ひなげしはみんなまっ赤に燃えあがり、めいめい風にぐらぐらゆれて、息もつけないようでした。そのひなげしのうしろの方で、やっぱり風に髪もからだも、いちめんもまれて立ちながら若いひのきが云いました。 「おまえたちはみんなまっ赤な帆船でね、いまがあらしのとこなんだ」 「いやあだ、あたしら、そんな帆船やなんかじゃないわ。せだけ高くてばかあなひのき。」ひなげしどもは、みんないっしょに云いました。 「そして向うに居るのはな、もうみがきたて燃えたての銅づくりのいきものなんだ。」 「いやあだ、お日さま、そんなあかがねなんかじゃないわ。せだけ高くてばかあなひのき。」ひなげしどもはみんないっしょに叫びます。  ところがこのときお日さまは、さっさっさっと大きな呼吸を四五へんついてるり色をした山に入ってしまいました。  風が一そうはげしくなってひのきもまるで青黒馬のしっぽのよう、ひなげしどもはみな熱病にかかったよう、てんでに何かうわごとを、南の風に云ったのですが風はてんから相手にせずどしどし向うへかけぬけます。  ひなげしどもはそこですこうししずまりました。東には大きな立派な雲の峰が少し青ざめて四つならんで立ちました。  いちばん小さいひなげしが、ひとりでこそこそ云いました。 「ああつまらないつまらない、もう一生|合唱手だわ。いちど女王にしてくれたら、あしたは死んでもいいんだけど。」  となりの黒斑のはいった花がすぐ引きとって云いました。 「それはもちろんあたしもそうよ。だってスターにならなくたってどうせあしたは死ぬんだわ。」 「あら、いくらスターでなくってもあなたの位立派ならもうそれだけで沢山だわ。」 「うそうそ。とてもつまんない。そりゃあたしいくらかあなたよりあたしの方がいいわねえ。わたしもやっぱりそう思ってよ。けどテクラさんどうでしょう。まるで及びもつかないわ。青いチョッキの虻さんでも黄のだんだらの蜂めまでみなまっさきにあっちへ行くわ。」  向うの葵の花壇から悪魔が小さな蛙にばけて、ベートーベンの着たような青いフロックコートを羽織りそれに新月よりもけだかいばら娘に仕立てた自分の弟子の手を引いて、大変あわてた風をしてやって来たのです。 「や、道をまちがえたかな。それとも地図が違ってるか。失敗。失敗。はて、一寸聞いて見よう。もしもし、美容術のうちはどっちでしたかね。」  ひなげしはあんまり立派なばらの娘を見、又美容術と聞いたので、みんなドキッとしましたが、誰もはずかしがって返事をしませんでした。悪魔の蛙がばらの娘に云いました。 「ははあ、この辺のひなげしどもはみんなつんぼか何かだな。それに全然無学だな。」  娘にばけた悪魔の弟子はお口をちょっと三角にしていかにもすなおにうなずきました。  女王のテクラが、もう非常な勇気で云いました。 「何かご用でいらっしゃいますか。」 「あ、これは。ええ、一寸おたずねいたしますが、美容院はどちらでしょうか。」 「さあ、あいにくとそういうところ存じませんでございます。一体それがこの近所にでもございましょうか。」 「それはもちろん。現に私のこのむすめなど、前は尖ったおかしなもんでずいぶん心配しましたがかれこれ三度助手のお方に来ていただいてすっかり術をほどこしましてとにかく今はあなた方ともご交際なぞ願えばねがえるようなわけ、あす紐育に連れてでますのでちょっとお礼に出ましたので。では。」 「あ、一寸。一寸お待ち下さいませ。その美容術の先生はどこへでもご出張なさいますかしら。」 「しましょうな」 「それでは誠になんですがお序での節、こちらへもお廻りねがえませんでしょうか。」 「そう。しかし私はその先生の書生というでもありません。けれども、しかしとにかくそう云いましょう。おい。行こう。さよなら。」  悪魔は娘の手をひいて、向うのどてのかげまで行くと片眼をつぶって云いました。 「お前はこれで帰ってよし。そしてキャベジと鮒とをな灰で煮込んでおいてくれ。ではおれは今度は医者だから。」といいながらすっかり小さな白い鬚の医者にばけました。悪魔の弟子はさっそく大きな雀の形になってぼろんと飛んで行きました。  東の雲のみねはだんだん高く、だんだん白くなって、いまは空の頂上まで届くほどです。  悪魔は急いでひなげしの所へやって参りました。 「ええと、この辺じゃと云われたが、どうも門へ標札も出してないというようなあんばいだ。一寸たずねますが、ひなげしさんたちのおすまいはどの辺ですかな。」  賢いテクラがドキドキしながら云いました。 「あの、ひなげしは手前どもでございます。どなたでいらっしゃいますか。」 「そう、わしは先刻|伯爵からご言伝になった医者ですがね。」 「それは失礼いたしました。椅子もございませんがまあどうぞこちらへ。そして私共は立派になれましょうか。」 「なりますね。まあ三服でちょっとさっきのむすめぐらいというところ。しかし薬は高いから。」  ひなげしはみんな顔色を変えてためいきをつきました。テクラがたずねました。 「一体どれ位でございましょう。」 「左様。お一人が五ビルです。」  ひなげしはしいんとしてしまいました。お医者の悪魔もあごのひげをひねったまましいんとして空をみあげています。雲のみねはだんだん崩れてしずかな金いろにかがやき、そおっと、北の方へ流れ出しました。  ひなげしはやっぱりしいんとしています。お医者もじっとやっぱりおひげをにぎったきり、花壇の遠くの方などはもうぼんやりと藍いろです。そのとき風が来ましたのでひなげしどもはちょっとざわっとなりました。  お医者もちらっと眼をうごかしたようでしたがまもなくやっぱり前のようしいんと静まり返っています。  その時一番小さいひなげしが、思い切ったように云いました。 「お医者さん。わたくしおあしなんか一文もないのよ。けども少したてばあたしの頭に亜片ができるのよ。それをみんなあげることにしてはいけなくって。」 「ほう。亜片かね。あんまり間には合わないけれどもとにかくその薬はわしの方では要るんでね。よし。いかにも承知した。証文を書きなさい。」  するとみんながまるで一ぺんに叫びました。 「私もどうかそうお願いいたします。どうか私もそうお願い致します。」  お医者はまるで困ったというように額に皺をよせて考えていましたが、 「仕方ない。よかろう。何もかもみな慈善のためじゃ。承知した。証文を書きなさい。」  さあ大変だあたし字なんか書けないわとひなげしどもがみんな一諸に思ったとき悪魔のお医者はもう持って来た鞄から印刷にした証書を沢山出しました。そして笑って云いました。 「ではそのわしがこの紙をひとつぱらぱらめくるからみんないっしょにこう云いなさい。 亜片はみんな差しあげ候と、」  まあよかったとひなげしどもはみんないちどにざわつきました。お医者は立って云いました。 「では」ぱらぱらぱらぱら、 「亜片はみんな差しあげ候。」 「よろしい。早速薬をあげる。一服、二服、三服とな。まずわたしがここで第一服の呪文をうたう。するとここらの空気にな。きらきら赤い波がたつ。それをみんなで呑むんだな。」  悪魔のお医者はとてもふしぎないい声でおかしな歌をやりました。 「まひるの草木と石土を 照らさんことを怠りし 赤きひかりは集い来てなすすべしらに漂えよ。」  するとほんとうにそこらのもう浅黄いろになった空気のなかに見えるか見えないような赤い光がかすかな波になってゆれました。ひなげしどもはじぶんこそいちばん美しくなろうと一生けん命その風を吸いました。  悪魔のお医者はきっと立ってこれを見渡していましたがその光が消えてしまうとまた云いました。 「では第二服 まひるの草木と石土を 照らさんことを怠りし 黄なるひかりは集い来てなすすべしらに漂えよ」  空気へうすい蜜のような色がちらちら波になりました。ひなげしはまた一生けん命です。 「では第三服」とお医者が云おうとしたときでした。 「おおい、お医者や、あんまり変な声を出してくれるなよ。ここは、セントジョバンニ様のお庭だからな。」ひのきが高く叫びました。  その時風がザァッとやって来ました。ひのきが高く叫びました。 「こうらにせ医者。まてっ。」  すると医者はたいへんあわてて、まるでのろしのように急に立ちあがって、滅法界もなく大きく黒くなって、途方もない方へ飛んで行ってしまいました。その足さきはまるで釘抜きのように尖り黒い診察鞄もけむりのように消えたのです。  ひなげしはみんなあっけにとられてぽかっとそらをながめています。  ひのきがそこで云いました。 「もう一足でおまえたちみんな頭をばりばり食われるとこだった。」 「それだっていいじゃあないの。おせっかいのひのき」  もうまっ黒に見えるひなげしどもはみんな怒って云いました。 「そうじゃあないて。おまえたちが青いけし坊主のまんまでがりがり食われてしまったらもう来年はここへは草が生えるだけ、それに第一スターになりたいなんておまえたち、スターて何だか知りもしない癖に。スターというのはな、本当は天井のお星さまのことなんだ。そらあすこへもうお出になっている。もすこしたてばそらいちめんにおでましだ。そうそうオールスターキャストというだろう。オールスターキャストというのがつまりそれだ。つまり双子星座様は双子星座様のところにレオーノ様はレオーノ様のところに、ちゃんと定まった場所でめいめいのきまった光りようをなさるのがオールスターキャスト、な、ところがありがたいもんでスターになりたいなりたいと云っているおまえたちがそのままそっくりスターでな、おまけにオールスターキャストだということになってある。それはこうだ。聴けよ。 あめなる花をほしと云い この世の星を花という。」 「何を云ってるの。ばかひのき、けし坊主なんかになってあたしら生きていたくないわ。おまけにいまのおかしな声。悪魔のお方のとても足もとにもよりつけないわ。わあい、わあい、おせっかいの、おせっかいの、せい高ひのき」  けしはやっぱり怒っています。  けれども、もうその顔もみんなまっ黒に見えるのでした。それは雲の峯がみんな崩れて牛みたいな形になり、そらのあちこちに星がぴかぴかしだしたのです。  ひなげしは、みな、しいんとして居りました。  ひのきは、まただまって、夕がたのそらを仰ぎました。  西のそらは今はかがやきを納め、東の雲の峯はだんだん崩れて、そこからもう銀いろの一つ星もまたたき出しました。    双子の星 一  天の川の西の岸にすぎなの胞子ほどの小さな二つの星が見えます。あれはチュンセ童子とポウセ童子という双子のお星さまの住んでいる小さな水精のお宮です。  このすきとおる二つのお宮は、まっすぐに向い合っています。夜は二人とも、きっとお宮に帰って、きちんと座り、空の星めぐりの歌に合せて、一晩|銀笛を吹くのです。それがこの双子のお星様の役目でした。  ある朝、お日様がカツカツカツと厳かにお身体をゆすぶって、東から昇っておいでになった時、チュンセ童子は銀笛を下に置いてポウセ童子に申しました。 「ポウセさん。もういいでしょう。お日様もお昇りになったし、雲もまっ白に光っています。今日は西の野原の泉へ行きませんか。」  ポウセ童子が、まだ夢中で、半分|眼をつぶったまま、銀笛を吹いていますので、チュンセ童子はお宮から下りて、沓をはいて、ポウセ童子のお宮の段にのぼって、もう一度|云いました。 「ポウセさん。もういいでしょう。東の空はまるで白く燃えているようですし、下では小さな鳥なんかもう目をさましている様子です。今日は西の野原の泉へ行きませんか。そして、風車で霧をこしらえて、小さな虹を飛ばして遊ぼうではありませんか。」  ポウセ童子はやっと気がついて、びっくりして笛を置いて云いました。 「あ、チュンセさん。失礼いたしました。もうすっかり明るくなったんですね。僕今すぐ沓をはきますから。」  そしてポウセ童子は、白い貝殻の沓をはき、二人は連れだって空の銀の芝原を仲よく歌いながら行きました。 「お日さまの、  お通りみちを はき浄め、  ひかりをちらせ あまの白雲。  お日さまの、  お通りみちの 石かけを  深くうずめよ、あまの青雲。」  そしてもういつか空の泉に来ました。  この泉は霽れた晩には、下からはっきり見えます。天の川の西の岸から、よほど離れた処に、青い小さな星で円くかこまれてあります。底は青い小さなつぶ石でたいらにうずめられ、石の間から奇麗な水が、ころころころころ湧き出して泉の一方のふちから天の川へ小さな流れになって走って行きます。私共の世界が旱の時、瘠せてしまった夜鷹やほととぎすなどが、それをだまって見上げて、残念そうに咽喉をくびくびさせているのを時々見ることがあるではありませんか。どんな鳥でもとてもあそこまでは行けません。けれども、天の大烏の星や蠍の星や兎の星ならもちろんすぐ行けます。 「ポウセさんまずここへ滝をこしらえましょうか。」 「ええ、こしらえましょう。僕石を運びますから。」  チュンセ童子が沓をぬいで小流れの中に入り、ポウセ童子は岸から手ごろの石を集めはじめました。  今は、空は、りんごのいい匂いで一杯です。西の空に消え残った銀色のお月様が吐いたのです。  ふと野原の向うから大きな声で歌うのが聞えます。 「あまのがわの にしのきしを、  すこしはなれたそらの井戸。  みずはころろ、そこもきらら、  まわりをかこむあおいほし。  夜鷹ふくろう、ちどり、かけす、  来よとすれども、できもせぬ。」 「あ、大烏の星だ。」童子たちは一緒に云いました。  もう空のすすきをざわざわと分けて大烏が向うから肩をふって、のっしのっしと大股にやって参りました。まっくろなびろうどのマントを着て、まっくろなびろうどの股引をはいて居ります。  大烏は二人を見て立ちどまって丁寧にお辞儀しました。 「いや、今日は。チュンセ童子とポウセ童子。よく晴れて結構ですな。しかしどうも晴れると咽喉が乾いていけません。それに昨夜は少し高く歌い過ぎましてな。ご免下さい。」と云いながら大烏は泉に頭をつき込みました。 「どうか構わないで沢山呑んで下さい。」とポウセ童子が云いました。  大烏は息もつかずに三分ばかり咽喉を鳴らして呑んでからやっと顔をあげて一寸眼をパチパチ云わせてそれからブルルッと頭をふって水を払いました。  その時向うから暴い声の歌が又聞えて参りました。大烏は見る見る顔色を変えて身体を烈しくふるわせました。 「みなみのそらの、赤眼のさそり  毒ある鉤と 大きなはさみを  知らない者は 阿呆鳥。」  そこで大烏が怒って云いました。 「蠍星です。畜生。阿呆鳥だなんて人をあてつけてやがる。見ろ。ここへ来たらその赤眼を抜いてやるぞ。」  チュンセ童子が 「大烏さん。それはいけないでしょう。王様がご存じですよ。」という間もなくもう赤い眼の蠍星が向うから二つの大きな鋏をゆらゆら動かし長い尾をカラカラ引いてやって来るのです。その音はしずかな天の野原中にひびきました。  大烏はもう怒ってぶるぶる顫えて今にも飛びかかりそうです。双子の星は一生けん命手まねでそれを押えました。  蠍は大烏を尻眼にかけてもう泉のふち迄這って来て云いました。 「ああ、どうも咽喉が乾いてしまった。やあ双子さん。今日は。ご免なさい。少し水を呑んでやろうかな。はてな、どうもこの水は変に土臭いぞ。どこかのまっ黒な馬鹿ァが頭をつっ込んだと見える。えい。仕方ない。我慢してやれ。」  そして蠍は十分ばかりごくりごくりと水を呑みました。その間も、いかにも大烏を馬鹿にする様に、毒の鉤のついた尾をそちらにパタパタ動かすのです。  とうとう大烏は、我慢し兼ねて羽をパッと開いて叫びました。 「こら蠍。貴様はさっきから阿呆鳥だの何だのと俺の悪口を云ったな。早くあやまったらどうだ。」  蠍がやっと水から頭をはなして、赤い眼をまるで火が燃えるように動かしました。 「へん。誰か何か云ってるぜ。赤いお方だろうか。鼠色のお方だろうか。一つ鉤をお見舞しますかな。」  大烏はかっとして思わず飛びあがって叫びました。 「何を。生意気な。空の向う側へまっさかさまに落してやるぞ。」  蠍も怒って大きなからだをすばやくひねって尾の鉤を空に突き上げました。大烏は飛びあがってそれを避け今度はくちばしを槍のようにしてまっすぐに蠍の頭をめがけて落ちて来ました。  チュンセ童子もポウセ童子もとめるすきがありません。蠍は頭に深い傷を受け、大烏は胸を毒の鉤でさされて、両方ともウンとうなったまま重なり合って気絶してしまいました。  蠍の血がどくどく空に流れて、いやな赤い雲になりました。  チュンセ童子が急いで沓をはいて、申しました。 「さあ大変だ。大烏には毒がはいったのだ。早く吸いとってやらないといけない。ポウセさん。大烏をしっかり押えていて下さいませんか。」  ポウセ童子も沓をはいてしまっていそいで大烏のうしろにまわってしっかり押えました。チュンセ童子が大烏の胸の傷口に口をあてました。ポウセ童子が申しました。 「チュンセさん。毒を呑んではいけませんよ。すぐ吐き出してしまわないといけませんよ。」  チュンセ童子が黙って傷口から六|遍ほど毒のある血を吸ってはき出しました。すると大烏がやっと気がついて、うすく目を開いて申しました。 「あ、どうも済みません。私はどうしたのですかな。たしか野郎をし止めたのだが。」  チュンセ童子が申しました。 「早く流れでその傷口をお洗いなさい。歩けますか。」  大烏はよろよろ立ちあがって蠍を見て又|身体をふるわせて云いました。 「畜生。空の毒虫め。空で死んだのを有り難いと思え。」  二人は大烏を急いで流れへ連れて行きました。そして奇麗に傷口を洗ってやって、その上、傷口へ二三度|香しい息を吹きかけてやって云いました。 「さあ、ゆるゆる歩いて明るいうちに早くおうちへお帰りなさい。これからこんな事をしてはいけません。王様はみんなご存じですよ。」  大烏はすっかり悄気て翼を力なく垂れ、何遍もお辞儀をして 「ありがとうございます。ありがとうございます。これからは気をつけます。」と云いながら脚を引きずって銀のすすきの野原を向うへ行ってしまいました。  二人は蠍を調べて見ました。頭の傷はかなり深かったのですがもう血がとまっています。二人は泉の水をすくって、傷口にかけて奇麗に洗いました。そして交る交るふっふっと息をそこへ吹き込みました。  お日様が丁度空のまん中においでになった頃蠍はかすかに目を開きました。  ポウセ童子が汗をふきながら申しました。 「どうですか気分は。」  蠍がゆるく呟きました。 「大烏めは死にましたか。」  チュンセ童子が少し怒って云いました。 「まだそんな事を云うんですか。あなたこそ死ぬ所でした。さあ早くうちへ帰る様に元気をお出しなさい。明るいうちに帰らなかったら大変ですよ。」  蠍が目を変に光らして云いました。 「双子さん。どうか私を送って下さいませんか。お世話の序です。」  ポウセ童子が云いました。 「送ってあげましょう。さあおつかまりなさい。」  チュンセ童子も申しました。 「そら、僕にもおつかまりなさい。早くしないと明るいうちに家に行けません。そうすると今夜の星めぐりが出来なくなります。」  蠍は二人につかまってよろよろ歩き出しました。二人の肩の骨は曲りそうになりました。実に蠍のからだは重いのです。大きさから云っても童子たちの十倍位はあるのです。  けれども二人は顔をまっ赤にしてこらえて一足ずつ歩きました。  蠍は尾をギーギーと石ころの上に引きずっていやな息をはあはあ吐いてよろりよろりとあるくのです。一時間に十町とも進みません。  もう童子たちは余り重い上に蠍の手がひどく食い込んで痛いので、肩や胸が自分のものかどうかもわからなくなりました。  空の野原はきらきら白く光っています。七つの小流れと十の芝原とを過ぎました。  童子たちは頭がぐるぐるしてもう自分が歩いているのか立っているのかわかりませんでした。それでも二人は黙ってやはり一足ずつ進みました。  さっきから六時間もたっています。蠍の家まではまだ一時間半はかかりましょう。もうお日様が西の山にお入りになる所です。 「もう少し急げませんか。私らも、もう一時間半のうちにおうちへ帰らないといけないんだから。けれども苦しいんですか。大変痛みますか。」とポウセ童子が申しました。 「へい。も少しでございます。どうかお慈悲でございます。」と蠍が泣きました。 「ええ。も少しです。傷は痛みますか。」とチュンセ童子が肩の骨の砕けそうなのをじっとこらえて申しました。  お日様がもうサッサッサッと三遍|厳かにゆらいで西の山にお沈みになりました。 「もう僕らは帰らないといけない。困ったな。ここらの人は誰か居ませんか。」ポウセ童子が叫びました。天の野原はしんとして返事もありません。  西の雲はまっかにかがやき蠍の眼も赤く悲しく光りました。光の強い星たちはもう銀の鎧を着て歌いながら遠くの空へ現われた様子です。 「一つ星めつけた。長者になあれ。」下で一人の子供がそっちを見上げて叫んでいます。  チュンセ童子が 「蠍さん。も少しです。急げませんか。疲れましたか。」と云いました。  蠍が哀れな声で、 「どうもすっかり疲れてしまいました。どうか少しですからお許し下さい。」と云います。 「星さん星さん一つの星で出ぬもんだ。  千も万もででるもんだ。」  下で別の子供が叫んでいます。もう西の山はまっ黒です。あちこち星がちらちら現われました。  チュンセ童子は背中がまがってまるで潰れそうになりながら云いました。 「蠍さん。もう私らは今夜は時間に遅れました。きっと王様に叱られます。事によったら流されるかも知れません。けれどもあなたがふだんの所に居なかったらそれこそ大変です。」  ポウセ童子が 「私はもう疲れて死にそうです。蠍さん。もっと元気を出して早く帰って行って下さい。」 と云いながらとうとうバッタリ倒れてしまいました。蠍は泣いて云いました。 「どうか許して下さい。私は馬鹿です。あなた方の髪の毛一本にも及びません。きっと心を改めてこのおわびは致します。きっといたします。」  この時水色の烈しい光の外套を着た稲妻が、向うからギラッとひらめいて飛んで来ました。そして童子たちに手をついて申しました。 「王様のご命でお迎いに参りました。さあご一緒に私のマントへおつかまり下さい。もうすぐお宮へお連れ申します。王様はどう云う訳かさっきからひどくお悦びでございます。それから、蠍。お前は今まで憎まれ者だったな。さあこの薬を王様から下すったんだ。飲め。」  童子たちは叫びました。 「それでは蠍さん。さよなら。早く薬をのんで下さい。それからさっきの約束ですよ。きっとですよ。さよなら。」  そして二人は一緒に稲妻のマントにつかまりました。蠍が沢山の手をついて平伏して薬をのみそれから丁寧にお辞儀をします。  稲妻がぎらぎらっと光ったと思うともういつかさっきの泉のそばに立って居りました。そして申しました。 「さあ、すっかりおからだをお洗いなさい。王様から新らしい着物と沓を下さいました。まだ十五分|間があります。」  双子のお星様たちは悦んでつめたい水晶のような流れを浴び、匂のいい青光りのうすものの衣を着け新らしい白光りの沓をはきました。するともう身体の痛みもつかれも一遍にとれてすがすがしてしまいました。 「さあ、参りましょう。」と稲妻が申しました。そして二人が又そのマントに取りつきますと紫色の光が一遍ぱっとひらめいて童子たちはもう自分のお宮の前に居ました。稲妻はもう見えません。 「チュンセ童子、それでは支度をしましょう。」 「ポウセ童子、それでは支度をしましょう。」  二人はお宮にのぼり、向き合ってきちんと座り銀笛をとりあげました。  丁度あちこちで星めぐりの歌がはじまりました。 「あかいめだまの さそり  ひろげた鷲の  つばさ  あおいめだまの 小いぬ、  ひかりのへびの とぐろ。  オリオンは高く うたい  つゆとしもとを おとす、  アンドロメダの くもは  さかなのくちの かたち。  大ぐまのあしを きたに  五つのばした  ところ。  小熊のひたいの うえは  そらのめぐりの めあて。」  双子のお星様たちは笛を吹きはじめました。    双子の星 二  ある晩空の下の方が黒い雲で一杯に埋まり雲の下では雨がザアッザアッと降って居りました。それでも二人はいつものようにめいめいのお宮にきちんと座って向いあって笛を吹いていますと突然大きな乱暴ものの彗星がやって来て二人のお宮にフッフッと青白い光の霧をふきかけて云いました。 「おい、双子の青星。すこし旅に出て見ないか。今夜なんかそんなにしなくてもいいんだ。いくら難船の船乗りが星で方角を定めようたって雲で見えはしない。天文台の星の係りも今日は休みであくびをしてる。いつも星を見ているあの生意気な小学生も雨ですっかりへこたれてうちの中で絵なんか書いているんだ。お前たちが笛なんか吹かなくたって星はみんなくるくるまわるさ。どうだ。一寸旅へ出よう。あしたの晩方までにはここに連れて来てやるぜ。」  チュンセ童子が一寸笛をやめて云いました。 「それは曇った日は笛をやめてもいいと王様からお許しはあるとも。私らはただ面白くて吹いていたんだ。」  ポウセ童子も一寸笛をやめて云いました。 「けれども旅に出るなんてそんな事はお許しがないはずだ。雲がいつはれるかもわからないんだから。」  彗星が云いました。 「心配するなよ。王様がこの前|俺にそう云ったぜ。いつか曇った晩あの双子を少し旅させてやって呉れってな。行こう。行こう。俺なんか面白いぞ。俺のあだ名は空の鯨と云うんだ。知ってるか。俺は鰯のようなヒョロヒョロの星やめだかのような黒い隕石はみんなパクパク呑んでしまうんだ。それから一番痛快なのはまっすぐに行ってそのまままっすぐに戻る位ひどくカーブを切って廻るときだ。まるで身体が壊れそうになってミシミシ云うんだ。光の骨までカチカチ云うぜ。」  ポウセ童子が云いました。 「チュンセさん。行きましょうか。王様がいいっておっしゃったそうですから。」  チュンセ童子が云いました。 「けれども王様がお許しになったなんて一体本当でしょうか。」  彗星が云いました。 「へん。偽なら俺の頭が裂けてしまうがいいさ。頭と胴と尾とばらばらになって海へ落ちて海鼠にでもなるだろうよ。偽なんか云うもんか。」  ポウセ童子が云いました。 「そんなら王様に誓えるかい。」  彗星はわけもなく云いました。 「うん、誓うとも。そら、王様ご照覧。ええ今日、王様のご命令で双子の青星は旅に出ます。ね。いいだろう。」  二人は一緒に云いました。 「うん。いい。そんなら行こう。」  そこで彗星がいやに真面目くさって云いました。 「それじゃ早く俺のしっぽにつかまれ。しっかりとつかまるんだ。さ。いいか。」  二人は彗星のしっぽにしっかりつかまりました。彗星は青白い光を一つフウとはいて云いました。 「さあ、発つぞ。ギイギイギイフウ。ギイギイフウ。」  実に彗星は空のくじらです。弱い星はあちこち逃げまわりました。もう大分来たのです。二人のお宮もはるかに遠く遠くなってしまい今は小さな青白い点にしか見えません。  チュンセ童子が申しました。 「もう余程来たな。天の川の落ち口はまだだろうか。」  すると彗星の態度がガラリと変ってしまいました。 「へん。天の川の落ち口よりお前らの落ち口を見ろ。それ一ぃ二の三。」  彗星は尾を強く二三|遍動かしおまけにうしろをふり向いて青白い霧を烈しくかけて二人を吹き落してしまいました。  二人は青ぐろい虚空をまっしぐらに落ちました。  彗星は、 「あっはっは、あっはっは。さっきの誓いも何もかもみんな取り消しだ。ギイギイギイ、フウ。ギイギイフウ。」と云いながら向うへ走って行ってしまいました。二人は落ちながらしっかりお互の肱をつかみました。この双子のお星様はどこ迄でも一緒に落ちようとしたのです。  二人のからだが空気の中にはいってからは雷のように鳴り赤い火花がパチパチあがり見ていてさえめまいがする位でした。そして二人はまっ黒な雲の中を通り暗い波の咆えていた海の中に矢のように落ち込みました。  二人はずんずん沈みました。けれども不思議なことには水の中でも自由に息ができたのです。  海の底はやわらかな泥で大きな黒いものが寝ていたりもやもやの藻がゆれたりしました。  チュンセ童子が申しました。 「ポウセさん。ここは海の底でしょうね。もう僕たちは空に昇れません。これからどんな目に遭うでしょう。」  ポウセ童子が云いました。 「僕らは彗星に欺されたのです。彗星は王さまへさえ偽をついたのです。本当に憎いやつではありませんか。」  するとすぐ足もとで星の形で赤い光の小さなひとでが申しました。 「お前さんたちはどこの海の人たちですか。お前さんたちは青いひとでのしるしをつけていますね。」  ポウセ童子が云いました。 「私らはひとでではありません。星ですよ。」  するとひとでが怒って云いました。 「何だと。星だって。ひとではもとはみんな星さ。お前たちはそれじゃ今やっとここへ来たんだろう。何だ。それじゃ新米のひとでだ。ほやほやの悪党だ。悪いことをしてここへ来ながら星だなんて鼻にかけるのは海の底でははやらないさ。おいらだって空に居た時は第一等の軍人だぜ。」  ポウセ童子が悲しそうに上を見ました。  もう雨がやんで雲がすっかりなくなり海の水もまるで硝子のように静まってそらがはっきり見えます。天の川もそらの井戸も鷲の星や琴弾きの星やみんなはっきり見えます。小さく小さく二人のお宮も見えます。 「チュンセさん。すっかり空が見えます。私らのお宮も見えます。それだのに私らはとうとうひとでになってしまいました。」 「ポウセさん。もう仕方ありません。ここから空のみなさんにお別れしましょう。またおすがたは見えませんが王様におわびをしましょう。」 「王様さよなら。私共は今日からひとでになるのでございます。」 「王様さよなら。ばかな私共は彗星に欺されました。今日からはくらい海の底の泥を私共は這いまわります。」 「さよなら王様。又天上の皆さま。おさかえを祈ります。」 「さよならみな様。又すべての上の尊い王さま、いつまでもそうしておいで下さい。」  赤いひとでが沢山集って来て二人を囲んでがやがや云って居りました。 「こら着物をよこせ。」「こら。剣を出せ。」「税金を出せ。」「もっと小さくなれ。」「俺の靴をふけ。」  その時みんなの頭の上をまっ黒な大きな大きなものがゴーゴーゴーと哮えて通りかかりました。ひとではあわててみんなお辞儀をしました。黒いものは行き過ぎようとしてふと立ちどまってよく二人をすかして見て云いました。 「ははあ、新兵だな。まだお辞儀のしかたも習わないのだな。このくじら様を知らんのか。俺のあだなは海の彗星と云うんだ。知ってるか。俺は鰯のようなひょろひょろの魚やめだかの様なめくらの魚はみんなパクパク呑んでしまうんだ。それから一番痛快なのはまっすぐに行ってぐるっと円を描いてまっすぐにかえる位ゆっくりカーブを切るときだ。まるでからだの油がねとねとするぞ。さて、お前は天からの追放の書き付けを持って来たろうな。早く出せ。」  二人は顔を見合せました。チュンセ童子が 「僕らはそんなもの持たない。」と申しました。  すると鯨が怒って水を一つぐうっと口から吐きました。ひとではみんな顔色を変えてよろよろしましたが二人はこらえてしゃんと立っていました。  鯨が怖い顔をして云いました。 「書き付けを持たないのか。悪党め。ここに居るのはどんな悪いことを天上でして来たやつでも書き付けを持たなかったものはないぞ。貴様らは実にけしからん。さあ。呑んでしまうからそう思え。いいか。」鯨は口を大きくあけて身構えしました。ひとでや近所の魚は巻き添えを食っては大変だと泥の中にもぐり込んだり一もくさんに逃げたりしました。  その時向うから銀色の光がパッと射して小さな海蛇がやって来ます。くじらは非常に愕ろいたらしく急いで口を閉めました。  海蛇は不思議そうに二人の頭の上をじっと見て云いました。 「あなた方はどうしたのですか。悪いことをなさって天から落とされたお方ではないように思われますが。」  鯨が横から口を出しました。 「こいつらは追放の書き付けも持ってませんよ。」  海蛇が凄い目をして鯨をにらみつけて云いました。 「黙っておいで。生意気な。このお方がたをこいつらなんてお前がどうして云えるんだ。お前には善い事をしていた人の頭の上の後光が見えないのだ。悪い事をしたものなら頭の上に黒い影法師が口をあいているからすぐわかる。お星さま方。こちらへお出で下さい。王の所へご案内申しあげましょう。おい、ひとで。あかりをともせ。こら、くじら。あんまり暴れてはいかんぞ。」  くじらが頭をかいて平伏しました。  愕ろいた事には赤い光のひとでが幅のひろい二列にぞろっとならんで丁度街道のあかりのようです。 「さあ、参りましょう。」海蛇は白髪を振って恭々しく申しました。二人はそれに続いてひとでの間を通りました。まもなく蒼ぐろい水あかりの中に大きな白い城の門があってその扉がひとりでに開いて中から沢山の立派な海蛇が出て参りました。そして双子のお星さまだちは海蛇の王さまの前に導かれました。王様は白い長い髯の生えた老人でにこにこわらって云いました。 「あなた方はチュンセ童子にポウセ童子。よく存じて居ります。あなた方が前にあの空の蠍の悪い心を命がけでお直しになった話はここへも伝わって居ります。私はそれをこちらの小学校の読本にも入れさせました。さて今度はとんだ災難で定めしびっくりなさったでしょう。」  チュンセ童子が申しました。 「これはお語誠に恐れ入ります。私共はもう天上にも帰れませんしできます事ならこちらで何なりみなさまのお役に立ちたいと存じます。」  王が云いました。 「いやいや、そのご謙遜は恐れ入ります。早速|竜巻に云いつけて天上にお送りいたしましょう。お帰りになりましたらあなたの王様に海蛇めが宜しく申し上げたと仰っしゃって下さい。」  ポウセ童子が悦んで申しました。 「それでは王様は私共の王様をご存じでいらっしゃいますか。」  王はあわてて椅子を下って申しました。 「いいえ、それどころではございません。王様はこの私の唯一人の王でございます。遠いむかしから私めの先生でございます。私はあのお方の愚かなしもべでございます。いや、まだおわかりになりますまい。けれどもやがておわかりでございましょう。それでは夜の明けないうちに竜巻にお伴致させます。これ、これ。支度はいいか。」  一|疋のけらいの海蛇が 「はい、ご門の前にお待ちいたして居ります。」と答えました。  二人は丁寧に王にお辞儀をいたしました。 「それでは王様、ごきげんよろしゅう。いずれ改めて空からお礼を申しあげます。このお宮のいつまでも栄えますよう。」  王は立って云いました。 「あなた方もどうかますます立派にお光り下さいますよう。それではごきげんよろしゅう。」  けらいたちが一度に恭々しくお辞儀をしました。  童子たちは門の外に出ました。  竜巻が銀のとぐろを巻いてねています。  一人の海蛇が二人をその頭に載せました。  二人はその角に取りつきました。  その時赤い光のひとでが沢山出て来て叫びました。 「さよなら、どうか空の王様によろしく。私どももいつか許されますようおねがいいたします。」  二人は一緒に云いました。 「きっとそう申しあげます。やがて空でまたお目にかかりましょう。」  竜巻がそろりそろりと立ちあがりました。 「さよなら、さよなら。」  竜巻はもう頭をまっくろな海の上に出しました。と思うと急にバリバリバリッと烈しい音がして竜巻は水と一所に矢のように高く高くはせのぼりました。  まだ夜があけるのに余程間があります。天の川がずんずん近くなります。二人のお宮がもうはっきり見えます。 「一寸あれをご覧なさい。」と闇の中で竜巻が申しました。  見るとあの大きな青白い光りのほうきぼしはばらばらにわかれてしまって頭も尾も胴も別々にきちがいのような凄い声をあげガリガリ光ってまっ黒な海の中に落ちて行きます。 「あいつはなまこになりますよ。」と竜巻がしずかに云いました。  もう空の星めぐりの歌が聞えます。  そして童子たちはお宮につきました。  竜巻は二人をおろして 「さよなら、ごきげんよろしゅう」と云いながら風のように海に帰って行きました。  双子のお星さまはめいめいのお宮に昇りました。そしてきちんと座って見えない空の王様に申しました。 「私どもの不注意からしばらく役目を欠かしましてお申し訳けございません。それにもかかわらず今晩はおめぐみによりまして不思議に助かりました。海の王様が沢山の尊敬をお伝えして呉れと申されました。それから海の底のひとでがお慈悲をねがいました。又私どもから申しあげますがなまこももしできますならお許しを願いとう存じます。」  そして二人は銀笛をとりあげました。  東の空が黄金色になり、もう夜明けに間もありません。  その頃の風穂の野はらは、ほんとうに立派でした。  青い萱や光る茨やけむりのような穂を出す草で一ぱい、それにあちこちには栗の木やはんの木の小さな林もありました。  野原は今は練兵場や粟の畑や苗圃などになってそれでも騎兵の馬が光ったり、白いシャツの人が働いたり、汽車で通ってもなかなか奇麗ですけれども、前はまだまだ立派でした。  九月になると私どもは毎日野原に出掛けました。殊に私は藤原慶次郎といっしょに出て行きました。町の方の子供らが出て来るのは日曜日に限っていましたから私どもはどんな日でも初蕈や栗をたくさんとりました。ずいぶん遠くまでも行ったのでしたが日曜には一層遠くまで出掛けました。  ところが、九月の末のある日曜でしたが、朝早く私が慶次郎をさそっていつものように野原の入口にかかりましたら、一本の白い立札がみちばたの栗の木の前に出ていました。私どもはもう尋常五年生でしたからすらすら読みました。 「本日は東北長官一行の出遊につきこれより中には入るべからず。東北|庁」  私はがっかりしてしまいました。慶次郎も顔を赤くして何べんも読み直していました。 「困ったねえ、えらい人が来るんだよ。叱られるといけないからもう帰ろうか。」私が云いましたら慶次郎は少し怒って答えました。 「構うもんか、入ろう、入ろう。ここは天子さんのとこでそんな警部や何かのとこじゃないんだい。ずうっと奥へ行こうよ。」  私もにわかに面白くなりました。 「おい、東北|長官というものを見たいな。どんな顔だろう。」 「鬚もめがねもあるのさ。先頃来た大臣だってそうだ。」 「どこかにかくれて見てようか。」 「見てよう。寺林のとこはどうだい。」  寺林というのは今は練兵場の北のはじになっていますが野原の中でいちばん奇麗な所でした。はんのきの林がぐるっと輪になっていて中にはみじかいやわらかな草がいちめん生えてまるで一つの公園地のようでした。  私どもはそのはんのきの中にかくれていようと思ったのです。 「そうしよう。早く行かないと見つかるぜ。」 「さあ走ってこう。」  私どもはそこでまるで一目散にその野原の一本みちを走りました。あんまり苦しくて息がつけなくなるととまって空を向いてあるきまたうしろを見てはかけ出し、走って走ってとうとう寺林についたのです。そこでみちからはなれてはんのきの中にかくれました。けれども虫がしんしん鳴き時々鳥が百|疋も一かたまりになってざあと通るばかり、一向人も来ないようでしたからだんだん私たちは恐くなくなってはんのきの下の萱をがさがさわけて初茸をさがしはじめました。いつものようにたくさん見附かりましたから私はいつか長官のことも忘れてしきりにとっておりました。  すると俄かに慶次郎が私のところにやって来てしがみつきました。まるで私の耳のそばでそっと云ったのです。 「来たよ、来たよ。とうとう来たよ。そらね。」  私は萱の間からすかすようにして私どもの来た方を見ました。向うから二人の役人が大急ぎで路をやって来るのです。それも何だかみちから外れて私どもの林へやって来るらしいのです。さあ、私どもはもう息もつまるように思いました。ずんずん近づいて来たのです。 「この林だろう。たしかにこれだな。」  一人の顔の赤い体格のいい紺の詰えりを着たほうの役人が云いました。 「うん、そうだ。間違いないよ。」も一人の黒い服の役人が答えました。さあ、もう私たちはきっと殺されるにちがいないと思いました。まさかこんな林には気も付かずに通り過ぎるだろうと思っていたら二人の役人がどこかで番をして見ていたのです。万一殺されないにしてももう縛られると私どもは覚悟しました。慶次郎の顔を見ましたらやっぱりまっ青で唇まで乾いて白くなっていました。私は役人に縛られたときとった蕈を持たせられて町を歩きたくないと考えました。そこでそっと慶次郎に云いました。 「縛られるよ。きっと縛られる。きのこをすてよう。きのこをさ。」  慶次郎はなんにも云わないでだまってきのこをはきごのまま棄てました。私も籠のひもからそっと手をはなしました。ところが二人の役人はべつに私どもをつかまえに来たのでもないようでした。  うろうろ木の高いところを見ていましたしそれに林の前でぴたっと立ちどまったらしいのでした。そしてしばらく何かしていました。私は萱の葉の混んだ所から無理にのぞいて見ましたら二人ともメリケン粉の袋のようなものを小わきにかかえてその口の結び目を立ったまま解いているのでした。 「この辺でよかろうな。」一人が云いました。 「うん、いいだろう。」も一人が答えたと思うとバラッバラッと音がしました。たしかに何か撒いたのです。私は何を撒いたか見たくて命もいらないように思いました。こわいことはやっぱりこわかったのですけれども。  役人どもはだんだん向うの方へはんの木の間を歩きながらずいぶんしばらく撒いていましたが俄かに一人が云いました。 「おい、失敗だよ。失敗だ。ひどくしくじった。君の袋にはまだ沢山あるか。」 「どうして? 林がちがったかい。」も一人が愕いてたずねました。 「だって君、これは何という木かしらんが、栗の木じゃないぜ、途方もないとこに栗の実が落ちてちゃ、ばれるよ。」  も一人が落ちついた声で答えました。 「ふん、そんなことは心配ないよ、はじめから僕は気がついてるんだ。そんなことまで何のかんの云うもんか。どっから来たろうって云ったら風で飛ばされて参りましたでしょうて云やいいや。」 「そんなわけにも行くまいぜ。困ったな、どこか栗の木の下でまこう。あ、うまい、こいつはうまい。栗の木だ。こいつから落ちたということにすりゃいいな。ああ助かった。おい、ここへ沢山まいておこう。」 「もちろんだよ。」  それからばらっばらっと栗の実が栗の木の幹にぶっつかったりはね落ちたりする音がしばらくしました。私どもは思わず顔を見合せました。もう大丈夫役人どもは私たちを殺しに来たのでもなく、私どもの居ることさえも知らないことがわかったのです。まるで世界が明るくなったように思いました。  遁げるならいまのうちだと私たちは二人|一緒に思ったのです。その証拠には私たちは一寸眼を見合せましたらもう立ちあがっていました。それからそおっと萱をわけて林のうしろの方へ出ようとしました。すると早くも役人の一人が叫んだのです。 「誰か居るぞ。入るなって云ったのに。」 「誰だ。」も一人が叫びました。私たちはすっかり失策ってしまったのです。ほんとうにばかなことをしたと私どもは思いました。  役人はもうがさがさと向うの萱の中から出て来ました。そのとき林の中は黄金いろの日光で点々になっていました。 「おい、誰だ、お前たちはどこから入って来た。」紺服のほうの人が私どもに云いました。  私どもははじめまるで死んだようになっていましたがだんだん近くなって見ますとその役人の顔はまっ赤でまるで湯気が出るばかり殊に鼻からはぷつぷつ油汗が出ていましたので何だか急にこわくなくなりました。 「あっちからです。」私はみちの方を指しました。するとその役人はまじめな風で云いました。 「ああ、あっちにもみちがあるのか。そっちへも制札をしておかなかったのは失敗だった。ねえ、君。」と云いながらあとからしなびたメリケン粉の袋をかついで来た黒服に云いました。 「うん、やっぱり子供らは入ってるねえ、しかし構わんさ。この林からさえ追い出しとけぁいいんだ。おい。お前たちね、今日はここへ非常なえらいお方が入らっしゃるんだから此処に居てはいけないよ。野原に居たかったら居てもいいからずうっと向うの方へ行ってしまってここから見えないようにするんだぞ。声をたててもいけないぞ。」  私たちは顔を見合せました。そしてだまって籠を提げて向うへ行こうとしました。  慶次郎がぽいっとおじぎをしましたから私もしました。紺服の役人はメリケン粉のからふくろを手に団子のように捲きつけていましたが少し屈むようにしました。  私たちは行こうとしました。すると黒服の役人がうしろからいきなり云いました。 「おいおい。おまえたちはここでその蕈をとったのか。」  またかと私はぎくっとしました。けれどもこの時もどうしても「いいえ。」と云えませんでした。慶次郎がかすれたような声で「はあ。」と答えたのです。すると役人は二人とも近くへ来て籠の中をのぞきました。 「まだあるだろうな。どこかここらで、沢山ある所をさがしてくれないか。ごほうびをあげるから。」  私たちはすっかり面白くなりました。 「まだ沢山ありますよ。さがしてあげましょう。」私が云いましたら紺服の役人があわてて手をふって叫びました。 「いやいや、とってしまっちゃいけない、ただある場所をさがして教えてさえくれればいいんだ。さがしてごらん。」  私と慶次郎とはまるで電気にかかったように萱をわけてあるきました。そして私はすぐ初蕈の三つならんでる所を見附けました。 「ありました。」叫んだのです。 「そうか。」役人たちは来てのぞきました。 「何だ、ただ三つじゃないか。長官は六人もご家族をつれていらっしゃるんだ。三つじゃ仕方ない、お一人十ずつとしても六十なくちゃだめだ。」 「六十ぐらい大丈夫あります。」慶次郎が向うで袖で汗を拭きながら云いました。 「いや、あちこちちらばったんじゃさがし出せない。二とこぐらいに集まってなくちゃ。」 「初蕈はそんなに集まってないんです。」私も勢がついて言いました。 「ふうん。そんならかまわないからおまえたちのとった蕈をそこらへ立てておこうかな。」 「それでいいさ。」黒服のほうが薄いひげをひねりながら答えました。 「おい、お前たちの籠の蕈をみんなよこせ。あとでごほうびはやるからな。」紺服は笑って云いました。私たちはだまって籠を出したのです。二人はしゃがんで籠を倒にして数を数えてから小さいのはみんなまた籠に戻しました。 「丁度いいよ、七十ある。こいつをここらへ立ててこう。」  紺服の人はきのこを草の間に立てようとしましたがすぐ傾いてしまいました。 「ああ、萱で串にしておけばいいよ。そら、こんな工合に。」黒服は云いながら萱の穂を一|寸ばかりにちぎって地面に刺してその上にきのこの脚をまっすぐに刺して立てました。 「うまい、うまい、丁度いい、おい、おまえたち、萱の穂をこれぐらいの長さにちぎってくれ。」  私たちはとうとう笑いました。役人も笑っていました。間もなく役人たちは私たちのやった萱の穂をすっかりその辺に植えて上にみんな蕈をつき刺しました。実に見事にはなりましたがまたおかしかったのです。第一萱が倒れていましたしきのこのちぎれた脚も見えていました。私どもは笑って見ていますと黒服の役人がむずかしい顔をして云いました。 「さあ、お前たちもう行ってくれ、この袋はやるよ。」 「うん、そうだ、そら、ごほうびだよ。」二人はメリケン粉の袋を私たちに投げました。  そんなもの要らないと私たちは思いましたが役人がまたまじめになって恐くなりましたからだまって受け取りました。そして林を出ました。林を出るときちょっとふりかえって見ましたら二人がまっすぐに立ってしきりにそのこしらえた蕈の公園をながめているようでしたが間もなく、 「だめだよ、きのこのほうはやっぱりだめだ。もし知れたら大へんだ。」 「うん、どうもあぶないと僕も思った。こっちは止そう。とってしまおう。その辺へかくしておいてあとで我われがとったということにしてお嬢さんにでも上げればいいじゃないか。そのほうが安全だよ。」というのがはっきり聞えました。私たちはまた顔を見合せました。  そして思わずふき出してしまいました。  それから一目散に遁げました。  けれどももう役人は追って来ませんでした。その日の晩方おそく私たちはひどくまわりみちをしてうちへ帰りましたが東北長官はひるころ野原へ着いて夕方まで家族と一緒に大へん面白く遊んで帰ったということを聞きました。その次の年私どもは町の中学校に入りましたがあの二人の役人にも時々あいました。二人はステッキをふったり包みをかかえたりまた競馬などで酔って顔を赤くして叫んだりしていました。私たちはちゃんとおぼえていたのです。けれども向うではいつも、どうも見たことのある子供だが思い出せないというような顔をするのでした。 〔冒頭原稿一枚?なし〕 以外の物質は、みなすべて、よくこれを摂取して、脂肪若くは蛋白質となし、その体内に蓄積す。」とこう書いてあったから、農学校の畜産の、助手や又小使などは金石でないものならばどんなものでも片っ端から、持って来てほうり出したのだ。  尤もこれは豚の方では、それが生れつきなのだし、充分によくなれていたから、けしていやだとも思わなかった。却ってある夕方などは、殊に豚は自分の幸福を、感じて、天上に向いて感謝していた。というわけはその晩方、化学を習った一年生の、生徒が、自分の前に来ていかにも不思議そうにして、豚のからだを眺めて居た。豚の方でも時々は、あの小さなそら豆形の怒ったような眼をあげて、そちらをちらちら見ていたのだ。その生徒が云った。 「ずいぶん豚というものは、奇体なことになっている。水やスリッパや藁をたべて、それをいちばん上等な、脂肪や肉にこしらえる。豚のからだはまあたとえば生きた一つの触媒だ。白金と同じことなのだ。無機体では白金だし有機体では豚なのだ。考えれば考える位、これは変になることだ。」  豚はもちろん自分の名が、白金と並べられたのを聞いた。それから豚は、白金が、一匁三十円することを、よく知っていたものだから、自分のからだが二十貫で、いくらになるということも勘定がすぐ出来たのだ。豚はぴたっと耳を伏せ、眼を半分だけ閉じて、前肢をきくっと曲げながらその勘定をやったのだ。  20×1000×30=600000 実に六十万円だ。六十万円といったならそのころのフランドンあたりでは、まあ第一流の紳士なのだ。いまだってそうかも知れない。さあ第一流の紳士だもの、豚がすっかり幸福を感じ、あの頭のかげの方の鮫によく似た大きな口を、にやにや曲げてよろこんだのも、けして無理とは云われない。  ところが豚の幸福も、あまり永くは続かなかった。  それから二三日たって、そのフランドンの豚は、どさりと上から落ちて来た一かたまりのたべ物から、たべ物の中から、一寸細長い白いもので、さきにみじかい毛を植えた、ごく率直に云うならば、ラクダ印の歯磨楊子、それを見たのだ。どうもいやな説教で、折角洗礼を受けた、大学生諸君にすまないが少しこらえてくれ給え。  豚は実にぎょっとした。一体、その楊子の毛をみると、自分のからだ中の毛が、風に吹かれた草のよう、ザラッザラッと鳴ったのだ。豚は実に永い間、変な顔して、眺めていたが、とうとう頭がくらくらして、いやないやな気分になった。いきなり向うの敷藁に頭を埋めてくるっと寝てしまったのだ。  晩方になり少し気分がよくなって、豚はしずかに起きあがる。気分がいいと云ったって、結局豚の気分だから、苹果のようにさくさくし、青ぞらのように光るわけではもちろんない。これ灰色の気分である。灰色にしてややつめたく、透明なるところの気分である。さればまことに豚の心もちをわかるには、豚になって見るより致し方ない。  外来ヨークシャイヤでも又黒いバアクシャイヤでも豚は決して自分が魯鈍だとか、怠惰だとかは考えない。最も想像に困難なのは、豚が自分の平らなせなかを、棒でどしゃっとやられたとき何と感ずるかということだ。さあ、日本語だろうか伊太利亜語だろうか独乙語だろうか英語だろうか。さあどう表現したらいいか。さりながら、結局は、叫び声以外わからない。カント博士と同様に全く不可知なのである。  さて豚はずんずん肥り、なんべんも寝たり起きたりした。フランドン農学校の畜産学の先生は、毎日来ては鋭い眼で、じっとその生体量を、計算しては帰って行った。 「も少しきちんと窓をしめて、室中暗くしなくては、脂がうまくかからんじゃないか。それにもうそろそろと肥育をやってもよかろうな、毎日|阿麻仁を少しずつやって置いて呉れないか。」教師は若い水色の、上着の助手に斯う云った。豚はこれをすっかり聴いた。そして又大へんいやになった。楊子のときと同じだ。折角のその阿麻仁も、どうもうまく咽喉を通らなかった。これらはみんな畜産の、その教師の語気について、豚が直覚したのである。豚は心に思いながら、もうたまらなくなり前の柵を、むちゃくちゃに鼻で突っ突いた。  ところが、丁度その豚の、殺される前の月になって、一つの布告がその国の、王から発令されていた。  それは家畜|撲殺同意調印法といい、誰でも、家畜を殺そうというものは、その家畜から死亡|承諾書を受け取ること、又その承諾証書には家畜の調印を要すると、こう云う布告だったのだ。  さあそこでその頃は、牛でも馬でも、もうみんな、殺される前の日には、主人から無理に強いられて、証文にペタリと印を押したもんだ。ごくとしよりの馬などは、わざわざ蹄鉄をはずされて、ぼろぼろなみだをこぼしながら、その大きな判をぱたっと証書に押したのだ。  フランドンのヨークシャイヤも又活版刷りに出来ているその死亡証書を見た。見たというのは、或る日のこと、フランドン農学校の校長が、大きな黄色の紙を持ち、豚のところにやって来た。豚は語学も余程進んでいたのだし、又実際豚の舌は柔らかで素質も充分あったのでごく流暢な人間語で、しずかに校長に挨拶した。 「校長さん、いいお天気でございます。」  校長はその黄色な証書をだまって小わきにはさんだまま、ポケットに手を入れて、にがわらいして斯う云った。 「うんまあ、天気はいいね。」  豚は何だか、この語が、耳にはいって、それから咽喉につかえたのだ。おまけに校長がじろじろと豚のからだを見ることは全くあの畜産の、教師とおんなじことなのだ。  豚はかなしく耳を伏せた。そしてこわごわ斯う云った。 「私はどうも、このごろは、気がふさいで仕方ありません。」  校長は又にがわらいを、しながら豚に斯う云った。 「ふん。気がふさぐ。そうかい。もう世の中がいやになったかい。そういうわけでもないのかい。」豚があんまり陰気な顔をしたものだから校長は急いで取り消しました。  それから農学校長と、豚とはしばらくしいんとしてにらみ合ったまま立っていた。ただ一言も云わないでじいっと立って居ったのだ。そのうちにとうとう校長は今日は証書はあきらめて、 「とにかくよくやすんでおいで。あんまり動きまわらんでね。」例の黄いろな大きな証書を小わきにかいこんだまま、向うの方へ行ってしまう。  豚はそのあとで、何べんも、校長の今の苦笑やいかにも底意のある語を、繰り返し繰り返しして見て、身ぶるいしながらひとりごとした。 『とにかくよくやすんでおいで。あんまり動きまわらんでね。』一体これはどう云う事か。ああつらいつらい。豚は斯う考えて、まるであの梯形の、頭も割れるように思った。おまけにその晩は強いふぶきで、外では風がすさまじく、乾いたカサカサした雪のかけらが、小屋のすきまから吹きこんで豚のたべものの余りも、雪でまっ白になったのだ。  ところが次の日のこと、畜産学の教師が又やって来て例の、水色の上着を着た、顔の赤い助手といつものするどい眼付して、じっと豚の頭から、耳から背中から尻尾まで、まるでまるで食い込むように眺めてから、尖った指を一本立てて、 「毎日|阿麻仁をやってあるかね。」 「やってあります。」 「そうだろう。もう明日だって明後日だって、いいんだから。早く承諾書をとれぁいいんだ。どうしたんだろう、昨日校長は、たしかに証書をわきに挟んでこっちの方へ来たんだが。」 「はい、お入りのようでした。」 「それではもうできてるかしら。出来ればすぐよこす筈だがね。」 「はあ。」 「も少し室をくらくして、置いたらどうだろうか。それからやる前の日には、なんにも飼料をやらんでくれ。」 「はあ、きっとそう致します。」  畜産の教師は鋭い目で、もう一遍じいっと豚を見てから、それから室を出て行った。  そのあとの豚の煩悶さ、豚の頭の割れそうな、ことはこの日も同じだ。その晩豚はあんまりに神経が興奮し過ぎてよく睡ることができなかった。ところが次の朝になって、やっと太陽が登った頃、寄宿舎の生徒が三人、げたげた笑って小屋へ来た。そして一晩睡らないで、頭のしんしん痛む豚に、又もや厭な会話を聞かせたのだ。 「いつだろうなあ、早く見たいなあ。」 「僕は見たくないよ。」 「早いといいなあ、囲って置いた葱だって、あんまり永いと凍っちまう。」 「馬鈴薯もしまってあるだろう。」 「しまってあるよ。三|斗しまってある。とても僕たちだけで食べられるもんか。」 「今朝はずいぶん冷たいねえ。」一人が白い息を手に吹きかけながら斯う云いました。 「豚のやつは暖かそうだ。」一人が斯う答えたら三人共どっとふき出しました。 「豚のやつは脂肪でできた、厚さ一寸の外套を着てるんだもの、暖かいさ。」 「暖かそうだよ。どうだ。湯気さえほやほやと立っているよ。」  豚はあんまり悲しくて、辛くてよろよろしてしまう。 「早くやっちまえばいいな。」  三人はつぶやきながら小屋を出た。そのあとの豚の苦しさ、その煩悶の最中に校長が又やって来た。入口でばたばた雪を落して、それから例のあいまいな苦笑をしながら前に立つ。 「どうだい。今日は気分がいいかい。」 「はい、ありがとうございます。」 「いいのかい。大へん結構だ。たべ物は美味しいかい。」 「ありがとうございます。大へんに結構でございます。」 「そうかい。それはいいね、ところで実は今日はお前と、内内相談に来たのだがね、どうだ頭ははっきりかい。」 「はあ。」豚は声がかすれてしまう。 「実はね、この世界に生きてるものは、みんな死ななけぁいかんのだ。実際もうどんなもんでも死ぬんだよ。人間の中の貴族でも、金持でも、又私のような、中産階級でも、それからごくつまらない乞食でもね。」 「はあ、」豚は声が咽喉につまって、はっきり返事ができなかった。 「また人間でない動物でもね、たとえば馬でも、牛でも、鶏でも、なまずでも、バクテリヤでも、みんな死ななけぁいかんのだ。蜉蝣のごときはあしたに生れ、夕に死する、ただ一日の命なのだ。みんな死ななけぁならないのだ。だからお前も私もいつか、きっと死ぬのにきまってる。」 「はあ。」豚は声がかすれて、返事もなにもできなかった。 「そこで実は相談だがね、私たちの学校では、お前を今日まで養って来た。大したこともなかったが、学校としては出来るだけ、ずいぶん大事にしたはずだ。お前たちの仲間もあちこちに、ずいぶんあるし又私も、まあよく知っているのだが、でそう云っちゃ可笑しいが、まあ私の処ぐらい、待遇のよい処はない。」 「はあ。」豚は返事しようと思ったが、その前にたべたものが、みんな咽喉へつかえててどうしても声が出て来なかった。 「でね、実は相談だがね、お前がもしも少しでも、そんなようなことが、ありがたいと云う気がしたら、ほんの小さなたのみだが承知をしては貰えまいか。」 「はあ。」豚は声がかすれて、返事がどうしてもできなかった。 「それはほんの小さなことだ。ここに斯う云う紙がある、この紙に斯う書いてある。死亡承諾書、私|儀永々|御恩顧の次第に有之候儘、御都合により、何時にても死亡|仕るべく候年月日フランドン畜舎内、ヨークシャイヤ、フランドン農学校長|殿 とこれだけのことだがね、」校長はもう云い出したので、一瀉千里にまくしかけた。 「つまりお前はどうせ死ななけぁいかないからその死ぬときはもう潔く、いつでも死にますと斯う云うことで、一向何でもないことさ。死ななくてもいいうちは、一向死ぬことも要らないよ。ここの処へただちょっとお前の前肢の爪印を、一つ押しておいて貰いたい。それだけのことだ。」  豚は眉を寄せて、つきつけられた証書を、じっとしばらく眺めていた。校長の云う通りなら、何でもないがつくづくと証書の文句を読んで見ると、まったく大へんに恐かった。とうとう豚はこらえかねてまるで泣声でこう云った。 「何時にてもということは、今日でもということですか。」  校長はぎくっとしたが気をとりなおしてこう云った。 「まあそうだ。けれども今日だなんて、そんなことは決してないよ。」 「でも明日でもというんでしょう。」 「さあ、明日なんていうよう、そんな急でもないだろう。いつでも、いつかというような、ごくあいまいなことなんだ。」 「死亡をするということは私が一人で死ぬのですか。」豚は又金切声で斯うきいた。 「うん、すっかりそうでもないな。」 「いやです、いやです、そんならいやです。どうしてもいやです。」豚は泣いて叫んだ。 「いやかい。それでは仕方ない。お前もあんまり恩知らずだ。犬|猫にさえ劣ったやつだ。」校長はぷんぷん怒り、顔をまっ赤にしてしまい証書をポケットに手早くしまい、大股に小屋を出て行った。 「どうせ犬猫なんかには、はじめから劣っていますよう。わあ」豚はあんまり口惜しさや、悲しさが一時にこみあげて、もうあらんかぎり泣きだした。けれども半日ほど泣いたら、二晩も眠らなかった疲れが、一ぺんにどっと出て来たのでつい泣きながら寝込んでしまう。その睡りの中でも豚は、何べんも何べんもおびえ、手足をぶるっと動かした。  ところがその次の日のことだ。あの畜産の担任が、助手を連れて又やって来た。そして例のたまらない、目付きで豚をながめてから、大へん機嫌の悪い顔で助手に向ってこう云った。 「どうしたんだい。すてきに肉が落ちたじゃないか。これじゃまるきり話にならん。百姓のうちで飼ったってこれ位にはできるんだ。一体どうしたてんだろう。心当りがつかないかい。頬肉なんかあんまり減った。おまけにショウルダアだって、こんなに薄くちゃなってない。品評会へも出せぁしない。一体どうしたてんだろう。」  助手は唇へ指をあて、しばらくじっと考えて、それからぼんやり返事した。 「さあ、昨日の午后に校長が、おいでになっただけでした。それだけだったと思います。」  畜産の教師は飛び上る。 「校長? そうかい。校長だ。きっと承諾書を取ろうとして、すてきなぶまをやったんだ。おじけさせちゃったんだな。それでこいつはぐるぐるして昨夜一晩寝ないんだな。まずいことになったなあ。おまけにきっと承諾書も、取り損ねたにちがいない。まずいことになったなあ。」  教師は実に口惜しそうに、しばらくキリキリ歯を鳴らし腕を組んでから又云った。 「えい、仕方ない。窓をすっかり明けて呉れ。それから外へ連れ出して、少し運動させるんだ。む茶くちゃにたたいたり走らしたりしちゃいけないぞ。日の照らない処を、厩舎の陰のあたりの、雪のない草はらを、そろそろ連れて歩いて呉れ。一回十五分位、それから飼料をやらないで少し腹を空かせてやれ。すっかり気分が直ったらキャベジのいい処を少しやれ。それからだんだん直ったら今まで通りにすればいい。まるで一ヶ月の肥育を、一晩で台なしにしちまった。いいかい。」 「承知いたしました。」  教師は教員室へ帰り豚はもうすっかり気落ちして、ぼんやりと向うの壁を見る、動きも叫びもしたくない。ところへ助手が細い鞭を持って笑って入って来た。助手は囲いの出口をあけごく叮寧に云ったのだ。 「少しご散歩はいかがです。今日は大へんよく晴れて、風もしずかでございます。それではお供いたしましょう、」ピシッと鞭がせなかに来る、全くこいつはたまらない、ヨークシャイヤは仕方なくのそのそ畜舎を出たけれど胸は悲しさでいっぱいで、歩けば裂けるようだった。助手はのんきにうしろから、チッペラリーの口笛を吹いてゆっくりやって来る。鞭もぶらぶらふっている。  全体何がチッペラリーだ。こんなにわたしはかなしいのにと豚は度々口をまげる。時々は 「ええもう少し左の方を、お歩きなさいましては、いかがでございますか。」なんて、口ばかりうまいことを云いながら、ピシッと鞭を呉れたのだ。こてっとぶたれて散歩しながら豚はつくづく考えた。 「さあいかがです、そろそろお休みなさいませ。」助手は又一つピシッとやる。ウルトラ大学生諸君、こんな散歩が何で面白いだろう。からだの為も何もあったもんじゃない。  豚は仕方なく又畜舎に戻りごろっと藁に横になる。キャベジの青いいい所を助手はわずか持って来た。豚は喰べたくなかったが助手が向うに直立して何とも云えない恐い眼で上からじっと待っている、ほんとうにもう仕方なく、少しそれを噛じるふりをしたら助手はやっと安心して一つ「ふん。」と笑ってからチッペラリーの口笛を又吹きながら出て行った。いつか窓がすっかり明け放してあったので豚は寒くて耐らなかった。  こんな工合にヨークシャイヤは一日思いに沈みながら三日を夢のように送る。  四日目に又畜産の、教師が助手とやって来た。ちらっと豚を一眼見て、手を振りながら助手に云う。 「いけないいけない。君はなぜ、僕の云った通りしなかった。」 「いいえ、窓もすっかり明けましたし、キャベジのいいのもやりました。運動も毎日叮寧に、十五分ずつやらしています。」 「そうかね、そんなにまでもしてやって、やっぱりうまくいかないかね、じゃもうこいつは瘠せる一方なんだ。神経性営養不良なんだ。わきからどうも出来やしない。あんまり骨と皮だけに、ならないうちにきめなくちゃ、どこまで行くかわからない。おい。窓をみなしめて呉れ。そして肥育器を使うとしよう、飼料をどしどし押し込んで呉れ。麦のふすまを二升とね、阿麻仁を二合、それから玉蜀黍の粉を、五合を水でこねて、団子にこさえて一日に、二度か三度ぐらいに分けて、肥育器にかけて呉れ給え。肥育器はあったろう。」 「はい、ございます。」 「こいつは縛って置き給え。いや縛る前に早く承諾書をとらなくちゃ。校長もさっぱり拙いなぁ。」  畜産の教師は大急ぎで、教舎の方へ走って行き、助手もあとから出て行った。  間もなく農学校長が、大へんあわててやって来た。豚は身体の置き場もなく鼻で敷藁を掘ったのだ。 「おおい、いよいよ急がなきゃならないよ。先頃の死亡承諾書ね、あいつへ今日はどうしても、爪判を押して貰いたい。別に大した事じゃない。押して呉れ。」 「いやですいやです。」豚は泣く。 「厭だ? おい。あんまり勝手を云うんじゃない、その身体は全体みんな、学校のお陰で出来たんだ。これからだって毎日麦のふすま二升阿麻仁二合と玉蜀黍の、粉五合ずつやるんだぞ、さあいい加減に判をつけ、さあつかないか。」  なるほど斯う怒り出して見ると、校長なんというものは、実際恐いものなんだ。豚はすっかりおびえて了い、 「つきます。つきます。」と、かすれた声で云ったのだ。 「よろしい、では。」と校長は、やっとのことに機嫌を直し、手早くあの死亡承諾書の、黄いろな紙をとり出して、豚の眼の前にひろげたのだ。 「どこへつけばいいんですか。」豚は泣きながら尋ねた。 「ここへ。おまえの名前の下へ。」校長はじっと眼鏡越しに、豚の小さな眼を見て云った。豚は口をびくびく横に曲げ、短い前の右肢を、きくっと挙げてそれからピタリと印をおす。 「うはん。よろしい。これでいい。」校長は紙を引っぱって、よくその判を調べてから、機嫌を直してこう云った。戸口で待っていたらしくあの意地わるい畜産の教師がいきなりやって来た。 「いかがです。うまく行きましたか。」 「うん。まあできた。ではこれは、あなたにあげて置きますから。ええ、肥育は何日ぐらいかね、」 「さあいずれ模様を見まして、鶏やあひるなどですと、きっと間違いなく肥りますが、斯う云う神経|過敏な豚は、或は強制肥育では甘く行かないかも知れません。」 「そうか。なるほど。とにかくしっかりやり給え。」  そして校長は帰って行った。今度は助手が変てこな、ねじのついたズックの管と、何かのバケツを持って来た。畜産の教師は云いながら、そのバケツの中のものを、一寸つまんで調べて見た。 「そいじゃ豚を縛って呉れ。」助手はマニラロープを持って、囲いの中に飛び込んだ。豚はばたばた暴れたがとうとう囲いの隅にある、二つの鉄の環に右側の、足を二本共縛られた。 「よろしい、それではこの端を、咽喉へ入れてやって呉れ。」畜産の教師は云いながら、ズックの管を助手に渡す。 「さあ口をお開きなさい。さあ口を。」助手はしずかに云ったのだが、豚は堅く歯を食いしばり、どうしても口をあかなかった。 「仕方ない。こいつを噛ましてやって呉れ。」短い鋼の管を出す。  助手はぎしぎしその管を豚の歯の間にねじ込んだ。豚はもうあらんかぎり、怒鳴ったり泣いたりしたが、とうとう管をはめられて、咽喉の底だけで泣いていた。助手はその鋼の管の間から、ズックの管を豚の咽喉まで押し込んだ。 「それでよろしい。ではやろう。」教師はバケツの中のものを、ズック管の端の漏斗に移して、それから変な螺旋を使い食物を豚の胃に送る。豚はいくら呑むまいとしても、どうしても咽喉で負けてしまい、その練ったものが胃の中に、入ってだんだん腹が重くなる。これが強制肥育だった。  豚の気持ちの悪いこと、まるで夢中で一日泣いた。  次の日教師が又来て見た。 「うまい、肥った。効果がある。これから毎日小使と、二人で二度ずつやって呉れ。」  こんな工合でそれから七日というものは、豚はまるきり外で日が照っているやら、風が吹いてるやら見当もつかず、ただ胃が無暗に重苦しくそれからいやに頬や肩が、ふくらんで来ておしまいは息をするのもつらいくらい、生徒も代る代る来て、何かいろいろ云っていた。  あるときは生徒が十人ほどやって来てがやがや斯う云った。 「ずいぶん大きくなったなあ、何貫ぐらいあるだろう。」 「さあ先生なら一目見て、何百目まで云うんだが、おれたちじゃちょっとわからない。」 「比重がわからないからなあ。」 「比重はわかるさ比重なら、大抵水と同じだろう。」 「どうしてそれがわかるんだい。」 「だって大抵そうだろう。もしもこいつを水に入れたら、きっと沈みも浮びもしない。」 「いいやたしかに沈まない、きっと浮ぶにきまってる。」 「それは脂肪のためだろう、けれど豚にも骨はある。それから肉もあるんだから、たぶん比重は一ぐらいだ。」 「比重をそんなら一として、こいつは何斗あるだろう。」 「五斗五升はあるだろう。」 「いいや五斗五升などじゃない。少く見ても八斗ある。」 「八斗なんかじゃきかないよ。たしかに九斗はあるだろう。」 「まあ、七斗としよう。七斗なら水一斗が五貫だから、こいつは丁度三十五貫。」 「三十五貫はあるな。」  こんなはなしを聞きながら、どんなに豚は泣いたろう。なんでもこれはあんまりひどい。ひとのからだを枡ではかる。七斗だの八斗だのという。  そうして丁度七日目に又あの教師が助手と二人、並んで豚の前に立つ。 「もういいようだ。丁度いい。この位まで肥ったらまあ極度だろう。この辺だ。あんまり肥育をやり過ぎて、一度病気にかかってもまたあとまわりになるだけだ。丁度あしたがいいだろう。今日はもう飼をやらんでくれ。それから小使と二人してからだをすっかり洗って呉れ。敷藁も新らしくしてね。いいか。」 「承知いたしました。」  豚はこれらの問答を、もう全身の勢力で耳をすまして聴いて居た。あんまり豚はつらいので、頭をゴツゴツ板へぶっつけた。  そのひるすぎに又助手が、小使と二人やって来た。そしてあの二つの鉄環から、豚の足を解いて助手が云う。 「いかがです、今日は一つ、お風呂をお召しなさいませ。すっかりお仕度ができて居ます。」  豚がまだ承知とも、何とも云わないうちに、鞭がピシッとやって来た。豚は仕方なく歩き出したが、あんまり肥ってしまったので、もううごくことの大儀なこと、三足で息がはあはあした。  そこへ鞭がピシッと来た。豚はまるで潰れそうになり、それでもようよう畜舎の外まで出たら、そこに大きな木の鉢に湯が入ったのが置いてあった。 「さあ、この中にお入りなさい。」助手が又一つパチッとやる。豚はもうやっとのことで、ころげ込むようにしてその高い縁を越えて、鉢の中へ入ったのだ。  小使が大きなブラッシをかけて、豚のからだをきれいに洗う。そのブラッシをチラッと見て、豚は馬鹿のように叫んだ。というわけはそのブラッシが、やっぱり豚の毛でできた。豚がわめいているうちにからだがすっかり白くなる。 「さあ参りましょう。」助手が又、一つピシッと豚をやる。  豚は仕方なく外に出る。寒さがぞくぞくからだに浸みる。豚はとうとうくしゃみをする。 「風邪を引きますぜ、こいつは。」小使が眼を大きくして云った。 「いいだろうさ。腐りがたくて。」助手が苦笑して云った。  豚が又畜舎へ入ったら、敷藁がきれいに代えてあった。寒さはからだを刺すようだ。それに今朝からまだ何も食べないので、胃ももうからになったらしく、あらしのようにゴウゴウ鳴った。  豚はもう眼もあけず頭がしんしん鳴り出した。ヨークシャイヤの一生の間のいろいろな恐ろしい記憶が、まるきり廻り燈籠のように、明るくなったり暗くなったり、頭の中を過ぎて行く。さまざまな恐ろしい物音を聞く。それは豚の外で鳴ってるのか、あるいは豚の中で鳴ってるのか、それさえわからなくなった。そのうちもういつか朝になり教舎の方で鐘が鳴る。間もなくがやがや声がして、生徒が沢山やって来た。助手もやっぱりやって来た。 「外でやろうか。外の方がやはりいいようだ。連れ出して呉れ。おい。連れ出してあんまりギーギー云わせないようにね。まずくなるから。」  畜産の教師がいつの間にか、ふだんとちがった茶いろなガウンのようなものを着て入口の戸に立っていた。  助手がまじめに入って来る。 「いかがですか。天気も大変いいようです。今日少しご散歩なすっては。」又一つ鞭をピチッとあてた。豚は全く異議もなく、はあはあ頬をふくらせて、ぐたっぐたっと歩き出す。前や横を生徒たちの、二本ずつの黒い足が夢のように動いていた。  俄かにカッと明るくなった。外では雪に日が照って豚はまぶしさに眼を細くし、やっぱりぐたぐた歩いて行った。  全体どこへ行くのやら、向うに一本の杉がある、ちらっと頭をあげたとき、俄かに豚はピカッという、はげしい白光のようなものが花火のように眼の前でちらばるのを見た。そいつから億百千の赤い火が水のように横に流れ出した。天上の方ではキーンという鋭い音が鳴っている。横の方ではごうごう水が湧いている。さあそれからあとのことならば、もう私は知らないのだ。とにかく豚のすぐよこにあの畜産の、教師が、大きな鉄槌を持ち、息をはあはあ吐きながら、少し青ざめて立っている。又豚はその足もとで、たしかにクンクンと二つだけ、鼻を鳴らしてじっとうごかなくなっていた。  生徒らはもう大活動、豚の身体を洗った桶に、も一度新らしく湯がくまれ、生徒らはみな上着の袖を、高くまくって待っていた。  助手が大きな小刀で豚の咽喉をザクッと刺しました。  一体この物語は、あんまり哀れ過ぎるのだ。もうこのあとはやめにしよう。とにかく豚はすぐあとで、からだを八つに分解されて、厩舎のうしろに積みあげられた。雪の中に一晩|漬けられた。  さて大学生諸君、その晩空はよく晴れて、金牛宮もきらめき出し、二十四日の銀の角、つめたく光る弦月が、青じろい水銀のひかりを、そこらの雲にそそぎかけ、そのつめたい白い雪の中、戦場の墓地のように積みあげられた雪の底に、豚はきれいに洗われて、八きれになって埋まった。月はだまって過ぎて行く。夜はいよいよ冴えたのだ。    一、ペンネンネンネンネン・ネネムの独立  〔冒頭原稿数枚焼失〕のでした。実際、東のそらは、お「キレ」さまの出る前に、琥珀色のビールで一杯になるのでした。ところが、そのまま夏になりましたが、ばけものたちはみんな騒ぎはじめました。  そのわけ〔十七字不明〕ばけもの麦も一向みのらず、大〔六字不明〕が咲いただけで一つぶも実になりませんでした。秋になっても全くその通〔七字不明〕栗の木さえ、ただ青いいがばかり、〔八字不明〕飢饉になってしまいました。  その年は暮れましたが、次の春になりますと飢饉はもうとてもひどくなってしまいました。  ネネムのお父さん、森の中の青ばけものは、ある日頭をかかえていつまでもいつまでも考えていましたが、急に起きあがって、 「おれは森へ行って何かさがして来るぞ。」と云いながら、よろよろ家を出て行きましたが、それなりもういつまで待っても帰って来ませんでした。たしかにばけもの世界の天国に、行ってしまったのでした。  ネネムのお母さんは、毎日目を光らせて、ため息ばかり吐いていましたが、ある日ネネムとマミミとに、 「わたしは野原に行って何かさがして来るからね。」と云って、よろよろ家を出て行きましたが、やはりそれきりいつまで待っても帰って参りませんでした。たしかにお母さんもその天国に呼ばれて行ってしまったのでした。  ネネムは小さなマミミとただ二人、寒さと飢えとにガタガタふるえて居りました。  するとある日戸口から、 「いや、今日は。私はこの地方の飢饉を救けに来たものですがね、さあ何でも喰べなさい。」と云いながら、一人の目の鋭いせいの高い男が、大きな籠の中に、ワップルや葡萄パンや、そのほかうまいものを沢山入れて入って来たのでした。  二人はまるで籠を引ったくるようにして、ムシャムシャムシャムシャ、沢山喰べてから、やっと、 「おじさんありがとう。ほんとうにありがとうよ。」なんて云ったのでした。  男は大へん目を光らせて、二人のたべる処をじっと見て居りましたがその時やっと口を開きました。 「お前たちはいい子供だね。しかしいい子供だというだけでは何にもならん。わしと一緒においで。いいとこへ連れてってやろう。尤も男の子は強いし、それにどうも膝やかかとの骨が固まってしまっているようだから仕方ないが、おい、女の子。おじさんとこへ来ないか。一日いっぱい葡萄パンを喰べさしてやるよ。」  ネネムもマミミも何とも返事をしませんでしたが男はふいっとマミミをお菓子の籠の中へ入れて、 「おお、ホイホイ、おお、ホイホイ。」と云いながら俄かにあわてだして風のように家を出て行きました。  何のことだかわけがわからずきょろきょろしていたマミミ〔一字不明〕、戸口を出てからはじめてわっと泣き出しネネムは、 「どろぼう、どろぼう。」と泣きながら叫んで追いかけましたがもう男は森を抜けてずうっと向うの黄色な野原を走って行くのがちらっと見えるだけでした。マミミの声が小さな白い三角の光になってネネムの胸にしみ込むばかりでした。  ネネムは泣いてどなって森の中をうろうろうろうろはせ歩きましたがとうとう疲れてばたっと倒れてしまいました。  それから何日|経ったかわかりません。  ネネムはふっと目をあきました。見るとすぐ頭の上のばけもの栗の木がふっふっと湯気を吐いていました。  その幹に鉄のはしごが両方から二つかかって二人の男が登って何かしきりにつなをたぐるような網を投げるようなかたちをやって居りました。  ネネムは起きあがって見ますとお「キレ」さまはすっかりふだんの様になっておまけにテカテカして何でも今朝あたり顔をきれいに剃ったらしいのです。  それにかれ草がほかほかしてばけものわらびなどもふらふらと生え出しています。ネネムは飛んで行ってそれをむしゃむしゃたべました。するとネネムの頭の上でいやに平べったい声がしました。 「おい。子供。やっと目がさめたな。まだお前は飢饉のつもりかい。もうじき夏になるよ。すこしおれに手伝わないか。」  見るとそれは実に立派なばけもの紳士でした。貝殻でこしらえた外套を着て水煙草を片手に持って立っているのでした。 「おじさん。もう飢饉は過ぎたの。手伝いって何を手伝うの。」 「昆布取りさ。」 「ここで昆布がとれるの。」 「取れるとも。見ろ。折角やってるじゃないか。」  なるほどさっきの二人は一生けん命網をなげたりそれを繰ったりしているようでしたが網も糸も一向見えませんでした。 「あれでも昆布がとれるの。」 「あれでも昆布がとれるのかって。いやな子供だな。おい、縁起でもないぞ。取れもしないところにどうして工場なんか建てるんだ。取れるともさ。現におれはじめ沢山のものがそれでくらしを立てているんじゃないか。」  ネネムはかすれた声でやっと 「そうですか。おじさん。」と云いました。 「それにこの森はすっかりおれの森なんだからさっきのように勝手にわらびなんぞ取ることは疾うに差し止めてあるんだぞ。」  ネネムは大変いやな気がしました。紳士は又云いました。 「お前もおれの仕事に手伝え。一日一ドルずつ手間をやるぜ。そうでもしなかったらお前は飯を食えまいぜ。」  ネネムは泣き出しそうになりましたがやっとこらえて云いました。 「おじさん。そんなら僕手伝うよ。けれどもどうして昆布を取るの。」 「ふん。そいつは勿論教えてやる。いいか、そら。」紳士はポケットから小さく畳んだ洋傘の骨のようなものを出しました。 「いいか。こいつを延ばすと子供の使うはしごになるんだ。いいか。そら。」  紳士はだんだんそれを引き延ばしました。間もなく長さ十|米ばかりの細い細い絹糸でこさえたようなはしごが出来あがりました。 「いいかい。こいつをね。あの栗の木に掛けるんだよ。ああ云う工合にね。」紳士はさっきの二人の男を指さしました。二人は相かわらず見えない網や糸をまっさおな空に投げたり引いたりしています。  紳士ははしごを栗の樹にかけました。 「いいかい。今度はおまえがこいつをのぼって行くんだよ。そら、登ってごらん。」  ネネムは仕方なくはしごにとりついて登って行きましたがはしごの段々がまるで針金のように細くて手や、足に喰い込んでちぎれてしまいそうでした。 「もっと登るんだよ。もっと。そら、もっと。」下では紳士が叫んでいます。ネネムはすっかり頂上まで登りました。栗の木の頂上というものはどうも実に寒いのでした。それに気がついて見ると自分の手からまるで蜘蛛の糸でこしらえたようなあやしい網がぐらぐらゆれながらずうっと青空の方へひろがっているのです。そのぐらぐらはだんだん烈しくなってネネムは危なく下に落ちそうにさえなりました。 「そら、網があったろう。そいつを空へ投げるんだよ。手がぐらぐら云うだろう。そいつはね、風の中のふかやさめがつきあたってるんだ。おや、お前はふるえてるね。意気地なしだなあ。投げるんだよ、投げるんだよ。そら、投げるんだよ。」  ネネムは何とも云えず厭な心持がしました。けれども仕方なく力|一杯にそれをたぐり寄せてそれからあらんかぎり上の方に投げつけました。すると目がぐるぐるっとして、ご機嫌のいいおキレさままでがまるで黒い土の球のように見えそれからシュウとはしごのてっぺんから下へ落ちました。もう死んだとネネムは思いましたがその次にもう耳が抜けたとネネムは思いました。というわけはネネムはきちんと地面の上に立っていて紳士がネネムの耳をつかんでぶりぶり云いながら立っていました。 「お前もいくじのないやつだ。何というふにゃふにゃだ。俺が今お前の耳をつかんで止めてやらなかったらお前は今ごろは頭がパチンとはじけていたろう。おれはお前の大恩人ということになっている。これから失礼をしてはならん。ところでさあ、登れ。登るんだよ。夕方になったらたべものも送ってやろう。夜になったら綿のはいったチョッキもやろう。さあ、登れ。」 「夕方になったら下へ降りて来るんでしょう。」 「いいや。そんなことがあるもんか。とにかく昆布がとれなくちゃだめだ。どれ一寸網を見せろ。」  紳士はネネムの手にくっついた網をたぐり寄せて中をあらためました。網のずうっとはじの方に一寸四方ばかりの茶色なヌラヌラしたものがついていました。紳士はそれを取って 「ふん、たったこれだけか。」と云いながらそれでも少し笑ったようでした。そしてネネムは又はしごを上って行きました。  やっと頂上へ着いて又力一杯空に網を投げました。それからわくわくする足をふみしめふみしめ網を引き寄せて見ましたが中にはなんにもはいっていませんでした。 「それ、しっかり投げろ。なまけるな。」下では紳士が叫んでいます。ネネムはそこで又投げました。やっぱりなんにもありません。又投げました。やっぱり昆布ははいりません。  つかれてヘトヘトになったネネムはもう何でも構わないから下りて行こうとしました。すると愕いたことにははしごがありませんでした。  そしてもう夕方になったと見えてばけものぞらは緑色になり変なばけものパンが下の方からふらふらのぼって来てネネムの前にとまりました。紳士はどこへ行ったか影もかたちもありません。  向うの木の上の二人もしょんぼりと頭を垂れてパンを食べながら考えているようすでした。その木にも鉄のはしごがもう見えませんでした。  ネネムも仕方なくばけものパンを噛じりはじめました。  その時紳士が来て、 「さあ、たべてしまったらみんな早く網を投げろ。昆布を一|斤とらないうちは綿のはいったチョッキをやらんぞ。」とどなりました。  ネネムは叫びました。 「おじさん。僕もうだめだよ。おろしてお呉れ。」  紳士が下でどなりました。 「何だと。パンだけ食ってしまってあとはおろしてお呉れだと。あんまり勝手なことを云うな。」 「だってもううごけないんだもの。」 「そうか。それじゃ動けるまでやすむさ。」と紳士が云いました。ネネムは栗の木のてっぺんに腰をかけてつくづくとやすみました。  その時栗の木が湯気をホッホッと吹き出しましたのでネネムは少し暖まって楽になったように思いました。そこで又元気を出して網を空に投げました。空では丁度星が青く光りはじめたところでした。  ところが今度の網がどうも実に重いのです。ネネムはよろこんでたぐり寄せて見ますとたしかに大きな大きな昆布が一枚ひらりとはいって居りました。  ネネムはよろこんで 「おじさん。さあ投げるよ。とれたよ。」 と云いながらそれを下へ落しました。 「うまい、うまい。よし。さあ綿のチョッキをやるぜ。」  チョッキがふらふらのぼって来ました。ネネムは急いでそれを着て云いました。 「おじさん。一ドル呉れるの。」  紳士が下の浅黄色のもやの中で云いました。 「うん。一ドルやる。しかしパンが一日一ドルだからな。一日十斤以上こんぶを取ったらあとは一斤十セントで買ってやろう。そのよけいの分がおまえのもうけさ。ためて置いていつでも払ってやるよ。その代り十斤に足りなかったら足りない分がお前の損さ。その分かしにして置くよ。」  ネネムは実にがっかりしました。向うの木の二人の男はもういくら星あかりにすかして見ても居ないようでした。きっとあんまり仕事がつらくて消滅してしまったのでしょう。さてネネムは決心しました。それからよるもひるも栗の木の湯気とばけものパンと見えない網と紳士と昆布と、これだけを相手にして実に十年というものこの仕事をつづけました。これらの対手の中でもパンと昆布とがまず大将でした。はじめの四年は毎日毎日借りばかり次の五年でそれを払いおしまいの三ヶ月でお金がたまりました。そこで下に降りてたまった三百ドルをふところにしてばけもの世界のまちの方へ歩き出しました。    二、ペンネンネンネンネン・ネネムの立身  ペンネンネンネンネン・ネネムは十年のあいだ木の上に直立し続けた為にしきりに痛む膝を撫でながら、森を出て参りました。森の出口に小さな雑貨商がありましたので、ネネムは店にはいって、まっ黒な上着とズボンを一つ買いました。それから急いでそれを着ながら考えました。 「何か学問をして書記になりたいもんだな。もう投げるようなたぐるようなことは考えただけでも命が縮まる。よしきっと書記になるぞ。」  ペンネンネンネンネン・ネネムはお銭を払って店を出る時ちらっと向うの姿見にうつった自分の姿を見ました。  着物が夜のようにまっ黒、縮れた赤毛が頭から肩にふさふさ垂れまっ青な眼はかがやきそれが自分だかと疑った位立派でした。  ネネムは嬉しくて口笛を吹いてただ一息に三十ノットばかり走りました。 「ハンムンムンムンムン・ムムネの市まで、もうどれ位ありましょうか。」とペンネンネンネンネン・ネネムが、向うからふらふらやって来た黄色な影法師のばけ物にたずねました。 「そうだね。一寸ここまでおいで。」その黄色な幽霊は、ネネムの四角な袖のはじをつまんで、一本のばけものりんごの木の下まで連れて行って、自分の片足をりんごの木の根にそろえて置いて云いました。 「あなたも片足をここまで出しなさい。」  ネネムは急いでその通りしますとその黄色な幽霊は、屈んで片っ方の目をつぶって、足さきがりんごの木の根とよくそろっているか検査したあとで云いました。 「いいか。ハンムンムンムンムン・ムムネ市の入口までは、丁度この足さきから六ノット六チェーンあるよ。それでは途中気をつけておいで。」そしてくるっとまわって向うへ行ってしまいました。  ネネムはそのうしろから、ていねいにお辞儀をして、 「ああありがとうございます。六ノット六チェーンならば、私が一時間一ノット一チェーンずつあるきますと六時間で参れます。一時間三ノット三チェーンずつあるきますと二時間で参れます。すっかり見当がつきまして、こんなうれしいことはありません。」と云いながら、もう一つ頭を下げました。赤毛はじゃらんと下に垂がりましたけれども、実は黄色の幽霊はもうずうっと向うのばけもの世界のかげろうの立つ畑の中にでもはいったらしく、影もかたちもありませんでした。  そこでネネムは又あるき出しました。すると又向うから無暗にぎらぎら光る鼠色の男が、赤いゴム靴をはいてやって参りました。そしてネネムをじろじろ見ていましたが、突然そばに走って来て、ネネムの右の手首をしっかりつかんで云いました。 「おい。お前は森の中の昆布採りがいやになってこっちへ出て来た様子だが、一体これから何が目的だ。」  ネネムはこれはきっと探偵にちがいないと思いましたので、堅くなって答えました。 「はい。私は書記が目的であります。」  するとその男は左手で短いひげをひねって一寸考えてから云いました。 「ははあ、書記が目的か。して見ると何だな。お前は森の中であんまりばけものパンばかり喰ったな。」  ネネムはすっかり図星をさされて、面くらって左手で頭を掻きました。 「はい実は少少たべすぎたかと存じます。」 「そうだろう。きっとそうにちがいない。よろしい。お前の身分や考えはよく諒解した。行きなさい。わしはムムネ市の刑事だ。」  ネネムはそこでやっと安心してていねいにおじぎをして又町の方へ行きました。  丁度一時間と六分かかって、三ノット三チェーンを歩いたとき、ネネムは一人の百姓のおかみさんばけものと会いました。その人は遠くからいかにも不思議そうな顔をして来ましたが、とうとう泣き出してかけ寄りました。 「まあ、クエクや。よく帰っておいでだね。まあ、お前はわたしを忘れてしまったのかい。ああなさけない。」  ネネムは少し面くらいましたが、ははあ、これはきっと人ちがいだと気がつきましたので急いで云いました。 「いいえ、おかみさん。私はクエクという人ではありません。私はペンネンネンネンネン・ネネムというのです。」  するとその橙色の女のばけものはやっと気がついたと見えて俄かに泣き顔をやめて云いました。 「これはどうもとんだ失礼をいたしました。あなたのおなりがあんまりせがれそっくりなもんですから。」 「いいえ。どう致しまして。私は今度はじめてムムネの市に出る処です。」 「まあ、そうでしたか。うちのせがれも丁度あなたと同じ年ころでした。まあ、お髪のちぢれ工合から、お耳のキラキラする工合、何から何までそっくりです。それにまあ、なめくじばけもののような柔らかなおあしに、硬いはがねのわらじをはいて、なにが御志願でいらしゃるのやら。おお、うちのせがれもこんなわらじでどこを今ごろ、ポオ、ポオ、ポオ、ポオ。」とそのおかみさんばけものは泣き出しました。ネネムは困って、 「ね、おかみさん。あなたのむすこさんは、もうきっとどこかの書記になってるんでしょう。きっとじきお迎いをよこすにちがいありません。そんなにお泣きなさらなくてもいいでしょう。私は急ぎますからこれで失礼いたします。」と云いながらクラリオネットのようなすすり泣きの声をあとに、急いでそこを立ち去りました。  さてそれから十五分でネネムはムムネの市までもう三チェーンの所まで来ました。ネネムはそこで髪をすっかり直して、それから路ばたの水銀の流れで顔を洗い、市にはいって行く支度をしました。  それからなるべく心を落ちつけてだんだん市に近づきますと、さすがはばけもの世界の首府のけはいは、早くもネネムに感じました。  ノンノンノンノンノンといううなりは地の〔以下原稿数枚分焼失〕 「今授業中だよ。やかましいやつだ。用があるならはいって来い。」とどなりましたので、学校の建物はぐらぐらしました。  ネネムはそこで思い切って、なるべく足音を立てないように二階にあがってその教室にはいりました。教室の広いことはまるで野原です。さまざまの形、とうがらしや、臼や、鋏や、赤や白や、実にさまざまの学生のばけものがぎっしりです。向うには大きな崖のくらいある黒板がつるしてあって、せの高さ百尺あまりのさっきの先生のばけものが、講義をやって居りました。 「それでその、もしも塩素が赤い色のものならば、これは最も明らかな不合理である。黄色でなくてはならん。して見ると黄色という事はずいぶん大切なもんだ。黄という字はこう書くのだ。」  先生は黒板を向いて、両手や鼻や口や肱やカラアや髪の毛やなにかで一ぺんに三百ばかり黄という字を書きました。生徒はみんな大急ぎで筆記帳に黄という字を一杯書きましたがとても先生のようにうまくは出来ません。  ネネムはそっと一番うしろの席に座って、隣りの赤と白のまだらのばけもの学生に低くたずねました。 「ね、この先生は何て云うんですか。」 「お前知らなかったのかい。フゥフィーボー博士さ。化学の。」とその赤いばけものは馬鹿にしたように目を光らせて答えました。 「あっ、そうでしたか。この先生ですか。名高い人なんですね。」とネネムはそっとつぶやきながら自分もふところから鉛筆と手帳を出して筆記をはじめました。  その時教室にパッと電燈がつきました。もう夕方だったのです。博士が向うで叫んでいます。 「しからば何が故に夕方緑色が判然とするか。けだしこれはプウルウキインイイの現象によるのである。プウルウキインイイとはこう書く。」  博士はみみずのような横文字を一ぺんに三百ばかり書きました。ネネムも一生けん命書きました。それから博士は俄かに手を大きくひろげて 「げにも、かの天にありて濛々たる星雲、地にありてはあいまいたるばけ物律、これはこれ宇宙を支配す。」と云いながらテーブルの上に飛びあがって腕を組み堅く口を結んできっとあたりを見まわしました。  学生どもはみんな興奮して 「ブラボオ。フゥフィーボー先生。ブラボオ。」と叫んでそれからバタバタ、ノートを閉じました。ネネムもすっかり釣り込まれて、 「ブラボオ。」と叫んで堅く堅く決心したように口を結びました。この時先生はやっとほんのすこうし笑って一段声を低くして云いました。 「みなさん。これからすぐ卒業試験にかかります。一人ずつ私の前をお通りなさい。」と云いました。  学生どもは、そこで一人ずつ順々に、先生の前を通りながらノートを開いて見せました。  先生はそれを一寸見てそれから一言か二言質問をして、それから白墨でせなかに「及」とか「落」とか「同情及」とか「退校」とか書くのでした。  書かれる間学生はいかにもくすぐったそうに首をちぢめているのでした。書かれた学生は、いかにも気がかりらしく、そっと肩をすぼめて廊下まで出て、友達に読んで貰って、よろこんだり泣いたりするのでした。ぐんぐんぐんぐん、試験がすんで、いよいよネネム一人になりました。ネネムがノートを出した時、フゥフィーボー博士は大きなあくびをやりましたので、ノートはスポリと先生に吸い込まれてしまいました。先生はそれを別段気にかけるでもないらしく、コクッと呑んでしまって云いました。 「よろしい。ノートは大へんによく出来ている。そんなら問題を答えなさい。煙突から出るけむりには何種類あるか。」 「四種類あります。もしその種類を申しますならば、黒、白、青、無色です。」 「うん。無色の煙に気がついた所は、実にどうも偉い。そんなら形はどうであるか。」 「風のない時はたての棒、風の強い時は横の棒、その他はみみずなどの形。あまり煙の少ない時はコルク抜きのようにもなります。」 「よろしい。お前は今日の試験では一等だ。何か望みがあるなら云いなさい。」 「書記になりたいのです。」 「そうか。よろしい。わしの名刺に向うの番地を書いてやるから、そこへすぐ今夜行きなさい。」  ネネムは名刺を呉れるかと思って待っていますと、博士はいきなり白墨をとり直してネネムの胸に、「セム二十二号。」と書きました。  ネネムはよろこんで叮寧におじぎをして先生の処から一足退きますと先生が低く、 「もう藁のオムレツが出来あがった頃だな。」と呟やいてテーブルの上にあった革のカバンに白墨のかけらや講義の原稿やらを、みんな一緒に投げ込んで、小脇にかかえ、さっき顔を出した窓からホイッと向うの向うの黒い家をめがけて飛び出しました。そしてネネムはまちをこめた黄色の夕暮の中の物干台にフゥフィーボー博士が無事に到着して家の中に入って行くのをたしかに見ました。  そこでネネムは教室を出てはしご段を降りますと、そこには学生が実に沢山泣いていました。全く三千六百五十三回、則ち閏年も入れて十年という間、日曜も夏休みもなしに落第ばかりしていては、これが泣かないでいられましょうか。けれどもネネムは全くそれとは違います。  元気よく大学校の門を出て、自分の胸の番地を指さして通りかかったくらげのようなばけものに、どう行ったらいいかをたずねました。  するとそのばけものは、ひどく叮寧におじぎをして、 「ええ。それは世界裁判長のお邸でございます。ここから二チェーンほどおいでになりますと、大きな粘土でかためた家がございます。すぐおわかりでございましょう。どうか私もよろしくお引き立てをねがいます。」と云って又叮寧におじぎをしました。  ネネムはそこで一時間一ノット一チェーンの速さで、そちらへ進んで参りました。たちまち道の右側に、その粘土作りの大きな家がしゃんと立って、世界裁判長|官邸と看板がかかって居りました。 「ご免なさい。ご免なさい。」とネネムは赤い髪を掻きながら云いました。  すると家の中からペタペタペタペタ沢山の沢山のばけものどもが出て参りました。  みんなまっ黒な長い服を着て、恭々しく礼をいたしました。 「私は大学校のフゥフィーボー先生のご紹介で参りましたが世界裁判長に一寸お目にかかれましょうか。」  するとみんなは口をそろえて云いました。 「それはあなたでございます。あなたがその裁判長でございます。」 「なるほど、そうですか。するとあなた方は何ですか。」 「私どもはあなたの部下です。判事や検事やなんかです。」 「そうですか。それでは私はここの主人ですね。」 「さようでございます。」  こんなような訳でペンネンネンネンネン・ネネムは一ぺんに世界裁判長になって、みんなに囲まれて裁判長室の海綿でこしらえた椅子にどっかりと座りました。  すると一人の判事が恭々しく申しました。 「今晩開廷の運びになっている件が二つございますが、いかがでございましょうお疲れでいらっしゃいましょうか。」 「いいや、よろしい。やります。しかし裁判の方針はどうですか。」 「はい。裁判の方針はこちらの世界の人民が向うの世界になるべく顔を出さぬように致したいのでございます。」 「わかりました。それではすぐやります。」  ネネムはまっ白なちぢれ毛のかつらを被って黒い長い服を着て裁判室に出て行きました。部下がもう三十人ばかり席についています。  ネネムは正面の一番高い処に座りました。向うの隅の小さな戸口から、ばけものの番兵に引っぱられて出て来たのはせいの高い眼の鋭い灰色のやつで、片手にほうきを持って居りました。一人の検事が声高く書類を読み上げました。 「ザシキワラシ。二十二|歳。アツレキ三十一年二月七日、表、日本岩手県|上閉伊郡|青笹村|字瀬戸二十一番戸伊藤万太の宅、八畳座敷中に故なくして擅に出現して万太の長男千太、八歳を気絶せしめたる件。」 「よろしい。わかった。」とネネムの裁判長が云いました。 「姓名|年齢、その通りに相違ないか。」 「相違ありません。」 「その方はアツレキ三十一年二月七日、伊藤万太方の八畳座敷に故なくして擅に出現したることは、しかとその通りに相違ないか。」 「全く相違ありません。」 「出現後は何を致した。」 「ザシキをザワッザワッと掃いて居りました。」 「何の為に掃いたのだ。」 「風を入れる為です。」 「よろしい。その点は実に公益である。本官に於て大いに同情を呈する。しかしながらすでに妄りに人の居ない座敷の中に出現して、箒の音を発した為に、その音に愕ろいて一寸のぞいて見た子供が気絶をしたとなれば、これは明らかな出現罪である。依って今日より七日間当ムムネ市の街路の掃除を命ずる。今後はばけもの世界長の許可なくして、妄りに向う側に出現することはならん。」 「かしこまりました。ありがとうございます。」 「実に名断だね。どうも実に今度の長官は偉い。」と判事たちは互にささやき合いました。  ザシキワラシはおじぎをしてよろこんで引っ込みました。  次に来たのは鳶色と白との粘土で顔をすっかり隈取って、口が耳まで裂けて、胸や足ははだかで、腰に厚い簑のようなものを巻いたばけものでした。一人の判事が書類を読みあげました。 「ウウウウエイ。三十五歳。アツレキ三十一年七月一日夜、表、アフリカ、コンゴオの林中の空地に於て故なくして擅に出現、舞踏中の土地人を恐怖散乱せしめたる件。」 「よろしい、わかった。」とネネムは云いました。 「姓名年齢その通りに相違ないか。」 「へい。その通りです。」 「その方はアツレキ三十一年七月一日夜、アフリカ、コンゴオの林中空地に於て、故なくして擅に出現、折柄月明によって歌舞、歓をなせる所の一群を恐怖散乱せしめたことは、しかとその通りにちがいないか。」 「全くその通りです。」 「よろしい。何の目的で出現したのだ。既に法律上故なく擅となってあるが、その方の意中を今一応|尋ねよう。」 「へい。その実は、あまり面白かったもんですから。へい。どうも相済みません。あまり面白かったんで。ケロ、ケロ、ケロ、ケロロ、ケロ、ケロ。」 「控えろ。」 「へい。全くどうも相済みません。恐れ入りました。」 「うん。お前は、最明らかな出現罪である。依って明日より二十二日間、ムッセン街道の見まわりを命ずる。今後ばけものの世界長の許可なくして、妄りに向側に出現いたしてはならんぞ。」 「かしこまりました。ありがとうございます。」そのばけものも引っ込みました。 「実に名断だ。いい判決だね。」とみんなささやき合いました。その時向うの窓がガタリと開いて 「どうだ、いい裁判長だろう。みんな感心したかい。」と云う声がしました。それはさっきの灰色の一メートルある顔、フゥフィーボー先生でした。 「ブラボオ。フゥフィーボー博士。ブラボオ。」と判事も検事もみんな怒鳴りました。その時はもう博士の顔は消えて窓はガタンとしまりました。  そこでネネムは自分の室に帰って白いちぢれ毛のかつらを除りました。それから寝ました。  あとはあしたのことです。    三、ペンネンネンネンネン・ネネムの巡視  ばけもの世界裁判長になったペンネンネンネンネン・ネネムは、次の朝六時に起きて、すぐ部下の検事を一人呼びました。 「今日は何時に公判の運びになっているか。」 「本日もやはり晩の七時から二件だけございます。」 「そうか。よろしい。それでは今朝は八時から世界長に挨拶に出よう。それからすぐ巡視だ。みんなその支度をしろ。」 「かしこまりました。」  そこでペンネンネンネンネン・ネネムは、燕麦を一|把と、豆汁を二リットルで軽く朝飯をすまして、それから三十人の部下をつれて世界長の官邸に行きました。  ばけもの世界長は、もう大広間の正面に座って待っています。世界長は身のたけ百九十尺もある中世代の瑪瑙木でした。  ペンネンネンネンネン・ネネムは、恭々しく進んで片膝を床につけて頭を下げました。 「ペンネンネンネンネン・ネネム裁判長はおまえであるか。」 「さようでございます。永久に忠勤を誓い奉ります。」 「うん。しっかりやって呉れ。ゆうべの裁判のことはもう聞いた。それに今朝はこれから巡視に出るそうだな。」 「はい。恐れ入ります。」 「よろしい。どうかしっかりやって呉れ。」 「かしこまりました。」  そこでペンネンネンネンネン・ネネムは又うやうやしく世界長に礼をして、後戻りして退きました。三十人の部下はもう世界長の首尾がいいので大喜びです。  ペンネンネンネンネン・ネネムも大機嫌でそれから町を巡視しはじめました。  ばけもの世界のハンムンムンムンムン・ムムネ市の盛んなことは、今日とて少しも変りません。億百万のばけものどもは、通り過ぎ通りかかり、行きあい行き過ぎ、発生し消滅し、聨合し融合し、再現し進行し、それはそれは、実にどうも見事なもんです。ネネムもいまさらながら、つくづくと感服いたしました。  その時向うから、トッテントッテントッテンテンと、チャリネルという楽器を叩いて、小さな赤い旗をたてた車が、ほんの少しずつこっちへやって来ました。見物のばけものがまるで赤山のようにそのまわりについて参ります。  ペンネンネンネンネン・ネネムは、行きあいながらふと見ますと、その赤い旗には、白くフクジロと染め抜いてあって、その横にせいの高さ三尺ばかりの、顔がまるでじじいのように皺くちゃな殊に鼻が一尺ばかりもある怖い子供のようなものが、小さな半ずぼんをはいて立ち、車を引っ張っている黒い硬いばけものから、「フクジロ印」という商標のマッチを、五つばかり受け取っていました。ネネムは何をするのかと思ってもっと見ていますと、そのいやなものはマッチを持ってよちよち歩き出しました。  赤山のようなばけものの見物は、わいわいそれについて行きます。一人の若いばけものが、うしろから押されてちょっとそのいやなものにさわりましたら、そのフクジロといういやなものはくるりと振り向いて、いきなりピシャリとその若ばけものの頬ぺたを撲りつけました。  それからいやなものは向うの荒物屋に行きました。その荒物屋というのは、ばけもの歯みがきや、ばけもの楊子や、手拭やずぼん、前掛などまで、すべてばけもの用具一式を売っているのでした。  フクジロがよちよちはいって行きますと、荒物屋のおかみさんは、怖がって逃げようとしました。おかみさんだって顔がまるで獏のようで、立派なばけものでしたが、小さくてしわくちゃなフクジロを見ては、もうすっかりおびえあがってしまったのでした。 「おかみさん。フクジロ・マッチ買ってお呉れ。」  おかみさんはやっと気を落ちつけて云いました。 「いくらですか。ひとつ。」 「十円。」  おかみさんは泣きそうになりました。 「さあ買ってお呉れ。買わなかったら踊をやるぜ。」 「買います、買います。踊の方はいりません。そら、十円。」おかみさんは青くなってブルブルしながら銭函からお金を集めて十円出しました。 「ありがとう。ヘン。」と云いながらそのいやなものは店を出ました。  そして今度は、となりのばけもの酒屋にはいりました。見物はわいわいついて行きます。酒屋のはげ頭のおじいさんばけものも、やっぱりぶるぶるしながら十円出しました。  その隣はタン屋という店でしたが、ここでも主人が黄色な顔を緑色にしてふるえながら、十円でマッチ一つ買いました。 「これはいかん。実にけしからん。こう云ういやなものが町の中を勝手に歩くということはおれの恥辱だ。いいからひっくくってしまえ。」とペンネンネンネンネン・ネネムは部下の検事に命令しました。一人の検事がすぐ進んで行ってタン屋の店から出て来るばかりのそのいやなものをくるくる十重ばかりにひっくくってしまいました。ペンネンネンネンネン・ネネムがみんなを押し分けて前に出て云いました。 「こら。その方は自分の顔やかたちのいやなことをいいことにして、一つ一銭のマッチを十円ずつに家ごと押しつけてあるく。悪いやつだ。監獄に連れて行くからそう思え。」  するとそのいやなものは泣き出しました。 「巡査さん。それはひどいよ。僕はいくらお金を貰ったって自分で一銭もとりはしないんだ。みんな親方がしまってしまうんだよ。許してお呉れ。許してお呉れ。」  ネネムが云いました。 「そうか。するとお前は毎日ただ引っぱり廻されて稼がせられる丈けだな。」 「そうだよ、そうだよ。僕を太夫さんだなんて云いながら、ひどい目にばかりあわすんだよ。ご飯さえ碌に呉れないんだよ。早く親方をつかまえてお呉れ。早く、早く。」今度はそのいやなものが俄かに元気を出しました。  そこで 「あの車のとこに居るものを引っくくれ。」とネネムが云いました。丁度出て来た巡査が三人ばかり飛んで行って、車にポカンと腰掛けて居た黒い硬いばけものを、くるくるくるっと縛ってしまいました。ネネムはいやなものと一緒にそっちへ行きました。 「こら。きさまはこんなかたわなあわれなものをだしにして、一銭のマッチを十円ずつに売っている。さあ監獄へ連れて行くぞ。」  親方が泣き出しそうになって口早に云いました。 「お役人さん。そいつぁあんまり無理ですぜ。わしぁ一日|一杯あるいてますがやっと喰うだけしか貰わないんです。あとはみんな親方がとってしまうんです。」 「ふん、そうか。その親方はどこに居るんだ。」 「あすこに居ます。」 「どれだ。」 「あのまがり角でそらを向いてあくびをしている人です。」 「よし。あいつをしばれ。」まがり角の男は、しばられてびっくりして、口をパクパクやりました。ネネムは二人を連れてそっちへ歩いて行って云いました。 「こらきさまは悪いやつだ。何も文句を云うことはない。監獄にはいれ。」 「これはひどい。一体どうしたのです。ははあ、フクジロもタンイチもしばられたな。その事ならなあに私はただこうやって監督に云いつかって車を見ている丈でございます。私は日給三十銭の外に一銭だって貰やしません。」 「ふん。どうも実にいやな事件だ。よし、お前の監督はどこに居るか、云え。」 「向うの電信柱の下で立ったまま居睡りをしているあの人です。」 「そうか。よろしい。向うの電信ばしらの下のやつを縛れ。」巡査や検事がすぐ飛んで行こうとしました。その時ネネムは、ふともっと向うを見ますと、大抵五間|隔きぐらいに、あくびをしたりうでぐみをしたり、ぼんやり立っているものがまだまだたくさん続いています。そこでネネムが云いました。 「一寸待て。まだ向うにも監督が沢山居るようだ。よろしい。順ぐりにみんなしばって来い。一番おしまいのやつを逃がすなよ。さあ行け。」  十人ばかりの検事と十人ばかりの巡査がふうとけむりのように向うへ走って行きました。見る見る監督どもが、みんなペタペタしばられて十五分もたたないうちに三十人というばけものが一列にずうっとつづいてひっぱられて来ました。 「一番おしまいのやつはこいつか。」とネネムが緑色の大へんハイカラなばけものをゆびさしました。 「そうです。」みんなは声をそろえて云います。 「よろしい。こら。その方は、あんなあわれなかたわを使って一銭のマッチを十円に売っているとは一体どう云うわけだ。それに三十二人も人を使って、あくまで自分の悪いことをかくそうとは実にけしからん。さあどうだ。」  ところが緑色のハイカラなばけものは口を尖らして、一向恐れ入りません。 「これはけしからん。私はそんなことをした覚えはない。私は百二十年前にこの方に九円だけ貸しがあるので今はもう五千何円になっている。わしはこの方のあとをつけて歩いて毎日、日プで三十円ずつとる商売なんだ。」と云いながら自分の前のまっ赤なハイカラなばけものを指さしました。  するとその赤色のハイカラが云いました。 「その通りだ。私はこの人に毎日三十円ずつ払う。払っても払っても元金は殖えるばかりだ。それはとにかく私は又この前のお方に百四十年前に非常な貸しがあるのでそれをもとでに毎日この人について歩いて実は五十円ずつとっているのだ。マッチの罪とかなんとか一向私はしらない。」と云いながら自分の前の青い色のハイカラなばけものを指さしました。すると青いのが云いました。 「その通りだ。わしは毎日五十円ずつ払う。そしてわしはこの前のお方に二百年前かなりの貸しがあるのでそれをもとでに毎日ついて歩いて百円ずつとるだけなのだ。」  指されたその前の黄色なハイカラが云いました。 「そうだ。その通りだ。そしてわしはこの前のお方に昔すてきなかしがあるので、毎日ついて歩いて三百円ずつとるのだ。」 「ふうん。大分わかって来たぞ。あとはもう貸した年と今とる金だかだけを云え。」とネネムが申しました。 「二百五十年五百円」「三百年、千円」「三百一年、千七円」「三百二年、千八円」「三百三年、千九円」「三百四年、千十円。」  ネネムはすばやく勘定しました。 「もうわかった。第三十番。電信柱の下の立ちねむり。おまえは千三十円とっているだろう。」 「全くさようでございます。ご明察恐れ入ります。」  その時さっきの角のところに立って、あくびをしていた監督が云いました。 「どうです。そうでしょう。私は毎日千三十円三十銭だけとって、千三十円だけこの人に納めるのです。」  ネネムが云いました。 「そうか。すると一体|誰がフクジロを使って歩かせているのだ。」 「私にはわかりません。私にはわかりません。」とみんなが一度に云いました。そこでネネムも一寸|困りましたがしばらくたってから申しました。 「よし。そんならフクジロのマッチを売っていることを知っているものは手をあげ。」  