるで生きたようだとみんなが評判しましたそうです。 或るよく晴れた日須利耶さまは都に出られ童子の師匠を訪ねて色々|礼を述べまた三巻の粗布を贈りそれから半日童子を連れて歩きたいと申されました。 お二人は雑沓の通りを過ぎて行かれました。 須利耶さまが歩きながら何気なく云われますには童子が大へんに沈んで答えられました。 須利耶さまはお笑いになりました。 とこう云う不思議なお尋ねでございます。 と須利耶さまは何の気もなくぼんやりと斯うお答えでした。 そしてお二人は町の広場を通り抜けてだんだん郊外に来られました。 沙がずうっとひろがっておりました。 その砂が一ところ深く掘られて沢山の人がその中に立ってございました。 お二人も下りて行かれたのです。 そこに古い一つの壁がありました。 色はあせてはいましたが三人の天の童子たちがかいてございました。 須利耶さまは思わずどきっとなりました。 何か大きい重いものが遠くの空からばったりかぶさったように思われましたのです。 それでも何気なく申されますには須利耶さまは童子をふりかえりました。 そしたら童子はなんだかわらったまま倒れかかっていられました。 須利耶さまは愕ろいて急いで抱き留められました。 童子はお父さんの腕の中で夢のようにつぶやかれました。 須利耶さまは急いで叫ばれました。 童子が微かに云われました。 人々が集って口々に叫びました。 童子はも一度少し唇をうごかして何かつぶやいたようでございましたが須利耶さまはもうそれをお聞きとりなさらなかったと申します。 私の知っておりますのはただこれだけでございます。 尊いお物語をありがとうございました。 まことにお互いちょっと沙漠のへりの泉でお眼にかかってただ一時を一緒に過ごしただけではございますがこれもかりそめのことではないと存じます。 ほんの通りかかりの二人の旅人とは見えますが実はお互がどんなものかもよくわからないのでございます。 いずれはもろともに善逝の示された光の道を進みかの無上菩提に至ることでございます。 それではお別れいたします。 さようなら。 お早う。 ペムペルという子はほんとうにいい子だったのにかあいそうなことをした。 お早う。 蜂雀。 ペムペルという人がどうしたっての。 ええお早うよ。 妹のネリという子もほんとうにかあいらしいいい子だったのにかあいそうだなあ。 どうしたていうの話しておくれ。 話してあげるからおまえは鞄を床におろしてその上にお座り。 ペムペルとネリは毎日お父さんやお母さんたちの働くそばで遊んでいたよ〔以下原稿一枚。 なし〕その時|僕も『さようなら。 さようなら。 』と云ってペムペルのうちのきれいな木や花の間からまっすぐにおうちにかえった。 それから勿論小麦も搗いた。 二人で小麦を粉にするときは僕はいつでも見に行った。 小麦を粉にする日ならペムペルはちぢれた髪からみじかい浅黄のチョッキから木綿のだぶだぶずぼんまで粉ですっかり白くなりながら赤いガラスの水車場でことことやっているだろう。 ネリはその粉を四百グレンぐらいずつ木綿の袋につめ込んだりつかれてぼんやり戸口によりかかりはたけをながめていたりする。 そのときぼくはネリちゃん。 あなたはむぐらはすきですかとからかったりして飛んだのだ。 それからもちろんキャベジも植えた。 二人がキャベジを穫るときは僕はいつでも見に行った。 ペムペルがキャベジの太い根を截ってそれをはたけにころがすとネリは両手でそれをもって水いろに塗られた一輪車に入れるのだ。 そして二人は車を押して黄色のガラスの納屋にキャベジを運んだのだ。 青いキャベジがころがってるのはそれはずいぶん立派だよ。 そして二人はたった二人だけずいぶんたのしくくらしていた。 おとなはそこらに居なかったの。 おとなはすこしもそこらあたりに居なかった。 なぜならペムペルとネリの兄妹の二人はたった二人だけずいぶん愉快にくらしてたから。 けれどほんとうにかあいそうだ。 ペムペルという子は全くいい子だったのにかあいそうなことをした。 ネリという子は全くかあいらしい女の子だったのにかあいそうなことをした。 ね蜂雀そのペムペルとネリちゃんとがそれから一体どうなったのどうしたって云うのね蜂雀話してお呉れ。 ね蜂雀談してお呉れ。 だめだい半分ぐらい云っておいていけないったら蜂雀ね。 談してお呉れ。 そらさっきの続きをさ。 どうして話して呉れないの。 どうしてそんなに泣いて居るの。 おなかでも痛いのかい。 朝早くから鳥のガラスの前に来てそんなにひどく泣くもんでない。 そんなに高く泣いちゃいけない。 まだ入口を開けるに一時間半も間があるのにおまえだけそっと入れてやったのだ。 それにそんなに高く泣いて表の方へ聞えたらみんな私に故障を云って来るんでないか。 そんなに泣いていけないよ。 どうしてそんなに泣いてんだ。 だって蜂雀がもう私に話さないんだもの。 ああ蜂雀が又おまえに何か話したね。 そして俄かに黙り込んだね。 そいつはいけない。 この蜂雀はよくその術をやって人をからかうんだ。 よろしい。 私が叱ってやろう。 おい。 蜂雀。 今日で何度目だと思う。 手帳へつけるよ。 つけるよ。 あんまりいけなけあ仕方ないから館長様へ申し上げてアイスランドへ送っちまうよ。 ええおい。 さあ坊ちゃん。 きっとこいつは談します。 早く涙をおふきなさい。 まるで顔中ぐじゃぐじゃだ。 そらええああすっかりさっぱりした。 お話がすんだら早く学校へ入らっしゃい。 あんまり長くなって厭きっちまうとこいつは又いろいろいやなことを云いますから。 ではようがすか。 さっきはごめんなさい。 僕すっかり疲れちまったもんですからね。 蜂雀。 僕ちっとも怒っちゃいないんだよ。 さっきの続きを話してお呉れ。 ペムペルとネリとはそれはほんとうにかあいいんだ。 二人が青ガラスのうちの中に居て窓をすっかりしめてると二人は海の底に居るように見えた。 そして二人の声は僕には聞えやしないね。 それは非常に厚いガラスなんだから。 けれども二人が一つの大きな帳面をのぞきこんで一所に同じように口をあいたり少し閉じたりしているのを見るとあれは一緒に唱歌をうたっているのだということは誰だってすぐわかるだろう。 僕はそのいろいろにうごく二人の小さな口つきをじっと見ているのを大へんすきでいつでも庭のさるすべりの木に居たよ。 ペムペルはほんとうにいい子なんだけれどかあいそうなことをした。 ネリも全くかあいらしい女の子だったのにかあいそうなことをした。 だからどうしたって云うの。 だからね二人はほんとうにおもしろくくらしていたのだからそれだけならばよかったんだ。 ところが二人ははたけにトマトを十本植えていた。 そのうち五本がポンデローザでね五本がレッドチェリイだよ。 ポンデローザにはまっ赤な大きな実がつくしレッドチェリーにはさくらんぼほどの赤い実がまるでたくさんできる。 ぼくはトマトは食べないけれどポンデローザを見ることならもうほんとうにすきなんだ。 ある年やっぱり苗が二いろあったから植えたあとでも二いろあった。 だんだんそれが大きくなって葉からはトマトの青いにおいがし茎からはこまかな黄金の粒のようなものも噴き出した。 そしてまもなく実がついた。 ところが五本のチェリーの中で一本だけは奇体に黄いろなんだろう。 そして大へん光るのだ。 ギザギザの青黒い葉の間からまばゆいくらい黄いろなトマトがのぞいているのは立派だった。 だからネリが云った。 『にいさまあのトマトどうしてあんなに光るんでしょうね。 』ペムペルは唇に指をあててしばらく考えてから答えていた。 『黄金だよ。 黄金だからあんなに光るんだ。 』『まああれ黄金なの。 』ネリがすこしびっくりしたように云った。 『立派だねえ。 』『ええ立派だわ。 』そして二人はもちろんその黄いろなトマトをとりもしなけぁ一寸さわりもしなかった。 そしたらほんとうにかあいそうなことをしたねえ。 だからどうしたって云うの。 だからね二人はこんなに楽しくくらしていたんだからそれだけならばよかったんだよ。 ところがある夕方二人が羊歯の葉に水をかけてたら遠くの遠くの野はらの方から何とも云えない奇体ないい音が風に吹き飛ばされて聞えて来るんだ。 まるでまるでいい音なんだ。 切れ切れになって飛んでは来るけれどまるですずらんやヘリオトロープのいいかおりさえするんだろうその音がだよ。 二人は如露の手をやめてしばらくだまって顔を見合せたねえそれからペムペルが云った。 『ね行って見ようよあんなにいい音がするんだもの。 』ネリは勿論もっと行きたくってたまらないんだ。 『行きましょう兄さますぐ行きましょう。 』『うんすぐ行こう。 大丈夫あぶないことないね。 』そこで二人は手をつないで果樹園を出てどんどんそっちへ走って行った。 音はよっぽど遠かった。 樺の木の生えた小山を二つ越えてもまだそれほどに近くもならず楊の生えた小流れを三つ越えてもなかなかそんなに近くはならなかった。 それでもいくらか近くはなった。 二人が二本の榧の木のアーチになった下を潜ったら不思議な音はもう切れ切れじゃなくなった。 そこで二人は元気を出して上着の袖で汗をふきふきかけて行った。 そのうち音はもっとはっきりして来たのだ。 ひょろひょろした笛の音も入っていたし大喇叭のどなり声もきこえた。 ぼくにはみんなわかって来たのだよ。 『ネリもう少しだよしっかり僕につかまっておいで。 』ネリはだまってきれで包んだ小さな卵形の頭を振って唇を噛んで走った。 二人がも一度樺の木の生えた丘をまわったときいきなり眼の前に白いほこりのぼやぼや立った大きな道が横になっているのを見た。 その右の方からさっきの音がはっきり聞え左の方からもう一団り白いほこりがこっちの方へやって来る。 ほこりの中からチラチラ馬の足が光った。 間もなくそれは近づいたのだ。 ペムペルとネリとは手をにぎり合って息をこらしてそれを見た。 もちろん僕もそれを見た。 やって来たのは七人ばかりの馬乗りなのだ。 馬は汗をかいて黒く光り鼻からふうふう息をつきしずかにだくをやっていた。 乗ってるものはみな赤シャツでてかてか光る赤革の長靴をはき帽子には鷺の毛やなにか白いひらひらするものをつけていた。 鬚をはやしたおとなも居ればいちばんしまいにはペムペル位の頬のまっかな眼のまっ黒なかあいい子も居た。 ほこりの為にお日さまはぼんやり赤くなった。 おとなはみんなペムペルとネリなどは見ない風して行ったけれどいちばんしまいのあのかあいい子はペムペルを見て一寸唇に指をあててキスを送ったんだ。 そしてみんなは通り過ぎたのだ。 みんなの行った方からあのいい音がいよいよはっきり聞えて来た。 まもなくみんなは向うの丘をまわって見えなくなったが左の方から又誰かゆっくりやって来るのだ。 それは小さな家ぐらいある白い四角の箱のようなもので人が四五人ついて来た。 だんだん近くになって見るとついて居るのはみんな黒ん坊で眼ばかりぎらぎら光らしてふんどしだけして裸足だろう。 白い四角なものを囲んで来たのだけれどその白いのは箱じゃなかった。 実は白いきれを四方にさげた日本の蚊帳のようなもんでその下からは大きな灰いろの四本の脚がゆっくりゆっくり上ったり下ったりしていたのだ。 ペムペルとネリとは黒人はほんとうに恐かったけれど又|面白かった。 四角なものも恐かったけれどめずらしかった。 そこでみんなが過ぎてから二人は顔を見合せた。 そして『ついて行こうか。 』『ええ行きましょう。 』とまるでかすれた声で云ったのだ。 そして二人はよほど遠くからついて行った。 黒人たちは時々何かわからないことを叫んだり空を見ながら跳ねたりした。 四本の脚はゆっくりゆっくり上ったり下ったりしていたし時々ふうふうという呼吸の音も聞えた。 二人はいよいよ堅く手を握ってついて行った。 そのうちお日さまは変に赤くどんよりなって西の方の山に入ってしまい残りの空は黄いろに光り草はだんだん青から黒く見えて来た。 さっきからの音がいよいよ近くなりすぐ向うの丘のかげではさっきのらしい馬のひんひん啼くのも鼻をぶるるっと鳴らすのも聞えたんだ。 四角な家の生物が脚を百ぺん上げたり下げたりしたらペムペルとネリとはびっくりして眼を擦った。 向うは大きな町なんだ。 灯が一杯についている。 それからすぐ眼の前は平らな草地になっていて大きな天幕がかけてある。 天幕は丸太で組んである。 まだ少しあかるいのに青いアセチレンや油煙を長く引くカンテラがたくさんともってその二階には奇麗な絵看板がたくさんかけてあったのだ。 その看板のうしろからさっきからのいい音が起っていたのだ。 看板の中にはさっきキスを投げた子が二|疋の馬に片っ方ずつ手をついて逆立ちしてる処もある。 さっきの馬はみなその前につながれてその他にだって十五六疋ならんでいた。 みんなオートを食べていた。 おとなや女や子供らがその草はらにたくさん集って看板を見上げていた。 看板のうしろからはさっきの音が盛んに起った。 けれどもあんまり近くで聞くとそんなにすてきな音じゃない。 ただの楽隊だったんだい。 ただその音が野原を通って行く途中だんだん音がかすれるほど花のにおいがついて行ったんだ。 白い四角な家もゆっくりゆっくり中へはいって行ってしまった。 中では何かが細い高い声でないた。 人はだんだん増えて来た。 楽隊はまるで馬鹿のように盛んにやった。 みんなは吸いこまれるように三人五人ずつ中へはいって行ったのだ。 ペムペルとネリとは息をこらしてじっとそれを見た。 『僕たちも入ってこうか。 』ペムペルが胸をどきどきさせながら云った。 『入りましょう』とネリも答えた。 けれども何だか二人とも安心にならなかったのだ。 どうもみんなが入口で何か番人に渡すらしいのだ。 ペムペルは少し近くへ寄ってじっとそれを見た。 食い付くように見ていたよ。 そしたらそれはたしかに銀か黄金かのかけらなのだ。 黄金をだせば銀のかけらを返してよこす。 そしてその人は入って行く。 だからペムペルも黄金をポケットにさがしたのだ。 『ネリお前はここに待っといで。 僕|一寸うちまで行って来るからね。 』『わたしも行くわ。 』ネリは云ったけれどもペムペルはもうかけ出したのでネリは心配そうに半分泣くようにして又看板を見ていたよ。 それから僕は心配だからネリの処に番しようかペムペルについて行こうかずいぶんしばらく考えたけれどもいくらそこらを飛んで見てもみんな看板ばかり見ていてネリをさらって行きそうな悪漢は一人も居ないんだ。 そこで安心してペムペルについて飛んで行った。 ペムペルはそれはひどく走ったよ。 四日のお月さんが西のそらにしずかにかかっていたけれどそのぼんやりした青じろい光でどんどんどんどんペムペルはかけた。 僕は追いつくのがほんとうに辛かった。 眼がぐるぐるして風がぶうぶう鳴ったんだ。 樺の木も楊の木もみんなまっ黒草もまっ黒その中をどんどんどんどんペムペルはかけた。 それからとうとうあの果樹園にはいったのだ。 ガラスのお家が月のあかりで大へんなつかしく光っていた。 ペムペルは一寸立ちどまってそれを見たけれども又走ってもうまっ黒に見えているトマトの木からあの黄いろの実のなるトマトの木から黄いろのトマトの実を四つとった。 それからまるで風のようあらしのように汗と動悸で燃えながらさっきの草場にとって返した。 僕も全く疲れていた。 ネリはちらちらこっちの方を見てばかりいた。 けれどもペムペルは『さあいいよ。 入ろう。 』とネリに云った。 ネリは悦んで飛びあがり二人は手をつないで木戸口に来たんだ。 ペムペルはだまって二つのトマトを出したんだ。 番人は『ええいらっしゃい。 』と言いながらトマトを受けとりそれから変な顔をした。 しばらくそれを見つめていた。 それから俄かに顔が歪んでどなり出した。 『何だ。 この餓鬼め。 人をばかにしやがるな。 トマト二つでこの大入の中へ汝たちを押し込んでやってたまるか。 失せやがれ畜生。 』そしてトマトを投げつけた。 あの黄のトマトをなげつけたんだ。 その一つはひどくネリの耳にあたりネリはわっと泣き出しみんなはどっと笑ったんだ。 ペムペルはすばやくネリをさらうように抱いてそこを遁げ出した。 みんなの笑い声が波のように聞えた。 まっくらな丘の間まで遁げて来たときペムペルも俄かに高く泣き出した。 ああいうかなしいことをお前はきっと知らないよ。 それから二人はだまってだまってときどきしくりあげながらひるの象について来たみちを戻った。 それからペムペルはにぎりこぶしを握りながらネリは時々|唾をのみながら樺の木の生えたまっ黒な小山を越えて二人はおうちに帰ったんだ。 ああかあいそうだよ。 ほんとうにかあいそうだ。 わかったかい。 じゃさよなら私はもうはなせない。 じいさんを呼んで来ちゃいけないよ。 さよなら。 じゃ蜂雀。 さようなら。 僕又来るよ。 けれどお前が何か云いたかったら云ってお呉れ。 さよならありがとうよ。 蜂雀ありがとうよ。 ベゴ。 ベゴ。 ベゴ。 ベゴさん。 今日は。 おなかの痛いのはなおったかい。 ありがとう。 僕はおなかが痛くなかったよ。 アァハハハハ。 アァハハハハハ。 ベゴさん。 こんちは。 ゆうべはふくろうがお前さんにとうがらしを持って来てやったかい。 いいや。 ふくろうは昨夜こっちへ来なかったようだよ。 アァハハハハ。 アァハハハハハ。 ベゴさん。 今日は。 昨日の夕方霧の中で野馬がお前さんに小便をかけたろう。 気の毒だったね。 ありがとう。 おかげでそんな目にはあわなかったよ。 アァハハハハ。 アァハハハハハ。 ベゴさん。 今日は。 今度新らしい法律が出てねまるいものやまるいようなものはみんな卵のようにパチンと割ってしまうそうだよ。 お前さんも早く逃げたらどうだい。 ありがとう。 僕はまんまる大将のお日さんと一しょにパチンと割られるよ。 アァハハハハ。 アァハハハハハ。 どうも馬鹿で手がつけられない。 ベゴさん。 おれたちはみんな稜がしっかりしているのにお前さんばかりなぜそんなにくるくるしてるだろうね。 一緒に噴火のとき落ちて来たのにね。 僕は生れてまだまっかに燃えて空をのぼるときくるくるくるくるからだがまわったからね。 ははあ僕たちは空へのぼるときものぼる位のぼって一寸とまった時もそれから落ちて来るときもいつもじっとしていたのにお前さんだけはなぜそんなにくるくるまわったろうね。 さあ僕は一向まわろうとも思わなかったがひとりでからだがまわって仕方なかったよ。 ははあ何かこわいことがあるとひとりでからだがふるえるからね。 お前さんもことによったら臆病のためかも知れないよ。 そうだ。 臆病のためだったかも知れないね。 じっさいあの時の音や光は大へんだったからね。 そうだろう。 やっぱり臆病のためだろう。 ハッハハハハッハハハハハハ。 ベゴさん。 僕とあなたがお隣りになってからもうずいぶん久しいもんですね。 ええ。 そうです。 あなたはずいぶん大きくなりましたね。 いいえ。 しかし僕なんか前はまるで小さくてあなたのことを黒い途方もない山だと思っていたんです。 はあそうでしょうね。 今はあなたはもう僕の五倍もせいが高いでしょう。 そう云えばまあそうですね。 ベゴさん。 僕はとうとう黄金のかんむりをかぶりましたよ。 おめでとう。 おみなえしさん。 あなたはいつかぶるのですか。 さあまあ私はかぶりませんね。 そうですか。 お気の毒ですね。 しかし。 いや。 はてな。 あなたももうかんむりをかぶってるではありませんか。 いやこれは苔ですよ。 そうですか。 あんまり見ばえがしませんね。 ベゴさん。 とうとうあなたもかんむりをかぶりましたよ。 つまりあなたの上の苔がみな赤ずきんをかぶりました。 おめでとう。 ありがとう。 しかしその赤頭巾は苔のかんむりでしょう。 私のではありません。 私の冠は今に野原いちめん銀色にやって来ます。 それは雪でしょう。 大へんだ。 大へんだ。 おみなえしさん。 ごめんなさい。 雪が来てあなたはいやでしょうが毎年のことで仕方もないのです。 その代り来年雪が消えたらきっとすぐ又いらっしゃい。 どうもこの野原にはむだなものが沢山あっていかんな。 たとえばこのベゴ石のようなものだ。 ベゴ石のごときは何のやくにもたたない。 むぐらのようにつちをほって空気をしんせんにするということもしない。 草っぱのように露をきらめかしてわれわれの目の病をなおすということもない。 くううん。 くううん。 ベゴ黒助ベゴ黒助黒助どんどんあめがふっても黒助どんどん日が照っても黒助どんどん。 ベゴ黒助ベゴ黒助黒助どんどん千年たっても黒助どんどん万年たっても黒助どんどん。 うまいよ。 なかなかうまいよ。 しかしその歌は僕はかまわないけれどお前たちにはよくないことになるかも知れないよ。 僕が一つ作ってやろう。 これからはそっちをおやり。 ねそらお空。 お空。 お空のちちはつめたい雨のザァザザザかしわのしずくトンテントンまっしろきりのポッシャントン。 お空。 お空。 お空のひかりおてんとさまはカンカンカン月のあかりはツンツンツンほしのひかりのピッカリコ。 そんなものだめだ。 面白くもなんともないや。 そうか。 僕はこんなことまずいからね。 なんだ。 あんなちっぽけな赤頭巾にベゴ石めへこまされてるんだ。 もうおいらはあいつとは絶交だ。 みっともない。 黒助め。 黒助どんどん。 ベゴどんどん。 ああったあった。 すてきだ。 実にいい標本だね。 火山弾の典型だ。 こんなととのったのははじめて見たぜ。 あの帯のきちんとしてることね。 もうこれだけでも今度の旅行は沢山だよ。 うん。 実によくととのってるね。 こんな立派な火山弾は大英博物館にだってないぜ。 どこの標本でもこの帯の完全なのはないよ。 どうだい。 空でぐるぐるやった時の工合が実によくわかるじゃないか。 すてきすてき。 今日すぐ持って行こう。 さあ大切な標本だからこわさないようにして呉れ給え。 よく包んで呉れ給え。 苔なんかむしってしまおう。 みなさん。 ながながお世話でした。 苔さん。 さよなら。 さっきの歌をあとで一ぺんでもうたって下さい。 私の行くところはここのように明るい楽しいところではありません。 けれども私共はみんな自分でできることをしなければなりません。 さよなら。 みなさん。 東京帝国大学校地質学教室行。 よいしょ。 よいしょ。 さあよし行こう。 ではみなさんはそういうふうに川だと言われたり乳の流れたあとだと言われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。 ジョバンニさん。 あなたはわかっているのでしょう。 大きな望遠鏡で銀河をよっく調べると銀河はだいたい何でしょう。 ではカムパネルラさん。 ではよし。 このぼんやりと白い銀河を大きないい望遠鏡で見ますともうたくさんの小さな星に見えるのです。 ジョバンニさんそうでしょう。 ですからもしもこの天の川がほんとうに川だと考えるならその一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒にもあたるわけです。 またこれを巨きな乳の流れと考えるならもっと天の川とよく似ています。 つまりその星はみな乳のなかにまるで細かにうかんでいる脂油の球にもあたるのです。 そんなら何がその川の水にあたるかと言いますとそれは真空という光をある速さで伝えるもので太陽や地球もやっぱりそのなかに浮かんでいるのです。 つまりは私どもも天の川の水のなかに棲んでいるわけです。 そしてその天の川の水のなかから四方を見るとちょうど水が深いほど青く見えるように天の川の底の深く遠いところほど星がたくさん集まって見えしたがって白くぼんやり見えるのです。 この模型をごらんなさい。 天の川の形はちょうどこんななのです。 このいちいちの光るつぶがみんな私どもの太陽と同じようにじぶんで光っている星だと考えます。 私どもの太陽がこのほぼ中ごろにあって地球がそのすぐ近くにあるとします。 みなさんは夜にこのまん中に立ってこのレンズの中を見まわすとしてごらんなさい。 こっちの方はレンズが薄いのでわずかの光る粒すなわち星しか見えないでしょう。 こっちやこっちの方はガラスが厚いので光る粒すなわち星がたくさん見えその遠いのはぼうっと白く見えるというこれがつまり今日の銀河の説なのです。 そんならこのレンズの大きさがどれくらいあるかまたその中のさまざまの星についてはもう時間ですからこの次の理科の時間にお話します。 では今日はその銀河のお祭りなのですからみなさんは外へでてよくそらをごらんなさい。 ではここまでです。 本やノートをおしまいなさい。 これだけ拾って行けるかね。 よう虫めがね君お早う。 お母さんいま帰ったよ。 ぐあい悪くなかったの。 ああジョバンニお仕事がひどかったろう。 今日は涼しくてね。 わたしはずうっとぐあいがいいよ。 お母さん今日は角砂糖を買ってきたよ。 牛乳に入れてあげようと思って。 ああお前さきにおあがり。 あたしはまだほしくないんだから。 お母さん。 姉さんはいつ帰ったの。 ああ三時ころ帰ったよ。 みんなそこらをしてくれてね。 お母さんの牛乳は来ていないんだろうか。 来なかったろうかねえ。 ぼく行ってとって来よう。 あああたしはゆっくりでいいんだからお前さきにおあがり姉さんがねトマトで何かこしらえてそこへ置いて行ったよ。 ではぼくたべよう。 ねえお母さん。 ぼくお父さんはきっとまもなく帰ってくると思うよ。 あああたしもそう思う。 けれどもおまえはどうしてそう思うの。 だって今朝の新聞に今年は北の方の漁はたいへんよかったと書いてあったよ。 ああだけどねえお父さんは漁へ出ていないかもしれない。 きっと出ているよ。 お父さんが監獄へはいるようなそんな悪いことをしたはずがないんだ。 この前お父さんが持ってきて学校へ寄贈した巨きな蟹の甲らだのとなかいの角だの今だってみんな標本室にあるんだ。 六年生なんか授業のとき先生がかわるがわる教室へ持って行くよ。 お父さんはこの次はおまえにラッコの上着をもってくるといったねえ。 みんながぼくにあうとそれを言うよ。 ひやかすように言うんだ。 おまえに悪口を言うの。 うんけれどもカムパネルラなんか決して言わない。 カムパネルラはみんながそんなことを言うときはきのどくそうにしているよ。 カムパネルラのお父さんとうちのお父さんとはちょうどおまえたちのように小さいときからのお友達だったそうだよ。 ああだからお父さんはぼくをつれてカムパネルラのうちへもつれて行ったよ。 あのころはよかったなあ。 ぼくは学校から帰る途中たびたびカムパネルラのうちに寄った。 カムパネルラのうちにはアルコールランプで走る汽車があったんだ。 レールを七つ組み合わせるとまるくなってそれに電柱や信号標もついていて信号標のあかりは汽車が通るときだけ青くなるようになっていたんだ。 いつかアルコールがなくなったとき石油をつかったら缶がすっかりすすけたよ。 そうかねえ。 いまも毎朝新聞をまわしに行くよ。 けれどもいつでも家じゅうまだしいんとしているからな。 早いからねえ。 ザウエルという犬がいるよ。 しっぽがまるで箒のようだ。 ぼくが行くと鼻を鳴らしてついてくるよ。 ずうっと町の角までついてくる。 もっとついてくることもあるよ。 今夜はみんなで烏瓜のあかりを川へながしに行くんだって。 きっと犬もついて行くよ。 そうだ。 今晩は銀河のお祭りだねえ。 うん。 ぼく牛乳をとりながら見てくるよ。 ああ行っておいで。 川へははいらないでね。 ああぼく岸から見るだけなんだ。 一時間で行ってくるよ。 もっと遊んでおいで。 カムパネルラさんといっしょなら心配はないから。 ああきっといっしょだよ。 お母さん窓をしめておこうか。 ああどうか。 もう涼しいからね。 では一時間|半で帰ってくるよ。 ザネリ烏瓜ながしに行くの。 ジョバンニお父さんからラッコの上着が来るよ。 なんだいザネリ。 ケンタウルス露をふらせ。 今晩は。 今晩はごめんなさい。 あの今日牛乳が僕※とこへ来なかったのでもらいにあがったんです。 いま誰もいないでわかりません。 あしたにしてください。 おっかさんが病気なんですから今晩でないと困るんです。 ではもう少したってから来てください。 そうですか。 ではありがとう。 川へ行くの。 ジョバンニラッコの上着が来るよ。 ジョバンニラッコの上着が来るよ。 みんなはねずいぶん走ったけれども遅れてしまったよ。 ザネリもねずいぶん走ったけれども追いつかなかった。 どこかで待っていようか。 ザネリはもう帰ったよ。 お父さんが迎いにきたんだ。 ああしまった。 ぼく水筒を忘れてきた。 スケッチ帳も忘れてきた。 けれどかまわない。 もうじき白鳥の停車場だから。 ぼく白鳥を見るならほんとうにすきだ。 川の遠くを飛んでいたってぼくはきっと見える。 この地図はどこで買ったの。 黒曜石でできてるねえ。 銀河ステーションでもらったんだ。 君もらわなかったの。 ああぼく銀河ステーションを通ったろうか。 いまぼくたちのいるとこここだろう。 そうだ。 おやあの河原は月夜だろうか。 月夜でないよ。 銀河だから光るんだよ。 ぼくはもうすっかり天の野原に来た。 それにこの汽車|石炭をたいていないねえ。 アルコールか電気だろう。 ここの汽車はスティームや電気でうごいていない。 ただうごくようにきまっているからうごいているのだ。 ごとごと音をたてているとそうおまえたちは思っているけれどもそれはいままで音をたてる汽車にばかりなれているためなのだ。 あの声ぼくなんべんもどこかできいた。 ぼくだって林の中や川で何べんも聞いた。 あありんどうの花が咲いている。 もうすっかり秋だねえ。 ぼく飛びおりてあいつをとってまた飛び乗ってみせようか。 もうだめだ。 あんなにうしろへ行ってしまったから。 おっかさんはぼくをゆるしてくださるだろうか。 ぼくはおっかさんがほんとうに幸になるならどんなことでもする。 けれどもいったいどんなことがおっかさんのいちばんの幸なんだろう。 きみのおっかさんはなんにもひどいことないじゃないの。 ぼくわからない。 けれども誰だってほんとうにいいことをしたらいちばん幸なんだねえ。 だからおっかさんはぼくをゆるしてくださると思う。 ハレルヤハレルヤ。 もうじき白鳥の停車場だねえ。 ああ十一時かっきりには着くんだよ。 ぼくたちも降りて見ようか。 降りよう。 この砂はみんな水晶だ。 中で小さな火が燃えている。 そうだ。 行ってみよう。 おや変なものがあるよ。 くるみの実だよ。 そらたくさんある。 流れて来たんじゃない。 岩の中にはいってるんだ。 大きいねこのくるみ倍あるね。 こいつはすこしもいたんでない。 早くあすこへ行って見よう。 きっと何か掘ってるから。 そこのその突起をこわさないようにスコップを使いたまえスコップを。 おっとも少し遠くから掘って。 いけないいけないなぜそんな乱暴をするんだ。 君たちは参観かね。 くるみがたくさんあったろう。 それはまあざっと百二十|万年ぐらい前のくるみだよ。 ごく新しい方さ。 ここは百二十|万年前第三紀のあとのころは海岸でねこの下からは貝がらも出る。 いま川の流れているとこにそっくり塩水が寄せたり引いたりもしていたのだ。 このけものかねこれはボスといってねおいおいそこつるはしはよしたまえ。 ていねいに鑿でやってくれたまえ。 ボスといってねいまの牛の先祖で昔はたくさんいたのさ。 標本にするんですか。 いや証明するに要るんだ。 ぼくらからみるとここは厚い立派な地層で百二十|万年ぐらい前にできたという証拠もいろいろあがるけれどもぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層に見えるかどうかあるいは風か水やがらんとした空かに見えやしないかということなのだ。 わかったかい。 けれどもおいおいそこもスコップではいけない。 そのすぐ下に肋骨が埋もれてるはずじゃないか。 もう時間だよ。 行こう。 ああではわたくしどもは失礼いたします。 そうですか。 いやさよなら。 ここへかけてもようございますか。 ええいいんです。 あなた方はどちらへいらっしゃるんですか。 どこまでも行くんです。 それはいいね。 この汽車はじっさいどこまででも行きますぜ。 あなたはどこへ行くんです。 わっしはすぐそこで降ります。 わっしは鳥をつかまえる商売でね。 何鳥ですか。 鶴や雁です。 さぎも白鳥もです。 鶴はたくさんいますか。 いますともさっきから鳴いてまさあ。 聞かなかったのですか。 いいえ。 いまでも聞こえるじゃありませんか。 そら耳をすまして聴いてごらんなさい。 鶴どうしてとるんですか。 鶴ですかそれとも鷺ですか。 鷺です。 そいつはな雑作ない。 さぎというものはみんな天の川の砂が凝ってぼおっとできるもんですからねそして始終川へ帰りますからね川原で待っていて鷺がみんな脚をこういうふうにしておりてくるとこをそいつが地べたへつくかつかないうちにぴたっと押えちまうんです。 するともう鷺はかたまって安心して死んじまいます。 あとはもうわかり切ってまさあ。 押し葉にするだけです。 鷺を押し葉にするんですか。 標本ですか。 標本じゃありません。 みんなたべるじゃありませんか。 おかしいねえ。 おかしいも不審もありませんや。 そら。 さあごらんなさい。 いまとって来たばかりです。 ほんとうに鷺だねえ。 眼をつぶってるね。 ねそうでしょう。 鷺はおいしいんですか。 ええ毎日|注文があります。 しかし雁の方がもっと売れます。 雁の方がずっと柄がいいし第一手数がありませんからな。 そら。 こっちはすぐたべられます。 どうです少しおあがりなさい。 どうです。 すこしたべてごらんなさい。 も少しおあがりなさい。 ええありがとう。 いや商売ものをもらっちゃすみませんな。 いいえどういたしまして。 どうです今年の渡り鳥の景気は。 いやすてきなもんですよ。 一昨日の第二限ころなんかなぜ燈台の灯を規則以外に間させるかってあっちからもこっちからも電話で故障が来ましたがなあにこっちがやるんじゃなくて渡り鳥どもがまっ黒にかたまってあかしの前を通るのですからしかたありませんやわたしぁべらぼうめそんな苦情はおれのとこへ持って来たってしかたがねえやばさばさのマントを着て脚と口との途方もなく細い大将へやれってこう言ってやりましたがねはっは。 鷺の方はなぜ手数なんですか。 それはね鷺をたべるには。 天の川の水あかりに十日もつるしておくかねそうでなけぁ砂に三四日うずめなけぁいけないんだ。 そうすると水銀がみんな蒸発してたべられるようになるよ。 こいつは鳥じゃない。 ただのお菓子でしょう。 そうそうここで降りなけぁ。 どこへ行ったんだろう。 あすこへ行ってる。 ずいぶん奇体だねえ。 きっとまた鳥をつかまえるとこだねえ。 汽車が走って行かないうちに早く鳥がおりるといいな。 ああせいせいした。 どうもからだにちょうど合うほど稼いでいるくらいいいことはありませんな。 どうしてあすこからいっぺんにここへ来たんですか。 どうしてって来ようとしたから来たんです。 ぜんたいあなた方はどちらからおいでですか。 ああ遠くからですね。 もうここらは白鳥|区のおしまいです。 ごらんなさい。 あれが名高いアルビレオの観測所です。 あれは水の速さをはかる器械です。 水も。 切符を拝見いたします。 さあ。 これは三|次空間の方からお持ちになったのですか。 なんだかわかりません。 よろしゅうございます。 南十字へ着きますのは次の第三時ころになります。 おやこいつはたいしたもんですぜ。 こいつはもうほんとうの天上へさえ行ける切符だ。 天上どこじゃないどこでもかってにあるける通行券です。 こいつをお持ちになれぁなるほどこんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんかどこまででも行けるはずでさああなた方たいしたもんですね。 なんだかわかりません。 もうじき鷲の停車場だよ。 あの人どこへ行ったろう。 どこへ行ったろう。 いったいどこでまたあうのだろう。 僕はどうしても少しあの人に物を言わなかったろう。 ああ僕もそう思っているよ。 僕はあの人が邪魔なような気がしたんだ。 だから僕はたいへんつらい。 なんだか苹果のにおいがする。 僕いま苹果のことを考えたためだろうか。 ほんとうに苹果のにおいだよ。 それから野茨のにおいもする。 あらここどこでしょう。 まあきれいだわ。 ああここはランカシャイヤだ。 いやコンネクテカット州だ。 いやああぼくたちはそらへ来たのだ。 わたしたちは天へ行くのです。 ごらんなさい。 あのしるしは天上のしるしです。 もうなんにもこわいことありません。 わたくしたちは神さまに召されているのです。 ぼくおおねえさんのとこへ行くんだよう。 お父さんやきくよねえさんはまだいろいろお仕事があるのです。 けれどももうすぐあとからいらっしゃいます。 それよりもおっかさんはどんなに永く待っていらっしゃったでしょう。 わたしの大事なタダシはいまどんな歌をうたっているだろう雪の降る朝にみんなと手をつないでぐるぐるにわとこのやぶをまわってあそんでいるだろうかと考えたりほんとうに待って心配していらっしゃるんですから早く行っておっかさんにお目にかかりましょうね。 うんだけど僕船に乗らなけぁよかったなあ。 ええけれどごらんなさいそらどうですあの立派な川ねあすこはあの夏じゅうツィンクルツィンクルリトルスターをうたってやすむときいつも窓からぼんやり白く見えていたでしょう。 あすこですよ。 ねきれいでしょうあんなに光っています。 わたしたちはもうなんにもかなしいことないのです。 わたしたちはこんないいとこを旅してじき神さまのとこへ行きます。 そこならもうほんとうに明るくてにおいがよくて立派な人たちでいっぱいです。 そしてわたしたちの代わりにボートへ乗れた人たちはきっとみんな助けられて心配して待っているめいめいのお父さんやお母さんや自分のお家へやら行くのです。 さあもうじきですから元気を出しておもしろくうたって行きましょう。 あなた方はどちらからいらっしゃったのですか。 どうなすったのですか。 いえ氷山にぶっつかって船が沈みましてねわたしたちはこちらのお父さんが急な用で二か月前一足さきに本国へお帰りになったのであとから発ったのです。 私は大学へはいっていて家庭教師にやとわれていたのです。 ところがちょうど十二日目今日か昨日のあたりです船が氷山にぶっつかって一ぺんに傾きもう沈みかけました。 月のあかりはどこかぼんやりありましたが霧が非常に深かったのです。 ところがボートは左舷の方|半分はもうだめになっていましたからとてもみんなは乗り切らないのです。 もうそのうちにも船は沈みますし私は必死となってどうか小さな人たちを乗せてくださいと叫びました。 近くの人たちはすぐみちを開いてそして子供たちのために祈ってくれました。 けれどもそこからボートまでのところにはまだまだ小さな子どもたちや親たちやなんかいてとても押しのける勇気がなかったのです。 それでもわたくしはどうしてもこの方たちをお助けするのが私の義務だと思いましたから前にいる子供らを押しのけようとしました。 けれどもまたそんなにして助けてあげるよりはこのまま神の御前にみんなで行く方がほんとうにこの方たちの幸福だとも思いました。 それからまたその神にそむく罪はわたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげようと思いました。 けれどもどうしても見ているとそれができないのでした。 子どもらばかりのボートの中へはなしてやってお母さんが狂気のようにキスを送りお父さんがかなしいのをじっとこらえてまっすぐに立っているなどとてももう腸もちぎれるようでした。 そのうち船はもうずんずん沈みますから私たちはかたまってもうすっかり覚悟してこの人たち二人を抱いて浮かべるだけは浮かぼうと船の沈むのを待っていました。 誰が投げたかライフヴイが一つ飛んで来ましたけれどもすべってずうっと向こうへ行ってしまいました。 私は一生けん命で甲板の格子になったとこをはなして三人それにしっかりとりつきました。 どこからともなく三〇六番の声があがりました。 たちまちみんなはいろいろな国語で一ぺんにそれをうたいました。 そのときにわかに大きな音がして私たちは水に落ちもう渦にはいったと思いながらしっかりこの人たちをだいてそれからぼうっとしたと思ったらもうここへ来ていたのです。 この方たちのお母さんは一|昨年没くなられました。 ええボートはきっと助かったにちがいありませんなにせよほど熟練な水夫たちが漕いですばやく船からはなれていましたから。 なにがしあわせかわからないです。 ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから。 ああそうです。 ただいちばんのさいわいに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです。 いかがですか。 こういう苹果はおはじめてでしょう。 おやどっから来たのですか。 立派ですねえ。 ここらではこんな苹果ができるのですか。 いやまあおとりください。 どうかまあおとりください。 さあ向こうの坊ちゃんがた。 いかがですか。 おとりください。 ありがとう。 どうもありがとう。 どこでできるのですか。 こんな立派な苹果は。 この辺ではもちろん農業はいたしますけれどもたいていひとりでにいいものができるような約束になっております。 農業だってそんなにほねはおれはしません。 たいてい自分の望む種子さえ播けばひとりでにどんどんできます。 米だってパシフィック辺のように殻もないし十|倍も大きくてにおいもいいのです。 けれどもあなたがたのいらっしゃる方なら農業はもうありません。 苹果だってお菓子だってかすが少しもありませんからみんなそのひとそのひとによってちがったわずかのいいかおりになって毛あなからちらけてしまうのです。 ああぼくいまお母さんの夢をみていたよ。 お母さんがね立派な戸棚や本のあるとこにいてねぼくの方を見て手をだしてにこにこにこにこわらったよ。 ぼくおっかさん。 りんごをひろってきてあげましょうかと言ったら眼がさめちゃった。 ああここさっきの汽車のなかだねえ。 その苹果がそこにあります。 このおじさんにいただいたのですよ。 ありがとうおじさん。 おやかおるねえさんまだねてるねえぼくおこしてやろう。 ねえさん。 ごらんりんごをもらったよ。 おきてごらん。 まああの烏。 からすでない。 みんなかささぎだ。 かささぎですねえ頭のうしろのとこに毛がぴんと延びてますから。 あ孔雀がいるよ。 あ孔雀がいるよ。 あの森|琴の宿でしょう。 あたしきっとあの森の中にむかしの大きなオーケストラの人たちが集まっていらっしゃると思うわまわりには青い孔雀やなんかたくさんいると思うわ。 ええたくさんいたわ。 そうだ孔雀の声だってさっき聞こえた。 ええ三十|疋ぐらいはたしかにいたわ。 カムパネルラここからはねおりて遊んで行こうよ。 まあなんでしょう。 たあちゃん。 ごらんなさい。 まあたくさんだわね。 なんでしょうあれ。 なんだろう。 まあおかしな魚だわなんでしょうあれ。 海豚です。 海豚だなんてあたしはじめてだわ。 けどここ海じゃないんでしょう。 いるかは海にいるときまっていない。 いるかお魚でしょうか。 いるか魚じゃありません。 くじらと同じようなけだものです。 あなたくじら見たことあって。 僕あります。 くじら頭と黒いしっぽだけ見えます。 潮を吹くとちょうど本にあるようになります。 くじらなら大きいわねえ。 くじら大きいです。 子供だっているかぐらいあります。 そうよあたしアラビアンナイトで見たわ。 鳥が飛んで行くな。 どら。 いまこそわたれわたり鳥いまこそわたれわたり鳥。 まあこの鳥たくさんですわねえあらまあそらのきれいなこと。 あの人鳥へ教えてるんでしょうか。 わたり鳥へ信号してるんです。 きっとどこからかのろしがあがるためでしょう。 あれとうもろこしだねえ。 そうだろう。 新世界交響楽だわ。 ええええもうこの辺はひどい高原ですから。 とうもろこしだって棒で二尺も孔をあけておいてそこへ播かないとはえないんです。 そうですか。 川まではよほどありましょうかねえ。 ええええ河までは二千|尺から六千|尺あります。 もうまるでひどい峡谷になっているんです。 あらインデアンですよ。 インデアンですよ。 おねえさまごらんなさい。 走って来るわあら走って来るわ。 追いかけているんでしょう。 いいえ汽車を追ってるんじゃないんですよ。 猟をするか踊るかしてるんですよ。 ええもうこの辺から下りです。 なんせこんどは一ぺんにあの水面までおりて行くんですから容易じゃありません。 この傾斜があるもんですから汽車は決して向こうからこっちへは来ないんです。 そらもうだんだん早くなったでしょう。 あれなんの旗だろうね。 さあわからないねえ地図にもないんだもの。 鉄の舟がおいてあるねえ。 ああ。 橋を架けるとこじゃないんでしょうか。 あああれ工兵の旗だねえ。 架橋演習をしてるんだ。 けれど兵隊のかたちが見えないねえ。 発破だよ発破だよ。 空の工兵大隊だ。 どうだ鱒なんかがまるでこんなになってはねあげられたねえ。 僕こんな愉快な旅はしたことない。 いいねえ。 あの鱒なら近くで見たらこれくらいあるねえたくさんさかないるんだなこの水の中に。 小さなお魚もいるんでしょうか。 いるんでしょう。 大きなのがいるんだから小さいのもいるんでしょう。 けれど遠くだからいま小さいの見えなかったねえ。 あれきっと双子のお星さまのお宮だよ。 双子のお星さまのお宮ってなんだい。 あたし前になんべんもお母さんから聞いたわ。 ちゃんと小さな水晶のお宮で二つならんでいるからきっとそうだわ。 はなしてごらん。 双子のお星さまが何をしたっての。 ぼくも知ってらい。 双子のお星さまが野原へ遊びにでてからすと喧嘩したんだろう。 そうじゃないわよ。 あのね天の川の岸にねおっかさんお話しなすったわ。 それから彗星がギーギーフーギーギーフーて言って来たねえ。 いやだわたあちゃんそうじゃないわよ。 それはべつの方だわ。 するとあすこにいま笛を吹いているんだろうか。 いま海へ行ってらあ。 いけないわよ。 もう海からあがっていらっしゃったのよ。 そうそう。 ぼく知ってらあぼくおはなししよう。 あれはなんの火だろう。 あんな赤く光る火は何を燃やせばできるんだろう。 蠍の火だな。 あら蠍の火のことならあたし知ってるわ。 蠍の火ってなんだい。 蠍がやけて死んだのよ。 その火がいまでも燃えてるってあたし何べんもお父さんから聴いたわ。 蠍って虫だろう。 ええ蠍は虫よ。 だけどいい虫だわ。 蠍いい虫じゃないよ。 僕博物館でアルコールにつけてあるの見た。 尾にこんなかぎがあってそれで螫されると死ぬって先生が言ってたよ。 そうよ。 だけどいい虫だわお父さんこう言ったのよ。 むかしのバルドラの野原に一ぴきの蠍がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。 するとある日いたちに見つかって食べられそうになったんですって。 さそりは一生けん命にげてにげたけどとうとういたちに押えられそうになったわそのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわもうどうしてもあがられないでさそりはおぼれはじめたのよ。 そのときさそりはこう言ってお祈りしたというの。 ああわたしはいままでいくつのものの命をとったかわからないそしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。 それでもとうとうこんなになってしまった。 ああなんにもあてにならない。 どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちにくれてやらなかったろう。 そしたらいたちも一日生きのびたろうに。 どうか神さま。 私の心をごらんください。 こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかいください。 って言ったというの。 そしたらいつか蠍はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見たって。 いまでも燃えてるってお父さんおっしゃったわ。 ほんとうにあの火それだわ。 そうだ。 見たまえ。 そこらの三角標はちょうどさそりの形にならんでいるよ。 ケンタウル露をふらせ。 ああそうだ今夜ケンタウル祭だねえ。 ああここはケンタウルの村だよ。 ボール投げなら僕決してはずさない。 もうじきサウザンクロスです。 おりるしたくをしてください。 僕も少し汽車に乗ってるんだよ。 ここでおりなけぁいけないのです。 厭だい。 僕もう少し汽車へ乗ってから行くんだい。 僕たちといっしょに乗って行こう。 僕たちどこまでだって行ける切符持ってるんだ。 だけどあたしたちもうここで降りなけぁいけないのよ。 ここ天上へ行くとこなんだから。 天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。 ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなけぁいけないって僕の先生が言ったよ。 だっておっ母さんも行ってらっしゃるしそれに神さまがおっしゃるんだわ。 そんな神さまうその神さまだい。 あなたの神さまうその神さまよ。 そうじゃないよ。 あなたの神さまってどんな神さまですか。 ぼくほんとうはよく知りません。 けれどもそんなんでなしにほんとうのたった一人の神さまです。 ほんとうの神さまはもちろんたった一人です。 ああそんなんでなしにたったひとりのほんとうのほんとうの神さまです。 だからそうじゃありませんか。 わたくしはあなた方がいまにそのほんとうの神さまの前にわたくしたちとお会いになることを祈ります。 さあもうしたくはいいんですか。 じきサウザンクロスですから。 ハレルヤハレルヤ。 さあおりるんですよ。 じゃさよなら。 さよなら。 カムパネルラまた僕たち二人きりになったねえどこまでもどこまでもいっしょに行こう。 僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。 うん。 僕だってそうだ。 けれどもほんとうのさいわいはいったいなんだろう。 僕わからない。 僕たちしっかりやろうねえ。 ああすこ石炭袋だよ。 そらの孔だよ。 僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。 きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。 どこまでもどこまでも僕たちいっしょに進んで行こう。 ああきっと行くよ。 あああすこの野原はなんてきれいだろう。 みんな集まってるねえ。 あすこがほんとうの天上なんだ。 あっあすこにいるのはぼくのお母さんだよ。 カムパネルラ僕たちいっしょに行こうねえ。 おまえはいったい何を泣いているの。 ちょっとこっちをごらん。 おまえのともだちがどこかへ行ったのだろう。 あのひとはねほんとうにこんや遠くへ行ったのだ。 おまえはもうカムパネルラをさがしてもむだだ。 ああどうしてなんですか。 ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐに行こうと言ったんです。 ああそうだ。 みんながそう考える。 けれどもいっしょに行けない。 そしてみんながカムパネルラだ。 おまえがあうどんなひとでもみんな何べんもおまえといっしょに苹果をたべたり汽車に乗ったりしたのだ。 だからやっぱりおまえはさっき考えたようにあらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなといっしょに早くそこに行くがいいそこでばかりおまえはほんとうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ。 ああぼくはきっとそうします。 ぼくはどうしてそれをもとめたらいいでしょう。 ああわたくしもそれをもとめている。 おまえはおまえの切符をしっかりもっておいで。 そして一しんに勉強しなけぁいけない。 おまえは化学をならったろう水は酸素と水素からできているということを知っている。 いまはたれだってそれを疑やしない。 実験してみるとほんとうにそうなんだから。 けれども昔はそれを水銀と塩でできていると言ったり水銀と硫黄でできていると言ったりいろいろ議論したのだ。 みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだというだろうけれどもお互いほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。 それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだろう。 そして勝負がつかないだろう。 けれどももしおまえがほんとうに勉強して実験でちゃんとほんとうの考えとうその考えとを分けてしまえばその実験の方法さえきまればもう信仰も化学と同じようになる。 けれどもねちょっとこの本をごらんいいかいこれは地理と歴史の辞典だよ。 この本のこの頁はね紀元前二千二百年の地理と歴史が書いてある。 よくごらん紀元前二千二百年のことでないよ紀元前二千二百年のころにみんなが考えていた地理と歴史というものが書いてある。 だからこの頁一つが一|冊の地歴の本にあたるんだ。 いいかいそしてこの中に書いてあることは紀元前二千二百年ころにはたいてい本当だ。 さがすと証拠もぞくぞく出ている。 けれどもそれが少しどうかなとこう考えだしてごらんそらそれは次の頁だよ。 紀元前一千年。 だいぶ地理も歴史も変わってるだろう。 このときにはこうなのだ。 変な顔をしてはいけない。 ぼくたちはぼくたちのからだだって考えだって天の川だって汽車だって歴史だってただそう感じているのなんだからそらごらんぼくといっしょにすこしこころもちをしずかにしてごらん。 いいか。 さあいいか。 だからおまえの実験はこのきれぎれの考えのはじめから終わりすべてにわたるようでなければいけない。 それがむずかしいことなのだ。 けれどももちろんそのときだけのでもいいのだ。 ああごらんあすこにプレシオスが見える。 おまえはあのプレシオスの鎖を解かなければならない。 ああマジェランの星雲だ。 さあもうきっと僕は僕のために僕のお母さんのためにカムパネルラのためにみんなのためにほんとうのほんとうの幸福をさがすぞ。 さあ切符をしっかり持っておいで。 お前はもう夢の鉄道の中でなしにほんとうの世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐに歩いて行かなければいけない。 天の川のなかでたった一つのほんとうのその切符を決しておまえはなくしてはいけない。 ありがとう。 私はたいへんいい実験をした。 私はこんなしずかな場所で遠くから私の考えを人に伝える実験をしたいとさっき考えていた。 お前の言った語はみんな私の手帳にとってある。 さあ帰っておやすみ。 お前は夢の中で決心したとおりまっすぐに進んで行くがいい。 そしてこれからなんでもいつでも私のとこへ相談においでなさい。 僕きっとまっすぐに進みます。 きっとほんとうの幸福を求めます。 ああではさよなら。 これはさっきの切符です。 博士ありがとうおっかさん。 すぐ乳をもって行きますよ。 今晩は。 はい。 なんのご用ですか。 今日|牛乳がぼくのところへ来なかったのですが。 あ済みませんでした。 ほんとうに済みませんでした。 今日はひるすぎうっかりしてこうしの柵をあけておいたもんですから大将さっそく親牛のところへ行って半分ばかりのんでしまいましてね。 そうですか。 ではいただいて行きます。 ええどうも済みませんでした。 いいえ。 何かあったんですか。 こどもが水へ落ちたんですよ。 ジョバンニカムパネルラが川へはいったよ。 どうしていつ。 ザネリがね舟の上から烏うりのあかりを水の流れる方へ押してやろうとしたんだ。 そのとき舟がゆれたもんだから水へ落っこったろう。 するとカムパネルラがすぐ飛びこんだんだ。 そしてザネリを舟の方へ押してよこした。 ザネリはカトウにつかまった。 けれどもあとカムパネルラが見えないんだ。 みんなさがしてるんだろう。 ああすぐみんな来た。 カムパネルラのお父さんも来た。 けれども見つからないんだ。 ザネリはうちへ連れられてった。 ぼくずいぶん泳いだぞ。 もう駄目です。 落ちてから四十五分たちましたから。 あなたはジョバンニさんでしたね。 どうも今晩はありがとう。 あなたのお父さんはもう帰っていますか。 いいえ。 どうしたのかなあぼくには一昨日たいへん元気な便りがあったんだが。 今日あたりもう着くころなんだが。 船が遅れたんだな。 ジョバンニさん。 あした放課後みなさんとうちへ遊びに来てくださいね。 カッコウドリトオルベカラズ。 おれは森へ行って遊んでくるぞ。 なんたらいうことをきかないこどもらだ。 今日はだれかいるかね。 私はこの地方の飢饉を助けに来たものだ。 さあなんでも食べなさい。 さあ食べるんだ食べるんだ。 お前たちはいい子供だ。 けれどもいい子供だというだけではなんにもならん。 わしといっしょについておいで。 もっとも男の子は強いしわしも二人はつれて行けない。 おい女の子おまえはここにいてももうたべるものがないんだ。 おじさんといっしょに町へ行こう。 毎日パンを食べさしてやるよ。 おおほいほい。 おおほいほい。 どろぼうどろぼう。 やっと目がさめたな。 まだお前は飢饉のつもりかい。 起きておれに手伝わないか。 もう飢饉は過ぎたの。 手伝えって何を手伝うの。 網掛けさ。 ここへ網を掛けるの。 掛けるのさ。 網をかけて何にするの。 てぐすを飼うのさ。 あれでてぐすが飼えるの。 飼えるのさ。 うるさいこどもだな。 おい縁起でもないぞ。 てぐすも飼えないところにどうして工場なんか建てるんだ。 飼えるともさ。 現におれをはじめたくさんのものがそれでくらしを立てているんだ。 そうですか。 それにこの森はすっかりおれが買ってあるんだからここで手伝うならいいがそうでもなければどこかへ行ってもらいたいな。 もっともお前はどこへ行ったって食うものもなかろうぜ。 そんなら手伝うよ。 けれどもどうして網をかけるの。 それはもちろん教えてやる。 こいつをね。 いいか。 こういう具合にやるとはしごになるんだ。 さあ今度はおまえがこの網をもって上へのぼって行くんだ。 さあのぼってごらん。 もっと登るんだ。 もっともっとさ。 そしたらさっきのまりを投げてごらん。 栗の木を越すようにさ。 そいつを空へ投げるんだよ。 なんだいふるえてるのかい。 いくじなしだなあ。 投げるんだよ。 投げるんだよ。 そら投げるんだよ。 お前もいくじのないやつだ。 なんというふにゃふにゃだ。 おれが受け止めてやらなかったらお前は今ごろは頭がはじけていたろう。 おれはお前の命の恩人だぞ。 これからは失礼なことを言ってはならん。 ところでさあこんどはあっちの木へ登れ。 も少したったらごはんもたべさせてやるよ。 よしなかなかじょうずになった。 さあまりはたくさんあるぞ。 なまけるな。 木も栗の木ならどれでもいいんだ。 イーハトーヴてぐす工場。 さあこどもたべものをもってきてやったぞ。 これを食べて暗くならないうちにもう少しかせぐんだ。 ぼくはもういやだようちへ帰るよ。 うちっていうのはあすこか。 あすこはおまえのうちじゃない。 おれのてぐす工場だよ。 あの家もこの辺の森もみんなおれが買ってあるんだからな。 おいお前の来春まで食うくらいのものは家の中に置いてやるからな。 それまでここで森と工場の番をしているんだぞ。 おいみんなもうだめだぞ。 噴火だ。 噴火がはじまったんだ。 てぐすはみんな灰をかぶって死んでしまった。 みんな早く引き揚げてくれ。 おいブドリお前ここにいたかったらいてもいいがこんどはたべ物は置いてやらないぞ。 それにここにいてもあぶないからな。 お前も野原へ出て何かかせぐほうがいいぜ。 なんでもかんでもおれは山師張るときめた。 やめろって言ったらやめるもんだ。 そんなに肥料うんと入れて藁はとれるたって実は一粒もとれるもんでない。 うんにゃおれの見込みではことしは今までの三年分暑いに相違ない。 一年で三年分とって見せる。 やめろ。 やめろ。 やめろったら。 うんにゃやめない。 花はみんな埋めてしまったからこんどは豆玉を六十枚入れてそれから鶏の糞百|駄入れるんだ。 急がしったらなんのこう忙しくなればささげのつるでもいいから手伝いに頼みたいもんだ。 そんならぼくを使ってくれませんか。 よしよし。 お前に馬の指竿とりを頼むからな。 すぐおれについて行くんだ。 それではまずのるかそるか秋まで見ててくれ。 さあ行こう。 ほんとにささげのつるでもいいから頼みたい時でな。 年寄りの言うこと聞かないでいまに泣くんだな。 あっ。 病気が出たんだ。 頭でも痛いんですか。 おれでないよ。 オリザよ。 それ。 オリザへ病気が出たというのはほんとうかい。 ああもうだめだよ。 どうにかならないのかい。 だめだろう。 すっかり五年前のとおりだ。 だからあたしはあんたに山師をやめろといったんじゃないか。 おじいさんもあんなにとめたんじゃないか。 よし。 イーハトーヴの野原で指折り数えられる大百姓のおれがこんなことで参るか。 よし。 来年こそやるぞ。 ブドリおまえおれのうちへ来てからまだ一晩も寝たいくらい寝たことがないな。 さあ五日でも十日でもいいからぐうというくらい寝てしまえ。 おれはそのあとであすこの沼ばたけでおもしろい手品をやって見せるからな。 その代わりことしの冬は家じゅうそばばかり食うんだぞ。 おまえそばはすきだろうが。 いまおれこの病気を蒸し殺してみるところだ。 石油で病気の種が死ぬんですか。 頭から石油につけられたら人だって死ぬだ。 なんだって油など水へ入れるんだ。 みんな流れて来ておれのほうへはいってるぞ。 なんだって油など水へ入れるったってオリザへ病気がついたから油など水へ入れるのだ。 なんだってそんならおれのほうへ流すんだ。 なんだってそんならおまえのほうへ流すったって水は流れるから油もついて流れるのだ。 そんならなんだっておれのほうへ水こないように水口とめないんだ。 なんだっておまえのほうへ水行かないように水口とめないかったってあすこはおれのみな口でないから水とめないのだ。 あの男むずかしい男でな。 こっちで水をとめるととめたといっておこるからわざと向こうにとめさせたのだ。 あすこさえとめれば今夜じゅうに水はすっかり草の頭までかかるからなさあ帰ろう。 さあブドリいよいよここへ蕎麦播きだぞ。 おまえあすこへ行ってとなりの水口こわして来い。 やあなんだってひとの田へ石油ながすんだ。 石油ながれればなんだって悪いんだ。 オリザみんな死ぬでないか。 オリザみんな死ぬかオリザみんな死なないかまずおれの沼ばたけのオリザ見なよ。 きょうで四日頭から石油かぶせたんだ。 それでもちゃんとこのとおりでないか。 赤くなったのは病気のためで勢いのいいのは石油のためなんだ。 おまえの所など石油がただオリザの足を通るだけでないか。 かえっていいかもしれないんだ。 石油こやしになるのか。 石油こやしになるか石油こやしにならないか知らないがとにかく石油は油でないか。 それは石油は油だな。 さあおれの所ではもうオリザ刈りをやるぞ。 ブドリことしは沼ばたけは去年よりは三分の一減ったからな仕事はよほどらくだ。 そのかわりおまえはおれの死んだ息子の読んだ本をこれから一生けん命勉強していままでおれを山師だといってわらったやつらをあっと言わせるような立派なオリザを作るくふうをしてくれ。 なんのおれもオリザの山師で四年しくじったけれどもことしは一度に四年分とれる。 これもまたなかなかいいもんだ。 ブドリおれももとはイーハトーヴの大百姓だったしずいぶんかせいでも来たのだがたびたびの寒さと旱魃のためにいまでは沼ばたけも昔の三分の一になってしまったし来年はもう入れるこやしもないのだ。 おれだけでない。 来年こやしを買って入れれる人ったらもうイーハトーヴにも何人もないだろう。 こういうあんばいではいつになっておまえにはたらいてもらった礼をするというあてもない。 おまえも若い働き盛りをおれのとこで暮らしてしまってはあんまり気の毒だから済まないがどうかこれを持ってどこへでも行っていい運を見つけてくれ。 そんな学校は知らんね。 もう五六丁行ってきいてみな。 今日は。 今日はあ。 今授業中だよやかましいやつだ。 用があるならはいって来い。 そこでこういう図ができる。 あああ。 ねこの先生はなんて言うんですか。 クーボー大博士さお前知らなかったのかい。 はじめからこの図なんか書けるもんか。 ぼくでさえ同じ講義をもう六年もきいているんだ。 いまや夕べははるかにきたり拙講もまた全課をおえた。 諸君のうちの希望者はけだしいつもの例によりそのノートをば拙者に示しさらに数箇の試問を受けて所属を決すべきである。 合。 再来。 奮励。 よろしい。 この図は非常に正しくできている。 そのほかのところはなんだ。 ははあ沼ばたけのこやしのことに馬のたべ物のことかね。 では問題に答えなさい。 工場の煙突から出るけむりにはどういう色の種類があるか。 黒褐黄灰白無色。 それからこれらの混合です。 無色のけむりはたいへんいい。 形について言いたまえ。 無風で煙が相当あればたての棒にもなりますがさきはだんだんひろがります。 雲の非常に低い日は棒は雲までのぼって行ってそこから横にひろがります。 風のある日は棒は斜めになりますがその傾きは風の程度に従います。 波やいくつもきれになるのは風のためにもよりますが一つはけむりや煙突のもつ癖のためです。 あまり煙の少ないときはコルク抜きの形にもなり煙も重いガスがまじれば煙突の口から房になって一方ないし四方におちることもあります。 よろしい。 きみはどういう仕事をしているのか。 仕事をみつけに来たんです。 おもしろい仕事がある。 名刺をあげるからそこへすぐ行きなさい。 なんだごみを焼いてるのかな。 あなたがグスコーブドリ君ですか。 私はこういうものです。 さっきクーボー博士から電話があったのでお待ちしていました。 まあこれからここで仕事をしながらしっかり勉強してごらんなさい。 ここの仕事は去年はじまったばかりですがじつに責任のあるものでそれに半分はいつ噴火するかわからない火山の上で仕事するものなのです。 それに火山の癖というものはなかなか学問でわかることではないのです。 われわれはこれからよほどしっかりやらなければならんのです。 では今晩はあっちにあなたの泊まるところがありますからそこでゆっくりお休みなさい。 あしたこの建物じゅうをすっかり案内しますから。 ブドリ君。 サンムトリはけさまで何もなかったね。 はいいままでサンムトリのはたらいたのを見たことがありません。 ああこれはもう噴火が近い。 けさの地震が刺激したのだ。 この山の北十キロのところにはサンムトリの市がある。 今度爆発すればたぶん山は三分の一北側をはねとばして牛やテーブルぐらいの岩は熱い灰やガスといっしょにどしどしサンムトリ市におちてくる。 どうでも今のうちにこの海に向いたほうへボーリングを入れて傷口をこさえてガスを抜くか熔岩を出させるかしなければならない。 今すぐ二人で見に行こう。 きみはこの山はあと何日ぐらいで噴火すると思うか。 一月はもたないと思います。 一月はもたない。 もう十日ももたない。 早く工作してしまわないと取り返しのつかないことになる。 私はこの山の海に向いたほうではあすこがいちばん弱いと思う。 あすこには熔岩の層が二つしかない。 あとは柔らかな火山灰と火山礫の層だ。 それにあすこまでは牧場の道も立派にあるから材料を運ぶことも造作ない。 ぼくは工作隊を申請しよう。 局からすぐ工作隊を出すそうだ。 工作隊といっても半分決死隊だ。 私はいままでにこんな危険に迫った仕事をしたことがない。 十日のうちにできるでしょうか。 きっとできる。 装置には三日サンムトリ市の発電所から電線を引いてくるには五日かかるな。 とにかくブドリ君。 一つ茶をわかして飲もうではないか。 あんまりいい景色だから。 あクーボー君がやって来た。 お茶をよばれに来たよ。 ゆれるかい。 まだそんなでない。 けれどもどうも岩がぼろぼろ上から落ちているらしいんだ。 もうどうしても来年は潮汐発電所を全部作ってしまわなければならない。 それができれば今度のような場合にもその日のうちに仕事ができるしブドリ君が言っている沼ばたけの肥料も降らせられるんだ。 旱魃だってちっともこわくなくなるからな。 やるぞやるぞ。 いまのはサンムトリの市へもかなり感じたにちがいない。 今のはぼくらの足もとから北へ一キロばかり地表下七百メートルぐらいの所でこの小屋の六七十倍ぐらいの岩の塊が熔岩の中へ落ち込んだらしいのだ。 ところがガスがいよいよ最後の岩の皮をはね飛ばすまでにはそんな塊を百も二百もじぶんのからだの中にとらなければならない。 そうだ僕はこれで失敬しよう。 ブドリ君だな。 すっかりしたくができた。 急いで降りてきたまえ。 観測の器械は一ぺん調べてそのままにして表は全部持ってくるのだ。 もうその小屋はきょうの午後にはなくなるんだから。 では引き上げよう。 みんなしたくして車に乗りたまえ。 ここへ天幕を張りたまえ。 そしてみんなで眠るんだ。 さあ電線は届いたぞ。 ブドリ君始めるよ。 やったやった。 ブドリ君うまく行った。 危険はもう全くない。 市のほうへは灰をすこし降らせるだけだろう。 窒素肥料を降らせます。 ことしの夏雨といっしょに硝酸アムモニヤをみなさんの沼ばたけや蔬菜ばたけに降らせますから肥料を使うかたはその分を入れて計算してください。 分量は百メートル四方につき百二十キログラムです。 雨もすこしは降らせます。 旱魃の際にはとにかく作物の枯れないぐらいの雨は降らせることができますからいままで水が来なくなって作付しなかった沼ばたけもことしは心配せずに植え付けてください。 飛行船はいま帰って来た。 下のほうのしたくはすっかりいい。 雨はざあざあ降っている。 もうよかろうと思う。 はじめてくれたまえ。 硝酸アムモニヤはもう雨の中へでてきている。 量もこれぐらいならちょうどいい。 移動のぐあいもいいらしい。 あと四時間やればもうこの地方は今月中はたくさんだろう。 つづけてやってくれたまえ。 こっちではだいぶ雷が鳴りだして来た。 網があちこちちぎれたらしい。 あんまり鳴らすとあしたの新聞が悪口を言うからもう十分ばかりでやめよう。 パンはありませんか。 パンはあるがどうも食われないパンでな。 石盤だもな。 おいお前ことしの夏電気でこやし降らせたブドリだな。 そうだ。 火山局のブドリが来たぞ。 みんな集まれ。 この野郎きさまの電気のおかげでおいらのオリザみんな倒れてしまったぞ。 何してあんなまねしたんだ。 倒れるなんてきみらは春に出したポスターを見なかったのか。 何この野郎。 ネリというご婦人のおかたがたずねておいでになりました。 先生気層のなかに炭酸ガスがふえて来れば暖かくなるのですか。 それはなるだろう。 地球ができてからいままでの気温はたいてい空気中の炭酸ガスの量できまっていたと言われるくらいだからね。 カルボナード火山島がいま爆発したらこの気候を変えるくらいの炭酸ガスを噴くでしょうか。 それは僕も計算した。 あれがいま爆発すればガスはすぐ大循環の上層の風にまじって地球ぜんたいを包むだろう。 そして下層の空気や地表からの熱の放散を防ぎ地球全体を平均で五度ぐらい暖かくするだろうと思う。 先生あれを今すぐ噴かせられないでしょうか。 それはできるだろう。 けれどもその仕事に行ったもののうち最後の一人はどうしても逃げられないのでね。 先生私にそれをやらしてください。 どうか先生からペンネン先生へお許しの出るようおことばをください。 それはいけない。 きみはまだ若いしいまのきみの仕事にかわれるものはそうはない。 私のようなものはこれからたくさんできます。 私よりもっともっとなんでもできる人が私よりもっと立派にもっと美しく仕事をしたり笑ったりして行くのですから。 その相談は僕はいかん。 ペンネン技師に話したまえ。 それはいい。 けれども僕がやろう。 僕はことしもう六十三なのだ。 ここで死ぬなら全く本望というものだ。 先生けれどもこの仕事はまだあんまり不確かです。 一ぺんうまく爆発してもまもなくガスが雨にとられてしまうかもしれませんしまた何もかも思ったとおりいかないかもしれません。 先生が今度おいでになってしまってはあとなんともくふうがつかなくなると存じます。 今日はクさん。 いいお天気です。 いいお天気です。 何かいいものを見つけましたか。 いいえ。 どうも不景気ですね。 どうでしょう。 これからの景気は。 さああなたはどう思いますか。 そうですね。 しかしだんだんよくなるのじゃないでしょうか。 オウベイのキンユウはしだいにヒッパクをテイしたそう。 エヘンエヘン。 ヘイそれから。 先ころの地震にはおどろきましたね。 全くです。 あんな大きいのは私もはじめてですよ。 ええジョウカドウでしたねえ。 シンゲンはなんでもトウケイ四十二度二分ナンイ。 エヘンエヘン。 天気もよくなりましたね。 あなたは何かうまい仕掛けをしておきましたか。 いいえなんにもしておきません。 しかし今度天気が長くつづいたら私は少し畑の方へ出てみようと思うんです。 畑には何かいいことがありますか。 秋ですからとにかく何かこぼれているだろうと思います。 天気さえよければいいのですがね。 どうでしょう。 天気はいいでしょうか。 そうですね新聞に出ていましたがオキナワレットウにハッセイしたテイキアツは次第にホクホクセイのほうへシンコウ。 エヘンエヘン。 へい。 そして。 さよなら。 ねずみ競争新聞。 ヘッ。 タなどはなってないんだ。 ねずみ競争新聞。 ええとカマジン国の飛行機プハラを襲うと。 なるほどえらいね。 これはたいへんだ。 まあしかしここまでは来ないから大丈夫だ。 ええとツェねずみの行くえ不明。 ツェねずみというのはあの意地わるだな。 こいつはおもしろい。 天井裏街一番地ツェ氏は昨夜行くえ不明となりたり。 本社のいちはやく探知するところによればツェ氏は数日前よりはりがねせいねずみとり氏と交際を結びおりしが一昨夜に至りて両氏の間に多少感情の衝突ありたるもののごとし。 台所街四番地ネ氏の談によれば昨夜もツェ氏ははりがねせいねずみとり氏を訪問したるがごとしと。 なお床下通り二十九番地ポ氏は昨夜深更より今朝にかけてツェ氏並びにはりがねせいねずみとり氏の激しき争論時に格闘の声を聞きたりと。 以上を総合するに本事件にははりがねせいねずみとり氏最も深き関係を有するがごとし。 本社はさらに深く事件の真相を探知の上大いにはりがねせいねずみとり氏に筆誅を加えんと欲す。 と。 はははふんこれはもう疑いもない。 ツェのやつめねずみとりに食われたんだ。 おもしろい。 そのつぎはと。 なんだええと新任ねずみ会議員テ氏。 エヘンエヘン。 エン。 エッヘン。 ヴェイヴェイ。 なんだちくしょう。 テなどがねずみ会議員だなんて。 えいおもしろくない。 おれでもすればいいんだ。 えい。 おもしろくもない散歩に出よう。 ほんとうにねそうはできないもんだよ。 ええええ全くですよ。 それにあの子は自分もどこかからだが悪いんですよ。 それだのにね朝は二時ごろから起きて薬を飲ませたりおかゆをたいてやったり夜だって寝るのはいつもおそいでしょう。 たいてい三時ごろでしょう。 ほんとうにからだがやすまるってないんでしょう。 感心ですねえ。 ほんとうにあんな心がけのいい子は今ごろあり。 エヘンエヘン。 それでそのわたしの考えではねどうしてもこれはその共同一致団結和睦のセイシンでやらんといかんね。 エヘンエヘン。 へい。 もしそうでないとするとつまりその世界のシンポハッタツカイゼンカイリョウがそのつまりテイタイするね。 エンエンエイエイ。 へい。 そこでその世界文明のシンポハッタツカイリョウカイゼンがテイタイすると政治はもちろんケイザイノウギョウジツギョウコウギョウキョウイクビジュツそれからチョウコクカイガそれからブンガクシバイええとエンゲキゲイジュツゴラクそのほかタイイクなどがハッハッハたいへんそのどうもわるくなるね。 エンエン。 へい。 そこでそのケイザイやゴラクが悪くなるというと不平を生じてブンレツを起こすというケッカにホウチャクするね。 そうなるのは実にそのわれわれのシンガイでフホンイであるからやはりそのものごとは共同一致団結和睦のセイシンでやらんといかんね。 エヘンエヘン。 こいつはブンレツだぞ。 ブンレツ者だ。 しばれしばれ。 クねずみはブンレツ者によりてみんなの前にて暗殺すべし。 さあブンレツ者。 あるけ早く。 どうもいい気味だね。 いつでもエヘンエヘンと言ってばかりいたやつなんだ。 やっぱり分裂していたんだ。 あいつが死んだらほんとうにせいせいするだろうね。 ワーッ。 逃がさんぞ。 コラッ。 チェッ。 貴様はなんと言うものだ。 クと申します。 フフそうかなぜこんなにしているんだ。 暗殺されるためです。 フフフ。 そうか。 それはかあいそうだ。 よしよしおれが引き受けてやろう。 おれのうちへ来い。 ちょうどおれのうちでは子供が四人できてそれに家庭教師がなくて困っているところなんだ。 来い。 お前たちはもう学問をしないといけない。 ここへ先生をたのんで来たからな。 よく習うんだよ。 決して先生を食べてしまったりしてはいかんぞ。 おとうさんありがとう。 きっと習うよ。 先生を食べてしまったりしないよ。 教えてやってくれ。 おもに算術をな。 へい。 しょうしょう承知いたしました。 先生早く算術を教えてください。 先生。 早く。 一に一をたすと二です。 そうだよ。 一から一を引くとなんにもなくなります。 わかったよ。 一に一をかけると一です。 きまってるよ。 一を一で割ると一です。 それでいいよ。 一に二をたすと三です。 合ってるよ。 一から二を引くと。 一から二は引かれないよ。 一に二をかけると二です。 そうともさ。 一を二で割ると。 一割る二では半分だよ。 エヘン。 エヘン。 エイ。 エイ。 なんだい。 ねずめ人をそねみやがったな。 エヘンエヘンエイエイ。 何か習ったか。 ねずみをとることです。 ナンペ。 うんとこせうんとこせ。 ごめんなさい。 ごめんなさい。 ごめんなさい。 ここはどこでござりまするな。 ここは宿屋ですよ。 さあお茶をおあがりなさい。 あわれやむすめ父親が旅で果てたと聞いたなら。 えい。 やかましい。 じたばたするな。 お慈悲でございます。 遺言のあいだほんのしばらくお待ちなされて下されませ。 よし早くやれ。 あわれやむすめちちおやが旅ではてたと聞いたならちさいあの手に白手甲いとし巡礼の雨とかぜ。 もうしご冥加ご報謝とかどなみなみに立つとても非道の蜘蛛の網ざしきさわるまいぞや。 よるまいぞ。 小しゃくなことを。 小しゃくなことを言うまいぞ。 赤いてながのくぅも天のちかくをはいまわりスルスル光のいとをはききぃらりきぃらり巣をかける。 ここへおいで。 あぁかい手ながのくぅもできたむすこは二百|疋めくそはんかけ蚊のなみだ大きいところで稗のつぶ。 ふん。 あいつはちかごろおれをねたんでるんだ。 やいなめくじ。 おれは今度は虫けら会の相談役になるんだぞ。 へっ。 くやしいか。 へっ。 てまえなんかいくらからだばかりふとってもこんなことはできまい。 へっへっ。 ううくもめよくもぶじょくしたな。 うう。 くもめ。 ワッハッハ。 あぁかいてながのくぅもあんまり網がまずいので八千二百里旅の蚊もくうんとうなってまわれ右。 何を。 狸め。 一生のうちにはきっとおれにおじぎをさせて見せるぞ。 なめくじさん。 今度は私もすっかり困ってしまいましたよ。 まるで食べるものはなし水はなしすこしばかりお前さんのためてあるふきのつゆを呉れませんか。 あげますともあげますとも。 さあおあがりなさい。 ああありがとうございます。 助かります。 もっとおあがりなさい。 あなたと私とは云わば兄弟。 ハッハハ。 さあさあも少しおあがりなさい。 そんならも少しいただきます。 ああありがとうございます。 かたつむりさん。 気分がよくなったら一つ相撲をとりましょうか。 ハッハハ。 久しぶりです。 おなかがすいて力がありません。 そんならたべ物をあげましょう。 さあおあがりなさい。 ありがとうございます。 それではいただきます。 さあすもうをとりましょう。 ハッハハ。 私はどうも弱いのですから強く投げないで下さい。 よっしょ。 そら。 ハッハハ。 もう一ぺんやりましょう。 ハッハハ。 もうつかれてだめです。 まあもう一ぺんやりましょうよ。 ハッハハ。 よっしょ。 そら。 ハッハハ。 もう一ぺんやりましょう。 ハッハハ。 もうだめです。 まあもう一ぺんやりましょうよ。 ハッハハ。 よっしょそら。 ハッハハ。 もう一ぺんやりましょう。 ハッハハ。 もうだめ。 まあもう一ぺんやりましょうよ。 ハッハハ。 よっしょ。 そら。 ハッハハ。 もう一ぺんやりましょう。 ハッハハ。 もう死にます。 さよなら。 まあもう一ぺんやりましょうよ。 ハッハハ。 さあ。 お立ちなさい。 起こしてあげましょう。 よっしょ。 そら。 ヘッヘッヘ。 なめくじさん。 今日は。 お薬を少し呉れませんか。 どうしたのです。 へびに噛まれたのです。 そんならわけはありません。 私が一寸そこを嘗めてあげましょう。 なあにすぐなおりますよ。 ハッハハ。 どうかお願い申します。 ええ。 よござんすとも。 私とあなたとは云わば兄弟。 ハッハハ。 ありがとう。 なめくじさん。 も少しよく嘗めないとあとで大変ですよ。 今度|又来てももう直してあげませんよ。 ハッハハ。 なめくじさん。 何だか足が溶けたようですよ。 ハッハハ。 なあに。 それほどじゃありません。 ハッハハ。 なめくじさん。 おなかが何だか熱くなりましたよ。 ハッハハ。 なあにそれほどじゃありません。 ハッハハ。 なめくじさん。 からだが半分とけたようですよ。 もうよして下さい。 ハッハハ。 なあにそれほどじゃありません。 ほんのも少しです。 も一分五|厘ですよ。 ハッハハ。 なめくじなんてまずいもんさ。 ぶま加減は見られたもんじゃない。 なめくじさん。 こんにちは。 少し水を呑ませませんか。 蛙さん。 これはいらっしゃい。 水なんかいくらでもあげますよ。 ちかごろはひでりですけれどもなあに云わばあなたと私は兄弟。 ハッハハ。 なめくじさん。 ひとつすもうをとりましょうか。 とりましょう。 よっしょ。 そら。 ハッハハ。 もう一ぺんやりましょう。 ハッハハ。 よっしょ。 そら。 ハッハハ。 土俵へ塩をまかなくちゃだめだ。 そら。 シュウ。 かえるさん。 こんどはきっと私なんかまけますね。 あなたは強いんだもの。 ハッハハ。 よっしょ。 そら。 ハッハハ。 あやられた。 塩だ。 畜生。 いやさよなら。 なめくじさん。 とんだことになりましたね。 蛙さん。 さよ。 さよならと云いたかったのでしょう。 本当にさよならさよなら。 暗い細路を通って向うへ行ったら私の胃袋にどうかよろしく云って下さいな。 狸さま。 こうひもじくては全く仕方ございません。 もう死ぬだけでございます。 そうじゃ。 みんな往生じゃ。 山猫大明神さまのおぼしめしどおりじゃ。 な。 なまねこ。 なまねこ。 なまねこなまねこなまねこなまねこ。 なまねこなまねこみんな山猫さまのおぼしめしどおりなまねこ。 なまねこ。 あ痛っ。 狸さん。 ひどいじゃありませんか。 なまねこなまねこみんな山猫さまのおぼしめしどおり。 なまねこ。 なまねこなまねこ。 ああありがたい山猫さま。 私のような悪いものでも助かりますなら耳の二つやそこらなんでもございませぬ。 なまねこ。 なまねこなまねこ私のようなあさましいものでも助かりますなら手でも足でもさしあげまする。 ああありがたい山猫さま。 みんなおぼしめしのまま。 ああありがたや山猫さま。 私のようないくじないものでも助かりますなら手の二本やそこらはいといませぬ。 なまねこなまねこ。 なまねこなまねこ。 私のようなとてもかなわぬあさましいものでもお役にたてて下されますか。 ああありがたや。 なまねこなまねこ。 おぼしめしのとおり。 むにゃむにゃ。 すっかりだまされた。 お前の腹の中はまっくろだ。 ああくやしい。 やかましい。 はやく消化しろ。 みんな山ねこさまのおぼしめしじゃ。 お前がお米を三升もって来たのもわしがお前に説教するのもじゃ。 山ねこさまはありがたいお方じゃ。 兎はおそばに参って大臣になられたげな。 お前もものの命をとったことは五百や千では利くまいに早うざんげさっしゃれ。 でないと山ねこさまにえらい責苦にあわされますぞい。 おお恐ろしや。 なまねこ。 なまねこ。 そんならどうしたら助かりますかな。 わしは山ねこさまのお身代りじゃでわしの云うとおりさっしゃれ。 なまねこ。 なまねこ。 どうしたらようございましょう。 それはな。 じっとしていさしゃれ。 な。 わしはお前のきばをぬくじゃ。 な。 お前の目をつぶすじゃ。 な。 それから。 なまねこなまねこなまねこ。 お前のみみを一寸かじるじゃ。 なまねこ。 なまねこ。 こらえなされ。 お前のあたまをかじるじゃ。 むにゃむにゃ。 なまねこ。 堪忍が大事じゃぞえ。 なま。 むにゃむにゃ。 お前のあしをたべるじゃ。 うまい。 なまねこ。 むにゃ。 むにゃ。 おまえのせなかを食うじゃ。 うまい。 むにゃむにゃむにゃ。 ここはまっくらだ。 ああここに兎の骨がある。 誰が殺したろう。 殺したやつは狸さまにあとでかじられるだろうに。 ヘン。 ううこわいこわい。 おれは地獄行きのマラソンをやったのだ。 うう切ない。 停まれ誰かッ。 第百二十八|聯隊の伝令。 どこへ行くか。 第五十聯隊聯隊|本部。 よし通れ。 あっあれなんだろう。 あんなところにまっ白な家ができた。 家じゃない山だ。 昨日はなかったぞ。 兵隊さんにきいてみよう。 よし。 兵隊さんあすこにあるのなに。 なんだうるさい帰れ。 兵隊さんいねむりしてんだい。 あすこにあるのなに。 うるさいなあどれだいおや。 昨日はあんなものなかったよ。 おい大変だ。 おい。 おまえたちはこどもだけれどもこういうときには立派にみんなのお役にたつだろうなあ。 いいか。 おまえはねこの森をはいって行ってアルキル中佐どのにお目にかかる。 それからおまえはうんと走って陸地測量部まで行くんだ。 そして二人ともこう言うんだ。 北緯二十五|度東経六|厘の処に目的のわからない大きな工事ができましたとな。 二人とも言ってごらん。 北緯二十五|度東経六|厘の処に目的のわからない大きな工事ができました。 そうだ。 では早く。 そのうち私は決してここを離れないから。 兵隊さん。 かまわないそうだよ。 あれはきのこというものだって。 なんでもないって。 アルキル中佐はうんと笑ったよ。 それからぼくをほめたよ。 あのねすぐなくなるって。 地図に入れなくてもいいって。 あんなもの地図に入れたり消したりしていたら陸地測量部など百あっても足りないって。 おや。 引っくりかえってらあ。 たったいま倒れたんだ。 なあんだ。 あっ。 あんなやつも出て来たぞ。 お母おらさ杉苗七百本買って呉ろ。 杉苗七百どどごさ植ぇらぃ。 家のうしろの野原さ。 虔十あそごは杉植ぇでも成長らなぃ処だ。 それより少し田でも打って助けろ。 買ってやれ買ってやれ。 虔十ぁ今まで何一つだて頼んだごとぁ無ぃがったもの。 買ってやれ。 虔十杉ぁ植える時掘らなぃばわがなぃんだじゃ。 明日まで待て。 おれ苗買って来てやるがら。 やぃ。 虔十此処さ杉植えるな※てやっぱり馬鹿だな。 第一おらの畑ぁ日影にならな。 平二さんお早うがす。 おおい虔十。 あの杉ぁ枝打ぢさなぃのか。 枝打ぢていうのは何だぃ。 枝打ぢつのは下の方の枝山刀で落すのさ。 おらも枝打ぢするべがな。 おう枝集めべいい焚ぎものうんと出来だ。 林も立派になったな。 虔十さん。 今日も林の立番だなす。 虔十貴さんどごの杉|伐れ。 何してな。 おらの畑ぁ日かげにならな。 伐れ伐れ。 伐らなぃが。 伐らなぃ。 ああここはすっかりもとの通りだ。 木まですっかりもとの通りだ。 木は却って小さくなったようだ。 みんなも遊んでいる。 あああの中に私や私の昔の友達が居ないだろうか。 ここは今は学校の運動場ですか。 いいえ。 ここはこの向うの家の地面なのですが家の人たちが一向かまわないで子供らの集まるままにして置くものですからまるで学校の附属の運動場のようになってしまいましたが実はそうではありません。 それは不思議な方ですね一体どう云うわけでしょう。 ここが町になってからみんなで売れ売れと申したそうですが年よりの方がここは虔十のただ一つのかたみだからいくら困ってもこれをなくすることはどうしてもできないと答えるそうです。 ああそうそうありましたありました。 その虔十という人は少し足りないと私らは思っていたのです。 いつでもはあはあ笑っている人でした。 毎日丁度この辺に立って私らの遊ぶのを見ていたのです。 この杉もみんなその人が植えたのだそうです。 ああ全くたれがかしこくたれが賢くないかはわかりません。 ただどこまでも十力の作用は不思議です。 ここはもういつまでも子供たちの美しい公園地です。 どうでしょう。 ここに虔十公園林と名をつけていつまでもこの通り保存するようにしては。 これは全くお考えつきです。 そうなれば子供らもどんなにしあわせか知れません。 虔十公園林。 農夫長の宮野目さんはどなたですか。 おれだ。 何か用かい。 私は今|事務所からこちらで働らけと云われてやって参りました。 そうか。 丁度いいところだった。 昨夜はどこへ泊った。 事務所へ泊りました。 そうか。 丁度よかった。 この人について行ってくれ。 玉蜀黍の脱穀をしてるんだ。 機械は八時半から動くからな。 今からすぐ行くんだ。 承知しました。 あいつは十五分|進んでいるな。 無くなったな。 これで午だ。 今度は合っているな。 お前郷里はどこだ。 福島です。 前はどこに居たね。 六原に居りました。 どうして向うをやめたんだい。 一ぺん郷国へ帰りましてねあすこも陰気でいやだから今度はこっちへ来たんです。 そうかい。 六原に居たんじゃ馬は使えるだろうな。 使えます。 いつまでこっちに居るつもりだい。 ずっと居ますよ。 そうか。 場長は帰っているかい。 まだ帰らないよ。 そうか。 さあじき一時だみんな仕事に行ってくれ。 あいつは仲々気取ってるな。 時計ばかり苦にしてるよ。 今夜|積るぞ。 一尺は積るな。 帝釈の湯で熊また捕れたってな。 そうか。 今年は二|疋目だな。 何だこの時計針のねじが緩んでるんだ。 この時計上等だな。 巴里製だ。 針がゆるんだんだ。 修繕したのか。 汝時計|屋に居たな。 おお発破だぞ。 知らないふりしてろ。 石とりやめて早くみんな下流へさがれ。 知らないふりして遊んでろ。 みんな。 発破だぞ発破だぞ。 さあ流れて来るぞ。 みんなとれ。 だまってろだまってろ。 さっぱり居なぃな。 発破かけだら雑魚撒かせ。 あ生洲打壊すとこだぞ。 おおれ先に叫ぶからみんなあとから一二三で叫ぶこだ。 いいか。 あんまり川を濁すなよいつでも先生云うでなぃか。 一二ぃ三。 あんまり川を濁すなよいつでも先生云うでなぃか。 あんまり川を濁すなよいつでも先生云うでなぃか。 この水|呑むのかここらでは。 あんまり川をにごすなよいつでも先生云うでなぃか。 川をあるいてわるいのか。 あんまり川をにごすなよいつでも先生云うでなぃか。 ちゃんと一|列にならべ。 いいか。 魚|浮いてきたら泳いで行ってとれ。 とったくらい与るぞ。 いいか。 さっぱり魚浮ばなぃよ。 魚さっぱり浮ばなぃよ。 鬼っこしないか。 するする。 しゅっこ来。 ようし見てろ。 おいらもうやめた。 こんな鬼っこもうしない。 雨はざあざあざっこざっこ風はしゅうしゅうしゅっこしゅっこ。 いま叫んだのはおまえらだか。 そでないそでない。 そでない。 ああいいな。 この砂利がこの壺穴を穿るのです。 水がこの上を流れるでしょう石が水の底でザラザラ動くでしょう。 まわったりもするでしょうだんだん岩が穿れていくのです。 こう云う溝は水の出るたんびにだんだん深くなるばかりです。 なぜなら流されて行く砂利はあまりこの高い所を通りません。 溝の中ばかりころんで行きます。 溝は深くなる一方でしょう。 水の中をごらんなさい。 岩がたくさん縦の棒のようになっています。 みんなこれです。 ああ騎兵だ騎兵だ。 どごさ行ぐのだべ。 水馬演習でしょう。 白い上着を着ているしきっと裸馬だろう。 こっちさ来るどいいな。 来るよきっと。 大てい向う岸のあの草の中から出て来ます。 兵隊だって誰だって気持ちのいい所へは来たいんだ。 どうしてこの環出来だのす。 この出来かたはむずかしいのです。 膠質体のことをも少し詳しくやってからでなければわかりません。 けれどもとにかくこれは電気の作用です。 この環はリーゼガングの環と云います。 実験室でもこさえられます。 あとで土壌のほうでも説明します。 腐植質磐層というものも似たようなわけでできるのですから。 来た来たとうとうやって来た。 水馬演習だ。 向う側へ行こう。 なんだ今日はただ馬を水にならすためだ。 ここの水少し干したほういいな鉄梃を貸しませんか。 ここら岩も柔いようだな。 お暑うござ※す。 なあにおうちの生徒さんぐらい大きな方ならあぶないこともないのですが一寸来てみたところです。 先生岩に何かの足痕あらんす。 あした石膏を用意して来よう。 イギリス海岸。 何の用でここへ来たの何かしらべに来たの何かしらべに来たの。 おれは内地の農林学校の助手だよだから標本を集めに来たんだい。 何の用でここへ来たの何かしらべに来たのしらべに来たの何かしらべに来たの。 何してるの何を考えてるの何か見ているの何かしらべに来たの。 そんなにどんどん行っちまわないでせっかくひとへ物を訊いたらしばらく返事を待っていたらいいじゃないか。 貝殻なんぞ何にするんだ。 そんな小さな貝殻なんど何にするんだ何にするんだ。 おれは学校の助手だからさ。 何にするんだ何にするんだ貝殻なんぞ何にするんだ。 あんまり訳がわからないなものと云うものはそんなに何でもかでも何かにしなけぁいけないもんじゃないんだよ。 そんなことおれよりおまえたちがもっとよくわかってそうなもんじゃないか。 おれはまたおまえたちならきっと何かにしなけぁ済まないものと思ってたんだ。 おれ海へ行って孔石をひろって来るよ。 ひとりで浜へ行ってもいいけれどあすこにはくらげがたくさん落ちている。 寒天みたいなすきとおしてそらも見えるようなものがたくさん落ちているからそれをひろってはいけないよ。 それからそれで物をすかして見てはいけないよ。 おまえの眼は悪いものを見ないようにすっかりはらってあるんだから。 くらげはそれを消すから。 おまえの兄さんもいつかひどい眼にあったから。 そんなものおれとらない。 こんならもう穴石はいくらでもある。 それよりあのおっ母の云ったおかしなものを見てやろう。 おっかさんおっかさん。 おっかさん。 小僧来い。 いまおれのとこのちょうざめの家に下男がなくて困っているとこだ。 ごち走してやるから来い。 おっかさん。 もうさよなら。 ほざくな小僧いるかの子がびっくりしてるじゃないか。 ああおいらはもういるかの子なんぞの機嫌を考えなければならないようになったのか。 おいちょうざめいいものをやるぞ。 出て来い。 ああなさけない。 おっかさんの云うことを聞かないもんだからとうとうこんなことになってしまった。 ちょうざめどうしたい。 どうもきのこにあてられてね。 そうか。 そいつは気の毒だ。 実はねおまえのとこに下男がなかったもんだから今日一人|見附けて来てやったんだ。 蟹にしておいたがねぴしぴし遠慮なく使うがいい。 おい。 きさまこの穴にはいって行け。 ううお前かい今度の下男は。 おれはいま病気でねどうも苦しくていけないんだ。 ぼくらの方のざしき童子のはなしです。 あかるいひるまみんなが山へはたらきに出てこどもがふたり庭であそんでおりました。 大きな家にだれもおりませんでしたからそこらはしんとしています。 ところが家のどこかのざしきでざわっざわっと箒の音がしたのです。 ふたりのこどもはおたがい肩にしっかりと手を組みあってこっそり行ってみましたがどのざしきにもたれもいず刀の箱もひっそりとしてかきねの檜がいよいよ青く見えるきりたれもどこにもいませんでした。 ざわっざわっと箒の音がきこえます。 とおくの百舌の声なのか北上川の瀬の音かどこかで豆を箕にかけるのかふたりでいろいろ考えながらだまって聴いてみましたがやっぱりどれでもないようでした。 たしかにどこかでざわっざわっと箒の音がきこえたのです。 も一どこっそりざしきをのぞいてみましたがどのざしきにもたれもいずただお日さまの光ばかりそこらいちめんあかるく降っておりました。 こんなのがざしき童子です。 「大道めぐり大道めぐり。 如来さんの祭りへ行きたい。 如来さんの祭りへ行きたい。 祭り延ばすから早くよくなれ。 あいつのためにひどいめにあった。 もう今日は来てもどうしたってあそばないぞ。 おお来たぞ来たぞ。 ようしかくれろ。 ざしきぼっこだ。 旧暦八月十七日の晩おらは酒のんで早く寝た。 おおいおおいと向こうで呼んだ。 起きて小屋から出てみたらお月さまはちょうどそらのてっぺんだ。 おらは急いで舟だして向こうの岸に行ってみたらば紋付を着て刀をさし袴をはいたきれいな子供だ。 たった一人で白緒のぞうりもはいていた。 渡るかと言ったらたのむと言った。 子どもは乗った。 舟がまん中ごろに来たときおらは見ないふりしてよく子供を見た。 きちんと膝に手を置いてそらを見ながらすわっていた。 お前さん今からどこへ行くどこから来たってきいたらば子供はかあいい声で答えた。 そこの笹田のうちにずいぶんながくいたけれどもうあきたから他へ行くよ。 なぜあきたねってきいたらば子供はだまってわらっていた。 どこへ行くねってまたきいたらば更木の斎藤へ行くよと言った。 岸についたら子供はもういずおらは小屋の入口にこしかけていた。 夢だかなんだかわからない。 けれどもきっと本当だ。 それから笹田がおちぶれて更木の斎藤では病気もすっかり直ったしむすこも大学を終わったしめきめき立派になったから。 一山男紫紺を売りて酒を買い候事山男西根山にて紫紺の根を掘り取り夕景に至りてひそかに御城下へ立ち出で候上材木町生薬商人近江屋源八に一俵二十五|文にて売り候。 それより山男酒屋半之助方へ参り五|合入程の瓢箪を差出しこの中に清酒一|斗お入れなされたくと申し候。 半之助方|小僧身ぶるえしつつ酒一斗はとても入り兼ね候と返答致し候|処山男まずは入れなさるべく候と押して申し候。 半之助も顔色青ざめ委細承知と早口に申し候。 扨小僧ますをとりて酒を入れ候に酒は事もなく入り遂に正味一斗と相成り候。 山男|大に笑いて二十五文を置き瓢箪をさげて立ち去り候|趣材木町|総代より御届け有之候。 なるほど紫紺の職人はみな死んでしまった。 生薬屋のおやじも死んだと。 そうしてみるとさしあたり紫紺についての先輩は今では山男だけというわけだ。 よしよし一つ山男を呼び出して聞いてみよう。 ふん。 こうさえしてしまえばあとはむこうへ届こうが届くまいが郵便屋の責任だ。 くるまちんはいくら。 旦那さん。 百八十|両やって下さい。 俥はもうみしみし云っていますし私はこれから病院へはいります。 うんもっともだ。 さあこれだけやろう。 つりは酒代だ。 いやこんにちは。 お招きにあずかりまして大へん恐縮です。 知って置くべき日常の作法。 いやじっさいあの辺はひどい処だよ。 どうも六百からの棄権ですからな。 ええと失礼ですが山男さんあなたはおいくつでいらっしゃいますか。 二十九です。 お若いですな。 やはり一年は三百六十五日ですか。 一年は三百六十五日のときも三百六十六日のときもあります。 あなたはふだんどんなものをおあがりになりますか。 さよう。 栗の実やわらびや野菜です。 野菜はあなたがおつくりになるのですか。 お日さまがおつくりになるのです。 どんなものですか。 さよう。 みずほうなしどけうどそのほかしめじきんたけなどです。 今年はうどの出来がどうですか。 なかなかいいようですが少しかおりが不足ですな。 雨の関係でしょうかな。 そうです。 しかしどうしてもアスパラガスには叶いませんな。 へえ。 アスパラガスやちしゃのようなものが山野に自生するようにならないと産業もほんとうではありませんな。 へえ。 ずいぶんなご卓見です。 しかしあなたは紫紺のことはよくごぞんじでしょうな。 しこんしこんと。 はてな聞いたようなことだがどうもよくわかりません。 やはり知らないのですな。 へろれってへろれってけろれってへろれって。 ええ一寸一言ご挨拶申しあげます。 今晩はお客様にはよくおいで下さいました。 どうかおゆるりとおくつろぎ下さい。 さて現今世界の大勢を見るに実にどうもこんらんしている。 ひとのものを横合からとるようなことが多い。 実にふんがいにたえない。 まだ世界は野蛮からぬけない。 けしからん。 くそっ。 ちょっ。 ええ一寸一言ご挨拶を申し上げます。 今晩はあついおもてなしにあずかりまして千万かたじけなく思います。 どういうわけでこんなおもてなしにあずかるのか先刻からしきりに考えているのです。 やはりどうもその先頃おたずねにあずかった紫紺についてのようであります。 そうしてみると私も本気で考え出さなければなりません。 そう思って一生懸命思い出しました。 ところが私は子供のとき母が乳がなくて濁り酒で育ててもらったためにひどいアルコール中毒なのであります。 お酒を呑まないと物を忘れるので丁度みなさまの反対であります。 そのためについビールも一本|失礼いたしました。 そしてそのお蔭でやっとおもいだしました。 あれは現今西根山にはたくさんございます。 私のおやじなどはしじゅうあれを掘って町へ来て売ってお酒にかえたというはなしであります。 おやじがどうもちかごろ紫紺も買う人はなし困ったと云ってこぼしているのも聞いたことがあります。 それからあれを染めるには何でも黒いしめった土をつかうというはなしもぼんやりおぼえています。 紫紺についてわたくしの知っているのはこれだけであります。 それで何かのご参考になればまことにしあわせです。 さて考えてみますとありがたいはなしでございます。 私のおやじは紫紺の根を掘って来てお酒ととりかえましたが私は紫紺のはなしを一寸すればこんなに酔うくらいまでお酒が呑めるのです。 そらこんなに酔うくらいです。 黒いしめった土を使うこと。 やあこれで解散だ。 諸君めでたしめでたし。 ワッハッハ。 こいづば鹿さ呉でやべか。 それ鹿来て喰。 はあ鹿等あすぐに来たもな。 じゃおれ行って見で来べが。 うんにゃ危ないじゃ。 も少し見でべ。 何時だがの狐みだいに口発破などさ罹ってあつまらないもな高で栃の団子などでよ。 そだそだ全ぐだ。 生ぎものだがも知れないじゃい。 うん。 生ぎものらしどごもあるな。 なじょだた。 なにだたあの白い長いやづあ。 縦に皺の寄ったもんだけあな。 そだら生ぎものだないがべやっぱり蕈などだべが。 毒蕈だべ。 うんにゃ。 きのごだない。 やっぱり生ぎものらし。 そうが。 生きもので皺うんと寄ってらば年老りだな。 うん年老りの番兵だ。 ううはははは。 ふふふ青白の番兵だ。 ううははは青じろ番兵だ。 こんどおれ行って見べが。 行ってみろ大丈夫だ。 喰っつがないが。 うんにゃ大丈夫だ。 なじょだたなして逃げで来た。 噛じるべとしたようだたもさ。 ぜんたいなにだけあ。 わがらないな。 とにかぐ白どそれがら青ど両方のぶぢだ。 匂あなじょだ匂あ。 柳の葉みだいな匂だな。 はでな息吐でるが息。 さあそでば気付けないがた。 こんどあおれあ行って見べが。 行ってみろ。 何して遁げできた。 気味悪ぐなてよ。 息吐でるが。 さあ息の音あ為ないがけあな。 口も無いようだけあな。 あだまあるが。 あだまもゆぐわがらないがったな。 そだらこんだおれ行って見べが。 おう柔っけもんだぞ。 泥のようにが。 うんにゃ。 草のようにが。 うんにゃ。 ごまざいの毛のようにが。 うんあれよりあも少し硬ぱしな。 なにだべ。 とにかぐ生ぎもんだ。 やっぱりそうだが。 うん汗臭いも。 おれも一遍行ってみべが。 じゃじゃ噛じらえだが痛ぐしたが。 プルルルルルル。 舌|抜がれだが。 プルルルルルル。 なにしたなにした。 なにした。 じゃ。 ふうああ舌|縮まってしまったたよ。 なじょな味だた。 味無いがたな。 生ぎもんだべが。 なじょだが判らない。 こんどあ汝あ行ってみろ。 お。 おううまいうまいそいづさい取ってしめばあどは何っても怖っかなぐない。 きっともてこいづあ大きな蝸牛の旱からびだのだな。 さあいいがおれ歌うだうはんてみんな廻れ。 のはらのまん中のめつけものすっこんすっこの栃だんご栃のだんごは結構だがとなりにいからだふんながす青じろ番兵は気にかがる。 青じろ番兵はふんにゃふにゃ吠えるもさないば泣ぐもさない瘠せで長くてぶぢぶぢでどごが口だがあだまだがひでりあがりのなめぐじら。 おうこんだ団子お食ばがりだじょ。 おう煮だ団子だじょ。 おうまん円けじょ。 おうはんぐはぐ。 おうすっこんすっこ。 おうけっこ。 はんの木のみどりみじんの葉の向さじゃらんじゃららんのお日さん懸がる。 お日さんをせながさしょえばはんの木もくだげで光る鉄のかんがみ。 お日さんははんの木の向さ降りでてもすすぎぎんがぎがまぶしまんぶし。 ぎんがぎがのすすぎの中さ立ぢあがるはんの木のすねの長んがいかげぼうし。 ぎんがぎがのすすぎの底の日暮れかだ苔の野はらを蟻こも行がず。 ぎんがぎがのすすぎの底でそっこりと咲ぐうめばぢの愛どしおえどし。 ホウやれやれい。 美くしき多くの人の美くしき多くの夢を。 描けども成らず描けども成らず。 描けども描けども夢なれば描けども成りがたし。 画家ならば絵にもしましょ。 女ならば絹を枠に張って縫いにとりましょ。 美しき多くの人の美しき多くの夢を。 縫いにやとらん。 縫いとらば誰に贈らん。 贈らん誰に。 我に贈れ。 縫えばどんな色で。 絹買えば白き絹糸買えば銀の糸金の糸消えなんとする虹の糸夜と昼との界なる夕暮の糸恋の色恨みの色は無論ありましょ。 あの木立は枝を卸した事がないと見える。 梅雨もだいぶ続いた。 よう飽きもせずに降るの。 脚気かな脚気かな。 女の夢は男の夢よりも美くしかろ。 せめて夢にでも美くしき国へ行かねば。 世の中が古くなってよごれたか。 よごれました。 古き壺には古き酒があるはず味いたまえ。 古き世に酔えるものなら嬉しかろ。 脚気かな脚気かな。 あの声がほととぎすか。 あちらだ。 一声でほととぎすだと覚る。 二声で好い声だと思うた。 ひと目見てすぐ惚れるのもそんな事でしょか。 あの声は胸がすくよだが惚れたら胸は痞えるだろ。 惚れぬ事。 惚れぬ事。 どうも脚気らしい。 九仞の上に一簣を加える。 加えぬと足らぬ加えると危うい。 思う人には逢わぬがましだろ。 しかし鉄片が磁石に逢うたら。 はじめて逢うても会釈はなかろ。 見た事も聞いた事もないにこれだなと認識するのが不思議だ。 わしは歌麻呂のかいた美人を認識したがなんと画を活かす工夫はなかろか。 私には――認識した御本人でなくては。 夢にすればすぐに活きる。 どうして。 わしのはこうじゃ。 灰が湿っているのか知らん。 どうかな。 人並じゃ。 わしのはこうじゃ。 今度はつきました。 荼毘だ荼毘だ。 蚊の世界も楽じゃなかろ。 御夢の物語りは。 こう湿気てはたまらん。 じめじめする事。 香でも焚きましょか。 あら蜘蛛が。 蓮の葉に蜘蛛|下りけり香を焚く。 ※蛸懸不揺篆煙遶竹梁。 夢の話しを蜘蛛もききに来たのだろ。 そうじゃ夢に画を活かす話しじゃ。 ききたくば蜘蛛も聞け。 百二十間の廻廊があって百二十個の灯籠をつける。 百二十間の廻廊に春の潮が寄せて百二十個の灯籠が春風にまたたく朧の中海の中には大きな華表が浮かばれぬ巨人の化物のごとくに立つ。 隣だ。 また明晩。 必ず。 あれは画じゃない活きている。 あれを平面につづめればやはり画だ。 しかしあの声は。 女は藤紫。 男は。 そうさ。 緋。 百二十間の廻廊に二百三十五枚の額が懸ってその二百三十二枚目の額に画いてある美人の。 声は黄色ですか茶色ですか。 そんな単調な声じゃない。 色には直せぬ声じゃ。 強いて云えばまあなたのような声かな。 ありがとう。 八畳の座敷があって三人の客が坐わる。 一人の女の膝へ一疋の蟻が上る。 一疋の蟻が上った美人の手は。 白い蟻は黒い。 その画にかいた美人が。 波さえ音もなき朧月夜にふと影がさしたと思えばいつの間にか動き出す。 長く連なる廻廊を飛ぶにもあらず踏むにもあらずただ影のままにて動く。 顔は。 蜜を含んで針を吹く。 ビステキの化石を食わせるぞ。 造り花なら蘭麝でも焚き込めばなるまい。 珊瑚の枝は海の底薬を飲んで毒を吐く軽薄の児。 それそれ。 合奏より夢の続きが肝心じゃ。 ――画から抜けだした女の顔は。 描けども成らず描けども成らず。 蟻の夢が醒めました。 蟻の夢は葛餅か。 抜け出ぬか抜け出ぬか。 画から女が抜け出るよりあなたが画になる方がやさしゅう御座んしょ。 それは気がつかなんだ今度からはこちが画になりましょ。 蟻も葛餅にさえなればこんなに狼狽えんでも済む事を。 あすこに画がある。 ここにも画が出来る。 私も画になりましょか。 そのままそのままそのままが名画じゃ。 動くと画が崩れます。 画になるのもやはり骨が折れます。 南無三好事魔多し。 刹那に千金を惜しまず。 夜もだいぶ更けた。 ほととぎすも鳴かぬ。 寝ましょか。 珊瑚樹の根付。 夷講の夜の事であった。 硝子問屋。 荒布橋。 夷講。 荒布橋。 岡田君の日記。 六月の夜。 河岸の夜。 北より南へ。 三人の従兄弟。 霊岸島の自殺。 船室。 遠いよ。 遠いぜ。 遠いよ。 遠いぜ。 これが加茂の森だ。 加茂の森がわれわれの庭だ。 御湯に御這入り。 公まず這入れ。 公まず眠れ。 郡内か。 太織だ。 公のために新調したのだ。 前をみては後えを見ては物欲しとあこがるるかなわれ。 腹からの笑といえど苦しみのそこにあるべし。 うつくしき極みの歌に悲しさの極みの想籠るとぞ知れ。 不如帰。 金色夜叉。 ここらに休む所はないかね。 もう十五丁行くと茶屋がありますよ。 だいぶ濡れたね。 おい。 おい。 御婆さんここをちょっと借りたよ。 はいこれはいっこう存じませんで。 だいぶ降ったね。 あいにくな御天気でさぞ御困りで御座んしょ。 おおおおだいぶお濡れなさった。 今火を焚いて乾かして上げましょ。 そこをもう少し燃しつけてくれればあたりながら乾かすよ。 どうも少し休んだら寒くなった。 へえただいま焚いて上げます。 まあ御茶を一つ。 まあ一つ。 御菓子を。 閑静でいいね。 へえ御覧の通りの山里で。 鶯は鳴くかね。 ええ毎日のように鳴きます。 此辺は夏も鳴きます。 聞きたいな。 ちっとも聞えないとなお聞きたい。 あいにく今日は――先刻の雨でどこぞへ逃げました。 さあ御あたり。 さぞ御寒かろ。 ああ好い心持ちだ御蔭で生き返った。 いい具合に雨も晴れました。 そら天狗巌が見え出しました。 御婆さん丈夫そうだね。 はい。 ありがたい事に達者で――針も持ちます苧もうみます御団子の粉も磨きます。 ここから那古井までは一里|足らずだったね。 はい二十八丁と申します。 旦那は湯治に御越しで。 込み合わなければ少し逗留しようかと思うがまあ気が向けばさ。 いえ戦争が始まりましてから頓と参るものは御座いません。 まるで締め切り同様で御座います。 妙な事だね。 それじゃ泊めてくれないかも知れんね。 いえ御頼みになればいつでも宿めます。 宿屋はたった一軒だったね。 へえ志保田さんと御聞きになればすぐわかります。 村のものもちで湯治場だか隠居所だかわかりません。 じゃ御客がなくても平気な訳だ。 旦那は始めてで。 いや久しい以前ちょっと行った事がある。 また誰ぞ来ました。 はい今日は。 おや源さんか。 また城下へ行くかい。 何か買物があるなら頼まれて上げよ。 そうさ鍛冶町を通ったら娘に霊厳寺の御札を一枚もらってきておくれなさい。 はい貰ってきよ。 一枚か。 ――御秋さんは善い所へ片づいて仕合せだ。 な御叔母さん。 ありがたい事に今日には困りません。 まあ仕合せと云うのだろか。 仕合せとも御前。 あの那古井の嬢さまと比べて御覧。 本当に御気の毒な。 あんな器量を持って。 近頃はちっとは具合がいいかい。 なあに相変らずさ。 困るなあ。 困るよう。 コーラッ。 源さんわたしゃお嫁入りのときの姿がまだ眼前に散らついている。 裾模様の振袖に高島田で馬に乗って。 そうさ船ではなかった。 馬であった。 やはりここで休んで行ったな御叔母さん。 あいその桜の下で嬢様の馬がとまったとき桜の花がほろほろと落ちてせっかくの島田に斑が出来ました。 それじゃまあ御免。 帰りにまた御寄り。 あいにくの降りで七曲りは難義だろ。 はい少し骨が折れよ。 あれは那古井の男かい。 はい那古井の源兵衛で御座んす。 あの男がどこぞの嫁さんを馬へ乗せて峠を越したのかい。 志保田の嬢様が城下へ御輿入のときに嬢様を青馬に乗せて源兵衛が覊絏を牽いて通りました。 ――月日の立つのは早いものでもう今年で五年になります。 さぞ美くしかったろう。 見にくればよかった。 ハハハ今でも御覧になれます。 湯治場へ御越しなさればきっと出て御挨拶をなされましょう。 はあ今では里にいるのかい。 やはり裾模様の振袖を着て高島田に結っていればいいが。 たのんで御覧なされ。 着て見せましょ。 嬢様と長良の乙女とはよく似ております。 顔がかい。 いいえ。 身の成り行きがで御座んす。 へえその長良の乙女と云うのは何者かい。 昔しこの村に長良の乙女と云う美くしい長者の娘が御座りましたそうな。 へえ。 ところがその娘に二人の男が一度に懸想してあなた。 なるほど。 ささだ男に靡こうかささべ男に靡こうかと娘はあけくれ思い煩ったがどちらへも靡きかねてとうとうあきづけばをばなが上に置く露のけぬべくもわはおもほゆるかもと云う歌を咏んで淵川へ身を投げて果てました。 これから五丁東へ下ると道端に五輪塔が御座んす。 ついでに長良の乙女の墓を見て御行きなされ。 那古井の嬢様にも二人の男が祟りました。 一人は嬢様が京都へ修行に出て御出での頃|御逢いなさったので一人はここの城下で随一の物持ちで御座んす。 はあ御嬢さんはどっちへ靡いたかい。 御自身は是非京都の方へと御望みなさったのをそこには色々な理由もありましたろが親ご様が無理にこちらへ取りきめて。 めでたく淵川へ身を投げんでも済んだ訳だね。 ところが――先方でも器量望みで御貰いなさったのだから随分大事にはなさったかも知れませぬがもともと強いられて御出なさったのだからどうも折合がわるくて御親類でもだいぶ御心配の様子で御座んした。 ところへ今度の戦争で旦那様の勤めて御出の銀行がつぶれました。 それから嬢様はまた那古井の方へ御帰りになります。 世間では嬢様の事を不人情だとか薄情だとか色々申します。 もとは極々内気の優しいかたがこの頃ではだいぶ気が荒くなって何だか心配だと源兵衛が来るたびに申します。 御婆さん那古井へは一筋道だね。 長良の五輪塔から右へ御下りなさると六丁ほどの近道になります。 路はわるいが御若い方にはその方がよろしかろ。 ――これは多分に御茶代を――気をつけて御越しなされ。 海棠の露をふるふや物狂ひ。 花の影女の影の朧かな。 正一位女に化けて朧月。 御早う。 昨夕はよく寝られましたか。 さ御召しなさい。 これはありがとう。 ありがとう。 ほほほほ御部屋は掃除がしてあります。 往って御覧なさい。 いずれ後ほど。 海棠の露をふるふや物狂。 海棠の露をふるふや朝烏。 花の影女の影の朧かな。 花の影女の影を重ねけり。 正一位女に化けて朧月。 御曹子女に化けて朧月。 遅くなりました。 御嫌いか。 いいや今に食う。 うちに若い女の人がいるだろう。 へえ。 ありゃ何だい。 若い奥様でござんす。 あのほかにまだ年寄の奥様がいるのかい。 去年|御亡くなりました。 旦那さんは。 おります。 旦那さんの娘さんでござんす。 あの若い人がかい。 へえ。 御客はいるかい。 おりません。 わたし一人かい。 へえ。 若い奥さんは毎日何をしているかい。 針仕事を。 それから。 三味を弾きます。 それから。 御寺へ行きます。 御寺|詣りをするのかい。 いいえ和尚様の所へ行きます。 和尚さんが三味線でも習うのかい。 いいえ。 じゃ何をしに行くのだい。 大徹様の所へ行きます。 この部屋は普段誰か這入っている所かね。 普段は奥様がおります。 それじゃ昨夕わたしが来る時までここにいたのだね。 へえ。 それは御気の毒な事をした。 それで大徹さんの所へ何をしに行くのだい。 知りません。 それから。 何でござんす。 それからまだほかに何かするのだろう。 それからいろいろ。 いろいろってどんな事を。 知りません。 また寝ていらっしゃるか昨夕は御迷惑で御座んしたろう。 何返も御邪魔をしてほほほほ。 今朝はありがとう。 まあ寝ていらっしゃい。 寝ていても話は出来ましょう。 御退屈だろうと思って御茶を入れに来ました。 ありがとう。 うんなかなか美事だ。 今しがた源兵衛が買って帰りました。 これならあなたに召し上がられるでしょう。 この青磁の形は大変いい。 色も美事だ。 ほとんど羊羹に対して遜色がない。 これは支那ですか。 何ですか。 どうも支那らしい。 そんなものが御好きなら見せましょうか。 ええ見せて下さい。 父が骨董が大好きですからだいぶいろいろなものがあります。 父にそう云っていつか御茶でも上げましょう。 御茶ってあの流儀のある茶ですかな。 いいえ流儀も何もありゃしません。 御厭なら飲まなくってもいい御茶です。 そんならついでに飲んでもいいですよ。 ほほほほ。 父は道具を人に見ていただくのが大好きなんですから。 褒めなくっちゃあいけませんか。 年寄りだから褒めてやれば嬉しがりますよ。 へえ少しなら褒めて置きましょう。 負けてたくさん御褒めなさい。 はははは時にあなたの言葉は田舎じゃない。 人間は田舎なんですか。 人間は田舎の方がいいのです。 それじゃ幅が利きます。 しかし東京にいた事がありましょう。 ええいました京都にもいました。 渡りものですから方々にいました。 ここと都とどっちがいいですか。 同じ事ですわ。 こう云う静かな所がかえって気楽でしょう。 気楽も気楽でないも世の中は気の持ちよう一つでどうでもなります。 蚤の国が厭になったって蚊の国へ引越しちゃ何にもなりません。 蚤も蚊もいない国へ行ったらいいでしょう。 そんな国があるならここへ出して御覧なさい。 さあ出してちょうだい。 御望みなら出して上げましょう。 さあこの中へ御這入りなさい。 蚤も蚊もいません。 まあ窮屈な世界だこと横幅ばかりじゃありませんか。 そんな所が御好きなのまるで蟹ね。 わはははは。 昨日は山で源兵衛に御逢いでしたろう。 ええ。 長良の乙女の五輪塔を見ていらしったか。 ええ。 あきづけばをばなが上に置く露のけぬべくもわはおもほゆるかも。 その歌はね茶店で聞きましたよ。 婆さんが教えましたか。 あれはもと私のうちへ奉公したもので私がまだ嫁に。 私がまだ若い時分でしたがあれが来るたびに長良の話をして聞かせてやりました。 うただけはなかなか覚えなかったのですが何遍も聴くうちにとうとう何もかも諳誦してしまいました。 どうれでむずかしい事を知ってると思った。 ――しかしあの歌は憐れな歌ですね。 憐れでしょうか。 私ならあんな歌は咏みませんね。 第一淵川へ身を投げるなんてつまらないじゃありませんか。 なるほどつまらないですね。 あなたならどうしますか。 どうするって訳ないじゃありませんか。 ささだ男もささべ男も男妾にするばかりですわ。 両方ともですか。 ええ。 えらいな。 えらかあない当り前ですわ。 なるほどそれじゃ蚊の国へも蚤の国へも飛び込まずに済む訳だ。 蟹のような思いをしなくっても生きていられるでしょう。 あれが本当の歌です。 失礼ですが旦那はやっぱり東京ですか。 東京と見えるかい。 見えるかいって一目見りゃあ――第一言葉でわかりまさあ。 東京はどこだか知れるかい。 そうさね。 東京は馬鹿に広いからね。 ――何でも下町じゃねえようだ。 山の手だね。 山の手は麹町かね。 え。 それじゃ小石川。 でなければ牛込か四谷でしょう。 まあそんな見当だろう。 よく知ってるな。 こう見えて私も江戸っ子だからね。 道理で生粋だと思ったよ。 えへへへへ。 からっきしどうも人間もこうなっちゃみじめですぜ。 何でまたこんな田舎へ流れ込んで来たのだい。 ちげえねえ旦那のおっしゃる通りだ。 全く流れ込んだんだからね。 すっかり食い詰めっちまって。 もとから髪結床の親方かね。 親方じゃねえ職人さ。 え。 所かね。 所は神田松永町でさあ。 なあに猫の額見たような小さな汚ねえ町でさあ。 旦那なんか知らねえはずさ。 あすこに竜閑橋てえ橋がありましょう。 え。 そいつも知らねえかね。 竜閑橋ゃ名代な橋だがね。 おいもう少し石鹸を塗けてくれないか痛くっていけない。 痛うがすかい。 私ゃ癇性でねどうもこうやって逆剃をかけて一本一本|髭の穴を掘らなくっちゃ気が済まねえんだから――なあに今時の職人なあ剃るんじゃねえ撫でるんだ。 もう少しだ我慢おしなせえ。 我慢は先からもうだいぶしたよ。 御願だからもう少し湯か石鹸をつけとくれ。 我慢しきれねえかね。 そんなに痛かあねえはずだが。 全体髭があんまり延び過ぎてるんだ。 石鹸なんぞをつけて剃るなあ腕が生なんだが旦那のは髭が髭だから仕方があるめえ。 旦那ああんまり見受けねえようだが何ですかい近頃来なすったのかい。 二三日前来たばかりさ。 へえどこにいるんですい。 志保田に逗ってるよ。 うんあすこの御客さんですか。 おおかたそんな事たろうと思ってた。 実あ私もあの隠居さんを頼て来たんですよ。 ――なにねあの隠居が東京にいた時分わっしが近所にいて――それで知ってるのさ。 いい人でさあ。 ものの解ったね。 去年|御新造が死んじまって今じゃ道具ばかり捻くってるんだが――何でも素晴らしいものが有るてえますよ。 売ったらよっぽどな金目だろうって話さ。 奇麗な御嬢さんがいるじゃないか。 あぶねえね。 何が。 何がって。 旦那の前だがあれで出返りですぜ。 そうかい。 そうかいどころの騒じゃねえんだね。 全体なら出て来なくってもいいところをさ。 ――銀行が潰れて贅沢が出来ねえって出ちまったんだから義理が悪るいやね。 隠居さんがああしているうちはいいがもしもの事があった日にゃ法返しがつかねえ訳になりまさあ。 そうかな。 当り前でさあ。 本家の兄たあ仲がわるしさ。 本家があるのかい。 本家は岡の上にありまさあ。 遊びに行って御覧なさい。 景色のいい所ですよ。 おいもう一遍|石鹸をつけてくれないか。 また痛くなって来た。 よく痛くなる髭だね。 髭が硬過ぎるからだ。 旦那の髭じゃ三日に一度は是非|剃を当てなくっちゃ駄目ですぜ。 わっしの剃で痛けりゃどこへ行ったって我慢出来っこねえ。 これからそうしよう。 何なら毎日来てもいい。 そんなに長く逗留する気なんですか。 あぶねえ。 およしなせえ。 益もねえ事った。 碌でもねえものに引っかかってどんな目に逢うか解りませんぜ。 どうして。 旦那あの娘は面はいいようだが本当はき印しですぜ。 なぜ。 なぜって旦那。 村のものはみんな気狂だって云ってるんでさあ。 そりゃ何かの間違だろう。 だって現に証拠があるんだから御よしなせえ。 けんのんだ。 おれは大丈夫だがどんな証拠があるんだい。 おかしな話しさね。 まあゆっくり煙草でも呑んで御出なせえ話すから。 ――頭あ洗いましょうか。 頭はよそう。 頭垢だけ落して置くかね。 どうです好い心持でしょう。 非常な辣腕だ。 え。 こうやると誰でもさっぱりするからね。 首が抜けそうだよ。 そんなに倦怠うがすかい。 全く陽気の加減だね。 どうも春てえ奴あやに身体がなまけやがって――まあ一ぷく御上がんなさい。 一人で志保田にいちゃ退屈でしょう。 ちと話しに御出なせえ。 どうも江戸っ子は江戸っ子同志でなくっちゃ話しが合わねえものだから。 何ですかいやっぱりあの御嬢さんが御愛想に出てきますかい。 どうもさっぱし見境のねえ女だから困っちまわあ。 御嬢さんがどうとかしたところで頭垢が飛んで首が抜けそうになったっけ。 違ねえがんがらがんだからからっきし話に締りがねえったらねえ。 ――そこでその坊主が逆せちまって。 その坊主たあどの坊主だい。 観海寺の納所坊主がさ。 納所にも住持にも坊主はまだ一人も出て来ないんだ。 そうか急勝だからいけねえ。 苦味走った色の出来そうな坊主だったがそいつが御前さんレコに参っちまってとうとう文をつけたんだ。 ――おや待てよ。 口説たんだっけかな。 いんにゃ文だ。 文に違えねえ。 すると――こうっと――何だか行きさつが少し変だぜ。 うんそうかやっぱりそうか。 するてえと奴さん驚ろいちまってからに。 誰が驚ろいたんだい。 女がさ。 女が文を受け取って驚ろいたんだね。 ところが驚ろくような女なら殊勝らしいんだが驚ろくどころじゃねえ。 じゃ誰が驚ろいたんだい。 口説た方がさ。 口説ないのじゃないか。 ええじれってえ。 間違ってらあ。 文をもらってさ。 それじゃやっぱり女だろう。 なあに男がさ。 男ならその坊主だろう。 ええその坊主がさ。 坊主がどうして驚ろいたのかい。 どうしてって本堂で和尚さんと御経を上げてると突然あの女が飛び込んで来て――ウフフフフ。 どうしても狂印だね。 どうかしたのかい。 そんなに可愛いなら仏様の前でいっしょに寝ようって出し抜けに泰安さんの頸っ玉へかじりついたんでさあ。 へええ。 面喰ったなあ泰安さ。 気狂に文をつけて飛んだ恥を掻かせられてとうとうその晩こっそり姿を隠して死んじまって。 死んだ。 死んだろうと思うのさ。 生きちゃいられめえ。 何とも云えない。 そうさ相手が気狂じゃ死んだって冴えねえからことによると生きてるかも知れねえね。 なかなか面白い話だ。 面白いの面白くないのって村中大笑いでさあ。 ところが当人だけは根が気が違ってるんだから洒唖洒唖して平気なもんで――なあに旦那のようにしっかりしていりゃ大丈夫ですがね相手が相手だから滅多にからかったり何かすると大変な目に逢いますよ。 ちっと気をつけるかね。 ははははは。 御免一つ剃って貰おうか。 了念さん。 どうだいこないだあ道草あ食って和尚さんに叱られたろう。 いんにゃ褒められた。 使に出て途中で魚なんかとっていて了念は感心だって褒められたのかい。 若いに似ず了念はよく遊んで来て感心じゃ云うて老師が褒められたのよ。 道理で頭に瘤が出来てらあ。 そんな不作法な頭あ剃るなあ骨が折れていけねえ。 今日は勘弁するからこの次から捏ね直して来ねえ。 捏ね直すくらいならますこし上手な床屋へ行きます。 はははは頭は凹凸だが口だけは達者なもんだ。 腕は鈍いが酒だけ強いのは御前だろ。 箆棒め腕が鈍いって。 わしが云うたのじゃない。 老師が云われたのじゃ。 そう怒るまい。 年甲斐もない。 ヘン面白くもねえ。 ――ねえ旦那。 ええ。 全体坊主なんてえものは高い石段の上に住んでやがって屈托がねえから自然に口が達者になる訳ですかね。 こんな小坊主までなかなか口幅ってえ事を云いますぜ――おっともう少し頭を寝かして――寝かすんだてえのに――言う事を聴かなけりゃ切るよいいか血が出るぜ。 痛いがな。 そう無茶をしては。 このくらいな辛抱が出来なくって坊主になれるもんか。 坊主にはもうなっとるがな。 まだ一人前じゃねえ。 ――時にあの泰安さんはどうして死んだっけな御小僧さん。 泰安さんは死にはせんがな。 死なねえ。 はてな。 死んだはずだが。 泰安さんはその後発憤して陸前の大梅寺へ行って修業三昧じゃ。 今に智識になられよう。 結構な事よ。 何が結構だい。 いくら坊主だって夜逃をして結構な法はあるめえ。 御前なんざよく気をつけなくっちゃいけねえぜ。 とかくしくじるなあ女だから――女ってえばあの狂印はやっぱり和尚さんの所へ行くかい。 狂印と云う女は聞いた事がない。 通じねえ味噌擂だ。 行くのか行かねえのか。 狂印は来んが志保田の娘さんなら来る。 いくら和尚さんの御祈祷でもあればかりゃ癒るめえ。 全く先の旦那が祟ってるんだ。 あの娘さんはえらい女だ。 老師がよう褒めておられる。 石段をあがると何でも逆様だから叶わねえ。 和尚さんが何て云ったって気狂は気狂だろう。 ――さあ剃れたよ。 早く行って和尚さんに叱られて来めえ。 いやもう少し遊んで行って賞められよう。 勝手にしろ口の減らねえ餓鬼だ。 咄この乾屎※。 何だと。 今日は久し振りでうちへ御客が見えたから御茶を上げようと思って。 いや御使をありがとう。 わしもだいぶ御無沙汰をしたから今日ぐらい来て見ようかと思っとったところじゃ。 この方が御客さんかな。 こんな田舎に一人では御淋しかろ。 はああ。 なんの和尚さん。 このかたは画を書かれるために来られたのじゃから御忙がしいくらいじゃ。 おお左様かそれは結構だ。 やはり南宗派かな。 いいえ。 いや例の西洋画じゃ。 ははあ洋画か。 するとあの久一さんのやられるようなものかな。 あれはわしこの間始めて見たが随分奇麗にかけたのう。 いえ詰らんものです。 御前何ぞ和尚さんに見ていただいたか。 なあに見ていただいたんじゃないですが鏡が池で写生しているところを和尚さんに見つかったのです。 ふんそうか――さあ御茶が注げたから一杯。 杢兵衛です。 これは面白い。 杢兵衛はどうも偽物が多くて――その糸底を見て御覧なさい。 銘があるから。 御客さんが青磁を賞められたから今日はちとばかり見せようと思うて出して置きました。 どの青磁を――うんあの菓子鉢かな。 あれはわしも好じゃ。 時にあなた西洋画では襖などはかけんものかな。 かけるなら一つ頼みたいがな。 襖には向かないでしょう。 向かんかな。 そうさなこの間の久一さんの画のようじゃ少し派手過ぎるかも知れん。 私のは駄目です。 あれはまるでいたずらです。 その何とか云う池はどこにあるんですか。 ちょっと観海寺の裏の谷の所で幽邃な所です。 ――なあに学校にいる時分習ったから退屈まぎれにやって見ただけです。 観海寺と云うと。 観海寺と云うとわしのいる所じゃ。 いい所じゃ海を一目に見下しての――まあ逗留中にちょっと来て御覧。 なにここからはつい五六丁よ。 あの廊下からそら寺の石段が見えるじゃろうが。 いつか御邪魔に上ってもいいですか。 ああいいともいつでもいる。 ここの御嬢さんもよう来られる。 ――御嬢さんと云えば今日は御那美さんが見えんようだが――どうかされたかな隠居さん。 どこぞへ出ましたかな久一御前の方へ行きはせんかな。 いいや見えません。 また独り散歩かなハハハハ。 御那美さんはなかなか足が強い。 この間法用で礪並まで行ったら姿見橋の所で――どうも善く似とると思ったら御那美さんよ。 尻を端折って草履を穿いて和尚さん何をぐずぐずどこへ行きなさるといきなり驚ろかされたてハハハハ。 御前はそんな形姿で地体どこへ行ったのぞいと聴くと今|芹摘みに行った戻りじゃ和尚さん少しやろうかと云うていきなりわしの袂へ泥だらけの芹を押し込んでハハハハハ。 どうも。 実はこれを御覧に入れるつもりで。 和尚さんあなたには御目に懸けた事があったかな。 なんじゃ一体。 硯よ。 へえどんな硯かい。 山陽の愛蔵したと云う。 いいえそりゃまだ見ん。 春水の替え蓋がついて。 そりゃまだのようだ。 どれどれ。 いい色合じゃのう。 端渓かい。 端渓で※※眼が九つある。 九つ。 これが春水の替え蓋。 なるほど。 春水はようかく。 ようかくが書は杏坪の方が上手じゃて。 やはり杏坪の方がいいかな。 山陽が一番まずいようだ。 どうも才子肌で俗気があっていっこう面白うない。 ハハハハ。 和尚さんは山陽が嫌いだから今日は山陽の幅を懸け替えて置いた。 ほんに。 徂徠かな。 徂徠もあまり御好きでないかも知れんが山陽よりは善かろうと思うて。 それは徂徠の方が遥かにいい。 享保頃の学者の字はまずくてもどこぞに品がある。 広沢をして日本の能書ならしめばわれはすなわち漢人の拙なるものと云うたのは徂徠だったかな和尚さん。 わしは知らん。 そう威張るほどの字でもないてワハハハハ。 時に和尚さんは誰を習われたのかな。 わしか。 禅坊主は本も読まず手習もせんからのう。 しかし誰ぞ習われたろう。 若い時に高泉の字を少し稽古した事がある。 それぎりじゃ。 それでも人に頼まれればいつでも書きます。 ワハハハハ。 時にその端渓を一つ御見せ。 この蓋が。 この蓋がただの蓋ではないので御覧の通り松の皮には相違ないが。 松の蓋は少し俗ですな。 ただ松の蓋と云うばかりでは俗でもあるがこれはその何ですよ。 山陽が広島におった時に庭に生えていた松の皮を剥いで山陽が手ずから製したのですよ。 どうせ自分で作るならもっと不器用に作れそうなものですな。 わざとこの鱗のかたなどをぴかぴか研ぎ出さなくってもよさそうに思われますが。 ワハハハハ。 そうよこの蓋はあまり安っぽいようだな。 この肌合とこの眼を見て下さい。 なるほど結構です。 観て心持がいいばかりじゃありません。 こうして触っても愉快です。 久一にそんなものが解るかい。 分りゃしません。 隠居さんどうもこの色が実に善いな。 使うた事があるかの。 いいや滅多には使いとうないからまだ買うたなりじゃ。 そうじゃろ。 こないなのは支那でも珍らしかろうな隠居さん。 左様。 わしも一つ欲しいものじゃ。 何なら久一さんに頼もうか。 どうかな買うて来ておくれかな。 へへへへ。 硯を見つけないうちに死んでしまいそうです。 本当に硯どころではないな。 時にいつ御立ちか。 二三日うちに立ちます。 隠居さん。 吉田まで送って御やり。 普段なら年は取っとるしまあ見合すところじゃがことによるともう逢えんかも知れんから送ってやろうと思うております。 御伯父さんは送ってくれんでもいいです。 なあに送って貰うがいい。 川船で行けば訳はない。 なあ隠居さん。 はい山越では難義だが廻り路でも船なら。 支那の方へおいでですか。 ええ。 なあにあなた。 やはり今度の戦争で――これがもと志願兵をやったものだからそれで召集されたので。 御勉強ですか。 御這入りなさい。 ちっとも構いません。 西洋の本ですかむずかしい事が書いてあるでしょうね。 なあに。 じゃ何が書いてあるんです。 そうですね。 実はわたしにもよく分らないんです。 ホホホホ。 それで御勉強なの。 勉強じゃありません。 ただ机の上へこう開けて開いた所をいい加減に読んでるんです。 それで面白いんですか。 それが面白いんです。 なぜ。 なぜって小説なんかそうして読む方が面白いです。 よっぽど変っていらっしゃるのね。 ええちっと変ってます。 初から読んじゃどうして悪るいでしょう。 初から読まなけりゃならないとするとしまいまで読まなけりゃならない訳になりましょう。 妙な理窟だ事。 しまいまで読んだっていいじゃありませんか。 無論わるくはありませんよ。 筋を読む気ならわたしだってそうします。 筋を読まなけりゃ何を読むんです。 筋のほかに何か読むものがありますか。 あなたは小説が好きですか。 私が。 そうですねえ。 好きだか嫌だか自分にも解らないんじゃないですか。 小説なんか読んだって読まなくったって。 それじゃ初から読んだってしまいから読んだっていい加減な所をいい加減に読んだっていい訳じゃありませんか。 あなたのようにそう不思議がらないでもいいでしょう。 だってあなたと私とは違いますもの。 どこが。 ホホホホ解りませんか。 しかし若いうちは随分御読みなすったろう。 今でも若いつもりですよ。 可哀想に。 そんな事が男の前で云えればもう年寄のうちですよ。 そう云うあなたも随分の御年じゃあありませんか。 そんなに年をとってもやっぱり惚れたの腫れたのにきびが出来たのってえ事が面白いんですか。 ええ面白いんです死ぬまで面白いんです。 おやそう。 それだから画工なんぞになれるんですね。 全くです。 画工だから小説なんか初からしまいまで読む必要はないんです。 けれどもどこを読んでも面白いのです。 あなたと話をするのも面白い。 ここへ逗留しているうちは毎日話をしたいくらいです。 何ならあなたに惚れ込んでもいい。 そうなるとなお面白い。 しかしいくら惚れてもあなたと夫婦になる必要はないんです。 惚れて夫婦になる必要があるうちは小説を初からしまいまで読む必要があるんです。 すると不人情な惚れ方をするのが画工なんですね。 不人情じゃありません。 非人情な惚れ方をするんです。 小説も非人情で読むから筋なんかどうでもいいんです。 こうして御籤を引くようにぱっと開けて開いた所を漫然と読んでるのが面白いんです。 なるほど面白そうね。 じゃ今あなたが読んでいらっしゃる所を少し話してちょうだい。 どんな面白い事が出てくるか伺いたいから。 話しちゃ駄目です。 画だって話にしちゃ一文の価値もなくなるじゃありませんか。 ホホホそれじゃ読んで下さい。 英語でですか。 いいえ日本語で。 英語を日本語で読むのはつらいな。 いいじゃありませんか非人情で。 情けの風が女から吹く。 声から眼から肌から吹く。 男に扶けられて舳に行く女は夕暮のヴェニスを眺むるためか扶くる男はわが脈に稲妻の血を走らすためか。 ――非人情だからいい加減ですよ。 ところどころ脱けるかも知れません。 よござんすとも。 御都合次第で御足しなすっても構いません。 女は男とならんで舷に倚る。 二人の隔りは風に吹かるるリボンの幅よりも狭い。 女は男と共にヴェニスに去らばと云う。 ヴェニスなるドウジの殿楼は今第二の日没のごとく薄赤く消えて行く。 ドージとは何です。 何だって構やしません。 昔しヴェニスを支配した人間の名ですよ。 何代つづいたものですかね。 その御殿が今でもヴェニスに残ってるんです。 それでその男と女と云うのは誰の事なんでしょう。 誰だかわたしにも分らないんだ。 それだから面白いのですよ。 今までの関係なんかどうでもいいでさあ。 ただあなたとわたしのようにこういっしょにいるところなんでその場限りで面白味があるでしょう。 そんなものですかね。 何だか船の中のようですね。 船でも岡でもかいてある通りでいいんです。 なぜと聞き出すと探偵になってしまうです。 ホホホホじゃ聴きますまい。 普通の小説はみんな探偵が発明したものですよ。 非人情なところがないからちっとも趣がない。 じゃ非人情の続きを伺いましょう。 それから。 ヴェニスは沈みつつ沈みつつただ空に引く一抹の淡き線となる。 線は切れる。 切れて点となる。 蛋白石の空のなかに円き柱がここかしこと立つ。 ついには最も高く聳えたる鐘楼が沈む。 沈んだと女が云う。 ヴェニスを去る女の心は空行く風のごとく自由である。 されど隠れたるヴェニスは再び帰らねばならぬ女の心に覊絏の苦しみを与う。 男と女は暗き湾の方に眼を注ぐ。 星は次第に増す。 柔らかに揺ぐ海は泡を濺がず。 男は女の手を把る。 鳴りやまぬ弦を握った心地である。 あんまり非人情でもないようですね。 なにこれが非人情的に聞けるのですよ。 しかし厭なら少々略しましょうか。 なに私は大丈夫ですよ。 わたしはあなたよりなお大丈夫です。 ――それからとええと少しく六ずかしくなって来たな。 どうも訳し――いや読みにくい。 読みにくければ御略しなさい。 ええいい加減にやりましょう。 ――この一夜と女が云う。 一夜。 と男がきく。 一と限るはつれなし幾夜を重ねてこそと云う。 女が云うんですか男が云うんですか。 男が云うんですよ。 何でも女がヴェニスへ帰りたくないのでしょう。 それで男が慰める語なんです。 ――真夜中の甲板に帆綱を枕にして横わりたる男の記憶にはかの瞬時熱き一滴の血に似たる瞬時女の手を確と把りたる瞬時が大濤のごとくに揺れる。 男は黒き夜を見上げながら強いられたる結婚の淵より是非に女を救い出さんと思い定めた。 かく思い定めて男は眼を閉ずる。 ――。 女は。 女は路に迷いながらいずこに迷えるかを知らぬ様である。 攫われて空行く人のごとくただ不可思議の千万無量――あとがちょっと読みにくいですよ。 どうも句にならない。 ――ただ不可思議の千万無量――何か動詞はないでしょうか。 動詞なんぞいるものですかそれで沢山です。 え。 地震。 雉子が。 どこに。 非人情ですよ。 無論。 こいつは愉快だ。 奇麗で変化があって。 こう云う風に動かなくっちゃ面白くない。 人間もそう云う風にさえ動いていればいくら動いても大丈夫ですね。 非人情でなくっちゃこうは動けませんよ。 ホホホホ大変非人情が御好きだこと。 あなただって嫌な方じゃありますまい。 昨日の振袖なんか。 何か御褒美をちょうだい。 なぜです。 見たいとおっしゃったからわざわざ見せて上げたんじゃありませんか。 わたしがですか。 山越をなさった画の先生が茶店の婆さんにわざわざ御頼みになったそうで御座います。 そんな忘れっぽい人にいくら実をつくしても駄目ですわねえ。 じゃ昨夕の風呂場も全く御親切からなんですね。 どうも済みません。 御礼に何を上げましょう。 竹影払階塵不動。 何ですって。 その坊主にさっき逢いましたよ。 観海寺の和尚ですか。 肥ってるでしょう。 西洋画で唐紙をかいてくれって云いましたよ。 禅坊さんなんてものは随分|訳のわからない事を云いますね。 それだからあんなに肥れるんでしょう。 それからもう一人若い人に逢いましたよ。 久一でしょう。 ええ久一君です。 よく御存じです事。 なに久一君だけ知ってるんです。 そのほかには何にも知りゃしません。 口を聞くのが嫌な人ですね。 なに遠慮しているんです。 まだ小供ですから。 小供ってあなたと同じくらいじゃありませんか。 ホホホホそうですか。 あれは私しの従弟ですが今度戦地へ行くので暇乞に来たのです。 ここに留っているんですか。 いいえ兄の家におります。 じゃわざわざ御茶を飲みに来た訳ですね。 御茶より御白湯の方が好なんですよ。 父がよせばいいのに呼ぶものですから。 麻痺が切れて困ったでしょう。 私がおれば中途から帰してやったんですが。 あなたはどこへいらしったんです。 和尚が聞いていましたぜまた一人散歩かって。 ええ鏡の池の方を廻って来ました。 その鏡の池へわたしも行きたいんだが。 行って御覧なさい。 画にかくに好い所ですか。 身を投げるに好い所です。 身はまだなかなか投げないつもりです。 私は近々投げるかも知れません。 私が身を投げて浮いているところを――苦しんで浮いてるところじゃないんです――やすやすと往生して浮いているところを――奇麗な画にかいて下さい。 え。 驚ろいた驚ろいた驚ろいたでしょう。 天来の奇想のように。 よい御天気で。 旦那も画を御描きなさるか。 ああ。 この池でも画こうと思って来て見たが淋しい所だね。 誰も通らない。 はあい。 まことに山の中で旦那あ峠で御降られなさってさぞ御困りでござんしたろ。 え。 うん御前はあの時の馬子さんだね。 はあい。 こうやって薪を切っては城下へ持って出ます。 あんな所を毎日越すなあ大変だね。 なあに馴れていますから――それに毎日は越しません。 三日に一|返ことによると四日目くらいになります。 四日に一|返でも御免だ。 アハハハハ。 馬が不憫ですから四日目くらいにして置きます。 そりゃあどうも。 自分より馬の方が大事なんだね。 ハハハハ。 それほどでもないんで。 時にこの池はよほど古いもんだね。 全体いつ頃からあるんだい。 昔からありますよ。 昔から。 どのくらい昔から。 なんでもよっぽど古い昔から。 よっぽど古い昔しからか。 なるほど。 なんでも昔し志保田の嬢様が身を投げた時分からありますよ。 志保田ってあの温泉場のかい。 はあい。 御嬢さんが身を投げたって現に達者でいるじゃないか。 いんにえ。 あの嬢さまじゃない。 ずっと昔の嬢様が。 ずっと昔の嬢様。 いつ頃かねそれは。 なんでもよほど昔しの嬢様で。 その昔の嬢様がどうしてまた身を投げたんだい。 その嬢様はやはり今の嬢様のように美しい嬢様であったそうながな旦那様。 うん。 するとある日一人の梵論字が来て。 梵論字と云うと虚無僧の事かい。 はあい。 あの尺八を吹く梵論字の事でござんす。 その梵論字が志保田の庄屋へ逗留しているうちにその美くしい嬢様がその梵論字を見染めて――因果と申しますかどうしてもいっしょになりたいと云うて泣きました。 泣きました。 ふうん。 ところが庄屋どのが聞き入れません。 梵論字は聟にはならんと云うて。 とうとう追い出しました。 その虚無僧をかい。 はあい。 そこで嬢様が梵論字のあとを追うてここまで来て――あの向うに見える松の所から身を投げて――とうとうえらい騒ぎになりました。 その時何でも一枚の鏡を持っていたとか申し伝えておりますよ。 それでこの池を今でも鏡が池と申しまする。 へええ。 じゃもう身を投げたものがあるんだね。 まことに怪しからん事でござんす。 何代くらい前の事かい。 それは。 なんでもよっぽど昔の事でござんすそうな。 それから――これはここ限りの話だが旦那さん。 何だい。 あの志保田の家には代々気狂が出来ます。 へええ。 全く祟りでござんす。 今の嬢様も近頃は少し変だ云うて皆が囃します。 ハハハハそんな事はなかろう。 ござんせんかな。 しかしあの御袋様がやはり少し変でな。 うちにいるのかい。 いいえ去年|亡くなりました。 ふん。 時に九月天高く露清く山|空しく月|明かに仰いで星斗を視れば皆光大たまたま人の上にあるがごとし窓間の竹数十|竿相|摩戞して声|切々やまず。 竹間の梅棕森然として鬼魅の離立笑※の状のごとし。 二三子|相顧み魄動いて寝るを得ず。 遅明皆去る。 御免。 頼む。 頼みまああす。 おおおおおおお。 和尚さんはおいでかい。 おられる。 何しにござった。 温泉にいる画工が来たと取次でおくれ。 画工さんか。 それじゃ御上り。 断わらないでもいいのかい。 よろしかろ。 行儀がわるい画工さんじゃな。 なぜ。 下駄をよう御揃えなさい。 そらここを御覧。 そおら。 読めたろ。 脚下を見よと書いてあるが。 なるほど。 あのう志保田から画工さんが来られました。 そうかこれへ。 さあこれへ。 了念。 りょううねええん。 ははははい。 座布団を上げんか。 はははははい。 よう来られた。 さぞ退屈だろ。 あまり月がいいからぶらぶら来ました。 いい月じゃな。 これはいい景色。 和尚さん障子をしめているのはもったいないじゃありませんか。 そうよ。 しかし毎晩見ているからな。 何晩見てもいいですよこの景色は。 私なら寝ずに見ています。 ハハハハ。 もっともあなたは画工だからわしとは少し違うて。 和尚さんだってうつくしいと思ってるうちは画工でさあ。 なるほどそれもそうじゃろ。 わしも達磨の画ぐらいはこれでかくがの。 そらここに掛けてあるこの軸は先代がかかれたのじゃがなかなかようかいとる。 無邪気な画ですね。 わしらのかく画はそれで沢山じゃ。 気象さえあらわれておれば。 上手で俗気があるのよりいいです。 ははははまあそうでも賞めて置いてもらおう。 時に近頃は画工にも博士があるかの。 画工の博士はありませんよ。 あそうか。 この間何でも博士に一人|逢うた。 へええ。 博士と云うとえらいものじゃろな。 ええ。 えらいんでしょう。 画工にも博士がありそうなものじゃがな。 なぜ無いだろう。 そういえば和尚さんの方にも博士がなけりゃならないでしょう。 ハハハハまあそんなものかな。 ――何とか云う人じゃったてこの間逢うた人は――どこぞに名刺があるはずだが。 どこで御逢いです東京ですか。 いやここで東京へはも二十年も出ん。 近頃は電車とか云うものが出来たそうじゃがちょっと乗って見たいような気がする。 つまらんものですよ。 やかましくって。 そうかな。 蜀犬日に吠え呉牛月に喘ぐと云うからわしのような田舎者はかえって困るかも知れんてのう。 困りゃしませんがね。 つまらんですよ。 そうかな。 番茶を一つ御上り。 志保田の隠居さんのような甘い茶じゃない。 いえ結構です。 あなたはそうやって方々あるくように見受けるがやはり画をかくためかの。 ええ。 道具だけは持ってあるきますが画はかかないでも構わないんです。 はあそれじゃ遊び半分かの。 そうですね。 そう云っても善いでしょう。 屁の勘定をされるのがいやですからね。 屁の勘定た何かな。 東京に永くいると屁の勘定をされますよ。 どうして。 ハハハハハ勘定だけならいいですが。 人の屁を分析して臀の穴が三角だの四角だのって余計な事をやりますよ。 はあやはり衛生の方かな。 衛生じゃありません。 探偵の方です。 探偵。 なるほどそれじゃ警察じゃの。 いったい警察の巡査のて何の役に立つかの。 なけりゃならんかいの。 そうですね画工には入りませんね。 わしにも入らんがな。 わしはまだ巡査の厄介になった事がない。 そうでしょう。 しかしいくら警察が屁の勘定をしたてて構わんがな。 澄ましていたら。 自分にわるい事がなけりゃなんぼ警察じゃてどうもなるまいがな。 屁くらいでどうかされちゃたまりません。 わしが小坊主のとき先代がよう云われた。 人間は日本橋の真中に臓腑をさらけ出して恥ずかしくないようにしなければ修業を積んだとは云われんてな。 あなたもそれまで修業をしたらよかろ。 旅などはせんでも済むようになる。 画工になり澄ませばいつでもそうなれます。 それじゃ画工になり澄したらよかろ。 屁の勘定をされちゃなり切れませんよ。 ハハハハ。 それ御覧。 あのあなたの泊っている志保田の御那美さんも嫁に入って帰ってきてからどうもいろいろな事が気になってならんならんと云うてしまいにとうとうわしの所へ法を問いに来たじゃて。 ところが近頃はだいぶ出来てきてそら御覧。 あのような訳のわかった女になったじゃて。 へええどうもただの女じゃないと思いました。 いやなかなか機鋒の鋭どい女で――わしの所へ修業に来ていた泰安と云う若僧もあの女のためにふとした事から大事を窮明せんならん因縁に逢着して――今によい智識になるようじゃ。 あの松の影を御覧。 奇麗ですな。 ただ奇麗かな。 ええ。 奇麗な上に風が吹いても苦にしない。 門まで送ってあげよう。 りょううねええん。 御客が御帰だぞよ。 鳩ほど可愛いものはないわしが手をたたくとみな飛んでくる。 呼んで見よか。 下りんかいな。 下りそうなものじゃが。 先生先生。 何です。 何をそんな所でしていらっしゃる。 詩を作って寝ていました。 うそをおっしゃい。 今のを御覧でしょう。 今の。 今のあれですか。 ええ。 少々拝見しました。 ホホホホ少々でなくてもたくさん御覧なさればいいのに。 実のところはたくさん拝見しました。 それ御覧なさい。 まあちょっとこっちへ出ていらっしゃい。 木瓜の中から出ていらっしゃい。 まだ木瓜の中に御用があるんですか。 もう無いんです。 帰ろうかとも思うんです。 それじゃごいっしょに参りましょうか。 ええ。 画を御描きになったの。 やめました。 ここへいらしってまだ一枚も御描きなさらないじゃありませんか。 ええ。 でもせっかく画をかきにいらしってちっとも御かきなさらなくっちゃつまりませんわね。 なにつまってるんです。 おやそう。 なぜ。 なぜでもちゃんとつまるんです。 画なんぞ描いたって描かなくったってつまるところは同じ事でさあ。 そりゃ洒落なのホホホホ随分|呑気ですねえ。 こんな所へくるからには呑気にでもしなくっちゃ来た甲斐がないじゃありませんか。 なあにどこにいても呑気にしなくっちゃ生きている甲斐はありませんよ。 私なんぞは今のようなところを人に見られても恥かしくも何とも思いません。 思わんでもいいでしょう。 そうですかね。 あなたは今の男をいったい何だと御思いです。 そうさな。 どうもあまり金持ちじゃありませんね。 ホホホ善くあたりました。 あなたは占いの名人ですよ。 あの男は貧乏して日本にいられないからって私に御金を貰いに来たのです。 へえどこから来たのです。 城下から来ました。 随分遠方から来たもんですね。 それでどこへ行くんですか。 何でも満洲へ行くそうです。 何しに行くんですか。 何しに行くんですか。 御金を拾いに行くんだか死にに行くんだか分りません。 あれはわたくしの亭主です。 どうです驚ろいたでしょう。 ええ少々驚ろいた。 今の亭主じゃありません離縁された亭主です。 なるほどそれで。 それぎりです。 そうですか。 ――あの蜜柑山に立派な白壁の家がありますね。 ありゃいい地位にあるが誰の家なんですか。 あれが兄の家です。 帰り路にちょっと寄って行きましょう。 用でもあるんですか。 ええちっと頼まれものがあります。 いっしょに行きましょう。 いい景色だ。 御覧なさい。 なるほどいいですな。 おやもう。 御午ですね。 用事を忘れていた。 ――久一さん久一さん。 久一さん。 そら御伯父さんの餞別だよ。 久一さん軍さは好きか嫌いかい。 出て見なければ分らんさ。 苦しい事もあるだろうが愉快な事も出て来るんだろう。 いくら苦しくっても国家のためだから。 短刀なんぞ貰うとちょっと戦争に出て見たくなりゃしないか。 そうさね。 そんな平気な事で軍さが出来るかい。 那美さんが軍人になったらさぞ強かろう。 わたしが。 わたしが軍人。 わたしが軍人になれりゃとうになっています。 今頃は死んでいます。 久一さん。 御前も死ぬがいい。 生きて帰っちゃ外聞がわるい。 そんな乱暴な事を――まあまあめでたく凱旋をして帰って来てくれ。 死ぬばかりが国家のためではない。 わしもまだ二三年は生きるつもりじゃ。 まだ逢える。 先生わたくしの画をかいて下さいな。 書いてあげましょう。 こんな一筆がきではいけません。 もっと私の気象の出るように丁寧にかいて下さい。 わたしもかきたいのだが。 どうもあなたの顔はそれだけじゃ画にならない。 御挨拶です事。 それじゃどうすれば画になるんです。 なに今でも画に出来ますがね。 ただ少し足りないところがある。 それが出ないところをかくと惜しいですよ。 足りないたって持って生れた顔だから仕方がありませんわ。 持って生れた顔はいろいろになるものです。 自分の勝手にですか。 ええ。 女だと思って人をたんと馬鹿になさい。 あなたが女だからそんな馬鹿を云うのですよ。 それじゃあなたの顔をいろいろにして見せてちょうだい。 これほど毎日いろいろになってればたくさんだ。 あの山の向うをあなたは越していらしった。 天狗岩はあの辺ですか。 あの翠の濃い下の紫に見える所がありましょう。 あの日影の所ですか。 日影ですかしら。 禿げてるんでしょう。 なあに凹んでるんですよ。 禿げていりゃもっと茶に見えます。 そうでしょうか。 ともかくあの裏あたりになるそうです。 そうすると七曲りはもう少し左りになりますね。 七曲りは向うへずっと外れます。 あの山のまた一つ先きの山ですよ。 なるほどそうだった。 しかし見当から云うとあのうすい雲が懸ってるあたりでしょう。 ええ方角はあの辺です。 まだ着かんかな。 どうもこれが癖で。 弓が御好と見えますね。 若いうちは七分五厘まで引きました。 押しは存外今でもたしかです。 やっぱり駄目かね。 駄目さあ。 牛のように胃袋が二つあるといいなあ。 二つあれば申し分はなえさ一つが悪るくなりゃ切ってしまえば済むから。 さあ行きましょ。 どうれ。 いよいよ御別かれか。 それでは御機嫌よう。 死んで御出で。 荷物は来たかい。 あぶない。 出ますよ。 憐れ。 それだ。 それだ。 それが出れば画になりますよ。 随分遠いね。 元来どこから登るのだ。 どこか己にも判然せんがね。 どこから登ったって同じ事だ。 山はあすこに見えているんだから。 恐ろしい頑固な山だなあ。 あんなに見えるんだから訳はない。 あんなに見えるって見えるのは今朝宿を立つ時から見えている。 京都へ来て叡山が見えなくなっちゃ大変だ。 だから見えてるから好いじゃないか。 余計な事を云わずに歩行いていれば自然と山の上へ出るさ。 おい今から休息しちゃ大変ださあ早く行こう。 君はあの山を頑固だと云ったね。 うむ動かばこそと云ったような按排じゃないか。 こう云う風に。 動かばこそと云うのは動けるのに動かない時の事を云うのだろう。 そうさ。 あの山は動けるかい。 アハハハまた始まった。 君は余計な事を云いに生れて来た男だ。 さあ行くぜ。 今日は山端の平八茶屋で一日遊んだ方がよかった。 今から登ったって中途|半端になるばかりだ。 元来頂上まで何里あるのかい。 頂上まで一里半だ。 どこから。 どこからか分るものかたかの知れた京都の山だ。 君のように計画ばかりしていっこう実行しない男と旅行するとどこもかしこも見損ってしまう。 連こそいい迷惑だ。 君のようにむちゃに飛び出されても相手は迷惑だ。 第一人を連れ出して置きながらどこから登ってどこを見てどこへ下りるのか見当がつかんじゃないか。 なんのこれしきの事に計画も何もいったものかたかがあの山じゃないか。 あの山でもいいがあの山は高さ何千尺だか知っているかい。 知るものかね。 そんな下らん事を。 ――君知ってるのか。 僕も知らんがね。 それ見るがいい。 何もそんなに威張らなくてもいい。 君だって知らんのだから。 山の高さは御互に知らんとしても山の上で何を見物して何時間かかるぐらいは多少確めて来なくっちゃ予定通りに日程は進行するものじゃない。 進行しなければやり直すだけだ。 君のように余計な事を考えてるうちには何遍でもやり直しが出来るよ。 おおい。 何だい。 何だいじゃない。 ここから登るんだ。 こんな所から登るのか。 少し妙だぜ。 こんな丸木橋を渡るのは妙だぜ。 君見たようにむやみに歩行いていると若狭の国へ出てしまうよ。 若狭へ出ても構わんがいったい君は地理を心得ているのか。 今大原女に聴いて見た。 この橋を渡ってあの細い道を向へ一里上がると出るそうだ。 出るとはどこへ出るのだい。 叡山の上へさ。 叡山の上のどこへ出るだろう。 そりゃ知らない。 登って見なければ分らないさ。 ハハハハ君のような計画好きでもそこまでは聞かなかったと見えるね。 千慮の一失か。 それじゃ仰せに従って渡るとするかな。 君いよいよ登りだぜ。 どうだ歩行けるか。 歩行けないたって仕方がない。 なるほど哲学者だけあらあ。 それでもう少し判然すると一人前だがな。 何でも好いから先へ行くが好い。 あとから尾いて来るかい。 いいから行くが好い。 尾いて来る気なら行くさ。 おい君甲野さん。 うん。 そろそろ降参しかけたな。 弱い男だ。 あの下を見たまえ。 なるほど好い景色だ。 いつの間にこんなに高く登ったんだろう。 早いものだな。 知らぬ間に堕落したり知らぬ間に悟ったりするのと同じようなものだろう。 昼が夜になったり春が夏になったり若いものが年寄りになったりするのと同じ事かな。 それならおれも疾くに心得ている。 ハハハハそれで君は幾歳だったかな。 おれの幾歳より君は幾歳だ。 僕は分かってるさ。 僕だって分かってるさ。 ハハハハやっぱり隠す了見だと見える。 隠すものかちゃんと分ってるよ。 だから幾歳なんだよ。 君から先へ云え。 僕は二十七さ。 そうかそれじゃ僕も二十八だ。 だいぶ年を取ったものだね。 冗談を言うな。 たった一つしか違わんじゃないか。 だから御互にさ。 御互に年を取ったと云うんだ。 うん御互にか御互なら勘弁するがおれだけじゃ。 聞き捨てにならんか。 そう気にするだけまだ若いところもあるようだ。 何だ坂の途中で人を馬鹿にするな。 そら坂の途中で邪魔になる。 ちょっと退いてやれ。 この辺の女はみんな奇麗だな。 感心だ。 何だか画のようだ。 あれが大原女なんだろう。 なに八瀬女だ。 八瀬女と云うのは聞いた事がないぜ。 なくっても八瀬の女に違ない。 嘘だと思うなら今度|逢ったら聞いてみよう。 誰も嘘だと云やしない。 しかしあんな女を総称して大原女と云うんだろうじゃないか。 きっとそうか受合うか。 そうする方が詩的でいい。 何となく雅でいい。 じゃ当分雅号として用いてやるかな。 雅号は好いよ。 世の中にはいろいろな雅号があるからな。 立憲政体だの万有神教だの忠信孝悌だのってさまざまな奴があるから。 なるほど蕎麦屋に藪がたくさん出来て牛肉屋がみんないろはになるのもその格だね。 そうさ御互に学士を名乗ってるのも同じ事だ。 つまらない。 そんな事に帰着するなら雅号は廃せばよかった。 これから君は外交官の雅号を取るんだろう。 ハハハハあの雅号はなかなか取れない。 試験官に雅味のある奴がいないせいだな。 もう何遍落第したかね。 三遍か。 馬鹿を申せ。 じゃ二遍か。 なんだちゃんと知ってる癖に。 はばかりながら落第はこれでたった一遍だ。 一度受けて一遍なんだからこれからさき。 何遍やるか分らないとなるとおれも少々心細い。 ハハハハ。 時に僕の雅号はそれでいいが君は全体何をするんだい。 僕か。 僕は叡山へ登るのさ。 ――おい君そう後足で石を転がしてはいかん。 後から尾いて行くものが剣呑だ。 ――ああ随分くたびれた。 僕はここで休むよ。 おやもう落第か。 口でこそいろいろな雅号を唱えるが山登りはから駄目だね。 さあ起きた。 もう少しで頂上だ。 どうせ休むなら及第してからゆっくり休もう。 さあ起きろ。 うん。 うんかおやおや。 反吐が出そうだ。 反吐を吐いて落第するのかおやおや。 じゃ仕方がない。 おれも一と休息仕ろう。 御山へ御登りやすのどすか案内しまほうかホホホ妙な所に寝ていやはる。 おい甲野さん。 妙な所に寝ていやはるとさ。 女にまで馬鹿にされるぜ。 好い加減に起きてあるこうじゃないか。 女は人を馬鹿にするもんだ。 そう泰然と尻を据えちゃ困るな。 まだ反吐を吐きそうかい。 動けば吐く。 厄介だなあ。 すべての反吐は動くから吐くのだよ。 俗界|万斛の反吐皆|動の一字より来る。 何だ本当に吐くつもりじゃないのか。 つまらない。 僕はまたいよいよとなったら君を担いで麓まで下りなけりゃならんかと思って内心少々|辟易していたんだ。 余計な御世話だ。 誰も頼みもしないのに。 君は愛嬌のない男だね。 君は愛嬌の定義を知ってるかい。 何のかのと云って一分でも余計動かずにいようと云う算段だな。 怪しからん男だ。 愛嬌と云うのはね――自分より強いものを斃す柔かい武器だよ。 それじゃ無愛想は自分より弱いものを扱き使う鋭利なる武器だろう。 そんな論理があるものか。 動こうとすればこそ愛嬌も必要になる。 動けば反吐を吐くと知った人間に愛嬌が入るものか。 いやに詭弁を弄するね。 そんなら僕は御先へ御免蒙るぜ。 いいか。 勝手にするがいい。 一剣天下を行く。 万里の道を見ず。 ただ万里の天を見る。 ここだここだ。 善哉善哉われ汝を待つ事ここに久しだ。 全体何をぐずぐずしていたのだ。 また反吐か反吐を吐く前にちょっとあの景色を見なさい。 あれを見るとせっかくの反吐も残念ながら収まっちまう。 なるほど。 なるほど。 なるほどだけか。 君は何を見せてやっても嬉しがらない男だね。 見せてやるなんて自分が作ったものじゃあるまいし。 そう云う恩知らずは得て哲学者にあるもんだ。 親不孝な学問をして日々人間と御無沙汰になって。 誠に済みません。 ――親不孝な学問かハハハハハ。 君白い帆が見える。 そらあの島の青い山を背にして――まるで動かんぜ。 いつまで見ていても動かんぜ。 退屈な帆だな。 判然しないところが君に似ていらあ。 しかし奇麗だ。 おやこっちにもいるぜ。 あのずっと向うの紫色の岸の方にもある。 うんあるある。 退屈だらけだ。 べた一面だ。 まるで夢のようだ。 何が。 何がって眼前の景色がさ。 うんそうか。 僕はまた君が何か思い出したのかと思った。 ものは君さっさと片付けるに限るね。 夢のごとしだって懐手をしていちゃ駄目だよ。 何を云ってるんだい。 おれの云う事もやっぱり夢のごとしか。 アハハハハ時に将門が気※を吐いたのはどこいらだろう。 何でも向う側だ。 京都を瞰下したんだから。 こっちじゃない。 あいつも馬鹿だなあ。 将門か。 うん気※を吐くより反吐でも吐く方が哲学者らしいね。 哲学者がそんなものを吐くものか。 本当の哲学者になると頭ばかりになってただ考えるだけかまるで達磨だね。 あの煙るような島は何だろう。 あの島かいやに縹緲としているね。 おおかた竹生島だろう。 本当かい。 なあに好い加減さ。 雅号なんざどうだって質さえたしかなら構わない主義だ。 そんなたしかなものが世の中にあるものかだから雅号が必要なんだ。 人間万事夢のごとしか。 やれやれ。 ただ死と云う事だけが真だよ。 いやだぜ。 死に突き当らなくっちゃ人間の浮気はなかなかやまないものだ。 やまなくって好いから突き当るのは真っ平御免だ。 御免だって今に来る。 来た時にああそうかと思い当るんだね。 誰が。 小刀細工の好な人間がさ。 墓の前に跪ずいて云う。 この手にて――この手にて君を埋め参らせしを今はこの手も自由ならず。 捕われて遠き国に行くほどもあらねばこの手にて君が墓を掃いこの手にて香を焚くべき折々の長しえに尽きたりと思いたまえ。 生ける時は莫耶も我らを割き難きに死こそ無惨なれ。 羅馬の君は埃及に葬むられ埃及なるわれは君が羅馬に埋められんとす。 君が羅馬は――わが思うほどの恩を憂きわれに拒める君が羅馬はつれなき君が羅馬なり。 されど情だにあらば羅馬の神はよも生きながらの辱に市に引かるるわれを雲の上よりよそに見たまわざるべし。 君が仇なる人の勝利を飾るわれを。 埃及の神に見離されたるわれを。 君が片身と残したまえるわが命こそ仇なれ。 情ある羅馬の神に祈る。 ――われを隠したまえ。 恥見えぬ墓の底に君とわれを永劫に隠したまえ。 小野さん。 え。 え。 え。 何ですか。 まだそこにいらしったんですか。 ええ。 この女は羅馬へ行くつもりなんでしょうか。 クレオパトラ。 行きはしませんよ。 行きはしませんよ。 行かないの。 私だって行かないわ。 沙翁の書いたものを見るとその女の性格が非常によく現われていますよ。 沙翁の描いたクレオパトラを見ると一種妙な心持ちになります。 どんな心持ちに。 古い穴の中へ引き込まれて出る事が出来なくなってぼんやりしているうちに紫色のクレオパトラが眼の前に鮮やかに映って来ます。 剥げかかった錦絵のなかからたった一人がぱっと紫に燃えて浮き出して来ます。 紫。 よく紫とおっしゃるのね。 なぜ紫なんです。 なぜってそう云う感じがするのです。 じゃこんな色ですか。 え。 そよと吹く風の恋や涙の恋や嘆息の恋じゃありません。 暴風雨の恋暦にも録っていない大暴雨の恋。 九寸五分の恋です。 九寸五分の恋が紫なんですか。 九寸五分の恋が紫なんじゃない紫の恋が九寸五分なんです。 恋を斬ると紫色の血が出るというのですか。 恋が怒ると九寸五分が紫色に閃ると云うのです。 沙翁がそんな事を書いているんですか。 沙翁が描いた所を私が評したのです。 ――安図尼が羅馬でオクテヴィアと結婚した時に――使のものが結婚の報道を持って来た時に――クレオパトラの。 紫が嫉妬で濃く染まったんでしょう。 紫が埃及の日で焦げると冷たい短刀が光ります。 このくらいの濃さ加減なら大丈夫ですか。 そこでクレオパトラがどうしました。 オクテヴィヤの事を根堀り葉堀り使のものに尋ねるんです。 その尋ね方が詰り方が性格を活動させているから面白い。 オクテヴィヤは自分のように背が高いかの髪の毛はどんな色だの顔が丸いかの声が低いかの年はいくつだのとどこまでも使者を追窮します。 全体追窮する人の年はいくつなんです。 クレオパトラは三十ばかりでしょう。 それじゃ私に似てだいぶ御婆さんね。 年を取ると嫉妬が増して来るものでしょうか。 そうですね。 やっぱり人に因るでしょう。 私がそんな御婆さんになったら――今でも御婆さんでしたっけね。 ホホホ――しかしそのくらいな年になったらどうでしょう。 あなたが――あなたに嫉妬なんてそんなものは今だって。 有りますよ。 清姫が蛇になったのは何歳でしょう。 左様やっぱり十代にしないと芝居になりませんね。 おおかた十八九でしょう。 安珍は。 安珍は二十五ぐらいがよくはないでしょうか。 小野さん。 ええ。 あなたは御何歳でしたかね。 私ですか――私はと。 考えないと分らないんですか。 いえなに――たしか甲野君と御同い年でした。 そうそう兄と御同い年ですね。 しかし兄の方がよっぽど老けて見えますよ。 なにそうでも有りません。 本当よ。 何か奢りましょうか。 ええ奢ってちょうだい。 しかしあなたのは顔が若いのじゃない。 気が若いんですよ。 そんなに見えますか。 まるで坊っちゃんのようですよ。 可愛想に。 可愛らしいんですよ。 可愛らしいんですよ。 ちょうど安珍のようなの。 安珍は苛い。 御不服なの。 だって。 だって何が御厭なの。 私は安珍のように逃げやしません。 ホホホ私は清姫のように追っ懸けますよ。 蛇になるには少し年が老け過ぎていますかしら。 藤尾さん。 何です。 御帰りいっ。 母が帰って来たのです。 ああそうですか。 御母さんはどちらへか行らしったんですか。 ええちょっと買物に出掛けました。 だいぶ御邪魔をしました。 まあ御緩くりなさい。 母が帰っても別に用事はないんですから。 しかし。 まあ御坐り遊ばせ。 近頃は女ばかりで淋しくっていけません。 甲野君はいつ頃御帰りですか。 いつ頃帰りますかちっとも分りません。 御音信が有りますか。 いいえ。 時候が好いから京都は面白いでしょう。 あなたもいっしょに御出になればよかったのに。 私は。 なぜ行らっしゃらなかったの。 別に訳はないんです。 だって古い御馴染じゃありませんか。 え。 え。 京都には長い事いらしったんじゃありませんか。 それで御馴染なんですか。 ええ。 あんまり古い馴染だからもう行く気にならんのです。 随分不人情ね。 なにそんな事はないです。 藤尾藤尾。 御母さんでしょう。 ええ。 私はもう帰ります。 なぜです。 でも何か御用が御在りになるんでしょう。 あったって構わないじゃありませんか。 先生じゃありませんか。 先生が教えに来ているんだから誰が帰ったって構わないじゃありませんか。 しかしあんまり教えないんだから。 教わっていますともこれだけ教わっていればたくさんですわ。 そうでしょうか。 クレオパトラや何かたくさん教わってるじゃありませんか。 クレオパトラぐらいで好ければいくらでもあります。 藤尾藤尾。 失礼ですがちょっと御免蒙ります。 ――なにまだ伺いたい事があるから待っていて下さい。 おやいらっしゃい。 藤尾が始終御厄介になりまして――さぞわがままばかり申す事でございましょう。 まるで小供でございますから――さあどうぞ御楽に――いつも御挨拶を申さねばならんはずでございますがつい年を取っているものでございますから失礼のみ致します。 ――どうも実に赤児で困り切ります駄々ばかり捏ねまして――でも英語だけは御蔭さまで大変好きな模様で――近頃ではだいぶむずかしいものが読めるそうで自分だけはなかなか得意でおります。 ――何兄がいるのでございますから教えて貰えば好いのでございますが――どうもそのやっぱり兄弟は行かんものと見えまして――。 花を墓に墓に口を接吻して憂きわれをひたふるに嘆きたる女王は浴湯をこそと召す。 浴みしたる後は夕餉をこそと召す。 この時|賤しき厠卒ありて小さき籃に無花果を盛りて参らす。 女王の該撒に送れる文に云う。 願わくは安図尼と同じ墓にわれを埋めたまえと。 無花果の繁れる青き葉陰にはナイルの泥の※の舌を冷やしたる毒蛇をそっと忍ばせたり。 該撒の使は走る。 闥を排して眼を射れば――黄金の寝台に位高き装を今日と凝らして女王の屍は是非なく横わる。 アイリスと呼ぶは女王の足のあたりにこの世を捨てぬ。 チャーミオンと名づけたるは女王の頭のあたりに月黒き夜の露をあつめて千顆の珠を鋳たる冠の今落ちんとするを力なく支う。 闥を排したる該撒の使はこはいかにと云う。 埃及の御代しろし召す人の最後ぞかくありてこそとチャーミオンは言い終って倒れながらに目を瞑る。 藤尾。 藤尾。 なに。 おや気楽な人だ事。 そんなに面白い御本なのかい。 ――あとで御覧なさいな。 失礼じゃないか。 ――この通り世間見ずのわがままものでまことに困り切ります。 ――その御本は小野さんから拝借したのかい。 大変|奇麗な――汚さないようになさいよ。 本なぞは大事にしないと――。 大事にしていますわ。 それじゃ好いけれどもまたこないだのように。 だってありゃ兄さんが悪いんですもの。 甲野君がどうかしたんですか。 いえあなたどうもわがまま者の寄り合いだもんでござんすから始終小供のように喧嘩ばかり致しまして――こないだも兄の本を。 甲野君の書物をどうなすったんです。 言いましょうか。 兄の本を庭へ抛げたんですよ。 これの兄も御存じの通り随分変人ですから。 甲野さんはまだ御帰りにならんそうですね。 まるであなた鉄砲玉のようで――あれも始終身体が悪いとか申してぐずぐずしておりますからそれならばちと旅行でもして判然したらよかろうと申しましてね――でもまだ何だかだと駄々を捏ねて動かないのをようやく宗近に頼んで連れ出して貰いました。 ところがまるで鉄砲玉で。 若いものと申すものは。 若いって兄さんは特別ですよ。 哲学で超絶しているんだから特別ですよ。 そうかね御母さんには何だか分らないけれども――それにあなたあの宗近と云うのが大の呑気屋であれこそ本当の鉄砲玉で随分の困りものでしてね。 アハハハ快活な面白い人ですな。 宗近と云えば御前さっきのものはどこにあるのかい。 ここです。 御母さん。 こうすると引き立ちますよ。 どうです。 なるほど善く似合いますね。 全体どうしたんです。 上げましょうか。 じゃまあ止しましょう。 京都という所はいやに寒い所だな。 寒いより眠い所だ。 寝てばかりいるね。 まるで君は京都へ寝に来たようなものだ。 うん。 実に気楽な所だ。 気楽になってまあ結構だ。 御母さんが心配していたぜ。 ふん。 ふんは御挨拶だね。 これでも君を気楽にさせるについては人の知らない苦労をしているんだぜ。 君あの額の字が読めるかい。 なるほど妙だね。 ※雨※風か。 見た事がないな。 何でも人扁だから人がどうかするんだろう。 いらざる字を書きやがる。 元来何者だい。 分らんね。 分からんでもいいやそれよりこの襖が面白いよ。 一面に金紙を張り付けたところは豪勢だがところどころに皺が寄ってるには驚ろいたね。 まるで緞帳芝居の道具立見たようだ。 そこへ持って来て筍を三本景気に描いたのはどう云う了見だろう。 なあ甲野さんこれは謎だぜ。 何と云う謎だい。 それは知らんがね。 意味が分からないものが描いてあるんだから謎だろう。 意味が分からないものは謎にはならんじゃないか。 意味があるから謎なんだ。 ところが哲学者なんてものは意味がないものを謎だと思って一生懸命に考えてるぜ。 気狂の発明した詰将棋の手を青筋を立てて研究しているようなものだ。 じゃこの筍も気違の画工が描いたんだろう。 ハハハハ。 そのくらい事理が分ったら煩悶もなかろう。 世の中と筍といっしょになるものか。 君昔話しにゴージアン・ノットと云うのがあるじゃないか。 知ってるかい。 人を中学生だと思ってる。 思っていなくってもまあ聞いて見るんだ。 知ってるなら云って見ろ。 うるさいな知ってるよ。 だから云って御覧なさいよ。 哲学者なんてものはよくごまかすもので何を聞いても知らないと白状の出来ない執念深い人間だから。 どっちが執念深いか分りゃしない。 どっちでもいいから云って御覧。 ゴージアン・ノットと云うのはアレキサンダー時代の話しさ。 うん知ってるね。 それで。 ゴージアスと云う百姓がジュピターの神へ車を奉納したところが。 おやおや少し待った。 そんな事があるのかい。 それから。 そんな事があるのかって君知らないのか。 そこまでは知らなかった。 何だ。 自分こそ知らない癖に。 ハハハハ学校で習った時は教師がそこまでは教えなかった。 あの教師もそこまではきっと知らないに違ない。 ところがその百姓が車の轅と横木を蔓で結いた結び目を誰がどうしても解く事が出来ない。 なあるほどそれをゴージアン・ノットと云うんだね。 そうか。 その結目をアレキサンダーが面倒臭いって刀を抜いて切っちまったんだね。 うんそうか。 アレキサンダーは面倒臭いとも何とも云やあしない。 そりゃどうでもいい。 この結目を解いたものは東方の帝たらんと云う神託を聞いたときアレキサンダーがそれならこうするばかりだと云って。 そこは知ってるんだ。 そこは学校の先生に教わった所だ。 それじゃそれでいいじゃないか。 いいがね人間はそれならこうするばかりだと云う了見がなくっちゃ駄目だと思うんだね。 それもよかろう。 それもよかろうじゃ張り合がないな。 ゴージアン・ノットはいくら考えたって解けっこ無いんだもの。 切れば解けるのかい。 切れば――解けなくってもまあ都合がいいやね。 都合か。 世の中に都合ほど卑怯なものはない。 するとアレキサンダーは大変な卑怯な男になる訳だ。 アレキサンダーなんかそんなに豪いと思ってるのか。 御前川上わしゃ川下で。 大文字。 松虫。 鈴虫。 一奩楼角雨閑殺古今人。 忽※弾琴響垂楊惹恨新。 宇宙は謎である。 謎を解くは人々の勝手である。 勝手に解いて勝手に落ちつくものは幸福である。 疑えば親さえ謎である。 兄弟さえ謎である。 妻も子もかく観ずる自分さえも謎である。 この世に生まれるのは解けぬ謎を押しつけられて白頭に※※し中夜に煩悶するために生まれるのである。 親の謎を解くためには自分が親と同体にならねばならぬ。 妻の謎を解くためには妻と同心にならねばならぬ。 宇宙の謎を解くためには宇宙と同心同体にならねばならぬ。 これが出来ねば親も妻も宇宙も疑である。 解けぬ謎である苦痛である。 親兄弟と云う解けぬ謎のある矢先に妻と云う新しき謎を好んで貰うのは自分の財産の所置に窮している上に他人の金銭を預かると一般である。 妻と云う新らしき謎を貰うのみか新らしき謎にまた新らしき謎を生ませて苦しむのは預かった金銭に利子が積んで他人の所得をみずからと持ち扱うようなものであろう。 すべての疑は身を捨てて始めて解決が出来る。 ただどう身を捨てるかが問題である。 死。 死とはあまりに無能である。 眼に見るは形である。 耳に聴くは声である。 形と声は物の本体ではない。 物の本体を証得しないものには形も声も無意義である。 何物かをこの奥に捕えたる時形も声もことごとく新らしき形と声になる。 これが象徴である。 象徴とは本来空の不可思議を眼に見耳に聴くための方便である。 無絃の琴を聴いて始めて序破急の意義を悟る。 おい甲野さん理窟ばかり云わずとちとあの琴でも聴くがいい。 なかなか旨いぜ。 うんさっきから拝聴している。 寝ながら拝聴する法はないよ。 ちょっと椽まで出張を命ずるから出て来なさい。 なにここで結構だ。 構ってくれるな。 おいどうも東山が奇麗に見えるぜ。 そうか。 おや鴨川を渉る奴がある。 実に詩的だな。 おい川を渉る奴があるよ。 渉ってもいいよ。 君布団着て寝たる姿やとか何とか云うがどこに布団を着ている訳かな。 ちょっとここまで来て教えてくれんかな。 いやだよ。 君そうこうしているうちに加茂の水嵩が増して来たぜ。 いやあ大変だ。 橋が落ちそうだ。 おい橋が落ちるよ。 落ちても差し支えなしだ。 落ちても差し支えなしだ。 晩に都踊が見られなくっても差し支えなしかな。 なしなし。 そう落ちついていちゃ仕方がない。 こっちで降参するよりほかに名案もなくなった。 おいおい。 何だうるさい男だね。 あの琴を聴いたろう。 聴いたと云ったじゃないか。 ありゃ君女だぜ。 当り前さ。 幾何だと思う。 幾歳だかね。 そう冷淡じゃ張り合がない。 教えてくれなら教えてくれと判然云うがいい。 誰が云うものか。 云わない。 云わなければこっちで云うばかりだ。 ありゃ島田だよ。 座敷でも開いてるのかい。 なに座敷はぴたりと締ってる。 それじゃまた例の通り好加減な雅号なんだろう。 雅号にして本名なるものだね。 僕はあの女を見たんだよ。 どうして。 そら聴きたくなった。 何聴かなくってもいいさ。 そんな事を聞くよりこの筍を研究している方がよっぽど面白い。 この筍を寝ていて横に見ると背が低く見えるがどう云うものだろう。 おおかた君の眼が横に着いているせいだろう。 二枚の唐紙に三本|描いたのはどう云う因縁だろう。 あんまり下手だから一本負けたつもりだろう。 筍の真青なのはなぜだろう。 食うと中毒ると云う謎なんだろう。 やっぱり謎か。 君だって謎を釈くじゃないか。 ハハハハ。 時々は釈いて見るね。 時に僕がさっきから島田の謎を解いてやろうと云うのにいっこう釈かせないのは哲学者にも似合わん不熱心な事だと思うがね。 釈きたければ釈くさ。 そうもったいぶったって頭を下げるような哲学者じゃない。 それじゃひとまず安っぽく釈いてしまって後から頭を下げさせる事にしよう。 ――あのねあの琴の主はね。 うん。 僕が見たんだよ。 そりゃ今聴いた。 そうか。 それじゃ別に話す事もない。 なければいいさ。 いや好くない。 それじゃ話す。 昨日ね僕が湯から上がって椽側で肌を抜いで涼んでいると――聴きたいだろう――僕が何気なく鴨東の景色を見廻わしてああ好い心持ちだとふと眼を落して隣家を見下すとあの娘が障子を半分開けて開けた障子に靠たれかかって庭を見ていたのさ。 別嬪かね。 ああ別嬪だよ。 藤尾さんよりわるいが糸公より好いようだ。 そうかい。 それっきりじゃ余まり他愛が無さ過ぎる。 そりゃ残念な事をした僕も見ればよかったぐらい義理にも云うがいい。 そりゃ残念な事をした僕も見ればよかった。 ハハハハだから見せてやるから椽側まで出て来いと云うのに。 だって障子は締ってるんじゃないか。 そのうち開くかも知れないさ。 ハハハハ小野なら障子の開くまで待ってるかも知れない。 そうだね。 小野を連れて来て見せてやれば好かった。 京都はああ云う人間が住むに好い所だ。 うん全く小野的だ。 大将来いと云うのになんのかのと云ってとうとう来ない。 春休みに勉強しようと云うんだろう。 春休みに勉強が出来るものか。 あんな風じゃいつだって勉強が出来やしない。 一体文学者は軽いからいけない。 少々耳が痛いね。 こっちも余まり重くはない方だからね。 いえ単なる文学者と云うものは霞に酔ってぽうっとしているばかりで霞を披いて本体を見つけようとしないから性根がないよ。 霞の酔っ払か。 哲学者は余計な事を考え込んで苦い顔をするから塩水の酔っ払だろう。 君見たように叡山へ登るのに若狭まで突き貫ける男は白雨の酔っ払だよ。 ハハハハそれぞれ酔っ払ってるから妙だ。 なるほど酔っ払いに違ない。 たしかに酔っ払ってるようだ。 君はまた珍らしく畏まってるじゃないか。 おれはこれで正気なんだからね。 居住だけは正気だ。 精神も正気だからさ。 どてらを着て跪坐てるのは酔っ払っていながら異状がないと得意になるようなものだ。 なおおかしいよ。 酔っ払いは酔払らしくするがいい。 そうかそれじゃ御免蒙ろう。 君は感心に愚を主張しないからえらい。 愚にして賢と心得ているほど片腹痛い事はないものだ。 諫に従う事流るるがごとしとは僕の事を云ったものだよ。 酔払っていてもそれなら大丈夫だ。 なんて生意気を云う君はどうだ。 酔払っていると知りながら胡坐をかく事も跪坐る事も出来ない人間だろう。 まあ立ん坊だね。 立ん坊か。 いつまでも立ん坊か。 立ん坊でも覚悟だけはちゃんとしている。 叔父さんが生きてると好いがな。 なに阿爺が生きているとかえって面倒かも知れない。 そうさなあ。 つまり家を藤尾にくれてしまえばそれで済むんだからね。 それで君はどうするんだい。 僕は立ん坊さ。 いよいよ本当の立ん坊か。 うんどうせ家を襲いだって立ん坊襲がなくったって立ん坊なんだからいっこう構わない。 しかしそりゃいかん。 第一|叔母さんが困るだろう。 母がか。 あの琴は生田流かな。 寒くなった狐の袖無でも着よう。 その袖無は手製か。 うん皮は支那に行った友人から貰ったんだがね表は糸公が着けてくれた。 本物だ。 旨いもんだ。 御糸さんは藤尾なんぞと違って実用的に出来ているからいい。 いいかふん。 彼奴が嫁に行くと少々困るね。 いい嫁の口はないかい。 嫁の口か。 無い事もないが。 御糸さんが嫁に行くと御叔父さんも困るね。 困ったって仕方がないどうせいつか困るんだもの。 ――それよりか君は女房を貰わないのかい。 僕か――だって――食わす事が出来ないもの。 だから御母さんの云う通りに君が家を襲いで。 そりゃ駄目だよ。 母が何と云ったって僕は厭なんだ。 妙だねどうも。 君が判然しないもんだから藤尾さんも嫁に行かれないんだろう。 行かれないんじゃない行かないんだ。 また鱧を食わせるな。 毎日鱧ばかり食って腹の中が小骨だらけだ。 京都と云う所は実に愚な所だ。 もういい加減に帰ろうじゃないか。 帰ってもいい。 鱧ぐらいなら帰らなくってもいい。 しかし君の嗅覚は非常に鋭敏だね。 鱧の臭がするかい。 するじゃないか。 台所でしきりに焼いていらあね。 そのくらい虫が知らせると阿爺も外国で死ななくっても済んだかも知れない。 阿爺は嗅覚が鈍かったと見える。 ハハハハ。 時に御叔父さんの遺物はもう着いたか知ら。 もう着いた時分だね。 公使館の佐伯と云う人が持って来てくれるはずだ。 ――何にもないだろう――書物が少しあるかな。 例の時計はどうしたろう。 そうそう。 倫敦で買った自慢の時計か。 あれは多分来るだろう。 小供の時から藤尾の玩具になった時計だ。 あれを持つとなかなか離さなかったもんだ。 あの鏈に着いている柘榴石が気に入ってね。 考えると古い時計だね。 そうだろう阿爺が始めて洋行した時に買ったんだから。 あれを御叔父さんの片身に僕にくれ。 僕もそう思っていた。 御叔父さんが今度洋行するときね帰ったら卒業祝にこれを御前にやろうと約束して行ったんだよ。 僕も覚えている。 ――ことによると今頃は藤尾が取ってまた玩具にしているかも知れないが。 藤尾さんとあの時計はとうてい離せないか。 ハハハハなに構わないそれでも貰おう。 色を見るものは形を見ず形を見るものは質を見ず。 生死因縁無了期色相世界現狂癡。 この時計をあなたに上げたいんだけれどもと女が云う。 どうか下さいと小野さんが手を出す。 女がその手をぴしゃりと平手でたたいて御気の毒様もう約束済ですと云う。 じゃ時計は入りませんしかしあなたはと聞くと私。 私は無論時計にくっ付いているんですと向をむいてすたすた歩き出す。 小野清三様。 拝啓|柳暗花明の好時節と相成候処いよいよ御壮健|奉賀候。 小生も不相変頑強小夜も息災に候えば乍憚御休神|可被下候。 さて旧臘中一寸申上候東京表へ転住の義其後色々の事情にて捗どりかね候所此程に至り諸事好都合に埓あきいよいよ近日中に断行の運びに至り候はずにつき左様御承知|被下度候。 二十年|前に其地を引き払い候儘両度の上京に五六日の逗留の外は全く故郷の消息に疎く万事不案内に候えば到着の上は定めて御厄介の事と存候。 「年来住み古るしたる住宅は隣家|蔦屋にて譲り受け度旨申込有之其他にも相談の口はかかり候えども此方に取り極め申候。 荷物其他|嵩張り候ものは皆当地にて売払いなるべく手軽に引き移るつもりに御座候。 唯小夜所持の琴一面は本人の希望により東京迄持ち運び候事に相成候。 故きを棄てがたき婦女の心情御憐察|可被下候。 「御承知の通小夜は五年|前当地に呼び寄せ候迄東京にて学校教育を受け候事とて切に転住の速かなる事を希望致し居候。 同人|行末の義に関しては大略御同意の事と存じ候えば別に不申述。 追て其地にて御面会の上|篤と御協議申上度と存候。 「博覧会にて御地は定めて雑沓の事と存候。 出立の節はなるべく急行の夜汽車を撰みたくと存じ候えども急行は非常の乗客の由につき一層途中にて一二泊の上ゆるゆる上京致すやも計りがたく候。 時日刻限はいずれ確定次第御報|可致候。 まずは右当用迄|匆々不一。 御客様。 通しましょうか。 えうん。 通してもいいんですか。 うんそうさね。 御留守だって云いましょうか。 誰だい。 浅井さん。 浅井か。 御留守。 そうさね。 御留守になさいますか。 どうしようか知ら。 どっちでも。 逢おうかな。 じゃ通しましょう。 おいちょっと待った。 おい。 何です。 ああ好い。 好し好し。 ええ天気だな。 いい天気だね。 博覧会へ行ったか。 いいやまだ行かない。 行って見い面白いぜ。 昨日行ってのアイスクリームを食うて来た。 アイスクリーム。 そう昨日はだいぶ暑かったからね。 今度は露西亜料理を食いに行くつもりだ。 どうだいっしょに行かんか。 今日かい。 うん今日でもいい。 今日は少し。 行かんか。 あまり勉強すると病気になるぞ。 早く博士になって美しい嫁さんでも貰おうと思うてけつかる。 失敬な奴ちゃ。 なにそんな事はない。 勉強がちっとも出来なくって困る。 神経衰弱だろう。 顔色が悪いぞ。 そうかどうも心持ちがわるい。 そうだろう。 井上の御嬢さんが心配する早く露西亜料理でも食うて好うならんと。 なぜ。 なぜって井上の御嬢さんは東京へ来るんだろう。 そうか。 そうかって君の所へは無論通知が来たはずじゃ。 君の所へは来たかい。 うん来た。 君の所へは来んのか。 いえ来た事は来たがね。 いつ来たか。 もう少し先刻だった。 いよいよ結婚するんだろう。 なにそんな事があるものか。 せんのかなぜ。 なぜってそこにはだんだん深い事情があるんだがね。 どんな事情が。 まあそれはおって緩っくり話すよ。 僕も井上先生には大変世話になったし僕の力で出来る事は何でも先生のためにする気なんだがね。 結婚なんてそう思う通りに急に出来るものじゃないさ。 しかし約束があるんだろう。 それがねいつか君にも話そう話そうと思っていたんだが――僕は実に先生には同情しているんだよ。 そりゃそうだろう。 まあ先生が出て来たら緩くり話そうと思うんだね。 そう向うだけで一人ぎめにきめていても困るからね。 どんなに一人できめているんだい。 きめているらしいんだね手紙の様子で見ると。 あの先生も随分|昔堅気だからな。 なかなか自分できめた事は動かない。 一徹なんだ。 近頃は家計の方も余りよくないんだろう。 どうかね。 そう困りもしまい。 時に何時かな君ちょっと時計を見てくれ。 二時十六分だ。 二時十六分。 ――それが例の恩賜の時計か。 ああ。 旨い事をしたなあ。 僕も貰って置けばよかった。 こう云うものを持っていると世間の受けがだいぶ違うな。 そう云う事もあるまい。 いやある。 何しろ天皇陛下が保証して下さったんだからたしかだ。 君これからどこかへ行くのかい。 うん天気がいいから遊ぶんだ。 どうだいっしょに行かんか。 僕は少し用があるから――しかしそこまでいっしょに出よう。 明かだ。 あの堂は木造でも容易に壊す事が出来ないように見える。 つまり恰好が旨くそう云う風に出来てるんだろう。 アリストートルのいわゆる理形に適ってるのかも知れない。 だいぶむずかしいね。 ――アリストートルはどうでも構わないがこの辺の寺はどれも一種妙な感じがするのは奇体だ。 舟板塀趣味や御神灯趣味とは違うさ。 夢窓国師が建てたんだもの。 あの堂を見上げてちょっと変な気になるのはつまり夢窓国師になるんだな。 ハハハハ。 夢窓国師も少しは話せらあ。 夢窓国師や大燈国師になるからこんな所を逍遥する価値があるんだ。 ただ見物したって何になるもんか。 夢窓国師も家根になって明治まで生きていれば結構だ。 安直な銅像よりよっぽどいいね。 そうさ一目瞭然だ。 何が。 何がってこの境内の景色がさ。 ちっとも曲っていない。 どこまでも明らかだ。 ちょうどおれのようだな。 だからおれは寺へ這入ると好い気持ちになるんだろう。 ハハハそうかも知れない。 して見ると夢窓国師がおれに似ているんでおれが夢窓国師に似ているんじゃない。 どうでも好いさ。 ――まあちっと休もうか。 夢窓国師はそんな悪戯はしなかった。 それだけおれより下等なんだ。 ちっと宗近国師の真似をするが好い。 君は国師より馬賊になる方がよかろう。 外交官の馬賊は少し変だからまあ正々堂々と北京へ駐在する事にするよ。 東洋専門の外交官かい。 東洋の経綸さ。 ハハハハ。 おれのようなのはとうてい西洋には向きそうもないね。 どうだろうそれとも修業したら君の阿爺ぐらいにはなれるだろうか。 阿爺のように外国で死なれちゃ大変だ。 なにあとは君に頼むから構わない。 いい迷惑だね。 こっちだってただ死ぬんじゃない天下国家のために死ぬんだからそのくらいな事はしてもよかろう。 こっちは自分一人を持て余しているくらいだ。 元来君は我儘過ぎるよ。 日本と云う考が君の頭のなかにあるかい。 君は日本の運命を考えた事があるのか。 運命は神の考えるものだ。 人間は人間らしく働けばそれで結構だ。 日露戦争を見ろ。 たまたま風邪が癒れば長命だと思ってる。 日本が短命だと云うのかね。 日本と露西亜の戦争じゃない。 人種と人種の戦争だよ。 無論さ。 亜米利加を見ろ印度を見ろ亜弗利加を見ろ。 それは叔父さんが外国で死んだからおれも外国で死ぬと云う論法だよ。 論より証拠誰でも死ぬじゃないか。 死ぬのと殺されるのとは同じものか。 大概は知らぬ間に殺されているんだ。 あれを見ろ。 あの堂を見ろ。 峩山と云う坊主は一椀の托鉢だけであの本堂を再建したと云うじゃないか。 しかも死んだのは五十になるかならんうちだ。 やろうと思わなければ横に寝た箸を竪にする事も出来ん。 本堂よりあれを見ろ。 あれだ。 美しいな。 京都のものは朝夕都踊りをしている。 気楽なものだ。 だから小野的だと云うんだ。 しかし都踊はいいよ。 悪るくないね。 何となく景気がいい。 いいえ。 あれを見るとほとんど異性の感がない。 女もあれほどに飾ると飾りまけがして人間の分子が少なくなる。 そうさその理想の極端は京人形だ。 人形は器械だけに厭味がない。 どうも淡粧して活動する奴が一番人間の分子が多くって危険だ。 ハハハハいかなる哲学者でも危険だろうな。 ところが都踊となると外交官にも危険はない。 至極御同感だ。 御互に無事な所へ遊びに来てまあ善かったよ。 人間の分子も第一義が活動すると善いがどうも普通は第十義ぐらいがむやみに活動するから厭になっちまう。 御互は第何義ぐらいだろう。 御互になるとこれでも人間が上等だから第二義第三義以下には出ないね。 これでかい。 云う事はたわいがなくってもそこに面白味がある。 ありがたいな。 第一義となるとどんな活動だね。 第一義か。 第一義は血を見ないと出て来ない。 それこそ危険だ。 血でもってふざけた了見を洗った時に第一義が躍然とあらわれる。 人間はそれほど軽薄なものなんだよ。 自分の血か人の血か。 そんなとぼけた奴はいくら血で洗ったって駄目だろう。 これは。 こうだ。 おい壊れたか。 壊れたってそんなものは構わん。 ちょっとこっちを見ろ。 早く。 何だ。 何だ。 もう行ってしまった。 惜しい事をした。 何が行ってしまったんだ。 あの女がさ。 あの女とは。 隣りのさ。 隣りの。 あの琴の主さ。 君が大いに見たがった娘さ。 せっかく見せてやろうと思ったのに下らない茶碗なんかいじくっているもんだから。 そりゃ惜しい事をした。 どれだい。 どれだかもう見えるものかね。 娘も惜しいがこの茶碗は無残な事をした。 罪は君にある。 有ってたくさんだ。 そんな茶碗は洗ったくらいじゃ追つかない。 壊してしまわなけりゃ直らない厄介物だ。 全体茶人の持ってる道具ほど気に食わないものはない。 みんなひねくれている。 天下の茶器をあつめてことごとく敲き壊してやりたい気がする。 何ならついでだからもう一つ二つ茶碗を壊して行こうじゃないか。 ふうん一個何銭ぐらいかな。 妙な舟だな。 左へ寄っていやはったら大丈夫どす波はかかりまへん。 いよいよ来たぜ。 なるほど。 あれだ。 壮んなものだ。 夢窓国師とどっちがいい。 夢窓国師よりこっちの方がえらいようだ。 当るぜ。 うん。 どうしても夢窓国師より上等だ。 少しは穏かになったね。 まるで猿だ。 慣れると何でもするもんだね。 あれで一日働いて若干になるだろう。 若干になるかな。 下から聞いて見ようか。 この流れは余り急過ぎる。 少しも余裕がない。 のべつに駛っている。 所々にこう云う場所がないとやはり行かんね。 おれはもっと駛りたい。 どうもさっきの岩の腹を突いて曲がった時なんか実に愉快だった。 願くは船頭の棹を借りておれが舟を廻したかった。 君が廻せば今頃は御互に成仏している時分だ。 なに愉快だ。 京人形を見ているより愉快じゃないか。 自然は皆第一義で活動しているからな。 すると自然は人間の御手本だね。 なに人間が自然の御手本さ。 それじゃやっぱり京人形党だね。 京人形はいいよ。 あれは自然に近い。 ある意味において第一義だ。 困るのは。 困るのは何だい。 大抵困るじゃないか。 そう困った日にゃ方が付かない。 御手本が無くなる訳だ。 瀬を下って愉快だと云うのは御手本があるからさ。 おれにかい。 そうさ。 するとおれは第一義の人物だね。 瀬を下ってるうちは第一義さ。 下ってしまえば凡人か。 おやおや。 自然が人間を翻訳する前に人間が自然を翻訳するから御手本はやっぱり人間にあるのさ。 瀬を下って壮快なのは君の腹にある壮快が第一義に活動して自然に乗り移るのだよ。 それが第一義の翻訳で第一義の解釈だ。 肝胆相照らすと云うのは御互に第一義が活動するからだろう。 まずそんなものに違ない。 君に肝胆相照らす場合があるかい。 ハハハハ僕は保津川と肝胆相照らした訳だ。 愉快愉快。 その鼻を廻ると嵐山どす。 あれだよ。 あれが。 あれが琴を弾いた女だよ。 あの黒い羽織は阿爺に違ない。 そうか。 あれは京人形じゃない。 東京のものだ。 どうして。 宿の下女がそう云った。 しばらく御目に懸りませんね。 よくいらしった事。 父一人で忙がしいものですからつい御無沙汰をして。 博覧会へもいらっしゃらないの。 いいえまだ。 向島は。 まだどこへも行かないの。 そんなに御用が御在りなの。 なに大した用じゃないんですけれども。 少しは出ないと毒ですよ。 春は一年に一度しか来ませんわ。 そうね。 わたしもそう思ってるんですけれども。 一年に一度だけれども死ねば今年ぎりじゃあありませんか。 ホホホホ死んじゃつまらないわね。 今に兄が御嫁でも貰ったら出てあるきますわ。 一さんはいつ奥さんを御貰いなさるおつもりなんでしょう。 いつでも来て下さる方があれば貰うだろうと思いますの。 ホホホホどんな立派な奥さんでもすぐ出来ますわ。 本当にそうならいいんですが。 どなたか心当りはないんですか。 一さんが貰うときまれば本気に捜がしますよ。 ええどうぞ捜がしてちょうだい私の姉さんのつもりで。 あなたの方が姉さんよ。 なぜ。 あなたは私の姉さんになりたくはなくって。 あらっ。 どうかなすったの。 大変御顔の色が悪い事ね。 二三日寝られないんです。 そう。 どうなすって。 近頃論文を書いていらっしゃるの。 ――ねえそれででしょう。 ええ。 そう。 卒業なすっても御忙いのね。 卒業して銀時計を御頂きになったからこれから論文で金時計を御取りになるんですよ。 結構ね。 ねえそうでしょう。 ねえ小野さん。 それじゃ兄やこちらの欽吾さんといっしょに京都へ遊びにいらっしゃらないはずね。 ――兄なんぞはそりゃ呑気よ。 少し寝られなくなればいいと思うわ。 ホホホホそれでも家の兄より好いでしょう。 欽吾さんの方がいくら好いか分かりゃしない。 ホホホホ。 まだ京都から御音信はないですか。 いいえ。 だって端書ぐらい来そうなものですね。 でも鉄砲玉だって云うじゃありませんか。 だれがです。 ほらこの間母がそう云ったでしょう。 二人共鉄砲玉だって――糸子さんことに宗近は大の鉄砲玉ですとさ。 だれが。 御叔母さんが。 鉄砲玉でたくさんよ。 だから早く御嫁を持たしてしまわないとどこへ飛んで行くか心配でいけないんです。 早く貰って御上げなさいよ。 ねえ小野さん。 二人で好いのを見つけて上げようじゃありませんか。 ええ好いのを一人周旋しましょう。 京都にはだいぶ御知合があるでしょう。 京都の方を一さんに御世話なさいよ。 京都には美人が多いそうじゃありませんか。 なに実際美しくはないんです。 ――帰ったら甲野君に聞いて見ると分ります。 兄がそんな話をするものですか。 それじゃ宗近君に。 兄は大変美人が多いと申しておりますよ。 宗近君は前にも京都へいらしった事があるんですか。 いいえ今度が始めてですけれども手紙をくれまして。 おやそれじゃ鉄砲玉じゃないのね。 手紙が来たの。 なに端書よ。 都踊の端書をよこしてそのはじに京都の女はみんな奇麗だと書いてあるのよ。 そう。 そんなに奇麗なの。 何だか白い顔がたくさん並んでてちっとも分らないわ。 ただ見たら好いかも知れないけれども。 ただ見ても白い顔が並んどるばかりです。 奇麗は奇麗ですけれども表情がなくってあまり面白くはないです。 それからまだ書いてあるんですよ。 無精に似合わない事ね。 何と。 隣家の琴は御前より旨いって。 ホホホ一さんに琴の批評は出来そうもありませんね。 私にあてつけたんでしょう。 琴がまずいから。 ハハハハ宗近君もだいぶ人の悪い事をしますね。 しかも御前より別嬪だと書いてあるんです。 にくらしいわね。 一さんは何でも露骨なんですよ。 私なんぞも一さんに逢っちゃ叶わない。 でもあなたの事は褒めてありますよ。 おや何と。 御前より別嬪だしかし藤尾さんより悪いって。 まあいやだ事。 小野さん三条に蔦屋と云う宿屋がござんすか。 蔦屋がどうかしたの。 なにその蔦屋にね欽吾さんと兄さんが宿ってるんですって。 だからどんな所かと思って小野さんに伺って見たんです。 小野さん知っていらしって。 三条ですか。 三条の蔦屋と。 そうですね有ったようにも覚えていますが。 それじゃそんな有名な旅屋じゃないんですね。 ええ。 有名でなくったって好いじゃありませんか。 裏座敷で琴が聴えて――もっとも兄と一さんじゃ駄目ね。 小野さんならきっと御気に入るでしょう。 春雨がしとしと降ってる静かな日に宿の隣家で美人が琴を弾いてるのを気楽に寝転んで聴いているのは詩的でいいじゃありませんか。 好いわね。 想像すると面白い画が出来ますよ。 どんな所としたらいいでしょう。 あなたはどんな所がいいと思います。 私。 私はねそうね――裏二階がいいわ――廻り椽で加茂川がすこし見えて――三条から加茂川が見えても好いんでしょう。 ええ所によれば見えます。 加茂川の岸には柳がありますか。 ええあります。 その柳が遠くに煙るように見えるんです。 その上に東山が――東山でしたね奇麗な丸い山は――あの山が青い御供のようにこんもりと霞んでるんです。 そうして霞のなかに薄く五重の塔が――あの塔の名は何と云いますか。 どの塔です。 どの塔って東山の右の角に見えるじゃありませんか。 ちょっと覚えませんね。 有るんですきっとあります。 だって琴は隣りよあなた。 大変御急ぎだ事。 なに面白く伺ってるのよ。 それからその五重の塔がどうかするの。 それじゃ五重の塔はやめましょう。 面白いんですよ。 五重の塔が面白いのよ。 ねえ小野さん。 五重の塔はそれっきりよ。 五重の塔がどうするものですかね。 御気に障ったの――私が悪るかったわ。 本当に五重の塔は面白いのよ。 御世辞じゃない事よ。 小野さんあなたには分るでしょう。 分りますとも。 ――詩の命は事実より確かです。 しかしそう云う事が分らない人が世間にはだいぶありますね。 それじゃその続をあなたに話して見ましょうか。 ええ。 二階の下に飛石が三つばかり筋違に見えてその先に井桁があって小米桜が擦れ擦れに咲いていて釣瓶が触るとほろほろ井戸の中へこぼれそうなんです。 小米桜を二階の欄干から御覧になった事があって。 まだありません。 雨の降る日に。 ――おや少し降って来たようですね。 それからね。 ――小米桜の後ろは建仁寺の垣根で垣根の向うで琴の音がするんです。 二階の欄干から見下すと隣家の庭がすっかり見えるんです。 ――ついでにその庭の作りも話しましょうか。 ホホホホ。 ホホホホ御厭なの――何だか暗くなって来た事。 花曇りが化け出しそうね。 おや本降になりそうだ事。 私失礼するわ降って来たから。 御話し中で失礼だけれども。 大変面白かったわ。 だいぶ込み合うな。 うん京都の人間はこの汽車でみんな博覧会見物に行くんだろう。 よっぽど乗ったね。 そうさ待合所が黒山のようだった。 京都は淋しいだろう。 今頃は。 ハハハハ本当に。 実に閑静な所だ。 あんな所にいるものでも動くから不思議だ。 あれでもやっぱりいろいろな用事があるんだろうな。 いくら閑静でも生れるものと死ぬものはあるだろう。 ハハハハ生れて死ぬのが用事か。 蔦屋の隣家に住んでる親子なんかまあそんな連中だね。 随分ひっそり暮してるぜ。 かたりともしない。 あれで東京へ行くと云うから不思議だ。 博覧会でも見に行くんだろう。 いえ家を畳んで引っ越すんだそうだ。 へええ。 いつ。 いつか知らない。 そこまでは下女に聞いて見なかった。 あの娘もいずれ嫁に行く事だろうな。 ハハハハ行くだろう。 随分早いね。 何|哩くらいの速力か知らん。 どのくらい早いか外が真暗でちっとも分らん。 外が暗くったって早いじゃないか。 比較するものが見えないから分らないよ。 見えなくったって早いさ。 君には分るのか。 うんちゃんと分る。 どうしても早いよ。 おい。 ええ。 どうしてもね――早いよ。 そうか。 うん。 そうら――早いだろう。 急行列車は心持ちがいい。 これでなくっちゃ乗ったような気がしない。 また夢窓国師より上等じゃないか。 ハハハハ第一義に活動しているね。 京都の電車とは大違だろう。 京都の電車か。 あいつは降参だ。 全然第十義以下だ。 あれで運転しているから不思議だ。 乗る人があるからさ。 乗る人があるからって――余りだ。 あれで布設したのは世界一だそうだぜ。 そうでもないだろう。 世界一にしちゃあ幼稚過ぎる。 ところが布設したのが世界一なら進歩しない事も世界一だそうだ。 ハハハハ京都には調和している。 そうだ。 あれは電車の名所古蹟だね。 電車の金閣寺だ。 元来十年一日のごとしと云うのは賞める時の言葉なんだがな。 千里の江陵一日に還るなんと云う句もあるじゃないか。 一百里程塁壁の間さ。 そりゃ西郷隆盛だ。 そうかどうもおかしいと思ったよ。 御前が京都へ来たのは幾歳の時だったかな。 学校を廃めてからすぐですからちょうど十六の春でしょう。 すると今年で何だね。 五年目です。 そう五年になるね。 早いものだついこの間のように思っていたが。 来た時に嵐山へ連れていっていただいたでしょう。 御母さんといっしょに。 そうそうあの時は花がまだ早過ぎたね。 あの時分から思うと嵐山もだいぶ変ったよ。 名物の団子もまだできなかったようだ。 いえ御団子はありましたわ。 そら三軒茶屋の傍で喫べたじゃありませんか。 そうかね。 よく覚えていないよ。 ほら小野さんが青いのばかり食べるって御笑いなすったじゃありませんか。 なるほどあの時分は小野がいたね。 御母さんも丈夫だったがな。 ああ早く亡くなろうとは思わなかったよ。 人間ほど分らんものはない。 小野もそれからだいぶ変ったろう。 何しろ五年も逢わないんだから。 でも御丈夫だから結構ですわ。 そうさ。 京都へ来てから大変丈夫になった。 来たては随分|蒼い顔をしてねそうして何だか始終おどおどしていたようだが馴れるとだんだん平気になって。 性質が柔和いんですよ。 柔和いんだよ。 柔和過ぎるよ。 ――でも卒業の成績が優等で銀時計をちょうだいしてまあ結構だ。 ――人の世話はするもんだね。 ああ云う性質の好い男でもあのまま放って置けばそれぎりどこへどう這入ってしまうか分らない。 本当にね。 小野は新橋まで迎にくるだろうね。 いらっしゃるでしょうとも。 おい富士が見える。 うん。 さっきから見えている。 そうか寝なかったのか。 少しは寝た。 何だそんなものを頭から被って。 寒い。 僕は腹が減った。 まだ飯は食わさないだろうか。 飯を食う前に顔を洗わなくっちゃ。 ごもっともだ。 ごもっともな事ばかり云う男だ。 ちっと富士でも見るがいい。 叡山よりいいよ。 叡山。 何だ叡山なんかたかが京都の山だ。 大変|軽蔑するね。 ふふん。 ――どうだいあの雄大な事は。 人間もああ来なくっちゃあ駄目だ。 君にはああ落ちついちゃいられないよ。 保津川が関の山か。 保津川でも君より上等だ。 君なんぞは京都の電車ぐらいなところだ。 京都の電車はあれでも動くからいい。 君は全く動かないか。 ハハハハ。 さあ駱駝を払い退けて動いた。 おい弁当を二つくれ。 どうだね。 まだ食べたくないの。 やあ。 もう直ですね。 ああもう訳はない。 今日はいい御天気ですよ。 ああ天気で仕合せだ。 富士が奇麗に見えたね。 小野さんは宿を捜がして置いて下すったでしょうか。 うん。 捜が――捜がしたに違ない。 さあ食堂へ行こう。 おい蹴爪ずくと危ない。 御飯が少し冷えてますね。 冷えてるのはいいが硬過ぎてね。 ――阿爺のように年を取るとどうも硬いのは胸に痞えていけないよ。 御茶でも上がったら注ぎましょうか。 おいいたぜ。 うんいた。 いよいよ東京へ行くと見える。 昨夕京都の停車場では逢わなかったようだね。 いいやちっとも気がつかなかった。 隣りに乗ってるとは僕も知らなかった。 ――どうも善く逢うね。 少し逢い過ぎるよ。 ――このハムはまるで膏ばかりだ。 君のも同様かい。 まあ似たもんだ。 君と僕の違ぐらいなところかな。 御互に豚をもって自任しているのかなあ。 豚でもいいがどうも不思議だよ。 猶太人は豚を食わんそうだね。 猶太人はともかくもあの女がさ。 少し不思議だよ。 あんまり逢うからかい。 うん。 ――給仕紅茶を持って来い。 僕はコフィーを飲む。 この豚は駄目だ。 これで何遍逢うかな。 一遍二遍三遍と何でも三遍ばかり逢うぜ。 小説ならこれが縁になって事件が発展するところだね。 これだけでまあ無事らしいから。 これだけで無事らしいから御互に豚なんだろう。 ハハハハ。 ――しかし何とも云われない。 君があの女に懸想して。 そうさ。 それでなくってもこのくらい逢うくらいだからこの先どう関係がつかないとも限らない。 君とかい。 なにさそんな関係じゃないほかの関係さ。 情交以外の関係だよ。 そう。 蜜柑が食いたい。 あの女は嫁にでも行くんだろうか。 ハハハハ。 聞いてやろうか。 嫁か。 そんなに嫁に行きたいものかな。 だからさそりゃ聞いて見なけりゃあ分からないよ。 君の妹なんぞはどうだ。 やっぱり行きたいようかね。 糸公か。 あいつはから赤児だね。 しかし兄思いだよ。 狐の袖無を縫ってくれたりなんかしてね。 あいつはあれで裁縫が上手なんだぜ。 どうだ肱突でも造えてもらってやろうか。 そうさな。 いらないか。 うんいらん事もないが。 さっき馳けて行ったのは小野じゃなかったか。 そうか。 僕は気がつかなかったが。 おや御這入。 帰って来たのね。 ふん。 どうする気なんでしょう。 どうする気か彼人の料簡ばかりは御母さんにも分らないね。 帰って来ても同じ事ですね。 同じ事さ。 生涯あれなんだよ。 家を襲ぐのがあんなに厭なんでしょうか。 なあに口だけさ。 それだから悪いんだよ。 あんな事を云って私達に当付けるつもりなんだから本当に財産も何も入らないなら自分で何かしたら善いじゃないか。 毎日毎日ぐずぐずして卒業してから今日までもう二年にもなるのに。 いくら哲学だって自分一人ぐらいどうにかなるにきまっていらあね。 煮え切らないっちゃありゃしない。 彼人の顔を見るたんびに阿母は疳癪が起ってね。 遠廻しに云う事はちっとも通じないようね。 なに通じても不知を切ってるんだよ。 憎らしいわね。 本当に。 彼人がどうかしてくれないうちは御前の方をどうにもする事が出来ない。 御前も今年で二十四じゃないか。 二十四になって片付かないものが滅多にあるものかね。 ――それを嫁にやろうかと相談すれば御廃しなさい阿母さんの世話は藤尾にさせたいからと云うしそんなら独立するだけの仕事でもするかと思えば毎日部屋のなかへ閉じ籠って寝転んでるしさ。 ――そうして他人には財産を藤尾にやって自分は流浪するつもりだなんて云うんだよ。 さもこっちが邪魔にして追い出しにでもかかってるようで見っともないじゃないか。 どこへ行ってそんな事を云ったんです。 宗近の阿爺の所へ行った時そう云ったとさ。 よっぽど男らしくない性質ですね。 それより早く糸子さんでも貰ってしまったら好いでしょうに。 全体貰う気があるのかね。 兄さんの料簡はとても分りませんわ。 しかし糸子さんは兄さんの所へ来たがってるんですよ。 御茶でも入れようかね。 いいえ。 宗近と云えば一もよっぽど剽軽者だね。 学問も何にも出来ない癖に大きな事ばかり云って――あれで当人は立派にえらい気なんだよ。 外交官の試験に落第したってちっとも恥ずかしがらないんですよ。 普通のものならもう少し奮発する訳ですがねえ。 鉄砲玉だよ。 御前はあの人をどう思ってるの。 どう思ってるって別にどうも思ってやしません。 御前あすこへ行く気があるのかい。 宗近へですか。 ああ。 いやですわ。 いやかい。 いやかいってあんな趣味のない人。 あんな見込のない人は私も好かない。 いっそここで判然断わろう。 断わるって約束でもあるんですか。 約束。 約束はありません。 けれども阿爺があの金時計を一にやると御言いのだよ。 それがどうしたんです。 御前があの時計を玩具にして赤い珠ばかりいじっていた事があるもんだから。 それで。 それでね――この時計と藤尾とは縁の深い時計だがこれを御前にやろう。 しかし今はやらない。 卒業したらやる。 しかし藤尾が欲しがって繰っ着いて行くかも知れないがそれでも好いかって冗談半分に皆の前で一におっしゃったんだよ。 それを今だに謎だと思ってるんですか。 宗近の阿爺の口占ではどうもそうらしいよ。 馬鹿らしい。 馬鹿らしいのさ。 あの時計は私が貰いますよ。 まだ御前の部屋にあるかい。 文庫のなかにちゃんとしまってあります。 そう。 そんなに欲しいのかい。 だって御前には持てないじゃないか。 いいから下さい。 あの時計は小野さんに上げても好いでしょうね。 アハハハハ。 それじゃ相輪※も見ないだろう。 相輪※た何ですか。 アハハハハそれじゃ叡山へ何しに登ったか分からない。 そんなものは通り路に見当らなかったようだね甲野さん。 相輪※はなかったようだね。 通り路にないってまあどこから登ったか知らないが――吉田かい。 甲野さんあれは何と云う所かね。 僕らの登ったのは。 何と云う所か知ら。 阿爺何でも一本橋を渡ったんですよ。 一本橋を。 ええ――一本橋を渡ったな君――もう少し行くと若狭の国へ出る所だそうです。 そう早く若狭へ出るものか。 だって君がそう云ったじゃないか。 それは冗談さ。 アハハハハ若狭へ出ちゃ大変だ。 一体御前方はただ歩行くばかりで飛脚同然だからいけない。 ――叡山には東塔西塔横川とあってその三ヵ所を毎日往来してそれを修業にしている人もあるくらい広い所だ。 ただ登って下りるだけならどこの山へ登ったって同じ事じゃないか。 なにただの山のつもりで登ったんです。 アハハハそれじゃ足の裏へ豆を出しに登ったようなものだ。 豆はたしかです。 豆はそっちの受持です。 御叔父さん東塔とか西塔とか云うのは何の名ですか。 やはり延暦寺の区域だね。 広い山の中にあすこに一と塊まりここに一と塊まりと坊が集まっているからまあこれを三つに分けて東塔とか西塔とか云うのだと思えば間違はない。 まあ君大学に法医文とあるようなものだよ。 まあそうだ。 東は修羅西は都に近ければ横川の奥ぞ住みよかりけると云う歌がある通り横川が一番|淋しい学問でもするに好い所となっている。 ――今話した相輪※から五十丁も這入らなければ行かれない。 どうれで知らずに通った訳だな君。 そら謡曲の船弁慶にもあるだろう。 ――かように候ものは西塔の傍に住居する武蔵坊弁慶にて候――弁慶は西塔におったのだ。 弁慶は法科にいたんだね。 君なんかは横川の文科組なんだ。 ――阿爺さん叡山の総長は誰ですか。 総長とは。 叡山の――つまり叡山を建てた男です。 開基かい。 開基は伝教大師さ。 あんな所へ寺を建てたって人泣かせだ不便で仕方がありゃしない。 全体|昔しの男は酔興だよ。 ねえ甲野さん。 伝教大師は御前叡山の麓で生れた人だ。 なるほどそう云えば分った。 甲野さん分ったろう。 何が。 伝教大師御誕生地と云う棒杭が坂本に建っていましたよ。 あすこで生れたのさ。 うんそうか甲野さん君も気が着いたろう。 僕は気が着かなかった。 豆に気を取られていたからさ。 アハハハハ。 不便だって修業のためにわざわざああ云う山を択んで開くのさ。 今の大学などはあまり便利な所にあるからみんな贅沢になって行かん。 書生の癖に西洋菓子だのホイスキーだのと云って。 阿爺叡山の坊主は夜十一時頃から坂本まで蕎麦を食いに行くそうですよ。 アハハハ真逆。 なに本当ですよ。 ねえ甲野さん。 ――いくら不便だって食いたいものは食いたいですからね。 それはのらくら坊主だろう。 すると僕らはのらくら書生かな。 御前達はのらくら以上だ。 僕らは以上でもいいが――坂本までは山道二里ばかりありますぜ。 あるだろうそのくらいは。 それを夜の十一時から下りて蕎麦を食ってそれからまた登るんですからね。 だからどうなんだい。 到底のらくらじゃ出来ない仕事ですよ。 アハハハハ。 あれでも昔しは真面目な坊主がいたものでしょうか。 それは今でもあるよ。 真面目なものが世の中に少ないごとく僧侶にも多くはないが――しかし今だって全く無い事はない。 何しろ古い寺だからね。 あれは始めは一乗止観院と云って延暦寺となったのはだいぶ後の事だ。 その時分から妙な行があって十二年間山へ籠り切りに籠るんだそうだがね。 蕎麦どころじゃありませんね。 どうして。 ――何しろ一度も下山しないんだから。 そう山の中で年ばかり取ってどうする了見かな。 修業するのさ。 御前達もそうのらくらしないでちとそんな真似でもするがいい。 そりゃ駄目ですよ。 なぜ。 なぜって。 僕は出来ない事もないがそうした日にゃあなたの命令に背く訳になりますからね。 命令に。 だって人の顔を見るたんびに嫁を貰え嫁を貰えとおっしゃるじゃありませんか。 これから十二年も山へ籠ったら嫁を貰う時分にゃ腰が曲がっちまいます。 いや修業も修業だが嫁も貰わなくちゃあ困る。 何しろ二人だから億劫だ。 ――欽吾さんももう貰わなければならんね。 ええそう急には。 しかし阿母さんが心配するだろう。 君がぐずぐずしていると藤尾さんも困るだろう。 女は年頃をはずすと男と違って片づけるにも骨が折れるからね。 一にも貰って置かんとわしも年を取っているからいつどんな事があるかも知れないからね。 僕は外交官の試験に落第したから当分駄目ですよ。 去年は落第さ。 今年の結果はまだ分らんだろう。 ええまだ分らんです。 ですがねまた落第しそうですよ。 なぜ。 やっぱりのらくら以上だからでしょう。 アハハハハ。 阿父は。 ちょっと出ました。 御忙しいでしょう。 まだ荷物などもそのままにしております。 御手伝に出るつもりでしたが昨日も一昨日も会がありまして。 御蔭さまで好い家が手に入りまして。 もっと好い家でないと御気に入るまいと思って方々尋ねて見たんですがあいにく恰好なのがなくって。 いえこれで結構ですわ。 父も喜んでおります。 時。 京都の花はどうです。 もう遅いでしょう。 もう遅いでしょう。 立つ前にちょっと嵐山へ参りましたがその時がちょうど八分通りでした。 そのくらいでしょう嵐山は早いですから。 それは結構でした。 どなたとごいっしょに。 やっぱり阿父とですか。 ええ。 面白かったでしょう。 嵐山も元とはだいぶ違ったでしょうね。 ええ。 大悲閣の温泉などは立派に普請が出来て。 そうですか。 小督の局の墓がござんしたろう。 ええ知っています。 彼所いらは皆掛茶屋ばかりで大変賑やかになりました。 毎年俗になるばかりですね。 昔の方がよほど好い。 本当に昔の方が。 私がごいっしょに遊びに行った時分はそんなに雑沓しませんでしたね。 あなたはあの時分と少しも違っていらっしゃいませんね。 そうでしょうか。 私はだいぶ変りましたろう。 見違えるように立派に御成りです事。 ハハハハそれは恐れ入りますね。 まだこれからどしどし変るつもりです。 ちょうど嵐山のように。 また来ましょう。 もう帰る時分ですから。 また来ます。 御帰りになったらどうぞ宜しく。 あの。 あの父が。 また上がります。 今帰ったよ。 どうも苛い埃でね。 風もないのに。 風はないが地面が乾いてるんで――どうも東京と云う所は厭な所だ。 京都の方がよっぽどいいね。 だって早く東京へ引き越す引き越すって毎日のように云っていらしったじゃありませんか。 云ってた事は云ってたが来て見るとそうでもないね。 茶碗が出ているね。 誰か来たのかい。 ええ。 小野さんがいらしって。 小野が。 そりゃあ。 今日はね。 座布団を買おうと思って電車へ乗ったところがつい乗り替を忘れてひどい目に逢った。 おやおや。 でも布団は御買いになって。 ああ布団だけはここへ買って来たが御蔭で大変遅れてしまったよ。 何枚買っていらしって。 三枚さ。 まあ三枚あれば当分間に合うだろう。 さあちょっと敷いて御覧。 ホホホホあなた御敷なさいよ。 阿父も敷くから御前も敷いて御覧。 そらなかなか好いだろう。 少し綿が硬いようね。 綿はどうせ――価が価だから仕方がない。 でもこれを買うために電車に乗り損なってしまって。 乗替をなさらなかったんじゃないの。 そうさ乗替を――車掌に頼んで置いたのに。 忌々しいから帰りには歩いて来た。 御草臥なすったでしょう。 なあに。 これでも足はまだ達者だからね。 ――しかし御蔭で髯も何も埃だらけになっちまった。 こら。 御湯に御這入んなさらないからですよ。 なに埃だよ。 だって風もないのに。 風もないのに埃が立つから妙だよ。 だって。 だってじゃないよ。 まあ試しに外へ出て御覧。 どうも東京の埃には大抵のものは驚ろくよ。 御前がいた時分もこうかい。 ええ随分|苛くってよ。 年々烈しくなるんじゃないかしら。 今日なんぞは全く風はないね。 おや琴を弾いているね。 ――なかなか旨い。 ありゃ何だい。 当てて御覧なさい。 当てて見ろ。 ハハハハ阿父には分らないよ。 琴を聴くと京都の事を思い出すね。 京都は静でいい。 阿父のような時代後れの人間は東京のような烈しい所には向かない。 東京はまあ小野だの御前だののような若い人が住まう所だね。 じゃ京都へ帰りましょうか。 アハハハハ本当に帰ろうかね。 本当に帰ってもようござんすわ。 なぜ。 なぜでも。 だって来たばかりじゃないか。 来たばかりでも構いませんわ。 構わない。 ハハハハ冗談を。 小野が来たそうだね。 ええ。 小野は――小野は何かね――。 え。 小野は――来たんだね。 ええいらしってよ。 それで何かい。 その何も云って行かなかったのかい。 いいえ別に。 何にも云わない。 ――待ってれば好いのに。 急ぐからまた来るって御帰りになりました。 そうかい。 それじゃ別に用があって来た訳じゃないんだね。 そうか。 阿父様。 何だね。 小野さんは御変りなさいましたね。 変った。 ――ああ大変立派になったね。 新橋で逢った時はまるで見違えるようだった。 まあ御互に結構な事だ。 私は昔の通りでちっとも変っていないそうです。 変っていないたって。 変っていないたって。 仕方がないわ。 小野が何か云ったかい。 いいえ別に。 ハハハハくだらぬ事を気にしちゃいけない。 春は気が欝ぐものでね。 今日なぞは阿父などにもよくない天気だ。 ちっと琴でも弾いちゃどうだい。 気晴に。 まあ廃しましょう。 廃す。 廃すなら御廃し。 ――あの小野はね。 近頃忙がしいんだよ。 近々博士論文を出すんだそうで。 だから落ちついていないんだよ。 学問に凝ると誰でもあんなものさ。 あんまり心配しないがいい。 なに緩くりしたくってもしていられないんだから仕方がない。 え。 何だって。 あんなにね。 うん。 急いでね。 ああ。 御帰りに。 御帰りに――なった。 ならないでも。 好さそうなものだって仕方がないよ。 学問で夢中になってるんだから。 ――だから一日都合をして貰っていっしょに博覧会でも見ようって云ってるんじゃないか。 御前話したかい。 いいえ。 話さない。 話せばいいのに。 いったい小野が来たと云うのに何をしていたんだ。 いくら女だって少しは口を利かなくっちゃいけない。 なに好いよ。 阿父が手紙で聞き合せるから――悲しがる事はない。 叱ったんじゃない。 ――時に晩の御飯はあるかい。 御飯だけはあります。 御飯だけあればいいなに御菜はいらないよ。 ――頼んで置いた婆さんは明日くるそうだ。 ――もう少し慣れると東京だって京都だって同じ事だ。 いや。 だいぶ御暖になりました。 さあどうぞ。 その後は。 どうぞ御敷き。 ちょっと出ますんでございますがつい無人だもので出よう出ようと思いながらとうとう御無沙汰になりまして。 まことに相済みません。 いえどう致しまして。 御宅でも皆様御変りもなく毎々|欽吾や藤尾が出まして御厄介にばかりなりましてせんだってはまた結構なものをちょうだい致しましてとうに御礼に上がらなければならないんでございますがつい手前にかまけまして。 いや詰らんもので到来物でね。 アハハハハようやく暖かになって。 どうです御宅の桜は。 今頃はちょうど盛でしょう。 本年は陽気のせいか例年より少し早目で四五日|前がちょうど観頃でございましたが一昨日の風でだいぶ傷められましてもう。 駄目ですか。 あの桜は珍らしい。 何とか云いましたね。 え。 浅葱桜。 そうそう。 あの色が珍らしい。 少し青味を帯びて何だかこう夕方などは凄いような心持が致します。 そうですかアハハハハ。 荒川には緋桜と云うのがあるが浅葱桜は珍らしい。 みなさんがそうおっしゃいます。 八重はたくさんあるが青いのは滅多にあるまいってね。 ないですよ。 もっとも桜も好事家に云わせると百幾種とかあるそうだから。 へええまあ。 アハハハ桜でも馬鹿には出来ない。 この間も一が京都から帰って来て嵐山へ行ったと云うからどんな花だと聞いて見たらただ一重だと云うだけでね何にも知らない。 今時のものは呑気なものでアハハハハ。 ――どうです粗菓だが一つ御撮みなさい。 岐阜の柿羊羹。 いえどうぞ。 もう御構い下さいますな。 あんまり旨いものじゃない。 ただ珍らしいだけだ。 嵐山と云えば。 せんだって中は欽吾がまたいろいろ御厄介になりまして御蔭様で方々見物させていただいたと申して大変喜んでおります。 まことにあの通の我儘者でございますから一さんもさぞ御迷惑でございましたろう。 いえ一の方でいろいろ御世話になったそうで。 どう致しまして人様の御世話などの出来るような男ではございませんので。 あの年になりまして朋友と申すものがただの一人もございませんそうで。 あんまり学問をするとそう誰でも彼でもむやみに附合が出来にくくなる。 アハハハハ。 私には女でいっこう分りませんが何だか欝いでばかりいるようで――こちらの一さんにでも連れ出していただかないと誰も相手にしてくれないようで。 アハハハハ一はまた正反対。 誰でも相手にする。 家にさえいるとあなた妹にばかりからかって――いやあれでも困る。 いえ誠に陽気で淡泊してて結構でございますねえ。 どうか一さんの半分でいいから欽吾がもう少し面白くしてくれれば好いと藤尾にも不断申しているんでございますが――それもこれもみんな彼人の病気のせいだから今さら愚癡をこぼしたって仕方がないとは思いますがなまじい自分の腹を痛めた子でないだけに世間へ対しても心配になりまして。 ごもっともで。 どうです京都から帰ってから少しは好いようじゃありませんか。 御蔭様で。 せんだって家へ見えた時などは皆と馬鹿話をしてだいぶ愉快そうでしたが。 へええ。 まことに困り切ります。 そりゃどうも。 彼人の病気では今までどのくらい心配したか分りません。 いっそ結婚でもさせたら気が変って好いかも知れませんよ。 その結婚の事を朝暮申すのでございますが――どう在ってもうんと云って承知してくれません。 私も御覧の通り取る年でございますしそれに甲野もあんな風に突然外国で亡くなりますような仕儀でまことに心配でなりませんからどうか一日も早く彼人のために身の落つきをつけてやりたいと思いまして本当に今まで嫁の事を持ち出した事は何度だか分りません。 が持ち出すたんびに頭から撥ねつけられるのみで。 実はこの間見えた時もちょっとその話をしたんですがね。 君がいつまでも強情を張ると心配するのは阿母だけで可愛想だから今のうちに早く身を堅めて安心させたら善かろうってね。 御親切にどうもありがとう存じます。 いえ心配は御互でこっちもちょうどどうかしなければならないのを二人|背負い込んでるものだからアハハハハどうも何ですね。 何歳になっても心配は絶えませんね。 此方様などは結構でいらっしゃいますが私は――もし彼人がいつまでも病気だ病気だと申して嫁を貰ってくれませんうちにもしもの事があったら草葉の陰で配偶に合わす顔がございません。 まあどうしてあんなに聞き訳がないんでございましょう。 何か云い出すと阿母私はこんな身体でとても家の面倒は見て行かれないから藤尾に聟を貰って阿母さんの世話をさせて下さい。 私は財産なんか一銭も入らない。 とまあこうでござんすもの。 私が本当の親ならそれじゃ御前の勝手におしと申す事も出来ますが御存じの通りなさぬ中の間柄でございますからそんな不義理な事は人様に対しても出来かねますしじつに途方に暮れます。 なるほど。 そうかと申して生の母でない私が圧制がましくむやみに差出た口を利きますと御聞かせ申したくないようなごたごたも起りましょうし。 ふん困るね。 いっそ私からとくと談じて見ましょうか。 あなたが云い悪ければ。 いろいろ御心配を掛けまして。 そうして見るかね。 どんなものでございましょう。 ああ云う神経が妙になっているところへそんな事を聞かせましたら。 なにそりゃ承知しているから当人の気に障らないように云うつもりですがね。 でも万一私がこなたへ出てわざわざ御願い申したように取られるとそれこそ後が大変な騒ぎになりますから。 弱るねそう疳が高くなってちゃあ。 まるで腫物へ障るようで。 ふうん。 もし彼人が断然|家を出ると云い張りますと――私がそれを見て無論黙っている訳には参りませんが――しかし当人がどうしても聞いてくれないとすると。 聟かね。 聟となると。 いえそうなっては大変でございますが――万一の場合も考えて置かないといざと云う時に困りますから。 そりゃそう。 それを考えるとあれが病気でもよくなってもう少ししっかりしてくれないうちは藤尾を片づける訳に参りません。 左様さね。 藤尾さんは幾歳ですい。 もう明けて四になります。 早いものですね。 えっ。 ついこの間までこれっぱかりだったが。 いえもう身体ばかり大きゅうございましてから役に立ちません。 勘定すると四になる訳だ。 うちの糸が二だから。 こちらでも糸子さんやら一さんやらで御心配のところをこんな余計な話を申し上げてさぞ人の気も知らない呑気な女だと覚し召すでございましょうが。 いえどう致して実は私の方からその事についてとくと御相談もしたいと思っていたところで――一も外交官になるとかならんとか云って騒いでいる最中だから今日明日と云う訳にも行かないですが晩かれ早かれ嫁を貰わなければならんので。 でございますとも。 ついてはその藤尾さんなんですがね。 はい。 あの方ならまあ気心も知れているし私も安心だし一は無論異存のある訳はなし――よかろうと思うんですがね。 はい。 どうでしょう阿母の御考は。 あの通行き届きませんものをそれほどまでにおっしゃって下さるのはまことにありがたい訳でございますが。 いいじゃありませんか。 そうなれば藤尾も仕合せ私も安心で。 御不足ならともかくそうでなければ。 不足どころじゃございません。 願ったり叶ったりでこの上もない結構な事でございますがただ彼人に困りますので。 一さんは宗近家を御襲ぎになる大事な身体でいらっしゃる。 藤尾が御気に入るか入らないかは分りませんがまず貰っていただいたと致したところで差し上げた後で欽吾がやはり今のようでは私も実のところはなはだ心細いような訳で。 アハハハそう心配しちゃ際限がありませんよ。 藤尾さんさえ嫁に行ってしまえば欽吾さんにも責任が出る訳だから自然と考もちがってくるにきまっている。 そうなさい。 そう云うものでございましょうかね。 それに御承知の通阿父がいつぞやおっしゃった事もあるし。 そうなれば亡くなった人も満足だろう。 いろいろ御親切にありがとう存じます。 なに配偶さえ生きておりますれば一人で――こん――こんな心配は致さなくっても宜しい――のでございますが。 糸公。 こりゃ御前の座敷の方が明かるくって上等だね。 替えたげましょうか。 そうさ。 替えて貰ったところで余り儲かりそうでもないが――しかし御前には上等過ぎるよ。 上等過ぎたって誰も使わないんだから好いじゃありませんか。 好いよ。 好い事は好いが少し上等過ぎるよ。 それにこの装飾物がどうも――妙齢の女子には似合わしからんものがあるじゃないか。 何が。 何がってこの松さ。 こりゃたしか阿父が苔盛園で二十五円で売りつけられたんだろう。 ええ。 大事な盆栽よ。 転覆でもしようもんなら大変よ。 ハハハハこれを二十五円で売りつけられる阿爺も阿爺だがそれをまた二階までえっちらおっちら担ぎ上げる御前も御前だね。 やっぱりいくら年が違っても親子は爭われないものだ。 ホホホホ兄さんはよっぽど馬鹿ね。 馬鹿だって糸公と同じくらいな程度だあね。 兄弟だもの。 おやいやだ。 そりゃ私は無論馬鹿ですわ。 馬鹿ですけれども兄さんも馬鹿よ。 馬鹿よか。 だから御互に馬鹿よで好いじゃあないか。 だって証拠があるんですもの。 馬鹿の証拠がかい。 ええ。 そりゃ糸公の大発明だ。 どんな証拠があるんだね。 その盆栽はね。 うんこの盆栽は。 その盆栽はね――知らなくって。 知らないとは。 私大嫌よ。 へええ今度こっちの大発明だ。 ハハハハ。 嫌なものをなんでまた持って来たんだ。 重いだろうに。 阿父さまが御自分で持っていらしったのよ。 何だって。 日が中って二階の方が松のために好いって。 阿爺も親切だな。 そうかそれで兄さんが馬鹿になっちまったんだね。 阿爺親切にして子は馬鹿になりか。 なにそりゃちょっと。 発句。 まあ発句に似たもんだ。 似たもんだって本当の発句じゃないの。 なかなか追窮するね。 それよりか御前今日は大変立派なものを縫ってるね。 何だいそれは。 これ。 これは伊勢崎でしょう。 いやに光つくじゃないか。 兄さんのかい。 阿爺のよ。 阿爺のものばかり縫ってちっとも兄さんには縫ってくれないね。 狐の袖無以後|御見限りだね。 あらいやだ。 あんな嘘ばかり。 今着ていらっしゃるのも縫って上げたんだわ。 これかい。 これはもう駄目だ。 こらこの通り。 おやひどい襟垢だ事こないだ着たばかりだのに――兄さんは膏が多過ぎるんですよ。 何が多過ぎてももう駄目だよ。 じゃこれを縫い上げたらすぐ縫って上げましょう。 新らしいんだろうね。 ええ洗って張ったの。 あの親父の拝領ものか。 ハハハハ。 時に糸公不思議な事があるがね。 何が。 阿爺は年寄の癖に新らしいものばかり着て年の若いおれには御古ばかり着せたがるのは少し妙だよ。 この調子で行くとしまいには自分でパナマの帽子を被っておれには物置にある陣笠をかぶれと云うかも知れない。 ホホホホ兄さんは随分口が達者ね。 達者なのは口だけか。 可哀想に。 まだあるのよ。 まだあるのよ。 一寸。 まだあるのよ。 兄さん。 何だい。 口だけでたくさんだよ。 だってまだあるんですもの。 云って見ましょうか。 う。 うん。 あし。 分ったでしょう。 う。 うん。 糸公誰か御客があるのかい。 ええ甲野の阿母が御出よ。 甲野の阿母か。 あれこそ達者だね兄さんなんかとうてい叶わない。 でも品がいいわ。 兄さん見たように悪口はおっしゃらないからいいわ。 そう兄さんが嫌じゃ世話の仕栄がない。 世話もしない癖に。 ハハハハ実は狐の袖無の御礼に近日御花見にでも連れて行こうかと思っていたところだよ。 もう花は散ってしまったじゃありませんか。 今時分御花見だなんて。 いえ上野や向島は駄目だが荒川は今が盛だよ。 荒川から萱野へ行って桜草を取って王子へ廻って汽車で帰ってくる。 いつ。 でなければ博覧会へ行って台湾館で御茶を飲んでイルミネーションを見て電車で帰る。 ――どっちが好い。 わたし博覧会が見たいわ。 これを縫ってしまったら行きましょう。 ね。 うん。 だから兄さんを大事にしなくっちゃあ行けないよ。 こんな親切な兄さんは日本中に沢山はないぜ。 ホホホホへえ大事に致します。 ――ちょっとその物指を借してちょうだい。 そうして裁縫を勉強すると今に御嫁に行くときに金剛石の指環を買ってやる。 旨いのねえ口だけは。 そんなに御金があるの。 あるのって――今はないさ。 いったい兄さんはなぜ落第したんでしょう。 えらいからさ。 まあ――どこかそこいらに鋏はなくって。 その蒲団の横にある。 いやもう少し左。 ――その鋏に猿が着いてるのはどう云う訳だ。 洒落かい。 これ。 奇麗でしょう。 縮緬の御申さん。 御前がこしらえたのかい。 感心に旨く出来てる。 御前は何にも出来ないがこんなものは器用だね。 どうせ藤尾さんのようには参りません――あらそんな椽側へ煙草の灰を捨てるのは御廃しなさいよ。 ――これを借して上げるから。 なんだいこれは。 へええ。 板目紙の上へ千代紙を張り付けて。 やっぱり御前がこしらえたのか。 閑人だなあ。 いったい何にするものだい。 ――糸を入れる。 糸の屑をかい。 へええ。 兄さんは藤尾さんのような方が好きなんでしょう。 御前のようなのも好きだよ。 私は別物として――ねえそうでしょう。 嫌でもないね。 あら隠していらっしゃるわ。 おかしい事。 おかしい。 おかしくってもいいや。 ――甲野の叔母はしきりに密談をしているね。 ことに因ると藤尾さんの事かも知れなくってよ。 そうかそれじゃ聴きに行こうか。 あら御廃しなさいよ――わたし火熨がいるんだけれども遠慮して取りに行かないんだから。 自分の家でそう遠慮しちゃ有害だ。 兄さんが取って来てやろうか。 いいから御廃しなさいよ。 今下へ行くとせっかくの話をやめてしまってよ。 どうも剣呑だね。 それじゃこっちも気息を殺して寝転んでるのか。 気息を殺さなくってもいいわ。 じゃ気息を活かして寝転ぶか。 寝転ぶのはもう好い加減になさいよ。 そんなに行儀がわるいから外交官の試験に落第するのよ。 そうさなあの試験官はことによると御前と同意見かも知れない。 困ったもんだ。 困ったもんだって藤尾さんもやっぱり同意見ですよ。 兄さん。 何だい。 ――仕事はもうおやめか。 何だかぼんやりした顔をしているね。 藤尾さんは駄目よ。 駄目だ。 駄目とは。 だって来る気はないんですもの。 御前聞いて来たのか。 そんな事がまさか無躾に聞かれるもんですか。 聞かないでも分かるのか。 まるで巫女だね。 ――御前がそう頬杖を突いて針箱へ靠たれているところは天下の絶景だよ。 妹ながら天晴な姿勢だハハハハ。 沢山御冷やかしなさい。 人がせっかく親切に言って上げるのに。 糸公おれは叔父さんの金時計を貰う約束があるんだよ。 叔父さんの。 だって。 大丈夫だ。 京都でも甲野に話して置いた。 そう。 兄さんが今に外国へ行ったら御前に何か買って送ってやるよ。 今度の試験の結果はまだ分らないの。 もう直だろう。 今度は是非及第なさいよ。 えうん。 アハハハハ。 まあ好いや。 好かないわ。 ――藤尾さんはね。 学問がよく出来て信用のある方が好きなんですよ。 兄さんは学問が出来なくって信用がないのかな。 そうじゃないのよ。 そうじゃないけれども――まあ例に云うとあの小野さんと云う方があるでしょう。 うん。 優等で銀時計をいただいたって。 今博士論文を書いていらっしゃるってね。 ――藤尾さんはああ云う方が好なのよ。 そうか。 おやおや。 何がおやおやなの。 だって名誉ですわ。 兄さんは銀時計もいただけず博士論文も書けず。 落第はする。 不名誉の至だ。 あら不名誉だと誰も云やしないわ。 ただあんまり気楽過ぎるのよ。 あんまり気楽過ぎるよ。 ホホホホおかしいのね。 何だかちっとも苦にならないようね。 糸公兄さんは学問も出来ず落第もするが――まあ廃そうどうでも好い。 とにかく御前兄さんを好い兄さんと思わないかい。 そりゃ思うわ。 小野さんとどっちが好い。 そりゃ兄さんの方が好いわ。 甲野さんとは。 知らないわ。 おい頭へ針が刺さってる。 忘れると危ないよ。 あら。 ハハハハ見えない所でも旨く手が届くね。 盲目にすると疳の好い按摩さんが出来るよ。 だって慣れてるんですもの。 えらいもんだ。 時に糸公面白い話を聞かせようか。 なに。 京都の宿屋の隣に琴を引く別嬪がいてね。 端書に書いてあったんでしょう。 ああ。 あれなら知っててよ。 それがさ世の中には不思議な事があるもんだね。 兄さんと甲野さんと嵐山へ御花見に行ったらその女に逢ったのさ。 逢ったばかりならいいが甲野さんがその女に見惚れて茶碗を落してしまってね。 あら本当。 まあ。 驚ろいたろう。 それから急行の夜汽車で帰る時にまたその女と乗り合せてね。 嘘よ。 ハハハハとうとう東京までいっしょに来た。 だって京都の人がそうむやみに東京へくる訳がないじゃありませんか。 それが何かの因縁だよ。 人を。 まあ御聞きよ。 甲野が汽車の中であの女は嫁に行くんだろうかどうだろうかってしきりに心配して。 もうたくさん。 たくさんなら廃そう。 その女の方は何とおっしゃるの名前は。 名前かい――だってもうたくさんだって云うじゃないか。 教えたって好いじゃありませんか。 ハハハハそう真面目にならなくっても好い。 実は嘘だ。 全く兄さんの作り事さ。 悪らしい。 あら。 夜の世界は昼の世界より美しい事。 これは奇観だ。 ざっと竜宮だね。 糸子さん驚いたようですね。 驚いたかい。 貴所方は。 僕は三遍目だから驚ろかない。 驚くうちは楽があるもんだ。 女は楽が多くて仕合せだね。 あれが台湾館なの。 あの一番右の前へ出ているのがそうだ。 あれが一番善く出来ている。 ねえ甲野さん。 夜見ると。 ねえ糸公まるで竜宮のようだろう。 本当に竜宮ね。 藤尾さんどう思う。 俗じゃありませんか。 何があの建物がかね。 あなたの形容がですよ。 ハハハハ甲野さん竜宮は俗だと云う御意見だ。 俗でも竜宮じゃないか。 形容は旨く中ると俗になるのが通例だ。 中ると俗なら中らなければ何になるんだ。 詩になるでしょう。 だから詩は実際に外れる。 実際より高いから。 すると旨く中った形容が俗で旨く中らなかった形容が詩なんだね。 藤尾さん無味くって中らない形容を云って御覧。 云って見ましょうか。 ――兄さんが知ってるでしょう。 聴いて御覧なさい。 あの横にあるのは何。 あの横に見えるのは何。 あれが外国館。 ちょうど正面に見える。 ここから見るのが一番奇麗だ。 あの左にある高い丸い屋根が三菱館。 ――あの恰好が好い。 何と形容するかな。 あの真中だけが赤いのね。 冠に紅玉を嵌めたようだ事。 なるほど天賞堂の広告見たようだ。 空が焦げるようだ。 ――羅馬法王の冠かも知れない。 羅馬法王の冠か。 藤尾さん羅馬法王の冠はどうだい。 天賞堂の広告の方が好さそうだがね。 いずれでも。 いずれでも差支なしか。 とにかく女王の冠じゃない。 ねえ甲野さん。 何とも云えない。 クレオパトラはあんな冠をかぶっている。 どうして御存じなの。 御前の持っている本に絵がかいてあるじゃないか。 空より水の方が奇麗よ。 空より水の方が奇麗よ。 あの橋は人で埋っている。 阿爺大丈夫。 ああ大丈夫だよ。 何だか危なくって。 なに自然に押して行けば世話はない。 押されるばかりでちっとも押せやしないわ。 押さなくってもいいから押されるだけ押されるさ。 小野はどうしたかね。 あすこよ。 どこに。 どうも怖ろしい人だね。 随分出ます。 早く家へ帰りたくなった。 どうも怖しい人だ。 どこからこんなに出て来るのかね。 さすが東京だね。 まさかこんなじゃ無かろうと思っていた。 怖しい所だ。 小夜やどうだい。 あぶないもう少しで紛れるところだった。 京都じゃこんな事はないね。 あの橋を通る時はどうしようかと思いましたわ。 だって怖くって。 もう大丈夫だ。 何だか顔色が悪いようだね。 くたびれたかい。 少し心持が。 悪い。 歩きつけないのを無理に歩いたせいだよ。 それにこの人出じゃあ。 どっかでちょいと休もう。 ――小野どっか休む所があるだろう小夜が心持がよくないそうだから。 そうですかそこへ出るとたくさん茶屋がありますから。 どうだい女連はだいぶ疲れたろう。 ここで御茶でも飲むかね。 女連はとにかく僕の方が疲れた。 君より糸公の方が丈夫だぜ。 糸公どうだまだ歩けるか。 まだ歩けるわ。 まだ歩ける。 そりゃえらい。 じゃ御茶は廃しにするかね。 でも欽吾さんが休みたいとおっしゃるじゃありませんか。 ハハハハなかなか旨い事を云う。 甲野さん糸公が君のために休んでやるとさ。 ありがたい。 藤尾も休んでくれるだろうね。 御頼みなら。 どうせ女には敵わない。 あすこが空いている。 おい気がついたか。 うん。 藤尾さん小野が来ているよ。 後ろを見て御覧。 知っています。 どこに。 あら御連があるのね。 どうだい別嬪だろう。 うつくしい方ね。 ええ。 見たかい甲野さん驚いたね。 うんちと妙だね。 だから僕が云ったのだ。 何と云ったのだい。 何と云ったって忘れたかい。 あら妙だわね。 二人して何を云っていらっしゃるの。 ハハハハ面白い事があるんだよ。 糸公。 いやあ亡国の菓子が来た。 亡国の菓子とは何だい。 亡国の菓子さハハハハ。 糸公知ってるだろう亡国の菓子の由緒を。 そんな事知らないわ。 そら阿爺が云ったじゃないか。 書生が西洋菓子なんぞを食うようじゃ日本も駄目だって。 ホホホホそんな事をおっしゃるもんですか。 云わない。 御前よっぽど物覚がわるいね。 そらこの間甲野さんや何かと晩飯を食った時そう云ったじゃないか。 そうじゃないわ。 書生の癖に西洋菓子なんぞ食うのはのらくらものだっておっしゃったんでしょう。 はああそうか。 亡国の菓子じゃなかったかね。 とにかく阿爺は西洋菓子が嫌だよ。 柿羊羹か味噌松風妙なものばかり珍重したがる。 藤尾さんのようなハイカラの傍へ持って行くとすぐ軽蔑されてしまう。 そう阿爺の悪口をおっしゃらなくってもいいわ。 兄さんだってもう書生じゃないから西洋菓子を食べたって大丈夫ですよ。 もう叱られる気遣はないか。 それじゃ一つやるかな。 糸公も一つ御上り。 どうだい藤尾さん一つ。 ――しかしなんだね。 阿爺のような人はこれから日本にだんだん少なくなるね。 惜しいもんだ。 ホホホホ一人で饒舌って。 藤尾は何も食わないのか。 たくさん。 もう小野は帰ったよ藤尾さん。 驚ろくうちは楽がある。 女は仕合せなものだ。 おや御出掛。 少し御待ちなさいよ。 何だ。 何か用かい。 ええ。 何だ。 冗談か。 ホホホホ余まり周章るもんだから。 御客様ですよ。 誰だい。 あら待ってた癖に空っとぼけて。 待ってた。 何を。 ホホホホ大変|真面目ですね。 そこを曲ると真直です。 さあ。 どちらへか御出掛で。 いえ何まあ御這入んなさい。 さあ。 御免。 昨夜は御忙しいところを。 いえさぞ御疲でしたろう。 どうです御気分は。 もうすっかり好いですか。 はあ御蔭さまで。 あんな人込へは滅多に出つけた事がないもんですから。 先生はどうですか。 先生も雑沓する所が嫌でしたね。 どうも年を取ったもんですから。 御迷惑でしたろう。 いえ迷惑だなんて。 こっちから願って置いて。 先生だけならもっと閑静な所へ案内した方が好かったかも知れませんね。 先生にはやはり京都の方が好くはないですか。 東京へ来る前はしきりに早く移りたいように云ってたんですけれども来て見るとやはり住み馴れた所が好いそうで。 そうですか。 あなたは。 どちらへか御出掛で。 ええちょっと。 実は父が。 はあ何か御用ですか。 いろいろ買物がしたいんですが。 なるほど。 もし御閑ならば小野さんにいっしょに行っていただいて勧工場ででも買って来いと申しましたから。 はあそうですか。 そりゃ残念な事で。 ちょうど今から急いで出なければならない所があるもんですからね。 ――じゃこうしましょう。 品物の名を聞いて置いて私が帰りに買って晩に持って行きましょう。 それでは御気の毒で。 何構いません。 藤尾。 また夢か。 何です。 昨夕は面白かったかい。 ええ。 それは好かった。 驚くうちは楽があるんでしょう。 そうさ。 兄さんのように学者になると驚きたくっても驚ろけないから楽がないでしょう。 楽。 楽はそうないさ。 その代り安心だ。 なぜ。 楽のないものは自殺する気遣がない。 御前のように楽の多いものは危ないよ。 埃及の御代しろし召す人の最後ぞかくありてこそ。 小野は相変らず来るかい。 来ないかい。 兄さん。 何だい。 あの金時計はあなたには渡しません。 おれに渡さなければ誰に渡す。 当分|私があずかって置きます。 当分御前があずかる。 それもよかろう。 しかしあれは宗近にやる約束をしたから。 宗近さんに上げる時には私から上げます。 御前から。 私から――ええ私から――私から誰かに上げます。 そうか。 どこへ。 やあ。 今ちょっと行こうと思って。 行きたまえ。 藤尾はいる。 君はどこへ。 僕か僕はどこへ行くか分らない。 僕がこの杖を引っ張り廻すように何かが僕を引っ張り廻すだけだ。 ハハハハだいぶ哲学的だね。 ――散歩。 ええまあ好い天気だね。 好い天気だ。 ――散歩より博覧会はどうだい。 博覧会か――博覧会は――昨夕見た。 昨夕行ったって。 ああ。 一人で行ったのかい。 いいや。 誘われたから行った。 そうかい奇麗だったろう。 うん。 誰と。 何時頃。 僕も行った。 まあ行きたまえ。 じゃあ。 そうかじゃあ失敬。 藤尾さんも昨夕いっしょに行ったのかい。 ああ藤尾も行った。 ――ことに因ると今日は下読が出来ていないかも知れない。 何を考えているの。 おや御母さん。 どうかしたのかい。 なぜ。 だって何だか考え込んでいるからさ。 何にも考えていやしません。 庭の景色を見ていたんです。 そう。 池の緋鯉が跳ねますよ。 おやおや。 ――御母さんの部屋では少しも聞えないよ。 そう。 おやもう蓮の葉が出たね。 ええ。 まだ気がつかなかったの。 いいえ。 今|始て。 何だってあんなに跳ねるんだろうね。 近頃小野さんは来ないようだね。 どうかしたのかい。 どうしたんですか。 来ないなら何とか云って来そうなもんだね。 病気でもしているんじゃないか。 病気だって。 いいえさ。 病気じゃないかと聞くのさ。 病気なもんですか。 あの人はいつ博士になるんだろうね。 いつですか。 御前――あの人と喧嘩でもしたのかい。 小野さんに喧嘩が出来るもんですか。 そうさただ教えて貰やしまいし相当の礼をしているんだから。 さっき欽吾が来やしないか。 さっき欽吾が来やしないか。 来たわ。 どうだい様子は。 やっぱり相変らずですわ。 あれにも本当に。 困り者だね。 何でも奥歯に物の挟ったような皮肉ばかり云うんですよ。 皮肉なら好いけれども時々気の知れない囈語を云うにゃ困るじゃないか。 何でもこの頃は様子が少し変だよ。 あれが哲学なんでしょう。 哲学だか何だか知らないけれども。 ――さっき何か云ったかい。 ええまた時計の事を。 返せって云うのかい。 一にやろうがやるまいが余計な御世話じゃないか。 今どっかへ出掛けたでしょう。 どこへ行ったんだろう。 きっと宗近へ行ったんですよ。 今日は。 いらっしゃい。 御無沙汰をしました。 いいえ。 だいぶ暖かになりました。 ええ。 昨夕博覧会へ御出に。 ええ行きました。 奇麗でしたろう。 奇麗でした。 人間もだいぶ奇麗でした。 そうでしたか。 奇麗な人間もだいぶ見ましたよ。 誰か御伴がありましたか。 今門の所で甲野さんに逢ったら甲野さんもいっしょに行ったそうですね。 それほど知っていらっしゃる癖に何で御尋ねになるの。 いえ別に御伴でもあったのかと思って。 兄の外にですか。 ええ。 兄に聞いて御覧になればいいのに。 甲野君に聞こうと思ったんですけれども早く上がろうとして急いだもんですから。 ホホホ。 そんなに忙しいものが何で四五日無届欠席をしたんです。 いえ四五日大変忙しくってどうしても来られなかったんです。 昼間も。 ええ。 昼間もそんなに忙しいんですか。 昼間って。 ホホホホまだ分らないんですか。 小野さん昼間もイルミネーションがありますか。 あんまり勉強なさるとかえって金時計が取れませんよ。 実は一週間前に京都から故の先生が出て来たものですから。 おやそうちっとも知らなかったわ。 それじゃ御忙い訳ね。 そうですか。 そうとも知らずに飛んだ失礼を申しまして。 京都におった時大変世話になったものですから。 だからいいじゃありませんか大事にして上げたら。 ――私はね。 昨夕兄と一さんと糸子さんといっしょにイルミネーションを見に行ったんですよ。 ああそうですか。 ええそうしてあの池の辺に亀屋の出店があるでしょう。 ――ねえ知っていらっしゃるでしょう小野さん。 ええ――知って――います。 知っていらっしゃる。 ――いらっしゃるでしょう。 あすこで皆して御茶を飲んだんです。 大変|旨い御茶でした事。 あなたまだ御這入になった事はないの。 まだ御這入にならないなら今度是非その京都の先生を御案内なさい。 私もまた一さんに連れて行って貰うつもりですから。 あら。 御出。 今ちょっと。 御留守ですか。 ――阿爺さんは。 父は謡の会で朝から出ました。 そう。 まあ御這入――兄はもう帰りましょう。 ありがとう。 どうぞ。 ありがとう。 どうぞ。 どこへ行ったんです。 散歩でしょう。 私も今散歩した帰りだ。 だいぶ歩いて疲れてしまって。 じゃ少し上がって休んでいらっしゃい。 もう帰る時分ですから。 昨夕はどうでした。 疲れましたろう。 いいえ。 疲れない。 私より丈夫だね。 だって往復共電車ですもの。 電車は疲れるもんですがね。 どうして。 あの人で。 あの人で疲れます。 そうでも無いですか。 面白かったですか。 ええ。 何が面白かったですか。 イルミネーションがですか。 ええイルミネーションも面白かったけれども。 イルミネーションのほかに何か面白いものが有ったんですか。 ええ。 何が。 でもおかしいわ。 何ですかその面白かったものは。 云って見ましょうか。 云って御覧なさい。 あの皆して御茶を飲んだでしょう。 ええあの御茶が面白かったんですか。 御茶じゃないんです。 御茶じゃないんですけれどもね。 ああ。 あの時小野さんがいらしったでしょう。 ええいました。 美しい方を連れていらしったでしょう。 美しい。 そう。 若い人といっしょのようでしたね。 あの方を御存じでしょう。 いいえ知らない。 あら。 だって兄がそう云いましたわ。 そりゃ顔を知ってると云う意味なんでしょう。 話をした事は一遍もありません。 でも知っていらっしゃるでしょう。 ハハハハ。 どうしても知ってなければならないんですか。 実は逢った事は何遍もあります。 だからそう云ったんですわ。 だから何と。 面白かったって。 なぜ。 なぜでも。 あの女はそんなに美人でしょうかね。 私は美いと思いますわ。 そうかな。 美しい花が咲いている。 どこに。 どこに。 あすこに。 ――そこからは見えない。 あら。 奇麗でしょう。 ええ。 知らなかったんですか。 いいえちっとも。 あんまり小さいから気がつかない。 いつ咲いていつ消えるか分らない。 やっぱり桃や桜の方が奇麗でいいのね。 憐れな花だ。 昨夜の女のような花だ。 どうして。 あなたは気楽でいい。 そうでしょうか。 いいですよ。 それでいい。 それで無くっちゃ駄目だ。 いつまでもそれでなくっちゃ駄目だ。 どうせこうですわ。 いつまで立ったってこうですわ。 そうは行かない。 だってこれが生れつきなんだからいつまで立ったって変りようがないわ。 変ります。 ――阿爺と兄さんの傍を離れると変ります。 どうしてでしょうか。 離れるともっと利口に変ります。 私もっと利口になりたいと思ってるんですわ。 利口に変れば変る方がいいんでしょう。 どうかして藤尾さんのようになりたいと思うんですけれどもこんな馬鹿だものだから。 藤尾がそんなに羨しいんですか。 ええ本当に羨ましいわ。 糸子さん。 なに。 藤尾のような女は今の世に有過ぎて困るんですよ。 気をつけないと危ない。 藤尾が一人出ると昨夕のような女を五人殺します。 あなたはそれで結構だ。 動くと変ります。 動いてはいけない。 動くと。 ええ恋をすると変ります。 嫁に行くと変ります。 それで結構だ。 嫁に行くのはもったいない。 おいおい。 おい。 おい。 おい。 誰かと思ったら失敬。 何を考えてるんだ。 いくら呼んでも聴えない。 そうでしたか。 ちっとも気がつかなかった。 急いでるようでしかも地面の上を歩いていないようで少し妙だよ。 何が。 君の歩行方がさ。 二十世紀だからハハハハ。 それが新式の歩行方か。 何だか片足が新で片足が旧のようだ。 実際こう云うものを提げていると歩行にくいから。 何だいそれは。 こっちが紙屑籠こっちが洋灯の台。 そんなハイカラな形姿をして大きな紙屑籠なんぞを提げてるから妙なんだよ。 妙でも仕方がない頼まれものだから。 頼まれて妙になるのは感心だ。 君に紙屑籠を提げて往来を歩くだけの義侠心があるとは思わなかった。 時にどこへ行くんだね。 これを持って。 それを持って帰るのかね。 いいえ。 頼まれたから買って行ってやるんです。 君は。 僕はどっちへでも行く。 散歩ですか。 うん。 今その角で電車を下りたばかりだ。 だからどっちへ行ってもいい。 僕は少し急ぐから。 僕も急いで差支ない。 少し君の歩く方角へ急いでいっしょに行こう。 ――その紙屑籠を出せ。 持ってやるから。 なにいいです。 見っともない。 まあ出しなさい。 なるほど嵩張る割に軽いもんだね。 見っともないと云うのは小野さんの事だ。 そう云う風に提げるとさも軽そうだ。 物は提げ様一つさ。 ハハハハ。 こりゃ勧工場で買ったのかい。 だいぶ精巧なものだね。 紙屑を入れるのはもったいない。 だからまあ往来を持って歩けるんだ。 本当の紙屑が這入っていちゃ。 なに持って歩けるよ。 電車は人屑をいっぱい詰めて威張って往来を歩いてるじゃないか。 ハハハハすると君は屑籠の運転手と云う事になる。 君が屑籠の社長で頼んだ男は株主か。 滅多な屑は入れられない。 歌反古とか五車反古と云うようなものを入れちゃどうです。 そんなものは要らない。 紙幣の反古をたくさん入れて貰いたい。 ただの反古を入れて置いて催眠術を掛けて貰う方が早そうだ。 まず人間の方で先に反古になる訳だな。 乞う隗より始めよか。 人間の反古なら催眠術を掛けなくてもたくさんいる。 なぜこう隗より始めたがるのかな。 なかなか隗より始めたがらないですよ。 人間の反故が自分で屑籠の中へ這入ってくれると都合がいいんだけれども。 自働屑籠を発明したら好かろう。 そうしたら人間の反故がみんな自分で飛び込むだろう。 一つ専売でも取るか。 アハハハハ好かろう。 知ったもののうちで飛び込ましたい人間でもあるかね。 あるかも知れません。 時に君は昨夕妙な伴とイルミネーションを見に行ったね。 ええ君らも行ったそうですね。 あれは君の何だい。 少し猛烈ですね。 ――故の先生です。 あの女はそれじゃ恩師の令嬢だね。 まあそんなものです。 ああやっていっしょに茶を飲んでいるところを見ると他人とは見えない。 兄妹と見えますか。 夫婦さ。 好い夫婦だ。 恐れ入ります。 君あすこにだいぶ新刊の書物が来ているようだが見ようじゃありませんか。 書物か。 何か買うのかい。 面白いものがあれば買ってもいいが。 屑籠を買って書物を買うのはすこぶるアイロニーだ。 なぜ。 はあだいぶ奇麗な本が陳列している。 どうだい欲しいものがあるかい。 さよう。 みんな欲しそうだね。 みんな新式な装釘だ。 どうも。 表紙だけ奇麗にして内容の保険をつけた気なのかな。 あなた方のほうと違って文学書だから。 文学書だから上部を奇麗にする必要があるのかね。 それじゃ文学者だから金縁の眼鏡を掛ける必要が起るんだね。 どうもきびしい。 しかしある意味で云えば文学者も多少美術品でしょう。 美術品で結構だが金縁眼鏡だけで保険をつけてるのは情ない。 とかく眼鏡が祟るようだ。 ――宗近君は近視眼じゃないんですか。 勉強しないからなりたくてもなれない。 遠視眼でもないんですか。 冗談を云っちゃいけない。 ――さあ好加減に歩こう。 君鵜と云う鳥を知ってるだろう。 ええ。 鵜がどうかしたんですか。 あの鳥は魚をせっかく呑んだと思うと吐いてしまう。 つまらない。 つまらない。 しかし魚は漁夫の魚籃の中に這入るからいいじゃないですか。 だからアイロニーさ。 せっかく本を読むかと思うとすぐ屑籠のなかへ入れてしまう。 学者と云うものは本を吐いて暮している。 なんにも自分の滋養にゃならない。 得の行くのは屑籠ばかりだ。 そう云われると学者も気の毒だ。 何をしたら好いか分らなくなる。 行為さ。 本を読むばかりで何にも出来ないのは皿に盛った牡丹餅を画にかいた牡丹餅と間違えておとなしく眺めているのと同様だ。 ことに文学者なんてものは奇麗な事を吐く割に奇麗な事をしないものだ。 どうだい小野さん西洋の詩人なんかによくそんなのがあるようじゃないか。 さよう。 例えば。 名前なんか忘れたが何でも女をごまかしたり女房をうっちゃったりしたのがいるぜ。 そんなのはいないでしょう。 なにいるたしかにいる。 そうかな。 僕もよく覚えていないが。 専門家が覚えていなくっちゃ困る。 ――そりゃそうと昨夜の女ね。 あれは僕よく知ってるぜ。 蔦屋の裏にいたでしょう。 琴を弾いていた。 なかなか旨いでしょう。 旨いんだろう何となく眠気を催したから。 ハハハハそれこそアイロニーだ。 冷やかすんじゃない。 真面目なところだ。 かりそめにも君の恩師の令嬢を馬鹿にしちゃ済まない。 しかし眠気を催しちゃ困りますね。 眠気を催おすところが好いんだ。 人間でもそうだ。 眠気を催おすような人間はどこか尊といところがある。 古くって尊といんでしょう。 君のような新式な男はどうしても眠くならない。 だから尊とくない。 ばかりじゃない。 ことに依ると尊とい人間を時候|後れだなどとけなしたがる。 今日は何だか攻撃ばかりされている。 ここいらで御分れにしましょうか。 いやもう少し持ってやる。 どうせ暇なんだから。 君は毎日暇のようですね。 僕か。 本はあんまり読まないね。 ほかにだってあまり忙がしい事がありそうには見えませんよ。 そう忙がしがる必要を認めないからさ。 結構です。 結構に出来る間は結構にして置かんといざと云う時に困る。 臨時応急の結構。 いよいよ結構ですハハハハ。 君相変らず甲野へ行くかい。 今行って来たんです。 甲野へ行ったり恩師を案内したり忙がしいだろう。 甲野の方は四五日休みました。 論文は。 ハハハハいつの事やら。 急いで出すが好い。 いつの事やらじゃせっかく忙がしがる甲斐がない。 まあ臨時応急にやりましょう。 時にあの恩師の令嬢はね。 ええ。 あの令嬢についてよっぽど面白い話があるがね。 どんな。 どんなってよっぽど深い因縁と見える。 誰が。 僕らとあの令嬢がさ。 あの令嬢がね。 小野さん。 ええ。 あの令嬢がねじゃいけない。 あの令嬢をだ。 ――見たよ。 宿の二階からですか。 二階からも見た。 嵐山へ行くところも見た。 見ただけですか。 知らない人に話は出来ない。 見ただけさ。 話して見れば好かったのに。 団子を食っているところも見た。 どこで。 やっぱり嵐山だ。 それっ切りですか。 まだ有る。 京都から東京までいっしょに来た。 なるほど勘定して見ると同じ汽車でしたね。 君が停車場へ迎えに行ったところも見た。 そうでしたか。 あの人は東京ものだそうだね。 誰が。 誰が。 誰がとは。 誰が話したんです。 宿屋の下女が話した。 宿屋の下女が。 蔦屋の。 うん。 蔦屋の下女は。 そっちへ曲るのかい。 もう少しどうです散歩は。 もう好い加減に引き返そう。 さあ大事の紙屑籠。 落さないように持って行くがいい。 御免。 過去。 やあこれは。 さあ御上り。 さあ御上り。 どうかなさいましたか。 何だか今朝から心持が悪くってね。 それでも朝のうちは我慢していたが午からとうとう寝てしまった。 今ちょうどうとうとしていたところへ君が来たので待たして御気の毒だった。 いえ今格子を開けたばかりです。 そうかい。 何でも誰か来たようだから驚いて出て見た。 そうですかそれは御邪魔をしました。 寝ていらっしゃれば好かったですね。 なに大した事はないから。 ――それに小夜も婆さんもいないものだから。 どこかへ。 ちょっと風呂に行った。 買物かたがた。 少しぞくぞくするようだ。 羽織でも着よう。 寝ていらしったら好いでしょう。 いや少し起きて見よう。 何ですかね。 風邪でもないようだが――なに大した事もあるまい。 昨夕御出になったのが悪かったですかね。 いえなに。 ――時に昨夕は大きに御厄介。 いいえ。 小夜も大変喜んで。 御蔭で好い保養をした。 もう少し閑だと方々へ御供をする事が出来るんですが。 忙がしいだろうからね。 いや忙がしいのは結構だ。 どうも御気の毒で。 いやそんな心配はちっとも要らない。 君の忙がしいのはつまり我々の幸福なんだから。 時に飯は食ったかね。 ええ。 食った。 ――食わなければ御上り。 何にもないが茶漬ならあるだろう。 先生もう好いんです。 飯は済まして来たんです。 本当かい。 遠慮しちゃいかん。 遠慮しやしません。 咳が出ますか。 から――からっ咳が出て。 横になって温まっていらしったら好いでしょう。 冷えると毒です。 いえもう大丈夫。 出だすと一時いけないんだがね。 ――年を取ると意気地がなくなって――何でも若いうちの事だよ。 東京は変ったね。 烈しい所で毎日変っています。 恐ろしいくらいだ。 昨夜もだいぶ驚いたよ。 随分人が出ましたから。 出たねえ。 あれでも知った人には滅多に逢わないだろうね。 そうですね。 逢うかね。 まあ。 まあ逢わない方ですね。 逢わない。 なるほど広い所に違ない。 いっしょにあるいたのも久しぶりだね。 今年でちょうど五年目になるかい。 ええ五年目です。 五年目でも十年目でもこうして一つ所に住むようになれば結構さ。 ――小夜も喜んでいる。 さっき御嬢さんが御出でした。 ああ――なに急ぐ事でも無かったんだがもしや暇があったらいっしょに連れて行って買物をして貰おうと思ってね。 あいにく出掛けだったものですから。 そうだってね。 飛んだ御邪魔をしたろう。 どこぞ急用でもあったのかい。 いえ――急用でもなかったんですが。 はあそうかい。 そりゃあ。 先生御頼の洋灯の台を買って来ました。 それはありがたい。 どれ。 はあ――何だか暗くってよく見えない。 灯火を点けてから緩くり拝見しよう。 私が点けましょう。 洋灯はどこにありますか。 気の毒だね。 もう帰って来る時分だが。 じゃ椽側へ出ると右の戸袋のなかにあるから頼もう。 掃除はもうしてあるはずだ。 ちょうどよく合うね。 据りがいい。 紫檀かい。 模擬でしょう。 模擬でも立派なものだ。 代は。 何ようござんす。 よくはない。 いくらかね。 両方で四円少しです。 四円。 なるほど東京は物が高いね。 ――少しばかりの恩給でやって行くには京都の方が遥かに好いようだ。 なに小夜さえなければ京都にいても差し支ないんだが若い娘を持つとなかなか心配なもので。 私などはどこの果で死のうが同じ事だが後に残った小夜がたった一人で可哀想だからこの年になってわざわざ東京まで出掛けて来たのさ。 ――いかな故郷でももう出てから二十年にもなる。 知合も交際もない。 まるで他国と同様だ。 それに来て見ると砂が立つ埃が立つ。 雑沓はする物価は貴しけっして住み好いとは思わない。 住み好い所ではありませんね。 これでも昔は親類も二三軒はあったんだが長い間|音信不通にしていたものだから今では居所も分らない。 不断はさほどにも思わないがこうやって半日でも寝ると考えるね。 何となく心細い。 なるほど。 まあ御前が傍にいてくれるのが何よりの依頼だ。 御役にも立ちませんで。 いえいろいろ親切にしてくれてまことにありがたい。 忙しいところを。 論文の方がないとまだ閑なんですが。 論文。 博士論文だね。 ええまあそうです。 いつ出すのかね。 今一生懸命に書いてるところです。 どうもぞくぞくする。 御寝みなさい。 起きていらっしゃると毒ですから。 私はもう御暇をします。 なにまあ御話し。 もう小夜が帰る時分だから。 寝たければ私の方で御免蒙って寝る。 それにまだ話も残っているから。 まあ緩くりするが好い。 今暮れたばかりだ。 時に小夜の事だがね。 時に小夜の事だがね。 知っての通りああ云う内気な性質ではあるし今の女学生のようにハイカラな教育もないからとうてい気にもいるまいが。 いいえ――どうして――。 気にいらんなんて――そんな事が――あるはずがないですが。 あれも不憫だからね。 私がこうしてどうかこうかしているうちは好い。 好いがこの通りの身体だからいつ何時どんな事がないとも限らない。 その時が困る。 兼ての約束はあるし御前も約束を反故にするような軽薄な男ではないから小夜の事は私がいない後でも世話はしてくれるだろうが。 そりゃ勿論です。 そこは私も安心している。 しかし女は気の狭いものでね。 アハハハハ困るよ。 そんなに御心配なさる事も要らんでしょう。 私はいいが小夜がさ。 御前の方にもいろいろな都合はあるだろう。 しかし都合はいくら立ったって片づくものじゃない。 そうでも無いです。 もう少しです。 だって卒業して二年になるじゃないか。 ええ。 しかしもう少しの間は。 少しっていつまでの事かい。 そこが判然していれば待っても好いさ。 小夜にも私からよく話して置く。 しかしただ少しでは困る。 いくら親でも子に対して幾分か責任があるから。 ――少しって云うのは博士論文でも書き上げてしまうまでかい。 ええまずそうです。 だいぶ久しく書いているようだがまあいつごろ済むつもりかね。 大体。 なるべく早く書いてしまおうと思って骨を折っているんですが。 何分問題が大きいものですから。 しかし大体の見当は着くだろう。 もう少しです。 来月くらいかい。 そう早くは。 来々月はどうだね。 どうも。 じゃ結婚をしてからにしたら好かろう結婚をしたから論文が書けなくなったと云う理由も出て来そうにない。 ですが責任が重くなるから。 いいじゃないか今まで通りに働いてさえいれば。 当分の間我々は経済上君の世話にならんでもいいから。 収入は今どのくらいあるのかね。 わずかです。 わずかとは。 みんなで六十円ばかりです。 一人がようようです。 下宿をして。 ええ。 そりゃ馬鹿気ている。 一人で六十円使うのはもったいない。 家を持っても楽に暮せる。 もう好い。 そのくらいで好い。 あんまり出すと危ない。 少し灯が曲っているから。 あの婆さんが切るといつでも曲る。 時にあの婆さんはどうです御間に合いますか。 そうまだ礼も云わなかったね。 だんだん御手数を掛けて。 いいえ。 実は年を取ってるから働らけるかと思ったんですが。 まああれで結構だ。 だんだん慣れてくる様子だから。 そうですかそりゃ好い按排でした。 実はどうかと思って心配していたんですが。 その代り人間はたしかだそうです。 浅井が受合って行ったんですから。 そうかい。 時に浅井と云えばどうしたい。 まだ帰らないかい。 もう帰る時分ですが。 ことに因ると今日くらいの汽車で帰って来るかも知れません。 一昨かの手紙には二三日中に帰るとあったよ。 はあそうでしたか。 先生。 何だい。 今の御話ですね。 うん。 もう二三日待って下さいませんか。 もう二三日。 つまり要領を得た御返事をする前にいろいろ考えて見たいですから。 そりゃ好いとも。 三日でも四日でも――一週間でも好い。 事が判然さえすれば安心して待っている。 じゃ小夜にもそう話して置こう。 ええどうか。 じゃ今夜は失礼します。 まあ好いじゃないか。 もう帰って来る。 またすぐ来ますから。 それでは――御疎怱であった。 もうどうぞ。 分ります。 やあ月夜だね。 ええ穏な晩です。 京都はなお穏だよ。 清三。 ええ。 なに別段用じゃない。 ――こうして東京へ出掛けて来たのは小夜の事を早く片づけてしまいたいからだと思ってくれ。 分ったろうな。 洋灯の台を買って来て下さったでしょうか。 そうさね。 今頃は来ていらっしゃるかも知れませんよ。 どうだか。 でも買って行くとおっしゃったんでしょう。 ああ。 ――何だか暖か過ぎる晩だこと。 御湯のせいでござんすよ。 薬湯は温まりますから。 哲世界と実世界。 哲世界と実世界。 多くの人は吾に対して悪を施さんと欲す。 同時に吾の彼らを目して凶徒となすを許さず。 またその凶暴に抗するを許さず。 曰く。 命に服せざれば汝を嫉まんと。 剣客の剣を舞わすに力|相若くときは剣術は無術と同じ。 彼これを一籌の末に制する事|能わざれば学ばざるものの相対して敵となるに等しければなり。 人を欺くもまたこれに類す。 欺かるるもの欺くものと一様の譎詐に富むとき二人の位地は誠実をもって相対すると毫も異なるところなきに至る。 この故に偽と悪とは優勢を引いて援護となすにあらざるよりは不足偽不足悪に出会するにあらざるよりは最後に至善を敵とするにあらざるよりは――効果を収むる事|難しとす。 第三の場合は固より稀なり。 第二もまた多からず。 凶漢は敗徳において匹敵するをもって常態とすればなり。 人|相賊してついに達する能わずあるいは千辛万苦して始めて達し得べきものもただ互に善を行い徳を施こして容易に到り得べきを思えば悲しむべし。 じゃあまだ話さないんですね。 欽吾にかい。 ええ。 兄さんはまだ知らないんでしょう。 まだ話さないよ。 おや煙管はどうしたろう。 はい。 話したら何とか云うでしょうか。 云えば御廃しかい。 話はいつでも出来るよ。 話すのが好ければ私が話して上げる。 なに相談するがものはない。 こう云う風にするつもりだからと云えばそれぎりの事だよ。 そりゃ私だって自分の考がきまった以上は兄さんがいくら何と云ったって承知しやしませんけれども。 何にも云える人じゃないよ。 相談相手に出来るくらいなら初手からこうしないでもほかにいくらも遣口はあらあね。 でも兄さんの心持一つでこっちが困るようになるんだから。 そうさ。 それさえなければ話も何も要りゃしないんだが。 どうも表向|家の相続人だからあの人がうんと云ってくれないとこっちが路頭に迷うようになるばかりだからね。 その癖何か話すたんびに財産はみんな御前にやるからそのつもりでいるがいいって云うんですがね。 云うだけじゃ仕方がないじゃないか。 まさか催促する訳にも行かないでしょう。 なにくれるものなら催促して貰ったって構わないんだが――ただ世間体がわるいからね。 いくらあの人が学者でもこっちからそうは切り出し悪いよ。 だから話したら好いじゃありませんか。 何を。 何をってあの事を。 小野さんの事かい。 ええ。 話しても好いよ。 どうせいつか話さなければならないんだから。 そうしたらどうにかするでしょう。 まるっきり財産をくれるつもりならくれるでしょうし。 幾らか分けてくれる気なら分けるでしょうし家が厭ならどこへでも行くでしょうし。 だが御母さんの口から御前の世話にはなりたくないから藤尾をどうかしてくれとも云い悪いからね。 だって向で世話をするのが厭だって云うんじゃありませんか。 世話は出来ない財産はやらない。 それじゃ御母さんをどうするつもりなんです。 どうするつもりも何も有りゃしない。 ただああやってぐずぐずして人を困らせる男なんだよ。 少しはこっちの様子でも分りそうなもんですがね。 この間金時計を宗近にやれって云った時でも。 小野さんに上げると御云いのかい。 小野さんにとは云わないけれども。 一さんに上げるとは云わなかったわ。 妙だよあの人は。 藤尾に養子をして面倒を見て御貰いなさいと云うかと思うとやっぱり御前を一にやりたいんだよ。 だって一は一人息子じゃないか。 養子なんぞに来られるものかね。 ふん。 宗近の方は大丈夫なんでしょうね。 大丈夫でなくったって仕方がないじゃないか。 でも断って下すったんでしょう。 断ったんだとも。 この間行った時に宗近の阿爺に逢ってよく理由は話して来たのさ。 ――帰ってから御前にも話した通り。 それは覚えていますけれども何だか判然しないようだったから。 判然しないのは向の事さ。 阿爺があの通り気の長い人だもんだから。 こっちでも判然とは断わらなかったんでしょう。 そりゃ今までの義理があるからそう子供の使のように藤尾が厭だと申しますから平に御断わり申しますとは云えないからね。 なに厭なものはどうしたって好くなりっこ無いんだからいっそ平ったく云った方が好いんですよ。 だって世間はそうしたもんじゃあるまい。 御前はまだ年が若いから露骨でも構わないと御思かも知れないが世の中はそうは行かないよ。 同じ断わるにしてもそこにはね。 やっぱり蓋も味もあるように云わないと――ただ怒らしてしまったって仕方がないから。 何とか云って断ったのね。 欽吾がどうあっても嫁を貰うと云ってくれません。 私も取る年で心細うございますから。 年を取って心細いから。 心細いから欽吾があのまま押し通す料簡なら藤尾に養子でもして掛かるよりほかに致し方がございません。 すると一さんは大事な宗近家の御相続人だから私共へいらしっていただく訳にも行かずまた藤尾を差し上げる訳にも参らなくなりますから。 それじゃ兄さんがもしや御嫁を貰うと云い出したら困るでしょう。 なに大丈夫だよ。 貰うなら貰うで糸子でも何でも勝手な人を貰うがいいやね。 こっちはこっちで早く小野さんを入れてしまうから。 でも宗近の方は。 いいよ。 そう心配しないでも。 外交官の試験に及第しないうちは嫁どころじゃないやね。 もし及第したらすぐ何か云うでしょう。 だって彼男に及第が出来ますものかね。 考えて御覧な。 ――もし及第なすったら藤尾を差上ましょうと約束したって大丈夫だよ。 そう云ったの。 そうは云わないさ。 そうは云わないが云っても大丈夫及第出来っ子ない男だあね。 じゃ宗近の御叔父はたしかに断わられたと思ってるんですね。 思ってるはずだがね。 ――どうだいあれから一の様子は少しは変ったかい。 やっぱり同じですからさ。 この間博覧会へ行ったときも相変らずですもの。 博覧会へ行ったのはいつだったかね。 今日で。 一昨日一昨々日の晩です。 そんならもう一に通じている時分だが。 ――もっとも宗近の御叔父がああ云う人だからことに依ると謎が通じなかったかも知れないね。 それとも一さんの事だから御叔父から聞いても平気でいるのかも知れないわね。 そうさ。 どっちがどっちとも云えないね。 じゃこうしよう。 ともかくも欽吾に話してしまおう。 ――こっちで黙っていちゃいつまで立っても際限がない。 今書斎にいるでしょう。 御前一に逢うだろう。 逢うかも知れません。 逢ったら少し匂わして置く方が好いよ。 小野さんと大森へ行くとか云っていたじゃないか。 明日だったかね。 ええ明日の約束です。 何なら二人で遊んで歩くところでも見せてやると好い。 ホホホホ。 暗い事。 陰気だねえ。 窓を明けましょうか。 どうでも――母さんはどうでも構わないがただ御前が欝陶しいだろうと思ってさ。 どうだね具合は。 ありがとう。 ちっとは好い方かね。 ええ――まあ――。 身体を丈夫にしてくれないとね母さんも心配だから。 身体が悪いとつい気分まで欝陶しくなって自分も面白くないし。 でも京都へ行ってから少しは好いようだね。 そうですか。 ホホホホそうですかって他人の事のように。 ――何だか顔色が丈夫丈夫して来たじゃないか。 日に焼けたせいかね。 そうかも知れない。 ちっと日本間の方へ話にでも来て御覧。 あっちは廓っとして書斎より心持が好いから。 たまには一のようにつまらない女を相手にして世間話をするのも気が変って面白いものだよ。 ありがとう。 どうせ相手になるほどの話は出来ないけれども――それでも馬鹿は馬鹿なりにね。 扇骨木が大変|奇麗に芽を吹きましたね。 見事だね。 かえって生じいな花よりも好ござんすよ。 ここからはたった一本しっきゃ見えないね。 向へ廻ると刈り込んだのが丸く揃ってそりゃ奇麗。 あなたの部屋からが一番好く見えるようですね。 ああ御覧かい。 それにね。 近頃は陽気のせいか池の緋鯉がまことによく跳るんでここから聞えますかい。 鯉の跳る音がですか。 ああ。 いいえ。 聞えない。 聞えないだろうねこう立て切って有っちゃあ。 母さんの部屋からでも聞えないくらいだから。 この間藤尾に母さんは耳が悪くなったってさんざん笑われたのさ。 ――もっとももう耳も悪くなって好い年だから仕方がないけれども。 藤尾はいますか。 いるよ。 もう小野さんが来て稽古をする時分だろう。 ――何か用でもあるかい。 いえ用は別にありません。 あれもあんな気の勝った子でさぞ御前さんの気に障る事もあろうがまあ我慢して本当の妹だと思って面倒を見てやって下さい。 世話はする気です。 御前がそう云ってくれると私もまことに安心です。 する気どころじゃない。 したいと思っているくらいです。 それほどに思ってくれると聞いたら当人もさぞ喜ぶ事だろう。 ですが。 ですが母さん。 藤尾の方では世話になる気がありません。 そんな事が。 世話をすると云うのは世話になる方でこっちを信仰――信仰と云うのは神さまのようでおかしい。 とにかく世話になっても好いと思うくらいに信用する人物でなくっちゃ駄目です。 そりゃ御前にそう見限られてしまえばそれまでだが。 藤尾も実は可哀想だからね。 そう云わずにどうかしてやって下さい。 だって見縊られているんだから世話を焼けば喧嘩になるばかりです。 藤尾が御前さんを見縊るなんて。 そんな事があっては第一|私が済まない。 何か藤尾が不都合な事でもしたかい。 もし不都合があったら私から篤と云って聞かせるから遠慮しないで何でも話しておくれ。 御互のなかで気不味い事があっちゃあ面白くないから。 藤尾はたしか二十四になったんですね。 明けて四になったのさ。 もうどうかしなくっちゃならないでしょう。 嫁の口かい。 藤尾の事も実は相談したいと思っているんだがその前にね。 何ですか。 どうだろう。 もう一遍考え直してくれると好いがね。 何をですか。 御前の事をさ。 藤尾も藤尾でどうかしなければならないが御前の方を先へきめないと母さんが困るからね。 身体が悪いと御云いだけれども御前くらいの身体で御嫁を取った人はいくらでもあります。 そりゃ有るでしょう。 だからさ。 御前ももう一遍考え直して御覧な。 中には御嫁を貰って大変丈夫になった人もあるくらいだよ。 どうだろうね。 そうしてくれると好いがね。 まあ藤尾の方からきめたら好いでしょう。 御前がどうしても承知してくれなければそうするよりほかに道はあるまい。 母かさん。 家は藤尾にやりますよ。 それじゃ御前。 財産も藤尾にやります。 私は何にもいらない。 それじゃ私達が困るばかりだあね。 困りますか。 困りますかって。 ――私が死んだ阿父さんに済まないじゃないか。 そうですか。 じゃどうすれば好いんです。 どうすれば好いかどうせ母さんのような無学なものには分らないが無学は無学なりにそれじゃ済まないと思いますよ。 厭なんですか。 厭だなんてそんなもったいない事を今まで云った事があったかね。 有りません。 私も無いつもりだ。 御前がそう云ってくれるたんびに御礼は始終云ってるじゃないか。 御礼は始終聞いています。 じゃどうあっても家を襲ぐ気はないんだね。 家は襲いでいます。 法律上私は相続人です。 甲野の家は襲いでも母かさんの世話はしてくれないんだね。 だから家も財産もみんな藤尾にやると云うんです。 それほどに御云いなら仕方がない。 じゃ仕方がないから御前の事は御前の思い通りにするとして――藤尾の方だがね。 ええ。 実はあの小野さんが好かろうと思うんだがどうだろう。 小野をですか。 いけまいか。 いけない事もないでしょう。 よければそうきめようと思うが。 好いでしょう。 好いかい。 ええ。 それでようやく安心した。 それでようやく――御前どうかおしかい。 母かさん藤尾は承知なんでしょうね。 無論知っているよ。 なぜ。 宗近はいけないんですか。 一かい。 本来なら一が一番好いんだけれども。 ――父さんと宗近とはああ云う間柄ではあるしね。 約束でもありゃしなかったですか。 約束と云うほどの事はなかったよ。 何だか父さんが時計をやるとか云った事があるように覚えていますが。 時計。 父さんの金時計です。 柘榴石の着いている。 ああそうそう。 そんな事が有ったようだね。 一はまだ当にしているようです。 そうかい。 約束があるならやらなくっちゃ悪い。 義理が欠ける。 時計は今藤尾が預っているから私からよくそう云って置こう。 時計もだが藤尾の事を重に云ってるんです。 だって藤尾をやろうと云う約束はまるで無いんだよ。 そうですか。 ――それじゃ好いでしょう。 そう云うと私が何だか御前の気に逆うようで悪いけれども――そんな約束はまるで覚がないんだもの。 はああ。 じゃ無いんでしょう。 そりゃね。 約束があっても無くっても一ならやっても好いんだがあれも外交官の試験がまだ済まないんだから勉強中に嫁でもあるまいし。 そりゃ構わないです。 それに一は長男だからどうしても宗近の家を襲がなくっちゃならずね。 藤尾へは養子をするつもりなんですか。 したくはないが御前が母かさんの云う事を聞いておくれでないから。 藤尾がわきへ行くにしても財産は藤尾にやります。 財産は――御前私の料簡を間違えて取っておくれだと困るが――母さんの腹の中には財産の事なんかまるでありゃしないよ。 そりゃ割って見せたいくらいに奇麗なつもりだがね。 そうは見えないか知ら。 見えます。 ただ年を取って心細いからたった一人の藤尾をやってしまうと後が困るんでね。 なるほど。 でなければ一が好いんだがね。 御前とも仲が善し。 母かさん小野をよく知っていますか。 知ってるつもりです。 叮嚀で親切で学問がよく出来て立派な人じゃないか。 ――なぜ。 そんなら好いです。 そう素気なく云わずと何か考があるなら聞かしておくれな。 せっかく相談に来たんだから。 宗近の方が小野より母さんを大事にします。 そりゃ。 そうかも知れない――御前の見た眼に間違はあるまいがほかの事と違ってこればかりは親や兄の自由には行かないもんだからね。 藤尾が是非にと云うんですか。 えまあ――是非とも云うまいが。 そりゃ私も知っている。 知ってるんだが。 ――藤尾はいますか。 呼びましょう。 藤尾に用があるからちょいと。 炙り出しはどうして。 出て。 兄さんが御前に何か御用があると御云いだから。 そう。 兄さん何か御用。 うん。 藤尾この家と私が父さんから受け襲いだ財産はみんな御前にやるよ。 いつ。 今日からやる。 ――その代り母さんの世話は御前がしなければいけない。 ありがとう。 御前宗近へ行く気はないか。 ええ。 ない。 どうしても厭か。 厭です。 そうか。 ――そんなに小野が好いのか。 それを聞いて何になさる。 何にもしない。 私のためには何にもならない事だ。 ただ御前のために云ってやるのだ。 私のために。 そう。 兄さんの考では小野さんより一の方がよかろうと云う話なんだがね。 兄さんは兄さん。 私は私です。 兄さんは小野さんよりも一の方が母さんを大事にしてくれると御言いのだよ。 兄さん。 あなた小野さんの性格を知っていらっしゃるか。 知っている。 知ってるもんですか。 小野さんは詩人です。 高尚な詩人です。 そうか。 趣味を解した人です。 愛を解した人です。 温厚の君子です。 ――哲学者には分らない人格です。 あなたには一さんは分るでしょう。 しかし小野さんの価値は分りません。 けっして分りません。 一さんを賞める人に小野さんの価値が分る訳がありません。 じゃ小野にするさ。 無論します。 どこぞへ行くかね。 行くんじゃない今帰ったところです。 ――ああ暑い。 今日はよっぽど暑いですね。 家にいるとそうでもない。 御前はむやみに急ぐから暑いんだ。 もう少し落ちついて歩いたらどうだ。 充分落ちついているつもりなんだがそう見えないかな。 弱るな。 ――やあとうとう煙草盆へ火を入れましたね。 なるほど。 どうだ祥瑞は。 何だか酒甕のようですね。 なに煙草盆さ。 御前達が何だかだって笑うがこうやって灰を入れて見るとやっぱり煙草盆らしいだろう。 どうだ。 ええ。 好いですね。 好いだろう。 祥瑞は贋の多いもんで容易には買えない。 全体いくらなんですか。 いくらだか当てて御覧。 見当が着きませんね。 滅多な事を云うとまたこの間の松見たように頭ごなしに叱られるからな。 壱円八十銭だ。 安いもんだろう。 安いですかね。 全く堀出だ。 へええ――おや椽側にもまた新らしい植木が出来ましたね。 さっき万両と植え替えた。 それは薩摩の鉢で古いものだ。 十六世紀頃の葡萄耳人が被った帽子のような恰好ですね。 ――この薔薇はまた大変赤いもんだなこりゃあ。 それは仏見笑と云ってね。 やっぱり薔薇の一種だ。 仏見笑。 妙な名だな。 華厳経に外面如菩薩内心如夜叉と云う句がある。 知ってるだろう。 文句だけは知ってます。 それで仏見笑と云うんだそうだ。 花は奇麗だが大変|刺がある。 触って御覧。 なに触らなくっても結構です。 ハハハハ外面如菩薩内心如夜叉。 女は危ないものだ。 むずかしい薔薇があるもんだな。 うん。 一あの花を見た事があるかい。 あの床に挿してある。 大変細い花ですね。 ――見た事がない。 何と云うんですか。 これが例の二人静だ。 例の二人静。 例にも何にも今まで聞いた事がないですね。 覚えて置くがいい。 面白い花だ。 白い穂がきっと二本ずつ出る。 だから二人静。 謡曲に静の霊が二人して舞うと云う事がある。 知っているかね。 知りませんね。 二人静。 ハハハハ面白い花だ。 何だか因果のある花ばかりですね。 調べさえすれば因果はいくらでもある。 御前梅に幾通あるか知ってるか。 阿爺さん。 今日ね久しぶりに髪結床へ行って頭を刈って来ました。 頭を。 あんまり奇麗にもならんじゃないか。 奇麗にもならんじゃないかって阿爺さんこりゃ五分刈じゃないですぜ。 じゃ何刈だい。 分けるんです。 分かっていないじゃないか。 今に分かるようになるんです。 真中が少し長いでしょう。 そう云えば心持長いかな。 廃せばいいのに見っともない。 見っともないですか。 それにこれから夏向は熱苦しくって。 ところがいくら熱苦しくってもこうして置かないと不都合なんです。 なぜ。 なぜでも不都合なんです。 妙な奴だな。 ハハハハ実はね阿爺さん。 うん。 外交官の試験に及第してね。 及第したか。 そりゃそりゃ。 そうか。 そんなら早くそう云えば好いのに。 まあ頭でも拵えてからにしようと思って。 頭なんぞはどうでも好いさ。 ところが五分刈で外国へ行くと懲役人と間違えられるって云いますからね。 外国へ――外国へ行くのかい。 いつ。 まあこの髪が延びて小野清三式になる時分でしょう。 じゃまだ一ヵ月くらいはあるな。 ええそのくらいはあります。 一ヵ月あるならまあ安心だ。 立つ前にゆっくり相談も出来るから。 ええ時間はいくらでもあります。 時間の方はいくらでもありますがこの洋服は今日限御返納に及びたいです。 ハハハハいかんかい。 よく似合うぜ。 あなたが似合う似合うとおっしゃるから今日まで着たようなものの――至るところだぶだぶしていますぜ。 そうかそれじゃ廃すがいい。 また阿爺さんが着よう。 ハハハハ驚いたなあ。 それこそ御廃しなさい。 廃しても好い。 黒田にでもやるかな。 黒田こそいい迷惑だ。 そんなにおかしいかな。 おかしかないが身体に合わないでさあ。 そうかそれじゃやっぱりおかしいだろう。 ええつまるところおかしいです。 ハハハハ時に糸にも話したかい。 試験の事ですか。 ああ。 まだ話さないです。 まだ話さない。 なぜ。 ――全体いつ分ったんだ。 通知のあったのは二三日前ですがね。 つい忙しいもんだからまだ誰にも話さない。 御前は呑気過ぎていかんよ。 なに忘れやしません。 大丈夫。 ハハハハ忘れちゃ大変だ。 まあもうちっと気をつけるがいい。 ええこれから糸公に話してやろうと思ってね。 ――心配しているから。 ――及第の件とそれからこの頭の説明を。 頭は好いが――全体どこへ行く事になったのかい。 英吉利か仏蘭西か。 その辺はまだ分らないです。 何でも西洋は西洋でしょう。 ハハハハ気楽なもんだ。 まあどこへでも行くが好い。 西洋なんか行きたくもないんだけれども――まあ順序だから仕方がない。 うんまあ勝手な所へ行くがいい。 支那や朝鮮なら故の通の五分刈でこのだぶだぶの洋服を着て出掛けるですがね。 西洋はやかましい。 御前のような不作法ものには好い修業になって結構だ。 ハハハハ西洋へ行くと堕落するだろうと思ってね。 なぜ。 西洋へ行くと人間を二た通り拵えて持っていないと不都合ですからね。 二た通とは。 不作法な裏と奇麗な表と。 厄介でさあ。 日本でもそうじゃないか。 文明の圧迫が烈しいから上部を奇麗にしないと社会に住めなくなる。 その代り生存競争も烈しくなるから内部はますます不作法になりまさあ。 ちょうどなんだな。 裏と表と反対の方角に発達する訳になるな。 これからの人間は生きながら八つ裂の刑を受けるようなものだ。 苦しいだろう。 今に人間が進化すると神様の顔へ豚の睾丸をつけたような奴ばかり出来てそれで落つきが取れるかも知れない。 いやだなそんな修業に出掛けるのは。 いっそ廃にするか。 うちにいて親父の古洋服でも着て太平楽を並べている方が好いかも知れない。 ハハハハ。 ことに英吉利人は気に喰わない。 一から十まで英国が模範であると云わんばかりの顔をして何でもかでも我流で押し通そうとするんですからね。 だが英国紳士と云って近頃だいぶ評判がいいじゃないか。 日英同盟だって何もあんなに賞めるにも当らない訳だ。 弥次馬共が英国へ行った事もない癖に旗ばかり押し立ててまるで日本が無くなったようじゃありませんか。 うん。 どこの国でも表が表だけに発達すると裏も裏相応に発達するだろうからな。 ――なに国ばかりじゃない個人でもそうだ。 日本がえらくなって英国の方で日本の真似でもするようでなくっちゃ駄目だ。 御前が日本をえらくするさ。 ハハハハ。 どうもこの襟飾は滑っていけない。 じゃ糸にちょっと話しましょう。 まあ御待ち少し相談がある。 何ですか。 実は今までは御前の位地もまだきまっていなかったからさほどにも云わなかったが。 嫁ですかね。 そうさ。 どうせ外国へ行くなら行く前にきめるとか結婚するとかまたは連れて行くとか。 とても連れちゃ行かれませんよ。 金が足りないから。 連れて行かんでも好い。 ちゃんと片をつけてそうして置いて行くなら。 留守中は私が大事に預かってやる。 私もそうしようと思ってるんです。 どうだなそこで。 気に入った婦人でもあるかな。 甲野の妹を貰うつもりなんですがね。 どうでしょう。 藤尾かい。 うん。 駄目ですかね。 なに駄目じゃない。 外交官の女房にゃああ云うんでないといけないです。 そこでだて。 実は甲野の親父が生きているうち私と親父の間に少しはその話もあったんだがな。 御前は知らんかも知らんが。 叔父さんは時計をやると云いました。 あの金時計かい。 藤尾が玩弄にするんで有名な。 ええあの太古の時計です。 ハハハハあれで針が回るかな。 時計はそれとして実は肝心の本人の事だが――この間甲野の母さんが来た時ついでだから話して見たんだがね。 はあ何とか云いましたか。 まことに好い御縁だがまだ御身分がきまって御出でないから残念だけれども。 身分がきまらないと云うのは外交官の試験に及第しないと云う意味ですかね。 まあそうだろう。 だろうはちっと驚ろいたな。 いやあの女の云う事は非常に能弁な代りによく意味が通じないで困る。 滔々と述べる事は述べるがついに要点が分らない。 要するに不経済な女だ。 だけれども断ったんだか断らないんだか分らないのは厄介ですね。 厄介だよ。 あの女にかかると今までも随分厄介な事がだいぶあった。 猫撫声で長ったらしくって――私ゃ嫌だ。 ハハハハそりゃ好いが――ついに談判は発展しずにしまったんですか。 つまり先方の云うところでは御前が外交官の試験に及第したらやってもいいと云うんだ。 じゃ訳ない。 この通り及第したんだから。 ところがまだあるんだ。 面倒な事が。 まことにどうも。 及第しても駄目なんですか。 駄目じゃあるまいが――欽吾がうちを出ると云うそうだ。 馬鹿な。 もし出られてしまうと年寄の世話の仕手がなくなる。 だから藤尾に養子をしなければならない。 すると宗近へでもどこへでも嫁にやる訳には行かなくなるとまあこう云うんだな。 下らない事を云うもんですね。 第一甲野が家を出るなんてそんな訳がないがな。 家を出るってまさか坊主になる料簡でもなかろうがつまり嫁を貰ってあの御袋の世話をするのが厭だと云うんだろうじゃないか。 甲野が神経衰弱だからそんな馬鹿気た事を云うんですよ。 間違ってる。 よし出るたって――叔母さんが甲野を出して養子をする気なんですか。 そうなっては大変だと云って心配しているのさ。 そんなら藤尾さんを嫁にやっても好さそうなものじゃありませんか。 好い。 好いが万一の事を考えると私も心細くってたまらないと云うのさ。 何が何だか分りゃしない。 まるで八幡の藪不知へ這入ったようなものだ。 本当に――要領を得ないにも困り切る。 元来そりゃいつの事です。 この間だ。 今日で一週間にもなるかな。 ハハハハ私の及第報告は二三日|後れただけだが父さんのは一週間だ。 親だけあって私より倍以上気楽ですぜ。 ハハハだが要領を得ないからね。 要領はたしかに得ませんね。 早速要領を得るようにして来ます。 どうして。 まず甲野に妻帯の件を説諭して坊主にならないようにしてしまってそれから藤尾さんをくれるかくれないか判然談判して来るつもりです。 御前一人でやる気かね。 ええ一人でたくさんです。 卒業してから何にもしないからせめてこんな事でもしなくっちゃ退屈でいけない。 うん自分の事を自分で片づけるのは結構な事だ。 一つやって見るが好い。 それでね。 もし甲野が妻を貰うと云ったら糸をやるつもりですが好いでしょうね。 それは好い。 構わない。 一先本人の意志を聞いて見て。 聞かんでも好かろう。 だってそりゃ聞かなくっちゃいけませんよ。 ほかの事とは違うから。 そんなら聞いて見るが好い。 ここへ呼ぼうか。 ハハハハ親と兄の前で詰問しちゃなおいけない。 これから私が聞いて見ます。 で当人が好いと云ったらそのつもりで甲野に話しますからね。 うんよかろう。 今日は勉強だね。 珍らしい。 何だい。 何でもありませんよ。 何でもない本を読むなんて天下の逸民だね。 どうせそうよ。 手を放したって好いじゃないか。 まるで散らしでも取ったようだ。 散らしでも何でも好くってよ。 御生だからあっちへ行ってちょうだい。 大変邪魔にするね。 糸公父っさんがそう云ってたぜ。 何て。 糸はちっと女大学でも読めば好いのに近頃は恋愛小説ばかり読んでてまことに困るって。 あら嘘ばっかり。 私がいつそんなものを読んで。 兄さんは知らないよ。 阿父さんがそう云うんだから。 嘘よ阿父様がそんな事をおっしゃるもんですか。 そうかい。 だって人が来ると読み掛けた本を伏せて枡落し見たように一生懸命におさえているところをもって見ると阿父さんの云うところもまんざら嘘とは思えないじゃないか。 嘘ですよ。 嘘だって云うのにあなたもよっぽど卑劣な方ね。 卑劣は一大痛棒だね。 注意人物の売国奴じゃないかハハハハ。 だって人の云う事を信用なさらないんですもの。 そんなら証拠を見せて上げましょうか。 ね。 待っていらっしゃいよ。 掏り替えちゃいけないぜ。 まあ黙って待っていらっしゃい。 ほら。 見留じゃないか。 なんだ――甲野。 分ったでしょう。 借りたのかい。 ええ。 恋愛小説じゃないでしょう。 種を見せない以上は何とも云えないがまあ勘弁してやろう。 時に糸公御前今年|幾歳になるね。 当てて御覧なさい。 当てて見ないだって区役所へ行きゃすぐ分る事だがちょいと参考のために聞いて見るんだよ。 隠さずに云う方が御前の利益だ。 隠さずに云う方がだって――何だか悪い事でもしたようね。 私厭だわそんなに強迫されて云うのは。 ハハハハさすが哲学者の御弟子だけあって容易に権威に服従しないところが感心だ。 じゃ改めて伺うが取って御幾歳ですか。 そんな茶化したって誰が云うもんですか。 困ったな。 叮嚀に云えば云うで怒るし。 ――一だったかね。 二かい。 おおかたそんなところでしょう。 判然しないのか。 自分の年が判然しないようじゃ兄さんも少々心細いな。 とにかく十代じゃないね。 余計な御世話じゃありませんか。 人の年齢なんぞ聞いて。 ――それを聞いて何になさるの。 なに別の用でもないが実は糸公を御嫁にやろうと思ってさ。 どうだい御嫁は。 厭でもないだろう。 知らないわ。 知らなくっちゃ困るね。 兄さんが行くんじゃない御前が行くんだ。 行くって云いもしないのに。 じゃ行かないのか。 行かない。 本当に。 行かないとなると兄さんが切腹しなけりゃならない。 大変だ。 笑い事じゃない。 本当に腹を切るよ。 好いかね。 勝手に御切んなさい。 切るのは好いがあんまり深刻だからね。 なろう事ならこのまんまで生きている方が御互に便利じゃないか。 御前だってたった一人の兄さんに腹を切らしたってつまらないだろう。 誰もつまると云やしないわ。 だから兄さんを助けると思ってうんと御云い。 だって訳も話さないで藪から棒にそんな無理を云ったって。 訳は聞さえすればいくらでも話すさ。 好くってよ訳なんか聞かなくっても私御嫁なんかに行かないんだから。 糸公御前の返事は鼠花火のようにくるくる廻っているよ。 錯乱体だ。 何ですって。 なに何でもいい法律上の術語だから――それでね糸公いつまで行っても埓が明かないから一と思に打ち明けて話してしまうが実はこうなんだ。 訳は聞いても御嫁にゃ行かなくってよ。 条件つきに聞くつもりか。 なかなか狡猾だね。 ――実は兄さんが藤尾さんを御嫁に貰おうと思うんだがね。 まだ。 まだって今度が始てだね。 だけれど藤尾さんは御廃しなさいよ。 藤尾さんの方で来たがっていないんだから。 御前この間もそんな事を云ったね。 ええだって厭がってるものを貰わなくっても好いじゃありませんか。 ほかに女がいくらでも有るのに。 そりゃ大いにごもっともだ。 厭なものを強請るなんて卑怯な兄さんじゃない。 糸公の威信にも関係する。 厭なら厭と事がきまればほかに捜すよ。 いっそそうなすった方がいいでしょう。 だがその辺が判然しないからね。 だから判然させるの。 まあ。 この間甲野の御叔母さんが来て下で内談をしていたろう。 あの時その話があったんだとさ。 叔母さんが云うには今はまだいけないが一さんが外交官の試験に及第して身分がきまったらどうでも御相談を致しましょうって阿爺に話したそうだ。 それで。 だから好いじゃないか兄さんがちゃんと外交官の試験に及第したんだから。 おやいつ。 いつってちゃんと及第しちまったんだよ。 あら本当なの驚ろいた。 兄が及第して驚ろく奴があるもんか。 失礼千万な。 だってそんなら早くそうおっしゃれば好いのに。 これでもだいぶ心配して上げたんだわ。 全く御前の御蔭だよ。 大いに感泣しているさ。 感泣はしているようなものの忘れちまったんだから仕方がない。 そこで兄さんもこの通り頭を刈って近々洋行するはずになったんだが阿父さんの云うには立つ前に嫁を貰って人格を作ってけって責めるから兄さんがどうせ貰うなら藤尾さんを貰いましょう。 外交官の妻君にはああ云うハイカラでないと将来困るからと云ったのさ。 それほど御気に入ったら藤尾さんになさい。 ――女を見るのはやっぱり女の方が上手ね。 そりゃ才媛糸公の意見に間違はなかろうから充分兄さんも参考にはするつもりだがとにかく判然談判をきめて来なくっちゃいけない。 向うだって厭なら厭と云うだろう。 外交官の試験に及第したからって急に気が変って参りましょうなんて軽薄な事は云うまい。 云うかね。 どうですか。 聞いて御覧なさらなくっちゃ――しかし聞くなら欽吾さんに御聞きなさいよ。 恥を掻くといけないから。 ハハハハ厭なら断るのが天下の定法だ。 断わられたって恥じゃない。 だって。 ないが甲野に聞くよ。 聞く事は甲野に聞くが――そこに問題がある。 どんな。 先決問題がある。 ――先決問題だよ糸公。 だからどんなって聞いてるじゃありませんか。 ほかでもないが甲野が坊主になるって騒ぎなんだよ。 馬鹿をおっしゃい。 縁喜でもない。 なに今の世に坊主になるくらいな決心があるなら縁喜はともかく大に慶すべき現象だ。 苛い事をだって坊さんになるのは酔興になるんじゃないでしょう。 何とも云えない。 近頃のように煩悶が流行した日にゃ。 じゃ兄さんからなって御覧なさいよ。 酔興にかい。 酔興でも何でもいいから。 だって五分刈でさえ懲役人と間違えられるところを青坊主になって外国の公使館に詰めていりゃ気違としきゃ思われないもの。 ほかの事なら一人の妹の事だから何でも聞くつもりだが坊主だけは勘弁して貰いたい。 坊主と油揚は小供の時から嫌なんだから。 じゃ欽吾さんもならないだって好いじゃありませんか。 そうさ何だか論理が少し変だがしかしまあならずに済むだろうよ。 兄さんのおっしゃる事はどこまでが真面目でどこまでが冗談だか分らないのね。 それで外交官が勤まるでしょうか。 こう云うんでないと外交官には向かないとさ。 人をそれで欽吾さんがどうなすったんですよ。 本当のところ。 本当のところ甲野がね。 家と財産を藤尾にやって自分は出てしまうと云うんだとさ。 なぜでしょう。 つまり病身で御叔母さんの世話が出来ないからだそうだ。 そう御気の毒ね。 ああ云う方は御金も家もいらないでしょう。 そうなさる方が好いかも知れないわ。 そう御前まで賛成しちゃ先決問題が解決しにくくなる。 だって御金が山のようにあったって欽吾さんには何にもならないでしょう。 それよりか藤尾さんに上げる方が好ござんすよ。 御前は女に似合わず気前が好いね。 もっとも人のものだけれども。 私だって御金なんかいりませんわ。 邪魔になるばかりですもの。 邪魔にするほどないからたしかだ。 ハハハハ。 しかしその心掛は感心だ。 尼になれるよ。 おお厭だ。 尼だの坊さんだのって大嫌い。 そこだけは兄さんも賛成だ。 しかし自分の財産を棄てて吾家を出るなんて馬鹿気ている。 財産はまあいいとして――欽吾に出られればあとが困るから藤尾に養子をする。 すると一さんへは上げられませんとこう御叔母さんが云うんだよ。 もっともだ。 つまり甲野のわがままで兄さんの方が破談になると云う始末さ。 じゃ兄さんが藤尾さんを貰うために欽吾さんを留めようと云うんですね。 まあ一面から云えばそうなるさ。 それじゃ欽吾さんより兄さんの方がわがままじゃありませんか。 今度は非常に論理的に来たね。 だってつまらんじゃないか当然相続している財産を捨てて。 だって厭なら仕方がないわ。 厭だなんて云うのは神経衰弱のせいだあね。 神経衰弱じゃありませんよ。 病的に違ないじゃないか。 病気じゃありません。 糸公今日は例に似ず大いに断々乎としているね。 だって欽吾さんはああ云う方なんですもの。 それを皆が病気にするのは皆の方が間違っているんです。 しかし健全じゃないよ。 そんな動議を呈出するのは。 自分のものを自分が棄てるんでしょう。 そりゃごもっともだがね。 要らないから棄てるんでしょう。 要らないって。 本当に要らないんですよ甲野さんのは。 負惜みや面当じゃありません。 糸公御前は甲野の知己だよ。 兄さん以上の知己だ。 それほど信仰しているとは思わなかった。 知己でも知己でなくっても本当のところを云うんです。 正しい事を云うんです。 叔母さんや藤尾さんがそうでないと云うんなら叔母さんや藤尾さんの方が間違ってるんです。 私は嘘を吐くのは大嫌です。 感心だ。 学問がなくっても誠から出た自信があるから感心だ。 兄さん大賛成だ。 それでね糸公改めて相談するが甲野が家を出ても出なくっても財産をやってもやらなくっても御前甲野のところへ嫁に行く気はあるかい。 それは話がまるで違いますわ。 今云ったのはただ正直なところを云っただけですもの。 欽吾さんに御気の毒だから云ったんです。 よろしい。 なかなか訳が分っている。 妹ながら見上げたもんだ。 だから別問題として聞くんだよ。 どうだね厭かい。 厭だって。 糸公どうしたんだ。 今日は天候|劇変で兄さんに面喰わしてばかりいるね。 さあ御拭き。 糸公|厭なのかい。 じゃ行く気だね。 泣いちゃいけないよ。 私は御嫁には行きません。 御嫁には行かない。 冗談云っちゃいけない。 今厭じゃないと云ったばかりじゃないか。 でも欽吾さんは御嫁を御貰いなさりゃしませんもの。 そりゃ聞いて見なけりゃ――だから兄さんが聞きに行くんだよ。 聞くのは廃してちょうだい。 なぜ。 なぜでも廃してちょうだい。 じゃしようがない。 しようがなくっても好いから廃してちょうだい。 私は今のままでちっとも不足はありません。 これで好いんです。 御嫁に行くとかえっていけません。 困ったないつの間にそう硬くなったんだろう。 ――糸公兄さんはね藤尾さんを貰うために御前を甲野にやろうなんて利己主義で云ってるんじゃないよ。 今のところじゃただ御前の事ばかり考えて相談しているんだよ。 そりゃ分っていますわ。 そこが分りさえすれば後が話がし好い。 それでと御前は甲野を嫌ってるんじゃなかろう。 ――よしそれは兄さんがそう認めるから構わない。 好いかね。 次に甲野に貰うか貰わないか聞くのは厭だと云うんだね。 兄さんにはその理窟がさらに解せないんだがそれもそれでよしとするさ。 ――聞くのは厭だとしてもし甲野が貰うと云いさえすれば行っても好いんだろう。 ――なに金や家はどうでも構わないさ。 一文無の甲野のところへ行こうと云やあかえって御前の名誉だ。 それでこそ糸公だ。 兄さんも阿父さんも故障を云やしない。 御嫁に行ったら人間が悪くなるもんでしょうか。 ハハハハ突然大問題を呈出するね。 なぜ。 なぜでも――もし悪くなると愛想をつかされるばかりですもの。 だからいつまでもこうやって阿父様と兄さんの傍にいた方が好いと思いますわ。 阿父様と兄さんと――そりゃ阿父様も兄さんもいつまでも御前といっしょにいたい事はいたいがね。 なあ糸公そこが問題だ。 御嫁に行ってますます人間が上等になってそうして御亭主に可愛がられれば好いじゃないか。 ――それよりか実際問題が肝要だ。 そこでねさっきの話だが兄さんが受合ったら好いだろう。 何を。 甲野に聞くのは厭だとと云って甲野の方から御前を貰いに来るのはいつの事だか分らずと。 いつまで待ったってそんな事があるものですか。 私には欽吾さんの胸の中がちゃんと分っています。 だからさ兄さんが受合うんだよ。 是非甲野にうんと云わせるんだよ。 だって。 何云わせて見せる。 兄さんが責任をもって受合うよ。 なあに大丈夫だよ。 兄さんもこの頭が延びしだい外国へ行かなくっちゃならない。 すると当分糸公にも逢えないから平生親切にしてくれた御礼にやってやるよ。 ――狐の袖無の御礼に。 ねえ好いだろう。 そら始まった――じゃ行って来るよ。 いい景色だね。 うんええ景色じゃ。 久しぶりで郊外へ来て好い心持だ。 たまにはこう云う所も好えな。 僕はしかし田舎から帰ったばかりだからいっこう珍しゅうない。 君はそうだろう。 君をこんな所へ連れて来たのは少し気の毒だったね。 なに構わん。 どうせ遊んどるんだから。 しかし人間も遊んどる暇があるようでは駄目じゃな君。 ちっとなんぞ金儲の口はないかい。 金儲は僕の方にゃないが君の方にゃたくさんあるだろう。 いや近頃は法科もつまらん。 文科と同じこっちゃ銀時計でなくちゃ通用せん。 一本どうだね。 やありがとう。 大変立派なものを持っとるの。 貰い物だ。 君は始終こんな上等な煙草を呑んどるのか。 よほど余裕があると見えるの。 少し貸さんか。 ハハハハこっちが借りたいくらいだ。 なにそんな事があるものか。 少し貸せ。 僕は今度国へ行ったんで大変|銭がいって困っとるところじゃ。 どのくらい要るのかね。 三十円でも二十円でも好え。 そんなにあるものか。 じゃ十円でも好え。 五円でも好え。 十円くらいなら都合が出来ない事もないが――いつ頃まで。 今月|末にはきっと返す。 それで好かろう。 今月末でもいつでも好い。 ――その代り少し御願がある。 聞いてくれるかい。 うん話して見い。 実は井上先生の事だがね。 おお先生はどうしとるか。 帰ってからまだ尋ねる閑がないから行かんが。 君先生に逢うたら宜しく云うてくれ。 ついでに御嬢さんにも。 その御嬢さんの事なんだが。 いよいよ結婚するか。 君は気が早くっていけない。 そう先へ云っちまっちゃあ。 もったいない事をするのう。 君本当に僕の云う事を聞いてくれるのかい。 本当に聞いとる。 それから。 それからってまだ何にも話しゃしないじゃないか。 ――金の工面はどうでもするが君に折入って御願があるんだよ。 だから話せ。 京都からの知己じゃ。 何でもしてやるぞ。 君ならやってくれるだろうと思って実は君の帰るのを待っていたところだ。 そりゃ好え時に帰って来た。 何か談判でもするのか。 結婚の条件か。 近頃は無財産の細君を貰うのは不便だからのう。 そんな事じゃない。 しかしそう云う条件を付けて置く方が君の将来のために好えぞ。 そうせい。 僕が懸合うてやる。 そりゃ貰うとなればそう云う談判にしても好いが。 貰う事は貰うつもりじゃろう。 みんなそう思うとるぞ。 誰が。 誰がてて我々が。 そりゃ困る。 僕が井上の御嬢さんを貰うなんて――そんな堅い約束はないんだからね。 そうか。 ――いや怪しいぞ。 そう頭から冷やかしちゃ話が出来ない。 ハハハハ。 そう真面目にならんでも好い。 そうおとなしくちゃ損だぞ。 もう少し面の皮を厚くせんと。 まあ少し待ってくれたまえ。 修業中なんだから。 ちと稽古のためにどっかへ連れて行ってやろうか。 何分|宜しく。 などと云って裏では盛に修業しとるかも知れんの。 まさか。 いやそうでないぞ。 近頃だいぶ修飾るところをもって見ると。 ことにさっきの巻煙草入の出所などははなはだ疑わしい。 そう云えばこの煙草も何となく妙な臭がするわい。 まあ歩きながら話そう。 暑いのう。 暑い。 さっきの話だが――実は二三日前井上先生の所へ行ったところが先生から突然例の縁談一条を持ち出されてね。 待ってましたじゃ。 先生が随分はげしく来たので僕もそう世話になった先生の感情を害する訳にも行かないから熟考するために二三日の余裕を与えて貰って帰ったんだがね。 そりゃ慎重の。 まあしまいまで聞いてくれたまえ。 批評はあとで緩くり聞くから。 ――それで僕も君の知っている通先生の世話には大変なったんだから先生の云う事は何でも聞かなければ義理がわるい。 そりゃ悪い。 悪いがほかの事と違って結婚問題は生涯の幸福に関係する大事件だからいくら恩のある先生の命令だってそうおいそれと服従する訳にはいかない。 そりゃいかない。 それも僕に判然たる約束をしたとかあるいは御嬢さんに対して済まん関係でも拵らえたと云う大責任があれば先生から催促されるまでもない。 こっちから進んでどうでも方をつけるつもりだが実際僕はその点に関しては潔白なんだからね。 うん潔白だ。 君ほど高尚で潔白な人間はない。 僕が保証する。 ところが先生の方では頭から僕にそれだけの責任があるかのごとく見傚してしまってそうして万事をそれから演繹してくるんだろう。 うん。 まさか根本に立ち返ってあなたの御考は出立点が間違っていますと誤謬を指摘する訳にも行かず。 そりゃあまり君が人が好過ぎるからじゃ。 もう少し世の中に擦れんと損だぞ。 損は僕も知ってるんだがどうも僕の性質としてそう露骨に人に反対する事が出来ないんだね。 ことに相手は世話になった先生だろう。 そう相手が世話になった先生じゃからな。 それに僕の方から云うと今ちょうど博士論文を書きかけている最中だからそんな話を持ち込まれると余計困るんだ。 博士論文をまだ書いとるかえらいもんじゃな。 えらい事もない。 なにえらい。 銀時計の頭でなくちゃとても出来ん。 そりゃどうでも好いが――それでね今云う通りの事情だからせっかくの厚意はありがたいけれどもまあここのところはいったん断わりたいと思うんだね。 しかし僕の性質じゃとても先生に逢うと気の毒でそんな強い事が云えそうもないからそれで君に頼みたいと云う訳だが。 どうだね引き受けてくれるかい。 そうか訳ない。 僕が先生に逢うてよく話してやろう。 その代り先生の世話は生涯する考だ。 僕もいつまでもこんなにぐずぐずしているつもりでもないから――実のところを云うと先生も故のように経済が楽じゃないようだ。 だからなお気の毒なのさ。 今度の相談もただ結婚と云う単純な問題じゃなくってそれを方便にして僕の補助を受けたいような素振も見えたくらいだ。 だからそりゃやるよ。 飽くまでも先生のために尽すつもりだ。 だが結婚したから尽す結婚せんから尽さないなんてそんな軽薄な料簡は少しもこっちにゃないんだから――世話になった以上はどうしたって世話になったのさ。 それを返してしまうまではどうしたって恩は消えやしないからな。 君は感心な男だ。 先生が聞いたらさぞ喜ぶだろう。 よく僕の意志が徹するように云ってくれたまえ。 誤解が出来るとまた後が困るから。 よし。 感情を害せんようにの。 よう云うてやる。 その代り十円貸すんぜ。 貸すよ。 こう日が照ると麦の香が鼻の先へ浮いてくるようだね。 香がするかの。 僕にはいっこうにおわんが。 時に君はやはりあのハムレットの家へ行くのか。 甲野の家かい。 まだ行っている。 今日もこれから行くんだ。 この間京都へ行ったそうじゃな。 もう帰ったか。 ちと麦の香でも嗅いで来たか知らんて。 ――つまらんのうあんな人間は。 何だか陰気くさい顔ばかりしているじゃないか。 そうさね。 ああ云う人間は早く死んでくれる方が好え。 だいぶ財産があるか。 あるようだね。 あの親類の人はどうした。 学校で時々顔を見たが。 宗近かい。 そうそう。 あの男の所へ二三日|中に行こうと思っとる。 何しに。 口を頼みにさ。 できるだけ運動して置かんと駄目だからな。 だって宗近だって外交官の試験に及第しないで困ってるところだよ。 頼んだってしようがない。 なに構わん。 話に行って見る。 君先生のところへはいつ行ってくれる。 今夜か明日の朝行ってやる。 そうか。 君もし宗近へ行ったらね。 井上先生の事は話さずに置いてくれたまえ。 話しゃせん。 いえ本当に。 ハハハハ大変|恥かんどるの。 構わんじゃないか。 少し困る事があるんだから是非。 好し話しゃせん。 おい。 君か。 こりゃ空気が悪い。 毒だ。 少し開けよう。 こうすると大変陽気になる。 ああ好い心持だ。 庭の芝がだいぶ色づいて来た。 何をしているね。 うん。 どうだ。 なかなか旨いだろう。 何だこりゃ。 恐ろしいたくさん書いたね。 もう一時間以上書いている。 僕が来なければ晩まで書いているんだろう。 くだらない。 これが哲学と何か関係でもあるのかい。 有っても好い。 万有世界の哲学的象徴とでも云うんだろう。 よく一人の頭でこんなに並べられたもんだね。 紺屋の上絵師と哲学者と云う論文でも書く気じゃないか。 何だかどうも相変らずぐずぐずしているね。 いつ見ても煮え切らない。 今日は特別煮え切らない。 天気のせいじゃないかハハハハ。 天気のせいより生きてるせいだよ。 そうさね煮え切ってぴんぴんしているものは沢山ないようだ。 御互もこうやって三十年近くもしくしくして。 いつまでも浮世の鍋の中で煮え切れずにいるのさ。 時に甲野さん今日は報告かたがた少々談判に来たんだがね。 むつかしい来ようだ。 近いうち洋行をするよ。 洋行を。 うん欧羅巴へ行くのさ。 行くのはいいが親父見たように煮え切っちゃいけない。 なんとも云えないが印度洋さえ越せば大抵大丈夫だろう。 実は最近の好機において外交官の試験に及第したんだからこの通り早速頭を刈ってねやっぱり最近の好機において出掛けなくっちゃならない。 塵事多忙だ。 なかなか丸や三角を並べちゃいられない。 そりゃおめでたい。 まずここまでが報告だ甲野さん。 うちの母に逢ったかい。 まだ逢わない。 今日はこっちの玄関から上ったから日本間の方はまるで通らない。 何を見ているんだ。 いや。 御叔母さんに話して来ようか。 廃すが好い。 母に話すくらいならあの肖像に話してくれ。 父は死んでいる。 しかし活きた母よりもたしかだよ。 たしかだよ。 御叔父さんも気の毒な事をしたなあ。 あの眼は活きている。 まだ活きている。 庭へ出よう部屋の中は陰気でいけない。 いったいどうしたんだ。 ホホホホ一番あなたによく似合う事。 藤。 黙って。 何をするんだ。 部屋を立て切った。 人が這入って来ないように。 なぜ。 なぜでも好い。 全体どうしたんだ。 大変顔色が悪い。 なに大丈夫。 まあ掛けたまえ。 宗近さん。 藤尾は駄目だよ。 そうか。 糸公もそう云った。 君より君の妹の方が眼がある。 藤尾は駄目だ。 飛び上りものだ。 うちやって置け。 藤尾だ。 そうか。 金時計も廃せ。 うん。 廃そう。 宗近さん。 藤尾に嫌われたよ。 黙ってる方がいい。 うん黙っている。 藤尾には君のような人格は解らない。 浅墓な跳ね返りものだ。 小野にやってしまえ。 この通り頭ができた。 頭ができれば藤尾なんぞは要らないだろう。 それでようやく安心した。 これからだ。 これからだ。 僕もこれからだ。 君もこれからか。 どうこれからなんだ。 本来の無一物から出直すんだからこれからさ。 本来の無一物から出直すとは。 僕はこの家も財産もみんな藤尾にやってしまった。 やってしまった。 いつ。 もう少しさっき。 その紋尽しを書いている時だ。 そりゃ。 ちょうどその丸に三つ鱗を描いてる時だ。 ――その模様が一番よく出来ている。 やってしまうってそう容易く。 何|要るものか。 あればあるほど累だ。 御叔母さんは承知したのかい。 承知しない。 承知しないものをそれじゃ御叔母さんが困るだろう。 やらない方が困るんだ。 だって御叔母さんは始終君がむやみな事をしやしまいかと思って心配しているんじゃないか。 僕の母は偽物だよ。 君らがみんな欺かれているんだ。 母じゃない謎だ。 澆季の文明の特産物だ。 そりゃあんまり。 君は本当の母でないから僕が僻んでいると思っているんだろう。 それならそれで好いさ。 しかし。 君は僕を信用しないか。 無論信用するさ。 僕の方が母より高いよ。 賢いよ。 理由が分っているよ。 そうして僕の方が母より善人だよ。 母の家を出てくれるなと云うのは出てくれと云う意味なんだ。 財産を取れと云うのは寄こせと云う意味なんだ。 世話をして貰いたいと云うのは世話になるのが厭だと云う意味なんだ。 ――だから僕は表向母の意志に忤って内実は母の希望通にしてやるのさ。 ――見たまえ僕が家を出たあとは母が僕がわるくって出たように云うから世間もそう信じるから――僕はそれだけの犠牲をあえてして母や妹のために計ってやるんだ。 貴様気が狂ったか。 気違は頭から承知の上だ。 ――今まででも蔭じゃ馬鹿の気違のと呼びつづけに呼ばれていたんだ。 なぜ黙っていたんだ。 向を出してしまえば好いのに。 向を出したって向の性格は堕落するばかりだ。 向を出さないまでもこっちが出るには当るまい。 こっちが出なければこっちの性格が堕落するばかりだ。 なぜ財産をみんなやったのか。 要らないもの。 ちょっと僕に相談してくれれば好かったのに。 要らないものをやるのに相談の必要もなにもないからさ。 僕に要らない金のために義理のある母や妹を堕落させたところが手柄にもならない。 じゃいよいよ家を出る気だね。 出る。 おれば両方が堕落する。 出てどこへ行く。 どこだか分らない。 僕のうちへ来ないか。 君のうちへ行ったって仕方がない。 厭かい。 厭じゃないが仕方がない。 甲野さん。 頼むから来てくれ。 僕や阿父のためはとにかく糸公のために来てやってくれ。 糸公のために。 糸公は君の知己だよ。 御叔母さんや藤尾さんが君を誤解しても僕が君を見損なっても日本中がことごとく君に迫害を加えても糸公だけはたしかだよ。 糸公は学問も才気もないがよく君の価値を解している。 君の胸の中を知り抜いている。 糸公は僕の妹だがえらい女だ。 尊い女だ。 糸公は金が一文もなくっても堕落する気遣のない女だ。 ――甲野さん糸公を貰ってやってくれ。 家を出ても好い。 山の中へ這入っても好い。 どこへ行ってどう流浪しても構わない。 何でも好いから糸公を連れて行ってやってくれ。 ――僕は責任をもって糸公に受合って来たんだ。 君が云う事を聞いてくれないと妹に合す顔がない。 たった一人の妹を殺さなくっちゃならない。 糸公は尊い女だ誠のある女だ。 正直だよ君のためなら何でもするよ。 殺すのはもったいない。 御嬢さんは東京を御存じでしたな。 ええ。 これは東京で育ったのだよ。 そうでしたな。 ――大変大きくなりましたな。 御薬はもう上がったんですか。 朝の分はもう飲んだよ。 御寒い事はござんせんか。 寒くはないが少し。 どうですか。 少し早いようだ。 やっぱり熱が除れない。 羽織でも召していらしったら好いでしょう。 験温器があるかい。 一つ計ってみよう。 どうかなすったんですか。 いえちっと風邪を引いてね。 はあそうですか。 ――もう若葉がだいぶ出ましたな。 おい無いかね。 どうした。 はいただ今。 はあそうかい。 先生小野はいっこう駄目ですなハイカラにばかりなって。 御嬢さんと結婚する気はないですよ。 廃した方が好えですな。 小野は近頃非常なハイカラになりました。 あんな所へ行くのは御嬢さんの損です。 君は小野の悪口を云いに来たのかね。 ハハハハ先生本当ですよ。 余計な御世話だ。 軽薄な。 おい験温器はまだか。 何をぐずぐずしている。 何だってそんな余計な事を云うんだ。 実は頼まれたんです。 頼まれた。 誰に。 小野に頼まれたんです。 小野に頼まれた。 ああ云う男だものだから自分で先生の所へ来て断わり切れないんです。 それで僕に頼んだです。 ふうん。 もっと精しく話すがいい。 二三日|中に是非こちらへ御返事をしなければならないからと云いますから僕が代理にやって来たんです。 だからどう云う理由で断わるんだかそれを精しく話したら好いじゃないか。 理由はですな。 博士にならなければならないからどうも結婚なんぞしておられないと云うんです。 じゃ博士の称号の方が小夜より大事だと云うんだね。 そう云う訳でもないでしょうが博士になって置かんと将来非常な不利益ですからな。 よし分った。 理由はそれぎりかい。 それに確然たる契約のない事だからと云うんです。 契約とは法律上有効の契約という意味だな。 証文のやりとりの事だね。 証文でもないですが――その代り長い間御世話になったからその御礼としては物質的の補助をしたいと云うんです。 月々金でもくれると云うのかい。 そうです。 おい小夜やちょっと御出。 小夜や――小夜や。 君は妻君があるかい。 ないです。 貰いたいが自分の口が大事ですからな。 妻君がなければ参考のために聞いて置くがいい。 ――人の娘は玩具じゃないぜ。 博士の称号と小夜と引き替にされてたまるものか。 考えて見るがいい。 いかな貧乏人の娘でも活物だよ。 私から云えば大事な娘だ。 人一人殺しても博士になる気かと小野に聞いてくれ。 それからそう云ってくれ。 井上孤堂は法律上の契約よりも徳義上の契約を重んずる人間だって。 ――月々金を貢いでやる。 貢いでくれと誰が頼んだ。 小野の世話をしたのは泣きついて来て可愛想だから好意ずくでした事だ。 何だ物質的の補助をするなんて失礼千万な。 ――小夜や用があるからちょっと出て御出おいいないのか。 先生そう怒っちゃ困ります。 悪ければまた小野に逢って話して見ますから。 君は結婚を極めて容易事のように考えているがそんなものじゃない。 君は女の心を知らないからそんな使に来たんだろう。 人情を知らないから平気でそんな事を云うんだろう。 小野の方が破談になれば小夜は明日からどこへでも行けるだろうと思って云うんだろう。 五年以来|夫だと思い込んでいた人から特別の理由もないのに急に断わられて平気ですぐ他家へ嫁に行くような女があるものか。 あるかも知れないが小夜はそんな軽薄な女じゃない。 そんな軽薄に育て上げたつもりじゃない。 ――君はそう軽卒に破談の取次をして小夜の生涯を誤まらしてそれで好い心持なのか。 じゃまあ御待ちなさい先生。 もう一遍小野に話して見ますから。 僕はただ頼まれたから来たんでそんな精しい事情は知らんのですから。 いや話してくれないでも好い。 厭だと云うものに無理に貰ってもらいたくはない。 しかし本人が来て自家に訳を話すが好い。 しかし御嬢さんがそう云う御考だと。 小夜の考ぐらい小野には分っているはずださ。 ですがなそれだと小野も困るでしょうからもう一遍。 小野にそう云ってくれ。 井上孤堂はいくら娘が可愛くっても厭だと云う人に頭を下げて貰ってもらうような卑劣な男ではないって。 ――小夜やおいいないか。 そう返事をして差支ないだろうね。 先生もう一遍小野に話しましょう。 話さないでも好い。 自家に来て断われと云ってくれ。 とにかくそう小野に云いましょう。 娘なんぞ持つもんじゃないな。 時。 やっぱり行く事にするか。 後暗い行さえなければ行っても差支ないはずだ。 それさえ慎めば取り返しはつく。 小夜子の方は浅井の返事しだいでどうにかしよう。 だいぶ狼籍だね。 どうだい。 どうも失敬です。 昨日は失敬した。 小野さんさっき浅井が来てね。 その事でわざわざやって来た。 小野さん敵が来たと思っちゃいけない。 いえけっして。 僕は当っ擦りなどを云って人の弱点に乗ずるような人間じゃない。 この通り頭ができた。 そんな暇は薬にしたくってもない。 あっても僕のうちの家風に背く。 そんな卑しい人間と思われちゃ急がしいところをわざわざ来た甲斐がない。 君だって教育のある事理の分った男だ。 僕をそう云う男と見て取ったが最後僕の云う事は君に対して全然無効になる訳だ。 僕はいくら閑人だって君に軽蔑されようと思って車を飛ばして来やしない。 ――とにかく浅井の云う通なんだろうね。 浅井がどう云いましたか。 小野さん真面目だよ。 いいかね。 人間は年に一度ぐらい真面目にならなくっちゃならない場合がある。 上皮ばかりで生きていちゃ相手にする張合がない。 また相手にされてもつまるまい。 僕は君を相手にするつもりで来たんだよ。 好いかね分ったかい。 ええ分りました。 分ったら君を対等の人間と見て云うがね。 君はなんだか始終不安じゃないか。 少しも泰然としていないようだが。 そうかも――知れないです。 そう君が平たく云うとはなはだ御気の毒だが全く事実だろう。 ええ。 他人が不安であろうと泰然としていなかろうと上皮ばかりで生きている軽薄な社会では構った事じゃない。 他人どころか自分自身が不安でいながら得意がっている連中もたくさんある。 僕もその一人かも知れない。 知れないどころじゃないたしかにその一人だろう。 あなたは羨しいです。 実はあなたのようになれたら結構だと思って始終考えてるくらいです。 そんなところへ行くと僕はつまらない人間に違ないです。 小野さんそこに気がついているのかね。 いるです。 いるです。 僕の性質は弱いです。 どうして。 生れつきだから仕方がないです。 君は学問も僕より出来る。 頭も僕より好い。 僕は君を尊敬している。 尊敬しているから救いに来た。 救いに。 こう云う危うい時に生れつきを敲き直して置かないと生涯不安でしまうよ。 いくら勉強してもいくら学者になっても取り返しはつかない。 ここだよ小野さん真面目になるのは。 世の中に真面目はどんなものか一生知らずに済んでしまう人間がいくらもある。 皮だけで生きている人間は土だけで出来ている人形とそう違わない。 真面目がなければだがあるのに人形になるのはもったいない。 真面目になった後は心持がいいものだよ。 君にそう云う経験があるかい。 なければ一つなって見たまえ今だ。 こんな事は生涯に二度とは来ない。 この機をはずすともう駄目だ。 生涯|真面目の味を知らずに死んでしまう。 死ぬまでむく犬のようにうろうろして不安ばかりだ。 人間は真面目になる機会が重なれば重なるほど出来上ってくる。 人間らしい気持がしてくる。 ――法螺じゃない。 自分で経験して見ないうちは分らない。 僕はこの通り学問もない勉強もしない落第もするごろごろしている。 それでも君より平気だ。 うちの妹なんぞは神経が鈍いからだと思っている。 なるほど神経も鈍いだろう。 ――しかしそう無神経なら今日でもこうやって車で馳けつけやしない。 そうじゃないか小野さん。 僕が君より平気なのは学問のためでも勉強のためでも何でもない。 時々真面目になるからさ。 なるからと云うよりなれるからと云った方が適当だろう。 真面目になれるほど自信力の出る事はない。 真面目になれるほど腰が据る事はない。 真面目になれるほど精神の存在を自覚する事はない。 天地の前に自分が儼存していると云う観念は真面目になって始めて得られる自覚だ。 真面目とはね君真剣勝負の意味だよ。 やっつける意味だよ。 やっつけなくっちゃいられない意味だよ。 人間全体が活動する意味だよ。 口が巧者に働いたり手が小器用に働いたりするのはいくら働いたって真面目じゃない。 頭の中を遺憾なく世の中へ敲きつけて始めて真面目になった気持になる。 安心する。 実を云うと僕の妹も昨日真面目になった。 甲野も昨日真面目になった。 僕は昨日も今日も真面目だ。 君もこの際一度真面目になれ。 人|一人真面目になると当人が助かるばかりじゃない。 世の中が助かる。 ――どうだね小野さん僕の云う事は分らないかね。 いえ分ったです。 真面目だよ。 真面目に分ったです。 そんなら好い。 ありがたいです。 そこでと――あの浅井と云う男はまるで人間として通用しない男だからあれの云う事を一々|真に受けちゃ大変だが――本来を云うと浅井が来てこれこれだとあれが僕に話した通を君の前で箇条がきにしてでも述べるところだね。 そうして君の云うところと照し合せた上で事実を判断するのが順当かも知れない。 いくら頭の悪い僕でもそのくらいな事は知ってる。 しかし真面目になるとならないとは大問題だ。 契約があったの滑ったの転んだの。 嫁があっちゃあ博士になれないの博士にならなくっちゃ外聞が悪いのってまるで小供見たような事はどっちがどっちだって構わないだろうなあ君。 ええ構わないです。 要するに真面目な処置はどうつければ好いのかね。 そこが君のやるところだ。 邪魔でなければ相談になろう。 奔走しても好い。 真面目な処置は出来るだけ早く小夜子と結婚するのです。 小夜子を捨てては済まんです。 孤堂先生にも済まんです。 僕が悪かったです。 断わったのは全く僕が悪かったです。 君に対しても済まんです。 僕に済まん。 まあそりゃ好い後で分る事だから。 全く済まんです。 ――断わらなければ好かったです。 断わらなければ――浅井はもう断わってしまったんでしょうね。 そりゃ君が頼んだ通り断わったそうだ。 しかし井上さんは君自身に来て断われと云うそうだ。 じゃ行きます。 これからすぐ行って謝罪って来ます。 だがね今僕の阿父を井上さんの所へやっておいたから。 阿父さんを。 うん浅井の話によると何でも大変怒ってるそうだ。 それから御嬢さんはひどく泣いてると云うからね。 僕が君のうちへ来て相談をしているうちに何か事でも起ると困るから慰問かたがたつなぎにやっておいた。 どうもいろいろ御親切に。 なに老人はどうせ遊んでいるんだから御役にさえ立てば喜んで何でもしてくれる。 それでこうしておいたんだがね――もし談判が調えば車で御嬢さんを呼びにやるからこっちへ寄こしてくれって。 ――来たら僕のいる前で御嬢さんに未来の細君だと君の口から明言してやれ。 やります。 こっちから行っても好いです。 いやここへ呼ぶのはまだほかにも用があるからだ。 それが済んだら三人で甲野へ行くんだよ。 そうして藤尾さんの前でもう一遍君が明言するんだ。 何僕が君の妻君を藤尾さんに紹介してもいい。 そう云う必要があるでしょうか。 君は真面目になるんだろう。 ――僕の前で奇麗に藤尾さんとの関係を絶って見せるがいい。 その証拠に小夜子さんを連れて行くのさ。 連れて行っても好いですがあんまり面当になるから――なるべくなら穏便にした方が。 面当は僕も嫌だが藤尾さんを助けるためだから仕方がない。 あんな性格は尋常の手段じゃ直せっこない。 しかし。 君が面目ないと云うのかね。 こう云う羽目になって面目ないのきまりが悪いのと云ってぐずぐずしているようじゃやっぱり上皮の活動だ。 君は今真面目になると云ったばかりじゃないか。 真面目と云うのはね僕に云わせるとつまり実行の二字に帰着するのだ。 口だけで真面目になるのは口だけが真面目になるので人間が真面目になったんじゃない。 君と云う一個の人間が真面目になったと主張するなら主張するだけの証拠を実地に見せなけりゃ何にもならない。 じゃやりましょう。 どんな大勢の中でも構わないやりましょう。 宜ろしい。 ところでみんな打ち明けてしまいますが。 ――実は今日大森へ行く約束があるんです。 大森へ。 誰と。 その――今の人とです。 藤尾さんとかね。 何時に。 三時に停車場で出合うはずになっているんですが。 三時と――今何時か知らん。 もう二時だ。 君はどうせ行くまい。 廃すです。 藤尾さん一人で大森へ行く事は大丈夫ないね。 うちやっておいたら帰ってくるだろう。 三時過になれば。 一分でも後れたら待ち合す気遣ありません。 すぐ帰るでしょう。 ちょうど好い。 ――何だか降って来たな。 雨が降っても行く約束かい。 ええ。 この雨は――なかなか歇みそうもない。 ――とにかく手紙で小夜子さんを呼ぼう。 阿父が待ち兼て心配しているに違ない。 実はそう云うしだいで突然参上致したので御不快のところをはなはだ恐縮であるが取り急ぐ事とどうか悪しからず。 いやはなはだ失礼の体たらくで私こそ恐縮で。 起きて御挨拶を申し上げなければならんのだが。 どう致してそのままの方が御話がしやすくて結句私の都合になります。 ハハハハ。 まことに御親切にわざわざ御尋ね下すってありがたい。 なに昔なら武士は相見互と云うところで。 ハハハハ私などもいつ何時御世話にならんとも限らん。 しかし久しぶりで東京へ御移ではさぞ御不自由で御困りだろう。 二十年目になります。 二十年目そりゃあそりゃあ。 二た昔ですな。 御親類は。 無いと同然で。 久しい間音信不通にしておったものですからな。 なるほど。 それじゃ全く小野|氏だけが御力ですな。 そりゃどうも怪しからん事になったもので。 馬鹿を見ました。 いやしかしどうにかなりましょう。 そう御心配なさらずとも。 心配は致しません。 ただ馬鹿を見ただけで先刻よく娘にも因果を含めて申し聞かしておきました。 しかしせっかくこれまで御丹精になったものをそう思い切りよく御断念になるのも惜いからどうかここはひとまず私共に御任せ下さい。 忰も出来るだけ骨を折って見たいと申しておりましたから。 御好意は実に辱ない。 しかし先方で断わる以上は娘も参りたくもなかろうし参ると申しても私がやれんような始末で。 冷やすのは少し休めて見よう。 ――なあ小夜子行かんでも好いな。 好いな。 ごもっともで。 ごもっともで。 しかしそれがために小野が藤尾さんとか云う婦人と結婚でもしたら御子息には御気の毒ですな。 いや――そりゃ――御心配には及ばんです。 忰は貰わん事にしました。 多分――いや貰わんです。 貰うと云っても私が不承知です。 忰を嫌うような婦人は忰が貰いたいと申しても私が許しません。 小夜や宗近さんの阿父さんもああおっしゃる。 同じ事だろう。 私は――参らんでも――宜しゅうございます。 いやそうなっちゃ困る。 私がわざわざ飛んで来た甲斐がない。 小野|氏にもだんだん事情のある事だろうからまあ忰の通知しだいでどうか先刻御話を申したように御聞済を願いたい。 ――自分で忰の事をかれこれ申すのは異なものだが忰は事理の分った奴でけっして後で御迷惑になるような取計は致しますまい。 御破談になった方が御為だと思えばその方を御勧めして来るでしょう。 ――始めて御目に懸ったのだがどうか私を御信用下さい。 ――もう何とか云って来る時分だがあいにくの雨で。 うんまだ書く事があった。 おやどうしたの。 寒いから部屋を煖めます。 まあ御あたんなさい。 降り出しましたね。 寒ければ石炭を焼かせようか。 もうたくさんです。 もう消えました。 おやおや手紙が大変散らばって――みんな要らないのかい。 みんな要りません。 それじゃちっと片づけよう。 紙屑籠はどこにあるの。 いずれ拝眉の上。 御免蒙り度候。 もっとも事情の許す場合には御。 はとうてい辛抱致しかね。 おや何をするの。 額を卸します。 額を。 ちょいと御待ち。 何ですか。 額を外して何にする気だい。 持って行くんです。 どこへ。 家を出るから額だけ持って行くんです。 出るなんてまあ。 ――出るにしてももっと緩外したら宜さそうなもんじゃないか。 悪いですか。 悪くはないよ。 御前が欲しければ持って行くがいいけれども。 何もそんなに急がなくっても好いんだろう。 だって今外さなくっちゃ時間がありません。 出るって御前本当に出る気なのかい。 出る気です。 いつ。 これから出るんです。 こんな雨の降るのに。 雨が降っても構わないです。 せめて藤尾に暇乞でもして行ってやっておくれな。 藤尾はいないでしょう。 だから待っておくれと云うのだあね。 藪から棒に出るなんて御母さんを困らせるようなもんじゃないか。 困らせるつもりじゃありません。 御前がその気でなくっても世間と云うものがあります。 出るなら出るようにして出てくれないと御母さんが恥を掻きます。 世間が。 おや。 御迎に参りました。 鋏を取って下さい。 兄が欽吾さんを連れて来いと申しましたから参りました。 受取って下さい。 行きましょう。 ――車で来たんですか。 ええ。 この額が乗りますか。 乗ります。 じゃあ。 少し御待ちよ。 ――糸子さんも少し待ってちょうだい。 何が気に入らないで親の家を出るんだか知らないが少しは私の心持にもなって見てくれないと私が世間へ対して面目がないじゃないか。 世間はどうでも構わないです。 そんな聞訳のない事を云って――頑是ない小供みたように。 小供なら結構です。 小供になれれば結構です。 またそんな。 ――せっかく小供から大人になったんじゃないか。 これまでに丹精するのは一と通りや二た通りの事じゃないよ御前。 少しは考えて御覧な。 考えたから出るんです。 どうしてまあそんな無理を云うんだろうね。 ――それもこれもみんな私の不行届から起った事だから今更泣いたって口説いたって仕方がないけれども――私は――亡くなった阿父さんに――。 阿父さんは大丈夫です。 何とも云やしません。 云やしませんたって――何もそう意地にかかって私を苛めなくっても宜さそうなもんじゃないか。 少しは分ったかい。 これほど云ってもまだ分らないのかね。 糸子さんこう云う体たらくなんですから。 どうぞ御宅へ御帰りになったら阿父さんや兄さんに御覧の通りを御話し下さい。 ――まことにこんなところをあなた方に御見せ申すのは何ともかとも面目しだいもございません。 御叔母さん。 欽吾さんは出たいのですから素直に出して御上げなすったら好いでしょう。 無理に引っ張っても何にもならないと思います。 あなたまでそれじゃ仕方がありませんね。 ――それは失礼ながらまだ御若いからそう云う奥底のない御考も出るんでしょうが。 ――いくら出たいたって山の中の一軒家に住んでいる人間じゃなしそう今が今思い立って今出られちゃ出る当人より残ったものが困りまさあね。 なぜ。 だって人の口は五月蠅じゃありませんか。 人が何と云ったって――それがなぜ悪いんでしょう。 だって御互に世間に顔出しが出来ればこそこうやって今日を送っているんじゃありませんか。 自分より世間の義理の方が大事でさあね。 だってこんなに出たいとおっしゃるんですもの。 御可哀想じゃありませんか。 そこが義理ですよ。 それが義理なの。 つまらないのね。 つまらなかありませんやね。 だって欽吾さんはどうなっても構わない。 構わなかないんです。 それがやっぱり欽吾のためになるんです。 欽吾さんより御叔母さんのためになるんじゃないの。 世の中への義理ですよ。 分らないわ私には。 ――出たいものは世間が何と云ったって出たいんですもの。 それが御叔母さんの迷惑になるはずはないわ。 だってこんな雨が降って。 雨が降っても御叔母さんは濡れないんだから構わないじゃありませんか。 やあまだ行かないのか。 うん。 御叔母さんもここかちょうど好い。 御叔母さん雨の降るのに大入ですよ。 ――小夜子さんこれが僕の妹です。 雨の降るのにまあよく。 よく降りますね。 小野さんは。 小野さんは今日藤尾さんと大森へ行く約束があるんだそうですね。 ところが行かれなくなって。 そう――でも藤尾はさっき出ましたよ。 まだ帰らないですか。 どうして大森どころじゃない。 みんな掛けないか。 立ってると草臥るぜ。 もう直藤尾さんも帰るだろう。 さあどうぞ。 小野さん掛けたまえ。 小夜子さんもどうです。 ――甲野さん何だいそれは。 父の肖像を卸しましてあなた。 持って出るとか申して。 甲野さん少し待ちたまえ。 もう藤尾さんが帰って来るから。 少し私が持ちましょう。 なに。 なんぞ藤尾に御用でも御有なさるんですか。 ええあるんです。 三時二十分。 御叔母さん京都の話でもしましょうかね。 二十五分。 やあ御帰り。 藤尾さん。 小野さんは新橋へ行かなかったよ。 あなたに用はありません。 ――小野さん。 なぜいらっしゃらなかったんです。 行っては済まん事になりました。 約束を守らなければ説明が要ります。 約束を守ると大変な事になるから小野さんはやめたんだよ。 黙っていらっしゃい。 ――小野さんなぜいらっしゃらなかったんです。 僕が紹介してやろう。 藤尾さんこれが小野さんの妻君だ。 まだ妻君じゃない。 ないが早晩妻君になる人だ。 五年前からの約束だそうだ。 嘘です。 嘘です。 小野さんは私の夫です。 私の未来の夫です。 あなたは何を云うんです。 失礼な。 僕はただ好意上事実を報知するまでさ。 ついでに小夜子さんを紹介しようと思って。 わたしを侮辱する気ですね。 好意だよ。 好意だよ。 誤解しちゃ困る。 宗近君の云うところは一々本当です。 これは私の未来の妻に違ありません。 ――藤尾さん今日までの私は全く軽薄な人間です。 あなたにも済みません。 小夜子にも済みません。 宗近君にも済みません。 今日から改めます。 真面目な人間になります。 どうか許して下さい。 新橋へ行けばあなたのためにも私のためにも悪いです。 だから行かなかったです。 許して下さい。 ホホホホ。 じゃこれはあなたには不用なんですね。 ようござんす。 ――宗近さんあなたに上げましょう。 さあ。 藤尾さん僕は時計が欲しいためにこんな酔興な邪魔をしたんじゃない。 小野さん僕は人の思をかけた女が欲しいからこんな悪戯をしたんじゃない。 こう壊してしまえば僕の精神は君らに分るだろう。 これも第一義の活動の一部分だ。 なあ甲野さん。 そうだ。 埃及の御代しろし召す人の最後ぞかくありてこそ。 御線香が切れやしないかしら。 今上げて来ました。 一さんも上げてやって下さい。 私も今上げて来た。 小野さんはまだ来ないんですか。 もう来るでしょう。 今呼びにやりました。 御叔母さん飛んだ事になって御気の毒だが仕方がない。 御諦なさい。 こんな事になろうとは。 泣いたって今更しようがない。 因果だ。 本当に残念な事をしました。 あんまり泣くとかえって供養にならない。 それより後の始末が大事ですよ。 こうなっちゃ是非甲野さんにいてもらうより仕方がないんだからその気になってやらないとあなたが困るばかりだ。 どうしたら好いか――それを思うと――一さん。 御叔母さん失礼ながらちっと平生の考え方が悪かった。 私の不行届から藤尾はこんな事になる。 欽吾には見放される。 だからね。 そう泣いたってしようがないから。 まことに面目しだいもございません。 だからこれから少し考え直すさ。 ねえ甲野さんそうしたら好いだろう。 みんな私が悪いんでしょうね。 偽の子だとか本当の子だとか区別しなければ好いんです。 平たく当り前にして下されば好いんです。 遠慮なんぞなさらなければ好いんです。 なんでもない事をむずかしく考えなければ好いんです。 あなたは藤尾に家も財産もやりたかったのでしょう。 だからやろうと私が云うのにいつまでも私を疑って信用なさらないのが悪いんです。 あなたは私が家にいるのを面白く思っておいででなかったでしょう。 だから私が家を出ると云うのに面当のためだとか何とか悪く考えるのがいけないです。 あなたは小野さんを藤尾の養子にしたかったんでしょう。 私が不承知を云うだろうと思って私を京都へ遊びにやってその留守中に小野と藤尾の関係を一日一日と深くしてしまったのでしょう。 そう云う策略がいけないです。 私を京都へ遊びにやるんでも私の病気を癒すためにやったんだと私にも人にもおっしゃるでしょう。 そう云う嘘が悪いんです。 ――そう云うところさえ考え直して下されば別に家を出る必要はないのです。 いつまでも御世話をしても好いのです。 そう云われて見ると全く私が悪かったよ。 ――これから御前さんがたの意見を聞いてどうとも悪いところは直すつもりだから。 それで結構ですねえ甲野さん。 君にも御母さんだ。 家にいて面倒を見て上げるがいい。 糸公にもよく話しておくから。 うん。 悲劇はついに来た。 来るべき悲劇はとうから預想していた。 預想した悲劇をなすがままの発展に任せて隻手をだに下さぬは業深き人の所為に対して隻手の無能なるを知るが故である。 悲劇の偉大なるを知るが故である。 悲劇の偉大なる勢力を味わわしめて三世に跨がる業を根柢から洗わんがためである。 不親切なためではない。 隻手を挙ぐれば隻手を失い一目を揺かせば一目を眇す。 手と目とを害うてしかも第二者の業は依然として変らぬ。 のみか時々に刻々に深くなる。 手を袖に眼を閉ずるは恐るるのではない。 手と目より偉大なる自然の制裁を親切に感受して石火の一拶に本来の面目に逢着せしむるの微意にほかならぬ。 悲劇は喜劇より偉大である。 これを説明して死は万障を封ずるが故に偉大だと云うものがある。 取り返しがつかぬ運命の底に陥って出て来ぬから偉大だと云うのは流るる水が逝いて帰らぬ故に偉大だと云うと一般である。 運命は単に最終結を告ぐるがためにのみ偉大にはならぬ。 忽然として生を変じて死となすが故に偉大なのである。 忘れたる死を不用意の際に点出するから偉大なのである。 ふざけたるものが急に襟を正すから偉大なのである。 襟を正して道義の必要を今更のごとく感ずるから偉大なのである。 人生の第一義は道義にありとの命題を脳裏に樹立するが故に偉大なのである。 道義の運行は悲劇に際会して始めて渋滞せざるが故に偉大なのである。 道義の実践はこれを人に望む事|切なるにもかかわらずわれのもっとも難しとするところである。 悲劇は個人をしてこの実践をあえてせしむるがために偉大である。 道義の実践は他人にもっとも便宜にして自己にもっとも不利益である。 人々力をここに致すとき一般の幸福を促がして社会を真正の文明に導くが故に悲劇は偉大である。 問題は無数にある。 粟か米かこれは喜劇である。 工か商かこれも喜劇である。 あの女かこの女かこれも喜劇である。 綴織か繻珍かこれも喜劇である。 英語か独乙語かこれも喜劇である。 すべてが喜劇である。 最後に一つの問題が残る。 ――生か死か。 これが悲劇である。 十年は三千六百日である。 普通の人が朝から晩に至って身心を労する問題は皆喜劇である。 三千六百日を通して喜劇を演ずるものはついに悲劇を忘れる。 いかにして生を解釈せんかの問題に煩悶して死の一字を念頭に置かなくなる。 この生とあの生との取捨に忙がしきが故に生と死との最大問題を閑却する。 死を忘るるものは贅沢になる。 一浮も生中である。 一沈も生中である。 一挙手も一投足もことごとく生中にあるが故にいかに踊るもいかに狂うもいかにふざけるも大丈夫生中を出ずる気遣なしと思う。 贅沢は高じて大胆となる。 大胆は道義を蹂躙して大自在に跳梁する。 万人はことごとく生死の大問題より出立する。 この問題を解決して死を捨てると云う。 生を好むと云う。 ここにおいて万人は生に向って進んだ。 ただ死を捨てると云うにおいて万人は一致するが故に死を捨てるべき必要の条件たる道義を相互に守るべく黙契した。 されども万人は日に日に生に向って進むが故に日に日に死に背いて遠ざかるが故に大自在に跳梁して毫も生中を脱するの虞なしと自信するが故に――道義は不必要となる。 道義に重を置かざる万人は道義を犠牲にしてあらゆる喜劇を演じて得意である。 ふざける。 騒ぐ。 欺く。 嘲弄する。 馬鹿にする。 踏む。 蹴る。 ――ことごとく万人が喜劇より受くる快楽である。 この快楽は生に向って進むに従って分化発展するが故に――この快楽は道義を犠牲にして始めて享受し得るが故に――喜劇の進歩は底止するところを知らずして道義の観念は日を追うて下る。 道義の観念が極度に衰えて生を欲する万人の社会を満足に維持しがたき時悲劇は突然として起る。 ここにおいて万人の眼はことごとく自己の出立点に向う。 始めて生の隣に死が住む事を知る。 妄りに踊り狂うとき人をして生の境を踏み外して死の圜内に入らしむる事を知る。 人もわれももっとも忌み嫌える死はついに忘るべからざる永劫の陥穽なる事を知る。 陥穽の周囲に朽ちかかる道義の縄は妄りに飛び超ゆべからざるを知る。 縄は新たに張らねばならぬを知る。 第二義以下の活動の無意味なる事を知る。 しかして始めて悲劇の偉大なるを悟る。 ここでは喜劇ばかり流行る。 さようならごきげんよう。 さようならごきげんよう。 現代日本の開化。 現代日本の開化。 日本現代の開化。 現代。 日本。 開化。 の。 じゃ大阪へ着き次第そこへ電話をかければ君のいるかいないかはすぐ分るんだね。 どうも上方流で余計な所に高塀なんか築き上て陰気で困っちまいます。 そのかわり二階はあります。 ちょっと上って御覧なさい。 なに日が射すためじゃない。 年が年中かけ通しだから糊の具合でああなるんです。 なるほど梅に鶯だ。 岡田君この呉春は偽物だよ。 それだからあの親父が君にくれたんだ。 岡田さんお兼さんがよろしく。 おい御客さまだよ。 ただいま。 二三日前からもうおいでだろうと思って心待に御待申しておりました。 なぜあいつに対してそう改まってるんです。 元から知ってる間柄じゃありませんか。 好い奥さんになったね。 あれなら僕が貰やよかった。 冗談いっちゃいけない。 だってあなたはあいつの悪口をお母さんに云ったっていうじゃありませんか。 なんて。 岡田も気の毒だあんなものを大阪|下りまで引っ張って行くなんて。 もう少し待っていればおれが相当なのを見つけてやるのにって。 そりゃ君昔の事ですよ。 あの時は僕も母から大変叱られてね。 おまえのような書生に何が解るものか。 岡田さんの事はお父さんと私とで当人|達に都合の好いようにしたんだから余計な口を利かずに黙って見ておいでなさいって。 どうも手痛くやられました。 今|二郎さんがおまえの事を大変|賞めて下すったぜ。 よく御礼を申し上げるが好い。 あなたがあんまり悪口をおっしゃるからでしょう。 君の所にゃ電話はないんでしょうね。 あの構で電話があるように見えますかね。 君東京にいた時よりよほど快豁になったようですね。 血色も大変好い。 結構だ。 ええまあお蔭さまで。 君とお兼さんとは大変仲が好いようですね。 これであいつといっしょになってからかれこれもう五六年近くになるんだがどうも子供ができないんでねどういうものか。 それが気がかりで。 結婚すると子供が欲しくなるものですかね。 なに子供が可愛いかどうかまだ僕にも分りませんが何しろ妻たるものが子供を生まなくっちゃまるで一人前の資格がないような気がして。 それに二人ぎりじゃ淋しくってね。 二人ぎりだから仲が好いんでしょう。 子供ができると夫婦の愛は減るもんでしょうか。 岡田君はいつもこうやって晩酌をやるんですか。 どうも後引上戸で困ります。 なに後が引けるほど飲ませやしないやね。 奥さん三沢という男から僕に宛てて郵便か電報か何か来ませんでしたか。 今散歩に出た後で。 来やしないよ。 大丈夫だよ君。 僕の妻はそう云う事はちゃんと心得てるんだから。 ねえお兼。 ――好いじゃありませんか三沢の一人や二人来たって来なくたって。 二郎さんそんなに僕の宅が気に入らないんですか。 第一あなたはあの一件からして片づけてしまわなくっちゃならない義務があるでしょう。 例の一件。 おいお兼とうとう絞りのが咲き出したぜ。 ちょいと来て御覧。 おい。 おいお兼。 せわしない方ねあなたは。 今朝顔どころじゃないわ台所が忙しくって。 それでも綺麗ね。 咲いて見ると。 ――金魚はどうして。 金魚は泳いでいるがね。 どうもこのほうはむずかしいらしい。 お兼お前暇があるなら二郎さんを案内して上げるが好い。 なに構わない。 君といっしょに君の会社のある方角まで行ってそこいらを逍遥いて見よう。 お早く。 いかがでございますか。 ありがとう。 いえ私が。 先ほどお出かけになった後で。 とうとう参りましたね。 御待かねの。 一両日|後れるかも知れぬ。 まるで電報のようでございますね。 それであなた笑ってたんですか。 そう云う訳でもございませんけれども何だかあんまり。 あんまりどうしました。 あんまりもったいないようですから。 奥さん子供が欲しかありませんか。 こうやって一人で留守をしていると退屈するでしょう。 そうでもございませんわ。 私兄弟の多い家に生れて大変苦労して育ったせいか子供ほど親を意地見るものはないと思っておりますから。 だって一人や二人はいいでしょう。 岡田君は子供がないと淋しくっていけないって云ってましたよ。 奥さんはなぜ子供ができないんでしょう。 例の一件。 例の一件。 どうも遠くじゃ話がし悪くっていけない。 二郎さん写真は見たでしょうこの間僕が送った。 ええちょっと見ました。 どうです評判は。 少し御凸額だって云ったものもあります。 お重さんでしょうそんな悪口をいうのは。 あの人の口にかかっちゃたいていのものは敵わないからね。 お重さんに何と云われたって構わないが肝心の当人はどうなんです。 先方があまり乗気になって何だか剣呑だからあっちへ行ったらよく様子を見て来ておくれ。 どうしてお貞さんがそんなに気に入ったものかな。 まだ会った事もないのに。 佐野さんはああいうしっかりした方だからやっぱり辛抱人を御貰いになる御考えなんですよ。 そうさ。 さあ行こう。 二郎さんあなた仕度は好いんですか。 今日はお前も行くんだよ。 だって。 奥さんいらっしゃい。 早いですね。 ええ早変り。 あんまり変り栄もしない服装だね。 これでたくさんよあんな所へ行くのに。 物好。 どうです。 結構です。 御気に入ったらあなたも大阪へいらっしゃいませんか。 ありがとう。 どうです。 もう来ているだろうか。 そうね。 ことに因るともう来て待っていらっしゃるかも知れないわ。 隧道ですよ。 何分よろしく。 佐野さんあなたの写真の評判が東京で大変なんですって。 どう大変なんです。 ――おおかた好い方へ大変なんでしょうね。 そりゃもちろんよ。 嘘だと覚し召すならお隣りにいらっしゃる方に伺って御覧になれば解るわ。 どうも写真は大阪の方が東京より発達しているようですね。 浄瑠璃じゃあるまいし。 御店ものの懇親会というところだろう。 どっちも酔ってるんだよ。 小僧の癖に。 あなたみたいね。 どっちがです。 両方ともよ。 吐いたり管を捲いたり。 いずれそのうちまた。 どうです二郎さん。 好さそうですね。 佐野さんはあの写真によく似ている。 酒は呑むが呑んでも赤くならない。 御父さんのように謡をうたう代りに義太夫を勉強しているそうだ。 あれほど仲の好い岡田さん夫婦の周旋だから間違はないでしょう。 要するに佐野さんは多数の妻帯者と変ったところも何もないようです。 お貞さんも普通の細君になる資格はあるんだから承諾したら好いじゃありませんか。 結構。 これで好いでしょうかね。 これさえ出してしまえば宅の方はきまるんです。 したがって佐野さんもちょっと動けなくなるんですが。 結構です。 それが僕らの最も希望するところです。 何がそんなに気になるんです。 この事件について一番冷淡だったのは君じゃありませんか。 冷淡にゃ違ないがあんまりお手軽過ぎて少し双方に対して申訳がないようだから。 お手軽どころじゃございませんそれだけ長い手紙を書いていただけば。 それでお母さまが御満足なさるこちらは初からきまっている。 これほどおめでたい事はないじゃございませんかねえあなた。 けれどもまあ緩くりなさい。 じゃ明日は佐野を誘って宝塚へでも行きましょう。 御酒を召上らない方は一生のお得ですね。 二郎さん久しぶりに相撲でも取りましょうか。 そうですか。 文楽だと好いんだけれどもあいにく暑いんで休んでいるもんだから。 僕はあなたの親類だと思ってやしません。 あなたのお父さんやお母さんに書生として育てられた食客と心得ているんです。 僕の今の地位だってあのお兼だってみんなあなたの御両親のお蔭でできたんです。 だから何か御恩返しをしなくっちゃすまないと平生から思ってるんです。 お貞さんの問題もつまりそれが動機でしたんですよ。 けっして他意はないんですからね。 お宅じゃ早くお貞さんを片づけたいんでしょう。 旨く行くでしょうか。 そりゃ行くだろうじゃありませんか。 僕とお兼を見たって解るでしょう。 結婚してからまだ一度も大喧嘩をした事なんかありゃしませんぜ。 あなた方は特別だけれども。 なにどこの夫婦だって大概似たものでさあ。 まあもう一日二日はよろしいじゃございませんか。 是非そうなさいましよ。 おやもう御荷物の仕度をなすったんですか。 じゃ御茶でも入れますから御緩くりどうぞ。 まあ好かった。 とうとう御着になりましたか。 どうもとんだ事でございますね。 さいならお機嫌よう。 どうした。 また食い過ぎたんだろう。 そこに蒲団がある。 看護婦はついてるのかい。 うん。 今どこかへ出て行った。 君アルコールは胃で吸収されるものか腸で吸収されるものか知ってるか。 君は一杯の氷菓子を消化するのにどのくらい強壮な胃が必要だと思うのか。 君その窓から外を見てみろ。 河が見えるだろう。 山も見えるだろう。 酔ってたかい。 何だそんな事かそういうわがままはなるべく取次がないが好い。 しかし行く事は行くよ。 君が来てくれというなら。 そんならもう帰して貰いますぜ。 まだ氷で冷やしているのか。 鼻風邪じゃあるまいし。 昨夕は御苦労さま。 看護婦さんこんな病人に優しくしてやると何を云い出すか分らないから好加減にしておくがいいよ。 おい氷だ。 おい。 君には解るまいがこの病気を押しているときっと潰瘍になるんだ。 それが危険だから僕はこうじっとして氷嚢を載せているんだ。 ここへ入院したのも医者が勧めたのでも宿で周旋して貰ったのでもない。 ただ僕自身が必要と認めて自分で入ったのだ。 酔興じゃないんだ。 君その様子じゃ当分約束を履行する訳にも行かないだろう。 履行しようと思ってこれほどの養生をしているのさ。 だって君の氷嚢はなかなか取れそうにないじゃないか。 だから早く癒るさ。 君大阪へ着いたときはたくさん伴侶があったそうじゃないか。 うんあの連中と飲んだのが悪かった。 まだ容易に旅行などはできないでしょうか。 潰瘍になると危険でしょうか。 こうやって思い切って入院した方が今考えて見るとやっぱり得策だったんでしょうか。 ええまあそうです。 旨かったか。 あの家はこの間君と喧嘩した氷菓子を持って来る家だ。 じゃんじゃかじゃん。 御病人の御様子はどうです。 二三日|中是非伺います。 何でも御用があるなら御遠慮なく。 お兼からもよろしく。 是非お遊びにいらっしゃるように妻も申しております。 うちの方が忙がしいんでつい御無沙汰をしています。 今から一週間内と断定する訳には行かないがとにかくもう少しするとあなたをちょいと驚かせる事が出て来るかも知れませんよ。 もう少しすれば解ります。 また例の男かい。 君もう大阪は厭になったろう。 僕のためにいて貰う必要はないからどこかへ行くなら遠慮なく行ってくれ。 それじゃ僕の都合の好いようにしよう。 金はあるか。 君に才覚ができるのかい。 別に目的もないが。 例の男はどうだい。 岡田か。 何いざとなればどうかなるよ。 君に算段して貰わなくっても。 金はあるにはあるんだから。 あの女。 ふん。 うん。 僕の都合で帰ろうと思えばいつでも帰るさ。 どうかそうしてくれ。 あの女。 日の当る所へわざわざ出て何をしているんだ。 見ているんだ。 何を見ているんだ。 どうも強情な男だな他が親切に云ってやればやるほどわざわざ日の当る所に顔を曝しているんだから。 君の顔は真赤だよ。 僕の窓から首を出していたのは君のような無意味な強情とは違う。 ちゃんと目的があってわざと首を出したんだ。 あの女。 先刻は本当に何か見ていたのか。 あの女。 あの女。 それは無論|素人なんじゃなかろうな。 あの女。 芸者ならことによると僕の知っている女かも知れない。 あの女。 きっとあれだ。 今に看護婦に名前を聞かしてやろう。 あの女。 今に話すよ。 あれだと云う事が確に分ったら。 回診です。 あの女。 あの女。 もう便所へも一人で行くんだ。 肴も食っている。 蝙蝠が飛んでやしないか。 あの女。 おいあの事は解ったか。 やっぱりあの女だ。 そうか。 あの室へ這入ったんだ。 君の帰った後で。 潰瘍の劇しいんだ。 血を吐くんだ。 そら吐いている。 癒りそうなのかな。 どうだかね。 ああ嘔くようじゃ。 君は本当にあの女を知っているのか。 本当に知っている。 しかし君は大阪へ来たのが今度始めてじゃないか。 今度来て今度知ったのだ。 この病院の名も実はあの女に聞いたのだ。 僕はここへ這入る時からあの女がことによるとやって来やしないかと心配していた。 けれども今朝君の話を聞くまではよもやと思っていた。 僕はあの女の病気に対しては責任があるんだから。 あの女。 あの女。 僕もそう云う所へちょっと入ってみようかな。 どうも少し変だ。 それじゃまあたんと飲んでから後の事にしよう。 君も飲むさ。 飯は食えなくっても酒なら飲めるだろう。 酒を呑んで胃病の虫を殺せば飯なんかすぐ喰える。 呑まなくっちゃ駄目だ。 あの女。 知らないんだ。 向は僕の身体を知らないし僕はまたあの女の身体を知らないんだ。 周囲にいるものはまた我々二人の身体を知らないんだ。 そればかりじゃない僕もあの女も自分で自分の身体が分らなかったんだ。 その上僕は自分の胃の腑が忌々しくってたまらなかった。 それで酒の力で一つ圧倒してやろうと試みたのだ。 あの女もことによるとそうかも知れない。 あの女。 ありゃ取り換えてやらなくっちゃあの女が可哀そうだね。 あの女。 血は吐くかい。 あの女。 あの女。 君はあの女を見舞ってやったのか。 いいや。 しかし見舞ってやる以上の心配をしてやっている。 じゃ向うでもまだ知らないんだね。 君のここにいる事は。 知らないはずだ看護婦でも云わない以上は。 あの女の入院するとき僕はあの女の顔を見てはっと思ったが向うでは僕の方を見なかったから多分知るまい。 あの女。 お前胃のためわしゃ腸のため共に苦しむ酒のため。 静かにして刺戟のないようにしてやらなくっちゃいけない。 室でもそっと入ってそっと出てやるのが当り前だ。 ずいぶん静じゃないか。 病人が口を利くのを厭がるからさ。 悪い証拠だ。 あの女。 あの女。 あの女。 今あの女の室に来ているのはその芸者屋に古くからいる下女さ。 名前は下女だけれど古くからいるんで自然権力があるから下女らしくしちゃいない。 まるで叔母さんか何ぞのようだ。 あの女も下女のいう事だけは素直によく聞くので厭がる薬を呑ませたりわがままを云い募らせないためには必要な人間なんだ。 三沢はああ云ってるが僕のいないときあの女の室へ行って話でもするんじゃないか。 そんな事ありゃしまへん。 あの女。 あの女。 あの女。 あの女の本当の親はあるのか知ってるか。 あの女。 それもほんの後姿だけさ。 いくら親でもああなると遠慮ができるんだね。 あの女。 親子の情合からいうと娘があんな大病に罹ったら母たるものは朝晩ともさぞ傍についていてやりたい気がするだろうね。 他人の下女が幅を利かしていて実際の親が他人扱いにされるのは見ていてもあまり好い心持じゃない。 いくら親でも仕方がないんだよ。 だいち傍にいてやるほどの時間もなし時間があっても入費がないんだから。 旦那が付いていそうなものだがな。 あの女。 あの女。 あの女。 あの女。 帰り着くまで持てば好いがな。 まるで病院を娯楽場のように思ってるんだね。 第一どっちが病人なんだろう。 あの女。 まさか。 あの女。 本間に器量の好いものは徳やな。 あの女。 あの女。 あの女。 あの女。 あの女。 あの女。 そんなにあの女が気になるなら直に行って会って慰めてやれば好いじゃないか。 うん実は行きたいのだが。 あの女。 この恋もし成就する時は大いに恥を掻く事あるべし。 おい気をつけなくっちゃいけないぜ。 あの女。 君こそ少し気をつけるが好い。 なぜ。 あの女。 どうだもう好い加減に退院したら。 いったい君はいつ大阪を立つつもりだ。 僕にはそういう事情があるんだからもう少しここに待っていなければならないのだ。 じゃいっしょに海辺へ行って静養する訳にも行かないな。 海岸へいっしょに行くつもりででもあったのか。 無いでもなかった。 あの女。 あの女。 あの女。 あの女。 もう退院は勧めない。 いや僕もそうぐずぐずしてはいられない。 君の忠告に従っていよいよ出る事にした。 あまり動くと悪いそうだから寝台で東京まで直行する事にした。 どうしてまたそう急に退院する気になったのか。 別段これという訳もないがもう出る方が好かろうと思って。 おい君。 よく君の話す例の男ね。 あの男は金を持っていないかね。 節倹家だから少しは持ってるだろう。 少しで好いから借りて来てくれ。 ここの払と東京へ帰る旅費ぐらいはどうかこうか持っているんだ。 それだけなら何も君を煩わす必要はない。 じゃただ用心のために持って行こうと云うんだね。 いや。 じゃどうするんだ。 どうしても僕の勝手だ。 ただ借りてくれさえすれば好いんだ。 怒っちゃいけない。 隠すんじゃない君に関係のない事をわざと吹聴するように見えるのが厭だから知らせずにおこうと思っただけだから。 そんなら話すがね。 僕はまだあの女を見舞ってやらない。 向でもそんな事は待ち受けてやしないだろうし僕も必ず見舞に行かなければならないほどの義理はない。 が僕は何だかあの女の病気を危険にした本人だという自覚がどうしても退かない。 それでどっちが先へ退院するにしてもその間際に一度会っておきたいと始終思っていた。 見舞じゃない詫まるためにだよ。 気の毒な事をしたと一口詫まればそれで好いんだ。 けれどもただ詫まる訳にも行かないからそれで君に頼んで見たのだ。 しかし君の方の都合が悪ければ強いてそうして貰わないでもどうかなるだろう。 宅へ電報でもかけたら。 やっしばらく。 どうです二郎さん僕の予言は。 どうかこうか一週間うちにあなたを驚かす事ができそうじゃありませんか。 ようがすそのくらいならどうでもします。 明日でも好いんでしょう。 できるなら今日中に欲しいんだ。 じゃ仕方がない迷惑でしょうけれども手紙を書きますから宅へ持って行ってお兼に渡して下さいませんか。 この御暑いのによくまあ。 さあどうぞ。 少し急ぎますから。 どうもわざわざ恐れ入りましたね。 それではすぐ御伴をして参りますから。 では後ほど。 ではどうぞちょっと御改ためなすって。 確に。 ――どうもとんだ御手数をかけました。 御暑いところを。 どうですちっと上って涼んでいらしったら。 いいえ今日は急ぎますからこれで御免を蒙ります。 御病人へどうぞよろしく。 ――でも結構でございましたね早く御退院になれて。 一時は宅でも大層心配致しましてよく電話で御様子を伺ったとか申しておりましたが。 好いか。 あの女。 あの女は寝ているのかしら。 あの女。 寝ているかも知れない。 あの看護婦に都合を聞いて貰おうか。 あの女。 あの女。 御邪魔さま。 大勉強だね。 やっと済んだ。 どうだった。 やっと済んだ。 これでもう出ても好い。 大丈夫大丈夫。 どうした。 心持でも悪いか。 いいや。 ここへ来てこの河を見るまでこの室の事をまるで忘れていた。 病院で暮らしたのもつい昨日今日のようだが考えて見るともうだいぶんになるんだね。 三階の光景が当分眼を離れないだろう。 思いも寄らない経験をした。 これも何かの因縁だろう。 あの女は癒りそうなのか。 そうさな。 事によると癒るかも知れないが。 あの女。 おれも食いたいな。 構うものか食うが好い。 食え食え。 いくら好だって悪いと知りながら無理に食わせられてあの女のようになっちゃ大変だからな。 あの女。 あの女。 あの女は君を覚えていたかい。 覚えているさ。 この間会って僕から無理に酒を呑まされたばかりだもの。 恨んでいたろう。 あの女はことによると死ぬかも知れない。 死ねばもう会う機会はない。 万一癒るとしてもやっぱり会う機会はなかろう。 妙なものだね。 人間の離合というと大袈裟だが。 それに僕から見れば実際離合の感があるんだからな。 あの女は今夜僕の東京へ帰る事を知って笑いながら御機嫌ようと云った。 僕はその淋しい笑を今夜何だか汽車の中で夢に見そうだ。 あの女。 あの女。 そろそろ出かけようか。 夜の急行は込むから。 まだ早い。 あの女。 まだ考えている。 うん考えている。 君に打ち明けようか打ち明けまいかと迷っていたところだ。 あの女。 その娘さんは余り心配したためだろう少し精神に異状を呈していた。 それは宅へ来る前かあるいは来てからかよく分らないがとにかく宅のものが気がついたのは来てから少し経ってからだ。 固より精神に異状を呈しているには相違なかろうがちょっと見たって少しも分らない。 ただ黙って欝ぎ込んでいるだけなんだから。 ところがその娘さんが。 その娘さんがおかしな話をするようだけれども僕が外出するときっと玄関まで送って出る。 いくら隠れて出ようとしてもきっと送って出る。 そうして必ず早く帰って来てちょうだいねと云う。 僕がええ早く帰りますからおとなしくして待っていらっしゃいと返事をすれば合点合点をする。 もし黙っていると早く帰って来てちょうだいねねと何度でも繰返す。 僕は宅のものに対してきまりが悪くってしようがなかった。 けれどもまたこの娘さんが不憫でたまらなかった。 だから外出してもなるべく早く帰るように心がけていた。 帰るとその人の傍へ行って立ったままただいまと一言必ず云う事にしていた。 まだ時間はあるね。 宅のものがその娘さんの精神に異状があるという事を明かに認め出してからはまだよかったが知らないうちは今云った通り僕もその娘さんの露骨なのにずいぶん弱らせられた。 父や母は苦い顔をする。 台所のものはないしょでくすくす笑う。 僕は仕方がないからその娘さんが僕を送って玄関まで来た時烈しく怒りつけてやろうかと思って二三度|後を振り返って見たが顔を合せるや否や怒るどころか邪慳な言葉などは可哀そうでとても口から出せなくなってしまった。 その娘さんは蒼い色の美人だった。 そうして黒い眉毛と黒い大きな眸をもっていた。 その黒い眸は始終遠くの方の夢を眺ているように恍惚と潤ってそこに何だか便のなさそうな憐を漂よわせていた。 僕が怒ろうと思ってふり向くとその娘さんは玄関に膝を突いたなりあたかも自分の孤独を訴えるようにその黒い眸を僕に向けた。 僕はそのたびに娘さんからこうして活きていてもたった一人で淋しくってたまらないからどうぞ助けて下さいと袖に縋られるように感じた。 ――その眼がだよ。 その黒い大きな眸が僕にそう訴えるのだよ。 君に惚れたのかな。 それがさ。 病人の事だから恋愛なんだか病気なんだか誰にも解るはずがないさ。 色情狂っていうのはそんなもんじゃないのかな。 色情狂と云うのは誰にでもしなだれかかるんじゃないか。 その娘さんはただ僕を玄関まで送って出て来て早く帰って来てちょうだいねと云うだけなんだから違うよ。 そうか。 僕は病気でも何でも構わないからその娘さんに思われたいのだ。 少くとも僕の方ではそう解釈していたいのだ。 ところが事実はどうもそうでないらしい。 その娘さんの片づいた先の旦那というのが放蕩家なのか交際家なのか知らないが何でも新婚早々たびたび家を空けたり夜遅く帰ったりしてその娘さんの心をさんざん苛めぬいたらしい。 けれどもその娘さんは一口も夫に対して自分の苦みを言わずに我慢していたのだね。 その時の事が頭に祟っているから離婚になった後でも旦那に云いたかった事を病気のせいで僕に云ったのだそうだ。 ――けれども僕はそう信じたくない。 強いてもそうでないと信じていたい。 それほど君はその娘さんが気に入ってたのか。 気に入るようになったのさ。 病気が悪くなればなるほど。 それから。 ――その娘さんは。 死んだ。 病院へ入って。 君から退院を勧められた晩僕はその娘さんの三回忌を勘定して見て単にそのためだけでも帰りたくなった。 ああ肝心の事を忘れた。 何だ。 あの女の顔がね実はその娘さんに好く似ているんだよ。 また会おう。 あの女。 その娘さん。 どうして来るんです。 じゃその金でこの夏みんなを連て旅行なさい。 また二郎さんのお株が始まった。 何という大した考えもないんでございましょう。 ただ昔しお世話になった御礼に御案内でもする気なんでしょう。 それにあの事もございますから。 あの事。 どうです。 二郎さん喫驚したでしょう。 あなたこの間から独で御得意なのね。 二郎さんだって聞き飽きていらっしゃるわ。 そんな事。 ねえあなた。 奥さまもだいぶ御目にかからないからずいぶんお変りになったでしょうね。 この前会った時はやっぱり元の叔母さんさ。 始終傍にいると変るんだか変らないんだか分りませんよ。 さあ一口ずつ皆などうぞ。 おめでとう。 病気を大事になさい。 お貞さんは病気なんですか。 実はあの事があるのでちょうど好い折だから今度|伴れて来ようと思って仕度までさせたところがあいにくお腹が悪くなってね。 残念な事をしましたよ。 でも大した事じゃないのよ。 もうお粥がそろそろ食べられるんだから。 叔父さんは風流人だから歌が好いでしょう。 歌なんぞできるもんですか。 あなたの口の悪いところを聞けないのが残念だ。 将棋の駒がまだ祟ってると見えるね。 お兼さんは本当に奥さんらしくなったね。 宅へ仕立物を持って来た時分を考えるとまるで見違えるようだよ。 お貞さんだってもう直ですよお母さん。 本当にね。 三沢が病気だったのでどこへも行かなかったそうだね。 ええ。 とんだところへ引っかかってどこへも行かずじまいでした。 どうだい。 全体あなたのお部屋はどこにあるの。 いい室だが少し陰気だね。 二郎お前のお室もこんなかい。 狭いが凝ってますね。 その代り僕の所のように河がありませんよお母さん。 おやどこに河があるの。 今夜は御止しよ。 大坂城の石垣の石は実に大きかった。 天王寺の塔の上へ登って下を見たら眼が眩んだ。 細い通りの角で欄干の所へ出ると柳が見えた。 家が隙間なく並んでいる割には閑静で窓から眺められる長い橋も画のように趣があった。 その上を通る車の音も愉快に響いた。 もっとも宿そのものは不親切で汚なくって困ったが。 いったいそれは大阪のどこなの。 どこだか解らなくっちゃつまらないわね。 どこでも構わないがそれだけじゃないはずだったのにね。 後を御話しよ。 御母さんにも直にもつまらない事ですよ。 二郎そこの二階に泊ったとき面白いと思ったのはね。 どうしました。 夜になって一寝入して眼が醒めると明かるい月が出てその月が青い柳を照していた。 それを寝ながら見ているとね下の方で急にやっという掛声が聞こえた。 あたりは案外静まり返っているのでその掛声がことさら強く聞こえたんだろうおれはすぐ起きて欄干の傍まで出て下を覗いた。 すると向に見える柳の下で真裸な男が三人代る代る大な沢庵石の持ち上げ競をしていた。 やっと云うのは両手へ力を入れて差し上げる時の声なんだよ。 それを三人とも夢中になって熱心にやっていたが熱心なせいか誰も一口も物を云わない。 おれは明らかな月影に黙って動く裸体の人影を見て妙に不思議な心持がした。 するとそのうちの一人が細長い天秤棒のようなものをぐるりぐるりと廻し始めた。 何だか水滸伝のような趣じゃありませんか。 その時からしてがすでに縹緲たるものさ。 今日になって回顧するとまるで夢のようだ。 その時大阪で面白いと思ったのはただそれぎりだが何だかそんな連想を持って来て見るといっこう大阪らしい気がしないね。 これじゃ。 まあ幾日くらい御滞在になれるんですかそれ次第でプログラムの作り方もまたあるんですから。 こっちは東京と違ってね少し市を離れるといくらでも見物する所があるんです。 まるで大阪を自慢していらっしゃるようよ。 あなたの話を傍で聞いていると。 いえ自慢じゃない。 自慢じゃないが。 岡田さんは五六年のうちにすっかり上方風になってしまったんですね。 それでもよく東京の言葉だけは忘れずにいるじゃありませんか。 久しぶりに会うとすぐこれだから敵わない。 全く東京ものは口が悪い。 それにお重の兄だもの岡田さん。 お兼少し助けてくれ。 馬鹿馬鹿しい骨を折ったり調戯われたり。 このたびはまたいろいろ。 娘さん。 よくまあお一人でお留守居ができます事。 お重さんによく馴づいておりますから。 せめてもう少しはいいでしょう。 せっかくここまで出ていらしったんだから。 また来るたってそりゃ容易な事じゃありませんよ億劫で。 おめでた過ぎるくらい事件がどんどん進行して行く癖に本人がいっこう知らないんだから面白い。 当人は無論知ってるんだ。 大喜びだよ。 もっともこんな問題になると自分でどんどん進行させる勇気は日本の婦人にあるまいからな。 女だけじゃないよ。 男だって自分勝手にむやみと進行されちゃ困りますよ。 いっそその方が好いかも知れないね。 でも貞だけでもきまってくれるとお母さんは大変|楽な心持がするよ。 後は重ばかりだからね。 これもお父さんの御蔭さ。 全くお父さんの御蔭に違ないよ。 岡田が今ああやってるのと同じ事さ。 厭だねそんな俥に乗るのは可哀想で。 なぜまた水を飲ませないんだろう。 俥が遅れるからかね。 途中で水を飲むと疲れて役に立たないからだそうです。 へえーなぜ。 姉さんどうです近頃は。 兄さんの機嫌は好い方なんですか悪い方なんですか。 相変らずですわ。 二郎そんな法があるのかい。 また一郎の病気が始まったよ。 癖なんだから放っておおきなさい。 そんな女のためにお金を使う訳がないじゃないか三沢さんだって。 馬鹿らしい。 だけどそこには三沢も義理があるんだから。 義理義理って御母さんには解らないよお前のいう事は。 気の毒なら手ぶらで見舞に行くだけの事じゃないか。 もし手ぶらできまりが悪ければ菓子折の一つも持って行きゃあたくさんだね。 よし三沢さんにそれだけの義理があったにしたところでさ。 何もお前が岡田なんぞからそれを借りて上げるだけの義理はなかろうじゃないか。 じゃよござんす。 まあお待ちよ。 何も出して上げないと云ってやしないじゃないか。 兄さんにはないしょだよ。 お待遠。 お母さんどうです。 まあお這入りよお前から。 大変好い血色におなりだね。 それに少し肉が付いたようじゃないか。 じゃ御先へ。 もう済んだんですか。 ええ。 どこへいらっしゃるの。 御湯へ這入ろうと思って。 お先へ失礼してもよござんすか。 さあどうぞ。 姉さん姉さん。 なによ。 御苦労さまこの暑いのに。 なぜ。 なぜって兄さんの御好みなんですかそのでこでこ頭は。 知らないわ。 おい君君。 や今お湯暗いんでちっとも気がつかなかった。 あなたに話がある。 話が。 何です。 まあお入んなさい。 お兼は来ませんか。 いいえ。 皆さんは。 みんないますよ。 じゃ今日はどこへも行かなかったんですか。 行ってもう帰って来たんです。 実は僕も今会社から帰りがけですがね。 どうも暑いじゃあありませんか。 ――とにかくちょっと伺候して来ますから。 失礼。 じゃ今夜が御別れだから少し御過ごしなさい。 大阪の富より君自身の富はどうだい。 しかし僕の今日あるも――というと偉過ぎるがまあどうかこうかやって行けるのも全く叔父さんと叔母さんのお蔭です。 僕はいくらこうして酒を呑んで太平楽を並べていたってそれだけはけっして忘れやしません。 何だそんな朱塗りの文鎮見たいなもの。 要らないから早くそっちへ持って行け。 今でなくってもいいのに。 しかしお兼が喜びますよ。 ありがとう。 一郎さんは実際むずかしやでしたね。 あの時分からわがままだったからねどうも。 しかしこの頃はだいぶ機嫌が好いようじゃありませんか。 もっとも奥さんができてからもうよっぽどになりますからね。 しかし奥さんの方でもずいぶん気骨が折れるでしょう。 あれじゃ。 お兼さんによろしく。 給仕がみんな女だから面白い。 しかもなかなか別嬪がいますぜ白いエプロンを掛けてね。 是非中で昼飯をやって御覧なさい。 あれは妙だね。 御寺かと思うとそうでもないし。 二郎やっぱり百姓家なのかね。 兄さん面白い話がありますがね。 何だ。 ついこの間三沢から聞いたばかりの話ですがね。 その話ならおれも聞いて知っている。 三沢がその女の死んだとき冷たい額へ接吻したという話だろう。 そんな事があるんですか。 三沢は接吻の事については一口も云いませんでしたがね。 皆ないる前でですか三沢が接吻したって云うのは。 それは知らない。 皆の前でやったのか。 またはほかに人のいない時にやったのか。 だって三沢がたった一人でその娘さんの死骸の傍にいるはずがないと思いますがね。 もし誰もそばにいない時|接吻したとすると。 だから知らんと断ってるじゃないか。 いったい兄さんはどうしてそんな話を知ってるんです。 Hから聞いた。 兄さんはなぜまた今日までその話を為ずに黙っていたんです。 する必要がないからさ。 閑静な電車ですね。 これなら妾達の荷物を乗っけてもよさそうだね。 へえーこれが昔のお城かね。 おい二郎。 何です。 先刻汽車の中で話しが出たあの三沢の事だね。 お前はどう思う。 例の接吻の話ですか。 いえ接吻じゃない。 その女が三沢の出る後を慕って早く帰って来てちょうだいと必ず云ったという方の話さ。 僕には両方共面白いが接吻の方が何だかより多く純粋でかつ美しい気がしますね。 そりゃ詩的に云うのだろう。 詩を見る眼で云ったら両方共等しく面白いだろう。 けれどもおれの云うのはそうじゃない。 もっと実際問題にしての話だ。 実際問題と云うとどういう事になるんですか。 ちょっと僕には解らないんですが。 つまりその女がさ三沢の想像する通り本当にあの男を思っていたかまたは先の夫に対して云いたかった事を我慢して云わずにいたので精神病の結果ふらふらと口にし始めたのかどっちだと思うと云うんだ。 僕には解らんです。 そうか。 兄さんには何か意見が有るんですか。 おれはどうしてもその女が三沢に気があったのだとしか思われんがね。 なぜですか。 なぜでもおれはそう解釈するんだ。 おれはどうしてもこう思うんだがね。 ええ。 人間は普通の場合には世間の手前とか義理とかでいくら云いたくっても云えない事がたくさんあるだろう。 それはたくさんあります。 けれどもそれが精神病になると――云うとすべての精神病を含めて云うようで医者から笑われるかも知れないが――しかし精神病になったら大変気が楽になるだろうじゃないか。 そう云う種類の患者もあるでしょう。 ところでさもしその女がはたしてそういう種類の精神病患者だとするとすべて世間並の責任はその女の頭の中から消えて無くなってしまうに違なかろう。 消えて無くなれば胸に浮かんだ事なら何でも構わず露骨に云えるだろう。 そうするとその女の三沢に云った言葉は普通我々が口にする好い加減な挨拶よりも遥に誠の籠った純粋のものじゃなかろうか。 それは面白い。 面白いとか面白くないとか云う浮いた話じゃない。 二郎実際今の解釈が正確だと思うか。 そうですね。 噫々女も気狂にして見なくっちゃ本体はとうてい解らないのかな。 二郎御前見たいに暮して行けたら世間に苦はあるまいね。 二郎あれを御覧。 何ですか。 あれだから本当に困るよ。 また何か兄さんの気に障る事でもできたんですか。 そりゃあの人の事だから何とも云えないがね。 けれども夫婦となった以上はお前いくら旦那が素っ気なくしていたってこっちは女だもの。 直の方から少しは機嫌の直るように仕向けてくれなくっちゃ困るじゃないか。 あれを御覧なあれじゃまるであかの他人が同なじ方角へ歩いて行くのと違やしないやね。 なんぼ一郎だって直に傍へ寄ってくれるなと頼みやしまいし。 兄さんはまた何か考え込んでいるんですよ。 それで姉さんも遠慮してわざと口を利かずにいるんでしょう。 たとい何か考えているにしてもだね。 直の方がああ無頓着じゃ片っ方でも口の利きようがないよ。 まるでわざわざ離れて歩いているようだもの。 どうも不思議だよ。 いったい直は愛嬌のある質じゃないが御父さんや妾にはいつだって同なじ調子だがね。 二郎御前にだってそうだろう。 僕にもそうですがね。 なるほどそう云われれば少々変には違ない。 だからさ妾には直が一郎に対してだけわざわざあんな風をつらあてがましくやっているように思われて仕方がないんだよ。 まさか。 だって宅中で兄さんが一番大事な人じゃありませんか姉さんにとって。 だからさ。 御母さんには訳が解らないと云うのさ。 そのうち機会があったら姉さんにまたよく腹の中を僕から聞いて見ましょう。 何心配するほどの事はありませんよ。 おーいおーい。 好い蚊帳ですね。 宅でも一つこんなのを買おうじゃありませんか。 こりゃ見てくれだけは綺麗だがそれほど高いものじゃないよ。 かえって宅にあるあの白麻の方が上等なんだよ。 ただこっちのほうが軽くって継ぎ目がないだけに華奢に見えるのさ。 だいち寝冷をしないだけでもあっちの方が得じゃないか。 急に暑苦しくなりましたね。 そうさね。 二郎どこへ行くんだい。 あんまり寝苦しいから縁側へ出て少し涼もうと思います。 そうかい。 御母さんもまだ御休みにならないんですか。 ええ寝床の変ったせいか何だか勝手が違ってね。 あまりがたがた云わして兄さんの邪魔になるといけないよ。 もう好い加減に御這入りよ。 風邪でも引くといけないから。 昨夕食った鯛の焙烙蒸にあてられたらしい。 二郎今朝ちょっとあの昇降器へ乗って見ようじゃないか。 何だか面白そうじゃないか。 どこへ行けるんでしょう。 どこだって構わない。 さあ行こう。 さあさあ。 二人で行こう。 二人ぎりで。 どこへ行くの。 何ちょっとあのエレヴェーターへ乗って見るんです。 二郎といっしょに。 女には剣呑だから御母さんや直は止した方が好いでしょう。 僕らがまあ乗って試して見ますから。 直お前どうするい。 妾はどうでも構いません。 牢屋見たいだな。 そうですね。 人間もこの通りだ。 そうですな。 どこか二人だけで話す所はないかな。 じゃその権現様へでも行くかな。 権現様も名所の一つだから好いでしょう。 おい二郎二人で行こう二人ぎりで。 二郎どうかしたか。 少し心持が変です。 おい来ないか。 まるで酔っ払いのようじゃないか段々を筋違に練って歩くざまは。 おい二郎。 暑い暑い。 なるほどここは静だ。 ここならゆっくり話ができそうだ。 二郎少し御前に話があるがね。 何です。 ここは涼しいですね。 ああ涼しい。 兄さんこっちの方がまだ涼しい。 こっちへいらっしゃい。 おい少し話しがあるんだと云ったじゃないか。 何ですか。 実は直の事だがね。 直。 二郎二人で行こう二人ぎりで。 嫂さんがどうかしたんですか。 直は御前に惚れてるんじゃないか。 どうして。 どうしてと聞かれると困る。 それから失礼だと怒られてはなお困る。 何も文を拾ったとか接吻したところを見たとか云う実証から来た話ではないんだから。 本当いうと表向こんな愚劣な問をいやしくも夫たるおれが他人に向ってかけられた訳のものではない。 ないが相手が御前だからおれもおれの体面を構わずに聞き悪いところを我慢して聞くんだ。 だから云ってくれ。 だって嫂さんですぜ相手は。 夫のある婦人ことに現在の嫂ですぜ。 それは表面の形式から云えば誰もそう答えなければならない。 御前も普通の人間だからそう答えるのが至当だろう。 おれもその一言を聞けばただ恥じ入るよりほかに仕方がない。 けれども二郎御前は幸いに正直な御父さんの遺伝を受けている。 それに近頃の何事も隠さないという主義を最高のものとして信じているから聞くのだ。 形式上の答えはおれにも聞かない先から解っているがただ聞きたいのはもっと奥の奥の底にある御前の感じだ。 その本当のところをどうぞ聞かしてくれ。 そんな腹の奥の奥底にある感じなんて僕に有るはずがないじゃありませんか。 おい二郎何だってそんな軽薄な挨拶をする。 おれと御前は兄弟じゃないか。 兄弟ですとも。 僕はあなたの本当の弟です。 だから本当の事を御答えしたつもりです。 今云ったのはけっして空々しい挨拶でも何でもありません。 真底そうだからそういうのです。 きっと。 ええきっと。 だって御前の顔は赤いじゃないか。 二郎。 はい。 おれは御前の兄だったね。 誠に子供らしい事を云って済まなかった。 なぜです。 おれはこれでも御前より学問も余計したつもりだ。 見識も普通の人間より持っているとばかり今日まで考えていた。 ところがあんな子供らしい事をつい口にしてしまった。 まことに面目ない。 どうぞ兄を軽蔑してくれるな。 なぜです。 なぜですとそう真面目に聞いてくれるな。 ああおれは馬鹿だ。 ただ御前の顔が少しばかり赤くなったからと云って御前の言葉を疑ぐるなんてまことに御前の人格に対して済まない事だ。 どうぞ堪忍してくれ。 兄さん今日は頭がどうかしているんですよ。 そんな下らない事はもうこれぎりにしてそろそろ帰ろうじゃありませんか。 御前|他の心が解るかい。 僕の心が兄さんには分らないんですか。 御前の心はおれによく解っている。 じゃそれで好いじゃありませんか。 いや御前の心じゃない。 女の心の事を云ってるんだ。 女の心だって男の心だって。 御前は幸福な男だ。 おそらくそんな事をまだ研究する必要が出て来なかったんだろう。 そりゃ兄さんのような学者じゃないから。 馬鹿云え。 書物の研究とか心理学の説明とかそんな廻り遠い研究を指すのじゃない。 現在自分の眼前にいて最も親しかるべきはずの人その人の心を研究しなければいても立ってもいられないというような必要に出逢った事があるかと聞いてるんだ。 兄さんはあんまり考え過ぎるんじゃありませんか学問をした結果。 もう少し馬鹿になったら好いでしょう。 向うでわざと考えさせるように仕向けて来るんだ。 おれの考え慣れた頭を逆に利用して。 どうしても馬鹿にさせてくれないんだ。 御前メレジスという人を知ってるか。 名前だけは聞いています。 あの人の書翰集を読んだ事があるか。 読むどころか表紙を見た事もありません。 そうか。 その人の書翰の一つのうちに彼はこんな事を云っている。 ――自分は女の容貌に満足する人を見ると羨ましい。 女の肉に満足する人を見ても羨ましい。 自分はどうあっても女の霊というか魂というかいわゆるスピリットを攫まなければ満足ができない。 それだからどうしても自分には恋愛事件が起らない。 メレジスって男は生涯独身で暮したんですかね。 そんな事は知らない。 またそんな事はどうでも構わないじゃないか。 しかし二郎おれが霊も魂もいわゆるスピリットも攫まない女と結婚している事だけはたしかだ。 兄さん。 何だ。 兄さん。 兄さんに対して僕がこんな事をいうとはなはだ失礼かも知れませんがね。 他の心なんていくら学問をしたって研究をしたって解りっこないだろうと僕は思うんです。 兄さんは僕よりも偉い学者だから固よりそこに気がついていらっしゃるでしょうけれどもいくら親しい親子だって兄弟だって心と心はただ通じているような気持がするだけで実際向うとこっちとは身体が離れている通り心も離れているんだからしようがないじゃありませんか。 他の心は外から研究はできる。 けれどもその心になって見る事はできない。 そのくらいの事ならおれだって心得ているつもりだ。 それを超越するのが宗教なんじゃありますまいか。 僕なんぞは馬鹿だから仕方がないが兄さんは何でもよく考える性質だから。 考えるだけで誰が宗教心に近づける。 宗教は考えるものじゃない信じるものだ。 ああおれはどうしても信じられない。 どうしても信じられない。 ただ考えて考えて考えるだけだ。 二郎どうかおれを信じられるようにしてくれ。 兄さんこの事については僕も実はとうから考えていたんです。 いや御前の考えなんか聞こうと思っていやしない。 今日御前をここへ連れて来たのは少し御前に頼みがあるからだ。 どうぞ聞いてくれ。 何ですか。 二郎帰ろう。 もう何時だろう。 そうですね。 まだ午にはならないでしょう。 何だか路が違ったようじゃありませんか。 ここは往に通らなかったかな。 ええ通りゃしません。 そうか。 何|狭い所だ。 どこをどう間違えたって帰れるのは同なじ事だ。 まあどこまで行ったの。 あなた方はどこへも行かなかったんですか。 ええ行ったわ。 どこへ。 あてて御覧なさい。 高い石段でね。 こうして見上げるだけでも眼が眩いそうなんだよお母さんには。 これじゃとても上れっこないと思って妾ゃどうしようか知らと考えたけれども直に手を引っ張って貰ってようやくお参りだけは済ませたがその代り汗で着物がぐっしょりさ。 はあそうですかそうですか。 姉さん芝の愛宕様じゃありませんよ。 だって遠眼鏡ぐらいあったって好いじゃありませんか。 好い景色ですね。 二郎|実は頼みがあるんだが。 ええそれを伺うつもりでわざわざ来たんだからゆっくり話して下さい。 できる事なら何でもしますから。 二郎実は少し云い悪い事なんだがな。 云い悪い事でも僕だから好いでしょう。 うんおれは御前を信用しているから話すよ。 しかし驚いてくれるな。 二郎驚いちゃいけないぜ。 二郎おれは御前を信用している。 御前の潔白な事はすでに御前の言語が証明している。 それに間違はないだろう。 ありません。 それでは打ち明けるが実は直の節操を御前に試して貰いたいのだ。 節操を試す。 なぜ今になってそんな顔をするんだ。 姉さんの節操を試すなんて――そんな事は廃した方が好いでしょう。 なぜ。 なぜってあんまり馬鹿らしいじゃありませんか。 何が馬鹿らしい。 馬鹿らしかないかも知れないが必要がないじゃありませんか。 必要があるから頼むんだ。 試すってどうすれば試されるんです。 御前と直が二人で和歌山へ行って一晩泊ってくれれば好いんだ。 下らない。 厭かい。 ええほかの事ならですがそれだけは御免です。 じゃ頼むまい。 その代りおれは生涯御前を疑ぐるよ。 そりゃ困る。 困るならおれの頼む通りやってくれ。 二郎おれはお前を信用している。 けれども直を疑ぐっている。 しかもその疑ぐられた当人の相手は不幸にしてお前だ。 ただし不幸と云うのはお前に取って不幸というのでおれにはかえって幸になるかも知れない。 と云うのはおれは今明言した通りお前の云う事なら何でも信じられるしまた何でも打明けられるからそれでおれには幸いなのだ。 だから頼むのだ。 おれの云う事に満更論理のない事もあるまい。 兄さん。 兄さんほかの事とは違ってこれは倫理上の大問題ですよ。 当り前さ。 兄さんいくら兄弟の仲だって僕はそんな残酷な事はしたくないです。 いや向うの方がおれに対して残酷なんだ。 そりゃ改めてまた伺いますが何しろ今の御依頼だけは御免蒙ります。 僕には僕の名誉がありますから。 いくら兄さんのためだって名誉まで犠牲にはできません。 名誉。 無論名誉です。 人から頼まれて他を試験するなんて――ほかの事だって厭でさあ。 ましてそんな探偵じゃあるまいし。 二郎おれはそんな下等な行為をお前から向うへ仕かけてくれと頼んでいるのじゃない。 単に嫂としまた弟として一つ所へ行って一つ宿へ泊ってくれというのだ。 不名誉でも何でもないじゃないか。 兄さんは僕を疑ぐっていらっしゃるんでしょう。 そんな無理をおっしゃるのは。 いや信じているから頼むのだ。 口で信じていて腹では疑ぐっていらっしゃる。 馬鹿な。 実はこの間から僕もその事については少々考えがあって機会があったら姉さんにとくと腹の中を聞いて見る気でいたんですからそれだけなら受合いましょう。 もうじき東京へ帰るでしょうから。 じゃそれを明日やってくれ。 あした昼いっしょに和歌山へ行って昼のうちに返って来れば差支えないだろう。 気味が悪いね。 何だか暴風雨でもありそうじゃないか。 何大丈夫だよ。 大した事はないにきまっている。 御母さん僕が受け合いますから出かけようじゃありませんか。 俥もすでに誂えてありますから。 そりゃ行っても好いけれど行くなら皆なでいっしょに行こうじゃないか。 じゃ僕達もいっしょにその切り開いた山道の方へ行って見ましょうか。 そうそう姉さんと約束があったっけ。 和歌山はやめにおしよ。 直御前二郎に和歌山へ連れて行って貰うはずだったね。 ええ。 今日はお止しよ。 ええ。 姉さんどうします。 どうでも好いわ。 御前本当に直と二人で和歌山へ行く気かい。 ええだって兄さんが承知なんですもの。 いくら承知でも御母さんが困るから御止しよ。 なぜです。 なぜですって御前と直と行くのはいけないよ。 兄さんに悪いと云うんですか。 兄さんに悪いばかりじゃないが。 じゃ姉さんだの僕だのに悪いと云うんですか。 では止します。 元々僕の発案で姉さんを誘い出すんじゃない。 兄さんが二人で行って来いと云うから行くだけの事です。 御母さんが御不承知ならいつでもやめます。 その代り御母さんから兄さんに談判して行かないで好いようにして下さい。 僕は兄さんに約束があるんだから。 じゃ兄さんには妾から話をするからその代り御前はここに待ってておくれ三階へ一緒に来るとまた事が面倒になるかも知れないから。 二郎今になって違約して貰っちゃおれが困る。 貴様だって男だろう。 いえ行くんです。 行くんですがお母さんが止せとおっしゃるから。 二郎お母さんは先刻ああ云ったけれどもよく一郎に聞いて見ると何だか紀三井寺で約束した事があるとか云う話だから残念だが仕方ない。 やっぱりその約束通りになさい。 ええ。 じゃ僕らもそろそろ出かけましょうかね。 どうです出かける勇気がありますか。 あなたは。 僕はあります。 あなたにあれば妾にだってあるわ。 あなた何だか今日は勇気がないようね。 歩き悪いでしょう。 ええ。 あなた今日は珍らしく黙っていらっしゃるのね。 なぜそんなに黙っていらっしゃるの。 あなた兄さんにそんな事を云ったことがありますか。 好い景色ね。 なぜそんなつまらない事を聞くのよ。 うるさい方ね。 そんな事聞いて何になさるの。 そりゃ夫婦ですものそのくらいな事云った覚はあるでしょうよ。 それがどうしたの。 どうもしやしません。 兄さんにもそういう親しい言葉を始終かけて上げて下さいと云うだけです。 あらあなたまだ和歌山を知らないの。 それでいて妾を連れて来るなんてずいぶん呑気ね。 俥へでも乗って車夫に好い加減な所へ連れて行って貰いましょうか。 それともぶらぶら御城の方へでも歩いて行きますか。 そうね。 降るでしょうか。 こんな所へ来るはずじゃなかったんですが。 なぜ。 だって立派な御茶屋じゃありませんか。 結構だわ。 東京辺の安料理屋よりかえって好いくらいですね。 どうします姉さん風呂は。 まだ早いのよ二郎さん。 お湯へ這入っても大丈夫だわ。 じゃちょっと汗を流して行きましょうか。 何を考えていらっしゃるの。 何降りゃしまいかと思ってね。 そう。 そんなに御天気が怖いの。 あなたにも似合わないのね。 怖かないけどもし強雨にでもなっちゃ大変ですからね。 何でそんなに雨が気になるの。 降れば後が涼しくなって好いじゃありませんか。 だっていつやむか解らないから困るんです。 困りゃしないわ。 いくら約束があったって御天気のせいなら仕方がないんだから。 しかし兄さんに対して僕の責任がありますよ。 じゃすぐ帰りましょう。 姉さんこの雨は容易にやみそうもありませんよ。 それに僕は姉さんに少し用談があって来たんだから。 あなたも妙な方ね。 帰るというからそのつもりで仕度をすればまた坐ってしまって。 仕度ってほどの仕度もしないじゃありませんか。 ただ立ったぎりでさあ。 何よ用談があるって。 妾にそんなむずかしい事が分りゃしないわ。 それよりか向うの御座敷の三味線でも聞いてた方が増しよ。 用があるなら早くおっしゃいな。 催促されたってちょっと云える事じゃありません。 あなた取っていくつなの。 そんなに冷かしちゃいけません。 本当に真面目な事なんだから。 だから早くおっしゃいな。 姉さんはいくつでしたっけね。 これでもまだ若いのよ。 あなたよりよっぽど下のつもりですわ。 兄さんとこへ来てからもう何年になりますかね。 そうね。 妾そんな事みんな忘れちまったわ。 だいち自分の年さえ忘れるくらいですもの。 姉さんは自分の年にさえ冷淡なんですね。 自分の年なんかにいくら冷淡でも構わないから兄さんにだけはもう少し気をつけて親切にして上げて下さい。 妾そんなに兄さんに不親切に見えて。 これでもできるだけの事は兄さんにして上げてるつもりよ。 兄さんばかりじゃないわ。 あなたにだってそうでしょう。 ねえ二郎さん。 あなた急に黙っちまったのね。 兄さんのために僕が先刻からあなたに頼んでいる事を姉さんは真面目に聞いて下さらないから。 だってそりゃ無理よ二郎さん。 妾馬鹿で気がつかないからみんなから冷淡と思われているかも知れないけれどこれで全くできるだけの事を兄さんに対してしている気なんですもの。 ――妾ゃ本当に腑抜なのよ。 ことに近頃は魂の抜殻になっちまったんだから。 そう気を腐らせないでもう少し積極的にしたらどうです。 積極的ってどうするの。 御世辞を使うの。 妾御世辞は大嫌いよ。 兄さんも御嫌いよ。 御世辞なんか嬉しがるものもないでしょうけれどももう少しどうかしたら兄さんも幸福でしょうし姉さんも仕合せだろうから。 よござんす。 もう伺わないでも。 妾のような魂の抜殻はさぞ兄さんには御気に入らないでしょう。 しかし私はこれで満足です。 これでたくさんです。 兄さんについて今まで何の不足を誰にも云った事はないつもりです。 そのくらいの事は二郎さんもたいてい見ていて解りそうなもんだのに。 そりゃ兄さんの気むずかしい事は誰にでも解ってます。 あなたの辛抱も並大抵じゃないでしょう。 けれども兄さんはあれで潔白すぎるほど潔白で正直すぎるほど正直な高尚な男です。 敬愛すべき人物です。 二郎さんに何もそんな事を伺わないでも兄さんの性質ぐらい妾だって承知しているつもりです。 妻ですもの。 正直なところ姉さんは兄さんが好きなんですかまた嫌なんですか。 二郎さん。 ええ。 あなた何の必要があってそんな事を聞くの。 兄さんが好きか嫌いかなんて。 妾が兄さん以外に好いてる男でもあると思っていらっしゃるの。 そういう訳じゃけっしてないんですが。 だから先刻から云ってるじゃありませんか。 私が冷淡に見えるのは全く私が腑抜のせいだって。 そう腑抜をことさらに振り舞わされちゃ困るね。 誰も宅のものでそんな悪口を云うものは一人もないんですから。 云わなくっても腑抜よ。 よく知ってるわ自分だって。 けどこれでも時々は他から親切だって賞められる事もあってよ。 そう馬鹿にしたものでもないわ。 あれまだ有るでしょう綺麗ね。 ええ。 大事にして持っています。 姉さん大変な事になりましたね。 和歌の浦へはどうしても帰られないんでしょうか。 俥でも駄目だろうね。 おい海嘯であすこいらの宿屋がすっかり波に攫われる事があるかい。 それにしたって水に浸った家は大変だろう。 ぐるぐる回りゃそれでたくさんだ。 その上海まで持ってかれた日にゃ好い災難じゃないか。 姉さんどうします。 どうしますって妾女だからどうして好いか解らないわ。 もしあなたが帰るとおっしゃればどんな危険があったって妾いっしょに行くわ。 行くのは構わないが――困ったな。 じゃ今夜は仕方がないからここへ泊るとしますか。 あなたが御泊りになれば妾も泊るよりほかに仕方がないわ。 女一人でこの暗いのにとても和歌の浦まで行く訳には行かないから。 おい電話はどうしても通じないんだね。 通じません。 じゃしようがない泊ることにきめましょう。 ええ。 町の中なら俥が通うんだね。 ここは向うが高い棟でこっちが厚い練塀らしいから風の音がそんなに聞えないけれど先刻俥へ乗った時は大変ね。 幌の上でひゅひゅいうのが気味が悪かったぐらいよ。 あなた風の重みが俥の幌に乗しかかって来るのが乗ってて分ったでしょう。 妾もう少しで俥が引っ繰返るかも知れないと思ったわ。 ええずいぶんな風でしたね。 ここでこのくらいじゃ和歌の浦はさぞ大変でしょうね。 姐さんここの電話も切れてるのかね。 電話はどうして。 通じて。 おおかたそんな事だろうと思った。 とても駄目よ今夜は。 いくらかけたって風で電話線を吹き切っちまったんだから。 あの音を聞いたって解るじゃありませんか。 どうします。 そうね。 どうでもいいけども。 せっかく泊ったもんだから御膳だけでも見た方がいいでしょう。 姉さん怖かありませんか。 怖いわ。 姉さんもう少しだから我慢なさい。 今に女中が灯を持って来るでしょうから。 姉さん。 姉さん。 何よ。 いるんですか。 いるわあなた。 人間ですもの。 嘘だと思うならここへ来て手で障って御覧なさい。 姉さん何かしているんですか。 ええ。 何をしているんですか。 先刻下女が浴衣を持って来たから着換えようと思って今帯を解いているところです。 何だか暗くって気味が悪いのね。 それに桶や湯槽が古いんでゆっくり洗う気にもなれないわ。 姉さん宿帳はどうつけたら好いでしょう。 どうでも。 好い加減に願います。 まるで生返ったようね。 おやおや。 姉さんいつ御粧したんです。 あら厭だ真闇になってからそんな事を云いだして。 あなたいつ見たの。 こんな時に白粉まで持って来るのは実に細かいですね姉さんは。 白粉なんか持って来やしないわ。 持って来たのはクリームよあなた。 姉さんまだ寝ないんですか。 ええだってこの吹き降りじゃ寝ようにも寝られないじゃありませんか。 僕もあの風の音が耳についてどうする事もできない。 電灯の消えたのは何でもここいら近所にある柱が一本とか二本とか倒れたためだってね。 そうよそんな事を先刻下女が云ったわね。 御母さんと兄さんはどうしたでしょう。 妾も先刻からその事ばかり考えているの。 しかしまさか浪は這入らないでしょう。 這入ったってあの土手の松の近所にある怪しい藁屋ぐらいなものよ。 持ってかれるのは。 もし本当の海嘯が来てあすこ界隈をすっかり攫って行くんなら妾本当に惜しい事をしたと思うわ。 なぜ。 なぜって妾そんな物凄いところが見たいんですもの。 冗談じゃない。 あら本当よ二郎さん。 妾死ぬなら首を縊ったり咽喉を突いたりそんな小刀細工をするのは嫌よ。 大水に攫われるとか雷火に打たれるとか猛烈で一息な死に方がしたいんですもの。 何かの本にでも出て来そうな死方ですね。 本に出るか芝居でやるか知らないが妾ゃ真剣にそう考えてるのよ。 嘘だと思うならこれから二人で和歌の浦へ行って浪でも海嘯でも構わないいっしょに飛び込んで御目にかけましょうか。 あなた今夜は昂奮している。 妾の方があなたよりどのくらい落ちついているか知れやしない。 たいていの男は意気地なしねいざとなると。 姉さんが死ぬなんて事を云い出したのは今夜始めてですね。 ええ口へ出したのは今夜が始めてかも知れなくってよ。 けれども死ぬ事は死ぬ事だけはどうしたって心の中で忘れた日はありゃしないわ。 だから嘘だと思うなら和歌の浦まで伴れて行ってちょうだい。 きっと浪の中へ飛込んで死んで見せるから。 姉さんは今夜よっぽどどうかしている。 何か昂奮している事でもあるんですか。 あなた昂奮昂奮ってよくおっしゃるけれども妾ゃあなたよりいくら落ちついてるか解りゃしないわ。 いつでも覚悟ができてるんですもの。 二郎さん。 何ですか。 あなたそこで何をしていらっしゃるの。 煙草を呑んでるんです。 寝られないから。 早く御休みなさいよ。 寝られないと毒だから。 ええ。 好い天気になりましたね。 本当ね。 後から後から。 奥さんの方が先だ。 御先へ。 さあどうぞ。 ただいま。 昨夕こっちは大変な暴風雨でしたってね。 うんずいぶんひどい風だった。 波があの石の土手を越して松並木から下へ流れ込んだの。 いやそうでもない。 家に故障はなかったはずだ。 じゃ。 無理に帰れば帰れたのね。 いやとても帰れなかったんです。 電車がだいち通じないんですもの。 そうかも知れない。 昨日は夕方あたりからあの波が非常に高く見えたから。 夜中に宅が揺れやしなくって。 揺れた。 お母さんは危険だからと云って下へ降りて行かれたくらい揺れた。 よく早く帰れて好かったね。 ――まあ昨夕の恐ろしさったらそりゃ御話にも何にもならないんだよ二郎。 この柱がぎいぎいって鳴るたんびに座敷が右左に動くんだろう。 そこへ持って来てあの浪の音がね。 ――わたしゃ今聞いても本当にぞっとするよ。 もうもう和歌の浦も御免。 海も御免。 慾も得も要らないから早く東京へ帰りたいよ。 二郎達は昨夕どこへ泊ったんだい。 好い宿かい。 何だかかんだかただ暗くって陰気なだけです。 ねえ姉さん。 まるでお化でも出そうな宅ね。 どうです兄さんは怒ってるんでしょうか。 どうだか腹の中はちょっと解らないわ。 いかな名所でも一日二日は好いが長くなるとつまらないですね。 二郎お前どうするつもりだい。 兄さんは昨夕僕らが帰らないんで機嫌でも悪くしているんですか。 昨夕はね知っての通りの浪や風だからそんな話をする閑も無かったけれども。 お母さんは何だか僕と嫂さんの仲を疑ぐっていらっしゃるようだが。 そんな事があるものかねお前お母さんに限って。 兄さんには僕から万事話す事になっています。 そう云う約束になってるんだからお母さんが心配なさる必要はありません。 安心していらっしゃい。 じゃなるべく早く片づけた方が好いよ二郎。 佐野さんへはかける必要もないでしょう。 あるまい。 岡田へさえ打っておけば佐野さんはうっちゃっておいてもきっと送りに来てくれるよ。 ではあのお凸額さんは止めておこう。 写真で見たより御凸額ね。 二郎ちょっと話がある。 あっちの室へ来てくれ。 はい。 二郎。 お前|直の性質が解ったかい。 解りません。 二郎おれはお前の兄としてただ解りませんという冷淡な挨拶を受けようとは思わなかった。 お前そんな冷淡な挨拶を一口したぎりで済むものと高を括ってるのか子供じゃあるまいし。 いえけっしてそんなわけじゃありません。 そう云うつもりでなければつもりでないようにもっと詳く話したら好いじゃないか。 二郎何とか云わないか。 今云おうと思ってるところです。 しかし事が複雑なだけに何から話して好いか解らないんでちょっと困ってるんです。 兄さんもほかの事たあ違うんだからもう少し打ち解けてゆっくり聞いて下さらなくっちゃ。 そう裁判所みたように生真面目に叱りつけられちゃせっかく咽喉まで出かかったものも辟易して引込んじまいますから。 ああそうかおれが悪かった。 お前が性急の上へ持って来ておれが癇癪持と来ているからつい変にもなるんだろう。 二郎それじゃいつゆっくり話される。 ゆっくり聞く事なら今でもおれにはできるつもりだが。 まあ東京へ帰るまで待って下さい。 東京へ帰るたってあすの晩の急行だからもう直です。 その上で落ちついて僕の考えも申し上げたいと思ってますから。 それでも好い。 ではどうかそう願います。 ああ。 おい二郎。 詳い事は追って東京で聞くとしてただ一言だけ要領を聞いておこうか。 姉さんについて。 無論。 姉さんの人格について御疑いになるところはまるでありません。 兄さんは。 今来るでしょう。 もう話は済んだの。 済むの済まないのって始めからそんな大した話じゃないんです。 今から荷造りですか。 ちっと早過ぎるな。 だって立つとなればなるたけ早く用意しておいた方が都合が好いからね。 そうですとも。 じゃ縄でも絡げましょう。 男の役だから。 二郎兄さんの機嫌はどうだったい。 別にこれと云う事もありません。 なあに心配なさる事があるもんですか。 大丈夫です。 実はお前にも話したい事があるんだが。 東京へでも帰ったらいずれまたゆっくりね。 ええゆっくり伺いましょう。 おい暑そうだ。 少し扇いでやるが好い。 何よござんす。 もう直ですから。 岡田君お重に何か言伝はないかね。 お重さんにだけですか。 そうさ君の仇敵のお重にさ。 雨のようね。 ええ。 二郎ここはどこだい。 名古屋です。 二郎ついでに妾の足の方も締めておくれな。 御母さんの所も硝子が閉っていないんですか。 先刻呼んだらよく寝ていらっしゃるようでしたから。 御母さんこっちは雨なんか這入りゃしませんよ。 大丈夫ですこの通りだから。 おや雨は這入らないのかい。 這入るものですか。 いつ頃から雨が降り出したか御母さんはちっとも知らなかったよ。 二郎御苦労だったね早く御休み。 もうよっぽど遅いんだろう。 もう好い加減に一郎を起していっしょにあっちへ御出で。 妾達は向へ行って待っているから。 ええ直御後から参ります。 お重お前のようなものがよくあの芳江を預かる事ができるね。 さすがにやっぱり女だなあ。 御父さんもずいぶんな方ね。 お重お前を御父さんがやっぱり女だなとおっしゃったって怒ってるそうだね。 怒ったわ。 まだ怒ってるのかい。 まだってもう忘れちまったわ。 ――綺麗ねこの花は何というんでしょう。 お重しかし女だなあというのはそりゃ賞めた言葉だよ。 女らしい親切な子だというんだ。 怒る奴があるもんか。 どうでもよくってよ。 芳江さんは御母さん子ね。 なぜ御父さんの側に行かないの。 だって。 だってどうしたの。 だって怖いから。 なに。 怖いって。 誰が怖いの。 さあそれで好い。 御父さんから旨いものをちょうだいして。 なるほど面白いですなあ。 おい一郎。 おいお重。 どうもあんな朝貌を賞めなけりゃならないなんて実際恐れ入るね。 親父の酔興にも困っちまう。 兄さん今日は御願だから代りに行ってちょうだい。 どうしました。 例の変り種は。 実は朝貌もあまり思わしくないから来年からはもう止めだ。 そうじゃ無いのよ。 あんまり手数がかかるんで御父さんも根気が尽きちまったのよ。 それでも御父さんだからあれだけにできたんですって皆な賞めていらしったわ。 兄さんは勉強ですか。 ええおおかた来学年の講義でも作ってるんでしょう。 兄さんいよいよ生き甲斐のある時候が来ましたね。 まだ本当の秋の気分にゃなれない。 もう少し経たなくっちゃ駄目だね。 芳江は下にいるかい。 いるでしょう。 先刻裏庭で見たようでした。 おやどこへか行ったかな。 ああ湯に這入っています。 直といっしょかい。 御母さんとかい。 姉さんです。 だいぶ機嫌が好さそうじゃないか。 兄さんは子供をあやす事を知らないから。 おれの綾成す事のできないのは子供ばかりじゃないよ。 おれは自分の子供を綾成す事ができないばかりじゃない。 自分の父や母でさえ綾成す技巧を持っていない。 それどころか肝心のわが妻さえどうしたら綾成せるかいまだに分別がつかないんだ。 この年になるまで学問をした御蔭でそんな技巧は覚える余暇がなかった。 二郎ある技巧は人生を幸福にするためにどうしても必要と見えるね。 でも立派な講義さえできりゃそれですべてを償って余あるから好いでさあ。 おれは講義を作るためばかりに生れた人間じゃない。 しかし講義を作ったり書物を読んだりする必要があるために肝心の人間らしい心持を人間らしく満足させる事ができなくなってしまったのだ。 でなければ先方で満足させてくれる事ができなくなったのだ。 兄さんが考え過ぎるから自分でそう思うんですよ。 それよりかこの好天気を利用して今度の日曜ぐらいにどこかへ遠足でもしようじゃありませんか。 うん。 二郎おれは昔から自然が好きだがつまり人間と合わないのでやむをえず自然の方に心を移す訳になるんだろうかな。 そんな事はないでしょう。 やっぱり家の血統にそう云う傾きがあるんですよ。 御父さんは無論僕でも兄さんの知っていらっしゃる通りですしそれにねあのお重がまた不思議と花や木が好きで今じゃ山水画などを見ると感に堪えたような顔をして時々眺めている事がありますよ。 お貞さんは近頃|嬉しいと見えて妙ににこにこしていますね。 おめでとう。 お貞さん何が嬉しいんですか。 お貞さん結婚の話で顔を赤くするうちが女の花だよ。 行って見るとね結婚は顔を赤くするほど嬉しいものでもなければ恥ずかしいものでもないよ。 それどころか結婚をして一人の人間が二人になると一人でいた時よりも人間の品格が堕落する場合が多い。 恐ろしい目に会う事さえある。 まあ用心が肝心だ。 お貞さん余計な事を話して御気の毒だったね。 今のは冗談だよ。 二郎のような向う見ずに云って聞かせる事をついお貞さん見たいな優しい娘さんに云っちまったんだ。 全くの間違だ。 勘弁してくれたまえ。 今夜は御馳走があるかね。 二郎それじゃ御膳を食べに行こう。 二郎この間の問題もそれぎりになっていたね。 つい書物や講義の事が忙しいものだから聞こう聞こうと思いながらついそのままにしておいてすまない。 そのうちゆっくり聴くつもりだからどうか話してくれ。 この間の問題とは何ですか。 こう時間が経つと何だか気の抜けた麦酒見たようで僕には話し悪くなってしまいましたよ。 しかしせっかくのお約束だから聴くとおっしゃればやらん事もありませんがね。 しかし兄さんのいわゆる生き甲斐のある秋にもなったものだからそんなつまらない事よりまず第一に遠足でもしようじゃありませんか。 うん遠足も好かろうが。 二郎お前がむやみに調戯うからいけない。 ああ云う乙女にはもう少しデリカシーの籠った言葉を使ってやらなくっては。 二郎はまるで堂摺連と同じ事だ。 なに二郎がね。 お貞さんの顔さえ見ればおめでとうだの嬉しい事がありそうだのっていろいろの事を云うから向うでも恥かしがるんです。 今も二階で顔を赤くさせたばかりのところだもんだからすぐ逃げ出したんです。 お貞さんは生れつきからして直とはまるで違ってるんだからこっちでもそのつもりで注意して取り扱ってやらないといけません。 おや今日はお菓子を頂かないで行くの。 おや芳江さん来ないの。 兄さんそのプッジングを妾にちょうだい。 ね好いでしょう。 兄さん佐野さんていったいどんな人なの。 何だそんな藪から棒に。 御前はいったい軽卒でいけないよ。 お重また怒ったな。 ――佐野さんはねこの間云った通り金縁眼鏡をかけたお凸額さんだよ。 それで好いじゃないか。 何遍聞いたって同じ事だ。 お凸額や眼鏡は写真で充分だわ。 何も兄さんから聞かないだって妾知っててよ。 眼があるじゃありませんか。 全体何を聞こうと云うのだい。 全体あなたは何を研究していらしったんです。 佐野さんについて。 佐野さんについてって。 佐野さんの人となりについてです。 だって余まりじゃありませんかお貞さんがあんなに心配しているのに。 だって岡田がたしかだって保証するんだから好いじゃないか。 兄さんは岡田さんをどのくらい信用していらっしゃるんです。 岡田さんはたかが将棋の駒じゃありませんか。 顔は将棋の駒だって何だって。 顔じゃありません。 心が浮いてるんです。 お重御前そんなにお貞さんの事を心配するより自分が早く嫁にでも行く工夫をした方がよっぽど利口だよ。 お父さんやお母さんはお前が片づいてくれる方をお貞さんの結婚よりどのくらい助かると思っているか解りゃしない。 お貞さんの事なんかどうでもいいから早く自分の身体の落ちつくようにして少し親孝行でも心がけるが好い。 じゃ兄さんも早くお嫁を貰って独立したら好いでしょう。 その方が妾が結婚するよりいくら親孝行になるか知れやしない。 厭に嫂さんの肩ばかり持って。 お前は嫂さんに抵抗し過ぎるよ。 当前ですわ。 大兄さんの妹ですもの。 お重気の毒だが風呂場から熱い湯をうがい茶碗にいっぱい持って来てくれないか。 兄さん。 何だ。 何だってそんなに人を馬鹿にするんです。 これでも私はあなたの妹です。 嫂さんはいくらあなたが贔屓にしたってもともと他人じゃありませんか。 お重お前は逆せているよ。 お前がおれの妹で嫂さんが他家から嫁に来た女だぐらいはお前に教わらないでも知ってるさ。 だから私に早く嫁に行けなんて余計な事を云わないであなたこそ早くあなたの好きな嫂さんみたような方をお貰いなすったら好いじゃありませんか。 じゃお前も早く兄さんみたような学者を探して嫁に行ったら好かろう。 御母さんでもいなくなったらどうなさるでしょう。 本当に御気の毒ね。 兄さん見たいに訳の解った人が家庭間の関係で御前などに心配して貰う必要が出て来るものか黙って見ていらっしゃい。 御父さんも御母さんもついていらっしゃるんだから。 御母さんお重も早く片づけてしまわないといけませんね。 お前が云ってくれないでも御父さんだって妾だって心配し抜いているところだよ。 お重ばかりじゃないやね。 御前のお嫁だって蔭じゃどのくらいみんなに手数をかけて探して貰ってるか分りゃしない。 けれどもこればかりは縁だからね。 はあ。 まずお重から片づけるのが順だろう。 お重さんこれお貞さんのよ。 好いでしょう。 あなたも早く佐野さんみたような方の所へいらっしゃいよ。 お重お前の鼓は好いがお前の顔はすこぶる不味いね。 悪い事は云わないから嫁に行った当座はけっして鼓を御打ちでないよ。 いくら御亭主が謡気狂でもああ澄まされた日にゃ愛想を尽かされるだけだから。 まあひどい事をおっしゃる事ずいぶんね。 兄さんあれでも顔の方はまだ上等なのよ。 鼓と来たらそれこそ大変なの。 妾謡の御客があるほど厭な事はないわ。 今日はポンポン鳴らさないのか。 だって今御膳が出るんですもの。 忙しいからって断ったのよ。 二郎ちょうど好いところへ帰って来ておくれだ。 奥へ行って御父さんの謡を聞いていらっしゃい。 何をやるんです。 何だか知らないがね。 早くいらっしゃいよ。 皆さんが待っていらっしゃるんだから。 おい。 なぜそんな暗い所に一人で立っているんだい。 なぜでも。 先刻から何遍も出て来い出て来いって催促するのよ。 だから御母さんに断って少し加減が悪い事にしてあるのよ。 なぜまた今日に限ってそんなに遠慮するんだい。 だって妾鼓なんか打つのはもう厭になっちまったんですもの馬鹿らしくって。 それにこれからやるのなんかむずかしくってとてもできないんですもの。 感心にお前みたような女でも謙遜の道は少々心得ているから偉いね。 どうか拝聴を。 いやどうも。 先刻から少し頭痛がするそうで御挨拶に出られないのを残念がっていました。 お重が心持が悪いなんてまるで鬼の霍乱だな。 先刻|綱の話では腹が痛いように聞いたがそうじゃない頭痛なのかい。 多分両方なんでしょう。 胃腸の熱で頭が痛む事もあるようだから。 しかし心配するほどの病気じゃないようです。 じき癒るでしょう。 じゃ残念だが始めましょうか。 何をやるんです。 何でも景清だそうです。 娘。 男。 松門。 景清。 勇しいものですね。 そうですね。 さすがに我も平家なり物語り申してとか始めてとかいう句がありましたがあのさすがに我も平家なりという言葉が大変面白うございました。 いやあすこは非常に面白く拝聴した。 実はあれについて思い出したが大変興味のある話がある。 ちょうどあの文句を世話に崩して景清を女にしたようなものだから謡よりはよほど艶である。 しかも事実でね。 ついこの間の事でまた実際あった事なんだから御話をするがその発端はずっと古い。 古いたって何も源平時代から説き出すんじゃないからそこは御安心だが何しろ今から二十五六年前ちょうど私の腰弁時代とでも云いましょうかね。 その人は好い人間だ。 好い人間にもいろいろあるがまあ好い人間だ。 今でもそうだから廿歳ぐらいの時分は定めて可愛らしい坊ちゃんだったろう。 元来そいつはね本当の坊ちゃんだから情事なんて洒落た経験はまるでそれまで知らなかったのだそうだ。 当人もまた婦人に慕われるなんて粋事は自分のようなものにとうてい有り得べからざる奇蹟と思っていたのだそうだ。 ところがその奇蹟が突然天から降って来たので大変驚ろいたんですね。 なるほど。 しかもそれが男の方が消極的で女の方が積極的なんだからいよいよ妙ですよ。 私がそいつにその女が君に覚召があると悟ったのはどういう機だと聞いたらね。 真面目な顔をしていろいろ云いましたがそのうちで一番面白いと思ったせいかいまだに覚えているのはそいつが瓦煎餅か何か食ってるところへ女が来て私にもその御煎餅をちょうだいなと云うや否やそいつの食い欠いた残りの半分を引っ手繰って口へ入れたという時なんです。 とにかくその結果はどうなりました。 めでたく結婚したんですか。 いやそこをこれから話そうというのだ。 先刻も云った通り『景清』の趣の出てくるところはこれからさ。 今言ってるところはほんの冒頭だて。 と云うのはね両方共おない年でしょう。 しかも一方は親の脛を噛ってる前途遼遠の書生だし一方は下女奉公でもして暮そうという貧しい召使いなんだからどんな堅い約束をしたってその約束の実行ができる長い年月の間にはどんな故障が起らないとも限らない。 で女が聞いたそうですよ。 あなたが学校を卒業なさると二十五六に御成んなさる。 すると私も同じぐらいに老けてしまう。 それでも御承知ですかってね。 その人は何て答えました。 二郎がきっと何とか聞くだろうと思った。 二郎面白いだろう。 世間にはずいぶんいろいろな人があるもんだよ。 へえ。 実はわしも聞いて見たその男に。 君何て答えたかって。 すると坊ちゃんだねこう云うんだ。 僕は自分の年も先の年も知っていた。 けれども僕が卒業したら女がいくつになるかそこまでは考えていられなかった。 いわんや僕が五十になれば先も五十になるなんて遠い未来は全く頭の中に浮かんで来なかったって。 無邪気なものですね。 全くのところ無邪気だ。 なるほど若いものになるといかにも一図ですな。 ところが一週間|経つか経たないうちにそいつが後悔し始めてねなに女は平気なんだがそいつが自分で恐縮してしまったのさ。 坊ちゃんだけに意気地のない事ったら。 しかし正直ものだからとうとう女に対してまともに結婚破約を申し込んでしかもきまりの悪そうな顔をして御免よとか何とか云って謝罪まったんだってね。 そこへ行くとおない年だって先は女だもの『御免よ』なんて子供らしい言葉を聞けば可愛いくもなるだろうがまた馬鹿馬鹿しくもなるだろうよ。 それだけで済めばまあただの逸話さ。 けれども運命というものは恐しいもので。 馬鹿正直なだけに熱心な男だもんだからとうとう成功した。 その筋道も聞くには聞いたがくだくだしくって忘れちまったよ。 何でも彼がその次に有楽座へ行った時案内者を捕まえて何とかかんとかした上にだいぶ込み入った手数をかけたんだそうだ。 どこにいたんですその女は。 それは秘密だ。 名前や所はいっさい云われない事になっている。 約束だからね。 それは好いがそいつが私にその盲目の女のいる所を訪問してくれと頼むんだね。 何という主意か解らないがつまりは無沙汰見舞のようなものさ。 当人に云わせると学問しただけに鹿爪らしい理窟を何が条も並べるけれども。 つまり過去と現在の中間を結びつけて安心したいのさ。 それにどうして盲目になったかそれが大変当人の神経を悩ましていたと見えてね。 と云っていまさらその女と新しい関係をつける気はなしかつは女房子の手前もあるから自分はわざわざ出かけたくないのさ。 のみならず彼がまた昔その女と別れる時余計な事を饒舌っているんです。 僕は少し学問するつもりだから三十五六にならなければ妻帯しない。 でやむをえずこの間の約束は取消にして貰うんだってね。 ところが奴学校を出るとすぐ結婚しているんだから良心の方から云っちゃあまり心持はよくないのだろう。 それでとうとう私が行く事になった。 まあ馬鹿らしい。 馬鹿らしかったけれどもとうとう行ったよ。 親爺は全くあれで自分の地位を拵え上げたんだね。 実際のところそれが世の中なんだろう。 本式に学問をしたり真面目に考えを纏めたりしたって社会ではちっとも重宝がらない。 ただ軽蔑されるだけだ。 おれのようなものが言句に窮するなんて馬鹿げた恥を話すようだが実際困ったね。 何しろ相手が盲目なんだからね。 どうも御親切に。 これは。 それも御土産の一部分ですどうか一緒に受取っておいて下さい。 もしや金子ではございませんか。 いえ何はなはだ軽少で――しかし○○さんの寸志ですからどうぞ御納め下さい。 私は今|寡婦でございますがこの間まで歴乎とした夫がございました。 子供は今でも丈夫でございます。 たといどんな関係があったにせよ他人さまから金子を頂いては楽に今日を過すようにしておいてくれた夫の位牌に対してすみませんから御返し致します。 これには実に閉口したね。 その時わしは閉口しながらもああ景清を女にしたらやっぱりこんなものじゃなかろうかと思ってね。 本当は感心しましたよ。 どういう訳で景清を思い出したかと云うとね。 ただ双方とも盲目だからと云うばかりじゃない。 どうもその女の態度がね。 全く気込が似ているからですね。 全く気込です。 なるほどそれは面白い御話です。 まだ後があるんだ。 後の方がまだ面白い。 ことに二郎のような若い者が聞くと。 ちょうどあなたの隣に腰をかけていたんだそうです。 あなたの方ではまるで知らなかったでしょうが○○は最初から気がついていたのです。 しかし細君や娘の手前口を利く事もでき悪かったんでしょう。 それなり宅へ帰ったと云っていました。 失礼ながら眼を御煩いになったのはよほど以前の事なんですか。 こういう不自由な身体になってからもう六年ほどにもなりましょうか。 夫が亡くなって一年|経つか経たないうちの事でございます。 生れつきの盲目と違って当座は大変不自由を致しました。 本当に盲目ほど気の毒なものはございませんね。 ○○さんは今何をしておいででございますか。 今じゃなかなか偉くなっていますよ。 私見たいな老朽とは違ってね。 定めてお立派な奥さんをお貰いになったでございましょうね。 ええもう子供が四人あります。 一番お上のはいくつにお成りで。 さようさもう十二三にも成りましょうか。 可愛らしい女の子ですよ。 結構でございます。 ちと暇な時に遊びがてら御嬢さんでも連れて行って御覧なさい。 ちょっと好い家ですよ。 ○○も夜ならたいてい御目にかかれると云っていましたから。 そんな立派な御屋敷へ我々|風情がとても御出入はできませんが。 御出入は致しません。 先様で来いとおっしゃってもこっちで御遠慮しなければなりません。 しかしただ一つ一生の御願に伺っておきたい事がございます。 こうして御目にかかれるのももう二度とない御縁だろうと思いますからどうぞそれだけ聞かして頂いた上心持よく御別れが致したいと存じます。 幸い相手の眼が見えないので自分の周章さ加減を覚られずにすんだ。 私は御覧の通り眼を煩って以来色という色は皆目見えません。 世の中で一番明るい御天道様さえもう拝む事はできなくなりました。 ちょっと表へ出るにも娘の厄介にならなければ用事は足せません。 いくら年を取っても一人で不自由なく歩く事のできる人間が幾人あるかと思うと何の因果でこんな業病に罹ったのかとつくづく辛い心持が致します。 けれどもこの眼は潰れてもさほど苦しいとは存じません。 ただ両方の眼が満足に開いている癖に他の料簡方が解らないのが一番苦しゅうございます。 なるほど。 ごもっとも。 ねえあなたそうではございませんか。 そりゃそんな場合は無論有るでしょう。 有るでしょうではあなたもわざわざ○○さんに御頼まれになってここまでいらしって下すった甲斐がないではございませんか。 おれはそれでも解らないから淡泊にその女に聞いて見た。 せっかく○○に頼まれてわざわざここまで来て肝心な要領を伺わないで引き取ってはあなたに対してはもちろん○○から云っても定めし不本意だろうからどうかあなたの胸を存分私に打明けて下さいませんか。 それでないと私も帰ってから○○に話がし悪いからって。 では申し上げます。 あなたも○○さんの代理にわざわざ尋ねて来て下さるくらいでいらっしゃるから定めし関係の深い御方には違いございませんでしょう。 御父さんはどういう返事をしておやりでしたか。 おれも仕方がないからそりゃ大丈夫僕が受け合う。 本人に軽薄なところはちっともないと答えた。 女はそんな事で満足したんですか。 始は満足しかねた様子だった。 もちろんこっちの云う事がそらそれほど根のある訳でもないんだからね。 本当を云えば先刻お前達に話した通り男の方はまるで坊ちゃんなんで前後の分別も何もないんだから真面目な挨拶はとてもできないのさ。 けれどもそいつがいったん女と関係した後で止せば好かったと後悔したのはどうも事実に違なかろうよ。 この席でこんな御話をするのは少し憚りがあるが。 男は情慾を満足させるまでは女よりも烈しい愛を相手に捧げるがいったん事が成就するとその愛がだんだん下り坂になるに反して女の方は関係がつくとそれからその男をますます慕うようになる。 これが進化論から見ても世間の事実から見ても実際じゃなかろうかと思うのです。 それでその男もこの原則に支配されて後から女に気がなくなった結果結婚を断ったんじゃないでしょうか。 妙な御話ね。 妾女だからそんなむずかしい理窟は知らないけれども始めて伺ったわ。 ずいぶん面白い事があるのね。 そりゃ学理から云えばいろいろ解釈がつくかも知れないけれどもまあ何だね実際はその女が厭になったに相違ないとしたところで当人|面喰らったんだねまず第一に。 その上|小胆で無分別で正直と来ているからそれほど厭でなくっても断りかねないのさ。 しかし女というものはとにかく執念深いものですね。 二十何年もその事を胸の中に畳込んでおくんですからね。 全くのところあなたは好い功徳をなすった。 そう云って安心させてやればその眼の見えない女のためにどのくらい嬉しかったか解りゃしません。 そこがすべての懸合事の気転ですな。 万事そうやれば双方のためにどのくらい都合が好いか知れんです。 いやどうも。 実は今云った通り最初はねそのくらいな事じゃなかなか疑りが解けないんで私も少々弱らせられました。 それをいろいろに光沢をつけたり出鱈目を拵えたりしてとうとう女を納得させちまったんですがずいぶん骨が折れましたよ。 二郎学者ってものは皆なあんな偏屈なものかね。 二郎御前がいなくなると宅は淋しい上にも淋しくなるが早く好い御嫁さんでも貰って別になる工面を御為よ。 ええ外へ出る事なんか訳はありません。 明日からでも出ろとおっしゃれば出ます。 しかし嫁の方はそうちんころのように何でも構わないからただ路に落ちてさえいれば拾って来るというような遣口じゃ僕には不向ですから。 そりゃ無論。 御母さんの前ですが兄さんと姉さんの間ですね。 あれにはいろいろ複雑な事情もありまた僕が固から少し姉さんと知り合だったので御母さんにも御心配をかけてすまないようですけれども大根をいうとね。 兄さんが学問以外の事に時間を費すのが惜いんで万事|人任せにしておいて何事にも手を出さずに華族然と澄ましていたのが悪いんですよ。 いくら研究の時間が大切だって学校の講義が大事だって一生同じ所で同じ生活をしなくっちゃならない吾が妻じゃありませんか。 兄さんに云わしたらまた学者相応の意見もありましょうけれども学者以下の我々にはとてもあんな真似はできませんからね。 二郎お前はお父さんの子だね。 そうです。 おれはお前だから話すが実はうちのお父さんには一種妙におっちょこちょいのところがあるじゃないか。 そりゃあなたのいう遺伝とか性質とかいうものじゃおそらくないでしょう。 今の日本の社会があれでなくっちゃ通させないからやむをえないのじゃないですか。 世の中にゃお父さんどころかまだまだたまらないおっちょこがありますよ。 兄さんは書斎と学校で高尚に日を暮しているから解らないかも知れないけれども。 そりゃおれも知ってる。 お前の云う通りだ。 今の日本の社会は――ことによったら西洋もそうかも知れないけれども――皆な上滑りの御上手ものだけが存在し得るように出来上がっているんだから仕方がない。 しかし二郎お父さんのはお気の毒だけれども持って生れた性質なんだよ。 どんな社会に生きていてもああよりほかに存在の仕方はお父さんに取ってむずかしいんだね。 二郎お前もやっぱりお父さん流だよ。 少しも摯実の気質がない。 そりゃひどい。 僕はとにかくお父さんまで世間の軽薄ものといっしょに見做すのは。 兄さんは独りぼっちで書斎にばかり籠っているからそれでそういう僻んだ観察ばかりなさるんですよ。 じゃ例を挙げて見せようか。 この間|謡の客のあった時に盲女の話をお父さんがしたろう。 あのときお父さんは何とかいう人を立派に代表して行きながらその女が二十何年も解らずに煩悶していた事をただ一口にごまかしている。 おれはあの時その女のために腹の中で泣いた。 女は知らない女だからそれほど同情は起らなかったけれども実をいうとお父さんの軽薄なのに泣いたのだ。 本当に情ないと思った。 そう女みたように解釈すれば何だって軽薄に見えるでしょうけれども。 そんな事を云うところがつまりお父さんの悪いところを受け継いでいる証拠になるだけさ。 おれは直の事をお前に頼んでその報告をいつまでも待っていた。 ところがお前はいつまでも言葉を左右に託して空恍けている。 空恍けてると云われちゃちっと可哀そうですね。 話す機会もなしまた話す必要がないんですもの。 機会は毎日ある。 必要はお前になくてもおれの方にあるからわざわざ頼んだのだ。 兄さんはすでにお父さんを信用なさらず。 僕もそのお父さんの子だという訳で信用なさらないようだが和歌の浦でおっしゃった事とはまるで矛盾していますね。 何が。 何がってあの時あなたはおっしゃったじゃありませんか。 お前は正直なお父さんの血を受けているから信用ができるだからこんな事を打ち明けて頼むんだって。 そりゃ御約束した事ですから嫂さんについてあの時の一部始終を今ここで御話してもいっこう差支えありません。 固より僕はあまり下らない事だから機会が来なければ口を開く考えもなしまた口を開いたってただ一言で済んでしまう事だから兄さんが気にかけない以上何も云う必要を認めないので今日まで控えていたんですから。 ――しかし是非何とか報告をしろと官命で出張した属官流に逼られれば仕方がない。 今|即刻でも僕の見た通りをお話します。 けれどもあらかじめ断っておきますが僕の報告からあなたの予期しているような変な幻はけっして出て来ませんよ。 元々あなたの頭にある幻なんで客観的にはどこにも存在していないんだから。 二郎。 何です。 もうおれはお前に直の事について何も聞かないよ。 そうですか。 その方が兄さんのためにも嫂さんのためにもまた御父さんのためにも好いでしょう。 善良な夫になって御上げなさい。 そうすれば嫂さんだって善良な夫人でさあ。 この馬鹿野郎。 お前はお父さんの子だけあって世渡りはおれより旨いかも知れないが士人の交わりはできない男だ。 なんで今になって直の事をお前の口などから聞こうとするものか。 軽薄児め。 お父さんのような虚偽な自白を聞いた後何で貴様の報告なんか宛にするものか。 芳江お前は。 つまらない。 一面識のないものが寄って会食するよりなおつまらない。 他の家庭もみんなこんな不愉快なものかしら。 君が大阪などでああ長く煩うから悪いんだ。 君がお直さんなどの傍に長くくっついているから悪いんだ。 怒るなよ。 気狂になった女にしかも死んだ女に惚れられたと思って己惚れているおれの方がまあ安全だろう。 その代り心細いには違ない。 しかし面倒は起らないからいくら惚れても惚れられてもいっこう差支えない。 どうだ。 兄さんもお前の忠告してくれた通りいよいよ家を出る事にした。 早く出て上げて下さい。 その代り妾もどんな所でも構わない一日も早くお嫁に行きますから。 兄さんはいったん外へ出たらそれなり家へ帰らずにすぐ奥さんを貰って独立なさるつもりでしょう。 もちろんさ。 何だってそんなに泣くんだ。 だって妾ばかり後へ残って。 お重お前とは好く喧嘩ばかりしたがもう今まで通り啀み合う機会も滅多にあるまい。 さあ仲直りだ。 握手しよう。 どうせ出るならお嫁でもきまってからと思っていたのだが。 ――まあ仕方があるまいよ。 二郎たといお前が家を出たってね。 何ですか。 兄さんにはもう御話しかい。 いいえ。 兄さんにはかえってお前から直下に話した方が好いかも知れないよ。 なまじ御父さんや御母さんから取次ぐとかえって感情を害するかも知れないからね。 ええ僕もそう思っています。 なるたけ綺麗にして出るつもりですから。 大阪の岡田からお貞の結婚についてこの間また問い合せが来たのでその返事を書こう書こうと思いながらとうとう今日まで放っておいたから今日は是非一つその義務を果そうと思って今書いているところだ。 ついでだからそう云っとくが御前の書く拝啓の啓の字は間違っている。 崩すならそこにあるように崩すものだ。 何か用かねまた金じゃないか。 金ならないよ。 永々御厄介になりましたが。 うんそうか。 ちょっとそのベルを押してくれ。 僕が出させましょう。 お前の下宿の番地を書いて御母さんに渡しておきな。 二郎さんあなた下宿なさるんですってね。 宅が厭なの。 ええしばらく出る事にしました。 その方が面倒でなくって好いでしょう。 そうして早く奥さんをお貰いなさい。 早い方が好いわよあなた。 妾探して上げましょうか。 どうぞ願います。 兄さんは。 まだよ。 今日はどこかへ廻る日なのかね。 どうだか知らないわ。 書斎へ行って壁に貼りつけてある時間表を見て来て上げましょうか。 大兄さんがお帰りよ。 まあ顔でも洗っていらっしゃい。 こういう風におしよ。 兄さんちょっと御話がありますが。 こっちへ御這入り。 まあそこへおかけ。 出るなら出るさ。 お前ももう一人前の人間だから。 しかしおれがお前を出したように皆なから思われては迷惑だよ。 そんな事はありません。 ただ自分の都合で出るんですから。 直も芳江も今湯に這入っているようだから誰も上がって来やしない。 そんなにそわそわしないでゆっくり話すが好い電灯でも点けて。 一本八銭だ。 ずいぶん悪い煙草だろう。 いつ出るつもりかね。 今度の土曜あたりにしようかと思ってます。 一人出るのかい。 無論一人で出る気だろう。 誰も連れて行く必要はないんだから。 もちろんです。 ただ一人になって少し新しい空気を吸いたいだけです。 新しい空気はおれも吸いたい。 しかし新しい空気を吸わしてくれる所はこの広い東京に一カ所もない。 ちっと旅行でもなすったらどうです。 少しは晴々するかも知れません。 まだ食事の時間には少し間があるね。 おい二郎もうそうたびたび話す機会もなくなるから飯ができるまでここで話そうじゃないか。 ええ。 お前パオロとフランチェスカの恋を知ってるだろう。 二郎なぜ肝心な夫の名を世間が忘れてパオロとフランチェスカだけ覚えているのか。 その訳を知ってるか。 やっぱり三勝半七見たようなものでしょう。 おれはこう解釈する。 おれはこう解釈する。 人間の作った夫婦という関係よりも自然が醸した恋愛の方が実際神聖だからそれで時を経るに従がって狭い社会の作った窮屈な道徳を脱ぎ棄てて大きな自然の法則を嘆美する声だけが我々の耳を刺戟するように残るのではなかろうか。 もっともその当時はみんな道徳に加勢する。 二人のような関係を不義だと云って咎める。 しかしそれはその事情の起った瞬間を治めるための道義に駆られた云わば通り雨のようなものであとへ残るのはどうしても青天と白日すなわちパオロとフランチェスカさ。 どうだそうは思わんかね。 二郎だから道徳に加勢するものは一時の勝利者には違ないが永久の敗北者だ。 自然に従うものは一時の敗北者だけれども永久の勝利者だ。 ところがおれは一時の勝利者にさえなれない。 永久には無論敗北者だ。 相撲の手を習っても実際力のないものは駄目だろう。 そんな形式に拘泥しないでも実力さえたしかに持っていればその方がきっと勝つ。 勝つのは当り前さ。 四十八手は人間の小刀細工だ。 膂力は自然の賜物だ。 二郎お前は現在も未来も永久に勝利者として存在しようとするつもりだろう。 大変遅くなりました。 さぞ御窮屈でしたろう。 あいにく御湯へ這入っていたものだからすぐ御召を持って来る事ができなくって。 さあお父さんに御帰り遊ばせとおっしゃい。 御帰り。 もう御出掛。 では御機嫌よう。 またちょくちょく遊びにいらっしゃい。 君の兄さんは近来何を研究しているか。 何だか一人で書斎に籠ってやってるようです。 君の兄さんは近頃どうだね。 健康はどうだね。 健康はあまり好い方じゃないです。 少し気をつけないといけないよ。 あまり勉強ばかりしていると。 近頃は少し好いようだよ。 時々裏へ出て芳江をブランコに載せて押してやったりしているからね。 君はたしか下宿したんだったね。 ええ。 なぜ。 家の方が広くって便利だろうじゃないか。 それとも何か面倒な事でもあるのかい。 しかし一人の方がかえって気楽かも知れないね。 大勢ごたごたしているよりも。 ――時に君はまだ独身だろうどうだ早く細君でももっちゃ。 今日は君いやに意気銷沈しているね。 時に君の兄さんだがね。 兄がどうしたって。 いや別にどうしたって事もないが。 そう半分でなく話すなら皆な話してくれないか。 兄がいったいどうしたと云うんだ。 今朝もB先生から同じような事を聞かれて妙な気がしているところだ。 じゃ話そう。 B先生の話も僕のもやっぱり同じHさんから出たのだろうと思うがね。 Hさんのはまた学生から出たのだって云ったよ。 何でもね君の兄さんの講義は平生から明瞭で新しくって大変学生に気受が好いんだそうだがその明瞭な講義中にやはり明瞭ではあるが前後とどうしても辻褄の合わない所が一二箇所出て来るんだってね。 そうしてそれを学生が質問すると君の兄さんは元来正直な人だから何遍も何遍も繰返してそこを説明しようとするがどうしても解らないんだそうだ。 しまいに手を額へ当ててどうも近来頭が少し悪いもんだからとぼんやり硝子窓の外を眺めながらいつまでも立っているんで学生もそんならまたこの次にしましょうと自分の方で引き下がった事が何でも幾遍もあったと云う話さ。 Hさんは僕に今度長野に逢ったら少し注意して見るが好い。 ことによると烈しい神経衰弱なのかも知れないからって云ったが僕もとうとうそれなり忘れてしまって今君の顔を見るまで実は思い出せなかったのだ。 そりゃいつ頃の事だ。 ちょうど君の下宿する前後の事だと思っているが判然した事は覚えていない。 今でもそうなのか。 いやいや。 いやいやそれはほんに一時的の事であったらしい。 この頃では全然平生と変らなくなったようだとHさんが二三日前僕に話したからもう安心だろう。 しかし。 娘さん。 あのお嬢さんの法事には間に合ったのかね。 間に合った。 間に合ったが実にあの娘さんの親達は失敬な厭な奴だ。 あいつらはいくら親だって親類だってただ静かなお祭りでもしている気になって平気でいやがる。 本当に涙を落したのは他人のおれだけだ。 なるほど。 いやそれだけなら何も怒りゃしない。 しかし癪に障ったのはその後だ。 馬鹿にもほどがあるね。 露骨にいえばさあの娘さんを不幸にした原因は僕にある。 精神病にしたのも僕だとこうなるんだね。 そうして離別になった先の亭主はまるで責任のないように思ってるらしいんだから失敬じゃないか。 どうしてまたそう思うんだろう。 そんなはずはないがね。 君の誤解じゃないか。 誤解。 なぜそんなら始めから僕にやろうと云わないんだ。 資産や社会的の地位ばかり目当にして。 いったい君は貰いたいと申し込んだ事でもあるのか。 ないさ。 僕がその娘さんに――その娘さんの大きな潤った眼が僕の胸を絶えず往来するようになったのはすでに精神病に罹ってからの事だもの。 僕に早く帰って来てくれと頼み始めてからだもの。 もっともこの間少し風邪を引いた時妙な囈語を云ったがね。 どんな事を云いました。 なに熱のせいだから心配する事はないんだよ。 熱がそんなに有ったんですか。 それがね熱は三十八度か八度五分ぐらいなんだからそんなはずはないと思ってお医者に聞いて見ると神経衰弱のものは少しの熱でも頭が変になるんだってね。 でも氷で頭を冷したらそのお蔭で熱がすぐ引いたんで安心したけれど。 おい二郎。 おい二郎また御母さんに小遣でも強請ってるんだろう。 お綱お前みたようにそうむやみに二郎の口車に乗っちゃいけないよ。 いいえそんな事じゃありません。 じゃ何だいそんな暗い所でこそこそ御母さんを取っ捉まえて話しているのは。 おい早く光るい所へ面を出せ。 君も君のおのろけを云えばそれで差引損得なしじゃないか。 今度どこかでちょっと見て見ないか。 相変らず二郎さんは呑気だね。 二郎さん今になって下宿するなんてそんな馬鹿がありますか家が淋しくなるだけじゃありませんか。 ねえお直さん。 もっとも一郎さんも善くないと僕は思いますよ。 そうあなた書斎にばかり引っ込んで勉強していたってつまらないじゃありませんか。 もうあなたぐらい学問をすればどこへ出たって引けを取るんじゃないんだからね。 しかし二郎さん始めお直さんや叔母さんも好くないようですね。 一郎は書斎よりほかは嫌いだ嫌いだって云っときながら僕が来てこう引っ張り出せば訳なく二階から下りて来て僕と面白そうに話してくれるじゃありませんか。 そうでしょう一郎さん。 ねえ叔母さん。 ねえお重さん。 岡田さんあなたいくら年を取っても饒舌る病気が癒らないのね。 騒々しいわよ。 叔父さんちょっといらっしゃい。 何だい。 これお貞さんのよ見せたげましょうか。 これもよ。 これもよ。 これ卵甲よ。 本当の鼈甲じゃないんだって。 本当の鼈甲は高過ぎるからおやめにしたんですって。 これ一番安いのよ。 四方張よか安いのよ。 玉子の白味で貼り付けるんだから。 玉子の白味でどこをどう貼り付けるんだい。 そんな事知らないわ。 これじゃあまり閑静過ぎやしませんか年に合わして。 でもねあんまり高くなるから。 これでも御前二十五円かかったんだよ。 お貞さんはどこにいるんです。 ああ忘れた。 行く前にちょっとお貞さんに話があるんだった。 ちょっと失敬。 さあどうぞ。 今ちょっと御書斎まで参らなければなりませんからいずれのちほど。 あらそこへ障っちゃ厭ですよ。 あのお貞さんは手へも白粉を塗けたのよ。 大変真白になったな。 亭主を欺瞞すんだから善くない。 あしたになったら旦那様がさぞ驚くでしょう。 この髷でそんな重いものを差したらさぞ苦しいでしょうね。 いくら重くっても生涯に一度はね。 仕度はまだか。 じゃはなはだ御迷惑だけど一郎さんとお直さんに引き受けていただきましょうかこの場|限り。 好かろうよ。 どうでも。 どうでも。 しかし僕らのような夫婦が媒妁人になっちゃ少し御両人のために悪いだろう。 悪いなんて――僕がするより名誉でさあね。 ねえ二郎さん。 じゃ生れて初めての大役を引き受けて見るかな。 しかし何にも知らないんだから。 何向うで何もかも教えてくれるから世話はない。 お前達は何もしないで済むようにちゃんと拵えてあるんだ。 岡田さんは実に呑気だね。 なぜです。 実は伴れて来ようと思ったんですがねまあどうかなるだろうと思って。 大兄さんの時より淋しいのね。 御前の嫁に行く時はあの時ぐらい賑かにしてやるよ。 お貞さんはどうしているでしょうね。 どうしているでしょうって――お前の所へ何とも云って来ないのか。 来る事は来るわ。 兄さんはどうだい。 どうだいってあなたこそ悪いわ。 家へ来ても兄さんに逢わずに帰るんだから。 わざわざ避けるんじゃない。 行ってもいつでも留守なんだから仕方がない。 嘘をおっしゃい。 この間来た時も書斎へ這入らずに逃げた癖に。 大兄さんもずいぶん変人ね。 あたし今になって全くあなたが喧嘩して出たのも無理はないと思うわ。 この頃は方々で風邪が流行るから気をおつけ。 お父さんも二三日前から咽喉が痛いって湿布をしてお出でだよ。 二郎ここだけの話だがいったいお直の気立は好いのかね悪いのかね。 何かまた心配になるような事でもできたのですか。 なに別にこれと云って変った事はないんだがね。 二郎さんの下宿は高等下宿なんですってね。 お室に立派な床があって庭に好い梅が植えてあるって云う話じゃありませんか。 今度拝見に行きますよ。 見にいらっしゃい。 そうだね。 あのお嬢さんももう年頃だからそろそろどこかへ片づける必要が逼って来るだろうね。 早く好い所を見つけて嬉しがらせてやりたまえ。 風呂かい。 いいえ。 何だい突立ったまま。 御客様です。 三沢だろう。 いいえ女の方です。 女の人。 こちらへ御通し申しますか。 何という人だい。 知りません。 知りませんって名前を聞かないでむやみに人の室へ客を案内する奴があるかい。 だって聞いてもおっしゃらないんですもの。 好くこんな寒い晩に御出かけでした。 ええ。 さあこっちへいらっしゃい。 そうお客扱いにしちゃ厭よ。 まあ好いからそこへ坐って下さい。 二郎さんあなたも手を出して御あたりなさいな。 なるほど好い御室ねそうして静だ事。 夜だから好く見えるんです。 昼間来て御覧なさいずいぶん汚ならしい室ですよ。 何で来たのだろう。 何でこの寒いのにわざわざ来たのだろう。 何でわざわざ晩になって灯が点いてから来たのだろう。 冴え返って寒くなりましたね。 雨の降るのに好く御出かけですね。 どうして今頃御出かけです。 二郎さんはしばらく会わないうちに急に改まっちまったのね。 そんな事はありません。 いいえそうよ。 何をなさるの。 一つどうです。 食べませんか。 あなたもずいぶんねその御萩は昨日宅から持たせて上げたんじゃありませんか。 大変|御無沙汰をしていますがあちらでも別にお変りはありませんか。 ええありがとう別に。 御無沙汰って云えばあなた番町へもずいぶん御無沙汰ね。 なぜ元のようにちょくちょくいらっしゃらないの。 少し仕事の方が忙しいもんですから。 そう。 本当に。 そうじゃないでしょう。 あなたは大胆過ぎる。 本当に忙がしいのです。 実はこの間から少し勉強しようと思ってそろそろその準備に取りかかったもんですからつい近頃はどこへも出る気にならないんです。 僕はいつまでこんな事をしてぐずぐずしていたってつまらないから今のうち少し本でも読んでおいてもう少ししたら外国へでも行って見たいと思ってるんだから。 外国って洋行。 まあそうです。 結構ね。 御父さんに願って早くやって御頂きなさい。 妾話して上げましょうか。 お父さんは駄目ですよ。 男は気楽なものね。 ちっとも気楽じゃありません。 だって厭になればどこへでも勝手に飛んで歩けるじゃありませんか。 相変らずですわ。 何心配するほどの事じゃなくってよ。 なぜだか分らないのよ。 どうせ妾がこんな馬鹿に生れたんだから仕方がないわ。 いくらどうしたってなるようになるよりほかに道はないんだから。 そう思って諦らめていればそれまでよ。 男は厭になりさえすれば二郎さん見たいにどこへでも飛んで行けるけれども女はそうは行きませんから。 妾なんかちょうど親の手で植付けられた鉢植のようなもので一遍植えられたが最後誰か来て動かしてくれない以上とても動けやしません。 じっとしているだけです。 立枯になるまでじっとしているよりほかに仕方がないんですもの。 兄さんはただ機嫌が悪いだけなんでしょうね。 ほかにどこも変ったところはありませんか。 そうね。 そりゃ何とも云えないわ。 人間だからいつどんな病気に罹らないとも限らないから。 もう帰りましょう。 ――二郎さん御迷惑でしたろうこんな厭な話を聞かせて。 妾今まで誰にもした事はないのよこんな事。 今日自分の宅へ行ってさえ黙ってるくらいですもの。 なぜそう堅苦しくしていらっしゃるの。 別段堅苦しくはしていません。 だって反っ繰り返ってるじゃありませんか。 吃驚したでしょう。 御前は二郎かい。 そうです。 明日の朝ちょっと行くが好いかい。 へえ。 差支えがあるかい。 いえ別に。 じゃ待っててくれ好いだろうね。 さようなら。 もっと早くおいでだろうと思って先刻から待っていました。 おおかた床の中で待ってたんだろう。 早いのはいくら早くっても驚かないが御前に気の毒だからわざと遅く出かけたのさ。 好い室だね。 御早う。 ちょうど好いね。 これなら持って行っても好い。 この棒ひとり動かずさわれば動く。 御前は笑うがね。 これでも渋いものだよ。 立派な茶懸になるんだから。 誰でしたっけね書き手は。 それは分らないがいずれ大徳寺か何か。 そうそう。 この棒の意味が解るか。 ふうんなるほど。 大いに人意を強うするに足るものだ。 なぜ。 唐紙に貼ってあったのを剥がして懸物にしたのだね。 もうじき花が咲くね。 咲きますね。 精養軒で飯でも食うか。 何かあるんですよ今日は。 おおかた貸し切りなんでしょう。 なるほど。 今日は二十三日だったね。 つい忘れていた。 一週間ばかり前に招待状が来ていたっけ。 一郎と直と二人の名宛で。 Kさんはまだ結婚しなかったのですかね。 そうさ。 善く知らないがまさか二度目じゃなかろうよ。 ここは往来がよく見える。 ことに寄ると一郎が絹帽を被って通るかも知れないよ。 嫂さんもいっしょなんですか。 さあ。 どうかね。 やあいつの間にか勧工場が活動に変化しているね。 ちっとも知らなかった。 いつ変ったんだろう。 どうも驚くね世の中の早く変るには。 そう思うとおれなぞもいつ死ぬか分らない。 用があるのかい。 ええ少し。 まあ好いから宅までおいで。 いいからおいでよ。 自分の宅じゃないか。 たまには来るものだ。 宅じゃ近頃御前が来ないのでみんな不思議がってるんだぜ。 二郎はどうしたんだろうって。 遠慮が無沙汰というが御前のは無遠慮が無沙汰になるんだからなお悪い。 そう云う訳でもありませんが。 何しろ来るが好い。 言訳は宅へ行って御母さんにたんとするさ。 おれはただ引っ張って行く役なんだから。 御母さんは驚いているよ。 御彼岸に御萩を持たせてやっても返事も寄こさなければ重箱を返しもしないって。 ちょっとでも好いから来ればいいのさ。 来られない訳が急にできた訳でもあるまいし。 今日は久しぶりに御前を伴れて行って皆なに会わせようと思って。 ――御前一郎に近頃会った事はあるまい。 ええ実は下宿をする時|挨拶をしたぎりです。 それ見ろ。 ところが今日はあいにく一郎が留守だがね。 御父さんが上野の披露会の事を忘れていたのが悪かったけれども。 おや珍らしいね。 そら迷子が帰って来た。 いらっしゃい。 春になったから皆なもちっと陽気にしなくっちゃいけない。 この頃のように黙ってばかりいちゃまるで幽霊屋敷のようでくさくさするだけだあね。 桐畠でさえ立派な家が建つ時節じゃないか。 お重お前の室をちょっと御見せ。 綺麗になったって威張ってたから見てやろう。 当り前よ威張るだけの事はあるんだから行って御覧なさい。 なるほど。 ハイカラじゃないか。 ハイカラよ。 近頃兄さんはどうだい。 そりゃ変なのよ。 つまり兄さんが家のものとあんまり口を利かないと云うんだろう。 ええそうよ。 じゃ僕の家を出た時と同じ事じゃないか。 まあそうよ。 それペン皿よ。 灰皿じゃないわよ。 お重今兄さんはここを抓ったがお前の腕もそこが痛かったろう。 お重お前の咽喉は今何か飲む時のようにぐびぐび鳴りやしないか。 妾説明を聞くまではきっと気が変になったんだと思って吃驚りしたわ。 兄さんは後で仏蘭西の何とかいう人のやった実験だって教えてくれたのよ。 そうしてお前は感受性が鈍いから罹らないんだって云うのよ。 妾嬉しかったわ。 なぜ。 だってそんなものに罹るのはコレラに罹るより厭だわ妾。 そんなに厭かい。 きまってるじゃありませんか。 だけど気味が悪いわねいくら学問だってそんな事をしちゃ。 ああ育てるつもりじゃなかったんだがね。 あれじゃ困りますよ。 どうしたものだろう。 変人なんだから今までもよくこんな事があったには有ったんだが変人だけにすぐ癒ったもんだがね。 不思議だよ今度は。 本当に困っちまうよ妾だって。 腹も立つが気の毒でもあるしね。 じゃ二三日うちに三沢の所へ行って三沢からでも話して貰うかまた様子によったら僕がじかに行って話すかどっちかにしましょう。 芳江大変大きくなったね。 この両三日はめっきりお暖かになりました。 もうそろそろ花も咲くでございましょう。 何だか存じませんが好だものでございますからむやみと貼散らかしまして。 あれもこの間いたずらに描きましたので。 面白いです。 写真を台にして描いたんだから気分がよく出ないいっそ生きてるうちに描かして貰えば好かったなんて申しておりました。 不幸な方で二三年前に亡くなりました。 せっかく御世話をして上げた御嫁入先も不縁でねあなた。 あれもいろいろ御心配をかけましたが今度ようやくきまりまして。 君どうかしたか。 父や母が心配するのをただ黙って見ているのも気の毒だから。 じゃ君といっしょに行こうじゃないか。 いっしょの方が僕一人より好かろう精しい話ができて。 君母が久しぶりだから君に飯を食わせたいって今|支度をしているところなんだがね。 どうも何にもございませんのに御引留め申しましてさぞ御迷惑でございましたろう。 ほんの有合せで。 珍らしいお客さんを連れて来たね。 兄さんは相変らず勉強ですか。 ああ勉強してはいけないね。 そりゃ少し妙ですねそんなはずはなさそうだがね。 兄さんはここで晩飯を食ったくらいなんだからね。 どうも少しも不断と違ったところはないようでしたよ。 なに別に家庭の事なんか一口も云やしませんよ。 そりゃ動揺はしていますね。 御宅の方の関係があるかないかそこは僕にも解らないが何しろ思想の上で動揺して落ちつかないで弱っている事はたしかなようです。 だからこの際旅行は至極好いでしょうよ。 そう云う訳なら一つ勧めて見ましょう。 しかしうんと云ってすぐ承知するかね。 なかなか動かない人だからことによるとむずかしいね。 あなたのおっしゃる事なら素直に聞くだろうと思うんですが。 そうも行かんさ。 どうも旨く行かないそうだ。 それでわざわざ来てくれたのかい。 まあそうだ。 どうも御苦労さますまない。 Hさんはああ云う人だから自分の責任のように気の毒がっている。 今度は事があまり突然なので旨く行かなかったがこの次の夏休みには是非どこかへ連れ出すつもりだと云っていた。 しかしまあ仕方がない。 元々こっちで勝手なプログラムを拵えておいてそれに当てはまるように兄を自由に動かそうというんだから。 だから僕のいう通りにすれば好いんだ。 君兄さんを旅行させるの快活にするのって心配するより自分で早く結婚した方が好かないか。 その方がつまり君の得だぜ。 じゃ君のいう通りにするから本当に相手を出してくれるかい。 本当に僕のいう通りにすれば本当に好いのを出す。 君の未来の細君はやっぱりああいう顔立なんだろう。 さあどうかな。 いずれそのうち引き合わせるから見てくれたまえ。 結婚式はいつだい。 ことによると向うの都合で秋まで延ばすかも知れない。 六月二日音楽演習相催し候間同日午後一時より御来聴|被下度候此段御案内申進|候也。 Hさんは嘘を吐かない人だ。 Hさんはとうとう君の兄さんを説き伏せた。 この六月学校の講義を切り上げ次第二人はどこかへ旅をする事に約束ができたそうだ。 そこいらへおかけなすって。 あれが織田信長の紋ですよ。 信長が王室の式微を慨いてあの幕を献上したというのが始まりでそれから以後は必ずあの木瓜の紋の付いた幕を張る事になってるんだそうです。 今日は教育会があるので来られない。 あれが僕の妻になるべき人だ。 もう一人の女ね。 もう一人の女はね。 もう一人の女。 もう一人の女。 どうだい。 御苦労さま。 どうですあちらへいらしって煙草でも御呑みになっちゃ。 喫煙室はあすこの突き当りです。 とうとう役者になったんだそうだ。 儲かるのかね。 ええ儲かるんだろう。 この間何とかをやるという事が新聞に出ていたがあの人なんですか。 ええそうだそうです。 もう一人の女。 どうだい気に入らないかね。 顔は好いね。 顔だけかい。 あとは分らないがしかし少し旧式じゃないか。 何でも遠慮さえすればそれが礼儀だと思ってるようだね。 家庭が家庭だからな。 しかしああいうのが間違がないんだよ。 兄の事も今日君に会ったらよく聞こうと思っていたんだがいよいよHさんの云う通りになったんだね。 Hさんはわざわざ僕を呼び寄せてそう云ったくらいなんだから間違はないさ。 大丈夫だよ。 どこへ行くんだろう。 そりゃ知らない。 ――どこだって好いじゃないか行きさいすりゃあ。 それより片っ方のほうを積極的にどしどし進行させようじゃないか。 しかし君の意志が解らなかったから。 いい案排でした。 実は今あしたの講義で苦しんでいるところなんですがね。 もし急用でなければ今日は御免を蒙りたい。 じゃ御気の毒だがそうして下さい。 なるべく早く講義を切り上げて兄さんといっしょに旅行しようと云う訳なんだからね。 さあどこへ行くかね。 まだ海とも山ともきめていないんだが。 少しそれについて御願があるんですが。 はなはだ御迷惑かも知れませんが兄といっしょに旅行される間兄の挙動なり言語なり思想なり感情なりについてあなたの御観察になったところをできるだけ詳しく書いて報知していただく訳には行きますまいか。 その辺が明瞭になると宅でも兄の取扱上大変|便宜を得るだろうと思うんですが。 そうさね。 絶対にできない事もないがちっとむずかしそうですね。 だいち時間がないじゃないか君そんな事をする。 よし時間があっても必要がないだろう。 それより僕らが旅行から帰ったらゆっくり聞きに来たら好いじゃありませんか。 実は父や母が心配してできるなら旅行中の模様を経過の一段落ごとに承知したいと云うんですが。 君そんなに心配する事はありませんよ。 大丈夫だよ僕が受け合うよ。 しかし年寄ですから。 困るねそれじゃ。 だから年寄は嫌いなんだ。 宅へ行ってそう云いたまえな大丈夫だって。 何とか好い工夫はないもんでしょうか。 あなたの御迷惑にならないでそうして父や母を満足させるような。 そんな重宝な工夫があるものかね君。 ――しかしせっかくの御依頼だからこうしよう。 もし旅先で報道するに足るような事が起ったら君の所へ手紙を上げると。 もし手紙が行かなかったら平生の通りだと思って安心していると。 それでよかろう。 それで結構です。 しかし出来事という意味を俗にいう不慮の出来事と取らずにあなたが御観察になる兄の感情なり思想のうちでこれは尋常でないと御気づきになったものに応用していただけましょうか。 なかなか面倒だね事が。 しかしまあいいやそうしてもいい。 それからことによると僕の事だの母の事だの家庭の事などが兄の口に上るかも知れませんがそれを御遠慮なく一々聞かしていただきたいと思いますが。 うんそりゃ差支えない限り知らせて上げましょう。 差支えがあっても構わないから聞かしていただきたい。 それでないと宅のものが困りますから。 あすこへ大きな蟇が出るんですよ。 君の縁談はどうなりました。 この間三沢が来て好いのを見つけてやったって得意になっていましたよ。 ええ三沢もずいぶん世話好ですから。 ところが万更世話好ばかりでやってるんでもないようですよ。 だから君も好い加減に貰っちまったら好いじゃありませんか。 器量は悪かないって話じゃないか。 君には気に入らんのかね。 気に入らんのじゃありません。 はあやっぱり気に入ったのかい。 どうするね。 僕は職業の上ではふわふわして浪人のように暮しているが家庭の人としてならこれでも一定の方針に支配されて着々固まって行きつつあるつもりだ。 ところが君はまるで反対だね。 一家の主人となるとか他の夫になるとかいう方面には故意に意志の働きを鈍らせる癖に職業の問題になると手っ取早く片づけてちゃんと落ちついているんだから。 あんまり落ちついてもいないさ。 ついこの間までは洋行するってしきりに騒いでいたじゃないか。 そう万事|的にならなくっちゃ駄目だ。 僕だけ君の結婚問題を真面目に考えるのは馬鹿馬鹿しい訳だ。 断っちまおう。 いったい先方ではどういうんだ。 君は僕ばかり責めるがね僕には向うの意志が少しも解らないじゃないか。 解るはずがないよ。 まだ何にも話してないんだもの。 君の考えが纏まらない以上はどうする事もできないよ。 じゃもう少し考えて見よう。 兄さんは今朝お立ちよ。 お父さんがあなたへ知らせておけとおっしゃるからちょっと御呼び申しました。 Hさんといっしょなんでしょうね。 ええ。 どこへ行ったんですか。 何でも伊豆の海岸を廻るとかいう御話しでした。 じゃ船ですか。 いいえやっぱり新橋から。 今朝ほどは失礼。 おや吃驚したわ誰かと思ったら二郎さん。 今京橋から御帰り。 ええ暑くなりましたね。 御父さんは。 御父さんは御留守よ。 今日は築地で何かあるんですって。 精養軒。 じゃないでしょう。 多分ほかの御茶屋だと思うんだけれども。 お母さんは。 お母さんは今御風呂。 お重は。 お重さんも。 風呂ですか。 いいえいないの。 宅じゃもう氷を取るんですか。 ええ二三日前から冷蔵庫を使っているのよ。 兄さんはそれでもよく思い切って旅に出かけましたね。 僕はことによると今度もまた延ばすかも知れないと思ってたんだが。 延ばしゃなさらないわよ。 そりゃ兄さんは義理堅いからHさんと約束した以上それを実行するつもりだったには違ないけれども。 そんな意味じゃないのよ。 そんな意味じゃなくってそうして延ばさないのよ。 じゃどんな意味で延ばさないんです。 どんな意味って――解ってるじゃありませんか。 僕には解らない。 兄さんは妾に愛想を尽かしているのよ。 愛想づかしに旅行したというんですか。 いいえ愛想を尽かしてしまったからそれで旅行に出かけたというのよ。 つまり妾を妻と思っていらっしゃらないのよ。 だから。 だから妾の事なんかどうでも構わないのよ。 だから旅に出かけたのよ。 おやいつ来たの。 もう好い加減に芳江を起さないとまた晩に寝ないで困るよ。 起きたらすぐ湯に入れておやんなさいよ。 ええ。 芳江は昼寝ですかどうれで静だと思った。 先刻何だか拗ねて泣いてたらそれっきり寝ちまったんだよ。 何ぼなんでももう五時だから好い加減に起してやらなくっちゃ。 おい早く来て坐らないか。 みんな御前の湯から上るのを待ってたんだ。 そんなに急き立てなくったってよかないの。 たまに来たお客さまの癖に。 御客さまだと思うならそんな大きなお尻を向けないで早くここへ来てお坐りよ。 蒼蠅いわよ。 いったいこの暑いのに一人でどこをほっつき歩いてたんだい。 どこでも余計な御世話よ。 ほっつき歩くだなんて第一言葉使からしてあなたは下品よ。 ――好いわ今日坂田さんの所へ行って兄さんの秘密をすっかり聞いて来たから。 好くってみんなに話しても。 だって御前は今兄さんの秘密だと明言したじゃないか。 ええ秘密よ。 秘密なら話してよくないにきまってるじゃないか。 それを話すから面白いのよ。 お重御前は論理学でいうコントラジクション・イン・タームスという事を知らないだろう。 よくってよ。 そんな高慢ちきな英語なんか使って他が知らないと思って。 もう二人とも止しにおしよ。 何だね面白くもない十五六の子供じゃあるまいし。 まだそう燥いていないんだから好い加減にしておおき。 御母さん兄さんは妾達に隠れてこの間見合をなすったんですって。 隠れて見合なんかするものか。 いいえたしかな筋からちゃんと聞いて来たんだからいくら白ばっくれてももう駄目よ。 馬鹿だなお前は。 馬鹿でもいいわよ。 兄さんが妾達に黙っているのはきっと打ち明けて云い悪い訳があるからなのよ。 ねそうでしょう兄さん。 どうでも好いや。 ただそれだけの事なんです。 しかも向じゃ全く知らないんだからそのつもりでいて下さい。 お重見たいに好い加減な事を云い触らすと僕はどうでも構わんにしたところで先方が迷惑するかも知れませんから。 長野君を誘って旅へ出るときあなたから頼まれた事をいったん引き受けるには引き受けたがいざとなって見るととても実行はできまいまたできてもする必要があるまいもしくは必要と不必要にかかわらずするのは好もしい事でなかろう――こういう考えでいました。 旅行を始めてから一日二日はこの三つの事情のすべてかあるいは幾分かが常に働くのでこれではせっかくの約束も反古にしなければならないという気が強く募りました。 それが三日四日となった時少し考えさせられました。 五日六日と日を重ねるに従って考えるばかりでなく約束通りあなたに手紙を上げるのがあるいは必要かも知れないと思うようになりました。 もっともここにいう必要という意味があなたと私とでだいぶ違うかも知れませんがそれはこの手紙をしまいまで御読みになれば解る事ですから説明はしません。 それから当初私の抱いた好もしくないという倫理上の感じこれはいくら日数を経過しても取去る訳には行きませんが片方にある必要の度が自然それを抑えつけるほど強くなって来た事もまた確であります。 おそらく手紙を書いている暇があるまい。 ――この故障だけは始めあなたに申上げた通りどこまでもつけ纏って離れませんでした。 我々二人はいっしょの室に寝ますいっしょの室で飯を食います散歩に出る時もいっしょです湯も風呂場の構造が許す限りはいっしょに這入ります。 こう数え立てて見ると別々に行動するのはまあ厠に上る時ぐらいなものなのですから。 無論我々二人は朝から晩までのべつに喋舌り続けている訳ではありません。 御互が勝手な書物を手にしている時もあります黙って寝転んでいる事もあります。 しかし現にその人のいる前でその人の事を知らん顔で書いてそうしてそれをそっと他に知らせるのはちょっと私にとってはでき悪いのです。 書くべき必要を認め出した私もこれには弱りました。 いくら書く機会を見つけよう見つけようと思ってもそんな機会の出て来るはずがないのですから。 しかし偶然はついに私の手を導いて私に私の必要と認める仕事をさせるようにしてくれました。 私はそれほど兄さんに気兼をせずにこの手紙を書き初めました。 そうして同じ状態の下にそれを書き終る事を希望します。 二十九我々は二三日前からこの紅が谷の奥に来て疲れた身体を谷と谷の間に放り出しました。 いる所は私の親戚のもっている小さい別荘です。 所有主は八月にならないと東京を離れる事がむずかしいのでその前ならいつでも君方に用立てて宜しいと云った言葉をはからず旅行中に利用する訳になったのであります。 別荘というと大変|人聞が好いようですがその実ははなはだ見苦しい手狭なもので構えからいうとちょうど東京の場末にある四五十円の安官吏の住居です。 しかし田舎だけに邸内の地面には多少の余裕があります。 庭だか菜園だか分らないものが軒から爪下りに向うの垣根まで続いています。 その垣には珊瑚樹の実が一面に結っていて葉越に隣の藁屋根が四半分ほど見えます。 同じ軒の下から谷を隔てて向うの山も手に取るように見えます。 この山全体がある伯爵の別荘地で時には浴衣の色が樹の間から見えたり女の声が崖の上で響いたりします。 その崖の頂には高い松が空を突くように聳えています。 我々は低い軒の下から朝夕この松を見上るのを高尚な課業のように心得て暮しています。 今まで通って来たうちで君の兄さんにはここが一番気に入ったようです。 それにはいろいろな意味があるかも知れませんが二人ぎりで独立した一軒の家の主人になりすまされたという気分が人慣れない兄さんの胸に一種の落ちつきを与えるのがその大原因だろうと思います。 今までどこへ泊ってもよく寝られなかった兄さんはここへ来た晩からよく寝ます。 現に今私がこうやって万年筆を走らしている間もぐうぐう寝ています。 もう一つここへ来てから偶然の恩恵に浴したと思うのは普通の宿屋のように二人が始終膝を突き合わして一つの部屋にごろごろしていないですむ事です。 家は今申した通り手狭至極なものであります。 門を出て右の坂上にある或る長者の拵えた西洋館などに比べると全くの燐寸箱に過ぎません。 それでも垣を囲らして四方から切り離した独立の一軒家です。 窮屈ではあるが間数は五つほどあります。 兄さんと私は一つ座敷に吊った一つ蚊帳の中に寝ます。 しかし宿屋と違って同じ時間に起きる必要はありません。 片方が起きても片方は寝たいだけ寝ていられます。 私は兄さんをそっとしておいて次の座敷に据えてある一閑張の机に向う事ができます。 昼もその通りです。 二人差向いでいるのが苦痛になればどっちかが勝手に姿を隠して自分に都合のいい事を好な時間だけやります。 それから適当な頃にまた出て来て顔を見せます。 私はこういう偶然を利用してこの手紙を書くのであります。 そうしてこの偶然を思いがけなく利用する事のできた自分をあなたのために仕合せと考えます。 同時にそれを利用する必要を認め出した自分を自分のために遺憾だと思います。 私のいう事は順序からいうと日記体に纏まっておりません。 分類からいうと科学的に区別が立たないかも知れません。 しかしそれは汽車俥宿すべて規則的な仕事を妨げる旅行というものの障害と平気で取りかかりにくいというその仕事の性質とが破壊的に働いた結果と思っていただくより仕方がありません。 断片的にせよ下に述べるだけの事をあなたに報道し得るのがすでに私には意外なのであります。 全く偶然の御蔭なのであります。 三十我々は二人とも大した旅行癖のない男です。 したがって我々の編み上げた旅程もまた経験相応に平凡でした。 近くて便利な所を人並に廻って歩けばそれで目的の大半は達せられるくらいな考えでまず相模伊豆|辺をぼんやり心がけました。 それでも私の方が兄さんよりはまだましでした。 私は主要な場所とそこへ行くべき交通機関とをほぼ承知していましたが兄さんに至ってはほとんど地理や方角を超越していました。 兄さんは国府津が小田原の手前か先か知りませんでした。 知らないというよりむしろ構わないのでしょう。 これほど一方に無頓着な兄さんがなぜ人事上のあらゆる方面に同じ平然たる態度を見せる事ができないのかと思うと私は実際不思議な感に打たれざるを得ません。 しかしそれは余事です。 話が逸れると戻り悪くなりますからなるべく本流を伝って筋を離れないように進む事にしましょう。 我々は始め逗子を基点として出発する事に相談をきめていました。 ところがその朝新橋へ駆けつける俥の上でふと私の考えが変りました。 いかに平凡な旅行にしても真先に逗子へ行くのはあまりに平凡過ぎて気が進まなくなったのです。 私は停車場で兄さんに相談の仕直しをやりました。 私は行程を逆にしてまず沼津から修善寺へ出てそれから山越に伊東の方へ下りようと云いました。 小田原と国府津の後先さえ知らない兄さんに異存のあるはずがないので我々はすぐ沼津までの切符を買ってそのまま東海道行の汽車に乗り込みました。 汽車中では報知に値するような事が別に起りませんでした。 先方へ着いても風呂へ入ったり飯を食ったり茶を飲んだりする間はこれといって目に着く点もなかったのです。 私は兄さんについてこれはことによると家族の人の参考のために知らせておく必要があるかも知れないと思い出したのはその日の晩になってからであります。 寝るには早過ぎました。 話にはもう飽きました。 私は旅行中に誰でも経験する一種の徒然に襲われました。 ふと床の間の脇を見るとそこに重そうな碁盤が一面あったので私はすぐそれを室の真中へ持ち出しました。 無論兄さんを相手に黒白を争うつもりでした。 あなたは御存じだかどうだか知りませんが私は学校にいた時分これでよく兄さんと碁を打ったものです。 その後二人とも申し合せたようにぴたりとやめてしまいましたがこの場合二人が持て余している時間を面白く過ごすには碁盤が屈強の道具に違なかったのです。 兄さんはしばらく碁盤を眺めていました。 そうしておいて「まあ止そう。 そう云わずにやろうじゃないか。 いやいやまあ止そう。 やろう。 よろしい。 いや碁に限った訳じゃない。 自分のしている事が自分の目的になっていないほど苦しい事はない。 目的でなくっても方便になれば好いじゃないか。 それは結構である。 ある目的があればこそ方便が定められるのだから。 君のいうような不安は人間全体の不安で何も君一人だけが苦しんでいるのじゃないと覚ればそれまでじゃないか。 つまりそう流転して行くのが我々の運命なんだから。 人間の不安は科学の発展から来る。 進んで止まる事を知らない科学はかつて我々に止まる事を許してくれた事がない。 徒歩から俥俥から馬車馬車から汽車汽車から自動車それから航空船それから飛行機とどこまで行っても休ませてくれない。 どこまで伴れて行かれるか分らない。 実に恐ろしい。 そりゃ恐ろしい。 君の恐ろしいというのは恐ろしいという言葉を使っても差支えないという意味だろう。 実際恐ろしいんじゃないだろう。 つまり頭の恐ろしさに過ぎないんだろう。 僕のは違う。 僕のは心臓の恐ろしさだ。 脈を打つ活きた恐ろしさだ。 すべての人の運命なら君一人そう恐ろしがる必要がない。 必要がなくても事実がある。 人間全体が幾世紀かの後に到着すべき運命を僕は僕一人で僕一代のうちに経過しなければならないから恐ろしい。 一代のうちならまだしもだが十年間でも一年間でも縮めて云えば一カ月間|乃至一週間でも依然として同じ運命を経過しなければならないから恐ろしい。 君は嘘かと思うかも知れないが僕の生活のどこをどんな断片に切って見てもたといその断片の長さが一時間だろうと三十分だろうとそれがきっと同じ運命を経過しつつあるから恐ろしい。 要するに僕は人間全体の不安を自分一人に集めてそのまた不安を一刻一分の短時間に煮つめた恐ろしさを経験している。 それはいけない。 もっと気を楽にしなくっちゃ。 いけないぐらいは自分にも好く解っている。 君の方が僕より偉い。 海もこう静かだと好いね。 こうして髭を生やしたり洋服を着たりシガーを銜えたりするところは上部から見るといかにも一人前の紳士らしいが実際僕の心は宿なしの乞食みたように朝から晩までうろうろしている。 二六時中不安に追いかけられている。 情ないほど落ちつけない。 しまいには世の中で自分ほど修養のできていない気の毒な人間はあるまいと思う。 そういう時に電車の中やなにかでふと眼を上げて向う側を見るといかにも苦のなさそうな顔に出っ食わす事がある。 自分の眼がひとたびその邪念の萌さないぽかんとした顔に注ぐ瞬間に僕はしみじみ嬉しいという刺戟を総身に受ける。 僕の心は旱魃に枯れかかった稲の穂が膏雨を得たように蘇える。 同時にその顔――何も考えていない全く落ちつき払ったその顔が大変気高く見える。 眼が下っていても鼻が低くっても雑作はどうあろうとも非常に気高く見える。 僕はほとんど宗教心に近い敬虔の念をもってその顔の前に跪ずいて感謝の意を表したくなる。 自然に対する僕の態度も全く同じ事だ。 昔のようにただうつくしいから玩ぶという心持は今の僕には起る余裕がない。 君でも一日のうちに損も得も要らない善も悪も考えないただ天然のままの心を天然のまま顔に出している事が一度や二度はあるだろう。 僕の尊いというのはその時の君の事を云うんだ。 その時に限るのだ。 君近頃神というものについて考えた事はないか。 近頃。 どこの馬の骨だか分らない人間の顔を見てさえ時々ありがたいという気が起るなら円満な神の姿を束の間も離れずに拝んでいられる場合には何百倍幸福になるか知れないじゃないか。 そんな意味のない口先だけの論理が何の役に立つものかね。 そんなら神を僕の前に連れて来て見せてくれるが好い。 僕は死んだ神より生きた人間の方が好きだ。 車夫でも立ん坊でも泥棒でも僕がありがたいと思う刹那の顔すなわち神じゃないか。 山でも川でも海でも僕が崇高だと感ずる瞬間の自然取りも直さず神じゃないか。 そのほかにどんな神がある。 なるほど。 おやおや。 善男善女。 昨夕も寝られないで困った。 寝られないとどうかして寝よう寝ようと焦るだろう。 全くそうだだからなお寝られなくなる。 君寝なければ誰かにすまない事でもあるのか。 僕も時々寝られない事があるが寝られないのもまた愉快なものだ。 どうして。 君のような男にそういう趣が解るかね。 あれは僕の所有だ。 あれらもことごとく僕の所有だ。 君の心と僕の心とはいったいどこまで通じていてどこから離れているのだろう。 〔KeineBru:ckefu:hrtvonMenschzuMensch.〕。 そうだろう今の君はそうよりほかに答えられまい。 なぜ。 自分に誠実でないものはけっして他人に誠実であり得ない。 君は僕のお守になってわざわざいっしょに旅行しているんじゃないか。 僕は君の好意を感謝する。 けれどもそういう動機から出る君の言動は誠を装う偽りに過ぎないと思う。 朋友としての僕は君から離れるだけだ。 疲れたろう。 疲れた。 一度|打っても落ちついている。 二度打っても落ちついている。 三度目には抵抗するだろうと思ったがやっぱり逆らわない。 僕が打てば打つほど向はレデーらしくなる。 そのために僕はますます無頼漢扱いにされなくてはすまなくなる。 僕は自分の人格の堕落を証明するために怒を小羊の上に洩らすと同じ事だ。 夫の怒を利用して自分の優越に誇ろうとする相手は残酷じゃないか。 君女は腕力に訴える男より遥に残酷なものだよ。 僕はなぜ女が僕に打たれた時起って抵抗してくれなかったと思う。 抵抗しないでも好いからなぜ一言でも云い争ってくれなかったと思う。 何という窮屈な事だろう。 君の窮屈な程度はマラルメよりも烈しい。 死ぬか気が違うかそれでなければ宗教に入るか。 僕の前途にはこの三つのものしかない。 しかし宗教にはどうも這入れそうもない。 死ぬのも未練に食いとめられそうだ。 なればまあ気違だな。 しかし未来の僕はさておいて現在の僕は君|正気なんだろうかな。 もうすでにどうかなっているんじゃないかしら。 僕は怖くてたまらない。 椅子ぐらい失って心の平和を乱されるマラルメは幸いなものだ。 僕はもうたいていなものを失っている。 わずかに自己の所有として残っているこの肉体さえ遠慮なく僕を裏切るくらいだから。 約束通り自分は山を呼び寄せた。 しかし山の方では来たくないようである。 山が来てくれない以上は自分が行くよりほかに仕方があるまい。 ああ結構な話だ。 宗教の本義はそこにある。 それで尽している。 なぜ山の方へ歩いて行かない。 君は山を呼び寄せる男だ。 呼び寄せて来ないと怒る男だ。 地団太を踏んで口惜しがる男だ。 そうして山を悪く批判する事だけを考える男だ。 なぜ山の方へ歩いて行かない。 もし向うがこっちへ来るべき義務があったらどうだ。 向うに義務があろうとあるまいとこっちに必要があればこっちで行くだけの事だ。 義務のないところに必要のあるはずがない。 じゃ幸福のために行くさ。 必要のために行きたくないなら。 自分を生活の心棒と思わないで綺麗に投げ出したらもっと楽になれるよ。 じゃ何を心棒にして生きて行くんだ。 神さ。 神とは何だ。 世の中の事が自分の思うようにばかりならない以上そこに自分以外の意志が働いているという事実を認めなくてはなるまい。 認めている。 そうしてその意志は君のよりも遥に偉大じゃないか。 偉大かも知れない僕が負けるんだから。 けれども大概は僕のよりも不善で不美で不真だ。 僕は彼らに負かされる訳がないのに負かされる。 だから腹が立つのだ。 それは御互に弱い人間同志の競合を云うんだろう。 僕のはそうじゃないもっと大きなものを指すのだ。 そんな瞹眛なものがどこにある。 なければ君を救う事ができないだけの話だ。 じゃしばらくあると仮定して。 万事そっちへ委任してしまうのさ。 何分|宜しく御頼み申しますって。 君俥に乗ったら落ことさないように車夫が引いてくれるだろうと安心して俥の上で寝る事はできないか。 僕は車夫ほど信用できる神を知らないのだ。 君だってそうだろう。 君のいう事は全く僕のために拵えた説教で君自身に実行する経典じゃないのだろう。 そうじゃない。 じゃ君は全く我を投げ出しているね。 まあそうだ。 死のうが生きようが神の方で好いように取計ってくれると思って安心しているね。 まあそうだ。 何をするんだ。 それ見ろ。 それ見ろ。 乱暴じゃないか。 それ見ろ。 少しも神に信頼していないじゃないか。 やっぱり怒るじゃないか。 ちょっとした事で気分の平均を失うじゃないか。 落ちつきが顛覆するじゃないか。 今しがた表へ御出になりました。 おおかた浜でしょう。 先刻は失敬した。 山に行こう。 もうここは厭になった。 山に行こう。 我慢しに温泉場へ行くなんてもったいない話だ。 昨夜は寝られたか。 寝られるどころか。 君は実に羨ましい。 よかろう。 痛快だ。 御苦労な事だ。 神は自己だ。 じゃ自分が絶対だと主張すると同じ事じゃないか。 僕は絶対だ。 根本義は死んでも生きても同じ事にならなければどうしても安心は得られない。 すべからく現代を超越すべしといった才人はとにかく僕は是非共|生死を超越しなければ駄目だと思う。 君僕を単に口舌の人と軽蔑してくれるな。 君のような重厚な人間から見たら僕はいかにも軽薄なお喋舌に違ない。 しかし僕はこれでも口で云う事を実行したがっているんだ。 実行しなければならないと朝晩考え続けに考えているんだ。 実行しなければ生きていられないとまで思いつめているんだ。 君僕の考えを間違っていると思うか。 そうは思わない。 徹底していないと思うか。 根本的のようだ。 しかしどうしたらこの研究的な僕が実行的な僕に変化できるだろう。 どうぞ教えてくれ。 僕にそんな力があるものか。 いやある。 君は実行的に生れた人だ。 だから幸福なんだ。 そう落ちついていられるんだ。 君の智慧は遥に僕に優っている。 僕にはとても君を救う事はできない。 僕の力は僕より鈍いものにならあるいは及ぼし得るかも知れない。 しかし僕より聡明な君には全く無効である。 要するに君は瘠せて丈が長く生れた男で僕は肥えてずんぐり育った人間なんだ。 僕の真似をして肥ろうと思うなら君は君の背丈を縮めるよりほかに途はないんだろう。 僕は明かに絶対の境地を認めている。 しかし僕の世界観が明かになればなるほど絶対は僕と離れてしまう。 要するに僕は図を披いて地理を調査する人だったのだ。 それでいて脚絆を着けて山河を跋渉する実地の人と同じ経験をしようと焦慮り抜いているのだ。 僕は迂濶なのだ。 僕は矛盾なのだ。 しかし迂濶と知り矛盾と知りながら依然としてもがいている。 僕は馬鹿だ。 人間としての君は遥に僕よりも偉大だ。 二度とこんな所は御免だ。 二度とこんな所は御免だ。 好いな。 あの松も君の所有だ。 あの百合は僕の所有だ。 あの山も谷も僕の所有だ。 自炊よりも気楽で閑静だね。 薄の葉を渡る奴があるよ。 先刻君は蟹を所有していたじゃないか。 絶対に所有していたのだろう。 君は絶対絶対と云ってこの間むずかしい議論をしたが何もそう面倒な無理をして絶対なんかに這入る必要はないじゃないか。 ああいう風に蟹に見惚れてさえいれば少しも苦しくはあるまいがね。 まず絶対を意識してそれからその絶対が相対に変る刹那を捕えてそこに二つの統一を見出すなんてずいぶん骨が折れるだろう。 第一人間にできる事か何だかそれさえ判然しやしない。 それより逆に行った方が便利じゃないか。 逆とは。 つまり蟹に見惚れて自分を忘れるのさ。 自分と対象とがぴたりと合えば君の云う通りになるじゃないか。 そうかな。 そうかなって君は現に実行しているじゃないか。 なるほど。 下駄が濡れやしないか。 尻を端折れ。 お貞さんは君を女にしたようなものだ。 西洋人の別荘だね。 そうだろう。 全く多知多解が煩をなしたのだ。 もう諦めた。 これからはただ粥を啜って生きて行こう。 どうかして香厳になりたい。 君はそのお貞さんとかいう人とこうしていっしょに住んでいたら幸福になれると思うのか。 僕はお貞さんが幸福に生れた人だと云った。 けれども僕がお貞さんのために幸福になれるとは云やしない。 いや本当にそうなのだ。 疑ぐられては困る。 実際僕の云った事は云った事で云わない事は云わない事なんだから。 君は結婚前の女と結婚後の女と同じ女だと思っているのか。 嫁に行く前のお貞さんと嫁に行ったあとのお貞さんとはまるで違っている。 今のお貞さんはもう夫のためにスポイルされてしまっている。 いったいどんな人のところへ嫁に行ったのかね。 どんな人のところへ行こうと嫁に行けば女は夫のために邪になるのだ。 そういう僕がすでに僕の妻をどのくらい悪くしたか分らない。 自分が悪くした妻から幸福を求めるのは押が強過ぎるじゃないか。 幸福は嫁に行って天真を損われた女からは要求できるものじゃないよ。 獲れる。 獲れる。 覚えていろ。 叔父さん今覚えていろと云ったのはあなたですか。 おい去年子供の病気で煖炉を焚いた時には炭代がいくら要ったかな。 あの時は月末に廿八円払いました。 おいもう少し子供を静かにできないかな。 お政さんが御腹が痛いってだいぶ苦しそうですから林さんでも頼んで見て貰いましょうか。 アグニス焼麺麭を食べるかい。 どうもしようがないな。 腸胃が悪いんだろう宝丹でも水に溶いて飲ましてやれ。 モナリサの唇には女性の謎がある。 原始以降この謎を描き得たものはダヴィンチだけである。 この謎を解き得たものは一人もない。 誰か記を紀と直したようだが記と書いても好いんですよ。 あっちは栗の出る所でしてね。 まあ相場がざっと両に四升ぐらいのもんでしょうかね。 それをこっちへ持って来ると升に一円五十銭もするんですよ。 それでね私がちょうど向うにいた時分でしたが浜から千八百俵ばかり注文がありました。 旨く行くと一升二円以上につくんですからさっそくやりましたよ。 千八百俵|拵えて私が自分で栗といっしょに浜まで持って行くと――なに相手は支那人で本国へ送り出すんでさあ。 すると支那人が出て来て宜しいと云うからもう済んだのかと思うと蔵の前へ高さ一間もあろうと云う大きな樽を持ち出して水をその中へどんどん汲み込ませるんです。 ――いえ何のためだか私にもいっこう分らなかったんで。 何しろ大きな樽ですからね水を張るんだって容易なこっちゃありません。 かれこれ半日かかっちまいました。 それから何をするかと思って見ていると例の栗をね俵をほどいてどんどん樽の中へ放り込むんですよ。 ――私も実に驚いたが支那人てえ奴は本当に食えないもんだと後になってようやく気がついたんです。 栗を水の中に打ち込むとねたしかな奴は尋常に沈みますが虫の食った奴だけはみんな浮いちまうんです。 それを支那人の野郎|笊でしゃくってねペケだって俵の目方から引いてしまうんだからたまりません。 私は傍で見ていてはらはらしました。 何しろ七分通り虫が入ってたんだから弱りました。 大変な損でさあ。 ――虫の食ったんですか。 いまいましいからみんな打遣って来ました。 支那人の事ですからやっぱり知らん顔をして俵にしておおかた本国へ送ったでげしょう。 「それから薩摩芋を買い込んだこともありまさあ。 一俵四円で二千俵の契約でね。 ところが注文の来たのが月半十四日でして二十五日までにと云うんだからどう骨を折ったって二千俵と云う数が寄りっこありませんや。 とうてい駄目だからって一応断りました。 実を云うと残念でしたがな。 すると商館の番頭がいうには否契約書には二十五日とあるけれどもけっしてその通りには厳行しないからと再三|勧めるもんだからついその気になりましてね。 ――いえ芋は支那へ行くんじゃありません。 亜米利加でした。 やッぱり亜米利加にも薩摩芋を食う奴があると見えるんですよ。 妙な事があるもんで――でさっそく買収にかかりました。 埼玉から川越の方をな。 だが口でこそ二千俵ですがいざ買い占めるとなるとなかなか大したもんですからな。 でもようやくの事でとうとう二十八日過ぎに約束通りの俵を持って行きますと――実に狡猾な奴がいるもんで約定書のうちにもしはなはだしい日限の違約があるときは八千円の損害賠償を出すと云う項目があるんですよ。 ところが彼はその条款を応用しちまってどうしても代金を渡さないんです。 もっとも手付は四千円取っておきましたがね。 そうこうしている内に先方では芋を船へ積み込んじまったからどうする事もできない訳になりました。 あんまり業腹だから千円の保証金を納めましてね現物取押を申請してとうとう芋を取り押えてやりました。 ところが上には上があるもんで先方は八千円の保証金を納めて構わず船を出しちまったんです。 でいよいよ裁判になったにはなったんですが何しろ約定書が入れてあるもんだからしようがない。 私は裁判官の前で泣きましたね。 芋はただ取られる裁判には負けるこんな馬鹿な事はない少しはまあ私の身になって考えて見て下さいって。 裁判官も腹のなかではだいぶ私の方に同情した様子でしたが法律の力じゃどうする事もできないもんですからな。 とうとう負けました。 金は魔物だね。 これが何にでも変化する。 衣服にもなれば食物にもなる。 電車にもなれば宿屋にもなる。 下らんな。 知れ切ってるじゃないか。 否知れ切っていない。 この丸がね。 この丸が善人にもなれば悪人にもなる。 極楽へも行く地獄へも行く。 あまり融通が利き過ぎるよ。 まだ文明が進まないから困る。 もう少し人類が発達すると金の融通に制限をつけるようになるのは分り切っているんだがな。 どうして。 どうしても好いが――例えば金を五色に分けて赤い金青い金白い金などとしても好かろう。 そうしてどうするんだ。 どうするって。 赤い金は赤い区域内だけで通用するようにする。 白い金は白い区域内だけで使う事にする。 もし領分外へ出ると瓦の破片同様まるで幅が利かないようにして融通の制限をつけるのさ。 金はある部分から見ると労力の記号だろう。 ところがその労力がけっして同種類のものじゃないから同じ金で代表さして彼是相通ずると大変な間違になる。 例えば僕がここで一万|噸の石炭を掘ったとするぜ。 その労力は器械的の労力に過ぎないんだからこれを金に代えたにしたところがその金は同種類の器械的の労力と交換する資格があるだけじゃないか。 しかるに一度この器械的の労力が金に変形するや否や急に大自在の神通力を得て道徳的の労力とどんどん引き換えになる。 そうして勝手次第に精神界が攪乱されてしまう。 不都合|極まる魔物じゃないか。 だから色分にして少しその分を知らしめなくっちゃいかんよ。 器械的の労力で道徳的の労力を買収するのも悪かろうが買収される方も好かあないんだろう。 そうさな。 今のような善知善能の金を見ると神も人間に降参するんだから仕方がないかな。 現代の神は野蛮だからな。 おおれの『ウォーズウォース』はどこへやった。 ウォーズウォース。 ヒヤサー。 ウォーズウォース。 ウォーズウォース。 全体いつ頃からこんな事を御始めになったんですか。 若い衆さん。 何か用ですか。 御前さん働く了簡はないかね。 御前さん働く了簡はないかね。 どうせ働かなくっちゃならないんだろう。 働いても善いですが。 働いてもいいですが。 働いてもいいですが全体どんな事をするんですか。 大変|儲かるんだがやって見る気はあるかい。 儲かる事は受合なんだ。 ええやって見ましょう。 やって見る。 そいつあ結構だ。 君|儲かるよ。 そんなに儲けなくってもいいですが。 え。 全体どんな仕事なんですか。 やるなら話すがやるだろうねお前さん。 話した後で厭だなんて云われちゃ困るが。 きっとやるだろうね。 やる気です。 じゃまあ御這入り。 緩くり御茶でも呑んで話すから。 君煙草を呑むかい。 朝日。 ありがとうたくさんです。 御前さん幾年になんなさる。 十九です。 まだ若いんだね。 そうさ十九じゃ若いもんだ。 働き盛りだ。 御饅頭を上がんなさるかね。 まだ新しい。 一昨日揚げたばかりだから。 まあ大変な蠅だ事。 上がるんなら取って上げよう。 こっちがいいでしょう。 一つどうです。 朝日。 やすまない。 一つどうです。 やすまない。 君だいぶやるね。 君揚饅頭がよっぽど好きと見えるね。 うちの御饅は名代の御饅だからみんなが旨がって食べるだよ。 旨い事この上なしだ。 先刻の御話ですがね。 実は僕もいろいろの事情があって働いて飯を食わなくっちゃならない身分なんですがいったいどんな事をやるんですか。 君儲かるんだぜ。 嘘じゃない本当に儲かる話なんだから是非やりたまえ。 僕はそんなに儲けなくってもいいです。 しかし働く事は働くです。 神聖な労働なら何でもやるです。 お前さん全体今まで働いた事があんなさるのかね。 働いた事はないです。 しかしこれから働かなくっちゃあならない身分です。 そうだろう。 働いた事がなくっちゃじゃ君まだ儲けた事もないんだね。 働くからにゃ儲けなくっちゃあね。 全くだ。 儲けようったって今時そう儲け口が転がってるもんじゃない。 そうさ。 私だからお前さん見ず知らずの他人にこんな旨い話をするんだ。 これがほかのものだったら受合ってただじゃ話しっこない旨い口なんだからね。 ありがたいです。 実はこう云う口なんだがね。 実はこう云う口なんだがね。 銅山へ行って仕事をするんだが私が周旋さえすればすぐ坑夫になれる。 すぐ坑夫になれりゃ大したもんじゃないか。 何しろ取附からすぐに坑夫なんだからね。 坑夫なら楽なもんさ。 たちまちのうちに金がうんと溜っちまって好な事が出来らあね。 なに銀行もあるんだから預けようと思やあいつでも預けられるしさ。 ねえ御かみさん初めっから坑夫になれりゃ結構なもんだね。 そうとも今からすぐ坑夫になって置きゃあ四五年立つうちにゃ唸るほど溜るばかりだ。 ――何しろ十九だ。 ――働き盛りだ。 ――今のうち儲けなくっちゃ損だ。 僕は一生懸命に働くつもりですが坑夫にしてくれるでしょうか。 すぐ坑夫になるのはなかなかむずかしいんだが私が周旋さえすりゃきっとできる。 長蔵さんが口を利きさえすりゃ坑夫は受合だ。 じゃどうか何分願います。 それじゃこれからすぐに出掛けよう。 御前さん支度はいいかい。 忘れもののないようによく気をつけて。 何にも無いです。 坑夫になってうんと溜めて帰りにまた御寄。 御前さん馬車へ乗るかい。 乗っても好いです。 乗らなくってもいいかい。 乗らなくってもいいです。 どうするね。 どうでもいいです。 じゃ歩く事にしよう。 ここは何と云う所です。 ここ。 ここを知らないのかい。 お前さんいったい生れはどこだい。 東京です。 そうかい。 長蔵さん汽車に乗るんですか。 ああ乗るんだよ。 御前さん汽車へ乗る前にちょっと用を足したら善かろう。 あなたにわざわざ先方まで連れて行っていただいては恐縮ですからもうこれでたくさんです。 いろいろ御世話になってありがたいです。 これから先はもう僕一人でやりますからどうか御構いなく。 一人でやれるものかね。 なにやれます。 どうして。 今|貴方に伺って置けば先へ行って貴方の名前を云ってどうかしますから。 御前さん私の名前くらいですぐ坑夫になれると思ってるのは大間違いだよ。 坑夫なんてそんなに容易になれるもんじゃないよ。 でも御気の毒ですから。 なに遠慮しないでもいい先方まで送ってあげるから心配しないがいい。 ――袖摩り合うも何とかの因縁だ。 ハハハハハ。 どうも済みません。 朝日。 御前さん汽車賃を持っていなさるかい。 御前さん汽車賃を持っていなさるか。 少しあります。 少しって御前さんいくら持ってるい。 ほんのわずかです。 とても足りそうもないです。 足りないところは私が足して上げるから構わない。 何しろ有るだけ御出し。 ふふん安くないね。 じゃ私が切符を買って来て上げるからちゃんとここに待っていなくっちゃいけない。 はぐれると坑夫になれないんだからね。 さあこれが御前さんの分だ。 ありがとう。 また山行きかね。 ああまた一人連れて行くんだ。 あれかい。 まただいぶん儲かるね。 泥棒が這入るとするぜ。 こそこそがかい。 なに強盗がよ。 それでもって抜身か何かで威嚇した時によ。 うんそれで。 それで主人が泥棒だからってんで贋銭をやって帰したとするんだ。 うんそれから。 後で泥棒が贋銭と気がついてあすこの亭主は贋銭|使だ贋銭使だって方々振れて歩くんだ。 常公の前だがどっちが罪が重いと思う。 どっちたあ。 その亭主と泥棒がよ。 そうさなあ。 御前さんまだ眼が覚めないかね。 ここから降りるんだよ。 御前さん夕食を食うかね。 お前さん働く気はないかね。 働く気はないかね。 長蔵さんこれからあの山を越すんですか。 あの取附の山かい。 あれを越しちゃ大変だ。 これから左へ切れるんさ。 まだよっぽどあるんですか僕は少し腹が減ったんだが。 そうかい。 芋でも食うべい。 さあ食った。 ありがとう。 さあ食った。 さあ食った。 さあ。 この芋は好芋だ。 おれが貰おう。 おい小僧さん。 なんだ。 芋を食わないかね。 旨まかったか。 御前どこへ行くかね。 どこへも行きゃあしねえ。 じゃどこへ帰るかね。 どこへも帰りゃしねえ。 じゃおいらといっしょにおいで。 御金を儲けさしてやるから。 うん。 おおい。 小僧やあ。 少し急いだら追っつくべえ。 御前さん好いかね。 御前さんこれから山越をするのは大変だから今夜はここへ泊って行こう。 みんな這入るがいい。 御前さんも下駄だから御上り。 御前さん。 おい御前さん。 もう起きないと御午までに銅山へ行きつけないよ。 おいおい。 おい。 じゃそろそろ出掛けよう。 御前さん飯は食わなくっても好いだろうね。 好いです。 食いたいかね。 御前さん達も飯が食いたいかね。 食わないでも好い。 食いたい。 熊さんじゃ行ってくる。 いろいろ御世話様。 いや何にも御構申さなかった。 寒かなかったかね。 いいえ。 なあに。 じゃまた帰りに御寄り。 こりゃ雨だね。 やっと着いた。 これが入口だよ。 いよいよ着いたんだからそのつもりでいなくっちゃいけない。 好いかね御前さん大丈夫かい。 好いです。 好いかね。 大丈夫かい。 こっちがシキだよ御前さん好いかね。 坑夫。 そうかいそれじゃ置いておいで。 じゃよろしくお頼みもうします。 あなたは生れ落ちてからの労働者とも見えないようだが。 まあどうしてこんな所へ御出なすったんだか今の男が連れて来るくらいだから大概|私にも様子は知れてはいるが――どうですもう一遍考えて見ちゃあ。 きっと取ッ附坑夫になれて金がうんと儲かるてえような旨い話でもしたんでしょう。 それがさ実際やって見るととうてい話の十が一にも行かないんだからつまらないです。 第一坑夫と一口に云いますがね。 なかなかただの人に出来る仕事じゃないことにあなたのように学校へ行って教育なんか受けたものはどうしたって勤まりっこありませんよ。 僕は――僕は――そんなに金なんか欲しかないです。 何も儲けるためにやって来た訳じゃないんですから――そりゃ知ってるです僕だって知ってるです。 そりゃ物数奇と云うもんでさあ。 せっかく来たから是非やるったって何も家を出る時から坑夫になると思いつめた訳でもないんでしょう。 云わば一時の出来心なんだからね。 やって見りゃすぐ厭になっちまうな眼に見えてるんだから廃すが好うがしょう。 現に書生さんでここへ来て十日と辛抱したものあ有りゃしませんぜ。 え。 そりゃ来る。 幾人も来る。 来る事は来るがみんな驚いて逃げ出しちまいまさあ。 全く普通のものの出来る業じゃありませんよ。 悪い事は云わないから御帰んなさい。 なに坑夫をしなくったって口過だけなら骨は折れませんやあ。 あなたさえ帰る気なら及ばずながら相談になろうじゃありませんか。 失礼ながら旅費のことなら心配しなくっても好ござんす。 どうかして上げますから。 その代り坑夫に使って下さい。 せっかく来たんだから僕はどうしてもやって見る気なんですから。 随分|酔興ですね。 じゃどうしても帰る気はないんですね。 帰るったって帰る所がないんです。 だって。 家なんかないんです。 坑夫になれなければ乞食でもするより仕方がないです。 そう云わずに使って下さい。 実際僕が不適当なら仕方がないがまだやって見ない事なんだから――せっかく山を越して遠方をわざわざ来た甲斐に一日でも二日でもいいですからまあ試しだと思って使って下さい。 その上でとうてい役に立たないと事がきまれば帰ります。 きっと帰ります。 僕だってそれだけの仕事が出来ないのに押を強く御厄介になってる気はないんですから。 僕は十九です。 まだ若いです。 働き盛りです。 それほどお望みなら仕方がない。 何も御縁だ。 まあやって御覧なさるが好い。 その代り苦しいですよ。 その代り苦しいですよ。 じゃね。 じゃね。 何しろ明日の朝シキへ這入って御覧なさい。 案内を一人つけて上げるから。 ――それからと――そうだその前に話して置かなくっちゃなりませんがね。 一口に坑夫と云うと訳もない仕事のように思われましょうがなかなか外で聞いてるような生容易い業じゃないんで。 まあ取っつけから坑夫になるなあ。 その体格じゃちっとむずかしいかも知れませんね。 坑夫でなくっても好うがすかい。 坑夫のほかに何かあるんですか。 ここにいるものはみんな坑夫じゃないんですか。 銅山にはね一万人も這入っててね。 それが掘子にシチュウに山市に坑夫とこう四つに分れてるんでさあ。 掘子ってえな一人前の坑夫に使えねえ奴がなるんでまあ坑夫の下働ですね。 シチュウは早く云うとシキの内の大工見たようなものかね。 それから山市だがこいつはただ石塊をこつこつ欠いてるだけでおもに子供――さっきも一人来たでしょう。 ああ云うのが当分坑夫の見習にやる仕事さね。 まあざっとこんなものですよ。 それで坑夫となると請負仕事だから間が好いと日に一円にも二円にも当る事もあるが掘子は日当で年が年中三十五銭で辛抱しなければならない。 しかもそのうち五分は親方が取っちまって病気でもしようもんなら手当が半分だから十七銭五厘ですね。 それで蒲団の損料が一枚三銭――寒いときは是非二枚|要るから都合で六銭とそれに飯代が一日十四銭五厘御菜は別ですよ。 ――どうです。 もし坑夫にいけなかったら掘子にでもなる気はありますかね。 なります。 じゃまあ御上がんなさい。 そうしてあした人をつけて上げるからまあシキへ這入って御覧なさるがいい。 何しろ一万人もいてこんなに組々に分れているんだから飯場を一つでも預かってると毎日毎日何だかだってうるさい事ばかりでね。 せっかく頼むから置いてやるすぐ逃げる。 ――一日に二三人はきっと逃げますよ。 そうかと云っておとなしくしているかと思うと病気になって死んじまう奴が出て来て――どうも始末に行かねえもんでさあ。 葬いばかりでも日に五六組無い事あ滅多にないからね。 まあやる気なら本気にやって御覧なさい。 腰を掛けてちゃ足が草臥れるだろう。 こっちへ御上り。 こっちへ御出なさい。 こっちへおいでなさい。 まあここへ御坐んなさい。 ここへ坐れ。 おい。 おい。 おい。 やに澄ますねえ。 おい。 御前はどこだ。 僕は東京です。 僕だなんて――書生ッ坊だな。 大方女郎買でもしてしくじったんだろう。 太え奴だ。 全体この頃の書生ッ坊の風儀が悪くっていけねえ。 そんな奴に辛抱が出来るもんか早く帰れ。 そんな瘠っこけた腕でできる稼業じゃねえ。 なぜこんな所へ来た。 来たって仕方がないぜ。 儲かる所じゃない。 ここにいる奴あみんな食詰ものばかりだ。 早く帰るが好かろう。 帰って新聞配達でもするがいい。 おれも元はこれで学校へも通ったもんだが放蕩の結果とうとうシキの飯を食うようになっちまった。 おれのようになったが最後もう駄目だ。 帰ろうたって帰れなくなる。 だから今のうちに東京へ帰って新聞配達をしろ。 書生はとても一月と辛抱は出来ないよ。 悪い事は云わねえから帰れ。 分ったろう。 いる気なら置いてやるがここにゃそれぞれ掟があるから呑み込んで置かなくっちゃ迷惑だぜ。 どんな掟ですか。 馬鹿だなあ。 親分もあり兄弟分もあるじゃねえか。 親分たどんなもんですか。 しようのねえ奴だな。 親分を知らねえのか。 親分も兄弟分も知らねえで坑夫になろうなんて料簡違えだ。 早く帰れ。 親分も兄弟分もいるからだから儲けようたってそう旨かあ行かねえ。 帰れ。 儲かるもんか帰るが好い。 帰れ。 帰れ。 御膳を御上がんなさい。 面あ見ろ。 いい様だ。 御祭日でもねえのに銀米の気でいやがらあ。 だから帰れって教えてやるのに。 南京米の味も知らねえで坑夫になろうなんて頭っから料簡違だ。 ジャンボーだ。 ジャンボーだ。 ジャンボーだ。 おい金公はいねえか。 うん金公に見せてやれ。 おい金州。 おい金しゅう起きろやい。 起きろってば起きろやい。 好いものを見せてやるから。 よう金しゅう早く来いよ。 今ジャンボーが通るところだ。 早く来て見ろよ。 己あジャンボーなんか見たかねえよ。 金しゅうどうだ見えたか面白いだろう。 うん見えたから床ん所まで連れてって寝かしてくれよ。 後生だから。 よっしょいよっしょい。 また雨だ。 あのジャンボーはどこから出たんだろう。 どこから出たって御ジャンボーだ。 ことによると黒市組かも知れねえ。 見当がそうだ。 全体ジャンボーになったらどこへ行くもんだろう。 御寺よ。 きまってらあ。 馬鹿にするねえ。 御寺の先を聞いてるんだあな。 そうよそりゃ寺限で留りっこねえ訳だ。 どっかへ行くに違えねえ。 だからよ。 その行く先はどんな所だろうてえんだ。 やっぱしこんな所かしら。 そりゃ人間の魂の行く所だもの大抵は似た所に違えねえ。 己もそう思ってる。 行くとなりゃどうもほかへ行く訳がねえからな。 いくら地獄だって極楽だってやっぱり飯は食うんだろう。 女もいるだろうか。 女のいねえ国が世界にあるもんか。 金公苦しいのか。 ううん。 そんなに嚊の事ばかり気にするなよ。 どうせ取られちまったんだ。 今更唸ったってどうなるもんか。 質に入れた嚊だ。 受出さなけりゃ流れるなあ当り前だ。 なあに病気せえしなけりゃ金公だって嚊を取られずに済むんだあな。 元を云やあやっぱり自分が悪いからよ。 全くだ。 自分が病気をして金を借りてその金が返せねえから嚊を抵当に取られちまったんだから正直のところ文句の附けようがねえ。 若干で抵当に入れたんだ。 五両だ。 それで市の野郎が長屋へ下がって金しゅうと入れ代った訳か。 ハハハハ。 金しゅうも早く癒って嚊を受け出したら好かろう。 また市と入れ代りか。 世話あねえ。 それよりかうんと稼いでもっと価に踏める抵当でも取った方が気が利いてらあ。 違ねえ。 飯でも食うべえ。 飯を食ってまた交替か。 今日は少し寒いぞ。 雨はまだ降ってるのか。 どうだか表へ出て仰向いて見な。 手前は新前だな。 ええ。 草臥れたろうからもう御休みなさい。 ええ。 布団はあすこに這入ってるから独で出して御掛けなさい。 一枚三銭ずつだ。 寒いから二枚はいるでしょう。 ええ。 えっ畜生。 顔はどこで洗うんですか。 あっち。 御飯が済んだら初さんがシキへ連れて行くって待ってるから早くおいでなさい。 はあそうですか。 御前かシキへ行くなあ。 ええ。 じゃいっしょに来ねえ。 この服装でも好いんですか。 いけねえいけねえ。 そんな服装で這入れるもんか。 ここへ親分とこから一枚借りて来てやったから此服を着るがいい。 そいつが上だ。 こいつが股引だ。 そら。 おっと待った。 これを尻の所へ当てるんだ。 それがアテシコだ。 好しか。 それから鑿だ。 こいつを腰ん所へ差してと。 ついでにこれも差すんだ。 少し重いぜ。 大丈夫か。 しっかり受け取らねえと怪我をする。 どうだ重いか。 ええ。 それでも軽いうちだ。 重いのになると五斤ある。 ――いいか差せたかそこでちょっと腰を振って見な。 大丈夫か。 大丈夫ならこれを提げるんだ。 待ったり。 カンテラの前に一つ草鞋を穿いちまいねえ。 駑癡だなあ。 そんなに締める奴があるかい。 もっと指の股を寛めろい。 さあこれでいよいよおしまいだ。 こう穿めるんだ。 そうら。 そうだ。 なかなか器用だ。 じゃ行くぜいいか。 ええ好ござんす。 どうだここが地獄の入口だ。 這入れるか。 昨日のだ。 新来だ。 昨日のだ。 新来だ。 昨日のだ。 這入れますとも。 電車さえ通ってるじゃありませんか。 なに這入れる。 豪義な事を云うない。 這入れません。 それ見ろ。 シキの中でおとなしくしねえとすのこの中へ抛り込まれるから用心しなくっちゃあいけねえ。 はい。 よしか分ったか。 生きて出る料簡なら生意気にシキなんかへ這入らねえ方が増しだ。 すのことはどんなもんですか。 なに。 すのことはどんなもんですか。 穴だ。 え。 穴だよ。 ――鉱を抛り込んで纏めて下へ降げる穴だ。 鉱といっしょに抛り込まれて見ねえ。 どうだ尾いて来るか。 ええ。 もう少しで地獄の三丁目へ来る。 いよいよ三丁目へ着いた。 どうかしましたか。 何ともなかったですか。 這うんだ。 え。 這うのだてえ事よ。 這うんだ。 やい好い加減に出て来ねえか。 何をぐずぐずしているんだ。 ――早くしないと日が暮れちまうよ。 何をしていたんだ。 あんまり狭いもんだから。 狭いんで驚いちゃシキへは一足だって踏ん込めっこはねえ。 陸のように地面はねえ所だくらいはどんな頓珍漢だって知ってるはずだ。 でもカンテラが消えそうで心配したもんですから。 消して見ねえ。 どうしてですか。 どうしてでも好いから消して見ねえ。 吹くんですか。 冗談じゃねえ。 何が這入てると思う。 種油だよしずくぐらいで消てたまるもんか。 安心したか。 ハハハハ。 聞えるか。 聞えます。 さあ行こう。 今度あ後れないように跟いて来な。 おい下りるよ。 こうして抜けるんだ。 好く見て置きねえ。 何で足ばかりばたばたやってるんだ。 大丈夫だからうんと踏ん張って立ちねえな。 意久地のねえ。 まるで傘の化物のようだよ。 そうですか。 おいそう真面目くさらねえで早く下りて来ねえな。 日は短えやな。 手前は。 新めえだ。 手前は。 新めえだ。 相変らずやってるな。 どうだ仲間入は。 まあよそう。 今日は案内だから。 少し休んで行くかな。 広本へは新らしい玉が来たが知ってるか。 うん知ってる。 まだ買わねえか。 買わねえお前は。 おれか。 おれは――ハハハハ。 随分手廻しがいいな。 シキへ這入るといつ死ぬか分らねえからな。 だれだってそうだろう。 御互に死なねえうちの事だなあ。 御前はどこから来た。 東京です。 ここへ来て儲けようたって駄目だぜ。 なぜ儲からないんです。 この銅山には神様がいる。 いくら金を蓄めて出ようとしたって駄目だ。 金は必ず戻ってくる。 何の神様ですか。 達磨だ。 驚いちゃいけねえ。 もう少しだ。 やっちまうかな。 なんですか。 驚かなくってもいい。 ダイナマイトだ。 大丈夫ですか。 大丈夫でねえかも知れねえがシキへ這入った以上仕方がねえ。 ダイナマイトが恐ろしくっちゃ一日だってシキへは這入れねえんだから。 聞えるか。 聞えます。 スノコへ鉱を落してる。 はああ。 ついでだからスノコを見せてやろう。 覗いて見ろ。 もっと出ろ。 出ろやい。 吝な野郎だな。 そんな事で掘子が勤まるかい。 おい邪魔だ。 ちょっと退きな。 どうだあの芸が出来るか。 そうですねえ。 何になっても修業は要るもんだ。 やって見ねえうちは馬鹿にゃ出来ねえ。 お前が掘子になるにしたっておっかながって手先ばかりで抛げ込んで見ねえ。 みんな板の上へ落ちちまって肝心の穴へは這入りゃしねえ。 そうして鉱の重みで引っ張り込まれるからかえって剣呑だ。 ああ思い切って胸から突き出してかからにゃ。 二三度スノコへ落ちて見なくっちゃ駄目だ。 ハハハハ。 おい。 まだ下りられるか。 下りましょう。 じゃ下りよう。 その代り少し危ないよ。 じゃ己が先へ下りるからね。 気をつけて来たまえ。 どうだ苦しかったか。 苦しいです。 もう少しだ我慢しちゃどうだ。 また梯子があるんですか。 ハハハハもう梯子はないよ。 大丈夫だ。 大丈夫なんですか。 まだ這入るんですか。 どうした。 降参したか。 いえこの水が。 大丈夫でしょうか。 八番坑だ。 これがどん底だ。 水ぐらいあるなあ当前だ。 そんなにおっかながるにゃ当らねえ。 まあ好いからこっちへ来ねえ。 そうら。 こんな底でも働いてるものがあるぜ。 真似ができるか。 這入って見るか。 這入らないでも好いです。 じゃ止めにして置こう。 しかし止めるなあ今日だけだよ。 明日っからここで働くんでしょうか。 働くとすれば何時間水に漬かってる――漬かってれば義務が済むんですか。 そうさなあ。 一昼夜に三回の交替だからな。 大丈夫だ。 心配しなくってもいい。 だって八時間は働かなくっちゃならないんでしょう。 そりゃきまりの時間だけは働かせられるのは知れ切ってらあ。 だが心配しなくってもいい。 どうしてですか。 好いてえ事よ。 新前は大抵二番坑か三番坑で働くんだ。 よっぽど様子が分らなくっちゃここまで下りちゃ来られねえ。 安心したか。 ええ。 もう済んだでしょうか。 どうだ歩けそうもねえな。 まるで屁っぴり腰だ。 ちっと休むが好い。 おれは遊びに行って来るから。 死ぬぞ死んじゃ大変だ。 死ぬぞ。 死ぬぞ。 死ぬぞ。 ちったあ気分は好いか。 ええ少しは好いようです。 じゃそろそろ登ってやろう。 登りは少し骨が折れるよ。 そのつもりで尾いて来ねえ。 どうした。 上がって来たか。 途中で死にゃしねえかと思って――あんまり長えから。 見に行こうかと思ったが一人じゃ気味がわるいからな。 だけども好く上がって来たな。 えらいや。 少し気分が悪るかったから途中で休んでいました。 気分が悪い。 そいつあ困ったろう。 途中って梯子の途中か。 ええまあそうです。 ふうん。 じゃ明日は作業もできめえ。 よければ上がりましょう。 上がる。 元気だなあ。 馬鹿にするねえこの明盲目め。 人を見損なやがって。 ええ。 おい大丈夫かい。 冗談じゃねえ。 顔色が悪いぜ。 じゃ僕が先へ行きましょう。 いけねえいけねえ。 先へ行っちゃいけねえ後から尾いて来ねえ。 そうですか。 当前だあな。 人つけ。 誰が案内を置き去にして先へ行く奴があるかい何でい。 何をしやがるんでい。 貴様は新前だな。 そうです。 何でこんな所を迷子ついてるんだ。 実は昨夕飯場へ着いて様子を見に坑へ這入ったばかりです。 一人でか。 いいえ飯場頭から人をつけてくれたんですが。 そうだろう一人で這入れる所じゃねえ。 どうしたその案内は。 先へ出ちまいました。 先へ出た。 手前を置き去りにしてか。 まあそうです。 太え野郎だ。 よしよし今に己が送り出してやるから待ってろ。 ちょっと待ちねえ。 一服やるから。 御前はどこだ。 こんな所へ全体何しに来た。 身体つきはすらりとしているようだが。 今まで働いた事はねえんだろう。 どうして来た。 実は働いた事はないんです。 が少し事情があって来たんです。 亀の甲より年の功と云うことがあるだろう。 こんな賤しい商売はしているがまあ年長者の云う事だから参考に聞くがいい。 青年は情の時代だ。 おれも覚がある。 情の時代には失敗するもんだ。 君もそうだろう。 己もそうだ。 誰でもそうにきまってる。 だから察している。 君の事情と己の事情とはどのくらい違うか知らないが何しろ察している。 咎めやしない。 同情する。 深い事故もあるだろう。 聞いて相談になれる身体なら聞きもするがシキから出られない人間じゃ聞いたって仕方なし君も話してくれない方がいい。 おれも。 おれも元は学校へ行った。 中等以上の教育を受けた事もある。 ところが二十三の時にある女と親しくなって――詳しい話はしないがそれが基で容易ならん罪を犯した。 罪を犯して気がついて見るともう社会に容れられない身体になっていた。 もとより酔興でした事じゃないやむを得ない事情からやむを得ない罪を犯したんだが社会は冷刻なものだ。 内部の罪はいくらでも許すが表面の罪はけっして見逃さない。 おれは正しい人間だ曲った事が嫌だからつまりは罪を犯すようにもなったんだがさて犯した以上はどうする事もできない。 学問も棄てなければならない。 功名も抛たなければならない。 万事が駄目だ。 口惜しいけれども仕方がない。 その上制裁の手に捕えられなければならない。 しかし自分が悪い覚がないのにむやみに罪を着るなあどうしても己の性質としてできない。 そこで突っ走った。 逃げられるだけ逃げてここまで来てとうとうシキの中へ潜り込んだ。 それから六年というものついに日光を見た事がない。 毎日毎日坑の中でかんかん敲いているばかりだ。 丸六年敲いた。 来年になればもうシキを出たって構わない七年目だからな。 しかし出ないまた出られない。 制裁の手には捕まらないが出ない。 こうなりゃ出たって仕方がない。 娑婆へ帰れたって娑婆でした所業は消えやしない。 昔は今でも腹ん中にある。 なあ君昔は今でも腹ん中にあるだろう。 君はどうだ。 六年ここに住んでいるうちに人間の汚ないところは大抵|見悉した。 でも出る気にならない。 いくら腹が立ってもいくら嘔吐を催しそうでも出る気にならない。 しかし社会には――日の当る社会には――ここよりまだ苦しい所がある。 それを思うと辛抱も出来る。 ただ暗くって狭い所だと思えばそれで済む。 身体も今じゃ銅臭くなって一日もカンテラの油を嗅がなくっちゃいられなくなった。 しかし――しかしそりゃおれの事だ。 君の事じゃない。 君がそうなっちゃ大変だ。 生きてる人間が銅臭くなっちゃ大変だ。 いやどんな決心でどんな目的を持って来ても駄目だ。 決心も目的もたった二三日で突ッつき殺されてしまう。 それが気の毒だ。 いかにも可哀想だ。 理想も何にもない鑿と槌よりほかに使う術を知らない野郎ならそれで結構だが。 しかし君のような――君は学校へ行ったろう。 ――どこへ行った。 ――ええ。 まあどこでもいい。 それに若いよ。 シキへ抛り込まれるには若過ぎるよ。 ここは人間の屑が抛り込まれる所だ。 全く人間の墓所だ。 生きて葬られる所だ。 一度|踏ん込んだが最後どんな立派な人間でも出られっこのない陥穽だ。 そんな事とは知らずに大方ポン引の言いなりしだいになって引張られて来たんだろう。 それを君のために悲しむんだ。 人一人を堕落させるのは大事件だ。 殺しちまう方がまだ罪が浅い。 堕落した奴はそれだけ害をする。 他人に迷惑を掛ける。 ――実はおれもその一人だ。 がこうなっちゃ堕落しているよりほかに道はない。 いくら泣いたって悔んだって堕落しているよりほかに道はない。 だから君は今のうち早く帰るがいい。 君が堕落すれば君のためにならないばかりじゃない。 ――君は親があるか。 あればなおさらだ。 それから君は日本人だろう。 日本人なら日本のためになるような職業についたらよかろう。 学問のあるものが坑夫になるのは日本の損だ。 だから早く帰るがよかろう。 東京なら東京へ帰るさ。 そうして正当な――君に適当な――日本の損にならないような事をやるさ。 何と云ってもここはいけない。 旅費がなければおれが出してやる。 だから帰れ。 分ったろう。 おれは山中組にいる。 山中組へ来て安さんと聞きゃあすぐ分る。 尋ねて来るが好い。 旅費はどうでも都合してやる。 ありがたいです。 なるほどあなたのおっしゃる通り人間のいる所じゃないでしょう。 僕もあなたに逢うまでは今日限り銅山を出ようかと思ってたんです。 そりゃなおさらだ。 さっそく帰るがいい。 だから旅費はおれが拵えてやるから。 旅費は頂きません。 こりゃ失敬した。 こりゃ失敬した。 だが東京へは帰るだろうね。 よく考えて見ましょう。 いずれその中また御相談に参りますから。 そうか。 それじゃとにかく路の分る所まで送ってやろう。 じゃこれで別れよう。 あれが見張所だ。 あすこの前を右へついて上がると軌道の敷いてある所へ出る。 それから先は一本道だ。 おれはまだ時間が早いからもう少し働いてからでなくっちゃあ出られない。 晩には帰る。 五時過ならいるから暇があったら来るがいい。 気をつけて行きたまえ。 さようなら。 やあ出て来たな。 よく路が分ったな。 よく路が分ったな。 どうかこうか出て来ました。 へえ。 感心だね。 一人で出て来たのか。 ええいろいろ路を聞いて出て来ました。 親方の所へ行こう。 帰ったか。 御苦労だった。 まああっちへ行って休みねえ。 どうです。 大概見て来ました。 どこまで降りました。 八番坑まで降りました。 八番坑まで。 そりゃ大変だ。 随分ひどかったでしょう。 それで。 それで――やっぱりいるつもりです。 やっぱり。 やっぱりいるつもりです。 じゃ置く事にしよう。 だが規則だから医者に一遍見て貰ってね。 健康の証明書を持って来なくっちゃいけない。 ――今日と――今日はもう遅いから明日の朝行って見て貰ったらよかろう。 ――診察場かい。 診察場はこれから南の方だ。 上がって来る時見えたろう。 あの青いペンキ塗りの家だ。 じゃ今日は疲れたろうから飯場へ帰って緩くり御休み。 安さんはもうお帰りになりましたか。 おい安さん誰か尋ねて来たよ。 やあ来たな。 さあ上れ。 なるほど東京を走ったまんまの服装だね。 おれも昔はそう云う着物を着たこともあったっけ。 今じゃこれだ。 何と見える。 車引かな。 ハハハハ根性はこれよりまだ堕落しているんだ。 驚いちゃいけない。 さっきから来るだろうと思って待っていた。 さあ上れ。 いつ帰る。 帰らない事にしました。 あなたのおっしゃった事はよく分っています。 しかし僕だって酔興にここまで来た訳じゃないんですから帰るったって帰る所はありません。 じゃやっぱり世の中へ顔が出せないような事でもしたのか。 そうでもないんですが――世の中へ顔が出したくないんです。 冗談云っちゃいけねえ。 そんな酔狂があるもんか。 世の中へ顔が出したくないた何の事だ。 贅沢じゃねえか。 そんな身分に一日でも好いからなって見てえくらいだ。 代れれば代って上げたいと思います。 どうも手のつけようがないね。 考えて御覧な。 世の中へ顔が出したくないものがさこのシキへ顔が出したくなれるかい。 ちっとも出したくはありません。 仕方がないから――仕方がないんです。 昨夕も今日も散々|苛責られました。 太え野郎だ。 誰が苛責た。 年の若いものつらまえて。 よしよしおれが今に敵を打ってやるから。 その代り帰るんだぜ。 それじゃいるさ。 ――何も頼むの頼まないのってそりゃ君の勝手だあね。 相談するがものはないや。 でもあなたが承知して下さらないといにくいですから。 せっかくそう云うんなら当分にするがいい。 長くいちゃいけない。 こりゃ御前か。 ええ。 少し待っていろ。 おいあっちへ廻れ。 御前か健康診断をして貰うのは。 ええ。 職業は何だ。 職業って別に何にもないんです。 職業がない。 じゃ今まで何をして生きていたのか。 ただ親の厄介になっていました。 親の厄介になっていた。 親の厄介になってごろごろしていたのか。 まあそうです。 じゃごろつきだな。 裸になれ。 息をして見ろ。 今度口を塞ぐんだ。 どうでしょう。 坑夫になれますか。 駄目だ。 どこか悪いですか。 今書いてやる。 御父さん。 御客。 どうしたい。 行って来ました。 健康診断を貰って来たかい。 どれ。 持ってるじゃないか。 気管支炎。 病気じゃないか。 ええ駄目です。 そりゃ困ったな。 どうするい。 やっぱり置いて下さい。 そいつあ無理じゃないか。 ですがもう帰れないんだからどうか置いて下さい。 小使でも掃除番でもいいですから。 何でもしますから。 何でもするったって病気じゃ仕方がないじゃないか。 困ったな。 しかしせっかくだからまあ考えてみよう。 明日までには大概様子が分るだろうからまた来て見るがいい。 来たかちょうど好い口が出来た。 実はあれからいろいろ探したがどうも思わしいところがないんでね――少し困ったんだが。 とうとう旨い口を見附けた。 飯場の帳附だがね。 こりゃ無ければなくっても済む。 現に今までは婆さんがやってたくらいだがせっかくの御頼みだから。 どうだねそれならどうかおれの方で周旋ができようと思うが。 はあありがたいです。 何でもやります。 帳附と云うとどんな事をするんですか。 なあに訳はない。 ただ帳面をつけるだけさ。 飯場にああ多勢いる奴がやや草鞋だやや豆だヒジキだって毎日いろいろなものを買うからね。 そいつを一々帳面へ書き込んどいて貰やあ好いんだ。 なに品物は婆さんが渡すからただ誰が何をいくら取ったと云う事が分るようにして置いてくれればそれで結構だ。 そうするとこっちでその帳面を見て勘定日に差し引いて給金を渡すようにする。 ――なに力業じゃないから誰でもできる仕事だが知っての通りみんな無筆の寄合だからね。 君がやってくれるとこっちも大変便利だがどうだい帳附は。 結構ですやりましょう。 給金は少くってまことに御気の毒だ。 月に四円だが。 ――食料を別にして。 それでたくさんです。 先生。 愉快ですね。 もう帰りませんか。 ええ帰りましょう。 君はまだ大分長くここにいるつもりですか。 どうだか分りません。 先生は。 どうも君の顔には見覚えがありませんね。 人違いじゃないですか。 これから折々お宅へ伺っても宜ござんすか。 ええいらっしゃい。 たった今出たばかりで十分になるかならないかでございます。 先生。 どうしてどうして。 私の後を跟けて来たのですか。 どうして。 誰の墓へ参りに行ったか妻がその人の名をいいましたか。 いいえそんな事は何もおっしゃいません。 そうですか。 ――そうそれはいうはずがありませんね始めて会ったあなたに。 いう必要がないんだから。 これは何と読むんでしょう。 アンドレとでも読ませるつもりでしょうね。 あなたは死という事実をまだ真面目に考えた事がありませんね。 もう少しすると綺麗ですよ。 この木がすっかり黄葉してここいらの地面は金色の落葉で埋まるようになります。 すぐお宅へお帰りですか。 ええ別に寄る所もありませんから。 先生のお宅の墓地はあすこにあるんですか。 いいえ。 どなたのお墓があるんですか。 ――ご親類のお墓ですか。 いいえ。 あすこには私の友達の墓があるんです。 お友達のお墓へ毎月お参りをなさるんですか。 そうです。 先生|雑司ヶ谷の銀杏はもう散ってしまったでしょうか。 まだ空坊主にはならないでしょう。 今度お墓参りにいらっしゃる時にお伴をしても宜ござんすか。 私は先生といっしょにあすこいらが散歩してみたい。 私は墓参りに行くんで散歩に行くんじゃないですよ。 しかしついでに散歩をなすったらちょうど好いじゃありませんか。 私のは本当の墓参りだけなんだから。 じゃお墓参りでも好いからいっしょに伴れて行って下さい。 私もお墓参りをしますから。 先生。 私は。 私はあなたに話す事のできないある理由があって他といっしょにあすこへ墓参りには行きたくないのです。 自分の妻さえまだ伴れて行った事がないのです。 あなたは何でそうたびたび私のようなものの宅へやって来るのですか。 何でといってそんな特別な意味はありません。 ――しかしお邪魔なんですか。 邪魔だとはいいません。 私は淋しい人間です。 だからあなたの来て下さる事を喜んでいます。 だからなぜそうたびたび来るのかといって聞いたのです。 そりゃまたなぜです。 あなたは幾歳ですか。 また来ましたね。 ええ来ました。 私は淋しい人間です。 私は淋しい人間ですがことによるとあなたも淋しい人間じゃないですか。 私は淋しくっても年を取っているから動かずにいられるが若いあなたはそうは行かないのでしょう。 動けるだけ動きたいのでしょう。 動いて何かに打つかりたいのでしょう。 私はちっとも淋しくはありません。 若いうちほど淋しいものはありません。 そんならなぜあなたはそうたびたび私の宅へ来るのですか。 あなたは私に会ってもおそらくまだ淋しい気がどこかでしているでしょう。 私にはあなたのためにその淋しさを根元から引き抜いて上げるだけの力がないんだから。 あなたは外の方を向いて今に手を広げなければならなくなります。 今に私の宅の方へは足が向かなくなります。 お前も一つお上がり。 私は。 珍らしい事。 私に呑めとおっしゃった事は滅多にないのにね。 お前は嫌いだからさ。 しかし稀には飲むといいよ。 好い心持になるよ。 ちっともならないわ。 苦しいぎりで。 でもあなたは大変ご愉快そうね少しご酒を召し上がると。 時によると大変愉快になる。 しかしいつでもというわけにはいかない。 今夜はいかがです。 今夜は好い心持だね。 これから毎晩少しずつ召し上がると宜ござんすよ。 そうはいかない。 召し上がって下さいよ。 その方が淋しくなくって好いから。 子供でもあると好いんですがね。 そうですな。 一人|貰ってやろうか。 貰ッ子じゃねえあなた。 子供はいつまで経ったってできっこないよ。 なぜです。 天罰だからさ。 おい静。 今日は駄目です。 愉快になれませんか。 君今夜はどうかしていますね。 実は私も少し変なのですよ。 君に分りますか。 実は先刻妻と少し喧嘩をしてね。 それで下らない神経を昂奮させてしまったんです。 どうして。 妻が私を誤解するのです。 それを誤解だといって聞かせても承知しないのです。 つい腹を立てたのです。 どんなに先生を誤解なさるんですか。 妻が考えているような人間なら私だってこんなに苦しんでいやしない。 悪い事をした。 怒って出たから妻はさぞ心配をしているだろう。 考えると女は可哀そうなものですね。 私の妻などは私より外にまるで頼りにするものがないんだから。 そういうと夫の方はいかにも心丈夫のようで少し滑稽だが。 君私は君の眼にどう映りますかね。 強い人に見えますか弱い人に見えますか。 中位に見えます。 ついでにお宅の前までお伴しましょうか。 もう遅いから早く帰りたまえ。 私も早く帰ってやるんだから妻君のために。 妻君のために。 妻君のために。 私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。 妻以外の女はほとんど女として私に訴えないのです。 妻の方でも私を天下にただ一人しかない男と思ってくれています。 そういう意味からいって私たちは最も幸福に生れた人間の一対であるべきはずです。 最も幸福に生れた人間の一対であるべきはずです。 私のようなものが世の中へ出て口を利いては済まない。 どうしても私は世間に向かって働き掛ける資格のない男だから仕方がありません。 先生はなぜああやって宅で考えたり勉強したりなさるだけで世の中へ出て仕事をなさらないんでしょう。 あの人は駄目ですよ。 そういう事が嫌いなんですから。 つまり下らない事だと悟っていらっしゃるんでしょうか。 悟るの悟らないのって――そりゃ女だからわたくしには解りませんけれどおそらくそんな意味じゃないでしょう。 やっぱり何かやりたいのでしょう。 それでいてできないんです。 だから気の毒ですわ。 しかし先生は健康からいって別にどこも悪いところはないようじゃありませんか。 丈夫ですとも。 何にも持病はありません。 それでなぜ活動ができないんでしょう。 それが解らないのよあなた。 それが解るくらいなら私だってこんなに心配しやしません。 わからないから気の毒でたまらないんです。 若い時はあんな人じゃなかったんですよ。 若い時はまるで違っていました。 それが全く変ってしまったんです。 若い時っていつ頃ですか。 書生時代よ。 書生時代から先生を知っていらっしゃったんですか。 本当いうと合の子なんですよ。 新婚の夫婦のようだね。 仲が好さそうですね。 君は恋をした事がありますか。 恋をしたくはありませんか。 したくない事はないでしょう。 ええ。 君は今あの男と女を見て冷評しましたね。 あの冷評のうちには君が恋を求めながら相手を得られないという不快の声が交っていましょう。 そんな風に聞こえましたか。 聞こえました。 恋の満足を味わっている人はもっと暖かい声を出すものです。 しかししかし君恋は罪悪ですよ。 解っていますか。 恋は罪悪ですか。 罪悪です。 たしかに。 なぜですか。 なぜだか今に解ります。 今にじゃないもう解っているはずです。 あなたの心はとっくの昔からすでに恋で動いているじゃありませんか。 私の胸の中にこれという目的物は一つもありません。 私は先生に何も隠してはいないつもりです。 目的物がないから動くのです。 あれば落ち付けるだろうと思って動きたくなるのです。 今それほど動いちゃいません。 あなたは物足りない結果私の所に動いて来たじゃありませんか。 それはそうかも知れません。 しかしそれは恋とは違います。 恋に上る楷段なんです。 異性と抱き合う順序としてまず同性の私の所へ動いて来たのです。 私には二つのものが全く性質を異にしているように思われます。 いや同じです。 私は男としてどうしてもあなたに満足を与えられない人間なのです。 それからある特別の事情があってなおさらあなたに満足を与えられないでいるのです。 私は実際お気の毒に思っています。 あなたが私からよそへ動いて行くのは仕方がない。 私はむしろそれを希望しているのです。 しかし。 私が先生から離れて行くようにお思いになれば仕方がありませんが私にそんな気の起った事はまだありません。 しかし気を付けないといけない。 恋は罪悪なんだから。 私の所では満足が得られない代りに危険もないが――君黒い長い髪で縛られた時の心持を知っていますか。 先生罪悪という意味をもっと判然いって聞かして下さい。 それでなければこの問題をここで切り上げて下さい。 私自身に罪悪という意味が判然解るまで。 悪い事をした。 私はあなたに真実を話している気でいた。 ところが実際はあなたを焦慮していたのだ。 私は悪い事をした。 君は私がなぜ毎月雑司ヶ谷の墓地に埋っている友人の墓へ参るのか知っていますか。 また悪い事をいった。 焦慮せるのが悪いと思って説明しようとするとその説明がまたあなたを焦慮せるような結果になる。 どうも仕方がない。 この問題はこれで止めましょう。 とにかく恋は罪悪ですよよござんすか。 そうして神聖なものですよ。 あんまり逆上ちゃいけません。 覚めた結果としてそう思うんです。 あなたは熱に浮かされているのです。 熱がさめると厭になります。 私は今のあなたからそれほどに思われるのを苦しく感じています。 しかしこれから先のあなたに起るべき変化を予想して見るとなお苦しくなります。 私はそれほど軽薄に思われているんですか。 それほど不信用なんですか。 私はお気の毒に思うのです。 気の毒だが信用されないとおっしゃるんですか。 信用しないって特にあなたを信用しないんじゃない。 人間全体を信用しないんです。 じゃ奥さんも信用なさらないんですか。 私は私自身さえ信用していないのです。 つまり自分で自分が信用できないから人も信用できないようになっているのです。 自分を呪うより外に仕方がないのです。 そうむずかしく考えれば誰だって確かなものはないでしょう。 いや考えたんじゃない。 やったんです。 やった後で驚いたんです。 そうして非常に怖くなったんです。 あなたあなた。 何だい。 ちょっと。 とにかくあまり私を信用してはいけませんよ。 今に後悔するから。 そうして自分が欺かれた返報に残酷な復讐をするようになるものだから。 そりゃどういう意味ですか。 かつてはその人の膝の前に跪いたという記憶が今度はその人の頭の上に足を載せさせようとするのです。 私は未来の侮辱を受けないために今の尊敬を斥けたいと思うのです。 私は今より一層|淋しい未来の私を我慢する代りに淋しい今の私を我慢したいのです。 自由と独立と己れとに充ちた現代に生れた我々はその犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう。 かつてはその人の前に跪いたという記憶が今度はその人の頭の上に足を載せさせようとする。 時間に後れると悪いってつい今しがた出掛けました。 ちっとそこいらにある本でも読んでいて下さい。 おや。 それじゃ窮屈でしょう。 いえ窮屈じゃありません。 でも退屈でしょう。 いいえ。 泥棒が来るかと思って緊張しているから退屈でもありません。 ここは隅っこだから番をするには好くありませんね。 じゃ失礼ですがもっと真中へ出て来て頂戴。 ご退屈だろうと思ってお茶を入れて持って来たんですが茶の間で宜しければあちらで上げますから。 先生はやっぱり時々こんな会へお出掛けになるんですか。 いいえ滅多に出た事はありません。 近頃は段々人の顔を見るのが嫌いになるようです。 それじゃ奥さんだけが例外なんですか。 いいえ私も嫌われている一人なんです。 そりゃ嘘です。 奥さん自身嘘と知りながらそうおっしゃるんでしょう。 なぜ。 私にいわせると奥さんが好きになったから世間が嫌いになるんですもの。 あなたは学問をする方だけあってなかなかお上手ね。 空っぽな理屈を使いこなす事が。 世の中が嫌いになったから私までも嫌いになったんだともいわれるじゃありませんか。 それと同なじ理屈で。 両方ともいわれる事はいわれますがこの場合は私の方が正しいのです。 議論はいやよ。 よく男の方は議論だけなさるのね面白そうに。 空の盃でよくああ飽きずに献酬ができると思いますわ。 もう一杯上げましょうか。 いくつ。 一つ。 二ッつ。 あなた大変黙り込んじまったのね。 何かいうとまた議論を仕掛けるなんて叱り付けられそうですから。 まさか。 奥さん先刻の続きをもう少しいわせて下さいませんか。 奥さんには空な理屈と聞こえるかも知れませんが私はそんな上の空でいってる事じゃないんだから。 じゃおっしゃい。 今奥さんが急にいなくなったとしたら先生は現在の通りで生きていられるでしょうか。 そりゃ分らないわあなた。 そんな事先生に聞いて見るより外に仕方がないじゃありませんか。 私の所へ持って来る問題じゃないわ。 奥さん私は真面目ですよ。 だから逃げちゃいけません。 正直に答えなくっちゃ。 正直よ。 正直にいって私には分らないのよ。 じゃ奥さんは先生をどのくらい愛していらっしゃるんですか。 これは先生に聞くよりむしろ奥さんに伺っていい質問ですからあなたに伺います。 何もそんな事を開き直って聞かなくっても好いじゃありませんか。 真面目くさって聞くがものはない。 分り切ってるとおっしゃるんですか。 まあそうよ。 そのくらい先生に忠実なあなたが急にいなくなったら先生はどうなるんでしょう。 世の中のどっちを向いても面白そうでない先生はあなたが急にいなくなったら後でどうなるでしょう。 先生から見てじゃない。 あなたから見てですよ。 あなたから見て先生は幸福になるでしょうか不幸になるでしょうか。 そりゃ私から見れば分っています。 先生は私を離れれば不幸になるだけです。 あるいは生きていられないかも知れませんよ。 そういうと己惚になるようですが私は今先生を人間としてできるだけ幸福にしているんだと信じていますわ。 どんな人があっても私ほど先生を幸福にできるものはないとまで思い込んでいますわ。 それだからこうして落ち付いていられるんです。 その信念が先生の心に好く映るはずだと私は思いますが。 それは別問題ですわ。 やっぱり先生から嫌われているとおっしゃるんですか。 私は嫌われてるとは思いません。 嫌われる訳がないんですもの。 しかし先生は世間が嫌いなんでしょう。 世間というより近頃では人間が嫌いになっているんでしょう。 だからその人間の一人として私も好かれるはずがないじゃありませんか。 奥さん私がこの前なぜ先生が世間的にもっと活動なさらないのだろうといってあなたに聞いた時にあなたはおっしゃった事がありますね。 元はああじゃなかったんだって。 ええいいました。 実際あんなじゃなかったんですもの。 どんなだったんですか。 あなたの希望なさるようなまた私の希望するような頼もしい人だったんです。 それがどうして急に変化なすったんですか。 急にじゃありません段々ああなって来たのよ。 奥さんはその間始終先生といっしょにいらしったんでしょう。 無論いましたわ。 夫婦ですもの。 じゃ先生がそう変って行かれる源因がちゃんと解るべきはずですがね。 それだから困るのよ。 あなたからそういわれると実に辛いんですが私にはどう考えても考えようがないんですもの。 私は今まで何遍あの人にどうぞ打ち明けて下さいって頼んで見たか分りゃしません。 先生は何とおっしゃるんですか。 何にもいう事はない何にも心配する事はないおれはこういう性質になったんだからというだけで取り合ってくれないんです。 あなたは私に責任があるんだと思ってやしませんか。 いいえ。 どうぞ隠さずにいって下さい。 そう思われるのは身を切られるより辛いんだから。 これでも私は先生のためにできるだけの事はしているつもりなんです。 そりゃ先生もそう認めていられるんだから大丈夫です。 ご安心なさい私が保証します。 私はとうとう辛防し切れなくなって先生に聞きました。 私に悪い所があるなら遠慮なくいって下さい改められる欠点なら改めるからってすると先生はお前に欠点なんかありゃしない欠点はおれの方にあるだけだというんです。 そういわれると私悲しくなって仕様がないんです涙が出てなおの事自分の悪い所が聞きたくなるんです。 あなたどう思って。 私からああなったのかそれともあなたのいう人世観とか何とかいうものからああなったのか。 隠さずいって頂戴。 私には解りません。 しかし先生が奥さんを嫌っていらっしゃらない事だけは保証します。 私は先生自身の口から聞いた通りを奥さんに伝えるだけです。 先生は嘘を吐かない方でしょう。 実は私すこし思いあたる事があるんですけれども。 先生がああいう風になった源因についてですか。 ええ。 もしそれが源因だとすれば私の責任だけはなくなるんだからそれだけでも私大変楽になれるんですが。 どんな事ですか。 あなた判断して下すって。 いうから。 私にできる判断ならやります。 みんなはいえないのよ。 みんないうと叱られるから。 叱られないところだけよ。 先生がまだ大学にいる時分大変仲の好いお友達が一人あったのよ。 その方がちょうど卒業する少し前に死んだんです。 急に死んだんです。 実は変死したんです。 どうして。 それっ切りしかいえないのよ。 けれどもその事があってから後なんです。 先生の性質が段々変って来たのは。 なぜその方が死んだのか私には解らないの。 先生にもおそらく解っていないでしょう。 けれどもそれから先生が変って来たと思えばそう思われない事もないのよ。 その人の墓ですか雑司ヶ谷にあるのは。 それもいわない事になってるからいいません。 しかし人間は親友を一人亡くしただけでそんなに変化できるものでしょうか。 私はそれが知りたくって堪らないんです。 だからそこを一つあなたに判断して頂きたいと思うの。 どうもご苦労さま泥棒は来ませんでしたか。 来ないんで張合が抜けやしませんか。 どうもお気の毒さま。 こりゃ手織りね。 こんな地の好い着物は今まで縫った事がないわ。 その代り縫い悪いのよそりゃあ。 まるで針が立たないんですもの。 お蔭で針を二本折りましたわ。 大病は好いがちょっとした風邪などはかえって厭なものですね。 私は風邪ぐらいなら我慢しますがそれ以上の病気は真平です。 先生だって同じ事でしょう。 試みにやってご覧になるとよく解ります。 そうかね。 私は病気になるくらいなら死病に罹りたいと思ってる。 そりゃ困るでしょう。 そのくらいなら今手元にあるはずだから持って行きたまえ。 そりゃご心配ですね。 何遍も卒倒したんですか。 手紙には何とも書いてありませんが。 ――そんなに何度も引ッ繰り返るものですか。 ええ。 どうせむずかしいんでしょう。 そうさね。 私が代られれば代ってあげても好いが。 ――嘔気はあるんですか。 どうですか何とも書いてないから大方ないんでしょう。 吐気さえ来なければまだ大丈夫ですよ。 みんなが心配するからまあ我慢してこう凝としている。 なにもう起きても好いのさ。 お父さんはお前が帰って来たので急に気が強くおなりなんだよ。 これしきの病気に学校を休ませては気の毒だ。 お母さんがあまり仰山な手紙を書くものだからいけない。 あんまり軽はずみをしてまた逆回すといけませんよ。 なに大丈夫これでいつものように要心さえしていれば。 こんど東京へ行くときには椎茸でも持って行ってお上げ。 ええしかし先生が干した椎茸なぞを食うかしら。 旨くはないが別に嫌いな人もないだろう。 碁だと盤が高過ぎる上に足が着いているから炬燵の上では打てないがそこへ来ると将碁盤は好いねこうして楽に差せるから。 無精者には持って来いだ。 もう一番やろう。 もう帰るのかいまだ早いじゃないか。 まだ四五日いても間に合うんだろう。 こりゃ何の御菓子。 なるほど容体を聞くと今が今どうという事もないようですが病気が病気だからよほど気をつけないといけません。 自分で病気に罹っていながら気が付かないで平気でいるのがあの病の特色です。 私の知ったある士官はとうとうそれでやられたが全く嘘のような死に方をしたんですよ。 何しろ傍に寝ていた細君が看病をする暇もなんにもないくらいなんですからね。 夜中にちょっと苦しいといって細君を起したぎり翌る朝はもう死んでいたんです。 しかも細君は夫が寝ているとばかり思ってたんだっていうんだから。 私の父もそんなになるでしょうか。 ならんともいえないですね。 医者は何というのです。 医者は到底治らないというんです。 けれども当分のところ心配はあるまいともいうんです。 それじゃ好いでしょう。 医者がそういうなら。 私の今話したのは気が付かずにいた人の事でしかもそれがずいぶん乱暴な軍人なんだから。 しかし人間は健康にしろ病気にしろどっちにしても脆いものですね。 いつどんな事でどんな死にようをしないとも限らないから。 先生もそんな事を考えてお出ですか。 いくら丈夫の私でも満更考えない事もありません。 よくころりと死ぬ人があるじゃありませんか。 自然に。 それからあっと思う間に死ぬ人もあるでしょう。 不自然な暴力で。 不自然な暴力って何ですか。 何だかそれは私にも解らないが自殺する人はみんな不自然な暴力を使うんでしょう。 すると殺されるのもやはり不自然な暴力のお蔭ですね。 殺される方はちっとも考えていなかった。 なるほどそういえばそうだ。 近頃はあんまり書物を読まないから新しい事は知りませんよ。 学校の先生に聞いた方が好いでしょう。 先生はなぜ元のように書物に興味をもち得ないんですか。 なぜという訳もありませんが。 つまりいくら本を読んでもそれほどえらくならないと思うせいでしょう。 それから。 それからまだあるんですか。 まだあるというほどの理由でもないが以前はね人の前へ出たり人に聞かれたりして知らないと恥のようにきまりが悪かったものだが近頃は知らないという事がそれほどの恥でないように見え出したものだからつい無理にも本を読んでみようという元気が出なくなったのでしょう。 まあ早くいえば老い込んだのです。 もう論文は片付いたんですか結構ですね。 お蔭でようやく済みました。 もう何にもする事はありません。 なるほど。 そうですか。 先生どこかへ散歩しましょう。 外へ出ると大変|好い心持です。 どこへ。 はいってみようか。 植木屋ですね。 静かだね。 断わらずにはいっても構わないだろうか。 構わないでしょう。 これは霧島でしょう。 先生帽子が落ちました。 ありがとう。 突然だが君の家には財産がよっぽどあるんですか。 あるというほどありゃしません。 まあどのくらいあるのかね。 失礼のようだが。 どのくらいって山と田地が少しあるぎりで金なんかまるでないんでしょう。 先生はどうなんです。 どのくらいの財産をもっていらっしゃるんですか。 私は財産家と見えますか。 そうでしょう。 そりゃそのくらいの金はあるさけれども決して財産家じゃありません。 財産家ならもっと大きな家でも造るさ。 これでも元は財産家なんだがなあ。 これでも元は財産家なんですよ君。 あなたのお父さんの病気はその後どうなりました。 何ともいって来ませんがもう好いんでしょう。 好ければ結構だが――病症が病症なんだからね。 やっぱり駄目ですかね。 でも当分は持ち合ってるんでしょう。 何ともいって来ませんよ。 そうですか。 君のうちに財産があるなら今のうちによく始末をつけてもらっておかないといけないと思うがね余計なお世話だけれども。 君のお父さんが達者なうちに貰うものはちゃんと貰っておくようにしたらどうですか。 万一の事があったあとで一番面倒の起るのは財産の問題だから。 ええ。 あなたのお父さんが亡くなられるのを今から予想してかかるような言葉遣いをするのが気に触ったら許してくれたまえ。 しかし人間は死ぬものだからね。 どんなに達者なものでもいつ死ぬか分らないものだからね。 そんな事をちっとも気に掛けちゃいません。 君の兄弟は何人でしたかね。 みんな善い人ですか。 別に悪い人間というほどのものもいないようです。 大抵|田舎者ですから。 田舎者はなぜ悪くないんですか。 田舎者は都会のものよりかえって悪いくらいなものです。 それから君は今君の親戚なぞの中にこれといって悪い人間はいないようだといいましたね。 しかし悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。 そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。 平生はみんな善人なんです。 少なくともみんな普通の人間なんです。 それがいざという間際に急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。 だから油断ができないんです。 叔父さんはいって来る時家に誰もいなかったかい。 誰もいなかったよ。 姉さんやおっかさんが勝手の方にいたのに。 そうかいたのかい。 ああ。 叔父さん今日はって断ってはいって来ると好かったのに。 おっかさんにそういっとくれ。 少しここで休まして下さいって。 今|斥候長になってるところなんだよ。 もうそろそろ帰りましょう。 大分日が永くなったようだがやっぱりこう安閑としているうちにはいつの間にか暮れて行くんだね。 ありがとう。 脂がこびり着いてやしませんか。 綺麗に落ちました。 この羽織はつい此間拵えたばかりなんだよ。 だからむやみに汚して帰ると妻に叱られるからね。 有難う。 どうもお邪魔をしました。 いいえお構い申しも致しませんで。 さきほど先生のいわれた人間は誰でもいざという間際に悪人になるんだという意味ですね。 あれはどういう意味ですか。 意味といって深い意味もありません。 ――つまり事実なんですよ。 理屈じゃないんだ。 事実で差支えありませんが私の伺いたいのはいざという間際という意味なんです。 一体どんな場合を指すのですか。 金さ君。 金を見るとどんな君子でもすぐ悪人になるのさ。 おいおい。 そら見たまえ。 何をですか。 君の気分だって私の返事一つですぐ変るじゃないか。 先生。 何ですか。 先生はさっき少し昂奮なさいましたね。 あの植木屋の庭で休んでいる時に。 私は先生の昂奮したのを滅多に見た事がないんですが今日は珍しいところを拝見したような気がします。 やあ失敬。 私は先刻そんなに昂奮したように見えたんですか。 そんなにというほどでもありませんが少し。 いや見えても構わない。 実際|昂奮するんだから。 私は財産の事をいうときっと昂奮するんです。 君にはどう見えるか知らないが私はこれで大変執念深い男なんだから。 人から受けた屈辱や損害は十年たっても二十年たっても忘れやしないんだから。 私は他に欺かれたのです。 しかも血のつづいた親戚のものから欺かれたのです。 私は決してそれを忘れないのです。 私の父の前には善人であったらしい彼らは父の死ぬや否や許しがたい不徳義漢に変ったのです。 私は彼らから受けた屈辱と損害を小供の時から今日まで背負わされている。 恐らく死ぬまで背負わされ通しでしょう。 私は死ぬまでそれを忘れる事ができないんだから。 しかし私はまだ復讐をしずにいる。 考えると私は個人に対する復讐以上の事を現にやっているんだ。 私は彼らを憎むばかりじゃない彼らが代表している人間というものを一般に憎む事を覚えたのだ。 私はそれで沢山だと思う。 これから六月までは一番気楽な時ですね。 ことによると生涯で一番気楽かも知れない。 精出して遊びたまえ。 頭が鈍くて要領を得ないのは構いませんがちゃんと解ってるくせにはっきりいってくれないのは困ります。 私は何にも隠してやしません。 隠していらっしゃいます。 あなたは私の思想とか意見とかいうものと私の過去とをごちゃごちゃに考えているんじゃありませんか。 私は貧弱な思想家ですけれども自分の頭で纏め上げた考えをむやみに人に隠しやしません。 隠す必要がないんだから。 けれども私の過去を悉くあなたの前に物語らなくてはならないとなるとそれはまた別問題になります。 別問題とは思われません。 先生の過去が生み出した思想だから私は重きを置くのです。 二つのものを切り離したら私にはほとんど価値のないものになります。 私は魂の吹き込まれていない人形を与えられただけで満足はできないのです。 あなたは大胆だ。 ただ真面目なんです。 真面目に人生から教訓を受けたいのです。 私の過去を訐いてもですか。 あなたは本当に真面目なんですか。 私は過去の因果で人を疑りつけている。 だから実はあなたも疑っている。 しかしどうもあなただけは疑りたくない。 あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ。 私は死ぬ前にたった一人で好いから他を信用して死にたいと思っている。 あなたはそのたった一人になれますか。 なってくれますか。 あなたははらの底から真面目ですか。 もし私の命が真面目なものなら私の今いった事も真面目です。 よろしい。 話しましょう。 私の過去を残らずあなたに話して上げましょう。 その代り。 いやそれは構わない。 しかし私の過去はあなたに取ってそれほど有益でないかも知れませんよ。 聞かない方が増かも知れませんよ。 それから――今は話せないんだからそのつもりでいて下さい。 適当の時機が来なくっちゃ話さないんだから。 カラやカフスと同じ事さ。 汚れたのを用いるくらいなら一層始めから色の着いたものを使うが好い。 白ければ純白でなくっちゃ。 先生は癇性ですね。 でも着物などはそれほど気にしないようですよ。 本当をいうと私は精神的に癇性なんです。 それで始終苦しいんです。 考えると実に馬鹿馬鹿しい性分だ。 お目出とう。 世間はこんな場合によくお目出とうといいたがるものですね。 結構ね。 さぞお父さんやお母さんはお喜びでしょう。 先生の卒業証書はどうしました。 どうしたかね。 ――まだどこかにしまってあったかね。 ええたしかしまってあるはずですが。 お茶。 ご飯。 ずいぶんよく食べるのね。 もうおしまい。 あなた近頃大変|小食になったのね。 小食になったんじゃありません。 暑いんで食われないんです。 これは宅で拵えたのよ。 君もいよいよ卒業したがこれから何をする気ですか。 教師。 じゃお役人。 本当いうとまだ何をする考えもないんです。 実は職業というものについて全く考えた事がないくらいなんですから。 だいちどれが善いかどれが悪いか自分がやって見た上でないと解らないんだから選択に困る訳だと思います。 それもそうね。 けれどもあなたは必竟財産があるからそんな呑気な事をいっていられるのよ。 これが困る人でご覧なさい。 なかなかあなたのように落ち付いちゃいられないから。 少し先生にかぶれたんでしょう。 碌なかぶれ方をして下さらないのね。 かぶれても構わないからその代りこの間いった通りお父さんの生きてるうちに相当の財産を分けてもらってお置きなさい。 それでないと決して油断はならない。 奥さんお宅の財産はよッぽどあるんですか。 何だってそんな事をお聞きになるの。 先生に聞いても教えて下さらないから。 教えて上げるほどないからでしょう。 でもどのくらいあったら先生のようにしていられるか宅へ帰って一つ父に談判する時の参考にしますから聞かして下さい。 どのくらいってほどありゃしませんわ。 まあこうしてどうかこうか暮してゆかれるだけよあなた。 ――そりゃどうでも宜いとしてあなたはこれから何か為さらなくっちゃ本当にいけませんよ。 先生のようにごろごろばかりしていちゃ。 ごろごろばかりしていやしないさ。 また当分お目にかかれませんから。 九月には出ていらっしゃるんでしょうね。 まあ九月|頃になるでしょう。 じゃずいぶんご機嫌よう。 私たちもこの夏はことによるとどこかへ行くかも知れないのよ。 ずいぶん暑そうだから。 行ったらまた絵端書でも送って上げましょう。 どちらの見当です。 もしいらっしゃるとすれば。 何まだ行くとも行かないとも極めていやしないんです。 時にお父さんの病気はどうなんです。 そんなに容易く考えられる病気じゃありませんよ。 尿毒症が出るともう駄目なんだから。 本当に大事にしてお上げなさいよ。 毒が脳へ廻るようになるともうそれっきりよあなた。 笑い事じゃないわ。 どうせ助からない病気だそうですからいくら心配したって仕方がありません。 そう思い切りよく考えればそれまでですけれども。 静お前はおれより先へ死ぬだろうかね。 なぜ。 なぜでもないただ聞いてみるのさ。 それとも己の方がお前より前に片付くかな。 大抵世間じゃ旦那が先で細君が後へ残るのが当り前のようになってるね。 そう極った訳でもないわ。 けれども男の方はどうしてもそら年が上でしょう。 だから先へ死ぬという理屈なのかね。 すると己もお前より先にあの世へ行かなくっちゃならない事になるね。 あなたは特別よ。 そうかね。 だって丈夫なんですもの。 ほとんど煩った例がないじゃありませんか。 そりゃどうしたって私の方が先だわ。 先かな。 えきっと先よ。 しかしもしおれの方が先へ行くとするね。 そうしたらお前どうする。 どうするって。 どうするって仕方がないわねえあなた。 老少不定っていうくらいだから。 君はどう思います。 寿命は分りませんね。 私にも。 こればかりは本当に寿命ですからね。 生れた時にちゃんと極った年数をもらって来るんだから仕方がないわ。 先生のお父さんやお母さんなんかほとんど同じよあなた亡くなったのが。 亡くなられた日がですか。 まさか日まで同じじゃないけれども。 でもまあ同じよ。 だって続いて亡くなっちまったんですもの。 どうしてそう一度に死なれたんですか。 そんな話はお止しよ。 つまらないから。 静おれが死んだらこの家をお前にやろう。 ついでに地面も下さいよ。 地面は他のものだから仕方がない。 その代りおれの持ってるものは皆なお前にやるよ。 どうも有難う。 けれども横文字の本なんか貰っても仕様がないわね。 古本屋に売るさ。 売ればいくらぐらいになって。 おれが死んだらおれが死んだらってまあ何遍おっしゃるの。 後生だからもう好い加減にしておれが死んだらは止して頂戴。 縁喜でもない。 あなたが死んだら何でもあなたの思い通りにして上げるからそれで好いじゃありませんか。 ご病人をお大事に。 また九月に。 どっちが先へ死ぬだろう。 ああ帰ったかい。 そうかそれでも卒業ができてまあ結構だった。 ちょっとお待ち今顔を洗って来るから。 卒業ができてまあ結構だ。 お目出とう。 大学ぐらい卒業したってそれほど結構でもありません。 卒業するものは毎年何百人だってあります。 何も卒業したから結構とばかりいうんじゃない。 そりゃ卒業は結構に違いないがおれのいうのはもう少し意味があるんだ。 それがお前に解っていてくれさえすれば。 つまりおれが結構という事になるのさ。 おれはお前の知ってる通りの病気だろう。 去年の冬お前に会った時ことによるともう三月か四月ぐらいなものだろうと思っていたのさ。 それがどういう仕合せか今日までこうしている。 起居に不自由なくこうしている。 そこへお前が卒業してくれた。 だから嬉しいのさ。 せっかく丹精した息子が自分のいなくなった後で卒業してくれるよりも丈夫なうちに学校を出てくれる方が親の身になれば嬉しいだろうじゃないか。 大きな考えをもっているお前から見たら高が大学を卒業したぐらいで結構だ結構だといわれるのは余り面白くもないだろう。 しかしおれの方から見てご覧立場が少し違っているよ。 つまり卒業はお前に取ってよりこのおれに取って結構なんだ。 解ったかい。 こんなものは巻いたなり手に持って来るものだ。 中に心でも入れると好かったのに。 お父さんはあんなに元気そうに庭へ出たり何かしているがあれでいいんですか。 もう何ともないようだよ。 大方好くおなりなんだろう。 でも医者はあの時|到底むずかしいって宣告したじゃありませんか。 だから人間の身体ほど不思議なものはないと思うんだよ。 あれほどお医者が手重くいったものが今までしゃんしゃんしているんだからね。 お母さんも始めのうちは心配してなるべく動かさないようにと思ってたんだがね。 それあの気性だろう。 養生はしなさるけれども強情でねえ。 自分が好いと思い込んだらなかなか私のいう事なんか聞きそうにもなさらないんだからね。 もう大丈夫お母さんがあんまり仰山過ぎるからいけないんだ。 しかし傍でも少しは注意しなくっちゃ。 へえやっぱり同じ病気でね。 お気の毒だね。 いくつでお亡くなりかえその方は。 もっともだ。 お前のいう通りだ。 けれども己の身体は必竟己の身体でその己の身体についての養生法は多年の経験上己が一番|能く心得ているはずだからね。 それご覧な。 でもあれでお父さんは自分でちゃんと覚悟だけはしているんですよ。 今度私が卒業して帰ったのを大変喜んでいるのも全くそのためなんです。 生きてるうちに卒業はできまいと思ったのが達者なうちに免状を持って来たからそれが嬉しいんだってお父さんは自分でそういっていましたぜ。 そりゃお前口でこそそうおいいだけれどもね。 お腹のなかではまだ大丈夫だと思ってお出のだよ。 そうでしょうか。 まだまだ十年も二十年も生きる気でお出のだよ。 もっとも時々はわたしにも心細いような事をおいいだがね。 おれもこの分じゃもう長い事もあるまいよおれが死んだらお前はどうする一人でこの家にいる気かなんて。 なにね自分で死ぬ死ぬっていう人に死んだ試しはないんだから安心だよ。 お父さんなんぞも死ぬ死ぬっていいながらこれから先まだ何年生きなさるか分るまいよ。 それよりか黙ってる丈夫の人の方が剣呑さ。 あんまり仰山な事は止してください。 仰山仰山とおいいだが些とも仰山じゃないよ。 生涯に二度とある事じゃないんだからねお客ぐらいするのは当り前だよ。 そう遠慮をお為でない。 呼ばなくっても好いが呼ばないとまた何とかいうから。 東京と違って田舎は蒼蠅いからね。 お父さんの顔もあるんだから。 つまり私のためなら止して下さいというだけなんです。 陰で何かいわれるのが厭だからというご主意ならそりゃまた別です。 あなたがたに不利益な事を私が強いて主張したって仕方がありません。 そう理屈をいわれると困る。 何もお前のためにするんじゃないとお父さんがおっしゃるんじゃないけれどもお前だって世間への義理ぐらいは知っているだろう。 学問をさせると人間がとかく理屈っぽくなっていけない。 まあご遠慮申した方がよかろう。 私には親類はありませんよ。 おいご覧今日も天子さまの事が詳しく出ている。 勿体ない話だが天子さまのご病気もお父さんのとまあ似たものだろうな。 しかし大丈夫だろう。 おれのような下らないものでもまだこうしていられるくらいだから。 お父さんは本当に病気を怖がってるんですよ。 お母さんのおっしゃるように十年も二十年も生きる気じゃなさそうですぜ。 ちょっとまた将棋でも差すように勧めてご覧な。 まったく気のせいだよ。 気じゃない。 本当に身体が悪かないんでしょうか。 どうも気分より健康の方が悪くなって行くらしい。 今年の夏はお前も詰らなかろう。 せっかく卒業したのにお祝いもして上げる事ができずお父さんの身体もあの通りだし。 それに天子様のご病気で。 ――いっその事帰るすぐにお客でも呼ぶ方が好かったんだよ。 ああああ。 ああああ天子様もとうとうおかくれになる。 己も。 あなたの宅の構えはどんな体裁ですか。 私の郷里の方とは大分趣が違っていますかね。 そんな所へ行かないでもまだ好い口があるだろう。 相当の口って近頃じゃそんな旨い口はなかなかあるものじゃありません。 ことに兄さんと私とは専門も違うし時代も違うんだから二人を同じように考えられちゃ少し困ります。 しかし卒業した以上は少なくとも独立してやって行ってくれなくっちゃこっちも困る。 人からあなたの所のご二男は大学を卒業なすって何をしてお出ですかと聞かれた時に返事ができないようじゃおれも肩身が狭いから。 お前のよく先生先生という方にでもお願いしたら好いじゃないか。 こんな時こそ。 その先生は何をしているのかい。 何にもしていないんです。 何もしていないというのはまたどういう訳かね。 お前がそれほど尊敬するくらいな人なら何かやっていそうなものだがね。 おれのような人間だって月給こそ貰っちゃいないがこれでも遊んでばかりいるんじゃない。 お前のいうような偉い方ならきっと何か口を探して下さるよ。 頼んでご覧なのかい。 いいえ。 じゃ仕方がないじゃないか。 なぜ頼まないんだい。 手紙でも好いからお出しな。 ええ。 小供に学問をさせるのも好し悪しだね。 せっかく修業をさせるとその小供は決して宅へ帰って来ない。 これじゃ手もなく親子を隔離するために学問させるようなものだ。 先生に手紙を書きましたよ。 あなたのおっしゃった通り。 ちょっと読んでご覧なさい。 そうかいそれじゃ早くお出し。 そんな事は他が気を付けないでも自分で早くやるものだよ。 しかし手紙じゃ用は足りませんよ。 どうせ九月にでもなって私が東京へ出てからでなくっちゃ。 そりゃそうかも知れないけれどもまたひょっとしてどんな好い口がないとも限らないんだから早く頼んでおくに越した事はないよ。 ええ。 とにかく返事は来るに極ってますからそうしたらまたお話ししましょう。 大方どこかへ避暑にでも行っているんでしょう。 ここにこうしていたってあなたのおっしゃる通りの地位が得られるものじゃないですから。 無論口の見付かるまでで好いですから。 そりゃ僅の間の事だろうからどうにか都合してやろう。 その代り永くはいけないよ。 相当の地位を得次第独立しなくっちゃ。 元来学校を出た以上出たあくる日から他の世話になんぞなるものじゃないんだから。 今の若いものは金を使う道だけ心得ていて金を取る方は全く考えていないようだね。 昔の親は子に食わせてもらったのに今の親は子に食われるだけだ。 お母さんに日を見てもらいなさい。 そうしましょう。 お前が東京へ行くと宅はまた淋しくなる。 何しろ己とお母さんだけなんだからね。 そのおれも身体さえ達者なら好いがこの様子じゃいつ急にどんな事がないともいえないよ。 もう大丈夫。 もう少し様子を見てからにしましょうか。 そうしておくれ。 お前は今日東京へ行くはずじゃなかったか。 ええ少し延ばしました。 おれのためにかい。 気の毒だね。 どうしたものだろうね。 どうせ死ぬんだから旨いものでも食って死ななくっちゃ。 どうしてこう渇くのかね。 やっぱり心に丈夫の所があるのかも知れないよ。 そう判然りした事になると私にも分りません。 しかし危険はいつ来るか分らないという事だけは承知していて下さい。 今に癒ったらもう一返東京へ遊びに行ってみよう。 人間はいつ死ぬか分らないからな。 何でもやりたい事は生きてるうちにやっておくに限る。 その時は私もいっしょに伴れて行って頂きましょう。 おれが死んだらどうかお母さんを大事にしてやってくれ。 おれが死んだら。 おれが死んだら。 そんな弱い事をおっしゃっちゃいけませんよ。 今に癒ったら東京へ遊びにいらっしゃるはずじゃありませんか。 お母さんといっしょに。 今度いらっしゃるときっと吃驚しますよ変っているんで。 電車の新しい線路だけでも大変|増えていますからね。 電車が通るようになれば自然|町並も変るしその上に市区改正もあるし東京が凝としている時はまあ二六時中一分もないといっていいくらいです。 どうかと思ったらこの様子じゃ大丈夫だ。 話も自由だしだいち顔がちっとも瘠せていないじゃないか。 少し午眠でもおしよ。 お前もさぞ草臥れるだろう。 お父さんは。 今よく寝てお出だよ。 先生からまだ何ともいって来ないかい。 もう一遍手紙を出してご覧な。 手紙を書くのは訳はないですがこういう事は郵便じゃとても埒は明きませんよ。 どうしても自分で東京へ出てじかに頼んで廻らなくっちゃ。 だってお父さんがあの様子じゃお前いつ東京へ出られるか分らないじゃないか。 だから出やしません。 癒るとも癒らないとも片付かないうちはちゃんとこうしているつもりです。 そりゃ解り切った話だね。 今にもむずかしいという大病人を放ちらかしておいて誰が勝手に東京へなんか行けるものかね。 実はね。 実はお父さんの生きてお出のうちにお前の口が極ったらさぞ安心なさるだろうと思うんだがね。 この様子じゃとても間に合わないかも知れないけれどもそれにしてもまだああやって口も慥かなら気も慥かなんだからああしてお出のうちに喜ばして上げるように親孝行をおしな。 そういう元気なら結構なものだ。 よっぽど悪いかと思って来たら大変|好いようじゃありませんか。 新聞なんか読ましちゃいけなかないか。 私もそう思うんだけれども読まないと承知しないんだから仕様がない。 よく解るのかな。 そりゃ慥かです。 私はさっき二十分ばかり枕元に坐って色々話してみたが調子の狂ったところは少しもないです。 あの様子じゃことによるとまだなかなか持つかも知れませんよ。 身体が身体だからむやみに汽車になんぞ乗って揺れない方が好い。 無理をして見舞に来られたりするとかえってこっちが心配だから。 なに今に治ったら赤ん坊の顔でも見に久しぶりにこっちから出掛けるから差支えない。 大変だ大変だ。 あの時はいよいよ頭が変になったのかと思ってひやりとした。 私も実は驚きました。 何だい。 きっとお頼もうしておいた口の事だよ。 本当に間の悪い時は仕方のないものだね。 大方手紙で何とかいってきて下さるつもりだろうよ。 先生が口を探してくれる。 とにかく私の手紙はまだ向うへ着いていないはずだからこの電報はその前に出したものに違いないですね。 そうだね。 ああ作さんか。 作さんよく来てくれた。 作さんは丈夫で羨ましいね。 己はもう駄目だ。 そんな事はないよ。 お前なんか子供は二人とも大学を卒業するし少しぐらい病気になったって申し分はないんだ。 おれをご覧よ。 かかあには死なれるしさ子供はなしさ。 ただこうして生きているだけの事だよ。 達者だって何の楽しみもないじゃないか。 そりゃ結構です。 何の口だかまだ分らないのか。 関さんも気の毒だね。 ああ幾日も引っ張られて帰れなくっちゃあ。 しかしそんな忙しい身体でもないんだからああして泊っていてくれるんでしょう。 関さんよりも兄さんの方が困るでしょうこう長くなっちゃ。 困っても仕方がない。 外の事と違うからな。 お父さんはまだ治る気でいるようだな。 お前の卒業祝いは已めになって結構だ。 おれの時には弱ったからね。 お前これからどうする。 一体|家の財産はどうなってるんだろう。 おれは知らない。 お父さんはまだ何ともいわないから。 しかし財産っていったところで金としては高の知れたものだろう。 まだ手紙は来ないかい。 先生先生というのは一体|誰の事だい。 こないだ話したじゃないか。 聞いた事は聞いたけれども。 イゴイストはいけないね。 何もしないで生きていようというのは横着な了簡だからね。 人は自分のもっている才能をできるだけ働かせなくっちゃ嘘だ。 それでもその人のお蔭で地位ができればまあ結構だ。 お父さんも喜んでるようじゃないか。 ああして長く寝ているんだから胃も悪くなるはずだね。 聞いたか。 お前ここへ帰って来て宅の事を監理する気がないか。 お母さん一人じゃどうする事もできないだろう。 本を読むだけなら田舎でも充分できるしそれに働く必要もなくなるしちょうど好いだろう。 兄さんが帰って来るのが順ですね。 おれにそんな事ができるものか。 お前がいやならまあ伯父さんにでも世話を頼むんだがそれにしてもお母さんはどっちかで引き取らなくっちゃなるまい。 お母さんがここを動くか動かないかがすでに大きな疑問ですよ。 乃木大将に済まない。 実に面目次第がない。 いえ私もすぐお後から。 お光は。 何かご用ですか。 お光お前にも色々世話になったね。 あんな憐れっぽい事をお言いだがねあれでもとはずいぶん酷かったんだよ。 今のうち何か聞いておく必要はないかな。 そうだなあ。 いいたい事があるのにいわないで死ぬのも残念だろうしといってこっちから催促するのも悪いかも知れず。 まあああして楽に寝られれば傍にいるものも助かります。 頭を冷やすと好い心持ですか。 うん。 どこへ行く。 どうも様子が少し変だからなるべく傍にいるようにしなくっちゃいけないよ。 どうも色々お世話になります。 あなたから過去を問いただされた時答える事のできなかった勇気のない私は今あなたの前にそれを明白に物語る自由を得たと信じます。 しかしその自由はあなたの上京を待っているうちにはまた失われてしまう世間的の自由に過ぎないのであります。 したがってそれを利用できる時に利用しなければ私の過去をあなたの頭に間接の経験として教えて上げる機会を永久に逸するようになります。 そうするとあの時あれほど堅く約束した言葉がまるで嘘になります。 私はやむを得ず口でいうべきところを筆で申し上げる事にしました。 自由が来たから話す。 しかしその自由はまた永久に失われなければならない。 ちょっと手をお貸し。 この手紙があなたの手に落ちる頃には私はもうこの世にはいないでしょう。 とくに死んでいるでしょう。 どうですか様子は。 今少し持ち合ってるようだよ。 どうです浣腸して少しは心持が好くなりましたか。 有難う。 私はこの夏あなたから二三度手紙を受け取りました。 東京で相当の地位を得たいから宜しく頼むと書いてあったのはたしか二度目に手に入ったものと記憶しています。 私はそれを読んだ時|何とかしたいと思ったのです。 少なくとも返事を上げなければ済まんとは考えたのです。 しかし自白すると私はあなたの依頼に対してまるで努力をしなかったのです。 ご承知の通り交際区域の狭いというよりも世の中にたった一人で暮しているといった方が適切なくらいの私にはそういう努力をあえてする余地が全くないのです。 しかしそれは問題ではありません。 実をいうと私はこの自分をどうすれば好いのかと思い煩っていたところなのです。 このまま人間の中に取り残されたミイラのように存在して行こうかそれともその時分の私は「それとも。 私はそれからこの手紙を書き出しました。 平生筆を持ちつけない私には自分の思うように事件なり思想なりが運ばないのが重い苦痛でした。 私はもう少しであなたに対する私のこの義務を放擲するところでした。 しかしいくら止そうと思って筆を擱いても何にもなりませんでした。 私は一時間|経たないうちにまた書きたくなりました。 あなたから見たらこれが義務の遂行を重んずる私の性格のように思われるかも知れません。 私もそれは否みません。 私はあなたの知っている通りほとんど世間と交渉のない孤独な人間ですから義務というほどの義務は自分の左右前後を見廻してもどの方角にも根を張っておりません。 故意か自然か私はそれをできるだけ切り詰めた生活をしていたのです。 けれども私は義務に冷淡だからこうなったのではありません。 むしろ鋭敏過ぎて刺戟に堪えるだけの精力がないからご覧のように消極的な月日を送る事になったのです。 だから一旦約束した以上それを果たさないのは大変|厭な心持です。 私はあなたに対してこの厭な心持を避けるためにでも擱いた筆をまた取り上げなければならないのです。 その上私は書きたいのです。 義務は別として私の過去を書きたいのです。 私の過去は私だけの経験だから私だけの所有といっても差支えないでしょう。 それを人に与えないで死ぬのは惜しいともいわれるでしょう。 私にも多少そんな心持があります。 ただし受け入れる事のできない人に与えるくらいなら私はむしろ私の経験を私の生命と共に葬った方が好いと思います。 実際ここにあなたという一人の男が存在していないならば私の過去はついに私の過去で間接にも他人の知識にはならないで済んだでしょう。 私は何千万といる日本人のうちでただあなただけに私の過去を物語りたいのです。 あなたは真面目だから。 あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいといったから。 私は暗い人世の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけて上げます。 しかし恐れてはいけません。 暗いものを凝と見詰めてその中からあなたの参考になるものをお攫みなさい。 私の暗いというのは固より倫理的に暗いのです。 私は倫理的に生れた男です。 また倫理的に育てられた男です。 その倫理上の考えは今の若い人と大分違ったところがあるかも知れません。 しかしどう間違っても私自身のものです。 間に合せに借りた損料着ではありません。 だからこれから発達しようというあなたには幾分か参考になるだろうと思うのです。 あなたは現代の思想問題についてよく私に議論を向けた事を記憶しているでしょう。 私のそれに対する態度もよく解っているでしょう。 私はあなたの意見を軽蔑までしなかったけれども決して尊敬を払い得る程度にはなれなかった。 あなたの考えには何らの背景もなかったしあなたは自分の過去をもつには余りに若過ぎたからです。 私は時々笑った。 あなたは物足りなそうな顔をちょいちょい私に見せた。 その極あなたは私の過去を絵巻物のようにあなたの前に展開してくれと逼った。 私はその時心のうちで始めてあなたを尊敬した。 あなたが無遠慮に私の腹の中から或る生きたものを捕まえようという決心を見せたからです。 私の心臓を立ち割って温かく流れる血潮を啜ろうとしたからです。 その時私はまだ生きていた。 死ぬのが厭であった。 それで他日を約してあなたの要求を斥けてしまった。 私は今自分で自分の心臓を破ってその血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。 私の鼓動が停った時あなたの胸に新しい命が宿る事ができるなら満足です。 三「私が両親を亡くしたのはまだ私の廿歳にならない時分でした。 いつか妻があなたに話していたようにも記憶していますが二人は同じ病気で死んだのです。 しかも妻があなたに不審を起させた通りほとんど同時といっていいくらいに前後して死んだのです。 実をいうと父の病気は恐るべき腸窒扶斯でした。 それが傍にいて看護をした母に伝染したのです。 私は二人の間にできたたった一人の男の子でした。 宅には相当の財産があったのでむしろ鷹揚に育てられました。 私は自分の過去を顧みてあの時両親が死なずにいてくれたなら少なくとも父か母かどっちか片方で好いから生きていてくれたなら私はあの鷹揚な気分を今まで持ち続ける事ができたろうにと思います。 私は二人の後に茫然として取り残されました。 私には知識もなく経験もなくまた分別もありませんでした。 父の死ぬ時母は傍にいる事ができませんでした。 母の死ぬ時母には父の死んだ事さえまだ知らせてなかったのです。 母はそれを覚っていたかまたは傍のもののいうごとく実際父は回復期に向いつつあるものと信じていたかそれは分りません。 母はただ叔父に万事を頼んでいました。 そこに居合せた私を指さすようにして「この子をどうぞ何分。 東京へ。 よろしい決して心配しないがいい。 確かりしたものだ。 とにかくたった一人取り残された私は母のいい付け通りこの叔父を頼るより外に途はなかったのです。 叔父はまた一切を引き受けて凡ての世話をしてくれました。 そうして私を私の希望する東京へ出られるように取り計らってくれました。 私は東京へ来て高等学校へはいりました。 その時の高等学校の生徒は今よりもよほど殺伐で粗野でした。 私の知ったものに夜中職人と喧嘩をして相手の頭へ下駄で傷を負わせたのがありました。 それが酒を飲んだ揚句の事なので夢中に擲り合いをしている間に学校の制帽をとうとう向うのものに取られてしまったのです。 ところがその帽子の裏には当人の名前がちゃんと菱形の白いきれの上に書いてあったのです。 それで事が面倒になってその男はもう少しで警察から学校へ照会されるところでした。 しかし友達が色々と骨を折ってついに表沙汰にせずに済むようにしてやりました。 こんな乱暴な行為を上品な今の空気のなかに育ったあなた方に聞かせたら定めて馬鹿馬鹿しい感じを起すでしょう。 私も実際馬鹿馬鹿しく思います。 しかし彼らは今の学生にない一種|質朴な点をその代りにもっていたのです。 当時私の月々叔父から貰っていた金はあなたが今お父さんから送ってもらう学資に比べると遥かに少ないものでした。 それでいて私は少しの不足も感じませんでした。 のみならず数ある同級生のうちで経済の点にかけては決して人を羨ましがる憐れな境遇にいた訳ではないのです。 今から回顧するとむしろ人に羨ましがられる方だったのでしょう。 というのは私は月々|極った送金の外に書籍費および臨時の費用をよく叔父から請求してずんずんそれを自分の思うように消費する事ができたのですから。 何も知らない私は叔父を信じていたばかりでなく常に感謝の心をもって叔父をありがたいもののように尊敬していました。 叔父は事業家でした。 県会議員にもなりました。 その関係からでもありましょう政党にも縁故があったように記憶しています。 父の実の弟ですけれどもそういう点で性格からいうと父とはまるで違った方へ向いて発達したようにも見えます。 父は先祖から譲られた遺産を大事に守って行く篤実一方の男でした。 楽しみには茶だの花だのをやりました。 それから詩集などを読む事も好きでした。 書画骨董といった風のものにも多くの趣味をもっている様子でした。 家は田舎にありましたけれども二|里ばかり隔たった市――その市には叔父が住んでいたのです――その市から時々道具屋が懸物だの香炉だのを持ってわざわざ父に見せに来ました。 父は一口にいうとまあマン・オフ・ミーンズとでも評したら好いのでしょう。 比較的上品な嗜好をもった田舎紳士だったのです。 だから気性からいうと闊達な叔父とはよほどの懸隔がありました。 それでいて二人はまた妙に仲が好かったのです。 父はよく叔父を評して自分よりも遥かに働きのある頼もしい人のようにいっていました。 自分のように親から財産を譲られたものはどうしても固有の材幹が鈍るつまり世の中と闘う必要がないからいけないのだともいっていました。 この言葉は母も聞きました。 私も聞きました。 父はむしろ私の心得になるつもりでそれをいったらしく思われます。 「お前もよく覚えているが好い。 私が夏休みを利用して始めて国へ帰った時両親の死に断えた私の住居には新しい主人として叔父夫婦が入れ代って住んでいました。 これは私が東京へ出る前からの約束でした。 たった一人取り残された私が家にいない以上そうでもするより外に仕方がなかったのです。 叔父はその頃市にある色々な会社に関係していたようです。 業務の都合からいえば今までの居宅に寝起きする方が二|里も隔った私の家に移るより遥かに便利だといって笑いました。 これは私の父母が亡くなった後どう邸を始末して私が東京へ出るかという相談の時叔父の口を洩れた言葉であります。 私の家は旧い歴史をもっているので少しはその界隈で人に知られていました。 あなたの郷里でも同じ事だろうと思いますが田舎では由緒のある家を相続人があるのに壊したり売ったりするのは大事件です。 今の私ならそのくらいの事は何とも思いませんがその頃はまだ子供でしたから東京へは出たし家はそのままにして置かなければならずはなはだ所置に苦しんだのです。 叔父は仕方なしに私の空家へはいる事を承諾してくれました。 しかし市の方にある住居もそのままにしておいて両方の間を往ったり来たりする便宜を与えてもらわなければ困るといいました。 私に固より異議のありようはずがありません。 私はどんな条件でも東京へ出られれば好いくらいに考えていたのです。 子供らしい私は故郷を離れてもまだ心の眼で懐かしげに故郷の家を望んでいました。 固よりそこにはまだ自分の帰るべき家があるという旅人の心で望んでいたのです。 休みが来れば帰らなくてはならないという気分はいくら東京を恋しがって出て来た私にも力強くあったのです。 私は熱心に勉強し愉快に遊んだ後休みには帰れると思うその故郷の家をよく夢に見ました。 私の留守の間叔父はどんな風に両方の間を往き来していたか知りません。 私の着いた時は家族のものがみんな一つ家の内に集まっていました。 学校へ出る子供などは平生おそらく市の方にいたのでしょうがこれも休暇のために田舎へ遊び半分といった格で引き取られていました。 みんな私の顔を見て喜びました。 私はまた父や母のいた時よりかえって賑やかで陽気になった家の様子を見て嬉しがりました。 叔父はもと私の部屋になっていた一間を占領している一番目の男の子を追い出して私をそこへ入れました。 座敷の数も少なくないのだから私はほかの部屋で構わないと辞退したのですけれども叔父はお前の宅だからといって聞きませんでした。 私は折々亡くなった父や母の事を思い出す外に何の不愉快もなくその一夏を叔父の家族と共に過ごしてまた東京へ帰ったのです。 ただ一つその夏の出来事として私の心にむしろ薄暗い影を投げたのは叔父夫婦が口を揃えてまだ高等学校へ入ったばかりの私に結婚を勧める事でした。 それは前後で丁度三四回も繰り返されたでしょう。 私も始めはただその突然なのに驚いただけでした。 二度目には判然断りました。 三度目にはこっちからとうとうその理由を反問しなければならなくなりました。 彼らの主意は単簡でした。 早く嫁を貰ってここの家へ帰って来て亡くなった父の後を相続しろというだけなのです。 家は休暇になって帰りさえすればそれでいいものと私は考えていました。 父の後を相続するそれには嫁が必要だから貰う両方とも理屈としては一通り聞こえます。 ことに田舎の事情を知っている私にはよく解ります。 私も絶対にそれを嫌ってはいなかったのでしょう。 しかし東京へ修業に出たばかりの私にはそれが遠眼鏡で物を見るように遥か先の距離に望まれるだけでした。 私は叔父の希望に承諾を与えないでついにまた私の家を去りました。 六「私は縁談の事をそれなり忘れてしまいました。 私の周囲を取り捲いている青年の顔を見ると世帯染みたものは一人もいません。 みんな自由ですそうして悉く単独らしく思われたのです。 こういう気楽な人の中にも裏面にはいり込んだらあるいは家庭の事情に余儀なくされてすでに妻を迎えていたものがあったかも知れませんが子供らしい私はそこに気が付きませんでした。 それからそういう特別の境遇に置かれた人の方でも四辺に気兼をしてなるべくは書生に縁の遠いそんな内輪の話はしないように慎んでいたのでしょう。 後から考えると私自身がすでにその組だったのですが私はそれさえ分らずにただ子供らしく愉快に修学の道を歩いて行きました。 学年の終りに私はまた行李を絡げて親の墓のある田舎へ帰って来ました。 そうして去年と同じように父母のいたわが家の中でまた叔父夫婦とその子供の変らない顔を見ました。 私は再びそこで故郷の匂いを嗅ぎました。 その匂いは私に取って依然として懐かしいものでありました。 一学年の単調を破る変化としても有難いものに違いなかったのです。 しかしこの自分を育て上げたと同じような匂いの中で私はまた突然結婚問題を叔父から鼻の先へ突き付けられました。 叔父のいう所は去年の勧誘を再び繰り返したのみです。 理由も去年と同じでした。 ただこの前|勧められた時には何らの目的物がなかったのに今度はちゃんと肝心の当人を捕まえていたので私はなお困らせられたのです。 その当人というのは叔父の娘すなわち私の従妹に当る女でした。 その女を貰ってくれればお互いのために便宜である父も存生中そんな事を話していたと叔父がいうのです。 私もそうすれば便宜だとは思いました。 父が叔父にそういう風な話をしたというのもあり得べき事と考えました。 しかしそれは私が叔父にいわれて始めて気が付いたのでいわれない前から覚っていた事柄ではないのです。 だから私は驚きました。 驚いたけれども叔父の希望に無理のないところもそれがためによく解りました。 私は迂闊なのでしょうか。 あるいはそうなのかも知れませんがおそらくその従妹に無頓着であったのがおもな源因になっているのでしょう。 私は小供のうちから市にいる叔父の家へ始終遊びに行きました。 ただ行くばかりでなくよくそこに泊りました。 そうしてこの従妹とはその時分から親しかったのです。 あなたもご承知でしょう兄妹の間に恋の成立した例のないのを。 私はこの公認された事実を勝手に布衍しているかも知れないが始終接触して親しくなり過ぎた男女の間には恋に必要な刺戟の起る清新な感じが失われてしまうように考えています。 香をかぎ得るのは香を焚き出した瞬間に限るごとく酒を味わうのは酒を飲み始めた刹那にあるごとく恋の衝動にもこういう際どい一点が時間の上に存在しているとしか思われないのです。 一度平気でそこを通り抜けたら馴れれば馴れるほど親しみが増すだけで恋の神経はだんだん麻痺して来るだけです。 私はどう考え直してもこの従妹を妻にする気にはなれませんでした。 叔父はもし私が主張するなら私の卒業まで結婚を延ばしてもいいといいました。 けれども善は急げという諺もあるからできるなら今のうちに祝言の盃だけは済ませておきたいともいいました。 当人に望みのない私にはどっちにしたって同じ事です。 私はまた断りました。 叔父は厭な顔をしました。 従妹は泣きました。 私に添われないから悲しいのではありません。 結婚の申し込みを拒絶されたのが女として辛かったからです。 私が従妹を愛していないごとく従妹も私を愛していない事は私によく知れていました。 私はまた東京へ出ました。 七「私が三度目に帰国したのはそれからまた一年|経った夏の取付でした。 私はいつでも学年試験の済むのを待ちかねて東京を逃げました。 私には故郷がそれほど懐かしかったからです。 あなたにも覚えがあるでしょう生れた所は空気の色が違います土地の匂いも格別です父や母の記憶も濃かに漂っています。 一年のうちで七八の二月をその中に包まれて穴に入った蛇のように凝としているのは私に取って何よりも温かい好い心持だったのです。 単純な私は従妹との結婚問題についてさほど頭を痛める必要がないと思っていました。 厭なものは断る断ってさえしまえば後には何も残らない私はこう信じていたのです。 だから叔父の希望通りに意志を曲げなかったにもかかわらず私はむしろ平気でした。 過去一年の間いまだかつてそんな事に屈托した覚えもなく相変らずの元気で国へ帰ったのです。 ところが帰って見ると叔父の態度が違っています。 元のように好い顔をして私を自分の懐に抱こうとしません。 それでも鷹揚に育った私は帰って四五日の間は気が付かずにいました。 ただ何かの機会にふと変に思い出したのです。 すると妙なのは叔父ばかりではないのです。 叔母も妙なのです。 従妹も妙なのです。 中学校を出てこれから東京の高等商業へはいるつもりだといって手紙でその様子を聞き合せたりした叔父の男の子まで妙なのです。 私の性分として考えずにはいられなくなりました。 どうして私の心持がこう変ったのだろう。 いやどうして向うがこう変ったのだろう。 私は突然死んだ父や母が鈍い私の眼を洗って急に世の中が判然見えるようにしてくれたのではないかと疑いました。 私は父や母がこの世にいなくなった後でもいた時と同じように私を愛してくれるものとどこか心の奥で信じていたのです。 もっともその頃でも私は決して理に暗い質ではありませんでした。 しかし先祖から譲られた迷信の塊りも強い力で私の血の中に潜んでいたのです。 今でも潜んでいるでしょう。 私はたった一人山へ行って父母の墓の前に跪きました。 半は哀悼の意味半は感謝の心持で跪いたのです。 そうして私の未来の幸福がこの冷たい石の下に横たわる彼らの手にまだ握られてでもいるような気分で私の運命を守るべく彼らに祈りました。 あなたは笑うかもしれない。 私も笑われても仕方がないと思います。 しかし私はそうした人間だったのです。 私の世界は掌を翻すように変りました。 もっともこれは私に取って始めての経験ではなかったのです。 私が十六七の時でしたろう始めて世の中に美しいものがあるという事実を発見した時には一度にはっと驚きました。 何遍も自分の眼を疑って何遍も自分の眼を擦りました。 そうして心の中でああ美しいと叫びました。 十六七といえば男でも女でも俗にいう色気の付く頃です。 色気の付いた私は世の中にある美しいものの代表者として始めて女を見る事ができたのです。 今までその存在に少しも気の付かなかった異性に対して盲目の眼が忽ち開いたのです。 それ以来私の天地は全く新しいものとなりました。 私が叔父の態度に心づいたのも全くこれと同じなんでしょう。 俄然として心づいたのです。 何の予感も準備もなく不意に来たのです。 不意に彼と彼の家族が今までとはまるで別物のように私の眼に映ったのです。 私は驚きました。 そうしてこのままにしておいては自分の行先がどうなるか分らないという気になりました。 八「私は今まで叔父|任せにしておいた家の財産について詳しい知識を得なければ死んだ父母に対して済まないという気を起したのです。 叔父は忙しい身体だと自称するごとく毎晩同じ所に寝泊りはしていませんでした。 二日|家へ帰ると三日は市の方で暮らすといった風に両方の間を往来してその日その日を落ち付きのない顔で過ごしていました。 そうして忙しいという言葉を口癖のように使いました。 何の疑いも起らない時は私も実際に忙しいのだろうと思っていたのです。 それから忙しがらなくては当世流でないのだろうと皮肉にも解釈していたのです。 けれども財産の事について時間の掛かる話をしようという目的ができた眼でこの忙しがる様子を見るとそれが単に私を避ける口実としか受け取れなくなって来たのです。 私は容易に叔父を捕まえる機会を得ませんでした。 私は叔父が市の方に妾をもっているという噂を聞きました。 私はその噂を昔中学の同級生であったある友達から聞いたのです。 妾を置くぐらいの事はこの叔父として少しも怪しむに足らないのですが父の生きているうちにそんな評判を耳に入れた覚えのない私は驚きました。 友達はその外にも色々叔父についての噂を語って聞かせました。 一時事業で失敗しかかっていたように他から思われていたのにこの二三年来また急に盛り返して来たというのもその一つでした。 しかも私の疑惑を強く染めつけたものの一つでした。 私はとうとう叔父と談判を開きました。 談判というのは少し不穏当かも知れませんが話の成行きからいうとそんな言葉で形容するより外に途のないところへ自然の調子が落ちて来たのです。 叔父はどこまでも私を子供扱いにしようとします。 私はまた始めから猜疑の眼で叔父に対しています。 穏やかに解決のつくはずはなかったのです。 遺憾ながら私は今その談判の顛末を詳しくここに書く事のできないほど先を急いでいます。 実をいうと私はこれより以上にもっと大事なものを控えているのです。 私のペンは早くからそこへ辿りつきたがっているのを漸との事で抑えつけているくらいです。 あなたに会って静かに話す機会を永久に失った私は筆を執る術に慣れないばかりでなく貴い時間を惜むという意味からして書きたい事も省かなければなりません。 あなたはまだ覚えているでしょう私がいつかあなたに造り付けの悪人が世の中にいるものではないといった事を。 多くの善人がいざという場合に突然悪人になるのだから油断してはいけないといった事を。 あの時あなたは私に昂奮していると注意してくれました。 そうしてどんな場合に善人が悪人に変化するのかと尋ねました。 私がただ一口金と答えた時あなたは不満な顔をしました。 私はあなたの不満な顔をよく記憶しています。 私は今あなたの前に打ち明けるが私はあの時この叔父の事を考えていたのです。 普通のものが金を見て急に悪人になる例として世の中に信用するに足るものが存在し得ない例として憎悪と共に私はこの叔父を考えていたのです。 私の答えは思想界の奥へ突き進んで行こうとするあなたに取って物足りなかったかも知れません陳腐だったかも知れません。 けれども私にはあれが生きた答えでした。 現に私は昂奮していたではありませんか。 私は冷やかな頭で新しい事を口にするよりも熱した舌で平凡な説を述べる方が生きていると信じています。 血の力で体が動くからです。 言葉が空気に波動を伝えるばかりでなくもっと強い物にもっと強く働き掛ける事ができるからです。 九「一口でいうと叔父は私の財産を胡魔化したのです。 事は私が東京へ出ている三年の間に容易く行われたのです。 すべてを叔父|任せにして平気でいた私は世間的にいえば本当の馬鹿でした。 世間的以上の見地から評すればあるいは純なる尊い男とでもいえましょうか。 私はその時の己れを顧みてなぜもっと人が悪く生れて来なかったかと思うと正直過ぎた自分が口惜しくって堪りません。 しかしまたどうかしてもう一度ああいう生れたままの姿に立ち帰って生きて見たいという心持も起るのです。 記憶して下さいあなたの知っている私は塵に汚れた後の私です。 きたなくなった年数の多いものを先輩と呼ぶならば私はたしかにあなたより先輩でしょう。 もし私が叔父の希望通り叔父の娘と結婚したならばその結果は物質的に私に取って有利なものでしたろうか。 これは考えるまでもない事と思います。 叔父は策略で娘を私に押し付けようとしたのです。 好意的に両家の便宜を計るというよりもずっと下卑た利害心に駆られて結婚問題を私に向けたのです。 私は従妹を愛していないだけで嫌ってはいなかったのですが後から考えてみるとそれを断ったのが私には多少の愉快になると思います。 胡魔化されるのはどっちにしても同じでしょうけれども載せられ方からいえば従妹を貰わない方が向うの思い通りにならないという点から見て少しは私の我が通った事になるのですから。 しかしそれはほとんど問題とするに足りない些細な事柄です。 ことに関係のないあなたにいわせたらさぞ馬鹿気た意地に見えるでしょう。 私と叔父の間に他の親戚のものがはいりました。 その親戚のものも私はまるで信用していませんでした。 信用しないばかりでなくむしろ敵視していました。 私は叔父が私を欺いたと覚ると共に他のものも必ず自分を欺くに違いないと思い詰めました。 父があれだけ賞め抜いていた叔父ですらこうだから他のものはというのが私の論理でした。 それでも彼らは私のために私の所有にかかる一切のものを纏めてくれました。 それは金額に見積ると私の予期より遥かに少ないものでした。 私としては黙ってそれを受け取るかでなければ叔父を相手取って公沙汰にするか二つの方法しかなかったのです。 私は憤りました。 また迷いました。 訴訟にすると落着までに長い時間のかかる事も恐れました。 私は修業中のからだですから学生として大切な時間を奪われるのは非常の苦痛だとも考えました。 私は思案の結果市におる中学の旧友に頼んで私の受け取ったものをすべて金の形に変えようとしました。 旧友は止した方が得だといって忠告してくれましたが私は聞きませんでした。 私は永く故郷を離れる決心をその時に起したのです。 叔父の顔を見まいと心のうちで誓ったのです。 私は国を立つ前にまた父と母の墓へ参りました。 私はそれぎりその墓を見た事がありません。 もう永久に見る機会も来ないでしょう。 私の旧友は私の言葉通りに取り計らってくれました。 もっともそれは私が東京へ着いてからよほど経った後の事です。 田舎で畠地などを売ろうとしたって容易には売れませんしいざとなると足元を見て踏み倒される恐れがあるので私の受け取った金額は時価に比べるとよほど少ないものでした。 自白すると私の財産は自分が懐にして家を出た若干の公債と後からこの友人に送ってもらった金だけなのです。 親の遺産としては固より非常に減っていたに相違ありません。 しかも私が積極的に減らしたのでないからなお心持が悪かったのです。 けれども学生として生活するにはそれで充分以上でした。 実をいうと私はそれから出る利子の半分も使えませんでした。 この余裕ある私の学生生活が私を思いも寄らない境遇に陥し入れたのです。 十「金に不自由のない私は騒々しい下宿を出て新しく一戸を構えてみようかという気になったのです。 しかしそれには世帯道具を買う面倒もありますし世話をしてくれる婆さんの必要も起りますしその婆さんがまた正直でなければ困るし宅を留守にしても大丈夫なものでなければ心配だしといった訳でちょくらちょいと実行する事は覚束なく見えたのです。 ある日私はまあ宅だけでも探してみようかというそぞろ心から散歩がてらに本郷台を西へ下りて小石川の坂を真直に伝通院の方へ上がりました。 電車の通路になってからあそこいらの様子がまるで違ってしまいましたがその頃は左手が砲兵工廠の土塀で右は原とも丘ともつかない空地に草が一面に生えていたものです。 私はその草の中に立って何心なく向うの崖を眺めました。 今でも悪い景色ではありませんがその頃はまたずっとあの西側の趣が違っていました。 見渡す限り緑が一面に深く茂っているだけでも神経が休まります。 私はふとここいらに適当な宅はないだろうかと思いました。 それで直ぐ草原を横切って細い通りを北の方へ進んで行きました。 いまだに好い町になり切れないでがたぴししているあの辺の家並はその時分の事ですからずいぶん汚ならしいものでした。 私は露次を抜けたり横丁を曲ったりぐるぐる歩き廻りました。 しまいに駄菓子屋の上さんにここいらに小ぢんまりした貸家はないかと尋ねてみました。 上さんは「そうですね。 かし家はちょいと。 素人下宿じゃいけませんか。 私は早速その家へ引き移りました。 私は最初来た時に未亡人と話をした座敷を借りたのです。 そこは宅中で一番|好い室でした。 本郷辺に高等下宿といった風の家がぽつぽつ建てられた時分の事ですから私は書生として占領し得る最も好い間の様子を心得ていました。 私の新しく主人となった室はそれらよりもずっと立派でした。 移った当座は学生としての私には過ぎるくらいに思われたのです。 室の広さは八畳でした。 床の横に違い棚があって縁と反対の側には一間の押入れが付いていました。 窓は一つもなかったのですがその代り南向きの縁に明るい日がよく差しました。 私は移った日にその室の床に活けられた花とその横に立て懸けられた琴を見ました。 どっちも私の気に入りませんでした。 私は詩や書や煎茶を嗜なむ父の傍で育ったので唐めいた趣味を小供のうちからもっていました。 そのためでもありましょうかこういう艶めかしい装飾をいつの間にか軽蔑する癖が付いていたのです。 私の父が存生中にあつめた道具類は例の叔父のために滅茶滅茶にされてしまったのですがそれでも多少は残っていました。 私は国を立つ時それを中学の旧友に預かってもらいました。 それからその中で面白そうなものを四五|幅裸にして行李の底へ入れて来ました。 私は移るや否やそれを取り出して床へ懸けて楽しむつもりでいたのです。 ところが今いった琴と活花を見たので急に勇気がなくなってしまいました。 後から聞いて始めてこの花が私に対するご馳走に活けられたのだという事を知った時私は心のうちで苦笑しました。 もっとも琴は前からそこにあったのですからこれは置き所がないためやむをえずそのままに立て懸けてあったのでしょう。 こんな話をすると自然その裏に若い女の影があなたの頭を掠めて通るでしょう。 移った私にも移らない初めからそういう好奇心がすでに動いていたのです。 こうした邪気が予備的に私の自然を損なったためかまたは私がまだ人慣れなかったためか私は始めてそこのお嬢さんに会った時へどもどした挨拶をしました。 その代りお嬢さんの方でも赤い顔をしました。 私はそれまで未亡人の風采や態度から推してこのお嬢さんのすべてを想像していたのです。 しかしその想像はお嬢さんに取ってあまり有利なものではありませんでした。 軍人の妻君だからああなのだろうその妻君の娘だからこうだろうといった順序で私の推測は段々延びて行きました。 ところがその推測がお嬢さんの顔を見た瞬間に悉く打ち消されました。 そうして私の頭の中へ今まで想像も及ばなかった異性の匂いが新しく入って来ました。 私はそれから床の正面に活けてある花が厭でなくなりました。 同じ床に立て懸けてある琴も邪魔にならなくなりました。 その花はまた規則正しく凋れる頃になると活け更えられるのです。 琴も度々鍵の手に折れ曲がった筋違の室に運び去られるのです。 私は自分の居間で机の上に頬杖を突きながらその琴の音を聞いていました。 私にはその琴が上手なのか下手なのかよく解らないのです。 けれども余り込み入った手を弾かないところを見ると上手なのじゃなかろうと考えました。 まあ活花の程度ぐらいなものだろうと思いました。 花なら私にも好く分るのですがお嬢さんは決して旨い方ではなかったのです。 それでも臆面なく色々の花が私の床を飾ってくれました。 もっとも活方はいつ見ても同じ事でした。 それから花瓶もついぞ変った例がありませんでした。 しかし片方の音楽になると花よりももっと変でした。 ぽつんぽつん糸を鳴らすだけで一向肉声を聞かせないのです。 唄わないのではありませんがまるで内所話でもするように小さな声しか出さないのです。 しかも叱られると全く出なくなるのです。 私は喜んでこの下手な活花を眺めてはまずそうな琴の音に耳を傾けました。 十二「私の気分は国を立つ時すでに厭世的になっていました。 他は頼りにならないものだという観念がその時骨の中まで染み込んでしまったように思われたのです。 私は私の敵視する叔父だの叔母だのその他の親戚だのをあたかも人類の代表者のごとく考え出しました。 汽車へ乗ってさえ隣のものの様子をそれとなく注意し始めました。 たまに向うから話し掛けられでもするとなおの事警戒を加えたくなりました。 私の心は沈鬱でした。 鉛を呑んだように重苦しくなる事が時々ありました。 それでいて私の神経は今いったごとくに鋭く尖ってしまったのです。 私が東京へ来て下宿を出ようとしたのもこれが大きな源因になっているように思われます。 金に不自由がなければこそ一戸を構えてみる気にもなったのだといえばそれまでですが元の通りの私ならばたとい懐中に余裕ができても好んでそんな面倒な真似はしなかったでしょう。 私は小石川へ引き移ってからも当分この緊張した気分に寛ぎを与える事ができませんでした。 私は自分で自分が恥ずかしいほどきょときょと周囲を見廻していました。 不思議にもよく働くのは頭と眼だけで口の方はそれと反対に段々動かなくなって来ました。 私は家のものの様子を猫のようによく観察しながら黙って机の前に坐っていました。 時々は彼らに対して気の毒だと思うほど私は油断のない注意を彼らの上に注いでいたのです。 おれは物を偸まない巾着切みたようなものだ私はこう考えて自分が厭になる事さえあったのです。 あなたは定めて変に思うでしょう。 その私がそこのお嬢さんをどうして好く余裕をもっているか。 そのお嬢さんの下手な活花をどうして嬉しがって眺める余裕があるか。 同じく下手なその人の琴をどうして喜んで聞く余裕があるか。 そう質問された時私はただ両方とも事実であったのだから事実としてあなたに教えて上げるというより外に仕方がないのです。 解釈は頭のあるあなたに任せるとして私はただ一言付け足しておきましょう。 私は金に対して人類を疑ったけれども愛に対してはまだ人類を疑わなかったのです。 だから他から見ると変なものでもまた自分で考えてみて矛盾したものでも私の胸のなかでは平気で両立していたのです。 私は未亡人の事を常に奥さんといっていましたからこれから未亡人と呼ばずに奥さんといいます。 奥さんは私を静かな人大人しい男と評しました。 それから勉強家だとも褒めてくれました。 けれども私の不安な眼つきやきょときょとした様子については何事も口へ出しませんでした。 気が付かなかったのか遠慮していたのかどっちだかよく解りませんが何しろそこにはまるで注意を払っていないらしく見えました。 それのみならずある場合に私を鷹揚な方だといってさも尊敬したらしい口の利き方をした事があります。 その時正直な私は少し顔を赤らめて向うの言葉を否定しました。 すると奥さんは「あなたは自分で気が付かないからそうおっしゃるんです。 奥さんのこの態度が自然私の気分に影響して来ました。 しばらくするうちに私の眼はもとほどきょろ付かなくなりました。 自分の心が自分の坐っている所にちゃんと落ち付いているような気にもなれました。 要するに奥さん始め家のものが僻んだ私の眼や疑い深い私の様子にてんから取り合わなかったのが私に大きな幸福を与えたのでしょう。 私の神経は相手から照り返して来る反射のないために段々静まりました。 奥さんは心得のある人でしたからわざと私をそんな風に取り扱ってくれたものとも思われますしまた自分で公言するごとく実際私を鷹揚だと観察していたのかも知れません。 私のこせつき方は頭の中の現象でそれほど外へ出なかったようにも考えられますからあるいは奥さんの方で胡魔化されていたのかも解りません。 私の心が静まると共に私は段々家族のものと接近して来ました。 奥さんともお嬢さんとも笑談をいうようになりました。 茶を入れたからといって向うの室へ呼ばれる日もありました。 また私の方で菓子を買って来て二人をこっちへ招いたりする晩もありました。 私は急に交際の区域が殖えたように感じました。 それがために大切な勉強の時間を潰される事も何度となくありました。 不思議にもその妨害が私には一向邪魔にならなかったのです。 奥さんはもとより閑人でした。 お嬢さんは学校へ行く上に花だの琴だのを習っているんだから定めて忙しかろうと思うとそれがまた案外なものでいくらでも時間に余裕をもっているように見えました。 それで三人は顔さえ見るといっしょに集まって世間話をしながら遊んだのです。 私を呼びに来るのは大抵お嬢さんでした。 お嬢さんは縁側を直角に曲って私の室の前に立つ事もありますし茶の間を抜けて次の室の襖の影から姿を見せる事もありました。 お嬢さんはそこへ来てちょっと留まります。 それからきっと私の名を呼んで「ご勉強。 ご勉強ですか。 おはいんなさい。 はい。 私はお嬢さんの立ったあとでほっと一息するのです。 それと同時に物足りないようなまた済まないような気持になるのです。 私は女らしかったのかも知れません。 今の青年のあなたがたから見たらなおそう見えるでしょう。 しかしその頃の私たちは大抵そんなものだったのです。 奥さんは滅多に外出した事がありませんでした。 たまに宅を留守にする時でもお嬢さんと私を二人ぎり残して行くような事はなかったのです。 それがまた偶然なのか故意なのか私には解らないのです。 私の口からいうのは変ですが奥さんの様子を能く観察していると何だか自分の娘と私とを接近させたがっているらしくも見えるのです。 それでいて或る場合には私に対して暗に警戒するところもあるようなのですから始めてこんな場合に出会った私は時々心持をわるくしました。 私は奥さんの態度をどっちかに片付けてもらいたかったのです。 頭の働きからいえばそれが明らかな矛盾に違いなかったのです。 しかし叔父に欺かれた記憶のまだ新しい私はもう一歩踏み込んだ疑いを挟まずにはいられませんでした。 私は奥さんのこの態度のどっちかが本当でどっちかが偽りだろうと推定しました。 そうして判断に迷いました。 ただ判断に迷うばかりでなく何でそんな妙な事をするかその意味が私には呑み込めなかったのです。 理由を考え出そうとしても考え出せない私は罪を女という一字に塗り付けて我慢した事もありました。 必竟女だからああなのだ女というものはどうせ愚なものだ。 私の考えは行き詰まればいつでもここへ落ちて来ました。 それほど女を見縊っていた私がまたどうしてもお嬢さんを見縊る事ができなかったのです。 私の理屈はその人の前に全く用を為さないほど動きませんでした。 私はその人に対してほとんど信仰に近い愛をもっていたのです。 私が宗教だけに用いるこの言葉を若い女に応用するのを見てあなたは変に思うかも知れませんが私は今でも固く信じているのです。 本当の愛は宗教心とそう違ったものでないという事を固く信じているのです。 私はお嬢さんの顔を見るたびに自分が美しくなるような心持がしました。 お嬢さんの事を考えると気高い気分がすぐ自分に乗り移って来るように思いました。 もし愛という不可思議なものに両端があってその高い端には神聖な感じが働いて低い端には性欲が動いているとすれば私の愛はたしかにその高い極点を捕まえたものです。 私はもとより人間として肉を離れる事のできない身体でした。 けれどもお嬢さんを見る私の眼やお嬢さんを考える私の心は全く肉の臭いを帯びていませんでした。 私は母に対して反感を抱くと共に子に対して恋愛の度を増して行ったのですから三人の関係は下宿した始めよりは段々複雑になって来ました。 もっともその変化はほとんど内面的で外へは現れて来なかったのです。 そのうち私はあるひょっとした機会から今まで奥さんを誤解していたのではなかろうかという気になりました。 奥さんの私に対する矛盾した態度がどっちも偽りではないのだろうと考え直して来たのです。 その上それが互い違いに奥さんの心を支配するのでなくっていつでも両方が同時に奥さんの胸に存在しているのだと思うようになったのです。 つまり奥さんができるだけお嬢さんを私に接近させようとしていながら同時に私に警戒を加えているのは矛盾のようだけれどもその警戒を加える時に片方の態度を忘れるのでも翻すのでも何でもなくやはり依然として二人を接近させたがっていたのだと観察したのです。 ただ自分が正当と認める程度以上に二人が密着するのを忌むのだと解釈したのです。 お嬢さんに対して肉の方面から近づく念の萌さなかった私はその時|入らぬ心配だと思いました。 しかし奥さんを悪く思う気はそれからなくなりました。 十五「私は奥さんの態度を色々|綜合して見て私がここの家で充分信用されている事を確かめました。 しかもその信用は初対面の時からあったのだという証拠さえ発見しました。 他を疑り始めた私の胸にはこの発見が少し奇異なくらいに響いたのです。 私は男に比べると女の方がそれだけ直覚に富んでいるのだろうと思いました。 同時に女が男のために欺されるのもここにあるのではなかろうかと思いました。 奥さんをそう観察する私がお嬢さんに対して同じような直覚を強く働かせていたのだから今考えるとおかしいのです。 私は他を信じないと心に誓いながら絶対にお嬢さんを信じていたのですから。 それでいて私を信じている奥さんを奇異に思ったのですから。 私は郷里の事について余り多くを語らなかったのです。 ことに今度の事件については何もいわなかったのです。 私はそれを念頭に浮べてさえすでに一種の不愉快を感じました。 私はなるべく奥さんの方の話だけを聞こうと力めました。 ところがそれでは向うが承知しません。 何かに付けて私の国元の事情を知りたがるのです。 私はとうとう何もかも話してしまいました。 私は二度と国へは帰らない。 帰っても何にもないあるのはただ父と母の墓ばかりだと告げた時奥さんは大変感動したらしい様子を見せました。 お嬢さんは泣きました。 私は話して好い事をしたと思いました。 私は嬉しかったのです。 私のすべてを聞いた奥さんははたして自分の直覚が的中したといわないばかりの顔をし出しました。 それからは私を自分の親戚に当る若いものか何かを取り扱うように待遇するのです。 私は腹も立ちませんでした。 むしろ愉快に感じたくらいです。 ところがそのうちに私の猜疑心がまた起って来ました。 私が奥さんを疑り始めたのはごく些細な事からでした。 しかしその些細な事を重ねて行くうちに疑惑は段々と根を張って来ます。 私はどういう拍子かふと奥さんが叔父と同じような意味でお嬢さんを私に接近させようと力めるのではないかと考え出したのです。 すると今まで親切に見えた人が急に狡猾な策略家として私の眼に映じて来たのです。 私は苦々しい唇を噛みました。 奥さんは最初から無人で淋しいから客を置いて世話をするのだと公言していました。 私もそれを嘘とは思いませんでした。 懇意になって色々打ち明け話を聞いた後でもそこに間違いはなかったように思われます。 しかし一般の経済状態は大して豊かだというほどではありませんでした。 利害問題から考えてみて私と特殊の関係をつけるのは先方に取って決して損ではなかったのです。 私はまた警戒を加えました。 けれども娘に対して前いったくらいの強い愛をもっている私がその母に対していくら警戒を加えたって何になるでしょう。 私は一人で自分を嘲笑しました。 馬鹿だなといって自分を罵った事もあります。 しかしそれだけの矛盾ならいくら馬鹿でも私は大した苦痛も感ぜずに済んだのです。 私の煩悶は奥さんと同じようにお嬢さんも策略家ではなかろうかという疑問に会って始めて起るのです。 二人が私の背後で打ち合せをした上万事をやっているのだろうと思うと私は急に苦しくって堪らなくなるのです。 不愉快なのではありません。 絶体絶命のような行き詰まった心持になるのです。 それでいて私は一方にお嬢さんを固く信じて疑わなかったのです。 だから私は信念と迷いの途中に立って少しも動く事ができなくなってしまいました。 私にはどっちも想像でありまたどっちも真実であったのです。 十六「私は相変らず学校へ出席していました。 しかし教壇に立つ人の講義が遠くの方で聞こえるような心持がしました。 勉強もその通りでした。 眼の中へはいる活字は心の底まで浸み渡らないうちに烟のごとく消えて行くのです。 私はその上無口になりました。 それを二三の友達が誤解して冥想に耽ってでもいるかのように他の友達に伝えました。 私はこの誤解を解こうとはしませんでした。 都合の好い仮面を人が貸してくれたのをかえって仕合せとして喜びました。 それでも時々は気が済まなかったのでしょう発作的に焦燥ぎ廻って彼らを驚かした事もあります。 私の宿は人出入りの少ない家でした。 親類も多くはないようでした。 お嬢さんの学校友達がときたま遊びに来る事はありましたが極めて小さな声でいるのだかいないのだか分らないような話をして帰ってしまうのが常でした。 それが私に対する遠慮からだとはいかな私にも気が付きませんでした。 私の所へ訪ねて来るものは大した乱暴者でもありませんでしたけれども宅の人に気兼をするほどな男は一人もなかったのですから。 そんなところになると下宿人の私は主人のようなもので肝心のお嬢さんがかえって食客の位地にいたと同じ事です。 しかしこれはただ思い出したついでに書いただけで実はどうでも構わない点です。 ただそこにどうでもよくない事が一つあったのです。 茶の間かさもなければお嬢さんの室で突然男の声が聞こえるのです。 その声がまた私の客と違ってすこぶる低いのです。 だから何を話しているのかまるで分らないのです。 そうして分らなければ分らないほど私の神経に一種の昂奮を与えるのです。 私は坐っていて変にいらいらし出します。 私はあれは親類なのだろうかそれともただの知り合いなのだろうかとまず考えて見るのです。 それから若い男だろうか年輩の人だろうかと思案してみるのです。 坐っていてそんな事の知れようはずがありません。 そうかといって起って行って障子を開けて見る訳にはなおいきません。 私の神経は震えるというよりも大きな波動を打って私を苦しめます。 私は客の帰った後できっと忘れずにその人の名を聞きました。 お嬢さんや奥さんの返事はまた極めて簡単でした。 私は物足りない顔を二人に見せながら物足りるまで追窮する勇気をもっていなかったのです。 権利は無論もっていなかったのでしょう。 私は自分の品格を重んじなければならないという教育から来た自尊心と現にその自尊心を裏切している物欲しそうな顔付とを同時に彼らの前に示すのです。 彼らは笑いました。 それが嘲笑の意味でなくって好意から来たものかまた好意らしく見せるつもりなのか私は即坐に解釈の余地を見出し得ないほど落付を失ってしまうのです。 そうして事が済んだ後でいつまでも馬鹿にされたのだ馬鹿にされたんじゃなかろうかと何遍も心のうちで繰り返すのです。 私は自由な身体でした。 たとい学校を中途で已めようがまたどこへ行ってどう暮らそうがあるいはどこの何者と結婚しようが誰とも相談する必要のない位地に立っていました。 私は思い切って奥さんにお嬢さんを貰い受ける話をして見ようかという決心をした事がそれまでに何度となくありました。 けれどもそのたびごとに私は躊躇して口へはとうとう出さずにしまったのです。 断られるのが恐ろしいからではありません。 もし断られたら私の運命がどう変化するか分りませんけれどもその代り今までとは方角の違った場所に立って新しい世の中を見渡す便宜も生じて来るのですからそのくらいの勇気は出せば出せたのです。 しかし私は誘き寄せられるのが厭でした。 他の手に乗るのは何よりも業腹でした。 叔父に欺された私はこれから先どんな事があっても人には欺されまいと決心したのです。 十七「私が書物ばかり買うのを見て奥さんは少し着物を拵えろといいました。 私は実際|田舎で織った木綿ものしかもっていなかったのです。 その頃の学生は絹の入った着物を肌に着けませんでした。 私の友達に横浜の商人か何かで宅はなかなか派出に暮しているものがありましたがそこへある時|羽二重の胴着が配達で届いた事があります。 すると皆ながそれを見て笑いました。 その男は恥ずかしがって色々弁解しましたが折角の胴着を行李の底へ放り込んで利用しないのです。 それをまた大勢が寄ってたかってわざと着せました。 すると運悪くその胴着に蝨がたかりました。 友達はちょうど幸いとでも思ったのでしょう評判の胴着をぐるぐると丸めて散歩に出たついでに根津の大きな泥溝の中へ棄ててしまいました。 その時いっしょに歩いていた私は橋の上に立って笑いながら友達の所作を眺めていましたが私の胸のどこにも勿体ないという気は少しも起りませんでした。 その頃から見ると私も大分大人になっていました。 けれどもまだ自分で余所行の着物を拵えるというほどの分別は出なかったのです。 私は卒業して髯を生やす時代が来なければ服装の心配などはするに及ばないものだという変な考えをもっていたのです。 それで奥さんに書物は要るが着物は要らないといいました。 奥さんは私の買う書物の分量を知っていました。 買った本をみんな読むのかと聞くのです。 私の買うものの中には字引きもありますが当然眼を通すべきはずでありながら頁さえ切ってないのも多少あったのですから私は返事に窮しました。 私はどうせ要らないものを買うなら書物でも衣服でも同じだという事に気が付きました。 その上私は色々世話になるという口実の下にお嬢さんの気に入るような帯か反物を買ってやりたかったのです。 それで万事を奥さんに依頼しました。 奥さんは自分一人で行くとはいいません。 私にもいっしょに来いと命令するのです。 お嬢さんも行かなくてはいけないというのです。 今と違った空気の中に育てられた私どもは学生の身分としてあまり若い女などといっしょに歩き廻る習慣をもっていなかったものです。 その頃の私は今よりもまだ習慣の奴隷でしたから多少|躊躇しましたが思い切って出掛けました。 お嬢さんは大層着飾っていました。 地体が色の白いくせに白粉を豊富に塗ったものだからなお目立ちます。 往来の人がじろじろ見てゆくのです。 そうしてお嬢さんを見たものはきっとその視線をひるがえして私の顔を見るのだから変なものでした。 三人は日本橋へ行って買いたいものを買いました。 買う間にも色々気が変るので思ったより暇がかかりました。 奥さんはわざわざ私の名を呼んでどうだろうと相談をするのです。 時々|反物をお嬢さんの肩から胸へ竪に宛てておいて私に二三歩|遠退いて見てくれろというのです。 私はそのたびごとにそれは駄目だとかそれはよく似合うとかとにかく一人前の口を聞きました。 こんな事で時間が掛って帰りは夕飯の時刻になりました。 奥さんは私に対するお礼に何かご馳走するといって木原店という寄席のある狭い横丁へ私を連れ込みました。 横丁も狭いが飯を食わせる家も狭いものでした。 この辺の地理を一向心得ない私は奥さんの知識に驚いたくらいです。 我々は夜に入って家へ帰りました。 その翌日は日曜でしたから私は終日|室の中に閉じ籠っていました。 月曜になって学校へ出ると私は朝っぱらそうそう級友の一人から調戯われました。 いつ妻を迎えたのかといってわざとらしく聞かれるのです。 それから私の細君は非常に美人だといって賞めるのです。 私は三人|連で日本橋へ出掛けたところをその男にどこかで見られたものとみえます。 十八「私は宅へ帰って奥さんとお嬢さんにその話をしました。 奥さんは笑いました。 しかし定めて迷惑だろうといって私の顔を見ました。 私はその時腹のなかで男はこんな風にして女から気を引いて見られるのかと思いました。 奥さんの眼は充分私にそう思わせるだけの意味をもっていたのです。 私はその時自分の考えている通りを直截に打ち明けてしまえば好かったかも知れません。 しかし私にはもう狐疑という薩張りしない塊りがこびり付いていました。 私は打ち明けようとしてひょいと留まりました。 そうして話の角度を故意に少し外らしました。 私は肝心の自分というものを問題の中から引き抜いてしまいました。 そうしてお嬢さんの結婚について奥さんの意中を探ったのです。 奥さんは二三そういう話のないでもないような事を明らかに私に告げました。 しかしまだ学校へ出ているくらいで年が若いからこちらではさほど急がないのだと説明しました。 奥さんは口へは出さないけれどもお嬢さんの容色に大分重きを置いているらしく見えました。 極めようと思えばいつでも極められるんだからというような事さえ口外しました。 それからお嬢さんより外に子供がないのも容易に手離したがらない源因になっていました。 嫁にやるか聟を取るかそれにさえ迷っているのではなかろうかと思われるところもありました。 話しているうちに私は色々の知識を奥さんから得たような気がしました。 しかしそれがために私は機会を逸したと同様の結果に陥ってしまいました。 私は自分についてついに一言も口を開く事ができませんでした。 私は好い加減なところで話を切り上げて自分の室へ帰ろうとしました。 さっきまで傍にいてあんまりだわとか何とかいって笑ったお嬢さんはいつの間にか向うの隅に行って背中をこっちへ向けていました。 私は立とうとして振り返った時その後姿を見たのです。 後姿だけで人間の心が読めるはずはありません。 お嬢さんがこの問題についてどう考えているか私には見当が付きませんでした。 お嬢さんは戸棚を前にして坐っていました。 その戸棚の一|尺ばかり開いている隙間からお嬢さんは何か引き出して膝の上へ置いて眺めているらしかったのです。 私の眼はその隙間の端に一昨日買った反物を見付け出しました。 私の着物もお嬢さんのも同じ戸棚の隅に重ねてあったのです。 私が何ともいわずに席を立ち掛けると奥さんは急に改まった調子になって私にどう思うかと聞くのです。 その聞き方は何をどう思うのかと反問しなければ解らないほど不意でした。 それがお嬢さんを早く片付けた方が得策だろうかという意味だと判然した時私はなるべく緩くらな方がいいだろうと答えました。 奥さんは自分もそう思うといいました。 奥さんとお嬢さんと私の関係がこうなっている所へもう一人男が入り込まなければならない事になりました。 その男がこの家庭の一員となった結果は私の運命に非常な変化を来しています。 もしその男が私の生活の行路を横切らなかったならばおそらくこういう長いものをあなたに書き残す必要も起らなかったでしょう。 私は手もなく魔の通る前に立ってその瞬間の影に一生を薄暗くされて気が付かずにいたのと同じ事です。 自白すると私は自分でその男を宅へ引張って来たのです。 無論奥さんの許諾も必要ですから私は最初何もかも隠さず打ち明けて奥さんに頼んだのです。 ところが奥さんは止せといいました。 私には連れて来なければ済まない事情が充分あるのに止せという奥さんの方には筋の立った理屈はまるでなかったのです。 だから私は私の善いと思うところを強いて断行してしまいました。 十九「私はその友達の名をここにKと呼んでおきます。 私はこのKと小供の時からの仲好でした。 小供の時からといえば断らないでも解っているでしょう二人には同郷の縁故があったのです。 Kは真宗の坊さんの子でした。 もっとも長男ではありません次男でした。 それである医者の所へ養子にやられたのです。 私の生れた地方は大変|本願寺派の勢力の強い所でしたから真宗の坊さんは他のものに比べると物質的に割が好かったようです。 一例を挙げるともし坊さんに女の子があってその女の子が年頃になったとすると檀家のものが相談してどこか適当な所へ嫁にやってくれます。 無論費用は坊さんの懐から出るのではありません。 そんな訳で真宗寺は大抵|有福でした。 Kの生れた家も相応に暮らしていたのです。 しかし次男を東京へ修業に出すほどの余力があったかどうか知りません。 また修業に出られる便宜があるので養子の相談が纏まったものかどうかそこも私には分りません。 とにかくKは医者の家へ養子に行ったのです。 それは私たちがまだ中学にいる時の事でした。 私は教場で先生が名簿を呼ぶ時にKの姓が急に変っていたので驚いたのを今でも記憶しています。 Kの養子先もかなりな財産家でした。 Kはそこから学資を貰って東京へ出て来たのです。 出て来たのは私といっしょでなかったけれども東京へ着いてからはすぐ同じ下宿に入りました。 その時分は一つ室によく二人も三人も机を並べて寝起きしたものです。 Kと私も二人で同じ間にいました。 山で生捕られた動物が檻の中で抱き合いながら外を睨めるようなものでしたろう。 二人は東京と東京の人を畏れました。 それでいて六畳の間の中では天下を睥睨するような事をいっていたのです。 しかし我々は真面目でした。 我々は実際偉くなるつもりでいたのです。 ことにKは強かったのです。 寺に生れた彼は常に精進という言葉を使いました。 そうして彼の行為動作は悉くこの精進の一語で形容されるように私には見えたのです。 私は心のうちで常にKを畏敬していました。 Kは中学にいた頃から宗教とか哲学とかいうむずかしい問題で私を困らせました。 これは彼の父の感化なのかまたは自分の生れた家すなわち寺という一種特別な建物に属する空気の影響なのか解りません。 ともかくも彼は普通の坊さんよりは遥かに坊さんらしい性格をもっていたように見受けられます。 元来Kの養家では彼を医者にするつもりで東京へ出したのです。 しかるに頑固な彼は医者にはならない決心をもって東京へ出て来たのです。 私は彼に向ってそれでは養父母を欺くと同じ事ではないかと詰りました。 大胆な彼はそうだと答えるのです。 道のためならそのくらいの事をしても構わないというのです。 その時彼の用いた道という言葉はおそらく彼にもよく解っていなかったでしょう。 私は無論解ったとはいえません。 しかし年の若い私たちにはこの漠然とした言葉が尊とく響いたのです。 よし解らないにしても気高い心持に支配されてそちらの方へ動いて行こうとする意気組に卑しいところの見えるはずはありません。 私はKの説に賛成しました。 私の同意がKにとってどのくらい有力であったかそれは私も知りません。 一図な彼はたとい私がいくら反対しようともやはり自分の思い通りを貫いたに違いなかろうとは察せられます。 しかし万一の場合賛成の声援を与えた私に多少の責任ができてくるぐらいの事は子供ながら私はよく承知していたつもりです。 よしその時にそれだけの覚悟がないにしても成人した眼で過去を振り返る必要が起った場合には私に割り当てられただけの責任は私の方で帯びるのが至当になるくらいな語気で私は賛成したのです。 二十「Kと私は同じ科へ入学しました。 Kは澄ました顔をして養家から送ってくれる金で自分の好きな道を歩き出したのです。 知れはしないという安心と知れたって構うものかという度胸とが二つながらKの心にあったものと見るよりほか仕方がありません。 Kは私よりも平気でした。 最初の夏休みにKは国へ帰りませんでした。 駒込のある寺の一間を借りて勉強するのだといっていました。 私が帰って来たのは九月上旬でしたが彼ははたして大観音の傍の汚い寺の中に閉じ籠っていました。 彼の座敷は本堂のすぐ傍の狭い室でしたが彼はそこで自分の思う通りに勉強ができたのを喜んでいるらしく見えました。 私はその時彼の生活の段々坊さんらしくなって行くのを認めたように思います。 彼は手頸に珠数を懸けていました。 私がそれは何のためだと尋ねたら彼は親指で一つ二つと勘定する真似をして見せました。 彼はこうして日に何遍も珠数の輪を勘定するらしかったのです。 ただしその意味は私には解りません。 円い輪になっているものを一粒ずつ数えてゆけばどこまで数えていっても終局はありません。 Kはどんな所でどんな心持がして爪繰る手を留めたでしょう。 詰らない事ですが私はよくそれを思うのです。 私はまた彼の室に聖書を見ました。 私はそれまでにお経の名を度々彼の口から聞いた覚えがありますが基督教については問われた事も答えられた例もなかったのですからちょっと驚きました。 私はその理由を訊ねずにはいられませんでした。 Kは理由はないといいました。 これほど人の有難がる書物なら読んでみるのが当り前だろうともいいました。 その上彼は機会があったら『コーラン』も読んでみるつもりだといいました。 彼はモハメッドと剣という言葉に大いなる興味をもっているようでした。 二年目の夏に彼は国から催促を受けてようやく帰りました。 帰っても専門の事は何にもいわなかったものとみえます。 家でもまたそこに気が付かなかったのです。 あなたは学校教育を受けた人だからこういう消息をよく解しているでしょうが世間は学生の生活だの学校の規則だのに関して驚くべく無知なものです。 我々に何でもない事が一向外部へは通じていません。 我々はまた比較的内部の空気ばかり吸っているので校内の事は細大ともに世の中に知れ渡っているはずだと思い過ぎる癖があります。 Kはその点にかけて私より世間を知っていたのでしょう澄ました顔でまた戻って来ました。 国を立つ時は私もいっしょでしたから汽車へ乗るや否やすぐどうだったとKに問いました。 Kはどうでもなかったと答えたのです。 三度目の夏はちょうど私が永久に父母の墳墓の地を去ろうと決心した年です。 私はその時Kに帰国を勧めましたがKは応じませんでした。 そう毎年家へ帰って何をするのだというのです。 彼はまた踏み留まって勉強するつもりらしかったのです。 私は仕方なしに一人で東京を立つ事にしました。 私の郷里で暮らしたその二カ月間が私の運命にとっていかに波瀾に富んだものかは前に書いた通りですから繰り返しません。 私は不平と幽欝と孤独の淋しさとを一つ胸に抱いて九月に入ってまたKに逢いました。 すると彼の運命もまた私と同様に変調を示していました。 彼は私の知らないうちに養家先へ手紙を出してこっちから自分の詐りを白状してしまったのです。 彼は最初からその覚悟でいたのだそうです。 今更仕方がないからお前の好きなものをやるより外に途はあるまいと向うにいわせるつもりもあったのでしょうか。 とにかく大学へ入ってまでも養父母を欺き通す気はなかったらしいのです。 また欺こうとしてもそう長く続くものではないと見抜いたのかも知れません。 二十一「Kの手紙を見た養父は大変怒りました。 親を騙すような不埒なものに学資を送る事はできないという厳しい返事をすぐ寄こしたのです。 Kはそれを私に見せました。 Kはまたそれと前後して実家から受け取った書翰も見せました。 これにも前に劣らないほど厳しい詰責の言葉がありました。 養家先へ対して済まないという義理が加わっているからでもありましょうがこっちでも一切構わないと書いてありました。 Kがこの事件のために復籍してしまうかそれとも他に妥協の道を講じて依然養家に留まるかそこはこれから起る問題として差し当りどうかしなければならないのは月々に必要な学資でした。 私はその点についてKに何か考えがあるのかと尋ねました。 Kは夜学校の教師でもするつもりだと答えました。 その時分は今に比べると存外世の中が寛ろいでいましたから内職の口はあなたが考えるほど払底でもなかったのです。 私はKがそれで充分やって行けるだろうと考えました。 しかし私には私の責任があります。 Kが養家の希望に背いて自分の行きたい道を行こうとした時賛成したものは私です。 私はそうかといって手を拱いでいる訳にゆきません。 私はその場で物質的の補助をすぐ申し出しました。 するとKは一も二もなくそれを跳ね付けました。 彼の性格からいって自活の方が友達の保護の下に立つより遥に快よく思われたのでしょう。 彼は大学へはいった以上自分一人ぐらいどうかできなければ男でないような事をいいました。 私は私の責任を完うするためにKの感情を傷つけるに忍びませんでした。 それで彼の思う通りにさせて私は手を引きました。 Kは自分の望むような口をほどなく探し出しました。 しかし時間を惜しむ彼にとってこの仕事がどのくらい辛かったかは想像するまでもない事です。 彼は今まで通り勉強の手をちっとも緩めずに新しい荷を背負って猛進したのです。 私は彼の健康を気遣いました。 しかし剛気な彼は笑うだけで少しも私の注意に取り合いませんでした。 同時に彼と養家との関係は段々こん絡がって来ました。 時間に余裕のなくなった彼は前のように私と話す機会を奪われたので私はついにその顛末を詳しく聞かずにしまいましたが解決のますます困難になってゆく事だけは承知していました。 人が仲に入って調停を試みた事も知っていました。 その人は手紙でKに帰国を促したのですがKは到底|駄目だといって応じませんでした。 この剛情なところが――Kは学年中で帰れないのだから仕方がないといいましたけれども向うから見れば剛情でしょう。 そこが事態をますます険悪にしたようにも見えました。 彼は養家の感情を害すると共に実家の怒りも買うようになりました。 私が心配して双方を融和するために手紙を書いた時はもう何の効果もありませんでした。 私の手紙は一言の返事さえ受けずに葬られてしまったのです。 私も腹が立ちました。 今までも行掛り上Kに同情していた私はそれ以後は理否を度外に置いてもKの味方をする気になりました。 最後にKはとうとう復籍に決しました。 養家から出してもらった学資は実家で弁償する事になったのです。 その代り実家の方でも構わないからこれからは勝手にしろというのです。 昔の言葉でいえばまあ勘当なのでしょう。 あるいはそれほど強いものでなかったかも知れませんが当人はそう解釈していました。 Kは母のない男でした。 彼の性格の一面はたしかに継母に育てられた結果とも見る事ができるようです。 もし彼の実の母が生きていたらあるいは彼と実家との関係にこうまで隔たりができずに済んだかも知れないと私は思うのです。 彼の父はいうまでもなく僧侶でした。 けれども義理堅い点においてむしろ武士に似たところがありはしないかと疑われます。 二十二「Kの事件が一段落ついた後で私は彼の姉の夫から長い封書を受け取りました。 Kの養子に行った先はこの人の親類に当るのですから彼を周旋した時にも彼を復籍させた時にもこの人の意見が重きをなしていたのだとKは私に話して聞かせました。 手紙にはその後Kがどうしているか知らせてくれと書いてありました。 姉が心配しているからなるべく早く返事を貰いたいという依頼も付け加えてありました。 Kは寺を嗣いだ兄よりも他家へ縁づいたこの姉を好いていました。 彼らはみんな一つ腹から生れた姉弟ですけれどもこの姉とKとの間には大分年歯の差があったのです。 それでKの小供の時分には継母よりもこの姉の方がかえって本当の母らしく見えたのでしょう。 私はKに手紙を見せました。 Kは何ともいいませんでしたけれども自分の所へこの姉から同じような意味の書状が二三度来たという事を打ち明けました。 Kはそのたびに心配するに及ばないと答えてやったのだそうです。 運悪くこの姉は生活に余裕のない家に片付いたためにいくらKに同情があっても物質的に弟をどうしてやる訳にも行かなかったのです。 私はKと同じような返事を彼の義兄|宛で出しました。 その中に万一の場合には私がどうでもするから安心するようにという意味を強い言葉で書き現わしました。 これは固より私の一存でした。 Kの行先を心配するこの姉に安心を与えようという好意は無論含まれていましたが私を軽蔑したとより外に取りようのない彼の実家や養家に対する意地もあったのです。 Kの復籍したのは一年生の時でした。 それから二年生の中頃になるまで約一年半の間彼は独力で己れを支えていったのです。 ところがこの過度の労力が次第に彼の健康と精神の上に影響して来たように見え出しました。 それには無論養家を出る出ないの蒼蠅い問題も手伝っていたでしょう。 彼は段々|感傷的になって来たのです。 時によると自分だけが世の中の不幸を一人で背負って立っているような事をいいます。 そうしてそれを打ち消せばすぐ激するのです。 それから自分の未来に横たわる光明が次第に彼の眼を遠退いて行くようにも思っていらいらするのです。 学問をやり始めた時には誰しも偉大な抱負をもって新しい旅に上るのが常ですが一年と立ち二年と過ぎもう卒業も間近になると急に自分の足の運びの鈍いのに気が付いて過半はそこで失望するのが当り前になっていますからKの場合も同じなのですが彼の焦慮り方はまた普通に比べると遥かに甚しかったのです。 私はついに彼の気分を落ち付けるのが専一だと考えました。 私は彼に向って余計な仕事をするのは止せといいました。 そうして当分|身体を楽にして遊ぶ方が大きな将来のために得策だと忠告しました。 剛情なKの事ですから容易に私のいう事などは聞くまいとかねて予期していたのですが実際いい出して見ると思ったよりも説き落すのに骨が折れたので弱りました。 Kはただ学問が自分の目的ではないと主張するのです。 意志の力を養って強い人になるのが自分の考えだというのです。 それにはなるべく窮屈な境遇にいなくてはならないと結論するのです。 普通の人から見ればまるで酔興です。 その上窮屈な境遇にいる彼の意志はちっとも強くなっていないのです。 彼はむしろ神経衰弱に罹っているくらいなのです。 私は仕方がないから彼に向って至極同感であるような様子を見せました。 自分もそういう点に向って人生を進むつもりだったとついには明言しました。 最後に私はKといっしょに住んでいっしょに向上の路を辿って行きたいと発議しました。 私は彼の剛情を折り曲げるために彼の前に跪く事をあえてしたのです。 そうして漸との事で彼を私の家に連れて来ました。 二十三「私の座敷には控えの間というような四畳が付属していました。 玄関を上がって私のいる所へ通ろうとするにはぜひこの四畳を横切らなければならないのだから実用の点から見ると至極不便な室でした。 私はここへKを入れたのです。 もっとも最初は同じ八畳に二つ机を並べて次の間を共有にして置く考えだったのですがKは狭苦しくっても一人でいる方が好いといって自分でそっちのほうを択んだのです。 前にも話した通り奥さんは私のこの所置に対して始めは不賛成だったのです。 下宿屋ならば一人より二人が便利だし二人より三人が得になるけれども商売でないのだからなるべくなら止した方が好いというのです。 私が決して世話の焼ける人でないから構うまいというと世話は焼けないでも気心の知れない人は厭だと答えるのです。 それでは今|厄介になっている私だって同じ事ではないかと詰ると私の気心は初めからよく分っていると弁解して已まないのです。 私は苦笑しました。 すると奥さんはまた理屈の方向を更えます。 そんな人を連れて来るのは私のために悪いから止せといい直します。 なぜ私のために悪いかと聞くと今度は向うで苦笑するのです。 実をいうと私だって強いてKといっしょにいる必要はなかったのです。 けれども月々の費用を金の形で彼の前に並べて見せると彼はきっとそれを受け取る時に躊躇するだろうと思ったのです。 彼はそれほど独立心の強い男でした。 だから私は彼を私の宅へ置いて二人前の食料を彼の知らない間にそっと奥さんの手に渡そうとしたのです。 しかし私はKの経済問題について一言も奥さんに打ち明ける気はありませんでした。 私はただKの健康について云々しました。 一人で置くとますます人間が偏屈になるばかりだからといいました。 それに付け足してKが養家と折合の悪かった事や実家と離れてしまった事や色々話して聞かせました。 私は溺れかかった人を抱いて自分の熱を向うに移してやる覚悟でKを引き取るのだと告げました。 そのつもりであたたかい面倒を見てやってくれと奥さんにもお嬢さんにも頼みました。 私はここまで来て漸々奥さんを説き伏せたのです。 しかし私から何にも聞かないKはこの顛末をまるで知らずにいました。 私もかえってそれを満足に思ってのっそり引き移って来たKを知らん顔で迎えました。 奥さんとお嬢さんは親切に彼の荷物を片付ける世話や何かをしてくれました。 すべてそれを私に対する好意から来たのだと解釈した私は心のうちで喜びました。 ――Kが相変らずむっちりした様子をしているにもかかわらず。 私がKに向って新しい住居の心持はどうだと聞いた時に彼はただ一言悪くないといっただけでした。 私からいわせれば悪くないどころではないのです。 彼の今までいた所は北向きの湿っぽい臭いのする汚い室でした。 食物も室|相応に粗末でした。 私の家へ引き移った彼は幽谷から喬木に移った趣があったくらいです。 それをさほどに思う気色を見せないのは一つは彼の強情から来ているのですが一つは彼の主張からも出ているのです。 仏教の教義で養われた彼は衣食住についてとかくの贅沢をいうのをあたかも不道徳のように考えていました。 なまじい昔の高僧だとか聖徒だとかの伝を読んだ彼にはややともすると精神と肉体とを切り離したがる癖がありました。 肉を鞭撻すれば霊の光輝が増すように感ずる場合さえあったのかも知れません。 私はなるべく彼に逆らわない方針を取りました。 私は氷を日向へ出して溶かす工夫をしたのです。 今に融けて温かい水になれば自分で自分に気が付く時機が来るに違いないと思ったのです。 二十四「私は奥さんからそういう風に取り扱われた結果段々快活になって来たのです。 それを自覚していたから同じものを今度はKの上に応用しようと試みたのです。 Kと私とが性格の上において大分相違のある事は長く交際って来た私によく解っていましたけれども私の神経がこの家庭に入ってから多少|角が取れたごとくKの心もここに置けばいつか沈まる事があるだろうと考えたのです。 Kは私より強い決心を有している男でした。 勉強も私の倍ぐらいはしたでしょう。 その上持って生れた頭の質が私よりもずっとよかったのです。 後では専門が違いましたから何ともいえませんが同じ級にいる間は中学でも高等学校でもKの方が常に上席を占めていました。 私には平生から何をしてもKに及ばないという自覚があったくらいです。 けれども私が強いてKを私の宅へ引っ張って来た時には私の方がよく事理を弁えていると信じていました。 私にいわせると彼は我慢と忍耐の区別を了解していないように思われたのです。 これはとくにあなたのために付け足しておきたいのですから聞いて下さい。 肉体なり精神なりすべて我々の能力は外部の刺戟で発達もするし破壊されもするでしょうがどっちにしても刺戟を段々に強くする必要のあるのは無論ですからよく考えないと非常に険悪な方向へむいて進んで行きながら自分はもちろん傍のものも気が付かずにいる恐れが生じてきます。 医者の説明を聞くと人間の胃袋ほど横着なものはないそうです。 粥ばかり食っているとそれ以上の堅いものを消化す力がいつの間にかなくなってしまうのだそうです。 だから何でも食う稽古をしておけと医者はいうのです。 けれどもこれはただ慣れるという意味ではなかろうと思います。 次第に刺戟を増すに従って次第に営養機能の抵抗力が強くなるという意味でなくてはなりますまい。 もし反対に胃の力の方がじりじり弱って行ったなら結果はどうなるだろうと想像してみればすぐ解る事です。 Kは私より偉大な男でしたけれども全くここに気が付いていなかったのです。 ただ困難に慣れてしまえばしまいにその困難は何でもなくなるものだと極めていたらしいのです。 艱苦を繰り返せば繰り返すというだけの功徳でその艱苦が気にかからなくなる時機に邂逅えるものと信じ切っていたらしいのです。 私はKを説くときにぜひそこを明らかにしてやりたかったのです。 しかしいえばきっと反抗されるに極っていました。 また昔の人の例などを引合に持って来るに違いないと思いました。 そうなれば私だってその人たちとKと違っている点を明白に述べなければならなくなります。 それを首肯ってくれるようなKならいいのですけれども彼の性質として議論がそこまでゆくと容易に後へは返りません。 なお先へ出ます。 そうして口で先へ出た通りを行為で実現しに掛ります。 彼はこうなると恐るべき男でした。 偉大でした。 自分で自分を破壊しつつ進みます。 結果から見れば彼はただ自己の成功を打ち砕く意味において偉大なのに過ぎないのですけれどもそれでも決して平凡ではありませんでした。 彼の気性をよく知った私はついに何ともいう事ができなかったのです。 その上私から見ると彼は前にも述べた通り多少神経衰弱に罹っていたように思われたのです。 よし私が彼を説き伏せたところで彼は必ず激するに違いないのです。 私は彼と喧嘩をする事は恐れてはいませんでしたけれども私が孤独の感に堪えなかった自分の境遇を顧みると親友の彼を同じ孤独の境遇に置くのは私に取って忍びない事でした。 一歩進んでより孤独な境遇に突き落すのはなお厭でした。 それで私は彼が宅へ引き移ってからも当分の間は批評がましい批評を彼の上に加えずにいました。 ただ穏やかに周囲の彼に及ぼす結果を見る事にしたのです。 二十五「私は蔭へ廻って奥さんとお嬢さんになるべくKと話をするように頼みました。 私は彼のこれまで通って来た無言生活が彼に祟っているのだろうと信じたからです。 使わない鉄が腐るように彼の心には錆が出ていたとしか私には思われなかったのです。 奥さんは取り付き把のない人だといって笑っていました。 お嬢さんはまたわざわざその例を挙げて私に説明して聞かせるのです。 火鉢に火があるかと尋ねるとKはないと答えるそうです。 では持って来ようというと要らないと断るそうです。 寒くはないかと聞くと寒いけれども要らないんだといったぎり応対をしないのだそうです。 私はただ苦笑している訳にもゆきません。 気の毒だから何とかいってその場を取り繕っておかなければ済まなくなります。 もっともそれは春の事ですから強いて火にあたる必要もなかったのですがこれでは取り付き把がないといわれるのも無理はないと思いました。 それで私はなるべく自分が中心になって女二人とKとの連絡をはかるように力めました。 Kと私が話している所へ家の人を呼ぶとかまたは家の人と私が一つ室に落ち合った所へKを引っ張り出すとかどっちでもその場合に応じた方法をとって彼らを接近させようとしたのです。 もちろんKはそれをあまり好みませんでした。 ある時はふいと起って室の外へ出ました。 またある時はいくら呼んでもなかなか出て来ませんでした。 Kはあんな無駄話をしてどこが面白いというのです。 私はただ笑っていました。 しかし心の中ではKがそのために私を軽蔑していることがよく解りました。 私はある意味から見て実際彼の軽蔑に価していたかも知れません。 彼の眼の着け所は私より遥かに高いところにあったともいわれるでしょう。 私もそれを否みはしません。 しかし眼だけ高くって外が釣り合わないのは手もなく不具です。 私は何を措いてもこの際彼を人間らしくするのが専一だと考えたのです。 いくら彼の頭が偉い人の影像で埋まっていても彼自身が偉くなってゆかない以上は何の役にも立たないという事を発見したのです。 私は彼を人間らしくする第一の手段としてまず異性の傍に彼を坐らせる方法を講じたのです。 そうしてそこから出る空気に彼を曝した上錆び付きかかった彼の血液を新しくしようと試みたのです。 この試みは次第に成功しました。 初めのうち融合しにくいように見えたものが段々一つに纏まって来出しました。 彼は自分以外に世界のある事を少しずつ悟ってゆくようでした。 彼はある日私に向って女はそう軽蔑すべきものでないというような事をいいました。 Kははじめ女からも私同様の知識と学問を要求していたらしいのです。 そうしてそれが見付からないとすぐ軽蔑の念を生じたものと思われます。 今までの彼は性によって立場を変える事を知らずに同じ視線ですべての男女を一様に観察していたのです。 私は彼にもし我ら二人だけが男同志で永久に話を交換しているならば二人はただ直線的に先へ延びて行くに過ぎないだろうといいました。 彼はもっともだと答えました。 私はその時お嬢さんの事で多少夢中になっている頃でしたから自然そんな言葉も使うようになったのでしょう。 しかし裏面の消息は彼には一口も打ち明けませんでした。 今まで書物で城壁をきずいてその中に立て籠っていたようなKの心が段々打ち解けて来るのを見ているのは私に取って何よりも愉快でした。 私は最初からそうした目的で事をやり出したのですから自分の成功に伴う喜悦を感ぜずにはいられなかったのです。 私は本人にいわない代りに奥さんとお嬢さんに自分の思った通りを話しました。 二人も満足の様子でした。 二十六「Kと私は同じ科におりながら専攻の学問が違っていましたから自然出る時や帰る時に遅速がありました。 私の方が早ければただ彼の空室を通り抜けるだけですが遅いと簡単な挨拶をして自分の部屋へはいるのを例にしていました。 Kはいつもの眼を書物からはなして襖を開ける私をちょっと見ます。 そうしてきっと今帰ったのかといいます。 私は何も答えないで点頭く事もありますしあるいはただ「うん。 お帰り。 一週間ばかりして私はまたKとお嬢さんがいっしょに話している室を通り抜けました。 その時お嬢さんは私の顔を見るや否や笑い出しました。 私はすぐ何がおかしいのかと聞けばよかったのでしょう。 それをつい黙って自分の居間まで来てしまったのです。 だからKもいつものように今帰ったかと声を掛ける事ができなくなりました。 お嬢さんはすぐ障子を開けて茶の間へ入ったようでした。 夕飯の時お嬢さんは私を変な人だといいました。 私はその時もなぜ変なのか聞かずにしまいました。 ただ奥さんが睨めるような眼をお嬢さんに向けるのに気が付いただけでした。 私は食後Kを散歩に連れ出しました。 二人は伝通院の裏手から植物園の通りをぐるりと廻ってまた富坂の下へ出ました。 散歩としては短い方ではありませんでしたがその間に話した事は極めて少なかったのです。 性質からいうとKは私よりも無口な男でした。 私も多弁な方ではなかったのです。 しかし私は歩きながらできるだけ話を彼に仕掛けてみました。 私の問題はおもに二人の下宿している家族についてでした。 私は奥さんやお嬢さんを彼がどう見ているか知りたかったのです。 ところが彼は海のものとも山のものとも見分けの付かないような返事ばかりするのです。 しかもその返事は要領を得ないくせに極めて簡単でした。 彼は二人の女に関してよりも専攻の学科の方に多くの注意を払っているように見えました。 もっともそれは二学年目の試験が目の前に逼っている頃でしたから普通の人間の立場から見て彼の方が学生らしい学生だったのでしょう。 その上彼はシュエデンボルグがどうだとかこうだとかいって無学な私を驚かせました。 我々が首尾よく試験を済ましました時二人とももう後一年だといって奥さんは喜んでくれました。 そういう奥さんの唯一の誇りとも見られるお嬢さんの卒業も間もなく来る順になっていたのです。 Kは私に向って女というものは何にも知らないで学校を出るのだといいました。 Kはお嬢さんが学問以外に稽古している縫針だの琴だの活花だのをまるで眼中に置いていないようでした。 私は彼の迂闊を笑ってやりました。 そうして女の価値はそんな所にあるものでないという昔の議論をまた彼の前で繰り返しました。 彼は別段|反駁もしませんでした。 その代りなるほどという様子も見せませんでした。 私にはそこが愉快でした。 彼のふんといったような調子が依然として女を軽蔑しているように見えたからです。 女の代表者として私の知っているお嬢さんを物の数とも思っていないらしかったからです。 今から回顧すると私のKに対する嫉妬はその時にもう充分|萌していたのです。 私は夏休みにどこかへ行こうかとKに相談しました。 Kは行きたくないような口振を見せました。 無論彼は自分の自由意志でどこへも行ける身体ではありませんが私が誘いさえすればまたどこへ行っても差支えない身体だったのです。 私はなぜ行きたくないのかと彼に尋ねてみました。 彼は理由も何にもないというのです。 宅で書物を読んだ方が自分の勝手だというのです。 私が避暑地へ行って涼しい所で勉強した方が身体のためだと主張するとそれなら私一人行ったらよかろうというのです。 しかし私はK一人をここに残して行く気にはなれないのです。 私はただでさえKと宅のものが段々親しくなって行くのを見ているのが余り好い心持ではなかったのです。 私が最初希望した通りになるのが何で私の心持を悪くするのかといわれればそれまでです。 私は馬鹿に違いないのです。 果しのつかない二人の議論を見るに見かねて奥さんが仲へ入りました。 二人はとうとういっしょに房州へ行く事になりました。 二十八「Kはあまり旅へ出ない男でした。 私にも房州は始めてでした。 二人は何にも知らないで船が一番先へ着いた所から上陸したのです。 たしか保田とかいいました。 今ではどんなに変っているか知りませんがその頃はひどい漁村でした。 第一どこもかしこも腥いのです。 それから海へ入ると波に押し倒されてすぐ手だの足だのを擦り剥くのです。 拳のような大きな石が打ち寄せる波に揉まれて始終ごろごろしているのです。 私はすぐ厭になりました。 しかしKは好いとも悪いともいいません。 少なくとも顔付だけは平気なものでした。 そのくせ彼は海へ入るたんびにどこかに怪我をしない事はなかったのです。 私はとうとう彼を説き伏せてそこから富浦に行きました。 富浦からまた那古に移りました。 すべてこの沿岸はその時分から重に学生の集まる所でしたからどこでも我々にはちょうど手頃の海水浴場だったのです。 Kと私はよく海岸の岩の上に坐って遠い海の色や近い水の底を眺めました。 岩の上から見下す水はまた特別に綺麗なものでした。 赤い色だの藍の色だの普通|市場に上らないような色をした小魚が透き通る波の中をあちらこちらと泳いでいるのが鮮やかに指さされました。 私はそこに坐ってよく書物をひろげました。 Kは何もせずに黙っている方が多かったのです。 私にはそれが考えに耽っているのか景色に見惚れているのかもしくは好きな想像を描いているのか全く解らなかったのです。 私は時々眼を上げてKに何をしているのだと聞きました。 Kは何もしていないと一口答えるだけでした。 私は自分の傍にこうじっとして坐っているものがKでなくってお嬢さんだったらさぞ愉快だろうと思う事がよくありました。 それだけならまだいいのですが時にはKの方でも私と同じような希望を抱いて岩の上に坐っているのではないかしらと忽然疑い出すのです。 すると落ち付いてそこに書物をひろげているのが急に厭になります。 私は不意に立ち上ります。 そうして遠慮のない大きな声を出して怒鳴ります。 纏まった詩だの歌だのを面白そうに吟ずるような手緩い事はできないのです。 ただ野蛮人のごとくにわめくのです。 ある時私は突然彼の襟頸を後ろからぐいと攫みました。 こうして海の中へ突き落したらどうするといってKに聞きました。 Kは動きませんでした。 後ろ向きのままちょうど好いやってくれと答えました。 私はすぐ首筋を抑えた手を放しました。 Kの神経衰弱はこの時もう大分よくなっていたらしいのです。 それと反比例に私の方は段々過敏になって来ていたのです。 私は自分より落ち付いているKを見て羨ましがりました。 また憎らしがりました。 彼はどうしても私に取り合う気色を見せなかったからです。 私にはそれが一種の自信のごとく映りました。 しかしその自信を彼に認めたところで私は決して満足できなかったのです。 私の疑いはもう一歩前へ出てその性質を明らめたがりました。 彼は学問なり事業なりについてこれから自分の進んで行くべき前途の光明を再び取り返した心持になったのだろうか。 単にそれだけならばKと私との利害に何の衝突の起る訳はないのです。 私はかえって世話のし甲斐があったのを嬉しく思うくらいなものです。 けれども彼の安心がもしお嬢さんに対してであるとすれば私は決して彼を許す事ができなくなるのです。 不思議にも彼は私のお嬢さんを愛している素振に全く気が付いていないように見えました。 無論私もそれがKの眼に付くようにわざとらしくは振舞いませんでしたけれども。 Kは元来そういう点にかけると鈍い人なのです。 私には最初からKなら大丈夫という安心があったので彼をわざわざ宅へ連れて来たのです。 二十九「私は思い切って自分の心をKに打ち明けようとしました。 もっともこれはその時に始まった訳でもなかったのです。 旅に出ない前から私にはそうした腹ができていたのですけれども打ち明ける機会をつらまえる事もその機会を作り出す事も私の手際では旨くゆかなかったのです。 今から思うとその頃私の周囲にいた人間はみんな妙でした。 女に関して立ち入った話などをするものは一人もありませんでした。 中には話す種をもたないのも大分いたでしょうがたといもっていても黙っているのが普通のようでした。 比較的自由な空気を呼吸している今のあなたがたから見たら定めし変に思われるでしょう。 それが道学の余習なのかまたは一種のはにかみなのか判断はあなたの理解に任せておきます。 Kと私は何でも話し合える中でした。 偶には愛とか恋とかいう問題も口に上らないではありませんでしたがいつでも抽象的な理論に落ちてしまうだけでした。 それも滅多には話題にならなかったのです。 大抵は書物の話と学問の話と未来の事業と抱負と修養の話ぐらいで持ち切っていたのです。 いくら親しくってもこう堅くなった日には突然調子を崩せるものではありません。 二人はただ堅いなりに親しくなるだけです。 私はお嬢さんの事をKに打ち明けようと思い立ってから何遍歯がゆい不快に悩まされたか知れません。 私はKの頭のどこか一カ所を突き破ってそこから柔らかい空気を吹き込んでやりたい気がしました。 あなたがたから見て笑止千万な事もその時の私には実際大困難だったのです。 私は旅先でも宅にいた時と同じように卑怯でした。 私は始終機会を捕える気でKを観察していながら変に高踏的な彼の態度をどうする事もできなかったのです。 私にいわせると彼の心臓の周囲は黒い漆で重く塗り固められたのも同然でした。 私の注ぎ懸けようとする血潮は一滴もその心臓の中へは入らないで悉く弾き返されてしまうのです。 或る時はあまりKの様子が強くて高いので私はかえって安心した事もあります。 そうして自分の疑いを腹の中で後悔すると共に同じ腹の中でKに詫びました。 詫びながら自分が非常に下等な人間のように見えて急に厭な心持になるのです。 しかし少時すると以前の疑いがまた逆戻りをして強く打ち返して来ます。 すべてが疑いから割り出されるのですからすべてが私には不利益でした。 容貌もKの方が女に好かれるように見えました。 性質も私のようにこせこせしていないところが異性には気に入るだろうと思われました。 どこか間が抜けていてそれでどこかに確かりした男らしいところのある点も私よりは優勢に見えました。 学力になれば専門こそ違いますが私は無論Kの敵でないと自覚していました。 ――すべて向うの好いところだけがこう一度に眼先へ散らつき出すとちょっと安心した私はすぐ元の不安に立ち返るのです。 Kは落ち付かない私の様子を見て厭ならひとまず東京へ帰ってもいいといったのですがそういわれると私は急に帰りたくなくなりました。 実はKを東京へ帰したくなかったのかも知れません。 二人は房州の鼻を廻って向う側へ出ました。 我々は暑い日に射られながら苦しい思いをして上総のそこ一里に騙されながらうんうん歩きました。 私にはそうして歩いている意味がまるで解らなかったくらいです。 私は冗談半分Kにそういいました。 するとKは足があるから歩くのだと答えました。 そうして暑くなると海に入って行こうといってどこでも構わず潮へ漬りました。 その後をまた強い日で照り付けられるのですから身体が倦怠くてぐたぐたになりました。 三十「こんな風にして歩いていると暑さと疲労とで自然|身体の調子が狂って来るものです。 もっとも病気とは違います。 急に他の身体の中へ自分の霊魂が宿替をしたような気分になるのです。 私は平生の通りKと口を利きながらどこかで平生の心持と離れるようになりました。 彼に対する親しみも憎しみも旅中限りという特別な性質を帯びる風になったのです。 つまり二人は暑さのため潮のためまた歩行のため在来と異なった新しい関係に入る事ができたのでしょう。 その時の我々はあたかも道づれになった行商のようなものでした。 いくら話をしてもいつもと違って頭を使う込み入った問題には触れませんでした。 我々はこの調子でとうとう銚子まで行ったのですが道中たった一つの例外があったのを今に忘れる事ができないのです。 まだ房州を離れない前二人は小湊という所で鯛の浦を見物しました。 もう年数もよほど経っていますしそれに私にはそれほど興味のない事ですから判然とは覚えていませんが何でもそこは日蓮の生れた村だとかいう話でした。 日蓮の生れた日に鯛が二|尾磯に打ち上げられていたとかいう言伝えになっているのです。 それ以来村の漁師が鯛をとる事を遠慮して今に至ったのだから浦には鯛が沢山いるのです。 我々は小舟を傭ってその鯛をわざわざ見に出掛けたのです。 その時私はただ一図に波を見ていました。 そうしてその波の中に動く少し紫がかった鯛の色を面白い現象の一つとして飽かず眺めました。 しかしKは私ほどそれに興味をもち得なかったものとみえます。 彼は鯛よりもかえって日蓮の方を頭の中で想像していたらしいのです。 ちょうどそこに誕生寺という寺がありました。 日蓮の生れた村だから誕生寺とでも名を付けたものでしょう立派な伽藍でした。 Kはその寺に行って住持に会ってみるといい出しました。 実をいうと我々はずいぶん変な服装をしていたのです。 ことにKは風のために帽子を海に吹き飛ばされた結果菅笠を買って被っていました。 着物は固より双方とも垢じみた上に汗で臭くなっていました。 私は坊さんなどに会うのは止そうといいました。 Kは強情だから聞きません。 厭なら私だけ外に待っていろというのです。 私は仕方がないからいっしょに玄関にかかりましたが心のうちではきっと断られるに違いないと思っていました。 ところが坊さんというものは案外|丁寧なもので広い立派な座敷へ私たちを通してすぐ会ってくれました。 その時分の私はKと大分考えが違っていましたから坊さんとKの談話にそれほど耳を傾ける気も起りませんでしたがKはしきりに日蓮の事を聞いていたようです。 日蓮は草日蓮といわれるくらいで草書が大変上手であったと坊さんがいった時字の拙いKは何だ下らないという顔をしたのを私はまだ覚えています。 Kはそんな事よりももっと深い意味の日蓮が知りたかったのでしょう。 坊さんがその点でKを満足させたかどうかは疑問ですが彼は寺の境内を出るとしきりに私に向って日蓮の事を云々し出しました。 私は暑くて草臥れてそれどころではありませんでしたからただ口の先で好い加減な挨拶をしていました。 それも面倒になってしまいには全く黙ってしまったのです。 たしかその翌る晩の事だと思いますが二人は宿へ着いて飯を食ってもう寝ようという少し前になってから急にむずかしい問題を論じ合い出しました。 Kは昨日自分の方から話しかけた日蓮の事について私が取り合わなかったのを快く思っていなかったのです。 精神的に向上心がないものは馬鹿だといって何だか私をさも軽薄もののようにやり込めるのです。 ところが私の胸にはお嬢さんの事が蟠っていますから彼の侮蔑に近い言葉をただ笑って受け取る訳にいきません。 私は私で弁解を始めたのです。 三十一「その時私はしきりに人間らしいという言葉を使いました。 Kはこの人間らしいという言葉のうちに私が自分の弱点のすべてを隠しているというのです。 なるほど後から考えればKのいう通りでした。 しかし人間らしくない意味をKに納得させるためにその言葉を使い出した私には出立点がすでに反抗的でしたからそれを反省するような余裕はありません。 私はなおの事自説を主張しました。 するとKが彼のどこをつらまえて人間らしくないというのかと私に聞くのです。 私は彼に告げました。 ――君は人間らしいのだ。 あるいは人間らし過ぎるかも知れないのだ。 けれども口の先だけでは人間らしくないような事をいうのだ。 また人間らしくないように振舞おうとするのだ。 私がこういった時彼はただ自分の修養が足りないから他にはそう見えるかも知れないと答えただけで一向私を反駁しようとしませんでした。 私は張合いが抜けたというよりもかえって気の毒になりました。 私はすぐ議論をそこで切り上げました。 彼の調子もだんだん沈んで来ました。 もし私が彼の知っている通り昔の人を知るならばそんな攻撃はしないだろうといって悵然としていました。 Kの口にした昔の人とは無論英雄でもなければ豪傑でもないのです。 霊のために肉を虐げたり道のために体を鞭うったりしたいわゆる難行苦行の人を指すのです。 Kは私に彼がどのくらいそのために苦しんでいるか解らないのがいかにも残念だと明言しました。 Kと私とはそれぎり寝てしまいました。 そうしてその翌る日からまた普通の行商の態度に返ってうんうん汗を流しながら歩き出したのです。 しかし私は路々その晩の事をひょいひょいと思い出しました。 私にはこの上もない好い機会が与えられたのに知らない振りをしてなぜそれをやり過ごしたのだろうという悔恨の念が燃えたのです。 私は人間らしいという抽象的な言葉を用いる代りにもっと直截で簡単な話をKに打ち明けてしまえば好かったと思い出したのです。 実をいうと私がそんな言葉を創造したのもお嬢さんに対する私の感情が土台になっていたのですから事実を蒸溜して拵えた理論などをKの耳に吹き込むよりも原の形そのままを彼の眼の前に露出した方が私にはたしかに利益だったでしょう。 私にそれができなかったのは学問の交際が基調を構成している二人の親しみに自から一種の惰性があったため思い切ってそれを突き破るだけの勇気が私に欠けていたのだという事をここに自白します。 気取り過ぎたといっても虚栄心が祟ったといっても同じでしょうが私のいう気取るとか虚栄とかいう意味は普通のとは少し違います。 それがあなたに通じさえすれば私は満足なのです。 我々は真黒になって東京へ帰りました。 帰った時は私の気分がまた変っていました。 人間らしいとか人間らしくないとかいう小理屈はほとんど頭の中に残っていませんでした。 Kにも宗教家らしい様子が全く見えなくなりました。 おそらく彼の心のどこにも霊がどうの肉がどうのという問題はその時宿っていなかったでしょう。 二人は異人種のような顔をして忙しそうに見える東京をぐるぐる眺めました。 それから両国へ来て暑いのに軍鶏を食いました。 Kはその勢いで小石川まで歩いて帰ろうというのです。 体力からいえばKよりも私の方が強いのですから私はすぐ応じました。 宅へ着いた時奥さんは二人の姿を見て驚きました。 二人はただ色が黒くなったばかりでなくむやみに歩いていたうちに大変|瘠せてしまったのです。 奥さんはそれでも丈夫そうになったといって賞めてくれるのです。 お嬢さんは奥さんの矛盾がおかしいといってまた笑い出しました。 旅行前時々腹の立った私もその時だけは愉快な心持がしました。 場合が場合なのと久しぶりに聞いたせいでしょう。 三十二「それのみならず私はお嬢さんの態度の少し前と変っているのに気が付きました。 久しぶりで旅から帰った私たちが平生の通り落ち付くまでには万事について女の手が必要だったのですがその世話をしてくれる奥さんはとにかくお嬢さんがすべて私の方を先にしてKを後廻しにするように見えたのです。 それを露骨にやられては私も迷惑したかもしれません。 場合によってはかえって不快の念さえ起しかねなかったろうと思うのですがお嬢さんの所作はその点で甚だ要領を得ていたから私は嬉しかったのです。 つまりお嬢さんは私だけに解るように持前の親切を余分に私の方へ割り宛ててくれたのです。 だからKは別に厭な顔もせずに平気でいました。 私は心の中でひそかに彼に対する※歌を奏しました。 やがて夏も過ぎて九月の中頃から我々はまた学校の課業に出席しなければならない事になりました。 Kと私とは各自の時間の都合で出入りの刻限にまた遅速ができてきました。 私がKより後れて帰る時は一週に三度ほどありましたがいつ帰ってもお嬢さんの影をKの室に認める事はないようになりました。 Kは例の眼を私の方に向けて「今帰ったのか。 十一月の寒い雨の降る日の事でした。 私は外套を濡らして例の通り蒟蒻閻魔を抜けて細い坂路を上って宅へ帰りました。 Kの室は空虚でしたけれども火鉢には継ぎたての火が暖かそうに燃えていました。 私も冷たい手を早く赤い炭の上に翳そうと思って急いで自分の室の仕切りを開けました。 すると私の火鉢には冷たい灰が白く残っているだけで火種さえ尽きているのです。 私は急に不愉快になりました。 その時私の足音を聞いて出て来たのは奥さんでした。 奥さんは黙って室の真中に立っている私を見て気の毒そうに外套を脱がせてくれたり日本服を着せてくれたりしました。 それから私が寒いというのを聞いてすぐ次の間からKの火鉢を持って来てくれました。 私がKはもう帰ったのかと聞きましたら奥さんは帰ってまた出たと答えました。 その日もKは私より後れて帰る時間割だったのですから私はどうした訳かと思いました。 奥さんは大方用事でもできたのだろうといっていました。 私はしばらくそこに坐ったまま書見をしました。 宅の中がしんと静まって誰の話し声も聞こえないうちに初冬の寒さと佗びしさとが私の身体に食い込むような感じがしました。 私はすぐ書物を伏せて立ち上りました。 私はふと賑やかな所へ行きたくなったのです。 雨はやっと歇ったようですが空はまだ冷たい鉛のように重く見えたので私は用心のため蛇の目を肩に担いで砲兵工廠の裏手の土塀について東へ坂を下りました。 その時分はまだ道路の改正ができない頃なので坂の勾配が今よりもずっと急でした。 道幅も狭くてああ真直ではなかったのです。 その上あの谷へ下りると南が高い建物で塞がっているのと放水がよくないのとで往来はどろどろでした。 ことに細い石橋を渡って柳町の通りへ出る間が非道かったのです。 足駄でも長靴でもむやみに歩く訳にはゆきません。 誰でも路の真中に自然と細長く泥が掻き分けられた所を後生大事に辿って行かなければならないのです。 その幅は僅か一二|尺しかないのですから手もなく往来に敷いてある帯の上を踏んで向うへ越すのと同じ事です。 行く人はみんな一列になってそろそろ通り抜けます。 私はこの細帯の上ではたりとKに出合いました。 足の方にばかり気を取られていた私は彼と向き合うまで彼の存在にまるで気が付かずにいたのです。 私は不意に自分の前が塞がったので偶然眼を上げた時始めてそこに立っているKを認めたのです。 私はKにどこへ行ったのかと聞きました。 Kはちょっとそこまでといったぎりでした。 彼の答えはいつもの通りふんという調子でした。 Kと私は細い帯の上で身体を替せました。 するとKのすぐ後ろに一人の若い女が立っているのが見えました。 近眼の私には今までそれがよく分らなかったのですがKをやり越した後でその女の顔を見るとそれが宅のお嬢さんだったので私は少なからず驚きました。 お嬢さんは心持薄赤い顔をして私に挨拶をしました。 その時分の束髪は今と違って廂が出ていないのですそうして頭の真中に蛇のようにぐるぐる巻きつけてあったものです。 私はぼんやりお嬢さんの頭を見ていましたが次の瞬間にどっちか路を譲らなければならないのだという事に気が付きました。 私は思い切ってどろどろの中へ片足|踏ん込みました。 そうして比較的通りやすい所を空けてお嬢さんを渡してやりました。 それから柳町の通りへ出た私はどこへ行って好いか自分にも分らなくなりました。 どこへ行っても面白くないような心持がするのです。 私は飛泥の上がるのも構わずに糠る海の中を自暴にどしどし歩きました。 それから直ぐ宅へ帰って来ました。 三十四「私はKに向ってお嬢さんといっしょに出たのかと聞きました。 Kはそうではないと答えました。 真砂町で偶然出会ったから連れ立って帰って来たのだと説明しました。 私はそれ以上に立ち入った質問を控えなければなりませんでした。 しかし食事の時またお嬢さんに向って同じ問いを掛けたくなりました。 するとお嬢さんは私の嫌いな例の笑い方をするのです。 そうしてどこへ行ったか中ててみろとしまいにいうのです。 その頃の私はまだ癇癪持ちでしたからそう不真面目に若い女から取り扱われると腹が立ちました。 ところがそこに気の付くのは同じ食卓に着いているもののうちで奥さん一人だったのです。 Kはむしろ平気でした。 お嬢さんの態度になると知ってわざとやるのか知らないで無邪気にやるのかそこの区別がちょっと判然しない点がありました。 若い女としてお嬢さんは思慮に富んだ方でしたけれどもその若い女に共通な私の嫌いなところもあると思えば思えなくもなかったのです。 そうしてその嫌いなところはKが宅へ来てから始めて私の眼に着き出したのです。 私はそれをKに対する私の嫉妬に帰していいものかまたは私に対するお嬢さんの技巧と見傚してしかるべきものかちょっと分別に迷いました。 私は今でも決してその時の私の嫉妬心を打ち消す気はありません。 私はたびたび繰り返した通り愛の裏面にこの感情の働きを明らかに意識していたのですから。 しかも傍のものから見るとほとんど取るに足りない瑣事にこの感情がきっと首を持ち上げたがるのでしたから。 これは余事ですがこういう嫉妬は愛の半面じゃないでしょうか。 私は結婚してからこの感情がだんだん薄らいで行くのを自覚しました。 その代り愛情の方も決して元のように猛烈ではないのです。 私はそれまで躊躇していた自分の心を一思いに相手の胸へ擲き付けようかと考え出しました。 私の相手というのはお嬢さんではありません奥さんの事です。 奥さんにお嬢さんを呉れろと明白な談判を開こうかと考えたのです。 しかしそう決心しながら一日一日と私は断行の日を延ばして行ったのです。 そういうと私はいかにも優柔な男のように見えますまた見えても構いませんが実際私の進みかねたのは意志の力に不足があったためではありません。 Kの来ないうちは他の手に乗るのが厭だという我慢が私を抑え付けて一歩も動けないようにしていました。 Kの来た後はもしかするとお嬢さんがKの方に意があるのではなかろうかという疑念が絶えず私を制するようになったのです。 はたしてお嬢さんが私よりもKに心を傾けているならばこの恋は口へいい出す価値のないものと私は決心していたのです。 恥を掻かせられるのが辛いなどというのとは少し訳が違います。 こっちでいくら思っても向うが内心|他の人に愛の眼を注いでいるならば私はそんな女といっしょになるのは厭なのです。 世の中では否応なしに自分の好いた女を嫁に貰って嬉しがっている人もありますがそれは私たちよりよっぽど世間ずれのした男かさもなければ愛の心理がよく呑み込めない鈍物のする事と当時の私は考えていたのです。 一度貰ってしまえばどうかこうか落ち付くものだぐらいの哲理では承知する事ができないくらい私は熱していました。 つまり私は極めて高尚な愛の理論家だったのです。 同時にもっとも迂遠な愛の実際家だったのです。 肝心のお嬢さんに直接この私というものを打ち明ける機会も長くいっしょにいるうちには時々出て来たのですが私はわざとそれを避けました。 日本の習慣としてそういう事は許されていないのだという自覚がその頃の私には強くありました。 しかし決してそればかりが私を束縛したとはいえません。 日本人ことに日本の若い女はそんな場合に相手に気兼なく自分の思った通りを遠慮せずに口にするだけの勇気に乏しいものと私は見込んでいたのです。 三十五「こんな訳で私はどちらの方面へ向っても進む事ができずに立ち竦んでいました。 身体の悪い時に午睡などをすると眼だけ覚めて周囲のものが判然見えるのにどうしても手足の動かせない場合がありましょう。 私は時としてああいう苦しみを人知れず感じたのです。 その内年が暮れて春になりました。 ある日奥さんがKに歌留多をやるから誰か友達を連れて来ないかといった事があります。 するとKはすぐ友達なぞは一人もないと答えたので奥さんは驚いてしまいました。 なるほどKに友達というほどの友達は一人もなかったのです。 往来で会った時|挨拶をするくらいのものは多少ありましたがそれらだって決して歌留多などを取る柄ではなかったのです。 奥さんはそれじゃ私の知ったものでも呼んで来たらどうかといい直しましたが私も生憎そんな陽気な遊びをする心持になれないので好い加減な生返事をしたなり打ちやっておきました。 ところが晩になってKと私はとうとうお嬢さんに引っ張り出されてしまいました。 客も誰も来ないのに内々の小人数だけで取ろうという歌留多ですからすこぶる静かなものでした。 その上こういう遊技をやり付けないKはまるで懐手をしている人と同様でした。 私はKに一体|百人一首の歌を知っているのかと尋ねました。 Kはよく知らないと答えました。 私の言葉を聞いたお嬢さんは大方Kを軽蔑するとでも取ったのでしょう。 それから眼に立つようにKの加勢をし出しました。 しまいには二人がほとんど組になって私に当るという有様になって来ました。 私は相手次第では喧嘩を始めたかも知れなかったのです。 幸いにKの態度は少しも最初と変りませんでした。 彼のどこにも得意らしい様子を認めなかった私は無事にその場を切り上げる事ができました。 それから二三日|経った後の事でしたろう奥さんとお嬢さんは朝から市ヶ谷にいる親類の所へ行くといって宅を出ました。 Kも私もまだ学校の始まらない頃でしたから留守居同様あとに残っていました。 私は書物を読むのも散歩に出るのも厭だったのでただ漠然と火鉢の縁に肱を載せて凝と顋を支えたなり考えていました。 隣の室にいるKも一向音を立てませんでした。 双方ともいるのだかいないのだか分らないくらい静かでした。 もっともこういう事は二人の間柄として別に珍しくも何ともなかったのですから私は別段それを気にも留めませんでした。 十時頃になってKは不意に仕切りの襖を開けて私と顔を見合せました。 彼は敷居の上に立ったまま私に何を考えていると聞きました。 私はもとより何も考えていなかったのです。 もし考えていたとすればいつもの通りお嬢さんが問題だったかも知れません。 そのお嬢さんには無論奥さんも食っ付いていますが近頃ではK自身が切り離すべからざる人のように私の頭の中をぐるぐる回ってこの問題を複雑にしているのです。 Kと顔を見合せた私は今まで朧気に彼を一種の邪魔ものの如く意識していながら明らかにそうと答える訳にいかなかったのです。 私は依然として彼の顔を見て黙っていました。 するとKの方からつかつかと私の座敷へ入って来て私のあたっている火鉢の前に坐りました。 私はすぐ両肱を火鉢の縁から取り除けて心持それをKの方へ押しやるようにしました。 Kはいつもに似合わない話を始めました。 奥さんとお嬢さんは市ヶ谷のどこへ行ったのだろうというのです。 私は大方|叔母さんの所だろうと答えました。 Kはその叔母さんは何だとまた聞きます。 私はやはり軍人の細君だと教えてやりました。 すると女の年始は大抵十五日|過だのになぜそんなに早く出掛けたのだろうと質問するのです。 私はなぜだか知らないと挨拶するより外に仕方がありませんでした。 三十六「Kはなかなか奥さんとお嬢さんの話を已めませんでした。 しまいには私も答えられないような立ち入った事まで聞くのです。 私は面倒よりも不思議の感に打たれました。 以前私の方から二人を問題にして話しかけた時の彼を思い出すと私はどうしても彼の調子の変っているところに気が付かずにはいられないのです。 私はとうとうなぜ今日に限ってそんな事ばかりいうのかと彼に尋ねました。 その時彼は突然黙りました。 しかし私は彼の結んだ口元の肉が顫えるように動いているのを注視しました。 彼は元来無口な男でした。 平生から何かいおうとするという前によく口のあたりをもぐもぐさせる癖がありました。 彼の唇がわざと彼の意志に反抗するように容易く開かないところに彼の言葉の重みも籠っていたのでしょう。 一旦声が口を破って出るとなるとその声には普通の人よりも倍の強い力がありました。 彼の口元をちょっと眺めた時私はまた何か出て来るなとすぐ疳付いたのですがそれがはたして何の準備なのか私の予覚はまるでなかったのです。 だから驚いたのです。 彼の重々しい口から彼のお嬢さんに対する切ない恋を打ち明けられた時の私を想像してみて下さい。 私は彼の魔法棒のために一度に化石されたようなものです。 口をもぐもぐさせる働きさえ私にはなくなってしまったのです。 その時の私は恐ろしさの塊りといいましょうかまたは苦しさの塊りといいましょうか何しろ一つの塊りでした。 石か鉄のように頭から足の先までが急に固くなったのです。 呼吸をする弾力性さえ失われたくらいに堅くなったのです。 幸いな事にその状態は長く続きませんでした。 私は一瞬間の後にまた人間らしい気分を取り戻しました。 そうしてすぐ失策ったと思いました。 先を越されたなと思いました。 しかしその先をどうしようという分別はまるで起りません。 恐らく起るだけの余裕がなかったのでしょう。 私は腋の下から出る気味のわるい汗が襯衣に滲み透るのを凝と我慢して動かずにいました。 Kはその間いつもの通り重い口を切ってはぽつりぽつりと自分の心を打ち明けてゆきます。 私は苦しくって堪りませんでした。 おそらくその苦しさは大きな広告のように私の顔の上に判然りした字で貼り付けられてあったろうと私は思うのです。 いくらKでもそこに気の付かないはずはないのですが彼はまた彼で自分の事に一切を集中しているから私の表情などに注意する暇がなかったのでしょう。 彼の自白は最初から最後まで同じ調子で貫いていました。 重くて鈍い代りにとても容易な事では動かせないという感じを私に与えたのです。 私の心は半分その自白を聞いていながら半分どうしようどうしようという念に絶えず掻き乱されていましたから細かい点になるとほとんど耳へ入らないと同様でしたがそれでも彼の口に出す言葉の調子だけは強く胸に響きました。 そのために私は前いった苦痛ばかりでなくときには一種の恐ろしさを感ずるようになったのです。 つまり相手は自分より強いのだという恐怖の念が萌し始めたのです。 Kの話が一通り済んだ時私は何ともいう事ができませんでした。 こっちも彼の前に同じ意味の自白をしたものだろうかそれとも打ち明けずにいる方が得策だろうか私はそんな利害を考えて黙っていたのではありません。 ただ何事もいえなかったのです。 またいう気にもならなかったのです。 午食の時Kと私は向い合せに席を占めました。 下女に給仕をしてもらって私はいつにない不味い飯を済ませました。 二人は食事中もほとんど口を利きませんでした。 奥さんとお嬢さんはいつ帰るのだか分りませんでした。 三十七「二人は各自の室に引き取ったぎり顔を合わせませんでした。 Kの静かな事は朝と同じでした。 私も凝と考え込んでいました。 私は当然自分の心をKに打ち明けるべきはずだと思いました。 しかしそれにはもう時機が後れてしまったという気も起りました。 なぜ先刻Kの言葉を遮ってこっちから逆襲しなかったのかそこが非常な手落りのように見えて来ました。 せめてKの後に続いて自分は自分の思う通りをその場で話してしまったらまだ好かったろうにとも考えました。 Kの自白に一段落が付いた今となってこっちからまた同じ事を切り出すのはどう思案しても変でした。 私はこの不自然に打ち勝つ方法を知らなかったのです。 私の頭は悔恨に揺られてぐらぐらしました。 私はKが再び仕切りの襖を開けて向うから突進してきてくれれば好いと思いました。 私にいわせれば先刻はまるで不意撃に会ったも同じでした。 私にはKに応ずる準備も何もなかったのです。 私は午前に失ったものを今度は取り戻そうという下心を持っていました。 それで時々眼を上げて襖を眺めました。 しかしその襖はいつまで経っても開きません。 そうしてKは永久に静かなのです。 その内私の頭は段々この静かさに掻き乱されるようになって来ました。 Kは今襖の向うで何を考えているだろうと思うとそれが気になって堪らないのです。 不断もこんな風にお互いが仕切一枚を間に置いて黙り合っている場合は始終あったのですが私はKが静かであればあるほど彼の存在を忘れるのが普通の状態だったのですからその時の私はよほど調子が狂っていたものと見なければなりません。 それでいて私はこっちから進んで襖を開ける事ができなかったのです。 一旦いいそびれた私はまた向うから働き掛けられる時機を待つより外に仕方がなかったのです。 しまいに私は凝としておられなくなりました。 無理に凝としていればKの部屋へ飛び込みたくなるのです。 私は仕方なしに立って縁側へ出ました。 そこから茶の間へ来て何という目的もなく鉄瓶の湯を湯呑に注で一杯呑みました。 それから玄関へ出ました。 私はわざとKの室を回避するようにしてこんな風に自分を往来の真中に見出したのです。 私には無論どこへ行くという的もありません。 ただ凝としていられないだけでした。 それで方角も何も構わずに正月の町をむやみに歩き廻ったのです。 私の頭はいくら歩いてもKの事でいっぱいになっていました。 私もKを振い落す気で歩き廻る訳ではなかったのです。 むしろ自分から進んで彼の姿を咀嚼しながらうろついていたのです。 私には第一に彼が解しがたい男のように見えました。 どうしてあんな事を突然私に打ち明けたのかまたどうして打ち明けなければいられないほどに彼の恋が募って来たのかそうして平生の彼はどこに吹き飛ばされてしまったのかすべて私には解しにくい問題でした。 私は彼の強い事を知っていました。 また彼の真面目な事を知っていました。 私はこれから私の取るべき態度を決する前に彼について聞かなければならない多くをもっていると信じました。 同時にこれからさき彼を相手にするのが変に気味が悪かったのです。 私は夢中に町の中を歩きながら自分の室に凝と坐っている彼の容貌を始終眼の前に描き出しました。 しかもいくら私が歩いても彼を動かす事は到底できないのだという声がどこかで聞こえるのです。 つまり私には彼が一種の魔物のように思えたからでしょう。 私は永久彼に祟られたのではなかろうかという気さえしました。 私が疲れて宅へ帰った時彼の室は依然として人気のないように静かでした。 三十八「私が家へはいると間もなく俥の音が聞こえました。 今のように護謨輪のない時分でしたからがらがらいう厭な響きがかなりの距離でも耳に立つのです。 車はやがて門前で留まりました。 私が夕飯に呼び出されたのはそれから三十分ばかり経った後の事でしたがまだ奥さんとお嬢さんの晴着が脱ぎ棄てられたまま次の室を乱雑に彩っていました。 二人は遅くなると私たちに済まないというので飯の支度に間に合うように急いで帰って来たのだそうです。 しかし奥さんの親切はKと私とに取ってほとんど無効も同じ事でした。 私は食卓に坐りながら言葉を惜しがる人のように素気ない挨拶ばかりしていました。 Kは私よりもなお寡言でした。 たまに親子連で外出した女二人の気分がまた平生よりは勝れて晴れやかだったので我々の態度はなおの事眼に付きます。 奥さんは私にどうかしたのかと聞きました。 私は少し心持が悪いと答えました。 実際私は心持が悪かったのです。 すると今度はお嬢さんがKに同じ問いを掛けました。 Kは私のように心持が悪いとは答えません。 ただ口が利きたくないからだといいました。 お嬢さんはなぜ口が利きたくないのかと追窮しました。 私はその時ふと重たい瞼を上げてKの顔を見ました。 私にはKが何と答えるだろうかという好奇心があったのです。 Kの唇は例のように少し顫えていました。 それが知らない人から見るとまるで返事に迷っているとしか思われないのです。 お嬢さんは笑いながらまた何かむずかしい事を考えているのだろうといいました。 Kの顔は心持薄赤くなりました。 その晩私はいつもより早く床へ入りました。 私が食事の時気分が悪いといったのを気にして奥さんは十時頃|蕎麦湯を持って来てくれました。 しかし私の室はもう真暗でした。 奥さんはおやおやといって仕切りの襖を細目に開けました。 洋燈の光がKの机から斜めにぼんやりと私の室に差し込みました。 Kはまだ起きていたものとみえます。 奥さんは枕元に坐って大方風邪を引いたのだろうから身体を暖ためるがいいといって湯呑を顔の傍へ突き付けるのです。 私はやむをえずどろどろした蕎麦湯を奥さんの見ている前で飲みました。 私は遅くなるまで暗いなかで考えていました。 無論一つ問題をぐるぐる廻転させるだけで外に何の効力もなかったのです。 私は突然Kが今隣りの室で何をしているだろうと思い出しました。 私は半ば無意識においと声を掛けました。 すると向うでもおいと返事をしました。 Kもまだ起きていたのです。 私はまだ寝ないのかと襖ごしに聞きました。 もう寝るという簡単な挨拶がありました。 何をしているのだと私は重ねて問いました。 今度はKの答えがありません。 その代り五六分経ったと思う頃に押入をがらりと開けて床を延べる音が手に取るように聞こえました。 私はもう何時かとまた尋ねました。 Kは一時二十分だと答えました。 やがて洋燈をふっと吹き消す音がして家中が真暗なうちにしんと静まりました。 しかし私の眼はその暗いなかでいよいよ冴えて来るばかりです。 私はまた半ば無意識な状態でおいとKに声を掛けました。 Kも以前と同じような調子でおいと答えました。 私は今朝彼から聞いた事についてもっと詳しい話をしたいが彼の都合はどうだととうとうこっちから切り出しました。 私は無論|襖越にそんな談話を交換する気はなかったのですがKの返答だけは即坐に得られる事と考えたのです。 ところがKは先刻から二度おいと呼ばれて二度おいと答えたような素直な調子で今度は応じません。 そうだなあと低い声で渋っています。 私はまたはっと思わせられました。 三十九「Kの生返事は翌日になってもその翌日になっても彼の態度によく現われていました。 彼は自分から進んで例の問題に触れようとする気色を決して見せませんでした。 もっとも機会もなかったのです。 奥さんとお嬢さんが揃って一日|宅を空けでもしなければ二人はゆっくり落ち付いてそういう事を話し合う訳にも行かないのですから。 私はそれをよく心得ていました。 心得ていながら変にいらいらし出すのです。 その結果始めは向うから来るのを待つつもりで暗に用意をしていた私が折があったらこっちで口を切ろうと決心するようになったのです。 同時に私は黙って家のものの様子を観察して見ました。 しかし奥さんの態度にもお嬢さんの素振にも別に平生と変った点はありませんでした。 Kの自白以前と自白以後とで彼らの挙動にこれという差違が生じないならば彼の自白は単に私だけに限られた自白で肝心の本人にもまたその監督者たる奥さんにもまだ通じていないのは慥かでした。 そう考えた時私は少し安心しました。 それで無理に機会を拵えてわざとらしく話を持ち出すよりは自然の与えてくれるものを取り逃さないようにする方が好かろうと思って例の問題にはしばらく手を着けずにそっとしておく事にしました。 こういってしまえば大変簡単に聞こえますがそうした心の経過には潮の満干と同じように色々の高低があったのです。 私はKの動かない様子を見てそれにさまざまの意味を付け加えました。 奥さんとお嬢さんの言語動作を観察して二人の心がはたしてそこに現われている通りなのだろうかと疑ってもみました。 そうして人間の胸の中に装置された複雑な器械が時計の針のように明瞭に偽りなく盤上の数字を指し得るものだろうかと考えました。 要するに私は同じ事をこうも取りああも取りした揚句漸くここに落ち付いたものと思って下さい。 更にむずかしくいえば落ち付くなどという言葉はこの際決して使われた義理でなかったのかも知れません。 その内学校がまた始まりました。 私たちは時間の同じ日には連れ立って宅を出ます。 都合がよければ帰る時にもやはりいっしょに帰りました。 外部から見たKと私は何にも前と違ったところがないように親しくなったのです。 けれども腹の中では各自に各自の事を勝手に考えていたに違いありません。 ある日私は突然往来でKに肉薄しました。 私が第一に聞いたのはこの間の自白が私だけに限られているかまたは奥さんやお嬢さんにも通じているかの点にあったのです。 私のこれから取るべき態度はこの問いに対する彼の答え次第で極めなければならないと私は思ったのです。 すると彼は外の人にはまだ誰にも打ち明けていないと明言しました。 私は事情が自分の推察通りだったので内心|嬉しがりました。 私はKの私より横着なのをよく知っていました。 彼の度胸にも敵わないという自覚があったのです。 けれども一方ではまた妙に彼を信じていました。 学資の事で養家を三年も欺いていた彼ですけれども彼の信用は私に対して少しも損われていなかったのです。 私はそれがためにかえって彼を信じ出したくらいです。 だからいくら疑い深い私でも明白な彼の答えを腹の中で否定する気は起りようがなかったのです。 私はまた彼に向って彼の恋をどう取り扱うつもりかと尋ねました。 それが単なる自白に過ぎないのかまたはその自白についで実際的の効果をも収める気なのかと問うたのです。 しかるに彼はそこになると何にも答えません。 黙って下を向いて歩き出します。 私は彼に隠し立てをしてくれるなすべて思った通りを話してくれと頼みました。 彼は何も私に隠す必要はないと判然断言しました。 しかし私の知ろうとする点には一言の返事も与えないのです。 私も往来だからわざわざ立ち留まって底まで突き留める訳にいきません。 ついそれなりにしてしまいました。 四十「ある日私は久しぶりに学校の図書館に入りました。 私は広い机の片隅で窓から射す光線を半身に受けながら新着の外国雑誌をあちらこちらと引っ繰り返して見ていました。 私は担任教師から専攻の学科に関して次の週までにある事項を調べて来いと命ぜられたのです。 しかし私に必要な事柄がなかなか見付からないので私は二度も三度も雑誌を借り替えなければなりませんでした。 最後に私はやっと自分に必要な論文を探し出して一心にそれを読み出しました。 すると突然幅の広い机の向う側から小さな声で私の名を呼ぶものがあります。 私はふと眼を上げてそこに立っているKを見ました。 Kはその上半身を机の上に折り曲げるようにして彼の顔を私に近付けました。 ご承知の通り図書館では他の人の邪魔になるような大きな声で話をする訳にゆかないのですからKのこの所作は誰でもやる普通の事なのですが私はその時に限って一種変な心持がしました。 Kは低い声で勉強かと聞きました。 私はちょっと調べものがあるのだと答えました。 それでもKはまだその顔を私から放しません。 同じ低い調子でいっしょに散歩をしないかというのです。 私は少し待っていればしてもいいと答えました。 彼は待っているといったまますぐ私の前の空席に腰をおろしました。 すると私は気が散って急に雑誌が読めなくなりました。 何だかKの胸に一物があって談判でもしに来られたように思われて仕方がないのです。 私はやむをえず読みかけた雑誌を伏せて立ち上がろうとしました。 Kは落ち付き払ってもう済んだのかと聞きます。 私はどうでもいいのだと答えて雑誌を返すと共にKと図書館を出ました。 二人は別に行く所もなかったので竜岡町から池の端へ出て上野の公園の中へ入りました。 その時彼は例の事件について突然向うから口を切りました。 前後の様子を綜合して考えるとKはそのために私をわざわざ散歩に引っ張り出したらしいのです。 けれども彼の態度はまだ実際的の方面へ向ってちっとも進んでいませんでした。 彼は私に向ってただ漠然とどう思うというのです。 どう思うというのはそうした恋愛の淵に陥った彼をどんな眼で私が眺めるかという質問なのです。 一言でいうと彼は現在の自分について私の批判を求めたいようなのです。 そこに私は彼の平生と異なる点を確かに認める事ができたと思いました。 たびたび繰り返すようですが彼の天性は他の思わくを憚かるほど弱くでき上ってはいなかったのです。 こうと信じたら一人でどんどん進んで行くだけの度胸もあり勇気もある男なのです。 養家事件でその特色を強く胸の裏に彫り付けられた私がこれは様子が違うと明らかに意識したのは当然の結果なのです。 私がKに向ってこの際|何んで私の批評が必要なのかと尋ねた時彼はいつもにも似ない悄然とした口調で自分の弱い人間であるのが実際恥ずかしいといいました。 そうして迷っているから自分で自分が分らなくなってしまったので私に公平な批評を求めるより外に仕方がないといいました。 私は隙かさず迷うという意味を聞き糺しました。 彼は進んでいいか退いていいかそれに迷うのだと説明しました。 私はすぐ一歩先へ出ました。 そうして退こうと思えば退けるのかと彼に聞きました。 すると彼の言葉がそこで不意に行き詰りました。 彼はただ苦しいといっただけでした。 実際彼の表情には苦しそうなところがありありと見えていました。 もし相手がお嬢さんでなかったならば私はどんなに彼に都合のいい返事をその渇き切った顔の上に慈雨の如く注いでやったか分りません。 私はそのくらいの美しい同情をもって生れて来た人間と自分ながら信じています。 しかしその時の私は違っていました。 四十一「私はちょうど他流試合でもする人のようにKを注意して見ていたのです。 私は私の眼私の心私の身体すべて私という名の付くものを五|分の隙間もないように用意してKに向ったのです。 罪のないKは穴だらけというよりむしろ明け放しと評するのが適当なくらいに無用心でした。 私は彼自身の手から彼の保管している要塞の地図を受け取って彼の眼の前でゆっくりそれを眺める事ができたも同じでした。 Kが理想と現実の間に彷徨してふらふらしているのを発見した私はただ一打で彼を倒す事ができるだろうという点にばかり眼を着けました。 そうしてすぐ彼の虚に付け込んだのです。 私は彼に向って急に厳粛な改まった態度を示し出しました。 無論策略からですがその態度に相応するくらいな緊張した気分もあったのですから自分に滑稽だの羞恥だのを感ずる余裕はありませんでした。 私はまず「精神的に向上心のないものは馬鹿だ。 精神的に向上心のないものは馬鹿だ。 馬鹿だ。 僕は馬鹿だ。 私はKと並んで足を運ばせながら彼の口を出る次の言葉を腹の中で暗に待ち受けました。 あるいは待ち伏せといった方がまだ適当かも知れません。 その時の私はたといKを騙し打ちにしても構わないくらいに思っていたのです。 しかし私にも教育相当の良心はありますからもし誰か私の傍へ来てお前は卑怯だと一言私語いてくれるものがあったなら私はその瞬間にはっと我に立ち帰ったかも知れません。 もしKがその人であったなら私はおそらく彼の前に赤面したでしょう。 ただKは私を窘めるには余りに正直でした。 余りに単純でした。 余りに人格が善良だったのです。 目のくらんだ私はそこに敬意を払う事を忘れてかえってそこに付け込んだのです。 そこを利用して彼を打ち倒そうとしたのです。 Kはしばらくして私の名を呼んで私の方を見ました。 今度は私の方で自然と足を留めました。 するとKも留まりました。 私はその時やっとKの眼を真向に見る事ができたのです。 Kは私より背の高い男でしたから私は勢い彼の顔を見上げるようにしなければなりません。 私はそうした態度で狼のごとき心を罪のない羊に向けたのです。 「もうその話は止めよう。 止めてくれ。 止めてくれって僕がいい出した事じゃないもともと君の方から持ち出した話じゃないか。 しかし君が止めたければ止めてもいいがただ口の先で止めたって仕方があるまい。 君の心でそれを止めるだけの覚悟がなければ。 一体君は君の平生の主張をどうするつもりなのか。 覚悟。 覚悟――覚悟ならない事もない。 その頃は覚醒とか新しい生活とかいう文字のまだない時分でした。 しかしKが古い自分をさらりと投げ出して一意に新しい方角へ走り出さなかったのは現代人の考えが彼に欠けていたからではないのです。 彼には投げ出す事のできないほど尊い過去があったからです。 彼はそのために今日まで生きて来たといってもいいくらいなのです。 だからKが一直線に愛の目的物に向って猛進しないといって決してその愛の生温い事を証拠立てる訳にはゆきません。 いくら熾烈な感情が燃えていても彼はむやみに動けないのです。 前後を忘れるほどの衝動が起る機会を彼に与えない以上Kはどうしてもちょっと踏み留まって自分の過去を振り返らなければならなかったのです。 そうすると過去が指し示す路を今まで通り歩かなければならなくなるのです。 その上彼には現代人のもたない強情と我慢がありました。 私はこの双方の点においてよく彼の心を見抜いていたつもりなのです。 上野から帰った晩は私に取って比較的安静な夜でした。 私はKが室へ引き上げたあとを追い懸けて彼の机の傍に坐り込みました。 そうして取り留めもない世間話をわざと彼に仕向けました。 彼は迷惑そうでした。 私の眼には勝利の色が多少輝いていたでしょう私の声にはたしかに得意の響きがあったのです。 私はしばらくKと一つ火鉢に手を翳した後自分の室に帰りました。 外の事にかけては何をしても彼に及ばなかった私もその時だけは恐るるに足りないという自覚を彼に対してもっていたのです。 私はほどなく穏やかな眠りに落ちました。 しかし突然私の名を呼ぶ声で眼を覚ましました。 見ると間の襖が二|尺ばかり開いてそこにKの黒い影が立っています。 そうして彼の室には宵の通りまだ燈火が点いているのです。 急に世界の変った私は少しの間口を利く事もできずにぼうっとしてその光景を眺めていました。 その時Kはもう寝たのかと聞きました。 Kはいつでも遅くまで起きている男でした。 私は黒い影法師のようなKに向って何か用かと聞き返しました。 Kは大した用でもないただもう寝たかまだ起きているかと思って便所へ行ったついでに聞いてみただけだと答えました。 Kは洋燈の灯を背中に受けているので彼の顔色や眼つきは全く私には分りませんでした。 けれども彼の声は不断よりもかえって落ち付いていたくらいでした。 Kはやがて開けた襖をぴたりと立て切りました。 私の室はすぐ元の暗闇に帰りました。 私はその暗闇より静かな夢を見るべくまた眼を閉じました。 私はそれぎり何も知りません。 しかし翌朝になって昨夕の事を考えてみると何だか不思議でした。 私はことによるとすべてが夢ではないかと思いました。 それで飯を食う時Kに聞きました。 Kはたしかに襖を開けて私の名を呼んだといいます。 なぜそんな事をしたのかと尋ねると別に判然した返事もしません。 調子の抜けた頃になって近頃は熟睡ができるのかとかえって向うから私に問うのです。 私は何だか変に感じました。 その日ちょうど同じ時間に講義の始まる時間割になっていたので二人はやがていっしょに宅を出ました。 今朝から昨夕の事が気に掛っている私は途中でまたKを追窮しました。 けれどもKはやはり私を満足させるような答えをしません。 私はあの事件について何か話すつもりではなかったのかと念を押してみました。 Kはそうではないと強い調子でいい切りました。 昨日上野で「その話はもう止めよう。 覚悟。 Kの果断に富んだ性格は私によく知れていました。 彼のこの事件についてのみ優柔な訳も私にはちゃんと呑み込めていたのです。 つまり私は一般を心得た上で例外の場合をしっかり攫まえたつもりで得意だったのです。 ところが「覚悟。 今だ。 何を。 あなたには何かおっしゃったんですか。 Kから聞かされた打ち明け話を奥さんに伝える気のなかった私は「いいえ。 そうですか。 奥さんお嬢さんを私に下さい。 下さいぜひ下さい。 私の妻としてぜひ下さい。 上げてもいいがあんまり急じゃありませんか。 急に貰いたいのだ。 よく考えたのですか。 宜ござんす差し上げましょう。 差し上げるなんて威張った口の利ける境遇ではありません。 どうぞ貰って下さい。 ご存じの通り父親のない憐れな子です。 大丈夫です。 本人が不承知の所へ私があの子をやるはずがありませんから。 今お帰り。 ええ癒りました癒りました。 私は猿楽町から神保町の通りへ出て小川町の方へ曲りました。 私がこの界隈を歩くのはいつも古本屋をひやかすのが目的でしたがその日は手摺れのした書物などを眺める気がどうしても起らないのです。 私は歩きながら絶えず宅の事を考えていました。 私には先刻の奥さんの記憶がありました。 それからお嬢さんが宅へ帰ってからの想像がありました。 私はつまりこの二つのもので歩かせられていたようなものです。 その上私は時々往来の真中で我知らずふと立ち留まりました。 そうして今頃は奥さんがお嬢さんにもうあの話をしている時分だろうなどと考えました。 また或る時はもうあの話が済んだ頃だとも思いました。 私はとうとう万世橋を渡って明神の坂を上がって本郷台へ来てそれからまた菊坂を下りてしまいに小石川の谷へ下りたのです。 私の歩いた距離はこの三区に跨がっていびつな円を描いたともいわれるでしょうが私はこの長い散歩の間ほとんどKの事を考えなかったのです。 今その時の私を回顧してなぜだと自分に聞いてみても一向分りません。 ただ不思議に思うだけです。 私の心がKを忘れ得るくらい一方に緊張していたとみればそれまでですが私の良心がまたそれを許すべきはずはなかったのですから。 Kに対する私の良心が復活したのは私が宅の格子を開けて玄関から坐敷へ通る時すなわち例のごとく彼の室を抜けようとした瞬間でした。 彼はいつもの通り机に向って書見をしていました。 彼はいつもの通り書物から眼を放して私を見ました。 しかし彼はいつもの通り今帰ったのかとはいいませんでした。 彼は「病気はもう癒いのか医者へでも行ったのか。 私はそのまま二三日過ごしました。 その二三日の間Kに対する絶えざる不安が私の胸を重くしていたのはいうまでもありません。 私はただでさえ何とかしなければ彼に済まないと思ったのです。 その上奥さんの調子やお嬢さんの態度が始終私を突ッつくように刺戟するのですから私はなお辛かったのです。 どこか男らしい気性を具えた奥さんはいつ私の事を食卓でKに素ぱ抜かないとも限りません。 それ以来ことに目立つように思えた私に対するお嬢さんの挙止動作もKの心を曇らす不審の種とならないとは断言できません。 私は何とかして私とこの家族との間に成り立った新しい関係をKに知らせなければならない位置に立ちました。 しかし倫理的に弱点をもっていると自分で自分を認めている私にはそれがまた至難の事のように感ぜられたのです。 私は仕方がないから奥さんに頼んでKに改めてそういってもらおうかと考えました。 無論私のいない時にです。 しかしありのままを告げられては直接と間接の区別があるだけで面目のないのに変りはありません。 といって拵え事を話してもらおうとすれば奥さんからその理由を詰問されるに極っています。 もし奥さんにすべての事情を打ち明けて頼むとすれば私は好んで自分の弱点を自分の愛人とその母親の前に曝け出さなければなりません。 真面目な私にはそれが私の未来の信用に関するとしか思われなかったのです。 結婚する前から恋人の信用を失うのはたとい一|分一|厘でも私には堪え切れない不幸のように見えました。 要するに私は正直な路を歩くつもりでつい足を滑らした馬鹿ものでした。 もしくは狡猾な男でした。 そうしてそこに気のついているものは今のところただ天と私の心だけだったのです。 しかし立ち直ってもう一歩前へ踏み出そうとするには今滑った事をぜひとも周囲の人に知られなければならない窮境に陥ったのです。 私はあくまで滑った事を隠したがりました。 同時にどうしても前へ出ずにはいられなかったのです。 私はこの間に挟まってまた立ち竦みました。 五六日|経った後奥さんは突然私に向ってKにあの事を話したかと聞くのです。 私はまだ話さないと答えました。 するとなぜ話さないのかと奥さんが私を詰るのです。 私はこの問いの前に固くなりました。 その時奥さんが私を驚かした言葉を私は今でも忘れずに覚えています。 「道理で妾が話したら変な顔をしていましたよ。 あなたもよくないじゃありませんか。 平生あんなに親しくしている間柄だのに黙って知らん顔をしているのは。 あなたも喜んで下さい。 おめでとうございます。 結婚はいつですか。 何かお祝いを上げたいが私は金がないから上げる事ができません。 勘定して見ると奥さんがKに話をしてからもう二日余りになります。 その間Kは私に対して少しも以前と異なった様子を見せなかったので私は全くそれに気が付かずにいたのです。 彼の超然とした態度はたとい外観だけにもせよ敬服に値すべきだと私は考えました。 彼と私を頭の中で並べてみると彼の方が遥かに立派に見えました。 「おれは策略で勝っても人間としては負けたのだ。 私は突然Kの頭を抱えるように両手で少し持ち上げました。 私はKの死顔が一目見たかったのです。 しかし俯伏しになっている彼の顔をこうして下から覗き込んだ時私はすぐその手を放してしまいました。 慄としたばかりではないのです。 彼の頭が非常に重たく感ぜられたのです。 私は上から今|触った冷たい耳と平生に変らない五分刈の濃い髪の毛を少時眺めていました。 私は少しも泣く気にはなれませんでした。 私はただ恐ろしかったのです。 そうしてその恐ろしさは眼の前の光景が官能を刺激して起る単調な恐ろしさばかりではありません。 私は忽然と冷たくなったこの友達によって暗示された運命の恐ろしさを深く感じたのです。 私は何の分別もなくまた私の室に帰りました。 そうして八畳の中をぐるぐる廻り始めました。 私の頭は無意味でも当分そうして動いていろと私に命令するのです。 私はどうかしなければならないと思いました。 同時にもうどうする事もできないのだと思いました。 座敷の中をぐるぐる廻らなければいられなくなったのです。 檻の中へ入れられた熊のような態度で。 私は時々奥へ行って奥さんを起そうという気になります。 けれども女にこの恐ろしい有様を見せては悪いという心持がすぐ私を遮ります。 奥さんはとにかくお嬢さんを驚かす事はとてもできないという強い意志が私を抑えつけます。 私はまたぐるぐる廻り始めるのです。 私はその間に自分の室の洋燈を点けました。 それから時計を折々見ました。 その時の時計ほど埒の明かない遅いものはありませんでした。 私の起きた時間は正確に分らないのですけれどももう夜明に間もなかった事だけは明らかです。 ぐるぐる廻りながらその夜明を待ち焦れた私は永久に暗い夜が続くのではなかろうかという思いに悩まされました。 我々は七時前に起きる習慣でした。 学校は八時に始まる事が多いのでそれでないと授業に間に合わないのです。 下女はその関係で六時頃に起きる訳になっていました。 しかしその日私が下女を起しに行ったのはまだ六時前でした。 すると奥さんが今日は日曜だといって注意してくれました。 奥さんは私の足音で眼を覚ましたのです。 私は奥さんに眼が覚めているならちょっと私の室まで来てくれと頼みました。 奥さんは寝巻の上へ不断着の羽織を引っ掛けて私の後に跟いて来ました。 私は室へはいるや否や今まで開いていた仕切りの襖をすぐ立て切りました。 そうして奥さんに飛んだ事ができたと小声で告げました。 奥さんは何だと聞きました。 私は顋で隣の室を指すようにして「驚いちゃいけません。 奥さんKは自殺しました。 済みません。 私が悪かったのです。 あなたにもお嬢さんにも済まない事になりました。 不慮の出来事なら仕方がないじゃありませんか。 私は奥さんに気の毒でしたけれどもまた立って今閉めたばかりの唐紙を開けました。 その時Kの洋燈に油が尽きたと見えて室の中はほとんど真暗でした。 私は引き返して自分の洋燈を手に持ったまま入口に立って奥さんを顧みました。 奥さんは私の後ろから隠れるようにして四畳の中を覗き込みました。 しかしはいろうとはしません。 そこはそのままにしておいて雨戸を開けてくれと私にいいました。 それから後の奥さんの態度はさすがに軍人の未亡人だけあって要領を得ていました。 私は医者の所へも行きました。 また警察へも行きました。 しかしみんな奥さんに命令されて行ったのです。 奥さんはそうした手続の済むまで誰もKの部屋へは入れませんでした。 Kは小さなナイフで頸動脈を切って一息に死んでしまったのです。 外に創らしいものは何にもありませんでした。 私が夢のような薄暗い灯で見た唐紙の血潮は彼の頸筋から一度に迸ったものと知れました。 私は日中の光で明らかにその迹を再び眺めました。 そうして人間の血の勢いというものの劇しいのに驚きました。 奥さんと私はできるだけの手際と工夫を用いてKの室を掃除しました。 彼の血潮の大部分は幸い彼の蒲団に吸収されてしまったので畳はそれほど汚れないで済みましたから後始末はまだ楽でした。 二人は彼の死骸を私の室に入れて不断の通り寝ている体に横にしました。 私はそれから彼の実家へ電報を打ちに出たのです。 私が帰った時はKの枕元にもう線香が立てられていました。 室へはいるとすぐ仏臭い烟で鼻を撲たれた私はその烟の中に坐っている女二人を認めました。 私がお嬢さんの顔を見たのは昨夜来この時が始めてでした。 お嬢さんは泣いていました。 奥さんも眼を赤くしていました。 事件が起ってからそれまで泣く事を忘れていた私はその時ようやく悲しい気分に誘われる事ができたのです。 私の胸はその悲しさのためにどのくらい寛ろいだか知れません。 苦痛と恐怖でぐいと握り締められた私の心に一滴の潤を与えてくれたものはその時の悲しさでした。 私は黙って二人の傍に坐っていました。 奥さんは私にも線香を上げてやれといいます。 私は線香を上げてまた黙って坐っていました。 お嬢さんは私には何ともいいません。 たまに奥さんと一口|二口言葉を換わす事がありましたがそれは当座の用事についてのみでした。 お嬢さんにはKの生前について語るほどの余裕がまだ出て来なかったのです。 私はそれでも昨夜の物凄い有様を見せずに済んでまだよかったと心のうちで思いました。 若い美しい人に恐ろしいものを見せると折角の美しさがそのために破壊されてしまいそうで私は怖かったのです。 私の恐ろしさが私の髪の毛の末端まで来た時ですら私はその考えを度外に置いて行動する事はできませんでした。 私には綺麗な花を罪もないのに妄りに鞭うつと同じような不快がそのうちに籠っていたのです。 国元からKの父と兄が出て来た時私はKの遺骨をどこへ埋めるかについて自分の意見を述べました。 私は彼の生前に雑司ヶ谷近辺をよくいっしょに散歩した事があります。 Kにはそこが大変気に入っていたのです。 それで私は笑談半分にそんなに好きなら死んだらここへ埋めてやろうと約束した覚えがあるのです。 私も今その約束通りKを雑司ヶ谷へ葬ったところでどのくらいの功徳になるものかとは思いました。 けれども私は私の生きている限りKの墓の前に跪いて月々私の懺悔を新たにしたかったのです。 今まで構い付けなかったKを私が万事世話をして来たという義理もあったのでしょうKの父も兄も私のいう事を聞いてくれました。 五十一「Kの葬式の帰り路に私はその友人の一人からKがどうして自殺したのだろうという質問を受けました。 事件があって以来私はもう何度となくこの質問で苦しめられていたのです。 奥さんもお嬢さんも国から出て来たKの父兄も通知を出した知り合いも彼とは何の縁故もない新聞記者までも必ず同様の質問を私に掛けない事はなかったのです。 私の良心はそのたびにちくちく刺されるように痛みました。 そうして私はこの質問の裏に早くお前が殺したと白状してしまえという声を聞いたのです。 私の答えは誰に対しても同じでした。 私はただ彼の私|宛で書き残した手紙を繰り返すだけで外に一口も附け加える事はしませんでした。 葬式の帰りに同じ問いを掛けて同じ答えを得たKの友人は懐から一枚の新聞を出して私に見せました。 私は歩きながらその友人によって指し示された箇所を読みました。 それにはKが父兄から勘当された結果|厭世的な考えを起して自殺したと書いてあるのです。 私は何にもいわずにその新聞を畳んで友人の手に帰しました。 友人はこの外にもKが気が狂って自殺したと書いた新聞があるといって教えてくれました。 忙しいのでほとんど新聞を読む暇がなかった私はまるでそうした方面の知識を欠いていましたが腹の中では始終気にかかっていたところでした。 私は何よりも宅のものの迷惑になるような記事の出るのを恐れたのです。 ことに名前だけにせよお嬢さんが引合いに出たら堪らないと思っていたのです。 私はその友人に外に何とか書いたのはないかと聞きました。 友人は自分の眼に着いたのはただその二種ぎりだと答えました。 私が今おる家へ引っ越したのはそれから間もなくでした。 奥さんもお嬢さんも前の所にいるのを厭がりますし私もその夜の記憶を毎晩繰り返すのが苦痛だったので相談の上移る事に極めたのです。 移って二カ月ほどしてから私は無事に大学を卒業しました。 卒業して半年も経たないうちに私はとうとうお嬢さんと結婚しました。 外側から見れば万事が予期通りに運んだのですから目出度といわなければなりません。 奥さんもお嬢さんもいかにも幸福らしく見えました。 私も幸福だったのです。 けれども私の幸福には黒い影が随いていました。 私はこの幸福が最後に私を悲しい運命に連れて行く導火線ではなかろうかと思いました。 結婚した時お嬢さんが――もうお嬢さんではありませんから妻といいます。 ――妻が何を思い出したのか二人でKの墓参りをしようといい出しました。 私は意味もなくただぎょっとしました。 どうしてそんな事を急に思い立ったのかと聞きました。 妻は二人|揃ってお参りをしたらKがさぞ喜ぶだろうというのです。 私は何事も知らない妻の顔をしけじけ眺めていましたが妻からなぜそんな顔をするのかと問われて始めて気が付きました。 私は妻の望み通り二人連れ立って雑司ヶ谷へ行きました。 私は新しいKの墓へ水をかけて洗ってやりました。 妻はその前へ線香と花を立てました。 二人は頭を下げて合掌しました。 妻は定めて私といっしょになった顛末を述べてKに喜んでもらうつもりでしたろう。 私は腹の中でただ自分が悪かったと繰り返すだけでした。 その時妻はKの墓を撫でてみて立派だと評していました。 その墓は大したものではないのですけれども私が自分で石屋へ行って見立てたりした因縁があるので妻はとくにそういいたかったのでしょう。 私はその新しい墓と新しい私の妻とそれから地面の下に埋められたKの新しい白骨とを思い比べて運命の冷罵を感ぜずにはいられなかったのです。 私はそれ以後決して妻といっしょにKの墓参りをしない事にしました。 五十二「私の亡友に対するこうした感じはいつまでも続きました。 実は私も初めからそれを恐れていたのです。 年来の希望であった結婚すら不安のうちに式を挙げたといえばいえない事もないでしょう。 しかし自分で自分の先が見えない人間の事ですからことによるとあるいはこれが私の心持を一転して新しい生涯に入る端緒になるかも知れないとも思ったのです。 ところがいよいよ夫として朝夕|妻と顔を合せてみると私の果敢ない希望は手厳しい現実のために脆くも破壊されてしまいました。 私は妻と顔を合せているうちに卒然Kに脅かされるのです。 つまり妻が中間に立ってKと私をどこまでも結び付けて離さないようにするのです。 妻のどこにも不足を感じない私はただこの一点において彼女を遠ざけたがりました。 すると女の胸にはすぐそれが映ります。 映るけれども理由は解らないのです。 私は時々妻からなぜそんなに考えているのだとか何か気に入らない事があるのだろうとかいう詰問を受けました。 笑って済ませる時はそれで差支えないのですが時によると妻の癇も高じて来ます。 しまいには「あなたは私を嫌っていらっしゃるんでしょう。 何でも私に隠していらっしゃる事があるに違いない。 書物の中に自分を生埋めにする事のできなかった私は酒に魂を浸して己れを忘れようと試みた時期もあります。 私は酒が好きだとはいいません。 けれども飲めば飲める質でしたからただ量を頼みに心を盛り潰そうと力めたのです。 この浅薄な方便はしばらくするうちに私をなお厭世的にしました。 私は爛酔の真最中にふと自分の位置に気が付くのです。 自分はわざとこんな真似をして己れを偽っている愚物だという事に気が付くのです。 すると身振いと共に眼も心も醒めてしまいます。 時にはいくら飲んでもこうした仮装状態にさえ入り込めないでむやみに沈んで行く場合も出て来ます。 その上技巧で愉快を買った後にはきっと沈鬱な反動があるのです。 私は自分の最も愛している妻とその母親にいつでもそこを見せなければならなかったのです。 しかも彼らは彼らに自然な立場から私を解釈して掛ります。 妻の母は時々|気拙い事を妻にいうようでした。 それを妻は私に隠していました。 しかし自分は自分で単独に私を責めなければ気が済まなかったらしいのです。 責めるといっても決して強い言葉ではありません。 妻から何かいわれたために私が激した例はほとんどなかったくらいですから。 妻はたびたびどこが気に入らないのか遠慮なくいってくれと頼みました。 それから私の未来のために酒を止めろと忠告しました。 ある時は泣いて「あなたはこの頃人間が違った。 Kさんが生きていたらあなたもそんなにはならなかったでしょう。 その内|妻の母が病気になりました。 医者に見せると到底癒らないという診断でした。 私は力の及ぶかぎり懇切に看護をしてやりました。 これは病人自身のためでもありますしまた愛する妻のためでもありましたがもっと大きな意味からいうとついに人間のためでした。 私はそれまでにも何かしたくって堪らなかったのだけれども何もする事ができないのでやむをえず懐手をしていたに違いありません。 世間と切り離された私が始めて自分から手を出して幾分でも善い事をしたという自覚を得たのはこの時でした。 私は罪滅しとでも名づけなければならない一種の気分に支配されていたのです。 母は死にました。 私と妻はたった二人ぎりになりました。 妻は私に向ってこれから世の中で頼りにするものは一人しかなくなったといいました。 自分自身さえ頼りにする事のできない私は妻の顔を見て思わず涙ぐみました。 そうして妻を不幸な女だと思いました。 また不幸な女だと口へ出してもいいました。 妻はなぜだと聞きます。 妻には私の意味が解らないのです。 私もそれを説明してやる事ができないのです。 妻は泣きました。 私が不断からひねくれた考えで彼女を観察しているためにそんな事もいうようになるのだと恨みました。 母の亡くなった後私はできるだけ妻を親切に取り扱ってやりました。 ただ当人を愛していたからばかりではありません。 私の親切には箇人を離れてもっと広い背景があったようです。 ちょうど妻の母の看護をしたと同じ意味で私の心は動いたらしいのです。 妻は満足らしく見えました。 けれどもその満足のうちには私を理解し得ないために起るぼんやりした稀薄な点がどこかに含まれているようでした。 しかし妻が私を理解し得たにしたところでこの物足りなさは増すとも減る気遣いはなかったのです。 女には大きな人道の立場から来る愛情よりも多少義理をはずれても自分だけに集注される親切を嬉しがる性質が男よりも強いように思われますから。 妻はある時男の心と女の心とはどうしてもぴたりと一つになれないものだろうかといいました。 私はただ若い時ならなれるだろうと曖昧な返事をしておきました。 妻は自分の過去を振り返って眺めているようでしたがやがて微かな溜息を洩らしました。 私の胸にはその時分から時々恐ろしい影が閃きました。 初めはそれが偶然|外から襲って来るのです。 私は驚きました。 私はぞっとしました。 しかししばらくしている中に私の心がその物凄い閃きに応ずるようになりました。 しまいには外から来ないでも自分の胸の底に生れた時から潜んでいるもののごとくに思われ出して来たのです。 私はそうした心持になるたびに自分の頭がどうかしたのではなかろうかと疑ってみました。 けれども私は医者にも誰にも診てもらう気にはなりませんでした。 私はただ人間の罪というものを深く感じたのです。 その感じが私をKの墓へ毎月行かせます。 その感じが私に妻の母の看護をさせます。 そうしてその感じが妻に優しくしてやれと私に命じます。 私はその感じのために知らない路傍の人から鞭うたれたいとまで思った事もありますこうした階段を段々経過して行くうちに人に鞭うたれるよりも自分で自分を鞭うつべきだという気になります。 自分で自分を鞭うつよりも自分で自分を殺すべきだという考えが起ります。 私は仕方がないから死んだ気で生きて行こうと決心しました。 私がそう決心してから今日まで何年になるでしょう。 私と妻とは元の通り仲好く暮して来ました。 私と妻とは決して不幸ではありません幸福でした。 しかし私のもっている一点私に取っては容易ならんこの一点が妻には常に暗黒に見えたらしいのです。 それを思うと私は妻に対して非常に気の毒な気がします。 五十五「死んだつもりで生きて行こうと決心した私の心は時々外界の刺戟で躍り上がりました。 しかし私がどの方面かへ切って出ようと思い立つや否や恐ろしい力がどこからか出て来て私の心をぐいと握り締めて少しも動けないようにするのです。 そうしてその力が私にお前は何をする資格もない男だと抑え付けるようにいって聞かせます。 すると私はその一言で直ぐたりと萎れてしまいます。 しばらくしてまた立ち上がろうとするとまた締め付けられます。 私は歯を食いしばって何で他の邪魔をするのかと怒鳴り付けます。 不可思議な力は冷やかな声で笑います。 自分でよく知っているくせにといいます。 私はまたぐたりとなります。 波瀾も曲折もない単調な生活を続けて来た私の内面には常にこうした苦しい戦争があったものと思って下さい。 妻が見て歯痒がる前に私自身が何層倍歯痒い思いを重ねて来たか知れないくらいです。 私がこの牢屋の中に凝としている事がどうしてもできなくなった時またその牢屋をどうしても突き破る事ができなくなった時必竟私にとって一番楽な努力で遂行できるものは自殺より外にないと私は感ずるようになったのです。 あなたはなぜといって眼を※るかも知れませんがいつも私の心を握り締めに来るその不可思議な恐ろしい力は私の活動をあらゆる方面で食い留めながら死の道だけを自由に私のために開けておくのです。 動かずにいればともかくも少しでも動く以上はその道を歩いて進まなければ私には進みようがなくなったのです。 私は今日に至るまですでに二三度運命の導いて行く最も楽な方向へ進もうとした事があります。 しかし私はいつでも妻に心を惹かされました。 そうしてその妻をいっしょに連れて行く勇気は無論ないのです。 妻にすべてを打ち明ける事のできないくらいな私ですから自分の運命の犠牲として妻の天寿を奪うなどという手荒な所作は考えてさえ恐ろしかったのです。 私に私の宿命がある通り妻には妻の廻り合せがあります二人を一束にして火に燻べるのは無理という点から見ても痛ましい極端としか私には思えませんでした。 同時に私だけがいなくなった後の妻を想像してみるといかにも不憫でした。 母の死んだ時これから世の中で頼りにするものは私より外になくなったといった彼女の述懐を私は腸に沁み込むように記憶させられていたのです。 私はいつも躊躇しました。 妻の顔を見て止してよかったと思う事もありました。 そうしてまた凝と竦んでしまいます。 そうして妻から時々物足りなそうな眼で眺められるのです。 記憶して下さい。 私はこんな風にして生きて来たのです。 始めてあなたに鎌倉で会った時もあなたといっしょに郊外を散歩した時も私の気分に大した変りはなかったのです。 私の後ろにはいつでも黒い影が括ッ付いていました。 私は妻のために命を引きずって世の中を歩いていたようなものです。 あなたが卒業して国へ帰る時も同じ事でした。 九月になったらまたあなたに会おうと約束した私は嘘を吐いたのではありません。 全く会う気でいたのです。 秋が去って冬が来てその冬が尽きてもきっと会うつもりでいたのです。 すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。 その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。 最も強く明治の影響を受けた私どもがその後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました。 私は明白さまに妻にそういいました。 妻は笑って取り合いませんでしたが何を思ったものか突然私にでは殉死でもしたらよかろうと調戯いました。 五十六「私は殉死という言葉をほとんど忘れていました。 平生使う必要のない字だから記憶の底に沈んだまま腐れかけていたものと見えます。 妻の笑談を聞いて始めてそれを思い出した時私は妻に向ってもし自分が殉死するならば明治の精神に殉死するつもりだと答えました。 私の答えも無論笑談に過ぎなかったのですが私はその時何だか古い不要な言葉に新しい意義を盛り得たような心持がしたのです。 それから約一カ月ほど経ちました。 御大葬の夜私はいつもの通り書斎に坐って相図の号砲を聞きました。 私にはそれが明治が永久に去った報知のごとく聞こえました。 後で考えるとそれが乃木大将の永久に去った報知にもなっていたのです。 私は号外を手にして思わず妻に殉死だ殉死だといいました。 私は新聞で乃木大将の死ぬ前に書き残して行ったものを読みました。 西南戦争の時敵に旗を奪られて以来申し訳のために死のう死のうと思ってつい今日まで生きていたという意味の句を見た時私は思わず指を折って乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらえて来た年月を勘定して見ました。 西南戦争は明治十年ですから明治四十五年までには三十五年の距離があります。 乃木さんはこの三十五年の間死のう死のうと思って死ぬ機会を待っていたらしいのです。 私はそういう人に取って生きていた三十五年が苦しいかまた刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいかどっちが苦しいだろうと考えました。 それから二三日して私はとうとう自殺する決心をしたのです。 私に乃木さんの死んだ理由がよく解らないようにあなたにも私の自殺する訳が明らかに呑み込めないかも知れませんがもしそうだとするとそれは時勢の推移から来る人間の相違だから仕方がありません。 あるいは箇人のもって生れた性格の相違といった方が確かかも知れません。 私は私のできる限りこの不可思議な私というものをあなたに解らせるように今までの叙述で己れを尽したつもりです。 私は妻を残して行きます。 私がいなくなっても妻に衣食住の心配がないのは仕合せです。 私は妻に残酷な驚怖を与える事を好みません。 私は妻に血の色を見せないで死ぬつもりです。 妻の知らない間にこっそりこの世からいなくなるようにします。 私は死んだ後で妻から頓死したと思われたいのです。 気が狂ったと思われても満足なのです。 私が死のうと決心してからもう十日以上になりますがその大部分はあなたにこの長い自叙伝の一節を書き残すために使用されたものと思って下さい。 始めはあなたに会って話をする気でいたのですが書いてみるとかえってその方が自分を判然描き出す事ができたような心持がして嬉しいのです。 私は酔興に書くのではありません。 私を生んだ私の過去は人間の経験の一部分として私より外に誰も語り得るものはないのですからそれを偽りなく書き残して置く私の努力は人間を知る上においてあなたにとっても外の人にとっても徒労ではなかろうと思います。 渡辺華山は邯鄲という画を描くために死期を一週間繰り延べたという話をつい先達て聞きました。 他から見たら余計な事のようにも解釈できましょうが当人にはまた当人相応の要求が心の中にあるのだからやむをえないともいわれるでしょう。 私の努力も単にあなたに対する約束を果たすためばかりではありません。 半ば以上は自分自身の要求に動かされた結果なのです。 しかし私は今その要求を果たしました。 もう何にもする事はありません。 この手紙があなたの手に落ちる頃には私はもうこの世にはいないでしょう。 とくに死んでいるでしょう。 妻は十日ばかり前から市ヶ谷の叔母の所へ行きました。 叔母が病気で手が足りないというから私が勧めてやったのです。 私は妻の留守の間にこの長いものの大部分を書きました。 時々妻が帰って来ると私はすぐそれを隠しました。 私は私の過去を善悪ともに他の参考に供するつもりです。 しかし妻だけはたった一人の例外だと承知して下さい。 私は妻には何にも知らせたくないのです。 妻が己れの過去に対してもつ記憶をなるべく純白に保存しておいてやりたいのが私の唯一の希望なのですから私が死んだ後でも妻が生きている以上はあなた限りに打ち明けられた私の秘密としてすべてを腹の中にしまっておいて下さい。 心。 珍らしいね久しく来なかったじゃないか。 来よう来ようと思いながらつい忙がしいものだから――。 そりゃあ忙がしいだろう何と云っても学校にいたうちとは違うからねこの頃でもやはり午後六時までかい。 まあ大概そのくらいさ家へ帰って飯を食うとそれなり寝てしまう。 勉強どころか湯にも碌々這入らないくらいだ。 なるほど少し瘠せたようだぜよほど苦しいのだろう。 君は不相変勉強で結構だその読みかけてある本は何かね。 ノートなどを入れてだいぶ叮嚀に調べているじゃないか。 これかなにこれは幽霊の本さ。 僕も気楽に幽霊でも研究して見たいが――どうも毎日芝から小石川の奥まで帰るのだから研究は愚か自分が幽霊になりそうなくらいさ考えると心細くなってしまう。 そうだったねつい忘れていた。 どうだい新世帯の味は。 一戸を構えると自から主人らしい心持がするかね。 あんまり主人らしい心持もしないさ。 やっぱり下宿の方が気楽でいいようだ。 あれでも万事整頓していたら旦那の心持と云う特別な心持になれるかも知れんが何しろ真鍮の薬缶で湯を沸かしたりブリッキの金盥で顔を洗ってる内は主人らしくないからな。 それでも主人さ。 これが俺のうちだと思えば何となく愉快だろう。 所有と云う事と愛惜という事は大抵の場合において伴なうのが原則だから。 俺の家だと思えばどうか知らんがてんで俺の家だと思いたくないんだからね。 そりゃ名前だけは主人に違いないさ。 だから門口にも僕の名刺だけは張り付けて置いたがね。 七円五十銭の家賃の主人なんざあ主人にしたところが見事な主人じゃない。 主人中の属官なるものだあね。 主人になるなら勅任主人か少なくとも奏任主人にならなくっちゃ愉快はないさ。 ただ下宿の時分より面倒が殖えるばかりだ。 なるほど真理はその辺にあるかも知れん。 下宿を続けている僕と新たに一戸を構えた君とは自から立脚地が違うからな。 まずうちへ帰ると婆さんが横綴じの帳面を持って僕の前へ出てくる。 今日は御味噌を三銭大根を二本鶉豆を一銭五厘買いましたと精密なる報告をするんだね。 厄介きわまるのさ。 厄介きわまるなら廃せばいいじゃないか。 僕は廃してもいいが婆さんが承知しないから困る。 そんな事は一々聞かないでもいいから好加減にしてくれと云うとどう致しまして奥様の入らっしゃらない御家で御台所を預かっております以上は一銭一厘でも間違いがあってはなりませんてって頑として主人の云う事を聞かないんだからね。 それじゃあただうんうん云って聞いてる振をしていりゃよかろう。 しかしそれだけじゃないのだからな。 精細なる会計報告が済むと今度は翌日の御菜について綿密な指揮を仰ぐのだから弱る。 見計らって調理えろと云えば好いじゃないか。 ところが当人見計らうだけに御菜に関して明瞭なる観念がないのだから仕方がない。 それじゃ君が云い付けるさ。 御菜のプログラムぐらい訳ないじゃないか。 それが容易く出来るくらいなら苦にゃならないさ。 僕だって御菜上の智識はすこぶる乏しいやね。 明日の御みおつけの実は何に致しましょうとくると最初から即答は出来ない男なんだから。 何だい御みおつけと云うのは。 味噌汁の事さ。 東京の婆さんだから東京流に御みおつけと云うのだ。 まずその汁の実を何に致しましょうと聞かれると実になり得べき者を秩序正しく並べた上で選択をしなければならんだろう。 一々考え出すのが第一の困難で考え出した品物について取捨をするのが第二の困難だ。 そんな困難をして飯を食ってるのは情ない訳だ君が特別に数奇なものが無いから困難なんだよ。 二個以上の物体を同等の程度で好悪するときは決断力の上に遅鈍なる影響を与えるのが原則だ。 味噌汁の実まで相談するかと思うと妙なところへ干渉するよ。 へえやはり食物上にかね。 うん毎朝梅干に白砂糖を懸けて来て是非一つ食えッて云うんだがね。 これを食わないと婆さんすこぶる御機嫌が悪いのさ。 食えばどうかするのかい。 何でも厄病除のまじないだそうだ。 そうして婆さんの理由が面白い。 日本中どこの宿屋へ泊っても朝梅干を出さない所はない。 まじないが利かなければこんなに一般の習慣となる訳がないと云って得意に梅干を食わせるんだからな。 なるほどそれは一理あるよすべての習慣は皆相応の功力があるので維持せらるるのだから梅干だって一概に馬鹿には出来ないさ。 なんて君まで婆さんの肩を持った日にゃ僕はいよいよ主人らしからざる心持に成ってしまわあ。 とにかく旧弊な婆さんだな。 旧弊はとくに卒業して迷信|婆々さ。 何でも月に二三|返は伝通院辺の何とか云う坊主の所へ相談に行く様子だ。 親類に坊主でもあるのかい。 なに坊主が小遣取りに占いをやるんだがね。 その坊主がまた余計な事ばかり言うもんだから始末に行かないのさ。 現に僕が家を持つ時なども鬼門だとか八方塞りだとか云って大に弱らしたもんだ。 だって家を持ってからその婆さんを雇ったんだろう。 雇ったのは引き越す時だが約束は前からして置いたのだからね。 実はあの婆々も四谷の宇野の世話でこれなら大丈夫だ独りで留守をさせても心配はないと母が云うからきめた訳さ。 それなら君の未来の妻君の御母さんの御眼鏡で人撰に預った婆さんだからたしかなもんだろう。 人間はたしかに相違ないが迷信には驚いた。 何でも引き越すと云う三日前に例の坊主の所へ行って見て貰ったんだそうだ。 すると坊主が今本郷から小石川の方へ向いて動くのははなはだよくないきっと家内に不幸があると云ったんだがね。 ――余計な事じゃないか何も坊主の癖にそんな知った風な妄言を吐かんでもの事だあね。 しかしそれが商売だからしようがない。 商売なら勘弁してやるから金だけ貰って当り障りのない事を喋舌るがいいや。 そう怒っても僕の咎じゃないんだから埓はあかんよ。 その上若い女に祟ると御負けを附加したんだ。 さあ婆さん驚くまい事か僕のうちに若い女があるとすれば近い内貰うはずの宇野の娘に相違ないと自分で見解を下して独りで心配しているのさ。 だってまだ君の所へは来んのだろう。 来んうちから心配をするから取越苦労さ。 何だか洒落か真面目か分らなくなって来たぜ。 まるで御話にも何もなりゃしない。 ところで近頃僕の家の近辺で野良犬が遠吠をやり出したんだ。 犬の遠吠と婆さんとは何か関係があるのかい。 僕には聯想さえ浮ばんが。 さあ飲みたまえ。 この馬はなかなか勢がいい。 あの尻尾を振って鬣を乱している所は野馬だね。 冗談じゃない婆さんが急に犬になるかと思うと犬が急に馬になるのは烈しい。 それからどうしたんだ。 婆さんが云うにはあの鳴き声はただの鳴き声ではない何でもこの辺に変があるに相違ないから用心しなくてはいかんと云うのさ。 しかし用心をしろと云ったって別段用心の仕様もないから打ち遣って置くから構わないがうるさいには閉口だ。 そんなに鳴き立てるのかい。 なに犬はうるさくも何ともないさ。 第一僕はぐうぐう寝てしまうからいつどんなに吠えるのか全く知らんくらいさ。 しかし婆さんの訴えは僕の起きている時を択んで来るから面倒だね。 なるほどいかに婆さんでも君の寝ている時をよって御気を御つけ遊ばせとも云うまい。 ところへもって来て僕の未来の細君が風邪を引いたんだね。 ちょうど婆さんの御誂え通りに事件が輻輳したからたまらない。 それでも宇野の御嬢さんはまだ四谷にいるんだから心配せんでもよさそうなものだ。 それを心配するから迷信|婆々さあなたが御移りにならんと御嬢様の御病気がはやく御全快になりませんから是非この月|中に方角のいい所へ御転宅遊ばせと云う訳さ。 飛んだ預言者に捕まって大迷惑だ。 移るのもいいかも知れんよ。 馬鹿あ言ってらこの間越したばかりだね。 そんなにたびたび引越しをしたら身代限をするばかりだ。 しかし病人は大丈夫かい。 君まで妙な事を言うぜ。 少々伝通院の坊主にかぶれて来たんじゃないか。 そんなに人を威嚇かすもんじゃない。 威嚇かすんじゃない大丈夫かと聞くんだ。 これでも君の妻君の身の上を心配したつもりなんだよ。 大丈夫にきまってるさ。 咳嗽は少し出るがインフルエンザなんだもの。 インフルエンザ。 よく注意したまえ。 注意せんといかんよ。 縁喜でもないいやに人を驚かせるぜ。 ワハハハハハ。 いや実はこう云う話がある。 ついこの間の事だが僕の親戚の者がやはりインフルエンザに罹ってね。 別段の事はないと思って好加減にして置いたら一週間目から肺炎に変じてとうとう一箇月立たない内に死んでしまった。 その時医者の話さ。 この頃のインフルエンザは性が悪いじきに肺炎になるから用心をせんといかんと云ったが――実に夢のようさ。 可哀そうでね。 へえそれは飛んだ事だった。 どうしてまた肺炎などに変じたのだ。 どうしてって別段の事情もないのだが――それだから君のも注意せんといかんと云うのさ。 本当だね。 いやだいやだ考えてもいやだ。 二十二や三で死んでは実につまらんからね。 しかも所天は戦争に行ってるんだから――。 ふん女か。 そりゃ気の毒だなあ。 軍人だね。 うん所天は陸軍中尉さ。 結婚してまだ一年にならんのさ。 僕は通夜にも行き葬式の供にも立ったが――その夫人の御母さんが泣いてね――。 泣くだろう誰だって泣かあ。 ちょうど葬式の当日は雪がちらちら降って寒い日だったが御経が済んでいよいよ棺を埋める段になると御母さんが穴の傍へしゃがんだぎり動かない。 雪が飛んで頭の上が斑になるから僕が蝙蝠傘をさし懸けてやった。 それは感心だ君にも似合わない優しい事をしたものだ。 だって気の毒で見ていられないもの。 そうだろう。 それでその所天の方は無事なのかね。 所天は黒木軍についているんだがこの方はまあ幸に怪我もしないようだ。 細君が死んだと云う報知を受取ったらさぞ驚いたろう。 いやそれについて不思議な話があるんだがね日本から手紙の届かない先に細君がちゃんと亭主の所へ行っているんだ。 行ってるとは。 逢いに行ってるんだ。 どうして。 どうしてって逢いに行ったのさ。 逢いに行くにも何にも当人死んでるんじゃないか。 死んで逢いに行ったのさ。 馬鹿あ云ってらいくら亭主が恋しいったってそんな芸が誰に出来るもんか。 まるで林屋正三の怪談だ。 いや実際行ったんだからしようがない。 しようがないって――何だか見て来たような事を云うぜ。 おかしいな君本当にそんな事を話してるのかい。 無論本当さ。 こりゃ驚いた。 まるで僕のうちの婆さんのようだ。 婆さんでも爺さんでも事実だから仕方がない。 だんだん聞き糺して見るとその妻と云うのが夫の出征前に誓ったのだそうだ。 何を。 もし万一御留守中に病気で死ぬような事がありましてもただは死にませんて。 へえ。 必ず魂魄だけは御傍へ行ってもう一遍御目に懸りますと云った時に亭主は軍人で磊落な気性だから笑いながらよろしいいつでも来なさい戦さの見物をさしてやるからと云ったぎり満州へ渡ったんだがね。 その後そんな事はまるで忘れてしまっていっこう気にも掛けなかったそうだ。 そうだろう僕なんざ軍さに出なくっても忘れてしまわあ。 それでその男が出立をする時細君が色々手伝って手荷物などを買ってやった中に懐中持の小さい鏡があったそうだ。 ふん。 君は大変詳しく調べているな。 なにあとで戦地から手紙が来たのでその顛末が明瞭になった訳だが。 ――その鏡を先生常に懐中していてね。 うん。 ある朝例のごとくそれを取り出して何心なく見たんだそうだ。 するとその鏡の奥に写ったのが――いつもの通り髭だらけな垢染みた顔だろうと思うと――不思議だねえ――実に妙な事があるじゃないか。 どうしたい。 青白い細君の病気に窶れた姿がスーとあらわれたと云うんだがね――いえそれはちょっと信じられんのさ誰に聞かしても嘘だろうと云うさ。 現に僕などもその手紙を見るまでは信じない一人であったのさ。 しかし向うで手紙を出したのは無論こちらから死去の通知の行った三週間も前なんだぜ。 嘘をつくったって嘘にする材料のない時ださ。 それにそんな嘘をつく必要がないだろうじゃないか。 死ぬか生きるかと云う戦争中にこんな小説|染みた呑気な法螺を書いて国元へ送るものは一人もない訳ださ。 そりゃ無い。 もっとも話しはしなかったそうだ。 黙って鏡の裏から夫の顔をしけじけ見詰めたぎりだそうだがその時夫の胸の中に訣別の時細君の言った言葉が渦のように忽然と湧いて出たと云うんだがこりゃそうだろう。 焼小手で脳味噌をじゅっと焚かれたような心持だと手紙に書いてあるよ。 妙な事があるものだな。 それで時間を調べて見ると細君が息を引き取ったのと夫が鏡を眺めたのが同日同刻になっている。 いよいよ不思議だな。 しかしそんな事が有り得る事かな。 ここにもそんな事を書いた本があるがね。 近頃じゃ有り得ると云う事だけは証明されそうだよ。 遠い距離においてある人の脳の細胞と他の人の細胞が感じて一種の化学的変化を起すと。 僕は法学士だからそんな事を聞いても分らん。 要するにそう云う事は理論上あり得るんだね。 ああつまりそこへ帰着するのさ。 それにこの本にも例が沢山あるがねその内でロード・ブローアムの見た幽霊などは今の話しとまるで同じ場合に属するものだ。 なかなか面白い。 君ブローアムは知っているだろう。 ブローアム。 ブローアムたなんだい。 英国の文学者さ。 道理で知らんと思った。 僕は自慢じゃないが文学者の名なんかシェクスピヤとミルトンとそのほかに二三人しか知らんのだ。 それだから宇野の御嬢さんもよく注意したまいと云う事さ。 うん注意はさせるよ。 しかし万一の事がありましたらきっと御目に懸りに上りますなんて誓は立てないのだからその方は大丈夫だろう。 いずれその内婆さんに近づきになりに行くよ。 御馳走をするから是非来たまえ。 昨日生れて今日死ぬ奴もあるし。 寿命だよ全く寿命だから仕方がない。 昨日生れて今日死ぬ奴もあるし。 日本一急な坂命の欲しい者は用心じゃ用心じゃ。 悪るいから御気を付けなさい。 旦那様。 どうなさいました。 婆さん。 どうかしたか。 水が――水が垂れます。 どうなさいました。 どうするって別段どうもせんさ。 ただ雨に濡れただけの事さ。 いえあの御顔色はただの御色では御座いません。 御前の方がどうかしたんだろう。 先ッきは少し歯の根が合わないようだったぜ。 私は何と旦那様から冷かされても構いません。 ――しかし旦那様|雑談事じゃ御座いませんよ。 え。 どうした。 留守中何かあったのか。 四谷から病人の事でも何か云って来たのか。 それ御覧遊ばせそんなに御嬢様の事を心配していらっしゃる癖に。 何と云って来た。 手紙が来たのか使が来たのか。 手紙も使も参りは致しません。 それじゃ電報か。 電報なんて参りは致しません。 それじゃどうした――早く聞かせろ。 今夜は鳴き方が違いますよ。 何が。 何がってあなたどうも宵から心配で堪りませんでした。 どうしてもただごとじゃ御座いません。 何がさ。 それだから早く聞かせろと云ってるじゃないか。 せんだって中から申し上げた犬で御座います。 犬。 ええ遠吠で御座います。 私が申し上げた通りに遊ばせばこんな事にはならないで済んだんで御座いますのにあなたが婆さんの迷信だなんてあんまり人を馬鹿に遊ばすものですから。 こんな事にもあんな事にもまだ何にも起らないじゃないか。 いえそうでは御座いません旦那様も御帰り遊ばす途中御嬢様の御病気の事を考えていらしったに相違御座いません。 それは心配して来たに相違ないさ。 それ御覧遊ばせやっぱり虫が知らせるので御座います。 婆さん虫が知らせるなんて事が本当にあるものかな御前そんな経験をした事があるのかい。 あるだんじゃ御座いません。 昔しから人が烏鳴きが悪いとか何とか善く申すじゃ御座いませんか。 なるほど烏鳴きは聞いたようだが犬の遠吠は御前一人のようだが――。 いいえあなた。 同じ事で御座いますよ。 婆やなどは犬の遠吠でよく分ります。 論より証拠これは何かあるなと思うとはずれた事が御座いませんもの。 そうかい。 年寄の云う事は馬鹿に出来ません。 そりゃ無論馬鹿には出来んさ。 馬鹿に出来んのは僕もよく知っているさ。 だから何も御前を――しかし遠吠がそんなによく当るものかな。 まだ婆やの申す事を疑っていらっしゃる。 何でもよろしゅう御座いますから明朝四谷へ行って御覧遊ばせきっと何か御座いますよ婆やが受合いますから。 きっと何かあっちゃ厭だな。 どうか工夫はあるまいか。 それだから早く御越し遊ばせと申し上げるのにあなたが余り剛情を御張り遊ばすものだから――。 これから剛情はやめるよ。 ――ともかくあした早く四谷へ行って見る事にしよう。 今夜これから行っても好いが。 今夜いらしっちゃ婆やは御留守居は出来ません。 なぜ。 なぜって気味が悪くっていても起ってもいられませんもの。 それでも御前が四谷の事を心配しているんじゃないか。 心配は致しておりますが私だって怖しゅう御座いますから。 あああれで御座います。 婆さん何か来たぜ。 旦那様何か参りました。 今しがた何かありはしませんか。 実は今ここを巡行するとね何だか黒い影が御門から出て行きましたから。 いやこれは夜中はなはだ失礼で実は近頃この界隈が非常に物騒なので警察でも非常に厳重に警戒をしますので――ちょうど御門が開いておって何か出て行ったような按排でしたからもしやと思ってちょっと御注意をしたのですが。 これは御親切にどうも――いえ別に何も盗難に罹った覚はないようです。 それなら宜しゅう御座います。 毎晩犬が吠えておやかましいでしょう。 どう云うものか賊がこの辺ばかり徘徊しますんで。 どうも御苦労様。 御早よう何はどうだ。 へえ。 あら靖雄さん。 どうですよほど悪いですか。 ええ悪いでしょう昨日は大変降りましたからね。 さぞ御困りでしたろう。 なかなか悪い道です。 あの露子さんは――。 今顔を洗っています昨夕中央会堂の慈善音楽会とかに行って遅く帰ったものですからつい寝坊をしましてね。 インフルエンザは。 ええありがとうもうさっぱり。 何ともないんですか。 ええ風邪はとっくに癒りました。 どうしてこんなに早く――何か用事でも出来たんですか。 ええ。 ええ。 ええ。 ええ。 ええ。 ええ。 何か急な御用なんですか。 ええ。 露子さん露子さん。 あらどなたかと思ったら御早いのねえ――どうなすったの――何か御用なの。 ああ何か急に御用が御出来なすったんだって。 そう何の御用なの。 ええ少しその用があって近所まで来たのですから。 それでは私に御用じゃないの。 ええ。 もう用を済ましていらしったの随分早いのね。 いえまだこれから行くんです。 あなた顔の色が大変悪いようですがどうかなさりゃしませんか。 髪を御刈りになると好いのねあんまり髭が生えているから病人らしいのよ。 あら頭にはねが上っててよ。 大変乱暴に御歩行きなすったのね。 日和下駄ですものよほど上ったでしょう。 おやまあ。 旦那|髯は残しましょうか。 源さん世の中にゃ随分馬鹿な奴がいるもんだねえ。 本当にさ幽霊だの亡者だのってそりゃ御前昔しの事だあな。 電気灯のつく今日そんな箆棒な話しがある訳がねえからな。 おい由公御前こうやって駒を十枚積んで見ねえか積めたら安宅鮓を十銭|奢ってやるぜ。 鮓じゃいやだ幽霊を見せてくれたら積んで見せらあ。 幽霊も由公にまで馬鹿にされるくらいだから幅は利かない訳さね。 あんまり短かかあないか。 近頃はみんなこのくらいです。 揉み上げの長いのはにやけてておかしいもんです。 ――なあにみんな神経さ。 自分の心に恐いと思うから自然幽霊だって増長して出たくならあね。 