硬い黒いタンイチはじめ順ぐりに十人だけ手をあげました。 「よろしい。すると十人目の貴さまが一番悪い。監獄にはいれ。」 「いいえ。どういたしまして。私はただフクジロのマッチを売っていることを遠くから見ているだけでございます。それを十円に売るなんて、めっそうな、私は一向に存じません。」 「どうもこれはずいぶん不愉快な事件だね。よろしい。そんならフクジロがマッチを十円で売るということを知っているものは手をあげ。」  硬い黒いタンイチからただ三人でした。 「するとお前だ。監獄にはいれ。」とネネムが云いました。 「それはさっきも申しあげました。私はただ命令で見ていただけです。」 「するとお前は十円に売ることは知っている、けれどもただ云いつかっているだけだというのだな、それから次のお前は云いつけてはいる。けれども十円に売れなんて云ったおぼえもなし又十円に売っているとも思わない、ただまあ、フクジロがよちよち家を出たりはいったりして、それでよくこんなにもうかるもんだと思っていたと、こうだろう。」 「全くご名察の通り。」と二人が一緒に云いました。 「よろしい。もうわかった。お前がたに云い渡す。これは順ぐりに悪いことがたまって来ているのだ。百年も二百年もの前に貸した金の利息を、そんなハイカラななりをして、毎日ついてあるいてとるということは、けしからん。殊にそれが三十人も続いているというのは実にいけないことだ。おまえたちはあくびをしたりいねむりをしたりしながら毎日を暮して食事の時間だけすぐ近くの料理屋にはいる、それから急いで出て来て前の者がまだあまり遠くへ行っていないのを見てやっと安心するなんという実にどうも不届きだ。それからおれがもうけるんじゃないと云うので、悪いことをぐんぐんやるのもあまりよくない。だからみんな悪い。みんなを罪にしなければならない。けれどもそれではあんまりかあいそうだから、どうだ、みんな一ぺんに今の仕事をやめてしまえ。そこでフクジロはおれがどこかの玩具の工場の小さな室で、ただ一人仕事をして、時々お菓子でもたべられるようにしてやろう。あとのものはみんな頑丈そうだから自分で勝手に仕事をさがせ。もしどうしても自分でさがせなかったらおれの所に相談に来い。」 「かしこまりました。ありがとうございます。」みんなはフクジロをのこして赤山のような人をわけてちりぢりに逃げてしまいました。そこでネネムは一人の検事をつけてフクジロを張子の虎をこさえる工場へ送りました。  見物人はよろこんで、 「えらい裁判長だ。えらい裁判長だ。」とときの声をあげました。そこでネネムは又巡視をはじめました。  それから少し行きますと通りの右側に大きな泥でかためた家があって世界警察長|官邸と看板が出て居りました。 「一寸はいって見よう。」と云いながらネネムは玄関に立ちました。その家中が俄かにザワザワしてそれから警察長がさきに立って案内しました。一通り中の設備を見てからネネムは警察長と向い合って一つのテーブルに座りました。警察長は新聞のくらいある名刺を出してひろげてネネムに恭々しくよこしました。見ると、  ケンケンケンケンケンケン・クエク警察長 と書いてあります。ネネムは 「はてな、クエクと、どうも聞いたような名だ。一寸突然ですがあなたはこの近在の農家のご出身ですか。」と云いました。  すると警察長はびっくりしたらしく、 「全くご明察の通りです。」と答えました。 「それではあなたは無断で家から逃げておいでになりましたね。お母さんが大へん泣いておいでですよ。」とネネムが云いました。 「いや、全く。実は昨晩も電報を打ちましたようなわけで、実はその、逃げたというわけでもありません。丁度一昨昨日の朝、一寸した用事で家から大学校の小使室まで参りましたのですが、ついそのフゥフィーボー博士の講義につり込まれまして昨日まで三日というもの、聴いたり落第したり、考えたりいたしました。昨晩やっと及第いたしましてこちらに赴任いたしました。」 「ハッハッハ。そうですか。それは結構でした。もう電報をおかけでしたか。」 「はい。」  そこでネネムも全く感服してそれから警察長の家を出てそれから又グルグルグルグル巡視をして、おひるごろ、ばけもの世界裁判長の官邸に帰りました。おひるのごちそうは藁のオムレツでした。    四、ペンネンネンネンネン・ネネムの安心  ばけもの世界裁判長、ペンネンネンネンネン・ネネムの評判は、今はもう非常なものになりました。この世界が、はじめ一|疋のみじんこから、だんだん枝がついたり、足が出来たりして発達しはじめて以来、こんな名判官は実にはじめてだとみんなが申しました。  シャァロンというばけものの高利貸でさえ、ああ実にペンネンネンネンネン・ネネムさまは名判官だ、ダニーさまの再来だ、いやダニーさまの発達だとほめた位です。  ばけもの世界長からは、毎日一つずつ位をつけて来ましたし、勲章を贈ってよこしましたので、今はその位を読みあげるだけに二時間かかり、勲章はネネムの室の壁一杯になりました。それですから、何かの儀式でネネムが式辞を読んだりするときは、その位を読むのがつらいので、それをあらかじめ三十に分けて置いて、三十人の部下に一ぺんにがやがやと読み上げて貰うようにしていましたが、それでさえやはり四分はかかりました。勲章だってその通りです。どうしてネネムの胸につけ切れるもんではありませんでしたから、ネネムの大礼服の上着は、胸の処から長さ十|米ばかりの切れがずうと続いて、それに勲章をぞろっとつけて、その帯のようなものを、三十人の部下の人たちがぞろぞろ持って行くのでした。さてネネムは、この様な大へんな名誉を得て、そのほかに、みなさんももうご存知でしょうが、フゥフィーボー博士のほかに、誰も決して喰べてならない藁のオムレツまで、ネネムは喰べることを許されていました。それですから、誰が考えてもこんな幸福なことがない筈だったのですが、実はネネムは一向面白くありませんでした。それというのは、あのネネムが八つの飢饉の年、お菓子の籠に入れられて、「おおホイホイ、おおホイホイ。」と云いながらさらって行かれたネネムの妹のマミミのことが、一寸も頭から離れなかった為です。  そこでネネムは、ある日、テーブルの上の鈴をチチンと鳴らして、部下の検事を一人、呼びました。 「一寸君にたずねたいことがあるのだが。」 「何でございますか。」 「膝やかかとの骨の、まだ堅まらない小さな女の子をつかう商売は、一体どんな商売だろう。」  検事はしばらく考えてから答えました。 「それはばけもの奇術でございましょう。ばけもの奇術師が、よく十二三位までの女の子を、変身術だと申して、ええこんどは犬の形、ええ今度は兎の形などと、ばけものをしんこ細工のように延ばしたり円めたり、耳を附けたり又とったり致すのをよく見受けます。」 「そうか。そして、そんなやつらは一体世界中に何人位あるのかな。」 「左様。一昨年の調べでは、奇術を職業にしますものは、五十九人となって居りますが、只今は大分減ったかと存ぜられます。」 「そうか。どうもそんなしんこ細工のようなことをするというのは、この世界がまだなめくじでできていたころの遺風だ。一寸視察に出よう。事によると禁止をしなければなるまい。」  そこでネネムは、部下の検事を随えて、今日もまちへ出ました。そして検事の案内で、まっすぐに奇術大一座のある処に参りました。奇術は今や丁度まっ最中です。  ネネムは、検事と一緒に中へはいりました。楽隊が盛んにやっています。ギラギラする鋼の小手だけつけた青と白との二人のばけものが、電気|決闘というものをやっているのでした。剣がカチャンカチャンと云うたびに、青い火花が、まるで箒のように剣から出て、二人の顔を物凄く照らし、見物のものはみんなはらはらしていました。 「仲々|勇壮だね。」とネネムは云いました。  そのうちにとうとう、一人はバアと音がして肩から胸から腰へかけてすっぽりと斬られて、からだがまっ二つに分れ、バランチャンと床に倒れてしまいました。  斬った方は肩を怒らせて、三べん刀を高くふり廻し、紫色の烈しい火花を揚げて、楽屋へはいって行きました。  すると倒れた方のまっ二つになったからだがバタッと又一つになって、見る見る傷口がすっかりくっつき、ゲラゲラゲラッと笑って起きあがりました。そして頭をほんのすこし下げてお辞儀をして、 「まだ傷口がよくくっつきませんから、粗末なおじぎでごめんなさい。」と云いながら、又ゲラゲラゲラッと笑って、これも楽屋へはいって行きました。  ボロン、ボロン、ボロロン、とどらが鳴りました。一つの白いきれを掛けた卓子と、椅子とが持ち出されました。眼のまわりをまっ黒に塗った若いばけものが、わざと少し口を尖らして、テーブルに座りました。白い前掛をつけたばけものの給仕が、さしわたし四尺ばかりあるまっ白の皿を、恭々しく持って来て卓子の上に置きました。 「フォーク!」と椅子にかけた若ばけものがテーブルを叩きつけてどなりました。 「へい。これはとんだ無調法を致しました。ただ今、すぐ持って参ります。」と云いながら、その給仕は二尺ばかりあるホークを持って参りました。 「ナイフ!」と又若ばけものはテーブルを叩いてどなりました。 「へい。これはとんだ無調法を致しました。ただ今、すぐ持って参ります。」と云いながらその給仕は、幕のうしろにはいって行って、長さ二尺ばかりあるナイフを持って参りました。ところがそのナイフをテーブルの上に置きますと、すぐ刃がくにゃんとまがってしまいました。 「だめだ、こんなもの。」とその椅子にかけたばけものは、ナイフを床に投げつけました。  ナイフはひらひらと床に落ちて、パッと赤い火に燃えあがって消えてしまいました。 「へい。これは無調法致しました。ただ今のはナイフの広告でございました。本物のいいのを持って参ります。」と云いながら給仕は引っ込んで行きました。  するとどうもネネムも検事もだれもかれもみんな愕いてしまったことは、いつの間にか、どうして出て来たのか、すてきに大きな青いばけものがテーブルに置かれた皿の上に、あぐらをかいて、椅子に座った若ばけものを見おろしてすまし込んでいるのでした。青いばけものは、しずかにみんなの方を向きました。眼のまわりがまっ赤です。俄に見物がどっと叫びました。 「テン・テンテンテン・テジマア! うまいぞ。」 「ほう、素敵だぞ。テジマア!」  テジマアと呼ばれた皿の上の大きなばけものは、顔をしずかに又廻して、椅子に座ったわかばけものの方を向きました。そして二人はまるで二匹の獅子のように、じっとにらみ合いました。見物はもうみんな総立ちです。 「テジマア! 負けるな。しっかりやれ。」 「しっかりやれ。テジマア! 負けると食われるぞ。」こんなような大さわぎのあとで、こんどはひっそりとなりました。そのうちに椅子に座った若ばけものは眼が痛くなったらしく、とうとうまばたきを一つやりました。皿の上のテジマアはじりじりと顔をそっちへ寄せて行きます。若ばけものは又五つばかりつづけてまばたきをして、とうとうたまらなくなったと見えて、両手で眼を覆いました。皿の上のテジマアは落ちついてにゅうと顔を差し出しました。若ばけものは、がたりと椅子から落ちました。テジマアはすっくりと皿の上に立ちあがって、それからひらりと皿をはね下りて、自分が椅子にどっかり座りそれから床の上に倒れている若ばけものを、雑作もなく皿の上につまみ上げました。  その時給仕が、たしかに金でできたらしいナイフを持って来て、テーブルの上に置きました。テジマアは一寸うなずいて、ポッケットから財布を出し、半紙判の紙幣を一枚引っぱり出して給仕にそれを握らせました。 「今度の旦那は気前が実にいいなあ。」とつぶやきながら、ばけもの給仕は幕の中にはいって行きました。そこでテジマアは、ナイフをとり上げて皿の上のばけものを、もにゃもにゃもにゃっと切って、ホークに刺して、むにゃむにゃむにゃっと喰ってしまいました。  その時「バア」と声がして、その食われた筈の若ばけものが、床の下から躍りだしました。 「君よくたっしゃで居て呉れたね。」と云いながら、テジマアはそのわかばけものの手を取って、五六ぺんぶらぶら振りました。 「テジマア、テジマア!」 「うまいぞ、テジマア!」みんなはどっとはやしました。  舞台の上の二人は、手を握ったまま、ふいっとおじぎをして、それから、 「バラコック、バララゲ、ボラン、ボラン、ボラン」と変な歌を高く歌いながら、幕の中に引っ込んで行きました。  ボロン、ボロン、ボロロンと、どらが又鳴りました。  舞台が月光のようにさっと青くなりました。それからだんだんのんびりしたいかにも春らしい桃色に変りました。  まっ黒な着物を着たばけものが右左から十人ばかり大きなシャベルを持ったりきらきらするフォークをかついだりして出て来て 「おキレの角はカンカンカン  ばけもの麦はベランべランベラン  ひばり、チッチクチッチクチー  フォークのひかりはサンサンサン。」 とばけもの世界の農業の歌を歌いながら畑を耕したり種子を蒔いたりするようなまねをはじめました。たちまち床からベランベランベランと大きな緑色のばけもの麦の木が生え出して見る間に立派な茶色の穂を出し小さな白い花をつけました。舞台は燃えるように赤く光りました。 「おキレの角はケンケンケン  ばけもの麦はザランザララ  とんびトーロロトーロロトー、  鎌のひかりは シンシンシン。」 とみんなは足踏みをして歌いました。たちまち穂は立派な実になって頭をずうっと垂れました。黒いきもののばけものどもはいつの間にか大きな鎌を持っていてそれをサクサク刈りはじめました。歌いながら踊りながら刈りました。見る見る麦の束は山のように舞台のまん中に積みあげられました。 「おキレの角はクンクンクン  ばけもの麦はザック、ザック、ザ、  からすカーララ、カーララ、カー、  唐箕のうなりはフウララフウ。」  みんなはいつの間にか棒を持っていました。そして麦束はポンポン叩かれたと思うと、もうみんな粒が落ちていました。麦稈は青いほのおをあげてめらめらと燃え、あとには黄色な麦粒の小山が残りました。みんなはいつの間にかそれを摺臼にかけていました。大きな唐箕がもう据えつけられてフウフウフウと廻っていました。  舞台が俄かにすきとおるような黄金色になりました。立派なひまわりの花がうしろの方にぞろりとならんで光っています。それから青や紺や黄やいろいろの色硝子でこしらえた羽虫が波になったり渦巻になったりきらきらきらきら飛びめぐりました。  うしろのまっ黒なびろうどの幕が両方にさっと開いて顔の紺色な髪の火のようなきれいな女の子がまっ白なひらひらしたきものに宝石を一杯につけてまるで青や黄色のほのおのように踊って飛び出しました。見物はもうみんなきちがい鯨のような声で 「ケテン! ケテン!」とどなりました。  女の子は笑ってうなずいてみんなに挨拶を返しながら舞台の前の方へ出て来ました。  黒いばけものはみんなで麦の粒をつかみました。  女の子も五六つぶそれをつまんでみんなの方に投げました。それが落ちて来たときはみんなまっ白な真珠に変っていました。 「さあ、投げ。」と云いながら十人の黒いばけものがみな真似をして投げました。バラバラバラバラ真珠の雨は見物の頭に落ちて来ました。  女の子は笑って何かかすかに呪いのような歌をやりながらみんなを指図しています。  ペンネンネンネンネン・ネネムはその女の子の顔をじっと見ました。たしかにたしかにそれこそは妹のペンネンネンネンネン・マミミだったのです。ネネムはとうとう堪え兼ねて高く叫びました。 「マミミ。マミミ。おれだよ。ネネムだよ。」  女の子はぎょっとしたようにネネムの方を見ました。それから何か叫んだようでしたが声がかすれてこっちまで届きませんでした。ネネムは又叫びました。 「おれだ。ネネムだ。」  マミミはまるで頭から足から火がついたようにはねあがって舞台から飛び下りようとしましたら、黒い助手のばけものどもが麦をなげるのをやめてばらばら走って来てしっかりと押えました。 「マミミ。おれだ。ネネムだよ。」ネネムは舞台へはねあがりました。  幕のうしろからさっきのテジマアが黄色なゆるいガウンのようなものを着ていかにも落ち着いて出て参りました。 「さわがしいな。どうしたんだ。はてな。このお方はどうして舞台へおあがりになったのかな。」  ネネムはその顔をじっと見ました。それこそはあの飢饉の年マミミをさらった黒い男でした。 「黙れ。忘れたか。おれはあの飢饉の年の森の中の子供だぞ。そしておれは今は世界裁判長だぞ。」 「それは大へんよろしい。それだからわしもあの時男の子は強いし大丈夫だと云ったのだ。女の子の方は見ろ。この位立派になっている。もうスタアと云うものになってるぞ。お前も裁判長ならよく裁判して礼をよこせ。」 「しかしお前は何故しんこ細工を興業するか。」 「いや。いやいややや。それは実に野蛮の遺風だな。この世界がまだなめくじでできていたころの遺風だ。」 「するとお前の処じゃしんこ細工の興業はやらんな。」 「勿論さ。おれのとこのはみんな美学にかなっている。」 「いや。お前は偉い。それではマミミを返して呉れ。」 「いいとも。連れて行きなさい。けれども本人が望みならまた寄越して呉れ。」 「うん。」  どうです。とうとうこんな変なことになりました。これというのもテジマアのばけもの格が高いからです。  とにかくそこでペンネンネンネンネン・ネネムはすっかり安心しました。    五、ペンネンネンネンネン・ネネムの出現  ペンネンネンネンネン・ネネムは独立もしましたし、立身もしましたし、巡視もしましたし、すっかり安心もしましたから、だんだんからだも肥り声も大へん重くなりました。  大抵の裁判はネネムが出て行って、どしりと椅子にすわって物を云おうと一寸|唇をうごかしますと、もうちゃんときまってしまうのでした。  さて、ある日曜日、ペンネンネンネンネン・ネネムは三十人の部下をつれて、銀色の袍をひるがえしながら丘へ行きました。  クラレという百合のような花が、まっ白にまぶしく光って、丘にもはざまにもいちめん咲いて居りました。ネネムは草に座って、つくづくとまっ青な空を見あげました。  部下の判事や検事たちが、その両側からぐるっと環になってならびました。 「どうだい。いい天気じゃないか。  ここへ来て見るとわれわれの世界もずいぶんしずかだね。」ネネムが云いました。  みんなの影法師が草にまっ黒に落ちました。 「ちかごろは噴火もありませんし、地震もありませんし、どうも空は青い一方ですな。」  判事たちの中で一番位の高いまっ赤な、ばけものが云いました。 「そうだね全くそうだ。しかし昨日サンムトリが大分鳴ったそうじゃないか。」 「ええ新報に出て居りました。サンムトリというのはあれですか。」  二番目にえらい判事が向うの青く光る三角な山を指しました。 「うん。そうさ。僕の計算によると、どうしても近いうちに噴き出さないといかんのだがな。何せ、サンムトリの底の瓦斯の圧力が九十億気圧以上になってるんだ。それにサンムトリの一番弱い所は、八十億気圧にしか耐えない筈なんだ。それに噴火をやらんというのはおかしいじゃないか。僕の計算にまちがいがあるとはどうもそう思えんね。」 「ええ。」  上席判事やみんなが一緒にうなずきました。その時向うのサンムトリの青い光がぐらぐらっとゆれました。それからよこの方へ少しまがったように見えましたが、忽ち山が水瓜を割ったようにまっ二つに開き、黄色や褐色の煙がぷうっと高く高く噴きあげました。  それから黄金色の熔岩がきらきらきらと流れ出して見る間にずっと扇形にひろがりました。見ていたものは 「ああやったやった。」 とそっちに手を延して高く叫びました。 「やったやった。とうとう噴いた。」 とペンネンネンネンネン・ネネムはけだかい紺青色にかがやいてしずかに云いました。  その時はじめて地面がぐらぐらぐら、波のようにゆれ 「ガーン、ドロドロドロドロドロ、ノンノンノンノン。」と耳もやぶれるばかりの音がやって来ました。それから風がどうっと吹いて行って忽ちサンムトリの煙は向うの方へ曲り空はますます青くクラレの花はさんさんとかがやきました。上席判事が云いました。 「裁判長はどうも実に偉い。今や地殻までが裁判長の神聖な裁断に服するのだ。」  二番目の判事が云いました。 「実にペンネンネンネンネン・ネネム裁判長は超怪である。私はニイチャの哲学が恐らくは裁判長から暗示を受けているものであることを主張する。」  みんなが一度に叫びました。 「ブラボオ、ネネム裁判長。ブラボオ、ネネム裁判長。」  ネネムはしずかに笑って居りました。その得意な顔はまるで青空よりもかがやき、上等の瑠璃よりも冴えました。そればかりでなく、みんなのブラボオの声は高く天地にひびき、地殻がノンノンノンノンとゆれ、やがてその波がサンムトリに届いたころ、サンムトリがその影響を受けて火柱高く第二の爆発をやりました。 「ガーン、ドロドロドロドロ、ノンノンノンノン。」  それから風がどうっと吹いて行って、火山弾や熱い灰やすべてあぶないものがこの立派なネネムの方に落ちて来ないように山の向うの方へ追い払ったのでした。ネネムはこの時は正によろこびの絶頂でした。とうとう立ちあがって高く歌いました。 「おれは昔は森の中の昆布取り、  その昆布|網が空にひろがったとき  風の中のふかやさめがつきあたり  おれの手がぐらぐらとゆれたのだ。  おれはフウフィーヴオ博士の弟子  博士はおれの出した筆記帳を  あくびと一しょにスポリと呑みこんだ。  それから博士は窓から飛んで出た。  おれはむかし奇術師のテジマアに  おれの妹をさらわれていた。  その奇術師のテジマアのところで  おれの妹はスタアになっていた。  いまではおれは勲章が百ダアス  藁のオムレツももうたべあきた。  おれの裁断には地殻も服する  サンムトリさえ西瓜のように割れたのだ。」  さあ三十人の部下の判事と検事はすっかりつり込まれて一緒に立ち上がって、 「ブラボオ、ペンネンネンネンネン・ネネム  ブラボオ、ペンペンペンペンペン・ペネム。」  と叫びながら踊りはじめました。 「フィーガロ、フィガロト、フィガロット。」  クラレの花がきらきら光り、クラレの茎がパチンパチンと折れ、みんなの影法師はまるで戦のように乱れて動きました。向うではサンムトリが第三回の爆発をやっています。 「ガアン、ドロドロドロドロ、ノンノンノンノン。」  黄金の熔岩、まっ黒なけむり。 「フィーガロ、フィガロト、フィガロット。  ペンネンネンネンネン・ネネム裁判長  その威オキレの金角とならび  まひるクラレの花の丘に立ち  遠い青びかりのサンムトリに命令する。  青びかりの三角のサンムトリが  たちまち火柱を空にささげる。  風が来てクラレの花がひかり  ペンネンネンネンネン・ネネムは高く笑う。   ブラボオ。ペンネンネンネンネン・ネネム   ブラボオ、ペンペンペンペンペン・ペネム。」  その時サンムトリが丁度第四回の爆発をやりました。 「ガアン、ドロドロドロドロ、ノンノンノンノンノン。」  ネネムをはじめばけものの検事も判事もみんな夢中になって歌ってはねて踊りました。 「フィーガロ、フィガロト、フィガロット。  風が青ぞらを吼えて行けば  そのなごりが地面に下って  クラレの花がさんさんと光り  おれたちの袍はひるがえる。  さっきかけて行った風が  いまサンムトリに届いたのだ。  そのまっ黒なけむりの柱が  向うの方に倒れて行く。  フィーガロ、フィガロト、フィガロット。   ブラボオ、ペンネンネンネンネン・ネネム   ブラボオ、ペンペンペンペンペン・ペネム。  おれたちの叫び声は地面をゆすり  その波は一分に二十五ノット  サンムトリの熱い岩漿にとどいて  とうとうも一度爆発をやった。  フィーガロ、フィガロト、フィガロット。  フィーガロ、フィガロト、フィガロット。」  ネネムは踊ってあばれてどなって笑ってはせまわりました。  その時どうしたはずみか、足が少し悪い方へそれました。  悪い方というのはクラレの花の咲いたばけもの世界の野原の一寸うしろのあたり、うしろと云うよりは少し前の方でそれは人間の世界なのでした。 「あっ。裁判長がしくじった。」 と誰かがけたたましく叫んでいるようでしたが、ネネムはもう頭がカアンと鳴ったまままっ黒なガツガツした岩の上に立っていました。  すぐ前には本当に夢のような細い細い路が灰色の苔の中をふらふらと通っているのでした。そらがまっ白でずうっと高く、うしろの方はけわしい坂で、それも間もなくいちめんのまっ白な雲の中に消えていました。  どこにたった今歌っていたあのばけもの世界のクラレの花の咲いた野原があったでしょう。実にそれはネパールの国からチベットへ入る峠の頂だったのです。  ネネムのすぐ前に三本の竿が立ってその上に細長い紐のようなぼろ切れが沢山結び付けられ、風にパタパタパタパタ鳴っていました。  ネネムはそれを見て思わずぞっとしました。  それこそはたびたび聞いた西蔵の魔除けの幡なのでした。ネネムは逃げ出しました。まっ黒なけわしい岩の峯の上をどこまでもどこまでも逃げました。  ところがすぐ向うから二人の巡礼が細い声で歌を歌いながらやって参ります。ネネムはあわててバタバタバタバタもがきました。何とかして早くばけもの世界に戻ろうとしたのです。  巡礼たちは早くもネネムを見つけました。そしてびっくりして地にひれふして何だかわけのわからない呪文をとなえ出しました。  ネネムはまるでからだがしびれて来ました。そしてだんだん気が遠くなってとうとうガーンと気絶してしまいました。  ガーン。  それからしばらくたってネネムはすぐ耳のところで 「裁判長。裁判長。しっかりなさい、裁判長。」という声を聞きました。おどろいて眼を明いて見るとそこはさっきのクラレの野原でした。  三十人の部下たちがまわりに集まって実に心配そうにしています。 「ああ僕はどうしたんだろう。」 「只今空から落ちておいででございました。ご気分はいかがですか。」  上席判事が尋ねました。 「ああ、ありがとう。もうどうもない。しかしとうとう僕は出現してしまった。  僕は今日は自分を裁判しなければならない。  ああ僕は辞職しよう。それからあしたから百日、ばけものの大学校の掃除をしよう。ああ、何もかにもおしまいだ。」  ネネムは思わず泣きました。三十人の部下も一緒に大声で泣きました。その声はノンノンノンノンと地面に波をたて、それが向うのサンムトリに届いたころサンムトリが赤い火柱をあげて第五回の爆発をやりました。 「ガアン、ドロドロドロドロ。」  風がどっと吹いて折れたクラレの花がプルプルとゆれました。〔以下原稿なし〕 一、ペンネンノルデが七つの歳に太陽にたくさんの黒い棘ができた。赤、黒い棘、父赤い眼、ばくち。 二、ノルデはそれからまた十二年、森のなかで昆布とりをした。 三、ノルデは書記になろうと思ってモネラの町へ出かけて行った。氷羊歯の汽車、恋人、アルネ。 四、フウケーボー大|博士はあくびといっしょにノルデの筆記帳をすぽりとのみ込んでしまった。 五、噴火を海へ向けるのはなかなか容易なことでない。  化物丁場、おかしなならの影、岩頸問答、大博士発明のめがね。 六、さすがのフウケーボー大博士も命からがらにげだした。  恐竜、化石の向こうから。  大博士に疑問をいだく。噴火|係の職をはがれ、その火山|灰の土壌を耕す。部下みな従う。 七、ノルデは頭からすっかり灰をかぶってしまった。  サンムトリの噴火。ノルデ海岸でつかれてねむる。ナスタ現わる。夢のなかでうたう。 八、ノルデは野原にいくつも茶いろなトランプのカードをこしらえた。  ノルデ奮起す。水の不足。 九、ノルデがこさえたトランプのカードを、みんなは春は桃いろに夏は青くした。  恋人アルネとの結婚……夕方。 十、ノルデはみんなの仕事をもっとらくにしようと考えた。そんなことをしなくってもいいよ。  おれは南の方でやって見せるよ。大|雷雨。桜の梢からセントエルモの火。暗のなか。 十一、ノルデは三べん胴上げのまま地べたにべちゃんと落とされた。  どうだい。ひどくいたいかい。どう? あなたひどくいたい? ノルデつかれてねむる。 十二、ノルデは太陽から黒い棘をとるためにでかけた。  太陽がまたぐらぐらおどりだしたなあ。困るなあ。おい断わっちまえよ。奮起す。おーい、火山だなんてまるで別だよ。ちゃんと立派なビルデングになってるんだぜ。 あかいめだまの さそり ひろげた鷲の  つばさ あをいめだまの 小いぬ、 ひかりのへびの とぐろ。 オリオンは高く うたひ つゆとしもとを おとす、 アンドロメダの くもは さかなのくちの かたち。 大ぐまのあしを きたに 五つのばした  ところ。 小熊のひたいの うへは そらのめぐりの めあて。 前十七等官 レオーノ・キュースト誌 宮沢賢治 訳述  そのころわたくしは、モリーオ市の博物局に勤めて居りました。  十八等官でしたから役所のなかでも、ずうっと下の方でしたし俸給もほんのわずかでしたが、受持ちが標本の採集や整理で生れ付き好きなことでしたから、わたくしは毎日ずいぶん愉快にはたらきました。殊にそのころ、モリーオ市では競馬場を植物園に拵え直すというので、その景色のいいまわりにアカシヤを植え込んだ広い地面が、切符売場や信号所の建物のついたまま、わたくしどもの役所の方へまわって来たものですから、わたくしはすぐ宿直という名前で月賦で買った小さな蓄音器と二十枚ばかりのレコードをもって、その番小屋にひとり住むことになりました。わたくしはそこの馬を置く場所に板で小さなしきいをつけて一疋の山羊を飼いました。毎朝その乳をしぼってつめたいパンをひたしてたべ、それから黒い革のかばんへすこしの書類や雑誌を入れ、靴もきれいにみがき、並木のポプラの影法師を大股にわたって市の役所へ出て行くのでした。  あのイーハトーヴォのすきとおった風、夏でも底に冷たさをもつ青いそら、うつくしい森で飾られたモリーオ市、郊外のぎらぎらひかる草の波。  またそのなかでいっしょになったたくさんのひとたち、ファゼーロとロザーロ、羊飼のミーロや、顔の赤いこどもたち、地主のテーモ、山猫博士のボーガント・デストゥパーゴなど、いまこの暗い巨きな石の建物のなかで考えていると、みんなむかし風のなつかしい青い幻燈のように思われます。では、わたくしはいつかの小さなみだしをつけながら、しずかにあの年のイーハトーヴォの五月から十月までを書きつけましょう。        一、遁げた山羊  五月のしまいの日曜でした。わたくしは賑やかな市の教会の鐘の音で眼をさましました。もう日はよほど登って、まわりはみんなきらきらしていました。時計を見るとちょうど六時でした。わたくしはすぐチョッキだけ着て山羊を見に行きました。すると小屋のなかはしんとして藁が凹んでいるだけで、あのみじかい角も白い髯も見えませんでした。 「あんまりいい天気なもんだから大将ひとりででかけたな。」  わたくしは半分わらうように半分つぶやくようにしながら、向うの信号所からいつも放して遊ばせる輪道の内側の野原、ポプラの中から顔をだしている市はずれの白い教会の塔までぐるっと見まわしました。けれどもどこにもあの白い頭もせなかも見えていませんでした。うまやを一まわりしてみましたがやっぱりどこにも居ませんでした。 「いったい山羊は馬だの犬のように前居たところや来る道をおぼえていて、そこへ戻っているということがあるのかなあ。」  わたくしはひとりで考えました。さあ、そう思うと早くそれを知りたくてたまらなくなりました。けれども役所のなかとちがって競馬場には物知りの年とった書記も居なければ、そんなことを書いた辞書もそこらにありませんでしたから、わたくしは何ということなしに輪道を半分通って、それからこの前山羊が村の人に連れられて来た路をそのまま野原の方へあるきだしました。  そこらの畑では燕麦もライ麦ももう芽をだしていましたし、これから何か蒔くとこらしくあたらしく掘り起こされているところもありました。  そしていつかわたくしは町から西南の方の村へ行くみちへはいってしまっていました。  向うからは黒い着物に白いきれをかぶった百姓のおかみさんたちがたくさん歩いてくるようすなのです。わたくしは気がついて、もう戻ってしまおうと思いました。全くの起きたままチョッキだけ着て顔もあらわず帽子もかむらず山羊が居るかどうかもわからない広い畑のまんなかへ飛びだして来ているのです。けれどもそのときはもう戻るのも工合が悪くなってしまっていました。向うの人たちがじき顔の見えるところまで来ているのです。わたくしは思い切って勢よく歩いて行っておじぎをして尋ねました。 「こっちへ山羊が迷って来ていませんでしたでしょうか。」  女の人たちはみんな立ちどまってしまいました。教会へ行くところらしくバイブルも持っていたのです。 「こっちへ山羊が一疋迷って来たんですが、ご覧になりませんでしたでしょうか。」  みんなは顔を見合せました。それから一人が答えました。 「さあ、わたくしどもはまっすぐに来ただけですから。」  そうだ、山羊が迷って出たときに人のようにみちを歩くのではないのです。わたくしはおじぎしました。 「いや、ありがとうございました。」女たちは行ってしまいました。もう戻ろう、けれどもいま戻るとあの女の人たちを通り越して行かなければならない、まあ散歩のつもりでもすこし行こう、けれどもさっぱりたよりない散歩だなあ、わたくしはひとりでにがわらいしました。そのとき向うから二十五六になる若者と十七ばかりのこどもとスコップをかついでやって来ました。もう仕方ない、みかけだけにたずねて見よう、わたくしはまたおじぎしました。 「山羊が一疋迷ってこっちへ来たのですが、ごらんになりませんでしたでしょうか。」 「山羊ですって、いいえ。連れてあるいて遁げたのですか。」 「いいえ、小屋から遁げたんです。いや、ありがとうございました。」  わたくしはおじぎをしてまたあるきだしました。するとそのこどもがうしろで云いました。 「ああ、向うから誰か来るなあ。あれそうでないかなあ。」  わたくしはふりかえって指ざされたほうを見ました。 「ファゼーロだな、けれども山羊かなあ。」 「山羊だよ。ああきっとあれだ。ファゼーロがいまごろ山羊なんぞ連れてあるく筈ないんだから。」  たしかにそれは山羊でした。けれどもそれは別ので売りに町へ行くのかもしれない、まああの指導標のところまで行って見よう、わたくしはそっちへ近づいて行きました。一人の頬の赤いチョッキだけ着た十七ばかりの子どもが、何だかわたくしのらしい雌の山羊の首に帯皮をつけて、はじを持ってわらいながらわたくしに近よって来ました。どうもわたくしのらしいけれども何と云おうと思いながら、わたくしはたちどまりました。すると子どもも立ちどまってわたくしにおじぎしました。 「この山羊はおまえんだろう。」 「そうらしいねえ。」 「ぼく出てきたらたった一疋で迷っていたんだ。」 「山羊もやっぱり犬のように一ぺんあるいた道をおぼえているのかねえ。」 「おぼえてるとも。じゃ。やるよ。」 「ああ、ほんとうにありがとう。わたしはねえ、顔も洗わないで探しに来たんだ。」 「そんなに遠くから来たの。」 「ああ、わたしは競馬場に居るからねえ。」 「あすこから?」  子どもは山羊の首から帯皮をとりながら畑の向うでかげろうにぎらぎらゆれている、やっと青みがかったアカシヤの列を見ました。 「すいぶん遠くまで来たんだねえ。」 「ああ、じゃ、僕こっちへ行くんだから。さよなら。」 「あ、ちょっと待って。ぼくなにかあげたいんだけれどもなんにもなくてねえ。」 「いいや、ぼくなんにもいらないんだ。山羊を連れてくるのは面白かった。」 「だけれどねえ、それではわたしが気が済まないんだよ。そうだ、あなたは鎖はいらないの。」  わたくしは時計の鎖なら、なくても済むと思いながら銀の鎖をはずしました。 「いいや。」 「磁石もついてるよ。」  すると子どもは顔をぱっと熱らせましたが、またあたりまえになって、 「だめだ、磁石じゃ探せないから。」とぼんやり云いました。 「磁石で探せないって?」私はびっくりしてたずねました。 「ああ。」子どもは何か心もちのなかにかくしていたことを見られたというように少しあわてました。 「何を探すっていうの。」  子どもはしばらくちゅうちょしていましたが、とうとう思い切ったらしく云いました。 「ポラーノの広場。」 「ポラーノの広場? はてな、聞いたことがあるようだなあ。何だったろうねえ、ポラーノの広場。」 「昔ばなしなんだけれども、このごろまたあるんだ。」 「ああそうだ、わたしも小さいとき何べんも聞いた。野はらのまんなかの祭のあるとこだろう。あのつめくさの花の番号を数えて行くというのだろう。」 「ああ、それは昔ばなしなんだ。けれども、どうもこの頃もあるらしいんだよ。」 「どうして。」 「だってぼくたちが夜野原へ出ていると、どこかでそんな音がするんだもの。」 「音のする方へ行ったらいいんでないか。」 「みんなで何べんも行ったけれども、わからなくなるんだよ。」 「だって、聞えるくらいならそんなに遠い筈はないねえ。」 「いいや、イーハトーヴォの野原は広いんだよ。霧のある日ならミーロだって迷うよ。」 「そうさねえ、だけど地図もあるからねえ。」 「野原の地図ができてるの。」 「ああ、きっと四枚ぐらいにまたがってるねえ。」 「その地図で見ると路でも林でもみんなわかるの。」 「いくらか変っているかもしれないが、まあ大体はわかるだろう。じゃ、お礼にその地図を買って送ってあげようか。」 「うん。」子どもは顔を赤くして云いました。 「きみはファゼーロって云うんだね。宛名をどう書いたらいいかねえ。」 「ぼく、ひまを見付けて、おまえんうちへ行くよ。」 「ひまって、今日でもいいよ。」 「ぼく仕事があるんだ。」 「今日は日曜じゃないか。」 「いいえ、ぼくには日曜はないんだ。」 「どうして。」 「だって仕事をしなけぁ。」 「仕事ってきみのかい。」 「旦那んさ。みんなもう行って畦へはいってるんだ。小麦の草をとっているよ。」 「じゃきみは主人のとこに雇われているんだね。」 「ああ。」 「お父さんたちは。」 「ない。」 「兄さんか誰かは。」 「姉さんがいる。」 「どこに。」 「やっぱり旦那んとこに。」 「そうかねえ。」 「だけど姉さんは山猫博士のとこへ行くかも知れないよ。」 「何だい。その山猫博士というのは。」 「あだ名なんだ。ほんたうはデストゥパーゴって云うんだ。」 「デストゥパーゴ? ボーガント・デストゥパーゴかい。県の議員の。」 「ええ。」 「あいつは悪いやつだぜ。あいつのうちがこっちの方にあるのかい。」 「ああ、ぼくの旦那のうちから見え……。」 「おい、こら、何をぐずぐずしてるんだ。」うしろで大きな声がしました。見ると一人の赤い帽子をかぶった年|老りの頑丈そうな百姓が革むちをもって怒って立っていました。 「もう一くぎりも働いたかと思って来て見ると、まだこんなところに立ってしゃべくってやがる。早く仕事へ行け。」 「はい、じゃさよなら。」 「ああさよなら、ぼくは役所からいつでも五時半には帰っているからね。」 「ええ。」  ファゼーロは水壺とホーをもって急いで向うの路へはいって行きました。百姓はこんどはわたくしに云いました。 「あなたはどこのお方だか知らないが、これからわしの仕事にいらないお世話をして貰いたくないもんですな。」 「いや、わたしはね、山羊に遁げられてそれをたずねて来たら、あの子どもさんが連れて来ていたもんだからお礼を云っていたんです。」 「いや、結構ですよ。山羊というやつはどうも足があって歩くんでね。やいファゼーロ、かけて行け、馬鹿、かけて行けったら。」  百姓は顔をまっ赤にして手をあげて革むちをパチッと鳴らしました。 「人を使うのに革むちを鳴らすなんて乱暴じゃないですか。」  百姓はわざと顔を前につき出して云いました。 「このむちですかい。あなたはこの鞭のことを仰っしゃったんですか。この鞭はねえ、人を使う鞭ではありませんよ。馬を追う鞭ですよ。あっちへ馬が四疋も行ってますからねえ。そらね、こんなふうに。」  百姓はわたくしの顔の前でパチッパチッとはげしく鞭を鳴らしました。わたくしはさあっと血が頭にのぼるのを感じました。けれどもまた、いま争うときでないと考えて山羊の方を見ました。山羊はあちこち草をたべながら向うに行っていました。百姓はファゼーロの行った方へ行き、わたくしも山羊の方へ歩きだしました。山羊に追いついてからふりかえって見ますと畑いちめん紺いろの地平線までぎらぎらのかげろうで百姓の赤い頭巾もみんなごちゃごちゃにゆれていました。その向うの一そう烈しいかげろうの中でピカッと白くひかる農具と黒い影法師のようにあるいている馬と、ファゼーロかそれともほかのこどもか、しきりに手をふって馬をうごかしているのをわたくしは見ました。        二、つめくさのあかり  それからちょうど十日ばかりたって、夕方、わたくしが役所から帰って両手でカフスをはずしていましたら、いきなりあのファゼーロが、戸口から顔を出しました。そしてわたくしが、まだびっくりしているうちに、 「とうとう来たよ、今晩は。」と云いました。 「ああ、先頃はありがとう。地図はちゃんと仕度しておいたよ。この前の音は今でもするの。」 「するとも、昨夜なんかとてもひどいんだ。今夜はもうぼくどうしても探そうとおもって羊飼のミーロと二人で出て来たんだ。」 「うちの方は大丈夫かい。」 「うん。」ファゼーロは何だか少しあいまいに返事しました。 「きみの旦那はなかなか恐い人だねえ、何て云うんだ。」 「テーモだよ。」 「テーモ、やっぱし何だか聞いたような名だなあ。」 「聞いたかも知れない。あちこち役所へ果物だの野菜だの納めているんだから。」 「そうかねえ。とにかく地図はこれだよ。」  わたくしは戸口に買って置いた地図をひろげました。 「ミーロも呼んでもいいかい。」 「誰か来てるのか、いいとも。」 「ミーロ、おいで、地図を見よう。」  すると山羊小屋の中からファゼーロよりも三つばかり年上の、ちゃんときゃはんをはいて、ぼろぼろになった青い皮の上着を着た顔いろのいいわか者が出てきて、わたくしにおじぎしました。 「おや、ぼくは地図をよくわからないなあ、どっちが西だろう。」 「上の方が北だよ。そう置いてごらん。」ファゼーロはおもての景色と合せて地図を床に置きました。 「そら、こっちが東でこっちが西さ。いまぼくらのいるのはここだよ。この円くなった競馬場のここのとこさ。」 「乾溜工場はどれだろう。」ミーロが云いました。 「乾溜工場って、この地図にはないね、こっちかしら。」  わたくしは別のをひろげました。 「ないなあ、いつごろからあるんだい。」 「去年からだよ。」 「それじゃないんだ。この地図はもっと前に測量したんだから。その工場はどんなとこにあるの。」 「ムラードの森のはずれだよ。」 「ああ、これかしら、何の木だい、楢か樺だらう。唐檜やサイプレスではないね。」 「楢と樺だよ。ああこれか。ぼくはねえ、どうも昨夜の音はここから聞えたと思うんだ。」 「行こう行こう、行って見よう。」ファゼーロはもう地図をもってはねあがりました。 「わたしも行っていいかい。」 「いいとも、ぼくそう云いたくていたんだ。」 「じゃわたしも行こう。ちょっと待って。」  わたくしは大急ぎで仕度をしました。どうせ月は出るけれども地図が見えないといけないと思って、ガラス函のちょうちんも持ちました。 「さあ行こう。」わたくしは、ばたんと戸をしめてファゼーロとミーロのあとに立ちました。  日はもう落ちて空は青く古い池のようになっていました。そこらの草もアカシヤの木も一日のなかでいちばん青く見えるときでした。  わたくしどもはもう競馬場のまん中を横|截ってしまってまっすぐに野原へ行く小さなみちへかかっていました。ふりかえってみると、わたくしの家がかなり小さく黄いろにひかっていました。 「ポラーノの広場へ行けば何があるって云うの?」  ミーロについて行きながらわたくしはファゼーロにたずねました。 「オーケストラでもお酒でも何でもあるって。ぼくお酒なんか呑みたくはないけれど、みんなを連れて行きたいんだよ。」 「そうだって云ったねえ、わたしも小さいとき、そんなこと聞いたよ。」 「それに第一にね、そこへ行くと誰でも上手に歌えるようになるって。」 「そうそう、そう云った。だけどそんなことがいまでもほんとうにあるかねえ。」 「だって聞えるんだもの。ぼくは何もいらないけれども上手にうたいたいんだよ。ねえ。ミーロだってそうだろう。」 「うん。」ミーロもうなずきました。  元来ミーロなんかよほど歌がうまいのだろうとわたくしは思いました。 「ぼくは小さいときはいつでもいまごろ野原へ遊びに出た。」ファゼーロが云いました。 「そうかねえ。」 「するとお母さんが、行っておいで、ふくろうにだまされないようにおしって云うんだ。」 「何て云うって。」 「お母さんがね、行っておいで、ふくろうにだまされないようにおしって云うんだよ。」 「ふくろうに?」 「うん、ふくろうにさ。それはね、僕もっと小さいとき、それはもうこんなに小さいときなんだ、野原に出たろう。すると遠くで、誰だか食べた、誰だか食べた、というものがあったんだ。それがふくろうだったのよ。僕ばかな小さいときだから、ずんずん行ったんだ。そして林の中へはいってみちがわからなくなって泣いた。それからいつでも、お母さんそう云ったんだ。」 「お母さんはいまどこにいるの。」わたくしはこの前のことを思いだしながら、そっとたずねました。 「居ない。」ファゼーロはかなしそうに云いました。 「この前きみは姉さんがデストゥパーゴのとこへ行くかもしれないって云ったねえ。」 「うん、姉さんは行きたくないんだよ。だけど旦那が行けって云うんだ。」 「テーモがかい。」 「うん、旦那は山猫博士がこわいんだからねえ。」 「なぜ山猫博士って云うんだ。」 「ぼくよくわからない。ミーロは知ってるの?」 「うん。」ミーロはこっちをふりむいて云いました。 「あいつは山猫を釣ってあるいて外国へ売る商売なんだって。」 「山猫を? じゃ動物園の商売かい。」 「動物園じゃないなあ。」ミローもわからないというふうにだまってしまいました。  そのときはもう、あたりはとっぷりくらくなって西の地平線の上が古い池の水あかりのように青くひかるきり、そこらの草も青|黝くかわっていました。 「おや、つめくさのあかりがついたよ。」ファゼーロが叫びました。  なるほど向うの黒い草むらのなかに小さな円いぼんぼりのような白いつめくさの花があっちにもこっちにもならび、そこらはむっとした蜂蜜のかおりでいっぱいでした。 「あのあかりはねえ、そばでよく見るとまるで小さな蛾の形の青じろいあかりの集りだよ。」 「そうかねえ、わたしはたった一つのあかしだと思っていた。」 「そら、ね、ごらん、そうだろう、それに番号がついてるんだよ。」  わたしたちはしゃがんで花を見ました。なるほど一つ一つの花にはそう思えばそうというような小さな茶いろの算用数字みたいなものが書いてありました。 「ミーロ、いくらだい。」 「一千二百五十六かな、いや一万七千五十八かなあ。」 「ぼくのは三千四百二十……六だよ。」 「そんなにはっきり書いてあるかねえ。」  わたくしにはどうしても、そんなにはっきりは読むことができませんでした。けれども花のあかりは、あっちにもこっちにももうそこらいっぱいでした。 「三千八百六十六、五千まで数えればいいんだから、ポラーノの広場はもうじきそこらな筈なんだけれども。」 「だってさっぱりきみらの云うような、いい音はしないじゃないか。」 「いまに聞えるよ。こいつは二千五百五十六だ。」 「その数字を数えるというのはきっとだめだよ。」  とうとうわたくしは云いました。 「どうして?」ファゼーロもミーロもまっすぐに立ってわたくしを見ています。 「なぜって第一わたしは花にそんな数字が書いてあるのでなくて、それはこっちの目のまちがいだろうと思うんだ。もしほんとうにいまにその音が聞えてきたら、まっすぐにそっちに行くのがいちばんいいだろうと思うんだ。とにかくもっとさきへ行ってようじゃないか。ここらならわたしだって度々来ているんだから。ここらはまだあの岐れみちのまっ北ぐらいにしかなってないんだ。ムラードの森なんか、まだよっぽどあるだろう。ねえ、ミーロ君。」 「よっぽどあるとも。」 「じゃ、行こう、まあもっと行って花の番号を見てごらん。やっぱり二千とか三千とかだから。」  ミーロはうなずいてあるきだしました。ファゼーロもだまってついて行きました。わたくしどもは、じつにいっぱいに青じろいあかりをつけて、向うの方はまるで不思議な縞物のやうに幾条にも縞になった野原を、だまってどんどんあるきました。その野原のはずれのまっ黒な地平線の上では、そらがだんだんにぶい鋼のいろに変って、いくつかの小さな星もうかんできましたし、そこらの空気もいよいよ甘くなりました。そのうち何だかわたくしどもの影が前の方へ落ちているようなので、うしろを振り向いて見ますと、おお、はるかなモリーオの市のぼぉっとにごった灯照りのなかから、十六日の青い月が奇体に平べったくなって半分のぞいているのです。わたくしどもは思わず声をあげました。ファゼーロは、そっちへ挨拶するように両手をあげてはねあがりました。  にわかにぼんやり青白い野原の向うで、何かセロかバスのやうな顫いがしずかに起りました。 「そら、ね、そら。」ファゼーロがわたくしの手を叩きました。  わたくしもまっすぐに立って耳をすましました。音はしずかにしずかに呟やくようにふるえています。けれどもいったいどっちの方か、わたくしは呆れてつっ立ってしまいました。もう南でも西でも北でもわたくしどもの来た方でも、そう思って聞くと、地面の中でも、高くなったり、低くなったり、たのしそうに、たのしそうに、その音が鳴っているのです。  それはまた一つや二つではないようでした。消えたりもつれたり、一所になったり、何とも云われないのです。 「まるで昔からのはなしの通りだねえ。わたしはもうわからなくなってしまった。」 「番号はここらもやっぱり二千三百ぐらいだよ。」ファゼーロが月が出て一そう明るくなった、つめくさの灯をしらべて云いました。 「番号なんか、あてにならないよ。」わたくしも屈みました。  そのときわたくしは一つの花のあかしから、も一つの花へ移って行く黒い小さな蜂を見ました。 「ああ、蜂が、ごらん、さっきからぶんぶんふるえているのは、月が出たので蜂が働きだしたのだよ。ごらん、もう野原いっぱい蜂がいるんだ。」  これでわかったろうとわたくしは思いましたが、ミーロもファゼーロもだまってしまってなかなか承知しませんでした。 「ねえ、蜂だろう。だからあんなに野原中どこから来るか知れなかったんだよ。」  ミーロがやっと云いました。 「そうでないよ。蜂ならぼくはずっと前から知っているんだ。けれども昨夜はもっとはっきり人の笑い声などまで聞えたんだ。」 「人の笑い声、太い声でかい。」 「いいや。」 「そうかねえ。」  わたくしはまたわからなくなって腕を組んで立ちあがってしまいました。  そのときでした。野原のずうっと西北の方で、ぼお、とたしかにトローンボーンかバスの音がきこえました。わたくしはきっとそっちを向きました。するとまた西の方でもきこえるのです。わたくしはおもわず身ぶるいしました。野原ぜんたいに誰か魔術でもかけているか、そうでなければ昔からの云い伝え通り、ひるには何もない野原のまんなかに不思議に楽しいポラーノの広場ができるのか、わたくしは却ってひるの間役所で標本に札をつけたり書類を所長のところへ持って行ったりしていたことが、別の世界のことのように思われてきました。 「やっぱり何かあるのかねえ。」 「あるよ。だってまだこれどこではないんだもの。」 「こんなに方角がわからないとすれば、やっぱり昔の伝説のようにあかしの番号を読んで行かなければならないんだが、ぜんたい、いくらまで数えて行けばポラーノの広場に着くって?」 「五千だよ。」 「五千? ここはいくらと云ったねえ。」 「三千ぐらいだよ。」 「じゃ、北へ行けば数がふえるか西へ行けばふえるか、しらべて見ようか。」  その時でした。 「ハッハッハ。お前たちもポラーノの広場へ行きてえのか。」うしろで大きな声で笑うものがいました。 「何だい、山猫の馬車|別当め。」ミーロが云いました。 「三人で這いまわって、あかりの数を数えてるんだな。ハッハッハ。」足のまがった片眼のその爺さんは上着のポケットに手を入れたまま、また高くわらいました。 「数えてるさ、そんなら、じいさんは知ってるかい。いまでもポラーノの広場はあるかい。」ファゼーロが訊きました。 「あるさ。あるにはあるけれどもお前らのたずねているような、這いつくばって花の数を数えて行くような、そんなポラーノの広場はねえよ。」 「そんならどんなんがあるんだい。」 「もっといいのがあるよ。」 「どんなんだい。」 「まあ、お前たちには用がなかろうぜ。」じいさんはのどをくびっと鳴らしました。 「じいさんはしじゅう行くかい。」 「行かねえ訳でもねえよ、いいとこだからなあ。」 「じいさんは今夜は酔ってるねえ。」 「ああ上等の藁酒をやったからな。」じいさんはまたのどをくびっと鳴らしました。 「ぼくたちは行けないだろうかねえ。」 「行けねえよ、あっいけねえ、とうとう悪魔にやられた。」じいさんは額を押えてよろよろしました。甲むしが飛んで来て、ぶっつかったようすでした。  ミーロが云いました。 「じいさん、ポラーノの広場の方角を教えてくれたら、おいらあ、じいさんに悪魔の歌をうたってきかせるぜ。」 「縁起でもねえ、まあもっと這いまわって見ねえ。」  じいさんはぷりぷり怒ってぐんぐんつめ草の上をわたって南の方へ行ってしまいました。 「じいさん。お待ちよ。また馬を冷しに連れてってやるからさ。」ファゼーロが叫びましたが、じいさんはどんどん行ってしまいました。ミーロはしばらくだまっていましたが、とうとうこらえきれないらしく、 「おい、おれ歌うからな。」と云いだしました。  ファゼーロはそれどころではないようすでしたが、わたくしは前からミーロは歌がうまいだろうと思っていたので手を叩きました。ミーロは上着やシャツの上のぼたんをはずして息をすこし吸いました。 「いのししむしゃのかぶとむし つきのあかりもつめくさの ともすあかりも眼に入らず めくらめっぽに飛んで来て 山猫|馬丁につきあたり あわててひょろひょろ 落ちるをやっとふみとまり いそいでかぶとをしめなおし 月のあかりもつめくさの ともすあかりも目に入らず 飛んでもない方に飛んで行く。」  ところが、そのじいさんの行った方から細い高い声で、 「ファゼーロ、ファゼーロ。」と呼んでいるようすです。 「ああ、姉さん、いま行くよ。」ファゼーロがそっちへ向いて高く叫びました。向うの声はやみました。 「だめだなあ、きっと旦那が呼んでるんだ。早く森まで行ってみればよかったねえ。」  ミーロが俄かに勢がついて早口に云いました。 「大丈夫だよ。おれはね、どうもあの馬車|別当だの町の乾物屋のおやじだの、あやしいと思っていたんだ。このごろはいつでも酔っているんだ、きっとあいつらがポラーノの広場を知ってるぜ。それにおれは野原でおかしな風に枯草を積んだ荷馬車に何べんもあってるんだ。ファゼーロ、お前ね、なんにも知らないふりして今夜はうちへ帰って寝ろ。おれはきっと五六日のうちにポラーノの広場をさがすから。」 「そうかい。ぼくにはよくわからないなあ。」  そのときまた声がしました。 「ファゼーロ、おいで。お使いに町へ行くんだって。」 「ああいま行くよ。ぼくは旦那のとこへまっすぐに行くんだが、おまえはひとりで競馬場へ帰れるかい。」 「帰れるとも、ここらはひるまならたびたび来るとこなんだ。じゃ、地図はあげるよ。」 「うん、ミーロへやってこう。ぼくひるは野原へ来るひまがないんだから。」  そのとき向うのつめくさの花と月のあかりのなかに、うつくしい娘が立っていました。ファゼーロが云いました。 「姉さん、この人だよ。ぼく地図をもらったよ。」  その娘はこっちへ出てこないで、だまっておじぎをしました。わたくしもだまっておじぎをしました。 「じゃ、さよなら、早く行かなくちゃ。」  ファゼーロは走り出しました。ロザーロは、もいちどわたくしどもに挨拶して、そのあとから急いで行きました。ミーロはだまって北の方を向いて耳にたなごころをあてていました。わたくしはポラーノの広場というのはこういう場所をそのまま云うのだ、馬車別当だのミーロだのまだ夢からさめないんだと思いながら云いました。 「ミーロ、おまえの歌は上手だよ。わざわざ、ポラーノの広場まで習いに行かなくてもいいや。じゃさよなら。」  ミーロは、ていねいにおじぎをしました。わたくしはそしてそのうつくしい野原を、胸いっぱいに蜂蜜のかおりを吸いながら、わたくしの家の方へ帰ってきました。        三、ポラーノの広場  それからちょうど五日目の火曜日の夕方でした。その日はわたくしは役所で死んだ北極熊を剥製にするかどうかについてひどく仲間と議論をして大へんむしゃくしゃしていましたから、少し気を直すつもりで酒石酸をつめたい水に入れて呑んでいましたら、ずうっと遠くですきとおった口笛が聞えました。その調子はたしかにあのファゼーロの山羊をつれて来たり野原を急いで行ったりする気持そっくりなので、わたくしは思わず、とうとう来たな、とつぶやきました。  やっぱりファゼーロでした。まだわたくしがその酒石酸のコップを呑みほさないうちに、もう顔をまっ赤にして戸口に立っていました。 「わかったよ、とうとう。僕ゆうべ行くみちへすっかり方角のしるしをつけて置いた。地図で見てもわかるんだ。今夜ならもう間違いなくポラーノの広場へ行ける。ミーロはひるのうちから行っていてぼくらを迎えに出る約束なんだ。ぼく行って見て、ほんとうだったら、あしたはもうみんなつれて行くんだ。」  わたくしも釣り込まれて胸を躍らせました。 「そうかい、わたしも行こう。どんななりして行ったらいいかねえ。どんな人が来てるだろうねえ。」 「どんななりでもいいじゃないか。早く行こう。来てる人が誰だか、ぼくもわからないんだ。」  わたくしは大急ぎでネクタイを結んで新らしい夏帽子を被って外へ出ました。わたくしどもがこの前別れたところへ来たころは丁度夕方の青いあかりが、つめくさにぼんやり注いでいて、その葉の爪の痕のやうな紋も、もう見えなくなりかかったときでした。ファゼーロは爪立てをしてしばらくあちこち見まわしていましたが、俄かに向うへ走って行きました。ファゼーロはしばらく経ってぴたりと止まりました。 「あ、こいつだ、そらね。」  見るとそこにはファゼーロが作ったらしく、一本の棒を立ててその上にボール紙で矢の形を作って北西の方を指すようにしてありました。 「さあ、こっちへ行くんだ。向うに小さな樺の木が二本あるだろう。あすこが次の目標なんだよ。暗くならないうちに早く行こう。」ファゼーロはどんどん走り出しました。  ほんとうにそこらではもうつめくさのあかりがつきはじめていました。わたくしはまたファゼーロのあとについて走りました。 「早く行こう、早く行こう、山猫の馬車別当なんかに見付かっちゃうるさいや。」ファゼーロはふりかえって、そんなことを云いながら走りつづけました。  けれどもさっき見た二本の樺の木まではなかなかすぐではありませんでした。  ファゼーロはよく走りました。  わたくしもずいぶん本気に走りました。  やっとそこに着いてファゼーロが立ちどまったときは、あたりはもうすっかり夜になっていて、樺の木もまっ黒にそらにすかし出されていました。  つめくさの花はちょうどその反対に明るく、まるで本当の石英ランプでできているようでした。  そしてよく見ますと、この前の晩みんなで云ったように、一々のあかしは小さな白い蛾のかたちのあかしから出来て、それが実に立派にかがやいて居りました。処々には、せいの高い赤いあかりもりんと灯り、その柄の所には緑いろのしゃんとした葉もついていたのです。ファゼーロはすばやくその樺の木にのぼっていました。そしてしばらく野原の西の方をながめていましたが、いきなりぶらさがってはねておりて来ました。 「次のしるしはもう見えないんだ。けれども広場はちょうどここからまっすぐ西になっている筈だから、あの雲の少し明るいところを目あてにして歩いて行こう。もうそんなに遠くないんだから。」  わたくしどもはまたあるきだしました。俄かにどこからか甲虫の鋼の翅がりいんりいんと空中に張るような音がたくさん聞えてきました。  その音にまじってたしかに別の楽器や人のがやがや云う声が、時々ちらっときこえてまたわからなくなりました。  しばらく行ってファゼーロがいきなり立ちどまって、わたくしの腕をつかみながら、西の野原のはてを指しました。わたくしもそっちをすかして見てよろよろして眼をこすりました。そこには何の木か七八本の木がじぶんのからだからひとりで光でも出すように青くかがやいて、そこらの空もぼんやり明るくなっているのでした。 「ファゼーロかい。」いきなり向うから声がしました。 「ああ、来たよ。やっているかい。」 「やってるよ。とてもにぎやかなんだ。山猫博士も来ているようだぜ。」 「山猫博士?」ファゼーロはぎくっとしたようでした。 「けれどもいっしょに行こう。ポラーノの広場は誰だって見附けた人は行っていいんだから。」 「よし行こう。」ファゼーロははっきり云いました。  わたくしどもはそのあかりをめあてにあるいて行きました。  ミーロもファゼーロも何か大へん心配なようでした。さっぱり物も云わなくなってしまったのです。そうなるとこんどはわたくしが元気がついて来ました。一体昔ばなしの通りのことが本当にあるのだろうか、それとも何かほかのことだろうか、山猫博士がここへ来て何をしているのだろうか。もうどうしても行って見たくてたまらなくなりました。殊にその日はわたくしはまだ俸給の残りを半分以上もっていましたし、もしお金を払わなければならないとしてもファゼーロとミーロにご馳走するぐらい大丈夫だと考えたのです。 「いいよ、こんどはね、わたしについて来るんだよ。山猫博士なんか少しもこわいことはないんだから。」  わたくしはもうまっさきに立ってどんどん急ぎました。甲虫の翅の音はいよいよ高くなり青い木はその一つ一つの枝まではっきり見えて来ました。木の下では白いシャツや黒い影やみんながちらちら行ったり来たりしています。誰かの片手をあげて何か云っているのも見えました。  いよいよ近くなってわたくしは、これこそはもうほんもののポラーノの広場だと思ってしまいました。さっきの青いのは可成大きなはんの木でしたが、その梢からはたくさんのモールが張られてその葉まできらきらひかりながらゆれていました。その上にはいろいろな蝶や蛾が列になってぐるぐるぐるぐる輪をかいていたのです。  うつくしい夏のそらには銀河がいまわたくしどもの来た方からだんだんそっちへまわりかけて、南のまっくろな地平線の上のあたりではぼんやり白く爆発したようになっていました。つめくさのかおりやら何かさまざまの果物のかおり、みんなの笑い声、そのうちにとうとうみんなは組になって踊りだしました。七八人のようではありましたが、たしかにもうほんもののオーケストラが愉快そうなワルツをやりはじめました。一まわり踊りがすむとみんなはばらばらになってコップをとりました。そしてわあわあ叫びながら呑みほしています。その叫びは気のせいか、デストゥパーゴ万歳というようにもきこえました。 「あれが山猫博士だな。」ファゼーロが向うの卓にひとり坐って、がぶがぶ酒を呑んでいる黄いろの縞のシャツと赤皮の上着を着た肩はばのひろい男を指さしました。  誰か六七人コンフェットウや紐を投げましたので、それは雪のように花のようにきらきら光りながらそこらに降りました。  わたくしどもはもう広場の前まで来て立ちどまりました。  ちょうどそのときデストゥパーゴがコップをもって立ちあがりました。 「おいおい給仕、なぜおれには酒を注がんか。」  すると白い服を着た給仕が周章てて走り寄りました。 「はいはい相済みません。坐っておいでだったもんですからつい。」 「坐っておいでになっても立っておいでになっても、我輩は我輩じゃないか。おっとよろしい。諸君は我輩のために乾杯しようというんだな。よしよし、プ、プ、プロージット。」  そこでみんなは呑みほしました。  わたくしは臆してしまって、もう帰ろうかとも思いましたが、さっきファゼーロたちにあんなことを云ったものですから立っていることも遁げることもできませんでした。どうなるかなるようになれと思い切って二人をつれて帽子をとりながら、あかりの中へはいりました。するとみんなは一ぺんにさわぎをやめて怪げんそうな顔つきでわたくしどもを見ました。それからデストゥパーゴの方を見ました。  するとデストゥパーゴはちょっと首をまげて考えました。どうもわたくしのことを見たことはあるが考え出せないという風でした。するとそばへ一人の夏フロックコートを着た男が行って何か耳うちしました。デストゥパーゴは不機嫌そうな一べつをわたくしに与えてから仕方なさそうにうなずきました。  するとやはりフロックを着てテーモが来ていました。そのテーモが柄のついたガラスの杯を三つもって来て、だまってわたくしからミーロ、ファゼーロと渡しました。ファゼーロに渡しながらだまってにらみつけました。ファゼーロはたじたじ後退りしました。給仕がそばからレッテルのない大きな瓶からいままでみんなの呑んでいた酒を注ごうとしました。わたくしはそこで云いました。 「いや、わたしたちはね、酒は呑まないんだから炭酸水でもおくれ。」 「炭酸水はありません。」給仕が云いました。 「それならただの水をおくれ。」わたくしは云いました。  どういうわけかみんなしいんとして穴の明くほどわたくしどものことばかり見ています。わたくしも少し照れてしまいました。 「いや、デストゥパーゴさまは人に水をごちそうはなさいませんよ。」テーモが云いました。 「ごちそうになろうというんでないんです。野原のまんなかで、つめくさのあかりを数えて来たポラーノの広場で、わたくしは渇いて水が呑みたいのです。」  もうゆきがかりで仕方ないと私は思ってはっきり云いました。 「つめくさのあかり、わっはっは。」テーモはわらいだしました。デストゥパーゴもわらいました。みんなもそのあとについてわらいました。 「ポラーノの広場もな、お気の毒だがデストゥパーゴさまのもんだよ。」テーモがしずかに云いました。そのとき山猫博士が云いました。 「よし、よし、まあすきなら水をやっておけ。しかしどうも水を呑むやつらが来るとポラーノの広場も少ししらぱっくれるね。」 「はい。」テーモはおじぎをしてそれからそっとファゼーロに云いました。 「ファゼーロ、何だって出て来たんだ。早く失せろ。帰ったら立てないくらい引っぱたくからそう思え。」ファゼーロはまた後退りしました。 「その子どもは何だ。」デストゥパーゴがききました。 「ロザーロの弟でございます。」テーモがおじぎをして答えました。するとデストゥパーゴは返事をしないで向うを向いてしまいました。そのとき楽隊が何か民謡風のものをやりはじめました。みんなはまた輪になって踊りはじめようとしました。するとデストゥパーゴが、 「おいおい、そいつでなしにあのキャッツホイスカーというやつをやってもらいたいね。」  すると楽隊のセロをもった人が、 「あの曲はいま譜がありませんので。」するとデストゥパーゴは、もうよほど酔っていましたが、 「や、れ、やれ、やれと云ったらやらんか。」と云いました。  楽隊は仕方なくみんな同じ譜で、キャッツホイスカーをやりはじめました。  みんなも仕方なく踊りはじめました。するとデストゥパーゴも踊りだしました。それがみんなといっしょに踊るのではなくて、わざとみんなの邪魔をするようにうごきまわるのです。  みんなは呆れてだんだんやめて、ぐるっとデストゥパーゴのまわりに立ってしまいました。するとデストゥパーゴはたった一人でふざけて踊りはじめました。しまいにはみんなの前を踏むようなかたちをして行ったり、いきなり喧嘩でも吹っかけるときのように、はねあがったり、みんなはそのたんびにざわざわ遁げるようになりました。さっきの夏フロックを着た紳士が心配そうにもみ手をしながら何か云おうとするのですがデストゥパーゴはそれさえおどして引っこませてしまいました。楽隊はしばらくしかたなくやっていましたがとうとう呆れてやめてしまいました。するとデストゥパーゴも労れたように椅子へ坐って、 「おい、注げ。」と云いながらまたつづけざまに二杯ひっかけました。  するとミーロの仲間らしいものが二人で出て来てミーロに云いました。 「おいミーロ、お前もせっかく来たんだから一つうたって聞かして呉んな。」 「みんなさっきから、うたったり踊ったりして、つかれてるんだから。」  ミーロは、 「だめだよ。」と云ってその手をふりはらいましたが、実は、はじめから歌いたくて来たのですから、ことに楽隊の人たちが歌うなら伴奏しようというように身構えしたので、ミーロは顔いろがすっかり薔薇いろになってしまって眼もひかり息もせわしくなってしまいました。  わたくしも思わず、 「やれ、やれ、立派にやるんだ。」と云いました。  するとミーロはとうとう決心したようにいきなり咽喉掻きはだけて、はんの木の下の空箱の上に立ってしまいました。 「何をやりましょう。」セロの人がわらってききました。 「フローゼントリーをやってください。」 「フローゼントリー、譜もないしなあ、古い歌だなあ。」  楽員たちはわらって顔を見合せてしばらく相談していましたが、 「そいじゃね、クラリネットの人しか知ってませんから、クラリネットとね、それから鼓で調子だけとりますから、それでよかったら二節目からついて歌ってください。」  みんなはパチパチ手を叩きました。テーモも首をまげて聞いてやろうというようにしました。楽隊がやりました。ミーロは歌いだしました。 「けさの六時ころ    ワルトラワーラの  峠をわたしが     越えようとしたら  朝霧がそのときに   ちょうど消えかけて  一本の栗の木は    後光をだしていた  わたしはいただきの  石にこしかけて  朝めしの堅ぱんを   かじりはじめたら  その栗の木がにわかに ゆすれだして  降りて来たのは    二疋の電気|栗鼠  わたしは急いで……」 「おいおい間違っちゃいかんよ。」山猫博士がいきなりどなりだしました。 「何だって。」ミーロはあっけにとられて云いました。 「今朝ワルトラワーラの峠に電気栗鼠など居た筈はない、それはいたちの間違いだろう。もっとよく考えて歌ってもらいたいね。」 「そんなことどうだっていいんだい。」ミーロは怒って壇を下りました。すると山猫博士が立ちあがりました。 「今度は我輩うたって見せよう。こら楽隊、In the good summer time をやれ。」  楽隊の人たちは何べんもこの節をやったと見えてすぐいっしょにはじめました。山猫博士は案外うまく歌いだしました。 「つめくさの花の 咲く晩に  ポランの広場の 夏まつり  ポランの広場の 夏のまつり  酒を呑まずに  水を呑む  そんなやつらが でかけて来ると  ポランの広場も 朝になる  ポランの広場も 白ぱっくれる。」  ファゼーロは泣きだしそうになってだまってきいていましたが、歌がすむとわたくしがつかまえるひまもなく壇にかけのぼってしまいました。 「ぼくもうたいます。いまのふしです。」  楽隊はまたはじめました。山猫博士は、 「いや、これはめずらしいことになったぞ。」と云いながら又大きなコップで二つばかり引っかけました。  ファゼーロは力いっぱいうたいだしました。 「つめくさの花の  かおる夜は  ポランの広場の  夏まつり  ポランの広場の  夏のまつり  酒くせのわるい  山猫が  黄いろのシャツで 出かけてくると  ポランの広場に  雨がふる  ポランの広場に  雨が落ちる。」  デストゥパーゴがもう憤然として立ちあがりました。 「何だ失敬な、決闘をしろ、決闘を。」  わたくしも思わず立ってファゼーロをうしろにかばいました。 「馬鹿を云え、貴さまがさきに悪口を言って置いて。こんな子供に決闘だなんてことがあるもんか。おれが相手になってやろう。」 「へん、貴さまの出る幕じゃない。引っこんでいろ。こいつが我輩、名誉ある県会議員を侮辱した。だから我輩はこいつへ決闘を申し込んだのだ。」 「いや、貴さまがおれの悪口を言ったのだ。おれはきさまに決闘を申し込むのだ、全体きさまはさっきから見ていると、さもきさま一人の野原のように威張り返っている。さあ、ピストルか刀かどっちかを撰べ。」  するとデストゥパーゴはいきなり酒をがぶっと呑みました。  ああファゼーロで大丈夫だ。こいつはよほど弱いんだ。  わたくしは心のなかで、そっとわらいました。  はたしてデストゥパーゴは空っぽな声でどなりだしました。 「黙れっ。きさまは決闘の法式も知らんな。」 「よし。酒を呑まなけぁ物をいえないような、そんな卑怯なやつの相手は子どもでたくさんだ。おいファゼーロしっかりやれ。こんなやつは野原の松毛虫だ。おれがうしろで見ているから、めちゃくちゃにぶん撲ってしまえ。」 「よし、おい、誰かおれの介添人になれ。」  そのときさっきの夏フロックが出てきました。 「まあ、まあ、あんな子供をあんたが相手になさることはありません。今夜は大切の場合なのですから、どうか。」  すると山猫博士はいきなりその男を撲りつけました。 「やかましい。そんなことはわかっている。黙って居れ。おい誰かおれの介添をしろ。テーモ。」 「はい。どうぞ、おゆるしを。あとでわたくしがよく仕置きいたします。」 「やかましい。おい、クローノ、きさまやれ。」  クローノと呼ばれた百姓らしい男が、 「さあ、おいらじゃあね。」と云ってみんなのうしろへ引っ込んでしまいました。 「臆病者、おいポーショ、きさまやれ。」 「おいらあとてもだめだよ。」  デストゥパーゴはいよいよ怒ってしまいました。 「よし介添人などいらない。さあ仕度しろ。」 「きさまも早く仕度しろ。」わたくしはファゼーロに上着をぬがせながら云いました。 「剣でも大砲でもすきなものを持ってこいよ。」 「どっちでもきさまのすきな方にしろ。」どこにそんなものがあるんだい、と思いながらわたくしは云いました。 「よし、おい給仕、剣を二本持ってこい。」  すると給仕が待っていたように云いました。 「こんな野原で剣はございません。ナイフでいけませんか。」  するとデストゥパーゴは安心したようにしながら、 「よし、持ってこい。」と声だけ高く云いました。 「承知しました。」  給仕が食事につかうナイフを二本持って来て、うやうやしくデストゥパーゴにわたしました。まるで芝居だとわたくしは思いました。ところがデストゥパーゴはていねいにこの両方の刃をしらべているのです。それから、 「さあどっちでもいい方をとれ。」といって二本ともファゼーロに渡しました。  ファゼーロはすぐその一本をデストゥパーゴの足もとに投げて返しました。デストゥパーゴは拾いました。  そこでわたくしはまん中に出ました。 「いいか。決闘の法式に従うぞ。組打ちはならんぞ。一、二、三、よし。」  すると何のことはない、デストゥパーゴはそのみじかいナイフを剣のように持って一生けんめいファゼーロの胸をつきながら後退りしましたしファゼーロは短刀をもつように柄をにぎってデストゥパーゴの手首をねらいましたので、三度ばかりぐるぐるまわってからデストゥパーゴはいきなりナイフを落して左の手で右の手くびを押えてしまいました。 「おい、おい、やられたよ。誰か沃度ホルムをもっていないか。過酸化水素はないか。やられた、やられた。」  そしてべったり椅子へ坐ってしまいました。わたくしはわらいました。 「よくいろいろの薬の名前をご存知ですな。だれか水を持ってきてください。」 ところがその水をミーロがもってきました。そして如露でシャーとかけましたのでデストゥパーゴは膝から胸からずぶぬれになって立ちあがりました。  そして工合のわるいのをごまかすように、 「ええと、我輩はこれで失敬する。みんな充分やってくれ給え。」と勢よく云いながら、すばやく野原のなかへ走りました。  するとテーモも夏フロックもそのほか四五人急いであとを追いかけて行ってしまいました。行ってしまうと、にわかにみんなが元気よくなりました。 「やい、ファゼーロ、うまいことをやったなあ。この旦那はいったい誰だい。」 「競馬場に居る人なんだよ。」 「いったい今夜はどういうんですか。」わたくしはやっとたずねました。 「いいや、山猫の野郎、来年の選挙の仕度なんですよ。ただで酒を呑ませるポラーノの広場とはうまく考えたなあ。」 「この春からかわるがわるこうやってみんなを集めて呑ませたんです。」 「その酒もなあ。」 「そいつは云うな。さあ一杯やりませんか。」 「いいえ、わたしどもは呑みません。」 「まあ、おやんなさい。」  わたくしはもうたまらなくいやになりました。 「おい、ファゼーロ行こう。帰ろう。」  わたくしはいきなり野原へ走りだしました。ファゼーロがすぐついて来ました。みんなはあとでまだがやがやがやがや云っていました。新らしく楽隊も鳴りました。誰かの演説する声もきこえました。わたくしたちは二人、モリーオの市の方のぼんやり明るいのを目あてにつめくさのあかりのなかを急ぎました。そのとき青く二十日の月が黒い横雲の上からしずかにのぼってきました。ふりかえってみると、もうあのはんの木もあかりも小さくなって銀河はずうっと西へまわり、さそり座の赤い星がすっかり南へ来ていました。  わたくしどもは間もなくこの前三人で別れたあたりへ着きました。 「きみはテーモのところへ帰るかい。」わたくしはふと気がついて云いました。 「帰るよ。姉さんが居るもの。」ファゼーロは大へんかなしそうなせまった声で云いました。 「うん。だけどいじめられるだろう。」わたくしは云いました。 「ぼくが行かなかったら姉さんがもっといじめられるよ。」ファゼーロはとうとう泣きだしました。 「わたしもいっしょに行こうか。」 「だめだよ。」ファゼーロはまだしばらく泣いていました。 「わたしのうちへ来るかい。」 「だめだよ。」 「そんならどうするの。」  ファゼーロはしばらくだまっていましたが、俄かに勢よくなって云いました。 「いいよ。大丈夫だよ。テーモはぼくをそんなにいじめやしないから。」  わたくしは、それが役人をしているものなどの癖なのです、役所でのあしたの仕事などぼんやり考えながらファゼーロがそういうならよかろうと思ってしまいました。 「そんならいいだろう。何かあったらしらせにおいでよ。」 「うん、ぼくね、ねえさんのことでたのみに行くかもしれない。」 「ああいいとも。」 「じゃ、さよなら。」  ファゼーロはつめくさのなかに黒い影を長く引いて南の方へ行きました。わたくしはふりかえりふりかえり帰って来ました。  うちへはいってみると、机の上には夕方の酒石酸のコップがそのまま置かれて電燈に光り枕時計の針は二時を指していました。        四、警察署  ところがその次の次の日のひるすぎでした。わたくしが役所の机で古い帳簿から写しものをしていますと給仕が来てわたくしの肩をつっついて、 「所長さんがすぐ来いって。」と云いました。  わたくしはすぐペンを置いてみんなの椅子の間を通り、間の扉をあけて所長室にはいりました。  すると所長は一枚の紙きれを持って扉をあける前から恐い顔つきをして、わたくしの方を見ていましたが、わたくしが前に行って恭しく礼をすると、またじっとわたくしの様子を見てからだまってその紙切れを渡しました。見ると、 イ警第三二五六号 聴取の要有之本日午後三時本警察署人事係まで出頭致され度し イーハトーヴォ警察署 一九二七年六月廿九日 第十八等官レオーノ・キュースト殿 とあったのです。  ああ、あのデストゥパーゴのことだな、これはおもしろいと、わたくしは心のなかでわらいました。すると所長はまだわたくしの顔付きをだまってみていましたが、 「心当りがあるか。」と云いました。 「はい、ございます。」わたくしはまっすぐ両手を下げて答えました。  所長は安心したようにやっと顔つきをゆるめて、ちらっと時計を見上げましたが、 「よし、すぐ行くように。」と云いました。  わたくしはまたうやうやしく礼をして室を出ました。それから席へ戻って机の上をかたづけて、そっと役所を出かけました。巨きな桜の街路樹の下をあるいて行って、警察の赤い煉瓦造りの前に立ちましたら、さすがにわたくしもすこしどきどきしました。けれども何も悪いことはないのだからと、じぶんでじぶんをはげまして勢よく玄関の正面の受付にたずねました。 「お呼びがありましたので参りましたが、レオーノ・キューストでございます。」  すると受付の巡査はだまって帳面を五六枚繰っていましたが、 「ああ失踪者の件だね、人事係のとこへ、その左の方の入口からはいって待っていたまえ。」と云いました。  失踪者の件というのは何のことだろう、決闘の件とでも云うならわかっているし、その決闘なら刃の円くなった食卓ナイフでやったことなのだ、デストゥパーゴが血を出したかどうかもわからない、まあ何かの間違いだろうと思いながら、わたくしは室へ入って行きました。そこはがらんとした、窓の七つばかりある広い室でしたが、その片隅みにあの山猫博士の馬車別当が、からだを無暗にこわばらして、じつに青ざめた変な顔をしながら腰かけて待って居りました。 「やあ、じいさん、今日は、あなたも呼ばれたんですか。」わたくしはそばへ行ってわらいながら挨拶しました。  するとじいさんは、こんな悪者と話し合ってはどんな眼にあうかわからないというように、うろうろどこか遁げ口でもさがすように立ちあがって、またべったり坐りました。 「あなたのご主人はいらっしゃらないのですか。」わたくしはまたたずねました。 「いらっしゃらないともさ。」じいさんはやっと云いましたが、それからがたがたふるえました。 「いったいどうしたんですか。」わたくしはまだわらってききました。 「いま調べられてるんだよ。」 「誰が。」わたくしはびっくりしてたずねました。 「ロザーロがさ。」 「ロザーロ、どうして?」もうわたくしはすっかり本気になってしまいました。 「ファゼーロが居なくなったからさ。」 「ファゼーロ?」思わずわたくしは高く叫びました。  ああ、あの晩ファゼーロが帰る途中で何かあったのだな、……。 「話しすることはならん。」  いきなり奥の扉が、がたっとあきました。 「召喚人はお互話しすることはならん。おい、おまえはこっちへはいって居ろ。」  じいさんは呼ばれてよろよろ立って次の室へ行きました。そう云われて見ると、なるほど次の室ではロザーロが誰かに調べられているらしく、さっきからしずかに何か繰り返し繰り返し云って居るような気もしました。わたくしはまるで胸が迫ってしまいました。  ファゼーロが居ない、ファゼーロが居ない、あの青い半分の月のあかりのなかで争って勝ったあとのあの何とも云われないきびしい気持をいだきながら、ファゼーロがつめくさのあおじろいあかりの上に影を長く長く引いて、しょんぼりと帰って行った、そこには麻の夏外套のえりを立てたデストゥパーゴが三四人の手下を連れて待ち伏せしている、ファゼーロがそれを見て立ちどまると向うは笑いながらしずかにそばへ追って来る、いきなり一人がファゼーロを撲りつける、みんなたかって来て、むだに手をふりまわすファゼーロをふんだりけったりする、ファゼーロは動かなくなる、デストゥパーゴがそれをまためちゃくちゃにふみつける、ええ、もう仕方ない持ってけ持ってけとデストゥパーゴが云う、みんなはそれを乾溜工場のかまの中に入れる、わたくしはひとりでかんがえてぞっとして眼をひらきました。  わたくしはたまらなくなってその室のなかをぐるぐる何べんもあるきました。窓の外の桜の木の向うをいろいろの人が行ったり来たりしました。わたくしはその一人一人がデストゥパーゴかファゼーロのような気がしてたまりませんでした。鳥打帽子を深くかぶった少年が通るとファゼーロが遁げてここをそっと通るのかと思い、肥った人を見るとデストゥパーゴがわざとそんな形にばけて、様子をさぐっているのだと思いました。突然わたくしは頭がしいんとなってしまいました。隣りの室でかすかなすすり泣きの声がして、それからそれは何とかだっと叫びながらおどかすように足をどんとふみつけているのです。わたくしはあぶなく扉をあけて飛び込もうとしました。するとまたしばらくしずかになっていましたが間もなく扉のとってが力なくがちっとまわって、ロザーロが眼を大きくあいてよろめくようにでてきました。  わたくしは何といっていいかわからなくてどぎまぎしてしまいました。するとロザーロがだまってしずかにおじぎをして私の前を通り抜けて外へ出て行きました。気がついて見るとロザーロのあとからさっきの警部か巡査からしい人が扉から顔を出して出て行くのを見ていたのです。わたくしがそっちを見ますと、その顔はひっこんで扉はしまってしまいました。中ではこんどは山猫博士の馬車別当が何か訊かれているようすで、たびたび、何か高声でどなりつけるたびに馬車別当のおろおろした声がきこえていました。わたくしはその間にすっかり考えをまとめようと思いましたが、何もかもごちゃごちゃになってどうしてもできませんでした。とにかくすっかり打ち明けて係りへ話すのがいちばんだと考えて、もうじっとすわって落ち着いて居りました。すると間もなくさっきの扉が、がじゃっとあいて馬車別当がまっ青になってよろよろしながら出てきました。 「第十八等官、レオーノ・キュースト氏はあなたですか。」さっきの人がまた顔を出して云いました。 「そうです。」 「では、こっちへ。」  わたくしははいって行きました。そこには、も一人正面の卓に書類を載せて鬚の立派な一人の警部らしい人が、たったいまあくびをしたところだというふうに目をぱちぱちしながら、こっちを見ていました。 「そこへお掛けなさい。」  わたくしは警部の前に会釈して坐りました。 「君がレオーノ・キュースト君か。」警部は云いました。 「そうです。」 「職業、官吏、位階十八等官、年齢、本籍、現住、この通りかね。」警部はわたしの名やいろいろ書いた書類を示しました。 「そうです。」 「では訊ねるが、君はテーモ氏の農夫ファゼーロをどこへかくしたか。」 「農夫のファゼーロ?」わたくしは首をひねりました。 「農夫だ。十六歳以上は子どもでも農夫だ。」警部は面倒くさそうに云いました。 「君はファゼーロをどこかへかくしているだろう。」 「いいえ、わたくしは一昨夜競馬場の西で別れたきりです。」 「偽を云うとそれも罪に問うぞ。」 「いいえ。そのときは二十日の月も出ていましたし野原はつめくさのあかりでいっぱいでした。」 「そんなことが証拠になるか。そんなことまでおれたちは書いていられんのだ。」 「偽だとお考えになるならどこなりとお探しくださればわかります。」 「さがすさがさんはこっちの考えだ。お前がかくしたろう。」 「知りません。」 「起訴するぞ。」 「どうでも。」二人は顔を見合せました。 「では訊ねるが君はどういうことでファゼーロと知り合いになったか。」 「ファゼーロがわたくしの遁げた山羊をつかまえてくれましたので。」 「うん。それはいつ、どこでだ。」 「五月のしまいの日曜、二十七日でしたかな。」 「うん。二十七日。どこでだ。」 「あれは何という道路ですか。教会の横から、村へ出る道路を一キロばかり行った辺です。」 「うん。おまえは二十七日の晩ファゼーロと連れだって村の園遊会へ闖入したなあ。」 「闖入というわけではありませんでした。明るくていろいろの音がしますので行って見たのです。」 「それからどうした。」 「それからわたくしどもが酒を呑まんと云いますとテーモが怒ったのです。」 「テーモはお前とはいつから知り合いか。」 「ファゼーロと知り合いになったときです。そのときテーモはファゼーロが仕事に行く時間をわたくしが邪魔したといって革むちをわたくしの顔の前で鳴らしました。」 「それだけか。」 「はい。」 「園遊会でそれからどういうことになったか。」  わたくしはそこであのポラーノの広場での出来事を全部話しました。一人はそれをどんどん書きとりました。警部が云いました。 「きみはファゼーロの居ないことをさっきまで知らなかったか。」 「はい。」 「何か証拠を挙げられるか。」 「はい、ええ、昨日と今日役所での仕事をごらん下さればわかります。わたくしはあれですっかりかたが着いたと思ってせいせいして働いていたのであります。」 「それも証拠にはならん。おい、君、白っぱくれるのもいい加減にしたまえ。テーモ氏から捜索願が出ているのだ。いま君がありかを云えば内分で済むのだ。でなけぁ、きみの為にならんぜ。」 「どうも全く知らないのです。まあ、あなたがたもご商売でしょうが、わたくしの声や顔付きをよくごらんください。これでおわかりにならんのですか。」わたくしは少ししゃくにさわって一息に云いました。  すると二人はまた顔を見合せました。ええもうなるようになれとわたくしはまた云いました。 「なぜわたくしより前にデストゥパーゴを呼び出してくださらんのです。誰が考えてもファゼーロの居ないのはデストゥパーゴのしわざです。まさか殺しはしますまいが。」 「デストゥパーゴ氏は居らん。」  わたくしはどきっとしました。ああファゼーロは本気かあるいは間ちがって殺されたのかもしれない。警部が云いました。 「お前の申し立てはいろいろの点でテーモ氏の申し立てとちがっている。しかしわれわれはそれは当然だろうと考える。いま調書を読むから君の云ったところとちがった所がないかよくききたまえ。」一人は読みはじめました。 「ちがいありません。」私はファゼーロのことを考えながら上の空で答えました。 「ここへ署名したまえ。」  わたくしは書類のはじへ書きました。もうどうしても心配で心配でたまらなくなったのです。 「では帰ってよろしい。明日また呼ぶから。」警部は云いました。  わたくしはたまらなくなりました。 「ファゼーロはどうしたんです。なぜデストゥパーゴをつかまえんのです。」 「それを君が云うことはならん。」 「だってファゼーロはどうしたんです。」 「そんなに心配なら君もさがしたまえ。さあ帰り給え。」  二人はもう疲れて早くやめたいという風でした。わたくしはもうあかりのついていた警察署を夢中で飛びだしました。すると出口の桜の幹に、その青い夕方のもやのなかに、ロザーロがしょんぼりよりかかって、かなしそうに遠いそらを見ていました。わたくしは思わずかけよりました。 「あなたはロザーロさんですね。わたくしはどこへさがしに行ったらいいでしょう。」  ロザーロが下を見ながら云いました。 「きっと遠くでございますわ。もし生きていれば。」 「わたくしがいけなかったんです。けれどもきっとさがしますから。」 「ええ。」 「デストゥパーゴはいないんですか。」 「いないんです。」 「馬車別当は?」 「見ませんでした。」 「あなたのご主人は知っていないんですか。」 「ええ。」 「捜索願をわざと出したのでしょう。」 「いいえ。警察からも人が来てしらべたのです。」 「あなたはこれから主人のとこへお帰りになるんですか。」 「ええ。」 「そこまでご一緒いたしましょう。」  わたくしどもはあるきだしました。わたくしはいろいろ話しかけて見ましたが、ロザーロはどうしてもかなしそうで一言か二言しか返事しませんので、わたくしはどうしてももっと立ち入ってファゼーロと二人のことに立ち入ることができませんでした。そしてこの前山羊をつかまえた所まで来ますと、ロザーロは、 「もうじきですから。」と云ってじぶんからおじぎをして行ってしまいました。  わたくしはさびしさや心配で胸がいっぱいでした。そしてその晩から毎晩毎晩野原にファゼーロをさがしに出ました。日曜日にはひるも出ました。ことにこの前ファゼーロと別れた辺からテーモの家までの間に何か落ちてないかと思ってさがしたり、つめくさの花にデストゥパーゴやファゼーロのあしあとがついていないかと思って見てまわったり、デストゥパーゴの家から何か物音がきこえないかと思って幾晩も幾晩もそのまわりをあるいたりしました。  前の二本の樺の木のあたりからポラーノの広場へも何べんも行きました。そのうちにつめくさの花はだんだん枯れて茶いろになり、ポラーノの広場のはんの木には、ちぎれて色のさめたモールが幾本かかかっているだけ、ミーロにさえも会いませんでした。警察からはあと呼び出しがありませんでしたので、こっちから出て行ってどうなったかきいたりしましたが警察ではファゼーロもデストゥパーゴも、まだ手がかりはないが心配もなかろうというようなことばかり云うのでした。そしてわたくしも、どういうわけか、なれたのですか、つかれたのですか、ファゼーロはファゼーロで、ちゃんとどこかにいるというような気がしてきたのです。        五、センダード市の毒蛾  そしてだんだん暑くなってきました。役所では窓に黄いろな日覆もできましたし隣りの所長の室には電気会社から寄贈になった直径七デシもある大きな扇風機も据えつけられました。あまり暑い日の午後などは所長が自分で立って間の扉をあけて、 「さあ諸君、少し風にあたりたまえ。」なんて云ったものです。  すると大扇風機から風がどうどうやって来ました。尤も私の席はその風の通り路からすこし外れていましたから格別涼しかったわけでもありませんでしたが、それでも向うの書類やテーブルかけが、ぱたぱた云っているのを見るのは実際愉快なことでした。それでもそんな仕事のあいまに、ふっとファゼーロのことを思いだすと、胸がどかっと熱くなってもうどうしたらいいかわからなくなるのでした。とにかくその七月いっぱいに私のした仕事は、 一、北極熊|剥製方をテラキ標本製作所に照会の件 一、ヤークシャ山頂火山弾運搬費用|見積の件 一、植物標本|褪色調査の件 一、新番号札二千三百枚調製の件  などでした。  そして八月に入りました。その八月二日の午すぎ、わたくしが支那漢時代の石に刻んだ画の説明をうつらうつら写していましたら、給仕がうしろからいきなりわたくしの首すじを突っついて、 「所長さんが来いって。」といいました。  わたくしはすこしむっとしてふり返りましたら給仕はまた威張って云いました。 「所長さんがすぐ来いって。」  わたくしは返事もしないでだまってみんなの椅子のうしろを通り、例の扉をあけて恭※しくはいって行きました。  所長は肥った白い手首に※をもたせて扇風機にあたりながら新聞を見ていましたが、わたくしが行くとだるそうにちょっと眼をあげて、それから机の上の紙挾みから一枚の命令書をわたくしによこしました。それには、 「海岸鳥類の卵採集の為に八月三日より二十八日間イーハトーヴォ海岸地方に出張を命ず。」  と書いてありました。わたくしはまるでほくほくしてしまいました。  あのイーハトーヴォの岩礁の多い奇麗な海岸へ行って今ごろありもしない卵をさがせというのはこれは慰労休暇のつもりなのだ。それほどわたくしが所長にもみんなにも働いていると思われていたのか、ありがたいありがたいと心の中で雀躍しました。すると所長は私の顔は少しも見ないで、やっぱり新聞を見ながら、 「会計へまわって見積旅費を受けとるように。」と一言だけ云いました。  わたくしは叮嚀に礼をして室を出ました。それからその辞令をみんなに一人ずつ見せて挨拶してあるき、おしまいに会計に行きましたら、会計の老人はちょっと渋い顔付きはしていましたが、だまってわたくしの印を受け取って大きな紙幣を八枚も渡してくれました。ほかに役所の大きな写真器械や双眼鏡も借りました。うちへ帰ると、わたくしは持っていたレコードをみんな町の古時計屋へ売ってしまいました。そして大きなへりのついたパナマの帽子と卵いろのリンネルの服を買いました。  次の朝わたくしは番小屋にすっかりかぎをおろし、一番の汽車でイーハトーヴォ海岸の一番北のサーモの町に立ちました。その六十里の海岸を町から町へ、岬から岬へ、岩礁から岩礁へ、海藻を押葉にしたり、岩石の標本をとったり、古い洞穴や模型的な地形を写真やスケッチにとったり、そしてそれを次々に荷造りして役所へ送りながら、二十幾日の間にだんだん南へ移って行きました。海岸の人たちはわたくしのような下給の官吏でも大へん珍らしがって、どこへ行っても歓迎してくれました。沖の岩礁へ渡ろうとすると、みんなは船に赤や黄の旗を立てて十六人もかかって櫓をそろえて漕いでくれました。夜にはわたくしの泊った宿の前でかがりをたいて、いろいろな踊りを見せたりしてくれました。たびたびわたくしはもうこれで死んでいいと思いました。けれどもファゼーロ、あの暑い野原のまんなかでいまも毎日はたらいているうつくしいロザーロ、そう考えて見るといまわたくしの眼のまえで一日一ぱいはたらいてつかれたからだを、踊ったりうたったりしている娘たちや若者たち、わたくしは何べんも強く頭をふって、さあ、われわれはやらなければならないぞ、しっかりやるんだぞ、みんなのために、とひとりでこころに誓いました。  そして八月三十日の午ごろ、わたくしは小さな汽船でとなりの県のシオーモの港に着き、そこから汽車でセンダードの市に行きました。三十一日わたくしはそこの理科大学の標本をも見せて貰うように途中から手紙をだしてあったのです。わたくしが写真器と背嚢をたくさんもってセンダードの停車場に下りたのは、ちょうど灯がやっとついた所でした。わたくしは大学のすぐ近くのホテルからの客を迎える自動車へほかの五六人といっしょに乗りました。採って来たたくさんの標本をもってその巨きな建物の間を自動車で走るとき、わたくしはまるで凱旋の将軍のような気がしました。ところがホテルへ着いて見ると、この暑いのに窓がすっかり閉めてあるのです。室へ通されてみると仲々むし暑いので、わたくしは給仕に、 「おい、どうしたんだ。窓をあけたらいいじゃないか。」と云いました。  すると給仕はてかてかの髪をちょっと撫でて、 「はい、誠にお気の毒でございますが、当地方には、毒蛾がひどく発生して居りまして、夕刻からは窓をあけられませんのでございます。只今、扇風機を運んで参ります。」と云ったのでした。  なるほど、そう云って出て行く給仕を見ますと、首にまるで石の環をはめたような厚い繃帯をして、顔もだいぶはれていましたから、きっと、その毒蛾に噛まれたんだと、私は思いました。ところが、間もなく隣りの室で、給仕が客と何か云い争っているようでした。それが仲々長いし烈しいのです。私は暑いやら疲れたやら、すっかりむしゃくしゃしてしまいましたので、今のうち一寸床屋へでも行って来ようと思って室を出ました。そして隣りの室の前を通りかかりましたら、扉が開け放してあって、さっきの給仕がひどく悄気て頭を垂れて立っていました。向うには、髪もひげもまるで灰いろの、肥ったふくろうのようなおじいさんが、安楽椅子にぐったり腰かけて、扇風機にぶうぶう吹かれながら、 「給仕をやっていながら、一通りのホテルの作法も知らんのか。」と頬をふくらして給仕を叱りつけていました。  私は、ははあ扇風機のことだなと思いながら、苦笑いをしてそこを通り過ぎようとしますと、給仕がちょっとこっちを向いて、いかにも申し訳ないというように眼をつぶって見せました。私はそれですっかり気分がよくなったのです。そして、どしどし階段を踏んで、通りに下りました。  なるほど、毒蛾のことがわかって町をあるくと、さっき停車場からホテルへ来る途中、いろいろ変に見えたけしきも、すっかりもっともと思われたのです。人道にはたくさんたき火のあとがありましたし、みんなは繃帯をしたり白いきれで顔を擦ったりしながら歩いていました。また並木のやなぎにいちいち石油ランプがぶらさがっていたのです。私は一軒の床屋に入りました。それは仲々大きな床屋でした。向側の鏡が、九枚も上手に継いであって、店が丁度二倍の広さに見えるようになって居り、糸杉やこめ栂の植木鉢がぞろっとならび、親方らしい隅のところで指図をしている人のほかに職人がみなで六人もいたのです。すぐ上の壁に大きながくがかかって、そこにそのうちの四人の名前が理髪アーティストとして立派にならび、二人は助手として書かれていました。 「お髪はこの通りの型でよろしゅうございますか。」私が鏡の前の白いきれをかけた上等の椅子に坐ったとき、そのうちの一人が私にたずねました。 「ええ。」私はもう明日は帰るイーハトーヴォの野原のことを考えながらぼんやり返事をしました。  するとその人は向うで手のあいているもう二人の人たちを指で招きながら云いました。 「どうだろう。お客さまはこの通りの型でいいと仰っしゃるが、君たちの意見はどうだい。」  二人は私のうしろに来て、しばらくじっと鏡にうつる私の顔を見ていましたが、そのうち一人のアーティストが、白服の腕を組んで答えました。 「さあ、どうかね、お客さまのお※が白くて、それに円くて、大へん温和しくいらっしゃるんだから、やはりオールバックよりはネオグリークの方がいいじゃないかなあ。」 「うん。僕もそう思うね。」も一人も同意しました。私の係りのアーティストが、おれもそうおもっていたというようにうなずいて、私に云いました。 「いかがでございます、ただいまのお髪の型よりは、ネオグリークの方がお顔と調和いたしますようでございますが。」 「そうですね、じゃそう願いましょうか。」私も丁寧に云いました。なぜならこの人たちはみんな立派な芸術家だとおもったからです。  さて、私の頭はずんずん奇麗になり、疲れも大へん直りました。これなら、今夜よく寝んで、あしたは大学のあの地下になっている標本室で、向うの助手といちにち暮しても大丈夫だと思って、気持ちよく青い植木鉢や、アーティストの白い指の動くのや、チャキチャキ鳴る鋏の影をながめて居りました。  すると俄かに私の隣りの人が、 「あ、いけない、いけない、押えてくれたまえ。畜生、畜生。」とひどく高い声で叫んだのです。  びっくりして私はそっちを見ました。アーティストたちもみな馳せ集ったのです。その叫んだ人は、それこそはひげを片っ方だけ剃ったままで大へん瘠せては居りましたが、しかしたしかにそれはデストゥパーゴです。わたくしは占めたとおもいました。デストゥパーゴはわたくしなぞ気がつかずに、まだ怖ろしそうに顔をゆがめていました。 「どこへさわりましたのですか。」  さっきの親方のアーティストが麻のモーニングを着て、大きなフラスコを手にしてみんなを押し分けて立っていました。そのうちに二三人のアーティストたちは、押虫網でその小さな黄色な毒蛾をつかまえてしまいました。 「ここだよ、ここだよ。早く。」と云いながら、デストゥパーゴは左の眼の下を指しました。  親方のアーティストは、大急ぎで、フラスコの中の水を綿にしめしてその眼の下をこすりました。 「何だいこの薬は。」デストゥパーゴが叫びました。 「アンモニア二%液。」と親方が落ち着いて答えました。 「アンモニアは効かないって、今朝の新聞にあったじゃないか。」  デストゥパーゴは椅子から立ちあがりました。デストゥパーゴは桃いろのシャツを着ていました。 「どの新聞でご覧です。」親方は一層落ちついて答えました。 「センダート日日新聞だ。」 「それは間違いです。アンモニアの効くことは県の衛生課長も声明しています。」 「あてにならん。」 「そうですか。とにかく、だいぶ腫れて参ったようです。」  親方のアーティストは、少ししゃくにさわったと見えて、プイッとうしろを向いて、フラスコを持ったまま向うへ行ってしまいました。デストゥパーゴは、ぷんぷん怒りだしました。 「失敬じゃないか、あしたは僕は陸軍の獣医官たちと大事な交際があるんだぞ。こんなことになっちゃ、まるで向うの感情を害するばかりだ。きさまの店を訴えるぞ。」と云いながら、ずんずん赤くはれて行く頬を鏡で見ていました。  親方も、むかっ腹を立てて云いました。 「なあに毒蛾なんか、市中到る処に居るんだ。町をあるいてさわられたら市長でも訴えたらよかろうさ。」  デストゥパーゴは、渋々、又椅子に坐って、 「おい、早くあとをやってしまって呉れ。早く。」と云いました。そして、しきりに変な形になって行く顔を気にしながら、残りの半分のひげを剃らせていました。  わたくしも急ぎました。けれどもたしかにわたくしの方が早く済むのです。それでも向うがさきに済んだら、こっちもすぐ立とうと思ってそっと財布をさぐって、大きな銀貨を一枚もって握っていました。ところがどういうわけか、私より私のアーティストがもっと急いで居りました。そしてしきりに時計を見ました。  まるで私の顔などは、三十五秒ぐらいで剃ってしまったのです。 「さあお洗いいたしましょう。」  私はデストゥパーゴに知れないように、手で顔をかくしながら大理石の洗面器の前に立ちました。  アーティストは、つめたい水でシャアシャアと私の頭を洗い時々は指で顔も拭いました。  それから、私は、自分で勝手に顔を洗いました。そして、も一度椅子にこしかけたのです。  その時親方が、 「さあもう一分だぞ。電気のあるうちに大事なところは済ましちまえ。それからアセチレンの仕度はいいか。」 「すっかり出来ています。」小さな白い服の子供が云いました。 「持って来い。持って来い。あかりが消えてからじゃ遅いや。」親方が云いました。  そこでその子供の助手が、アセチレン燈を四つ運び出して、鏡の前にならべ、水を入れて火をつけました。烈しく鳴って、アセチレンは燃えはじめたのです。その時です。あちこちの工場の笛は一斉に鳴り、子供らは叫び、教会やお寺の鐘まで鳴り出して、それから電燈がすっと消えたのです。電燈のかわりのアセチレンで、あたりがすっかり青く変りました。  それから私は、鏡に映っている海の中のような、青い室の黒く透明なガラス戸の向うで、赤い昔の印度を偲ばせるような火が燃されているのを見ました。一人のアーティストが、そこでしきりに薪を入れていたのです。 「今夜は、毒蛾も全滅だな。」誰か向うで云いました。 「さあどうかねえ。」私のとこのアーティストは、私の頭に、金口の瓶から香水をかけながら答えました。  それからアーティストは、私の顔をも一度よく拭って、それから戸口の方をふり向いて、 「ちょっと見て呉れ。」と云いました。アーティストたちは、あるいは戸口に立ち、あるいはたき火のそばまで行って、外の景色をながめていましたが、この時大急ぎでみんな私のうしろに集まりました。そして鏡の中の私の顔を、それはそれは真面目な風で検べてから、 「いいようだね。」と云いました。  私はそこで椅子から立ちました。しっかり握っていて温くなった銀貨を一枚払いました。そしてその大きなガラスの戸口を出て通りに立ちました。デストゥパーゴのあとをつけようとおもったのです。  そこへ立って私は、全く変な気がして、胸の躍るのをやめることができませんでした。それはあのセンダードの市の大きな西洋造りの並んだ通りに、電気が一つもなくて、並木のやなぎには、黄いろの大きなランプがつるされ、みちにはまっ赤な火がならび、そのけむりはやさしい深い夜の空にのぼって、カシオピイアもぐらぐらゆすれ、琴座も朧にまたたいたのです。どうしてもこれは遙かの南国の夏の夜の景色のように思われたのです。私は、店のなにかのぞきながら待っていました。いろいろな羽虫が本当にその火の中に飛んで行くのも私は見ました。向うでもこっちでも繃帯をしたり、きれを顔にあてたりしながら、まちの人たちが火をたいていました。  そのうちに、私は向うの方から、高い鋭い、そして少し変な力のある声が、私の方にやって来るのを聞きました。だんだん近くなりますと、それは頑丈そうな変に小さな腰の曲ったおじいさんで、一枚の板きれの上に四本の鯨油蝋燭をともしたのを両手に捧げてしきりに斯う叫んで来るのでした。 「家の中の燈火を消せい。電燈を消してもほかのあかりを点けちゃなんにもならん。家の中のあかりを消せい。」  あかりをつけている家があると、そのおじいさんはいちいちその戸口に立って叫ぶのでした。 「家の中のあかりを消せい。電燈を消してもほかのあかりをつけちゃなんにもならん。家の中のあかりを消せい。」  その声はガランとした通りに何べんも反響してそれから闇に消えました。  この人はよほどみんなに敬われているようでした。どの人もどの人もみんな丁寧におじぎをしました。おじいさんはいよいよ声をふりしぼって叫んで行くのでした。 「家のなかのあかりを消せい。電燈を消してもほかのあかりをつけちゃなんにもならん。家の中のあかりを消せい。いや、今晩は。」  叫びながら右左の人に挨拶を返して行くのでした。 「あの人は何ですか。」私は火にあたっているアーティストにたずねました。 「撃剣の先生です。」  ところがその撃剣の先生はつかつかと歩いて来ました。 「うちの中のあかりを消せい、電燈を消してもべつのあかりをつけちゃなんにもならん。はやく消せい。おや、今晩は。なるほど、こちらの商売では仕方ないかね。」 「ええ、先生、今晩は、ご苦労さまでございます。」  親方がでてきて挨拶しました。 「いや今晩は、どうもひどい暑気ですね。」 「へい、全く、虫でしめっ切りですからやりきれませんや。」 「そうねえ、いや、さよなら。」撃剣の先生はまただんだん向うへ叫んで行きました。  この声がだんだん遠くなって、どこかの町の角でもまがったらしいとき、この青い海の中のような床屋の店のなかから、とうとうデストゥパーゴが出て来てしばらく往来を見まわしてから、すたすた南の方へあるきだしました。わたくしは後向きになって火の中へ落ちる蛾を見ているふりをしていましたが、すぐあとをつけました。デストゥパーゴは毒蛾にさわられたためにたいへん落ち着かないようすでした。それにどこかよほどしょげていました。わたくしはあとをつけながら、なんだかかあいそうなような気もちになりました。もちろんひとりもデストゥパーゴに挨拶するものもありませんでしたし、またデストゥパーゴはなるべくみんなに眼のつかないように車道との堺の並木のしたの陰影になったところをあるいているのでした。  どうもデストゥパーゴが大びらに陸軍の獣医たちなどと交際するなんて偽らしいとわたくしは思いました。とうとうデストゥパーゴは立ちどまって、しばらくあちこち見まわしてから、大通りから小さな小路にはいりました。わたくしは知らないふりしてぐんぐん歩いて行きました。その小路をはいるとまもなく、一つの前庭のついた小さな門をデストゥパーゴははいって行きました。わたくしはすっかり事情を探ってからデストゥパーゴに会おうか、警察へ行って、イーハトーヴォでさがしているデストゥパーゴだと云って押えてしまってもらおうかと、そのときまで考えていましたが、いまデストゥパーゴの家のなかへはいるのを見るともう前後を忘れて走り寄りました。 「デストゥパーゴさん。しばらくでしたな。」  デストゥパーゴはぎくっとして棒立ちになりましたが、わたくしを見ると遁げもしないでしょんぼりそこへ立ってしまいました。 「ファゼーロをたずねてまいったのですが、どうかお渡しをねがいます。」  デストゥパーゴははげしく両手をふりました。 「それは誤解です、誤解です。あの子どもは、わたくしは知りません。」 「いったいそんならあなたは、なぜこんなところへかくれたのですか。」  デストゥパーゴはまっ青になりました。 「イーハトーヴォの警察ではファゼーロといっしょにあなたをさがしているのです。もうすっかり手配がついています。今夜はどうなってもあなたは捕まります。ファゼーロはどこにいるのです。」わたくしは思わず、うそをついてしまいました。  デストゥパーゴは、毒蛾のためにふくれておかしな格好になった顔でななめにわたくしを見ながら、ぶるぶるふるえて、まるで聞きとれないくらい早口に云いました。 「そんな筈はない、そんな筈はない。名誉にかけて、紳士の名誉にかけて。」 「なぜそんならあなたはこんなところへかくれたのです。」  デストゥパーゴはようやくふるえるのをやめて、しばらく考えていましたが、ようやく少しゆっくり云いました。 「わたくしは警察からは召喚されただけで、それは旅行届を出して代人を出してある筈です。それに就ては署長に充分諒解を得てあります。警察では、わたくしに何の嫌疑もかけていない筈です。」 「それならなぜ旅行届を出したりして遁げたのです。」  デストゥパーゴはやっと落ち着きました。 「いや、おはいりください。詳しくお話しましょう。」  デストゥパーゴはさきに立って小さな玄関の戸を押しました。するとさっきから内側で立って見ていたと見えて一人のおばあさんが出迎えました。 「お茶をあげてくれ。」  デストゥパーゴはすぐ右側の室へはいって行きました。わたくしはもう多分大丈夫だけれども遁げるといけないと思って戸口に立っていました。デストゥパーゴは何か瓶をかちかち鳴らしてから白いきれで顔を押えながら出て来ました。 「さあ、どうぞこちらへ。」  わたくしは応接室に通されました。デストゥパーゴはようやく落ち着きました。 「わたくしがここへ人を避けて来ているのは全くちがった事情です。じつはあなたもご承知でしょうが、あの林の中でわたくしが社長になって木材乾溜の会社をたてたのです。ところがそれがこの頃の薬品の価格の変動でだんだん欠損になって、どうにもしかたなくなったのです。わたくしはいろいろやって見ましたがどうしてもいけなかったのです。