全く神経だ。 神経って者は源さんどこにあるんだろう。 神経か神経は御めえ方々にあらあな。 何だい小説か食道楽じゃねえか。 何だか長い名だとにかく食道楽じゃねえ。 鎌さん一体これゃ何の本だい。 何だか訳の分らないようなとぼけた事が書いてある本だがね。 一人で笑っていねえで少し読んで聞かせねえ。 狸が人を婆化すと云いやすけれど何で狸が婆化しやしょう。 ありゃみんな催眠術でげす。 なるほど妙な本だね。 拙が一|返古榎になった事がありやすところへ源兵衛村の作蔵と云う若い衆が首を縊りに来やした。 何だい狸が何か云ってるのか。 どうもそうらしいね。 それじゃ狸のこせえた本じゃねえか――人を馬鹿にしやがる――それから。 拙が腕をニューと出している所へ古褌を懸けやした――随分|臭うげしたよ――。 狸の癖にいやに贅沢を云うぜ。 肥桶を台にしてぶらりと下がる途端拙はわざと腕をぐにゃりと卸ろしてやりやしたので作蔵君は首を縊り損ってまごまごしておりやす。 ここだと思いやしたから急に榎の姿を隠してアハハハハと源兵衛村中へ響くほどな大きな声で笑ったやりやした。 すると作蔵君はよほど仰天したと見えやして助けてくれ助けてくれと褌を置去りにして一生懸命に逃げ出しやした。 こいつあ旨えしかし狸が作蔵の褌をとって何にするだろう。 大方|睾丸でもつつむ気だろう。 面白えあとを読みねえ。 俗人は拙が作蔵を婆化したように云う奴でげすがそりゃちと無理でげしょう。 作蔵君は婆化されよう婆化されようとして源兵衛村をのそのそしているのでげす。 その婆化されようと云う作蔵君の御注文に応じて拙がちょっと婆化して上げたまでの事でげす。 すべて狸一派のやり口は今日開業医の用いておりやす催眠術でげして昔からこの手でだいぶ大方の諸君子をごまかしたものでげす。 西洋の狸から直伝に輸入致した術を催眠法とか唱えこれを応用する連中を先生などと崇めるのは全く西洋心酔の結果で拙などはひそかに慨嘆の至に堪えんくらいのものでげす。 何も日本固有の奇術が現に伝っているのに一も西洋二も西洋と騒がんでもの事でげしょう。 今の日本人はちと狸を軽蔑し過ぎるように思われやすからちょっと全国の狸共に代って拙から諸君に反省を希望して置きやしょう。 いやに理窟を云う狸だぜ。 全く狸の言う通だよ昔だって今だってこっちがしっかりしていりゃ婆化されるなんて事はねえんだからな。 きっと帰っていらっしゃったんだよ。 あなた来ていたのですか。 ええお帰りになってから考えたら何だか様子が変だったからすぐ車で来て見たのそうして昨夕の事をみんな婆やから聞いてよ。 彼岸過迄。 ごめんなさい。 いいえ。 名古屋はもうじきでしょうか。 そうですね。 この分では遅れますでしょうか。 遅れるでしょう。 あんたも名古屋へお降りで。 はあ降ります。 ちいと流しましょうか。 いえたくさんです。 どうも失礼いたしました。 いいや。 ちょいと出てまいります。 お先へ。 はあ。 失礼ですが私は癇症でひとの蒲団に寝るのがいやだから少し蚤よけの工夫をやるから御免なさい。 ゆうべは蚤は出ませんでしたか。 ええありがとうおかげさまで。 いろいろごやっかいになりましてではごきげんよう。 さよなら。 あなたはよっぽど度胸のないかたですね。 おあきですか。 あいてるでしょう。 お読みなさい。 君は高等学校の生徒ですか。 ええ。 東京の。 いえ熊本です。 しかし。 はあそう。 うんなるほど。 あなたはどちらへ。 東京。 食べませんか。 どうも好きなものにはしぜんと手が出るものでね。 しかたがない。 豚などは手が出ない代りに鼻が出る。 豚をね縛って動けないようにしておいてその鼻の先へごちそうを並べて置くと動けないものだから鼻の先がだんだん延びてくるそうだ。 ごちそうに届くまでは延びるそうです。 どうも一念ほど恐ろしいものはない。 まあお互に豚でなくってしあわせだ。 そうほしいものの方へむやみに鼻が延びていったら今ごろは汽車にも乗れないくらい長くなって困るに違いない。 じっさいあぶない。 レオナルド・ダ・ヴィンチという人は桃の幹に砒石を注射してねその実へも毒が回るものだろうかどうだろうかという試験をしたことがある。 ところがその桃を食って死んだ人がある。 あぶない。 気をつけないとあぶない。 東京はどこへ。 じつははじめてで様子がよくわからんのですがさしあたり国の寄宿舎へでも行こうかと思っています。 じゃ熊本はもう。 今度卒業したのです。 はあそりゃ。 するとこれから大学へはいるのですね。 ええ。 科は。 一部です。 法科ですか。 いいえ文科です。 はあそりゃ。 まだ出そうもないのですかね。 ああ美しい。 どうも西洋人は美しいですね。 お互いは哀れだなあ。 こんな顔をしてこんなに弱っていてはいくら日露戦争に勝って一等国になってもだめですね。 もっとも建物を見ても庭園を見てもいずれも顔相応のところだが――あなたは東京がはじめてならまだ富士山を見たことがないでしょう。 今に見えるから御覧なさい。 あれが日本一の名物だ。 あれよりほかに自慢するものは何もない。 ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。 我々がこしらえたものじゃない。 しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう。 滅びるね。 熊本より東京は広い。 東京より日本は広い。 日本より。 日本より頭の中のほうが広いでしょう。 とらわれちゃだめだ。 いくら日本のためを思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ。 おいでかもしれません。 おいででやす。 おはいんなさい。 こっちへ。 こっちへ。 昼間のうちにあんな準備をしておいて夜になって交通その他の活動が鈍くなるころにこの静かな暗い穴倉で望遠鏡の中からあの目玉のようなものをのぞくのです。 そうして光線の圧力を試験する。 今年の正月ごろからとりかかったが装置がなかなかめんどうなのでまだ思うような結果が出てきません。 夏は比較的こらえやすいが寒夜になるとたいへんしのぎにくい。 外套を着て襟巻をしても冷たくてやりきれない。 のぞいてごらんなさい。 どうです見えますか。 いっこう見えません。 うんまだ蓋が取らずにあった。 どうです。 2の字が見えます。 いまに動きます。 どうです。 これはなんでしょう。 これは椎。 そう。 実はなっていないの。 あなたは度胸のないかたですね。 矛盾だ。 君まだいたんですか。 ええ。 涼しいですか。 ええ。 きょうは少し装置が狂ったので晩の実験はやめだ。 これから本郷の方を散歩して帰ろうと思うが君どうですいっしょに歩きませんか。 ちょっといい景色でしょう。 あの建築の角度のところだけが少し出ている。 木のあいだから。 ね。 いいでしょう。 君気がついていますか。 あの建物はなかなかうまくできていますよ。 工科もよくできてるがこのほうがうまいですね。 それからこの木と水の|感じがね。 ――たいしたものじゃないがなにしろ東京のまん中にあるんだから――静かでしょう。 こういう所でないと学問をやるにはいけませんね。 近ごろは東京があまりやかましくなりすぎて困る。 これが御殿。 教授会をやる所です。 うむなにぼくなんか出ないでいいのです。 ぼくは穴倉生活をやっていればすむのです。 近ごろの学問は非常な勢いで動いているので少しゆだんするとすぐ取り残されてしまう。 人が見ると穴倉の中で冗談をしているようだがこれでもやっている当人の頭の中は劇烈に働いているんですよ。 電車よりよっぽど激しく働いているかもしれない。 だから夏でも旅行をするのが惜しくってね。 あれを知ってますか。 あれはみんな雪の粉ですよ。 こうやって下から見るとちっとも動いていない。 しかしあれで地上に起こる颶風以上の速力で動いているんですよ。 ――君ラスキンを読みましたか。 そうですか。 この空を写生したらおもしろいですね。 ――原口にでも話してやろうかしら。 君電車はうるさくはないですか。 ええ。 ぼくもうるさい。 ぼくは車掌に教わらないと一人で乗換えが自由にできない。 この二三年むやみにふえたのでね。 便利になってかえって困る。 ぼくの学問と同じことだ。 だいぶ新しいのが来ましたね。 若い人は活気があっていい。 ときに君はいくつですか。 それじゃぼくより七つばかり若い。 七年もあると人間はたいていの事ができる。 しかし月日はたちやすいものでね。 七年ぐらいじきですよ。 みんなずるいなあ。 あすこでちょいと買物をしますからね。 どうですか。 学問の府はこうなくってはならない。 こういう構えがあればこそ研究もできる。 えらいものだ。 大学の講義はつまらんなあ。 そりゃあたりまえださ。 第一彼らの講義を聞いてもわかるじゃないか。 話せるものは一人もいやしない。 ばかばか。 下宿屋のまずい飯を一日に十ぺん食ったらもの足りるようになるか考えてみろ。 どうしたらよかろう。 電車に乗るがいい。 本当の電車か。 電車に乗って東京を十五六ぺん乗り回しているうちにはおのずからもの足りるようになるさ。 なぜ。 なぜってそう生きてる頭を死んだ講義で封じ込めちゃ助からない。 外へ出て風を入れるさ。 その上にもの足りる工夫はいくらでもあるがまあ電車が一番の初歩でかつもっとも軽便だ。 どうだ。 どうだ。 どうだ。 どうだ。 ありがとう大いにもの足りた。 これからさきは図書館でなくっちゃもの足りない。 ヘーゲルのベルリン大学に哲学を講じたる時ヘーゲルに毫も哲学を売るの意なし。 彼の講義は真を説くの講義にあらず真を体せる人の講義なり。 舌の講義にあらず心の講義なり。 真と人と合して醇化一致せる時その説くところ言うところは講義のための講義にあらずして道のための講義となる。 哲学の講義はここに至ってはじめて聞くべし。 いたずらに真を舌頭に転ずるものは死したる墨をもって死したる紙の上にむなしき筆記を残すにすぎず。 なんの意義かこれあらん。 余今試験のためすなわちパンのために恨みをのみ涙をのんでこの書を読む。 岑々たる頭をおさえて未来|永劫に試験制度を呪詛することを記憶せよ。 ヘーゲルの。 ヘーゲルの講義を聞かんとして四方よりベルリンに集まれる学生はこの講義を衣食の資に利用せんとの野心をもって集まれるにあらず。 ただ哲人ヘーゲルなるものありて講壇の上に無上普遍の真を伝うると聞いて向上|求道の念に切なるがため壇下にわが不穏底の疑義を解釈せんと欲したる清浄心の発現にほかならず。 このゆえに彼らはヘーゲルを聞いて彼らの未来を決定しえたり。 自己の運命を改造しえたり。 のっぺらぼうに講義を聞いてのっぺらぼうに卒業し去る公ら日本の大学生と同じ事と思うは天下の己惚れなり。 公らはタイプ・ライターにすぎず。 しかも欲張ったるタイプ・ライターなり。 公らのなすところ思うところ言うところついに切実なる社会の活気運に関せず。 死に至るまでのっぺらぼうなるかな。 死に至るまでのっぺらぼうなるかな。 おい野々宮宗八さんが君を捜していた。 だいぶ振ってる。 昔の卒業生に違いない。 昔のやつは乱暴だがどこかおもしろいところがある。 実際このとおりだ。 野々宮さんはおらんぜ。 さっき入口にいたがな。 何か用があるようだったか。 あるようでもあった。 こっちへ。 こっちへ。 きのう私を捜しておいでだったそうですが何か御用ですか。 なにじつはなんでもないですよ。 はあ。 それでわざわざ来てくれたんですか。 なにそういうわけでもありません。 じつはお国のおっかさんがねせがれがいろいろお世話になるからと言って結構なものを送ってくださったからちょっとあなたにもお礼を言おうと思って。 はあそうですか。 何か送ってきましたか。 ええ赤い魚の粕漬なんですがね。 じゃひめいちでしょう。 困ったな。 何かできましたか。 なにたいしたことでもないのです。 どこかへおいでになるのですか。 ええ妹がこのあいだから病気をして大学の病院にはいっているんですがそいつがすぐ来てくれと言うんです。 じゃよほどお悪いんですな。 なにそうじゃないんでしょう。 じつは母が看病に行ってるんですが――もし病気のためなら電車へ乗って駆けて来たほうが早いわけですからね。 ――なに妹のいたずらでしょう。 ばかだからよくこんなまねをします。 ここへ越してからまだ一ぺんも行かないものだからきょうの日曜には来ると思って待ってでもいたのでしょうそれで。 しかしおいでになったほうがいいでしょう。 もし悪いといけません。 さよう。 四五日行かないうちにそう急に変るわけもなさそうですがまあ行ってみるか。 おいでになるにしくはないでしょう。 食わない。 失敬だが君一人であとで食ってください。 ぼくの書斎にある本はなんでも読んでいいです。 別におもしろいものもないが何か御覧なさい。 小説も少しはある。 ああああもう少しの間だ。 もう少し先だ。 轢死じゃないですか。 ああああ。 昨夜そこに轢死があったそうですね。 それは珍しい。 めったに会えないことだ。 ぼくも家におればよかった。 死骸はもう片づけたろうな。 行っても見られないだろうな。 もうだめでしょう。 だいぶおそくまで起きていたんですか。 この中にいる人が野々宮君の妹でよし子という女である。 おはいりなさい。 小川さんですか。 どうぞ。 ゆうべの轢死を御覧になって。 ええ。 こわかったでしょう。 ちょっと伺いますが。 はあ。 十五号室はどの辺になりましょう。 野々宮さんの部屋ですか。 はあ。 野々宮さんの部屋はねその角を曲がって突き当ってまた左へ曲がって二番目の右側です。 その角を。 ええついその先の角です。 どうもありがとう。 おいなぜ休んだ。 きょうはイタリー人がマカロニーをいかにして食うかという講義を聞いた。 君今ごろでも薄いリボンをかけるものかな。 あれは極暑に限るんじゃないか。 ○○教授に聞くがいい。 なんでも知ってる男だから。 講義がおもしろいわけがない。 君はいなか者だからいまに偉い事になると思って今日までしんぼうして聞いていたんだろう。 愚の至りだ。 彼らの講義は開闢以来こんなものだ。 いまさら失望したってしかたがないや。 そういうわけでもないが。 どうも妙な顔だな。 いかにも生活に疲れているような顔だ。 世紀末の顔だ。 そういうわけでもないが。 おい。 この男は私の同級生です。 熊本の高等学校からはじめて東京へ出て来た――。 これが広田先生。 高等学校の。 知ってる知ってる。 君この辺に貸家はないか。 広くてきれいな書生部屋のある。 貸家はとある。 どの辺だ。 きたなくっちゃいけないぜ。 いやきれいなのがある。 大きな石の門が立っているのがある。 そりゃうまい。 どこだ。 先生石の門はいいですな。 ぜひそれにしようじゃありませんか。 石の門はいかん。 いかん。 そりゃ困る。 なぜいかんです。 なぜでもいかん。 石の門はいいがな。 新しい男爵のようでいいじゃないですか先生。 こりゃ恐ろしいもんだ。 ちょっとお待ちなさい聞いてくる。 東京はどうです。 ええ。 広いばかりできたない所でしょう。 ええ。 富士山に比較するようなものはなんにもないでしょう。 君不二山を翻訳してみたことがありますか。 翻訳とは。 自然を翻訳するとみんな人間に化けてしまうからおもしろい。 崇高だとか偉大だとか雄壮だとか。 みんな人格上の言葉になる。 人格上の言葉に翻訳することのできないものには自然が毫も人格上の感化を与えていない。 佐々木は何をしているのかしら。 おそいな。 見てきましょうか。 なに見にいったってそれで出てくるような男じゃない。 それよりここに待ってるほうが手間がかからないでいい。 先生先生。 先生ちょっと見てごらんなさい。 いい家だ。 この植木屋で持ってるんです。 門をあけさせてもいいが裏から回ったほうが早い。 なんであんなりっぱな家を見るのだ。 なんで見るってただ見るだけだからいいじゃありませんか。 借りもしないのに。 なに借りるつもりでいたんです。 ところが家賃をどうしても二十五円にしようと言わない。 あたりまえさ。 君があんまりよけいな話ばかりしているものだから時間がかかってしかたがない。 いいかげんにして出てくるものだ。 よほど長くかかりましたか。 何か絵をかいていましたね。 先生もずいぶんのん気だな。 どっちがのんきかわかりゃしない。 ありゃなんの絵です。 燈台じゃないですか。 燈台は奇抜だな。 じゃ野々宮宗八さんをかいていらしったんですね。 なぜ。 野々宮さんは外国じゃ光ってるが日本じゃまっ暗だから。 ――だれもまるで知らない。 それでわずかばかりの月給をもらって穴倉へたてこもって――じつに割に合わない商売だ。 野々宮さんの顔を見るたびに気の毒になってたまらない。 君なぞは自分のすわっている周囲方二尺ぐらいの所をぼんやり照らすだけだから丸行燈のようなものだ。 小川君君は明治何年生まれかな。 ぼくは二十三だ。 そんなものだろう。 ――先生ぼくは丸行燈だの雁首だのっていうものがどうもきらいですがね。 明治十五年以後に生まれたせいかもしれないがなんだか旧式でいやな心持ちがする。 君はどうだ。 ぼくはべつだんきらいでもない。 もっとも君は九州のいなかから出たばかりだから明治元年ぐらいの頭と同じなんだろう。 時代錯誤だ。 日本の物質界も精神界もこのとおりだ。 君九段の燈明台を知っているだろう。 あれは古いもので江戸名所図会に出ている。 先生冗談言っちゃいけません。 なんぼ九段の燈明台が古いたって江戸名所図会に出ちゃたいへんだ。 そんなに急いで越すのか。 急ぐって先月中に越すはずのところをあさっての天長節まで待たしたんだからどうしたってあしたじゅうに捜さなければならない。 どこか心当りはないか。 元来先生が家を捜すなんて間違っている。 けっして捜したことのない男なんだがきのうはどうかしていたに違いない。 おかげで佐竹の邸でひどい目にしかられていい面の皮だ。 ――君どこかないか。 きょうは大久保まで行ってみたがやっぱりない。 ――大久保といえばついでに宗八さんの所に寄ってよし子さんに会ってきた。 かわいそうにまだ色光沢が悪い。 ――辣薑性の美人――おっかさんが君によろしく言ってくれってことだ。 しかしその後はあの辺も穏やかなようだ。 轢死もあれぎりないそうだ。 君の所の先生の名はなんというのか。 名は萇。 艸冠がよけいだ。 字引にあるかしらん。 妙な名をつけたものだね。 高等学校の先生か。 昔から今日に至るまで高等学校の先生。 えらいものだ。 十年一|日のごとしというがもう十二三年になるだろう。 子供はおるのか。 子供どころかまだ独身だ。 なぜ奥さんをもらわないのだろう。 そこが先生の先生たるところであれでたいへんな理論家なんだ。 細君をもらってみないさきから細君はいかんものと理論できまっているんだそうだ。 愚だよ。 だからしじゅう矛盾ばかりしている。 先生東京ほどきたない所はないように言う。 それで石の門を見ると恐れをなしていかんいかんとかりっぱすぎるとか言うだろう。 じゃ細君も試みに持ってみたらよかろう。 大いによしとかなんとか言うかもしれない。 先生は東京がきたないとか日本人が醜いとか言うが洋行でもしたことがあるのか。 なにするもんか。 ああいう人なんだ。 万事頭のほうが事実より発達しているんだからああなるんだね。 その代り西洋は写真で研究している。 パリの凱旋門だのロンドンの議事堂だのたくさん持っている。 あの写真で日本を律するんだからたまらない。 きたないわけさ。 それで自分の住んでる所はいくらきたなくっても存外平気だから不思議だ。 三等汽車へ乗っておったぞ。 きたないきたないって不平を言やしないか。 いやべつに不平も言わなかった。 しかし先生は哲学者だね。 学校で哲学でも教えているのか。 いや学校じゃ英語だけしか受け持っていないがねあの人間がおのずから哲学にできあがっているからおもしろい。 著述でもあるのか。 何もない。 時々論文を書く事はあるがちっとも反響がない。 あれじゃだめだ。 まるで世間が知らないんだからしようがない。 先生ぼくの事を丸行燈だと言ったが夫子自身は偉大な暗闇だ。 どうかして世の中へ出たらよさそうなものだな。 出たらよさそうなものだって――先生自分じゃなんにもやらない人だからね。 第一ぼくがいなけりゃ三度の飯さえ食えない人なんだ。 嘘じゃない。 気の毒なほどなんにもやらないんでね。 なんでもぼくが下女に命じて先生の気にいるように始末をつけるんだが――そんな瑣末な事はとにかくこれから大いに活動して先生を一つ大学教授にしてやろうと思う。 引っ越しをする時はぜひ手伝いに来てくれ。 アハハハ。 アハハハ。 なんだ。 なんだもないものだ。 もう少し普通の人間らしく歩くがいい。 まるでロマンチック・アイロニーだ。 家はあったか。 その事で今君の所へ行ったんだ――あすいよいよ引っ越す。 手伝いに来てくれ。 どこへ越す。 西片町十番地への三号。 九時までに向こうへ行って掃除をしてね。 待っててくれ。 あとから行くから。 いいか九時までだぜ。 への三号だよ。 失敬。 失礼でございますが。 広田さんのお移転になるのはこちらでございましょうか。 はあここです。 まだお移りにならないんでございますか。 まだ来ません。 もう来るでしょう。 あなたは。 掃除に頼まれて来たのです。 じゃ私も少しお待ち申しましょうか。 ああ。 ああお待ちなさい。 あなたは。 あなたにはお目にかかりましたな。 はあ。 いつか病院で。 まだある。 それから池の端で。 どうも失礼いたしました。 いいえ。 なにか先生に御用なんですか。 私もお手伝いに頼まれました。 砂でたいへんだ。 着物がよごれます。 ええ。 掃除はもうなすったんですか。 まだやらんです。 お手伝いをしていっしょに始めましょうか。 あって。 ええありました。 いったんはき出しましょう。 ちょっと来てください。 なんですか。 なんですか。 なんだか暗くってわからないの。 なぜ。 なぜでも。 まだあからなくって。 こっちです。 まあ。 何を見ているんです。 あててごらんなさい。 鶏ですか。 いいえ。 あの大きな木ですか。 いいえ。 じゃ何を見ているんです。 ぼくにはわからない。 私さっきからあの白い雲を見ておりますの。 駝鳥の襟巻に似ているでしょう。 まあ。 うんあれなら知っとる。 あらそう。 雪じゃつまらないわね。 なぜです。 なぜでも雲は雲でなくっちゃいけないわ。 こうして遠くからながめているかいがないじゃありませんか。 そうですか。 そうですかってあなたは雪でもかまわなくって。 あなたは高い所を見るのが好きのようですな。 ええ。 来た。 早いのね。 早いな。 おそいな。 おそいって荷物を一度に出したんだからしかたがない。 それにぼく一人だから。 あとは下女と車屋ばかりでどうすることもできない。 先生は。 先生は学校。 里見のお嬢さんはまだ来ていないか。 来ている。 どこに。 二階にいる。 二階に何をしている。 何をしているか二階にいる。 冗談じゃない。 里見さん里見さん。 書物をかたづけるからちょっと手伝ってください。 ただ今参ります。 何をしていたんです。 二階のお掃除。 まあたいへんね。 これをどうするの。 たいへんもなにもありゃしない。 これを部屋の中へ入れて片づけるんです。 いまに先生も帰って来て手伝うはずだからわけはない。 ――君しゃがんで本なんぞ読みだしちゃ困る。 あとで借りていってゆっくり読むがいい。 そう乱暴に出しちゃ困る。 まだこの続きが一冊あるはずだ。 だってないんですもの。 なにないことがあるものか。 あったあった。 どら拝見。 ヒストリー・オフ・インテレクチュアル・デベロップメント。 あらあったのね。 あらあったもないもんだ。 早くお出しなさい。 おいどうした。 うん。 先生もまあこんなにいりもしない本を集めてどうする気かなあ。 まったく人泣かせだ。 いまこれを売って株でも買っておくともうかるんだがしかたがない。 ちょっと御覧なさい。 人魚。 人魚。 なんだ何を見ているんだ。 あとの整理はあしただ。 だいぶお集めになりましたね。 先生これだけみんなお読みになったですか。 みんな読めるものか佐々木なら読むかもしれないが。 アフラ・ベーンならぼくも読んだ。 驚いたな。 先生はなんでも人の読まないものを読む癖がある。 あれだから偉大な暗闇だ。 なんでも読んでいる。 けれどもちっとも光らない。 もう少し流行るものを読んでもう少し出しゃばってくれるといいがな。 ごちそうをあげるからお二人ともいらっしゃい。 よく忘れずに持ってきましたね。 だってわざわざ御注文ですもの。 その籃も買ってきたんですか。 いいえ。 家にあったんですか。 ええ。 たいへん大きなものですね。 車夫でも連れてきたんですか。 ついでに少しのあいだ置いて働かせればいいのに。 車夫はきょうは使いに出ました。 女だってこのくらいなものは持てますわ。 あなただから持つんです。 ほかのお嬢さんならまあやめますね。 そうでしょうか。 それなら私もやめればよかった。 先生ついでだからちょっと聞いておきますがさっきのなんとかベーンですね。 アフラ・ベーンか。 ぜんたいなんですそのアフラ・ベーンというのは。 英国の閨秀作家だ。 十七世紀の。 十七世紀は古すぎる。 雑誌の材料にゃなりませんね。 古い。 しかし職業として小説に従事したはじめての女だからそれで有名だ。 有名じゃ困るな。 もう少し伺っておこう。 どんなものを書いたんですか。 ぼくはオルノーコという小説を読んだだけだが小川さんそういう名の小説が全集のうちにあったでしょう。 おもしろいな。 里見さんどうです一つオルノーコでも書いちゃあ。 書いてもよござんすけれども私にはそんな実見譚がないんですもの。 黒ん坊の主人公が必要ならその小川君でもいいじゃありませんか。 九州の男で色が黒いから。 口の悪い。 書いてもよくって。 今のオルノーコの話だが君はそそっかしいから間違えるといけないからついでに言うがね。 へえ伺っておきます。 あの小説が出てからサザーンという人がその話を脚本に仕組んだのが別にある。 やはり同じ名でね。 それをいっしょにしちゃいけない。 へえいっしょにしやしません。 その脚本のなかに有名な句がある。 Pity'sakintoloveという句だが。 日本にもありそうな句ですな。 これはどうしても俗謡でいかなくっちゃだめですよ。 句の趣が俗謡だもの。 少しむりですがねこういうなどうでしょう。 かあいそうだたほれたってことよ。 いかんいかん下劣の極だ。 もうたいてい片づいたんですか。 まだ片づきませんよ。 少し手伝っていただきましょうか。 だいぶにぎやかなようですね。 何かおもしろい事がありますか。 今ぼくが翻訳をして先生にしかられたところです。 翻訳を。 どんな翻訳ですか。 なにつまらない――かわいそうだたほれたってことよというんです。 へえ。 いったいそりゃなんですか。 ぼくにゃ意味がわからない。 だれだってわからんさ。 いや少し言葉をつめすぎたから――あたりまえにのばすとこうです。 かあいそうだとはほれたということよ。 アハハハ。 そうしてその原文はなんというのです。 Pity'sakintolove。 なるほどうまい訳だ。 お茶を。 よし子さんはどうなすって。 ええからだのほうはもう回復しましたが。 先生せっかく大久保へ越したがまたこっちの方へ出なければならないようになりそうです。 なぜ。 妹が学校へ行き帰りに戸山の原を通るのがいやだと言いだしましてね。 それにぼくが夜実験をやるものですからおそくまで待っているのがさむしくっていけないんだそうです。 もっとも今のうちは母がいるからかまいませんがもう少しして母が国へ帰るとあとは下女だけになるものですからね。 臆病者の二人ではとうていしんぼうしきれないのでしょう。 ――じつにやっかいだな。 どうです里見さんあなたの所へでも食客に置いてくれませんか。 いつでも置いてあげますわ。 どっちです。 宗八さんのほうをですかよし子さんのほうをですか。 どちらでも。 そうして君はどうする気なんだ。 妹の始末さえつけば当分下宿してもいいです。 それでなければまたどこかへ引っ越さなければならない。 いっそ学校の寄宿舎へでも入れようかと思うんですがね。 なにしろ子供だからぼくがしじゅう行けるか向こうがしじゅう来られる所でないと困るんです。 それじゃ里見さんの所に限る。 ぼくの所の二階へ置いてやってもいいがなにしろ佐々木のような者がいるから。 先生二階へはぜひ佐々木を置いてやってください。 まあどうかしましょう。 ――身長ばかり大きくってばかだからじつに弱る。 あれで団子坂の菊人形が見たいから連れていけなんて言うんだから。 連れていっておあげなさればいいのに。 私だって見たいわ。 じゃいっしょに行きましょうか。 ええぜひ。 小川さんもいらっしゃい。 ええ行きましょう。 佐々木さんも。 菊人形は御免だ。 菊人形を見るくらいなら活動写真を見に行きます。 菊人形はいいよ。 あれほどに人工的なものはおそらく外国にもないだろう。 人工的によくこんなものをこしらえたというところを見ておく必要がある。 あれが普通の人間にできていたらおそらく団子坂へ行く者は一人もあるまい。 普通の人間ならどこの家でも四五人は必ずいる。 団子坂へ出かけるにはあたらない。 先生一流の論理だ。 昔教場で教わる時にもよくあれでやられたものだ。 じゃ先生もいらっしゃい。 どなたかちょいと。 おい。 どれぼくも失礼しようか。 あらもうお帰り。 ずいぶんね。 このあいだのものはもう少し待ってくれたまえ。 ええようござんす。 そうそう。 おはいりなさい。 お掛けなさい。 お敷きなさい。 兄ですか。 野々宮さんはまだ学校ですか。 ええいつでも夜おそくでなくっちゃ帰りません。 絵をお習いですか。 ええ好きだからかきます。 先生はだれですか。 先生に習うほどじょうずじゃないの。 ちょっと拝見。 これ。 これまだできていないの。 なかなかうまい。 これが。 おっかさんはもうお国へお帰りになったんですか。 まだ帰りません。 近いうちに立つはずですけれど。 今いらっしゃるんですか。 今ちょっと買物に出ました。 あなたが里見さんの所へお移りになるというのは本当ですか。 どうして。 どうしてって――このあいだ広田先生の所でそんな話がありましたから。 まだきまりません。 ことによるとそうなるかもしれませんけれど。 野々宮さんはもとから里見さんと御懇意なんですか。 ええ。 お友だちなの。 広田先生は野々宮さんのもとの先生だそうですね。 ええ。 ええ。 あなたは里見さんの所へいらっしゃるほうがいいんですか。 私。 そうね。 でも美禰子さんのお兄いさんにお気の毒ですから。 美禰子さんのにいさんがあるんですか。 ええ。 うちの兄と同年の卒業なんです。 やっぱり理学士ですか。 いいえ科は違います。 法学士です。 そのまた上の兄さんが広田先生のお友だちだったのですけれども早くおなくなりになって今では恭助さんだけなんです。 おとっさんやおっかさんは。 ないわ。 そういう関係で美禰子さんは広田先生の家へ出入をなさるんですね。 ええ。 死んだにいさんが広田先生とはたいへん仲良しだったそうです。 それに美禰子さんは英語が好きだから時々英語を習いにいらっしゃるんでしょう。 こちらへも来ますか。 美禰子さん。 少し黒すぎますね。 ええ少し黒すぎます。 いらっしゃいますわ。 たびたび。 ええたびたび。 もう駄目ね。 もうおよしなさい。 そうしてまた新しくおかきなさい。 ばかね。 二時間ばかり損をして。 もうよしましょう。 座敷へおはいりなさい。 お茶をあげますから。 明日午後一時ごろから菊人形を見にまいりますから広田先生の家までいらっしゃい。 美禰子。 そんな事をすれば地面の上へ落ちて死ぬばかりだ。 死んでもそのほうがいいと思います。 もっともそんな無謀な人間は高い所から落ちて死ぬだけの価値は十分ある。 残酷な事をおっしゃる。 やあ。 はがきはいつごろ着きましたか。 では行くかな。 とうとう引っぱり出された。 御苦労さま。 背が高いのね。 のっぽ。 だからなりたけ草履をはくの。 行くのか。 うん君は。 行かない。 菊細工なんぞ見てなんになるものか。 ばかだな。 いっしょに行こう。 家にいたってしようがないじゃないか。 今論文を書いている。 大論文を書いている。 なかなかそれどころじゃない。 野々宮さんは理学者だからなおそんな事をおっしゃるんでしょう。 なに理学をやらなくっても同じ事です。 高く飛ぼうというには飛べるだけの装置を考えたうえでなければできないにきまっている。 頭のほうがさきに要るに違いないじゃありませんか。 そんなに高く飛びたくない人はそれで我慢するかもしれません。 我慢しなければ死ぬばかりですもの。 そうすると安全で地面の上に立っているのがいちばんいい事になりますね。 なんだかつまらないようだ。 女には詩人が多いですね。 男子の弊はかえって純粋の詩人になりきれないところにあるだろう。 今のは何のお話なんですか。 なに空中飛行機の事です。 君あの乞食に銭をやりましたか。 いいえ。 やる気にならないわね。 なぜ。 ああしじゅうせっついていちゃせっつきばえがしないからだめですよ。 いえ場所が悪いからだ。 あまり人通りが多すぎるからいけない。 山の上の寂しい所でああいう男に会ったらだれでもやる気になるんだよ。 その代り一日待っていてもだれも通らないかもしれない。 これも場所が悪いせいじゃないか。 いまに巡査が始末をつけるにきまっているからみんな責任をのがれるんだね。 わたしのそばまで来れば交番まで送ってやるわ。 じゃ追っかけて行って連れて行くがいい。 追っかけるのはいや。 なぜ。 なぜって――こんなにおおぜいの人がいるんですもの。 私にかぎったことはないわ。 やっぱり責任をのがれるんだ。 やっぱり場所が悪いんだ。 もう安心|大丈夫です。 まあよかった。 これはたいへんだ。 人間から出る声じゃない。 菊人形から出る声だ。 里見さん。 どうかしましたか。 もう出ましょう。 どうかしましたか。 ここはどこでしょう。 こっちへ行くと谷中の天王寺の方へ出てしまいます。 帰り道とはまるで反対です。 そう。 私心持ちが悪くって。 どこか静かな所はないでしょうか。 もう一町ばかり歩けますか。 歩きます。 どうですぐあいは。 頭痛でもしますか。 あんまり人がおおぜいいたせいでしょう。 あの人形を見ている連中のうちにはずいぶん下等なのがいたようだから――なにか失礼でもしましたか。 ありがとう。 だいぶよくなりました。 休みましょうか。 ええ。 もう少し歩けますか。 ええ。 歩ければもう少しお歩きなさい。 ここはきたない。 あすこまで行くとちょうど休むにいい場所があるから。 ええ。 美しいこと。 もう少し歩けませんか。 ありがとう。 これでたくさん。 やっぱり心持ちが悪いですか。 あんまり疲れたから。 空の色が濁りました。 重いこと。 大理石のように見えます。 大理石のように見えるでしょう。 ええ大理石のように見えます。 こういう空の下にいると心が重くなるが気は軽くなる。 どういうわけですか。 安心して夢を見ているような空模様だ。 動くようでなかなか動きませんね。 ずいぶん大きな声ね。 朝から晩までああいう声を出しているんでしょうか。 えらいもんだな。 商売ですものちょうど大観音の乞食と同じ事なんですよ。 場所が悪くはないですか。 広田先生はよくああいう事をおっしゃるかたなんですよ。 こういう所にこうしてすわっていたら大丈夫及第よ。 なるほど野々宮さんの言ったとおりいつまで待っていてもだれも通りそうもありませんね。 ちょうどいいじゃありませんか。 おもらいをしない乞食なんだから。 広田先生や野々宮さんはさぞあとでぼくらを捜したでしょう。 なに大丈夫よ。 大きな迷子ですもの。 迷子だから捜したでしょう。 責任をのがれたがる人だからちょうどいいでしょう。 だれが。 広田先生がですか。 野々宮さんがですか。 もう気分はよくなりましたか。 よくなったらそろそろ帰りましょうか。 迷子。 迷子の英訳を知っていらしって。 教えてあげましょうか。 ええ。 |迷える子――わかって。 私そんなに生意気に見えますか。 じゃもう帰りましょう。 少し寒くなったようですからとにかく立ちましょう。 冷えると毒だ。 しかし気分はもうすっかり直りましたか。 ええすっかり直りました。 |迷える子。 よし子さんはあなたの所へ来ることにきまったんですか。 なぜお聞きになるの。 おつかまりなさい。 いえ大丈夫。 |迷える子。 おいちょっと借せ。 書き落としたところがある。 なんだこれは。 講義を筆記するのがいやになったからいたずらを書いていた。 そう不勉強ではいかん。 カントの超絶唯心論がバークレーの超絶実在論にどうだとか言ったな。 どうだとか言った。 聞いていなかったのか。 いいや。 まるでstraysheepだ。 しかたがない。 おいちょっと来い。 どうだ。 偉大なる暗闇。 おれが書いたんだ。 ぼくらが菊細工を見にゆく時書いていたのはこれか。 いやありゃたった二三日まえじゃないか。 そうはやく活版になってたまるものか。 あれは来月出る。 これはずっと前に書いたものだ。 何を書いたものか標題でわかるだろう。 広田先生の事か。 うん。 こうして輿論を喚起しておいてね。 そうして先生が大学へはいれる下地を作る。 その雑誌はそんなに勢力のある雑誌か。 いや無勢力だからじつは困る。 何部ぐらい売れるのか。 まあいいさ。 書かんよりはましだ。 君は九州のいなかから出たばかりだから中央文壇の趨勢を知らないためにそんなのん気なことをいうのだろう。 今の思想界の中心にいてその動揺のはげしいありさまを目撃しながら考えのある者が知らん顔をしていられるものか。 じっさい今日の文権はまったく我々青年の手にあるんだから一言でも半句でも進んで言えるだけ言わなけりゃ損じゃないか。 文壇は急転直下の勢いでめざましい革命を受けている。 すべてがことごとく動いて新気運に向かってゆくんだから取り残されちゃたいへんだ。 進んで自分からこの気運をこしらえ上げなくちゃ生きてる甲斐はない。 文学文学って安っぽいようにいうがそりゃ大学なんかで聞く文学のことだ。 新しい我々のいわゆる文学は人生そのものの大反射だ。 文学の新気運は日本全社会の活動に影響しなければならない。 また現にしつつある。 彼らが昼寝をして夢を見ているまにいつか影響しつつある。 恐ろしいものだ。 そういう精神でやっているのか。 では君は原稿料なんかどうでもかまわんのだったな。 いや原稿料は取るよ。 取れるだけ取る。 しかし雑誌が売れないからなかなかよこさない。 どうかしてもう少し売れる工夫をしないといけない。 何かいい趣向はないだろうか。 ともかくこの雑誌を一部君にやるから読んでみてくれ。 偉大なる暗闇という題がおもしろいだろう。 この題なら人が驚くにきまっている。 ――驚かせないと読まないからだめだ。 偉大なる暗闇。 偉大なる暗闇。 自然は宝石を作るに幾年の星霜を費やしたか。 またこの宝石が採掘の運にあうまでに幾年の星霜を静かに輝やいていたか。 どうだ。 今晩出席するだろうな。 出るまえにちょっと誘ってくれ。 君に話す事がある。 偉大なる暗闇。 偉大なる暗闇。 禿を自慢するものは老人に限る。 ヴィーナスは波から生まれたが活眼の士は大学から生まれない。 博士を学界の名産と心得るのは海月を田子の浦の名産と考えるようなものだ。 先生どうですか。 おい君も一つ食ってみろ。 妙なものを食うな。 妙なものってうまいぜ食ってみろ。 これはねぼくがわざわざ先生にみやげに買ってきたんだ。 先生はまだこれを食ったことがないとおっしゃる。 どこから。 日本橋から。 先生どうです。 堅いね。 堅いけれどもうまいでしょう。 よくかまなくっちゃいけません。 かむと味が出る。 味が出るまでかんでいちゃ歯が疲れてしまう。 なんでこんな古風なものを買ってきたものかな。 いけませんか。 こりゃことによると先生にはだめかもしれない。 里見の美禰子さんならいいだろう。 なぜ。 ああおちついていりゃ味の出るまできっとかんでるに違いない。 あの女はおちついていて乱暴だ。 ええ乱暴です。 イブセンの女のようなところがある。 イブセンの女は露骨だがあの女は心が乱暴だ。 もっとも乱暴といっても普通の乱暴とは意味が違うが。 野々宮の妹のほうがちょっと見ると乱暴のようでやっぱり女らしい。 妙なものだね。 里見のは乱暴の内訌ですか。 ちょっと行ってまいります。 先生は里見のお嬢さんを乱暴だと言ったね。 うん。 先生はかってな事をいう人だから時と場合によるとなんでも言う。 第一先生が女を評するのが滑稽だ。 先生の女における知識はおそらく零だろう。 ラッブをしたことがないものに女がわかるものか。 先生はそれでいいとして君は先生の説に賛成したじゃないか。 うん乱暴だと言った。 なぜ。 どういうところを乱暴というのか。 どういうところもこういうところもありゃしない。 現代の女性はみんな乱暴にきまっている。 あの女ばかりじゃない。 君はあの人をイブセンの人物に似ていると言ったじゃないか。 言った。 イブセンのだれに似ているつもりなのか。 だれって似ているよ。 イブセンの人物に似ているのは里見のお嬢さんばかりじゃない。 今の一般の女性はみんな似ている。 女性ばかりじゃない。 いやしくも新しい空気に触れた男はみんなイブセンの人物に似たところがある。 ただ男も女もイブセンのように自由行動を取らないだけだ。 腹のなかではたいていかぶれている。 ぼくはあんまりかぶれていない。 いないとみずから欺いているのだ。 ――どんな社会だって陥欠のない社会はあるまい。 それはないだろう。 ないとすればそのなかに生息している動物はどこかに不足を感じるわけだ。 イブセンの人物は現代社会制度の陥欠をもっとも明らかに感じたものだ。 我々もおいおいああなってくる。 君はそう思うか。 ぼくばかりじゃない。 具眼の士はみんなそう思っている。 君の家の先生もそんな考えか。 うちの先生。 先生はわからない。 だってさっき里見さんを評しておちついていて乱暴だと言ったじゃないか。 それを解釈してみると周囲に調和していけるからおちついていられるのでどこかに不足があるから底のほうが乱暴だという意味じゃないのか。 なるほど。 ――先生は偉いところがあるよ。 ああいうところへゆくとやっぱり偉い。 じつはきょう君に用があると言ったのはね。 ――うんそれよりまえに君あの偉大なる暗闇を読んだか。 あれを読んでおかないとぼくの用事が頭へはいりにくい。 きょうあれから家へ帰って読んだ。 どうだ。 先生はなんと言った。 先生は読むものかね。 まるで知りゃしない。 そうさな。 おもしろいことはおもしろいが――なんだか腹のたしにならないビールを飲んだようだね。 それでたくさんだ。 読んで景気がつきさえすればいい。 だから匿名にしてある。 どうせ今は準備時代だ。 こうしておいてちょうどいい時分に本名を名乗って出る。 ――それはそれとしてさっきの用事を話しておこう。 細工に落ちるというがぼくのやる事は自然の手順が狂わないようにあらかじめ人力で装置するだけだ。 自然にそむいた没分暁の事を企てるのとは質が違う。 細工だってかまわん。 細工が悪いのではない。 悪い細工が悪いのだ。 それもそうだ。 美しい空だ。 おい君。 なんだ。 君こういう空を見てどんな感じを起こす。 つまらんなあ我々は。 あしたからこんな運動をするのはもうやめにしようかしら。 偉大なる暗闇を書いてもなんの役にも立ちそうにもない。 なぜ急にそんな事を言いだしたのか。 この空を見るとそういう考えになる。 ――君女にほれたことがあるか。 女は恐ろしいものだよ。 恐ろしいものだぼくも知っている。 知りもしないくせに。 知りもしないくせに。 あすもよい天気だ。 運動会はしあわせだ。 きれいな女がたくさん来る。 ぜひ見にくるがいい。 学生集会所の料理はまずいですね。 そうですな。 君はどこの高等学校ですか。 熊本です。 熊本ですか。 熊本にはぼくの従弟もいたがずいぶんひどい所だそうですね。 野蛮な所です。 あの人はたいへんにぎやかな人ですね。 ええ。 よくしゃべります。 ぼくはいつかあの人に淀見軒でライスカレーをごちそうになった。 まるで知らないのに突然来て君淀見軒へ行こうってとうとう引っ張っていって。 ダーターファブラシェクスピヤの使った字数が何万字だのイブセンの白髪の数が何千本だのと言ってたってしかたがない。 もっともそんなばかげた講義を聞いたってとらわれる気づかいはないから大丈夫だが大学に気の毒でいけない。 どうしても新時代の青年を満足させるような人間を引っ張って来なくっちゃ。 西洋人じゃだめだ。 第一幅がきかない。 ダーターファブラのために祝盃をあげよう。 もう一つ。 今度は偉大なる暗闇のために。 ダーターファブラとはなんの事だ。 ギリシア語だ。 あんな所に。 なぜ競技を御覧にならないの。 今まで見ていたんですがつまらないからやめて来たのです。 それよりあなたがたこそなぜ出て来たんです。 たいへん熱心に見ていたじゃありませんか。 もう宅へ帰るんですか。 どこかへ行くんですか。 ええちょっと。 高飛びよ。 今度は何メートルになったでしょう。 この上には何かおもしろいものがあって。 なんにもないです。 そう。 ちょいと上がってみましょうか。 あなたまだここを御存じないの。 いいからいらっしゃいよ。 絶壁ね。 サッフォーでも飛び込みそうな所じゃありませんか。 あなたも飛び込んでごらんなさい。 私。 飛び込みましょうか。 でもあんまり水がきたないわね。 あなたいらしって。 ええ。 あなたは。 どうしましょう。 どうでも。 なんならわたしちょっと行ってくるからここに待っていらっしゃい。 そうね。 あの木を知っていらしって。 あれは椎。 よく覚えていらっしゃること。 あの時の看護婦ですかあなたが今尋ねようと言ったのは。 ええ。 よし子さんの看護婦とは違うんですか。 違います。 これは椎――といった看護婦です。 あすこですね。 あなたがあの看護婦といっしょに団扇を持って立っていたのは。 熱い日でしたね。 病院があんまり暑いものだからとうとうこらえきれないで出てきたの。 ――あなたはまたなんであんな所にしゃがんでいらしったんです。 熱いからです。 あの日ははじめて野々宮さんに会ってそれからあすこへ来てぼんやりしていたのです。 なんだか心細くなって。 野々宮さんにお会いになってから心細くおなりになったの。 いいえそういうわけじゃない。 野々宮さんといえばきょうはたいへん働いていますね。 ええ珍しくフロックコートをお着になって――ずいぶん御迷惑でしょう。 朝から晩までですから。 だってだいぶ得意のようじゃありませんか。 だれが野々宮さんが。 ――あなたもずいぶんね。 なぜですか。 だってまさか運動会の計測係りになって得意になるようなかたでもないでしょう。 さっきあなたの所へ来て何か話していましたね。 会場で。 ええ運動会の柵の所で。 ええ。 あなたはまだこのあいだの絵はがきの返事をくださらないのね。 あげます。 あなた原口さんという画工を御存じ。 知りません。 そう。 どうかしましたか。 なにその原口さんがきょう見に来ていらしってねみんなを写生しているから私たちも用心しないとポンチにかかれるからって野々宮さんがわざわざ注意してくだすったんです。 よし子さんはにいさんといっしょに帰らないんですか。 いっしょに帰ろうったって帰れないわ。 よし子さんはきのうから私の家にいるんですもの。 お兄いさんは下宿をなすったそうですね。 ええ。 とうとう。 ひとを美禰子さんの所へ押しつけておいて。 ひどいでしょう。 宗八さんのようなかたは我々の考えじゃわかりませんよ。 ずっと高い所にいて大きな事を考えていらっしゃるんだから。 昨夜は。 どうですか。 とらわれちゃいけませんよ。 おい。 御勉強ですか。 やあ与次郎かと思ったら君ですか失敬した。 おじゃまなら帰ります。 べつだんの用事でもありません。 いや帰ってもらうほどじゃまでもありません。 こっちの用事もべつだんのことでもないんだから。 そう急に片づけるたちのものをやっていたんじゃない。 じつは佐々木君のところへ来たんですがいなかったものですから。 ああ。 与次郎はなんでもゆうべから帰らないようだ。 時々漂泊して困る。 何か急に用事でもできたんですか。 用事はけっしてできる男じゃない。 ただ用事をこしらえる男でね。 ああいうばかは少ない。 なかなか気楽ですな。 気楽ならいいけれども。 与次郎のは気楽なのじゃない。 気が移るので――たとえば田の中を流れている小川のようなものと思っていれば間違いはない。 浅くて狭い。 しかし水だけはしじゅう変っている。 だからする事がちっとも締まりがない。 縁日へひやかしになど行くと急に思い出したように先生松を一鉢お買いなさいなんて妙なことを言う。 そうして買うともなんとも言わないうちに値切って買ってしまう。 その代り縁日ものを買うことなんぞはじょうずでね。 あいつに買わせるとたいへん安く買える。 そうかと思うと夏になってみんなが家を留守にするときなんか松を座敷へ入れたまんま雨戸をたてて錠をおろしてしまう。 帰ってみると松が温気でむれてまっ赤になっている。 万事そういうふうでまことに困る。 でも佐々木君は大いに先生に敬服して陰では先生のためになかなか尽力しています。 どんな尽力をしているんですか。 偉大なる暗闇。 野々宮さんは下宿なすったそうですね。 ええ下宿したそうです。 家をもった者がまた下宿をしたら不便だろうと思いますが野々宮さんはよく。 ええそんな事にはいっこう無頓着なほうでね。 あの服装を見てもわかる。 家庭的な人じゃない。 その代り学問にかけると非常に神経質だ。 当分ああやっておいでのつもりなんでしょうか。 わからない。 また突然家を持つかもしれない。 奥さんでもお貰いになるお考えはないんでしょうか。 あるかもしれない。 いいのを周旋してやりたまえ。 君はどうです。 私は。 まだ早いですね。 今から細君を持っちゃたいへんだ。 国の者は勧めますが。 国のだれが。 母です。 おっかさんのいうとおり持つ気になりますか。 なかなかなりません。 おっかさんのいうことはなるべく聞いてあげるがよい。 近ごろの青年は我々時代の青年と違って自我の意識が強すぎていけない。 我々の書生をしているころにはする事なす事一として他を離れたことはなかった。 すべてが君とか親とか国とか社会とかみんな他本位であった。 それを一口にいうと教育を受けるものがことごとく偽善家であった。 その偽善が社会の変化でとうとう張り通せなくなった結果漸々自己本位を思想行為の上に輸入すると今度は我意識が非常に発展しすぎてしまった。 昔の偽善家に対して今は露悪家ばかりの状態にある。 ――君露悪家という言葉を聞いたことがありますか。 いいえ。 今ぼくが即席に作った言葉だ。 君もその露悪家の一人――だかどうだかまあたぶんそうだろう。 与次郎のごときにいたるとその最たるものだ。 あの君の知ってる里見という女があるでしょう。 あれも一種の露悪家でそれから野々宮の妹ねあれはまたあれなりに露悪家だから面白い。 昔は殿様と親父だけが露悪家ですんでいたが今日では各自同等の権利で露悪家になりたがる。 もっとも悪い事でもなんでもない。 臭いものの蓋をとれば肥桶で見事な形式をはぐとたいていは露悪になるのは知れ切っている。 形式だけ見事だって面倒なばかりだからみんな節約して木地だけで用を足している。 はなはだ痛快である。 天醜|爛漫としている。 ところがこの爛漫が度を越すと露悪家同志がお互いに不便を感じてくる。 その不便がだんだん高じて極端に達した時利他主義がまた復活する。 それがまた形式に流れて腐敗するとまた利己主義に帰参する。 つまり際限はない。 我々はそういうふうにして暮らしてゆくものと思えばさしつかえない。 そうしてゆくうちに進歩する。 英国を見たまえ。 この両主義が昔からうまく平衡がとれている。 だから動かない。 だから進歩しない。 イブセンも出なければニイチェも出ない。 気の毒なものだ。 自分だけは得意のようだがはたから見れば堅くなって化石しかかっている。 いったい何を話していたのかな。 結婚の事です。 結婚。 ええ私が母の言うことを聞いて。 うんそうそう。 なるべくおっかさんの言うことを聞かなければいけない。 我々が露悪家なのはいいですが先生時代の人が偽善家なのはどういう意味ですか。 君人から親切にされて愉快ですか。 ええまあ愉快です。 きっと。 ぼくはそうでないたいへん親切にされて不愉快な事がある。 どんな場合ですか。 形式だけは親切にかなっている。 しかし親切自身が目的でない場合。 そんな場合があるでしょうか。 君元日におめでとうと言われてじっさいおめでたい気がしますか。 そりゃ。 しないだろう。 それと同じく腹をかかえて笑うだのころげかえって笑うだのというやつに一人だってじっさい笑ってるやつはない。 親切もそのとおり。 お役目に親切をしてくれるのがある。 ぼくが学校で教師をしているようなものでね。 実際の目的は衣食にあるんだから生徒から見たらさだめて不愉快だろう。 これに反して与次郎のごときは露悪党の領袖だけにたびたびぼくに迷惑をかけて始末におえぬいたずら者だが悪気がない。 可愛らしいところがある。 ちょうどアメリカ人の金銭に対して露骨なのと一般だ。 それ自身が目的である。 それ自身が目的である行為ほど正直なものはなくって正直ほど厭味のないものはないんだから万事正直に出られないような我々時代のこむずかしい教育を受けたものはみんな気障だ。 うんまだある。 この二十世紀になってから妙なのが流行る。 利他本位の内容を利己本位でみたすというむずかしいやり口なんだが君そんな人に出会ったですか。 どんなのです。 ほかの言葉でいうと偽善を行うに露悪をもってする。 まだわからないだろうな。 ちと説明し方が悪いようだ。 ――昔の偽善家はねなんでも人によく思われたいが先に立つんでしょう。 ところがその反対で人の感触を害するためにわざわざ偽善をやる。 横から見ても縦から見ても相手には偽善としか思われないようにしむけてゆく。 相手はむろんいやな心持ちがする。 そこで本人の目的は達せられる。 偽善を偽善そのままで先方に通用させようとする正直なところが露悪家の特色でしかも表面上の行為言語はあくまでも善に違いないから――そら二位一体というようなことになる。 この方法を巧妙に用いる者が近来だいぶふえてきたようだ。 きわめて神経の鋭敏になった文明人種がもっとも優美に露悪家になろうとするとこれがいちばんいい方法になる。 血を出さなければ人が殺せないというのはずいぶん野蛮な話だからな君だんだん流行らなくなる。 原口さんがおいでになりました。 やあしばらく。 今まで佐々木が家へ来ていてね。 いっしょに飯を食ったり何かして――それからとうとう引っ張り出されて。 出よう。 君近ごろ何をしているかね。 やっぱり一中節を稽古している。 もう五つほど上げた。 花紅葉吉原八景だの小稲半兵衛唐崎心中だのってなかなかおもしろいのがあるよ。 君も少しやってみないか。 もっともありゃあまり大きな声を出しちゃいけないんだってね。 本来が四畳半の座敷にかぎったものだそうだ。 ところがぼくがこのとおり大きな声だろう。 それに節回しがあれでなかなか込み入っているんでどうしてもうまくいかん。 こんだ一つやるから聞いてくれたまえ。 それでもぼくはまだいいんだが里見恭助ときたらまるで形無しだからね。 どういうものかしらん。 妹はあんなに器用だのに。 このあいだはとうとう降参してもう歌はやめるその代り何か楽器を習おうと言いだしたところが馬鹿囃子をお習いなさらないかと勧めた者があってね。 大笑いさ。 そりゃ本当かい。 本当とも。 現に里見がぼくに君がやるならやってもいいと言ったくらいだもの。 あれで馬鹿囃子には八通り囃し方があるんだそうだ。 君やっちゃどうだ。 あれなら普通の人間にでもできそうだ。 いや馬鹿囃子はいやだ。 それよりか鼓が打ってみたくってね。 なぜだか鼓の音を聞いているとまったく二十世紀の気がしなくなるからいい。 どうして今の世にああ間が抜けていられるだろうと思うとそれだけでたいへんな薬になる。 いくらぼくがのん気でも鼓の音のような絵はとてもかけないから。 かこうともしないんじゃないか。 かけないんだもの。 今の東京にいる者に悠揚な絵ができるものか。 もっとも絵にもかぎるまいけれども。 ――絵といえばこのあいだ大学の運動会へ行って里見と野々宮さんの妹のカリカチュアーをかいてやろうと思ったらとうとう逃げられてしまった。 こんだ一つ本当の肖像画をかいて展覧会にでも出そうかと思って。 だれの。 里見の妹の。 どうも普通の日本の女の顔は歌麿式や何かばかりで西洋の画布にはうつりが悪くっていけないがあの女や野々宮さんはいい。 両方ともに絵になる。 あの女が団扇をかざして木立をうしろに明るい方を向いているところを等身に写してみようかしらと思っている。 西洋の扇は厭味でいけないが日本の団扇は新しくっておもしろいだろう。 とにかくはやくしないとだめだ。 いまに嫁にでもいかれようものならそうこっちの自由にいかなくなるかもしれないから。 そんな図はそうおもしろいこともないじゃないか。 でも当人の希望なんだもの。 団扇をかざしているところはどうでしょうと言うからすこぶる妙でしょうと言って承知したのさ。 なに悪い図どりではないよ。 かきようにもよるが。 あんまり美しくかくと結婚の申込みが多くなって困るぜ。 ハハハじゃ中ぐらいにかいておこう。 結婚といえばあの女ももう嫁にゆく時期だね。 どうだろうどこかいい口はないだろうか。 里見にも頼まれているんだが。 君もらっちゃどうだ。 ぼくか。 ぼくでよければもらうがどうもあの女には信用がなくってね。 なぜ。 原口さんは洋行する時にはたいへんな気込みでわざわざ鰹節を買い込んでこれでパリーの下宿に籠城するなんて大いばりだったがパリーへ着くやいなやたちまち豹変したそうですねって笑うんだから始末がわるい。 おおかた兄からでも聞いたんだろう。 あの女は自分の行きたい所でなくっちゃ行きっこない。 勧めたってだめだ。 好きな人があるまで独身で置くがいい。 まったく西洋流だね。 もっともこれからの女はみんなそうなるんだからそれもよかろう。 おい佐々木ちょっと降りて来い。 偉大なる暗闇。 偉大なる暗闇。 偉大なる暗闇。 ぐあいでもよくないのか。 じつは金をなくしてね。 困っちまった。 その金をなくなしたんだからすまない。 まあいいやどうかなるだろう。 先生はまだ知らないのか。 まだ知らない。 野々宮さんは。 むろんまだ知らない。 金はいつ受け取ったのか。 金はこの月始まりだからきょうでちょうど二週間ほどになる。 馬券を買ったのは。 受け取ったあくる日だ。 それからきょうまでそのままにしておいたのか。 いろいろ奔走したができないんだからしかたがない。 やむをえなければ今月|末までこのままにしておこう。 今月末になればできる見込みでもあるのか。 文芸時評社からどうかなるだろう。 金はここにある。 今月は国から早く送ってきた。 ありがたい。 親愛なる小川君。 おいおるか。 うんおる。 待っていやしないか。 君のことだから下宿の勘定を心配しているだろうと思ってだいぶ奔走した。 ばかげている。 文芸時評から原稿料をくれたか。 原稿料って原稿料はみんな取ってしまった。 だってこのあいだは月末に取るように言っていたじゃないか。 そうかなそれは間違いだろう。 もう一文も取るのはない。 おかしいな。 だって君はたしかにそう言ったぜ。 なに前借りをしようと言ったのだ。 ところがなかなか貸さない。 ぼくに貸すと返さないと思っている。 けしからん。 わずか二十円ばかりの金だのに。 いくら偉大なる暗闇を書いてやっても信用しない。 つまらない。 いやになっちまった。 じゃ金はできないのか。 いやほかでこしらえたよ。 君が困るだろうと思って。 そうか。 それは気の毒だ。 ところが困った事ができた。 金はここにはない。 君が取りにいかなくっちゃ。 どこへ。 じつは文芸時評がいけないから原口だのなんだの二三軒歩いたがどこも月末でつごうがつかない。 それから最後に里見の所へ行って――里見というのは知らないかね。 里見恭助。 法学士だ。 美禰子さんのにいさんだ。 あすこへ行ったところが今度は留守でやっぱり要領を得ない。 そのうち腹が減って歩くのがめんどうになったからとうとう美禰子さんに会って話をした。 野々宮さんの妹がいやしないか。 なに昼少し過ぎだから学校に行ってる時分だ。 それに応接間だからいたってかまやしない。 そうか。 それで美禰子さんが引き受けてくれて御用立て申しますと言うんだがね。 あの女は自分の金があるのかい。 そりゃどうだか知らない。 しかしとにかく大丈夫だよ。 引き受けたんだから。 ありゃ妙な女で年のいかないくせにねえさんじみた事をするのが好きな性質なんだから引き受けさえすれば安心だ。 心配しないでもいい。 よろしく願っておけばかまわない。 ところがいちばんしまいになってお金はここにありますがあなたには渡せませんと言うんだから驚いたね。 ぼくはそんなに不信用なんですかと聞くとええと言って笑っている。 いやになっちまった。 じゃ小川をよこしますかなとまた聞いたらえ小川さんにお手渡しいたしましょうと言われた。 どうでもかってにするがいい。 君取りにいけるかい。 取りにいかなければ国へ電報でもかけるんだな。 電報はよそう。 ばかげている。 いくら君だって借りにいけるだろう。 いける。 あの晩原口さんが先生に文芸家の会をやるから出ろと勧めていたろう。 そういう意味があるのかちっとも知らなかった。 それで君が発起人だというんだが会をやる時君の名前で通知を出してそういう偉い人たちがみんな寄って来るのかな。 ばかいっちゃいけない。 発起人っておもてむきの発起人じゃない。 ただぼくがそういう会を企てたのだ。 つまりぼくが原口さんを勧めて万事原口さんが周旋するようにこしらえたのだ。 そうか。 そうかは田臭だね。 時に君もあの会へ出るがいい。 もう近いうちにあるはずだから。 そんな偉い人ばかり出る所へ行ったってしかたがない。 ぼくはよそう。 また田臭を放った。 偉い人も偉くない人も社会へ頭を出した順序が違うだけだ。 なにあんな連中博士とか学士とかいったって会って話してみるとなんでもないものだよ。 第一向こうがそう偉いともなんとも思ってやしない。 ぜひ出ておくがいい。 君の将来のためだから。 どこであるのか。 たぶん上野の精養軒になるだろう。 ぼくはあんな所へはいったことがない。 高い会費を取るんだろう。 まあ二円ぐらいだろう。 なに会費なんか心配しなくってもいい。 なければぼくがだしておくから。 やっぱり愚弄じゃないか。 美禰子さんはお宅ですか。 しばらくどうか。 いらっしゃい。 とうとういらしった。 佐々木が。 佐々木さんがあなたの所へいらしったでしょう。 佐々木が来ました。 なんと言っていらっしゃいました。 ぼくにあなたの所へ行けと言って来ました。 そうでしょう。 ――それでいらしったの。 ええ。 まあそうです。 曇りましたね。 寒いでしょう戸外は。 いいえ存外暖かい。 風はまるでありません。 そう。 じつは佐々木が金を。 わかってるの。 どうしておなくしになったの。 馬券を買ったのです。 まあ。 悪いかたね。 馬券であてるのは人の心をあてるよりむずかしいじゃありませんか。 あなたは索引のついている人の心さえあててみようとなさらないのん気なかただのに。 ぼくが馬券を買ったんじゃありません。 あら。 だれが買ったの。 佐々木が買ったのです。 じゃあなたがお金がお入用じゃなかったのね。 ばかばかしい。 いることはぼくがいるのです。 ほんとうに。 ほんとうに。 だってそれじゃおかしいわね。 だから借りなくってもいいんです。 なぜ。 おいやなの。 いやじゃないがお兄いさんに黙ってあなたから借りちゃ好くないからです。 どういうわけで。 でも兄は承知しているんですもの。 そうですか。 じゃ借りてもいい。 ――しかし借りないでもいい。 家へそう言ってやりさえすれば一週間ぐらいすると来ますから。 御迷惑ならしいて。 降りそうもありませんね。 降りそうもありません。 降らなければ私ちょっと出て来ようかしら。 もう帰りましょう。 そこまでごいっしょに出ましょう。 いいでしょう。 ええどうでも。 おこっていらっしゃるの。 どこへいらっしゃるの。 あなたはどこへ行くんです。 いっしょにいらっしゃい。 お願い。 なんですか。 これでお金を取ってちょうだい。 三十円。 丹青会の展覧会を御覧になって。 まだ見ません。 招待券を二枚もらったんですけれどもつい暇がなかったものだからまだ行かずにいたんですが行ってみましょうか。 行ってもいいです。 行きましょう。 もうじき閉会になりますから。 私一ぺんは見ておかないと原口さんに済まないのです。 原口さんが招待券をくれたんですか。 ええ。 あなた原口さんを御存じなの。 広田先生の所で一度会いました。 おもしろいかたでしょう。 馬鹿囃子を稽古なさるんですって。 このあいだは鼓をならいたいと言っていました。 それから――。 それから。 それからあなたの肖像をかくとか言っていました。 本当ですか。 ええ高等モデルなの。 お金は。 預かっておいてちょうだい。 ベニスでしょう。 兄さんのほうがよほどうまいようですね。 兄さんとは。 この絵は兄さんのほうでしょう。 だれの。 だってあっちのほうが妹さんのでこっちのほうが兄さんのじゃありませんか。 違うんですか。 一人と思っていらしったの。 ええ。 ずいぶんね。 里見さん。 妙な連と来ましたね。 似合うでしょう。 模写ですね。 その代りここん所へかけるつもりです。 どうです。 ベラスケスは。 もっとも模写ですがね。 しかもあまり上できではない。 どなたがお写しになったの。 三井です。 三井はもっとうまいんですがね。 この絵はあまり感服できない。 どうも原画が技巧の極点に達した人のものだからうまくいかないね。 もうみんな見たんですか。 まだ。 どうです。 もうよしていっしょに出ちゃ。 精養軒でお茶でもあげます。 なにわたしは用があるからどうせちょっと行かなければならない。 ――会の事でねマネジャーに相談しておきたい事がある。 懇意の男だから。 ――今ちょうどお茶にいい時分です。 もう少しするとねお茶にはおそし晩餐には早し中途はんぱになる。 どうです。 いっしょにいらっしゃいな。 せっかく来たものだからみんな見てゆきましょう。 ねえ小川さん。 じゃこうなさい。 この奥の別室にね。 深見さんの遺画があるからそれだけ見て帰りに精養軒へいらっしゃい。 先へ行って待っていますから。 ありがとう。 深見さんの水彩は普通の水彩のつもりで見ちゃいけませんよ。 どこまでも深見さんの水彩なんだから。 実物を見る気にならないで深見さんの気韻を見る気になっているとなかなかおもしろいところが出てきます。 これもベニスですね。 ええ。 さっき何を言ったんですか。 さっき。 さっきぼくが立ってあっちのベニスを見ている時です。 用でなければ聞かなくってもいいです。 用じゃないのよ。 野々宮さん。 ねね。 野々宮さん。 わかったでしょう。 野々宮さんを愚弄したのですか。 なんで。 あなたを愚弄したんじゃないのよ。 それでいいです。 なぜ悪いの。 だからいいです。 ほんとうにいいの。 ともかく出ましょう。 精養軒へ行きますか。 あの木の陰へはいりましょう。 小川さん。 悪くって。 さっきのこと。 いいです。 だって。 私なぜだかああしたかったんですもの。 野々宮さんに失礼するつもりじゃないんですけれども。 だからいいです。 さっきのお金をお使いなさい。 借りましょう。 要るだけ。 みんなお使いなさい。 ちとダーターファブラをやらないか。 きょうはいけない。 その羽織はなかなかりっぱだ。 よく似合う。 野々宮さん光線の圧力の試験はもう済みましたか。 いやまだなかなかだ。 ずいぶん手数がかかるもんだね。 我々の職業も根気仕事だが君のほうはもっと激しいようだ。 絵はインスピレーションですぐかけるからいいが物理の実験はそううまくはいかない。 インスピレーションには辟易する。 この夏ある所を通ったらばあさんが二人で問答をしていた。 聞いてみると梅雨はもう明けたんだろうかどうだろうかという研究なんだが一人のばあさんが昔は雷さえ鳴れば梅雨は明けるにきまっていたが近ごろじゃそうはいかないとこぼしている。 すると一人がどうしてどうして雷ぐらいで明けることじゃありゃしないと憤慨していた。 ――絵もそのとおり今の絵はインスピレーションぐらいでかけることじゃありゃしない。 ねえ田村さん小説だってそうだろう。 君水晶の糸があるのか。 野々宮さん水晶の糸がありますか。 ええ水晶の粉をね。 酸水素|吹管の炎で溶かしておいて両方の手で左右へ引っ張ると細い糸ができるのです。 そうですか。 我々はそういう方面へかけると全然無学なんですがはじめはどうして気がついたものでしょうな。 理論上はマクスウェル以来予想されていたのですがそれをレベデフという人がはじめて実験で証明したのです。 近ごろあの彗星の尾が太陽の方へ引きつけられべきはずであるのに出るたびにいつでも反対の方角になびくのは光の圧力で吹き飛ばされるんじゃなかろうかと思いついた人もあるくらいです。 思いつきもおもしろいが第一大きくていいですね。 大きいばかりじゃない罪がなくって愉快だ。 それでその思いつきがはずれたらなお罪がなくっていい。 いやどうもあたっているらしい。 光線の圧力は半径の二乗に比例するが引力のほうは半径の三乗に比例するんだから物が小さくなればなるほど引力のほうが負けて光線の圧力が強くなる。 もし彗星の尾が非常に細かい小片からできているとすればどうしても太陽とは反対の方へ吹き飛ばされるわけだ。 罪がない代りにたいへん計算がめんどうになってきた。 やっぱり一利一害だ。 どうも物理学者は自然派じゃだめのようだね。 それはどういう意味ですか。 だって光線の圧力を試験するために目だけあけて自然を観察していたってだめだからさ。 自然の献立のうちに光線の圧力という事実は印刷されていないようじゃないか。 だから人工的に水晶の糸だの真空だの雲母だのという装置をしてその圧力が物理学者の目に見えるように仕掛けるのだろう。 だから自然派じゃないよ。 しかし浪漫派でもないだろう。 いや浪漫派だ。 光線と光線を受けるものとを普通の自然界においては見出せないような位置関係に置くところがまったく浪漫派じゃないか。 しかしいったんそういう位置関係に置いた以上は光線固有の圧力を観察するだけだからそれからあとは自然派でしょう。 すると物理学者は浪漫的自然派ですね。 文学のほうでいうとイブセンのようなものじゃないか。 さようイブセンの劇は野々宮君と同じくらいな装置があるがその装置の下に働く人物は光線のように自然の法則に従っているか疑わしい。 そうかもしれないがこういうことは人間の研究上記憶しておくべき事だと思う。 ――すなわちある状況のもとに置かれた人間は反対の方向に働きうる能力と権力とを有している。 ということなんだが――ところが妙な習慣で人間も光線も同じように器械的の法則に従って活動すると思うものだから時々とんだ間違いができる。 おこらせようと思って装置をすると笑ったり笑わせようともくろんでかかるとおこったりまるで反対だ。 しかしどちらにしても人間に違いない。 じゃある状況のもとにある人間がどんな所作をしてもしぜんだということになりますね。 ええええ。 どんな人間をどう描いても世界に一人くらいはいるようじゃないですか。 じっさい人間たる我々は人間らしからざる行為動作をどうしたって想像できるものじゃない。 ただへたに書くから人間と思われないのじゃないですか。 物理学者でもガリレオが寺院の釣りランプの一振動の時間が振動の大小にかかわらず同じであることに気がついたりニュートンが林檎が引力で落ちるのを発見したりするのははじめから自然派ですね。 そういう自然派なら文学のほうでも結構でしょう。 原口さん絵のほうでも自然派がありますか。 あるとも。 恐るべきクールベエというやつがいる。 〔ve'rite'vraie.〕なんでも事実でなければ承知しない。 しかしそう猖獗を極めているものじゃない。 ただ一派として存在を認められるだけさ。 またそうでなくっちゃ困るからね。 小説だって同じことだろうねえ君。 やっぱりモローやシャバンヌのようなのもいるはずだろうじゃないか。 いるはずだ。 そういう事もあるからなあ。 笑っちゃいかん。 笑わないでよく考えてみろ。 おれが金を返さなければこそ君が美禰子さんから金を借りることができたんだろう。 それで。 それだけでたくさんじゃないか。 ――君あの女を愛しているんだろう。 君あの女にはもう返したのか。 いいや。 いつまでも借りておいてやれ。 国から金が届いたから取りに来てくれたまえ。 今ここに持っていないから。 それからまだほかに話す事もある。 だからいつまでも借りておいてやれと言ったのに。 よけいな事をして年寄りには心配をかける。 宗八さんにはお談義をされる。 これくらい愚な事はない。 いつまでも借りておくのはいやだから家へそう言ってやったんだ。 君はいやでも向こうでは喜ぶよ。 なぜ。 あたりまえじゃないか。 ぼくを人にしたって同じことだ。 ぼくに金が余っているとするぜ。 そうすればその金を君から返してもらうよりも君に貸しておくほうがいい心持ちだ。 人間はね自分が困らない程度内でなるべく人に親切がしてみたいものだ。 おれだって金のある時はたびたび人に貸したことがある。 しかしだれもけっして返したものがない。 それだからおれはこのとおり愉快だ。 あの女は君にほれているのか。 よくわからない。 そういうこともある。 しかしよくわかったとして君あの女の夫になれるか。 野々宮さんならなれる。 野々宮さんとあの人とは何か今までに関係があるのか。 知らん。 また野々宮さんの所へ行ってお談義を聞いてこい。 君いっそよし子さんをもらわないか。 せんだってはありがとう。 このあいだはありがとう。 これになさい。 それにしましょう。 じゃ行ってきてよ。 お早く。 ぼくも野々宮さんの所へ行くところです。 そうお遊びに。 いえすこし用があるんです。 あなたは遊びですか。 いいえ私も御用なの。 バイオリンを買いましたか。 どうして御存じ。 いくら兄さんにそう言ってもただ買ってやる買ってやると言うばかりでちっとも買ってくれなかったんですの。 妙なお客が落ち合ったな。 入口で会ったのか。 ああわたし忘れていた。 美禰子さんのお言伝があってよ。 そうか。 うれしいでしょう。 うれしくなくって。 ぼくの妹はばかですね。 ばかじゃないわ。 ねえ小川さん。 美禰子さんがね兄さんに文芸協会の演芸会に連れて行ってちょうだいって。 里見さんといっしょに行ったらよかろう。 御用があるんですって。 お前も行くのか。 むろんだわ。 母からあなたにごめんどうを願ったそうで。 なに大してめんどうでもありませんがね。 おっかさんが心配して長い手紙を書いてよこしましたよ。 三四郎は余儀ない事情で月々の学資を友だちに貸したと言うがいくら友だちだってそうむやみに金を借りるものじゃあるまいしよし借りたって返すはずだろうって。 いなかの者は正直だからそう思うのもむりはない。 それからね三四郎が貸すにしてもあまり貸し方が大げさだ。 親から月々学資を送ってもらう身分でいながら一度に二十円の三十円のと人に用立てるなんていかにも無分別だとあるんですがね――なんだかぼくに責任があるように書いてあるから困る。 お気の毒です。 なに心配することはありませんよ。 なんでもない事なんだから。 ただおっかさんはいなかの相場で金の価値をつけるから三十円がたいへん重くなるんだね。 なんでも三十円あると四人の家族が半年食っていけると書いてあったがそんなものかな君。 そうすると月に五円のわりだから一人前一円二十五銭にあたる。 それを三十日に割りつけると四銭ばかりだが――いくらいなかでも少し安すぎるようだな。 何を食べたらそのくらいで生きていられるでしょう。 それで十円。 なにしろおっかさんのほうではね。 ぼくが一応事情を調べて不都合がないと認めたら金を渡してくれろ。 そうしてめんどうでもその事情を知らせてもらいたいというんだが金は事情もなんにも聞かないうちにもう渡してしまったしと――どうするかね。 君たしかに佐々木に貸したんですね。 そうです。 佐々木が馬券を買って自分の金をなくしたんだってね。 ええ。 じゃいいかげんにおっかさんの所へそう言ってあげよう。 しかし今度からそんな金はもう貸さないことにしたらいいでしょう。 さっきの話をしなくっちゃ。 よくってよ。 よくはないよ。 よくってよ。 知らないわ。 だってしかたがないじゃありませんか。 知りもしない人の所へ行くか行かないかって聞いたって。 好きでもきらいでもないんだからなんにも言いようはありゃしないわ。 だから知らないわ。 ゆうべはお談義を聞いたか。 なにお談義というほどでもない。 そうだろう野々宮さんはあれで理由のわかった人だからな。 広田先生のことは大丈夫うまくいきそうだ。 いや心配しないでもいい。 いずれゆっくり話す。 先生が君がしばらく来ないと言って聞いていたぜ。 時々行くがいい。 先生は一人ものだからな。 我々が慰めてやらんといかん。 今度何か買って来い。 金受け取ったりや。 金は受け取ったここにある。 そうかそれはよかった。 返すつもりか。 むろん返すさ。 それがよかろう。 はやく返すがいい。 きょう返そうと思う。 うん昼過ぎおそくならいるかもしれない。 どこかへ行くのか。 行くとも毎日毎日絵にかかれに行く。 もうよっぽどできたろう。 原口さんの所か。 うん。 やあおいで。 先生失礼ですが起きてごらんなさい。 なるほど。 あの流でいくとむりに逆らったら腕を折る恐れがあるから危険です。 御病気だそうですがもうよろしいんですか。 ええもうよろしい。 柿を買って来ました。 これがこのあいだ話したハイドリオタフヒア。 退屈なら見ていたまえ。 寂寞の罌粟花を散らすやしきりなり。 人の記念に対しては永劫に価するといなとを問うことなし。 だって先生くらい余裕があるなら少しは痛切に感じてもよさそうなものだが。 朽ちざる墓に眠り伝わる事に生き知らるる名に残りしからずば滄桑の変に任せて後の世に存せんと思う事昔より人の願いなり。 この願いのかなえるとき人は天国にあり。 されども真なる信仰の教法よりみればこの願いもこの満足も無きがごとくにはかなきものなり。 生きるとは再の我に帰るの意にして再の我に帰るとは願いにもあらず望みにもあらず気高き信者の見たるあからさまなる事実なれば聖徒イノセントの墓地に横たわるはなおエジプトの砂中にうずまるがごとし。 常住の我身を観じ喜べば六尺の狭きもアドリエーナスの大廟と異なる所あらず。 成るがままに成るとのみ覚悟せよ。 やって来たね。 かけたまえ。 ――あれだ。 なるほど大きなものですな。 うんなかなか。 また苦しくなったようですね。 どうです。 小川さんおもしろい話がある。 ぼくの知った男にね細君がいやになって離縁を請求した者がある。 ところが細君が承知をしないで私は縁あってこの家へかたづいたものですからたといあなたがおいやでも私はけっして出てまいりません。 里見さん。 あなたが単衣を着てくれないものだから着物がかきにくくって困る。 まるでいいかげんにやるんだから少し大胆すぎますね。 お気の毒さま。 それでね細君のお尻が離縁するにはあまり重くあったものだから友人が細君に向かってこう言ったんだとさ。 出るのがいやなら出ないでもいい。 いつまでも家にいるがいい。 その代りおれのほうが出るから。 ――里見さんちょっと立ってみてください。 団扇はどうでもいい。 ただ立てば。 そう。 ありがとう。 ――細君が私が家におってもあなたが出ておしまいになれば後が困るじゃありませんかと言うとなにかまわないさお前はかってに入夫でもしたらよかろうと答えたんだって。 それからどうなりました。 どうもならないのさ。 だから結婚は考え物だよ。 離合集散ともに自由にならない。 広田先生を見たまえ野々宮さんを見たまえ里見恭助君を見たまえついでにぼくを見たまえ。 みんな結婚をしていない。 女が偉くなるとこういう独身ものがたくさんできてくる。 だから社会の原則は独身ものができえない程度内において女が偉くならなくっちゃだめだね。 でも兄は近々結婚いたしますよ。 おやそうですか。 するとあなたはどうなります。 存じません。 存じません。 存じません――じゃ。 里見さん。 なに。 ちょうどついでだからここで返しましょう。 なに。 このあいだの金です。 今くだすってもしかたがないわ。 もう少しだからどうです。 まだよほどかかりますか。 もう一時間ばかり。 小川さん。 里見さんの目を見てごらん。 いけない。 横を向いてしまっちゃいけない。 今かきだしたばかりだのに。 なぜよけいな事をおっしゃる。 ひやかしたんじゃない。 小川さんに話す事があったんです。 何を。 これから話すからまあ元のとおりの姿勢に復してください。 そう。 もう少し肱を前へ出して。 それで小川さんぼくの描いた目が実物の表情どおりできているかね。 どうもよくわからんですが。 いったいこうやって毎日毎日描いているのに描かれる人の目の表情がいつも変らずにいるものでしょうか。 それは変るだろう。 本人が変るばかりじゃない画工のほうの気分も毎日変るんだから本当を言うと肖像画が何枚でもできあがらなくっちゃならないわけだがそうはいかない。 またたった一枚でかなりまとまったものができるから不思議だ。 なぜといって見たまえ。 こうやって毎日描いていると毎日の量が積もり積もってしばらくするうちに描いている絵に一定の気分ができてくる。 だからたといほかの気分で戸外から帰って来ても画室へはいって絵に向かいさえすればじきに一種一定の気分になれる。 つまり絵の中の気分がこっちへ乗り移るのだね。 里見さんだって同じ事だ。 しぜんのままにほうっておけばいろいろの刺激でいろいろの表情になるにきまっているんだがそれがじっさい絵のうえへ大した影響を及ぼさないのはああいう姿勢やこういう乱雑な鼓だとか鎧だとか虎の皮だとかいう周囲のものがしぜんに一種一定の表情を引き起こすようになってきてその習慣が次第にほかの表情を圧迫するほど強くなるからまあたいていならこの目つきをこのままで仕上げていけばいいんだね。 それに表情といったって。 里見さんどうかしましたか。 いいえ。 それに表情といったって。 画工はね心を描くんじゃない。 心が外へ見世を出しているところを描くんだから見世さえ手落ちなく観察すれば身代はおのずからわかるものとまあそうしておくんだね。 見世でうかがえない身代は画工の担任区域以外とあきらめべきものだよ。 だから我々は肉ばかり描いている。 どんな肉を描いたって霊がこもらなければ死肉だから絵として通用しないだけだ。 そこでこの里見さんの目もね。 里見さんの心を写すつもりで描いているんじゃない。 ただ目として描いている。 この目が気に入ったから描いている。 この目の恰好だの二重瞼の影だの眸の深さだのなんでもぼくに見えるところだけを残りなく描いてゆく。 すると偶然の結果として一種の表情が出てくる。 もし出てこなければぼくの色の出しぐあいが悪かったか恰好の取り方がまちがっていたかどっちかになる。 現にあの色あの形そのものが一種の表情なんだからしかたがない。 どうもきょうはどうかしているね。 疲れたんでしょう。 疲れたらもうよしましょう。 ――疲れましたか。 いいえ。 それでぼくがなぜ里見さんの目を選んだかというとね。 まあ話すから聞きたまえ。 西洋画の女の顔を見るとだれのかいた美人でもきっと大きな目をしている。 おかしいくらい大きな目ばかりだ。 ところが日本では観音様をはじめとしてお多福能の面もっとも著しいのは浮世絵にあらわれた美人ことごとく細い。 みんな象に似ている。 なぜ東西で美の標準がこれほど違うかと思うとちょっと不思議だろう。 ところがじつはなんでもない。 西洋には目の大きいやつばかりいるから大きい目のうちで美的|淘汰が行なわれる。 日本は鯨の系統ばかりだから――ピエルロチーという男は日本人の目はあれでどうしてあけるだろうなんてひやかしている。 ――そらそういう国柄だからどうしたって材料の少ない大きな目に対する審美眼が発達しようがない。 そこで選択の自由のきく細い目のうちで理想ができてしまったのが歌麿になったり祐信になったりして珍重がられている。 しかしいくら日本的でも西洋画にはああ細いのは盲目をかいたようでみっともなくっていけない。 といってラファエルの聖母のようなのはてんでありゃしないしあったところが日本人とは言われないからそこで里見さんを煩わすことになったのさ。 里見さんもう少しですよ。 もうよそう。 きょうはどうしてもだめだ。 きょうは疲れていますね。 私。 いやじつはぼくも疲れた。 またあした天気のいい時にやりましょう。 まあお茶でも飲んでゆっくりなさい。 原口さんもそう言っていたが本当にどうかしたんですか。 私。 私。 色が少し悪いようです。 そうですか。 きょう何か原口さんに御用がおありだったの。 いいえ用事はなかったです。 じゃただ遊びにいらしったの。 いいえ遊びに行ったんじゃありません。 じゃなんでいらしったの。 あなたに会いに行ったんです。 お金はあすこじゃいただけないのよ。 本当は金を返しに行ったのじゃありません。 お金は私もいりません。 持っていらっしゃい。 ただあなたに会いたいから行ったのです。 お金は。 金なんぞ。 原口さんの絵を御覧になってどうお思いなすって。 あんまりでき方が早いのでお驚きなさりゃしなくって。 ええ。 いつから取りかかったんです。 本当に取りかかったのはついこのあいだですけれどもそのまえから少しずつ描いていただいていたんです。 そのまえっていつごろからですか。 あの服装でわかるでしょう。 そらあなた椎の木の下にしゃがんでいらしったじゃありませんか。 あなたは団扇をかざして高い所に立っていた。 あの絵のとおりでしょう。 ええ。 あのとおりです。 今まで待っていたけれどもあんまりおそいから迎えに来た。 そうありがとう。 どなた。 大学の小川さん。 はやく行こう。 にいさんも待っている。 相手は東京帝国大学学生だよ。 いくら学生だって君のように金にかけるとのん気なのが多いだろう。 なに善意に払わないのは文芸協会のほうでもやかましくは言わないはずだ。 どうせいくら切符が売れたってとどのつまりは協会の借金になることは明らかだから。 この家ではまだ電気を引かないのか。 まだ引かない。 そのうち電気にするつもりだそうだ。 ランプは暗くていかんね。 おい小川たいへんな事ができてしまった。 広田先生じゃなかったんだな。 これはたしかなのか。 どうも。 たいてい大丈夫だろうと思っていたんだがな。 やりそくなった。 もっともこの男がだいぶ運動をしているという話は聞いたこともあるが。 しかしこれだけじゃまだ風説じゃないか。 いよいよ発表になってみなければわからないのだから。 いやそれだけならむろんかまわない。 先生の関係したことじゃないからしかし。 偉大なる暗闇。 困るなあ。 君これをどう思う。 どう思うとは。 投書をそのまま出したに違いない。 けっして社のほうで調べたものじゃない。 文芸時評の六号活字の投書にこんなのがいくらでも来る。 六号活字はほとんど罪悪のかたまりだ。 よくよく探ってみると嘘が多い。 目に見えた嘘をついているのもある。 なぜそんな愚な事をやるかというとね君。 みんな利害問題が動機になっているらしい。 それでぼくが六号活字を受持っている時には性質のよくないのはたいてい屑籠へ放り込んだ。 この記事もまったくそれだね。 反対運動の結果だ。 なぜ君の名が出ないでぼくの名が出たものだろうな。 そうさ。 やっぱりなんだろう。 君は本科生でぼくは選科生だからだろう。 ぜんたいぼくが零余子なんてけちな号を使わずに堂々と佐々木与次郎と署名しておけばよかった。 じっさいあの論文は佐々木与次郎以外に書ける者は一人もないんだからなあ。 偉大なる暗闇。 君先生に話したか。 さあそこだ。 偉大なる暗闇の作者なんか君だってぼくだってどちらだってかまわないがこと先生の人格に関係してくる以上は話さずにはいられない。 ああいう先生だからいっこう知りません何か間違いでしょう偉大なる暗闇という論文は雑誌に出ましたが匿名です先生の崇拝者が書いたものですから御安心なさいくらいに言っておけばそうかですぐ済んでしまうわけだがこのさいそうはいかん。 どうしたってぼくが責任を明らかにしなくっちゃ。 事がうまくいって知らん顔をしているのは心持ちがいいがやりそくなって黙っているのは不愉快でたまらない。 第一自分が事を起こしておいてああいう善良な人を迷惑な状態に陥らしてそれで平気に見物がしておられるものじゃない。 正邪曲直なんてむずかしい問題は別としてただ気の毒でいたわしくっていけない。 先生は新聞を読んだんだろうか。 家へ来る新聞にゃない。 だからぼくも知らなかった。 しかし先生は学校へ行っていろいろな新聞を見るからね。 よし先生が見なくってもだれか話すだろう。 するともう知ってるな。 むろん知ってるだろう。 君にはなんとも言わないか。 言わない。 もっともろくに話をする暇もないんだから言わないはずだが。 このあいだから演芸会の事でしじゅう奔走しているものだから――ああ演芸会ももういやになった。 やめてしまおうかしらん。 おしろいをつけて芝居なんかやったって何がおもしろいものか。 先生に話したら君しかられるだろう。 しかられるだろう。 しかられるのはしかたがないがいかにも気の毒でね。 よけいな事をして迷惑をかけてるんだから。 ――先生は道楽のない人でね。 酒は飲まず煙草は。 煙草だけはかなりのむがそのほかになんにもないぜ。 釣りをするじゃなし碁を打つじゃなし家庭の楽しみがあるじゃなし。 あれがいちばんいけない。 子供でもあるといいんだけれども。 じつに枯淡だからなあ。 たまに慰めようと思って少し奔走するとこんなことになるし。 君も先生の所へ行ってやれ。 行ってやるどころじゃない。 ぼくにも多少責任があるからあやまってくる。 君はあやまる必要はない。 じゃ弁解してくる。 ハイドリオタフヒア。 偉大なる暗闇。 やあ女の手紙だな。 なに母からだ。 里見のお嬢さんからじゃないのか。 いいや。 君里見のお嬢さんのことを聞いたか。 何を。 いつ来たの。 いや起きる。 ありがとう。 書物を返します。 ああ。 ――読んだの。 読んだけれどもよくわからんです。 第一標題がわからんです。 ハイドリオタフヒア。 なんのことですか。 なんのことかぼくにもわからない。 とにかくギリシア語らしいね。 ああ眠かった。 いい心持ちに寝た。 おもしろい夢を見てね。 まだのびるかもしれない。 もうだめです。 三年来このとおりです。 そうかな。 佐々木はまだ帰らないようですな。 きょうはおそくなるとか言って断わっていた。 このあいだから演芸会のことでだいぶん奔走しているようだが世話好きなんだか駆け回ることが好きなんだかいっこう要領を得ない男だ。 親切なんですよ。 目的だけは親切なところも少しあるんだがなにしろ頭のできがはなはだ不親切なものだからろくなことはしでかさない。 ちょっと見ると要領を得ている。 むしろ得すぎている。 けれども終局へゆくとなんのために要領を得てきたのだかまるでめちゃくちゃになってしまう。 いくら言っても直さないからほうっておく。 あれは悪戯をしに世の中へ生まれて来た男だね。 あの新聞の記事を御覧でしたか。 ええ見た。 新聞に出るまではちっとも御存じなかったのですか。 いいえ。 お驚きなすったでしょう。 驚くって――それはまったく驚かないこともない。 けれども世の中の事はみんなあんなものだと思ってるから若い人ほど正直に驚きはしない。 御迷惑でしょう。 迷惑でないこともない。 けれどもぼくくらい世の中に住み古した年配の人間ならあの記事を見てすぐ事実だと思い込む人ばかりもないからやっぱり若い人ほど正直に迷惑とは感じない。 与次郎は社員に知った者があるからその男に頼んで真相を書いてもらうのあの投書の出所を捜して制裁を加えるの自分の雑誌で十分|反駁をいたしますのと善後策の了見でくだらない事をいろいろ言うがそんな手数をするならばはじめからよけいな事を起こさないほうがいくらいいかわかりゃしない。 まったく先生のためを思ったからです。 悪気じゃないです。 悪気でやられてたまるものか。 第一ぼくのために運動をするものがさぼくの意向も聞かないでかってな方法を講じたりかってな方針を立てたひには最初からぼくの存在を愚弄していると同じことじゃないか。 存在を無視されているほうがどのくらい体面を保つにつごうがいいかしれやしない。 そうして偉大なる暗闇なんて愚にもつかないものを書いて。 ――新聞には君が書いたとしてあるが実際は佐々木が書いたんだってね。 そうです。 ゆうべ佐々木が自白した。 君こそ迷惑だろう。 あんなばかな文章は佐々木よりほかに書く者はありゃしない。 ぼくも読んでみた。 実質もなければ品位もないまるで救世軍の太鼓のようなものだ。 読者の悪感情を引き起こすために書いてるとしか思われやしない。 徹頭徹尾故意だけで成り立っている。 常識のある者が見ればどうしてもためにするところがあって起稿したものだと判定がつく。 あれじゃぼくが門下生に書かしたと言われるはずだ。 あれを読んだ時にはなるほど新聞の記事はもっともだと思った。 済んだ事はもうやめよう。 佐々木も昨夜ことごとくあやまってしまったからきょうあたりはまた晴々して例のごとく飛んで歩いているだろう。 いくら陰で不心得を責めたって当人が平気で切符なんぞ売って歩いていてはしかたがない。 それよりもっとおもしろい話をしよう。 ええ。 ぼくがさっき昼寝をしている時おもしろい夢を見た。 それはねぼくが生涯にたった一ぺん会った女に突然夢の中で再会したという小説じみたお話だがそのほうが新聞の記事より聞いていても愉快だよ。 ええ。 どんな女ですか。 十二三のきれいな女だ。 顔に黒子がある。 いつごろお会いになったのですか。 二十年ばかりまえ。 よくその女ということがわかりましたね。 夢だよ。 夢だからわかるさ。 そうして夢だから不思議でいい。 ぼくがなんでも大きな森の中を歩いている。 あの色のさめた夏の洋服を着てねあの古い帽子をかぶって。 ――そうその時はなんでもむずかしい事を考えていた。 すべて宇宙の法則は変らないが法則に支配されるすべて宇宙のものは必ず変る。 するとその法則は物のほかに存在していなくてはならない。 ――さめてみるとつまらないが夢の中だからまじめにそんな事を考えて森の下を通って行くと突然その女に会った。 行き会ったのではない。 向こうはじっと立っていた。 見ると昔のとおりの顔をしている。 昔のとおりの服装をしている。 髪も昔の髪である。 黒子もむろんあった。 つまり二十年まえ見た時と少しも変らない十二三の女である。 ぼくがその女にあなたは少しも変らないというとその女はぼくにたいへん年をお取りなすったという。 次にぼくがあなたはどうしてそう変らずにいるのかと聞くとこの顔の年この服装の月この髪の日がいちばん好きだからこうしていると言う。 それはいつの事かと聞くと二十年まえあなたにお目にかかった時だという。 それならぼくはなぜこう年を取ったんだろうと自分で不思議がると女があなたはその時よりももっと美しいほうへほうへとお移りなさりたがるからだと教えてくれた。 その時ぼくが女にあなたは絵だと言うと女がぼくにあなたは詩だと言った。 それからどうしました。 それから君が来たのさ。 二十年まえに会ったというのは夢じゃない本当の事実なんですか。 本当の事実なんだからおもしろい。 どこでお会いになったんですか。 憲法発布は明治二十二年だったね。 その時森文部大臣が殺された。 君は覚えていまい。 いくつかな君は。 そうそれじゃまだ赤ん坊の時分だ。 ぼくは高等学校の生徒であった。 大臣の葬式に参列するのだと言っておおぜい鉄砲をかついで出た。 墓地へ行くのだと思ったらそうではない。 体操の教師が竹橋内へ引っ張って行って道ばたへ整列さした。 我々はそこへ立ったなり大臣の柩を送ることになった。 名は送るのだけれどもじつは見物したのも同然だった。 その日は寒い日でね今でも覚えている。 動かずに立っていると靴の下で足が痛む。 隣の男がぼくの鼻を見ては赤い赤いと言った。 やがて行列が来た。 なんでも長いものだった。 寒い目の前を静かな馬車や俥が何台となく通る。 そのうちに今話した小さな娘がいた。 今その時の模様を思い出そうとしてもぼうとしてとても明瞭に浮かんで来ない。 ただこの女だけは覚えている。 それも年をたつにしたがってだんだん薄らいで来た今では思い出すこともめったにない。 きょう夢を見るまえまではまるで忘れていたけれどもその当時は頭の中へ焼きつけられたように熱い印象を持っていた。 ――妙なものだ。 それからその女にはまるで会わないんですか。 まるで会わない。 じゃどこのだれだかまったくわからないんですか。 むろんわからない。 尋ねてみなかったですか。 いいや。 先生はそれで。 それで。 それで結婚をなさらないんですか。 それほど浪漫的な人間じゃない。 ぼくは君よりもはるかに散文的にできている。 しかしもしその女が来たらおもらいになったでしょう。 そうさね。 もらったろうね。 そのために独身を余儀なくされたというとぼくがその女のために不具にされたと同じ事になる。 けれども人間には生まれついて結婚のできない不具もあるし。 そのほかいろいろ結婚のしにくい事情を持っている者がある。 そんなに結婚を妨げる事情が世の中にたくさんあるでしょうか。 ハムレットは結婚したくなかったんだろう。 ハムレットは一人しかいないかもしれないがあれに似た人はたくさんいる。 たとえばどんな人です。 たとえば。 たとえばここに一人の男がいる。 父は早く死んで母一人を頼りに育ったとする。 その母がまた病気にかかっていよいよ息を引き取るというまぎわに自分が死んだら誰某の世話になれという。 子供が会ったこともない知りもしない人を指名する。 理由を聞くと母がなんとも答えない。 しいて聞くとじつは誰某がお前の本当のおとっさんだとかすかな声で言った。 ――まあ話だがそういう母を持った子がいるとする。 するとその子が結婚に信仰を置かなくなるのはむろんだろう。 そんな人はめったにないでしょう。 めったには無いだろうがいることはいる。 しかし先生のはそんなのじゃないでしょう。 君はたしかおっかさんがいたね。 ええ。 おとっさんは。 死にました。 ぼくの母は憲法発布の翌年に死んだ。 おいでになりませんか。 君行くならいっしょに出よう。 ぼくも散歩ながらそこまで行くから。 雨になるかもしれない。 降ると困るでしょう。 出入りにね。 日本の芝居小屋は下足があるから天気のいい時ですらたいへんな不便だ。 それで小屋の中は空気が通わなくって煙草が煙って頭痛がして――よくみんなあれで我慢ができるものだ。 ですけれどもまさか戸外でやるわけにもいかないからでしょう。 お神楽はいつでも外でやっている。 寒い時でも外でやる。 ぼくは戸外がいい。 暑くも寒くもないきれいな空の下で美しい空気を呼吸して美しい芝居が見たい。 透明な空気のような純粋で簡単な芝居ができそうなものだ。 先生の御覧になった夢でも芝居にしたらそんなものができるでしょう。 君ギリシアの芝居を知っているか。 よく知りません。 たしか戸外でやったんですね。 戸外。 まっ昼間。 さぞいい心持ちだったろうと思う。 席は天然の石だ。 堂々としている。 与次郎のようなものはそういう所へ連れて行って少し見せてやるといい。 どうですせっかくだからおはいりになりませんか。 いやはいらない。 なにゆうべは行ったんだ。 行ったんだ。 君が舞台の上に出てきて美禰子さんと遠くで話をしていたのもちゃんと知っている。 だいぶ熱がある。 薬を飲まなくっちゃいけない。 風邪を引いたんだ。 演芸場があまり暑すぎて明るすぎてそうして外へ出ると急に寒すぎて暗すぎるからだ。 あれはよくない。 いけないたってしかたがないじゃないか。 しかたがないったっていけない。 君そこにいるのか。 風邪だろう。 風邪だろう。 君このあいだ美禰子さんの事を知ってるかとぼくに尋ねたね。 美禰子さんの事を。 どこで。 学校で。 学校で。 いつ。 なるほどそんな事があったかもしれない。 じゃなんじゃないか。 美禰子さんが嫁に行くという話じゃないか。 きまったのか。 きまったように聞いたがよくわからない。 野々宮さんの所か。 いや野々宮さんじゃない。 じゃ。 君知ってるのか。 知らない。 どうもよくわからない。 不思議な事があるんだが。 もう少したたないとどうなるんだか見当がつかない。 ばかだなああんな女を思って。 思ったってしかたがないよ。 第一君と同年ぐらいじゃないか。 同年ぐらいの男にほれるのは昔の事だ。 八百屋お七時代の恋だ。 なぜというに。 二十前後の同じ年の男女を二人並べてみろ。 女のほうが万事|上手だあね。 男は馬鹿にされるばかりだ。 女だって自分の軽蔑する男の所へ嫁へ行く気は出ないやね。 もっとも自分が世界でいちばん偉いと思ってる女は例外だ。 軽蔑する所へ行かなければ独身で暮らすよりほかに方法はないんだから。 よく金持ちの娘や何かにそんなのがあるじゃないか望んで嫁に来ておきながら亭主を軽蔑しているのが。 美禰子さんはそれよりずっと偉い。 その代り夫として尊敬のできない人の所へははじめから行く気はないんだから相手になるものはその気でいなくっちゃいけない。 そういう点で君だのぼくだのはあの女の夫になる資格はないんだよ。 そりゃ君だってぼくだってあの女よりはるかに偉いさ。 お互いにこれでもなあ。 けれどももう五六年たたなくっちゃその偉さ加減がかの女の目に映ってこない。 しかしてかの女は五六年じっとしている気づかいはない。 したがって君があの女と結婚する事は風馬牛だ。 なにもう五六年もするとあれよりずっと上等なのがあらわれて来るよ。 日本じゃ今女のほうが余っているんだから。 風邪なんか引いて熱を出したってはじまらない。 ――なに世の中は広いから心配するがものはない。 じつはぼくにもいろいろあるんだがぼくのほうであんまりうるさいから御用で長崎へ出張すると言ってね。 なんだそれは。 なんだってぼくの関係した女さ。 なに女だって君なんぞのかつて近寄ったことのない種類の女だよ。 それをね長崎へ黴菌の試験に出張するから当分だめだって断わっちまった。 ところがその女が林檎を持って停車場まで送りに行くと言いだしたんでぼくは弱ったね。 それでどうした。 どうしたか知らない。 林檎を持って停車場に待っていたんだろう。 ひどい男だ。 よくそんな悪い事ができるね。 悪い事でかあいそうな事だとは知ってるけれどもしかたがない。 はじめから次第次第にそこまで運命に持っていかれるんだから。 じつはとうのさきからぼくが医科の学生になっていたんだからなあ。 なんでそんなよけいな嘘をつくんだ。 そりゃまたそれぞれの事情のあることなのさ。 それで女が病気の時に診断を頼まれて困ったこともある。 その時は舌を見て胸をたたいていいかげんにごまかしたがその次に病院へ行って見てもらいたいがいいかと聞かれたには閉口した。 そういうこともたくさんあるからまあ安心するがよかろう。 だから薬を飲んで待っていなくってはいけない。 病気が直っても寝て待っている。 いらっしゃい。 寝ていらっしゃい。 臭くはないですか。 ええ少し。 熱がおありなの。 なんなんでしょう御病気は。 お医者はいらしって。 医者はゆうべ来ました。 インフルエンザだそうです。 けさ早く佐々木さんがおいでになって小川が病気だから見舞いに行ってやってください。 何病だかわからないがなんでも軽くはないようだっておっしゃるものだから私も美禰子さんもびっくりしたの。 どうもありがとう。 美禰子さんの御注意があったから買ってきました。 美禰子さんもあがるはずですがこのごろ少し忙しいものですから――どうぞよろしくって。 何か特別に忙しいことができたのですか。 ええ。 できたの。 蜜柑をむいてあげましょうか。 おいしいでしょう。 美禰子さんのお見舞よ。 もうたくさん。 野々宮さんあなたの御縁談はどうなりました。 あれぎりです。 美禰子さんにも縁談の口があるそうじゃありませんか。 ええもうまとまりました。 だれですかさきは。 私をもらうと言ったかたなの。 ほほほおかしいでしょう。 美禰子さんのお兄いさんのお友だちよ。 私近いうちにまた兄といっしょに家を持ちますの。 美禰子さんが行ってしまうともうご厄介になってるわけにゆかないから。 あなたはお嫁には行かないんですか。 行きたい所がありさえすれば行きますわ。 もうすっかりいいんですか。 ありがとう。 もう直りました。 ――里見さんはどこへ行ったんですか。 にいさん。 いいえ美禰子さんです。 美禰子さんは会堂。 どうなすって。 今お宅までちょっと出たところです。 そうじゃいらっしゃい。 ここでお目にかかればそれでよい。 さっきからあなたの出て来るのを待っていた。 おはいりになればよいのに。 寒かったでしょう。 寒かった。 お風邪はもうよいの。 大事になさらないとぶり返しますよ。 まだ顔色がよくないようね。 拝借した金です。 ながながありがとう。 返そう返そうと思ってついおそくなった。 あなた御不自由じゃなくって。 いいえこのあいだからそのつもりで国から取り寄せておいたのだからどうか取ってください。 そう。 じゃいただいておきましょう。 ヘリオトロープ。 結婚なさるそうですね。 御存じなの。 我はわが愆を知る。 わが罪は常にわが前にあり。 森の女。 森の女。 森の女。 どうです。 結構です。 この団扇をかざして立った姿勢がいい。 さすが専門家は違いますね。 よくここに気がついたものだ。 光線が顔へあたるぐあいがうまい。 陰と日向の段落がかっきりして――顔だけでも非常におもしろい変化がある。 いや皆御当人のお好みだから。 ぼくの手柄じゃない。 おかげさまで。 私もおかげさまで。 森の女。 あれだあれだ。 すてきに大きなもの描いたな。 佐々木に買ってもらうつもりだそうだ。 ぼくより。 色の出し方がなかなか洒落ていますね。 むしろ意気な絵だ。 少し気がききすぎているくらいだ。 これじゃ鼓の音のようにぽんぽんする絵はかけないと自白するはずだ。 なんですぽんぽんする絵というのは。 鼓の音のように間が抜けていておもしろい絵の事さ。 里見さんを描いちゃだれが描いたって間が抜けてるようには描けませんよ。 どうだ森の女は。 森の女という題が悪い。 じゃなんとすればよいんだ。 是は萎み掛けた所と思い玉え。 下手いのは病気の所為だと思い玉え。 嘘だと思わば肱を突いて描いて見玉え。 拙。 是は萎み掛けた所と思ひ玉へ。 下手いのは病氣の所爲だと思ひ玉へ。 嘘だと思はゞ肱を突いて描いて見玉へ。 拙。 である。 のだ。 である。 のだ。 ラヴェンダー・ヒル。 どこへ行って乗ろう。 どこだって今日初めて乗るのだからなるたけ人の通らない道の悪くない落ちても人の笑わないようなところに願いたい。 クラパム・コンモン。 さあここで乗って見たまえ。 初めから腰を据えようなどというのが間違っているペダルに足をかけようとしても駄目だよただしがみついて車が一回転でもすれば上出来なんだ。 もう一遍頼むよもっと強く押してくれたまえなにまた落ちる。 落ちたって僕の身体だよ。 御調べになる時はブリチッシュ・ミュジーアムへ御出かけになりますか。 あすこへはあまり参りません本へやたらにノートを書きつけたり棒を引いたりする癖があるものですから。 さよう自分の本の方が自由に使えて善ですねしかし私などは著作をしようと思うとあすこへ出かけます。 夏目さんは大変御勉強だそうですね。 あまり勉強もしません近頃は人から勧められて自転車を始めたものですから朝から晩までそればかりやっています。 自転車は面白うござんすね宅ではみんな乗りますよあなたもやはり遠乗をなさいましょう。 さよう遠乗というほどの事もまだしませんが坂の上から下の方へ勢よく乗りおろす時なんかすこぶる愉快ですね。 いつか夏目さんといっしょに皆でウィンブルドンへでも行ったらどうでしょう。 それは面白いでしょうしかし。 御勉強で御忙しいでしょうが今度の土曜ぐらいは御閑でいらっしゃいましょう。 しかし。 しかし。 しかし。 しかしあまり人通りの多い所ではエーアノーまだ練れませんから。 いえあの辺の道路は実に閑静なものですよ。 しかし。 しかし今度の土曜は天気でしょうか。 ウィンブルドン。 クラパムコンモン。 御気の毒だね。 ラヴェンダー。 作物の批評。 人を屠りて餓えたる犬を救え。 血を啜れ。 肉を食え。 肉を食え。 肉を食え。 肉の後には骨をしゃぶれ。 もう直です二時四十五分ですから。 あなたも御親戚を御迎いに御出になったので。 ええ。 どうも気が急くものですからつい昼飯を食わずに来てもう二時間半ばかり待ちます。 凱旋の兵士はみんなここを通りましょうか。 ええみんな通るんです一人残らず通るんだから二時間でも三時間でもここにさえ立っていれば間違いっこありません。 ついたようですぜ。 なあにここに立ってさえいれば大丈夫。 なあにまだ大丈。 奇麗ですな。 今年は暖たかだもんですからよく持ちます。 あれもあなた浩一の大好きな菊で。 へえ白いのが好きでしたかな。 白い小さい豆のようなのが一番面白いと申して自分で根を貰って来てわざわざ植えたので御座います。 なるほどそんな事がありましたな。 御叔母さん近頃は御寺参りをなさいますか。 いえせんだって中から風邪の気味で五六日伏せっておりましたものですからついつい仏へ無沙汰を致しまして。 ――うちにおっても忘れる間はないのですけれども――年をとりますと御湯に行くのも退儀になりましてね。 時々は少し表をあるく方が薬ですよ。 近頃はいい時候ですから。 御親切にありがとう存じます。 親戚のものなども心配して色々云ってくれますがどうもあなた何分元気がないものですからそれにこんな婆さんを態々連れてあるいてくれるものもありませず。 はああ。 御親類の若い御嬢さんでもあるとこんな時には御相手にいいですがね。 生憎そんな娘もおりませず。 それに人の子にはやはり遠慮勝ちでせがれに嫁でも貰って置いたらこんな時にはさぞ心丈夫だろうと思います。 ほんに残念な事をしました。 実際残念な事をしましたね。 全体浩さんはなぜ嫁をもらわなかったんですか。 いえあなた色々探しておりますうちに旅順へ参るようになったもので御座んすから。 それじゃ当人も貰うつもりでいたんでしょう。 それは。 その事について浩一は何かあなたに御話をした事は御座いませんか。 嫁の事ですか。 ええ誰か自分の好いたものがあるような事を。 いいえ。 御叔母さんには何か話しましたろう。 いいえ。 あの先日御話しの日記ですね。 あの中に何かかいてはありませんか。 ええあれを見ないうちは何とも思わなかったのですがつい見たものですから。 日記に何か書いてありますか。 それは是非拝見しましょう。 宅へ帰ってもいいですか。 どうぞ。 風坑道内にて食事。 握り飯二個。 泥まぶれ。 夜来|風邪の気味発熱。 診察を受けず例のごとく勤務。 テント外の歩哨散弾に中る。 テントに仆れかかる。 血痕を印す。 五時大突撃。 中隊全滅不成功に終る。 残念※。 二三日一睡もせんので勤務中坑内|仮寝。 郵便局で逢った女の夢を見る。 ただ二三分の間顔を見たばかりの女をほど経て夢に見るのは不思議である。 よほど衰弱している証拠であろうしかし衰弱せんでもあの女の夢なら見るかも知れん。 旅順へ来てからこれで三度見た。 近世の軍略において攻城は至難なるものの一として数えらる。 我が攻囲軍の死傷多きは怪しむに足らず。 この二三ヶ月間に余が知れる将校の城下に斃れたる者は枚挙に遑あらず。 死は早晩余を襲い来らん。 余は日夜に両軍の砲撃を聞きて今か今かと順番の至るを待つ。 余の運命もいよいよ明日に逼った。 軍人が軍さで死ぬのは当然の事である。 死ぬのは名誉である。 ある点から云えば生きて本国に帰るのは死ぬべきところを死に損なったようなものだ。 今日限りの命だ。 二竜山を崩す大砲の声がしきりに響く。 死んだらあの音も聞えぬだろう。 耳は聞えなくなっても誰か来て墓参りをしてくれるだろう。 そうして白い小さい菊でもあげてくれるだろう。 寂光院は閑静な所だ。 強い風だ。 いよいよこれから死にに行く。 丸に中って仆れるまで旗を振って進むつもりだ。 御母さんは寒いだろう。 そうだこの問題は遺伝で解ける問題だ。 遺伝で解けばきっと解ける。 その老人は色々昔の事を記憶しているだろうな。 うん何でも知っている。 維新の時なぞはだいぶ働いたそうだ。 槍の名人でね。 まだ家令を務めているくらいなら記憶はたしかだろうな。 たしか過ぎて困るね。 屋敷のものがみんな弱っている。 もう八十近いのだが人間も随分丈夫に製造する事が出来るもんだね。 当人に聞くと全く槍術の御蔭だと云ってる。 それで毎朝起きるが早いか槍をしごくんだ。 槍はいいがその老人に紹介して貰えまいか。 いつでもして上げる。 やああなたが何の御友達で。 妙な事を伺いますがもと御藩に河上と云うのが御座いましたろう。 河上――河上と云うのはあります。 河上才三と云うて留守居を務めておった。 その子が貢五郎と云うてやはり江戸詰で――せんだって旅順で戦死した浩一の親じゃて。 ――あなた浩一の御つき合いか。 それはそれは。 いや気の毒な事で――母はまだあるはずじゃが。 その河上について何か面白い御話はないでしょうか。 河上。 河上にも今御話しする通り何人もある。 どの河上の事を御尋ねか。 どの河上でも構わんです。 面白い事と云うてどんな事を。 どんな事でも構いません。 ちと材料が欲しいので。 材料。 何になさる。 ちと取調べたい事がありまして。 なある。 貢五郎と云うのはだいぶ慷慨家で維新の時などはだいぶ暴ばれたものだ――或る時あなた長い刀を提げてわしの所へ議論に来て。 いえそう云う方面でなく。 もう少し家庭内に起った事柄で面白いと今でも人が記憶しているような事件はないでしょうか。 貢五郎という人の親はどんな性質でしたろう。 才三かな。 これはまた至って優しい――あなたの知っておらるる浩一に生き写しじゃよく似ている。 似ていますか。 ああ実によく似ている。 それでその頃は維新には間もある事で世の中も穏かであったのみならず役が御留守居だからだいぶ金を使って風流をやったそうだ。 その人の事について何か艶聞が――艶聞と云うと妙ですが――ないでしょうか。 いや才三については憐れな話がある。 その頃家中に小野田帯刀と云うて二百石取りの侍がいてちょうど河上と向い合って屋敷を持っておった。 この帯刀に一人の娘があってそれがまた藩中第一の美人であったがなあなた。 なるほど。 それで両家は向う同志だから朝夕往来をする。 往来をするうちにその娘が才三に懸想をする。 何でも才三方へ嫁に行かねば死んでしまうと騒いだのだて――いや女と云うものは始末に行かぬもので――是非行かして下されと泣くじゃ。 ふんそれで思う通りに行きましたか。 で帯刀から人をもって才三の親に懸合うと才三も実は大変貰いたかったのだからその旨を返事する。 結婚の日取りまできめるくらいに事が捗どったて。 結構な事で。 そこまでは結構だったが――飛んだ故障が出来たじゃ。 へええ。 その頃|国家老にやはり才三くらいな年恰好なせがれが有ってこのせがれがまた帯刀の娘に恋慕して是非貰いたいと聞き合せて見るともう才三方へ約束が出来たあとだ。 いかに家老の勢でもこればかりはどうもならん。 ところがこのせがれが幼少の頃から殿様の御相手をして成長したもので非常に御上の御気に入りでのあなた。 ――どこをどう運動したものか殿様の御意でその方の娘をあれに遣わせと云う御意が帯刀に下りたのだて。 気の毒ですな。 実に気の毒な事だて御上の仰せだから内約があるの何のと申し上げても仕方がない。 それで帯刀が娘に因果を含めてとうとう河上方を破談にしたな。 両家が従来の通り向う合せでは何かにつけて妙でないと云うので帯刀は国詰になる河上は江戸に残ると云う取り計をわしのおやじがやったのじゃ。 河上が江戸で金を使ったのも全くそんなこんなで残念を晴らすためだろう。 それでこの事がな今だから御話しするようなものの当時はぱっとすると両家の面目に関わると云うので内々にして置いたから割合に人が知らずにいる。 その美人の顔は覚えて御出でですか。 覚えているともわしもその頃は若かったからな。 若い者には美人が一番よく眼につくようだて。 どんな顔ですか。 どんなと云うて別に形容しようもない。 しかし血統と云うは争われんもので今の小野田の妹がよく似ている。 ――御存知はないかなやはり大学出だが――工学博士の小野田を。 白山の方にいるでしょう。 やはり御承知か原町にいる。 あの娘もまだ嫁に行かんようだが。 ――御屋敷の御姫様の御相手に時々来ます。 さっき浩一の名前をおっしゃったようですが浩一は存生中御屋敷へよく上がりましたか。 いいえただ名前だけ聞いているばかりで――おやじは先刻御話をした通りわしと終夜激論をしたくらいな間柄じゃがせがれは五六歳のときに見たぎりで――実は貢五郎が早く死んだものだから屋敷へ出入する機会もそれぎり絶えてしもうて――その後は頓と逢うた事がありません。 近頃一人の息子を旅順で亡くして朝夕|淋しがって暮らしている女がいる。 慰めてやろうと思っても男ではうまく行かんからおひまな時に御嬢さんを時々遊びにやって上げて下さいとあなたから博士に頼んで見て頂きたい。 十三日に降ったら大変だなあ。 天気の時より病人が増えるだろう。 私ももう直五十二になります。 今日は二百二十日だそうで。 クタバル。 エリオツト。 サツカレー。 ブロンテ。 カツスルオフオトラントー。 タムオーシヤンター。 マクベス。 ホーソーン。 コルリツヂ。 ポー。 ポー。 バーンス。 インスピレーション。 インスピレーション。 デクインシー。 デクインシー。 サイン。 コサイン。 無事御帰京を祝す。 多元的宇宙。 午前ジェームスを読み了る。 好い本を読んだと思う。 思い出す事など。 現代的気風。 思い出す事など。 思い出す事など。 思い出す事など。 思い出す事など。 静これを性となせば心|其中にあり動これを心となせば性其中にあり心|生ずれば性|滅し心滅すれば性生ず。 梅子事|末の弟を伴れて塔の沢の福住へ参り居り候処水害のため福住は浪に押し流され浴客六十名のうち十五名|行方不明との事にて生死の程も分らず如何とも致し方なく横浜へは汽車不通にて参る事|叶わず電話は申込者多数にて一日を待たねば通じ不申。 家の人達は無事ですかどこへ行きましたかと聞いたら薪屋の御上さんが昨晩の十二時頃に崖が崩れましたが幸いにどなたも御怪我はございません。 ひとまず柳町のこういう所へ御引移りになりましたと教えてくれましたから柳町へ来て見るとまだ水の引き切らない床下のぴたぴたに濡れた貸家に畳建具も何も入れずに荷物だけ運んでありました。 実に何と云って好いか憐れな姿でお種さんが私の顔を見ると馳け出して来ました。 晩の御飯を拵える事もできないだろうと思って御寿司を誂えて御夕飯の代りに上げました。 山荘にて。 弱い。 ええ。 駄目だろう。 ええ。 子供に会わしたらどうだろう。 そう。 容体を聞くと危険なれどごく安静にしていれば持ち直すかも知れぬという。 夢と幽霊。 霊妙なる心力。 死後の生。 安心して療養せよ。 神聖なる疾。 本当に殺されるのか。 もし最後の一節を欠いたなら余はけっして正気ではいられなかったろう。 自我の主張。 自我の主張。 自我の主張。 自我の主張。 人よりも空語よりも黙。 肩に来て人|懐かしや赤蜻蛉。 御祖母様が雨がふっても風がふいても毎日毎日一日もかかさず御しゃか様へ御詣を遊ばす御百度をなされ御父様の御病気一日も早く御全快を祈り遊ばされまた高田の御伯母様どこかの御宮へか御詣り遊ばすとのことに御座候ふさきよみむめの三人の連中は毎日猫の墓へ水をとりかえ花を差し上げて早く御父様の全快を御祈りに居り候。 御父様の御病気はいかがでございますか私は無事に暮しておりますから御安心なさいませ。 御父様も私の事を思わずに御病気を早く直して早く御帰りなさいませ。 私は毎日休まずに学校へ行って居ります。 また御母様によろしく。 ヴァージニバス・ピュエリスク。 ヴァージニバス・ピュエリスク。 今日も時刻をハヅシテ御馳走ニナル。 どうも難有う御座います。 告別の辞。 自分の指導を受けた学生によろしく。 自分の指導を受けた先生によろしく。 創作家の態度。 眉のような月。 君富士山へ登ったそうじゃないか。 うん登った。 どんなだい。 どんなのこんなのって大変さ。 どうして。 まず足は棒になる腹は豆腐になる。 へえー。 それから耳の底でダイナマイトが爆発して眼の奥で大火事が始まったかと思うと頭葢骨の中で大地震が揺り出した。 誰さんは金が欲しいために奥さんを離別しました。 そうかそれも一つの事実さね。 あの男は芸者を受け出すために泥棒をしたそうです。 はあそれも一つの事実さね。 誰さんはちっとも約束を守らないで困りますよ。 なるほどそれも一つの事実だね。 御前は必竟芸術家だ。 本当の恋はできない。 先生大変な事が始まりましたな。 学校騒動の事ぢやないか。 だつて痛快ぢやありませんか。 校長排斥がですか。 えゝ到底辞職もんでせう。 校長が辞職でもすれば君は何か儲かる事でもあるんですか。 冗談云つちや不可ません。 さう損得づくで痛快がられやしません。 君あれは本当に校長が悪らしくつて排斥するのか他に損得問題があつて排斥するのか知つてますか。 知りませんな。 何ですか先生は御存じなんですか。 僕も知らないさ。 知らないけれども今の人間が得にならないと思つてあんな騒動をやるもんかね。 ありや方便だよ君。 へえ左様なもんですかな。 先生は一体何を為る気なんだらうね。 小母さん。 あの位になつて入らつしやれば何でも出来ますよ。 心配するがものはない。 心配はせんがね。 何か為たら好ささうなもんだと思ふんだが。 まあ奥様でも御貰ひになつてから緩つくり御役でも御探しなさる御積りなんでせうよ。 いゝ積りだなあ。 僕もあんな風に一日本を読んだり音楽を聞きに行つたりして暮して居たいな。 御前さんが。 本は読まんでも好いがね。 あゝ云ふ具合に遊んで居たいね。 夫はみんな前世からの約束だから仕方がない。 左様なものかな。 君は何方の学校へ行つてるんですか。 もとは行きましたがな。 今は廃めちまいました。 もと何処へ行つたんです。 何処つて方々行きました。 然しどうも厭きつぽいもんだから。 ぢき厭になるんですか。 まあ左様ですな。 で大して勉強する考もないんですか。 えゝ一寸有りませんな。 それに近頃|家の都合があんまり好くないもんですから。 家の婆さんはあなたの御母さんを知つてるんだつてね。 えゝもと直近所に居たもんですから。 御母さんは矢っ張り。 矢っ張りつまらない内職をしてゐるんですがどうも近頃は不景気で余まり好くない様です。 好くない様ですつて君一所に居るんぢやないですか。 一所に居ることは居ますがつい面倒だから聞いた事もありません。 何でも能くこぼしてる様です。 兄さんは。 兄は郵便局の方へ出てゐます。 家は夫丈ですか。 まだ弟がゐます。 是は銀行の――まあ小使に少し毛の生えた位な所なんでせう。 すると遊んでるのは君許りぢやないか。 まあ左様なもんですな。 それで家にゐるときは何をしてゐるんです。 まあ大抵|寐てゐますな。 でなければ散歩でも為ますかな。 外のものがみんな稼いでるのに君許り寐てゐるのは苦痛ぢやないですか。 いえ左様でもありませんな。 家庭が余つ程円満なんですか。 別段喧嘩もしませんがな。 妙なもんで。 だつて御母さんや兄さんから云つたら一日も早く君に独立して貰ひたいでせうがね。 左様かも知れませんな。 君は余つ程気楽な性分と見える。 それが本当の所なんですか。 えゝ別に嘘を吐く料簡もありませんな。 ぢや全くの呑気屋なんだね。 えゝまあ呑気屋つて云ふもんでせうか。 兄さんは何歳になるんです。 斯うつと取つて六になりますか。 するともう細君でも貰はなくちやならないでせう。 兄さんの細君が出来ても矢っ張り今の様にしてゐる積ですか。 其時に為つて見なくつちや自分でも見当が付きませんが何しろどうか為るだらうと思つてます。 其外に親類はないんですか。 叔母が一人ありますがな。 こいつは今浜で運漕業をやつてます。 叔母さんが。 叔母が遣つてる訳でもないんでせうがまあ叔父ですな。 其所へでも頼んで使つて貰つちやどうです。 運漕業なら大分|人が要るでせう。 根が怠惰もんですからな。 大方断わるだらうと思つてるんです。 さう自任してゐちや困る。 実は君の御母さんが家の婆さんに頼んで君を僕の宅へ置いて呉れまいかといふ相談があるんですよ。 えゝ何だかそんな事を云つてました。 君自身は一体どう云ふ気なんです。 えゝ成るべく怠けない様にして。 家へ来る方が好いんですか。 まあ左様ですな。 然し寐て散歩する丈ぢや困る。 そりや大丈夫です。 身体の方は達者ですから。 風呂でも何でも汲みます。 風呂は水道があるから汲まないでも可い。 ぢや掃除でもしませう。 先生今朝は心臓の具合はどうですか。 今日はまだ大丈夫だ。 何だか明日にも危しくなりさうですな。 どうも先生見た様に身体を気にしちや――仕舞には本当の病気に取つ付かれるかも知れませんよ。 もう病気ですよ。 門野さん郵便は来て居なかつたかね。 郵便ですか。 斯うつと。 来てゐました。 端書と封書が。 机の上に置きました。 持つて来ますか。 いや僕が彼方へ行つても可い。 もう来たのか昨日着いたんだな。 君電話を掛けて呉れませんか。 家へ。 はあ御宅へ。 何て掛けます。 今日は約束があつて待ち合せる人があるから上がれないつて。 明日か明後日屹度伺ひますからつて。 はあ。 何方に。 親爺が旅行から帰つて来て話があるから一寸来いつて云ふんだが――何親爺を呼び出さないでも可いから誰にでも左様云つて呉れ給へ。 はあ。 何うした。 まあ緩くりするが好い。 おや椅子だね。 中々好い家だね。 思つたより好い。 それから以後何うだい。 何うの斯うのつて――まあ色々話すがね。 もとはよく手紙が来たから様子が分つたが近頃ぢや些とも寄さないもんだから。 いや何所も彼所も御無沙汰で。 僕より君はどうだい。 僕は相変らずだよ。 相変らずが一番|好いな。 あんまり相変るものだから。 やあ桜がある。 今漸やく咲き掛けた所だね。 余程気候が違ふ。 向ふは大分|暖かいだらう。 うん大分暖かい。 ありや何だい。 婆さんさ。 雇つたんだ。 飯を食はなくつちやならないから。 御世辞が好いね。 今迄斯んな所へ奉公した事がないんだから仕方がない。 君の家から誰か連れて呉れば好いのに。 大勢ゐるだらう。 みんな若いの許りでね。 若けりや猶結構ぢやないか。 兎に角|家の奴は好くないよ。 あの婆さんの外に誰かゐるのかい。 書生が一人ゐる。 それ限りかい。 それ限りだ。 何故。 細君はまだ貰はないのかい。 妻を貰つたら君の所へ通知|位する筈ぢやないか。 夫よりか君の。 久し振りだから其所いらで飯でも食はう。 人気のない夜桜は好いもんだよ。 好いだらう僕はまだ見た事がないが。 ――然しそんな真似が出来る間はまだ気楽なんだよ。 世の中へ出ると中々それ所ぢやない。 僕は所謂処世上の経験程愚なものはないと思つてゐる。 苦痛がある丈ぢやないか。 大分考へが違つて来た様だね。 ――けれども其苦痛が後から薬になるんだつてもとは君の持説ぢやなかつたか。 そりや不見識な青年が流俗の諺に降参して好加減な事を云つてゐた時分の持説だ。 もうとつくに撤回しちまつた。 だつて君だつてもう大抵世の中へ出なくつちやなるまい。 其時それぢや困るよ。 世の中へは昔から出てゐるさ。 ことに君と分れてから大変世の中が広くなつた様な気がする。 たゞ君の出てゐる世の中とは種類が違ふ丈だ。 そんな事を云つて威張つたつて今に降参する丈だよ。 無論食ふに困る様になれば何時でも降参するさ。 然し今日に不自由のないものが何を苦しんで劣等な経験を嘗めるものか。 印度人が外套を着て冬の来た時の用心をすると同じ事だもの。 僕の知つたものに丸で音楽の解らないものがある。 学校の教師をして一軒ぢや飯が食へないもんだから三軒も四軒も懸け持をやつてゐるがそりや気の毒なもんで下読をするのと教場へ出て器械的に口を動かしてゐるより外に全く暇がない。 たまの日曜抔は骨休めとか号して一日ぐう/\寐てゐる。 だから何所に音楽会があらうとどんな名人が外国から来やうと聞に行く機会がない。 つまり楽といふ一種の美くしい世界には丸で足を踏み込まないで死んで仕舞はなくつちやならない。 僕から云はせると是程憐れな無経験はないと思ふ。 麺麭に関係した経験は切実かも知れないが要するに劣等だよ。 麺麭を離れ水を離れた贅沢な経験をしなくつちや人間の甲斐はない。 君は僕をまだ坊っちやんだと考へてるらしいが僕の住んでゐる贅沢な世界では君よりずつと年長者の積りだ。 うん何時迄もさう云ふ世界に住んでゐられゝば結構さ。 少し歩かないか。 無暗に御世辞を使つたり胡麻を摺るのとは違ふが。 そりや無論さうだらう。 会社員なんてものは上になればなる程|旨い事が出来るものでね。 実は関なんてあれつ許の金を使ひ込んですぐ免職になるのは気の毒な位なものさ。 ぢや支店長は一番|旨い事をしてゐる訳だね。 或はそんなものかも知れない。 それで其男の使ひ込んだ金は何うした。 千に足らない金だつたから僕が出して置いた。 よく有つたね。 君も大分|旨い事をしたと見える。 旨い事をしたと仮定しても皆使つて仕舞つてゐる。 生活にさへ足りない位だ。 其金は借りたんだよ。 さうか。 支店長から借りて埋めて置いた。 何故支店長がぢかに其|関とか何とか云ふ男に貸して遣らないのかな。 それで是から先何うする積かね。 さあ。 矢っ張り今迄の経験もあるんだから同じ職業が可いかも知れないね。 さあ。 事情次第だが。 実は緩くり君に相談して見様と思つてゐたんだが。 何うだらう君の兄さんの会社の方に口はあるまいか。 うん頼んで見様二三日|内に家へ行く用があるから。 然し何うかな。 もし実業の方が駄目ならどつか新聞へでも這入らうかと思ふ。 夫も好いだらう。 三千代さんは何うした。 難有うまあ相変らずだ。 君に宜しく云つてゐた。 実は今日連れて来やうと思つたんだけれども何だか汽車に揺れたんで頭が悪いといふから宿屋へ置いて来た。 子供は惜しい事をしたね。 うん。 可哀想な事をした。 其節は又御叮嚀に難有う。 どうせ死ぬ位なら生れない方が好かつた。 其|後は何うだい。 まだ後は出来ないか。 うん未だにも何にももう駄目だらう。 身体があんまり好くないものだからね。 こんなに動く時は小供のない方が却つて便利で可いかも知れない。 夫もさうさ。 一層君の様に一人身なら猶の事気楽で可いかも知れない。 一人身になるさ。 冗談云つてら――夫よりか妻が頻りに君はもう奥さんを持つたらうか未だだらうかつて気にしてゐたぜ。 さう人間は自分丈を考へるべきではない。 世の中もある。 国家もある。 少しは人の為に何かしなくつては心持のわるいものだ。 御前だつてさうぶら/\してゐて心持の好い筈はなからう。 そりや下等社会の無教育のものなら格別だが最高の教育を受けたものが決して遊んで居て面白い理由がない。 学んだものは実地に応用して始めて趣味が出るものだからな。 左様です。 それは実業が厭なら厭で好い。 何も金を儲ける丈が日本の為になるとも限るまいから。 金は取らんでも構はない。 金の為に兎や角云ふとなると御前も心持がわるからう。 金は今迄通り己が補助して遣る。 おれももう何時死ぬか分らないし死にや金を持つて行く訳にも行かないし。 月々御前の生計位どうでもしてやる。 だから奮発して何か為るが好い。 国民の義務としてするが好い。 もう三十だらう。 左様です。 三十になつて遊民としてのらくらしてゐるのは如何にも不体裁だな。 えゝ困ります。 身体は丈夫だね。 二三年このかた風邪を引いた事もありません。 頭も悪い方ぢやないだらう。 学校の成蹟も可なりだつたんぢやないか。 まあ左様です。 夫で遊んでゐるのは勿体ない。 あの何とか云つたねそら御前の所へ善く話しに来た男があるだらう。 己も一二度逢つたことがある。 平岡ですか。 さう平岡。 あの人なぞはあまり出来の可い方ぢやなかつたさうだが卒業するとすぐ何処かへ行つたぢやないか。 其代り失敗てもう帰つて来ました。 どうして。 詰り食ふ為に働らくからでせう。 何か面白くない事でも遣つたのかな。 其場合々々で当然の事を遣るんでせうけれども其当然が矢っ張り失敗になるんでせう。 はあゝ。 若い人がよく失敗といふが全く誠実と熱心が足りないからだ。 己も多年の経験で此年になる迄|遣つて来たがどうしても此二つがないと成功しないね。 誠実と熱心があるために却つて遣り損ふこともあるでせう。 いや先ないな。 御前はどう云ふものか誠実と熱心が欠けてゐる様だ。 それぢや不可ん。 だから何にも出来ないんだ。 誠実も熱心もあるんですがたゞ人事上に応用出来ないんです。 何う云ふ訳で。 御父さんは論語だの王陽明だのといふ金の延金を呑んで入らつしやるから左様いふ事を仰しやるんでせう。 金の延金とは。 延金の儘|出て来るんです。 おや此所に入らつしやるの。 一寸其所らに私の櫛が落ちて居なくつて。 相変らず茫乎してるぢやありませんか。 御父さんから御談義を聞かされちまつた。 また。 能く叱られるのね。 御帰り匆々随分気が利かないわね。 然し貴方もあんまり好かないわ。 些とも御父さんの云ふ通りになさらないんだもの。 御父さんの前で議論なんかしやしませんよ。 万事控え目に大人しくしてゐるんです。 だから猶始末が悪いのよ。 何か云ふとへい/\つてさうして些とも云ふ事を聞かないんだもの。 まあ御掛けなさい。 少し話し相手になつて上げるから。 今日は妙な半襟を掛けてますね。 これ。 此間買つたの。 好い色だ。 まあそんな事は何うでも可いから其所へ御掛けなさいよ。 へえ掛けました。 一体今日は何を叱られたんです。 何を叱られたんだかあんまり要領を得ない。 然し御父さんの国家社会の為に尽すには驚ろいた。 何でも十八の年から今日迄のべつに尽してるんだつてね。 それだからあの位に御成りになつたんぢやありませんか。 国家社会の為に尽して金が御父さん位儲かるなら僕も尽しても好い。 だから遊んでないで御|尽しなさいな。 貴方は寐てゐて御金を取らうとするから狡猾よ。 御金を取らうとした事はまだ有りません。 取らうとしなくつても使ふから同じぢやありませんか。 兄さんが何とか云つてましたか。 兄さんは呆れてるから何とも云やしません。 随分猛烈だな。 然し御父さんより兄さんの方が偉いですね。 何うして。 ――あら悪らしい又あんな御世辞を使つて。 貴方はそれが悪いのよ。 真面目な顔をして他を茶化すから。 左様なもんでせうか。 左様なもんでせうかつて他の事ぢやあるまいし。 少しや考へて御覧なさいな。 何うも此所へ来ると丸で門野と同じ様になつちまふから困る。 門野つて何です。 なに宅にゐる書生ですがね。 人に何か云はれると屹度|左様なもんでせうかとか左様でせうかとか答へるんです。 あの人が。 余っ程妙なのね。 好い気候になりましたね。 何所か御花見にでも行きませうか。 行きませう。 行くから仰しやい。 何を。 御父さまから云はれた事を。 云はれた事は色々あるんですが秩序立てて繰り返すのは困るですよ。 頭が悪いんだから。 まだ空つとぼけて居らつしやる。 ちやんと知つてますよ。 ぢや伺ひませうか。 貴方は近頃余つ程|減らず口が達者におなりね。 何姉さんが辟易する程ぢやない。 ――時に今日は大変静かですね。 どうしました小供達は。 小供は学校です。 あなたは其所に居らつしやい。 少し話しがあるから。 大変込み入つてるのね。 私驚ろいちまつた。 御父さんから何返も聞いてるぢやありませんか。 だつて何時もは御|嫁の話が出ないから好い加減に聞いてるのよ。 佐川にそんな娘があつたのかな。 僕も些つとも知らなかつた。 御貰なさいよ。 賛成なんですか。 賛成ですとも。 因念つきぢやありませんか。 先祖の拵らえた因念よりもまだ自分の拵えた因念で貰ふ方が貰ひ好い様だな。 おや左様なのがあるの。 七刑人。 蟻でも付きましたか。 もう行つて来たの。 えゝ行つて来ました。 何ださうです。 明日御引移りになるさうです。 今日是から上がらうと思つてた所だと仰しやいました。 誰が。 平岡が。 えゝ。 ――どうも何ですな。 大分御|忙がしい様ですな。 先生た余つ程|違つてますね。 ――蟻なら種油を御注ぎなさい。 さうして苦しがつて穴から出て来る所を一々殺すんです。 何なら殺しませうか。 蟻ぢやない。 斯うして天気の好い時に花粉を取つて雌蕊へ塗り付けて置くと今に実が結るんです。 暇だから植木屋から聞いた通り遣つてる所だ。 なある程。 どうも重宝な世の中になりましたね。 ――然し盆栽は好いもんだ。 奇麗で楽しみになつて。 悪戯も好加減に休すかな。 平岡が今日来ると云つたつて。 えゝ来る様な御話しでした。 ぢや待つてゐやう。 君家主の方へは借りるつて断わつて来たんだらうね。 えゝ帰りに寄つて明日引越すからつて云つて来ました。 あんなに焦つて。 あの時は何うかしてゐたんだ。 何か御用ですか。 おや御呼になつたんぢやないですか。 おやおや。 小母さん御呼びになつたんぢやないとさ。 何うも変だと思つた。 だから手も何も鳴らないつて云ふのに。 待つてゐらつしやれば可かつたのに。 だつて大変|忙しさうだつたから。 えゝ忙しい事は忙しいんですけれども――好いぢやありませんか。 居らしつたつて。 あんまり他人行儀ですわ。 久し振りだから何か御馳走しませうか。 今日は沢山。 さう緩りしちやゐられないの。 まあ可いでせう。 おやもう三時過ぎね。 まだ二時位かと思つてたら。 ――少し寄り道をしてゐたものだから。 そんなに急ぐんですか。 えゝ成り丈早く帰りたいの。 三年のうちに大分世帯染ちまつた。 仕方がない。 あらだつて明日引越すんぢやありませんか。 ぢや引越してから緩くり来れば可いのに。 でも。 実は私少し御願があつて上がつたの。 何ですか遠慮なく仰しやい。 少し御金の工面が出来なくつて。 支店長から借りたと云ふ奴ですか。 いゝえ。 其方は何時迄延ばして置いても構はないんですが此方の方を何うかしないと困るのよ。 東京で運動する方に響いて来るんだから。 何でまたそんなに借金をしたんですか。 だから私考へると厭になるのよ。 私も病気をしたのが悪いには悪いけれども。 病気の時の費用なんですか。 ぢやないのよ。 薬代なんか知れたもんですわ。 旦那と奥さんと一所に来たかい。 えゝ御一所です。 さうして一所に帰つたかい。 えゝ御一所に御帰りになりました。 荷物もそのうち着くだらう。 御苦労さま。 昨夕は何時御帰りでした。 つい疲れちまつて仮寐をしてゐたものだから些とも気が付きませんでした。 ――寐てゐる所を御覧になつたんですか先生も随分|人が悪いな。 全体何時|頃なんです御帰りになつたのは。 夫迄何所へ行つて居らしつた。 君すつかり片付迄居て呉れたんでせうね。 えゝすつかり片付けちまいました。 其代り何うも骨が折れましたぜ。 何しろ我々の引越と違つて大きな物が色々あるんだから。 奥さんが坐敷の真中へ立つて茫然斯う周囲を見回してゐた様子つたら――随分|可笑なもんでした。 少し身体の具合が悪いんだからね。 どうも左様らしいですね。 色が何だか可くないと思つた。 平岡さんとは大違ひだ。 あの人の体格は好いですね。 昨夕一所に湯に入つて驚ろいた。 やあ来たな。 何うも好い天気ですね。 あゝ。 結構だ。 何うです彼方へ行つてちと外国人と話でもしちや。 いや真平だ。 何うも外国人は調子が可いですね。 少し可すぎる位だ。 あゝ賞められると天気の方でも是非|好くならなくつちやならなくなる。 そんなに天気を賞めてゐたのかい。 へえ。 少し暑過ぎるぢやないか。 私にも暑過ぎる。 兄の様になると宅にゐても客に来ても同じ心持ちなんだらう。 斯う世の中に慣れ切つて仕舞つても楽しみがなくつて詰らないものだらう。 今日は御父さんは何うしました。 御父さんは詩の会だ。 姉さんは。 御客の接待掛りだ。 兄さん貴方に少し話があるんだが。 何時か暇はありませんか。 暇。 明日の朝は何うです。 明日の朝は浜迄|行つて来なくつちやならない。 午からは。 午からは会社の方に居る事はゐるが少し相談があるから来ても緩くり話しちやゐられない。 ぢや晩なら宜からう。 晩は帝国ホテルだ。 あの西洋人夫婦を明日の晩帝国ホテルへ呼ぶ事になつてるから駄目だ。 そんなに急ぐなら今日ぢや何うだ。 今日なら可い。 久し振りで一所に飯でも食はうか。 絹帽で鰻屋へ行くのは始てだな。 何構ふものか。 で私も気の毒だから何うにか心配して見様つて受合つたんですがね。 へえ。 左様かい。 何うでせう。 御前金が出来るのかい。 私や一文も出来やしません。 借りるんです。 誰から。 貴方から借りて置かうと思ふんです。 そりや御|廃しよ。 そりや姉さんが蔭へ廻つて恵んでゐるに違ない。 ハヽヽヽ。 兄さんも余っ程呑気だなあ。 何そんな事があるものか。 いやさう云ふ人間は御免蒙る。 のみならず此不景気ぢや仕様がない。 兄を動かすのは同じ仲間の実業家でなくつちや駄目だ。 単に兄弟の好丈では何うする事も出来ない。 何うも『煤烟』は大変な事になりましたな。 君読んでるんですか。 えゝ毎朝読んでます。 面白いですか。 面白い様ですな。 どうも。 何んな所が。 何んな所がつて。 さう改たまつて聞かれちや困りますが。 何ぢやありませんか一体に斯う現代的の不安が出てゐる様ぢやありませんか。 さうして肉の臭ひがしやしないか。 しますな。 大いに。 煤烟。 煤烟。 煤烟。 煤烟。 もう学校は引けたのかい。 早過ぎるぢやないか。 ちつとも早かない。 誠太郎チヨコレートを飲むかい。 飲む。 誠太郎御前はベースボール許遣るもんだから此頃手が大変大きくなつたよ。 頭より手の方が大きいよ。 叔父さんは昨日御父さんから奢つて貰つたんですつてね。 あゝ御馳走になつたよ。 御蔭で今日は腹具合が悪くつて不可ない。 又神経だ。 神経ぢやない本当だよ。 全たく兄さんの所為だ。 だつて御父さんは左様云つてましたよ。 何て。 明日学校の帰りに代助の所へ廻つて何か御馳走して貰へつて。 へえゝ昨日の御礼にかい。 えゝ今日は己が奢つたから明日が向ふの番だつて。 それでわざ/\遣つて来たのかい。 えゝ。 兄の子丈あつて中々抜けないな。 だから今チヨコレートを飲まして遣るから可いぢやないか。 チヨコレートなんぞ。 飲まないかい。 飲む事は飲むけれども。 叔父さんはのらくらして居るけれども実際|偉いんですつてね。 偉いのは知れ切つてるぢやないか。 だつて僕は昨夕始めて御父さんから聞いたんですもの。 何うだい。 此間は色々難有う。 其|後一寸礼に行かうと思つてまだ行かない。 まだ落ち付かないだらう。 落ち付く所か此分ぢや生涯落ち付きさうもない。 宅の都合はどうだい。 間取の具合は可ささうぢやないか。 うんまあ悪くつても仕方がない。 気に入つた家へ這入らうと思へば株でも遣るより外に仕様がなからう。 此頃東京に出来る立派な家はみんな株屋が拵へるんだつて云ふぢやないか。 左様かも知れない。 其代りあゝ云ふ立派な家が一軒|立つと其|陰にどの位沢山な家が潰れてゐるか知れやしない。 だから猶住み好いだらう。 何ですかそれは。 赤※坊の着物なの。 拵へた儘ついまだ解かずにあつたのを今|行李の底を見たら有つたから出して来たんです。 こら。 まだそんなものを仕舞つといたのか。 早く壊して雑巾にでもして仕舞へ。 貴方のと同じに拵へたのよ。 是か。 是はもう不可ん。 暑くて駄目だ。 袷の下にネルを重ねちやもう暑い。 繻絆にすると可い。 うん面倒だから着てゐるが。 洗濯をするから御|脱ぎなさいと云つても中々脱がないのよ。 いやもう脱ぐ己も少々|厭になつた。 君|何所か奉公|口の見当は付いたか。 うんまあある様な無い様なもんだ。 無ければ当分|遊ぶ丈の事だ。 緩くり探してゐるうちには何うかなるだらう。 僕は失敗したさ。 けれども失敗しても働らいてゐる。 又是からも働らく積だ。 君は僕の失敗したのを見て笑つてゐる。 ――笑はないたつて要するに笑つてると同じ事に帰着するんだから構はない。 いゝか君は笑つてゐる。 笑つてゐるが其君は何も為ないぢやないか。 君は世の中を有の儘で受け取る男だ。 言葉を換えて云ふと意志を発展させる事の出来ない男だらう。 意志がないと云ふのは嘘だ。 人間だもの。 其証拠には始終物足りないに違ない。 僕は僕の意志を現実社会に働き掛けて其現実社会が僕の意志の為に幾分でも僕の思ひ通りになつたと云ふ確証を握らなくつちや生きてゐられないね。 そこに僕と云ふものゝ存在の価値を認めるんだ。 君はたゞ考へてゐる。 考へてる丈だから頭の中の世界と頭の外の世界を別々に建立して生きてゐる。 此大不調和を忍んでゐる所が既に無形の大失敗ぢやないか。 何故と云つて見給へ。 僕のは其不調和を外へ出した迄で君のは内に押し込んで置く丈の話だから外面に押し掛けた丈僕の方が本当の失敗の度は少ないかも知れない。 でも僕は君に笑はれてゐる。 さうして僕は君を笑ふ事が出来ない。 いや笑ひたいんだが世間から見ると笑つちや不可ないんだらう。 何笑つても構はない。 君が僕を笑ふ前に僕は既に自分を笑つてゐるんだから。 そりや嘘だ。 ねえ三千代。 本当でせう三千代さん。 そりや嘘だ。 おれの細君がいくら弁護したつて嘘だ。 尤も君は人を笑つても自分を笑つても両方共|頭の中で遣る人だから嘘か本当か其辺はしかと分らないが。 冗談云つちや不可ない。 冗談ぢやない。 全く本気の沙汰であります。 そりや昔の君はさうぢや無かつた。 昔の君はさうぢや無かつたが今の君は大分|違つてるよ。 ねえ三千代。 長井は誰が見たつて大得意ぢやないか。 何だか先刻から傍で伺がつてると貴方の方が余っ程御得意の様よ。 今日は久し振りに好い心持に酔つた。 なあ君。 ――君はあんまり好い心持にならないね。 何うも怪しからん。 僕が昔の平岡常次郎になつてるのに君が昔の長井代助にならないのは怪しからん。 是非なり給へ。 さうして大いに遣つて呉れ給へ。 僕も是から遣る。 から君も遣つて呉れ給へ。 君は酒を呑むと言葉丈酔払つても頭は大抵|確かな男だから僕も云ふがね。 それだ。 それでこそ長井君だ。 君頭は確かい。 確だとも。 君さへ確なら此方は何時でも確だ。 君はさつきから働らかない/\と云つて大分|僕を攻撃したが僕は黙つてゐた。 攻撃される通り僕は働らかない積だから黙つてゐた。 何故働かない。 何故働かないつてそりや僕が悪いんぢやない。 つまり世の中が悪いのだ。 もつと大袈裟に云ふと日本対西洋の関係が駄目だから働かないのだ。 第一日本程借金を拵らへて貧乏|震ひをしてゐる国はありやしない。 此借金が君何時になつたら返せると思ふか。 そりや外債位は返せるだらう。 けれどもそれ許りが借金ぢやありやしない。 日本は西洋から借金でもしなければ到底立ち行かない国だ。 それでゐて一等国を以て任じてゐる。 さうして無理にも一等国の仲間入をしやうとする。 だからあらゆる方面に向つて奥行を削つて一等国丈の間口を張つちまつた。 なまじい張れるからなほ悲惨なものだ。 牛と競争をする蛙と同じ事でもう君腹が裂けるよ。 其影響はみんな我々個人の上に反射してゐるから見給へ。 斯う西洋の圧迫を受けてゐる国民は頭に余裕がないから碌な仕事は出来ない。 悉く切り詰めた教育でさうして目の廻る程こき使はれるから揃つて神経衰弱になつちまふ。 話をして見給へ大抵は馬鹿だから。 自分の事と自分の今日の只今の事より外に何も考へてやしない。 考へられない程疲労してゐるんだから仕方がない。 精神の困憊と身体の衰弱とは不幸にして伴なつてゐる。 のみならず道徳の敗退も一所に来てゐる。 日本国中|何所を見渡したつて輝いてる断面は一寸四方も無いぢやないか。 悉く暗黒だ。 其|間に立つて僕|一人が何と云つたつて何を為たつて仕様がないさ。 僕は元来|怠けものだ。 いや君と一所に往来してゐる時分から怠けものだ。 あの時は強ひて景気をつけてゐたから君には有為多望の様に見えたんだらう。 そりや今だつて日本の社会が精神的徳義的身体的に大体の上に於て健全なら僕は依然として有為多望なのさ。 さうなれば遣る事はいくらでもあるからね。 さうして僕の怠惰性に打ち勝つ丈の刺激も亦いくらでも出来て来るだらうと思ふ。 然し是ぢや駄目だ。 今の様なら僕は寧ろ自分丈になつてゐる。 さうして君の所謂|有の儘の世界を有の儘で受取つて其|中僕に尤も適したものに接触を保つて満足する。 進んで外の人を此方の考へ通りにするなんて到底|出来た話ぢやありやしないもの――。 三千代さん。 どうです私の考は。 随分|呑気で宜いでせう。 賛成しませんか。 何だか厭世の様な呑気の様な妙なのね。 私よく分らないわ。 けれども少し胡麻化して入らつしやる様よ。 へええ。 何処ん所を。 何処ん所つてねえ貴方。 そいつは面白い。 大いに面白い。 僕見た様に局部に当つて現実と悪闘してゐるものはそんな事を考へる余地がない。 日本が貧弱だつて弱虫だつて働らいてるうちは忘れてゐるからね。 世の中が堕落したつて世の中の堕落に気が付かないで其|中に活動するんだからね。 君の様な暇人から見れば日本の貧乏や僕等の堕落が気になるかも知れないがそれは此社会に用のない傍観者にして始めて口にすべき事だ。 つまり自分の顔を鏡で見る余裕があるからさうなるんだ。 忙がしい時は自分の顔の事なんか誰だつて忘れてゐるぢやないか。 君は金に不自由しないから不可ない。 生活に困らないから働らく気にならないんだ。 要するに坊ちやんだから品の好い様なこと許かり云つてゐて――。 働らくのも可いが働らくなら生活以上の働でなくつちや名誉にならない。 あらゆる神聖な労力はみんな麺麭を離れてゐる。 何故。 何故つて生活の為めの労力は労力の為めの労力でないもの。 そんな論理学の命題見た様なものは分らないな。 もう少し実際的の人間に通じる様な言葉で云つてくれ。 つまり食ふ為めの職業は誠実にや出来|悪いと云ふ意味さ。 僕の考へとは丸で反対だね。 食ふ為めだから猛烈に働らく気になるんだらう。 猛烈には働らけるかも知れないが誠実には働らき悪いよ。 食ふ為の働らきと云ふとつまり食ふのと働らくのと何方が目的だと思ふ。 無論|食ふ方さ。 夫れ見給へ。 食ふ方が目的で働らく方が方便なら食ひ易い様に働らき方を合せて行くのが当然だらう。 さうすりや何を働らいたつて又どう働らいたつて構はない只|麺麭が得られゝば好いと云ふ事に帰着して仕舞ふぢやないか。 労力の内容も方向も乃至順序も悉く他から掣肘される以上は其労力は堕落の労力だ。 まだ理論的だね何うも。 夫で一向差支ないぢやないか。 では極上品な例で説明してやらう。 古臭い話だがある本で斯んな事を読んだ覚えがある。 織田信長がある有名な料理人を抱へた所が始めて其料理人の拵へたものを食つて見ると頗る不味かつたんで大変|小言を云つたさうだ。 料理人の方では最上の料理を食はして叱られたものだから其次からは二流もしくは三流の料理を主人にあてがつて始終|褒められたさうだ。 此料理人を見給へ。 生活の為に働らく事は抜目のない男だらうが自分の技芸たる料理其物のために働らく点から云へば頗る不誠実ぢやないか堕落料理人ぢやないか。 だつて左様しなければ解雇されるんだから仕方があるまい。 だからさ。 衣食に不自由のない人が云はゞ物数奇にやる働らきでなくつちや真面目な仕事は出来るものぢやないんだよ。 さうすると君の様な身分のものでなくつちや神聖の労力は出来ない訳だ。 ぢや益遣る義務がある。 なあ三千代。 本当ですわ。 何だか話が元へ戻つちまつた。 是だから議論は不可ないよ。 先生何うです御燗は。 もう少し燃させませうか。 結構。 ですか。 何うも先生は旨いよ。 何が旨いんだ。 やあもう御上りですか。 早いですな。 おや。 如何なる名人が鳴らしてゐるのかと思つた。 代さん此所ん所を一寸遣つて見せて下さい。 斯うだらう。 もう廃しませう。 彼方へ行つて御飯でも食ませう。 叔父さんもゐらつしやい。 だから思ひ切つて貸して下さい。 さうね。 けれども全体|何時返す気なの。 皮肉ぢやないのよ。 怒つちや不可ませんよ。 代さんあなたは不断から私を馬鹿にして御出なさる。 ――いゝえ厭味を云ふんぢやない本当の事なんですもの仕方がない。 さうでせう。 困りますね左様真剣に詰問されちや。 善ござんすよ。 胡魔化さないでも。 ちやんと分つてるんだから。 だから正直に左様だと云つて御仕舞なさい。 左様でないと後が話せないから。 でせう。 そら御覧なさい。 けれどもそれが当り前よ。 ちつとも構やしません。 いくら私が威張つたつて貴方に敵ひつこないのは無論ですもの。 私と貴方とは今迄|通りの関係で御互ひに満足なんだから文句はありやしません。 そりや夫で好いとして貴方は御父さんも馬鹿にして入らつしやるのね。 えゝ少しは馬鹿にしてゐます。 兄さんも馬鹿にして入らつしやる。 兄さんですか。 兄さんは大いに尊敬してゐる。 嘘を仰しやい。 序だからみんな打ち散けて御|仕舞なさい。 そりや或点では馬鹿にしない事もない。 それ御|覧なさい。 あなたは一家族|中悉く馬鹿にして入らつしやる。 どうも恐れ入りました。 そんな言訳はどうでも好いんですよ。 貴方から見ればみんな馬鹿にされる資格があるんだから。 もう廃さうぢやありませんか。 今日は中中きびしいですね。 本当なのよ。 夫で差支ないんですよ。 喧嘩も何も起らないんだから。 けれどもねそんなに偉い貴方が何故私なんぞから御金を借りる必要があるの。 可笑しいぢやありませんか。 いえ揚足を取ると思ふと腹が立つでせう。 左様なんぢやありません。 それ程|偉い貴方でも御金がないと私見た様なものに頭を下げなけりやならなくなる。 だから先きから頭を下げてゐるんです。 まだ本気で聞いてゐらつしやらないのね。 是が私の本気な所なんです。 ぢやそれも貴方の偉い所かも知れない。 然し誰も御金を貸し手がなくつて今の御友達を救つて上げる事が出来なかつたら何うなさる。 いくら偉くつても駄目ぢやありませんか。 無能力な事は車屋と同なしですもの。 全く車屋ですね。 だから姉さんに頼むんです。 仕方がないのね貴方は。 あんまり偉過て。 一人で御|金を御|取んなさいな。 本当の車屋なら貸して上げない事もないけれども貴方には厭よ。 だつて余りぢやありませんか。 月々兄さんや御父さんの厄介になつた上に人の分迄自分に引受けて貸してやらうつて云ふんだから。 誰も出し度はないぢやありませんか。 だつて貴方だつて生涯|一人でゐる気でもないんでせう。 さう我儘を云はないで好い加減な所で極めて仕舞つたら何うです。 だが姉さん僕は何うしても嫁を貰はなければならないのかね。 妙なのねそんなに厭がるのは。 ――厭なんぢやないつて口では仰しやるけれども貰はなければ厭なのと同なしぢやありませんか。 それぢや誰か好きなのがあるんでせう。 其方の名を仰やい。 先刻御|宅から御使でした。 手紙は書斎の机の上に載せて置きました。 受取は一寸私が書いて渡して置きました。 昔と違つて気が荒くなつて困るわ。 先達て御頼の金ですがね。 実は直にもと思つたんだけれども此方の都合が付かなかつたものだから遂遅くなつたんだが何うですかもう始末は付きましたか。 未ですわ。 だつて片付く訳が無いぢやありませんか。 是丈ぢや駄目ですか。 難有う。 平岡が喜びますわ。 それは私も承知してゐますわ。 けれども困つて何うする事も出来ないものだから。 つい無理を御願して。 夫丈で何うか始末が付きますか。 もし何うしても付かなければもう一遍|工面して見るんだが。 もう一遍工面するつて。 判を押して高い利のつく御金を借りるんです。 あらそんな事を。 それこそ大変よ。 貴方。 そんなに弱つちや不可ない。 昔の様に元気に御成んなさい。 さうして些と遊びに御|出なさい。 本当ね。 此方へ御|通し申しませうか。 実は二三日|前君の所へ行つたが君は留守だつたね。 うん。 左様だつたさうだね。 其節は又難有う。 御|蔭さまで。 ――なに君を煩はさないでも何うかなつたんだが彼奴があまり心配し過てつい君に迷惑を掛けて済まない。 僕も実は御礼に来た様なものだが本当の御礼にはいづれ当人が出るだらうから。 そんな面倒な事をする必要があるものか。 僕はことによるともう実業は已めるかも知れない。 実際|内幕を知れば知る程|厭になる。 其上|此方へ来て少し運動をして見てつくづく勇気がなくなつた。 それは左様だらう。 先達ても一寸話したんだが新聞へでも這入らうかと思つてる。 口があるのかい。 今一つある。 多分|出来さうだ。 それも面白からう。 平岡さんは思つたよりハイカラですな。 あの服装ぢや少し宅の方が御粗末|過る様です。 左様でもないさ。 近頃はみんなあんなものだらう。 全たく服装丈ぢや分らない世の中になりましたからね。 何処の紳士かと思ふとどうも変ちきりんな家へ這入てますからね。 先生|今日は一日御勉強ですな。 どうです些と御散歩になりませんか。 今夜は寅毘沙ですぜ。 演芸館で支那人の留学生が芝居を演つてます。 どんな事を演る積ですか行つて御覧なすつたら何うです。 支那人てえ奴は臆面がないから何でも遣る気だから呑気なもんだ。 何うだ一盃|遣らないか。 当てゝ御|覧なさい。 どの位|古いんだか。 代助に分るものか。 旨いですね。 だから時代を当てゝ御覧なさいよ。 時代があるんですか。 偉いものを買ひ込んだもんだね。 帰りに一本貰つて行かう。 御生憎様もう是限なの。 到来物よ。 兄さん今日は何うしたんです。 大変気楽さうですね。 今日は休養だ。 此間中は何うも忙し過て降参したから。 代さん貴方こそ気楽ぢやありませんか。 姉さん歌舞伎座へ行きましたか。 まだなら行つて御覧なさい。 面白いから。 貴方もう行つたの驚ろいた。 貴方も余っ程|怠けものね。 怠けものは可くない。 勉強の方向が違ふんだから。 押の強い事ばかり云つて。 人の気も知らないで。 ねえ貴方。 今のうち沢山勉強して貰つて置いて今に此方が貧乏したら救つて貰ふ方が好いぢやないか。 代さんあなた役者になれて。 兄さん此間中は何だか大変|忙しかつたんだつてね。 いやもう大弱りだ。 何か日糖事件に関係でもあつたんですか。 日糖事件に関係はないが忙しかつた。 日糖も詰らない事になつたがあゝなる前に何うか方法はないもんでせうかね。 左うさなあ。 実際|世の中の事は何が何うなるんだか分らないからな。 ――梅今日は直木に云ひ付けてヘクターを少し運動させなくつちや不可いよ。 あゝ大食をして寐て許ゐちや毒だ。 愈奥へ行つて御父さんに叱られて来るかな。 嫁の事か。 まあ左うだらうと思ふんです。 貰つて置くがいゝ。 さう老人に心配さしたつて仕様があるものか。 気を付けないと不可よ。 少し低気圧が来てゐるから。 まさか此間中の奔走からきた低気圧ぢやありますまいね。 何とも云へないよ。 斯う見えて我々も日糖の重役と同じ様に何時拘引されるか分らない身体なんだから。 馬鹿な事を仰しやるなよ。 矢っ張り僕ののらくらが持ち来たした低気圧なんだらう。 来たか。 そんなに佐川の娘を貰ふ必要があるんですか。 ぢや佐川は已めるさ。 さうして誰でも御前の好なのを貰つたら好いだらう。 誰か貰ひたいのがあるのか。 別にそんな貰ひたいのもありません。 ぢや少しは此方の事も考へて呉れたら好からう。 何もさう自分の事ばかり思つてゐないでも。 貴方にそれ程御都合が好い事があるならもう一遍考へて見ませう。 何も己の都合|許で嫁を貰へと云つてやしない。 そんなに理窟を云ふなら参考の為云つて聞かせるが御前はもう三十だらう三十になつて普通のものが結婚をしなければ世間では何と思ふか大抵|分るだらう。 そりや今は昔と違ふから独身も本人の随意だけれども独身の為に親や兄弟が迷惑したり果は自分の名誉に関係する様な事が出来したりしたら何うする気だ。 そりや私のことだから少しは道楽もしますが。 そんな事ぢやない。 まあよく考へて御覧。 あなたは僕の事を何か御父さんに讒訴しやしないか。 まあ御這入んなさいよ。 丁度|好い所だから。 御目|醒ですか。 御茶でも入れて来ませうか。 君僕の寐てゐるうちに誰か来やしなかつたかね。 えゝ御出でした。 平岡の奥さんが。 よく御|存じですな。 何故起さなかつたんだ。 余まり能く御休でしたからな。 だつて御客なら仕方がないぢやないか。 ですがな。 平岡の奥さんの方で起さない方が好いつて仰しやつたもんですからな。 それで奥さんは帰つて仕舞つたのか。 なに帰つて仕舞つたと云ふ訳でもないんです。 一寸神楽坂に買物があるからそれを済まして又|来るからつて云はれるもんですからな。 ぢや又|来るんだね。 さうです。 実は御|目覚になる迄|待つてゐやうかつて此座敷迄|上つて来られたんですが先生の顔を見てあんまり善く寐てゐるもんだからこいつは容易に起きさうもないと思つたんでせう。 また出て行つたのかい。 えゝまあ左うです。 此方にしますか。 何うかしましたか。 あゝ苦しかつた。 奇麗なんでせう。 此奴は先刻僕が飲んだんだから。 今すぐ持つて来て上げる。 先生今|直です。 茶は後でも好い。 水が要るんだ。 はあ左様ですか。 上がるんですか。 菓子がなければ早く買つて置けば可いのに。 つい小母さんに御客さんの呉る事を云つて置かなかつたものですからな。 ぢや君が菓子を買に行けば可いのに。 なに菓子の外にもまだ色々買物があるつて云ふもんですからな。 足は悪し天気は好くないし廃せば好いんですのに。 何うしたんです。 難有う。 もう沢山。 今あれを飲んだの。 あんまり奇麗だつたから。 何故あんなものを飲んだんですか。 だつて毒ぢやないでせう。 毒でないつたつてもし二日も三日も経つた水だつたら何うするんです。 いえ先刻来た時あの傍迄|顔を持つて行つて嗅いで見たの。 其時たつた今|其鉢へ水を入れて桶から移した許だつてあの方が云つたんですもの。 大丈夫だわ。 好い香ね。 気分はもう好くなりましたか。 けれども慣れつこに為てるんだから驚ろきやしません。 心臓の方はまだ悉皆善くないんですか。 悉皆善くなるなんて生涯駄目ですわ。 此花は何うしたんです。 買て来たんですか。 好い香でせう。 さう傍で嗅いぢや不可ない。 あら何故。 何故つて理由もないんだが不可ない。 貴方此花御嫌なの。 ぢや買つて来なくつても好かつたのに。 詰らないわ回り路をして。 御|負に雨に降られ損なつて息を切らして。 僕に呉れたのか。 そんなら早く活けやう。 さあ是で好い。 あなた何時から此花が御|嫌になつたの。 貴方だつて鼻を着けて嗅いで入らしつたぢやありませんか。 好い雨ですね。 些とも好かないわ私草履を穿いて来たんですもの。 帰りには車を云ひ付けて上げるから可いでせう。 緩りなさい。 貴方も相変らず呑気な事を仰しやるのね。 平岡君は何うしました。 相変らずですわ。 まだ何にも見付らないんですか。 その方はまあ安心なの。 来月から新聞の方が大抵出来るらしいんです。 そりや好かつた。 些とも知らなかつた。 そんなら当分夫で好いぢやありませんか。 えゝまあ難有いわ。 彼方の方は差し当り責められる様な事もないんですか。 彼方の方つて――。 私実は今日夫で御詫に上つたのよ。 私本当に済まない事をしたと思つて後悔してゐるのよ。 けれども拝借するときは決して貴方を瞞して嘘を吐く積ぢやなかつたんだから堪忍して頂戴。 何うせ貴方に上げたんだから何う使つたつて誰も何とも云ふ訳はないでせう。 役にさへ立てば夫で好いぢやありませんか。 私夫で漸く安心したわ。 いや御早うがしたな。 締めときますか。 暑かありませんか。 締めて置いてくれ。 矢つ張り三千代さんに逢はなくちや不可ん。 何だつて今時分来たんだ。 今|時分が丁度訪問に好い刻限だらう。 君又|昼寐をしたな。 どうも職業のない人間は惰弱で不可ん。 君は一体何の為に生れて来たのだつたかね。 何の為に生れて来やうと余計な御世話だ。 夫より君こそ何しに来たんだ。 又「此所十日許の間。 君も随分礼義を知らない男だね。 是を訳さなけりやならないんだ。 食ふに困らないと思つてさう無精な顔をしなくつて好からう。 もう少し判然として呉れ。 此方は生死の戦だ。 何時迄に。 二週間。 何うでも斯うでも夫迄に片付なけりや食へないんだから仕方がない。 偉い勢だね。 だから本郷からわざ/\遣つて来たんだ。 なに金は借りなくても好い。 ――貸せば猶|好いが――夫より少し分らない所があるから相談しやうと思つて。 面倒だな。 僕は今日は頭が悪くつてそんな事は遣つてゐられないよ。 好い加減に訳して置けば構はないぢやないか。 どうせ原稿料は頁で呉れるんだらう。 なんぼ僕だつてさう無責任な翻訳は出来ないだらうぢやないか。 誤訳でも指摘されると後から面倒だあね。 仕様がないな。 おい。 冗談ぢやない君の様にのらくら遊んでる人はたまには其位な事でもしなくつちや退屈で仕方がないだらう。 なに僕だつて本の善く読める人の所へ行く気ならわざ/\君の所迄|来やしない。 けれども左んな人は君と違つてみんな忙しいんだからな。 ぢや成るべく少しに仕様ぢやないか。 やあ難有う。 分らない所は何する。 なに何かする。 ――誰に聞いたつてさう善く分りやしまい。 第一|時間がないから已を得ない。 もうそろ/\蛍が出る時分ですな。 まだ出やしまい。 左様でしやうか。 蛍てえものは昔は大分流行たもんだが近来は余り文士|方が騒がない様になりましたな。 何う云ふもんでせう。 蛍だの烏だのつて此頃ぢやついぞ見た事がない位なもんだ。 左様さ。 何う云ふ訳だらう。 矢っ張り電気燈に圧倒されて段々退却するんでせう。 また御|出掛ですか。 よござんす。 洋燈は私が気を付けますから。 ――小母さんが先刻から腹が痛いつて寐たんですが何大した事はないでせう。 御緩り。 小母さんさう働らいちや悪いだらう。 先生の膳は僕が洗つて置くから彼方へ行つて休んで御出。 御|宅から御迎が参りました。 勝御迎つて何だい。 奥様が車を持つて迎に行つて来いつて御仰いました。 何か急用でも出来たのかい。 御出になれば分るからつて――。 やあ御馳走だな。 叔父さん奥さんは何時貰ふんですか。 今日は何故学校へ行かないんだ。 さうして朝つ腹から苺なんぞを食つて。 だつて今日は日曜ぢやありませんか。 おや日曜か。 あらだつて夫ぢや余まりだわ。 そら来た。 ね。 だから一所に連れて行つて御貰よ。 代さん今日貴方無論|暇でせう。 えゝまあ暇です。 ぢや一所に歌舞伎座へ行つて頂戴。 えゝ宜しい行きませう。 だつて貴方は最早一遍|観たつて云ふんぢやありませんか。 一遍だらうが二遍だらうが些とも構はない。 行きませう。 貴方も余っ程道楽ものね。 ひどく信用を落したもんだな。 御神さん電車へ乗るなら此所ぢや不可ない。 向側だ。 誠太郎何だい人のゐない留守に来て御馳走だね。 其所に居るならゐても構はないよ。 叔父さんは何時奥さんを貰ふの。 何だい苛いぢやないか。 用も云はないで無暗に人を呼びつけるなんて。 それぢや叔父さん明日は来ないんですか。 うむ。 何うだか分らない。 叔父さんは旅行するかも知れないからつて帰つてさう云つて呉れ。 何時。 何処へ入らつしやるの。 何処つてまだ分るもんか。 ぐる/\回るんだ。 少し手伝ひませうか。 なに訳はない。 先生車を左様云つときますかな。 左様少し待つて呉れ給へ。 又御|出掛ですか。 何か御買物ぢやありませんか。 私で可ければ買つて来ませう。 今夜は已めだ。 そんなに閑なんですか。 貴方には左様見えて。 仕方がないんだから堪忍して頂戴。 そんな事を。 指環を受取るならこれを受取つても同じ事でせう。 紙の指環だと思つて御貰ひなさい。 大丈夫だから御取んなさい。 又|来る。 平岡君によろしく。 大変|遅うがしたな。 明日は何時の汽車で御|立ちですか。 明日も御|已めだ。 青山から御兄いさんが御見えになりました。 やあ兄さん。 此室は大変|好い香がする様だが御前の頭かい。 僕の頭の見える前からでせう。 はゝあ大分|洒落た事をやるな。 昨夕誠太郎が帰つて来て叔父さんは明日から旅行するつて云ふ話だから出て来た。 えゝ実は今朝六時|頃から出やうと思つてね。 六時に立てる位な早起の男なら今|時分わざわざ青山から遣つて来やしない。 なに彼奴が今夜中に立つものか今頃は革鞄の前へ坐つて考へ込んでゐる位のものだ。 明日になつて見ろ放つて置いても遣つて来るからつて己が姉さんを安心させたのだよ。 ぢや放つて置いて御覧なされば好いのに。 所が女と云ふものは気の短かいもので御父さんに悪いからつて今朝起きるや否や己をせびるんだからね。 私は左様考へた。 それで必ずしも今日旅行する必要もないんだらう。 ぢや今日餐を食ひに来ても好いんだらう。 ぢや己はこれから一寸他所へ回るから間違のない様に来てくれ。 一体|何うなんだ。 あの女を貰ふ気はないのか。 好いぢやないか貰つたつて。 さう撰り好みをする程女房に重きを置くと何だか元禄時代の色男の様で可笑しいな。 凡てあの時代の人間は男女に限らず非常に窮屈な恋をした様だが左様でもなかつたのかい。 ――まあどうでも好いから成る可く年寄を怒らせない様に遣つてくれ。 あなたも随分乱暴ね。 人を出し抜いて旅行するなんて。 今に御客さんが来たら僕が奥へ知らせに行く。 其時挨拶をすれば好からう。 左様か。 いや何うも遅くなりまして。 大分早かつたね。 では何うぞ。 先達ての歌舞伎座は如何でした。 芝居は御嫌ひでも小説は御読みになるでせう。 いえ小説も。 それは結構だ。 本当にね。 ぢや英語は御上手でせう。 何か一つ如何ですか。 ぢや代さん皮切に何か御|遣り。 まあ蓋を開けて御置なさい。 今に遣るから。 代助はまだ帰るんぢやなからうな。 おいすぐ帰つちや不可ない。 御父さんが何か用があるさうだ。 奥へ御出。 あの若旦那様に一寸奥迄|入つしやる様に。 うん今行く。 ぢやさあ行かう。 大した異存もないだらう。 左様ですな。 まあもう少し善く考へて見るが可い。 何うです此汽車で神戸迄遊びに行きませんか。 近い内に又是非入らつしやい。 又|来ました。 無用|心だから。 御待遠さま。 結構な身分ですね。 可でせうね。 そんなに閑なら庭の草でも取つたら何うです。 此間の事を平岡君に話したんですか。 いゝえ。 ぢや未だ知らないんですか。 一つ私が平岡君に逢つて能く話して見やう。 貴方は羨ましいのね。 何だつてまだ奥さんを御貰ひなさらないの。 淋しくつて不可ないから又|来て頂戴。 大変|顔の色が悪い様ですね何うかなさいましたか。 やあ暫く。 失敬だがもう一時間程して来てくれないか。 成程たゞ筆が達者な丈ぢや仕様があるまいよ。 僕は経済方面の係りだが単にそれ丈でも中々面白い事実が挙がつてゐる。 ちと君の家の会社の内幕でも書いて御覧に入れやうか。 書くのも面白いだらう。 其代り公平に願ひたいな。 無論|嘘は書かない積だ。 いえ僕の兄の会社ばかりでなく一列一体に筆誅して貰ひたいと云ふ意味だ。 日糖事件丈ぢや物足りないからね。 矢っ張り現代的滑稽の標本ぢやないか。 実は君に話したい事があるんだが。 そりや僕も疾うから何うかする積なんだけれども今の所ぢや仕方がない。 もう少し待つて呉れ玉へ。 其代り君の兄さんや御父さんの事も斯うして書かずにゐるんだから。 君も大分変つたね。 君の変つた如く変つちまつた。 斯う摺れちや仕方がない。 だからもう少し待つて呉れ給へ。 君は近来|斯う云ふ所へ大分頻繁に出はいりをすると見えて家のものとはみんな御|馴染だね。 君の様に金回りが好くないからさう豪遊も出来ないが交際だから仕方がないよ。 余計な事だがそれで家の方の経済は収支|償なふのかい。 うん。 まあ好い加減にやつてるさ。 不断は今頃もう家へ帰つてゐるんだらう。 此間僕が訪ねた時は大分遅かつた様だが。 まあ帰つたり帰らなかつたりだ。 職業が斯う云ふ不規則な性質だから仕方がないさ。 三千代さんは淋しいだらう。 なに大丈夫だ。 彼奴も大分変つたからね。 そんな事があらう筈がない。 いくら変つたつてそりや唯年を取つた丈の変化だ。 成るべく帰つて三千代さんに安慰を与へて遣れ。 君はさう思ふか。 思ふかつて誰だつて左様思はざるを得んぢやないか。 君は三千代を三年|前の三千代と思つてるか。 大分変つたよ。 あゝ大分変つたよ。 同なじだ僕の見る所では全く同じだ。 少しも変つてゐやしない。 だつて僕は家へ帰つても面白くないから仕方がないぢやないか。 そんな筈はない。 だつて君がさう外へ許出てゐれば自然|金も要る。 従つて家の経済も旨く行かなくなる。 段々家庭が面白くなくなる丈ぢやないか。 家庭か。 家庭もあまり下さつたものぢやない。 家庭を重く見るのは君の様な独身|者に限る様だね。 君が東京へ着たてに僕は君から説教されたね。 何か遣れつて。 うん。 さうして君の消極な哲学を聞かされて驚ろいた。 僕の様に精神的に敗残した人間は已を得ずあゝ云ふ消極な意見も出すが。 ――元来意見があつて人がそれに則るのぢやない。 人があつて其人に適した様な意見が出て来るのだから僕の説は僕丈に通用する丈だ。 決して君の身の上をあの説で何うしやうの斯うしやうのと云ふ訳ぢやない。 僕はあの時の君の意気に敬服してゐる。 君はあの時自分で云つた如く全く活動の人だ。 是非共活動して貰ひたい。 無論大いに遣る積だ。 新聞で遣る積かね。 新聞にゐるうちは新聞で遣る積だ。 大いに要領を得てゐる。 僕だつて君の一生涯の事を聞いてゐるんぢやないから返事はそれで沢山だ。 然し新聞で君に面白い活動が出来るかね。 出来る積だ。 いや難有う。 些と散歩にでも御出になつたら如何です。 左様御勉強ぢや身体に悪いでせう。 御父さんは居ますか。 代さん少し瘠せた様ぢやありませんか。 そんな事も無いだらう。 だつて色沢が悪いのよ。 庭の所為だ。 青葉が映るんだ。 だから貴方だつて矢っ張り蒼いですよ。 私此二三|日具合が好くないんですもの。 道理でぽかんとして居ると思つた。 何うかしたんですか。 風邪ですか。 何だか知らないけれど生欠許り出て。 兄さんは何うしました。 二三日の雨で苔の色が悉皆出た事。 兄さんが何うしましたつて。 何うしましたつて例の如くですわ。 相変らず留守|勝ですか。 えゝえゝ朝も晩も滅多に宅に居た事はありません。 姉さんは夫で淋しくはないですか。 今更改まつてそんな事を聞いたつて仕方がないぢやありませんか。 世間の夫|婦は夫で済んで行くものかな。 何ですつて。 だから貴方が奥さんを御貰ひなすつたら始終|宅に許ゐてたんと可愛がつて御上げなさいな。 代さん貴方今日は何うかしてゐるのね。 だつて兄さんが留守勝で嘸御|淋しいでせうなんてあんまり思遣りが好過ぎる事を仰しやるからさ。 いや僕の知つた女に左様云ふのが一人あつて実は甚だ気の毒だからつい他の女の心持も聞いて見たくなつて伺つたんで決して冷かした積ぢやないんです。 本当に。 夫や一寸何てえ方なの。 名前は云ひ悪いんです。 ぢや貴方が其旦那に忠告をして奥さんをもつと可愛がるやうにして御|上になれば可いのに。 姉さんもさう思ひますか。 当り前ですわ。 もし其|夫が僕の忠告を聞かなかつたら何うします。 そりや何うも仕様がないわ。 放つて置くんですか。 放つて置かなけりや何うなさるの。 ぢや其細君は夫に対して細君の道を守る義務があるでせうか。 大変|理責めなのね。 夫や旦那の不親切の度合にも因るでせう。 もし其細君に好きな人があつたら何うです。 知らないわ。 馬鹿らしい。 好きな人がある位なら始めつから其方へ行つたら好いぢやありませんか。 僕は今度の縁談を断らうと思ふ。 僕は今迄結婚問題に就いて貴方に何返となく迷惑を掛けた上に今度も亦心配して貰つてゐる。 僕ももう三十だから貴方の云ふ通り大抵な所で御勧め次第になつて好いのですが少し考があるからこの縁談もまあ已めにしたい希望です。 御父さんにも兄さんにも済まないが仕方がない。 何も当人が気に入らないと云ふ訳ではないが断るんです。 此間|御父さんによく考へて見ろと云はれて大分考へて見たが矢っ張り断る方が好い様だから断ります。 実は今日は其用で御父さんに逢ひに来たんですが今御客の様だから序と云つては失礼だが貴方にも御話をして置きます。 でも御父さんは屹度御困りですよ。 御父さんには僕が直に話すから構ひません。 でも話がもう此所迄|進んでゐるんだから。 話が何所迄進んでゐやうと僕はまだ貰ひますと云つた事はありません。 けれども判然貰はないとも仰しやらなかつたでせう。 それを今云ひに来た所です。 貴方の知らない間に縁談が何れ程|進んだのか私にも能く分らないけれど誰にしたつて貴方がさう的確御断りなさらうとは思ひ掛けないんですもの。 何故です。 何故ですつて聞いたつて理窟ぢやありませんよ。 理窟でなくつても構はないから話して下さい。 貴方の様にさう何遍|断つたつて詰り同じ事ぢやありませんか。 つまり貴方だつて何時か一度は御奥さんを貰ふ積なんでせう。 厭だつて仕方がないぢやありませんか。 其様何時迄も我儘を云つた日には御父さんに済まない丈ですわ。 だからね。 何うせ誰を持つて行つても気に入らない貴方なんだからつまり誰を持たしたつて同じだらうつて云ふ訳なんです。 貴方には何んな人を見せても駄目なんですよ。 世の中に一人も気に入る様なものは生きてやしませんよ。 だから奥さんと云ふものは始めから気に入らないものと諦らめて貰ふより外に仕方がないぢやありませんか。 だから私達が一番|好いと思ふのを黙つて貰へば夫で何所も彼所も丸く治まつちまふから――だから御父さんが殊によると今度は貴方に一から十迄相談して何か為さらないかも知れませんよ。 御父さんから見れば夫が当り前ですもの。 さうでも為なくつちや生きてる内に貴方の奥さんの顔を見る事は出来ないぢやありませんか。 貴方の仰しやる所も一理あるが私にも私の考があるからまあ打遣つて置いて下さい。 そりや代さんだつて小供ぢやないから一人前の考の御有な事は勿論ですわ。 私なんぞの要らない差出口は御迷惑でせうからもう何にも申しますまい。 然し御|父さんの身になつて御覧なさい。 月々の生活費は貴方の要ると云ふ丈今でも出して入らつしやるんだからつまり貴方は書生時代よりも余計|御父さんの厄介になつてる訳でせう。 さうして置いて世話になる事は元より世話になるが年を取つて一人前になつたから云ふ事は元の通りには聞かれないつて威張つたつて通用しないぢやありませんか。 だつて女房を持てば此|上猶御|父さんの厄介に為らなくつちや為らないでせう。 宜いぢやありませんか御父さんが其方が好いと仰しやるんだから。 ぢや御父さんはいくら僕の気に入らない女房でも是非|持たせる決心なんですね。 だつて貴方に好いたのがあればですけれどもそんなのは日本中|探して歩いたつて無いんぢやありませんか。 何うして夫が分ります。 貴方は丸で代言人の様な事を仰しやるのね。 姉さん私は好いた女があるんです。 僕は又|来ます。 出直して来て御父さんに御目に掛る方が好いでせう。 ぢや貴方から直に御父さんに御話なさるんですね。 それ迄は私は黙つてゐた方が好いでせう。 左様ですね。 どうせ断りに来るんだから。 ぢや若し話す方が都合が好ささうだつたら話しませう。 もし又|悪るい様だつたら何にも云はずに置くから貴方が始から御話なさい。 夫が宜いでせう。 何分宜しく。 大分遅うがしたな。 御飯はもう御済みになりましたか。 宅から使は来やしなかつたかね。 いゝえ。 ぢや宜しい。 先生は何ですか御宅へ御出になつたんぢや無かつたんですか。 何故。 だつて御|出掛になるときそんな御話でしたから。 宅へは行つたさ。 ――宅から使が来なければそれで好いぢやないか。 はあ左様ですか。 大変|好い香ですな。 車を持つて行つて乗せて来るんだよ。 今日始めて自然の昔に帰るんだ。 何か御用なの。 えゝ。 何か急な御用なの。 えゝ。 まあ緩くり話しませう。 先刻表へ出てあの花を買つて来ました。 兄さんと貴方と清水町にゐた時分の事を思ひ出さうと思つて成るべく沢山買つて来ました。 好い香ですこと。 あの時分の事を考へると。 覚えてゐますか。 覚えてゐますわ。 貴方は派手な半襟を掛けて銀杏返しに結つてゐましたね。 だつて東京へ来立だつたんですもの。 ぢき已めて仕舞つたわ。 此間百合の花を持つて来て下さつた時も銀杏返しぢやなかつたですか。 あら気が付いて。 あれはあの時|限なのよ。 あの時はあんな髷に結ひ度なつたんですか。 えゝ気迷れに一寸結つて見たかつたの。 僕はあの髷を見て昔を思ひ出した。 さう。 あの時|兄さんが亡くならないで未だ達者でゐたら今頃私は何うしてゐるでせう。 兄さんが達者でゐたら別の人になつて居る訳ですか。 別な人にはなりませんわ。 貴方は。 僕も同じ事です。 あら嘘。 僕はあの時も今も少しも違つてゐやしないのです。 だつてあの時からもう違つてゐらしつたんですもの。 違やしません。 貴方にはたゞ左様見える丈です。 左様見えたつて仕方がないがそれは僻目だ。 僻目でも何でも可くつてよ。 僕の存在には貴方が必要だ。 何うしても必要だ。 僕は夫丈の事を貴方に話したい為にわざ/\貴方を呼んだのです。 僕はそれを貴方に承知して貰ひたいのです。 承知して下さい。 承知して下さるでせう。 余りだわ。 僕は三四年前に貴方に左様打ち明けなければならなかつたのです。 打ち明けて下さらなくつても可いから何故。 何故棄てゝ仕舞つたんです。 僕が悪い。 堪忍して下さい。 残酷だわ。 残酷と云はれても仕方がありません。 其代り僕は夫丈の罰を受けてゐます。 何うして。 貴方が結婚して三年以上になるが僕はまだ独身でゐます。 だつて夫は貴方の御勝手ぢやありませんか。 勝手ぢやありません。 貰はうと思つても貰へないのです。 それから以後宅のものから何遍結婚を勧められたか分りません。 けれどもみんな断つて仕舞ひました。 今度も亦|一人断りました。 其結果僕と僕の父との間が何うなるか分りません。 然し何うなつても構はない断るんです。 貴方が僕に復讐してゐる間は断らなければならないんです。 復讐。 私は是でも嫁に行つてから今日迄|一日も早く貴方が御結婚なされば可いと思はないで暮らした事はありません。 いや僕は貴方に何所迄も復讐して貰ひたいのです。 それが本望なのです。 今日斯うやつて貴方を呼んでわざ/\自分の胸を打ち明けるのも実は貴方から復讐されてゐる一部分としか思やしません。 僕は是で社会的に罪を犯したも同じ事です。 然し僕はさう生れて来た人間なのだから罪を犯す方が僕には自然なのです。 世間に罪を得ても貴方の前に懺悔する事が出来れば夫で沢山なんです。 是程嬉しい事はないと思つてゐるんです。 僕は今更こんな事を貴方に云ふのは残酷だと承知してゐます。 それが貴方に残酷に聞えれば聞える程僕は貴方に対して成功したも同様になるんだから仕方がない。 其上僕はこんな残酷な事を打ち明けなければもう生きてゐる事が出来なくなつた。 つまり我儘です。 だから詫るんです。 残酷では御座いません。 だから詫まるのはもう廃して頂戴。 たゞもう少し早く云つて下さると。 ぢや僕が生涯|黙つてゐた方が貴方には幸福だつたんですか。 左様ぢやないのよ。 私だつて貴方が左様云つて下さらなければ生きてゐられなくなつたかも知れませんわ。 夫ぢや構はないでせう。 構はないより難有いわ。 たゞ――。 たゞ平岡に済まないと云ふんでせう。 三千代さん正直に云つて御覧。 貴方は平岡を愛してゐるんですか。 では平岡は貴方を愛してゐるんですか。 仕様がない。 覚悟を極めませう。 私もう帰つてよ。 御帰りなさい。 万事終る。 今度こそ能く考へて入らつしやいよ。 善からう。 宜しい。 何故夫から入らつしやらなかつたの。 何でそんなにそわ/\して居らつしやるの。 又|来ます。 大丈夫だから安心して入らつしやい。 御役所風だね。 青山の御宅からですか。 何うも何ですな。 昔の人は矢っ張り手蹟が好い様ですな。 断りますか。 鬱陶しい御天気ぢやありませんか。 御父さんが待つて御出でせうから一寸行つて話をして来ませう。 代さん成らう事なら年寄に心配を掛けない様になさいよ。 御父さんだつてもう長い事はありませんから。 降るのに御苦労だつた。 何うか為さいましたか。 己も大分年を取つてな。 さう云ふ親類が一軒位あるのは大変な便利で且つ此際甚だ必要ぢやないか。 貴方の仰しやる所は一々御尤もだと思ひますが私には結婚を承諾する程の勇気がありませんから断るより外に仕方がなからうと思ひます。 勇気が要るのかい。 当人が気に入らないのかい。 ぢや何でも御前の勝手にするさ。 己の方でももう御前の世話はせんから。 何うなすつて。 又都合して宅へ来ませんか。 すこし又話したい事があるから来て下さい。 先生将棋は何うです。 何うも非常な暑さですな。 馳落でもしさうな風ぢやありませんか。 でも買物をした序でないと上り悪いから。 其後貴方と平岡との関係は別に変りはありませんか。 あつたつて構はないわ。 貴方は夫程僕を信用してゐるんですか。 信用してゐなくつちや斯うして居られないぢやありませんか。 僕には夫程信用される資格がなささうだ。 まあ。 僕は白状するが実を云ふと平岡君より頼にならない男なんですよ。 買ひ被つてゐられると困るからみんな話して仕舞ふが。 僕の身分は是から先何うなるか分らない。 少なくとも当分は一人前ぢやない。 半人前にもなれない。 だから。 だから何うなさるんです。 だから僕の思ふ通り貴方に対して責任が尽せないだらうと心配してゐるんです。 責任つて何んな責任なの。 もつと判然仰しやらなくつちや解らないわ。 徳義上の責任ぢやない物質上の責任です。 そんなものは欲しくないわ。 欲しくないと云つたつて是非必要になるんです。 是から先僕が貴方と何んな新らしい関係に移つて行くにしても物質上の供給が半分は解決者ですよ。 解決者でも何でも今更左様な事を気にしたつて仕方がないわ。 口ではさうも云へるがいざと云ふ場合になると困るのは眼に見えてゐます。 今貴方の御父様の御話を伺つて見ると斯うなるのは始めから解つてるぢやありませんか。 貴方だつて其位な事は疾うから気が付いて入つしやる筈だと思ひますわ。 少し脳が何うかしてゐるんだ。 もし夫が気になるなら私の方は何うでも宜う御座んすから御父様と仲直りをなすつて今迄通り御|交際になつたら好いぢやありませんか。 そんな事を為る気なら始めから心配をしやしない。 たゞ気の毒だから貴方に詫るんです。 詫まるなんて。 私が源因で左様なつたのに貴方に詫まらしちや済まないぢやありませんか。 ぢや我慢しますか。 我慢はしません。 当り前ですもの。 是から先まだ変化がありますよ。 ある事は承知してゐます。 何んな変化があつたつて構やしません。 私は此間から――此間から私は若もの事があれば死ぬ積で覚悟を極めてゐるんですもの。 貴方に是から先何したら好いと云ふ希望はありませんか。 希望なんか無いわ。 何でも貴方の云ふ通りになるわ。 漂|泊――。 漂泊でも好いわ。 死ねと仰しやれば死ぬわ。 此儘では。 此儘でも構はないわ。 平岡君は全く気が付いてゐない様ですか。 気が付いてゐるかも知れません。 けれども私もう度胸を据ゑてゐるから大丈夫なのよ。 だつて何時殺されたつて好いんですもの。 さう死ぬの殺されるのと安つぽく云ふものぢやない。 だつて放つて置いたつて永く生きられる身体ぢやないぢやありませんか。 僕が自分で平岡君に逢つて解決を付けても宜う御座んすか。 そんな事が出来て。 出来る積です。 ぢや何うでも。 さうしませう。 二人が平岡君を欺いて事をするのは可くない様だ。 無論事実を能く納得|出来る様に話す丈です。 さうして僕の悪い所はちやんと詫まる覚悟です。 其結果は僕の思ふ様に行かないかも知れない。 けれども何う間違つたつてそんな無暗な事は起らない様にする積です。 斯う中途半端にしてゐては御互も苦痛だし平岡君に対しても悪い。 たゞ僕が思ひ切つて左様するとあなたが嘸平岡君に面目なからうと思つてね。 其所が御気の毒なんだが然し面目ないと云へば僕だつて面目ないんだから。 自分の所為に対しては如何に面目なくつても徳義上の責任を負ふのが当然だとすれば外に何等の利益がないとしても御互の間に有た事丈は平岡君に話さなければならないでせう。 其上今の場合では是からの所置を付ける大事の自白なんだから猶更必要になると思ひます。 能く解りましたわ。 何うせ間違へば死ぬ積なんですから。 死ぬなんて。 ――よし死ぬにしたつて是から先何の位間があるか――又そんな危険がある位ならなんで平岡君に僕から話すもんですか。 ぢや能く詫ります。 まだ早いぢやありませんか。 日が当つてゐますぜ。 先生心臓の鼓動が少々|狂やしませんか。 先生|今日は御疲ですか。 君平岡の所へ行つてね先達ての手紙は御覧になりましたか。 御覧になつたら御返事を願ひますつて返事を聞いて来て呉れ玉へ。 行つて参りました。 平岡さんは御居でゞした。 手紙は御覧になつたさうです。 明日の朝行くからといふ事です。 左様かい御苦労さま。 実はもつと早く出るんだつたがうちに病人が出来たんで遅くなつたから宜しく云つてくれろと云はれました。 病人。 えゝ何でも奥さんが御悪い様です。 余程|悪いのか。 何うですか能く分りませんが。 何でもさう軽さうでもない様でした。 然し平岡さんが明日御出になられる位なんだから大した事ぢやないでせう。 何だい。 病気は。 つい聞き落しましたがな。 まだ暗闇ですな。 洋燈を点けますか。 御宅からの様です。 灯火を持つて来ませうか。 此間から奥さんの事で貴方も嘸御迷惑なすつたらう。 此方でも御父様始め兄さんや私は随分心配をしました。 けれども其甲斐もなく先達て御|出の時とう/\御父さんに断然御|断りなすつた御様子甚だ残念ながら今では仕方がないと諦らめてゐます。 けれども其節御父様はもう御前の事は構はないから其積でゐろと御怒りなされた由後で承りました。 其|後あなたが御出にならないのも全く其|為ぢやなからうかと思つてゐます。 例月のものを上げる日には何うかとも思ひましたが矢張り御|出にならないので心配してゐます。 御父さんは打遣つて置けと仰います。 兄さんは例の通り呑気で困つたら其|内来るだらう。 其時|親爺によく詫らせるが可い。 もし来ない様だつたらおれの方から行つてよく異見してやると云つてゐます。 けれども結婚の事は三人とももう断念してゐるんですから其点では御迷惑になる様な事はありますまい。 尤も御父さんは未だ怒つて御|出の様子です。 私の考では当分|昔の通りになる事は六づかしいと思ひます。 それを考へると貴方が入らつしやらない方が却つて貴方の為に宜いかも知れません。 たゞ心配になるのは月々|上げる御|金の事です。 貴方の事だからさう急に自分で御|金を取る気遣はなからうと思ふと差し当り御困りになるのが眼の前に見える様で御気の毒で堪りません。 で私の取計で例月分を送つて上げるから御受取の上は是で来月迄持ち応へて入らつしやい。 其|内には御父さんの御機嫌も直るでせう。 又|兄さんからもさう云つて頂く積です。 私も好い折があれば御|詫をして上げます。 それ迄は今迄通り遠慮して入らつしやる方が宜う御座います。 大変御早うがすな。 平岡が来たらすぐ帰るからつて少し待たして置いて呉れ。 昨日不要の本を取りに来て呉れと頼んで置いたが少し都合があつて見合せる事にしたから其積で。 いや御使で。 何うも暑い所を。 三千代さんは病気だつてね。 うん。 夫で社の方も二三日|休ませられた様な訳で。 つい君の所へ返事を出すのも忘れて仕舞つた。 そりや何うでも構はないが。 三千代さんはそれ程|悪いのかい。 君の用事と三千代の云ふ事と何か関係があるのかい。 三千代さんの君に詫まる事と僕の君に話したい事とは恐らく大いなる関係があるだらう。 或は同じ事かも知れない。 僕は何うしてもそれを君に話さなければならない。 話す義務があると思ふから話すんだから今日迄の友誼に免じて快よく僕に僕の義務を果さして呉れ給へ。 何だい。 改たまつて。 いや前置をすると言訳らしくなつて不可ないから僕も成る可くなら卒直に云つて仕舞ひたいのだが少し重大な事件だし夫に習慣に反した嫌もあるので若し中途で君に激されて仕舞ふと甚だ困るから是非仕舞迄君に聞いて貰ひたいと思つて。 まあ何だい。 其|話と云ふのは。 其代りみんな話した後で僕は何んな事を君から云はれても矢張り大人しく仕舞迄聞く積だ。 ざつと斯う云ふ経過だ。 君の立場から見れば僕は君を裏切りした様に当る。 怪しからん友達だと思ふだらう。 左様思れても一言もない。 済まない事になつた。 すると君は自分のした事を悪いと思つてるんだね。 無論。 悪いと思ひながら今日迄歩を進めて来たんだね。 左様だ。 だから此事に対して君の僕等に与へやうとする制裁は潔よく受ける覚悟だ。 今のはたゞ事実を其儘に話した丈で君の処分の材料にする考だ。 僕の毀損された名誉が回復出来る様な手段が世の中にあり得ると君は思つてゐるのか。 法律や社会の制裁は僕には何にもならない。 すると君は当事者丈のうちで名誉を回復する手段があるかと聞くんだね。 左様さ。 三千代さんの心機を一転して君を元よりも倍以上に愛させる様にして其上僕を蛇蝎の様に悪ませさへすれば幾分か償にはなる。 夫が君の手際で出来るかい。 出来ない。 すると君は悪いと思つた事を今日迄発展さして置いて猶其|悪いと思ふ方針によつて極端押して行かうとするのぢやないか。 矛盾かも知れない。 然し夫は世間の掟と定めてある夫婦関係と自然の事実として成り上がつた夫婦関係とが一致しなかつたと云ふ矛盾なのだから仕方がない。 僕は世間の掟として三千代さんの夫たる君に詫まる。 然し僕の行為其物に対しては矛盾も何も犯してゐない積だ。 ぢや。 ぢや僕等|二人は世間の掟に叶ふ様な夫婦関係は結べないと云ふ意見だね。 平岡君。 世間から云へばこれは男子の面目に関はる大事件だ。 だから君が自己の権利を維持する為に――故意に維持しやうと思はないでも暗に其心が働らいて自然と激して来るのは已を得ないが――けれどもこんな関係の起らない学校時代の君になつてもう一遍僕の云ふ事をよく聞いて呉れないか。 君は三千代さんを愛してゐなかつた。 そりや。 そりや余計な事だけれども僕は云はなければならない。 今度の事件に就て凡ての解決者はそれだらうと思ふ。 君には責任がないのか。 僕は三千代さんを愛してゐる。 他の妻を愛する権利が君にあるか。 仕方がない。 三千代さんは公然君の所有だ。 けれども物件ぢやない人間だから心迄所有する事は誰にも出来ない。 本人以外にどんなものが出て来たつて愛情の増減や方向を命令する訳には行かない。 夫の権利は其所迄は届きやしない。 だから細君の愛を他へ移さない様にするのが却つて夫の義務だらう。 よし僕が君の期待する通り三千代を愛してゐなかつた事が事実としても。 君は三年前の事を覚えてゐるだらう。 三年前は君が三千代さんと結婚した時だ。 さうだ。 其|時の記憶が君の頭の中に残つてゐるか。 三千代を僕に周旋しやうと云ひ出したものは君だ。 貰いたいと云ふ意志を僕に打ち明けたものは君だ。 それは僕だつて忘れやしない。 今に至る迄君の厚意を感謝してゐる。 二人で夜上野を抜けて谷中へ下りる時だつた。 雨上りで谷中の下は道が悪かつた。 博物館の前から話しつゞけてあの橋の所迄|来た時君は僕の為に泣いて呉れた。 僕は其時程朋友を難有いと思つた事はない。 嬉しくつて其晩は少しも寐られなかつた。 月のある晩だつたので月の消える迄起きてゐた。 僕もあの時は愉快だつた。 君は何だつてあの時僕の為に泣いて呉れたのだ。 なんだつて僕の為に三千代を周旋しやうと盟つたのだ。 今日の様な事を引き起す位なら何故あの時ふんと云つたなり放つて置いて呉れなかつたのだ。 僕は君から是程深刻な復讐を取られる程君に向つて悪い事をした覚がないぢやないか。 平岡僕は君より前から三千代さんを愛してゐたのだよ。 其時の僕は今の僕でなかつた。 君から話を聞いた時僕の未来を犠牲にしても君の望みを叶へるのが友達の本分だと思つた。 それが悪かつた。 今位|頭が熟してゐればまだ考へ様があつたのだが惜しい事に若かつたものだから余りに自然を軽蔑し過ぎた。 僕はあの時の事を思つては非常な後悔の念に襲はれてゐる。 自分の為ばかりぢやない。 実際君の為に後悔してゐる。 僕が君に対して真に済まないと思ふのは今度の事件より寧ろあの時僕がなまじいに遣り遂げた義侠心だ。 君どうぞ勘弁して呉れ。 僕は此通り自然に復讐を取られて君の前に手を突いて詫まつてゐる。 どうも運命だから仕方がない。 善後策に就て君の考があるなら聞かう。 僕は君の前に詫まつてゐる人間だ。 此方から先へそんな事を云ひ出す権利はない。 君の考から聞くのが順だ。 僕には何にもない。 では云ふ。 三千代さんを呉れないか。 うん遣らう。 遣る。 遣るが今は遣れない。 僕は君の推察通り夫程三千代を愛して居なかつたかも知れない。 けれども悪んぢやゐなかつた。 三千代は今病気だ。 しかも余り軽い方ぢやない。 寐てゐる病人を君に遣るのは厭だ。 病気が癒る迄君に遣れないとすれば夫迄は僕が夫だから夫として看護する責任がある。 僕は君に詫つた。 三千代さんも君に詫まつてゐる。 君から云へば二人とも不埒な奴には相違ないが――幾何詫まつても勘弁|出来んかも知れないが――何しろ病気をして寐てゐるんだから。 夫は分つてゐる。 本人の病気に付け込んで僕が意趣|晴らしに虐待でもすると思つてるんだらうが僕だつてまさか。 僕は今日の事がある以上は世間的の夫の立場からしてもう君と交際する訳には行かない。 今日限り絶交するから左様思つて呉れ玉へ。 仕方がない。 三千代の病気は今云ふ通り軽い方ぢやない。 此先何んな変化がないとも限らない。 君も心配だらう。 然し絶交した以上は已を得ない。 僕の在不在に係はらず宅へ出入りする事丈は遠慮して貰ひたい。 承知した。 君もう五分|許坐つて呉れ。 三千代さんの病気は急に危険な虞でもありさうなのかい。 さあ。 夫丈教へて呉れないか。 まあさう心配しないでも可いだらう。 若しだね。 若し万一の事がありさうだつたら其前にたつた一遍丈で可いから逢はして呉れないか。 外には決して何も頼まない。 たゞ夫丈だ。 夫丈を何うか承知して呉れ玉へ。 夫はまあ其時の場合にしやう。 ぢや時々病人の様子を聞きに遣つても可いかね。 夫は困るよ。 君と僕とは何にも関係がないんだから。 僕は是から先君と交渉があれば三千代を引き渡す時丈だと思つてるんだから。 あつ。 解つた。 三千代さんの死骸丈を僕に見せる積なんだ。 それは苛い。 それは残酷だ。 苛い苛い。 左んな事があるものか。 落ち付かなくつちや不可ない。 落ち付いてゐる。 今から何方へ。 何一寸。 やあ此方へ。 暑いな。 御宅でも別に御変りもありませんか。 今日は実は。 実は御|前に少し聞きたい事があつて来たんだがね。 此男を知つてるかい。 知つてます。 元御前の同級生だつて云ふが本当か。 さうです。 此男の細君も知つてるのかい。 知つてゐます。 此男の細君と御前が何か関係があるのかい。 実は平岡と云ふ人が斯う云ふ手紙を御父さんの所へ宛ゝ寄こしたんだがね。 ――読んで見るか。 其所に書いてある事は本当なのかい。 本当です。 まあ何う云ふ了見でそんな馬鹿な事をしたのだ。 何んな女だつて貰はうと思へばいくらでも貰へるぢやないか。 御前だつて満更道楽をした事のない人間でもあるまい。 こんな不始末を仕出かす位なら今迄折角|金を使つた甲斐がないぢやないか。 姉さんは泣いてゐるぜ。 さうですか。 御父さんは怒つてゐる。 御前は平生から能く分らない男だつた。 夫でもいつか分る時機が来るだらうと思つて今日迄|交際つてゐた。 然し今度と云ふ今度は全く分らない人間だとおれも諦らめて仕舞つた。 世の中に分らない人間程危険なものはない。 何を為るんだか何を考へてゐるんだか安心が出来ない。 御前は夫が自分の勝手だから可からうが御父さんやおれの社会上の地位を思つて見ろ。 御前だつて家族の名誉と云ふ観念は有つてゐるだらう。 代助。 今日はおれは御父さんの使に来たのだ。 御前は此間から家へ寄り付かない様になつてゐる。 平生なら御|父さんが呼び付けて聞き糺す所だけれども今日は顔を見るのが厭だから此方から行つて実否を確めて来いと云ふ訳で来たのだ。 それで――もし本人に弁解があるなら弁解を聞くし。 又弁解も何もない平岡の云ふ所が一々根拠のある事実なら――御父さんは斯う云はれるのだ。 ――もう生涯代助には逢はない。 何処へ行つて何をしやうと当人の勝手だ。 其代り以来子としても取り扱はない。 又|親とも思つて呉れるな。 ――尤もの事だ。 そこで今御前の話を聞いて見ると平岡の手紙には嘘は一つも書いてないんだから仕方がない。 其上御前は此事に就て後悔もしなければ謝罪もしない様に見受けられる。 それぢやおれだつて帰つて御父さんに取り成し様がない。 御父さんから云はれた通りを其儘御前に伝へて帰る丈の事だ。 好いか。 御父さんの云はれる事は分つたか。 よく分りました。 貴様は馬鹿だ。 愚図だ。 不断は人並以上に減らず口を敲く癖にいざと云ふ場合には丸で唖の様に黙つてゐる。 さうして陰で親の名誉に関はる様な悪戯をしてゐる。 今日迄何の為に教育を受けたのだ。 ぢや帰るよ。 おれももう逢はんから。 門野さん。 僕は一寸職業を探して来る。 焦る/\。 あゝ動く。 世の中が動く。 三四郎。 三四郎。 非常。 趣味。 夏目漱石君はズーデルマンの『カッツェンステッヒ』を評してそのますます序を逐うて迫り来るがごとき点をひどく感服しておられる。 氏の近作『三四郎』はこの筆法で往くつもりだとか聞いている。 しかし云々。 巡査。 蒲団。 生。 蒲団。 車夫の家。 文章世界。 土。 東京朝日。 土。 土。 土。 土。 土。 土。 朝日。 土。 土。 土。 土。 土。 土。 土。 土。 彼岸過迄。 土。 土。 土。 土。 土。 土。 土。 土。 土。 土。 土。 土。 朝日。 朝日。 満韓ところどころ。 朝日新聞。 土。 満韓ところどころ。 土。 満韓ところどころ。 満韓ところどころ。 土。 土。 土。 朝日。 土。 土。 土。 御申越の借家は二軒共不都合もなき様|被存候えば私倫敦へ上り候迄双方共御明け置願度若し又それ迄に取極め候必要相生じ候節は御一存にて如何とも御取計らい被下度候とあった。 カーライルは書物の上でこそ自分|独りわかったような事をいうが家をきめるには細君の助けに依らなくては駄目と覚悟をしたものと見えて夫人の上京するまで手を束ねて待っていた。 四五日すると夫人が来る。 そこで今度は二人してまた東西南北を馳け廻った揚句の果やはりチェイン・ローが善いという事になった。 両人がここに引き越したのは千八百三十四年の六月十日で引越の途中に下女の持っていたカナリヤが籠の中で囀ったという事まで知れている。 夫人がこの家を撰んだのは大に気に入ったものかほかに相当なのがなくてやむをえなんだのかいずれにもせよこの煙突のごとく四角な家は年に三百五十円の家賃をもってこの新世帯の夫婦を迎えたのである。 カーライルはこのクロムウェルのごときフレデリック大王のごときまた製造場の煙突のごとき家の中でクロムウェルを著わしフレデリック大王を著わしディスレリーの周旋にかかる年給を擯けて四角四面に暮したのである。 余は今この四角な家の石階の上に立って鬼の面のノッカーをコツコツと敲く。 しばらくすると内から五十|恰好の肥った婆さんが出て来て御這入りと云う。 最初から見物人と思っているらしい。 婆さんはやがて名簿のようなものを出して御名前をと云う。 余は倫敦滞留中四たびこの家に入り四たびこの名簿に余が名を記録した覚えがある。 この時は実に余の名の記入初であった。 なるべく丁寧に書くつもりであったが例に因ってはなはだ見苦しい字が出来上った。 前の方を繰りひろげて見ると日本人の姓名は一人もない。 して見ると日本人でここへ来たのは余が始めてだなと下らぬ事が嬉しく感ぜられる。 婆さんがこちらへと云うから左手の戸をあけて町に向いた部屋に這入る。 これは昔し客間であったそうだ。 色々なものが並べてある。 壁に画やら写真やらがある。 大概はカーライル夫婦の肖像のようだ。 後ろの部屋にカーライルの意匠に成ったという書棚がある。 それに書物が沢山詰まっている。 むずかしい本がある。 下らぬ本がある。 古びた本がある。 読めそうもない本がある。 そのほかにカーライルの八十の誕生日の記念のために鋳たという銀牌と銅牌がある。 金牌は一つもなかったようだ。 すべての牌と名のつくものがむやみにかちかちしていつまでも平気に残っているのをもろうた者の煙のごとき寿命と対照して考えると妙な感じがする。 それから二階へ上る。 ここにまた大きな本棚があって本が例のごとくいっぱい詰まっている。 やはり読めそうもない本聞いた事のなさそうな本入りそうもない本が多い。 勘定をしたら百三十五部あった。 この部屋も一時は客間になっておったそうだ。 ビスマークがカーライルに送った手紙と普露西の勲章がある。 フレデリック大王伝の御蔭と見える。 細君の用いた寝台がある。 すこぶる不器用な飾り気のないものである。 案内者はいずれの国でも同じものと見える。 先っきから婆さんは室内の絵画器具について一々説明を与える。 五十年間案内者を専門に修業したものでもあるまいが非常に熟練したものである。 何年何月何日にどうしたこうしたとあたかも口から出任せに喋舌っているようである。 しかもその流暢な弁舌に抑揚があり節奏がある。 調子が面白いからその方ばかり聴いていると何を言っているのか分らなくなる。 始めのうちは聞き返したり問い返したりして見たがしまいには面倒になったから御前は御前で勝手に口上を述べなさいわしはわしで自由に見物するからという態度をとった。 婆さんは人が聞こうが聞くまいが口上だけは必ず述べますという風で別段|厭きた景色もなく怠る様子もなく何年何月何日をやっている。 余は東側の窓から首を出してちょっと近所を見渡した。 眼の下に十坪ほどの庭がある。 右も左もまた向うも石の高塀で仕切られてその形はやはり四角である。 四角はどこまでもこの家の附属物かと思う。 カーライルの顔は決して四角ではなかった。 彼はむしろ懸崖の中途が陥落して草原の上に伏しかかったような容貌であった。 細君は上出来の辣韮のように見受けらるる。 今余の案内をしている婆さんはあんぱんのごとく丸るい。 余が婆さんの顔を見てなるほど丸いなと思うとき婆さんはまた何年何月何日を誦し出した。 余は再び窓から首を出した。 カーライル云う。 裏の窓より見渡せば見ゆるものは茂る葉の木株碧りなる野原及びその間に点綴する勾配の急なる赤き屋根のみ。 西風の吹くこの頃の眺めはいと晴れやかに心地よし。 余は茂る葉を見ようと思い青き野を眺めようと思うて実は裏の窓から首を出したのである。 首はすでに二|返ばかり出したが青いものも何にも見えぬ。 右に家が見える。 左りに家が見える。 向にも家が見える。 その上には鉛色の空が一面に胃病やみのように不精無精に垂れかかっているのみである。 余は首を縮めて窓より中へ引き込めた。 案内者はまだ何年何月何日の続きを朗らかに読誦している。 カーライルまた云う倫敦の方を見れば眼に入るものはウェストミンスター・アベーとセント・ポールズの高塔の頂きのみ。 その他|幻のごとき殿宇は煤を含む雲の影の去るに任せて隠見す。 「倫敦の方。 倫敦の方。 上りましょう。 此|夏中は開け放ちたる窓より聞ゆる物音に悩まされ候事一方ならず色々修繕も試み候えども寸毫も利目無之夫より篤と熟考の末家の真上に二十尺四方の部屋を建築致す事に取極め申|候是は壁を二重に致し光線は天井より取り風通しは一種の工夫をもって差支なき様致す仕掛に候えば出来上り候上は仮令天下の鶏共一時に鬨の声を揚げ候とも閉口|仕らざる積に御座|候。 カントは活力論を著せり余は反って活力を弔う文を草せんとす。 物を打つ音物を敲く音物の転がる音は皆活力の濫用にして余はこれがために日々苦痛を受くればなり。 音響を聞きて何らの感をも起さざる多数の人|我説をきかば笑うべし。 されど世に理窟をも感ぜず思想をも感ぜず詩歌をも感ぜず美術をも感ぜざるものあらばそは正にこの輩なる事を忘るるなかれ。 彼らの頭脳の組織は麁※にして覚り鈍き事その源因たるは疑うべからず。 千八百四十四年十月十二日有名なる詩人テニソンが初めてカーライルを訪問した時彼ら両人はこの竈の前に対坐して互に煙草を燻らすのみにて二時間の間|一言も交えなかったのであります。 庭の東南の隅を去る五尺余の地下にはカーライルの愛犬ニロが葬むられております。 ニロは千八百六十年二月一日に死にました。 墓標も当時は存しておりましたが惜しいかなその後取払われました。 嗚呼余が最後に汝を見るの時は瞬刻の後ならん。 全能の神が造れる無辺大の劇場眼に入る無限手に触るる無限これもまた我が眉目を掠めて去らん。 しかして余はついにそを見るを得ざらん。 わが力を致せるや虚ならず知らんと欲するや切なり。 しかもわが知識はただかくのごとく微なり。 二十五日間。 |私の二十五日。 不在。 また帰ってきます。 帰ってくるつもりです。 あのこと。 あのこと。 あのこと。 まあだいじょうぶだろうよ。 まあじゃ困るわ。 ほんとうにだいじょうぶでなくっちゃ。 だってもしか嘘でもついたら私すまないんですもの。 私ばかしじゃない貴方だって責任がおありじゃありませんか。 まあたいていよかろうじゃないか。 道楽のほうは受け合いますと言っといでよ。 道楽のほうって――。 しないほうをでしょう。 あたりまえさ。 するほうを受け合っちゃたいへんだ。 あのこと。 あのこと。 こんな所にはいっていたのか。 だいぶ飲んだんだね。 ええお祭りで少し飲まされました。 あのこと。 いったいどうする気なんだい。 どうする気だって――むろんもらいたいんですがね。 真剣のところを白状しなくっちゃいけないよ。 いいかげんなことを言って引っ張るくらいならいっそきっぱり今のうちに断わるほうが得策だから。 いまさら断わるなんて僕はごめんだなあ。 実際|叔父さん僕はあの人が好きなんだから。 じゃもっと早くどしどしかたづけるが好いじゃないかいつまでたってもぐずぐずではたから見るといかにも煮え切らないよ。 だってもらってこんないなかへ連れてくるんですか。 そう話したら承知するだろうじゃないか。 そうお前の腹がきまってるならそれでいい。 叔母さんも安心するだろう。 お静さんのほうへもよくそう話しておこう。 ええどうぞ――。 しかし僕の腹はたいてい貴方がたにはわかってるはずですがねえ。 そんならあんな返事をよこさないがいいよ。 ただよろしく願いますだけじゃなんだかいっこうわからないじゃないか。 そうしてあのはがきはなんだい私はまだ道楽を始めませんからだいじょうぶですって。 本気だか冗談だかまるで見当がつかない。 どうもすみません。 ――しかしまったく本気なんです。 あのこと。 あの野郎。 今日はだいぶしゃれてるじゃないか。 昨夕もこの服装ですよ。 夜だからわからなかったんでしょう。 実は昨夕もあんなに話したあのことだがね。 どうだいっそのこときっぱり断わってしまっちゃ。 なぜって君のような道楽ものは向こうの夫になる資格がないからさ。 おれはちゃんと知ってるよ。 お前の遊ぶことは天下に隠れもない事実だ。 元来男らしくないぜ。 人をごまかして自分の得ばかり考えるなんて。 まるで詐欺だ。 だって叔父さん僕は病気なんかにまだかかりゃしませんよ。 そんなことがひとにわかるもんか。 いえまったくです。 とにかく遊ぶのがすでに条件違反だ。 お前はとてもお静さんをもらうわけにゆかないよ。 困るなあ。 我。 何んな影響が出て来るでせう。 左様。 何んな影響が出て来るか来て見なければ無論解りませんけれども何しろ吾々が是はと驚ろくやうな目覚ましい結果は予期しにくいやうに思ひます。 元来|事の起りが宗教にも道義にも乃至一般人類に共通な深い根柢を有した思想なり感情なり欲求なりに動かされたものでない以上何方が勝つた所で善が栄えるといふ訳でもなし又|何方が負けたにした所で真が勢を失ふといふ事にもならず美が輝を減ずるといふ羽目にも陥る危険はないぢやありませんか。 力。 力。 仏蘭西では科学的に所謂「力。 力。 力。 力。 力。 力。 力。 力。 力。 力。 力。 力。 所謂独乙的発展。 親子の情合のために自分の信念を枉げる事は私には何うしても出来ません。 国家。 第一に自由夫から統一。 第一に国家の権利夫から国家。 国家の実質とも見傚し得べき「力。 どんな犠牲を払つても勝て。 統一の星は上つた。 其|途を妨ぐるものは災を蒙れ。 トライチケの鼓吹した軍国主義国家主義は畢竟独乙統一の為ではないか。 其統一は四囲の圧迫を防ぐためではないか。 既に統一が成立し帝国が成立し侵略の虞なくして独乙が優に存在し得た暁には撤回すべき性質のものではないか。 もし永久に此主義で押し通すとならば論理上此主義其物に価値がなくてはならない。 さうして其価値によつて此主義の存在が保証されなければならない。 そんな価値が果して何処から出て来るだらうか。 ヰリアム帝は独乙に祖国を与へたるのみならずより平|衡を得たる又より合理的なる支配の下に文明世|界を置いた。 全世界を健全にするは独乙の事業なりと云つた詩人ガイベルの言葉は今に実現せられるだらう。 道楽と職業。 是非出て来い。 道楽と職業。 柳の虫や赤蛙。 いたずらものはいないかな。 ためにする。 虻。 朝日。 土。 土。 土。 ポーリン是は譫言なり。 中味と形式。 甲より乙が偉い。 どこへ行ったね。 ちょっと町を歩行いて来た。 何か観るものがあるかい。 寺が一軒あった。 それから。 銀杏の樹が一本門前にあった。 それから。 銀杏の樹から本堂まで一丁半ばかり石が敷き詰めてあった。 非常に細長い寺だった。 這入って見たかい。 やめて来た。 そのほかに何もないかね。 別段何もない。 いったい寺と云うものは大概の村にはあるね君。 そうさ人間の死ぬ所には必ずあるはずじゃないか。 なるほどそうだね。 それから鍛冶屋の前で馬の沓を替えるところを見て来たが実に巧みなものだね。 どうも寺だけにしてはちと時間が長過ぎると思った。 馬の沓がそんなに珍しいかい。 珍らしくなくっても見たのさ。 君あれに使う道具が幾通りあると思う。 幾通りあるかな。 あてて見たまえ。 あてなくっても好いから教えるさ。 何でも七つばかりある。 そんなにあるかい。 何と何だい。 何と何だってたしかにあるんだよ。 第一爪をはがす鑿と鑿を敲く槌とそれから爪を削る小刀と爪を刳る妙なものとそれから。 それから何があるかい。 それから変なものがまだいろいろあるんだよ。 第一馬のおとなしいには驚ろいた。 あんなに削られても刳られても平気でいるぜ。 爪だもの。 人間だって平気で爪を剪るじゃないか。 人間はそうだが馬だぜ君。 馬だって人間だって爪に変りはないやね。 君はよっぽど呑気だよ。 呑気だから見ていたのさ。 しかし薄暗い所で赤い鉄を打つと奇麗だね。 ぴちぴち火花が出る。 出るさ東京の真中でも出る。 東京の真中でも出る事は出るが感じが違うよ。 こう云う山の中の鍛冶屋は第一音から違う。 そらここまで聞えるぜ。 聞えるだろう。 うん。 そこでその相手が竹刀を落したんだあね。 するとそのちょいと小手を取ったんだあね。 ふうん。 とうとう小手を取られたのかい。 とうとう小手を取られたんだあね。 ちょいと小手を取ったんだがそこがそら竹刀を落したものだからどうにもこうにもしようがないやあね。 ふうん。 竹刀を落したのかい。 竹刀はそらさっき落してしまったあね。 竹刀を落してしまって小手を取られたら困るだろう。 困らああね。 竹刀も小手も取られたんだから。 まだ馬の沓を打ってる。 何だか寒いね君。 僕の小供の時住んでた町の真中に一軒|豆腐屋があってね。 豆腐屋があって。 豆腐屋があってその豆腐屋の角から一丁ばかり爪先上がりに上がると寒磬寺と云う御寺があってね。 寒磬寺と云う御寺がある。 ある。 今でもあるだろう。 門前から見るとただ大竹藪ばかり見えて本堂も庫裏もないようだ。 その御寺で毎朝四時頃になると誰だか鉦を敲く。 誰だか鉦を敲くって坊主が敲くんだろう。 坊主だか何だか分らない。 ただ竹の中でかんかんと幽かに敲くのさ。 冬の朝なんぞ霜が強く降って布団のなかで世の中の寒さを一二寸の厚さに遮ぎって聞いていると竹藪のなかからかんかん響いてくる。 誰が敲くのだか分らない。 僕は寺の前を通るたびに長い石甃と倒れかかった山門と山門を埋め尽くすほどな大竹藪を見るのだが一度も山門のなかを覗いた事がない。 ただ竹藪のなかで敲く鉦の音だけを聞いては夜具の裏で海老のようになるのさ。 海老のようになるって。 うん。 海老のようになって口のうちでかんかんかんかんと云うのさ。 妙だね。 すると門前の豆腐屋がきっと起きて雨戸を明ける。 ぎっぎっと豆を臼で挽く音がする。 ざあざあと豆腐の水を易える音がする。 君の家は全体どこにある訳だね。 僕のうちはつまりそんな音が聞える所にあるのさ。 だからどこにある訳だね。 すぐ傍さ。 豆腐屋の向か隣りかい。 なに二階さ。 どこの。 豆腐屋の二階さ。 へええ。 そいつは。 僕は豆腐屋の子だよ。 へええ。 豆腐屋かい。 それから垣根の朝顔が茶色に枯れて引っ張るとがらがら鳴る時分白い靄が一面に降りて町の外れの瓦斯灯に灯がちらちらすると思うとまた鉦が鳴る。 かんかん竹の奥で冴えて鳴る。 それから門前の豆腐屋がこの鉦を合図に腰障子をはめる。 門前の豆腐屋と云うがそれが君のうちじゃないか。 僕のうちすなわち門前の豆腐屋が腰障子をはめる。 かんかんと云う声を聞きながら僕は二階へ上がって布団を敷いて寝る。 ――僕のうちの吉原揚は旨かった。 近所で評判だった。 あれは何日掛ったら抜けるだろう。 一生懸命にやったら半日くらいで済むだろう。 そうは行くまい。 そうかな。 じゃ一日かな。 一日や二日で奇麗に抜けるなら訳はない。 そうさことによると一週間もかかるかね。 見たまえあの丁寧に顋を撫で廻しながら抜いてるのを。 あれじゃ。 古いのを抜いちまわないうちに新しいのが生えるかも知れないね。 とにかく痛い事だろう。 痛いに違いないね。 忠告してやろうか。 なんて。 よせってさ。 余計な事だ。 それより幾日掛ったらみんな抜けるか聞いて見ようじゃないか。 うんよかろう。 君が聞くんだよ。 僕はいやだ君が聞くのさ。 聞いても好いがつまらないじゃないか。 だからまあよそうよ。 あの音を聞くとどうしても豆腐屋の音が思い出される。 全体豆腐屋の子がどうしてそんなになったもんだね。 豆腐屋の子がどんなになったのさ。 だって豆腐屋らしくないじゃないか。 豆腐屋だって肴屋だって――なろうと思えば何にでもなれるさ。 そうさなつまり頭だからね。 頭ばかりじゃない。 世の中には頭のいい豆腐屋が何人いるか分らない。 それでも生涯豆腐屋さ。 気の毒なものだ。 それじゃ何だい。 何だって君やっぱりなろうと思うのさ。 なろうと思ったって世の中がしてくれないのがだいぶあるだろう。 だから気の毒だと云うのさ。 不公平な世の中に生れれば仕方がないから世の中がしてくれなくても何でも自分でなろうと思うのさ。 思ってなれなければ。 なれなくっても何でも思うんだ。 思ってるうちに世の中がしてくれるようになるんだ。 そう注文通りに行けば結構だ。 ハハハハ。 だって僕は今日までそうして来たんだもの。 だから君は豆腐屋らしくないと云うのだよ。 これから先また豆腐屋らしくなってしまうかも知れないかな。 厄介だな。 ハハハハ。 なったらどうするつもりだい。 なれば世の中がわるいのさ。 不公平な世の中を公平にしてやろうと云うのに世の中が云う事をきかなければ向の方が悪いのだろう。 しかし世の中も何だね君豆腐屋がえらくなるようなら自然えらい者が豆腐屋になる訳だね。 えらい者たどんな者だい。 えらい者って云うのは何さ。 例えば華族とか金持とか云うものさ。 うん華族や金持かありゃ今でも豆腐屋じゃないか君。 その豆腐屋|連が馬車へ乗ったり別荘を建てたりして自分だけの世の中のような顔をしているから駄目だよ。 だからそんなのは本当の豆腐屋にしてしまうのさ。 こっちがする気でも向がならないやね。 ならないのをさせるから世の中が公平になるんだよ。 公平に出来れば結構だ。 大いにやりたまえ。 やりたまえじゃいけない。 君もやらなくっちゃあ。 ――ただ馬車へ乗ったり別荘を建てたりするだけならいいがむやみに人を圧逼するぜああ云う豆腐屋は。 自分が豆腐屋の癖に。 君はそんな目に逢った事があるのかい。 まだかんかん遣ってる。 ――おい僕の腕は太いだろう。 君の腕は昔から太いよ。 そうしていやに黒いね。 豆を磨いた事があるのかい。 豆も磨いた水も汲んだ。 ――おい君|粗忽で人の足を踏んだらどっちが謝まるものだろう。 踏んだ方が謝まるのが通則のようだな。 突然人の頭を張りつけたら。 そりゃ気違だろう。 気狂なら謝まらないでもいいものかな。 そうさな。 謝まらさす事が出来れば謝まらさす方がいいだろう。 それを気違の方で謝まれって云うのは驚ろくじゃないか。 そんな気違があるのかい。 今の豆腐屋|連はみんなそう云う気違ばかりだよ。 人を圧迫した上に人に頭を下げさせようとするんだぜ。 本来なら向が恐れ入るのが人間だろうじゃないか君。 無論それが人間さ。 しかし気違の豆腐屋ならうっちゃって置くよりほかに仕方があるまい。 そんな気違を増長させるくらいなら世の中に生れて来ない方がいい。 しきりにかんかんやるな。 どうもあの音は寒磬寺の鉦に似ている。 妙に気に掛るんだね。 その寒磬寺の鉦の音と気違の豆腐屋とでも何か関係があるのかい。 ――全体君が豆腐屋の伜から今日までに変化した因縁はどう云う筋道なんだい。 少し話して聞かせないか。 聞かせてもいいが何だか寒いじゃないか。 ちょいと夕飯前に温泉に這入ろう。 君いやか。 うん這入ろう。 この湯は何に利くんだろう。 何に利くかなあ。 分析表を見ると何にでも利くようだ。 ――君そんなに臍ばかりざぶざぶ洗ったって出臍は癒らないぜ。 純透明だね。 味も何もない。 飲んでもいいんだよ。 どうもいい体格だ。 全く野生のままだね。 豆腐屋出身だからなあ。 体格が悪るいと華族や金持ちと喧嘩は出来ない。 こっちは一人|向は大勢だから。 さも喧嘩の相手があるような口振だね。 当の敵は誰だい。 誰でも構わないさ。 ハハハ呑気なもんだ。 喧嘩にも強そうだが足の強いのには驚いたよ。 君といっしょでなければきのうここまでくる勇気はなかったよ。 実は途中で御免蒙ろうかと思った。 実際少し気の毒だったね。 あれでも僕はよほど加減して歩行いたつもりだ。 本当かい。 はたして本当ならえらいものだ。 ――何だか怪しいな。 すぐ付け上がるからいやだ。 ハハハ付け上がるものか。 付け上がるのは華族と金持ばかりだ。 また華族と金持ちか。 眼の敵だね。 金はなくってもこっちは天下の豆腐屋だ。 そうだいやしくも天下の豆腐屋だ。 野生の腕力家だ。 君あの窓の外に咲いている黄色い花は何だろう。 かぼちゃさ。 馬鹿あ云ってる。 かぼちゃは地の上を這ってるものだ。 あれは竹へからまって風呂場の屋根へあがっているぜ。 屋根へ上がっちゃかぼちゃになれないかな。 だっておかしいじゃないか今頃花が咲くのは。 構うものかねおかしいたって屋根にかぼちゃの花が咲くさ。 そりゃ唄かい。 そうさな前半は唄のつもりでもなかったんだが後半に至ってつい唄になってしまったようだ。 屋根にかぼちゃが生るようだから豆腐屋が馬車なんかへ乗るんだ。 不都合千万だよ。 また慷慨かこんな山の中へ来て慷慨したって始まらないさ。 それより早く阿蘇へ登って噴火口から赤い岩が飛び出すところでも見るさ。 ――しかし飛び込んじゃ困るぜ。 ――何だか少し心配だな。 噴火口は実際猛烈なものだろうな。 何でも沢庵石のような岩が真赤になって空の中へ吹き出すそうだぜ。 それが三四町四方一面に吹き出すのだから壮んに違ない。 ――あしたは早く起きなくっちゃいけないよ。 うん起きる事は起きるが山へかかってからあんなに早く歩行いちゃ御免だ。 ともかくも六時に起きて。 六時に起きる。 六時に起きて七時半に湯から出て八時に飯を食って八時半に便所から出てそうして宿を出て十一時に阿蘇神社へ参詣して十二時から登るのだ。 へえ誰が。 僕と君がさ。 何だか君|一人りで登るようだぜ。 なに構わない。 ありがたい仕合せだ。 まるで御供のようだね。 うふん。 時に昼は何を食うかな。 やっぱり饂飩にして置くか。 饂飩はよすよ。 ここいらの饂飩はまるで杉箸を食うようで腹が突張ってたまらない。 では蕎麦か。 蕎麦も御免だ。 僕は麺類じゃとても凌げない男だから。 じゃ何を食うつもりだい。 何でも御馳走が食いたい。 阿蘇の山の中に御馳走があるはずがないよ。 だからこの際ともかくも饂飩で間に合せて置いて。 この際は少し変だぜ。 この際たどんな際なんだい。 剛健な趣味を養成するための旅行だから。 そんな旅行なのかい。 ちっとも知らなかったぜ。 剛健はいいが饂飩は平に不賛成だ。 こう見えても僕は身分が好いんだからね。 だから柔弱でいけない。 僕なぞは学資に窮した時一日に白米二合で間に合せた事がある。 痩せたろう。 そんなに痩せもしなかったがただ虱が湧いたには困った。 ――君虱が湧いた事があるかい。 僕はないよ。 身分が違わあ。 まあ経験して見たまえ。 そりゃ容易に猟り尽せるもんじゃないぜ。 煮え湯で洗濯したらよかろう。 煮え湯。 煮え湯ならいいかも知れない。 しかし洗濯するにしてもただでは出来ないからな。 なあるほど銭が一|文もないんだね。 一文もないのさ。 君どうした。 仕方がないから襯衣を敷居の上へ乗せて手頃な丸い石を拾って来てこつこつ叩いた。 そうしたら虱が死なないうちに襯衣が破れてしまった。 おやおや。 しかもそれを宿のかみさんが見つけて僕に退去を命じた。 さぞ困ったろうね。 なあに困らんさそんな事で困っちゃ今日まで生きていられるものか。 これから追い追い華族や金持ちを豆腐屋にするんだからな。 滅多に困っちゃ仕方がない。 すると僕なんぞも今にとおふい油揚がんもどきと怒鳴ってあるかなくっちゃならないかね。 華族でもない癖に。 まだ華族にはならないが金はだいぶあるよ。 あってもそのくらいじゃ駄目だ。 このくらいじゃ豆腐いと云う資格はないのかな。 大に僕の財産を見縊ったね。 時に君背中を流してくれないか。 僕のも流すのかい。 流してもいいさ。 隣りの部屋の男も流しくらをやってたぜ君。 隣りの男の背中は似たり寄ったりだから公平だが君の背中と僕の背中とはだいぶ面積が違うから損だ。 そんな面倒な事を云うなら一人で洗うばかりだ。 まるで仁王のようだね。 仁王の行水だ。 そんな猛烈な顔がよくできるね。 こりゃ不思議だ。 そう眼をぐりぐりさせなくっても背中は洗えそうなものだがね。 こいつは降参だ。 ちょっと失敬して流しの方へ出るよ。 あの隣りの客は元来何者だろう。 隣りの客どころじゃない。 その顔は不思議だよ。 もう済んだ。 ああ好い心持だ。 ああいい心持ちだ。 なるほどそう遠慮なしに振舞ったら好い心持に相違ない。 君は豪傑だよ。 あの隣りの客は竹刀と小手の事ばかり云ってるじゃないか。 全体何者だい。 君が華族と金持ちの事を気にするようなものだろう。 僕のは深い原因があるのだがあの客のは何だか訳が分らない。 なに自分じゃああれで分ってるんだよ。 ――そこでその小手を取られたんだあね――。 ハハハハそこでそら竹刀を落したんだあねか。 ハハハハ。 どうも気楽なものだ。 なにあれでも実は慷慨家かも知れない。 そらよく草双紙にあるじゃないか。 何とかの何々実は海賊の張本|毛剃九右衛門て。 海賊らしくもないぜ。 さっき温泉に這入りに来る時覗いて見たら二人共|木枕をしてぐうぐう寝ていたよ。 木枕をして寝られるくらいの頭だからそらそこでその小手を取られるんだあね。 竹刀も取られるんだあねか。 ハハハハ。 何でも赤い表紙の本を胸の上へ載せたまんま寝ていたよ。 その赤い本が何でもその竹刀を落したり小手を取られるんだあね。 何だろうあの本は。 伊賀の水月さ。 伊賀の水月。 伊賀の水月た何だい。 伊賀の水月を知らないのかい。 知らない。 知らなければ恥かな。 恥じゃないが話せないよ。 話せない。 なぜ。 なぜって君荒木又右衛門を知らないか。 うん又右衛門か。 知ってるのかい。 もう仁王の行水は御免だよ。 もう大丈夫背中はあらわない。 あまり這入ってると逆上るから時々こう立つのさ。 ただ立つばかりなら安心だ。 ――それでその荒木又右衛門を知ってるかい。 又右衛門。 そうさどこかで聞いたようだね。 豊臣秀吉の家来じゃないか。 ハハハハこいつはあきれた。 華族や金持ちを豆腐屋にするだなんてえらい事を云うがどうも何も知らないね。 じゃ待った。 少し考えるから。 又右衛門だね。 又右衛門荒木又右衛門だね。 待ちたまえよ荒木の又右衛門と。 うん分った。 何だい。 相撲取だ。 ハハハハ荒木ハハハハ荒木又ハハハハ又右衛門が相撲取り。 いよいよあきれてしまった。 実に無識だね。 ハハハハ。 そんなにおかしいか。 おかしいって誰に聞かしたって笑うぜ。 そんなに有名な男か。 そうさ荒木又右衛門じゃないか。 だから僕もどこかで聞いたように思うのさ。 そら落ち行く先きは九州|相良って云うじゃないか。 云うかも知れんがその句は聞いた事がないようだ。 困った男だな。 ちっとも困りゃしない。 荒木又右衛門ぐらい知らなくったって毫も僕の人格には関係はしまい。 それよりも五里の山路が苦になってやたらに不平を並べるような人が困った男なんだ。 腕力や脚力を持ち出されちゃ駄目だね。 とうてい叶いっこない。 そこへ行くとどうしても豆腐屋出身の天下だ。 僕も豆腐屋へ年期奉公に住み込んで置けばよかった。 君は第一平生から惰弱でいけない。 ちっとも意志がない。 これでよっぽど有るつもりなんだがな。 ただ饂飩に逢った時ばかりは全く意志が薄弱だと自分ながら思うね。 ハハハハつまらん事を云っていらあ。 しかし豆腐屋にしちゃ君のからだは奇麗過ぎるね。 こんなに黒くってもかい。 黒い白いは別として豆腐屋は大概|箚青があるじゃないか。 なぜ。 なぜか知らないが箚青があるもんだよ。 君なぜほらなかった。 馬鹿あ云ってらあ。 僕のような高尚な男がそんな愚な真似をするものか。 華族や金持がほれば似合うかも知れないが僕にはそんなものは向かない。 荒木又右衛門だってほっちゃいまい。 荒木又右衛門か。 そいつは困ったな。 まだそこまでは調べが届いていないからね。 そりゃどうでもいいがともかくもあしたは六時に起きるんだよ。 そうしてともかくも饂飩を食うんだろう。 僕の意志の薄弱なのにも困るかも知れないが君の意志の強固なのにも辟易するよ。 うちを出てから僕の云う事は一つも通らないんだからな。 全く唯々諾々として命令に服しているんだ。 豆腐屋主義はきびしいもんだね。 なにこのくらい強硬にしないと増長していけない。 僕がかい。 なあに世の中の奴らがさ。 金持ちとか華族とかなんとかかとか生意気に威張る奴らがさ。 しかしそりゃ見当違だぜ。 そんなものの身代りに僕が豆腐屋主義に屈従するなたまらない。 どうも驚ろいた。 以来君と旅行するのは御免だ。 なあに構わんさ。 君は構わなくってもこっちは大いに構うんだよ。 その上旅費は奇麗に折半されるんだから愚の極だ。 しかし僕の御蔭で天地の壮観たる阿蘇の噴火口を見る事ができるだろう。 可愛想に。 一人だって阿蘇ぐらい登れるよ。 しかし華族や金持なんて存外|意気地がないもんで。 また身代りかどうだい身代りはやめにして本当の華族や金持ちの方へ持って行ったら。 いずれその内持ってくつもりだがね。 ――意気地がなくって理窟がわからなくって個人としちゃあ三文の価値もないもんだ。 だからどしどし豆腐屋にしてしまうさ。 その内してやろうと思ってるのさ。 思ってるだけじゃ剣呑なものだ。 なあに年が年中思っていりゃどうにかなるもんだ。 随分気が長いね。 もっとも僕の知ったものにね。 虎列拉になるなると思っていたらとうとう虎列拉になったものがあるがね。 君のもそううまく行くと好いけれども。 時にあの髯を抜いてた爺さんが手拭をさげてやって来たぜ。 ちょうど好いから君一つ聞いて見たまえ。 僕はもう湯気に上がりそうだから出るよ。 まあいいさ出ないでも。 君がいやなら僕が聞いて見るからもう少し這入っていたまえ。 おやあとから竹刀と小手がいっしょに来たぜ。 どれ。 なるほど揃って来た。 あとからまだ来るぜ。 やあ婆さんが来た。 婆さんもこの湯槽へ這入るのかな。 僕はともかくも出るよ。 婆さんが這入るなら僕もともかくも出よう。 あすこへ登るんだね。 鳴ってるぜ。 愉快だな。 姉さんこの人は肥ってるだろう。 だいぶん肥えていなはります。 肥えてるっておれはこれで豆腐屋だもの。 ホホホ。 豆腐屋じゃおかしいかい。 豆腐屋の癖に西郷隆盛のような顔をしているからおかしいんだよ。 時にこう精進料理じゃあした御山へ登れそうもないな。 また御馳走を食いたがる。 食いたがるってこれじゃ営養不良になるばかりだ。 なにこれほど御馳走があればたくさんだ。 ――湯葉に椎茸に芋に豆腐いろいろあるじゃないか。 いろいろある事はあるがね。 ある事は君の商売道具まであるんだが――困ったな。 昨日は饂飩ばかり食わせられる。 きょうは湯葉に椎茸ばかりか。 ああああ。 君この芋を食って見たまえ。 掘りたてですこぶる美味だ。 すこぶる剛健な味がしやしないか――おい姉さん肴は何もないのかい。 あいにく何もござりまっせん。 ござりまっせんは弱ったな。 じゃ玉子があるだろう。 玉子ならござりまっす。 その玉子を半熟にして来てくれ。 何に致します。 半熟にするんだ。 煮て参じますか。 まあ煮るんだが半分煮るんだ。 半熟を知らないか。 いいえ。 知らない。 知りまっせん。 どうも辟易だな。 何でござりまっす。 何でもいいから玉子を持って御出。 それからおいちょっと待った。 君ビールを飲むか。 飲んでもいい。 飲んでもいいかそれじゃ飲まなくってもいいんだ。 ――よすかね。 よさなくっても好い。 ともかくも少し飲もう。 ともかくもかハハハ。 君ほどともかくもの好きな男はないね。 それであしたになるとともかくも饂飩を食おうと云うんだろう。 ――姉さんビールもついでに持ってくるんだ。 玉子とビールだ。 分ったろうね。 ビールはござりまっせん。 ビールがない。 ――君ビールはないとさ。 何だか日本の領地でないような気がする。 情ない所だ。 なければ飲まなくってもいいさ。 ビールはござりませんばってん恵比寿ならござります。 ハハハハいよいよ妙になって来た。 おい君ビールでない恵比寿があるって云うんだがその恵比寿でも飲んで見るかね。 うん飲んでもいい。 ――その恵比寿はやっぱり罎に這入ってるんだろうね姉さん。 ねえ。 じゃともかくもその栓を抜いてね。 罎ごとここへ持っておいで。 ねえ。 あの下女は異彩を放ってるね。 そうさ。 単純でいい女だ。 剛健な趣味がありゃしないか。 うん。 実際|田舎者の精神に文明の教育を施すと立派な人物が出来るんだがな。 惜しい事だ。 そんなに惜しけりゃあれを東京へ連れて行って仕込んで見るがいい。 うんそれも好かろう。 しかしそれより前に文明の皮を剥かなくっちゃいけない。 皮が厚いからなかなか骨が折れるだろう。 折れても何でも剥くのさ。 奇麗な顔をして下卑た事ばかりやってる。 それも金がない奴だと自分だけで済むのだが身分がいいと困る。 下卑た根性を社会全体に蔓延させるからね。 大変な害毒だ。 しかも身分がよかったり金があったりするものによくこう云う性根の悪い奴があるものだ。 しかもそんなのに限って皮がいよいよ厚いんだろう。 体裁だけはすこぶる美事なものさ。 しかし内心はあの下女よりよっぽどすれているんだからいやになってしまう。 そうかね。 じゃ僕もこれからちと剛健党の御仲間入りをやろうかな。 無論の事さ。 だからまず第一着にあした六時に起きて。 御昼に饂飩を食ってか。 阿蘇の噴火口を観て。 癇癪を起して飛び込まないように要心をしてか。 もっとも崇高なる天地間の活力現象に対して雄大の気象を養って齷齪たる塵事を超越するんだ。 あんまり超越し過ぎるとあとで世の中がいやになってかえって困るぜ。 だからそこのところは好加減に超越して置く事にしようじゃないか。 僕の足じゃとうていそうえらく超越出来そうもないよ。 弱い男だ。 そら恵比寿が来た。 この恵比寿がビールでないんだから面白い。 さあ一杯飲むかい。 うんついでにその玉子を二つ貰おうか。 だって玉子は僕が誂らえたんだぜ。 しかし四つとも食う気かい。 あしたの饂飩が気になるからこのうち二個は携帯して行こうと思うんだ。 うんそんならよそう。 よすとなると気の毒だからまあ上げよう。 本来なら剛健党が玉子なんぞを食うのはちと贅沢の沙汰だが可哀想でもあるから――さあ食うがいい。 ――姉さんこの恵比寿はどこでできるんだね。 おおかた熊本でござりまっしょ。 ふん熊本製の恵比寿かなかなか旨いや。 君どうだ熊本製の恵比寿は。 うん。 やっぱり東京製と同じようだ。 ――おい姉さん恵比寿はいいがこの玉子は生だぜ。 ねえ。 生だと云うのに。 ねえ。 何だか要領を得ないな。 君半熟を命じたんじゃないか。 君のも生か。 半熟を命じて不熟を得たりか。 僕のを一つ割って見よう。 ――おやこれは駄目だ。 うで玉子か。 全熟だ。 こっちのはどうだ。 ――うんこれも全熟だ。 ――姉さんこれはうで玉子じゃないか。 ねえ。 そうなのか。 ねえ。 なんだか言葉の通じない国へ来たようだな。 ――向うの御客さんのが生玉子でおれのはうで玉子なのかい。 ねえ。 なぜそんな事をしたのだい。 半分煮て参じました。 なあるほど。 こりゃよく出来てらあ。 ハハハハ君半熟のいわれが分ったか。 ハハハハ単純なものだ。 まるで落し噺し見たようだ。 間違いましたか。 そちらのも煮て参じますか。 なにこれでいいよ。 ――姉さんここから阿蘇まで何里あるかい。 ここが阿蘇でござりまっす。 ここが阿蘇ならあした六時に起きるがものはない。 もう二三日逗留してすぐ熊本へ引き返そうじゃないか。 どうぞいつまでも御逗留なさいまっせ。 せっかく姉さんもああ云って勧めるものだからどうだろういっそそうしたら。 ここも阿蘇だって阿蘇郡なんだろう。 ねえ。 じゃ阿蘇の御宮まではどのくらいあるかい。 御宮までは三里でござりまっす。 山の上までは。 御宮から二里でござりますたい。 山の上はえらいだろうね。 ねえ。 御前登った事があるかい。 いいえ。 じゃ知らないんだね。 いいえ知りまっせん。 知らなけりゃしようがない。 せっかく話を聞こうと思ったのに。 御山へ御登りなさいますか。 うん早く登りたくって仕方がないんだ。 僕は登りたくなくって仕方がないんだ。 ホホホそれじゃあなただけここへ御逗留なさいまっせ。 うんここで寝転んであのごうごう云う音を聞いている方が楽なようだ。 ごうごうと云やあさっきよりだいぶ烈しくなったようだぜ君。 そうさだいぶ強くなった。 夜のせいだろう。 御山が少し荒れておりますたい。 荒れると烈しく鳴るのかね。 ねえ。 そうしてよながたくさんに降って参りますたい。 よなた何だい。 灰でござりまっす。 御覧なさりまっせ。 なるほど始終降ってるんだ。 きのうはこんなじゃなかったね。 ねえ。 少し御山が荒れておりますたい。 おい君いくら荒れても登る気かね。 荒れ模様なら少々延ばそうじゃないか。 荒れればなお愉快だ。 滅多に荒れたところなんぞが見られるものじゃない。 荒れる時と荒れない時は火の出具合が大変違うんだそうだ。 ねえ姉さん。 ねえ今夜は大変赤く見えます。 ちょと出て御覧なさいまっせ。 いやあこいつは熾だ。 おい君早く出て見たまえ。 大変だよ。 大変だ。 大変じゃ出て見るかな。 どれ。 ――いやあこいつは――なるほどえらいものだね――あれじゃとうてい駄目だ。 何が。 何がって――登る途中で焼き殺されちまうだろう。 馬鹿を云っていらあ。 夜だからああ見えるんだ。 実際昼間からあのくらいやってるんだよ。 ねえ姉さん。 ねえ。 ねえかも知れないが危険だぜ。 ここにこうしていても何だか顔が熱いようだ。 大袈裟な事ばかり云う男だ。 だって君の顔だって赤く見えるぜ。 そらそこの垣の外に広い稲田があるだろう。 あの青い葉が一面にこう照らされているじゃないか。 嘘ばかりあれは星のひかりで見えるのだ。 星のひかりと火のひかりとは趣が違うさ。 どうも君もよほど無学だね。 君あの火は五六里先きにあるのだぜ。 何里先きだって向うの方の空が一面に真赤になってるじゃないか。 よるだもの。 夜だって。 君は無学だよ。 荒木又右衛門は知らなくっても好いがこのくらいな事が分らなくっちゃ恥だぜ。 人格にかかわるかね。 人格にかかわるのは我慢するが命にかかわっちゃ降参だ。 まだあんな事を云っている。 ――じゃ姉さんに聞いて見るがいい。 ねえ姉さん。 あのくらい火が出たって御山へは登れるんだろう。 ねえい。 大丈夫かい。 ねえい。 女でも登りますたい。 女でも登っちゃ男は是非登る訳かな。 飛んだ事になったもんだ。 ともかくもあしたは六時に起きて。 もう分ったよ。 おいこれから曲がっていよいよ登るんだろう。 ここを曲がるかね。 何でも突き当りに寺の石段が見えるから門を這入らずに左へ廻れと教えたぜ。 饂飩屋の爺さんがか。 そうさ。 あの爺さんが何を云うか分ったもんじゃない。 なぜ。 なぜって世の中に商売もあろうに饂飩屋になるなんて第一それからが不了簡だ。 饂飩屋だって正業だ。 金を積んで貧乏人を圧迫するのを道楽にするような人間より遥かに尊といさ。 尊といかも知れないがどうも饂飩屋は性に合わない。 ――しかしとうとう饂飩を食わせられた今となって見るといくら饂飩屋の亭主を恨んでも後の祭りだからまあ我慢してここから曲がってやろう。 石段は見えるがあれが寺かなあ本堂も何もないぜ。 阿蘇の火で焼けちまったんだろう。 だから云わない事じゃない。 ――おい天気が少々|剣呑になって来たぜ。 なに大丈夫だ。 天祐があるんだから。 どこに。 どこにでもあるさ。 意思のある所には天祐がごろごろしているものだ。 どうも君は自信家だ。 剛健党になるかと思うと天祐派になる。 この次ぎには天誅組にでもなって筑波山へ立て籠るつもりだろう。 なに豆腐屋時代から天誅組さ。 ――貧乏人をいじめるような――豆腐屋だって人間だ――いじめるって何らの利害もないんだぜただ道楽なんだから驚ろく。 いつそんな目に逢ったんだい。 いつでもいいさ。 桀紂と云えば古来から悪人として通り者だが二十世紀はこの桀紂で充満しているんだぜしかも文明の皮を厚く被ってるから小憎らしい。 皮ばかりで中味のない方がいいくらいなものかな。 やっぱり金があり過ぎて退屈だとそんな真似がしたくなるんだね。 馬鹿に金を持たせると大概桀紂になりたがるんだろう。 僕のような有徳の君子は貧乏だし彼らのような愚劣な輩は人を苦しめるために金銭を使っているし困った世の中だなあ。 いっそどうだいそう云うももんがあを十|把一とからげにして阿蘇の噴火口から真逆様に地獄の下へ落しちまったら。 今に落としてやる。 大変な権幕だね。 君大丈夫かい。 十把一とからげを放り込まないうちに君が飛び込んじゃいけないぜ。 あの音は壮烈だな。 足の下がもう揺れているようだ。 ――おいちょっと地面へ耳をつけて聞いて見たまえ。 どんなだい。 非常な音だ。 たしかに足の下がうなってる。 その割に煙りがこないな。 風のせいだ。 北風だから右へ吹きつけるんだ。 樹が多いから方角が分らない。 もう少し登ったら見当がつくだろう。 おうい。 少し待ってくれ。 おうい。 荒れて来たぞ。 荒れて来たぞうう。 しっかりしろう。 しっかりするから少し待ってくれえ。 おい何をぐずぐずしているんだ。 だから饂飩じゃ駄目だと云ったんだ。 ああ苦しい。 ――おい君の顔はどうしたんだ。 真黒だ。 そうか君のも真黒だ。 なるほど拭くと着物がどす黒くなる。 僕のハンケチもこんなだ。 ひどいものだな。 よなだ。 よなが雨に溶けて降ってくるんだ。 そらその薄の上を見たまえ。 なるほど。 困ったなこりゃ。 なあに大丈夫だ。 ついそこだもの。 あの煙りの出る所を目当にして行けば訳はない。 訳はなさそうだがこれじゃ路が分らないぜ。 だからさっきから待っていたのさ。 ここを左りへ行くか右へ行くかと云うちょうど股の所なんだ。 なるほど両方共路になってるね。 ――しかし煙りの見当から云うと左りへ曲がる方がよさそうだ。 君はそう思うか。 僕は右へ行くつもりだ。 どうして。 どうしてって右の方には馬の足跡があるが左の方には少しもない。 そうかい。 駄目のようだ。 足跡は一つも見当らない。 ないだろう。 そっちにはあるかい。 うん。 たった二つある。 二つぎりかい。 そうさ。 たった二つだ。 そらこことここに。 これだけかい心細いな。 なに大丈夫だ。 天祐じゃないか君の天祐はあてにならない事|夥しいよ。 なにこれが天祐さ。 痛快だ。 風の飛んで行く足跡が草の上に見える。 あれを見たまえ。 痛快でもないぜ。 帽子が飛んじまった。 帽子が飛んだ。 いいじゃないか帽子が飛んだって。 取ってくるさ。 取って来てやろうか。 おいこの見当か。 もう少し左りだ。 おうい。 大丈夫か。 何だあ。 大丈夫かよう。 おうい。 帽子はないぞう。 帽子はいらないよう。 早く帰ってこうい。 おいどこへ飛ばしたんだい。 どこだか相談が纏らないうちに飛ばしちまったんだ。 帽子はいいが歩行くのは厭になったよ。 もういやになったのか。 まだあるかないじゃないか。 あの煙とこの雨を見ると何だか物凄くってあるく元気がなくなるね。 今から駄々を捏ねちゃ仕方がない。 ――壮快じゃないか。 あのむくむく煙の出てくるところは。 そのむくむくが気味が悪るいんだ。 冗談云っちゃいけない。 あの煙の傍へ行くんだよ。 そうしてあの中を覗き込むんだよ。 考えると全く余計な事だね。 そうして覗き込んだ上に飛び込めば世話はない。 ともかくもあるこう。 ハハハハともかくもか。 君がともかくもと云い出すとつい釣り込まれるよ。 さっきもともかくもでとうとう饂飩を食っちまった。 これで赤痢にでも罹かれば全くともかくもの御蔭だ。 いいさ僕が責任を持つから。 僕の病気の責任を持ったってしようがないじゃないか。 僕の代理に病気になれもしまい。 まあいいさ。 僕が看病をして僕が伝染して本人の君は助けるようにしてやるよ。 そうかそれじゃ安心だ。 まあ少々あるくかな。 そら天気もだいぶよくなって来たよ。 やっぱり天祐があるんだよ。 ありがたい仕合せだ。 あるく事はあるくが今夜は御馳走を食わせなくっちゃいやだぜ。 また御馳走か。 あるきさえすればきっと食わせるよ。 それから。 まだ何か注文があるのかい。 うん。 何だい。 君の経歴を聞かせるか。 僕の経歴って君が知ってる通りさ。 僕が知ってる前のさ。 君が豆腐屋の小僧であった時分から。 小僧じゃないぜこれでも豆腐屋の伜なんだ。 その伜の時寒磬寺の鉦の音を聞いて急に金持がにくらしくなった因縁話しをさ。 ハハハハそんなに聞きたければ話すよ。 その代り剛健党にならなくちゃいけないぜ。 君なんざあ金持の悪党を相手にした事がないからそんなに呑気なんだ。 君はディッキンスの両都物語りと云う本を読んだ事があるか。 ないよ。 伊賀の水月は読んだがディッキンスは読まない。 それだからなお貧民に同情が薄いんだ。 ――あの本のねしまいの方に御医者さんの獄中でかいた日記があるがね。 悲惨なものだよ。 へえどんなものだい。 そりゃ君仏国の革命の起る前に貴族が暴威を振って細民を苦しめた事がかいてあるんだが。 ――それも今夜僕が寝ながら話してやろう。 うん。 なあに仏国の革命なんてえのも当然の現象さ。 あんなに金持ちや貴族が乱暴をすりゃああなるのは自然の理窟だからね。 ほらあの轟々鳴って吹き出すのと同じ事さ。 雄大だろう君。 全く雄大だ。 恐ろしいくらいだ。 僕の精神はあれだよ。 革命か。 うん。 文明の革命さ。 文明の革命とは。 血を流さないのさ。 刀を使わなければ何を使うのだい。 頭か。 うん。 相手も頭でくるからこっちも頭で行くんだ。 相手は誰だい。 金力や威力でたよりのない同胞を苦しめる奴らさ。 うん。 社会の悪徳を公然商売にしている奴らさ。 うん。 商売なら衣食のためと云う言い訳も立つ。 うん。 社会の悪徳を公然道楽にしている奴らはどうしても叩きつけなければならん。 うん。 君もやれ。 うんやる。 どうも路が違うようだね。 うん。 何だか情ない顔をしているね。 苦しいかい。 実際情けないんだ。 どこか痛むかい。 豆が一面に出来てたまらない。 困ったな。 よっぽど痛いかい。 僕の肩へつらまったらどうだね。 少しは歩行き好いかも知れない。 うん。 宿へついたら僕が面白い話をするよ。 全体いつ宿へつくんだい。 五時には湯元へ着く予定なんだがどうもあの煙りは妙だよ。 右へ行っても左りへ行っても鼻の先にあるばかりで遠くもならなければ近くもならない。 上りたてから鼻の先にあるぜ。 そうさな。 もう少しこの路を行って見ようじゃないか。 うん。 それとも少し休むか。 うん。 どうも急に元気がなくなったね。 全く饂飩の御蔭だよ。 ハハハハ。 その代り宿へ着くと僕が話しの御馳走をするよ。 話しも聞きたくなくなった。 それじゃまたビールでない恵比寿でも飲むさ。 ふふん。 この様子じゃとても宿へ着けそうもないぜ。 なに大丈夫だよ。 だってもう暗くなって来たぜ。 どれ。 四時五分前だ。 暗いのは天気のせいだ。 しかしこう方角が変って来ると少し困るな。 山へ登ってからもう二三里はあるいたね。 豆の様子じゃ十里くらいあるいてるよ。 ハハハハ。 あの煙りが前に見えたんだがもうずっと後ろになってしまった。 すると我々は熊本の方へ二三里近付いた訳かね。 つまり山からそれだけ遠ざかった訳さ。 そう云えばそうさ。 ――君あの煙りの横の方からまた新しい煙が見えだしたぜ。 あれが多分新しい噴火口なんだろう。 あのむくむく出るところを見るとついそこにあるようだがな。 どうして行かれないだろう。 何でもこの山のつい裏に違いないんだが路がないから困る。 路があったって駄目だよ。 どうも雲だか煙りだか非常に濃く頭の上へやってくる。 壮んなものだ。 ねえ君。 うん。 どうだいこんな凄い景色はとてもこう云う時でなけりゃ見られないぜ。 うん非常に黒いものが降って来る。 君あたまが大変だ。 僕の帽子を貸してやろう。 ――こう被ってね。 それから手拭があるだろう。 飛ぶといけないから上から結わいつけるんだ。 ――僕がしばってやろう。 ――傘は畳むがいい。 どうせ風に逆らうぎりだ。 そうして杖につくさ。 杖が出来ると少しは歩行けるだろう。 少しは歩行きよくなった。 ――雨も風もだんだん強くなるようだね。 そうささっきは少し晴れそうだったがな。 雨や風は大丈夫だが足は痛むかね。 痛いさ。 登るときは豆が三つばかりだったが一面になったんだもの。 晩にね僕が煙草の吸殻を飯粒で練って膏薬を製ってやろう。 宿へつけばどうでもなるんだが。 あるいてるうちが難義か。 うん。 困ったな。 ――どこか高い所へ登ると人の通る路が見えるんだがな。 ――うんあすこに高い草山が見えるだろう。 あの右の方かい。 ああ。 あの上へ登ったら噴火孔が一と眼に見えるに違ない。 そうしたら路が分るよ。 分るってあすこへ行くまでに日が暮れてしまうよ。 待ちたまえちょっと時計を見るから。 四時八分だ。 まだ暮れやしない。 君ここに待っていたまえ。 僕がちょっと物見をしてくるから。 待ってるが帰りに路が分らなくなるとそれこそ大変だぜ。 二人離れ離れになっちまうよ。 大丈夫だ。 どうしたって死ぬ気遣はないんだ。 どうかしたら大きな声を出して呼ぶよ。 うん。 呼んでくれたまえ。 おおおい。 おおおい。 おおおい。 おおおい。 おおおい。 おおおい。 おおおい。 どこだ。 おおおい。 ここだ。 どこだああ。 ここだああ。 むやみにくるとあぶないぞう。 落ちるぞう。 どこへ落ちたんだああ。 ここへ落ちたんだああ。 気をつけろう。 気はつけるがどこへ落ちたんだああ。 落ちると足の豆が痛いぞうう。 大丈夫だああ。 どこへ落ちたんだああ。 ここだあもうそれから先へ出るんじゃないよう。 おれがそっちへ行くからそこで待っているんだよう。 おい落ちたよ。 どこへ落ちたんだい。 見えないか。 見えない。 それじゃもう少し前へ出た。 おや何だいこりゃ。 草のなかにこんなものがあるから剣呑だ。 どうしてこんな谷があるんだろう。 火熔石の流れたあとだよ。 見たまえなかは茶色で草が一本も生えていない。 なるほど厄介なものがあるんだね。 君上がれるかい。 上がれるものか。 高さが二間ばかりあるよ。 弱ったな。 どうしよう。 僕の頭が見えるかい。 毬栗の片割れが少し見える。 君ね。 ええ。 薄の上へ腹這になって顔だけ谷の上へ乗り出して見たまえ。 よし今顔を出すから待っていたまえよ。 うん待ってるここだよ。 おい。 おい。 どうだ。 豆は痛むかね。 豆なんざどうでもいいから早く上がってくれたまえ。 ハハハハ大丈夫だよ。 下の方が風があたらなくってかえって楽だぜ。 楽だってもう日が暮れるよ早く上がらないと。 君。 ええ。 ハンケチはないか。 ある。 何にするんだい。 落ちる時に蹴爪ずいて生爪を剥がした。 生爪を。 痛むかい。 少し痛む。 あるけるかい。 あるけるとも。 ハンケチがあるなら抛げてくれたまえ。 裂いてやろうか。 なに僕が裂くから丸めて抛げてくれたまえ。 風で飛ぶといけないから堅く丸めて落すんだよ。 じくじく濡れてるから大丈夫だ。 飛ぶ気遣はない。 いいか抛げるぜそら。 だいぶ暗くなって来たね。 煙は相変らず出ているかい。 うん。 空中一面の煙だ。 いやに鳴るじゃないか。 さっきより烈しくなったようだ。 ――ハンケチは裂けるかい。 うん裂けたよ。 繃帯はもうでき上がった。 大丈夫かい。 血が出やしないか。 足袋の上へ雨といっしょに煮染んでる。 痛そうだね。 なあに痛いたって。 痛いのは生きてる証拠だ。 僕は腹が痛くなった。 濡れた草の上に腹をつけているからだ。 もういいから立ちたまえ。 立つと君の顔が見えなくなる。 困るな。 君いっその事にここへ飛び込まないか。 飛び込んでどうするんだい。 飛び込めないかい。 飛び込めない事もないが――飛び込んでどうするんだい。 いっしょにあるくのさ。 そうしてどこへ行くつもりだい。 どうせ噴火口から山の麓まで流れた岩のあとなんだからこの穴の中をあるいていたらどこかへ出るだろう。 だって。 だって厭か。 厭じゃ仕方がない。 厭じゃないが――それより君が上がれると好いんだがな。 君どうかして上がって見ないか。 それじゃ君はこの穴の縁を伝って歩行くさ。 僕は穴の下をあるくから。 そうしたら上下で話が出来るからいいだろう。 縁にゃ路はありゃしない。 草ばかりかい。 うん。 草がね。 うん。 胸くらいまで生えている。 ともかくも僕は上がれないよ。 上がれないってそれじゃ仕方がないな――おい。 ――おい。 ――おいって云うのにおい。 なぜ黙ってるんだ。 ええ。 大丈夫かい。 何が。 口は利けるかい。 利けるさ。 それじゃなぜ黙ってるんだ。 ちょっと考えていた。 何を。 穴から出る工夫をさ。 全体何だってそんな所へ落ちたんだい。 早く君に安心させようと思って草山ばかり見つめていたもんだからつい足元が御留守になって落ちてしまった。 それじゃ僕のために落ちたようなものだ。 気の毒だなどうかして上がって貰えないかな君。 そうさな。 ――なに僕は構わないよ。 それよりか。 君早く立ちたまえ。 そう草で腹を冷やしちゃ毒だ。 腹なんかどうでもいいさ。 痛むんだろう。 痛む事は痛むさ。 だからともかくも立ちたまえ。 そのうち僕がここで出る工夫を考えて置くから。 考えたら呼ぶんだぜ。 僕も考えるから。 よし。 おい。 いるか。 いる。 何か考えついたかい。 いいや。 山の模様はどうだい。 だんだん荒れるばかりだよ。 今日は何日だっけかね。 今日は九月二日さ。 ことによると二百十日かも知れないね。 もう日が暮れるよ。 おい。 いるかい。 おおおい。 おらんのか。 おおおい。 こっちだ。 なぜそんな所へ行ったんだああ。 ここから上がるんだああ。 上がれるのかああ。 上がれるから早く来おおい。 おい。 ここいらか。 そこだ。 そこへちょっと首を出して見てくれ。 こうか。 ――なるほどこりゃ大変浅い。 これなら僕が蝙蝠傘を上から出したらそれへ取っ捕らまって上がれるだろう。 傘だけじゃ駄目だ。 君気の毒だがね。 うん。 ちっとも気の毒じゃない。 どうするんだ。 兵児帯を解いてその先を傘の柄へ結びつけて――君の傘の柄は曲ってるだろう。 曲ってるとも。 大いに曲ってる。 その曲ってる方へ結びつけてくれないか。 結びつけるとも。 すぐ結びつけてやる。 結びつけたらその帯の端を上からぶら下げてくれたまえ。 ぶら下げるとも。 訳はない。 大丈夫だから待っていたまえ。 ――そうら長いのが天竺からぶら下がったろう。 君しっかり傘を握っていなくっちゃいけないぜ。 僕の身体は十七貫六百目あるんだから。 何貫目あったって大丈夫だ安心して上がりたまえ。 いいかい。 いいとも。 そら上がるぜ。 ――いやいけない。 そうずり下がって来ては。 今度は大丈夫だ。 今のは試して見ただけだ。 さあ上がった。 大丈夫だよ。 君が滑べると二人共落ちてしまうぜ。 だから大丈夫だよ。 今のは傘の持ちようがわるかったんだ。 君薄の根へ足をかけて持ち応えていたまえ。 ――あんまり前の方で蹈ん張ると崖が崩れて足が滑べるよ。 よし大丈夫。 さあ上がった。 足を踏ん張ったかい。 どうも今度もあぶないようだな。 おい。 何だい。 君は僕が力がないと思って大に心配するがね。 うん。 僕だって一人前の人間だよ。 無論さ。 無論なら安心して僕に信頼したらよかろう。 からだは小さいが朋友を一人谷底から救い出すぐらいの事は出来るつもりだ。 じゃ上がるよ。 そらっ。 そらっもう少しだ。 おいもう飯だ起きないか。 うん。 起きないよ。 腹の痛いのは癒ったかい。 まあ大抵癒ったようなものだがこの様子じゃいつ痛くなるかも知れないね。 ともかくも饂飩が祟ったんだから容易には癒りそうもない。 そのくらい口が利ければたしかなものだ。 どうだいこれから出掛けようじゃないか。 どこへ。 阿蘇へさ。 阿蘇へまだ行く気かい。 無論さ阿蘇へ行くつもりで出掛けたんだもの。 行かない訳には行かない。 そんなものかな。 しかしこの豆じゃ残念ながら致し方がない。 豆は痛むかね。 痛むの何のってこうして寝ていても頭へずうんずうんと響くよ。 あんなに吸殻をつけてやったが毫も利目がないかな。 吸殻で利目があっちゃ大変だよ。 だって付けてやる時は大いにありがたそうだったぜ。 癒ると思ったからさ。 時に君はきのう怒ったね。 いつ。 裸で蝙蝠傘を引っ張るときさ。 だってあんまり人を軽蔑するからさ。 ハハハしかし御蔭で谷から出られたよ。 君が怒らなければ僕は今頃谷底で往生してしまったかも知れないところだ。 豆を潰すのも構わずに引っ張った上に裸で薄の中へ倒れてさ。 それで君はありがたいとも何とも云わなかったぜ。 君は人情のない男だ。 その代りこの宿まで担いで来てやったじゃないか。 担いでくるものか。 僕は独立して歩行いて来たんだ。 それじゃここはどこだか知ってるかい。 大に人を愚弄したものだ。 ここはどこだって阿蘇町さ。 しかもともかくもの饂飩を強いられた三軒置いて隣の馬車宿だあね。 半日山のなかを馳けあるいてようやく下りて見たら元の所だなんて全体何てえ間抜だろう。 これからもう君の天祐は信用しないよ。 二百十日だったから悪るかった。 そうして山の中で芝居染みた事を云ってさ。 ハハハハしかしあの時は大いに感服してうんうんて云ったようだぜ。 あの時は感心もしたがこうなって見ると馬鹿気ていらあ。 君ありゃ真面目かい。 ふふん。 冗談か。 どっちだと思う。 どっちでも好いが真面目なら忠告したいね。 あの時僕の経歴談を聴かせろって泣いたのは誰だい。 泣きゃしないやね。 足が痛くって心細くなったんだね。 だって今日は朝から非常に元気じゃないか昨日た別人の観がある。 足の痛いにかかわらずか。 ハハハハ。 実はあんまり馬鹿気ているから少し腹を立てて見たのさ。 僕に対してかい。 だってほかに対するものがないから仕方がないさ。 いい迷惑だ。 時に君は粥を食うなら誂らえてやろうか。 粥もだがだね。 第一馬車は何時に出るか聞いて貰いたい。 馬車でどこへ行く気だい。 どこって熊本さ。 帰るのかい。 帰らなくってどうする。 こんな所に馬車馬と同居していちゃ命が持たない。 ゆうべあの枕元でぽんぽん羽目を蹴られたには実に弱ったぜ。 そうか僕はちっとも知らなかった。 そんなに音がしたかね。 あの音が耳に入らなければ全く剛健党に相違ない。 どうも君は憎くらしいほど善く寝る男だね。 僕にあれほど堅い約束をして経歴談をきかせるの医者の日記を話すのっていざとなるとまるで正体なしに寝ちまうんだ。 ――そうして非常ないびきをかいて――。 そうかそりゃ失敬した。 あんまり疲れ過ぎたんだよ。 時に天気はどうだい。 上天気だ。 くだらない天気だ昨日晴れればいい事を。 ――そうして顔は洗ったのかい。 顔はとうに洗った。 ともかくも起きないか。 起きるってただは起きられないよ。 裸で寝ているんだから。 僕は裸で起きた。 乱暴だね。 いかに豆腐屋育ちだってあんまりだ。 裏へ出て冷水浴をしていたらかみさんが着物を持って来てくれた。 乾いてるよ。 ただ鼠色になってるばかりだ。 乾いてるなら取り寄せてやろう。 ありゃ御者かね。 亭主かも知れないさ。 そうかな寝ながら占ってやろう。 占ってどうするんだい。 占って君と賭をする。 僕はそんな事はしないよ。 まあ御者か亭主か。 どっちかなあ。 さあ早くきめた。 そら来るからさ。 じゃ亭主にでもして置こう。 じゃ君が亭主に僕が御者だぜ。 負けた方が今日|一日命令に服するんだぜ。 そんな事はきめやしない。 御早う御呼びになりましたか。 うん呼んだ。 ちょっと僕の着物を持って来てくれ。 乾いてるだろうね。 ねえ。 それから腹がわるいんだから粥を焚いて貰いたい。 ねえ。 御二人さんとも。 おれはただの飯で沢山だよ。 では御一人さんだけ。 そうだ。 それから馬車は何時と何時に出るかね。 熊本通いは八時と一時に出ますたい。 それじゃその八時で立つ事にするからね。 ねえ。 君いよいよ熊本へ帰るのかい。 せっかくここまで来て阿蘇へ上らないのはつまらないじゃないか。 そりゃいけないよ。 だってせっかく来たのに。 せっかくは君の命令に因ってせっかく来たに相違ないんだがね。 この豆じゃどうにもこうにも――天祐を空しくするよりほかに道はあるまいよ。 足が痛めば仕方がないが――惜しいなあせっかく思い立って――いい天気だぜ見たまえ。 だから君もいっしょに帰りたまえな。 せっかくいっしょに来たものだからいっしょに帰らないのはおかしいよ。 しかし阿蘇へ登りに来たんだから登らないで帰っちゃあ済まない。 誰に済まないんだ。 僕の主義に済まない。 また主義か。 窮屈な主義だね。 じゃ一度熊本へ帰ってまた出直してくるさ。 出直して来ちゃ気が済まない。 いろいろなものに済まないんだね。 君は元来強情過ぎるよ。 そうでもないさ。 だって今までただの一遍でも僕の云う事を聞いた事がないぜ。 幾度もあるよ。 なに一度もない。 昨日も聞いてるじゃないか。 谷から上がってから僕が登ろうと主張したのを君が何でも下りようと云うからここまで引き返したじゃないか。 昨日は格別さ。 二百十日だもの。 その代り僕は饂飩を何遍も喰ってるじゃないか。 ハハハハともかくも。 まあいいよ。 談判はあとにしてここに宿の人が待ってるから。 そうか。 おい君。 ええ。 君じゃない。 君さおい宿の先生。 ねえ。 君は御者かい。 いいえ。 じゃ御亭主かい。 いいえ。 じゃ何だい。 雇人で。 おやおや。 それじゃ何にもならない。 君この男は御者でも亭主でもないんだとさ。 うんそれがどうしたんだ。 どうしたんだって――まあ好いやそれじゃ。 いいよ君彼方へ行っても好いよ。 ねえ。 では御二人さんとも馬車で御越しになりますか。 そこが今|悶着中さ。 へへへへ。 八時の馬車はもう直ぐ支度が出来ます。 うんだから八時前に悶着をかたづけて置こう。 ひとまず引き取ってくれ。 へへへへ御緩っくり。 おい行ってしまった。 行くのは当り前さ。 君が行け行けと催促するからさ。 ハハハありゃ御者でも亭主でもないんだとさ。 弱ったな。 何が弱ったんだい。 何がって。 僕はこう思ってたのさ。 あの男が御者ですと云うだろう。 すると僕が賭に勝つ訳になるから君は何でも僕の命令に服さなければならなくなる。 なるものかそんな約束はしやしない。 なにしたと見傚すんだね。 勝手にかい。 曖昧にさ。 そこで君は僕といっしょに熊本へ帰らなくっちゃあならないと云う訳さ。 そんな訳になるかね。 なると思って喜こんでたが雇人だって云うからしようがない。 そりゃ当人が雇人だと主張するんだから仕方がないだろう。 もし御者ですと云ったら僕は彼奴に三十銭やるつもりだったのに馬鹿な奴だ。 何にも世話にならないのに三十銭やる必要はない。 だって君は一昨夜あの束髪の下女に二十銭やったじゃないか。 よく知ってるね。 ――あの下女は単純で気に入ったんだもの。 華族や金持ちより尊敬すべき資格がある。 そら出た。 華族や金持ちの出ない日はないね。 いや日に何遍云っても云い足りないくらい毒々しくってずうずうしい者だよ。 君がかい。 なあに華族や金持ちがさ。 そうかな。 例えば今日わるい事をするぜ。 それが成功しない。 成功しないのは当り前だ。 すると同じようなわるい事を明日やる。 それでも成功しない。 すると明後日になってまた同じ事をやる。 成功するまでは毎日毎日同じ事をやる。 三百六十五日でも七百五十日でもわるい事を同じように重ねて行く。 重ねてさえ行けばわるい事がひっくり返っていい事になると思ってる。 言語道断だ。 言語道断だ。 そんなものを成功させたら社会はめちゃくちゃだ。 おいそうだろう。 社会はめちゃくちゃだ。 我々が世の中に生活している第一の目的はこう云う文明の怪獣を打ち殺して金も力もない平民に幾分でも安慰を与えるのにあるだろう。 ある。 うん。 あるよ。 あると思うなら僕といっしょにやれ。 うん。 やる。 きっとやるだろうね。 いいか。 きっとやる。 そこでともかくも阿蘇へ登ろう。 うんともかくも阿蘇へ登るがよかろう。 ランスロット。 ギニヴィア。 北の方なる試合にも参り合せず。 乱れたるは額にかかる髪のみならじ。 贈りまつれる薔薇の香に酔いて。 うれしきものに罪を思えば罪長かれと祈る憂き身ぞ。 君一人館に残る今日を忍びて今日のみの縁とならばうからまし。 今日のみの縁とは。 墓に堰かるるあの世までも渝らじ。 さればこそ。 さればこそ。 薔薇の香に酔える病を病と許せるは我ら二人のみ。 このカメロットに集まる騎士は五本の指を五十度繰り返えすとも数えがたきに一人として北に行かぬランスロットの病を疑わぬはなし。 束の間に危うきを貪りて長き逢う瀬の淵と変らば。 命は長き賜物ぞ恋は命よりも長き賜物ぞ。 心安かれ。 この冠よこの冠よ。 わが額の焼ける事は。 かくてあらば。 かくてあらん。 されど。 かくてあらんため――北の方なる試合に行き給え。 けさ立てる人々の蹄の痕を追い懸けて病|癒えぬと申し給え。 この頃の蔭口二人をつつむ疑の雲を晴し給え。 さほどに人が怖くて恋がなろか。 この帳の風なきに動くそうな。 宵見し夢の――夢の中なる響の名残か。 薔薇咲く日なり。 白き薔薇と赤き薔薇と黄なる薔薇の間に臥したるは君とわれのみ。 楽しき日は落ちて楽しき夕幕の薄明りの尽くる限りはあらじと思う。 その時に戴けるはこの冠なり。 わが冠の肉に喰い入るばかり焼けて頭の上に衣擦る如き音を聞くときこの黄金の蛇はわが髪を繞りて動き出す。 頭は君の方へ尾はわが胸のあたりに。 波の如くに延びるよと見る間に君とわれは腥さき縄にて断つべくもあらぬまでに纏わるる。 中四尺を隔てて近寄るに力なく離るるに術なし。 たとい忌わしき絆なりともこの縄の切れて二人離れ離れにおらんよりはとはその時苦しきわが胸の奥なる心遣りなりき。 囓まるるとも螫さるるとも口縄の朽ち果つるまでかくてあらんと思い定めたるにあら悲し。 薔薇の花の紅なるがめらめらと燃え出して繋げる蛇を焼かんとす。 しばらくして君とわれの間にあまれる一尋余りは真中より青き烟を吐いて金の鱗の色変り行くと思えばあやしき臭いを立ててふすと切れたり。 身も魂もこれ限り消えて失せよと念ずる耳元に何者かからからと笑う声して夢は醒めたり。 醒めたるあとにもなお耳を襲う声はありて今聞ける君が笑も宵の名残かと骨を撼がす。 さらば行こう。 後れ馳せに北の方へ行こう。 行くか。 行く。 忌まわしき冠よ。 さらば。 凶事か。 サー・ランスロット。 シャロットの女を殺すものはランスロット。 ランスロットを殺すものはシャロットの女。 わが末期の呪を負うて北の方へ走れ。 騎士はいずれに去る人ぞ。 北の方なる仕合に参らんとこれまでは鞭って追懸けたれ。 夏の日の永きにも似ずいつしか暮れて暗がりに路さえ岐れたるを。 ――乗り捨てし馬も恩に嘶かん。 一夜の宿の情け深きに酬いまつるものなきを恥ず。 無心ながら宿貸す人に申す。 明日と定まる仕合の催しに後れて乗り込む我の何の誰よと人に知らるるは興なし。 新しきを嫌わず古きを辞せず人の見知らぬ盾あらば貸し玉え。 望める盾を貸し申そう。 ――長男チアーは去ぬる騎士の闘技に足を痛めて今なお蓐を離れず。 その時彼が持ちたるは白地に赤く十字架を染めたる盾なり。 ただの一度の仕合に傷きてその創口はまだ癒えざれば赤き血架は空しく壁に古りたり。 これを翳して思う如く人々を驚かし給え。 それこそは。 次男ラヴェンは健気に見ゆる若者にてあるをアーサー王の催にかかる晴の仕合に参り合わせずば騎士の身の口惜しかるべし。 ただ君が栗毛の蹄のあとに倶し連れよ。 翌日を急げと彼に申し聞かせんほどに。 心得たり。 たぞ。 この深き夜を迷えるか。 知らぬ路にこそ迷え。 年古るく住みなせる家のうちを――鼠だに迷わじ。 紅に人のまことはあれ。 恥ずかしの片袖を乞われぬに参らする。 兜に捲いて勝負せよとの願なり。 女の贈り物受けぬ君は騎士か。 戦に臨む事は大小六十余度闘技の場に登って槍を交えたる事はその数を知らず。 いまだ佳人の贈り物を身に帯びたる試しなし。 情あるあるじの子の情深き賜物を辞むは礼なけれど。 礼ともいえ礼なしともいいてやみね。 礼のために夜を冒して参りたるにはあらず。 思の籠るこの片袖を天が下の勇士に贈らんために参りたり。 切に受けさせ給え。 嬉しき人の真心を兜にまくは騎士の誉れ。 ありがたし。 うけてか。 あすの勝負に用なき盾を逢うまでの形身と残す。 試合果てて再びここを過ぎるまで守り給え。 守らでやは。 赤し赤し。 遅き人のいずこに繋がれたる。 繋ぐ日も繋ぐ月もなきに。 後れて行くものは後れて帰る掟か。 後れたるは掟ならぬ恋の掟なるべし。 あの袖の主こそ美しからん。 あの袖とは。 袖の主とは。 美しからんとは。 白き挿毛に赤き鉢巻ぞ。 さる人の贈り物とは見たれ。 繋がるるも道理じゃ。 主の名は。 名は知らぬ。 ただ美しき故に美しき少女というと聞く。 過ぐる十日を繋がれて残る幾日を繋がるる身は果報なり。 カメロットに足は向くまじ。 美しき少女。 美しき少女。 なに事ぞ。 なに事とも知らず。 人の身の上はわが上とこそ思え。 人恋わぬ昔は知らず嫁ぎてより幾夜か経たる。 赤き袖の主のランスロットを思う事は御身のわれを思う如くなるべし。 贈り物あらばわれも十日を二十日を帰るを忘るべきに罵しるは卑し。 美しき少女。 御身とわれと始めて逢える昔を知るか。 丈に余る石の十字を深く地に埋めたるに蔦這いかかる春の頃なり。 路に迷いて御堂にしばし憩わんと入れば銀に鏤ばむ祭壇の前に空色の衣を肩より流して黄金の髪に雲を起せるは誰ぞ。 ああ。 安からぬ胸に捨てて行ける人の帰るを待つと凋れたる声にてわれに語る御身の声をきくまでは天つ下れるマリヤのこの寺の神壇に立てりとのみ思えり。 伴いて館に帰し参らせんといえば黄金の髪を動かして何処へともとうなずく。 罪あるを罰するは王者の事か。 問わずもあれ。 罪あるは高きをも辞せざるか。 黄金の冠は邪の頭に戴かず。 天子の衣は悪を隠さず。 罪あるを許さずと誓わば君が傍に坐せる女をも許さじ。 罪ありと我を誣いるか。 何をあかしに何の罪を数えんとはする。 詐りは天も照覧あれ。 罪は一つ。 ランスロットに聞け。 あかしはあれぞ。 神も知る罪は逃れず。 ランスロット。 黒し黒し。 ※に巻ける絹の色に槍突き合わす敵の目も覚むべし。 ランスロットはその日の試合に二十余人の騎士を仆して引き挙ぐる間際に始めてわが名をなのる。 驚く人の醒めぬ間をラヴェンと共に埒を出でたり。 行く末は勿論アストラットじゃ。 ランスロット。 あな。 二十余人の敵と渡り合えるうち何者かの槍を受け損じてか鎧の胴を二寸|下りて左の股に創を負う。 深き創か。 鞍に堪えぬほどにはあらず。 夏の日の暮れがたきに暮れて蒼き夕を草深き原のみ行けば馬の蹄は露に濡れたり。 ――二人は一言も交わさぬ。 ランスロットの何の思案に沈めるかは知らずわれは昼の試合のまたあるまじき派手やかさを偲ぶ。 風渡る梢もなければ馬の沓の地を鳴らす音のみ高し。 ――路は分れて二筋となる。 左へ切ればここまで十|哩じゃ。 ランスロットは馬の頭を右へ立て直す。 右。 右はシャロットへの本街道十五哩は確かにあろう。 そのシャロットの方へ――後より呼ぶわれを顧みもせで轡を鳴らして去る。 やむなくてわれも従う。 不思議なるはわが馬を振り向けんとしたる時前足を躍らしてあやしくも嘶ける事なり。 嘶く声の果知らぬ夏野に末広に消えて馬の足掻の常の如くわが手綱の思うままに運びし時はランスロットの影は夜と共に微かなる奥に消えたり。 ――われは鞍を敲いて追う。 追い付いてか。 追い付ける時は既に遅くあった。 乗る馬の息の闇押し分けて白く立ち上るをいやがうえに鞭って長き路を一散に馳け通す。 黒きもののそれかとも見ゆる影が二丁ばかり先に現われたる時われは肺を逆しまにしてランスロットと呼ぶ。 黒きものは聞かざる真似して行く。 幽かに聞えたるは轡の音か。 怪しきは差して急げる様もなきに容易くは追い付かれず。 漸くの事|間一丁ほどに逼りたる時黒きものは夜の中に織り込まれたる如くふっと消える。 合点行かぬわれは益追う。 シャロットの入口に渡したる石橋に蹄も砕けよと乗り懸けしと思えば馬は何物にか躓きて前足を折る。 騎るわれは鬣をさかに扱いて前にのめる。 戞と打つは石の上と心得しにわれより先に斃れたる人の鎧の袖なり。 あぶない。 あぶなきはわが上ならず。 われより先に倒れたるランスロットの事なり。 倒れたるはランスロットか。 橋の袂の柳の裏に人住むとしも見えぬ庵室あるを試みに敲けば世を逃れたる隠士の居なり。 幸いと冷たき人を担ぎ入るる。 兜を脱げば眼さえ氷りて。 薬を掘り草を煮るは隠士の常なり。 ランスロットを蘇してか。 よみ返しはしたれ。 よみにある人と択ぶ所はあらず。 われに帰りたるランスロットはまことのわれに帰りたるにあらず。 魔に襲われて夢に物いう人の如くあらぬ事のみ口走る。 あるときは罪々と叫びあるときは王妃――ギニヴィア――シャロットという。 隠士が心を込むる草の香りも煮えたる頭には一点の涼気を吹かず。 枕辺にわれあらば。 一夜の後たぎりたる脳の漸く平らぎて静かなる昔の影のちらちらと心に映る頃ランスロットはわれに去れという。 心許さぬ隠士は去るなという。 とかくして二日を経たり。 三日目の朝われと隠士の眠覚めて病む人の顔色の今朝如何あらんと臥所を窺えば――在らず。 剣の先にて古壁に刻み残せる句には罪はわれを追いわれは罪を追うとある。 逃れしか。 いずこへ。 いずこと知らば尋ぬる便りもあらん。 茫々と吹く夏野の風の限りは知らず。 西東日の通う境は極めがたければ独り帰り来ぬ。 ――隠士はいう病怠らで去る。 かの人の身は危うし。 狂いて走る方はカメロットなるべしと。 うつつのうちに口走れる言葉にてそれと察せしと見ゆれどわれは確とさは思わず。 わがためにランスロットへの文かきて玉われ。 天が下に慕える人は君ひとりなり。 君一人のために死ぬるわれを憐れと思え。 陽炎燃ゆる黒髪の長き乱れの土となるとも胸に彫るランスロットの名は星変る後の世までも消えじ。 愛の炎に染めたる文字の土水の因果を受くる理なしと思えば。 睫に宿る露の珠に写ると見れば砕けたる君の面影の脆くもあるかな。 わが命もしかく脆きを涙あらば濺げ。 基督も知る死ぬるまで清き乙女なり。 息絶えて身の暖かなるうち右の手にこの文を握らせ給え。 手も足も冷え尽したる後ありとある美しき衣にわれを着飾り給え。 隙間なく黒き布しき詰めたる小船の中にわれを載せ給え。 山に野に白き薔薇白き百合を採り尽して舟に投げ入れ給え。 ――舟は流し給え。 うつせみの世をうつつに住めば。 何者ぞ。 うつくしき恋色やうつろう。 美くしき少女。 あなたのように。 あなたのように。 教師をおやめなさるってこれから何をなさるおつもりですか。 別にこれと云うつもりもないがねまあそのうちどうかなるだろう。 その内どうかなるだろうってそれじゃまるで雲を攫むような話しじゃありませんか。 そうさな。 あんまり判然としちゃいない。 そう呑気じゃ困りますわ。 あなたは男だからそれでようござんしょうがちっとは私の身にもなって見て下さらなくっちゃあ。 だからさもう田舎へは行かない教師にもならない事にきめたんだよ。 きめるのは御勝手ですけれどもきめたって月給が取れなけりゃ仕方がないじゃありませんか。 月給がとれなくっても金がとれればよかろう。 金がとれればそりゃようござんすとも。 そんならいいさ。 いいさって御金がとれるんですかあなた。 そうさまあ取れるだろうと思うのさ。 どうして。 そこは今考え中だ。 そう着早々計画が立つものか。 だから心配になるんですわ。 いくら東京にいるときめたってきめただけの思案じゃ仕方がないじゃありませんか。 どうも御前はむやみに心配性でいけない。 心配もしますわどこへいらしっても折合がわるくっちゃおやめになるんですもの。 私が心配性ならあなたはよっぽど癇癪持ちですわ。 そうかも知れない。 しかしおれの癇癪はまあいいや。 どうにか東京で食えるようにするから。 御兄さんの所へいらしって御頼みなすったらどうでしょう。 うんそれも好いがね。 兄はいったい人の世話なんかする男じゃないよ。 あらそう何でも一人できめて御しまいになるから悪るいんですわ。 昨日もあんなに親切にいろいろ言って下さったじゃありませんか。 昨日か。 昨日はいろいろ世話を焼くような事を言った。 言ったがね。 言ってもいけないんですか。 いけなかないよ。 言うのは結構だがあんまり当にならないからな。 なぜ。 なぜってその内だんだんわかるさ。 じゃ御友達の方にでも願ってあしたからでも運動をなすったらいいでしょう。 友達って別に友達なんかありゃしない。 同級生はみんな散ってしまった。 だって毎年年始状を御寄こしになる足立さんなんか東京で立派にしていらっしゃるじゃありませんか。 足立かうん大学教授だね。 そうあなたのように高くばかり構えていらっしゃるから人に嫌われるんですよ。 大学教授だねって大学の先生になりゃ結構じゃありませんか。 そうかね。 じゃ足立の所へでも行って頼んで見ようよ。 しかし金さえ取れれば必ず足立の所へ行く必要はなかろう。 あらまだあんな事を云っていらっしゃる。 あなたはよっぽど強情ね。 うんおれはよっぽど強情だよ。 やあ。 どこへ行ったんだい。 今ぐるぐる巡って休もうと思ったがどこも空いていない。 駄目だただで掛けられる所はみんな人が先へかけている。 なかなか抜目はないもんだな。 天気がいいせいだよ。 なるほど随分人が出ているね。 ――おいあの孟宗藪を回って噴水の方へ行く人を見たまえ。 どれ。 あの女か。 君の知ってる人かね。 知るものか。 それじゃ何で見る必要があるのだい。 あの着物の色さ。 何だか立派なものを着ているじゃないか。 あの色を竹藪の傍へ持って行くと非常にあざやかに見える。 あれはこう云う透明な秋の日に照らして見ないと引き立たないんだ。 そうかな。 そうかなって君そう感じないか。 別に感じない。 しかし奇麗は奇麗だ。 ただ奇麗だけじゃ可哀想だ。 君はこれから作家になるんだろう。 そうさ。 それじゃもう少し感じが鋭敏でなくっちゃ駄目だぜ。 なにあんな方は鈍くってもいいんだ。 ほかに鋭敏なところが沢山あるんだから。 ハハハハそう自信があれば結構だ。 時に君せっかく逢ったものだからもう一遍あるこうじゃないか。 あるくのは真平だ。 これからすぐ電車へ乗って帰えらないと午食を食い損なう。 その午食を奢ろうじゃないか。 うんまた今度にしよう。 なぜ。 いやかい。 厭じゃない――厭じゃないが始終|御馳走にばかりなるから。 ハハハ遠慮か。 まあ来たまえ。 ふんだいぶ広いな。 なかなか繁昌すると見える。 なんだ妙な所へ姿見の広告などを出して。 やしまった。 煙草を買ってくるのを忘れた。 煙草ならここにあるよ。 敷島。 これは樽麦酒だね。 おい君樽麦酒の祝杯を一つ挙げようじゃないか。 何の祝杯を挙げるのだい。 卒業祝いさ。 今頃卒業祝いか。 卒業は生涯にたった一度しかないんだからいつまで祝ってもいいさ。 たった一度しかないんだから祝わないでもいいくらいだ。 僕とまるで反対だね。 ――姉さんこのフライは何だい。 え。 鮭か。 ここん所へ君このオレンジの露をかけて見たまえ。 なるほどそうして食うものか。 僕は装飾についてるのかと思った。 いや行くよ。 いつでも行くよ。 エヘヘヘヘ。 今夜行こう。 あんまり気が早い。 ハハハハハ。 エヘヘヘヘ。 いえね実はね今夜あたり君を誘って繰り出そうと思っていたんだ。 え。 ハハハハ。 なにそれほどでもない。 ハハハハ。 そら例のがあれでしょう。 だからどうにもこうにもやり切れないのさ。 エヘヘヘヘアハハハハハハ。 商人だよ。 実業家かな。 おい中野君。 むむ。 あの連中は世の中を何と思ってるだろう。 何とも思うものかね。 ただああやって暮らしているのさ。 羨やましいな。 どうかして――どうもいかんな。 あんなものが羨しくっちゃ大変だ。 そんな考だから卒業祝に同意しないんだろう。 さあもう一杯景気よく飲んだ。 あの人が羨ましいのじゃないがああ云う風に余裕があるような身分が羨ましい。 いくら卒業したってこう奔命に疲れちゃ少しも卒業のありがた味はない。 そうかなあ僕なんざ嬉しくってたまらないがなあ。 我々の生命はこれからだぜ。 今からそんな心細い事を云っちゃあしようがない。 我々の生命はこれからだのにこれから先が覚束ないから厭になってしまうのさ。 なぜ。 何もそう悲観する必要はないじゃないか大にやるさ。 僕もやる気だいっしょにやろう。 大に西洋料理でも食って――そらビステキが来た。 これでおしまいだよ。 君ビステキの生焼は消化がいいって云うぜ。 こいつはどうかな。 なあるほど赤い。 赤いよ君見たまえ。 血が出るよ。 君などは悲観する必要がないから結構だ。 僕が悲観する必要がない。 悲観する必要がないとするとつまりおめでたい人間と云う意味になるね。 僕だって三年も大学にいて多少の哲学書や文学書を読んでるじゃないか。 こう見えても世の中がどれほど悲観すべきものであるかぐらいは知ってるつもりだ。 書物の上でだろう。 書物の上――書物の上では無論だが実際だってこれでなかなか苦痛もあり煩悶もあるんだよ。 だって生活には困らないし時間は充分あるし勉強はしたいだけ出来るし述作は思う通りにやれるし。 僕に較べると君は実に幸福だ。 ところが裏面はなかなかそんな気楽なんじゃないさ。 これでもいろいろ心配があっていやになるのだよ。 そうかなあ。 そう君まで茶かしちゃいよいよつまらなくなる。 実は今日あたり君の所へでも出掛けて大に同情してもらおうかと思っていたところさ。 訳をきかせなくっちゃ同情も出来ないね。 訳はだんだん話すよ。 あんまりくさくさするからこうやって散歩に来たくらいなものさ。 ちっとは察しるがいい。 そうして君はまたなんで今頃公園なんか散歩しているんだね。 や君の顔は妙だ。 日の射している右側の方は大変血色がいいが影になってる方は非常に色沢が悪い。 奇妙だな。 鼻を境に矛盾が睨めこをしている。 悲劇と喜劇の仮面を半々につぎ合せたようだ。 いくら天気がよくっても散歩なんかする暇はない。 今日は新橋の先まで遺失品を探がしに行ってその帰りがけにちょっとついでだからここで休んで行こうと思って来たのさ。 遺失品て何を落したんだい。 昨日電車の中で草稿を失って――。 草稿。 そりゃ大変だ。 僕は書き上げた原稿が雑誌へ出るまでは心配でたまらない。 実際草稿なんてものは吾々に取って命より大切なものだからね。 なにそんな大切な草稿でも書ける暇があるようだといいんだけれども――駄目だ。 じゃ何の草稿だい。 地理教授法の訳だ。 あしたまでに届けるはずにしてあるのだから今なくなっちゃ原稿料も貰えずまたやり直さなくっちゃならず実に厭になっちまう。 それで探がしに行っても出て来ないのかい。 来ない。 どうしたんだろう。 おおかた車掌がうちへ持って行ってはたきでも拵えたんだろう。 まさかしかし出なくっちゃ困るね。 困るなあ自分の不注意と我慢するがその遺失品係りの厭な奴だ事って――実に不親切で形式的で――まるで版行におしたような事をぺらぺらと一通り述べたが以上何を聞いても知りません知りませんで持ち切っている。 あいつは廿世紀の日本人を代表している模範的人物だ。 あすこの社長もきっとあんな奴に違ない。 ひどく癪に障ったものだね。 しかし世の中はその遺失品係りのようなのばかりじゃないからいいじゃないか。 もう少し人間らしいのがいるかい。 皮肉な事を云う。 なに世の中が皮肉なのさ。 今の世のなかは冷酷の競進会見たようなものだ。 敷島。 おいひどい事をするぜ。 なに過ちだ。 ――ありゃさっきの実業家だ。 構うもんか抛って置け。 なるほどさっきの男だ。 何で今までぐずぐずしていたんだろう。 下で球でも突いていたのか知らん。 どうせ遺失品係りの同類だから何でもするだろう。 そら気がついた――帽子を取ってはたいている。 ハハハハ滑稽だ。 随分人が悪いなあ。 なるほど善くないね。 偶然とは申しながらあんな事で仇を打つのは下等だ。 こんな真似をして嬉しがるようでは文学士の価値もめちゃめちゃだ。 そうさ。 しかし文学士は名前だけでその実は筆耕だからな。 文学士にもなって地理教授法の翻訳の下働きをやってるようじゃ心細い訳だ。 これでも僕が卒業したら卒業したらって待っててくれた親もあるんだからな。 考えると気の毒なものだ。 この様子じゃいつまで待っててくれたって仕方がない。 まだ卒業したばかりだからそう急に有名にはなれないさ。 そのうち立派な作物を出して大に本領を発揮する時に天下は我々のものとなるんだよ。 いつの事やら。 そう急いたっていけない。 追々新陳代謝してくるんだから何でも気を永くして尻を据えてかからなくっちゃ駄目だ。 なに世間じゃ追々我々の真価を認めて来るんだからね。 僕なんぞでもこうやって始終書いていると少しは人の口に乗るからね。 君はいいさ。 自分の好きな事を書く余裕があるんだから。 僕なんか書きたい事はいくらでもあるんだけれども落ちついて述作なぞをする暇はとてもない。 実に残念でたまらない。 保護者でもあって気楽に勉強が出来ると名作も出して見せるがな。 せめて何でもいいから月々きまって六十円ばかり取れる口があるといいのだけれども卒業前から自活はしていたのだが卒業してもやっぱりこんなに困難するだろうとは思わなかった。 そう困難じゃ仕方がない。 僕のうちの財産が僕の自由になると保護者になってやるんだがな。 どうか願います。 ――実に厭になってしまう。 君今考えると田舎の中学の教師の口だって容易にあるもんじゃないな。 そうだろうな。 僕の友人の哲学科を出たものなんか卒業してから三年になるがまだ遊んでるぜ。 そうかな。 それを考えると子供の時なんか訳もわからずに悪い事をしたもんだね。 もっとも今とその頃とは時勢が違うから教師の口も今ほど払底でなかったかも知れないが。 何をしたんだい。 僕の国の中学校に白井道也と云う英語の教師がいたんだがね。 道也た妙な名だね。 釜の銘にありそうじゃないか。 道也と読むんだか何だか知らないが僕らは道也道也って呼んだものだ。 その道也先生がね――やっぱり君文学士だぜ。 その先生をとうとうみんなして追い出してしまった。 どうして。 どうしてってただいじめて追い出しちまったのさ。 なに良い先生なんだよ。 人物や何かは子供だからまるでわからなかったがどうも悪るい人じゃなかったらしい。 それでなぜ追い出したんだい。 それがさ中学校の教師なんてあれでなかなか悪るい奴がいるもんだぜ。 僕らあ煽動されたんだねつまり。 今でも覚えているが夜る十五六人で隊を組んで道也先生の家の前へ行ってワーって吶喊して二つ三つ石を投げ込んで来るんだ。 乱暴だね。 何だってそんな馬鹿な真似をするんだい。 なぜだかわからない。 ただ面白いからやるのさ。 おそらく吾々の仲間でなぜやるんだか知ってたものは誰もあるまい。 気楽だね。 実に気楽さ。 知ってるのは僕らを煽動した教師ばかりだろう。 何でも生意気だからやれって云うのさ。 ひどい奴だな。 そんな奴が教師にいるかい。 いるとも。 相手が子供だからどうでも云う事を聞くからかも知れないがいるよ。 それで道也先生どうしたい。 辞職しちまった。 可哀想に。 実に気の毒な事をしたもんだ。 定めし転任先をさがす間|活計に困ったろうと思ってね。 今度逢ったら大に謝罪の意を表するつもりだ。 今どこにいるんだい。 どこにいるか知らない。 じゃいつ逢うか知れないじゃないか。 しかしいつ逢うかわからない。 ことによると教師の口がなくって死んでしまったかも知れないね。 ――何でも先生辞職する前に教場へ出て来て云った事がある。 何て。 諸君吾々は教師のために生きべきものではない。 道のために生きべきものである。 道は尊いものである。 この理窟がわからないうちはまだ一人前になったのではない。 諸君も精出してわかるようにおなり。 へえ。 僕らは不相変教場内でワーっと笑ったあね。 生意気だ生意気だって笑ったあね。 ――どっちが生意気か分りゃしない。 随分田舎の学校などにゃ妙な事があるものだね。 なに東京だってあるんだよ。 学校ばかりじゃない。 世の中はみんなこれなんだ。 つまらない。 時にだいぶ長話しをした。 どうだ君。 これから品川の妙花園まで行かないか。 何しに。 花を見にさ。 これから帰って地理教授法を訳さなくっちゃならない。 一日ぐらい遊んだってよかろう。 ああ云う美くしい所へ行くと好い心持ちになって翻訳もはかが行くぜ。 そうかな。 君は遊びに行くのかい。 遊かたがたさ。 あすこへ行ってちょっと写生して来て材料にしようと思ってるんだがね。 何の材料に。 出来たら見せるよ。 小説をかいているんだ。 そのうちの一章に女が花園のなかに立って小さな赤い花を余念なく見詰めているとその赤い花がだんだん薄くなってしまいに真白になってしまうと云うところを書いて見たいと思うんだがね。 空想小説かい。 空想的で神秘的でそれで遠い昔しが何だかなつかしいような気持のするものが書きたい。 うまく感じが出ればいいが。 まあ出来たら読んでくれたまえ。 妙花園なんざそんな参考にゃならないよ。 それよりかうちへ帰ってホルマン・ハントの画でも見る方がいい。 ああ僕も書きたい事があるんだがな。 どうしても時がない。 君は全体自然がきらいだからいけない。 自然なんてどうでもいいじゃないか。 この痛切な二十世紀にそんな気楽な事が云っていられるものか。 僕のは書けばそんな夢見たようなものじゃないんだからな。 奇麗でなくっても痛くっても苦しくっても僕の内面の消息にどこか触れていればそれで満足するんだ。 詩的でも詩的でなくってもそんな事は構わない。 たとい飛び立つほど痛くっても自分で自分の身体を切って見てなるほど痛いなと云うところを充分書いて人に知らせてやりたい。 呑気なものや気楽なものはとうてい夢にも想像し得られぬ奥の方にこんな事実がある人間の本体はここにあるのを知らないかと世の道楽ものに教えておやそうかおれはまさかこんなものとは思っていなかったが云われて見るとなるほど一言もない恐れ入ったと頭を下げさせるのが僕の願なんだ。 君とはだいぶ方角が違う。 しかしそんな文学は何だか心持ちがわるい。 ――そりゃ御随意だがどうだい妙花園に行く気はないかい。 妙花園へ行くひまがあれば一|頁でも僕の主張をかくがなあ。 何だか考えると身体がむずむずするようだ。 実際こんなに呑気にして生焼のビステッキなどを食っちゃいられないんだ。 ハハハハまたあせる。 いいじゃないかさっきの商人見たような連中もいるんだから。 あんなのがいるからこっちはなお仕事がしたくなる。 せめてあの連中の十|分一の金と時があれば書いて見せるがな。 じゃどうしても妙花園は不賛成かね。 遅くなるもの。 君は冬服を着ているが僕はいまだに夏服だから帰りに寒くなって風でも引くといけない。 ハハハハ妙な逃げ路を発見したね。 もう冬服の時節だあね。 着換えればいい事を。 君は万事|無精だよ。 無精で着換えないんじゃない。 ないから着換えないんだ。 この夏服だってまだ一文も払っていやしない。 そうなのか。 大学を御卒業になった方の。 あの文学をおやりになる。 や御待たせ申しまして。 どうも御邪魔をします。 あなたが白井道也とおっしゃるんで。 はい。 あなたが白井道也とおっしゃるんで。 はい。 実は今日御邪魔に上がったのは少々御願があって参ったのですが。 はあ何でも出来ます事なら。 実は今度|江湖雑誌で現代青年の煩悶に対する解決と云う題で諸先生方の御高説を発表する計画がありましてそれで普通の大家ばかりでは面白くないと云うのでなるべく新しい方もそれぞれ訪問する訳になりましたので――そこで実はちょっと往って来てくれと頼まれて来たのですが御差支がなければ御話を筆記して参りたいと思います。 なるほど。 さよう。 どうでしょう何か御説はありますまいか。 そうですね。 あったって僕のようなものの云う事は雑誌へ載せる価値はありませんよ。 いえ結構です。 全体どこから聞いていらしったんです。 あまり突然じゃ纏った話の出来るはずがないですから。 御名前は社主が折々雑誌の上で拝見するそうで。 いえどうしまして。 何でもよいですから少し御話し下さい。 そうですね。 せっかく来たものですから。 じゃ何か話しましょう。 はあどうぞ。 いったい煩悶と云う言葉は近頃だいぶはやるようだが大抵は当座のものでいわゆる三日坊主のものが多い。 そんな種類の煩悶は世の中が始まってから世の中がなくなるまで続くのでちっとも問題にはならないでしょう。 ふん。 しかし多くの青年が一度は必ず陥るまた必ず陥るべく自然から要求せられている深刻な煩悶が一つある。 それは何だと云うと――恋である。 ただ恋と云うと妙に御聞きになるかも知れない。 また近頃はあまり恋愛呼ばりをするのを人が遠慮するようであるがこの種の煩悶は大なる事実であって事実の前にはいかなるものも頭を下げねばならぬ訳だからどうする事も出来ないのである。 我々が生涯を通じて受ける煩悶のうちでもっとも痛切なもっとも深刻なまたもっとも劇烈な煩悶は恋よりほかにないだろうと思うのです。 それでですねこう云う強大な威力のあるものだから我々が一度びこの煩悶の炎火のうちに入ると非常な変形をうけるのです。 変形。 ですか。 ええ形を変ずるのです。 今まではただふわふわ浮いていた。 世の中と自分の関係がよくわからないでのんべんぐらりんに暮らしていたのが急に自分が明瞭になるんです。 自分が明瞭とは。 自分の存在がです。 自分が生きているような心持ちが確然と出てくるのです。 だから恋は一方から云えば煩悶に相違ないがしかしこの煩悶を経過しないと自分の存在を生涯|悟る事が出来ないのです。 この浄罪界に足を入れたものでなければけっして天国へは登れまいと思うのです。 ただ楽天だってしようがない。 恋の苦みを甞めて人生の意義を確かめた上の楽天でなくっちゃうそです。 それだから恋の煩悶はけっして他の方法によって解決されない。 恋を解決するものは恋よりほかにないです。 恋は吾人をして煩悶せしめてまた吾人をして解脱せしむるのである。 そのくらいなところで。 まだ少しあるんですが。 承るのはいいですがだいぶ多人数の意見を載せるつもりですからかえってあとから削除すると失礼になりますから。 そうですかそれじゃそのくらいにして置きましょう。 何だかこんな話をするのは始めてですからさぞ筆記しにくかったでしょう。 いいえ。 いやこれは御邪魔をしました。 まあいいでしょう。 いえせっかくですが少々急ぎますから。 それでは。 あなたはもしや高柳周作と云う男を御存じじゃないですか。 高柳。 どうも知らんようです。 ことし大学を卒業した。 それじゃ知らん訳だ。 おや御帰り。 下女はどっかへ行ったのか。 ちょっと柳町まで使に行きました。 まあ。 あなた。 あなた。 何だい。 御飯です。 そうか今行くよ。 二百三十一|頁。 湯豆腐かい。 はあ何にもなくて御気の毒ですが。 何なんでもいい。 食ってさえいれば何でも構わない。 あらまだ袴を御脱ぎなさらないの随分ね。 忙がしいものだからつい忘れた。 求めて忙がしい思をしていらっしゃるのだから。 そう見えるかい。 だって楽で御金の取れる口は断っておしまいなすって忙がしくって一文にもならない事ばかりなさるんですもの誰だって酔興と思いますわ。 思われてもしようがない。 これがおれの主義なんだから。 あなたは主義だからそれでいいでしょうさ。 しかし私は。 御前は主義が嫌だと云うのかね。 嫌も好もないんですけれどもせめて――人並には――なんぼ私だって。 食えさえすればいいじゃないか贅沢を云や誰だって際限はない。 どうせそうでしょう。 私なんざどんなになっても御構いなすっちゃ下さらないのでしょう。 このてっか味噌は非常に辛いな。 どこで買って来たのだ。 どこですか。 どこぞへ行ったのかい。 ええ。 そうべんべんと真田の方を引っ張っとく訳にも行きませず家主の方もどうかしなければならず今月の末になると米薪の払でまた心配しなくっちゃなりませんから算段に出掛けたんです。 そうか質屋へでも行ったのかい。 質に入れるようなものはもうありゃしませんわ。 じゃどこへ行ったんだい。 どこって別に行く所もありませんから御兄さんの所へ行きました。 兄の所。 駄目だよ。 兄の所なんぞへ行ったって何になるものか。 そうあなたは何でも始からけなしておしまいなさるからよくないんです。 いくら教育が違うからって気性が合わないからって血を分けた兄弟じゃありませんか。 兄弟は兄弟さ。 兄弟でないとは云わん。 だからさ膝とも談合と云うじゃありませんか。 こんな時にはちっと相談にいらっしゃるがいいじゃありませんか。 おれは行かんよ。 それが痩我慢ですよ。 あなたはそれが癖なんですよ。 損じゃあありませんか好んで人に嫌われて。 それで才覚が出来たのかい。 あなたは何でも一足飛ね。 なにが。 だって才覚が出来る前にはそれぞれ魂胆もあれば工面もあるじゃありませんか。 そうかそれじゃ最初から聞き直そう。 で御前が兄のうちへ行ったんだね。 おれに内所で。 内所だってあなたのためじゃありませんか。 いいよためでいいよ。 それから。 で御兄さんに御目に懸っていろいろ今までの御無沙汰の御詫やら何やらしてそれから一部始終の御話をしたんです。 それから。 すると御兄さんがそりゃ御前には大変気の毒だって大変|私に同情して下さって。 御前に同情した。 ふうん。 ――ちょっとその炭取を取れ。 炭をつがないと火種が切れる。 でそりゃ早く整理しなくっちゃ駄目だ。 全体なぜ今まで抛って置いたんだっておっしゃるんです。 旨い事を云わあ。 まだあなたは御兄さんを疑っていらっしゃるのね。 罰があたりますよ。 それで金でも貸したのかい。 ほらまた一足飛びをなさる。 まあどのくらいあればこれまでの穴が奇麗に埋るのかと御聞きになるから――よっぽど言い悪かったんですけれども――とうとう思い切ってね。 ねえあなた。 とうとう思い切ってね――あなた。 聞いていらっしゃらないの。 聞いてるよ。 思い切って百円ばかりと云ったの。 そうか。 兄は驚ろいたろう。 そうしたらね。 ふうんて考えて百円と云う金はなかなか容易に都合がつく訳のものじゃない。 兄の云いそうな事だ。 まあ聞いていらっしゃい。 まだあとが有るんです。 ――しかしほかの事とは違うから是非なければ困ると云うならおれが保証人になって人から借りてやってもいいって仰しゃるんです。 あやしいものだ。 まあさしまいまで御聞きなさい。 ――それでともかくも本人に逢って篤と了簡を聞いた上にしようと云うところまでに漕ぎつけて来たのです。 そうか。 そうかじゃ困りますわ。 私がここまで拵えたのだからあとはあなたがどうとも為さらなくっちゃあ。 あなたの楫のとりようでせっかくの私の苦心も何の役にも立たなくなりますわ。 いいさそう心配するな。 もう一ヵ月もすれば百や弐百の金は手に這入る見込があるから。 今でもそんな御金が這入る見込があるんですか。 今は昔より下落したと云うのかい。 ハハハハハ。 どうりゃ一勉強やろうか。 どこへ行く。 どこへ行く。 今図書館へ行った帰りだ。 また地理学教授法じゃないか。 ハハハハ。 何だか不景気な顔をしているね。 どうかしたかい。 近頃は喜劇の面をどこかへ遺失してしまった。 また新橋の先まで探がしに行って拳突を喰ったんじゃないか。 つまらない。 新橋どころか世界中探がしてあるいても落ちていそうもない。 もう御やめだ。 何を。 何でも御やめだ。 万事御やめか。 当分御やめがよかろう。 万事御やめにして僕といっしょに来たまえ。 どこへ。 今日はそこに慈善音楽会があるんで切符を二枚買わされたんだがほかに誰も行き手がないからちょうどいい。 君行きたまえ。 いらない切符などを買うのかい。 もったいない事をするんだな。 なに義理だから仕方がない。 おやじが買ったんだがおやじは西洋音楽なんかわからないからね。 それじゃ余った方を送ってやればいいのに。 実は君の所へ送ろうと思ったんだが。 いいえ。 あすこへさ。 あすことは。 ――うん。 あすこか。 何ありゃいいんだ。 自分でも買ったんだ。 穿めもしない手袋を握ってあるいてるのは何のためだい。 なに今ちょっと隠袋から出したんだ。 ああ云う連中が行くのかい。 あれは徳川侯爵だよ。 よく知ってるね。 君はあの人の家来かい。 家来じゃない。 どうだい行こうじゃないか。 時間がおくれるよ。 おくれると逢えないと云うのかね。 とにかく行こう。 君はなんでも人の集まる所やなにかを嫌ってばかりいるから一人坊っちになってしまうんだよ。 いやかい。 いやなら仕方がない。 僕は失敬する。 いこう。 おいあすこに椅子が二つ空いている。 大変な人だね。 おい帽子をとらなくっちゃいけないよ。 外套は着ていてもいいのか。 外套は構わないんだ。 しかしあつ過ぎるから脱ごうか。 もう時間だ始まるよ。 そうか。 今のは面白かった。 今までのうち一番よく出来た。 非常に感じをよく出す人だ。 ――どうだい君。 うん。 君面白くないか。 そうさな。 そうさなじゃ困ったな。 ――おいあすこの西洋人の隣りにいる細かい友禅の着物を着ている女があるだろう。 ――あんな模様が近頃|流行んだ。 派出だろう。 そうかなあ。 君はカラー・センスのない男だね。 ああ云う派出な着物は集会の時や何かにはごくいいのだね。 遠くから見て見醒めがしない。 うつくしくっていい。 君のあれも同じようなのを着ているね。 えそうかしら何ありゃいい加減に着ているんだろう。 いい加減に着ていれば弁解になるのかい。 ありゃ音楽の批評でもする男かな。 どれ――あの男かあの黒服を着た。 なあにあれはね。 画工だよ。 いつでも来る男だがね来るたんびに写生帖を持って来て人の顔を写している。 断わりなしにか。 まあそうだろう。 泥棒だね。 顔泥棒だ。 よういらっしゃいました。 いやだいぶ盛会ですね。 冬田さんは非常な出来でしたな。 ええ大喜びで。 あの女を知ってるかい。 知るものかね。 四葉の苜蓿花。 寒くなったね。 君さっきから咳をするね。 妙な咳だぜ。 医者にでも見て貰ったらどうだい。 何大丈夫だ。 君|二三日前に白井道也と云う人が来たぜ。 道也先生。 だろうと思うのさ。 余り沢山ある名じゃないから。 聞いて見たかい。 聞こうと思ったが何だかきまりが悪るかったからやめた。 なぜ。 だってあなたは中学校で生徒から追い出された事はありませんかとも聞けまいじゃないか。 追い出されましたかと聞かなくってもいいさ。 しかし容易に聞きにくい男だよ。 ありゃ困る人だ。 用事よりほかに云わない人だ。 そんなになったかも知れない。 元来何の用で君の所へなんぞ来たのだい。 なあに江湖雑誌の記者だって僕の所へ談話の筆記に来たのさ。 君の談話をかい。 ――世の中も妙な事になるものだ。 やっぱり金が勝つんだね。 なぜ。 なぜって。 ――可哀想にそんなに零落したかなあ。 ――君道也先生どんな服装をしていた。 そうさあんまり立派じゃないね。 立派でなくってもまあどのくらいな服装をしていた。 そうさ。 どのくらいとも云い悪いがそうさまあ君ぐらいなところだろう。 えこのくらいかこの羽織ぐらいなところか。 羽織はもう少し色が好いよ。 袴は。 袴は木綿じゃないがその代りもっと皺苦茶だ。 要するに僕と伯仲の間か。 要するに君と伯仲の間だ。 そうかなあ。 ――君背の高いひょろ長い人だぜ。 背の高い顔の細長い人だ。 じゃ道也先生に違ない。 ――世の中は随分|無慈悲なものだなあ。 ――君番地を知ってるだろう。 番地は聞かなかった。 聞かなかった。 うん。 しかし江湖雑誌で聞けばすぐわかるさ。 何でもほかの雑誌や新聞にも関係しているかも知れないよ。 どこかで白井道也と云う名を見たようだ。 僕はこれで失敬する。 少し待ち合せている人があるから。 西洋軒で会食すると云う約束か。 うんまあそうさ。 じゃ失敬。 恋をする時間があればこの自分の苦痛をかいて一篇の創作を天下に伝える事が出来るだろうに。 僕の恋愛観。 解脱と拘泥憂世子。 身体の局部がどこぞ悪いと気にかかる。 何をしていてもそれがコダワって来る。 ところが非常に健康な人は行住坐臥ともにわが身体の存在を忘れている。 一点の局部だにわが注意を集注すべき患所がないからかく安々と胖かなのである。 瘠せて蒼い顔をしている人に君は胃が悪いだろうと尋ねて見た事がある。 するとその男が答えて胃は少しも故障がないその証拠には僕はこの年になるがいまだに胃がどこにあるか知らないと云うた。 その時は笑って済んだが後で考えて見ると大に悟った言葉である。 この人は全く胃が健康だから胃に拘泥する必要がない必要がないから胃がどこにあっても構わないのと見える。 自在飲自在食いっこう平気である。 この男は胃において悟を開いたものである。 胃について道い得べき事は惣身についても道い得べき事である。 惣身について道い得べき事は精神についても道い得べき事である。 ただ精神生活においては得失の両面において等しく拘泥を免かれぬところが身体より煩いになる。 「一能の士は一能に拘泥し一芸の人は一芸に拘泥して己れを苦しめている。 芸能は気の持ちようではすぐ忘れる事も出来る。 わが欠点に至っては容易に解脱は出来ぬ。 「百円や二百円もする帯をしめて女が音楽会へ行くとこの帯が妙に気になって音楽が耳に入らぬ事がある。 これは帯に拘泥するからである。 しかしこれは自慢の例じゃ。 得意の方は前云う通り祟りを避け易い。 しかし不面目の側はなかなか強情に祟る。 昔しさる所で一人の客に紹介された時御互に椅子の上で礼をして双方共|頭を下げた。 下げながら向うの足を見るとその男の靴足袋の片々が破れて親指の爪が出ている。 こちらが頭を下げると同時に彼は満足な足をあげて破れ足袋の上に加えた。 この人は足袋の穴に拘泥していたのである。 拘泥は苦痛である。 避けなければならぬ。 苦痛そのものは避けがたい世であろう。 しかし拘泥の苦痛は一日で済む苦痛を五日七日に延長する苦痛である。 いらざる苦痛である。 避けなければならぬ。 「自己が拘泥するのは他人が自己に注意を集注すると思うからでつまりは他人が拘泥するからである。 したがって拘泥を解脱するには二つの方法がある。 他人がいくら拘泥しても自分は拘泥せぬのが一つの解脱法である。 人が目を峙てても耳を聳やかしても冷評しても罵詈しても自分だけは拘泥せずにさっさと事を運んで行く。 大久保彦左衛門は盥で登城した事がある。 立派な衣装を馬士に着せると馬士はすぐ拘泥してしまう。 華族や大名はこの点において解脱の方を得ている。 華族や大名に馬士の腹掛をかけさすとすぐ拘泥してしまう。 釈迦や孔子はこの点において解脱を心得ている。 物質界に重を置かぬものは物質界に拘泥する必要がないからである。 第二の解脱法は常人の解脱法である。 常人の解脱法は拘泥を免かるるのではない拘泥せねばならぬような苦しい地位に身を置くのを避けるのである。 人の視聴を惹くの結果われより苦痛が反射せぬようにと始めから用心するのである。 したがって始めより流俗に媚びて一世に附和する心底がなければ成功せぬ。 江戸風な町人はこの解脱法を心得ている。 芸妓通客はこの解脱法を心得ている。 西洋のいわゆる紳士はもっともよくこの解脱法を心得たものである。 芸妓紳士通人から耶蘇孔子釈迦を見れば全然たる狂人である。 耶蘇孔子釈迦から芸妓紳士通人を見れば依然として拘泥している。 拘泥のうちに拘泥を脱し得たりと得意なるものは彼らである。 両者の解脱は根本義において一致すべからざるものである。 解脱は便法に過ぎぬ。 下れる世に立ってわが真を貫徹しわが善を標榜しわが美を提唱するの際※泥帯水の弊をまぬがれ勇猛精進の志を固くして現代|下根の衆生より受くる迫害の苦痛を委却するための便法である。 この便法を証得し得ざる時英霊の俊児またついに鬼窟裏に堕在して彼のいわゆる芸妓紳士通人と得失を較するの愚を演じて憚からず。 国家のため悲しむべき事である。 「解脱は便法である。 この方便門を通じて出頭し来る行為動作言説の是非は解脱の関するところではない。 したがって吾人は解脱を修得する前に正鵠にあたれる趣味を養成せねばならぬ。 下劣なる趣味を拘泥なく一代に塗抹するは学人の恥辱である。 彼らが貴重なる十年二十年を挙げて故紙堆裏に兀々たるは衣食のためではない名聞のためではないないし爵禄財宝のためではない。 微かなる墨痕のうちに光明の一|炬を点じ得て点じ得たる道火を解脱の方便門より担い出して暗黒世界を遍照せんがためである。 「このゆえに真に自家証得底の見解あるもののために拘泥の煩を払ってでき得る限り彼らをして第一種の解脱に近づかしむるを道徳と云う。 道徳とは有道の士をして道を行わしめんがために吾人がこれに対して与うる自由の異名である。 この大道徳を解せざるものを俗人と云う。 「天下の多数は俗人である。 わが位に着するがためにこの大道徳を解し得ぬ。 わが富に着するがためにこの大道徳を解し得ぬ。 下れるものはわが酒とわが女に着するがためにこの大道徳を解し得ぬ。 「光明は趣味の先駆である。 趣味は社会の油である。 油なき社会は成立せぬ。 汚れたる油に廻転する社会は堕落する。 かの紳士通人芸妓の徒は汚れたる油の上を滑って墓に入るものである。 華族と云い貴顕と云い豪商と云うものは門閥の油権勢の油黄白の油をもって一世を逆しまに廻転せんと欲するものである。 「真正の油は彼らの知るところではない。 彼らは生れてより以来この油について何らの工夫も費やしておらん。 何らの工夫を費やさぬものがこの大道徳を解せぬのは許す。 光明の学徒を圧迫せんとするに至っては俗人の域を超越して罪人の群に入る。 「三味線を習うにも五六年はかかる。 巧拙を聴き分くるさえ一カ月の修業では出来ぬ。 趣味の修養が三味の稽古より易いと思うのは間違っている。 茶の湯を学ぶ彼らはいらざる儀式に貴重な時間を費やして一々に師匠の云う通りになる。 趣味は茶の湯より六ずかしいものじゃ。 茶坊主に頭を下げる謙徳があるならば趣味の本家たる学者の考はなおさら傾聴せねばならぬ。 「趣味は人間に大切なものである。 楽器を壊つものは社会から音楽を奪う点において罪人である。 書物を焼くものは社会から学問を奪う点において罪人である。 趣味を崩すものは社会そのものを覆えす点において刑法の罪人よりもはなはだしき罪人である。 音楽はなくとも吾人は生きている学問がなくても吾人はいきている。 趣味がなくても生きておられるかも知れぬ。 しかし趣味は生活の全体に渉る社会の根本要素である。 これなくして生きんとするは野に入って虎と共に生きんとすると一般である。 「ここに一人がある。 この一人が単に自己の思うようにならぬと云う源因のもとに多勢が朝に晩にこの一人を突つき廻わして幾年の後この一人の人格を堕落せしめて下劣なる趣味に誘い去りたる時彼らは殺人より重い罪を犯したのである。 人を殺せば殺される。 殺されたものは社会から消えて行く。 後患は遺さない。 趣味の堕落したものは依然として現存する。 現存する以上は堕落した趣味を伝染せねばやまぬ。 彼はペストである。 ペストを製造したものはもちろん罪人である。 「趣味の世界にペストを製造して罰せられんのは人殺しをして罰せられんのと同様である。 位地の高いものはもっともこの罪を犯しやすい。 彼らは彼らの社会的地位からして他に働きかける便宜の多い場所に立っている。 他に働きかける便宜を有して働きかける道を弁えぬものは危険である。 「彼らは趣味において専門の学徒に及ばぬ。 しかも学徒以上他に働きかけるの能力を有している。 能力は権利ではない。 彼らのあるものはこの区別さえ心得ておらん。 彼らの趣味を教育すべくこの世に出現せる文学者を捕えてすらこれを逆しまに吾意のごとくせんとする。 彼らは単に大道徳を忘れたるのみならず大不道徳を犯して恬然として社会に横行しつつあるのである。 「彼らの意のごとくなる学徒があれば自己の天職を自覚せざる学徒である。 彼らを教育する事の出来ぬ学徒があれば腰の抜けたる学徒である。 学徒は光明を体せん事を要す。 光明より流れ出ずる趣味を現実せん事を要す。 しかしてこれを現実せんがために拘泥せざらん事を要す。 拘泥せざらんがために解脱を要す。 おや富田が通る。 どこに。 あれはよく食う奴じゃな。 食う食う。 人間は食う割に肥らんものだな。 あいつはあんなに食う癖にいっこう肥えん。 書物は沢山読むがちっともえろうならんのがおると同じ事じゃ。 そうよ。 御互に勉強はなるべくせん方がいいの。 ハハハハ。 そんなつもりで云ったんじゃない。 僕はそう云うつもりにしたのさ。 富田は肥らんがなかなか敏捷だ。 やはり沢山食うだけの事はある。 敏捷な事があるものか。 いやこの間四丁目を通ったら後ろから出し抜けに呼ぶものがあるから振り反ると富田だ。 頭を半分|刈ったままで大きな敷布のようなものを肩から纏うている。 元来どうしたのか。 床屋から飛び出して来たのだ。 どうして。 髪を刈っておったら僕の影が鏡に写ったものだからすぐ馳け出したんだそうだ。 ハハハハそいつは驚ろいた。 おれも驚ろいた。 そうして尚志会の寄附金を無理に取ってまた床屋へ引き返したぜ。 ハハハハなるほど敏捷なものだ。 それじゃ御互になるべく食う事にしよう。 敏捷にせんと卒業してから困るからな。 そうよ。 文学士のように二十円くらいで下宿に屏息していては人間と生れた甲斐はないからな。 私は高柳周作と申すもので。 ああそうですか私が白井道也で。 だんだん寒くなりますね。 ええだいぶ寒くなったようで。 先生|御忙がしいですか。 ええなかなか忙がしいんで弱ります。 貧乏|閑なしで。 少し御話を承りたいと思って上がったんですが。 はあ何か雑誌へでも御載せになるんですか。 いえそうじゃないので――ただ――ただっちゃ失礼ですが。 ――御邪魔ならまた上がってもよろしゅうございますが。 いえ邪魔じゃありません。 談話と云うからちょっと聞いて見たのです。 ――わたしのうちへ話なんか聞きにくるものはありませんよ。 いいえ。 あなたは何の学問をなさるですか。 文学の方を――今年大学を出たばかりです。 はあそうですか。 ではこれから何かおやりになるんですね。 やれればやりたいのですが暇がなくって。 暇はないですね。 わたしなども暇がなくって困っています。 しかし暇はかえってない方がいいかも知れない。 何ですね。 暇のあるものはだいぶいるようだが余り誰も何もやっていないようじゃありませんか。 それは人に依りはしませんか。 人にも依るでしょう。 しかし今の金持ちと云うものは。 金持ちは駄目です。 金がなくって困ってるものが。 金がなくって困ってるものは困りなりにやればいいのです。 しかし衣食のために勢力をとられてしまって。 それでいいのですよ。 勢力をとられてしまったらほかに何にもしないで構わないのです。 先生ならいいかも知れません。 わたしは無論いい。 あなただって好いですよ。 なぜですか。 だってあなたは文学をやったと云われたじゃありませんか。 そうですか。 ええやりました。 それならいい訳だ。 それならそれでいい訳だ。 分りましたか。 どうも。 だってそうじゃありませんか。 ――文学はほかの学問とは違うのです。 はあ。 ほかの学問はですね。 その学問やその学問の研究を阻害するものが敵である。 たとえば貧とか多忙とか圧迫とか不幸とか悲酸な事情とか不和とか喧嘩とかですね。 これがあると学問が出来ない。 だからなるべくこれを避けて時と心の余裕を得ようとする。 文学者も今まではやはりそう云う了簡でいたのです。 そう云う了簡どころではない。 あらゆる学問のうちで文学者が一番|呑気な閑日月がなくてはならんように思われていた。 おかしいのは当人自身までがその気でいた。 しかしそれは間違です。 文学は人生そのものである。 苦痛にあれ困窮にあれ窮愁にあれ凡そ人生の行路にあたるものはすなわち文学でそれらを甞め得たものが文学者である。 文学者と云うのは原稿紙を前に置いて熟語字典を参考して首をひねっているような閑人じゃありません。 円熟して深厚な趣味を体して人間の万事を臆面なく取り捌いたり感得したりする普通以上の吾々を指すのであります。 その取り捌き方や感得し具合を紙に写したのが文学書になるのですだから書物は読まないでも実際その事にあたれば立派な文学者です。 したがってほかの学問ができ得る限り研究を妨害する事物を避けてしだいに人世に遠かるに引き易えて文学者は進んでこの障害のなかに飛び込むのであります。 なるほど。 あなたはそうは考えませんか。 ふうん。 先生はだいぶ御忙しいようですが。 ええ。 進んで忙しい中へ飛び込んで人から見ると酔興な苦労をします。 ハハハハ。 失礼ながら今はどんな事をやっておいでで。 今ですかええいろいろな事をやりますよ。 飯を食う方と本領の方と両方やろうとするからなかなか骨が折れます。 近頃は頼まれてよく方々へ談話の筆記に行きますがね。 随分御面倒でしょう。 面倒と云いや面倒ですがね。 そう面倒と云うよりむしろ馬鹿気ています。 まあいい加減に書いては来ますが。 なかなか面白い事を云うのがおりましょう。 面白いの何のってこの間はうまうまの講釈を聞かされました。 うまうまですか。 ええあの小供が食物の事をうまうまと云いましょう。 あれの来歴ですね。 その人の説によると小供が舌が回り出してから一番早く出る発音がうまうまだそうです。 それでその時分は何を見てもうまうま何を見なくってもうまうまだからつまりは何にもつけなくてもいいのだそうだがそこが小供に取って一番大切なものは食物だからとうとう食物の方でうまうまを専有してしまったのだそうです。 そこで大人もその癖がのこって美味なものをうまいと云うようになった。 だから人生の煩悶は要するに元へ還ってうまうまの二字に帰着すると云うのです。 何だか寄席へでも行ったようじゃないですか。 馬鹿にしていますね。 ええ大抵は馬鹿にされに行くんですよ。 しかしそんなつまらない事を云うって失敬ですね。 なに失敬だっていいでさあどうせ分らないんだから。 そうかと思うとね。 非常に真面目だけれどもなかなか突飛なのがあってね。 この間は猛烈な恋愛論を聞かされました。 もっとも若い人ですがね。 中野じゃありませんか。 君知ってますか。 ありゃ熱心なものだった。 私の同級生です。 ああそうですか。 中野春台とか云う人ですね。 よっぽど暇があるんでしょう。 あんな事を真面目に考えているくらいだから。 金持ちです。 うん立派な家にいますね。 君はあの男と親密なのですか。 ええもとはごく親密でした。 しかしどうもいかんです。 近頃は――何だか――未来の細君か何か出来たんであんまり交際してくれないのです。 いいでしょう。 交際しなくっても。 損にもなりそうもない。 ハハハハハ。 何だかしかしこう一人坊っちのような気がして淋しくっていけません。 一人坊っちでいいでさあ。 先生ならいいでしょう。 昔から何かしようと思えば大概は一人坊っちになるものです。 そんな一人の友達をたよりにするようじゃ何も出来ません。 ことによると親類とも仲違になる事が出来て来ます。 妻にまで馬鹿にされる事があります。 しまいに下女までからかいます。 私はそんなになったら不愉快で生きていられないだろうと思います。 それじゃ文学者にはなれないです。 わたしもあなたぐらいの時にはここまでとは考えていなかった。 しかし世の中の事実は実際ここまでやって来るんです。 うそじゃない。 苦しんだのは耶蘇や孔子ばかりで吾々文学者はその苦しんだ耶蘇や孔子を筆の先でほめて自分だけは呑気に暮して行けばいいのだなどと考えてるのは偽文学者ですよ。 そんなものは耶蘇や孔子をほめる権利はないのです。 高柳さん。 はい。 世の中は苦しいものですよ。 苦しいです。 知ってますか。 知ってるつもりですけれどいつまでもこう苦しくっちゃ。 やり切れませんか。 あなたは御両親が御在りか。 母だけ田舎にいます。 おっかさんだけ。 ええ。 御母さんだけでもあれば結構だ。 なかなか結構でないです。 ――早くどうかしてやらないともう年を取っていますから。 私が卒業したらどうか出来るだろうと思ってたのですが。 さよう近頃のように卒業生が殖えちゃちょっと口を得るのが困難ですね。 ――どうです田舎の学校へ行く気はないですか。 時々は田舎へ行こうとも思うんですが。 またいやになるかね。 ――そうさあまり勧められもしない。 私も田舎の学校はだいぶ経験があるが。 先生は。 ええ。 先生は――あの――江湖雑誌を御編輯になると云う事ですが本当にそうなんで。 ええこの間から引き受けてやっています。 今月の論説に解脱と拘泥と云うのがありましたがあの憂世子と云うのは。 あれはわたしです。 読みましたか。 ええ大変面白く拝見しました。 そう申しちゃ失礼ですがあれは私の云いたい事を五六段高くして表出したようなもので利益を享けた上に痛快に感じました。 それはありがたい。 それじゃ君は僕の知己ですね。 恐らく天下|唯一の知己かも知れない。 ハハハハ。 そんな事はないでしょう。 そうですかそれじゃなお結構だ。 しかし今まで僕の文章を見てほめてくれたものは一人もない。 君だけですよ。 これから皆んな賞めるつもりです。 ハハハハそう云う人がせめて百人もいてくれるとわたしも本望だが――随分|頓珍漢な事がありますよ。 この間なんか妙な男が尋ねて来てね。 何ですか。 なあに商人ですがね。 どこから聞いて来たかわたしにあなたは雑誌をやっておいでだそうだが文章を御書きなさるだろうと云うのです。 へえ。 書く事は書くとまあ云ったんです。 するとねその男がどうぞ一つ眼薬の広告をかいてもらいたいと云うんです。 馬鹿な奴ですね。 その代り雑誌へ眼薬の広告を出すから是非一つ願いたいって――何でも点明水とか云う名ですがね。 妙な名をつけて――。 御書きになったんですか。 いえとうとう断わりましたがね。 それでまだおかしい事があるのですよ。 その薬屋で売出しの日に大きな風船を揚げるんだと云うのです。 御祝いのためですか。 いえやはり広告のために。 ところが風船は声も出さずに高い空を飛んでいるのだから仰向けば誰にでも見えるが仰向かせなくっちゃいけないでしょう。 へえなるほど。 それでわたしにその仰向かせの役をやってくれって云うのです。 どうするのです。 何往来をあるいていても電車へ乗っていてもいいから風船を見たらおや風船だ風船だ何でもありゃ点明水の広告に違いないって何遍も何遍も云うのだそうです。 ハハハ随分思い切って人を馬鹿にした依頼ですね。 おかしくもあり馬鹿馬鹿しくもあるが何もそれだけの事をするにはわたしでなくてもよかろう。 車引でも雇えば訳ないじゃないかと聞いて見たのです。 するとその男がね。 いえ車引なんぞばかりでは信用がなくっていけません。 やっぱり髭でも生やしてもっともらしい顔をした人に頼まないと人がだまされませんからと云うのです。 実に失敬な奴ですね。 全体|何物でしょう。 何物ってやはり普通の人間ですよ。 世の中をだますために人を雇いに来たのです。 呑気なものさハハハハ。 どうも驚ろいちまう。 私なら撲ぐってやる。 そんなのを撲った日にゃ片っ端から撲らなくっちゃあならない。 君そう怒るが今の世の中はそんな男ばかりで出来てるんですよ。 閑静な御住居ですね。 ええ。 蛸寺の和尚が烏を追っているんです。 毎日がらんがらん云わして烏ばかり追っている。 ああ云う生涯も閑静でいいな。 大変たくさん柿が生っていますね。 渋柿ですよ。 あの和尚は何が惜しくてああ渋柿の番ばかりするのかな。 ――君妙な咳を時々するが身体は丈夫ですか。 だいぶ瘠せてるようじゃありませんか。 そう瘠せてちゃいかん。 身体が資本だから。 しかし先生だって随分瘠せていらっしゃるじゃありませんか。 わたし。 わたしは瘠せている。 瘠せてはいるが大丈夫。 うまく唱えました。 もう少し稽古して音量が充分に出ると大きな場所で聴いても立派に聴けるに違いない。 今度演奏会でためしにやって見ませんか。 厭だわためしだなんて。 それじゃ本式に。 本式にゃなおできませんわ。 それじゃつまりおやめと云う訳ですか。 だってたくさん人のいる前なんかで――恥ずかしくって声なんか出やしませんわ。 その新体詩はいいでしょう。 ええわたし大好き。 あなたがそうやって唱ってるところを写真に一つ取りましょうか。 写真に。 ええ厭ですか。 厭じゃないわ。 だけれども取って人に御見せなさるでしょう。 見せてわるければわたし一人で見ています。 あの像は。 無論模造です。 本物は巴理のルーヴルにあるそうです。 しかし模造でもみごとですね。 腰から上の少し曲ったところと両足の方向とが非常に釣合がよく取れている。 ――これが全身完全だと非常なものですが惜しい事に手が欠けてます。 本物も欠けてるんですか。 ええ本物が欠けてるから模造もかけてるんです。 何の像でしょう。 ヴィーナス。 愛の神です。 ヴィーナス。 そう。 あんまり見ているとヴィーナスが動き出しますよ。 これで愛の神でしょうか。 気高過ぎて。 そうすこし堅過ぎます。 愛と云う感じがあまり現われていない。 何だか冷めたいような心持がしますわ。 その通りだ。 冷めたいと云うのが適評だ。 何だか妙だと思っていたがどうもいい言葉が出て来なかったんです。 冷めたい――冷めたいと云うのが一番いい。 なぜこんなに拵らえたんでしょう。 やっぱりフ※ジアス式だから厳格なんでしょう。 あなたはこう云うのが御好き。 好きっていいじゃありませんか古今の傑作ですよ。 古今の傑作ですよ。 そう。 元来ヴィーナスはどう云うものか僕にはいやな聯想がある。 どんな聯想なの。 その指輪は見馴れませんね。 これ。 この間父様に買っていただいたの。 金剛石ですか。 そうでしょう。 天賞堂から取ったんですから。 あんまり御父さんを苛めちゃいけませんよ。 あらそうじゃないのよ。 父様の方から買って下さったのよ。 そりゃ珍らしい現象ですね。 ホホホホ本当ね。 あなたその訳を知ってて。 知るものですか探偵じゃあるまいし。 だから御存じないでしょうと云うのですよ。 だから知りませんよ。 教えて上げましょうか。 ええ教えて下さい。 教えて上げるから笑っちゃいけませんよ。 笑やしません。 この通り真面目でさあ。 この間ね池上に競馬があったでしょう。 あの時父様があすこへいらしってね。 そうして。 そうしてどうしたんです。 ――拾って来たんですか。 あらいやだ。 あなたは失敬ね。 だって待っててもあとをおっしゃらないですもの。 今云うところなのよ。 そうして賭をなすったんですって。 こいつは驚ろいた。 あなたの御父さんもやるんですか。 いえやらないんだけれども試しにやって見たんだって。 やっぱりやったんじゃありませんか。 やった事はやったの。 それで御金を五百円ばかり御取りになったんだって。 へえ。 それで買って頂いたのですか。 まあそうよ。 ちょっと拝見。 こんな指輪だったのか知らん。 昔しさる好事家がヴィーナスの銅像を掘り出して吾が庭の眺めにと橄欖の香の濃く吹くあたりに据えたそうです。 それは御話。 突然なのね。 それから或日テニスをしていたら。 あらちっとも分らないわ。 誰がテニスをするの。 銅像を掘り出した人なの。 銅像を掘り出したのは人足でテニスをしたのは銅像を掘り出さした主人の方です。 どっちだって同じじゃありませんか。 主人と人足と同じじゃ少し困る。 いいえさやっぱり掘り出した人がテニスをしたんでしょう。 そう強情を御張りになるならそれでよろしい。 ――では掘り出した人がテニスをする。 強情じゃない事よ。 じゃ銅像を掘り出さした方がテニスをするのね。 いいでしょう。 どっちでも同じでさあ。 あらあなた御怒りなすったの。 だから掘り出さした方だってあやまっているじゃありませんか。 ハハハハあやまらなくってもいいです。 それでテニスをしているとね。 指輪が邪魔になってラケットが思うように使えないんです。 そこでそれをはずしてねどこかへ置こうと思ったが小さいものだから置きなくすといけない。 ――大事な指輪ですよ。 結納の指輪なんです。 誰と結婚をなさるの。 誰とってそいつは少し――やっぱりさる令嬢とです。 あらお話しになってもいじゃありませんか。 隠す訳じゃないが。 じゃ話してちょうだい。 ねいいでしょう。 相手はどなたなの。 そいつは弱りましたね。 実は忘れちまった。 それじゃずるいわ。 だってメリメの本を貸しちまってちょっと調べられないですもの。 どうせ御貸しになったんでしょうよ。 ようございます。 困ったな。 せっかくのところで名前を忘れたもんだから進行する事が出来なくなった。 ――じゃ今日は御やめにして今度その令嬢の名を調べてから御話をしましょう。 いやだわ。 せっかくのところでよしたりなんかして。 だって名前を知らないんですもの。 だからその先を話してちょうだいな。 名前はなくってもいいのですか。 ええ。 そうかそんなら早くすればよかった。 ――それでいろいろ考えた末ようやく考えついてヴィーナスの小指へちょっとはめたんです。 うまいところへ気がついたのね。 詩的じゃありませんか。 ところがテニスが済んでからすっかりそれを忘れてしまってしかも例の令嬢を連れに田舎へ旅行してから気がついたのです。 しかしいまさらどうもする事が出来ないからそれなりにして未来の細君にはちょっとしたでき合の指環を買って結納にしたのです。 厭な方ね。 不人情だわ。 だって忘れたんだから仕方がない。 忘れるなんて不人情だわ。 僕なら忘れないんだが異人だから忘れちまったんです。 ホホホホ異人だって。 そこで結納も滞りなく済んでからうちへ帰っていよいよ結婚の晩に――。 結婚の晩にどうしたの。 結婚の晩にね。 庭のヴィーナスがどたりどたりと玄関を上がって。 おおいやだ。 どたりどたりと二階を上がって。 怖いわ。 寝室の戸をあけて。 気味がわるいわ。 気味がわるければそこいらでやめて置きましょう。 だけれどしまいにどうなるの。 だからどたりどたりと寝室の戸をあけて。 そこはよしてちょうだい。 ただしまいにどうなるの。 では間を抜きましょう。 ――あした見たら男は冷めたくなって死んでたそうです。 ヴィーナスに抱きつかれたところだけ紫色に変ってたと云います。 おお厭だ。 奥さんはどうしたでしょう。 奥さんは病気になって病院に這入るのです。 癒るのですか。 そうさ。 そこまでは覚えていない。 どうしたっけかな。 癒らない法はないでしょう。 罪も何もないのに。 ハハハハ心配なさらんでもいいです。 奥さんはきっと癒ります。 わたし本当に御気の毒だと思いますわ。 わたしがそんなになったらどうしようと思うと。 この間の音楽会には高柳さんとごいっしょでしたね。 ええ別に約束した訳でもないんですが途中で逢ったものですから誘ったのです。 何だか動物園の前で悲しそうに立って桜の落葉を眺めているんです。 気の毒になってね。 よく誘って御上げになったのね。 御病気じゃなくって。 少し咳をしていたようです。 たいした事じゃないでしょう。 顔の色が大変|御わるかったわ。 あの男はあんまり神経質だもんだから自分で病気をこしらえるんです。 そうして慰めてやるとかえって皮肉を云うのです。 何だか近来はますます変になるようです。 御気の毒ね。 どうなすったんでしょう。 どうしたって好んで一人坊っちになって世の中をみんな敵のように思うんだから手のつけようがないです。 失恋なの。 そんな話もきいた事もないですがね。 いっそ細君でも世話をしたらいいかも知れない。 御世話をして上げたらいいでしょう。 世話をするってああ気六ずかしくっちゃ駄目ですよ。 細君が可哀想だ。 でも。 御持ちになったら癒るでしょう。 少しは癒るかも知れないが元来が性分なんですからね。 悲観する癖があるんです。 悲観病に罹ってるんです。 ホホホホどうしてそんな病気が出たんでしょう。 どうしてですかね。 遺伝かも知れません。 それでなければ小供のうち何かあったんでしょう。 何か御聞になった事はなくって。 いいえ僕ああまりそんな事を聞くのが嫌だからそれにあの男はいっこう何にも打ち明けない男でね。 あれがもっと淡泊に思った事を云う風だと慰めようもあるんだけれども。 困っていらっしゃるんじゃなくって。 生活にですかええそりゃ困ってるんです。 しかし無暗に金をやろうなんていったら擲きつけますよ。 だって御自分で御金がとれそうなものじゃありませんか文学士だから。 取れるですとも。 だからもう少し待ってるといいですがどうも性急で卒業したあくる日からして立派な創作家になって有名になってそうして楽に暮らそうって云うのだから六ずかしい。 御国は一体どこなの。 国は新潟県です。 遠い所なのね。 新潟県は御米の出来る所でしょう。 やっぱり御百姓なの。 農なんでしょう。 ――ああ新潟県で思い出した。 この間あなたが御出のとき行き違に出て行った男があるでしょう。 ええあの長い顔の髭を生やした。 あれはなにわたしあの人の下駄を見て吃驚したわ。 随分薄っぺらなのね。 まるで草履よ。 あれで泰然たるものですよ。 そうしてちっとも愛嬌のない男でね。 こっちから何か話しかけても何にも応答をしない。 それで何しに来たの。 江湖雑誌の記者と云うんで談話の筆記に来たんです。 あなたの。 何か話しておやりになって。 ええあの雑誌を送って来ているからあとで見せましょう。 ――それであの男について妙な話しがあるんです。 高柳が国の中学にいた時分あの人に習ったんです――あれで文学士ですよ。 あれで。 まあ。 ところが高柳なんぞがいろいろないたずらをして苛めて追い出してしまったんです。 あの人を。 ひどい事をするのね。 それで高柳は今となって自分が生活に困難しているものだから後悔してさぞ先生も追い出されたために難義をしたろう逢ったら謝罪するって云ってましたよ。 全く追い出されたためにあんなに零落したんでしょうか。 そうすると気の毒ね。 それからせんだって江湖雑誌の記者と云う事が分ったでしょう。 だから音楽会の帰りに教えてやったんです。 高柳さんはいらしったでしょうか。 行ったかも知れませんよ。 追い出したんなら本当に早く御詫をなさる方がいいわね。 どうですあっちへ行って少しみんなと遊ぼうじゃありませんか。 いやですか。 写真は御やめなの。 あすっかり忘れていた。 写真は是非取らして下さい。 僕はこれでなかなか美術的な奴を取るんです。 うん商売人の取るのは下等ですよ。 ――写真も五六年この方大変進歩してね。 今じゃ立派な美術です。 普通の写真はだれが取ったって同じでしょう。 近頃のは個人個人の趣味で調子がまるで違ってくるんです。 いらないものを抜いたりいったいの調子を和げたり際どい光線の作用を全景にあらわしたりいろいろな事をやるんです。 早いものでもう景色専門家や人物専門家が出来てるんですからね。 あなたは人物の専門家なの。 僕。 僕は――そうさ――あなただけの専門家になろうと思うのです。 厭なかたね。 一人坊っちだ。 一人坊っちだ。 寒気相加わり候処如何御暮し被遊候や。 不相変御丈夫の事と奉遥察候。 私事も無事。 落ちた。 落ちた。 御婆さん御婆さん。 傘をとって下さい。 わたしの室の椽側にある。 えっあぶねえ。 えっあぶねえ。 先生。 やあ妙な所で逢いましたね。 散歩かね。 ええ。 天気のわるいのによく散歩するですね。 ――岩崎の塀を三度|周るといい散歩になる。 ハハハハ。 先生は。 僕ですか僕はなかなか散歩する暇なんかないです。 不相変多忙でね。 今日はちょっと上野の図書館まで調べ物に行ったです。 先生もう少し散歩をなさいませんか。 そう少しならしてもいい。 どっちの方へ。 上野はもうよそう。 今通って来たばかりだから。 私はどっちでもいいのです。 じゃ坂を上って本郷の方へ行きましょう。 僕はあっちへ帰るんだから。 先生。 何ですか。 さっき車屋から突き飛ばされました。 そりゃあぶなかった。 怪我をしやしませんか。 いいえ怪我はしませんが腹は立ちました。 そう。 しかし腹を立てても仕方がないでしょう。 ――しかし腹も立てようによるですな。 昔し渡辺崋山が松平侯の供先に粗忽で突き当ってひどい目に逢った事がある。 崋山がその時の事を書いてね。 ――松平侯御横行――と云ってるですが。 この御横行の三字が非常に面白いじゃないですか。 尊んで御の字をつけてるがその裏に立派な反抗心がある。 気概がある。 君も綱引御横行と日記にかくさ。 松平侯ってだれですか。 だれだか知れやしない。 それが知れるくらいなら御横行はしないですよ。 その時発憤した崋山はいまだに生きてるが松平某なるものは誰も知りゃしない。 そう思うと愉快ですが岩崎の塀などを見ると頭をぶつけて壊してやりたくなります。 頭をぶつけて壊せりゃ君より先に壊してるものがあるかも知れない。 そんな愚な事を云わずに正々堂々と創作なら創作をなさればそれで君の寿命は岩崎などよりも長く伝わるのです。 その創作をさせてくれないのです。 誰が。 誰がって訳じゃないですが出来ないのです。 からだでも悪いですか。 君坂を上がると呼吸が切れるようだがどこか悪いじゃないですか。 先生。 何ですか。 私は病人に見えるでしょうか。 ええまあ――少し顔色は悪いです。 どうしても肺病でしょうか。 肺病。 そんな事はないです。 いいえ遠慮なく云って下さい。 肺の気でもあるんですか。 遺伝です。 おやじは肺病で死にました。 それは。 先生私の歴史を聞いて下さいますか。 ええ聞きますとも。 おやじは町で郵便局の役人でした。 私が七つの年に拘引されてしまいました。 あとで聞くと官金を消費したんだそうで――その時はなんにも知りませんでした。 母にきくとおとっさんは今に帰る今に帰ると云ってました。 ――しかしとうとう帰って来ません。 帰らないはずです。 肺病になって牢屋のなかで死んでしまったんです。 それもずっとあとで聞きました。 母は家を畳んで村へ引き込みました。 先生。 何ですか。 だから私には肺病の遺伝があるんです。 駄目です。 医者に見せたですか。 医者には――見せません。 見せたって見せなくったって同じ事です。 そりゃいけない。 肺病だって癒らんとは限らない。 先生罪悪も遺伝するものでしょうか。 そんな事があるものですか。 遺伝はしないでも私は罪人の子です。 切ないです。 それは切ないに違いない。 しかし忘れなくっちゃいけない。 忘れてもすぐ思い出します。 しかしあなたの生涯は過去にあるんですか未来にあるんですか。 君はこれから花が咲く身ですよ。 花が咲く前に枯れるんです。 枯れる前に仕事をするんです。 君は自分だけが一人坊っちだと思うかも知れないが僕も一人坊っちですよ。 一人坊っちは崇高なものです。 わかったですか。 崇高――なぜ。 それがわからなければとうてい一人坊っちでは生きていられません。 ――君は人より高い平面にいると自信しながら人がその平面を認めてくれないために一人坊っちなのでしょう。 しかし人が認めてくれるような平面ならば人も上ってくる平面です。 芸者や車引に理会されるような人格なら低いにきまってます。 それを芸者や車引も自分と同等なものと思い込んでしまうから先方から見くびられた時腹が立ったり煩悶するのです。 もしあんなものと同等なら創作をしたってやっぱり同等の創作しか出来ない訳だ。 同等でなければこそ立派な人格を発揮する作物も出来る。 立派な人格を発揮する作物が出来なければ彼らからは見くびられるのはもっともでしょう。 芸者や車引はどうでもいいですが。 例はだれだって同じ事です。 同じ学校を同じに卒業した者だって変りはありません。 同じ卒業生だから似たものだろうと思うのは教育の形式が似ているのを教育の実体が似ているものと考え違した議論です。 同じ大学の卒業生が同じ程度のものであったら大学の卒業生はことごとく後世に名を残すかまたはことごとく消えてしまわなくってはならない。 自分こそ後世に名を残そうと力むならばたとい同じ学校の卒業生にもせよほかのものは残らないのだと云う事を仮定してかからなければなりますまい。 すでにその仮定があるなら自分とほかの人とは同様の学士であるにもかかわらずすでに大差別があると自認した訳じゃありませんか。 大差別があると自任しながら他が自分を解してくれんと云って煩悶するのは矛盾です。 それで先生は後世に名を残すおつもりでやっていらっしゃるんですか。 わたしのは少し違います。 今の議論はあなたを本位にして立てた議論です。 立派な作物を出して後世に伝えたいと云うのがあなたの御希望のようだから御話しをしたのです。 先生のが承る事が出来るなら教えて頂けますまいか。 わたしは名前なんてあてにならないものはどうでもいい。 ただ自分の満足を得るために世のために働くのです。 結果は悪名になろうと臭名になろうと気狂になろうと仕方がない。 ただこう働かなくっては満足が出来ないから働くまでの事です。 こう働かなくって満足が出来ないところをもって見るとこれがわたしの道に相違ない。 人間は道に従うよりほかにやりようのないものだ。 人間は道の動物であるから道に従うのが一番|貴いのだろうと思っています。 道に従う人は神も避けねばならんのです。 岩崎の塀なんか何でもない。 ハハハハ。 高柳さんはいらっしゃるでしょうか。 え。 そうさね。 忘れていた。 もうだいぶ御客さまがいらしったから向へ行かないじゃわるいでしょう。 そうさね。 もう行く方がいいだろう。 しかし高柳がくると可哀想だからね。 ここにいらっしゃらないとですか。 うん。 あの男はわたしがここに見えないと門まで来て引き返すよ。 なぜ。 なぜってこんな所へ来た事はないんだから――一人で一人坊っちになる男なんだから――ともかくもアーチを潜らせてしまわないと安心が出来ない。 いらっしゃるんでしょうね。 来るよわざわざ行って頼んだんだからいやでも来ると約束すると来ずにいられない男だからきっとくるよ。 御厭なんですか。 厭ってなに別に厭な事もないんだがつまりきまりがわるいのさ。 ホホホホ妙ですわね。 いらっしゃるならここにいて上げる方がいいでしょう。 来る事は受け合うよ。 ――いいさ奥はおやじや何かだいぶいるから。 これは。 これは。 これは。 これは。 やあよく来てくれた。 あまり遅いからどうしたかと思って心配していたところだった。 これは。 早く来ようと思ったがつい用があって。 これは。 これは。 これは。 これはこれは。 これが妻だ。 さああちらへ――僕もいっしょに行こう。 やどうもみごとな御庭ですね。 こう広くはあるまいと思ってたが――いえ始めてで。 おとっさんから時々御招きはあったがいつでも折悪しく用事があって――どうもよく御手入れが届いて実に結構ですね。 結構だ。 何坪ですかな。 私も年来この辺を心掛けておりますが。 さあいらっしゃい。 いらっしゃいたってもうほかで御馳走になっちまったよ。 ずるいわあなたは他にこれほど馳けずり廻らせて。 旨いものもない癖に。 あるわよあなた。 まあいいからいらっしゃいてえのに。 やあこりゃ。 いらっしゃいよ。 いいからいらっしゃいよ。 構わないでもいいからいらっしゃいよ。 妙だよ。 実に。 珍だね。 全く田舎者なんだよ。 まるで給仕人だ。 本当にさ。 園遊会に燕尾服を着てくるなんて――洋行しないだってそのくらいな事はわかりそうなものだ。 さあ御上んなさい。 まだあるんだが人が込んでて容易に手が届かない。 ありがとう。 さあこの上へ御乗せなさい。 葉巻はやめたのかい。 うん頭にわるいそうだから――しかしあれを呑みつけると何だね紙巻はとうてい呑めないね。 どんな好い奴でも駄目だ。 そりゃ価段だけだから――一本三十銭と三銭とは比較にならないからな。 君は何を呑むのだい。 これを一つやって見たまえ。 なるほどエジプシアンか。 これは百本五六円するだろう。 安い割にはうまく呑めるよ。 そうか――僕も紙巻でも始めようか。 これなら日に二十本ずつにしても二十円ぐらいであがるからね。 この間ね野添が例の人造肥料会社を起すので。 うん。 ありゃ当ったね。 旨くやったよ。 君も賛成者のうちに名が見えたじゃないか。 それさ。 野添がどうです少し持ってくれませんかと云うからさようさわたしは今回はまあよしましょうと断わったのさ。 ところがまあそう云わずとせめて五百株でも実はもう貴所の名前にしてあるんだからと云うのさ面倒だからいい加減に挨拶をして置いたら先生すぐ九州へ立って行った。 それから二週間ほどして社へ出ると書記が野添さんの株が大変|上りました。 五十円株が六十五円になりました。 合計三万二千五百円になりましたと云うのさ。 そりゃ豪勢だ実は僕も少し持とうと思ってたんだが。 ありゃ実際意外だった。 あんなにとんとん拍子にあがろうとは思わなかった。 もう少し踏み込んで沢山僕の名にして置けばよかった。 近頃は出掛けるかね。 昨日|須崎の種田家の別荘へ招待されて鴨猟をやった。 鴨にはまだ早いだろう。 もういいね。 十羽ばかり取ったがね。 僕が十羽大谷が七羽加瀬と山内が八羽ずつ。 じゃ君が一番か。 いいや斎藤は十五羽だ。 へえ。 時に高柳はどうしたろう。 御前あれから逢ったかい。 いいえ。 あなたは。 おれは逢わない。 もう御帰りになったんでしょうか。 そうさ――しかし帰るならちっとは帰る前に傍へ来て話でもしそうなものだ。 なぜ皆さんのいらっしゃる所へ出ていらっしゃらないのでしょう。 損だねああ云う人は。 あれで一人じゃやっぱり不愉快なんだ。 不愉快なら出てくればいいのになおなお引き込んでしまう。 気の毒な男だ。 せっかく愉快にしてあげようと思って御招きするのにね。 今日は格別色がわるかったようだ。 きっと御病気ですよ。 やっぱり一人坊っちだから色が悪いのだよ。 あなた。 何だ。 本は売れたのですか。 まだ売れないよ。 もう一ヵ月も立てば百や弐百の金は這入る都合だとおっしゃったじゃありませんか。 うん言った。 言ったには相違ないが売れない。 困るじゃござんせんか。 困るよ。 御前よりおれの方が困る。 困るから今考えてるんだ。 だってあんなに骨を折って三百枚も出来てるものを――。 三百枚どころか四百三十五頁ある。 それでどうして売れないんでしょう。 やっぱり不景気なんだろうよ。 だろうよじゃ困りますわ。 どうか出来ないでしょうか。 南溟堂へ持って行った時には有名な人の御序文があればと云うからそれから足立なら大学教授だからよかろうと思って足立にたのんだのさ。 本も借金と同じ事で保証人がないと駄目だぜ。 借金は借りるんだから保証人もいるでしょうが――。 近頃の本は借金同様だ。 信用のないものは連帯責任でないと出版が出来ない。 本当につまらないわね。 あんなに夜遅くまでかかって。 そんな事は本屋の知らん事だ。 本屋は知らないでしょうさ。 しかしあなたは御存じでしょう。 ハハハハ当人は知ってるよ。 御前も知ってるだろう。 知ってるから云うのでさあね。 言ってくれても信用がないんだから仕方がない。 それでどうなさるの。 だから足立の所へ持って行ったんだよ。 足立さんが書いてやるとおっしゃって。 うん書くような事を云うから置いて来たらまたあとから書けないって断わって来た。 なぜでしょう。 なぜだか知らない。 厭なのだろう。 それであなたはそのままにして御置きになるんですか。 うん書かんのを無理に頼む必要はないさ。 でもそれじゃうちの方が困りますわ。 この間|御兄さんに判を押して借りて頂いた御金ももう期限が切れるんですから。 おれもその方を埋めるつもりでいたんだが――売れないから仕方がない。 馬鹿馬鹿しいのね。 何のために骨を折ったんだか分りゃしない。 御前から見れば馬鹿馬鹿しいのさ。 あなたいつまでこうしていらっしゃるの。 いつまでとも考はない。 食えればいつまでこうしていたっていいじゃないか。 二言目には食えれば食えればとおっしゃるが今こそどうにかこうにかして行きますけれどもこのぶんで押して行けば今に食べられなくなりますよ。 そんなに心配するのかい。 だってあなたもあんまり無考じゃござんせんか。 楽に暮せる教師の口はみんな断っておしまいなすってそうして何でも筆で食うと頑固を御張りになるんですもの。 その通りだよ。 筆で食うつもりなんだよ。 御前もそのつもりにするがいい。 食べるものが食べられれば私だってそのつもりになりますわ。 私も女房ですものあなたの御好きでおやりになる事をとやかく云うような差し出口はききゃあしません。 それじゃそれでいいじゃないか。 だって食べられないんですもの。 たべられるよ。 随分ねあなたも。 現に教師をしていた方が楽で今の方がよっぽど苦しいじゃありませんか。 あなたはやっぱり教師の方が御上手なんですよ。 書く方は性に合わないんですよ。 よくそんな事がわかるな。 私ばかりじゃありませんわ。 御兄さんだってそうおっしゃるじゃありませんか。 御前は兄の云う事をそう信用しているのか。 信用したっていいじゃありませんか御兄さんですものそうしてあんなに立派にしていらっしゃるんですもの。 そうか。 だいぶ吹いてるな。 もう一遍足立さんに願って御覧になったらどうでしょう。 厭なものに頼んだって仕方がないさ。 あなたはそれだから困るのね。 どうせあんな豪い方になればすぐおいそれと書いて下さる事はないでしょうから。 あんな豪い方って――足立がかい。 そりゃあなたも豪いでしょうさ――しかし向はともかくも大学校の先生ですから頭を下げたって損はないでしょう。 そうかそれじゃおおせに従ってもう一返頼んで見ようよ。 ――時に何時かな。 や大変だちょっと社まで行って校正をしてこなければならない。 袴を出してくれ。 おや。 だいぶ吹きますね。 御寒いのによく。 ええ今日は社の方が早く引けたものだから。 今御帰り掛けですか。 いえいったんうちへ帰ってね。 それから出直して来ました。 どうも洋服だと坐ってるのが窮屈で。 今日は――留守ですか。 はあたった今しがた出ました。 おっつけ帰りましょう。 どうぞ御緩くり。 もう御構なさるな。 ――どうもなかなか寒い。 だんだん押し詰りましてさぞ御忙がしゅういらっしゃいましょう。 へありがとう。 毎年暮になると大頭痛ハハハハ。 でも御忙がしいのは結構で。 えまあどうかこうかやってるんです。 ――時に道也はやはり不相変ですか。 ありがとう。 この方はただ忙がしいばかりで。 結構でないかね。 ハハハハ。 どうも困った男ですねえ御政さん。 あれほど訳がわからないとまでは思わなかったが。 どうも御心配ばかり懸けまして私もいろいろ申しますが女の云う事だと思ってちっとも取り上げませんのでまことに困り切ります。 そうでしょう私の云う事だって聞かないんだから。 ――わたしも傍にいるとつい気になるからついとやかく云いたくなってね。 ごもっともでございますとも。 みんな当人のためにおっしゃって下さる事ですから。 田舎にいりゃそれまでですがこっちにこうしていると当人の気にいってもいらなくってもやっぱり兄の義務でね。 つい云いたくなるんです。 ――するとちっとも寄りつかない。 全く変人だね。 おとなしくして教師をしていりゃそれまでの事をどこへ行っても衝突して。 あれが全く心配で私もあのためにはどんなに苦労したか分りません。 そうでしょうとも。 わたしもそりゃよく御察し申しているんです。 ありがとうございます。 いろいろ御厄介にばかりなりまして。 東京へ来てからでもこんなくだらん事をしないでもどうにでも成るんでさあ。 それをせっかく云ってやるとまるで取り合わない。 取り合わないでもいいから自分だけ立派にやって行けばいい。 それを私も申すのでござんすけれども。 いざとなるとやっぱりどうかしてくれと云うんでしょう。 まことに御気の毒さまで。 いえあなたに何も云うつもりはない。 当人がさ。 まるで無鉄砲ですからね。 大学を卒業して七八年にもなって筆耕の真似をしているものがどこの国にいるものですか。 あれの友達の足立なんて人は大学の先生になって立派にしているじゃありませんか。 自分だけはあれでなかなかえらいつもりでおりますから。 ハハハハえらいつもりだって。 いくら一人でえらがったって人が相手にしなくっちゃしようがない。 近頃は少しどうかしているんじゃないかと思います。 何とも云えませんね。 ――何でもしきりに金持やなにかを攻撃するそうじゃありませんか。 馬鹿ですねえ。 そんな事をしたってどこが面白い。 一文にゃならず人からは擯斥される。 つまり自分の錆になるばかりでさあ。 少しは人の云う事でも聞いてくれるといいんですけれども。 しまいにゃ人にまで迷惑をかける。 ――実はねきょう社でもって赤面しちまったんですがね。 課長が私を呼んで聞けば君の弟だそうだがあの白井道也とか云う男は無暗に不穏な言論をして富豪などを攻撃する。 よくない事だ。 ちっと君から注意したらよかろうってさんざん叱られたんです。 まあどうも。 どうしてそんな事が知れましたんでしょう。 そりゃ会社なんてものはそれぞれ探偵が届きますからね。 へえ。 なに道也なんぞが何をかいたってあんな地位のないものに世間が取り合う気遣はないが課長からそう云われて見ると放って置けませんからね。 ごもっともで。 それで実は今日は相談に来たんですがね。 生憎出まして。 なに当人はいない方がかえっていい。 あなたと相談さえすればいい。 ――でわたしも今途中でだんだん考えて来たんだがどうしたものでしょう。 あなたからとくと異見でもしていただいてまた教師にでも奉職したらどんなものでございましょう。 そうなればいいですとも。 あなたも仕合せだしわたしも安心だ。 ――しかし異見でおいそれと云う通りになる男じゃありませんよ。 そうでござんすね。 あの様子じゃとても駄目でございましょうか。 わたしの鑑定じゃとうてい駄目だ。 ――それでここに一つの策があるんだがどうでしょう当人の方から雑誌や新聞をやめて教師になりたいと云う気を起させるようにするのは。 そうなれば私は実にありがたいのですがどうしたらそう旨い具合に参りましょう。 あのこの間中当人がしきりに書いていた本はどうなりました。 まだそのままになっております。 まだ売れないですか。 売れるどころじゃございません。 どの本屋もみんな断わりますそうで。 そう。 それが売れなけりゃかえって結構だ。 え。 売れない方がいいんですよ。 ――でせんだってわたしが周旋した百円の期限はもうじきでしょう。 たしかこの月の十五日だと思います。 今日が十一日だから。 十二十三十四十五ともう四日ですね。 ええ。 あの方を手厳しく催促させるのです。 ――実はあなただから今打ち明けて御話しするがあれはわたしが印を押している体にはなっているが本当はわたしが融通したのです。 ――そうしないと当人が安心していけないから。 ――それであの方を今云う通り責める――何かほかに工面の出来る所がありますか。 いいえちっともございません。 じゃ大丈夫その方でだんだん責めて行く。 ――いえわたしは黙って見ている。 証文の上の貸手が催促に来るのです。 あなたも済していなくっちゃいけません。 ――何を云っても冷淡に済ましていなくっちゃいけません。 けっしてこちらから一言も云わないのです。 ――それで当人いくら頑固だって苦しいからまたわたしの方へ頭を下げて来る。 いえ来なけりゃならないです。 その頭を下げて来た時に取って抑えるのです。 いいですか。 そうたよって来るならおれの云う事を聞くがいい。 聞かなければおれは構わん。 と云いやあ向でも否とは云われんです。 そこでわたしが御政さんだってあんなに苦労してやっている。 雑誌なんかで法螺ばかり吹き立てていたって始まらないこれから性根を入れかえてもっと着実な世間に害のないような職業をやれ教師になる気なら心当りを奔走してやろうと持ち懸けるのですね。 ――そうすればきっと我々の思わく通りになると思うがどうでしょう。 そうなれば私はどんなに安心が出来るか知れません。 やって見ましょうか。 何分宜しく願います。 じゃそれはきまったと。 そこでもう一つあるんですがね。 今日社の帰りがけに神田を通ったら清輝館の前に大きな広告があってわたしは吃驚させられましたよ。 何の広告でござんす。 演説の広告なんです。 ――演説の広告はいいが道也が演説をやるんですぜ。 へえちっとも存じませんでした。 それで題が大きいから面白い現代の青年に告ぐと云うんです。 まあ何の事やらあんなものの云う事を聞きにくる青年もなさそうじゃありませんか。 しかし剣呑ですよ。 やけになって何を云うか分らないから。 わたしも課長から忠告された矢先だからすぐ社へ電話をかけて置いたからまあ好いですが何ならやらせたくないものですね。 何の演説をやるつもりでござんしょう。 そんな事をやるとまた人様に御迷惑がかかりましょうね。 どうせまた過激な事でも云うのですよ。 無事に済めばいいがつまらない事を云おうものなら取って返しがつかないからね。 ――どうしてもやめさせなくっちゃいけないね。 どうしたらやめるでござんしょう。 これもよせったって頑固だからよす気遣はない。 やっぱり欺すより仕方がないでしょう。 どうして欺したらいいでしょう。 そうさ。 あした時刻にわたしが急用で逢いたいからって使をよこして見ましょうか。 そうでござんすね。 それであなたの方へ参るようだと宜しゅうございますが。 聞かないかも知れませんね。 聞かなければそれまでさ。 御兄さんの所から御使です。 待ってるかい。 ええ。 何か急用ででもござんすか。 うん。 何の御用ですか。 ええ。 ちょっと待った。 書いてしまうから。 これを。 何の御用なんですか。 何の用かわからない。 ただ用があるからすぐ来てくれとかいてある。 いらっしゃるでしょう。 おれは行かれない。 なんならお前行って見てくれ。 私が。 私は駄目ですわ。 なぜ。 だって女ですもの。 女でも行かないよりいいだろう。 だって。 あなたに来いと書いてあるんでしょう。 おれは行かれないもの。 どうして。 これから出掛けなくっちゃならん。 雑誌の方なら一日ぐらい御休みになってもいいでしょう。 編輯ならいいが今日は演説をやらなくっちゃならん。 演説を。 あなたがですか。 そうよおれがやるのさ。 そんなに驚ろく事はなかろう。 こんなに風が吹くのによしになさればいいのに。 ハハハハ風が吹いてやめるような演説なら始めからやりゃしない。 ですけれども滅多な事はなさらない方がよござんすよ。 滅多な事とは。 何がさ。 いいえね。 あんまり演説なんかなさらない方があなたの得だと云うんです。 なに得な事があるものか。 あとが困るかも知れないと申すのです。 妙な事を云うね御前は。 ――演説をしちゃいけないと誰か云ったのかね。 誰がそんな事を云うものですか。 ――云いやしませんが御兄さんからこうやって急用だって御使が来ているんですから行って上げなくっては義理がわるいじゃありませんか。 それじゃ演説をやめなくっちゃならない。 急に差支が出来たって断わったらいいでしょう。 今さらそんな不義理が出来るものか。 では御兄さんの方へは不義理をなすってもいいとおっしゃるんですか。 いいとは云わない。 しかし演説会の方は前からの約束で――それに今日の演説はただの演説ではない。 人を救うための演説だよ。 人を救うって誰を救うのです。 社のものでこの間の電車事件を煽動したと云う嫌疑で引っ張られたものがある。 ――ところがその家族が非常な惨状に陥って見るに忍びないから演説会をしてその収入をそちらへ廻してやる計画なんだよ。 そんな人の家族を救うのは結構な事に相違ないでしょうが社会主義だなんて間違えられるとあとが困りますから。 間違えたって構わないさ。 国家主義も社会主義もあるものかただ正しい道がいいのさ。 だってもしあなたがその人のようになったとして御覧なさい。 私はやっぱりその人の奥さん同様なひどい目に逢わなけりゃならないでしょう。 人を御救いなさるのも結構ですがちっとは私の事も考えてやって下さらなくっちゃあんまりですわ。 そんな事はないよ。 そんな馬鹿な事はないよ。 徳川政府の時代じゃあるまいし。 文士保護は独立しがたき文士の言う事である。 保護とは貴族的時代に云うべき言葉で個人平等の世にこれを云々するのは恥辱の極である。 退いて保護を受くるより進んで自己に適当なる租税を天下から払わしむべきである。 今のが黒田東陽か。 うん。 妙な顔だな。 もっと話せる顔かと思った。 保護を受けたらもう少し顔らしくなるだろう。 おい。 何だ。 いやに睨めるじゃねえか。 おっかねえ。 こんだ誰の番だ。 ――見ろ見ろ出て来た。 いやにひょろ長いな。 この風にどうして出て来たろう。 自己は過去と未来の連鎖である。 過去を未来に送り込むものを旧派と云い未来を過去より救うものを新派と云うのであります。 自己のうちに過去なしと云うものはわれに父母なしと云うがごとく自己のうちに未来なしと云うものはわれに子を生む能力なしというと一般である。 わが立脚地はここにおいて明瞭である。 われは父母のために存在するかわれは子のために存在するかあるいはわれそのものを樹立せんがために存在するか吾人生存の意義はこの三者の一を離るる事が出来んのである。 文芸復興は大なる意味において父母のために存在したる大時期である。 十八世紀末のゴシック復活もまた大なる意味において父母のために存在したる小時期である。 同時にスコット一派の浪漫派を生まんがために存在した時期である。 すなわち子孫のために存在したる時期である。 自己を樹立せんがために存在したる時期の好例はエリザベス朝の文学である。 個人について云えばイブセンである。 メレジスである。 ニイチェである。 ブラウニングである。 耶蘇教徒は基督のために存在している。 基督は古えの人である。 だから耶蘇教徒は父のために存在している。 儒者は孔子のために生きている。 孔子も昔えの人である。 だから儒者は父のために生きている。 もうわかった。 なかなかわかりません。 袷は単衣のために存在するですか綿入のために存在するですか。 または袷自身のために存在するですか。 六ずかしい問題じゃわたしにもわからん。 それはわからんでも差支ない。 しかし吾々は何のために存在しているか。 これは知らなくてはならん。 明治は四十年立った。 四十年は短かくはない。 明治の事業はこれで一段落を告げた。 ノーノー。 どこかでノーノーと云う声がする。 わたしはその人に賛成である。 そう云う人があるだろうと思うて待っていたのである。 いや本当に待っていたのである。 私は四十年の歳月を短かくはないと申した。 なるほど住んで見れば長い。 しかし明治以外の人から見たらやはり長いだろうか。 望遠鏡の眼鏡は一寸の直径である。 しかし愛宕山から見ると品川の沖がこの一寸のなかに這入ってしまう。 明治の四十年を長いと云うものは明治のなかに齷齪しているものの云う事である。 後世から見ればずっと縮まってしまう。 ずっと遠くから見ると一弾指の間に過ぎん。 ――一弾指の間に何が出来る。 政治家は一大事業をしたつもりでいる。 学者も一大事業をしたつもりでいる。 実業家も軍人もみんな一大事業をしたつもりでいる。 したつもりでいるがそれは自分のつもりである。 明治四十年の天地に首を突き込んでいるからしたつもりになるのである。 ――一弾指の間に何が出来る。 世の中の人は云うている。 明治も四十年になるまだ沙翁が出ないまだゲーテが出ない。 四十年を長いと思えばこそそんな愚痴が出る。 一弾指の間に何が出る。 もうでるぞ。 もうでるかも知れん。 しかし今までに出ておらん事は確かである。 ――一言にして云えば。 明治四十年の日月は明治開化の初期である。 さらに語を換えてこれを説明すれば今日の吾人は過去を有たぬ開化のうちに生息している。 したがって吾人は過去を伝うべきために生れたのではない。 ――時は昼夜を舎てず流れる。 過去のない時代はない。 ――諸君誤解してはなりません。 吾人は無論過去を有している。 しかしその過去は老耄した過去か幼稚な過去である。 則とるに足るべき過去は何にもない。 明治の四十年は先例のない四十年である。 先例のない社会に生れたものほど自由なものはない。 余は諸君がこの先例のない社会に生れたのを深く賀するものである。 ひやひや。 そう早合点に賛成されては困る。 先例のない社会に生れたものは自から先例を作らねばならぬ。 束縛のない自由を享けるものはすでに自由のために束縛されている。 この自由をいかに使いこなすかは諸君の権利であると同時に大なる責任である。 諸君。 偉大なる理想を有せざる人の自由は堕落であります。 個人について論じてもわかる。 過去を顧みる人は半白の老人である。 少壮の人に顧みるべき過去はないはずである。 前途に大なる希望を抱くものは過去を顧みて恋々たる必要がないのである。 ――吾人が今日生きている時代は少壮の時代である。 過去を顧みるほどに老い込んだ時代ではない。 政治に伊藤侯や山県侯を顧みる時代ではない。 実業に渋沢|男や岩崎男を顧みる時代ではない。 大気※。 文学に紅葉氏一葉氏を顧みる時代ではない。 これらの人々は諸君の先例になるがために生きたのではない。 諸君を生むために生きたのである。 最前の言葉を用いればこれらの人々は未来のために生きたのである。 子のために存在したのである。 しかして諸君は自己のために存在するのである。 ――およそ一時代にあって初期の人は子のために生きる覚悟をせねばならぬ。 中期の人は自己のために生きる決心が出来ねばならぬ。 後期の人は父のために生きるあきらめをつけなければならぬ。 明治は四十年立った。 まず初期と見て差支なかろう。 すると現代の青年たる諸君は大に自己を発展して中期をかたちづくらねばならぬ。 後ろを顧みる必要なく前を気遣う必要もなくただ自我を思のままに発展し得る地位に立つ諸君は人生の最大愉快を極むるものである。 なぜ初期のものが先例にならん。 初期はもっとも不秩序の時代である。 偶然の跋扈する時代である。 僥倖の勢を得る時代である。 初期の時代において名を揚げたるもの家を起したるもの財を積みたるもの事業をなしたるものは必ずしも自己の力量に由って成功したとは云われぬ。 自己の力量によらずして成功するは士のもっとも恥辱とするところである。 中期のものはこの点において遥かに初期の人々よりも幸福である。 事を成すのが困難であるから幸福である。 困難にもかかわらず僥倖が少ないから幸福である。 困難にもかかわらず力量しだいで思うところへ行けるほどの余裕があり発展の道があるから幸福である。 後期に至るとかたまってしまう。 ただ前代を祖述するよりほかに身動きがとれぬ。 身動きがとれなくなって人間が腐った時また波瀾が起る。 起らねば化石するよりほかにしようがない。 化石するのがいやだから自から波瀾を起すのである。 これを革命と云うのである。 「以上は明治の天下にあって諸君の地位を説明したのである。 かかる愉快な地位に立つ諸君はこの愉快に相当する理想を養わねばならん。 理想は魂である。 魂は形がないからわからない。 ただ人の魂の行為に発現するところを見て髣髴するに過ぎん。 惜しいかな現代の青年はこれを髣髴することが出来ん。 これを過去に求めてもないこれを現代に求めてはなおさらない。 諸君は家庭に在って父母を理想とする事が出来ますか。 学校に在って教師を理想とする事が出来ますか。 ノーノー。 社会に在って紳士を理想とする事が出来ますか。 ノーノー。 事実上諸君は理想をもっておらん。 家に在っては父母を軽蔑し学校に在っては教師を軽蔑し社会に出でては紳士を軽蔑している。 これらを軽蔑し得るのは見識である。 しかしこれらを軽蔑し得るためには自己により大なる理想がなくてはならん。 自己に何らの理想なくして他を軽蔑するのは堕落である。 現代の青年は滔々として日に堕落しつつある。 失敬な。 英国風を鼓吹して憚からぬものがある。 気の毒な事である。 己れに理想のないのを明かに暴露している。 日本の青年は滔々として堕落するにもかかわらずいまだここまでは堕落せんと思う。 すべての理想は自己の魂である。 うちより出ねばならぬ。 奴隷の頭脳に雄大な理想の宿りようがない。 西洋の理想に圧倒せられて眼がくらむ日本人はある程度において皆奴隷である。 奴隷をもって甘んずるのみならず争って奴隷たらんとするものに何らの理想が脳裏に醗酵し得る道理があろう。 「諸君。 理想は諸君の内部から湧き出なければならぬ。 諸君の学問見識が諸君の血となり肉となりついに諸君の魂となった時に諸君の理想は出来上るのである。 付焼刃は何にもならない。 理想のあるものは歩くべき道を知っている。 大なる理想のあるものは大なる道をあるく。 迷子とは違う。 どうあってもこの道をあるかねばやまぬ。 迷いたくても迷えんのである。 魂がこちらこちらと教えるからである。 「諸君のうちにはどこまで歩くつもりだと聞くものがあるかも知れぬ。 知れた事である。 行ける所まで行くのが人生である。 誰しも自分の寿命を知ってるものはない。 自分に知れない寿命は他人にはなおさらわからない。 医者を家業にする専門家でも人間の寿命を勘定する訳には行かぬ。 自分が何歳まで生きるかは生きたあとで始めて言うべき事である。 八十歳まで生きたと云う事は八十歳まで生きた事実が証拠立ててくれねばならん。 たとい八十歳まで生きる自信があってその自信通りになる事が明瞭であるにしても現に生きたと云う事実がない以上は誰も信ずるものはない。 したがって言うべきものでない。 理想の黙示を受けて行くべき道を行くのもその通りである。 自己がどれほどに自己の理想を現実にし得るかは自己自身にさえ計られん。 過去がこうであるから未来もこうであろうぞと臆測するのは今まで生きていたからこれからも生きるだろうと速断するようなものである。 一種の山である。 成功を目的にして人生の街頭に立つものはすべて山師である。 社会は修羅場である。 文明の社会は血を見ぬ修羅場である。 四十年|前の志士は生死の間に出入して維新の大業を成就した。 諸君の冒すべき危険は彼らの危険より恐ろしいかも知れぬ。 血を見ぬ修羅場は砲声剣光の修羅場よりもより深刻により悲惨である。 諸君は覚悟をせねばならぬ。 勤王の志士以上の覚悟をせねばならぬ。 斃るる覚悟をせねばならぬ。 太平の天地だと安心して拱手して成功を冀う輩は行くべき道に躓いて非業に死したる失敗の児よりも人間の価値は遥かに乏しいのである。 「諸君は道を行かんがために道を遮ぎるものを追わねばならん。 彼らと戦うときに始めてわが生涯の内生命に勤王の諸士があえてしたる以上の煩悶と辛惨とを見出し得るのである。 ――今日は風が吹く。 昨日も風が吹いた。 この頃の天候は不穏である。 しかし胸裏の不穏はこんなものではない。 諸君。 諸君のどれほどに剛健なるかはわたしには分らん。 諸君自身にも知れぬ。 ただ天下後世が証拠だてるのみである。 理想の大道を行き尽して途上に斃るる刹那にわが過去を一瞥のうちに縮め得て始めて合点が行くのである。 諸君は諸君の事業そのものに由って伝えられねばならぬ。 単に諸君の名に由って伝えられんとするは軽薄である。 理想は人によって違う。 吾々は学問をする。 学問をするものの理想は何であろう。 学問をするものの理想は何であろうとも――金でない事だけはたしかである。 随分きたない。 せんだって学問を専門にする人が来て私も妻をもろうて子が出来た。 これから金を溜めねばならぬ。 是非共子供に立派な教育をさせるだけは今のうちに貯蓄して置かねばならん。 しかしどうしたら貯蓄が出来るでしょうかと聞いた。 「どうしたら学問で金がとれるだろうと云う質問ほど馬鹿気た事はない。 学問は学者になるものである。 金になるものではない。 学問をして金をとる工夫を考えるのは北極へ行って虎狩をするようなものである。 一般の世人は労力と金の関係について大なる誤謬を有している。 彼らは相応の学問をすれば相応の金がとれる見込のあるものだと思う。 そんな条理は成立する訳がない。 学問は金に遠ざかる器械である。 金がほしければ金を目的にする実業家とか商買人になるがいい。 学者と町人とはまるで別途の人間であって学者が金を予期して学問をするのは町人が学問を目的にして丁稚に住み込むようなものである。 そうかなあ。 だから学問のことは学者に聞かなければならん。 金が欲しければ町人の所へ持って行くよりほかに致し方はない。 金が欲しい。 欲しいでしょう。 学問すなわち物の理がわかると云う事と生活の自由すなわち金があると云う事とは独立して関係のないのみならずかえって反対のものである。 学者であればこそ金がないのである。 金を取るから学者にはなれないのである。 学者は金がない代りに物の理がわかるので町人は理窟がわからないからその代りに金を儲ける。 それを心得んで金のある所には理窟もあると考えているのは愚の極である。 しかも世間一般はそう誤認している。 あの人は金持ちで世間が尊敬しているからして理窟もわかっているに違ないカルチュアーもあるにきまっていると――こう考える。 ところがその実はカルチュアーを受ける暇がなければこそ金をもうける時間が出来たのである。 自然は公平なもので一人の男に金ももうけさせる同時にカルチュアーも授けると云うほど贔屓にはせんのである。 この見やすき道理も弁ぜずしてかの金持ち共は己惚れて。 ひやひや。 焼くな。 しっしっ。 自分達は社会の上流に位して一般から尊敬されているからして世の中に自分ほど理窟に通じたものはない。 学者だろうが何だろうがおれに頭をさげねばならんと思うのは憫然のしだいで彼らがこんな考を起す事自身がカルチュアーのないと云う事実を証明している。 訳のわからぬ彼らが己惚はとうてい済度すべからざる事とするも天下社会から彼らの己惚をもっともだと是認するに至っては愛想の尽きた不見識と云わねばならぬ。 よく云う事だがあの男もあのくらいな社会上の地位にあって相応の財産も所有している事だから万更そんな訳のわからない事もなかろう。 豈計らんやある場合にはそんな社会上の地位を得て相当の財産を有しておればこそ訳がわからないのである。 社会上の地位は何できまると云えば――いろいろある。 第一カルチュアーできまる場合もある。 第二|門閥できまる場合もある。 第三には芸能できまる場合もある。 最後に金できまる場合もある。 しかしてこれはもっとも多い。 かようにいろいろの標準があるのを混同して金で相場がきまった男を学問で相場がきまった男と相互に通用し得るように考えている。 ほとんど盲目同然である。 金で相場のきまった男は金以外に融通は利かぬはずである。 金はある意味において貴重かも知れぬ。 彼らはこの貴重なものを擁しているから世の尊敬を受ける。 よろしい。 そこまでは誰も異存はない。 しかし金以外の領分において彼らは幅を利かし得る人間ではない金以外の標準をもって社会上の地位を得る人の仲間入は出来ない。 もしそれが出来ると云えば学者も金持ちの領分へ乗り込んで金銭本位の区域内で威張っても好い訳になる。 彼らはそうはさせぬ。 しかし自分だけは自分の領分内におとなしくしている事を忘れて他の領分までのさばり出ようとする。 それが物のわからない好い証拠である。 金は労力の報酬である。 だから労力を余計にすれば金は余計にとれる。 ここまでは世間も公平である。 しかし一歩進めて考えて見るが好い。 高等な労力に高等な報酬が伴うであろうか――諸君どう思います――返事がなければ説明しなければならん。 報酬なるものは眼前の利害にもっとも影響の多い事情だけできめられるのである。 だから今の世でも教師の報酬は小商人の報酬よりも少ないのである。 眼前以上の遠い所高い所に労力を費やすものはいかに将来のためになろうとも国家のためになろうとも人類のためになろうとも報酬はいよいよ減ずるのである。 だによって労力の高下では報酬の多寡はきまらない。 金銭の分配は支配されておらん。 したがって金のあるものが高尚な労力をしたとは限らない。 換言すれば金があるから人間が高尚だとは云えない。 金を目安にして人物の価値をきめる訳には行かない。 それを金があるからと云うてむやみにえらがるのは間違っている。 学者と喧嘩する資格があると思ってるのも間違っている。 気品のある人々に頭を下げさせるつもりでいるのも間違っている。 ――少しは考えても見るがいい。 いくら金があっても病気の時は医者に降参しなければなるまい。 金貨を煎じて飲む訳には行かない。 そうでしょう――金貨を煎じたって下痢はとまらないでしょう。 ――だから御医者に頭を下げる。 その代り御医者は――金に頭を下げる。 それで好いのです。 金に頭を下げて結構です――しかし金持はいけない。 医者に頭を下げる事を知ってながら趣味とか嗜好とか気品とか人品とか云う事に関して学問のある高尚な理窟のわかった人に頭を下げることを知らん。 のみならずかえって金の力でそれらの頭をさげさせようとする。 ――盲目蛇に怖じずとはよく云ったものですねえ。 学問のある人訳のわかった人は金持が金の力で世間に利益を与うると同様の意味において学問をもってわけの分ったところをもって社会に幸福を与えるのである。 だからして立場こそ違え彼らはとうてい冒し得べからざる地位に確たる尻を据えているのである。 「学者がもし金銭問題にかかれば自己の本領を棄てて他の縄張内に這入るのだから金持ちに頭を下げるが順当であろう。 同時に金以上の趣味とか文学とか人生とか社会とか云う問題に関しては金持ちの方が学者に恐れ入って来なければならん。 今学者と金持の間に葛藤が起るとする。 単に金銭問題ならば学者は初手から無能力である。 しかしそれが人生問題であり道徳問題であり社会問題である以上は彼ら金持は最初から口を開く権能のないものと覚悟をして絶対的に学者の前に服従しなければならん。 岩崎は別荘を立て連らねる事において天下の学者を圧倒しているかも知れんが社会人生の問題に関しては小児と一般である。 十万坪の別荘を市の東西南北に建てたから天下の学者を凹ましたと思うのは凌雲閣を作ったから仙人が恐れ入ったろうと考えるようなものだ。 商人が金を儲けるために金を使うのは専門上の事で誰も容喙が出来ぬ。 しかし商買上に使わないで人事上にその力を利用するときは訳のわかった人に聞かねばならぬ。 そうしなければ社会の悪を自ら醸造して平気でいる事がある。 今の金持の金のある一部分は常にこの目的に向って使用されている。 それと云うのも彼ら自身が金の主であるだけで他の徳芸の主でないからである。 学者を尊敬する事を知らんからである。 いくら教えても人の云う事が理解出来んからである。 災は必ず己れに帰る。 彼らは是非共学者文学者の云う事に耳を傾けねばならぬ時期がくる。 耳を傾けねば社会上の地位が保てぬ時期がくる。 ちっとは好い方かね。 今日はだいぶいい。 うん煙草を飲んじゃわるかったね。 なに構わない。 どうせ煙草ぐらいで癒りゃしないんだから。 そうでないよ。 初が肝心だ。 今のうち養生しないといけない。 昨日医者へ行って聞いて見たがなに心配するほどの事もない。 来たかい医者は。 今朝来た。 暖かにしていろと云った。 うん。 暖かにしているがいい。 この室は少し寒いねえ。 あの障子なんか宿の下女にでも張らしたらよかろう。 風が這入って寒いだろう。 障子だけ張ったって。 転地でもしたらどうだい。 医者もそう云うんだが。 それじゃ行くがいい。 今朝そう云ったのかね。 うん。 それから君は何と答えた。 何と答えるったって別に答えようもないから。 行けばいいじゃないか。 行けばいいだろうがただはいかれない。 それは心配する事はない。 僕がどうかする。 僕がどうかするよ。 何だってそんな眼をして見るんだ。 君に金を借りるのか。 借りないでもいいさ。 貰うのか。 どうでもいいさ。 そんな事を気に掛ける必要はない。 借りるのはいやだ。 じゃ借りなくってもいいさ。 しかし貰う訳には行かない。 六ずかしい男だね。 何だってそんなにやかましくいうのだい。 学校にいる時分はよく君の方から金を借せの西洋料理を奢れのとせびったじゃないか。 学校にいた時分は病気なんぞありゃしなかったよ。 平生ですらそうなら病気の時はなおさらだ。 病気の時に友達が世話をするのは誰から云ったっておかしくはないはずだ。 そりゃ世話をする方から云えばそうだろう。 じゃ君は何か僕に対して不平な事でもあるのかい。 不平はないさありがたいと思ってるくらいだ。 それじゃ心快く僕の云う事を聞いてくれてもよかろう。 自分で不愉快の眼鏡を掛けて世の中を見て見られる僕らまでを不愉快にする必要はないじゃないか。 君の親切を無にしては気の毒だが僕は転地なんかしたくないんだから勘弁してくれ。 またそんなわからずやを云う。 こう云う病気は初期が大切だよ。 時期を失すると取り返しがつかないぜ。 もうとうに取り返しがつかないんだ。 それが病気だよ。 病気のせいでそう悲観するんだ。 悲観するって希望のないものは悲観するのは当り前だ。 君は必要がないから悲観しないのだ。 困った男だなあ。 淋しい庭だなあ。 桐が裸で立っている。 この間まで葉が着いてたんだが早いものだ。 裸の桐に月がさすのを見た事があるかい。 凄い景色だ。 そうだろう。 ――しかし寒いのに夜る起きるのはよくないぜ。 僕は冬の月は嫌だ。 月は夏がいい。 夏のいい月夜に屋根舟に乗って隅田川から綾瀬の方へ漕がして行って銀扇を水に流して遊んだら面白いだろう。 気楽云ってらあ。 銀扇を流すたどうするんだい。 銀泥を置いた扇を何本も舟へ乗せて月に向って投げるのさ。 きらきらして奇麗だろう。 君の発明かい。 昔しの通人はそんな風流をして遊んだそうだ。 贅沢な奴らだ。 君の机の上に原稿があるね。 やっぱり地理学教授法か。 地理学教授法はやめたさ。 病気になってあんなつまらんものがやれるものか。 じゃ何だい。 久しく書きかけてそれなりにして置いたものだ。 あの小説か。 君の一代の傑作か。 いよいよ完成するつもりなのかい。 病気になるとなおやりたくなる。 今まではひまになったらと思っていたがもうそれまで待っちゃいられない。 死ぬ前に是非書き上げないと気が済まない。 死ぬ前は過激な言葉だ。 書くのは賛成だがあまり凝るとかえって身体がわるくなる。 わるくなっても書けりゃいいが書けないから残念でたまらない。 昨夜は続きを三十枚かいた夢を見た。 よっぽど書きたいのだと見えるね。 書きたいさ。 これでも書かなくっちゃ何のために生れて来たのかわからない。 それが書けないときまった以上は穀潰し同然ださ。 だから君の厄介にまでなって転地するがものはないんだ。 それで転地するのがいやなのか。 まあそうさ。 そうかそれじゃ分った。 うんそう云うつもりなのか。 それじゃ君は無意味に人の世話になるのが厭なんだろうからそこのところを有意味にしようじゃないか。 どうするんだ。 君の目下の目的はかねて腹案のある述作を完成しようと云うのだろう。 だからそれを条件にして僕が転地の費用を担任しようじゃないか。 逗子でも鎌倉でも熱海でも君の好な所へ往って呑気に養生する。 ただ人の金を使って呑気に養生するだけでは心が済まない。 だから療養かたがた気が向いた時に続きをかくさ。 そうして身体がよくなって作が出来上ったら帰ってくる。 僕は費用を担任した代り君に一大傑作を世間へ出して貰う。 どうだい。 それなら僕の主意も立ち君の望も叶う。 一挙両得じゃないか。 僕が君の所へ僕の作を持って行けば僕の君に対する責任は済む訳なんだね。 そうさ。 同時に君が天下に対する責任の一分が済むようになるのさ。 じゃ金を貰おう。 貰いっ放しに死んでしまうかも知れないが――いいやまあ死ぬまで書いて見よう――死ぬまで書いたら書けない事もなかろう。 死ぬまでかいちゃ大変だ。 暖かい相州辺へ行って気を楽にして時々一頁二頁ずつ書く――僕の条件に期限はないんだぜ君。 うんよしきっと書いて持って行く。 君の金を使って茫然としていちゃ済まない。 そんな済むの済まないのと考えてちゃいけない。 うんよし分った。 ともかくも転地しよう。 明日から行こう。 だいぶ早いな。 早い方がいいだろう。 いくら早くっても構わない。 用意はちゃんと出来てるんだから。 ここに百円ある。 あとはまた送る。 これだけあったら当分はいいだろう。 そんなにいるものか。 なにこれだけ持って行くがいい。 実はこれは妻の発議だよ。 妻の好意だと思って持って行ってくれたまえ。 それじゃ百円だけ持って行くか。 持って行くがいいとも。 せっかく包んで来たんだから。 じゃ置いて行ってくれたまえ。 そこでとじゃ明日立つね。 場所か。 場所はどこでもいいさ。 君の気の向いた所がよかろう。 向へ着いてからちょっと手紙を出してくれればいいよ。 ――護送するほどの大病人でもないから僕は停車場へも行かないよ。 ――ほかに用はなかったかな。 ――なに少し急ぐんだ。 実は今日は妻を連れて親類へ行く約束があるんで待ってるから僕は失敬しなくっちゃならない。 そうかもう帰るか。 それじゃ奥さんによろしく。 頼む。 どなた。 私です。 高柳。 はあ御這入り。 どうしました。 だいぶ遅く来ましたね。 何か用でも。 いいえちょっと――実は御暇乞に上がりました。 御暇乞。 田舎の中学へでも赴任するんですか。 いえ少し転地しようかと思いまして。 それじゃ身体でも悪いんですね。 大した事もなかろうと思いますがだんだん勧める人もありますから。 うん。 わるけりゃ行くがいいですとも。 いつ。 あした。 そうですか。 それじゃまあ緩くり話したまえ。 ――今ちょっと用談を済ましてしまうから。 それでどうも御気の毒だが――今申す通りの事情だから少し待ってくれませんか。 それは待って上げたいのです。 しかし私の方の都合もありまして。 だから利子を上げればいいでしょう。 利子だけ取って元金は春まで猶予してくれませんか。 利子は今まででも滞りなくちょうだいしておりますから利子さえ取れれば好い金ならいつまででも御用立てて置きたいのですが。 そうはいかんでしょうか。 せっかくの御頼だから出来ればそうしたいのですが。 いけませんか。 どうもまことに御気の毒で。 どうしてもいかんですか。 どうあっても百円だけ拵えていただかなくっちゃならんので。 今夜中にですか。 ええまあそうですな。 昨日が期限でしたね。 期限の切れたのは知ってるです。 それを忘れるような僕じゃない。 だからいろいろ奔走して見たんだがどうも出来ないからわざわざ君の所へ使をあげたのです。 ええ御手紙はたしかに拝見しました。 何か御著述があるそうでそれを本屋の方へ御売渡しになるまで延期の御申込でした。 さよう。 ところがですてこの金の性質がですて――ただ利子を生ませる目的でないものですから――実は年末には是非入用だがと念を押して御兄さんに伺ったくらいなのです。 ところが御兄さんがいやそりゃ大丈夫ほかのものなら知らないが弟に限ってけっしてそんな不都合はない。 受合う。 とおっしゃるものですからそれで私も安心して御用立て申したので――今になって御違約でははなはだ迷惑します。 先生。 ええ。 御話し中はなはだ失礼ですが。 ちょっと伺ってもようございましょうか。 ええいいです。 何ですか。 先生は今御著作をなさったと承わりましたが失礼ですがその原稿を見せていただく訳には行きますまいか。 見るなら御覧待ってるうち読むのですか。 見て御覧。 ありがとう。 君この原稿を百円に買って上げませんか。 エヘヘヘヘ。 私は本屋じゃありません。 じゃ買わないですね。 エヘヘヘ御冗談を。 先生。 何ですか。 この原稿を百円で私に譲って下さい。 その原稿。 安過ぎるでしょう。 何万円だって安過ぎるのは知っています。 しかし私は先生の弟子だから百円に負けて譲って下さい。 是非譲って下さい。 ――金はあるんです。 ――ちゃんとここに持っています。 ――百円ちゃんとあります。 君そんな金を僕が君から。 いいえいいんです。 好いから取って下さい。 ――いや間違ったんです。 是非この原稿を譲って下さい。 ――先生私はあなたの弟子です。 ――越後の高田で先生をいじめて追い出した弟子の一人です。 ――だから譲って下さい。 煤煙。 日本におけるドン・ジュアンの孫。 日本における英国の隠者。 余は人間に能う限りの公平と無私とを念じて栄誉ある君の国の歴史を今になお述作しつつある。 従って余の著書は一部|人士の不満を招くかも知れない。 けれどもそれはやむを得ない。 ジョン・モーレーのいった通り何人にもあれ誠実を妨ぐるものは人類進歩の活力を妨ぐると一般であってその真正なる日本の進歩は余の心を深くかつ真面目に動かす題目に外ならぬからである。 復啓二月二十一日付を以て学位授与の儀御辞退|相成たき趣御申出|相成候処已に発令済につき今更御辞退の途もこれなく候間御了知相成たく大臣の命により別紙|学位記御返付かたがたこの段|申進候敬具。 拝啓学位辞退の儀は既に発令後の申出にかかる故小生の希望通り取計らいかぬる旨の御返事を領し再応の御答を致します。 「小生は学位授与の御通知に接したる故に辞退の儀を申し出でたのであります。 それより以前に辞退する必要もなくまた辞退する能力もないものと御考えにならん事を希望致します。 「学位令の解釈上学位は辞退し得べしとの判断を下すべき余地あるにもかかわらず毫も小生の意志を眼中に置く事なく一図に辞退し得ずと定められたる文部大臣に対し小生は不快の念を抱くものなる事を茲に言明致します。 「文部大臣が文部大臣の意見として小生を学位あるものと御認めになるのはやむをえぬ事とするも小生は学位令の解釈上小生の意思に逆って御受をする義務を有せざる事を茲に言明致します。 「最後に小生は目下|我邦における学問文芸の両界に通ずる趨勢に鑒みて現今の博士制度の功少くして弊多き事を信ずる一人なる事を茲に言明致します。 「右大臣に御伝えを願います。 学位記は再応御手|許まで御返付致します。 敬具。 その面影。 ちょっと御訪ねをしようと思うんだが。 いや低気圧のある間は来客謝絶だ。 それじゃまだ来客謝絶だろう。 まあ。 それじゃ行くのはまあ見合せよう。 其面影。 其面影。 其面影。 彼岸過迄。 彼岸過迄。 まあ田川さん。 本当にまあ。 赤いだろう。 こんな好い色をいつまでも電灯に照らしておくのはもったいないからもう寝るんだ。 ついでに床を取ってくれ。 何です今頃|楊枝なぞを銜え込んで冗談じゃない。 そう云やあ昨夕あなたの部屋に電気が点いていないようでしたね。 電気は宵の口から煌々と点いていたさ。 僕はあなたと違って品行方正だから夜遊びなんか滅多にした事はありませんよ。 全くだ。 あなたは堅いからね。 羨ましいくらい堅いんだから。 僕の事はどうでも好いがあなたはどうしたんです。 役所は。 役所は御休みです。 何で。 何ででもないが僕の方で御休みです。 やっぱり休養ですか。 ええ休養です。 あなたは好い体格だね。 これで近頃はだいぶ悪くなった方です。 どうしてどうしてそれで悪かった日にゃ僕なんざあ。 何しろ商売が商売だから身体は毀す一方ですよ。 もっとも不養生もだいぶやりましたがね。 今日は僕も閑だから久しぶりでまたあなたの昔話でも伺いましょうか。 ええ話しましょう。 たまに朝湯へ来ると綺麗で好い心持ですね。 ええ。 あなたのは洗うんでなくって本当に湯に這入るんだからことにそうだろう。 実用のための入湯でなくって快感を貪ぼるための入浴なんだから。 そうむずかしい這入り方でもないんでしょうがどうもこんな時に身体なんか洗うな億劫でね。 ついぼんやり浸ってぼんやり出ちまいますよ。 そこへ行くとあなたは三層倍も勤勉だ。 頭から足からどこからどこまで実によく手落なく洗いますね。 御負に楊枝まで使って。 あの綿密な事には僕もほとんど感心しちまった。 今朝の景色は寝坊のあなたに見せたいようだった。 何しろ日がかんかん当ってる癖に靄がいっぱいなんでしょう。 電車をこっちから透かして見ると乗客がまるで障子に映る影画のようにはっきり一人一人見分けられるんです。 それでいて御天道様が向う側にあるんだからその一人一人がどれもこれもみんな灰色の化物に見えるんですこぶる奇観でしたよ。 さあどうぞ。 もう直午飯でしょう。 あなたの室から見た景色はいつ見ても好いね。 餓鬼が死んでくれたんでまあ助かったようなもんでさあ。 山神の祟には実際恐れを作していたんですからね。 田川の蛸狩。 もっとも書き手が書き手だから観察も奇抜だし事件の解釈も自から普通の人間とは違うんでこんなものができ上ったのかも知れません。 実際スチーヴンソンという人は辻待の馬車を見てさえそこに一種のロマンスを見出すという人ですから。 あなたの室から見た景色は相変らず好うがすねことに今日は好い。 あの洗い落したような空の裾に色づいた樹が所々|暖たかく塊まっている間から赤い煉瓦が見える様子はたしかに画になりそうですね。 そうですね。 ここはどうしても盆栽の一つや二つ載せておかないと納まらない所ですよ。 そうですね。 あなたは画や盆栽まで解るんですか。 解るんですかは少し恐れ入りましたね。 全く柄にないんだからそう聞かれても仕方はないが――しかし田川さんの前だがこう見えて盆栽も弄くるし金魚も飼うし一時は画も好きでよく描いたもんですよ。 何でもやるんですね。 何でも屋に碌なものなしでとうとうこんなもんになっちゃった。 しかし僕はあなた見たように変化の多い経験を少しでも好いから甞めて見たいといつでもそう思っているんです。 それがごく悪い。 若い内――と云ったところであなたと僕はそう年も違っていないようだが――とにかく若い内は何でも変った事がしてみたいもんでね。 ところがその変った事を仕尽した上で考えて見ると何だ馬鹿らしいこんな事ならしない方がよっぽど増しだと思うだけでさあ。 あなたなんざこれからの身体だ。 おとなしくさえしていりゃどんな発展でもできようってもんだから肝心なところで山気だの謀叛気だのって低気圧を起しちゃ親不孝に当らあね。 ――時にどうですこの間から伺がおう伺がおうと思ってつい忙がしくって伺がわずにいたんだが何か好い口は見付かりましたか。 へえー近頃は大学を卒業してもちょっくらちょいと口が見付からないもんですかねえ。 よっぽど不景気なんだね。 もっとも明治も四十何年というんだからそのはずには違ないが。 どうです御厭でなきゃ鉄道の方へでも御出なすっちゃ。 何なら話して見ましょうか。 森本さんの御膳もここへ持って来るんだ。 こうなりゃ併呑自若たるもんだ。 明日免職になったって驚ろくんじゃない。 田川さんあなた本当に飲けないんですか不思議ですね。 酒を飲まない癖に冒険を愛するなんて。 あらゆる冒険は酒に始まるんです。 そうして女に終るんです。 あなたなんざあ失礼ながらまだ学校を出たばかりで本当の世の中は御存じないんだからね。 いくら学士でございの博士で候のって肩書ばかり振り廻したって僕は慴えないつもりだ。 こっちゃちゃんと実地を踏んで来ているんだもの。 まあ手っ取り早く云やあこの世の中を猿|同然渡って来たんでさあ。 こう申しちゃおかしいがあなたより十層倍の経験はたしかに積んでるつもりです。 それでいていまだにこの通り解脱ができないのは全く無学すなわち学がないからです。 もっとも教育があっちゃこうむやみやたらと変化する訳にも行かないようなもんかも知れませんよ。 あなたの経歴談はいつ聞いても面白い。 そればかりでなく僕のような世間見ずは御話を伺うたんびに利益を得ると思って感謝しているんだがあなたが今までやって来た生活のうちで最も愉快だったのは何ですか。 そうですね。 やった後で考えるとみんな面白いしまたみんなつまらないし自分じゃちょっと見分がつかないんだが。 ――全体愉快ってえのはその女気のある方を指すんですか。 そう云う訳でもないんですがあったって差支ありません。 なんて実はそっちの方が聞きたいんでしょう。 ――しかし雑談抜きでね田川さん。 面白い面白くないはさておいてあれほど呑気な生活は世界にまたとなかろうという奴をやった覚があるんですよ。 そいつを一つ話しましょうか御茶受の代りに。 じゃあちょっと小便をして来る。 その代り断わっておくが女気はありませんよ。 女気どころか第一人間の気がないんだもの。 森本さん森本さん。 やああなたですか。 あんまりちょうだいしたせいか少し気分が変になったもんだからここへ来てちょっと休んだらつい眠くなって。 どうもすみません御苦労様でした。 じゃいよいよ世界に類のない呑気生活の御話でも始めますかな。 何しろ高さ二丈もある熊笹を切り開いて途をつけるんですからね。 そう長い間飲まず食わずじゃ両便とも留まるでしょう。 いえ何やっぱりありますよ。 それじゃたとい林の中へ逃げ込んだところで立っている訳に行かないでしょう。 無論突伏していました。 おかしいが本当です。 どうせ常識以下に飛び離れた経験をするくらいの僕だから不中用にゃあ違ないが本当です。 ――もっともあなた見たいに学のあるものが聞きゃあ全く嘘のような話さね。 だが田川さん世の中には大風に限らず随分面白い事がたくさんあるしまたあなたなんざあその面白い事にぶつかろうぶつかろうと苦労して御出なさる御様子だが大学を卒業しちゃもう駄目ですよ。 いざとなると大抵は自分の身分を思いますからね。 よしんば自分でいくら身を落すつもりでかかってもまさか親の敵討じゃなしねそう真剣に自分の位地を棄てて漂浪するほどの物数奇も今の世にはありませんからね。 第一|傍がそうさせないから大丈夫です。 だって僕は学校を出たには出たがいまだに位置などは無いんですぜ。 あなたは位置位置ってしきりに云うが。 ――実際位置の奔走にも厭々してしまった。 あなたのは位置がなくってある。 僕のは位置があって無い。 それだけが違うんです。 僕もね。 僕もねこうやって三年越鉄道の方へ出ているがもう厭になったから近々罷めようと思うんです。 もっとも僕の方で罷めなけりゃ向うで罷めるだけなんだからね。 三年越と云やあ僕にしちゃ長い方でさあ。 いやどうも御馳走でした。 ――とにかく田川さん若いうちの事ですよ何をやるのも。 実は少し御願があって上ったんですが。 森本さんのいらっしゃる所をどうか教えて頂く訳に参りますまいかけっしてあなたに御迷惑のかかるような事は致しませんから。 いったいどう云う訳なんです。 それであなたは平生森本さんと御懇意の間柄でいらっしゃるんだからあなたに伺ったら多分どこに御出か分るだろうと思って上ったような訳で。 けっしてあなたに森本さんの分をどうのこうのと申し上げるつもりではないのですからどうか居所だけ知らして頂けますまいか。 僕はね御承知の通り学校を出たばかりでまだ一定の職業もなにもない貧書生だがこれでも少しは教育を受けた事のある男だ。 森本のような浮浪の徒といっしょに見られちゃ少し体面にかかわる。 いわんや後暗い関係でもあるように邪推していくら知らないと云っても執濃く疑っているのは怪しからんじゃないか。 君がそういう態度で二年もいる客に対する気ならそれで好い。 こっちにも料簡がある。 僕は過去二年の間君のうちに厄介になっているが一カ月でも宿料を滞おらした事があるかい。 こういうと未練があるようでおかしいが顔質は悪い方じゃありませんでした。 眉毛の濃い時々八の字を寄せて人に物を云う癖のある。 突然消えたんで定めて驚ろいたでしょう。 あなたは驚ろかないにしても雷獣とそうしてズク彼ら両人は驚ろいたに違ない。 打ち明けた御話をすると実は少し下宿代を滞おらしていたので話をしたら雷獣とそうしてズクが面倒をいうだろうと思ってわざと断らずに自由行動を取りました。 僕の室に置いてある荷物を始末したら――行李の中には衣類その他がすっかり這入っていますから相当の金になるだろうと思うんです。 だから両人にあなたから右を売るなり着るなりしろとおっしゃっていただきたい。 もっとも彼雷獣は御承知のごとき曲者故僕の許諾を待たずしてとっくの昔にそう取計っているかも知れない。 のみならずこっちからそう穏便に出るとまだ残っている僕の尻をあなたに拭って貰いたいなどととんでもない難題を持ちかけるかも知れませんがそれにはけっして取り合っちゃいけません。 あなたのように高等教育を受けて世の中へ出たての人はとかく雷獣|輩が食物にしたがるものですからその辺はよく御注意なさらないといけません。 僕だって教育こそないが借金を踏んじゃ善くないくらいの事はまさかに心得ています。 来年になればきっと返してやるつもりです。 僕に意外な経歴が数々あるからと云ってあなたにこの点まで疑われてはせっかくの親友を一人失くしたも同様はなはだ遺憾の至だからどうか雷獣ごときもののために僕を誤解しないように願います。 あの梅の鉢は動坂の植木屋で買ったので幹はそれほど古くないが下宿の窓などに載せておいて朝夕眺めるにはちょうど手頃のものです。 あれを献上するからあなたの室へ持っていらっしゃい。 もっとも雷獣とそうしてズクは両人共|極めて不風流|故床の間の上へ据えたなり放っておいてもう枯らしてしまったかも知れません。 それから上り口の土間の傘入に僕の洋杖が差さっているはずです。 あれも価格から云えばけっして高く踏めるものではありませんが僕の愛用したものだから紀念のため是非あなたに進上したいと思います。 いかな雷獣とそうしてズクもあの洋杖をあなたが取ったってまさか故障は申し立てますまい。 だからけっして御遠慮なさらずと好い。 取って御使いなさい。 ――満洲ことに大連ははなはだ好い所です。 あなたのような有為の青年が発展すべき所は当分ほかに無いでしょう。 思い切って是非いらっしゃいませんか。 僕はこっちへ来て以来満鉄の方にもだいぶ知人ができたからもしあなたが本当に来る気なら相当の御世話はできるつもりです。 ただしその節は前もってちょっと御通知を願います。 さよなら。 そう贅沢ばかり云ってちゃもったいない。 厭なら僕に譲るがいい。 だって君じゃいけないんだから仕方がないよ。 糊口も糊口だが糊口より先に何か驚嘆に価する事件に会いたいと思ってるがいくら電車に乗って方々歩いても全く駄目だね。 攫徒にさえ会わない。 君教育は一種の権利かと思っていたら全く一種の束縛だね。 いくら学校を卒業したって食うに困るようじゃ何の権利かこれあらんやだ。 それじゃ位地はどうでもいいから思う存分勝手な真似をして構わないかというとやっぱり構うからね。 厭に人を束縛するよ教育が。 それじゃ君はどんな事がして見たいのだ。 衣食問題は別として。 じゃするが好いじゃないか訳ないこった。 ところがそうは行かない。 許嫁かな。 何をしているんだ。 落し物でもしたのかい。 空想はもう当分やめだ。 それよりか口の方が大事だからね。 叔父がいろいろ云ってくれるけれども僕は余進まないから。 叔父も忙がしい身体だしねそれに方々から頼まれるようだからきっととは受合われないがまあ会って見たまえ。 ついでに君の分も聞こうじゃないか。 今日は咽喉が痛いから。 本郷台町の三階から遠眼鏡で世の中を覗いていて浪漫的探険なんて気の利いた真似ができるものか。 あなたの荷物は僕から主人に話してどうでも彼の都合の宜いように取り計らわせろとの御依頼でしたがあなたの千里眼の通り僕が何にも云わない先に雷獣の方で勝手に取計ってしまったようですからさよう御承知を願います。 梅の盆栽を下さるという事ですがこれは影も形も見えないようですから頂きません。 ただ御礼だけ申し述べておきます。 それから。 あの洋杖はいまだに傘入の中に立っています。 持主の帰るのを毎日毎夜待ち暮しているごとく立っています。 雷獣もあの蛇の頭へは手を触れる事をあえてしません。 僕はあの首を見るたびに彫刻家としてのあなたの手腕に敬服せざるを得ないです。 どうもありがとう。 じゃなるべく早く行くようにするから。 今日内幸町からイトコが来て。 どっちだろう。 何か用ですか。 そうそう先刻市蔵から電話で話がありました。 しかし今夜|御出になるとは思いませんでしたよ。 そんならまたいらっしゃい。 四五日うちにちょっと旅行しますがその前に御目にかかれる暇さえあれば御目にかかっても宜うござんす。 どうぞ少々御待ち下さいましただいま主人の都合をちょっと尋ねますから。 ああもしもし今ね来客中で少し差支えるそうです。 午後の一時頃来るなら来ていただきたいという事です。 そうですかそれでは一時頃上りますからどうぞ御主人に宜しく。 ちょっと。 御気の毒ですがただいま来客中ですからまたどうぞ。 先程電話で御都合を伺ったら今客があるから午後一時頃来いという御返事でしたが。 実はさっきの御客がまだ御帰りにならないで御膳などが出て混雑しているんです。 そうですかたびたび御足労でした。 どうぞ御主人へよろしく。 午少し過に御出ましになりました。 風邪を引いていたようでしたが。 はい御風邪を召していらっしゃいましたが今日はだいぶ好いからとおっしゃって御出かけになりました。 ちょっと御隠居さまに申し上げますから。 さあどうぞ。 もうそのうち帰りましょうから。 じゃついでだから帰りに小日向へ廻って御寺参りをして来ておくれって申しましたら御母さんは近頃|無精になったようですねこの間も他に代理をさせたじゃありませんか年を取ったせいかしらなんて悪口を云い云い出て参りましたがあれもねあなたせんだって中から風邪を引いて咽喉を痛めておりますので今日も何なら止した方がいいじゃないかととめて見ましたがやっぱり若いものは用心深いようでもどこか我無しゃらで年寄の云う事などにはいっさい無頓着でございますから。 何にもしないで贅沢に遊んでいられるくらい好い事はないんだから結構な御身分ですね。 どうしてあなた打ち明けた御話がまあどうにかこうにかやって行けるというまでで楽だの贅沢だのという段にはまだなかなかなのでございますからいけません。 それでも妹婿の方は御蔭さまで何だかだって方々の会社へ首を突っ込んでおりますからこの方はまあ不自由なく暮しておる模様でございますが手前共や矢来の弟などになりますと云わば浪人同様で昔に比べたら尾羽うち枯らさないばかりの体たらくだってよく弟ともそう申しては笑うこってございますよ。 それにね御承知の通り市蔵がああいう引っ込思案の男だもんでござんすから私もただ学校を卒業させただけでは全く心配が抜けませんのでまことに困り切ります。 早く気に入った嫁でも貰って年寄に安心でもさせてくれるようにおしなと申しますとそう御母さんの都合のいいようにばかり世の中は行きゃしませんててんで相手にしないんでございますよ。 そんなら世話をしてくれる人に頼んでどこへでもいいから務にでも出る気になればまだしもそんな事にはまたまるで無頓着であなた。 余計な事ですが少し目上の人から意見でもして上げるようにしたらどうでしょう。 今御話の矢来の叔父さんからでも。 ところがこれがまた大の交際嫌の変人でございまして忠告どころか何だ銀行へ這入って算盤なんかパチパチ云わすなんて馬鹿があるもんかとこうでございますから頭から相談にも何にもなりません。 それをまた市蔵が嬉しがりますので。 矢来の叔父の方が好きだとか気が合うとか申しちゃよく出かけます。 今日なども日曜じゃあるし御天気は好しするから内幸町の叔父が大阪へ立つ前にちょっとあちらへ顔でも出せばいいのでございますけれどもやっぱり矢来へ行くんだってとうとう自分の好きな方へ参りました。 実はその内幸町の方へ今日私も出たんですが。 おやそうでございましたか。 そうでございますとも。 本当にまあ間の悪い時にはね。 そりゃあ実のところ忙しい男なので。 妹などもああして一つ家に住んでおりますようなものの――何でごさんしょう。 ――落々話のできるのはおそらく一週間に一日もございますまい。 私が見かねて要作さんいくら御金が儲かるたってそう働らいて身体を壊しちゃ何にもならないからたまには骨休めをなさいよ身体が資本じゃありませんかと申しますとおいらもそう思ってるんだがそれからそれへと用が湧いてくるんで傍から掬くい出さないと用が腐っちまうから仕方がないなんて笑って取り合いませんので。 そうかと思うとまた妹や娘に今日はこれから鎌倉へ伴れて行くさあすぐ支度をしろってまるで足元から鳥が立つように急き立てる事もございますが。 御嬢さんがおありなのですか。 ええ二人おります。 いずれも年頃でございますからもうそろそろどこかへ片づけるとか婿を取るとかしなければなりますまいが。 そのうちの一人の方が須永君のところへ御出になる訳でもないんですか。 まあどうなりますか。 親達の考もございましょうし。 当人達の存じ寄りもしかと聞糺して見ないと分りませんし。 私ばかりでこうもしたいああもしたいといくら熱急思ってもこればかりは致し方がございません。 矢来のはおっても会わん方でこれは仕方がございませんが内幸町のはいないでも都合さえつけば馳けて帰って来て会うといった風の性質でございますから今度旅行から帰って来さえすればこっちから何とも云ってやらないでも向うできっと市蔵のところへ何とか申して参りますよ。 きっと。 あんな顔はしておりますが見かけによらない実意のある剽軽者でございますから。 担いだ代りに今夜は僕が奢るよ。 こういう飄気た真似をする男なんでございますから。 ええちょっと見て貰いたいんだが御留守のようですね。 占ないは私がするのです。 文銭占ない。 身の上を御覧ですか。 さあ一生涯の事を一度に聞いておいても損はないがそれよりか今ここでどうしたらいいかその方をきめてかかる方が僕には大切らしいからまあそれを一つ願おう。 あなたは今迷っていらっしゃる。 進もうかよそうかと思って迷っていらっしゃるがこれは御損ですよ。 先へ御出になった方がたとい一時は思わしくないようでも末始終御為ですから。 進んでも失敗るような事はないでしょうか。 ええ。 だからなるべくおとなしくして。 短気を起さないようにね。 進むってどっちへ進んだものでしょう。 それはあなたの方がよく分っていらっしゃるはずですがね。 私はただ最少し先まで御出なさいそのほうが御為だからと申し上げるまでです。 だけれども道が二つ有るんだからその内でどっちを進んだらよかろうと聞くんです。 まあ同なじですね。 これを御覧なさい。 こう縒り合わせると一本の糸が二筋の糸で二筋の糸が一本の糸になるじゃありませんか。 そら派手な赤と地味な紺が。 若い時にはとかく派手の方へ派手の方へと駆け出してやり損ない勝のものですがあなたのは今のところこの縒糸みたように丁度好い具合にいっしょに絡まり合っているようですから御仕合せです。 じゃこの紺糸で地道を踏んで行けばその間にちらちら派手な赤い色が出て来ると云うんですね。 そうですそうなるはずです。 もう何にも伺がう事はありませんか。 そうですね。 近い内にちょっとした事ができるかも知れません。 災難ですか。 災難でもないでしょうが気をつけないとやり損ないます。 そうしてやり損なえばそれっきり取り返しがつかない事です。 全体どんな性質の事ですか。 それは起って見なければ分りません。 けれども盗難だの水難だのではないようです。 じゃどうして失敗らない工夫をして好いかそれも分らないでしょうね。 分らない事もありませんがもし御望みならもう一遍|占ないを立て直して見て上げても宜うござんす。 大体分りました。 どうすれば好いんですか。 どうすればって占ないには陰陽の理で大きな形が現われるだけだから実地は各自がその場に臨んだ時その大きな形に合わして考えるほかありませんがまあこうです。 あなたは自分のようなまた他人のような長いようなまた短かいような出るようなまた這入るようなものを待っていらっしゃるから今度事件が起ったら第一にそれを忘れないようになさい。 そうすれば旨く行きます。 陰陽の理によって現われた大きな形。 市蔵からあなたの御話しは少し聞いた事もありますがいったいどういう方を御希望なんですか。 すべての方面に希望を有っています。 何でもやります。 何でもやりますったってまさか鉄道の切符切もできないでしょう。 いえできます。 遊んでるよりはましですから。 将来の見込のあるものなら本当に何でもやります。 第一遊んでいる苦痛を逃れるだけでも結構です。 そう云う御考ならまた私の方でもよく気をつけておきましょう。 直という訳にも行きますまいが。 どうぞ。 ――まあ試しに使って見て下さい。 あなたの御家の――と云っちゃ余り変ですがあなたの私事にででもいいからちょっと使って見て下さい。 そんな事でもして見る気がありますか。 あります。 それじゃことに依ると何か願って見るかも知れません。 いつでも構いませんか。 ええなるべく早い方が結構です。 近い内に何か事があるからその時にはこうこういうものを忘れないようにしろ。 自分のような他人のような。 長いような短かいような出るような這入るような。 長いような短かいような。 出るような這入るような。 御出かけで。 ちょっと御願ですがね。 室の机の上に今月の法学協会雑誌があるはずだがちょっと取って来てくれませんか。 靴を穿いてしまったんでまた上るのが面倒だから。 はあようがす。 やっぱり東が好かろう。 本郷行。 亀沢町行。 だって余まりだわ。 こんなに人を待たしておいて。 まだ六時だよ。 そんなに遅かあない。 遅いわあなた六時なら。 妾もう少しで帰るところよ。 どうも御気の毒さま。 今夜はいけないよ。 少し用があるから。 どんな用。 どんな用って大事な用さ。 なかなかそう安くは話せない用だ。 あら好くってよ。 妾ちゃんと知ってるわ。 ――さんざっぱら他を待たした癖に。 何しろ今夜は少し遅いから止そうよ。 ちっとも遅かないわ。 電車に乗って行きゃあ直じゃありませんか。 じゃ行かなくってもいいからあれをちょうだい。 あれってただあれじゃ分らない。 ほらあれよ。 こないだの。 ね分ったでしょう。 ちっとも分らない。 失敬ねあなたは。 ちゃんと分ってる癖に。 この間見せていただいたものよ。 分って。 あんなもの今ここに持ってるもんかね。 誰もここに持ってるって云やしないわ。 ただちょうだいって云うのよ。 今度でいいから。 そんなに欲しけりゃやってもいい。 が。 あッ嬉しい。 小鳥だよ。 食べないか。 妾もうたくさん。 やるにはやるが御前あんなものを貰って何にする気だい。 あなたこそ何になさるの。 あんな物を持ってて男の癖に。 御前御菓子を食べるかい菓物にするかい。 どっちでも好いわ。 なぜそんな所に黒子なんぞができたんでしょう。 何も近頃になって急にできやしまいし生れた時からあるんだ。 だけどさ。 見っともなかなくってそんな所にあって。 いくら見っともなくっても仕方がないよ。 生れつきだから。 早く大学へ行って取って貰うといいわ。 御立あち。 本当の夢。 どうも長い間御待たせ申して。 ――客がなかなか帰らないものだから。 どうです昨日は。 旨く行きましたか。 どうですか。 そうです御通知のあった人だけはやっと探し当てました。 眉間に黒子がありましたか。 衣服もこっちから云って上げた通りでしたか。 黒の中折に霜降の外套を着て。 そうです。 それじゃ大抵間違はないでしょう。 四時と五時の間に小川町で降りたんですね。 時間は少し後れたようです。 何分ぐらい。 何分か知りませんが何でも五時よっぽど過のようでした。 よっぽど過。 よっぽど過ならそんな人を待っていなくても好いじゃありませんか。 四時から五時までの間とわざわざ時間を切って通知して上げたくらいだから五時を過ぎればもうあなたの義務はすんだも同然じゃないですか。 なぜそのまま帰ってその通り報知しないんです。 君のためだから。 ただ私の勝手で時間が来てもそこを動かなかったのです。 そりゃ私のために大変都合が好かった。 しかしあなたの勝手と云うのは何です。 なにそりゃ聞かないでも構いません。 あなたの事だから。 話したくなければ話さないでも差支ない。 実は停留所に女が一人立っていたのです。 年寄ですか若い女ですか。 若い女です。 なるほど。 いや若かろうが年寄だろうがその婦人の事を聞くのはよくなかった。 それはあなただけに関係のある事なんでしょうから止しにしましょう。 私の方じゃただ顔に黒子のある男について研究の結果さえ伺がえばいいんだから。 しかしその女が黒子のある人の行動に始終入り込んでくるのです。 第一女の方で男を待ち合わしていたのですから。 はあ。 じゃその婦人はあなたの御知合でも何でもないのですね。 どんな女なんです。 その若い婦人と云うのは。 器量からいうと。 いえなにつまらない女なんです。 つまらない女。 よござんすそれで。 ――それからどうしました。 女が停留所で待ち合わしているところへ男が来て。 それだけです。 実際つまらない結果で御気の毒です。 いやだいぶ参考になりました。 どうも御苦労でした。 なかなか骨が折れたでしょう。 いったいあの人は何なんですか。 さあ何でしょうか。 あなたはどう鑑定しました。 どうも分りません。 じゃ性質はどんな性質でしょう。 穏やかな人らしく思いました。 若い女と話しているところを見てそう云うんじゃありませんか。 若い女には誰でも優しいものですよ。 あなただって満更経験のない事でもないでしょう。 ことにあの男と来たら人一倍そうなのかも知れないから。 じゃ女は何物なんでしょう。 女の方は男よりもなお分り悪いです。 素人だか黒人だか大体の区別さえつきませんか。 さよう。 割合に地味なコートを着て革の手袋を穿めていましたが。 じゃ男と女の関係について何か御意見はありませんか。 例えば夫婦だとか兄弟だとかまたはただの友達だとか情婦だとかですね。 いろいろな関係があるうちで何だと思いますか。 私も女を見た時に処女だろうか細君だろうかと考えたんですがしかしどうも夫婦じゃないように思います。 夫婦でないにしてもですね。 肉体上の関係があるものと思いますか。 男女の世界。 肉体上の関係はあるかも知れませんが無いかも分りません。 まあ分らないところが本当でしょう。 応接間へ通しておいて。 じゃこれぎりにしますが男と女の名前は分りましたろう。 名前も全く分りません。 どうしたんだか余まり要領を得ませんね。 しかしあなたは正直だ。 そこがあなたの美点だろう。 分らない事を分ったように報告するよりもよっぽど好いかも知れない。 まあ買えばそこを買うんですね。 要領を得ない結果ばかりで私もはなはだ御気の毒に思っているんですがあなたの御聞きになるような立ち入った事があれだけの時間で私のような迂闊なものに見極められる訳はないと思います。 こういうと生意気に聞こえるかも知れませんがあんな小刀細工をして後なんか跟けるより直に会って聞きたい事だけ遠慮なく聞いた方がまだ手数が省けてそうして動かない確かなところが分りゃしないかと思うのです。 あなたにそれだけの事が解っていましたか。 感心だ。 あなたのいう方法は最も迂闊のようで最も簡便なまた最も正当な方法ですよ。 そこに気がついていれば人間として立派なものです。 それほどの考がちゃんとあるあなたにあんなつまらない仕事を御頼申したのは私が悪かった。 人物を見損なったのも同然なんだから。 が市蔵があなたを紹介する時にそう云いましたよ。 あなたは探偵のやるような仕事に興味を有っておいでだって。 それでねついとんでもない事を御願いして。 止しゃあよかった。 いえ須永君にはそう云う意味の事をたしかに話した覚えがあります。 そうでしたか。 じゃどうでしょう。 黙って後なんどを跟けずにあなたのいう通り尋常に玄関からかかって行っちゃ。 あなたにそれだけの勇気がありますか。 無い事もありません。 あんなに跟け廻した後で。 あんなに跟け廻したって私はあの人達の不名誉になるような観察はけっしてしていないつもりです。 ごもっともだ。 そんなら一つ行って御覧なさい。 紹介するから。 会いますから紹介状を書いて下さい。 私はあの人と話して見たい気がしますから。 宜いでしょう。 これも経験の一つだからまあ会って直に研究して御覧なさい。 あなたの事だから田口に頼まれてこの間の晩|後を跟けましたぐらいきっと云うでしょう。 しかしそれは構わない。 云いたければ云っても宜うござんす。 私に遠慮は要らないから。 それからあの女との関係もですねあなたに勇気さえあるなら聞いて御覧なさい。 どうですそれを聞くだけの度胸があなたにありますか。 だが両方とも口へ出せるように自然が持ちかけて来るまでは聞いても話してもいけませんよ。 いくら勇気があったって常識のない奴だと思われるだけだから。 それどころじゃないあの男はただでさえ随分|会い悪い方なんだからそんな事をむやみに喋べろうものなら直帰ってくれぐらい云い兼ねないですよ。 紹介をして上げる代りにはそこいらはよく用心しないとね。 ただ通り一遍の文言だけ並べておいたらそれで好いでしょう。 そう感心していつまでも眺めていちゃあいけない。 番地が書いてないようですが。 ああそうか。 そいつは私の失念だ。 さあこれなら好いでしょう。 不味くって大きなところは土橋の大寿司流とでも云うのかな。 まあ役に立ちさえすればよかろう我慢なさい。 いえ結構です。 ついでに女の方へも一通書きましょうか。 女も御存じなのですか。 ことによると知ってるかも知れません。 御差支さえなければおついでに一本書いていただいても宜しゅうございます。 まあ止した方が安全でしょうね。 あなたのような年の若い男を紹介してもし間違でもできると責任問題だから。 浪漫――何とか云うじゃありませんかあなたのような人の事を。 私ゃ学問がないから今頃|流行るハイカラな言葉を直忘れちまって困るが何とか云いましたっけねあの小説家の使う言葉は。 では二三日|内にこれを持って行って参りましょう。 その模様でまた伺がう事に致しますから。 どうも御苦労でした。 はなはだ勝手を申し上げてすみませんでございますが雨の降らない日においでを願えますまいか。 じゃ御天気の日に伺がえば御目にかかれるんですね。 はい。 よくおいでです。 あなたはこれから田口に使って貰おうというのでしたね。 第一ああ忙がしくしていちゃ頭の中に組織立った考のできる閑がないから駄目です。 あいつの脳と来たら年が年中摺鉢の中で擂木に攪き廻されてる味噌見たようなもんでね。 あんまり活動し過ぎて何の形にもならない。 それでいて碁を打つ謡を謡う。 いろいろな事をやる。 もっともいずれも下手糞なんですが。 それが余裕のある証拠じゃないでしょうか。 余裕って君。 ――僕は昨日雨が降るから天気の好い日に来てくれってあなたを断わったでしょう。 その訳は今云う必要もないが何しろそんなわがままな断わり方が世間にあると思いますか。 田口だったらそう云う断り方はけっしてできない。 田口が好んで人に会うのはなぜだと云って御覧。 田口は世の中に求めるところのある人だからです。 つまり僕のような高等遊民でないからです。 いくら他の感情を害したって困りゃしないという余裕がないからです。 実は田口さんからは何にも伺がわずに参ったのですが今御使いになった高等遊民という言葉は本当の意味で御用いなのですか。 文字通りの意味で僕は遊民ですよ。 なぜ。 失礼ながら御家族は大勢でいらっしゃいますか。 ええ子供がたくさんいます。 奥さんは。 妻は無論います。 なぜですか。 あなたのような方が普通の人間と同じように家庭的に暮して行く事ができるかと思ってちょっと伺ったまでです。 僕が家庭的に。 なぜ。 高等遊民だからですか。 そう云う訳でも無いんですが何だかそんな心持がしたからちょっと伺がったのです。 高等遊民は田口などよりも家庭的なものですよ。 あなたはそういう問題を考えて見た事がないようですね。 ええまるで考えていません。 考える必要はありませんね。 一人で下宿している以上は。 けれどもいくら一人だって広い意味での男対女の問題は考えるでしょう。 考えると云うよりむしろ興味があるといった方が適当かも知れません。 興味なら無論あります。 露西亜と亜米利加ではこれだけ男女関係の解釈が違うんです。 ゴーリキのやりくちは露西亜ならほとんど問題にならないくらい些細な事件なんでしょうがね。 下らない。 日本はどっちでしょう。 まあ露西亜派でしょうね。 僕は露西亜派でたくさんだ。 せんだっての晩神田の洋食店で私はあなたに御目にかかったと思うんですが。 ええ会いましたね。 よく覚えています。 それから帰りにも電車の中で会ったじゃありませんか。 君も江戸川まで乗ったようだがあすこいらに下宿でもしているんですか。 あの晩は雨が降って困ったでしょう。 御伴がおありのようでしたが。 ええ別嬪を一人|伴れていました。 あなたはたしか一人でしたね。 一人です。 あなたも御帰りには御一人じゃなかったですか。 そうです。 あなたの下宿は牛込ですか小石川ですか。 本郷です。 実はあなたの後を跟けてわざわざ江戸川まで来たのです。 何のために。 人から頼まれたのです。 頼まれた。 誰に。 実は田口さんに頼まれたのです。 田口とは。 田口|要作ですか。 そうです。 だって君はわざわざ田口の紹介状を持って僕に会いに来たんじゃありませんか。 どうもけしからん奴だねあの田口という男は。 それに使われる君もまた君だ。 よっぽどの馬鹿だね。 どうも悪い事をしました。 詫まって貰いたくも何ともない。 ただ君が御気の毒だから云うのですよ。 あんな者に使われて。 それほど悪い人なんですか。 いったい何の必要があってそんな愚な事を引き受けたのです。 衣食に困るなら仕方がないがもう止した方がいいですよ。 余計な事じゃありませんか寒いのに雨に降られて人の後を跟けるなんて。 私も少し懲りました。 これからはもうやらないつもりです。 あなたは僕に対してすまん事をしたような風をしているが実際そうなのですか。 じゃ田口へ行ってね。 この間僕の伴れていた若い女は高等淫売だって僕自身がそう保証したと云ってくれたまえ。 本当にそういう種類の女なんですか。 まあ何でも好いから高等淫売だと云ってくれたまえ。 はあ。 はあじゃいけないたしかにそう云わなくっちゃ。 云えますか君。 何君心配しないでもいいですよ。 相手が田口だもの。 君は僕と田口との関係をまだ知らないんでしたね。 まだ何にも知りません。 その関係を話すと君が田口に向ってあの女の事を高等淫売だと云う勇気が出悪くなるだけだからつまり僕には損になるんだがいつまで罪もない君を馬鹿にするのも気の毒だから聞かして上げよう。 御嬢さんは何でまたあすこまで出張っていたんですか。 ただ私を釣るためなんですか。 何須永へ行った帰りなんです。 僕が田口で話しているとあの子が電話をかけて四時半頃あすこで待ち合せているからちょっと帰りに降りてくれというんです。 面倒だから止そうと思ったけれども是非何とかかとかいうから降りたところがね。 今朝御父さんから聞いたら叔父さんが御歳暮に指環を買ってやると云っていたから停留所で待ち伏せをして逃さないようにいっしょに行って買って貰えと云われたから先刻からここで待っていたんだって人の知りもしないのに一人で勝手な請求を持ち出してなかなか動かない。 仕方がないからまあ西洋料理ぐらいでごまかしておこうと思ってとうとう宝亭へ連れ込んだんです。 ――実に田口という男は箆棒だね。 わざわざそれほどの手数をかけて何もそんな下らない真似をするにも当らないじゃないか。 騙された君よりもよっぽど田口の方が箆棒ですよ。 あなたはまるで御承知ない事なんですね。 知るものかね君。 いくら高等遊民だってそんな暇の出るはずがないじゃありませんか。 御嬢さんはどうでしょう。 多分御存じなんだろうと思いますが。 そうさ。 いや知るまい。 あの箆棒の田口に一つ取柄があると云えば云われるのだがあの男はねいくら悪戯をしてもその悪戯をされた当人がもう少しで恥を掻きそうな際どい時になるとぴたりととめてしまうかまたは自分がその場へ出て来て当人の体面にかかわらない内に綺麗に始末をつける。 そこへ行くと箆棒には違ないが感心なところがあります。 つまりやりかたは悪辣でも結末には妙に温かい情の籠った人間らしい点を見せて来るんです。 今度の事でもおそらく自分一人で呑み込んでいるだけでしょう。 君が僕の家へ来なかったら僕はきっとこの事件を知らずに済むんだったろう。 自分の娘にだって君の馬鹿を証明するような策略を始めから吹聴するほど無慈悲な男じゃない。 だからついでに悪戯も止せばいいんだがねそれがどうしても止せないところが要するに箆棒です。 あなたの御話でだいぶ田口さんが解って来たようですが私はあの方の前へ出ると何だか気が落ちつかなくって変に苦しいです。 そりゃ向うでも君に気を許さないからさ。 私はそんな裏表のある人間と見えますかね。 どうだかそんな細かい事は初めて会っただけじゃ分らないですよ。 しかしあっても無くっても僕の君に対する待遇にはいっこう関係がないからいいじゃありませんか。 けれども田口さんからそう思われちゃ。 田口は君だからそう思うんじゃない誰を見てもそう思うんだから仕方がないさ。 ああして長い間人を使ってるうちにはだいぶ騙されなくっちゃならないからね。 たまに自然そのままの美くしい人間が自分の前に現われて来てもやっぱり気が許せないんです。 それがああ云う人の因果だと思えばそれで好いじゃないか。 田口は僕の義兄だからこう云うと変に聞えるが本来は美質なんです。 けっして悪い男じゃない。 ただああして何年となく事業の成功という事だけを重に眼中に置いて世の中と闘かっているものだから人間の見方が妙に片寄ってこいつは役に立つだろうかとかこいつは安心して使えるだろうかとかまあそんな事ばかり考えているんだね。 ああなると女に惚れられてもこりゃ自分に惚れたんだろうか自分の持っている金に惚れたんだろうかすぐそこを疑ぐらなくっちゃいられなくなるんです。 美人でさえそうなんだから君見たいな野郎が窮屈な取扱を受けるのは当然だと思わなくっちゃいけない。 そこが田口の田口たるところなんだから。 それでも田口が箆棒をやってくれたため君はかえって仕合をしたようなものですね。 なぜですか。 きっと何か位置を拵らえてくれますよ。 これなりで放っておきゃ田口でも何でもありゃしない。 それは責任を持って受合って上げても宜い。 がつまらないのは僕だ。 全く探偵のされ損だから。 妙な洋杖を持っていますね。 ちょっと拝見。 へえ蛇の頭だね。 なかなか旨く刻ってある。 買ったんですか。 いえ素人が刻ったのを貰ったんです。 馬鹿云え。 あの叔父さんも随分変ってるのね。 雨が降ると一しきりよく御客を断わった事があってよ。 今でもそうかしら。 実は僕も雨の降る日に行って断られた一人なんだが。 君も随分運の悪い男だね。 おおかた例の洋杖を持って行かなかったんだろう。 だって無理だわ雨の降る日に洋杖なんか持って行けったって。 ねえ田川さん。 いったい田川さんの洋杖ってどんな洋杖なの。 わたしちょっと見たいわ。 見せてちょうだいね田川さん。 下へ行って見て来ても好くって。 今日は持って来ません。 なぜ持って来ないの。 今日はあなたそれでも好い御天気よ。 大事な洋杖だからいくら好い御天気でもただの日には持って出ないんだとさ。 本当。 まあそんなものです。 じゃ旗日にだけ突いて出るの。 宵子さんかんかん結って上げましょう。 あの足袋はたしか御前が編んでやったのだったね。 ええ可愛らしいわね。 芭蕉があるもんだから余計音がするのね。 芭蕉はよく持つものだよ。 この間から今日は枯れるか今日は枯れるかと思って毎日こうして見ているがなかなか枯れない。 山茶花が散って青桐が裸になってもまだ青いんだからなあ。 妙な事に感心するのね。 だから恒三は閑人だって云われるのよ。 その代り御前の叔父さんには芭蕉の研究なんか死ぬまでできっこない。 したかないわそんな研究なんか。 だけど叔父さんは内の御父さんよりか全く学者ね。 わたし本当に敬服しててよ。 生意気云うな。 あら本当よあなた。 だって何を聞いても知ってるんですもの。 千代子待っておいで。 今にまた面白い事を教えてやるから。 厭よまたこないだみたいに西洋|煙草の名なんかたくさん覚えさせちゃ。 さあ宵子さんまんまよ。 御待遠さま。 どうしたの。 叔母さん大変だから来て下さい。 脈はあって。 叔母さんどうしたら好いでしょう。 早く御父さんを呼んでいらっしゃい。 どうした。 医者は。 少し模様が変です。 駄目でしょうか。 これでは仕方がありません。 瞳孔も肛門も開いてしまっていますから。 どうも御気の毒です。 病因は何でしょう。 どうも不思議です。 ただ不思議というよりほかに云いようがないようです。 どう考えても。 辛子湯でも使わして見たらどうですか。 好いでしょう。 もう少し注水ましょう。 余り熱いと火傷でもなさるといけませんから。 もう好いでしょう。 余まり長くなると。 少しの間このまま寝かしておいてやりましょう。 叔母さんとんだ事をしました。 何も千代ちゃんがした訳じゃないんだから。 でもあたしが御飯を喫べさしていたんですから叔父さんにも叔母さんにもまことにすみません。 どうもやっぱり不思議だよ。 おい御仙ここへ寝かしておくのは可哀そうだからあっちの座敷へ連れて行ってやろう。 ちょっとあなた。 まるで観音様のように可愛い顔をしています。 そうか。 御前も御寝よ。 まだ内幸町からも神田からも誰も来ないのね。 もう来るだろう。 好いから早く御寝。 市さんも書いて上げて下さい。 どうするんだい。 細かい字で書けるだけ一面に書いて下さい。 後から六字ずつを短冊形に剪って棺の中へ散らしにして入れるんですから。 御前着物を着換さしておやりな。 あなた明日いらしって。 行くよ。 御前も行ってやるが好い。 ええ行く事にきめてます。 小供には何を着せたらいいでしょう。 紋付でいいじゃないか。 でも余まり模様が派手だから。 袴を穿けばいいよ。 男の子は海軍服でたくさんだし。 御前は黒紋付だろう。 黒い帯は持ってるかい。 持ってます。 千代子御前も持ってるなら喪服を着て供に立っておやり。 いつ来たの。 先刻。 叔母さんが小供のだから白い花だけでは淋しいってわざと赤いのを交ぜさしたんですって。 百代さんあなた宵子さんの死顔を見て。 ええ。 いつ。 ほら先刻御棺に入れる時見たんじゃないの。 なぜ。 御止しなさいよ怖いから。 何坊さんも早く寝た方が勝手だあね。 宵子だって御経なんか聴くのは嫌だよ。 とんだ事をしたよ。 鍵を茶の間の用箪笥の上へ置いたなり。 持って来なかったの。 じゃ困るわね。 まだ時間があるから急いで市さんに取って来て貰うと好いわ。 市さんあなた本当に悪らしい方ね。 持ってるなら早く出して上げればいいのに。 叔母さんは宵子さんの事で頭がぼんやりしているから忘れるんじゃありませんか。 あなたのような不人情な人はこんな時にはいっそ来ない方がいいわ。 宵子さんが死んだって涙一つ零すじゃなし。 不人情なんじゃない。 まだ子供を持った事がないから親子の情愛がよく解らないんだよ。 まあ。 よく叔母さんの前でそんな呑気な事が云えるのね。 じゃあたしなんかどうしたの。 いつ子供持った覚があって。 あるかどうか僕は知らない。 けれども千代ちゃんは女だからおおかた男より美くしい心を持ってるんだろう。 市さんもう用意ができたんですって。 あの竹藪は大変みごとだね。 何だか死人の膏が肥料になってああ生々延びるような気がするじゃないか。 ここにできる筍はきっと旨いよ。 おお厭だ。 御封印を。 よし構わないから開けてくれ。 今出しましょう。 あとは綺麗に篩って持って参りましょう。 歯は別になさいますか。 こうなるとまるで人間のような気がしないな。 砂の中から小石を拾い出すと同じ事だ。 こうして見るとまだ子供がたくさんいるようだがこれで一人もう欠けたんだね。 生きてる内はそれほどにも思わないが逝かれて見ると一番惜しいようだね。 ここにいる連中のうちで誰か代りになればいいと思うくらいだ。 非道いわね。 叔母さんまた奮発して宵子さんと瓜二つのような子を拵えてちょうだい。 可愛がって上げるから。 宵子と同じ子じゃいけないでしょう宵子でなくっちゃ。 御茶碗や帽子と違って代りができたって亡くしたのを忘れる訳にゃ行かないんだから。 己は雨の降る日に紹介状を持って会いに来る男が厭になった。 千代子さんは須永君の所へ行くのだとばかり思っていたがそうじゃないのかね。 そうも行かないでしょう。 なぜ。 なぜって聞かれると僕にも明瞭な答はでき悪いんですがちょっと考えて見てもむずかしそうですね。 そうかね僕はまたちょうど好い夫婦だと思ってるがね。 親類じゃあるし年だって五つ六つ違ならおかしかなしさ。 知らない人から見るとちょっとそう見えるでしょうがね。 裏面にはいろいろ複雑な事情もあるようですから。 複雑な事情。 江戸っ子は贅沢なものだね。 細君を貰うときにもそう贅沢を云うかね。 云えれば誰だって云うさ。 何も江戸っ子に限りぁしない。 君みたような田舎ものだって云うだろう。 江戸っ子は無愛嬌なものだね。 君もこの頃はだいぶ落ちついて来たようだ。 少し真面目になったかね。 君はますます偏窟に傾くじゃないか。 どうも自分ながら厭になる事がある。 また何か縁談が起りかけているようだね。 今度は旨く纏まればいいが。 なに君は知らない事だが今までもそう云う話は何度もあったんだよ。 君は貰う気はないのかい。 僕が貰うように見えるかね。 また洋杖を持って来たんだね。 この通りだ。 市蔵おれが死ぬと御母さんの厄介にならなくっちゃならないぞ。 知ってるか。 今のように腕白じゃ御母さんも構ってくれないぞ。 もう少しおとなしくしないと。 御父さんが御亡くなりになっても御母さんが今まで通り可愛がって上げるから安心なさいよ。 市さんももうそろそろ奥さんを探さなくっちゃなりませんね。 姉さんはとうから心配しているようですよ。 好いのがあったら母に知らしてやって下さい。 市さんにはおとなしくって優しい親切な看護婦みたような女がいいでしょう。 看護婦みたような嫁はないかって探しても誰も来手はあるまいな。 あたし行って上げましょうか。 御前のようなむきだしのがらがらした者が何で市さんの気に入るものかね。 市さん久しぶりに一局やろうか。 千代子さんの縁談はまだ纏まりませんか。 いやまだなかなかそう行きそうもない。 だんだんそんな話を持って来てくれるものはあるが何しろむずかしくって弱る。 その上調べれば調べるほど面倒になるだけだしまあ大抵のところで纏まるなら纏めてしまおうかと思ってる。 ――縁談なんてものは妙なものでね。 今だから御前に話すが実は千代子の生れたとき御前の御母さんがこれを市蔵の嫁に欲しいってね――生れ立ての赤ん坊をだよ。 母は本気でそう云ったんだそうです。 本気さ。 姉さんはまた正直な人だからね。 実に好い人だ。 今でも時々|真面目になって叔母さんにその話をするそうだ。 今日はあたし御留守居よ。 あなた今日は大変優しいわね。 奥さんを貰ったらそういう風に優しくしてあげなくっちゃいけないわね。 あたしあなたの描いてくれた画をまだ持っててよ。 見せて上げましょうか。 あなたそれを描いて下すった時分は今よりよっぽど親切だったわね。 でも近頃頼んだってそんなに精出して描いては下さらないでしょう。 それでもよくこんな物を丹念にしまっておくね。 あたし御嫁に行く時も持ってくつもりよ。 そんな下らないものは持って行かないがいいよ。 いいわ持って行ったってあたしのだから。 しかしまだきまった訳じゃないんだろう。 いいえもうきまったの。 嘘よ。 もう呼び出してあるのよ。 あたし声が嗄れて咽喉が痛くって話ができないからあなた代理をしてちょうだい。 聞く方はあたしが聞くから。 あなたのにして持っていらっしゃい進上しますから。 純粋な感情ほど美くしいものはない。 美くしいものほど強いものはない。 御前のような感情家は。 話が理窟張ってむずかしくなって来たね。 あんまり一人で調子に乗って饒舌っているものだから。 いや構わん。 大変面白い。 洋杖の効果がありゃしないか。 どうも不思議にあるようだ。 ついでにもう少し先まで話す事にしようじゃないか。 もう無いよ。 これを御使いなさい。 悪い水でしょう。 御父さんは四五日前ちょっといらしったけど一昨日また用が出来たって東京へ御帰りになったぎりよ。 ここにゃいないのかい。 ええ。 なぜ。 ことによると今日の夕方|吾一さんを連れてまたいらっしゃるかも知れないけども。 先刻誰だか男の人が一人座敷にいたじゃないか。 あれ高木さんよ。 ほら秋子さんの兄さんよ。 知ってるでしょう。 ついこの下よ。 別荘かい。 ええ。 高木さんもいらっしゃるんでしょう。 市さんもいらっしゃい。 えらい権幕だね。 あなたは親不孝よ。 じゃ叔母さんに聞いて来るからもし叔母さんが泊って行く方がいいっておっしゃったら泊っていらっしゃい。 ね。 相変らず偏窟ねあなたは。 まるで腕白小僧見たいだわ。 あっ高木さんを誘うのを忘れた。 もう好いじゃないのここまで来たんだから。 だってあたし先刻誘ってくれって頼まれたのよ。 市さんあなた時計持っていらしって。 今何時。 まだ間に合わない事はない。 誘って来るなら来ると好い。 僕は先へ行って待っているから。 もう遅いわよあなた。 高木さんもしいらっしゃるつもりならきっと一人でもいらしってよ。 後から忘れましたって詫まったらそれで好かないの。 漁師に頼んどくといくらでも拵えて来てくれますよ。 何なら帰りに持っていらっしゃいな。 姉さんが好きだから上げたいと思ってたんですがついついでが無かったもんだからそれにすぐ腐くなるんでね。 わたしもいつか大磯で誂えてわざわざ東京まで持って帰った事があるがよっぽど気をつけないと途中でね。 腐るの。 叔母さん興津鯛御嫌。 あたしこれよか興津鯛の方が美味いわ。 興津鯛はまた興津鯛で結構ですよ。 市さんどうだい暑いじゃないか。 これじゃ東京の方がよっぽど楽だね。 これも一興だ。 今日はこれでも若いものの部だよ。 御前達も尻を捲るが好い。 厭な事。 市さんがまた何か悪口を云おうと思って見ている。 早く降りていらっしゃい。 市さんに悪い下駄を貸して上げるが好い。 どうも御待たせ申しまして実は髭を剃っていたものだから途中でやめる訳にも行かず。 えらい物を着込んで暑かありませんか。 暑くったって脱ぐ訳に行かないのよ。 上はハイカラでも下は蛮殻なんだから。 それで分るんでしょうか。 分ったらよっぽど奇体だわね。 何大丈夫分るよ。 あれじゃ大変だ。 随分|呑気ね迎いに行くってどうしてあんな所へ迎に行けるんでしょう。 何をしているだろう。 ちょっと行って様子を見て来ましょう。 こっちへ御出しなさい。 持ってるから。 とうとう蛮殻になったのね。 さあ御乗り。 どうですこっちが空いてますからいらっしゃいませんか。 千代ちゃん行っちゃどうだ。 あっちの方が広くって楽なようだから。 なぜここにいちゃ邪魔なの。 好い案排に空模様が直って来ました。 これじゃ日がかんかん照るよりかえって結構です。 船遊びには持って来いという御天気で。 船頭いったい何を捕るんだ。 蛸はどこにいるんだ。 ここいらにいるんだ。 市さん蛸が見えて。 見えない。 千代ちゃんには目付かったかい。 駄目よ。 蛸なんかどこにも泳いでいやしないわ。 よっぽど慣れないとなかなか目付ける訳に行かないんだそうです。 道理で見えないのね。 こう蛸ばかり捕っても仕方がないね。 千代ちゃん蛸の泳いでるところを見た事がありますか。 ちょっと来て御覧なさいよっぽど妙ですよ。 須永さんどうです蛸が泳いでいますよ。 そうですか。 面白いでしょう。 ええ面白いわ早く来て御覧なさい。 一つ掬って御覧なさい。 いいや大してどうもしない。 急に御暑うございますから。 作御前でもいろいろ物を考える事があるかね。 私なんぞ別に何も考えるほどの事がございませんから。 考えないかね。 それが好いね。 考える事がないのが一番だ。 あっても智慧がございませんから筋道が立ちません。 全く駄目でございます。 仕合せだ。 叔母さんを送って来たのよ。 なぜ。 驚ろいて。 そりゃありがとう。 でもね久しぶりに好い気保養をしました。 御蔭で。 泊って行くわ。 どこへ。 そうね。 内幸町へ行っても好いけどあんまり広過ぎて淋しいから。 ――久しぶりにここへ泊ろうかしらねえ叔母さん。 千代ちゃんが来ないでも吾一さんでたくさんだのに。 だってあたし責任があるじゃありませんか。 叔母さんを招待したのはあたしでしょう。 じゃ僕も招待を受けたんだから送って来て貰えば好かった。 だから他の云う事を聞いてもっといらっしゃれば好いのに。 いいえあの時にさ。 僕の帰った時にさ。 そうするとまるで看護婦みたようね。 好いわ看護婦でもついて来て上げるわ。 なぜそう云わなかったの。 云っても断られそうだったから。 あたしこそ断られそうだったわねえ叔母さん。 たまに招待に応じて来ておきながら厭にむずかしい顔ばかりしているんですもの。 本当にあなたは少し病気よ。 だから千代子について来て貰いたかったのだろう。 高木はどうしたろう。 何ですね女の癖にそんな軽機な真似をして。 これからは後生だから叔母さんに免じてあぶない悪ふざけは止しておくれよ。 しかし高木さんには気に入るんだろう。 なぜ高木の話をしないのだろう。 昨夕好く寝られなかったんでしょう。 何に結おうかしら。 あなた何が好き。 旦那様も島田が好きだときっとおっしゃいますよ。 じゃ島田に結って見せたげましょうか。 好いだろう。 結えたから見てちょうだい。 おかしいでしょう。 久しく結わないから。 大変美くしくできたよ。 これからいつでも島田に結うといい。 二三度|壊しちゃ結い壊しちゃ結いしないといけないのよ。 毛が馴染まなくって。 早いね。 もう帰るのかい。 早かないわもう一晩泊ったんだから。 だけどこんな頭をして帰ると何だかおかしいわね御嫁にでも行くようで。 まだみんな鎌倉にいるのかい。 ええ。 なぜ。 高木さんも。 高木さんも。 あなたそれほど高木さんの事が気になるの。 あなたは卑怯だ。 なぜ。 なぜってあなた自分でよく解ってるじゃありませんか。 解らないから聞かしておくれ。 それが解らなければあなた馬鹿よ。 千代ちゃんのような活溌な人から見たら僕見たいに引込思案なものは無論|卑怯なんだろう。 僕は思った事をすぐ口へ出したりまたはそのまま所作にあらわしたりする勇気のない極めて因循な男なんだから。 その点で卑怯だと云うなら云われても仕方がないが。 そんな事を誰が卑怯だと云うもんですか。 しかし軽蔑はしているだろう。 僕はちゃんと知ってる。 あなたこそあたしを軽蔑しているじゃありませんか。 あたしの方がよっぽどよく知ってるわ。 あなたはあたしを学問のない理窟の解らない取るに足らない女だと思って腹の中で馬鹿にし切ってるんです。 それは御前が僕をぐずと見縊ってるのと同じ事だよ。 僕は御前から卑怯と云われても構わないつもりだがいやしくも徳義上の意味で卑怯というならそりゃ御前の方が間違っている。 僕は少なくとも千代ちゃんに関係ある事柄について道徳上卑怯なふるまいをした覚はないはずだ。 ぐずとか煮え切らないとかいうべきところに卑怯という言葉を使われては何だか道義的勇気を欠いた――というより徳義を解しない下劣な人物のように聞えてはなはだ心持が悪いから訂正して貰いたい。 それとも今いった意味で僕が何か千代ちゃんに対してすまない事でもしたのなら遠慮なく話して貰おう。 じゃ卑怯の意味を話して上げます。 あなたはあたしを御転婆の馬鹿だと思って始終冷笑しているんです。 あなたはあたしを愛していないんです。 つまりあなたはあたしと結婚なさる気が。 そりゃ千代ちゃんの方だって。 まあ御聞きなさい。 そんな事は御互だと云うんでしょう。 そんならそれで宜うござんす。 何も貰って下さいとは云やしません。 ただなぜ愛してもいず細君にもしようと思っていないあたしに対して。 御前に対して。 なぜ嫉妬なさるんです。 あなたは卑怯です徳義的に卑怯です。 あたしが叔母さんとあなたを鎌倉へ招待した料簡さえあなたはすでに疑っていらっしゃる。 それがすでに卑怯です。 がそれは問題じゃありません。 あなたは他の招待に応じておきながらなぜ平生のように愉快にして下さる事ができないんです。 あたしはあなたを招待したために恥を掻いたも同じ事です。 あなたはあたしの宅の客に侮辱を与えた結果あたしにも侮辱を与えています。 侮辱を与えた覚はない。 あります。 言葉や仕打はどうでも構わないんです。 あなたの態度が侮辱を与えているんです。 態度が与えていないでもあなたの心が与えているんです。 そんな立ち入った批評を受ける義務は僕にないよ。 男は卑怯だからそう云う下らない挨拶ができるんです。 高木さんは紳士だからあなたを容れる雅量がいくらでもあるのにあなたは高木さんを容れる事がけっしてできない。 卑怯だからです。 愚痴じゃありません。 事実だから云うのです。 じゃ誰が御前を嫌っているかい。 現にそういう叔父さんからして僕を嫌っているじゃありませんか。 おれが何で御前を悪む必要があるかね。 子供の時からの関係でも知れているじゃないか。 馬鹿を云いなさんな。 おれは御前の叔父だよ。 どこの国に甥を憎む叔父があるかい。 そりゃ広い世の中だから敵同志の親子もあるだろうし命を危め合う夫婦もいないとは限らないさ。 しかしまあ一般に云えば兄弟とか叔父甥とかの名で繋がっている以上は繋がっているだけの親しみはどこかにあろうじゃないか。 御前は相応の教育もあり相応の頭もある癖に何だか妙に一種の僻みがあるよ。 それが御前の弱点だ。 是非直さなくっちゃいけない。 傍から見ていても不愉快だ。 だから叔父さんまで嫌っていると云うのです。 僻みさえさらりと棄ててしまえば何でもないじゃないか。 僕に僻があるでしょうか。 あるよ。 どういうところが僻んでいるでしょう。 判然聞かして下さい。 どういうところがって――あるよ。 あるからあると云うんだよ。 じゃそういう弱点があるとしてその弱点はどこから出たんでしょう。 そりゃ自分の事だから少し自分で考えて見たらよかろう。 あなたは不親切だ。 僕はあなたに云われない先から考えていたのです。 おっしゃるまでもなく自分の事だから考えていたのです。 誰も教えてくれ手がないから独りで考えていたのです。 僕は毎日毎夜考えました。 余り考え過ぎて頭も身体も続かなくなるまで考えたのです。 それでも分らないからあなたに聞いたのです。 あなたは自分から僕の叔父だと明言していらっしゃる。 それで叔父だから他人より親切だと云われる。 しかし今の御言葉はあなたの口から出たにもかかわらず他人より冷刻なものとしか僕には聞こえませんでした。 僕は僻んでいるでしょうか。 たしかに僻んでいるでしょう。 あなたがおっしゃらないでもよく知っているつもりです。 僕は僻んでいます。 僕はあなたからそんな注意を受けないでもよく知っています。 僕はただどうしてこうなったかその訳が知りたいのです。 いいえ母でも田口の叔母でもあなたでもみんなよくその訳を知っているのです。 ただ僕だけが知らないのです。 ただ僕だけに知らせないのです。 僕は世の中の人間の中であなたを一番信用しているから聞いたのです。 あなたはそれを残酷に拒絶した。 僕はこれから生涯の敵としてあなたを呪います。 おれはそう思うんだ。 だから少しも隠す必要を認めていない。 御前だって健全な精神を持っているならおれと同じように思うべきはずじゃないか。 もしそう思う事ができないというならそれがすなわち御前の僻みだ。 解ったかな。 解りました。 善く解りました。 解ったらそれで好いもうその問題についてかれこれというのは止しにしようよ。 もう止します。 もうけっしてこの事についてあなたを煩らわす日は来ないでしょう。 なるほどあなたのおっしゃる通り僕は僻んだ解釈ばかりしていたのです。 僕はあなたの御話を聞くまでは非常に怖かったです。 胸の肉が縮まるほど怖かったです。 けれども御話を聞いてすべてが明白になったらかえって安心して気が楽になりました。 もう怖い事も不安な事もありません。 その代り何だか急に心細くなりました。 淋しいです。 世の中にたった一人立っているような気がします。 だって御母さんは元の通りの御母さんなんだよ。 おれだって今までのおれだよ。 誰も御前に対して変るものはありゃしないんだよ。 神経を起しちゃいけない。 神経は起さなくっても淋しいんだから仕方がありません。 僕はこれから宅へ帰って母の顔を見るときっと泣くにきまっています。 今からその時の涙を予想しても淋しくってたまりません。 御母さんには黙っている方がよかろう。 無論話しゃしません。 話したら母がどんな苦しい顔をするか分りません。 もう一つ伺っておきたい事がありますが聞いて下さいますか。 おれの知っている事なら何でも話して上げる。 僕を生んだ母は今どこにいるんです。 何でも島田に結ってた事がある。 じゃせめて寺だけ教えてくれませんか。 母がどこへ埋っているんだかそれだけでも知っておきたいと思いますから。 御母さんよりほかに知ってるものは無いでしょうか。 まああるまいね。 じゃ分らないでもよござんす。 御母さんが是非千代ちゃんを貰えというのもやっぱり血統上の考えから身縁のものを僕の嫁にしたいという意味なんでしょうね。 全くそこだ。 ほかに何にもないんだ。 万事おれが引き受けてやるから心配しないがいい。 けれども必竟は本人のために嫁入けるんで姉さんや市蔵の便宜のために千代子の結婚を無理にくり上げたりくり延べたりする訳にも行かないものだから。 ごもっともだ。 実はあの事件以来妙に頭を使うので近頃では落ちついて書斎に坐っている事が困難になりましてね。 どうしても旅行が必要なんですからまあ試験を中途で已めなかったのが感心だぐらいに賞めて許して下さい。 そりゃ御前の金で御前の行きたい所へ行くのだから少しも差支はないさ。 考えて見れば少しは飛び歩いて気を換えるのも好かろう。 行って来るがいい。 ええ。 実は大きな声で話すのも気の毒でもったいないんですが叔父さんにあの話を聞いてから以後は母の顔を見るたんびに変な心持になってたまらないんです。 不愉快になるのか。 いいえただ気の毒なんです。 始めは淋しくって仕方がなかったのがだんだんだんだん気の毒に変化して来たのです。 実はここだけの話ですけれども近頃では母の顔を朝夕見るのが苦痛なんです。 今度の旅行だってかねてから卒業したら母に京大阪と宮島を見物させてやりたいと思っていたのだから昔の僕なら供をする気で留守を叔父さんにでも頼みに出かけて来るところなんですが今云ったような訳で関係がまるで逆になったもんだから少しでも母の傍を離れたらという気ばかりして。 困るねそう変になっちゃあ。 僕は離れたらまたきっと母が恋しくなるだろうと思うんですがどうでしょう。 そう旨くはいかないもんでしょうか。 そんな心配はするだけ損だよ。 おれが受合ってやる。 大丈夫だから遊んで来るが好い。 御前の御母さんはおれの姉だ。 しかもおれよりも学問をしないだけによほど純良にできている誰からも敬愛されべき婦人だ。 あの姉と君のような情愛のある子がどうして離れっ切りに離れられるものか。 大丈夫だから安心するが好い。 おれもいっしょに行こうか。 叔父さんといっしょじゃ。 いけないかい。 平生ならこっちから誘っても行って貰いたいんだが何しろいつどこへ立つんだか分らない云わば気の向きしだい予定の狂う旅行だから御気の毒でね。 それに僕の方でもあなたがいると束縛があって面白くないから。 じゃ止そう。 すると市蔵の方でかえっておれの事を心配している訳になるんだね。 そうですとも誰だってあなたの懐手ばかりして舶来のパイプを銜えているところを見れば心配になりますわ。 市蔵が明日から旅行するって云うじゃありませんか。 それについてね。 なに行きたいなら行かしておやんなさい。 試験で頭をさんざん使った後だもの。 少しは楽もさせないと身体の毒になるから。 恒さん先刻市蔵がこちらへ上った時何か様子の変ったところでもありゃしませんでしたかい。 何そんな事があるもんですか。 やっぱり普通の市蔵でさあ。 ねえ御仙。 ええちっとも違っておいでじゃありません。 わたしもそうかと思うけれども何だかこの間から調子が変でね。 どんななんです。 どんなだと云われるとまた話しようもないんだが。 全く試験のためだよ。 姉さんの神経ですよ。 僕はこの辺の人の言葉を聞くと微かな酔に身を任せたような気分になります。 ある人はべたついて厭だと云いますが僕はまるで反対です。 厭なのは東京の言葉です。 むやみに角度の多い金米糖のような調子を得意になって出します。 そうして聴手の心を粗暴にして威張ります。 僕は昨日京都から大阪へ来ました。 今日朝日新聞にいる友達を尋ねたらその友人が箕面という紅葉の名所へ案内してくれました。 時節が時節ですから紅葉は無論見られませんでしたが渓川があって山があって山の行き当りに滝があって大変好い所でした。 友人は僕を休ませるために社の倶楽部とかいう二階建の建物の中へ案内しました。 そこへ這入って見ると幅の広い長い土間が竪に家の間口を貫ぬいていました。 そうしてそれがことごとく敷瓦で敷きつめられている模様が何だか支那の御寺へでも行ったような沈んだ心持を僕に与えました。 この家は何でも誰かが始め別荘に拵えたのを朝日新聞で買い取って倶楽部用にしたのだとか聞きましたがよし別荘にせよ瓦を畳んで出来ているこの広々とした土間は何のためでしょう。 僕はあまり妙だから友人に尋ねて見ました。 ところが友人は知らんと云いました。 もっともこれはどうでも構わない事です。 ただ叔父さんがこう云う事に明らかだからあるいは知っておいでかも知れないと思ってちょっと蛇足に書き添えただけです。 僕の御報知したいのは実はこの広い土間ではなかったのです。 土間の上に下りていた御婆さんが問題だったのです。 御婆さんは二人いました。 一人は立って一人は椅子に腰をかけていました。 ただし両方ともくりくり坊主です。 その立っている方が僕らが這入るや否や友人の顔を見て挨拶をしました。 そうして『おや御免やす。 今八十六の御婆さんの頭を剃っとるところだすよって。 ――御婆さんじっとしていなはれやもう少しだけれ。 ――よう剃ったけれ毛は一本もありゃせんよって何も恐ろしい事ありゃへん』と云いました。 椅子に腰をかけた御婆さんは頭を撫でて『大きに』と礼を述べました。 友人は僕を顧みて野趣があると笑いました。 僕も笑いました。 ただ笑っただけではありません。 百年も昔の人に生れたような暢気した心持がしました。 僕はこういう心持を御土産に東京へ持って帰りたいと思います。 今夜ここに来ました。 月が出て庭は明らかですが僕の部屋は影になってかえって暗い心持がします。 飯を食って煙草を呑んで海の方を眺めていると――海はつい庭先にあるのです。 漣さえ打たない静かな晩だから河縁とも池の端とも片のつかない渚の景色なんですがそこへ涼み船が一|艘流れて来ました。 その船の形好は夜でよく分らなかったけれども幅の広い底の平たいどうしても海に浮ぶものとは思えない穏やかな形を具えていました。 屋根は確かあったように覚えます。 その軒から画の具で染めた提灯がいくつもぶら下がっていました。 薄い光の奥には無論人が坐っているようでした。 三味線の音も聞こえました。 けれども惣体がいかにも落ちついて滑るように楽しんで僕の前を流れて行きました。 僕は静かにその影を見送って御祖父さんの若い時分の話というのを思い出しました。 叔父さんは固より御存じでしょう御祖父さんが昔の通人のした月見の舟遊を実際にやった話を。 僕は母から二三度聞かされた事があります。 屋根船を綾瀬川まで漕ぎ上せて静かな月と静かな波の映り合う真中に立って用意してある銀扇を開いたまま夜の光の遠くへ投げるのだと云うじゃありませんか。 扇の要がぐるぐる廻って地紙に塗った銀泥をきらきらさせながら水に落ちる景色は定めてみごとだろうと思います。 それもただの一本ならですが船のものがそうがかりでひらひらする光を投げ競う光景は想像しても凄艶です。 御祖父さんは銅壺の中に酒をいっぱい入れてその酒で徳利の燗をした後をことごとく棄てさしたほどの豪奢な人だと云うから銀扇の百本ぐらい一度に水に流しても平気なのでしょう。 そう云えば遺伝だか何だか叔父さんにも貧乏な割にはと云っては失礼ですがどこかに贅沢なところがあるようですしあんな内気な母にも妙に陽気な事の好きな方面が昔から見えていました。 ただ僕だけは――こういうとまたあの問題を持ち出したなと早合点なさるかも知れませんが僕はもうあの事について叔父さんの心配なさるほど屈托していないつもりですから安心して下さい。 ただ僕だけはと断るのはけっして苦い意味で云うのではありません。 僕はこの点において叔父さんとも母とも生れつき違っていると申したいのです。 僕は比較的楽に育った物質的に幸福な子だから贅沢と知らずに贅沢をして平気でいました。 着物などでも母の注意で人前へ出て恥かしくないようなものを身に着けながらこれが当然だと澄ましていました。 けれどもそれは永く習慣に養われた結果自分で知らない不明から出るので一度そこに気がつくと急に不安になります。 着物や食事はまあどうでもいいとして僕はこの間ある富豪のむやみに金を使う様子を聞いて恐ろしくなった事があります。 その男は芸者は幇間を大勢集めて鞄の中から出した札の束をその前でずたずたに裂いてそれを御祝儀とか称えてみんなにやるのだそうです。 それから立派な着物を着たまま湯に這入ってあとは三助にくれるのだそうです。 彼の乱行はまだたくさんありましたがいずれも天を恐れない暴慢|極まるもののみでした。 僕はその話を聞いた時無論彼を悪みました。 けれども気概に乏しい僕は悪むよりもむしろ恐れました。 僕から彼の所行を見ると強盗が白刃の抜身を畳に突き立てて良民を脅迫しているのと同じような感じになるのです。 僕は実に天とか人道とかもしくは神仏とかに対して申し訳がないという真正に宗教的な意味において恐れたのです。 僕はこれほど臆病な人間なのです。 驕奢に近づかない先から驕奢の絶頂に達して躍り狂う人の一転化の後を想像して怖くてたまらないのであります。 ――僕はこんな事を考えて静かな波の上を流れて行く涼み船を見送りながらこのくらいな程度の慰さみが人間としてちょうど手頃なんだろうと思いました。 僕も叔父さんから注意されたようにだんだん浮気になって行きます。 賞めて下さい。 月の差す二階の客は神戸から遊びに来たとかで僕の厭な東京語ばかり使って折々詩吟などをやります。 その中に艶めかしい女の声も交っていましたが二三十分前から急におとなしくなりました。 下女に聞いたらもう神戸へ帰ったのだそうです。 夜もだいぶ更けましたから僕も休みます。 昨夕も手紙を書きましたが今日もまた今朝以来の出来事を御報知します。 こう続けて叔父さんにばかり手紙を上げたら叔父さんはきっと皮肉な薄笑いをしてあいつどこへも文をやる所がないものだから已を得ず姉と己に対してだけ時間を費やして音信を怠らないんだと腹の中で云うでしょう。 僕も筆を執りながらちょっとそう云う考えを起しました。 しかし僕にもしそんな愛人ができたら叔父さんはたとい僕から手紙を貰わないでも喜こんで下さるでしょう。 僕も叔父さんに音信を怠ってもその方が幸福だと思います。 実は今朝起きて二階へ上って海を見下しているとそういう幸福な二人連が磯通いに西の方へ行きました。 これはことによると僕と同じ宿に泊っている御客かも知れません。 女がクリーム色の洋傘を翳して素足に着物の裾を少し捲りながら浅い波の中を男と並んで行く後姿を僕は羨ましそうに眺めたのです。 波は非常に澄んでいるから高い所から見下すと陸に近いあたりなどは日の照る空気の中と変りなく何でも透いて見えます。 泳いでいる海月さえ判切見えます。 宿の客が二人出て来て泳ぎ廻っていますが彼らの水中でやる所作が一挙一動ことごとく手に取るように見えるので芸としての水泳の価値がだいぶ下落するようです。 今度は西洋人が一人水に浸っています。 あとから若い女が出て来ました。 その女が波の中に立って二階に残っているもう一人の西洋人を呼びます。 『ユーカムヒヤ』と云って英語を使います。 『イットイズヴェリナイスインウォーター』と云うような事をしきりに申します。 その英語はなかなか達者で流暢で羨ましいくらい旨く出ます。 僕はとても及ばないと思って感心して聞いていました。 けれども英語の達者なこの女から呼ばれた西洋人はなかなか下りて来ませんでした。 女は泳げないんだか泳ぎたくないんだか胸から下を水に浸けたまま波の中に立っていました。 すると先へ下りた方の西洋人が女の手を執って深い所へ連れて行こうとしました。 女は身を竦めるようにして拒みました。 西洋人はとうとう海の中で女を横に抱きました。 女の跳ねて水を蹴る音とその笑いながらきゃっきゃっ騒ぐ声が遠方まで響きました。 今度は下の座敷に芸者を二人連れて泊っていた客が端艇を漕ぎに出て来ました。 この端艇はどこから持って来たか分りませんが極めて小さいかつすこぶる危しいものです。 客は漕いでやるからと云って芸者を乗せようとしますが芸者の方では怖いからと断ってなかなか乗りません。 しかしとうとう客の意の通りになりました。 その時年の若い方がわざわざ喫驚して見せる科がよほど馬鹿らしゅうございました。 端艇がそこいらを漕ぎ廻って帰って来ると年上の芸者が宿屋のすぐ裏に繋いである和船に向って船頭はんその船|空いていまっかと大きな声で聞きました。 今度は和船の中に御馳走を入れてまた海の上に出る相談らしいのです。 見ていると芸者が宿の下女を使って麦酒だの水菓子だの三味線だのを船の中へ運び込ましておいてしまいに自分達も乗りました。 ところが肝心の御客はよほど威勢のいい男で遥か向うの方にまだ端艇を漕ぎ廻していました。 誰も乗せ手がなかったと見えて今度は黒裸の浦の子僧を一人|生捕っていました。 芸者はあきれた顔をしてしばらくその方を眺めていましたがやがて根かぎりの大きな声で阿呆と呼びました。 すると阿呆と呼ばれた客が端艇をこっちへ漕ぎ戻して来ました。 僕は面白い芸者でまた面白い客だと思いました。 僕がこんなくだくだしい事を物珍らしそうに報道したら叔父さんは物数奇だと云って定めし苦笑なさるでしょう。 しかしこれは旅行の御蔭で僕が改良した証拠なのです。 僕は自由な空気と共に往来する事を始めて覚えたのです。 こんなつまらない話を一々書く面倒を厭わなくなったのもつまりは考えずに観るからではないでしょうか。 考えずに観るのが今の僕には一番薬だと思います。 わずかの旅行で僕の神経だか性癖だかが直ったと云ったら直り方があまり安っぽくって恥ずかしいくらいです。 が僕は今より十層倍も安っぽく母が僕を生んでくれた事を切望して已まないのです。 白帆が雲のごとく簇って淡路島の前を通ります。 反対の側の松山の上に人丸の社があるそうです。 人丸という人はよく知りませんが閑があったらついでだから行って見ようと思います。 世間。 死。 それから。 額の男。 額の男。 額の男。 額の男。 額の男。 額の男。 額の男。 額の男。 額の男。 額の男。 額の男。 額の男。 額の男。 文芸と道徳。 文芸と道徳。 道徳と文芸。 文芸と道徳。 ロマンチックの道徳は大体において過ぎ去ったものである。 文芸とヒロイツク。 私。 あなた方。 文学論。 文学論。 この傾向。 この傾向。 吾人は意識の連続を求める。 意識には連続的傾向がある。 意識の連続。 情が理想。 情を理想とする。 物の関係を味わうものだ。 感覚的なものを通じて。 肉体の感覚美に打たれているうちは裸体の社会的不体裁を忘るべし。 冠を戴く頭。 意識の連続。 家人が餌をやらないものだから文鳥はとうとう死んでしまった。 たのみもせぬものを籠へ入れてしかも餌をやる義務さえ尽くさないのは残酷の至りだ。 はい。 三人のうち二人死んで自分だけ残ったから死んだ人に対して残っているのが気の毒のような気がする。 あの病人は嘔気があって向うの端からこっちの果まで響くような声を出して始終げえげえ吐いていたがこの二三日それがぴたりと聞えなくなったのでだいぶ落ちついてまあ結構だと思ったら実は疲労の極声を出す元気を失ったのだと知れた。 この前ってあの時分君もやはり附添でここに来ていたのかい。 ええつい御隣でした。 しばらく○○さんの所におりましたが御存じはなかったかも知れません。 はい。 あの頃あなたの御室で時々変な音が致しましたが。 毎朝六時頃になるときっとするように思いましたが。 うんあれか。 あれはね自働革砥の音だ。 毎朝|髭を剃るんでね安全髪剃を革砥へかけて磨ぐのだよ。 今でもやってる。 嘘だと思うなら来て御覧。 そりゃ好いが御前の方の音は何だい。 御前の方の音って。 そらよく大根をおろすような妙な音がしたじゃないか。 ええあれですか。 あれは胡瓜を擦ったんです。 患者さんが足が熱って仕方がない胡瓜の汁で冷してくれとおっしゃるもんですから私が始終擦って上げました。 じゃやっぱり大根おろしの音なんだね。 ええ。 そうかそれでようやく分った。 ――いったい○○さんの病気は何だい。 直腸癌です。 じゃとてもむずかしいんだね。 ええもうとうに。 ここを退院なさると直でした御亡くなりになったのは。 はい。 三人のうち二人死んで自分|丈け殘つたから死んだ人に對して殘つてゐるのが氣の毒の樣な氣がする。 あの病人は嘔氣があつて向ふの端から此方の果迄響くやうな聲を出して始終げえ/\吐いてゐたが此二三日|夫がぴたりと聞こえなくなつたので大分落ち付いてまあ結構だと思つたら實は疲勞の極聲を出す元氣を失つたのだと知れた。 此前つてあの時分君も矢張り附添で此處に來てゐたのかい。 えゝつい御隣でした。 しばらく○○さんの所に居りましたが御存じはなかつたかも知れません。 はい。 あの頃貴方の御室で時々變な音が致しましたが。 毎朝六時頃になると屹度する樣に思ひましたが。 うん彼れか。 あれはね自働革砥の音だ。 毎朝髭を剃るんでね安全髮剃を革砥へ掛けて磨ぐのだよ。 今でも遣つてる。 嘘だと思ふなら來て御覽。 夫や好いが御前の方の音は何だい。 御前の方の音つて。 そら能く大根を卸す樣な妙な音がしたぢやないか。 えゝ彼れですか。 あれは胡瓜を擦つたんです。 患者さんが足が熱つて仕方がない胡瓜の汁で冷してくれと仰しやるもんですから私が始終|擦つて上げました。 ぢや矢張大根卸の音なんだね。 えゝ。 さうか夫で漸く分つた。 ――一體○○さんの病氣は何だい。 直腸癌です。 ぢや到底六づかしいんだね。 えゝもう疾うに。 此處を退院なさると直でした御亡くなりになつたのは。 あなたは真っ直でよいご気性だ。 行く事は行くがじき帰る。 来年の夏休みにはきっと帰る。 何を見やげに買って来てやろう何が欲しい。 越後の笹飴が食べたい。 おれの行く田舎には笹飴はなさそうだ。 そんならどっちの見当です。 西の方だよ。 箱根のさきですか手前ですか。 もうお別れになるかも知れません。 随分ご機嫌よう。 おい君どこに宿ってるか山城屋かうん今に行って相談する。 きのう着いた。 つまらん所だ。 十五畳の座敷に寝ている。 宿屋へ茶代を五円やった。 かみさんが頭を板の間へすりつけた。 夕べは寝られなかった。 清が笹飴を笹ごと食う夢を見た。 来年の夏は帰る。 今日学校へ行ってみんなにあだなをつけてやった。 校長は狸教頭は赤シャツ英語の教師はうらなり数学は山嵐画学はのだいこ。 今にいろいろな事を書いてやる。 さようなら。 あまり早くて分からんけれもちっとゆるゆる遣っておくれんかなもし。 おい君は宿直じゃないか。 うん宿直だ。 宿直が無暗に出てあるくなんて不都合じゃないか。 ちっとも不都合なもんか出てあるかない方が不都合だ。 君のずぼらにも困るな校長か教頭に出逢うと面倒だぜ。 校長にはたった今逢った。 暑い時には散歩でもしないと宿直も骨でしょうと校長がおれの散歩をほめたよ。 なんでバッタなんかおれの床の中へ入れた。 バッタた何ぞな。 バッタを知らないのか知らなけりゃ見せてやろう。 さっきのバッタを持ってこい。 もう掃溜へ棄ててしまいましたが拾って参りましょうか。 うんすぐ拾って来い。 どうもお気の毒ですが生憎夜でこれだけしか見当りません。 あしたになりましたらもっと拾って参ります。 バッタたこれだ大きなずう体をしてバッタを知らないた何の事だ。 そりゃイナゴぞなもし。 篦棒めイナゴもバッタも同じもんだ。 第一先生を捕まえてなもした何だ。 菜飯は田楽の時より外に食うもんじゃない。 なもしと菜飯とは違うぞなもし。 イナゴでもバッタでも何でおれの床の中へ入れたんだ。 おれがいつバッタを入れてくれと頼んだ。 誰も入れやせんがな。 入れないものがどうして床の中に居るんだ。 イナゴは温い所が好きじゃけれ大方一人でおはいりたのじゃあろ。 馬鹿あ云え。 バッタが一人でおはいりになるなんて――バッタにおはいりになられてたまるもんか。 ――さあなぜこんないたずらをしたか云え。 云えてて入れんものを説明しようがないがな。 そんなに云われなきゃ聞かなくっていい。 中学校へはいって上品も下品も区別が出来ないのは気の毒なものだ。 いえちっとも心配じゃありません。 こんな事が毎晩あっても命のある間は心配にゃなりません。 授業はやります一晩ぐらい寝なくって授業が出来ないくらいなら頂戴した月給を学校の方へ割戻します。 それじゃまだ釣りの味は分らんですな。 お望みならちと伝授しましょう。 あの松を見たまえ幹が真直で上が傘のように開いてターナーの画にありそうだね。 全くターナーですね。 どうもあの曲り具合ったらありませんね。 ターナーそっくりですよ。 え。 どうだか。 全くです知らないんですから罪ですね。 まさか。 バッタを本当ですよ。 また例の堀田が。 そうかも知れない。 天麩羅ハハハハハ。 煽動して。 団子も。 君が来たんで生徒も大いに喜んでいるから奮発してやってくれたまえ。 あんまり喜んでもいないでしょう。 いえお世辞じゃない。 全く喜んでいるんですね吉川君。 喜んでるどころじゃない。 大騒ぎです。 しかし君注意しないと険呑ですよ。 どうせ険呑です。 こうなりゃ険呑は覚悟です。 そう云っちゃ取りつきどころもないが――実は僕も教頭として君のためを思うから云うんだがわるく取っちゃ困る。 教頭は全く君に好意を持ってるんですよ。 僕も及ばずながら同じ江戸っ子だからなるべく長くご在校を願ってお互に力になろうと思ってこれでも蔭ながら尽力しているんですよ。 それでね生徒は君の来たのを大変|歓迎しているんだがそこにはいろいろな事情があってね。 君も腹の立つ事もあるだろうがここが我慢だと思って辛防してくれたまえ。 決して君のためにならないような事はしないから。 いろいろの事情たどんな事情です。 それが少し込み入ってるんだがまあだんだん分りますよ。 僕が話さないでも自然と分って来るですね吉川君。 ええなかなか込み入ってますからね。 一朝一夕にゃ到底分りません。 しかしだんだん分ります僕が話さないでも自然と分って来るです。 そんな面倒な事情なら聞かなくてもいいんですがあなたの方から話し出したから伺うんです。 そりゃごもっともだ。 こっちで口を切ってあとをつけないのは無責任ですね。 それじゃこれだけの事を云っておきましょう。 あなたは失礼ながらまだ学校を卒業したてで教師は始めての経験である。 ところが学校というものはなかなか情実のあるものでそう書生流に淡泊には行かないですからね。 淡泊に行かなければどんな風に行くんです。 さあ君はそう率直だからまだ経験に乏しいと云うんですがね。 どうせ経験には乏しいはずです。 履歴書にもかいときましたが二十三年四ヶ月ですから。 さそこで思わぬ辺から乗ぜられる事があるんです。 正直にしていれば誰が乗じたって怖くはないです。 無論怖くはない怖くはないが乗ぜられる。 現に君の前任者がやられたんだから気を付けないといけないと云うんです。 僕の前任者が誰れに乗ぜられたんです。 だれと指すとその人の名誉に関係するから云えない。 また判然と証拠のない事だから云うとこっちの落度になる。 とにかくせっかく君が来たもんだからここで失敗しちゃ僕等も君を呼んだ甲斐がない。 どうか気を付けてくれたまえ。 気を付けろったってこれより気の付けようはありません。 わるい事をしなけりゃ好いんでしょう。 無論|悪るい事をしなければ好いんですが自分だけ悪るい事をしなくっても人の悪るいのが分らなくっちゃやっぱりひどい目に逢うでしょう。 世の中には磊落なように見えても淡泊なように見えても親切に下宿の世話なんかしてくれてもめったに油断の出来ないのがありますから。 大分寒くなった。 もう秋ですね浜の方は靄でセピヤ色になった。 いい景色だ。 おい吉川君どうだいあの浜の景色は。 冗談じゃない本当だ。 おれは君に氷水を奢られる因縁がないから出すんだ。 取らない法があるか。 そんなに一銭五厘が気になるなら取ってもいいがなぜ思い出したように今時分返すんだ。 今時分でもいつ時分でも返すんだ。 奢られるのがいやだから返すんだ。 氷水の代は受け取るから下宿は出てくれ。 一銭五厘受け取ればそれでいい。 下宿を出ようが出まいがおれの勝手だ。 ところが勝手でない昨日あすこの亭主が来て君に出てもらいたいと云うからその訳を聞いたら亭主の云うのはもっともだ。 それでももう一応たしかめるつもりで今朝あすこへ寄って詳しい話を聞いてきたんだ。 亭主が君に何を話したんだかおれが知ってるもんか。 そう自分だけで極めたって仕様があるか。 訳があるなら訳を話すが順だ。 てんから亭主の云う方がもっともだなんて失敬千万な事を云うな。 うんそんなら云ってやろう。 君は乱暴であの下宿で持て余まされているんだ。 いくら下宿の女房だって下女たあ違うぜ。 足を出して拭かせるなんて威張り過ぎるさ。 おれがいつ下宿の女房に足を拭かせた。 拭かせたかどうだか知らないがとにかく向うじゃ君に困ってるんだ。 下宿料の十円や十五円は懸物を一|幅売りゃすぐ浮いてくるって云ってたぜ。 利いた風な事をぬかす野郎だ。 そんならなぜ置いた。 なぜ置いたか僕は知らん置くことは置いたんだがいやになったんだから出ろと云うんだろう。 君出てやれ。 当り前だ。 居てくれと手を合せたって居るものか。 一体そんな云い懸りを云うような所へ周旋する君からしてが不埒だ。 おれが不埒か君が大人しくないんだかどっちかだろう。 学校の職員や生徒に過失のあるのはみんな自分の寡徳の致すところで何か事件がある度に自分はよくこれで校長が勤まるとひそかに慚愧の念に堪えんが不幸にして今回もまたかかる騒動を引き起したのは深く諸君に向って謝罪しなければならん。 しかしひとたび起った以上は仕方がないどうにか処分をせんければならん事実はすでに諸君のご承知の通りであるからして善後策について腹蔵のない事を参考のためにお述べ下さい。 私も寄宿生の乱暴を聞いてはなはだ教頭として不行届でありかつ平常の徳化が少年に及ばなかったのを深く慚ずるのであります。 でこう云う事は何か陥欠があると起るもので事件その物を見ると何だか生徒だけがわるいようであるがその真相を極めると責任はかえって学校にあるかも知れない。 だから表面上にあらわれたところだけで厳重な制裁を加えるのはかえって未来のためによくないかとも思われます。 かつ少年血気のものであるから活気があふれて善悪の考えはなく半ば無意識にこんな悪戯をやる事はないとも限らん。 でもとより処分法は校長のお考えにある事だから私の容喙する限りではないがどうかその辺をご斟酌になってなるべく寛大なお取計を願いたいと思います。 実に今回のバッタ事件及び咄喊事件は吾々心ある職員をしてひそかに吾校将来の前途に危惧の念を抱かしむるに足る珍事でありまして吾々職員たるものはこの際|奮って自ら省りみて全校の風紀を振粛しなければなりません。 それでただ今校長及び教頭のお述べになったお説は実に肯綮に中った剴切なお考えで私は徹頭徹尾賛成致します。 どうかなるべく寛大のご処分を仰ぎたいと思います。 私は徹頭徹尾反対です。 そんな頓珍漢な処分は大嫌いです。 一体生徒が全然|悪るいです。 どうしても詫まらせなくっちゃ癖になります。 退校さしても構いません。 何だ失敬な新しく来た教師だと思って。 生徒がわるい事もわるいがあまり厳重な罰などをするとかえって反動を起していけないでしょう。 やっぱり教頭のおっしゃる通り寛な方に賛成します。 私は教頭及びその他諸君のお説には全然不同意であります。 というものはこの事件はどの点から見ても五十名の寄宿生が新来の教師|某氏を軽侮してこれを翻弄しようとした所為とより外には認められんのであります。 教頭はその源因を教師の人物いかんにお求めになるようでありますが失礼ながらそれは失言かと思います。 某氏が宿直にあたられたのは着後早々の事でまだ生徒に接せられてから二十日に満たぬ頃であります。 この短かい二十日間において生徒は君の学問人物を評価し得る余地がないのであります。 軽侮されべき至当な理由があって軽侮を受けたのなら生徒の行為に斟酌を加える理由もありましょうが何らの源因もないのに新来の先生を愚弄するような軽薄な生徒を寛仮しては学校の威信に関わる事と思います。 教育の精神は単に学問を授けるばかりではない高尚な正直な武士的な元気を鼓吹すると同時に野卑な軽躁な暴慢な悪風を掃蕩するにあると思います。 もし反動が恐しいの騒動が大きくなるのと姑息な事を云った日にはこの弊風はいつ矯正出来るか知れません。 かかる弊風を杜絶するためにこそ吾々はこの学校に職を奉じているのでこれを見逃がすくらいなら始めから教師にならん方がいいと思います。 私は以上の理由で寄宿生一同を厳罰に処する上に当該教師の面前において公けに謝罪の意を表せしむるのを至当の所置と心得ます。 ただ今ちょっと失念して言い落しましたから申します。 当夜の宿直員は宿直中外出して温泉に行かれたようであるがあれはもっての外の事と考えます。 いやしくも自分が一校の留守番を引き受けながら咎める者のないのを幸に場所もあろうに温泉などへ入湯にいくなどと云うのは大きな失体である。 生徒は生徒としてこの点については校長からとくに責任者にご注意あらん事を希望します。 私は正に宿直中に温泉に行きました。 これは全くわるい。 あやまります。 元来中学の教師なぞは社会の上流にくらいするものだからして単に物質的の快楽ばかり求めるべきものでない。 その方に耽るとつい品性にわるい影響を及ぼすようになる。 しかし人間だから何か娯楽がないと田舎へ来て狭い土地では到底|暮せるものではない。 それで釣に行くとか文学書を読むとかまたは新体詩や俳句を作るとか何でも高尚な精神的娯楽を求めなくってはいけない。 マドンナに逢うのも精神的娯楽ですか。 本当の本当のって僕あ嫁が貰いたくって仕方がないんだ。 そうじゃろうがなもし。 若いうちは誰もそんなものじゃけれ。 しかし先生はもうお嫁がおありなさるに極っとらい。 私はちゃんともう睨らんどるぞなもし。 へえ活眼だね。 どうして睨らんどるんですか。 どうしててて。 東京から便りはないか便りはないかてて毎日便りを待ち焦がれておいでるじゃないかなもし。 こいつあ驚いた。 大変な活眼だ。 中りましたろうがなもし。 そうですね。 中ったかも知れませんよ。 しかし今時の女子は昔と違うて油断が出来んけれお気をお付けたがええぞなもし。 何ですかい僕の奥さんが東京で間男でもこしらえていますかい。 いいえあなたの奥さんはたしかじゃけれど。 それでやっと安心した。 それじゃ何を気を付けるんですい。 あなたのはたしか――あなたのはたしかじゃが――。 どこに不たしかなのが居ますかね。 ここ等にも大分|居ります。 先生あの遠山のお嬢さんをご存知かなもし。 いいえ知りませんね。 まだご存知ないかなもし。 ここらであなた一番の別嬪さんじゃがなもし。 あまり別嬪さんじゃけれ学校の先生方はみんなマドンナマドンナと言うといでるぞなもし。 まだお聞きんのかなもし。 うんマドンナですか。 僕あ芸者の名かと思った。 いいえあなた。 マドンナと云うと唐人の言葉で別嬪さんの事じゃろうがなもし。 そうかも知れないね。 驚いた。 大方画学の先生がお付けた名ぞなもし。 野だがつけたんですかい。 いいえあの吉川先生がお付けたのじゃがなもし。 そのマドンナが不たしかなんですかい。 そのマドンナさんが不たしかなマドンナさんでなもし。 厄介だね。 渾名の付いてる女にゃ昔から碌なものは居ませんからね。 そうかも知れませんよ。 ほん当にそうじゃなもし。 鬼神のお松じゃの妲妃のお百じゃのてて怖い女が居りましたなもし。 マドンナもその同類なんですかね。 そのマドンナさんがなもしあなた。 そらあのあなたをここへ世話をしておくれた古賀先生なもし――あの方の所へお嫁に行く約束が出来ていたのじゃがなもし――。 へえ不思議なもんですね。 あのうらなり君がそんな艶福のある男とは思わなかった。 人は見懸けによらない者だな。 ちっと気を付けよう。 ところが去年あすこのお父さんがお亡くなりて――それまではお金もあるし銀行の株も持ってお出るし万事|都合がよかったのじゃが――それからというものはどういうものか急に暮し向きが思わしくなくなって――つまり古賀さんがあまりお人が好過ぎるけれお欺されたんぞなもし。 それやこれやでお輿入も延びているところへあの教頭さんがお出でて是非お嫁にほしいとお云いるのじゃがなもし。 あの赤シャツがですか。 ひどい奴だ。 どうもあのシャツはただのシャツじゃないと思ってた。 それから。 人を頼んで懸合うておみると遠山さんでも古賀さんに義理があるからすぐには返事は出来かねて――まあよう考えてみようぐらいの挨拶をおしたのじゃがなもし。 すると赤シャツさんが手蔓を求めて遠山さんの方へ出入をおしるようになってとうとうあなたお嬢さんを手馴付けておしまいたのじゃがなもし。 赤シャツさんも赤シャツさんじゃがお嬢さんもお嬢さんじゃててみんなが悪るく云いますのよ。 いったん古賀さんへ嫁に行くてて承知をしときながら今さら学士さんがお出たけれその方に替えよててそれじゃ今日様へ済むまいがなもしあなた。 全く済まないね。 今日様どころか明日様にも明後日様にもいつまで行ったって済みっこありませんね。 それで古賀さんにお気の毒じゃててお友達の堀田さんが教頭の所へ意見をしにお行きたら赤シャツさんがあしは約束のあるものを横取りするつもりはない。 破約になれば貰うかも知れんが今のところは遠山家とただ交際をしているばかりじゃ遠山家と交際をするには別段古賀さんに済まん事もなかろうとお云いるけれ堀田さんも仕方がなしにお戻りたそうな。 赤シャツさんと堀田さんはそれ以来|折合がわるいという評判ぞなもし。 よくいろいろな事を知ってますね。 どうしてそんな詳しい事が分るんですか。 感心しちまった。 狭いけれ何でも分りますぞなもし。 赤シャツと山嵐たあどっちがいい人ですかね。 山嵐て何ぞなもし。 山嵐というのは堀田の事ですよ。 そりゃ強い事は堀田さんの方が強そうじゃけれどしかし赤シャツさんは学士さんじゃけれ働きはある方ぞなもし。 それから優しい事も赤シャツさんの方が優しいが生徒の評判は堀田さんの方がええというぞなもし。 つまりどっちがいいんですかね。 つまり月給の多い方が豪いのじゃろうがなもし。 あなたはどっか悪いんじゃありませんか。 大分たいぎそうに見えますが。 いえ別段これという持病もないですが。 そりゃ結構です。 からだが悪いと人間も駄目ですね。 あなたは大分ご丈夫のようですな。 ええ瘠せても病気はしません。 病気なんてものあ大嫌いですから。 君が来てくれてから前任者の時代よりも成績がよくあがって校長も大いにいい人を得たと喜んでいるので――どうか学校でも信頼しているのだからそのつもりで勉強していただきたい。 へえそうですか勉強って今より勉強は出来ませんが――。 今のくらいで充分です。 ただ先だってお話しした事ですねあれを忘れずにいて下さればいいのです。 下宿の世話なんかするものあ剣呑だという事ですか。 そう露骨に云うと意味もない事になるが――まあ善いさ――精神は君にもよく通じている事と思うから。 そこで君が今のように出精して下されば学校の方でもちゃんと見ているんだからもう少しして都合さえつけば待遇の事も多少はどうにかなるだろうと思うんですがね。 へえ俸給ですか。 俸給なんかどうでもいいんですが上がれば上がった方がいいですね。 それで幸い今度転任者が一人出来るから――もっとも校長に相談してみないと無論受け合えない事だが――その俸給から少しは融通が出来るかも知れないからそれで都合をつけるように校長に話してみようと思うんですがね。 どうも難有う。 だれが転任するんですか。 もう発表になるから話しても差し支えないでしょう。 実は古賀君です。 古賀さんはだってここの人じゃありませんか。 ここの地の人ですが少し都合があって――半分は当人の希望です。 どこへ行くんです。 日向の延岡で――土地が土地だから一級俸|上って行く事になりました。 誰か代りが来るんですか。 代りも大抵極まってるんです。 その代りの具合で君の待遇上の都合もつくんです。 はあ結構です。 しかし無理に上がらないでも構いません。 とも角も僕は校長に話すつもりです。 それで校長も同意見らしいが追っては君にもっと働いて頂だかなくってはならんようになるかも知れないからどうか今からそのつもりで覚悟をしてやってもらいたいですね。 今より時間でも増すんですか。 いいえ時間は今より減るかも知れませんが――。 時間が減ってもっと働くんですか妙だな。 ちょっと聞くと妙だが――判然とは今言いにくいが――まあつまり君にもっと重大な責任を持ってもらうかも知れないという意味なんです。 お婆さん古賀さんは日向へ行くそうですね。 ほん当にお気の毒じゃなもし。 お気の毒だって好んで行くんなら仕方がないですね。 好んで行くて誰がぞなもし。 誰がぞなもしって当人がさ。 古賀先生が物数奇に行くんじゃありませんか。 そりゃあなた大違いの勘五郎ぞなもし。 勘五郎かね。 だって今赤シャツがそう云いましたぜ。 それが勘五郎なら赤シャツは嘘つきの法螺右衛門だ。 教頭さんがそうお云いるのはもっともじゃが古賀さんのお往きともないのももっともぞなもし。 そんなら両方もっともなんですね。 お婆さんは公平でいい。 一体どういう訳なんですい。 今朝古賀のお母さんが見えてだんだん訳をお話したがなもし。 どんな訳をお話したんです。 あそこもお父さんがお亡くなりてからあたし達が思うほど暮し向が豊かになうてお困りじゃけれお母さんが校長さんにお頼みてもう四年も勤めているものじゃけれどうぞ毎月頂くものを今少しふやしておくれんかててあなた。 なるほど。 校長さんがようまあ考えてみとこうとお云いたげな。 それでお母さんも安心して今に増給のご沙汰があろぞ今月か来月かと首を長くして待っておいでたところへ校長さんがちょっと来てくれと古賀さんにお云いるけれ行ってみると気の毒だが学校は金が足りんけれ月給を上げる訳にゆかん。 しかし延岡になら空いた口があってそっちなら毎月五円余分にとれるからお望み通りでよかろうと思うてその手続きにしたから行くがええと云われたげな。 ――。 じゃ相談じゃない命令じゃありませんか。 さよよ。 古賀さんはよそへ行って月給が増すより元のままでもええからここに居りたい。 屋敷もあるし母もあるからとお頼みたけれどももうそう極めたあとで古賀さんの代りは出来ているけれ仕方がないと校長がお云いたげな。 へん人を馬鹿にしてら面白くもない。 じゃ古賀さんは行く気はないんですね。 どうれで変だと思った。 五円ぐらい上がったってあんな山の中へ猿のお相手をしに行く唐変木はまずないからね。 唐変木て先生なんぞなもし。 何でもいいでさあ――全く赤シャツの作略だね。 よくない仕打だ。 まるで欺撃ですね。 それでおれの月給を上げるなんて不都合な事があるものか。 上げてやるったって誰が上がってやるものか。 先生は月給がお上りるのかなもし。 上げてやるって云うから断わろうと思うんです。 何でお断わりるのぞなもし。 何でもお断わりだ。 お婆さんあの赤シャツは馬鹿ですぜ。 卑怯でさあ。 卑怯でもあんた月給を上げておくれたら大人しく頂いておく方が得ぞなもし。 若いうちはよく腹の立つものじゃが年をとってから考えるとも少しの我慢じゃあったのに惜しい事をした。 腹立てたためにこないな損をしたと悔むのが当り前じゃけれお婆の言う事をきいて赤シャツさんが月給をあげてやろとお言いたら難有うと受けておおきなさいや。 年寄の癖に余計な世話を焼かなくってもいい。 おれの月給は上がろうと下がろうとおれの月給だ。 さっき僕の月給を上げてやるというお話でしたが少し考えが変ったから断わりに来たんです。 あの時承知したのは古賀君が自分の希望で転任するという話でしたからで。 古賀君は全く自分の希望で半ば転任するんです。 そうじゃないんですここに居たいんです。 元の月給でもいいから郷里に居たいのです。 君は古賀君からそう聞いたのですか。 そりゃ当人から聞いたんじゃありません。 じゃ誰からお聞きです。 僕の下宿の婆さんが古賀さんのおっ母さんから聞いたのを今日僕に話したのです。 じゃ下宿の婆さんがそう云ったのですね。 まあそうです。 それは失礼ながら少し違うでしょう。 あなたのおっしゃる通りだと下宿屋の婆さんの云う事は信ずるが教頭の云う事は信じないと云うように聞えるがそういう意味に解釈して差支えないでしょうか。 あなたの云う事は本当かも知れないですが――とにかく増給はご免蒙ります。 それはますます可笑しい。 今君がわざわざお出になったのは増俸を受けるには忍びない理由を見出したからのように聞えたがその理由が僕の説明で取り去られたにもかかわらず増俸を否まれるのは少し解しかねるようですね。 解しかねるかも知れませんがね。 とにかく断わりますよ。 そんなに否なら強いてとまでは云いませんがそう二三時間のうちに特別の理由もないのに豹変しちゃ将来君の信用にかかわる。 かかわっても構わないです。 そんな事はないはずです人間に信用ほど大切なものはありませんよ。 よしんば今一歩|譲って下宿の主人が。 主人じゃない婆さんです。 どちらでもよろしい。 下宿の婆さんが君に話した事を事実としたところで君の増給は古賀君の所得を削って得たものではないでしょう。 古賀君は延岡へ行かれる。 その代りがくる。 その代りが古賀君よりも多少低給で来てくれる。 その剰余を君に廻わすと云うのだから君は誰にも気の毒がる必要はないはずです。 古賀君は延岡でただ今よりも栄進される。 新任者は最初からの約束で安くくる。 それで君が上がられればこれほど都合のいい事はないと思うですがね。 いやなら否でもいいがもう一返うちでよく考えてみませんか。 あなたの云う事はもっともですが僕は増給がいやになったんですからまあ断わります。 考えたって同じ事です。 さようなら。 君は一体どこの産だ。 おれは江戸っ子だ。 うん江戸っ子か道理で負け惜しみが強いと思った。 きみはどこだ。 僕は会津だ。 会津っぽか強情な訳だ。 今日の送別会へ行くのかい。 行くとも君は。 おれは無論行くんだ。 古賀さんが立つ時は浜まで見送りに行こうと思ってるくらいだ。 送別会は面白いぜ出て見たまえ。 今日は大いに飲むつもりだ。 勝手に飲むがいい。 おれは肴を食ったらすぐ帰る。 酒なんか飲む奴は馬鹿だ。 君はすぐ喧嘩を吹き懸ける男だ。 なるほど江戸っ子の軽跳な風をよくあらわしてる。 何でもいい送別会へ行く前にちょっとおれのうちへお寄り話しがあるから。 美しい顔をして人を陥れるようなハイカラ野郎は延岡に居らないからと君は云ったろう。 うん。 ハイカラ野郎だけでは不足だよ。 じゃ何と云うんだ。 ハイカラ野郎のペテン師のイカサマ師の猫被りの香具師のモモンガーの岡っ引きのわんわん鳴けば犬も同然な奴とでも云うがいい。 おれにはそう舌は廻らない。 君は能弁だ。 第一単語を大変たくさん知ってる。 それで演舌が出来ないのは不思議だ。 なにこれは喧嘩のときに使おうと思って用心のために取っておく言葉さ。 演舌となっちゃこうは出ない。 そうかなしかしぺらぺら出るぜ。 もう一遍やって見たまえ。 何遍でもやるさいいか。 ――ハイカラ野郎のペテン師のイカサマ師の。 両君そりゃひどい――逃げるなんて――僕が居るうちは決して逃さないさあのみたまえ。 ――いかさま師。 ――面白いいかさま面白い。 ――さあ飲みたまえ。 さあ諸君いかさま師を引っ張って来た。 さあ飲ましてくれたまえ。 いかさま師をうんと云うほど酔わしてくれたまえ。 君逃げちゃいかん。 あいつはふた言目には品性だの精神的|娯楽だのと云う癖に裏へ廻って芸者と関係なんかつけとる怪しからん奴だ。 それもほかの人が遊ぶのを寛容するならいいが君が蕎麦屋へ行ったり団子屋へはいるのさえ取締上害になると云って校長の口を通して注意を加えたじゃないか。 うんあの野郎の考えじゃ芸者買は精神的娯楽で天麩羅や団子は物理的娯楽なんだろう。 精神的娯楽ならもっと大べらにやるがいい。 何だあの様は。 馴染の芸者がはいってくると入れ代りに席をはずして逃げるなんてどこまでも人を胡魔化す気だから気に食わない。 そうして人が攻撃すると僕は知らないとか露西亜文学だとか俳句が新体詩の兄弟分だとか云って人を烟に捲くつもりなんだ。 あんな弱虫は男じゃないよ。 全く御殿女中の生れ変りか何かだぜ。 ことによるとあいつのおやじは湯島のかげまかもしれない。 湯島のかげまた何だ。 何でも男らしくないもんだろう。 ――君そこのところはまだ煮えていないぜ。 そんなのを食うと絛虫が湧くぜ。 そうか大抵大丈夫だろう。 それで赤シャツは人に隠れて温泉の町の角屋へ行って芸者と会見するそうだ。 角屋ってあの宿屋か。 宿屋兼料理屋さ。 だからあいつを一番へこますためにはあいつが芸者をつれてあすこへはいり込むところを見届けておいて面詰するんだね。 見届けるって夜番でもするのかい。 うん角屋の前に枡屋という宿屋があるだろう。 あの表二階をかりて障子へ穴をあけて見ているのさ。 見ているときに来るかい。 来るだろう。 どうせひと晩じゃいけない。 二週間ばかりやるつもりでなくっちゃ。 随分疲れるぜ。 僕あおやじの死ぬとき一週間ばかり徹夜して看病した事があるがあとでぼんやりして大いに弱った事がある。 少しぐらい身体が疲れたって構わんさ。 あんな奸物をあのままにしておくと日本のためにならないから僕が天に代って誅戮を加えるんだ。 愉快だ。 そう事が極まればおれも加勢してやる。 それで今夜から夜番をやるのかい。 まだ枡屋に懸合ってないから今夜は駄目だ。 それじゃいつから始めるつもりだい。 近々のうちやるさ。 いずれ君に報知をするからそうしたら加勢してくれたまえ。 よろしいいつでも加勢する。 僕は計略は下手だが喧嘩とくるとこれでなかなかすばしこいぜ。 ああやって喧嘩をさせておいてすぐあとから新聞屋へ手を廻してあんな記事をかかせたんだ。 実に奸物だ。 新聞までも赤シャツか。 そいつは驚いた。 しかし新聞が赤シャツの云う事をそう容易く聴くかね。 聴かなくって。 新聞屋に友達が居りゃ訳はないさ。 友達が居るのかい。 居なくても訳ないさ。 嘘をついて事実これこれだと話しゃすぐ書くさ。 ひどいもんだな。 本当に赤シャツの策なら僕等はこの事件で免職になるかも知れないね。 わるくすると遣られるかも知れない。 そんならおれは明日辞表を出してすぐ東京へ帰っちまわあ。 こんな下等な所に頼んだって居るのはいやだ。 君が辞表を出したって赤シャツは困らない。 それもそうだな。 どうしたら困るだろう。 あんな奸物の遣る事は何でも証拠の挙がらないように挙がらないようにと工夫するんだから反駁するのはむずかしいね。 厄介だな。 それじゃ濡衣を着るんだね。 面白くもない。 天道是耶非かだ。 まあもう二三日様子を見ようじゃないか。 それでいよいよとなったら温泉の町で取って抑えるより仕方がないだろう。 喧嘩事件は喧嘩事件としてか。 そうさ。 こっちはこっちで向うの急所を抑えるのさ。 それもよかろう。 おれは策略は下手なんだから万事よろしく頼む。 いざとなれば何でもする。 そんな裁判はないぜ。 狸は大方|腹鼓を叩き過ぎて胃の位置が顛倒したんだ。 君とおれはいっしょに祝勝会へ出てさいっしょに高知のぴかぴか踴りを見てさいっしょに喧嘩をとめにはいったんじゃないか。 辞表を出せというなら公平に両方へ出せと云うがいい。 なんで田舎の学校はそう理窟が分らないんだろう。 焦慮いな。 それが赤シャツの指金だよ。 おれと赤シャツとは今までの行懸り上|到底両立しない人間だが君の方は今の通り置いても害にならないと思ってるんだ。 おれだって赤シャツと両立するものか。 害にならないと思うなんて生意気だ。 君はあまり単純過ぎるから置いたってどうでも胡魔化されると考えてるのさ。 なお悪いや。 誰が両立してやるものか。 それに先だって古賀が去ってからまだ後任が事故のために到着しないだろう。 その上に君と僕を同時に追い出しちゃ生徒の時間に明きが出来て授業にさし支えるからな。 それじゃおれを間のくさびに一席|伺わせる気なんだな。 こん畜生だれがその手に乗るものか。 何で私に辞表を出せと云わないんですか。 へえ。 堀田には出せ私には出さないで好いと云う法がありますか。 それは学校の方の都合で。 その都合が間違ってまさあ。 私が出さなくって済むなら堀田だって出す必要はないでしょう。 その辺は説明が出来かねますが――堀田君は去られてもやむをえんのですがあなたは辞表をお出しになる必要を認めませんから。 それじゃ私も辞表を出しましょう。 堀田君一人辞職させて私が安閑として留まっていられると思っていらっしゃるかも知れないが私にはそんな不人情な事は出来ません。 それは困る。 堀田も去りあなたも去ったら学校の数学の授業がまるで出来なくなってしまうから。 出来なくなっても私の知った事じゃありません。 君そう我儘を云うものじゃない少しは学校の事情も察してくれなくっちゃ困る。 それに来てから一月立つか立たないのに辞職したと云うと君の将来の履歴に関係するからその辺も少しは考えたらいいでしょう。 履歴なんか構うもんですか履歴より義理が大切です。 そりゃごもっとも――君の云うところは一々ごもっともだがわたしの云う方も少しは察して下さい。 君が是非辞職すると云うなら辞職されてもいいから代りのあるまでどうかやってもらいたい。 とにかくうちでもう一返考え直してみて下さい。 今夜七時半頃あの小鈴と云う芸者が角屋へはいった。 赤シャツといっしょか。 いいや。 それじゃ駄目だ。 芸者は二人づれだが――どうも有望らしい。 どうして。 どうしてってああ云う狡い奴だから芸者を先へよこして後から忍んでくるかも知れない。 そうかも知れない。 もう九時だろう。 今九時十二分ばかりだ。 おい洋燈を消せ障子へ二つ坊主頭が写ってはおかしい。 狐はすぐ疑ぐるから。 おい来るだろうかな。 今夜来なければ僕はもう厭だぜ。 おれは銭のつづく限りやるんだ。 銭っていくらあるんだい。 今日までで八日分五円六十銭払った。 いつ飛び出しても都合のいいように毎晩|勘定するんだ。 それは手廻しがいい。 宿屋で驚いてるだろう。 宿屋はいいが気が放せないから困る。 その代り昼寝をするだろう。 昼寝はするが外出が出来ないんで窮屈でたまらない。 天誅も骨が折れるな。 これで天網恢々疎にして洩らしちまったり何かしちゃつまらないぜ。 なに今夜はきっとくるよ。 ――おい見ろ見ろ。 もう大丈夫ですね。 邪魔ものは追っ払ったから。 強がるばかりで策がないから仕様がない。 あの男もべらんめえに似ていますね。 あのべらんめえと来たら勇み肌の坊っちゃんだから愛嬌がありますよ。 増給がいやだの辞表を出したいのってありゃどうしても神経に異状があるに相違ない。 おい。 おい。 来たぜ。 とうとう来た。 これでようやく安心した。 野だの畜生おれの事を勇み肌の坊っちゃんだと抜かしやがった。 邪魔物と云うのはおれの事だぜ。 失敬千万な。 教頭の職を持ってるものが何で角屋へ行って泊った。 教頭は角屋へ泊って悪るいという規則がありますか。 取締上不都合だから蕎麦屋や団子屋へさえはいってはいかんと云うくらい謹直な人がなぜ芸者といっしょに宿屋へとまり込んだ。 べらんめえの坊っちゃんた何だ。 いえ君の事を云ったんじゃないんです全くないんです。 芸者をつれて僕が宿屋へ泊ったと云う証拠がありますか。 宵に貴様のなじみの芸者が角屋へはいったのを見て云う事だ。 胡魔化せるものか。 胡魔化す必要はない。 僕は吉川君と二人で泊ったのである。 芸者が宵にはいろうがはいるまいが僕の知った事ではない。 だまれ。 これは乱暴だ狼藉である。 理非を弁じないで腕力に訴えるのは無法だ。 無法でたくさんだ。 貴様のような奸物はなぐらなくっちゃ答えないんだ。 もうたくさんかたくさんでなけりゃまだ撲ってやる。 もうたくさんだ。 貴様もたくさんか。 無論たくさんだ。 貴様等は奸物だからこうやって天誅を加えるんだ。 これに懲りて以来つつしむがいい。 いくら言葉|巧みに弁解が立っても正義は許さんぞ。 おれは逃げも隠れもせん。 今夜五時までは浜の港屋に居る。 用があるなら巡査なりなんなりよこせ。 おれも逃げも隠れもしないぞ。 堀田と同じ所に待ってるから警察へ訴えたければ勝手に訴えろ。 赤シャツも野だも訴えなかったなあ。 如何にして。 何故に。 写真は少し困ります。 あなたの雑誌へ出すために撮る写真は笑わなくってはいけないのでしょう。 いえそんな事はありません。 当り前の顔で構いませんなら載せていただいても宜しゅうございます。 いえそれで結構でございますからどうぞ。 御約束ではございますが少しどうか笑っていただけますまいか。 これで好いでしょう。 御約束ではございますが少しどうか。 今日は御祝い。 どうかしてやらないといけない。 病気だから。 医者へ連れて行こうと思って探したけれどもどこにもおりません。 こちらで埋めておきましょうか。 秋風の聞えぬ土に埋めてやりぬ。 この間は昂奮して私の事を書いていただきたいように申し上げましたがそれは止めに致します。 ただ先生に聞いていただくだけにしておきますからどうかそのおつもりで。 あなたの許諾を得ない以上はたといどんなに書きたい事柄が出て来てもけっして書く気遣はありませんから御安心なさい。 もし先生が小説を御書きになる場合にはその女の始末をどうなさいますか。 女の死ぬ方がいいと御思いになりますかそれとも生きているように御書きになりますか。 生きるという事を人間の中心点として考えればそのままにしていて差支ないでしょう。 しかし美くしいものや気高いものを一義において人間を評価すれば問題が違って来るかも知れません。 先生はどちらを御択びになりますか。 私は今持っているこの美しい心持が時間というもののためにだんだん薄れて行くのが怖くってたまらないのです。 この記憶が消えてしまってただ漫然と魂の抜殻のように生きている未来を想像するとそれが苦痛で苦痛で恐ろしくってたまらないのです。 もう十一時だから御帰りなさい。 夜が更けたから送って行って上げましょう。 先生に送っていただいてはもったいのうございます。 もったいない訳がありません。 同じ人間です。 先生に送っていただくのは光栄でございます。 本当に光栄と思いますか。 思います。 そんなら死なずに生きていらっしゃい。 死は生よりも尊とい。 もし生きているのが苦痛なら死んだら好いでしょう。 時。 時。 時。 あッ悟った。 悟りというものは妙なものだな。 いやに澄ましているな。 うん。 時。 人間も樺太まで行けばもう行く先はなかろうな。 まあそんなものだ。 なんだ。 栗饅頭だ。 あの栗饅頭を取って来たのか。 そうかも知れない。 そっちじゃないよ。 なるほど方角は樺太の方が確なようだ。 それは老眼鏡じゃないか。 よくそれで遠い所が見えるね。 なにチャブドーだ。 何か書いたものを見ていただきたいのだそうでございます。 これは社交ではありません。 御互に体裁の好い事ばかり云い合っていてはいつまで経ったって啓発されるはずも利益を受ける訳もないのです。 あなたは思い切って正直にならなければ駄目ですよ。 自分さえ充分に開放して見せれば今あなたがどこに立ってどっちを向いているかという実際が私によく見えて来るのです。 そうした時私は始めてあなたを指導する資格をあなたから与えられたものと自覚しても宜しいのです。 だから私が何か云ったら腹に答えべき或物を持っている以上けっして黙っていてはいけません。 こんな事を云ったら笑われはしまいか恥を掻きはしまいかまたは失礼だといって怒られはしまいかなどと遠慮して相手に自分という正体を黒く塗り潰した所ばかり示す工夫をするならば私がいくらあなたに利益を与えようと焦慮ても私の射る矢はことごとく空矢になってしまうだけです。 「これは私のあなたに対する注文ですがその代り私の方でもこの私というものを隠しは致しません。 ありのままを曝け出すよりほかにあなたを教える途はないのです。 だから私の考えのどこかに隙があってその隙をもしあなたから見破られたら私はあなたに私の弱点を握られたという意味で敗北の結果に陥るのです。 教を受ける人だけが自分を開放する義務をもっていると思うのは間違っています。 教える人も己れをあなたの前に打ち明けるのです。 双方とも社交を離れて勘破し合うのです。 「そういう訳で私はこれからあなたの書いたものを拝見する時にずいぶん手ひどい事を思い切って云うかも知れませんがしかし怒ってはいけません。 あなたの感情を害するためにいうのではないのですから。 その代りあなたの方でも腑に落ちない所があったらどこまでも切り込んでいらっしゃい。 あなたが私の主意を了解している以上私はけっして怒るはずはありませんから。 「要するにこれはただ現状維持を目的として上滑りな円滑を主位に置く社交とは全く別物なのです。 解りましたか。 大方気違だろう。 拝啓失敬申し候えども。 失敬申し候えども。 あなたの紙入に入っているのもやっておしまいなさい。 余計な事をいう女だ。 この家は大変|締りの好い宅だ。 どうしても宅にはありません裏の夏目さんにはたくさんあるからあすこへいらっしゃい。 この場合私は労力を売りに行ったのではない。 好意ずくで依頼に応じたのだから向うでも好意だけで私に酬いたらよかろうと思う。 もし報酬問題とする気なら最初から御礼はいくらするが来てくれるかどうかと相談すべきはずでしょう。 しかしどうでしょう。 その十円はあなたの労力を買ったという意味でなくってあなたに対する感謝の意を表する一つの手段と見たら。 そう見る訳には行かないのですか。 品物なら判然そう解釈もできるのですが不幸にも御礼が普通営業的の売買に使用する金なのですからどっちとも取れるのです。 どっちとも取れるならこの際善意の方に解釈した方が好くはないでしょうか。 私は御存じの通り原稿料で衣食しているくらいですから無論富裕とは云えません。 しかしどうかこうかそれだけで今日を過ごして行かれるのです。 だから自分の職業以外の事にかけてはなるべく好意的に人のために働いてやりたいという考えを持っています。 そうしてその好意が先方に通じるのが私にとっては何よりも尊とい報酬なのです。 したがって金などを受けると私が人のために働いてやるという余地――今の私にはこの余地がまた極めて狭いのです。 ――その貴重な余地を腐蝕させられたような心持になります。 もし岩崎とか三井とかいう大富豪に講演を頼むとした場合に後から十円の御礼を持って行くでしょうかあるいは失礼だからと云ってただ挨拶だけにとどめておくでしょうか。 私の考ではおそらく金銭は持って行くまいと思うのですが。 さあ。 己惚かは知りませんが私の頭は三井岩崎に比べるほど富んでいないにしても一般学生よりはずっと金持に違いないと信じています。 そうですとも。 もし岩崎や三井に十円の御礼を持って行く事が失礼ならば私の所へ十円の御礼を持って来るのも失礼でしょう。 それもその十円が物質上私の生活に非常な潤沢を与えるならまたほかの意味からこの問題を眺める事もできるでしょうが現に私はそれを他にやろうとまで思ったのだから。 ――私の現下の経済的生活はこの十円のためにほとんど目に立つほどの影響を蒙らないのだから。 よく考えて見ましょう。 高田の旦那などにもだいぶ御世話になりました。 へえ高田を知ってるのかい。 知ってるどころじゃございません。 始終徳徳って贔屓にして下すったもんです。 高田も死んだよ。 へッ。 いい旦那でしたがね惜しい事に。 いつ頃御亡くなりになりました。 なについ此間さ。 今日で二週間になるかならないぐらいのものだろう。 考えると早いもんですね旦那つい昨日の事としっきゃ思われないのにもう三十年近くにもなるんですから。 あのそら求友亭の横町にいらしってね。 うんあの二階のある家だろう。 ええ御二階がありましたっけ。 あすこへ御移りになった時なんか方々様から御祝い物なんかあって大変|御盛でしたがね。 それから後でしたっけか行願寺の寺内へ御引越なすったのは。 あの寺内も今じゃ大変変ったようだね。 用がないのでそれからつい入って見た事もないが。 変ったの変らないのってあなた今じゃまるで待合ばかりでさあ。 なるほどそう云えば誰が袖なんて看板が通りから見えるようだね。 ええたくさんできましたよ。 もっとも変るはずですね考えて見ると。 もうやがて三十年にもなろうと云うんですから。 旦那も御承知の通りあの時分は芸者屋ったら寺内にたった一軒しきゃ無かったもんでさあ。 東家ってね。 ちょうどそら高田の旦那の真向でしたろう東家の御神灯のぶら下がっていたのは。 今日は。 おいちょっとおいで好いものあるから。 またトランプをしましょう。 僕は銭がないから厭だ。 好いわ私が持ってるから。 御作が好い御客に引かされた。 あすこにいた御作という女を知ってるかね。 知ってるどころかありゃ私の姪でさあ。 そうかい。 それで今どこにいるのかね。 御作は亡くなりましたよ旦那。 いつ。 いつってもう昔の事になりますよ。 たしかあれが二十三の年でしたろう。 へええ。 しかも浦塩で亡くなったんです。 旦那が領事館に関係のある人だったもんですからあっちへいっしょに行きましてね。 それから間もなくでした死んだのは。 どうも自分の周囲がきちんと片づかないで困りますがどうしたら宜しいものでしょう。 どこかさっぱりした家を探して下宿でもしたら好いでしょう。 いえ部屋の事ではないので頭の中がきちんと片づかないで困るのです。 外からは何でも頭の中に入って来ますがそれが心の中心と折合がつかないのです。 あなたのいう心の中心とはいったいどんなものですか。 どんなものと云って真直な直線なのです。 物には何でも中心がございましょう。 それは眼で見る事ができ尺度で計る事のできる物体についての話でしょう。 心にも形があるんですか。 そんならその中心というものをここへ出して御覧なさい。 あなたの直線というのは比喩じゃありませんか。 もし比喩なら円と云っても四角と云ってもつまり同じ事になるのでしょう。 そうかも知れませんが形や色が始終変っているうちに少しも変らないものがどうしてもあるのです。 その変るものと変らないものが別々だとすると要するに心が二つある訳になりますがそれで好いのですか。 変るものはすなわち変らないものでなければならないはずじゃありませんか。 すべて外界のものが頭のなかに入ってすぐ整然と秩序なり段落なりがはっきりするように納まる人はおそらくないでしょう。 失礼ながらあなたの年齢や教育や学問でそうきちんと片づけられる訳がありません。 もしまたそんな意味でなくって学問の力を借りずに徹底的にどさりと納まりをつけたいなら私のようなものの所へ来ても駄目です。 坊さんの所へでもいらっしゃい。 私は始めて先生を御見上げ申した時に先生の心はそういう点で普通の人以上に整のっていらっしゃるように思いました。 そんなはずがありません。 でも私にはそう見えました。 内臓の位置までが調っていらっしゃるとしか考えられませんでした。 もし内臓がそれほど具合よく調節されているならこんなに始終病気などはしません。 私は病気にはなりません。 それはあなたが私より偉い証拠です。 どうぞ御身体を御大切に。 旅の衣は篠懸の。 好い御天気で。 いーやっちゃいくら。 もうしもうし花魁えと云われて八ツ橋なんざますえとふり返る途端に切り込む刃の光。 半鐘と並んで高き冬木|哉。 他の死ぬのは当り前のように見えますが自分が死ぬという事だけはとても考えられません。 そんなに隊のものが続々|斃れるのを見ていながら自分だけは死なないと思っていられますか。 いられますね。 おおかた死ぬまでは死なないと思ってるんでしょう。 ああして始終落ちたり死んだりしたら後から乗るものは怖いだろうね。 今度はおれの番だという気になりそうなものだがそうでないかしら。 ところがそうでないと見えます。 なぜ。 なぜってまるで反対の心理状態に支配されるようになるらしいのです。 やッぱりあいつは墜落して死んだがおれは大丈夫だという気になると見えますね。 時。 影|参差松三本の月夜かな。 そんな所に生い立ってよく今日まで無事にすんだものですね。 まあどうかこうか無事にやって来ました。 よく人が云いますね菓子屋へ奉公するといくら甘いものの好な男でも菓子が厭になるって御彼岸に御萩などを拵えているところを宅で見ていても分るじゃありませんか拵えるものはただ御萩を御重に詰めるだけでもうげんなりした顔をしているくらいだから。 あなたの場合もそんな訳なんですか。 そういう訳でもないようです。 とにかく廿歳少し過ぎまでは平気でいたのですから。 たといあなたが平気でいても相手が平気でいない場合がないとも限らないじゃありませんか。 そんな時にはどうしたって誘われがちになるのが当り前でしょう。 今からふり返って見るとなるほどこういう意味でああいう事をしたのだとかあんな事を云ったのだとかいろいろ思い当る事がないでもありません。 じゃ全く気がつかずにいたのですね。 まあそうです。 それからこちらで気のついたのも一つありました。 しかし私の心はどうしてもその相手に惹きつけられる事ができなかったのです。 それだけで今日まで経過して来られたのですか。 まだ使用人であった頃にある女と二年ばかり会っていた事があります。 相手は無論|素人ではないのでした。 しかしその女はもういないのです。 首を縊って死んでしまったのです。 年は十九でした。 十日ばかり会わないでいるうちに死んでしまったのです。 その女にはね旦那が二人あって双方が意地ずくで身受の金を競り上げにかかったのです。 それに双方共老妓を味方にしてこっちへ来いあっちへ行くなと義理責にもしたらしいのです。 あなたはそれを救ってやる訳に行かなかったのですか。 当時の私は丁稚の少し毛の生えたようなものでとてもどうもできないのです。 しかしその芸妓はあなたのために死んだのじゃありませんか。 さあ。 一度に双方の旦那に義理を立てる訳に行かなかったからかも知れませんが。 しかし私ら二人の間にどこへも行かないという約束はあったに違ないのです。 するとあなたが間接にその女を殺した事になるのかも知れませんね。 あるいはそうかも知れません。 あなたは寝覚が悪かありませんか。 どうも好くないのです。 この間は失礼しました。 実はどこの美くしい方かと思って見ていました。 芸者じゃないかしらとも考えたのです。 実は喧嘩をしていたのです。 妻も定めて無愛想でしたろう。 私はまた苦々しい顔を見せるのも失礼だと思ってわざと引込んでいたのです。 ある程の菊投げ入れよ棺の中。 帰ると承知しないぞ。 益さん西洋人の所へ手紙を配達する事もあるだろう。 そりゃ商売だから厭だって仕方がありません持って行きますよ。 益さんは英語ができるのかね。 英語ができるくらいならこんな真似をしちゃいません。 しかし郵便ッとか何とか大きな声を出さなくっちゃならないだろう。 そりゃ日本語で間に合いますよ。 異人だって近頃は日本語が解りますもの。 へええ向でも何とか云うのかね。 云いますとも。 ペロリの奥さんなんかあなたよろしいありがとうとちゃんと日本語で挨拶をするくらいです。 益さん何て云うんだってその奥さんは。 あなたよろしい。 じゃ益さん野中の一本杉をやって御覧よ。 やれったってそうおいそれとやれるもんじゃありません。 まあ好いからおやりよ。 いよいよ野中の一本杉の所まで参りますと。 どう考えても騙されて泣くのは厭だ。 それが先生の常態なのでしょう。 平生涙を控え目にしているのはかえってあなたのよそゆきじゃありませんか。 いったい君に画を論ずる資格はないはずだ。 じゃ小説を作れば自然柔道も旨くなるかい。 柔道は芸術じゃありませんよ。 じゃ絶交しよう。 絶交するなら外でやってくれここでは迷惑だから。 じゃ外へ出て絶交しようか。 これは何代目の猫ですか。 二代目です。 ああ瘡葢を零してもし小供にでも伝染するといけないから病院へ連れて行って早く療治をしてやるがいい。 クロロフォームか何かで殺してやった方がかえって苦痛がなくって仕合せだろう。 おや癒るのかしら。 あなたが御爺さん御婆さんだと思っていらっしゃる方は本当はあなたの御父さんと御母さんなのですよ。 先刻ねおおかたそのせいであんなにこっちの宅が好なんだろう妙なものだなと云って二人で話していらしったのを私が聞いたからそっとあなたに教えて上げるんですよ。 誰にも話しちゃいけませんよ。 よござんすか。 誰にも云わないよ。 もう御病気はすっかり御癒りですか。 ええまあどうかこうか生きています。 そりゃ癒ったとは云われませんね。 そう時々再発するようじゃ。 まあもとの病気の継続なんでしょう。 どうかこうか生きています。 病気はまだ継続中です。 私はちょうど独乙が聯合軍と戦争をしているように病気と戦争をしているのです。 今こうやってあなたと対坐していられるのは天下が太平になったからではないので塹壕の中に這入って病気と睨めっくらをしているからです。 私の身体は乱世です。 いつどんな変が起らないとも限りません。 これは太田南畝の自筆なんだがね。 僕の友達がそれを売りたいというので君に見せに来たんだが買ってやらないか。 太田南畝っていったい何だい。 蜀山人の事さ。 有名な蜀山人さ。 いくらなら売るのかい。 五十銭に売りたいと云うんだがね。 どうだろう。 二十五銭なら買っても好い。 それじゃ二十五銭でも構わないから買ってやりたまえ。 君|昨日買って貰った本の事だがね。 あの本かい。 あの本がどうかしたのかい。 実はあすこの宅の阿爺に知れたものだから阿爺が大変怒ってね。 どうか返して貰って来てくれって僕に頼むんだよ。 僕も一遍君に渡したもんだから厭だったけれども仕方がないからまた来たのさ。 本を取りにかい。 取りにって訳でもないけれどももし君の方で差支がないなら返してやってくれないか。 何しろ二十五銭じゃ安過ぎるっていうんだから。 二十五銭では本当に安過ぎるんだとさ。 じゃ返そう。 どうも失敬した。 何しろ安公の持ってるものでないんだから仕方がない。 阿爺の宅に昔からあったやつをそっと売って小遣にしようって云うんだからね。 その金なら取らないよ。 なぜ。 なぜでも取らない。 そうか。 しかしつまらないじゃないかただ本だけ返すのは。 本を返すくらいなら二十五銭も取りたまいな。 本は僕のものだよ。 いったん買った以上は僕のものにきまってるじゃないか。 そりゃそうに違いない。 違いないが向の宅でも困ってるんだから。 だから返すと云ってるじゃないか。 だけど僕は金を取る訳がないんだ。 そんな解らない事を云わずにまあ取っておきたまいな。 僕はやるんだよ。 僕の本だけども欲しければやろうというんだよ。 やるんだから本だけ持ってったら好いじゃないか。 そうかそんならそうしよう。 先生はこの間高等工業で講演をなすったそうですね。 ああやった。 何でも解らなかったようですよ。 君はどうしてそんな事を知ってるの。 いったいどんな事を講演なすったのですか。 別にむずかしいとも思えない事だろう君。 どうしてそれが解らないかしら。 解らないでしょう。 どうせ解りゃしません。 どうせ解りゃしません。 多分誤解はないつもりですがもし私の今御話したうちに判然しないところがあるならどうぞ私宅まで来て下さい。 できるだけあなたがたに御納得の行くように説明して上げるつもりですから。 あなたの講演は解らなかったそうです。 兄さんは死ぬまで奥さんを御持ちになりゃしますまいね。 いいえしまいまで独身で暮らしていました。 それを聞いてやっと安心しました。 妾のようなものはどうせ旦那がなくっちゃ生きて行かれないから仕方がありませんけれども。 御母さんは何にも云わないけれどもどこかに怖いところがある。 心配しないでも好いよ。 御母さんがいくらでも御金を出して上げるから。 そんなに焚火に当ると顔が真黒になるよ。 いやあーだ。 愛の庁。 清き巡礼の子。 月に吠ゆる狼のほざくは。 夜迷い烏の黒き翼を切って落せば地獄の闇ぞ。 渾名こそ狼なれ君が剣に刻める文字に耻じずや。 盾。 最後の望は幻影の盾にある。 第一を躊躇の時期と名づけるこれは女の方でこの恋を斥けようか受けようかと思い煩う間の名である。 この時期の間には男の方では一言も恋をほのめかすことを許されぬ。 只眼にあまる情けと息に漏るる嘆きとにより昼は女の傍えを夜は女の住居の辺りを去らぬ誠によりて我意中を悟れかしと物言わぬうちに示す。 第二を祈念の時期と云う。 男女の前に伏して懇ろに我が恋|叶えたまえと願う。 次に来るは応諾の時期である。 誠ありと見抜く男の心を猶も確めん為め女男に草々の課役をかける。 剣の力槍の力で遂ぐべき程の事柄であるは言うまでもない。 第四の時期をDruerieと呼ぶ。 武夫が君の前に額付いて渝らじと誓う如く男女の膝下に跪ずき手を合せて女の手の間に置く。 女かたの如く愛の式を返して男に接吻する。 盾があるまだ盾がある。 事実になる。 幻影の盾の由来。 汝が祖ウィリアムはこの盾を北の国の巨人に得たり。 黒雲の地を渡る日なり。 北の国の巨人は雲の内より振り落されたる鬼の如くに寄せ来る。 拳の如き瘤のつきたる鉄棒を片手に振り翳して骨も摧けよと打てば馬も倒れ人も倒れて地を行く雲に血潮を含んで鳴る風に火花をも見る。 人を斬るの戦にあらず脳を砕き胴を潰して人という形を滅せざれば已まざる烈しき戦なり。 わが渡り合いしは巨人の中の巨人なり。 銅板に砂を塗れる如き顔の中に眼懸りて稲妻を射る。 我を見て南方の犬尾を捲いて死ねとかの鉄棒を脳天より下す。 眼を遮らぬ空の二つに裂くる響して鉄の瘤はわが右の肩先を滑べる。 繋ぎ合せて肩を蔽える鋼鉄の延板の尤も外に向えるが二つに折れて肉に入る。 吾がうちし太刀先は巨人の盾を斜に斫って戞と鳴るのみ。 われ巨人を切る事三|度三度目にわが太刀は鍔元より三つに折れて巨人の戴く甲の鉢金の内側に歪むを見たり。 巨人の椎を下すや四たび四たび目に巨人の足は血を含む泥を蹴て木枯の天狗の杉を倒すが如く薊の花のゆらぐ中に落雷も耻じよとばかり※と横たわる。 横たわりて起きぬ間を疾くも縫えるわが短刀の光を見よ。 吾ながら又なき手柄なり。 巨人は云う老牛の夕陽に吼ゆるが如き声にて云う。 幻影の盾を南方の豎子に付与す珍重に護持せよと。 われ盾を翳してその所以を問うに黙して答えず。 強いて聞くとき彼両手を揚げて北の空を指して曰く。 ワルハラの国オジンの座に近く火に溶けぬ黒鉄を氷の如き白炎に鋳たるが幻影の盾なり。 この盾何の奇特かあると巨人に問えば曰く。 盾に願え願うて聴かれざるなし只その身を亡ぼす事あり。 人に語るな語るとき盾の霊去る。 汝盾を執って戦に臨めば四囲の鬼神汝を呪うことあり。 呪われて後|蓋天蓋地の大歓喜に逢うべし。 只盾を伝え受くるものにこの秘密を許すと。 南国の人この不祥の具を愛せずと盾を棄てて去らんとすれば巨人手を振って云う。 われ今浄土ワルハラに帰る幻影の盾を要せず。 百年の後南方に赤衣の美人あるべし。 その歌のこの盾の面に触るるとき汝の児孫盾を抱いて抃舞するものあらんと。 巨人は薊の中に斃れて薊の中に残れるはこの盾なり。 戸を敲くは誰ぞ。 わしじゃ。 今日の晩食に顔色が悪う見えたから見舞に来た。 さした事もない。 夜鴉の羽搏きを聞かぬうちに花多き国に行く気はないか。 花多き国とは。 南の事じゃトルバダウの歌の聞ける国じゃ。 主がいにたいと云うのか。 わしは行かぬ知れた事よ。 もう六つ日の出を見れば夜鴉の栖を根から海へ蹴落す役目があるわ。 日の永い国へ渡ったら主の顔色が善くなろうと思うての親切からじゃ。 ワハハハハ。 鳴かぬ烏の闇に滅り込むまでは。 霧深い国を去らぬと云うのか。 その金色の髪の主となら満更|嫌でもあるまい。 鴉に交る白い鳩を救う気はないか。 今から七日過ぎた後なら。 鴉を殺して鳩だけ生かそうと云う注文かそれは少し無理じゃ。 然し出来ぬ事もあるまい。 南から来て南へ帰る船がある。 待てよ。 そうじゃ六日目の晩には間に合うだろう。 城の東の船付場へ廻してあの金色の髪の主を乗せよう。 不断は帆柱の先に白い小旗を揚げるが女が乗ったら赤に易えさせよう。 軍さは七日目の午過からじゃ城を囲めば港が見える。 柱の上に赤が見えたら天下太平。 白が見えたら。 まあよいわどうにかなる心配するな。 それよりは南の国の面白い話でもしょう。 海一つ向へ渡ると日の目が多い暖かじゃ。 それに酒が甘くて金が落ちている。 土一升に金一升うそじゃ無い本間の話じゃ。 手を振るのは聞きとも無いと云うのか。 もう落付いて一所に話す折もあるまい。 シワルドの名残の談義だと思うて聞いてくれ。 そう滅入らんでもの事よ。 いやこれは御無礼何を話す積りであった。 おおそれだその酒の湧く金の土に交る海の向での。 主が女に可愛がられたと云うのか。 ワハハハ女にも数多近付はあるがそれじゃない。 ボーシイルの会を見たと云う事よ。 ボーシイルの会。 知らぬか。 薄黒い島国に住んでいては知らぬも道理じゃ。 プロヴォンサルの伯とツールースの伯の和睦の会はあちらで誰れも知らぬものはないぞよ。 ふむそれが。 馬は銀の沓をはく狗は珠の首輪をつける。 金の林檎を食う月の露を湯に浴びる。 まあ水を指さずに聴け。 うそでも興があろう。 試合の催しがあるとシミニアンの太守が二十四頭の白牛を駆って埒の内を奇麗に地ならしする。 ならした後へ三万枚の黄金を蒔く。 するとアグーの太守がわしは勝ち手にとらせる褒美を受持とうと十万枚の黄金を加える。 マルテロはわしは御馳走役じゃと云うて蝋燭の火で煮焼した珍味を振舞うて銀の皿小鉢を引出物に添える。 もう沢山じゃ。 ま一つじゃ。 仕舞にレイモンが今まで誰も見た事のない遊びをやると云うて先ず試合の柵の中へ三十本の杭を植える。 それに三十頭の名馬を繋ぐ。 裸馬ではない鞍も置き鐙もつけ轡手綱の華奢さえ尽してじゃ。 よいか。 そしてその真中へ鎧刀これも三十人分甲は無論|小手脛当まで添えて並べ立てた。 金高にしたらマルテロの御馳走よりも嵩が張ろう。 それから周りへ薪を山の様に積んで火を掛けての馬も具足も皆焼いてしもうた。 何とあちらのものは豪興をやるではないか。 そう云う国へ行って見よと云うに主も余程意地張りだなあ。 そんな国に黒い眼黒い髪の男は無用じゃ。 やはりその金色の髪の主の居る所が恋しいと見えるな。 言うまでもない。 御身の髪は猶わが懐にあり只この使と逃げ落ちよ疑えば魔多し。 飛ばせ。 飛ばせ。 帆柱に掲げた旗は赤か白か。 白か赤か赤か白か。 続け続け。 赤か白か。 阿呆丘へ飛ばすより壕の中へ飛ばせ。 白だッ。 生きておるか。 死ぬところじゃ。 汝われをも呪うか。 烏なれば闇にも隠れん月照らぬ間に斬って棄よ。 占めた。 クララ。 四つ足も呪われたか。 南の国へ行け。 呪われた。 その次に。 火事だ。 盾の仕業だ。 これが恋の果か呪いが醒めても恋は醒めぬ。 岩の上なる我がまことか水の下なる影がまことか。 まこととは思い詰めたる心の影を。 心の影を偽りと云うが偽り。 恋に口惜しき命の占を盾に問えかしまぼろしの盾。 只懸命に盾の面を見給え。 盾の中に何をか見る。 ありとある蛇の毛の動くは。 物音は。 鵞筆の紙を走る如くなり。 迷いては迷いてはしきりに動く心なり音なき方に音をな聞きそ音をな聞きそ。 暗し暗し。 闇に烏を見ずと嘆かば鳴かぬ声さえ聞かんと恋わめ――身をも命も闇に捨てなば身をも命も闇に拾わば嬉しかろうよ。 君は今いずくに居わすぞ。 無の中か有の中か玻璃瓶の中か。 以太利亜の以太利亜の海紫に夜明けたり。 広い海がほのぼのとあけて橙色の日が浪から出る。 帆を張れば舟も行くめり帆柱に何を掲げて。 赤だっ。 白い帆が山影を横って岸に近づいて来る。 三本の帆柱の左右は知らぬ中なる上に春風を受けて棚曳くは赤だ赤だクララの舟だ。 南方の日の露に沈まぬうちに。 この国の春は長えぞ。 今度いっしょに連れてってやろうか。 猫。 猫。 清野が毛織の襯衣を半ダース重ねて着たのは彼時だよ。 清野は驚いてあれっきりやって来ない。 本邦の山水に似たり。 とてもこれだけでは済むまい。 教育が違うんだから仕方がない。 やっぱり手前味噌よ。 手前味噌。 大風呂敷。 これが己の姉なんだからなあ。 まあ珍らしく能く来てくれたこと。 さあ御敷きなさい。 近頃は身体の具合はどうです。 あんまり非道く起る事もありませんか。 ええ有難う。 御蔭さまで陽気が好いもんだからまあどうかこうか家の事だけは遣ってるんだけれども――でもやっぱり年が年だからね。 とても昔しのようにがせいに働く事は出来ないのさ。 昔健ちゃんの遊びに来てくれた時分にゃ随分|尻ッ端折りでそれこそ御釜の御尻まで洗ったもんだが今じゃとてもそんな元気はありゃしない。 だけど御蔭様でこう遣って毎日牛乳も飲んでるし。 少し痩せたようですね。 なにこりゃ私の持前だから仕方がない。 昔から肥った事のない女なんだから。 やッぱり癇が強いもんだからね。 癇で肥る事が出来ないんだよ。 でも健ちゃんは立派になって本当に結構だ。 御前さんが外国へ行く時なんかもう二度と生きて会う事は六ずかしかろうと思ってたのにそれでもよくまあ達者で帰って来られたのね。 御父さんや御母さんが生きて御出だったらさぞ御喜びだろう。 今に姉さんに御金が出来たら健ちゃんに何でも好なものを買って上げるよ。 こんな偏窟じゃこの子はとても物にゃならない。 時に姉さんはいくつでしたかね。 もう御婆さんさ。 取って一だもの御前さん。 すると私とは一廻以上違うんだね。 私ゃまた精々違って十か十一だと思っていた。 どうして一廻どころか。 健ちゃんとは十六違うんだよ姉さんは。 良人が羊の三碧で姉さんが四緑なんだから。 健ちゃんは慥か七赤だったね。 何だか知らないがとにかく三十六ですよ。 繰って見て御覧きっと七赤だから。 今日は御留守なんですか。 昨夕も宿直でね。 なに自分の分だけなら月に三度か四度で済むんだけれども他に頼まれるもんだからね。 それに一晩でも余計泊りさえすればやっぱりいくらかになるだろうそれでつい他の分まで引受ける気にもなるのさ。 この頃じゃあっちへ寐るのとこっちへ帰るのとまあ半々位なものだろう。 ことによると向へ泊る方がかえって多いかも知れないよ。 比田さんは近頃どうです。 大分年を取ったから元とは違って真面目になったでしょう。 なにやッぱり相変らずさ。 ありゃ一人で遊ぶために生れて来た男なんだから仕方がないよ。 やれ寄席だやれ芝居だやれ相撲だって御金さえありゃ年が年中飛んで歩いてるんだからね。 でも奇体なもんで年のせいだか何だか知らないが昔に比べると少しは優しくなったようだよ。 もとは健ちゃんも知ってる通りの始末で随分|烈しかったもんだがね。 蹴ったり敲いたり髪の毛を持って座敷中|引摺廻したり。 その代り姉さんも負けてる方じゃなかったんだからな。 なに妾ゃ手出しなんかした事あついの一度だってありゃしない。 久しぶりに何か奢りましょうか。 ありがと今|御鮨をそういったから珍らしくもあるまいけれども食べてって御くれ。 海苔巻なら身体に障りゃしないよ。 折角姉さんが健ちゃんに御馳走しようと思って取ったんだから是非食べて御くれな。 厭かい。 あんなものあ宅にあったって仕方がないんだから持って御出でよ。 なに比田だって要りゃしないやね汚ない達磨なんか。 実は健ちゃん御前さんが帰って来たら話そう話そうと思ってつい今日まで黙ってたんだがね。 健ちゃんも帰りたてでさぞ忙がしかろうしそれに姉さんが出掛けて行くにしたところで御住さんがいちゃ少し話し悪い事だしね。 そうかって手紙を書こうにも御存じの無筆だろう。 それで姉さんの話ってえな一体どんな話なんです。 実は私も今日は少し姉さんに話があって来たんだが。 そうかいそれじゃ御前さんの方のから先へ聴くのが順だったね。 何故早く話さなかったの。 だって話せないんだもの。 そんなに遠慮しないでもいいやね。 姉弟の間じゃないか御前さん。 まあ姉さんの方から先へ片付けましょう。 何ですかあなたの話っていうのは。 実は健ちゃんにはまことに気の毒でいい悪いんだけれどもあたしも段々年を取って身体は弱くなるしそれに良人があの通りの男で自分一人さえ好けりゃ女房なんかどうなったって己の知った事じゃないって顔をしているんだから。 ――尤も月々の取高が少ない上に交際もあるんだから仕方がないといえばそれまでだけれどもね。 どうか姉さんを助けると思ってね。 姉さんだってこの身体じゃどうせ長い事もあるまいから。 実はこの間島田に会ったんですがね。 へえどこで。 太田の原の傍です。 じゃ御前さんのじき近所じゃないか。 どうしたい何か言葉でも掛けたかい。 掛けるって別に言葉の掛けようもないんだから。 そうさね。 健ちゃんの方から何とかいわなきゃ向で口なんぞ利けた義理でもないんだから。 どんな服装をしていたい。 じゃやッぱり楽でもないんだね。 なんぼ因業だってあんな因業な人ったらありゃしないよ。 今日が期限だから是が非でも取って行くっていくら言訳をいっても坐り込んで動かないんだもの。 しまいにこっちも腹が立ったから御気の毒さま御金はありませんが品物で好ければ御鍋でも御釜でも持ってって下さいっていったらねじゃ釜を持ってくっていうんだよ。 あきれるじゃないか。 釜を持って行くったって重くってとても持てやしないでしょう。 ところがあの業突張の事だからどんな事をして持ってかないとも限らないのさ。 そらその日の御飯をあたしに炊かせまいと思ってそういう意地の悪い事をする人なんだからね。 どうせ先へ寄って好い事あないはずだあね。 私ゃ島田に二度会ったんですよ姉さん。 これから先また何時会うか分らないんだ。 いいから知らん顔をして御出でよ。 何度会ったって構わないじゃないか。 しかしわざわざ彼所いらを通って私の宅でも探しているんだかまた用があって通りがかりに偶然出ッくわしたんだかそれが分らないんでね。 こちらへはその後まるで来ないんですか。 ああこの二三年はまるっきり来ないよ。 その前は。 その前はねちょくちょくってほどでもないがそれでも時々は来たのさ。 それがまた可笑しいんだよ。 来ると何時でも十一時頃でね。 鰻飯かなにか食べさせないと決して帰らないんだからね。 三度の御まんまを一かたけでも好いから他の家で食べようっていうのがつまりあの人の腹なんだよ。 そのくせ服装なんかかなりなものを着ているんだがね。 島田は今でも元の所に住んでいるんだろうか。 ことによると良人では年始状位まだ出してるかも知れないよ。 床を取ってくれ。 寐るんだ。 はい。 あなた御飯を召上がりますか。 飯なんか食いたくない。 あなたどうかなすったんですか。 あなたどうなすったんです。 風邪を引いたんだって医者がいうじゃないか。 そりゃ解ってます。 己がどうしたというんだい。 どうしたって――あなたが御病気だから私だってこうして氷嚢を更えたり薬を注いだりして上げるんじゃありませんか。 それをあっちへ行けの邪魔だのってあんまり。 そんな事をいった覚はない。 そりゃ熱の高い時|仰しゃった事ですから多分覚えちゃいらっしゃらないでしょう。 けれども平生からそう考えてさえいらっしゃらなければいくら病気だってそんな事を仰しゃる訳がないと思いますわ。 よござんす。 どうせあなたは私を下女同様に取り扱うつもりでいらっしゃるんだから。 自分一人さえ好ければ構わないと思って。 御起になりませんか。 まだ食気が出ませんね。 少しも旨くない。 こういう人が貴方の寐ていらしゃるうちに来たんですが御病気だから断って帰しました。 何時来たのかい。 たしか一昨日でしたろう。 ちょっと御話ししようと思ったんですがまだ熱が下らないからわざと黙っていました。 まるで知らない人だがな。 でも島田の事でちょっと御主人に御目にかかりたいって来たんだそうですよ。 御前島田の事を知ってるのかい。 あの長い手紙が御常さんって女から届いた時貴方が御話しなすったじゃありませんか。 ありゃ何時だったかね。 よッぽど古い事だろう。 そうね。 もう七年位になるでしょう。 私たちがまだ千本通りにいた時分ですから。 島田の事ならあなたに伺わないでも御兄さんからも聞いて知ってますわ。 兄がどんな事をいったかい。 どんな事って――なんでも余り善くない人だっていう話じゃありませんか。 その名刺の名前の人はまた来るそうですよ。 いずれ御病気が御癒りになったらまた伺いますからって帰って行ったそうですから。 来るだろう。 どうせ島田の代理だと名乗る以上はまた来るに極ってるさ。 しかしあなた御会いになって。 もし来たら。 御会いにならない方が好いでしょう。 会っても好い。 何も怖い事はないんだから。 御会いになりますか。 会うから座敷へ通してくれ。 なるほど。 なある。 御尤も。 いかさま。 そんな関係から段々将校方の御世話になるようになりまして。 その内でも柴野の旦那には特別|御贔負になったものですから。 その縁故で島田を御承知なんですね。 人間があまり好過ぎるもんですからつい人に騙されてみんな損っちまうんです。 とても取れる見込のないのにむやみに金を出してやったり何かするもんですからな。 人間が好過ぎるんでしょうか。 あんまり慾張るからじゃありませんか。 あるいはそうかも知れません。 なある。 いかさま。 どんなものでしょう。 老人も取る年で近頃は大変心細そうな事ばかりいっていますが――どうかして元通りの御交際は願えないものでしょうか。 手前も折角こうして上がったものですからこれだけはどうぞ曲げて御承知を願いたいもので。 そういう訳なら宜しゅう御座います。 承知の旨を向へ伝えて下さい。 しかし交際は致しても昔のような関係ではとても出来ませんからそれも誤解のないように申し伝えて下さい。 それから私の今の状況では私の方から時々出掛けて行って老人に慰藉を与えるなんて事は六ずかしいのですが。 するとまあただ御出入をさせて頂くという訳になりますな。 いえなにそれで結構で――昔と今とは事情もまるで違ますから。 あなた。 先刻来た吉田って男は一体何なんですか。 元高崎で陸軍の用達か何かしていたんだそうだ。 どうせ御金か何か呉れっていうんでしょう。 まあそうだ。 それで貴方どうなすって――どうせ御断りになったでしょうね。 うん断った。 断るより外に仕方がないからな。 それで素直に帰って行ったんですかあの男は。 少し変ね。 だって断られれば仕方がないじゃないか。 喧嘩をする訳にも行かないんだから。 だけどまた来るんでしょう。 ああして大人しく帰って置いて。 来ても構わないさ。 でも厭ですわ蒼蠅くって。 御前聴いてたんだろう悉皆。 じゃそれで好いじゃないか。 あなた島田と交際っても好いと受合っていらしったようですね。 ああ。 御前や御前の家族に関係した事でないんだから構わないじゃないか己一人で極めたって。 そりゃ私に対して何も構って頂かなくっても宜ござんす。 構ってくれったってどうせ構って下さる方じゃないんだから。 また始まった。 しかし御父さまに悪いでしょう。 今になってあの人と御交際いになっちゃあ。 御父さまって己のおやじかい。 無論|貴方の御父さまですわ。 己のおやじはとうに死んだじゃないか。 しかし御亡くなりになる前島田とは絶交だから向後一切|付合をしちゃならないって仰しゃったそうじゃありませんか。 御前誰からそんな事を聞いたのかい。 己は話したつもりはないがな。 貴方じゃありません。 御兄さんに伺ったんです。 おやじは阿爺兄は兄己は己なんだから仕方がない。 己から見ると交際を拒絶するだけの根拠がないんだから。 こんな光景をよく覚えているくせに何故自分の有っていたその頃の心が思い出せないのだろう。 しかしそんな事を忘れるはずがないんだからことによると始めからその人に対してだけは恩義相応の情合が欠けていたのかも知れない。 ですか。 ません。 しかしこの調子なら好いだろう。 この間二度ほど途中で御目にかかりましたが時々あの辺を御通りになるんですか。 実はあの高橋の総領の娘が片付いている所がついこの先にあるもんですから。 はあ。 そら知ってるでしょう。 あの芝の。 芝というとたしか御藤さんの妹さんに当る方の御嫁にいらしった所でしたね。 いえ姉ですよ。 妹ではないんです。 はあ。 要三だけは死にましたがあとの姉妹はみんな好い所へ片付いてね仕合せですよ。 そら総領のは多分知っておいでだろう――へ行ったんです。 あとが女と子供ばかりで困るもんだから何かにつけて叔父さん叔父さんて重宝がられましてね。 それに近頃は宅に手入をするんで監督の必要が出来たものだから殆ど毎日のように此所の前を通ります。 こんな人に監督される大工や左官はさぞ腹の立つ事だろう。 でも御蔭さまで本を遺して行ってくれたもんですからあの男が亡くなってもあとはまあ困らないでどうにかこうにか遣って行けるんです。 本というものは実に有難いもので一つ作って置くとそれが何時までも売れるんですからね。 御祝儀は済んだが――が死んだ時|後が女だけだもんだから実は私が本屋に懸け合いましてね。 それで年々いくらと極めて向うから収めさせるようにしたんです。 へえ大したもんですな。 なるほどどうも学問をなさる時はそれだけ資金が要るようでちょっと損な気もしますがさて仕上げて見るとつまりその方が利廻りの好い訳になるんだから無学のものはとても敵いませんな。 結局得ですよ。 こちらの先生も一つ御儲けになったら如何です。 ええ儲けたいものですね。 なに訳はないんです。 洋行まですりゃ。 では今日はこれで御暇を致す事にしましょうか。 一体何のために来たのだろう。 これじゃ他を厭がらせに来るのと同じ事だ。 あれで向は面白いのだろうか。 あなたまだ其処に坐っていらっしゃるんですか。 いやもう立っても好い。 あの人たちはまた来るんでしょうか。 来るかも知れない。 あなた何を考えていらっしゃるの。 どこかへ行くのかい。 ええ。 子供は。 子供も連れて行きます。 置いて行くと八釜しくって御蒼蠅いでしょうから。 ただ今。 此間宅へ行ったら門司の叔父に会いましてね。 随分驚ろいちまいました。 まだ台湾にいるのかと思ったら何時の間にか帰って来ているんですもの。 但し利子の儀は。 今何をしているのかね。 何をしているんだか分りゃしません。 何とかの会社を起すんで是非健三さんにも賛成してもらいたいからその内|上るつもりだっていってました。 あの日はあまり好い御天気だったから久しぶりで御兄さんの所へも廻って来ました。 そうか。 御兄さんに島田の来た事を話したら驚ろいていらっしゃいましたよ。 今更来られた義理じゃないんだって。 健三もあんなものを相手にしなければ好いのにって。 それを聞きに御前わざわざ薬王寺前へ廻ったのかい。 またそんな皮肉を仰しゃる。 あなたはどうしてそう他のする事を悪くばかり御取りになるんでしょう。 妾あんまり御無沙汰をして済まないと思ったからただ帰りにちょっと伺っただけですわ。 御兄さんは貴夫のために心配していらっしゃるんですよ。 ああいう人と交際いだしてまたどんな面倒が起らないとも限らないからって。 面倒ってどんな面倒を指すのかな。 そりゃ起って見なければ御兄さんにだって分りっ子ないでしょうけれども何しろ碌な事はないと思っていらっしゃるんでしょう。 しかし義理が悪いからね。 だって御金を遣って縁を切った以上義理の悪い訳はないじゃありませんか。 その上その御金をやる十四五年も前から貴夫はもう貴夫の宅へ引き取られていらしったんでしょう。 三つから七つまでですって。 御兄さんがそう御仰いましたよ。 そうかしら。 証文にちゃんとそう書いてあるそうですから大丈夫間違はないでしょう。 見ない訳はないわ。 きっと忘れていらっしゃるんですよ。 しかし八ッで宅へ帰ったにしたところで復籍するまでは多少往来もしていたんだから仕方がないさ。 全く縁が切れたという訳でもないんだからね。 己も実は面白くないんだよ。 じゃ御止しになれば好いのに。 つまらないわ貴夫今になってあんな人と交際うのは。 一体どういう気なんでしょう先方は。 それが己には些とも解らない。 向でもさぞ詰らないだろうと思うんだがね。 御兄さんは何でもまた金にしようと思って遣って来たに違いないから用心しなくっちゃいけないっていっていらっしゃいましたよ。 しかし金は始めから断っちまったんだから構わないさ。 だってこれから先何をいい出さないとも限らないわ。 まあどうにかしているんだろう。 月々の勘定はちゃんとして己に見せなければいけないぜ。 ええ。 何か変った事でもあるのかい。 どうかして頂かないと。 不思議だね。 それで能く今日まで遣って来られたものだね。 実は毎月余らないんです。 しかしかつかつ位には行きそうなものだがな。 行っても行かなくってもこれだけの収入で遣って行くより仕方がないんですけれども。 質を置いたって御前が自分で置きに行ったのかい。 いいえ頼んだんです。 誰に。 山野のうちの御婆さんにです。 あすこには通いつけの質屋の帳面があって便利ですから。 あなたの着物を拵えようと思うんですがこれはどうでしょう。 己は決して御前の考えているような冷刻な人間じゃない。 ただ自分の有っている温かい情愛を堰き止めて外へ出られないように仕向けるから仕方なしにそうするのだ。 誰もそんな意地の悪い事をする人はいないじゃありませんか。 御前はしょっちゅうしているじゃないか。 貴夫の神経は近頃よっぽど変ね。 どうしてもっと穏当に私を観察して下さらないのでしょう。 あなたは誰も何にもしないのに自分一人で苦しんでいらっしゃるんだから仕方がない。 あなたあの人がまた来ましたよ。 上ったのかい。 あの人ですか。 ――でも御留守でしたから。 上げなかったのかい。 ええ。 ただ玄関でちょっと。 何とかいっていたかい。 とうに伺うはずだったけれども少し旅行していたものだから御不沙汰をして済みませんって。 旅行なんぞするのかな田舎に用のある身体とも思えないが。 御前にその行った先を話したかい。 そりゃ何ともいいませんでした。 ただ娘の所で来てくれって頼まれたから行って来たっていいました。 大方あの御縫さんて人の宅なんでしょう。 軍人なんですかその御縫さんて人の御嫁に行った所は。 能く知ってるね。 何時か御兄さんから伺いましたよ。 御縫さんて人はよっぽど容色が好いんですか。 何故。 だって貴夫の御嫁にするって話があったんだそうじゃありませんか。 フラウ門に倚って待つ。 貴夫どうしてその御縫さんて人を御貰いにならなかったの。 まるで問題にゃならない。 そんな料簡は島田にあっただけなんだから。 それに己はまだ子供だったしね。 あの人の本当の子じゃないんでしょう。 無論さ。 御縫さんは御藤さんの連れっ子だもの。 だけどもしその御縫さんて人と一所になっていらしったらどうでしょう。 今頃は。 どうなってるか判らないじゃないかなって見なければ。 でも殊によると幸福かも知れませんわね。 その方が。 そうかも知れない。 何故そんな事を訊くのだい。 詰らない。 どうせ私は始めっから御気に入らないんだから。 あなたその端書は比田さんから来たんですよ。 あの人の事で何か用事が出来たんですって。 どうしたんでしょう。 まるで判明らないね。 相談でもなかろうし。 こっちから相談を持ち懸けた事なんかまるでないんだから。 みんなで交際っちゃいけないって忠告でもなさるんじゃなくって。 御兄さんもいらっしゃると書いてあるでしょう其所に。 健ちゃんの宅とこんな間柄にならないとね。 あたしも始終健ちゃんの家へ行かれるんだけれども。 だって御縫さんが今|嫁いてる先は元からの許嫁なんでしょう。 許嫁でも場合によったら断る気だったんだろうよ。 一体御縫さんはどっちへ行きたかったんでしょう。 そんな事が判明るもんか。 じゃ御兄さんの方はどうなの。 それも判明らんさ。 いやどうもわざわざ御呼び立て申して。 ちょっと上がろうにもどうにもこうにも忙がしくって遣り切れないもんですから。 現に昨夜なども宿直でしてね。 今夜も実は頼まれたんですけれども貴方と御約束があるから断わってやっとの事で今帰って来たところで。 姉さんは。 それに御夏がまた例の喘息でね。 どうです。 苦しそうだな。 どうも一昨日からねあなた。 口を利こうとすると咳嗽を誘い出すのでしょう。 静かにしていらっしゃい。 私はあっちへ行くから。 いえなにまた例の持病ですから。 今ちょっと貴方が茶の間へ行っていらしった間に下らないものを読み出したんです。 何ですかそれは。 なに健ちゃんなんぞの読むもんじゃありません古いもんで。 私ゃ旧弊だからこういう古い講談物が好きでしてね。 やッぱり学者なんでしょうねその男は。 曲亭馬琴とどっちでしょう。 私ゃ馬琴の『八犬伝』も持っているんだが。 健ちゃんは『江戸名所図絵』を御持ちですか。 いいえ。 ありゃ面白い本ですね。 私ゃ大好きだ。 なんなら貸して上げましょうか。 なにしろ江戸といった昔の日本橋や桜田がすっかり分るんだからね。 この分ではとてもその頃の悠長な心持で自分の研究と直接関係のない本などを読んでいる暇は薬にしたくっても出て来まい。 もう来そうなもんですね長さんも。 あれほどいってあるんだから忘れるはずはないんだが。 それに今日は明けの日だから遅くとも十一時頃までには帰らなきゃならないんだから。 何ならちょっと迎に遣りましょうか。 やっと来たようですぜ。 また悪いの。 驚ろいた。 ちっとも知らなかった。 何時から。 長さん先刻から待ってるんだ。 本当に手前勝手な人だ。 今行きますよ。 重湯でも少し飲んだら好いでしょう。 厭。 でもそう何にも食べなくっちゃ身体が疲れるだけだから。 健ちゃんあれだから困るんですよ。 口ばかり多くってね。 こっちも手がないから仕方なしに頼むんだが。 何ですあの人は。 そら梳手の御勢ですよ。 昔し健ちゃんの遊びに来る時分よくいたじゃありませんか宅に。 へええ。 知りませんね。 なに知らない事があるもんですか御勢だもの。 あいつはね御承知の通りまことに親切で実意のある好い女なんだがあれだから困るんです。 喋舌るのが病なんだから。 何だか先刻より劇しいようですね。 なあに大丈夫大丈夫。 あれが持病なんですから大丈夫。 知らない人が見るとちょっと吃驚しますがね。 私なんざあもう年来|馴れっ子になってるから平気なもんですよ。 実際またあれを一々苦にしているようじゃとても今日まで一所に住んでる事は出来ませんからね。 どうも済みません。 もっと早く来るはずだったが生憎珍らしく客があったもんだから。 来たか長さん待ってたほい。 冗談じゃないよ。 使でも出そうかと思ってたところです。 比田さん比田さんって立てて置きさえすりゃ好いんだ。 時に長さんどうしたもんだろう。 そう。 どうもこりゃ天から筋が違うんだから健ちゃんに話をするまでもなかろうと思うんだがね私ゃ。 そうさ。 今更そんな事を持ち出して来たってこっちで取り合う必要もないだろうじゃないか。 だから私も突っ跳ねたのさ。 今時分そんな事を持ち出すのはまるで自分の殺した子供をもう一|返生かしてくれって御寺様へ頼みに行くようなものだから御止しなさいって。 だけど大将いくら何といっても坐り込んで動かないんだからね仕方がない。 しかしあの男がああやって今頃私の宅へのんこのしゃあで遣って来るのも実はというとやっぱり昔し|○の関係があったからの事さ。 だってそりゃ昔しも昔しずっと昔しの話でさあ。 その上ただで借りやしまいしね。 またただで貸す風でもなしね。 そうさ。 口じゃ親類付合だとか何とかいってるくせに金にかけちゃあかの他人より阿漕なんだから。 来た時にそういって遣れば好いのに。 一体どうしたんです。 島田がこちらへでも突然伺ったんですか。 いやわざわざ御呼び立て申して置いてつい自分の勝手ばかり喋舌って済みません。 ――じゃ長さん私から健ちゃんに一応その顛末を御話しする事にしようか。 ええどうぞ。 少し変ですねえ。 変だよ。 どうせ変にゃ違ない何しろ六十以上になって少しやきが廻ってるからね。 慾でやきが廻りゃしないか。 どうしても変ですね。 しかしそりゃ問題にゃならないでしょう。 ただ断りさえすりゃ好いんだから。 しかし一旦は貴方の御耳まで入れて置かないと私の落度になりますからね。 それに相手が相手ですからね。 まかり間違えば何をするか分らないんだから用心しなくっちゃいけませんよ。 焼が廻ってるなら構わないじゃないか。 焼が廻ってるから怖いんです。 なに先が当り前の人間なら私だってその場ですぐ断っちまいまさあ。 いえ何御礼なんぞ御仰られると恐縮します。 相変らず能く食べますね。 今でも鰻飯を二つ位|遣るんでしょう。 いや人間も五十になるともう駄目ですね。 もとは健ちゃんの見ている前で天ぷら蕎麦を五杯位ぺろりと片付けたもんでしたがね。 どうもやっぱり立食に限るようですね。 私もこの年になるまで段々方々食って歩いて見たが。 健ちゃん一遍|軽井沢で蕎麦を食って御覧なさい騙されたと思って。 汽車の停ってるうちに降りて食うんですプラットフォームの上へ立ってね。 さすが本場だけあって旨うがすぜ。 それよか善光寺の境内に元祖|藤八拳指南所という看板が懸っていたには驚ろいたね長さん。 這入って一つ遣って来やしないか。 だって束修が要るんだからね君。 健ちゃんはたしか京都へ行った事がありますね。 彼所にちんちらでんき皿|持てこ汁飲ましょって鳴く鳥がいるのを御存じですか。 さぞ辛いだろう。 そういう自分もやっぱりこの芸者と同じ事なのだ。 しかし他事じゃないね君。 その実僕も青春時代を全く牢獄の裡で暮したのだから。 牢獄とは何です。 学校さそれから図書館さ。 考えると両方ともまあ牢獄のようなものだね。 しかし僕がもし長い間の牢獄生活をつづけなければ今日の僕は決して世の中に存在していないんだから仕方がない。 学問ばかりして死んでしまっても人間は詰らないね。 そんな事はありません。 不貞寐をするんだ。 何故夜早く寐ないんだ。 まあ御痩せなすった事。 先ほど御留守に御兄さんがいらっしゃいましてね。 もう帰ったのかい。 ええ。 今ちょっと散歩に出掛ましたからもうじき帰りましょうって御止めしたんですけれども時間がないからって御上りになりませんでした。 そうか。 何でも谷中に御友達とかの御葬式があるんですって。 それで急いで行かないと間に合わないから上っていられないんだと仰ゃいました。 しかし帰りに暇があったらもしかすると寄るかも知れないから帰ったら待ってるようにいってくれっていい置いていらっしゃいました。 何の用なのかね。 やっぱりあの人の事なんだそうです。 これを貴夫に上げてくれと仰しゃいました。 何だい。 みんなあの人に関係した書類なんだそうです。 健三に見せたら参考になるだろうと思って用箪笥の抽匣の中にしまって置いたのを今日出して持って来たって仰ゃいました。 そんな書類があったのかしら。 開けて見たって何が出て来るものか。 御父さまが後々のためにちゃんと一纏めにして取って御置になったんですって。 そうか。 おやじの事だからきっと何でもかんでも取って置いたんだろう。 しかしそれもみんな貴夫に対する御親切からなんでしょう。 あんな奴だから己のいなくなった後にどんな事をいって来ないとも限らないその時にはこれが役に立つってわざわざ一纏めにして御兄さんに御渡になったんだそうですよ。 そうかね己は知らない。 おやじは月々三円か四円ずつ取られたんだな。 あの人にですか。 |〆ていくらになるかしら。 しかしこの外にまだ一時に遣ったものがあるはずだ。 おやじの事だからきっとその受取を取って置いたに違ない。 どこかにあるだろう。 小学校の卒業証書まで入れてある。 何ですかそれは。 何だか己も忘れてしまった。 よっぽど古いものね。 書物も貰った事があるんだがな。 変ですわね。 下等小学第五級だの六級だのって。 そんなものがあったんでしょうか。 あったんだね。 これを御覧とても読む勇気がないね。 ただでさえ判明らないところへ持って来てむやみに朱を入れたり棒を引いたりしてあるんだから。 貴夫の御父さまはあの島田って人の世話をなすった事があるのね。 そんな話は己も聞いてはいるが。 此所に書いてありますよ。 ――同人幼少にて勤向相成りがたく当方へ引き取り五カ年間養育致|候縁合を以てと。 その縁故で貴夫はあの人の所へ養子に遣られたのね。 此所にそう書いてありますよ。 右健三三歳のみぎり養子に差遣し置候処平吉儀妻常と不和を生じ遂に離別と相成候につき当時八歳の健三を当方へ引き取り今日まで十四カ年間養育致し――あとは真赤でごちゃごちゃして読めないわね。 何が可笑しいんだ。 だって。 ちょっと其所を読んで御覧なさい。 取扱い所勤務中|遠山藤と申す後家へ通じ合い候が事の起り。 ――何だ下らない。 しかし本当なんでしょう。 本当は本当さ。 それが貴夫の八ツの時なのね。 それから貴夫は御自分の宅へ御帰りになった訳ね。 しかし籍を返さないんだ。 あの人が。 凡て変梃な文句ばかりだね。 親類取扱人|比田寅八って下に印が押してあるから大方比田さんでも書いたんでしょう。 あんまり遅くなったからすぐ御帰りになったんでしょう。 あんまり古くなって弱ったのね。 まさか。 だって書付の方は虫が食ってる位ですもの貴夫。 そういえばそうかも知れない。 何しろ抽斗に投げ込んだなり今日まで放って置いたんだから。 しかし兄貴も能くまあこんなものを取って置いたものだね。 困っちゃ何でも売るくせに。 誰も買い手がないでしょう。 そんな虫の食った紙なんか。 だがさ。 能く紙屑籠の中へ入れてしまわなかったという事さ。 己の方にゃしまって置く所がないよ。 御兄さんは二三日うちきっとまたいらっしゃいますよ。 あの事でかい。 それもそうですけれども今日御葬式にいらっしゃる時に袴が要るから借してくれって此所で穿いていらしったんですもの。 きっとまた返しにいらっしゃるに極っていますわ。 袴位ありそうなものだがね。 みんな長い間に失くして御しまいなすったんでしょう。 困るなあ。 どうせ宅にあるんだから要る時に貸して上げさいすりゃそれで好いでしょう。 毎日使うものじゃなし。 宅にある間はそれで好いがね。 僕なんぞはもう老朽なんだからね。 何しろ若くって役に立つ人が後から後からと出て来るんだから。 ああ厭だ。 何しろ夜|寐ないんだから身体に障ってね。 今度は少し危険いようだから誰かに頼んでくれないか。 二十四五年もあんな事をしている間には何か出来そうなものだがね。 みんな自業自得だといえばまあそんなものさね。 どうも遅くなって御気の毒さま。 有難う。 こりゃ好い袴だね。 近頃|拵えたの。 いいえ。 なかなかそんな勇気はありません。 昔からあるんです。 へええ。 そうかね。 なるほどそういわれるとどこかで見たような気もするがしかし昔のものはやっぱり丈夫なんだね。 ちっとも敗んでいないじゃないか。 滅多に穿かないんですもの。 それでも一人でいるうちに能くそんな物を買う気になれたのねあの人が。 私今でも不思議だと思いますわ。 あるいは婚礼の時に穿くつもりでわざわざ拵えたのかも知れないね。 雌蝶も雄蝶もあったもんじゃないのよ貴方。 だいち御盃の縁が欠けているんですもの。 それで三々九度を遣ったのかね。 ええ。 だから夫婦中がこんなにがたぴしするんでしょう。 健三もなかなかの気六ずかしやだから御住さんも骨が折れるだろう。 もう帰りそうなものですがね。 今日は待ってて例の事件を話して行かなくっちゃあ。 これが要るんでしょう。 いえそれはただ参考までに持って来たんだから多分要るまい。 もう健三に見せてくれたんでしょう。 ええ見せました。 何といってたかね。 随分沢山色々な書付が這入っていますわね。 この中には。 御父さんが今に何か事があるといけないって丹念に取って置いたんだから。 先達ては。 今ちょっと見たらこの中には君に不必要なものが紛れ込んでいるね。 そうですか。 御由の送籍願が這入ってるんだよ。 なんて捌けない人だろう。 送籍願が紛れ込んでいるならそれを御返しするから持って行ったら好いでしょう。 いいえ写しだから僕も要らないんだ。 一体何時頃でしたかね。 それを区役所へ出したのは。 もう古い事さ。 御幾年でしたかね。 御由ですか。 御由は御住さんと一つ違ですよ。 まだ御若いのね。 まだこんなものが這入っていたよ。 これも君にゃ関係のないものだ。 さっき見て僕もちょいと驚ろいたがこら。 右者本月二十三日午前十一時五十分|出生致し候。 本月二十三日。 これも御父さんの手蹟だ。 ねえ。 御覧虫が食ってるよ。 尤もそのはずだね。 出産届ばかりじゃないもう死亡届まで出ているんだから。 淋しいな。 何しろ比田からそういって来たんだから慥だろう。 多分行ったんだろうと思うがね。 それともあの人の事だから手紙だけで済ましてしまったのか。 其所はつい聴いて来るのを忘れたよ。 尤もあの後一|返姉さんの見舞かたがた行った時にゃ比田が相変らず留守だったのでつい会う事が出来なかったのさ。 しかしその時姉さんの話じゃ何でも忙がしいんでまだそのままにしてあるようだっていってたがね。 あの男も随分無責任だからことによると行かないのかも知れないよ。 しかしこんだの事なんざあ島田がじかに比田の所へ持ち込んだんだからねえ。 自分も兄弟だから他から見たらどこか似ているのかも知れない。 姉さんはもう好いんですか。 ああ。 どうも喘息ってものは不思議だねえ。 あんなに苦しんでいても直癒るんだから。 もう話が出来ますか。 出来るどころかなかなか能く喋舌ってね。 例の調子で。 ――姉さんの考じゃ島田は御縫さんの所へ行って智慧を付けられて来たんだろうっていうんだがね。 まさか。 それよりあの男だからあんな非常識な事をいって来るのだと解釈する方が適当でしょう。 そう。 でなければね。 きっと年を取って皆なから邪魔にされるんだろうって。 何しろ淋しいには違ないんだね。 それもあいつの事だから人情で淋しいんじゃない慾で淋しいんだ。 何でも金鵄勲章の年金か何かを御藤さんが貰ってるんだとさ。 だから島田もどこからか貰わなくっちゃ淋しくって堪らなくなったんだろうよ。 何しろあの位|慾張ってるんだから。 自分はその時分誰と共に住んでいたのだろう。 外れた外れた。 爪に火を点すってえのはあの事だね。 それじゃ何ぼ何でも下女が可哀そうだ。 御前の御父ッさんは誰だい。 じゃ御前の御母さんは。 じゃ御前の本当の御父さんと御母さんは。 御前はどこで生れたの。 健坊御前本当は誰の子なの隠さずにそう御いい。 御前誰が一番好きだい。 御父ッさん。 御母さん。 御父ッさんが。 御母さんが。 なんでそんなに世話を焼くのだろう。 御父ッさんが。 御母さんが。 まだ立てないかい。 立って御覧。 あんな嘘を吐いてらあ。 御前と一所にいると顔から火の出るような思をしなくっちゃならない。 あいつが。 あの女が。 あいつは讐だよ。 御母さんにも御前にも讐だよ。 骨を粉にしても仇討をしなくっちゃ。 あいつも一所なんだろう。 本当を御いい。 いえば御母さんが好いものを上げるから御いい。 あの女も行ったんだろう。 そうだろう。 じゃあの子に御父ッさんが何といったい。 あの子の方に余計口を利くかい御前の方にかい。 汁粉屋で御前をどっちへ坐らせたい。 右の方かい左の方かい。 時。 死んで崇ってやる。 これからは御前一人が依怙だよ。 好いかい。 確かりしてくれなくっちゃいけないよ。 考えるとまるで他の身の上のようだ。 自分の事とは思えない。 御常さんて人はその時にあの波多野とかいう宅へまた御嫁に行ったんでしょうか。 そうだろうよ。 己も能く知らないが。 その波多野という人は大方まだ生きてるんでしょうね。 警部だっていうじゃありませんか。 何んだか知らないね。 あら貴夫が自分でそう御仰ったくせに。 何時。 あの手紙を私に御見せになった時よ。 そうかしら。 ことによるともう死んだかも知れないね。 生きているかも分りませんわ。 あの人が不意に遣って来たようにその女の人も何時突然訪ねて来ないとも限らないわね。 島田一人でもう沢山なところへまた新らしくそんな女が遣って来られちゃ困るな。 君らは幸福だ。 卒業したら何になろうとか何をしようとかそんな事ばかり考えているんだから。 それは貴方がた時代の事でしょう。 今の青年はそれほど呑気でもありません。 何になろうとか何をしようとか思わない事は無論ないでしょうけれども世の中がそう自分の思い通りにならない事もまた能く承知していますから。 いや君らは僕のように過去に煩らわされないから仕合せだというのさ。 あなただって些とも過去に煩らわされているようには見えませんよ。 やっぱり己の世界はこれからだという所があるようですね。 人間は平生彼らの未来ばかり望んで生きているのにその未来が咄嗟に起ったある危険のために突然|塞がれてもう己は駄目だと事が極ると急に眼を転じて過去を振り向くからそこで凡ての過去の経験が一度に意識に上るのだというんだね。 その説によると。 どこまでこの影が己の身体に付いて回るだろう。 この間|比田の所をちょっと訪ねて見ました。 あの辺も昔と違って大分変りましたね。 もとはそら彼処に瀑があってみんな夏になると能く出掛けたものですがね。 御夏も年を取ったね。 尤ももう大分久しく会わないには違ないが。 昔はあれでなかなか勝気な女で能く私に喰って掛ったり何かしたものさ。 その代り元々兄弟同様の間柄だからいくら喧嘩をしたって仲の直るのもまた早いには早いが。 何しろ困ると助けてくれって能く泣き付いて来るんで私ゃ可哀想だからその度びにいくらかずつ都合して遣ったよ。 李鴻章の書は好きですか。 好きなら上げても好ござんす。 あれでも価値にしたら今じゃよっぽどするでしょう。 何しに来たんでしょうあの人は。 解らないねどうも。 一体|魚と獣ほど違うんだから。 何が。 ああいう人と己などとはさ。 御前はそう思わないかね。 そりゃあの人と貴夫となら魚と獣位違うでしょう。 無論外の人と己と比較していやしない。 李鴻章の掛物をどうとかいってたのね。 己に遣ろうかっていうんだ。 御止しなさいよ。 そんな物を貰ってまた後からどんな無心を持ち懸けられるかも知れないわ。 遣るっていうのは大方口の先だけなんでしょう。 本当は買ってくれっていう気なんですよきっと。 復籍の事は何にもいい出さなかったようですね。 うん何にもいわない。 まるで狐に抓まれたようなものだ。 どっちでしょう。 到底解らないよああいう人の考えは。 何もそう度々来て他の邪魔をしなくっても好さそうなものだ。 御通し申しますか。 うん。 御奥さんは。 少し御気分が悪いと仰しゃって先刻から伏せっていらっしゃいます。 少し油煙がたまるようですね。 換えさせましょう。 どういう加減だろう。 なにそんなものは宅で出来る。 金を出して頼むがものはない。 損だ。 宅の人はあんまり正直過ぎるんで。 必竟大きな損に気のつかない所が正直なんだろう。 彼はこうして老いた。 どうもどこか調子が狂ってますね。 隙があったら飛び込もう。 誰か病気ですか。 ええ妻が少し。 そうですかそれはいけませんね。 どこが悪いんです。 近頃は時候が悪いから能く気を付けないといけませんね。 ちょっと奥へ行って奥さんの傍に坐っててくれ。 へええ。 どうも御邪魔をしました。 御忙がしいところを。 いずれまたその内。 夜分なら大抵御暇ですか。 実は少し御話ししたい事があるんですが。 じゃ御免。 どうかしたのか。 どうかしたのか。 もうあっちへ行っても好い。 此所には己がいるから。 御休みなさい。 おい。 おい己だよ。 分るかい。 どうぞ口を利いてくれ。 後生だから己の顔を見てくれ。 貴夫。 あの人はもう帰ったの。 うん。 能く寐ているのね。 水で頭でも冷して遣ろうか。 いいえもう好ござんす。 大丈夫かい。 ええ。 本当に大丈夫かい。 ええ。 貴夫ももう御休みなさい。 己はまだ寐る訳に行かないよ。 明日の講義もまた纏まらないのかしら。 己の頭は悪くない。 もうやめだ。 どうでも構わない。 大丈夫だろう。 貴夫もう時間ですよ。 婢はもう起きてるのか。 ええ。 先刻起しに行ったんです。 何をいって来る気かしらこの次は。 どうせ分っているじゃありませんか。 そんな事を気になさるより早く絶交した方がよっぽど得ですわ。 それほど気にしちゃいないさあんな者。 もともと恐ろしい事なんかないんだから。 恐ろしいって誰もいやしませんわ。 けれども面倒臭いにゃ違いないでしょういくら貴夫だって。 世の中にはただ面倒臭い位な単純な理由でやめる事の出来ないものがいくらでもあるさ。 どうも少し困るので。 外にどこといって頼みに行く所もない私なんだから是非一つ。 どうせ貴方の請求通り上げる訳には行かないんです。 それでもありったけ悉皆上げたんですよ。 おい少し金を入れてくれ。 這入ってるはずですよ。 あれはもう遣っちゃったんだ。 紙入は疾うから空っぽうになっているんだよ。 ちょっと拝見。 そらやっぱり入ってるじゃありませんか。 何時入れたのか。 あの人の帰った後でです。 己が内所で島田に金を奪られたのを気の毒とでも思ったものかしら。 妾今度はことによると助からないかも知れませんよ。 何故だい。 何故だかそう思われて仕方がないんですもの。 女は詰らないものね。 それが女の義務なんだから仕方がない。 つまりしぶといのだ。 貴夫がそう邪慳になさるとまた歇私的里を起しますよ。 どうせ御産で死んでしまうんだから構やしない。 馬鹿な真似をするな。 今だってその源因が判然分りさえすれば。 じゃ当分子供を伴れて宅へ行っていましょう。 ああ晴々して好い心持だ。 病気になっても父母が付いているじゃないか。 もし悪ければ何とかいって来るだろう。 貴夫故のようになって下さらなくって。 見っともないからこれで下駄でも買ったら好いだろう。 好い紙入ですね。 へええ。 外国のものはやっぱりどこか違いますね。 失礼ながらこれでどの位します。 あちらでは。 たしか十|志だったと思います。 日本の金にするとまあ五円位なものでしょう。 五円。 ――五円は随分好い価ですね。 浅草の黒船町に古くから私の知ってる袋物屋があるが彼所ならもっとずっと安く拵えてくれますよ。 こんだ要る時にゃ私が頼んで上げましょう。 小遣を遣らないうちは帰らない。 厭な奴だ。 どうか一つ。 私もこの年になって倚かる子はなし依怙にするのは貴方一人なんだから。 これだけの生活をしていて十や二十の金の出来ないはずはない。 ありゃ成し崩しに己を侵蝕する気なんだね。 始め一度に攻め落そうとして断られたもんだから今度は遠巻にしてじりじり寄って来ようってんだ。 実に厭な奴だ。 貴夫が引っ掛るから悪いのよ。 だから始めから用心して寄せ付けないようになされば好いのに。 絶交しようと思えば何時だって出来るさ。 しかし今まで付合っただけが損になるじゃありませんか。 そりゃ何の関係もない御前から見ればそうさ。 しかし己は御前とは違うんだ。 どうせ貴夫の眼から見たら妾なんぞは馬鹿でしょうよ。 己の責任じゃない。 必竟こんな気違じみた真似を己にさせるものは誰だ。 そいつが悪いんだ。 己が悪いのじゃない。 己の悪くない事は仮令あの男に解っていなくっても己には能く解っている。 神には能く解っている。 己だって専門にその方ばかり遣りゃ。 みんな金が欲しいのだ。 そうして金より外には何にも欲しくないのだ。 何しろ家賃が出ないんだから。 この己をまた強請りに来る奴がいるんだから非道い。 一体どの位困ってるんでしょうねあの男は。 そうさね。 そう度々無心をいって来るようじゃ随分苦しいのかも知れないね。 だけど健ちゃんだってそうそう他にばかり貢いでいた日にゃ際限がないからね。 いくら御金が取れたって。 御金がそんなに取れるように見えますか。 だって宅なんぞに比べれば御前さん御金がいくらでも取れる方じゃないか。 その賞与だってそっくり私の手に渡してくれるんじゃないんだからね。 だけど近頃じゃ私たち二人はまあ隠居見たようなもので月々食料を彦さんの方へ遣って賄なってもらってるんだから少しは楽にならなけりゃならない訳さ。 健ちゃんなんざこんな真似をしなくっても済むんだから好いやあね。 それに腕があるんだから稼ぎさいすりゃいくらでも欲しいだけの御金は取れるしさ。 まあ好いやね。 面倒臭くなったらその内都合の好い時に上げましょうとか何とかいって帰してしまえば。 それでも蒼蠅いなら留守を御遣いよ。 構う事はないから。 何しろ故の通りあの地面と家作を有ってるんだからそう困っていない事は慥でさあ。 それに御藤さんの方へは御縫さんの方からちゃんちゃんと送金はあるしさ。 何でも好い加減な事をいって来るに違ないから放って御置きなさい。 一体どういうんだろう今の島田の実際の境遇っていうのは。 姉に訊いても比田に訊いても本当の所が能く分らないが。 そんなに気になさるなら御自分で直に調べて御覧になるが好いじゃありませんか。 そうすればすぐ分るでしょう。 御姉えさんだって今あの人と交際っていらっしゃらないんだからそんな確な事の知れているはずがないと思いますわ。 己にはそんな暇なんかないよ。 それじゃ放って御置きになればそれまででしょう。 放って置け。 今までだって放って置いてるじゃないか。 御縫さんが脊髄病なんだそうだ。 脊髄病じゃ六ずかしいでしょう。 とても助かる見込はないんだとさ。 それで島田が心配しているんだ。 あの人が死ぬと柴野と御藤さんとの縁が切れてしまうから今まで毎月送ってくれた例の金が来なくなるかも知れないってね。 可哀想ね今から脊髄病なんぞに罹っちゃ。 まだ若いんでしょう。 己より一つ上だって話したじゃないか。 子供はあるの。 何でも沢山あるような様子だ。 幾人だか能く訊いて見ないが。 島田がそんな心配をするのも必竟は平生が悪いからなんだろうよ。 何でも嫌われているらしいんだ。 島田にいわせるとその柴野という男が酒食いで喧嘩早くってそれで何時まで経っても出世が出来なくって仕方がないんだそうだけれどもどうもそればかりじゃないらしい。 やっぱり島田の方が愛想を尽かされているに違ないんだ。 愛想を尽かされなくったってそんなに子供が沢山あっちゃどうする事も出来ないでしょう。 そうさ。 軍人だから大方己と同じように貧乏しているんだろうよ。 一体あの人はどうしてその御藤さんて人と――。 どうしてその御藤さんて人と懇意になったんでしょう。 慾も手伝ったに違ないね。 衝突して破裂するまで行くより外に仕方がない。 あの波多野って御婆さんがとうとう遣って来ましたよ。 御会いになりますか。 会うから上げろ。 ああ変った。 ああそうですかそれはどうも。 昔の因果が今でもやっぱり崇っているんだ。 己の眼は何時でも涙が湧いて出るように出来ているのに。 失礼ですが車へでも乗って御帰り下さい。 もしあの憐な御婆さんが善人であったなら私は泣く事が出来たろう。 泣けないまでも相手の心をもっと満足させる事が出来たろう。 零落した昔しの養い親を引き取って死水を取って遣る事も出来たろう。 とうとう遣って来たのね御婆さんも。 今までは御爺さんだけだったのが御爺さんと御婆さんと二人になったのね。 これからは二人に崇られるんですよ貴夫は。 またあの事をいったでしょう。 あの事た何だい。 貴夫が小さいうち寐小便をしてあの御婆さんを困らしたって事よ。 感心な女だよ。 だいち身上持が好いからな。 そうそうは己だって困るよ。 比田はあんな奴だが御夏が可愛想だから。 御前を育てたものはこの私だよ。 島田は御前の敵だよ。 三十年|近くにもなる古い事じゃありませんか。 向うだって今となりゃ少しは遠慮があるでしょう。 それに大抵の人はもう忘れてしまいまさあね。 それから人間の性質だって長い間には少しずつ変って行きますからね。 そんな淡泊した女じゃない。 それが貴方の癖だから仕方がない。 己が執拗なのじゃないあの女が執拗なのだ。 あの女と交際った事のない御前には己の批評の正しさ加減が解らないからそんなあべこべをいうのだ。 だって現に貴夫の考えていた女とはまるで違った人になって貴夫の前へ出て来た以上は貴夫の方で昔の考えを取り消すのが当然じゃありませんか。 本当に違った人になったのなら何時でも取り消すがそうじゃないんだ。 違ったのは上部だけで腹の中は故の通りなんだ。 それがどうして分るの。 新らしい材料も何にもないのに。 御前に分らないでも己にはちゃんと分ってるよ。 随分独断的ね貴夫も。 批評が中ってさえいれば独断的で一向|差支ないものだ。 しかしもし中っていなければ迷惑する人が大分出て来るでしょう。 あの御婆さんは私と関係のない人だからどうでも構いませんけれども。 面倒臭い。 執拗だ。 執拗だ。 面倒臭い。 これで沢山だ。 己もこれで沢山だ。 これは誰の子。 喧嘩をするのはつまり両方が悪いからですね。 離れればいくら親しくってもそれぎりになる代りに一所にいさえすればたとい敵同志でもどうにかこうにかなるものだ。 つまりそれが人間なんだろう。 つい無理をするもんだから。 どうも肋膜らしいっていうんだがね。 もう少し平気で休んでいられないものかな。 責めて熱の失くなるまででも好いから。 そうしたいのは山々なんでしょうけれどもやッぱりそうは出来ないんでしょう。 死にやしまいな。 まさか。 腹でも揉むのかい。 まあそうです。 御祈祷をなすったんですって。 御前が勧めたんだろう。 いいえそれが私なんぞの知らない妙な御祈祷なのよ。 何でも髪剃を頭の上へ載せて遣るんですって。 気のせいで熱が出るんだから気のせいでそれがまた直除れるんだろうよ。 髪剃でなくったって杓子でも鍋蓋でも同じ事さ。 しかしいくら御医者の薬を飲んでも癒らないもんだから試しに遣って見たらどうだろうって勧められてとうとう遣る気になったんですってどうせ高い御祈祷代を払ったんじゃないんでしょう。 またかい。 しかし今度は何時もより重いんですって。 ことによると六ずかしいかも知れないから健三に見舞に行くようにそういってくれって仰ゃいました。 少し立っていると御腹の具合が変になって来て仕方がないんです。 手なんぞ延ばして棚に載っているものなんかとても取れやしません。 私とても御見舞には参れませんよ。 無論御前は行かなくっても好い。 己が行くから。 まあ結構です。 ああでも御蔭さまでね。 ――姉さんなんざあ生きていたってどうせ他の厄介になるばかりで何の役にも立たないんだから好い加減な時分に死ぬと丁度好いんだけれどもやっぱり持って生れた寿命だと見えてこればかりは仕方がない。 でも比田のいるうちはいくら病身でも無能でも私が生きていて遣らないと困るからね。 私ゃ本当に損な生れ付でね。 良人とはまるであべこべなんだから。 姉はただ露骨なだけなんだ。 教育の皮を剥けば己だって大した変りはないんだ。 御住さんはどうです。 もう直生れるんだろう。 ええ落こちそうな腹をして苦しがっています。 御産は苦しいもんだからね。 私も覚があるが。 軽はずみをしないように用心おしよ。 ――宅でも彼子がいると少しは依怙になるんだがね。 彦ちゃんがもう少し確乎していてくれると好いんだけれども。 もう少し御金を取ってくれると好いんだけどもね。 何とかいいましたねあの子は。 作太郎さ。 あすこに位牌があるよ。 あの小さい奴がそうですか。 ああ赤ん坊のだからねわざと小さく拵えたんだよ。 姉さんもこんなじゃ何時ああなるか分らないよ健ちゃん。 そんな心細い事をいわずに出来るだけ養生をしたら好いでしょう。 養生はしているよ。 健ちゃんから貰う御小遣の中で牛乳だけはきっと飲む事に極めているんだから。 他事じゃない。 私も近頃は具合が悪くってね。 ことによると貴方より早く位牌になるかも知れませんよ。 己のは黙って成し崩しに自殺するのだ。 気の毒だといってくれるものは一人もありゃしない。 黙っていろ。 近頃御住さんはどうだい。 まあ相変らずです。 何時こんなに変ったんだろう。 己自身は必竟どうなるのだろう。 御病人はどうなの。 何もう好いんだ。 寐てはいるが危篤でも何でもないんだ。 まあ兄貴に騙されたようなものだね。 騙されてもその方がいくら好いか知れやしませんわ貴夫。 もしもの事でもあって御覧なさいそれこそ。 兄貴が悪いんじゃない。 兄貴は姉に騙されたんだから。 その姉はまた病気に騙されたんだ。 つまり皆な騙されているようなものさ世の中は。 一番利口なのは比田かも知れないよ。 いくら女房が煩らったって決して騙されないんだからね。 やっぱり宅にいないの。 いるもんか。 尤も非道く悪かった時はどうだか知らないが。 月賦で買ったに違ないよ。 ことによると質の流れかも知れない。 近頃は何でも債券を二三枚持っているようだよ。 金の要る時も他人病気の時も他人それじゃただ一所にいるだけじゃないか。 しかし己たち夫婦も世間から見れば随分変ってるんだからそう他の事ばかりとやかくいっちゃいられないかも知れない。 やっぱり同なじ事ですわ。 みんな自分だけは好いと思ってるんだから。 御前でも自分じゃ好いつもりでいるのかい。 いますとも。 貴夫が好いと思っていらっしゃる通りに。 字が書けなくっても裁縫が出来なくってもやっぱり姉のような亭主孝行な女の方が己は好きだ。 今時そんな女がどこの国にいるもんですか。 単に夫という名前が付いているからというだけの意味でその人を尊敬しなくてはならないと強いられても自分には出来ない。 もし尊敬を受けたければ受けられるだけの実質を有った人間になって自分の前に出て来るが好い。 夫という肩書などはなくっても構わないから。 あらゆる意味から見て妻は夫に従属すべきものだ。 女のくせに。 何を生意気な。 いくら女だって。 いくら女だってそう踏み付にされて堪るものか。 女だから馬鹿にするのではない。 馬鹿だから馬鹿にするのだ尊敬されたければ尊敬されるだけの人格を拵えるがいい。 何か用でもあったのかい。 ええ少し御話ししたい事があるんですって。 何だい。 知らないのかい。 ええ。 また二三日うちに上って能く御話をするからって帰りましたから今度参ったら直に聞いて下さい。 今日父が来ました時外套がなくって寒そうでしたから貴方の古いのを出して遣りました。 あんな汚ならしいもの。 いいえ。 喜こんで着て行きました。 御父さんは外套を有っていないのかい。 外套どころじゃないもう何にも有っちゃいないんです。 そんなに窮っているのかなあ。 ええ。 もうどうする事も出来ないんですって。 まあ自分の宅を有つという事が人間にはどうしても必要ですね。 しかしそう急にも行くまいからそれは後廻しにして精々貯蓄を心掛けたら好いでしょう。 二三千円の金を有っていないといざという場合に大変困るもんだから。 なに千円位出来ればそれで結構です。 それを私に預けて御置きなさると一年位経つうちにはじき倍にして上げますから。 どうして一年のうちに千円が二千円になり得るだろう。 そんなに貧乏するはずがないだろうじゃないか。 何ぼ何だって。 でも仕方がありませんわ廻り合せだから。 所相応だろう。 阿爺相応だろう。 でもよく着られるね。 見っともなくっても寒いよりは好いでしょう。 如何にも苦しいだろう。 金の話だから好い顔が出来ないんじゃない。 金とは独立した不愉快のために好い顔が出来ないのです。 誤解してはいけません。 私はこんな場合に敵討をするような卑怯な人間とは違ます。 向うでは貴方を知ってるといいますが貴方も知ってるんでしょうね。 知っています。 まだ銀行にいるんですか。 で当人のいうには貸しても好い好いが慥な人を証人に立ててもらいたいとこういうんです。 なるほど。 じゃ誰を立てたら好いのかと聞くと貴方ならば貸しても好いと向うでわざわざ指名した訳なんです。 何故私の判が必要なんでしょう。 貴方なら貸そうというのです。 私でなくっちゃいけないのでしょうか。 貴方なら好いというんです。 どうも変ですね。 どんな目に逢わされるか分りゃしない。 印を捺す事はどうも危険ですからやめたいと思います。 しかしその代り私の手で出来るだけの金を調えて上げましょう。 無論貯蓄のない私の事だから調えるにしたところでどうせどこからか借りるより外に仕方がないのですが出来るなら証文を書いたり判を押したりするような形式上の手続きを踏む金は借りたくないのです。 私の有っている狭い交際の方面で安全な金を工面した方が私には心持が好いのですからまずそっちの方を一つ中って見ましょう。 無論|御入用だけの額は駄目です。 私の手で調のえる以上私の手で返さなければならないのは無論の事ですから身分不相当の借金は出来ません。 どうぞそれじゃ何分。 金を貸してくれないかね。 どうだろう。 じゃ清水に頼んで見てくれないか。 さあどうかなあ。 あいつもその位な金はあるだろうが動かせるようになっているかしら。 まあ訊いて見てやろう。 己は精一杯の事をしたのだ。 山を掘るんだって。 ええ何でも新らしく会社を拵えるんだそうです。 旨く行くのかね。 どうですか。 ええええ旅費位どうでもして上ますからすぐ行って御上なさい。 何しろ電報が来ただけで詳しい事はまるで分りませんのですから。 じゃなお御心配でしょう。 なるべく早く御立ちになる方が好いでしょう。 まだ何にも見付からないのかね口は。 あるにはあるようですけれども旨く纏らないんですって。 どうも困るね。 今に何とかなるでしょう。 ただ気の毒だからそういうだけさ。 私も今度という今度は困りました。 実はこの間ある人の周旋で会って見ましたがどうか旨く出来そうですよ。 三井と三菱を除けば日本ではまあ彼所位なもんですから使用人になったからといって別に私の体面に関わる事もありませんしそれに仕事をする区域も広いようですから面白く働けるだろうと思うんです。 一時必要な株数だけを私の名儀に書換てもらうんです。 しかし困る事にこれは今が今という訳に行かないのです。 時機があるものですからな。 今御話した一方の方が出来たらこれはやめるかまたは出来ても続けてやるかその辺はまだ分らないんですがとにかく百円でも当座の凌ぎにはなりますから。 個人としての乃木さんは義に堅く情に篤く実に立派なものです。 しかし総督としての乃木さんが果して適任であるかどうかという問題になると議論の余地がまだ大分あるように思います。 個人の徳は自分に親しく接触する左右のものには能く及ぶかも知れませんが遠く離れた被治者に利益を与えようとするには不充分です。 其所へ行くとやっぱり手腕ですね。 手腕がなくっちゃどんな善人でもただ坐っているより外に仕方がありませんからね。 妾どんな夫でも構いませんわただ自分に好くしてくれさえすれば。 泥棒でも構わないのかい。 ええええ泥棒だろうが詐欺師だろうが何でも好いわ。 ただ女房を大事にしてくれればそれで沢山なのよ。 いくら偉い男だって立派な人間だって宅で不親切じゃ妾にゃ何にもならないんですもの。 己はそんな事で人と離れる人間じゃない。 与しやすい男だ。 御天道さまが来ました。 五|色の雲へ乗って来ました。 大変よ貴夫。 妾の赤ん坊は死んじまった。 妾の死んだ赤ん坊が来たから行かなくっちゃならない。 そら其所にいるじゃありませんか。 桔槹の中に。 妾ちょっと行って見て来るから放して下さい。 己にそんな義務はない。 だって何にもないじゃありませんか。 産婆は何時頃生れるというのかい。 何時って判然いいもしませんがもう直ですわ。 用意は出来てるのかい。 ええ奥の戸棚の中に入っています。 何しろこう重苦しくっちゃ堪らない。 早く生れてくれなくっちゃ。 今度は死ぬかも知れないっていってたじゃないか。 ええ死んでも何でも構わないから早く生んじまいたいわ。 どうも御気の毒さまだな。 好いわ死ねば貴夫のせいだから。 産をするのも苦しいだろうがそれを見ているのも辛いものだぜ。 じゃどこかへ遊びにでもいらっしゃいな。 一人で生めるかい。 一週間以内かね。 いえもう少し後でしょう。 先刻から急に御腹が痛み出して。 もう出そうなのかい。 少し撫って遣ろうか。 そう急に生れるもんじゃないだろうな子供ってものは。 一仕切痛んではまた一仕切治まるんだろう。 何だか知らないけれども段々痛くなるだけですわ。 産婆を呼ぼうか。 ええ早く。 もう生れます。 確かりしろ。 しかしこのままにして放って置いたら風邪を引くだろう寒さで凍えてしまうだろう。 御安産で御目出とう御座います。 男かね女かね。 女の御子さんで。 また女か。 ああいうものが続々生れて来て必竟どうするんだろう。 蒲団は換えて遣ったのかい。 ええ蒲団も敷布も換えて上げました。 よくこう早く片付けられるもんだね。 貴夫がむやみに脱脂綿を使って御しまいになったものだから足りなくって大変困りましたよ。 そうだろう。 随分驚ろいたからね。 どうだ。 どうだ。 何だか変なようです。 心持が悪いのかい。 ええ。 産婆を呼びに遣ろうか。 もう来るでしょう。 熱が少し出ましたね。 大丈夫なのかな。 どうですか。 どうですかって御前の身体じゃないか。 人がこんなに心配して遣るのに。 やっぱり何でもなかったのかな。 ええ。 だけど何時また出て来るか分りませんわ。 産をするとそんなに熱が出たり引っ込んだりするものかね。 今度は死ぬ死ぬっていいながら平気で生きているじゃないか。 死んだ方が好ければ何時でも死にます。 それは御随意だ。 実際|今度は死ぬと思ったんですもの。 どういう訳で。 訳はないわただ思うのに。 御前は呑気だね。 貴夫こそ呑気よ。 産が軽いだけあって少し小さ過ぎるようだね。 今に大きくなりますよ。 人間の運命はなかなか片付かないもんだな。 何ですって。 それがどうしたの。 どうしもしないけれどもそうだからそうだというのさ。 詰らないわ。 他に解らない事さえいいや好いかと思って。 今にどんなになるだろう。 また塊っているな。 こう始終|湯婆ばかり入れていちゃ子供の健康に悪い。 出してしまえ。 第一いくつ入れるんだ。 女は子供を専領してしまうものだね。 何で藪から棒にそんな事を仰ゃるの。 だってそうじゃないか。 女はそれで気に入らない亭主に敵討をするつもりなんだろう。 馬鹿を仰ゃい。 子供が私の傍へばかり寄り付くのは貴夫が構い付けて御遣りなさらないからです。 己を構い付けなくさせたものは取も直さず御前だろう。 どうでも勝手になさい。 何ぞというと僻みばかりいって。 どうせ口の達者な貴夫には敵いませんから。 女は策略が好きだからいけない。 そんなに何も私を虐めなくっても。 貴夫|何故その子を抱いて御遣りにならないの。 何だか抱くと険呑だからさ。 頸でも折ると大変だからね。 嘘を仰しゃい。 貴夫には女房や子供に対する情合が欠けているんですよ。 だって御覧なぐたぐたして抱き慣けない男に手なんか出せやしないじゃないか。 それまで毎日抱いて遣っていたのにそれから急に抱かなくなったじゃありませんか。 何といったって女には技巧があるんだから仕方がない。 こんなものが面白いのかい。 いいじゃありませんか貴夫に面白くなくったって私にさえ面白けりゃ。 じゃ貴夫が教えて下されば好いのに。 そんなに他を馬鹿にばかりなさらないで。 御前の方に教えてもらおうという気がないからさ。 自分はもうこれで一人前だという腹があっちゃ己にゃどうする事も出来ないよ。 読むなというんじゃない。 それは御前の随意だ。 しかし余まり眼を使わないようにしたら好いだろう。 ええ針を持つのは毒ですけれども本位構わないでしょう。 それも始終読んでいるんじゃありませんから。 しかし疲れるまで読み続けない方が好かろう。 でないと後で困る。 なに大丈夫です。 御前が困らなくっても己が困る。 大変荒れた事今年は例より寒いようね。 血が少なくなったせいでそう思うんだろう。 そうでしょうかしら。 鏡を見たら顔の色でも分りそうなものだのにね。 ええそりゃ分ってますわ。 しかし寒い事も寒いんでしょう今年は。 そりゃ冬だから寒いに極まっているさ。 新らしく生きたものを拵え上げた自分はその償いとして衰えて行かなければならない。 そりゃ誰の着物だい。 やっぱりこの子のです。 そんなにいくつも要るのかい。 ええ。 それは姉から祝ってくれたんだろう。 そうです。 下らない話だな。 金もないのに止せば好いのに。 つまり己の金で己が買ったと同じ事になるんだからな。 でも貴夫に対する義理だと思っていらっしゃるんだから仕方がありませんわ。 どうも困るねそう義理々々って何が義理だかさっぱり解りゃしない。 そんな形式的な事をするより自分の小遣を比田に借りられないような用心でもする方がよっぽど増しだ。 今にまた何か御礼をしますからそれで好いでしょう。 だから元は御姉さんの所へ皆なが色んな物を持って来たんですって。 十のものには十五の返しをなさる御姉さんの気性を知ってるもんだから皆なその御礼を目的に何か呉れるんだそうですよ。 十のものに十五の返しをするったって高が五十銭が七十五銭になるだけじゃないか。 それで沢山なんでしょう。 そういう人たちは。 随分厄介な交際だね。 だいち馬鹿々々しいじゃないか。 傍から見れば馬鹿々々しいようですけれどもその中に入るとやっぱり仕方がないんでしょう。 そう損をしてまでも義理が尽されるのは偉いね。 しかし姉は生れ付いての見栄坊なんだから仕方がない。 偉くない方がまだ増しだろう。 親切気はまるでないんでしょうか。 そうさな。 ことによると己の方が不人情に出来ているのかも知れない。 いえもう御構い下さいますな。 今日は大分御暖かで御座いますから。 あなたは年を取って段々御肥りになるようですね。 ええ御蔭さまで身体の方はまことに丈夫で御座います。 そりゃ結構です。 その代り身上の方はただ痩せる一方で。 酒でも飲むんじゃなかろうか。 どこを見ても困る人だらけで弱りますね。 こちらなどが困っていらしっちゃあ世の中に困らないものは一人も御座いません。 この人は己を自分より金持と思っているように己を自分より丈夫だとも思っているのだろう。 年が若くって起居に不自由さえなければ丈夫だと思うんだろう。 門構の宅に住んで下女さえ使っていれば金でもあると考えるように。 ことによると己の方が不人情なのかも知れない。 何不人情でも構うものか。 何しろ取高が少ないもんですから仕方が御座いません。 もう少し稼いでくれると好いのですけれども。 失礼ですがこれで俥へでも乗って行って下さい。 そんな御心配を掛けては済みません。 そういうつもりで上ったのでは御座いませんから。 この次来た時にもし五円札がなかったらどうしよう。 これからあの人が来ると何時でも五円遣らなければならないような気がする。 つまり姉が要らざる義理立をするのと同じ事なのかしら。 ないときは遣らないでも好いじゃありませんか。 何もそう見栄を張る必要はないんだから。 ない時に遣ろうったって遣れないのは分ってるさ。 どうしてまた今日は五円入っていたんです。 貴夫の紙入に。 実はまだ買いたいものがあるんだがな。 何を御買いになるつもりだったの。 沢山あるんだ。 あの御婆さんは御姉さんなんぞよりよっぽど落ち付いているのね。 あれじゃ島田って人と宅で落ち合ってもそう喧嘩もしないでしょう。 落ち合わないからまだ仕合せなんだ。 二人が一所の座敷で顔を見合せでもして見るがいいそれこそ堪らないや。 一人ずつ相手にしているんでさえ沢山な所へ持って来て。 今でもやっぱり喧嘩が始まるでしょうか。 喧嘩はとにかく己の方が厭じゃないか。 二人ともまだ知らないようね。 片っ方が宅へ来る事を。 どうだか。 あの御婆さんの方がまだあの人より好いでしょう。 どうして。 五円貰うと黙って帰って行くから。 少し紙はありませんか生憎烟管が詰って。 段々暮になるんでさぞ御忙がしいでしょう。 我々の家業は暮も正月もありません。 年が年中同じ事です。 そりゃ結構だ。 大抵の人はそうは行きませんよ。 おや赤ん坊のようですね。 ええつい此間生れたばかりです。 そりゃどうも。 些とも知りませんでした。 男ですか女ですか。 女です。 へええ失礼だがこれで幾人目ですか。 つまり身代りに誰かが死ななければならないのだ。 どういう訳でこう丈夫なのだろう。 御縫もとうとう亡くなってね。 御祝儀は済んだが。 そうですか。 可愛想に。 なに病気が病気だからとても癒りっこないんです。 それについて是非一つ聞いてもらわないと困る事があるんですが。 また金でしょう。 まあそうで。 御縫が死んだんで柴野と御藤との縁が切れちまったもんだからもう今までのように月々送らせる訳に行かなくなったんでね。 今までは金鵄勲章の年金だけはちゃんちゃんとこっちへ来たんですがね。 それが急になくなるとまるで目的が外れるような始末で私も困るんです。 とにかくこうなっちゃ御前を措いてもう外に世話をしてもらう人は誰もありゃしない。 だからどうかしてくれなくっちゃ困る。 そう他にのし懸って来たって仕方がありません。 今の私にはそれだけの事をしなければならない因縁も何もないんだから。 永い間の事はまた緩々御話しをするとしてじゃこの急場だけでも一つ。 この暮を越さなくっちゃならないんだ。 どこの宅だって暮になりゃ百と二百と纏った金の要るのは当り前だろう。 私にそんな金はありませんよ。 笑談いっちゃいけない。 これだけの構をしていてその位の融通が利かないなんてそんなはずがあるもんか。 あってもなくってもないからないというだけの話です。 じゃいうが御前の収入は月に八百円あるそうじゃないか。 八百円だろうが千円だろうが私の収入は私の収入です。 貴方の関係した事じゃありません。 じゃいくら困っても助けてくれないというんですね。 ええもう一文も上ません。 もう参上りませんから。 一体どうしたんです。 勝手にするが好いや。 また御金でも呉れろって来たんですか。 誰が遣るもんか。 あの御婆さんの方が細く長く続くからまだ安全ね。 島田の方だってこれで片付くもんかね。 食わすだけは仕方がないから食わして遣る。 しかしその外の事はこっちじゃ構えない。 先方でするのが当然だ。 なに実家へ預けて置きさえすればどうにかするだろう。 その内健三が一人前になって少しでも働らけるようになったらその時|表沙汰にしてでもこっちへ奪還くってしまえばそれまでだ。 もうこっちへ引き取って給仕でも何でもさせるからそう思うがいい。 給仕になんぞされては大変だ。 しかし今の自分はどうして出来上ったのだろう。 貴夫に気に入る人はどうせどこにもいないでしょうよ。 世の中はみんな馬鹿ばかりですから。 御前は役に立ちさえすれば人間はそれで好いと思っているんだろう。 だって役に立たなくっちゃ何にもならないじゃありませんか。 男のくせに。 あれじゃ仕方がない。 私に御預けなさい。 私が田舎へ連れて行って育てるから。 もし田舎へ遣って貴夫と衝突したり何かすると折合が悪くなって後が困るからそれでやめたんだそうです。 馬鹿じゃありません。 そんな御世話にならなくっても大丈夫です。 役に立つばかりが能じゃない。 その位の事が解らなくってどうするんだ。 そう頭からがみがみいわないでもっと解るようにいって聞かして下すったら好いでしょう。 解るようにいおうとすれば理窟ばかり捏ね返すっていうじゃないか。 だからもっと解りやすいように。 私に解らないような小六ずかしい理窟はやめにして。 それじゃどうしたって説明しようがない。 数字を使わずに算術を遣れと注文するのと同じ事だ。 だって貴夫の理窟は他を捻じ伏せるために用いられるとより外に考えようのない事があるんですもの。 御前の頭が悪いからそう思うんだ。 私の頭も悪いかも知れませんけれども中味のない空っぽの理窟で捻じ伏せられるのは嫌ですよ。 貴夫が私のものでなくってもこの子は私の物よ。 変な子が出来たものだなあ。 どこの子だって生れたては皆なこの通りです。 まさかそうでもなかろう。 もう少しは整ったのも生れるはずだ。 今に御覧なさい。 貴夫は不人情ね。 自分一人好ければ構わない気なんだから。 女にはああいう時でも子供の事が考えられるものかね。 当り前ですわ。 訳の分らないものがいくら束になったって仕様がない。 今にその子供が大きくなって御前から離れて行く時期が来るに極っている。 御前は己と離れても子供とさえ融け合って一つになっていればそれで沢山だという気でいるらしいがそれは間違だ。 今に見ろ。 芭蕉に実が結ると翌年からその幹は枯れてしまう。 竹も同じ事である。 動物のうちには子を生むために生きているのか死ぬために子を生むのか解らないものがいくらでもある。 人間も緩漫ながらそれに準じた法則にやッぱり支配されている。 母は一旦自分の所有するあらゆるものを犠牲にして子供に生を与えた以上また余りのあらゆるものを犠牲にしてその生を守護しなければなるまい。 彼女が天からそういう命令を受けてこの世に出たとするならばその報酬として子供を独占するのは当り前だ。 故意というよりも自然の現象だ。 子供を有った御前は仕合せである。 しかしその仕合を享ける前に御前は既に多大な犠牲を払っている。 これから先も御前の気の付かない犠牲をどの位払うか分らない。 御前は仕合せかも知れないが実は気の毒なものだ。 もういくつ寐ると御正月。 旦那の嫌な大晦日。 ペネロピーの仕事。 何時まで経ったって片付きゃしない。 何だい。 島田の事についてちょっと御目に掛りたいっていうんです。 今|差支るからって返してくれ。 何時伺ったら好いか御都合を聞かして頂きたいんですって。 何といいましょう。 明後日の午後に来て下さいといってくれ。 帰ったかい。 ええ。 また何かそういって来る気でしょうね。 執ッ濃い。 暮のうちにどうかしようというんだろう。 馬鹿らしいや。 御前の宅の方はどうだい。 相変らず困るんでしょう。 あの鉄道会社の社長の口はまだ出来ないのかい。 あれは出来るんですって。 けれどもそうこっちの都合の好いようにちょっくらちょいとという訳には行かないんでしょう。 この暮のうちには六ずかしいのかね。 とても。 困るだろうね。 困っても仕方がありませんわ。 何もかもみんな運命なんだから。 貴方は私の顔を覚えて御出ですか。 どうも分りませんね。 そうでしょう。 もう忘れても好い時分ですから。 しかし私ゃこれでも貴方の坊ちゃん坊ちゃんていわれた昔をまだ覚えていますよ。 そうですか。 どうしても思い出せませんかね。 じゃ御話ししましょう。 私ゃ昔し島田さんが扱所を遣っていなすった頃あすこに勤めていたものです。 ほら貴方が悪戯をして小刀で指を切って大騒ぎをした事があるでしょう。 あの小刀は私の硯箱の中にあったんでさあ。 あの時|金盥に水を取って貴方の指を冷したのも私ですぜ。 その縁故で今度また私が頼まれて島田さんのために上ったような訳合なんです。 もう再び御宅へは伺わないといってますから。 この間帰る時既にそういって行ったんです。 でどうでしょう此所いらで綺麗に片を付ける事にしたら。 それでないと何時まで経っても貴方が迷惑するぎりですよ。 いくら引っ懸っていたって迷惑じゃありません。 どうせ世の中の事は引っ懸りだらけなんですから。 よし迷惑だとしても出すまじき金を出す位なら出さないで迷惑を我慢していた方が私にはよッぽど心持が好いんです。 それに貴方も御承知でしょうが離縁の際貴方から島田へ入れた書付がまだ向うの手にありますからこの際いくらでも纏めたものを渡してあの書付と引き易えになすった方が好くはありませんか。 あんなものは反故同然ですよ。 向で持っていても役に立たず私が貰っても仕方がないんだ。 もし利用出来る気ならいくらでも利用したら好いでしょう。 書付を買えの今に迷惑するのが厭なら金を出せのといわれるとこっちでも断るより外に仕方がありませんが困るからどうかしてもらいたいその代り向後一切無心がましい事はいって来ないと保証するなら昔の情義上少しの工面はして上げても構いません。 ええそれがつまり私の来た主意なんですから出来るならどうかそう願いたいもんで。 じゃどの位出して下さいます。 まあ百円位なものですね。 百円。 どうでしょう責めて三百円位にして遣る訳には行きますまいか。 出すべき理由さえあれば何百円でも出します。 御尤もだが島田さんもああして困ってるもんだから。 そんな事をいやあ私だって困っています。 そうですか。 元来一文も出さないといったって貴方の方じゃどうする事も出来ないんでしょう。 百円で悪けりゃ御止しなさい。 じゃともかくも本人によくそう話して見ます。 その上でまた上る事にしますからどうぞ何分。 とうとう来た。 どうしたっていうんです。 また金を取られるんだ。 人さえ来れば金を取られるに極ってるから厭だ。 馬鹿らしい。 だって仕方がないよ。 そりゃ貴夫の御金を貴夫が御遣りになるんだから私何もいう訳はありませんわ。 金なんかあるもんか。 神でない以上公平は保てない。 神でない以上辛抱だってし切れない。 御前は必竟何をしに世の中に生れて来たのだ。 分らない。 分らないのじゃあるまい。 分っていても其所へ行けないのだろう。 途中で引懸っているのだろう。 己のせいじゃない。 己のせいじゃない。 暮になると世の中の人はきっと何か買うものかしら。 貴族院議員になってさえいればどこでも待ってくれるんだそうですけれども。 相場に手を出したのが悪いんですよ。 御役人をしている間は相場師の方で儲けさせてくれるんですって。 だから好いけれども一旦役を退くともう相場師が構ってくれないからみんな駄目になるんだそうです。 何の事だか要領を得ないね。 だいち意味さえ解らない。 貴方に解らなくったってそうなら仕方がないじゃありませんか。 何をいってるんだ。 それじゃ相場師は決して損をしっこないものに極っちまうじゃないか。 馬鹿な女だな。 御前は馬鹿だよ。 どうも御忙がしいところを度々出まして。 実はこの間の事を島田によく話しましたところそういう訳なら致し方がないから金額はそれで宜しいその代りどうか年内に頂戴致したいとこういうんですがね。 年内たってもう僅かの日数しかないじゃありませんか。 だから向うでも急ぐような訳でしてね。 あれば今すぐ上げても好いんです。 しかしないんだから仕方がないじゃありませんか。 そうですか。 どうでしょう其所のところを一つ御奮発は願われますまいか。 私も折角こうして忙がしい中を島田さんのためにわざわざ遣って来たもんですから。 御気の毒ですが出来ませんね。 じゃ何時頃頂けるんでしょう。 いずれ来年にでもなったらどうにかしましょう。 私もこうして頼まれて上った以上何とか向へ返事をしなくっちゃなりませんからせめて日限でも一つ御取極を願いたいと思いますが。 御尤もです。 じゃ正月一杯とでもして置きましょう。 また百円どうかしなくっちゃならない。 貴夫が遣らないでも好いものを遣るって約束なんぞなさるから後で困るんですよ。 遣らないでもいいのだけれども己は遣るんだ。 そう依故地を仰しゃればそれまでです。 御前は人を理窟ぽいとか何とかいって攻撃するくせに自分にゃ大変形式ばった所のある女だね。 貴夫こそ形式が御好きなんです。 何事にも理窟が先に立つんだから。 理窟と形式とは違うさ。 貴夫のは同なじですよ。 じゃいって聞かせるがね己は口にだけ論理を有っている男じゃない。 口にある論理は己の手にも足にも身体全体にもあるんだ。 そんなら貴夫の理窟がそう空っぽうに見えるはずがないじゃありませんか。 空っぽうじゃないんだもの。 丁度ころ柿の粉のようなもので理窟が中から白く吹き出すだけなんだ。 外部から喰付けた砂糖とは違うさ。 御前が形式張るというのはね。 人間の内側はどうでも外部へ出た所だけを捉まえさえすればそれでその人間がすぐ片付けられるものと思っているからさ。 丁度御前の御父さんが法律家だもんだから証拠さえなければ文句を付けられる因縁がないと考えているようなもので。 父はそんな事をいった事なんぞありゃしません。 私だってそう外部ばかり飾って生きてる人間じゃありません。 貴夫が不断からそんな僻んだ眼で他を見ていらっしゃるから。 無沙汰見舞かたがた少し歳暮に廻って来ました。 御前の宅はどうだい。 別に変った事もありません。 ああなると心配を通り越してかえって平気になるのかも知れませんね。 あの紫檀の机を買わないかっていうんですけれども縁起が悪いから止しました。 縁起はどうでも好いがそんな高価いものを買う勇気は当分こっちにもなさそうだ。 そういえば貴夫あの人に遣る御金を比田さんから借りなくって。 比田にそれだけの余裕があるのかい。 あるのよ。 比田さんは今年限り株式の方をやめられたんですって。 もう老朽だろうからね。 しかしやめられればなお困るだろうじゃないか。 追ってはどうなるか知れないでしょうけれども差当り困るような事はないんですって。 居食をしていても詰らないから確かな人があったら貸したいからどうか世話をしてくれって今日頼まれて来たんです。 へえとうとう金貸を遣るようになったのかい。 どうせ高利なんだろう。 何でも旨く運転すると月に三四十円の利子になるからそれを二人の小遣にしてこれから先細く長く遣って行くつもりだって御姉えさんがそう仰ゃいましたよ。 悪くするとまたみんな損っちまうだけだ。 それよりそう慾張ないで銀行へでも預けて置いて相当の利子を取る方が安全だがな。 だから確な人に貸したいっていうんでしょう。 確な人はそんな金は借りないさ。 怖いからね。 だけど普通の利子じゃ遣って行けないんでしょう。 それじゃ己だって借りるのは厭ださ。 御兄いさんも困っていらしってよ。 馬鹿だな。 金を借りてくれ借りてくれってこっちから頼む奴もないじゃないか。 兄貴だって金は欲しいだろうがそんな剣呑な思いまでして借りる必要もあるまいからね。 御前己が借りるとでもいったのかい。 そんな余計な事いやしません。 辻褄の合わない事は世の中にいくらでもあるにはあるが。 何だか変だな。 考えると可笑しくなるだけだ。 まあ好いや己が借りて遣らなくってもどうにかなるんだろうから。 ええそりゃ借手はいくらでもあるんでしょう。 現にもう一口ばかり貸したんですって。 彼所いらの待合か何かへ。 これを今に御前に遣ろう。 それではこれは貴方に上げる事にしますから。 どうも色々御手数を掛けまして有難う。 じゃ頂戴します。 そんな事をまだ覚えていらっしゃるんですか。 貴夫も随分執念深いわね。 御兄いさんが御聴きになったらさぞ御驚ろきなさるでしょう。 執念深かろうが男らしくなかろうが事実は事実だよ。 よし事実に棒を引いたって感情を打ち殺す訳には行かないからね。 その時の感情はまだ生きているんだ。 生きて今でもどこかで働いているんだ。 己が殺しても天が復活させるから何にもならない。 御金なんか借りさえしなきゃあそれで好いじゃありませんか。 すべて余計な事だ。 人間の小刀細工だ。 ああああ。 やっぱり御兄さんか比田さんに御頼みなさるより外に仕方がないでしょう。 今までの行掛りもあるんだから。 まあそうでもするのが一番適当なところだろう。 あんまり有難くはないが。 公けな他人を頼むほどの事でもないから。 百円遣るの。 でも健ちゃんなんぞは顔が顔だからね。 そうしみったれた真似も出来まいしそれにあの島田って爺さんがただの爺さんと違ってあの通りの悪党だから百円位仕方がないだろうよ。 だけど御正月早々御前さんも随分好い面の皮さね。 好い面の皮|鯉の滝登りか。 でも健ちゃんは好いね。 御金を取ろうとすればいくらでも取れるんだから。 こちとらとは少し頭の寸法が違うんだ。 右大将頼朝公の髑髏と来ているんだから。 まあこれで漸く片が付きました。 しかる上は後日に至り。 后日のため誓約|件の如し。 どうも御手数でしたありがとう。 こういう証文さえ入れさせて置けばもう大丈夫だからね。 それでないと何時まで蒼蠅く付け纏わられるか分ったもんじゃないよ。 ねえ長さん。 そうさ。 これで漸く一安心出来たようなものだ。 私儀今般貴家御離縁に相成実父より養育料差出|候については今後とも互に不実不人情に相成ざるよう心掛たくと存候。 それを売り付けようというのが向うの腹さね。 つまり百円で買って遣ったようなものだね。 こっちの方は虫が食ってますね。 反故だよ。 何にもならないもんだ。 破いて紙屑籠へ入れてしまえ。 わざわざ破かなくっても好いでしょう。 先刻の書付はどうしたい。 箪笥の抽斗にしまって置きました。 まあ好かった。 あの人だけはこれで片が付いて。 何が片付いたって。 でもああして証文を取って置けばそれで大丈夫でしょう。 もう来る事も出来ないし来たって構い付けなければそれまでじゃありませんか。 そりゃ今までだって同じ事だよ。 そうしようと思えば何時でも出来たんだから。 だけどああして書いたものをこっちの手に入れて置くと大変違いますわ。 安心するかね。 ええ安心よ。 すっかり片付いちゃったんですもの。 まだなかなか片付きゃしないよ。 どうして。 片付いたのは上部だけじゃないか。 だから御前は形式張った女だというんだ。 じゃどうすれば本当に片付くんです。 世の中に片付くなんてものは殆んどありゃしない。 一遍起った事は何時までも続くのさ。 ただ色々な形に変るから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ。 おお好い子だ好い子だ。 御父さまの仰ゃる事は何だかちっとも分りゃしないわね。 日本現代の開化。 やっぱり穴が腸まで続いているんでした。 この前探った時は途中に瘢痕の隆起があったのでついそこが行きどまりだとばかり思ってああ云ったんですが今日疎通を好くするためにそいつをがりがり掻き落して見るとまだ奥があるんです。 そうしてそれが腸まで続いているんですか。 そうです。 五分ぐらいだと思っていたのが約一寸ほどあるんです。 御気の毒ですが事実だから仕方がありません。 医者は自分の職業に対して虚言を吐く訳に行かないんですから。 腸まで続いているとすると癒りっこないんですか。 そんな事はありません。 ただ今までのように穴の掃除ばかりしていては駄目なんです。 それじゃいつまで経っても肉の上りこはないから今度は治療法を変えて根本的の手術を一思いにやるよりほかに仕方がありませんね。 根本的の治療と云うと。 切開です。 切開して穴と腸といっしょにしてしまうんです。 すると天然自然割かれた面の両側が癒着して来ますからまあ本式に癒るようになるんです。 もし結核性のものだとするとたとい今おっしゃったような根本的な手術をして細い溝を全部腸の方へ切り開いてしまっても癒らないんでしょう。 結核性なら駄目です。 それからそれへと穴を掘って奥の方へ進んで行くんだから口元だけ治療したって役にゃ立ちません。 私のは結核性じゃないんですか。 いえ結核性じゃありません。 どうしてそれが分るんですか。 ただの診察で分るんですか。 ええ。 診察た様子で分ります。 じゃいつその根本的手術をやっていただけるでしょう。 いつでも。 あなたの御都合の好い時でようござんす。 どうしてあんな苦しい目に会ったんだろう。 この肉体はいつ何時どんな変に会わないとも限らない。 それどころか今|現にどんな変がこの肉体のうちに起りつつあるかも知れない。 そうして自分は全く知らずにいる。 恐ろしい事だ。 精神界も同じ事だ。 精神界も全く同じ事だ。 いつどう変るか分らない。 そうしてその変るところをおれは見たのだ。 偶然。 だから君普通世間で偶然だ偶然だといういわゆる偶然の出来事というのはポアンカレーの説によると原因があまりに複雑過ぎてちょっと見当がつかない時に云うのだね。 ナポレオンが生れるためには或特別の卵と或特別の精虫の配合が必要でその必要な配合が出来得るためにはまたどんな条件が必要であったかと考えて見るとほとんど想像がつかないだろう。 どうしてあの女はあすこへ嫁に行ったのだろう。 それは自分で行こうと思ったから行ったに違ない。 しかしどうしてもあすこへ嫁に行くはずではなかったのに。 そうしてこのおれはまたどうしてあの女と結婚したのだろう。 それもおれが貰おうと思ったからこそ結婚が成立したに違ない。 しかしおれはいまだかつてあの女を貰おうとは思っていなかったのに。 偶然。 ポアンカレーのいわゆる複雑の極致。 何だか解らない。 おい何を見ているんだ。 ああ吃驚した。 ――御帰り遊ばせ。 そんな所に立って何をしているんだ。 待ってたのよ。 御帰りを。 だって何か一生懸命に見ていたじゃないか。 ええ。 あれ雀よ。 雀が御向うの宅の二階の庇に巣を食ってるんでしょう。 何だい。 洋杖。 ちょっと今のうち一風呂浴びていらっしゃい。 またそこへ坐り込むと臆劫になるから。 湯は今日はやめにしようかしら。 なぜ。 ――さっぱりするから行っていらっしゃいよ。 帰るとすぐ御飯にして上げますから。 今日帰りに小林さんへ寄って診て貰って来たよ。 そう。 そうしてどうなの診察の結果は。 おおかたもう癒ってるんでしょう。 ところが癒らない。 いよいよ厄介な事になっちまった。 厭ね切るなんて怖くって。 今までのようにそっとしておいたってよかないの。 やっぱり医者の方から云うとこのままじゃ危険なんだろうね。 だけど厭だわあなた。 もし切り損ないでもすると。 もし手術をするとすればまた日曜でなくっちゃいけないんでしょう。 まだ席を取ってないんだから構やしないさ断わったって。 でもそりゃ悪いわあなた。 せっかく親切にああ云ってくれるものを断っちゃ。 悪かないよ。 相当の事情があって断わるんなら。 でもあたし行きたいんですもの。 御前は行きたければおいでな。 だからあなたもいらっしゃいなね。 御厭。 嘘よ。 あたし芝居なんか行かなくってもいいのよ。 今のはただ甘ったれたのよ。 何だってそんなむずかしい顔をしてあたしを御覧になるの。 ――芝居はもうやめるからこの次の日曜に小林さんに行って手術を受けていらっしゃい。 それで好いでしょう。 岡本へは二三日中に端書を出すかでなければ私がちょっと行って断わって来ますから。 御前は行ってもいいんだよ。 せっかく誘ってくれたもんだから。 いえ私も止しにするわ。 芝居よりもあなたの健康の方が大事ですもの。 手術ってたってそう腫物の膿を出すように簡単にゃ行かないんだよ。 最初|下剤をかけてまず腸を綺麗に掃除しておいてそれからいよいよ切開すると出血の危険があるかも知れないというので創口へガーゼを詰めたまま五六日の間はじっとして寝ているんだそうだから。 だからたといこの次の日曜に行くとしたところでどうせ日曜一日じゃ済まないんだ。 その代り日曜が延びて月曜になろうとも火曜になろうとも大した違にゃならないしまた日曜を繰り上げて明日にしたところで明後日にしたところでやっぱり同じ事なんだ。 そこへ行くとまあ楽な病気だね。 あんまり楽でもないわあなた一週間も寝たぎりで動く事ができなくっちゃ。 じゃどうしても御勤めを一週間ばかり休まなくっちゃならないわね。 だから吉川さんに会って訳を話して見た上で日取をきめようかと思っているところだ。 黙って休んでも構わないようなもののそうも行かないから。 そりゃあなた御話しになる方がいいわ。 平生からあんなに御世話になっているんですもの。 吉川さんに話したら明日からすぐ入院しろって云うかも知れない。 入院。 入院なさるんじゃないでしょう。 まあ入院さ。 だって小林さんは病院じゃないっていつかおっしゃったじゃないの。 みんな外来の患者ばかりだって。 病院というほどの病院じゃないが診察所の二階が空いてるもんだからそこへ入いる事もできるようになってるんだ。 綺麗。 自宅よりは少しあ綺麗かも知れない。 また御勉強。 そう御前のような女とばかり遊んじゃいられない。 おれにはおれでする事があるんだから。 じゃ芝居はもうおやめね。 岡本へは私から断っておきましょうね。 だから御前はおいでよ行きたければ。 おれは今のような訳でどうなるか分らないんだから。 そう旨くは行かないものかな。 おいお延。 今時分そんなものを出してどうするんだい。 ただ出して見たのよ。 あたしこの帯まだ一遍も締めた事がないんですもの。 それで今度その服装で芝居に出かけようと云うのかね。 あなたあなた。 何か御用なの。 御父さんからまだ手紙は来なかったかね。 いいえ来ればいつもの通り御机の上に載せておきますわ。 郵便函の中を探させましょうか。 来れば書留だから郵便函の中へ投げ込んで行くはずはないよ。 そうねだけど念のためだからあたしちょいと見て来るわ。 駄目だよ。 書留がそんな中に入ってる訳がないよ。 でも書留でなくってただのが入ってるかも知れないからちょっと待っていらっしゃい。 あってよ一本。 ことによると御父さまからかも知れないわ。 ああやっぱりあたしの思った通り御父さまからよ。 何だ書留じゃないのか。 困るな。 どうなすったの。 なに大した事じゃない。 今月はいつも通り送金ができないからそっちでどうか都合しておけというんだ。 年寄はこれだから困るね。 そんならそうともっと早く云ってくれればいいのに突然金の要る間際になってこんな事を云って来て。 いったいどういう訳なんでしょう。 貸家が二軒先月末に空いちまったんだそうだ。 それから塞がってる分からも家賃が入って来ないんだそうだ。 そこへ持って来て庭の手入だの垣根の繕いだのでだいぶ臨時費が嵩んだから今月は送れないって云うんだ。 なにそんな家賃なんぞ当にしないだって送ってさえくれようと思えばどうにでも都合はつくのさ。 垣根を繕うたっていくらかかるものかね。 煉瓦の塀を一丁も拵えやしまいし。 御父さまはきっと私達が要らない贅沢をしてむやみに御金をぱっぱっと遣うようにでも思っていらっしゃるのよ。 きっとそうよ。 うんこの前京都へ行った時にも何だかそんな事を云ってたじゃないか。 年寄はね何でも自分の若い時の生計を覚えていて同年輩の今の若いものも万事自分のして来た通りにしなければならないように考えるんだからね。 そりゃ御父さんの三十もおれの三十も年歯に変りはないかも知れないが周囲はまるで違っているんだからそうは行かないさ。 いつかも会へ行く時会費はいくらだと訊くから五円だって云ったら驚ろいて恐ろしいような顔をした事があるよ。 で今月はどうするの。 ただでさえ足りないところへ持って来てあなたが手術のために一週間も入院なさるとまたそっちの方でもいくらかかかるでしょう。 藤井の叔父に金があるとあすこへ行くんだが。 もう一遍御父さまのところへ云って上げる訳にゃ行かないの。 ついでに病気の事も書いて。 書いてやれない事もないがまた何とかかとか云って来られると面倒だからね。 御父さんに捕まるとそりゃなかなか埒は開かないよ。 でもほかに当がなければ仕方なかないの。 だから書かないとは云わない。 こっちの事情が好く向うへ通じるようにする事はするつもりだが何しろすぐの間には合わないからな。 そうね。 どうだ御前岡本さんへ行ってちょっと融通して貰って来ないか。 厭よあたし。 あたし厭よ。 岡本へ行ってそんな話をするのは。 そうかい。 それじゃ強いて頼まないでもいい。 しかし。 だってあたしきまりが悪いんですもの。 いつでも行くたんびにお延は好い所へ嫁に行って仕合せだ厄介はなし生計に困るんじゃなしって云われつけているところへ持って来て不意にそんな御金の話なんかするときっと変な顔をされるにきまっているわ。 そんなに楽な身分のように吹聴しちゃ困るよ。 買い被られるのもいいが時によるとかえってそれがために迷惑しないとも限らないからね。 あたし吹聴した覚なんかないわ。 ただ向うでそうきめているだけよ。 御父さんにも困っちまうな。 これどうかしましょうか。 どうかするってどうするんだい。 質屋へ持ってったら御金を貸してくれるでしょう。 御前自分の着物かなんか質に入れた事があるのかい。 ないわそんな事。 じゃ質に入れるにしたところで様子が分らないだろう。 ええ。 だけどそんな事何でもないでしょう。 入れると事がきまれば。 時が知ってるのよ。 あの婢は宅にいる時分よく風呂敷包を抱えて質屋へ使いに行った事があるんですって。 それから近頃じゃ端書さえ出せば向うから品物を受取りに来てくれるっていうじゃありませんか。 まあよく考えて見よう。 何か用かい。 ちょっと。 君自身の用事かい。 そうです。 ちょっと。 そんなら後にしてくれたまえ。 今少し差支えるから。 はあ。 気がつかない事をして失礼しました。 どこかへ行かれたのかい。 ええ先刻御客さまといっしょに御出かけになりました。 ことによると今日はもうこちらへは御帰りにならないかも知れませんよ。 津田は吉川と特別の知り合である。 まだ御帰りになりません。 奥さんはおいでですか。 奥さんはいらっしゃいます。 ではどうぞ奥さんに。 奥さんが御目におかかりになるとおっしゃいますからどうぞ。 今御帰りがけ。 奥さんはどうなすって。 奥さんができたせいか近頃はあんまり宅へいらっしゃらなくなったようね。 まだ嬉しいんでしょう。 だけどもうよっぽどになるわね結婚なすってから。 ええもう半歳と少しになります。 早いものねついこの間だと思っていたのに。 ――それでどうなのこの頃は。 何がです。 御夫婦仲がよ。 別にどうという事もありません。 じゃもう嬉しいところは通り越しちまったの。 嘘をおっしゃい。 嬉しいところなんか始めからないんですから仕方がありません。 じゃこれからよ。 もし始めからないならこれからよ嬉しいところの出て来るのは。 ありがとうじゃ楽しみにして待っていましょう。 時にあなた御いくつ。 もうたくさんです。 たくさんじゃないわよ。 ちょっと伺いたいから伺ったんだから正直に淡泊とおっしゃいよ。 じゃ申し上げます。 実は三十です。 すると来年はもう一ね。 順に行けばまあそうなる勘定です。 お延さんは。 あいつは三です。 来年。 いえ今年。 思慮に充ちた不安。 奥さんはずいぶん意地が悪いですね。 どうして。 あなた方の御年歯を伺ったのが意地が悪いの。 そう云う訳でもないですが何だか意味のあるようなまたないような訊き方をしておいてわざとその後をおっしゃらないんだから。 後なんかありゃしないわよ。 いったいあなたはあんまり研究家だから駄目ね。 学問をするには研究が必要かも知れないけれども交際に研究は禁物よ。 あなたがその癖をやめるともっと人好のする好い男になれるんだけれども。 嘘だと思うなら帰ってあなたの奥さんに訊いて御覧遊ばせ。 お延さんもきっと私と同意見だから。 お延さんばかりじゃないわまだほかにもう一人あるはずよきっと。 解ったでしょう誰だか。 御気に障ったら堪忍してちょうだい。 そう云うつもりで云ったんじゃないんだから。 いえ何とも思っちゃいません。 本当に。 本当に何とも思っちゃいません。 それでやっと安心した。 あなたまだどこか子供子供したところがあるのねこうして話していると。 だから男は損なようでやっぱり得なのね。 あなたはそら今おっしゃった通りちょうどでしょうそれからお延さんが今年三になるんだから年歯でいうとよっぽど違うんだけれども様子からいうとかえって奥さんの方が更けてるくらいよ。 更けてると云っちゃ失礼に当るかも知れないけれども何と云ったらいいでしょうねまあ。 まあ老成よ。 本当に怜悧な方ねあんな怜悧な方は滅多に見た事がない。 大事にして御上げなさいよ。 大事にしてやれ。 よく気をつけろ。 いつだって構やしないんでしょう。 繰合せさえつけば。 無論繰合せはつくようにしておいたんですが。 じゃ好いじゃありませんか。 明日から休んだって。 でもちょっと伺った上でないと。 じゃ帰ったら私からよく話しておきましょう。 心配する事も何にもないわ。 また子供のように泣いたり唸ったりしちゃいけませんよ。 大きな体をして。 あの時は実際弱りました。 唐紙の開閉が局部に応えてそのたんびにぴくんぴくんと身体全体が寝床の上で飛び上ったくらいなんですから。 しかし今度は大丈夫です。 そう。 誰が受合ってくれたの。 何だか解ったもんじゃないわね。 あんまり口幅ったい事をおっしゃると見届けに行きますよ。 あなたに見舞に来ていただけるような所じゃありません。 狭くって汚なくって変な部屋なんですから。 いっこう構わないわ。 行きますよ少しあなたに話す事があるから。 お延さんの前じゃ話しにくい事なんだから。 じゃそのうちまた私の方から伺います。 あの細君はことによるとまだあの事件についておれに何か話をする気かも知れない。 その話を実はおれは聞きたくないのだ。 しかしまた非常に聞きたいのだ。 もしあの細君があの事件についておれに何か云い出す気があるとするとその主意ははたしてどこにあるだろう。 おれに調戯うため。 もしそうでないとしたらおれに対する同情のため。 おれを贔負にし過ぎるため。 先刻事情を打ち明けてこっちから云い出しさえすれば訳はなかったのに。 今日もどこかへ御廻り。 あてて見ましょうか。 うん。 吉川さんでしょう。 よくあたるね。 たいてい容子で解りますわ。 そうかね。 もっとも昨夜吉川さんに話をしてから手術の日取をきめる事にしようって云ったんだからあたる訳は訳だね。 そんな事がなくったって妾あてるわ。 そうか。 偉いね。 じゃいつからその治療に取りかかるの。 そういう訳だからまあいつからでも構わないようなもんだけれども。 お延|昨夜お前の云った通りもう一遍御父さんに手紙を出そうよ。 そう。 でも。 でも。 お延お前の所に日本の巻紙と状袋があるかね。 あるならちょいとお貸し。 日本の。 女のならあるわ。 これなら気に入るかしら。 中さえよく解るように書いて上げたら紙なんかどうでもよかないの。 そうは行かないよ。 御父さんはあれでなかなかむずかしいんだからね。 時をちょいと買わせにやりましょうか。 うん。 待っていらっしゃい。 じきだから。 これをどうする気か。 誰のためでもないみんな御前のためだ。 今はそのありがた味が解らないかも知れないがおれが死んで見ろきっと解る時が来るから。 御父さんが死んだ後で一度に御父さんのありがた味が解るよりもお父さんが生きているうちから毎月正確にお父さんのありがた味が少しずつ解る方がどのくらい楽だか知れやしません。 その時はその時の事だ。 昨日宅へ来たってね。 ええちょっと御留守へ伺って奥さんに御目にかかって参りました。 また病気だそうじゃないか。 ええ少し。 困るね。 そうよく病気をしちゃ。 何実はこの前の続きです。 何しろ病気なら仕方がない休んでよく養生したらいいだろう。 佐々木には断ったろうね。 ええ佐々木さんにもほかの人にも話して繰り合せをして貰う事にしてあります。 どうせ休むなら早い方がいいね。 早く養生して早く好くなってそうしてせっせと働らかなくっちゃ駄目だ。 都合がよければ明日からにしたまえ。 へえ。 おい君お父さんは近頃どうしたね。 相変らずお丈夫かね。 へえありがとうお蔭さまで達者でございます。 大方詩でも作って遊んでるんだろう。 気楽で好いね。 昨夕も岡本と或所で落ち合って君のお父さんの噂をしたがね。 岡本も羨ましがってたよ。 あの男も近頃少し閑暇になったようなもののやっぱり君のお父さんのようにゃ行かないからね。 父はもう時勢後れですからああでもして暮らしているよりほかに仕方がございません。 どうして時勢後れどころじゃないつまり時勢に先だっているからああした生活が送れるんだ。 お父さんに心配を掛けちゃいけないよ。 君の事は何でもこっちに分ってるからもし悪い事があると僕からお父さんの方へ知らせてやるぜ好いかね。 順番を待っているのが面倒だからちょっと先生に訊いて下さい。 明日か明後日手術を受けに来て好いかって。 今ちょうど二階が空いておりますからいつでも御都合の宜しい時にどうぞ。 お延お延。 はい。 何をしているんだ。 二階は真暗じゃないか。 ええ。 何だかぼんやりして考えていたもんだからつい御帰りに気がつかなかったの。 寝ていたな。 まさか。 ちょっと待って。 ちょっと着てみてちょうだい。 まだ圧が好く利いていないかも知れないけども。 どうしたんだい。 これは。 拵えたのよ。 あなたが病院へ入る時の用心に。 ああいう所であんまり変な服装をしているのは見っともないから。 いつの間に拵えたのかね。 布は買ったのかい。 いいえこれあたしの御古よ。 この冬着ようと思って洗張をしたまま仕立てずにしまっといたの。 とうとう明日か明後日やって貰う事にきめて来たよ。 そう。 それであたしはどうなるの。 御前はどうもしやしないさ。 いっしょに随いて行っちゃいけないの。 病院へ。 気を許して寝ると寝坊をするつもりはなくってもつい寝過ごすもんだな。 こりゃいけない。 ちょっと訊いてくる。 今すぐ。 なに電話でだよ。 訳ゃない。 ちょっと二階にある紙入を取ってくれ。 御前の蟇口でも好い。 何になさるの。 何でもいいから早く出してくれ。 あの蟇口の中にゃ少しっきゃ入っていないんだね。 もう少しあるのかと思ったら。 足りなくって。 いや足りないというほどでもないがね。 だけど何をお買いになるかあたしちっとも解らないんですもの。 もしかすると髪結床かと思ったけれども。 それにあんまり急いでいらっしったもんだからつい二階まで取りに行けなかったのよ。 実はおれの紙入の中にもそうたくさん入ってる訳じゃないんだからまあどっちにしたって大した変りはないんだがね。 おやおやこれ召しゃがるの。 そんなら時を取りにおやりになればいいのに。 なにあいつじゃ分らない。 何を買って来るか知れやしない。 今日は病気の報知かたがた無沙汰見舞にちょっと朝の内藤井の叔父の所まで行って来ようと思ってたのにとうとう遅くなっちまった。 緩慢なる人世の旅行者。 兄貴はそれでも少し金が溜ったと見えるな。 あの風船玉がじっと落ちつけるようになったのは全く金の重みのために違ない。 緩慢なる人生の旅行者。 諸君僕がこの袋の中から玉子を出す。 この空っぽうの袋の中からきっと出して見せる。 驚ろいちゃいけない種は懐中にあるんだから。 そら玉子を袋の中へ投げ込んだぞ。 今学校の帰りか。 うん。 はい。 ええ。 お父さんはどうした。 知らない。 相変らずかね。 どうだか知らない。 諸君もう一つ出すから見ていたまえ。 どうだ諸君こうやって出そうとすれば何個でも出せる。 しかしそう玉子ばかり出してもつまらないから今度は一つ生きた鶏を出そう。 おい真事もう行こう。 小父さんはこれからお前の宅へ行くんだよ。 小父さん先へ行ってさ。 僕もっと見ているから。 ありゃ嘘だよ。 いつまで経ったって生きた鶏なんか出て来やしないよ。 どうして。 だって玉子はあんなに出たじゃないの。 玉子は出たが鶏は出ないんだよ。 ああ云って嘘を吐いていつまでも人を散らさないようにするんだよ。 そうしてどうするの。 小父さん何か買ってさ。 うん買ってやるさ。 じゃ自動車ね。 自動車は少し大き過ぎるな。 なに小さいのさ。 七円五十銭のさ。 だってこの前もその前も買ってやるっていったじゃないの。 小父さんの方があの玉子を出す人よりよっぽど嘘吐きじゃないか。 あいつは玉子は出すが鶏なんか出せやしないんだよ。 どうして。 どうしてって出せないよ。 だから小父さんも自動車なんか買えないの。 うん。 ――まあそうだ。 だから何かほかのものを買ってやろう。 じゃキッドの靴さ。 赤かったのを宅でお父さんが染めたんだよ。 真事そりゃ好い靴だよお前。 だってこんな色の靴誰も穿いていないんだもの。 色はどうでもねお父さんが自分で染めてくれた靴なんか滅多に穿けやしないよ。 ありがたいと思って大事にして穿かなくっちゃいけない。 だってみんなが尨犬の皮だ尨犬の皮だって揶揄うんだもの。 尨犬じゃないよ小父さんが受け合ってやる。 大丈夫尨犬じゃない立派な。 立派な何さ。 立派な――靴さ。 真事そんなにキッドが買いたければね今度宅へ来た時小母さんに買ってお貰い。 小父さんは貧乏だからもっと安いもので今日は負けといてくれ。 今日学校でこんなに勝っちゃった。 小父さんも拾ってさ。 雀ならいいがむやみに人を狙っちゃいけないよ。 こんな安い鉄砲じゃ雀なんか取れないだろう。 そりゃお前が下手だからさ。 下手ならいくら鉄砲が好くったって取れないさ。 じゃ小父さんこれで雀打ってくれる。 これから宅へ行って。 あの岡本って奴そりゃ狡猾いんだよ。 靴を三足も買ってもらってるんだもの。 御前近頃岡本の所へ遊びに行くかい。 ううん行かない。 また喧嘩したな。 ううん喧嘩なんかしない。 じゃなぜ行かないんだ。 どうしてでも――。 あすこへ行くといろんなものをくれるだろう。 ううんそんなにくれない。 じゃ御馳走するだろう。 僕こないだ岡本の所でライスカレーを食べたらそりゃ辛かったよ。 それで行くのが厭になった訳でもあるまい。 ううん。 だってお父さんが止せって云うんだもの。 僕岡本の所へ行ってブランコがしたいんだけども。 真事なぜお父さんに訊いて見なかったのだい。 岡本へ行っちゃなぜいけないんですって。 僕|訊いたよ。 訊いたらお父さんは何と云った。 ――何とも云わなかったろう。 ううん云った。 何と云った。 あのね岡本へ行くとね何でも一さんの持ってるものをね宅へ帰って来てからね買ってくれ買ってくれっていうからそれでいけないって。 それでこいつ自動車だのキッドの靴だのってむやみに高いものばかり強請んだな。 みんな一さんの持ってるのを見て来たんだろう。 嘘だよ。 嘘だよ。 叔母さん。 今日はどうしたの。 叔母さんは相変らず色気がないな。 この年齢になって色気があっちゃ気狂だわ。 お金さんまだお嫁の口はきまりませんか。 まだなら一つ好いところを周旋しましょうか。 ねえ叔母さん。 ええ。 お金さん由雄さんによく頼んでおおきなさいよ。 この男は親切で嘘を吐かない人だから。 お世辞じゃありません本当の事です。 お金さんちょっと見て来て下さい。 バラ丸を入れて打つと危険いから。 大丈夫ですよ。 よく云い聞かしてあるんだから。 いえいけません。 きっとあれで面白半分にお隣りの鶏を打つに違ないから。 構わないから丸だけ取り上げて来て下さい。 時に誰ですお客は。 今まで気がつかなかったの。 妙ねあなたの耳もずいぶん。 ここで聞いてたってよく解るじゃありませんか。 ああ解った。 小林でしょう。 ええ。 何だ小林か。 新らしい赤靴なんか穿き込んで厭にお客さんぶってるもんだから誰かと思ったら。 そんなら僕も遠慮しずにあっちへ行けばよかった。 あいつまた何だって今日に限って座敷なんかへ通って堂々とお客ぶりを発揮しているんだろう。 少し叔父さんに話があるのよ。 それがここじゃちょっと云い悪い事なんでね。 へえ小林にもそんな真面目な話があるのかな。 金の事かそれでなければ。 お金さんの縁談の事もあるんだからね。 ここであんまり何かいうとあの子がきまりを悪くするからね。 もうきまったんですか。 まあ旨く行きそうなのさ。 じゃ僕が骨を折って周旋しなくってももういいんだな。 由雄さんお前さん自分で奥さんを貰う時やっぱりそんな料簡で貰ったの。 そんな料簡って叔母さんだけ承知しているぎりで当人の僕にゃ分らないんだからちょっと返事のしようがないがな。 何も返事を聞かなくったって叔母さんは困りゃしないけれどもね。 ――女一人を片づける方の身になって御覧なさい。 たいていの事じゃないから。 由雄さん。 由雄さんじゃどんな料簡で奥さんを貰ったのお前さんは。 まさか冗談に貰やしません。 いくら僕だってそう浮ついたところばかりから出来上ってるように解釈されちゃ可哀相だ。 そりゃ無論本気でしょうよ。 無論本気には違なかろうけれどもねその本気にもまたいろいろ段等があるもんだからね。 じゃ叔母さんの眼に僕はどう見えるんです。 遠慮なく云って下さいな。 これでもいざとなるとなかなか真面目なところもありますからね。 そりゃ男だものどこかちゃんとしたところがなくっちゃ毎日会社へ出たって勤まりっこありゃしないからね。 だけども――。 まあ止しましょう。 今さら云ったって始まらない事だから。 由雄さんはいったい贅沢過ぎるよ。 ええ少し贅沢です。 服装や食物ばかりじゃないのよ。 心が派出で贅沢に出来上ってるんだから困るっていうのよ。 始終|御馳走はないかないかってきょろきょろそこいらを見廻してる人みたようで。 じゃ贅沢どころかまるで乞食じゃありませんか。 乞食じゃないけれども自然|真面目さが足りない人のように見えるのよ。 人間は好い加減なところで落ちつくと大変見っとも好いもんだがね。 じゃあっちへ行こう。 小林君だいぶ景気が好いようだね。 立派な服を拵えたじゃないか。 へへ冗談云っちゃいけない。 景気の好いのは君の事だ。 これで君二十六円だからずいぶん安いものだろう。 君見たいな贅沢やから見たらどうか知らないが僕なんぞにゃこれでたくさんだからね。 何だいそれは。 変なものを飲むな。 薬かい。 それでその報知にわざわざやって来た訳かね。 いったい今の若いものはから駄目だね。 下らん病気ばかりして。 今の若いものは。 何今の若いものだって病気をしないものもあります。 現に私なんか近頃ちっとも寝た事がありません。 私考えるに人間は金が無いと病気にゃ罹らないもんだろうと思います。 つまらない事をいうなよ。 いえ全くだよ。 現に君なんかがよく病気をするのはするだけの余裕があるからだよ。 そうだよこの上病気にでも罹った日にゃどうにもこうにもやり切れないからね。 由雄さん久しぶりだから御飯を食べておいで。 今日は小林といっしょに飯を食うはずになっているところへお前が来たのだからことによると御馳走が足りないかも知れないがまあつき合って行くさ。 今日は何事かあるんですか。 何ね小林が今度――。 小林君どうかしたのか。 何君なんでもないんだ。 いずれきまったら君の宅へ行って詳しい話をするがね。 しかし僕は明日から入院するんだぜ。 なに構わない病院へ行くよ。 見舞かたがた。 はあそれじゃあの堀さんの。 どうかまああの子も今度の縁が纏まるようになると仕合せですがね。 纏まるだろうよ。 至極よさそうに思います。 お金さんはその人を知ってるんですか。 顔は知ってるよ。 口は利いた事がないけれども。 じゃ向うも口を利いた事なんかないんでしょう。 当り前さ。 それでよく結婚が成立するもんだな。 じゃどうすれば好いんだ。 誰でもみんなお前が結婚した時のようにしなくっちゃいけないというのかね。 そういう訳じゃないんです。 そういう事情のもとにお金さんの結婚が成立しちゃ不都合だなんていう気は全くなかったのです。 たといどんな事情だろうと結婚が成立さえすれば無論結構なんですから。 真事さんお酒を上げましょうか。 少し飲んで御覧なさい。 苦いから僕|厭だよ。 僕一円五十銭の空気銃をもってるよ。 持って来て見せようか。 どうも時計を買えの万年筆を買えのって貧乏な阿爺を責めて困る。 それでも近頃馬だけはどうかこうか諦らめたようだからまだ始末が好い。 馬も存外安いもんですな。 北海道へ行きますと一頭五六円で立派なのが手に入ります。 見て来たような事を云うな。 こればかりは妙なものでね。 全く見ず知らずのものがいっしょになったところできっと不縁になるとも限らないしねまたいくらこの人ならばと思い込んでできた夫婦でも末始終和合するとは限らないんだから。 そりゃ楽な身分の人の云い草ですよ。 やれ交際だのやれ婚約だのってそんな贅沢な事を我々|風情が云ってられますか。 貰ってくれ手来てくれ手があればそれでありがたいと思わなくっちゃならないくらいのものです。 何もお金さんの場合をとやかく批評する気はないんだがいったい結婚をそう容易く考えて構わないものか知ら。 僕には何だか不真面目なような気がしていけないがな。 だって行く方で真面目に行く気になり貰う方でも真面目に貰う気になればどこと云って不真面目なところが出て来ようはずがないじゃないか。 由雄さん。 そういう風に手っとり早く真面目になれるかが問題でしょう。 なれればこそ叔母さんなんぞはこの藤井家へお嫁に来てちゃんとこうしているじゃありませんか。 そりゃ叔母さんはそうでしょうが今の若いものは。 今だって昔だって人間に変りがあるものかね。 みんな自分の決心一つです。 そう云った日にゃまるで議論にならない。 議論にならなくっても事実の上であたしの方が由雄さんに勝ってるんだから仕方がない。 いろいろ選り好みをしたあげくお嫁さんを貰った後でもまだ選り好みをして落ちつかずにいる人よりもこっちの方がどのくらい真面目だか解りゃしない。 だいぶやかましくなって来たね。 黙って聞いていると叔母甥の対話とは思えないよ。 何だか双方|敵愾心をもって云い合ってるようだが喧嘩でもしたのかい。 由雄御前見たような今の若いものにはちょっと理解出来|悪いかも知れないがね叔母さんは嘘を吐いてるんじゃないよ。 知りもしないおれの所へ来るときもうちゃんと覚悟をきめていたんだからね。 叔母さんは本当に来ない前から来た後と同じように真面目だったのさ。 そりゃ僕だって伺わないでも承知しています。 ところがさその叔母さんがだね。 どういう訳でそんな大決心をしたかというとだね。 実を云うとその訳を今日までまだ誰にも話した事がないんだがどうだ一つ話して聞かせようか。 ええ。 実はだね。 この叔母さんはこれでこのおれに意があったんだ。 つまり初めからおれの所へ来たかったんだね。 だからまだ来ないうちからもう猛烈に自分の覚悟をきめてしまったんだ。 ――。 馬鹿な事をおっしゃい。 誰があなたのような醜男に意なんぞあるもんですか。 お母さん意があるって何。 お母さんは知らないからお父さんに伺って御覧。 じゃお父さん何さ意があるってのは。 真事意があるってえのはね。 ――つまりそのね。 ――まあ好きなのさ。 ふん。 じゃ好いじゃないか。 だから誰も悪いと云ってやしない。 だって皆な笑うじゃないか。 そりゃ昔しだって恋愛事件はあったよ。 いくらお朝が怖い顔をしたってあったに違ないがだね。 そこにまた今の若いものにはとうてい解らない方面もあるんだから妙だろう。 昔は女の方で男に惚れたけれども男の方ではけっして女に惚れなかったもんだ。 ――ねえお朝そうだったろう。 どうだか存じませんよ。 そう怒ったって仕方がない。 そこに事実があると同時に一種の哲学があるんだから。 今おれがその哲学を講釈してやる。 もうそんなむずかしいものは伺わなくってもたくさんです。 じゃ若いものだけに教えてやる。 由雄も小林も参考のためによく聴いとくがいい。 いったいお前達は他の娘を何だと思う。 女だと思ってます。 そうだろう。 ただ女だと思うだけで娘とは思わないんだろう。 それがおれ達とは大違いだて。 おれ達は父母から独立したただの女として他人の娘を眺めた事がいまだかつてない。 だからどこのお嬢さんを拝見してもそのお嬢さんには父母という所有者がちゃんと食っついてるんだと始めから観念している。 だからいくら惚れたくっても惚れられなくなる義理じゃないか。 なぜと云って御覧惚れるとか愛し合うとかいうのはつまり相手をこっちが所有してしまうという意味だろう。 すでに所有権のついてるものに手を出すのは泥棒じゃないか。 そういう訳で義理堅い昔の男はけっして惚れなかったね。 もっとも女はたしかに惚れたよ。 現にそこで松茸飯を食ってるお朝なぞも実はおれに惚れたのさ。 しかしおれの方じゃかつて彼女を愛した覚がない。 どうでもいいからもう好い加減にして御飯になさい。 君はまだいるかね。 いや。 僕ももう御暇しよう。 お延はどうしたい。 行こう行こうと思いながらつい貧乏暇なしだもんだから御無沙汰をしている。 宜しく云ってくれ。 お前の留守にゃ閑で困るだろうね彼の女も。 いったい何をして暮してるかね。 何って別にする事もないでしょうよ。 病院へいっしょに入りたいなんて気楽な事をいうかと思うとやれ髪を刈れの湯に行けのって叔母さんよりもよっぽどやかましい事を云いますよ。 感心じゃないか。 お前のようなお洒落にそんな注意をしてくれるものはほかにありゃしないよ。 ありがたい仕合せだな。 芝居はどうだい。 近頃行くかい。 ええ時々行きます。 この間も岡本から誘われたんだけれどもあいにくこの病気の方の片をつけなけりゃならないんでね。 どうです叔母さん近い内帝劇へでも御案内しましょうか。 たまにゃああいう所へ行って見るのも薬ですよ気がはればれしてね。 ええありがとう。 だけど由雄さんの御案内じゃ――。 お厭ですか。 厭よりいつの事だか分らないからね。 そう信用がなくなった日にゃ僕もそれまでだ。 芝居はどうでもいいが由雄さん京都の方はどうしてそれから。 京都から何とか云って来ましたかこっちへ。 実は僕の所へ今月は金を送れないからそっちでどうでもしろってお父さんが云って来たんだがずいぶん乱暴じゃありませんか。 兄貴は怒ってるんだろう。 いったいお秀がまた余計な事を云ってやるからいけない。 お秀に咎はありません。 始めから由雄さんの方が悪いにきまってるんだもの。 そりゃそうかも知れないけれどもどこの国にあなた阿爺から送って貰った金をきちんきちん返す奴があるもんですか。 じゃ最初からきちんきちん返すって約束なんかしなければいいのに。 それに。 もう解りましたよ叔母さん。 日中は暖かだが夜になるとやっぱり寒いね。 うん。 何と云ってももう秋だからな。 実際外套が欲しいくらいだ。 君学校にいた時分作ったあの自慢の外套はどうした。 うんまだあるよ。 まだ着ているのか。 いくら僕が貧乏だって書生時代の外套をそう大事そうにいつまで着ているものかね。 そうかそれじゃちょうど好い。 あれを僕にくれ。 欲しければやっても好い。 なぜその背広といっしょに外套も拵えなかったんだ。 君と同なじように僕を考えちゃ困るよ。 じゃどうしてその背広だの靴だのができたんだ。 訊き方が少し手酷し過ぎるね。 なんぼ僕だってまだ泥棒はしないから安心してくれ。 おい帰りにどこかで一杯やろうじゃないか。 ここはいやに陰気な所だね。 どこかの大名華族の裏に当るんでいつまでもこうして放ってあるんだろう。 早く切り開いちまえばいいのに。 おい行こうじゃないか久しぶりで。 今飲んだばかりだのにもう飲みたくなったのか。 今飲んだばかりってあれっぱかり飲んだんじゃ飲んだ部へ入らないからね。 でも君はもう充分ですって断っていたじゃないか。 先生や奥さんの前じゃ遠慮があって酔えないから仕方なしにああ云ったんだね。 まるっきり飲まないんならともかくもあのくらい飲ませられるのはかえって毒だよ。 後から適当の程度まで酔っておいて止めないと身体に障るからね。 君が奢るのか。 うん奢っても好い。 そうしてどこへ行くつもりなんだ。 どこでも構わない。 おでん屋でもいいじゃないか。 僕もそっちへ行くよ。 ここが好い。 ここへ入ろう。 僕は厭だよ。 君の気に入りそうな上等の宅はここいらにないんだからここで我慢しようじゃないか。 僕は病気だよ。 構わん病気の方は僕が受け合ってやるから心配するな。 冗談云うな。 厭だよ。 細君には僕が弁解してやるからいいだろう。 そんなに厭か僕といっしょに酒を飲むのは。 じゃ飲もう。 どうだ平民的でいいじゃないか。 僕は君と違ってどうしても下等社界の方に同情があるんだからな。 見たまえ。 彼らはみんな上流社会より好い人相をしているから。 少くとも陶然としているだろう。 上流社会だって陶然とするからな。 だが陶然としかたが違うよ。 君はこういう人間を軽蔑しているね。 同情に価しないものとして始めから見くびっているんだ。 ねえ君。 そうだろう。 まあ君一杯飲みたまえ。 そらあの通りだ。 上流社会のように高慢ちきな人間は一人もいやしない。 何だか知ってるか。 何だか知るもんか。 あいつは探偵だぜ。 あの眼つきを見ろ。 君見たいにむやみに上流社会の悪口をいうとさっそく社会主義者と間違えられるぞ。 少し用心しろ。 社会主義者。 笑わかせやがるな。 こっちゃこう見えたって善良なる細民の同情者だ。 僕に比べると乙に上品ぶって取り繕ろってる君達の方がよっぽどの悪者だ。 どっちが警察へ引っ張られて然るべきだかよく考えて見ろ。 君はこうした土方や人足をてんから人間扱いにしないつもりかも知れないが。 彼らは君や探偵よりいくら人間らしい崇高な生地をうぶのままもってるか解らないぜ。 ただその人間らしい美しさが貧苦という塵埃で汚れているだけなんだ。 つまり湯に入れないから穢ないんだ。 馬鹿にするな。 君は黙ってるが僕のいう事を信じないね。 たしかに信じない顔つきをしている。 そんなら僕が説明してやろう。 君は露西亜の小説を読んだろう。 露西亜の小説ことにドストエヴスキの小説を読んだものは必ず知ってるはずだ。 いかに人間が下賤であろうともまたいかに無教育であろうとも時としてその人の口から涙がこぼれるほどありがたいそうして少しも取り繕わない至純至精の感情が泉のように流れ出して来る事を誰でも知ってるはずだ。 君はあれを虚偽と思うか。 僕はドストエヴスキを読んだ事がないから知らないよ。 先生に訊くと先生はありゃ嘘だと云うんだ。 あんな高尚な情操をわざと下劣な器に盛って感傷的に読者を刺戟する策略に過ぎないつまりドストエヴスキがあたったために多くの模倣者が続出してむやみに安っぽくしてしまった一種の芸術的技巧に過ぎないというんだ。 しかし僕はそうは思わない。 先生からそんな事を聞くと腹が立つ。 先生にドストエヴスキは解らない。 いくら年齢を取ったって先生は書物の上で年齢を取っただけだ。 いくら若かろうが僕は。 君は僕が汚ない服装をすると汚ないと云って軽蔑するだろう。 またたまに綺麗な着物を着ると今度は綺麗だと云って軽蔑するだろう。 じゃ僕はどうすればいいんだ。 どうすれば君から尊敬されるんだ。 後生だから教えてくれ。 僕はこれでも君から尊敬されたいんだ。 僕は君の腹の中をちゃんと知ってる。 君は僕がこれほど下層社会に同情しながら自分自身貧乏な癖に新らしい洋服なんか拵えたのでそれを矛盾だと云って笑う気だろう。 いくら貧乏だって洋服の一着ぐらい拵えるのは当り前だよ。 拵えなけりゃ赤裸で往来を歩かなければなるまい。 拵えたって結構じゃないか。 誰も何とも思ってやしないよ。 ところがそうでない。 君は僕をただめかすんだと思ってる。 お洒落だと解釈している。 それが悪い。 そうか。 そりゃ悪かった。 いや僕も悪い。 悪かった。 僕にも洒落気はあるよ。 そりゃ僕も充分認める。 認めるには認めるが僕がなぜ今度この洋服を作ったかその訳を君は知るまい。 実はこの着物で近々都落をやるんだよ。 朝鮮へ落ちるんだよ。 こう苦しくっちゃいくら東京に辛防していたって仕方がないからね。 未来のない所に住んでるのは実際|厭だよ。 要するに僕なんぞは生涯漂浪して歩く運命をもって生れて来た人間かも知れないよ。 どうしても落ちつけないんだもの。 たとい自分が落ちつく気でも世間が落ちつかせてくれないから残酷だよ。 駈落者になるよりほかに仕方がないじゃないか。 落ちつけないのは君ばかりじゃない。 僕だってちっとも落ちついていられやしない。 もったいない事をいうな。 君の落ちつけないのは贅沢だからさ。 僕のは死ぬまで麺麭を追かけて歩かなければならないんだから苦しいんだ。 しかし落ちつけないのは現代人の一般の特色だからね。 苦しいのは君ばかりじゃないよ。 朝鮮へはいつ頃行くんだね。 ことによると君の病院へ入いっているうちかも知れない。 そんなに急に立つのか。 いやそうとも限らない。 もう一遍先生が向うの主筆に会ってくれてからでないと判然した事は分らないんだ。 立つ日がかいあるいは行く事がかい。 うんまあ――。 実を云うと僕は行きたくもないんだがなあ。 藤井の叔父が是非行けとでも云うのかい。 なにそうでもないんだ。 じゃ止したらいいじゃないか。 津田君僕は淋しいよ。 僕はやっぱり行くよ。 どうしても行った方がいいんだからね。 じゃ行くさ。 うん行くとも。 こんな所にいてみんなに馬鹿にされるより朝鮮か台湾に行った方がよっぽど増しだ。 あんまりそう悲観しちゃいけないよ。 年歯さえ若くって身体さえ丈夫ならどこへ行ったって立派に成効できるじゃないか。 ――君が立つ前一つ送別会を開こう君を愉快にするために。 君が行ったらお金さんの結婚する時困るだろう。 うんあいつも可哀相だけれども仕方がない。 つまりこんなやくざな兄貴をもったのが不仕合せだと思って諦らめて貰うんだ。 君がいなくったって叔父や叔母がどうかしてくれるんだろう。 まあそんな事になるよりほかに仕方がないからな。 でなければこの結婚を断っていつまでも下女代りに先生の宅で使って貰うんだが――そいつはまあどっちにしたって同じようなもんだろう。 それより僕はまだ先生に気の毒な事があるんだ。 もし行くとなると先生から旅費を借りなければならないからね。 向うじゃくれないのか。 くれそうもないな。 どうにかして出させたら好いだろう。 さあ。 旅費は先生から借りる外套は君から貰うたった一人の妹は置いてき堀にする世話はないや。 ここを開けろ。 ここをなぜ締めた。 はい。 どなた。 早く開けろおれだ。 あらッ。 あなただったの。 御免遊ばせ。 どうもすみません。 何だって締め出しなんか喰わせたんだい。 もう帰らないとでも思ったのか。 いいえさっきからもうお帰りかもうお帰りかと思って待ってたの。 しまいにあんまり淋しくってたまらなくなったからとうとう宅へ手紙を書き出したの。 待ってたものがなんで門なんか締めるんだ。 物騒だからかね。 いいえ。 ――あたし門なんか締めやしないわ。 だって現に締まっていたじゃないか。 時が昨夕締めっ放しにしたまんまなのよきっと。 いやな人。 時はどうしたい。 もう先刻寝かしてやったわ。 今|御眼覚。 いったいどうしたんだい。 朝っぱらから。 どうもしないわ。 ――だって今日はあなたがお医者様へいらっしゃる日じゃないの。 お前もいっしょに行くつもりだったのかい。 ええ無論行くつもりだわ。 行っちゃ御迷惑なの。 迷惑って訳はないがね。 ――。 あんまりおつくりが大袈裟だからね。 だってあなた今日は日曜よ。 日曜だって芝居やお花見に行くのとは少し違うよ。 だって妾。 どうもそういうでこでこな服装をしてあのお医者様へ夫婦お揃いで乗り込むのは少し――。 辟易。 だってこれから着物なんか着換えるのは時間がかかって大変なんですもの。 せっかく着ちまったんだから今日はこれで堪忍してちょうだいよね。 病院へ持って行くものを纏めなくっちゃ。 ここに拵えてあるからちょっと見てちょうだい。 これは置いて行くよ。 そうでもいつでも机の上に乗っていて枝折が挟んであるからお読みになるのかと思って入れといたのよ。 寝ていて読むにゃ重くって駄目だよ。 そう本はどれが要るんだか妾分らないからあなた自分でお好きなのを択ってちょうだい。 大変。 忘れものがあるの。 何だい。 何を忘れたんだい。 ちょっと待っててちょうだい。 すぐだから。 これ忘れたの。 箪笥の上に置きっ放しにしたまま。 お前預かっておいで。 大丈夫。 すぐ二階へ行ってもいいでしょうね。 御厄介になります。 君こいつを一つ持ってくれたまえ。 お延こっちだ。 大変陰気な室ねあすこは。 下と違ってここは陽気ね。 そうしてちょっといいお部屋ね。 畳は汚れているけれども。 古いけれども宅の二階よりましかも知れないね。 今|仕度をしておりますから少しの間どうぞ。 何だか気がそわそわして落ちつかないのね。 まるでお客さまに行ったようだろう。 ええ。 いったい何分ぐらいで済むのかなあ。 眼で見ないでもあの刃物の音だけ聞いていると好い加減変な心持になるからな。 あたし怖いわそんなものを見るのは。 だからお前はここに待っといでよ。 わざわざ手術台の傍まで来て穢ないところを見る必要はないんだから。 でもこんな場合には誰か身寄のものが立ち合わなくっちゃ悪いんでしょう。 そりゃ死ぬか生きるかっていうような重い病気の時の事だね。 誰がこれしきの療治に立合人なんか呼んで来る奴があるものかね。 じゃ止しましょう。 お午までに済むでしょうか。 済むだろうと思うがね。 どうせこうなりゃいつだって同なじこっちゃないか。 そりゃそうだけど。 支度ができましたからどうぞ。 お前はそこに待っといでと云うのに。 診察室へ行くんじゃないのよ。 ちょっとここの電話を借りるのよ。 どこかへ用があるのかね。 用じゃないけど――ちょっとお秀さんの所へあなたの事を知らせておこうと思って。 いいよ知らせないでも。 お秀なんかに知らせるのはあんまり仰山過ぎるよ。 それにあいつが来るとやかましくっていけないからね。 でも後でまた何か云われるとあたしが困るわ。 かけても構わないが何も今に限った事はないだろう。 あいつは近所だからきっとすぐ来るよ。 手術をしたばかりで神経が過敏になってるところへもって来て兄さんが何とかでお父さんがかんとかだと云われるのは実際楽じゃないからね。 じゃお秀さんへかけるのは止すから。 まだほかにかける所があるのかい。 ええ岡本へかけるのよ。 午までにかけるって約束があるんだからいいでしょうかけても。 リチネはお飲みでしたろうね。 飲みましたが思ったほど効目がないようでした。 じゃもう一度|浣腸しましょう。 コカインだけでやります。 なに大して痛い事はないでしょう。 もし注射が駄目だったら奥の方へ薬を吹き込みながら進んで行くつもりです。 それで多分できそうですから。 どんなです。 痛かないでしょう。 痛かありません。 しかし重い感じだけはあります。 どうも妙な感じです。 説明のできないような。 そうですか。 我慢できますか。 大丈夫です。 そうですか。 もう直です。 やっと済みました。 瘢痕が案外堅いんで出血の恐れがありますから当分じっとしていて下さい。 いかがです。 気分のお悪いような事はございませんか。 いいえ。 ――蒼い顔でもしているかね。 済んだの。 どうして。 お薬はいただかなくっていいの。 別に内用のお薬は召し上らないでも差支えないのでございます。 お食事の方はただいま拵えてこちらから持って参ります。 お延お前何か食うなら看護婦さんに頼んだらいいだろう。 そうね。 あたしどうしようかしら。 だってもう昼過だろう。 ええ。 十二時二十分よ。 あなたの手術はちょうど二十八分かかったのね。 今から宅へ帰ったって仕方がないだろう。 ええ。 じゃここで洋食でも取って貰って食ったらいいじゃないか。 ええ。 あなたあなた。 心持が悪いの。 いいや。 岡本でよろしくって。 いずれそのうち御見舞に上りますからって。 そうか。 あの岡本でね今日是非芝居へいっしょに来いって云うんですが行っちゃいけなくって。 看護婦に小さい机を借りてその上へ載せようと思ったんですけれどもまだ持って来てくれないからしばらくの間ああしておいたのよ。 本でも御覧になって。 岡本へは断ったんじゃないのか。 断ったのよ。 断ったのに是非来いっていうのかね。 断ったのに是非来いっていうのよ。 しかし。 しかし――断ったのに是非来いなんていうはずがないじゃないか。 それを云うのよ。 岡本もよっぽどの没分暁漢ね。 あなたまだ何かあたしを疑ぐっていらっしゃるの。 あたし厭だわあなたからそんなに疑ぐられちゃ。 疑ぐりゃしないが何だか変だからさ。 そう。 じゃその変なところを云ってちょうだいないくらでも説明するから。 やっぱり疑ぐっていらっしゃるのね。 ああ。 好いお天気だ事。 どうもお待遠さま。 行くのか行かないのかい。 あなた次第よ。 あなたが行けとおっしゃれば行くし止せとおっしゃれば止すわ。 大変柔順だな。 いつでも柔順だわ。 ――岡本だってあなたに伺って見た上でもしいいとおっしゃったら連れて行ってやるから御病気が大した事でなかったら訊いて見ろって云うんですもの。 だってお前の方から岡本へ電話をかけたんじゃないか。 ええそりゃそうよ約束ですもの。 一返断ったけれども模様次第では行けるかも知れないだろうからもう一返その日の午までに電話で都合を知らせろって云って来たんですもの。 岡本からそういう返事が来たのかい。 ええ。 要するにお前はどうなんだ。 行きたいのか行きたくないのか。 そりゃ行きたいわ。 とうとう白状したな。 じゃおいでよ。 岡本。 こちらへ。 見えて。 少しここと換ってあげましょうか。 ありがとう。 ここでたくさん。 遅かったのね。 あたし宅の方へいらっしゃるのかと思ってたのよ。 御用があったの。 ええ。 よく来られたのね。 ことによると今日はむずかしいんじゃないかって先刻継と話してたの。 そら御覧なさいあたしの云った通りじゃなくって。 あたしお母さまと賭をしたのよ。 今日あなたが来るか来ないかって。 お母さまはことによると来ないだろうっておっしゃるからあたしきっといらっしゃるに違ないって受け合ったの。 そう。 また御神籤を引いて。 ちょっと見て上げましょうか。 今日も持って来たの。 今日の予言はお神籤じゃないのよ。 お神籤よりもっと偉い予言なの。 そう。 継はね。 止してちょうだいよお母さま。 そんな事ここで云っちゃ悪いわよ。 あたし云ってあげてもいいわ。 お止しなさいよ百合子さん。 そんな意地の悪い事するのは。 いいわそんならもうピヤノを浚って上げないから。 話してちょうだいよお姉さまに怒られたって構わないじゃないの。 あたしがついてるから大丈夫よ。 いいわ百合子さん。 どうでも勝手になさい。 お姉さま怒ったのね。 怒ったんじゃないよ。 きまりが悪いんだよ。 だってきまりの悪い事なんかなかないの。 あんな事云ったって。 だから話してちょうだいよ。 なに何でもないんだよ。 継がね由雄さんはああいう優しい好い人で何でも延子さんのいう通りになるんだから今日はきっと来るに違ないって云っただけなんだよ。 そう。 由雄が継子さんにはそんなに頼母しく見えるの。 ありがたいわね。 お礼を云わなくっちゃならないわ。 そうしたら百合子がそんならお姉様も由雄さん見たような人の所へお嫁に行くといいって云ったんでねそれをお前の前で云われるのが恥ずかしいもんだからああやって出て行ったんだよ。 まあ。 良人というものはただ妻の情愛を吸い込むためにのみ生存する海綿に過ぎないのだろうか。 世間。 世間には津田よりも何層倍か気むずかしい男をすぐ手の内に丸め込む若い女さえあるのに二十三にもなって自分の思うように良人を綾なして行けないのは畢竟知恵がないからだ。 あすこに吉川さんの奥さんが来ていてよ。 見えたでしょう。 百合子さん眼が早いのねいつ見つけたの。 見つけやしないのよ。 先刻から知ってるのよ。 叔母さんや継子さんも知ってるの。 ええ皆な知ってるのよ。 あたし厭だわ。 あんなにして見られちゃ。 そんならいいわ。 逃げ出しちまうだけだから。 何を買ってるの。 今困ってるところなのよ。 一さんが何かお土産を買ってくれって云うから見ているんだけれどもあいにく何にもないのよあの人の喜びそうなものは。 駄目よあの子は拳銃とか木剣とか人殺しのできそうなものでなくっちゃ気に入らないんだから。 そんな物こんな粋な所にあろうはずがないわ。 とにかく叔母さんに訊いてからになさいよ。 ――どうもお気の毒さまじゃいずれまた後ほど。 叔父さんはどうなすったの。 今日はなぜいらっしゃらないの。 来るのよ今に。 あの上叔父さんに来られちゃあたし見たいに薄っぺらなものは圧されてへしゃげちまうわ。 百合子さんと入れ代るのよ。 どうして。 どうしてでもその方が都合が好いんでしょう。 百合子さんはいてもいなくっても構わないんだから。 そう。 じゃもし由雄が病気でなくってあたしといっしょに来たらどうするの。 その時はその時でまたどうかするつもりなんでしょう。 もう一間取るとかそれでなければ吉川さんの方といっしょになるとか。 吉川さんとも前から約束があったの。 ええ。 こうやって真ともに向けるんだから敵わないわね。 ずいぶん無遠慮でしょう。 だけどあれ西洋風なんだって宅のお父さまがそうおっしゃってよ。 あら西洋じゃ構わないの。 じゃあたしの方でも奥さんの顔をああやってつけつけ見ても好い訳ね。 あたし見て上げようかしら。 見て御覧なさいきっと嬉しがってよ。 延子さんはハイカラだって。 失礼。 もう這入りましょうよ。 あらいらっしゃらないわ。 本当ね。 あたし探してあげましょうか。 いないいないどこかへ行っちまった。 あの奥さんなら二人前ぐらい肥ってるんだからすぐ分るはずだけれどもやっぱりいないわよ。 百合子さん。 あたしもう帰りたくなったわ。 早くお父さまが来てくれると好いんだけどな。 帰りたければお帰りよ。 お父さまがいらっしゃらなくっても構わないから。 でもいるわ。 あたしちょっと行って吉川さんの奥さんに御挨拶をして来ましょうか。 澄ましていちゃ悪いわね。 ああ行った方がいいよ。 行っといでよ。 でも今いらっしゃらないから。 なにきっと廊下にでも出ておいでなんだよ。 行けば分るよ。 でも――じゃ行くから叔母さんもいっしょにいらっしゃいな。 叔母さんは――。 いらっしゃらない。 行ってもいいがね。 どうせ今に御飯を食べる時にいっしょになるはずになってるんだから御免蒙ってその時にしようかと思ってるのよ。 あらそんなお約束があるの。 あたしちっとも知らなかったわ。 誰と誰がいっしょに御飯を召上がるの。 みんなよ。 あたしも。 ああ。 そんならあたしもその時にするわ。 お延代ってやろうか。 あんまり大きいのが前を塞いで邪魔だろう。 どうだ面白いかね。 ――由雄さんはどうだ。 ――。 今日はどうだったい。 由雄さんが何とか云やしなかったかね。 おおかたぐずぐず云ったんだろう。 おれが病気で寝ているのに貴様一人|芝居へ行くなんて不埒千万だとか何とか。 え。 きっとそうだろう。 不埒千万だなんてそんな事云やしないわ。 でも何か云われたろう。 岡本は不都合な奴だぐらい云われたに違あるまい。 電話の様子がどうも変だったぜ。 構わないよ。 叔父さんが後で話をしてやるからそんな事は心配しないでもいいよ。 あたし心配なんかしちゃいないわ。 そうかそれでも少しゃ気がかりだろう。 結婚早々旦那様の御機嫌を損じちゃ。 大丈夫よ。 御機嫌なんか損じちゃいないって云うのに。 実は今日お前を呼んだのはねただ芝居を見せるためばかりじゃない少し呼ぶ必要があったんだよ。 それで由雄さんが病気のところを無理に来て貰ったような訳だがその訳さえ由雄さんに後から話しておけば何でもない事さ。 叔父さんがよく話しておくよ。 理由っていったい何。 今ここじゃ話し悪いがね。 いずれ後で話すよ。 今日は吉川さんといっしょに食堂で晩食を食べる事になってるんだよ。 知ってるかね。 そら吉川もあすこへ来ているだろう。 叔父さんといっしょに来たんだよ。 倶楽部から。 あのね吉川さんから食事の用意を致させておきましたからこの次の幕間にどうぞ食堂へおいで下さいますようにって。 承知しました。 いったいこれから何が始まるの。 知らないわ。 ただ御飯を食べるぎりなの。 そうなんでしょう。 処女であった頃自分にもかつてこんなお嬢さんらしい時期があったろうか。 あなたは私より純潔です。 私が羨やましがるほど純潔です。 けれどもあなたの純潔はあなたの未来の夫に対して何の役にも立たない武器に過ぎません。 私のように手落なく仕向けてすら夫はけっしてこっちの思う通りに感謝してくれるものではありません。 あなたは今に夫の愛を繋ぐためにその貴い純潔な生地を失わなければならないのです。 それだけの犠牲を払って夫のために尽してすら夫はことによるとあなたに辛くあたるかも知れません。 私はあなたが羨ましいと同時にあなたがお気の毒です。 近いうちに破壊しなければならない貴い宝物をあなたはそれと心づかずに無邪気にもっているからです。 幸か不幸か始めから私には今あなたのもっているような天然そのままの器が完全に具わっておりませんでしたからそれほどの損失もないのだと云えば云われないこともないでしょうがあなたは私と違います。 あなたは父母の膝下を離れると共にすぐ天真の姿を傷けられます。 あなたは私よりも可哀相です。 早くおいでなね。 何をぐずぐずしているの。 もう吉川さんの方じゃ先へ来て待っていらっしゃるんだよ。 どうですかけたら。 さあどうぞ。 遠慮しずにおかけなさいよ。 もうみんな坐ってるんだから。 三好さん黙っていないでちっとあっちの面白い話でもして継子さんに聞かせてお上げなさい。 ええ何でも致しましょう。 ええ何でもなさい。 黙ってちゃいけません。 また独逸を逃げ出した話でもするがいい。 独逸を逃げ出した話も何度となく繰り返すんでね近頃はもう他よりも自分の方が陳腐になってしまいました。 あなたのような落ちついた方でも少しは周章たでしょうね。 少しどころなら好いですがほとんど夢中でしたろう。 自分じゃよく分らないけれども。 でも殺されるとは思わなかったでしょう。 さよう。 まさか殺されるとも思うまいね。 ことにこの人は。 なぜです。 人間がずうずうしいからですか。 という訳でもないがとにかく非常に命を惜しがる男だから。 こっちの気のせいかしらん。 延子さんが呆れていらっしゃる。 あたしがあんまりしゃべるもんだから。 いいえ大変面白く伺っております。 岡本さんあなたが外国から帰っていらしってからもうよっぽどになりますね。 ええ。 何しろ一昔前の事ですからな。 一昔前って何年頃なのいったい。 さよう西暦。 普仏戦争時分。 馬鹿にしちゃいけません。 これでもあなたの旦那様を案内して倫敦を連れて歩いて上げた覚があるんだから。 じゃ巴理で籠城した組じゃないのね。 冗談じゃない。 何しろ自動車のできたてであれが通るとみんなふり返って見た時分だったからね。 うんあの鈍臭いバスがまだ幅を利かしていた時代だよ。 お互に年を取ったもんだね。 不断はちっとも気がつかずにまだ若いつもりかなんかでしきりにはしゃぎ廻っているがこうして娘の隣に坐って見ると少し考えるね。 じゃ始終その子の傍に坐っていらっしったら好いでしょう。 全くだよ。 外国から帰って来た時にゃこの子がまだ。 幾つだっけかな。 今度はお爺さまお爺さまって云われる時機がもう眼前に逼って来たんだ。 油断はできません。 でも岡本さんにゃ自分の年歯を計る生きた時計が付いてるからまだよいんです。 あなたと来たら何にも反省器械を持っていらっしゃらないんだから全く手に余るだけですよ。 その代りお前だっていつまでもお若くっていらっしゃるじゃないか。 もう始まったのかい。 ただ今|開きました。 いいや開いたって。 この際眼よりも口の方が大事だ。 君は相変らず旨そうに食うね。 ――奥さんこの岡本君が今よりもっと食ってもっと肥ってた時分西洋人の肩車へ乗った話をお聞きですか。 そうでしょうねあんまり外聞の好い話じゃないからきっと隠しているんですよ。 何が。 おおかた重過ぎてその外国人を潰したんでしょう。 そんならまだ自慢になるがみんなに変な顔をしてじろじろ見られながら倫敦の群衆の中で大男の肩の上へ噛りついていたんだ。 行列を見るためにね。 何を捏造する事やら。 いったいそりゃいつの話だね。 エドワード七世の戴冠式の時さ。 行列を見ようとしてマンションハウスの前に立ってたところが日本と違って向うのものがあんまり君より背丈が高過ぎるもんだから苦し紛れにいっしょに行った下宿の亭主に頼んで肩車に乗せて貰ったって云うじゃないか。 馬鹿を云っちゃいけない。 そりゃ人違だ。 肩車へ乗った奴はちゃんと知ってるが僕じゃないあの猿だ。 なるほどあの猿ならよく似合うね。 いくら英吉利人が大きいたってどうも君じゃ辻褄が合わな過ぎると思ったよ。 ――あの猿と来たらまたずいぶん矮小だからな。 猿だなんていったい誰の事をおっしゃるの。 なにお前の知らない人だ。 奥さん心配なさらないでも好ござんす。 たとい猿がこの席にいようとも我々は表裏なく彼を猿々と呼び得る人間なんだから。 その代り向うじゃ私の事を豚々って云ってるから同なじ事です。 自分がもしあの従妹の地位に立ったなら。 もう何時だろう。 延子さん。 津田さんはどうなすって。 先刻から伺おう伺おうと思ってた癖につい自分の勝手な話ばかりして――。 毎度津田が御厄介になりまして。 ありがとうございます。 お蔭さまで。 もう手術をなすったの。 ええ今日。 今日。 それであなたよくこんな所へ来られましたね。 大した病気でもございませんものですから。 でも寝ていらっしゃるんでしょう。 寝てはおります。 病院へ御入りになって。 病院と申すほどの所ではございませんがちょうどお医者様の二階が空いておるので五六日そこへおいていただく事にしております。 当人に聞くと去年から病気を持ち越しているんだってね。 今の若さにそう病気ばかりしちゃ仕方がない。 休むのは五六日に限った事もないんだから癒るまでよく養生するようにそう云って下さい。 いや疳違いをしちゃいけない何をしているかちょっと覗いて見ただけだ。 お前なんかに用のあるおれじゃない。 もうあなたのような方の事は考えて上げません。 今日は宅へ来て泊って行かないかね。 えありがとう。 あなたの気楽さ加減にも呆れますね。 泊って行くなら泊っといでよ。 遠慮は要らないから。 泊っていけったってあなた宅にゃ下女がたった一人でこの子の帰るのを待ってるんですもの。 そんな事無理ですわ。 はあそうかねなるほど。 下女一人じゃ不用心だね。 あたしこれでも津田へ行ってからまだ一晩も御厄介になった事はなくってよ。 はあそうだったかね。 それは感心に品行方正の至だね。 厭だ事。 ――由雄だって外へ泊った事なんかまだ有りゃしないわ。 いや結構ですよ。 御夫婦お揃でお堅くっていらっしゃるのは――。 何よりもって恐悦至極。 何ですって。 お前|宅へ泊れなければ泊らないでいいからその代りいつかおいでよ二三日中にね。 少し訊きたい事があるんだから。 あたしも叔父さんに伺わなくっちゃならない事があるから今日のお礼かたがた是非上るわ。 もしか都合ができたら明日にでも伺ってよ好くって。 オーライ。 時時。 はい。 早く玄関を締めてお寝。 潜りの※はあたしがかけて来たから。 やっぱりあなたがいらっしゃらないからだ。 順当でございますお変りはございません。 今日は岡本へ行かなければならないからそちらへは参りませんって云って下さい。 旦那様がいらっしゃらないと何だか変ね。 へえ御淋しゅうございます。 こんな寝坊をしたのは始めてね。 ええその代りいつでもお早いんだからたまには朝とお午といっしょでも宜しゅうございましょう。 旦那様がいらっしゃらないとすぐあの通りだなんて思やしなくって。 誰がでございます。 お前がさ。 飛んでもない。 よく気をつけておくれよ。 昨夕見たいに寝てしまうと不用心だからね。 今夜も遅く御帰りになるんでございますか。 あんなに遅くはならないつもりだがね。 なるたけ早く帰って来て上げるよ。 昨日は。 どこへ行くの。 お稽古。 何のお稽古。 トーダンス。 まさか。 冷かすから厭よ。 また何か始めたの。 どうせ慾張だから何を始めるか分らないわ。 待っていらっしゃい。 じき帰って来るから。 来たね。 今庭いじりをやってるところだ。 そいつを今その庭の入口の門の上へ這わせようというんだ。 ちょっと好いだろう。 へえ。 あの袖垣の所にあったのを抜いて来たの。 うんその代りあすこへは玉縁をつけた目関垣を拵えたよ。 へえ。 食後の運動には好いわね。 お腹が空いて。 笑談じゃない叔父さんはまだ午飯前なんだ。 住住。 腹が減って仕方がない早く飯にしてくれ。 だから先刻みんなといっしょに召上がれば好いのに。 ところがそう勝手元の御都合のいいようにばかりは参らんです世の中というものはね。 第一|物に区切のあるという事をあなたは御承知ですか。 おい何をぼんやりしているんだ。 しきりに考え込んでいるじゃないか。 久しぶりにお給仕でもしましょう。 御給仕をしたくったって麺麭だからできないよ。 お延叔父さんは情けない事になっちまったよ。 日本に生れて米の飯が食えないんだから可哀想だろう。 こうして豆腐ばかり食ってるんだがね。 少しゃ断食でもした方がいいんでしょう。 叔父さんみたいに肥って生きてるのは誰だって苦痛に違ないから。 お延は元から悪口やだったが嫁に行ってから一層達者になったようだね。 だってあたしの悪口は叔父さんのお仕込じゃないの。 津田に教わった覚なんかありゃしないわ。 ふんそうでもあるめえ。 いったい由雄さんはそんなに厳格な人かね。 ははあ笑ってるところを見るとやっぱり嬉しいんだな。 何がよ。 何がよってそんなに白ばっくれなくっても分っていらあな。 ――だが本当に由雄さんはそんなに厳格な人かい。 どうだかあたしよく解らないわ。 なぜまたそんな事を真面目くさってお訊きになるの。 少しこっちにも料簡があるんだ返答次第では。 おお怖い事。 じゃ云っちまうわ。 由雄は御察しの通り厳格な人よ。 それがどうしたの。 本当にかい。 ええ。 ずいぶん叔父さんも苦呶いのね。 じゃこっちでも簡潔に結論を云っちまう。 はたして由雄さんがお前のいう通り厳格な人ならばだ。 とうてい悪口の達者なお前には向かないね。 この叔母さんならちょうどお誂らえ向かも知れないがね。 叔父さんはいつでも気楽そうで結構ね。 いくらお誂らえ向でもこう年を取っちゃ仕方がない。 ねえお延。 お前はああいう人が好きなのかね。 じゃおれのようなものは嫌だったんだね。 叔父さんの御意見は。 おいでよお前さえ行く気なら誰にも遠慮は要らないから。 あの男は日本中の女がみんな自分に惚れなくっちゃならないような顔つきをしているじゃないか。 自分の若い時の己惚はもう忘れているんだからね。 厳格。 おれの云った通りじゃないかね。 なければ仕合せだ。 しかし万一何かあるならまた今ないにしたところでこれから先ひょっと出て来たなら遠慮なく打ち明けなけりゃいけないよ。 昨日の事は全体どういう意味なの。 お前はどう思う。 お前。 解らないわ。 藪から棒にそんな事|訊いたって。 ねえ叔母さん。 叔父さんはねあたしのようなうっかりものには解らないがお延にならきっと解る。 あいつは貴様より気が利いてるからっておっしゃるんだよ。 あたしにだって解りっこないわ。 まああてて御覧。 たいてい見当はつくだろう。 見合じゃなくって。 どうして。 ――お前にはそう見えるかね。 あたったあたった。 やっぱりお前の方が住より悧巧だね。 ねえ叔母さんだってそのくらいの事ならたいてい見当がつくわね。 お前も御賞にあずかったってあんまり嬉しくないだろう。 ええちっともありがたかないわ。 どうもあたしそうだろうと思ったの。 あの奥さんが始終継子さんとそれからあの三好さんて方を引き立てよう引き立てようとして骨を折っていらっしゃるんですもの。 ところがあのお継と来たらまた引き立たない事|夥しいんだからな。 引き立てようとすればかえって引き下がるだけでまるで紙袋を被った猫見たいだね。 そこへ行くとお延のようなのはどうしても得だよ。 少くとも当世向だ。 厭にしゃあしゃあしているからでしょう。 何だか賞められてるんだか悪く云われてるんだか分らないわね。 あたし継子さんのようなおとなしい人を見るとどうかしてあんなになりたいと思うわ。 何でまたあたしがあの席に必要だったの。 お前は継子の従姉じゃないか。 何だか変じゃないの。 そうするともし津田が病気でなかったらやっぱり親類として是非出席しなければ悪い訳になるのね。 それゃまた別口だ。 ほかに意味があるんだ。 なるほどそういう意味|合だったの。 あたし叔父さんに感謝しなくっちゃならないわね。 だけどまだほかに何かあるんでしょう。 あるかも知れないがたといないにしたところで単にそれだけでもああしてお前を呼ぶ価値は充分あるだろう。 ええ有るには有るわ。 実はお前にお婿さんの眼利をして貰おうと思ったのさ。 お前はよく人を見抜く力をもってるから相談するんだがどうだろうあの男は。 お継の未来の夫としていいだろうか悪いだろうか。 まあ大変な御役目を承わったのね。 光栄の至りだ事。 あたしのようなものが眼利をするなんて少し生意気よ。 それにただ一時間ぐらいああしていっしょに坐っていただけじゃ誰だって解りっこないわ。 千里眼ででもなくっちゃ。 いやお前にはちょっと千里眼らしいところがあるよ。 だから皆なが訊きたがるんだよ。 冷評しちゃ厭よ。 人間はよく交際って見なければ実際解らないものよ叔父さん。 そのくらいな事は御前に教わらないだって誰だって知ってらあ。 だからよ。 一度会ったぐらいで何にも云える訳がないっていうのよ。 そりゃ男の云い草だろう。 女は一眼見てもすぐ何かいうじゃないか。 またよく旨い事を云うじゃないか。 それを云って御覧というのさただ叔父さんの参考までに。 なにもお前に責任なんか持たせやしないから大丈夫だよ。 だって無理ですもの。 そんな予言者みたいな事。 ねえ叔母さん。 立派な方じゃありませんか。 そうして若い割に大変落ちついていらっしゃるのね。 それっきりかね。 だってあたしあの方の一軒置いてお隣へ坐らせられてろくろくお顔も拝見しなかったんですもの。 予言者をそんな所へ坐らせるのは悪かったかも知れないがね。 ――何かありそうなもんじゃないかそんな平凡な観察でなしにもっとお前の特色を発揮するようなただ一言でずばりと向うの急所へあたるような。 むずかしいのね。 ――何しろ一度ぐらいじゃ駄目よ。 しかし一度だけで何か云わなければならない必要があるとしたらどうだい。 何か云えるだろう。 云えないわ。 云えない。 じゃお前の直覚は近頃もう役に立たなくなったんだね。 ええお嫁に行ってからだんだん直覚が擦り減らされてしまったの。 近頃は直覚じゃなくって鈍覚だけよ。 それだのに叔父はなぜ三好に対する自分の評をこんなに執濃く聴こうとするのだろう。 この子は嫁に行ってから少し人間が変って来たようだね。 だいぶ臆病になった。 それもやっぱり旦那様の感化かな。 不思議なもんだな。 あなたがあんまり苛めるからですよ。 さあ云えさあ云えって責めるように催促されちゃ誰だって困りますよ。 だけどこりゃ第一が継子さんの問題じゃなくって。 継子さんの考え一つできまるだけだとあたし思うわあたしなんかが余計な口を出さないだって。 いったい継子さんは何とおっしゃるの。 何とも云わないよ。 あいつはお前よりなお臆病だからね。 肝心の当人がそれじゃ仕方がないじゃありませんか。 うんああ臆病じゃ実際仕方がない。 臆病じゃないのよおとなしいのよ。 どっちにしたって仕方がない何にも云わないんだから。 あるいは何にも云えないのかも知れないね種がなくって。 自分の結婚ですらこうだのに。 自分の結婚だって畢竟は似たり寄ったりなんだから。 叔父さん。 駄目だよ。 あいつは初めっから何にも云う気がないんだから。 元来はそれでお前に立ち合って貰ったような訳なんだ実を云うとね。 だってあたしが立ち合えばどうするの。 とにかく継が是非そうしてくれっておれ達に頼んだんだ。 つまりあいつは自分よりお前の方をよっぽど悧巧だと思ってるんだ。 そうしてたとい自分は解らなくってもお前なら後からいろいろ云ってくれる事があるに違ないと思い込んでいるんだ。 じゃ最初からそうおっしゃればあたしだってその気で行くのに。 ところがまたそれは厭だというんだ。 是非黙っててくれというんだ。 なぜでしょう。 きまりが悪いからだよ。 なにきまりが悪いばかりじゃない。 成心があっちゃ好い批評ができないというのがあいつの主意なんだ。 つまりお延の公平に得た第一印象を聞かして貰いたいというんだろう。 女は一目見て男を見抜かなければいけない。 我。 自分の過失に対しては自分が苦しみさえすればそれでたくさんだ。 来年はあの松の横の所へ楓を一本植えようと思うんだ。 何だかここから見るとあすこだけ穴が開いてるようでおかしいからね。 本当ね。 あすこを塞がないとさもさも藪を拵えましたって云うようで変ね。 慾張屋さんもう好い加減に帰りそうなもんだのにね何をしているんだろう。 今日は何のお稽古に行ったの。 あてて御覧。 それでも語学だけには少し特別の意味があるんだよ。 それと同じ眼がどうしてあの継子に満足できるだろう。 でも継子さんは仕合せね。 あたし見たいに心配性でないから。 あの子はお前よりもずっと心配性だよ。 ただ宅にいるといくら心配したくっても心配する種がないもんだからああして平気でいられるだけなのさ。 でもあたしなんか叔父さんや叔母さんのお世話になってた時分からもっと心配性だったように思うわ。 そりゃお前と継とは。 昨日の見合に引き出されたのは容貌の劣者として暗に従妹の器量を引き立てるためではなかったろうか。 継子さんは得な方ね。 誰にでも好かれるんだから。 そうも行かないよ。 けれどもこれは人の好々だからね。 あんな馬鹿でも。 継がどうしたって。 叔父さんもずいぶん人が悪いのね。 そんなに人が悪うがすかな。 おれの留守にまた叔母さんから何か聴いたな。 あなたの人の悪いぐらい今さら私から聴かないでもよく承知してるそうですよ。 なるほどね。 お延は直覚派だからな。 そうかも知れないよ。 何しろ一目見てこの男の懐中には金がいくらあって彼はそれを犢鼻褌のミツへ挟んでいるかまたは胴巻へ入れて臍の上に乗っけているかちゃんと見分ける女なんだからなかなか油断はできないよ。 お延どうかしたのかい。 何だね小供らしい。 このくらいな事で泣くものがありますか。 いつもの笑談じゃないか。 何もそんなにまでしてあたしを苛めなくったって。 苛めやしないよ。 賞めてるんだ。 そらお前が由雄さんの所へ行く前にあの人を評した言葉があるだろう。 あれを皆な蔭で感心しているんだ。 だから。 そんな事|承わなくってももうたくさんです。 つまりあたしが芝居へ行ったのが悪いんだから。 何だかとんだ事になっちまったんだね。 叔父さんの調戯い方が悪かったのかい。 いいえ。 皆んなあたしが悪いんでしょう。 そう皮肉を云っちゃいけない。 どこが悪いか解らないから訊くんだ。 だから皆なあたしが悪いんだって云ってるじゃありませんか。 だが訳を云わないからさ。 訳なんかないんです。 訳がなくってただ悲しいのかい。 何だねこの人は。 駄々ッ子じゃあるまいし。 宅にいた時分いくら叔父さんに調戯われたってそんなに泣いた事なんかありゃしないくせに。 お嫁に行きたてで少し旦那から大事にされるとすぐそうなるから困るんだよ若い人は。 そんなに叱ったってしようがないよ。 おれが少し冷評し過ぎたのが悪かったんだ。 ――ねえお延そうだろう。 きっとそうに違ない。 よしよし叔父さんが泣かした代りに今に好い物をやる。 ただいま。 お帰んなさい。 遅かったのね。 先刻から待ってたのよ。 いや大変なお待兼だよ。 継子さんはどうしたろうどうしたろうって。 何でも継子さんに逢って是非話したい事があるんだそうだ。 まだ湯なんかに入っちゃいられない。 少し庭に用が残ってるから。 ――お前達先へ入るなら入るがいい。 お延湯に入って晩飯でも食べておいで。 お延が来たから晩に藤井でも呼んでやろうか。 しかし来るかな。 近頃みんなおれの事を隠居隠居っていうがあの男の隠居主義と来たら遠い昔からの事でとうていおれなどの及ぶところじゃないんだからな。 ねえお延藤井の叔父さんは飯を食いに来いったら来るかい。 そりゃどうだかあたしにゃ解らないわ。 おおかたいらっしゃらないでしょう。 うんなかなかおいそれとやって来そうもないね。 じゃ止すか。 ――だがまあ試しにちょっと掛けてみるがいい。 掛けてみるったってあすこにゃ電話なんかありゃしないわ。 じゃ仕方がない。 使でもやるんだ。 じゃあたしは御免蒙ってお先へお湯に入ろう。 あたしのお部屋へ来なくって。 昔は淡い夢のようにしだいしだいに確実な自分から遠ざかって行くのではなかろうか。 継子さん今日はあたしがお神籤を引いて上げましょうか。 なんで。 何でもないのよ。 ただよ。 だってただじゃつまらないわ。 何かきめなくっちゃ。 そう。 じゃきめましょう。 何がいいでしょうね。 何がいいかそりゃあたしにゃ解らないわ。 あなたがきめて下さらなくっちゃ。 じゃあたしが引くからあなた自分でおきめなさいね。 何でも今あなたのお腹の中で一番知りたいと思ってる事があるでしょう。 それにするのよあなたの方で自分勝手に。 よくって。 厭よ。 何が厭なの。 いいからちょいとお貸しなさいよ。 あなたの嬉しがるのを出して上げるから。 継子さん早く雑巾を取っていらっしゃい。 厭よ。 あなたが零したんだからあなた取っていらっしゃい。 じゃジャン拳よ。 狡猾いわ。 あなたこそ狡猾いわ。 雑巾なんか要りゃしない。 こうしておけばそれでたくさんよ。 水はもう引いちまったんだから。 継子さんはいつでも気楽で好いわね。 じゃ延子さんは気楽でないの。 あなたとあたしといったいどこが違うんでしょう。 じゃ延子さんどんな心配があるの。 少し話してちょうだいな。 心配なんかないわ。 そら御覧なさい。 あなただってやっぱり気楽じゃないの。 そりゃ気楽は気楽よ。 だけどあなたの気楽さとは少し訳が違うのよ。 どうしてでしょう。 今に解るわ。 だけど延子さんとあたしとは三つ違よたった。 ただ年齢ばかりじゃないのよ。 境遇の変化よ。 娘が人の奥さんになるとか奥さんがまた旦那様を亡くなして未亡人になるとか。 延子さんは宅にいた時と由雄さんの所へ行ってからとどっちが気楽なの。 そりゃ。 今の方が気楽なんでしょう。 それ御覧なさい。 そうばかりにも行かないわ。 これで。 だってあなたが御自分で望んでいらしった方じゃないの津田さんは。 ええだからあたし幸福よ。 幸福でも気楽じゃないの。 気楽な事も気楽よ。 じゃ気楽は気楽だけれども心配があるの。 そう継子さんのように押しつめて来ちゃ敵わないわね。 押しつめる気じゃないけれども解らないからついそうなるのよ。 そりゃ駄目よ。 津田の時は自分の事だから自分によく解ったんだけれども他の事になるとまるで勝手が違ってちっとも解らなくなるのよ。 そんなに遠慮しないだってよかないの。 遠慮じゃないのよ。 じゃ冷淡なの。 継子さんあなた知ってて。 女の眼は自分に一番縁故の近いものに出会った時始めてよく働らく事ができるのだという事を。 眼が一秒で十年以上の手柄をするのはその時に限るのよ。 しかもそんな場合は誰だって生涯にそうたんとありゃしないわ。 ことによると生涯に一返も来ないですんでしまうかも分らないわ。 だからあたしなんかの眼はまあ盲目同然よ。 少なくとも平生は。 だって延子さんはそういう明るい眼をちゃんと持っていらっしゃるんじゃないの。 そんならなぜそれをあたしの場合に使って下さらなかったの。 使わないんじゃない使えないのよ。 だって岡目八目って云うじゃありませんか。 傍にいるあなたにはあたしより余計公平に分るはずだわ。 じゃ継子さんは岡目八目で生涯の運命をきめてしまう気なの。 そうじゃないけれども参考にゃなるでしょう。 ことに延子さんを信用しているあたしには。 継子さんあたし今あなたにお話ししたでしょうあたしは幸福だって。 ええ。 なぜあたしが幸福だかあなた知ってて。 あたしが幸福なのはほかに何にも意味はないのよ。 ただ自分の眼で自分の夫を択ぶ事ができたからよ。 岡目八目でお嫁に行かなかったからよ。 解って。 じゃあたしのようなものはとても幸福になる望はないのね。 あるのよあるのよ。 ただ愛するのよそうして愛させるのよ。 そうさえすれば幸福になる見込はいくらでもあるのよ。 誰を。 昨夕お目にかかったあの方の事。 誰でも構わないのよ。 ただ自分でこうと思い込んだ人を愛するのよ。 そうして是非その人に自分を愛させるのよ。 あなたあたしの云う事を疑っていらっしゃるの。 本当よ。 あたし嘘なんか吐いちゃいないわ。 本当よ。 本当にあたし幸福なのよ。 解ったでしょう。 誰だってそうよ。 たとい今その人が幸福でないにしたところでその人の料簡一つで未来は幸福になれるのよ。 きっとなれるのよ。 きっとなって見せるのよ。 ねえ継子さんそうでしょう。 ただいま。 百合子さんあたしまたお邪魔に上りましたよ。 よくって。 よくいらっしゃいました。 好いわ来ても。 追い出されたんでなければ。 まあひどい事。 百合子さんもしあたしが津田を追い出されたら少しは可哀相だと思って下さるでしょう。 ええそりゃ可哀相だと思って上げてもいいわ。 そんならその時はまたこのお部屋へおいて下すって。 そうね。 いいわおいて上げても。 お姉さまがお嫁に行った後なら。 いえ継子さんがお嫁にいらっしゃる前よ。 前に追い出されるの。 そいつは少し――まあ我慢してなるべく追い出されないようにしたらいいでしょうこっちの都合もある事だから。 今頃お八ツ。 このお皿を見ると思い出すのね。 延子さんあなた今でもお八ツ召しゃがって。 食べたり食べなかったりよ。 わざわざ買うのは億劫だしそうかって宅に何かあっても昔しのように旨しくないのねもう。 運動が足りないからでしょう。 本当よお姉さまはもうじきお嫁に行くのよ。 そうどこへいらっしゃるの。 どこだか知らないけれども行く事は行くのよ。 じゃ何という方の所へいらっしゃるの。 何という名だか知らないけれども行くのよ。 それはどんな方なの。 おおかた由雄さんみたいな方なんでしょう。 お姉さまは由雄さんが大好きなんだから。 何でも延子さんの云う通りになって大変好い人だってそう云っててよ。 おお大変大変。 一さんは犬みたいよ。 お父さま彗星が出ると何か悪い事があるんでしょう。 うん昔の人はそう思っていた。 しかし今は学問が開けたからそんな事を考えるものはもう一人もなくなっちまった。 西洋では。 西洋。 西洋にゃ昔からない。 でもシーザーの死ぬ前に彗星が出たっていうじゃないの。 うんシーザーの殺される前か。 ありゃ羅馬の時代だからな。 ただの西洋とは訳が違うよ。 そりゃお前落ちないさ。 だって下が水なら落ちる訳じゃないの。 そう旨くは行かないよ。 お父さま僕この宅が軍艦だと好いな。 お父さまは。 お父さまは軍艦よりただの宅の方が好いね。 だって地震の時宅なら潰れるじゃないの。 ははあ軍艦ならいくら地震があっても潰れないか。 なるほどこいつは気がつかなかった。 ふうんなるほど。 一さん藤井の真事さんと同級なんでしょう。 ああ。 きっとくれる。 一の方が少し小悧巧のようだな。 藤井さんは近頃あんまり遊びに来ないようね。 つまり批評家って云うんだろうねああ云う人の事を。 しかしあれじゃ仕事はできない。 仕事ができなくってただ理窟を弄んでいる人そういう人に世間はどんな用があるだろう。 そういう人が物質上相当の報酬を得ないで困るのは当然ではないか。 近頃藤井さんへいらしって。 うんこないだもちょっと散歩の帰りに寄ったよ。 草臥れた時休むにはちょうど都合の好い所にある宅だからねあすこは。 また何か面白いお話しでもあって。 相変らず妙な事を考えてるねあの男は。 こないだは男が女を引張り女がまた男を引張るって話をさかんにやって来た。 あら厭だ。 馬鹿らしい好い年をして。 いや妙な事があるんだよ。 大将なかなか調べているから感心だ。 大将のいうところによるとこうなんだ。 どこの宅でも男の子は女親を慕い女の子はまた反対に男親を慕うのが当り前だというんだがなるほどそう云えばそうだね。 それでどうしたの。 それでこうなんだ。 男と女は始終引張り合わないと完全な人間になれないんだ。 つまり自分に不足なところがどこかにあって一人じゃそれをどうしても充たす訳に行かないんだ。 昔から陰陽和合っていうじゃありませんか。 ところが陰陽和合が必然でありながらその反対の陰陽不和がまた必然なんだから面白いじゃないか。 どうして。 いいかい。 男と女が引張り合うのは互に違ったところがあるからだろう。 今云った通り。 ええ。 じゃその違ったところはつまり自分じゃない訳だろう。 自分とは別物だろう。 ええ。 それ御覧。 自分と別物ならどうしたっていっしょになれっこないじゃないか。 いつまで経ったって離れているよりほかに仕方がないじゃないか。 だけどそりゃ理窟よ。 無論理窟さ。 どこへ出ても立派に通る理窟さ。 駄目よそんな理窟は。 何だか変ですよ。 ちょうど藤井の叔父さんがふり廻しそうな屁理窟よ。 ずいぶんのべつね叔父さんも。 口じゃとても敵いっこないからお止しよ。 こっちで何かいうとなお意地になるんだから。 ええわざわざ陰陽不和を醸すように仕向けるのね。 とうとう降参しましたかな。 降参したなら降参したで宜しい。 敗けたものを追窮はしないから。 ――そこへ行くと男にはまた弱いものを憐れむという美点があるんだからなこう見えても。 おいお延好いものを持って来た。 お前|明日にでも病院へ行くならこれを由雄さんの所へ持ってッておやり。 何よ。 へええ。 みんな滑稽なもんだ。 洒落だとか謎だとかね。 寝ていて読むにはちょうど手頃で好いよ肩が凝らなくってね。 なるほど叔父さん向のものね。 叔父さん向でもこのくらいな程度なら差支えあるまい。 いくら由雄さんが厳格だってまさか怒りゃしまい。 怒るなんて。 まあいいやこれも陰陽和合のためだ。 試しに持ってッてみるさ。 これは先刻お前を泣かした賠償金だ。 約束だからついでに持っておいで。 お延これは陰陽不和になった時一番よく利く薬だよ。 たいていの場合には一服呑むとすぐ平癒する妙薬だ。 陰陽不和じゃないのよ。 あたし達のは本当の和合なのよ。 和合ならなお結構だ。 和合の時に呑めば精神がますます健全になる。 そうして身体はいよいよ強壮になる。 どっちへ転んでも間違のない妙薬だよ。 叔父さんの病気には運動が一番いいんだからね。 ――なに歩くのは自分の勝手さ。 ありゃ叔母さんがよく知ってるが正直で好い女なんだよ。 留守なんぞさせるには持って来いだって受合ったくらいだからね。 だが独りで寝ちまっちゃ困るね不用心で。 もっともまだ年歯が年歯だからな。 眠い事も眠いだろうよ。 さよなら。 さよなら由雄さんによろしく。 お帰り。 今日は早かったでしょう。 へえ。 もっと早く帰ろうと思ったんだけれどもねつい日が短かいもんだから。 あたしのいない留守に何にも用はなかったろうね。 いいえ。 誰も来やしなかったろうね。 あいらっしゃいました。 あの小林さんとおっしゃる方が。 何しに来たんだろう。 何か御用でもおありだったの。 ええあの外套を取りにいらっしゃいました。 外套。 誰の外套。 小林とノンセンス。 今日解決ができなければ明日解決するよりほかに仕方がない。 明日解決ができなければ明後日解決するよりほかに仕方がない。 明後日解決ができなければ。 誰でも構わない自分のこうと思い込んだ人を飽くまで愛する事によってその人に飽くまで自分を愛させなければやまない。 この手紙に書いてある事はどこからどこまで本当です。 嘘や気休や誇張は一字もありません。 もしそれを疑う人があるなら私はその人を憎みます軽蔑します唾を吐きかけます。 その人よりも私の方が真相を知っているからです。 私は上部の事実以上の真相をここに書いています。 それは今私にだけ解っている真相なのです。 しかし未来では誰にでも解らなければならない真相なのです。 私はけっしてあなた方を欺むいてはおりません。 私があなた方を安心させるためにわざと欺騙の手紙を書いたのだというものがあったならその人は眼の明いた盲目です。 その人こそ嘘吐です。 どうぞこの手紙を上げる私を信用して下さい。 神様はすでに信用していらっしゃるのですから。 父はあいにく今留守ですが。 今日は大変お早うございましたね。 今日は旦那様のお見舞に行かなければならないからね。 そんなにお早くいらっしゃるんでございますか。 ええ。 昨日行かなかったから今日は少し早く出かけましょう。 御嬢さまはまだどこへもおきまりになりませんのでございますか。 何だかそんな話もあるようだけれどもねまだどうなるかよく解らない様子だよ。 早く好い所へいらっしゃるようになると結構でございますがね。 おおかたもうじきでしょう。 叔父さんはあんな性急だから。 それに継子さんはあたしと違ってああいう器量好しだしね。 女はどうしても器量が好くないと損ね。 いくら悧巧でも気が利いていても顔が悪いと男には嫌われるだけね。 そんな事はございません。 本当よ。 男はそんなものなのよ。 でもそれは一時の事で年を取るとそうは参りますまい。 本当にあたしのような不器量なものは生れ変ってでも来なくっちゃ仕方がない。 奥様が不器量ならわたくしなんか何といえばいいのでございましょう。 ちょっと奥さんに。 小林。 津田君から貰うっていう約束をしたもんですから。 どうせもう着る事なんかなかろうとは思うんですが。 大丈夫ですよくれるって云ったに違ないんだから。 嘘なんか吐きやしませんよ。 いくら酔払っていたって気は確なんですからね。 どんな事があったって貰う物を忘れるような僕じゃありませんよ。 じゃしばらく待ってて下さい。 電話でちょっと病院へ聞き合せにやりますから。 奥さんは実に几帳面ですね。 ただ念のためにですよ。 あとでわたくしがまた何とか云われると困りますから。 津田君は近頃だいぶおとなしくなったようですね。 全く奥さんの影響でしょう。 そうですか。 私自身じゃ影響なんかまるでないように思っておりますがね。 どうしてどうして。 まるで人間が生れ変ったようなものです。 やッぱり細君の力には敵いませんねどんな男でも。 ――僕のような独身ものにはほとんど想像がつかないけれども何かあるんでしょうねそこに。 ええあるわ。 小林さんなんかにはとても見当のつかない神秘的なものがたくさんあるわ夫婦の間には。 あるなら一つ教えていただきたいもんですね。 独りものが教わったって何にもならないじゃありませんか。 参考になりますよ。 それよりあなた御自分で奥さんをお貰いになるのが一番|捷径じゃありませんか。 貰いたくっても貰えないんです。 なぜ。 来てくれ手がなければ自然貰えない訳じゃありませんか。 日本は女の余ってる国よあなた。 お嫁なんかどんなのでもそこいらにごろごろ転がってるじゃありませんか。 いくら女が余っていてもこれから駈け落をしようという矢先ですからね来ッこありませんよ。 駈落をなさるのならいっそ二人でなすったらいいでしょう。 誰とです。 そりゃきまっていますわ。 奥さんのほかに誰も伴れていらっしゃる方はないじゃありませんか。 へえ。 僕だって朝鮮|三界まで駈落のお供をしてくれるような実のある女があればこんな変な人間にならないですんだかも知れませんよ。 実を云うと僕には細君がないばかりじゃないんです。 何にもないんです。 親も友達もないんです。 つまり世の中がないんですね。 もっと広く云えば人間がないんだとも云われるでしょうが。 奥さん僕にはたった一人の妹があるんです。 ほかに何にもない僕にはその妹が非常に貴重に見えるのです。 普通の人の場合よりどのくらい貴重だか分りゃしません。 それでも僕はその妹をおいて行かなければならないのです。 妹は僕のあとへどこまでも喰ッついて来たがります。 しかし僕はまた妹をどうしても伴れて行く事ができないのです。 二人いっしょにいるよりも二人離れ離れになっている方がまだ安全だからです。 人に殺される危険がまだ少ないからです。 しかしあなたのおっしゃる事は本当なんでしょうかね。 何がです今僕の云った事がですか。 いいえそんな事じゃないの。 あなた先刻おっしゃったでしょう。 近頃津田がだいぶ変って来たって。 ええ云いました。 それに違ないからそう云ったんです。 本当に津田はそんなに変ったでしょうか。 ええ変りましたね。 奥さんあなた自分だって大概気がつきそうなものじゃありませんか。 いっこう気がつきませんね。 あれでどこか変ったところでもあるんでしょうか。 奥さんはなかなか空惚ける事が上手だから僕なんざあとても敵わない。 空惚けるっていうのはあなたの事じゃありませんか。 ええまあそんならそうにしておきましょう。 ――しかし奥さんはそういう旨いお手際をもっていられるんですね。 ようやく解った。 それで津田君がああ変化して来るんですねどうも不思議だと思ったら。 藤井さんでもみんな驚ろいていますよ。 何を。 あなたのお手際にです。 津田君を手のうちに丸め込んで自由にするあなたの霊妙なお手際にです。 そうですか。 わたくしにそれだけの力があるんですかね。 自分にゃ解りませんが藤井の叔父さんや叔母さんがそう云って下さるならおおかた本当なんでしょうよ。 本当ですとも。 僕が見たって誰が見たって本当なんだから仕方がないじゃありませんか。 ありがとう。 奥さんは結婚前の津田君を御承知ないからそれで自分の津田君に及ぼした影響を自覚なさらないんでしょうが――。 わたくしは結婚前から津田を知っております。 しかしその前は御存じないでしょう。 当り前ですわ。 ところが僕はその前をちゃんと知っているんですよ。 自分の今相手にしているのは平生考えていた通りの馬鹿でなくってあるいは手に余る擦れッ枯らしじゃなかろうか。 奥さんまだいろいろ残ってますよ。 あなたの知りたい事がね。 そうですか。 今日はもうそのくらいでたくさんでしょう。 あんまり一度きに伺ってしまうとこれから先の楽しみがなくなりますから。 そうですねじゃ今日はこれで切り上げときますかな。 あんまり奥さんに気を揉ませて歇斯的里でも起されると後でまた僕の責任だなんて津田君に恨まれるだけだから。 どうしたんでしょう。 なに今に帰って来ますよ。 心配しないでも迷児になる気遣はないから大丈夫です。 奥さん時間があるなら退屈凌ぎに幾らでも先刻の続きを話しますよ。 しゃべって潰すのも黙って潰すのもどうせ僕見たいな穀潰しにゃ同なし時間なんだからちっとも御遠慮にゃ及びません。 どうです津田君にはあれでまだあなたに打ち明けないような水臭いところがだいぶあるんでしょう。 あるかも知れませんね。 ああ見えてなかなか淡泊でないからね。 奥さんあなたの知らない事がまだたくさんありますよ。 あっても宜しいじゃございませんか。 いや実はあなたの知りたいと思ってる事がまだたくさんあるんですよ。 あっても構いません。 じゃあなたの知らなければならない事がまだたくさんあるんだと云い直したらどうです。 それでも構いませんか。 ええ構いません。 何という陋劣な男だろう。 奥さん津田君が変った例証として是非あなたに聴かせなければならない事があるんですがあんまりおびえていらっしゃるようだからそれは後廻しにしてその反対の方すなわち津田君がちっとも変らないところを少し御参考までにお話しておきますよ。 これはいやでも私の方で是非奥さんに聴いていただきたいのです。 ――どうです聴いて下さいますか。 どうともあなたの御随意に。 ありがたい。 僕は昔から津田君に軽蔑されていました。 今でも津田君に軽蔑されています。 先刻からいう通り津田君は大変変りましたよ。 けれども津田君の僕に対する軽蔑だけは昔も今も同様なのです。 毫も変らないのです。 これだけはいくら怜悧な奥さんの感化力でもどうする訳にも行かないと見えますね。 もっともあなた方から見たらそれが理の当然なんでしょうけれどもね。 いや別に変って貰いたいという意味じゃありませんよ。 その点について奥さんの御尽力を仰ぐ気は毛頭ないんだから御安心なさい。 実をいうと僕は津田君にばかり軽蔑されている人間じゃないんです。 誰にでも軽蔑されている人間なんです。 下らない女にまで軽蔑されているんです。 有体に云えば世の中全体が寄ってたかって僕を軽蔑しているんです。 まあ。 それは事実です。 現に奥さん自身でもそれを腹の中で認めていらっしゃるじゃありませんか。 そんな馬鹿な事があるもんですか。 そりゃ口の先ではそうおっしゃらなければならないでしょう。 あなたもずいぶん僻んでいらっしゃるのね。 ええ僻んでるかも知れません。 僻もうが僻むまいが事実は事実ですからね。 しかしそりゃどうでもいいんです。 もともと無能に生れついたのが悪いんだからいくら軽蔑されたって仕方がありますまい。 誰を恨む訳にも行かないのでしょう。 けれども世間からのべつにそう取り扱われつけて来た人間の心持をあなたは御承知ですか。 奥さん。 奥さん僕は人に厭がられるために生きているんです。 わざわざ人の厭がるような事を云ったりしたりするんです。 そうでもしなければ苦しくってたまらないんです。 生きていられないのです。 僕の存在を人に認めさせる事ができないんです。 僕は無能です。 幾ら人から軽蔑されても存分な讐討ができないんです。 仕方がないからせめて人に嫌われてでも見ようと思うのです。 それが僕の志願なのです。 吃驚りしたようじゃありませんか。 奥さんはまだそんな人に会った事がないんでしょう。 世の中にはいろいろの人がありますからね。 奥さんは先刻から僕を厭がっている。 早く帰ればいい帰ればいいと思っている。 ところがどうした訳か下女が帰って来ないもんだから仕方なしに僕の相手になっている。 それがちゃんと僕には分るんです。 けれども奥さんはただ僕を厭な奴だと思うだけでなぜ僕がこんな厭な奴になったのかその原因を御承知ない。 だから僕がちょっとそこを説明して上げたのです。 僕だってまさか生れたてからこんな厭な奴でもなかったんでしょうよよくは分りませんけれどもね。 じゃあなたは私を厭がらせるためにわざわざここへいらしったと言明なさるんですね。 いや目的はそうじゃありません。 目的は外套を貰いに来たんです。 じゃ外套を貰いに来たついでに私を厭がらせようとおっしゃるんですか。 いやそうでもありません。 僕はこれで天然自然のつもりなんですからね。 奥さんよりもよほど技巧は少ないと思ってるんです。 そんな事はどうでも私の問にはっきりお答えになったらいいじゃありませんか。 だから僕は天然自然だと云うのです。 天然自然の結果奥さんが僕を厭がられるようになるというだけなのです。 つまりそれがあなたの目的でしょう。 目的じゃありません。 しかし本望かも知れません。 目的と本望とどこが違うんです。 違いませんかね。 怒っちゃいけません。 僕は自分の小さな料簡から敵打をしてるんじゃないという意味を奥さんに説明して上げただけです。 天がこんな人間になって他を厭がらせてやれと僕に命ずるんだから仕方がないと解釈していただきたいのでわざわざそう云ったのです。 僕は僕に悪い目的はちっともない事をあなたに承認していただきたいのです。 僕自身は始めから無目的だという事を知っておいていただきたいのです。 しかし天には目的があるかも知れません。 そうしてその目的が僕を動かしているかも知れません。 それに動かされる事がまた僕の本望かも知れません。 じゃあなたは人を厭がらせる事はいくらでも厭がらせるがそれに対する責任はけっして負わないというんでしょう。 ええそこです。 そこが僕の要点なんです。 そんな卑怯な――。 卑怯じゃありません。 責任のない所に卑怯はありません。 ありますとも。 第一この私があなたに対してどんな悪い事をした覚があるんでしょう。 まあそれから伺いますから云って御覧なさい。 奥さん僕は世の中から無籍もの扱いにされている人間ですよ。 それが私や津田に何の関係があるんです。 あなた方から見たらおおかたないでしょう。 しかし僕から見ればあり過ぎるくらいあるんです。 どうして。 ただいま。 大変遅くなりました。 電車で病院まで行って参りましたものですから。 じゃ電話はかけなかったのかい。 いいえかけたんでございます。 かけても通じなかったのかい。 いったん帰って伺ってからにしようかと思いましたけれどもただ時間が長くかかるぎりでございますしそれにお客さまがこうして待っておいでの事をなまじい存じておるものでございますから。 これでしょう。 ええ。 思ったよりだいぶ汚れていますね。 あなたにゃそれでたくさんだ。 どうせただ貰うんだからそう贅沢も云えませんかね。 お気に召さなければどうぞ御遠慮なく。 置いて行けとおっしゃるんですか。 ええ。 奥さんちょっとここで着て見てもよござんすか。 ええええ。 どうですか。 ちょうど好いようですね。 奥さん人間はいくら変な着物を着て人から笑われても生きている方がいいものなんですよ。 そうですか。 奥さんのような窮った事のない方にゃまだその意味が解らないでしょうがね。 そうですか。 私はまた生きてて人に笑われるくらいならいっそ死んでしまった方が好いと思います。 ありがとう。 御蔭でこの冬も生きていられます。 奥さんあなたそういう考えならよく気をつけて他に笑われないようにしないといけませんよ。 余計な事です。 あなたからそんな御注意を受ける必要はありません。 注意を受ける必要がないのじゃありますまい。 おおかた注意を受ける覚がないとおっしゃるつもりなんでしょう。 そりゃあなたは固より立派な貴婦人に違ないかも知れません。 しかし――。 もうたくさんです。 早く帰って下さい。 しかし僕のいうのは津田君の事です。 津田がどうしたというんです。 わたくしは貴婦人だけれども津田は紳士でないとおっしゃるんですか。 僕は紳士なんてどんなものかまるで知りません。 第一そんな階級が世の中に存在している事を僕は認めていないのです。 認めようと認めまいとそりゃあなたの御随意です。 しかし津田がどうしたというんです。 聞きたいですか。 津田はわたくしの夫です。 そうです。 だから聞きたいでしょう。 早く帰って下さい。 ええ帰ります。 今帰るところです。 お待ちなさい。 何ですか。 なぜ黙って帰るんです。 御礼は先刻云ったつもりですがね。 外套の事じゃありません。 あなたは私の前で説明する義務があります。 何をですか。 津田の事をです。 津田は私の夫です。 妻の前で夫の人格を疑ぐるような言葉を遠廻しにでも出した以上それを綺麗に説明するのはあなたの義務じゃありませんか。 でなければそれを取消すだけの事でしょう。 僕は義務だの責任だのって感じの少ない人間だからあなたの要求通り説明するのは困難かも知れないけれども同時に恥を恥と思わない男としていったん云った事を取り消すぐらいは何でもありません。 ――じゃ津田君に対する失言を取消しましょう。 そうしてあなたに詫まりましょう。 そうしたらいいでしょう。 ここに改めて言明します。 津田君は立派な人格を具えた人です。 紳士です。 僕は先刻奥さんに人から笑われないようによく気をおつけになったらよかろうという注意を与えました。 奥さんは僕の注意などを受ける必要がないと云われました。 それで僕もその後を話す事を遠慮しなければならなくなりました。 考えるとこれも僕の失言でした。 併せて取消します。 その他もし奥さんの気に障った事があったら総て取消します。 みんな僕の失言です。 奥さんさよなら。 どうか遊ばしましたか。 いいえ。 どうもすみませんでした。 先刻はずいぶん大きな声を出したでしょう。 下女部屋の方まで聞こえたかい。 いいえ。 あのお客さまはずいぶん――。 旦那様は驚ろいていらっしゃいました。 ずいぶんひどい奴だって。 こっちから取りに来いとも何とも云わないのに断りもなく奥様と直談判を始めたり何かしてしかも自分が病院に入っている事をよく承知している癖にって。 まだほかに何かおっしゃりゃしなかったかい。 外套だけやって早く返せっておっしゃいました。 それから奥さんと話しをしているかと御訊きになりますから話しをしていらっしゃいますと申し上げましたら大変|厭な顔をなさいました。 そうかい。 それぎりかい。 いえ何を話しているのかと御訊きになりました。 それでお前は何とお答えをしたの。 別にお答えをしようがございませんからそれは存じませんと申し上げました。 そうしたら。 そうしたらなお厭な顔をなさいました。 いったい座敷なんかへむやみに上り込ませるのが間違っている――。 そんな事をおっしゃったの。 だって昔からのお友達なら仕方がないじゃないの。 だから私もそう申し上げたのでございました。 それに奥さまはちょうどお召換をしていらっしゃいましたのですぐ玄関へおでになる訳に行かなかったのだからやむをえませんて。 そう。 そうしたら。 そうしたらお前はもと岡本さんにいただけあって奥さんの事というと何でも熱心に弁護するから感心だって冷評かされました。 どうも御気の毒さま。 それっきり。 いえまだございます。 小林は酒を飲んでやしなかったかとお訊きになるんです。 私はよく気がつきませんでしたけれどもお正月でもないのにまさか朝っぱらから酔払って他の家へお客にいらっしゃる方もあるまいと思いましたから――。 酔っちゃいらっしゃらないと云ったの。 ええ。 奥さまあの旦那様が帰ったらよく奥さまにそう云えとおっしゃいました。 なんと。 あの小林って奴は何をいうか分らない奴だことに酔うとあぶない男だ。 だからあいつが何を云ってもけっして取り合っちゃいけない。 まあみんな嘘だと思っていれば間違はないんだからって。 そう。 堀の奥さまも傍で笑っていらっしゃいました。 兄さんこりゃもう済んだの。 まだ食べかけなの。 もう済んだんだよ。 汚ならしい事。 どうしておれのここにいる事が知れたんだい。 電話で知らせて下すったんです。 お延がかい。 ええ。 知らせないでもいいって云ったのに。 すぐ来ようと思ったんですけれどもあいにく昨日は少し差支えがあって――。 嫁に行った以上兄さんだってもう他人ですからね。 なに今日だって忙がしいところをわざわざ来てくれるには及ばないんだ。 大した病気じゃないんだから。 だって嫂さんがもし閑があったら行って上げて下さいってわざわざ電話でおっしゃったから。 そうかい。 それにあたし少し兄さんに話したい用があるんですの。 また始まったな。 お厭なら病院をお出になってから後にしましょうか。 どこか痛いの。 そんなに痛くっちゃ困るのね。 嫂さんはどうしたんでしょう。 昨日の電話じゃ痛みも何にもないようなお話しだったのにね。 お延は知らないんだ。 じゃ嫂さんが帰ってから後で痛み始めたの。 なに本当はお延のお蔭で痛み始めたんだ。 いったいお前の用というのは何だい。 なにそんなに痛い時に話さなくってもいいのよ。 またにしましょう。 構わないからお話しよ。 どうせあたしの話だから碌な事じゃないのよ。 よくって。 またあの事だろう。 だからあたしの方じゃ先刻から用は今度の次にしようかと云ってるんじゃありませんか。 それを兄さんがわざわざ催促するようにおっしゃるからついお話しする気にもなるんですわ。 だから遠慮なく話したらいいじゃないか。 どうせお前はそのつもりで来たんだろう。 だって兄さんがそんな厭な顔をなさるんですもの。 また京都から何か云って来たのかい。 ええまあそんなところよ。 あの事。 何と云って来たい。 兄さんの方へもお父さんから何か云って来たでしょう。 うん云って来た。 そりゃ話さないでもたいていお前に解ってるだろう。 お前は器量望みで貰われたのを生涯自慢にする気なんだろう。 それで兄さんはどうなすったの。 どうもしようがないじゃないか。 お父さんの方へは何にも云っておあげにならなかったの。 云ってやったさ。 そうしたら。 そうしたらまだ何とも返事がないんだ。 もっとも家へはもう来ているかも知れないが何しろお延が来て見なければそこも分らない。 しかしお父さんがどんなお返事をお寄こしになるか兄さんには見当がついて。 兄さんはお父さんが快よく送金をして下さると思っていらっしゃるの。 知らないよ。 だからお母さんはお前の所へ何と云って来たかって先刻から訊いてるじゃないか。 だから云わない事じゃないのよ。 あたし始からこうなるだろうと思ってたんですもの。 いったい兄さんが約束通りになさらないから悪いのよ。 だってそりゃ無理だわ。 いくら親子だって約束は約束ですもの。 それにお父さんと兄さんだけの事ならどうでもいいでしょうけれども。 良人でも困るのよ。 あんな手紙をお母さんから寄こされると。 いったい嫂さんはどういうつもりでいらっしゃるんでしょう。 こんだの事について。 お延に何にも関係なんかありゃしないじゃないか。 あいつにゃ何にも話しゃしないんだもの。 そう。 じゃ嫂さんが一番気楽でいいわね。 いったいどうしたらいいんでしょう。 そりゃ良人だって兄さんに頼まれて口は利いたようなもののそこまで責任をもつつもりでもなかったんでしょうからね。 と云って何もあれは無責任だと今さらお断りをする気でもないでしょうけれども。 とにかく万一の場合にはこう致しますからって証文を入れた訳でもないんだからそうお父さんのように法律ずくめに解釈されたってあたしが良人へ対して困るだけだわ。 兄さんの困るのは自業自得だからしようがないけれどもあたしの方の始末はどうつけてくれるのですか。 いったいお父さんこそどういうつもりなんだろう。 突然金を送らないとさえ宣告すれば由雄は工面するに違ないとでも思っているのか知ら。 そこなのよ兄さん。 だからあたしが良人に対して困るって云うのよ。 まさか。 ことによると。 つまりお前は兄さんに対して同情がないと云うんだろう。 そうじゃないわ。 でなければお延に同情がないというんだろう。 そいつはまあどっちにしたって同なじ事だがね。 あら嫂さんの事をあたし何とも云ってやしませんわ。 要するにこの事件について一番悪いものはおれだと結局こうなるんだろう。 そりゃ今さら説明を伺わなくってもよく兄さんには解ってる。 だから好いよ。 兄さんは甘んじてその罰を受けるから。 今月はお父さんからお金を貰わないで生きて行くよ。 兄さんにそんな事ができて。 できなければ死ぬまでの事さ。 いっそ今までの経済事情を残らずお延に打ち明けてしまおうか。 できなければ死ぬまでさ。 津田さん電話ですよ。 どこからです。 おおかたお宅からでしょう。 電話で釣るんだ。 なにどうせ用じゃないんだ。 構わないよ。 放っておけ。 何をいうか分らない。 何を云ったって構わないじゃありませんか小林さんなんか。 あんな人のいう事なんぞ誰も本気にするものはありゃしないわ。 そうでないよなかなか。 近頃そんなに人が悪くなったの。 あの人が。 だって燐寸一本だって大きな家を焼こうと思えば焼く事もできるじゃないか。 その代り火が移らなければそれまででしょう幾箱|燐寸を抱え込んでいたって。 嫂さんはあんな人に火をつけられるような女じゃありませんよ。 それとも。 何だって兄さんはまた今日に限ってそんなつまらない事を心配していらっしゃるの。 何か特別な事情でもあるの。 別に心配もしていないがね。 ただ気になるの。 兄さんはいったい嫂さんをどんな人だと思っていらっしゃるの。 なぜ改まって今頃そんな質問をかけるんだい。 馬鹿らしい。 そんならいいわ伺わないでも。 しかしなぜ訊くんだよ。 その訳を話したらいいじゃないか。 ちょっと必要があったから伺ったんです。 だからその必要をお云いな。 必要は兄さんのためよ。 だって兄さんがあんまり小林さんの事を気になさるからよ。 何だか変じゃありませんか。 そりゃお前にゃ解らない事なんだ。 どうせ解らないから変なんでしょうよ。 じゃいったい小林さんがどんな事をどんな風に嫂さんに持ちかけるって云うの。 持ちかけるとも何とも云っていやしないじゃないか。 持ちかける恐れがあるという意味です。 云い直せば。 まるで想像がつかないじゃありませんか。 たとえばいくらあの人が人が悪くなったにしたところで何も云いようがないでしょう。 ちょっと考えて見ても。 よしんばあの人が何か云うにしたところで嫂さんさえ取り合わなければそれまでじゃありませんか。 そりゃ聴かないでも解ってるよ。 だからあたしが伺うんです。 兄さんはいったい嫂さんをどう思っていらっしゃるかって。 兄さんは嫂さんを信用していらっしゃるんですかいらっしゃらないんですか。 大変な権幕だね。 まるで詰問でも受けているようじゃないか。 ごまかさないでちゃんとしたところをおっしゃい。 云えばどうするというんだい。 私はあなたの妹です。 それがどうしたというのかね。 兄さんは淡泊でないから駄目よ。 何だか話が大変むずかしくなって来たようだがお前少し癇違をしているんじゃないかい。 僕はそんな深い意味で小林の事を云い出したんでも何でもないよ。 ただ彼奴は僕の留守にお延に会って何をいうか分らない困った男だというだけなんだよ。 ただそれだけなの。 うんそれだけだ。 だけど兄さんもし堀のいない留守に誰かあたしの所へ来て何か云うとするでしょう。 それを堀が知って心配すると思っていらっしって。 堀さんの事は僕にゃ分らないよ。 お前は心配しないと断言する気かも知れないがね。 ええ断言します。 結構だよ。 ――それで。 あたしの方もそれだけよ。 お秀病院で飯を食って行かないか。 どうせ家へ帰ったって用はないんだろう。 兄さんあたしここに持っていますよ。 何を。 兄さんの入用のものを。 そうかい。 あげましょうか。 ふん。 お父さんはどうしたって下さりっこありませんよ。 ことによるとくれないかも知れないね。 だってお母さんがあたしの所へちゃんとそう云って来ていらっしゃるんですもの。 今日その手紙を持って来てお目にかけようと思っててつい忘れてしまったんですけれども。 そりゃ知ってるよ。 先刻もうお前から聞いたじゃないか。 だからよ。 あたしが持って来たって云うのよ。 僕を焦らすためにかいまたは僕にくれるためにかい。 どうして兄さんはこの頃そんなに皮肉になったんでしょう。 どうして昔のように人の誠を受け入れて下さる事ができないんでしょう。 兄さんは昔とちっとも違ってやしないよ。 近頃お前の方が違って来たんだよ。 あたしがいつどんな風に変ったとおっしゃるの。 云って下さい。 そんな事は他に訊かなくってもよく考えて御覧自分で解る事だから。 いいえ解りません。 だから云って下さい。 どうぞ云って聞かして下さい。 お秀お前には解らないかも知れないがね兄さんから見るとお前は堀さんの所へ行ってっから以来だいぶ変ったよ。 そりゃ変るはずですわ女が嫁に行って子供が二人もできれば誰だって変るじゃありませんか。 だからそれでいいよ。 けれども兄さんに対してあたしがどんなに変ったとおっしゃるんです。 そこを聞かして下さい。 そりゃ。 兄さんのお腹の中にはあたしが京都へ告口をしたという事が始終あるんでしょう。 そんな事はどうでもいいよ。 いいえそれできっとあたしを眼の敵にしていらっしゃるんです。 誰が。 兄さんこそ違ったのです。 嫂さんをお貰いになる前の兄さんと嫂さんをお貰いになった後の兄さんとはまるで違っています。 誰が見たって別の人です。 嫂さん嫂さん。 おれはお前の考えてるような二本棒じゃないよ。 そりゃそうかも知れません。 嫂さんから電話がかかって来てもあたしの前じゃわざと冷淡を装ってうっちゃっておおきになるくらいですから。 だからこいつに電話をかけるなとあれだけお延に注意しておいたのに。 嫂さんといっしょになる前の兄さんはもっと正直でした。 少なくとももっと淡泊でした。 私は証拠のない事を云うと思われるのが厭だから有体に事実を申します。 だから兄さんも淡泊に私の質問に答えて下さい。 兄さんは嫂さんをお貰いになる前今度のような嘘をお父さんに吐いた覚がありますか。 それでお前はこの事件の責任者はお延だと云うのかい。 いいえ嫂さんの事なんかあたしちっとも云ってやしません。 ただ兄さんが変った証拠にそれだけの事実を主張するんです。 お前がそんなに変ったと主張したければ変ったでいいじゃないか。 よかないわ。 お父さんやお母さんにすまないわ。 そうかい。 そんならそれでもいいよ。 兄さんの変った証拠はまだあるんです。 兄さんは小林さんが兄さんの留守へ来て嫂さんに何か云やしないかって先刻から心配しているじゃありませんか。 煩さいな。 心配じゃないって先刻説明したじゃないか。 でも気になる事はたしかなんでしょう。 どうでも勝手に解釈するがいい。 ええ。 ――どっちでもとにかくそれが兄さんの変った証拠じゃありませんか。 馬鹿を云うな。 いいえ証拠よ。 たしかな証拠よ。 兄さんはそれだけ嫂さんを恐れていらっしゃるんです。 兄さんはついこの間まで小林さんなんかをまるで鼻の先であしらっていらっしったじゃありませんか。 何を云っても取り合わなかったじゃありませんか。 それを今日に限ってなぜそんなに怖がるんです。 たかが小林なんかを怖がるようになったのはその相手が嫂さんだからじゃありませんか。 そんならそれでいいさ。 僕がいくら小林を怖がったってお父さんやお母さんに対する不義理になる訳でもなかろう。 だからあたしの口を出す幕じゃないとおっしゃるの。 まあその見当だろうね。 解りました。 解りましたよ兄さん。 何が。 なぜ嫂さんに対して兄さんがそんなに気をおいていらっしゃるかという意味がです。 云って御覧。 云う必要はないんです。 ただ私にその意味が解ったという事だけを承知していただけばたくさんなんです。 そんならわざわざ断る必要はないよ。 黙って独りで解ったと思っているがいい。 いいえよくないんです。 兄さんは私を妹と見傚していらっしゃらない。 お父さんやお母さんに関係する事でなければ私には兄さんの前で何にもいう権利がないものとしていらっしゃる。 だから私も云いません。 しかし云わなくっても眼はちゃんとついています。 知らないで云わないと思っておいでだと間違いますからちょっとお断り致したのです。 兄さん。 兄さん妹は兄の人格に対して口を出す権利がないものでしょうか。 よし権利がないにしたところでもしそうした疑を妹が少しでももっているなら綺麗にそれを晴らしてくれるのが兄の義務――義務は取り消します私には不釣合な言葉かも知れませんから。 ――少なくとも兄の人情でしょう。 私は今その人情をもっていらっしゃらない兄さんを眼の前に見る事を妹として悲しみます。 何を生意気な事を云うんだ。 黙っていろ何にも解りもしない癖に。 お前に人格という言葉の意味が解るか。 たかが女学校を卒業したぐらいでそんな言葉をおれの前で人並に使うのからして不都合だ。 私は言葉に重きをおいていやしません。 事実を問題にしているのです。 事実とは何だ。 おれの頭の中にある事実がお前のような教養に乏しい女に捕まえられると思うのか。 馬鹿め。 そう私を軽蔑なさるなら御注意までに申します。 しかしよござんすか。 いいも悪いも答える必要はない。 人の病気のところへ来て何だその態度は。 それでも妹だというつもりか。 あなたが兄さんらしくないからです。 黙れ。 黙りません。 云うだけの事は云います。 兄さんは嫂さんに自由にされています。 お父さんやお母さんや私などよりも嫂さんを大事にしています。 妹より妻を大事にするのはどこの国へ行ったって当り前だ。 それだけならいいんです。 しかし兄さんのはそれだけじゃないんです。 嫂さんを大事にしていながらまだほかにも大事にしている人があるんです。 何だ。 それだから兄さんは嫂さんを怖がるのです。 しかもその怖がるのは――。 人格。 大事にする。 当り前。 兄さんは嫂さんよりほかにもまだ大事にしている人があるのだ。 おや。 今日は。 今|来がけに郵便函の中を見たら入っておりましたから持って参りました。 お延|駄目だとさ。 そう何が。 お父さんはいくら頼んでももうお金をくれないんだそうだ。 いいわそんなら。 こっちでどうでもするから。 何と書いてありますか兄さん。 ふん。 あたしの云った通りでしょう。 秀子さんの方へもお父さまから何かお音信があったんですか。 いいえ母から。 そうやっぱりこの事について。 ええ。 京都でもいろいろお物費が多いでしょうからね。 それに元々こちらが悪いんですから。 そういう訳でもないんでしょうけれどもね。 年寄は変なもので兄さんを信じているんですよ。 そのくらいの工面はどうにでもできるぐらいに考えて。 そりゃいざとなればどうにかこうにかなりますよねえあなた。 早くなるとおっしゃい。 ならん事もあるまいがねおれにはどうもお父さんの云う事が変でならないんだ。 垣根を繕ろったの家賃が滞ったのってそんな費用は元来|些細なものじゃないか。 そうも行かないでしょうあなた。 これで自分の家を一軒持って見ると。 我々だって一軒持ってるじゃないか。 兄さんはその底に何か魂胆があるかと思って疑っていらっしゃるんですよ。 そりゃあなた悪いわお父さまを疑ぐるなんて。 お父さまに魂胆のあるはずはないじゃありませんかねえ秀子さん。 いいえ父や母よりもねほかにまだ魂胆があると思ってるんですのよ。 ほかに。 ええほかにあると思ってるに違ないのよ。 あなたそりゃまたどういう訳なの。 お秀がそう云うんだからお秀に訊いて御覧よ。 兄さんはあたし達が陰で京都を突ッついたと思ってるんですよ。 だって――。 それで先刻から大変|御機嫌が悪いのよ。 もっともあたしと兄さんと寄るときっと喧嘩になるんですけれどもね。 ことにこの事件このかた。 困るのね。 しかしそりゃ本当の事なのあなた。 あなただって真逆そんな男らしくない事を考えていらっしゃるんじゃないでしょう。 どうだか知らないけれどもお秀にはそう見えるんだろうよ。 だって秀子さん達がそんな事をなさるとすればいったい何の役に立つとあなた思っていらっしゃるの。 おおかた見せしめのためだろうよ。 おれにはよく解らないけれども。 何の見せしめなの。 いったいどんな悪い事をあなたなすったの。 知らないよ。 なに兄さんが強情なんですよ。 ええ良人は強情よ。 あなた本当に強情よ。 秀子さんのおっしゃる通りよ。 そのくせだけは是非おやめにならないといけませんわ。 いったい何が強情なんだ。 そりゃあたしにもよく解らないけれども。 何でもかでもお父さんから金を取ろうとするからかい。 そうね。 取ろうとも何とも云っていやしないじゃないか。 そうね。 そんな事おっしゃるはずがないわね。 またおっしゃったところで効目がなければ仕方がありませんからね。 じゃどこが強情なんだ。 どこがってお聴きになっても駄目よ。 あたしにもよく解らないんですから。 だけどどこかにあるのよ強情なところが。 馬鹿。 兄さんあなたなぜあたしの持って来たものを素直にお取りにならないんです。 素直にも義剛にも取るにも取らないにもお前の方でてんから出さないんじゃないか。 あなたの方でお取りになるとおっしゃらないから出せないんです。 こっちから云えばお前の方で出さないから取らないんだ。 しかし取るようにして取って下さらなければあたしの方だって厭ですもの。 じゃどうすればいいんだ。 解ってるじゃありませんか。 お延お前お秀に詫まったらどうだ。 なんで。 お前さえ詫まったら持って来たものを出すというつもりなんだろう。 お秀の料簡では。 あたしが詫まるのは何でもないわ。 あなたが詫まれとおっしゃるならいくらでも詫まるわ。 だけど――。 兄さんあなた何をおっしゃるんです。 あたしがいつ嫂さんに詫まって貰いたいと云いました。 そんな言がかりを捏造されてはあたしが嫂さんに対して面目なくなるだけじゃありませんか。 兄さんあたしはこれでもあなた方に対して義務を尽しているつもりです。 ――。 ちょっとお待ち。 義務かい親切かいお前の云おうとする言葉の意味は。 あたしにはどっちだって同なじ事です。 そうかい。 そんなら仕方がない。 それで。 それでじゃありません。 だからです。 あたしがあなた方の陰へ廻ってお父さんやお母さんを突ッついた結果兄さんや嫂さんに不自由をさせるのだと思われるのがあたしにはいかにも辛いんです。 だからその額だけをどうかして上げようと云う好意から今日わざわざここへ持って来たと云うんです。 実は昨日嫂さんから電話がかかった時すぐ来ようと思ったんですけれども朝のうちは宅に用があったし午からはその用で銀行へ行く必要ができたものですからつい来損なっちまったんです。 元々わずかな金額ですからそれについてとやかく云う気はちっともありませんけれどもあたしの方の心遣いはまるで兄さんに通じていないんだからそれがただ残念だと云いたいんです。 あなた何とかおっしゃいよ。 何て。 何てってお礼をよ。 秀子さんの親切に対してのお礼よ。 たかがこれしきの金を貰うのにそんなに恩に着せられちゃ厭だよ。 恩に着せやしないって今云ったじゃありませんか。 だから強情を張らずにお礼をおっしゃいと云うのに。 もしお金を拝借するのがお厭ならお金はいただかないでいいからただお礼だけをおっしゃいよ。 始めから黙っていればそれまでですけれどもいったん云い出しておきながら持って来た物を渡さずにこのまま帰るのも心持が悪うござんすからどうか取って下さいよ。 兄さん。 置いて行きたければ置いといでよ。 だから取るようにして取って下さいな。 いったいどうすればお前の気に入るんだか僕には解らないがねだからその条件をもっと淡泊に云っちまったらいいじゃないか。 あたし条件なんてそんなむずかしいものを要求してやしません。 ただ兄さんが心持よく受取って下さればそれでいいんです。 つまり兄妹らしくして下さればそれでいいというだけです。 それからお父さんにすまなかったと本気に一口おっしゃりさえすれば何でもないんです。 お父さんにはとっくの昔にもうすまなかったと云っちまったよ。 お前も知ってるじゃないか。 しかも一口や二口じゃないやね。 けれどもあたしの云うのはそんな形式的のお詫じゃありません。 心からの後悔です。 僕の詫|様が空々しいとでも云うのかねなんぼ僕が金を欲しがるったってこれでも一人前の男だよ。 そうぺこぺこ頭を下げられるものか考えても御覧な。 だけれども兄さんは実際お金が欲しいんでしょう。 欲しくないとは云わないさ。 それでお父さんに謝罪ったんでしょう。 でなければ何も詫る必要はないじゃないか。 だからお父さんが下さらなくなったんですよ。 兄さんはそこに気がつかないんですか。 兄さんがそういう気でいらっしゃる以上お父さんばかりじゃないわあたしだって上げられないわ。 じゃお止しよ。 何も無理に貰おうとは云わないんだから。 ところが無理にでも貰おうとおっしゃるじゃありませんか。 いつ。 先刻からそう云っていらっしゃるんです。 言がかりを云うな馬鹿。 言がかりじゃありません。 先刻から腹の中でそう云い続けに云ってるじゃありませんか。 兄さんこそ淡泊でないからそれが口へ出して云えないんです。 お秀お前の云う通りだ。 兄さんは今改めて自白する。 兄さんにはお前の持って来た金が絶対に入用だ。 兄さんはまた改めて公言する。 お前は妹らしい情愛の深い女だ。 兄さんはお前の親切を感謝する。 だからどうぞその金をこの枕元へ置いて行ってくれ。 嫂さんどうしましょう。 せっかく兄さんがああおっしゃるものですから置いて行って上げましょうか。 そうねそりゃ秀子さんの御随意でよござんすわ。 そう。 でも兄さんは絶対に必要だとおっしゃるのね。 ええ良人には絶対に必要かも知れませんわ。 だけどあたしには必要でも何でもないのよ。 じゃ兄さんと嫂さんとはまるで別ッこなのね。 それでいてちっとも別ッこじゃないのよ。 これでも夫婦だから何から何までいっしょくたよ。 だって――。 良人に絶対に必要なものはあたしがちゃんと拵えるだけなのよ。 こりゃいったいどうしたんだい。 どうしもしないわ。 ただ要るから拵えただけよ。 訳なんか病気中に訊かなくってもいいのよ。 どうせ後で解る事なんだから。 よし解らなくったって構わないじゃないの。 たかがこのくらいのお金なんですもの拵えようと思えばどこからでも出て来るわ。 兄さん。 兄さんあたし持って来たものをここへ置いて行きます。 こうしておけばそれでいいでしょう。 秀子さんそれじゃすみませんからどうぞそんな心配はしないでおいて下さい。 こっちでできないうちはともかくもですけれどももう間に合ったんですから。 だけどそれじゃあたしの方がまた心持が悪いのよ。 こうしてせっかく包んでまで持って来たんですからどうかそんな事を云わずに受取っておいて下さいよ。 兄さん取っといて下さい。 あなたいただいてもよくって。 お秀妙だね。 先刻はあんなに強硬だったのに今度はまた馬鹿に安っぽく貰わせようとするんだね。 いったいどっちが本当なんだい。 どっちも本当です。 実は先刻から云おうか止そうかと思って考えていたんですけれどもそんな風に兄さんから冷笑かされて見ると私だって黙って帰るのが厭になります。 だから云うだけの事はここで云ってしまいます。 けれども一応お断りしておきますがこれから申し上げる事は今までのとは少し意味が違いますよ。 それを今まで通りの態度で聴いていられると私だって少し迷惑するかも知れませんというのはただ私が誤解されるのが厭だという意味でなくって私の心持があなた方に通じなくなるという訳合からです。 少しや真面目に聴いて下さるでしょうね。 私の方が真面目になったら。 もっとも今までが不真面目という訳でもありませんけれどもね。 何しろ嫂さんさえここにいて下さればまあ大丈夫でしょう。 いつもの兄妹喧嘩になったらその時に止めていただけばそれまでですから。 私はいつかっから兄さんに云おう云おうと思っていたんです。 嫂さんのいらっしゃる前でですよ。 だけどその機会がなかったから今日まで云わずにいました。 それを今改めてあなた方のお揃いになったところで申してしまうのです。 それはほかでもありません。 よござんすかあなた方お二人は御自分達の事よりほかに何にも考えていらっしゃらない方だという事だけなんです。 自分達さえよければいくら他が困ろうが迷惑しようがまるでよそを向いて取り合わずにいられる方だというだけなんです。 兄さんは自分を可愛がるだけなんです。 嫂さんはまた兄さんに可愛がられるだけなんです。 あなた方の眼にはほかに何にもないんです。 妹などは無論の事お父さんもお母さんももうないんです。 私はただ私の眼に映った通りの事実を云うだけです。 それをどうして貰いたいというのではありません。 もうその時機は過ぎました。 有体にいうとその時機は今日過ぎたのです。 実はたった今過ぎました。 あなた方の気のつかないうちに過ぎました。 私は何事も因縁ずくと諦らめるよりほかに仕方がありません。 しかしその事実から割り出される結果だけは是非共あなた方に聴いていただきたいのです。 結果は簡単です。 結果は一口で云えるほど簡単です。 しかし多分あなた方には解らないでしょう。 あなた方はけっして他の親切を受ける事のできない人だという意味に多分御自分じゃ気がついていらっしゃらないでしょうから。 こう云ってもあなた方にはまだ通じないかも知れないからもう一遍繰り返します。 自分だけの事しか考えられないあなた方は人間として他の親切に応ずる資格を失なっていらっしゃるというのが私の意味なのです。 つまり他の好意に感謝する事のできない人間に切り下げられているという事なのです。 あなた方はそれでたくさんだと思っていらっしゃるかも知れません。 どこにも不足はないと考えておいでなのかも分りません。 しかし私から見るとそれはあなた方自身にとってとんでもない不幸になるのです。 人間らしく嬉しがる能力を天から奪われたと同様に見えるのです。 兄さんあなたは私の出したこのお金は欲しいとおっしゃるのでしょう。 しかし私のこのお金を出す親切は不用だとおっしゃるのでしょう。 私から見ればそれがまるで逆です。 人間としてまるで逆なのです。 だから大変な不幸なのです。 そうして兄さんはその不幸に気がついていらっしゃらないのです。 嫂さんはまた私の持って来たこのお金を兄さんが貰わなければいいと思っていらっしゃるんです。 さっきから貰わせまい貰わせまいとしていらっしゃるんです。 つまりこのお金を断ることによって併せて私の親切をも排斥しようとなさるのです。 そうしてそれが嫂さんには大変なお得意になるのです。 嫂さんも逆です。 嫂さんは妹の実意を素直に受けるために感じられる好い心持が今のお得意よりも何層倍人間として愉快だかまるで御存じない方なのです。 嫂さん何かおっしゃる事があるなら後でゆっくり伺いますから御迷惑でも我慢して私に云うだけ云わせてしまって下さい。 なにもう直です。 そんなに長くかかりゃしません。 兄さん。 私はなぜもっと早くこの包んだ物を兄さんの前に出さなかったのでしょう。 そうして今になってまた何できまりが悪くもなくそれをあなた方の前に出されたのでしょう。 考えて下さい。 嫂さんも考えて下さい。 兄さん私はこれであなたを兄さんらしくしたかったのです。 たかがそれほどの金でかと兄さんはせせら笑うでしょう。 しかし私から云えば金額は問題じゃありません。 少しでも兄さんを兄さんらしくできる機会があれば私はいつでもそれを利用する気なのです。 私は今日ここでできるだけの努力をしました。 そうしてみごとに失敗しました。 ことに嫂さんがおいでになってから以後私の失敗は急に目立って来ました。 私が妹として兄さんに対する執着を永久に放り出さなければならなくなったのはその時です。 ――嫂さん後生ですからもう少し我慢して聴いていて下さい。 あなた方の態度はよく私に解りました。 あなた方から一時間二時間の説明を伺うより今ここで拝見しただけで私が勝手に判断する方がかえってよく解るように思われますから私はもう何にも伺いません。 しかし私には自分を説明する必要がまだあります。 そこは是非聴いていただかなければなりません。 兄さん。 これを見て下さい。 ちゃんと紙に包んであります。 お秀が宅から用意して持って来たという証拠にはなるでしょう。 そこにお秀の意味はあるのです。 これが親切というものです。 あなた方にはどうしてもその意味がお解りにならないから仕方なしに私が自分で説明します。 そうして兄さんが兄さんらしくして下さらなくっても私は宅から持って来た親切をここへ置いて行くよりほかに途はないのだという事もいっしょに説明します。 兄さんこれは妹の親切ですか義務ですか。 兄さんは先刻そういう問を私におかけになりました。 私はどっちも同じだと云いました。 兄さんが妹の親切を受けて下さらないのに妹はまだその親切を尽くす気でいたらその親切は義務とどこが違うんでしょう。 私の親切を兄さんの方で義務に変化させてしまうだけじゃありませんか。 お秀もう解ったよ。 もう解ったよ。 それでいいよ。 もうたくさんだよ。 これは良人が立て替えて上げるお金ではありませんよ兄さん。 良人が京都へ保証して成り立った約束を兄さんがお破りになったために良人ではお父さんの方へ義理ができて仕方なしに立て替えた事になるとしたらなんぼ兄さんだって心持よく受け取る気にはなれないでしょう。 私もそんな事で良人を煩わせるのは厭です。 だからお断りをしておきますがこれは良人とは関係のないお金です。 私のです。 だから兄さんも黙ってお取りになれるでしょう。 私の親切はお受けにならないでもお金だけはお取りになれるでしょう。 今の私はなまじいお礼を云っていただくよりただ黙って受取っておいて下さる方がかえって心持が好くなっているのです。 問題はもう兄さんのためじゃなくなっているんです。 単に私のためです。 兄さん私のためにどうぞそれを受取って下さい。 驚ろいた。 だから彼奴に電話なんかかけるなって云うんだ。 秀子さんはまさか基督教じゃないでしょうね。 なぜ。 なぜでも――。 金を置いて行ったからかい。 そればかりじゃないのよ。 真面目くさった説法をするからかい。 ええまあそうよ。 あたし始めてだわ。 秀子さんのあんなむずかしい事をおっしゃるところを拝見したのは。 彼奴は理窟屋だよ。 つまりああ捏ね返さなければ気がすまない女なんだ。 だってあたし始めてよ。 お前は始めてさ。 おれは何度だか分りゃしない。 いったい何でもないのに高尚がるのが彼奴の癖なんだ。 そうして生じい藤井の叔父の感化を受けてるのが毒になるんだ。 どうして。 どうしてって藤井の叔父の傍にいてあの叔父の議論好きなところを始終見ていたもんだからとうとうあんなに口が達者になっちまったのさ。 もし万一の事があるにしても自分の方は大丈夫だ。 相手。 どんな相手ですか。 お延ありがとう。 お蔭で助かったよ。 昨日岡本へ行ったのはそれを叔父さんから貰うためなのよ。 そりゃ厭なのよ。 この上叔父さんにお金の事なんかで迷惑をかけるのは。 けれども仕方がないわあなた。 いざとなればそのくらいの勇気を出さなくっちゃ妻としてのあたしの役目がすみませんもの。 叔父さんに訳を話したのかい。 ええそりゃずいぶん辛かったの。 その上お金なんかにはちっとも困らない顔を今日までして来たんですもの。 だからなおきまりが悪いわ。 よくできたね。 云えばできるわあなた。 無いんじゃないんですもの。 ただ云い悪いだけよ。 しかし世の中にはまたお父さんだのお秀だのっていうむずかしやも揃っているからな。 なにそう云う意味ばかりで貰って来た訳でもないのよ。 叔父さんにはあたしに指輪を買ってくれる約束があるのよ。 お嫁に行くとき買ってやらない代りに今に買ってやるって此間からそう云ってたのよ。 だからそのつもりでくれたんでしょうおおかた。 心配しないでもいいわ。 へ行くなら着て行かしゃんせ。 シッシッシ。 いかがです。 もう少しの我慢です。 まだ創口の方はそっとしておかないと危険ですから。 やッぱり予定通りの日数は動かずにいるよりほかに仕方がないでしょうね。 なに経過次第じゃそれほど大事を取るにも及ばないんですがね。 別に大した用事がお有になる訳でもないんでしょう。 ええ一週間ぐらいはここで暮らしてもいいんです。 しかし臨時にちょっと事件が起ったので。 はあ。 ――しかしもう直です。 もう少しの辛防です。 娘の父が青年に向ってあなたは私の娘を愛しておいでなのですかと訊いたら青年は愛するの愛さないのっていう段じゃありませんお嬢さんのためなら死のうとまで思っているんです。 あの懐かしい眼で優しい眼遣いをただの一度でもしていただく事ができるなら僕はもうそれだけで死ぬのです。 すぐあの二百尺もあろうという崖の上から岩の上へ落ちてめちゃくちゃな血だらけな塊りになって御覧に入れます。 と答えた。 娘の父は首を掉って実を云うと私も少し嘘を吐く性分だが私の家のような少人数な家族に嘘付が二人できるのは少し考えものですからね。 と答えた。 愛と虚偽。 どうかね。 これだ。 ありがとうお蔭でこの冬も生きて行かれるよ。 奥さんが来たろう。 来たさ。 来るのは当り前じゃないか。 何か云ってたろう。 うん。 いいや。 うん。 いいえ。 奥さんが怒って来たな。 きっとそんな事だろうと僕も思ってたよ。 君があんまり苛めるからさ。 いや苛めやしないよ。 ただ少し調戯い過ぎたんだ可哀想に。 泣きゃしなかったかね。 泣かせるような事でも云ったのかい。 なにどうせ僕の云う事だから出鱈目さ。 つまり奥さんは岡本さん見たいな上流の家庭で育ったので天下に僕のような愚劣な人間が存在している事をまだ知らないんだ。 それでちょっとした事まで苦にするんだろうよ。 あんな馬鹿に取り合うなと君が平生から教えておきさえすればそれでいいんだ。 そう教えている事はいるよ。 まだ少し訓練が足りないんじゃないか。 しかし君はいったいどんな事を云って彼奴に調戯ったのかい。 そりゃもうお延さんから聴いたろう。 いいや聴かない。 なに何にも云やしないよ。 嘘だと思うならもう一遍お延さんに訊いて見たまえ。 もっとも僕は帰りがけに悪いと思ったから詫まって来たがね。 実を云うと何で詫まったか僕自身にも解らないくらいのものさ。 こんなものを読むのかね。 ふん。 お延さんが持って来たんだな。 道理で妙な本だと思った。 ――時に君岡本さんは金持だろうね。 そんな事は知らないよ。 知らないはずはあるまい。 だってお延さんの里じゃないか。 僕は岡本の財産を調べた上で結婚なんかしたんじゃないよ。 そうか。 そうか。 岡本の財産を調べないで君が結婚するものか。 岡本はお延の叔父だぜ君知らないのか。 里でも何でもありゃしないよ。 そうか。 そんなに岡本の財産が知りたければ調べてやろうか。 えへへ。 貧乏すると他の財産まで苦になってしようがない。 しかしいくらぐらいあるんだろう本当のところ。 少し借りてやろうか。 借りるのは厭だ。 貰うなら貰ってもいいがね。 ――いや貰うのも御免だどうせくれる気遣はないんだから。 仕方がなければまあ取るんだな。 一つ朝鮮へ行く前に面白い秘密でも提供して岡本さんから少し取って行くかな。 時にいつ立つんだね。 まだしっかり判らない。 しかし立つ事は立つのかい。 立つ事は立つ。 君が催促してもしなくっても立つ日が来ればちゃんと立つ。 僕は催促をするんじゃない。 時間があったら君のために送別会を開いてやろうというのだ。 君吉川と岡本とは親類かね。 親類じゃないただの友達だよ。 いつかも君が訊いた時にそう云って話したじゃないか。 そうかあんまり僕に関係の遠い人達の事だもんだからつい忘れちまった。 しかし彼らは友達にしてもただの友達じゃあるまい。 何を云ってるんだ。 いやよほどの親友なんだろうという意味だ。 そんなに怒らなくってもよかろう。 君は仕合せな男だな。 お延さんさえ大事にしていれば間違はないんだから。 だから大事にしているよ。 君の注意がなくったってそのくらいの事は心得ているんだ。 そうか。 そうか。 そうか。 しかし君は僕などと違って聡明だからいい。 他はみんな君がお延さんに降参し切ってるように思ってるぜ。 他とは誰の事だい。 先生でも奥さんでもさ。 降参し切っているんだからそう見えたって仕方がないさ。 そうか。 ――しかし僕のような正直者にはとても君の真似はできない。 君はやッぱりえらい男だ。 君が正直で僕が偽物なのか。 その偽物がまた偉くって正直者は馬鹿なのか。 君はいつまたそんな哲学を発明したのかい。 哲学はよほど前から発明しているんだがね。 今度改めてそれを発表しようと云うんだ朝鮮へ行くについて。 君旅費はもうできたのか。 旅費はどうでもできるつもりだがね。 社の方で出してくれる事にきまったのかい。 いいや。 もう先生から借りる事にしてしまった。 そうか。 そりゃ好い具合だ。 ちっとも好い具合じゃない。 僕はこれでも先生の世話になるのが気の毒でたまらないんだ。 いくら僕が恥知らずでもこの上金の事で先生に迷惑をかけてはすまないからね。 君どこかに強奪る所はないかね。 まあないね。 ないかね。 どこかにありそうなもんだがな。 ないよ。 近頃は不景気だから。 君はどうだい。 世間はとにかく君だけはいつも景気が好さそうじゃないか。 馬鹿云うな。 畜生ッ先廻りをしたな。 兄妹喧嘩をしたんだって云うじゃないか。 先生も奥さんもお秀さんにしゃべりつけられて弱ってたぜ。 君はまた傍でそれを聴いていたのか。 なに聴こうと思って聴いた訳でもないがね。 まあ天然自然耳へ入ったようなものだ。 何しろしゃべる人がお秀さんでしゃべらせる人が先生だからな。 おおかためちゃくちゃに僕の悪口でも云ったんだろう。 だが君にも似合わないねお秀さんと喧嘩をするなんて。 僕だからしたのさ。 彼奴だって堀の前ならもっと遠慮すらあね。 なるほどそうかな。 世間じゃよく夫婦喧嘩っていうが夫婦喧嘩より兄妹喧嘩の方が普通なものかな。 僕はまだ女房を持った経験がないからそっちのほうの消息はまるで解らないがこれでも妹はあるから兄妹の味ならよく心得ているつもりだ。 君何だぜ。 僕のような兄でも妹と喧嘩なんかした覚はまだないぜ。 そりゃ妹次第さ。 けれどもそこはまた兄次第だろう。 いくら兄だって少しは腹の立つ場合もあるよ。 だがいくら君だって今お秀さんを怒らせるのが得策だとは思ってやしまい。 そりゃ当り前だよ。 好んで誰が喧嘩なんかするもんか。 あんな奴と。 蓋しやむをえなかった訳だろう。 しかしそれは僕の云う事だ。 僕は誰と喧嘩したって構わない男だ。 誰と喧嘩したって損をしっこない境遇に沈淪している人間だ。 喧嘩の結果がもしどこかにあるとすればそれは僕の損にゃならない。 何となれば僕はいまだかつて損になるべき何物をも最初からもっていないんだからね。 要するに喧嘩から起り得るすべての変化はみんな僕の得になるだけなんだから僕はむしろ喧嘩を希望してもいいくらいなものだ。 けれども君は違うよ。 君の喧嘩はけっして得にゃならない。 そうして君ほどまた損得利害をよく心得ている男は世間にたんとないんだ。 ただ心得てるばかりじゃない君はそうした心得の下に朝から晩まで寝たり起きたりしていられる男なんだ。 少くともそうしなければならないと始終考えている男なんだ。 好いかね。 その君にして――。 よし解った。 解ったよ。 つまり他と衝突するなと注意してくれるんだろう。 ことに君と衝突しちゃ僕の損になるだけだからなるべく事を穏便にしろという忠告なんだろう君の主意は。 何僕と。 僕はちっとも君と喧嘩をする気はないよ。 もう解ったというのに。 解ったらそれでいいがね。 誤解のないように注意しておくが僕は先刻からお秀さんの事を問題にしているんだぜ君。 それも解ってるよ。 解ってるってそりゃ京都の事だろう。 あっちが不首尾になるという意味だろう。 もちろんさ。 ところが君それだけじゃないぜ。 まだほかにも響いて来るんだぜ気をつけないと。 お秀さんはね君。 お秀さんはね君先生の所へ来る前にもう一軒ほかへ廻って来たんだぜ。 その一軒というのはどこの事だか君に想像がつくか。 そんな所は東京にないよ。 いやあるんだ。 吉川。 吉川さんへまたどうして行ったんだろう。 何にも関係がないじゃないか。 ただ訪問のために行っただけだろう。 単に敬意を払ったんだろう。 ところがそうでないらしいんだ。 お秀さんの話を聴いていると。 しかし君という男は非常に用意周到なようでどこか抜けてるね。 あんまり抜けまい抜けまいとするから自然手が廻りかねる訳かね。 今度の事だってそうじゃないか第一お秀さんを怒らせる法はないよ君の立場として。 それから怒らせた以上吉川の方へ突ッ走らせるのは愚だよ。 その上吉川の方へ向いて行くはずがないと思い込んで初手から高を括っているなんぞは君の平生にも似合わないじゃないか。 いったい君のファーザーと吉川とは友達だろう。 そうして君の事はファーザーから吉川に万事|宜しく願ってあるんだろう。 そこへお秀さんが馳け込むのは当り前じゃないか。 年寄に心配をかけてはいけない。 君が東京で何をしているかちゃんとこっちで解ってるんだからもし不都合な事があれば京都へ知らせてやるだけだ。 用心しろ。 ずいぶん突飛な奴だな。 いったい何を云やがったろう吉川さんで。 ――彼奴の云う事を真向に受けているといいのは自分だけでほかのものはみんな悪くなっちまうんだから困るよ。 女はあさはかなもんだからな。 そりゃどうでもいいがお秀が吉川へ行ってどんな事をしゃべったのか叔父に話していたところを君が聴いたのなら教えてくれたまえ。 何かしきりに云ってたがね。 実をいうと僕は面倒だから碌に聴いちゃいなかったよ。 しかしもう少し待ってたまえ。 否でも応でも聴かされるよ。 なにお秀さんじゃない。 お秀さんは直に来やしない。 その代りに吉川の細君が来るんだ。 嘘じゃないよ。 この耳でたしかに聴いて来たんだもの。 お秀さんは細君の来る時間まで明言したくらいだ。 おおかたもう少ししたら来るだろう。 君何か用があるのか。 ない事もないんだがね。 なにそりゃ今に限った訳でもないんだ。 僕も吉川の細君に会って行こうかな。 何か用があるのかい。 君はよく用々って云うが何も用があるから人に会うとは限るまい。 しかし知らない人だからさ。 知らない人だからちょっと会って見たいんだ。 どんな様子だろうと思ってね。 いったい僕は金持の家庭へ入った事もないしまたそんな人と交際った例もない男だからついこういう機会にちょっとでもいいから会っておきたくなるのさ。 見世物じゃあるまいし。 いや単なる好奇心だ。 それに僕は閑だからね。 君もよほど呑気だね。 吉川の奥さんが今日ここへ何しに来るんだか君だって知ってるじゃないか。 知ってる。 ――邪魔かね。 邪魔だよ。 だから来ないうちに早く帰ってくれ。 そうかじゃ帰ってもいい。 帰ってもいいがその代り用だけは云って行こうせっかく来たものだから。 金だろう。 僕に相当の御用なら承ってもいい。 しかしここには一文も持っていない。 と云ってまた外套のように留守へ取りに行かれちゃ困る。 ちょっと急な用事だからすぐこれを持たせて車夫を宅までやって下さい。 へえ。 電車で行くようにして下さい。 面倒でも帰りにちょっと宅へ寄って今日来てはいけないとお延に注意してくれ。 堀の奥さんがいらっしゃいました。 