もちろんあの事業にはわたくしの全財産も賭してあります。すると重役会で、ある重役がそれをあのまま醸造所にしようということを発議しました。そこでわたくしどもも賛成して試験的にごくわずか造って見たのですが、それを税務署へ届け出なかったのです。ところがそれをだしにして、わたくしのある部下のものがわたくしを脅迫しました。あの晩はじつに六ヵしい場合でした。あすこに来ていたのはみんな株主でした。わざとあすこをえらんだのです。ところが株主の反感は非常だったのです。わたくしももうやけくそになって、ああいう風に酔っていたのです。そこへあなたが出て来たのですからなあ。」  わたくしははじめてあの頃のことがはっきりして来ました。それといっしょに眼の前にいるデストゥパーゴがかあいそうにもなりました。 「いや、わかりました。けれども、ああ、ファゼーロはどうしたろうなあ。」  デストゥパーゴが云いました。 「わたくしはあの子どもを憎んで居りません。わたくしに前のようないい条件があれば世話して学校にさえ入れたいのです。けれどもあの子どもはきっとどこかで何かしていますぞ。警察でもそう見ています。」  わたくしはいきなり立ってデストゥパーゴに別れを告げました。 「ではわたくしは帰ります。あなたはここをどうかお立ち退きください。わたくしは帰ってこの事情を云わないわけにも参りませんから。」  デストゥパーゴはしょんぼりとして云いました。 「いまわたくしは全く収入のみちもないのです。どうか諒解してください。」  わたくしは礼をしました。 「ロザーロは変りありませんか。」デストゥパーゴが大へん早口に云いました。 「ええ、働いているようです。」わたくしもなぜか、ふだんとちがった声で云いました。        六、風と草穂  九月一日の朝わたくしは、旅程表やいろいろな報告を持って、きまった時間に役所に出ました。わたくしはみんなにも挨拶して廻り、所長が出て来るや否や、その扉をノックしてはいって行きました。 「あ帰ったかね。どうだった。」所長は左手ではずれたカラーのぼたんをはめながら云いました。 「はい、お陰で昨晩戻って参りました。これは報告でございます。集めた標本類は整理いたしましてから目録をつくって後ほど持って参ります。」 「うん、そう急がないでもよろしい。」所長はカラーをはめてしまってしゃんとなりました。  わたくしは礼をして室を出ました。そしてその日は一日、来ていた荷物をほどいたり机の上にたまっていた書類を整理したりしているうちに、いつか夕方になってしまいました。わたくしもみんなのあとから役所を出て、いままでの通り公衆食堂で食事をして競馬場へ帰って来ました。するとやっぱりよほど疲れていたと見えて、ちょっと椅子へかけたと思ったら、いつかもうとろとろ睡ってしまっていました。その甘ったるい夕方の夢のなかで、わたくしはまだあの茶いろななめらかな昆布の干された、イーハトーヴォの岩礁の間を小舟に乗って漕ぎまわっていました。俄かに舟がぐらぐらゆれ、何でも恐ろしくむかし風の竜が出てきて、わたくしははねとばされて岩に投げつけられたと思って眼をさましました。誰かわたくしをゆすぶっていたのです。  わたくしは何べんも瞳を定めてその顔を見ました。それはファゼーロでした。 「あっ、どうしたんだ、きみは、ずうっと前から居たのかい。」わたくしはびっくりして云いました。 「ぼくはね、八月の十日に帰ってきたよ。おまえはいままで居なかったじゃないか。」 「居なかったさ。海岸へ出張していたんだ。」 「今夜ね、ぼくらの工場へ来ておくれ。」 「きみらの工場? 何がどうしたんだ。全体きみはどこへ行ってたんだ。」 「ぼくはねえ、センダードのまちの革を染める工場へはいっていたよ。」 「センダード。どうしてあんなとこまで行ったんだ。そして今夜またぼくにセンダードへ行けというのかい。」 「そうじゃないよ。」 「ではどうなんだ。第一どうしてあんなとこまで行ったんだ。」 「ぼく、どうしても、うちへはいれなかったんだ。そしてうちを通り越してもっと歩いて行った。すると夜が明けた。ぼくが困って坐っていると革を買う人が通ってその車にぼくをのせてたべものをくれた。それからぼくはだんだん仕事も手伝ってとうとうセンダードへ行ったんだ。」 「そうか。ほんとうにそれはよかったなあ。ぼくはまたきみがあの醋酸工場の釜の中へでも入れられて蒸し焼きにされたかと思ったんだ。」 「ぼくはねえ、あっちで技師の助手をしたんだ。するとその人が何でも教えてくれた。薬もみんな教えてくれた。ぼくはもう革のことなら、なめすことでも色を着けることでもなんでもできるよ。」 「そしてどうして帰ってきた。」 「警察から探されたんだよ。けれどもそんなに叱られなかった。」 「きみの主人は何と云った。」 「もうどこへ行ってもいいから勝手にしろって。」 「そしてどうするの。」 「年よりたちがねえ、ムラードの森の工場に居て、ぼくに革の仕事をしろというんだ。」 「できるかい。」 「できるさ。それにミーロはハムを拵えれるからな。みんなでやるんだよ。」 「姉さんは?」 「姉さんも工場へ来るよ。」 「そうかねえ。」 「さあ行こう、今夜も確か来ているから。」  わたくしは俄かに疲れを忘れて立ちあがりました。 「じゃ行こう。だけど遠いかい。」 「この前のポラーノの広場のちょっと向うさ。」 「少し遠いねえ。けれど行こう。」わたくしはすばやく旅行のときのままのなりをして、いっしょにうちを出ました。ファゼーロはまた走りだしました。  雲が黄ばんでけわしくひかりながら南から北へぐんぐん飛んで居りました。けれども野原はひっそりとして風もなく、ただいろいろの草が高い穂を出したり変にもつれたりしているばかり、夏のつめくさの花はみんな鳶いろに枯れてしまって、その三つ葉さえ大へん小さく縮まってしまったように思われました。  わたくしどもはどんどん走りつづけました。 「そら、あすこに一つあかしがあるよ。」  ファゼーロがちょっと立ちどまって右手の草の中を指さしました。そこの草穂のかげに小さな小さなつめくさの花が、青白くさびしそうにぽっと咲いていました。  俄かに風が向うからどうっと吹いて来て、いちめんの暗い草穂は波だち、私のきもののすきまからは、その冷たい風がからだ一杯に浸みてきました。 「ふう。秋になったねえ。」わたくしは大きく息をしました。  ファゼーロがいつか上着は脱いでわきに持ちながら、 「途中のあかりはみんな消えたけれども……。」  おしまい何と云ったか、風がざあっとやって来て声をもって行ってしまいました。  そのとき、わたくしは二人の大きな鎌をもった百姓が、わたくしどもの前を横ぎるように通って行くのを見ました。その二人もこっちをちらっと見たようでしたが、それから何かはなし合って、とまって、わたくしどもの行くのを待っているようすです。わたくしどもも急いで行きました。 「やあ、お前さん帰って来さしゃったね。まずご無事で結構でした。」一人がわたくしに挨拶しました。  この前ポラーノの広場でデストゥパーゴに介添をしろと云われて遁げた男のようでした。 「ええ、ありがとう。ファゼーロも帰って来てすっかりもとの通りですね。」 「山猫博士が居ませんや。」 「山猫博士? デストゥパーゴ? デストゥパーゴにわたしはセンダードで会いましたよ。大へんおちぶれて気の毒なくらいだった。」 「いいえ、デストゥパーゴが落ちぶれるもんですか。大将、センダードのまちにたくさん土地を持っていますよ。」 「はてな、財産はみんなあの乾溜会社にかけてしまったと云っていたが。」 「どうして、どうして、あの山猫がそんなことをするもんですか。会社の株が、ただみたいになったから大将遁げてしまったんです。」 「いや、何か重役の人が醸造の方へかかろうとして手続を欠いて責任を負ったとか云っていたが。」 「どうしてどうして。酒をつくることなんかみんな大将の考えなんですよ。」 「だって試験的にわずかつくっただけだそうじゃないですか。」 「あなたはよっぽどうまくだまされておいでですよ。あの工場からアセトンだと云って樽詰めにして出したのはみんな立派な混成酒でさあ。悪いのには木精もまぜたんです。その密造なら二年もやっていたんです。」 「じゃポラーノの広場で使ったのもそれか。」 「そうですとも。いや何と云っても大将はずるいもんですよ。みんなにも弱味があるから、まあこのまま泣寝入でさあ。ただまああの工場をこんどはみんなでいろいろに使って、できるだけお互いのいるものは拵えようというんです。」 「そうかねえ。」「ファゼーロが何かするのかい。」 「ええ、まあ別に新らしい資本がかかるわけでもなし、革をなめしたりハムを拵えたり、栗を蒸して乾かしたり、そんなことをいろいろやろうというんです。」 「さあもう行こう。」ファゼーロがわたくしをつっつきました。 「それじゃまた。」 「お休みなさい。」  どうもデストゥパーゴの云ったのが本当か、みんなの云うのが本当か、これはどうもよくわからないと、わたくしはあるきだしながらおもいました。 「まっすぐだよ、まっすぐだよ。わたくしはあれからもう何べんも来てわかっているから。」  わたくしはファゼーロの近くへ行って風の中で聞えるように云いました。ファゼーロはかすかにうなずいて、また走りだしました。夕暗のなかにその白いシャツばかりぼんやりゆれながら走りました。  間もなくわたくしははるかな野原のはてに青白い五つばかりのあかりと、その上に青く傘のようになってぼんやりひかっている、この前のはんのきを見ました。だんだん近づいて行くと、その葉が風にもまれて次から次と湧いているよう、枝と枝とがぶっつかり合って、じぶんから青白い光を出しているようなのもわかるようになり、またその下に五人ばかりの黒い影が魚をとったりするときつかう、アセチレン燈をもって立っているのも見ました。今日は広場にはテーブルも椅子も箱もありませんでした。ただ一つのから箱があるきりでした。そのなかから見覚えのある、大きな帽子、円い肩、ミーロがこっちへ出て来ました。 「とうとう来たな。今晩は、いいお晩でございます。」  ミーロはわたくしに挨拶しました。みんなも待っていたらしく口々に云いました。わたくしどもは、そのまま広場を通りこしてどんどん急ぎました。  のはらはだんだん草があらくなって、あちこちには黒い藪も風に鳴り、たびたび柏の木か樺の木かが、まっ黒にそらに立って、ざわざわざわざわゆれているのでした。そしていつか私どもは細いみちを一列にならんであるいていたのです。 「もうじきだよ。」ファゼーロが一番前で高く叫びました。  みちの両側はいつかすっかり林になっていたのです。そして三十分ばかりだまって歩くと、なにかぷうんと木屑のようなものの匂がして、すぐ眼の前に灰いろの細長い屋根が見えました。 「誰か来ているな。」ファゼーロが叫びました。  その大きな黒い建物の窓に、ちらちらあかりが射しているのです。 「おおい、キューストさんが来たぞ。」ミーロが高く叫びました。 「おおい。」中からも誰かが返事をしました。  私どもはその建物の中へ入って行きました。そこに巨きな鉄の罐が、スフィンクスのように、こっちに向いて置いてあって、土間には沢山の大きな素焼の壺が列んでいました。 「いや今晩は。」ひとりのはだしの年老った人が土間で私に挨拶しました。 「これが乾燥|罐だよ。」ファゼーロが云いました。 「ここで何人稼いでいたって。」私はたずねました。 「そうねえ、盛んにもうかったときは三十人から居たろう。」ミーロが答えました。 「どうしてだめになったんだ。」  みんなが顔を見合せました。さっきの年老った人が云いました。 「薬のねだんが下ったためです。」 「そうですかねえ。そんなに間に合わないのかなあ。ところが、ねえおい。ファゼーロ、おれはこの釜でやっぱり醋酸をつくった方がいいと思う。あのときは会社だなんて、あんまりみんなでやったから損になったんだけれども、おれたちだけでやるんなら、手間にはきっとなるからな。十瓶だって二十瓶だって引き受けると町の薬屋でも云ってくるからな。」 「そうだ。」ファゼーロが云いました。 「ここの下へたいた煙を、となりの酒をつくったむろに通して、あすこでハムをつくるといいな。」 「それはサートもそう云ってるよ。とにかくこの罐へ入れてやれば、木炭はそっくりとれるしさ、ハムもすぐには売れなくたって仲間へだけは頒けられるからな。」 「さあよし、やろう。キューストはたびたび来て見てくれるだろう。」 「ああ、ぼくは畜産の方にも林産製造の方にも友だちがあるから、みんなさそって来てやるよ。ポラーノの広場のはなしをしてね。」 「そうだ、ぼくらはみんなで一生けん命ポラーノの広場をさがしたんだ。けれども、やっとのことでそれをさがすと、それは選挙につかう酒盛りだった。けれども、むかしのほんとうのポラーノの広場はまだどこかにあるような気がしてぼくは仕方ない。」 「だからぼくらは、ぼくらの手でこれからそれを拵えようでないか。」 「そうだ、あんな卑怯な、みっともない、わざとじぶんをごまかすような、そんなポラーノの広場でなく、そこへ夜行って歌えば、またそこで風を吸えば、もう元気がついてあしたの仕事中からだいっぱい勢がよくて面白いような、そういうポラーノの広場をぼくらはみんなでこさえよう。」 「ぼくはきっとできるとおもう。なぜならぼくらがそれをいまかんがえているのだから。」 「何をしようといってもぼくらはもっと勉強しなくてはならないと思う。こうすればぼくらの幸になるということはわかっていても、そんならどうしてそれをはじめたらいいか、ぼくらにはまだわからないのだ。町にはたくさんの学校があって、そこにはたくさんの学生がいる。その人たちはみんな一日一ぱい勉強に時間をつかえるし、いい先生は覚えたいくらい教えてくれる。ぼくらには一日に三時間の勉強の時間もない。それも大ていはつかれてねむいのだ。先生といったら講義録しかない。わからないところができて質問してやってもなかなか返事が来ない。けれどもぼくたちは一生けん命に勉強して行かなければならない。ぼくはどうかしてもっと勉強のできるようなしかたをみんなでやりたいと思う。」  その子どもは坐りました。  わたくしは思わずはねあがりました。 「諸君、諸君の勉強はきっとできる。きっとできる。町の学生たちは仕事に勉強はしている。けれども何のために勉強しているかもう忘れている。先生の方でもなるべくたくさん教えようとして、まるで生徒の頭をつからしてぐったりさしている。そしてテニスだのランニングも必要だと云って盛んにやっている。諸君はテニスだの野球の競争だなんてことはやらない。けれども体のことならもうやりすぎるくらいやっている。けれどもどっちがさきに進むだろう。それは何といっても向うの方が進むだろう。そのときぼくらはひどい仕事をしたほかに、どうしてそれに追い付くか。さっき諸君の云う通りだ。向うは何年か専門で勉強すればあとはゆっくりそれでくらして、酒を呑んだりうちをもったり、だんだん勉強しなくなる。こっちはいつまでもいまの勢で一生勉強して行くのだ。  諸君、酒を呑まないことで酒を呑むものより一割余計の力を得る。たばこをのまないことから二割余計の力を得る。まっすぐに進む方向をきめて、頭のなかのあらゆる力を整理することから、乱雑なものにくらべて二割以上の力を得る。そうだあの人たちが女のことを考えたり、お互の間の喧嘩のことでつかう力をみんなぼくらのほんとうの幸をもってくることにつかう。見たまえ、諸君はまもなくあれらの人たちへくらべて倍の力を得るだろう。けれどもこういうやりかたをいままでのほかの人たちに強いることはいけない。あの人たちは、ああいう風に酒を呑まなければ、淋しくて寒くて生きていられないようなときに生れたのだ。  ぼくらはだまってやって行こう。風からも光る雲からも諸君にはあたらしい力が来る。そして諸君はまもなくここへ、ここのこの野原へむかしのお伽噺よりもっと立派なポラーノの広場をつくるだろう。」  みんなはよろこんで叫びだしました。ファゼーロが云いました。 「ぼくらはねえ、冬の間に勉強しよう。みんなで同じ本を読んで置いて、五日に一晩あすこの工場に集って、かわるがわるたずねたり教えたりすることをしよう。ねえ、キュースト。あなたは何か教えてくれるだろう。」 「ああ、ぼくはねえ、前に植物の先生をしたから、植物の生理のことや、ほかにも何か三つぐらいは教えてあげるよ。それはねえ。いままでのようにごたごた要らないことまでおぼえて物知りになることはいらないんだ。ほんとうに骨組みと要るとこだけやればいいんだから。あとは仕事がひとりでそれを教えるし、だんだんじぶんで読んで行けるから。」 「ぼくらは冬にあの工場へ集ったりしていろいろこさえようじゃないか。ファゼーロが皮を染めたりするだろう、ぼくはへただけれどもチョッキはつくれるよ。ミーロはいつでも上手に帽子をこしらえているんだから、仕事にやったらもっと上手にできるだろう。」 「そうだそうだ。ぼくらは冬につくったものをお互で取り換えようねえ。ぼくは木をくってこしらえるものならすきだよ。」 「やろうやろう。夏にははたけや野原ではたらいて食べるものをとるし、冬にはお互で要るものをこしらえて取りかえれば……。」  ミーロがにわかに風があんまり烈しく吹いてきたので眼を細くしながら坐りました。はんの木もまるで弓のようになりました。  その風のなかでわたくしはまた立ちました。 「そうだ、諸君、あたらしい時代はもう来たのだ。この野原のなかにまもなく千人の天才がいっしょに、お互に尊敬し合いながら、めいめいの仕事をやって行くだろう。ぼくももうきみらの仲間にはいろうかなあ。」 「ああはいっておくれ。おい、みんな、キューストさんがぼくらのなかまへはいると。」 「ロザーロ姉さんをもらったらいいや。」だれかが叫びました。  わたくしは思わずぎくっとしてしまいました。 「いや、わたくしはまだまだ勉強しなければならない。この野原へ来てしまっては、わたくしにはそれはいいことでない。いや、わたくしははいらないよ。はいれないよ。なぜなら、もうわたくしは何もかもできるという風にはなっていないんだ。わたくしはびんぼうな教師の子どもにうまれて、ずうっと本ばかり読んで育ってきたのだ。諸君のように雨にうたれ風に吹かれ育ってきていない。ぼくは考えはまったくきみらの考えだけれども、からだはそうはいかないんだ。けれどもぼくはぼくできっと仕事をするよ。ずうっと前からぼくは野原の富をいま三倍もできるようにすることを考えていたんだ。ぼくはそれをやって行く。  そしてわたくしどもは立ちあがりました。  風がどうっと吹いて来ました。みんなは思わず風にうしろ向きになってかがみ、わたくしはさっきからあんまり叫んだので風でいっぱいにむせました。はんのきも梢がまるで地面まで届くようでした。 「さあよし、やるぞ。ぼくはもう皮を十一枚あすこへ漬けて置いたし、一かま分の木はもうそこにできている。こんやは新らしいポラーノの広場の開場式だ。」 「それでは酒を呑まずに水を呑むぅとやるか。」その年よりが云いました。  みんなはどっとわらいました。 「よしやろう。表へ出て。おいミーロ、おれが水を汲んでくるから、きみは戸棚からコップをだせ。」  ファゼーロはバケツをさげて外へ出て行きました。  みんなはアセチレン燈をもって工場の外の芝生に出ました。  みんなは草に円くなって坐りました。ミーロはみんなにコップをわたしました。ファゼーロがバケツを重そうにさげて来て、 「さあコップを洗うんだぜ。」と云いながらみんなのコップにひしゃくで水をつぎました。  私はその水のつめたいのにふるえあがるように思いました。みんなはこちこち指でコップをあらいました。 「さあまた洗うんだぜ。」ファゼーロが云ってまた水をつぎました。  みんなは前の水を草にすててまた水をそそぎました。 「もう一ぺん洗うんだぜ。前の酒の匂がついてるからな。」ファゼーロがまた水をつぎました。 「ファゼーロ、今夜一ばんコップを洗っているのかい。」  醋酸をつくっていたさっきの年老った人が、云いました。みんなはまたどっと笑いました。 「こんどは呑むんだ。冷たいぞ。」ファゼーロはまたみんなにつぎました。コップはつめたく白くひかり風に烈しく波だちました。 「さあ呑むぞ。一二三。」みんなはぐっと呑みました。私も呑んで、がたっとふるえました。 「では僕がうたうぞ。ポラーノの広場のうた。 つめくさのはなの 終る夜は ポランの広場の  秋まつり ポランの広場の  秋のまつり 水を呑まずに   酒を呑む そんなやつらが  威張っていると ポランの広場の  夜が明けぬ ポランの広場も  朝にならぬ。」  みんなはパチパチ手を叩いてわらいました。その声もすぐ風がどうっと来て、むかしのポラーノの広場の方へ持って行ってしまいました。 「おれもうたうぞ。」ミーロがたちました。 「つめくさの花の  しぼむ夜は  ポランの広場の  秋まつり  ポランの広場の  秋のまつり  酒くせの悪い   山猫は  黄いろのシャツで 遠くへ遁げて  ポランの広場は  朝になる  ポランの広場は  夜が明ける。」 「さあぼくも歌うぞ。」 「さあ叫ぼう。あたらしいポラーノの広場のために。ばんざーい。」わたくしは帽子を高くふって叫びました。 「ばんざあい。」  そして私たちはまっ黒な林を通りぬけて、さっきの柏の疎林を通り古いポラーノの広場につきました。  そこにはいつものはんのきが風にもまれるたびに青くひかっていました。  わたくしどもの影はアセチレンの灯に黒く長くみだれる草の波のなかに落ちて、まるでわたくしどもは一人ずつ巨きな川を行く汽船のような気がしました。  いつものところへ来てわたくしどもは別れました。そこにほんの小さなつめくさのあかりが一つまたともっていました。わたくしはそれを摘んで、えりにはさみました。 「それではさよなら。また行きますよ。」ファゼーロは云いながら、みんなといっしょに帽子をふりました。みんなも何か叫んだようでしたが、それはもう風にもって行かれてきこえませんでした。そしてわたくしもあるき、みんなも向うへ行って、その青い、風のなかのアセチレンの灯と黒い影がだんだん小さくなったのです。  それからちょうど七年たったのです。ファゼーロたちの組合は、はじめはなかなかうまく行かなかったのでしたが、それでもどうにか面白く続けることができたのでした。  私はそれから何べんも遊びに行ったり相談のあるたびに友だちにきいたりして、それから三年の後には、とうとうファゼーロたちは立派な一つの産業組合をつくり、ハムと皮類と醋酸とオートミールはモリーオの市やセンダードの市はもちろん、広くどこへも出るようになりました。そして私はその三年目、仕事の都合でとうとうモリーオの市を去るようになり、わたくしはそれから大学の副手にもなりましたし農事試験場の技手もしました。そして昨日この友だちのない、にぎやかながら荒さんだトキーオの市のはげしい輪転機の音のとなりの室で、わたくしの受持ちになる五十行の欄に、なにかものめずらしい博物の出来事をうずめながら一通の郵便を受けとりました。  それは一つの厚い紙へ刷ってみんなで手に持って歌えるようにした楽譜でした。それには歌がついていました。  ポラーノの広場のうた つめくさ灯ともす 夜のひろば むかしのラルゴを うたいかわし 雲をもどよもし  夜風にわすれて とりいれまぢかに 年ようれぬ まさしきねがいに いさかうとも 銀河のかなたに  ともにわらい なべてのなやみを たきぎともしつつ はえある世界を  ともにつくらん  わたくしはその譜はたしかにファゼーロがつくったのだとおもいました。  なぜなら、そこにはいつもファゼーロが野原で口笛を吹いていた、その調子がいっぱいにはいっていたからです。けれどもその歌をつくったのはミーロかロザーロか、それとも誰か、わたくしには見わけがつきませんでした。  霧がじめじめ降っていた。  諒安は、その霧の底をひとり、険しい山谷の、刻みを渉って行きました。  沓の底を半分|踏み抜いてしまいながらそのいちばん高い処からいちばん暗い深いところへまたその谷の底から霧に吸いこまれた次の峯へと一生けんめい伝って行きました。  もしもほんの少しのはり合で霧を泳いで行くことができたら一つの峯から次の巌へずいぶん雑作もなく行けるのだが私はやっぱりこの意地悪い大きな彫刻の表面に沿ってけわしい処ではからだが燃えるようになり少しの平らなところではほっと息をつきながら地面を這わなければならないと諒安は思いました。  全く峯にはまっ黒のガツガツした巌が冷たい霧を吹いてそらうそぶき折角いっしんに登って行ってもまるでよるべもなくさびしいのでした。  それから谷の深い処には細かなうすぐろい灌木がぎっしり生えて光を通すことさえも慳貪そうに見えました。  それでも諒安は次から次とそのひどい刻みをひとりわたって行きました。  何べんも何べんも霧がふっと明るくなりまたうすくらくなりました。  けれども光は淡く白く痛く、いつまでたっても夜にならないようでした。  つやつや光る竜の髯のいちめん生えた少しのなだらに来たとき諒安はからだを投げるようにしてとろとろ睡ってしまいました。  誰かが、或いは諒安|自身が、耳の近くで何べんも斯う叫んでいました。 諒安はうとうと斯う返事しました。  どこからかこんな声がはっきり聞えて来ました。諒安は眼をひらきました。霧がからだにつめたく浸み込むのでした。  全く霧は白く痛く竜の髯の青い傾斜はその中にぼんやりかすんで行きました。諒安はとっととかけ下りました。  そしてたちまち一本の灌木に足をつかまれて投げ出すように倒れました。  諒安はにが笑いをしながら起きあがりました。  いきなり険しい灌木の崖が目の前に出ました。  諒安はそのくろもじの枝にとりついてのぼりました。くろもじはかすかな匂を霧に送り霧は俄かに乳いろの柔らかなやさしいものを諒安によこしました。  諒安はよじのぼりながら笑いました。  その時霧は大へん陰気になりました。そこで諒安は霧にそのかすかな笑いを投げました。そこで霧はさっと明るくなりました。  そして諒安はとうとう一つの平らな枯草の頂上に立ちました。  そこは少し黄金いろでほっとあたたかなような気がしました。  諒安は自分のからだから少しの汗の匂いが細い糸のようになって霧の中へ騰って行くのを思いました。その汗という考から一|疋の立派な黒い馬がひらっと躍り出して霧の中へ消えて行きました。  霧が俄かにゆれました。そして諒安はそらいっぱいにきんきん光って漂う琥珀の分子のようなものを見ました。それはさっと琥珀から黄金に変りまた新鮮な緑に遷ってまるで雨よりも滋く降って来るのでした。  いつか諒安の影がうすくかれ草の上に落ちていました。一きれのいいかおりがきらっと光って霧とその琥珀との浮遊の中を過ぎて行きました。  と思うと俄かにぱっとあたりが黄金に変りました。  霧が融けたのでした。太陽は磨きたての藍銅鉱のそらに液体のようにゆらめいてかかり融けのこりの霧はまぶしく蝋のように谷のあちこちに澱みます。  諒安は眼を疑いました。そのいちめんの山谷の刻みにいちめんまっ白にマグノリアの木の花が咲いているのでした。その日のあたるところは銀と見え陰になるところは雪のきれと思われたのです。 斯う云う声がどこからかはっきり聞えて来ました。諒安は心も明るくあたりを見まわしました。  すぐ向うに一本の大きなほおの木がありました。その下に二人の子供が幹を間にして立っているのでした。 諒安はよくそっちを見ました。  その子供らは羅をつけ瓔珞をかざり日光に光り、すべて断食のあけがたの夢のようでした。ところがさっきの歌はその子供らでもないようでした。それは一人の子供がさっきよりずうっと細い声でマグノリアの木の梢を見あげながら歌い出したからです。 「サンタ、マグノリア、  枝にいっぱいひかるはなんぞ。」  向う側の子が答えました。 「天に飛びたつ銀の鳩。」  こちらの子がまたうたいました。 「セント、マグノリア、  枝にいっぱいひかるはなんぞ。」 「天からおりた天の鳩。」  諒安はしずかに進んで行きました。 「マグノリアの木は寂静印です。ここはどこですか。」 「私たちにはわかりません。」一人の子がつつましく賢こそうな眼をあげながら答えました。 「そうです、マグノリアの木は寂静印です。」  強いはっきりした声が諒安のうしろでしました。諒安は急いでふり向きました。子供らと同じなりをした丁度諒安と同じくらいの人がまっすぐに立ってわらっていました。 「あなたですか、さっきから霧の中やらでお歌いになった方は。」 「ええ、私です。またあなたです。なぜなら私というものもまたあなたが感じているのですから。」 「そうです、ありがとう、私です、またあなたです。なぜなら私というものもまたあなたの中にあるのですから。」  その人は笑いました。諒安と二人ははじめて軽く礼をしました。 「ほんとうにここは平らですね。」諒安はうしろの方のうつくしい黄金の草の高原を見ながら云いました。その人は笑いました。 「ええ、平らです、けれどもここの平らかさはけわしさに対する平らさです。ほんとうの平らさではありません。」 「そうです。それは私がけわしい山谷を渡ったから平らなのです。」 「ごらんなさい、そのけわしい山谷にいまいちめんにマグノリアが咲いています。」 「ええ、ありがとう、ですからマグノリアの木は寂静です。あの花びらは天の山羊の乳よりしめやかです。あのかおりは覚者たちの尊い偈を人に送ります。」 「それはみんな善です。」 「誰の善ですか。」諒安はも一度その美しい黄金の高原とけわしい山谷の刻みの中のマグノリアとを見ながらたずねました。 「覚者の善です。」その人の影は紫いろで透明に草に落ちていました。 「そうです、そしてまた私どもの善です。覚者の善は絶対です。それはマグノリアの木にもあらわれ、けわしい峯のつめたい巌にもあらわれ、谷の暗い密林もこの河がずうっと流れて行って氾濫をするあたりの度々の革命や饑饉や疫病やみんな覚者の善です。けれどもここではマグノリアの木が覚者の善でまた私どもの善です。」  諒安とその人と二人はまた恭しく礼をしました。  山の神の秋の祭りの晩でした。  亮二はあたらしい水色のしごきをしめて、それに十五銭もらって、お旅屋にでかけました。「空気獣」という見世物が大繁盛でした。  それは、髪を長くして、だぶだぶのずぼんをはいたあばたな男が、小屋の幕の前に立って、「さあ、みんな、入れ入れ」と大威張りでどなっているのでした。亮二が思わず看板の近くまで行きましたら、いきなりその男が、 「おい、あんこ、早ぐ入れ。銭は戻りでいいから」と亮二に叫びました。亮二は思わず、つっと木戸口を入ってしまいました。すると小屋の中には、高木の甲助だの、だいぶ知っている人たちが、みんなおかしいようなまじめなような顔をして、まん中の台の上を見ているのでした。台の上に空気獣がねばりついていたのです。それは大きな平べったいふらふらした白いもので、どこが頭だか口だかわからず、口上言いがこっち側から棒でつっつくと、そこは引っこんで向うがふくれ、向うをつつくとこっちがふくれ、まん中を突くとまわりが一たいふくれました。亮二は見っともないので、急いで外へ出ようとしましたら、土間の窪みに下駄がはいってあぶなく倒れそうになり、隣りの頑丈そうな大きな男にひどくぶっつかりました。びっくりして見上げましたら、それは古い白縞の単物に、へんな簑のようなものを着た、顔の骨ばって赤い男で、向うも愕いたように亮二を見おろしていました。その眼はまん円で煤けたような黄金いろでした。亮二が不思議がってしげしげ見ていましたら、にわかにその男が、眼をぱちぱちっとして、それから急いで向うを向いて木戸口の方に出ました。亮二もついて行きました。その男は木戸口で、堅く握っていた大きな右手をひらいて、十銭の銀貨を出しました。亮二も同じような銀貨を木戸番にわたして外へ出ましたら、従兄の達二に会いました。その男の広い肩はみんなの中に見えなくなってしまいました。  達二はその見世物の看板を指さしながら、声をひそめて言いました。 「お前はこの見世物にはいったのかい。こいつはね、空気獣だなんていってるが、実はね、牛の胃袋に空気をつめたものだそうだよ。こんなものにはいるなんて、おまえはばかだな」  亮二がぼんやりそのおかしな形の空気獣の看板を見ているうちに、達二が又言いました。 「おいらは、まだおみこしさんを拝んでいないんだ。あした又会うぜ」そして片脚で、ぴょんぴょん跳ねて、人ごみの中にはいってしまいました。  亮二も急いでそこをはなれました。その辺一ぱいにならんだ屋台の青い苹果や葡萄が、アセチレンのあかりできらきら光っていました。  亮二は、アセチレンの火は青くてきれいだけれどもどうも大蛇のような悪い臭がある、などと思いながら、そこを通り抜けました。  向うの神楽殿には、ぼんやり五つばかりの提灯がついて、これからおかぐらがはじまるところらしく、てびらがねだけしずかに鳴っておりました。と亮二は思いながら、しばらくぼんやりそこに立っていました。  そしたら向うのひのきの陰の暗い掛茶屋の方で、なにか大きな声がして、みんながそっちへ走って行きました。亮二も急いでかけて行って、みんなの横からのぞき込みました。するとさっきの大きな男が、髪をもじゃもじゃして、しきりに村の若い者にいじめられているのでした。額から汗を流してなんべんも頭を下げていました。  何か言おうとするのでしたが、どうもひどくどもってしまって語が出ないようすでした。  てかてか髪をわけた村の若者が、みんなが見ているので、いよいよ勢いよくどなっていました。 「貴様※みたいな、よそから来たものに馬鹿にされて堪っか。早く銭を払え、銭を。ないのか、この野郎。ないなら何して物食った。こら」  男はひどくあわてて、どもりながらやっと言いました。 「た、た、た、薪百|把持って来てやるがら」  掛茶屋の主人は、耳が少し悪いとみえて、それをよく聞きとりかねて、かえって大声で言いました。 「何だと。たった二串だと。あたりまえさ。団子の二串やそこら、くれてやってもいいのだが、おれはどうもきさまの物言いが気に食わないのでな。やい。何つうつらだ。こら、貴さん」  男は汗を拭きながら、やっと又言いました。 「薪をあとで百把持って来てやっから、許してくれろ」  すると若者が怒ってしまいました。 「うそをつけ、この野郎。どこの国に、団子二串に薪百把払うやづがあっか。全体きさんどこのやつだ」 「そ、そ、そ、そ、そいつはとても言われない。許してくれろ」男は黄金色の眼をぱちぱちさせて、汗をふきふき言いました。一緒に涙もふいたようでした。 「ぶん撲れ、ぶん撲れ」誰かが叫びました。  亮二はすっかりわかりました。  亮二はこっそりがま口から、ただ一枚残った白銅を出して、それを堅く握って、知らないふりをしてみんなを押しわけて、その男のそばまで行きました。男は首を垂れ、手をきちんと膝まで下げて、一生けん命口の中で何かもにゃもにゃ言っていました。  亮二はしゃがんで、その男の草履をはいた大きな足の上に、だまって白銅を置きました。すると男はびっくりした様子で、じっと亮二の顔を見下していましたが、やがていきなり屈んでそれを取るやいなや、主人の前の台にぱちっと置いて、大きな声で叫びました。 「そら、銭を出すぞ。これで許してくれろ。薪を百把あとで返すぞ。栗を八斗あとで返すぞ」言うが早いか、いきなり若者やみんなをつき退けて、風のように外へ遁げ出してしまいました。 「山男だ、山男だ」みんなは叫んで、がやがやあとを追おうとしましたが、もうどこへ行ったか、影もかたちも見えませんでした。  風がごうごうっと吹き出し、まっくろなひのきがゆれ、掛茶屋のすだれは飛び、あちこちのあかりは消えました。  かぐらの笛がそのときはじまりました。けれども亮二はもうそっちへは行かないで、ひとり田圃の中のほの白い路を、急いで家の方へ帰りました。早くお爺さんに山男の話を聞かせたかったのです。ぼんやりしたすばるの星がもうよほど高くのぼっていました。  家に帰って、厩の前から入って行きますと、お爺さんはたった一人、いろりに火を焚いて枝豆をゆでていましたので、亮二は急いでその向う側に座って、さっきのことをみんな話しました。お爺さんははじめはだまって亮二の顔を見ながら聞いていましたが、おしまいとうとう笑い出してしまいました。 「ははあ、そいつは山男だ。山男というものは、ごく正直なもんだ。おれも霧のふかい時、度々山で遭ったことがある。しかし山男が祭を見に来たことは今度はじめてだろう。はっはっは。いや、いままでも来ていても見附からなかったのかな」 「おじいさん、山男は山で何をしているのだろう」 「そうさ、木の枝で狐わなをこさえたりしてるそうだ。こういう太い木を一本、ずうっと曲げて、それをもう一本の枝でやっと押えておいて、その先へ魚などぶら下げて、狐だの熊だの取りに来ると、枝にあたってばちんとはねかえって殺すようにしかけたりしているそうだ」  その時、表の方で、どしんがらがらがらっという大きな音がして、家は地震の時のようにゆれました。亮二は思わずお爺さんにすがりつきました。お爺さんも少し顔色を変えて、急いでランプを持って外に出ました。  亮二もついて行きました。ランプは風のためにすぐに消えてしまいました。  その代り、東の黒い山から大きな十八日の月が静かに登って来たのです。  見ると家の前の広場には、太い薪が山のように投げ出されてありました。太い根や枝までついた、ぼりぼりに折られた太い薪でした。お爺さんはしばらく呆れたように、それをながめていましたが、俄かに手を叩いて笑いました。 「はっはっは、山男が薪をお前に持って来てくれたのだ。俺はまたさっきの団子屋にやるということだろうと思っていた。山男もずいぶん賢いもんだな」  亮二は薪をよく見ようとして、一足そっちへ進みましたが、忽ち何かに滑ってころびました。見るとそこらいちめん、きらきらきらきらする栗の実でした。亮二は起きあがって叫びました。 「おじいさん、山男は栗も持って来たよ」  お爺さんもびっくりして言いました。 「栗まで持って来たのか。こんなに貰うわけにはいかない。今度何か山へ持って行って置いて来よう。一番着物がよかろうな」  亮二はなんだか、山男がかあいそうで泣きたいようなへんな気もちになりました。 「おじいさん、山男はあんまり正直でかあいそうだ。僕何かいいものをやりたいな」 「うん、今度夜具を一枚持って行ってやろう。山男は夜具を綿入の代りに着るかも知れない。それから団子も持って行こう」  亮二は叫びました。 「着物と団子だけじゃつまらない。もっともっといいものをやりたいな。山男が嬉しがって泣いてぐるぐるはねまわって、それからからだが天に飛んでしまうくらいいいものをやりたいなあ」  おじいさんは消えたランプを取りあげて、 「うん、そういういいものあればなあ。さあ、うちへ入って豆をたべろ。そのうちに、おとうさんも隣りから帰るから」と言いながら、家の中にはいりました。  亮二はだまって青い斜めなお月さまをながめました。  風が山の方で、ごうっと鳴っております。  城あとのおおばこの実は結び、赤つめ草の花は枯れて焦茶色になって、畑の粟は刈りとられ、畑のすみから一寸顔を出した野鼠はびっくりしたように又急いで穴の中へひっこむ。  崖やほりには、まばゆい銀のすすきの穂が、いちめん風に波立っている。  その城あとのまん中の、小さな四っ角山の上に、めくらぶどうのやぶがあってその実がすっかり熟している。  ひとりの少女が楽譜をもってためいきしながら藪のそばの草にすわる。  かすかなかすかな日照り雨が降って、草はきらきら光り、向うの山は暗くなる。  そのありなしの日照りの雨が霽れたので、草はあらたにきらきら光り、向うの山は明るくなって、少女はまぶしくおもてを伏せる。  そっちの方から、もずが、まるで音譜をばらばらにしてふりまいたように飛んで来て、みんな一度に、銀のすすきの穂にとまる。  めくらぶどうの藪からはきれいな雫がぽたぽた落ちる。  かすかなけはいが藪のかげからのぼってくる。今夜市庁のホールでうたうマリヴロン女史がライラックいろのもすそをひいてみんなをのがれて来たのである。  いま、そのうしろ、東の灰色の山脈の上を、つめたい風がふっと通って、大きな虹が、明るい夢の橋のようにやさしく空にあらわれる。  少女は楽譜をもったまま化石のようにすわってしまう。マリヴロンはここにも人の居たことをむしろ意外におもいながらわずかにまなこに会釈してしばらく虹のそらを見る。  そうだ。今日こそ、ただの一言でも天の才ありうるわしく尊敬されるこの人とことばをかわしたい、丘の小さなぶどうの木が、よぞらに燃えるほのおより、もっとあかるく、もっとかなしいおもいをば、はるかの美しい虹に捧げると、ただこれだけを伝えたい、それからならば、それからならば、あの……〔以下数行分空白〕 「マリヴロン先生。どうか、わたくしの尊敬をお受けくださいませ。わたくしはあすアフリカへ行く牧師の娘でございます。」  少女は、ふだんの透きとおる声もどこかへ行って、しわがれた声を風に半分とられながら叫ぶ。  マリヴロンは、うっとり西の碧いそらをながめていた大きな碧い瞳を、そっちへ向けてすばやく楽譜に記された少女の名前を見てとった。 「何かご用でいらっしゃいますか。あなたはギルダさんでしょう。」  少女のギルダは、まるでぶなの木の葉のようにプリプリふるえて輝いて、いきがせわしくて思うように物が云えない。 「先生どうか私のこころからうやまいを受けとって下さい。」  マリヴロンはかすかにといきしたので、その胸の黄や菫の宝石は一つずつ声をあげるように輝きました。そして云う。 「うやまいを受けることは、あなたもおなじです。なぜそんなに陰気な顔をなさるのですか。」 「私はもう死んでもいいのでございます。」 「どうしてそんなことを、仰っしゃるのです。あなたはまだまだお若いではありませんか。」 「いいえ。私の命なんか、なんでもないのでございます。あなたが、もし、もっと立派におなりになる為なら、私なんか、百ぺんでも死にます。」 「あなたこそそんなにお立派ではありませんか。あなたは、立派なおしごとをあちらへ行ってなさるでしょう。それはわたくしなどよりははるかに高いしごとです。私などはそれはまことにたよりないのです。ほんの十分か十五分か声のひびきのあるうちのいのちです。」 「いいえ、ちがいます。ちがいます。先生はここの世界やみんなをもっときれいに立派になさるお方でございます。」  マリヴロンは思わず微笑いました。 「ええ、それをわたくしはのぞみます。けれどもそれはあなたはいよいよそうでしょう。正しく清くはたらくひとはひとつの大きな芸術を時間のうしろにつくるのです。ごらんなさい。向うの青いそらのなかを一羽の鵠がとんで行きます。鳥はうしろにみなそのあとをもつのです。みんなはそれを見ないでしょうが、わたくしはそれを見るのです。おんなじようにわたくしどもはみなそのあとにひとつの世界をつくって来ます。それがあらゆる人々のいちばん高い芸術です。」 「けれども、あなたは、高く光のそらにかかります。すべて草や花や鳥は、みなあなたをほめて歌います。わたくしはたれにも知られず巨きな森のなかで朽ちてしまうのです。」 「それはあなたも同じです。すべて私に来て、私をかがやかすものは、あなたをもきらめかします。私に与えられたすべてのほめことばは、そのままあなたに贈られます。」 「私を教えて下さい。私を連れて行ってつかって下さい。私はどんなことでもいたします。」 「いいえ私はどこへも行きません。いつでもあなたが考えるそこに居ります。すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすんでいっしょにすすむ人人は、いつでもいっしょにいるのです。けれども、わたくしは、もう帰らなければなりません。お日様があまり遠くなりました。もずが飛び立ちます。では。ごきげんよう。」  停車場の方で、鋭い笛がピーと鳴り、もずはみな、一ぺんに飛び立って、気違いになったばらばらの楽譜のように、やかましく鳴きながら、東の方へ飛んで行く。 「先生。私をつれて行って下さい。どうか私を教えてください。」  うつくしくけだかいマリヴロンはかすかにわらったようにも見えた。また当惑してかしらをふったようにも見えた。  そしてあたりはくらくなり空だけ銀の光を増せば、あんまり、もずがやかましいので、しまいのひばりも仕方なく、もいちど空へのぼって行って、少うしばかり調子はずれの歌をうたった。  城あとのおおばこの実は結び、赤つめ草の花は枯れて焦茶色になり、畑の粟は刈られました。  「刈られたぞ」と言いながら一ぺんちょっと顔を出した野鼠がまた急いで穴へひっこみました。  崖やほりには、まばゆい銀のすすきの穂が、いちめん風に波立っています。  その城あとのまん中に、小さな四っ角山があって、上のやぶには、めくらぶどうの実が虹のように熟れていました。  さて、かすかなかすかな日照り雨が降りましたので、草はきらきら光り、向こうの山は暗くなりました。  そのかすかなかすかな日照り雨が霽れましたので、草はきらきら光り、向こうの山は明るくなって、たいへんまぶしそうに笑っています。  そっちの方から、もずが、まるで音譜をばらばらにしてふりまいたように飛んで来て、みんな一度に、銀のすすきの穂にとまりました。  めくらぶどうは感激して、すきとおった深い息をつき、葉から雫をぽたぽたこぼしました。  東の灰色の山脈の上を、つめたい風がふっと通って、大きな虹が、明るい夢の橋のようにやさしく空にあらわれました。  そこでめくらぶどうの青じろい樹液は、はげしくはげしく波うちました。  そうです。今日こそただの一言でも、虹とことばをかわしたい、丘の上の小さなめくらぶどうの木が、よるのそらに燃える青いほのおよりも、もっと強い、もっとかなしいおもいを、はるかの美しい虹にささげると、ただこれだけを伝えたい、ああ、それからならば、それからならば、実や葉が風にちぎられて、あの明るいつめたいまっ白の冬の眠りにはいっても、あるいはそのまま枯れてしまってもいいのでした。  「虹さん。どうか、ちょっとこっちを見てください」めくらぶどうは、ふだんの透きとおる声もどこかへ行って、しわがれた声を風に半分とられながら叫びました。  やさしい虹は、うっとり西の碧いそらをながめていた大きな碧い瞳を、めくらぶどうに向けました。  「何かご用でいらっしゃいますか。あなたはめくらぶどうさんでしょう」  めくらぶどうは、まるでぶなの木の葉のようにプリプリふるえて輝いて、いきがせわしくて思うように物が言えませんでした。  「どうか私のうやまいを受けとってください」  虹は大きくといきをつきましたので、黄や菫は一つずつ声をあげるように輝きました。そして言いました。  「うやまいを受けることは、あなたもおなじです。なぜそんなに陰気な顔をなさるのですか」  「私はもう死んでもいいのです」  「どうしてそんなことを、おっしゃるのです。あなたはまだお若いではありませんか。それに雪が降るまでには、まだ二か月あるではありませんか」  「いいえ。私の命なんか、なんでもないんです。あなたが、もし、もっと立派におなりになるためなら、私なんか、百ぺんでも死にます」  「あら、あなたこそそんなにお立派ではありませんか。あなたは、たとえば、消えることのない虹です。変わらない私です。私などはそれはまことにたよりないのです。ほんの十分か十五分のいのちです。ただ三|秒のときさえあります。ところがあなたにかがやく七色はいつまでも変わりません」  「いいえ、変わります。変わります。私の実の光なんか、もうすぐ風に持って行かれます。雪にうずまって白くなってしまいます。枯れ草の中で腐ってしまいます」  虹は思わず微笑いました。  「ええ、そうです。本とうはどんなものでも変わらないものはないのです。ごらんなさい。向こうのそらはまっさおでしょう。まるでいい孔雀石のようです。けれどもまもなくお日さまがあすこをお通りになって、山へおはいりになりますと、あすこは月見草の花びらのようになります。それもまもなくしぼんで、やがてたそがれ前の銀色と、それから星をちりばめた夜とが来ます。  そのころ、私は、どこへ行き、どこに生まれているでしょう。また、この眼の前の、美しい丘や野原も、みな一|秒ずつけずられたりくずれたりしています。けれども、もしも、まことのちからが、これらの中にあらわれるときは、すべてのおとろえるもの、しわむもの、さだめないもの、はかないもの、みなかぎりないいのちです。わたくしでさえ、ただ三|秒ひらめくときも、半時空にかかるときもいつもおんなじよろこびです」  「けれども、あなたは、高く光のそらにかかります。すべて草や花や鳥は、みなあなたをほめて歌います」  「それはあなたも同じです。すべて私に来て、私をかがやかすものは、あなたをもきらめかします。私に与えられたすべてのほめことばは、そのままあなたに贈られます。ごらんなさい。まことの瞳でものを見る人は、人の王のさかえの極みをも、野の百合の一つにくらべようとはしませんでした。それは、人のさかえをば、人のたくらむように、しばらくまことのちから、かぎりないいのちからはなしてみたのです。もしそのひかりの中でならば、人のおごりからあやしい雲と湧きのぼる、塵の中のただ一抹も、神の子のほめたもうた、聖なる百合に劣るものではありません」  「私を教えてください。私を連れて行ってください。私はどんなことでもいたします」  「いいえ私はどこへも行きません。いつでもあなたのことを考えています。すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすむ人は、いつでもいっしょに行くのです。いつまでもほろびるということはありません。けれども、あなたは、もう私を見ないでしょう。お日様があまり遠くなりました。もずが飛び立ちます。私はあなたにお別れしなければなりません」  停車場の方で、鋭い笛がピーと鳴りました。  もずはみな、一ぺんに飛び立って、気違いになったばらばらの楽譜のように、やかましく鳴きながら、東の方へ飛んで行きました。  めくらぶどうは高く叫びました。  「虹さん。私をつれて行ってください。どこへも行かないでください」  虹はかすかにわらったようでしたが、もうよほどうすくなって、はっきりわかりませんでした。  そして、今はもう、すっかり消えました。  空は銀色の光を増し、あまり、もずがやかましいので、ひばりもしかたなく、その空へのぼって、少しばかり調子はずれの歌をうたいました。  山男は、金いろの眼を皿のようにし、せなかをかがめて、にしね山のひのき林のなかを、兎をねらってあるいていました。  ところが、兎はとれないで、山鳥がとれたのです。  それは山鳥が、びっくりして飛びあがるとこへ、山男が両手をちぢめて、鉄砲だまのようにからだを投げつけたものですから、山鳥ははんぶん潰れてしまいました。  山男は顔をまっ赤にし、大きな口をにやにやまげてよろこんで、そのぐったり首を垂れた山鳥を、ぶらぶら振りまわしながら森から出てきました。  そして日あたりのいい南向きのかれ芝の上に、いきなり獲物を投げだして、ばさばさの赤い髪毛を指でかきまわしながら、肩を円くしてごろりと寝ころびました。  どこかで小鳥もチッチッと啼き、かれ草のところどころにやさしく咲いたむらさきいろのかたくりの花もゆれました。  山男は仰向けになって、碧いああおい空をながめました。お日さまは赤と黄金でぶちぶちのやまなしのよう、かれくさのいいにおいがそこらを流れ、すぐうしろの山脈では、雪がこんこんと白い後光をだしているのでした。  山男がこんなことをぼんやり考えていますと、その澄み切った碧いそらをふわふわうるんだ雲が、あてもなく東の方へ飛んで行きました。そこで山男は、のどの遠くの方を、ごろごろならしながら、また考えました。  そのとき山男は、なんだかむやみに足とあたまが軽くなって、逆さまに空気のなかにうかぶような、へんな気もちになりました。もう山男こそ雲助のように、風にながされるのか、ひとりでに飛ぶのか、どこというあてもなく、ふらふらあるいていたのです。  山男はひとりでこんなことを言いながら、どうやら一人まえの木樵のかたちに化けました。そしたらもうすぐ、そこが町の入口だったのです。山男は、まだどうも頭があんまり軽くて、からだのつりあいがよくないとおもいながら、のそのそ町にはいりました。  入口にはいつもの魚屋があって、塩鮭のきたない俵だの、くしゃくしゃになった鰯のつらだのが台にのり、軒には赤ぐろいゆで章魚が、五つつるしてありました。その章魚を、もうつくづくと山男はながめたのです。  山男はおもわず指をくわえて立ちました。するとちょうどそこを、大きな荷物をしょった、汚ない浅黄服の支那人が、きょろきょろあたりを見まわしながら、通りかかって、いきなり山男の肩をたたいて言いました。 「あなた、支那|反物よろしいか。六神丸たいさんやすい。」  山男はびっくりしてふりむいて、 「よろしい。」とどなりましたが、あんまりじぶんの声がたかかったために、円い鈎をもち、髪をわけ下駄をはいた魚屋の主人や、けらを着た村の人たちが、みんなこっちを見ているのに気がついて、すっかりあわてて急いで手をふりながら、小声で言い直しました。 「いや、そうだない。買う、買う。」  すると支那人は 「買わない、それ構わない、ちょっと見るだけよろしい。」 と言いながら、背中の荷物をみちのまんなかにおろしました。山男はどうもその支那人のぐちゃぐちゃした赤い眼が、とかげのようでへんに怖くてしかたありませんでした。  そのうちに支那人は、手ばやく荷物へかけた黄いろの真田紐をといてふろしきをひらき、行李の蓋をとって反物のいちばん上にたくさんならんだ紙箱の間から、小さな赤い薬瓶のようなものをつかみだしました。 山男はそっとこうおもいました。  支那人はそのうちに、まるで小指ぐらいあるガラスのコップを二つ出して、ひとつを山男に渡しました。 「あなた、この薬のむよろしい。毒ない。決して毒ない。のむよろしい。わたしさきのむ。心配ない。わたしビールのむ、お茶のむ。毒のまない。これながいきの薬ある。のむよろしい。」支那人はもうひとりでかぷっと呑んでしまいました。  山男はほんとうに呑んでいいだろうかとあたりを見ますと、じぶんはいつか町の中でなく、空のように碧いひろい野原のまんなかに、眼のふちの赤い支那人とたった二人、荷物を間に置いて向かいあって立っているのでした。二人のかげがまっ黒に草に落ちました。 「さあ、のむよろしい。ながいきのくすりある。のむよろしい。」支那人は尖った指をつき出して、しきりにすすめるのでした。山男はあんまり困ってしまって、もう呑んで遁げてしまおうとおもって、いきなりぷいっとその薬をのみました。するとふしぎなことには、山男はだんだんからだのでこぼこがなくなって、ちぢまって平らになってちいさくなって、よくしらべてみると、どうもいつかちいさな箱のようなものに変って草の上に落ちているらしいのでした。 山男は口惜しがってばたばたしようとしましたが、もうただ一箱の小さな六神丸ですからどうにもしかたありませんでした。  ところが支那人のほうは大よろこびです。ひょいひょいと両脚をかわるがわるあげてとびあがり、ぽんぽんと手で足のうらをたたきました。その音はつづみのように、野原の遠くのほうまでひびきました。  それから支那人の大きな手が、いきなり山男の眼の前にでてきたとおもうと、山男はふらふらと高いところにのぼり、まもなく荷物のあの紙箱の間におろされました。  おやおやとおもっているうちに上からばたっと行李の蓋が落ちてきました。それでも日光は行李の目からうつくしくすきとおって見えました。 山男はひとりでこんなことを呟やいて無理にかなしいのをごまかそうとしました。するとこんどは、急にもっとくらくなりました。 山男はなるべく落ち着いてこう言いました。  すると愕ろいたことは山男のすぐ横でものを言うやつがあるのです。 「おまえさんはどこから来なすったね。」  山男ははじめぎくっとしましたが、すぐ、 と考えて、 「おれは魚屋の前から来た。」と腹に力を入れて答えました。すると外から支那人が噛みつくようにどなりました。 「声あまり高い。しずかにするよろしい。」  山男はさっきから、支那人がむやみにしゃくにさわっていましたので、このときはもう一ぺんにかっとしてしまいました。 「何だと。何をぬかしやがるんだ。どろぼうめ。きさまが町へはいったら、おれはすぐ、この支那人はあやしいやつだとどなってやる。さあどうだ。」  支那人は、外でしんとしてしまいました。じつにしばらくの間、しいんとしていました。山男はこれは支那人が、両手を胸で重ねて泣いているのかなともおもいました。そうしてみると、いままで峠や林のなかで、荷物をおろしてなにかひどく考え込んでいたような支那人は、みんなこんなことを誰かに云われたのだなと考えました。山男はもうすっかりかあいそうになって、いまのはうそだよと云おうとしていましたら、外の支那人があわれなしわがれた声で言いました。 「それ、あまり同情ない。わたし商売たたない。わたしおまんまたべない。わたし往生する、それ、あまり同情ない。」山男はもう支那人が、あんまり気の毒になってしまって、おれのからだなどは、支那人が六十銭もうけて宿屋に行って、鰯の頭や菜っ葉|汁をたべるかわりにくれてやろうと思いながら答えました。 「支那人さん、もういいよ。そんなに泣かなくてもいいよ。おれは町にはいったら、あまり声を出さないようにしよう。安心しな。」すると外の支那人は、やっと胸をなでおろしたらしく、ほおという息の声も、ぽんぽんと足を叩いている音も聞こえました。それから支那人は、荷物をしょったらしく、薬の紙箱は、互にがたがたぶっつかりました。 「おい、誰だい。さっきおれにものを云いかけたのは。」  山男が斯う云いましたら、すぐとなりから返事がきました。 「わしだよ。そこでさっきの話のつづきだがね、おまえは魚屋の前からきたとすると、いま鱸が一|匹いくらするか、またほしたふかのひれが、十|両に何|片くるか知ってるだろうな。」 「さあ、そんなものは、あの魚屋には居なかったようだぜ。もっとも章魚はあったがなあ。あの章魚の脚つきはよかったなあ。」 「へい。そんないい章魚かい。わしも章魚は大すきでな。」 「うん、誰だって章魚のきらいな人はない。あれを嫌いなくらいなら、どうせろくなやつじゃないぜ。」 「まったくそうだ。章魚ぐらいりっぱなものは、まあ世界中にないな。」 「そうさ。お前はいったいどこからきた。」 「おれかい。上海だよ。」 「おまえはするとやっぱり支那人だろう。支那人というものは薬にされたり、薬にしてそれを売ってあるいたり気の毒なもんだな。」 「そうでない。ここらをあるいてるものは、みんな陳のようないやしいやつばかりだが、ほんとうの支那人なら、いくらでもえらいりっぱな人がある。われわれはみな孔子聖人の末なのだ。」 「なんだかわからないが、おもてにいるやつは陳というのか。」 「そうだ。ああ暑い、蓋をとるといいなあ。」 「うん。よし。おい、陳さん。どうもむし暑くていかんね。すこし風を入れてもらいたいな。」 「もすこし待つよろしい。」陳が外で言いました。 「早く風を入れないと、おれたちはみんな蒸れてしまう。お前の損になるよ。」  すると陳が外でおろおろ声を出しました。 「それ、もとも困る、がまんしてくれるよろしい。」 「がまんも何もないよ、おれたちがすきでむれるんじゃないんだ。ひとりでにむれてしまうさ。早く蓋をあけろ。」 「も二十分まつよろしい。」 「えい、仕方ない。そんならも少し急いであるきな。仕方ないな。ここに居るのはおまえだけかい。」 「いいや、まだたくさんいる。みんな泣いてばかりいる。」 「そいつはかあいそうだ。陳はわるいやつだ。なんとかおれたちは、もいちどもとの形にならないだろうか。」 「それはできる。おまえはまだ、骨まで六神丸になっていないから、丸薬さえのめばもとへ戻る。おまえのすぐ横に、その黒い丸薬の瓶がある。」 「そうか。そいつはいい、それではすぐ呑もう。しかし、おまえさんたちはのんでもだめか。」 「だめだ。けれどもおまえが呑んでもとの通りになってから、おれたちをみんな水に漬けて、よくもんでもらいたい。それから丸薬をのめばきっとみんなもとへ戻る。」 「そうか。よし、引き受けた。おれはきっとおまえたちをみんなもとのようにしてやるからな。丸薬というのはこれだな。そしてこっちの瓶は人間が六神丸になるほうか。陳もさっきおれといっしょにこの水薬をのんだがね、どうして六神丸にならなかったろう。」 「それはいっしょに丸薬を呑んだからだ。」 「ああ、そうか。もし陳がこの丸薬だけ呑んだらどうなるだろう。変らない人間がまたもとの人間に変るとどうも変だな。」  そのときおもてで陳が、 「支那たものよろしいか。あなた、支那たもの買うよろしい。」 と云う声がしました。 「ははあ、はじめたね。」山男はそっとこう云っておもしろがっていましたら、俄かに蓋があいたので、もうまぶしくてたまりませんでした。それでもむりやりそっちを見ますと、ひとりのおかっぱの子供が、ぽかんと陳の前に立っていました。  陳はもう丸薬を一つぶつまんで、口のそばへ持って行きながら、水薬とコップを出して、 「さあ、呑むよろしい。これながいきの薬ある。さあ呑むよろしい。」とやっています。 「はじめた、はじめた。いよいよはじめた。」行李のなかでたれかが言いました。 「わたしビール呑む、お茶のむ、毒のまない。さあ、呑むよろしい。わたしのむ。」  そのとき山男は、丸薬を一つぶそっとのみました。すると、めりめりめりめりっ。  山男はすっかりもとのような、赤髪の立派なからだになりました。陳はちょうど丸薬を水薬といっしょにのむところでしたが、あまりびっくりして、水薬はこぼして丸薬だけのみました。さあ、たいへん、みるみる陳のあたまがめらあっと延びて、いままでの倍になり、せいがめきめき高くなりました。そして「わあ。」と云いながら山男につかみかかりました。山男はまんまるになって一生けん命|遁げました。ところがいくら走ろうとしても、足がから走りということをしているらしいのです。とうとうせなかをつかまれてしまいました。 「助けてくれ、わあ、」と山男が叫びました。そして眼をひらきました。みんな夢だったのです。  雲はひかってそらをかけ、かれ草はかんばしくあたたかです。  山男はしばらくぼんやりして、投げ出してある山鳥のきらきらする羽をみたり、六神丸の紙箱を水につけてもむことなどを考えていましたがいきなり大きなあくびをひとつして言いました。 「ええ、畜生、夢のなかのこった。陳も六神丸もどうにでもなれ。」  それからあくびをもひとつしました。  小さな谷川の底を写した二枚の青い幻燈です。    一、五月  二|疋の蟹の子供らが青じろい水の底で話していました。 『クラムボンはわらったよ。』 『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』 『クラムボンは跳ねてわらったよ。』 『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』  上の方や横の方は、青くくらく鋼のように見えます。そのなめらかな天井を、つぶつぶ暗い泡が流れて行きます。 『クラムボンはわらっていたよ。』 『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』 『それならなぜクラムボンはわらったの。』 『知らない。  つぶつぶ泡が流れて行きます。蟹の子供らもぽっぽっぽっとつづけて五六|粒泡を吐きました。それはゆれながら水銀のように光って斜めに上の方へのぼって行きました。  つうと銀のいろの腹をひるがえして、一疋の魚が頭の上を過ぎて行きました。 『クラムボンは死んだよ。』 『クラムボンは殺されたよ。』 『クラムボンは死んでしまったよ………。』 『殺されたよ。』 『それならなぜ殺された。』兄さんの蟹は、その右側の四本の脚の中の二本を、弟の平べったい頭にのせながら云いました。 『わからない。』  魚がまたツウと戻って下流のほうへ行きました。 『クラムボンはわらったよ。』 『わらった。』  にわかにパッと明るくなり、日光の黄金は夢のように水の中に降って来ました。  波から来る光の網が、底の白い磐の上で美しくゆらゆらのびたりちぢんだりしました。泡や小さなごみからはまっすぐな影の棒が、斜めに水の中に並んで立ちました。  魚がこんどはそこら中の黄金の光をまるっきりくちゃくちゃにしておまけに自分は鉄いろに変に底びかりして、又上流の方へのぼりました。 『お魚はなぜああ行ったり来たりするの。』  弟の蟹がまぶしそうに眼を動かしながらたずねました。 『何か悪いことをしてるんだよとってるんだよ。』 『とってるの。』 『うん。』  そのお魚がまた上流から戻って来ました。今度はゆっくり落ちついて、ひれも尾も動かさずただ水にだけ流されながらお口を環のように円くしてやって来ました。その影は黒くしずかに底の光の網の上をすべりました。 『お魚は……。』  その時です。俄に天井に白い泡がたって、青びかりのまるでぎらぎらする鉄砲弾のようなものが、いきなり飛込んで来ました。  兄さんの蟹ははっきりとその青いもののさきがコンパスのように黒く尖っているのも見ました。と思ううちに、魚の白い腹がぎらっと光って一ぺんひるがえり、上の方へのぼったようでしたが、それっきりもう青いものも魚のかたちも見えず光の黄金の網はゆらゆらゆれ、泡はつぶつぶ流れました。  二疋はまるで声も出ず居すくまってしまいました。  お父さんの蟹が出て来ました。 『どうしたい。ぶるぶるふるえているじゃないか。』 『お父さん、いまおかしなものが来たよ。』 『どんなもんだ。』 『青くてね、光るんだよ。はじがこんなに黒く尖ってるの。それが来たらお魚が上へのぼって行ったよ。』 『そいつの眼が赤かったかい。』 『わからない。』 『ふうん。しかし、そいつは鳥だよ。かわせみと云うんだ。大丈夫だ、安心しろ。おれたちはかまわないんだから。』 『お父さん、お魚はどこへ行ったの。』 『魚かい。魚はこわい所へ行った』 『こわいよ、お父さん。』 『いいいい、大丈夫だ。心配するな。そら、樺の花が流れて来た。ごらん、きれいだろう。』  泡と一緒に、白い樺の花びらが天井をたくさんすべって来ました。 『こわいよ、お父さん。』弟の蟹も云いました。  光の網はゆらゆら、のびたりちぢんだり、花びらの影はしずかに砂をすべりました。    二、十二月  蟹の子供らはもうよほど大きくなり、底の景色も夏から秋の間にすっかり変りました。  白い柔かな円石もころがって来、小さな錐の形の水晶の粒や、金雲母のかけらもながれて来てとまりました。  そのつめたい水の底まで、ラムネの瓶の月光がいっぱいに透とおり天井では波が青じろい火を、燃したり消したりしているよう、あたりはしんとして、ただいかにも遠くからというように、その波の音がひびいて来るだけです。  蟹の子供らは、あんまり月が明るく水がきれいなので睡らないで外に出て、しばらくだまって泡をはいて天上の方を見ていました。 『やっぱり僕の泡は大きいね。』 『兄さん、わざと大きく吐いてるんだい。僕だってわざとならもっと大きく吐けるよ。』 『吐いてごらん。おや、たったそれきりだろう。いいかい、兄さんが吐くから見ておいで。そら、ね、大きいだろう。』 『大きかないや、おんなじだい。』 『近くだから自分のが大きく見えるんだよ。そんなら一緒に吐いてみよう。いいかい、そら。』 『やっぱり僕の方大きいよ。』 『本当かい。じゃ、も一つはくよ。』 『だめだい、そんなにのびあがっては。』  またお父さんの蟹が出て来ました。 『もうねろねろ。遅いぞ、あしたイサドへ連れて行かんぞ。』 『お父さん、僕たちの泡どっち大きいの』 『それは兄さんの方だろう』 『そうじゃないよ、僕の方大きいんだよ』弟の蟹は泣きそうになりました。  そのとき、トブン。  黒い円い大きなものが、天井から落ちてずうっとしずんで又上へのぼって行きました。キラキラッと黄金のぶちがひかりました。 『かわせみだ』子供らの蟹は頸をすくめて云いました。  お父さんの蟹は、遠めがねのような両方の眼をあらん限り延ばして、よくよく見てから云いました。 『そうじゃない、あれはやまなしだ、流れて行くぞ、ついて行って見よう、ああいい匂いだな』  なるほど、そこらの月あかりの水の中は、やまなしのいい匂いでいっぱいでした。  三疋はぼかぼか流れて行くやまなしのあとを追いました。  その横あるきと、底の黒い三つの影法師が、合せて六つ踊るようにして、やまなしの円い影を追いました。  間もなく水はサラサラ鳴り、天井の波はいよいよ青い焔をあげ、やまなしは横になって木の枝にひっかかってとまり、その上には月光の虹がもかもか集まりました。 『どうだ、やっぱりやまなしだよ、よく熟している、いい匂いだろう。』 『おいしそうだね、お父さん』 『待て待て、もう二日ばかり待つとね、こいつは下へ沈んで来る、それからひとりでにおいしいお酒ができるから、さあ、もう帰って寝よう、おいで』  親子の蟹は三疋自分|等の穴に帰って行きます。  波はいよいよ青じろい焔をゆらゆらとあげました、それは又|金剛石の粉をはいているようでした。         *  私の幻燈はこれでおしまいであります。    雪渡り その一  雪がすっかり凍って大理石よりも堅くなり、空も冷たい滑らかな青い石の板で出来ているらしいのです。 「堅雪かんこ、しみ雪しんこ。」  お日様がまっ白に燃えて百合の匂を撒きちらし又雪をぎらぎら照らしました。  木なんかみんなザラメを掛けたように霜でぴかぴかしています。 「堅雪かんこ、凍み雪しんこ。」  四郎とかん子とは小さな雪沓をはいてキックキックキック、野原に出ました。  こんな面白い日が、またとあるでしょうか。いつもは歩けない黍の畑の中でも、すすきで一杯だった野原の上でも、すきな方へどこ迄でも行けるのです。平らなことはまるで一枚の板です。そしてそれが沢山の小さな小さな鏡のようにキラキラキラキラ光るのです。 「堅雪かんこ、凍み雪しんこ。」  二人は森の近くまで来ました。大きな柏の木は枝も埋まるくらい立派な透きとおった氷柱を下げて重そうに身体を曲げて居りました。 「堅雪かんこ、凍み雪しんこ。狐の子ぁ、嫁ほしい、ほしい。」と二人は森へ向いて高く叫びました。  しばらくしいんとしましたので二人はも一度叫ぼうとして息をのみこんだとき森の中から 「凍み雪しんしん、堅雪かんかん。」と云いながら、キシリキシリ雪をふんで白い狐の子が出て来ました。  四郎は少しぎょっとしてかん子をうしろにかばって、しっかり足をふんばって叫びました。 「狐こんこん白狐、お嫁ほしけりゃ、とってやろよ。」  すると狐がまだまるで小さいくせに銀の針のようなおひげをピンと一つひねって云いました。 「四郎はしんこ、かん子はかんこ、おらはお嫁はいらないよ。」  四郎が笑って云いました。 「狐こんこん、狐の子、お嫁がいらなきゃ餅やろか。」  すると狐の子も頭を二つ三つ振って面白そうに云いました。 「四郎はしんこ、かん子はかんこ、黍の団子をおれやろか。」  かん子もあんまり面白いので四郎のうしろにかくれたままそっと歌いました。 「狐こんこん狐の子、狐の団子は兎のくそ。」  すると小狐紺三郎が笑って云いました。 「いいえ、決してそんなことはありません。あなた方のような立派なお方が兎の茶色の団子なんか召しあがるもんですか。私らは全体いままで人をだますなんてあんまりむじつの罪をきせられていたのです。」  四郎がおどろいて尋ねました。 「そいじゃきつねが人をだますなんて偽かしら。」  紺三郎が熱心に云いました。 「偽ですとも。けだし最もひどい偽です。だまされたという人は大抵お酒に酔ったり、臆病でくるくるしたりした人です。面白いですよ。甚兵衛さんがこの前、月夜の晩私たちのお家の前に坐って一晩じょうるりをやりましたよ。私らはみんな出て見たのです。」  四郎が叫びました。 「甚兵衛さんならじょうるりじゃないや。きっと浪花ぶしだぜ。」  子狐紺三郎はなるほどという顔をして、 「ええ、そうかもしれません。とにかくお団子をおあがりなさい。私のさしあげるのは、ちゃんと私が畑を作って播いて草をとって刈って叩いて粉にして練ってむしてお砂糖をかけたのです。いかがですか。一|皿さしあげましょう。」 と云いました。  と四郎が笑って、 「紺三郎さん、僕らは丁度いまね、お餅をたべて来たんだからおなかが減らないんだよ。この次におよばれしようか。」  子狐の紺三郎が嬉しがってみじかい腕をばたばたして云いました。 「そうですか。そんなら今度|幻燈会のときさしあげましょう。幻燈会にはきっといらっしゃい。この次の雪の凍った月夜の晩です。八時からはじめますから、入場券をあげて置きましょう。何枚あげましょうか。」 「そんなら五枚お呉れ。」と四郎が云いました。 「五枚ですか。あなた方が二枚にあとの三枚はどなたですか。」と紺三郎が云いました。 「兄さんたちだ。」と四郎が答えますと、 「兄さんたちは十一歳以下ですか。」と紺三郎が又尋ねました。 「いや小兄さんは四年生だからね、八つの四つで十二歳。」と四郎が云いました。  すると紺三郎は尤もらしく又おひげを一つひねって云いました。 「それでは残念ですが兄さんたちはお断わりです。あなた方だけいらっしゃい。特別席をとって置きますから、面白いんですよ。幻燈は第一が『お酒をのむべからず。』これはあなたの村の太右衛門さんと、清作さんがお酒をのんでとうとう目がくらんで野原にあるへんてこなおまんじゅうや、おそばを喰べようとした所です。私も写真の中にうつっています。第二が『わなに注意せよ。』これは私共のこん兵衛が野原でわなにかかったのを画いたのです。絵です。写真ではありません。第三が『火を軽べつすべからず。』これは私共のこん助があなたのお家へ行って尻尾を焼いた景色です。ぜひおいで下さい。」  二人は悦んでうなずきました。  狐は可笑しそうに口を曲げて、キックキックトントンキックキックトントンと足ぶみをはじめてしっぽと頭を振ってしばらく考えていましたがやっと思いついたらしく、両手を振って調子をとりながら歌いはじめました。 「凍み雪しんこ、堅雪かんこ、    野原のまんじゅうはポッポッポ。  酔ってひょろひょろ太右衛門が、    去年、三十八、たべた。  凍み雪しんこ、堅雪かんこ、    野原のおそばはホッホッホ。  酔ってひょろひょろ清作が、    去年十三ばいたべた。」  四郎もかん子もすっかり釣り込まれてもう狐と一緒に踊っています。  キック、キック、トントン。キック、キック、トントン。キック、キック、キック、キック、トントントン。  四郎が歌いました。 「狐こんこん狐の子、去年狐のこん兵衛が、ひだりの足をわなに入れ、こんこんばたばたこんこんこん。」  かん子が歌いました。 「狐こんこん狐の子、去年狐のこん助が、焼いた魚を取ろとしておしりに火がつききゃんきゃんきゃん。」  キック、キック、トントン。キック、キック、トントン。キック、キック、キック、キックトントントン。  そして三人は踊りながらだんだん林の中にはいって行きました。赤い封蝋細工のほおの木の芽が、風に吹かれてピッカリピッカリと光り、林の中の雪には藍色の木の影がいちめん網になって落ちて日光のあたる所には銀の百合が咲いたように見えました。  すると子狐紺三郎が云いました。 「鹿の子もよびましょうか。鹿の子はそりゃ笛がうまいんですよ。」  四郎とかん子とは手を叩いてよろこびました。そこで三人は一緒に叫びました。 「堅雪かんこ、凍み雪しんこ、鹿の子ぁ嫁ぃほしいほしい。」  すると向うで、 「北風ぴいぴい風三郎、西風どうどう又三郎」と細いいい声がしました。  狐の子の紺三郎がいかにもばかにしたように、口を尖らして云いました。 「あれは鹿の子です。あいつは臆病ですからとてもこっちへ来そうにありません。けれどもう一遍叫んでみましょうか。」  そこで三人は又叫びました。 「堅雪かんこ、凍み雪しんこ、しかの子ぁ嫁ほしい、ほしい。」  すると今度はずうっと遠くで風の音か笛の声か、又は鹿の子の歌かこんなように聞えました。 「北風ぴいぴい、かんこかんこ     西風どうどう、どっこどっこ。」  狐が又ひげをひねって云いました。 「雪が柔らかになるといけませんからもうお帰りなさい。今度月夜に雪が凍ったらきっとおいで下さい。さっきの幻燈をやりますから。」  そこで四郎とかん子とは 「堅雪かんこ、凍み雪しんこ。」と歌いながら銀の雪を渡っておうちへ帰りました。 「堅雪かんこ、凍み雪しんこ。」    雪渡り その二  青白い大きな十五夜のお月様がしずかに氷の上山から登りました。  雪はチカチカ青く光り、そして今日も寒水石のように堅く凍りました。  四郎は狐の紺三郎との約束を思い出して妹のかん子にそっと云いました。 「今夜狐の幻燈会なんだね。行こうか。」  するとかん子は、 「行きましょう。行きましょう。狐こんこん狐の子、こんこん狐の紺三郎。」とはねあがって高く叫んでしまいました。  すると二番目の兄さんの二郎が 「お前たちは狐のとこへ遊びに行くのかい。僕も行きたいな。」と云いました。  四郎は困ってしまって肩をすくめて云いました。 「大兄さん。だって、狐の幻燈会は十一歳までですよ、入場券に書いてあるんだもの。」  二郎が云いました。 「どれ、ちょっとお見せ、ははあ、学校生徒の父兄にあらずして十二歳以上の来賓は入場をお断わり申し候、狐なんて仲々うまくやってるね。僕はいけないんだね。仕方ないや。お前たち行くんならお餅を持って行っておやりよ。そら、この鏡餅がいいだろう。」  四郎とかん子はそこで小さな雪沓をはいてお餅をかついで外に出ました。  兄弟の一郎二郎三郎は戸口に並んで立って、 「行っておいで。大人の狐にあったら急いで目をつぶるんだよ。そら僕ら囃してやろうか。堅雪かんこ、凍み雪しんこ、狐の子ぁ嫁ぃほしいほしい。」と叫びました。  お月様は空に高く登り森は青白いけむりに包まれています。二人はもうその森の入口に来ました。  すると胸にどんぐりのきしょうをつけた白い小さな狐の子が立って居て云いました。 「今晩は。お早うございます。入場券はお持ちですか。」 「持っています。」二人はそれを出しました。 「さあ、どうぞあちらへ。」狐の子が尤もらしくからだを曲げて眼をパチパチしながら林の奥を手で教えました。  林の中には月の光が青い棒を何本も斜めに投げ込んだように射して居りました。その中のあき地に二人は来ました。  見るともう狐の学校生徒が沢山集って栗の皮をぶっつけ合ったりすもうをとったり殊におかしいのは小さな小さな鼠位の狐の子が大きな子供の狐の肩車に乗ってお星様を取ろうとしているのです。  みんなの前の木の枝に白い一枚の敷布がさがっていました。  不意にうしろで 「今晩は、よくおいででした。先日は失礼いたしました。」という声がしますので四郎とかん子とはびっくりして振り向いて見ると紺三郎です。  紺三郎なんかまるで立派な燕尾服を着て水仙の花を胸につけてまっ白なはんけちでしきりにその尖ったお口を拭いているのです。  四郎は一寸お辞儀をして云いました。 「この間は失敬。それから今晩はありがとう。このお餅をみなさんであがって下さい。」  狐の学校生徒はみんなこっちを見ています。  紺三郎は胸を一杯に張ってすまして餅を受けとりました。 「これはどうもおみやげを戴いて済みません。どうかごゆるりとなすって下さい。もうすぐ幻燈もはじまります。私は一寸失礼いたします。」  紺三郎はお餅を持って向うへ行きました。  狐の学校生徒は声をそろえて叫びました。 「堅雪かんこ、凍み雪しんこ、硬いお餅はかったらこ、白いお餅はべったらこ。」  幕の横に、 「寄贈、お餅沢山、人の四郎氏、人のかん子氏」と大きな札が出ました。狐の生徒は悦んで手をパチパチ叩きました。  その時ピーと笛が鳴りました。  紺三郎がエヘンエヘンとせきばらいをしながら幕の横から出て来て丁寧にお辞儀をしました。みんなはしんとなりました。 「今夜は美しい天気です。お月様はまるで真珠のお皿です。お星さまは野原の露がキラキラ固まったようです。さて只今から幻燈会をやります。みなさんは瞬やくしゃみをしないで目をまんまろに開いて見ていて下さい。  それから今夜は大切な二人のお客さまがありますからどなたも静かにしないといけません。決してそっちの方へ栗の皮を投げたりしてはなりません。開会の辞です。」  みんな悦んでパチパチ手を叩きました。そして四郎がかん子にそっと云いました。 「紺三郎さんはうまいんだね。」  笛がピーと鳴りました。 『お酒をのむべからず』大きな字が幕にうつりました。そしてそれが消えて写真がうつりました。一人のお酒に酔った人間のおじいさんが何かおかしな円いものをつかんでいる景色です。  みんなは足ぶみをして歌いました。 キックキックトントンキックキックトントン  凍み雪しんこ、堅雪かんこ、      野原のまんじゅうはぽっぽっぽ  酔ってひょろひょろ太右衛門が      去年、三十八たべた。 キックキックキックキックトントントン  写真が消えました。四郎はそっとかん子に云いました。 「あの歌は紺三郎さんのだよ。」  別に写真がうつりました。一人のお酒に酔った若い者がほおの木の葉でこしらえたお椀のようなものに顔をつっ込んで何か喰べています。紺三郎が白い袴をはいて向うで見ているけしきです。  みんなは足踏みをして歌いました。 キックキックトントン、キックキック、トントン、  凍み雪しんこ、堅雪かんこ、      野原のおそばはぽっぽっぽ、  酔ってひょろひょろ清作が      去年十三ばい喰べた。 キック、キック、キック、キック、トン、トン、トン。  写真が消えて一寸やすみになりました。  可愛らしい狐の女の子が黍団子をのせたお皿を二つ持って来ました。  四郎はすっかり弱ってしまいました。なぜってたった今太右衛門と清作との悪いものを知らないで喰べたのを見ているのですから。  それに狐の学校生徒がみんなこっちを向いて「食うだろうか。ね。食うだろうか。」なんてひそひそ話し合っているのです。かん子ははずかしくてお皿を手に持ったまままっ赤になってしまいました。すると四郎が決心して云いました。 「ね、喰べよう。お喰べよ。僕は紺三郎さんが僕らを欺すなんて思わないよ。」そして二人は黍団子をみんな喰べました。そのおいしいことは頬っぺたも落ちそうです。狐の学校生徒はもうあんまり悦んでみんな踊りあがってしまいました。 キックキックトントン、キックキックトントン。 「ひるはカンカン日のひかり  よるはツンツン月あかり、  たとえからだを、さかれても  狐の生徒はうそ云うな。」 キック、キックトントン、キックキックトントン。 「ひるはカンカン日のひかり  よるはツンツン月あかり  たとえこごえて倒れても  狐の生徒はぬすまない。」 キックキックトントン、キックキックトントン。 「ひるはカンカン日のひかり  よるはツンツン月あかり  たとえからだがちぎれても  狐の生徒はそねまない。」 キックキックトントン、キックキックトントン。  四郎もかん子もあんまり嬉しくて涙がこぼれました。  笛がピーとなりました。 『わなを軽べつすべからず』と大きな字がうつりそれが消えて絵がうつりました。狐のこん兵衛がわなに左足をとられた景色です。 「狐こんこん狐の子、去年狐のこん兵衛が 左の足をわなに入れ、こんこんばたばた こんこんこん。」 とみんなが歌いました。  四郎がそっとかん子に云いました。 「僕の作った歌だねい。」  絵が消えて『火を軽べつすべからず』という字があらわれました。それも消えて絵がうつりました。狐のこん助が焼いたお魚を取ろうとしてしっぽに火がついた所です。  狐の生徒がみな叫びました。 「狐こんこん狐の子。去年狐のこん助が  焼いた魚を取ろとしておしりに火がつき きゃんきゃんきゃん。」  笛がピーと鳴り幕は明るくなって紺三郎が又出て来て云いました。 「みなさん。今晩の幻燈はこれでおしまいです。今夜みなさんは深く心に留めなければならないことがあります。それは狐のこしらえたものを賢いすこしも酔わない人間のお子さんが喰べて下すったという事です。そこでみなさんはこれからも、大人になってもうそをつかず人をそねまず私共狐の今迄の悪い評判をすっかり無くしてしまうだろうと思います。閉会の辞です。」  狐の生徒はみんな感動して両手をあげたりワーッと立ちあがりました。そしてキラキラ涙をこぼしたのです。  紺三郎が二人の前に来て、丁寧におじぎをして云いました。 「それでは。さようなら。今夜のご恩は決して忘れません。」  二人もおじぎをしてうちの方へ帰りました。狐の生徒たちが追いかけて来て二人のふところやかくしにどんぐりだの栗だの青びかりの石だのを入れて、 「そら、あげますよ。」「そら、取って下さい。」なんて云って風の様に逃げ帰って行きます。  紺三郎は笑って見ていました。  二人は森を出て野原を行きました。  その青白い雪の野原のまん中で三人の黒い影が向うから来るのを見ました。それは迎いに来た兄さん達でした。  よだかは、実にみにくい鳥です。  顔は、ところどころ、味噌をつけたようにまだらで、くちばしは、ひらたくて、耳までさけています。  足は、まるでよぼよぼで、一間とも歩けません。  ほかの鳥は、もう、よだかの顔を見ただけでも、いやになってしまうという工合でした。  たとえば、ひばりも、あまり美しい鳥ではありませんが、よだかよりは、ずっと上だと思っていましたので、夕方など、よだかにあうと、さもさもいやそうに、しんねりと目をつぶりながら、首をそっ方へ向けるのでした。もっとちいさなおしゃべりの鳥などは、いつでもよだかのまっこうから悪口をしました。 「ヘン。又出て来たね。まあ、あのざまをごらん。ほんとうに、鳥の仲間のつらよごしだよ。」 「ね、まあ、あのくちのおおきいことさ。きっと、かえるの親類か何かなんだよ。」  こんな調子です。おお、よだかでないただのたかならば、こんな生はんかのちいさい鳥は、もう名前を聞いただけでも、ぶるぶるふるえて、顔色を変えて、からだをちぢめて、木の葉のかげにでもかくれたでしょう。ところが夜だかは、ほんとうは鷹の兄弟でも親類でもありませんでした。かえって、よだかは、あの美しいかわせみや、鳥の中の宝石のような蜂すずめの兄さんでした。蜂すずめは花の蜜をたべ、かわせみはお魚を食べ、夜だかは羽虫をとってたべるのでした。それによだかには、するどい爪もするどいくちばしもありませんでしたから、どんなに弱い鳥でも、よだかをこわがる筈はなかったのです。  それなら、たかという名のついたことは不思議なようですが、これは、一つはよだかのはねが無暗に強くて、風を切って翔けるときなどは、まるで鷹のように見えたことと、も一つはなきごえがするどくて、やはりどこか鷹に似ていた為です。もちろん、鷹は、これをひじょうに気にかけて、いやがっていました。それですから、よだかの顔さえ見ると、肩をいからせて、早く名前をあらためろ、名前をあらためろと、いうのでした。  ある夕方、とうとう、鷹がよだかのうちへやって参りました。 「おい。居るかい。まだお前は名前をかえないのか。ずいぶんお前も恥知らずだな。お前とおれでは、よっぽど人格がちがうんだよ。たとえばおれは、青いそらをどこまででも飛んで行く。おまえは、曇ってうすぐらい日か、夜でなくちゃ、出て来ない。それから、おれのくちばしやつめを見ろ。そして、よくお前のとくらべて見るがいい。」 「鷹さん。それはあんまり無理です。私の名前は私が勝手につけたのではありません。神さまから下さったのです。」 「いいや。おれの名なら、神さまから貰ったのだと云ってもよかろうが、お前のは、云わば、おれと夜と、両方から借りてあるんだ。さあ返せ。」 「鷹さん。それは無理です。」 「無理じゃない。おれがいい名を教えてやろう。市蔵というんだ。市蔵とな。いい名だろう。そこで、名前を変えるには、改名の披露というものをしないといけない。いいか。それはな、首へ市蔵と書いたふだをぶらさげて、私は以来市蔵と申しますと、口上を云って、みんなの所をおじぎしてまわるのだ。」 「そんなことはとても出来ません。」 「いいや。出来る。そうしろ。もしあさっての朝までに、お前がそうしなかったら、もうすぐ、つかみ殺すぞ。つかみ殺してしまうから、そう思え。おれはあさっての朝早く、鳥のうちを一|軒ずつまわって、お前が来たかどうかを聞いてあるく。一軒でも来なかったという家があったら、もう貴様もその時がおしまいだぞ。」 「だってそれはあんまり無理じゃありませんか。そんなことをする位なら、私はもう死んだ方がましです。今すぐ殺して下さい。」 「まあ、よく、あとで考えてごらん。市蔵なんてそんなにわるい名じゃないよ。」鷹は大きなはねを一杯にひろげて、自分の巣の方へ飛んで帰って行きました。  よだかは、じっと目をつぶって考えました。  あたりは、もううすくらくなっていました。夜だかは巣から飛び出しました。雲が意地悪く光って、低くたれています。夜だかはまるで雲とすれすれになって、音なく空を飛びまわりました。  それからにわかによだかは口を大きくひらいて、はねをまっすぐに張って、まるで矢のようにそらをよこぎりました。小さな羽虫が幾匹も幾匹もその咽喉にはいりました。  からだがつちにつくかつかないうちに、よだかはひらりとまたそらへはねあがりました。もう雲は鼠色になり、向うの山には山焼けの火がまっ赤です。  夜だかが思い切って飛ぶときは、そらがまるで二つに切れたように思われます。一|疋の甲虫が、夜だかの咽喉にはいって、ひどくもがきました。よだかはすぐそれを呑みこみましたが、その時何だかせなかがぞっとしたように思いました。  雲はもうまっくろく、東の方だけ山やけの火が赤くうつって、恐ろしいようです。よだかはむねがつかえたように思いながら、又そらへのぼりました。  また一疋の甲虫が、夜だかののどに、はいりました。そしてまるでよだかの咽喉をひっかいてばたばたしました。よだかはそれを無理にのみこんでしまいましたが、その時、急に胸がどきっとして、夜だかは大声をあげて泣き出しました。泣きながらぐるぐるぐるぐる空をめぐったのです。  山焼けの火は、だんだん水のように流れてひろがり、雲も赤く燃えているようです。  よだかはまっすぐに、弟の川せみの所へ飛んで行きました。きれいな川せみも、丁度起きて遠くの山火事を見ていた所でした。そしてよだかの降りて来たのを見て云いました。 「兄さん。今晩は。何か急のご用ですか。」 「いいや、僕は今度遠い所へ行くからね、その前|一寸お前に遭いに来たよ。」 「兄さん。行っちゃいけませんよ。蜂雀もあんな遠くにいるんですし、僕ひとりぼっちになってしまうじゃありませんか。」 「それはね。どうも仕方ないのだ。もう今日は何も云わないで呉れ。そしてお前もね、どうしてもとらなければならない時のほかはいたずらにお魚を取ったりしないようにして呉れ。ね、さよなら。」 「兄さん。どうしたんです。まあもう一寸お待ちなさい。」 「いや、いつまで居てもおんなじだ。はちすずめへ、あとでよろしく云ってやって呉れ。さよなら。もうあわないよ。さよなら。」  よだかは泣きながら自分のお家へ帰って参りました。みじかい夏の夜はもうあけかかっていました。  羊歯の葉は、よあけの霧を吸って、青くつめたくゆれました。よだかは高くきしきしきしと鳴きました。そして巣の中をきちんとかたづけ、きれいにからだ中のはねや毛をそろえて、また巣から飛び出しました。  霧がはれて、お日さまが丁度東からのぼりました。夜だかはぐらぐらするほどまぶしいのをこらえて、矢のように、そっちへ飛んで行きました。 「お日さん、お日さん。どうぞ私をあなたの所へ連れてって下さい。灼けて死んでもかまいません。私のようなみにくいからだでも灼けるときには小さなひかりを出すでしょう。どうか私を連れてって下さい。」  行っても行っても、お日さまは近くなりませんでした。かえってだんだん小さく遠くなりながらお日さまが云いました。 「お前はよだかだな。なるほど、ずいぶんつらかろう。今度そらを飛んで、星にそうたのんでごらん。お前はひるの鳥ではないのだからな。」  夜だかはおじぎを一つしたと思いましたが、急にぐらぐらしてとうとう野原の草の上に落ちてしまいました。そしてまるで夢を見ているようでした。からだがずうっと赤や黄の星のあいだをのぼって行ったり、どこまでも風に飛ばされたり、又鷹が来てからだをつかんだりしたようでした。  つめたいものがにわかに顔に落ちました。よだかは眼をひらきました。一本の若いすすきの葉から露がしたたったのでした。もうすっかり夜になって、空は青ぐろく、一面の星がまたたいていました。よだかはそらへ飛びあがりました。今夜も山やけの火はまっかです。よだかはその火のかすかな照りと、つめたいほしあかりの中をとびめぐりました。それからもう一ぺん飛びめぐりました。そして思い切って西のそらのあの美しいオリオンの星の方に、まっすぐに飛びながら叫びました。 「お星さん。西の青じろいお星さん。どうか私をあなたのところへ連れてって下さい。灼けて死んでもかまいません。」  オリオンは勇ましい歌をつづけながらよだかなどはてんで相手にしませんでした。よだかは泣きそうになって、よろよろと落ちて、それからやっとふみとまって、もう一ぺんとびめぐりました。それから、南の大犬座の方へまっすぐに飛びながら叫びました。 「お星さん。南の青いお星さん。どうか私をあなたの所へつれてって下さい。やけて死んでもかまいません。」  大犬は青や紫や黄やうつくしくせわしくまたたきながら云いました。 「馬鹿を云うな。おまえなんか一体どんなものだい。たかが鳥じゃないか。おまえのはねでここまで来るには、億年兆年億兆年だ。」そしてまた別の方を向きました。  よだかはがっかりして、よろよろ落ちて、それから又二へん飛びめぐりました。それから又思い切って北の大熊星の方へまっすぐに飛びながら叫びました。 「北の青いお星さま、あなたの所へどうか私を連れてって下さい。」  大熊星はしずかに云いました。 「余計なことを考えるものではない。少し頭をひやして来なさい。そう云うときは、氷山の浮いている海の中へ飛び込むか、近くに海がなかったら、氷をうかべたコップの水の中へ飛び込むのが一等だ。」  よだかはがっかりして、よろよろ落ちて、それから又、四へんそらをめぐりました。そしてもう一度、東から今のぼった天の川の向う岸の鷲の星に叫びました。 「東の白いお星さま、どうか私をあなたの所へ連れてって下さい。やけて死んでもかまいません。」  鷲は大風に云いました。 「いいや、とてもとても、話にも何にもならん。星になるには、それ相応の身分でなくちゃいかん。又よほど金もいるのだ。」  よだかはもうすっかり力を落してしまって、はねを閉じて、地に落ちて行きました。そしてもう一尺で地面にその弱い足がつくというとき、よだかは俄かにのろしのようにそらへとびあがりました。そらのなかほどへ来て、よだかはまるで鷲が熊を襲うときするように、ぶるっとからだをゆすって毛をさかだてました。  それからキシキシキシキシキシッと高く高く叫びました。その声はまるで鷹でした。野原や林にねむっていたほかのとりは、みんな目をさまして、ぶるぶるふるえながら、いぶかしそうにほしぞらを見あげました。  夜だかは、どこまでも、どこまでも、まっすぐに空へのぼって行きました。もう山焼けの火はたばこの吸殻のくらいにしか見えません。よだかはのぼってのぼって行きました。  寒さにいきはむねに白く凍りました。空気がうすくなった為に、はねをそれはそれはせわしくうごかさなければなりませんでした。  それだのに、ほしの大きさは、さっきと少しも変りません。つくいきはふいごのようです。寒さや霜がまるで剣のようによだかを刺しました。よだかははねがすっかりしびれてしまいました。そしてなみだぐんだ目をあげてもう一ぺんそらを見ました。そうです。これがよだかの最後でした。もうよだかは落ちているのか、のぼっているのか、さかさになっているのか、上を向いているのかも、わかりませんでした。ただこころもちはやすらかに、その血のついた大きなくちばしは、横にまがっては居ましたが、たしかに少しわらって居りました。  それからしばらくたってよだかははっきりまなこをひらきました。そして自分のからだがいま燐の火のような青い美しい光になって、しずかに燃えているのを見ました。  すぐとなりは、カシオピア座でした。天の川の青じろいひかりが、すぐうしろになっていました。  そしてよだかの星は燃えつづけました。いつまでもいつまでも燃えつづけました。  今でもまだ燃えています。  「正※知はあしたの朝の七時ごろヒームキャの河をおわたりになってこの町にいらっしゃるそうだ」  こう言う語がすきとおった風といっしょにハームキャの城の家々にしみわたりました。  みんなはまるで子供のようにいそいそしてしまいました。なぜなら町の人たちは永い間どんなに正※知のその町に来るのを望んでいたかしれないのです。それにまた町からたくさんの人たちが正※知のとこへ行ってお弟子になっていたのです。  「正※知はあしたの朝の七時ごろヒームキャの河をおわたりになってこの町にいらっしゃるそうだ」  みんなは思いました、正※知はどんなお顔いろでそのお眼はどんなだろう、噂の通り紺いろの蓮華のはなびらのような瞳をしていなさるだろうか、お指の爪はほんとうに赤銅いろに光るだろうか、また町から行った人たちが正※知とどんなことを言いどんななりをしているだろう、もうみんなはまるで子供のようにいそいそして、まず自分の家をきちんとととのえ、それから表へ出て通りをきれいに掃除しました。あっちの家からもこっちの家からも人が出て通りを掃いております。水がまかれ牛糞や石ころはきれいにとりのけられ、また白い石英の砂が撒かれました。  「正※知はあしたの朝の七時ごろヒームキャの河をおわたりになってこの町にいらっしゃるそうだ」  もちろんこの噂は早くも王宮に伝わりました。  「申し上げます。如来正※知はあしたの朝の七時ごろヒームキャの河をおわたりになってこの町にいらっしゃるそうでございます」  「そうか、たしかにそうか」王さまはわれを忘れて瑪瑙で飾られた王座を立たれました。  「たしかにさようと存ぜられます。今朝ヒームキャの向こう岸でご説法のをハムラの二人の商人が拝んで参ったと申します」  「そうか、それではまちがいあるまい。ああ、どんなにお待ちしただろう。すぐ町を掃除するよう布令を出せ」  「申し上げます。町はもうすっかり掃除ができてございます。人民どもはもう大悦びでお布令を待たずきれいに掃除をいたしました」  「うう」王さまはうなるようにしました。  「なお参ってよく粗匆のないよう注意いたせ。それから千人の食事のしたくを申し伝えてくれ」  「かしこまりました。大膳職はさっきからそのご命を待ちかねてうろうろうろうろ廚の中を歩きまわっております」  「ふう。そうか」王さまはしばらく考えていられました。  「すると次は精舎だ。城外の柏林に千人の宿をつくるよう工作のものへ言ってくれないか」  「かしこまりました。ありがたい思召でございます。工作の方のものどもはもう万一ご命令もあるかと柏林の測量にとりかかっております」  「ふう。正※知のお徳は風のようにみんなの胸に充ちる。あしたの朝はヒームキャの河の岸までわしがお迎えに出よう。みなにそう伝えてくれ。お前は夜明の五時に参れ」  「かしこまりました」白髯の大臣はよろこんで子供のように顔を赤くして王さまの前を退がりました。  次の夜明になりました。  王様は帳の中で総理大臣のしずかにはいって来る足音を聴いてもう起きあがっていられました。  「申し上げます。ただいまちょうど五時でございます」  「うん、わしはゆうべ一晩ねむらなかった。けれども今朝わしのからだは水晶のようにさわやかだ。どうだろう、天気は」王さまは帳を出てまっすぐに立たれました。  「大へんにいい天気でございます。修彌山の南側の瑠璃もまるですきとおるように見えます。こんな日|如来正※知はどんなにお立派に見えましょう」  「いいあんばいだ。街は昨日の通りさっぱりしているか」  「はい、阿耨達湖の渚のようでございます」  「斎食のしたくはいいか」  「もうすっかりできております」  「柏林の造営はどうだ」  「今朝のうちには大丈夫でございます。あとはただ窓をととのえて掃除するだけでございます」  「そうか。ではしたくしよう」  王さまはみんなを従えてヒームキャの川岸に立たれました。  風がサラサラ吹き木の葉は光りました。  「この風はもう九月の風だな」  「さようでございます。これはすきとおったするどい秋の粉でございます。数知れぬ玻璃の微塵のようでございます」  「百合はもう咲いたか」  「蕾はみんなできあがりましてございます。秋風の鋭い粉がその頂上の緑いろのかけ金を削って減してしまいます。今朝一斉にどの花も開くかと思われます」  「うん。そうだろう。わしは正※知に百合の花をささげよう。大蔵大臣。お前は林へ行って百合の花を一茎見つけて来てくれないか」  王さまは黒髯に埋まった大蔵大臣に言われました。  「はい。かしこまりました」  大蔵大臣はひとり林の方へ行きました。林はしんとして青く、すかして見ても百合の花は見えませんでした。  大臣は林をまわりました。林の陰に一|軒の大きなうちがありました。日がまっ白に照って家は半分あかるく夢のように見えました。その家の前の栗の木の下に一人のはだしの子供がまっ白な貝細工のような百合の十の花のついた茎をもってこっちを見ていました。  大臣は進みました。  「その百合をおれに売れ」  「うん売るよ」子供は唇をまるくして答えました。  「いくらだ」大臣が笑いながらたずねました。  「十|銭」子供が大きな声で勢よく言いました。  「十|銭は高いな」大臣はほんとうに高いと思いながら言いました。  「五|銭」子供がまた勢よく答えました。  「五|銭は高いな」大臣はまだほんとうに高いと思いながら笑って言いました。  「一|銭」子供が顔をまっ赤にして叫びました。  「そうか。一|銭。それではこれでいいだろうな」大臣は紅宝玉の首かざりをはずしました。  「いいよ」子供は赤い石を見てよろこんで叫びました。大臣は首かざりを渡して百合を手にとりました。  「何にするんだい。その花を」子供がふと思いついたように言いました。  「正※知にあげるんだよ」  「あっ、そんならやらないよ」子供は首かざりを投げ出しました。  「どうして」  「僕がやろうと思ったんだい」  「そうか。じゃ返そう」  「やるよ」  「そうか」大臣はまた花を手にとりました。  「お前はいい子だな。正※知がいらっしゃったらあとについてお城へおいで。わしは大蔵大臣だよ」  「うん、行くよ」子供はよろこんで叫びました。  大臣は林をまわって川の岸へ来ました。  「立派な百合だ。ほんとうに。ありがとう」王様は百合を受けとってそれからうやうやしくいただきました。  川の向こうの青い林のこっちにかすかな黄金いろがぽっと虹のようにのぼるのが見えました。みんなは地にひれふしました。王もまた砂にひざまずきました。  二|億年ばかり前どこかであったことのような気がします。 〔冒頭原稿数枚なし〕 「ふん。こいつらがざわざわざわざわ云っていたのは、ほんの昨日のようだったがなあ。大抵雪に潰されてしまったんだな。」  それから若い木霊は、明るい枯草の丘の間を歩いて行きました。  丘の窪みや皺に、一きれ二きれの消え残りの雪が、まっしろにかがやいて居ります。  木霊はそらを見ました。そのすきとおるまっさおの空で、かすかにかすかにふるえているものがありました。 「ふん。日の光がぷるぷるやってやがる。いや、日の光だけでもないぞ。風だ。いや、風だけでもないな。何かこう小さなすきとおる蜂のようなやつかな。ひばりの声のようなもんかな。いや、そうでもないぞ。おかしいな。おれの胸までどきどき云いやがる。ふん。」  若い木霊はずんずん草をわたって行きました。  丘のかげに六本の柏の木が立っていました。風が来ましたのでその去年の枯れ葉はザラザラ鳴りました。  若い木霊はそっちへ行って高く叫びました。 「おおい。まだねてるのかい。もう春だぞ、出て来いよ。おい。ねぼうだなあ、おおい。」  風がやみましたので柏の木はすっかり静まってカサッとも云いませんでした。若い木霊はその幹に一本ずつすきとおる大きな耳をつけて木の中の音を聞きましたがどの樹もしんとして居りました。そこで 「えいねぼう。おれが来たしるしだけつけて置こう。」と云いながら柏の木の下の枯れた草穂をつかんで四つだけ結び合いました。  そして又ふらふらと歩き出しました。丘はだんだん下って行って小さな窪地になりました。そこはまっ黒な土があたたかにしめり湯気はふくふく春のよろこびを吐いていました。  一|疋の蟇がそこをのそのそ這って居りました。若い木霊はギクッとして立ち止まりました。  それは早くもその蟇の語を聞いたからです。 「鴾の火だ。鴾の火だ。もう空だって碧くはないんだ。  桃色のペラペラの寒天でできているんだ。いい天気だ。  ぽかぽかするなあ。」  若い木霊の胸はどきどきして息はその底で火でも燃えているように熱くはあはあするのでした。木霊はそっと窪地をはなれました。次の丘には栗の木があちこちかがやくやどり木のまりをつけて立っていました。  そのまりはとんぼのはねのような小さな黄色の葉から出来ていました。その葉はみんな遠くの青いそらに飛んで行きたそうでした。  若い木霊はそっちに寄って叫びました。 「おいおい、栗の木、まだ睡ってるのか。もう春だぞ。おい、起きないか。」  栗の木は黙ってつめたく立っていました。若い木霊はその幹にすきとおる大きな耳をあててみましたが中はしんと何の音も聞こえませんでした。  若い木霊はそこで一寸意地悪く笑って青ぞらの下の栗の木の梢を仰いで黄金色のやどり木に云いました。 「おい。この栗の木は貴様らのおかげでもう死んでしまったようだよ。」  やどり木はきれいにかがやいて笑って云いました。 「そんなこと云っておどそうたって駄目ですよ。睡ってるんですよ。僕下りて行ってあなたと一緒に歩きましょうか。」 「ふん。お前のような小さなやつがおれについて歩けると思うのかい。ふん。さよならっ。」  やどり木は黄金色のべそをかいて青いそらをまぶしそうに見ながら「さよなら。」と答えました。  若い木霊は思わず「アハアハハハ」とわらいました。その声はあおぞらの滑らかな石までひびいて行きましたが又それが波になって戻って来たとき木霊はドキッとしていきなり堅く胸を押えました。  そしてふらふら次の窪地にやって参りました。  その窪地はふくふくした苔に覆われ、所々やさしいかたくりの花が咲いていました。若い木だまにはそのうすむらさきの立派な花はふらふらうすぐろくひらめくだけではっきり見えませんでした。却ってそのつやつやした緑色の葉の上に次々せわしくあらわれては又消えて行く紫色のあやしい文字を読みました。 「はるだ、はるだ、はるの日がきた、」字は一つずつ生きて息をついて、消えてはあらわれ、あらわれては又消えました。 「そらでも、つちでも、くさのうえでもいちめんいちめん、ももいろの火がもえている。」  若い木霊ははげしく鳴る胸を弾けさせまいと堅く堅く押えながら急いで又歩き出しました。  右の方の象の頭のかたちをした灌木の丘からだらだら下りになった低いところを一寸|越しますと、又窪地がありました。  木霊はまっすぐに降りて行きました。太陽は今越えて来た丘のきらきらの枯草の向うにかかりそのななめなひかりを受けて早くも一本の桜草が咲いていました。若い木霊はからだをかがめてよく見ました。まことにそれは蛙のことばの鴾の火のようにひかってゆらいで見えたからです。桜草はその靭やかな緑色の軸をしずかにゆすりながらひとの聞いているのも知らないで斯うひとりごとを云っていました。 「お日さんは丘の髪毛の向うの方へ沈んで行ってまたのぼる。  そして沈んでまたのぼる。空はもうすっかり鴾の火になった。  さあ、鴾の火になってしまった。」  若い木霊は胸がまるで裂けるばかりに高く鳴り出しましたのでびっくりして誰かに聞かれまいかとあたりを見まわしました。その息は鍛冶場のふいごのよう、そしてあんまり熱くて吐いても吐いても吐き切れないのでした。  その時向うの丘の上を一|疋のとりがお日さまの光をさえぎって飛んで行きました。そして一寸からだをひるがえしましたのではねうらが桃色にひらめいて或いはほんとうの火がそこに燃えているのかと思われました。若い木霊の胸は酒精で一ぱいのようになりました。そして高く叫びました。 「お前は鴾という鳥かい。」  鳥は 「そうさ、おれは鴾だよ。」といいながら丘の向うへかくれて見えなくなりました。若い木霊はまっしぐらに丘をかけのぼって鳥のあとを追いました。丘の頂上に立って見るとお日さまは山にはいるまでまだまだ間がありました。鳥は丘のはざまの蘆の中に落ちて行きました。若い木霊は風よりも速く丘をかけおりて蘆むらのまわりをぐるぐるまわって叫びました。 「おおい。鴾。お前、鴾の火というものを持ってるかい。持ってるなら少しおらに分けて呉れないか。」 「ああ、やろう。しかし今、ここには持っていないよ。ついてお出で。」  鳥は蘆の中から飛び出して南の方へ飛んで行きました。若い木霊はそれを追いました。あちこち桜草の花がちらばっていました。そして鳥は向うの碧いそらをめがけてまるで矢のように飛びそれから急に石ころのように落ちました。そこには桜草がいちめん咲いてその中から桃色のかげろうのような火がゆらゆらゆらゆら燃えてのぼって居りました。そのほのおはすきとおってあかるくほんとうに呑みたいくらいでした。  若い木霊はしばらくそのまわりをぐるぐる走っていましたがとうとう 「ホウ、行くぞ。」と叫んでそのほのおの中に飛び込みました。  そして思わず眼をこすりました。そこは全くさっき蟇がつぶやいたような景色でした。ペラペラの桃色の寒天で空が張られまっ青な柔らかな草がいちめんでその処々にあやしい赤や白のぶちぶちの大きな花が咲いていました。その向うは暗い木立で怒鳴りや叫びががやがや聞えて参ります。その黒い木をこの若い木霊は見たことも聞いたこともありませんでした。木霊はどきどきする胸を押えてそこらを見まわしましたが鳥はもうどこへ行ったか見えませんでした。 「鴾、鴾、どこに居るんだい。火を少しお呉れ。」 「すきな位持っておいで。」と向うの暗い木立の怒鳴りの中から鴾の声がしました。 「だってどこに火があるんだよ。」木霊はあたりを見まわしながら叫びました。 「そこらにあるじゃないか。持っといで。」鴾が又答えました。  木霊はまた桃色のそらや草の上を見ましたがなんにも火などは見えませんでした。 「鴾、鴾、おらもう帰るよ。」 「そうかい。さよなら。えい畜生。スペイドの十を見損っちゃった。」と鴾が黒い森のさまざまのどなりの中から云いました。  若い木霊は帰ろうとしました。その時森の中からまっ青な顔の大きな木霊が赤い瑪瑙のような眼玉をきょろきょろさせてだんだんこっちへやって参りました。若い木魂は逃げて逃げて逃げました。  風のように光のように逃げました。そして丁度前の栗の木の下に来ました。お日さまはまだまだ明るくかれ草は光りました。  栗の木の梢からやどり木が鋭く笑って叫びました。 「ウワーイ。鴾にだまされた。ウワーイ。鴾にだまされた。」 「何云ってるんだい。小っこ。ふん。おい、栗の木。起きろい。もう春だぞ。」  若い木霊は顔のほてるのをごまかして栗の木の幹にそのすきとおる大きな耳をあてました。  栗の木の幹はしいんとして何の音もありません。 「ふん、まだ、少し早いんだ。やっぱり草が青くならないとな。おい。小こ、さよなら。」若い木霊は大分西に行った太陽にひらりと一ぺんひらめいてそれからまっすぐに自分の木の方にかけ戻りました。 「さよなら。」とずうっとうしろで黄金色のやどり木のまりが云っていました。  苔いちめんに、霧がぽしゃぽしゃ降って、蟻の歩哨は鉄の帽子のひさしの下から、するどいひとみであたりをにらみ、青く大きな羊歯の森の前をあちこち行ったり来たりしています。  向こうからぷるぷるぷるぷる一ぴきの蟻の兵隊が走って来ます。 「停まれ、誰かッ」 「第百二十八|聯隊の伝令!」 「どこへ行くか」 「第五十聯隊 聯隊|本部」  歩哨はスナイドル式の銃剣を、向こうの胸に斜めにつきつけたまま、その眼の光りようや顎のかたち、それから上着の袖の模様や靴のぐあい、いちいち詳しく調べます。 「よし、通れ」  伝令はいそがしく羊歯の森のなかへはいって行きました。  霧の粒はだんだん小さく小さくなって、いまはもう、うすい乳いろのけむりに変わり、草や木の水を吸いあげる音は、あっちにもこっちにも忙しく聞こえだしました。さすがの歩哨もとうとうねむさにふらっとします。  二|疋の蟻の子供らが、手をひいて、何かひどく笑いながらやって来ました。そしてにわかに向こうの楢の木の下を見てびっくりして立ちどまります。 