一番家と釣り合の取れている堀の母が最も彼女を手古摺らせると同時にその反対に出来上っているお秀がまた別の意味で最も彼女に苦痛を与えそうな相手である。 先刻いらしって下すったそうですがあいにくお湯に行っていて。 何か御用でもおありだったの。 いいえ。 愛。 そんな言葉の先でなく裸でいらっしゃい実力で相撲を取りますから。 そう云われると何と云っていいか解らなくなるわねあたしなんか。 津田に愛されているんだか愛されていないんだか自分じゃまるで夢中でいるんですもの。 秀子さんは仕合せねそこへ行くと。 最初から御自分にちゃんとした保証がついていらっしゃるんだから。 あら。 まだその上に愛されてみたいの。 津田があたしのほかにまだ思っている人が別にあるとするならあたしだってとうてい今のままで満足できる訳がないじゃありませんか。 だって。 まだ何か不足があるの。 だって延子さんは仕合せじゃありませんか。 欲しいものは何でも買って貰えるし行きたい所へはどこへでも連れていって貰えるし――。 ええ。 そこだけはまあ仕合せよ。 そこだけが仕合せならそれでたくさんじゃないか。 いったい一人の男が一人以上の女を同時に愛する事ができるものでしょうか。 そりゃちょっと解らないわ。 この人は生きた研究の材料として堀という夫をすでにもっているではないか。 その夫の婦人に対する態度も朝夕傍にいて見ているではないか。 解らないはずじゃありませんか。 こっちが女なんですもの。 じゃ女の方から見たらどうでしょう。 自分の夫が自分以外の女を愛しているという事が想像できるでしょうか。 延子さんにはそれができないの。 あたしは今そんな事を想像しなければならない地位にいるんでしょうか。 そりゃ大丈夫よ。 大丈夫※。 大丈夫よ。 そりゃ秀子さんは大丈夫にきまってるわ。 もともと堀さんへいらっしゃる時の条件が条件ですもの。 じゃ延子さんはどうなの。 やっぱり津田に見込まれたんじゃなかったの。 嘘よ。 そりゃあなたの事よ。 いったい津田は女に関してどんな考えをもっているんでしょう。 それは妹より奥さんの方がよく知ってるはずだわ。 だけど兄妹としての津田はあたしより秀子さんの方によく解ってるでしょう。 ええだけどいくら解ってたって延子さんの参考にゃならないわ。 参考に無論なるのよ。 しかしその事ならあたしだって疾うから知ってるわ。 けれども大丈夫よ。 延子さんなら大丈夫よ。 大丈夫だけれども危険いのよ。 どうしても秀子さんから詳しい話しを聴かしていただかないと。 あらあたし何にも知らないわ。 吉川の奥さんからも伺った事があるのよ。 あら何を。 その事よ。 その事ってどんな事なの。 嘘でしょう。 嘘じゃないのよ。 津田の事よ。 変ね。 津田の事なんか吉川の奥さんがお話しになる訳がないのにね。 どうしたんでしょう。 でも本当よ秀子さん。 そりゃ本当でしょうよ。 誰も嘘だと思うものなんかありゃしないわ。 だけどどんな事なのいったい。 津田の事よ。 だから兄の何よ。 そりゃ云えないわ。 あなたの方から云って下さらなくっちゃ。 ずいぶん無理な御注文ね。 云えったって見当がつかないんですもの。 秀子さんあなたは基督教信者じゃありませんか。 いいえ。 でなければ昨日のような事をおっしゃる訳がないと思いますわ。 そう。 じゃそれでもいいわ。 延子さんはおおかた基督教がお嫌いなんでしょう。 いいえ好きなのよ。 だからお願いするのよ。 だから昨日のような気高い心持になってこの小さいお延を憐れんでいただきたいのよ。 もし昨日のあたしが悪かったらこうしてあなたの前に手を突いて詫まるから。 秀子さんどうぞ隠さずに正直にして下さい。 そうしてみんな打ち明けて下さい。 お延はこの通り正直にしています。 この通り後悔しています。 津田はあたしの夫です。 あなたは津田の妹です。 あなたに津田が大事なように津田はあたしにも大事です。 ただ津田のためです。 津田のためにみんな打ち明けて話して下さい。 津田はあたしを愛しています。 津田が妹としてあなたを愛しているように妻としてあたしを愛しているのです。 だから津田から愛されているあたしは津田のためにすべてを知らなければならないのです。 津田から愛されているあなたもまた津田のために万ずをあたしに打ち明けて下さるでしょう。 それが妹としてのあなたの親切です。 あなたがあたしに対する親切をこの場合お感じにならないでもあたしはいっこう恨みとは思いません。 けれども兄さんとしての津田にはまだ尽して下さる親切をもっていらっしゃるでしょう。 あなたがそれを充分もっていらっしゃるのはあなたの顔つきでよく解ります。 あなたはそんな冷刻な人ではけっしてないのです。 あなたはあなたが昨日御自分でおっしゃった通り親切な方に違いないのです。 あたしはまだ何にも悪い事をした覚はないんです。 兄さんに対しても嫂さんに対してももっているのは好意だけです。 悪意はちっとも有りません。 どうぞ誤解のないようにして下さい。 そりゃ解ってるのよ。 あなたのなすった事もあなたのなすった精神もあたしにはちゃんと解ってるのよ。 だから隠しだてをしないでみんな打ち明けてちょうだいな。 お厭。 延子さんあなた今日ここへおいでになる前病院へ行っていらしったの。 いいえ。 じゃどこか外から廻っていらしったの。 いいえ。 宅からすぐ上ったの。 よう秀子さんどうぞ話してちょうだいよ。 延子さんはずいぶん勝手な方ね。 御自分|独り精一杯愛されなくっちゃ気がすまないと見えるのね。 無論よ。 秀子さんはそうでなくっても構わないの。 良人を御覧なさい。 堀さんは問題外よ。 堀さんはどうでもいいとして正直の云いっ競よ。 なんぼ秀子さんだって気の多い人が好きな訳はないでしょう。 だって自分よりほかの女は有れども無きがごとしってような素直な夫が世の中にいるはずがないじゃありませんか。 あるわよあなた。 なけりゃならないはずじゃありませんかいやしくも夫と名がつく以上。 そうどこにそんな好い人がいるの。 それがあたしの理想なの。 そこまで行かなくっちゃ承知ができないの。 いくら理想だってそりゃ駄目よ。 その理想が実現される時は細君以外の女という女がまるで女の資格を失ってしまわなければならないんですもの。 しかし完全の愛はそこへ行って始めて味わわれるでしょう。 そこまで行き尽さなければ本式の愛情は生涯経ったって感ずる訳に行かないじゃありませんか。 そりゃどうだか知らないけれどもあなた以外の女を女と思わないであなただけを世の中に存在するたった一人の女だと思うなんて事は理性に訴えてできるはずがないでしょう。 理性はどうでも感情の上であたしだけをたった一人の女と思っていてくれればそれでいいんです。 あなただけを女と思えとおっしゃるのね。 そりゃ解るわ。 けれどもほかの女を女と思っちゃいけないとなるとまるで自殺と同じ事よ。 もしほかの女を女と思わずにいられるくらいな夫なら肝心のあなただってやッぱり女とは思わないでしょう。 自分の宅の庭に咲いた花だけが本当の花で世間にあるのは花じゃない枯草だというのと同じ事ですもの。 枯草でいいと思いますわ。 あなたにはいいでしょう。 けれども男には枯草でないんだから仕方がありませんわ。 それよりか好きな女が世の中にいくらでもあるうちであなたが一番好かれている方が嫂さんにとってもかえって満足じゃありませんか。 それが本当に愛されているという意味なんですもの。 あたしはどうしても絶対に愛されてみたいの。 比較なんか始めから嫌いなんだから。 あたしはどうせ馬鹿だから理窟なんか解らないのよ。 ただ実例をお見せになるだけなの。 その方が結構だわね。 どこへ置きましょう。 どうです。 今朝秀子さんがいらしってね。 へえそうですか。 平生あんまり御無沙汰をしているのでたまにはお詫に上らないと悪いとでも思ったのでしょう。 いえそうじゃないの。 しかしあいつに用のある訳もないでしょう。 ところがあったんです。 へええ。 何の用だかあてて御覧なさい。 そうですねお秀の用事というと――さあ何でしょうかしら。 分りませんか。 ちょっとどうも。 ――元来私とお秀とは兄妹でいながらだいぶん質が違いますから。 少し理窟ッぽいのね。 あいつの理窟と来たら兄の私でさえ悩まされるくらいですもの。 誰だってとてもおとなしく辛抱して聴いていられたものじゃございません。 だから私はあいつと喧嘩をするといつでも好い加減にして投げてしまいます。 するとあいつは好い気になって勝ったつもりか何かで自分の都合の好い事ばかりを方々へ行って触れ散らかすのです。 まさかそうでもないでしょうけれどもね。 ――しかしなかなか筋の通った好い頭をもった方じゃありませんか。 あたしあの方は好よ。 そりゃお宅なんぞへ上ってむやみに地金を出すほどの馬鹿でもないでしょうがね。 いえ正直よ秀子さんの方が。 昨日秀子さんが来たでしょう。 ここへ。 ええ。 参りました。 延子さんも来たでしょう。 ええ。 今日は。 今日はまだ参りません。 今にいらっしゃるんでしょう。 どうですかしら。 いらっしゃるかいらっしゃらないか分らないの。 ええよく分りません。 多分来ないだろうとは思うんですが。 大変冷淡じゃありませんか。 私がですか。 いいえ両方がよ。 延子さんと秀子さんは昨日ここで落ち合ったでしょう。 ええ。 それから何かあったのね変な事が。 別に。 空ッ惚けちゃいけません。 あったらあったと判然おっしゃいな男らしく。 秀子さんをさんざん苛めたって云うじゃありませんか。 二人して。 そんな事があるものですか。 お秀の方が怒ってぷんぷん腹を立てて帰って行ったのです。 そう。 しかし喧嘩はしたでしょう。 喧嘩といったって殴り合じゃないけれども。 それだってお秀のいうような大袈裟なものじゃないんです。 かも知れないけれども多少にしろ有ったには有ったんですね。 そりゃちょっとした行違ならございました。 その時あなた方は二人がかりで秀子さんを苛めたでしょう。 苛めやしません。 あいつが耶蘇教のような気※を吐いただけです。 とにかくあなたがたは二人向うは一人だったに違ないでしょう。 そりゃそうかも知れません。 それ御覧なさい。 それが悪いじゃありませんか。 そういうつもりでもなかったんですけれども自然の勢でいつかそうなってしまったんでしょう。 でしょうじゃいけません。 ですと判然おっしゃい。 いったいこういうと失礼なようですがあなたがあんまり延子さんを大事になさり過ぎるからよ。 別段大事にするほどの女房でもありませんからその辺の御心配は御無用です。 いいえそうでないようですよ。 世間じゃみんなそう思ってますよ。 世間ってみんなの事よ。 みんなってお秀の事なんでしょう。 秀子さんは無論そのうちの一人よ。 そのうちの一人でそうしてまた代表者なんでしょう。 かも知れないわ。 とにかくこれからよく気をつけます。 秀子さんばかりだと思うと間違いですよ。 あなたの叔父さんや叔母さんも同なじ考えなんだからそのつもりでいらっしゃい。 はあそうですか。 ほかにもまだあるんです。 はあ。 実を云うと私も皆さんと同なじ意見ですよ。 何でこの人が急にこんな態度になったのだろう。 自分のお延を鄭重に取扱い過ぎるのが悪いといって非難する上にお延自身をもその非難のうちに含めているのではなかろうか。 岡本さんでもそんな評判があるんでしょうか。 岡本は別よ。 岡本の事なんか私の関係するところじゃありません。 じゃ岡本とあなたの方は別っこだったんですか。 世間。 おれに対する賠償の心持だな。 私がお延を大事にし過ぎるのが悪いとおっしゃるほかにお延自身に何か欠点でもあるなら御遠慮なく忠告していただきたいと思います。 実はそれで上ったのよ今日は。 これは私でないと面と向って誰もあなたに云えない事だと思うから云いますがね。 ――お秀さんに智慧をつけられて来たと思っては困りますよ。 また後でお秀さんに迷惑をかけるようだと私がすまない事になるんだからよござんすか。 そりゃお秀さんもその事でわざわざ来たには違ないのよ。 しかし主意は少し違うんです。 お秀さんは重に京都の方を心配しているの。 無論京都はあなたから云えばお父さんだからけっして疎略にはできますまい。 ことに良人でもああしてお父さんにあなたの世話を頼まれていて見ると黙って放ってもおく訳にも行かないでしょう。 けれどもねつまりそっちは枝で根は別にあるんだから私は根から先へ療治した方が遥かに有効だと思うんです。 でないと今度のような行違がまたきっと出て来ますよ。 ただ出て来るだけならよござんすけれどもそのたんびにお秀さんがやって来るようだと私も口を利くのに骨が折れるだけですからね。 要するにどうしたらいいんです。 いったいあなたは延子さんをどう思っていらっしゃるの。 あなたは延子さんを可愛がっていらっしゃるでしょう。 私とあなただけの間の秘密にしておくから正直に云っとしまいなさい。 私の聴きたいのは何でもないんです。 ただあなたの思った通りのところを一口伺えばそれでいいんです。 あなたもずいぶんじれったい方ね。 云える事は男らしくさっさと云っちまったらいいでしょう。 そんなむずかしい事を誰も訊いていやしないんだから。 お返事ができない訳でもありませんけれどもあんまり問題が漠然としているものですから。 じゃ仕方がないから私の方で云いましょうか。 よござんすか。 どうぞそう願います。 あなたは。 本当によござんすか。 ――あたしはこういう無遠慮な性分だからよく自分の思ったままをずばずば云っちまった後で取り返しのつかない事をしたと後悔する場合がよくあるんですが。 なに構いません。 でももしかあなたに怒られるとそれっきりですからね。 後でいくら詫まっても追つかないなんて馬鹿はしたくありませんもの。 しかし私の方で何とも思わなければそれでいいでしょう。 そこさえ確かなら無論いいのよ。 大丈夫です。 偽だろうが本当だろうが奥さんのおっしゃる事ならけっして腹は立てませんから遠慮なさらずに云って下さい。 もし間違ったら御免遊ばせよ。 あなたはみんなが考えている通り腹の中ではそれほど延子さんを大事にしていらっしゃらないでしょう。 秀子さんと違ってあたしは疾うからそう睨んでいるんですがどうですあたしの観測はあたりませんかね。 無論です。 だから先刻申し上げたじゃありませんか。 そんなにお延を大事にしちゃいませんて。 しかしそれは御挨拶におっしゃっただけね。 いいえ私は本当のところを云ったつもりです。 ごまかしっこなしよ。 じゃ後を云ってもよござんすか。 ええどうぞ。 あなたは延子さんをそれほど大事にしていらっしゃらないくせに表ではいかにも大事にしているように他から思われよう思われようとかかっているじゃありませんか。 お延がそんな事でも云ったんですか。 いいえ。 あなたが云ってるだけよ。 あなたの様子なり態度なりがそれだけの事をちゃんとあたしに解るようにして下さるだけよ。 どうですあたったでしょう。 あたしはあなたがなぜそんな体裁を作っているんだかその原因までちゃんと知ってるんですよ。 どうぞ御遠慮なく何でもみんな云って下さい。 私の向後の心得にもなる事ですから。 あなたは良人や岡本の手前があるのでそれであんなに延子さんを大事になさるんでしょう。 もっと露骨なのがお望みならまだ露骨にだって云えますよ。 あなたは表向延子さんを大事にするような風をなさるのね内側はそれほどでなくっても。 そうでしょう。 私の性質なり態度なりが奥さんにそう見えますか。 見えますよ。 どうして。 どうしてそう見えるんですか。 隠さないでもいいじゃありませんか。 別に隠すつもりでもないんですが。 隠しちゃ駄目よ。 あなたが隠すと後が云えなくなるだけだから。 それ御覧なさい。 あなたにはてんから誤解があるのよ。 あなたは私を良人といっしょに見ているんでしょう。 それから良人と岡本をまたいっしょに見ているんでしょう。 それが大間違よ。 岡本と良人をいっしょに見るのはまだしも私を良人や岡本といっしょにするのはおかしいじゃありませんかこの事件について。 学問をした方にも似合わないのねあなたもそんなところへ行くと。 解り切ってるじゃありませんか。 私だけはあなたと特別の関係があるんですもの。 私はあなたの同情者よ。 それは今までついぞ疑って見た例もありません。 私は信じ切っています。 そうしてその点で深くあなたに感謝しているものです。 しかしどういう意味で。 どういう意味で同情者になって下さるつもりなんですかこの場合。 私は迂濶ものだから奥さんの意味がよく呑み込めません。 だからもっと判然り話して下さい。 この場合に同情者として私があなたにして上げる事がただ一つあると思うんです。 しかしあなたは多分――。 私の云う事を聴きますか聴きませんか。 まあ云って見て下さい。 まあじゃいけません。 あなたがもっと判切しなくっちゃ私だって云う気にはなれません。 だけれども――。 だけれどもでも駄目よ。 聴きますと男らしく云わなくっちゃ。 何をそんなにむずかしく考えてるんです。 おおかた私がまた無理でも云い出すんだと思ってるんでしょう。 なんぼ私だってあなたにできっこないような不法は考えやしませんよ。 あなたがやろうとさえ思えば訳なくできる事なんです。 そうして結果はあなたの得になるだけなんです。 そんなに雑作なくできるんですか。 ええまあ笑談みたいなものです。 ごくごく大袈裟に云ったところで面白半分の悪戯よ。 だから思い切ってやるとおっしゃい。 何だか知らないがまあやってみましょう。 話してみて下さい。 あなたはその後|清子さんにお会いになって。 いいえ。 じゃ今どうしていらっしゃるか御存知ないでしょう。 まるで知りません。 まるで知らなくっていいの。 よくないったって仕方がないじゃありませんか。 もうよそへ嫁に行ってしまったんだから。 清子さんの結婚の御披露の時にあなたはおいでになったんでしたかね。 行きません。 行こうたってちょっと行き悪いですからね。 招待状は来たの。 招待状は来ました。 あなたの結婚の御披露の時に清子さんはいらっしゃらなかったようね。 ええ来やしません。 招待状は出したの。 招待状だけは出しました。 じゃそれっきりなのね両方共。 無論それっきりです。 もしそれっきりでなかったら問題ですもの。 そうね。 しかし問題にも寄り切りでしょう。 いったい延子さんは清子さんの事を知ってるの。 あなたが自分で話した事はなくって。 ありゃしません。 じゃ延子さんはまるで知らずにいるのねあの事を。 ええ少くとも私からは何にも聴かされちゃいません。 そう。 じゃ全く無邪気なのね。 それとも少しは癇づいているところがあるの。 そうですね。 たいていの見当はつきそうなものですがね。 そこが分らないといけないんですか。 ええ。 もし必要なら話しても好ござんすが。 今さらあなたがそんな事をしちゃぶち壊しよ。 あなたはしまいまで知らん顔をしていなくっちゃ。 私の判断を云いましょうか。 延子さんはああいう怜俐な方だからもうきっと感づいているに違ないと思うのよ。 何みんな判るはずもないしまたみんな判っちゃこっちが困るんです。 判ったようでまた判らないようなのがちょうど持って来いという一番結構な頃合なんですからね。 そこで私の鑑定から云うと今の延子さんは都合よく私のお誂え通りのところにいらっしゃるに違ないのよ。 そうですか。 でなければああ虚勢を張る訳がありませんもの。 なに構わないのよ。 万一全く気がつかずにいるようならその時はまたその時でこっちにいくらでも手があるんだから。 あなたは清子さんにまだ未練がおありでしょう。 ありません。 ちっとも。 ちっともありません。 それが男の嘘というものです。 これでも未練があるように見えますか。 そりゃ見えないわあなた。 じゃどうしてそう鑑定なさるんです。 だからよ。 見えないからそう鑑定するのよ。 ほかの人には外側も内側も同なじとしか見えないでしょう。 しかし私には外側へ出られないから仕方なしに未練が内へ引込んでいるとしか考えられませんもの。 奥さんは初手から私に未練があるものとしてきめてかかっていらっしゃるからそうおっしゃるんでしょう。 きめてかかるのにどこに無理がありますか。 そう勝手に認定されてしまっちゃたまりません。 私がいつ勝手に認定しました。 私のは認定じゃありませんよ。 事実ですよ。 あなたと私だけに知れている事実を云うのですよ。 事実ですものそれをちゃんと知ってる私に隠せる訳がないじゃありませんかいくらほかの人を騙す事ができたって。 それもあなただけの事実ならまだしも二人に共通な事実なんだから両方で相談の上どこかへ埋めちまわないうちは記憶のある限り消えっこないでしょう。 じゃ相談ずくでここで埋めちゃどうです。 なぜ埋めるんです。 埋める必要がどこかにあるんですか。 それよりなぜそれを活かして使わないんです。 活かして使う。 私はこれでもまだ罪悪には近寄りたくありません。 罪悪とは何です。 そんな手荒な事をしろと私がいつ云いました。 しかし。 あなたはまだ私の云う事をしまいまで聴かないじゃありませんか。 ただ未練未練って雲を掴むような騒ぎをやるんじゃありませんよ。 私には私でまたちゃんと握ってるところがあるんですからね。 これでもあなたの未練をこんなものだといって他に説明する事ができるつもりでいるんですよ。 ちょっと説明して見て下さいませんか。 お望みなら説明してもよござんす。 けれどもそうするとつまりあなたを説明する事になるんですよ。 ええ構いません。 そう他の云う事が通じなくっちゃ困るのね。 現在自分がちゃんとそこに控えていながらその自分が解らないで他に説明して貰うなんてえのは馬鹿気ているじゃありませんか。 しかし解りませんよ。 いいえ解ってるのよ。 じゃ気がつかないんでしょう。 いいえ気もついているのよ。 じゃどうしたんでしょう。 ――つまり私が隠している事にでも帰着するんですか。 まあそうよ。 馬鹿でも仕方がありません。 馬鹿の非難は甘んじて受けますからどうぞ説明して下さい。 ああああ張合がないのねそれじゃ。 せっかく私が丹精して拵えて来て上げたのに肝心のあなたがそれじゃまるで無駄骨を折ったと同然ね。 いっそ何にも話さずに帰ろうか知ら。 じゃ云いましょう。 その代り訊きますよ。 あなたはなぜ清子さんと結婚なさらなかったんです。 じゃ質問を易えましょう。 ――清子さんはなぜあなたと結婚なさらなかったんです。 なぜだかちっとも解らないんです。 ただ不思議なんです。 いくら考えても何にも出て来ないんです。 突然|関さんへ行っちまったのね。 ええ突然。 本当を云うと突然なんてものは疾の昔に通り越していましたね。 あっと云って後を向いたらもう結婚していたんです。 誰があっと云ったの。 あなたがあっと云ったんですか。 清子さんがあっと云ったんですか。 あるいは両方であっと云ったんですか。 さあ。 清子さんの方は平気だったんじゃありませんか。 さあ。 さあじゃ仕方がないわあなた。 あなたにはどう見えたのよその時の清子さんが。 平気には見えなかったの。 どうも平気のようでした。 ずいぶん気楽ねあなたも。 清子さんの方が平気だったからあなたがあっと云わせられたんじゃありませんか。 あるいはそうかも知れません。 そんならその時のあっの始末はどうつける気なの。 別につけようがないんです。 つけようがないけれども実はつけたいんでしょう。 ええ。 だからいろいろ考えたんです。 考えて解ったの。 解らないんです。 考えれば考えるほど解らなくなるだけなんです。 それだから考えるのはもうやめちまったの。 いいえやっぱりやめられないんです。 じゃ今でもまだ考えてるのね。 そうです。 それ御覧なさい。 それがあなたの未練じゃありませんか。 そんならもっと男らしくしちゃどうです。 男らしくしろ。 男らしくない。 男らしくするとは。 ――どうすれば男らしくなれるんですか。 あなたの未練を晴らすだけでさあね。 分り切ってるじゃありませんか。 どうして。 全体どうしたら晴らされると思ってるんですあなたは。 そりゃ私には解りません。 あなたは馬鹿ね。 そのくらいの事が解らないでどうするんです。 会って訊くだけじゃありませんか。 だから私が今日わざわざここへ来たんじゃありませんか。 実は疾うからあなたの料簡をよく伺って見たいと思ってたところへね今朝お秀さんがあの事で来たもんだからそれでちょうど好い機会だと思って出て来たような訳なんですがね。 誤解しちゃいけませんよ。 私は私お秀さんはお秀さんなんだから。 何もお秀さんに頼まれて来たからってきっとあの方の肩ばかり持つとは限らないぐらいはあなたにだって解るでしょう。 先刻も云った通り私はこれでもあなたの同情者ですよ。 ええそりゃよく心得ています。 清子さんが今どこにいらっしゃるかあなた知ってらっしって。 関の所にいるじゃありませんか。 そりゃ不断の話よ。 私のいうのは今の事よ。 今どこにいらっしゃるかっていうのよ。 東京か東京でないか。 存じません。 あてて御覧なさい。 へええ。 あなたもいらっしゃいな。 いらっしゃいよ。 行ったって誰の迷惑になる事でもないじゃありませんか。 行って澄ましていればそれまででしょう。 それはそうです。 あなたはあなたで始めっから独立なんだから構った事はないのよ。 遠慮だの気兼だのってなまじ余計なものを荷にし出すと事が面倒になるだけですわ。 それにあなたの病気にはここを出た後でああいう所へちょっと行って来る方がいいんです。 私に云わせれば病気の方だけでも行く必要は充分あると思うんです。 だから是非いらっしゃい。 行って天然自然来たような顔をして澄ましているんです。 そうして男らしく未練の片をつけて来るんです。 あなたは内心行きたがってるくせにもじもじしていらっしゃるのね。 それが私に云わせると男らしくないあなたの一番悪いところなんですよ。 そうかも知れませんけれども少し考えて見ないと。 その考える癖があなたの人格に祟って来るんです。 へえ。 女は考えやしませんよ。 そんな時に。 じゃ考える私は男らしい訳じゃありませんか。 そんな生意気な口応えをするもんじゃありません。 言葉だけで他をやり込めればどこがどうしたというんです馬鹿らしい。 あなたは学校へ行ったり学問をしたりした方のくせにまるで自分が見えないんだからお気の毒よ。 だから畢竟清子さんに逃げられちまったんです。 えッ。 あなたに分らなければ私が云って聴かせて上げます。 あなたがなぜ行きたがらないか私にはちゃんと分ってるんです。 あなたは臆病なんです。 清子さんの前へ出られないんです。 そうじゃありません。 私は。 お待ちなさい。 ――あなたは勇気はあるという気なんでしょう。 しかし出るのは見識に拘わるというんでしょう。 私から云えばそう見識ばるのが取りも直さずあなたの臆病なところなんですよ好ござんすか。 なぜと云って御覧なさい。 そんな見識はただの見栄じゃありませんか。 よく云ったところで上っ面の体裁じゃありませんか。 世間に対する手前と気兼を引いたら後に何が残るんです。 花嫁さんが誰も何とも云わないのに自分できまりを悪くして三度の御飯を控えるのと同なじ事よ。 つまり色気が多過ぎるからそんな入らざるところに我を立てて見たくなるんでしょう。 そうしてそれがあなたの己惚に生れ変って変なところへ出て来るんです。 あなたはいつまでも品よく黙っていようというんです。 じっと動かずにすまそうとなさるんです。 それでいて内心ではあの事が始終苦になるんです。 そこをもう少し押して御覧なさいな。 おれがこうしているうちには今に清子の方から何か説明して来るだろう来るだろうと思って――。 そんな事を思ってるもんですかなんぼ私だって。 いえ思っているのと同なじだというのです。 実際どこにも変りがなければそう云われたってしようがないじゃありませんか。 いったいあなたはずうずうしい性質じゃありませんか。 そうしてずうずうしいのも世渡りの上じゃ一徳だぐらいに考えているんです。 まさか。 いえそうです。 そこがまだ私に解らないと思ったら大間違です。 好いじゃありませんかずうずうしいで私はずうずうしいのが好きなんだから。 だからここで持前のずうずうしいところを男らしく充分発揮なさいな。 そのために私がせっかく骨を折って拵えて来たんだから。 ずうずうしさの活用ですか。 あの人は一人で行ってるんですか。 無論一人です。 関は。 関さんはこっちよ。 こっちに用があるんですもの。 それで私が行くとしたらどうなるんです先刻おっしゃった事は。 そこです。 そこを今云おうと思っていたのよ。 私に云わせるとこれほど好い療治はないんですがね。 どうでしょうあなたのお考えは。 解ったでしょう。 後は云わなくっても。 あなたは知らん顔をしていればいいんですよ。 後は私の方でやるから。 そうですか。 お任せしてもいいんですが手段や方法が解っているなら伺っておく方が便利かと思います。 そんな事はあなたが知らないでもいいのよ。 まあ見ていらっしゃい私がお延さんをもっと奥さんらしい奥さんにきっと育て上げて見せるから。 心配する事があるもんですか。 細工はりゅうりゅう仕上を御覧うじろって云うじゃありませんか。 あの方は少し己惚れ過ぎてるところがあるのよ。 それから内側と外側がまだ一致しないのね。 上部は大変|鄭寧でお腹の中はしっかりし過ぎるくらいしっかりしているんだから。 それに利巧だから外へは出さないけれどもあれでなかなか慢気が多いのよ。 だからそんなものを皆んな取っちまわなくっちゃ。 吉川の奥さんへ堀さんとおっしゃる方から電話でございます。 はい。 何の用でしょう。 大変大変。 何が。 どうかしたんですか。 秀子さんがわざわざ注意してくれたの。 何をです。 今まで延子さんが秀子さんの所へ来て話していたんですって。 帰りに病院の方へ廻るかも知れないからちょっとお知らせするって云うのよ。 今秀子さんの門を出たばかりのところだって。 ――まあ好かった。 悪口でも云ってるところへ来られようもんなら大恥を掻かなくっちゃならない。 じゃ私はもうお暇にしますからね。 いらっしゃらないうちに早く退却しましょう。 どうぞよろしく。 ことによると三人は自分に感じさせない一種の電気を通わせ合っているかも知れない。 この分じゃただ行ったっていけない。 行ってどうしよう。 今日病院へ来ていけないという意味はどこにあるだろう。 御飯は帰ってからにするよ。 夫の性質ではとても卒直にこの手紙の意味さえ説明してはくれまい。 ようやく飯か。 どうも一人でいると日が長くって困るな。 私はまだ見習です。 御退屈さま。 今日は奥さんはお見えになりませんね。 うん来ないよ。 その代り外のお客さまがいらっしゃいましたね。 うん。 あのお婆さんだろう。 ずいぶん肥ってるねあの奥さんは。 もっと若い綺麗な人がどんどん見舞に来てくれると病気も早く癒るんだがな。 でも毎日女の方ばかりいらっしゃいますね。 よっぽど間がいいと見えて。 昨日いらしった奥さんは大変お綺麗ですね。 あんまり綺麗でもないよ。 あいつは僕の妹だからね。 どこか似ているかね僕と。 今日は当直だから晩には来られないんだそうです。 君の国はどこかね。 栃木県です。 なるほどそう云われて見るとそうかな。 名前は何と云ったっけね。 名前は知りません。 じゃこれから君の事を栃木県栃木県って呼ぶよ。 いいかね。 ええよござんす。 露か。 いいえ。 なるほど露じゃあるまいな。 じゃ土か。 いいえ。 待ちたまえよ露でもなし土でもないとすると。 ――ははあ解った。 つやだろう。 でなければ常か。 お月さんだねすると。 お月さんは好い名だ。 誰が命けた。 あなたの奥さんの名は何とおっしゃるんですか。 あてて御覧。 お延さんでしょう。 お月さんはどうも油断がならないなあ。 ああとうとういらしった。 来ないと思っていらしったんでしょう。 いやそうでもない。 しかし今日はもう遅いからどうかとも思っていた。 でも先刻手紙をお寄こしになったのね。 ああやったよ。 今日来ちゃいけないと書いてあるのね。 うん少し都合の悪い事があったから。 なぜあたしが来ちゃ御都合が悪いの。 なに何でもないんだ。 下らない事なんだ。 でもわざわざ使に持たせてお寄こしになるくらいだから何かあったんでしょう。 下らない事だよ。 何でまたそんな事を気にかけるんだ。 お前も馬鹿だね。 これをもう一遍見てちょうだい。 別段何にも書いちゃないじゃないか。 何にも書いてないからその理由を伺うんです。 話して下すってもいいじゃありませんか。 せっかく来たんだから。 お前はそれを聴きに来たのかい。 ええ。 わざわざ。 ええ。 実は小林が来たんだ。 小林なんかに逢うのはお前も厭だろうと思ってね。 それで気がついたからわざわざ知らしてやったんだよ。 お前が厭でないにしたところでおれが厭なんだあんな男にお前を合わせるのは。 それにあいつがまたお前に聴かせたくないような厭な用事を持ち込んで来たもんだからね。 あたしの聴いて悪い用事。 じゃお二人の間の秘密なの。 そんな訳のものじゃないよ。 また金を強乞りに来たんだ。 ただそれだけさ。 じゃあたしが聴いてなぜ悪いの。 悪いとは云やしない。 聴かせたくないというまでさ。 するとただ親切ずくで寄こして下すった手紙なのねこれは。 まあそうだ。 まあありがたい事。 お前だってあんな奴に会うのは厭なんじゃないか。 いいえちっとも。 そりゃ嘘だ。 どうして嘘なの。 だって小林は何かお前に云ったそうじゃないか。 ええ。 だからさ。 それでお前もあいつに会うのは厭だろうと云うんだ。 じゃあなたはあたしが小林さんからどんな事を聴いたか知っていらっしゃるの。 そりゃ知らないよ。 だけどどうせあいつのことだから碌な事は云やしなかろう。 いったいどんな事を云ったんだ。 ここで小林さんは何とおっしゃって。 何とも云やしないよ。 それこそ嘘です。 あなたは隠していらっしゃるんです。 お前の方が隠しているんじゃないかね。 小林から好い加減な事を云われてそれを真に受けていながら。 そりゃ隠しているかも知れません。 あなたが隠し立てをなさる以上あたしだって仕方がないわ。 嘘よあなたのおっしゃる事はみんな嘘よ。 小林なんて人はここへ来た事も何にもないのにあなたはあたしをごまかそうと思ってわざわざそんな拵え事をおっしゃるのよ。 拵えたって別におれの利益になる訳でもなかろうじゃないか。 いいえほかの人が来たのを隠すために小林なんて人をわざわざ引張り出すにきまってるわ。 ほかの人。 ほかの人とは。 あれはどなたが持っていらしったんです。 吉川の奥さんがいらしったじゃありませんか。 どうして知ってるんだ。 知ってますわ。 そのくらいの事。 ああ来たよ。 つまりお前の予言があたった訳になるんだ。 あたしは奥さんが電車に乗っていらしった事までちゃんと知ってるのよ。 お前どこかで会ったのかい。 いいえ。 じゃどうして知ってるんだ。 奥さんは何しにいらしったんです。 そりゃ今話そうと思ってたところだ。 ――しかし誤解しちゃ困るよ。 小林はたしかに来たんだからね。 最初に小林が来てその後へ奥さんが来たんだ。 だからちょうど入れ違になった訳だ。 そうそんならそれでもいいわ。 小林さんが来たって来なくったってあたしの知った事じゃないんだから。 その代り吉川の奥さんの用事を話して聴かしてちょうだい。 無論ただのお見舞でない事はあたしにも判ってるけれども。 といったところで大した用事で来た訳でもないんだよ。 そんなに期待しているとまた聴いてから失望するかも知れないからちょっと断っとくがね。 構いません失望しても。 ただありのままを伺いさえすればそれで念晴しになるんだから。 本来が見舞で用事はつけたりなんだよいいかね。 いいわどっちでも。 あたしがこれほどあなたの事ばかり考えているのにあなたはちっとも察して下さらない。 だからおれは何にもお前を疑ってやしないよ。 当り前ですわ。 この上あなたに疑ぐられるくらいなら死んだ方がよっぽどましですもの。 死ぬなんて大袈裟な言葉は使わないでもいいやね。 第一何にもないじゃないかどこにも。 もしあるなら云って御覧な。 そうすればおれの方でも弁解もしようし説明もしようけれども初手から根のない苦情じゃ手のつけようがないじゃないか。 根はあなたのお腹の中にあるはずですわ。 困るなそれだけじゃ。 ――お前小林から何かしゃくられたね。 きっとそうに違ない。 小林が何を云ったかそこで話して御覧よ。 遠慮は要らないから。 じゃ本当を云いましょう。 実は小林さんから詳しい話をみんな聴いてしまったんです。 だから隠したってもう駄目よ。 あなたもずいぶんひどい方ね。 ひどい方。 なぜこうならない前に打ち明けて下さらなかったんです。 こうならない前。 まさか温泉へ行く事をいうんじゃあるまいね。 それが不都合だと云うんならやめても構わないが。 誰がそんな無理をいうもんですか。 会社の方の都合がついて病後の身体を回復する事ができればそれほど結構な事はないじゃありませんか。 それが悪いなんてむちゃくちゃを云い募るあたしだと思っていらっしゃるの馬鹿らしい。 ヒステリーじゃあるまいし。 じゃ行ってもいいかい。 よござんすとも。 いくらあたしがわがままだってあなたの療養の邪魔をするようなそんなあたしは不断からあなたがあたしに許して下さる自由に対して感謝の念をもっているんですのにあたしがあなたの転地療養を妨げるなんて。 あたしはそんな小さな事を考えているんじゃないんです。 いくらあたしが女だって馬鹿だってあたしにはまたあたしだけの体面というものがあります。 だから女なら女なり馬鹿なら馬鹿なりにその体面を維持して行きたいと思うんです。 もしそれを毀損されると。 万一もしそんな事があると岡本の叔父に対しても叔母に対しても面目なくて合わす顔がなくなるんです。 それでなくってもあたしはもう秀子さんなんぞから馬鹿にされ切っているんです。 それをあなたは傍で見ていながらすましてすまして知らん顔をしていらっしゃるんです。 お秀がお前を馬鹿にしたって。 いつ。 今日お前が行った時にかい。 それ御覧なさい。 あたしが今日秀子さんの所へ行った事があなたにはもうちゃんと知れているじゃありませんか。 お秀が電話をかけたよ。 車夫が帰って来てそう云ったもの。 おおかたお時が車夫に話したんだろう。 お秀なんぞが何を云ったって構わないじゃないか。 お秀はお秀お前はお前なんだから。 そんなら小林なんぞがあたしに何を云ったって構わないじゃありませんか。 あなたはあなた小林は小林なんだから。 そりゃ構わないよ。 お前さえしっかりしていてくれれば。 ただ疑ぐりだの誤解だのを起してそれをむやみに振り廻されると迷惑するからこっちだって黙っていられなくなるだけさ。 あたしだって同じ事ですわ。 いくらお秀さんが馬鹿にしようといくら藤井の叔母さんが疎外しようとあなたさえしっかりしていて下されば苦になるはずはないんです。 それを肝心のあなたが。 おおかたお前の体面に関わるような不始末でもすると思ってるんだろう。 それよりかもう少しおれに憑りかかって安心していたらいいじゃないか。 あたしは憑りかかりたいんです。 安心したいんです。 どのくらい憑りかかりたがっているかあなたには想像がつかないくらい憑りかかりたいんです。 想像がつかない。 ええまるで想像がつかないんです。 もしつけばあなたも変って来なくっちゃならないんです。 つかないからそんなに澄ましていらっしゃられるんです。 澄ましてやしないよ。 気の毒だとも可哀相だとも思って下さらないんです。 気の毒だとも可哀相だとも。 思って下さらないたって。 ――いくら思おうと思っても。 ――思うだけの因縁があればいくらでも思うさ。 しかしなけりゃ仕方がないじゃないか。 あなた。 あなた。 どうぞあたしを安心させて下さい。 助けると思って安心させて下さい。 あなた以外にあたしは憑りかかり所のない女なんですから。 あなたに外されるとあたしはそれぎり倒れてしまわなければならない心細い女なんですから。 だからどうぞ安心しろと云って下さい。 たった一口でいいから安心しろと云って下さい。 大丈夫だよ。 安心おしよ。 本当。 本当に安心おしよ。 じゃ話してちょうだい。 どうぞ話してちょうだい。 隠さずにみんなここで話してちょうだい。 そうして一思いに安心させてちょうだい。 そんなくだくだしい事を云ってたってお互いに顔を赤くするだけで際限がないからもう止そうよ。 その代りおれが受け合ったらいいだろう。 受け合うって。 受け合うのさ。 お前の体面に対して大丈夫だという証書を入れるのさ。 どうして。 どうしてってほかに証文の入れようもないからただ口で誓うのさ。 つまりお前がおれを信用すると云いさえすればそれでいいんだ。 万一の場合が出て来た時は引き受けて下さいって云えばいいんだ。 そうすればおれの方じゃよろしい受け合ったとこう答えるのさ。 どうだねその辺のところで妥協はできないかね。 夫は変ってるんじゃなかった。 やっぱり昔の人だったんだ。 畢竟女は慰撫しやすいものである。 じゃいつごろその温泉へいらっしゃるの。 ここを出たらすぐ行こうよ。 身体のためにもその方が都合がよさそうだから。 そうね。 なるべく早くいらしった方がいいわ。 行くと事がきまった以上。 あたしもいっしょに行っていいんでしょう。 ね行ってもいいんでしょう。 そうだね。 いけないの。 いけない訳もないがね。 慰撫。 慰撫に限る。 女は慰撫さえすればどうにかなる。 行ってもいいんだよ。 いいどころじゃない実は行って貰いたいんだ。 第一一人じゃ不自由だからね。 世話をして貰うだけでもその方が都合がいいにきまってるからね。 ああ嬉しいじゃ行くわ。 ところがだね。 ところがどうしたの。 ところがさ。 宅はどうする気かね。 宅は時がいるから好いわ。 好いわってそんな子供見たいな呑気な事を云っちゃ困るよ。 なぜ。 どこが呑気なの。 もし時だけで不用心なら誰か頼んで来るわ。 若い男は駄目だよ。 時と二人ぎり置く訳にゃ行かないからね。 まさか。 ――間違なんか起りっこないわわずかの間ですもの。 そうは行かないよ。 けっしてそうは行かないよ。 誰か適当な人はないもんかね。 手頃なお婆さんか何かあるとちょうど持って来いだがな。 まあよく考えて見るさ。 考えてない時にはどうするの。 もしお婆さんがいなければあたしはどうしても行っちゃ悪いの。 悪いとは云やしないよ。 だってお婆さんなんかいる訳がないじゃありませんか。 考えないだってそのくらいな事は解ってますわ。 それより行って悪いなら悪いと判然云ってちょうだいよ。 そりゃいざとなれば留守番なんかどうでも構わないさ。 しかし時一人を置いて行くにしたところでまだ困る事があるんだ。 おれは吉川の奥さんから旅費を貰うんだからね。 他の金を貰って夫婦連れで遊んで歩くように思われてもあんまりよくないじゃないか。 そんなら吉川の奥さんからいただかないでも構わないわ。 あの小切手があるから。 そうすると今月分の払の方が差支えるよ。 それは秀子さんの置いて行ったのがあるのよ。 少し小林に貸してやらなくっちゃならないんだぜ。 あんな人に。 お前はあんな人にと云うがねあれでも今度遠い朝鮮へ行くんだからね。 可哀想だよ。 それにもう約束してしまったんだからどうする訳にも行かないんだ。 あんな人に何だってそんな親切を尽しておやりになるんだかあたしにはまるで解らないわ。 だから訳をおっしゃいよ。 こういう訳があるからこうしなければ義理が悪いんだという事情さえ明暸になればあの小切手をみんな上げても構わないんだから。 とにかく困ってるんだからね内地にいたたまれずに朝鮮まで落ちて行こうてんだから少しは同情してやってもよかろうじゃないか。 それにお前はあいつの人格をむやみに攻撃するがそこに少し無理があるよ。 なるほどあいつはしようのない奴さ。 しようのない奴には違ないけれどもあいつがこうなった因りをよく考えて見ると何でもないんだ。 ただ不平だからだ。 じゃなぜ不平だというと金が取れないからだ。 ところがあいつは愚図でもなし馬鹿でもなし相当な頭を持ってるんだからね。 不幸にして正則の教育を受けなかったためにああなったと思うとそりゃ気の毒になるよ。 つまりあいつが悪いんじゃない境遇が悪いんだと考えさえすればそれまでさ。 要するに不幸な人なんだ。 それにまだこういう事も考えなければならないよ。 ああ自暴糞になってる人間に逆らうと何をするか解らないんだ。 誰とでも喧嘩がしたい誰と喧嘩をしても自分の得になるだけだって現にここへ来て公言して威張ってるんだからね実際始末に了えないよ。 だから今もしおれがあいつの要求を跳ねつけるとするとあいつは怒るよ。 ただ怒るだけならいいがきっと何かするよ。 復讐をやるにきまってるよ。 ところがこっちには世間体があり向うにゃそんなものがまるでないんだからいざとなると敵いっこないんだ。 解ったかね。 それもあいつが主義としてただ上流社会を攻撃したりまたは一般の金持を悪口するだけならいいがね。 あいつのはそうじゃないんだもっと実際的なんだ。 まず最初に自分の手の届く所からだんだんに食い込んで行こうというんだ。 だから一番災難なのはこのおれだよ。 どう考えてもここでおれ相当の親切を見せてあいつの感情を美くしてそうして一日も早く朝鮮へ立って貰うのが上策なんだ。 でないといつどんな目に逢うか解ったもんじゃない。 いくら小林が乱暴だってあなたの方にも何かなくっちゃそんなに怖がる因縁がないじゃありませんか。 至極好い具合です。 出血も口元だけです。 内部の方は何ともありません。 出血はどうです。 まだ止まりませんか。 いやもうほとんど止まりました。 もう癒りました。 これが癒り損なったらどうなるんでしょう。 また切るんです。 そうして前よりも軽く穴が残るんです。 心細いですな。 なに十中八九は癒るにきまってます。 じゃ本当の意味で全癒というとまだなかなか時間がかかるんですね。 早くて三週間遅くて四週間です。 ここを出るのは。 出るのは明後日ぐらいで差支えありません。 括約筋を切り残したとおっしゃるけれどもそれでどうして下からガーゼが詰められるんですか。 括約筋はとば口にゃありません。 五分ほど引っ込んでます。 それを下から斜に三分ほど削り上げた所があるのです。 やっと帰れる事になった訳かな。 まあありがたい。 あんまりありがたくもないでしょう。 いやありがたいよ。 宅の方が病院よりはまだましだとおっしゃるんでしょう。 まあその辺かも知れないがね。 今度はお前の拵えてくれた※袍で助かったよ。 綿が新らしいせいか大変着心地が好いね。 どうなすったの。 なんだか急にお世辞が旨くおなりね。 だけど違ってるのよあなたの鑑定は。 はあそうかい。 お気に召したらどうぞ温泉へも持っていらしって下さい。 そうして時々お前の親切でも思い出すかな。 しかし宿屋で貸してくれる※袍の方がずっとよかったり何かするといい恥っ掻きねあたしの方は。 そんな事はないよ。 いえあるのよ。 品質が悪いとどうしても損ねそういう時には。 親切なんかすぐどこかへ飛んでっちまうんだから。 さよなら。 何だか惜しいなあいつにこれだけ取られるのは。 じゃ止した方が好いわ。 おれも止したいよ。 止したいのになぜ止せないの。 あたしが代りに行って断って来て上げましょうか。 うん頼んでもいいね。 どこであの人にお逢いになるの。 場所さえおっしゃればあたし行って上げるわ。 お前は見かけに寄らない勇気のある女だね。 これでも自分じゃあると思ってるのよ。 けれどもまだ出した例がないから実際どのくらいあるか自分にも分らないわ。 いやお前に分らなくってもおれにはちゃんと分ってるからそれでたくさんだよ。 女のくせにそうむやみに勇気なんか出された日にゃ亭主が困るだけだからね。 ちっとも困りゃしないわ。 御亭主のために出す勇気なら男だって困るはずがないじゃないの。 そりゃありがたい場合もたまには出て来るだろうがね。 今日までそれほど感服に値する勇気を拝見した覚もないようだね。 そりゃその通りよ。 だってちっとも外へ出さずにいるんですもの。 これでも内側へ入って御覧なさい。 なんぼあたしだってあなたの考えていらっしゃるほど太平じゃないんだから。 あたしがそんなに気楽そうに見えるのあなたには。 ああ見えるよ。 大いに気楽そうだよ。 つまらないわね女なんて。 あたし何だって女に生れて来たんでしょう。 そりゃおれにかけ合ったって駄目だ。 京都にいるお父さんかお母さんへ尻を持ち込むよりほかに苦情の持ってきどころはないんだから。 いいから今に見ていらっしゃい。 何を。 何でもいいから今に見ていらっしゃい。 見ているがいったい何だよ。 そりゃ実際に問題が起って来なくっちゃ云えないわ。 云えないのはつまりお前にも解らないという意味なんじゃないか。 ええそうよ。 何だ下らない。 それじゃまるで雲を掴むような予言だ。 ところがその予言が今にきっとあたるから見ていらっしゃいというのよ。 本当よ。 何だか知らないけれどもあたし近頃|始終そう思ってるのいつか一度このお肚の中にもってる勇気を外へ出さなくっちゃならない日が来るに違ないって。 いつか一度。 だからお前のは妄想と同なじ事なんだよ。 いいえ生涯のうちでいつか一度じゃないのよ。 近いうちなの。 もう少ししたらのいつか一度なの。 ますます悪くなるだけだ。 近き将来において蛮勇なんか亭主の前で発揮された日にゃ敵わない。 いいえあなたのためによ。 だから先刻から云ってるじゃないの夫のために出す勇気だって。 もう時間だそろそろ出かけなくっちゃ。 行っていらっしゃい。 小林さんによろしくってお延が云ってたと忘れずに伝えて下さい。 失敬。 少し遅くなった。 よっぽど待たしたかね。 君時計をもってるだろう。 実は僕も今来たばかりのところなんだ。 どうだねここの宅は。 ちょっと綺麗で心持が好いじゃないか。 うん。 ここには探偵はいないようだね。 その代り美くしい人がいるだろう。 ありゃみんな芸者なんか君。 馬鹿云うな。 いや何とも限らないからね。 どこにどんなものがいるか分らない世の中だから。 だって芸者はあんな服装をしやしないよ。 そうか。 君がそう云うなら確だろう。 僕のような田舎ものには第一その区別が分らないんだから仕方がないよ。 何でも綺麗な着物さえ着ていればすぐ芸者だと思っちまうんだからね。 相変らず皮肉るな。 いや皮肉るんじゃないよ。 実際僕は貧乏の結果そっちの方の眼がまだ開いていないんだ。 ただ正直にそう思うだけなんだ。 そんならそれでいいさ。 よくなくっても仕方がない訳だがね。 しかし事実どうだろう君。 何が。 事実当世にいわゆるレデーなるものと芸者との間にそれほど区別があるのかね。 笑談じゃない。 本当に笑談じゃない。 どうだ君ここの料理は。 ここの料理もどこの料理もたいてい似たもんだね。 僕のような味覚の発達しないものには。 不味いかい。 不味かない旨いよ。 そりゃ好い案配だ。 亭主が自分でクッキングをやるんだからほかよりゃ少しはましかも知れない。 亭主がいくら腕を見せたって僕のような口に合っちゃ敵わないよ。 泣くだけだあね。 だけど旨けりゃそれでいいんだ。 うん旨けりゃそれでいい訳だ。 しかしその旨さが十銭均一の一品料理と同なじ事だと云って聞かせたら亭主も泣くだろうじゃないか。 いったい今の僕にゃ仏蘭西料理だから旨いの英吉利料理だから不味いのってそんな通をふり廻す余裕なんかまるでないんだ。 ただ口へ入るから旨いだけの事なんだ。 だってそれじゃなぜ旨いんだか理由が解らなくなるじゃないか。 解り切ってるよ。 ただ飢じいから旨いのさ。 その他に理窟も糸瓜もあるもんかね。 君のような敏感者から見たら僕ごとき鈍物はあらゆる点で軽蔑に値しているかも知れない。 僕もそれは承知している軽蔑されても仕方がないと思っている。 けれども僕には僕でまた相当の云草があるんだ。 僕の鈍は必ずしも天賦の能力に原因しているとは限らない。 僕に時を与えよだ僕に金を与えよだ。 しかる後僕がどんな人間になって君らの前に出現するかを見よだ。 そりゃ君のいう通りだ。 だから僕は君に同情しているんだ。 君だってそのくらいの事は心得ていてくれるだろう。 でなければこうやってわざわざ会食までして君の朝鮮行を送る訳がないからね。 ありがとう。 いや嘘じゃないよ。 現にこの間もお延にその訳をよく云って聴かせたくらいだもの。 へええ。 本当かい。 あの細君の前で僕を弁護してくれるなんて君にもまだ昔の親切が少しは残ってると見えるね。 しかしそりゃ。 細君は何と云ったね。 ははあ。 弁護の必要があったんだな。 どうも変だと思ったら。 お延の返事はここにある。 やはり人間は境遇次第だね。 僕は余裕次第だというつもりだ。 そうさ余裕次第とも云えるね。 僕は生れてから今日までぎりぎり決着の生活をして来たんだ。 まるで余裕というものを知らず生きて来た僕が贅沢三昧わがまま三昧に育った人とどう違うと君は思う。 考えるまでもなくここにいるじゃないか。 君と僕さ。 二人を見較べればすぐ解るだろう余裕と切迫で代表された生活の結果は。 それでどうだ。 僕は始終君に軽蔑される君ばかりじゃない君の細君からも誰からも軽蔑される。 ――いや待ちたまえまだいう事があるんだ。 ――それは事実さ君も承知僕も承知の事実さ。 すべて先刻云った通りさ。 だが君にも君の細君にもまだ解らない事がここに一つあるんだ。 もちろん今さらそれを君に話したってお互いの位地が変る訳でもないんだから仕方がないようなもののこれから朝鮮へ行けば僕はもう生きて再び君に会う折がないかも知れないから。 いや僕の事だから行って見ると朝鮮も案外なので厭になってまたすぐ帰って来ないとも限らないが。 まあ未来の生活上君の参考にならないとも限らないから聴きたまえ。 実を云うと君が僕を軽蔑している通りに僕も君を軽蔑しているんだ。 そりゃ解ってるよ。 いや解らない。 軽蔑の結果はあるいは解ってるかも知れないが軽蔑の意味は君にも君の細君にもまだ通じていないよ。 だから君の今夕の好意に対して僕はまた留別のためにそれを説明して行こうてんだ。 どうだい。 よかろう。 よくないたって僕のような一文なしじゃほかに何も置いて行くものがないんだから仕方がなかろう。 だからいいよ。 黙って聴くかい。 聴くなら云うがね。 僕は今君の御馳走になってこうしてぱくぱく食ってる仏蘭西料理もこの間の晩君を御招待申して叱られたあの汚ならしい酒場の酒もどっちも無差別に旨いくらい味覚の発達しない男なんだ。 そこを君は軽蔑するだろう。 しかるに僕はかえってそこを自慢にして軽蔑する君を逆に軽蔑しているんだ。 いいかねその意味が君に解ったかね。 考えて見たまえ君と僕がこの点においてどっちが窮屈でどっちが自由だか。 どっちが幸福でどっちが束縛を余計感じているか。 どっちが太平でどっちが動揺しているか。 僕から見ると君の腰は始終ぐらついてるよ。 度胸が坐ってないよ。 厭なものをどこまでも避けたがって自分の好きなものをむやみに追かけたがってるよ。 そりゃなぜだ。 なぜでもないなまじいに自由が利くためさ。 贅沢をいう余地があるからさ。 僕のように窮地に突き落されてどうでも勝手にしやがれという気分になれないからさ。 僕の意味はもう君に通じている。 しかし君はまだなるほどという心持になれないようだ。 矛盾だね。 僕はその訳を知ってるよ。 第一に相手が身分も地位も財産も一定の職業もない僕だという事が聡明な君を煩わしているんだ。 もしこれが吉川夫人か誰かの口から出るならそれがもっとずっとつまらない説でも君は襟を正して聴くに違ないんだ。 いや僕の僻でも何でもない争うべからざる事実だよ。 けれども君考えなくっちゃいけないぜ。 僕だからこれだけの事が云えるんだという事を。 先生だって奥さんだってそこへ行くと駄目だという事も心得ておきたまえ。 なぜだ。 なぜでもないよ。 いくら先生が貧乏したって僕だけの経験は甞めていないんだからね。 いわんや先生以上に楽をして生きて来た彼輩においてをやだ。 第二にはだね。 君の目下の境遇が今僕の云ったような助言――だか忠告だかまたは単なる知識の供給だかそれは何でも構わないがとにかくそんなものに君の注意を向ける必要を感じさせないのだ。 頭では解るしかし胸では納得しないこれが現在の君なんだ。 つまり君と僕とはそれだけ懸絶しているんだから仕方がないと跳ねつけられればそれまでだがそこに君の注意を払わせたいのが実は僕の目的だいいかね。 人間の境遇もしくは位地の懸絶といったところで大したものじゃないよ。 本式に云えば十人が十人ながらほぼ同じ経験を違った形式で繰り返しているんだ。 それをもっと判然云うとね僕は僕で僕に最も切実な眼でそれを見るし君はまた君で君に最も適当な眼でそれを見るまあそのくらいの違だろうじゃないか。 だからさ順境にあるものがちょっと面喰うか迷児つくか蹴爪ずくかするとそらすぐ眼の球の色が変って来るんだ。 しかしいくら眼の球の色が変ったって急に眼の位置を変える訳には行かないだろう。 つまり君に一朝事があったとすると君は僕のこの助言をきっと思い出さなければならなくなるというだけの事さ。 じゃよく気をつけて忘れないようにしておくよ。 うん忘れずにいたまえ必ず思い当る事が出て来るから。 よろしい。 心得たよ。 ところがいくら心得たって駄目なんだからおかしいや。 その時ひょっと気がつくとするぜいいかね。 そうしたらその時の君がやっという掛声と共に早変りができるかい。 早変りをしてこの僕になれるかい。 そいつは解らないよ。 解らなかない解ってるよ。 なれないにきまってるんだ。 憚りながらここまで来るには相当の修業が要るんだからね。 いかに痴鈍な僕といえども現在の自分に対してはこれで血の代を払ってるんだ。 それじゃ何のためにそんな話を僕にして聴かせるんだ。 たとい僕が覚えていたっていざという場合の役にゃ立たないじゃないか。 役にゃ立つまいよ。 しかし聴かないよりましじゃないか。 聴かない方がましなくらいだ。 そこだ。 そう来るところがこっちの思う壺なんだ。 何をいうんだ。 何も云やしないただ事実を云うのさ。 しかし説明だけはしてやろう。 今に君がそこへ追いつめられてどうする事もできなくなった時に僕の言葉を思い出すんだ。 思い出すけれどもちっとも言葉通りに実行はできないんだ。 これならなまじいあんな事を聴いておかない方がよかったという気になるんだ。 馬鹿そうすりゃどこがどうするんだ。 どうしもしないさ。 つまり君の軽蔑に対する僕の復讐がその時始めて実現されるというだけさ。 それほど君は僕に敵意をもってるのか。 どうしてどうして敵意どころか好意精一杯というところだ。 けれども君の僕を軽蔑しているのはいつまで行っても事実だろう。 僕がその裏を指摘してこっちから見るとその君にもまた軽蔑すべき点があると注意しても君は乙に高くとまって平気でいるじゃないか。 つまり口じゃ駄目だ実戦で来いという事になるんだから僕の方でもやむをえずそこまで行って勝負を決しようというだけの話だあね。 そうか解った。 ――もうそれぎりかい君のいう事は。 いやどうして。 これからいよいよ本論に入ろうというんだ。 やあちょうど好い。 まだいる。 おいもう好い加減に止せよ。 まだ何にも云やしないじゃないか。 だから注意するんだ。 僕の攻撃はいくらでも我慢するが縁もゆかりもない人の悪口などはちっと慎しんでくれこんな所へ来て。 厭に小心だな。 おおかた場末の酒場とここといっしょにされちゃたまらないという意味なんだろう。 まあそうだ。 まあそうだなら僕のごとき無頼漢をこんな所へ招待するのが間違だ。 じゃ勝手にしろ。 口で勝手にしろと云いながら内心ひやひやしているんだろう。 勝ったぞ勝ったぞ。 どうだ降参したろう。 それで勝ったつもりなら勝手に勝ったつもりでいるがいい。 その代り今後ますます貴様を軽蔑してやるからそう思えだろう。 僕は君の軽蔑なんか屁とも思っちゃいないよ。 思わなけりゃ思わないでもいいさ。 五月蠅い男だな。 どうだ解ったかおい。 これが実戦というものだぜ。 いくら余裕があったって金持に交際があったっていくら気位を高く構えたって実戦において敗北すりゃそれまでだろう。 だから僕が先刻から云うんだ実地を踏んで鍛え上げない人間は木偶の坊と同なじ事だって。 そうだそうだ。 世の中で擦れっ枯らしと酔払いに敵うものは一人もないんだ。 じゃいよいよ第三だ。 あの女の立たないうちに話してしまわないと気がすまない。 好いかね君先刻の続きだぜ。 第三にはだね。 すなわち換言すると本論に入って云えばだね。 僕は先刻あすこにいる女達を捕まえてありゃ芸者かって君に聴いて叱られたね。 君は貴婦人に対する礼義を心得ない野人として僕を叱ったんだろう。 よろしい僕は野人だ。 野人だから芸者と貴婦人との区別が解らないんだ。 それで僕は君に訊いたねいったい芸者と貴婦人とはどこがどう違うんだって。 とうとう立っちまった。 もう少し待ってると面白いところへ来るんだがな惜しい事に。 おやおやもう一人も立つのか。 じゃ仕方がない相手はやっぱり君だけだ。 問題はそこだよ君。 僕が仏蘭西料理と英吉利料理を食い分ける事ができずに糞と味噌をいっしょにして自慢すると君は相手にしない。 たかが口腹の問題だという顔をして高を括っている。 しかし内容は一つものだぜ君。 この味覚が発達しないのも芸者と貴婦人を混同するのも。 だから結論も一つ所へ帰着しなければならないというのさ。 僕は味覚の上において君に軽蔑されながら君より幸福だと主張するごとく婦人を識別する上においても君に軽蔑されながら君より自由な境遇に立っていると断言して憚からないのだ。 つまりあれは芸者だこれは貴婦人だなんて鑑識があればあるほどその男の苦痛は増して来るというんだ。 なぜと云って見たまえ。 しまいにはあれも厭これも厭だろう。 あるいはこれでなくっちゃいけないあれでなくっちゃいけないだろう。 窮屈千万じゃないか。 しかしその窮屈千万が好きなら仕方なかろう。 来たなとうとう。 食物だと相手にしないが女の事になるとやっぱり黙っていられなくなると見えるね。 そこだよそこを実際問題についてこれから僕が論じようというんだ。 もうたくさんだ。 いやたくさんじゃないらしいぜ。 例えばだね。 君はあの清子さんという女に熱中していたろう。 ひとしきりは何でもかでもあの女でなけりゃならないような事を云ってたろう。 そればかりじゃない向うでも天下に君一人よりほかに男はないと思ってるように解釈していたろう。 ところがどうだい結果は。 結果は今のごとくさ。 大変|淡泊りしているじゃないか。 だってほかにしようがなかろう。 いやあるんだろう。 あっても乙に気取って澄ましているんだろう。 でなければ僕に隠して今でも何かやってるんだろう。 馬鹿いうな。 そんな出鱈目をむやみに口走るととんだ間違になる。 少し気をつけてくれ。 実は。 実はどうしたんだ。 実はこの間君の細君にすっかり話しちまったんだ。 何を。 嘘だよ。 実は嘘だよ。 そう心配する事はないよ。 心配はしない。 今になってそのくらいの事を云つけられたって。 心配しない。 そうかじゃこっちも本当だ。 実は本当だよ。 みんな話しちまったんだよ。 馬鹿ッ。 貴婦人が驚ろくから少し静かにしてくれ。 君のような無頼漢といっしょに酒を飲むとどうも外聞が悪くていけない。 いったいあの顛末はどうしたのかね。 僕は詳しい事を聴かなかったし君も話さなかったのじゃない僕が忘れちまったのか。 そりゃどうでも構わないがありゃ向うで逃げたのかねあるいは君の方で逃げたのかね。 それこそどうでも構わないじゃないか。 うん僕としては構わないのが当然だ。 また実際構っちゃいない。 が君としてはそうは行くまい。 君は大構いだろう。 そりゃ当り前さ。 だから先刻から僕が云うんだ。 君には余裕があり過ぎる。 その余裕が君をしてあまりに贅沢ならしめ過ぎる。 その結果はどうかというと好きなものを手に入れるや否やすぐその次のものが欲しくなる。 好きなものに逃げられた時は地団太を踏んで口惜しがる。 いつそんな様を僕がした。 したともさ。 それから現にしつつあるともさ。 それが君の余裕に祟られている所以だね。 僕の最も痛快に感ずるところだね。 貧賤が富貴に向って復讐をやってる因果応報の理だね。 そう頭から自分の拵えた型で他を評価する気ならそれまでだ。 僕には弁解の必要がないだけだから。 ちっとも自分で型なんか拵えていやしないよ僕は。 これでも実際の君を指摘しているつもりなんだから。 分らなけりゃ事実で教えてやろうか。 君は自分の好みでお延さんを貰ったろう。 だけれども今の君はけっしてお延さんに満足しているんじゃなかろう。 だって世の中に完全なもののない以上それもやむをえないじゃないか。 という理由をつけてもっと上等なのを探し廻る気だろう。 人聞の悪い事を云うな失敬な。 君は実際自分でいう通りの無頼漢だね。 観察の下卑て皮肉なところから云っても言動の無遠慮で粗野なところから云っても。 そうしてそれが君の軽蔑に値する所以なんだ。 もちろんさ。 そらね。 そう来るから畢竟口先じゃ駄目なんだ。 やッぱり実戦でなくっちゃ君は悟れないよ。 僕が予言するから見ていろ。 今に戦いが始まるから。 その時ようやく僕の敵でないという意味が分るから。 構わない擦れっ枯らしに負けるのは僕の名誉だから。 強情だな。 僕と戦うんじゃないぜ。 じゃ誰と戦うんだ。 君は今すでに腹の中で戦いつつあるんだ。 それがもう少しすると実際の行為になって外へ出るだけなんだ。 余裕が君を煽動して無役の負戦をさせるんだ。 今渡しておくから受取っておけ。 君と話しているとだんだんこの約束を履行するのが厭になるだけだから。 三枚あるね。 サンクス。 僕は借りる気だが君はくれるつもりだろうね。 いかんとなれば僕に返す手段のない事をまた返す意志のない事を君は最初から軽蔑の眼をもって認めているんだから。 無論やったんだ。 しかし貰ってみたらいかな君でも自分の矛盾に気がつかずにはいられまい。 いやいっこう気がつかない。 矛盾とはいったい何だ。 君から金を貰うのが矛盾なのか。 そうでもないがね。 まあ考えて見たまえ。 その金はつい今まで僕の紙入の中にあったんだぜ。 そうして転瞬の間に君の隠袋の裏に移転してしまったんだぜ。 そんな小説的の言葉を使うのが厭ならもっと判然云おうか。 その金の所有権を急に僕から君に移したものは誰だ。 答えて見ろ。 君さ。 君が僕にくれたのさ。 いや僕じゃないよ。 何を云うんだな禅坊主の寝言見たいな事を。 じゃ誰だい。 誰でもない余裕さ。 君の先刻から攻撃している余裕がくれたんだ。 だから黙ってそれを受け取った君は口でむちゃくちゃに余裕をぶちのめしながらその実余裕の前にもう頭を下げているんだ。 矛盾じゃないか。 なるほどなそう云えばそんなものか知ら。 しかし何だかおかしいよ。 実際僕はちっともその余裕なるものの前に頭を下げてる気がしないんだもの。 じゃ返してくれ。 いや返さない。 余裕は僕に返せと云わないんだ。 それみろ。 何がそれみろだ。 余裕は僕に返せと云わないという意味が君にはよく解らないと見えるね。 気の毒なる貴公子よだ。 もう来そうなものだな。 誰が来るんだ。 誰でもない僕よりもまだ余裕の乏しい人が来るんだ。 君から僕にこれを伝えた余裕は再びこれを君に返せとは云わないよ。 僕よりもっと余裕の足りない方へ順送りに送れと命令するんだよ。 余裕は水のようなものさ。 高い方から低い方へは流れるが下から上へは逆行しないよ。 僕は余裕の前に頭を下げるよ僕の矛盾を承認するよ君の詭弁を首肯するよ。 何でも構わないよ。 礼を云うよ感謝するよ。 僕が何で感謝なんぞ予期するものかね君に対して。 君こそ昔を忘れているんだよ。 僕の方が昔のままでしている事を君はみんな逆に解釈するから交際がますます面倒になるんじゃないか。 例えばだね君がこの間僕の留守へ外套を取りに行ってそのついでに何か妻に云ったという事も――。 何も好んで友達の夫婦仲を割くような悪戯をしなくってもいい訳じゃないか。 僕は君に関して何も云った覚はないよ。 しかし先刻。 先刻は笑談さ。 君が冷嘲すから僕も冷嘲したんだ。 どっちが冷嘲し出したんだか知らないがそりゃどうでもいいよ。 ただ本当のところを僕に云ってくれたって好さそうなものだがね。 だから云ってるよ。 何にも君に関して云った覚はないと何遍も繰り返して云ってるよ。 細君を訊き糺して見れば解る事じゃないか。 お延は。 何と云ったい。 何とも云わないから困るんだ。 云わないで腹の中で思っていられちゃ弁解もできず説明もできず困るのは僕だけだからね。 僕は何にも云わないよ。 ただ君がこれから夫らしくするかしないかが問題なんだ。 僕は――。 小林はああいう人と交際ってるのかな。 おいマントでも取れ。 これは僕の友達だよ。 どうした。 旨く行ったかね。 駄目だろう。 駄目にきまってるさあんな奴。 あんな奴に君の芸術が分ってたまるものか。 いいからまあゆっくりして何か食いたまえ。 おいこの人の食うものを持って来い。 原君は好い絵を描くよ君。 一枚買ってやりたまえ。 今困ってるんだから気の毒だ。 そうか。 どうだこの次の日曜ぐらいに君の家へ持って行って見せる事にしたら。 僕に絵なんか解らないよ。 いやそんなはずはないねえ原。 何しろ持って行って見せてみたまえ。 ええ御迷惑でなければ。 僕は絵だの彫刻だのの趣味のまるでない人間なんですからどうぞ。 嘘を云うな。 君ぐらい鑑賞力の豊富な男は実際世間に少ないんだ。 また下らない事を云って――馬鹿にするな。 事実を云うんだ馬鹿にするものか。 君のように女を鑑賞する能力の発達したものが芸術を粗末にする訳がないんだ。 ねえ原女が好きな以上芸術も好きにきまってるね。 いくら隠したって駄目だよ。 だいぶ話が長くなりそうだから僕は一足先へ失敬しよう――おい姉さん会計だ。 ちょうど今一枚|素敵に好いのが描いてあるんだ。 それを買おうという望手の所へ価値の相談に行った帰りがけに原君はここへ寄ったんだから旨い機会じゃないか。 是非買いたまえ。 芸術家の足元へ付け込んでむやみに価切り倒すなんて失敬な奴へは売らないが好いというのが僕の意見なんだ。 その代りきっと買手を周旋してやるから帰りにここへ寄るがいいと先刻あすこの角で約束しておいたんだ実を云うと。 だから一つ買ってやるさ訳ゃないやね。 他に絵も何にも見せないうちから勝手にそんな約束をしたってしようがないじゃないか。 絵は見せるよ。 ――君今日持って帰らなかったのか。 もう少し待ってくれっていうから置いて来た。 馬鹿だな君は。 しまいにロハで捲き上げられてしまうだけだぜ。 もう直だいっしょに行くよ少し待ってろ。 いやあんまり遅くなるから。 何もそんなに他に恥を掻かせなくってもよかろう。 それとも原君が食っちまうまで待ってると紳士の体面に関わるとでも云うのか。 どうぞお構いなく。 いったいこの席を何と思ってるんだろう。 送別会と号して他を呼んでおきながら肝心のお客さんを残して先へ帰っちまうなんて侮辱を与える奴が世の中にいるんだから厭になるな。 そんなつもりじゃないよ。 つもりでなければもう少いろよ。 少し用があるんだ。 こっちにも少し用があるんだ。 絵なら御免だ。 絵も無理に買えとは云わないよ。 吝な事を云うな。 じゃ早くその用を片づけてくれ。 立ってちゃ駄目だ。 紳士らしく坐らなくっちゃ。 何だいその用事というのは。 まさか無心じゃあるまいねもう。 だから吝な事を云うなと先刻から云ってるじゃないか。 此奴は懐から短銃を出すんじゃないだろうか。 そうしてそれをおれの鼻の先へ突きつけるつもりじゃないかしら。 何を探しているんだ。 いやいろいろなものがいっしょに入ってるからな手の先でよく探しあてた上でないと滅多に君の前へは出されないんだ。 間違えて先刻放り込んだ札でも出すと厄介だろう。 なに札は大丈夫だ。 ほかの紙片と違って活きてるから。 こうやって手で障って見るとすぐ分るよ。 隠袋の中でぴちぴち跳ねてる。 おやないぞ。 変だな。 何だ手品でも使う気なのかその手帛で。 うんここにあった。 実は此奴を君に読ませたいんだ。 それももう当分君に会う機会がないから今夜に限るんだ。 僕と原君と話している間にちょっと読んでくれ。 何|訳ゃないやね少し長いけれども。 僕はここへ来た事をもう後悔しなければならなくなったのです。 あなたは定めて飽っぽいと思うでしょうしかしこれはあなたと僕の性質の差違から出るのだから仕方がないのです。 またかと云わずにまあ僕の訴えを聞いて下さい。 女ばかりで夜が不用心だから銀行の整理のつくまで泊りに来て留守番をしてくれ小説が書きたければ自由に書くがいい図書館へ行くなら弁当を持って行くがいい午後は画を習いに行くがいい。 今に銀行を東京へ持って来ると外国語学校へ入れてやる家の始末は心配するな転居の金は出してやる。 ――僕はこんなありがたい条件に誘惑されたのです。 もっとも一から十まで当にした訳でもないんですがその何割かは本当に違いないと思い込んだのです。 ところが来て見ると本当は一つもないんです頭から尻まで嘘の皮なんです。 叔父は東京にいる方が多いばかりか僕は書生代りに朝から晩まで使い歩きをさせられるだけなのです。 叔父は僕の事を「宅の書生。 事務員募集。 なに大丈夫だ。 そのうちどうにかなるよ心配しないでもいいや。 読んだか。 うん。 どうだ。 いったい何のためにそれを僕に読ませたんだ。 いったい何のために読ませたと思う。 僕の知らない人じゃないかそれを書いた人は。 無論知らない人さ。 知らなくってもいいとして僕に何か関係があるのか。 この男がかこの手紙がか。 どっちでも構わないが。 君はどう思う。 君のいう意味なら僕には全く無関係だろう。 僕のいう意味とは何だ。 解らないか。 解らない。 云って見ろ。 いや――まあ止そう。 それより君の方でその主意を男らしく僕に説明したらいいじゃないか。 男らしく。 ふん。 じゃ説明してやろう。 この人もこの手紙も乃至この手紙の中味もすべて君には無関係だ。 ただし世間的に云えばだぜいいかね。 世間的という意味をまた誤解するといけないからついでにそれも説明しておこう。 君はこの手紙の内容に対して俗社会にいわゆる義務というものを帯びていないのだ。 当り前じゃないか。 だから世間的には無関係だと僕の方でも云うんだ。 しかし君の道徳観をもう少し大きくして眺めたらどうだい。 いくら大きくしたって金をやらなければならないという義務なんか感じやしないよ。 そうだろう君の事だから。 しかし同情心はいくらか起るだろう。 そりゃ起るにきまってるじゃないか。 それでたくさんなんだ僕の方は。 同情心が起るというのはつまり金がやりたいという意味なんだから。 それでいて実際は金がやりたくないんだからそこに良心の闘いから来る不安が起るんだ。 僕の目的はそれでもう充分達せられているんだ。 さあ取りたまえ。 要るだけ取りたまえ。 此奴ら二人は共謀になって先刻からおれを馬鹿にしているんじゃないかしら。 これがこの摺れッ枯らしの拵え上げた狂言の落所だったのか。 馬鹿奴そう貴様の思わく通りにさせてたまるものか。 なぜ取らないんだ原君。 でもあんまり御気の毒ですから。 僕は僕でまた君の方を気の毒だと思ってるんだ。 ええどうもありがとう。 君の前に坐ってるその男は男でまた僕の方を気の毒だと思ってるんだ。 はあ。 その紙幣は三枚共僕が今その男から貰ったんだ。 貰い立てのほやほやなんだ。 じゃなおどうも。 なおどうもじゃない。 だからだ。 だから僕も安々と君にやれるんだ。 僕が安々と君にやれるんだから君も安々と取れるんだ。 そういう論理になるかしら。 当り前さ。 もしこれが徹夜して書き上げた一枚三十五銭の原稿から生れて来た金なら何ぼ僕だって少しは執着が出るだろうじゃないか。 額からぽたぽた垂れる膏汗に対しても済まないよ。 しかしこれは何でもないんだ。 余裕が空間に吹き散らしてくれる浄財だ。 拾ったものが功徳を受ければ受けるほど余裕は喜こぶだけなんだ。 ねえ津田君そうだろう。 そうだね。 それが一番いいだろう。 珍らしく余裕が下から上へ流れた。 けれどもここから上へはもう逆戻りをしないそうだ。 だからやっぱり君に対してサンクスだ。 じゃ失敬僕は停車場へ送って行かないよ。 そうか来たってよさそうなものだがね。 君の旧友が朝鮮へ行くんだぜ。 朝鮮でも台湾でも御免だ。 情合のない事|夥だしいものだ。 そんなら立つ前にもう一遍こっちから暇乞に行くよいいかい。 もうたくさんだ来てくれなくっても。 いや行く。 でないと何だか気がすまないから。 勝手にしろ。 しかし僕はいないよ来ても。 明日から旅行するんだから。 旅行。 どこへ。 少し静養の必要があるんでね。 転地か洒落てるな。 僕に云わせるとこれも余裕の賜物だ。 僕は君と違って飽くまでもこの余裕に感謝しなければならないんだ。 飽くまでも僕の注意を無意味にして見せるという気なんだね。 正直のところを云えばまあそこいらだろうよ。 よろしいどっちが勝つかまあ見ていろ。 小林に啓発されるよりも事実その物に戒飭される方が遥かに覿面で切実でいいだろう。 厄介だな。 ことによるとお午ぐらいから晴れるかも知れないわね。 だって一日|後れると一日|徒為になるだけですもの。 早く行って早く帰って来ていただく方がいいわ。 おれもそのつもりだ。 お前は行かないでもいいよ。 なぜ。 なぜって訳もないがこの雨の降るのに御苦労千万じゃないか。 ちっとも。 来て貰うのが迷惑だから断るんじゃないよ。 気の毒だからだよ。 たかが一日とかからない所へ行くのにわざわざ送って貰うなんて少し滑稽だからね。 小林が朝鮮へ立つんでさえおれは送って行かないって昨夜断っちまったくらいだ。 そうでもあたし宅にいたって何にもする事がないんですもの。 遊んでおいでよ。 構わないから。 あいにくなお天気で。 どなたかどちらへかいらっしゃるんですか。 いいえちょっとお見送りに。 だからどなたを。 実は奥さまが今日は少し差支えがあるからこれを持って代りに行って来てくれとおっしゃいました。 いやそりゃどうも恐れ入りました。 いえ私が列車の中まで持って参ります。 どうぞ宜しく。 やっぱりお延に来て貰わない方がよかったのだ。 ひどく降って来たね。 この様子じゃまた軽便の路が壊れやしないかね。 なに大丈夫だよ。 なんぼ名前が軽便だってそう軽便に壊れられた日にゃ乗るものが災難だあね。 こんな天気になろうとは思わなかったね。 これならもう一日延ばした方が楽だった。 何たかが雨だあね。 濡れると思やあ何でもねえ。 だが荷物が厄介だよ。 あの軽便へ雨曝しのまま載せられる事を考えると少し心細くなるから。 じゃおいらの方が雨曝しになって荷物だけを室の中へ入れて貰う事にしよう。 もっともこの前のあの騒ぎがあるからね。 途中で汽缶へ穴が開いて動けなくなる汽車なんだから全くのところ心細いにゃ違ない。 あの時ゃどうして向うへ着いたっけ。 なにあっちから来る奴を山の中ほどで待ち合せてさ。 その方の汽缶で引っ張り上げて貰ったじゃないか。 なるほどねだが汽缶を取り上げられた方の車はどうしたっけね。 違えねえこっちで取り上げりゃ向うは困らあ。 だからさ取り残された方の車はどうしたろうっていうのさ。 まさか他を救って自分は立往生って訳もなかろう。 今になって考えりゃそれもそうだがねあの時ゃてんで向うの車の事なんか考えちゃいられなかったからね。 日は暮れかかるしさ寒さは身に染みるしさ。 顫えちまわあね。 女一人でさえ楽々往来ができる所だのに。 ありがたい大当りだ。 だからやっぱり行こうと思った時に立っちまうに限るよ。 これでぐずぐずして東京にいて御覧な。 ああつまらねえこうと知ったら思い切って今朝立っちまえばよかったと後悔するだけだからね。 そうさ。 だが東京も今頃はこのくらい好い天気になってるんだろうか。 そいつあ行って見なけりゃちょいと分らねえ。 何なら電話で訊いてみるんだ。 だが大体間違はないよ。 空は日本中どこへ行ったって続いてるんだから。 あなたも湯治場へいらっしゃるんでしょう。 どうもおおかたそうだろうと思いましたよ先刻から。 なぜですか。 なぜってそういう所へ遊びに行く人は様子を見るとすぐ分りますよ。 ねえ。 ああ。 だが旅行も近頃は便利になりましたね。 どこへ行くにも身体一つ動かせばたくさんなんですからありがたい訳さ。 ことにこちとら見たいな気の早いものにはお誂向だあね。 今度だって荷物なんか何にも持って来やしませんやこの合切袋とこの大将のあの鞄を差し引くと残るのは命ばかりといいたいくらいのものだ。 ねえ大将。 ああ。 軽便。 やあお早うがす。 こっちへおかけなさい。 今日は空いてて結構です。 あんな時に女なんか伴れてくるのは実際罪だよ。 尻が大きいから第一乗り切れねえやね。 そうしてすぐ酔うから困らあ。 鮨のように押しつめられてる中で吐いたり戻したりさ。 見っともねえ事ったら。 まだ仮橋のままでやってるんだから呑気なものさね。 御覧なさい土方があんなに働らいてるから。 あの家も去年波で浚われちまったんでさあ。 でもすぐあんなに建てやがったから軽便より少しゃ感心だ。 この夏の避暑客を取り逃さないためでしょう。 ここいらで一夏休むとだいぶ応えるからね。 やっぱり慾がなくっちゃ何でも手っ取り早く仕事は片づかないものさね。 この軽便だってそうでしょうあなたなまじいあの仮橋で用が足りてるもんだから会社の方でいつまでも横着をきめ込みやがって掛けかえねえんでさあ。 あいつは旨そうだね。 なに根っから旨くないんだここから見ている方がよっぽど綺麗だよ。 どうしたんだ。 脱線です。 だから云わねえこっちゃねえ。 きっと何かあるに違ねえと思ってたんだ。 どうせ家を出る時に水盃は済まして来たんだから覚悟はとうからきめてるようなもののいざとなって見るとこんな所で弁慶の立往生は御免|蒙りたいからね。 といっていつまでこうやって待ってたってなかなか元へ戻してくれそうもなしと。 何しろ日の短かい上へ持って来て気が短かいと来てるんだから安閑としちゃいられねえ。 ――どうです皆さん一つ降りて車を押してやろうじゃありませんか。 やいけねえ行き過ぎちゃった。 また後れちまったよ大将お蔭で。 誰のお蔭でさ。 軽便のお蔭でさ。 だがこんな事でもなくっちゃ眠くっていけねえや。 せっかく遊びに来た甲斐がないだろう。 全くだ。 おれは今この夢見たようなものの続きを辿ろうとしている。 東京を立つ前からもっと几帳面に云えば吉川夫人にこの温泉行を勧められない前からいやもっと深く突き込んで云えばお延と結婚する前から――それでもまだ云い足りない実は突然清子に背中を向けられたその刹那から自分はもうすでにこの夢のようなものに祟られているのだ。 そうして今ちょうどその夢を追かけようとしている途中なのだ。 顧みると過去から持ち越したこの一条の夢がこれから目的地へ着くと同時にからりと覚めるのかしら。 それは吉川夫人の意見であった。 したがって夫人の意見に賛成しまたそれを実行する今の自分の意見でもあると云わなければなるまい。 しかしそれははたして事実だろうか。 自分の夢ははたして綺麗に拭い去られるだろうか。 自分ははたしてそれだけの信念をもってこの夢のようにぼんやりした寒村の中に立っているのだろうか。 眼に入る低い軒近頃|砂利を敷いたらしい狭い道路貧しい電灯の影傾むきかかった藁屋根黄色い幌を下した一頭立の馬車――新とも旧とも片のつけられないこの一塊の配合をなおの事夢らしく粧っている肌寒と夜寒と闇暗――すべて朦朧たる事実から受けるこの感じは自分がここまで運んで来た宿命の象徴じゃないだろうか。 今までも夢今も夢これから先も夢その夢を抱いてまた東京へ帰って行く。 それが事件の結末にならないとも限らない。 いや多分はそうなりそうだ。 じゃ何のために雨の東京を立ってこんな所まで出かけて来たのだ。 畢竟馬鹿だから。 いよいよ馬鹿と事がきまりさえすればここからでも引き返せるんだが。 君もいっしょに行くのかい。 へえお邪魔でもどうか。 ここに旗が立っています。 夜中はもうだいぶお寒くなりました。 お客はたくさんいるかい。 へえありがとうお蔭さまで。 何人ぐらい。 ただいまはあいにく季節が季節だもんでげすからあんまりおいでがございません。 寒い時は暮からお正月へかけましてそれから夏場になりますとまあ七八|二月ですな繁昌するのは。 そんな時にゃ臨時のお客さまを御断りする事が毎日のようにございます。 じゃ今がちょうど閑な時なんだねそうか。 へえどうぞごゆっくり。 ありがとう。 やっぱり御病気のためにわざわざおいでなんで。 うんまあそうだ。 ああ世の中にはこんなものが存在していたのだっけどうして今までそれを忘れていたのだろう。 彼女に会うのは何のためだろう。 永く彼女を記憶するため。 会わなくても今の自分は忘れずにいるではないか。 では彼女を忘れるため。 あるいはそうかも知れない。 けれども会えば忘れられるだろうか。 あるいはそうかも知れない。 あるいはそうでないかも知れない。 松の色と水の音それは今全く忘れていた山と渓の存在を憶い出させた。 全く忘れていない彼女想像の眼先にちらちらする彼女わざわざ東京から後を跟けて来た彼女はどんな影響を彼の上に起すのだろう。 運命の宿火だ。 それを目標に辿りつくよりほかに途はない。 着いたようじゃないか。 君の家はどれだい。 へえもう一丁ほど奥になります。 昼間もこの通りかい。 へえ。 何だかお客はどこにもいないようじゃないか。 そんなに広いのか。 案内を知らないものは迷児にでもなりそうだね。 一人で来る人は少ないだろうねこんな所へ。 そうでもございません。 だが男だろうそりゃ。 まさか女一人で逗留しているなんてえのはなかろう。 一人いらっしゃいます今。 へえ病気じゃないか。 そんな人は。 そうかも知れません。 何という人だい。 若い人かね。 ええ若いお美くしい方です。 そうかちょっと見せて貰いたいな。 お湯にいらっしゃる時この室の横をお通りになりますから御覧になりたければいつでも――。 拝見できるのかそいつはありがたい。 これが一番大きくって心持がいいでしょう。 ああ寒い。 ごゆっくり。 まだ下にもお風呂場がございますからもしそちらの方がお気に入るようでしたらどうぞ。 いったい何階なのかねこの家は。 ここの方が新らしくって綺麗は綺麗ですがお湯は下の方がよく利くのだそうです。 だから本当に療治の目的でおいでの方はみんな下へ入らっしゃいます。 それから肩や腰を滝でお打たせになる事も下ならできます。 ありがとう。 じゃ今度そっちへ入るから連れてってくれたまえ。 ええ。 旦那様はどこかお悪いんですか。 うん少し悪いんだ。 本当に療治の目的で来た客。 おれははたしてそういう種類の客なんだろうか。 今のうちならまだどうでもできる。 本当に療治の目的で来た客になろうと思えばなれる。 なろうとなるまいと今のお前は自由だ。 自由はどこまで行っても幸福なものだ。 その代りどこまで行っても片づかないものだだから物足りないものだ。 それでお前はその自由を放り出そうとするのか。 では自由を失った暁にお前は何物を確と手に入れる事ができるのか。 それをお前は知っているのか。 御前の未来はまだ現前しないのだよ。 お前の過去にあった一条の不可思議よりまだ幾倍かの不可思議をもっているかも知れないのだよ。 過去の不可思議を解くために自分の思い通りのものを未来に要求して今の自由を放り出そうとするお前は馬鹿かな利巧かな。 おや失礼。 どうしたんだ。 誰か入ってるの。 塞がってるのか。 好いじゃないかこんでさえいなければ。 でも。 じゃ小さい方へ入るさ。 小さい方ならみんな空いてるだろう。 勝さんはいないかしら。 今晩は。 大変お早うございますね。 うんあんまり退屈だから今日は早く寝ようと思ってね。 へえもうお稽古はお済みですか。 お済みって訳でもないが。 勝さんそこは塞がってるのね。 おやそうですか。 どこか新らしく拵えたのはないの。 ございます。 その代り少し熱いかも知れませんよ。 今晩は。 旦那流しましょう。 君が勝さんてえのかい。 ええ旦那はよく御承知ですね。 今|聴いたばかりだ。 なるほど。 そう云えば旦那も今見たばかりですね。 今来たばかりだもの。 東京からおいでですか。 そうだ。 どうぞごゆっくり。 はてなもっと後かしら。 もう少し先かしら。 ことによると下女かも知れない。 誰でもいい来たら方角を教えて貰おう。 これは女だ。 しかし下女ではない。 ことによると。 どうかしなければいけない。 どこまで蒼くなるか分らない。 それほど自分は彼女に対して冷淡なのだろうか。 しかしお前はそれを念頭に置かなかったろう。 この見当だと心得てさえいたならばああ不意打を食うんじゃなかったのに。 どっちが好いか比べて御覧なさい。 お延と清子。 お早う昨夜はお疲れさまで。 君だったかね昨夕馬車へ乗ってここまでいっしょに来てくれたのは。 へえお邪魔様で。 なるほど君の云った通り閑静だね。 そうしてむやみに広い家だね。 いえ御覧の通り平地の乏しい所でげすから地ならしをしてはその上へ建て建てして家が幾段にもなっておりますので――廊下だけは仰せの通りむやみに広くって長いかも知れません。 道理で。 昨夕僕は風呂場へ行った帰りに迷児になって弱ったよ。 はあそりゃ。 今日は別館の奥さんはどうかなすって。 いえ手前はちっとも存じませんが何か――。 別に何って事もないんですけれどもねいつでも朝風呂場でお目にかかるのに今日はいらっしゃらなかったから。 はあさようで――ことによるとまだお休みかも知れません。 そうかも知れないわね。 だけどいつでも両方の時間がちゃんときまってるのよ朝お風呂に行く時の。 へえなるほど。 それに今朝ごいっしょに裏の山へ散歩に参りましょうってお約束をしたもんですからね。 じゃちょっと伺って参りましょう。 いいえもういいのよ。 散歩はこの通り済んじまったんだから。 ただもしやどこかお加減でも悪いのじゃないかしらと思ってちょっと番頭さんに訊いてみただけよ。 多分ただのお休みだろうと思いますがそれとも――。 それともなんてそう真面目くさらなくってもいいのよ。 ただ訊いてみただけなんだから。 浜のお客さんのいる所は新らしい風呂場から見える崖の上だろう。 ええ。 あちらへ行って御覧になりましたか。 いいやおおかたそうだろうと思っただけさ。 よく当りましたね。 ちとお遊びにいらっしゃいまし旦那も奥さんも面白い方です。 退屈だ退屈だって毎日困ってらっしゃるんです。 よっぽど長くいるのかい。 ええもう十日ばかりになるでしょう。 あれだね義太夫をやるってえのは。 ええよく御存じですねもうお聴きになりましたか。 まだだよ。 ただ勝さんに教わっただけだ。 時にあの女の人はいったい何だね。 奥さんですよ。 本当の奥さんかね。 ええ本当の奥さんでしょう。 まさか嘘の奥さんてのもないでしょうなぜですか。 なぜって素人にしちゃあんまり粋過ぎるじゃないか。 もう一人奥にいらっしゃる奥さんの方がお人柄です。 するとちょうど真中辺だねここは。 その奥さんとあの二人のお客とは友達なのかい。 ええ御懇意です。 元から。 さあどうですかそこはよく存じませんが――おおかたここへいらしってからお知合におなんなすったんでしょう。 始終行ったり来たりしていらっしゃいます両方ともお閑なもんですから。 昨日も公園へいっしょにお出かけでした。 その奥さんはなぜ一人でいるんだね。 少し身体がお悪いんです。 旦那さんは。 いらっしゃる時は旦那さまもごいっしょでしたがすぐお帰りになりました。 置いてきぼりかそりゃひどいな。 それっきり来ないのかい。 何でも近いうちにまたいらっしゃるとかいう事でしたがどうなりましたか。 退屈だろうね奥さんは。 ちと話しに行ってお上げになったらいかがです。 話しに行ってもいいかね後で聴いといてくれたまえ。 へえ。 何をして暮しているのかねその奥さんは。 まあお湯に入ったり散歩をしたり義太夫を聴かされたり――時々は花なんかお活けになりますそれから夜よく手習をしていらっしゃいます。 そうかい。 本は。 本もお読みになるでしょう。 今朝風呂場へスリッパーを忘れていったものがあるね塞がってるのかと思ってはじめは遠慮していたが開けて見たら誰もいなかったよ。 おやそうですかじゃまたあの先生でしょう。 へええ。 もう年寄だろうね。 ええお爺さんです。 こんなに白い髯を生やして。 なるほど。 やっぱり字を書いてるのかい。 ええ何だかお墓に彫りつけるんだって大変大きなものを毎日少しずつ書いていらっしゃいます。 あんなものを書くのにもそんなに骨が折れるのかなあ。 素人は半日ぐらいですぐ出来上りそうに考えてるんだが。 いろんな人がいるんだね。 五六人寄ってさえこうなんだから。 夏や正月になったら大変だろう。 いっぱいになるとどうしても百三四十人は入りますからね。 何しに来た。 何しにでもない貴様を厭がらせに来たんだ。 どういう理由で。 理由も糸瓜もあるもんか。 貴様がおれを厭がる間はいつまで経ってもどこへ行ってもただ追かけるんだ。 畜生ッ。 撲ったなこの野郎。 さあどうでもしろ。 おれに何の不都合がある。 彼奴さえいなければ。 僕は静養のため昨夜ここへ来ました。 あなたがおいでの事を今朝聴きました。 これじゃ空々しくっていけない昨夜会った事も何とか書かなくっちゃ。 御病気はいかがですか。 これは吉川の奥さんからのお見舞です。 宅に関さんという方がおいでだろう。 関さんが先刻お話した奥さんの事ですよ。 そうか。 じゃその奥さんでいいからこれを持って行って上げてくれ。 そうしてねもしお差支えがなければちょっとお目にかかりたいって。 へえ。 まさか断るんじゃあるまいな。 どうしたね。 お待遠さま。 大変遅かったでしょう。 なにそうでもないよ。 少しお手伝いをしていたもんですから。 何の。 お部屋を片づけてねそれから奥さんの御髪を結って上げたんですよ。 それにしちゃ早いでしょう。 銀杏返しかい丸髷かい。 まあ行って御覧なさい。 行って御覧なさいって行っても好いのかい。 その返事を先刻からこうして待ってるんじゃないか。 おやどうもすみません肝心のお返事を忘れてしまって。 ――どうぞおいで下さいましって。 本当かい。 迷惑じゃないかね。 向へ行ってから気の毒な思いをさせられるのは厭だからね。 旦那様はずいぶん疑り深い方ですね。 それじゃ奥さんもさぞ――。 奥さんとは誰だい関の奥さんかいそれとも僕の奥さんかい。 どっちだか解ってるじゃありませんか。 いや解らない。 そうでございますか。 こっちかい。 今御案内を致します。 ああここだ。 何がです。 昨夕僕が幽霊に出会ったのはここだというのさ。 馬鹿をおっしゃい。 宅に幽霊なんか出るもんですか。 そんな事をおっしゃると――。 この上だろう関さんのお室は。 ええよく知ってらっしゃいますね。 うんそりゃ知ってるさ。 天眼通ですね。 天眼通じゃない天鼻通と云って万事鼻で嗅ぎ分けるんだ。 まるで犬見たいですね。 ついでに僕が関さんの室を嗅ぎ分けてやるから見ていろ。 ここだ。 どうだ当ったろう。 なるほどあなたの鼻はよく利きますね。 猟犬よりたしかですよ。 お客さまがいらっしゃいました。 御免下さい。 すべてが改まっている。 これが今日会う二人の間に横わる運命の距離なのだろう。 あの緩い人はなぜ飛行機へ乗った。 彼はなぜ宙返りを打った。 また何か細工をするな。 相変らず緩漫だな。 滑稽だな。 いかにもあなたらしい滑稽だ。 そうしてあなたはちっともその滑稽なところに気がついていないんだ。 どうもお土産をありがとう。 道伴になったお爺さんにもう少しで蜜柑をやっちまうところでしたよ。 あらどうして。 あんまり重くって荷になって困るからです。 じゃ来る途中|始終手にでも提げていらしったの。 馬鹿にしちゃいけません。 あなたじゃあるまいしこんなものを提げて縁側をあっちへ行ったりこっちへ来たりしていられるもんですか。 相変らずあなたはいつでも苦がなさそうで結構ですね。 ええ。 ちっとももとと変りませんね。 ええだって同なじ人間ですもの。 何を笑うんだ。 でも奥さんのおっしゃる事がおかしいんですもの。 なるほどそうに違いございませんね。 生きてるうちはどなたも同なじ人間で生れ変りでもしなければ誰だって違った人間になれっこないんだから。 ところがそうでないよ。 生きてるくせに生れ変る人がいくらでもあるんだから。 へえそうですかねそんな人があったらちっとお目にかかりたいもんだけれども。 お望みなら逢わせてやってもいいがね。 どうぞ。 またこれでしょう。 旦那様のこれにはとても敵いません。 奥さまのお部屋をちゃんと臭で嗅ぎ分ける方なんですから。 部屋どころじゃないよ。 お前の年齢から原籍から生れ故郷から何から何まであてるんだよ。 この鼻一つあれば。 へえ恐ろしいもんでございますね。 ――どうも敵わない旦那様に会っちゃ。 旦那様はさぞ猟がお上手でいらっしゃいましょうね。 関君はどうしました。 相変らず御勉強ですか。 その後|御無沙汰をしていっこうお目にかかりませんが。 ええありがとう。 まあ相変らずです。 時々二人してあなたのお噂を致しております。 ああそうですか。 僕も始終忙がしいもんですから方々へ失礼ばかりして。 良人も同なじよあなた。 近頃じゃ閑暇な人はまるで生きていられないのと同なじ事ね。 だから自然御互いに遠々しくなるんですわ。 だけどそれは仕方がないわ自然の成行だから。 そうですね。 そうですね。 そうですか。 そうですかただそれだけで疎遠になったんですか。 それがあなたの本音ですか。 どうしてそれが不満足なのか。 私。 特殊な人。 昨夕は失礼しました。 私こそ。 この女は今朝になってもう夜の驚ろきを繰り返す事ができないのかしら。 実はあなたを驚ろかした後ですまない事をしたと思ったのです。 じゃ止して下さればよかったのに。 止せばよかったのです。 けれども知らなければ仕方がないじゃありませんか。 あなたがここにいらっしゃろうとは夢にも思いがけなかったのですもの。 でも私への御土産を持ってわざわざ東京から来て下すったんでしょう。 それはそうです。 けれども知らなかった事も事実です。 昨夕は偶然お眼にかかっただけです。 そうですか知ら。 だってわざとあんな真似をする訳がないじゃありませんかなんぼ僕が酔興だって。 だけどあなたはだいぶあすこに立っていらしったらしいのね。 迷児になって行先が分らなくなりゃ仕方がないじゃありませんか。 そう。 そりゃそうね。 けれども私にはそう思えなかったんですもの。 僕が待ち伏せをしていたとでも思ってるんですか冗談じゃない。 いくら僕の鼻が万能だってあなたの湯泉に入る時間まで分りゃしませんよ。 なるほどそりゃそうね。 いったい何だってそんな事を疑っていらっしゃるんです。 そりゃ申し上げないだってお解りになってるはずですわ。 解りっこないじゃありませんか。 じゃ解らないでも構わないわ。 説明する必要のない事だから。 それでは僕が何のためにあなたを廊下の隅で待ち伏せていたんです。 それを話して下さい。 そりゃ話せないわ。 そう遠慮しないでもいいから是非話して下さい。 遠慮じゃないのよ話せないから話せないのよ。 しかし自分の胸にある事じゃありませんか。 話そうと思いさえすれば誰にでも話せるはずだと思いますがね。 私の胸に何にもありゃしないわ。 なければどこからその疑いが出て来たんです。 もし疑ぐるのが悪ければ謝まります。 そうして止します。 だけどもう疑ったんじゃありませんか。 だってそりゃ仕方がないわ。 疑ったのは事実ですもの。 その事実を白状したのも事実ですもの。 いくら謝まったってどうしたって事実を取り消す訳には行かないんですもの。 だからその事実を聴かせて下さればいいんです。 事実はすでに申し上げたじゃないの。 それは事実の半分か三分一です。 僕はその全部が聴きたいんです。 困るわね。 何といってお返事をしたらいいんでしょう。 訳ないじゃありませんかこういう理由があるからそういう疑いを起したんだって云いさえすればたった一口で済んじまう事です。 ああそれがお聴きになりたいの。 無論です。 先刻からそれが伺いたければこそこうしてしつこくあなたを煩わせているんじゃありませんか。 それをあなたが隠そうとなさるから――。 そんならそうと早くおっしゃればいいのに私隠しも何にもしませんわそんな事。 理由は何でもないのよ。 ただあなたはそういう事をなさる方なのよ。 待伏せをですか。 ええ。 馬鹿にしちゃいけません。 でも私の見たあなたはそういう方なんだから仕方がないわ。 嘘でも偽りでもないんですもの。 なるほど。 何だか話が議論のようになってしまいましたね。 僕はあなたと問答をするために来たんじゃなかったのに。 私にもそんな気はちっともなかったの。 つい自然そこへ持って行かれてしまったんだから故意じゃないのよ。 故意でない事は僕も認めます。 つまり僕があんまりあなたを問いつめたからなんでしょう。 まあそうね。 じゃ問答ついでにもう一つ答えてくれませんか。 ええ何なりと。 何もかももう忘れているんだこの人は。 しかし昨夕階子段の上であなたは蒼くなったじゃありませんか。 なったでしょう。 自分の顔は見えないから分りませんけれどもあなたが蒼くなったとおっしゃればそれに違ないわ。 へえするとあなたの眼に映ずる僕はまだ全くの嘘吐でもなかったんですねありがたい。 僕の認めた事実をあなたも承認して下さるんですね。 承認しなくっても実際蒼くなったら仕方がないわあなた。 そう。 ――それから硬くなりましたね。 ええ硬くなったのは自分にも分っていましたわ。 もう少しあのままで我慢していたら倒れたかも知れないと思ったくらいですもの。 つまり驚ろいたんでしょう。 ええずいぶん吃驚したわ。 それで。 あの時この人はちょうどこういう姿勢でこういう林檎を剥いてくれたんだっけ。 それで僕の訊きたいのはですね――。 昨夕そんなに驚ろいたあなたが今朝はまたどうしてそんなに平気でいられるんでしょう。 なぜ。 僕にゃその心理作用が解らないから伺うんです。 心理作用なんてむずかしいものは私にも解らないわ。 ただ昨夕はああで今朝はこうなの。 それだけよ。 説明はそれだけなんですか。 ええそれだけよ。 しかしあなたは今朝いつもの時間に起きなかったじゃありませんか。 あらどうしてそんな事を御承知なの。 ちゃんと知ってるんです。 なるほどあなたは天眼通でなくって天鼻通ね。 実際よく利くのね。 あなたいかが。 あなたいかがですせっかく吉川の奥さんがあなたのためにといって贈ってくれたんですよ。 そうねそうしてあなたがまたわざわざそれをここまで持って来て下すったんですね。 その御親切に対してもいただかなくっちゃ悪いわね。 しかし考えるとおかしいわねいったいどうしたんでしょう。 何がどうしたんです。 私吉川の奥さんにお見舞をいただこうとは思わなかったのよ。 それからそのお見舞をまたあなたが持って来て下さろうとはなおさら思わなかったのよ。 そうでしょう僕でさえそんな事は思わなかったんだから。 ああこの眼だっけ。 それはあなたの美くしいところです。 けれどももう私を失望させる美しさに過ぎなくなったのですか。 判然教えて下さい。 なんぼ僕だってただ吉川の奥さんの使に来ただけじゃありません。 でしょうだから変なのよ。 ちっとも変な事はありませんよ。 僕は僕で独立してここへ来ようと思ってるところへ奥さんに会って始めてあなたのここにいらっしゃる事を聴かされた上についお土産まで頼まれちまったんです。 そうでしょう。 そうでもなければどう考えたって変ですからね。 いくら変だって偶然という事も世の中にはありますよ。 そうあなたのように。 だからもう変じゃないのよ。 訳さえ伺えば何でも当り前になっちまうのね。 こっちでもその訳を訊きに来たんだ。 それであなたもどこかお悪いの。 でも結構ねあなたは。 そういう時に会社の方の御都合がつくんだから。 そこへ行くと良人なんか気の毒なものよ朝から晩まで忙がしそうにして。 関君こそ酔興なんだから仕方がない。 可哀想にまさか。 いや僕のいうのは善い意味での酔興ですよ。 つまり勉強家という事です。 まあお上手だ事。 あの浜のお客さまが奥さまにお午から滝の方へ散歩においでになりませんか伺って来いとおっしゃいました。 お供しましょう。 旦那様もいっしょにいらっしゃいまし。 ありがとう。 時にもうお午なのかい。 ええただいま御飯を持って参ります。 驚ろいたな。 奥さん。 清子さん。 あなたはいつごろまでおいでです。 予定なんかまるでないのよ。 宅から電報が来れば今日にでも帰らなくっちゃならないわ。 そんなものが来るんですか。 そりゃ何とも云えないわ。 おい好い天気だな。 ええ。 ちっと散歩でもしていらっしゃい。 あなたそんな所へ寝ると風邪引いてよ。 寝やせん大丈夫だ。 御米近来の近の字はどう書いたっけね。 近江のおうの字じゃなくって。 その近江のおうの字が分らないんだ。 こうでしょう。 やっぱりそうか。 本当に好い御天気だわね。 どうも字と云うものは不思議だよ。 なぜ。 なぜっていくら容易い字でもこりゃ変だと思って疑ぐり出すと分らなくなる。 この間も今日の今の字で大変迷った。 紙の上へちゃんと書いて見てじっと眺めていると何だか違ったような気がする。 しまいには見れば見るほど今らしくなくなって来る。 ――御前そんな事を経験した事はないかい。 まさか。 おれだけかな。 あなたどうかしていらっしゃるのよ。 やっぱり神経衰弱のせいかも知れない。 そうよ。 おい佐伯のうちは中六番町何番地だったかね。 二十五番地じゃなくって。 手紙じゃ駄目よ行ってよく話をして来なくっちゃ。 まあ駄目までも手紙を一本出しておこう。 それでいけなかったら出掛けるとするさ。 ねえおいそれで好いだろう。 ちょっと散歩に行って来るよ。 行っていらっしゃい。 暑い。 だって余まりだわ。 この御天気にそんな厚いものを着て出るなんて。 何日が暮れたら寒いだろうと思って。 相変らず精が出ますね。 御茶ならたくさんです。 厭。 じゃ御菓子は。 あるんですか。 いいえ無いの。 待ってちょうだいあるかも知れないわ。 じゃ御菓子も廃しにしましょう。 それよりか今日は兄さんはどうしました。 兄さんは今ちょいと。 駄目よ。 いつの間にか兄さんがみんな食べてしまった。 じゃ晩に何か御馳走なさい。 ええしてよ。 四時五時六時。 姉さん兄さんは佐伯へ行ってくれたんですかね。 この間から行く行くって云ってる事は云ってるのよ。 だけど兄さんも朝出て夕方に帰るんでしょう。 帰ると草臥れちまって御湯に行くのも大儀そうなんですもの。 だからそう責めるのも実際御気の毒よ。 そりゃ兄さんも忙がしいには違なかろうけれども僕もあれがきまらないと気がかりで落ちついて勉強もできないんだから。 だから先刻手紙を出しておいたのよ。 何て。 そりゃ私もつい見なかったの。 けれどもきっとあの相談よ。 今に兄さんが帰って来たら聞いて御覧なさい。 きっとそうよ。 もし手紙を出したのならその用には違ないでしょう。 ええ本当に出したのよ。 今兄さんがその手紙を持って出しに行ったところなの。 敷島。 千古の雪。 誰。 兄さん。 やあ来ていたのか。 御米御米。 小六が来たから何か御馳走でもするが好い。 ええ今|直。 その代り小六さん憚り様。 座敷の戸を閉てて洋灯を点けてちょうだい。 今|私も清も手が放せないところだから。 はあ。 奥様これはどちらへ移します。 姉さんランプの心を剪る鋏はどこにあるんですか。 好い御湯だった事。 うん。 なかなか好い湯でした。 しかしああ込んじゃ溜らないよ。 どうかして朝湯にだけは行きたいね。 その癖朝湯に行ける日はきっと寝坊なさるのね。 うん面白いものが有ったっけ。 それ御覧。 兄さんも随分|呑気ね。 時に伊藤さんもとんだ事になりましたね。 おい大変だ伊藤さんが殺された。 あなた大変だって云う癖にちっとも大変らしい声じゃなくってよ。 今日も伊藤さんの事が何か出ていて。 うんだいぶ出ている。 どうしてまあ殺されたんでしょう。 短銃をポンポン連発したのが命中したんです。 だけどさ。 どうしてまあ殺されたんでしょう。 やっぱり運命だなあ。 どうしてまた満洲などへ行ったんでしょう。 本当にな。 何でも露西亜に秘密な用があったんだそうです。 そう。 でも厭ねえ。 殺されちゃ。 おれみたような腰弁は殺されちゃ厭だが伊藤さんみたような人は哈爾賓へ行って殺される方がいいんだよ。 あらなぜ。 なぜって伊藤さんは殺されたから歴史的に偉い人になれるのさ。 ただ死んで御覧こうはいかないよ。 なるほどそんなものかも知れないな。 とにかく満洲だの哈爾賓だのって物騒な所ですね。 僕は何だか危険なような心持がしてならない。 そりゃ色んな人が落ち合ってるからね。 さあもう御膳を下げたら好かろう。 どうも妙だよ。 よくこう調子好くできるものだと思ってね。 ああ奇麗になった。 どうも食った後は汚ないものでね。 何がそんなにおかしいの清。 何だってあんなに笑うんだい。 あなたがあんな玩具を買って来て面白そうに指の先へ乗せていらっしゃるからよ。 子供もない癖に。 そうか。 これでも元は子供があったんだがね。 あなた御菓子食べなくって。 ええ食べます。 昼間は暖たかいが夜になると急に寒くなるね。 寄宿じゃもう蒸汽を通しているかい。 いえまだです。 学校じゃよっぽど寒くならなくっちゃ蒸汽なんか焚きゃしません。 そうかい。 それじゃ寒いだろう。 ええ。 しかし寒いくらいどうでも構わないつもりですが。 兄さん佐伯の方はいったいどうなるんでしょう。 先刻姉さんから聞いたら今日手紙を出して下すったそうですが。 ああ出した。 二三日中に何とか云って来るだろう。 その上でまたおれが行くともどうともしようよ。 じゃ今日まであのままにしてあったんですか。 うん実は済まないがあのままだ。 手紙も今日やっとの事で書いたくらいだ。 どうも仕方がないよ。 近頃神経衰弱でね。 もし駄目なら僕は学校をやめていっそ今のうち満洲か朝鮮へでも行こうかと思ってるんです。 満洲か朝鮮。 ひどくまた思い切ったもんだね。 だって御前|先刻満洲は物騒で厭だって云ったじゃないか。 まあ好いやそう心配しないでもどうかなるよ。 何しろ返事の来しだいおれがすぐ知らせてやる。 その上でまた相談するとしよう。 姉さんさようなら。 おや御帰り。 へえ安さんは神戸へ行ったんだってね。 いつ。 いつとも書いてないがね。 何しろ遠からぬうちには帰京仕るべく候間と書いてあるからもうじき帰って来るんだろう。 遠からぬうちなんてやっぱり叔母さんね。 遠からぬうちには帰京|仕るべく候間どうだって云うの。 いずれ帰ったら安之助と相談して何とか御挨拶を致しますと云うのさ。 遠からぬうちじゃ曖昧ね。 いつ帰るとも書いてなくって。 いいや。 ちょっとその状袋を。 佐伯の方は困るのね。 まあ仕方がない。 安さんが神戸から帰るまで待つよりほかに道はあるまい。 その前にちょっと叔母さんに逢って話をしておいた方が好かなくって。 そうさ。 まあそのうち何とか云って来るだろう。 それまで打遣っておこうよ。 小六さんが怒ってよ。 よくって。 安さんはまだ帰らないんでしょうかね。 あなた今度の日曜ぐらいに番町まで行って御覧なさらなくって。 うん行っても好い。 ちと散歩でもしていらっしゃい。 今日は日曜で仕合せね。 何しろこう云うものは買手を見て売らないと損だからね。 でも行けないんだから仕方がないわね。 これじゃしようがないよ。 御米久しく放っておいたがまた東京へ掛合ってみようかな。 駄目よ。 だって叔父さんに全く信用がないんですもの。 向うじゃこっちに信用がないかも知れないがこっちじゃまた向うに信用がないんだ。 好いや小六さえどうかしてくれれば。 あとの事はいずれ東京へ出たら逢った上で話をつけらあ。 ねえ御米そうするとしようじゃないか。 それで好ござんすとも。 でも仕方がないわ。 まあ我慢するさ。 そのうちにはまたきっと好い事があってよ。 そうそう悪い事ばかり続くものじゃないから。 我々はそんな好い事を予期する権利のない人間じゃないか。 だって近頃の相場なら捨売にしたってあの時叔父の拵らえてくれた金の倍にはなるんだもの。 あんまり馬鹿馬鹿しいからね。 また地面。 いつまでもあの事ばかり考えていらっしゃるのね。 だってあなたが万事|宜しく願いますと叔父さんにおっしゃったんでしょう。 そりゃ仕方がないさ。 あの場合ああでもしなければ方がつかないんだもの。 だからさ。 叔父さんの方では御金の代りに家と地面を貰ったつもりでいらっしゃるかも知れなくってよ。 そのつもりが好くないじゃないか。 御米とうとう東京へ行けるよ。 まあ結構ね。 おや宗さんしばらく御目に掛からないうちに大変|御老けなすった事。 これがあの。 兄さん。 御帰りなさい。 御前も新世帯だからさぞ物要が多かろう。 あなたあの事を叔父さんにおっしゃって。 うんまだ云わないよ。 妙ねあれほど気にしていらしったのに。 だって落ちついてそんな事を云い出す暇がないんだもの。 御米あの事はまだ云わないよ。 どうも云うのが面倒で厭になった。 厭なのを無理におっしゃらなくってもいいわ。 好いかい。 好いかいってもともとあなたの事じゃなくって。 私は先からどうでも好いんだわ。 じゃ鹿爪らしく云い出すのも何だか妙だからそのうち機会があったら聞くとしよう。 なにそのうち聞いて見る機会がきっと出て来るよ。 まあいいじゃありませんか。 どうも小六が御厄介になりまして。 宗さんはどうもすっかり変っちまいましたね。 そうよなあ。 やっぱりああ云う事があると永くまで後へ響くものだからな。 本当に怖いもんですね。 元はあんな寝入った子じゃなかったが――どうもはしゃぎ過ぎるくらい活溌でしたからね。 それが二三年見ないうちにまるで別の人みたように老けちまって。 今じゃあなたより御爺さん御爺さんしていますよ。 真逆。 いえ頭や顔は別として様子がさ。 どうですちと御出かけなすっちゃ。 ありがとう。 叔父さんの所へ一度行って見ちゃどうだい。 でも。 御米叔父はとうとう話をしずに死んでしまったよ。 あなたまだあの事を聞くつもりだったのあなたも随分|執念深いのね。 兄さん少し御話があって来たんですが。 できるならばせめて高等学校を卒業するまでと思って今日までいろいろ骨を折ったんだけれども。 そりゃあの時宗さんが若干か置いて行きなすった事は行きなすったがそれはもうありゃしないよ。 叔父さんのまだ生きて御出の時分から御前の学資は融通して来たんだから。 御前も一人じゃなし兄さんもある事だからよく相談をして見たら好いだろう。 その代り私も宗さんに逢ってとっくり訳を話しましょうから。 どうも宗さんも余まり近頃は御出でないし私も御無沙汰ばかりしているのでねつい御前の事は御話をする訳にも行かなかったんだよ。 困ったな。 叔母さんはこっちで小六さんの世話をしろって云う気なんじゃなくって。 まあ逢って聞いて見ないうちはどう云う料簡か分らないがね。 きっとそうよ。 だってそれじゃ無理ね。 人間一人大学を卒業させるなんておれの手際じゃ到底駄目だ。 おやおやまあ御珍らしい事。 宗さん怒っちゃいけませんよ。 ただ叔父さんの云った通りを話すんだから。 そう云う訳でねまことに宗さんにも御気の毒だけれども何しろ取って返しのつかない事だから仕方がない。 運だと思って諦らめて下さい。 もっとも叔父さんさえ生きていればまたどうともなるんでしょうさ。 小六一人ぐらいそりゃ訳はありますまいよ。 よしんば叔父さんがいなさらない今にしたってこっちの都合さえ好ければ焼けた家と同じだけのものを小六に返すかそれでなくっても当人の卒業するまでぐらいはどうにかして世話もできるんですけれども。 でね少しあった株をみんなその方へ廻す事にしたもんだから今じゃ本当に一文なし同然な仕儀でいるんですよ。 それは世間から見ると人数は少なし家邸は持っているし楽に見えるのも無理のないところでしょうさ。 この間も原の御母さんが来てまああなたほど気楽な方はないいつ来て見ても万年青の葉ばかり丹念に洗っているってね。 真逆そうでも無いんですけれども。 その配当だってまだどうなるか分りゃしないんでさあね。 旨く行ったところで一割か一割五分ぐらいなものでしょうしまた一つ間違えばまるで煙にならないとも限らないんですから。 宗さんあれこそ本当に小六が使っちまったんですよ。 小六が高等学校へ這入ってからでももうかれこれ七百円は掛かっているんですもの。 ありあとんだ馬鹿な目に逢って。 宗さん何ですかあの事はまだ御話をしなかったんでしたかね。 おやおやそれじゃ叔父さんが忘れちまったんですよ。 でもねまだ屏風が一つ残っていますよ。 この間引越の時に気がついてこりゃ宗さんのだから今度ついでがあったら届けて上げたらいいだろうって安がそう云っていましたっけ。 宗さんどうせ家じゃ使っていないんだからなんなら持っておいでなすっちゃどうです。 この頃はああいうものが大変|価が出たと云う話じゃありませんか。 叔母さんじゃこの屏風はちょうだいして行きましょう。 ああああ御持ちなさいとも。 何なら使に持たせて上げましょう。 安さんには御逢いなさらなかったの。 ああ安さんは土曜でも何でも夕方まで工場にいるんだそうだ。 随分骨が折れるでしょうね。 小六の事はどうしたものだろう。 そうね。 理窟を云えばこっちにも云い分はあるが云い出せばとどのつまりは裁判沙汰になるばかりだから証拠も何もなければ勝てる訳のものじゃなし。 裁判なんかに勝たなくたってもいいわ。 つまりおれがあの時東京へ出られなかったからの事さ。 そうして東京へ出られた時はもうそんな事はどうでもよかったんですもの。 叔母さんが御前に詳しい説明をしなかったのは短兵急な御前の性質を知ってるせいかそれともまだ小供だと思ってわざと略してしまったのかそこはおれにも分らないが何しろ事実は今云った通りなんだよ。 そうですか。 仕方がないよ。 叔母さんだって安さんだってそう悪い料簡はないんだから。 そりゃ分っています。 じゃおれが悪いって云うんだろう。 おれは無論悪いよ。 昔から今日まで悪いところだらけな男だもの。 御前あの屏風を覚えているかい。 ええ。 一昨日佐伯から届けてくれた。 御父さんの持ってたものでおれの手に残ったのは今じゃこれだけだ。 これが御前の学資になるなら今すぐにでもやるが剥げた屏風一枚で大学を卒業する訳にも行かずな。 この暑いのにこんなものを立てて置くのは気狂じみているが入れておく所がないから仕方がない。 屏風はどうでも好いがこれから先僕はどうしたもんでしょう。 それは問題だ。 何しろことしいっぱいにきまれば好い事だからまあよく考えるさ。 おれも考えて置こう。 そのくらいな事でそれほど不平が並べられればどこへ行ったって大丈夫だ。 学校をやめたっていっこう差支ない。 御前の方がおれよりよっぽどえらいよ。 小六さんの事はどうなって。 まだどうもならないさ。 何を考えていらっしゃるの。 おれももう一返小六みたようになって見たい。 こっちじゃ向がおれのような運命に陥るだろうと思って心配しているのに向じゃ兄貴なんざあ眼中にないから偉いや。 とうてい駄目だね。 どうしたって無理ですわ。 それよりかあの六畳を空けてあすこへ来ちゃいけなくって。 着物は安さんの古いのやあなたのを直して上げたらどうかなるでしょう。 何叔母さんの方じゃこっちでいつまでもあなたの事を放り出したまんま構わずにおくもんだからそれでああおっしゃるのよ。 なに兄さんだってもう少し都合が好ければ疾うにもどうにかしたんですけれども御存じの通りだから実際やむを得なかったんですわ。 しかしこっちからこう云って行けば叔母さんだって安さんだってそれでも否だとは云われないわ。 きっとできるから安心していらっしゃい。 私受合うわ。 何ですね御米さん。 この御部屋は夏は涼しそうで結構だがこれからはちと寒うござんすね。 安さんは。 ええようやくねあなた。 一昨日の晩帰りましてね。 それでついつい御返事も後れちまってまことに済みませんような訳で。 あれもね御蔭さまでようやく学校だけは卒業しましたがこれからが大事のところで心配でございます。 ――それでもこの九月から月島の工場の方へ出る事になりましてまあさいわいとこの分で勉強さえして行ってくれればこの末ともにそう悪い事も無かろうかと思ってるんですけれどもまあ若いものの事ですからこれから先どう変化るか分りゃしませんよ。 神戸へ参ったのも全くその方の用向なので。 石油発動機とか何とか云うものを鰹船へ据え付けるんだとかってねあなた。 私にも何のこったかちっとも分らなかったんですが安之助の講釈を聞いて始めておやそうかいと云うような訳でしてね。 ――もっとも石油発動機は今もって分らないんですけれども。 何でも石油を焚いてそれで船を自由にする器械なんだそうですが聞いて見るとよほど重宝なものらしいんですよ。 それさえ付ければ舟を漕ぐ手間がまるで省けるとかでね。 五里も十里も沖へ出るのに大変楽なんですとさ。 ところがあなたこの日本全国で鰹船の数ったらそれこそ大したものでしょう。 その鰹船が一つずつこの器械を具え付けるようになったら莫大な利益だって云うんでこの頃は夢中になってその方ばっかりに掛っているようですよ。 莫大な利益はありがたいがそう凝って身体でも悪くしちゃつまらないじゃないかってこの間も笑ったくらいで。 御米おれは歯の性がよっぽど悪いと見えるね。 こうやると大抵動くぜ。 もう御年のせいよ。 成功。 成功。 どうもこう弛みますととても元のように緊る訳には参りますまいと思いますが。 何しろ中がエソになっておりますから。 じゃ癒らないんですか。 まあ癒らないと申し上げるよりほかに仕方がござんせんな。 やむを得なければ思い切って抜いてしまうんですが今のところではまだそれほどでもございますまいからただ御痛みだけを留めておきましょう。 何しろエソ――エソと申しても御分りにならないかも知れませんが中がまるで腐っております。 おおそうだったか。 御米佐伯の叔母さんは何とか云って来たのかい。 どうも日が短かくなったなあ。 しかし月謝と小遣ぐらいは都合してやってくれても好さそうなもんじゃないか。 それができないんだって。 どう見積っても両方寄せると十円にはなる。 十円と云う纏った御金を今のところ月々出すのは骨が折れるって云うのよ。 それじゃことしの暮まで二十何円ずつか出してやるのも無理じゃないか。 だから無理をしてももう一二カ月のところだけは間に合せるからそのうちにどうかして下さいと安さんがそう云うんだって。 実際できないのかな。 そりゃ私には分らないわ。 何しろ叔母さんがそう云うのよ。 鰹舟で儲けたらそのくらい訳なさそうなもんじゃないか。 本当ね。 何しろ小六は家へ来るときめるよりほかに道はあるまいよ。 後はその上の事だ。 今じゃ学校へは出ているんだね。 そうでしょう。 勉強。 もう御休みなさらなくって。 うんもう寝よう。 今夜は久し振に論語を読んだ。 論語に何かあって。 いや何にもない。 おいおれの歯はやっぱり年のせいだとさ。 ぐらぐらするのはとても癒らないそうだ。 こうなると少し遣場に困るのね。 御前どうかしたのかい。 大変色が悪いよ。 寒いせいなんでしょう。 こんなものどうしたって片づけようがないわね。 だからそのままにしておくさ。 御米御前子供ができたんじゃないか。 どうですな世の中は。 ちっと面白くしようじゃないか。 この頃はいかにも不景気だよ。 高木の細君は夜具でも構わないがおれは一つ新らしい外套を拵えたいな。 この間歯医者へ行ったら植木屋が薦で盆栽の松の根を包んでいたのでつくづくそう思った。 外套が欲しいって。 ああ。 御拵らえなさいな。 月賦で。 まあ止そうよ。 時に小六はいつから来る気なんだろう。 来るのは厭なんでしょう。 そりゃ下宿からこんな所へ移るのは好かあないだろうよ。 ちょうどこっちが迷惑を感ずる通り向うでも窮屈を感ずる訳だから。 おれだって小六が来ないとすれば今のうち思い切って外套を作るだけの勇気があるんだけれども。 小六さんはまだ私の事を悪んでいらっしゃるでしょうか。 またヒステリーが始まったね。 好いじゃないか小六なんぞがどう思ったって。 おれさえついてれば。 論語にそう書いてあって。 うん書いてある。 さあもう時間よ。 おい。 また靴の中が濡れる。 どうしても二足持っていないと困る。 靴ばかりじゃない。 家の中まで濡れるんだね。 いつまで降る気なんだ。 靴がじめじめして我慢にも穿けやしない。 六畳だって困るわああ漏っちゃ。 あなたあの屏風を売っちゃいけなくって。 せっかく親爺の記念だと思って取って来たようなもののしようがないねこれじゃ場塞げで。 これでもいい絵なんでしょうかね。 そうですな拝見に出てもようがす。 ようがす。 じゃのちほど伺いましょう。 今小僧がちょっと出ておりませんからな。 御払になるなら。 六円に頂いておきましょう。 じゃ奥さんせっかくだからもう一円奮発しましょう。 それで御払い下さい。 でも道具屋さんありゃ抱一ですよ。 抱一は近来|流行りませんからな。 じゃなおよく御相談なすって。 売っちゃいけなくって。 売るなら売っていいがね。 どうせ家に在ったって邪魔になるばかりだから。 けれどもおれはまだ靴は買わないでも済むよ。 この間中みたように降り続けに降られると困るがもう天気も好くなったから。 だってまた降ると困るわ。 安過ぎるでしょうか。 そうさな。 買手にも因るだろうが売手にも因るんだよ。 いくら名画だっておれが持っていた分にはとうていそう高く売れっこはないさ。 しかし七円や八円てえな余り安いようだね。 まるで前の本多さんみたようね。 御爺さんはやっぱり植木を弄っているかい。 だんだん寒くなったからもうやめたんでしょう。 縁の下に植木鉢がたくさん並んでるわ。 ありゃいったい何をする男なんだい。 何にもしないで遊んでるんでしょう。 地面や家作を持って。 なぜほかの家の子供はブランコへ乗せないんだい。 つまり吝なんでしょう。 早く悪くなるから。 あなたあなた。 あなたちょっと起きて下さい。 おい好し。 音は一遍した限なのかい。 だって今したばかりなのよ。 何にも変った事はありゃしない。 多分|御前の夢だろう。 御米お前は神経が過敏になって近頃どうかしているよ。 もう少し頭を休めてよく寝る工夫でもしなくっちゃいけない。 でもあなたは気楽ね。 横になると十分|経たないうちにもう寝ていらっしゃるんだから。 寝る事は寝るが気が楽で寝られるんじゃない。 つまり疲れるからよく寝るんだろう。 清かい。 もう起きてもよくってよ。 さあもう起きてちょうだい。 あすこがもう少し広いといいけれども。 でも可愛いわね。 おいこれをちょっとそこへ置いてくれ。 起き抜けにどこへ行っていらしったの。 おい昨夜枕元で大きな音がしたのはやっぱり夢じゃなかったんだ。 泥棒だよ。 泥棒が坂井さんの崖の上から宅の庭へ飛び下りた音だ。 今裏へ回って見たらこの文庫が落ちていて中にはいっていた手紙なんぞがむちゃくちゃに放り出してあった。 おまけに御馳走まで置いて行った。 坂井さんじゃほかに何か取られたでしょうか。 ことに因るとまだ何かやられたね。 そうおっしゃるけれどこれが坂井さんでなくって宅で御覧なさい。 あなたみたようにぐうぐう寝ていらしったら困るじゃないの。 なに宅なんぞへ這入る気遣はないから大丈夫だ。 この間|拵えた旦那様の外套でも取られようものならそれこそ騒ぎでございましたね。 御宅でなくって坂井さんだったから本当に結構でございます。 これはこちらのでしょう。 今朝|私の家の裏に落ちていましたから持って来ました。 そうでございましたかどうも。 文庫は御宅のでしょうね。 いいんでしょうね。 どうぞ御通り下さい。 いやどうもとんだ御手数で。 平常のように犬がいると好かったんですがね。 あいにく病気なので四五日前病院へ入れてしまったもんですから。 それは惜しい事でした。 猟は好ですから。 もっとも近来は神経痛で少し休んでいますが。 何しろ秋口から冬へ掛けて鴫なぞを打ちに行くとどうしても腰から下は田の中へ浸って二時間も三時間も暮らさなければならないんですから全く身体には好くないようです。 これからまた例の通り出かけなければなりませんから。 どうかちと御話に。 私も近頃はむしろ閑な方ですからまた御邪魔に出ますから。 あなたどうなすったの。 あの坂井と云う人はよっぽど気楽な人だね。 金があるとああ緩くりできるもんかな。 小六さん茶の間から始めて。 それとも座敷の方を先にして。 姉さん障子を張るときはよほど慎重にしないと失策るです。 洗っちゃ駄目ですぜ。 寒いでしょう御気の毒さまね。 あいにく御天気が時雨れたもんだから。 こんな紙じゃまたすぐ破けますね。 そう。 でも宅じゃ小供がないからそれほどでもなくってよ。 皺が少しできたのね。 どうせ僕の御手際じゃ旨く行かない。 なに兄さんだってそう御上手じゃなくってよ。 それに兄さんはあなたよりよっぽど無精ね。 もう一枚張って茶の間だけ済ましてから休みましょう。 小六さん下宿は御馳走があって。 なにそうでもありません。 兄さんは来年になると月給が上がるんでしょう。 どうして。 でも新聞で見ると来年から一般に官吏の増俸があると云う話じゃありませんか。 全くね。 これじゃ誰だってやって行けないわ。 御肴の切身なんか私が東京へ来てからでももう倍になってるんですもの。 小六さんもその時分だと訳なく大学が卒業できたのにね。 兄さんもその時分だと大変暮しやすい訳ですね。 どうも御苦労さま。 疲れたでしょう。 坂井と云う人は大学出なんですか。 ええやっぱりそうなんですって。 兄さんは増俸の事をまだあなたに話さないんですか。 いいえちっとも。 兄さんみたようになれたら好いだろうな。 不平も何もなくって。 あなた坂井さんはやっぱり髭を生やしていてよ。 こんなものをくれるところをもって見るとそれほど吝でもないようだね。 他の家の子をブランコへ乗せてやらないって云うのは嘘だろう。 きっと嘘よ。 御蔭で取られた品物がまた戻りましたよ。 泥棒も持ち扱かったんでしょう。 それとも余り金にならないんでやむを得ず返してくれる気になったんですかね。 何しろ珍らしい事で。 何私から云うと実はあの文庫の方がむしろ大切な品でしてね。 祖母が昔し御殿へ勤めていた時分戴いたんだとか云ってまあ記念のようなものですから。 世間の広い方ね。 閑だからさ。 やあ昨夜は。 今御帰りですか。 何か御求めですか。 いえ何。 あの爺いなかなか猾い奴ですよ。 崋山の偽物を持って来て押付ようとしやがるから今叱りつけてやったんです。 あれは書画には明るい男なんですか。 なに書画どころかまるで何も分らない奴です。 あの店の様子を見ても分るじゃありませんか。 骨董らしいものは一つも並んでいやしない。 もとが紙屑屋から出世してあれだけになったんですからね。 小さい内から悪戯ものでね。 あいつが餓鬼大将になってよく喧嘩をしに行った事がありますよ。 なに親父の代から贔屓にしてやってるものですから時々|何だ蚊だって持って来るんです。 ところが眼も利かない癖にただ慾ばりたがってねまことに取扱い悪い代物です。 それについこの間抱一の屏風を買って貰って味を占めたんでね。 まあ台所で使う食卓かたかだか新の鉄瓶ぐらいしかあんな所じゃ買えたもんじゃありません。 近い中御邪魔に出てもようございますか。 どうぞ。 座敷の真中にそんなものを据えて今日はどうしたんだい。 でも御客も何もないからいいでしょう。 だって六畳の方は小六さんがいて塞がっているんですもの。 ここは寒帯だから炬燵でも置かなくっちゃ凌げない。 小六はいるのかい。 まあ。 じゃきっとあれよ。 きっとあれに違ないわね。 全体いくらで売ったのです。 よう御姉様またいつものように叔母さんごっこしましょうよ。 ええ今日は西洋の叔母さんごっこよ。 東作さんは御父さまだからパパで雪子さんは御母さまだからママって云うのよ。 よくって。 おかしいわね。 ママだって。 私それでもいつも御祖母さまなのよ。 御祖母さまの西洋の名がなくっちゃいけないわねえ。 御祖母さまは何て云うの。 御祖母さまはやっぱりババでいいでしょう。 さあ御前達はここで騒ぐんじゃない。 あっちへ行っておいで。 御客さまだから。 厭だよ。 御父っちゃんべい。 大きい御馬買ってくれなくっちゃあっちへ行かないよ。 大変|御賑やかで結構です。 いや御覧のごとく乱雑な有様で。 つい二三日前までそこへ立てておいたのですが例の子供が面白半分にわざと屏風の影へ集まっていろいろな悪戯をするものですから傷でもつけられちゃ大変だと思ってしまい込んでしまいました。 これは素性のたしかなものです。 出が出ですからね。 なるほど。 まあ掘出し物ですね。 八十円で買いました。 じゃあなたは別に書画が好きで見にいらしった訳でもないんですね。 じゃ鰹船の方はもう止したの。 止したんじゃないんですがあの方は費用が随分かかるのでいくら便利でもそう誰も彼も拵える訳に行かないんだそうです。 やっぱり何をしたってそう旨く行くもんじゃあるまいよ。 坂井さんみたように御金があって遊んでいるのが一番いいわね。 小六さんは安さんの所へ行くたんびに小遣でも貰って来るんでしょうか。 なぜ。 だってこの頃よく御酒を呑んで帰って来る事があるのよ。 安さんが例の発明や金儲けの話をするときその聞き賃に奢るのかも知れない。 小六さんに御酒を止めるようにあなたから云っちゃいけなくって。 そんなに意見しなければならないほど飲むのか。 小六さん御酒好き。 もう直御正月ね。 あなた御雑煮いくつ上がって。 だって小六さんなんかまだ若いじゃありませんか。 何をしたってこれからだわ。 そりゃ兄さんの事よ。 そう悲観してもいいのは。 来年になれば安さんの方でどうか都合して上げるって受合って下すったんじゃなくって。 そりゃ安さんの計画が口でいう通り旨く行けば訳はないんでしょうがだんだん考えると何だか少し当にならないような気がし出してね。 鰹船もあんまり儲からないようだから。 本当にね。 兄さんにさえ御金があるとどうでもして上げる事ができるんだけれども。 好い器量。 まあ好い方でしょう。 やっぱり物質的の必要かららしいです。 先が何でもよほど派出な家なんで叔母さんの方でもそう単簡に済まされないんでしょう。 大丈夫よ。 御気分はいかがでございます。 賑やかだよ。 ちょっと行って御覧。 なに電車に乗って行けば訳はない。 あなたちょっと。 もう少し後の方。 清御前急いで通りへ行って氷嚢を買って医者を呼んで来い。 まだ早いから起きてるだろう。 九時十五分でございます。 どうかなすったんですか。 兄さん医者まで行くのは急いでも時間が掛かりますから坂井さんの電話を借りてすぐ来るように頼みましょう。 ああ。 そうしてくれ。 だいぶ冷えますな。 もう大丈夫でしょう。 頓服を一回上げますから今夜飲んで御覧なさい。 多分寝られるだろうと思います。 もう何時。 少しはいいだろう。 ええよっぽど楽になったわ。 清を寝かしてやって下さい。 好い塩梅だ。 もう大丈夫でしょう。 医者へ行ってね。 昨夜の薬を戴いてから寝出して今になっても眼が覚めませんが差支ないでしょうかって聞いて来てくれ。 はあ。 云い出すなら御米の寝ている今である。 今ならどんな気不味いことを双方で言い募ったって御米の神経に障る気遣はない。 少し薬が利き過ぎましたね。 しかし御心配になる事はありません。 こう云う場合にもし悪い結果が起るとするときっと心臓か脳を冒すものですが今拝見したところでは双方共異状は認められませんから。 では寝られるだけ寝かしておいても差支ありませんか。 これは甲斐の国から反物を背負ってわざわざ東京まで出て来る男なんです。 どうか旦那一つ買っておくれ。 字の書けるものはこの人ぎりなんだそうですよ。 本当のこんだよ奥さん。 読み書き算筆のできるものはおれよりほかにねえんだからね。 全く非道い所にゃ違ない。 買っておくれ。 値じゃねえね。 拝むからそれで買っておくれ。 まあ目方を見ておくれ。 織屋御前そうして荷を背負って外へ出て時分どきになったらやっぱり御膳を食べるんだろうね。 飯を食わねえでいられるもんじゃないよ。 腹の減る事ちゅうたら。 どんな所で食べるの。 どんな所で食べるちゅうてやっぱり茶屋で食うだね。 どうですあなたもついでに何か一つ。 奥さんの不断着でも。 なに御払はいつでもいいんです。 全く値じゃねえね。 泣きたくなるね。 宅へ来出してからもう四五年になりますがいつ見ても同じ事で少しも変らないんですよ。 実際珍らしい男です。 あなた今夜敷いて寝て下さい。 どうしてそう安く売って割に合うんでしょう。 なに中へ立つ呉服屋が儲け過ぎてるのさ。 なに金があるばかりじゃない。 一つは子供が多いからさ。 子供さえあれば大抵貧乏な家でも陽気になるものだ。 あなた先刻小供がないと淋しくっていけないとおっしゃってね。 何も宅の事を云ったのじゃないよ。 でも宅の事を始終淋しい淋しいと思っていらっしゃるから必竟あんな事をおっしゃるんでしょう。 淋しいと云えばそりゃ淋しくないでもないがね。 まあいいや。 心配するな。 昨夕も火事があったね。 私は実にあなたに御気の毒で。 疾からあなたに打ち明けて謝罪まろう謝罪まろうと思っていたんですがつい言い悪かったもんだからそれなりにしておいたのです。 私にはとても子供のできる見込はないのよ。 子供なんざ無くてもいいじゃないか。 上の坂井さんみたようにたくさん生れて御覧傍から見ていても気の毒だよ。 まるで幼稚園のようで。 だって一人もできないときまっちまったらあなただって好かないでしょう。 まだできないときまりゃしないじゃないか。 これから生れるかも知れないやね。 どうしましょう。 よく気をつけないと危ないよ。 あなたには子供はできません。 なぜでしょう。 あなたは人に対してすまない事をした覚がある。 その罪が祟っているから子供はけっして育たない。 神経の起った時わざわざそんな馬鹿な所へ出かけるからさ。 銭を出して下らない事を云われてつまらないじゃないか。 その後もその占の宅へ行くのかい。 恐ろしいからもうけっして行かないわ。 行かないがいい。 馬鹿気ている。 なに不景気な顔さえしなければどこへ行ったって驩迎されるもんだよ。 君は身体が丈夫だから結構だ。 もうこんな古臭い所には厭きた。 そう云う所に人間がよく生きていられるな。 なるたけ節倹しなくちゃいけない。 来年また帰って来るまでは会わないから随分気をつけて。 世話ってただ不味い菜を拵らえて三度ずつ室へ運んでくれるだけだよ。 しかるに。 それでどこに。 どうしてそんな所へ這入ったのだ。 当分そこにいるつもりなのかい。 下宿生活はもうやめて小さい家でも借りようかと思っている。 これは僕の妹だ。 今まで御国の方に。 いや横浜に長く。 なに宅を持ち立てだものだから毎日毎日|要るものを新らしく発見するんで一週に一二返は是非都まで買い出しに行かなければならない。 途までいっしょに出掛けよう。 京都は好い所ね。 遊びに来たまえ。 どうぞ是非。 いったいこりゃどう云う了見だね。 知らないわ。 ただそうしておけばいいのよ。 こうしておいてつまり食うためか。 格好はどうでも食いさいすればいいんだ。 いやどうも。 押しつまってさぞ御忙しいでしょう。 この通りごたごたです。 さあどうぞこちらへ。 何ですな御互に正月にはもう飽きましたな。 いくら面白いものでも四十|辺以上繰り返すと厭になりますね。 どうなすったの随分長かったわね。 払はもう皆済んだのかい。 来たら払ってちょうだい。 小六はどうした。 先刻大晦日の夜の景色を見て来るって出て行ったのよ。 随分御苦労さまね。 この寒いのに。 御若いから。 どこの夜景を見る気なんだ。 銀座から日本橋通のだって。 どうも込んで込んで洗う事も桶を取る事もできないくらいなの。 姉さんに上げましょう。 坂井の御嬢さんにでも御上げなさい。 こりゃいけない。 どうも済みません。 本当に御気の毒さま。 御米ここから出かけるにはどこへ行くにも足駄を穿かなくっちゃならないように見えるだろう。 ところが下町へ出ると大違だ。 どの通もどの通もからからでかえって埃が立つくらいだから足駄なんぞ穿いちゃきまりが悪くって歩けやしない。 つまりこう云う所に住んでいる我々は一世紀がた後れる事になるんだね。 坂井さんへ行ってそう云っていらっしゃいな。 そうして屋賃でも負けて貰う事にしよう。 何をするんだろう。 きっと歌加留多でしょう。 小供が多いから。 あなた行っていらっしゃい。 せっかくだから御前行くが好い。 おれは歌留多は久しく取らないから駄目だ。 私も久しく取らないから駄目ですわ。 若旦那行って来い。 此垣一重が黒鉄の。 随分念の入った趣向だね。 いったい誰の考だい。 誰ですかな。 春もようやく一段落が着いた。 まだ何か催おしがあるのかい。 それじゃ行こう。 あっちへ行きましょう。 さあどうぞ。 ちょっと待ちたまえ。 これが僕の洞窟で面倒になるとここへ避難するんです。 ここにいるともうどことも交渉はない。 全く気楽です。 悠くりしていらっしゃい。 実際正月と云うものは予想外に煩瑣いものですね。 私も昨日まででほとんどへとへとに降参させられました。 新年が停滞ているのは実に苦しいですよ。 それで今日の午からとうとう塵世を遠ざけて病気になってぐっと寝込んじまいました。 今しがた眼を覚まして湯に入ってそれから飯を食って煙草を呑んで気がついて見ると家内が子供を連れて親類へ行って留守なんでしょう。 なるほど静かなはずだと思いましてね。 すると今度は急に退屈になったのです。 人間も随分わがままなものですよ。 しかしいくら退屈だってこの上おめでたいものを見たり聞いたりしちゃ骨が折れますしまた御正月らしいものを呑んだり食ったりするのも恐れますからそれで御正月らしくないと云うと失礼だがまあ世の中とあまり縁のないあなたと云ってもまだ失敬かも知れないがつまり一口に云うと超然派の一人と話しがして見たくなったんでそれでわざわざ使を上げたような訳なんです。 どうです暖かい内に。 いやできたてじゃありません。 実は昨夜ある所へ行って冗談半分に賞めたら御土産に持っていらっしゃいと云うから貰って来たんです。 その時は全く暖たかだったんですがね。 これは今上げようと思って蒸し返さしたのです。 それでね孔子の門人のうちで子路が一番|好だって云うんですがね。 そのいわれを聞くと子路と云う男は一つ何か教わってそれをまだ行わないうちにまた新らしい事を聞くと苦にするほど正直だからだって云うんです。 実のところ私も子路はあまりよく知らないから困ったが何しろ一人好い人ができてそれと夫婦にならない前にまた新らしく好い人ができると苦になるようなものじゃないかって聞いて見たんです。 さようそれと反対で社会教育だけあって学校教育のないものは随分複雑な性情を発揮する代りに頭はいつまでも小供ですからね。 かえって始末が悪いかも知れない。 どうです私の所へ書生に寄こしちゃ少しは社会教育になるかも知れない。 そいつは好いでしょう。 いや弟などを有っていると随分|厄介なものですよ。 私も一人やくざなのを世話をした覚がありますがね。 冒険者。 それから後私もどうしたかよく知らなかったんですがその後ようやく聞いて見ると驚ろきましたね。 蒙古へ這入って漂浪いているんです。 どこまで山気があるんだか分らないんで私も少々|剣呑になってるんですよ。 それでも離れているうちはまあどうかしているだろうぐらいに思って放っておきます。 時たま音便があったって蒙古という所は水に乏しい所で暑い時には往来へ泥溝の水を撒くとかねまたはその泥溝の水が無くなると今度は馬の小便を撒くとかしたがってはなはだ臭いとかまあそんな手紙が来るだけですから――そりゃあ金の事も云って来ますがなに東京と蒙古だから打遣っておけばそれまでです。 だから離れてさえいればまあいいんですがそいつが去年の暮突然出て来ましてね。 土産にこんなものを持って来ました。 蒙古刀だそうです。 こりゃ箸ですよ。 蒙古人は始終これを腰へぶら下げていていざ御馳走という段になるとこの刀を抜いて肉を切ってそうしてこの箸で傍から食うんだそうです。 まだ蒙古人の天幕に使うフェルトも貰いましたがまあ昔の毛氈と変ったところもありませんね。 冒険者。 何をしているか分らない。 私には牧畜をやっています。 しかも成功していますと云うんですがねいっこう当にはなりません。 今までもよく法螺を吹いて私を欺したもんです。 それに今度東京へ出て来た用事と云うのがよっぽど妙です。 何とか云う蒙古王のために金を二万円ばかり借りたい。 もし借してやらないと自分の信用に関わるって奔走しているんですからね。 そのとっぱじめに捕まったのは私だがいくら蒙古王だっていくら広い土地を抵当にするったって蒙古と東京じゃ催促さえできやしませんもの。 で私が断ると蔭へ廻って妻に兄さんはあれだから大きな仕事ができっこないって威張っているんです。 しようがない。 どうです一遍逢って御覧になっちゃわざわざ毛皮の着いただぶだぶしたものなんか着てちょっと面白いですよ。 何なら御紹介しましょう。 ちょうど明後日の晩呼んで飯を食わせる事になっているから。 ――なに引っ掛っちゃいけませんがね。 黙って向に喋舌らして聞いている分には少しも危険はありません。 ただ面白いだけです。 おいでになるのは御令弟だけですか。 いやほかに一人|弟の友達で向からいっしょに来たものが来るはずになっています。 安井とか云って私はまだ逢った事もない男ですが弟がしきりに私に紹介したがるから実はそれで二人を呼ぶ事にしたんです。 まあよかろう。 病気よりはね。 御米御前信仰の心が起った事があるかい。 あるわ。 あなたは。 少し具合が悪いからすぐ寝よう。 どうなすったの。 どうなすったの。 何だか少し心持が悪い。 しばらくこうしてじっとしていたらよくなるだろう。 あっちへ行っていてもいいよ。 用があれば呼ぶから。 御米御米。 熱い湯を一杯貰おう。 昨夕は驚ろいたわ。 どうなすったのかと思って。 どうもなくって。 好い案排ね風が無くなって。 昼間のように吹かれると家に坐っていても何だか気味が悪くってしようがないわ。 今夜は少し暖たかいようだね。 穏やかで好い御正月だ。 御米寄席へでも行って見ようか。 大変な人ね。 やっぱり春だから入るんだろう。 どうだもう帰ろうか。 厭なの。 どうでもいいわ。 面白かったですか。 冒険者。 今の世に。 もう飯は食わないよ。 おやそう。 余り遅いからおおかたどこかで召上がったろうとは思ったけれどもしまだだといけないから。 何別にこれという理由もなかったのだけれども――ついあすこいらで牛が食いたくなっただけの事さ。 そうして御腹を消化すためにわざわざここまで歩るいていらしったの。 まあそうだ。 留守に坂井さんから迎いに来なかったかい。 いいえなぜ。 一昨日の晩行ったとき御馳走するとか云っていたからさ。 また。 少し脳が悪いから一週間ほど役所を休んで遊んで来るよ。 遊びに行くってどこへいらっしゃるの。 やっぱり鎌倉辺が好かろうと思っている。 まあ御金持ね。 私もいっしょに連れてってちょうだい。 そんな贅沢な所へ行くんじゃないよ。 禅寺へ留めて貰って一週間か十日ただ静かに頭を休めて見るだけの事さ。 それもはたして好くなるかならないか分らないが空気のいい所へ行くと頭には大変違うと皆云うから。 そりゃ違いますわ。 だから行っていらっしゃいとも。 今のは本当の冗談よ。 この間まで侍者をしていましたがこの頃では塔頭にある古い庵室に手を入れてそこに住んでいるとか聞きました。 どうですかまあ着いたら尋ねて御覧なさい。 庵の名はたしか一窓庵でした。 宜道さんとおっしゃる方はこちらにおいででしょうか。 私が宜道です。 ようこそ。 御寒うございましょう。 大変御静なようですが今日はどなたも御留守なんですか。 いえ今日に限らずいつも私一人です。 だから用のあるときは構わず明け放しにして出ます。 今もちょっと下まで行って用を足して参りました。 それがためせっかくおいでのところを失礼致しました。 いえちっとも御遠慮には及びません。 道のためでございますから。 気楽ではいけません。 道楽にできるものなら二十年も三十年も雲水をして苦しむものはありません。 御室へ御案内しましょう。 老師が相見になるそうでございますから御都合が宜しければ参りましょう。 あすこが老師の住んでいられる所です。 ちょっと失礼します。 さあどうぞ。 まあ何から入っても同じであるが。 父母未生以前本来の面目は何だかそれを一つ考えて見たら善かろう。 今夜はまだ見解もできないかも知れませんから明朝か明晩御誘い申しましょう。 御早う。 先刻御誘い申そうと思いましたがよく御寝のようでしたから失礼して一人参りました。 書物を読むのはごく悪うございます。 有体に云うと読書ほど修業の妨になるものは無いようです。 私共でもこうして碧巌などを読みますが自分の程度以上のところになるとまるで見当がつきません。 それを好加減に揣摩する癖がつくとそれが坐る時の妨になって自分以上の境界を予期して見たり悟を待ち受けて見たり充分突込んで行くべきところに頓挫ができます。 大変毒になりますから御止しになった方がよいでしょう。 もし強いて何か御読みになりたければ禅関策進というような人の勇気を鼓舞したり激励したりするものが宜しゅうございましょう。 それだってただ刺戟の方便として読むだけで道その物とは無関係です。 手がないものだからつい遅くなりまして御気の毒です。 すぐ御膳に致しましょう。 しかしこんな所だから上げるものがなくって困ります。 その代り明日あたりは御馳走に風呂でも立てましょう。 今夜は御誘い申しますからこれから夕方までしっかり御坐りなさいまし。 危険うございます。 一拝で宜しい。 もっとぎろりとしたところを持って来なければ駄目だ。 そのくらいな事は少し学問をしたものなら誰でも云える。 御早う。 今朝もつい寝忘れて失礼しました。 ようやくこの頃になって少し楽になりました。 しかしまだ先がございます。 修業は実際苦しいものです。 そう容易にできるものならいくら私共が馬鹿だってこうして十年も二十年も苦しむ訳がございません。 けっして損になる気遣はございません。 十分坐れば十分の功があり二十分坐れば二十分の徳があるのは無論です。 その上最初を一つ奇麗にぶち抜いておけばあとはこう云う風に始終ここにおいでにならないでも済みますから。 野中さん提唱です。 我に三等の弟子あり。 いわゆる猛烈にして諸縁を放下し専一に己事を究明するこれを上等と名づく。 修業純ならず駁雑学を好むこれを中等と云う。 ありがたい結構な本です。 この頃室中に来ってどうも妄想が起っていけないなどと訴えるものがあるが。 ああして提唱のある時によく参禅者の不心得を諷せられます。 すでに頭の中にそうしようと云う下心があるからいけないのです。 私のようなものにはとうてい悟は開かれそうに有りません。 いえ信念さえあれば誰でも悟れます。 法華の凝り固まりが夢中に太鼓を叩くようにやって御覧なさい。 頭の巓辺から足の爪先までがことごとく公案で充実したとき俄然として新天地が現前するのでございます。 道は近きにありかえってこれを遠きに求むという言葉があるが実際です。 つい鼻の先にあるのですけれどもどうしても気がつきません。 永々御世話になりました。 残念ですがどうも仕方がありません。 もう当分御眼にかかる折もございますまいから随分|御機嫌よう。 御世話どころか万事不行届でさぞ御窮屈でございましたろう。 しかしこれほど御坐りになってもだいぶ違います。 わざわざおいでになっただけの事は充分ございます。 悟の遅速は全く人の性質でそれだけでは優劣にはなりません。 入りやすくても後で塞えて動かない人もありますしまた初め長く掛かってもいよいよと云う場合に非常に痛快にできるのもあります。 けっして失望なさる事はございません。 ただ熱心が大切です。 亡くなられた洪川和尚などはもと儒教をやられて中年からの修業でございましたが僧になってから三年の間と云うものまるで一則も通らなかったです。 それで私は業が深くて悟れないのだと云って毎朝|厠に向って礼拝されたくらいでありましたが後にはあのような知識になられました。 これなどはもっとも好い例です。 敲いても駄目だ。 独りで開けて入れ。 東京はまだ寒いでしょう。 少しでも手がかりができてからだと帰ったあとも楽だけれども。 惜しい事で。 汽車に乗ると短かい道中でも気のせいか疲れるね。 留守中に別段変った事はなかったかい。 いくら保養でも家へ帰ると少しは気疲が出るものよ。 けれどもあなたは余まり爺々汚いわ。 後生だから一休したら御湯に行って頭を刈って髭を剃って来てちょうだい。 坂井さんからはその後何とも云って来ないかい。 いいえ何とも。 小六の事も。 いいえ。 気楽でしょうね。 留守居も何もおかないで出られたら。 それで一日いくら出すと置いてくれるんです。 鉄砲でも担いで行って猟でもしたら面白かろう。 しかし退屈ね。 そんなに淋しくっちゃ。 朝から晩まで寝ていらっしゃる訳にも行かないでしょう。 もう少し滋養物が食える所でなくっちゃあやっぱり身体によくないでしょう。 ちょっと坂井さんまで行って来る。 よくおいでです。 どうも相変らず寒いじゃありませんか。 そら今度こそ雪子の勝だ。 とうとう雪子に負けた。 どうですまた洞窟へでも引き込みますかな。 相変らず掛かっておりますな。 ええちと物数奇過ぎますね蒙古刀は。 ところが弟の野郎そんな玩具を持って来ては兄貴を籠絡するつもりだから困りものじゃありませんか。 御舎弟はその後どうなさいました。 ええようやく四五日前帰りました。 ありゃ全く蒙古向ですね。 御前のような夷狄は東京にゃ調和しないから早く帰れったら私もそう思うって帰って行きました。 どうしてもありゃ万里の長城の向側にいるべき人物ですよ。 そうしてゴビの沙漠の中で金剛石でも捜していればいいんです。 もう一人の御伴侶は。 安井ですかあれも無論いっしょです。 ああなると落ちついちゃいられないと見えますね。 何でも元は京都大学にいたこともあるんだとか云う話ですが。 どうしてああ変化したものですかね。 あなたはもしや私の名を安井の前で口にしやしませんか。 どうです一つ。 これはね昨日ある人の銀婚式に呼ばれて貰って来たのだからすこぶるおめでたいのです。 あなたも一切ぐらい肖ってもいいでしょう。 何実を云うと二十年も三十年も夫婦が皺だらけになって生きていたって別におめでたくもありませんがそこが物は比較的なところでね。 私はいつか清水谷の公園の前を通って驚ろいた事がある。 死屍累々とはあの事ですね。 それが皆夫婦なんだから実際気の毒ですよ。 つまりあすこを二三丁通るうちに我々は悲劇にいくつ出逢うか分らないんです。 それを考えると御互は実に幸福でさあ。 夫婦になってるのが悪らしいって石で頭を破られる恐れはまあ無いですからね。 しかも双方ともに二十年も三十年も安全なら全くおめでたいに違ありませんよ。 だから一切ぐらい肖っておく必要もあるでしょう。 今度はおれの番かも知れない。 まあ助かった。 原則通り二割五分増さないでも仕方があるまい。 休められた人も元給のままでいる人もたくさんあるんだから。 やあ御馳走だなあ。 ようやく冬が過ぎたようね。 あなた今度の土曜に佐伯の叔母さんのところへ回って小六さんの事をきめていらっしゃいよ。 あんまりいつまでも放っておくとまた安さんが忘れてしまうから。 うん思い切って行って来よう。 まだ鳴きはじめだから下手だね。 ええまだ充分に舌が回りません。 本当にありがたいわね。 ようやくの事春になって。 うんしかしまたじき冬になるよ。 死んだら埋めて下さい。 大きな真珠貝で穴を掘って。 そうして天から落ちて来る星の破片を墓標に置いて下さい。 そうして墓の傍に待っていて下さい。 また逢いに来ますから。 日が出るでしょう。 それから日が沈むでしょう。 それからまた出るでしょうそうしてまた沈むでしょう。 ――赤い日が東から西へ東から西へと落ちて行くうちに――あなた待っていられますか。 百年待っていて下さい。 百年私の墓の傍に坐って待っていて下さい。 きっと逢いに来ますから。 百年はもう来ていたんだな。 田圃へかかったね。 どうして解る。 だって鷺が鳴くじゃないか。 ふふん。 何を笑うんだ。 御父さん重いかい。 重かあない。 今に重くなるよ。 石が立ってるはずだがな。 左が好いだろう。 遠慮しないでもいい。 どうも盲目は不自由でいけないね。 だから負ってやるからいいじゃないか。 負ぶって貰ってすまないがどうも人に馬鹿にされていけない。 親にまで馬鹿にされるからいけない。 もう少し行くと解る。 ――ちょうどこんな晩だったな。 何が。 何がって知ってるじゃないか。 ここだここだ。 ちょうどその杉の根の処だ。 御父さんその杉の根の処だったね。 うんそうだ。 文化五年|辰年だろう。 御前がおれを殺したのは今からちょうど百年前だね。 御爺さんはいくつかね。 いくつか忘れたよ。 御爺さんの家はどこかね。 臍の奥だよ。 どこへ行くかね。 あっちへ行くよ。 真直かい。 今にその手拭が蛇になるから見ておろう。 見ておろう。 見ておろう見ておろう好いか。 こうしておくと箱の中で蛇になる。 今に見せてやる。 今に見せてやる。 今になる。 蛇になる。 今になる蛇になるきっとなる笛が鳴る。 深くなる夜になる真直になる。 大きなもんだなあ。 人間を拵えるよりもよっぽど骨が折れるだろう。 へえ仁王だね。 今でも仁王を彫るのかね。 へえそうかね。 私ゃまた仁王はみんな古いのばかりかと思ってた。 どうも強そうですね。 なんだってえますぜ。 昔から誰が強いって仁王ほど強い人あ無いって云いますぜ。 何でも日本武尊よりも強いんだってえからね。 さすがは運慶だな。 眼中に我々なしだ。 天下の英雄はただ仁王と我れとあるのみと云う態度だ。 天晴れだ。 あの鑿と槌の使い方を見たまえ。 大自在の妙境に達している。 よくああ無造作に鑿を使って思うような眉や鼻ができるものだな。 なにあれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。 あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを鑿と槌の力で掘り出すまでだ。 まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない。 この船は西へ行くんですか。 なぜ。 落ちて行く日を追かけるようだから。 西へ行く日の果は東か。 それは本真か。 東出る日の御里は西か。 それも本真か。 身は波の上。 ※枕。 流せ流せ。 さあ頭もだがどうだろう物になるだろうか。 旦那は表の金魚売を御覧なすったか。 洗いましょう。 御父様は。 あっち。 いつ御帰り。 あっち。 今に御帰り。 今に。 御父様はどこ。 今に。 好い子だから少しの間待っておいでよ。 元旦。 彼岸過迄。 彼岸過迄。 ビステキ。 ほととぎす。 オキスフォード。 アン。 チェヤリングクロス。 グード・フライデー。 イースター。 イースター・サンデー。 イースター・モンデー。 シェクスピヤ。 ストラトフォドオンアヴォン。 シャッター。 シャッター。 カルルス。 ロッチ。 ドッズレー。 コレクション。 ウァートン。 カルトーバー。 ゴング。 カルルス。 シェヴィング・ブラッシ。 シャッター。 オートミール。 ジョンソン。 オートミール。 ベーコン。 ベーコン。 いや御早う。 エッジヒル。 シャツ。 ズボン。 シェクスピヤ。 アルバム。 シェクスピヤ。 スタンダード。 トルストイ。 トルストイ。 トルストイ。 トルストイ。 トルストイ。 トルストイ。 イースター・モンデー。 アクエリアム。 ライシアム。 アーヴィング。 シェクスピヤ。 コリオラナス。 ハー・マジェスチー。 トリー。 トェルフスナイト。 アーヴィング。 ケニントン。 テームス。 ウエスト・エンド。 リフト。 リフト。 リフト。 バンク。 バンク。 ビスケット。 ホトトギス。 ビステキ。 カムバーウェル。 夏目さんあなたの御存じの方でいらしっていただく方はありますまいか。 さよう実に御気の毒だから周旋したいのだが倫敦には別に朋友というものがないから――。 あなたもいっしょに引越して下さいますか。 下さいますか。 下さいますか。 下さいますか。 世の中の事は乱雑で法則がないようですがよく御覧になると皆進化の道理に支配されております進化分りますか。 ノート。 テレグラフ。 スタンダード。 宿料低廉風呂付食物上等。 ハイドパークに面し地下電気へ三分地下鉄道へ五分貴女と交際の便利あり。 球突随意ピヤノありgaysociety,latedinner。 レートジンナー。 立派なる室を有する寡婦及その妹と共に同宿せんとするあまり派出やかならざる紳士を求む。 御望の方は○○筆墨店へ御一報を乞う。 実はあなたも御承知の通りこの度引越す事にきまりましたがどうでしょう向うはここよりも大分|奇麗でかつ器具などもよほど上等にしますが来ていただく訳には参りますまいか。 それは君の方で僕に是非来てくれと言うのなら。 イエ是非といって御無理を願う訳ではありませんが御都合がよければ――実は御馴染にもなっておりますし家内や妹も大変それを希望致しますから。 君の新宅へ下宿人を置きたいという事は僕も承知していますがあながち僕でなくっても善いだろうと思ってね。 それじゃこうしよういずれ先方から返事が来る来ればひとまず行って室を見てそれが気に入らなかったら君の方へ行くとしようほかを探す事はやめにして。 あの手紙を出す前に君の方の希望がどのくらいの程度だか分っていれば聞き合せるまでもない御望みに応じたのだがこうなっては仕方がない。 まず先方の返事次第ですね。 その代りほかはけっしてさがさない。 あれがいけなければきっと君の方へ行きますよ。 テーブル。 ナイフ。 御問合せの件に付申上候。 この家はレデーの所有にて室内の装飾の立派なるはもちろん室々はことごとく電気灯を用いよき召使を雇い高尚優雅なる生活に適するように意を用い候。 宿料は一週三十三円に御座候。 あるいは御気に召さぬかと存じ候えども御出被下候えば喜こんで室々御案内|可仕候敬具。 とうとうあなたの方へ行く事にしましたよ。 一週三十三円の下宿料なんかとうてい我輩には払えんから君の方へ行きましょうよ。 はあそうですかどうもありがとうなるべく気をつけますからどうぞさよう願いたいもので。 今日は飼っていた鸚鵡を売りました。 前使った学校の招牌も売りました。 十円に買って行きました。 ちょっと○○さんこういう手紙なんです聞いて下さい。 拝啓妾は驚入申候。 どうですもう少しゆっくり読みましょうか妾は驚き入申候。 昨日は三度ならず四度までも留守宅へ御来臨の上|下婢に向って妾ら身の上に関する種々なる質問を発せられそれのみならず無断にて人の家を捜索なされあまつさえ下婢に向って妾はレデーの資格なきものなりなど余計な事を吹聴せられ候由元来右はいかなる御主意に御座候や伺度候。 この乱暴なる貴下の挙動に対し妾は弁解を求むる権利ありと存候。 こう云うのです。 これがね策なんですよ。 あの本はね大変|善くできているのですがねどうも作者の宗旨が何だか分らないのですよ。 私の知っている者なんか皆んなコレリの宗旨は何だろうって噂していますよ。 この左りにあるのが有名な孤児院でスパージョンの紀念のために作ったのです。 「スパージョン。 スパージョン。 だんだん木が青くなって好い心持ですね二週間ぐらい前からズット景色が変って来ましたね。 さよう時にあすこに並んでいるのは何んて云う樹ですか。 あれ。 あれはポプラーでさあね。 ヘエーあれがポプラーですかナールほど。 ポプラーはよく詩に咏じてありますよ「テニソン。 テニソン。 テニソン。 家の内での御引きずりには不賛成もありませんが外であんな長い裾を引きずって歩行くのはあまり体裁の善いものではありませんね。 ツーチング。 どれが内ですか。 ミッスルトー。 ハハー裸体画ですな結構です。 へへへ私もちっとも構いませんがね。 どうですこれで角度はもう少し下向に裸体美人があなたの方を見下すように――よろしゅうございます。 グードナイト。 塔。 塔。 塔。 塔。 塔。 塔。 我が眼の前にわが死ぬべき折の様を想い見る人こそ幸あれ。 日毎夜毎に死なんと願え。 やがては神の前に行くなる吾の何を恐るる。 アーメン。 朝ならば夜の前に死ぬと思え。 夜ならば翌日ありと頼むな。 覚悟をこそ尊べ。 見苦しき死に様ぞ恥の極みなる。 アーメン。 今日もまたこうして暮れるのか。 寒い。 命さえ助けてくるるなら伯父様に王の位を進ぜるものを。 母様に逢いたい。 逢う事を許されてか。 否。 逢わせまつらんと思えど公けの掟なればぜひなしと諦めたまえ。 私の情売るは安き間の事にてあれど。 ただ束の間を垣間見んとの願なり。 女人の頼み引き受けぬ君はつれなし。 牢守りは牢の掟を破りがたし。 御子らは変る事なくすこやかに月日を過させたもう。 心安く覚して帰りたまえ。 いかにしても逢う事は叶わずや。 御気の毒なれど。 黒き塔の影堅き塔の壁寒き塔の人。 日は暮れた。 昼の世界に顔は出せぬ。 人殺しも多くしたが今日ほど寝覚の悪い事はまたとあるまい。 タペストリの裏で二人の話しを立ち聞きした時はいっその事|止めて帰ろうかと思うた。 絞める時花のような唇がぴりぴりと顫うた。 透き通るような額に紫色の筋が出た。 あの唸った声がまだ耳に付いている。 父と子と聖霊の名によって我れヘンリーはこの大英国の王冠と御代とをわが正しき血恵みある神親愛なる友の援を藉りて襲ぎ受く。 あらずあらず。 リチャードは断食をして自らと命の根をたたれたのじゃ。 あなたは日本人ではありませんか。 鴉が鴉が。 鴉が寒むそうだから麺麭をやりたい。 あの鴉は何にもたべたがっていやしません。 なぜ。 あの鴉は五羽います。 我が望は基督にあり。 運命は空しく我をして心なき風に訴えしむ。 時も摧けよ。 わが星は悲かれわれにつれなかれ。 すべての人を尊べ。 衆生をいつくしめ。 神を恐れよ。 王を敬え。 こう毎日のように舟から送って来ては首斬り役も繁昌だのう。 そうさ斧を磨ぐだけでも骨が折れるわ。 昨日は美しいのをやったなあ。 いや顔は美しいが頸の骨は馬鹿に堅い女だった。 御蔭でこの通り刃が一分ばかりかけた。 あすは誰の番かな。 あすは例の婆様の番さ。 アハハハもう善かろう。 婆様ぎりかほかに誰もいないか。 それから例のがやられる。 気の毒なもうやるか可愛相にのう。 気の毒じゃが仕方がないわ。 あそこに犬がかいてある。 犬ではありません。 左りが熊右が獅子でこれはダッドレー家の紋章です。 この紋章を刻んだ人はジョン・ダッドレーです。 ジョンには四人の兄弟があってその兄弟が熊と獅子の周囲に刻みつけられてある草花でちゃんと分ります。 ここにあるのはAcornsでこれはAmbroseの事です。 こちらにあるのがRoseでRobertを代表するのです。 下の方に忍冬が描いてありましょう。 忍冬はHoneysuckleだからHenryに当るのです。 左りの上に塊っているのがGeraniumでこれはG。 ジェーン。 わが夫ギルドフォード・ダッドレーはすでに神の国に行ってか。 知り申さぬ。 まだ真との道に入りたもう心はなきか。 まこととは吾と吾|夫の信ずる道をこそ言え。 御身達の道は迷いの道誤りの道よ。 吾夫が先なら追いつこう後ならば誘うて行こう。 正しき神の国に正しき道を踏んで行こう。 今一時間早かったら。 この三本のマッチが役に立たなかったのは実に残念である。 あれは奉納の鴉です。 昔しからあすこに飼っているので一羽でも数が不足するとすぐあとをこしらえますそれだからあの鴉はいつでも五羽に限っています。 ええあの落書ですかつまらない事をしたもんでせっかく奇麗な所を台なしにしてしまいましたねえなに罪人の落書だなんて当になったもんじゃありません贋もだいぶありまさあね。 そりゃ当り前でさあ皆んなあすこへ行く時にゃ案内記を読んで出掛けるんでさあそのくらいの事を知ってたって何も驚くにゃあたらないでしょう何すこぶる別嬪だって。 ――倫敦にゃだいぶ別嬪がいますよ少し気をつけないと険呑ですぜ。 倫敦塔。 どうも甘くかけないものだね。 人のを見ると何でもないようだが自ら筆をとって見ると今更のようにむずかしく感ずる。 そう初めから上手にはかけないさ第一室内の想像ばかりで画がかける訳のものではない。 昔し以太利の大家アンドレア・デル・サルトが言った事がある。 画をかくなら何でも自然その物を写せ。 天に星辰あり。 地に露華あり。 飛ぶに禽あり。 走るに獣あり。 池に金魚あり。 枯木に寒鴉あり。 自然はこれ一幅の大活画なりと。 どうだ君も画らしい画をかこうと思うならちと写生をしたら。 へえアンドレア・デル・サルトがそんな事をいった事があるかい。 ちっとも知らなかった。 なるほどこりゃもっともだ。 実にその通りだ。 この馬鹿野郎。 吾輩は猫である。 名前はまだない。 何猫だ。 猫が聞いてあきれらあ。 全てえどこに住んでるんだ。 吾輩はここの教師の家にいるのだ。 どうせそんな事だろうと思った。 いやに瘠せてるじゃねえか。 そう云う君は一体誰だい。 己れあ車屋の黒よ。 一体車屋と教師とはどっちがえらいだろう。 車屋の方が強いに極っていらあな。 御めえのうちの主人を見ねえまるで骨と皮ばかりだぜ。 君も車屋の猫だけに大分強そうだ。 車屋にいると御馳走が食えると見えるね。 何におれなんざどこの国へ行ったって食い物に不自由はしねえつもりだ。 御めえなんかも茶畠ばかりぐるぐる廻っていねえでちっと己の後へくっ付いて来て見ねえ。 一と月とたたねえうちに見違えるように太れるぜ。 追ってそう願う事にしよう。 しかし家は教師の方が車屋より大きいのに住んでいるように思われる。 箆棒めうちなんかいくら大きくたって腹の足しになるもんか。 御めえは今までに鼠を何匹とった事がある。 実はとろうとろうと思ってまだ捕らない。 君などは年が年であるから大分とったろう。 たんとでもねえが三四十はとったろう。 鼠の百や二百は一人でいつでも引き受けるがいたちってえ奴は手に合わねえ。 一度いたちに向って酷い目に逢った。 へえなるほど。 去年の大掃除の時だ。 うちの亭主が石灰の袋を持って椽の下へ這い込んだら御めえ大きないたちの野郎が面喰って飛び出したと思いねえ。 ふん。 いたちってけども何鼠の少し大きいぐれえのものだ。 こん畜生って気で追っかけてとうとう泥溝の中へ追い込んだと思いねえ。 うまくやったね。 ところが御めえいざってえ段になると奴め最後っ屁をこきゃがった。 臭えの臭くねえのってそれからってえものはいたちを見ると胸が悪くならあ。 しかし鼠なら君に睨まれては百年目だろう。 君はあまり鼠を捕るのが名人で鼠ばかり食うものだからそんなに肥って色つやが善いのだろう。 考げえるとつまらねえ。 いくら稼いで鼠をとったって――一てえ人間ほどふてえ奴は世の中にいねえぜ。 人のとった鼠をみんな取り上げやがって交番へ持って行きゃあがる。 交番じゃ誰が捕ったか分らねえからそのたんびに五銭ずつくれるじゃねえか。 うちの亭主なんか己の御蔭でもう壱円五十銭くらい儲けていやがる癖に碌なものを食わせた事もありゃしねえ。 おい人間てものあ体の善い泥棒だぜ。 画はどうかね。 君の忠告に従って写生を力めているがなるほど写生をすると今まで気のつかなかった物の形や色の精細な変化などがよく分るようだ。 西洋では昔しから写生を主張した結果|今日のように発達したものと思われる。 さすがアンドレア・デル・サルトだ。 実は君あれは出鱈目だよ。 何が。 何がって君のしきりに感服しているアンドレア・デル・サルトさ。 あれは僕のちょっと捏造した話だ。 君がそんなに真面目に信じようとは思わなかったハハハハ。 いや時々|冗談を言うと人が真に受けるので大に滑稽的美感を挑撥するのは面白い。 せんだってある学生にニコラス・ニックルベーがギボンに忠告して彼の一世の大著述なる仏国革命史を仏語で書くのをやめにして英文で出版させたと言ったらその学生がまた馬鹿に記憶の善い男で日本文学会の演説会で真面目に僕の話した通りを繰り返したのは滑稽であった。 ところがその時の傍聴者は約百名ばかりであったが皆熱心にそれを傾聴しておった。 それからまだ面白い話がある。 せんだって或る文学者のいる席でハリソンの歴史小説セオファーノの話しが出たから僕はあれは歴史小説の中で白眉である。 ことに女主人公が死ぬところは鬼気人を襲うようだと評したら僕の向うに坐っている知らんと云った事のない先生がそうそうあすこは実に名文だといった。 それで僕はこの男もやはり僕同様この小説を読んでおらないという事を知った。 そんな出鱈目をいってもし相手が読んでいたらどうするつもりだ。 なにその時ゃ別の本と間違えたとか何とか云うばかりさ。 しかし冗談は冗談だが画というものは実際むずかしいものだよレオナルド・ダ・ヴィンチは門下生に寺院の壁のしみを写せと教えた事があるそうだ。 なるほど雪隠などに這入って雨の漏る壁を余念なく眺めているとなかなかうまい模様画が自然に出来ているぜ。 君注意して写生して見給えきっと面白いものが出来るから。 また欺すのだろう。 いえこれだけはたしかだよ。 実際奇警な語じゃないかダ・ヴィンチでもいいそうな事だあね。 なるほど奇警には相違ないな。 いたちの最後屁と肴屋の天秤棒には懲々だ。 吾輩は猫である。 しばらく御無沙汰をしました。 実は去年の暮から大に活動しているものですから出よう出ようと思ってもついこの方角へ足が向かないので。 どっちの方角へ足が向くかね。 エヘヘヘ少し違った方角で。 君歯をどうかしたかね。 ええ実はある所で椎茸を食いましてね。 何を食ったって。 その少し椎茸を食ったんで。 椎茸の傘を前歯で噛み切ろうとしたらぼろりと歯が欠けましたよ。 椎茸で前歯がかけるなんざ何だか爺々臭いね。 俳句にはなるかも知れないが恋にはならんようだな。 ああその猫が例のですかなかなか肥ってるじゃありませんかそれなら車屋の黒にだって負けそうもありませんね立派なものだ。 近頃|大分大きくなったのさ。 一昨夜もちょいと合奏会をやりましてね。 どこで。 どこでもそりゃ御聞きにならんでもよいでしょう。 ヴァイオリンが三|挺とピヤノの伴奏でなかなか面白かったです。 ヴァイオリンも三挺くらいになると下手でも聞かれるものですね。 二人は女で私がその中へまじりましたが自分でも善く弾けたと思いました。 ふんそしてその女というのは何者かね。 なに二人とも去る所の令嬢ですよ御存じの方じゃありません。 ナール。 ほど。 どうも好い天気ですな御閑ならごいっしょに散歩でもしましょうか旅順が落ちたので市中は大変な景気ですよ。 それじゃ出るとしよう。 それは利かないから飲まん。 でもあなた澱粉質のものには大変功能があるそうですから召し上ったらいいでしょう。 澱粉だろうが何だろうが駄目だよ。 あなたはほんとに厭きっぽい。 厭きっぽいのじゃない薬が利かんのだ。 それだってせんだってじゅうは大変によく利くよく利くとおっしゃって毎日毎日上ったじゃありませんか。 こないだうちは利いたのだよこの頃は利かないのだよ。 そんなに飲んだり止めたりしちゃいくら功能のある薬でも利く気遣いはありませんもう少し辛防がよくなくっちゃあ胃弱なんぞはほかの病気たあ違って直らないわねえ。 それは本当のところでございます。 もう少し召し上ってご覧にならないととても善い薬か悪い薬かわかりますまい。 何でもいい飲まんのだから飲まんのだ女なんかに何がわかるものか黙っていろ。 どうせ女ですわ。 源ちゃん昨夕は――つい忙がしかったもんだから。 君の説は面白いがあのカーライルは胃弱だったぜ。 カーライルが胃弱だって胃弱の病人が必ずカーライルにはなれないさ。 これだこれだこれに限る。 マーカスは好い名じゃないか。 マーカスの上へZという頭文字をつけるすると申し分のない名が出来る。 Zでなくてはいかん。 Z.Marcusは実にうまい。 どうも自分で作った名はうまくつけたつもりでも何となく故意とらしいところがあって面白くない。 ようやくの事で気に入った名が出来た。 何とおっしゃる兎さん。 得難き機会はすべての動物をして好まざる事をも敢てせしむ。 すべての動物は直覚的に事物の適不適を予知す。 危きに臨めば平常なし能わざるところのものを為し能う。 之を天祐という。 あら猫が御雑煮を食べて踊を踊っている。 あらまあ。 いやな猫ねえ。 この馬鹿野郎。 御かあ様猫も随分ね。 まあ餅をとってやれ。 取ってやらんと死んでしまう早くとってやれ。 すべての安楽は困苦を通過せざるべからず。 三毛子さん三毛子さん。 あら先生。 あら先生おめでとう。 やあおめでとう大層立派に御化粧が出来ましたね。 ええ去年の暮|御師匠さんに買って頂いたの宜いでしょう。 なるほど善い音ですな吾輩などは生れてからそんな立派なものは見た事がないですよ。 あらいやだみんなぶら下げるのよ。 いい音でしょうあたし嬉しいわ。 あなたのうちの御師匠さんは大変あなたを可愛がっていると見えますね。 ほんとよまるで自分の小供のようよ。 一体あなたの所の御主人は何ですか。 あら御主人だって妙なのね。 御師匠さんだわ。 二絃琴の御師匠さんよ。 それは吾輩も知っていますがね。 その御身分は何なんです。 いずれ昔しは立派な方なんでしょうな。 ええ。 宜い声でしょう。 宜いようだが吾輩にはよくわからん。 全体何というものですか。 あれ。 あれは何とかってものよ。 御師匠さんはあれが大好きなの。 御師匠さんはあれで六十二よ。 随分丈夫だわね。 はあ。 あれでももとは身分が大変好かったんだって。 いつでもそうおっしゃるの。 へえ元は何だったんです。 何でも天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘なんだって。 何ですって。 あの天璋院様の御祐筆の妹の御嫁にいった。 なるほど。 少し待って下さい。 天璋院様の妹の御祐筆の。 あらそうじゃないの天璋院様の御祐筆の妹の。 よろしい分りました天璋院様のでしょう。 ええ。 御祐筆のでしょう。 そうよ。 御嫁に行った。 妹の御嫁に行ったですよ。 そうそう間違った。 妹の御嫁に入った先きの。 御っかさんの甥の娘なんですとさ。 御っかさんの甥の娘なんですか。 ええ。 分ったでしょう。 いいえ。 何だか混雑して要領を得ないですよ。 詰るところ天璋院様の何になるんですか。 あなたもよっぽど分らないのね。 だから天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘なんだって先っきっから言ってるんじゃありませんか。 それはすっかり分っているんですがね。 それが分りさえすればいいんでしょう。 ええ。 三毛や三毛や御飯だよ。 あら御師匠さんが呼んでいらっしゃるから私し帰るわよくって。 それじゃまた遊びにいらっしゃい。 あなた大変色が悪くってよ。 どうかしやしなくって。 何別段の事もありませんが少し考え事をしたら頭痛がしてね。 あなたと話しでもしたら直るだろうと思って実は出掛けて来たのですよ。 そう。 御大事になさいまし。 さようなら。 おい名なしの権兵衛近頃じゃ乙う高く留ってるじゃあねえか。 いくら教師の飯を食ったってそんな高慢ちきな面らあするねえ。 人つけ面白くもねえ。 いや黒君おめでとう。 不相変元気がいいね。 何おめでてえ。 正月でおめでたけりゃ御めえなんざあ年が年中おめでてえ方だろう。 気をつけろいこの吹い子の向う面め。 ちょっと伺がうが吹い子の向うづらと云うのはどう云う意味かね。 へん手めえが悪体をつかれてる癖にその訳を聞きゃ世話あねえだから正月野郎だって事よ。 おや棚へ上げて置いた鮭がない。 大変だ。 またあの黒の畜生が取ったんだよ。 ほんとに憎らしい猫だっちゃありゃあしない。 今に帰って来たらどうするか見ていやがれ。 君|不相変やってるな。 何がやってるでえこの野郎。 しゃけの一切や二切で相変らずたあ何だ。 人を見縊びった事をいうねえ。 憚りながら車屋の黒だあ。 君が黒君だと云う事は始めから知ってるさ。 知ってるのに相変らずやってるたあ何だ。 何だてえ事よ。 ちょいと西川さんおい西川さんてば用があるんだよこの人あ。 牛肉を一|斤すぐ持って来るんだよ。 いいかい分ったかい牛肉の堅くないところを一斤だよ。 へん年に一遍牛肉を誂えると思っていやに大きな声を出しゃあがらあ。 牛肉一斤が隣り近所へ自慢なんだから始末に終えねえ阿魔だ。 一斤くらいじゃあ承知が出来ねえんだが仕方がねえいいから取っときゃ今に食ってやらあ。 今度は本当の御馳走だ。 結構結構。 御めっちの知った事じゃねえ。 黙っていろ。 うるせえや。 それで面白い趣向があるから是非いっしょに来いとおっしゃるので。 何ですかその西洋料理へ行って午飯を食うのについて趣向があるというのですか。 さあその趣向というのがその時は私にも分らなかったんですがいずれあの方の事ですから何か面白い種があるのだろうと思いまして。 いっしょに行きましたかなるほど。 ところが驚いたのです。 また馬鹿な茶番見たような事なんでしょう。 あの男はあれが癖でね。 へへー。 君何か変ったものを食おうじゃないかとおっしゃるので。 何を食いました。 まず献立を見ながらいろいろ料理についての御話しがありました。 誂らえない前にですか。 ええ。 それから。 それから首を捻ってボイの方を御覧になってどうも変ったものもないようだなとおっしゃるとボイは負けぬ気で鴨のロースか小牛のチャップなどは如何ですと云うと先生はそんな月並を食いにわざわざここまで来やしないとおっしゃるんでボイは月並という意味が分らんものですから妙な顔をして黙っていましたよ。 そうでしょう。 それから私の方を御向きになって君|仏蘭西や英吉利へ行くと随分|天明調や万葉調が食えるんだが日本じゃどこへ行ったって版で圧したようでどうも西洋料理へ這入る気がしないと云うような大気※で――全体あの方は洋行なすった事があるのですかな。 何迷亭が洋行なんかするもんですかそりゃ金もあり時もあり行こうと思えばいつでも行かれるんですがね。 大方これから行くつもりのところを過去に見立てた洒落なんでしょう。 そうですか私はまたいつの間に洋行なさったかと思ってつい真面目に拝聴していました。 それに見て来たようになめくじのソップの御話や蛙のシチュの形容をなさるものですから。 そりゃ誰かに聞いたんでしょううそをつく事はなかなか名人ですからね。 どうもそうのようで。 じゃ趣向というのはそれなんですね。 いえそれはほんの冒頭なので本論はこれからなのです。 ふーん。 それからとてもなめくじや蛙は食おうっても食えやしないからまあトチメンボーくらいなところで負けとく事にしようじゃないか君と御相談なさるものですから私はつい何の気なしにそれがいいでしょうといってしまったので。 へーとちめんぼうは妙ですな。 ええ全く妙なのですが先生があまり真面目だものですからつい気がつきませんでした。 それからどうしました。 それからボイにおいトチメンボーを二人前持って来いというとボイがメンチボーですかと聞き直しましたが先生はますます真面目な貌でメンチボーじゃないトチメンボーだと訂正されました。 なある。 そのトチメンボーという料理は一体あるんですか。 さあ私も少しおかしいとは思いましたがいかにも先生が沈着であるしその上あの通りの西洋通でいらっしゃるしことにその時は洋行なすったものと信じ切っていたものですから私も口を添えてトチメンボーだトチメンボーだとボイに教えてやりました。 ボイはどうしました。 ボイがね今考えると実に滑稽なんですがねしばらく思案していましてねはなはだ御気の毒様ですが今日はトチメンボーは御生憎様でメンチボーなら御二人前すぐに出来ますと云うと先生は非常に残念な様子でそれじゃせっかくここまで来た甲斐がない。 どうかトチメンボーを都合して食わせてもらう訳には行くまいかとボイに二十銭銀貨をやられるとボイはそれではともかくも料理番と相談して参りましょうと奥へ行きましたよ。 大変トチメンボーが食いたかったと見えますね。 しばらくしてボイが出て来て真に御生憎で御誂ならこしらえますが少々時間がかかりますと云うと迷亭先生は落ちついたものでどうせ我々は正月でひまなんだから少し待って食って行こうじゃないかと云いながらポッケットから葉巻を出してぷかりぷかり吹かし始められたので私しも仕方がないから懐から日本新聞を出して読み出しましたするとボイはまた奥へ相談に行きましたよ。 いやに手数が掛りますな。 するとボイがまた出て来て近頃はトチメンボーの材料が払底で亀屋へ行っても横浜の十五番へ行っても買われませんから当分の間は御生憎様でと気の毒そうに云うと先生はそりゃ困ったなせっかく来たのになあと私の方を御覧になってしきりに繰り返さるるので私も黙っている訳にも参りませんからどうも遺憾ですな遺憾|極るですなと調子を合せたのです。 ごもっともで。 するとボイも気の毒だと見えてその内材料が参りましたらどうか願いますってんでしょう。 先生が材料は何を使うかねと問われるとボイはへへへへと笑って返事をしないんです。 材料は日本派の俳人だろうと先生が押し返して聞くとボイはへえさようでそれだものだから近頃は横浜へ行っても買われませんのでまことにお気の毒様と云いましたよ。 アハハハそれが落ちなんですかこりゃ面白い。 それから二人で表へ出るとどうだ君うまく行ったろう橡面坊を種に使ったところが面白かろうと大得意なんです。 敬服の至りですと云って御別れしたようなものの実は午飯の時刻が延びたので大変空腹になって弱りましたよ。 それは御迷惑でしたろう。 実は今日参りましたのは少々先生に御願があって参ったので。 はあ何か御用で。 御承知の通り文学美術が好きなものですから。 結構で。 同志だけがよりましてせんだってから朗読会というのを組織しまして毎月一回会合してこの方面の研究をこれから続けたいつもりですでに第一回は去年の暮に開いたくらいであります。 ちょっと伺っておきますが朗読会と云うと何か節奏でも附けて詩歌文章の類を読むように聞えますが一体どんな風にやるんです。 まあ初めは古人の作からはじめて追々は同人の創作なんかもやるつもりです。 古人の作というと白楽天の琵琶行のようなものででもあるんですか。 いいえ。 蕪村の春風馬堤曲の種類ですか。 いいえ。 それじゃどんなものをやったんです。 せんだっては近松の心中物をやりました。 近松。 あの浄瑠璃の近松ですか。 ええ。 それじゃ一人で朗読するのですかまたは役割を極めてやるんですか。 役を極めて懸合でやって見ました。 その主意はなるべく作中の人物に同情を持ってその性格を発揮するのを第一としてそれに手真似や身振りを添えます。 白はなるべくその時代の人を写し出すのが主で御嬢さんでも丁稚でもその人物が出てきたようにやるんです。 じゃまあ芝居見たようなものじゃありませんか。 ええ衣装と書割がないくらいなものですな。 失礼ながらうまく行きますか。 まあ第一回としては成功した方だと思います。 それでこの前やったとおっしゃる心中物というと。 その船頭が御客を乗せて芳原へ行く所なんで。 大変な幕をやりましたな。 なあにそんなに大変な事もないんです。 登場の人物は御客と船頭と花魁と仲居と遣手と見番だけですから。 仲居というのは娼家の下婢にあたるものですかな。 まだよく研究はして見ませんが仲居は茶屋の下女で遣手というのが女部屋の助役見たようなものだろうと思います。 なるほど仲居は茶屋に隷属するもので遣手は娼家に起臥する者ですね。 次に見番と云うのは人間ですかまたは一定の場所を指すのですかもし人間とすれば男ですか女ですか。 見番は何でも男の人間だと思います。 何を司どっているんですかな。 さあそこまではまだ調べが届いておりません。 その内調べて見ましょう。 それで朗読家は君のほかにどんな人が加わったんですか。 いろいろおりました。 花魁が法学士のK君でしたが口髯を生やして女の甘ったるいせりふを使かうのですからちょっと妙でした。 それにその花魁が癪を起すところがあるので。 朗読でも癪を起さなくっちゃいけないんですか。 ええとにかく表情が大事ですから。 うまく癪が起りましたか。 癪だけは第一回にはちと無理でした。 ところで君は何の役割でした。 私しは船頭。 へー君が船頭。 船頭は無理でしたか。 その船頭でせっかくの催しも竜頭蛇尾に終りました。 実は会場の隣りに女学生が四五人下宿していましてねそれがどうして聞いたものかその日は朗読会があるという事をどこかで探知して会場の窓下へ来て傍聴していたものと見えます。 私しが船頭の仮色を使ってようやく調子づいてこれなら大丈夫と思って得意にやっているとつまり身振りがあまり過ぎたのでしょう今まで耐らえていた女学生が一度にわっと笑いだしたものですから驚ろいた事も驚ろいたし極りが悪るい事も悪るいしそれで腰を折られてからどうしても後がつづけられないのでとうとうそれ限りで散会しました。 それは飛んだ事で。 第二回からはもっと奮発して盛大にやるつもりなので今日出ましたのも全くそのためで実は先生にも一つ御入会の上御尽力を仰ぎたいので。 僕にはとても癪なんか起せませんよ。 いえ癪などは起していただかんでもよろしいのでここに賛助員の名簿が。 これへどうか御署名の上|御捺印を願いたいので。 はあ賛成員にならん事もありませんがどんな義務があるのですか。 義務と申して別段是非願う事もないくらいでただ御名前だけを御記入下さって賛成の意さえ御表し被下ればそれで結構です。 そんなら這入ります。 ちょっと失敬。 新年の御慶目出度申納候。 其後別に恋着せる婦人も無之いず方より艶書も参らず先ず先ず無事に消光|罷り在り候間乍憚御休心|可被下候。 一寸参堂仕り度候えども大兄の消極主義に反して出来得る限り積極的方針を以て此千古|未曾有の新年を迎うる計画故毎日毎日目の廻る程の多忙御推察願上|候。 昨日は一刻のひまを偸み東風子にトチメンボーの御馳走を致さんと存じ候処生憎材料払底の為め其意を果さず遺憾千万に存候。 明日は某男爵の歌留多会明後日は審美学協会の新年宴会其明日は鳥部教授歓迎会其又明日は。 右の如く謡曲会俳句会短歌会新体詩会等会の連発にて当分の間はのべつ幕無しに出勤致し候為め不得已賀状を以て拝趨の礼に易え候段不悪御宥恕被下度候。 今度御光来の節は久し振りにて晩餐でも供し度心得に御座|候。 寒厨何の珍味も無之候えどもせめてはトチメンボーでもと只今より心掛|居候。 然しトチメンボーは近頃材料払底の為めことに依ると間に合い兼候も計りがたきにつき其節は孔雀の舌でも御風味に入れ可申候。 御承知の通り孔雀一羽につき舌肉の分量は小指の半ばにも足らぬ程故|健啖なる大兄の胃嚢を充たす為には。 是非共二三十羽の孔雀を捕獲致さざる可らずと存候。 然る所孔雀は動物園浅草花屋敷等にはちらほら見受け候えども普通の鳥屋|抔には一向見当り不申苦心此事に御座|候。 此孔雀の舌の料理は往昔羅馬全盛の砌り一時非常に流行致し候ものにて豪奢風流の極度と平生よりひそかに食指を動かし居候次第|御諒察可被下候。 降って十六七世紀の頃迄は全欧を通じて孔雀は宴席に欠くべからざる好味と相成居候。 レスター伯がエリザベス女皇をケニルウォースに招待致し候節も慥か孔雀を使用致し候様記憶|致候。 有名なるレンブラントが画き候饗宴の図にも孔雀が尾を広げたる儘卓上に横わり居り候。 とにかく近頃の如く御馳走の食べ続けにてはさすがの小生も遠からぬうちに大兄の如く胃弱と相成るは必定。 歴史家の説によれば羅馬人は日に二度三度も宴会を開き候由。 日に二度も三度も方丈の食饌に就き候えば如何なる健胃の人にても消化機能に不調を醸すべく従って自然は大兄の如く。 然るに贅沢と衛生とを両立せしめんと研究を尽したる彼等は不相当に多量の滋味を貪ると同時に胃腸を常態に保持するの必要を認めここに一の秘法を案出致し候。 彼等は食後必ず入浴|致候。 入浴後一種の方法によりて浴前に嚥下せるものを悉く嘔吐し胃内を掃除致し候。 胃内廓清の功を奏したる後又食卓に就き飽く迄珍味を風好し風好し了れば又湯に入りて之を吐出致候。 かくの如くすれば好物は貪ぼり次第貪り候も毫も内臓の諸機関に障害を生ぜず一挙両得とは此等の事を可申かと愚考|致候。 廿世紀の今日交通の頻繁宴会の増加は申す迄もなく軍国多事征露の第二年とも相成|候折柄吾人戦勝国の国民は是非共|羅馬人に傚って此入浴嘔吐の術を研究せざるべからざる機会に到着致し候事と自信|致候。 左もなくば切角の大国民も近き将来に於て悉く大兄の如く胃病患者と相成る事と窃かに心痛|罷りあり候。 此際吾人西洋の事情に通ずる者が古史伝説を考究し既に廃絶せる秘法を発見し之を明治の社会に応用致し候わば所謂禍を未萌に防ぐの功徳にも相成り平素|逸楽を擅に致し候御恩返も相立ち可申と存候。 依て此間|中よりギボンモンセンスミス等諸家の著述を渉猟致し居候えども未だに発見の端緒をも見出し得ざるは残念の至に存候。 然し御存じの如く小生は一度思い立ち候事は成功するまでは決して中絶|仕らざる性質に候えば嘔吐方を再興致し候も遠からぬうちと信じ居り候次第。 右は発見次第御報道|可仕候につき左様御承知|可被下候。 就てはさきに申上|候トチメンボー及び孔雀の舌の御馳走も可相成は右発見後に致し度左すれば小生の都合は勿論既に胃弱に悩み居らるる大兄の為にも御便宜かと存候草々不備。 三毛は御飯をたべるかい。 いいえ今朝からまだ何にも食べませんあったかにして御火燵に寝かしておきました。 どうも困るね御飯をたべないと身体が疲れるばかりだからね。 そうでございますとも私共でさえ一日|御※をいただかないと明くる日はとても働けませんもの。 御医者様へ連れて行ったのかい。 ええあの御医者はよっぽど妙でございますよ。 私が三毛をだいて診察場へ行くと風邪でも引いたのかって私の脈をとろうとするんでしょう。 いえ病人は私ではございません。 これですって三毛を膝の上へ直したらにやにや笑いながら猫の病気はわしにも分らん抛っておいたら今に癒るだろうってんですものあんまり苛いじゃございませんか。 腹が立ったからそれじゃ見ていただかなくってもようございますこれでも大事の猫なんですって三毛を懐へ入れてさっさと帰って参りました。 ほんにねえ。 ほんにねえ。 何だかしくしく云うようだが。 ええきっと風邪を引いて咽喉が痛むんでございますよ。 風邪を引くとどなたでも御咳が出ますからね。 それに近頃は肺病とか云うものが出来てのう。 ほんとにこの頃のように肺病だのペストだのって新しい病気ばかり殖えた日にゃ油断も隙もなりゃしませんのでございますよ。 旧幕時代に無い者に碌な者はないから御前も気をつけないといかんよ。 そうでございましょうかねえ。 風邪を引くといってもあまり出あるきもしないようだったに。 いえねあなたそれが近頃は悪い友達が出来ましてね。 悪い友達。 ええあの表通りの教師の所にいる薄ぎたない雄猫でございますよ。 教師と云うのはあの毎朝無作法な声を出す人かえ。 ええ顔を洗うたんびに鵝鳥が絞め殺されるような声を出す人でござんす。 薄ぎたない猫。 あんな声を出して何の呪いになるか知らん。 御維新前は中間でも草履取りでも相応の作法は心得たもので屋敷町などであんな顔の洗い方をするものは一人もおらなかったよ。 そうでございましょうともねえ。 あんな主人を持っている猫だからどうせ野良猫さ今度来たら少し叩いておやり。 叩いてやりますとも三毛の病気になったのも全くあいつの御蔭に相違ございませんものきっと讐をとってやります。 何か新体詩でも作っているのかね。 面白いのが出来たら見せたまえ。 うんちょっとうまい文章だと思ったから今翻訳して見ようと思ってね。 文章。 誰れの文章だい。 誰れのか分らんよ。 無名氏か無名氏の作にも随分善いのがあるからなかなか馬鹿に出来ない。 全体どこにあったのか。 第二読本。 第二読本。 第二読本がどうしたんだ。 僕の翻訳している名文と云うのは第二読本の中にあると云う事さ。 冗談じゃない。 孔雀の舌の讐を際どいところで討とうと云う寸法なんだろう。 僕は君のような法螺吹きとは違うさ。 昔しある人が山陽に先生近頃名文はござらぬかといったら山陽が馬子の書いた借金の催促状を示して近来の名文はまずこれでしょうと云ったという話があるから君の審美眼も存外たしかかも知れん。 どれ読んで見給え僕が批評してやるから。 巨人引力。 何だいその巨人引力と云うのは。 巨人引力と云う題さ。 妙な題だな僕には意味がわからんね。 引力と云う名を持っている巨人というつもりさ。 少し無理なつもりだが表題だからまず負けておくとしよう。 それから早々本文を読むさ君は声が善いからなかなか面白い。 雑ぜかえしてはいかんよ。 巨人が地中に住む故に。 彼は巨人引力である。 彼は強い。 彼は万物を己れの方へと引く。 彼は家屋を地上に引く。 引かねば飛んでしまう。 小児も飛んでしまう。 葉が落ちるのを見たろう。 あれは巨人引力が呼ぶのである。 本を落す事があろう。 巨人引力が来いというからである。 球が空にあがる。 巨人引力は呼ぶ。 呼ぶと落ちてくる。 それぎりかい。 むむ甘いじゃないか。 いやこれは恐れ入った。 飛んだところでトチメンボーの御返礼に預った。 御返礼でもなんでもないさ実際うまいから訳して見たのさ君はそう思わんかね。 どうも驚ろいたね。 君にしてこの伎倆あらんとは全く此度という今度は担がれたよ降参降参。 何も君を降参させる考えはないさ。 ただ面白い文章だと思ったから訳して見たばかりさ。 いや実に面白い。 そう来なくっちゃ本ものでない。 凄いものだ。 恐縮だ。 そんなに恐縮するには及ばん。 僕も近頃は水彩画をやめたからその代りに文章でもやろうと思ってね。 どうして遠近無差別黒白平等の水彩画の比じゃない。 感服の至りだよ。 そうほめてくれると僕も乗り気になる。 いや失敬。 今大変な名文を拝聴してトチメンボーの亡魂を退治られたところで。 はあそうですか。 先日は君の紹介で越智東風と云う人が来たよ。 ああ上りましたかあの越智東風と云う男は至って正直な男ですが少し変っているところがあるのであるいは御迷惑かと思いましたが是非紹介してくれというものですから。 別に迷惑の事もないがね。 こちらへ上っても自分の姓名のことについて何か弁じて行きゃしませんか。 いいえそんな話もなかったようだ。 そうですかどこへ行っても初対面の人には自分の名前の講釈をするのが癖でしてね。 どんな講釈をするんだい。 あの東風と云うのを音で読まれると大変気にするので。 はてね。 私しの名は越智東風ではありません越智こちですと必ず断りますよ。 妙だね。 それが全く文学熱から来たのでこちと読むと遠近と云う成語になるのみならずその姓名が韻を踏んでいると云うのが得意なんです。 それだから東風を音で読むと僕がせっかくの苦心を人が買ってくれないといって不平を云うのです。 こりゃなるほど変ってる。 先日来た時は朗読会で船頭になって女学生に笑われたといっていたよ。 うむそれそれ。 その朗読会さ。 せんだってトチメンボーを御馳走した時にね。 その話しが出たよ。 何でも第二回には知名の文士を招待して大会をやるつもりだから先生にも是非御臨席を願いたいって。 それから僕が今度も近松の世話物をやるつもりかいと聞くといえこの次はずっと新しい者を撰んで金色夜叉にしましたと云うから君にゃ何の役が当ってるかと聞いたら私は御宮ですといったのさ。 東風の御宮は面白かろう。 僕は是非出席して喝采しようと思ってるよ。 面白いでしょう。 しかしあの男はどこまでも誠実で軽薄なところがないから好い。 迷亭などとは大違いだ。 どうせ僕などは行徳の俎と云う格だからなあ。 まずそんなところだろう。 行徳の俎というのは何の事ですか。 あの水仙は暮に僕が風呂の帰りがけに買って来て挿したのだがよく持つじゃないか。 暮といえば去年の暮に僕は実に不思議な経験をしたよ。 どんな経験か聞かし玉え。 たしか暮の二十七日と記憶しているがね。 例の東風から参堂の上是非文芸上の御高話を伺いたいから御在宿を願うと云う先き触れがあったので朝から心待ちに待っていると先生なかなか来ないやね。 昼飯を食ってストーブの前でバリー・ペーンの滑稽物を読んでいるところへ静岡の母から手紙が来たから見ると年寄だけにいつまでも僕を小供のように思ってね。 寒中は夜間外出をするなとか冷水浴もいいがストーブを焚いて室を煖かにしてやらないと風邪を引くとかいろいろの注意があるのさ。 なるほど親はありがたいものだ他人ではとてもこうはいかないと呑気な僕もその時だけは大に感動した。 それにつけてもこんなにのらくらしていては勿体ない。 何か大著述でもして家名を揚げなくてはならん。 母の生きているうちに天下をして明治の文壇に迷亭先生あるを知らしめたいと云う気になった。 それからなお読んで行くと御前なんぞは実に仕合せ者だ。 露西亜と戦争が始まって若い人達は大変な辛苦をして御国のために働らいているのに節季師走でもお正月のように気楽に遊んでいると書いてある。 ――僕はこれでも母の思ってるように遊んじゃいないやね――そのあとへ以て来て僕の小学校時代の朋友で今度の戦争に出て死んだり負傷したものの名前が列挙してあるのさ。 その名前を一々読んだ時には何だか世の中が味気なくなって人間もつまらないと云う気が起ったよ。 一番|仕舞にね。 私しも取る年に候えば初春の御雑煮を祝い候も今度限りかと何だか心細い事が書いてあるんでなおのこと気がくさくさしてしまって早く東風が来れば好いと思ったが先生どうしても来ない。 そのうちとうとう晩飯になったから母へ返事でも書こうと思ってちょいと十二三行かいた。 母の手紙は六尺以上もあるのだが僕にはとてもそんな芸は出来んからいつでも十行内外で御免|蒙る事に極めてあるのさ。 すると一日動かずにおったものだから胃の具合が妙で苦しい。 東風が来たら待たせておけと云う気になって郵便を入れながら散歩に出掛けたと思い給え。 いつになく富士見町の方へは足が向かないで土手三番町の方へ我れ知らず出てしまった。 ちょうどその晩は少し曇ってから風が御濠の向うから吹き付ける非常に寒い。 神楽坂の方から汽車がヒューと鳴って土手下を通り過ぎる。 大変|淋しい感じがする。 暮戦死老衰無常迅速などと云う奴が頭の中をぐるぐる馳け廻る。 よく人が首を縊ると云うがこんな時にふと誘われて死ぬ気になるのじゃないかと思い出す。 ちょいと首を上げて土手の上を見るといつの間にか例の松の真下に来ているのさ。 例の松た何だい。 首懸の松さ。 首懸の松は鴻の台でしょう。 鴻の台のは鐘懸の松で土手三番町のは首懸の松さ。 なぜこう云う名が付いたかと云うと昔しからの言い伝えで誰でもこの松の下へ来ると首が縊りたくなる。 土手の上に松は何十本となくあるがそら首縊りだと来て見ると必ずこの松へぶら下がっている。 年に二三|返はきっとぶら下がっている。 どうしても他の松では死ぬ気にならん。 見るとうまい具合に枝が往来の方へ横に出ている。 ああ好い枝振りだ。 あのままにしておくのは惜しいものだ。 どうかしてあすこの所へ人間を下げて見たい誰か来ないかしらと四辺を見渡すと生憎誰も来ない。 仕方がない自分で下がろうか知らん。 いやいや自分が下がっては命がない危ないからよそう。 しかし昔の希臘人は宴会の席で首縊りの真似をして余興を添えたと云う話しがある。 一人が台の上へ登って縄の結び目へ首を入れる途端に他のものが台を蹴返す。 首を入れた当人は台を引かれると同時に縄をゆるめて飛び下りるという趣向である。 果してそれが事実なら別段恐るるにも及ばん僕も一つ試みようと枝へ手を懸けて見ると好い具合に撓る。 撓り按排が実に美的である。 首がかかってふわふわするところを想像して見ると嬉しくてたまらん。 是非やる事にしようと思ったがもし東風が来て待っていると気の毒だと考え出した。 それではまず東風に逢って約束通り話しをしてそれから出直そうと云う気になってついにうちへ帰ったのさ。 それで市が栄えたのかい。 面白いですな。 うちへ帰って見ると東風は来ていない。 しかし今日は無拠処差支えがあって出られぬいずれ永日御面晤を期すという端書があったのでやっと安心してこれなら心置きなく首が縊れる嬉しいと思った。 で早速下駄を引き懸けて急ぎ足で元の所へ引き返して見る。 見るとどうしたんだい。 いよいよ佳境に入りますね。 見るともう誰か来て先へぶら下がっている。 たった一足違いでねえ君残念な事をしたよ。 考えると何でもその時は死神に取り着かれたんだね。 ゼームスなどに云わせると副意識下の幽冥界と僕が存在している現実界が一種の因果法によって互に感応したんだろう。 実に不思議な事があるものじゃないか。 なるほど伺って見ると不思議な事でちょっと有りそうにも思われませんが私などは自分でやはり似たような経験をつい近頃したものですから少しも疑がう気になりません。 おや君も首を縊りたくなったのかい。 いえ私のは首じゃないんで。 これもちょうど明ければ昨年の暮の事でしかも先生と同日同刻くらいに起った出来事ですからなおさら不思議に思われます。 こりゃ面白い。 その日は向島の知人の家で忘年会|兼合奏会がありまして私もそれへヴァイオリンを携えて行きました。 十五六人令嬢やら令夫人が集ってなかなか盛会で近来の快事と思うくらいに万事が整っていました。 晩餐もすみ合奏もすんで四方の話しが出て時刻も大分遅くなったからもう暇乞いをして帰ろうかと思っていますと某博士の夫人が私のそばへ来てあなたは○○子さんの御病気を御承知ですかと小声で聞きますので実はその両三日前に逢った時は平常の通りどこも悪いようには見受けませんでしたから私も驚ろいて精しく様子を聞いて見ますと私しの逢ったその晩から急に発熱していろいろな譫語を絶間なく口走るそうでそれだけなら宜いですがその譫語のうちに私の名が時々出て来るというのです。 御安くないね。 医者を呼んで見てもらうと何だか病名はわからんが何しろ熱が劇しいので脳を犯しているからもし睡眠剤が思うように功を奏しないと危険であると云う診断だそうで私はそれを聞くや否や一種いやな感じが起ったのです。 ちょうど夢でうなされる時のような重くるしい感じで周囲の空気が急に固形体になって四方から吾が身をしめつけるごとく思われました。 帰り道にもその事ばかりが頭の中にあって苦しくてたまらない。 あの奇麗なあの快活なあの健康な○○子さんが。 ちょっと失敬だが待ってくれ給え。 さっきから伺っていると○○子さんと云うのが二|返ばかり聞えるようだがもし差支えがなければ承わりたいね君。 うむ。 いやそれだけは当人の迷惑になるかも知れませんから廃しましょう。 すべて曖々然として昧々然たるかたで行くつもりかね。 冷笑なさってはいけません極真面目な話しなんですからとにかくあの婦人が急にそんな病気になった事を考えると実に飛花落葉の感慨で胸が一杯になって総身の活気が一度にストライキを起したように元気がにわかに滅入ってしまいましてただ蹌々として踉々という形ちで吾妻橋へきかかったのです。 欄干に倚って下を見ると満潮か干潮か分りませんが黒い水がかたまってただ動いているように見えます。 花川戸の方から人力車が一台|馳けて来て橋の上を通りました。 その提灯の火を見送っているとだんだん小くなって札幌ビールの処で消えました。 私はまた水を見る。 すると遥かの川上の方で私の名を呼ぶ声が聞えるのです。 はてな今時分人に呼ばれる訳はないが誰だろうと水の面をすかして見ましたが暗くて何にも分りません。 気のせいに違いない早々帰ろうと思って一足二足あるき出すとまた微かな声で遠くから私の名を呼ぶのです。 私はまた立ち留って耳を立てて聞きました。 三度目に呼ばれた時には欄干に捕まっていながら膝頭ががくがく悸え出したのです。 その声は遠くの方か川の底から出るようですが紛れもない○○子の声なんでしょう。 私は覚えず「はーい。 夜。 今|直に行きます。 とうとう飛び込んだのかい。 そこまで行こうとは思わなかった。 飛び込んだ後は気が遠くなってしばらくは夢中でした。 やがて眼がさめて見ると寒くはあるがどこも濡れた所も何もない水を飲んだような感じもしない。 たしかに飛び込んだはずだが実に不思議だ。 こりゃ変だと気が付いてそこいらを見渡すと驚きましたね。 水の中へ飛び込んだつもりでいたところがつい間違って橋の真中へ飛び下りたのでその時は実に残念でした。 前と後ろの間違だけであの声の出る所へ行く事が出来なかったのです。 ハハハハこれは面白い。 僕の経験と善く似ているところが奇だ。 やはりゼームス教授の材料になるね。 人間の感応と云う題で写生文にしたらきっと文壇を驚かすよ。 そしてその○○子さんの病気はどうなったかね。 二三日前年始に行きましたら門の内で下女と羽根を突いていましたから病気は全快したものと見えます。 僕にもある。 あるって何があるんだい。 僕のも去年の暮の事だ。 みんな去年の暮は暗合で妙ですな。 やはり同日同刻じゃないか。 いや日は違うようだ。 何でも二十日頃だよ。 細君が御歳暮の代りに摂津大掾を聞かしてくれろと云うから連れて行ってやらん事もないが今日の語り物は何だと聞いたら細君が新聞を参考して鰻谷だと云うのさ。 鰻谷は嫌いだから今日はよそうとその日はやめにした。 翌日になると細君がまた新聞を持って来て今日は堀川だからいいでしょうと云う。 堀川は三味線もので賑やかなばかりで実がないからよそうと云うと細君は不平な顔をして引き下がった。 その翌日になると細君が云うには今日は三十三間堂です私は是非|摂津の三十三間堂が聞きたい。 あなたは三十三間堂も御嫌いか知らないが私に聞かせるのだからいっしょに行って下すっても宜いでしょうと手詰の談判をする。 御前がそんなに行きたいなら行っても宜ろしいしかし一世一代と云うので大変な大入だから到底突懸けに行ったって這入れる気遣いはない。 元来ああ云う場所へ行くには茶屋と云うものが在ってそれと交渉して相当の席を予約するのが正当の手続きだからそれを踏まないで常規を脱した事をするのはよくない残念だが今日はやめようと云うと細君は凄い眼付をして私は女ですからそんなむずかしい手続きなんか知りませんが大原のお母あさんも鈴木の君代さんも正当の手続きを踏まないで立派に聞いて来たんですからいくらあなたが教師だからってそう手数のかかる見物をしないでもすみましょうあなたはあんまりだと泣くような声を出す。 それじゃ駄目でもまあ行く事にしよう。 晩飯をくって電車で行こうと降参をすると行くなら四時までに向うへ着くようにしなくっちゃいけませんそんなぐずぐずしてはいられませんと急に勢がいい。 なぜ四時までに行かなくては駄目なんだと聞き返すとそのくらい早く行って場所をとらなくちゃ這入れないからですと鈴木の君代さんから教えられた通りを述べる。 それじゃ四時を過ぎればもう駄目なんだねと念を押して見たらええ駄目ですともと答える。 すると君不思議な事にはその時から急に悪寒がし出してね。 奥さんがですか。 なに細君はぴんぴんしていらあね。 僕がさ。 何だか穴の明いた風船玉のように一度に萎縮する感じが起ると思うともう眼がぐらぐらして動けなくなった。 急病だね。 ああ困った事になった。 細君が年に一度の願だから是非|叶えてやりたい。 平生叱りつけたり口を聞かなかったり身上の苦労をさせたり小供の世話をさせたりするばかりで何一つ洒掃薪水の労に酬いた事はない。 今日は幸い時間もある嚢中には四五枚の堵物もある。 連れて行けば行かれる。 細君も行きたいだろう僕も連れて行ってやりたい。 是非連れて行ってやりたいがこう悪寒がして眼がくらんでは電車へ乗るどころか靴脱へ降りる事も出来ない。 ああ気の毒だ気の毒だと思うとなお悪寒がしてなお眼がくらんでくる。 早く医者に見てもらって服薬でもしたら四時前には全快するだろうとそれから細君と相談をして甘木医学士を迎いにやると生憎昨夜が当番でまだ大学から帰らない。 二時頃には御帰りになりますから帰り次第すぐ上げますと云う返事である。 困ったなあ今|杏仁水でも飲めば四時前にはきっと癒るに極っているんだが運の悪い時には何事も思うように行かんものでたまさか妻君の喜ぶ笑顔を見て楽もうと云う予算もがらりと外れそうになって来る。 細君は恨めしい顔付をして到底いらっしゃれませんかと聞く。 行くよ必ず行くよ。 四時までにはきっと直って見せるから安心しているがいい。 早く顔でも洗って着物でも着換えて待っているがいいと口では云ったようなものの胸中は無限の感慨である。 悪寒はますます劇しくなる眼はいよいよぐらぐらする。 もしや四時までに全快して約束を履行する事が出来なかったら気の狭い女の事だから何をするかも知れない。 情けない仕儀になって来た。 どうしたら善かろう。 万一の事を考えると今の内に有為転変の理生者必滅の道を説き聞かしてもしもの変が起った時取り乱さないくらいの覚悟をさせるのも夫の妻に対する義務ではあるまいかと考え出した。 僕は速かに細君を書斎へ呼んだよ。 呼んで御前は女だけれどもmanyaslip'twixtthecupandthelipと云う西洋の諺くらいは心得ているだろうと聞くとそんな横文字なんか誰が知るもんですかあなたは人が英語を知らないのを御存じの癖にわざと英語を使って人にからかうのだから宜しゅうございますどうせ英語なんかは出来ないんですからそんなに英語が御好きならなぜ耶蘇学校の卒業生かなんかをお貰いなさらなかったんです。 あなたくらい冷酷な人はありはしないと非常な権幕なんで僕もせっかくの計画の腰を折られてしまった。 君等にも弁解するが僕の英語は決して悪意で使った訳じゃない。 全く妻を愛する至情から出たのでそれを妻のように解釈されては僕も立つ瀬がない。 それにさっきからの悪寒と眩暈で少し脳が乱れていたところへもって来て早く有為転変生者必滅の理を呑み込ませようと少し急き込んだものだからつい細君の英語を知らないと云う事を忘れて何の気も付かずに使ってしまった訳さ。 考えるとこれは僕が悪るい全く手落ちであった。 この失敗で悪寒はますます強くなる。 眼はいよいよぐらぐらする。 妻君は命ぜられた通り風呂場へ行って両肌を脱いで御化粧をして箪笥から着物を出して着換える。 もういつでも出掛けられますと云う風情で待ち構えている。 僕は気が気でない。 早く甘木君が来てくれれば善いがと思って時計を見るともう三時だ。 四時にはもう一時間しかない。 「そろそろ出掛けましょうか。 どうも少し険呑のような気がしまして。 いえ格別の事もございますまい。 あのちょっとくらい外出致しても差支えはございますまいね。 さよう。 御気分さえ御悪くなければ。 気分は悪いですよ。 じゃともかくも頓服と水薬を上げますから。 へえどうか何だかちと危ないようになりそうですな。 いや決して御心配になるほどの事じゃございません神経を御起しになるといけませんよ。 早く御飲みになったら宜いでしょう。 それから歌舞伎座へいっしょに行ったのかい。 行きたかったが四時を過ぎちゃ這入れないと云う細君の意見なんだから仕方がないやめにしたさ。 もう十五分ばかり早く甘木先生が来てくれたら僕の義理も立つし妻も満足したろうにわずか十五分の差でね実に残念な事をした。 考え出すとあぶないところだったと今でも思うのさ。 それは残念でしたな。 君のような親切な夫を持った妻君は実に仕合せだな。 御苦労だった。 出来たかえ。 はい遅くなりまして仏師屋へ参りましたらちょうど出来上ったところだと申しまして。 どれお見せなさい。 ああ奇麗に出来たこれで三毛も浮かばれましょう。 金は剥げる事はあるまいね。 ええ念を押しましたら上等を使ったからこれなら人間の位牌よりも持つと申しておりました。 それから猫誉信女の誉の字は崩した方が恰好がいいから少し劃を易えたと申しました。 どれどれ早速御仏壇へ上げて御線香でもあげましょう。 御前も回向をしておやりなさい。 ほんとに残念な事を致しましたね。 始めはちょいと風邪を引いたんでございましょうがねえ。 甘木さんが薬でも下さるとよかったかも知れないよ。 一体あの甘木さんが悪うございますよあんまり三毛を馬鹿にし過ぎまさあね。 そう人様の事を悪く云うものではない。 これも寿命だから。 つまるところ表通りの教師のうちの野良猫が無暗に誘い出したからだとわたしは思うよ。 ええあの畜生が三毛のかたきでございますよ。 世の中は自由にならん者でのう。 三毛のような器量よしは早死をするし。 不器量な野良猫は達者でいたずらをしているし。 その通りでございますよ。 三毛のような可愛らしい猫は鐘と太鼓で探してあるいたって二人とはおりませんからね。 出来るものなら三毛の代りに。 あの教師の所の野良が死ぬと御誂え通りに参ったんでございますがねえ。 しかし猫でも坊さんの御経を読んでもらったり戒名をこしらえてもらったのだから心残りはあるまい。 そうでございますとも全く果報者でございますよ。 ただ慾を云うとあの坊さんの御経があまり軽少だったようでございますね。 少し短か過ぎたようだったから大変御早うございますねと御尋ねをしたら月桂寺さんはええ利目のあるところをちょいとやっておきましたなに猫だからあのくらいで充分浄土へ行かれますとおっしゃったよ。 あらまあしかしあの野良なんかは。 罪が深いんですからいくらありがたい御経だって浮かばれる事はございませんよ。 香一※。 さっきから天然居士の事をかこうと考えている。 天然居士は空間を研究し論語を読み焼芋を食い鼻汁を垂らす人である。 ハハハハ面白い。 鼻汁を垂らすのはちと酷だから消そう。 あなたちょっと。 なんだ。 あなたちょっと。 なんだよ。 今月はちっと足りませんが。 足りんはずはない医者へも薬礼はすましたし本屋へも先月払ったじゃないか。 今月は余らなければならん。 それでもあなたが御飯を召し上らんで麺麭を御食べになったりジャムを御舐めになるものですから。 元来ジャムは幾缶舐めたのかい。 今月は八つ入りましたよ。 八つ。 そんなに舐めた覚えはない。 あなたばかりじゃありません子供も舐めます。 いくら舐めたって五六円くらいなものだ。 いやに頑固だな。 ジャムばかりじゃないんですほかに買わなけりゃならない物もあります。 あるかも知れないさ。 あらいやだ。 ちょっと見ろ鼻毛の白髪だ。 焼芋を食うも蛇足だ割愛しよう。 香一※もあまり唐突だから已めろ。 天然居士は空間を研究し論語を読む人である。 空間に生れ空間を究め空間に死す。 空たり間たり天然居士噫。 また巨人引力かね。 そういつでも巨人引力ばかり書いてはおらんさ。 天然居士の墓銘を撰しているところなんだ。 天然居士と云うなあやはり偶然童子のような戒名かね。 偶然童子と云うのもあるのかい。 なに有りゃしないがまずその見当だろうと思っていらあね。 偶然童子と云うのは僕の知ったものじゃないようだが天然居士と云うのは君の知ってる男だぜ。 一体だれが天然居士なんて名を付けてすましているんだい。 例の曾呂崎の事だ。 卒業して大学院へ這入って空間論と云う題目で研究していたがあまり勉強し過ぎて腹膜炎で死んでしまった。 曾呂崎はあれでも僕の親友なんだからな。 親友でもいいさ決して悪いと云やしない。 しかしその曾呂崎を天然居士に変化させたのは一体誰の所作だい。 僕さ僕がつけてやったんだ。 元来坊主のつける戒名ほど俗なものは無いからな。 まあその墓碑銘と云う奴を見せ給え。 何だ空間に生れ空間を究め空間に死す。 空たり間たり天然居士|噫。 なるほどこりゃあ善い天然居士相当のところだ。 善いだろう。 この墓銘を沢庵石へ彫り付けて本堂の裏手へ力石のように抛り出して置くんだね。 雅でいいや天然居士も浮かばれる訳だ。 僕もそうしようと思っているのさ。 僕あちょっと失敬するよじき帰るから猫にでもからかっていてくれ給え。 イヨー大分肥ったなどれ。 あと足をこうぶら下げては鼠は取れそうもないどうです奥さんこの猫は鼠を捕りますかね。 鼠どころじゃございません。 御雑煮を食べて踊りをおどるんですもの。 なるほど踊りでもおどりそうな顔だ。 奥さんこの猫は油断のならない相好ですぜ。 昔しの草双紙にある猫又に似ていますよ。 どうも御退屈様もう帰りましょう。 どこへ行ったんですかね。 どこへ参るにも断わって行った事の無い男ですから分りかねますが大方御医者へでも行ったんでしょう。 甘木さんですか甘木さんもあんな病人に捕まっちゃ災難ですな。 へえ。 近頃はどうです少しは胃の加減が能いんですか。 能いか悪いか頓と分りませんいくら甘木さんにかかったってあんなにジャムばかり甞めては胃病の直る訳がないと思います。 そんなにジャムを甞めるんですかまるで小供のようですね。 ジャムばかりじゃないんでこの頃は胃病の薬だとか云って大根卸しを無暗に甞めますので。 驚ろいたな。 何でも大根卸の中にはジヤスターゼが有るとか云う話しを新聞で読んでからです。 なるほどそれでジャムの損害を償おうと云う趣向ですな。 なかなか考えていらあハハハハ。 この間などは赤ん坊にまで甞めさせまして。 ジャムをですか。 いいえ大根卸をあなた。 坊や御父様がうまいものをやるからおいでてって――たまに小供を可愛がってくれるかと思うとそんな馬鹿な事ばかりするんです。 二三日前には中の娘を抱いて箪笥の上へあげましてね。 どう云う趣向がありました。 なに趣向も何も有りゃしませんただその上から飛び下りて見ろと云うんですわ三つや四つの女の子ですものそんな御転婆な事が出来るはずがないです。 なるほどこりゃ趣向が無さ過ぎましたね。 しかしあれで腹の中は毒のない善人ですよ。 あの上腹の中に毒があっちゃ辛防は出来ませんわ。 まあそんなに不平を云わんでも善いでさあ。 こうやって不足なくその日その日が暮らして行かれれば上の分ですよ。 苦沙弥君などは道楽はせず服装にも構わず地味に世帯向きに出来上った人でさあ。 ところがあなた大違いで。 何か内々でやりますかね。 油断のならない世の中だからね。 ほかの道楽はないですが無暗に読みもしない本ばかり買いましてね。 それも善い加減に見計らって買ってくれると善いんですけれど勝手に丸善へ行っちゃ何冊でも取って来て月末になると知らん顔をしているんですもの去年の暮なんか月々のが溜って大変困りました。 なあに書物なんか取って来るだけ取って来て構わんですよ。 払いをとりに来たら今にやる今にやると云っていりゃ帰ってしまいまさあ。 それでもそういつまでも引張る訳にも参りませんから。 それじゃ訳を話して書籍費を削減させるさ。 どうしてそんな言を云ったってなかなか聞くものですかこの間などは貴様は学者の妻にも似合わん毫も書籍の価値を解しておらん昔し羅馬にこう云う話しがある。 後学のため聞いておけと云うんです。 そりゃ面白いどんな話しですか。 何んでも昔し羅馬に樽金とか云う王様があって。 樽金。 樽金はちと妙ですぜ。 私は唐人の名なんかむずかしくて覚えられませんわ。 何でも七代目なんだそうです。 なるほど七代目樽金は妙ですな。 ふんその七代目樽金がどうかしましたかい。 あらあなたまで冷かしては立つ瀬がありませんわ。 知っていらっしゃるなら教えて下さればいいじゃありませんか人の悪い。 何冷かすなんてそんな人の悪い事をする僕じゃない。 ただ七代目樽金は振ってると思ってねええお待ちなさいよ羅馬の七代目の王様ですねこうっとたしかには覚えていないがタークイン・ゼ・プラウドの事でしょう。 まあ誰でもいいその王様がどうしました。 その王様の所へ一人の女が本を九冊持って来て買ってくれないかと云ったんだそうです。 なるほど。 王様がいくらなら売るといって聞いたら大変な高い事を云うんですってあまり高いもんだから少し負けないかと云うとその女がいきなり九冊の内の三冊を火にくべて焚いてしまったそうです。 惜しい事をしましたな。 その本の内には予言か何かほかで見られない事が書いてあるんですって。 へえー。 王様は九冊が六冊になったから少しは価も減ったろうと思って六冊でいくらだと聞くとやはり元の通り一文も引かないそうですそれは乱暴だと云うとその女はまた三冊をとって火にくべたそうです。 王様はまだ未練があったと見えて余った三冊をいくらで売ると聞くとやはり九冊分のねだんをくれと云うそうです。 九冊が六冊になり六冊が三冊になっても代価は元の通り一厘も引かないそれを引かせようとすると残ってる三冊も火にくべるかも知れないので王様はとうとう高い御金を出して焚け余りの三冊を買ったんですってどうだこの話しで少しは書物のありがた味が分ったろうどうだと力味むのですけれど私にゃ何がありがたいんだかまあ分りませんね。 しかし奥さん。 あんなに本を買って矢鱈に詰め込むものだから人から少しは学者だとか何とか云われるんですよ。 この間ある文学雑誌を見たら苦沙弥君の評が出ていましたよ。 ほんとに。 何とかいてあったんです。 なあに二三行ばかりですがね。 苦沙弥君の文は行雲流水のごとしとありましたよ。 それぎりですか。 その次にね――出ずるかと思えば忽ち消え逝いては長えに帰るを忘るとありましたよ。 賞めたんでしょうか。 まあ賞めた方でしょうな。 書物は商買道具で仕方もござんすまいがよっぽど偏屈でしてねえ。 偏屈は少々偏屈ですね学問をするものはどうせあんなですよ。 せんだってなどは学校から帰ってすぐわきへ出るのに着物を着換えるのが面倒だものですからあなた外套も脱がないで机へ腰を掛けて御飯を食べるのです。 御膳を火燵櫓の上へ乗せまして――私は御櫃を抱えて坐っておりましたがおかしくって。 何だかハイカラの首実検のようですな。 しかしそんなところが苦沙弥君の苦沙弥君たるところで――とにかく月並でない。 月並か月並でないか女には分りませんがなんぼ何でもあまり乱暴ですわ。 しかし月並より好いですよ。 一体月並月並と皆さんがよくおっしゃいますがどんなのが月並なんです。 月並ですか月並と云うと――さようちと説明しにくいのですが。 そんな曖昧なものなら月並だって好さそうなものじゃありませんか。 曖昧じゃありませんよちゃんと分っていますただ説明しにくいだけの事でさあ。 何でも自分の嫌いな事を月並と云うんでしょう。 奥さん月並と云うのはねまず年は二八か二九からぬと言わず語らず物思いの間に寝転んでいてこの日や天気晴朗とくると必ず一瓢を携えて墨堤に遊ぶ連中を云うんです。 そんな連中があるでしょうか。 何だかごたごたして私には分りませんわ。 それじゃ馬琴の胴へメジョオ・ペンデニスの首をつけて一二年欧州の空気で包んでおくんですね。 そうすると月並が出来るでしょうか。 何そんな手数のかかる事をしないでも出来ます。 中学校の生徒に白木屋の番頭を加えて二で割ると立派な月並が出来上ります。 そうでしょうか。 君まだいるのか。 まだいるのかはちと酷だなすぐ帰るから待ってい給えと言ったじゃないか。 万事あれなんですもの。 今君の留守中に君の逸話を残らず聞いてしまったぜ。 女はとかく多弁でいかん人間もこの猫くらい沈黙を守るといいがな。 君は赤ん坊に大根卸しを甞めさしたそうだな。 ふむ。 赤ん坊でも近頃の赤ん坊はなかなか利口だぜ。 それ以来坊や辛いのはどこと聞くときっと舌を出すから妙だ。 まるで犬に芸を仕込む気でいるから残酷だ。 時に寒月はもう来そうなものだな。 寒月が来るのかい。 来るんだ。 午後一時までに苦沙弥の家へ来いと端書を出しておいたから。 人の都合も聞かんで勝手な事をする男だ。 寒月を呼んで何をするんだい。 なあに今日のはこっちの趣向じゃない寒月先生自身の要求さ。 先生何でも理学協会で演説をするとか云うのでね。 その稽古をやるから僕に聴いてくれと云うからそりゃちょうどいい苦沙弥にも聞かしてやろうと云うのでね。 そこで君の家へ呼ぶ事にしておいたのさ――なあに君はひま人だからちょうどいいやね――差支えなんぞある男じゃない聞くがいいさ。 物理学の演説なんか僕にゃ分らん。 ところがその問題がマグネ付けられたノッズルについてなどと云う乾燥無味なものじゃないんだ。 首縊りの力学と云う脱俗超凡な演題なのだから傾聴する価値があるさ。 君は首を縊り損くなった男だから傾聴するが好いが僕なんざあ。 歌舞伎座で悪寒がするくらいの人間だから聞かれないと云う結論は出そうもないぜ。 少し後れまして。 さっきから二人で大待ちに待ったところなんだ。 早速願おうなあ君。 うむ。 コップへ水を一杯頂戴しましょう。 いよー本式にやるのか次には拍手の請求とおいでなさるだろう。 稽古ですから御遠慮なく御批評を願います。 罪人を絞罪の刑に処すると云う事は重にアングロサクソン民族間に行われた方法でありましてそれより古代に溯って考えますと首縊りは重に自殺の方法として行われた者であります。 猶太人中に在っては罪人を石を抛げつけて殺す習慣であったそうでございます。 旧約全書を研究して見ますといわゆるハンギングなる語は罪人の死体を釣るして野獣または肉食鳥の餌食とする意義と認められます。 ヘロドタスの説に従って見ますと猶太人はエジプトを去る以前から夜中死骸を曝されることを痛く忌み嫌ったように思われます。 エジプト人は罪人の首を斬って胴だけを十字架に釘付けにして夜中曝し物にしたそうで御座います。 波斯人は。 寒月君首縊りと縁がだんだん遠くなるようだが大丈夫かい。 これから本論に這入るところですから少々|御辛防を願います。 さて波斯人はどうかと申しますとこれもやはり処刑には磔を用いたようでございます。 但し生きているうちに張付けに致したものか死んでから釘を打ったものかその辺はちと分りかねます。 そんな事は分らんでもいいさ。 まだいろいろ御話し致したい事もございますが御迷惑であらっしゃいましょうから。 あらっしゃいましょうよりいらっしゃいましょうの方が聞きいいよねえ苦沙弥君。 どっちでも同じ事だ。 さていよいよ本題に入りまして弁じます。 弁じますなんか講釈師の云い草だ。 演舌家はもっと上品な詞を使って貰いたいね。 弁じますが下品なら何と云ったらいいでしょう。 迷亭のは聴いているのか交ぜ返しているのか判然しない。 寒月君そんな弥次馬に構わずさっさとやるが好い。 むっとして弁じましたる柳かなかね。 真に処刑として絞殺を用いましたのは私の調べました結果によりまするとオディセーの二十二巻目に出ております。 即ち彼のテレマカスがペネロピーの十二人の侍女を絞殺するという条りでございます。 希臘語で本文を朗読しても宜しゅうございますがちと衒うような気味にもなりますからやめに致します。 四百六十五行から四百七十三行を御覧になると分ります。 希臘語|云々はよした方がいいさも希臘語が出来ますと云わんばかりだねえ苦沙弥君。 それは僕も賛成だそんな物欲しそうな事は言わん方が奥床しくて好い。 それではこの両三句は今晩抜く事に致しまして次を弁じ――ええ申し上げます。 この絞殺を今から想像して見ますとこれを執行するに二つの方法があります。 第一は彼のテレマカスがユーミアス及びフ※リーシャスの援を藉りて縄の一端を柱へ括りつけます。 そしてその縄の所々へ結び目を穴に開けてこの穴へ女の頭を一つずつ入れておいて片方の端をぐいと引張って釣し上げたものと見るのです。 つまり西洋洗濯屋のシャツのように女がぶら下ったと見れば好いんだろう。 その通りでそれから第二は縄の一端を前のごとく柱へ括り付けて他の一端も始めから天井へ高く釣るのです。 そしてその高い縄から何本か別の縄を下げてそれに結び目の輪になったのを付けて女の頸を入れておいていざと云う時に女の足台を取りはずすと云う趣向なのです。 たとえて云うと縄暖簾の先へ提灯玉を釣したような景色と思えば間違はあるまい。 提灯玉と云う玉は見た事がないから何とも申されませんがもしあるとすればその辺のところかと思います。 ――それでこれから力学的に第一の場合は到底成立すべきものでないと云う事を証拠立てて御覧に入れます。 面白いな。 うん面白い。 まず女が同距離に釣られると仮定します。 また一番地面に近い二人の女の首と首を繋いでいる縄はホリゾンタルと仮定します。 そこでα1α2α6を縄が地平線と形づくる角度としT1T2T6を縄の各部が受ける力と見做しT7=Xは縄のもっとも低い部分の受ける力とします。 Wは勿論女の体重と御承知下さい。 どうです御分りになりましたか。 大抵分った。 さて多角形に関する御存じの平均性理論によりますと下のごとく十二の方程式が立ちます。 T1cosα1=T2cosα2T2cosα2=T3cosα3。 方程式はそのくらいで沢山だろう。 実はこの式が演説の首脳なんですが。 それじゃ首脳だけは逐って伺う事にしようじゃないか。 この式を略してしまうとせっかくの力学的研究がまるで駄目になるのですが。 何そんな遠慮はいらんからずんずん略すさ。 それでは仰せに従って無理ですが略しましょう。 それがよかろう。 それから英国へ移って論じますとベオウルフの中に絞首架即ちガルガと申す字が見えますから絞罪の刑はこの時代から行われたものに違ないと思われます。 ブラクストーンの説によるともし絞罪に処せられる罪人が万一縄の具合で死に切れぬ時は再度同様の刑罰を受くべきものだとしてありますが妙な事にはピヤース・プローマンの中には仮令兇漢でも二度|絞める法はないと云う句があるのです。 まあどっちが本当か知りませんが悪くすると一度で死ねない事が往々実例にあるので。 千七百八十六年に有名なフ※ツ・ゼラルドと云う悪漢を絞めた事がありました。 ところが妙なはずみで一度目には台から飛び降りるときに縄が切れてしまったのです。 またやり直すと今度は縄が長過ぎて足が地面へ着いたのでやはり死ねなかったのです。 とうとう三返目に見物人が手伝って往生さしたと云う話しです。 やれやれ。 本当に死に損いだな。 まだ面白い事があります首を縊ると背が一寸ばかり延びるそうです。 これはたしかに医者が計って見たのだから間違はありません。 それは新工夫だねどうだい苦沙弥などはちと釣って貰っちゃあ一寸延びたら人間並になるかも知れないぜ。 寒月君一寸くらい背が延びて生き返る事があるだろうか。 それは駄目に極っています。 釣られて脊髄が延びるからなんで早く云うと背が延びると云うより壊れるんですからね。 それじゃまあ止めよう。 君越智東風の高輪事件を聞いたかい。 知らん近頃は合わんから。 きょうはその東風子の失策物語を御報道に及ぼうと思って忙しいところをわざわざ来たんだよ。 またそんな仰山な事を云う君は全体|不埒な男だ。 ハハハハハ不埒と云わんよりむしろ無埒の方だろう。 それだけはちょっと区別しておいて貰わんと名誉に関係するからな。 おんなし事だ。 この前の日曜に東風子が高輪泉岳寺に行ったんだそうだ。 この寒いのによせばいいのに――第一|今時泉岳寺などへ参るのはさも東京を知らない田舎者のようじゃないか。 それは東風の勝手さ。 君がそれを留める権利はない。 なるほど権利は正にない。 権利はどうでもいいがあの寺内に義士遺物保存会と云う見世物があるだろう。 君知ってるか。 うんにゃ。 知らない。 だって泉岳寺へ行った事はあるだろう。 いいや。 ない。 こりゃ驚ろいた。 道理で大変東風を弁護すると思った。 江戸っ子が泉岳寺を知らないのは情けない。 知らなくても教師は務まるからな。 そりゃ好いがその展覧場へ東風が這入って見物しているとそこへ独逸人が夫婦|連で来たんだって。 それが最初は日本語で東風に何か質問したそうだ。 ところが先生例の通り独逸語が使って見たくてたまらん男だろう。 そら二口三口べらべらやって見たとさ。 すると存外うまく出来たんだ――あとで考えるとそれが災の本さね。 それからどうした。 独逸人が大鷹源吾の蒔絵の印籠を見てこれを買いたいが売ってくれるだろうかと聞くんだそうだ。 その時東風の返事が面白いじゃないか日本人は清廉の君子ばかりだから到底駄目だと云ったんだとさ。 その辺は大分景気がよかったがそれから独逸人の方では恰好な通弁を得たつもりでしきりに聞くそうだ。 何を。 それがさ何だか分るくらいなら心配はないんだが早口で無暗に問い掛けるものだから少しも要領を得ないのさ。 たまに分るかと思うと鳶口や掛矢の事を聞かれる。 西洋の鳶口や掛矢は先生何と翻訳して善いのか習った事が無いんだから弱わらあね。 もっともだ。 ところへ閑人が物珍しそうにぽつぽつ集ってくる。 仕舞には東風と独逸人を四方から取り巻いて見物する。 東風は顔を赤くしてへどもどする。 初めの勢に引き易えて先生大弱りの体さ。 結局どうなったんだい。 仕舞に東風が我慢出来なくなったと見えてさいならと日本語で云ってぐんぐん帰って来たそうださいならは少し変だ君の国ではさよならをさいならと云うかって聞いて見たら何やっぱりさよならですが相手が西洋人だから調和を計るためにさいならにしたんだって東風子は苦しい時でも調和を忘れない男だと感心した。 さいならはいいが西洋人はどうした。 西洋人はあっけに取られて茫然と見ていたそうだハハハハ面白いじゃないか。 別段面白い事もないようだ。 それをわざわざ報知に来る君の方がよっぽど面白いぜ。 御免なさい。 どうも結構な御住居ですこと。 嘘をつけ。 君ありゃ雨洩りか板の木目か妙な模様が出ているぜ。 無論雨の洩りさ。 結構だなあ。 ちと伺いたい事があって参ったんですが。 はあ。 実は私はつい御近所で――あの向う横丁の角屋敷なんですが。 あの大きな西洋館の倉のあるうちですか道理であすこには金田と云う標札が出ていますな。 実は宿が出まして御話を伺うんですが会社の方が大変忙がしいもんですから。 会社でも一つじゃ無いんです二つも三つも兼ねているんです。 それにどの会社でも重役なんで――多分御存知でしょうが。 金田って人を知ってるか。 知ってるとも金田さんは僕の伯父の友達だ。 この間なんざ園遊会へおいでになった。 へえ君の伯父さんてえな誰だい。 牧山男爵さ。 おやあなたが牧山様の――何でいらっしゃいますかちっとも存じませんではなはだ失礼を致しました。 牧山様には始終御世話になると宿で毎々|御噂を致しております。 へええ何ハハハハ。 たしか娘の縁辺の事につきましてもいろいろ牧山さまへ御心配を願いましたそうで。 へえーそうですか。 実は方々からくれくれと申し込はございますがこちらの身分もあるものでございますから滅多な所へも片付けられませんので。 ごもっともで。 それについてあなたに伺おうと思って上がったんですがね。 あなたの所へ水島寒月という男が度々上がるそうですがあの人は全体どんな風な人でしょう。 寒月の事を聞いて何にするんです。 やはり御令嬢の御婚儀上の関係で寒月君の性行の一斑を御承知になりたいという訳でしょう。 それが伺えれば大変都合が宜しいのでございますが。 それじゃ御令嬢を寒月におやりになりたいとおっしゃるんで。 やりたいなんてえんじゃ無いんです。 ほかにもだんだん口が有るんですから無理に貰っていただかないだって困りゃしません。 それじゃ寒月の事なんか聞かんでも好いでしょう。 しかし御隠しなさる訳もないでしょう。 じゃあ寒月の方で是非貰いたいとでも云ったのですか。 貰いたいと云ったんじゃないんですけれども。 貰いたいだろうと思っていらっしゃるんですか。 話しはそんなに運んでるんじゃありませんが――寒月さんだって満更嬉しくない事もないでしょう。 寒月が何かその御令嬢に恋着したというような事でもありますか。 まあそんな見当でしょうね。 寒月が御嬢さんに付け文でもしたんですかこりゃ愉快だ新年になって逸話がまた一つ殖えて話しの好材料になる。 付け文じゃないんですもっと烈しいんでさあ御二人とも御承知じゃありませんか。 君知ってるか。 僕は知らん知っていりゃ君だ。 いえ御両人共御存じの事ですよ。 へえー。 御忘れになったら私しから御話をしましょう。 去年の暮向島の阿部さんの御屋敷で演奏会があって寒月さんも出掛けたじゃありませんかその晩帰りに吾妻橋で何かあったでしょう――詳しい事は言いますまい当人の御迷惑になるかも知れませんから――あれだけの証拠がありゃ充分だと思いますがどんなものでしょう。 ハハハハハ。 あれが御嬢さんですかなるほどこりゃいいおっしゃる通りだねえ苦沙弥君全く寒月はお嬢さんを恋ってるに相違ないねもう隠したってしようがないから白状しようじゃないか。 ウフン。 本当に御隠しなさってもいけませんよちゃんと種は上ってるんですからね。 こうなりゃ仕方がない。 何でも寒月君に関する事実は御参考のために陳述するさおい苦沙弥君君が主人だのにそうにやにや笑っていては埒があかんじゃないか実に秘密というものは恐ろしいものだねえ。 いくら隠してもどこからか露見するからな。 ――しかし不思議と云えば不思議ですねえ金田の奥さんどうしてこの秘密を御探知になったんです実に驚ろきますな。 私しの方だってぬかりはありませんやね。 あんまりぬかりが無さ過ぎるようですぜ。 一体誰に御聞きになったんです。 じきこの裏にいる車屋の神さんからです。 あの黒猫のいる車屋ですか。 ええ寒月さんの事じゃよっぽど使いましたよ。 寒月さんがここへ来る度にどんな話しをするかと思って車屋の神さんを頼んで一々知らせて貰うんです。 そりゃ苛い。 なあにあなたが何をなさろうとおっしゃろうとそれに構ってるんじゃないんです。 寒月さんの事だけですよ。 寒月の事だって誰の事だって――全体あの車屋の神さんは気に食わん奴だ。 しかしあなたの垣根のそとへ来て立っているのは向うの勝手じゃありませんか話しが聞えてわるけりゃもっと小さい声でなさるかもっと大きなうちへ御這入んなさるがいいでしょう。 車屋ばかりじゃありません。 新道の二絃琴の師匠からも大分いろいろな事を聞いています。 寒月の事をですか。 寒月さんばかりの事じゃありません。 あの師匠はいやに上品ぶって自分だけ人間らしい顔をしている馬鹿野郎です。 憚り様女ですよ。 野郎は御門違いです。 あなたは寒月の方から御嬢さんに恋着したようにばかりおっしゃるが私の聞いたんじゃ少し違いますぜねえ迷亭君。 うんあの時の話しじゃ御嬢さんの方が始め病気になって――何だか譫語をいったように聞いたね。 なにそんな事はありません。 それでも寒月はたしかに○○博士の夫人から聞いたと云っていましたぜ。 それがこっちの手なんでさあ○○博士の奥さんを頼んで寒月さんの気を引いて見たんでさあね。 ○○の奥さんはそれを承知で引き受けたんですか。 ええ。 引き受けて貰うたってただじゃ出来ませんやねそれやこれやでいろいろ物を使っているんですから。 是非寒月君の事を根堀り葉堀り御聞きにならなくっちゃ御帰りにならないと云う決心ですかね。 いいや君話したって損の行く事じゃなし話そうじゃないか苦沙弥君――奥さん私でも苦沙弥でも寒月君に関する事実で差支えのない事はみんな話しますからね――そう順を立ててだんだん聞いて下さると都合がいいですね。 寒月さんも理学士だそうですが全体どんな事を専門にしているのでございます。 大学院では地球の磁気の研究をやっています。 へえー。 それを勉強すると博士になれましょうか。 博士にならなければやれないとおっしゃるんですか。 ええ。 ただの学士じゃねいくらでもありますからね。 博士になるかならんかは僕等も保証する事が出来んからほかの事を聞いていただく事にしよう。 近頃でもその地球の――何かを勉強しているんでございましょうか。 二三日前は首縊りの力学と云う研究の結果を理学協会で演説しました。 おやいやだ首縊りだなんてよっぽど変人ですねえ。 そんな首縊りや何かやってたんじゃとても博士にはなれますまいね。 本人が首を縊っちゃあむずかしいですが首縊りの力学なら成れないとも限らんです。 そうでしょうか。 そのほかになにか分り易いものを勉強しておりますまいか。 そうですなせんだって団栗のスタビリチーを論じて併せて天体の運行に及ぶと云う論文を書いた事があります。 団栗なんぞでも大学校で勉強するものでしょうか。 さあ僕も素人だからよく分らんが何しろ寒月君がやるくらいなんだから研究する価値があると見えますな。 御話は違いますが――この御正月に椎茸を食べて前歯を二枚折ったそうじゃございませんか。 ええその欠けたところに空也餅がくっ付いていましてね。 色気のない人じゃございませんか何だって楊子を使わないんでしょう。 今度|逢ったら注意しておきましょう。 椎茸で歯がかけるくらいじゃよほど歯の性が悪いと思われますが如何なものでしょう。 善いとは言われますまいな――ねえ迷亭。 善い事はないがちょっと愛嬌があるよ。 あれぎりまだ填めないところが妙だ。 今だに空也餅|引掛所になってるなあ奇観だぜ。 歯を填める小遣がないので欠けなりにしておくんですかまたは物好きで欠けなりにしておくんでしょうか。 何も永く前歯欠成を名乗る訳でもないでしょうから御安心なさいよ。 何か御宅に手紙かなんぞ当人の書いたものでもございますならちょっと拝見したいもんでございますが。 端書なら沢山あります御覧なさい。 そんなに沢山拝見しないでも――その内の二三枚だけ。 どれどれ僕が好いのを撰ってやろう。 これなざあ面白いでしょう。 おや絵もかくんでございますかなかなか器用ですねどれ拝見しましょう。 あらいやだ狸だよ。 何だって撰りに撰って狸なんぞかくんでしょうね――それでも狸と見えるから不思議だよ。 その文句を読んで御覧なさい。 旧暦の歳の夜山の狸が園遊会をやって盛に舞踏します。 その歌に曰く来いさとしの夜で御山婦美も来まいぞ。 スッポコポンノポン。 何ですこりゃ人を馬鹿にしているじゃございませんか。 この天女は御気に入りませんか。 この天女の鼻が少し小さ過ぎるようですが。 何それが人並ですよ鼻より文句を読んで御覧なさい。 昔しある所に一人の天文学者がありました。 ある夜いつものように高い台に登って一心に星を見ていますと空に美しい天女が現われこの世では聞かれぬほどの微妙な音楽を奏し出したので天文学者は身に沁む寒さも忘れて聞き惚れてしまいました。 朝見るとその天文学者の死骸に霜が真白に降っていました。 これは本当の噺だとあのうそつきの爺やが申しました。 何の事ですこりゃ意味も何もないじゃありませんかこれでも理学士で通るんですかね。 ちっと文芸倶楽部でも読んだらよさそうなものですがねえ。 こりゃどうです。 よべの泊りの十六小女郎親がないとて荒磯の千鳥さよの寝覚の千鳥に泣いた親は船乗り波の底。 うまいのねえ感心だ事話せるじゃありませんか。 話せますかな。 ええこれなら三味線に乗りますよ。 三味線に乗りゃ本物だ。 こりゃ如何です。 いえもうこれだけ拝見すればほかのは沢山でそんなに野暮でないんだと云う事は分りましたから。 これははなはだ失礼を致しました。 どうか私の参った事は寒月さんへは内々に願います。 はあ。 いずれその内御礼は致しますから。 ありゃ何だい。 ありゃ何だい。 奥さん奥さん月並の標本が来ましたぜ。 月並もあのくらいになるとなかなか振っていますなあ。 さあ遠慮はいらんから存分御笑いなさい。 第一気に喰わん顔だ。 鼻が顔の中央に陣取って乙に構えているなあ。 しかも曲っていらあ。 少し猫背だね。 猫背の鼻はちと奇抜過ぎる。 夫を剋する顔だ。 十九世紀で売れ残って二十世紀で店曝しに逢うと云う相だ。 あんまり悪口をおっしゃるとまた車屋の神さんにいつけられますよ。 少しいつける方が薬ですよ奥さん。 しかし顔の讒訴などをなさるのはあまり下等ですわ誰だって好んであんな鼻を持ってる訳でもありませんから――それに相手が婦人ですからねあんまり苛いわ。 何ひどいものかあんなのは婦人じゃない愚人だねえ迷亭君。 愚人かも知れんがなかなかえら者だ大分引き掻かれたじゃないか。 全体教師を何と心得ているんだろう。 裏の車屋くらいに心得ているのさ。 ああ云う人物に尊敬されるには博士になるに限るよ一体博士になっておかんのが君の不了見さねえ奥さんそうでしょう。 博士なんて到底駄目ですよ。 これでも今になるかも知れん軽蔑するな。 貴様なぞは知るまいが昔しアイソクラチスと云う人は九十四歳で大著述をした。 ソフォクリスが傑作を出して天下を驚かしたのはほとんど百歳の高齢だった。 シモニジスは八十で妙詩を作った。 おれだって。 馬鹿馬鹿しいわあなたのような胃病でそんなに永く生きられるものですか。 失敬な――甘木さんへ行って聞いて見ろ――元来御前がこんな皺苦茶な黒木綿の羽織やつぎだらけの着物を着せておくからあんな女に馬鹿にされるんだ。 あしたから迷亭の着ているような奴を着るから出しておけ。 出しておけってあんな立派な御召はござんせんわ。 金田の奥さんが迷亭さんに叮嚀になったのは伯父さんの名前を聞いてからですよ。 着物の咎じゃございません。 君に伯父があると云う事は今日始めて聞いた。 今までついに噂をした事がないじゃないか本当にあるのかい。 うんその伯父さその伯父が馬鹿に頑物でねえ――やはりその十九世紀から連綿と今日まで生き延びているんだがね。 オホホホホホ面白い事ばかりおっしゃってどこに生きていらっしゃるんです。 静岡に生きてますがねそれがただ生きてるんじゃ無いです。 頭にちょん髷を頂いて生きてるんだから恐縮しまさあ。 帽子を被れってえとおれはこの年になるがまだ帽子を被るほど寒さを感じた事はないと威張ってるんです――寒いからもっと寝ていらっしゃいと云うと人間は四時間寝れば充分だ。 四時間以上寝るのは贅沢の沙汰だって朝暗いうちから起きてくるんです。 それでねおれも睡眠時間を四時間に縮めるには永年修業をしたもんだ若いうちはどうしても眠たくていかなんだが近頃に至って始めて随処任意の庶境に入ってはなはだ嬉しいと自慢するんです。 六十七になって寝られなくなるなあ当り前でさあ。 修業も糸瓜も入ったものじゃないのに当人は全く克己の力で成功したと思ってるんですからね。 それで外出する時にはきっと鉄扇をもって出るんですがね。 なににするんだい。 何にするんだか分らないただ持って出るんだね。 まあステッキの代りくらいに考えてるかも知れんよ。 ところがせんだって妙な事がありましてね。 へえー。 此年の春突然手紙を寄こして山高帽子とフロックコートを至急送れと云うんです。 ちょっと驚ろいたから郵便で問い返したところが老人自身が着ると云う返事が来ました。 二十三日に静岡で祝捷会があるからそれまでに間に合うように至急調達しろと云う命令なんです。 ところがおかしいのは命令中にこうあるんです。 帽子は好い加減な大きさのを買ってくれ洋服も寸法を見計らって大丸へ注文してくれ。 近頃は大丸でも洋服を仕立てるのかい。 なあに先生白木屋と間違えたんだあね。 寸法を見計ってくれたって無理じゃないか。 そこが伯父の伯父たるところさ。 どうした。 仕方がないから見計らって送ってやった。 君も乱暴だな。 それで間に合ったのかい。 まあどうにかこうにかおっついたんだろう。 国の新聞を見たら当日牧山翁は珍らしくフロックコートにて例の鉄扇を持ち。 鉄扇だけは離さなかったと見えるね。 うん死んだら棺の中へ鉄扇だけは入れてやろうと思っているよ。 それでも帽子も洋服もうまい具合に着られて善かった。 ところが大間違さ。 僕も無事に行ってありがたいと思ってるとしばらくして国から小包が届いたから何か礼でもくれた事と思って開けて見たら例の山高帽子さ手紙が添えてあってねせっかく御求め被下候えども少々大きく候間帽子屋へ御遣わしの上御縮め被下度候。 縮め賃は小為替にて此方より御送可申上候とあるのさ。 なるほど迂濶だな。 それからどうした。 どうするったって仕方がないから僕が頂戴して被っていらあ。 あの帽子かあ。 その方が男爵でいらっしゃるんですか。 誰がです。 その鉄扇の伯父さまが。 なあに漢学者でさあ若い時|聖堂で朱子学か何かにこり固まったものだから電気灯の下で恭しくちょん髷を頂いているんです。 仕方がありません。 それでも君はさっきの女に牧山男爵と云ったようだぜ。 そうおっしゃいましたよ私も茶の間で聞いておりました。 そうでしたかなアハハハハハ。 そりゃ嘘ですよ。 僕に男爵の伯父がありゃ今頃は局長くらいになっていまさあ。 何だか変だと思った。 あらまあよく真面目であんな嘘が付けますねえ。 あなたもよっぽど法螺が御上手でいらっしゃる事。 僕よりあの女の方が上わ手でさあ。 あなただって御負けなさる気遣いはありません。 しかし奥さん僕の法螺は単なる法螺ですよ。 あの女のはみんな魂胆があって曰く付きの嘘ですぜ。 たちが悪いです。 猿智慧から割り出した術数と天来の滑稽趣味と混同されちゃコメディーの神様も活眼の士なきを嘆ぜざるを得ざる訳に立ち至りますからな。 どうだか。 同じ事ですわ。 待てよ。 模範勝手だな。 あの教師あうちの旦那の名を知らないのかね。 知らねえ事があるもんかこの界隈で金田さんの御屋敷を知らなけりゃ眼も耳もねえ片輪だあな。 なんとも云えないよ。 あの教師と来たら本よりほかに何にも知らない変人なんだからねえ。 旦那の事を少しでも知ってりゃ恐れるかも知れないが駄目だよ自分の小供の歳さえ知らないんだもの。 金田さんでも恐れねえかな厄介な唐変木だ。 構あ事あねえみんなで威嚇かしてやろうじゃねえか。 それが好いよ。 奥様の鼻が大き過ぎるの顔が気に喰わないのって――そりゃあ酷い事を云うんだよ。 自分の面あ今戸焼の狸見たような癖に――あれで一人前だと思っているんだからやれ切れないじゃないか。 顔ばかりじゃない手拭を提げて湯に行くところからしていやに高慢ちきじゃないか。 自分くらいえらい者は無いつもりでいるんだよ。 何でも大勢であいつの垣根の傍へ行って悪口をさんざんいってやるんだね。 そうしたらきっと恐れ入るよ。 しかしこっちの姿を見せちゃあ面白くねえから声だけ聞かして勉強の邪魔をした上に出来るだけじらしてやれってさっき奥様が言い付けておいでなすったぜ。 そりゃ分っているよ。 貧乏教師の癖に生意気じゃありませんか。 うん生意気な奴だちと懲らしめのためにいじめてやろう。 あの学校にゃ国のものもいるからな。 誰がいるの。 津木ピン助や福地キシャゴがいるから頼んでからかわしてやろう。 あいつは英語の教師かい。 はあ車屋の神さんの話では英語のリードルか何か専門に教えるんだって云います。 どうせ碌な教師じゃあるめえ。 この間ピン助に遇ったら私の学校にゃ妙な奴がおります。 生徒から先生番茶は英語で何と云いますと聞かれて番茶はSavageteaであると真面目に答えたんで教員間の物笑いとなっていますどうもあんな教員があるからほかのものの迷惑になって困りますと云ったが大方あいつの事だぜ。 あいつに極っていまさあそんな事を云いそうな面構えですよいやに髭なんか生やして。 怪しからん奴だ。 それにあの迷亭とかへべれけとか云う奴はまあ何てえ頓狂な跳返りなんでしょう伯父の牧山男爵だなんてあんな顔に男爵の伯父なんざ有るはずがないと思ったんですもの。 御前がどこの馬の骨だか分らんものの言う事を真に受けるのも悪い。 悪いってあんまり人を馬鹿にし過ぎるじゃありませんか。 御前は大和かい。 明日ね行くんだからね鶉の三を取っておいておくれいいかえ――分ったかい――なに分らない。 おやいやだ。 鶉の三を取るんだよ。 ――なんだって――取れない。 取れないはずはないとるんだよ――へへへへへ御冗談をだって――何が御冗談なんだよ――いやに人をおひゃらかすよ。 全体御前は誰だい。 長吉だ。 長吉なんぞじゃ訳が分らない。 お神さんに電話口へ出ろって御云いな――なに。 私しで何でも弁じます。 ――お前は失敬だよ。 妾しを誰だか知ってるのかい。 金田だよ。 ――へへへへへ善く存じておりますだって。 ほんとに馬鹿だよこの人あ。 ――金田だってえばさ。 ――なに。 ――毎度|御贔屓にあずかりましてありがとうございます。 ――何がありがたいんだね。 御礼なんか聞きたかあないやね――おやまた笑ってるよ。 お前はよっぽど愚物だね。 ――仰せの通りだって。 ――あんまり人を馬鹿にすると電話を切ってしまうよ。 いいのかい。 困らないのかよ――黙ってちゃ分らないじゃないか何とか御云いなさいな。 御嬢様旦那様と奥様が呼んでいらっしゃいます。 知らないよ。 ちょっと用があるから嬢を呼んで来いとおっしゃいました。 うるさいね知らないてば。 水島寒月さんの事で御用があるんだそうでございます。 寒月でも水月でも知らないんだよ――大嫌いだわ糸瓜が戸迷いをしたような顔をして。 おや御前いつ束髪に結ったの。 今日。 生意気だねえ小間使の癖に。 そうして新しい半襟を掛けたじゃないか。 へえせんだって御嬢様からいただきましたので結構過ぎて勿体ないと思って行李の中へしまっておきましたが今までのがあまり汚れましたからかけ易えました。 いつそんなものを上げた事があるの。 この御正月白木屋へいらっしゃいまして御求め遊ばしたので――鶯茶へ相撲の番附を染め出したのでございます。 妾しには地味過ぎていやだから御前に上げようとおっしゃったあれでございます。 あらいやだ。 善く似合うのね。 にくらしいわ。 恐れ入ります。 褒めたんじゃない。 にくらしいんだよ。 へえ。 そんなによく似合うものをなぜだまって貰ったんだい。 へえ。 御前にさえそのくらい似合うなら妾しにだっておかしい事あないだろうじゃないか。 きっとよく御似合い遊ばします。 似あうのが分ってる癖になぜ黙っているんだい。 そうしてすまして掛けているんだよ人の悪い。 富子や富子や。 はい。 寒月君君の事を譫語にまで言った婦人の名は当時秘密であったようだがもう話しても善かろう。 御話しをしても私だけに関する事なら差支えないんですが先方の迷惑になる事ですから。 まだ駄目かなあ。 それに○○博士夫人に約束をしてしまったもんですから。 