「あっ、あれなんだろう。あんなところにまっ白な家ができた」 「家じゃない山だ」 「昨日はなかったぞ」 「兵隊さんにきいてみよう」 「よし」  二疋の蟻は走ります。 「兵隊さん、あすこにあるのなに?」 「なんだうるさい、帰れ」 「兵隊さん、いねむりしてんだい。あすこにあるのなに?」 「うるさいなあ、どれだい、おや!」 「昨日はあんなものなかったよ」 「おい、大変だ。おい。おまえたちはこどもだけれども、こういうときには立派にみんなのお役にたつだろうなあ。いいか。おまえはね、この森をはいって行ってアルキル中佐どのにお目にかかる。それからおまえはうんと走って陸地測量部まで行くんだ。そして二人ともこう言うんだ。北緯二十五|度東経六|厘の処に、目的のわからない大きな工事ができましたとな。二人とも言ってごらん」 「北緯二十五|度東経六|厘の処に目的のわからない大きな工事ができました」 「そうだ。では早く。そのうち私は決してここを離れないから」  蟻の子供らはいちもくさんにかけて行きます。  歩哨は剣をかまえて、じっとそのまっしろな太い柱の、大きな屋根のある工事をにらみつけています。  それはだんだん大きくなるようです。だいいち輪廓のぼんやり白く光ってぶるぶるぶるぶるふるえていることでもわかります。  にわかにぱっと暗くなり、そこらの苔はぐらぐらゆれ、蟻の歩哨は夢中で頭をかかえました。眼をひらいてまた見ますと、あのまっ白な建物は、柱が折れてすっかり引っくり返っています。  蟻の子供らが両方から帰ってきました。 「兵隊さん。かまわないそうだよ。あれはきのこというものだって。なんでもないって。アルキル中佐はうんと笑ったよ。それからぼくをほめたよ」 「あのね、すぐなくなるって。地図に入れなくてもいいって。あんなもの地図に入れたり消したりしていたら、陸地測量部など百あっても足りないって。おや! 引っくりかえってらあ」 「たったいま倒れたんだ」歩哨は少しきまり悪そうに言いました。 「なあんだ。あっ。あんなやつも出て来たぞ」  向こうに魚の骨の形をした灰いろのおかしなきのこが、とぼけたように光りながら、枝がついたり手が出たりだんだん地面からのびあがってきます。二|疋の蟻の子供らは、それを指さして、笑って笑って笑います。  そのとき霧の向こうから、大きな赤い日がのぼり、羊歯もすぎごけもにわかにぱっと青くなり、蟻の歩哨は、またいかめしくスナイドル式銃剣を南の方へ構えました。      序 ぼくは農学校の三年生になったときから今日まで三年の間のぼくの日誌を公開する。どうせぼくは字も文章も下手だ。ぼくと同じように本気に仕事にかかった人でなかったらこんなもの実に厭な面白くもないものにちがいない。いまぼくが読み返してみてさえ実に意気地なく野蛮なような気のするところがたくさんあるのだ。ちょうど小学校の読本の村のことを書いたところのようにじつにうそらしくてわざとらしくていやなところがあるのだ。けれどもぼくのはほんとうだから仕方ない。ぼくらは空想でならどんなことでもすることができる。けれどもほんとうの仕事はみんなこんなにじみなのだ。そしてその仕事をまじめにしているともう考えることも考えることもみんなじみな、そうだ、じみというよりはやぼな所謂田舎臭いものに変ってしまう。 ぼくはひがんで云うのでない。けれどもぼくが父とふたりでいろいろな仕事のことを云いながらはたらいているところを読んだら、ぼくを軽べつする人がきっと沢山あるだろう。そんなやつをぼくは叩きつけてやりたい。ぼくは人を軽べつするかそうでなければ妬むことしかできないやつらはいちばん卑怯なものだと思う。ぼくのように働いている仲間よ、仲間よ、ぼくたちはこんな卑怯さを世界から無くしてしまおうでないか。 一九二五、四月一日 火曜日 晴 今日から新らしい一|学期だ。けれども学校へ行っても何だか張合いがなかった。一年生はまだはいらないし三年生は居ない。居ないのでないもうこっちが三年生なのだが、あの挨拶を待ってそっと横眼で威張っている卑怯な上級生が居ないのだ。そこで何だか今まで頭をぶっつけた低い天井裏が無くなったような気もするけれどもまた支柱をみんな取ってしまった桜の木のような気もする。今日の実習にはそれをやった。去年の九月古い競馬場のまわりから掘って来て植えておいたのだ。今ごろ支柱を取るのはまだ早いだろうとみんな思った。なぜならこれからちょうど小さな根がでるころなのに西風はまだまだ吹くから幹がてこになってそれを切るのだ。けれども菊池先生はみんな除らせた。花が咲くのに支柱があっては見っともないと云うのだけれども桜が咲くにはまだ一月もその余もある。菊池先生は春になったのでただ面白くてあれを取ったのだとおもう。 その古い縄だの冬の間のごみだの運動場の隅へ集めて燃やした。そこでほかの実習の組の人たちは羨ましがった。午前中その実習をして放課になった。教科書がまだ来ないので明日もやっぱり実習だという。午后はみんなでテニスコートを直したりした。 四月二日 水曜日 晴 今日は三年生は地質と土性の実習だった。斉藤先生が先に立って女学校の裏で洪積層と第三|紀の泥岩の露出を見てそれからだんだん土性を調べながら小船渡の北上の岸へ行った。河へ出ている広い泥岩の露出で奇体なギザギザのあるくるみの化石だの赤い高師小僧だのたくさん拾った。それから川岸を下って朝日橋を渡って砂利になった広い河原へ出てみんなで鉄鎚でいろいろな岩石の標本を集めた。河原からはもうかげろうがゆらゆら立って向うの水などは何だか風のように見えた。河原で分れて二時|頃うちへ帰った。 そして晩まで垣根を結って手伝った。あしたはやすみだ。 四月三日 今日はいい付けられて一日古い桑の根掘りをしたので大へんつかれた。 四月四日、上田君と高橋君は今日も学校へ来なかった。上田君は師範学校の試験を受けたそうだけれどもまだ入ったかどうかはわからない。なぜ農学校を二年もやってから師範学校なんかへ行くのだろう。高橋君は家で稼いでいてあとは学校へは行かないと云ったそうだ。高橋君のところは去年の旱魃がいちばんひどかったそうだから今年はずいぶん難儀するだろう。それへ較べたらうちなんかは半分でもいくらでも穫れたのだからいい方だ。今年は肥料だのすっかり僕が考えてきっと去年の埋め合せを付ける。実習は苗代掘りだった。去年の秋小さな盛りにしていた土を崩すだけだったから何でもなかった。教科書がたいてい来たそうだ。ただ測量と園芸が来ないとか云っていた。あしたは日曜だけれども無くならないうちに買いに行こう。僕は国語と修身は農事試験場へ行った工藤さんから譲られてあるから残りは九|冊だけだ。 四月五日 日 南万丁目へ屋根換えの手伝えにやられた。なかなかひどかった。屋根の上にのぼっていたら南の方に学校が長々と横わっているように見えた。ぼくは何だか今日は一日あの学校の生徒でないような気がした。教科書は明日買う。 四月六日 月 今日は入学|式だった。ぼんやりとしてそれでいて何だか堅苦しそうにしている新入生はおかしなものだ。ところがいまにみんな暴れ出す。来年になるとあれがみんな二年生になっていい気になる。さ来年はみんな僕らのようになってまた新入生をわらう。そう考えると何だか変な気がする。伊藤君と行って本屋へ教科書を九|冊だけとっておいてもらうように頼んでおいた。 四月七日 火、朝父から金を貰って教科書を買った。  そして今日から授業だ。測量はたしかに面白い。地図を見るのも面白い。ぜんたいここらの田や畑でほんとうの反別になっている処がないと武田先生が云った。それだから仕事の予定も肥料の入れようも見当がつかないのだ。僕はもう少し習ったらうちの田をみんな一|枚ずつ測って帳面に綴じておく。そして肥料だのすっかり考えてやる。きっと今年は去年の旱魃の埋め合せと、それから僕の授業料ぐらいを穫ってみせる。実習は今日も苗代掘りだった。 四月八日 水、今日は実習はなくて学校の行進歌の練習をした。僕らが歌って一年生がまねをするのだ。けれどもぼくは何だか圧しつけられるようであの行進歌はきらいだ。何だかあの歌を歌うと頭が痛くなるような気がする。実習のほうが却っていいくらいだ。学校から纏めて注文するというので僕は苹果を二本と葡萄を一本|頼んでおいた。 四月九日〔以下空白〕 一千九百|廿五年五月五日 晴 まだ朝の風は冷たいけれども学校へ上り口の公園の桜は咲いた。けれどもぼくは桜の花はあんまり好きでない。朝日にすかされたのを木の下から見ると何だか蛙の卵のような気がする。それにすぐ古くさい歌やなんか思い出すしまた歌など詠むのろのろしたような昔の人を考えるからどうもいやだ。そんなことがなかったら僕はもっと好きだったかも知れない。誰も桜が立派だなんて云わなかったら僕はきっと大声でそのきれいさを叫んだかも知れない。僕は却ってたんぽぽの毛のほうを好きだ。夕陽になんか照らされたらいくら立派だか知れない。 今日の実習は陸稲播きで面白かった。みんなで二うねずつやるのだ。ぼくは杭を借りて来て定規をあてて播いた。種子が間隔を正しくまっすぐになった時はうれしかった。いまに芽を出せばその通り青く見えるんだ。学校の田のなかにはきっとひばりの巣が三つ四つある。実習している間になんべんも降りたのだ。けれども飛びあがるところはつい見なかった。ひばりは降りるときはわざと巣からはなれて降りるから飛びあがるとこを見なければ巣のありかはわからない。 一千九百二十五年五月六日 今日学校で武田先生から三年生の修学旅行のはなしがあった。今月の十八日の夜十時で発って二十三日まで札幌から室蘭をまわって来るのだそうだ。先生は手に取るように向うの景色だの見て来ることだの話した。 津軽海峡、トラピスト、函館、五稜郭、えぞ富士、白樺、小樽、札幌の大学、麦酒会社、博物館、デンマーク人の農場、苫小牧、白老のアイヌ部落、室蘭、ああ僕は数えただけで胸が踊る。五時間目には菊池先生がうちへ宛てた手紙を渡して、またいろいろ話された。武田先生と菊池先生がついて行かれるのだそうだ。 行く人が二十八人にならなければやめるそうだ。それは県の規則が全級の三分の一|以上参加するようになってるからだそうだ。けれども学校へ十九円|納めるのだしあと五円もかかるそうだから。きっと行けると思う人はと云ったら内藤君や四人だけ手をあげた。みんな町の人たちだ。うちではやってくれるだろうか。父が居ないので母へだけ話したけれども母は心配そうに眼をあげただけで何とも云わなかった。けれどもきっと父はやってくれるだろう。そしたら僕は大きな手帳へ二|冊も書いて来て見せよう。 五月七日 今朝父へ学校からの手紙を渡してそれからいろいろ先生の云ったことを話そうとした。すると父は手紙を読んでしまってあとはなぜか大へんあたりに気兼ねしたようすで僕が半分しか云わないうちに止めてしまった。そしてよく相談するからと云った。祖母や母に気兼ねをしているのかもしれない。 五月八日 行く人が大ぶあるようだ。けれどもうちでは誰も何とも云わない。だから僕はずいぶんつらい。 五月九日、 三時間目に菊池先生がまたいろいろ話された。行くときまった人はみんな面白そうにして聞いていた。僕は頭が熱くて痛くなった。ああ北海道、雑嚢を下げてマントをぐるぐる捲いて肩にかけて津軽海峡をみんなと船で渡ったらどんなに嬉しいだろう。 五月十日 今日もだめだ。 五月十一日 日曜 曇 午前は母や祖母といっしょに田打ちをした。午后はうちのひば垣をはさんだ。何だか修学旅行の話が出てから家中へんになってしまった。僕はもう行かなくてもいい。行かなくてもいいから学校ではあと授業の時間に行く人を調べたり旅行の話をしたりしなければいいのだ。  北海道なんか何だ。ぼくは今に働いて自分で金をもうけてどこへでも行くんだ。ブラジルへでも行ってみせる。 五月十二日、今日また人数を調べた。二十八人に四人足りなかった。みんなは僕だの斉藤君だの行かないので旅行が不成立になると云ってしきりに責めた。武田先生まで何だか変な顔をして僕に行けと云う。僕はほんとうにつらい。明后日までにすっかり決まるのだ。夕方父が帰って炉ばたに居たからぼくは思い切って父にもう一|度学校の事情を云った。  すると父が母もまだ伊勢詣りさえしないのだし祖母だって伊勢詣り一ぺんとここらの観音巡り一ぺんしただけこの十何年|死ぬまでに善光寺へお詣りしたいとそればかり云っているのだ、ことに去年からのここら全体の旱魃でいま外へ遊んで歩くなんてことはとなりやみんなへ悪くてどうもいけないということを云った。  僕はいくら下を向いていても炉のなかへ涙がこぼれて仕方なかった。それでもしばらくたってからそんなら僕はもう行かなくてもいいからと云った。ぼくはみんなが修学旅行へ発つ間休みだといって学校は欠席しようと思ったのだ。すると父がまたしばらくだまっていたがとにかくもいちど相談するからと云ってあとはいろいろ稲の種類のことだのふだんきかないようなことまでぼくにきいた。ぼくはけれども気持ちがさっぱりした。 五月十三日 今日学校から帰って田に行ってみたら母だけ一人|居て何だか嬉しそうにして田の畦を切っていた。  何かあったのかと思ってきいたら、今にお父さんから聞けといった。ぼくはきっと修学旅行のことだと思った。  僕もそこで母が家へ帰るまで田打ちをして助けた。  けれども父はまだ帰って来ない。 五月十四日、昨夜父が晩く帰って来て、僕を修学旅行にやると云った。母も嬉しそうだったし祖母もいろいろ向うのことを聞いたことを云った。祖母の云うのはみんな北海道|開拓当時のことらしくて熊だのアイヌだの南瓜の飯や玉蜀黍の団子やいまとはよほどちがうだろうと思われた。今日学校へ行って武田先生へ行くと云って届けたら先生も大へんよろこんだ。もうあと二人足りないけれども定員を超えたことにして県へは申請書を出したそうだ。ぼくはもう行ってきっとすっかり見て来る、そしてみんなへ詳しく話すのだ。 一九二五、五、一八、 汽車は闇のなかをどんどん北へ走って行く。盛岡の上のそらがまだぼうっと明るく濁って見える。黒い藪だの松林だのぐんぐん窓を通って行く。北上山地の上のへりが時々かすかに見える。 さあいよいよぼくらも岩手県をはなれるのだ。 うちではみんなもう寝ただろう。祖母さんはぼくにお守りを借してくれた。さよなら、北上山地、北上川、岩手県の夜の風、今武田先生が廻ってみんなの席の工合や何かを見て行った。 一九二六、五、一九、〔以下空白〕 五月十九日       * いま汽車は青森県の海岸を走っている。海は針をたくさん並べたように光っているし木のいっぱい生えた三角な島もある。いま見ているこの白い海が太平洋なのだ。その向うにアメリカがほんとうにあるのだ。ぼくは何だか変な気がする。 海が岬で見えなくなった。松林だ。また見える。次は浅虫だ。石を載せた屋根も見える。何て愉快だろう。       * 青森の町は盛岡ぐらいだった。停車場の前にはバナナだの苹果だの売る人がたくさんいた。待合室は大きくてたくさんの人が顔を洗ったり物を食べたりしている。待合室で白い服を着た車掌みたいな人が蕎麦も売っているのはおかしい。       * 船はいま黒い煙を青森の方へ長くひいて下北半島と津軽半島の間を通って海峡へ出るところだ。みんなは校歌をうたっている。けむりの影は波にうつって黒い鏡のようだ。津軽半島の方はまるで学校にある広重の絵のようだ。山の谷がみんな海まで来ているのだ。そして海岸にわずかの砂浜があってそこには巨きな黒松の並木のある街道が通っている。少し大きな谷には小さな家が二、三十も建っていてそこの浜には五、六そうの舟もある。 さっきから見えていた白い燈台はすぐそこだ。ぼくは船が横を通る間にだまってすっかり見てやろう。絵が上手だといいんだけれども僕は絵は描けないから覚えて行ってみんな話すのだ。風は寒いけれどもいい天気だ。僕は少しも船に酔わない。ほかにも誰も酔ったものはない。       * いるかの群が船の横を通っている。いちばんはじめに見附けたのは僕だ。ちょっと向うを見たら何か黒いものが波から抜け出て小さな弧を描いてまた波へはいったのでどうしたのかと思ってみていたらまたすぐ近くにも出た。それからあっちにもこっちにも出た。そこでぼくはみんなに知らせた。何だか手を気を付けの姿勢で水を出たり入ったりしているようで滑稽だ。 先生も何だかわからなかったようだが漁師の頭らしい洋服を着た肥った人がああいるかですと云った。あんまりみんな甲板のこっち側へばかり来たものだから少し船が傾いた。 風が出てきた。 何だか波が高くなってきた。 東も西も海だ。向うにもう北海道が見える。何だか工合がわるくなってきた。       * いま汽車は函館を発って小樽へ向って走っている。窓の外はまっくらだ。もう十一時だ。函館の公園はたったいま見て来たばかりだけれどもまるで夢のようだ。 巨きな桜へみんな百ぐらいずつの電燈がついていた。それに赤や青の灯や池にはかきつばたの形した電燈の仕掛けものそれに港の船の灯や電車の火花じつにうつくしかった。けれどもぼくは昨夜からよく寝ないのでつかれた。書かないでおいたってあんなうつくしい景色は忘れない。それからひるは過燐酸の工場と五稜郭。過燐酸|石灰、硫酸もつくる。 五月廿日       * いま窓の右手にえぞ富士が見える。火山だ。頭が平たい。焼いた枕木でこさえた小さな家がある。熊笹が茂っている。植民地だ。       * いま小樽の公園に居る。高等商業の標本室も見てきた。馬鈴薯からできるもの百五、六十|種の標本が面白かった。 この公園も丘になっている。白樺がたくさんある。まっ青な小樽|湾が一目だ。軍艦が入っているので海軍には旗も立っている。時間があれば見せるのだがと武田先生が云った。ベンチへ座ってやすんでいると赤い蟹をゆでたのを売りに来る。何だか怖いようだ。よくあんなの食べるものだ。       * 一千九百廿五年十月十六日 一時間目の修身の講義が済んでもまだ時間が余っていたら校長が何でも質問していいと云った。けれども誰も黙っていて下を向いているばかりだった。ききたいことは僕だってみんなだって沢山あるのだ。けれどもぼくらがほんとうにききたいことをきくと先生はきっと顔をおかしくするからだめなのだ。 なぜ修身がほんとうにわれわれのしなければならないと信ずることを教えるものなら、どんな質問でも出さしてはっきりそれをほんとうかうそか示さないのだろう。 一千九百廿五年十月廿五日 今日は土性調査の実習だった。僕は第二|班の班長で図板をもった。あとは五人でハムマアだの検土杖だの試験紙だの塩化加里の瓶だの持って学校を出るときの愉快さは何とも云われなかった。谷先生もほんとうに愉快そうだった。六班がみんな思い思いの計画で別々のコースをとって調査にかかった。僕は郡で調べたのをちゃんと写して予察図にして持っていたからほかの班のようにまごつかなかった。けれどもなかなかわからない。郡のも十万分一だしほんの大体しか調ばっていない。猿ヶ石川の南の平地に十時半ころまでにできた。それからは洪積層が旧天王の安山集塊岩の丘つづきのにも被さっているかがいちばんの疑問だったけれどもぼくたちは集塊岩のいくつもの露頭を丘の頂部近くで見附けた。結局洪積|紀は地形図の百四十|米の線|以下という大体の見当も附けてあとは先生が云ったように木の育ち工合や何かを参照して決めた。ぼくは土性の調査よりも地質の方が面白い。土性の方ならただ土をしらべてその場所を地図の上にその色で取っていくだけなのだが地質の方は考えなければいけないしその考えがなかなかうまくあたるのだから。 ぼくらは松林の中だの萱の中で何べんもほかの班に出会った。みんなぼくらの地図をのぞきたがった。 萱の中からは何べんも雉子も飛んだ。 耕地整理になっているところがやっぱり旱害で稲は殆んど仕付からなかったらしく赤いみじかい雑草が生えておまけに一ぱいにひびわれていた。 やっと仕付かった所も少しも分蘖せず赤くなって実のはいらない稲がそのまま刈りとられずに立っていた。耕地整理の先に立った人はみんなの為にしたのだそうだけれどもほんとうにひどいだろう。ぼくらはそこの土性もすっかりしらべた。水さえ来るならきっと将来は反当三|石まではとれるようにできると思う。 午后一時に約束の通り各班が猿ヶ石川の岸にあるきれいな安山集塊岩の露出のところに集った。どこからか小梨を貰ったと云って先生はみんなに分けた。ぼくたちはそこで地図を塗りなおしたりした。先生はその場所では誰のもいいとも悪いとも云わなかった。しばらくやすんでから、こんどはみんなで先生について川の北の花崗岩だの三|紀の泥岩だのまではいった込んだ地質や土性のところを教わってあるいた。図は次の月曜までに清書して出すことにした。 ぼくはあの図を出して先生に直してもらったら次の日曜に高橋君を頼んで僕のうちの近所のをすっかりこしらえてしまうんだ。僕のうちの近くなら洪積と沖積があるきりだしずっと簡単だ。それでも肥料の入れようやなんかまるでちがうんだから。いまならみんなはまるで反対にやってるんでないかと思う。 一九二五、十一月十日。 今日|実習が済んでから農舎の前に立ってグラジオラスの球根の旱してあるのを見ていたら武田先生も鶏小屋の消毒だか済んで硫黄華をずぼんへいっぱいつけて来られた。そしてやっぱり球根を見ていられたがそこから大きなのを三つばかり取って僕に呉れた。僕がもじもじしているとこれは新らしい高価い種類だよ。君にだけやるから来春|植えてみたまえと云った。すると農場の方から花の係りの内藤先生が来たら武田先生は大へんあわててポケットへしまっておきたまえ、と云った。ぼくは変な気がしたけれども仕方なくポケットへ入れた。すると武田先生は急いで農舎の中へはいって農具だか何だか整理し出した。ぼくはいやで仕方なかったので内藤先生が行ってからそっと球根をむしろの中へ返して、急いで校舎へ入って実習|服を着換えてうちに帰った。 一千九百二十六年三月廿〔一字分空白〕日、 塩水撰をやった。うちのが済んでから楢戸のもやった。 本にある通りの比重でやったら亀の尾は半分も残らなかった。去年の旱害はいちばんよかった所でもこんな工合だったのだ。けれども陸羽一三二|号のほうは三|割ぐらいしか浮く分がなかった。それでも塩水|選をかけたので恰度六|斗あったから本田の一町一|反分には充分だろう。とにかく僕は今日半日で大丈夫五十円の仕事はした訳だ。 なぜならいままでは塩水選をしないでやっと反当二|石そこそこしかとっていなかったのを今度はあちこちの農事試験場の発表のように一割の二斗ずつの増収としても一町一反では二石二斗になるのだ。みんなにもほんとうにいいということが判るようになったら、ぼくは同じ塩水で長根ぜんたいのをやるようにしよう。一|軒のうちで三十円ずつ得してもこの部落全体では四百五十円になる。それが五、六人ただ半日の仕事なのだ。塩水選をする間は父はそこらの冬の間のごみを集めて焼いた。籾ができると父は細長くきれいに藁を通して編んだ俵につめて中へつめた。あれは合理的だと思う。湧水がないので、あのつつみへ漬けた。氷がまだどての陰には浮いているからちょうど摂氏零度ぐらいだろう。十二月にどてのひびを埋めてから水は六分目までたまっていた。今年こそきっといいのだ。あんなひどい旱魃が二年|続いたことさえいままでの気象の統計にはなかったというくらいだもの、どんな偶然が集ったって今年まで続くなんてことはないはずだ。気候さえあたり前だったら今年は僕はきっといままでの旱魃の損害を恢復してみせる。そして来年からはもううちの経済も楽にするし長根ぜんたいまできっと生々した愉快なものにしてみせる。 一千九百二十六年六月十四日 今日はやっと正午から七時まで番水があたったので樋番をした。何せ去年からの巨きなひびもあるとみえて水はなかなかたまらなかった。くろへ腰掛けてこぼこぼはっていく温い水へ足を入れていてついとろっとしたらなんだかぼくが稲になったような気がした。そしてぼくが桃いろをした熱病にかかっていてそこへいま水が来たのでぼくは足から水を吸いあげているのだった。どきっとして眼をさました。水がこぼこぼ裂目のところで泡を吹きながらインクのようにゆっくりゆっくりひろがっていったのだ。  水が来なくなって下田の代掻ができなくなってから今日で恰度十二日雨が降らない。いったいそらがどう変ったのだろう。あんな旱魃の二年|続いた記録が無いと測候所が云ったのにこれで三年続くわけでないか。大堰の水もまるで四|寸ぐらいしかない。夕方になってやっといままでの分へ一わたり水がかかった。  三時ごろ水がさっぱり来なくなったからどうしたのかと思って大堰の下の岐れまで行ってみたら権十がこっちをとめてじぶんの方へ向けていた。ぼくはまるで権十が甘藍の夜盗虫みたいな気がした。顔がむくむく膨れていて、おまけにあんな冠らなくてもいいような穴のあいたつばの下った土方しゃっぽをかぶってその上からまた頬かぶりをしているのだ。  手も足も膨れているからぼくはまるで権十が夜盗虫みたいな気がした。何をするんだと云ったら、なんだ、農学校|終ったって自分だけいいことをするなと云うのだ。ぼくもむっとした。何だ、農学校なぞ終っても終らなくてもいまはぼくのとこの番にあたって水を引いているのだ。それを盗んで行くとは何だ。と云ったら、学校へ入ったんでしゃべれるようになったもんな、と云う。ぼくはもう大きな石をたたきつけてやろうとさえ思った。  けれども権十はそのまま行ってしまったから、ぼくは水をうちの方へ向け直した。やっぱり権十はぼくを子供だと思ってぼくだけ居たものだからあんなことをしたのだ。いまにみろ、ぼくは卑怯なやつらはみんな片っぱしから叩きつけてやるから。 一千九百二十七年八月廿一日 稲がとうとう倒れてしまった。ぼくはもうどうしていいかわからない。あれぐらい昨日までしっかりしていたのに、明方の烈しい雷雨からさっきまでにほとんど半分倒れてしまった。喜作のもこっそり行ってみたけれどもやっぱり倒れた。いまもまだ降っている。父はわらって大丈夫大丈夫だと云うけれどもそれはぼくをなだめるためでじつは大へんひどいのだ。母はまるでぼくのことばかり心配している。ぼくはうちの稲が倒れただけなら何でもないのだ。ぼくが肥料を教えた喜作のだってそれだけなら何でもない。それだけならぼくは冬に鉄道へ出ても行商してもきっと取り返しをつける。けれども、あれぐらい手入をしてあれぐらい肥料を考えてやってそれでこんなになるのならもう村はどこももっとよくなる見込はないのだ。ぼくはどこへも相談に行くとこがない。学校へ行ったってだめだ。……先生はああ倒れたのか、苗が弱くはなかったかな、あんまり力を落してはいけないよ、ぐらいのことを云って笑うだけのもんだ。日誌、日誌、ぼくはこの書きつける日誌がなかったら今夜どうしているだろう。せきはとめたし落し口は切ったし田のなかへはまだ入られないしどうすることもできずだまってあのぼしょぼしょしたりまたおどすように強くなったりする雨の音を聞いていなければならないのだ。いったいこの雨があしたのうちに晴れるだなんてことがあるだろうか。 ああどうでもいい、なるようになるんだ。あした雨が晴れるか晴れないかよりも、今夜ぼくが…………を一足つくれることのほうがよっぽどたしかなんだから。  夏休みの十五日の農場実習の間に、私どもがイギリス海岸とあだ名をつけて、二日か三日ごと、仕事が一きりつくたびに、よく遊びに行った処がありました。  それは本とうは海岸ではなくて、いかにも海岸の風をした川の岸です。北上川の西岸でした。東の仙人峠から、遠野を通り土沢を過ぎ、北上山地を横截って来る冷たい猿ヶ石川の、北上川への落合から、少し下流の西岸でした。  イギリス海岸には、青白い凝灰質の泥岩が、川に沿ってずいぶん広く露出し、その南のはじに立ちますと、北のはずれに居る人は、小指の先よりもっと小さく見えました。  殊にその泥岩|層は、川の水の増すたんび、奇麗に洗われるものですから、何とも云えず青白くさっぱりしていました。  所々には、水増しの時できた小さな壺穴の痕や、またそれがいくつも続いた浅い溝、それから亜炭のかけらだの、枯れた蘆きれだのが、一|列にならんでいて、前の水増しの時にどこまで水が上ったかもわかるのでした。  日が強く照るときは岩は乾いてまっ白に見え、たて横に走ったひび割れもあり、大きな帽子を冠ってその上をうつむいて歩くなら、影法師は黒く落ちましたし、全くもうイギリスあたりの白堊の海岸を歩いているような気がするのでした。  町の小学校でも石の巻の近くの海岸に十五日も生徒を連れて行きましたし、隣りの女学校でも臨海学校をはじめていました。  けれども私たちの学校ではそれはできなかったのです。ですから、生れるから北上の河谷の上流の方にばかり居た私たちにとっては、どうしてもその白い泥岩層をイギリス海岸と呼びたかったのです。  それに実際そこを海岸と呼ぶことは、無法なことではなかったのです。なぜならそこは第三|紀と呼ばれる地質時代の終り頃、たしかにたびたび海の渚だったからでした。その証拠には、第一にその泥岩は、東の北上山地のへりから、西の中央分水嶺の麓まで、一|枚の板のようになってずうっとひろがっていました。ただその大部分がその上に積った洪積の赤砂利や※※、それから沖積の砂や粘土や何かに被われて見えないだけのはなしでした。それはあちこちの川の岸や崖の脚には、きっとこの泥岩が顔を出しているのでもわかりましたし、また所々で掘り抜き井戸を穿ったりしますと、じきこの泥岩|層にぶっつかるのでもしれました。  第二に、この泥岩は、粘土と火山灰とまじったもので、しかもその大部分は静かな水の中で沈んだものなことは明らかでした。たとえばその岩には沈んでできた縞のあること、木の枝や茎のかけらの埋もれていること、ところどころにいろいろな沼地に生える植物が、もうよほど炭化してはさまっていること、また山の近くには細かい砂利のあること、殊に北上山地のへりには所々この泥岩層の間に砂丘の痕らしいものがはさまっていることなどでした。そうしてみると、いま北上の平原になっている所は、一度は細長い幅三里ばかりの大きなたまり水だったのです。  ところが、第三に、そのたまり水が塩からかった証拠もあったのです。それはやはり北上山地のへりの赤砂利から、牡蠣や何か、半鹹のところにでなければ住まない介殻の化石が出ました。  そうしてみますと、第三紀の終り頃、それは或は今から五、六十万年|或は百万年を数えるかも知れません、その頃今の北上の平原にあたる処は、細長い入海か鹹湖で、その水は割合浅く、何万年の永い間には処々水面から顔を出したりまた引っ込んだり、火山灰や粘土が上に積ったりまたそれが削られたりしていたのです。その粘土は西と東の山地から、川が運んで流し込んだのでした。その火山灰は西の二|列か三列の石英粗面岩の火山が、やっとしずまった処ではありましたが、やっぱり時々|噴火をやったり爆発をしたりしていましたので、そこから降って来たのでした。  その頃世界には人はまだ居なかったのです。殊に日本はごくごくこの間、三、四千年前までは、全く人が居なかったと云いますから、もちろん誰もそれを見てはいなかったでしょう。その誰も見ていない昔の空がやっぱり繰り返し繰り返し曇ったりまた晴れたり、海の一とこがだんだん浅くなってとうとう水の上に顔を出し、そこに草や木が茂り、ことにも胡桃の木が葉をひらひらさせ、ひのきやいちいがまっ黒にしげり、しげったかと思うと忽ち西の方の火山が赤黒い舌を吐き、軽石の火山礫は空もまっくらになるほど降って来て、木は圧し潰され、埋められ、まもなくまた水が被さって粘土がその上につもり、全くまっくらな処に埋められたのでしょう。考えても変な気がします。そんなことはほんとうだろうかとしか思われません。ところがどうも仕方ないことは、私たちのイギリス海岸では、川の水からよほどはなれた処に、半分|石炭に変った大きな木の根株が、その根を泥岩の中に張り、そのみきと枝を軽石の火山礫層に圧し潰されて、ぞろっとならんでいました。尤もそれは間もなく日光にあたってぼろぼろに裂け、度々の出水に次から次と削られて行きましたが、新らしいものもまた出て来ました。そしてその根株のまわりから、ある時私たちは四十近くの半分|炭化したくるみの実を拾いました。それは長さが二|寸ぐらい、幅が一寸ぐらい、非常に細長く尖った形でしたので、はじめは私どもは上の重い地層に押し潰されたのだろうとも思いましたが、縦に埋まっているのもありましたし、やっぱりはじめからそんな形だとしか思われませんでした。  それからはんの木の実も見附かりました。小さな草の実もたくさん出て来ました。  この百万年|昔の海の渚に、今日は北上川が流れています。昔、巨きな波をあげたり、じっと寂まったり、誰も誰も見ていない所でいろいろに変ったその巨きな鹹水の継承者は、今日は波にちらちら火を点じ、ぴたぴた昔の渚をうちながら夜昼南へ流れるのです。  ここを海岸と名をつけたってどうしていけないといわれましょうか。  それにも一つここを海岸と考えていいわけは、ごくわずかですけれども、川の水が丁度大きな湖の岸のように、寄せたり退いたりしたのです。それは向う側から入って来る猿ヶ石川とこちらの水がぶっつかるためにできるのか、それとも少し上流がかなりけわしい瀬になってそれがこの泥岩層の岸にぶっつかって戻るためにできるのか、それとも全くほかの原因によるのでしょうか、とにかく日によって水が潮のように差し退きするときがあるのです。  そうです。丁度一|学期の試験が済んでその採点も終りあとは三十一日に成績を発表して通信簿を渡すだけ、私のほうから云えばまあそうです、農場の仕事だってその日の午前で麦の運搬も終り、まあ一段落というそのひるすぎでした。私たちは今年三|度目、イギリス海岸へ行きました。瀬川の鉄橋を渡り牛蒡や甘藍が青白い葉の裏をひるがえす畑の間の細い道を通りました。  みちにはすずめのかたびらが穂を出していっぱいにかぶさっていました。私たちはそこから製板所の構内に入りました。製板所の構内だということはもくもくした新らしい鋸屑が敷かれ、鋸の音が気まぐれにそこを飛んでいたのでわかりました。鋸屑には日が照って恰度砂のようでした。砂の向うの、青い水と救助区域の赤い旗と、向うのブリキ色の雲とを見たとき、いきなり私どもはスウェーデンの峡湾にでも来たような気がしてどきっとしました。たしかにみんなそう云う気もちらしかったのです。製板の小屋の中は藍いろの影になり、白く光る円鋸が四、五|梃壁にならべられ、その一梃は軸にとりつけられて幽霊のようにまわっていました。  私たちはその横を通って川の岸まで行ったのです。草の生えた石垣の下、さっきの救助区域の赤い旗の下には筏もちょうど来ていました。花城や花巻の生徒がたくさん泳いでおりました。けれども元来私どもはイギリス海岸に行こうと思ったのでしたからだまってそこを通りすぎました。そしてそこはもうイギリス海岸の南のはじなのでした。私たちでなくたって、折角川の岸までやって来ながらその気持ちのいい所に行かない人はありません。町の雑貨商店や金物店の息子たち、夏やすみで帰ったあちこちの中等学校の生徒、それからひるやすみの製板の人たちなどが、あるいは裸になって二人、三人ずつそのまっ白な岩に座ったり、また網シャツやゆるい青の半ずぼんをはいたり、青白い大きな麦稈帽をかぶったりして歩いているのを見ていくのは、ほんとうにいい気持でした。  そしてその人たちが、みな私どもの方を見てすこしわらっているのです。殊に一番いいことは、最上等の外国犬が、向うから黒い影法師と一緒に、一目散に走って来たことでした。実にそれはロバートとでも名の附きそうなもじゃもじゃした大きな犬でした。 「ああ、いいな。」私どもは一度に叫びました。誰だって夏海岸へ遊びに行きたいと思わない人があるでしょうか。殊にも行けたら、そしてさらわれて紡績工場などへ売られてあんまりひどい目にあわないなら、フランスかイギリスか、そう云う遠い所へ行きたいと誰も思うのです。  私たちは忙しく靴やずぼんを脱ぎ、その冷たい少し濁った水へ次から次と飛び込みました。全くその水の濁りようときたら素敵に高尚なもんでした。その水へ半分顔を浸して泳ぎながら横目で海岸の方を見ますと、泥岩の向うのはずれは高い草の崖になって木もゆれ雲もまっ白に光りました。  それから私たちは泥岩の出張った処に取りついてだんだん上りました。一人の生徒はスイミングワルツの口笛を吹きました。私たちのなかでは、ほんとうのオーケストラを、見たものも聴いたことのあるものも少なかったのですから、もちろんそれは町の洋品屋の蓄音器から来たのですけれども、恰度そのように冷い水は流れたのです。  私たちは泥岩|層の上をあちこちあるきました。所々に壺穴の痕があって、その中には小さな円い砂利が入っていました。 「この砂利がこの壺穴を穿るのです。水がこの上を流れるでしょう、石が水の底でザラザラ動くでしょう。まわったりもするでしょう、だんだん岩が穿れていくのです。」  また、赤い酸化鉄の沈んだ岩の裂け目に沿って、層がずうっと溝になって窪んだところもありました。それは沢山の壺穴を連結してちょうどひょうたんをつないだように見えました。 「こう云う溝は水の出るたんびにだんだん深くなるばかりです。なぜなら流されて行く砂利はあまりこの高い所を通りません。溝の中ばかりころんで行きます。溝は深くなる一方でしょう。水の中をごらんなさい。岩がたくさん縦の棒のようになっています。みんなこれです。」 「ああ、騎兵だ、騎兵だ。」誰かが南を向いて叫びました。  下流のまっ青な水の上に、朝日橋がくっきり黒く一|列浮び、そのらんかんの間を白い上着を着た騎兵たちがぞろっと並んで行きました。馬の足なみがかげろうのようにちらちらちらちら光りました。それは一|中隊ぐらいで、鉄橋の上を行く汽車よりはもっとゆるく、小学校の遠足の列よりはも少し早く、たぶんは中隊長らしい人を先頭にだんだん橋を渡って行きました。 「どごさ行ぐのだべ。」 「水馬演習でしょう。白い上着を着ているし、きっと裸馬だろう。」 「こっちさ来るどいいな。」 「来るよ、きっと。大てい向う岸のあの草の中から出て来ます。兵隊だって誰だって気持ちのいい所へは来たいんだ。」  騎兵はだんだん橋を渡り、最后の一人がぽろっと光って、それからみんな見えなくなりました。と思うと、またこっちの袂から一人がだくでかけて行きました。私たちはだまってそれを見送りました。  けれども、全く見えなくなると、そのこともだんだん忘れるものです。私たちはまた冷たい水に飛び込んで、小さな湾になった所を泳ぎまわったり、岩の上を走ったりしました。  誰かが岩の中に埋もれた小さな植物の根のまわりに、水酸化鉄の茶いろな環が、何重もめぐっているのを見附けました。それははじめからあちこち沢山あったのです。 「どうしてこの環、出来だのす。」 「この出来かたはむずかしいのです。膠質体のことをも少し詳しくやってからでなければわかりません。けれどもとにかくこれは電気の作用です。この環はリーゼガングの環と云います。実験室でもこさえられます。あとで土壌のほうでも説明します。腐植質磐層というものも似たようなわけでできるのですから。」私は毎日の実習で疲れていましたので、長い説明が面倒くさくてこう答えました。  それからしばらくたって、ふと私は川の向う岸を見ました。せいの高い二本のでんしんばしらが、互によりかかるようにして一本の腕木でつらねられてありました。そのすぐ下の青い草の崖の上に、まさしく一人のカアキイ色の将校と大きな茶いろの馬の頭とが出て来ました。 「来た、来た、とうとうやって来た。」みんなは高く叫びました。 「水馬演習だ。向う側へ行こう。」こう云いながら、そのまっ白なイギリス海岸を上流にのぼり、そこから向う側へ泳いで行く人もたくさんありました。  兵隊は一|列になって、崖をななめに下り、中にはさきに黒い鉤のついた長い竿を持った人もありました。  間もなく、みんなは向う側の草の生えた河原に下り、六|列ばかりに横にならんで馬から下り、将校の訓示を聞いていました。それが中々|永かったのでこっち側に居る私たちは実際あきてしまいました。いつになったら兵隊たちがみな馬のたてがみに取りついて、泳いでこっちへ来るのやらすっかり待ちあぐねてしまいました。さっき川を越えて見に行った人たちも、浅瀬に立って将校の訓示を聞いていましたが、それもどうも面白くて聞いているようにも見え、またつまらなそうにも見えるのでした。うるんだ夏の雲の下です。  そのうちとうとう二|隻の舟が川下からやって来て、川のまん中にとまりました。兵隊たちはいちばんはじの列から馬をひいてだんだん川へ入りました。馬の蹄の底の砂利をふむ音と水のばちゃばちゃはねる音とが遠くの遠くの夢の中からでも来るように、こっち岸の水の音を越えてやって来ました。私たちはいまにだんだん深い処へさえ来れば、兵隊たちはたてがみにとりついて泳ぎ出すだろうと思って待っていました。ところが先頭の兵隊さんは舟のところまでやって来ると、ぐるっとまわって、また向うへ戻りました。みんなもそれに続きましたので列は一つの環になりました。 「なんだ、今日はただ馬を水にならすためだ。」私たちはなんだかつまらないようにも思いましたが、また、あんな浅い処までしか馬を入れさせずそれに舟を二|隻も用意したのを見てどこか大へん力強い感じもしました。それから私たちは養蚕の用もありましたので急いで学校に帰りました。  その次には私たちはただ五人で行きました。  はじめはこの前の湾のところだけ泳いでいましたがそのうちだんだん川にもなれてきて、ずうっと上流の波の荒い瀬のところから海岸のいちばん南のいかだのあるあたりへまでも行きました。そして、疲れて、おまけに少し寒くなりましたので、海岸の西の堺のあの古い根株やその上につもった軽石の火山礫層の処に行きました。  その日私たちは完全なくるみの実も二つ見附けたのです。火山礫の層の上には前の水増しの時の水が、沼のようになって処々|溜っていました。私たちはその溜り水から堰をこしらえて滝にしたり発電処のまねをこしらえたり、ここはオーバアフロウだの何の永いこと遊びました。  その時、あの下流の赤い旗の立っているところに、いつも腕に赤いきれを巻きつけて、はだかに半天だけ一|枚着てみんなの泳ぐのを見ている三十ばかりの男が、一|梃の鉄梃をもって下流の方から溯って来るのを見ました。その人は、町から、水泳で子供らの溺れるのを助けるために雇われて来ているのでしたが、何ぶんひまに見えたのです。今日だって実際ひまなもんだから、ああやって用もない鉄梃なんかかついで、動かさなくてもいい途方もない大きな石を動かそうとしてみたり、丁度私どもが遊びにしている発電所のまねなどを、鉄梃まで使って本統にごつごつ岩を掘って、浮岩の層のたまり水を干そうとしたりしているのだと思うと、私どもは実は少しおかしくなったのでした。  ですからわざと真面目な顔をして、 「ここの水少し干したほういいな、鉄梃を貸しませんか。」と云うものもありました。  するとその男は鉄梃でとんとんあちこち突いてみてから、 「ここら、岩も柔いようだな。」と云いながらすなおに私たちに貸し、自分はまた上流の波の荒いところに集っている子供らの方へ行きました。すると子供らは、その荒いブリキ色の波のこっち側で、手をあげたり脚を俥屋さんのようにしたり、みんなちりぢりに遁げるのでした。私どもはははあ、あの男はやっぱりどこか足りないな、だから子供らが鬼のようにこわがっているのだと思って遠くから笑って見ていました。  さてその次の日も私たちはイギリス海岸に行きました。  その日は、もう私たちはすっかり川の心持ちになれたつもりで、どんどん上流の瀬の荒い処から飛び込み、すっかり疲れるまで下流の方へ泳ぎました。下流であがってはまた野蛮人のようにその白い岩の上を走って来て上流の瀬にとびこみました。それでもすっかり疲れてしまうと、また昨日の軽石層のたまり水の処に行きました。救助係はその日はもうちゃんとそこに来ていたのです。腕には赤い巾を巻き鉄梃も持っていました。 「お暑うござ※す。」私が挨拶しましたらその人は少しきまり悪そうに笑って、 「なあに、おうちの生徒さんぐらい大きな方ならあぶないこともないのですが一寸来てみたところです。」と云うのでした。なるほど私たちの中でたしかに泳げるものはほんとうに少かったのです。もちろん何かの張合で誰かが溺れそうになったとき間違いなくそれを救えるというくらいのものは一人もありませんでした。だんだん談してみると、この人はずいぶんよく私たちを考えていてくれたのです。救助|区域はずうっと下流の筏のところなのですが、私たちがこの気もちよいイギリス海岸に来るのを止めるわけにもいかず、時々|別の用のあるふりをして来て見ていてくれたのです。もっと談しているうちに私はすっかりきまり悪くなってしまいました。なぜなら誰でも自分だけは賢く、人のしていることは馬鹿げて見えるものですが、その日そのイギリス海岸で、私はつくづくそんな考のいけないことを感じました。からだを刺されるようにさえ思いました。はだかになって、生徒といっしょに白い岩の上に立っていましたが、まるで太陽の白い光に責められるように思いました。全くこの人は、救助区域があんまり下流の方で、とてもこのイギリス海岸まで手が及ばず、それにもかかわらず私たちをはじめみんなこっちへも来るし、殊に小さな子供らまでが、何べん叱られてもあのあぶない瀬の処に行っていて、この人の形を遠くから見ると、遁げてどての蔭や沢のはんのきのうしろにかくれるものですから、この人は町へ行って、もう一人、人を雇うかそうでなかったら救助の浮標を浮べてもらいたいと話しているというのです。  そうしてみると、昨日あの大きな石を用もないのに動かそうとしたのもその浮標の重りに使う心組からだったのです。おまけにあの瀬の処では、早くにも溺れた人もあり、下流の救助区域でさえ、今年になってから二人も救ったというのです。いくら昨日までよく泳げる人でも、今日のからだ加減では、いつ水の中で動けないようになるかわからないというのです。何気なく笑って、その人と談してはいましたが、私はひとりで烈しく烈しく私の軽率を責めました。実は私はその日までもし溺れる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、ただ飛び込んでいって一緒に溺れてやろう、死ぬことの向う側まで一緒についていってやろうと思っていただけでした。全く私たちにはそのイギリス海岸の夏の一刻がそんなにまで楽しかったのです。そして私は、それが悪いことだとは決して思いませんでした。  さてその人と私らは別れましたけれども、今度はもう要心して、あの十|間ばかりの湾の中でしか泳ぎませんでした。  その時、海岸のいちばん北のはじまで溯って行った一人が、まっすぐに私たちの方へ走って戻って来ました。 「先生、岩に何かの足痕あらんす。」  私はすぐ壺穴の小さいのだろうと思いました。第三|紀の泥岩で、どうせ昔の沼の岸ですから、何か哺乳類の足痕のあることもいかにもありそうなことだけれども、教室でだって手獣の足痕の図まで黒板に書いたのだし、どうせそれが頭にあるから壺穴までそんな工合に見えたんだと思いながら、あんまり気乗りもせずにそっちへ行ってみました。ところが私はぎくりとしてつっ立ってしまいました。みんなも顔色を変えて叫んだのです。  白い火山灰層のひとところが、平らに水で剥がされて、浅い幅の広い谷のようになっていましたが、その底に二つずつ蹄の痕のある大さ五|寸ばかりの足あとが、幾つか続いたりぐるっとまわったり、大きいのや小さいのや、実にめちゃくちゃについているではありませんか。その中には薄く酸化鉄が沈澱してあたりの岩から実にはっきりしていました。たしかに足痕が泥につくや否や、火山灰がやって来てそれをそのまま保存したのです。私ははじめは粘土でその型をとろうと思いました。一人がその青い粘土も持って来たのでしたが、蹄の痕があんまり深過ぎるので、どうもうまくいきませんでした。私は「あした石膏を用意して来よう」とも云いました。けれどもそれよりいちばんいいことはやっぱりその足あとを切り取って、そのまま学校へ持って行って標本にすることでした。どうせまた水が出れば火山灰の層が剥げて、新らしい足あとの出るのはたしかでしたし、今のは構わないでおいてもすぐ壊れることが明らかでしたから。  次の朝早く私は実習を掲示する黒板にこう書いておきました。      八月八日 農場実習 午前八時半より正午まで   除草、追肥   第一、七組   蕪菁播種    第三、四組   甘藍中耕    第五、六組   養蚕実習    第二組  そこで正直を申しますと、この小さな「イギリス海岸」の原稿は八月六日あの足あとを見つける前の日の晩宿直室で半分書いたのです。私はあの救助係の大きな石を鉄梃で動かすあたりから、あとは勝手に私の空想を書いていこうと思っていたのです。ところが次の日救助係がまるでちがった人になってしまい、泥岩の中からは空想よりももっと変なあしあとなどが出てきたのです。その半分書いた分だけを実習がすんでから教室でみんなに読みました。  それを読んでしまうかしまわないうち、私たちは一ぺんに飛び出してイギリス海岸へ出かけたのです。  丁度この日は校長も出張から帰って来て、学校に出ていました。黒板を見てわらっていました、それから繭を売るのが済んだら自分も行こうと云うのでした。私たちは新らしい鋼鉄の三本|鍬一本と、ものさしや新聞紙などを持って出て行きました。海岸の入口に来てみますと水はひどく濁っていましたし、雨も少し降りそうでした。雲が大へんけわしかったのです。救助係に私は今日は少しのお礼をしようと思ってその支度もして来たのでしたがその人はいつもの処に見えませんでした。私たちはまっすぐにそのイギリス海岸を昨日の処に行きました。それからていねいにあのあやしい化石を掘りはじめました。気がついてみると、みんな大抵ポケットに除草鎌を持ってきているのでした。岩が大へん柔らかでしたから大丈夫それで削れる見当がついていたのでした。もうあちこちで掘り出されました。私はせわしくそれをとめて、二つの足あとの間隔をはかったり、スケッチをとったりしなければなりませんでした。足あとを二つつづけて取ろうとしている人もありましたし、も少しのところでこわした人もありました。  まだ上流の方にまた別のがあると、一人の生徒が云って走って来ました。私は暑いので、すっかりはだかになって泳ぐ時のようなかたちをしていましたが、すぐその白い岩を走って行ってみました。そのあしあとは、いままでのとはまるで形もちがい、よほど小さかったのです、あるものは水の中にありました。水がもっと退いたらまだまだ沢山出るだろうと思われました。その上流の方から、南のイギリス海岸のまん中で、みんなの一生けん命|掘り取っているのを見ますと、こんどはそこは英国でなく、イタリヤのポンペイの火山灰の中のように思われるのでした。殊に四、五人の女たちが、けばけばしい色の着物を着て、向うを歩いていましたし、おまけに雲がだんだんうすくなって日がまっ白に照ってきたからでした。  いつか校長も黄いろの実習服を着て来ていました。そして足あとはもう四つまで完全にとられたのです。  私たちはそれを汀まで持って行って洗いそれからそっと新聞紙に包みました。大きなのは三|貫目もあったでしょう。掘り取るのが済んであの荒い瀬の処から飛び込んで行くものもありました。けれども私はその溺れることを心配しませんでした。なぜなら生徒より前に、もう校長が飛び込んでいてごくゆっくり泳いで行くのでしたから。  しばらくたって私たちはみんなでそれを持って学校へ帰りました。そしてさっきも申しましたようにこれは昨日のことです。今日は実習の九日目です。朝から雨が降っていますので外の仕事はできません。うちの中で図を引いたりして遊ぼうと思うのです。これから私たちにはまだ麦こなしの仕事が残っています。天気が悪くてよく乾かないで困ります。麦こなしは芒がえらえらからだに入って大へんつらい仕事です。百姓の仕事の中ではいちばんいやだとみんなが云います。この辺ではこの仕事を夏の病気とさえ云います。けれども全くそんな風に考えてはすみません。私たちはどうにかしてできるだけ面白くそれをやろうと思うのです。  これが今日のおしまいだろう、と云いながら斉田は青じろい薄明の流れはじめた県道に立って崖に露出した石英斑岩から一かけの標本をとって新聞紙に包んだ。  富沢は地図のその点に橙を塗って番号を書きながら読んだ。斉田はそれを包みの上に書きつけて背嚢に入れた。  二人は早く重い岩石の袋をおろしたさにあとはだまって県道を北へ下った。  道の左には地図にある通りの細い沖積地が青金の鉱山を通って来る川に沿って青くけむった稲を載せて北へ続いていた。山の上では薄明穹の頂が水色に光った。俄かに斉田が立ちどまった。道の左側が細い谷になっていてその下で誰かが屈んで何かしていた。見るとそこはきれいな泉になっていて粘板岩の裂け目から水があくまで溢れていた。  浴衣を着た髪の白い老人であった。その着こなしも風采も恩給でもとっている古い役人という風だった。蕗を泉に浸していたのだ。  老人はだまってしげしげと二人の疲れたなりを見た。二人とも巨きな背嚢をしょって地図を首からかけて鉄槌を持っている。そしてまだまるでの子供だ。  老人は眉を寄せてしばらく群青いろに染まった夕ぞらを見た。それからじつに不思議な表情をして笑った。  老人はわずかに腰をまげて道と並行にそのまま谷をさがった。五、六歩行くとそこにすぐ小さな柾屋があった。みちから一|間ばかり低くなって蘆をこっちがわに塀のように編んで立てていたのでいままで気がつかなかったのだ。老人は蘆の中につくられた四角なくぐりを通って家の横に出た。二人はみちから家の前におりた。 老人は叫んだ。家のなかはしんとして誰も返事をしなかった。けれども富沢はその夕暗と沈黙の奥で誰かがじっと息をこらして聴き耳をたてているのを感じた。 老人はじぶんでとりに行く風だった。老人は新らしい山桐の下駄とも一つ縄緒の栗の木下駄を気の毒そうに一つもって来た。  二人はわらじを解いてそれからほこりでいっぱいになった巻脚絆をたたいて巻き俄かに痛む膝をまげるようにして下駄をもって泉に行った。泉はまるで一つの灌漑の水路のように勢よく岩の間から噴き出ていた。斉田はつくづくかがんでその暗くなった裂け目を見て云った。  富沢は蕗をつけてある下のところに足を入れてシャツをぬいで汗をふきながら云った。  頭を洗ったり口をそそいだりして二人はさっきのくぐりを通って宿へ帰って来た。その煤けた天照大神と書いた掛物の床の間の前には小さなランプがついて二|枚の木綿の座布団がさびしく敷いてあった。向うはすぐ台所の板の間で炉が切ってあって青い煙があがりその間にはわずかに低い二|枚折の屏風が立っていた。  二人はそこにあったもみくしゃの単衣を汗のついたシャツの上に着て今日の仕事の整理をはじめた。富沢は色鉛筆で地図を彩り直したり、手帳へ書き込んだりした。斉田は岩石の標本番号をあらためて包み直したりレッテルを張ったりした。そしてすっかり夜になった。  さっきから台所でことことやっていた二十ばかりの眼の大きな女がきまり悪そうに夕食を運んで来た。その剥げた薄い膳には干した川魚を煮た椀と幾片かの酸えた塩漬けの胡瓜を載せていた。二人はかわるがわる黙って茶椀を替えた。 膳が下げられて疲れ切ったようにねそべりながら斉田が低く云った。 ひるの青金の黄銅鉱や方解石に柘榴石のまじった粗鉱の堆を考えながら富沢は云った。女はまた入って来た。そして黙って押入れをあけて二枚のうすべりといの角枕をならべて置いてまた台所の方へ行った。  二人はすっかり眠る積りでもなしにそこへ長くなった。そしてそのままうとうとした。 ダーダーダーダーダースコダーダー  強い老人らしい声が剣舞の囃しを叫ぶのにびっくりして富沢は目をさました。台所の方で誰か三、四人の声ががやがやしているそのなかでいまの声がしたのだ。  ランプがいつか心をすっかり細められて障子には月の光が斜めに青じろく射している。盆の十六日の次の夜なので剣舞の太鼓でも叩いたじいさんらなのかそれともさっきのこのうちの主人なのかどっちともわからなかった。 むっとしたような慓悍な三十台の男の声がした。そしてしばらくしんとした。 さっきの女らしい細い声が取りなした。 またその慓悍な声が刺すように云った。そしてまたしんとした。そして心配そうな息をこくりとのむ音が近くにした。富沢は蚊帳の外にここの主人が寝ながらじっと台所の方へ耳をすましているのを半分|夢のように見た。 さっきの女の声がした。こっちではきせるをたんたん続けて叩いていた。何だか哀れに云って外へ出たらしい音がした。  あとはもう聞えないくらいの低い物言いで隣りの主人からは安心に似たようなしずかな波動がだんだんはっきりなった月あかりのなかを流れて来た。そして富沢はまたとろとろした。次々うつるひるのたくさんの青い山々の姿や、きらきら光るもやの奥を誰かが高く歌を歌いながら通ったと思ったら富沢はまた弱く呼びさまされた。おもての扉を誰か酔ったものが歌いながら烈しく叩いていて主人が「返事するな、返事するな。」と低く娘に云っていた。さっきの男も帰って娘もどこかに寝ているらしかった。「寝たのか、まだ明るぞ。起きろ。」  外ではまたはげしくどなった。 富沢は思いながら床の間の方にいた斉田を見た。  斉田もはっきり目をあいていて低く鉱夫だなと云った。富沢は手をふって黙っていろと云った。こんなときものを云うのは老人にどうしても気の毒でたまらなかった。  外ではいよいよ暴れ出した。とうとう娘が屏風の向うで起きた。そしてとどうやらこっちを見ながらわびるように誘うようになまめかしく呟いた。そして足音もなく土間へおりて戸をあけた。外ではすぐしずまった。女はいろいろ細い声で訴えるようにしていた。男は酔っていないような声でみじかく何か訊きかえしたりしていた。それから二人はしばらく押問答をしていたが間もなく一人ともつかず二人ともつかず家のなかにはいって来てわずかに着物のうごく音などした。そしていっぱいに気兼ねや恥で緊張した老人が悲しくこくりと息を呑む音がまたした。  そらのてっぺんなんかつめたくてつめたくてまるでカチカチのやきをかけた鋼です。  そして星がいっぱいです。けれども東の空はもうやさしいききょうの花びらのようにあやしい底光りをはじめました。  その明け方の空の下、ひるの鳥でもゆかない高いところをするどい霜のかけらが風に流されてサラサラサラサラ南のほうへとんでゆきました。  じつにそのかすかな音が丘の上の一|本いちょうの木に聞こえるくらいすみきった明け方です。  いちょうの実はみんないちどに目をさましました。そしてドキッとしたのです。きょうこそはたしかに旅だちの日でした。みんなも前からそう思っていましたし、きのうの夕方やってきた二わのカラスもそういいました。 「ぼくなんか落ちるとちゅうで目がまわらないだろうか。」一つの実がいいました。 「よく目をつぶっていけばいいさ。」も一つが答えました。 「そうだ。わすれていた。ぼく水とうに水をつめておくんだった。」 「ぼくはね、水とうのほかにはっか水を用意したよ。すこしやろうか。旅へ出てあんまり心持ちのわるいときはちょっと飲むといいっておっかさんがいったぜ。」 「なぜおっかさんはぼくへはくれないんだろう。」 「だから、ぼくあげるよ。おっかさんをわるく思っちゃすまないよ。」  そうです。このいちょうの木はおかあさんでした。  ことしは千|人の黄金色の子どもが生まれたのです。  そしてきょうこそ子どもらがみんないっしょに旅にたつのです。おかあさんはそれをあんまり悲しんでおうぎ形の黄金の髪の毛をきのうまでにみんな落としてしまいました。 「ね、あたしどんなとこへいくのかしら。」ひとりのいちょうの女の子が空を見あげてつぶやくようにいいました。 「あたしだってわからないわ、どこへもいきたくないわね。」もひとりがいいました。 「あたしどんなめにあってもいいから、おっかさんとこにいたいわ。」 「だっていけないんですって。風が毎日そういったわ。」 「いやだわね。」 「そしてあたしたちもみんなばらばらにわかれてしまうんでしょう。」 「ええ、そうよ。もうあたしなんにもいらないわ。」 「あたしもよ。今までいろいろわがままばっかしいってゆるしてくださいね。」 「あら、あたしこそ。あたしこそだわ。ゆるしてちょうだい。」  東の空のききょうの花びらはもういつかしぼんだように力なくなり、朝の白光りがあらわれはじめました。星が一つずつきえてゆきます。  木のいちばんいちばん高いところにいたふたりのいちょうの男の子がいいました。 「そら、もう明るくなったぞ。うれしいなあ。ぼくはきっと黄金色のお星さまになるんだよ。」 「ぼくもなるよ。きっとここから落ちればすぐ北風が空へつれてってくれるだろうね。」 「ぼくは北風じゃないと思うんだよ。北風はしんせつじゃないんだよ。ぼくはきっとからすさんだろうと思うね。」 「そうだ。きっとからすさんだ。からすさんはえらいんだよ。ここから遠くてまるで見えなくなるまでひと息に飛んでゆくんだからね。たのんだら、ぼくらふたりぐらいきっといっぺんに青ぞらまでつれていってくれるぜ。」 「たのんでみようか。はやく来るといいな。」  そのすこし下でもうふたりがいいました。 「ぼくはいちばんはじめにあんずの王様のお城をたずねるよ。そしておひめ様をさらっていったばけものを退治するんだ。そんなばけものがきっとどこかにあるね。」 「うん。あるだろう。けれどもあぶないじゃないか。ばけものは大きいんだよ。ぼくたちなんか、鼻でふきとばされちまうよ。」 「ぼくね、いいもの持っているんだよ。だからだいじょうぶさ。見せようか。そら、ね。」 「これおっかさんの髪でこさえた網じゃないの。」 「そうだよ。おっかさんがくだすったんだよ。なにかおそろしいことのあったときはこのなかにかくれるんだって。ぼくね、この網をふところにいれてばけものに行ってね。もしもし。こんにちは、ぼくをのめますかのめないでしょう。とこういうんだよ。ばけものはおこってすぐのむだろう。ぼくはそのときばけものの胃ぶくろのなかでこの網をだしてね、すっかりかぶっちまうんだ。それからおなかじゅうをめっちゃめちゃにこわしちまうんだよ。そら、ばけものはチブスになって死ぬだろう。そこでぼくはでてきてあんずのおひめ様をつれてお城に帰るんだ。そしておひめ様をもらうんだよ。」 「ほんとうにいいね。そんならそのときぼくはお客様になっていってもいいだろう。」 「いいともさ。ぼく、国を半分わけてあげるよ。それからおっかさんへは毎日おかしやなんかたくさんあげるんだ。」  星がすっかりきえました。東の空は白くもえているようです。木がにわかにざわざわしました。もう出発に間もないのです。 「ぼく、くつが小さいや。めんどうくさい。はだしでいこう。」 「そんならぼくのとかえよう。ぼくのはすこし大きいんだよ。」 「かえよう。あ、ちょうどいいぜ。ありがとう。」 「わたしこまってしまうわ、おっかさんにもらった新しい外套が見えないんですもの。」 「はやくおさがしなさいよ。どのえだにおいたの。」 「わすれてしまったわ。」 「こまったわね。これからひじょうに寒いんでしょう。どうしても見つけないといけなくってよ。」 「そら、ね。いいぱんだろう。ほしぶどうがちょっと顔をだしてるだろう。はやくかばんへ入れたまえ。もうお日さまがおでましになるよ。」 「ありがとう。じゃもらうよ。ありがとう。いっしょにいこうね。」 「こまったわ、わたし、どうしてもないわ。ほんとうにわたしどうしましょう。」 「わたしとふたりでいきましょうよ。わたしのをときどきかしてあげるわ。こごえたらいっしょに死にましょうよ。」  東の空が白くもえ、ユラリユラリとゆれはじめました。おっかさんの木はまるで死んだようになってじっと立っています。  とつぜん光のたばが黄金の矢のように一|度にとんできました。子どもらはまるでとびあがるくらいかがやきました。  北から氷のようにつめたいすきとおった風がゴーッとふいてきました。 「さよなら、おっかさん。」「さよなら、おっかさん。」子どもらはみんな一|度に雨のようにえだからとびおりました。  北風がわらって、 「ことしもこれでまずさよならさよならっていうわけだ。」といいながらつめたいガラスのマントをひらめかしてむこうへいってしまいました。  お日様はもえる宝石のように東の空にかかり、あらんかぎりのかがやきを悲しむ母親の木と旅にでた子どもらとに投げておやりなさいました。  太陽マジックのうたはもう青ぞらいっぱい、ひっきりなしにごうごうごうごう鳴っています。  わたしたちは黄いろの実習服を着て、くずれかかった煉瓦の肥溜のとこへあつまりました。  冬中いつも唇が青ざめて、がたがたふるえていた阿部時夫などが、今日はまるでいきいきした顔いろになってにかにかにかにか笑っています。ほんとうに阿部時夫なら、冬の間からだが悪かったのではなくて、シャツを一|枚しかもっていなかったのです。それにせいが高いので、教室でもいちばん火に遠いこわれた戸のすきまから風のひゅうひゅう入って来る北東の隅だったのです。  けれども今日は、こんなにそらがまっ青で、見ているとまるでわくわくするよう、かれくさも桑ばやしの黄いろの脚もまばゆいくらいです。おまけに堆肥小屋の裏の二きれの雲は立派に光っていますし、それにちかくの空ではひばりがまるで砂糖水のようにふるえて、すきとおった空気いっぱいやっているのです。もう誰だって胸中からもくもく湧いてくるうれしさに笑い出さないでいられるでしょうか。そうでなければ無理に口を横に大きくしたり、わざと額をしかめたりしてそれをごまかしているのです。  それはリシウムの紅焔でしょう。ほんとうに光炎菩薩太陽マジックの歌はそらにも地面にもちからいっぱい、日光の小さな小さな菫や橙や赤の波といっしょに一生けん命に鳴っています。カイロ男爵だって早く上等の絹のフロックを着て明るいとこへ飛びだすがいいでしょう。  楊の木の中でも樺の木でも、またかれくさの地下茎でも、月光いろの甘い樹液がちらちらゆれだし、早い萱草やつめくさの芽にはもう黄金いろのちいさな澱粉の粒がつうつう浮いたり沈んだりしています。  くずれかかった煉瓦の肥溜の中にはビールのように泡がもりあがっています。さあ順番に桶に汲み込もう。そこらいっぱいこんなにひどく明るくて、ラジウムよりももっとはげしく、そしてやさしい光の波が一生けん命一生けん命ふるえているのに、いったいどんなものがきたなくてどんなものがわるいのでしょうか。もうどんどん泡があふれ出してもいいのです。青ぞらいっぱい鳴っているあのりんとした太陽マジックの歌をお聴きなさい。  さあ、ではみんなでこいつを下台の麦ばたけまで持って行こう、こっちの崖はあんまり急ですからやっぱり女学校の裏をまわって楊の木のあるとこの坂をおりて行きましょう。大丈夫二十分かかりません。なるべくせいの似たような人と、二人で一つずつかついで下さい。そうです、町の裏を通って行くのです。阿部君はいっしょに行くひとがない、それはぼくといっしょに行こう。ああ鳴っている、鳴っている、そこらいちめん鳴っている太陽マジックの歌をごらんなさい。  まぶしい山の雪の反射です。わたくしがはたらきながら、また重いものをはこびながら、手で水をすくうことも考えることのできないときは、そこから白びかりが氷のようにわたくしの咽喉に寄せてきて、こくっとわたくしの咽喉を鳴らし、すっかりなおしてしまうのです。それにいまならぼくたちの膝はまるで上等のばねのようです。去年の秋のようにあんなつめたい風のなかなら仕事もずいぶんひどかったのですけれども、いまならあんまり楽でただ少し肩の重苦しいのをこらえるだけです。それだって却って胸があつくなっていい気持なくらいです。  おおこまどり、鳴いて行く鳴いて行く、音譜のように飛んで行きます。赤い上着でどこまで今日はかけて行くの。いいねえ、ほんとうに、 かえれ、こまどり、アカシヤづくり。 赤の上着に野やまを越えて  そこの角から赤髪の子供がひとり、こっちをのぞいてわらっています。おい、大将、証書はちゃんとしまったかい。筆記帳には組と名前を楷書で書いてしまったの。  さあ、春だ、うたったり走ったり、とびあがったりするがいい。風野又三郎だって、もうガラスのマントをひらひらさせ大よろこびで髪をぱちゃぱちゃやりながら野はらを飛んであるきながら春が来た、春が来たをうたっているよ。ほんとうにもう、走ったりうたったり、飛びあがったりするがいい。ぼくたちはいまいそがしいんだよ。  砂土がやわらかい匂の息をはいています。いままでやすんでいた虫どもが、ぼんやりといま眼をさまし、しずかに息をするらしいのです。麦はつやつや光っています。雪の下からうまくとけて出て青い麦です。早く走って行こう、かけさえしたらすぐに麦は吸い込むのだ。  わたくしたちが柄杓で肥を麦にかければ、水はどうしてそんなにまだ力も入れないうちに水銀のように青く光り、たまになって麦の上に飛びだすのでしょう、また砂土がどうしてあんなにのどの乾いた子どもの水を呑むように肥を吸い込むのでしょう。もうほんとうにそうでなければならないから、それがただひとつのみちだからひとりでどんどんそうなるのです。  こんどは帰りはわたくしたちは近みちをしてあの急な坂をのぼりましょう。あすこの坂なら杉の木が昆布かびろうどのようです。阿部君、だまってそらを見ながらあるいていて一体何を見ているの。そうそう、青ぞらのあんな高いとこ、巻雲さえ浮びそうに見えるとこを、三羽の鷹かなにかの鳥が、それとも鶴かスワンでしょうか、三またの槍の穂のようにはねをのばして白く光ってとんで行きます。  おや、このせきの去年のちいさな丸太の橋は、雪代水で流れたな、からだだけならすぐ跳べるんだが肥桶をどうしような。阿部君、まず跳び越えてください。うまい、少しぐちゃっと苔にはいったけれども、まあいいねえ、それではぼくはいまこっちで桶をつるすから、そっちでとってくれ給え。そら、重い、ぼくは起重機の一種だよ。重い、ほう、天びん棒がひとりでに、磁石のように君の手へ吸い着いて行った。太陽マジックなんだほんとうに。うまい。  楊の木でも樺の木でも、燐光の樹液がいっぱい脈をうっています。  そのとき私は大へんひどく疲れていてたしか風と草穂との底に倒れていたのだとおもいます。  その秋風の昏倒の中で私は私の錫いろの影法師にずいぶん馬鹿ていねいな別れの挨拶をやっていました。  そしてただひとり暗いこけももの敷物を踏んでツェラ高原をあるいて行きました。  こけももには赤い実もついていたのです。  白いそらが高原の上いっぱいに張って高陵産の磁器よりもっと冷たく白いのでした。  稀薄な空気がみんみん鳴っていましたがそれは多分は白磁器の雲の向うをさびしく渡った日輪がもう高原の西を劃る黒い尖々の山稜の向うに落ちて薄明が来たためにそんなに軋んでいたのだろうとおもいます。  私は魚のようにあえぎながら何べんもあたりを見まわしました。  ただ一かけの鳥も居ず、どこにもやさしい獣のかすかなけはいさえなかったのです。  私はひとりで自分にたずねました。  こけももがいつかなくなって地面は乾いた灰いろの苔で覆われところどころには赤い苔の花もさいていました。けれどもそれはいよいよつめたい高原の悲痛を増すばかりでした。  そしていつか薄明は黄昏に入りかわられ、苔の花も赤ぐろく見え西の山稜の上のそらばかりかすかに黄いろに濁りました。  そのとき私ははるかの向うにまっ白な湖を見たのです。 私は自分で自分に言いました。  それでもやっぱり私は急ぎました。  湖はだんだん近く光ってきました。間もなく私はまっ白な石英の砂とその向うに音なく湛えるほんとうの水とを見ました。  砂がきしきし鳴りました。私はそれを一つまみとって空の微光にしらべました。すきとおる複六方錐の粒だったのです。  私はつぶやくようにまた考えるようにしながら水際に立ちました。 私はも一度こころの中でつぶやきました。  全く私のてのひらは水の中で青じろく燐光を出していました。  あたりが俄にきいんとなり、 こんな語が私の頭の中で鳴りました。まっくらでした。まっくらで少しうす赤かったのです。  私はまた眼を開きました。  いつの間にかすっかり夜になってそらはまるですきとおっていました。素敵に灼きをかけられてよく研かれた鋼鉄製の天の野原に銀河の水は音なく流れ、鋼玉の小砂利も光り岸の砂も一つぶずつ数えられたのです。  またその桔梗いろの冷たい天盤には金剛石の劈開片や青宝玉の尖った粒やあるいはまるでけむりの草のたねほどの黄水晶のかけらまでごく精巧のピンセットできちんとひろわれきれいにちりばめられそれはめいめい勝手に呼吸し勝手にぷりぷりふるえました。  私はまた足もとの砂を見ましたらその砂粒の中にも黄いろや青や小さな火がちらちらまたたいているのでした。恐らくはそのツェラ高原の過冷却湖畔も天の銀河の一部と思われました。  けれどもこの時は早くも高原の夜は明けるらしかったのです。  それは空気の中に何かしらそらぞらしい硝子の分子のようなものが浮んできたのでもわかりましたが第一東の九つの小さな青い星で囲まれたそらの泉水のようなものが大へん光が弱くなりそこの空は早くも鋼青から天河石の板に変っていたことから実にあきらかだったのです。  その冷たい桔梗色の底光りする空間を一人の天が翔けているのを私は見ました。 私は胸を躍らせながら斯う思いました。  天人はまっすぐに翔けているのでした。 私は斯うつぶやくように考えました。  天人の衣はけむりのようにうすくその瓔珞は昧爽の天盤からかすかな光を受けました。 私はまた思いました。  天人は紺いろの瞳を大きく張ってまたたき一つしませんでした。その唇は微かに哂いまっすぐにまっすぐに翔けていました。けれども少しも動かず移らずまた変りませんでした。  けれどもそのとき空は天河石からあやしい葡萄瑪瑙の板に変りその天人の翔ける姿をもう私は見ませんでした。 斯う私は自分で自分に誨えるようにしました。けれどもどうもおかしいことはあの天盤のつめたいまるめろに似たかおりがまだその辺に漂っているのでした。そして私はまたちらっとさっきのあやしい天の世界の空間を夢のように感じたのです。 私はひとりで斯う思いながらそのまま立っておりました。  そして空から瞳を高原に転じました。全く砂はもうまっ白に見えていました。湖は緑青よりももっと古びその青さは私の心臓まで冷たくしました。  ふと私は私の前に三人の天の子供らを見ました。それはみな霜を織ったような羅をつけすきとおる沓をはき私の前の水際に立ってしきりに東の空をのぞみ太陽の昇るのを待っているようでした。その東の空はもう白く燃えていました。私は天の子供らのひだのつけようからそのガンダーラ系統なのを知りました。またそのたしかに于※大寺の廃趾から発掘された壁画の中の三人なことを知りました。私はしずかにそっちへ進み愕かさないようにごく声|低く挨拶しました。 「お早う、于※大寺の壁画の中の子供さんたち。」  三人|一緒にこっちを向きました。その瓔珞のかがやきと黒い厳めしい瞳。  私は進みながらまた云いました。 「お早う。于※大寺の壁画の中の子供さんたち。」 「お前は誰だい。」  右はじの子供がまっすぐに瞬もなく私を見て訊ねました。 「私は于※大寺を沙の中から掘り出した青木晃というものです。」 「何しに来たんだい。」少しの顔色もうごかさずじっと私の瞳を見ながらその子はまたこう云いました。 「あなたたちと一緒にお日さまをおがみたいと思ってです。」 「そうですか。もうじきです。」三人は向うを向きました。瓔珞は黄や橙や緑の針のようなみじかい光を射、羅は虹のようにひるがえりました。  そして早くもその燃え立った白金のそら、湖の向うの鶯いろの原のはてから熔けたようなもの、なまめかしいもの、古びた黄金、反射炉の中の朱、一きれの光るものが現われました。  天の子供らはまっすぐに立ってそっちへ合掌しました。  それは太陽でした。厳かにそのあやしい円い熔けたようなからだをゆすり間もなく正しく空に昇った天の世界の太陽でした。光は針や束になってそそぎそこらいちめんかちかち鳴りました。  天の子供らは夢中になってはねあがりまっ青な寂静印の湖の岸硅砂の上をかけまわりました。そしていきなり私にぶっつかりびっくりして飛びのきながら一人が空を指して叫びました。 「ごらん、そら、インドラの網を。」  私は空を見ました。いまはすっかり青ぞらに変ったその天頂から四方の青白い天末までいちめんはられたインドラのスペクトル製の網、その繊維は蜘蛛のより細く、その組織は菌糸より緻密に、透明清澄で黄金でまた青く幾億互に交錯し光って顫えて燃えました。 「ごらん、そら、風の太鼓。」も一人がぶっつかってあわてて遁げながら斯う云いました。ほんとうに空のところどころマイナスの太陽ともいうように暗く藍や黄金や緑や灰いろに光り空から陥ちこんだようになり誰も敲かないのにちからいっぱい鳴っている、百千のその天の太鼓は鳴っていながらそれで少しも鳴っていなかったのです。私はそれをあんまり永く見て眼も眩くなりよろよろしました。 「ごらん、蒼孔雀を。」さっきの右はじの子供が私と行きすぎるときしずかに斯う云いました。まことに空のインドラの網のむこう、数しらず鳴りわたる天鼓のかなたに空一ぱいの不思議な大きな蒼い孔雀が宝石製の尾ばねをひろげかすかにクウクウ鳴きました。その孔雀はたしかに空には居りました。けれども少しも見えなかったのです。たしかに鳴いておりました。けれども少しも聞えなかったのです。  そして私は本統にもうその三人の天の子供らを見ませんでした。  却って私は草穂と風の中に白く倒れている私のかたちをぼんやり思い出しました。  小岩井農場の北に、黒い松の森が四つあります。いちばん南が狼森で、その次が笊森、次は黒坂森、北のはずれは盗森です。  この森がいつごろどうしてできたのか、どうしてこんな奇体な名前がついたのか、それをいちばんはじめから、すっかり知っているものは、おれ一人だと黒坂森のまんなかの巨きな巌が、ある日、威張ってこのおはなしをわたくしに聞かせました。  ずうっと昔、岩手山が、何べんも噴火しました。その灰でそこらはすっかり埋まりました。このまっ黒な巨きな巌も、やっぱり山からはね飛ばされて、今のところに落ちて来たのだそうです。  噴火がやっとしずまると、野原や丘には、穂のある草や穂のない草が、南の方からだんだん生えて、とうとうそこらいっぱいになり、それから柏や松も生え出し、しまいに、いまの四つの森ができました。けれども森にはまだ名前もなく、めいめい勝手に、おれはおれだと思っているだけでした。するとある年の秋、水のようにつめたいすきとおる風が、柏の枯れ葉をさらさら鳴らし、岩手山の銀の冠には、雲の影がくっきり黒くうつっている日でした。  四人の、けらを着た百姓たちが、山刀や三本鍬や唐鍬や、すべて山と野原の武器を堅くからだにしばりつけて、東の稜ばった燧石の山を越えて、のっしのっしと、この森にかこまれた小さな野原にやって来ました。よくみるとみんな大きな刀もさしていたのです。  先頭の百姓が、そこらの幻燈のようなけしきを、みんなにあちこち指さして 「どうだ。いいとこだろう。畑はすぐ起せるし、森は近いし、きれいな水もながれている。それに日あたりもいい。どうだ、俺はもう早くから、ここと決めて置いたんだ。」と云いますと、一人の百姓は、 「しかし地味はどうかな。」と言いながら、屈んで一本のすすきを引き抜いて、その根から土を掌にふるい落して、しばらく指でこねたり、ちょっと嘗めてみたりしてから云いました。 「うん。地味もひどくよくはないが、またひどく悪くもないな。」 「さあ、それではいよいよここときめるか。」  も一人が、なつかしそうにあたりを見まわしながら云いました。 「よし、そう決めよう。」いままでだまって立っていた、四人目の百姓が云いました。  四人はそこでよろこんで、せなかの荷物をどしんとおろして、それから来た方へ向いて、高く叫びました。 「おおい、おおい。ここだぞ。早く来お。早く来お。」  すると向うのすすきの中から、荷物をたくさんしょって、顔をまっかにしておかみさんたちが三人出て来ました。見ると、五つ六つより下の子供が九人、わいわい云いながら走ってついて来るのでした。  そこで四人の男たちは、てんでにすきな方へ向いて、声を揃えて叫びました。 「ここへ畑起してもいいかあ。」 「いいぞお。」森が一斉にこたえました。  みんなは又叫びました。 「ここに家建ててもいいかあ。」 「ようし。」森は一ぺんにこたえました。  みんなはまた声をそろえてたずねました。 「ここで火たいてもいいかあ。」 「いいぞお。」森は一ぺんにこたえました。  みんなはまた叫びました。 「すこし木貰ってもいいかあ。」 「ようし。」森は一斉にこたえました。  男たちはよろこんで手をたたき、さっきから顔色を変えて、しんとして居た女やこどもらは、にわかにはしゃぎだして、子供らはうれしまぎれに喧嘩をしたり、女たちはその子をぽかぽか撲ったりしました。  その日、晩方までには、もう萱をかぶせた小さな丸太の小屋が出来ていました。子供たちは、よろこんでそのまわりを飛んだりはねたりしました。次の日から、森はその人たちのきちがいのようになって、働らいているのを見ました。男はみんな鍬をピカリピカリさせて、野原の草を起しました。女たちは、まだ栗鼠や野鼠に持って行かれない栗の実を集めたり、松を伐って薪をつくったりしました。そしてまもなく、いちめんの雪が来たのです。  その人たちのために、森は冬のあいだ、一生懸命、北からの風を防いでやりました。それでも、小さなこどもらは寒がって、赤くはれた小さな手を、自分の咽喉にあてながら、「冷たい、冷たい。」と云ってよく泣きました。  春になって、小屋が二つになりました。  そして蕎麦と稗とが播かれたようでした。そばには白い花が咲き、稗は黒い穂を出しました。その年の秋、穀物がとにかくみのり、新らしい畑がふえ、小屋が三つになったとき、みんなはあまり嬉しくて大人までがはね歩きました。ところが、土の堅く凍った朝でした。九人のこどもらのなかの、小さな四人がどうしたのか夜の間に見えなくなっていたのです。  みんなはまるで、気違いのようになって、その辺をあちこちさがしましたが、こどもらの影も見えませんでした。  そこでみんなは、てんでにすきな方へ向いて、一緒に叫びました。 「たれか童ゃど知らないか。」 「しらない」と森は一斉にこたえました。 「そんだらさがしに行くぞお。」とみんなはまた叫びました。 「来お。」と森は一斉にこたえました。  そこでみんなは色々の農具をもって、まず一番ちかい狼森に行きました。森へ入りますと、すぐしめったつめたい風と朽葉の匂とが、すっとみんなを襲いました。  みんなはどんどん踏みこんで行きました。  すると森の奥の方で何かパチパチ音がしました。  急いでそっちへ行って見ますと、すきとおったばら色の火がどんどん燃えていて、狼が九疋、くるくるくるくる、火のまわりを踊ってかけ歩いているのでした。  だんだん近くへ行って見ると居なくなった子供らは四人共、その火に向いて焼いた栗や初茸などをたべていました。  狼はみんな歌を歌って、夏のまわり燈籠のように、火のまわりを走っていました。 「狼森のまんなかで、 火はどろどろぱちぱち 火はどろどろぱちぱち、 栗はころころぱちぱち、 栗はころころぱちぱち。」  みんなはそこで、声をそろえて叫びました。 「狼どの狼どの、童しゃど返して呉ろ。」  狼はみんなびっくりして、一ぺんに歌をやめてくちをまげて、みんなの方をふり向きました。  すると火が急に消えて、そこらはにわかに青くしいんとなってしまったので火のそばのこどもらはわあと泣き出しました。  狼は、どうしたらいいか困ったというようにしばらくきょろきょろしていましたが、とうとうみんないちどに森のもっと奥の方へ逃げて行きました。  そこでみんなは、子供らの手を引いて、森を出ようとしました。すると森の奥の方で狼どもが、 「悪く思わないで呉ろ。栗だのきのこだの、うんとご馳走したぞ。」と叫ぶのがきこえました。みんなはうちに帰ってから粟餅をこしらえてお礼に狼森へ置いて来ました。  春になりました。そして子供が十一人になりました。馬が二疋来ました。畠には、草や腐った木の葉が、馬の肥と一緒に入りましたので、粟や稗はまっさおに延びました。  そして実もよくとれたのです。秋の末のみんなのよろこびようといったらありませんでした。  ところが、ある霜柱のたったつめたい朝でした。  みんなは、今年も野原を起して、畠をひろげていましたので、その朝も仕事に出ようとして農具をさがしますと、どこの家にも山刀も三本鍬も唐鍬も一つもありませんでした。  みんなは一生懸命そこらをさがしましたが、どうしても見附かりませんでした。それで仕方なく、めいめいすきな方へ向いて、いっしょにたかく叫びました。 「おらの道具知らないかあ。」 「知らないぞお。」と森は一ぺんにこたえました。 「さがしに行くぞお。」とみんなは叫びました。 「来お。」と森は一斉に答えました。  みんなは、こんどはなんにももたないで、ぞろぞろ森の方へ行きました。はじめはまず一番近い狼森に行きました。  すると、すぐ狼が九疋出て来て、みんなまじめな顔をして、手をせわしくふって云いました。 「無い、無い、決して無い、無い。外をさがして無かったら、もう一ぺんおいで。」  みんなは、尤もだと思って、それから西の方の笊森に行きました。そしてだんだん森の奥へ入って行きますと、一本の古い柏の木の下に、木の枝であんだ大きな笊が伏せてありました。 「こいつはどうもあやしいぞ。笊森の笊はもっともだが、中には何があるかわからない。一つあけて見よう。」と云いながらそれをあけて見ますと、中には無くなった農具が九つとも、ちゃんとはいっていました。  それどころではなく、まんなかには、黄金色の目をした、顔のまっかな山男が、あぐらをかいて座っていました。そしてみんなを見ると、大きな口をあけてバアと云いました。  子供らは叫んで逃げ出そうとしましたが、大人はびくともしないで、声をそろえて云いました。 「山男、これからいたずら止めて呉ろよ。くれぐれ頼むぞ、これからいたずら止めで呉ろよ。」  山男は、大へん恐縮したように、頭をかいて立って居りました。みんなはてんでに、自分の農具を取って、森を出て行こうとしました。  すると森の中で、さっきの山男が、 「おらさも粟餅持って来て呉ろよ。」と叫んでくるりと向うを向いて、手で頭をかくして、森のもっと奥へ走って行きました。  みんなはあっはあっはと笑って、うちへ帰りました。そして又粟餅をこしらえて、狼森と笊森に持って行って置いてきました。  次の年の夏になりました。平らな処はもうみんな畑です。うちには木小屋がついたり、大きな納屋が出来たりしました。  それから馬も三疋になりました。その秋のとりいれのみんなの悦びは、とても大へんなものでした。  今年こそは、どんな大きな粟餅をこさえても、大丈夫だとおもったのです。  そこで、やっぱり不思議なことが起りました。  ある霜の一面に置いた朝納屋のなかの粟が、みんな無くなっていました。みんなはまるで気が気でなく、一生けん命、その辺をかけまわりましたが、どこにも粟は、一粒もこぼれていませんでした。  みんなはがっかりして、てんでにすきな方へ向いて叫びました。 「おらの粟知らないかあ。」 「知らないぞお。」森は一ぺんにこたえました。 「さがしに行くぞ。」とみんなは叫びました。 「来お。」と森は一斉にこたえました。  みんなは、てんでにすきなえ物を持って、まず手近の狼森に行きました。  狼共は九疋共もう出て待っていました。そしてみんなを見て、フッと笑って云いました。 「今日も粟餅だ。ここには粟なんか無い、無い、決して無い。ほかをさがしてもなかったらまたここへおいで。」  みんなはもっともと思って、そこを引きあげて、今度は笊森へ行きました。  すると赤つらの山男は、もう森の入口に出ていて、にやにや笑って云いました。 「あわもちだ。あわもちだ。おらはなっても取らないよ。粟をさがすなら、もっと北に行って見たらよかべ。」  そこでみんなは、もっともだと思って、こんどは北の黒坂森、すなわちこのはなしを私に聞かせた森の、入口に来て云いました。 「粟を返して呉ろ。粟を返して呉ろ。」  黒坂森は形を出さないで、声だけでこたえました。 「おれはあけ方、まっ黒な大きな足が、空を北へとんで行くのを見た。もう少し北の方へ行って見ろ。」そして粟餅のことなどは、一言も云わなかったそうです。そして全くその通りだったろうと私も思います。なぜなら、この森が私へこの話をしたあとで、私は財布からありっきりの銅貨を七銭出して、お礼にやったのでしたが、この森は仲々受け取りませんでした、この位気性がさっぱりとしていますから。  さてみんなは黒坂森の云うことが尤もだと思って、もう少し北へ行きました。  それこそは、松のまっ黒な盗森でした。ですからみんなも、 「名からしてぬすと臭い。」と云いながら、森へ入って行って、「さあ粟返せ。粟返せ。」とどなりました。  すると森の奥から、まっくろな手の長い大きな大きな男が出て来て、まるでさけるような声で云いました。 「何だと。おれをぬすとだと。そう云うやつは、みんなたたき潰してやるぞ。ぜんたい何の証拠があるんだ。」 「証人がある。証人がある。」とみんなはこたえました。 「誰だ。畜生、そんなこと云うやつは誰だ。」と盗森は咆えました。 「黒坂森だ。」と、みんなも負けずに叫びました。 「あいつの云うことはてんであてにならん。ならん。ならん。ならんぞ。畜生。」と盗森はどなりました。  みんなももっともだと思ったり、恐ろしくなったりしてお互に顔を見合せて逃げ出そうとしました。  すると俄に頭の上で、 「いやいや、それはならん。」というはっきりした厳かな声がしました。  見るとそれは、銀の冠をかぶった岩手山でした。盗森の黒い男は、頭をかかえて地に倒れました。  岩手山はしずかに云いました。 「ぬすとはたしかに盗森に相違ない。おれはあけがた、東の空のひかりと、西の月のあかりとで、たしかにそれを見届けた。しかしみんなももう帰ってよかろう。粟はきっと返させよう。だから悪く思わんで置け。一体盗森は、じぶんで粟餅をこさえて見たくてたまらなかったのだ。それで粟も盗んで来たのだ。はっはっは。」  そして岩手山は、またすましてそらを向きました。男はもうその辺に見えませんでした。  みんなはあっけにとられてがやがや家に帰って見ましたら、粟はちゃんと納屋に戻っていました。そこでみんなは、笑って粟もちをこしらえて、四つの森に持って行きました。  中でもぬすと森には、いちばんたくさん持って行きました。その代り少し砂がはいっていたそうですが、それはどうも仕方なかったことでしょう。  さてそれから森もすっかりみんなの友だちでした。そして毎年、冬のはじめにはきっと粟餅を貰いました。  しかしその粟餅も、時節がら、ずいぶん小さくなったが、これもどうも仕方がないと、黒坂森のまん中のまっくろな巨きな巌がおしまいに云っていました。  うずのしゅげを知っていますか。  うずのしゅげは、植物学ではおきなぐさと呼ばれますが、おきなぐさという名はなんだかあのやさしい若い花をあらわさないようにおもいます。  そんならうずのしゅげとはなんのことかと言われても私にはわかったようなまたわからないような気がします。  それはたとえば私どもの方で、ねこやなぎの花芽をべんべろと言いますが、そのべんべろがなんのことかわかったようなわからないような気がするのと全くおなじです。とにかくべんべろという語のひびきの中に、あの柳の花芽の銀びろうどのこころもち、なめらかな春のはじめの光のぐあいが実にはっきり出ているように、うずのしゅげというときは、あの毛※科のおきなぐさの黒朱子の花びら、青じろいやはり銀びろうどの刻みのある葉、それから六月のつやつや光る冠毛がみなはっきりと眼にうかびます。  まっ赤なアネモネの花の従兄、きみかげそうやかたくりの花のともだち、このうずのしゅげの花をきらいなものはありません。  ごらんなさい。この花は黒朱子ででもこしらえた変わり型のコップのように見えますが、その黒いのは、たとえば葡萄酒が黒く見えると同じです。この花の下を始終往ったり来たりする蟻に私はたずねます。  「おまえはうずのしゅげはすきかい、きらいかい」  蟻は活発に答えます。  「大すきです。誰だってあの人をきらいなものはありません」  「けれどもあの花はまっ黒だよ」  「いいえ、黒く見えるときもそれはあります。けれどもまるで燃えあがってまっ赤な時もあります」  「はてな、お前たちの眼にはそんなぐあいに見えるのかい」  「いいえ、お日さまの光の降る時なら誰にだってまっ赤に見えるだろうと思います」  「そうそう。もうわかったよ。お前たちはいつでも花をすかして見るのだから」  「そしてあの葉や茎だって立派でしょう。やわらかな銀の糸が植えてあるようでしょう。私たちの仲間では誰かが病気にかかったときはあの糸をほんのすこうしもらって来てしずかにからだをさすってやります」  「そうかい。それで、結局、お前たちはうずのしゅげは大すきなんだろう」  「そうです」  「よろしい。さよなら。気をつけておいで」  この通りです。  また向こうの、黒いひのきの森の中のあき地に山男がいます。山男はお日さまに向いて倒れた木に腰掛けて何か鳥を引き裂いてたべようとしているらしいのですが、なぜあの黝んだ黄金の眼玉を地面にじっと向けているのでしょう。鳥をたべることさえ忘れたようです。  あれは空地のかれ草の中に一本のうずのしゅげが花をつけ風にかすかにゆれているのを見ているからです。  私は去年のちょうど今ごろの風のすきとおったある日のひるまを思い出します。  それは小岩井農場の南、あのゆるやかな七つ森のいちばん西のはずれの西がわでした。かれ草の中に二本のうずのしゅげが、もうその黒いやわらかな花をつけていました。  まばゆい白い雲が小さな小さなきれになって砕けてみだれて、空をいっぱい東の方へどんどんどんどん飛びました。  お日さまは何べんも雲にかくされて銀の鏡のように白く光ったり、またかがやいて大きな宝石のように蒼ぞらの淵にかかったりしました。  山脈の雪はまっ白に燃え、眼の前の野原は黄いろや茶の縞になってあちこち掘り起こされた畑は鳶いろの四角なきれをあてたように見えたりしました。  おきなぐさはその変幻の光の奇術の中で夢よりもしずかに話しました。  「ねえ、雲がまたお日さんにかかるよ。そら向こうの畑がもう陰になった」  「走って来る、早いねえ、もうから松も暗くなった。もう越えた」  「来た、来た。おおくらい。急にあたりが青くしんとなった」  「うん、だけどもう雲が半分お日さんの下をくぐってしまったよ。すぐ明るくなるんだよ」  「もう出る。そら、ああ明るくなった」  「だめだい。また来るよ、そら、ね、もう向こうのポプラの木が黒くなったろう」  「うん。まるでまわり燈籠のようだねえ」  「おい、ごらん。山の雪の上でも雲のかげがすべってるよ。あすこ。そら。ここよりも動きようがおそいねえ」  「もうおりて来る。ああこんどは早い早い、まるで落ちて来るようだ。もうふもとまで来ちゃった。おや、どこへ行ったんだろう、見えなくなってしまった」  「不思議だねえ、雲なんてどこから出て来るんだろう。ねえ、西のそらは青じろくて光ってよく晴れてるだろう。そして風がどんどん空を吹いてるだろう。それだのにいつまでたっても雲がなくならないじゃないか」  「いいや、あすこから雲が湧いて来るんだよ。そら、あすこに小さな小さな雲きれが出たろう。きっと大きくなるよ」  「ああ、ほんとうにそうだね、大きくなったねえ。もう兎ぐらいある」  「どんどんかけて来る。早い早い、大きくなった、白熊のようだ」  「またお日さんへかかる。暗くなるぜ、奇麗だねえ。ああ奇麗。雲のへりがまるで虹で飾ったようだ」  西の方の遠くの空でさっきまで一生けん命啼いていたひばりがこの時風に流されて羽を変にかしげながら二人のそばに降りて来たのでした。  「今日は、風があっていけませんね」  「おや、ひばりさん、いらっしゃい。今日なんか高いとこは風が強いでしょうね」  「ええ、ひどい風ですよ。大きく口をあくと風が僕のからだをまるで麦酒瓶のようにボウと鳴らして行くくらいですからね。わめくも歌うも容易のこっちゃありませんよ」  「そうでしょうね。だけどここから見ているとほんとうに風はおもしろそうですよ。僕たちも一ぺん飛んでみたいなあ」  「飛べるどこじゃない。もう二か月お待ちなさい。いやでも飛ばなくちゃなりません」  それから二か月めでした。私は御明神へ行く途中もう一ぺんそこへ寄ったのでした。  丘はすっかり緑でほたるかずらの花が子供の青い瞳のよう、小岩井の野原には牧草や燕麦がきんきん光っておりました。風はもう南から吹いていました。  春の二つのうずのしゅげの花はすっかりふさふさした銀毛の房にかわっていました。野原のポプラの錫いろの葉をちらちらひるがえし、ふもとの草が青い黄金のかがやきをあげますと、その二つのうずのしゅげの銀毛の房はぷるぷるふるえて今にも飛び立ちそうでした。  そしてひばりがひくく丘の上を飛んでやって来たのでした。  「今日は。いいお天気です。どうです。もう飛ぶばかりでしょう」  「ええ、もう僕たち遠いとこへ行きますよ。どの風が僕たちを連れて行くかさっきから見ているんです」  「どうです。飛んで行くのはいやですか」  「なんともありません。僕たちの仕事はもう済んだんです」  「こわかありませんか」  「いいえ、飛んだってどこへ行ったって野はらはお日さんのひかりでいっぱいですよ。僕たちばらばらになろうたって、どこかのたまり水の上に落ちようたって、お日さんちゃんと見ていらっしゃるんですよ」  「そうです、そうです。なんにもこわいことはありません。僕だってもういつまでこの野原にいるかわかりません。もし来年もいるようだったら来年は僕はここへ巣をつくりますよ」  「ええ、ありがとう。ああ、僕まるで息がせいせいする。きっと今度の風だ。ひばりさん、さよなら」  「僕も、ひばりさん、さよなら」  「じゃ、さよなら、お大事においでなさい」  奇麗なすきとおった風がやって参りました。まず向こうのポプラをひるがえし、青の燕麦に波をたてそれから丘にのぼって来ました。  うずのしゅげは光ってまるで踊るようにふらふらして叫びました。  「さよなら、ひばりさん、さよなら、みなさん。お日さん、ありがとうございました」  そしてちょうど星が砕けて散るときのように、からだがばらばらになって一本ずつの銀毛はまっしろに光り、羽虫のように北の方へ飛んで行きました。そしてひばりは鉄砲玉のように空へとびあがって鋭いみじかい歌をほんのちょっと歌ったのでした。  私は考えます。なぜひばりはうずのしゅげの銀毛の飛んで行った北の方へ飛ばなかったか、まっすぐに空の方へ飛んだか。  それはたしかに、二つのうずのしゅげのたましいが天の方へ行ったからです。そしてもう追いつけなくなったときひばりはあのみじかい別れの歌を贈ったのだろうと思います。そんなら天上へ行った二つの小さなたましいはどうなったか、私はそれは二つの小さな変光星になったと思います。なぜなら変光星はあるときは黒くて天文台からも見えず、あるときは蟻が言ったように赤く光って見えるからです。        ……ある牛飼いがものがたる 第一日曜  オツベルときたら大したもんだ。稲扱器械の六台も据えつけて、のんのんのんのんのんのんと、大そろしない音をたててやっている。  十六人の百姓どもが、顔をまるっきりまっ赤にして足で踏んで器械をまわし、小山のように積まれた稲を片っぱしから扱いて行く。藁はどんどんうしろの方へ投げられて、また新らしい山になる。そこらは、籾や藁から発ったこまかな塵で、変にぼうっと黄いろになり、まるで沙漠のけむりのようだ。  そのうすくらい仕事場を、オツベルは、大きな琥珀のパイプをくわえ、吹殻を藁に落さないよう、眼を細くして気をつけながら、両手を背中に組みあわせて、ぶらぶら往ったり来たりする。  小屋はずいぶん頑丈で、学校ぐらいもあるのだが、何せ新式稲扱器械が、六台もそろってまわってるから、のんのんのんのんふるうのだ。中にはいるとそのために、すっかり腹が空くほどだ。そしてじっさいオツベルは、そいつで上手に腹をへらし、ひるめしどきには、六寸ぐらいのビフテキだの、雑巾ほどあるオムレツの、ほくほくしたのをたべるのだ。  とにかく、そうして、のんのんのんのんやっていた。  そしたらそこへどういうわけか、その、白象がやって来た。白い象だぜ、ペンキを塗ったのでないぜ。どういうわけで来たかって? そいつは象のことだから、たぶんぶらっと森を出て、ただなにとなく来たのだろう。  そいつが小屋の入口に、ゆっくり顔を出したとき、百姓どもはぎょっとした。なぜぎょっとした? よくきくねえ、何をしだすか知れないじゃないか。かかり合っては大へんだから、どいつもみな、いっしょうけんめい、じぶんの稲を扱いていた。  ところがそのときオツベルは、ならんだ器械のうしろの方で、ポケットに手を入れながら、ちらっと鋭く象を見た。それからすばやく下を向き、何でもないというふうで、いままでどおり往ったり来たりしていたもんだ。  するとこんどは白象が、片脚床にあげたのだ。百姓どもはぎょっとした。それでも仕事が忙しいし、かかり合ってはひどいから、そっちを見ずに、やっぱり稲を扱いていた。  オツベルは奥のうすくらいところで両手をポケットから出して、も一度ちらっと象を見た。それからいかにも退屈そうに、わざと大きなあくびをして、両手を頭のうしろに組んで、行ったり来たりやっていた。ところが象が威勢よく、前肢二つつきだして、小屋にあがって来ようとする。百姓どもはぎくっとし、オツベルもすこしぎょっとして、大きな琥珀のパイプから、ふっとけむりをはきだした。それでもやっぱりしらないふうで、ゆっくりそこらをあるいていた。  そしたらとうとう、象がのこのこ上って来た。そして器械の前のとこを、呑気にあるきはじめたのだ。  ところが何せ、器械はひどく廻っていて、籾は夕立か霰のように、パチパチ象にあたるのだ。象はいかにもうるさいらしく、小さなその眼を細めていたが、またよく見ると、たしかに少しわらっていた。  オツベルはやっと覚悟をきめて、稲扱器械の前に出て、象に話をしようとしたが、そのとき象が、とてもきれいな、鶯みたいないい声で、こんな文句を云ったのだ。 「ああ、だめだ。あんまりせわしく、砂がわたしの歯にあたる。」  まったく籾は、パチパチパチパチ歯にあたり、またまっ白な頭や首にぶっつかる。  さあ、オツベルは命懸けだ。パイプを右手にもち直し、度胸を据えて斯う云った。 「どうだい、此処は面白いかい。」 「面白いねえ。」象がからだを斜めにして、眼を細くして返事した。 「ずうっとこっちに居たらどうだい。」  百姓どもははっとして、息を殺して象を見た。オツベルは云ってしまってから、にわかにがたがた顫え出す。ところが象はけろりとして 「居てもいいよ。」と答えたもんだ。 「そうか。それではそうしよう。そういうことにしようじゃないか。」オツベルが顔をくしゃくしゃにして、まっ赤になって悦びながらそう云った。  どうだ、そうしてこの象は、もうオツベルの財産だ。いまに見たまえ、オツベルは、あの白象を、はたらかせるか、サーカス団に売りとばすか、どっちにしても万円以上もうけるぜ。 第二日曜  オツベルときたら大したもんだ。それにこの前稲扱小屋で、うまく自分のものにした、象もじっさい大したもんだ。力も二十馬力もある。第一みかけがまっ白で、牙はぜんたいきれいな象牙でできている。皮も全体、立派で丈夫な象皮なのだ。そしてずいぶんはたらくもんだ。けれどもそんなに稼ぐのも、やっぱり主人が偉いのだ。 「おい、お前は時計は要らないか。」丸太で建てたその象小屋の前に来て、オツベルは琥珀のパイプをくわえ、顔をしかめて斯う訊いた。 「ぼくは時計は要らないよ。」象がわらって返事した。 「まあ持って見ろ、いいもんだ。」斯う言いながらオツベルは、ブリキでこさえた大きな時計を、象の首からぶらさげた。 「なかなかいいね。」象も云う。 「鎖もなくちゃだめだろう。」オツベルときたら、百キロもある鎖をさ、その前肢にくっつけた。 「うん、なかなか鎖はいいね。」三あし歩いて象がいう。 「靴をはいたらどうだろう。」 「ぼくは靴などはかないよ。」 「まあはいてみろ、いいもんだ。」オツベルは顔をしかめながら、赤い張子の大きな靴を、象のうしろのかかとにはめた。 「なかなかいいね。」象も云う。 「靴に飾りをつけなくちゃ。」オツベルはもう大急ぎで、四百キロある分銅を靴の上から、穿め込んだ。 「うん、なかなかいいね。」象は二あし歩いてみて、さもうれしそうにそう云った。  次の日、ブリキの大きな時計と、やくざな紙の靴とはやぶけ、象は鎖と分銅だけで、大よろこびであるいて居った。 「済まないが税金も高いから、今日はすこうし、川から水を汲んでくれ。」オツベルは両手をうしろで組んで、顔をしかめて象に云う。 「ああ、ぼく水を汲んで来よう。もう何ばいでも汲んでやるよ。」  象は眼を細くしてよろこんで、そのひるすぎに五十だけ、川から水を汲んで来た。そして菜っ葉の畑にかけた。  夕方象は小屋に居て、十|把の藁をたべながら、西の三日の月を見て、 「ああ、稼ぐのは愉快だねえ、さっぱりするねえ」と云っていた。 「済まないが税金がまたあがる。今日は少うし森から、たきぎを運んでくれ」オツベルは房のついた赤い帽子をかぶり、両手をかくしにつっ込んで、次の日象にそう言った。 「ああ、ぼくたきぎを持って来よう。いい天気だねえ。ぼくはぜんたい森へ行くのは大すきなんだ」象はわらってこう言った。  オツベルは少しぎょっとして、パイプを手からあぶなく落としそうにしたがもうあのときは、象がいかにも愉快なふうで、ゆっくりあるきだしたので、また安心してパイプをくわえ、小さな咳を一つして、百姓どもの仕事の方を見に行った。  そのひるすぎの半日に、象は九百把たきぎを運び、眼を細くしてよろこんだ。  晩方象は小屋に居て、八把の藁をたべながら、西の四日の月を見て 「ああ、せいせいした。サンタマリア」と斯うひとりごとしたそうだ。  その次の日だ、 「済まないが、税金が五倍になった、今日は少うし鍛冶場へ行って、炭火を吹いてくれないか」 「ああ、吹いてやろう。本気でやったら、ぼく、もう、息で、石もなげとばせるよ」  オツベルはまたどきっとしたが、気を落ち付けてわらっていた。  象はのそのそ鍛冶場へ行って、べたんと肢を折って座り、ふいごの代りに半日炭を吹いたのだ。  その晩、象は象小屋で、七|把の藁をたべながら、空の五日の月を見て 「ああ、つかれたな、うれしいな、サンタマリア」と斯う言った。  どうだ、そうして次の日から、象は朝からかせぐのだ。藁も昨日はただ五把だ。よくまあ、五把の藁などで、あんな力がでるもんだ。  じっさい象はけいざいだよ。それというのもオツベルが、頭がよくてえらいためだ。オツベルときたら大したもんさ。 第五日曜  オツベルかね、そのオツベルは、おれも云おうとしてたんだが、居なくなったよ。  まあ落ちついてききたまえ。前にはなしたあの象を、オツベルはすこしひどくし過ぎた。しかたがだんだんひどくなったから、象がなかなか笑わなくなった。時には赤い竜の眼をして、じっとこんなにオツベルを見おろすようになってきた。  ある晩象は象小屋で、三把の藁をたべながら、十日の月を仰ぎ見て、 「苦しいです。サンタマリア。」と云ったということだ。  こいつを聞いたオツベルは、ことごと象につらくした。  ある晩、象は象小屋で、ふらふら倒れて地べたに座り、藁もたべずに、十一日の月を見て、 「もう、さようなら、サンタマリア。」と斯う言った。 「おや、何だって? さよならだ?」月が俄かに象に訊く。 「ええ、さよならです。サンタマリア。」 「何だい、なりばかり大きくて、からっきし意気地のないやつだなあ。仲間へ手紙を書いたらいいや。」月がわらって斯う云った。 「お筆も紙もありませんよう。」象は細ういきれいな声で、しくしくしくしく泣き出した。 「そら、これでしょう。」すぐ眼の前で、可愛い子どもの声がした。象が頭を上げて見ると、赤い着物の童子が立って、硯と紙を捧げていた。象は早速手紙を書いた。 「ぼくはずいぶん眼にあっている。みんなで出て来て助けてくれ。」  童子はすぐに手紙をもって、林の方へあるいて行った。  赤衣の童子が、そうして山に着いたのは、ちょうどひるめしごろだった。このとき山の象どもは、沙羅樹の下のくらがりで、碁などをやっていたのだが、額をあつめてこれを見た。 「ぼくはずいぶん眼にあっている。みんなで出てきて助けてくれ。」  象は一せいに立ちあがり、まっ黒になって吠えだした。 「オツベルをやっつけよう」議長の象が高く叫ぶと、 「おう、でかけよう。グララアガア、グララアガア。」みんながいちどに呼応する。  さあ、もうみんな、嵐のように林の中をなきぬけて、グララアガア、グララアガア、野原の方へとんで行く。どいつもみんなきちがいだ。小さな木などは根こぎになり、藪や何かもめちゃめちゃだ。グワア グワア グワア グワア、花火みたいに野原の中へ飛び出した。それから、何の、走って、走って、とうとう向うの青くかすんだ野原のはてに、オツベルの邸の黄いろな屋根を見附けると、象はいちどに噴火した。  グララアガア、グララアガア。その時はちょうど一時半、オツベルは皮の寝台の上でひるねのさかりで、烏の夢を見ていたもんだ。あまり大きな音なので、オツベルの家の百姓どもが、門から少し外へ出て、小手をかざして向うを見た。林のような象だろう。汽車より早くやってくる。さあ、まるっきり、血の気も失せてかけ込んで、 「旦那あ、象です。押し寄せやした。旦那あ、象です。」と声をかぎりに叫んだもんだ。  ところがオツベルはやっぱりえらい。眼をぱっちりとあいたときは、もう何もかもわかっていた。 「おい、象のやつは小屋にいるのか。居る? 居る? 居るのか。よし、戸をしめろ。戸をしめるんだよ。早く象小屋の戸をしめるんだ。ようし、早く丸太を持って来い。とじこめちまえ、畜生めじたばたしやがるな、丸太をそこへしばりつけろ。何ができるもんか。わざと力を減らしてあるんだ。ようし、もう五六本持って来い。さあ、大丈夫だ。大丈夫だとも。あわてるなったら。おい、みんな、こんどは門だ。門をしめろ。かんぬきをかえ。つっぱり。つっぱり。そうだ。おい、みんな心配するなったら。しっかりしろよ。」オツベルはもう支度ができて、ラッパみたいないい声で、百姓どもをはげました。ところがどうして、百姓どもは気が気じゃない。こんな主人に巻き添いなんぞ食いたくないから、みんなタオルやはんけちや、よごれたような白いようなものを、ぐるぐる腕に巻きつける。降参をするしるしなのだ。  オツベルはいよいよやっきとなって、そこらあたりをかけまわる。オツベルの犬も気が立って、火のつくように吠えながら、やしきの中をはせまわる。  間もなく地面はぐらぐらとゆられ、そこらはばしゃばしゃくらくなり、象はやしきをとりまいた。グララアガア、グララアガア、その恐ろしいさわぎの中から、 「今助けるから安心しろよ。」やさしい声もきこえてくる。 「ありがとう。よく来てくれて、ほんとに僕はうれしいよ。」象小屋からも声がする。さあ、そうすると、まわりの象は、一そうひどく、グララアガア、グララアガア、塀のまわりをぐるぐる走っているらしく、度々中から、怒ってふりまわす鼻も見える。けれども塀はセメントで、中には鉄も入っているから、なかなか象もこわせない。塀の中にはオツベルが、たった一人で叫んでいる。百姓どもは眼もくらみ、そこらをうろうろするだけだ。そのうち外の象どもは、仲間のからだを台にして、いよいよ塀を越しかかる。だんだんにゅうと顔を出す。その皺くちゃで灰いろの、大きな顔を見あげたとき、オツベルの犬は気絶した。さあ、オツベルは射ちだした。六連発のピストルさ。ドーン、グララアガア、ドーン、グララアガア、ドーン、グララアガア、ところが弾丸は通らない。牙にあたればはねかえる。一|疋なぞは斯う言った。 「なかなかこいつはうるさいねえ。ぱちぱち顔へあたるんだ。」  オツベルはいつかどこかで、こんな文句をきいたようだと思いながら、ケースを帯からつめかえた。そのうち、象の片脚が、塀からこっちへはみ出した。それからも一つはみ出した。五匹の象が一ぺんに、塀からどっと落ちて来た。オツベルはケースを握ったまま、もうくしゃくしゃに潰れていた。早くも門があいていて、グララアガア、グララアガア、象がどしどしなだれ込む。 「牢はどこだ。」みんなは小屋に押し寄せる。丸太なんぞは、マッチのようにへし折られ、あの白象は大へん瘠せて小屋を出た。 「まあ、よかったねやせたねえ。」みんなはしずかにそばにより、鎖と銅をはずしてやった。 「ああ、ありがとう。ほんとにぼくは助かったよ。」白象はさびしくわらってそう云った。  おや〔一字不明〕、川へはいっちゃいけないったら。  今は兎たちは、みんなみじかい茶色の着物です。  野原の草はきらきら光り、あちこちの樺の木は白い花をつけました。  実に野原はいいにおいでいっぱいです。  子兎のホモイは、悦んでぴんぴん踊りながら申しました。  「ふん、いいにおいだなあ。うまいぞ、うまいぞ、鈴蘭なんかまるでパリパリだ」  風が来たので鈴蘭は、葉や花を互いにぶっつけて、しゃりんしゃりんと鳴りました。  ホモイはもううれしくて、息もつかずにぴょんぴょん草の上をかけ出しました。  それからホモイはちょっと立ちどまって、腕を組んでほくほくしながら、  「まるで僕は川の波の上で芸当をしているようだぞ」と言いました。  本当にホモイは、いつか小さな流れの岸まで来ておりました。  そこには冷たい水がこぼんこぼんと音をたて、底の砂がピカピカ光っています。  ホモイはちょっと頭を曲げて、  「この川を向こうへ跳び越えてやろうかな。なあに訳ないさ。けれども川の向こう側は、どうも草が悪いからね」とひとりごとを言いました。  すると不意に流れの上の方から、  「ブルルル、ピイ、ピイ、ピイ、ピイ、ブルルル、ピイ、ピイ、ピイ、ピイ」とけたたましい声がして、うす黒いもじゃもじゃした鳥のような形のものが、ばたばたばたばたもがきながら、流れて参りました。  ホモイは急いで岸にかけよって、じっと待ちかまえました。  流されるのは、たしかにやせたひばりの子供です。ホモイはいきなり水の中に飛び込んで、前あしでしっかりそれをつかまえました。  するとそのひばりの子供は、いよいよびっくりして、黄色なくちばしを大きくあけて、まるでホモイのお耳もつんぼになるくらい鳴くのです。  ホモイはあわてて一生けん命、あとあしで水をけりました。そして、  「大丈夫さ、 大丈夫さ」と言いながら、その子の顔を見ますと、ホモイはぎょっとしてあぶなく手をはなしそうになりました。それは顔じゅうしわだらけで、くちばしが大きくて、おまけにどこかとかげに似ているのです。  けれどもこの強い兎の子は、決してその手をはなしませんでした。怖ろしさに口をへの字にしながらも、それをしっかりおさえて、高く水の上にさしあげたのです。  そして二人は、どんどん流されました。ホモイは二度ほど波をかぶったので、水をよほどのみました。それでもその鳥の子ははなしませんでした。  するとちょうど、小流れの曲がりかどに、一本の小さな楊の枝が出て、水をピチャピチャたたいておりました。  ホモイはいきなりその枝に、青い皮の見えるくらい深くかみつきました。そして力いっぱいにひばりの子を岸の柔らかな草の上に投げあげて、自分も一とびにはね上がりました。  ひばりの子は草の上に倒れて、目を白くしてガタガタ顫えています。  ホモイも疲れでよろよろしましたが、無理にこらえて、楊の白い花をむしって来て、ひばりの子にかぶせてやりました。ひばりの子は、ありがとうと言うようにその鼠色の顔をあげました。  ホモイはそれを見るとぞっとして、いきなり跳び退きました。そして声をたてて逃げました。  その時、空からヒュウと矢のように降りて来たものがあります。ホモイは立ちどまって、ふりかえって見ると、それは母親のひばりでした。母親のひばりは、物も言えずにぶるぶる顫えながら、子供のひばりを強く強く抱いてやりました。  ホモイはもう大丈夫と思ったので、いちもくさんにおとうさんのお家へ走って帰りました。  兎のお母さんは、ちょうど、お家で白い草の束をそろえておりましたが、ホモイを見てびっくりしました。そして、  「おや、どうかしたのかい。たいへん顔色が悪いよ」と言いながら棚から薬の箱をおろしました。  「おっかさん、僕ね、もじゃもじゃの鳥の子のおぼれるのを助けたんです」とホモイが言いました。  兎のお母さんは箱から万能散を一服出してホモイに渡して、  「もじゃもじゃの鳥の子って、ひばりかい」と尋ねました。  ホモイは薬を受けとって、  「たぶんひばりでしょう。ああ頭がぐるぐるする。おっかさん、まわりが変に見えるよ」と言いながら、そのままバッタリ倒れてしまいました。ひどい熱病にかかったのです。        *  ホモイが、おとうさんやおっかさんや、兎のお医者さんのおかげで、すっかりよくなったのは、鈴蘭にみんな青い実ができたころでした。  ホモイは、ある雲のない静かな晩、はじめてうちからちょっと出てみました。  南の空を、赤い星がしきりにななめに走りました。ホモイはうっとりそれを見とれました。すると不意に、空でブルルッとはねの音がして、二|疋の小鳥が降りて参りました。  大きい方は、まるい赤い光るものを大事そうに草におろして、うやうやしく手をついて申しました。  「ホモイさま。あなたさまは私ども親子の大恩人でございます」  ホモイは、その赤いものの光で、よくその顔を見て言いました。  「あなた方は先頃のひばりさんですか」  母親のひばりは、  「さようでございます。先日はまことにありがとうございました。せがれの命をお助けくださいましてまことにありがとう存じます。あなた様はそのために、ご病気にさえおなりになったとの事でございましたが、もうおよろしゅうございますか」  親子のひばりは、たくさんおじぎをしてまた申しました。  「私どもは毎日この辺を飛びめぐりまして、あなたさまの外へお出なさいますのをお待ちいたしておりました。これは私どもの王からの贈物でございます」と言ながら、ひばりはさっきの赤い光るものをホモイの前に出して、薄いうすいけむりのようなはんけちを解きました。それはとちの実ぐらいあるまんまるの玉で、中では赤い火がちらちら燃えているのです。  ひばりの母親がまた申しました。  「これは貝の火という宝珠でございます。王さまのお言伝ではあなた様のお手入れしだいで、この珠はどんなにでも立派になると申します。どうかお納めをねがいます」  ホモイは笑って言いました。  「ひばりさん、僕はこんなものいりませんよ。持って行ってください。たいへんきれいなもんですから、見るだけでたくさんです。見たくなったら、またあなたの所へ行きましょう」  ひばりが申しました。  「いいえ。それはどうかお納めをねがいます。私どもの王からの贈物でございますから。お納めくださらないと、また私はせがれと二人で切腹をしないとなりません。さ、せがれ。お暇をして。さ。おじぎ。ご免くださいませ」  そしてひばりの親子は二、三|遍お辞儀をして、あわてて飛んで行ってしまいました。  ホモイは玉を取りあげて見ました。玉は赤や黄の焔をあげて、せわしくせわしく燃えているように見えますが、実はやはり冷たく美しく澄んでいるのです。目にあてて空にすかして見ると、もう焔はなく、天の川が奇麗にすきとおっています。目からはなすと、またちらりちらり美しい火が燃えだします。  ホモイはそっと玉をささげて、おうちへはいりました。そしてすぐお父さんに見せました。すると兎のお父さんが玉を手にとって、めがねをはずしてよく調べてから申しました。  「これは有名な貝の火という宝物だ。これは大変な玉だぞ。これをこのまま一生|満足に持っている事のできたものは今までに鳥に二人魚に一人あっただけだという話だ。お前はよく気をつけて光をなくさないようにするんだぞ」  ホモイが申しました。  「それは大丈夫ですよ。僕は決してなくしませんよ。そんなようなことは、ひばりも言っていました。僕は毎日百|遍ずつ息をふきかけて百|遍ずつ紅雀の毛でみがいてやりましょう」  兎のおっかさんも、玉を手にとってよくよくながめました。そして言いました。  「この玉はたいへん損じやすいという事です。けれども、また亡くなった鷲の大臣が持っていた時は、大噴火があって大臣が鳥の避難のために、あちこちさしずをして歩いている間に、この玉が山ほどある石に打たれたり、まっかな熔岩に流されたりしても、いっこうきずも曇りもつかないでかえって前よりも美しくなったという話ですよ」  兎のおとうさんが申しました。  「そうだ。それは名高いはなしだ。お前もきっと鷲の大臣のような名高い人になるだろう。よくいじわるなんかしないように気をつけないといけないぞ」  ホモイはつかれてねむくなりました。そして自分のお床にコロリと横になって言いました。  「大丈夫だよ。僕なんかきっと立派にやるよ。玉は僕持って寝るんだからください」  兎のおっかさんは玉を渡しました。ホモイはそれを胸にあててすぐねむってしまいました。  その晩の夢の奇麗なことは、黄や緑の火が空で燃えたり、野原が一面黄金の草に変ったり、たくさんの小さな風車が蜂のようにかすかにうなって空中を飛んであるいたり、仁義をそなえた鷲の大臣が、銀色のマントをきらきら波立てて野原を見まわったり、ホモイはうれしさに何遍も、  「ホウ。やってるぞ、やってるぞ」と声をあげたくらいです。        *  あくる朝、ホモイは七時ごろ目をさまして、まず第一に玉を見ました。玉の美しいことは、昨夜よりもっとです。ホモイは玉をのぞいて、ひとりごとを言いました。  「見える、見える。あそこが噴火口だ。そら火をふいた。ふいたぞ。おもしろいな。まるで花火だ。おや、おや、おや、火がもくもく湧いている。二つにわかれた。奇麗だな。火花だ。火花だ。まるでいなずまだ。そら流れ出したぞ。すっかり黄金色になってしまった。うまいぞ、うまいぞ。そらまた火をふいた」  おとうさんはもう外へ出ていました。おっかさんがにこにこして、おいしい白い草の根や青いばらの実を持って来て言いました。  「さあ早くおかおを洗って、今日は少し運動をするんですよ。どれちょっとお見せ。まあ本当に奇麗だね。お前がおかおを洗っている間おっかさんが見ていてもいいかい」  ホモイが言いました。  「いいとも。これはうちの宝物なんだから、おっかさんのだよ」そしてホモイは立って家の入り口の鈴蘭の葉さきから、大粒の露を六つほど取ってすっかりお顔を洗いました。  ホモイはごはんがすんでから、玉へ百|遍息をふきかけ、それから百|遍紅雀の毛でみがきました。そしてたいせつに紅雀のむな毛につつんで、今まで兎の遠めがねを入れておいた瑪瑙の箱にしまってお母さんにあずけました。そして外に出ました。  風が吹いて草の露がバラバラとこぼれます。つりがねそうが朝の鐘を、  「カン、カン、カンカエコ、カンコカンコカン」と鳴らしています。  ホモイはぴょんぴょん跳んで樺の木の下に行きました。  すると向こうから、年をとった野馬がやって参りました。ホモイは少し怖くなって戻ろうとしますと、馬はていねいにおじぎをして言いました。  「あなたはホモイさまでござりますか。こんど貝の火がお前さまに参られましたそうで実に祝着に存じまする。あの玉がこの前|獣の方に参りましてからもう千二百年たっていると申しまする。いや、実に私めも今朝そのおはなしを承わりまして、涙を流してござります」馬はボロボロ泣きだしました。  ホモイはあきれていましたが、馬があんまり泣くものですから、ついつりこまれてちょっと鼻がせらせらしました。馬は風呂敷ぐらいある浅黄のはんけちを出して涙をふいて申しました。  「あなた様は私どもの恩人でございます。どうかくれぐれもおからだを大事になされてくだされませ」そして馬はていねいにおじぎをして向こうへ歩いて行きました。  ホモイはなんだかうれしいようなおかしいような気がしてぼんやり考えながら、にわとこの木の影に行きました。するとそこに若い二|疋の栗鼠が、仲よく白いお餠をたべておりましたがホモイの来たのを見ると、びっくりして立ちあがって急いできもののえりを直し、目を白黒くして餠をのみ込もうとしたりしました。  ホモイはいつものように、  「りすさん。お早う」とあいさつをしましたが、りすは二|疋とも堅くなってしまって、いっこうことばも出ませんでした。ホモイはあわてて、  「りすさん。今日もいっしょにどこか遊びに行きませんか」と言いますと、りすはとんでもないと言うように目をまん円にして顔を見合わせて、それからいきなり向こうを向いて一生けん命逃げて行ってしまいました。  ホモイはあきれてしまいました。そして顔色を変えてうちへ戻って来て、  「おっかさん。なんだかみんな変なぐあいですよ。りすさんなんか、もう僕を仲間はずれにしましたよ」と言いますと兎のおっかさんが笑って答えました。  「それはそうですよ。お前はもう立派な人になったんだから、りすなんか恥ずかしいのです。ですからよく気をつけてあとで笑われないようにするんですよ」  ホモイが言いました。  「おっかさん。それは大丈夫ですよ。それなら僕はもう大将になったんですか」  おっかさんもうれしそうに、  「まあそうです」と申しました。  ホモイが悦んで踊りあがりました。  「うまいぞ。うまいぞ。もうみんな僕のてしたなんだ。狐なんかもうこわくもなんともないや。おっかさん。僕ね、りすさんを少将にするよ。馬はね、馬は大佐にしてやろうと思うんです」  おっかさんが笑いながら、  「そうだね、けれどもあんまりいばるんじゃありませんよ」と申しました。  ホモイは、  「大丈夫ですよ。おっかさん、僕ちょっと外へ行って来ます」と言ったままぴょんと野原へ飛び出しました。するとすぐ目の前をいじわるの狐が風のように走って行きます。  ホモイはぶるぶる顫えながら思い切って叫んでみました。  「待て。狐。僕は大将だぞ」  狐がびっくりしてふり向いて顔色を変えて申しました。  「へい。存じております。へい、へい。何かご用でございますか」  ホモイができるくらい威勢よく言いました。  「お前はずいぶん僕をいじめたな。今度は僕のけらいだぞ」  狐は卒倒しそうになって、頭に手をあげて答えました。  「へい、お申し訳もございません。どうかお赦しをねがいます」  ホモイはうれしさにわくわくしました。  「特別に許してやろう。お前を少尉にする。よく働いてくれ」  狐が悦んで四遍ばかり廻りました。  「へいへい。ありがとう存じます。どんな事でもいたします。少しとうもろこしを盗んで参りましょうか」  ホモイが申しました。  「いや、それは悪いことだ。そんなことをしてはならん」  狐は頭を掻いて申しました。  「へいへい。これからは決していたしません。なんでもおいいつけを待っていたします」  ホモイは言いました。  「そうだ。用があったら呼ぶからあっちへ行っておいで」狐はくるくるまわっておじぎをして向こうへ行ってしまいました。  ホモイはうれしくてたまりません。野原を行ったり来たりひとりごとを言ったり、笑ったりさまざまの楽しいことを考えているうちに、もうお日様が砕けた鏡のように樺の木の向こうに落ちましたので、ホモイも急いでおうちに帰りました。  兎のおとうさまももう帰っていて、その晩は様々のご馳走がありました。ホモイはその晩も美しい夢を見ました。        *  次の日ホモイは、お母さんに言いつけられて笊を持って野原に出て、鈴蘭の実を集めながらひとりごとを言いました。  「ふん、大将が鈴蘭の実を集めるなんておかしいや。誰かに見つけられたらきっと笑われるばかりだ。狐が来るといいがなあ」  すると足の下がなんだかもくもくしました。見るとむぐらが土をくぐってだんだん向こうへ行こうとします。ホモイは叫びました。  「むぐら、むぐら、むぐらもち、お前は僕の偉くなったことを知ってるかい」  むぐらが土の中で言いました。  「ホモイさんでいらっしゃいますか。よく存じております」  ホモイは大いばりで言いました。  「そうか。そんならいいがね。僕、お前を軍曹にするよ。そのかわり少し働いてくれないかい」  むぐらはびくびくして尋ねました。  「へいどんなことでございますか」  ホモイがいきなり、  「鈴蘭の実を集めておくれ」と言いました。  むぐらは土の中で冷汗をたらして頭をかきながら、  「さあまことに恐れ入りますが私は明るい所の仕事はいっこう無調法でございます」と言いました。  ホモイはおこってしまって、  「そうかい。そんならいいよ。頼まないから。あとで見ておいで。ひどいよ」と叫びました。  むぐらは、  「どうかご免をねがいます。私は長くお日様を見ますと死んでしまいますので」としきりにおわびをします。  ホモイは足をばたばたして、  「いいよ。もういいよ。だまっておいで」と言いました。  その時|向こうのにわとこの陰からりすが五|疋ちょろちょろ出て参りました。そしてホモイの前にぴょこぴょこ頭を下げて申しました。  「ホモイさま、どうか私どもに鈴蘭の実をお採らせくださいませ」  ホモイが、  「いいとも。さあやってくれ。お前たちはみんな僕の少将だよ」  りすがきゃっきゃっ悦んで仕事にかかりました。  この時|向こうから仔馬が六|疋走って来てホモイの前にとまりました。その中のいちばん大きなのが、  「ホモイ様。私どもにも何かおいいつけをねがいます」と申しました。ホモイはすっかり悦んで、  「いいとも。お前たちはみんな僕の大佐にする。僕が呼んだら、きっとかけて来ておくれ」といいました。仔馬も悦んではねあがりました。  むぐらが土の中で泣きながら申しました。  「ホモイさま、どうか私にもできるようなことをおいいつけください。きっと立派にいたしますから」  ホモイはまだおこっていましたので、  「お前なんかいらないよ。今に狐が来たらお前たちの仲間をみんなひどい目にあわしてやるよ。見ておいで」と足ぶみをして言いました。  土の中ではひっそりとして声もなくなりました。  それからりすは、夕方までに鈴蘭の実をたくさん集めて、大騒ぎをしてホモイのうちへ運びました。  おっかさんが、その騒ぎにびっくりして出て見て言いました。  「おや、どうしたの、りすさん」  ホモイが横から口を出して、  「おっかさん。僕の腕まえをごらん。まだまだ僕はどんな事でもできるんですよ」と言いました。兎のお母さんは返事もなく黙って考えておりました。  するとちょうど兎のお父さんが戻って来て、その景色をじっと見てから申しました。  「ホモイ、お前は少し熱がありはしないか。むぐらをたいへんおどしたそうだな。むぐらの家では、もうみんなきちがいのようになって泣いてるよ。それにこんなにたくさんの実を全体誰がたべるのだ」  ホモイは泣きだしました。りすはしばらくきのどくそうに立って見ておりましたが、とうとうこそこそみんな逃げてしまいました。  兎のお父さんがまた申しました。  「お前はもうだめだ。貝の火を見てごらん。きっと曇ってしまっているから」  兎のおっかさんまでが泣いて、前かけで涙をそっとぬぐいながら、あの美しい玉のはいった瑪瑙の函を戸棚から取り出しました。  兎のおとうさんは函を受けとって蓋をひらいて驚きました。  珠は一昨日の晩よりも、もっともっと赤く、もっともっと速く燃えているのです。  みんなはうっとりみとれてしまいました。兎のおとうさんはだまって玉をホモイに渡してご飯を食べはじめました。ホモイもいつか涙がかわきみんなはまた気持ちよく笑い出しいっしょにご飯をたべてやすみました。        *  次の朝早くホモイはまた野原に出ました。  今日もよいお天気です。けれども実をとられた鈴蘭は、もう前のようにしゃりんしゃりんと葉を鳴らしませんでした。  向こうの向こうの青い野原のはずれから、狐が一生けん命に走って来て、ホモイの前にとまって、  「ホモイさん。昨日りすに鈴蘭の実を集めさせたそうですね。どうです。今日は私がいいものを見つけて来てあげましょう。それは黄色でね、もくもくしてね、失敬ですが、ホモイさん、あなたなんかまだ見たこともないやつですぜ。それから、昨日むぐらに罰をかけるとおっしゃったそうですね。あいつは元来横着だから、川の中へでも追いこんでやりましょう」と言いました。  ホモイは、  「むぐらは許しておやりよ。僕もう今朝許したよ。けれどそのおいしいたべものは少しばかり持って来てごらん」と言いました。  「合点、合点。十分間だけお待ちなさい。十分間ですぜ」と言って狐はまるで風のように走って行きました。  ホモイはそこで高く叫びました。  「むぐら、むぐら、むぐらもち。もうお前は許してあげるよ。泣かなくてもいいよ」  土の中はしんとしておりました。  狐がまた向こうから走って来ました。そして、  「さあおあがりなさい。これは天国の天ぷらというもんですぜ。最上等のところです」と言いながら盗んで来た角パンを出しました。  ホモイはちょっとたべてみたら、実にどうもうまいのです。そこで狐に、  「こんなものどの木にできるのだい」とたずねますと狐が横を向いて一つ「ヘン」と笑ってから申しました。  「台所という木ですよ。ダアイドコロという木ね。おいしかったら毎日|持って来てあげましょう」  ホモイが申しました。  「それでは毎日きっと三つずつ持って来ておくれ。ね」  狐がいかにもよくのみこんだというように目をパチパチさせて言いました。  「へい。よろしゅうございます。そのかわり私の鶏をとるのを、あなたがとめてはいけませんよ」  「いいとも」とホモイが申しました。  すると狐が、  「それでは今日の分、もう二つ持って来ましょう」と言いながらまた風のように走って行きました。  ホモイはそれをおうちに持って行ってお父さんやお母さんにあげる時の事を考えていました。  お父さんだって、こんなおいしいものは知らないだろう。僕はほんとうに孝行だなあ。  狐が角パンを二つくわえて来てホモイの前に置いて、急いで「さよなら」と言いながらもう走っていってしまいました。ホモイは、  「狐はいったい毎日何をしているんだろう」とつぶやきながらおうちに帰りました。  今日はお父さんとお母さんとが、お家の前で鈴蘭の実を天日にほしておりました。  ホモイが、  「お父さん。いいものを持った来ましたよ。あげましょうか。まあちょっとたべてごらんなさい」と言いながら角パンを出しました。  兎のお父さんはそれを受けとって眼鏡をはずして、よくよく調べてから言いました。  「お前はこんなものを狐にもらったな。これは盗んで来たもんだ。こんなものをおれは食べない」そしておとうさんは、も一つホモイのお母さんにあげようと持っていた分も、いきなり取りかえして自分のといっしょに土に投げつけてむちゃくちゃにふみにじってしまいました。  ホモイはわっと泣きだしました。兎のお母さんもいっしょに泣きました。  お父さんがあちこち歩きながら、  「ホモイ、お前はもう駄目だ。玉を見てごらん。もうきっと砕けているから」と言いました。  お母さんが泣きながら函を出しました。玉はお日さまの光を受けて、まるで天上に昇って行きそうに美しく燃えました。  お父さんは玉をホモイに渡してだまってしまいました。ホモイも玉を見ていつか涙を忘れてしまいました。        *  次の日ホモイはまた野原に出ました。  狐が走って来てすぐ角パンを三つ渡しました。ホモイはそれを急いで台所の棚の上に載せてまた野原に来ますと狐がまだ待っていて言いました。  「ホモイさん。何かおもしろいことをしようじゃありませんか」ホモイが、  「どんなこと?」とききますと狐が言いました。  「むぐらを罰にするのはどうです。あいつは実にこの野原の毒むしですぜ。そしてなまけものですぜ。あなたが一|遍許すって言ったのなら、今日は私だけでひとつむぐらをいじめますから、あなたはだまって見ておいでなさい。いいでしょう」  ホモイは、  「うん、毒むしなら少しいじめてもよかろう」と言いました。  狐は、しばらくあちこち地面を嗅いだり、とんとんふんでみたりしていましたが、とうとう一つの大きな石を起こしました。するとその下にむぐらの親子が八|疋かたまってぶるぶるふるえておりました。狐が、  「さあ、走れ、走らないと、噛み殺すぞ」といって足をどんどんしました。むぐらの親子は、  「ごめんください。ごめんください」と言いながら逃げようとするのですが、みんな目が見えない上に足がきかないものですからただ草を掻くだけです。  いちばん小さな子はもうあおむけになって気絶したようです。狐ははがみをしました。ホモイも思わず、  「シッシッ」と言って足を鳴らしました。その時、  「こらっ、何をする」と言う大きな声がして、狐がくるくると四|遍ばかりまわって、やがていちもくさんに逃げました。  見るとホモイのお父さんが来ているのです。  お父さんは、急いでむぐらをみんな穴に入れてやって、上へもとのように石をのせて、それからホモイの首すじをつかんで、ぐんぐんおうちへ引いて行きました。  おっかさんが出て来て泣いておとうさんにすがりました。お父さんが言いました。  「ホモイ。お前はもう駄目だぞ。今日こそ貝の火は砕けたぞ。出して見ろ」  お母さんが涙をふきながら函を出して来ました。お父さんは函の蓋を開いて見ました。  するとお父さんはびっくりしてしまいました。貝の火が今日ぐらい美しいことはまだありませんでした。それはまるで赤や緑や青や様々の火がはげしく戦争をして、地雷火をかけたり、のろしを上げたり、またいなずまがひらめいたり、光の血が流れたり、そうかと思うと水色の焔が玉の全体をパッと占領して、今度はひなげしの花や、黄色のチュウリップ、薔薇やほたるかずらなどが、一面風にゆらいだりしているように見えるのです。  兎のお父さんは黙って玉をホモイに渡しました。ホモイはまもなく涙も忘れて貝の火をながめてよろこびました。  おっかさんもやっと安心して、おひるのしたくをしました。  みんなはすわって角パンをたべました。  お父さんが言いました。  「ホモイ。狐には気をつけないといけないぞ」  ホモイが申しました。  「お父さん、大丈夫ですよ。狐なんかなんでもありませんよ。僕には貝の火があるのですもの。あの玉が砕けたり曇ったりするもんですか」  お母さんが申しました。  「本当にね、いい宝石だね」  ホモイは得意になって言いました。  「お母さん。僕はね、うまれつきあの貝の火と離れないようになってるんですよ。たとえ僕がどんな事をしたって、あの貝の火がどこかへ飛んで行くなんて、そんな事があるもんですか。それに僕毎日百ずつ息をかけてみがくんですもの」  「実際そうだといいがな」とお父さんが申しました。  その晩ホモイは夢を見ました。高い高い錐のような山の頂上に片脚で立っているのです。  ホモイはびっくりして泣いて目をさましました。        *  次の朝ホモイはまた野に出ました。  今日は陰気な霧がジメジメ降っています。木も草もじっと黙り込みました。ぶなの木さえ葉をちらっとも動かしません。  ただあのつりがねそうの朝の鐘だけは高く高く空にひびきました。  「カン、カン、カンカエコ、カンコカンコカン」おしまいの音がカアンと向こうから戻って来ました。  そして狐が角パンを三つ持って半ズボンをはいてやって来ました。  「狐。お早う」とホモイが言いました。  狐はいやな笑いようをしながら、  「いや昨日はびっくりしましたぜ。ホモイさんのお父さんもずいぶんがんこですな。しかしどうです。すぐご機嫌が直ったでしょう。今日は一つうんとおもしろいことをやりましょう。動物園をあなたはきらいですか」と言いました。  ホモイが、  「うん。きらいではない」と申しました。  狐が懐から小さな網を出しました。そして、  「そら、こいつをかけておくと、とんぼでも蜂でも雀でも、かけすでも、もっと大きなやつでもひっかかりますぜ。それを集めて一つ動物園をやろうじゃありませんか」と言いました。  ホモイはちょっとその動物園の景色を考えてみて、たまらなくおもしろくなりました。そこで、  「やろう。けれども、大丈夫その網でとれるかい」と言いました。  狐がいかにもおかしそうにして、  「大丈夫ですとも。あなたは早くパンを置いておいでなさい。そのうちに私はもう百ぐらいは集めておきますから」と言いました。  ホモイは、急いで角パンを取ってお家に帰って、台所の棚の上に載せて、また急いで帰って来ました。  見るともう狐は霧の中の樺の木に、すっかり網をかけて、口を大きくあけて笑っていました。  「はははは、ご覧なさい。もう四|疋つかまりましたよ」  狐はどこから持って来たか大きな硝子箱を指さして言いました。  本当にその中には、かけすと鶯と紅雀と、ひわと、四|疋はいってばたばたしておりました。  けれどもホモイの顔を見ると、みんな急に安心したように静まりました。  鶯が硝子越しに申しました。  「ホモイさん。どうかあなたのお力で助けてやってください。私らは狐につかまったのです。あしたはきっと食われます。お願いでございます。ホモイさん」  ホモイはすぐ箱を開こうとしました。  すると、狐が額に黒い皺をよせて、眼を釣りあげてどなりました。  「ホモイ。気をつけろ。その箱に手でもかけてみろ。食い殺すぞ。泥棒め」  まるで口が横に裂けそうです。  ホモイはこわくなってしまって、いちもくさんにおうちへ帰りました。今日はおっかさんも野原に出て、うちにいませんでした。  ホモイはあまり胸がどきどきするので、あの貝の火を見ようと函を出して蓋を開きました。  それはやはり火のように燃えておりました。けれども気のせいか、一所小さな小さな針でついたくらいの白い曇りが見えるのです。  ホモイはどうもそれが気になってしかたありませんでした。そこでいつものように、フッフッと息をかけて、紅雀の胸毛で上を軽くこすりました。  けれども、どうもそれがとれないのです。その時、お父さんが帰って来ました。そしてホモイの顔色が変わっているのを見て言いました。  「ホモイ。貝の火が曇ったのか。たいへんお前の顔色が悪いよ。どれお見せ」そして玉をすかして見て笑って言いました。  「なあに、すぐ除れるよ。黄色の火なんか、かえって今までよりよけい燃えているくらいだ。どれ、紅雀の毛を少しおくれ」そしてお父さんは熱心にみがきはじめました。けれどもどうも曇りがとれるどころかだんだん大きくなるらしいのです。  お母さんが帰って参りました。そして黙ってお父さんから貝の火を受け取って、すかして見てため息をついて今度は自分で息をかけてみがきました。  実にみんな、だまってため息ばかりつきながら、かわるがわる一生けん命みがいたのです。  もう夕方になりました。お父さんは、にわかに気がついたように立ちあがって、  「まあご飯を食べよう。今夜|一晩油に漬けておいてみろ。それがいちばんいいという話だ」といいました。お母さんはびっくりして、  「まあ、ご飯のしたくを忘れていた。なんにもこさえてない。一昨日のすずらんの実と今朝の角パンだけをたべましょうか」と言いました。  「うんそれでいいさ」とお父さんがいいました。ホモイはため息をついて玉を函に入れてじっとそれを見つめました。  みんなは、だまってご飯をすましました。  お父さんは、  「どれ油を出してやるかな」と言いながら棚からかやの実の油の瓶をおろしました。  ホモイはそれを受けとって貝の火を入れた函に注ぎました。そしてあかりをけしてみんな早くからねてしまいました。        *  夜中にホモイは眼をさましました。  そしてこわごわ起きあがって、そっと枕もとの貝の火を見ました。貝の火は、油の中で魚の眼玉のように銀色に光っています。もう赤い火は燃えていませんでした。  ホモイは大声で泣き出しました。  兎のお父さんやお母さんがびっくりして起きてあかりをつけました。  貝の火はまるで鉛の玉のようになっています。ホモイは泣きながら狐の網のはなしをお父さんにしました。  お父さんはたいへんあわてて急いで着物をきかえながら言いました。  「ホモイ。お前は馬鹿だぞ。俺も馬鹿だった。お前はひばりの子供の命を助けてあの玉をもらったのじゃないか。それをお前は一昨日なんか生まれつきだなんて言っていた。さあ、野原へ行こう。狐がまだ網を張っているかもしれない。お前はいのちがけで狐とたたかうんだぞ。もちろんおれも手伝う」  ホモイは泣いて立ちあがりました。兎のお母さんも泣いて二人のあとを追いました。  霧がポシャポシャ降って、もう夜があけかかっています。  狐はまだ網をかけて、樺の木の下にいました。そして三人を見て口を曲げて大声でわらいました。ホモイのお父さんが叫びました。  「狐。お前はよくもホモイをだましたな。さあ決闘をしろ」  狐が実に悪党らしい顔をして言いました。  「へん。貴様ら三|疋ばかり食い殺してやってもいいが、俺もけがでもするとつまらないや。おれはもっといい食べものがあるんだ」  そして函をかついで逃げ出そうとしました。  「待てこら」とホモイのお父さんがガラスの箱を押えたので、狐はよろよろして、とうとう函を置いたまま逃げて行ってしまいました。  見ると箱の中に鳥が百|疋ばかり、みんな泣いていました。雀や、かけすや、うぐいすはもちろん、大きな大きな梟や、それに、ひばりの親子までがはいっているのです。  ホモイのお父さんは蓋をあけました。  鳥がみんな飛び出して地面に手をついて声をそろえて言いました。  「ありがとうございます。ほんとうにたびたびおかげ様でございます」  するとホモイのお父さんが申しました。  「どういたしまして、私どもは面目次第もございません。あなた方の王さまからいただいた玉をとうとう曇らしてしまったのです」  鳥が一|遍に言いました。  「まあどうしたのでしょう。どうかちょっと拝見いたしたいものです」  「さあどうぞ」と言いながらホモイのお父さんは、みんなをおうちの方へ案内しました。鳥はぞろぞろついて行きました。ホモイはみんなのあとを泣きながらしょんぼりついて行きました。梟が大股にのっそのっそと歩きながら時々こわい眼をしてホモイをふりかえって見ました。  みんなはおうちにはいりました。  鳥は、ゆかや棚や机や、うちじゅうのあらゆる場所をふさぎました。梟が目玉を途方もない方に向けながら、しきりに「オホン、オホン」とせきばらいをします。  ホモイのお父さんがただの白い石になってしまった貝の火を取りあげて、  「もうこんなぐあいです。どうかたくさん笑ってやってください」と言うとたん、貝の火は鋭くカチッと鳴って二つに割れました。  と思うと、パチパチパチッとはげしい音がして見る見るまるで煙のように砕けました。  ホモイが入口でアッと言って倒れました。目にその粉がはいったのです。みんなは驚いてそっちへ行こうとしますと、今度はそこらにピチピチピチと音がして煙がだんだん集まり、やがて立派ないくつかのかけらになり、おしまいにカタッと二つかけらが組み合って、すっかり昔の貝の火になりました。玉はまるで噴火のように燃え、夕日のようにかがやき、ヒューと音を立てて窓から外の方へ飛んで行きました。  鳥はみんな興をさまして、一人|去り二人|去り今はふくろうだけになりました。ふくろうはじろじろ室の中を見まわしながら、  「たった六日だったな。ホッホ   たった六日だったな。ホッホ」  とあざ笑って、肩をゆすぶって大股に出て行きました。  それにホモイの目は、もうさっきの玉のように白く濁ってしまって、まったく物が見えなくなったのです。  はじめからおしまいまでお母さんは泣いてばかりおりました。お父さんが腕を組んでじっと考えていましたが、やがてホモイのせなかを静かにたたいて言いました。  「泣くな。こんなことはどこにもあるのだ。それをよくわかったお前は、いちばんさいわいなのだ。目はきっとまたよくなる。お父さんがよくしてやるから。な。泣くな」  窓の外では霧が晴れて鈴蘭の葉がきらきら光り、つりがねそうは、  「カン、カン、カンカエコ、カンコカンコカン」と朝の鐘を高く鳴らしました。  あるとき、三十|疋のあまがえるが、一緒に面白く仕事をやって居りました。  これは主に虫仲間からたのまれて、紫蘇の実やけしの実をひろって来て花ばたけをこしらえたり、かたちのいい石や苔を集めて来て立派なお庭をつくったりする職業でした。  こんなようにして出来たきれいなお庭を、私どもはたびたび、あちこちで見ます。それは畑の豆の木の下や、林の楢の木の根もとや、又雨垂れの石のかげなどに、それはそれは上手に可愛らしくつくってあるのです。  さて三十疋は、毎日大へん面白くやっていました。朝は、黄金色のお日さまの光が、とうもろこしの影法師を二千六百寸も遠くへ投げ出すころからさっぱりした空気をすぱすぱ吸って働き出し、夕方は、お日さまの光が木や草の緑を飴色にうきうきさせるまで歌ったり笑ったり叫んだりして仕事をしました。殊にあらしの次の日などは、あっちからもこっちからもどうか早く来てお庭をかくしてしまった板を起して下さいとか、うちのすぎごけの木が倒れましたから大いそぎで五六人来てみて下さいとか、それはそれはいそがしいのでした。いそがしければいそがしいほど、みんなは自分たちが立派な人になったような気がして、もう大よろこびでした。さあ、それ、しっかりひっぱれ、いいか、よいとこしょ、おい、ブチュコ、縄がたるむよ、いいとも、そらひっぱれ、おい、おい、ビキコ、そこをはなせ、縄を結んで呉れ、よういやさ、そらもう一いき、よおいやしゃ、なんてまあこんな工合です。  ところがある日三十疋のあまがえるが、蟻の公園地をすっかり仕上げて、みんなよろこんで一まず本部へ引きあげる途中で、一本の桃の木の下を通りますと、そこへ新らしい店が一|軒出ていました。そして看板がかかって、 「舶来ウェスキイ 一|杯、二|厘半。」と書いてありました。  あまがえるは珍らしいものですから、ぞろぞろ店の中へはいって行きました。すると店にはうすぐろいとのさまがえるが、のっそりとすわって退くつそうにひとりでべろべろ舌を出して遊んでいましたが、みんなの来たのを見て途方もないいい声で云いました。 「へい、いらっしゃい。みなさん。一寸おやすみなさい。」 「なんですか。舶来のウェクーというものがあるそうですね。どんなもんですか。ためしに一杯|呑ませて下さいませんか。」 「へい、舶来のウェスキイですか。一杯二厘半ですよ。ようござんすか。」 「ええ、よござんす。」  とのさまがえるは粟つぶをくり抜いたコップにその強いお酒を汲んで出しました。 「ウーイ。これはどうもひどいもんだ。腹がやけるようだ。ウーイ。おい、みんな、これはきたいなもんだよ。咽喉へはいると急に熱くなるんだ。ああ、いい気分だ。もう一杯下さいませんか。」 「はいはい。こちらが一ぺんすんでからさしあげます。」 「こっちへも早く下さい。」 「はいはい。お声の順にさしあげます。さあ、これはあなた。」 「いやありがとう、ウーイ。ウフッ、ウウ、どうもうまいもんだ。」 「こっちへも早く下さい。」 「はい、これはあなたです。」 「ウウイ。」 「おいもう一杯お呉れ。」 「こっちへ早くよ。」 「もう一杯早く。」 「へい、へい。どうぞお急きにならないで下さい。折角、はかったのがこぼれますから。へいと、これはあなた。」 「いや、ありがとう、ウーイ、ケホン、ケホン、ウーイうまいね。どうも。」  さてこんな工合で、あまがえるはお代りお代りで、沢山お酒を呑みましたが、呑めば呑むほどもっと呑みたくなります。  もっとも、とのさまがえるのウィスキーは、石油|缶に一ぱいありましたから、粟つぶをくりぬいたコップで一万べんはかっても、一分もへりはしませんでした。 「おいもう一杯おくれ。」 「も一杯お呉れったらよう。早くよう。」 「さあ、早くお呉れよう。」 「へいへい。あなたさまはもう三百二杯目でございますがよろしゅうございますか。」 「いいよう。お呉れったらお呉れよう。」 「へいへい。よければさし上げます。さあ、」 「ウーイ、うまい。」 「おい、早くこっちへもお呉れ。」  そのうちにあまがえるは、だんだん酔がまわって来て、あっちでもこっちでも、キーイキーイといびきをかいて寝てしまいました。  とのさまがえるはそこでにやりと笑って、いそいですっかり店をしめて、お酒の石油缶にはきちんと蓋をしてしまいました。それから戸棚からくさりかたびらを出して、頭から顔から足のさきまでちゃんと着込んでしまいました。  それからテーブルと椅子をもって来て、きちんとすわり込みました。あまがえるはみんな、キーイキーイといびきをかいています。とのさまがえるはそこで小さなこしかけを一つ持って来て、自分の椅子の向う側に置きました。  それから棚から鉄の棒をおろして来て椅子へどっかり座って一ばんはじのあまがえるの緑色のあたまをこつんとたたきました。 「おい。起きな。勘定を払うんだよ。さあ。」 「キーイ、キーイ、クヮア、あ、痛い、誰だい。ひとの頭を撲るやつは。」 「勘定を払いな。」 「あっ、そうそう。勘定はいくらになっていますか。」 「お前のは三百四十二杯で、八十五銭五厘だ。どうだ。払えるか。」  あまがえるは財布を出して見ましたが、三銭二厘しかありません。 「何だい。おまえは三銭二厘しかないのか。呆れたやつだ。さあどうするんだ。警察へ届けるよ。」 「許して下さい。許して下さい。」 「いいや、いかん。さあ払え。」 「ないんですよ。許して下さい。そのかわりあなたのけらいになりますから。」 「そうか。よかろう。それじゃお前はおれのけらいだぞ。」 「へい。仕方ありません。」 「よし、この中にはいれ。」  とのさまがえるは次の室の戸を開いてその閉口したあまがえるを押し込んで、戸をぴたんとしめました。そしてにやりと笑って、又どっしりと椅子へ座りました。それから例の鉄の棒を持ち直して、二番目のあま蛙の緑青いろの頭をこつんとたたいて云いました。 「おいおい。起きるんだよ。勘定だ勘定だ。」 「キーイ、キーイ、クワァ、ううい。もう一杯お呉れ。」 「何をねぼけてんだよ。起きるんだよ。目をさますんだよ。勘定だよ。」 「ううい、あああっ。ううい。何だい。なぜひとの頭をたたくんだい。」 「いつまでねぼけてんだよ。勘定を払え。勘定を。」 「あっ、そうそう。そうでしたね。いくらになりますか。」 「お前のは六百杯で、一円五十銭だよ。どうだい、それ位あるかい。」  あまがえるはすきとおる位青くなって、財布をひっくりかえして見ましたが、たった一銭二厘しかありませんでした。 「ある位みんな出しますからどうかこれだけに負けて下さい。」 「うん、一円二十銭もあるかい。おや、これはたった一銭二厘じゃないか。あんまり人をばかにするんじゃないぞ。勘定の百分の一に負けろとはよくも云えたもんだ。外国のことばで云えば、一パーセントに負けて呉れと云うんだろう。人を馬鹿にするなよ。さあ払え。早く払え。」 「だって無いんだもの。」 「なきゃおれのけらいになれ。」 「仕方ない。そいじゃそうして下さい。」 「さあ、こっちへ来い。」とのさまがえるはあまがえるを又次の室に追い込みました。それから又どっかりと椅子へかけようとしましたが何か考えついたらしく、いきなりキーキーいびきをかいているあまがえるの方へ進んで行って、かたっぱしからみんなの財布を引っぱり出して中を改めました。どの財布もみんな三銭より下でした。ただ一つ、いかにも大きくふくれたのがありましたが、開いて見ると、お金が一つぶも入っていないで、椿の葉が小さく折って入れてあるだけでした。とのさまがえるは、よろこんで、にこにこにこにこ笑って、棒を取り直し、片っぱしからあまがえるの緑色の頭をポンポンポンポンたたきつけました。さあ、大へん、みんな、 「あ痛っ、あ痛っ。誰だい。」なんて云いながら目をさまして、しばらくきょろきょろきょろきょろしていましたが、いよいよそれが酒屋のおやじのとのさまがえるの仕業だとわかると、もうみな一ぺんに、 「何だい。おやじ。よくもひとをなぐったな。」と云いながら、四方八方から、飛びかかりましたが、何分とのさまがえるは三十がえる力あるのですし、くさりかたびらは着ていますし、それにあまがえるはみんな舶来ウェスキーでひょろひょろしてますから、片っぱしからストンストンと投げつけられました。おしまいにはとのさまがえるは、十一疋のあまがえるを、もじゃもじゃ堅めて、ぺちゃんと投げつけました。あまがえるはすっかり恐れ入って、ふるえて、すきとおる位青くなって、その辺に平伏いたしました。そこでとのさまがえるがおごそかに云いました。 「お前たちはわしの酒を呑んだ。どの勘定も八十銭より下のはない。ところがお前らは五銭より多く持っているやつは一人もない。どうじゃ。誰かあるか。無かろう。うん。」  あまがえるは一同ふうふうと息をついて顔を見合せるばかりです。とのさまがえるは得意になって又はじめました。 「どうじゃ。無かろう。あるか。無かろう。そこでお前たちの仲間は、前に二人お金を払うかわりに、おれのけらいになるという約束をしたがお前たちはどうじゃ。」この時です、みなさんもご存じの通り向うの室の中の二|疋が戸のすきまから目だけ出してキーと低く鳴いたのは。  みんなは顔を見合せました。 「どうも仕方ない。そうしようか。」 「そうお願いしよう。」 「どうかそうお願いいたします。」  どうです。あまがえるなんというものは人のいいものですからすぐとのさまがえるのけらいになりました。そこでとのさまがえるは、うしろの戸をあけて、前の二人を引っぱり出しました。そして一同へおごそかに云いました。 「いいか。この団体はカイロ団ということにしよう。わしはカイロ団長じゃ。あしたからはみんな、おれの命令にしたがうんだぞ。いいか。」 「仕方ありません。」とみんなは答えました。すると、とのさまがえるは立ちあがって、家をぐるっと一まわしまわしました。すると酒屋はたちまちカイロ団長の本宅にかわりました。つまり前には四角だったのが今度は六角形の家になったのですな。  さて、その日は暮れて、次の日になりました。お日さまの黄金色の光は、うしろの桃の木の影法師を三千寸も遠くまで投げ出し、空はまっ青にひかりましたが、誰もカイロ団に仕事を頼みに来ませんでした。そこでとのさまがえるはみんなを集めて云いました。 「さっぱり誰も仕事を頼みに来んな。どうもこう仕事がなくちゃ、お前たちを養っておいても仕方ない。俺もとうとう飛んだことになったよ。それにつけても仕事のない時に、いそがしい時の仕度をして置くことが、最必要だ。つまりその仕事の材料を、こんな時に集めて置かないといかんな。ついてはまず第一が木だがな。今日はみんな出て行って立派な木を十本だけ、十本じゃすくない、ええと、百本、百本でもすくないな、千本だけ集めて来い。もし千本集まらなかったらすぐ警察へ訴えるぞ。貴様らはみんな死刑になるぞ。その太い首をスポンと切られるぞ。首が太いからスポンとはいかない、シュッポォンと切られるぞ。」  あまがえるどもは緑色の手足をぶるぶるぶるっとけいれんさせました。そしてこそこそこそこそ、逃げるようにおもてに出てひとりが三十三本三分三厘強ずつという見当で、一生けん命いい木をさがしましたが、大体もう前々からさがす位さがしてしまっていたのですから、いくらそこらをみんながひょいひょいかけまわっても、夕方までにたった九本しか見つかりませんでした。さあ、あまがえるはみんな泣き顔になって、うろうろうろうろやりましたがますますどうもいけません。そこへ丁度一ぴきの蟻が通りかかりました。そしてみんなが飴色の夕日にまっ青にすきとおって泣いているのを見て驚いてたずねました。 「あまがえるさん。昨日はどうもありがとう。一体どうしたのですか。」 「今日は木を千本、とのさまがえるに持っていかないといけないのです。まだ九本しか見つかりません。」  蟻はこれを聞いて「ケッケッケッケ」と大笑いに笑いはじめました。それから申しました。 「千本持って来いというのなら、千本持って行ったらいいじゃありませんか。そら、そこにあるそのけむりのようなかびの木などは、一つかみ五百本にもなるじゃありませんか。」  なるほどとみんなはよろこんでそのけむりのようなかびの木を一人が三十三本三分三厘ずつ取って、蟻にお礼を云って、カイロ団長のところへ帰って来ました。すると団長は大機嫌です。 「ふんふん。よし、よし。さあ、みんな舶来ウィスキーを一杯ずつ飲んでやすむんだよ。」  そこでみんなは粟つぶのコップで舶来ウィスキーを一杯ずつ呑んで、くらくら、キーイキーイと、ねむってしまいました。  次の朝またお日さまがおのぼりになりますと、とのさまがえるは云いました。 「おい、みんな。集れ。今日もどこからも仕事をたのみに来ない。いいか、今日はな、あちこち花畑へ出て行って花の種をひろって来るんだ。一人が百つぶずつ、いや百つぶではすくない。千つぶずつ、いや、千つぶもこんな日の長い時にあんまり少い。万|粒ずつがいいかな。万粒ずつひろって来い。いいか、もし、来なかったらすぐお前らを巡査に渡すぞ。巡査は首をシュッポンと切るぞ。」  あまがえるどもはみんな、お日さまにまっさおにすきとおりながら、花畑の方へ参りました。ところが丁度|幸に花のたねは雨のようにこぼれていましたし蜂もぶんぶん鳴いていましたのであまがえるはみんなしゃがんで一生けん命ひろいました。ひろいながらこんなことを云っていました。 「おい、ビチュコ。一万つぶひろえそうかい。」 「いそがないとだめそうだよ、まだ三百つぶにしかならないんだもの。」 「さっき団長が百粒ってはじめに云ったねい。百つぶならよかったねい。」 「うん。その次に千つぶって云ったねい。千つぶでもよかったねい。」 「ほんとうにねい。おいら、お酒をなぜあんなにのんだろうなあ。」 「おいらもそいつを考えているんだよ。どうも一ぱい目と二杯目、二杯目と三杯目、みんな順ぐりに糸か何かついていたよ。三百五十杯つながって居たとおいら今考えてるんだ。」 「全くだよ。おっと、急がないと大へんだ。」 「そうそう。」  さて、みんなはひろってひろってひろって、夕方までにやっと一万つぶずつあつめて、カイロ団長のところへ帰って来ました。  するととのさまがえるのカイロ団長はよろこんで、 「うん。よし。さあ、みんな舶来ウェスキーを一杯ずつのんで寝るんだよ。」と云いました。  あまがえるどもも大よろこびでみんな粟のこっぷで舶来ウィスキイを一杯ずつ呑んで、キーイキーイと寝てしまいました。  次の朝あまがえるどもは眼をさまして見ますと、もう一ぴきのとのさまがえるが来ていて、団長とこんなはなしをしていました。 「とにかく大いに盛んにやらないといかんね。そうでないと笑いものになってしまうだけだ。」 「全くだよ。どうだろう、一人前九十円ずつということにしたら。」 「うん。それ位ならまあよかろうかな。」 「よかろうよ。おや、みんな起きたね、今日は何の仕事をさせようかな。どうも毎日仕事がなくて困るんだよ。」 「うん。それは大いに同情するね。」 「今日は石を運ばせてやろうか。おい。みんな今日は石を一人で九十|匁ずつ運んで来い。いや、九十匁じゃあまり少いかな。」 「うん。九百貫という方が口調がいいね。」 「そうだ、そうだ。どれだけいいか知れないね。おい、みんな。今日は石を一人につき九百貫ずつ運んで来い。もし来なかったら早速警察へ貴様らを引き渡すぞ。ここには裁判の方のお方もお出でになるのだ。首をシュッポオンと切ってしまう位、実にわけないはなしだ。」  あまがえるはみなすきとおってまっ青になってしまいました。それはその筈です。一人九百貫の石なんて、人間でさえ出来るもんじゃありません。ところがあまがえるの目方が何匁あるかと云ったら、たかが八匁か九匁でしょう。それが一日に一人で九百貫の石を運ぶなどはもうみんな考えただけでめまいを起してクゥウ、クゥウと鳴ってばたりばたり倒れてしまったことは全く無理もありません。  とのさまがえるは早速例の鉄の棒を持ち出してあまがえるの頭をコツンコツンと叩いてまわりました。あまがえるはまわりが青くくるくるするように思いながら仕事に出て行きました。お日さまさえ、ずうっと遠くの天の隅のあたりで、三角になってくるりくるりとうごいているように見えたのです。  みんなは石のある所に来ました。そしててんでに百匁ばかりの石につなをつけて、エンヤラヤア、ホイ、エンヤラヤアホイ。とひっぱりはじめました。みんなあんまり一生けん命だったので、汗がからだ中チクチクチクチク出て、からだはまるでへたへた風のようになり、世界はほとんどまっくらに見えました。とにかくそれでも三十疋が首尾よくめいめいの石をカイロ団長の家まで運んだときはもうおひるになっていました。それにみんなはつかれてふらふらして、目をあいていることも立っていることもできませんでした。あーあ、ところが、これから晩までにもう八百九十九貫九百匁運ばないと首をシュッポオンと切られるのです。  カイロ団長は丁度この時うちの中でいびきをかいて寝て居りましたがやっと目をさまして、ゆっくりと外へ出て見ました。あまがえるどもは、はこんで来た石にこしかけてため息をついたり、土の上に大の字になって寝たりしています。その影法師は青く日がすきとおって地面に美しく落ちていました。団長は怒って急いで鉄の棒を取りに家の中にはいりますと、その間に、目をさましていたあまがえるは、寝ていたものをゆり起して、団長が又出て来たときは、もうみんなちゃんと立っていました。カイロ団長が申しました。 「何だ。のろまども。今までかかってたったこれだけしか運ばないのか。何という貴様らは意気地なしだ。おれなどは石の九百貫やそこら、三十分で運んで見せるぞ。」 「とても私らにはできません。私らはもう死にそうなんです。」 「えい、意気地なしめ。早く運べ。晩までに出来なかったら、みんな警察へやってしまうぞ。警察ではシュッポンと首を切るぞ。ばかめ。」  あまがえるはみんなやけ糞になって叫びました。 「どうか早く警察へやって下さい。シュッポン、シュッポンと聞いていると何だか面白いような気がします。」  カイロ団長は怒って叫び出しました。 「えい、馬鹿者め意気地なしめ。  えい、ガーアアアアアアアアア。」カイロ団長は何だか変な顔をして口をパタンと閉じました。ところが「ガーアアアアアアア」と云う音はまだつづいています。それは全くカイロ団長の咽喉から出たのではありませんでした。かの青空高くひびきわたるかたつむりのメガホーンの声でした。王さまの新らしい命令のさきぶれでした。 「そら、あたらしいご命令だ。」と、あまがえるもとのさまがえるも、急いでしゃんと立ちました。かたつむりの吹くメガホーンの声はいともほがらかにひびきわたりました。 「王さまの新らしいご命令。王さまの新らしいご命令。一個条。ひとに物を云いつける方法。ひとに物を云いつける方法。第一、ひとにものを云いつけるときはそのいいつけられるものの目方で自分のからだの目方を割って答を見つける。第二、云いつける仕事にその答をかける。第三、その仕事を一ぺん自分で二日間やって見る。以上。その通りやらないものは鳥の国へ引き渡す。」  さああまがえるどもはよろこんだのなんのって、チェッコという算術のうまいかえるなどは、もうすぐ暗算をはじめました。云いつけられるわれわれの目方は拾匁、云いつける団長のめがたは百匁、百匁割る十匁、答十。仕事は九百貫目、九百貫目掛ける十、答九千貫目。 「九千貫だよ。おい。みんな。」 「団長さん。さあこれから晩までに四千五百貫目、石をひっぱって下さい。」 「さあ王様の命令です。引っぱって下さい。」  今度は、とのさまがえるは、だんだん色がさめて、飴色にすきとおって、そしてブルブルふるえて参りました。  あまがえるはみんなでとのさまがえるを囲んで、石のある処へ連れて行きました。そして一貫目ばかりある石へ、綱を結びつけて 「さあ、これを晩までに四千五百運べばいいのです。」と云いながらカイロ団長の肩に綱のさきを引っかけてやりました。団長もやっと覚悟がきまったと見えて、持っていた鉄の棒を投げすてて、眼をちゃんときめて、石を運んで行く方角を見定めましたがまだどうも本当に引っぱる気にはなりませんでした。そこであまがえるは声をそろえてはやしてやりました。 「ヨウイト、ヨウイト、ヨウイト、ヨウイトショ。」  カイロ団長は、はやしにつりこまれて、五へんばかり足をテクテクふんばってつなを引っ張りましたが、石はびくとも動きません。  とのさまがえるはチクチク汗を流して、口をあらんかぎりあけて、フウフウといきをしました。全くあたりがみんなくらくらして、茶色に見えてしまったのです。 「ヨウイト、ヨウイト、ヨウイト、ヨウイトショ。」  とのさまがえるは又四へんばかり足をふんばりましたが、おしまいの時は足がキクッと鳴ってくにゃりと曲ってしまいました。あまがえるは思わずどっと笑い出しました。がどう云うわけかそれから急にしいんとなってしまいました。それはそれはしいんとしてしまいました。みなさん、この時のさびしいことと云ったら私はとても口で云えません。みなさんはおわかりですか。ドッと一緒に人をあざけり笑ってそれから俄かにしいんとなった時のこのさびしいことです。  ところが丁度その時、又もや青ぞら高く、かたつむりのメガホーンの声がひびきわたりました。 「王様の新らしいご命令。王様の新らしいご命令。すべてあらゆるいきものはみんな気のいい、かあいそうなものである。けっして憎んではならん。以上。」それから声が又向うの方へ行って「王様の新らしいご命令。」とひびきわたって居ります。  そこであまがえるは、みんな走り寄って、とのさまがえるに水をやったり、曲った足をなおしてやったり、とんとんせなかをたたいたりいたしました。  とのさまがえるはホロホロ悔悟のなみだをこぼして、 「ああ、みなさん、私がわるかったのです。私はもうあなた方の団長でもなんでもありません。私はやっぱりただの蛙です。あしたから仕立屋をやります。」  あまがえるは、みんなよろこんで、手をパチパチたたきました。  次の日から、あまがえるはもとのように愉快にやりはじめました。  みなさん。あまあがりや、風の次の日、そうでなくてもお天気のいい日に、畑の中や花壇のかげでこんなようなさらさらさらさら云う声を聞きませんか。 「おい。ベッコ。そこん処をも少しよくならして呉れ。いいともさ。おいおい。ここへ植えるのはすずめのかたびらじゃない、すずめのてっぽうだよ。そうそう。どっちもすずめなもんだからつい間違えてね。ハッハッハ。よう。ビチュコ。おい。ビチュコ、そこの穴うめて呉れ。いいかい。そら、投げるよ。ようし来た。ああ、しまった。さあひっぱって呉れ。よいしょ。」  松の木や楢の木の林の下を、深い堰が流れて居りました。岸には茨やつゆ草やたでが一杯にしげり、そのつゆくさの十本ばかり集った下のあたりに、カン蛙のうちがありました。  それから、林の中の楢の木の下にブン蛙のうちがありました。  林の向うのすすきのかげには、ベン蛙のうちがありました。  三|疋は年も同じなら大きさも大てい同じ、どれも負けず劣らず生意気で、いたずらものでした。  ある夏の暮れ方、カン蛙ブン蛙ベン蛙の三疋は、カン蛙の家の前のつめくさの広場に座って、雲見ということをやって居りました。一体蛙どもは、みんな、夏の雲の峯を見ることが大すきです。じっさいあのまっしろなプクプクした、玉髄のような、玉あられのような、又蛋白石を刻んでこさえた葡萄の置物のような雲の峯は、誰の目にも立派に見えますが、蛙どもには殊にそれが見事なのです。眺めても眺めても厭きないのです。そのわけは、雲のみねというものは、どこか蛙の頭の形に肖ていますし、それから春の蛙の卵に似ています。それで日本人ならば、ちょうど花見とか月見とか言う処を、蛙どもは雲見をやります。 「どうも実に立派だね。だんだんペネタ形になるね。」 「うん。うすい金色だね。永遠の生命を思わせるね。」 「実に僕たちの理想だね。」  雲のみねはだんだんペネタ形になって参りました。ペネタ形というのは、蛙どもでは大へん高尚なものになっています。平たいことなのです。雲の峰はだんだん崩れてあたりはよほどうすくらくなりました。 「この頃、ヘロンの方ではゴム靴がはやるね。」ヘロンというのは蛙語です。人間ということです。 「うん。よくみんなはいてるようだね。」 「僕たちもほしいもんだな。」 「全くほしいよ。あいつをはいてなら栗のいがでも何でもこわくないぜ。」 「ほしいもんだなあ。」 「手に入れる工夫はないだろうか。」 「ないわけでもないだろう。ただ僕たちのはヘロンのとは大きさも型も大分ちがうから拵え直さないと駄目だな。」 「うん。それはそうさ。」  さて雲のみねは全くくずれ、あたりは藍色になりました。そこでベン蛙とブン蛙とは、 「さよならね。」と云ってカン蛙とわかれ、林の下の堰を勇ましく泳いで自分のうちに帰って行きました。         *  あとでカン蛙は腕を組んで考えました。桔梗色の夕暗の中です。  しばらくしばらくたってからやっと「ギッギッ」と二声ばかり鳴きました。そして草原をぺたぺた歩いて畑にやって参りました、  それから声をうんと細くして、 「野鼠さん、野鼠さん。もうし、もうし。」と呼びました。 「ツン。」と野鼠は返事をして、ひょこりと蛙の前に出て来ました。そのうすぐろい顔も、もう見えないくらい暗いのです。 「野鼠さん。今晩は。一つお前さんに頼みがあるんだが、きいて呉れないかね。」 「いや、それはきいてあげよう。去年の秋、僕が蕎麦団子を食べて、チブスになって、ひどいわずらいをしたときに、あれほど親身の介抱を受けながら、その恩を何でわすれてしまうもんかね。」 「そうか。そんなら一つお前さん、ゴム靴を一足工夫して呉れないか。形はどうでもいいんだよ。僕がこしらえ直すから。」 「ああ、いいとも。明日の晩までにはきっと持って来てあげよう。」 「そうか。それはどうもありがとう。ではお願いするよ。さよならね。」  カン蛙は大よろこびで自分のおうちへ帰って寝てしまいました。         *  次の晩方です。  カン蛙は又畑に来て、 「野鼠さん。野鼠さん。もうし。もうし。」とやさしい声で呼びました。  野鼠はいかにも疲れたらしく、目をとろんとして、はぁあとため息をついて、それに何だか大へん憤って出て来ましたが、いきなり小さなゴム靴をカン蛙の前に投げ出しました。 「そら、カン蛙さん。取ってお呉れ。ひどい難儀をしたよ。大へんな手数をしたよ。命がけで心配したよ。僕はお前のご恩はこれで払ったよ。少し払い過ぎた位かしらん。」と云いながら、野鼠はぷいっと行ってしまったのでした。  カン蛙は、野鼠の激昂のあんまりひどいのに、しばらくは呆れていましたが、なるほど考えて見ると、それも無理はありませんでした。まず野鼠は、ただの鼠にゴム靴をたのむ、ただの鼠は猫にたのむ、猫は犬にたのむ、犬は馬にたのむ、馬は自分の金沓を貰うとき、なんとかかんとかごまかして、ゴム靴をもう一足受け取る、それから、馬がそれを犬に渡す、犬が猫に渡す、猫がただの鼠に渡す、ただの鼠が野鼠に渡す、その渡しようもいずれあとでお礼をよこせとか何とか、気味の悪い語がついていたのでしょう、そのほか馬はあとでゴム靴をごまかしたことがわかったら、人間からよっぽどひどい目にあわされるのでしょう。それ全体を野鼠が心配して考えるのですから、とても命にさわるほどつらい訳です。けれどもカン蛙は、その立派なゴム靴を見ては、もう嬉しくて嬉しくて、口がむずむず云うのでした。  早速それを叩いたり引っぱったりして、丁度自分の足に合うようにこしらえ直し、にたにた笑いながら足にはめ、その晩一ばん中歩きまわり、暁方になってから、ぐったり疲れて自分の家に帰りました。そして睡りました。         * 「カン君、カン君、もう雲見の時間だよ。おいおい。カン君。」カン蛙は眼をあけました。見るとブン蛙とベン蛙とがしきりに自分のからだをゆすぶっています。なるほど、東にはうすい黄金色の雲の峯が美しく聳えています。 「や、君はもうゴム靴をはいてるね。どこから出したんだ。」 「いや、これはひどい難儀をして大へんな手数をしてそれから命がけほど頭を痛くして取って来たんだ。君たちにはとても持てまいよ。歩いて見せようか。そら、いい工合だろう。僕がこいつをはいてすっすっと歩いたらまるで芝居のようだろう。まるでカーイのようだろう、イーのようだろう。」 「うん、実にいいね。僕たちもほしいよ。けれど仕方ないなあ。」 「仕方ないよ。」  雪の峯は銀色で、今が一番高い所です。けれどもベン蛙とブン蛙とは、雲なんかは見ないでゴム靴ばかり見ているのでした。  そのとき向うの方から、一疋の美しいかえるの娘がはねて来てつゆくさの向うからはずかしそうに顔を出しました。 「ルラさん、今晩は。何のご用ですか。」 「お父さんが、おむこさんを探して来いって。」娘の蛙は顔を少し平ったくしました。 「僕なんかはどうかなあ。」ベン蛙が云いました。 「あるいは僕なんかもいいかもしれないな。」ブン蛙が云いました。  ところがカン蛙は一言も物を云わずに、すっすっとそこらを歩いていたばかりです。 「あら、あたしもうきめたわ。」 「誰にさ?」二疋は眼をぱちぱちさせました。  カン蛙はまだすっすっと歩いています。 「あの方だわ。」娘の蛙は左手で顔をかくして右手の指をひろげてカン蛙を指しました。 「おいカン君、お嬢さんがきみにきめたとさ。」 「何をさ?」  カン蛙はけろんとした顔つきをしてこっちを向きました。 「お嬢さんがおまえさんを連れて行くとさ。」  カン蛙は急いでこっちへ来ました。 「お嬢さん今晩は、僕に何か用があるんですか。なるほど、そうですか。よろしい。承知しました。それで日はいつにしましょう。式の日は。」 「八月二日がいいわ。」 「それがいいです。」カン蛙はすまして空を向きました。  そこでは雲の峯がいままたペネタ形になって流れています。 「そんならあたしうちへ帰ってみんなにそう云うわ。」 「ええ、」 「さよなら」 「さよならね。」  ベン蛙とブン蛙はぶりぶり怒って、いきなりくるりとうしろを向いて帰ってしまいました。しゃくにさわったまぎれに、あの林の下の堰を、ただ二足にちぇっちぇっと泳いだのでした。そのあとでカン蛙のよろこびようと云ったらもうとてもありません。あちこちあるいてあるいて、東から二十日の月が登るころやっとうちに帰って寝ました。         *  さてルラ蛙の方でも、いろいろ仕度をしたりカン蛙と談判をしたり、だんだん事がまとまりました。いよいよあさってが結婚式という日の明方、カン蛙は夢の中で、 「今日は僕はどうしてもみんなの所を歩いて明後日の式に招待して来ないといけないな。」と云いました。ところがその夜明方から朝にかけて、いよいよ雨が降りはじめました。林はガアガアと鳴り、カン蛙のうちの前のつめくさは、うす濁った水をかぶってぼんやりとかすんで見えました。それでもカン蛙は勇んで家を出ました。せきの水は濁って大へんに増し、幾本もの蓼やつゆくさは、すっかり水の中になりました。飛び込むのは一寸こわいくらいです。カン蛙は、けれども一本のたでから、ピチャンと水に飛び込んで、ツイツイツイツイ泳ぎました。泳ぎながらどんどん流されました。それでもとにかく向うの岸にのぼりました。  それから苔の上をずんずん通り、幾本もの虫のあるく道を横切って、大粒の雨にうたれゴム靴をピチャピチャ云わせながら、楢の木の下のブン蛙のおうちに来て高く叫びました。 「今日は、今日は。」 「どなたですか。ああ君か。はいり給え。」 「うん、どうもひどい雨だね。パッセン大街道も今日はいきものの影さえないぞ。」 「そうか。ずいぶんひどい雨だ。」 「ところで君も知ってる通り、明後日は僕の結婚式なんだ。どうか来て呉れ給え。」 「うん。そうそう。そう云えばあの時あのちっぽけな赤い虫が何かそんなこと云ってたようだったね。行こう。」 「ありがとう。どうか頼むよ。それではさよならね。」 「さよならね。」  カン蛙は又ピチャピチャ林の中を通ってすすきの中のベン蛙のうちにやって参りました。 「今日は、今日は。」 「どなたですか。ああ君か。はいれ。」 「ありがとう。どうもひどい雨だ。パッセン大街道も今日はしんとしてるよ。」 「そうか。ずいぶんひどいね。」 「ところで君も知ってるだろうが明後日僕の結婚式なんだ。どうか来て呉れ給え。」 「ああ、そんなことどこかで聞いたっけねい。行こう。」 「どうか。ではさよならね。」 「さよならね。」そしてカン蛙は又ピチャピチャ林の中を歩き、プイプイ堰を泳いで、おうちに帰ってやっと安心しました。         *  丁度そのころブン蛙はベン蛙のところへやって来たのでした。 「今日は、今日は。」 「はい。やあ、君か。はいれ。」 「カンが来たろう。」 「うん。いまいましいね。」 「全くだ。畜生。何とかひどい目にあわしてやりたいね。」 「僕がうまいこと考えたよ。明日の朝ね、雨がはれたら結婚式の前に一寸散歩しようと云ってあいつを引っぱり出して、あそこの萱の刈跡をあるくんだよ。僕らも少しは痛いだろうがまあ我慢してさ。するとあいつのゴム靴がめちゃめちゃになるだろう。」 「うん。それはいいね。しかし僕はまだそれ位じゃ腹が癒えないよ。結婚式がすんだらあいつらを引っぱり出して、あの畑の麦をほした杭の穴に落してやりたいね。上に何か木の葉でもかぶせて置こう。それは僕がやって置くよ。面白いよ。」 「それもいいね。じゃ、雨がはれたらね。」 「うん。」 「ではさよならね。」  蛙の挨拶の「さよならね」ももう鼻について厭きて参りました。もう少しです。我慢して下さい。ほんのもう少しですから。         *  次の日のひるすぎ、雨がはれて陽が射しました。ベン蛙とブン蛙とが一緒にカン蛙のうちへやって来ました。 「やあ、今日はおめでとう。お招き通りやって来たよ。」 「うん、ありがとう。」 「ところで式まで大分時間があるだろう。少し歩こうか。散歩すると血色がよくなるぜ。」 「そうだ。では行こう。」 「三人で手をつないでこうね。」ブン蛙とベン蛙とが両方からカン蛙の手を取りました。 「どうも雨あがりの空気は、実にうまいね。」 「うん。さっぱりして気持ちがいいね。」三|疋は萱の刈跡にやって参りました。 「ああいい景色だ。ここを通って行こう。」 「おい。ここはよそうよ。もう帰ろうよ。」 「いいや折角来たんだもの。も少し行こう。そら歩きたまえ。」二疋は両方からぐいぐいカン蛙の手をひっぱって、自分たちも足の痛いのを我慢しながらぐんぐん萱の刈跡をあるきました。 「おい。よそうよ。よして呉れよ。ここは歩けないよ。あぶないよ。帰ろうよ。 「実にいい景色だねえ。も少し急いで行こうか。と二疋が両方から、まだ破けないカン蛙のゴム靴を見ながら、一緒に云いました。 「おい。よそうよ。冗談じゃない。よそう。あ痛っ。あぁあ、とうとう穴があいちゃった。」 「どうだ。この空気のうまいこと。」 「おい。帰ろうよ。ひっぱらないで呉れよ。」 「実にいい景色だねえ。」 「放して呉れ。放して呉れ。放せったら。畜生。」 「おや、君は何かに足をかじられたんだね。そんなにもがかなくてもいいよ。しっかり押えてやるから。」 「放せ、放せ、放せったら、畜生。」 「まだかじってるかい。そいつは大変だ。早く逃げ給え。走ろう。さあ。そら。」 「痛いよ。放せったら放せ。えい畜生。」 「早く、早く。そら、もう大丈夫だ。おや。君の靴がぼろぼろだね。どうしたんだろう。」  実際ゴム靴はもうボロボロになって、カン蛙の足からあちこちにちらばって、無くなりました。  カン蛙はなんとも言えないうらめしそうな顔をして、口をむにゃむにゃやりました。実はこれは歯を食いしばるところなのですが、歯がないのですからむにゃむにゃやるより仕方ないのです。二疋はやっと手をはなして、しきりに両方からお世辞を云いました。 「君、あんまり力を落さない方がいいよ。靴なんかもうあったってないったって、お嫁さんは来るんだから。」 「もう時間だろう。帰ろう。帰って待ってようか。ね。君。」  カン蛙はふさぎこみながらしぶしぶあるき出しました。         *  三疋がカン蛙のおうちに着いてから、しばらくたって、ずうっと向うから、蕗の葉をかざしたりがまの穂を立てたりしてお嫁さんの行列がやって参りました。  だんだん近くになりますと、お父さんにあたるがん郎がえるが、 「こりゃ、むすめ、むこどのはあの三人の中のどれじゃ。」とルラ蛙をふりかえってたずねました。  ルラ蛙は、小さな目をパチパチさせました。というわけは、はじめカン蛙を見たときは、実はゴム靴のほかにはなんにも気を付けませんでしたので、三疋ともはだしでぞろりとならんでいるのでは実際どうも困ってしまいました。そこで仕方なく、 「もっと向うへ行かないと、よくわからないわ。」と云いました。 「そうですとも。間違っては大へんです。よくおちついて。」と仲人のかえるもうしろで云いました。  ところがもっと近くによりますと、尚更わからなくなりました。三疋とも口が大きくて、うすぐろくて、眼の出た工合も実によく似ているのです。これはいよいよどうも困ってしまいました。ところが、そのうちに、一番右はじに居たカン蛙がパクッと口をあけて、一足前に出ておじぎをしました。そこでルラ蛙もやっと安心して、 「あの方よ。」と云いました。さてそれから式がはじまりました。その式の盛大なこと酒もりの立派なこととても書くのも大へんです。  とにかく式がすんで、向うの方はみな引きあげて行きました。そのとき丁度雲のみねが一番かがやいて居りました。 「さあ新婚旅行だ。」とベン蛙がいいました。 「僕たちはじきそこまで見送ろう。」ブン蛙が云いました。  カン蛙も仕方なく、ルラ蛙もつれて、新婚旅行に出かけました。そしてたちまちあの木の葉をかぶせた杭あとに来たのです。ブン蛙とベン蛙が、 「ああ、ここはみちが悪い。おむこさん。手を引いてあげよう。」と云いながら、カン蛙が急いでちぢめる間もなく、両方から手をとって、自分たちは穴の両側を歩きながら無理にカン蛙を穴の上にひっぱり出しました。するとカン蛙の載った木の葉がガサリと鳴り、カン蛙はふらふらっと一寸ばかりのめり込みました。ブン蛙とベン蛙がくるりと外の方を向いて逃げようとしましたが、カン蛙がピタリと両方共とりついてしまいましたので二疋のふんばった足がぷるぷるっとけいれんし、そのつぎにはとうとう「ポトン、バチャン。」  三疋とも、杭穴の底の泥水の中に陥ちてしまいました。上を見ると、まるで小さな円い空が見えるだけ、かがやく雲の峯は一寸のぞいて居りますが、蛙たちはもういくらもがいてもとりつくものもありませんでした。  そこでルラ蛙はもう昔習った六百|米の奥の手を出して一目散にお父さんのところへ走って行きました。するとお父さんたちはお酒に酔っていてみんなぐうぐう睡っていていくら起しても起きませんでした。そこでルラ蛙はまたもとのところへ走ってきてまわりをぐるぐるぐるぐるまわって泣きました。  そのうちだんだん夜になりました。 パチャパチャパチャパチャ。  ルラ蛙はまたお父さんのところへ行きました。  いくら起しても起きませんでした。  夜があけました。 パチャパチャパチャパチャ。  ルラ蛙はまたお父さんのところへ行きました。  いくら起しても起きませんでした。  日が暮れました。雲のみねの頭。 パチャパチャパチャパチャ。  ルラ蛙はまたお父さんのところへ行きました。  いくら起しても起きませんでした。  夜が明けました。 パチャパチャパチャパチャ。  雲のみね。ペネタ形。  ちょうどこのときお父さんの蛙はやっと眼がさめてルラ蛙がどうなったか見ようと思って出掛けて来ました。  するとそこにはルラ蛙がつかれてまっ青になって腕を胸に組んで座ったまま睡っていました。 「おいどうしたのか。おい。」 「あらお父さん、三人この中へおっこっているわ。もう死んだかもしれないわ」  お父さんの蛙は落ちないように気をつけながら耳を穴の口へつけて音をききましたら、かすかにぴちゃという音がしました。 「占めた」と叫んでお父さんは急いで帰って仲間の蛙をみんなつれて来ました。そして林の中からひかげのかつらをとって来てそれを穴の中につるして、とうとう一ぴきずつ穴からひきあげました。  三疋とももう白い腹を上へ向けて眼はつぶって口も堅くしめて半分死んでいました。  みんなでごまざいの毛をとって来てこすってやったりいろいろしてやっと助けました。  そこでカン蛙ははじめてルラ蛙といっしょになりほかの蛙も大へんそれからは心を改めてみんなよく働くようになりました。  学者のアラムハラドはある年十一人の子を教えておりました。  みんな立派なうちの子どもらばかりでした。  王さまのすぐ下の裁判官の子もありましたし農商の大臣の子も居ました。また毎年じぶんの土地から十|石の香油さえ穫る長者のいちばん目の子も居たのです。  けれども学者のアラムハラドは小さなセララバアドという子がすきでした。この子が何か答えるときは学者のアラムハラドはどこか非常に遠くの方の凍ったように寂かな蒼黒い空を感ずるのでした。それでもアラムハラドはそんなに偉い学者でしたからえこひいきなどはしませんでした。  アラムハラドの塾は街のはずれの楊の林の中にありました。  みんなは毎日その石で畳んだ鼠いろの床に座って古くからの聖歌を諳誦したり兆よりももっと大きな数まで数えたりまた数を互に加えたり掛け合せたりするのでした。それからいちばんおしまいには鳥や木や石やいろいろのことを習うのでした。  アラムハラドは長い白い着物を着て学者のしるしの垂れ布のついた帽子をかぶり低い椅子に腰掛け右手には長い鞭をもち左手には本を支えながらゆっくりと教えて行くのでした。  そして空気のしめりの丁度いい日またむずかしい諳誦でひどくつかれた次の日などはよくアラムハラドはみんなをつれて山へ行きました。  このおはなしは結局学者のアラムハラドがある日自分の塾でまたある日山の雨の中でちらっと感じた不思議な着物についてであります。      一  アラムハラドが言いました。 「火が燃えるときは焔をつくる。焔というものはよく見ていると奇体なものだ。それはいつでも動いている。動いているがやっぱり形もきまっている。その色はずいぶんさまざまだ。普通の焚火の焔なら橙いろをしている。けれども木によりまたその場処によっては変に赤いこともあれば大へん黄いろなこともある。硫黄を燃せばちょっと眼のくるっとするような紫いろの焔をあげる。それから銅を灼くときは孔雀石のような明るい青い火をつくる。こんなにいろはさまざまだがそれはみんなある同じ性質をもっている。さっき云ったいつでも動いているということもそうだ。それは火というものは軽いものでいつでも騰ろう騰ろうとしている。それからそれは明るいものだ。硫黄のようなお日さまの光の中ではよくわからない焔でもまっくらな処に持って行けば立派にそこらを明るくする。火というものはいつでも照らそう照らそうとしているものだ。それからも一つは熱いということだ。火ならばなんでも熱いものだ。それはいつでも乾かそう乾かそうとしている。斯う云う工合に火には二つの性質がある。なぜそうなのか。それは火の性質だから仕方ない。そう云う、熱いもの、乾かそうとするもの、光るもの、照らそうとするもの軽いもの騰ろうとするものそれを焔と呼ぶのだから仕方ない。  それからまたみんなは水をよく知っている。水もやっぱり火のようにちゃんときまった性質がある。それは物をつめたくする。どんなものでも水にあってはつめたくなる。からだをあつい湯でふいても却ってあとではすずしくなる。夏に銅の壺に水を入れ壺の外側を水でぬらしたきれで固くつつんでおくならばきっとそれは冷えるのだ。なんべんもきれをとりかえるとしまいにはまるで氷のようにさえなる。このように水は物をつめたくする。また水はものをしめらすのだ。それから水はいつでも低い処へ下ろうとする。鉢の中に水を入れるならまもなくそれはしずかになる。阿耨達池やすべて葱嶺から南東の山の上の湖は多くは鏡のように青く平らだ。なぜそう平らだかとならば水はみんな下に下ろうとしてお互い下れるとこまで落ち着くからだ。波ができたら必ずそれがなおろうとする。それは波のあがったとこが下ろうとするからだ。このように水のつめたいこと、しめすこと下に行こうとすることは水の性質なのだ。どうしてそうかと云うならばそれはそう云う性質のものを水と呼ぶのだから仕方ない。  それからまたみんなは小鳥を知っている。鶯やみそさざい、ひわやまたかけすなどからだが小さく大へん軽い。その飛ぶときはほんとうによく飛ぶ。枝から枝へうつるときはその羽をひらいたのさえわからないくらい早く、青ぞらを向うへ飛んで行くときは一つのふるえる点のようだ。それほどこれらの鶯やひわなどは身軽でよく飛ぶ。また一生けん命に啼く。うぐいすならば春にはっきり啼く。みそさざいならばからだをうごかすたびにもうきっと啼いているのだ。  これらの鳥のたくさん啼いている林の中へ行けばまるで雨が降っているようだ。おまえたちはみんな知っている。このように小さな鳥はよく飛びまたよく啼くものだ。それはたべ物をとってしまっても啼くのをやめない。またやすまない。どうして疲れないかと思うほどよく飛びまたよく啼くものだ。  そんならなぜ鳥は啼くのかまた飛ぶのか。おまえたちにはわかるだろう。鳥はみな飛ばずにいられないで飛び啼かずに居られないで啼く。それは生れつきなのだ。  さて斯う云うふうに火はあつく、乾かし、照らし騰る、水はつめたく、しめらせ、下る、鳥は飛び、またなく。魚について獣についておまえたちはもうみんなその性質を考えることができる。けれども一体どうだろう、小鳥が啼かないでいられず魚が泳がないでいられないように人はどういうことがしないでいられないだろう。人が何としてもそうしないでいられないことは一体どういう事だろう。考えてごらん。」  アラムハラドは斯う言って堅く口を結び十一人の子供らを見まわしました。子供らはみな一生けん命考えたのです。大人のように指をまげて唇にあてたりまっすぐに床を見たりしました。その中で大臣の子のタルラが少し顔を赤くして口をまげてわらいました。  アラムハラドはすばやくそれを見て言いました。 「タルラ、答えてごらん。」  タルラは礼をしてそれから少し工合わるそうに横の方を見ながら答えました。 「人は歩いたり物を言ったりいたします。」  アラムハラドがわらいました。 「よろしい。よくお前は答えた。全く人はあるかないでいられない。病気で永く床の上に居る人はどんなに歩きたいだろう。ああ、ただも一度二本の足でぴんぴん歩いてあの楽地の中の泉まで行きあの冷たい水を両手で掬って呑むことができたらそのまま死んでもかまわないと斯う思うだろう。またお前の答えたように人は物を言わないでいられない。  考えたことをみんな言わないでいることは大へんにつらいことなのだ。そのため病気にさえもなるのだ。人がともだちをほしいのは自分の考えたどんなことでもかくさず話しまたかくさずに聴きたいからだ。だまっているということは本統につらいことなのだ。  たしかに人は歩かないでいられない、また物を言わないでいられない。けれども人にはそれよりももっと大切なものがないだろうか。足や舌とも取りかえるほどもっと大切なものがないだろうか。むずかしいけれども考えてごらん。」  アラムハラドが斯う言う間タルラは顔をまっ赤にしていましたがおしまいは少し青ざめました。アラムハラドがすぐ言いました。 「タルラ、も一度答えてごらん。お前はどんなものとでもお前の足をとりかえないか。お前はどんなものとでもお前の足をとりかえるのはいやなのか。」  タルラがまるで小さな獅子のように答えました。 「私は饑饉でみんなが死ぬとき若し私の足が無くなることで饑饉がやむなら足を切っても口惜しくありません。」  アラムハラドはあぶなく泪をながしそうになりました。 「そうだ。おまえには歩くことよりも物を言うことよりももっとしないでいられないことがあった。よくそれがわかった。それでこそ私の弟子なのだ。お前のお父さんは七年前の不作のとき祭壇に上って九日|祷りつづけられた。お前のお父さんはみんなのためには命も惜しくなかったのだ。ほかの人たちはどうだ。ブランダ。言ってごらん。」  ブランダと呼ばれた子はすばやくきちんとなって答えました。 「人が歩くことよりも言うことよりももっとしないでいられないのはいいことです。」  アラムハラドが云いました。 「そうだ。私がそう言おうと思っていた。すべて人は善いこと、正しいことをこのむ。善と正義とのためならば命を棄てる人も多い。おまえたちはいままでにそう云う人たちの話を沢山きいて来た。決してこれを忘れてはいけない。人の正義を愛することは丁度鳥のうたわないでいられないと同じだ。セララバアド。お前は何か言いたいように見える。云ってごらん。」  小さなセララバアドは少しびっくりしたようでしたがすぐ落ちついて答えました。 「人はほんとうのいいことが何だかを考えないでいられないと思います。」  アラムハラドはちょっと眼をつぶりました。眼をつぶったくらやみの中ではそこら中ぼうっと燐の火のように青く見え、ずうっと遠くが大へん青くて明るくてそこに黄金の葉をもった立派な樹がぞろっとならんでさんさんさんと梢を鳴らしているように思ったのです。アラムハラドは眼をひらきました。子供らがじっとアラムハラドを見上げていました。アラムハラドは言いました。 「うん。そうだ。人はまことを求める。真理を求める。ほんとうの道を求めるのだ。人が道を求めないでいられないことはちょうど鳥の飛ばないでいられないとおんなじだ。おまえたちはよくおぼえなければいけない。人は善を愛し道を求めないでいられない。それが人の性質だ。これをおまえたちは堅くおぼえてあとでも決して忘れてはいけない。おまえたちはみなこれから人生という非常なけわしいみちをあるかなければならない。たとえばそれは葱嶺の氷や辛度の流れや流沙の火やでいっぱいなようなものだ。そのどこを通るときも決して今の二つを忘れてはいけない。それはおまえたちをまもる。それはいつもおまえたちを教える。決して忘れてはいけない。  それではもう日中だからみんなは立ってやすみ、食事をしてよろしい。」  アラムハラドは礼をうけ自分もしずかに立ちあがりました。そして自分の室に帰る途中ふとまた眼をつぶりました。さっきの美しい青い景色がまたはっきりと見えました。そしてその中にはねのような軽い黄金いろの着物を着た人が四人まっすぐに立っているのを見ました。  アラムハラドは急いで眼をひらいて少し首をかたむけながら自分の室に入りました。      二  アラムハラドは子供らにかこまれながらしずかに林へはいって行きました。  つめたいしめった空気がしんとみんなのからだにせまったとき子供らは歓呼の声をあげました。そんなに樹は高く深くしげっていたのです。それにいろいろの太さの蔓がくしゃくしゃにその木をまといみちも大へんに暗かったのです。  ただその梢のところどころ物凄いほど碧いそらが一きれ二きれやっとのぞいて見えるきり、そんなに林がしげっていればそれほどみんなはよろこびました。  大臣の子のタルラはいちばんさきに立って鳥を見てはばあと両手をあげて追い栗鼠を見つけては高く叫んでおどしました。走ったりまた停ったりまるで夢中で進みました。  みんなはかわるがわるいろいろなことをアラムハラドにたずねました。アラムハラドは時々はまだ一つの答をしないうちにも一つの返事をしなければなりませんでした。  セララバアドは小さな革の水入れを肩からつるして首を垂れてみんなの問やアラムハラドの答をききながらいちばんあとから少し笑ってついて来ました。  林はだんだん深くなりかしの木やくすの木や空も見えないようでした。  そのときサマシャードという小さな子が一本の高いなつめの木を見つけて叫びました。 「なつめの木だぞ。なつめの木だ。とれないかなあ。」  みんなもアラムハラドも一度にその高い梢を見上げました。アラムハラドは云いました。 「あの木は高くてとどかない。私どもはその実をとることができないのだ。けれどもおまえたちは名高いヴェーッサンタラ大王のはなしを知っているだろう。ヴェーッサンタラ大王は檀波羅蜜の行と云ってほしいと云われるものは何でもやった。宝石でも着物でも喰べ物でもそのほか家でもけらいでも何でもみんな乞われるままに施された。そしておしまいとうとう国の宝の白い象をもお与えなされたのだ。けらいや人民ははじめは堪えていたけれどもついには国も亡びそうになったので大王を山へ追い申したのだ。大王はお妃と王子王女とただ四人で山へ行かれた。大きな林にはいったとき王子たちは林の中の高い樹の実を見てああほしいなあと云われたのだ。そのとき大王の徳には林の樹もまた感じていた。樹の枝はみな生物のように垂れてその美しい果実を王子たちに奉った。  これを見たものみな身の毛もよだち大地も感じて三べんふるえたと云うのだ。いま私らはこの実をとることができない。けれどももしヴェーッサンタラ大王のように大へんに徳のある人ならばそしてその人がひどく飢えているならば木の枝はやっぱりひとりでに垂れてくるにちがいない。それどころでない、その人は樹をちょっと見あげてよろこんだだけでもう食べたとおんなじことにもなるのだ。」  アラムハラドは斯う云ってもう一度林の高い木を見あげました。まっ黒な木の梢から一きれのそらがのぞいておりましたがアラムハラドは思わず眼をこすりました。さっきまでまっ青で光っていたその空がいつかまるで鼠いろに濁って大へん暗く見えたのです。樹はゆさゆさとゆすれ大へんにむしあつくどうやら雨が降って来そうなのでした。 「ああこれは降って来る。もうどんなに急いでもぬれないというわけにはいかない。からだの加減の悪いものは誰々だ。ひとりもないか。畑のものや木には大へんいいけれどもまさか今日こんなに急に降るとは思わなかった。私たちはもう帰らないといけない。」  けれどもアラムハラドはまだ降るまではよほど間があると思っていました。ところがアラムハラドの斯う云ってしまうかしまわないうちにもう林がぱちぱち鳴りはじめました。それも手をひろげ顔をそらに向けてほんとうにそれが雨かどうか見ようとしても雨のつぶは見えませんでした。  ただ林の濶い木の葉がぱちぱち鳴っている〔以下原稿数枚?なし〕  入れを右手でつかんで立っていました。〔以下原稿空白〕  清作は、さあ日暮れだぞ、日暮れだぞと云いながら、稗の根もとにせっせと土をかけていました。  そのときはもう、銅づくりのお日さまが、南の山裾の群青いろをしたとこに落ちて、野はらはへんにさびしくなり、白樺の幹などもなにか粉を噴いているようでした。  いきなり、向うの柏ばやしの方から、まるで調子はずれの途方もない変な声で、 「欝金しゃっぽのカンカラカンのカアン。」とどなるのがきこえました。  清作はびっくりして顔いろを変え、鍬をなげすてて、足音をたてないように、そっとそっちへ走って行きました。  ちょうどかしわばやしの前まで来たとき、清作はふいに、うしろからえり首をつかまれました。  びっくりして振りむいてみますと、赤いトルコ帽をかぶり、鼠いろのへんなだぶだぶの着ものを着て、靴をはいた無暗にせいの高い眼のするどい画かきが、ぷんぷん怒って立っていました。 「何というざまをしてあるくんだ。まるで這うようなあんばいだ。鼠のようだ。どうだ、弁解のことばがあるか。」  清作はもちろん弁解のことばなどはありませんでしたし、面倒臭くなったら喧嘩してやろうとおもって、いきなり空を向いて咽喉いっぱい、 「赤いしゃっぽのカンカラカンのカアン。」とどなりました。するとそのせ高の画かきは、にわかに清作の首すじを放して、まるで咆えるような声で笑いだしました。その音は林にこんこんひびいたのです。 「うまい、じつにうまい。どうです、すこし林のなかをあるこうじゃありませんか。そうそう、どちらもまだ挨拶を忘れていた。ぼくからさきにやろう。いいか、いや今晩は、野はらには小さく切った影法師がばら播きですね、と。ぼくのあいさつはこうだ。わかるかい。こんどは君だよ。えへん、えへん。」と云いながら画かきはまた急に意地悪い顔つきになって、斜めに上の方から軽べつしたように清作を見おろしました。  清作はすっかりどぎまぎしましたが、ちょうど夕がたでおなかが空いて、雲が団子のように見えていましたからあわてて、 「えっ、今晩は。よいお晩でございます。えっ。お空はこれから銀のきな粉でまぶされます。ごめんなさい。」 と言いました。  ところが画かきはもうすっかりよろこんで、手をぱちぱち叩いて、それからはねあがって言いました。 「おい君、行こう。林へ行こう。おれは柏の木大王のお客さまになって来ているんだ。おもしろいものを見せてやるぞ。」  画かきはにわかにまじめになって、赤だの白だのぐちゃぐちゃついた汚ない絵の具|箱をかついで、さっさと林の中にはいりました。そこで清作も、鍬をもたないで手がひまなので、ぶらぶら振ってついて行きました。  林のなかは浅黄いろで、肉桂のようなにおいがいっぱいでした。ところが入口から三本目の若い柏の木は、ちょうど片脚をあげておどりのまねをはじめるところでしたが二人の来たのを見てまるでびっくりして、それからひどくはずかしがって、あげた片脚の膝を、間がわるそうにべろべろ嘗めながら、横目でじっと二人の通りすぎるのをみていました。殊に清作が通り過ぎるときは、ちょっとあざ笑いました。清作はどうも仕方ないというような気がしてだまって画かきについて行きました。  ところがどうも、どの木も画かきには機嫌のいい顔をしますが、清作にはいやな顔を見せるのでした。  一本のごつごつした柏の木が、清作の通るとき、うすくらがりに、いきなり自分の脚をつき出して、つまずかせようとしましたが清作は、 「よっとしょ。」と云いながらそれをはね越えました。  画かきは、 「どうかしたかい。」といってちょっとふり向きましたが、またすぐ向うを向いてどんどんあるいて行きました。  ちょうどそのとき風が来ましたので、林中の柏の木はいっしょに、 「せらせらせら清作、せらせらせらばあ。」とうす気味のわるい声を出して清作をおどそうとしました。  ところが清作は却ってじぶんで口をすてきに大きくして横の方へまげて 「へらへらへら清作、へらへらへら、ばばあ。」とどなりつけましたので、柏の木はみんな度ぎもをぬかれてしいんとなってしまいました。画かきはあっはは、あっははとびっこのような笑いかたをしました。  そして二人はずうっと木の間を通って、柏の木大王のところに来ました。  大王は大小とりまぜて十九本の手と、一本の太い脚とをもって居りました。まわりにはしっかりしたけらいの柏どもが、まじめにたくさんがんばっています。  画かきは絵の具ばこをカタンとおろしました。すると大王はまがった腰をのばして、低い声で画かきに云いました。 「もうお帰りかの。待ってましたじゃ。そちらは新らしい客人じゃな。が、その人はよしなされ。前科者じゃぞ。前科|九十八犯じゃぞ。」  清作が怒ってどなりました。 「うそをつけ、前科者だと。おら正直だぞ。」  大王もごつごつの胸を張って怒りました。 「なにを。証拠はちゃんとあるじゃ。また帳面にも載っとるじゃ。貴さまの悪い斧のあとのついた九十八の足さきがいまでもこの林の中にちゃんと残っているじゃ。」 「あっはっは。おかしなはなしだ。九十八の足さきというのは、九十八の切株だろう。それがどうしたというんだ。おれはちゃんと、山主の藤助に酒を二|升買ってあるんだ。」 「そんならおれにはなぜ酒を買わんか。」 「買ういわれがない」 「いや、ある、沢山ある。買え」 「買ういわれがない」  画かきは顔をしかめて、しょんぼり立ってこの喧嘩をきいていましたがこのとき、俄かに林の木の間から、東の方を指さして叫びました。 「おいおい、喧嘩はよせ。まん円い大将に笑われるぞ。」  見ると東のとっぷりとした青い山脈の上に、大きなやさしい桃いろの月がのぼったのでした。お月さまのちかくはうすい緑いろになって、柏の若い木はみな、まるで飛びあがるように両手をそっちへ出して叫びました。 「おつきさん、おつきさん、おっつきさん、  ついお見外れして すみません  あんまりおなりが ちがうので  ついお見外れして すみません。」  柏の木大王も白いひげをひねって、しばらくうむうむと云いながら、じっとお月さまを眺めてから、しずかに歌いだしました。 「こよいあなたは ときいろの  むかしのきもの つけなさる  かしわばやしの このよいは  なつのおどりの だいさんや  やがてあなたは みずいろの  きょうのきものを つけなさる  かしわばやしの よろこびは  あなたのそらに かかるまま。」  画かきがよろこんで手を叩きました。 「うまいうまい。よしよし。夏のおどりの第三夜。みんな順々にここに出て歌うんだ。じぶんの文句でじぶんのふしで歌うんだ。一等賞から九等賞まではぼくが大きなメタルを書いて、明日枝にぶらさげてやる。」  清作もすっかり浮かれて云いました。 「さあ来い。へたな方の一等から九等までは、あしたおれがスポンと切って、こわいとこへ連れてってやるぞ。」  すると柏の木大王が怒りました。 「何を云うか。無礼者。」 「何が無礼だ。もう九本切るだけは、とうに山主の藤助に酒を買ってあるんだ。」 「そんならおれにはなぜ買わんか。」 「買ういわれがない。」 「いやある、沢山ある。」 「ない。」  画かきが顔をしかめて手をせわしく振って云いました。 「またはじまった。まあぼくがいいようにするから歌をはじめよう。だんだん星も出てきた。いいか、ぼくがうたうよ。賞品のうただよ。  一とうしょうは 白金メタル  二とうしょうは きんいろメタル  三とうしょうは すいぎんメタル  四とうしょうは ニッケルメタル  五とうしょうは とたんのメタル  六とうしょうは にせがねメタル  七とうしょうは なまりのメタル  八とうしょうは ぶりきのメタル  九とうしょうは マッチのメタル  十とうしょうから百とうしょうまで  あるやらないやらわからぬメタル。」  柏の木大王が機嫌を直してわははわははと笑いました。  柏の木どもは大王を正面に大きな環をつくりました。  お月さまは、いまちょうど、水いろの着ものと取りかえたところでしたから、そこらは浅い水の底のよう、木のかげはうすく網になって地に落ちました。  画かきは、赤いしゃっぽもゆらゆら燃えて見え、まっすぐに立って手帳をもち鉛筆をなめました。 「さあ、早くはじめるんだ。早いのは点がいいよ。」  そこで小さな柏の木が、一本ひょいっと環のなかから飛びだして大王に礼をしました。  月のあかりがぱっと青くなりました。 「おまえのうたは題はなんだ。」画かきは尤もらしく顔をしかめて云いました。 「馬と兎です。」 「よし、はじめ、」画かきは手帳に書いて云いました。 「兎のみみはなが……。」 「ちょっと待った。」画かきはとめました。「鉛筆が折れたんだ。ちょっと削るうち待ってくれ。」  そして画かきはじぶんの右足の靴をぬいでその中に鉛筆を削りはじめました。柏の木は、遠くからみな感心して、ひそひそ談し合いながら見て居りました。そこで大王もとうとう言いました。 「いや、客人、ありがとう。林をきたなくせまいとの、そのおこころざしはじつに辱けない。」  ところが画かきは平気で 「いいえ、あとでこのけずり屑で酢をつくりますからな。」 と返事したものですからさすがの大王も、すこし工合が悪そうに横を向き、柏の木もみな興をさまし、月のあかりもなんだか白っぽくなりました。  ところが画かきは、削るのがすんで立ちあがり、愉快そうに、 「さあ、はじめて呉れ。」と云いました。  柏はざわめき、月光も青くすきとおり、大王も機嫌を直してふんふんと云いました。  若い木は胸をはってあたらしく歌いました。 「うさぎのみみはながいけど  うまのみみよりながくない。」 「わあ、うまいうまい。ああはは、ああはは。」みんなはわらったりはやしたりしました。 「一とうしょう、白金メタル。」と画かきが手帳につけながら高く叫びました。 「ぼくのは狐のうたです。」  また一本の若い柏の木がでてきました。月光はすこし緑いろになりました。 「よろしいはじめっ。」 「きつね、こんこん、きつねのこ、  月よにしっぽが燃えだした。」 「わあ、うまいうまい。わっはは、わっはは。」 「第二とうしょう、きんいろメタル。」 「こんどはぼくやります。ぼくのは猫のうたです。」 「よろしいはじめっ。」 「やまねこ、にゃあご、ごろごろ  さとねこ、たっこ、ごろごろ。」 「わあ、うまいうまい。わっはは、わっはは。」 「第三とうしょう、水銀メタル。おい、みんな、大きいやつも出るんだよ。どうしてそんなにぐずぐずしてるんだ。」画かきが少し意地わるい顔つきをしました。 「わたしのはくるみの木のうたです。」  すこし大きな柏の木がはずかしそうに出てきました。 「よろしい、みんなしずかにするんだ。」  柏の木はうたいました。 「くるみはみどりのきんいろ、な、  風にふかれて  すいすいすい、  くるみはみどりの天狗のおうぎ、  風にふかれて  ばらんばらんばらん、  くるみはみどりのきんいろ、な、  風にふかれて  さんさんさん。」 「いいテノールだねえ。うまいねえ、わあわあ。」 「第|四とうしょう、ニッケルメタル。」 「ぼくのはさるのこしかけです。」 「よし、はじめ。」  柏の木は手を腰にあてました。 「こざる、こざる、  おまえのこしかけぬれてるぞ、  霧、ぽっしゃん ぽっしゃん ぽっしゃん、  おまえのこしかけくされるぞ。」 「いいテノールだねえ、いいテノールだねえ、うまいねえ、うまいねえ、わあわあ。」 「第五とうしょう、とたんのメタル。」 「わたしのはしゃっぽのうたです。」それはあの入口から三ばん目の木でした。 「よろしい。はじめ。」 「うこんしゃっぽのカンカラカンのカアン  あかいしゃっぽのカンカラカンのカアン。」 「うまいうまい。すてきだ。わあわあ。」 「第六とうしょう、にせがねメタル。」  このときまで、しかたなくおとなしく聞いていた清作が、いきなり叫びだしました。 「なんだ、この歌にせものだぞ。さっきひとのうたったのまねしたんだぞ。」 「だまれ、無礼もの、その方などの口を出すところでない。」柏の木大王がぶりぶりしてどなりました。 「なんだと、にせものだからにせものと云ったんだ。生意気いうと、あした斧をもってきて、片っぱしから伐ってしまうぞ。」 「なにを、こしゃくな。その方などの分際でない。」 「ばかを云え、おれはあした、山主の藤助にちゃんと二升酒を買ってくるんだ」 「そんならなぜおれには買わんか。」 「買ういわれがない。」 「買え。」 「いわれがない。」 「よせ、よせ、にせものだからにせがねのメタルをやるんだ。あんまりそう喧嘩するなよ。さあ、そのつぎはどうだ。出るんだ出るんだ。」  お月さまの光が青くすきとおってそこらは湖の底のようになりました。 「わたしのは清作のうたです。」  またひとりの若い頑丈そうな柏の木が出ました。 「何だと、」清作が前へ出てなぐりつけようとしましたら画かきがとめました。 「まあ、待ちたまえ。君のうただって悪口ともかぎらない。よろしい。はじめ。」  柏の木は足をぐらぐらしながらうたいました。 「清作は、一等卒の服を着て  野原に行って、ぶどうをたくさんとってきた。  と斯うだ。だれかあとをつづけてくれ。」 「ホウ、ホウ。」柏の木はみんなあらしのように、清作をひやかして叫びました。 「第|七とうしょう、なまりのメタル。」 「わたしがあとをつけます。」さっきの木のとなりからすぐまた一本の柏の木がとびだしました。 「よろしい、はじめ。」  かしわの木はちらっと清作の方を見て、ちょっとばかにするようにわらいましたが、すぐまじめになってうたいました。 「清作は、葡萄をみんなしぼりあげ  砂糖を入れて  瓶にたくさんつめこんだ。   おい、だれかあとをつづけてくれ。」 「ホッホウ、ホッホウ、ホッホウ、」柏の木どもは風のような変な声をだして清作をひやかしました。  清作はもうとびだしてみんなかたっぱしからぶんなぐってやりたくてむずむずしましたが、画かきがちゃんと前へ立ちふさがっていますので、どうしても出られませんでした。 「第八等、ぶりきのメタル。」 「わたしがつぎをやります。」さっきのとなりから、また一本の柏の木がとびだしました。 「よし、はじめっ。」 「清作が 納屋にしまった葡萄酒は  順序ただしく  みんなはじけてなくなった。」 「わっはっはっは、わっはっはっは、ホッホウ、ホッホウ、ホッホウ。がやがやがや……。」 「やかましい。きさまら、なんだってひとの酒のことなどおぼえてやがるんだ。」清作が飛び出そうとしましたら、画かきにしっかりつかまりました。 「第|九とうしょう。マッチのメタル。さあ、次だ、次だ、出るんだよ。どしどし出るんだ。」  ところがみんなは、もうしんとしてしまって、ひとりもでるものがありませんでした。 「これはいかん。でろ、でろ、みんなでないといかん。でろ。」画かきはどなりましたが、もうどうしても誰も出ませんでした。  仕方なく画かきは、 「こんどはメタルのうんといいやつを出すぞ。早く出ろ。」と云いましたら、柏の木どもははじめてざわっとしました。  そのとき林の奥の方で、さらさらさらさら音がして、それから、 「のろづきおほん、のろづきおほん、  おほん、おほん、  ごぎのごぎのおほん、  おほん、おほん、」 とたくさんのふくろうどもが、お月さまのあかりに青じろくはねをひるがえしながら、するするするする出てきて、柏の木の頭の上や手の上、肩やむねにいちめんにとまりました。  立派な金モールをつけたふくろうの大将が、上手に音もたてないで飛んできて、柏の木大王の前に出ました。そのまっ赤な眼のくまが、じつに奇体に見えました。よほど年老りらしいのでした。 「今晩は、大王どの、また高貴の客人がた、今晩はちょうどわれわれの方でも、飛び方と握み裂き術との大試験であったのじゃが、ただいまやっと終わりましたじゃ。  ついてはこれから連合で、大乱舞会をはじめてはどうじゃろう。あまりにもたえなるうたのしらべが、われらのまどいのなかにまで響いて来たによって、このようにまかり出ましたのじゃ。」 「たえなるうたのしらべだと、畜生。」清作が叫びました。  柏の木大王がきこえないふりをして大きくうなずきました。 「よろしゅうござる。しごく結構でござろう。いざ、早速とりはじめるといたそうか。」 「されば、」梟の大将はみんなの方に向いてまるで黒砂糖のような甘ったるい声でうたいました。 「からすかんざえもんは  くろいあたまをくうらりくらり、  とんびとうざえもんは  あぶら一|升でとうろりとろり、  そのくらやみはふくろうの  いさみにいさむもののふが  みみずをつかむときなるぞ  ねとりを襲うときなるぞ。」  ふくろうどもはもうみんなばかのようになってどなりました。 「のろづきおほん、  おほん、おほん、  ごぎのごぎおほん、  おほん、おほん。」  かしわの木大王が眉をひそめて云いました。 「どうもきみたちのうたは下等じゃ。君子のきくべきものではない。」  ふくろうの大将はへんな顔をしてしまいました。すると赤と白の綬をかけたふくろうの副官が笑って云いました。 「まあ、こんやはあんまり怒らないようにいたしましょう。うたもこんどは上等のをやりますから。みんな一しょにおどりましょう。さあ木の方も鳥の方も用意いいか。  おつきさんおつきさん まんまるまるるるん  おほしさんおほしさん ぴかりぴりるるん  かしわはかんかの   かんからからららん  ふくろはのろづき   おっほほほほほほん。」  かしわの木は両手をあげてそりかえったり、頭や足をまるで天上に投げあげるようにしたり、一生けん命|踊りました。それにあわせてふくろうどもは、さっさっと銀いろのはねを、ひらいたりとじたりしました。じつにそれがうまく合ったのでした。月の光は真珠のように、すこしおぼろになり、柏の木大王もよろこんですぐうたいました。 「雨はざあざあ ざっざざざざざあ  風はどうどう どっどどどどどう  あられぱらぱらぱらぱらったたあ  雨はざあざあ ざっざざざざざあ」 「あっだめだ、霧が落ちてきた。」とふくろうの副官が高く叫びました。  なるほど月はもう青白い霧にかくされてしまってぼおっと円く見えるだけ、その霧はまるで矢のように林の中に降りてくるのでした。  柏の木はみんな度をうしなって、片脚をあげたり両手をそっちへのばしたり、眼をつりあげたりしたまま化石したようにつっ立ってしまいました。  冷たい霧がさっと清作の顔にかかりました。画かきはもうどこへ行ったか赤いしゃっぽだけがほうり出してあって、自分はかげもかたちもありませんでした。  霧の中を飛ぶ術のまだできていないふくろうの、ばたばた遁げて行く音がしました。  清作はそこで林を出ました。柏の木はみんな踊のままの形で残念そうに横眼で清作を見送りました。  林を出てから空を見ますと、さっきまでお月さまのあったあたりはやっとぼんやりあかるくて、そこを黒い犬のような形の雲がかけて行き、林のずうっと向うの沼森のあたりから、 「赤いしゃっぽのカンカラカンのカアン。」と画かきが力いっぱい叫んでいる声がかすかにきこえました。 どっどど どどうど どどうど どどう 青いくるみも吹きとばせ すっぱいかりんも吹きとばせ どっどど どどうど どどうど どどう  谷川の岸に小さな学校がありました。  教室はたった一つでしたが生徒は三年生がないだけで、あとは一年から六年までみんなありました。運動場もテニスコートのくらいでしたが、すぐうしろは栗の木のあるきれいな草の山でしたし、運動場のすみにはごぼごぼつめたい水を噴く岩穴もあったのです。  さわやかな九月一日の朝でした。青ぞらで風がどうと鳴り、日光は運動場いっぱいでした。黒い雪袴をはいた二人の一年生の子がどてをまわって運動場にはいって来て、まだほかにだれも来ていないのを見て、「ほう、おら一等だぞ。一等だぞ。」とかわるがわる叫びながら大よろこびで門をはいって来たのでしたが、ちょっと教室の中を見ますと、二人ともまるでびっくりして棒立ちになり、それから顔を見合わせてぶるぶるふるえましたが、ひとりはとうとう泣き出してしまいました。というわけは、そのしんとした朝の教室のなかにどこから来たのか、まるで顔も知らないおかしな赤い髪の子供がひとり、いちばん前の机にちゃんとすわっていたのです。そしてその机といったらまったくこの泣いた子の自分の机だったのです。  もひとりの子ももう半分泣きかけていましたが、それでもむりやり目をりんと張って、そっちのほうをにらめていましたら、ちょうどそのとき、川上から、 「ちょうはあ かぐり ちょうはあ かぐり。」と高く叫ぶ声がして、それからまるで大きなからすのように、嘉助がかばんをかかえてわらって運動場へかけて来ました。と思ったらすぐそのあとから佐太郎だの耕助だのどやどややってきました。 「なして泣いでら、うなかもたのが。」嘉助が泣かないこどもの肩をつかまえて言いました。するとその子もわあと泣いてしまいました。おかしいとおもってみんながあたりを見ると、教室の中にあの赤毛のおかしな子がすまして、しゃんとすわっているのが目につきました。  みんなはしんとなってしまいました。だんだんみんな女の子たちも集まって来ましたが、だれもなんとも言えませんでした。  赤毛の子どもはいっこうこわがるふうもなくやっぱりちゃんとすわって、じっと黒板を見ています。すると六年生の一郎が来ました。一郎はまるでおとなのようにゆっくり大またにやってきて、みんなを見て、 「何した。」とききました。  みんなははじめてがやがや声をたててその教室の中の変な子を指さしました。一郎はしばらくそっちを見ていましたが、やがて鞄をしっかりかかえて、さっさと窓の下へ行きました。  みんなもすっかり元気になってついて行きました。 「だれだ、時間にならないに教室へはいってるのは。」一郎は窓へはいのぼって教室の中へ顔をつき出して言いました。 「お天気のいい時教室さはいってるづど先生にうんとしからえるぞ。」窓の下の耕助が言いました。 「しからえでもおら知らないよ。」嘉助が言いました。 「早ぐ出はって来、出はって来。」一郎が言いました。けれどもそのこどもはきょろきょろ室の中やみんなのほうを見るばかりで、やっぱりちゃんとひざに手をおいて腰掛けにすわっていました。  ぜんたいその形からが実におかしいのでした。変てこなねずみいろのだぶだぶの上着を着て、白い半ずぼんをはいて、それに赤い革の半靴をはいていたのです。  それに顔といったらまるで熟したりんごのよう、ことに目はまん丸でまっくろなのでした。いっこう言葉が通じないようなので一郎も全く困ってしまいました。 「あいづは外国人だな。」 「学校さはいるのだな。」みんなはがやがやがやがや言いました。ところが五年生の嘉助がいきなり、 「ああ三年生さはいるのだ。」と叫びましたので、 「ああそうだ。」と小さいこどもらは思いましたが、一郎はだまってくびをまげました。  変なこどもはやはりきょろきょろこっちを見るだけ、きちんと腰掛けています。  そのとき風がどうと吹いて来て教室のガラス戸はみんながたがた鳴り、学校のうしろの山の萱や栗の木はみんな変に青じろくなってゆれ、教室のなかのこどもはなんだかにやっとわらってすこしうごいたようでした。  すると嘉助がすぐ叫びました。 「ああわかった。あいつは風の又三郎だぞ。」  そうだっとみんなもおもったとき、にわかにうしろのほうで五郎が、 「わあ、痛いぢゃあ。」と叫びました。  みんなそっちへ振り向きますと、五郎が耕助に足のゆびをふまれて、まるでおこって耕助をなぐりつけていたのです。すると耕助もおこって、 「わあ、われ悪くてでひと撲いだなあ。」と言ってまた五郎をなぐろうとしました。  五郎はまるで顔じゅう涙だらけにして耕助に組み付こうとしました。そこで一郎が間へはいって嘉助が耕助を押えてしまいました。 「わあい、けんかするなったら、先生あちゃんと職員室に来てらぞ。」と一郎が言いながらまた教室のほうを見ましたら、一郎はにわかにまるでぽかんとしてしまいました。  たったいままで教室にいたあの変な子が影もかたちもないのです。