他言をしないと云う約束かね。 ええ。 その紐の色はちと天保調だな。 そうさ到底日露戦争時代のものではないな。 陣笠に立葵の紋の付いたぶっ割き羽織でも着なくっちゃ納まりの付かない紐だ。 織田信長が聟入をするとき頭の髪を茶筌に結ったと云うがその節用いたのはたしかそんな紐だよ。 実際これは爺が長州征伐の時に用いたのです。 もういい加減に博物館へでも献納してはどうだ。 首縊りの力学の演者理学士水島寒月君ともあろうものが売れ残りの旗本のような出で立をするのはちと体面に関する訳だから。 御忠告の通りに致してもいいのですがこの紐が大変よく似合うと云ってくれる人もありますので――。 誰だいそんな趣味のない事を云うのは。 それは御存じの方なんじゃないんで――。 御存じでなくてもいいや一体誰だい。 去る女性なんです。 ハハハハハよほど茶人だなあ当てて見ようかやはり隅田川の底から君の名を呼んだ女なんだろうその羽織を着てもう一返|御駄仏を極め込んじゃどうだい。 へへへへへもう水底から呼んではおりません。 ここから乾の方角にあたる清浄な世界で。 あんまり清浄でもなさそうだ毒々しい鼻だぜ。 へえ。 向う横丁の鼻がさっき押しかけて来たんだよここへ実に僕等二人は驚いたよねえ苦沙弥君。 うむ。 鼻って誰の事です。 君の親愛なる久遠の女性の御母堂様だ。 へえー。 金田の妻という女が君の事を聞きに来たよ。 どうか私にあの娘を貰ってくれと云う依頼なんでしょう。 ところが大違さ。 その御母堂なるものが偉大なる鼻の所有|主でね。 おい君僕はさっきからあの鼻について俳体詩を考えているんだがね。 随分君も呑気だなあ出来たのかい。 少し出来た。 第一句がこの顔に鼻祭りと云うのだ。 それから。 次がこの鼻に神酒供えというのさ。 次の句は。 まだそれぎりしか出来ておらん。 面白いですな。 次へ穴二つ幽かなりと付けちゃどうだ。 奥深く毛も見えずはいけますまいか。 今戸焼の狸今戸焼の狸。 ワハハハハハ。 今戸焼の狸というな何だい。 何だか分らん。 なかなか振っていますな。 吾輩は年来美学上の見地からこの鼻について研究した事がございますからその一斑を披瀝して御両君の清聴を煩わしたいと思います。 是非|承りたいものです。 いろいろ調べて見ましたが鼻の起源はどうも確と分りません。 第一の不審はもしこれを実用上の道具と仮定すれば穴が二つでたくさんである。 何もこんなに横風に真中から突き出して見る必用がないのである。 ところがどうしてだんだん御覧のごとく斯様にせり出して参ったか。 あんまりせり出してもおらんじゃないか。 とにかく引っ込んではおりませんからな。 ただ二個の孔が併んでいる状体と混同なすっては誤解を生ずるに至るかも計られませんから予め御注意をしておきます。 ――で愚見によりますと鼻の発達は吾々人間が鼻汁をかむと申す微細なる行為の結果が自然と蓄積してかく著明なる現象を呈出したものでございます。 佯りのない愚見だ。 御承知の通り鼻汁をかむ時は是非鼻を抓みます鼻を抓んでことにこの局部だけに刺激を与えますと進化論の大原則によってこの局部はこの刺激に応ずるがため他に比例して不相当な発達を致します。 皮も自然堅くなります肉も次第に硬くなります。 ついに凝って骨となります。 それは少し――そう自由に肉が骨に一足飛に変化は出来ますまい。 いや御不審はごもっともですが論より証拠この通り骨があるから仕方がありません。 すでに骨が出来る。 骨は出来ても鼻汁は出ますな。 出ればかまずにはいられません。 この作用で骨の左右が削り取られて細い高い隆起と変化して参ります――実に恐ろしい作用です。 点滴の石を穿つがごとく賓頭顱の頭が自から光明を放つがごとく不思議薫不思議臭の喩のごとく斯様に鼻筋が通って堅くなります。 それでも君のなんぞぶくぶくだぜ。 演者自身の局部は回護の恐れがありますからわざと論じません。 かの金田の御母堂の持たせらるる鼻のごときはもっとも発達せるもっとも偉大なる天下の珍品として御両君に紹介しておきたいと思います。 しかし物も極度に達しますと偉観には相違ございませんが何となく怖しくて近づき難いものであります。 あの鼻梁などは素晴しいには違いございませんが少々|峻嶮過ぎるかと思われます。 古人のうちにてもソクラチスゴールドスミスもしくはサッカレーの鼻などは構造の上から云うと随分申し分はございましょうがその申し分のあるところに愛嬌がございます。 鼻高きが故に貴からず奇なるがために貴しとはこの故でもございましょうか。 下世話にも鼻より団子と申しますれば美的価値から申しますとまず迷亭くらいのところが適当かと存じます。 フフフフ。 さてただ今まで弁じましたのは――。 先生弁じましたは少し講釈師のようで下品ですからよしていただきましょう。 さようしからば顔を洗って出直しましょうかな。 ――ええ――これから鼻と顔の権衡に一言論及したいと思います。 他に関係なく単独に鼻論をやりますとかの御母堂などはどこへ出しても恥ずかしからぬ鼻――鞍馬山で展覧会があっても恐らく一等賞だろうと思われるくらいな鼻を所有していらせられますが悲しいかなあれは眼口その他の諸先生と何等の相談もなく出来上った鼻であります。 ジュリアス・シーザーの鼻は大したものに相違ございません。 しかしシーザーの鼻を鋏でちょん切って当家の猫の顔へ安置したらどんな者でございましょうか。 喩えにも猫の額と云うくらいな地面へ英雄の鼻柱が突兀として聳えたら碁盤の上へ奈良の大仏を据え付けたようなもので少しく比例を失するの極その美的価値を落す事だろうと思います。 御母堂の鼻はシーザーのそれのごとく正しく英姿颯爽たる隆起に相違ございません。 しかしその周囲を囲繞する顔面的条件は如何な者でありましょう。 無論当家の猫のごとく劣等ではない。 しかし癲癇病みの御かめのごとく眉の根に八字を刻んで細い眼を釣るし上げらるるのは事実であります。 諸君この顔にしてこの鼻ありと嘆ぜざるを得んではありませんか。 まだ鼻の話しをしているんだよ。 何てえ剛突く張だろう。 車屋の神さんだ。 計らざる裏手にあたって新たに異性の傍聴者のある事を発見したのは演者の深く名誉と思うところであります。 ことに宛転たる嬌音をもって乾燥なる講筵に一点の艶味を添えられたのは実に望外の幸福であります。 なるべく通俗的に引き直して佳人淑女の眷顧に背かざらん事を期する訳でありますがこれからは少々力学上の問題に立ち入りますので勢御婦人方には御分りにくいかも知れませんどうか御辛防を願います。 私の証拠立てようとするのはこの鼻とこの顔は到底調和しない。 ツァイシングの黄金律を失していると云う事なんでそれを厳格に力学上の公式から演繹して御覧に入れようと云うのであります。 まずHを鼻の高さとします。 αは鼻と顔の平面の交叉より生ずる角度であります。 Wは無論鼻の重量と御承知下さい。 どうです大抵お分りになりましたか。 分るものか。 寒月君はどうだい。 私にもちと分りかねますな。 そりゃ困ったな。 苦沙弥はとにかく君は理学士だから分るだろうと思ったのに。 この式が演説の首脳なんだからこれを略しては今までやった甲斐がないのだが――まあ仕方がない。 公式は略して結論だけ話そう。 結論があるか。 当り前さ結論のない演舌はデザートのない西洋料理のようなものだ――いいか両君|能く聞き給えこれからが結論だぜ。 ――さて以上の公式にウィルヒョウワイスマン諸家の説を参酌して考えて見ますと先天的形体の遺伝は無論の事許さねばなりません。 またこの形体に追陪して起る心意的状況はたとい後天性は遺伝するものにあらずとの有力なる説あるにも関せずある程度までは必然の結果と認めねばなりません。 従ってかくのごとく身分に不似合なる鼻の持主の生んだ子にはその鼻にも何か異状がある事と察せられます。 寒月君などはまだ年が御若いから金田令嬢の鼻の構造において特別の異状を認められんかも知れませんがかかる遺伝は潜伏期の長いものでありますからいつ何時気候の劇変と共に急に発達して御母堂のそれのごとく咄嗟の間に膨脹するかも知れませんそれ故にこの御婚儀は迷亭の学理的論証によりますと今の中御断念になった方が安全かと思われますこれには当家の御主人は無論の事そこに寝ておらるる猫又殿にも御異存は無かろうと存じます。 そりゃ無論さ。 あんなものの娘を誰が貰うものか。 寒月君もらっちゃいかんよ。 先生方の御意向がそうなら私は断念してもいいんですがもし当人がそれを気にして病気にでもなったら罪ですから――。 ハハハハハ艶罪と云う訳だ。 そんな馬鹿があるものかあいつの娘なら碌な者でないに極ってらあ。 初めて人のうちへ来ておれをやり込めに掛った奴だ。 傲慢な奴だ。 ワハハハハハ。 高慢ちきな唐変木だ。 もっと大きな家へ這入りてえだろう。 御気の毒だがいくら威張ったって蔭弁慶だ。 やかましい何だわざわざそんな塀の下へ来て。 ワハハハハハサヴェジ・チーだサヴェジ・チーだ。 面白いやれやれ。 それで妻がわざわざあの男の所まで出掛けて行って容子を聞いたんだがね。 なるほどあの男が水島さんを教えた事がございますので――なるほどよい御思い付きで――なるほど。 ところが何だか要領を得んので。 ええ苦沙弥じゃ要領を得ない訳で――あの男は私がいっしょに下宿をしている時分から実に煮え切らない――そりゃ御困りでございましたろう。 困るの困らないのってあなた私しゃこの年になるまで人のうちへ行ってあんな不取扱を受けた事はありゃしません。 何か無礼な事でも申しましたか昔しから頑固な性分で――何しろ十年一日のごとくリードル専門の教師をしているのでも大体御分りになりましょう。 いや御話しにもならんくらいで妻が何か聞くとまるで剣もほろろの挨拶だそうで。 それは怪しからん訳で――一体少し学問をしているととかく慢心が萌すものでその上貧乏をすると負け惜しみが出ますから――いえ世の中には随分無法な奴がおりますよ。 自分の働きのないのにゃ気が付かないで無暗に財産のあるものに喰って掛るなんてえのが――まるで彼等の財産でも捲き上げたような気分ですから驚きますよあははは。 いやまことに言語同断でああ云うのは必竟世間見ずの我儘から起るのだからちっと懲らしめのためにいじめてやるが好かろうと思って少し当ってやったよ。 なるほどそれでは大分答えましたろう全く本人のためにもなる事ですから。 ところが鈴木さんまあなんて頑固な男なんでしょう。 学校へ出ても福地さんや津木さんには口も利かないんだそうです。 恐れ入って黙っているのかと思ったらこの間は罪もない宅の書生をステッキを持って追っ懸けたってんです――三十|面さげてよくまあそんな馬鹿な真似が出来たもんじゃありませんか全くやけで少し気が変になってるんですよ。 へえどうしてまたそんな乱暴な事をやったんで。 なあにただあの男の前を何とか云って通ったんだそうですするといきなりステッキを持って跣足で飛び出して来たんだそうです。 よしんばちっとやそっと何か云ったって小供じゃありませんか髯面の大僧の癖にしかも教師じゃありませんか。 さよう教師ですからな。 教師だからな。 それにあの迷亭って男はよっぽどな酔興人ですね。 役にも立たない嘘八百を並べ立てて。 私しゃあんな変梃な人にゃ初めて逢いましたよ。 ああ迷亭ですかあいかわらず法螺を吹くと見えますね。 やはり苦沙弥の所で御逢いになったんですか。 あれに掛っちゃたまりません。 あれも昔し自炊の仲間でしたがあんまり人を馬鹿にするものですから能く喧嘩をしましたよ。 誰だって怒りまさあねあんなじゃ。 そりゃ嘘をつくのも宜うござんしょうさね義理が悪るいとかばつを合せなくっちゃあならないとか――そんな時には誰しも心にない事を云うもんでさあ。 しかしあの男のは吐かなくってすむのに矢鱈に吐くんだから始末に了えないじゃありませんか。 何が欲しくってあんな出鱈目を――よくまあしらじらしく云えると思いますよ。 ごもっともで全く道楽からくる嘘だから困ります。 せっかくあなた真面目に聞きに行った水島の事も滅茶滅茶になってしまいました。 私ゃ剛腹で忌々しくって――それでも義理は義理でさあ人のうちへ物を聞きに行って知らん顔の半兵衛もあんまりですから後で車夫にビールを一ダース持たせてやったんです。 ところがあなたどうでしょう。 こんなものを受取る理由がない持って帰れって云うんだそうで。 いえ御礼だからどうか御取り下さいって車夫が云ったら――悪くいじゃあありませんか俺はジャムは毎日|舐めるがビールのような苦い者は飲んだ事がないってふいと奥へ這入ってしまったって――言い草に事を欠いてまあどうでしょう失礼じゃありませんか。 そりゃひどい。 そこで今日わざわざ君を招いたのだがね。 そんな馬鹿者は陰からからかってさえいればすむようなものの少々それでも困る事があるじゃて。 そこでちょっと君を煩わしたいと思ってな。 私に出来ます事なら何でも御遠慮なくどうか――今度東京勤務と云う事になりましたのも全くいろいろ御心配を掛けた結果にほかならん訳でありますから。 あの苦沙弥と云う変物がどう云う訳か水島に入れ智慧をするのであの金田の娘を貰っては行かんなどとほのめかすそうだ――なあ鼻子そうだな。 ほのめかすどころじゃないんです。 あんな奴の娘を貰う馬鹿がどこの国にあるものか寒月君決して貰っちゃいかんよって云うんです。 あんな奴とは何だ失敬なそんな乱暴な事を云ったのか。 云ったどころじゃありませんちゃんと車屋の神さんが知らせに来てくれたんです。 鈴木君どうだい御聞の通りの次第さ随分厄介だろうが。 困りますねほかの事と違ってこう云う事には他人が妄りに容喙するべきはずの者ではありませんからな。 そのくらいな事はいかな苦沙弥でも心得ているはずですが。 一体どうした訳なんでしょう。 それでの君は学生時代から苦沙弥と同宿をしていて今はとにかく昔は親密な間柄であったそうだから御依頼するのだが君当人に逢ってなよく利害を諭して見てくれんか。 何か怒っているかも知れんが怒るのは向が悪るいからで先方がおとなしくしてさえいれば一身上の便宜も充分計ってやるし気に障わるような事もやめてやる。 しかし向が向ならこっちもこっちと云う気になるからな――つまりそんな我を張るのは当人の損だからな。 ええ全くおっしゃる通り愚な抵抗をするのは本人の損になるばかりで何の益もない事ですから善く申し聞けましょう。 それから娘はいろいろと申し込もある事だから必ず水島にやると極める訳にも行かんがだんだん聞いて見ると学問も人物も悪くもないようだからもし当人が勉強して近い内に博士にでもなったらあるいはもらう事が出来るかも知れんくらいはそれとなくほのめかしても構わん。 そう云ってやったら当人も励みになって勉強する事でしょう。 宜しゅうございます。 それからあの妙な事だが――水島にも似合わん事だと思うがあの変物の苦沙弥を先生先生と云って苦沙弥の云う事は大抵聞く様子だから困る。 なにそりゃ何も水島に限る訳では無論ないのだから苦沙弥が何と云って邪魔をしようとわしの方は別に差支えもせんが。 水島さんが可哀そうですからね。 水島と云う人には逢った事もございませんがとにかくこちらと御縁組が出来れば生涯の幸福で本人は無論異存はないのでしょう。 ええ水島さんは貰いたがっているんですが苦沙弥だの迷亭だのって変り者が何だとかかんだとか云うものですから。 そりゃ善くない事で相当の教育のあるものにも似合わん所作ですな。 よく私が苦沙弥の所へ参って談じましょう。 ああどうか御面倒でも一つ願いたい。 それから実は水島の事も苦沙弥が一番|詳しいのだがせんだって妻が行った時は今の始末で碌々聞く事も出来なかった訳だから君から今一応本人の性行学才等をよく聞いて貰いたいて。 かしこまりました。 今日は土曜ですからこれから廻ったらもう帰っておりましょう。 近頃はどこに住んでおりますか知らん。 ここの前を右へ突き当って左へ一丁ばかり行くと崩れかかった黒塀のあるうちです。 それじゃつい近所ですな。 訳はありません。 帰りにちょっと寄って見ましょう。 なあに大体分りましょう標札を見れば。 標札はあるときとないときとありますよ。 名刺を御饌粒で門へ貼り付けるのでしょう。 雨がふると剥がれてしまいましょう。 すると御天気の日にまた貼り付けるのです。 だから標札は当にゃなりませんよ。 あんな面倒臭い事をするよりせめて木札でも懸けたらよさそうなもんですがねえ。 ほんとうにどこまでも気の知れない人ですよ。 どうも驚きますな。 しかし崩れた黒塀のうちと聞いたら大概分るでしょう。 ええあんな汚ないうちは町内に一軒しかないからすぐ分りますよ。 あそうそうそれで分らなければ好い事がある。 何でも屋根に草が生えたうちを探して行けば間違っこありませんよ。 よほど特色のある家ですなアハハハハ。 なるほど似ているな。 何がです。 何だって御前の頭にゃ大きな禿があるぜ。 知ってるか。 ええ。 嫁にくるときからあるのか結婚後新たに出来たのか。 いつ出来たんだか覚えちゃいませんわ禿なんざどうだって宜いじゃありませんか。 どうだって宜いって自分の頭じゃないか。 自分の頭だからどうだって宜いんだわ。 おや大分大きくなった事こんなじゃ無いと思っていた。 女は髷に結うとここが釣れますから誰でも禿げるんですわ。 そんな速度でみんな禿げたら四十くらいになればから薬缶ばかり出来なければならん。 そりゃ病気に違いない。 伝染するかも知れん今のうち早く甘木さんに見て貰え。 そんなに人の事をおっしゃるがあなただって鼻の孔へ白髪が生えてるじゃありませんか。 禿が伝染するなら白髪だって伝染しますわ。 鼻の中の白髪は見えんから害はないが脳天が――ことに若い女の脳天がそんなに禿げちゃ見苦しい。 不具だ。 不具ならなぜ御貰いになったのです。 御自分が好きで貰っておいて不具だなんて。 知らなかったからさ。 全く今日まで知らなかったんだ。 そんなに威張るならなぜ嫁に来る時頭を見せなかったんだ。 馬鹿な事を。 どこの国に頭の試験をして及第したら嫁にくるなんてものが在るもんですか。 禿はまあ我慢もするが御前は背いが人並|外れて低い。 はなはだ見苦しくていかん。 背いは見ればすぐ分るじゃありませんか背の低いのは最初から承知で御貰いになったんじゃありませんか。 それは承知さ承知には相違ないがまだ延びるかと思ったから貰ったのさ。 廿にもなって背いが延びるなんて――あなたもよっぽど人を馬鹿になさるのね。 廿になったって背いが延びてならんと云う法はあるまい。 嫁に来てから滋養分でも食わしたら少しは延びる見込みがあると思ったんだ。 やあ。 さあ敷きたまえ。 珍らしいな。 いつ東京へ出て来た。 ついまだ忙がしいものだから報知もしなかったが実はこの間から東京の本社の方へ帰るようになってね。 それは結構だ大分長く逢わなかったな。 君が田舎へ行ってから始めてじゃないか。 うんもう十年近くになるね。 なにその後時々東京へは出て来る事もあるんだがつい用事が多いもんだからいつでも失敬するような訳さ。 悪るく思ってくれたもうな。 会社の方は君の職業とは違って随分忙がしいんだから。 十年立つうちには大分違うもんだな。 うんこんな物までぶら下げなくちゃならんようになってね。 そりゃ本ものかい。 十八金だよ。 君も大分年を取ったね。 たしか小供があるはずだったが一人かい。 いいや。 二人。 いいや。 まだあるのかじゃ三人か。 うん三人ある。 この先|幾人出来るか分らん。 相変らず気楽な事を云ってるぜ。 一番大きいのはいくつになるかねもうよっぽどだろう。 うんいくつか能く知らんが大方六つか七つかだろう。 ハハハ教師は呑気でいいな。 僕も教員にでもなれば善かった。 なって見ろ三日で嫌になるから。 そうかな何だか上品で気楽で閑暇があってすきな勉強が出来てよさそうじゃないか。 実業家も悪くもないが我々のうちは駄目だ。 実業家になるならずっと上にならなくっちゃいかん。 下の方になるとやはりつまらん御世辞を振り撒いたり好かん猪口をいただきに出たり随分|愚なもんだよ。 僕は実業家は学校時代から大嫌だ。 金さえ取れれば何でもする昔で云えば素町人だからな。 まさか――そうばかりも云えんがね少しは下品なところもあるのさとにかく金と情死をする覚悟でなければやり通せないから――ところがその金と云う奴が曲者で――今もある実業家の所へ行って聞いて来たんだが金を作るにも三角術を使わなくちゃいけないと云うのさ――義理をかく人情をかく恥をかくこれで三角になるそうだ面白いじゃないかアハハハハ。 誰だそんな馬鹿は。 馬鹿じゃないなかなか利口な男なんだよ実業界でちょっと有名だがね君知らんかしらついこの先の横丁にいるんだが。 金田か。 何んだあんな奴。 大変怒ってるね。 なあにそりゃほんの冗談だろうがねそのくらいにせんと金は溜らんと云う喩さ。 君のようにそう真面目に解釈しちゃ困る。 三角術は冗談でもいいがあすこの女房の鼻はなんだ。 君行ったんなら見て来たろうあの鼻を。 細君か細君はなかなかさばけた人だ。 鼻だよ大きな鼻の事を云ってるんだ。 せんだって僕はあの鼻について俳体詩を作ったがね。 何だい俳体詩と云うのは。 俳体詩を知らないのか君も随分時勢に暗いな。 ああ僕のように忙がしいと文学などは到底駄目さ。 それに以前からあまり数奇でない方だから。 君シャーレマンの鼻の恰好を知ってるか。 アハハハハ随分気楽だな。 知らんよ。 エルリントンは部下のものから鼻々と異名をつけられていた。 君知ってるか。 鼻の事ばかり気にしてどうしたんだい。 好いじゃないか鼻なんか丸くても尖んがってても。 決してそうでない。 君パスカルの事を知ってるか。 また知ってるかかまるで試験を受けに来たようなものだ。 パスカルがどうしたんだい。 パスカルがこんな事を云っている。 どんな事を。 もしクレオパトラの鼻が少し短かかったならば世界の表面に大変化を来したろうと。 なるほど。 それだから君のようにそう無雑作に鼻を馬鹿にしてはいかん。 まあいいさこれから大事にするから。 そりゃそうとして今日来たのは少し君に用事があって来たんだがね――あの元君の教えたとか云う水島――ええ水島ええちょっと思い出せない。 ――そら君の所へ始終来ると云うじゃないか。 寒月か。 そうそう寒月寒月。 あの人の事についてちょっと聞きたい事があって来たんだがね。 結婚事件じゃないか。 まあ多少それに類似の事さ。 今日金田へ行ったら。 この間鼻が自分で来た。 そうか。 そうだって細君もそう云っていたよ。 苦沙弥さんによく伺おうと思って上ったら生憎迷亭が来ていて茶々を入れて何が何だか分らなくしてしまったって。 あんな鼻をつけて来るから悪るいや。 いえ君の事を云うんじゃないよ。 あの迷亭君がおったもんだからそう立ち入った事を聞く訳にも行かなかったので残念だったからもう一遍僕に行ってよく聞いて来てくれないかって頼まれたものだからね。 僕も今までこんな世話はした事はないがもし当人同士が嫌やでないなら中へ立って纏めるのも決して悪い事はないからね――それでやって来たのさ。 御苦労様。 君その娘は寒月の所へ来たがってるのか。 金田や鼻はどうでも構わんが娘自身の意向はどうなんだ。 そりゃその――何だね――何でも――え来たがってるんだろうじゃないか。 だろうた判然しない言葉だ。 いやこれゃちょっと僕の云いようがわるかった。 令嬢の方でもたしかに意があるんだよ。 いえ全くだよ――え。 ――細君が僕にそう云ったよ。 何でも時々は寒月君の悪口を云う事もあるそうだがね。 あの娘がか。 ああ。 怪しからん奴だ悪口を云うなんて。 第一それじゃ寒月に意がないんじゃないか。 そこがさ世の中は妙なもので自分の好いている人の悪口などは殊更云って見る事もあるからね。 そんな愚な奴がどこの国にいるものか。 その愚な奴が随分世の中にゃあるから仕方がない。 現に金田の妻君もそう解釈しているのさ。 戸惑いをした糸瓜のようだなんて時々寒月さんの悪口を云いますからよっぽど心の中では思ってるに相違ありませんと。 君考えても分るじゃないかあれだけの財産があってあれだけの器量ならどこへだって相応の家へやれるだろうじゃないか。 寒月だってえらいかも知れんが身分から云や――いや身分と云っちゃ失礼かも知れない。 ――財産と云う点から云やまあだれが見たって釣り合わんのだからね。 それを僕がわざわざ出張するくらい両親が気を揉んでるのは本人が寒月君に意があるからの事じゃあないか。 それでね。 今云う通りの訳であるから先方で云うには何も金銭や財産はいらんからその代り当人に附属した資格が欲しい――資格と云うとまあ肩書だね――博士になったらやってもいいなんて威張ってる次第じゃない――誤解しちゃいかん。 せんだって細君の来た時は迷亭君がいて妙な事ばかり云うものだから――いえ君が悪いのじゃない。 細君も君の事を御世辞のない正直ないい方だと賞めていたよ。 全く迷亭君がわるかったんだろう。 ――それでさ本人が博士にでもなってくれれば先方でも世間へ対して肩身が広い面目があると云うんだがねどうだろう近々の内水島君は博士論文でも呈出して博士の学位を受けるような運びには行くまいか。 なあに――金田だけなら博士も学士もいらんのさただ世間と云う者があるとねそう手軽にも行かんからな。 それじゃ今度寒月が来たら博士論文をかくように僕から勧めて見よう。 しかし当人が金田の娘を貰うつもりかどうだかそれからまず問い正して見なくちゃいかんからな。 問い正すなんて君そんな角張った事をして物が纏まるものじゃない。 やっぱり普通の談話の際にそれとなく気を引いて見るのが一番近道だよ。 気を引いて見る。 うん気を引くと云うと語弊があるかも知れん。 ――なに気を引かんでもね。 話しをしていると自然分るもんだよ。 君にゃ分るかも知れんが僕にゃ判然と聞かん事は分らん。 分らなけりゃまあ好いさ。 しかし迷亭君見たように余計な茶々を入れて打ち壊わすのは善くないと思う。 仮令勧めないまでもこんな事は本人の随意にすべきはずのものだからね。 今度寒月君が来たらなるべくどうか邪魔をしないようにしてくれ給え。 ――いえ君の事じゃないあの迷亭君の事さ。 あの男の口にかかると到底助かりっこないんだから。 いやー珍客だね。 僕のような狎客になると苦沙弥はとかく粗略にしたがっていかん。 何でも苦沙弥のうちへは十年に一遍くらいくるに限る。 この菓子はいつもより上等じゃないか。 君は一生|旅烏かと思ってたらいつの間にか舞い戻ったね。 長生はしたいもんだな。 どんな僥倖に廻り合わんとも限らんからね。 可哀そうにそんなに馬鹿にしたものでもない。 君電気鉄道へ乗ったか。 今日は諸君からひやかされに来たようなものだ。 なんぼ田舎者だって――これでも街鉄を六十株持ってるよ。 そりゃ馬鹿に出来ないな。 僕は八百八十八株半持っていたが惜しい事に大方虫が喰ってしまって今じゃ半株ばかりしかない。 もう少し早く君が東京へ出てくれば虫の喰わないところを十株ばかりやるところだったが惜しい事をした。 相変らず口が悪るい。 しかし冗談は冗談としてああ云う株は持ってて損はないよ年々高くなるばかりだから。 そうだ仮令半株だって千年も持ってるうちにゃ倉が三つくらい建つからな。 君も僕もその辺にぬかりはない当世の才子だがそこへ行くと苦沙弥などは憐れなものだ。 株と云えば大根の兄弟分くらいに考えているんだから。 株などはどうでも構わんが僕は曾呂崎に一度でいいから電車へ乗らしてやりたかった。 曾呂崎が電車へ乗ったら乗るたんびに品川まで行ってしまうはそれよりやっぱり天然居士で沢庵石へ彫り付けられてる方が無事でいい。 曾呂崎と云えば死んだそうだな。 気の毒だねえいい頭の男だったが惜しい事をした。 頭は善かったが飯を焚く事は一番下手だったぜ。 曾呂崎の当番の時には僕あいつでも外出をして蕎麦で凌いでいた。 ほんとに曾呂崎の焚いた飯は焦げくさくって心があって僕も弱った。 御負けに御菜に必ず豆腐をなまで食わせるんだから冷たくて食われやせん。 苦沙弥はあの時代から曾呂崎の親友で毎晩いっしょに汁粉を食いに出たがその祟りで今じゃ慢性胃弱になって苦しんでいるんだ。 実を云うと苦沙弥の方が汁粉の数を余計食ってるから曾呂崎より先へ死んで宜い訳なんだ。 そんな論理がどこの国にあるものか。 俺の汁粉より君は運動と号して毎晩|竹刀を持って裏の卵塔婆へ出て石塔を叩いてるところを坊主に見つかって剣突を食ったじゃないか。 アハハハそうそう坊主が仏様の頭を叩いては安眠の妨害になるからよしてくれって言ったっけ。 しかし僕のは竹刀だがこの鈴木将軍のは手暴だぜ。 石塔と相撲をとって大小三個ばかり転がしてしまったんだから。 あの時の坊主の怒り方は実に烈しかった。 是非元のように起せと云うから人足を傭うまで待ってくれと云ったら人足じゃいかん懺悔の意を表するためにあなたが自身で起さなくては仏の意に背くと云うんだからね。 その時の君の風采はなかったぜ金巾のしゃつに越中褌で雨上りの水溜りの中でうんうん唸って。 それを君がすました顔で写生するんだから苛い。 僕はあまり腹を立てた事のない男だがあの時ばかりは失敬だと心から思ったよ。 あの時の君の言草をまだ覚えているが君は知ってるか。 十年前の言草なんか誰が覚えているものかしかしあの石塔に帰泉院殿黄鶴大居士安永五年|辰正月と彫ってあったのだけはいまだに記憶している。 あの石塔は古雅に出来ていたよ。 引き越す時に盗んで行きたかったくらいだ。 実に美学上の原理に叶ってゴシック趣味な石塔だった。 そりゃいいが君の言草がさ。 こうだぜ――吾輩は美学を専攻するつもりだから天地間の面白い出来事はなるべく写生しておいて将来の参考に供さなければならん気の毒だの可哀相だのと云う私情は学問に忠実なる吾輩ごときものの口にすべきところでないと平気で云うのだろう。 僕もあんまりな不人情な男だと思ったから泥だらけの手で君の写生帖を引き裂いてしまった。 僕の有望な画才が頓挫して一向振わなくなったのも全くあの時からだ。 君に機鋒を折られたのだね。 僕は君に恨がある。 馬鹿にしちゃいけない。 こっちが恨めしいくらいだ。 迷亭はあの時分から法螺吹だったな。 約束なんか履行した事がない。 それで詰問を受けると決して詫びた事がない何とか蚊とか云う。 あの寺の境内に百日紅が咲いていた時分この百日紅が散るまでに美学原論と云う著述をすると云うから駄目だ到底出来る気遣はないと云ったのさ。 すると迷亭の答えに僕はこう見えても見掛けに寄らぬ意志の強い男であるそんなに疑うなら賭をしようと云うから僕は真面目に受けて何でも神田の西洋料理を奢りっこかなにかに極めた。 きっと書物なんか書く気遣はないと思ったから賭をしたようなものの内心は少々恐ろしかった。 僕に西洋料理なんか奢る金はないんだからな。 ところが先生|一向稿を起す景色がない。 七日立っても二十日立っても一枚も書かない。 いよいよ百日紅が散って一輪の花もなくなっても当人平気でいるからいよいよ西洋料理に有りついたなと思って契約履行を逼ると迷亭すまして取り合わない。 また何とか理窟をつけたのかね。 うん実にずうずうしい男だ。 吾輩はほかに能はないが意志だけは決して君方に負けはせんと剛情を張るのさ。 一枚も書かんのにか。 無論さその時君はこう云ったぜ。 吾輩は意志の一点においてはあえて何人にも一歩も譲らん。 しかし残念な事には記憶が人一倍無い。 美学原論を著わそうとする意志は充分あったのだがその意志を君に発表した翌日から忘れてしまった。 それだから百日紅の散るまでに著書が出来なかったのは記憶の罪で意志の罪ではない。 意志の罪でない以上は西洋料理などを奢る理由がないと威張っているのさ。 なるほど迷亭君一流の特色を発揮して面白い。 何が面白いものか。 それは御気の毒様それだからその埋合せをするために孔雀の舌なんかを金と太鼓で探しているじゃないか。 まあそう怒らずに待っているさ。 しかし著書と云えば君今日は一大珍報を齎らして来たんだよ。 君はくるたびに珍報を齎らす男だから油断が出来ん。 ところが今日の珍報は真の珍報さ。 正札付一厘も引けなしの珍報さ。 君寒月が博士論文の稿を起したのを知っているか。 寒月はあんな妙に見識張った男だから博士論文なんて無趣味な労力はやるまいと思ったらあれでやっぱり色気があるからおかしいじゃないか。 君あの鼻に是非通知してやるがいいこの頃は団栗博士の夢でも見ているかも知れない。 本当に論文を書きかけたのか。 よく人の云う事を疑ぐる男だ。 ――もっとも問題は団栗だか首縊りの力学だか確と分らんがね。 とにかく寒月の事だから鼻の恐縮するようなものに違いない。 その後鼻についてまた研究をしたがこの頃トリストラム・シャンデーの中に鼻論があるのを発見した。 金田の鼻などもスターンに見せたら善い材料になったろうに残念な事だ。 鼻名を千載に垂れる資格は充分ありながらあのままで朽ち果つるとは不憫千万だ。 今度ここへ来たら美学上の参考のために写生してやろう。 しかしあの娘は寒月の所へ来たいのだそうだ。 ちょっと乙だなあんな者の子でも恋をするところがしかし大した恋じゃなかろう大方|鼻恋くらいなところだぜ。 鼻恋でも寒月が貰えばいいが。 貰えばいいがって君は先日大反対だったじゃないか。 今日はいやに軟化しているぜ。 軟化はせん僕は決して軟化はせんしかし。 しかしどうかしたんだろう。 ねえ鈴木君も実業家の末席を汚す一人だから参考のために言って聞かせるがね。 あの金田某なる者さ。 あの某なるものの息女などを天下の秀才水島寒月の令夫人と崇め奉るのは少々|提灯と釣鐘と云う次第で我々|朋友たる者が冷々黙過する訳に行かん事だと思うんだがたとい実業家の君でもこれには異存はあるまい。 相変らず元気がいいね。 結構だ。 君は十年前と容子が少しも変っていないからえらい。 えらいと褒めるならもう少し博学なところを御目にかけるがね。 昔しの希臘人は非常に体育を重んじたものであらゆる競技に貴重なる懸賞を出して百方奨励の策を講じたものだ。 しかるに不思議な事には学者の智識に対してのみは何等の褒美も与えたと云う記録がなかったので今日まで実は大に怪しんでいたところさ。 なるほど少し妙だね。 しかるについ両三日前に至って美学研究の際ふとその理由を発見したので多年の疑団は一度に氷解。 漆桶を抜くがごとく痛快なる悟りを得て歓天喜地の至境に達したのさ。 そこでこの矛盾なる現象の説明を明記して暗黒の淵から吾人の疑を千載の下に救い出してくれた者は誰だと思う。 学問あって以来の学者と称せらるる彼の希臘の哲人逍遥派の元祖アリストートルその人である。 彼の説明に曰くさ――おい菓子皿などを叩かんで謹聴していなくちゃいかん。 ――彼等希臘人が競技において得るところの賞与は彼等が演ずる技芸その物より貴重なものである。 それ故に褒美にもなり奨励の具ともなる。 しかし智識その物に至ってはどうである。 もし智識に対する報酬として何物をか与えんとするならば智識以上の価値あるものを与えざるべからず。 しかし智識以上の珍宝が世の中にあろうか。 無論あるはずがない。 下手なものをやれば智識の威厳を損する訳になるばかりだ。 彼等は智識に対して千両箱をオリムパスの山ほど積みクリーサスの富を傾け尽しても相当の報酬を与えんとしたのであるがいかに考えても到底釣り合うはずがないと云う事を観破してそれより以来と云うものは奇麗さっぱり何にもやらない事にしてしまった。 黄白青銭が智識の匹敵でない事はこれで十分理解出来るだろう。 さてこの原理を服膺した上で時事問題に臨んで見るがいい。 金田某は何だい紙幣に眼鼻をつけただけの人間じゃないか奇警なる語をもって形容するならば彼は一個の活動紙幣に過ぎんのである。 活動紙幣の娘なら活動切手くらいなところだろう。 翻って寒月君は如何と見ればどうだ。 辱けなくも学問最高の府を第一位に卒業して毫も倦怠の念なく長州征伐時代の羽織の紐をぶら下げて日夜|団栗のスタビリチーを研究しそれでもなお満足する様子もなく近々の中ロード・ケルヴィンを圧倒するほどな大論文を発表しようとしつつあるではないか。 たまたま吾妻橋を通り掛って身投げの芸を仕損じた事はあるがこれも熱誠なる青年に有りがちの発作的所為で毫も彼が智識の問屋たるに煩いを及ぼすほどの出来事ではない。 迷亭一流の喩をもって寒月君を評すれば彼は活動図書館である。 智識をもって捏ね上げたる二十八|珊の弾丸である。 この弾丸が一たび時機を得て学界に爆発するなら――もし爆発して見給え――爆発するだろう――。 活動切手などは何千万枚あったって粉な微塵になってしまうさ。 それだから寒月にはあんな釣り合わない女性は駄目だ。 僕が不承知だ百獣の中でもっとも聡明なる大象ともっとも貪婪なる小豚と結婚するようなものだ。 そうだろう苦沙弥君。 そんな事も無かろう。 君は何にも知らんからそうでもなかろうなどと澄し返って例になく言葉寡なに上品に控え込むがせんだってあの鼻の主が来た時の容子を見たらいかに実業家|贔負の尊公でも辟易するに極ってるよねえ苦沙弥君君|大に奮闘したじゃないか。 それでも君より僕の方が評判がいいそうだ。 アハハハなかなか自信が強い男だ。 それでなくてはサヴェジ・チーなんて生徒や教師にからかわれてすまして学校へ出ちゃいられん訳だ。 僕も意志は決して人に劣らんつもりだがそんなに図太くは出来ん敬服の至りだ。 生徒や教師が少々愚図愚図言ったって何が恐ろしいものかサントブーヴは古今独歩の評論家であるが巴里大学で講義をした時は非常に不評判で彼は学生の攻撃に応ずるため外出の際必ず匕首を袖の下に持って防禦の具となした事がある。 ブルヌチェルがやはり巴里の大学でゾラの小説を攻撃した時は。 だって君ゃ大学の教師でも何でもないじゃないか。 高がリードルの先生でそんな大家を例に引くのは雑魚が鯨をもって自ら喩えるようなもんだそんな事を云うとなおからかわれるぜ。 黙っていろ。 サントブーヴだって俺だって同じくらいな学者だ。 大変な見識だな。 しかし懐剣をもって歩行くだけはあぶないから真似ない方がいいよ。 大学の教師が懐剣ならリードルの教師はまあ小刀くらいなところだな。 しかしそれにしても刃物は剣呑だから仲見世へ行っておもちゃの空気銃を買って来て背負ってあるくがよかろう。 愛嬌があっていい。 ねえ鈴木君。 相変らず無邪気で愉快だ。 十年振りで始めて君等に逢ったんで何だか窮屈な路次から広い野原へ出たような気持がする。 どうも我々仲間の談話は少しも油断がならなくてね。 何を云うにも気をおかなくちゃならんから心配で窮屈で実に苦しいよ。 話は罪がないのがいいね。 そして昔しの書生時代の友達と話すのが一番遠慮がなくっていい。 ああ今日は図らず迷亭君に遇って愉快だった。 僕はちと用事があるからこれで失敬する。 僕もいこう僕はこれから日本橋の演芸矯風会に行かなくっちゃならんからそこまでいっしょに行こう。 そりゃちょうどいい久し振りでいっしょに散歩しよう。 寒月だ。 朝日。 それではここから這入って寝室の方へ廻ったんですな。 あなた方は睡眠中で一向気がつかなかったのですな。 ええ。 それで盗難に罹ったのは何時頃ですか。 何時頃かな。 そうですね。 あなたは夕べ何時に御休みになったんですか。 俺の寝たのは御前よりあとだ。 ええ私しの伏せったのはあなたより前です。 眼が覚めたのは何時だったかな。 七時半でしたろう。 すると盗賊の這入ったのは何時頃になるかな。 なんでも夜なかでしょう。 夜中は分りきっているが何時頃かと云うんだ。 たしかなところはよく考えて見ないと分りませんわ。 それじゃ盗難の時刻は不明なんですな。 まあそうですな。 じゃあね明治三十八年何月何日戸締りをして寝たところが盗賊がどこそこの雨戸を外してどこそこに忍び込んで品物を何点盗んで行ったから右告訴及候也という書面をお出しなさい。 届ではない告訴です。 名宛はない方がいい。 品物は一々かくんですか。 ええ羽織何点代価いくらと云う風に表にして出すんです。 ――いや這入って見たって仕方がない。 盗られたあとなんだから。 これから盗難告訴をかくから盗られたものを一々云え。 さあ云え。 あら厭ださあ云えだなんてそんな権柄ずくで誰が云うもんですか。 その風はなんだ宿場女郎の出来損い見たようだ。 なぜ帯をしめて出て来ん。 これで悪るければ買って下さい。 宿場女郎でも何でも盗られりゃ仕方がないじゃありませんか。 帯までとって行ったのか苛い奴だ。 それじゃ帯から書き付けてやろう。 帯はどんな帯だ。 どんな帯ってそんなに何本もあるもんですか黒繻子と縮緬の腹合せの帯です。 黒繻子と縮緬の腹合せの帯一筋――価はいくらくらいだ。 六円くらいでしょう。 生意気に高い帯をしめてるな。 今度から一円五十銭くらいのにしておけ。 そんな帯があるものですか。 それだからあなたは不人情だと云うんです。 女房なんどはどんな汚ない風をしていても自分さい宜けりゃ構わないんでしょう。 まあいいやそれから何だ。 糸織の羽織ですあれは河野の叔母さんの形身にもらったんで同じ糸織でも今の糸織とはたちが違います。 そんな講釈は聞かんでもいい。 値段はいくらだ。 十五円。 十五円の羽織を着るなんて身分不相当だ。 いいじゃありませんかあなたに買っていただきゃあしまいし。 その次は何だ。 黒足袋が一足。 御前のか。 あなたんでさあね。 代価が二十七銭。 それから。 山の芋が一箱。 山の芋まで持って行ったのか。 煮て食うつもりかとろろ汁にするつもりか。 どうするつもりか知りません。 泥棒のところへ行って聞いていらっしゃい。 いくらするか。 山の芋のねだんまでは知りません。 そんなら十二円五十銭くらいにしておこう。 馬鹿馬鹿しいじゃありませんかいくら唐津から掘って来たって山の芋が十二円五十銭してたまるもんですか。 しかし御前は知らんと云うじゃないか。 知りませんわ知りませんが十二円五十銭なんて法外ですもの。 知らんけれども十二円五十銭は法外だとは何だ。 まるで論理に合わん。 それだから貴様はオタンチン・パレオロガスだと云うんだ。 何ですって。 オタンチン・パレオロガスだよ。 何ですそのオタンチン・パレオロガスって云うのは。 何でもいい。 それからあとは――俺の着物は一向出て来んじゃないか。 あとは何でも宜うござんす。 オタンチン・パレオロガスの意味を聞かして頂戴。 意味も何にもあるもんか。 教えて下すってもいいじゃありませんかあなたはよっぽど私を馬鹿にしていらっしゃるのね。 きっと人が英語を知らないと思って悪口をおっしゃったんだよ。 愚な事を言わんで早くあとを云うが好い。 早く告訴をせんと品物が返らんぞ。 どうせ今から告訴をしたって間に合いやしません。 それよりかオタンチン・パレオロガスを教えて頂戴。 うるさい女だな意味も何にも無いと云うに。 そんなら品物の方もあとはありません。 頑愚だな。 それでは勝手にするがいい。 俺はもう盗難告訴を書いてやらんから。 私も品数を教えて上げません。 告訴はあなたが御自分でなさるんですから私は書いていただかないでも困りません。 それじゃ廃そう。 奥さん。 よか天気でござります。 おや多々良さん。 先生はどこぞ出なすったか。 いいえ書斎にいます。 奥さん先生のごと勉強しなさると毒ですばい。 たまの日曜だものあなた。 わたしに言っても駄目だからあなたが先生にそうおっしゃい。 そればってんが。 今日は御嬢さんも見えんな。 多々良さん今日は御寿司を持って来て。 よう覚えているのうこの次はきっと持って来ます。 今日は忘れた。 いやーだ。 いやーだ。 寿司は持って来んが山の芋は上げたろう。 御嬢さん喰べなさったか。 山の芋ってなあに。 山の芋ってなあに。 まだ食いなさらんか早く御母あさんに煮て御貰い。 唐津の山の芋は東京のとは違ってうまかあ。 多々良さんせんだっては御親切に沢山ありがとう。 どうです喰べて見なすったか折れんように箱を誂らえて堅くつめて来たから長いままでありましたろう。 ところがせっかく下すった山の芋を夕べ泥棒に取られてしまって。 ぬす盗が。 馬鹿な奴ですなあ。 そげん山の芋の好きな男がおりますか。 御母あさま夕べ泥棒が這入ったの。 ええ。 泥棒が這入って――そうして――泥棒が這入って――どんな顔をして這入ったの。 恐い顔をして這入りました。 恐い顔って多々良さん見たような顔なの。 何ですね。 そんな失礼な事を。 ハハハハ私の顔はそんなに恐いですか。 困ったな。 あら多々良さんの頭は御母さまのように光かってよ。 だまっていらっしゃいと云うのに。 御母あさま夕べの泥棒の頭も光かってて。 さあさあ御前さん達は少し御庭へ出て御遊びなさい。 今に御母あさまが好い御菓子を上げるから。 多々良さんの頭はどうしたの。 虫が食いました。 なかなか癒りません。 奥さんも有んなさるか。 やだわ虫が食うなんてそりゃ髷で釣るところは女だから少しは禿げますさ。 禿はみんなバクテリヤですばい。 わたしのはバクテリヤじゃありません。 そりゃ奥さん意地張りたい。 何でもバクテリヤじゃありません。 しかし英語で禿の事を何とか云うでしょう。 禿はボールドとか云います。 いいえそれじゃないのもっと長い名があるでしょう。 先生に聞いたらすぐわかりましょう。 先生はどうしても教えて下さらないからあなたに聞くんです。 私はボールドより知りませんが。 長かってどげんですか。 オタンチン・パレオロガスと云うんです。 オタンチンと云うのが禿と云う字でパレオロガスが頭なんでしょう。 そうかも知れませんたい。 今に先生の書斎へ行ってウェブスターを引いて調べて上げましょう。 しかし先生もよほど変っていなさいますな。 この天気の好いのにうちにじっとして――奥さんあれじゃ胃病は癒りませんな。 ちと上野へでも花見に出掛けなさるごと勧めなさい。 あなたが連れ出して下さい。 先生は女の云う事は決して聞かない人ですから。 この頃でもジャムを舐めなさるか。 ええ相変らずです。 せんだって先生こぼしていなさいました。 どうも妻が俺のジャムの舐め方が烈しいと云って困るが俺はそんなに舐めるつもりはない。 何か勘定違いだろうと云いなさるからそりゃ御嬢さんや奥さんがいっしょに舐めなさるに違ない――。 いやな多々良さんだ何だってそんな事を云うんです。 しかし奥さんだって舐めそうな顔をしていなさるばい。 顔でそんな事がどうして分ります。 分らんばってんが――それじゃ奥さん少しも舐めなさらんか。 そりゃ少しは舐めますさ。 舐めたって好いじゃありませんか。 うちのものだもの。 ハハハハそうだろうと思った――しかし本の事泥棒は飛んだ災難でしたな。 山の芋ばかり持って行たのですか。 山の芋ばかりなら困りゃしませんが不断着をみんな取って行きました。 早速困りますか。 また借金をしなければならんですか。 この猫が犬ならよかったに――惜しい事をしたなあ。 奥さん犬の大か奴を是非一丁飼いなさい。 ――猫は駄目ですばい飯を食うばかりで――ちっとは鼠でも捕りますか。 一匹もとった事はありません。 本当に横着な図々図々しい猫ですよ。 いやそりゃどうもこうもならん。 早々棄てなさい。 私が貰って行って煮て食おうか知らん。 あら多々良さんは猫を食べるの。 食いました。 猫は旨うござります。 随分豪傑ね。 先生泥棒に逢いなさったそうですな。 なんちゅ愚な事です。 這入る奴が愚なんだ。 這入る方も愚だばってんが取られた方もあまり賢こくはなかごたる。 何にも取られるものの無い多々良さんのようなのが一番賢こいんでしょう。 しかし一番愚なのはこの猫ですばい。 ほんにまあどう云う了見じゃろう。 鼠は捕らず泥棒が来ても知らん顔をしている。 ――先生この猫を私にくんなさらんか。 こうしておいたっちゃ何の役にも立ちませんばい。 やっても好い。 何にするんだ。 煮て喰べます。 猫はどうでも好いが着物をとられたので寒くていかん。 先生教師などをしておったちゃとうていあかんですばい。 ちょっと泥棒に逢ってもすぐ困る――一丁今から考を換えて実業家にでもなんなさらんか。 先生は実業家は嫌だからそんな事を言ったって駄目よ。 先生学校を卒業して何年になんなさるか。 今年で九年目でしょう。 九年立っても月給は上がらず。 いくら勉強しても人は褒めちゃくれず郎君独寂寞ですたい。 教師は無論|嫌だが実業家はなお嫌いだ。 先生は何でも嫌なんだから。 嫌でないのは奥さんだけですか。 一番嫌だ。 生きていらっしゃるのも御嫌なんでしょう。 あまり好いてはおらん。 先生ちっと活溌に散歩でもしなさらんとからだを壊してしまいますばい。 ――そうして実業家になんなさい。 金なんか儲けるのはほんに造作もない事でござります。 少しも儲けもせん癖に。 まだあなた去年やっと会社へ這入ったばかりですもの。 それでも先生より貯蓄があります。 どのくらい貯蓄したの。 もう五十円になります。 一体あなたの月給はどのくらいなの。 三十円ですたい。 その内を毎月五円|宛会社の方で預って積んでおいていざと云う時にやります。 ――奥さん小遣銭で外濠線の株を少し買いなさらんか今から三四個月すると倍になります。 ほんに少し金さえあればすぐ二倍にでも三倍にでもなります。 そんな御金があれば泥棒に逢ったって困りゃしないわ。 それだから実業家に限ると云うんです。 先生も法科でもやって会社か銀行へでも出なされば今頃は月に三四百円の収入はありますのに惜しい事でござんしたな。 ――先生あの鈴木藤十郎と云う工学士を知ってなさるか。 うん昨日来た。 そうでござんすかせんだってある宴会で逢いました時先生の御話をしたらそうか君は苦沙弥君のところの書生をしていたのか僕も苦沙弥君とは昔し小石川の寺でいっしょに自炊をしておった事がある今度行ったら宜しく云うてくれ僕もその内尋ねるからと云っていました。 近頃東京へ来たそうだな。 ええ今まで九州の炭坑におりましたがこないだ東京|詰になりました。 なかなか旨いです。 私なぞにでも朋友のように話します。 ――先生あの男がいくら貰ってると思いなさる。 知らん。 月給が二百五十円で盆暮に配当がつきますから何でも平均四五百円になりますばい。 あげな男がよかしこ取っておるのに先生はリーダー専門で十年|一狐裘じゃ馬鹿気ておりますなあ。 実際馬鹿気ているな。 奥さん先生のところへ水島寒月と云う人が来ますか。 ええ善くいらっしゃいます。 どげんな人物ですか。 大変学問の出来る方だそうです。 好男子ですか。 ホホホホ多々良さんくらいなものでしょう。 そうですか私くらいなものですか。 どうして寒月の名を知っているのかい。 せんだって或る人から頼まれました。 そんな事を聞くだけの価値のある人物でしょうか。 君よりよほどえらい男だ。 そうでございますか私よりえらいですか。 近々博士になりますか。 今論文を書いてるそうだ。 やっぱり馬鹿ですな。 博士論文をかくなんてもう少し話せる人物かと思ったら。 相変らずえらい見識ですね。 博士になったらだれとかの娘をやるとかやらんとか云うていましたからそんな馬鹿があろうか娘を貰うために博士になるなんてそんな人物にくれるより僕にくれる方がよほどましだと云ってやりました。 だれに。 私に水島の事を聞いてくれと頼んだ男です。 鈴木じゃないか。 いいえあの人にゃまだそんな事は云い切りません。 向うは大頭ですから。 多々良さんは蔭弁慶ね。 うちへなんぞ来ちゃ大変威張っても鈴木さんなどの前へ出ると小さくなってるんでしょう。 ええ。 そうせんとあぶないです。 多々良散歩をしようか。 行きましょう。 上野にしますか。 芋坂へ行って団子を食いましょうか。 先生あすこの団子を食った事がありますか。 奥さん一返行って食って御覧。 柔らかくて安いです。 酒も飲ませます。 泥棒。 何だ誰だ大きな音をさせたのは。 いや結構。 どうも良い心持ちだ。 もう一杯。 奥さん苦沙弥君はどうしました。 おやいらしゃいまし。 ちっとも存じませんでした。 いえ今来たばかりなんですよ。 今風呂場で御三に水を掛けて貰ってね。 ようやく生き帰ったところで――どうも暑いじゃありませんか。 この両三日はただじっとしておりましても汗が出るくらいで大変御暑うございます。 ――でも御変りもございませんで。 ええありがとう。 なに暑いくらいでそんなに変りゃしませんや。 しかしこの暑さは別物ですよ。 どうも体がだるくってね。 私しなどもついに昼寝などを致した事がないんでございますがこう暑いとつい――。 やりますかね。 好いですよ。 昼寝られて夜寝られりゃこんな結構な事はないでさあ。 私なんざ寝たくない質でね。 苦沙弥君などのように来るたんびに寝ている人を見ると羨しいですよ。 もっとも胃弱にこの暑さは答えるからね。 丈夫な人でも今日なんかは首を肩の上に載せてるのが退儀でさあ。 さればと云って載ってる以上はもぎとる訳にも行かずね。 奥さんなんざ首の上へまだ載っけておくものがあるんだから坐っちゃいられないはずだ。 髷の重みだけでも横になりたくなりますよ。 ホホホ口の悪い。 奥さん昨日はね屋根の上で玉子のフライをして見ましたよ。 フライをどうなさったんでございます。 屋根の瓦があまり見事に焼けていましたからただ置くのも勿体ないと思ってね。 バタを溶かして玉子を落したんでさあ。 あらまあ。 ところがやっぱり天日は思うように行きませんや。 なかなか半熟にならないから下へおりて新聞を読んでいると客が来たもんだからつい忘れてしまって今朝になって急に思い出してもう大丈夫だろうと上って見たらね。 どうなっておりました。 半熟どころかすっかり流れてしまいました。 おやおや。 しかし土用中あんなに涼しくって今頃から暑くなるのは不思議ですね。 ほんとでございますよ。 せんだってじゅうは単衣では寒いくらいでございましたのに一昨日から急に暑くなりましてね。 蟹なら横に這うところだが今年の気候はあとびさりをするんですよ。 倒行して逆施すまた可ならずやと云うような事を言っているかも知れない。 なんでござんすそれは。 いえ何でもないのです。 どうもこの気候の逆戻りをするところはまるでハーキュリスの牛ですよ。 へえー。 奥さんハーキュリスの牛を御存じですか。 そんな牛は存じませんわ。 御存じないですかちょっと講釈をしましょうか。 ええ。 昔しハーキュリスが牛を引っ張って来たんです。 そのハーキュリスと云うのは牛飼ででもござんすか。 牛飼じゃありませんよ。 牛飼やいろはの亭主じゃありません。 その節は希臘にまだ牛肉屋が一軒もない時分の事ですからね。 あら希臘のお話しなの。 そんならそうおっしゃればいいのに。 だってハーキュリスじゃありませんか。 ハーキュリスなら希臘なんですか。 ええハーキュリスは希臘の英雄でさあ。 どうりで知らないと思いました。 それでその男がどうしたんで――。 その男がね奥さん見たように眠くなってぐうぐう寝ている――。 あらいやだ。 寝ている間にヴァルカンの子が来ましてね。 ヴァルカンて何です。 ヴァルカンは鍛冶屋ですよ。 この鍛冶屋のせがれがその牛を盗んだんでさあ。 ところがね。 牛の尻尾を持ってぐいぐい引いて行ったもんだからハーキュリスが眼を覚まして牛やーい牛やーいと尋ねてあるいても分らないんです。 分らないはずでさあ。 牛の足跡をつけたって前の方へあるかして連れて行ったんじゃありませんもの後ろへ後ろへと引きずって行ったんですからね。 鍛冶屋のせがれにしては大出来ですよ。 時に御主人はどうしました。 相変らず午睡ですかね。 午睡も支那人の詩に出てくると風流だが苦沙弥君のように日課としてやるのは少々俗気がありますね。 何の事あない毎日少しずつ死んで見るようなものですぜ奥さん御手数だがちょっと起していらっしゃい。 ええほんとにあれでは困ります。 第一あなたからだが悪るくなるばかりですから。 今御飯をいただいたばかりだのに。 奥さん御飯と云やあ僕はまだ御飯をいただかないんですがね。 おやまあ時分どきだのにちっとも気が付きませんで――それじゃ何もございませんが御茶漬でも。 いえ御茶漬なんか頂戴しなくっても好いですよ。 それでもあなたどうせ御口に合うようなものはございませんが。 いえ御茶漬でも御湯漬でも御免蒙るんです。 今途中で御馳走を誂らえて来ましたからそいつを一つここでいただきますよ。 まあ。 相変らずやかましい男だ。 せっかく好い心持に寝ようとしたところを。 いや御目覚かね。 鳳眠を驚かし奉ってはなはだ相済まん。 しかしたまには好かろう。 さあ坐りたまえ。 朝日。 君帽子を買ったね。 どうだい。 まあ奇麗だ事。 大変目が細かくって柔らかいんですね。 奥さんこの帽子は重宝ですよどうでも言う事を聞きますからね。 へえ。 どうですこの通り。 不思議です事ねえ。 どこにも傷はありません。 君大丈夫かい。 せっかく見事な帽子をもし壊わしでもしちゃあ大変ですからもう好い加減になすったら宜うござんしょう。 ところが壊われないから妙でしょう。 実に丈夫な帽子です事ねえどうしたんでしょう。 なにどうもしたんじゃありません元からこう云う帽子なんです。 あなたもあんな帽子を御買になったらいいでしょう。 だって苦沙弥君は立派な麦藁の奴を持ってるじゃありませんか。 ところがあなたせんだって小供があれを踏み潰してしまいまして。 おやおやそりゃ惜しい事をしましたね。 だから今度はあなたのような丈夫で奇麗なのを買ったら善かろうと思いますんで。 これになさいよねえあなた。 奥さん帽子はそのくらいにしてこの鋏を御覧なさい。 これがまたすこぶる重宝な奴でこれで十四通りに使えるんです。 その鋏がどうして十四通りに使えます。 今一々説明しますから聞いていらっしゃい。 いいですか。 ここに三日月形の欠け目がありましょうここへ葉巻を入れてぷつりと口を切るんです。 それからこの根にちょと細工がありましょうこれで針金をぽつぽつやりますね。 次には平たくして紙の上へ横に置くと定規の用をする。 また刃の裏には度盛がしてあるから物指の代用も出来る。 こちらの表にはヤスリが付いているこれで爪を磨りまさあ。 ようがすか。 この先きを螺旋鋲の頭へ刺し込んでぎりぎり廻すと金槌にも使える。 うんと突き込んでこじ開けると大抵の釘付の箱なんざあ苦もなく蓋がとれる。 まったこちらの刃の先は錐に出来ている。 ここん所は書き損いの字を削る場所でばらばらに離すとナイフとなる。 一番しまいに――さあ奥さんこの一番しまいが大変面白いんですここに蠅の眼玉くらいな大きさの球がありましょうちょっと覗いて御覧なさい。 いやですわまたきっと馬鹿になさるんだから。 そう信用がなくっちゃ困ったね。 だが欺されたと思ってちょいと覗いて御覧なさいな。 え。 厭ですかちょっとでいいから。 どうです。 何だか真黒ですわ。 真黒じゃいけませんね。 も少し障子の方へ向いてそう鋏を寝かさずに――そうそうそれなら見えるでしょう。 おやまあ写真ですねえ。 どうしてこんな小さな写真を張り付けたんでしょう。 そこが面白いところでさあ。 おい俺にもちょっと覧せろ。 実に奇麗です事裸体の美人ですね。 おいちょっと御見せと云うのに。 まあ待っていらっしゃいよ。 美くしい髪ですね。 腰までありますよ。 少し仰向いて恐ろしい背の高い女だ事しかし美人ですね。 おい御見せと云ったら大抵にして見せるがいい。 へえ御待遠さまたんと御覧遊ばせ。 奥さんこれが僕の自弁の御馳走ですよ。 ちょっと御免蒙ってここでぱくつく事に致しますから。 さあどうぞ。 君この暑いのに蕎麦は毒だぜ。 なあに大丈夫好きなものは滅多に中るもんじゃない。 打ち立てはありがたいな。 蕎麦の延びたのと人間の間が抜けたのは由来たのもしくないもんだよ。 君そんなに山葵を入れると辛らいぜ。 蕎麦はツユと山葵で食うもんだあね。 君は蕎麦が嫌いなんだろう。 僕は饂飩が好きだ。 饂飩は馬子が食うもんだ。 蕎麦の味を解しない人ほど気の毒な事はない。 奥さん蕎麦を食うにもいろいろ流儀がありますがね。 初心の者に限って無暗にツユを着けてそうして口の内でくちゃくちゃやっていますね。 あれじゃ蕎麦の味はないですよ。 何でもこう一としゃくいに引っ掛けてね。 こいつは長いなどうです奥さんこの長さ加減は。 長いものでございますね。 この長い奴へツユを三分一つけて一口に飲んでしまうんだね。 噛んじゃいけない。 噛んじゃ蕎麦の味がなくなる。 つるつると咽喉を滑り込むところがねうちだよ。 感心だなあ。 よくそんなに一どきに飲み込めたものだ。 御見事です事ねえ。 奥さん笊は大抵三口半か四口で食うんですね。 それより手数を掛けちゃ旨く食えませんよ。 いや好男子の御入来だが喰い掛けたものだからちょっと失敬しますよ。 寒月君博士論文はもう脱稿するのかね。 金田令嬢がお待ちかねだから早々呈出したまえ。 罪ですからなるべく早く出して安心させてやりたいのですが何しろ問題が問題でよほど労力の入る研究を要するのですから。 そうさ問題が問題だからそう鼻の言う通りにもならないね。 もっともあの鼻なら充分鼻息をうかがうだけの価値はあるがね。 君の論文の問題は何とか云ったっけな。 蛙の眼球の電動作用に対する紫外光線の影響と云うのです。 そりゃ奇だね。 さすがは寒月先生だ蛙の眼球は振ってるよ。 どうだろう苦沙弥君論文脱稿前にその問題だけでも金田家へ報知しておいては。 君そんな事が骨の折れる研究かね。 ええなかなか複雑な問題です第一蛙の眼球のレンズの構造がそんな単簡なものでありませんからね。 それでいろいろ実験もしなくちゃなりませんがまず丸い硝子の球をこしらえてそれからやろうと思っています。 硝子の球なんかガラス屋へ行けば訳ないじゃないか。 どうして――どうして。 元来|円とか直線とか云うのは幾何学的のものであの定義に合ったような理想的な円や直線は現実世界にはないもんです。 ないもんなら廃したらよかろう。 それでまず実験上|差し支えないくらいな球を作って見ようと思いましてね。 せんだってからやり始めたのです。 出来たかい。 出来るものですか。 どうもむずかしいです。 だんだん磨って少しこっち側の半径が長過ぎるからと思ってそっちを心持落すとさあ大変今度は向側が長くなる。 そいつを骨を折ってようやく磨り潰したかと思うと全体の形がいびつになるんです。 やっとの思いでこのいびつを取るとまた直径に狂いが出来ます。 始めは林檎ほどな大きさのものがだんだん小さくなって苺ほどになります。 それでも根気よくやっていると大豆ほどになります。 大豆ほどになってもまだ完全な円は出来ませんよ。 私も随分熱心に磨りましたが――この正月からガラス玉を大小六個磨り潰しましたよ。 どこでそんなに磨っているんだい。 やっぱり学校の実験室です朝磨り始めて昼飯のときちょっと休んでそれから暗くなるまで磨るんですがなかなか楽じゃありません。 それじゃ君が近頃忙がしい忙がしいと云って毎日日曜でも学校へ行くのはその珠を磨りに行くんだね。 全く目下のところは朝から晩まで珠ばかり磨っています。 珠作りの博士となって入り込みしは――と云うところだね。 しかしその熱心を聞かせたらいかな鼻でも少しはありがたがるだろう。 実は先日僕がある用事があって図書館へ行って帰りに門を出ようとしたら偶然|老梅君に出逢ったのさ。 あの男が卒業後図書館に足が向くとはよほど不思議な事だと思って感心に勉強するねと云ったら先生妙な顔をしてなに本を読みに来たんじゃない今門前を通り掛ったらちょっと小用がしたくなったから拝借に立ち寄ったんだと云ったんで大笑をしたが老梅君と君とは反対の好例として新撰蒙求に是非入れたいよ。 君そう毎日毎日珠ばかり磨ってるのもよかろうが元来いつ頃出来上るつもりかね。 まあこの容子じゃ十年くらいかかりそうです。 十年じゃ――もう少し早く磨り上げたらよかろう。 十年じゃ早い方です事によると廿年くらいかかります。 そいつは大変だそれじゃ容易に博士にゃなれないじゃないか。 ええ一日も早くなって安心さしてやりたいのですがとにかく珠を磨り上げなくっちゃ肝心の実験が出来ませんから。 何そんなにご心配には及びませんよ。 金田でも私の珠ばかり磨ってる事はよく承知しています。 実は二三日前行った時にもよく事情を話して来ました。 それでも金田さんは家族中残らず先月から大磯へ行っていらっしゃるじゃありませんか。 そりゃ妙ですなどうしたんだろう。 先月大磯へ行ったものに両三日前東京で逢うなどは神秘的でいい。 いわゆる霊の交換だね。 相思の情の切な時にはよくそう云う現象が起るものだ。 ちょっと聞くと夢のようだが夢にしても現実よりたしかな夢だ。 奥さんのように別に思いも思われもしない苦沙弥君の所へ片付いて生涯恋の何物たるを御解しにならん方には御不審ももっともだが。 あら何を証拠にそんな事をおっしゃるの。 随分|軽蔑なさるのね。 君だって恋煩いなんかした事はなさそうじゃないか。 そりゃ僕の艶聞などはいくら有ってもみんな七十五日以上経過しているから君方の記憶には残っていないかも知れないが――実はこれでも失恋の結果この歳になるまで独身で暮らしているんだよ。 ホホホホ面白い事。 馬鹿にしていらあ。 どうかその懐旧談を後学のために伺いたいもので。 僕のも大分神秘的で故小泉八雲先生に話したら非常に受けるのだが惜しい事に先生は永眠されたから実のところ話す張合もないんだがせっかくだから打ち開けるよ。 その代りしまいまで謹聴しなくっちゃいけないよ。 回顧すると今を去る事――ええと――何年前だったかな――面倒だからほぼ十五六年前としておこう。 冗談じゃない。 大変物覚えが御悪いのね。 何でもある年の冬の事だが僕が越後の国は蒲原郡筍谷を通って蛸壺峠へかかってこれからいよいよ会津領へ出ようとするところだ。 妙なところだな。 だまって聴いていらっしゃいよ。 面白いから。 ところが日は暮れる路は分らず腹は減る仕方がないから峠の真中にある一軒屋を敲いてこれこれかようかようしかじかの次第だからどうか留めてくれと云うと御安い御用ですさあ御上がんなさいと裸蝋燭を僕の顔に差しつけた娘の顔を見て僕はぶるぶると悸えたがね。 僕はその時から恋と云う曲者の魔力を切実に自覚したね。 おやいやだ。 そんな山の中にも美しい人があるんでしょうか。 山だって海だって奥さんその娘を一目あなたに見せたいと思うくらいですよ文金の高島田に髪を結いましてね。 へえー。 這入って見ると八畳の真中に大きな囲炉裏が切ってあってその周りに娘と娘の爺さんと婆さんと僕と四人坐ったんですがね。 さぞ御腹が御減りでしょうと云いますから何でも善いから早く食わせ給えと請求したんです。 すると爺さんがせっかくの御客さまだから蛇飯でも炊いて上げようと云うんです。 さあこれからがいよいよ失恋に取り掛るところだからしっかりして聴きたまえ。 先生しっかりして聴く事は聴きますがなんぼ越後の国だって冬蛇がいやしますまい。 うんそりゃ一応もっともな質問だよ。 しかしこんな詩的な話しになるとそう理窟にばかり拘泥してはいられないからね。 鏡花の小説にゃ雪の中から蟹が出てくるじゃないか。 なるほど。 その時分の僕は随分|悪もの食いの隊長で蝗なめくじ赤蛙などは食い厭きていたくらいなところだから蛇飯は乙だ。 早速御馳走になろうと爺さんに返事をした。 そこで爺さん囲炉裏の上へ鍋をかけてその中へ米を入れてぐずぐず煮出したものだね。 不思議な事にはその鍋の蓋を見ると大小十個ばかりの穴があいている。 その穴から湯気がぷうぷう吹くから旨い工夫をしたものだ田舎にしては感心だと見ていると爺さんふと立ってどこかへ出て行ったがしばらくすると大きな笊を小脇に抱い込んで帰って来た。 何気なくこれを囲炉裏の傍へ置いたからその中を覗いて見ると――いたね。 長い奴が寒いもんだから御互にとぐろの捲きくらをやって塊まっていましたね。 もうそんな御話しは廃しになさいよ。 厭らしい。 どうしてこれが失恋の大源因になるんだからなかなか廃せませんや。 爺さんはやがて左手に鍋の蓋をとって右手に例の塊まった長い奴を無雑作につかまえていきなり鍋の中へ放り込んですぐ上から蓋をしたがさすがの僕もその時ばかりははっと息の穴が塞ったかと思ったよ。 もう御やめになさいよ。 気味の悪るい。 もう少しで失恋になるからしばらく辛抱していらっしゃい。 すると一分立つか立たないうちに蓋の穴から鎌首がひょいと一つ出ましたのには驚ろきましたよ。 やあ出たなと思うと隣の穴からもまたひょいと顔を出した。 また出たよと云ううちあちらからも出る。 こちらからも出る。 とうとう鍋中蛇の面だらけになってしまった。 なんでそんなに首を出すんだい。 鍋の中が熱いから苦しまぎれに這い出そうとするのさ。 やがて爺さんはもうよかろう引っ張らっしとか何とか云うと婆さんははあーと答える娘はあいと挨拶をして名々に蛇の頭を持ってぐいと引く。 肉は鍋の中に残るが骨だけは奇麗に離れて頭を引くと共に長いのが面白いように抜け出してくる。 蛇の骨抜きですね。 全くの事骨抜だ器用な事をやるじゃないか。 それから蓋を取って杓子でもって飯と肉を矢鱈に掻き交ぜてさあ召し上がれと来た。 食ったのかい。 もう廃しになさいよ胸が悪るくって御飯も何もたべられやしない。 奥さんは蛇飯を召し上がらんからそんな事をおっしゃるがまあ一遍たべてご覧なさいあの味ばかりは生涯忘れられませんぜ。 おおいやだ誰が食べるもんですか。 そこで充分|御饌も頂戴し寒さも忘れるし娘の顔も遠慮なく見るしもう思いおく事はないと考えていると御休みなさいましと云うので旅の労れもある事だから仰に従ってごろりと横になるとすまん訳だが前後を忘却して寝てしまった。 それからどうなさいました。 それから明朝になって眼を覚してからが失恋でさあ。 どうかなさったんですか。 いえ別にどうもしやしませんがね。 朝起きて巻煙草をふかしながら裏の窓から見ていると向うの筧の傍で薬缶頭が顔を洗っているんでさあ。 爺さんか婆さんか。 それがさ僕にも識別しにくかったからしばらく拝見していてその薬缶がこちらを向く段になって驚ろいたね。 それが僕の初恋をした昨夜の娘なんだもの。 だって娘は島田に結っているとさっき云ったじゃないか。 前夜は島田さしかも見事な島田さ。 ところが翌朝は丸薬缶さ。 人を馬鹿にしていらあ。 僕も不思議の極内心少々|怖くなったからなお余所ながら容子を窺っていると薬缶はようやく顔を洗い了って傍えの石の上に置いてあった高島田の鬘を無雑作に被ってすましてうちへ這入ったんでなるほどと思った。 なるほどとは思ったようなもののその時からとうとう失恋の果敢なき運命をかこつ身となってしまった。 くだらない失恋もあったもんだ。 ねえ寒月君それだから失恋でもこんなに陽気で元気がいいんだよ。 しかしその娘が丸薬缶でなくってめでたく東京へでも連れて御帰りになったら先生はなお元気かも知れませんよとにかくせっかくの娘が禿であったのは千秋の恨事ですねえ。 それにしてもそんな若い女がどうして毛が抜けてしまったんでしょう。 僕もそれについてはだんだん考えたんだが全く蛇飯を食い過ぎたせいに相違ないと思う。 蛇飯てえ奴はのぼせるからね。 しかしあなたはどこも何ともなくて結構でございましたね。 僕は禿にはならずにすんだがその代りにこの通りその時から近眼になりました。 全体どこが神秘的なんだい。 あの鬘はどこで買ったのか拾ったのかどう考えても未だに分らないからそこが神秘さ。 まるで噺し家の話を聞くようでござんすね。 僕の失恋も苦い経験だがあの時あの薬缶を知らずに貰ったが最後生涯の目障りになるんだからよく考えないと険呑だよ。 結婚なんかはいざと云う間際になって飛んだところに傷口が隠れているのを見出す事がある者だから。 寒月君などもそんなに憧憬したり※※したり独りでむずかしがらないで篤と気を落ちつけて珠を磨るがいいよ。 ええなるべく珠ばかり磨っていたいんですが向うでそうさせないんだから弱り切ります。 そうさ君などは先方が騒ぎ立てるんだが中には滑稽なのがあるよ。 あの図書館へ小便をしに来た老梅君などになるとすこぶる奇だからね。 どんな事をしたんだい。 なあにこう云う訳さ。 先生その昔静岡の東西館へ泊った事があるのさ。 ――たった一と晩だぜ――それでその晩すぐにそこの下女に結婚を申し込んだのさ。 僕も随分|呑気だがまだあれほどには進化しない。 もっともその時分にはあの宿屋に御夏さんと云う有名な別嬪がいて老梅君の座敷へ出たのがちょうどその御夏さんなのだから無理はないがね。 無理がないどころか君の何とか峠とまるで同じじゃないか。 少し似ているね実を云うと僕と老梅とはそんなに差異はないからな。 とにかくその御夏さんに結婚を申し込んでまだ返事を聞かないうちに水瓜が食いたくなったんだがね。 何だって。 御夏さんを呼んで静岡に水瓜はあるまいかと聞くと御夏さんがなんぼ静岡だって水瓜くらいはありますよと御盆に水瓜を山盛りにして持ってくる。 そこで老梅君食ったそうだ。 山盛りの水瓜をことごとく平らげて御夏さんの返事を待っていると返事の来ないうちに腹が痛み出してねうーんうーんと唸ったが少しも利目がないからまた御夏さんを呼んで今度は静岡に医者はあるまいかと聞いたら御夏さんがまたなんぼ静岡だって医者くらいはありますよと云って天地玄黄とかいう千字文を盗んだような名前のドクトルを連れて来た。 翌朝になって腹の痛みも御蔭でとれてありがたいと出立する十五分前に御夏さんを呼んで昨日申し込んだ結婚事件の諾否を尋ねると御夏さんは笑いながら静岡には水瓜もあります御医者もありますが一夜作りの御嫁はありませんよと出て行ったきり顔を見せなかったそうだ。 それから老梅君も僕同様失恋になって図書館へは小便をするほか来なくなったんだって考えると女は罪な者だよ。 本当にそうだ。 せんだってミュッセの脚本を読んだらそのうちの人物が羅馬の詩人を引用してこんな事を云っていた。 ――羽より軽い者は塵である。 塵より軽いものは風である。 風より軽い者は女である。 女より軽いものは無である。 ――よく穿ってるだろう。 女なんか仕方がない。 女の軽いのがいけないとおっしゃるけれども男の重いんだって好い事はないでしょう。 重いたどんな事だ。 重いと云うな重い事ですわあなたのようなのです。 俺がなんで重い。 重いじゃありませんか。 そう赤くなって互に弁難攻撃をするところが夫婦の真相と云うものかな。 どうも昔の夫婦なんてものはまるで無意味なものだったに違いない。 昔は亭主に口返答なんかした女は一人もなかったんだって云うがそれなら唖を女房にしていると同じ事で僕などは一向ありがたくない。 やっぱり奥さんのようにあなたは重いじゃありませんかとか何とか云われて見たいね。 同じ女房を持つくらいならたまには喧嘩の一つ二つしなくっちゃ退屈でしようがないからな。 僕の母などと来たらおやじの前へ出てはいとへいで持ち切っていたものだ。 そうして二十年もいっしょになっているうちに寺参りよりほかに外へ出た事がないと云うんだから情けないじゃないか。 もっとも御蔭で先祖代々の戒名はことごとく暗記している。 男女間の交際だってそうさ僕の小供の時分などは寒月君のように意中の人と合奏をしたり霊の交換をやって朦朧体で出合って見たりする事はとうてい出来なかった。 御気の毒様で。 実に御気の毒さ。 しかもその時分の女が必ずしも今の女より品行がいいと限らんからね。 奥さん近頃は女学生が堕落したの何だのとやかましく云いますがね。 なに昔はこれより烈しかったんですよ。 そうでしょうか。 そうですとも出鱈目じゃないちゃんと証拠があるから仕方がありませんや。 苦沙弥君君も覚えているかも知れんが僕等の五六歳の時までは女の子を唐茄子のように籠へ入れて天秤棒で担いで売ってあるいたもんだねえ君。 僕はそんな事は覚えておらん。 君の国じゃどうだか知らないが静岡じゃたしかにそうだった。 まさか。 本当ですか。 本当さ。 現に僕のおやじが価を付けた事がある。 その時僕は何でも六つくらいだったろう。 おやじといっしょに油町から通町へ散歩に出ると向うから大きな声をして女の子はよしかな女の子はよしかなと怒鳴ってくる。 僕等がちょうど二丁目の角へ来ると伊勢源と云う呉服屋の前でその男に出っ食わした。 伊勢源と云うのは間口が十間で蔵が五つ戸前あって静岡第一の呉服屋だ。 今度行ったら見て来給え。 今でも歴然と残っている。 立派なうちだ。 その番頭が甚兵衛と云ってね。 いつでも御袋が三日前に亡くなりましたと云うような顔をして帳場の所へ控えている。 甚兵衛君の隣りには初さんという二十四五の若い衆が坐っているがこの初さんがまた雲照律師に帰依して三七二十一日の間|蕎麦湯だけで通したと云うような青い顔をしている。 初さんの隣りが長どんでこれは昨日火事で焚き出されたかのごとく愁然と算盤に身を凭している。 長どんと併んで。 君は呉服屋の話をするのか人売りの話をするのか。 そうそう人売りの話しをやっていたんだっけ。 実はこの伊勢源についてもすこぶる奇譚があるんだがそれは割愛して今日は人売りだけにしておこう。 人売りもついでにやめるがいい。 どうしてこれが二十世紀の今日と明治初年頃の女子の品性の比較について大なる参考になる材料だからそんなに容易くやめられるものか――それで僕がおやじと伊勢源の前までくると例の人売りがおやじを見て旦那女の子の仕舞物はどうです安く負けておくから買っておくんなさいと云いながら天秤棒をおろして汗を拭いているのさ。 見ると籠の中には前に一人|後ろに一人両方とも二歳ばかりの女の子が入れてある。 おやじはこの男に向って安ければ買ってもいいがもうこれぎりかいと聞くとへえ生憎今日はみんな売り尽してたった二つになっちまいました。 どっちでも好いから取っとくんなさいなと女の子を両手で持って唐茄子か何ぞのようにおやじの鼻の先へ出すとおやじはぽんぽんと頭を叩いて見てははあかなりな音だと云った。 それからいよいよ談判が始まって散々価切った末おやじが買っても好いが品はたしかだろうなと聞くとええ前の奴は始終見ているから間違はありませんがね後ろに担いでる方は何しろ眼がないんですからことによるとひびが入ってるかも知れません。 こいつの方なら受け合えない代りに価段を引いておきますと云った。 僕はこの問答を未だに記憶しているんだがその時小供心に女と云うものはなるほど油断のならないものだと思ったよ。 ――しかし明治三十八年の今日こんな馬鹿な真似をして女の子を売ってあるくものもなし眼を放して後ろへ担いだ方は険呑だなどと云う事も聞かないようだ。 だから僕の考ではやはり泰西文明の御蔭で女の品行もよほど進歩したものだろうと断定するのだがどうだろう寒月君。 この頃の女は学校の行き帰りや合奏会や慈善会や園遊会でちょいと買って頂戴なあらおいや。 などと自分で自分を売りにあるいていますからそんな八百屋のお余りを雇って女の子はよしかなんて下品な依托販売をやる必要はないですよ。 人間に独立心が発達してくると自然こんな風になるものです。 老人なんぞはいらぬ取越苦労をして何とかかとか云いますが実際を云うとこれが文明の趨勢ですから私などは大に喜ばしい現象だとひそかに慶賀の意を表しているのです。 買う方だって頭を敲いて品物は確かかなんて聞くような野暮は一人もいないんですからその辺は安心なものでさあ。 またこの複雑な世の中にそんな手数をする日にゃあ際限がありませんからね。 五十になったって六十になったって亭主を持つ事も嫁に行く事も出来やしません。 仰せの通り方今の女生徒令嬢などは自尊自信の念から骨も肉も皮まで出来ていて何でも男子に負けないところが敬服の至りだ。 僕の近所の女学校の生徒などと来たらえらいものだぜ。 筒袖を穿いて鉄棒へぶら下がるから感心だ。 僕は二階の窓から彼等の体操を目撃するたんびに古代|希臘の婦人を追懐するよ。 また希臘か。 どうも美な感じのするものは大抵希臘から源を発しているから仕方がない。 美学者と希臘とはとうてい離れられないやね。 ――ことにあの色の黒い女学生が一心不乱に体操をしているところを拝見すると僕はいつでもAgnodiceの逸話を思い出すのさ。 またむずかしい名前が出て来ましたね。 Agnodiceはえらい女だよ僕は実に感心したね。 当時|亜典の法律で女が産婆を営業する事を禁じてあった。 不便な事さ。 Agnodiceだってその不便を感ずるだろうじゃないか。 何だいその――何とか云うのは。 女さ女の名前だよ。 この女がつらつら考えるにはどうも女が産婆になれないのは情けない不便極まる。 どうかして産婆になりたいもんだ産婆になる工夫はあるまいかと三日三晩手を拱いて考え込んだね。 ちょうど三日目の暁方に隣の家で赤ん坊がおぎゃあと泣いた声を聞いてうんそうだと豁然大悟してそれから早速長い髪を切って男の着物をきてHierophilusの講義をききに行った。 首尾よく講義をきき終せてもう大丈夫と云うところでもっていよいよ産婆を開業した。 ところが奥さん流行りましたね。 あちらでもおぎゃあと生れるこちらでもおぎゃあと生れる。 それがみんなAgnodiceの世話なんだから大変|儲かった。 ところが人間万事|塞翁の馬七転び八起き弱り目に祟り目でついこの秘密が露見に及んでついに御上の御法度を破ったと云うところで重き御|仕置に仰せつけられそうになりました。 まるで講釈見たようです事。 なかなか旨いでしょう。 ところが亜典の女連が一同連署して嘆願に及んだから時の御奉行もそう木で鼻を括ったような挨拶も出来ずついに当人は無罪放免これからはたとい女たりとも産婆営業勝手たるべき事と云う御布令さえ出てめでたく落着を告げました。 よくいろいろな事を知っていらっしゃるのね感心ねえ。 ええ大概の事は知っていますよ。 知らないのは自分の馬鹿な事くらいなものです。 しかしそれも薄々は知ってます。 ホホホホ面白い事ばかり。 おやまた御客様だ。 どうもご無沙汰を致しました。 しばらく。 いや暑いのによく御出掛だね。 さあずっとこっちへ通りたまえ。 先生には大分久しく御目にかかりません。 そうさたしかこの春の朗読会ぎりだったね。 朗読会と云えば近頃はやはり御盛かね。 その後御宮にゃなりませんか。 あれは旨かったよ。 僕は大に拍手したぜ君気が付いてたかい。 ええ御蔭で大きに勇気が出ましてとうとうしまいまで漕ぎつけました。 今度はいつ御催しがありますか。 七八|両月は休んで九月には何か賑やかにやりたいと思っております。 何か面白い趣向はございますまいか。 さよう。 東風君僕の創作を一つやらないか。 君の創作なら面白いものだろうが一体何かね。 脚本さ。 脚本はえらい。 喜劇かい悲劇かい。 なに喜劇でも悲劇でもないさ。 近頃は旧劇とか新劇とか大部やかましいから僕も一つ新機軸を出して俳劇と云うのを作って見たのさ。 俳劇たどんなものだい。 俳句趣味の劇と云うのを詰めて俳劇の二字にしたのさ。 それでその趣向と云うのは。 根が俳句趣味からくるのだからあまり長たらしくって毒悪なのはよくないと思って一幕物にしておいた。 なるほど。 まず道具立てから話すがこれも極簡単なのがいい。 舞台の真中へ大きな柳を一本植え付けてね。 それからその柳の幹から一本の枝を右の方へヌッと出させてその枝へ烏を一羽とまらせる。 烏がじっとしていればいいが。 何わけは有りません烏の足を糸で枝へ縛り付けておくんです。 でその下へ行水盥を出しましてね。 美人が横向きになって手拭を使っているんです。 そいつは少しデカダンだね。 第一誰がその女になるんだい。 何これもすぐ出来ます。 美術学校のモデルを雇ってくるんです。 そりゃ警視庁がやかましく云いそうだな。 だって興行さえしなければ構わんじゃありませんか。 そんな事をとやかく云った日にゃ学校で裸体画の写生なんざ出来っこありません。 しかしあれは稽古のためだからただ見ているのとは少し違うよ。 先生方がそんな事を云った日には日本もまだ駄目です。 絵画だって演劇だっておんなじ芸術です。 まあ議論はいいがそれからどうするのだい。 ところへ花道から俳人|高浜虚子がステッキを持って白い灯心入りの帽子を被って透綾の羽織に薩摩飛白の尻端折りの半靴と云うこしらえで出てくる。 着付けは陸軍の御用達見たようだけれども俳人だからなるべく悠々として腹の中では句案に余念のない体であるかなくっちゃいけない。 それで虚子が花道を行き切っていよいよ本舞台に懸った時ふと句案の眼をあげて前面を見ると大きな柳があって柳の影で白い女が湯を浴びているはっと思って上を見ると長い柳の枝に烏が一羽とまって女の行水を見下ろしている。 そこで虚子先生|大に俳味に感動したと云う思い入れが五十秒ばかりあって行水の女に惚れる烏かなと大きな声で一句朗吟するのを合図に拍子木を入れて幕を引く。 ――どうだろうこう云う趣向は。 御気に入りませんかね。 君|御宮になるより虚子になる方がよほどいいぜ。 あんまりあっけないようだ。 もう少し人情を加味した事件が欲しいようだ。 たったそれだけで俳劇はすさまじいね。 上田敏君の説によると俳味とか滑稽とか云うものは消極的で亡国の音だそうだが敏君だけあってうまい事を云ったよ。 そんなつまらない物をやって見給え。 それこそ上田君から笑われるばかりだ。 第一劇だか茶番だか何だかあまり消極的で分らないじゃないか。 失礼だが寒月君はやはり実験室で珠を磨いてる方がいい。 俳劇なんぞ百作ったって二百作ったって亡国の音じゃ駄目だ。 そんなに消極的でしょうか。 私はなかなか積極的なつもりなんですが。 虚子がですね。 虚子先生が女に惚れる烏かなと烏を捕えて女に惚れさしたところが大に積極的だろうと思います。 こりゃ新説だね。 是非御講釈を伺がいましょう。 理学士として考えて見ると烏が女に惚れるなどと云うのは不合理でしょう。 ごもっとも。 その不合理な事を無雑作に言い放って少しも無理に聞えません。 そうかしら。 なぜ無理に聞えないかと云うとこれは心理的に説明するとよく分ります。 実を云うと惚れるとか惚れないとか云うのは俳人その人に存する感情で烏とは没交渉の沙汰であります。 しかるところあの烏は惚れてるなと感じるのはつまり烏がどうのこうのと云う訳じゃない必竟自分が惚れているんでさあ。 虚子自身が美しい女の行水しているところを見てはっと思う途端にずっと惚れ込んだに相違ないです。 さあ自分が惚れた眼で烏が枝の上で動きもしないで下を見つめているのを見たものだからははああいつも俺と同じく参ってるなと癇違いをしたのです。 癇違いには相違ないですがそこが文学的でかつ積極的なところなんです。 自分だけ感じた事を断りもなく烏の上に拡張して知らん顔をしてすましているところなんぞはよほど積極主義じゃありませんか。 どうです先生。 なるほど御名論だね虚子に聞かしたら驚くに違いない。 説明だけは積極だが実際あの劇をやられた日には見物人はたしかに消極になるよ。 ねえ東風君。 へえどうも消極過ぎるように思います。 どうです東風さん近頃は傑作もありませんか。 いえ別段これと云って御目にかけるほどのものも出来ませんが近日詩集を出して見ようと思いまして――稿本を幸い持って参りましたから御批評を願いましょう。 何だい新体詩かね。 やあ捧げたね。 東風君思い切って富子嬢に捧げたのはえらい。 東風さんこの富子と云うのは本当に存在している婦人なのですか。 へえこの前迷亭先生とごいっしょに朗読会へ招待した婦人の一人です。 ついこの御近所に住んでおります。 実はただ今詩集を見せようと思ってちょっと寄って参りましたが生憎先月から大磯へ避暑に行って留守でした。 苦沙弥君これが二十世紀なんだよ。 そんな顔をしないで早く傑作でも朗読するさ。 しかし東風君この捧げ方は少しまずかったね。 このあえかにと云う雅言は全体何と言う意味だと思ってるかね。 蚊弱いとかたよわくと云う字だと思います。 なるほどそうも取れん事はないが本来の字義を云うと危う気にと云う事だぜ。 だから僕ならこうは書かないね。 どう書いたらもっと詩的になりましょう。 僕ならこうさ。 世の人に似ずあえかに見え給う富子嬢の鼻の下に捧ぐとするね。 わずかに三字のゆきさつだが鼻の下があるのとないのとでは大変感じに相違があるよ。 なるほど。 これは少々僕には解しかねる。 これは少々振い過ぎてる。 なああるほど。 先生御分りにならんのはごもっともで十年前の詩界と今日の詩界とは見違えるほど発達しておりますから。 この頃の詩は寝転んで読んだり停車場で読んではとうてい分りようがないので作った本人ですら質問を受けると返答に窮する事がよくあります。 全くインスピレーションで書くので詩人はその他には何等の責任もないのです。 註釈や訓義は学究のやる事で私共の方では頓と構いません。 せんだっても私の友人で送籍と云う男が一夜という短篇をかきましたが誰が読んでも朦朧として取り留めがつかないので当人に逢って篤と主意のあるところを糺して見たのですが当人もそんな事は知らないよと云って取り合わないのです。 全くその辺が詩人の特色かと思います。 詩人かも知れないが随分妙な男ですね。 馬鹿だよ。 送籍は吾々仲間のうちでも取除けですが私の詩もどうか心持ちその気で読んでいただきたいので。 ことに御注意を願いたいのはからきこの世とあまき口づけと対をとったところが私の苦心です。 よほど苦心をなすった痕迹が見えます。 あまいとからいと反照するところなんか十七味調唐辛子調で面白い。 全く東風君独特の伎倆で敬々服々の至りだ。 東風君の御作も拝見したから今度は僕が短文を読んで諸君の御批評を願おう。 天然居士の墓碑銘ならもう二三遍拝聴したよ。 まあだまっていなさい。 東風さんこれは決して得意のものではありませんがほんの座興ですから聴いて下さい。 是非伺がいましょう。 寒月君もついでに聞き給え。 ついででなくても聴きますよ。 長い物じゃないでしょう。 僅々六十余字さ。 大和魂。 と叫んで日本人が肺病やみのような咳をした。 起し得て突兀ですね。 大和魂。 と新聞屋が云う。 大和魂。 と掏摸が云う。 大和魂が一躍して海を渡った。 英国で大和魂の演説をする。 独逸で大和魂の芝居をする。 なるほどこりゃ天然居士以上の作だ。 東郷大将が大和魂を有っている。 肴屋の銀さんも大和魂を有っている。 詐偽師山師人殺しも大和魂を有っている。 先生そこへ寒月も有っているとつけて下さい。 大和魂はどんなものかと聞いたら大和魂さと答えて行き過ぎた。 五六間行ってからエヘンと云う声が聞こえた。 その一句は大出来だ。 君はなかなか文才があるね。 それから次の句は。 三角なものが大和魂か四角なものが大和魂か。 大和魂は名前の示すごとく魂である。 魂であるから常にふらふらしている。 先生だいぶ面白うございますがちと大和魂が多過ぎはしませんか。 賛成。 誰も口にせぬ者はないが誰も見たものはない。 誰も聞いた事はあるが誰も遇った者がない。 大和魂はそれ天狗の類か。 それぎりですか。 うん。 君も短篇を集めて一巻としてそうして誰かに捧げてはどうだ。 君に捧げてやろうか。 真平だ。 君はあの金田の令嬢を知ってるのかい。 この春朗読会へ招待してから懇意になってそれからは始終交際をしている。 僕はあの令嬢の前へ出ると何となく一種の感に打たれて当分のうちは詩を作っても歌を詠んでも愉快に興が乗って出て来る。 この集中にも恋の詩が多いのは全くああ云う異性の朋友からインスピレーションを受けるからだろうと思う。 それで僕はあの令嬢に対しては切実に感謝の意を表しなければならんからこの機を利用してわが集を捧げる事にしたのさ。 昔しから婦人に親友のないもので立派な詩をかいたものはないそうだ。 そうかなあ。 余は思考す故に余は存在す。 金さんどうもここが痛んでいけねえが何だろう。 そりゃ胃さ胃て云う奴は命をとるからね。 用心しねえとあぶないよ。 だってこの左の方だぜ。 そこが胃だあな。 左が胃で右が肺だよ。 そうかなおらあまた胃はここいらかと思った。 そりゃ疝気だあね。 いやこう年をとっては駄目さね。 人間もやきが廻っちゃ若い者には叶わないよ。 しかし湯だけは今でも熱いのでないと心持が悪くてね。 旦那なんか丈夫なものですぜ。 そのくらい元気がありゃ結構だ。 元気もないのさ。 ただ病気をしないだけさ。 人間は悪い事さえしなけりゃあ百二十までは生きるもんだからね。 へえそんなに生きるもんですか。 生きるとも百二十までは受け合う。 御維新前牛込に曲淵と云う旗本があってそこにいた下男は百三十だったよ。 そいつはよく生きたもんですね。 あああんまり生き過ぎてつい自分の年を忘れてね。 百までは覚えていましたがそれから忘れてしまいましたと云ってたよ。 それでわしの知っていたのが百三十の時だったがそれで死んだんじゃない。 それからどうなったか分らない。 事によるとまだ生きてるかも知れない。 箆棒に温るいや。 こりゃどうももう少し熱くなくっちゃあ。 やあ親方。 やあ。 民さんはどうしたね。 どうしたかじゃんじゃんが好きだからね。 じゃんじゃんばかりじゃねえ。 そうかいあの男も腹のよくねえ男だからね。 ――どう云うもんか人に好かれねえ――どう云うものだか――どうも人が信用しねえ。 職人てえものはあんなもんじゃねえが。 そうよ。 民さんなんざあ腰が低いんじゃねえ頭が高けえんだ。 それだからどうも信用されねえんだね。 本当によ。 あれで一っぱし腕があるつもりだから――つまり自分の損だあな。 白銀町にも古い人が亡くなってね今じゃ桶屋の元さんと煉瓦屋の大将と親方ぐれえな者だあな。 こちとらあこうしてここで生れたもんだが民さんなんざあどこから来たんだか分りゃしねえ。 そうよ。 しかしよくあれだけになったよ。 うん。 どう云うもんか人に好かれねえ。 人が交際わねえからね。 これはちと利き過ぎるようだどうも背中の方から熱い奴がじりじり湧いてくる。 なあにこれがちょうどいい加減です。 薬湯はこのくらいでないと利きません。 わたしの国なぞではこの倍も熱い湯へ這入ります。 一体この湯は何に利くんでしょう。 いろいろなものに利きますよ。 何でもいいてえんだからね。 豪気だあね。 薬を入れ立てより三日目か四日目がちょうどいいようです。 今日等は這入り頃ですよ。 飲んでも利きましょうか。 冷えた後などは一杯飲んで寝ると奇体に小便に起きないからまあやって御覧なさい。 鉄砲は外国から渡ったもんだね。 昔は斬り合いばかりさ。 外国は卑怯だからねそれであんなものが出来たんだ。 どうも支那じゃねえようだやっぱり外国のようだ。 和唐内の時にゃ無かったね。 和唐内はやはり清和源氏さ。 なんでも義経が蝦夷から満洲へ渡った時に蝦夷の男で大変|学のできる人がくっ付いて行ったてえ話しだね。 それでその義経のむすこが大明を攻めたんだが大明じゃ困るから三代将軍へ使をよこして三千人の兵隊を借してくれろと云うと三代様がそいつを留めておいて帰さねえ。 ――何とか云ったっけ。 ――何でも何とか云う使だ。 ――それでその使を二年とめておいてしまいに長崎で女郎を見せたんだがね。 その女郎に出来た子が和唐内さ。 それから国へ帰って見ると大明は国賊に亡ぼされていた。 へいどなた様も毎日相変らずありがとう存じます。 今日は少々御寒うございますからどうぞ御緩くり――どうぞ白い湯へ出たり這入ったりしてゆるりと御あったまり下さい。 ――番頭さんやどうか湯加減をよく見て上げてな。 おーい。 愛嬌ものだね。 あれでなくては商買は出来ないよ。 坊ちゃんこちらへおいで。 いや御泣きかなに。 爺さんが恐い。 いやこれはこれは。 やこれは源さん。 今日は少し寒いな。 ゆうべ近江屋へ這入った泥棒は何と云う馬鹿な奴じゃの。 あの戸の潜りの所を四角に切り破っての。 そうしてお前の。 何も取らずに行んだげな。 御巡りさんか夜番でも見えたものであろう。 はいはい御寒う。 あなた方は御若いからあまりお感じにならんかの。 もっと下がれおれの小桶に湯が這入っていかん。 僕はもとからここにいたのです。 何だ馬鹿野郎人の桶へ汚ない水をぴちゃぴちゃ跳ねかす奴があるか。 うめろうめろ熱い熱い。 おいその猫の頭をちょっと撲って見ろ。 撲てばどうするんですか。 どうしてもいいからちょっと撲って見ろ。 鳴かんじゃないか。 ええ。 もう一|返やって見ろ。 何返やったって同じ事じゃありませんか。 おいちょっと鳴くようにぶって見ろ。 鳴かして何になさるんですか。 今鳴いたにゃあと云う声は感投詞か副詞か何だか知ってるか。 おい。 はい。 そのはいは感投詞か副詞かどっちだ。 どっちですかそんな馬鹿気た事はどうでもいいじゃありませんか。 いいものかこれが現に国語家の頭脳を支配している大問題だ。 あらまあ猫の鳴き声がですかいやな事ねえ。 だって猫の鳴き声は日本語じゃあないじゃありませんか。 それだからさ。 それがむずかしい問題なんだよ。 比較研究と云うんだ。 そう。 それでどっちだか分ったんですか。 重要な問題だからそう急には分らんさ。 これは豚だな。 ええ豚でござんす。 ふん。 酒をもう一杯飲もう。 今夜はなかなかあがるのね。 もう大分赤くなっていらっしゃいますよ。 飲むとも――御前世界で一番長い字を知ってるか。 ええ前の関白太政大臣でしょう。 それは名前だ。 長い字を知ってるか。 字って横文字ですか。 うん。 知らないわ――御酒はもういいでしょうこれで御飯になさいなねえ。 いやまだ飲む。 一番長い字を教えてやろうか。 ええ。 そうしたら御飯ですよ。 Archaiomelesidonophrunicherataと云う字だ。 出鱈目でしょう。 出鱈目なものか希臘語だ。 何という字なの日本語にすれば。 意味はしらん。 ただ綴りだけ知ってるんだ。 長く書くと六寸三分くらいにかける。 もう一杯。 もう御よしになったらいいでしょう。 苦しいばかりですわ。 なに苦しくってもこれから少し稽古するんだ。 大町桂月が飲めと云った。 桂月って何です。 桂月は現今一流の批評家だ。 それが飲めと云うのだからいいに極っているさ。 馬鹿をおっしゃい。 桂月だって梅月だって苦しい思をして酒を飲めなんて余計な事ですわ。 酒ばかりじゃない。 交際をして道楽をして旅行をしろといった。 なおわるいじゃありませんか。 そんな人が第一流の批評家なの。 まああきれた。 妻子のあるものに道楽をすすめるなんて。 道楽もいいさ。 桂月が勧めなくっても金さえあればやるかも知れない。 なくって仕合せだわ。 今から道楽なんぞ始められちゃあ大変ですよ。 大変だと云うならよしてやるからその代りもう少し夫を大事にしてそうして晩にもっと御馳走を食わせろ。 これが精一杯のところですよ。 そうかしらん。 それじゃ道楽は追って金が這入り次第やる事にして今夜はこれでやめよう。 おめえ知らねえ。 ここは学校の植物園かと思いました。 あれは本校の生徒です。 生徒たるべきものが何で他の邸内へ侵入するのですか。 いやボールがつい飛んだものですから。 なぜ断って取りに来ないのですか。 これから善く注意します。 そんならよろしい。 で公徳と云うものは大切な事であちらへ行って見ると仏蘭西でも独逸でも英吉利でもどこへ行ってもこの公徳の行われておらん国はない。 またどんな下等な者でもこの公徳を重んぜぬ者はない。 悲しいかな我が日本に在っては未だこの点において外国と拮抗する事が出来んのである。 で公徳と申すと何か新しく外国から輸入して来たように考える諸君もあるかも知れんがそう思うのは大なる誤りで昔人も夫子の道一以て之を貫く忠恕のみ矣と云われた事がある。 この恕と申すのが取りも直さず公徳の出所である。 私も人間であるから時には大きな声をして歌などうたって見たくなる事がある。 しかし私が勉強している時に隣室のものなどが放歌するのを聴くとどうしても書物の読めぬのが私の性分である。 であるからして自分が唐詩選でも高声に吟じたら気分が晴々してよかろうと思う時ですらもし自分のように迷惑がる人が隣家に住んでおって知らず知らずその人の邪魔をするような事があってはすまんと思うてそう云う時はいつでも控えるのである。 こう云う訳だから諸君もなるべく公徳を守っていやしくも人の妨害になると思う事は決してやってはならんのである。 降参しねえか。 しねえしねえ。 駄目だ駄目だ。 出てこねえ。 落ちねえかな。 落ちねえはずはねえ。 吠えて見ろ。 わんわん。 わんわん。 わんわんわんわん。 ここか。 もっと左の方か。 貴様等はぬすっとうか。 いえ泥棒ではありません。 落雲館の生徒です。 うそをつけ。 落雲館の生徒が無断で人の庭宅に侵入する奴があるか。 しかしこの通りちゃんと学校の徽章のついている帽子を被っています。 にせものだろう。 落雲館の生徒ならなぜむやみに侵入した。 ボールが飛び込んだものですから。 なぜボールを飛び込ました。 つい飛び込んだんです。 怪しからん奴だ。 以後注意しますから今度だけ許して下さい。 どこの何者かわからん奴が垣を越えて邸内に闖入するのをそう容易く許されると思うか。 それでも落雲館の生徒に違ないんですから。 落雲館の生徒なら何年生だ。 三年生です。 きっとそうか。 ええ。 落雲館へ行って誰か連れてこい。 誰を連れて参ります。 誰でもいいから連れてこい。 へえ。 誰でも構わんから呼んで来いと云うのにわからんか。 校長でも幹事でも教頭でも。 あの校長さんを。 校長でも幹事でも教頭でもと云っているのにわからんか。 誰もおりませんでしたら小使でもよろしゅうございますか。 馬鹿を云え。 小使などに何が分かるものか。 へえ。 ただ今邸内にこの者共が乱入致して。 本当に御校の生徒でしょうか。 さようみんな学校の生徒であります。 こんな事のないように始終訓戒を加えておきますがどうも困ったものでなぜ君等は垣などを乗り越すのか。 丸が這入るのも仕方がないでしょう。 こうして学校の隣りに住んでいる以上は時々はボールも飛んで来ましょう。 しかしあまり乱暴ですからな。 仮令垣を乗り越えるにしても知れないないようにそっと拾って行くならまだ勘弁のしようもありますが。 ごもっともでよく注意は致しますが何分|多人数の事でよくこれから注意をせんといかんぜ。 もしボールが飛んだら表から廻って御断りをして取らなければいかん。 いいか。 ――広い学校の事ですからどうも世話ばかりやけて仕方がないです。 で運動は教育上必要なものでありますからどうもこれを禁ずる訳には参りかねるので。 これを許すとつい御迷惑になるような事が出来ますがこれは是非御容赦を願いたいと思います。 その代り向後はきっと表門から廻って御断りを致した上で取らせますから。 いやそう事が分かればよろしいです。 球はいくら御投げになっても差支えはないです。 表からきてちょっと断わって下されば構いません。 ではこの生徒はあなたに御引き渡し申しますからお連れ帰りを願います。 いやわざわざ御呼び立て申して恐縮です。 只今御宅へ伺いましたところでちょうどよい所で御目にかかりました。 うむそうかえ。 実はこないだから君にちょっと逢いたいと思っていたがね。 それはよかった。 へえそれは好都合でございました。 何かご用で。 いや何大した事でもないのさ。 どうでもいいんだが君でないと出来ない事なんだ。 私に出来る事なら何でもやりましょう。 どんな事で。 ええそう。 何なら御都合のとき出直して伺いましょう。 いつが宜しゅうございますか。 なあにそんな大した事じゃ無いのさ。 ――それじゃせっかくだから頼もうか。 どうか御遠慮なく。 あの変人ね。 そら君の旧友さ。 苦沙弥とか何とか云うじゃないか。 ええ苦沙弥がどうかしましたか。 いえどうもせんがね。 あの事件以来|胸糞がわるくってね。 ごもっともで全く苦沙弥は剛慢ですから少しは自分の社会上の地位を考えているといいのですけれどもまるで一人天下ですから。 そこさ。 金に頭はさげん実業家なんぞ――とか何とかいろいろ小生意気な事を云うからそんなら実業家の腕前を見せてやろうと思ってね。 こないだから大分弱らしているんだがやっぱり頑張っているんだ。 どうも剛情な奴だ。 驚ろいたよ。 どうも損得と云う観念の乏しい奴ですから無暗に痩我慢を張るんでしょう。 昔からああ云う癖のある男でつまり自分の損になる事に気が付かないんですから度し難いです。 あはははほんとに度し難い。 いろいろ手を易え品を易えてやって見るんだがね。 とうとうしまいに学校の生徒にやらした。 そいつは妙案ですな。 利目がございましたか。 これにゃあ奴も大分困ったようだ。 もう遠からず落城するに極っている。 そりゃ結構です。 いくら威張っても多勢に無勢ですからな。 そうさ一人じゃあ仕方がねえ。 それで大分弱ったようだがまあどんな様子か君に行って見て来てもらおうと云うのさ。 はあそうですか。 なに訳はありません。 すぐ行って見ましょう。 容子は帰りがけに御報知を致す事にして。 面白いでしょうあの頑固なのが意気銷沈しているところはきっと見物ですよ。 ああそれじゃ帰りに御寄り待っているから。 それでは御免蒙ります。 君少し顔色が悪いようだぜどうかしやせんか。 別にどこも何ともないさ。 でも蒼いぜ用心せんといかんよ。 時候がわるいからね。 よるは安眠が出来るかね。 うん。 何か心配でもありゃしないか僕に出来る事なら何でもするぜ。 遠慮なく云い給え。 心配って何を。 いえなければいいがもしあればと云う事さ。 心配が一番毒だからな。 世の中は笑って面白く暮すのが得だよ。 どうも君はあまり陰気過ぎるようだ。 笑うのも毒だからな。 無暗に笑うと死ぬ事があるぜ。 冗談云っちゃいけない。 笑う門には福|来るさ。 昔し希臘にクリシッパスと云う哲学者があったが君は知るまい。 知らない。 それがどうしたのさ。 その男が笑い過ぎて死んだんだ。 へえーそいつは不思議だねしかしそりゃ昔の事だから。 昔しだって今だって変りがあるものか。 驢馬が銀の丼から無花果を食うのを見ておかしくってたまらなくって無暗に笑ったんだ。 ところがどうしても笑いがとまらない。 とうとう笑い死にに死んだんだあね。 はははしかしそんなに留め度もなく笑わなくってもいいさ。 少し笑う――適宜に――そうするといい心持ちだ。 ちょっとボールが這入りましたから取らして下さい。 はい。 裏の書生がボールを庭へ投げ込んだんだ。 裏の書生。 裏に書生がいるのかい。 落雲館と云う学校さ。 ああそうか学校か。 随分騒々しいだろうね。 騒々しいの何のって。 碌々勉強も出来やしない。 僕が文部大臣なら早速閉鎖を命じてやる。 ハハハ大分怒ったね。 何か癪に障る事でも有るのかい。 あるのないのって朝から晩まで癪に障り続けだ。 そんなに癪に障るなら越せばいいじゃないか。 誰が越すもんか失敬千万な。 僕に怒ったって仕方がない。 なあに小供だあね打ちゃっておけばいいさ。 君はよかろうが僕はよくない。 昨日は教師を呼びつけて談判してやった。 それは面白かったね。 恐れ入ったろう。 うん。 ちょっとボールが這入りましたから取らして下さい。 いや大分来るじゃないかまたボールだぜ君。 うん表から来るように契約したんだ。 なるほどそれであんなにくるんだね。 そうーか分った。 何が分ったんだい。 なにボールを取りにくる源因がさ。 今日はこれで十六返目だ。 君うるさくないか。 来ないようにしたらいいじゃないか。 来ないようにするったって来るから仕方がないさ。 仕方がないと云えばそれまでだがそう頑固にしていないでもよかろう。 人間は角があると世の中を転がって行くのが骨が折れて損だよ。 丸いものはごろごろどこへでも苦なしに行けるが四角なものはころがるに骨が折れるばかりじゃない転がるたびに角がすれて痛いものだ。 どうせ自分一人の世の中じゃなしそう自分の思うように人はならないさ。 まあ何だね。 どうしても金のあるものにたてを突いちゃ損だね。 ただ神経ばかり痛めてからだは悪くなる人は褒めてくれず。 向うは平気なものさ。 坐って人を使いさえすればすむんだから。 多勢に無勢どうせ叶わないのは知れているさ。 頑固もいいが立て通すつもりでいるうちに自分の勉強に障ったり毎日の業務に煩を及ぼしたりとどのつまりが骨折り損の草臥儲けだからね。 ご免なさい。 今ちょっとボールが飛びましたから裏口へ廻って取ってもいいですか。 そらまた来たぜ。 失敬な。 どうです。 どうです。 先生どうも駄目ですよ。 え何そんな事があるものですか。 一体医者の薬は利くものでしょうか。 利かん事もないです。 私の胃病なんかいくら薬を飲んでも同じ事ですぜ。 決してそんな事はない。 ないですかな。 少しは善くなりますかな。 そう急には癒りませんだんだん利きます。 今でももとより大分よくなっています。 そうですかな。 やはり肝癪が起りますか。 起りますとも夢にまで肝癪を起します。 運動でも少しなさったらいいでしょう。 運動するとなお肝癪が起ります。 どれ一つ拝見しましょうか。 先生せんだって催眠術のかいてある本を読んだら催眠術を応用して手癖のわるいんだのいろいろな病気だのを直す事が出来ると書いてあったですが本当でしょうか。 ええそう云う療法もあります。 今でもやるんですか。 ええ。 催眠術をかけるのはむずかしいものでしょうか。 なに訳はありません私などもよく懸けます。 先生もやるんですか。 ええ一つやって見ましょうか。 誰でも懸らなければならん理窟のものです。 あなたさえ善ければ懸けて見ましょう。 そいつは面白い一つ懸けて下さい。 私もとうから懸かって見たいと思ったんです。 しかし懸かりきりで眼が覚めないと困るな。 なに大丈夫です。 それじゃやりましょう。 こうやって瞼を撫でているとだんだん眼が重たくなるでしょう。 なるほど重くなりますな。 だんだん重くなりますよようござんすか。 さあもう開きませんぜ。 もう開かんのですか。 ええもうあきません。 あけるなら開いて御覧なさい。 とうていあけないから。 そうですか。 懸かりませんな。 ええ懸りません。 うん迷亭かあれは池に浮いてる金魚麩のようにふわふわしているね。 せんだって友人を連れて一面識もない華族の門前を通行した時ちょっと寄って茶でも飲んで行こうと云って引っ張り込んだそうだが随分|呑気だね。 それでどうしたい。 どうしたか聞いても見なかったが――そうさまあ天稟の奇人だろうその代り考も何もない全く金魚麩だ。 鈴木か――あれがくるのかいへえーあれは理窟はわからんが世間的には利口な男だ。 金時計は下げられるたちだ。 しかし奥行きがないから落ちつきがなくって駄目だ。 円滑円滑と云うが円滑の意味も何もわかりはせんよ。 迷亭が金魚麩ならあれは藁で括った蒟蒻だね。 ただわるく滑かでぶるぶる振えているばかりだ。 そんなら君は何だい。 僕かそうさな僕なんかは――まあ自然薯くらいなところだろう。 長くなって泥の中に埋ってるさ。 君は始終泰然として気楽なようだが羨ましいな。 なに普通の人間と同じようにしているばかりさ。 別に羨まれるに足るほどの事もない。 ただありがたい事に人を羨む気も起らんからそれだけいいね。 会計は近頃豊かかね。 なに同じ事さ。 足るや足らずさ。 しかし食うているから大丈夫。 驚かないよ。 僕は不愉快で肝癪が起ってたまらん。 どっちを向いても不平ばかりだ。 不平もいいさ。 不平が起ったら起してしまえば当分はいい心持ちになれる。 人間はいろいろだからそう自分のように人にもなれと勧めたってなれるものではない。 箸は人と同じように持たんと飯が食いにくいが自分の麺麭は自分の勝手に切るのが一番都合がいいようだ。 上手な仕立屋で着物をこしらえれば着たてからからだに合ったのを持ってくるが下手の裁縫屋に誂えたら当分は我慢しないと駄目さ。 しかし世の中はうまくしたもので着ているうちには洋服の方でこちらの骨格に合わしてくれるから。 今の世に合うように上等な両親が手際よく生んでくれればそれが幸福なのさ。 しかし出来損こなったら世の中に合わないで我慢するかまたは世の中で合わせるまで辛抱するよりほかに道はなかろう。 しかし僕なんかいつまで立っても合いそうにないぜ心細いね。 あまり合わない背広を無理にきると綻びる。 喧嘩をしたり自殺をしたり騒動が起るんだね。 しかし君なんかただ面白くないと云うだけで自殺は無論しやせず喧嘩だってやった事はあるまい。 まあまあいい方だよ。 ところが毎日喧嘩ばかりしているさ。 相手が出て来なくっても怒っておれば喧嘩だろう。 なるほど一人喧嘩だ。 面白いやいくらでもやるがいい。 それがいやになった。 そんならよすさ。 君の前だが自分の心がそんなに自由になるものじゃない。 まあ全体何がそんなに不平なんだい。 ぴん助やきしゃごが何を云ったって知らん顔をしておればいいじゃないか。 どうせ下らんのだから。 中学の生徒なんか構う価値があるものか。 なに妨害になる。 だって談判しても喧嘩をしてもその妨害はとれんのじゃないか。 僕はそう云う点になると西洋人より昔しの日本人の方がよほどえらいと思う。 西洋人のやり方は積極的積極的と云って近頃|大分流行るがあれは大なる欠点を持っているよ。 第一積極的と云ったって際限がない話しだ。 いつまで積極的にやり通したって満足と云う域とか完全と云う境にいけるものじゃない。 向に檜があるだろう。 あれが目障りになるから取り払う。 とその向うの下宿屋がまた邪魔になる。 下宿屋を退去させるとその次の家が癪に触る。 どこまで行っても際限のない話しさ。 西洋人の遣り口はみんなこれさ。 ナポレオンでもアレキサンダーでも勝って満足したものは一人もないんだよ。 人が気に喰わん喧嘩をする先方が閉口しない法庭へ訴える法庭で勝つそれで落着と思うのは間違さ。 心の落着は死ぬまで焦ったって片付く事があるものか。 寡人政治がいかんから代議政体にする。 代議政体がいかんからまた何かにしたくなる。 川が生意気だって橋をかける山が気に喰わんと云って隧道を堀る。 交通が面倒だと云って鉄道を布く。 それで永久満足が出来るものじゃない。 さればと云って人間だものどこまで積極的に我意を通す事が出来るものか。 西洋の文明は積極的進取的かも知れないがつまり不満足で一生をくらす人の作った文明さ。 日本の文明は自分以外の状態を変化させて満足を求めるのじゃない。 西洋と大に違うところは根本的に周囲の境遇は動かすべからざるものと云う一大仮定の下に発達しているのだ。 親子の関係が面白くないと云って欧洲人のようにこの関係を改良して落ちつきをとろうとするのではない。 親子の関係は在来のままでとうてい動かす事が出来んものとしてその関係の下に安心を求むる手段を講ずるにある。 夫婦君臣の間柄もその通り武士町人の区別もその通り自然その物を観るのもその通り。 ――山があって隣国へ行かれなければ山を崩すと云う考を起す代りに隣国へ行かんでも困らないと云う工夫をする。 山を越さなくとも満足だと云う心持ちを養成するのだ。 それだから君見給え。 禅家でも儒家でもきっと根本的にこの問題をつらまえる。 いくら自分がえらくても世の中はとうてい意のごとくなるものではない落日を回らす事も加茂川を逆に流す事も出来ない。 ただ出来るものは自分の心だけだからね。 心さえ自由にする修業をしたら落雲館の生徒がいくら騒いでも平気なものではないか今戸焼の狸でも構わんでおられそうなものだ。 ぴん助なんか愚な事を云ったらこの馬鹿野郎とすましておれば仔細なかろう。 何でも昔しの坊主は人に斬り付けられた時|電光影裏に春風を斬るとか何とか洒落れた事を云ったと云う話だぜ。 心の修業がつんで消極の極に達するとこんな霊活な作用が出来るのじゃないかしらん。 僕なんかそんなむずかしい事は分らないがとにかく西洋人風の積極主義ばかりがいいと思うのは少々誤まっているようだ。 現に君がいくら積極主義に働いたって生徒が君をひやかしにくるのをどうする事も出来ないじゃないか。 君の権力であの学校を閉鎖するかまたは先方が警察に訴えるだけのわるい事をやれば格別だがさもない以上はどんなに積極的に出たったて勝てっこないよ。 もし積極的に出るとすれば金の問題になる。 多勢に無勢の問題になる。 換言すると君が金持に頭を下げなければならんと云う事になる。 衆を恃む小供に恐れ入らなければならんと云う事になる。 君のような貧乏人でしかもたった一人で積極的に喧嘩をしようと云うのがそもそも君の不平の種さ。 どうだい分ったかい。 猿が手を持つ。 あばたの顔面に及ぼす影響。 君西洋人にはあばたがあるかな。 そうだな。 まあ滅多にないね。 滅多になくっても少しはあるかい。 あっても乞食か立ん坊だよ。 教育のある人にはないようだ。 そうかなあ日本とは少し違うね。 なるほどきたない顔だ。 おお怖い。 なるほどきたない顔だ。 このくらい皮膚が緊張するとあばたも眼につかん。 こうして見ると大変目立つ。 やっぱりまともに日の向いてる方が平に見える。 奇体な物だなあ。 このくらい離れるとそんなでもない。 やはり近過ぎるといかん。 ――顔ばかりじゃない何でもそんなものだ。 いやこれは駄目だ。 なぜこんなに毒々しい顔だろう。 大分充血しているようだ。 やっぱり慢性結膜炎だ。 ヤこれも活版だ。 なかなか意味深長だ。 何でもよほど哲理を研究した人に違ない。 天晴な見識だ。 頼む頼む。 おい冗談じゃない。 何をしているんだ御客さんだよ。 おや君か。 おや君かもないもんだ。 そこにいるなら何とか云えばいいのにまるで空家のようじゃないか。 うんちと考え事があるもんだから。 考えていたって通れくらいは云えるだろう。 云えん事もないさ。 相変らず度胸がいいね。 せんだってから精神の修養を力めているんだもの。 物好きだな。 精神を修養して返事が出来なくなった日には来客は御難だね。 そんなに落ちつかれちゃ困るんだぜ。 実は僕一人来たんじゃないよ。 大変な御客さんを連れて来たんだよ。 ちょっと出て逢ってくれ給え。 誰を連れて来たんだい。 誰でもいいからちょっと出て逢ってくれたまえ。 是非君に逢いたいと云うんだから。 誰だい。 誰でもいいから立ちたまえ。 また人を担ぐつもりだろう。 さあどうぞあれへ。 さあどうぞあれへ。 いやそれでは御挨拶が出来かねますからどうぞあれへ。 いえそれではどうぞあれへ。 どうもそう御謙遜では恐れ入る。 かえって手前が痛み入る。 どうか御遠慮なくさあどうぞ。 御謙遜では恐れますからどうか。 まあ出たまえ。 そう唐紙へくっついては僕が坐る所がない。 遠慮せずに前へ出たまえ。 苦沙弥君これが毎々君に噂をする静岡の伯父だよ。 伯父さんこれが苦沙弥君です。 いや始めて御目にかかります毎度迷亭が出て御邪魔を致すそうでいつか参上の上御高話を拝聴致そうと存じておりましたところ幸い今日は御近所を通行致したもので御礼|旁伺った訳でどうぞ御見知りおかれまして今後共|宜しく。 私も私もちょっと伺がうはずでありましたところ何分よろしく。 私ももとはこちらに屋敷も在って永らく御膝元でくらしたものでがすが瓦解の折にあちらへ参ってからとんと出てこんのでな。 今来て見るとまるで方角も分らんくらいで――迷亭にでも伴れてあるいてもらわんととても用達も出来ません。 滄桑の変とは申しながら御入国以来三百年もあの通り将軍家の。 伯父さん将軍家もありがたいかも知れませんが明治の代も結構ですぜ。 昔は赤十字なんてものもなかったでしょう。 それはない。 赤十字などと称するものは全くない。 ことに宮様の御顔を拝むなどと云う事は明治の御代でなくては出来ぬ事だ。 わしも長生きをした御蔭でこの通り今日の総会にも出席するし宮殿下の御声もきくしもうこれで死んでもいい。 まあ久し振りで東京見物をするだけでも得ですよ。 苦沙弥君伯父はね。 今度赤十字の総会があるのでわざわざ静岡から出て来てね今日いっしょに上野へ出掛けたんだが今その帰りがけなんだよ。 それだからこの通り先日僕が白木屋へ注文したフロックコートを着ているのさ。 だいぶ人が出ましたろう。 いや非常な人でそれでその人が皆わしをじろじろ見るので――どうも近来は人間が物見高くなったようでがすな。 昔しはあんなではなかったが。 ええさよう昔はそんなではなかったですな。 それにな。 皆この甲割りへ目を着けるので。 その鉄扇は大分重いものでございましょう。 苦沙弥君ちょっと持って見たまえ。 なかなか重いよ。 伯父さん持たして御覧なさい。 失礼でがすが。 なるほど。 みんながこれを鉄扇鉄扇と云うがこれは甲割と称えて鉄扇とはまるで別物で。 へえ何にしたものでございましょう。 兜を割るので――敵の目がくらむ所を撃ちとったものでがす。 楠正成時代から用いたようで。 伯父さんそりゃ正成の甲割ですかね。 いえこれは誰のかわからん。 しかし時代は古い。 建武時代の作かも知れない。 建武時代かも知れないが寒月君は弱っていましたぜ。 苦沙弥君今日帰りにちょうどいい機会だから大学を通り抜けるついでに理科へ寄って物理の実験室を見せて貰ったところがね。 この甲割が鉄だものだから磁力の器械が狂って大騒ぎさ。 いやそんなはずはない。 これは建武時代の鉄で性のいい鉄だから決してそんな虞れはない。 いくら性のいい鉄だってそうはいきませんよ。 現に寒月がそう云ったから仕方がないです。 寒月というのはあのガラス球を磨っている男かい。 今の若さに気の毒な事だ。 もう少し何かやる事がありそうなものだ。 可愛想にあれだって研究でさあ。 あの球を磨り上げると立派な学者になれるんですからね。 玉を磨りあげて立派な学者になれるなら誰にでも出来る。 わしにでも出来る。 ビードロやの主人にでも出来る。 ああ云う事をする者を漢土では玉人と称したもので至って身分の軽いものだ。 なるほど。 すべて今の世の学問は皆|形而下の学でちょっと結構なようだがいざとなるとすこしも役には立ちませんてな。 昔はそれと違って侍は皆|命懸けの商買だからいざと云う時に狼狽せぬように心の修業を致したもので御承知でもあらっしゃろうがなかなか玉を磨ったり針金を綯ったりするような容易いものではなかったのでがすよ。 なるほど。 伯父さん心の修業と云うものは玉を磨る代りに懐手をして坐り込んでるんでしょう。 それだから困る。 決してそんな造作のないものではない。 孟子は求放心と云われたくらいだ。 邵康節は心要放と説いた事もある。 また仏家では中峯和尚と云うのが具不退転と云う事を教えている。 なかなか容易には分らん。 とうてい分りっこありませんね。 全体どうすればいいんです。 御前は沢菴禅師の不動智神妙録というものを読んだ事があるかい。 いいえ聞いた事もありません。 心をどこに置こうぞ。 敵の身の働に心を置けば敵の身の働に心を取らるるなり。 敵の太刀に心を置けば敵の太刀に心を取らるるなり。 敵を切らんと思うところに心を置けば敵を切らんと思うところに心を取らるるなり。 わが太刀に心を置けば我太刀に心を取らるるなり。 われ切られじと思うところに心を置けば切られじと思うところに心を取らるるなり。 人の構に心を置けば人の構に心を取らるるなり。 とかく心の置きどころはないとある。 よく忘れずに暗誦したものですね。 伯父さんもなかなか記憶がいい。 長いじゃありませんか。 苦沙弥君分ったかい。 なるほど。 なああなたそうでござりましょう。 心をどこに置こうぞ敵の身の働に心を置けば敵の身の働に心を取らるるなり。 敵の太刀に心を置けば。 伯父さん苦沙弥君はそんな事はよく心得ているんですよ。 近頃は毎日書斎で精神の修養ばかりしているんですから。 客があっても取次に出ないくらい心を置き去りにしているんだから大丈夫ですよ。 やそれは御奇特な事で――御前などもちとごいっしょにやったらよかろう。 へへへそんな暇はありませんよ。 伯父さんは自分が楽なからだだもんだから人も遊んでると思っていらっしゃるんでしょう。 実際遊んでるじゃないかの。 ところが閑中自から忙ありでね。 そう粗忽だから修業をせんといかないと云うのよ忙中|自ら閑ありと云う成句はあるが閑中自ら忙ありと云うのは聞いた事がない。 なあ苦沙弥さん。 ええどうも聞きませんようで。 ハハハハそうなっちゃあ敵わない。 時に伯父さんどうです。 久し振りで東京の鰻でも食っちゃあ。 竹葉でも奢りましょう。 これから電車で行くとすぐです。 鰻も結構だが今日はこれからすい原へ行く約束があるからわしはこれで御免を蒙ろう。 ああ杉原ですかあの爺さんも達者ですね。 杉原ではないすい原さ。 御前はよく間違ばかり云って困る。 他人の姓名を取り違えるのは失礼だ。 よく気をつけんといけない。 だって杉原とかいてあるじゃありませんか。 杉原と書いてすい原と読むのさ。 妙ですね。 なに妙な事があるものか。 名目読みと云って昔からある事さ。 蚯蚓を和名でみみずと云う。 あれは目見ずの名目よみで。 蝦蟆の事をかいると云うのと同じ事さ。 へえ驚ろいたな。 蝦蟆を打ち殺すと仰向きにかえる。 それを名目読みにかいると云う。 透垣をすい垣茎立をくく立皆同じ事だ。 杉原をすぎ原などと云うのは田舎ものの言葉さ。 少し気を付けないと人に笑われる。 じゃそのすい原へこれから行くんですか。 困ったな。 なに厭なら御前は行かんでもいい。 わし一人で行くから。 一人で行けますかい。 あるいてはむずかしい。 車を雇って頂いてここから乗って行こう。 あれが君の伯父さんか。 あれが僕の伯父さんさ。 なるほど。 ハハハ豪傑だろう。 僕もああ云う伯父さんを持って仕合せなものさ。 どこへ連れて行ってもあの通りなんだぜ。 君驚ろいたろう。 なにそんなに驚きゃしない。 あれで驚かなけりゃ胆力の据ったもんだ。 しかしあの伯父さんはなかなかえらいところがあるようだ。 精神の修養を主張するところなぞは大に敬服していい。 敬服していいかね。 君も今に六十くらいになるとやっぱりあの伯父見たように時候おくれになるかも知れないぜ。 しっかりしてくれたまえ。 時候おくれの廻り持ちなんか気が利かないよ。 君はしきりに時候おくれを気にするが時と場合によると時候おくれの方がえらいんだぜ。 第一今の学問と云うものは先へ先へと行くだけでどこまで行ったって際限はありゃしない。 とうてい満足は得られやしない。 そこへ行くと東洋流の学問は消極的で大に味がある。 心そのものの修業をするのだから。 えらい事になって来たぜ。 何だか八木独仙君のような事を云ってるね。 君独仙の説を聞いた事があるのかい。 聞いたの聞かないのってあの男の説ときたら十年前学校にいた時分と今日と少しも変りゃしない。 真理はそう変るものじゃないから変らないところがたのもしいかも知れない。 まあそんな贔負があるから独仙もあれで立ち行くんだね。 第一八木と云う名からしてよく出来てるよ。 あの髯が君全く山羊だからね。 そうしてあれも寄宿舎時代からあの通りの恰好で生えていたんだ。 名前の独仙なども振ったものさ。 昔し僕のところへ泊りがけに来て例の通り消極的の修養と云う議論をしてね。 いつまで立っても同じ事を繰り返してやめないから僕が君もう寝ようじゃないかと云うと先生気楽なものさいや僕は眠くないとすまし切ってやっぱり消極論をやるには迷惑したね。 仕方がないから君は眠くなかろうけれども僕の方は大変眠いのだからどうか寝てくれたまえと頼むようにして寝かしたまではよかったが――その晩|鼠が出て独仙君の鼻のあたまを噛ってね。 夜なかに大騒ぎさ。 先生悟ったような事を云うけれども命は依然として惜しかったと見えて非常に心配するのさ。 鼠の毒が総身にまわると大変だ君どうかしてくれと責めるには閉口したね。 それから仕方がないから台所へ行って紙片へ飯粒を貼ってごまかしてやったあね。 どうして。 これは舶来の膏薬で近来|独逸の名医が発明したので印度人などの毒蛇に噛まれた時に用いると即効があるんだからこれさえ貼っておけば大丈夫だと云ってね。 君はその時分からごまかす事に妙を得ていたんだね。 すると独仙君はああ云う好人物だから全くだと思って安心してぐうぐう寝てしまったのさ。 あくる日起きて見ると膏薬の下から糸屑がぶらさがって例の山羊髯に引っかかっていたのは滑稽だったよ。 しかしあの時分より大分えらくなったようだよ。 君近頃逢ったのかい。 一週間ばかり前に来て長い間話しをして行った。 どうりで独仙流の消極説を振り舞わすと思った。 実はその時|大に感心してしまったから僕も大に奮発して修養をやろうと思ってるところなんだ。 奮発は結構だがね。 あんまり人の云う事を真に受けると馬鹿を見るぜ。 一体君は人の言う事を何でもかでも正直に受けるからいけない。 独仙も口だけは立派なものだがねいざとなると御互と同じものだよ。 君九年前の大地震を知ってるだろう。 あの時寄宿の二階から飛び降りて怪我をしたものは独仙君だけなんだからな。 あれには当人|大分説があるようじゃないか。 そうさ当人に云わせるとすこぶるありがたいものさ。 禅の機鋒は峻峭なものでいわゆる石火の機となると怖いくらい早く物に応ずる事が出来る。 ほかのものが地震だと云って狼狽えているところを自分だけは二階の窓から飛び下りたところに修業の効があらわれて嬉しいと云って跛を引きながらうれしがっていた。 負惜みの強い男だ。 一体|禅とか仏とか云って騒ぎ立てる連中ほどあやしいのはないぜ。 そうかな。 この間来た時禅宗坊主の寝言見たような事を何か云ってったろう。 うん電光影裏に春風をきるとか云う句を教えて行ったよ。 その電光さ。 あれが十年前からの御箱なんだからおかしいよ。 無覚禅師の電光ときたら寄宿舎中誰も知らないものはないくらいだった。 それに先生時々せき込むと間違えて電光影裏を逆さまに春風影裏に電光をきると云うから面白い。 今度ためして見たまえ。 向で落ちつき払って述べたてているところをこっちでいろいろ反対するんだね。 するとすぐ顛倒して妙な事を云うよ。 君のようないたずらものに逢っちゃ叶わない。 どっちがいたずら者だか分りゃしない。 僕は禅坊主だの悟ったのは大嫌だ。 僕の近所に南蔵院と云う寺があるがあすこに八十ばかりの隠居がいる。 それでこの間の白雨の時|寺内へ雷が落ちて隠居のいる庭先の松の木を割いてしまった。 ところが和尚泰然として平気だと云うからよく聞き合わせて見るとから聾なんだね。 それじゃ泰然たる訳さ。 大概そんなものさ。 独仙も一人で悟っていればいいのだがややともすると人を誘い出すから悪い。 現に独仙の御蔭で二人ばかり気狂にされているからな。 誰が。 誰がって。 一人は理野陶然さ。 独仙の御蔭で大に禅学に凝り固まって鎌倉へ出掛けて行ってとうとう出先で気狂になってしまった。 円覚寺の前に汽車の踏切りがあるだろうあの踏切り内へ飛び込んでレールの上で座禅をするんだね。 それで向うから来る汽車をとめて見せると云う大気焔さ。 もっとも汽車の方で留ってくれたから一命だけはとりとめたがその代り今度は火に入って焼けず水に入って溺れぬ金剛不壊のからだだと号して寺内の蓮池へ這入ってぶくぶくあるき廻ったもんだ。 死んだかい。 その時も幸道場の坊主が通りかかって助けてくれたがその後東京へ帰ってからとうとう腹膜炎で死んでしまった。 死んだのは腹膜炎だが腹膜炎になった原因は僧堂で麦飯や万年漬を食ったせいだからつまるところは間接に独仙が殺したようなものさ。 むやみに熱中するのも善し悪ししだね。 本当にさ。 独仙にやられたものがもう一人同窓中にある。 あぶないね。 誰だい。 立町老梅君さ。 あの男も全く独仙にそそのかされて鰻が天上するような事ばかり言っていたがとうとう君本物になってしまった。 本物たあ何だい。 とうとう鰻が天上して豚が仙人になったのさ。 何の事だいそれは。 八木が独仙なら立町は豚仙さあのくらい食い意地のきたない男はなかったがあの食意地と禅坊主のわる意地が併発したのだから助からない。 始めは僕らも気がつかなかったが今から考えると妙な事ばかり並べていたよ。 僕のうちなどへ来て君あの松の木へカツレツが飛んできやしませんかの僕の国では蒲鉾が板へ乗って泳いでいますのってしきりに警句を吐いたものさ。 ただ吐いているうちはよかったが君表のどぶへ金とんを掘りに行きましょうと促がすに至っては僕も降参したね。 それから二三日するとついに豚仙になって巣鴨へ収容されてしまった。 元来豚なんぞが気狂になる資格はないんだが全く独仙の御蔭であすこまで漕ぎ付けたんだね。 独仙の勢力もなかなかえらいよ。 へえ今でも巣鴨にいるのかい。 いるだんじゃない。 自大狂で大気焔を吐いている。 近頃は立町老梅なんて名はつまらないと云うので自ら天道公平と号して天道の権化をもって任じている。 すさまじいものだよ。 まあちょっと行って見たまえ。 天道公平。 天道公平だよ。 気狂の癖にうまい名をつけたものだね。 時々は孔平とも書く事がある。 それで何でも世人が迷ってるからぜひ救ってやりたいと云うのでむやみに友人や何かへ手紙を出すんだね。 僕も四五通貰ったが中にはなかなか長い奴があって不足税を二度ばかりとられたよ。 それじゃ僕の所へ来たのも老梅から来たんだ。 君の所へも来たかい。 そいつは妙だ。 やっぱり赤い状袋だろう。 うん真中が赤くて左右が白い。 一風変った状袋だ。 あれはねわざわざ支那から取り寄せるのだそうだよ。 天の道は白なり地の道は白なり人は中間に在って赤しと云う豚仙の格言を示したんだって。 なかなか因縁のある状袋だね。 気狂だけに大に凝ったものさ。 そうして気狂になっても食意地だけは依然として存しているものと見えて毎回必ず食物の事がかいてあるから奇妙だ。 君の所へも何とか云って来たろう。 うん海鼠の事がかいてある。 老梅は海鼠が好きだったからね。 もっともだ。 それから。 それから河豚と朝鮮仁参か何か書いてある。 河豚と朝鮮仁参の取り合せは旨いね。 おおかた河豚を食って中ったら朝鮮仁参を煎じて飲めとでも云うつもりなんだろう。 そうでもないようだ。 そうでなくても構わないさ。 どうせ気狂だもの。 それっきりかい。 まだある。 苦沙弥先生御茶でも上がれと云う句がある。 アハハハ御茶でも上がれはきびし過ぎる。 それで大に君をやり込めたつもりに違ない。 大出来だ。 天道公平君万歳だ。 ちょっと頼みますちょっと頼みます。 おい御主人ちょっと御足労だが出てくれたまえ。 君でなくっちゃ間に合わない。 おいこの方は刑事巡査でせんだっての泥棒をつらまえたから君に出頭しろと云うんでわざわざおいでになったんだよ。 あしたね午前九時までに日本堤の分署まで来て下さい。 ――盗難品は何と何でしたかね。 盗難品は。 盗難品は山の芋一箱。 山の芋がよほど惜しかったと見えるね。 山の芋は出ないようだがほかの物件はたいがい戻ったようです。 ――まあ来て見たら分るでしょう。 それでね下げ渡したら請書が入るから印形を忘れずに持っておいでなさい。 ――九時までに来なくってはいかん。 日本堤分署です。 ――浅草警察署の管轄内の日本堤分署です。 ――それじゃさようなら。 アハハハ君は刑事を大変尊敬するね。 つねにああ云う恭謙な態度を持ってるといい男だが君は巡査だけに鄭寧なんだから困る。 だってせっかく知らせて来てくれたんじゃないか。 知らせに来るったって先は商売だよ。 当り前にあしらってりゃ沢山だ。 しかしただの商売じゃない。 無論ただの商売じゃない。 探偵と云ういけすかない商売さ。 あたり前の商売より下等だね。 君そんな事を云うとひどい目に逢うぜ。 ハハハそれじゃ刑事の悪口はやめにしよう。 しかし刑事を尊敬するのはまだしもだが泥棒を尊敬するに至っては驚かざるを得んよ。 誰が泥棒を尊敬したい。 君がしたのさ。 僕が泥棒に近付きがあるもんか。 あるもんかって君は泥棒にお辞儀をしたじゃないか。 いつ。 たった今|平身低頭したじゃないか。 馬鹿あ云ってらあれは刑事だね。 刑事があんななりをするものか。 刑事だからあんななりをするんじゃないか。 頑固だな。 君こそ頑固だ。 まあ第一刑事が人の所へ来てあんなに懐手なんかして突立っているものかね。 刑事だって懐手をしないとは限るまい。 そう猛烈にやって来ては恐れ入るがね。 君がお辞儀をする間あいつは始終あのままで立っていたのだぜ。 刑事だからそのくらいの事はあるかも知れんさ。 どうも自信家だな。 いくら云っても聞かないね。 聞かないさ。 君は口先ばかりで泥棒だ泥棒だと云ってるだけでその泥棒がはいるところを見届けた訳じゃないんだから。 ただそう思って独りで強情を張ってるんだ。 ともかくもあした行くつもりかい。 行くとも九時までに来いと云うから八時から出て行く。 学校はどうする。 休むさ。 学校なんか。 えらい勢だね。 休んでもいいのかい。 いいとも僕の学校は月給だから差し引かれる気遣はない大丈夫だ。 君行くのはいいが路を知ってるかい。 知るものか。 車に乗って行けば訳はないだろう。 静岡の伯父に譲らざる東京通なるには恐れ入る。 いくらでも恐れ入るがいい。 ハハハ日本堤分署と云うのはね君ただの所じゃないよ。 吉原だよ。 何だ。 吉原だよ。 あの遊廓のある吉原か。 そうさ吉原と云やあ東京に一つしかないやね。 どうだ行って見る気かい。 吉原だろうが遊廓だろうがいったん行くと云った以上はきっと行く。 まあ面白かろう見て来たまえ。 自分が感服して大に見習おうとした八木独仙君も迷亭の話しによって見ると別段見習うにも及ばない人間のようである。 のみならず彼の唱道するところの説は何だか非常識で迷亭の云う通り多少|瘋癲的系統に属してもおりそうだ。 いわんや彼は歴乎とした二人の気狂の子分を有している。 はなはだ危険である。 滅多に近寄ると同系統内に引き摺り込まれそうである。 自分が文章の上において驚嘆の余これこそ大見識を有している偉人に相違ないと思い込んだ天道公平事実名立町老梅は純然たる狂人であって現に巣鴨の病院に起居している。 迷亭の記述が棒大のざれ言にもせよ彼が瘋癲院中に盛名を擅ままにして天道の主宰をもって自ら任ずるは恐らく事実であろう。 こう云う自分もことによると少々ござっているかも知れない。 同気相求め同類相集まると云うから気狂の説に感服する以上は――少なくともその文章言辞に同情を表する以上は――自分もまた気狂に縁の近い者であるだろう。 よし同型中に鋳化せられんでも軒を比べて狂人と隣り合せに居を卜するとすれば境の壁を一重打ち抜いていつの間にか同室内に膝を突き合せて談笑する事がないとも限らん。 こいつは大変だ。 なるほど考えて見るとこのほどじゅうから自分の脳の作用は我ながら驚くくらい奇上に妙を点じ変傍に珍を添えている。 脳漿一勺の化学的変化はとにかく意志の動いて行為となるところ発して言辞と化する辺には不思議にも中庸を失した点が多い。 舌上に竜泉なく腋下に清風を生ぜざるも歯根に狂臭あり筋頭に瘋味あるをいかんせん。 いよいよ大変だ。 ことによるともうすでに立派な患者になっているのではないかしらん。 まだ幸に人を傷けたり世間の邪魔になる事をし出かさんからやはり町内を追払われずに東京市民として存在しているのではなかろうか。 こいつは消極の積極のと云う段じゃない。 まず脈搏からして検査しなくてはならん。 しかし脈には変りはないようだ。 頭は熱いかしらん。 これも別に逆上の気味でもない。 しかしどうも心配だ。 こう自分と気狂ばかりを比較して類似の点ばかり勘定していてはどうしても気狂の領分を脱する事は出来そうにもない。 これは方法がわるかった。 気狂を標準にして自分をそっちへ引きつけて解釈するからこんな結論が出るのである。 もし健康な人を本位にしてその傍へ自分を置いて考えて見たらあるいは反対の結果が出るかも知れない。 それにはまず手近から始めなくてはいかん。 第一に今日来たフロックコートの伯父さんはどうだ。 心をどこに置こうぞあれも少々怪しいようだ。 第二に寒月はどうだ。 朝から晩まで弁当持参で球ばかり磨いている。 これも棒組だ。 第三にと迷亭。 あれはふざけ廻るのを天職のように心得ている。 全く陽性の気狂に相違ない。 第四はと金田の妻君。 あの毒悪な根性は全く常識をはずれている。 純然たる気じるしに極ってる。 第五は金田君の番だ。 金田君には御目に懸った事はないがまずあの細君を恭しくおっ立てて琴瑟調和しているところを見ると非凡の人間と見立てて差支えあるまい。 非凡は気狂の異名であるからまずこれも同類にしておいて構わない。 それからと――まだあるある。 落雲館の諸君子だ年齢から云うとまだ芽生えだが躁狂の点においては一世を空しゅうするに足る天晴な豪のものである。 こう数え立てて見ると大抵のものは同類のようである。 案外心丈夫になって来た。 ことによると社会はみんな気狂の寄り合かも知れない。 気狂が集合して鎬を削ってつかみ合いいがみ合い罵り合い奪い合ってその全体が団体として細胞のように崩れたり持ち上ったり持ち上ったり崩れたりして暮して行くのを社会と云うのではないか知らん。 その中で多少|理窟がわかって分別のある奴はかえって邪魔になるから瘋癲院というものを作ってここへ押し込めて出られないようにするのではないかしらん。 すると瘋癲院に幽閉されているものは普通の人で院外にあばれているものはかえって気狂である。 気狂も孤立している間はどこまでも気狂にされてしまうが団体となって勢力が出ると健全の人間になってしまうのかも知れない。 大きな気狂が金力や威力を濫用して多くの小気狂を使役して乱暴を働いて人から立派な男だと云われている例は少なくない。 何が何だか分らなくなった。 何が何だか分らなくなった。 何が何だか分らなくなる。 何が何だか分らなくなる。 あなたもう七時ですよ。 坊やちゃんそれは雑巾よ。 いやーよばぶ。 坊やちゃん元禄が濡れるから御よしなさいね。 わたしゃ藁店の子じゃないわ。 元どこがべたい。 まだお起きにならないのですか。 まだなんですかあなた。 まだなんですかあなた。 九時までにいらっしゃるのでしょう。 早くなさらないと間に合いませんよ。 そんなに言わなくても今起きる。 さあお起きなさい。 何だ騒々しい。 起きると云えば起きるのだ。 起きるとおっしゃってもお起きなさらんじゃありませんか。 誰がいつそんな嘘をついた。 いつでもですわ。 馬鹿を云え。 どっちが馬鹿だか分りゃしない。 あら坊ばちゃん大変よ顔が御ぜん粒だらけよ。 さあ学校へおいで。 遅くなりますよ。 あらでも今日は御休みよ。 御休みなもんですか早くなさい。 それでも昨日先生が御休だっておっしゃってよ。 叔母さん今日は。 おやよく早くから。 今日は大祭日ですから朝のうちにちょっと上がろうと思って八時半頃から家を出て急いで来たの。 そう何か用があるの。 いいえただあんまり御無沙汰をしたからちょっと上がったの。 ちょっとでなくっていいから緩くり遊んでいらっしゃい。 今に叔父さんが帰って来ますから。 叔父さんはもうどこへかいらしったの。 珍らしいのね。 ええ今日はね妙な所へ行ったのよ。 警察へ行ったの妙でしょう。 あら何で。 この春|這入った泥棒がつらまったんだって。 それで引き合に出されるの。 いい迷惑ね。 なあに品物が戻るのよ。 取られたものが出たから取りに来いって昨日巡査がわざわざ来たもんですから。 おやそうそれでなくっちゃこんなに早く叔父さんが出掛ける事はないわね。 いつもなら今時分はまだ寝ていらっしゃるんだわ。 叔父さんほど寝坊はないんですからそうして起こすとぷんぷん怒るのよ。 今朝なんかも七時までに是非おこせと云うから起こしたんでしょう。 すると夜具の中へ潜って返事もしないんですもの。 こっちは心配だから二度目にまたおこすと夜着の袖から何か云うのよ。 本当にあきれ返ってしまうの。 なぜそんなに眠いんでしょう。 きっと神経衰弱なんでしょう。 何ですか。 本当にむやみに怒る方ね。 あれでよく学校が勤まるのね。 なに学校じゃおとなしいんですって。 じゃなお悪るいわ。 まるで蒟蒻閻魔ね。 なぜ。 なぜでも蒟蒻閻魔なの。 だって蒟蒻閻魔のようじゃありませんか。 ただ怒るばかりじゃないのよ。 人が右と云えば左左と云えば右で何でも人の言う通りにした事がない――そりゃ強情ですよ。 天探女でしょう。 叔父さんはあれが道楽なのよ。 だから何かさせようと思ったらうらを云うとこっちの思い通りになるのよ。 こないだ蝙蝠傘を買ってもらう時にもいらないいらないってわざと云ったらいらない事があるものかってすぐ買って下すったの。 ホホホホ旨いのね。 わたしもこれからそうしよう。 そうなさいよ。 それでなくっちゃ損だわ。 こないだ保険会社の人が来て是非|御這入んなさいって勧めているんでしょう――いろいろ訳を言ってこう云う利益があるのああ云う利益があるのって何でも一時間も話をしたんですがどうしても這入らないの。 うちだって貯蓄はなしこうして小供は三人もあるしせめて保険へでも這入ってくれるとよっぽど心丈夫なんですけれどもそんな事は少しも構わないんですもの。 そうねもしもの事があると不安心だわね。 その談判を蔭で聞いていると本当に面白いのよ。 なるほど保険の必要も認めないではない。 必要なものだから会社も存在しているのだろう。 しかし死なない以上は保険に這入る必要はないじゃないかって強情を張っているんです。 叔父さんが。 ええすると会社の男がそれは死ななければ無論保険会社はいりません。 しかし人間の命と云うものは丈夫なようで脆いもので知らないうちにいつ危険が逼っているか分りませんと云うとね叔父さんは大丈夫僕は死なない事に決心をしているってまあ無法な事を云うんですよ。 決心したって死ぬわねえ。 わたしなんか是非|及第するつもりだったけれどもとうとう落第してしまったわ。 保険社員もそう云うのよ。 寿命は自分の自由にはなりません。 決心で長が生きが出来るものなら誰も死ぬものはございませんって。 保険会社の方が至当ですわ。 至当でしょう。 それがわからないの。 いえ決して死なない。 誓って死なないって威張るの。 妙ね。 妙ですとも大妙ですわ。 保険の掛金を出すくらいなら銀行へ貯金する方が遥かにましだってすまし切っているんですよ。 貯金があるの。 あるもんですか。 自分が死んだあとなんかちっとも構う考なんかないんですよ。 本当に心配ね。 なぜあんななんでしょうここへいらっしゃる方だって叔父さんのようなのは一人もいないわね。 いるものですか。 無類ですよ。 ちっと鈴木さんにでも頼んで意見でもして貰うといいんですよ。 ああ云う穏やかな人だとよっぽど楽ですがねえ。 ところが鈴木さんはうちじゃ評判がわるいのよ。 みんな逆なのね。 それじゃあの方がいいでしょう――ほらあの落ちついてる――。 八木さん。 ええ。 八木さんには大分閉口しているんですがね。 昨日迷亭さんが来て悪口をいったものだから思ったほど利かないかも知れない。 だっていいじゃありませんか。 あんな風に鷹揚に落ちついていれば――こないだ学校で演説をなすったわ。 八木さんが。 ええ。 八木さんは雪江さんの学校の先生なの。 いいえ先生じゃないけども淑徳婦人会のときに招待して演説をして頂いたの。 面白かって。 そうねそんなに面白くもなかったわ。 だけどもあの先生があんな長い顔なんでしょう。 そうして天神様のような髯を生やしているもんだからみんな感心して聞いていてよ。 御話しってどんな御話なの。 あら雪江さんが来た。 そんなに騒がないでみんな静かにして御坐わりなさい。 雪江さんが今面白い話をなさるところだから。 雪江さん何の御話しわたし御話しが大好き。 やっぱりかちかち山の御話し。 坊ばも御はなち。 あらまた坊ばちゃんの話だ。 坊ばはあとでなさい。 雪江さんの御話がすんでから。 いやーよばぶ。 おおよしよし坊ばちゃんからなさい。 何と云うの。 あのね。 坊たん坊たんどこ行くのって。 面白いのね。 それから。 わたちは田圃へ稲刈いに。 そうよく知ってる事。 御前がくうと邪魔になる。 あらくうとじゃないわくるとだわね。 ばぶ。 坊ばちゃんそれぎりなの。 あのね。 あとでおならは御免だよ。 ぷうぷうぷうって。 ホホホホいやだ事誰にそんな事を教わったの。 御三に。 わるい御三ねそんな事を教えて。 さあ今度は雪江さんの番だ。 坊やはおとなしく聞いているのですよ。 八木先生の演説はこんなのよ。 昔ある辻の真中に大きな石地蔵があったんですってね。 ところがそこがあいにく馬や車が通る大変|賑やかな場所だもんだから邪魔になって仕様がないんでね町内のものが大勢寄って相談をしてどうしてこの石地蔵を隅の方へ片づけたらよかろうって考えたんですって。 そりゃ本当にあった話なの。 どうですかそんな事は何ともおっしゃらなくってよ。 ――でみんながいろいろ相談をしたらその町内で一番強い男がそりゃ訳はありませんわたしがきっと片づけて見せますって一人でその辻へ行って両肌を抜いで汗を流して引っ張ったけれどもどうしても動かないんですって。 よっぽど重い石地蔵なのね。 ええそれでその男が疲れてしまってうちへ帰って寝てしまったから町内のものはまた相談をしたんですね。 すると今度は町内で一番利口な男が私に任せて御覧なさい一番やって見ますからって重箱のなかへ牡丹餅を一杯入れて地蔵の前へ来て『ここまでおいで』と云いながら牡丹餅を見せびらかしたんだって地蔵だって食意地が張ってるから牡丹餅で釣れるだろうと思ったら少しも動かないんだって。 利口な男はこれではいけないと思ってね。 今度は瓢箪へお酒を入れてその瓢箪を片手へぶら下げて片手へ猪口を持ってまた地蔵さんの前へ来てさあ飲みたくはないかね飲みたければここまでおいでと三時間ばかりからかって見たがやはり動かないんですって。 雪江さん地蔵様は御腹が減らないの。 牡丹餅が食べたいな。 利口な人は二度共しくじったからその次には贋札を沢山こしらえてさあ欲しいだろう欲しければ取りにおいでと札を出したり引っ込ましたりしたがこれもまるで益に立たないんですって。 よっぽど頑固な地蔵様なのよ。 そうね。 すこし叔父さんに似ているわ。 ええまるで叔父さんよしまいに利口な人も愛想をつかしてやめてしまったんですとさ。 それでそのあとからね大きな法螺を吹く人が出て私ならきっと片づけて見せますからご安心なさいとさも容易い事のように受合ったそうです。 その法螺を吹く人は何をしたんです。 それが面白いのよ。 最初にはね巡査の服をきて付け髯をして地蔵様の前へきてこらこら動かんとその方のためにならんぞ警察で棄てておかんぞと威張って見せたんですとさ。 今の世に警察の仮声なんか使ったって誰も聞きゃしないわね。 本当ねそれで地蔵様は動いたの。 動くもんですか叔父さんですもの。 でも叔父さんは警察には大変恐れ入っているのよ。 あらそうあんな顔をして。 それじゃそんなに怖い事はないわね。 けれども地蔵様は動かないんですって平気でいるんですとさ。 それで法螺吹は大変|怒って巡査の服を脱いで付け髯を紙屑籠へ抛り込んで今度は大金持ちの服装をして出て来たそうです。 今の世で云うと岩崎男爵のような顔をするんですとさ。 おかしいわね。 岩崎のような顔ってどんな顔なの。 ただ大きな顔をするんでしょう。 そうして何もしないでまた何も云わないで地蔵の周りを大きな巻煙草をふかしながら歩行いているんですとさ。 それが何になるの。 地蔵様を煙に捲くんです。 まるで噺し家の洒落のようね。 首尾よく煙に捲いたの。 駄目ですわ相手が石ですもの。 ごまかしもたいていにすればいいのに今度は殿下さまに化けて来たんだって。 馬鹿ね。 へえその時分にも殿下さまがあるの。 有るんでしょう。 八木先生はそうおっしゃってよ。 たしかに殿下様に化けたんだって恐れ多い事だが化けて来たって――第一不敬じゃありませんか法螺吹きの分際で。 殿下ってどの殿下さまなの。 どの殿下さまですかどの殿下さまだって不敬ですわ。 そうね。 殿下さまでも利かないでしょう。 法螺吹きもしようがないからとても私の手際ではあの地蔵はどうする事も出来ませんと降参をしたそうです。 いい気味ね。 ええついでに懲役にやればいいのに。 ――でも町内のものは大層気を揉んでまた相談を開いたんですがもう誰も引き受けるものがないんで弱ったそうです。 それでおしまい。 まだあるのよ。 一番しまいに車屋とゴロツキを大勢雇って地蔵様の周りをわいわい騒いであるいたんです。 ただ地蔵様をいじめていたたまれないようにすればいいと云って夜昼|交替で騒ぐんだって。 御苦労様ですこと。 それでも取り合わないんですとさ。 地蔵様の方も随分強情ね。 それからどうして。 それからねいくら毎日毎日騒いでも験が見えないので大分みんなが厭になって来たんですが車夫やゴロツキは幾日でも日当になる事だから喜んで騒いでいましたとさ。 雪江さん日当ってなに。 日当と云うのはね御金の事なの。 御金をもらって何にするの。 御金を貰ってね。 ホホホホいやなすん子さんだ。 ――それで叔母さん毎日毎晩から騒ぎをしていますとね。 その時町内に馬鹿竹と云って何も知らない誰も相手にしない馬鹿がいたんですってね。 その馬鹿がこの騒ぎを見て御前方は何でそんなに騒ぐんだ何年かかっても地蔵一つ動かす事が出来ないのか可哀想なものだと云ったそうですって――。 馬鹿の癖にえらいのね。 なかなかえらい馬鹿なのよ。 みんなが馬鹿竹の云う事を聞いて物はためしだどうせ駄目だろうがまあ竹にやらして見ようじゃないかとそれから竹に頼むと竹は一も二もなく引き受けたがそんな邪魔な騒ぎをしないでまあ静かにしろと車引やゴロツキを引き込まして飄然と地蔵様の前へ出て来ました。 雪江さん飄然て馬鹿竹のお友達。 いいえお友達じゃないのよ。 じゃなに。 飄然と云うのはね。 ――云いようがないわ。 飄然て云いようがないの。 そうじゃないのよ飄然と云うのはね――。 ええ。 そら多々良三平さんを知ってるでしょう。 ええ山の芋をくれてよ。 あの多々良さん見たようなを云うのよ。 多々良さんは飄然なの。 ええまあそうよ。 ――それで馬鹿竹が地蔵様の前へ来て懐手をして地蔵様町内のものがあなたに動いてくれと云うから動いてやんなさいと云ったら地蔵様はたちまちそうかそんなら早くそう云えばいいのにとのこのこ動き出したそうです。 妙な地蔵様ね。 それからが演説よ。 まだあるの。 ええそれから八木先生がね今日は御婦人の会でありますが私がかような御話をわざわざ致したのは少々考があるのでこう申すと失礼かも知れませんが婦人というものはとかく物をするのに正面から近道を通って行かないでかえって遠方から廻りくどい手段をとる弊がある。 もっともこれは御婦人に限った事でない。 明治の代は男子といえども文明の弊を受けて多少女性的になっているからよくいらざる手数と労力を費やしてこれが本筋である紳士のやるべき方針であると誤解しているものが多いようだがこれ等は開化の業に束縛された畸形児である。 別に論ずるに及ばん。 ただ御婦人に在ってはなるべくただいま申した昔話を御記憶になっていざと云う場合にはどうか馬鹿竹のような正直な了見で物事を処理していただきたい。 あなた方が馬鹿竹になれば夫婦の間嫁姑の間に起る忌わしき葛藤の三分一はたしかに減ぜられるに相違ない。 人間は魂胆があればあるほどその魂胆が祟って不幸の源をなすので多くの婦人が平均男子より不幸なのは全くこの魂胆があり過ぎるからである。 どうか馬鹿竹になって下さいと云う演説なの。 へえそれで雪江さんは馬鹿竹になる気なの。 やだわ馬鹿竹だなんて。 そんなものになりたくはないわ。 金田の富子さんなんぞは失敬だって大変|怒ってよ。 金田の富子さんてあの向横町の。 ええあのハイカラさんよ。 あの人も雪江さんの学校へ行くの。 いいえただ婦人会だから傍聴に来たの。 本当にハイカラね。 どうも驚ろいちまうわ。 でも大変いい器量だって云うじゃありませんか。 並ですわ。 御自慢ほどじゃありませんよ。 あんなに御化粧をすればたいていの人はよく見えるわ。 それじゃ雪江さんなんぞはそのかたのように御化粧をすれば金田さんの倍くらい美しくなるでしょう。 あらいやだ。 よくってよ。 知らないわ。 だけどあの方は全くつくり過ぎるのね。 なんぼ御金があったって――。 つくり過ぎても御金のある方がいいじゃありませんか。 それもそうだけれども――あの方こそ少し馬鹿竹になった方がいいでしょう。 無暗に威張るんですもの。 この間もなんとか云う詩人が新体詩集を捧げたってみんなに吹聴しているんですもの。 東風さんでしょう。 あらあの方が捧げたのよっぽど物数奇ね。 でも東風さんは大変真面目なんですよ。 自分じゃあんな事をするのが当前だとまで思ってるんですもの。 そんな人があるからいけないんですよ。 ――それからまだ面白い事があるの。 此間だれかあの方の所へ艶書を送ったものがあるんだって。 おやいやらしい。 誰なのそんな事をしたのは。 誰だかわからないんだって。 名前はないの。 名前はちゃんと書いてあるんだけれども聞いた事もない人だってそうしてそれが長い長い一間ばかりもある手紙でね。 いろいろな妙な事がかいてあるんですとさ。 私があなたを恋っているのはちょうど宗教家が神にあこがれているようなものだのあなたのためならば祭壇に供える小羊となって屠られるのが無上の名誉であるの心臓の形ちが三角で三角の中心にキューピッドの矢が立って吹き矢なら大当りであるの。 そりゃ真面目なの。 真面目なんですとさ。 現にわたしの御友達のうちでその手紙を見たものが三人あるんですもの。 いやな人ねそんなものを見せびらかして。 あの方は寒月さんのとこへ御嫁に行くつもりなんだからそんな事が世間へ知れちゃ困るでしょうにね。 困るどころですか大得意よ。 こんだ寒月さんが来たら知らして上げたらいいでしょう。 寒月さんはまるで御存じないんでしょう。 どうですかあの方は学校へ行って球ばかり磨いていらっしゃるから大方知らないでしょう。 寒月さんは本当にあの方を御貰になる気なんでしょうかね。 御気の毒だわね。 なぜ。 御金があっていざって時に力になっていいじゃありませんか。 叔母さんはじきに金金って品がわるいのね。 金より愛の方が大事じゃありませんか。 愛がなければ夫婦の関係は成立しやしないわ。 そうそれじゃ雪江さんはどんなところへ御嫁に行くの。 そんな事知るもんですか別に何もないんですもの。 わたしも御嫁に行きたいな。 どこへ行きたいの。 わたしねえ本当はね招魂社へ御嫁に行きたいんだけれども水道橋を渡るのがいやだからどうしようかと思ってるの。 御ねえ様も招魂社がすき。 わたしも大すき。 いっしょに招魂社へ御嫁に行きましょう。 ね。 いや。 いやなら好いわ。 わたし一人で車へ乗ってさっさと行っちまうわ。 坊ばも行くの。 やあ来たね。 妙な徳利ねそんなものを警察から貰っていらしったの。 どうだいい恰好だろう。 いい恰好なの。 それが。 あんまりよかあないわ。 油壺なんか何で持っていらっしったの。 油壺なものか。 そんな趣味のない事を云うから困る。 じゃなあに。 花活さ。 花活にしちゃ口が小いさ過ぎていやに胴が張ってるわ。 そこが面白いんだ。 御前も無風流だな。 まるで叔母さんと択ぶところなしだ。 困ったものだな。 どうせ無風流ですわ。 油壺を警察から貰ってくるような真似は出来ないわ。 ねえ叔母さん。 おや驚ろいた。 泥棒も進歩したのね。 みんな解いて洗い張をしてあるわ。 ねえちょいとあなた。 誰が警察から油壺を貰ってくるものか。 待ってるのが退屈だからあすこいらを散歩しているうちに堀り出して来たんだ。 御前なんぞには分るまいがそれでも珍品だよ。 珍品過ぎるわ。 一体叔父さんはどこを散歩したの。 どこって日本堤界隈さ。 吉原へも這入って見た。 なかなか盛な所だ。 あの鉄の門を観た事があるかい。 ないだろう。 だれが見るもんですか。 吉原なんて賤業婦のいる所へ行く因縁がありませんわ。 叔父さんは教師の身でよくまああんな所へ行かれたものねえ。 本当に驚ろいてしまうわ。 ねえ叔母さん叔母さん。 ええそうね。 どうも品数が足りないようだ事。 これでみんな戻ったんでしょうか。 戻らんのは山の芋ばかりさ。 元来九時に出頭しろと云いながら十一時まで待たせる法があるものかこれだから日本の警察はいかん。 日本の警察がいけないって吉原を散歩しちゃなおいけないわ。 そんな事が知れると免職になってよ。 ねえ叔母さん。 ええなるでしょう。 あなた私の帯の片側がないんです。 何だか足りないと思ったら。 帯の片側くらいあきらめるさ。 こっちは三時間も待たされて大切の時間を半日|潰してしまった。 叔母さんこの油壺が珍品ですとさ。 きたないじゃありませんか。 それを吉原で買っていらしったの。 まあ。 何がまあだ。 分りもしない癖に。 それでもそんな壺なら吉原へ行かなくってもどこにだってあるじゃありませんか。 ところがないんだよ。 滅多に有る品ではないんだよ。 叔父さんは随分|石地蔵ね。 また小供の癖に生意気を云う。 どうもこの頃の女学生は口が悪るくっていかん。 ちと女大学でも読むがいい。 叔父さんは保険が嫌でしょう。 女学生と保険とどっちが嫌なの。 保険は嫌ではない。 あれは必要なものだ。 未来の考のあるものは誰でも這入る。 女学生は無用の長物だ。 無用の長物でもいい事よ。 保険へ這入ってもいない癖に。 来月から這入るつもりだ。 きっと。 きっとだとも。 およしなさいよ保険なんか。 それよりかその懸金で何か買った方がいいわ。 ねえ叔母さん。 お前などは百も二百も生きる気だからそんな呑気な事を云うのだがもう少し理性が発達して見ろ保険の必要を感ずるに至るのは当前だ。 ぜひ来月から這入るんだ。 そうそれじゃ仕方がない。 だけどこないだのように蝙蝠傘を買って下さる御金があるなら保険に這入る方がましかも知れないわ。 ひとがいりませんいりませんと云うのを無理に買って下さるんですもの。 そんなにいらなかったのか。 ええ蝙蝠傘なんか欲しかないわ。 そんなら還すがいい。 ちょうどとん子が欲しがってるからあれをこっちへ廻してやろう。 今日持って来たか。 あらそりゃあんまりだわ。 だって苛いじゃありませんかせっかく買って下すっておきながら還せなんて。 いらないと云うから還せと云うのさ。 ちっとも苛くはない。 いらない事はいらないんですけれども苛いわ。 分らん事を言う奴だな。 いらないと云うから還せと云うのに苛い事があるものか。 だって。 だってどうしたんだ。 だって苛いわ。 愚だな同じ事ばかり繰り返している。 叔父さんだって同じ事ばかり繰り返しているじゃありませんか。 御前が繰り返すから仕方がないさ。 現にいらないと云ったじゃないか。 そりゃ云いましたわ。 いらない事はいらないんですけれども還すのは厭ですもの。 驚ろいたな。 没分暁で強情なんだから仕方がない。 御前の学校じゃ論理学を教えないのか。 よくってよどうせ無教育なんですから何とでもおっしゃい。 人のものを還せだなんて他人だってそんな不人情な事は云やしない。 ちっと馬鹿竹の真似でもなさい。 何の真似をしろ。 ちと正直に淡泊になさいと云うんです。 お前は愚物の癖にやに強情だよ。 それだから落第するんだ。 落第したって叔父さんに学資は出して貰やしないわ。 お客さまがいらっしゃいました。 誰が来たんだ。 学校の生徒さんでございます。 さあお敷き。 へえ。 御乗んなさい。 君は何とか云ったけな。 古井。 古井。 古井何とかだね。 名は。 古井|武右衛門。 古井武右衛門――なるほどだいぶ長い名だな。 今の名じゃない昔の名だ。 四年生だったね。 いいえ。 三年生か。 いいえ二年生です。 甲の組かね。 乙です。 乙ならわたしの監督だね。 そうか。 君遊びに来たのか。 そうじゃないんです。 それじゃ用事かね。 ええ。 学校の事かい。 ええ少し御話ししようと思って。 うむ。 どんな事かね。 さあ話したまえ。 話す事があるなら早く話したらいいじゃないか。 少し話しにくい事で。 話しにくい。 いいさ。 何でも話すがいい。 ほかに誰も聞いていやしない。 わたしも他言はしないから。 話してもいいでしょうか。 いいだろう。 では話しますが。 実はその困った事になっちまって。 何が。 何がってはなはだ困るもんですから来たんです。 だからさ何が困るんだよ。 そんな事をする考はなかったんですけれども浜田が借せ借せと云うもんですから。 浜田と云うのは浜田|平助かい。 ええ。 浜田に下宿料でも借したのかい。 何そんなものを借したんじゃありません。 じゃ何を借したんだい。 名前を借したんです。 浜田が君の名前を借りて何をしたんだい。 艶書を送ったんです。 何を送った。 だから名前は廃して投函役になると云ったんです。 何だか要領を得んじゃないか。 一体誰が何をしたんだい。 艶書を送ったんです。 艶書を送った。 誰に。 だから話しにくいと云うんです。 じゃ君がどこかの女に艶書を送ったのか。 いいえ僕じゃないんです。 浜田が送ったのかい。 浜田でもないんです。 じゃ誰が送ったんだい。 誰だか分らないんです。 ちっとも要領を得ないな。 では誰も送らんのかい。 名前だけは僕の名なんです。 名前だけは君の名だって何の事だかちっとも分らんじゃないか。 もっと条理を立てて話すがいい。 元来その艶書を受けた当人はだれか。 金田って向横丁にいる女です。 あの金田という実業家か。 ええ。 で名前だけ借したとは何の事だい。 あすこの娘がハイカラで生意気だから艶書を送ったんです。 ――浜田が名前がなくちゃいけないって云いますから君の名前をかけって云ったら僕のじゃつまらない。 古井武右衛門の方がいいって――それでとうとう僕の名を借してしまったんです。 で君はあすこの娘を知ってるのか。 交際でもあるのか。 交際も何もありゃしません。 顔なんか見た事もありません。 乱暴だな。 顔も知らない人に艶書をやるなんてまあどう云う了見でそんな事をしたんだい。 ただみんながあいつは生意気で威張ってるて云うからからかってやったんです。 ますます乱暴だな。 じゃ君の名を公然とかいて送ったんだな。 ええ文章は浜田が書いたんです。 僕が名前を借して遠藤が夜あすこのうちまで行って投函して来たんです。 じゃ三人で共同してやったんだね。 ええですけれどもあとから考えるともしあらわれて退学にでもなると大変だと思って非常に心配して二三日は寝られないんで何だか茫やりしてしまいました。 そりゃまた飛んでもない馬鹿をしたもんだ。 それで文明中学二年生古井武右衛門とでもかいたのかい。 いいえ学校の名なんか書きゃしません。 学校の名を書かないだけまあよかった。 これで学校の名が出て見るがいい。 それこそ文明中学の名誉に関する。 どうでしょう退校になるでしょうか。 そうさな。 先生僕のおやじさんは大変やかましい人でそれにお母さんが継母ですからもし退校にでもなろうもんなら僕あ困っちまうです。 本当に退校になるでしょうか。 だから滅多な真似をしないがいい。 する気でもなかったんですがついやってしまったんです。 退校にならないように出来ないでしょうか。 そうさな。 そうさな。 あなたは人が困るのを面白がって笑いますか。 先生。 そうさな。 おい御這入り。 御客ですか。 なに構わんまあ御上がり。 実はちょっと先生を誘いに来たんですがね。 どこへ行くんだい。 また赤坂かい。 あの方面はもう御免だ。 せんだっては無闇にあるかせられて足が棒のようになった。 今日は大丈夫です。 久し振りに出ませんか。 どこへ出るんだい。 まあ御上がり。 上野へ行って虎の鳴き声を聞こうと思うんです。 つまらんじゃないかそれよりちょっと御上り。 やあ。 虎の鳴き声を聞いたって詰らないじゃないか。 ええ今じゃいけませんこれから方々散歩して夜十一時頃になって上野へ行くんです。 へえ。 すると公園内の老木は森々として物凄いでしょう。 そうさな昼間より少しは淋しいだろう。 それで何でもなるべく樹の茂った昼でも人の通らない所を択ってあるいているといつの間にか紅塵万丈の都会に住んでる気はなくなって山の中へ迷い込んだような心持ちになるに相違ないです。 そんな心持ちになってどうするんだい。 そんな心持ちになってしばらく佇んでいるとたちまち動物園のうちで虎が鳴くんです。 そう旨く鳴くかい。 大丈夫鳴きます。 あの鳴き声は昼でも理科大学へ聞えるくらいなんですから深夜|闃寂として四望人なく鬼気|肌に逼って魑魅鼻を衝く際に。 魑魅鼻を衝くとは何の事だい。 そんな事を云うじゃありませんか怖い時に。 そうかな。 あんまり聞かないようだが。 それで。 それで虎が上野の老杉の葉をことごとく振い落すような勢で鳴くでしょう。 物凄いでさあ。 そりゃ物凄いだろう。 どうです冒険に出掛けませんか。 きっと愉快だろうと思うんです。 どうしても虎の鳴き声は夜なかに聞かなくっちゃ聞いたとはいわれないだろうと思うんです。 そうさな。 そうさな。 先生僕は心配なんですがどうしたらいいでしょう。 雪江さん憚りさまこれを出して来て下さい。 わたしいやよ。 どうして。 どうしてでも。 あら妙な人ね。 寒月さんですよ。 構やしないわ。 でもわたしいやなんですもの。 ちっとも恥かしい事はないじゃありませんか。 あら人の悪るい。 それ御覧なさい。 あら大変だ。 先生|障子を張り易えましたね。 誰が張ったんです。 女が張ったんだ。 よく張れているだろう。 ええなかなかうまい。 あの時々おいでになる御嬢さんが御張りになったんですか。 うんあれも手伝ったのさ。 このくらい障子が張れれば嫁に行く資格はあると云って威張ってるぜ。 へえなるほど。 こっちの方は平ですが右の端は紙が余って波が出来ていますね。 あすこが張りたてのところでもっとも経験の乏しい時に出来上ったところさ。 なるほど少し御手際が落ちますね。 あの表面は超絶的曲線でとうてい普通のファンクションではあらわせないです。 そうさね。 帰るかい。 先生ありゃ生徒ですか。 うん。 大変大きな頭ですね。 学問は出来ますか。 頭の割には出来ないがね時々妙な質問をするよ。 こないだコロンバスを訳して下さいって大に弱った。 全く頭が大き過ぎますからそんな余計な質問をするんでしょう。 先生何とおっしゃいました。 ええ。 なあに好い加減な事を云って訳してやった。 それでも訳す事は訳したんですかこりゃえらい。 小供は何でも訳してやらないと信用せんからね。 先生もなかなか政治家になりましたね。 しかし今の様子では何だか非常に元気がなくって先生を困らせるようには見えないじゃありませんか。 今日は少し弱ってるんだよ。 馬鹿な奴だよ。 どうしたんです。 何だかちょっと見たばかりで非常に可哀想になりました。 全体どうしたんです。 なに愚な事さ。 金田の娘に艶書を送ったんだ。 え。 あの大頭がですか。 近頃の書生はなかなかえらいもんですね。 どうも驚ろいた。 君も心配だろうが。 何ちっとも心配じゃありません。 かえって面白いです。 いくら艶書が降り込んだって大丈夫です。 そう君が安心していれば構わないが。 構わんですとも私はいっこう構いません。 しかしあの大頭が艶書をかいたと云うには少し驚ろきますね。 それがさ。 冗談にしたんだよ。 あの娘がハイカラで生意気だからからかってやろうって三人が共同して。 三人が一本の手紙を金田の令嬢にやったんですか。 ますます奇談ですね。 一人前の西洋料理を三人で食うようなものじゃありませんか。 ところが手分けがあるんだ。 一人が文章をかく一人が投函する一人が名前を借す。 で今来たのが名前を借した奴なんだがね。 これが一番|愚だね。 しかも金田の娘の顔も見た事がないって云うんだぜ。 どうしてそんな無茶な事が出来たものだろう。 そりゃ近来の大出来ですよ。 傑作ですね。 どうもあの大頭が女に文をやるなんて面白いじゃありませんか。 飛んだ間違にならあね。 なになったって構やしません相手が金田ですもの。 だって君が貰うかも知れない人だぜ。 貰うかも知れないから構わないんです。 なあに金田なんか構やしません。 君は構わなくっても。 なに金田だって構やしません大丈夫です。 それならそれでいいとして当人があとになって急に良心に責められて恐ろしくなったものだから大に恐縮して僕のうちへ相談に来たんだ。 へえそれであんなに悄々としているんですか気の小さい子と見えますね。 先生何とか云っておやんなすったんでしょう。 本人は退校になるでしょうかってそれを一番心配しているのさ。 何で退校になるんです。 そんな悪るい不道徳な事をしたから。 何不道徳と云うほどでもありませんやね。 構やしません。 金田じゃ名誉に思ってきっと吹聴していますよ。 まさか。 とにかく可愛想ですよ。 そんな事をするのがわるいとしてもあんなに心配させちゃ若い男を一人殺してしまいますよ。 ありゃ頭は大きいが人相はそんなにわるくありません。 鼻なんかぴくぴくさせて可愛いです。 君も大分迷亭見たように呑気な事を云うね。 何これが時代思潮です先生はあまり昔し風だから何でもむずかしく解釈なさるんです。 しかし愚じゃないか知りもしないところへいたずらに艶書を送るなんてまるで常識をかいてるじゃないか。 いたずらはたいがい常識をかいていまさあ。 救っておやんなさい。 功徳になりますよ。 あの容子じゃ華厳の滝へ出掛けますよ。 そうだな。 そうなさい。 もっと大きなもっと分別のある大僧共がそれどころじゃないわるいいたずらをして知らん面をしていますよ。 あんな子を退校させるくらいならそんな奴らを片っ端から放逐でもしなくっちゃ不公平でさあ。 それもそうだね。 それでどうです上野へ虎の鳴き声をききに行くのは。 虎かい。 ええ聞きに行きましょう。 実は二三日中にちょっと帰国しなければならない事が出来ましたから当分どこへも御伴は出来ませんから今日は是非いっしょに散歩をしようと思って来たんです。 そうか帰るのかい用事でもあるのかい。 ええちょっと用事が出来たんです。 ――ともかくも出ようじゃありませんか。 そう。 それじゃ出ようか。 さあ行きましょう。 今日は私が晩餐を奢りますから――それから運動をして上野へ行くとちょうど好い刻限です。 ただはやらない。 負けた方が何か奢るんだぜ。 いいかい。 そんな事をするとせっかくの清戯を俗了してしまう。 かけなどで勝負に心を奪われては面白くない。 成敗を度外において白雲の自然に岫を出でて冉々たるごとき心持ちで一局を了してこそ個中の味はわかるものだよ。 また来たね。 そんな仙骨を相手にしちゃ少々骨が折れ過ぎる。 宛然たる列仙伝中の人物だね。 無絃の素琴を弾じさ。 無線の電信をかけかね。 とにかくやろう。 君が白を持つのかい。 どっちでも構わない。 さすがに仙人だけあって鷹揚だ。 君が白なら自然の順序として僕は黒だね。 さあ来たまえ。 どこからでも来たまえ。 黒から打つのが法則だよ。 なるほど。 しからば謙遜して定石にここいらから行こう。 定石にそんなのはないよ。 なくっても構わない。 新奇発明の定石だ。 迷亭君君の碁は乱暴だよ。 そんな所へ這入ってくる法はない。 禅坊主の碁にはこんな法はないかも知れないが本因坊の流儀じゃあるんだから仕方がないさ。 しかし死ぬばかりだぜ。 臣死をだも辞せずいわんや※肩をやと一つこう行くかな。 そうおいでになったとよろしい。 薫風|南より来って殿閣|微涼を生ず。 こうついでおけば大丈夫なものだ。 おやついだのはさすがにえらい。 まさかつぐ気遣はなかろうと思った。 ついでくりゃるな八幡鐘をとこうやったらどうするかね。 どうするもこうするもないさ。 一剣天に倚って寒し――ええ面倒だ。 思い切って切ってしまえ。 やや大変大変。 そこを切られちゃ死んでしまう。 おい冗談じゃない。 ちょっと待った。 それだからさっきから云わん事じゃない。 こうなってるところへは這入れるものじゃないんだ。 這入って失敬|仕り候。 ちょっとこの白をとってくれたまえ。 それも待つのかい。 ついでにその隣りのも引き揚げて見てくれたまえ。 ずうずうしいぜおい。 Doyouseetheboyか。 ――なに君と僕の間柄じゃないか。 そんな水臭い事を言わずに引き揚げてくれたまえな。 死ぬか生きるかと云う場合だ。 しばらくしばらくって花道から馳け出してくるところだよ。 そんな事は僕は知らんよ。 知らなくってもいいからちょっとどけたまえ。 君さっきから六|返待ったをしたじゃないか。 記憶のいい男だな。 向後は旧に倍し待ったを仕り候。 だからちょっとどけたまえと云うのだあね。 君もよッぽど強情だね。 座禅なんかしたらもう少し捌けそうなものだ。 しかしこの石でも殺さなければ僕の方は少し負けになりそうだから。 君は最初から負けても構わない流じゃないか。 僕は負けても構わないが君には勝たしたくない。 飛んだ悟道だ。 相変らず春風影裏に電光をきってるね。 春風影裏じゃない電光影裏だよ。 君のは逆だ。 ハハハハもうたいてい逆かになっていい時分だと思ったらやはりたしかなところがあるね。 それじゃ仕方がないあきらめるかな。 生死事大無常迅速あきらめるさ。 アーメン。 実は四日ばかり前に国から帰って来たのですがいろいろ用事があって方々|馳けあるいていたものですからつい上がられなかったのです。 そう急いでくるには及ばないさ。 急いで来んでもいいのですけれどもこのおみやげを早く献上しないと心配ですから。 鰹節じゃないか。 ええ国の名産です。 名産だって東京にもそんなのは有りそうだぜ。 かいだって鰹節の善悪はわかりませんよ。 少し大きいのが名産たる所以かね。 まあ食べて御覧なさい。 食べる事はどうせ食べるがこいつは何だか先が欠けてるじゃないか。 それだから早く持って来ないと心配だと云うのです。 なぜ。 なぜってそりゃ鼠が食ったのです。 そいつは危険だ。 滅多に食うとペストになるぜ。 なに大丈夫そのくらいかじったって害はありません。 全体どこで噛ったんだい。 船の中でです。 船の中。 どうして。 入れる所がなかったからヴァイオリンといっしょに袋のなかへ入れて船へ乗ったらその晩にやられました。 鰹節だけならいいのですけれども大切なヴァイオリンの胴を鰹節と間違えてやはり少々|噛りました。 そそっかしい鼠だね。 船の中に住んでるとそう見境がなくなるものかな。 なに鼠だからどこに住んでてもそそっかしいのでしょう。 だから下宿へ持って来てもまたやられそうでね。 剣呑だから夜るは寝床の中へ入れて寝ました。 少しきたないようだぜ。 だから食べる時にはちょっとお洗いなさい。 ちょっとくらいじゃ奇麗にゃなりそうもない。 それじゃ灰汁でもつけてごしごし磨いたらいいでしょう。 ヴァイオリンも抱いて寝たのかい。 ヴァイオリンは大き過ぎるから抱いて寝る訳には行かないんですが。 なんだって。 ヴァイオリンを抱いて寝たって。 それは風流だ。 行く春や重たき琵琶のだき心と云う句もあるがそれは遠きその上の事だ。 明治の秀才はヴァイオリンを抱いて寝なくっちゃ古人を凌ぐ訳には行かないよ。 かい巻に長き夜守るやヴァイオリンはどうだい。 東風君新体詩でそんな事が云えるかい。 新体詩は俳句と違ってそう急には出来ません。 しかし出来た暁にはもう少し生霊の機微に触れた妙音が出ます。 そうかね生霊はおがらを焚いて迎え奉るものと思ってたがやっぱり新体詩の力でも御来臨になるかい。 そんな無駄口を叩くとまた負けるぜ。 勝ちたくても負けたくても相手が釜中の章魚同然手も足も出せないのだから僕も無聊でやむを得ずヴァイオリンの御仲間を仕るのさ。 今度は君の番だよ。 こっちで待ってるんだ。 え。 もう打ったのかい。 打ったともとうに打ったさ。 どこへ。 この白をはすに延ばした。 なあるほど。 この白をはすに延ばして負けにけりかそんならこっちはと――こっちは――こっちはこっちはとて暮れにけりとどうもいい手がないね。 君もう一返打たしてやるから勝手なところへ一目打ちたまえ。 そんな碁があるものか。 そんな碁があるものかなら打ちましょう。 ――それじゃこのかど地面へちょっと曲がって置くかな。 ――寒月君君のヴァイオリンはあんまり安いから鼠が馬鹿にして噛るんだよもう少しいいのを奮発して買うさ僕が以太利亜から三百年前の古物を取り寄せてやろうか。 どうか願います。 ついでにお払いの方も願いたいもので。 そんな古いものが役に立つものか。 君は人間の古物とヴァイオリンの古物と同一視しているんだろう。 人間の古物でも金田某のごときものは今だに流行しているくらいだからヴァイオリンに至っては古いほどがいいのさ。 ――さあ独仙君どうか御早く願おう。 けいまさのせりふじゃないが秋の日は暮れやすいからね。 君のようなせわしない男と碁を打つのは苦痛だよ。 考える暇も何もありゃしない。 仕方がないからここへ一目入れて目にしておこう。 おやおやとうとう生かしてしまった。 惜しい事をしたね。 まさかそこへは打つまいと思っていささか駄弁を振って肝胆を砕いていたがやッぱり駄目か。 当り前さ。 君のは打つのじゃない。 ごまかすのだ。 それが本因坊流金田流当世紳士流さ。 ――おい苦沙弥先生さすがに独仙君は鎌倉へ行って万年漬を食っただけあって物に動じないね。 どうも敬々服々だ。 碁はまずいが度胸は据ってる。 だから君のような度胸のない男は少し真似をするがいい。 さあ君の番だ。 君はヴァイオリンをいつ頃から始めたのかい。 僕も少し習おうと思うのだがよっぽどむずかしいものだそうだね。 うむ一と通りなら誰にでも出来るさ。 同じ芸術だから詩歌の趣味のあるものはやはり音楽の方でも上達が早いだろうとひそかに恃むところがあるんだがどうだろう。 いいだろう。 君ならきっと上手になるよ。 君はいつ頃から始めたのかね。 高等学校時代さ。 ――先生|私しのヴァイオリンを習い出した顛末をお話しした事がありましたかね。 いいえまだ聞かない。 高等学校時代に先生でもあってやり出したのかい。 なあに先生も何もありゃしない。 独習さ。 全く天才だね。 独習なら天才と限った事もなかろう。 そりゃどうでもいいがどう云う風に独習したのかちょっと聞かしたまえ。 参考にしたいから。 話してもいい。 先生話しましょうかね。 ああ話したまえ。 今では若い人がヴァイオリンの箱をさげてよく往来などをあるいておりますがその時分は高等学校生で西洋の音楽などをやったものはほとんどなかったのです。 ことに私のおった学校は田舎の田舎で麻裏草履さえないと云うくらいな質朴な所でしたから学校の生徒でヴァイオリンなどを弾くものはもちろん一人もありません。 何だか面白い話が向うで始まったようだ。 独仙君いい加減に切り上げようじゃないか。 まだ片づかない所が二三箇所ある。 あってもいい。 大概な所なら君に進上する。 そう云ったって貰う訳にも行かない。 禅学者にも似合わん几帳面な男だ。 それじゃ一気呵成にやっちまおう。 ――寒月君何だかよっぽど面白そうだね。 ――あの高等学校だろう生徒が裸足で登校するのは。 そんな事はありません。 でも皆なはだしで兵式体操をして廻れ右をやるんで足の皮が大変厚くなってると云う話だぜ。 まさか。 だれがそんな事を云いました。 だれでもいいよ。 そうして弁当には偉大なる握り飯を一個夏蜜柑のように腰へぶら下げて来てそれを食うんだって云うじゃないか。 食うと云うよりむしろ食いつくんだね。 すると中心から梅干が一個出て来るそうだ。 この梅干が出るのを楽しみに塩気のない周囲を一心不乱に食い欠いて突進するんだと云うがなるほど元気|旺盛なものだね。 独仙君君の気に入りそうな話だぜ。 質朴剛健でたのもしい気風だ。 まだたのもしい事がある。 あすこには灰吹きがないそうだ。 僕の友人があすこへ奉職をしている頃|吐月峰の印のある灰吹きを買いに出たところが吐月峰どころか灰吹と名づくべきものが一個もない。 不思議に思って聞いて見たら灰吹きなどは裏の藪へ行って切って来れば誰にでも出来るから売る必要はないと澄まして答えたそうだ。 これも質朴剛健の気風をあらわす美譚だろうねえ独仙君。 うむそりゃそれでいいがここへ駄目を一つ入れなくちゃいけない。 よろしい。 駄目駄目駄目と。 それで片づいた。 ――僕はその話を聞いて実に驚いたね。 そんなところで君がヴァイオリンを独習したのは見上げたものだ。 ※独にして不羣なりと楚辞にあるが寒月君は全く明治の屈原だよ。 屈原はいやですよ。 それじゃ今世紀のウェルテルさ。 ――なに石を上げて勘定をしろ。 やに物堅い性質だね。 勘定しなくっても僕は負けてるからたしかだ。 しかし極りがつかないから。 それじゃ君やってくれたまえ。 僕は勘定所じゃない。 一代の才人ウェルテル君がヴァイオリンを習い出した逸話を聞かなくっちゃ先祖へ済まないから失敬する。 土地柄がすでに土地柄だのに私の国のものがまた非常に頑固なので少しでも柔弱なものがおっては他県の生徒に外聞がわるいと云ってむやみに制裁を厳重にしましたからずいぶん厄介でした。 君の国の書生と来たら本当に話せないね。 元来何だって紺の無地の袴なんぞ穿くんだい。 第一あれからして乙だね。 そうして塩風に吹かれつけているせいかどうも色が黒いね。 男だからあれで済むが女があれじゃさぞかし困るだろう。 女もあの通り黒いのです。 それでよく貰い手があるね。 だって一国中ことごとく黒いのだから仕方がありません。 因果だね。 ねえ苦沙弥君。 黒い方がいいだろう。 生じ白いと鏡を見るたんびに己惚が出ていけない。 女と云うものは始末におえない物件だからなあ。 だって一国中ことごとく黒ければ黒い方で己惚れはしませんか。 ともかくも女は全然不必要な者だ。 そんな事を云うと妻君が後でご機嫌がわるいぜ。 なに大丈夫だ。 いないのかい。 小供を連れてさっき出掛けた。 どうれで静かだと思った。 どこへ行ったのだい。 どこだか分らない。 勝手に出てあるくのだ。 そうして勝手に帰ってくるのかい。 まあそうだ。 君は独身でいいなあ。 妻を持つとみんなそう云う気になるのさ。 ねえ独仙君君なども妻君難の方だろう。 ええ。 ちょっと待った。 四六二十四二十五二十六二十七と。 狭いと思ったら四十六|目あるか。 もう少し勝ったつもりだったがこしらえて見るとたった十八目の差か。 ――何だって。 君も妻君難だろうと云うのさ。 アハハハハ別段難でもないさ。 僕の妻は元来僕を愛しているのだから。 そいつは少々失敬した。 それでこそ独仙君だ。 独仙君ばかりじゃありません。 そんな例はいくらでもありますよ。 僕も寒月君に賛成する。 僕の考では人間が絶対の域に入るにはただ二つの道があるばかりでその二つの道とは芸術と恋だ。 夫婦の愛はその一つを代表するものだから人間は是非結婚をしてこの幸福を完うしなければ天意に背く訳だと思うんだ。 ――がどうでしょう先生。 御名論だ。 僕などはとうてい絶対の境に這入れそうもない。 妻を貰えばなお這入れやしない。 ともかくも我々未婚の青年は芸術の霊気にふれて向上の一路を開拓しなければ人生の意義が分からないですからまず手始めにヴァイオリンでも習おうと思って寒月君にさっきから経験譚をきいているのです。 そうそうウェルテル君のヴァイオリン物語を拝聴するはずだったね。 さあ話し給え。 もう邪魔はしないから。 向上の一路はヴァイオリンなどで開ける者ではない。 そんな遊戯三昧で宇宙の真理が知れては大変だ。 這裡の消息を知ろうと思えばやはり懸崖に手を撒して絶後に再び蘇える底の気魄がなければ駄目だ。 へえそうかも知れませんがやはり芸術は人間の渇仰の極致を表わしたものだと思いますからどうしてもこれを捨てる訳には参りません。 捨てる訳に行かなければお望み通り僕のヴァイオリン談をして聞かせる事にしようで今話す通りの次第だから僕もヴァイオリンの稽古をはじめるまでには大分苦心をしたよ。 第一買うのに困りましたよ先生。 そうだろう麻裏草履がない土地にヴァイオリンがあるはずがない。 いえある事はあるんです。 金も前から用意して溜めたから差支えないのですがどうも買えないのです。 なぜ。 狭い土地だから買っておればすぐ見つかります。 見つかればすぐ生意気だと云うので制裁を加えられます。 天才は昔から迫害を加えられるものだからね。 また天才かどうか天才呼ばわりだけは御免蒙りたいね。 それでね毎日散歩をしてヴァイオリンのある店先を通るたびにあれが買えたら好かろうあれを手に抱えた心持ちはどんなだろうああ欲しいああ欲しいと思わない日は一日もなかったのです。 もっともだ。 妙に凝ったものだね。 やはり君天才だよ。 そんな所にどうしてヴァイオリンがあるかが第一ご不審かも知れないですがこれは考えて見ると当り前の事です。 なぜと云うとこの地方でも女学校があって女学校の生徒は課業として毎日ヴァイオリンを稽古しなければならないのですからあるはずです。 無論いいのはありません。 ただヴァイオリンと云う名が辛うじてつくくらいのものであります。 だから店でもあまり重きをおいていないので二三梃いっしょに店頭へ吊るしておくのです。 それがね時々散歩をして前を通るときに風が吹きつけたり小僧の手が障ったりしてそら音を出す事があります。 その音を聞くと急に心臓が破裂しそうな心持でいても立ってもいられなくなるんです。 危険だね。 水癲癇人癲癇と癲癇にもいろいろ種類があるが君のはウェルテルだけあってヴァイオリン癲癇だ。 いやそのくらい感覚が鋭敏でなければ真の芸術家にはなれないですよ。 どうしても天才肌だ。 ええ実際|癲癇かも知れませんがしかしあの音色だけは奇体ですよ。 その後今日まで随分ひきましたがあのくらい美しい音が出た事がありません。 そうさ何と形容していいでしょう。 とうてい言いあらわせないです。 琳琅※鏘として鳴るじゃないか。 私が毎日毎日店頭を散歩しているうちにとうとうこの霊異な音を三度ききました。 三度目にどうあってもこれは買わなければならないと決心しました。 仮令国のものから譴責されても他県のものから軽蔑されても――よし鉄拳制裁のために絶息しても――まかり間違って退校の処分を受けても――こればかりは買わずにいられないと思いました。 それが天才だよ。 天才でなければそんなに思い込める訳のものじゃない。 羨しい。 僕もどうかしてそれほど猛烈な感じを起して見たいと年来心掛けているがどうもいけないね。 音楽会などへ行って出来るだけ熱心に聞いているがどうもそれほどに感興が乗らない。 乗らない方が仕合せだよ。 今でこそ平気で話すようなもののその時の苦しみはとうてい想像が出来るような種類のものではなかった。 ――それから先生とうとう奮発して買いました。 ふむどうして。 ちょうど十一月の天長節の前の晩でした。 国のものは揃って泊りがけに温泉に行きましたから一人もいません。 私は病気だと云ってその日は学校も休んで寝ていました。 今晩こそ一つ出て行って兼て望みのヴァイオリンを手に入れようと床の中でその事ばかり考えていました。 偽病をつかって学校まで休んだのかい。 全くそうです。 なるほど少し天才だねこりゃ。 夜具の中から首を出していると日暮れが待遠でたまりません。 仕方がないから頭からもぐり込んで眼を眠って待って見ましたがやはり駄目です。 首を出すと烈しい秋の日が六尺の障子へ一面にあたってかんかんするには癇癪が起りました。 上の方に細長い影がかたまって時々秋風にゆすれるのが眼につきます。 何だいその細長い影と云うのは。 渋柿の皮を剥いて軒へ吊るしておいたのです。 ふんそれから。 仕方がないから床を出て障子をあけて椽側へ出て渋柿の甘干しを一つ取って食いました。 うまかったかい。 うまいですよあの辺の柿は。 とうてい東京などじゃあの味はわかりませんね。 柿はいいがそれからどうしたい。 それからまたもぐって眼をふさいで早く日が暮れればいいがとひそかに神仏に念じて見た。 約三四時間も立ったと思う頃もうよかろうと首を出すとあにはからんや烈しい秋の日は依然として六尺の障子を照らしてかんかんする上の方に細長い影がかたまってふわふわする。 そりゃ聞いたよ。 何返もあるんだよ。 それから床を出て障子をあけて甘干しの柿を一つ食ってまた寝床へ這入って早く日が暮れればいいとひそかに神仏に祈念をこらした。 やっぱりもとのところじゃないか。 まあ先生そう焦かずに聞いて下さい。 それから約三四時間夜具の中で辛抱して今度こそもうよかろうとぬっと首を出して見ると烈しい秋の日は依然として六尺の障子へ一面にあたって上の方に細長い影がかたまってふわふわしている。 いつまで行っても同じ事じゃないか。 それから床を出て障子を開けて椽側へ出て甘干しの柿を一つ食って。 また柿を食ったのかい。 どうもいつまで行っても柿ばかり食ってて際限がないね。 私もじれったくてね。 君より聞いてる方がよっぽどじれったいぜ。 先生はどうも性急だから話がしにくくって困ります。 聞く方も少しは困るよ。 そう諸君が御困りとある以上は仕方がない。 たいていにして切り上げましょう。 要するに私は甘干しの柿を食ってはもぐりもぐっては食いとうとう軒端に吊るした奴をみんな食ってしまいました。 みんな食ったら日も暮れたろう。 ところがそう行かないので私が最後の甘干しを食ってもうよかろうと首を出して見ると相変らず烈しい秋の日が六尺の障子へ一面にあたって。 僕あもう御免だ。 いつまで行っても果てしがない。 話す私も飽き飽きします。 しかしそのくらい根気があればたいていの事業は成就するよ。 だまってたらあしたの朝まで秋の日がかんかんするんだろう。 全体いつ頃にヴァイオリンを買う気なんだい。 いつ買う気だとおっしゃるが晩になりさえすればすぐ買いに出掛けるつもりなのです。 ただ残念な事にはいつ頭を出して見ても秋の日がかんかんしているものですから――いえその時の私しの苦しみと云ったらとうてい今あなた方の御じれになるどころの騒ぎじゃないです。 私は最後の甘干を食ってもまだ日が暮れないのを見て※然として思わず泣きました。 東風君僕は実に情けなくって泣いたよ。 そうだろう芸術家は本来多情多恨だから泣いた事には同情するが話はもっと早く進行させたいものだね。 進行させたいのは山々だがどうしても日が暮れてくれないものだから困るのさ。 そう日が暮れなくちゃ聞く方も困るからやめよう。 やめちゃなお困ります。 これからがいよいよ佳境に入るところですから。 それじゃ聞くから早く日が暮れた事にしたらよかろう。 では少しご無理なご注文ですが先生の事ですから枉げてここは日が暮れた事に致しましょう。 それは好都合だ。 いよいよ夜に入ったのでまず安心とほっと一息ついて鞍懸村の下宿を出ました。 私は性来騒々しい所が嫌ですからわざと便利な市内を避けて人迹稀な寒村の百姓家にしばらく蝸牛の庵を結んでいたのです。 人迹の稀なはあんまり大袈裟だね。 蝸牛の庵も仰山だよ。 床の間なしの四畳半くらいにしておく方が写生的で面白い。 事実はどうでも言語が詩的で感じがいい。 そんな所に住んでいては学校へ通うのが大変だろう。 何里くらいあるんですか。 学校まではたった四五丁です。 元来学校からして寒村にあるんですから。 それじゃ学生はその辺にだいぶ宿をとってるんでしょう。 ええたいていな百姓家には一人や二人は必ずいます。 それで人迹稀なんですか。 ええ学校がなかったら全く人迹は稀ですよ。 で当夜の服装と云うと手織木綿の綿入の上へ金釦の制服|外套を着て外套の頭巾をすぽりと被ってなるべく人の目につかないような注意をしました。 折柄柿落葉の時節で宿から南郷街道へ出るまでは木の葉で路が一杯です。 一歩運ぶごとにがさがさするのが気にかかります。 誰かあとをつけて来そうでたまりません。 振り向いて見ると東嶺寺の森がこんもりと黒く暗い中に暗く写っています。 この東嶺寺と云うのは松平家の菩提所で庚申山の麓にあって私の宿とは一丁くらいしか隔っていないすこぶる幽邃な梵刹です。 森から上はのべつ幕なしの星月夜で例の天の河が長瀬川を筋違に横切って末は――末はそうですねまず布哇の方へ流れています。 布哇は突飛だね。 南郷街道をついに二丁来て鷹台町から市内に這入って古城町を通って仙石町を曲って喰代町を横に見て通町を一丁目二丁目三丁目と順に通り越してそれから尾張町名古屋町鯱鉾町蒲鉾町。 そんなにいろいろな町を通らなくてもいい。 要するにヴァイオリンを買ったのか買わないのか。 楽器のある店は金善即ち金子善兵衛方ですからまだなかなかです。 なかなかでもいいから早く買うがいい。 かしこまりました。 それで金善方へ来て見ると店にはランプがかんかんともって。 またかんかんか君のかんかんは一度や二度で済まないんだから難渋するよ。 いえ今度のかんかんはほんの通り一返のかんかんですから別段御心配には及びません。 灯影にすかして見ると例のヴァイオリンがほのかに秋の灯を反射してくり込んだ胴の丸みに冷たい光を帯びています。 つよく張った琴線の一部だけがきらきらと白く眼に映ります。 なかなか叙述がうまいや。 あれだな。 あのヴァイオリンだなと思うと急に動悸がして足がふらふらします。 ふふん。 思わず馳け込んで隠袋から蝦蟇口を出して蝦蟇口の中から五円札を二枚出して。 とうとう買ったかい。 買おうと思いましたがまてしばしここが肝心のところだ。 滅多な事をしては失敗する。 まあよそうと際どいところで思い留まりました。 なんだまだ買わないのかい。 ヴァイオリン一梃でなかなか人を引っ張るじゃないか。 引っ張る訳じゃないんですがどうもまだ買えないんですから仕方がありません。 なぜ。 なぜってまだ宵の口で人が大勢通るんですもの。 構わんじゃないか人が二百や三百通ったって君はよっぽど妙な男だ。 ただの人なら千が二千でも構いませんがね学校の生徒が腕まくりをして大きなステッキを持って徘徊しているんだから容易に手を出せませんよ。 中には沈澱党などと号していつまでもクラスの底に溜まって喜んでるのがありますからね。 そんなのに限って柔道は強いのですよ。 滅多にヴァイオリンなどに手出しは出来ません。 どんな目に逢うかわかりません。 私だってヴァイオリンは欲しいに相違ないですけれども命はこれでも惜しいですからね。 ヴァイオリンを弾いて殺されるよりも弾かずに生きてる方が楽ですよ。 それじゃとうとう買わずにやめたんだね。 いえ買ったのです。 じれったい男だな。 買うなら早く買うさ。 いやならいやでいいから早くかたをつけたらよさそうなものだ。 えへへへへ世の中の事はそうこっちの思うように埒があくもんじゃありませんよ。 朝日。 東風君僕はその時こう思ったね。 とうていこりゃ宵の口は駄目だと云って真夜中に来れば金善は寝てしまうからなお駄目だ。 何でも学校の生徒が散歩から帰りつくしてそうして金善がまだ寝ない時を見計らって来なければせっかくの計画が水泡に帰する。 けれどもその時間をうまく見計うのがむずかしい。 なるほどこりゃむずかしかろう。 で僕はその時間をまあ十時頃と見積ったね。 それで今から十時頃までどこかで暮さなければならない。 うちへ帰って出直すのは大変だ。 友達のうちへ話しに行くのは何だか気が咎めるようで面白くなし仕方がないから相当の時間がくるまで市中を散歩する事にした。 ところが平生ならば二時間や三時間はぶらぶらあるいているうちにいつの間にか経ってしまうのだがその夜に限って時間のたつのが遅いの何のって――千秋の思とはあんな事を云うのだろうとしみじみ感じました。 古人を待つ身につらき置炬燵と云われた事があるからねまた待たるる身より待つ身はつらいともあって軒に吊られたヴァイオリンもつらかったろうがあてのない探偵のようにうろうろまごついている君はなおさらつらいだろう。 累々として喪家の犬のごとし。 いや宿のない犬ほど気の毒なものは実際ないよ。 犬は残酷ですね。 犬に比較された事はこれでもまだありませんよ。 僕は何だか君の話をきくと昔しの芸術家の伝を読むような気持がして同情の念に堪えない。 犬に比較したのは先生の冗談だから気に掛けずに話を進行したまえ。 それから徒町から百騎町を通って両替町から鷹匠町へ出て県庁の前で枯柳の数を勘定して病院の横で窓の灯を計算して紺屋橋の上で巻煙草を二本ふかしてそうして時計を見た。 十時になったかい。 惜しい事にならないね。 ――紺屋橋を渡り切って川添に東へ上って行くと按摩に三人あった。 そうして犬がしきりに吠えましたよ先生。 秋の夜長に川端で犬の遠吠をきくのはちょっと芝居がかりだね。 君は落人と云う格だ。 何かわるい事でもしたんですか。 これからしようと云うところさ。 可哀相にヴァイオリンを買うのが悪い事じゃ音楽学校の生徒はみんな罪人ですよ。 人が認めない事をすればどんないい事をしても罪人さだから世の中に罪人ほどあてにならないものはない。 耶蘇もあんな世に生れれば罪人さ。 好男子寒月君もそんな所でヴァイオリンを買えば罪人さ。 それじゃ負けて罪人としておきましょう。 罪人はいいですが十時にならないのには弱りました。 もう一|返町の名を勘定するさ。 それで足りなければまた秋の日をかんかんさせるさ。 それでもおっつかなければまた甘干しの渋柿を三ダースも食うさ。 いつまでも聞くから十時になるまでやりたまえ。 そう先を越されては降参するよりほかはありません。 それじゃ一足飛びに十時にしてしまいましょう。 さて御約束の十時になって金善の前へ来て見ると夜寒の頃ですからさすが目貫の両替町もほとんど人通りが絶えて向からくる下駄の音さえ淋しい心持ちです。 金善ではもう大戸をたててわずかに潜り戸だけを障子にしています。 私は何となく犬に尾けられたような心持で障子をあけて這入るのに少々薄気味がわるかったです。 おいもうヴァイオリンを買ったかい。 これから買うところです。 まだ買わないのか実に永いな。 思い切って飛び込んで頭巾を被ったままヴァイオリンをくれと云いますと火鉢の周囲に四五人小僧や若僧がかたまって話をしていたのが驚いて申し合せたように私の顔を見ました。 私は思わず右の手を挙げて頭巾をぐいと前の方に引きました。 おいヴァイオリンをくれと二度目に云うと一番前にいて私の顔を覗き込むようにしていた小僧がへえと覚束ない返事をして立ち上がって例の店先に吊るしてあったのを三四梃一度に卸して来ました。 いくらかと聞くと五円二十銭だと云います。 おいそんな安いヴァイオリンがあるのかい。 おもちゃじゃないか。 みんな同価かと聞くとへえどれでも変りはございません。 みんな丈夫に念を入れて拵らえてございますと云いますから蝦蟇口のなかから五円札と銀貨を二十銭出して用意の大風呂敷を出してヴァイオリンを包みました。 この間店のものは話を中止してじっと私の顔を見ています。 顔は頭巾でかくしてあるから分る気遣はないのですけれども何だか気がせいて一刻も早く往来へ出たくて堪りません。 ようやくの事風呂敷包を外套の下へ入れて店を出たら番頭が声を揃えてありがとうと大きな声を出したのにはひやっとしました。 往来へ出てちょっと見廻して見ると幸誰もいないようですが一丁ばかり向から二三人して町内中に響けとばかり詩吟をして来ます。 こいつは大変だと金善の角を西へ折れて濠端を薬王師道へ出てはんの木村から庚申山の裾へ出てようやく下宿へ帰りました。 下宿へ帰って見たらもう二時十分前でした。 夜通しあるいていたようなものだね。 やっと上がった。 やれやれ長い道中双六だ。 これからが聞きどころですよ。 今までは単に序幕です。 まだあるのかい。 こいつは容易な事じゃない。 たいていのものは君に逢っちゃ根気負けをするね。 根気はとにかくここでやめちゃ仏作って魂入れずと一般ですからもう少し話します。 話すのは無論随意さ。 聞く事は聞くよ。 どうです苦沙弥先生も御聞きになっては。 もうヴァイオリンは買ってしまいましたよ。 ええ先生。 こん度はヴァイオリンを売るところかい。 売るところなんか聞かなくってもいい。 まだ売るどこじゃありません。 そんならなお聞かなくてもいい。 どうも困るな東風君君だけだね熱心に聞いてくれるのは。 少し張合が抜けるがまあ仕方がないざっと話してしまおう。 ざっとでなくてもいいから緩くり話したまえ。 大変面白い。 ヴァイオリンはようやくの思で手に入れたがまず第一に困ったのは置き所だね。 僕の所へは大分人が遊びにくるから滅多な所へぶらさげたり立て懸けたりするとすぐ露見してしまう。 穴を掘って埋めちゃ掘り出すのが面倒だろう。 そうさ天井裏へでも隠したかい。 天井はないさ。 百姓家だもの。 そりゃ困ったろう。 どこへ入れたい。 どこへ入れたと思う。 わからないね。 戸袋のなかか。 いいえ。 夜具にくるんで戸棚へしまったか。 いいえ。 こりゃ何と読むのだい。 どれ。 この二行さ。 何だって。 〔Quidaliudestmuliernisiamicitiae&inimica〕こりゃ君|羅甸語じゃないか。 羅甸語は分ってるが何と読むのだい。 だって君は平生羅甸語が読めると云ってるじゃないか。 無論読めるさ。 読める事は読めるがこりゃ何だい。 読める事は読めるがこりゃ何だは手ひどいね。 何でもいいからちょっと英語に訳して見ろ。 見ろは烈しいね。 まるで従卒のようだね。 従卒でもいいから何だ。 まあ羅甸語などはあとにしてちょっと寒月君のご高話を拝聴|仕ろうじゃないか。 今大変なところだよ。 いよいよ露見するかしないか危機一髪と云う安宅の関へかかってるんだ。 ――ねえ寒月君それからどうしたい。 とうとう古つづらの中へ隠しました。 このつづらは国を出る時|御祖母さんが餞別にくれたものですが何でも御祖母さんが嫁にくる時持って来たものだそうです。 そいつは古物だね。 ヴァイオリンとは少し調和しないようだ。 ねえ東風君。 ええちと調和せんです。 天井裏だって調和しないじゃないか。 調和はしないが句にはなるよ安心し給え。 秋淋しつづらにかくすヴァイオリンはどうだい両君。 先生今日は大分俳句が出来ますね。 今日に限った事じゃない。 いつでも腹の中で出来てるのさ。 僕の俳句における造詣と云ったら故子規子も舌を捲いて驚ろいたくらいのものさ。 先生子規さんとは御つき合でしたか。 なにつき合わなくっても始終無線電信で肝胆相照らしていたもんだ。 それで置き所だけは出来た訳だが今度は出すのに困った。 ただ出すだけなら人目を掠めて眺めるくらいはやれん事はないが眺めたばかりじゃ何にもならない。 弾かなければ役に立たない。 弾けば音が出る。 出ればすぐ露見する。 ちょうど木槿垣を一重隔てて南隣りは沈澱組の頭領が下宿しているんだから剣呑だあね。 困るね。 なるほどこりゃ困る。 論より証拠音が出るんだから小督の局も全くこれでしくじったんだからね。 これがぬすみ食をするとか贋札を造るとか云うならまだ始末がいいが音曲は人に隠しちゃ出来ないものだからね。 音さえ出なければどうでも出来るんですが。 ちょっと待った。 音さえ出なけりゃと云うが音が出なくても隠し了せないのがあるよ。 昔し僕等が小石川の御寺で自炊をしている時分に鈴木の藤さんと云う人がいてねこの藤さんが大変|味淋がすきでビールの徳利へ味淋を買って来ては一人で楽しみに飲んでいたのさ。 ある日|藤さんが散歩に出たあとでよせばいいのに苦沙弥君がちょっと盗んで飲んだところが。 おれが鈴木の味淋などをのむものか飲んだのは君だぜ。 おや本を読んでるから大丈夫かと思ったらやはり聞いてるね。 油断の出来ない男だ。 耳も八丁目も八丁とは君の事だ。 なるほど云われて見ると僕も飲んだ。 僕も飲んだには相違ないが発覚したのは君の方だよ。 ――両君まあ聞きたまえ。 苦沙弥先生元来酒は飲めないのだよ。 ところを人の味淋だと思って一生懸命に飲んだものだからさあ大変顔中|真赤にはれ上ってね。 いやもう二目とは見られないありさまさ。 黙っていろ。 羅甸語も読めない癖に。 ハハハハそれで藤さんが帰って来てビールの徳利をふって見ると半分以上足りない。 何でも誰か飲んだに相違ないと云うので見廻して見ると大将隅の方に朱泥を練りかためた人形のようにかたくなっていらあね。 まだ音がしないもので露見した事がある。 僕が昔し姥子の温泉に行って一人のじじいと相宿になった事がある。 何でも東京の呉服屋の隠居か何かだったがね。 まあ相宿だから呉服屋だろうが古着屋だろうが構う事はないがただ困った事が一つ出来てしまった。 と云うのは僕は姥子へ着いてから三日目に煙草を切らしてしまったのさ。 諸君も知ってるだろうがあの姥子と云うのは山の中の一軒屋でただ温泉に這入って飯を食うよりほかにどうもこうも仕様のない不便の所さ。 そこで煙草を切らしたのだから御難だね。 物はないとなるとなお欲しくなるもので煙草がないなと思うやいなやいつもそんなでないのが急に呑みたくなり出してね。 意地のわるい事にそのじじいが風呂敷に一杯煙草を用意して登山しているのさ。 それを少しずつ出しては人の前で胡坐をかいて呑みたいだろうと云わないばかりにすぱすぱふかすのだね。 ただふかすだけなら勘弁のしようもあるがしまいには煙を輪に吹いて見たり竪に吹いたり横に吹いたり乃至は邯鄲夢の枕と逆に吹いたりまたは鼻から獅子の洞入り洞返りに吹いたり。 つまり呑みびらかすんだね。 何です呑みびらかすと云うのは。 衣装道具なら見せびらかすのだが煙草だから呑みびらかすのさ。 へえそんな苦しい思いをなさるより貰ったらいいでしょう。 ところが貰わないね。 僕も男子だ。 へえ貰っちゃいけないんですか。 いけるかも知れないが貰わないね。 それでどうしました。 貰わないで偸んだ。 おやおや。 奴さん手拭をぶらさげて湯に出掛けたから呑むならここだと思って一心不乱立てつづけに呑んでああ愉快だと思う間もなく障子がからりとあいたからおやと振り返ると煙草の持ち主さ。 湯には這入らなかったのですか。 這入ろうと思ったら巾着を忘れたのに気がついて廊下から引き返したんだ。 人が巾着でもとりゃしまいし第一それからが失敬さ。 何とも云えませんね。 煙草の御手際じゃ。 ハハハハじじいもなかなか眼識があるよ。 巾着はとにかくだがじいさんが障子をあけると二日間の溜め呑みをやった煙草の煙りがむっとするほど室のなかに籠ってるじゃないか悪事千里とはよく云ったものだね。 たちまち露見してしまった。 じいさん何とかいいましたか。 さすが年の功だね何にも言わずに巻煙草を五六十本半紙にくるんで失礼ですがこんな粗葉でよろしければどうぞお呑み下さいましと云ってまた湯壺へ下りて行ったよ。 そんなのが江戸趣味と云うのでしょうか。 江戸趣味だか呉服屋趣味だか知らないがそれから僕は爺さんと大に肝胆相照らして二週間の間面白く逗留して帰って来たよ。 煙草は二週間中爺さんの御馳走になったんですか。 まあそんなところだね。 もうヴァイオリンは片ついたかい。 まだです。 これからが面白いところですちょうどいい時ですから聞いて下さい。 ついでにあの碁盤の上で昼寝をしている先生――何とか云いましたねえ独仙先生――独仙先生にも聞いていただきたいな。 どうですあんなに寝ちゃからだに毒ですぜ。 もう起してもいいでしょう。 おい独仙君起きた起きた。 面白い話がある。 起きるんだよ。 そう寝ちゃ毒だとさ。 奥さんが心配だとさ。 え。 ああ眠かった。 山上の白雲わが懶きに似たりか。 ああいい心持ちに寝たよ。 寝たのはみんなが認めているのだがね。 ちっと起きちゃどうだい。 もう起きてもいいね。 何か面白い話があるかい。 これからいよいよヴァイオリンを――どうするんだったかな苦沙弥君。 どうするのかなとんと見当がつかない。 これからいよいよ弾くところです。 これからいよいよヴァイオリンを弾くところだよ。 こっちへ出て来て聞きたまえ。 まだヴァイオリンかい。 困ったな。 君は無絃の素琴を弾ずる連中だから困らない方なんだが寒月君のはきいきいぴいぴい近所合壁へ聞えるのだから大に困ってるところだ。 そうかい。 寒月君近所へ聞えないようにヴァイオリンを弾く方を知らんですか。 知りませんねあるなら伺いたいもので。 伺わなくても露地の白牛を見ればすぐ分るはずだが。 ようやくの事で一策を案出しました。 あくる日は天長節だから朝からうちにいてつづらの蓋をとって見たりかぶせて見たり一日そわそわして暮らしてしまいましたがいよいよ日が暮れてつづらの底で※が鳴き出した時思い切って例のヴァイオリンと弓を取り出しました。 いよいよ出たね。 滅多に弾くとあぶないよ。 まず弓を取って切先から鍔元までしらべて見る。 下手な刀屋じゃあるまいし。 実際これが自分の魂だと思うと侍が研ぎ澄した名刀を長夜の灯影で鞘払をする時のような心持ちがするものですよ。 私は弓を持ったままぶるぶるとふるえました。 全く天才だ。 全く癲癇だ。 早く弾いたらよかろう。 ありがたい事に弓は無難です。 今度はヴァイオリンを同じくランプの傍へ引き付けて裏表共よくしらべて見る。 この間約五分間つづらの底では始終|※が鳴いていると思って下さい。 何とでも思ってやるから安心して弾くがいい。 まだ弾きゃしません。 ――幸いヴァイオリンも疵がない。 これなら大丈夫とぬっくと立ち上がる。 どっかへ行くのかい。 まあ少し黙って聞いて下さい。 そう一句毎に邪魔をされちゃ話が出来ない。 おい諸君だまるんだとさ。 シーシー。 しゃべるのは君だけだぜ。 うんそうかこれは失敬謹聴謹聴。 ヴァイオリンを小脇に抱い込んで草履を突かけたまま二三歩草の戸を出たがまてしばし。 そらおいでなすった。 何でもどっかで停電するに違ないと思った。 もう帰ったって甘干しの柿はないぜ。 そう諸先生が御まぜ返しになってははなはだ遺憾の至りだが東風君一人を相手にするより致し方がない。 ――いいかね東風君二三歩出たがまた引き返して国を出るとき三円二十銭で買った赤毛布を頭から被ってねふっとランプを消すと君|真暗闇になって今度は草履の所在地が判然しなくなった。 一体どこへ行くんだい。 まあ聞いてたまい。 ようやくの事草履を見つけて表へ出ると星月夜に柿落葉赤毛布にヴァイオリン。 右へ右へと爪先上りに庚申山へ差しかかってくると東嶺寺の鐘がボーンと毛布を通して耳を通して頭の中へ響き渡った。 何時だと思う君。 知らないね。 九時だよ。 これから秋の夜長をたった一人山道八丁を大平と云う所まで登るのだが平生なら臆病な僕の事だから恐しくってたまらないところだけれども一心不乱となると不思議なもので怖いにも怖くないにも毛頭そんな念はてんで心の中に起らないよ。 ただヴァイオリンが弾きたいばかりで胸が一杯になってるんだから妙なものさ。 この大平と云う所は庚申山の南側で天気のいい日に登って見ると赤松の間から城下が一目に見下せる眺望佳絶の平地で――そうさ広さはまあ百坪もあろうかね真中に八畳敷ほどな一枚岩があって北側は鵜の沼と云う池つづきで池のまわりは三抱えもあろうと云う樟ばかりだ。 山のなかだから人の住んでる所は樟脳を採る小屋が一軒あるばかり池の近辺は昼でもあまり心持ちのいい場所じゃない。 幸い工兵が演習のため道を切り開いてくれたから登るのに骨は折れない。 ようやく一枚岩の上へ来て毛布を敷いてともかくもその上へ坐った。 こんな寒い晩に登ったのは始めてなんだから岩の上へ坐って少し落ち着くとあたりの淋しさが次第次第に腹の底へ沁み渡る。 こう云う場合に人の心を乱すものはただ怖いと云う感じばかりだからこの感じさえ引き抜くと余るところは皎々冽々たる空霊の気だけになる。 二十分ほど茫然としているうちに何だか水晶で造った御殿のなかにたった一人住んでるような気になった。 しかもその一人住んでる僕のからだが――いやからだばかりじゃない心も魂もことごとく寒天か何かで製造されたごとく不思議に透き徹ってしまって自分が水晶の御殿の中にいるのだか自分の腹の中に水晶の御殿があるのだかわからなくなって来た。 飛んだ事になって来たね。 面白い境界だ。 もしこの状態が長くつづいたら私はあすの朝までせっかくのヴァイオリンも弾かずに茫やり一枚岩の上に坐ってたかも知れないです。 狐でもいる所かい。 こう云う具合で自他の区別もなくなって生きているか死んでいるか方角のつかない時に突然|後ろの古沼の奥でギャーと云う声がした。 いよいよ出たね。 その声が遠く反響を起して満山の秋の梢を野分と共に渡ったと思ったらはっと我に帰った。 やっと安心した。 大死一番乾坤新なり。 それから我に帰ってあたりを見廻わすと庚申山一面はしんとして雨垂れほどの音もしない。 はてな今の音は何だろうと考えた。 人の声にしては鋭すぎるし鳥の声にしては大き過ぎるし猿の声にしては――この辺によもや猿はおるまい。 何だろう。 何だろうと云う問題が頭のなかに起るとこれを解釈しようと云うので今まで静まり返っていたやからが紛然雑然糅然としてあたかもコンノート殿下歓迎の当時における都人士狂乱の態度を以て脳裏をかけ廻る。 そのうちに総身の毛穴が急にあいて焼酎を吹きかけた毛脛のように勇気胆力分別沈着などと号するお客様がすうすうと蒸発して行く。 心臓が肋骨の下でステテコを踊り出す。 両足が紙鳶のうなりのように震動をはじめる。 これはたまらん。 いきなり毛布を頭からかぶってヴァイオリンを小脇に掻い込んでひょろひょろと一枚岩を飛び下りて一目散に山道八丁を麓の方へかけ下りて宿へ帰って布団へくるまって寝てしまった。 今考えてもあんな気味のわるかった事はないよ東風君。 それから。 それでおしまいさ。 ヴァイオリンは弾かないのかい。 弾きたくっても弾かれないじゃないか。 ギャーだもの。 君だってきっと弾かれないよ。 何だか君の話は物足りないような気がする。 気がしても事実だよ。 どうです先生。 ハハハハこれは上出来。 そこまで持って行くにはだいぶ苦心惨憺たるものがあったのだろう。 僕は男子のサンドラ・ベロニが東方君子の邦に出現するところかと思って今が今まで真面目に拝聴していたんだよ。 サンドラ・ベロニが月下に竪琴を弾いて以太利亜風の歌を森の中でうたってるところは君の庚申山へヴァイオリンをかかえて上るところと同曲にして異巧なるものだね。 惜しい事に向うは月中の嫦娥を驚ろかし君は古沼の怪狸におどろかされたので際どいところで滑稽と崇高の大差を来たした。 さぞ遺憾だろう。 そんなに遺憾ではありません。 全体山の上でヴァイオリンを弾こうなんてハイカラをやるからおどかされるんだ。 好漢この鬼窟裏に向って生計を営む。 惜しい事だ。 そりゃそうと寒月君近頃でも矢張り学校へ行って珠ばかり磨いてるのかね。 いえこないだうちから国へ帰省していたもんですから暫時中止の姿です。 珠ももうあきましたから実はよそうかと思ってるんです。 だって珠が磨けないと博士にはなれんぜ。 博士ですかエヘヘヘヘ。 博士ならもうならなくってもいいんです。 でも結婚が延びて双方困るだろう。 結婚って誰の結婚です。 君のさ。 私が誰と結婚するんです。 金田の令嬢さ。 へええ。 へえってあれほど約束があるじゃないか。 約束なんかありゃしませんそんな事を言い触らすなあ向うの勝手です。 こいつは少し乱暴だ。 ねえ迷亭君もあの一件は知ってるだろう。 あの一件た鼻事件かい。 あの事件なら君と僕が知ってるばかりじゃない公然の秘密として天下一般に知れ渡ってる。 現に万朝なぞでは花聟花嫁と云う表題で両君の写真を紙上に掲ぐるの栄はいつだろういつだろうってうるさく僕のところへ聞きにくるくらいだ。 東風君なぞはすでに鴛鴦歌と云う一大長篇を作って三箇月|前から待ってるんだが寒月君が博士にならないばかりでせっかくの傑作も宝の持ち腐れになりそうで心配でたまらないそうだ。 ねえ東風君そうだろう。 まだ心配するほど持ちあつかってはいませんがとにかく満腹の同情をこめた作を公けにするつもりです。 それ見たまえ君が博士になるかならないかで四方八方へ飛んだ影響が及んでくるよ。 少ししっかりして珠を磨いてくれたまえ。 へへへへいろいろ御心配をかけて済みませんがもう博士にはならないでもいいのです。 なぜ。 なぜって私にはもう歴然とした女房があるんです。 いやこりゃえらい。 いつの間に秘密結婚をやったのかね。 油断のならない世の中だ。 苦沙弥さんただ今御聞き及びの通り寒月君はすでに妻子があるんだとさ。 子供はまだですよ。 そう結婚して一と月もたたないうちに子供が生れちゃ事でさあ。 元来いつどこで結婚したんだ。 いつって国へ帰ったらちゃんとうちで待ってたのです。 今日先生の所へ持って来たこの鰹節は結婚祝に親類から貰ったんです。 たった三本祝うのはけちだな。 なに沢山のうちを三本だけ持って来たのです。 じゃ御国の女だねやっぱり色が黒いんだね。 ええ真黒です。 ちょうど私には相当です。 それで金田の方はどうする気だい。 どうする気でもありません。 そりゃ少し義理がわるかろう。 ねえ迷亭。 わるくもないさ。 ほかへやりゃ同じ事だ。 どうせ夫婦なんてものは闇の中で鉢合せをするようなものだ。 要するに鉢合せをしないでもすむところをわざわざ鉢合せるんだから余計な事さ。 すでに余計な事なら誰と誰の鉢が合ったって構いっこないよ。 ただ気の毒なのは鴛鴦歌を作った東風君くらいなものさ。 なに鴛鴦歌は都合によってこちらへ向け易えてもよろしゅうございます。 金田家の結婚式にはまた別に作りますから。 さすが詩人だけあって自由自在なものだね。 金田の方へ断わったかい。 いいえ。 断わる訳がありません。 私の方でくれとも貰いたいとも先方へ申し込んだ事はありませんから黙っていれば沢山です。 ――なあに黙ってても沢山ですよ。 今時分は探偵が十人も二十人もかかって一部始終残らず知れていますよ。 ふんそんなら黙っていろ。 不用意の際に人の懐中を抜くのがスリで不用意の際に人の胸中を釣るのが探偵だ。 知らぬ間に雨戸をはずして人の所有品を偸むのが泥棒で知らぬ間に口を滑らして人の心を読むのが探偵だ。 ダンビラを畳の上へ刺して無理に人の金銭を着服するのが強盗でおどし文句をいやに並べて人の意志を強うるのが探偵だ。 だから探偵と云う奴はスリ泥棒強盗の一族でとうてい人の風上に置けるものではない。 そんな奴の云う事を聞くと癖になる。 決して負けるな。 なに大丈夫です探偵の千人や二千人風上に隊伍を整えて襲撃したって怖くはありません。 珠磨りの名人理学士水島寒月でさあ。 ひやひや見上げたものだ。 さすが新婚学士ほどあって元気|旺盛なものだね。 しかし苦沙弥さん。 探偵がスリ泥棒強盗の同類ならその探偵を使う金田君のごときものは何の同類だろう。 熊坂長範くらいなものだろう。 熊坂はよかったね。 一つと見えたる長範が二つになってぞ失せにけりと云うがあんな烏金で身代をつくった向横丁の長範なんかは業つく張りの慾張り屋だからいくつになっても失せる気遣はないぜ。 あんな奴につかまったら因果だよ。 生涯たたるよ寒月君用心したまえ。 なあにいいですよ。 ああら物々し盗人よ。 手並はさきにも知りつらん。 それにも懲りず打ち入るかってひどい目に合せてやりまさあ。 探偵と云えば二十世紀の人間はたいてい探偵のようになる傾向があるがどう云う訳だろう。 物価が高いせいでしょう。 芸術趣味を解しないからでしょう。 人間に文明の角が生えて金米糖のようにいらいらするからさ。 それは僕が大分考えた事だ。 僕の解釈によると当世人の探偵的傾向は全く個人の自覚心の強過ぎるのが原因になっている。 僕の自覚心と名づけるのは独仙君の方で云う見性成仏とか自己は天地と同一体だとか云う悟道の類ではない。 おや大分むずかしくなって来たようだ。 苦沙弥君君にしてそんな大議論を舌頭に弄する以上はかく申す迷亭も憚りながら御あとで現代の文明に対する不平を堂々と云うよ。 勝手に云うがいい云う事もない癖に。 ところがある。 大にある。 君なぞはせんだっては刑事巡査を神のごとく敬いまた今日は探偵をスリ泥棒に比しまるで矛盾の変怪だが僕などは終始一貫|父母未生以前からただ今に至るまでかつて自説を変じた事のない男だ。 刑事は刑事だ。 探偵は探偵だ。 せんだってはせんだってで今日は今日だ。 自説が変らないのは発達しない証拠だ。 下愚は移らずと云うのは君の事だ。 これはきびしい。 探偵もそうまともにくると可愛いところがある。 おれが探偵。 探偵でないから正直でいいと云うのだよ。 喧嘩はおやめおやめ。 さあ。 その大議論のあとを拝聴しよう。 今の人の自覚心と云うのは自己と他人の間に截然たる利害の鴻溝があると云う事を知り過ぎていると云う事だ。 そうしてこの自覚心なるものは文明が進むにしたがって一日一日と鋭敏になって行くからしまいには一挙手一投足も自然天然とは出来ないようになる。 ヘンレーと云う人がスチーヴンソンを評して彼は鏡のかかった部屋に入って鏡の前を通る毎に自己の影を写して見なければ気が済まぬほど瞬時も自己を忘るる事の出来ない人だと評したのはよく今日の趨勢を言いあらわしている。 寝てもおれ覚めてもおれこのおれが至るところにつけまつわっているから人間の行為言動が人工的にコセつくばかり自分で窮屈になるばかり世の中が苦しくなるばかりちょうど見合をする若い男女の心持ちで朝から晩までくらさなければならない。 悠々とか従容とか云う字は劃があって意味のない言葉になってしまう。 この点において今代の人は探偵的である。 泥棒的である。 探偵は人の目を掠めて自分だけうまい事をしようと云う商売だから勢自覚心が強くならなくては出来ん。 泥棒も捕まるか見つかるかと云う心配が念頭を離れる事がないから勢自覚心が強くならざるを得ない。 今の人はどうしたら己れの利になるか損になるかと寝ても醒めても考えつづけだから勢探偵泥棒と同じく自覚心が強くならざるを得ない。 二六時中キョトキョトコソコソして墓に入るまで一刻の安心も得ないのは今の人の心だ。 文明の咒詛だ。 馬鹿馬鹿しい。 なるほど面白い解釈だ。 苦沙弥君の説明はよく我意を得ている。 昔しの人は己れを忘れろと教えたものだ。 今の人は己れを忘れるなと教えるからまるで違う。 二六時中己れと云う意識をもって充満している。 それだから二六時中太平の時はない。 いつでも焦熱地獄だ。 天下に何が薬だと云って己れを忘れるより薬な事はない。 三更月下入無我とはこの至境を咏じたものさ。 今の人は親切をしても自然をかいている。 英吉利のナイスなどと自慢する行為も存外自覚心が張り切れそうになっている。 英国の天子が印度へ遊びに行って印度の王族と食卓を共にした時にその王族が天子の前とも心づかずについ自国の我流を出して馬鈴薯を手攫みで皿へとってあとから真赤になって愧じ入ったら天子は知らん顔をしてやはり二本指で馬鈴薯を皿へとったそうだ。 それが英吉利趣味ですか。 僕はこんな話を聞いた。 やはり英国のある兵営で聯隊の士官が大勢して一人の下士官を御馳走した事がある。 御馳走が済んで手を洗う水を硝子鉢へ入れて出したらこの下士官は宴会になれんと見えて硝子鉢を口へあてて中の水をぐうと飲んでしまった。 すると聯隊長が突然下士官の健康を祝すと云いながらやはりフ※ンガー・ボールの水を一息に飲み干したそうだ。 そこで並みいる士官も我劣らじと水盃を挙げて下士官の健康を祝したと云うぜ。 こんな噺もあるよ。 カーライルが始めて女皇に謁した時宮廷の礼に嫻わぬ変物の事だから先生突然どうですと云いながらどさりと椅子へ腰をおろした。 ところが女皇の後ろに立っていた大勢の侍従や官女がみんなくすくす笑い出した――出したのではない出そうとしたのさすると女皇が後ろを向いてちょっと何か相図をしたら多勢の侍従官女がいつの間にかみんな椅子へ腰をかけてカーライルは面目を失わなかったと云うんだが随分御念の入った親切もあったもんだ。 カーライルの事ならみんなが立ってても平気だったかも知れませんよ。 親切の方の自覚心はまあいいがね。 自覚心があるだけ親切をするにも骨が折れる訳になる。 気の毒な事さ。 文明が進むに従って殺伐の気がなくなる個人と個人の交際がおだやかになるなどと普通云うが大間違いさ。 こんなに自覚心が強くってどうしておだやかになれるものか。 なるほどちょっと見るとごくしずかで無事なようだが御互の間は非常に苦しいのさ。 ちょうど相撲が土俵の真中で四つに組んで動かないようなものだろう。 はたから見ると平穏至極だが当人の腹は波を打っているじゃないか。 喧嘩も昔しの喧嘩は暴力で圧迫するのだからかえって罪はなかったが近頃じゃなかなか巧妙になってるからなおなお自覚心が増してくるんだね。 ベーコンの言葉に自然の力に従って始めて自然に勝つとあるが今の喧嘩は正にベーコンの格言通りに出来上ってるから不思議だ。 ちょうど柔術のようなものさ。 敵の力を利用して敵を斃す事を考える。 または水力電気のようなものですね。 水の力に逆らわないでかえってこれを電力に変化して立派に役に立たせる。 だから貧時には貧に縛せられ富時には富に縛せられ憂時には憂に縛せられ喜時には喜に縛せられるのさ。 才人は才に斃れ智者は智に敗れ苦沙弥君のような癇癪持ちは癇癪を利用さえすればすぐに飛び出して敵のぺてんに罹る。 ひやひや。 これでなかなかそう甘くは行かないのだよ。 時に金田のようなのは何で斃れるだろう。 女房は鼻で斃れ主人は因業で斃れ子分は探偵で斃れか。 娘は。 娘は――娘は見た事がないから何とも云えないが――まず着倒れか食い倒れもしくは呑んだくれの類だろう。 よもや恋い倒れにはなるまい。 ことによると卒塔婆小町のように行き倒れになるかも知れない。 それは少しひどい。 だから応無所住而生其心と云うのは大事な言葉だそう云う境界に至らんと人間は苦しくてならん。 そう威張るもんじゃないよ。 君などはことによると電光影裏にさか倒れをやるかも知れないぜ。 とにかくこの勢で文明が進んで行った日にや僕は生きてるのはいやだ。 遠慮はいらないから死ぬさ。 死ぬのはなおいやだ。 生れる時には誰も熟考して生れるものは有りませんが死ぬ時には誰も苦にすると見えますね。 金を借りるときには何の気なしに借りるが返す時にはみんな心配するのと同じ事さ。 借りた金を返す事を考えないものは幸福であるごとく死ぬ事を苦にせんものは幸福さ。 君のように云うとつまり図太いのが悟ったのだね。 そうさ禅語に鉄牛面の鉄牛心牛鉄面の牛鉄心と云うのがある。 そうして君はその標本と云う訳かね。 そうでもない。 しかし死ぬのを苦にするようになったのは神経衰弱と云う病気が発明されてから以後の事だよ。 なるほど君などはどこから見ても神経衰弱以前の民だよ。 どうして借りた金を返さずに済ますかが問題である。 そんな問題はありませんよ。 借りたものは返さなくちゃなりませんよ。 まあさ。 議論だからだまって聞くがいい。 どうして借りた金を返さずに済ますかが問題であるごとくどうしたら死なずに済むかが問題である。 いな問題であった。 錬金術はこれである。 すべての錬金術は失敗した。 人間はどうしても死ななければならん事が分明になった。 錬金術以前から分明ですよ。 まあさ議論だからだまって聞いていろ。 いいかい。 どうしても死ななければならん事が分明になった時に第二の問題が起る。 へえ。 どうせ死ぬならどうして死んだらよかろう。 これが第二の問題である。 自殺クラブはこの第二の問題と共に起るべき運命を有している。 なるほど。 死ぬ事は苦しいしかし死ぬ事が出来なければなお苦しい。 神経衰弱の国民には生きている事が死よりもはなはだしき苦痛である。 したがって死を苦にする。 死ぬのが厭だから苦にするのではないどうして死ぬのが一番よかろうと心配するのである。 ただたいていのものは智慧が足りないから自然のままに放擲しておくうちに世間がいじめ殺してくれる。 しかし一と癖あるものは世間からなし崩しにいじめ殺されて満足するものではない。 必ずや死に方に付いて種々考究の結果嶄新な名案を呈出するに違ない。 だからして世界|向後の趨勢は自殺者が増加してその自殺者が皆独創的な方法をもってこの世を去るに違ない。 大分物騒な事になりますね。 なるよ。 たしかになるよ。 アーサー・ジョーンスと云う人のかいた脚本のなかにしきりに自殺を主張する哲学者があって。 自殺するんですか。 ところが惜しい事にしないのだがね。 しかし今から千年も立てばみんな実行するに相違ないよ。 万年の後には死と云えば自殺よりほかに存在しないもののように考えられるようになる。 大変な事になりますね。 なるよきっとなる。 そうなると自殺も大分研究が積んで立派な科学になって落雲館のような中学校で倫理の代りに自殺学を正科として授けるようになる。 妙ですな傍聴に出たいくらいのものですね。 迷亭先生御聞きになりましたか。 苦沙弥先生の御名論を。 聞いたよ。 その時分になると落雲館の倫理の先生はこう云うね。 諸君公徳などと云う野蛮の遺風を墨守してはなりません。 世界の青年として諸君が第一に注意すべき義務は自殺である。 しかして己れの好むところはこれを人に施こして可なる訳だから自殺を一歩展開して他殺にしてもよろしい。 ことに表の窮措大珍野苦沙弥氏のごときものは生きてござるのが大分苦痛のように見受けらるるから一刻も早く殺して進ぜるのが諸君の義務である。 もっとも昔と違って今日は開明の時節であるから槍薙刀もしくは飛道具の類を用いるような卑怯な振舞をしてはなりません。 ただあてこすりの高尚なる技術によってからかい殺すのが本人のため功徳にもなりまた諸君の名誉にもなるのであります。 なるほど面白い講義をしますね。 まだ面白い事があるよ。 現代では警察が人民の生命財産を保護するのを第一の目的としている。 ところがその時分になると巡査が犬殺しのような棍棒をもって天下の公民を撲殺してあるく。 なぜです。 なぜって今の人間は生命が大事だから警察で保護するんだがその時分の国民は生きてるのが苦痛だから巡査が慈悲のために打ち殺してくれるのさ。 もっとも少し気の利いたものは大概自殺してしまうから巡査に打殺されるような奴はよくよく意気地なしか自殺の能力のない白痴もしくは不具者に限るのさ。 それで殺されたい人間は門口へ張札をしておくのだね。 なにただ殺されたい男ありとか女ありとかはりつけておけば巡査が都合のいい時に巡ってきてすぐ志望通り取計ってくれるのさ。 死骸かね。 死骸はやっぱり巡査が車を引いて拾ってあるくのさ。 まだ面白い事が出来てくる。 どうも先生の冗談は際限がありませんね。 冗談と云えば冗談だが予言と云えば予言かも知れない。 真理に徹底しないものはとかく眼前の現象世界に束縛せられて泡沫の夢幻を永久の事実と認定したがるものだから少し飛び離れた事を云うとすぐ冗談にしてしまう。 燕雀焉んぞ大鵬の志を知らんやですね。 昔しスペインにコルドヴァと云う所があった。 今でもありゃしないか。 あるかも知れない。 今昔の問題はとにかくそこの風習として日暮れの鐘がお寺で鳴ると家々の女がことごとく出て来て河へ這入って水泳をやる。 冬もやるんですか。 その辺はたしかに知らんがとにかく貴賤老若の別なく河へ飛び込む。 但し男子は一人も交らない。 ただ遠くから見ている。 遠くから見ていると暮色蒼然たる波の上に白い肌が模糊として動いている。 詩的ですね。 新体詩になりますね。 なんと云う所ですか。 コルドヴァさ。 そこで地方の若いものが女といっしょに泳ぐ事も出来ずさればと云って遠くから判然その姿を見る事も許されないのを残念に思ってちょっといたずらをした。 へえどんな趣向だい。 お寺の鐘つき番に賄賂を使って日没を合図に撞く鐘を一時間前に鳴らした。 すると女などは浅墓なものだからそら鐘が鳴ったと云うのでめいめい河岸へあつまって半襦袢半股引の服装でざぶりざぶりと水の中へ飛び込んだ。 飛び込みはしたもののいつもと違って日が暮れない。 烈しい秋の日がかんかんしやしないか。 橋の上を見ると男が大勢立って眺めている。 恥ずかしいがどうする事も出来ない。 大に赤面したそうだ。 それで。 それでさ人間はただ眼前の習慣に迷わされて根本の原理を忘れるものだから気をつけないと駄目だと云う事さ。 なるほどありがたい御説教だ。 眼前の習慣に迷わされの御話しを僕も一つやろうか。 この間ある雑誌をよんだらこう云う詐欺師の小説があった。 僕がまあここで書画|骨董店を開くとする。 で店頭に大家の幅や名人の道具類を並べておく。 無論|贋物じゃない正直正銘うそいつわりのない上等品ばかり並べておく。 上等品だからみんな高価にきまってる。 そこへ物数奇な御客さんが来てこの元信の幅はいくらだねと聞く。 六百円なら六百円と僕が云うとその客が欲しい事はほしいが六百円では手元に持ち合せがないから残念だがまあ見合せよう。 そう云うときまってるかい。 まあさ小説だよ。 云うとしておくんだ。 そこで僕がなに代は構いませんからお気に入ったら持っていらっしゃいと云う。 客はそうも行かないからと躊躇する。 それじゃ月賦でいただきましょう月賦も細く長くどうせこれから御贔屓になるんですから――いえちっとも御遠慮には及びません。 どうです月に十円くらいじゃ。 何なら月に五円でも構いませんと僕が極きさくに云うんだ。 それから僕と客の間に二三の問答があってとど僕が狩野法眼元信の幅を六百円ただし月賦十円払込の事で売渡す。 タイムスの百科全書見たようですね。 タイムスはたしかだが僕のはすこぶる不慥だよ。 これからがいよいよ巧妙なる詐偽に取りかかるのだぜ。 よく聞きたまえ月十円ずつで六百円なら何年で皆済になると思う寒月君。 無論五年でしょう。 無論五年。 で五年の歳月は長いと思うか短かいと思うか独仙君。 一念万年万年一念。 短かくもあり短かくもなしだ。 何だそりゃ道歌か常識のない道歌だね。 そこで五年の間毎月十円ずつ払うのだからつまり先方では六十回払えばいいのだ。 しかしそこが習慣の恐ろしいところで六十回も同じ事を毎月繰り返していると六十一回にもやはり十円払う気になる。 六十二回にも十円払う気になる。 六十二回六十三回回を重ねるにしたがってどうしても期日がくれば十円払わなくては気が済まないようになる。 人間は利口のようだが習慣に迷って根本を忘れると云う大弱点がある。 その弱点に乗じて僕が何度でも十円ずつ毎月得をするのさ。 ハハハハまさかそれほど忘れっぽくもならないでしょう。 いやそう云う事は全くあるよ。 僕は大学の貸費を毎月毎月勘定せずに返してしまいに向から断わられた事がある。 そらそう云う人が現にここにいるからたしかなものだ。 だから僕の先刻述べた文明の未来記を聞いて冗談だなどと笑うものは六十回でいい月賦を生涯払って正当だと考える連中だ。 ことに寒月君や東風君のような経験の乏しい青年諸君はよく僕らの云う事を聞いてだまされないようにしなくっちゃいけない。 かしこまりました。 月賦は必ず六十回限りの事に致します。 いや冗談のようだが実際参考になる話ですよ寒月君。 たとえばですね。 今苦沙弥君か迷亭君が君が無断で結婚したのが穏当でないから金田とか云う人に謝罪しろと忠告したら君どうです。 謝罪する了見ですか。 謝罪は御容赦にあずかりたいですね。 向うがあやまるなら特別私の方ではそんな慾はありません。 警察が君にあやまれと命じたらどうです。 なおなお御免蒙ります。 大臣とか華族ならどうです。 いよいよもって御免蒙ります。 それ見たまえ。 昔と今とは人間がそれだけ変ってる。 昔は御上の御威光なら何でも出来た時代です。 その次には御上の御威光でも出来ないものが出来てくる時代です。 今の世はいかに殿下でも閣下でもある程度以上に個人の人格の上にのしかかる事が出来ない世の中です。 はげしく云えば先方に権力があればあるほどのしかかられるものの方では不愉快を感じて反抗する世の中です。 だから今の世は昔しと違って御上の御威光だから出来ないのだと云う新現象のあらわれる時代です昔しのものから考えるとほとんど考えられないくらいな事柄が道理で通る世の中です。 世態人情の変遷と云うものは実に不思議なもので迷亭君の未来記も冗談だと云えば冗談に過ぎないのだがその辺の消息を説明したものとすればなかなか味があるじゃないですか。 そう云う知己が出てくると是非未来記の続きが述べたくなるね。 独仙君の御説のごとく今の世に御上の御威光を笠にきたり竹槍の二三百本を恃にして無理を押し通そうとするのはちょうどカゴへ乗って何でも蚊でも汽車と競争しようとあせる時代後れの頑物――まあわからずやの張本烏金の長範先生くらいのものだから黙って御手際を拝見していればいいが――僕の未来記はそんな当座間に合せの小問題じゃない。 人間全体の運命に関する社会的現象だからね。 つらつら目下文明の傾向を達観して遠き将来の趨勢を卜すると結婚が不可能の事になる。 驚ろくなかれ結婚の不可能。 訳はこうさ。 前申す通り今の世は個性中心の世である。 一家を主人が代表し一郡を代官が代表し一国を領主が代表した時分には代表者以外の人間には人格はまるでなかった。 あっても認められなかった。 それががらりと変るとあらゆる生存者がことごとく個性を主張し出してだれを見ても君は君僕は僕だよと云わぬばかりの風をするようになる。 ふたりの人が途中で逢えばうぬが人間ならおれも人間だぞと心の中で喧嘩を買いながら行き違う。 それだけ個人が強くなった。 個人が平等に強くなったから個人が平等に弱くなった訳になる。 人がおのれを害する事が出来にくくなった点においてたしかに自分は強くなったのだが滅多に人の身の上に手出しがならなくなった点においては明かに昔より弱くなったんだろう。 強くなるのは嬉しいが弱くなるのは誰もありがたくないから人から一毫も犯されまいと強い点をあくまで固守すると同時にせめて半毛でも人を侵してやろうと弱いところは無理にも拡げたくなる。 こうなると人と人の間に空間がなくなって生きてるのが窮屈になる。 出来るだけ自分を張りつめてはち切れるばかりにふくれ返って苦しがって生存している。 苦しいから色々の方法で個人と個人との間に余裕を求める。 かくのごとく人間が自業自得で苦しんでその苦し紛れに案出した第一の方案は親子別居の制さ。 日本でも山の中へ這入って見給え。 一家一門ことごとく一軒のうちにごろごろしている。 主張すべき個性もなくあっても主張しないからあれで済むのだが文明の民はたとい親子の間でもお互に我儘を張れるだけ張らなければ損になるから勢い両者の安全を保持するためには別居しなければならない。 欧洲は文明が進んでいるから日本より早くこの制度が行われている。 たまたま親子同居するものがあっても息子がおやじから利息のつく金を借りたり他人のように下宿料を払ったりする。 親が息子の個性を認めてこれに尊敬を払えばこそこんな美風が成立するのだ。 この風は早晩日本へも是非輸入しなければならん。 親類はとくに離れ親子は今日に離れてやっと我慢しているようなものの個性の発展と発展につれてこれに対する尊敬の念は無制限にのびて行くからまだ離れなくては楽が出来ない。 しかし親子兄弟の離れたる今日もう離れるものはない訳だから最後の方案として夫婦が分れる事になる。 今の人の考ではいっしょにいるから夫婦だと思ってる。 それが大きな了見違いさ。 いっしょにいるためにはいっしょにいるに充分なるだけ個性が合わなければならないだろう。 昔しなら文句はないさ異体同心とか云って目には夫婦二人に見えるが内実は一人前なんだからね。 それだから偕老同穴とか号して死んでも一つ穴の狸に化ける。 野蛮なものさ。 今はそうは行かないやね。 夫はあくまでも夫で妻はどうしたって妻だからね。 その妻が女学校で行灯袴を穿いて牢乎たる個性を鍛え上げて束髪姿で乗り込んでくるんだからとても夫の思う通りになる訳がない。 また夫の思い通りになるような妻なら妻じゃない人形だからね。 賢夫人になればなるほど個性は凄いほど発達する。 発達すればするほど夫と合わなくなる。 合わなければ自然の勢夫と衝突する。 だから賢妻と名がつく以上は朝から晩まで夫と衝突している。 まことに結構な事だが賢妻を迎えれば迎えるほど双方共苦しみの程度が増してくる。 水と油のように夫婦の間には截然たるしきりがあってそれも落ちついてしきりが水平線を保っていればまだしもだが水と油が双方から働らきかけるのだから家のなかは大地震のように上がったり下がったりする。 ここにおいて夫婦雑居はお互の損だと云う事が次第に人間に分ってくる。 それで夫婦がわかれるんですか。 心配だな。 わかれる。 きっとわかれる。 天下の夫婦はみんな分れる。 今まではいっしょにいたのが夫婦であったがこれからは同棲しているものは夫婦の資格がないように世間から目されてくる。 すると私なぞは資格のない組へ編入される訳ですね。 明治の御代に生れて幸さ。 僕などは未来記を作るだけあって頭脳が時勢より一二歩ずつ前へ出ているからちゃんと今から独身でいるんだよ。 人は失恋の結果だなどと騒ぐが近眼者の視るところは実に憐れなほど浅薄なものだ。 それはとにかく未来記の続きを話すとこうさ。 その時一人の哲学者が天降って破天荒の真理を唱道する。 その説に曰くさ。 人間は個性の動物である。 個性を滅すれば人間を滅すると同結果に陥る。 いやしくも人間の意義を完からしめんためにはいかなる価を払うとも構わないからこの個性を保持すると同時に発達せしめなければならん。 かの陋習に縛せられていやいやながら結婚を執行するのは人間自然の傾向に反した蛮風であって個性の発達せざる蒙昧の時代はいざ知らず文明の今日なおこの弊竇に陥って恬として顧みないのははなはだしき謬見である。 開化の高潮度に達せる今代において二個の個性が普通以上に親密の程度をもって連結され得べき理由のあるべきはずがない。 この覩易き理由はあるにも関らず無教育の青年男女が一時の劣情に駆られて漫に合※の式を挙ぐるは悖徳没倫のはなはだしき所為である。 吾人は人道のため文明のため彼等青年男女の個性保護のため全力を挙げこの蛮風に抵抗せざるべからず。 先生私はその説には全然反対です。 私の考では世の中に何が尊いと云って愛と美ほど尊いものはないと思います。 吾々を慰藉し吾々を完全にし吾々を幸福にするのは全く両者の御蔭であります。 吾人の情操を優美にし品性を高潔にし同情を洗錬するのは全く両者の御蔭であります。 だから吾人はいつの世いずくに生れてもこの二つのものを忘れることが出来ないです。 この二つの者が現実世界にあらわれると愛は夫婦と云う関係になります。 美は詩歌音楽の形式に分れます。 それだからいやしくも人類の地球の表面に存在する限りは夫婦と芸術は決して滅する事はなかろうと思います。 なければ結構だが今哲学者が云った通りちゃんと滅してしまうから仕方がないとあきらめるさ。 なに芸術だ。 芸術だって夫婦と同じ運命に帰着するのさ。 個性の発展というのは個性の自由と云う意味だろう。 個性の自由と云う意味はおれはおれ人は人と云う意味だろう。 その芸術なんか存在出来る訳がないじゃないか。 芸術が繁昌するのは芸術家と享受者の間に個性の一致があるからだろう。 君がいくら新体詩家だって踏張っても君の詩を読んで面白いと云うものが一人もなくっちゃ君の新体詩も御気の毒だが君よりほかに読み手はなくなる訳だろう。 鴛鴦歌をいく篇作ったって始まらないやね。 幸いに明治の今日に生れたから天下が挙って愛読するのだろうが。 いえそれほどでもありません。 今でさえそれほどでなければ人文の発達した未来|即ち例の一大哲学者が出て非結婚論を主張する時分には誰もよみ手はなくなるぜ。 いや君のだから読まないのじゃない。 人々個々おのおの特別の個性をもってるから人の作った詩文などは一向面白くないのさ。 現に今でも英国などではこの傾向がちゃんとあらわれている。 現今英国の小説家中でもっとも個性のいちじるしい作品にあらわれたメレジスを見給えジェームスを見給え。 読み手は極めて少ないじゃないか。 少ない訳さ。 あんな作品はあんな個性のある人でなければ読んで面白くないんだから仕方がない。 この傾向がだんだん発達して婚姻が不道徳になる時分には芸術も完く滅亡さ。 そうだろう君のかいたものは僕にわからなくなる僕のかいたものは君にわからなくなった日にゃ君と僕の間には芸術も糞もないじゃないか。 そりゃそうですけれども私はどうも直覚的にそう思われないんです。 君が直覚的にそう思われなければ僕は曲覚的にそう思うまでさ。 曲覚的かも知れないが。 とにかく人間に個性の自由を許せば許すほど御互の間が窮屈になるに相違ないよ。 ニーチェが超人なんか担ぎ出すのも全くこの窮屈のやりどころがなくなって仕方なしにあんな哲学に変形したものだね。 ちょっと見るとあれがあの男の理想のように見えるがありゃ理想じゃない不平さ。 個性の発展した十九世紀にすくんで隣りの人には心置なく滅多に寝返りも打てないから大将少しやけになってあんな乱暴をかき散らしたのだね。 あれを読むと壮快と云うよりむしろ気の毒になる。 あの声は勇猛精進の声じゃないどうしても怨恨痛憤の音だ。 それもそのはずさ昔は一人えらい人があれば天下|翕然としてその旗下にあつまるのだから愉快なものさ。 こんな愉快が事実に出てくれば何もニーチェ見たように筆と紙の力でこれを書物の上にあらわす必要がない。 だからホーマーでもチェヴィ・チェーズでも同じく超人的な性格を写しても感じがまるで違うからね。 陽気ださ。 愉快にかいてある。 愉快な事実があってこの愉快な事実を紙に写しかえたのだから苦味はないはずだ。 ニーチェの時代はそうは行かないよ。 英雄なんか一人も出やしない。 出たって誰も英雄と立てやしない。 昔は孔子がたった一人だったから孔子も幅を利かしたのだが今は孔子が幾人もいる。 ことによると天下がことごとく孔子かも知れない。 だからおれは孔子だよと威張っても圧が利かない。 利かないから不平だ。 不平だから超人などを書物の上だけで振り廻すのさ。 吾人は自由を欲して自由を得た。 自由を得た結果不自由を感じて困っている。 それだから西洋の文明などはちょっといいようでもつまり駄目なものさ。 これに反して東洋じゃ昔しから心の修行をした。 その方が正しいのさ。 見給え個性発展の結果みんな神経衰弱を起して始末がつかなくなった時王者の民蕩々たりと云う句の価値を始めて発見するから。 無為にして化すと云う語の馬鹿に出来ない事を悟るから。 しかし悟ったってその時はもうしようがない。 アルコール中毒に罹ってああ酒を飲まなければよかったと考えるようなものさ。 先生方は大分厭世的な御説のようだが私は妙ですね。 いろいろ伺っても何とも感じません。 どう云うものでしょう。 そりゃ妻君を持ち立てだからさ。 妻を持って女はいいものだなどと思うと飛んだ間違になる。 参考のためだからおれが面白い物を読んで聞かせる。 よく聴くがいい。 この本は古い本だがこの時代から女のわるい事は歴然と分ってる。 少し驚きましたな。 元来いつ頃の本ですか。 タマス・ナッシと云って十六世紀の著書だ。 いよいよ驚ろいた。 その時分すでに私の妻の悪口を云ったものがあるんですか。 いろいろ女の悪口があるがその内には是非君の妻も這入る訳だから聞くがいい。 ええ聞きますよ。 ありがたい事になりましたね。 まず古来の賢哲が女性観を紹介すべしと書いてある。 いいかね。 聞いてるかね。 みんな聞いてるよ。 独身の僕まで聞いてるよ。 アリストートル曰く女はどうせ碌でなしなれば嫁をとるなら大きな嫁より小さな嫁をとるべし。 大きな碌でなしより小さな碌でなしの方が災少なし。 寒月君の妻君は大きいかい小さいかい。 大きな碌でなしの部ですよ。 ハハハハこりゃ面白い本だ。 さああとを読んだ。 或る人問ういかなるかこれ最大奇蹟。 賢者答えて曰く貞婦。 賢者ってだれですか。 名前は書いてない。 どうせ振られた賢者に相違ないね。 次にはダイオジニスが出ている。 或る人問う妻を娶るいずれの時においてすべきか。 ダイオジニス答えて曰く青年は未だし老年はすでに遅し。 とある。 先生|樽の中で考えたね。 ピサゴラス曰く天下に三の恐るべきものあり曰く火曰く水曰く女。 希臘の哲学者などは存外|迂濶な事を云うものだね。 僕に云わせると天下に恐るべきものなし。 火に入って焼けず水に入って溺れず。 女に逢ってとろけずだろう。 ソクラチスは婦女子を御するは人間の最大難事と云えり。 デモスセニス曰く人もしその敵を苦しめんとせばわが女を敵に与うるより策の得たるはあらず。 家庭の風波に日となく夜となく彼を困憊起つあたわざるに至らしむるを得ればなりと。 セネカは婦女と無学をもって世界における二大厄としマーカス・オーレリアスは女子は制御し難き点において船舶に似たりと云いプロータスは女子が綺羅を飾るの性癖をもってその天稟の醜を蔽うの陋策にもとづくものとせり。 ヴァレリアスかつて書をその友某におくって告げて曰く天下に何事も女子の忍んでなし得ざるものあらず。 願わくは皇天|憐を垂れて君をして彼等の術中に陥らしむるなかれと。 彼また曰く女子とは何ぞ。 友愛の敵にあらずや。 避くべからざる苦しみにあらずや必然の害にあらずや自然の誘惑にあらずや蜜に似たる毒にあらずや。 もし女子を棄つるが不徳ならば彼等を棄てざるは一層の呵責と云わざるべからず。 もう沢山です先生。 そのくらい愚妻のわる口を拝聴すれば申し分はありません。 まだ四五ページあるからついでに聞いたらどうだ。 もうたいていにするがいい。 もう奥方の御帰りの刻限だろう。 清や清や。 こいつは大変だ。 奥方はちゃんといるぜ君。 ウフフフフ。 構うものか。 奥さん奥さん。 いつの間に御帰りですか。 奥さん今のを聞いたんですか。 え。 今のはね御主人の御考ではないですよ。 十六世紀のナッシ君の説ですから御安心なさい。 存じません。 私も存じませんで失礼しましたアハハハハ。 先生胃病は近来いいですか。 こうやってうちにばかりいなさるからいかんたい。 まだ悪いとも何ともいやしない。 いわんばってんが顔色はよかなかごたる。 先生顔色が黄ですばい。 近頃は釣がいいです。 品川から舟を一艘雇うて――私はこの前の日曜に行きました。 何か釣れたかい。 何も釣れません。 釣れなくっても面白いのかい。 浩然の気を養うたいあなた。 どうですあなたがた。 釣に行った事がありますか。 面白いですよ釣は。 大きな海の上を小舟で乗り廻わしてあるくのですからね。 僕は小さな海の上を大船で乗り廻してあるきたいんだ。 どうせ釣るなら鯨か人魚でも釣らなくっちゃ詰らないです。 そんなものが釣れますか。 文学者は常識がないですね。 僕は文学者じゃありません。 そうですか何ですかあなたは。 私のようなビジネス・マンになると常識が一番大切ですからね。 先生私は近来よっぽど常識に富んで来ました。 どうしてもあんな所にいると傍が傍だからおのずからそうなってしまうです。 どうなってしまうのだ。 煙草でもですね朝日や敷島をふかしていては幅が利かんです。 そんな贅沢をする金があるのかい。 金はなかばってんが今にどうかなるたい。 この煙草を吸ってると大変信用が違います。 寒月君が珠を磨くよりも楽な信用でいい手数がかからない。 軽便信用だね。 あなたが寒月さんですか。 博士にゃとうとうならんですか。 あなたが博士にならんものだから私が貰う事にしました。 博士をですか。 いいえ金田家の令嬢をです。 実は御気の毒と思うたですたい。 しかし先方で是非貰うてくれ貰うてくれと云うからとうとう貰う事に極めました先生。 しかし寒月さんに義理がわるいと思って心配しています。 どうか御遠慮なく。 貰いたければ貰ったらいいだろう。 そいつはおめでたい話だ。 だからどんな娘を持っても心配するがものはないんだよ。 だれか貰うとさっき僕が云った通りちゃんとこんな立派な紳士の御|聟さんが出来たじゃないか。 東風君新体詩の種が出来た。 早速とりかかりたまえ。 あなたが東風君ですか結婚の時に何か作ってくれませんか。 すぐ活版にして方々へくばります。 太陽へも出してもらいます。 ええ何か作りましょういつ頃御|入用ですか。 いつでもいいです。 今まで作ったうちでもいいです。 その代りです。 披露のとき呼んで御馳走するです。 シャンパンを飲ませるです。 君シャンパンを飲んだ事がありますか。 シャンパンは旨いです。 ――先生披露会のときに楽隊を呼ぶつもりですが東風君の作を譜にして奏したらどうでしょう。 勝手にするがいい。 先生譜にして下さらんか。 馬鹿云え。 だれかこのうちに音楽の出来るものはおらんですか。 落第の候補者寒月君はヴァイオリンの妙手だよ。 しっかり頼んで見たまえ。 しかしシャンパンくらいじゃ承知しそうもない男だ。 シャンパンもですね。 一瓶四円や五円のじゃよくないです。 私の御馳走するのはそんな安いのじゃないですが君一つ譜を作ってくれませんか。 ええ作りますとも一瓶二十銭のシャンパンでも作ります。 なんならただでも作ります。 ただは頼みません御礼はするです。 シャンパンがいやならこう云う御礼はどうです。 先生候補者がこれだけあるです。 寒月君と東風君にこのうちどれか御礼に周旋してもいいです。 こりゃどうです。 いいですね。 是非周旋を願いましょう。 これでもいいですか。 それもいいですね。 是非周旋して下さい。 どれをです。 どれでもいいです。 君なかなか多情ですね。 先生これは博士の姪です。 そうか。 この方は性質が極いいです。 年も若いです。 これで十七です。 ――これなら持参金が千円あります。 ――こっちのは知事の娘です。 それをみんな貰う訳にゃいかないでしょうか。 みんなですかそれはあまり慾張りたい。 君|一夫多妻主義ですか。 多妻主義じゃないですが肉食論者です。 何でもいいからそんなものは早くしまったらよかろう。 それじゃどれも貰わんですね。 何だいそのビールは。 お見やげでござります。 前祝に角の酒屋で買うて来ました。 一つ飲んで下さい。 ここにいる諸君を披露会に招待しますがみんな出てくれますか出てくれるでしょうね。 おれはいやだ。 なぜですか。 私の一生に一度の大礼ですばい。 出てくんなさらんか。 少し不人情のごたるな。 不人情じゃないがおれは出ないよ。 着物がないですか。 羽織と袴くらいどうでもしますたい。 ちと人中へも出るがよかたい先生。 有名な人に紹介して上げます。 真平ご免だ。 胃病が癒りますばい。 癒らんでも差支えない。 そげん頑固張りなさるならやむを得ません。 あなたはどうです来てくれますか。 僕かね是非行くよ。 出来るなら媒酌人たるの栄を得たいくらいのものだ。 シャンパンの三々九度や春の宵。 ――なに仲人は鈴木の藤さんだって。 なるほどそこいらだろうと思った。 これは残念だが仕方がない。 仲人が二人出来ても多過ぎるだろうただの人間としてまさに出席するよ。 あなたはどうです。 僕ですか一竿風月閑生計人釣白蘋紅蓼間。 何ですかそれは唐詩選ですか。 何だかわからんです。 わからんですか困りますな。 寒月君は出てくれるでしょうね。 今までの関係もあるから。 きっと出る事にします僕の作った曲を楽隊が奏するのをきき落すのは残念ですからね。 そうですとも。 君はどうです東風君。 そうですね。 出て御両人の前で新体詩を朗読したいです。 そりゃ愉快だ。 先生私は生れてからこんな愉快な事はないです。 だからもう一杯ビールを飲みます。 大分遅くなった。 もう帰ろうか。 僕も帰る。 もうよそう。 勝手にするがいい。 がりがりはこれぎりご免蒙るよ。