みんなもまるでせっかく友だちになった子うまが遠くへやられたよう、せっかく捕った山雀に逃げられたように思いました。  風がまたどうと吹いて来て窓ガラスをがたがた言わせ、うしろの山の萱をだんだん上流のほうへ青じろく波だてて行きました。 「わあ、うなだけんかしたんだがら又三郎いなぐなったな。」嘉助がおこって言いました。  みんなもほんとうにそう思いました。五郎はじつに申しわけないと思って、足の痛いのも忘れてしょんぼり肩をすぼめて立ったのです。 「やっぱりあいつは風の又三郎だったな。」 「二百十日で来たのだな。」 「靴はいでだたぞ。」 「服も着でだたぞ。」 「髪赤くておかしやづだったな。」 「ありゃありゃ、又三郎おれの机の上さ石かけ乗せでったぞ。」二年生の子が言いました。見るとその子の机の上にはきたない石かけが乗っていたのです。 「そうだ、ありゃ。あそごのガラスもぶっかしたぞ。」 「そだないであ。あいづあ休み前に嘉助石ぶっつけだのだな。」 「わあい。そだないであ。」と言っていたとき、これはまたなんというわけでしょう。先生が玄関から出て来たのです。先生はぴかぴか光る呼び子を右手にもって、もう集まれのしたくをしているのでしたが、そのすぐうしろから、さっきの赤い髪の子が、まるで権現さまの尾っぱ持ちのようにすまし込んで、白いシャッポをかぶって、先生についてすぱすぱとあるいて来たのです。  みんなはしいんとなってしまいました。やっと一郎が「先生お早うございます。」と言いましたのでみんなもついて、 「先生お早うございます。」と言っただけでした。 「みなさん。お早う。どなたも元気ですね。では並んで。」先生は呼び子をビルルと吹きました。それはすぐ谷の向こうの山へひびいてまたビルルルと低く戻ってきました。  すっかりやすみの前のとおりだとみんなが思いながら六年生は一人、五年生は七人、四年生は六人、一二年生は十二人、組ごとに一列に縦にならびました。  二年は八人、一年生は四人前へならえをしてならんだのです。  するとその間あのおかしな子は、何かおかしいのかおもしろいのか奥歯で横っちょに舌をかむようにして、じろじろみんなを見ながら先生のうしろに立っていたのです。すると先生は、高田さんこっちへおはいりなさいと言いながら五年生の列のところへ連れて行って、丈を嘉助とくらべてから嘉助とそのうしろのきよの間へ立たせました。  みんなはふりかえってじっとそれを見ていました。  先生はまた玄関の前に戻って、 「前へならえ。」と号令をかけました。  みんなはもう一ぺん前へならえをしてすっかり列をつくりましたが、じつはあの変な子がどういうふうにしているのか見たくて、かわるがわるそっちをふりむいたり横目でにらんだりしたのでした。するとその子はちゃんと前へならえでもなんでも知ってるらしく平気で両腕を前へ出して、指さきを嘉助のせなかへやっと届くくらいにしていたものですから、嘉助はなんだかせなかがかゆく、くすぐったいというふうにもじもじしていました。 「直れ。」先生がまた号令をかけました。 「一年から順に前へおい。」そこで一年生はあるき出し、まもなく二年生もあるき出してみんなの前をぐるっと通って、右手の下駄箱のある入り口にはいって行きました。四年生があるき出すとさっきの子も嘉助のあとへついて大威張りであるいて行きました。前へ行った子もときどきふりかえって見、あとの者もじっと見ていたのです。  まもなくみんなははきものを下駄箱に入れて教室へはいって、ちょうど外へならんだときのように組ごとに一列に机にすわりました。さっきの子もすまし込んで嘉助のうしろにすわりました。ところがもう大さわぎです。 「わあ、おらの机さ石かけはいってるぞ。」 「わあ、おらの机代わってるぞ。」 「キッコ、キッコ、うな通信簿持って来たが。おら忘れで来たぢゃあ。」 「わあい、さの、木ペン借せ、木ペン借せったら。」 「わあがない。ひとの雑記帳とってって。」  そのとき先生がはいって来ましたのでみんなもさわぎながらとにかく立ちあがり、一郎がいちばんうしろで、 「礼。」と言いました。  みんなはおじぎをする間はちょっとしんとなりましたが、それからまたがやがやがやがや言いました。 「しずかに、みなさん。しずかにするのです。」先生が言いました。 「しっ、悦治、やがましったら、嘉助え、喜っこう。わあい。」と一郎がいちばんうしろからあまりさわぐものを一人ずつしかりました。  みんなはしんとなりました。  先生が言いました。 「みなさん、長い夏のお休みはおもしろかったですね。みなさんは朝から水泳ぎもできたし、林の中で鷹にも負けないくらい高く叫んだり、またにいさんの草刈りについて上の野原へ行ったりしたでしょう。けれどももうきのうで休みは終わりました。これからは第二学期で秋です。むかしから秋はいちばんからだもこころもひきしまって、勉強のできる時だといってあるのです。ですから、みなさんもきょうからまたいっしょにしっかり勉強しましょう。それからこのお休みの間にみなさんのお友だちが一人ふえました。それはそこにいる高田さんです。そのかたのおとうさんはこんど会社のご用で上の野原の入り口へおいでになっていられるのです。高田さんはいままでは北海道の学校におられたのですが、きょうからみなさんのお友だちになるのですから、みなさんは学校で勉強のときも、また栗拾いや魚とりに行くときも、高田さんをさそうようにしなければなりません。わかりましたか。わかった人は手をあげてごらんなさい。」  すぐみんなは手をあげました。その高田とよばれた子も勢いよく手をあげましたので、ちょっと先生はわらいましたが、すぐ、 「わかりましたね、ではよし。」と言いましたので、みんなは火の消えたように一ぺんに手をおろしました。  ところが嘉助がすぐ、 「先生。」といってまた手をあげました。 「はい。」先生は嘉助を指さしました。 「高田さん名はなんて言うべな。」 「高田|三郎さんです。」 「わあ、うまい、そりゃ、やっぱり又三郎だな。」嘉助はまるで手をたたいて机の中で踊るようにしましたので、大きなほうの子どもらはどっと笑いましたが、下の子どもらは何かこわいというふうにしいんとして三郎のほうを見ていたのです。  先生はまた言いました。 「きょうはみなさんは通信簿と宿題をもってくるのでしたね。持って来た人は机の上へ出してください。私がいま集めに行きますから。」  みんなはばたばた鞄をあけたりふろしきをといたりして、通信簿と宿題を机の上に出しました。そして先生が一年生のほうから順にそれを集めはじめました。そのときみんなはぎょっとしました。というわけはみんなのうしろのところにいつか一人の大人が立っていたのです。その人は白いだぶだぶの麻服を着て黒いてかてかしたはんけちをネクタイの代わりに首に巻いて、手には白い扇をもって軽くじぶんの顔を扇ぎながら少し笑ってみんなを見おろしていたのです。さあみんなはだんだんしいんとなって、まるで堅くなってしまいました。  ところが先生は別にその人を気にかけるふうもなく、順々に通信簿を集めて三郎の席まで行きますと、三郎は通信簿も宿題帳もないかわりに両手をにぎりこぶしにして二つ机の上にのせていたのです。先生はだまってそこを通りすぎ、みんなのを集めてしまうとそれを両手でそろえながらまた教壇に戻りました。 「では宿題帳はこの次の土曜日に直して渡しますから、きょう持って来なかった人は、あしたきっと忘れないで持って来てください。それは悦治さんと勇治さんと良作さんとですね。ではきょうはここまでです。あしたからちゃんといつものとおりのしたくをしておいでなさい。それから四年生と六年生の人は、先生といっしょに教室のお掃除をしましょう。ではここまで。」  一郎が気をつけ、と言いみんなは一ぺんに立ちました。うしろの大人も扇を下にさげて立ちました。 「礼。」先生もみんなも礼をしました。うしろの大人も軽く頭を下げました。それからずうっと下の組の子どもらは一目散に教室を飛び出しましたが、四年生の子どもらはまだもじもじしていました。  すると三郎はさっきのだぶだぶの白い服の人のところへ行きました。先生も教壇をおりてその人のところへ行きました。 「いやどうもご苦労さまでございます。」その大人はていねいに先生に礼をしました。 「じきみんなとお友だちになりますから。」先生も礼を返しながら言いました。 「何ぶんどうかよろしくおねがいいたします。それでは。」その人はまたていねいに礼をして目で三郎に合図すると、自分は玄関のほうへまわって外へ出て待っていますと、三郎はみんなの見ている中を目をりんとはってだまって昇降口から出て行って追いつき、二人は運動場を通って川下のほうへ歩いて行きました。  運動場を出るときその子はこっちをふりむいて、じっと学校やみんなのほうをにらむようにすると、またすたすた白服の大人について歩いて行きました。 「先生、あの人は高田さんのとうさんですか。」一郎が箒をもちながら先生にききました。 「そうです。」 「なんの用で来たべ。」 「上の野原の入り口にモリブデンという鉱石ができるので、それをだんだん掘るようにするためだそうです。」 「どこらあだりだべな。」 「私もまだよくわかりませんが、いつもみなさんが馬をつれて行くみちから、少し川下へ寄ったほうなようです。」 「モリブデン何にするべな。」 「それは鉄とまぜたり、薬をつくったりするのだそうです。」 「そだら又三郎も掘るべが。」嘉助が言いました。 「又三郎だない。高田三郎だぢゃ。」佐太郎が言いました。 「又三郎だ又三郎だ。」嘉助が顔をまっ赤にしてがん張りました。 「嘉助、うなも残ってらば掃除してすけろ。」一郎が言いました。 「わあい。やんたぢゃ。きょう四年生ど六年生だな。」  嘉助は大急ぎで教室をはねだして逃げてしまいました。  風がまた吹いて来て窓ガラスはまたがたがた鳴り、ぞうきんを入れたバケツにも小さな黒い波をたてました。  次の日一郎はあのおかしな子供が、きょうからほんとうに学校へ来て本を読んだりするかどうか早く見たいような気がして、いつもより早く嘉助をさそいました。ところが嘉助のほうは一郎よりもっとそう考えていたと見えて、とうにごはんもたべ、ふろしきに包んだ本ももって家の前へ出て一郎を待っていたのでした。二人は途中もいろいろその子のことを話しながら学校へ来ました。すると運動場には小さな子供らがもう七八人集まっていて、棒かくしをしていましたが、その子はまだ来ていませんでした。またきのうのように教室の中にいるのかと思って中をのぞいて見ましたが、教室の中はしいんとしてだれもいず、黒板の上にはきのう掃除のときぞうきんでふいた跡がかわいてぼんやり白い縞になっていました。 「きのうのやつまだ来てないな。」一郎が言いました。 「うん。」嘉助も言ってそこらを見まわしました。  一郎はそこで鉄棒の下へ行って、じゃみ上がりというやり方で、無理やりに鉄棒の上にのぼり両腕をだんだん寄せて右の腕木に行くと、そこへ腰掛けてきのう三郎の行ったほうをじっと見おろして待っていました。谷川はそっちのほうへきらきら光ってながれて行き、その下の山の上のほうでは風も吹いているらしく、ときどき萱が白く波立っていました。  嘉助もやっぱりその柱の下でじっとそっちを見て待っていました。ところが二人はそんなに長く待つこともありませんでした。それは突然三郎がその下手のみちから灰いろの鞄を右手にかかえて走るようにして出て来たのです。 「来たぞ。」と一郎が思わず下にいる嘉助へ叫ぼうとしていますと、早くも三郎はどてをぐるっとまわって、どんどん正門をはいって来ると、 「お早う。」とはっきり言いました。みんなはいっしょにそっちをふり向きましたが、一人も返事をしたものがありませんでした。  それは返事をしないのではなくて、みんなは先生にはいつでも「お早うございます。」というように習っていたのですが、お互いに「お早う。」なんて言ったことがなかったのに三郎にそう言われても、一郎や嘉助はあんまりにわかで、また勢いがいいのでとうとう臆してしまって一郎も嘉助も口の中でお早うというかわりに、もにゃもにゃっと言ってしまったのでした。  ところが三郎のほうはべつだんそれを苦にするふうもなく、二三歩また前へ進むとじっと立って、そのまっ黒な目でぐるっと運動場じゅうを見まわしました。そしてしばらくだれか遊ぶ相手がないかさがしているようでした。けれどもみんなきょろきょろ三郎のほうはみていても、やはり忙しそうに棒かくしをしたり三郎のほうへ行くものがありませんでした。三郎はちょっと具合が悪いようにそこにつっ立っていましたが、また運動場をもう一度見まわしました。  それからぜんたいこの運動場は何間あるかというように、正門から玄関まで大またに歩数を数えながら歩きはじめました。一郎は急いで鉄棒をはねおりて嘉助とならんで、息をこらしてそれを見ていました。  そのうち三郎は向こうの玄関の前まで行ってしまうと、こっちへ向いてしばらく暗算をするように少し首をまげて立っていました。  みんなはやはりきろきろそっちを見ています。三郎は少し困ったように両手をうしろへ組むと向こう側の土手のほうへ職員室の前を通って歩きだしました。  その時風がざあっと吹いて来て土手の草はざわざわ波になり、運動場のまん中でさあっと塵があがり、それが玄関の前まで行くと、きりきりとまわって小さなつむじ風になって、黄いろな塵は瓶をさかさまにしたような形になって屋根より高くのぼりました。  すると嘉助が突然高く言いました。 「そうだ。やっぱりあいづ又三郎だぞ。あいづ何かするときっと風吹いてくるぞ。」 「うん。」一郎はどうだかわからないと思いながらもだまってそっちを見ていました。三郎はそんなことにはかまわず土手のほうへやはりすたすた歩いて行きます。  そのとき先生がいつものように呼び子をもって玄関を出て来たのです。 「お早うございます。」小さな子どもらはみんな集まりました。 「お早う。」先生はちらっと運動場を見まわしてから、「ではならんで。」と言いながらビルルッと笛を吹きました。  みんなは集まってきてきのうのとおりきちんとならびました。三郎もきのう言われた所へちゃんと立っています。  先生はお日さまがまっ正面なのですこしまぶしそうにしながら号令をだんだんかけて、とうとうみんなは昇降口から教室へはいりました。そして礼がすむと先生は、 「ではみなさんきょうから勉強をはじめましょう。みなさんはちゃんとお道具をもってきましたね。では一年生の人はお習字のお手本と硯と紙を出して、二年生と四年生の人は算術帳と雑記帳と鉛筆を出して、五年生と六年生の人は国語の本を出してください。」  さあするとあっちでもこっちでも大さわぎがはじまりました。中にも三郎のすぐ横の四年生の机の佐太郎が、いきなり手をのばして二年生のかよの鉛筆をひらりととってしまったのです。かよは佐太郎の妹でした。するとかよは、 「うわあ、兄な、木ペン取てわかんないな。」と言いながら取り返そうとしますと佐太郎が、 「わあ、こいつおれのだなあ。」と言いながら鉛筆をふところの中へ入れて、あとはシナ人がおじぎするときのように両手を袖へ入れて、机へぴったり胸をくっつけました。するとかよは立って来て、 「兄な、兄なの木ペンはきのう小屋でなくしてしまったけなあ。よこせったら。」と言いながら一生けん命とり返そうとしましたが、どうしてももう佐太郎は机にくっついた大きな蟹の化石みたいになっているので、とうとうかよは立ったまま口を大きくまげて泣きだしそうになりました。  すると三郎は国語の本をちゃんと机にのせて困ったようにしてこれを見ていましたが、かよがとうとうぼろぼろ涙をこぼしたのを見ると、だまって右手に持っていた半分ばかりになった鉛筆を佐太郎の目の前の机に置きました。  すると佐太郎はにわかに元気になって、むっくり起き上がりました。そして、 「くれる?」と三郎にききました。三郎はちょっとまごついたようでしたが覚悟したように、「うん。」と言いました。すると佐太郎はいきなりわらい出してふところの鉛筆をかよの小さな赤い手に持たせました。  先生は向こうで一年生の子の硯に水をついでやったりしていましたし、嘉助は三郎の前ですから知りませんでしたが、一郎はこれをいちばんうしろでちゃんと見ていました。そしてまるでなんと言ったらいいかわからない、変な気持ちがして歯をきりきり言わせました。 「では二年生のひとはお休みの前にならった引き算をもう一ぺん習ってみましょう。これを勘定してごらんなさい。」先生は黒板に25-12=と書きました。二年生のこどもらはみんな一生けん命にそれを雑記帳にうつしました。かよも頭を雑記帳へくっつけるようにしています。「四年生の人はこれを置いて。」17×4=と書きました。  四年生は佐太郎をはじめ喜蔵も甲助もみんなそれをうつしました。 「五年生の人は読本のページの課をひらいて声をたてないで読めるだけ読んでごらんなさい。わからない字は雑記帳へ拾っておくのです。」五年生もみんな言われたとおりしはじめました。 「一郎さんは読本のページをしらべてやはり知らない字を書き抜いてください。」  それがすむと先生はまた教壇をおりて、一年生の習字を一人一人見てあるきました。  三郎は両手で本をちゃんと机の上へもって、言われたところを息もつかずじっと読んでいました。けれども雑記帳へは字を一つも書き抜いていませんでした。それはほんとうに知らない字が一つもないのか、たった一本の鉛筆を佐太郎にやってしまったためか、どっちともわかりませんでした。  そのうち先生は教壇へ戻って二年生と四年生の算術の計算をして見せてまた新しい問題を出すと、今度は五年生の生徒の雑記帳へ書いた知らない字を黒板へ書いて、それにかなとわけをつけました。そして、 「では嘉助さん、ここを読んで。」と言いました。  嘉助は二三度ひっかかりながら先生に教えられて読みました。  三郎もだまって聞いていました。  先生も本をとって、じっと聞いていましたが、十行ばかり読むと、 「そこまで。」と言ってこんどは先生が読みました。  そうして一まわり済むと、先生はだんだんみんなの道具をしまわせました。  それから「ではここまで。」と言って教壇に立ちますと一郎がうしろで、 「気をつけい。」と言いました。そして礼がすむと、みんな順に外へ出てこんどは外へならばずにみんな別れ別れになって遊びました。  二時間目は一年生から六年生までみんな唱歌でした。そして先生がマンドリンを持って出て来て、みんなはいままでに習ったのを先生のマンドリンについて五つもうたいました。  三郎もみんな知っていて、みんなどんどん歌いました。そしてこの時間はたいへん早くたってしまいました。  三時間目になるとこんどは二年生と四年生が国語で、五年生と六年生が数学でした。先生はまた黒板に問題を書いて五年生と六年生に計算させました。しばらくたって一郎が答えを書いてしまうと、三郎のほうをちょっと見ました。  すると三郎は、どこから出したか小さな消し炭で雑記帳の上へがりがりと大きく運算していたのです。  次の朝、空はよく晴れて谷川はさらさら鳴りました。一郎は途中で嘉助と佐太郎と悦治をさそっていっしょに三郎のうちのほうへ行きました。  学校の少し下流で谷川をわたって、それから岸で楊の枝をみんなで一本ずつ折って、青い皮をくるくるはいで鞭をこしらえて手でひゅうひゅう振りながら、上の野原への道をだんだんのぼって行きました。みんなは早くも登りながら息をはあはあしました。 「又三郎ほんとにあそごのわき水まで来て待ぢでるべが。」 「待ぢでるんだ。又三郎うそこがないもな。」 「ああ暑う、風吹げばいいな。」 「どごがらだが風吹いでるぞ。」 「又三郎吹がせでらべも。」 「なんだがお日さんぼやっとして来たな。」  空に少しばかりの白い雲が出ました。そしてもうだいぶのぼっていました。谷のみんなの家がずうっと下に見え、一郎のうちの木小屋の屋根が白く光っています。  道が林の中に入り、しばらく道はじめじめして、あたりは見えなくなりました。そしてまもなくみんなは約束のわき水の近くに来ました。するとそこから、 「おうい。みんな来たかい。」と三郎の高く叫ぶ声がしました。  みんなはまるでせかせかと走ってのぼりました。向こうの曲がり角の所に三郎が小さなくちびるをきっと結んだまま、三人のかけ上って来るのを見ていました。  三人はやっと三郎の前まで来ました。けれどもあんまり息がはあはあしてすぐには何も言えませんでした。嘉助などはあんまりもどかしいもんですから、空へ向いて「ホッホウ。」と叫んで早く息を吐いてしまおうとしました。すると三郎は大きな声で笑いました。 「ずいぶん待ったぞ。それにきょうは雨が降るかもしれないそうだよ。」 「そだら早ぐ行ぐべすさ。おらまんつ水飲んでぐ。」三人は汗をふいてしゃがんで、まっ白な岩からごぼごぼ噴きだす冷たい水を何べんもすくってのみました。 「ぼくのうちはここからすぐなんだ。ちょうどあの谷の上あたりなんだ。みんなで帰りに寄ろうねえ。」 「うん。まんつ野原さ行ぐべすさ。」  みんながまたあるきはじめたときわき水は何かを知らせるようにぐうっと鳴り、そこらの木もなんだかざあっと鳴ったようでした。  五人は林のすその藪の間を行ったり岩かけの小さくくずれる所を何べんも通ったりして、もう上の野原の入り口に近くなりました。  みんなはそこまで来ると来たほうからまた西のほうをながめました。  光ったりかげったり幾通りにも重なったたくさんの丘の向こうに、川に沿ったほんとうの野原がぼんやり碧くひろがっているのでした。 「ありゃ、あいづ川だぞ。」 「春日明神さんの帯のようだな。」三郎が言いました。 「何のようだど。」一郎がききました。 「春日明神さんの帯のようだ。」 「うな神さんの帯見だごとあるが。」 「ぼく北海道で見たよ。」  みんなはなんのことだかわからずだまってしまいました。  ほんとうにそこはもう上の野原の入り口で、きれいに刈られた草の中に一本の大きな栗の木が立って、その幹は根もとの所がまっ黒に焦げて大きな洞のようになり、その枝には古い繩や、切れたわらじなどがつるしてありました。 「もう少し行ぐづどみんなして草刈ってるぞ。それから馬のいるどごもあるぞ。」一郎は言いながら先に立って刈った草のなかの一ぽんみちをぐんぐん歩きました。  三郎はその次に立って、 「ここには熊いないから馬をはなしておいてもいいなあ。」と言って歩きました。  しばらく行くとみちばたの大きな楢の木の下に、繩で編んだ袋が投げ出してあって、たくさんの草たばがあっちにもこっちにもころがっていました。  せなかに草束をしょった二匹の馬が、一郎を見て鼻をぷるぷる鳴らしました。 「兄な、いるが。兄な、来たぞ。」一郎は汗をぬぐいながら叫びました。 「おおい。ああい。そこにいろ。今行ぐぞ。」ずうっと向こうのくぼみで、一郎のにいさんの声がしました。  日はぱっと明るくなり、にいさんがそっちの草の中から笑って出て来ました。 「善ぐ来たな。みんなも連れで来たのが。善ぐ来た。戻りに馬こ連れでてけろな。きょうあ午まがらきっと曇る。おらもう少し草集めて仕舞がらな、うなだ遊ばばあの土手の中さはいってろ。まだ牧馬の馬二十匹ばかりはいるがらな。」  にいさんは向こうへ行こうとして、振り向いてまた言いました。 「土手がら外さ出はるなよ。迷ってしまうづどあぶないがらな。午まになったらまた来るがら。」 「うん。土手の中にいるがら。」  そして一郎のにいさんは行ってしまいました。  空にはうすい雲がすっかりかかり、太陽は白い鏡のようになって、雲と反対に馳せました。風が出て来てまだ刈っていない草は一面に波を立てます。一郎はさきにたって小さなみちをまっすぐに行くと、まもなくどてになりました。その土手の一とこちぎれたところに二本の丸太の棒を横にわたしてありました。悦治がそれをくぐろうとしますと、嘉助が、 「おらこったなものはずせだぞ。」と言いながら片っぽうのはじをぬいて下におろしましたのでみんなはそれをはね越えて中にはいりました。  向こうの少し小高いところにてかてか光る茶いろの馬が七匹ばかり集まって、しっぽをゆるやかにばしゃばしゃふっているのです。 「この馬みんな千円以上するづもな。来年がらみんな競馬さも出はるのだづぢゃい。」一郎はそばへ行きながら言いました。  馬はみんないままでさびしくってしようなかったというように一郎たちのほうへ寄ってきました。そして鼻づらをずうっとのばして何かほしそうにするのです。 「ははあ、塩をけろづのだな。」みんなは言いながら手を出して馬になめさせたりしましたが、三郎だけは馬になれていないらしく気味わるそうに手をポケットへ入れてしまいました。 「わあ、又三郎馬おっかながるぢゃい。」と悦治が言いました。すると三郎は、 「こわくなんかないやい。」と言いながらすぐポケットの手を馬の鼻づらへのばしましたが、馬が首をのばして舌をべろりと出すと、さっと顔いろを変えてすばやくまた手をポケットへ入れてしまいました。 「わあい、又三郎馬おっかながるぢゃい。」悦治がまた言いました。すると三郎はすっかり顔を赤くしてしばらくもじもじしていましたが、 「そんなら、みんなで競馬やるか。」と言いました。  競馬ってどうするのかとみんな思いました。  すると三郎は、 「ぼく競馬何べんも見たぞ。けれどもこの馬みんな鞍がないから乗れないや。みんなで一匹ずつ馬を追って、はじめに向こうの、そら、あの大きな木のところに着いたものを一等にしよう。」 「そいづおもしろいな。」嘉助が言いました。 「しからえるぞ。牧夫に見つけらえでがら。」 「大丈夫だよ。競馬に出る馬なんか練習をしていないといけないんだい。」三郎が言いました。 「よしおらこの馬だぞ。」 「おらこの馬だ。」 「そんならぼくはこの馬でもいいや。」みんなは楊の枝や萱の穂でしゅうと言いながら馬を軽く打ちました。  ところが馬はちっともびくともしませんでした。やはり下へ首をたれて草をかいだり、首をのばしてそこらのけしきをもっとよく見るというようにしているのです。  一郎がそこで両手をぴしゃんと打ち合わせて、だあ、と言いました。  するとにわかに七匹ともまるでたてがみをそろえてかけ出したのです。 「うまあい。」嘉助ははね上がって走りました。けれどもそれはどうも競馬にはならないのでした。  第一、馬はどこまでも顔をならべて走るのでしたし、それにそんなに競馬するくらい早く走るのでもなかったのです。それでもみんなはおもしろがって、だあだと言いながら一生けん命そのあとを追いました。  馬はすこし行くと立ちどまりそうになりました。みんなもすこしはあはあしましたが、こらえてまた馬を追いました。するといつか馬はぐるっとさっきの小高いところをまわって、さっき五人ではいって来たどての切れた所へ来たのです。 「あ、馬出はる、馬出はる。押えろ 押えろ。」一郎はまっ青になって叫びました。じっさい馬はどての外へ出たのらしいのでした。どんどん走って、もうさっきの丸太の棒を越えそうになりました。  一郎はまるであわてて、 「どう、どう、どうどう。」と言いながら一生けん命走って行って、やっとそこへ着いてまるでころぶようにしながら手をひろげたときは、そのときはもう二匹は柵の外へ出ていたのです。 「早ぐ来て押えろ。早ぐ来て。」一郎は息も切れるように叫びながら丸太棒をもとのようにしました。  四人は走って行って急いで丸太をくぐって外へ出ますと、二匹の馬はもう走るでもなく、どての外に立って草を口で引っぱって抜くようにしています。 「そろそろど押えろよ。そろそろど。」と言いながら一郎は一ぴきのくつわについた札のところをしっかり押えました。嘉助と三郎がもう一匹を押えようとそばへ寄りますと、馬はまるでおどろいたようにどてへ沿って一目散に南のほうへ走ってしまいました。 「兄な、馬あ逃げる、馬あ逃げる。兄な、馬逃げる。」とうしろで一郎が一生けん命叫んでいます。三郎と嘉助は一生けん命馬を追いました。  ところが馬はもう今度こそほんとうに逃げるつもりらしかったのです。まるで丈ぐらいある草をわけて高みになったり低くなったり、どこまでも走りました。  嘉助はもう足がしびれてしまって、どこをどう走っているのかわからなくなりました。  それからまわりがまっ蒼になって、ぐるぐる回り、とうとう深い草の中に倒れてしまいました。馬の赤いたてがみと、あとを追って行く三郎の白いシャッポが終わりにちらっと見えました。  嘉助は、仰向けになって空を見ました。空がまっ白に光って、ぐるぐる回り、そのこちらを薄いねずみ色の雲が、速く速く走っています。そしてカンカン鳴っています。  嘉助はやっと起き上がって、せかせか息しながら馬の行ったほうに歩き出しました。草の中には、今馬と三郎が通った跡らしく、かすかな道のようなものがありました。嘉助は笑いました。そして、と思いました。  そこで嘉助は、一生懸命それをつけて行きました。  ところがその跡のようなものは、まだ百歩も行かないうちに、おとこえしや、すてきに背の高いあざみの中で、二つにも三つにも分かれてしまって、どれがどれやらいっこうわからなくなってしまいました。  嘉助は「おうい。」と叫びました。 「おう。」とどこかで三郎が叫んでいるようです。思い切って、そのまん中のを進みました。  けれどもそれも、時々切れたり、馬の歩かないような急な所を横ざまに過ぎたりするのでした。  空はたいへん暗く重くなり、まわりがぼうっとかすんで来ました。冷たい風が、草を渡りはじめ、もう雲や霧が切れ切れになって目の前をぐんぐん通り過ぎて行きました。  と嘉助は思いました。全くそのとおり、にわかに馬の通った跡は草の中でなくなってしまいました。  嘉助は胸をどきどきさせました。  草がからだを曲げて、パチパチ言ったり、さらさら鳴ったりしました。霧がことに滋くなって、着物はすっかりしめってしまいました。  嘉助は咽喉いっぱい叫びました。 「一郎、一郎、こっちさ来う。」ところがなんの返事も聞こえません。黒板から降る白墨の粉のような、暗い冷たい霧の粒が、そこら一面踊りまわり、あたりがにわかにシインとして、陰気に陰気になりました。草からは、もうしずくの音がポタリポタリと聞こえて来ます。  嘉助は、もう早く一郎たちの所へ戻ろうとして急いで引っ返しました。けれどもどうも、それは前に来た所とは違っていたようでした。第一、あざみがあんまりたくさんありましたし、それに草の底にさっきなかった岩かけが、たびたびころがっていました。そしてとうとう聞いたこともない大きな谷が、いきなり目の前に現われました。すすきがざわざわざわっと鳴り、向こうのほうは底知れずの谷のように、霧の中に消えているではありませんか。  風が来ると、すすきの穂は細いたくさんの手をいっぱいのばして、忙しく振って、 「あ、西さん、あ、東さん、あ、西さん、あ、南さん、あ、西さん。」なんて言っているようでした。  嘉助はあんまり見っともなかったので、目をつむって横を向きました。そして急いで引っ返しました。小さな黒い道がいきなり草の中に出て来ました。それはたくさんの馬のひづめの跡でできあがっていたのです。嘉助は夢中で短い笑い声をあげて、その道をぐんぐん歩きました。  けれども、たよりのないことは、みちのはばが五寸ぐらいになったり、また三尺ぐらいに変わったり、おまけになんだかぐるっと回っているように思われました。そして、とうとう大きなてっぺんの焼けた栗の木の前まで来た時、ぼんやり幾つにも別れてしまいました。  そこはたぶんは、野馬の集まり場所であったでしょう。霧の中に丸い広場のように見えたのです。  嘉助はがっかりして、黒い道をまた戻りはじめました。知らない草穂が静かにゆらぎ、少し強い風が来る時は、どこかで何かが合図をしてでもいるように、一面の草が、それ来たっとみなからだを伏せて避けました。  空が光ってキインキインと鳴っています。  それからすぐ目の前の霧の中に、家の形の大きな黒いものがあらわれました。嘉助はしばらく自分の目を疑って立ちどまっていましたが、やはりどうしても家らしかったので、こわごわもっと近寄って見ますと、それは冷たい大きな黒い岩でした。  空がくるくるくるっと白く揺らぎ、草がバラッと一度にしずくを払いました。  と嘉助は半分思うように半分つぶやくようにしました。それから叫びました。 「一郎、一郎、いるが。一郎。」  また明るくなりました。草がみないっせいによろこびの息をします。 「伊佐戸の町の、電気工夫の童あ、山男に手足いしばらえてたふだ。」といつかだれかの話した言葉が、はっきり耳に聞こえて来ます。  そして、黒い道がにわかに消えてしまいました。あたりがほんのしばらくしいんとなりました。それから非常に強い風が吹いて来ました。  空が旗のようにぱたぱた光って飜り、火花がパチパチパチッと燃えました。嘉助はとうとう草の中に倒れてねむってしまいました。         *  そんなことはみんなどこかの遠いできごとのようでした。  もう又三郎がすぐ目の前に足を投げだしてだまって空を見あげているのです。いつかいつものねずみいろの上着の上にガラスのマントを着ているのです。それから光るガラスの靴をはいているのです。  又三郎の肩には栗の木の影が青く落ちています。又三郎の影は、また青く草に落ちています。そして風がどんどんどんどん吹いているのです。  又三郎は笑いもしなければ物も言いません。ただ小さなくちびるを強そうにきっと結んだまま黙ってそらを見ています。いきなり又三郎はひらっとそらへ飛びあがりました。ガラスのマントがギラギラ光りました。         *  ふと嘉助は目をひらきました。灰いろの霧が速く速く飛んでいます。  そして馬がすぐ目の前にのっそりと立っていたのです。その目は嘉助を恐れて横のほうを向いていました。  嘉助ははね上がって馬の名札を押えました。そのうしろから三郎がまるで色のなくなったくちびるをきっと結んでこっちへ出てきました。  嘉助はぶるぶるふるえました。 「おうい。」霧の中から一郎のにいさんの声がしました。雷もごろごろ鳴っています。 「おおい、嘉助。いるが。嘉助。」一郎の声もしました。嘉助はよろこんでとびあがりました。 「おおい。いる、いる。一郎。おおい。」  一郎のにいさんと一郎が、とつぜん目の前に立ちました。嘉助はにわかに泣き出しました。 「捜したぞ。あぶながったぞ。すっかりぬれだな。どう。」一郎のにいさんはなれた手つきで馬の首を抱いて、もってきたくつわをすばやく馬のくちにはめました。 「さあ、あべさ。」 「又三郎びっくりしたべあ。」一郎が三郎に言いました。三郎はだまって、やっぱりきっと口を結んでうなずきました。  みんなは一郎のにいさんについて、ゆるい傾斜を二つほどのぼり降りしました。それから、黒い大きな道について、しばらく歩きました。  稲光りが二度ばかり、かすかに白くひらめきました。草を焼くにおいがして、霧の中を煙がぼうっと流れています。  一郎のにいさんが叫びました。 「おじいさん。いだ、いだ。みんないだ。」  おじいさんは霧の中に立っていて、 「ああ心配した、心配した。ああよがった。おお嘉助。寒がべあ、さあはいれ。」と言いました。嘉助は一郎と同じようにやはりこのおじいさんの孫なようでした。  半分に焼けた大きな栗の木の根もとに、草で作った小さな囲いがあって、チョロチョロ赤い火が燃えていました。  一郎のにいさんは馬を楢の木につなぎました。  馬もひひんと鳴いています。 「おおむぞやな。な。なんぼが泣いだがな。そのわろは金山掘りのわろだな。さあさあみんな団子たべろ。食べろ。な、今こっちを焼ぐがらな。全体どこまで行ってだった。」 「笹長根のおり口だ。」と一郎のにいさんが答えました。 「あぶないがった。あぶないがった。向こうさ降りだら馬も人もそれっ切りだったぞ。さあ嘉助、団子食べろ。このわろもたべろ。さあさあ、こいづも食べろ。」 「おじいさん。馬置いでくるが。」と一郎のにいさんが言いました。 「うんうん。牧夫来るどまだやがましがらな、したども、も少し待で。またすぐ晴れる。ああ心配した。おれも虎こ山の下まで行って見で来た。はあ、まんつよがった。雨も晴れる。」 「けさほんとに天気よがったのにな。」 「うん。またよぐなるさ、あ、雨漏って来たな。」  一郎のにいさんが出て行きました。天井がガサガサガサガサ言います。おじいさんが笑いながらそれを見上げました。  にいさんがまたはいって来ました。 「おじいさん。明るぐなった。雨あ霽れだ。」 「うんうん、そうが。さあみんなよっく火にあだれ、おらまた草刈るがらな。」  霧がふっと切れました。日の光がさっと流れてはいりました。その太陽は、少し西のほうに寄ってかかり、幾片かの蝋のような霧が、逃げおくれてしかたなしに光りました。  草からはしずくがきらきら落ち、すべての葉も茎も花も、ことしの終わりの日の光を吸っています。  はるかな西の碧い野原は、今泣きやんだようにまぶしく笑い、向こうの栗の木は青い後光を放ちました。  みんなはもう疲れて一郎をさきに野原をおりました。わき水のところで三郎はやっぱりだまって、きっと口を結んだままみんなに別れて、じぶんだけおとうさんの小屋のほうへ帰って行きました。  帰りながら嘉助が言いました。 「あいづやっぱり風の神だぞ。風の神の子っ子だぞ。あそごさ二人して巣食ってるんだぞ。」 「そだないよ。」一郎が高く言いました。  次の日は朝のうちは雨でしたが、二時間目からだんだん明るくなって三時間目の終わりの十分休みにはとうとうすっかりやみ、あちこちに削ったような青ぞらもできて、その下をまっ白なうろこ雲がどんどん東へ走り、山の萱からも栗の木からも残りの雲が湯げのように立ちました。 「下がったら葡萄蔓とりに行がないが。」耕助が嘉助にそっと言いました。 「行ぐ行ぐ。三郎も行がないが。」嘉助がさそいました。耕助は、 「わあい、あそご三郎さ教えるやないぢゃ。」と言いましたが三郎は知らないで、 「行くよ。ぼくは北海道でもとったぞ。ぼくのおかあさんは樽へ二っつ漬けたよ。」と言いました。 「葡萄とりにおらも連れでがないが。」二年生の承吉も言いました。 「わがないぢゃ。うなどさ教えるやないぢゃ。おら去年な新しいどご見つけだぢゃ。」  みんなは学校の済むのが待ち遠しかったのでした。五時間目が終わると、一郎と嘉助と佐太郎と耕助と悦治と三郎と六人で学校から上流のほうへ登って行きました。少し行くと一けんの藁やねの家があって、その前に小さなたばこ畑がありました。たばこの木はもう下のほうの葉をつんであるので、その青い茎が林のようにきれいにならんでいかにもおもしろそうでした。  すると三郎はいきなり、 「なんだい、この葉は。」と言いながら葉を一枚むしって一郎に見せました。すると一郎はびっくりして、 「わあ、又三郎、たばごの葉とるづど専売局にうんとしかられるぞ。わあ、又三郎何してとった。」と少し顔いろを悪くして言いました。みんなも口々に言いました。 「わあい。専売局であ、この葉一枚ずつ数えで帳面さつけでるだ。おら知らないぞ。」 「おらも知らないぞ。」 「おらも知らないぞ。」みんな口をそろえてはやしました。  すると三郎は顔をまっ赤にして、しばらくそれを振り回して何か言おうと考えていましたが、 「おら知らないでとったんだい。」とおこったように言いました。  みんなはこわそうに、だれか見ていないかというように向こうの家を見ました。たばこばたけからもうもうとあがる湯げの向こうで、その家はしいんとしてだれもいたようではありませんでした。 「あの家一年生の小助の家だぢゃい。」嘉助が少しなだめるように言いました。ところが耕助ははじめからじぶんの見つけた葡萄藪へ、三郎だのみんなあんまり来ておもしろくなかったもんですから、意地悪くもいちど三郎に言いました。 「わあ、三郎なんぼ知らないたってわがないんだぢゃ。わあい、三郎もどのとおりにしてまゆんだであ。」  三郎は困ったようにしてまたしばらくだまっていましたが、 「そんなら、おいらここへ置いてくからいいや。」と言いながらさっきの木の根もとへそっとその葉を置きました。すると一郎は、 「早くあべ。」と言って先にたってあるきだしましたのでみんなもついて行きましたが、耕助だけはまだ残って「ほう、おら知らないぞ。ありゃ、又三郎の置いた葉、あすごにあるぢゃい。」なんて言っているのでしたが、みんながどんどん歩きだしたので耕助もやっとついて来ました。  みんなは萱の間の小さなみちを山のほうへ少しのぼりますと、その南側に向いたくぼみに栗の木があちこち立って、下には葡萄がもくもくした大きな藪になっていました。 「こごおれ見っつけだのだがらみんなあんまりとるやないぞ。」耕助が言いました。  すると三郎は、 「おいら栗のほうをとるんだい。」といって石を拾って一つの枝へ投げました。青いいがが一つ落ちました。  三郎はそれを棒きれでむいて、まだ白い栗を二つとりました。みんなは葡萄のほうへ一生けん命でした。  そのうち耕助がも一つの藪へ行こうと一本の栗の木の下を通りますと、いきなり上からしずくが一ぺんにざっと落ちてきましたので、耕助は肩からせなかから水へはいったようになりました。耕助はおどろいて口をあいて上を見ましたら、いつか木の上に三郎がのぼっていて、なんだか少しわらいながらじぶんも袖ぐちで顔をふいていたのです。 「わあい、又三郎何する。」耕助はうらめしそうに木を見あげました。 「風が吹いたんだい。」三郎は上でくつくつわらいながら言いました。  耕助は木の下をはなれてまた別の藪で葡萄をとりはじめました。もう耕助はじぶんでも持てないくらいあちこちへためていて、口も紫いろになってまるで大きく見えました。 「さあ、このくらい持って戻らないが。」一郎が言いました。 「おら、もっと取ってぐぢゃ。」耕助が言いました。  そのとき耕助はまた頭からつめたいしずくをざあっとかぶりました。耕助はまたびっくりしたように木を見上げましたが今度は三郎は木の上にはいませんでした。  けれども木の向こう側に三郎のねずみいろのひじも見えていましたし、くつくつ笑う声もしましたから、耕助はもうすっかりおこってしまいました。 「わあい又三郎、まだひとさ水掛げだな。」 「風が吹いたんだい。」  みんなはどっと笑いました。 「わあい又三郎、うなそごで木ゆすったけあなあ。」  みんなはどっとまた笑いました。  すると耕助はうらめしそうにしばらくだまって三郎の顔を見ながら、 「うあい又三郎、汝などあ世界になくてもいいなあ。」  すると三郎はずるそうに笑いました。 「やあ耕助君、失敬したねえ。」  耕助は何かもっと別のことを言おうと思いましたが、あんまりおこってしまって考え出すことができませんでしたのでまた同じように叫びました。 「うあい、うあいだ、又三郎、うなみだいな風など世界じゅうになくてもいいなあ、うわあい。」 「失敬したよ、だってあんまりきみもぼくへ意地悪をするもんだから。」三郎は少し目をパチパチさせて気の毒そうに言いました。けれども耕助のいかりはなかなか解けませんでした。そして三度同じことをくりかえしたのです。 「うわい又三郎、風などあ世界じゅうになくてもいいな、うわい。」  すると三郎は少しおもしろくなったようでまたくつくつ笑いだしてたずねました。 「風が世界じゅうになくってもいいってどういうんだい。いいと箇条をたてていってごらん。そら。」三郎は先生みたいな顔つきをして指を一本だしました。  耕助は試験のようだし、つまらないことになったと思ってたいへんくやしかったのですが、しかたなくしばらく考えてから言いました。 「汝など悪戯ばりさな、傘ぶっこわしたり。」 「それからそれから。」三郎はおもしろそうに一足進んで言いました。 「それがら木折ったり転覆したりさな。」 「それから、それからどうだい。」 「家もぶっこわさな。」 「それから。それから、あとはどうだい。」 「あかしも消さな。」 「それからあとは? それからあとは? どうだい。」 「シャップもとばさな。」 「それから? それからあとは? あとはどうだい。」 「笠もとばさな。」 「それからそれから。」 「それがら、ラ、ラ、電信ばしらも倒さな。」 「それから? それから? それから?」 「それがら屋根もとばさな。」 「アアハハハ、屋根は家のうちだい。どうだいまだあるかい。それから、それから?」 「それだがら、ララ、それだからランプも消さな。」 「アアハハハハ、ランプはあかしのうちだい。けれどそれだけかい。え、おい。それから? それからそれから。」  耕助はつまってしまいました。たいていもう言ってしまったのですから、いくら考えてももうできませんでした。  三郎はいよいよおもしろそうに指を一本立てながら、 「それから? それから? ええ? それから?」と言うのでした。  耕助は顔を赤くしてしばらく考えてからやっと答えました。 「風車もぶっこわさな。」  すると三郎はこんどこそはまるで飛び上がって笑ってしまいました。みんなも笑いました。笑って笑って笑いました。  三郎はやっと笑うのをやめて言いました。 「そらごらん、とうとう風車などを言っちゃったろう。風車なら風を悪く思っちゃいないんだよ。もちろん時々こわすこともあるけれども回してやる時のほうがずっと多いんだ。風車ならちっとも風を悪く思っていないんだ。それに第一お前のさっきからの数えようはあんまりおかしいや。ララ、ララ、ばかり言ったんだろう。おしまいにとうとう風車なんか数えちゃった。ああおかしい。」  三郎はまた涙の出るほど笑いました。  耕助もさっきからあんまり困ったためにおこっていたのもだんだん忘れて来ました。そしてつい三郎といっしょに笑い出してしまったのです。すると三郎もすっかりきげんを直して、 「耕助君、いたずらをして済まなかったよ。」と言いました。 「さあそれであ行ぐべな。」と一郎は言いながら三郎にぶどうを五ふさばかりくれました。  三郎は白い栗をみんなに二つずつ分けました。そしてみんなは下のみちまでいっしょにおりて、あとはめいめいのうちへ帰ったのです。  次の朝は霧がじめじめ降って学校のうしろの山もぼんやりしか見えませんでした。ところがきょうも二時間目ころからだんだん晴れてまもなく空はまっ青になり、日はかんかん照って、お午になって一、二年が下がってしまうとまるで夏のように暑くなってしまいました。  ひるすぎは先生もたびたび教壇で汗をふき、四年生の習字も五年生六年生の図画もまるでむし暑くて、書きながらうとうとするのでした。  授業が済むとみんなはすぐ川下のほうへそろって出かけました。嘉助が、 「又三郎、水泳ぎに行がないが。小さいやづど今ころみんな行ってるぞ。」と言いましたので三郎もついて行きました。  そこはこの前上の野原へ行ったところよりも、も少し下流で右のほうからも一つの谷川がはいって来て、少し広い河原になり、すぐ下流は大きなさいかちの木のはえた崖になっているのでした。 「おおい。」とさきに来ているこどもらがはだかで両手をあげて叫びました。一郎やみんなは、河原のねむの木の間をまるで徒競走のように走って、いきなりきものをぬぐとすぐどぶんどぶんと水に飛び込んで両足をかわるがわる曲げて、だあんだあんと水をたたくようにしながら斜めにならんで向こう岸へ泳ぎはじめました。前にいたこどもらもあとから追い付いて泳ぎはじめました。三郎もきものをぬいでみんなのあとから泳ぎはじめましたが、途中で声をあげてわらいました。すると向こう岸についた一郎が、髪をあざらしのようにしてくちびるを紫にしてわくわくふるえながら、 「わあ又三郎、何してわらった。」と言いました。  三郎はやっぱりふるえながら水からあがって、 「この川冷たいなあ。」と言いました。 「又三郎何してわらった?」一郎はまたききました。  三郎は、 「おまえたちの泳ぎ方はおかしいや。なぜ足をだぶだぶ鳴らすんだい。」と言いながらまた笑いました。 「うわあい。」と一郎は言いましたが、なんだかきまりが悪くなったように、 「石取りさないが。」と言いながら白い丸い石をひろいました。 「するする。」こどもらがみんな叫びました。 「おれそれであ、あの木の上がら落とすがらな。」と一郎は言いながら崖の中ごろから出ているさいかちの木へするするのぼって行きました。そして、 「さあ落とすぞ。一二三。」と言いながらその白い石をどぶん、と淵へ落としました。  みんなはわれ勝ちに岸からまっさかさまに水にとび込んで、青白いらっこのような形をして底へもぐって、その石をとろうとしました。  けれどもみんな底まで行かないに息がつまって浮かびだして来て、かわるがわるふうとそこらへ霧をふきました。  三郎はじっとみんなのするのを見ていましたが、みんなが浮かんできてからじぶんもどぶんとはいって行きました。けれどもやっぱり底まで届かずに浮いてきたのでみんなはどっと笑いました。そのとき向こうの河原のねむの木のところを大人が四人、肌ぬぎになったり、網をもったりしてこっちへ来るのでした。  すると一郎は木の上でまるで声をひくくしてみんなに叫びました。 「おお、発破だぞ。知らないふりしてろ。石とりやめで早ぐみんな下流ささがれ。」そこでみんなは、なるべくそっちを見ないふりをしながら、いっしょに砥石をひろったり、鶺鴒を追ったりして、発破のことなぞ、すこしも気がつかないふりをしていました。  すると向こうの淵の岸では、下流の坑夫をしていた庄助が、しばらくあちこち見まわしてから、いきなりあぐらをかいて砂利の上へすわってしまいました。それからゆっくり腰からたばこ入れをとって、きせるをくわえてぱくぱく煙をふきだしました。奇体だと思っていましたら、また腹かけから何か出しました。 「発破だぞ、発破だぞ。」とみんな叫びました。  一郎は手をふってそれをとめました。庄助は、きせるの火をしずかにそれへうつしました。うしろにいた一人はすぐ水にはいって網をかまえました。庄助はまるで落ちついて、立って一あし水にはいるとすぐその持ったものを、さいかちの木の下のところへ投げこみました。するとまもなく、ぼおというようなひどい音がして水はむくっと盛りあがり、それからしばらくそこらあたりがきいんと鳴りました。  向こうの大人たちはみんな水へはいりました。 「さあ、流れて来るぞ。みんなとれ。」と一郎が言いました。まもなく耕助は小指ぐらいの茶いろなかじかが横向きになって流れて来たのをつかみましたし、そのうしろでは嘉助が、まるで瓜をすするときのような声を出しました。それは六寸ぐらいある鮒をとって、顔をまっ赤にしてよろこんでいたのです。それからみんなとって、わあわあよろこびました。 「だまってろ、だまってろ。」一郎が言いました。  そのとき向こうの白い河原を肌ぬぎになったり、シャツだけ着たりした大人が五六人かけて来ました。そのうしろからはちょうど活動写真のように、一人の網シャツを着た人が、はだか馬に乗ってまっしぐらに走って来ました。みんな発破の音を聞いて見に来たのです。  庄助はしばらく腕を組んでみんなのとるのを見ていましたが、 「さっぱりいないな。」と言いました。すると三郎がいつのまにか庄助のそばへ行っていました。そして中くらいの鮒を二匹、 「魚返すよ。」といって河原へ投げるように置きました。すると庄助が、 「なんだこの童あ、きたいなやづだな。」と言いながらじろじろ三郎を見ました。  三郎はだまってこっちへ帰ってきました。  庄助は変な顔をしてみています。みんなはどっとわらいました。  庄助はだまってまた上流へ歩きだしました。ほかのおとなたちもついて行き、網シャツの人は馬に乗って、またかけて行きました。耕助が泳いで行って三郎の置いて来た魚を持ってきました。みんなはそこでまたわらいました。 「発破かけだら、雑魚撒かせ。」嘉助が河原の砂っぱの上で、ぴょんぴょんはねながら高く叫びました。  みんなはとった魚を石で囲んで、小さな生け州をこしらえて、生きかえってももう逃げて行かないようにして、また上流のさいかちの木へのぼりはじめました。  ほんとうに暑くなって、ねむの木もまるで夏のようにぐったり見えましたし、空もまるで底なしの淵のようになりました。  そのころだれかが、 「あ、生け州ぶっこわすとこだぞ。」と叫びました。見ると一人の変に鼻のとがった、洋服を着てわらじをはいた人が、手にはステッキみたいなものをもって、みんなの魚をぐちゃぐちゃかきまわしているのでした。  その男はこっちへびちゃびちゃ岸をあるいて来ました。 「あ、あいづ専売局だぞ。専売局だぞ。」佐太郎が言いました。 「又三郎、うなのとった煙草の葉めっけたんだで、うな、連れでぐさ来たぞ。」嘉助が言いました。 「なんだい。こわくないや。」三郎はきっと口をかんで言いました。 「みんな又三郎のごと囲んでろ、囲んでろ。」と一郎が言いました。  そこでみんなは三郎をさいかちの木のいちばん中の枝に置いて、まわりの枝にすっかり腰かけました。 「来た来た、来た来た。来たっ。」とみんなは息をこらしました。  ところがその男は別に三郎をつかまえるふうでもなく、みんなの前を通りこして、それから淵のすぐ上流の浅瀬を渡ろうとしました。それもすぐに川をわたるでもなく、いかにもわらじや脚絆のきたなくなったのをそのまま洗うというふうに、もう何べんも行ったり来たりするもんですから、みんなはだんだんこわくなくなりましたが、そのかわり気持ちが悪くなってきました。  そこでとうとう一郎が言いました。 「お、おれ先に叫ぶから、みんなあとから、一二三で叫ぶこだ。いいか。  あんまり川を濁すなよ、  いつでも先生言うでないか。一、二い、三。」 「あんまり川を濁すなよ、  いつでも先生言うでないか。」  その人はびっくりしてこっちを見ましたけれども、何を言ったのかよくわからないというようすでした。そこでみんなはまた言いました。 「あんまり川を濁すなよ、  いつでも先生、言うでないか。」  鼻のとがった人はすぱすぱと、煙草を吸うときのような口つきで言いました。 「この水飲むのか、ここらでは。」 「あんまり川をにごすなよ、  いつでも先生言うでないか。」  鼻のとがった人は少し困ったようにして、また言いました。 「川をあるいてわるいのか。」 「あんまり川をにごすなよ、  いつでも先生言うでないか。」  その人はあわてたのをごまかすように、わざとゆっくり川をわたって、それからアルプスの探検みたいな姿勢をとりながら、青い粘土と赤砂利の崖をななめにのぼって、崖の上のたばこ畑へはいってしまいました。  すると三郎は、 「なんだい、ぼくを連れにきたんじゃないや。」と言いながらまっさきにどぶんと淵へとび込みました。  みんなもなんだか、その男も三郎も気の毒なようなおかしながらんとした気持ちになりながら、一人ずつ木からはねおりて、河原に泳ぎついて、魚を手ぬぐいにつつんだり、手にもったりして家に帰りました。  次の朝、授業の前みんなが運動場で鉄棒にぶらさがったり、棒かくしをしたりしていますと、少し遅れて佐太郎が何かを入れた笊をそっとかかえてやって来ました。 「なんだ、なんだ。なんだ。」とすぐみんな走って行ってのぞき込みました。  すると佐太郎は袖でそれをかくすようにして、急いで学校の裏の岩穴のところへ行きました。そしてみんなはいよいよあとを追って行きました。  一郎がそれをのぞくと、思わず顔いろを変えました。  それは魚の毒もみにつかう山椒の粉で、それを使うと発破と同じように巡査に押えられるのでした。ところが佐太郎はそれを岩穴の横の萱の中へかくして、知らない顔をして運動場へ帰りました。  そこでみんなはひそひそと、時間になるまでいつまでもその話ばかりしていました。  その日も十時ごろからやっぱりきのうのように暑くなりました。みんなはもう授業の済むのばかり待っていました。  二時になって五時間目が終わると、もうみんな一目散に飛びだしました。佐太郎もまた笊をそっと袖でかくして、耕助だのみんなに囲まれて河原へ行きました。三郎は嘉助と行きました。みんなは町の祭りのときのガスのようなにおいの、むっとするねむの河原を急いで抜けて、いつものさいかち淵に着きました。すっかり夏のような立派な雲の峰が東でむくむく盛りあがり、さいかちの木は青く光って見えました。  みんな急いで着物をぬいで淵の岸に立つと、佐太郎が一郎の顔を見ながら言いました。 「ちゃんと一列にならべ。いいか、魚浮いて来たら泳いで行ってとれ。とったくらい与るぞ。いいか。」  小さなこどもらはよろこんで、顔を赤くして押しあったりしながらぞろっと淵を囲みました。  ぺ吉だの三四人はもう泳いで、さいかちの木の下まで行って待っていました。  佐太郎が大威張りで、上流の瀬に行って笊をじゃぶじゃぶ水で洗いました。  みんなしいんとして、水をみつめて立っていました。  三郎は水を見ないで向こうの雲の峰の上を通る黒い鳥を見ていました。一郎も河原にすわって石をこちこちたたいていました。  ところが、それからよほどたっても魚は浮いて来ませんでした。  佐太郎はたいへんまじめな顔で、きちんと立って水を見ていました。きのう発破をかけたときなら、もう十匹もとっていたんだとみんなは思いました。またずいぶんしばらくみんなしいんとして待ちました。けれどもやっぱり魚は一ぴきも浮いて来ませんでした。 「さっぱり魚、浮かばないな。」耕助が叫びました。佐太郎はびくっとしましたけれども、まだ一心に水を見ていました。 「魚さっぱり浮かばないな。」ぺ吉がまた向こうの木の下で言いました。するともう、みんなはがやがやと言い出して、みんな水に飛び込んでしまいました。  佐太郎はしばらくきまり悪そうに、しゃがんで水を見ていましたけれど、とうとう立って、 「鬼っこしないか。」と言いました。 「する、する。」みんなは叫んで、じゃんけんをするために、水の中から手を出しました。泳いでいたものは急いでせいの立つところまで行って手を出しました。  一郎も河原から来て手を出しました。そして一郎ははじめに、きのうあの変な鼻のとがった人の上って行った崖の下の、青いぬるぬるした粘土のところを根っこにきめました。そこに取りついていれば、鬼は押えることができないというのでした。それから、はさみ無しの一人まけかちでじゃんけんをしました。  ところが悦治はひとりはさみを出したので、みんなにうんとはやされたほかに鬼になりました。悦治は、くちびるを紫いろにして河原を走って、喜作を押えたので鬼は二人になりました。それからみんなは、砂っぱの上や淵を、あっちへ行ったりこっちへ来たり、押えたり押えられたり、何べんも鬼っこをしました。  しまいにとうとう三郎一人が鬼になりました。三郎はまもなく吉郎をつかまえました。みんなはさいかちの木の下にいてそれを見ていました。すると三郎が、 「吉郎君、きみは上流から追って来るんだよ。いいか。」と言いながら、じぶんはだまって立って見ていました。  吉郎は口をあいて手をひろげて、上流から粘土の上を追って来ました。  みんなは淵へ飛び込むしたくをしました。一郎は楊の木にのぼりました。そのとき吉郎が、あの上流の粘土が足についていたために、みんなの前ですべってころんでしまいました。  みんなは、わあわあ叫んで、吉郎をはねこえたり、水にはいったりして、上流の青い粘土の根に上がってしまいました。 「又三郎、来。」嘉助は立って口を大きくあいて、手をひろげて三郎をばかにしました。すると三郎はさっきからよっぽどおこっていたと見えて、 「ようし、見ていろよ。」と言いながら本気になって、ざぶんと水に飛び込んで、一生けん命、そっちのほうへ泳いで行きました。  三郎の髪の毛が赤くてばしゃばしゃしているのに、あんまり長く水につかってくちびるもすこし紫いろなので、子どもらはすっかりこわがってしまいました。  第一、その粘土のところはせまくて、みんながはいれなかったのに、それにたいへんつるつるすべる坂になっていましたから、下のほうの四五人などは上の人につかまるようにして、やっと川へすべり落ちるのをふせいでいたのでした。一郎だけが、いちばん上で落ちついて、さあみんな、とかなんとか相談らしいことをはじめました。みんなもそこで頭をあつめて聞いています。三郎はぼちゃぼちゃ、もう近くまで行きました。  みんなはひそひそはなしています。すると三郎は、いきなり両手でみんなへ水をかけ出しました。みんなが、ばたばた防いでいましたら、だんだん粘土がすべって来て、なんだかすこうし下へずれたようになりました。  三郎はよろこんで、いよいよ水をはねとばしました。  すると、みんなはぼちゃんぼちゃんと一度にすべって落ちました。三郎はそれを片っぱしからつかまえました。一郎もつかまりました。嘉助がひとり、上をまわって泳いで逃げましたら、三郎はすぐに追い付いて押えたほかに、腕をつかんで四五へんぐるぐる引っぱりまわしました。嘉助は水を飲んだと見えて、霧をふいてごぼごぼむせて、 「おいらもうやめた。こんな鬼っこもうしない。」と言いました。小さな子どもらはみんな砂利に上がってしまいました。  三郎はひとりさいかちの木の下に立ちました。  ところが、そのときはもうそらがいっぱいの黒い雲で、楊も変に白っぽくなり、山の草はしんしんとくらくなり、そこらはなんとも言われない恐ろしい景色にかわっていました。  そのうちに、いきなり上の野原のあたりで、ごろごろごろと雷が鳴り出しました。と思うと、まるで山つなみのような音がして、一ぺんに夕立がやって来ました。風までひゅうひゅう吹きだしました。  淵の水には、大きなぶちぶちがたくさんできて、水だか石だかわからなくなってしまいました。  みんなは河原から着物をかかえて、ねむの木の下へ逃げこみました。すると三郎もなんだかはじめてこわくなったと見えて、さいかちの木の下からどぼんと水へはいってみんなのほうへ泳ぎだしました。  すると、だれともなく、 「雨はざっこざっこ雨三郎、  風はどっこどっこ又三郎。」と叫んだものがありました。  みんなもすぐ声をそろえて叫びました。 「雨はざっこざっこ雨三郎、  風はどっこどっこ又三郎。」  三郎はまるであわてて、何かに足をひっぱられるようにして淵からとびあがって、一目散にみんなのところに走って来て、がたがたふるえながら、 「いま叫んだのはおまえらだちかい。」とききました。 「そでない、そでない。」みんないっしょに叫びました。  ぺ吉がまた一人出て来て、 「そでない。」と言いました。  三郎は気味悪そうに川のほうを見ていましたが、色のあせたくちびるを、いつものようにきっとかんで、「なんだい。」と言いましたが、からだはやはりがくがくふるえていました。  そしてみんなは、雨のはれ間を待って、めいめいのうちへ帰ったのです。    どっどど どどうど どどうど どどう    青いくるみも吹きとばせ    すっぱいかりんも吹きとばせ    どっどど どどうど どどうど どどう    どっどど どどうど どどうど どどう  先ごろ、三郎から聞いたばかりのあの歌を一郎は夢の中でまたきいたのです。  びっくりしてはね起きて見ると、外ではほんとうにひどく風が吹いて、林はまるでほえるよう、あけがた近くの青ぐろいうすあかりが、障子や棚の上のちょうちん箱や、家じゅういっぱいでした。一郎はすばやく帯をして、そして下駄をはいて土間をおり、馬屋の前を通ってくぐりをあけましたら、風がつめたい雨の粒といっしょにどっとはいって来ました。  馬屋のうしろのほうで何か戸がばたっと倒れ、馬はぶるっと鼻を鳴らしました。  一郎は風が胸の底までしみ込んだように思って、はあと息を強く吐きました。そして外へかけだしました。  外はもうよほど明るく、土はぬれておりました。家の前の栗の木の列は変に青く白く見えて、それがまるで風と雨とで今|洗濯をするとでもいうように激しくもまれていました。  青い葉も幾枚も吹き飛ばされ、ちぎられた青い栗のいがは黒い地面にたくさん落ちていました。空では雲がけわしい灰色に光り、どんどんどんどん北のほうへ吹きとばされていました。  遠くのほうの林はまるで海が荒れているように、ごとんごとんと鳴ったりざっと聞こえたりするのでした。一郎は顔いっぱいに冷たい雨の粒を投げつけられ、風に着物をもって行かれそうになりながら、だまってその音をききすまし、じっと空を見上げました。  すると胸がさらさらと波をたてるように思いました。けれどもまたじっとその鳴ってほえてうなって、かけて行く風をみていますと、今度は胸がどかどかとなってくるのでした。  きのうまで丘や野原の空の底に澄みきってしんとしていた風が、けさ夜あけ方にわかにいっせいにこう動き出して、どんどんどんどんタスカロラ海溝の北のはじをめがけて行くことを考えますと、もう一郎は顔がほてり、息もはあはあとなって、自分までがいっしょに空を翔けて行くような気持ちになって、大急ぎでうちの中へはいると胸を一ぱいはって、息をふっと吹きました。 「ああひで風だ。きょうは煙草も栗もすっかりやらえる。」と一郎のおじいさんがくぐりのところに立って、ぐっと空を見ています。一郎は急いで井戸からバケツに水を一ぱいくんで台所をぐんぐんふきました。  それから金だらいを出して顔をぶるぶる洗うと、戸棚から冷たいごはんと味噌をだして、まるで夢中でざくざく食べました。 「一郎、いまお汁できるから少し待ってだらよ。何してけさそったに早く学校へ行がないやないがべ。」おかあさんは馬にやるを煮るかまどに木を入れながらききました。 「うん。又三郎は飛んでったがもしれないもや。」 「又三郎って何だてや。鳥こだてが。」 「うん。又三郎っていうやづよ。」一郎は急いでごはんをしまうと、椀をこちこち洗って、それから台所の釘にかけてある油合羽を着て、下駄はもってはだしで嘉助をさそいに行きました。  嘉助はまだ起きたばかりで、 「いまごはんをたべて行ぐがら。」と言いましたので、一郎はしばらくうまやの前で待っていました。  まもなく嘉助は小さい簑を着て出て来ました。  はげしい風と雨にぐしょぬれになりながら二人はやっと学校へ来ました。昇降口からはいって行きますと教室はまだしいんとしていましたが、ところどころの窓のすきまから雨がはいって板はまるでざぶざぶしていました。一郎はしばらく教室を見まわしてから、 「嘉助、二人して水掃ぐべな。」と言ってしゅろ箒をもって来て水を窓の下の穴へはき寄せていました。  するともうだれか来たのかというように奥から先生が出てきましたが、ふしぎなことは先生があたりまえの単衣をきて赤いうちわをもっているのです。 「たいへん早いですね。あなたがた二人で教室の掃除をしているのですか。」先生がききました。 「先生お早うございます。」一郎が言いました。 「先生お早うございます。」と嘉助も言いましたが、すぐ、 「先生、又三郎きょう来るのすか。」とききました。  先生はちょっと考えて、 「又三郎って高田さんですか。ええ、高田さんはきのうおとうさんといっしょにもうほかへ行きました。日曜なのでみなさんにご挨拶するひまがなかったのです。」 「先生飛んで行ったのですか。」嘉助がききました。 「いいえ、おとうさんが会社から電報で呼ばれたのです。おとうさんはもいちどちょっとこっちへ戻られるそうですが、高田さんはやっぱり向こうの学校にはいるのだそうです。向こうにはおかあさんもおられるのですから。」 「何して会社で呼ばったべす。」と一郎がききました。 「ここのモリブデンの鉱脈は当分手をつけないことになったためなそうです。」 「そうだないな。やっぱりあいづは風の又三郎だったな。」嘉助が高く叫びました。  宿直室のほうで何かごとごと鳴る音がしました。先生は赤いうちわをもって急いでそっちへ行きました。  二人はしばらくだまったまま、相手がほんとうにどう思っているか探るように顔を見合わせたまま立ちました。  風はまだやまず、窓ガラスは雨つぶのために曇りながら、またがたがた鳴りました。    九月一日  どっどどどどうど どどうど どどう、  ああまいざくろも吹きとばせ  すっぱいざくろもふきとばせ  どっどどどどうど どどうど どどう  谷川の岸に小さな四角な学校がありました。  学校といっても入口とあとはガラス窓の三つついた教室がひとつあるきりでほかには溜りも教員室もなく運動場はテニスコートのくらいでした。  先生はたった一人で、五つの級を教えるのでした。それはみんなでちょうど二十人になるのです。三年生はひとりもありません。  さわやかな九月一日の朝でした。青ぞらで風がどうと鳴り、日光は運動場いっぱいでした。黒い雪袴をはいた二人の一年生の子がどてをまわって運動場にはいって来て、まだほかに誰も来ていないのを見て 「ほう、おら一等だぞ。一等だぞ。」とかわるがわる叫びながら大悦びで門をはいって来たのでしたが、ちょっと教室の中を見ますと、二人ともまるでびっくりして棒立ちになり、それから顔を見合せてぶるぶるふるえました。がひとりはとうとう泣き出してしまいました。というわけはそのしんとした朝の教室のなかにどこから来たのか、まるで顔も知らないおかしな赤い髪の子供がひとり一番前の机にちゃんと座っていたのです。そしてその机といったらまったくこの泣いた子の自分の机だったのです。もひとりの子ももう半分泣きかけていましたが、それでもむりやり眼をりんと張ってそっちの方をにらめていましたら、ちょうどそのとき川上から 「ちゃうはあぶどり、ちゃうはあぶどり」と高く叫ぶ声がしてそれからいなずまのように嘉助が、かばんをかかえてわらって運動場へかけて来ました。と思ったらすぐそのあとから佐太郎だの耕助だのどやどややってきました。 「なして泣いでら、うなかもたのが。」嘉助が泣かないこどもの肩をつかまえて云いました。するとその子もわあと泣いてしまいました。おかしいとおもってみんながあたりを見ると、教室の中にあの赤毛のおかしな子がすましてしゃんとすわっているのが目につきました。みんなはしんとなってしまいました。だんだんみんな女の子たちも集って来ましたが誰も何とも云えませんでした。赤毛の子どもは一向こわがる風もなくやっぱりじっと座っています。すると六年生の一郎が来ました。一郎はまるで坑夫のようにゆっくり大股にやってきて、みんなを見て「何した」とききました。みんなははじめてがやがや声をたててその教室の中の変な子を指しました。一郎はしばらくそっちを見ていましたがやがて鞄をしっかりかかえてさっさと窓の下へ行きました。みんなもすっかり元気になってついて行きました。 「誰だ、時間にならなぃに教室へはいってるのは。」一郎は窓へはいのぼって教室の中へ顔をつき出して云いました。 「先生にうんと叱らえるぞ。」窓の下の耕助が云いました。 「叱らえでもおら知らなぃよ。」嘉助が云いました。 「早ぐ出はって来、出はって来。」一郎が云いました。けれどもそのこどもはきょろきょろ室の中やみんなの方を見るばかりでやっぱりちゃんとひざに手をおいて腰掛に座っていました。  ぜんたいその形からが実におかしいのでした。変てこな鼠いろのマントを着て水晶かガラスか、とにかくきれいなすきとおった沓をはいていました。それに顔と云ったら、まるで熟した苹果のよう殊に眼はまん円でまっくろなのでした。一向|語が通じないようなので一郎も全く困ってしまいました。 「外国人だな。」「学校さ入るのだな。」みんなはがやがやがやがや云いました。ところが五年生の嘉助がいきなり 「ああ、三年生さ入るのだ。」と叫びましたので 「ああ、そうだ。」と小さいこどもらは思いましたが一郎はだまってくびをまげました。  変なこどもはやはりきょろきょろこっちを見るだけきちんと腰掛けています。ところがおかしいことは、先生がいつものキラキラ光る呼子|笛を持っていきなり出入口から出て来られたのです。そしてわらって 「みなさんお早う。どなたも元気ですね。」と云いながら笛を口にあててピル※と吹きました。そこでみんなはきちんと運動場に整列しました。 「気を付けっ」  みんな気を付けをしました。けれども誰の眼もみんな教室の中の変な子に向いていました。先生も何があるのかと思ったらしく、ちょっとうしろを振り向いて見ましたが、なあになんでもないという風でまたこっちを向いて 「右ぃおいっ」と号令をかけました。ところがおかしな子どもはやっぱりちゃんとこしかけたままきろきろこっちを見ています。みんなはそれから番号をかけて右向けをして順に入口からはいりましたが、その間中も変な子供は少し額に皺を寄せて〔以下原稿数枚なし〕 と一郎が一番うしろからあまりさわぐものを一人ずつ叱りました。みんなはしんとなりました。 「みなさん休みは面白かったね。朝から水泳ぎもできたし林の中で鷹にも負けないくらい高く叫んだりまた兄さんの草刈りについて行ったりした。それはほんとうにいいことです。けれどももう休みは終りました。これからは秋です。むかしから秋は一番勉強のできる時だといってあるのです。ですから、みなさんも今日から又しっかり勉強しましょう。みなさんは休み中でいちばん面白かったことは何ですか。」 「先生。」と四年生の悦治が手をあげました。 「はい。」 「先生さっきたの人あ何だったべす。」  先生はしばらくおかしな顔をして 「さっきの人……」 「さっきたの髪の赤いわらすだんす。」みんなもどっと叫びました。 「先生髪のまっ赤なおかしなやづだったんす。」 「マント着てたで。」 「笛鳴らなぃに教室さはいってたぞ。」  先生は困って 「一人ずつ云うのです。髪の赤い人がここに居たのですか。」 「そうです、先生。」〔以下原稿数枚なし〕 の山にのぼってよくそこらを見ておいでなさい。それからあしたは道具をもってくるのです。それではここまで。」と先生は云いました。みんなもうあの山の上ばかり見ていたのです。 「気を付けっ。」一郎が叫びました。「礼っ。」みんなおじぎをするや否やまるで風のように教室を出ました。それからがやがやその草山へ走ったのです。女の子たちもこっそりついて行きました。けれどもみんなは山にのぼるとがっかりしてしまいました。みんながやっとその栗の木の下まで行ったときはその変な子はもう見えませんでした。そこには十本ばかりのたけにぐさが先生の云ったとおり風にひるがえっているだけだったのです。けれども小さい方のこどもらはもうあんまりその変な子のことばかり考えていたもんですからもうそろそろ厭きていました。  そしてみんなはわかれてうちへ帰りましたが一郎や嘉助は仲々それを忘れてしまうことはできませんでした。    九月二日  次の日もよく晴れて谷川の波はちらちらひかりました。  一郎と五年生の耕一とは、丁度|午后二時に授業がすみましたので、いつものように教室の掃除をして、それから二人|一緒に学校の門を出ましたが、その時二人の頭の中は、昨日の変な子供で一杯になっていました。そこで二人はもう一度、あの青山の栗の木まで行って見ようと相談しました。二人は鞄をきちんと背負い、川を渡って丘をぐんぐん登って行きました。  ところがどうです。丘の途中の小さな段を一つ越えて、ひょっと上の栗の木を見ますと、たしかにあの赤髪の鼠色のマントを着た変な子が草に足を投げ出して、だまって空を見上げているのです。今日こそ全く間違いありません。たけにぐさは栗の木の左の方でかすかにゆれ、栗の木のかげは黒く草の上に落ちています。  その黒い影は変な子のマントの上にもかかっているのでした。二人はそこで胸をどきどきさせて、まるで風のようにかけ上りました。その子は大きな目をして、じっと二人を見ていましたが、逃げようともしなければ笑いもしませんでした。小さな唇を強そうにきっと結んだまま、黙って二人のかけ上って来るのを見ていました。  二人はやっとその子の前まで来ました。けれどもあんまり息がはあはあしてすぐには何も云えませんでした。耕一などはあんまりもどかしいもんですから空へ向いて、 「ホッホウ。」と叫んで早く息を吐いてしまおうとしました。するとその子が口を曲げて一寸笑いました。  一郎がまだはあはあ云いながら、切れ切れに叫びました。 「汝ぁ誰だ。何だ汝ぁ。」  するとその子は落ちついて、まるで大人のようにしっかり答えました。 「風野又三郎。」 「どこの人だ、ロシヤ人か。」  するとその子は空を向いて、はあはあはあはあ笑い出しました。その声はまるで鹿の笛のようでした。それからやっとまじめになって、 「又三郎だい。」とぶっきら棒に返事しました。 「ああ風の又三郎だ。」一郎と耕一とは思わず叫んで顔を見合せました。 「だからそう云ったじゃないか。」又三郎は少し怒ったようにマントからとがった小さな手を出して、草を一本むしってぷいっと投げつけながら云いました。 「そんだらあっちこっち飛んで歩くな。」一郎がたずねました。 「うん。」 「面白いか。」と耕一が言いました。すると風の又三郎は又笑い出して空を見ました。 「うん面白い。」 「昨日|何して逃げた。」 「逃げたんじゃないや。昨日は二百十日だい。本当なら兄さんたちと一緒にずうっと北の方へ行ってるんだ。」 「何して行かなかった。」 「兄さんが呼びに来なかったからさ。」 「何て云う、汝の兄※は。」 「風野又三郎。きまってるじゃないか。」又三郎は又|機嫌を悪くしました。 「あ、判った。うなの兄※も風野又三郎、うなぃのお父さんも風野又三郎、うなぃの叔父さんも風野又三郎だな。」と耕一が言いました。 「そうそう。そうだよ。僕はどこへでも行くんだよ。」 「支那へも行ったか。」 「うん。」 「岩手山へも行ったが。」 「岩手山から今来たんじゃないか。ゆうべは岩手山の谷へ泊ったんだよ。」 「いいなぁ、おらも風になるたぃなぁ。」  すると風の又三郎はよろこんだの何のって、顔をまるでりんごのようにかがやくばかり赤くしながら、いきなり立ってきりきりきりっと二三べんかかとで廻りました。鼠色のマントがまるでギラギラする白光りに見えました。それから又三郎は座って話し出しました。 「面白かったぞ。今朝のはなし聞かせようか、そら、僕は昨日の朝ここに居たろう。」 「あれから岩手山へ行ったな。」耕一がたずねました。 「あったりまえさ、あったりまえ。」又三郎は口を曲げて耕一を馬鹿にしたような顔をしました。 「そう僕のはなしへ口を入れないで黙っておいで。ね、そら、昨日の朝、僕はここから北の方へ行ったんだ。途中で六十五回もいねむりをしたんだ。」 「何してそんなにひるねした?」 「仕方ないさ。僕たちが起きてはね廻っていようたって、行くところがなくなればあるけないじゃないか。あるけなくなりゃ、いねむりだい。きまってらぁ。」 「歩けないたって立つが座るかして目をさましていればいい。」 「うるさいねえ、いねむりたって僕がねむるんじゃないんだよ。お前たちがそう云うんじゃないか。お前たちは僕らのじっと立ったり座ったりしているのを、風がねむると云うんじゃないか。僕はわざとお前たちにわかるように云ってるんだよ。うるさいねえ。もう僕、行っちまうぞ。黙って聞くんだ。ね、そら、僕は途中で六十五回いねむりをして、その間考えたり笑ったりして、夜中の一時に岩手山の丁度三合目についたろう。あすこの小屋にはもう人が居ないねえ。僕は小屋のまわりを一ぺんぐるっとまわったんだよ。そしてまっくろな地面をじっと見おろしていたら何だか足もとがふらふらするんだ。見ると谷の底がだいぶ空いてるんだ。僕らは、もう、少しでも、空いているところを見たらすぐ走って行かないといけないんだからね、僕はどんどん下りて行ったんだ。谷底はいいねえ。僕は三本の白樺の木のかげへはいってじっとしずかにしていたんだ。朝までお星さまを数えたりいろいろこれからの面白いことを考えたりしていたんだ。あすこの谷底はいいねえ。そんなにしずかじゃないんだけれど。それは僕の前にまっ黒な崖があってねえ、そこから一晩中ころころかさかさ石かけや火山灰のかたまったのやが崩れて落ちて来るんだ。けれどもじっとその音を聞いてるとね、なかなか面白いんだよ。そして今朝少し明るくなるとその崖がまるで火が燃えているようにまっ赤なんだろう。そうそう、まだ明るくならないうちにね、谷の上の方をまっ赤な火がちらちらちらちら通って行くんだ。楢の木や樺の木が火にすかし出されてまるで烏瓜の燈籠のように見えたぜ。」 「そうだ。おら去年烏瓜の燈火拵えた。そして縁側へ吊して置いたら風吹いて落ちた。」と耕一が言いました。  すると又三郎は噴き出してしまいました。 「僕お前の烏瓜の燈籠を見たよ。あいつは奇麗だったねい、だから僕がいきなり衝き当って落してやったんだ。」 「うわぁい。」  耕一はただ一言云ってそれから何ともいえない変な顔をしました。  又三郎はおかしくておかしくてまるで咽喉を波のようにして一生けん命空の方に向いて笑っていましたがやっとこらえて泪を拭きながら申しました。 「僕失敬したよ。僕そのかわり今度いいものを持って来てあげるよ。お前※とこへね、きれいなはこやなぎの木を五本持って行ってあげるよ。いいだろう。」  耕一はやっと怒るのをやめました。そこで又三郎は又お話をつづけました。 「ね、その谷の上を行く人たちはね、みんな白いきものを着て一番はじめの人はたいまつを待っていただろう。僕すぐもう行って見たくて行って見たくて仕方なかったんだ。けれどどうしてもまだ歩けないんだろう、そしたらね、そのうちに東が少し白くなって鳥がなき出したろう。ね、あすこにはやぶうぐいすや岩燕やいろいろ居るんだ。鳥がチッチクチッチクなき出したろう。もう僕は早く谷から飛び出したくて飛び出したくて仕方なかったんだよ。すると丁度いいことにはね、いつの間にか上の方が大へん空いてるんだ。さあ僕はひらっと飛びあがった。そしてピゥ、ただ一足でさっきの白いきものの人たちのとこまで行った。その人たちはね一列になってつつじやなんかの生えた石からをのぼっているだろう。そのたいまつはもうみじかくなって消えそうなんだ。僕がマントをフゥとやって通ったら火がぽっぽっと青くうごいてね、とうとう消えてしまったよ。ほんとうはもう消えてもよかったんだ。東が琥珀のようになって大きなとかげの形の雲が沢山浮んでいた。 『あ、とうとう消だ。』と誰かが叫んでいた。おかしいのはねえ、列のまん中ごろに一人の少し年老った人が居たんだ。その人がね、年を老って大儀なもんだから前をのぼって行く若い人のシャツのはじにね、一寸とりついたんだよ。するとその若い人が怒ってね、 『引っ張るなったら、先刻たがらいで処さ来るづどいっつも引っ張らが。』と叫んだ。みんなどっと笑ったね。僕も笑ったねえ。そして又一あしでもう頂上に来ていたんだ。それからあの昔の火口のあとにはいって僕は二時間ねむった。ほんとうにねむったのさ。するとね、ガヤガヤ云うだろう、見るとさっきの人たちがやっと登って来たんだ。みんなで火口のふちの三十三の石ぼとけにね、バラリバラリとお米を投げつけてね、もうみんな早く頂上へ行こうと競争なんだ。向うの方ではまるで泣いたばかりのような群青の山脈や杉ごけの丘のようなきれいな山にまっ白な雲が所々かかっているだろう。すぐ下にはお苗代や御釜火口湖がまっ蒼に光って白樺の林の中に見えるんだ。面白かったねい。みんなぐんぐんぐんぐん走っているんだ。すると頂上までの処にも一つ坂があるだろう。あすこをのぼるとき又さっきの年老りがね、前の若い人のシャツを引っぱったんだ。怒っていたねえ。それでも頂上に着いてしまうとそのとし老りがガラスの瓶を出してちいさなちいさなコップについでそれをそのぷんぷん怒っている若い人に持って行って笑って拝むまねをして出したんだよ。すると若い人もね、急に笑い出してしまってコップを押し戻していたよ。そしておしまいとうとうのんだろうかねえ。僕はもう丁度こっちへ来ないといけなかったもんだからホウと一つ叫んで岩手山の頂上からはなれてしまったんだ。どうだ面白いだろう。」 「面白いな。ホウ。」と耕一が答えました。 「又三郎さん。お前はまだここらに居るのか。」一郎がたずねました。  又三郎はじっと空を見ていましたが 「そうだねえ。もう五六日は居るだろう。歩いたってあんまり遠くへは行かないだろう。それでももう九日たつと二百二十日だからね。その日は、事によると僕はタスカロラ海床のすっかり北のはじまで行っちまうかも知れないぜ。今日もこれから一寸向うまで行くんだ。僕たちお友達になろうかねえ。」 「はじめから友だちだ。」一郎が少し顔を赤くしながら云いました。 「あした僕は又どっかであうよ。学校から帰る時もし僕がここに居たようならすぐおいで。ね。みんなも連れて来ていいんだよ。僕はいくらでもいいこと知ってんだよ。えらいだろう。あ、もう行くんだ。さよなら。」  又三郎は立ちあがってマントをひろげたと思うとフィウと音がしてもう形が見えませんでした。  一郎と耕一とは、あした又あうのを楽しみに、丘を下っておうちに帰りました。    九月三日  その次の日は九月三日でした。昼すぎになってから一郎は大きな声で云いました。 「おう、又三郎は昨日|又来たぞ。今日も来るかも知れないぞ。又三郎の話聞きたいものは一緒にあべ。」  残っていた十人の子供らがよろこんで、 「わぁっ」と叫びました。  そしてもう早くもみんなが丘にかけ上ったのでした。ところが又三郎は来ていないのです。みんなは声をそろえて叫びました。 「又三郎、又三郎、どうどっと吹いで来。」  それでも、又三郎は一向来ませんでした。 「風どうと吹いて来、豆|呉ら風どうと吹いで来。」  空には今日も青光りが一杯に漲ぎり、白いまばゆい雲が大きな環になって、しずかにめぐるばかりです。みんなは又叫びました。 「又三郎、又三郎、どうと吹いて降りで来。」  又三郎は来ないで、却ってみんな見上げた青空に、小さな小さなすき通った渦巻が、みずすましの様に、ツイツイと、上ったり下ったりするばかりです。みんなは又叫びました。 「又三郎、又三郎、汝、何して早ぐ来ない。」  それでも又三郎はやっぱり来ませんでした。  ただ一|疋の鷹が銀色の羽をひるがえして、空の青光を咽喉一杯に呑みながら、東の方へ飛んで行くばかりです。みんなは又叫びました。 「又三郎、又三郎、早ぐ此さ飛んで来。」  その時です。あのすきとおる沓とマントがギラッと白く光って、風の又三郎は顔をまっ赤に熱らせて、はあはあしながらみんなの前の草の中に立ちました。 「ほう、又三郎、待っていたぞ。」  みんなはてんでに叫びました。又三郎はマントのかくしから、うすい黄色のはんけちを出して、額の汗を拭きながら申しました。 「僕ね、もっと早く来るつもりだったんだよ。ところがあんまりさっき高いところへ行きすぎたもんだから、お前達の来たのがわかっていても、すぐ来られなかったんだよ。それは僕は高いところまで行って、そら、あすこに白い雲が環になって光っているんだろう。僕はあのまん中をつきぬけてもっと上に行ったんだ。そして叔父さんに挨拶して来たんだ。僕の叔父さんなんか偉いぜ。今日だってもう三十里から歩いているんだ。僕にも一緒に行こうって云ったけれどもね、僕なんかまだ行かなくてもいいんだよ。」 「汝ぃの叔父さんどごまで行く。」 「僕の叔父さんかい。叔父さんはね、今度ずうっと高いところをまっすぐに北へすすんでいるんだ。  叔父さんのマントなんか、まるで冷えてしまっているよ。小さな小さな氷のかけらがさらさらぶっかかるんだもの、そのかけらはここから見えやしないよ」 「又三郎さんは去年なも今頃ここへ来たか。」 「去年は今よりもう少し早かったろう。面白かったねえ。九州からまるで一飛びに馳けて馳けてまっすぐに東京へ来たろう。そしたら丁度僕は保久大将の家を通りかかったんだ。僕はね、あの人を前にも知っているんだよ。だから面白くて家の中をのぞきこんだんだ。障子が二枚はずれてね『すっかり嵐になった』とつぶやきながら障子を立てたんだ。僕はそこから走って庭へでた。あすこにはざくろの木がたくさんあるねえ。若い大工がかなづちを腰にはさんで、尤もらしい顔をして庭の塀や屋根を見廻っていたがね、本当はやっこさん、僕たちの馳けまわるのが大変面白かったようだよ。唇がぴくぴくして、いかにもうれしいのを、無理にまじめになって歩きまわっていたらしかったんだ。  そして落ちたざくろを一つ拾って噛ったろう、さあ僕はおかしくて笑ったね、そこで僕は、屋敷の塀に沿って一寸戻ったんだ。それから俄かに叫んで大工の頭の上をかけ抜けたねえ。  ドッドド ドドウド ドドウド ドドウ、  甘いざくろも吹き飛ばせ  酸っぱいざくろも吹き飛ばせ  ホラね、ざくろの実がばたばた落ちた。大工はあわてたような変なかたちをしてるんだ。僕はもう笑って笑って走った。  電信ばしらの針金を一本切ったぜ、それからその晩、夜どおし馳けてここまで来たんだ。  ここを通ったのは丁度あけがただった。その時僕は、あの高洞山のまっ黒な蛇紋岩に、一つかみの雲を叩きつけて行ったんだ。そしてその日の晩方にはもう僕は海の上にいたんだ。海と云ったって見えはしない。もう僕はゆっくり歩いていたからね。霧が一杯にかかってその中で波がドンブラゴッコ、ドンブラゴッコ、と云ってるような気がするだけさ。今年だって二百二十日になったら僕は又馳けて行くんだ。面白いなあ。」 「ほう、いいなあ、又三郎さんだちはいいなあ。」  小さな子供たちは一緒に云いました。  すると又三郎はこんどは少し怒りました。 「お前たちはだめだねえ。なぜ人のことをうらやましがるんだい。僕だってつらいことはいくらもあるんだい。お前たちにもいいことはたくさんあるんだい。僕は自分のことを一向考えもしないで人のことばかりうらやんだり馬鹿にしているやつらを一番いやなんだぜ。僕たちの方ではね、自分を外のものとくらべることが一番はずかしいことになっているんだ。僕たちはみんな一人一人なんだよ。さっきも云ったような僕たちの一年に一ぺんか二へんの大演習の時にね、いくら早くばかり行ったって、うしろをふりむいたり並んで行くものの足なみを見たりするものがあると、もう誰も相手にしないんだぜ。やっぱりお前たちはだめだねえ。外の人とくらべることばかり考えているんじゃないか。僕はそこへ行くとさっき空で遭った鷹がすきだねえ。あいつは天気の悪い日なんか、ずいぶん意地の悪いこともあるけれども空をまっすぐに馳けてゆくから、僕はすきなんだ。銀色の羽をひらりひらりとさせながら、空の青光の中や空の影の中を、まっすぐにまっすぐに、まるでどこまで行くかわからない不思議な矢のように馳けて行くんだ。だからあいつは意地悪で、あまりいい気持はしないけれども、さっきも、よう、あんまり空の青い石を突っつかないでくれっ、て挨拶したんだ。するとあいつが云ったねえ、ふん、青い石に穴があいたら、お前にも向う世界を見物させてやろうって云うんだ。云うことはずいぶん生意気だけれども僕は悪い気がしなかったねえ。」  一郎がそこで云いました。 「又三郎さん。おらはお前をうらやましがったんでないよ、お前をほめたんだ。おらはいつでも先生から習っているんだ。本当に男らしいものは、自分の仕事を立派に仕上げることをよろこぶ。決して自分が出来ないからって人をねたんだり、出来たからって出来ない人を見くびったりさない。お前もそう怒らなくてもいい。」  又三郎もよろこんで笑いました。それから一寸立ち上ってきりきりっとかかとで一ぺんまわりました。そこでマントがギラギラ光り、ガラスの沓がカチッ、カチッとぶっつかって鳴ったようでした。又三郎はそれから又|座って云いました。 「そうだろう。だから僕は君たちもすきなんだよ。君たちばかりでない。子供はみんなすきなんだ。僕がいつでもあらんかぎり叫んで馳ける時、よろこんできゃっきゃっ云うのは子供ばかりだよ。一昨日だってそうさ。ひるすぎから俄かに僕たちがやり出したんだ。そして僕はある峠を通ったね。栗の木の青いいがを落したり、青葉までがりがりむしってやったね。その時峠の頂上を、雨の支度もしないで二人の兄弟が通るんだ、兄さんの方は丁度おまえくらいだったろうかね。」    又三郎は一郎を尖った指で指しながら又言葉を続けました。 「弟の方はまるで小さいんだ。その顔の赤い子よりもっと小さいんだ。その小さな子がね、まるでまっ青になってぶるぶるふるえているだろう。それは僕たちはいつでも人間の眼から火花を出せるんだ。僕の前に行ったやつがいたずらして、その兄弟の眼を横の方からひどく圧しつけて、とうとうパチパチ火花が発ったように思わせたんだ。そう見えるだけさ、本当は火花なんかないさ。それでもその小さな子は空が紫色がかった白光をしてパリパリパリパリと燃えて行くように思ったんだ。そしてもう天地がいまひっくりかえって焼けて、自分も兄さんもお母さんもみんなちりぢりに死んでしまうと思ったんだい。かあいそうに。そして兄さんにまるで石のように堅くなって抱きついていたね。ところがその大きな方の子はどうだい。小さな子を風のかげになるようにいたわってやりながら、自分はさも気持がいいというように、僕の方を向いて高く叫んだんだ。そこで僕も少ししゃくにさわったから、一つ大あばれにあばれたんだ。豆つぶぐらいある石ころをばらばら吹きあげて、たたきつけてやったんだ。小さな子はもう本当に大声で泣いたねえ。それでも大きな子はやっぱり笑うのをやめなかったよ。けれどとうとうあんまり弟が泣くもんだから、自分も怖くなったと見えて口がピクッと横の方へまがった、そこで僕は急に気の毒になって、丁度その時行く道がふさがったのを幸に、ぴたっとまるでしずかな湖のように静まってやった。それから兄弟と一緒に峠を下りながら横の方の草原から百合の匂を二人の方へもって行ってやったりした。  どうしたんだろう、急に向うが空いちまった。僕は向うへ行くんだ。さよなら。あしたも又来てごらん。又遭えるかも知れないから。」  風の又三郎のすきとおるマントはひるがえり、たちまちその姿は見えなくなりました。みんなはいろいろ今のことを話し合いながら丘を下り、わかれてめいめいの家に帰りました。    九月四日 「サイクルホールの話聞かせてやろうか。」  又三郎はみんなが丘の栗の木の下に着くやいなや、斯う云っていきなり形をあらわしました。けれどもみんなは、サイクルホールなんて何だか知りませんでしたから、だまっていましたら、又三郎はもどかしそうに又言いました。 「サイクルホールの話、お前たちは聴きたくないかい。聴きたくないなら早くはっきりそう云ったらいいじゃないか。僕行っちまうから。」 「聴きたい。」一郎はあわてて云いました。又三郎は少し機嫌を悪くしながらぼつりぼつり話しはじめました。 「サイクルホールは面白い。人間だってやるだろう。見たことはないかい。秋のお祭なんかにはよくそんな看板を見るんだがなあ、自転車ですりばちの形になった格子の中を馳けるんだよ。だんだん上にのぼって行って、とうとうそのすりばちのふちまで行った時、片手でハンドルを持ってハンケチなどを振るんだ。なかなかあれでひどいんだろう。ところが僕等がやるサイクルホールは、あんな小さなもんじゃない。尤も小さい時もあるにはあるよ。お前たちのかまいたちっていうのは、サイクルホールの小さいのだよ。」 「ほ、おら、かまいたぢに足切られたぞ。」  嘉助が叫びました。 「何だって足を切られた? 本当かい。どれ足を出してごらん。」  又三郎はずいぶんいやな顔をしながら斯う言いました。嘉助はまっ赤になりながら足を出しました。又三郎はしばらくそれを見てから、 「ふうん。」 と医者のような物の言い方をしてそれから、 「一寸脈をお見せ。」 と言うのでした。嘉助は右手を出しましたが、その時の又三郎のまじめくさった顔といったら、とうとう一郎は噴き出しました。けれども又三郎は知らん振りをして、だまって嘉助の脈を見てそれから云いました。 「なるほどね、お前ならことによったら足を切られるかも知れない。この子はね、大へんからだの皮が薄いんだよ。それに無暗に心臓が強いんだ。腕を少し吸っても血が出るくらいなんだ。殊にその時足をすりむきでもしていたんだろう。かまいたちで切れるさ。」 「何して切れる。」一郎はたずねました。 「それはね、すりむいたとこから、もう血がでるばかりにでもなっているだろう。それを空気が押して押さえてあるんだ。ところがかまいたちのまん中では、わり合空気が押さないだろう。いきなりそんな足をかまいたちのまん中に入れると、すぐ血が出るさ。」 「切るのだないのか。」一郎がたずねました。 「切るのじゃないさ、血が出るだけさ。痛くなかったろう。」又三郎は嘉助に聴きました。 「痛くなかった。」嘉助はまだ顔を赤くしながら笑いました。 「ふん、そうだろう。痛いはずはないんだ。切れたんじゃないからね。そんな小さなサイクルホールなら僕たちたった一人でも出来る。くるくるまわって走れぁいいからね。そうすれば木の葉や何かマントにからまって、丁度うまい工合かまいたちになるんだ。ところが大きなサイクルホールはとても一人じゃ出来あしない。小さいのなら十人ぐらい。大きなやつなら大人もはいって千人だってあるんだよ。やる時は大抵ふたいろあるよ。日がかんかんどこか一とこに照る時か、また僕たちが上と下と反対にかける時ぶっつかってしまうことがあるんだ。そんな時とまあふたいろにきまっているねえ。あんまり大きなやつは、僕よく知らないんだ。南の方の海から起って、だんだんこっちにやってくる時、一寸僕等がはいるだけなんだ。ふうと馳けて行って十ぺんばかりまわったと思うと、もうずっと上の方へのぼって行って、みんなゆっくり歩きながら笑っているんだ。そんな大きなやつへうまくはいると、九州からこっちの方まで一ぺんに来ることも出来るんだ。けれどもまあ、大抵は途中で高いとこへ行っちまうね。だから大きなのはあんまり面白かあないんだ。十人ぐらいでやる時は一番|愉快だよ。甲州ではじめた時なんかね。はじめ僕が八ヶ|岳の麓の野原でやすんでたろう。曇った日でねえ、すると向うの低い野原だけ不思議に一日、日が照ってね、ちらちらかげろうが上っていたんだ。それでも僕はまあやすんでいた。そして夕方になったんだ。するとあちこちから 『おいサイクルホールをやろうじゃないか。どうもやらなけぁ、いけない様だよ。』ってみんなの云うのが聞えたんだ。 『やろう』僕はたち上って叫んだねえ、 『やろう』『やろう』声があっちこっちから聞えたね。 『いいかい、じゃ行くよ。』僕はその平地をめがけてピーッと飛んで行った。するといつでもそうなんだが、まっすぐに平地に行かさらないんだ。急げば急ぐほど右へまがるよ、尤もそれでサイクルホールになるんだよ。さあ、みんながつづいたらしいんだ。僕はもうまるで、汽車よりも早くなっていた。下に富士川の白い帯を見てかけて行った。けれども間もなく、僕はずっと高いところにのぼって、しずかに歩いていたねえ。サイクルホールはだんだん向うへ移って行って、だんだんみんなもはいって行って、ずいぶん大きな音をたてながら、東京の方へ行ったんだ。きっと東京でもいろいろ面白いことをやったねえ。それから海へ行ったろう。海へ行ってこんどは竜巻をやったにちがいないんだ。竜巻はねえ、ずいぶん凄いよ。海のには僕はいったことはないんだけれど、小さいのを沼でやったことがあるよ。丁度お前達の方のご維新前ね、日詰の近くに源五沼という沼があったんだ。そのすぐ隣りの草はらで、僕等は五人でサイクルホールをやった。ぐるぐるひどくまわっていたら、まるで木も折れるくらい烈しくなってしまった。丁度雨も降るばかりのところだった。一人の僕の友だちがね、沼を通る時、とうとう機みで水を掬っちゃったんだ。さあ僕等はもう黒雲の中に突き入ってまわって馳けたねえ、水が丁度|漏斗の尻のようになって来るんだ。下から見たら本当にこわかったろう。 『ああ竜だ、竜だ。』みんなは叫んだよ。実際下から見たら、さっきの水はぎらぎら白く光って黒雲の中にはいって、竜のしっぽのように見えたかも知れない。その時友だちがまわるのをやめたもんだから、水はざあっと一ぺんに日詰の町に落ちかかったんだ。その時は僕はもうまわるのをやめて、少し下に降りて見ていたがね、さっきの水の中にいた鮒やなまずが、ばらばらと往来や屋根に降っていたんだ。みんなは外へ出て恭恭しく僕等の方を拝んだり、降って来た魚を押し戴いていたよ。僕等は竜じゃないんだけれども拝まれるとやっぱりうれしいからね、友だち同志にこにこしながらゆっくりゆっくり北の方へ走って行ったんだ。まったくサイクルホールは面白いよ。  それから逆サイクルホールというのもあるよ。これは高いところから、さっきの逆にまわって下りてくることなんだ。この時ならば、そんなに急なことはない。冬は僕等は大抵シベリヤに行ってそれをやったり、そっちからこっちに走って来たりするんだ。僕たちがこれをやってる間はよく晴れるんだ。冬ならば咽喉を痛くするものがたくさん出来る。けれどもそれは僕等の知ったことじゃない。それから五月か六月には、南の方では、大抵|支那の揚子江の野原で大きなサイクルホールがあるんだよ。その時丁度北のタスカロラ海床の上では、別に大きな逆サイクルホールがある。両方だんだんぶっつかるとそこが梅雨になるんだ。日本が丁度それにあたるんだからね、仕方がないや。けれどもお前達のところは割合北から西へ外れてるから、梅雨らしいことはあんまりないだろう。あんまりサイクルホールの話をしたから何だか頭がぐるぐるしちゃった。もうさよなら。僕はどこへも行かないんだけれど少し睡りたいんだ。さよなら。」  又三郎のマントがぎらっと光ったと思うと、もうその姿は消えて、みんなは、はじめてほうと息をつきました。それからいろいろいまのことを話しながら、丘を下って銘銘わかれておうちへ帰って行ったのです。    九月五日 「僕は上海だって何べんも知ってるよ。」みんなが丘へのぼったとき又三郎がいきなりマントをぎらっとさせてそこらの草へ橙や青の光を落しながら出て来てそれから指をひろげてみんなの前に突き出して云いました。 「上海と東京は僕たちの仲間なら誰でもみんな通りたがるんだ。どうしてか知ってるかい。」  又三郎はまっ黒な眼を少し意地わるそうにくりくりさせながらみんなを見まわしました。けれども上海と東京ということは一郎も誰も何のことかわかりませんでしたからお互しばらく顔を見合せてだまっていましたら又三郎がもう大得意でにやにや笑いながら言ったのです。 「僕たちの仲間はみんな上海と東京を通りたがるよ。どうしてって東京には日本の中央気象台があるし上海には支那の中華大気象台があるだろう。どっちだって偉い人がたくさん居るんだ。本当は気象台の上をかけるときは僕たちはみんな急ぎたがるんだ。どうしてって風力計がくるくるくるくる廻っていて僕たちのレコードはちゃんと下の機械に出て新聞にも載るんだろう。誰だっていいレコードを作りたいからそれはどうしても急ぐんだよ。けれども僕たちの方のきめでは気象台や測候所の近くへ来たからって俄に急いだりすることは大へん卑怯なことにされてあるんだ。お前たちだってきっとそうだろう、試験の時ばかりむやみに勉強したりするのはいけないことになってるだろう。だから僕たちも急ぎたくたってわざと急がないんだ。そのかわりほんとうに一生けん命かけてる最中に気象台へ通りかかるときはうれしいねえ、風力計をまるでのぼせるくらいにまわしてピーッとかけぬけるだろう、胸もすっとなるんだ。面白かったねえ、一昨年だったけれど六月ころ僕丁度上海に居たんだ。昼の間には海から陸へ移って行き夜には陸から海へ行ってたねえ、大抵朝は十時|頃海から陸の方へかけぬけるようになっていたんだがそのときはいつでも、うまい工合に気象台を通るようになるんだ。すると気象台の風力計や風信器や置いてある屋根の上のやぐらにいつでも一人の支那人の理学博士と子供の助手とが立っているんだ。  博士はだまっていたが子供の助手はいつでも何か言っているんだ。そいつは頭をくりくりの芥子坊主にしてね、着物だって袖の広い支那服だろう、沓もはいてるねえ、大へんかあいらしいんだよ、一番はじめの日僕がそこを通ったら斯う言っていた。 『これはきっと颶風ですね。ずぶんひどい風ですね。』  すると支那人の博士が葉巻をくわえたままふんふん笑って 『家が飛ばないじゃないか。』 と云うと子供の助手はまるで口を尖らせて、 『だって向うの三角旗や何かぱたぱた云ってます。』というんだ。博士は笑って相手にしないで壇を下りて行くねえ、子供の助手は少し悄気ながら手を拱いてあとから恭々しくついて行く。  僕はそのとき二・五|米というレコードを風力計にのこして笑って行ってしまったんだ。  次の日も九時頃僕は海の霧の中で眼がさめてそれから霧がだんだん融けて空が青くなりお日さまが黄金のばらのようにかがやき出したころそろそろ陸の方へ向ったんだ。これは仕方ないんだよ、お日さんさえ出たらきっともう僕たちは陸の方へ行かなけぁならないようになるんだ、僕はだんだん岸へよって鴎が白い蓮華の花のように波に浮んでいるのも見たし、また沢山のジャンクの黄いろの帆や白く塗られた蒸気船の舷を通ったりなんかして昨日の気象台に通りかかると僕はもう遠くからあの風力計のくるくるくるくる廻るのを見て胸が踊るんだ。すっとかけぬけただろう。レコードが一秒五米と出たねえ、そのとき下を見ると昨日の博士と子供の助手とが今日も出て居て子供の助手がやっぱり云っているんだ。 『この風はたしかに颶風ですね。』  支那人の博士はやっぱりわらって気がないように、 『瓦も石も舞い上らんじゃないか。』と答えながらもう壇を下りかかるんだ。子供の助手はまるで一生けん命になって 『だって木の枝が動いてますよ。』と云うんだ。それでも博士はまるで相手にしないねえ、僕もその時はもう気象台をずうっとはなれてしまってあとどうなったか知らない。  そしてその日はずうっと西の方の瀬戸物の塔のあるあたりまで行ってぶらぶらし、その晩十七夜のお月さまの出るころ海へ戻って睡ったんだ。  ところがその次の日もなんだ。その次の日僕がまた海からやって来てほくほくしながらもう大分の早足で気象台を通りかかったらやっぱり博士と助手が二人出ていた。 『こいつはもう本とうの暴風ですね、』又あの子供の助手が尤らしい顔つきで腕を拱いてそう云っているだろう。博士はやっぱり鼻であしらうといった風で 『だって木が根こぎにならんじゃないか。』と云うんだ。子供はまるで顔をまっ赤にして 『それでもどの木もみんなぐらぐらしてますよ。』と云うんだ。その時僕はもうあとを見なかった。なぜってその日のレコードは八米だからね、そんなに気象台の所にばかり永くとまっているわけには行かなかったんだ。そしてその次の日だよ、やっぱり僕は海へ帰っていたんだ。そして丁度八時ころから雲も一ぱいにやって来て波も高かった。僕はこの時はもう両手をひろげ叫び声をあげて気象台を通った。やっぱり二人とも出ていたねえ、子供は高い処なもんだからもうぶるぶる顫えて手すりにとりついているんだ。雨も幾つぶか落ちたよ。そんなにこわそうにしながらまた斯う云っているんだ。 『これは本当の暴風ですね、林ががあがあ云ってますよ、枝も折れてますよ。』  ところが博士は落ちついてからだを少しまげながら海の方へ手をかざして云ったねえ 『うん、けれどもまだ暴風というわけじゃないな。もう降りよう。』僕はその語をきれぎれに聴きながらそこをはなれたんだそれからもうかけてかけて林を通るときは木をみんな狂人のようにゆすぶらせ丘を通るときは草も花もめっちゃめちゃにたたきつけたんだ、そしてその夕方までに上海から八十里も南西の方の山の中に行ったんだ。そして少し疲れたのでみんなとわかれてやすんでいたらその晩また僕たちは上海から北の方の海へ抜けて今度はもうまっすぐにこっちの方までやって来るということになったんだ。そいつは低気圧だよ、あいつに従いて行くことになったんだ。さあ僕はその晩中あしたもう一ぺん上海の気象台を通りたいといくら考えたか知れやしない。ところがうまいこと通ったんだ。そして僕は遠くから風力計の椀がまるで眼にも見えない位速くまわっているのを見、又あの支那人の博士が黄いろなレーンコートを着子供の助手が黒い合羽を着てやぐらの上に立って一生けん命空を見あげているのを見た。さあ僕はもう笛のように鳴りいなずまのように飛んで 『今日は暴風ですよ、そら、暴風ですよ。今日は。さよなら。』と叫びながら通ったんだ。もう子供の助手が何を云ったかただその小さな口がぴくっとまがったのを見ただけ少しも僕にはわからなかった。  そうだ、そのときは僕は海をぐんぐんわたってこっちへ来たけれども来る途中でだんだんかけるのをやめてそれから丁度五日目にここも通ったよ。その前の日はあの水沢の臨時|緯度観測所も通った。あすこは僕たちの日本では東京の次に通りたがる所なんだよ。なぜってあすこを通るとレコードでも何でもみな外国の方まで知れるようになることがあるからなんだ。あすこを通った日は丁度お天気だったけれど、そうそう、その時は丁度日本では入梅だったんだ、僕は観測所へ来てしばらくある建物の屋根の上にやすんでいたねえ、やすんで居たって本当は少しとろとろ睡ったんだ。すると俄かに下で 『大丈夫です、すっかり乾きましたから。』と云う声がするんだろう。見ると木村博士と気象の方の技手とがラケットをさげて出て来ていたんだ。木村博士は瘠せて眼のキョロキョロした人だけれども僕はまあ好きだねえ、それに非常にテニスがうまいんだよ。僕はしばらく見てたねえ、どうしてもその技手の人はかなわない、まるっきり汗だらけになってよろよろしているんだ。あんまり僕も気の毒になったから屋根の上からじっとボールの往来をにらめてすきを見て置いてねえ、丁度博士がサーヴをつかったときふうっと飛び出して行って球を横の方へ外らしてしまったんだ。博士はすぐもう一つの球を打ちこんだねえ。そいつは僕は途中に居て途方もなく遠くへけとばしてやった。 『こんな筈はないぞ。』と博士は云ったねえ、僕はもう博士にこれ位云わせれば沢山だと思って観測所をはなれて次の日丁度ここへ来たんだよ。ところでね、僕は少し向うへ行かなくちゃいけないから今日はこれでお別れしよう。さよなら。」  又三郎はすっと見えなくなってしまいました。  みんなは今日は又三郎ばかりあんまり勝手なことを云ってあんまり勝手に行ってしまったりするもんですから少し変な気もしましたが一所に丘を降りて帰りました。    九月六日  一昨日からだんだん曇って来たそらはとうとうその朝は低い雨雲を下してまるで冬にでも降るようなまっすぐなしずかな雨がやっと穂を出した草や青い木の葉にそそぎました。  みんなは傘をさしたり小さな簑からすきとおるつめたい雫をぽたぽた落したりして学校に来ました。  雨はたびたび霽れて雲も白く光りましたけれども今日は誰もあんまり教室の窓からあの丘の栗の木の処を見ませんでした。又三郎などもはじめこそはほんとうにめずらしく奇体だったのですがだんだんなれて見ると割合ありふれたことになってしまってまるで東京からふいに田舎の学校へ移って来た友だちぐらいにしか思われなくなって来たのです。  おひるすぎ授業が済んでからはもう雨はすっかり晴れて小さな蝉などもカンカン鳴きはじめたりしましたけれども誰も今日はあの栗の木の処へ行こうとも云わず一郎も耕一も学校の門の処で「あばえ。」と言ったきり別れてしまいました。  耕一の家は学校から川添いに十五町ばかり溯った処にありました。耕一の方から来ている子供では一年生の生徒が二人ありましたけれどもそれはもう午前中に帰ってしまっていましたし耕一はかばんと傘を持ってひとりみちを川上の方へ帰って行きました。みちは岩の崖になった処の中ごろを通るのでずいぶん度々山の窪みや谷に添ってまわらなければなりませんでした。ところどころには湧水もあり、又みちの砂だってまっ白で平らでしたから耕一は今日も足駄をぬいで傘と一緒にもって歩いて行きました。  まがり角を二つまわってもう学校も見えなくなり前にもうしろにも人は一人も居ず谷の水だけ崖の下で少し濁ってごうごう鳴るだけ大へんさびしくなりましたので耕一は口笛を吹きながら少し早足に歩きました。  ところが路の一とこに崖からからだをつき出すようにした楢や樺の木が路に被さったとこがありました。耕一が何気なくその下を通りましたら俄かに木がぐらっとゆれてつめたい雫が一ぺんにざっと落ちて来ました。耕一は肩からせなかから水へ入ったようになりました。それほどひどく落ちて来たのです。  耕一はその梢をちょっと見あげて少し顔を赤くして笑いながら行き過ぎました。  ところが次の木のトンネルを通るとき又ざっとその雫が落ちて来たのです。今度はもうすっかりからだまで水がしみる位にぬれました。耕一はぎょっとしましたけれどもやっぱり口笛を吹いて歩いて行きました。  ところが間もなく又木のかぶさった処を通るようになりました。それは大へんに今までとはちがって長かったのです。耕一は通る前に一ぺんその青い枝を見あげました。雫は一ぱいにたまって全く今にも落ちそうには見えましたしおまけに二度あることは三度あるとも云うのでしたから少し立ちどまって考えて見ましたけれどもまさか三度が三度とも丁度下を通るときそれが落ちて来るということはないと思って少しびくびくしながらその下を急いで通って行きました。そしたらやっぱり、今度もざあっと雫が落ちて来たのです。耕一はもう少し口がまがって泣くようになって上を見あげました。けれども何とも仕方ありませんでしたから冷たさに一ぺんぶるっとしながらもう少し行きました。すると、又ざあと来たのです。 「誰だ。誰だ。」耕一はもうきっと誰かのいたずらだと思ってしばらく上をにらんでいましたがしんとして何の返事もなくただ下の方で川がごうごう鳴るばかりでした。そこで耕一は今度は傘をさして行こうと思って足駄を下におろして傘を開きました。そしたら俄にどうっと風がやって来て傘はぱっと開きあぶなく吹き飛ばされそうになりました、耕一はよろよろしながらしっかり柄をつかまえていましたらとうとう傘はがりがり風にこわされて開いた蕈のような形になりました。  耕一はとうとう泣き出してしまいました。  すると丁度それと一緒に向うではあはあ笑う声がしたのです。びっくりしてそちらを見ましたらそいつは、そいつは風の又三郎でした。ガラスのマントも雫でいっぱい髪の毛もぬれて束になり赤い顔からは湯気さえ立てながらはあはあはあはあふいごのように笑っていました。  耕一はあたりがきぃんと鳴るように思ったくらい怒ってしまいました。 「何為ぁ、ひとの傘ぶっかして。」  又三郎はいよいよひどく笑ってまるでそこら中ころげるようにしました。  耕一はもうこらえ切れなくなって持っていた傘をいきなり又三郎に投げつけてそれから泣きながら組み付いて行きました。  すると又三郎はすばやくガラスマントをひろげて飛びあがってしまいました。もうどこへ行ったか見えないのです。  耕一はまだ泣いてそらを見上げました。そしてしばらく口惜しさにしくしく泣いていましたがやっとあきらめてその壊れた傘も持たずうちへ帰ってしまいました。そして縁側から入ろうとしてふと見ましたらさっきの傘がひろげて干してあるのです。照井耕一という名もちゃんと書いてありましたし、さっきはなれた処もすっかりくっつききれた糸も外の糸でつないでありました。耕一は縁側に座りながらとうとう笑い出してしまったのです。    九月七日  次の日は雨もすっかり霽れました。日曜日でしたから誰も学校に出ませんでした。ただ耕一は昨日又三郎にあんなひどい悪戯をされましたのでどうしても今日は遭ってうんとひどくいじめてやらなければと思って自分一人でもこわかったもんですから一郎をさそって朝の八時|頃からあの草山の栗の木の下に行って待っていました。  すると又三郎の方でもどう云うつもりか大へんに早く丁度九時ころ、丘の横の方から何か非常に考え込んだような風をして鼠いろのマントをうしろへはねて腕組みをして二人の方へやって来たのでした。さあ、しっかり談判しなくちゃいけないと考えて耕一はどきっとしました。又三郎はたしかに二人の居たのも知っていたようでしたが、わざといかにも考え込んでいるという風で二人の前を知らないふりして通って行こうとしました。 「又三郎、うわぁい。」耕一はいきなりどなりました。又三郎はぎょっとしたようにふり向いて、 「おや、お早う。もう来ていたのかい。どうして今日はこんなに早いんだい。」とたずねました。 「日曜でさ。」一郎が云いました。 「ああ、今日は日曜だったんだね、僕すっかり忘れていた。そうだ八月三十一日が日曜だったからね、七日目で今日が又日曜なんだね。」 「うん。」一郎はこたえましたが耕一はぷりぷり怒っていました。又三郎が昨日のことなど一言も云わずあんまりそらぞらしいもんですからそれに耕一に何も云われないように又日曜のことなどばかり云うもんですからじっさいしゃくにさわったのです。そこでとうとういきなり叫びました。 「うわぁい、又三郎、汝などぁ、世界に無くてもいいな。うわぁぃ。」  すると又三郎はずるそうに笑いました。 「やあ、耕一君、お早う。昨日はずいぶん失敬したね。」  耕一は何かもっと別のことを言おうと思いましたがあんまり怒ってしまって考え出すことができませんでしたので又同じように叫びました。 「うわぁい、うわぁいだが、又三郎、うななどぁ世界中に無くてもいいな、うわぁい。」 「昨日は実際失敬したよ。僕雨が降ってあんまり気持ちが悪かったもんだからね。」  又三郎は少し眼をパチパチさせて気の毒そうに云いましたけれども耕一の怒りは仲々解けませんでした。そして三度同じことを繰り返したのです。 「うわぁい、うななどぁ、無くてもいいな。うわぁい。」  すると又三郎は少し面白くなったようでした。いつもの通りずるそうに笑って斯う訊ねました。 「僕たちが世界中になくてもいいってどう云うんだい。箇条を立てて云ってごらん。そら。」  耕一は試験のようだしつまらないことになったと思って大へん口惜しかったのですが仕方なくしばらく考えてから答えました。 「汝などぁ悪戯ばりさな。傘ぶっ壊したり。」 「それから? それから?」又三郎は面白そうに一足進んで云いました。 「それがら、樹折ったり転覆したりさな。」 「それから? それから、どうだい。」 「それがら、稲も倒さな。」 「それから? あとはどうだい。」 「家もぶっ壊さな。」 「それから? それから? あとはどうだい。」 「砂も飛ばさな。」 「それから? あとは? それから? あとはどうだい。」 「シャッポも飛ばさな。」 「それから? それから? あとは? あとはどうだい。」 「それがら、うう、電信ばしらも倒さな。」 「それから? それから? それから?」 「それがら、塔も倒さな。」 「アアハハハ、塔は家のうちだい、どうだいまだあるかい。それから? それから?」 「それがら、うう、それがら、」耕一はつまってしまいました。大抵もう云ってしまったのですからいくら考えてももう出ませんでした。  又三郎はいよいよ面白そうに指を一本立てながら 「それから? それから? ええ? それから。」と云うのでした。耕一は顔を赤くしてしばらく考えてからやっと答えました。 「それがら、風車もぶっ壊さな。」  すると又三郎は今度こそはまるで飛びあがって笑ってしまいました。笑って笑って笑いました。マントも一緒にひらひら波を立てました。 「そうらごらん、とうとう風車などを云っちゃった。風車なら僕を悪く思っちゃいないんだよ。勿論時々壊すこともあるけれども廻してやるときの方がずうっと多いんだ。風車ならちっとも僕を悪く思っちゃいないんだ。うそと思ったら聴いてごらん。お前たちはまるで勝手だねえ、僕たちがちっとばっかしいたずらすることは大業に悪口を云っていいとこはちっとも見ないんだ。それに第一お前のさっきからの数えようがあんまりおかしいや。うう、ううてばかりいたんだろう。おしまいはとうとう風車なんか数えちゃった。ああおかしい。」  又三郎は又|泪の出るほど笑いました。  耕一もさっきからあんまり困ったために怒っていたのもだんだん忘れて来ました。そしてつい又三郎と一所にわらいだしてしまったのです。さあ又三郎のよろこんだこと俄かにしゃべりはじめました。 「ね、そら、僕たちのやるいたずらで一番ひどいことは日本ならば稲を倒すことだよ、二百十日から二百二十日ころまで、昔はその頃ほんとうに僕たちはこわがられたよ。なぜってその頃は丁度稲に花のかかるときだろう。その時僕たちにかけられたら花がみんな散ってしまってまるで実にならないだろう、だから前は本当にこわがったんだ、僕たちだってわざとするんじゃない、どうしてもその頃かけなくちゃいかないからかけるんだ、もう三四日たてばきっと又そうなるよ。けれどもいまはもう農業が進んでお前たちの家の近くなどでは二百十日のころになど花の咲いている稲なんか一本もないだろう、大抵もう柔らかな実になってるんだ。早い稲はもうよほど硬くさえなってるよ、僕らがかけあるいて少し位倒れたってそんなにひどくとりいれが減りはしないんだ。だから結局何でもないさ。それからも一つは木を倒すことだよ。家を倒すなんてそんなことはほんの少しだからね、木を倒すことだよ、これだって悪戯じゃないんだよ。倒れないようにして置けぁいいんだ。葉の濶い樹なら丈夫だよ。僕たちが少しぐらいひどくぶっつかっても仲々倒れやしない。それに林の樹が倒れるなんかそれは林の持主が悪いんだよ。林を伐るときはね、よく一年中の強い風向を考えてその風下の方からだんだん伐って行くんだよ。林の外側の木は強いけれども中の方の木はせいばかり高くて弱いからよくそんなことも気をつけなけぁいけないんだ。だからまず僕たちのこと悪く云う前によく自分の方に気をつけりゃいいんだよ。海岸ではね、僕たちが波のしぶきを運んで行くとすぐ枯れるやつも枯れないやつもあるよ。苹果や梨やまるめろや胡瓜はだめだ、すぐ枯れる、稲や薄荷やだいこんなどはなかなか強い、牧草なども強いねえ。」  又三郎はちょっと話をやめました。耕一もすっかり機嫌を直して云いました。 「又三郎、おれぁあんまり怒で悪がた。許せな。」  すると又三郎はすっかり悦びました。 「ああありがとう、お前はほんとうにさっぱりしていい子供だねえ、だから僕はおまえはすきだよ、すきだから昨日もいたずらしたんだ、僕だっていたずらはするけれど、いいことはもっと沢山するんだよ、そら数えてごらん、僕は松の花でも楊の花でも草棉の毛でも運んで行くだろう。稲の花粉だってやっぱり僕らが運ぶんだよ。それから僕が通ると草木はみんな丈夫になるよ。悪い空気も持って行っていい空気も運んで来る。東京の浅草のまるで濁った寒天のような空気をうまく太平洋の方へさらって行って日本アルプスのいい空気だって代りに持って行ってやるんだ。もし僕がいなかったら病気も湿気もいくらふえるか知れないんだ。ところで今日はお前たちは僕にあうためにばかりここへ来たのかい。けれども僕は今日は十時半から演習へ出なけぁいけないからもう別れなけぁならないんだ。あした又来ておくれ。ね。じゃ、さよなら。」  又三郎はもう見えなくなっていました。一郎と耕一も「さよなら」と云いながら丘を下りて学校の誰もいない運動場で鉄棒にとりついたりいろいろ遊んでひるころうちへ帰りました。    九月八日  その次の日は大へんいい天気でした。そらには霜の織物のような又白い孔雀のはねのような雲がうすくかかってその下を鳶が黄金いろに光ってゆるく環をかいて飛びました。  みんなは、 「とんびとんび、とっとび。」とかわるがわるそっちへ叫びながら丘をのぼりました。そしていつもの栗の木の下へかけ上るかあがらないうちにもう又三郎のガラスの沓がキラッと光って又三郎は一昨日の通りまじめくさった顔をして草に立っていました。 「今日は退屈だったよ。朝からどこへも行きゃしない。お前たちの学校の上を二三べんあるいたし谷底へ二三べん下りただけだ。ここらはずいぶんいい処だけれどもやっぱり僕はもうあきたねえ。」又三郎は草に足を投げ出しながら斯う云いました。 「又三郎さん北極だの南極だのおべだな。」  一郎は又三郎に話させることになれてしまって斯う云って話を釣り出そうとしました。  すると又三郎は少し馬鹿にしたように笑って答えました。 「ふん、北極かい。北極は寒いよ。」  ところが耕一は昨日からまだ怒っていましたしそれにいまの返事が大へんしゃくにさわりましたので 「北極は寒いかね。」とふざけたように云ったのです。さあすると今度は又三郎がすっかり怒ってしまいました。 「何だい、お前は僕をばかにしようと思ってるのかい。僕はお前たちにばかにされぁしないよ。悪口を云うならも少し上手にやるんだよ。何だい、北極は寒いかねってのは、北極は寒いかね、ほんとうに田舎くさいねえ。」  耕一も怒りました。 「何した、汝などそだら東京だが。一年中うろうろど歩ってばがり居でいだずらばがりさな。」  ところが奇体なことは、斯う云ったとき、又三郎が又|俄かによろこんで笑い出したのです。 「もちろん僕は東京なんかじゃないさ。一年中旅行さ。旅行の方が東京よりは偉いんだよ。旅行たって僕のはうろうろじゃないや。かけるときはきぃっとかけるんだ。赤道から北極まで大循環さえやるんだ。東京なんかよりいくらいいか知れない。」  耕一はまだ怒ってにぎりこぶしをにぎっていましたけれども又三郎は大機嫌でした。 「北極の話聞かせなぃが。」一郎が又云いました。すると又三郎はもっとひどくにこにこしました。 「大循環の話なら面白いけれどむずかしいよ。あんまり小さな子はわからないよ。」 「わがる。」一年生の子が顔を赤くして叫びました。 「わかるかね。僕は大循環のことを話すのはほんとうはすきなんだ。僕は大循環は二|遍やったよ。尤も一遍は途中からやめて下りたけれど、僕たちは五遍大循環をやって来ると、もうそれぁ幅が利くんだからね、だからみんなでかけるんだよ、けれども仲々うまく行かないからねえ、ギルバート群島からのぼって発ったときはうまくいったけれどねえ、ボルネオから発ったときはすっかりしくじっちゃったんだ。それでも面白かったねえ、ギルバート群島の中の何と云う島かしら小さいけれども白壁の教会もあった、その島の近くに僕は行ったねえ、行くたって仲々容易じゃないや、あすこらは赤道無風帯ってお前たちが云うんだろう。僕たちはめったに歩けやしない。それでも無風帯のはじの方から舞い上ったんじゃ中々高いとこへ行かないし高いとこへ行かなきゃ北極だなんて遠い処へも行けないから誰でもみんななるべく無風帯のまん中へ行こう行こうとするんだ。僕は一生けん命すきをねらってはひるのうちに海から向うの島へ行くようにし夜のうちに島から又向うの海へ出るようにして何べんも何べんも戻ったりしながらやっとすっかり赤道まで行ったんだ。赤道には僕たちが見るとちゃんと白い指導標が立っているよ。お前たちが見たんじゃわかりゃしない。大循環志願者出発線、これより北極に至る八千九百ベェスター南極に至る八千七百ベェスターと書いてあるんだ。そのスタートに立って僕は待っていたねえ、向うの島の椰子の木は黒いくらい青く、教会の白壁は眼へしみる位白く光っているだろう。だんだんひるになって暑くなる、海は油のようにとろっとなってそれでもほんの申しわけに白い波がしらを振っている。  ひるすぎの二時頃になったろう。島で銅鑼がだるそうにぼんぼんと鳴り椰子の木もパンの木も一ぱいにからだをひろげてだらしなくねむっているよう、赤い魚も水の中でもうふらふら泳いだりじっととまったりして夢を見ているんだ。その夢の中で魚どもはみんな青ぞらを泳いでいるんだ。青ぞらをぷかぷか泳いでいると思っているんだ。魚というものは生意気なもんだねえ、ところがほんとうは、その時、空を騰って行くのは僕たちなんだ、魚じゃないんだ。もうきっとその辺にさえ居れや、空へ騰って行かなくちゃいけないような気がするんだ。けれどものぼって行くたってそれはそれはそおっとのぼって行くんだよ。椰子の樹の葉にもさわらず魚の夢もさまさないようにまるでまるでそおっとのぼって行くんだ。はじめはそれでも割合早いけれどもだんだんのぼって行って海がまるで青い板のように見え、その中の白いなみがしらもまるで玩具のように小さくちらちらするようになり、さっきの島などはまるで一|粒の緑柱石のように見えて来るころは、僕たちはもう上の方のずうっと冷たい所に居てふうと大きく息をつく、ガラスのマントがぱっと曇ったり又さっと消えたり何べんも何べんもするんだよ。けれどもとうとうすっかり冷くなって僕たちはがたがたふるえちまうんだ。そうすると僕たちの仲間はみんな集って手をつなぐ。そしてまだまだ騰って行くねえ、そのうちとうとうもう騰れない処まで来ちまうんだよ。その辺の寒さなら北極とくらべたってそんなに違やしない。その時僕たちはどうしても北の方に行かなきゃいけないようになるんだ。うしろの方では 『ああ今度はいよいよ、かけるんだな。南極はここから八千七百ベェスターだねえ、ずいぶん遠いねえ』なんて云っている、僕たちもふり向いて、ああそうですね、もうお別れです、僕たちはこれから北極へ行くんです、ほんの一寸の間でしたね、ご一緒したのも、じゃさよならって云うんだよ。もうそう云ってしまうかしまわないうち僕たち北極行きの方はどんどんどんどん走り出しているんだ。咽喉もかわき息もつかずまるで矢のようにどんどんどんどんかける。それでも少しも疲れぁしない、ただ北極へ北極へとみんな一生けん命なんだ。下の方はまっ白な雲になっていることもあれば海か陸かただ蒼黝く見えることもある、昼はお日さまの下を夜はお星さまたちの下をどんどんどんどんかけて行くんだ。ほんとうにもう休みなしでかけるんだ。  ところがだんだん進んで行くうちに僕たちは何だかお互の間が狭くなったような気がして前はひとりで広い場所をとって手だけつなぎ合ってかけて居たのが今度は何だかとなりの人のマントとぶっつかったり、手だって前のようにのばして居られなくなって縮まるんだろう。それがひどく疲れるんだよ。もう疲れて疲れて手をはなしそうになるんだ。それでもみんな早く北極へ行こうと思うから仲々手をはなさない、それでもとうとうたまらなくなって一人二人ずつ手をはなすんだ。そして 『もう僕だめだ。おりるよ。さよなら。』 とずうっと下の方で聞えたりする。  二日ばかりの間に半分ぐらいになってしまった。僕たちは新らしい仲間と又手をつないでお互顔を見合せながらどこまでもどこまでも北を指して進むんだ。先頃僕行って挨拶して来たおじさんはもう十六回目の大循環なんだ。飛びようだってそれぁ落ち着いているからね、僕が下から、おじさん、大丈夫ですかって云ったらおじさんは大きな大きなまるで僕なんか四人も入るようなマントのぼたんをゆっくりとかけながら、うん、お前は今度はタスカロラのはじに行くことになってるのだな、おれはタスカロラにはあさっての朝着くだろう。戻りにどこかで又あうよ。あんまり乱暴するんじゃないよってんだ。僕がええ、あばれませんからと云ったときはおじさんはもうずうっと向うへ行っていてそのマントのひろいせなかが見えていた、僕がそう云ってもただ大きくうなずいただけなんだ。えらいだろう。ところが僕たちのかけて行ったときはそんなにゆっくりしてはいなかった。みんな若いものばかりだからどうしても急ぐんだ。 『ここの下はハワイになっているよ。』なんて誰か叫ぶものもあるねえ、どんどんどんどん僕たちは急ぐだろう。にわかにポーッと霧の出ることがあるだろう。お前たちはそれがみんな水玉だと考えるだろう。そうじゃない、みんな小さな小さな氷のかけらなんだよ、顕微鏡で見たらもういくらすきとおって尖っているか知れやしない。  そんな旅を何日も何日もつづけるんだ。  ずいぶん美しいこともあるし淋しいこともある。雲なんかほんとうに奇麗なことがあるよ。」 「赤くてが。」耕一がたずねました。 「いいや、赤くはないよ。雲の赤くなるのは戻りさ。南極か北極へ向いて上の方をどんどん行くときは雲なんか赤かぁないんだよ。赤かぁないんだけれど、それあ美しいよ。ごく淡いいろの虹のように見えるときもあるしねえ、いろいろなんだ。  だんだん行くだろう。そのうちに僕たちは大分低く下っていることに気がつくよ。  夜がぼんやりうすあかるくてそして大へんみじかくなる。ふっと気がついて見るともう北極|圏に入っているんだ。海は蒼黝くて見るから冷たそうだ。船も居ない。そのうちにとうとう僕たちは氷山を見る。朝ならその稜が日に光っている。下の方に大きな白い陸地が見えて来る。それはみんながちがちの氷なんだ。向うの方は灰のようなけむりのような白いものがぼんやりかかってよくわからない。それは氷の霧なんだ。ただその霧のところどころから尖ったまっ黒な岩があちこち朝の海の船のように顔を出しているねえ。 『あすこはグリーンランドだよ。』僕たちは話し合うんだ。いままでどこをとんでいたのかもう今度で三度目だなんていう少し大きい方の人などが大威張でやって来ていろいろその辺のことなど云うんだ。 『そら、あすこのとこがゲーキイ湾だよ。知ってるだろう。英国のサア、アーキバルド、ゲーキーの名をつけた湾なんだ。ごらんそら、氷河ね、氷河が海にはいるねえ、あれで少しずつ押されてだんだん喰み出してるんだよ、そしてとうとう氷河から断れて氷山にならあね。あっちは? あっちが英国さ、ここはもう地球の頂上だからどっちへ行くたって近いやね、少し間違えば途方もない方へ降りちまうよ。あっち? あっちが英国さ。』なんてほんとうに威張ってるんだ。僕たちはもう殆んど東の方へ東の方へと北極を一まわりするようになるんだ。この時だよ、僕らのこわいのは。大循環でいちばんこわいのはこの時なんだよ、この僕たちのまわるもっと中の方に極渦といって大きな環があるんだ。その環にはいったらもう仲々出られない。卑怯なものはそれでもみんな入っちまうよ。環のまん中に名高い、ヘルマン大佐がいるんだ。人間じゃないよ。僕たちの方のだよ。ヘルマン大佐はまっすぐに立って腕を組んでじろじろあたりをめぐっているものを見ているねえ、そして僕たちの眼の色で卑怯だったものをすぐ見わけるんだ。そして 『こら、その赤毛、入れ。』と斯う云うんだ。そう云われたらもうおしまいだ極渦の中へはいってぐるぐるぐるぐるまわる、仲々出ていいとは云わないんだ。だから僕たちそのときは本当に緊張するよ。けれどもなんにも卑怯をしないものは割合平気だねえ、大循環の途中でわざとつかれた隣りの人の手をはなしたものだの早くみんなやめるといいと考えてきろきろみんなの足なみを見たりしたものはどれもすっかり入れられちまうんだ。  そのうちだんだん僕らはめぐるだろう。そして下の方におりるんだ。おしまいはまるで海とすれすれになる。そのときあちこちの氷山に、大循環|到着者はこの附近に於て数日間休養すべし、帰路は各人の任意なるも障碍は来路に倍するを以て充分の覚悟を要す。海洋は摩擦少きも却って速度は大ならず。最も愚鈍なるもの最も賢きものなり、という白い杭が立っている。これより赤道に至る八千六百ベスターというような標もあちこちにある。だから僕たちはその辺でまあ五六日はやすむねえ、そしてまったくあの辺は面白いんだよ。白熊は居るしね、テッデーベーヤさ。あいつはふざけたやつだねえ、氷のはじに立ってとぼけた顔をしてじっと海の水を見ているかと思うと俄かに前肢で頭をかかえるようにしてね、ざぶんと水の中へ飛び込むんだ。するとからだ中の毛がみんなまるで銀の針のように見えるよ。あっぷあっぷ溺れるまねをしたりなんかもするねえ、そんなことをしてふざけながらちゃんと魚をつかまえるんだからえらいや、魚をつかまえてこんどは大威張りで又氷にあがるんだ。魚というものは本当にばかなもんだ、ふざけてさえ居れば大丈夫こわくないと思ってるんだ。白熊はなかなか賢いよ。それからその次に面白いのは北極光だよ。ぱちぱち鳴るんだ、ほんとうに鳴るんだよ。紫だの緑だのずいぶん奇麗な見世物だよ、僕らはその下で手をつなぎ合ってぐるぐるまわったり歌ったりする。  そのうちとうとう又帰るようになるんだ。今度は海の上を渡って来る。あ、もう演習の時間だ。あした又話すからね。じゃさよなら。」又三郎は一ぺんに見えなくなってしまいました。みんなも丘をおりたのです。    九月九日 「北極は面白いけれどもそんなに永くとまっている処じゃない。うっかりはせまわってふらふらしているとこなどを、ヘルマン大佐になど見られようもんならさっそく、おいその赤毛、入れ、なんて来るからねえ、いくら面白いたって少し疲れさえなおったら出発をはじめるんだよ。帰りはもう自由だからみんなで手をつながなくてもいいんだ。気の合った友達と二人三人ずつ向うの隙き次第|出掛けるだろう。僕の通って来たのはベーリング海峡から太平洋を渡って北海道へかかったんだ。どうしてどうして途中のひどいこと前に高いとこをぐんぐんかけたどこじゃない、南の方から来てぶっつかるやつはあるし、ぶっつかったときは霧ができたり雨をちらしたり負ければあと戻りをしなけぁいけないし丁度力が同じだとしばらくとまったりこの前のサイクルホールになったりするし勝ったってよっぽど手間取るんだからそらぁ実際気がいらいらするんだよ。喧嘩だってずいぶんするよ。けれども決して卑怯はしない。そら僕らが三人ぐらい北の方から少し西へ寄って南の方へ進んで行くだろう、向うから丁度反対にやって来るねえ、こっちが三人で向うが十人のこともある、向うが一人のこともある、けれども勝まけは人数じゃない力なんだよ、人数へ速さをかけたものなんだよ、  君たちはどこまで行こうっての、こっちが遠くからきくねえ、アラスカだよ。向うが答えるだろう。冗談じゃないや、アラスカなんか行くとこはありゃしない。僕たちがそっちから来たんじゃないか。いいや、行くように云われて来たんだ、さあ通してお呉れ、いいや僕たちこそ大循環なんだ、よくマークを見てごらん、大循環と云われると大抵誰でも一寸顔いろを和らげてマークをよく見るねえ、はじめから、ああ大循環だ通してやれなんて云うものもそれぁあるよ。けれども仲々大人なんかにはたちの悪いのもあるからね、なんだ、大循環だ、かっぱめ、ばかにしやがるな。どけ。なんてわざと空っぽな大きな声を出すものもあるんだ。いいえどかれません、じゃ法令の通りボックシングをやりましょうとなるだろう、勝つことも負けることもある、けれども僕は卑怯は嫌いだからねえ、もしすきをねらって遁げたりするものがあってもそんなやつを追いかけやしない、あとでヘルマン大佐につかまるよってだけ云うんだ。しずかな日きまった速さで海面を南西へかけて行くときはほんとうにうれしいねえ、そんな日だって十日に三日はあるよ、そう云うふうにして丁度北極から一ヶ月目に僕は津軽海峡を通ったよ、あけがたでね、函館の砲台のある山には低く雲がかかっている、僕はそれを少し押しながら進んだ、海すずめが何重もの環になって白い水にすれすれにめぐっている、かもめも居る、船も通る、えとろふ丸なんて云う荷物を一杯に積んだ大きな船もあれば白く塗られた連絡船もある。そうそう、そのとき僕は北海道の大学の伊藤さんにも会った。あの人も気象をやってるから僕は知っている。  それから僕は少し南へまっすぐに朝鮮へかかったよ。あの途中のさびしかったことね、僕はたった一人になっていたもんだから、雲は大へんきれいだったし邪魔もあんまりなかったけれどもほんとうにさびしかったねえ、朝鮮から僕は又東の方へ西風に送られて行ったんだ。海の中ばかりあるいたよ。商船の甲板でシガアの紫の煙をあげるチーフメートの耳の処で、もしもしお子さんはもう歩いておいでですよ、なんて云って行くんだ。船の上の人たちへの僕たちの挨拶は大抵|斯んな工合なんだよ、  上の方を見るとあの冷たい氷の雲がしずかに流れている。そうだあすこを新らしい大循環の志願者たちが走って行く。いつ又僕は大循環へ入るだろう、ああもう二十日かそこらでこんどのは卒業するんだ、と考えるとほんとうに何とも云えずうれしい気がするねえ。」 「おらの方の試験ど同じだな。」耕一が云いました。 「うん、だけどおまえたちの試験よりはむずかしいよ。お前たちの試験のようなもんならただ毎日学校へさえ来ていれば遊んでいても卒業するだろう。」又三郎はきっと誰か怒るだろうと思って少し口をまげて笑いながら斯う云いました。 「おらの方だて毎日学校さ来るのひでじゃぃ。」耕一が大して怒ったでもなしに斯う云いました。 「ふん、そうかい、誰だって同じことだな。さあ僕は今日もいそがしい。もうさよなら。」  又三郎のかたちはもうみんなの前にありませんでした。みんなはばらばら丘をおりました。    九月十日 「ドッドド、ドドウド、ドドウド、ドドウ、  ああまいざくろも吹き飛ばせ、  すっぱいざくろも吹き飛ばせ、  ドッドド、ドドウド、ドドウド、ドドウ  ドッドド、ドドウド、ドドウド、ドドウ。」  先頃又三郎から聴いたばかりのその歌を一郎は夢の中で又きいたのです。  びっくりして跳ね起きて見ましたら外ではほんとうにひどく風が吹いてうしろの林はまるで咆えるよう、あけがた近くの青ぐろいうすあかりが障子や棚の上の提灯箱や家中いっぱいでした。  一郎はすばやく帯をしてそれから下駄をはいて土間に下り馬屋の前を通って潜りをあけましたら風がつめたい雨のつぶと一緒にどうっと入って来ました。馬屋のうしろの方で何かの戸がばたっと倒れ馬はぶるるっと鼻を鳴らしました。  一郎は風が胸の底まで滲み込んだように思ってはあと強く息を吐きました。そして外へかけ出しました。  外はもうよほど明るく土はぬれて居りました。家の前の栗の木の列は変に青く白く見えてそれがまるで風と雨とで今|洗濯をするとでも云うように烈しくもまれていました。青い葉も二三枚飛び吹きちぎられた栗のいがは黒い地面にたくさん落ちて居りました。  空では雲がけわしい銀いろに光りどんどんどんどん北の方へ吹きとばされていました。  遠くの方の林はまるで海が荒れているようにごとんごとんと鳴ったりざあと聞えたりするのでした。一郎は顔や手につめたい雨の粒を投げつけられ風にきものも取って行かれそうになりながらだまってその音を聴きすましじっと空を見あげました。もう又三郎が行ってしまったのだろうかそれとも先頃約束したように誰かの目をさますうち少し待って居て呉れたのかと考えて一郎は大へんさびしく胸がさらさら波をたてるように思いました。けれども又じっとその鳴って吠えてうなってかけて行く風をみていますと今度は胸がどかどかなってくるのでした。昨日まで丘や野原の空の底に澄みきってしんとしていた風どもが今朝夜あけ方|俄かに一斉に斯う動き出してどんどんどんどんタスカロラ海床の北のはじをめがけて行くことを考えますともう一郎は顔がほてり息もはあ、はあ、なって自分までが一緒に空を翔けて行くように胸を一杯にはり手をひろげて叫びました。 「ドッドドドドウドドドウドドドウ、あまいざくろも吹きとばせ、すっぱいざくろも吹きとばせ、ドッドドドドウドドドウドドドウ、ドッドドドドウドドドードドドウ。」  その声はまるできれぎれに風にひきさかれて持って行かれましたがそれと一緒にうしろの遠くの風の中から、斯ういう声がきれぎれに聞えたのです。 「ドッドドドドウドドドウドドドウ、  楢の木の葉も引っちぎれ  とちもくるみもふきおとせ  ドッドドドドウドドドウドドドウ。」  一郎は声の来た栗の木の方を見ました。俄かに頭の上で 「さよなら、一郎さん、」と云ったかと思うとその声はもう向うのひのきのかきねの方へ行っていました。一郎は高く叫びました。 「又三郎さん。さよなら。」  かきねのずうっと向うで又三郎のガラスマントがぎらっと光りそれからあの赤い頬とみだれた赤毛とがちらっと見えたと思うと、もうすうっと見えなくなってただ雲がどんどん飛ぶばかり一郎はせなか一杯風を受けながら手をそっちへのばして立っていたのです。 「ああ烈で風だ。今度はすっかりやらへる。一郎。ぬれる、入れ。」いつか一郎のおじいさんが潜りの処でそらを見上げて立っていました。一郎は早く仕度をして学校へ行ってみんなに又三郎のさようならを伝えたいと思って少しもどかしく思いながらいそいで家の中へ入りました。  つめたいいじの悪い雲が、地べたにすれすれに垂れましたので、野はらは雪のあかりだか、日のあかりだか判らないようになりました。  烏の義勇|艦隊は、その雲に圧しつけられて、しかたなくちょっとの間、亜鉛の板をひろげたような雪の田圃のうえに横にならんで仮泊ということをやりました。  どの艦もすこしも動きません。  まっ黒くなめらかな烏の大尉、若い艦隊長もしゃんと立ったままうごきません。  からすの大監督はなおさらうごきもゆらぎもいたしません。からすの大監督は、もうずいぶんの年老りです。眼が灰いろになってしまっていますし、啼くとまるで悪い人形のようにギイギイ云います。  それですから、烏の年齢を見分ける法を知らない一人の子供が、いつか斯う云ったのでした。 「おい、この町には咽喉のこわれた烏が二|疋いるんだよ。おい。」  これはたしかに間違いで、一疋しか居りませんでしたし、それも決してのどが壊れたのではなく、あんまり永い間、空で号令したために、すっかり声が錆びたのです。それですから烏の義勇艦隊は、その声をあらゆる音の中で一等だと思っていました。  雪のうえに、仮泊ということをやっている烏の艦隊は、石ころのようです。胡麻つぶのようです。また望遠鏡でよくみると、大きなのや小さなのがあって馬鈴薯のようです。  しかしだんだん夕方になりました。  雲がやっと少し上の方にのぼりましたので、とにかく烏の飛ぶくらいのすき間ができました。  そこで大監督が息を切らして号令を掛けます。 「演習はじめいおいっ、出発」  艦隊長烏の大尉が、まっさきにぱっと雪を叩きつけて飛びあがりました。烏の大尉の部下が十八|隻、順々に飛びあがって大尉に続いてきちんと間隔をとって進みました。  それから戦闘艦隊が三十二隻、次々に出発し、その次に大監督の大艦長が厳かに舞いあがりました。  そのときはもうまっ先の烏の大尉は、四へんほど空で螺旋を巻いてしまって雲の鼻っ端まで行って、そこからこんどはまっ直ぐに向うの杜に進むところでした。  二十九隻の巡洋艦、二十五隻の砲艦が、だんだんだんだん飛びあがりました。おしまいの二隻は、いっしょに出発しました。ここらがどうも烏の軍隊の不規律なところです。  烏の大尉は、杜のすぐ近くまで行って、左に曲がりました。  そのとき烏の大監督が、「大砲撃てっ。」と号令しました。  艦隊は一斉に、があがあがあがあ、大砲をうちました。  大砲をうつとき、片脚をぷんとうしろへ挙げる艦は、この前のニダナトラの戦役での負傷兵で、音がまだ脚の神経にひびくのです。  さて、空を大きく四へん廻ったとき、大監督が、 「分れっ、解散」と云いながら、列をはなれて杉の木の大監督官舎におりました。みんな列をほごしてじぶんの営舎に帰りました。  烏の大尉は、けれども、すぐに自分の営舎に帰らないで、ひとり、西のほうのさいかちの木に行きました。  雲はうす黒く、ただ西の山のうえだけ濁った水色の天の淵がのぞいて底光りしています。そこで烏仲間でマシリイと呼ぶ銀の一つ星がひらめきはじめました。  烏の大尉は、矢のようにさいかちの枝に下りました。その枝に、さっきからじっと停って、ものを案じている烏があります。それはいちばん声のいい砲艦で、烏の大尉の許嫁でした。 「があがあ、遅くなって失敬。今日の演習で疲れないかい。」 「かあお、ずいぶんお待ちしたわ。いっこうつかれなくてよ。」 「そうか。それは結構だ。しかしおれはこんどしばらくおまえと別れなければなるまいよ。」 「あら、どうして、まあ大へんだわ。」 「戦闘艦隊長のはなしでは、おれはあした山烏を追いに行くのだそうだ。」 「まあ、山烏は強いのでしょう。」 「うん、眼玉が出しゃばって、嘴が細くて、ちょっと見掛けは偉そうだよ。しかし訳ないよ。」 「ほんとう。」 「大丈夫さ。しかしもちろん戦争のことだから、どういう張合でどんなことがあるかもわからない。そのときはおまえはね、おれとの約束はすっかり消えたんだから、外へ嫁ってくれ。」 「あら、どうしましょう。まあ、大へんだわ。あんまりひどいわ、あんまりひどいわ。それではあたし、あんまりひどいわ、かあお、かあお、かあお、かあお」 「泣くな、みっともない。そら、たれか来た。」  烏の大尉の部下、烏の兵曹長が急いでやってきて、首をちょっと横にかしげて礼をして云いました。 「があ、艦長殿、点呼の時間でございます。一同整列して居ります。」 「よろしい。本艦は即刻帰隊する。おまえは先に帰ってよろしい。」 「承知いたしました。」兵曹長は飛んで行きます。 「さあ、泣くな。あした、も一度列の中で会えるだろう。  丈夫でいるんだぞ、おい、お前ももう点呼だろう、すぐ帰らなくてはいかん。手を出せ。」  二疋はしっかり手を握りました。大尉はそれから枝をけって、急いでじぶんの隊に帰りました。娘の烏は、もう枝に凍り着いたように、じっとして動きません。  夜になりました。  それから夜中になりました。  雲がすっかり消えて、新らしく灼かれた鋼の空に、つめたいつめたい光がみなぎり、小さな星がいくつか連合して爆発をやり、水車の心棒がキイキイ云います。  とうとう薄い鋼の空に、ピチリと裂罅がはいって、まっ二つに開き、その裂け目から、あやしい長い腕がたくさんぶら下って、烏を握んで空の天井の向う側へ持って行こうとします。烏の義勇艦隊はもう総掛りです。みんな急いで黒い股引をはいて一生けん命宙をかけめぐります。兄貴の烏も弟をかばう暇がなく、恋人同志もたびたびひどくぶっつかり合います。  いや、ちがいました。  そうじゃありません。  月が出たのです。青いひしげた二十日の月が、東の山から泣いて登ってきたのです。そこで烏の軍隊はもうすっかり安心してしまいました。  たちまち杜はしずかになって、ただおびえて脚をふみはずした若い水兵が、びっくりして眼をさまして、があと一発、ねぼけ声の大砲を撃つだけでした。  ところが烏の大尉は、眼が冴えて眠れませんでした。 「おれはあした戦死するのだ。」大尉は呟やきながら、許嫁のいる杜の方にあたまを曲げました。  その昆布のような黒いなめらかな梢の中では、あの若い声のいい砲艦が、次から次といろいろな夢を見ているのでした。  烏の大尉とただ二人、ばたばた羽をならし、たびたび顔を見合せながら、青黒い夜の空を、どこまでもどこまでものぼって行きました。もうマジエル様と呼ぶ烏の北斗七星が、大きく近くなって、その一つの星のなかに生えている青じろい苹果の木さえ、ありありと見えるころ、どうしたわけか二人とも、急にはねが石のようにこわばって、まっさかさまに落ちかかりました。マジエル様と叫びながら愕ろいて眼をさましますと、ほんとうにからだが枝から落ちかかっています。急いではねをひろげ姿勢を直し、大尉の居る方を見ましたが、またいつかうとうとしますと、こんどは山烏が鼻眼鏡などをかけてふたりの前にやって来て、大尉に握手しようとします。大尉が、いかんいかん、と云って手をふりますと、山烏はピカピカする拳銃を出していきなりずどんと大尉を射殺し、大尉はなめらかな黒い胸を張って倒れかかります。マジエル様と叫びながらまた愕いて眼をさますというあんばいでした。  烏の大尉はこちらで、その姿勢を直すはねの音から、そのマジエルを祈る声まですっかり聴いて居りました。  じぶんもまたためいきをついて、そのうつくしい七つのマジエルの星を仰ぎながら、ああ、あしたの戦でわたくしが勝つことがいいのか、山烏がかつのがいいのか、それはわたくしにわかりません、ただあなたのお考のとおりです、わたくしはわたくしにきまったように力いっぱいたたかいます、みんなみんなあなたのお考えのとおりですとしずかに祈って居りました。そして東のそらには早くも少しの銀の光が湧いたのです。  ふと遠い冷たい北の方で、なにか鍵でも触れあったようなかすかな声がしました。烏の大尉は夜間双眼鏡を手早く取って、きっとそっちを見ました。星あかりのこちらのぼんやり白い峠の上に、一本の栗の木が見えました。その梢にとまって空を見あげているものは、たしかに敵の山烏です。大尉の胸は勇ましく躍りました。 「があ、非常|召集、があ、非常召集」  大尉の部下はたちまち枝をけたてて飛びあがり大尉のまわりをかけめぐります。 「突貫。」烏の大尉は先登になってまっしぐらに北へ進みました。  もう東の空はあたらしく研いだ鋼のような白光です。  山烏はあわてて枝をけ立てました。そして大きくはねをひろげて北の方へ遁げ出そうとしましたが、もうそのときは駆逐艦たちはまわりをすっかり囲んでいました。 「があ、があ、があ、があ、があ」大砲の音は耳もつんぼになりそうです。山烏は仕方なく足をぐらぐらしながら上の方へ飛びあがりました。大尉はたちまちそれに追い付いて、そのまっくろな頭に鋭く一突き食らわせました。山烏はよろよろっとなって地面に落ちかかりました。そこを兵曹長が横からもう一突きやりました。山烏は灰いろのまぶたをとじ、あけ方の峠の雪の上につめたく横わりました。 「があ、兵曹長。その死骸を営舎までもって帰るように。があ。引き揚げっ。」 「かしこまりました。」強い兵曹長はその死骸を提げ、烏の大尉はじぶんの杜の方に飛びはじめ十八隻はしたがいました。  杜に帰って烏の駆逐艦は、みなほうほう白い息をはきました。 「けがは無いか。誰かけがしたものは無いか。」烏の大尉はみんなをいたわってあるきました。  夜がすっかり明けました。  桃の果汁のような陽の光は、まず山の雪にいっぱいに注ぎ、それからだんだん下に流れて、ついにはそこらいちめん、雪のなかに白百合の花を咲かせました。  ぎらぎらの太陽が、かなしいくらいひかって、東の雪の丘の上に懸りました。 「観兵式、用意っ、集れい。」大監督が叫びました。 「観兵式、用意っ、集れい。」各艦隊長が叫びました。  みんなすっかり雪のたんぼにならびました。  烏の大尉は列からはなれて、ぴかぴかする雪の上を、足をすくすく延ばしてまっすぐに走って大監督の前に行きました。 「報告、きょうあけがた、セピラの峠の上に敵艦の碇泊を認めましたので、本艦隊は直ちに出動、撃沈いたしました。わが軍死者なし。報告終りっ。」  駆逐艦隊はもうあんまりうれしくて、熱い涙をぼろぼろ雪の上にこぼしました。  烏の大監督も、灰いろの眼から泪をながして云いました。 「ギイギイ、ご苦労だった。ご苦労だった。よくやった。もうおまえは少佐になってもいいだろう。おまえの部下の叙勲はおまえにまかせる。」  烏の新らしい少佐は、お腹が空いて山から出て来て、十九隻に囲まれて殺された、あの山烏を思い出して、あたらしい泪をこぼしました。 「ありがとうございます。就ては敵の死骸を葬りたいとおもいますが、お許し下さいましょうか。」 「よろしい。厚く葬ってやれ。」  烏の新らしい少佐は礼をして大監督の前をさがり、列に戻って、いまマジエルの星の居るあたりの青ぞらを仰ぎました。マジエルの星が、ちょうど来ているあたりの青ぞらから、青いひかりがうらうらと湧きました。  美しくまっ黒な砲艦の烏は、そのあいだ中、みんなといっしょに、不動の姿勢をとって列びながら、始終きらきらきらきら涙をこぼしました。砲艦長はそれを見ないふりしていました。あしたから、また許嫁といっしょに、演習ができるのです。あんまりうれしいので、たびたび嘴を大きくあけて、まっ赤に日光に透かせましたが、それも砲艦長は横を向いて見逃がしていました。  流沙の南の、楊で囲まれた小さな泉で、私は、いった麦粉を水にといて、昼の食事をしておりました。  そのとき、一人の巡礼のおじいさんが、やっぱり食事のために、そこへやって来ました。私たちはだまって軽く礼をしました。  けれども、半日まるっきり人にも出会わないそんな旅でしたから、私は食事がすんでも、すぐに泉とその年老った巡礼とから、別れてしまいたくはありませんでした。  私はしばらくその老人の、高い咽喉仏のぎくぎく動くのを、見るともなしに見ていました。何か話し掛けたいと思いましたが、どうもあんまり向うが寂かなので、私は少しきゅうくつにも思いました。  けれども、ふと私は泉のうしろに、小さな祠のあるのを見付けました。それは大へん小さくて、地理学者や探険家ならばちょっと標本に持って行けそうなものではありましたがまだ全くあたらしく黄いろと赤のペンキさえ塗られていかにも異様に思われ、その前には、粗末ながら一本の幡も立っていました。  私は老人が、もう食事も終りそうなのを見てたずねました。 「失礼ですがあのお堂はどなたをおまつりしたのですか。」  その老人も、たしかに何か、私に話しかけたくていたのです。だまって二、三|度うなずきながら、そのたべものをのみ下して、低く言いました。 「……童子のです。」 「童子ってどう云う方ですか。」 「雁の童子と仰っしゃるのは。」老人は食器をしまい、屈んで泉の水をすくい、きれいに口をそそいでからまた云いました。 「雁の童子と仰っしゃるのは、まるでこの頃あった昔ばなしのようなのです。この地方にこのごろ降りられました天童子だというのです。このお堂はこのごろ流沙の向う側にも、あちこち建っております。」 「天のこどもが、降りたのですか。罪があって天から流されたのですか。」 「さあ、よくわかりませんが、よくこの辺でそう申します。多分そうでございましょう。」 「いかがでしょう、聞かせて下さいませんか。お急ぎでさえなかったら。」 「いいえ、急ぎはいたしません。私の聴いただけお話いたしましょう。  沙車に、須利耶圭という人がございました。名門ではございましたそうですが、おちぶれて奥さまと二人、ご自分は昔からの写経をなさり、奥さまは機を織って、しずかにくらしていられました。  ある明方、須利耶さまが鉄砲をもったご自分の従弟のかたとご一緒に、野原を歩いていられました。地面はごく麗わしい青い石で、空がぼうっと白く見え、雪もま近でございました。  須利耶さまがお従弟さまに仰っしゃるには、お前もさような慰みの殺生を、もういい加減やめたらどうだと、斯うでございました。  ところが従弟の方が、まるですげなく、やめられないと、ご返事です。 と、須利耶さまは重ねておさとしになりました。 と従弟のかたは鉄砲を構えて、走って見えなくなりました。  須利耶さまは、その大きな黒い雁の列を、じっと眺めて立たれました。  そのとき俄かに向うから、黒い尖った弾丸が昇って、まっ先きの雁の胸を射ました。  雁は二、三べん揺らぎました。見る見るからだに火が燃え出し、世にも悲しく叫びながら、落ちて参ったのでございます。  弾丸がまた昇って次の雁の胸をつらぬきました。それでもどの雁も、遁げはいたしませんでした。  却って泣き叫びながらも、落ちて来る雁に随いました。  第三の弾丸が昇り、  第四の弾丸がまた昇りました。  六発の弾丸が六|疋の雁を傷つけまして、一ばんしまいの小さな一疋だけが、傷つかずに残っていたのでございます。燃え叫ぶ六疋は、悶えながら空を沈み、しまいの一疋は泣いて随い、それでも雁の正しい列は、決して乱れはいたしません。  そのとき須利耶さまの愕ろきには、いつか雁がみな空を飛ぶ人の形に変っておりました。  赤い焔に包まれて、歎き叫んで手足をもだえ、落ちて参る五人、それからしまいに只一人、完いものは可愛らしい天の子供でございました。  そして須利耶さまは、たしかにその子供に見覚えがございました。最初のものは、もはや地面に達しまする。それは白い鬚の老人で、倒れて燃えながら、骨立った両手を合せ、須利耶さまを拝むようにして、切なく叫びますのには、  もちろん須利耶さまは、馳せ寄って申されました。そのとき次々に雁が地面に落ちて来て燃えました。大人もあれば美しい瓔珞をかけた女子もございました。その女子はまっかな焔に燃えながら、手をあのおしまいの子にのばし、子供は泣いてそのまわりをはせめぐったと申しまする。雁の老人が重ねて申しますには、 と斯うでございます。  須利耶さまが申されました。  すると老人は手を擦って地面に頭を垂れたと思うと、もう燃えつきて、影もかたちもございませんでした。須利耶さまも従弟さまも鉄砲をもったままぼんやりと立っていられましたそうでいったい二人いっしょに夢を見たのかとも思われましたそうですがあとで従弟さまの申されますにはその鉄砲はまだ熱く弾丸は減っておりそのみんなのひざまずいた所の草はたしかに倒れておったそうでございます。  そしてもちろんそこにはその童子が立っていられましたのです。須利耶さまはわれにかえって童子に向って云われました。  須利耶さまはごじぶんのうちへ戻られました。途中の野原は青い石でしんとして子供は泣きながら随いて参りました。  須利耶さまは奥さまとご相談で、何と名前をつけようか、三、四日お考えでございましたが、そのうち、話はもう沙車全体にひろがり、みんなは子供を雁の童子と呼びましたので、須利耶さまも仕方なくそう呼んでおいででございました。」  老人はちょっと息を切りました。私は足もとの小さな苔を見ながら、この怪しい空から落ちて赤い焔につつまれ、かなしく燃えて行く人たちの姿を、はっきりと思い浮べました。老人はしばらく私を見ていましたが、また語りつづけました。 「沙車の春の終りには、野原いちめん楊の花が光って飛びます。遠くの氷の山からは、白い何とも云えず瞳を痛くするような光が、日光の中を這ってまいります。それから果樹がちらちらゆすれ、ひばりはそらですきとおった波をたてまする。童子は早くも六つになられました。春のある夕方のこと、須利耶さまは雁から来たお子さまをつれて、町を通って参られました。葡萄いろの重い雲の下を、影法師の蝙蝠がひらひらと飛んで過ぎました。  子供らが長い棒に紐をつけて、それを追いました。  子供らは棒を棄て手をつなぎ合って大きな環になり須利耶さま親子を囲みました。  須利耶さまは笑っておいででございました。  子供らは声を揃えていつものようにはやしまする。   と斯うでございます。けれども一人の子供が冗談に申しまするには、     みんなはどっと笑いましてそれからどう云うわけか小さな石が一つ飛んで来て童子の頬を打ちました。須利耶さまは童子をかばってみんなに申されますのには、  おまえたちは何をするんだ、この子供は何か悪いことをしたか、冗談にも石を投げるなんていけないぞ。  子供らが叫んでばらばら走って来て童子に詫びたり慰めたりいたしました。或る子は前掛けの衣嚢から干した無花果を出して遣ろうといたしました。  童子は初めからお了いまでにこにこ笑っておられました。須利耶さまもお笑いになりみんなを赦して童子を連れて其処をはなれなさいました。  そして浅黄の瑪瑙の、しずかな夕もやの中でいわれました。 その時童子はお父さまにすがりながら、 と斯う申されたと伝えます。」  巡礼の老人は私の顔を見ました。  私もじっと老人のうるんだ眼を見あげておりました。老人はまた語りつづけました。 「また或る晩のこと童子は寝付けないでいつまでも床の上でもがきなさいました。と仰っしゃりまする、須利耶の奥さまは立って行って静かに頭を撫でておやりなさいました。童子さまの脳はもうすっかり疲れて、白い網のようになって、ぶるぶるゆれ、その中に赤い大きな三日月が浮かんだり、そのへん一杯にぜんまいの芽のようなものが見えたり、また四角な変に柔らかな白いものが、だんだん拡がって恐ろしい大きな箱になったりするのでございました。母さまはその額が余り熱いといって心配なさいました。須利耶さまは写しかけの経文に、掌を合せて立ちあがられ、それから童子さまを立たせて、紅革の帯を結んでやり表へ連れてお出になりました。駅のどの家ももう戸を閉めてしまって、一面の星の下に、棟々が黒く列びました。その時童子はふと水の流れる音を聞かれました。そしてしばらく考えてから、 とお尋ねです。須利耶さまは沙漠の向うから昇って来た大きな青い星を眺めながらお答えなされます。  童子の脳は急にすっかり静まって、そして今度は早く母さまの処にお帰りなりとうなりまする。 と申されながら須利耶さまの袂を引っ張りなさいます。お二人は家に入り、母さまが迎えなされて戸の環を嵌めておられますうちに、童子はいつかご自分の床に登って、着換えもせずにぐっすり眠ってしまわれました。  また次のようなことも申します。  ある日須利耶さまは童子と食卓にお座りなさいました。食品の中に、蜜で煮た二つの鮒がございました。須利耶の奥さまは、一つを須利耶さまの前に置かれ、一つを童子にお与えなされました。 童子が申されました。  須利耶の奥さまは童子の箸をとって、魚を小さく砕きながら、と勧められます。童子は母さまの魚を砕く間、じっとその横顔を見ていられましたが、俄かに胸が変な工合に迫ってきて気の毒なような悲しいような何とも堪らなくなりました。くるっと立って鉄砲玉のように外へ走って出られました。そしてまっ白な雲の一杯に充ちた空に向って、大きな声で泣き出しました。まあどうしたのでしょう、と須利耶の奥さまが愕ろかれます。どうしたのだろう行ってみろ、と須利耶さまも気づかわれます。そこで須利耶の奥さまは戸口にお立ちになりましたら童子はもう泣きやんで笑っていられましたとそんなことも申し伝えます。  またある時、須利耶さまは童子をつれて、馬市の中を通られましたら、一|疋の仔馬が乳を呑んでおったと申します。黒い粗布を着た馬商人が来て、仔馬を引きはなしもう一疋の仔馬に結びつけ、そして黙ってそれを引いて行こうと致しまする。母親の馬はびっくりして高く鳴きました。なれども仔馬はぐんぐん連れて行かれまする。向うの角を曲ろうとして、仔馬は急いで後肢を一方あげて、腹の蠅を叩きました。  童子は母馬の茶いろな瞳を、ちらっと横眼で見られましたが、俄かに須利耶さまにすがりついて泣き出されました。けれども須利耶さまはお叱りなさいませんでした。ご自分の袖で童子の頭をつつむようにして、馬市を通りすぎてから河岸の青い草の上に童子を座らせて杏の実を出しておやりになりながら、しずかにおたずねなさいました。  須利耶さまは何気ないふうで、そんな成人のようなことを云うもんじゃないとは仰っしゃいましたが、本統は少しその天の子供が恐ろしくもお思いでしたと、まあそう申し伝えます。  須利耶さまは童子を十二のとき、少し離れた首都のある外道の塾にお入れなさいました。  童子の母さまは、一生けん命|機を織って、塾料や小遣いやらを拵らえてお送りなさいました。  冬が近くて、天山はもうまっ白になり、桑の葉が黄いろに枯れてカサカサ落ちました頃、ある日のこと、童子が俄かに帰っておいでです。母さまが窓から目敏く見付けて出て行かれました。  須利耶さまは知らないふりで写経を続けておいでです。  母さまは、須利耶さまのほうに気兼ねしながら申されました。 と斯う申されます。  童子はしょんぼり庭から出られました。それでも、また立ち停ってしまわれましたので、母さまも出て行かれてもっと向うまでお連れになりました。そこは沼地でございました。母さまは戻ろうとしてまたと仰っしゃったのでしたが童子はやっぱり停まったまま、家の方をぼんやり見ておられますので、母さまも仕方なくまた振り返って、蘆を一本|抜いて小さな笛をつくり、それをお持たせになりました。  童子はやっと歩き出されました。そして、遥かに冷たい縞をつくる雲のこちらに、蘆がそよいで、やがて童子の姿が、小さく小さくなってしまわれました。俄かに空を羽音がして、雁の一列が通りました時、須利耶さまは窓からそれを見て、思わずどきっとなされました。  そうして冬に入りましたのでございます。その厳しい冬が過ぎますと、まず楊の芽が温和しく光り、沙漠には砂糖水のような陽炎が徘徊いたしまする。杏やすももの白い花が咲き、次では木立も草地もまっ青になり、もはや玉髄の雲の峯が、四方の空を繞る頃となりました。  ちょうどそのころ沙車の町はずれの砂の中から、古い沙車大寺のあとが掘り出されたとのことでございました。一つの壁がまだそのままで見附けられ、そこには三人の天童子が描かれ、ことにその一人はまるで生きたようだとみんなが評判しましたそうです。或るよく晴れた日、須利耶さまは都に出られ、童子の師匠を訪ねて色々|礼を述べ、また三巻の粗布を贈り、それから半日、童子を連れて歩きたいと申されました。  お二人は雑沓の通りを過ぎて行かれました。  須利耶さまが歩きながら、何気なく云われますには、  童子が大へんに沈んで答えられました。  須利耶さまはお笑いになりました。 とこう云う不思議なお尋ねでございます。 と須利耶さまは何の気もなくぼんやりと斯うお答えでした。  そしてお二人は町の広場を通り抜けて、だんだん郊外に来られました。沙がずうっとひろがっておりました。その砂が一ところ深く掘られて、沢山の人がその中に立ってございました。お二人も下りて行かれたのです。そこに古い一つの壁がありました。色はあせてはいましたが、三人の天の童子たちがかいてございました。須利耶さまは思わずどきっとなりました。何か大きい重いものが、遠くの空からばったりかぶさったように思われましたのです。それでも何気なく申されますには、  須利耶さまは童子をふりかえりました。そしたら童子はなんだかわらったまま、倒れかかっていられました。須利耶さまは愕ろいて急いで抱き留められました。童子はお父さんの腕の中で夢のようにつぶやかれました。  須利耶さまは急いで叫ばれました。  童子が微かに云われました。  人々が集って口々に叫びました。  童子はも一度、少し唇をうごかして、何かつぶやいたようでございましたが、須利耶さまはもうそれをお聞きとりなさらなかったと申します。  私の知っておりますのはただこれだけでございます。」  老人はもう行かなければならないようでした。私はほんとうに名残り惜しく思い、まっすぐに立って合掌して申しました。 「尊いお物語をありがとうございました。まことにお互い、ちょっと沙漠のへりの泉で、お眼にかかって、ただ一時を、一緒に過ごしただけではございますが、これもかりそめのことではないと存じます。ほんの通りかかりの二人の旅人とは見えますが、実はお互がどんなものかもよくわからないのでございます。いずれはもろともに、善逝の示された光の道を進み、かの無上菩提に至ることでございます。それではお別れいたします。さようなら。」  老人は、黙って礼を返しました。何か云いたいようでしたが黙って俄かに向うを向き、今まで私の来た方の荒地にとぼとぼ歩き出しました。私もまた、丁度その反対の方の、さびしい石原を合掌したまま進みました。 博物局十六等官 キュステ誌  私の町の博物館の、大きなガラスの戸棚には、剥製ですが、四|疋の蜂雀がいます。  生きてたときはミィミィとなき蝶のように花の蜜をたべるあの小さなかあいらしい蜂雀です。わたくしはその四疋の中でいちばん上の枝にとまって、羽を両方ひろげかけ、まっ青なそらにいまにもとび立ちそうなのを、ことにすきでした。それは眼が赤くてつるつるした緑青いろの胸をもち、そのりんと張った胸には波形のうつくしい紋もありました。  小さいときのことですが、ある朝早く、私は学校に行く前にこっそり一寸ガラスの前に立ちましたら、その蜂雀が、銀の針の様なほそいきれいな声で、にわかに私に言いました。 「お早う。ペムペルという子はほんとうにいい子だったのにかあいそうなことをした。」  その時窓にはまだ厚い茶いろのカーテンが引いてありましたので室の中はちょうどビール瓶のかけらをのぞいたようでした。ですから私も挨拶しました。 「お早う。蜂雀。ペムペルという人がどうしたっての。」  蜂雀がガラスの向うで又云いました。 「ええお早うよ。妹のネリという子もほんとうにかあいらしいいい子だったのにかあいそうだなあ。」 「どうしたていうの話しておくれ。」  すると蜂雀はちょっと口あいてわらうようにしてまた云いました。 「話してあげるからおまえは鞄を床におろしてその上にお座り。」  私は本の入ったかばんの上に座るのは一寸困りましたけれどもどうしてもそのお話を聞きたかったのでとうとうその通りしました。  すると蜂雀は話しました。 「ペムペルとネリは毎日お父さんやお母さんたちの働くそばで遊んでいたよ〔以下原稿一枚?なし〕  その時|僕も 『さようなら。さようなら。』と云ってペムペルのうちのきれいな木や花の間からまっすぐにおうちにかえった。  それから勿論小麦も搗いた。  二人で小麦を粉にするときは僕はいつでも見に行った。小麦を粉にする日ならペムペルはちぢれた髪からみじかい浅黄のチョッキから木綿のだぶだぶずぼんまで粉ですっかり白くなりながら赤いガラスの水車場でことことやっているだろう。ネリはその粉を四百グレンぐらいずつ木綿の袋につめ込んだりつかれてぼんやり戸口によりかかりはたけをながめていたりする。  そのときぼくはネリちゃん。あなたはむぐらはすきですかとからかったりして飛んだのだ。それからもちろんキャベジも植えた。  二人がキャベジを穫るときは僕はいつでも見に行った。  ペムペルがキャベジの太い根を截ってそれをはたけにころがすと、ネリは両手でそれをもって水いろに塗られた一輪車に入れるのだ。そして二人は車を押して黄色のガラスの納屋にキャベジを運んだのだ。青いキャベジがころがってるのはそれはずいぶん立派だよ。  そして二人はたった二人だけずいぶんたのしくくらしていた。」 「おとなはそこらに居なかったの。」わたしはふと思い付いてそうたずねました。 「おとなはすこしもそこらあたりに居なかった。なぜならペムペルとネリの兄妹の二人はたった二人だけずいぶん愉快にくらしてたから。  けれどほんとうにかあいそうだ。  ペムペルという子は全くいい子だったのにかあいそうなことをした。  ネリという子は全くかあいらしい女の子だったのにかあいそうなことをした。」  蜂雀は俄かにだまってしまいました。  私はもう全く気が気でありませんでした。  蜂雀はいよいよだまってガラスの向うでしんとしています。  私もしばらくは耐えて膝を両手で抱えてじっとしていましたけれどもあんまり蜂雀がいつまでもだまっているもんですからそれにそのだまりようと云ったらたとえ一ぺん死んだ人が二度とお墓から出て来ようたって口なんか聞くもんかと云うように見えましたのでとうとう私は居たたまらなくなりました。私は立ってガラスの前に歩いて行って両手をガラスにかけて中の蜂雀に云いました。 「ね、蜂雀、そのペムペルとネリちゃんとがそれから一体どうなったの、どうしたって云うの、ね、蜂雀、話してお呉れ。」  けれども蜂雀はやっぱりじっとその細いくちばしを尖らしたまま向うの四十雀の方を見たっきり二度と私に答えようともしませんでした。 「ね、蜂雀、談してお呉れ。だめだい半分ぐらい云っておいていけないったら蜂雀  ね。談してお呉れ。そら、さっきの続きをさ。どうして話して呉れないの。」  ガラスは私の息ですっかり曇りました。  四羽の美しい蜂雀さえまるでぼんやり見えたのです。私はとうとう泣きだしました。  なぜって第一あの美しい蜂雀がたった今まできれいな銀の糸のような声で私と話をしていたのに俄かに硬く死んだようになってその眼もすっかり黒い硝子玉か何かになってしまいいつまでたっても四十雀ばかり見ているのです。おまけに一体それさえほんとうに見ているのかただ眼がそっちへ向いてるように見えるのか少しもわからないのでしょう。それにまたあんなかあいらしい日に焼けたペムペルとネリの兄妹が何か大へんかあいそうな目になったというのですものどうして泣かないでいられましょう。もう私はその為ならば一週間でも泣けたのです。  すると俄かに私の右の肩が重くなりました。そして何だか暖いのです。びっくりして振りかえって見ましたらあの番人のおじいさんが心配そうに白い眉を寄せて私の肩に手を置いて立っているのです。その番人のおじいさんが云いました。 「どうしてそんなに泣いて居るの。おなかでも痛いのかい。朝早くから鳥のガラスの前に来てそんなにひどく泣くもんでない。」  けれども私はどうしてもまだ泣きやむことができませんでした。おじいさんは又云いました。 「そんなに高く泣いちゃいけない。  まだ入口を開けるに一時間半も間があるのにおまえだけそっと入れてやったのだ。  それにそんなに高く泣いて表の方へ聞えたらみんな私に故障を云って来るんでないか。そんなに泣いていけないよ。どうしてそんなに泣いてんだ。」  私はやっと云いました。 「だって蜂雀がもう私に話さないんだもの。」  するとじいさんは高く笑いました。 「ああ、蜂雀が又おまえに何か話したね。そして俄かに黙り込んだね。そいつはいけない。この蜂雀はよくその術をやって人をからかうんだ。よろしい。私が叱ってやろう。」  番人のおじいさんはガラスの前に進みました。 「おい。蜂雀。今日で何度目だと思う。手帳へつけるよ。つけるよ。あんまりいけなけあ仕方ないから館長様へ申し上げてアイスランドへ送っちまうよ。  ええおい。さあ坊ちゃん。きっとこいつは談します。早く涙をおふきなさい。まるで顔中ぐじゃぐじゃだ。そらええああすっかりさっぱりした。  お話がすんだら早く学校へ入らっしゃい。  あんまり長くなって厭きっちまうとこいつは又いろいろいやなことを云いますから。ではようがすか。」  番人のおじいさんは私の涙を拭いて呉れてそれから両手をせなかで組んでことりことり向うへ見まわって行きました。  おじいさんのあし音がそのうすくらい茶色の室の中から隣りの室へ消えたとき蜂雀はまた私の方を向きました。  私はどきっとしたのです。  蜂雀は細い細いハアモニカの様な声でそっと私にはなしかけました。 「さっきはごめんなさい。僕すっかり疲れちまったもんですからね。」  私もやさしく言いました。 「蜂雀。僕ちっとも怒っちゃいないんだよ。さっきの続きを話してお呉れ。」  蜂雀は語りはじめました。 「ペムペルとネリとはそれはほんとうにかあいいんだ。二人が青ガラスのうちの中に居て窓をすっかりしめてると二人は海の底に居るように見えた。そして二人の声は僕には聞えやしないね。  それは非常に厚いガラスなんだから。  けれども二人が一つの大きな帳面をのぞきこんで一所に同じように口をあいたり少し閉じたりしているのを見るとあれは一緒に唱歌をうたっているのだということは誰だってすぐわかるだろう。僕はそのいろいろにうごく二人の小さな口つきをじっと見ているのを大へんすきでいつでも庭のさるすべりの木に居たよ。ペムペルはほんとうにいい子なんだけれどかあいそうなことをした。  ネリも全くかあいらしい女の子だったのにかあいそうなことをした。」 「だからどうしたって云うの。」 「だからね、二人はほんとうにおもしろくくらしていたのだから、それだけならばよかったんだ。ところが二人は、はたけにトマトを十本植えていた。そのうち五本がポンデローザでね、五本がレッドチェリイだよ。ポンデローザにはまっ赤な大きな実がつくし、レッドチェリーにはさくらんぼほどの赤い実がまるでたくさんできる。ぼくはトマトは食べないけれど、ポンデローザを見ることならもうほんとうにすきなんだ。ある年やっぱり苗が二いろあったから、植えたあとでも二いろあった。だんだんそれが大きくなって、葉からはトマトの青いにおいがし、茎からはこまかな黄金の粒のようなものも噴き出した。  そしてまもなく実がついた。  ところが五本のチェリーの中で、一本だけは奇体に黄いろなんだろう。そして大へん光るのだ。ギザギザの青黒い葉の間から、まばゆいくらい黄いろなトマトがのぞいているのは立派だった。だからネリが云った。 『にいさま、あのトマトどうしてあんなに光るんでしょうね。』  ペムペルは唇に指をあててしばらく考えてから答えていた。 『黄金だよ。黄金だからあんなに光るんだ。』 『まあ、あれ黄金なの。』ネリがすこしびっくりしたように云った。 『立派だねえ。』 『ええ立派だわ。』  そして二人はもちろん、その黄いろなトマトをとりもしなけぁ、一寸さわりもしなかった。  そしたらほんとうにかあいそうなことをしたねえ。」 「だからどうしたって云うの。」 「だからね、二人はこんなに楽しくくらしていたんだからそれだけならばよかったんだよ。ところがある夕方二人が羊歯の葉に水をかけてたら、遠くの遠くの野はらの方から何とも云えない奇体ないい音が風に吹き飛ばされて聞えて来るんだ。まるでまるでいい音なんだ。切れ切れになって飛んでは来るけれど、まるですずらんやヘリオトロープのいいかおりさえするんだろう、その音がだよ。二人は如露の手をやめて、しばらくだまって顔を見合せたねえ、それからペムペルが云った。 『ね、行って見ようよ、あんなにいい音がするんだもの。』  ネリは勿論、もっと行きたくってたまらないんだ。 『行きましょう、兄さま、すぐ行きましょう。』 『うん、すぐ行こう。大丈夫あぶないことないね。』  そこで二人は手をつないで果樹園を出てどんどんそっちへ走って行った。  音はよっぽど遠かった。樺の木の生えた小山を二つ越えてもまだそれほどに近くもならず、楊の生えた小流れを三つ越えてもなかなかそんなに近くはならなかった。  それでもいくらか近くはなった。  二人が二本の榧の木のアーチになった下を潜ったら不思議な音はもう切れ切れじゃなくなった。  そこで二人は元気を出して上着の袖で汗をふきふきかけて行った。  そのうち音はもっとはっきりして来たのだ。ひょろひょろした笛の音も入っていたし、大喇叭のどなり声もきこえた。ぼくにはみんなわかって来たのだよ。 『ネリ、もう少しだよ、しっかり僕につかまっておいで。』  ネリはだまってきれで包んだ小さな卵形の頭を振って、唇を噛んで走った。  二人がも一度、樺の木の生えた丘をまわったとき、いきなり眼の前に白いほこりのぼやぼや立った大きな道が、横になっているのを見た。その右の方から、さっきの音がはっきり聞え、左の方からもう一団り、白いほこりがこっちの方へやって来る。ほこりの中から、チラチラ馬の足が光った。  間もなくそれは近づいたのだ。ペムペルとネリとは、手をにぎり合って、息をこらしてそれを見た。  もちろん僕もそれを見た。  やって来たのは七人ばかりの馬乗りなのだ。  馬は汗をかいて黒く光り、鼻からふうふう息をつき、しずかにだくをやっていた。乗ってるものはみな赤シャツで、てかてか光る赤革の長靴をはき、帽子には鷺の毛やなにか、白いひらひらするものをつけていた。鬚をはやしたおとなも居れば、いちばんしまいにはペムペル位の頬のまっかな眼のまっ黒なかあいい子も居た。ほこりの為にお日さまはぼんやり赤くなった。  おとなはみんなペムペルとネリなどは見ない風して行ったけれど、いちばんしまいのあのかあいい子は、ペムペルを見て一寸唇に指をあててキスを送ったんだ。  そしてみんなは通り過ぎたのだ。みんなの行った方から、あのいい音がいよいよはっきり聞えて来た。まもなくみんなは向うの丘をまわって見えなくなったが、左の方から又誰かゆっくりやって来るのだ。  それは小さな家ぐらいある白い四角の箱のようなもので、人が四五人ついて来た。だんだん近くになって見ると、ついて居るのはみんな黒ん坊で、眼ばかりぎらぎら光らして、ふんどしだけして裸足だろう。白い四角なものを囲んで来たのだけれど、その白いのは箱じゃなかった。実は白いきれを四方にさげた、日本の蚊帳のようなもんで、その下からは大きな灰いろの四本の脚が、ゆっくりゆっくり上ったり下ったりしていたのだ。  ペムペルとネリとは、黒人はほんとうに恐かったけれど又|面白かった。四角なものも恐かったけれど、めずらしかった。そこでみんなが過ぎてから、二人は顔を見合せた。そして 『ついて行こうか。』 『ええ、行きましょう。』と、まるでかすれた声で云ったのだ。そして二人はよほど遠くからついて行った。  黒人たちは、時々何かわからないことを叫んだり、空を見ながら跳ねたりした。四本の脚はゆっくりゆっくり、上ったり下ったりしていたし、時々ふう、ふうという呼吸の音も聞えた。  二人はいよいよ堅く手を握ってついて行った。  そのうちお日さまは、変に赤くどんよりなって、西の方の山に入ってしまい、残りの空は黄いろに光り、草はだんだん青から黒く見えて来た。  さっきからの音がいよいよ近くなり、すぐ向うの丘のかげでは、さっきのらしい馬のひんひん啼くのも鼻をぶるるっと鳴らすのも聞えたんだ。  四角な家の生物が、脚を百ぺん上げたり下げたりしたら、ペムペルとネリとはびっくりして眼を擦った。向うは大きな町なんだ。灯が一杯についている。それからすぐ眼の前は平らな草地になっていて、大きな天幕がかけてある。天幕は丸太で組んである。まだ少しあかるいのに、青いアセチレンや、油煙を長く引くカンテラがたくさんともって、その二階には奇麗な絵看板がたくさんかけてあったのだ。その看板のうしろから、さっきからのいい音が起っていたのだ。看板の中には、さっきキスを投げた子が、二|疋の馬に片っ方ずつ手をついて、逆立ちしてる処もある。さっきの馬はみなその前につながれて、その他にだって十五六疋ならんでいた。みんなオートを食べていた。  おとなや女や子供らが、その草はらにたくさん集って看板を見上げていた。  看板のうしろからは、さっきの音が盛んに起った。  けれどもあんまり近くで聞くと、そんなにすてきな音じゃない。  ただの楽隊だったんだい。  ただその音が、野原を通って行く途中、だんだん音がかすれるほど、花のにおいがついて行ったんだ。  白い四角な家も、ゆっくりゆっくり中へはいって行ってしまった。  中では何かが細い高い声でないた。  人はだんだん増えて来た。  楽隊はまるで馬鹿のように盛んにやった。  みんなは吸いこまれるように、三人五人ずつ中へはいって行ったのだ。  ペムペルとネリとは息をこらして、じっとそれを見た。 『僕たちも入ってこうか。』ペムペルが胸をどきどきさせながら云った。 『入りましょう』とネリも答えた。  けれども何だか二人とも、安心にならなかったのだ。どうもみんなが入口で何か番人に渡すらしいのだ。  ペムペルは少し近くへ寄って、じっとそれを見た。食い付くように見ていたよ。  そしたらそれはたしかに銀か黄金かのかけらなのだ。  黄金をだせば銀のかけらを返してよこす。  そしてその人は入って行く。  だからペムペルも黄金をポケットにさがしたのだ。 『ネリ、お前はここに待っといで。僕|一寸うちまで行って来るからね。』 『わたしも行くわ。』ネリは云ったけれども、ペムペルはもうかけ出したので、ネリは心配そうに半分泣くようにして、又看板を見ていたよ。  それから僕は心配だから、ネリの処に番しようか、ペムペルについて行こうか、ずいぶんしばらく考えたけれども、いくらそこらを飛んで見ても、みんな看板ばかり見ていて、ネリをさらって行きそうな悪漢は一人も居ないんだ。  そこで安心して、ペムペルについて飛んで行った。  ペムペルはそれはひどく走ったよ。四日のお月さんが、西のそらにしずかにかかっていたけれど、そのぼんやりした青じろい光で、どんどんどんどんペムペルはかけた。僕は追いつくのがほんとうに辛かった。眼がぐるぐるして、風がぶうぶう鳴ったんだ。樺の木も楊の木も、みんなまっ黒、草もまっ黒、その中をどんどんどんどんペムペルはかけた。  それからとうとうあの果樹園にはいったのだ。  ガラスのお家が月のあかりで大へんなつかしく光っていた。ペムペルは一寸立ちどまってそれを見たけれども、又走ってもうまっ黒に見えているトマトの木から、あの黄いろの実のなるトマトの木から、黄いろのトマトの実を四つとった。それからまるで風のよう、あらしのように汗と動悸で燃えながら、さっきの草場にとって返した。僕も全く疲れていた。  ネリはちらちらこっちの方を見てばかりいた。  けれどもペムペルは、 『さあ、いいよ。入ろう。』 とネリに云った。  ネリは悦んで飛びあがり、二人は手をつないで木戸口に来たんだ。ペムペルはだまって二つのトマトを出したんだ。  番人は『ええ、いらっしゃい。』と言いながら、トマトを受けとり、それから変な顔をした。  しばらくそれを見つめていた。  それから俄かに顔が歪んでどなり出した。 『何だ。この餓鬼め。人をばかにしやがるな。トマト二つで、この大入の中へ汝たちを押し込んでやってたまるか。失せやがれ、畜生。』  そしてトマトを投げつけた。あの黄のトマトをなげつけたんだ。その一つはひどくネリの耳にあたり、ネリはわっと泣き出し、みんなはどっと笑ったんだ。ペムペルはすばやくネリをさらうように抱いて、そこを遁げ出した。  みんなの笑い声が波のように聞えた。  まっくらな丘の間まで遁げて来たとき、ペムペルも俄かに高く泣き出した。ああいうかなしいことを、お前はきっと知らないよ。  それから二人はだまってだまってときどきしくりあげながら、ひるの象について来たみちを戻った。  それからペムペルは、にぎりこぶしを握りながら、ネリは時々|唾をのみながら、樺の木の生えたまっ黒な小山を越えて、二人はおうちに帰ったんだ。ああかあいそうだよ。ほんとうにかあいそうだ。わかったかい。じゃさよなら、私はもうはなせない。じいさんを呼んで来ちゃいけないよ。さよなら。」  斯う云ってしまうと蜂雀の細い嘴は、また尖ってじっと閉じてしまい、その眼は向うの四十雀をだまって見ていたのです。  私も大へんかなしくなって 「じゃ蜂雀。さようなら。僕又来るよ。けれどお前が何か云いたかったら云ってお呉れ。さよなら、ありがとうよ。蜂雀、ありがとうよ。」 と云いながら、鞄をそっと取りあげて、その茶いろガラスのかけらの中のような室を、しずかに廊下へ出たのです。そして俄かにあんまりの明るさと、あの兄妹のかあいそうなのとに、眼がチクチクッと痛み、涙がぼろぼろこぼれたのです。  私のまだまるで小さかったときのことです。 人物 バナナン大将。    特務|曹長、    曹長、    兵士、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十。 場処 不明なるも劇中マルトン原と呼ばれたり。 時  不明。 幕あく。 砲弾にて破損せる古き穀倉の内部、辛くも全滅を免かれしバナナン軍団、マルトン原の臨時|幕営。 右手より曹長先頭にて兵士一、二、三、四、五、登場、一列|四壁に沿いて行進。 曹長「一時半なのにどうしたのだろう。 バナナン大将はまだやってこない 胃時計はもう十時なのに バナナン大将は帰らない。」 正面壁に沿い左向き足踏み。 左手より、特務曹長|並に兵士六、七、八、九、十 五人登場、一列、壁に沿いて行進、右隊足踏みつつ挙手の礼 左隊答礼。 特務曹長「もう二時なのにどうしたのだろう、 バナナン大将はまだ来ていない ストマクウオッチはもう十時なのに バナナン大将は帰らない。」 左隊右壁に沿い足踏み 曹長特務曹長 「糧食はなし 四月の寒さ ストマクウオッチももうめちゃめちゃだ。」 合唱「どうしたのだろう、バナナン大将 もう一遍だけ 見て来よう。」別々に退場 右隊登場、総て始めのごとし。可成疲れたり。 曹長「もう四時なのにどうしたのだろう、 バナナン大将はまだ来ていない もう四時なのにどうしたのだろう。 バナナン大将は帰らない。」 左隊登場 「もう四時半なのにどうしたのだろう、 バナナン大将はまだ来ていない もう五時なのにどうしたのだろう バナナン大将は 帰らない。」 曹長特務曹長 「大将ひとりでどこかの並木の 苹果を叩いているかもしれない 大将いまごろどこかのはたけで 人蔘ガリガリ 噛んでるぞ。」 右隊入場、著しく疲れ辛うじて歩行す。 曹長「七時半なのにどうしたのだろう バナナン大将はまだ来ていない 七時半なのにどうしたのだろう バナナン大将は 帰らない。」 左隊登場 最|労れたり。 曹長特務曹長 「もう八時なのにどうしたのだろう バナナン大将は まだ来ていない。 もう八時なのにどうしたのだろう バナナン大将は 帰らない。」 立てるもの合唱 「いくさで死ぬならあきらめもするが いまごろ餓えて死にたくはない ああただひときれこの世のなごりに バナナかなにかを 食いたいな。」 バナナン大将登場。バナナのエボレットを飾り菓子の勲章を胸に満せり。 バナナン大将 「つかれたつかれたすっかりつかれた 脚はまるっきり 二本のステッキ いったいすこぅし飲み過ぎたのだし 馬肉もあんまり食いすぎた。」 「何だ。まっくらじゃないか。今ごろになってまだあかりも点けんのか。」 兵士等辛うじて立ちあがり挙手の礼。 大将「灯をつけろ、間抜けめ。」 曹長点燈す。兵士等大将のエボレット勲章等を見て食せんとするの衝動甚し。 大将「間抜けめ、どれもみんなまるで泥人形だ。」 脚を重ねて椅子に座す。ポケットより新聞と老眼鏡とを取り出し殊更に顔をしかめつつこれを読む。しきりにゲップす。やがて睡る。 曹長「大将の勲章は実に甘そうだなあ。」 特務曹長「それは甘そうだ。」 曹長「食べるというわけには行かないものでありますか。」 特務曹長「それは蓋しいかない。軍人が名誉ある勲章を食ってしまうという前例はない。」 曹長「食ったらどうなるのでありますか。」 特務曹長「軍法会議だ。それから銃殺にきまっている。」間、兵卒一同再び倒る。 曹長「上官。私は決心いたしました。この饑餓陣営の中に於きましては最早私共の運命は定まってあります。戦争の為にでなく飢餓の為に全滅するばかりであります。かの巨大なるバナナン軍団のただ十六人の生存者われわれもまた死ぬばかりであります。この際私が将軍の勲章とエボレットとを盗みこれを食しますれば私共は死ななくても済みます。そして私はその責任を負って軍法会議にかかりまた銃殺されようと思います。」 特務曹長「曹長、よく云って呉れた。貴様だけは殺さない。おれもきっと一緒に行くぞ。十の生命の代りに二人の命を投げ出そう。よし。さあやろう。集まれっ。気を付けっ。右ぃおい。直れっ。番号。」 兵士「一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、十一、」 特務曹長「よし。閣下はまだおやすみだ。いいか。われわれは軍律上少しく変則ではあるがこれから食事を始める。」兵士|悦ぶ。 曹長 特務曹長「いや、盗むというのはいかん。もっと正々堂々とやらなくちゃいけない。いいか。おれがやろう。」 特務曹長バナナン大将の前に進み直立す。曹長以下これに従い一列に並ぶ。 特務曹長「閣下!」 バナナン大将「何じゃ、そうぞうしい。」 特務曹長「閣下の御勲功は実に四海を照すのであります。」 大将「ふん、それはよろしい。」 特務曹長「閣下の御名誉は則ち私共の名誉であります。」 大将「うん。それはよろしい。」 特務曹長「閣下の勲章は皆実に立派であります。私共は閣下の勲章を仰ぎますごとに実に感激してなみだがでたりのどが鳴ったりするのであります。」 大将「ふん、それはそうじゃろう。」 特務曹長「然るに私共は未だ不幸にしてその機会を得ず充分適格に閣下の勲章を拝見するの光栄を所有しなかったのであります。」 大将「それはそうじゃ、今までは忙がしかったじゃからな。」 特務曹長「閣下。この機会をもちまして私共一同にとくとお示しを得たいものであります。」 大将「それはよろしい。どの勲章を見たいのだ。」 特務曹長「一番大きなやつから。」 大将「これが一番大きいじゃ。ロンテンプナルール勲章じゃ。」胸より最大なる勲章を外し特務曹長に渡す。 特務曹長「これはどの戦役でご受領なされたのでありますか。」 大将「印度戦争だ。」 特務曹長「このまん中の青い所はほんもののザラメでありますか。」 大将「ほんとうのザラメとも。」 特務曹長「実に立派であります。」 特務曹長「次のは何でありますか。」 大将「ファンテプラーク章じゃ。」外す。 特務曹長「あまり光って眼がくらむようであります。」 大将「そうじゃ。それは支那戦のニコチン戦役にもらったのじゃ。」 特務曹長「立派であります。」 大将「それはそうじゃろう」 大将「どうじゃ、これはチベット戦争じゃ。」 特務曹長「なるほど西蔵馬のしるしがついて居ります。」 大将「これは普仏戦争じゃ、」 特務曹長「なるほどナポレオンポナパルドの首のしるしがついて居ります。然し閣下は普仏戦争に御参加になりましたのでありますか。」 大将「いいや、六十銭で買ったよ。」 特務曹長「なるほど、実に立派であります。六十銭では安すぎます。」 大将「うん、」 特務曹長「その次の勲章はどれでありますか。」 大将「これじゃ、」 特務曹長「これはどちらから贈られたのでありますか。」 大将「それはアメリカだ。ニュウヨウクのメリケン粉株式会社から贈られたのだ。」 特務曹長「そうでありますか。愕くべきであります。」 特務曹長「次はどれでありますか。」 大将「これじゃ、」 特務曹長「実にめずらしくあります。やはり支那戦争でありますか。」 大将「いいや。支那の大将と豚を五|匹でとりかえたのじゃ。」 特務曹長「なるほど、ハムサンドウィッチですな。」 大将「これはどうじゃ。」 特務曹長「立派であります。何勲章でありますか。」 大将「むすこからとりかえしたのじゃ。」 特務曹長「その次は、」 大将「これはモナコ王国に於てばくちの番をしたとき貰ったのじゃ。」 特務曹長「はあ実に恐れ入ります。」 大将「これはどうじゃ。」 特務曹長「どこの勲章でありますか。」 大将「手製じゃ手製じゃ。わしがこさえたのじゃ。」 特務曹長「なるほど、立派なお作であります。次のを拝見ねがいます。」 大将「これはなアフガニスタンでマラソン競争をやってとったのじゃ。」 特務曹長「なるほど次はどれでありますか。」 大将「もう二つしかないぞ。」 特務曹長「もう二つで丁度いいようであります。」 大将「何が。」 特務曹長「そうであります。」 大将「勲章か。よろしい。」 特務曹長「これはどちらから贈られましたのでありますか。」 大将「イタリヤごろつき組合だ。」 特務曹長「なるほど、ジゴマと書いてあります。」「おい、やれ。」 特務曹長「実に立派であります。」 大将「これはもっと立派だぞ。」 特務曹長「これはどちらからお受けになりましたのでありますか。」 大将「ベルギ戦役マイナス十五里進軍の際スレンジングトンの街道で拾ったよ。」 特務曹長「なるほど。」「少し馬の糞はついて居りますが結構であります。」 大将「どうじゃ、どれもみんな立派じゃろう。」 一同「実に結構でありました。」 大将「結構でありました? いかんな。物の云いようもわからない。結構でありますと云うもんじゃ。ありましたと云えば過去になるじゃ。」 一同「結構であります。」 特務曹長「ええ、只今のは実は現在|完了のつもりであります。ところで閣下、この好機会をもちまして更に閣下の燦爛たるエボレットを拝見いたしたいものであります。」 大将「ふん、よかろう。」 特務曹長「実に甚しくあります。」 大将「うん。金無垢だからな。溶かしちゃいかんぞ。」 特務曹長「はい大丈夫であります。後列の方の六人でよく拝見しろ。」 大将「いかん、いかん、エボレットを壊しちゃいかん。」 特務曹長「いいえ、すぐ組み立てます。もう片っ方拝見いたしたいものであります。」 大将「ふん、あとですっかり組み立てるならまあよかろう。」 特務曹長「なるほど金無垢であります。すぐ組み立てます。」 大将「あっいかんいかん。皮を剥いてはいかんじゃ。」 特務曹長「急ぎ呑み下せいおいっ。」 大将「ああ情けない。犬め、畜生ども。泥人形ども、勲章をみんな食い居ったな。どうするか見ろ。情けない。うわあ。」 兵卒三「おれたちは恐ろしいことをしてしまったなあ。」 兵卒十「全く夢中でやってしまったなあ。」 兵卒一「勲章と胃袋にゴム糸がついていたようだったなあ」 兵卒九「将軍と国家とにどうおわびをしたらいいかなあ。」 兵卒七「おわびの方法が無い。」 兵卒五「死ぬより仕方ない。」 兵卒三「みんな死のう、自殺しよう。」 曹長「いいや、みんなおれが悪いんだ。おれがこんなことを発案したのだ。」 特務曹長「いいや、おれが責任者だ。おれは死ななければならない。」 曹長「上官、私共二人はじめの約束の通りに死にましょう。」 特務曹長「そうだ。おいみんな。おまえたちはこの事件については何も知らなかった。悪いのはおれ達二人だ。おれ達はこの責任を負って死ぬからな、お前たちは決して短気なことをして呉れるな。これからあともよく軍律を守って国家のためにつくしてくれ」 兵卒一同「いいえ、だめであります。だめであります。」 特務曹長「いかん。貴様たちに命令する。将軍のお詞のあるうち動いてはならん。気を付けっ。」兵卒等直立。 特務曹長「曹長、さあ支度しよう。」「祈ろう。一所に。」 特務曹長「饑餓陣営のたそがれの中 犯せる罪はいとも深し ああ夜のそらの青き火もて われらがつみをきよめたまえ。」 曹長「マルトン原のかなしみのなか ひかりはつちにうずもれぬ ああみめぐみのあめを下し われらがつみをゆるしたまえ。」 合唱「ああ、みめぐみの雨をくだし われらがつみをゆるしたまえ。」 大将「止まれ、やめぃ。」 バナナン大将「もうわかった。お前たちの心底は見届けた。お前たちの誠心に較べてはおれの勲章などは実に何でもないじゃ。 おお神はほめられよ。実におん眼からみそなわすならば勲章やエボレットなどは瓦礫にも均しいじゃ。」 特務曹長「将軍、お申し訳けのないことを致しました。」 曹長「将軍、私に死を下されませ。」 バナナン大将「いいや、ならん。」 特務曹長「けれどもこれから私共は毎日将軍の軍装拝しますごとに烈しく良心に責められなければなりません。」 大将「いいや、今わしは神のみ力を受けて新らしい体操を発明したじゃ。それは名づけて生産体操となすべきじゃ。従来の不生産式体操と自ら撰を異にするじゃ。」 特務曹長「閣下、何とぞその訓練をいただきたくあります。」 大将「ふん。それはもちろんよろしい。いいか。 では、集れっ。ション。右ぃ習え。直れっ。番号。」 兵士「一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、十一、十二、」 兵士|伍を組む。 大将「前列二歩前へおいっ。偶数一歩前へおいっ。」 大将「よろしいか。これから生産体操をはじめる。第一果樹|整枝法、わかったか。三番。」 兵卒三「わかりました。果樹整枝法であります。」 大将「よろしい。果樹整枝法、その一、ピラミッド、一の号令でこの形をつくる。二で直るいいか」 大将|両腕を上げ整枝法のピラミッド形をつくる。 大将「いいか。果樹整枝法、その一、ピラミッド。一、よろし。二、よろし、一、二、一、二、一、やめい。」 大将「いいか次はベース。ベース、一、の号令でこの形をつくる。二で直る。いいか。わかったか。五番。」 兵卒五「はいっわかりました。ベース。盃状仕立であります。」 大将「よろしい。果樹整枝法その二、ベース一。」 兵卒「一、」 大将「二、一、二、一、二、一、二、やめい。」 大将「次は果樹整枝法その三、カンデラーブル。ここでは二枝カンデラーブル、U字形をつくる。この時には両肩と両腕とでUの字になることが要領じゃ、徒にここが直角になることは血液|循環の上からも又樹液運行の上からも必要としない。この形になることが要領じゃ。わかったか。六番」 兵卒六「わかりました。カンデラーブル、U字形であります。」 大将「よろしい。果樹整枝法その三、カンデラーブル、はじめっ一、二、一、二、一、二、一、二、やめい。」 大将「よろしい。果樹整枝法その四、又その一、水平コルドン。はじめっ。一、二、一、二、一、二、一、二、一、やめい。」 大将「次はその又二、直立コルドン。これはこのままでよろしい。ただ呼称だけを用うる。一、二、一、二、よろしいか。八番。」 兵卒八「直立コルドンであります。」 大将「よろしい。果樹整枝法、その四、又その二、直立コルドン、はじめっ、一、二、一、二、一、二、一、二、一、やめい。」 大将「次は、エーベンタール、扇状仕立、この形をつくる。このエーベンタールのベースとちがう所は手とからだとが一平面内にあることにある。よろしいか。九番。」 兵士九「はいっ。果樹整枝法その五、エーベンタールであります。」 大将「よろしい。果樹整枝法、その五、エーベンタール、はじめっ、一、二、一、二、一、二、一、やめい。」 大将「次は果樹整枝法、その六、棚仕立、これは日本に於て梨葡萄等の栽培に際して行われるじゃ。棚をつくる。棚を。わかったか。十番。」 兵士十「果樹整枝法第六、棚仕立であります。」 大将「よろしい。果樹整枝法第六棚仕立、はじめっ。一」 バナナン大将「実に立派じゃ、この実はみな琥珀でつくってある。それでいて琥珀のようにおかしな匂でもない。甘いつめたい汁でいっぱいじゃ。新鮮なエステルにみちている。しかもこの宝石は数も多く人をもなやまさないじゃ。来年もまたみのるじゃ。ありがたい。又この葉の美しいことはまさに黄金じゃ。日光来りて葉緑を照徹すれば葉緑黄金を生ずるじゃ。讃うべきかな神よ。」 バナナン大将の行進歌 合唱「いさおかがやく バナナン軍 マルトン原に  たむろせど 荒さびし山河の すべもなく 饑餓の 陣営  日にわたり 夜をもこむれば つわものの ダムダム弾や  葡萄弾 毒瓦斯タンクは 恐れねど うえとつかれを いかにせん。 やむなく食みし 将軍の かがやきわたる 勲章と ひかりまばゆき エボレット そのまがつみは 録されぬ。 あわれ二人の  つわものは 責に死なんと  したりしに このとき雲の  かなたより 神ははるかに  みそなわし くだしたまえる みめぐみは 新式生産体操ぞ。 ベースピラミッド カンデラブル またパルメット エーベンタール ことにも二つの コルドンと 棚の仕立に   いたりしに ひかりのごとく 降り来し 天の果実を   いかにせん。 みさかえはあれ かがやきの あめとしめりの くろつちに みさかえはあれ かがやきの あめとしめりの くろつちに。」 幕。  ある死火山のすそ野のかしわの木のかげに、「ベゴ」というあだ名の大きな黒い石が、永いことじぃっと座っていました。 「ベゴ」と云う名は、その辺の草の中にあちこち散らばった、稜のあるあまり大きくない黒い石どもが、つけたのでした。ほかに、立派な、本とうの名前もあったのでしたが、「ベゴ」石もそれを知りませんでした。  ベゴ石は、稜がなくて、丁度卵の両はじを、少しひらたくのばしたような形でした。そして、ななめに二本の石の帯のようなものが、からだを巻いてありました。非常に、たちがよくて、一ぺんも怒ったことがないのでした。  それですから、深い霧がこめて、空も山も向うの野原もなんにも見えず退くつな日は、稜のある石どもは、みんな、ベゴ石をからかって遊びました。 「ベゴさん。今日は。おなかの痛いのは、なおったかい。」 「ありがとう。僕は、おなかが痛くなかったよ。」とベゴ石は、霧の中でしずかに云いました。 「アァハハハハ。アァハハハハハ。」稜のある石は、みんな一度に笑いました。 「ベゴさん。こんちは。ゆうべは、ふくろうがお前さんに、とうがらしを持って来てやったかい。」 「いいや。ふくろうは、昨夜、こっちへ来なかったようだよ。」 「アァハハハハ。アァハハハハハ。」稜のある石は、もう大笑いです。 「ベゴさん。今日は。昨日の夕方、霧の中で、野馬がお前さんに小便をかけたろう。気の毒だったね。」 「ありがとう。おかげで、そんな目には、あわなかったよ。」 「アァハハハハ。アァハハハハハ。」みんな大笑いです。 「ベゴさん。今日は。今度新らしい法律が出てね、まるいものや、まるいようなものは、みんな卵のように、パチンと割ってしまうそうだよ。お前さんも早く逃げたらどうだい。」 「ありがとう。僕は、まんまる大将のお日さんと一しょに、パチンと割られるよ。」 「アァハハハハ。アァハハハハハ。どうも馬鹿で手がつけられない。」  丁度その時、霧が晴れて、お日様の光がきん色に射し、青ぞらがいっぱいにあらわれましたので、稜のある石どもは、みんな雨のお酒のことや、雪の団子のことを考えはじめました。そこでベゴ石も、しずかに、まんまる大将の、お日さまと青ぞらとを見あげました。  その次の日、又、霧がかかりましたので、稜石どもは、又ベゴ石をからかいはじめました。実は、ただからかったつもりだっただけです。 「ベゴさん。おれたちは、みんな、稜がしっかりしているのに、お前さんばかり、なぜそんなにくるくるしてるだろうね。一緒に噴火のとき、落ちて来たのにね。」 「僕は、生れてまだまっかに燃えて空をのぼるとき、くるくるくるくる、からだがまわったからね。」 「ははあ、僕たちは、空へのぼるときも、のぼる位のぼって、一寸とまった時も、それから落ちて来るときも、いつも、じっとしていたのに、お前さんだけは、なぜそんなに、くるくるまわったろうね。」  その癖、こいつらは、噴火で砕けて、まっくろな煙と一緒に、空へのぼった時は、みんな気絶していたのです。 「さあ、僕は一向まわろうとも思わなかったが、ひとりでからだがまわって仕方なかったよ。」 「ははあ、何かこわいことがあると、ひとりでからだがふるえるからね。お前さんも、ことによったら、臆病のためかも知れないよ。」 「そうだ。臆病のためだったかも知れないね。じっさい、あの時の、音や光は大へんだったからね。」 「そうだろう。やっぱり、臆病のためだろう。ハッハハハハッハ、ハハハハハ。」  稜のある石は、一しょに大声でわらいました。その時、霧がはれましたので、角のある石は、空を向いて、てんでに勝手なことを考えはじめました。  ベゴ石も、だまって、柏の葉のひらめきをながめました。  それから何べんも、雪がふったり、草が生えたりしました。かしわは、何べんも古い葉を落して、新らしい葉をつけました。  ある日、かしわが云いました。 「ベゴさん。僕とあなたが、お隣りになってから、もうずいぶん久しいもんですね。」 「ええ。そうです。あなたは、ずいぶん大きくなりましたね。」 「いいえ。しかし僕なんか、前はまるで小さくて、あなたのことを、黒い途方もない山だと思っていたんです。」 「はあ、そうでしょうね。今はあなたは、もう僕の五倍もせいが高いでしょう。」 「そう云えばまあそうですね。」  かしわは、すっかり、うぬぼれて、枝をピクピクさせました。  はじめは仲間の石どもだけでしたがあんまりベゴ石が気がいいのでだんだんみんな馬鹿にし出しました。おみなえしが、斯う云いました。 「ベゴさん。僕は、とうとう、黄金のかんむりをかぶりましたよ。」 「おめでとう。おみなえしさん。」 「あなたは、いつ、かぶるのですか。」 「さあ、まあ私はかぶりませんね。」 「そうですか。お気の毒ですね。しかし。いや。はてな。あなたも、もうかんむりをかぶってるではありませんか。」  おみなえしは、ベゴ石の上に、このごろ生えた小さな苔を見て、云いました。  ベゴ石は笑って、 「いやこれは苔ですよ。」 「そうですか。あんまり見ばえがしませんね。」  それから十日ばかりたちました。おみなえしはびっくりしたように叫びました。 「ベゴさん。とうとう、あなたも、かんむりをかぶりましたよ。つまり、あなたの上の苔がみな赤ずきんをかぶりました。おめでとう。」  ベゴ石は、にが笑いをしながら、なにげなく云いました。 「ありがとう。しかしその赤頭巾は、苔のかんむりでしょう。私のではありません。私の冠は、今に野原いちめん、銀色にやって来ます。」  このことばが、もうおみなえしのきもを、つぶしてしまいました。 「それは雪でしょう。大へんだ。大へんだ。」  ベゴ石も気がついて、おどろいておみなえしをなぐさめました。 「おみなえしさん。ごめんなさい。雪が来て、あなたはいやでしょうが、毎年のことで仕方もないのです。その代り、来年雪が消えたら、きっとすぐ又いらっしゃい。」  おみなえしは、もう、へんじをしませんでした。又その次の日のことでした。蚊が一|疋くうんくうんとうなってやって来ました。 「どうも、この野原には、むだなものが沢山あっていかんな。たとえば、このベゴ石のようなものだ。ベゴ石のごときは、何のやくにもたたない。むぐらのようにつちをほって、空気をしんせんにするということもしない。草っぱのように露をきらめかして、われわれの目の病をなおすということもない。くううん。くううん。」と云いながら、又向うへ飛んで行きました。  ベゴ石の上の苔は、前からいろいろ悪口を聞いていましたが、ことに、今の蚊の悪口を聞いて、いよいよベゴ石を、馬鹿にしはじめました。  そして、赤い小さな頭巾をかぶったまま、踊りはじめました。 「ベゴ黒助、ベゴ黒助、  黒助どんどん、  あめがふっても黒助、どんどん、  日が照っても、黒助どんどん。  ベゴ黒助、ベゴ黒助、  黒助どんどん、  千年たっても、黒助どんどん、  万年たっても、黒助どんどん。」  ベゴ石は笑いながら、 「うまいよ。なかなかうまいよ。しかしその歌は、僕はかまわないけれど、お前たちには、よくないことになるかも知れないよ。僕が一つ作ってやろう。これからは、そっちをおやり。ね、そら、 お空。お空。お空のちちは、 つめたい雨の ザァザザザ、 かしわのしずくトンテントン、 まっしろきりのポッシャントン。 お空。お空。お空のひかり、 おてんとさまは、カンカンカン、 月のあかりは、ツンツンツン、 ほしのひかりの、ピッカリコ。」 「そんなものだめだ。面白くもなんともないや。」 「そうか。僕は、こんなこと、まずいからね。」  ベゴ石は、しずかに口をつぐみました。  そこで、野原中のものは、みんな口をそろえて、ベゴ石をあざけりました。 「なんだ。あんな、ちっぽけな赤頭巾に、ベゴ石め、へこまされてるんだ。もうおいらは、あいつとは絶交だ。みっともない。黒助め。黒助、どんどん。ベゴどんどん。」  その時、向うから、眼がねをかけた、せいの高い立派な四人の人たちが、いろいろなピカピカする器械をもって、野原をよこぎって来ました。その中の一人が、ふとベゴ石を見て云いました。 「あ、あった、あった。すてきだ。実にいい標本だね。火山弾の典型だ。こんなととのったのは、はじめて見たぜ。あの帯の、きちんとしてることね。もうこれだけでも今度の旅行は沢山だよ。」 「うん。実によくととのってるね。こんな立派な火山弾は、大英博物館にだってないぜ。」  みんなは器械を草の上に置いて、ベゴ石をまわってさすったりなでたりしました。 「どこの標本でも、この帯の完全なのはないよ。どうだい。空でぐるぐるやった時の工合が、実によくわかるじゃないか。すてき、すてき。今日すぐ持って行こう。」  みんなは、又、向うの方へ行きました。稜のある石は、だまってため息ばかりついています。そして気のいい火山弾は、だまってわらって居りました。  ひるすぎ、野原の向うから、又キラキラめがねや器械が光って、さっきの四人の学者と、村の人たちと、一台の荷馬車がやって参りました。  そして、柏の木の下にとまりました。 「さあ、大切な標本だから、こわさないようにして呉れ給え。よく包んで呉れ給え。苔なんかむしってしまおう。」  苔は、むしられて泣きました。火山弾はからだを、ていねいに、きれいな藁や、むしろに包まれながら、云いました。 「みなさん。ながながお世話でした。苔さん。さよなら。さっきの歌を、あとで一ぺんでも、うたって下さい。私の行くところは、ここのように明るい楽しいところではありません。けれども、私共は、みんな、自分でできることをしなければなりません。さよなら。みなさん。」 「東京帝国大学校地質学教室行、」と書いた大きな札がつけられました。  そして、みんなは、「よいしょ。よいしょ。」と云いながら包みを、荷馬車へのせました。 「さあ、よし、行こう。」  馬はプルルルと鼻を一つ鳴らして、青い青い向うの野原の方へ、歩き出しました。 一、午后の授業 「ではみなさんは、そういうふうに川だと云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。」先生は、黒板に吊した大きな黒い星座の図の、上から下へ白くけぶった銀河帯のようなところを指しながら、みんなに問をかけました。  カムパネルラが手をあげました。それから四五人手をあげました。ジョバンニも手をあげようとして、急いでそのままやめました。たしかにあれがみんな星だと、いつか雑誌で読んだのでしたが、このごろはジョバンニはまるで毎日教室でもねむく、本を読むひまも読む本もないので、なんだかどんなこともよくわからないという気持ちがするのでした。  ところが先生は早くもそれを見附けたのでした。 「ジョバンニさん。あなたはわかっているのでしょう。」  ジョバンニは勢よく立ちあがりましたが、立って見るともうはっきりとそれを答えることができないのでした。ザネリが前の席からふりかえって、ジョバンニを見てくすっとわらいました。ジョバンニはもうどぎまぎしてまっ赤になってしまいました。先生がまた云いました。 「大きな望遠鏡で銀河をよっく調べると銀河は大体何でしょう。」  やっぱり星だとジョバンニは思いましたがこんどもすぐに答えることができませんでした。  先生はしばらく困ったようすでしたが、眼をカムパネルラの方へ向けて、 「ではカムパネルラさん。」と名指しました。するとあんなに元気に手をあげたカムパネルラが、やはりもじもじ立ち上ったままやはり答えができませんでした。  先生は意外なようにしばらくじっとカムパネルラを見ていましたが、急いで「では。よし。」と云いながら、自分で星図を指しました。 「このぼんやりと白い銀河を大きないい望遠鏡で見ますと、もうたくさんの小さな星に見えるのです。ジョバンニさんそうでしょう。」  ジョバンニはまっ赤になってうなずきました。けれどもいつかジョバンニの眼のなかには涙がいっぱいになりました。そうだ僕は知っていたのだ、勿論カムパネルラも知っている、それはいつかカムパネルラのお父さんの博士のうちでカムパネルラといっしょに読んだ雑誌のなかにあったのだ。それどこでなくカムパネルラは、その雑誌を読むと、すぐお父さんの書斎から巨きな本をもってきて、ぎんがというところをひろげ、まっ黒な頁いっぱいに白い点々のある美しい写真を二人でいつまでも見たのでした。それをカムパネルラが忘れる筈もなかったのに、すぐに返事をしなかったのは、このごろぼくが、朝にも午后にも仕事がつらく、学校に出てももうみんなともはきはき遊ばず、カムパネルラともあんまり物を云わないようになったので、カムパネルラがそれを知って気の毒がってわざと返事をしなかったのだ、そう考えるとたまらないほど、じぶんもカムパネルラもあわれなような気がするのでした。  先生はまた云いました。 「ですからもしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒にもあたるわけです。またこれを巨きな乳の流れと考えるならもっと天の川とよく似ています。つまりその星はみな、乳のなかにまるで細かにうかんでいる脂油の球にもあたるのです。そんなら何がその川の水にあたるかと云いますと、それは真空という光をある速さで伝えるもので、太陽や地球もやっぱりそのなかに浮んでいるのです。つまりは私どもも天の川の水のなかに棲んでいるわけです。そしてその天の川の水のなかから四方を見ると、ちょうど水が深いほど青く見えるように、天の川の底の深く遠いところほど星がたくさん集って見えしたがって白くぼんやり見えるのです。この模型をごらんなさい。」  先生は中にたくさん光る砂のつぶの入った大きな両面の凸レンズを指しました。 「天の川の形はちょうどこんななのです。このいちいちの光るつぶがみんな私どもの太陽と同じようにじぶんで光っている星だと考えます。私どもの太陽がこのほぼ中ごろにあって地球がそのすぐ近くにあるとします。みなさんは夜にこのまん中に立ってこのレンズの中を見まわすとしてごらんなさい。こっちの方はレンズが薄いのでわずかの光る粒|即ち星しか見えないのでしょう。こっちやこっちの方はガラスが厚いので、光る粒即ち星がたくさん見えその遠いのはぼうっと白く見えるというこれがつまり今日の銀河の説なのです。そんならこのレンズの大きさがどれ位あるかまたその中のさまざまの星についてはもう時間ですからこの次の理科の時間にお話します。では今日はその銀河のお祭なのですからみなさんは外へでてよくそらをごらんなさい。ではここまでです。本やノートをおしまいなさい。」  そして教室中はしばらく机の蓋をあけたりしめたり本を重ねたりする音がいっぱいでしたがまもなくみんなはきちんと立って礼をすると教室を出ました。 二、活版所  ジョバンニが学校の門を出るとき、同じ組の七八人は家へ帰らずカムパネルラをまん中にして校庭の隅の桜の木のところに集まっていました。それはこんやの星祭に青いあかりをこしらえて川へ流す烏瓜を取りに行く相談らしかったのです。  けれどもジョバンニは手を大きく振ってどしどし学校の門を出て来ました。すると町の家々ではこんやの銀河の祭りにいちいの葉の玉をつるしたりひのきの枝にあかりをつけたりいろいろ仕度をしているのでした。  家へは帰らずジョバンニが町を三つ曲ってある大きな活版処にはいってすぐ入口の計算台に居ただぶだぶの白いシャツを着た人におじぎをしてジョバンニは靴をぬいで上りますと、突き当りの大きな扉をあけました。中にはまだ昼なのに電燈がついてたくさんの輪転器がばたりばたりとまわり、きれで頭をしばったりラムプシェードをかけたりした人たちが、何か歌うように読んだり数えたりしながらたくさん働いて居りました。  ジョバンニはすぐ入口から三番目の高い卓子に座った人の所へ行っておじぎをしました。その人はしばらく棚をさがしてから、 「これだけ拾って行けるかね。」と云いながら、一枚の紙切れを渡しました。ジョバンニはその人の卓子の足もとから一つの小さな平たい函をとりだして向うの電燈のたくさんついた、たてかけてある壁の隅の所へしゃがみ込むと小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を次から次と拾いはじめました。青い胸あてをした人がジョバンニのうしろを通りながら、 「よう、虫めがね君、お早う。」と云いますと、近くの四五人の人たちが声もたてずこっちも向かずに冷くわらいました。  ジョバンニは何べんも眼を拭いながら活字をだんだんひろいました。  六時がうってしばらくたったころ、ジョバンニは拾った活字をいっぱいに入れた平たい箱をもういちど手にもった紙きれと引き合せてから、さっきの卓子の人へ持って来ました。その人は黙ってそれを受け取って微かにうなずきました。  ジョバンニはおじぎをすると扉をあけてさっきの計算台のところに来ました。するとさっきの白服を着た人がやっぱりだまって小さな銀貨を一つジョバンニに渡しました。ジョバンニは俄かに顔いろがよくなって威勢よくおじぎをすると台の下に置いた鞄をもっておもてへ飛びだしました。それから元気よく口笛を吹きながらパン屋へ寄ってパンの塊を一つと角砂糖を一|袋買いますと一目散に走りだしました。 三、家  ジョバンニが勢よく帰って来たのは、ある裏町の小さな家でした。その三つならんだ入口の一番左側には空箱に紫いろのケールやアスパラガスが植えてあって小さな二つの窓には日覆いが下りたままになっていました。 「お母さん。いま帰ったよ。工合悪くなかったの。」ジョバンニは靴をぬぎながら云いました。 「ああ、ジョバンニ、お仕事がひどかったろう。今日は涼しくてね。わたしはずうっと工合がいいよ。」  ジョバンニは玄関を上って行きますとジョバンニのお母さんがすぐ入口の室に白い巾を被って寝んでいたのでした。ジョバンニは窓をあけました。 「お母さん。今日は角砂糖を買ってきたよ。牛乳に入れてあげようと思って。」 「ああ、お前さきにおあがり。あたしはまだほしくないんだから。」 「お母さん。姉さんはいつ帰ったの。」 「ああ三時ころ帰ったよ。みんなそこらをしてくれてね。」 「お母さんの牛乳は来ていないんだろうか。」 「来なかったろうかねえ。」 「ぼく行ってとって来よう。」 「あああたしはゆっくりでいいんだからお前さきにおあがり、姉さんがね、トマトで何かこしらえてそこへ置いて行ったよ。」 「ではぼくたべよう。」  ジョバンニは窓のところからトマトの皿をとってパンといっしょにしばらくむしゃむしゃたべました。 「ねえお母さん。ぼくお父さんはきっと間もなく帰ってくると思うよ。」 「あああたしもそう思う。けれどもおまえはどうしてそう思うの。」 「だって今朝の新聞に今年は北の方の漁は大へんよかったと書いてあったよ。」 「ああだけどねえ、お父さんは漁へ出ていないかもしれない。」 「きっと出ているよ。お父さんが監獄へ入るようなそんな悪いことをした筈がないんだ。この前お父さんが持ってきて学校へ寄贈した巨きな蟹の甲らだのとなかいの角だの今だってみんな標本室にあるんだ。六年生なんか授業のとき先生がかわるがわる教室へ持って行くよ。一昨年修学旅行で〔以下数文字分空白〕 「お父さんはこの次はおまえにラッコの上着をもってくるといったねえ。」 「みんながぼくにあうとそれを云うよ。ひやかすように云うんだ。」 「おまえに悪口を云うの。」 「うん、けれどもカムパネルラなんか決して云わない。カムパネルラはみんながそんなことを云うときは気の毒そうにしているよ。」 「あの人はうちのお父さんとはちょうどおまえたちのように小さいときからのお友達だったそうだよ。」 「ああだからお父さんはぼくをつれてカムパネルラのうちへもつれて行ったよ。あのころはよかったなあ。ぼくは学校から帰る途中たびたびカムパネルラのうちに寄った。カムパネルラのうちにはアルコールラムプで走る汽車があったんだ。レールを七つ組み合せると円くなってそれに電柱や信号標もついていて信号標のあかりは汽車が通るときだけ青くなるようになっていたんだ。いつかアルコールがなくなったとき石油をつかったら、罐がすっかり煤けたよ。」 「そうかねえ。」 「いまも毎朝新聞をまわしに行くよ。けれどもいつでも家中まだしぃんとしているからな。」 「早いからねえ。」 「ザウエルという犬がいるよ。しっぽがまるで箒のようだ。ぼくが行くと鼻を鳴らしてついてくるよ。ずうっと町の角までついてくる。もっとついてくることもあるよ。今夜はみんなで烏瓜のあかりを川へながしに行くんだって。きっと犬もついて行くよ。」 「そうだ。今晩は銀河のお祭だねえ。」 「うん。ぼく牛乳をとりながら見てくるよ。」 「ああ行っておいで。川へははいらないでね。」 「ああぼく岸から見るだけなんだ。一時間で行ってくるよ。」 「もっと遊んでおいで。カムパネルラさんと一緒なら心配はないから。」 「ああきっと一緒だよ。お母さん、窓をしめて置こうか。」 「ああ、どうか。もう涼しいからね」  ジョバンニは立って窓をしめお皿やパンの袋を片附けると勢よく靴をはいて 「では一時間半で帰ってくるよ。」と云いながら暗い戸口を出ました。 四、ケンタウル祭の夜  ジョバンニは、口笛を吹いているようなさびしい口付きで、檜のまっ黒にならんだ町の坂を下りて来たのでした。  坂の下に大きな一つの街燈が、青白く立派に光って立っていました。ジョバンニが、どんどん電燈の方へ下りて行きますと、いままでばけもののように、長くぼんやり、うしろへ引いていたジョバンニの影ぼうしは、だんだん濃く黒くはっきりなって、足をあげたり手を振ったり、ジョバンニの横の方へまわって来るのでした。 とジョバンニが思いながら、大股にその街燈の下を通り過ぎたとき、いきなりひるまのザネリが、新らしいえりの尖ったシャツを着て電燈の向う側の暗い小路から出て来て、ひらっとジョバンニとすれちがいました。 「ザネリ、烏瓜ながしに行くの。」ジョバンニがまだそう云ってしまわないうちに、 「ジョバンニ、お父さんから、らっこの上着が来るよ。」その子が投げつけるようにうしろから叫びました。  ジョバンニは、ばっと胸がつめたくなり、そこら中きぃんと鳴るように思いました。 「何だい。ザネリ。」とジョバンニは高く叫び返しましたがもうザネリは向うのひばの植った家の中へはいっていました。 「ザネリはどうしてぼくがなんにもしないのにあんなことを云うのだろう。走るときはまるで鼠のようなくせに。ぼくがなんにもしないのにあんなことを云うのはザネリがばかなからだ。」  ジョバンニは、せわしくいろいろのことを考えながら、さまざまの灯や木の枝で、すっかりきれいに飾られた街を通って行きました。時計屋の店には明るくネオン燈がついて、一秒ごとに石でこさえたふくろうの赤い眼が、くるっくるっとうごいたり、いろいろな宝石が海のような色をした厚い硝子の盤に載って星のようにゆっくり循ったり、また向う側から、銅の人馬がゆっくりこっちへまわって来たりするのでした。そのまん中に円い黒い星座早見が青いアスパラガスの葉で飾ってありました。  ジョバンニはわれを忘れて、その星座の図に見入りました。  それはひる学校で見たあの図よりはずうっと小さかったのですがその日と時間に合せて盤をまわすと、そのとき出ているそらがそのまま楕円形のなかにめぐってあらわれるようになって居りやはりそのまん中には上から下へかけて銀河がぼうとけむったような帯になってその下の方ではかすかに爆発して湯気でもあげているように見えるのでした。またそのうしろには三本の脚のついた小さな望遠鏡が黄いろに光って立っていましたしいちばんうしろの壁には空じゅうの星座をふしぎな獣や蛇や魚や瓶の形に書いた大きな図がかかっていました。ほんとうにこんなような蝎だの勇士だのそらにぎっしり居るだろうか、ああぼくはその中をどこまでも歩いて見たいと思ってたりしてしばらくぼんやり立って居ました。  それから俄かにお母さんの牛乳のことを思いだしてジョバンニはその店をはなれました。そしてきゅうくつな上着の肩を気にしながらそれでもわざと胸を張って大きく手を振って町を通って行きました。  空気は澄みきって、まるで水のように通りや店の中を流れましたし、街燈はみなまっ青なもみや楢の枝で包まれ、電気会社の前の六本のプラタヌスの木などは、中に沢山の豆電燈がついて、ほんとうにそこらは人魚の都のように見えるのでした。子どもらは、みんな新らしい折のついた着物を着て、星めぐりの口笛を吹いたり、 「ケンタウルス、露をふらせ。」と叫んで走ったり、青いマグネシヤの花火を燃したりして、たのしそうに遊んでいるのでした。けれどもジョバンニは、いつかまた深く首を垂れて、そこらのにぎやかさとはまるでちがったことを考えながら、牛乳屋の方へ急ぐのでした。  ジョバンニは、いつか町はずれのポプラの木が幾本も幾本も、高く星ぞらに浮んでいるところに来ていました。その牛乳屋の黒い門を入り、牛の匂のするうすくらい台所の前に立って、ジョバンニは帽子をぬいで「今晩は、」と云いましたら、家の中はしぃんとして誰も居たようではありませんでした。 「今晩は、ごめんなさい。」ジョバンニはまっすぐに立ってまた叫びました。するとしばらくたってから、年|老った女の人が、どこか工合が悪いようにそろそろと出て来て何か用かと口の中で云いました。 「あの、今日、牛乳が僕※とこへ来なかったので、貰いにあがったんです。」ジョバンニが一生けん命|勢よく云いました。 「いま誰もいないでわかりません。あしたにして下さい。」  その人は、赤い眼の下のとこを擦りながら、ジョバンニを見おろして云いました。 「おっかさんが病気なんですから今晩でないと困るんです。」 「ではもう少したってから来てください。」その人はもう行ってしまいそうでした。 「そうですか。ではありがとう。」ジョバンニは、お辞儀をして台所から出ました。  十字になった町のかどを、まがろうとしましたら、向うの橋へ行く方の雑貨店の前で、黒い影やぼんやり白いシャツが入り乱れて、六七人の生徒らが、口笛を吹いたり笑ったりして、めいめい烏瓜の燈火を持ってやって来るのを見ました。その笑い声も口笛も、みんな聞きおぼえのあるものでした。ジョバンニの同級の子供らだったのです。ジョバンニは思わずどきっとして戻ろうとしましたが、思い直して、一そう勢よくそっちへ歩いて行きました。 「川へ行くの。」ジョバンニが云おうとして、少しのどがつまったように思ったとき、 「ジョバンニ、らっこの上着が来るよ。」さっきのザネリがまた叫びました。 「ジョバンニ、らっこの上着が来るよ。」すぐみんなが、続いて叫びました。ジョバンニはまっ赤になって、もう歩いているかもわからず、急いで行きすぎようとしましたら、そのなかにカムパネルラが居たのです。カムパネルラは気の毒そうに、だまって少しわらって、怒らないだろうかというようにジョバンニの方を見ていました。  ジョバンニは、遁げるようにその眼を避け、そしてカムパネルラのせいの高いかたちが過ぎて行って間もなく、みんなはてんでに口笛を吹きました。町かどを曲るとき、ふりかえって見ましたら、ザネリがやはりふりかえって見ていました。そしてカムパネルラもまた、高く口笛を吹いて向うにぼんやり見える橋の方へ歩いて行ってしまったのでした。ジョバンニは、なんとも云えずさびしくなって、いきなり走り出しました。すると耳に手をあてて、わああと云いながら片足でぴょんぴょん跳んでいた小さな子供らは、ジョバンニが面白くてかけるのだと思ってわあいと叫びました。まもなくジョバンニは黒い丘の方へ急ぎました。 五、天気輪の柱  牧場のうしろはゆるい丘になって、その黒い平らな頂上は、北の大熊星の下に、ぼんやりふだんよりも低く連って見えました。  ジョバンニは、もう露の降りかかった小さな林のこみちを、どんどんのぼって行きました。まっくらな草や、いろいろな形に見えるやぶのしげみの間を、その小さなみちが、一すじ白く星あかりに照らしだされてあったのです。草の中には、ぴかぴか青びかりを出す小さな虫もいて、ある葉は青くすかし出され、ジョバンニは、さっきみんなの持って行った烏瓜のあかりのようだとも思いました。  そのまっ黒な、松や楢の林を越えると、俄かにがらんと空がひらけて、天の川がしらしらと南から北へ亘っているのが見え、また頂の、天気輪の柱も見わけられたのでした。つりがねそうか野ぎくかの花が、そこらいちめんに、夢の中からでも薫りだしたというように咲き、鳥が一|疋、丘の上を鳴き続けながら通って行きました。  ジョバンニは、頂の天気輪の柱の下に来て、どかどかするからだを、つめたい草に投げました。  町の灯は、暗の中をまるで海の底のお宮のけしきのようにともり、子供らの歌う声や口笛、きれぎれの叫び声もかすかに聞えて来るのでした。風が遠くで鳴り、丘の草もしずかにそよぎ、ジョバンニの汗でぬれたシャツもつめたく冷されました。ジョバンニは町のはずれから遠く黒くひろがった野原を見わたしました。  そこから汽車の音が聞えてきました。その小さな列車の窓は一列小さく赤く見え、その中にはたくさんの旅人が、苹果を剥いたり、わらったり、いろいろな風にしていると考えますと、ジョバンニは、もう何とも云えずかなしくなって、また眼をそらに挙げました。  あああの白いそらの帯がみんな星だというぞ。  ところがいくら見ていても、そのそらはひる先生の云ったような、がらんとした冷いとこだとは思われませんでした。それどころでなく、見れば見るほど、そこは小さな林や牧場やらある野原のように考えられて仕方なかったのです。そしてジョバンニは青い琴の星が、三つにも四つにもなって、ちらちら瞬き、脚が何べんも出たり引っ込んだりして、とうとう蕈のように長く延びるのを見ました。またすぐ眼の下のまちまでがやっぱりぼんやりしたたくさんの星の集りか一つの大きなけむりかのように見えるように思いました。 六、銀河ステーション  そしてジョバンニはすぐうしろの天気輪の柱がいつかぼんやりした三角標の形になって、しばらく蛍のように、ぺかぺか消えたりともったりしているのを見ました。それはだんだんはっきりして、とうとうりんとうごかないようになり、濃い鋼青のそらの野原にたちました。いま新らしく灼いたばかりの青い鋼の板のような、そらの野原に、まっすぐにすきっと立ったのです。  するとどこかで、ふしぎな声が、銀河ステーション、銀河ステーションと云う声がしたと思うといきなり眼の前が、ぱっと明るくなって、まるで億万の蛍烏賊の火を一ぺんに化石させて、そら中に沈めたという工合、またダイアモンド会社で、ねだんがやすくならないために、わざと穫れないふりをして、かくして置いた金剛石を、誰かがいきなりひっくりかえして、ばら撒いたという風に、眼の前がさあっと明るくなって、ジョバンニは、思わず何べんも眼を擦ってしまいました。  気がついてみると、さっきから、ごとごとごとごと、ジョバンニの乗っている小さな列車が走りつづけていたのでした。ほんとうにジョバンニは、夜の軽便鉄道の、小さな黄いろの電燈のならんだ車室に、窓から外を見ながら座っていたのです。車室の中は、青い天蚕絨を張った腰掛けが、まるでがら明きで、向うの鼠いろのワニスを塗った壁には、真鍮の大きなぼたんが二つ光っているのでした。  すぐ前の席に、ぬれたようにまっ黒な上着を着た、せいの高い子供が、窓から頭を出して外を見ているのに気が付きました。そしてそのこどもの肩のあたりが、どうも見たことのあるような気がして、そう思うと、もうどうしても誰だかわかりたくて、たまらなくなりました。いきなりこっちも窓から顔を出そうとしたとき、俄かにその子供が頭を引っ込めて、こっちを見ました。  それはカムパネルラだったのです。  ジョバンニが、カムパネルラ、きみは前からここに居たのと云おうと思ったとき、カムパネルラが 「みんなはねずいぶん走ったけれども遅れてしまったよ。ザネリもね、ずいぶん走ったけれども追いつかなかった。」と云いました。  ジョバンニは、とおもいながら、 「どこかで待っていようか」と云いました。するとカムパネルラは 「ザネリはもう帰ったよ。お父さんが迎いにきたんだ。」  カムパネルラは、なぜかそう云いながら、少し顔いろが青ざめて、どこか苦しいというふうでした。するとジョバンニも、なんだかどこかに、何か忘れたものがあるというような、おかしな気持ちがしてだまってしまいました。  ところがカムパネルラは、窓から外をのぞきながら、もうすっかり元気が直って、勢よく云いました。 「ああしまった。ぼく、水筒を忘れてきた。スケッチ帳も忘れてきた。けれど構わない。もうじき白鳥の停車場だから。ぼく、白鳥を見るなら、ほんとうにすきだ。川の遠くを飛んでいたって、ぼくはきっと見える。」そして、カムパネルラは、円い板のようになった地図を、しきりにぐるぐるまわして見ていました。まったくその中に、白くあらわされた天の川の左の岸に沿って一条の鉄道線路が、南へ南へとたどって行くのでした。そしてその地図の立派なことは、夜のようにまっ黒な盤の上に、一一の停車場や三角標、泉水や森が、青や橙や緑や、うつくしい光でちりばめられてありました。ジョバンニはなんだかその地図をどこかで見たようにおもいました。 「この地図はどこで買ったの。黒曜石でできてるねえ。」  ジョバンニが云いました。 「銀河ステーションで、もらったんだ。君もらわなかったの。」 「ああ、ぼく銀河ステーションを通ったろうか。いまぼくたちの居るとこ、ここだろう。」  ジョバンニは、白鳥と書いてある停車場のしるしの、すぐ北を指しました。 「そうだ。おや、あの河原は月夜だろうか。」  そっちを見ますと、青白く光る銀河の岸に、銀いろの空のすすきが、もうまるでいちめん、風にさらさらさらさら、ゆられてうごいて、波を立てているのでした。 「月夜でないよ。銀河だから光るんだよ。」ジョバンニは云いながら、まるではね上りたいくらい愉快になって、足をこつこつ鳴らし、窓から顔を出して、高く高く星めぐりの口笛を吹きながら一生けん命延びあがって、その天の川の水を、見きわめようとしましたが、はじめはどうしてもそれが、はっきりしませんでした。けれどもだんだん気をつけて見ると、そのきれいな水は、ガラスよりも水素よりもすきとおって、ときどき眼の加減か、ちらちら紫いろのこまかな波をたてたり、虹のようにぎらっと光ったりしながら、声もなくどんどん流れて行き、野原にはあっちにもこっちにも、燐光の三角標が、うつくしく立っていたのです。遠いものは小さく、近いものは大きく、遠いものは橙や黄いろではっきりし、近いものは青白く少しかすんで、或いは三角形、或いは四辺形、あるいは電や鎖の形、さまざまにならんで、野原いっぱい光っているのでした。ジョバンニは、まるでどきどきして、頭をやけに振りました。するとほんとうに、そのきれいな野原中の青や橙や、いろいろかがやく三角標も、てんでに息をつくように、ちらちらゆれたり顫えたりしました。 「ぼくはもう、すっかり天の野原に来た。」ジョバンニは云いました。 「それにこの汽車石炭をたいていないねえ。」ジョバンニが左手をつき出して窓から前の方を見ながら云いました。 「アルコールか電気だろう。」カムパネルラが云いました。  ごとごとごとごと、その小さなきれいな汽車は、そらのすすきの風にひるがえる中を、天の川の水や、三角点の青じろい微光の中を、どこまでもどこまでもと、走って行くのでした。 「ああ、りんどうの花が咲いている。もうすっかり秋だねえ。」カムパネルラが、窓の外を指さして云いました。  線路のへりになったみじかい芝草の中に、月長石ででも刻まれたような、すばらしい紫のりんどうの花が咲いていました。 「ぼく、飛び下りて、あいつをとって、また飛び乗ってみせようか。」ジョバンニは胸を躍らせて云いました。 「もうだめだ。あんなにうしろへ行ってしまったから。」  カムパネルラが、そう云ってしまうかしまわないうち、次のりんどうの花が、いっぱいに光って過ぎて行きました。  と思ったら、もう次から次から、たくさんのきいろな底をもったりんどうの花のコップが、湧くように、雨のように、眼の前を通り、三角標の列は、けむるように燃えるように、いよいよ光って立ったのです。 七、北十字とプリオシン海岸 「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか。」  いきなり、カムパネルラが、思い切ったというように、少しどもりながら、急きこんで云いました。  ジョバンニは、 と思いながら、ぼんやりしてだまっていました。 「ぼくはおっかさんが、ほんとうに幸になるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだろう。」カムパネルラは、なんだか、泣きだしたいのを、一生けん命こらえているようでした。 「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないじゃないの。」ジョバンニはびっくりして叫びました。 「ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う。」カムパネルラは、なにかほんとうに決心しているように見えました。  俄かに、車のなかが、ぱっと白く明るくなりました。見ると、もうじつに、金剛石や草の露やあらゆる立派さをあつめたような、きらびやかな銀河の河床の上を水は声もなくかたちもなく流れ、その流れのまん中に、ぼうっと青白く後光の射した一つの島が見えるのでした。その島の平らないただきに、立派な眼もさめるような、白い十字架がたって、それはもう凍った北極の雲で鋳たといったらいいか、すきっとした金いろの円光をいただいて、しずかに永久に立っているのでした。 「ハルレヤ、ハルレヤ。」前からもうしろからも声が起りました。ふりかえって見ると、車室の中の旅人たちは、みなまっすぐにきもののひだを垂れ、黒いバイブルを胸にあてたり、水晶の珠数をかけたり、どの人もつつましく指を組み合せて、そっちに祈っているのでした。思わず二人もまっすぐに立ちあがりました。カムパネルラの頬は、まるで熟した苹果のあかしのようにうつくしくかがやいて見えました。  そして島と十字架とは、だんだんうしろの方へうつって行きました。  向う岸も、青じろくぽうっと光ってけむり、時々、やっぱりすすきが風にひるがえるらしく、さっとその銀いろがけむって、息でもかけたように見え、また、たくさんのりんどうの花が、草をかくれたり出たりするのは、やさしい狐火のように思われました。  それもほんのちょっとの間、川と汽車との間は、すすきの列でさえぎられ、白鳥の島は、二度ばかり、うしろの方に見えましたが、じきもうずうっと遠く小さく、絵のようになってしまい、またすすきがざわざわ鳴って、とうとうすっかり見えなくなってしまいました。ジョバンニのうしろには、いつから乗っていたのか、せいの高い、黒いかつぎをしたカトリック風の尼さんが、まん円な緑の瞳を、じっとまっすぐに落して、まだ何かことばか声かが、そっちから伝わって来るのを、虔んで聞いているというように見えました。旅人たちはしずかに席に戻り、二人も胸いっぱいのかなしみに似た新らしい気持ちを、何気なくちがった語で、そっと談し合ったのです。 「もうじき白鳥の停車場だねえ。」 「ああ、十一時かっきりには着くんだよ。」  早くも、シグナルの緑の燈と、ぼんやり白い柱とが、ちらっと窓のそとを過ぎ、それから硫黄のほのおのようなくらいぼんやりした転てつ機の前のあかりが窓の下を通り、汽車はだんだんゆるやかになって、間もなくプラットホームの一列の電燈が、うつくしく規則正しくあらわれ、それがだんだん大きくなってひろがって、二人は丁度白鳥停車場の、大きな時計の前に来てとまりました。  さわやかな秋の時計の盤面には、青く灼かれたはがねの二本の針が、くっきり十一時を指しました。みんなは、一ぺんに下りて、車室の中はがらんとなってしまいました。 〔二十分停車〕と時計の下に書いてありました。 「ぼくたちも降りて見ようか。」ジョバンニが云いました。 「降りよう。」  二人は一度にはねあがってドアを飛び出して改札口へかけて行きました。ところが改札口には、明るい紫がかった電燈が、一つ点いているばかり、誰も居ませんでした。そこら中を見ても、駅長や赤帽らしい人の、影もなかったのです。  二人は、停車場の前の、水晶細工のように見える銀杏の木に囲まれた、小さな広場に出ました。そこから幅の広いみちが、まっすぐに銀河の青光の中へ通っていました。  さきに降りた人たちは、もうどこへ行ったか一人も見えませんでした。二人がその白い道を、肩をならべて行きますと、二人の影は、ちょうど四方に窓のある室の中の、二本の柱の影のように、また二つの車輪の輻のように幾本も幾本も四方へ出るのでした。そして間もなく、あの汽車から見えたきれいな河原に来ました。  カムパネルラは、そのきれいな砂を一つまみ、掌にひろげ、指できしきしさせながら、夢のように云っているのでした。 「この砂はみんな水晶だ。中で小さな火が燃えている。」 「そうだ。」どこでぼくは、そんなこと習ったろうと思いながら、ジョバンニもぼんやり答えていました。  河原の礫は、みんなすきとおって、たしかに水晶や黄玉や、またくしゃくしゃの皺曲をあらわしたのや、また稜から霧のような青白い光を出す鋼玉やらでした。ジョバンニは、走ってその渚に行って、水に手をひたしました。けれどもあやしいその銀河の水は、水素よりももっとすきとおっていたのです。それでもたしかに流れていたことは、二人の手首の、水にひたったとこが、少し水銀いろに浮いたように見え、その手首にぶっつかってできた波は、うつくしい燐光をあげて、ちらちらと燃えるように見えたのでもわかりました。  川上の方を見ると、すすきのいっぱいに生えている崖の下に、白い岩が、まるで運動場のように平らに川に沿って出ているのでした。そこに小さな五六人の人かげが、何か掘り出すか埋めるかしているらしく、立ったり屈んだり、時々なにかの道具が、ピカッと光ったりしました。 「行ってみよう。」二人は、まるで一度に叫んで、そっちの方へ走りました。その白い岩になった処の入口に、 〔プリオシン海岸〕という、瀬戸物のつるつるした標札が立って、向うの渚には、ところどころ、細い鉄の欄干も植えられ、木製のきれいなベンチも置いてありました。 「おや、変なものがあるよ。」カムパネルラが、不思議そうに立ちどまって、岩から黒い細長いさきの尖ったくるみの実のようなものをひろいました。 「くるみの実だよ。そら、沢山ある。流れて来たんじゃない。岩の中に入ってるんだ。」 「大きいね、このくるみ、倍あるね。こいつはすこしもいたんでない。」 「早くあすこへ行って見よう。きっと何か掘ってるから。」  二人は、ぎざぎざの黒いくるみの実を持ちながら、またさっきの方へ近よって行きました。左手の渚には、波がやさしい稲妻のように燃えて寄せ、右手の崖には、いちめん銀や貝殻でこさえたようなすすきの穂がゆれたのです。  だんだん近付いて見ると、一人のせいの高い、ひどい近眼鏡をかけ、長靴をはいた学者らしい人が、手帳に何かせわしそうに書きつけながら、鶴嘴をふりあげたり、スコープをつかったりしている、三人の助手らしい人たちに夢中でいろいろ指図をしていました。 「そこのその突起を壊さないように。スコープを使いたまえ、スコープを。おっと、も少し遠くから掘って。いけない、いけない。なぜそんな乱暴をするんだ。」  見ると、その白い柔らかな岩の中から、大きな大きな青じろい獣の骨が、横に倒れて潰れたという風になって、半分以上掘り出されていました。そして気をつけて見ると、そこらには、蹄の二つある足跡のついた岩が、四角に十ばかり、きれいに切り取られて番号がつけられてありました。 「君たちは参観かね。」その大学士らしい人が、眼鏡をきらっとさせて、こっちを見て話しかけました。 「くるみが沢山あったろう。それはまあ、ざっと百二十万年ぐらい前のくるみだよ。ごく新らしい方さ。ここは百二十万年前、第三紀のあとのころは海岸でね、この下からは貝がらも出る。いま川の流れているとこに、そっくり塩水が寄せたり引いたりもしていたのだ。このけものかね、これはボスといってね、おいおい、そこつるはしはよしたまえ。ていねいに鑿でやってくれたまえ。ボスといってね、いまの牛の先祖で、昔はたくさん居たさ。」 「標本にするんですか。」 「いや、証明するに要るんだ。ぼくらからみると、ここは厚い立派な地層で、百二十万年ぐらい前にできたという証拠もいろいろあがるけれども、ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層に見えるかどうか、あるいは風か水やがらんとした空かに見えやしないかということなのだ。わかったかい。けれども、おいおい。そこもスコープではいけない。そのすぐ下に肋骨が埋もれてる筈じゃないか。」大学士はあわてて走って行きました。 「もう時間だよ。行こう。」カムパネルラが地図と腕時計とをくらべながら云いました。 「ああ、ではわたくしどもは失礼いたします。」ジョバンニは、ていねいに大学士におじぎしました。 「そうですか。いや、さよなら。」大学士は、また忙がしそうに、あちこち歩きまわって監督をはじめました。二人は、その白い岩の上を、一生けん命汽車におくれないように走りました。そしてほんとうに、風のように走れたのです。息も切れず膝もあつくなりませんでした。  こんなにしてかけるなら、もう世界中だってかけれると、ジョバンニは思いました。  そして二人は、前のあの河原を通り、改札口の電燈がだんだん大きくなって、間もなく二人は、もとの車室の席に座って、いま行って来た方を、窓から見ていました。 八、鳥を捕る人 「ここへかけてもようございますか。」  がさがさした、けれども親切そうな、大人の声が、二人のうしろで聞えました。  それは、茶いろの少しぼろぼろの外套を着て、白い巾でつつんだ荷物を、二つに分けて肩に掛けた、赤髯のせなかのかがんだ人でした。 「ええ、いいんです。」ジョバンニは、少し肩をすぼめて挨拶しました。その人は、ひげの中でかすかに微笑いながら荷物をゆっくり網棚にのせました。ジョバンニは、なにか大へんさびしいようなかなしいような気がして、だまって正面の時計を見ていましたら、ずうっと前の方で、硝子の笛のようなものが鳴りました。汽車はもう、しずかにうごいていたのです。カムパネルラは、車室の天井を、あちこち見ていました。その一つのあかりに黒い甲虫がとまってその影が大きく天井にうつっていたのです。赤ひげの人は、なにかなつかしそうにわらいながら、ジョバンニやカムパネルラのようすを見ていました。汽車はもうだんだん早くなって、すすきと川と、かわるがわる窓の外から光りました。  赤ひげの人が、少しおずおずしながら、二人に訊きました。 「あなた方は、どちらへいらっしゃるんですか。」 「どこまでも行くんです。」ジョバンニは、少しきまり悪そうに答えました。 「それはいいね。この汽車は、じっさい、どこまででも行きますぜ。」 「あなたはどこへ行くんです。」カムパネルラが、いきなり、喧嘩のようにたずねましたので、ジョバンニは、思わずわらいました。すると、向うの席に居た、尖った帽子をかぶり、大きな鍵を腰に下げた人も、ちらっとこっちを見てわらいましたので、カムパネルラも、つい顔を赤くして笑いだしてしまいました。ところがその人は別に怒ったでもなく、頬をぴくぴくしながら返事しました。 「わっしはすぐそこで降ります。わっしは、鳥をつかまえる商売でね。」 「何鳥ですか。」 「鶴や雁です。さぎも白鳥もです。」 「鶴はたくさんいますか。」 「居ますとも、さっきから鳴いてまさあ。聞かなかったのですか。」 「いいえ。」 「いまでも聞えるじゃありませんか。そら、耳をすまして聴いてごらんなさい。」  二人は眼を挙げ、耳をすましました。ごとごと鳴る汽車のひびきと、すすきの風との間から、ころんころんと水の湧くような音が聞えて来るのでした。 「鶴、どうしてとるんですか。」 「鶴ですか、それとも鷺ですか。」 「鷺です。」ジョバンニは、どっちでもいいと思いながら答えました。 「そいつはな、雑作ない。さぎというものは、みんな天の川の砂が凝って、ぼおっとできるもんですからね、そして始終川へ帰りますからね、川原で待っていて、鷺がみんな、脚をこういう風にして下りてくるとこを、そいつが地べたへつくかつかないうちに、ぴたっと押えちまうんです。するともう鷺は、かたまって安心して死んじまいます。あとはもう、わかり切ってまさあ。押し葉にするだけです。」 「鷺を押し葉にするんですか。標本ですか。」 「標本じゃありません。みんなたべるじゃありませんか。」 「おかしいねえ。」カムパネルラが首をかしげました。 「おかしいも不審もありませんや。そら。」その男は立って、網棚から包みをおろして、手ばやくくるくると解きました。 「さあ、ごらんなさい。いまとって来たばかりです。」 「ほんとうに鷺だねえ。」二人は思わず叫びました。まっ白な、あのさっきの北の十字架のように光る鷺のからだが、十ばかり、少しひらべったくなって、黒い脚をちぢめて、浮彫のようにならんでいたのです。 「眼をつぶってるね。」カムパネルラは、指でそっと、鷺の三日月がたの白い瞑った眼にさわりました。頭の上の槍のような白い毛もちゃんとついていました。 「ね、そうでしょう。」鳥捕りは風呂敷を重ねて、またくるくると包んで紐でくくりました。誰がいったいここらで鷺なんぞ喰べるだろうとジョバンニは思いながら訊きました。 「鷺はおいしいんですか。」 「ええ、毎日注文があります。しかし雁の方が、もっと売れます。雁の方がずっと柄がいいし、第一手数がありませんからな。そら。」鳥捕りは、また別の方の包みを解きました。すると黄と青じろとまだらになって、なにかのあかりのようにひかる雁が、ちょうどさっきの鷺のように、くちばしを揃えて、少し扁べったくなって、ならんでいました。 「こっちはすぐ喰べられます。どうです、少しおあがりなさい。」鳥捕りは、黄いろな雁の足を、軽くひっぱりました。するとそれは、チョコレートででもできているように、すっときれいにはなれました。 「どうです。すこしたべてごらんなさい。」鳥捕りは、それを二つにちぎってわたしました。ジョバンニは、ちょっと喰べてみて、とおもいながら、やっぱりぽくぽくそれをたべていました。 「も少しおあがりなさい。」鳥捕りがまた包みを出しました。ジョバンニは、もっとたべたかったのですけれども、 「ええ、ありがとう。」と云って遠慮しましたら、鳥捕りは、こんどは向うの席の、鍵をもった人に出しました。 「いや、商売ものを貰っちゃすみませんな。」その人は、帽子をとりました。 「いいえ、どういたしまして。どうです、今年の渡り鳥の景気は。」 「いや、すてきなもんですよ。一昨日の第二限ころなんか、なぜ燈台の灯を、規則以外に間〔一字分空白〕させるかって、あっちからもこっちからも、電話で故障が来ましたが、なあに、こっちがやるんじゃなくて、渡り鳥どもが、まっ黒にかたまって、あかしの前を通るのですから仕方ありませんや。わたしぁ、べらぼうめ、そんな苦情は、おれのとこへ持って来たって仕方がねえや、ばさばさのマントを着て脚と口との途方もなく細い大将へやれって、斯う云ってやりましたがね、はっは。」  すすきがなくなったために、向うの野原から、ぱっとあかりが射して来ました。 「鷺の方はなぜ手数なんですか。」カムパネルラは、さっきから、訊こうと思っていたのです。 「それはね、鷺を喰べるには、」鳥捕りは、こっちに向き直りました。 「天の川の水あかりに、十日もつるして置くかね、そうでなけぁ、砂に三四日うずめなけぁいけないんだ。そうすると、水銀がみんな蒸発して、喰べられるようになるよ。」 「こいつは鳥じゃない。ただのお菓子でしょう。」やっぱりおなじことを考えていたとみえて、カムパネルラが、思い切ったというように、尋ねました。鳥捕りは、何か大へんあわてた風で、 「そうそう、ここで降りなけぁ。」と云いながら、立って荷物をとったと思うと、もう見えなくなっていました。 「どこへ行ったんだろう。」  二人は顔を見合せましたら、燈台守は、にやにや笑って、少し伸びあがるようにしながら、二人の横の窓の外をのぞきました。二人もそっちを見ましたら、たったいまの鳥捕りが、黄いろと青じろの、うつくしい燐光を出す、いちめんのかわらははこぐさの上に立って、まじめな顔をして両手をひろげて、じっとそらを見ていたのです。 「あすこへ行ってる。ずいぶん奇体だねえ。きっとまた鳥をつかまえるとこだねえ。汽車が走って行かないうちに、早く鳥がおりるといいな。」と云った途端、がらんとした桔梗いろの空から、さっき見たような鷺が、まるで雪の降るように、ぎゃあぎゃあ叫びながら、いっぱいに舞いおりて来ました。するとあの鳥捕りは、すっかり注文通りだというようにほくほくして、両足をかっきり六十度に開いて立って、鷺のちぢめて降りて来る黒い脚を両手で片っ端から押えて、布の袋の中に入れるのでした。すると鷺は、蛍のように、袋の中でしばらく、青くぺかぺか光ったり消えたりしていましたが、おしまいとうとう、みんなぼんやり白くなって、眼をつぶるのでした。ところが、つかまえられる鳥よりは、つかまえられないで無事に天の川の砂の上に降りるものの方が多かったのです。それは見ていると、足が砂へつくや否や、まるで雪の融けるように、縮まって扁べったくなって、間もなく熔鉱炉から出た銅の汁のように、砂や砂利の上にひろがり、しばらくは鳥の形が、砂についているのでしたが、それも二三度明るくなったり暗くなったりしているうちに、もうすっかりまわりと同じいろになってしまうのでした。  鳥捕りは二十|疋ばかり、袋に入れてしまうと、急に両手をあげて、兵隊が鉄砲弾にあたって、死ぬときのような形をしました。と思ったら、もうそこに鳥捕りの形はなくなって、却って、 「ああせいせいした。どうもからだに恰度合うほど稼いでいるくらい、いいことはありませんな。」というききおぼえのある声が、ジョバンニの隣りにしました。見ると鳥捕りは、もうそこでとって来た鷺を、きちんとそろえて、一つずつ重ね直しているのでした。 「どうしてあすこから、いっぺんにここへ来たんですか。」ジョバンニが、なんだかあたりまえのような、あたりまえでないような、おかしな気がして問いました。 「どうしてって、来ようとしたから来たんです。ぜんたいあなた方は、どちらからおいでですか。」  ジョバンニは、すぐ返事しようと思いましたけれども、さあ、ぜんたいどこから来たのか、もうどうしても考えつきませんでした。カムパネルラも、顔をまっ赤にして何か思い出そうとしているのでした。 「ああ、遠くからですね。」鳥捕りは、わかったというように雑作なくうなずきました。 九、ジョバンニの切符 「もうここらは白鳥区のおしまいです。ごらんなさい。あれが名高いアルビレオの観測所です。」  窓の外の、まるで花火でいっぱいのような、あまの川のまん中に、黒い大きな建物が四|棟ばかり立って、その一つの平屋根の上に、眼もさめるような、青宝玉と黄玉の大きな二つのすきとおった球が、輪になってしずかにくるくるとまわっていました。黄いろのがだんだん向うへまわって行って、青い小さいのがこっちへ進んで来、間もなく二つのはじは、重なり合って、きれいな緑いろの両面|凸レンズのかたちをつくり、それもだんだん、まん中がふくらみ出して、とうとう青いのは、すっかりトパースの正面に来ましたので、緑の中心と黄いろな明るい環とができました。それがまただんだん横へ外れて、前のレンズの形を逆に繰り返し、とうとうすっとはなれて、サファイアは向うへめぐり、黄いろのはこっちへ進み、また丁度さっきのような風になりました。銀河の、かたちもなく音もない水にかこまれて、ほんとうにその黒い測候所が、睡っているように、しずかによこたわったのです。 「あれは、水の速さをはかる器械です。水も……。」鳥捕りが云いかけたとき、 「切符を拝見いたします。」三人の席の横に、赤い帽子をかぶったせいの高い車掌が、いつかまっすぐに立っていて云いました。鳥捕りは、だまってかくしから、小さな紙きれを出しました。車掌はちょっと見て、すぐ眼をそらして、というように、指をうごかしながら、手をジョバンニたちの方へ出しました。 「さあ、」ジョバンニは困って、もじもじしていましたら、カムパネルラは、わけもないという風で、小さな鼠いろの切符を出しました。ジョバンニは、すっかりあわててしまって、もしか上着のポケットにでも、入っていたかとおもいながら、手を入れて見ましたら、何か大きな畳んだ紙きれにあたりました。こんなもの入っていたろうかと思って、急いで出してみましたら、それは四つに折ったはがきぐらいの大きさの緑いろの紙でした。車掌が手を出しているもんですから何でも構わない、やっちまえと思って渡しましたら、車掌はまっすぐに立ち直って叮寧にそれを開いて見ていました。そして読みながら上着のぼたんやなんかしきりに直したりしていましたし燈台看守も下からそれを熱心にのぞいていましたから、ジョバンニはたしかにあれは証明書か何かだったと考えて少し胸が熱くなるような気がしました。 「これは三次空間の方からお持ちになったのですか。」車掌がたずねました。 「何だかわかりません。」もう大丈夫だと安心しながらジョバンニはそっちを見あげてくつくつ笑いました。 「よろしゅうございます。南十字へ着きますのは、次の第三時ころになります。」車掌は紙をジョバンニに渡して向うへ行きました。  カムパネルラは、その紙切れが何だったか待ち兼ねたというように急いでのぞきこみました。ジョバンニも全く早く見たかったのです。ところがそれはいちめん黒い唐草のような模様の中に、おかしな十ばかりの字を印刷したものでだまって見ていると何だかその中へ吸い込まれてしまうような気がするのでした。すると鳥捕りが横からちらっとそれを見てあわてたように云いました。 「おや、こいつは大したもんですぜ。こいつはもう、ほんとうの天上へさえ行ける切符だ。天上どこじゃない、どこでも勝手にあるける通行券です。こいつをお持ちになれぁ、なるほど、こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか、どこまででも行ける筈でさあ、あなた方大したもんですね。」 「何だかわかりません。」ジョバンニが赤くなって答えながらそれを又畳んでかくしに入れました。そしてきまりが悪いのでカムパネルラと二人、また窓の外をながめていましたが、その鳥捕りの時々大したもんだというようにちらちらこっちを見ているのがぼんやりわかりました。 「もうじき鷲の停車場だよ。」カムパネルラが向う岸の、三つならんだ小さな青じろい三角標と地図とを見較べて云いました。  ジョバンニはなんだかわけもわからずににわかにとなりの鳥捕りが気の毒でたまらなくなりました。鷺をつかまえてせいせいしたとよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切符をびっくりしたように横目で見てあわててほめだしたり、そんなことを一一考えていると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持っているものでも食べるものでもなんでもやってしまいたい、もうこの人のほんとうの幸になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つづけて立って鳥をとってやってもいいというような気がして、どうしてももう黙っていられなくなりました。ほんとうにあなたのほしいものは一体何ですか、と訊こうとして、それではあんまり出し抜けだから、どうしようかと考えて振り返って見ましたら、そこにはもうあの鳥捕りが居ませんでした。網棚の上には白い荷物も見えなかったのです。また窓の外で足をふんばってそらを見上げて鷺を捕る支度をしているのかと思って、急いでそっちを見ましたが、外はいちめんのうつくしい砂子と白いすすきの波ばかり、あの鳥捕りの広いせなかも尖った帽子も見えませんでした。 「あの人どこへ行ったろう。」カムパネルラもぼんやりそう云っていました。 「どこへ行ったろう。一体どこでまたあうのだろう。僕はどうしても少しあの人に物を言わなかったろう。」 「ああ、僕もそう思っているよ。」 「僕はあの人が邪魔なような気がしたんだ。だから僕は大へんつらい。」ジョバンニはこんな変てこな気もちは、ほんとうにはじめてだし、こんなこと今まで云ったこともないと思いました。 「何だか苹果の匂がする。僕いま苹果のこと考えたためだろうか。」カムパネルラが不思議そうにあたりを見まわしました。 「ほんとうに苹果の匂だよ。それから野茨の匂もする。」ジョバンニもそこらを見ましたがやっぱりそれは窓からでも入って来るらしいのでした。いま秋だから野茨の花の匂のする筈はないとジョバンニは思いました。  そしたら俄かにそこに、つやつやした黒い髪の六つばかりの男の子が赤いジャケツのぼたんもかけずひどくびっくりしたような顔をしてがたがたふるえてはだしで立っていました。隣りには黒い洋服をきちんと着たせいの高い青年が一ぱいに風に吹かれているけやきの木のような姿勢で、男の子の手をしっかりひいて立っていました。 「あら、ここどこでしょう。まあ、きれいだわ。」青年のうしろにもひとり十二ばかりの眼の茶いろな可愛らしい女の子が黒い外套を着て青年の腕にすがって不思議そうに窓の外を見ているのでした。 「ああ、ここはランカシャイヤだ。いや、コンネクテカット州だ。いや、ああ、ぼくたちはそらへ来たのだ。わたしたちは天へ行くのです。ごらんなさい。あのしるしは天上のしるしです。もうなんにもこわいことありません。わたくしたちは神さまに召されているのです。」黒服の青年はよろこびにかがやいてその女の子に云いました。けれどもなぜかまた額に深く皺を刻んで、それに大へんつかれているらしく、無理に笑いながら男の子をジョバンニのとなりに座らせました。  それから女の子にやさしくカムパネルラのとなりの席を指さしました。女の子はすなおにそこへ座って、きちんと両手を組み合せました。 「ぼくおおねえさんのとこへ行くんだよう。」腰掛けたばかりの男の子は顔を変にして燈台看守の向うの席に座ったばかりの青年に云いました。青年は何とも云えず悲しそうな顔をして、じっとその子の、ちぢれてぬれた頭を見ました。女の子は、いきなり両手を顔にあててしくしく泣いてしまいました。 「お父さんやきくよねえさんはまだいろいろお仕事があるのです。けれどももうすぐあとからいらっしゃいます。それよりも、おっかさんはどんなに永く待っていらっしゃったでしょう。わたしの大事なタダシはいまどんな歌をうたっているだろう、雪の降る朝にみんなと手をつないでぐるぐるにわとこのやぶをまわってあそんでいるだろうかと考えたりほんとうに待って心配していらっしゃるんですから、早く行っておっかさんにお目にかかりましょうね。」 「うん、だけど僕、船に乗らなけぁよかったなあ。」 「ええ、けれど、ごらんなさい、そら、どうです、あの立派な川、ね、あすこはあの夏中、ツインクル、ツインクル、リトル、スター をうたってやすむとき、いつも窓からぼんやり白く見えていたでしょう。あすこですよ。ね、きれいでしょう、あんなに光っています。」  泣いていた姉もハンケチで眼をふいて外を見ました。青年は教えるようにそっと姉弟にまた云いました。 「わたしたちはもうなんにもかなしいことないのです。わたしたちはこんないいとこを旅して、じき神さまのとこへ行きます。そこならもうほんとうに明るくて匂がよくて立派な人たちでいっぱいです。そしてわたしたちの代りにボートへ乗れた人たちは、きっとみんな助けられて、心配して待っているめいめいのお父さんやお母さんや自分のお家へやら行くのです。さあ、もうじきですから元気を出しておもしろくうたって行きましょう。」青年は男の子のぬれたような黒い髪をなで、みんなを慰めながら、自分もだんだん顔いろがかがやいて来ました。 「あなた方はどちらからいらっしゃったのですか。どうなすったのですか。」さっきの燈台看守がやっと少しわかったように青年にたずねました。青年はかすかにわらいました。 「いえ、氷山にぶっつかって船が沈みましてね、わたしたちはこちらのお父さんが急な用で二ヶ月前一足さきに本国へお帰りになったのであとから発ったのです。私は大学へはいっていて、家庭教師にやとわれていたのです。ところがちょうど十二日目、今日か昨日のあたりです、船が氷山にぶっつかって一ぺんに傾きもう沈みかけました。月のあかりはどこかぼんやりありましたが、霧が非常に深かったのです。ところがボートは左舷の方半分はもうだめになっていましたから、とてもみんなは乗り切らないのです。もうそのうちにも船は沈みますし、私は必死となって、どうか小さな人たちを乗せて下さいと叫びました。近くの人たちはすぐみちを開いてそして子供たちのために祈って呉れました。けれどもそこからボートまでのところにはまだまだ小さな子どもたちや親たちやなんか居て、とても押しのける勇気がなかったのです。それでもわたくしはどうしてもこの方たちをお助けするのが私の義務だと思いましたから前にいる子供らを押しのけようとしました。けれどもまたそんなにして助けてあげるよりはこのまま神のお前にみんなで行く方がほんとうにこの方たちの幸福だとも思いました。それからまたその神にそむく罪はわたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげようと思いました。けれどもどうして見ているとそれができないのでした。子どもらばかりボートの中へはなしてやってお母さんが狂気のようにキスを送りお父さんがかなしいのをじっとこらえてまっすぐに立っているなどとてももう腸もちぎれるようでした。そのうち船はもうずんずん沈みますから、私はもうすっかり覚悟してこの人たち二人を抱いて、浮べるだけは浮ぼうとかたまって船の沈むのを待っていました。誰が投げたかライフブイが一つ飛んで来ましたけれども滑ってずうっと向うへ行ってしまいました。私は一生けん命で甲板の格子になったとこをはなして、三人それにしっかりとりつきました。どこからともなく〔約二字分空白〕番の声があがりました。たちまちみんなはいろいろな国語で一ぺんにそれをうたいました。そのとき俄かに大きな音がして私たちは水に落ちもう渦に入ったと思いながらしっかりこの人たちをだいてそれからぼうっとしたと思ったらもうここへ来ていたのです。この方たちのお母さんは一昨年|没くなられました。ええボートはきっと助かったにちがいありません、何せよほど熟練な水夫たちが漕いですばやく船からはなれていましたから。」  そこらから小さないのりの声が聞えジョバンニもカムパネルラもいままで忘れていたいろいろのことをぼんやり思い出して眼が熱くなりました。 ジョバンニは首を垂れて、すっかりふさぎ込んでしまいました。 「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから。」  燈台守がなぐさめていました。 「ああそうです。ただいちばんのさいわいに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです。」  青年が祈るようにそう答えました。  そしてあの姉弟はもうつかれてめいめいぐったり席によりかかって睡っていました。さっきのあのはだしだった足にはいつか白い柔らかな靴をはいていたのです。  ごとごとごとごと汽車はきらびやかな燐光の川の岸を進みました。向うの方の窓を見ると、野原はまるで幻燈のようでした。百も千もの大小さまざまの三角標、その大きなものの上には赤い点点をうった測量旗も見え、野原のはてはそれらがいちめん、たくさんたくさん集ってぼおっと青白い霧のよう、そこからかまたはもっと向うからかときどきさまざまの形のぼんやりした狼煙のようなものが、かわるがわるきれいな桔梗いろのそらにうちあげられるのでした。じつにそのすきとおった奇麗な風は、ばらの匂でいっぱいでした。 「いかがですか。こういう苹果はおはじめてでしょう。」向うの席の燈台看守がいつか黄金と紅でうつくしくいろどられた大きな苹果を落さないように両手で膝の上にかかえていました。 「おや、どっから来たのですか。立派ですねえ。ここらではこんな苹果ができるのですか。」青年はほんとうにびっくりしたらしく燈台看守の両手にかかえられた一もりの苹果を眼を細くしたり首をまげたりしながらわれを忘れてながめていました。 「いや、まあおとり下さい。どうか、まあおとり下さい。」  青年は一つとってジョバンニたちの方をちょっと見ました。 「さあ、向うの坊ちゃんがた。いかがですか。おとり下さい。」  ジョバンニは坊ちゃんといわれたのですこししゃくにさわってだまっていましたがカムパネルラは 「ありがとう、」と云いました。すると青年は自分でとって一つずつ二人に送ってよこしましたのでジョバンニも立ってありがとうと云いました。  燈台看守はやっと両腕があいたのでこんどは自分で一つずつ睡っている姉弟の膝にそっと置きました。 「どうもありがとう。どこでできるのですか。こんな立派な苹果は。」  青年はつくづく見ながら云いました。 「この辺ではもちろん農業はいたしますけれども大ていひとりでにいいものができるような約束になって居ります。農業だってそんなに骨は折れはしません。たいてい自分の望む種子さえ播けばひとりでにどんどんできます。米だってパシフィック辺のように殻もないし十倍も大きくて匂もいいのです。けれどもあなたがたのいらっしゃる方なら農業はもうありません。苹果だってお菓子だってかすが少しもありませんからみんなそのひとそのひとによってちがったわずかのいいかおりになって毛あなからちらけてしまうのです。」  にわかに男の子がぱっちり眼をあいて云いました。 「ああぼくいまお母さんの夢をみていたよ。お母さんがね立派な戸棚や本のあるとこに居てね、ぼくの方を見て手をだしてにこにこにこにこわらったよ。ぼくおっかさん。りんごをひろってきてあげましょうか云ったら眼がさめちゃった。ああここさっきの汽車のなかだねえ。」 「その苹果がそこにあります。このおじさんにいただいたのですよ。」青年が云いました。 「ありがとうおじさん。おや、かおるねえさんまだねてるねえ、ぼくおこしてやろう。ねえさん。ごらん、りんごをもらったよ。おきてごらん。」  姉はわらって眼をさましまぶしそうに両手を眼にあててそれから苹果を見ました。男の子はまるでパイを喰べるようにもうそれを喰べていました、また折角剥いたそのきれいな皮も、くるくるコルク抜きのような形になって床へ落ちるまでの間にはすうっと、灰いろに光って蒸発してしまうのでした。  二人はりんごを大切にポケットにしまいました。  川下の向う岸に青く茂った大きな林が見え、その枝には熟してまっ赤に光る円い実がいっぱい、その林のまん中に高い高い三角標が立って、森の中からはオーケストラベルやジロフォンにまじって何とも云えずきれいな音いろが、とけるように浸みるように風につれて流れて来るのでした。  青年はぞくっとしてからだをふるうようにしました。  だまってその譜を聞いていると、そこらにいちめん黄いろやうすい緑の明るい野原か敷物かがひろがり、またまっ白な蝋のような露が太陽の面を擦めて行くように思われました。 「まあ、あの烏。」カムパネルラのとなりのかおると呼ばれた女の子が叫びました。 「からすでない。みんなかささぎだ。」カムパネルラがまた何気なく叱るように叫びましたので、ジョバンニはまた思わず笑い、女の子はきまり悪そうにしました。まったく河原の青じろいあかりの上に、黒い鳥がたくさんたくさんいっぱいに列になってとまってじっと川の微光を受けているのでした。 「かささぎですねえ、頭のうしろのとこに毛がぴんと延びてますから。」青年はとりなすように云いました。  向うの青い森の中の三角標はすっかり汽車の正面に来ました。そのとき汽車のずうっとうしろの方からあの聞きなれた〔約二字分空白〕番の讃美歌のふしが聞えてきました。よほどの人数で合唱しているらしいのでした。青年はさっと顔いろが青ざめ、たって一ぺんそっちへ行きそうにしましたが思いかえしてまた座りました。かおる子はハンケチを顔にあててしまいました。ジョバンニまで何だか鼻が変になりました。けれどもいつともなく誰ともなくその歌は歌い出されだんだんはっきり強くなりました。思わずジョバンニもカムパネルラも一緒にうたい出したのです。  そして青い橄欖の森が見えない天の川の向うにさめざめと光りながらだんだんうしろの方へ行ってしまいそこから流れて来るあやしい楽器の音ももう汽車のひびきや風の音にすり耗らされてずうっとかすかになりました。 「あ孔雀が居るよ。」 「ええたくさん居たわ。」女の子がこたえました。  ジョバンニはその小さく小さくなっていまはもう一つの緑いろの貝ぼたんのように見える森の上にさっさっと青じろく時々光ってその孔雀がはねをひろげたりとじたりする光の反射を見ました。 「そうだ、孔雀の声だってさっき聞えた。」カムパネルラがかおる子に云いました。 「ええ、三十|疋ぐらいはたしかに居たわ。ハープのように聞えたのはみんな孔雀よ。」女の子が答えました。ジョバンニは俄かに何とも云えずかなしい気がして思わず 「カムパネルラ、ここからはねおりて遊んで行こうよ。」とこわい顔をして云おうとしたくらいでした。  川は二つにわかれました。そのまっくらな島のまん中に高い高いやぐらが一つ組まれてその上に一人の寛い服を着て赤い帽子をかぶった男が立っていました。そして両手に赤と青の旗をもってそらを見上げて信号しているのでした。ジョバンニが見ている間その人はしきりに赤い旗をふっていましたが俄かに赤旗をおろしてうしろにかくすようにし青い旗を高く高くあげてまるでオーケストラの指揮者のように烈しく振りました。すると空中にざあっと雨のような音がして何かまっくらなものがいくかたまりもいくかたまりも鉄砲丸のように川の向うの方へ飛んで行くのでした。ジョバンニは思わず窓からからだを半分出してそっちを見あげました。美しい美しい桔梗いろのがらんとした空の下を実に何万という小さな鳥どもが幾組も幾組もめいめいせわしくせわしく鳴いて通って行くのでした。 「鳥が飛んで行くな。」ジョバンニが窓の外で云いました。 「どら、」カムパネルラもそらを見ました。そのときあのやぐらの上のゆるい服の男は俄かに赤い旗をあげて狂気のようにふりうごかしました。するとぴたっと鳥の群は通らなくなりそれと同時にぴしゃぁんという潰れたような音が川下の方で起ってそれからしばらくしいんとしました。と思ったらあの赤帽の信号手がまた青い旗をふって叫んでいたのです。 「いまこそわたれわたり鳥、いまこそわたれわたり鳥。」その声もはっきり聞えました。それといっしょにまた幾万という鳥の群がそらをまっすぐにかけたのです。二人の顔を出しているまん中の窓からあの女の子が顔を出して美しい頬をかがやかせながらそらを仰ぎました。 「まあ、この鳥、たくさんですわねえ、あらまあそらのきれいなこと。」女の子はジョバンニにはなしかけましたけれどもジョバンニは生意気ないやだいと思いながらだまって口をむすんでそらを見あげていました。女の子は小さくほっと息をしてだまって席へ戻りました。カムパネルラが気の毒そうに窓から顔を引っ込めて地図を見ていました。 「あの人鳥へ教えてるんでしょうか。」女の子がそっとカムパネルラにたずねました。 「わたり鳥へ信号してるんです。きっとどこからかのろしがあがるためでしょう。」カムパネルラが少しおぼつかなそうに答えました。そして車の中はしぃんとなりました。ジョバンニはもう頭を引っ込めたかったのですけれども明るいとこへ顔を出すのがつらかったのでだまってこらえてそのまま立って口笛を吹いていました。 ジョバンニは熱って痛いあたまを両手で押えるようにしてそっちの方を見ました。ジョバンニの眼はまた泪でいっぱいになり天の川もまるで遠くへ行ったようにぼんやり白く見えるだけでした。  そのとき汽車はだんだん川からはなれて崖の上を通るようになりました。向う岸もまた黒いいろの崖が川の岸を下流に下るにしたがってだんだん高くなって行くのでした。そしてちらっと大きなとうもろこしの木を見ました。その葉はぐるぐるに縮れ葉の下にはもう美しい緑いろの大きな苞が赤い毛を吐いて真珠のような実もちらっと見えたのでした。それはだんだん数を増して来てもういまは列のように崖と線路との間にならび思わずジョバンニが窓から顔を引っ込めて向う側の窓を見ましたときは美しいそらの野原の地平線のはてまでその大きなとうもろこしの木がほとんどいちめんに植えられてさやさや風にゆらぎその立派なちぢれた葉のさきからはまるでひるの間にいっぱい日光を吸った金剛石のように露がいっぱいについて赤や緑やきらきら燃えて光っているのでした。カムパネルラが「あれとうもろこしだねえ」とジョバンニに云いましたけれどもジョバンニはどうしても気持がなおりませんでしたからただぶっきり棒に野原を見たまま「そうだろう。」と答えました。そのとき汽車はだんだんしずかになっていくつかのシグナルとてんてつ器の灯を過ぎ小さな停車場にとまりました。  その正面の青じろい時計はかっきり第二時を示しその振子は風もなくなり汽車もうごかずしずかなしずかな野原のなかにカチッカチッと正しく時を刻んで行くのでした。  そしてまったくその振子の音のたえまを遠くの遠くの野原のはてから、かすかなかすかな旋律が糸のように流れて来るのでした。「新世界|交響楽だわ。」姉がひとりごとのようにこっちを見ながらそっと云いました。全くもう車の中ではあの黒服の丈高い青年も誰もみんなやさしい夢を見ているのでした。 ジョバンニはまた両手で顔を半分かくすようにして向うの窓のそとを見つめていました。すきとおった硝子のような笛が鳴って汽車はしずかに動き出し、カムパネルラもさびしそうに星めぐりの口笛を吹きました。 「ええ、ええ、もうこの辺はひどい高原ですから。」うしろの方で誰かとしよりらしい人のいま眼がさめたという風ではきはき談している声がしました。 「とうもろこしだって棒で二尺も孔をあけておいてそこへ播かないと生えないんです。」 「そうですか。川まではよほどありましょうかねえ、」 「ええええ河までは二千尺から六千尺あります。もうまるでひどい峡谷になっているんです。」  そうそうここはコロラドの高原じゃなかったろうか、ジョバンニは思わずそう思いました。カムパネルラはまださびしそうにひとり口笛を吹き、女の子はまるで絹で包んだ苹果のような顔いろをしてジョバンニの見る方を見ているのでした。突然とうもろこしがなくなって巨きな黒い野原がいっぱいにひらけました。新世界交響楽はいよいよはっきり地平線のはてから湧きそのまっ黒な野原のなかを一人のインデアンが白い鳥の羽根を頭につけたくさんの石を腕と胸にかざり小さな弓に矢を番えて一目散に汽車を追って来るのでした。 「あら、インデアンですよ。インデアンですよ。ごらんなさい。」  黒服の青年も眼をさましました。ジョバンニもカムパネルラも立ちあがりました。 「走って来るわ、あら、走って来るわ。追いかけているんでしょう。」 「いいえ、汽車を追ってるんじゃないんですよ。猟をするか踊るかしてるんですよ。」青年はいまどこに居るか忘れたという風にポケットに手を入れて立ちながら云いました。  まったくインデアンは半分は踊っているようでした。第一かけるにしても足のふみようがもっと経済もとれ本気にもなれそうでした。にわかにくっきり白いその羽根は前の方へ倒れるようになりインデアンはぴたっと立ちどまってすばやく弓を空にひきました。そこから一羽の鶴がふらふらと落ちて来てまた走り出したインデアンの大きくひろげた両手に落ちこみました。インデアンはうれしそうに立ってわらいました。そしてその鶴をもってこっちを見ている影ももうどんどん小さく遠くなり電しんばしらの碍子がきらっきらっと続いて二つばかり光ってまたとうもろこしの林になってしまいました。こっち側の窓を見ますと汽車はほんとうに高い高い崖の上を走っていてその谷の底には川がやっぱり幅ひろく明るく流れていたのです。 「ええ、もうこの辺から下りです。何せこんどは一ぺんにあの水面までおりて行くんですから容易じゃありません。この傾斜があるもんですから汽車は決して向うからこっちへは来ないんです。そら、もうだんだん早くなったでしょう。」さっきの老人らしい声が云いました。  どんどんどんどん汽車は降りて行きました。崖のはじに鉄道がかかるときは川が明るく下にのぞけたのです。ジョバンニはだんだんこころもちが明るくなって来ました。汽車が小さな小屋の前を通ってその前にしょんぼりひとりの子供が立ってこっちを見ているときなどは思わずほうと叫びました。  どんどんどんどん汽車は走って行きました。室中のひとたちは半分うしろの方へ倒れるようになりながら腰掛にしっかりしがみついていました。ジョバンニは思わずカムパネルラとわらいました。もうそして天の川は汽車のすぐ横手をいままでよほど激しく流れて来たらしくときどきちらちら光ってながれているのでした。うすあかい河原なでしこの花があちこち咲いていました。汽車はようやく落ち着いたようにゆっくりと走っていました。  向うとこっちの岸に星のかたちとつるはしを書いた旗がたっていました。 「あれ何の旗だろうね。」ジョバンニがやっとものを云いました。 「さあ、わからないねえ、地図にもないんだもの。鉄の舟がおいてあるねえ。」 「ああ。」 「橋を架けるとこじゃないんでしょうか。」女の子が云いました。 「あああれ工兵の旗だねえ。架橋演習をしてるんだ。けれど兵隊のかたちが見えないねえ。」  その時向う岸ちかくの少し下流の方で見えない天の川の水がぎらっと光って柱のように高くはねあがりどぉと烈しい音がしました。 「発破だよ、発破だよ。」カムパネルラはこおどりしました。  その柱のようになった水は見えなくなり大きな鮭や鱒がきらっきらっと白く腹を光らせて空中に抛り出されて円い輪を描いてまた水に落ちました。ジョバンニはもうはねあがりたいくらい気持が軽くなって云いました。 「空の工兵大隊だ。どうだ、鱒やなんかがまるでこんなになってはねあげられたねえ。僕こんな愉快な旅はしたことない。いいねえ。」 「あの鱒なら近くで見たらこれくらいあるねえ、たくさんさかな居るんだな、この水の中に。」 「小さなお魚もいるんでしょうか。」女の子が談につり込まれて云いました。 「居るんでしょう。大きなのが居るんだから小さいのもいるんでしょう。けれど遠くだからいま小さいの見えなかったねえ。」ジョバンニはもうすっかり機嫌が直って面白そうにわらって女の子に答えました。 「あれきっと双子のお星さまのお宮だよ。」男の子がいきなり窓の外をさして叫びました。  右手の低い丘の上に小さな水晶ででもこさえたような二つのお宮がならんで立っていました。 「双子のお星さまのお宮って何だい。」 「あたし前になんべんもお母さんから聴いたわ。ちゃんと小さな水晶のお宮で二つならんでいるからきっとそうだわ。」 「はなしてごらん。双子のお星さまが何したっての。」 「ぼくも知ってらい。双子のお星さまが野原へ遊びにでてからすと喧嘩したんだろう。」 「そうじゃないわよ。あのね、天の川の岸にね、おっかさんお話なすったわ、……」 「それから彗星がギーギーフーギーギーフーて云って来たねえ。」 「いやだわたあちゃんそうじゃないわよ。それはべつの方だわ。」 「するとあすこにいま笛を吹いて居るんだろうか。」 「いま海へ行ってらあ。」 「いけないわよ。もう海からあがっていらっしゃったのよ。」 「そうそう。ぼく知ってらあ、ぼくおはなししよう。」  川の向う岸が俄かに赤くなりました。楊の木や何かもまっ黒にすかし出され見えない天の川の波もときどきちらちら針のように赤く光りました。まったく向う岸の野原に大きなまっ赤な火が燃されその黒いけむりは高く桔梗いろのつめたそうな天をも焦がしそうでした。ルビーよりも赤くすきとおりリチウムよりもうつくしく酔ったようになってその火は燃えているのでした。 「あれは何の火だろう。あんな赤く光る火は何を燃やせばできるんだろう。」ジョバンニが云いました。 「蝎の火だな。」カムパネルラが又地図と首っ引きして答えました。 「あら、蝎の火のことならあたし知ってるわ。」 「蝎の火ってなんだい。」ジョバンニがききました。 「蝎がやけて死んだのよ。その火がいまでも燃えてるってあたし何べんもお父さんから聴いたわ。」 「蝎って、虫だろう。」 「ええ、蝎は虫よ。だけどいい虫だわ。」 「蝎いい虫じゃないよ。僕博物館でアルコールにつけてあるの見た。尾にこんなかぎがあってそれで螫されると死ぬって先生が云ったよ。」 「そうよ。だけどいい虫だわ、お父さん斯う云ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見附かって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命|遁げて遁げたけどとうとういたちに押えられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりは溺れはじめたのよ。そのときさそりは斯う云ってお祈りしたというの、  ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい。って云ったというの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰ったわ。ほんとうにあの火それだわ。」 「そうだ。見たまえ。そこらの三角標はちょうどさそりの形にならんでいるよ。」  ジョバンニはまったくその大きな火の向うに三つの三角標がちょうどさそりの腕のようにこっちに五つの三角標がさそりの尾やかぎのようにならんでいるのを見ました。そしてほんとうにそのまっ赤なうつくしいさそりの火は音なくあかるくあかるく燃えたのです。  その火がだんだんうしろの方になるにつれてみんなは何とも云えずにぎやかなさまざまの楽の音や草花の匂のようなもの口笛や人々のざわざわ云う声やらを聞きました。それはもうじきちかくに町か何かがあってそこにお祭でもあるというような気がするのでした。 「ケンタウル露をふらせ。」いきなりいままで睡っていたジョバンニのとなりの男の子が向うの窓を見ながら叫んでいました。  ああそこにはクリスマストリイのようにまっ青な唐檜かもみの木がたってその中にはたくさんのたくさんの豆電燈がまるで千の蛍でも集ったようについていました。 「ああ、そうだ、今夜ケンタウル祭だねえ。」 「ああ、ここはケンタウルの村だよ。」カムパネルラがすぐ云いました。〔以下原稿一枚?なし〕 「ボール投げなら僕決してはずさない。」  男の子が大威張りで云いました。 「もうじきサウザンクロスです。おりる支度をして下さい。」青年がみんなに云いました。 「僕も少し汽車へ乗ってるんだよ。」男の子が云いました。カムパネルラのとなりの女の子はそわそわ立って支度をはじめましたけれどもやっぱりジョバンニたちとわかれたくないようなようすでした。 「ここでおりなけぁいけないのです。」青年はきちっと口を結んで男の子を見おろしながら云いました。 「厭だい。僕もう少し汽車へ乗ってから行くんだい。」  ジョバンニがこらえ兼ねて云いました。 「僕たちと一緒に乗って行こう。僕たちどこまでだって行ける切符持ってるんだ。」 「だけどあたしたちもうここで降りなけぁいけないのよ。ここ天上へ行くとこなんだから。」女の子がさびしそうに云いました。 「天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなけぁいけないって僕の先生が云ったよ。」 「だっておっ母さんも行ってらっしゃるしそれに神さまが仰っしゃるんだわ。」 「そんな神さまうその神さまだい。」 「あなたの神さまうその神さまよ。」 「そうじゃないよ。」 「あなたの神さまってどんな神さまですか。」青年は笑いながら云いました。 「ぼくほんとうはよく知りません、けれどもそんなんでなしにほんとうのたった一人の神さまです。」 「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です。」 「ああ、そんなんでなしにたったひとりのほんとうのほんとうの神さまです。」 「だからそうじゃありませんか。わたくしはあなた方がいまにそのほんとうの神さまの前にわたくしたちとお会いになることを祈ります。」青年はつつましく両手を組みました。女の子もちょうどその通りにしました。みんなほんとうに別れが惜しそうでその顔いろも少し青ざめて見えました。ジョバンニはあぶなく声をあげて泣き出そうとしました。 「さあもう支度はいいんですか。じきサウザンクロスですから。」  ああそのときでした。見えない天の川のずうっと川下に青や橙やもうあらゆる光でちりばめられた十字架がまるで一本の木という風に川の中から立ってかがやきその上には青じろい雲がまるい環になって後光のようにかかっているのでした。汽車の中がまるでざわざわしました。みんなあの北の十字のときのようにまっすぐに立ってお祈りをはじめました。あっちにもこっちにも子供が瓜に飛びついたときのようなよろこびの声や何とも云いようない深いつつましいためいきの音ばかりきこえました。そしてだんだん十字架は窓の正面になりあの苹果の肉のような青じろい環の雲もゆるやかにゆるやかに繞っているのが見えました。 「ハルレヤハルレヤ。」明るくたのしくみんなの声はひびきみんなはそのそらの遠くからつめたいそらの遠くからすきとおった何とも云えずさわやかなラッパの声をききました。そしてたくさんのシグナルや電燈の灯のなかを汽車はだんだんゆるやかになりとうとう十字架のちょうどま向いに行ってすっかりとまりました。 「さあ、下りるんですよ。」青年は男の子の手をひきだんだん向うの出口の方へ歩き出しました。 「じゃさよなら。」女の子がふりかえって二人に云いました。 「さよなら。」ジョバンニはまるで泣き出したいのをこらえて怒ったようにぶっきり棒に云いました。女の子はいかにもつらそうに眼を大きくしても一度こっちをふりかえってそれからあとはもうだまって出て行ってしまいました。汽車の中はもう半分以上も空いてしまい俄かにがらんとしてさびしくなり風がいっぱいに吹き込みました。  そして見ているとみんなはつつましく列を組んであの十字架の前の天の川のなぎさにひざまずいていました。そしてその見えない天の川の水をわたってひとりの神々しい白いきものの人が手をのばしてこっちへ来るのを二人は見ました。けれどもそのときはもう硝子の呼子は鳴らされ汽車はうごき出しと思ううちに銀いろの霧が川下の方からすうっと流れて来てもうそっちは何も見えなくなりました。ただたくさんのくるみの木が葉をさんさんと光らしてその霧の中に立ち黄金の円光をもった電気|栗鼠が可愛い顔をその中からちらちらのぞいているだけでした。  そのときすうっと霧がはれかかりました。どこかへ行く街道らしく小さな電燈の一列についた通りがありました。それはしばらく線路に沿って進んでいました。そして二人がそのあかしの前を通って行くときはその小さな豆いろの火はちょうど挨拶でもするようにぽかっと消え二人が過ぎて行くときまた点くのでした。  ふりかえって見るとさっきの十字架はすっかり小さくなってしまいほんとうにもうそのまま胸にも吊されそうになり、さっきの女の子や青年たちがその前の白い渚にまだひざまずいているのかそれともどこか方角もわからないその天上へ行ったのかぼんやりして見分けられませんでした。  ジョバンニはああと深く息しました。 「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」 「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。 「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。 「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。 「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧くようにふうと息をしながら云いました。 「あ、あすこ石炭|袋だよ。そらの孔だよ。」カムパネルラが少しそっちを避けるようにしながら天の川のひととこを指さしました。ジョバンニはそっちを見てまるでぎくっとしてしまいました。天の川の一とこに大きなまっくらな孔がどほんとあいているのです。その底がどれほど深いかその奥に何があるかいくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えずただ眼がしんしんと痛むのでした。ジョバンニが云いました。 「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」 「ああきっと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集ってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっあすこにいるのぼくのお母さんだよ。」カムパネルラは俄かに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫びました。  ジョバンニもそっちを見ましたけれどもそこはぼんやり白くけむっているばかりどうしてもカムパネルラが云ったように思われませんでした。何とも云えずさびしい気がしてぼんやりそっちを見ていましたら向うの河岸に二本の電信ばしらが丁度両方から腕を組んだように赤い腕木をつらねて立っていました。 「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。」ジョバンニが斯う云いながらふりかえって見ましたらそのいままでカムパネルラの座っていた席にもうカムパネルラの形は見えずただ黒いびろうどばかりひかっていました。ジョバンニはまるで鉄砲丸のように立ちあがりました。そして誰にも聞えないように窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれからもう咽喉いっぱい泣きだしました。もうそこらが一ぺんにまっくらになったように思いました。  ジョバンニは眼をひらきました。もとの丘の草の中につかれてねむっていたのでした。胸は何だかおかしく熱り頬にはつめたい涙がながれていました。  ジョバンニはばねのようにはね起きました。町はすっかりさっきの通りに下でたくさんの灯を綴ってはいましたがその光はなんだかさっきよりは熱したという風でした。そしてたったいま夢であるいた天の川もやっぱりさっきの通りに白くぼんやりかかりまっ黒な南の地平線の上では殊にけむったようになってその右には蠍座の赤い星がうつくしくきらめき、そらぜんたいの位置はそんなに変ってもいないようでした。  ジョバンニは一さんに丘を走って下りました。まだ夕ごはんをたべないで待っているお母さんのことが胸いっぱいに思いだされたのです。どんどん黒い松の林の中を通ってそれからほの白い牧場の柵をまわってさっきの入口から暗い牛舎の前へまた来ました。そこには誰かがいま帰ったらしくさっきなかった一つの車が何かの樽を二つ乗っけて置いてありました。 「今晩は、」ジョバンニは叫びました。 「はい。」白い太いずぼんをはいた人がすぐ出て来て立ちました。 「何のご用ですか。」 「今日牛乳がぼくのところへ来なかったのですが」 「あ済みませんでした。」その人はすぐ奥へ行って一本の牛乳瓶をもって来てジョバンニに渡しながらまた云いました。 「ほんとうに、済みませんでした。今日はひるすぎうっかりしてこうしの柵をあけて置いたもんですから大将早速親牛のところへ行って半分ばかり呑んでしまいましてね……」その人はわらいました。 「そうですか。ではいただいて行きます。」 「ええ、どうも済みませんでした。」 「いいえ。」  ジョバンニはまだ熱い乳の瓶を両方のてのひらで包むようにもって牧場の柵を出ました。  そしてしばらく木のある町を通って大通りへ出てまたしばらく行きますとみちは十文字になってその右手の方、通りのはずれにさっきカムパネルラたちのあかりを流しに行った川へかかった大きな橋のやぐらが夜のそらにぼんやり立っていました。  ところがその十字になった町かどや店の前に女たちが七八人ぐらいずつ集って橋の方を見ながら何かひそひそ談しているのです。それから橋の上にもいろいろなあかりがいっぱいなのでした。  ジョバンニはなぜかさあっと胸が冷たくなったように思いました。そしていきなり近くの人たちへ 「何かあったんですか。」と叫ぶようにききました。 「こどもが水へ落ちたんですよ。」一人が云いますとその人たちは一斉にジョバンニの方を見ました。ジョバンニはまるで夢中で橋の方へ走りました。橋の上は人でいっぱいで河が見えませんでした。白い服を着た巡査も出ていました。  ジョバンニは橋の袂から飛ぶように下の広い河原へおりました。  その河原の水際に沿ってたくさんのあかりがせわしくのぼったり下ったりしていました。向う岸の暗いどてにも火が七つ八つうごいていました。そのまん中をもう烏瓜のあかりもない川が、わずかに音をたてて灰いろにしずかに流れていたのでした。  河原のいちばん下流の方へ州のようになって出たところに人の集りがくっきりまっ黒に立っていました。ジョバンニはどんどんそっちへ走りました。するとジョバンニはいきなりさっきカムパネルラといっしょだったマルソに会いました。マルソがジョバンニに走り寄ってきました。 「ジョバンニ、カムパネルラが川へはいったよ。」 「どうして、いつ。」 「ザネリがね、舟の上から烏うりのあかりを水の流れる方へ押してやろうとしたんだ。そのとき舟がゆれたもんだから水へ落っこったろう。するとカムパネルラがすぐ飛びこんだんだ。そしてザネリを舟の方へ押してよこした。ザネリはカトウにつかまった。けれどもあとカムパネルラが見えないんだ。」 「みんな探してるんだろう。」 「ああすぐみんな来た。カムパネルラのお父さんも来た。けれども見附からないんだ。ザネリはうちへ連れられてった。」  ジョバンニはみんなの居るそっちの方へ行きました。そこに学生たち町の人たちに囲まれて青じろい尖ったあごをしたカムパネルラのお父さんが黒い服を着てまっすぐに立って右手に持った時計をじっと見つめていたのです。  みんなもじっと河を見ていました。誰も一言も物を云う人もありませんでした。ジョバンニはわくわくわくわく足がふるえました。魚をとるときのアセチレンランプがたくさんせわしく行ったり来たりして黒い川の水はちらちら小さな波をたてて流れているのが見えるのでした。  下流の方は川はば一ぱい銀河が巨きく写ってまるで水のないそのままのそらのように見えました。  ジョバンニはそのカムパネルラはもうあの銀河のはずれにしかいないというような気がしてしかたなかったのです。  けれどもみんなはまだ、どこかの波の間から、 「ぼくずいぶん泳いだぞ。」と云いながらカムパネルラが出て来るか或いはカムパネルラがどこかの人の知らない洲にでも着いて立っていて誰かの来るのを待っているかというような気がして仕方ないらしいのでした。けれども俄かにカムパネルラのお父さんがきっぱり云いました。 「もう駄目です。落ちてから四十五分たちましたから。」  ジョバンニは思わずかけよって博士の前に立って、ぼくはカムパネルラの行った方を知っていますぼくはカムパネルラといっしょに歩いていたのですと云おうとしましたがもうのどがつまって何とも云えませんでした。すると博士はジョバンニが挨拶に来たとでも思ったものですか、しばらくしげしげジョバンニを見ていましたが 「あなたはジョバンニさんでしたね。どうも今晩はありがとう。」と叮ねいに云いました。  ジョバンニは何も云えずにただおじぎをしました。 「あなたのお父さんはもう帰っていますか。」博士は堅く時計を握ったまままたききました。 「いいえ。」ジョバンニはかすかに頭をふりました。 「どうしたのかなあ。ぼくには一昨日大へん元気な便りがあったんだが。今日あたりもう着くころなんだが。船が遅れたんだな。ジョバンニさん。あした放課後みなさんとうちへ遊びに来てくださいね。」  そう云いながら博士はまた川下の銀河のいっぱいにうつった方へじっと眼を送りました。  ジョバンニはもういろいろなことで胸がいっぱいでなんにも云えずに博士の前をはなれて早くお母さんに牛乳を持って行ってお父さんの帰ることを知らせようと思うともう一目散に河原を街の方へ走りました。 一 午後の授業 「ではみなさんは、そういうふうに川だと言われたり、乳の流れたあとだと言われたりしていた、このぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか」先生は、黒板につるした大きな黒い星座の図の、上から下へ白くけぶった銀河帯のようなところを指しながら、みんなに問いをかけました。  カムパネルラが手をあげました。それから四、五人手をあげました。ジョバンニも手をあげようとして、急いでそのままやめました。たしかにあれがみんな星だと、いつか雑誌で読んだのでしたが、このごろはジョバンニはまるで毎日教室でもねむく、本を読むひまも読む本もないので、なんだかどんなこともよくわからないという気持ちがするのでした。  ところが先生は早くもそれを見つけたのでした。 「ジョバンニさん。あなたはわかっているのでしょう」  ジョバンニは勢いよく立ちあがりましたが、立ってみるともうはっきりとそれを答えることができないのでした。ザネリが前の席からふりかえって、ジョバンニを見てくすっとわらいました。ジョバンニはもうどぎまぎしてまっ赤になってしまいました。先生がまた言いました。 「大きな望遠鏡で銀河をよっく調べると銀河はだいたい何でしょう」  やっぱり星だとジョバンニは思いましたが、こんどもすぐに答えることができませんでした。  先生はしばらく困ったようすでしたが、眼をカムパネルラの方へ向けて、 「ではカムパネルラさん」と名指しました。  するとあんなに元気に手をあげたカムパネルラが、やはりもじもじ立ち上がったままやはり答えができませんでした。  先生は意外なようにしばらくじっとカムパネルラを見ていましたが、急いで、 「では、よし」と言いながら、自分で星図を指しました。 「このぼんやりと白い銀河を大きないい望遠鏡で見ますと、もうたくさんの小さな星に見えるのです。ジョバンニさんそうでしょう」  ジョバンニはまっ赤になってうなずきました。けれどもいつかジョバンニの眼のなかには涙がいっぱいになりました。そうだ僕は知っていたのだ、もちろんカムパネルラも知っている、それはいつかカムパネルラのお父さんの博士のうちでカムパネルラといっしょに読んだ雑誌のなかにあったのだ。それどこでなくカムパネルラは、その雑誌を読むと、すぐお父さんの書斎から巨きな本をもってきて、ぎんがというところをひろげ、まっ黒な頁いっぱいに白に点々のある美しい写真を二人でいつまでも見たのでした。それをカムパネルラが忘れるはずもなかったのに、すぐに返事をしなかったのは、このごろぼくが、朝にも午後にも仕事がつらく、学校に出てももうみんなともはきはき遊ばず、カムパネルラともあんまり物を言わないようになったので、カムパネルラがそれを知ってきのどくがってわざと返事をしなかったのだ、そう考えるとたまらないほど、じぶんもカムパネルラもあわれなような気がするのでした。  先生はまた言いました。 「ですからもしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒にもあたるわけです。またこれを巨きな乳の流れと考えるなら、もっと天の川とよく似ています。つまりその星はみな、乳のなかにまるで細かにうかんでいる脂油の球にもあたるのです。そんなら何がその川の水にあたるかと言いますと、それは真空という光をある速さで伝えるもので、太陽や地球もやっぱりそのなかに浮かんでいるのです。つまりは私どもも天の川の水のなかに棲んでいるわけです。そしてその天の川の水のなかから四方を見ると、ちょうど水が深いほど青く見えるように、天の川の底の深く遠いところほど星がたくさん集まって見え、したがって白くぼんやり見えるのです。この模型をごらんなさい」  先生は中にたくさん光る砂のつぶのはいった大きな両面の凸レンズを指しました。 「天の川の形はちょうどこんななのです。このいちいちの光るつぶがみんな私どもの太陽と同じようにじぶんで光っている星だと考えます。私どもの太陽がこのほぼ中ごろにあって地球がそのすぐ近くにあるとします。みなさんは夜にこのまん中に立ってこのレンズの中を見まわすとしてごらんなさい。こっちの方はレンズが薄いのでわずかの光る粒すなわち星しか見えないでしょう。こっちやこっちの方はガラスが厚いので、光る粒すなわち星がたくさん見えその遠いのはぼうっと白く見えるという、これがつまり今日の銀河の説なのです。そんならこのレンズの大きさがどれくらいあるか、またその中のさまざまの星についてはもう時間ですから、この次の理科の時間にお話します。では今日はその銀河のお祭りなのですから、みなさんは外へでてよくそらをごらんなさい。ではここまでです。本やノートをおしまいなさい」  そして教室じゅうはしばらく机の蓋をあけたりしめたり本を重ねたりする音がいっぱいでしたが、まもなくみんなはきちんと立って礼をすると教室を出ました。 二 活版所  ジョバンニが学校の門を出るとき、同じ組の七、八人は家へ帰らずカムパネルラをまん中にして校庭の隅の桜の木のところに集まっていました。それはこんやの星祭りに青いあかりをこしらえて川へ流す烏瓜を取りに行く相談らしかったのです。  けれどもジョバンニは手を大きく振ってどしどし学校の門を出て来ました。すると町の家々ではこんやの銀河の祭りにいちいの葉の玉をつるしたり、ひのきの枝にあかりをつけたり、いろいろしたくをしているのでした。  家へは帰らずジョバンニが町を三つ曲がってある大きな活版所にはいって靴をぬいで上がりますと、突き当たりの大きな扉をあけました。中にはまだ昼なのに電燈がついて、たくさんの輪転機がばたりばたりとまわり、きれで頭をしばったりラムプシェードをかけたりした人たちが、何か歌うように読んだり数えたりしながらたくさん働いておりました。  ジョバンニはすぐ入口から三番目の高い卓子にすわった人の所へ行っておじぎをしました。その人はしばらく棚をさがしてから、 「これだけ拾って行けるかね」と言いながら、一枚の紙切れを渡しました。ジョバンニはその人の卓子の足もとから一つの小さな平たい函をとりだして向こうの電燈のたくさんついた、たてかけてある壁の隅の所へしゃがみ込むと、小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を次から次へと拾いはじめました。青い胸あてをした人がジョバンニのうしろを通りながら、 「よう、虫めがね君、お早う」と言いますと、近くの四、五人の人たちが声もたてずこっちも向かずに冷たくわらいました。  ジョバンニは何べんも眼をぬぐいながら活字をだんだんひろいました。  六時がうってしばらくたったころ、ジョバンニは拾った活字をいっぱいに入れた平たい箱をもういちど手にもった紙きれと引き合わせてから、さっきの卓子の人へ持って来ました。その人は黙ってそれを受け取ってかすかにうなずきました。  ジョバンニはおじぎをすると扉をあけて計算台のところに来ました。すると白服を着た人がやっぱりだまって小さな銀貨を一つジョバンニに渡しました。ジョバンニはにわかに顔いろがよくなって威勢よくおじぎをすると、台の下に置いた鞄をもっておもてへ飛びだしました。それから元気よく口笛を吹きながらパン屋へ寄ってパンの塊を一つと角砂糖を一|袋買いますといちもくさんに走りだしました。 三 家  ジョバンニが勢いよく帰って来たのは、ある裏町の小さな家でした。その三つならんだ入口のいちばん左側には空箱に紫いろのケールやアスパラガスが植えてあって小さな二つの窓には日覆いがおりたままになっていました。 「お母さん、いま帰ったよ。ぐあい悪くなかったの」ジョバンニは靴をぬぎながら言いました。 「ああ、ジョバンニ、お仕事がひどかったろう。今日は涼しくてね。わたしはずうっとぐあいがいいよ」  ジョバンニは玄関を上がって行きますとジョバンニのお母さんがすぐ入口の室に白い巾をかぶって寝んでいたのでした。ジョバンニは窓をあけました。 「お母さん、今日は角砂糖を買ってきたよ。牛乳に入れてあげようと思って」 「ああ、お前さきにおあがり。あたしはまだほしくないんだから」 「お母さん。姉さんはいつ帰ったの」 「ああ、三時ころ帰ったよ。みんなそこらをしてくれてね」 「お母さんの牛乳は来ていないんだろうか」 「来なかったろうかねえ」 「ぼく行ってとって来よう」 「ああ、あたしはゆっくりでいいんだからお前さきにおあがり、姉さんがね、トマトで何かこしらえてそこへ置いて行ったよ」 「ではぼくたべよう」  ジョバンニは窓のところからトマトの皿をとってパンといっしょにしばらくむしゃむしゃたべました。 「ねえお母さん。ぼくお父さんはきっとまもなく帰ってくると思うよ」 「ああ、あたしもそう思う。けれどもおまえはどうしてそう思うの」 「だって今朝の新聞に今年は北の方の漁はたいへんよかったと書いてあったよ」 「ああだけどねえ、お父さんは漁へ出ていないかもしれない」 「きっと出ているよ。お父さんが監獄へはいるようなそんな悪いことをしたはずがないんだ。この前お父さんが持ってきて学校へ寄贈した巨きな蟹の甲らだのとなかいの角だの今だってみんな標本室にあるんだ。六年生なんか授業のとき先生がかわるがわる教室へ持って行くよ」 「お父さんはこの次はおまえにラッコの上着をもってくるといったねえ」 「みんながぼくにあうとそれを言うよ。ひやかすように言うんだ」 「おまえに悪口を言うの」 「うん、けれどもカムパネルラなんか決して言わない。カムパネルラはみんながそんなことを言うときはきのどくそうにしているよ」 「カムパネルラのお父さんとうちのお父さんとは、ちょうどおまえたちのように小さいときからのお友達だったそうだよ」 「ああだからお父さんはぼくをつれてカムパネルラのうちへもつれて行ったよ。あのころはよかったなあ。ぼくは学校から帰る途中たびたびカムパネルラのうちに寄った。カムパネルラのうちにはアルコールランプで走る汽車があったんだ。レールを七つ組み合わせるとまるくなってそれに電柱や信号標もついていて信号標のあかりは汽車が通るときだけ青くなるようになっていたんだ。いつかアルコールがなくなったとき石油をつかったら、缶がすっかりすすけたよ」 「そうかねえ」 「いまも毎朝新聞をまわしに行くよ。けれどもいつでも家じゅうまだしいんとしているからな」 「早いからねえ」 「ザウエルという犬がいるよ。しっぽがまるで箒のようだ。ぼくが行くと鼻を鳴らしてついてくるよ。ずうっと町の角までついてくる。もっとついてくることもあるよ。今夜はみんなで烏瓜のあかりを川へながしに行くんだって。きっと犬もついて行くよ」 「そうだ。今晩は銀河のお祭りだねえ」 「うん。ぼく牛乳をとりながら見てくるよ」 「ああ行っておいで。川へははいらないでね」 「ああぼく岸から見るだけなんだ。一時間で行ってくるよ」 「もっと遊んでおいで。カムパネルラさんといっしょなら心配はないから」 「ああきっといっしょだよ。お母さん、窓をしめておこうか」 「ああ、どうか。もう涼しいからね」  ジョバンニは立って窓をしめ、お皿やパンの袋をかたづけると勢いよく靴をはいて、 「では一時間|半で帰ってくるよ」と言いながら暗い戸口を出ました。 四 ケンタウル祭の夜  ジョバンニは、口笛を吹いているようなさびしい口つきで、檜のまっ黒にならんだ町の坂をおりて来たのでした。  坂の下に大きな一つの街燈が、青白く立派に光って立っていました。ジョバンニが、どんどん電燈の方へおりて行きますと、いままでばけもののように、長くぼんやり、うしろへ引いていたジョバンニの影ぼうしは、だんだん濃く黒くはっきりなって、足をあげたり手を振ったり、ジョバンニの横の方へまわって来るのでした。  とジョバンニが思いながら、大股にその街燈の下を通り過ぎたとき、いきなりひるまのザネリが、新しいえりのとがったシャツを着て、電燈の向こう側の暗い小路から出て来て、ひらっとジョバンニとすれちがいました。 「ザネリ、烏瓜ながしに行くの」ジョバンニがまだそう言ってしまわないうちに、 「ジョバンニ、お父さんから、ラッコの上着が来るよ」その子が投げつけるようにうしろから叫びました。  ジョバンニは、ばっと胸がつめたくなり、そこらじゅうきいんと鳴るように思いました。 「なんだい、ザネリ」とジョバンニは高く叫び返しましたが、もうザネリは向こうのひばの植わった家の中へはいっていました。  ジョバンニは、せわしくいろいろのことを考えながら、さまざまの灯や木の枝で、すっかりきれいに飾られた街を通って行きました。時計屋の店には明るくネオン燈がついて、一|秒ごとに石でこさえたふくろうの赤い眼が、くるっくるっとうごいたり、いろいろな宝石が海のような色をした厚い硝子の盤に載って、星のようにゆっくり循ったり、また向こう側から、銅の人馬がゆっくりこっちへまわって来たりするのでした。そのまん中にまるい黒い星座早見が青いアスパラガスの葉で飾ってありました。  ジョバンニはわれを忘れて、その星座の図に見入りました。  それはひる学校で見たあの図よりはずうっと小さかったのですが、その日と時間に合わせて盤をまわすと、そのとき出ているそらがそのまま楕円形のなかにめぐってあらわれるようになっており、やはりそのまん中には上から下へかけて銀河がぼうとけむったような帯になって、その下の方ではかすかに爆発して湯げでもあげているように見えるのでした。またそのうしろには三本の脚のついた小さな望遠鏡が黄いろに光って立っていましたし、いちばんうしろの壁には空じゅうの星座をふしぎな獣や蛇や魚や瓶の形に書いた大きな図がかかっていました。ほんとうにこんなような蠍だの勇士だのそらにぎっしりいるだろうか、ああぼくはその中をどこまでも歩いてみたいと思ってたりしてしばらくぼんやり立っていました。  それからにわかにお母さんの牛乳のことを思いだしてジョバンニはその店をはなれました。  そしてきゅうくつな上着の肩を気にしながら、それでもわざと胸を張って大きく手を振って町を通って行きました。  空気は澄みきって、まるで水のように通りや店の中を流れましたし、街燈はみなまっ青なもみや楢の枝で包まれ、電気会社の前の六本のプラタナスの木などは、中にたくさんの豆電燈がついて、ほんとうにそこらは人魚の都のように見えるのでした。子どもらは、みんな新しい折のついた着物を着て、星めぐりの口笛を吹いたり、 「ケンタウルス、露をふらせ」と叫んで走ったり、青いマグネシヤの花火を燃したりして、たのしそうに遊んでいるのでした。けれどもジョバンニは、いつかまた深く首をたれて、そこらのにぎやかさとはまるでちがったことを考えながら、牛乳屋の方へ急ぐのでした。  ジョバンニは、いつか町はずれのポプラの木が幾本も幾本も、高く星ぞらに浮かんでいるところに来ていました。その牛乳屋の黒い門をはいり、牛のにおいのするうすくらい台所の前に立って、ジョバンニは帽子をぬいで、 「今晩は」と言いましたら、家の中はしいんとして誰もいたようではありませんでした。 「今晩は、ごめんなさい」ジョバンニはまっすぐに立ってまた叫びました。するとしばらくたってから、年とった女の人が、どこかぐあいが悪いようにそろそろと出て来て、何か用かと口の中で言いました。 「あの、今日、牛乳が僕※とこへ来なかったので、もらいにあがったんです」ジョバンニが一生けん命勢いよく言いました。 「いま誰もいないでわかりません。あしたにしてください」その人は赤い眼の下のとこをこすりながら、ジョバンニを見おろして言いました。 「おっかさんが病気なんですから今晩でないと困るんです」 「ではもう少したってから来てください」その人はもう行ってしまいそうでした。 「そうですか。ではありがとう」ジョバンニは、お辞儀をして台所から出ました。  十字になった町のかどを、まがろうとしましたら、向こうの橋へ行く方の雑貨店の前で、黒い影やぼんやり白いシャツが入り乱れて、六、七人の生徒らが、口笛を吹いたり笑ったりして、めいめい烏瓜の燈火を持ってやって来るのを見ました。その笑い声も口笛も、みんな聞きおぼえのあるものでした。ジョバンニの同級の子供らだったのです。ジョバンニは思わずどきっとして戻ろうとしましたが、思い直して、いっそう勢いよくそっちへ歩いて行きました。 「川へ行くの」ジョバンニが言おうとして、少しのどがつまったように思ったとき、 「ジョバンニ、ラッコの上着が来るよ」さっきのザネリがまた叫びました。 「ジョバンニ、ラッコの上着が来るよ」すぐみんなが、続いて叫びました。ジョバンニはまっ赤になって、もう歩いているかもわからず、急いで行きすぎようとしましたら、そのなかにカムパネルラがいたのです。カムパネルラはきのどくそうに、だまって少しわらって、おこらないだろうかというようにジョバンニの方を見ていました。  ジョバンニは、にげるようにその眼を避け、そしてカムパネルラのせいの高いかたちが過ぎて行ってまもなく、みんなはてんでに口笛を吹きました。町かどを曲がるとき、ふりかえって見ましたら、ザネリがやはりふりかえって見ていました。そしてカムパネルラもまた、高く口笛を吹いて向こうにぼんやり見える橋の方へ歩いて行ってしまったのでした。ジョバンニは、なんとも言えずさびしくなって、いきなり走りだしました。すると耳に手をあてて、わあわあと言いながら片足でぴょんぴょん跳んでいた小さな子供らは、ジョバンニがおもしろくてかけるのだと思って、わあいと叫びました。  まもなくジョバンニは走りだして黒い丘の方へ急ぎました。 五 天気輪の柱  牧場のうしろはゆるい丘になって、その黒い平らな頂上は、北の大熊星の下に、ぼんやりふだんよりも低く、連なって見えました。  ジョバンニは、もう露の降りかかった小さな林のこみちを、どんどんのぼって行きました。まっくらな草や、いろいろな形に見えるやぶのしげみの間を、その小さなみちが、一すじ白く星あかりに照らしだされてあったのです。草の中には、ぴかぴか青びかりを出す小さな虫もいて、ある葉は青くすかし出され、ジョバンニは、さっきみんなの持って行った烏瓜のあかりのようだとも思いました。  そのまっ黒な、松や楢の林を越えると、にわかにがらんと空がひらけて、天の川がしらしらと南から北へ亙っているのが見え、また頂の、天気輪の柱も見わけられたのでした。つりがねそうか野ぎくかの花が、そこらいちめんに、夢の中からでもかおりだしたというように咲き、鳥が一|疋、丘の上を鳴き続けながら通って行きました。  ジョバンニは、頂の天気輪の柱の下に来て、どかどかするからだを、つめたい草に投げました。  町の灯は、暗の中をまるで海の底のお宮のけしきのようにともり、子供らの歌う声や口笛、きれぎれの叫び声もかすかに聞こえて来るのでした。風が遠くで鳴り、丘の草もしずかにそよぎ、ジョバンニの汗でぬれたシャツもつめたく冷やされました。  野原から汽車の音が聞こえてきました。その小さな列車の窓は一列小さく赤く見え、その中にはたくさんの旅人が、苹果をむいたり、わらったり、いろいろなふうにしていると考えますと、ジョバンニは、もうなんとも言えずかなしくなって、また眼をそらに挙げました。  ところがいくら見ていても、そのそらは、ひる先生の言ったような、がらんとした冷たいとこだとは思われませんでした。それどころでなく、見れば見るほど、そこは小さな林や牧場やらある野原のように考えられてしかたなかったのです。そしてジョバンニは青い琴の星が、三つにも四つにもなって、ちらちらまたたき、脚が何べんも出たり引っ込んだりして、とうとう蕈のように長く延びるのを見ました。またすぐ眼の下のまちまでが、やっぱりぼんやりしたたくさんの星の集まりか一つの大きなけむりかのように見えるように思いました。 六 銀河ステーション  そしてジョバンニはすぐうしろの天気輪の柱がいつかぼんやりした三角標の形になって、しばらく蛍のように、ぺかぺか消えたりともったりしているのを見ました。それはだんだんはっきりして、とうとうりんとうごかないようになり、濃い鋼青のそらの野原にたちました。いま新しく灼いたばかりの青い鋼の板のような、そらの野原に、まっすぐにすきっと立ったのです。  するとどこかで、ふしぎな声が、銀河ステーション、銀河ステーションと言う声がしたと思うと、いきなり眼の前が、ぱっと明るくなって、まるで億万の蛍烏賊の火を一ぺんに化石させて、そらじゅうに沈めたというぐあい、またダイアモンド会社で、ねだんがやすくならないために、わざと穫れないふりをして、かくしておいた金剛石を、誰かがいきなりひっくりかえして、ばらまいたというふうに、眼の前がさあっと明るくなって、ジョバンニは、思わず何べんも眼をこすってしまいました。  気がついてみると、さっきから、ごとごとごとごと、ジョバンニの乗っている小さな列車が走りつづけていたのでした。ほんとうにジョバンニは、夜の軽便鉄道の、小さな黄いろの電燈のならんだ車室に、窓から外を見ながらすわっていたのです。車室の中は、青い天鵞絨を張った腰掛けが、まるでがらあきで、向こうの鼠いろのワニスを塗った壁には、真鍮の大きなぼたんが二つ光っているのでした。  すぐ前の席に、ぬれたようにまっ黒な上着を着た、せいの高い子供が、窓から頭を出して外を見ているのに気がつきました。そしてそのこどもの肩のあたりが、どうも見たことのあるような気がして、そう思うと、もうどうしても誰だかわかりたくて、たまらなくなりました。いきなりこっちも窓から顔を出そうとしたとき、にわかにその子供が頭を引っ込めて、こっちを見ました。  それはカムパネルラだったのです。ジョバンニが、  カムパネルラ、きみは前からここにいたの、と言おうと思ったとき、カムパネルラが、 「みんなはね、ずいぶん走ったけれども遅れてしまったよ。ザネリもね、ずいぶん走ったけれども追いつかなかった」と言いました。  ジョバンニは、 とおもいながら、 「どこかで待っていようか」と言いました。するとカムパネルラは、 「ザネリはもう帰ったよ。お父さんが迎いにきたんだ」  カムパネルラは、なぜかそう言いながら、少し顔いろが青ざめて、どこか苦しいというふうでした。するとジョバンニも、なんだかどこかに、何か忘れたものがあるというような、おかしな気持ちがしてだまってしまいました。  ところがカムパネルラは、窓から外をのぞきながら、もうすっかり元気が直って、勢いよく言いました。 「ああしまった。ぼく、水筒を忘れてきた。スケッチ帳も忘れてきた。けれどかまわない。もうじき白鳥の停車場だから。ぼく、白鳥を見るなら、ほんとうにすきだ。川の遠くを飛んでいたって、ぼくはきっと見える」  そして、カムパネルラは、まるい板のようになった地図を、しきりにぐるぐるまわして見ていました。まったく、その中に、白くあらわされた天の川の左の岸に沿って一|条の鉄道線路が、南へ南へとたどって行くのでした。そしてその地図の立派なことは、夜のようにまっ黒な盤の上に、一々の停車場や三角標、泉水や森が、青や橙や緑や、うつくしい光でちりばめられてありました。  ジョバンニはなんだかその地図をどこかで見たようにおもいました。 「この地図はどこで買ったの。黒曜石でできてるねえ」  ジョバンニが言いました。 「銀河ステーションで、もらったんだ。君もらわなかったの」 「ああ、ぼく銀河ステーションを通ったろうか。いまぼくたちのいるとこ、ここだろう」  ジョバンニは、白鳥と書いてある停車場のしるしの、すぐ北を指しました。 「そうだ。おや、あの河原は月夜だろうか」そっちを見ますと、青白く光る銀河の岸に、銀いろの空のすすきが、もうまるでいちめん、風にさらさらさらさら、ゆられてうごいて、波を立てているのでした。 「月夜でないよ。銀河だから光るんだよ」ジョバンニは言いながら、まるではね上がりたいくらい愉快になって、足をこつこつ鳴らし、窓から顔を出して、高く高く星めぐりの口笛を吹きながら一生けん命延びあがって、その天の川の水を、見きわめようとしましたが、はじめはどうしてもそれが、はっきりしませんでした。けれどもだんだん気をつけて見ると、そのきれいな水は、ガラスよりも水素よりもすきとおって、ときどき眼のかげんか、ちらちら紫いろのこまかな波をたてたり、虹のようにぎらっと光ったりしながら、声もなくどんどん流れて行き、野原にはあっちにもこっちにも、燐光の三角標が、うつくしく立っていたのです。遠いものは小さく、近いものは大きく、遠いものは橙や黄いろではっきりし、近いものは青白く少しかすんで、あるいは三角形、あるいは四辺形、あるいは電や鎖の形、さまざまにならんで、野原いっぱいに光っているのでした。ジョバンニは、まるでどきどきして、頭をやけに振りました。するとほんとうに、そのきれいな野原じゅうの青や橙や、いろいろかがやく三角標も、てんでに息をつくように、ちらちらゆれたり顫えたりしました。 「ぼくはもう、すっかり天の野原に来た」ジョバンニは言いました。 「それに、この汽車|石炭をたいていないねえ」ジョバンニが左手をつき出して窓から前の方を見ながら言いました。 「アルコールか電気だろう」カムパネルラが言いました。  するとちょうど、それに返事するように、どこか遠くの遠くのもやのもやの中から、セロのようなごうごうした声がきこえて来ました。 「ここの汽車は、スティームや電気でうごいていない。ただうごくようにきまっているからうごいているのだ。ごとごと音をたてていると、そうおまえたちは思っているけれども、それはいままで音をたてる汽車にばかりなれているためなのだ」 「あの声、ぼくなんべんもどこかできいた」 「ぼくだって、林の中や川で、何べんも聞いた」  ごとごとごとごと、その小さなきれいな汽車は、そらのすすきの風にひるがえる中を、天の川の水や、三角点の青じろい微光の中を、どこまでもどこまでもと、走って行くのでした。 「ああ、りんどうの花が咲いている。もうすっかり秋だねえ」カムパネルラが、窓の外を指さして言いました。  線路のへりになったみじかい芝草の中に、月長石ででも刻まれたような、すばらしい紫のりんどうの花が咲いていました。 「ぼく飛びおりて、あいつをとって、また飛び乗ってみせようか」ジョバンニは胸をおどらせて言いました。 「もうだめだ。あんなにうしろへ行ってしまったから」  カムパネルラが、そう言ってしまうかしまわないうち、次のりんどうの花が、いっぱいに光って過ぎて行きました。  と思ったら、もう次から次から、たくさんのきいろな底をもったりんどうの花のコップが、湧くように、雨のように、眼の前を通り、三角標の列は、けむるように燃えるように、いよいよ光って立ったのです。 七 北十字とプリオシン海岸 「おっかさんは、ぼくをゆるしてくださるだろうか」  いきなり、カムパネルラが、思い切ったというように、少しどもりながら、せきこんで言いました。  ジョバンニは、 と思いながら、ぼんやりしてだまっていました。 「ぼくはおっかさんが、ほんとうに幸になるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだろう」カムパネルラは、なんだか、泣きだしたいのを、一生けん命こらえているようでした。 「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないじゃないの」ジョバンニはびっくりして叫びました。 「ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるしてくださると思う」カムパネルラは、なにかほんとうに決心しているように見えました。  にわかに、車のなかが、ぱっと白く明るくなりました。見ると、もうじつに、金剛石や草の露やあらゆる立派さをあつめたような、きらびやかな銀河の河床の上を、水は声もなくかたちもなく流れ、その流れのまん中に、ぼうっと青白く後光の射した一つの島が見えるのでした。その島の平らないただきに、立派な眼もさめるような、白い十字架がたって、それはもう、凍った北極の雲で鋳たといったらいいか、すきっとした金いろの円光をいただいて、しずかに永久に立っているのでした。 「ハレルヤ、ハレルヤ」前からもうしろからも声が起こりました。ふりかえって見ると、車室の中の旅人たちは、みなまっすぐにきもののひだを垂れ、黒いバイブルを胸にあてたり、水晶の数珠をかけたり、どの人もつつましく指を組み合わせて、そっちに祈っているのでした。思わず二人ともまっすぐに立ちあがりました。カムパネルラの頬は、まるで熟した苹果のあかしのようにうつくしくかがやいて見えました。  そして島と十字架とは、だんだんうしろの方へうつって行きました。  向こう岸も、青じろくぼうっと光ってけむり、時々、やっぱりすすきが風にひるがえるらしく、さっとその銀いろがけむって、息でもかけたように見え、また、たくさんのりんどうの花が、草をかくれたり出たりするのは、やさしい狐火のように思われました。  それもほんのちょっとの間、川と汽車との間は、すすきの列でさえぎられ、白鳥の島は、二|度ばかり、うしろの方に見えましたが、じきもうずうっと遠く小さく、絵のようになってしまい、またすすきがざわざわ鳴って、とうとうすっかり見えなくなってしまいました。ジョバンニのうしろには、いつから乗っていたのか、せいの高い、黒いかつぎをしたカトリックふうの尼さんが、まんまるな緑の瞳を、じっとまっすぐに落として、まだ何かことばか声かが、そっちから伝わって来るのを、虔んで聞いているというように見えました。旅人たちはしずかに席に戻り、二人も胸いっぱいのかなしみに似た新しい気持ちを、何気なくちがった語で、そっと談し合ったのです。 「もうじき白鳥の停車場だねえ」 「ああ、十一時かっきりには着くんだよ」  早くも、シグナルの緑の燈と、ぼんやり白い柱とが、ちらっと窓のそとを過ぎ、それから硫黄のほのおのようなくらいぼんやりした転てつ機の前のあかりが窓の下を通り、汽車はだんだんゆるやかになって、まもなくプラットホームの一|列の電燈が、うつくしく規則正しくあらわれ、それがだんだん大きくなってひろがって、二人はちょうど白鳥|停車場の、大きな時計の前に来てとまりました。  さわやかな秋の時計の盤面には、青く灼かれたはがねの二本の針が、くっきり十一時を指しました。みんなは、一ぺんにおりて、車室の中はがらんとなってしまいました。 〔二十分|停車〕と時計の下に書いてありました。 「ぼくたちも降りて見ようか」ジョバンニが言いました。 「降りよう」二人は一|度にはねあがってドアを飛び出して改札口へかけて行きました。ところが改札口には、明るい紫がかった電燈が、一つ点いているばかり、誰もいませんでした。そこらじゅうを見ても、駅長や赤帽らしい人の、影もなかったのです。  二人は、停車場の前の、水晶細工のように見える銀杏の木に囲まれた、小さな広場に出ました。  そこから幅の広いみちが、まっすぐに銀河の青光の中へ通っていました。  さきに降りた人たちは、もうどこへ行ったか一人も見えませんでした。二人がその白い道を、肩をならべて行きますと、二人の影は、ちょうど四方に窓のある室の中の、二本の柱の影のように、また二つの車輪の輻のように幾本も幾本も四方へ出るのでした。そしてまもなく、あの汽車から見えたきれいな河原に来ました。  カムパネルラは、そのきれいな砂を一つまみ、掌にひろげ、指できしきしさせながら、夢のように言っているのでした。 「この砂はみんな水晶だ。中で小さな火が燃えている」 「そうだ」どこでぼくは、そんなことを習ったろうと思いながら、ジョバンニもぼんやり答えていました。  河原の礫は、みんなすきとおって、たしかに水晶や黄玉や、またくしゃくしゃの皺曲をあらわしたのや、また稜から霧のような青白い光を出す鋼玉やらでした。ジョバンニは、走ってその渚に行って、水に手をひたしました。けれどもあやしいその銀河の水は、水素よりももっとすきとおっていたのです。それでもたしかに流れていたことは、二人の手首の、水にひたったとこが、少し水銀いろに浮いたように見え、その手首にぶっつかってできた波は、うつくしい燐光をあげて、ちらちらと燃えるように見えたのでもわかりました。  川上の方を見ると、すすきのいっぱいにはえている崖の下に、白い岩が、まるで運動場のように平らに川に沿って出ているのでした。そこに小さな五、六人の人かげが、何か掘り出すか埋めるかしているらしく、立ったりかがんだり、時々なにかの道具が、ピカッと光ったりしました。 「行ってみよう」二人は、まるで一|度に叫んで、そっちの方へ走りました。その白い岩になったところの入口に、〔プリオシン海岸〕という、瀬戸物のつるつるした標札が立って、向こうの渚には、ところどころ、細い鉄の欄干も植えられ、木製のきれいなベンチも置いてありました。 「おや、変なものがあるよ」カムパネルラが、不思議そうに立ちどまって、岩から黒い細長いさきのとがったくるみの実のようなものをひろいました。 「くるみの実だよ。そら、たくさんある。流れて来たんじゃない。岩の中にはいってるんだ」 「大きいね、このくるみ、倍あるね。こいつはすこしもいたんでない」 「早くあすこへ行って見よう。きっと何か掘ってるから」  二人は、ぎざぎざの黒いくるみの実を持ちながら、またさっきの方へ近よって行きました。左手の渚には、波がやさしい稲妻のように燃えて寄せ、右手の崖には、いちめん銀や貝殻でこさえたようなすすきの穂がゆれたのです。  だんだん近づいて見ると、一人のせいの高い、ひどい近眼鏡をかけ、長靴をはいた学者らしい人が、手帳に何かせわしそうに書きつけながら、つるはしをふりあげたり、スコップをつかったりしている、三人の助手らしい人たちに夢中でいろいろ指図をしていました。 「そこのその突起をこわさないように、スコップを使いたまえ、スコップを。おっと、も少し遠くから掘って。いけない、いけない、なぜそんな乱暴をするんだ」  見ると、その白い柔らかな岩の中から、大きな大きな青じろい獣の骨が、横に倒れてつぶれたというふうになって、半分以上掘り出されていました。そして気をつけて見ると、そこらには、蹄の二つある足跡のついた岩が、四角に十ばかり、きれいに切り取られて番号がつけられてありました。 「君たちは参観かね」その大学士らしい人が、眼鏡をきらっとさせて、こっちを見て話しかけました。 「くるみがたくさんあったろう。それはまあ、ざっと百二十|万年ぐらい前のくるみだよ。ごく新しい方さ。ここは百二十|万年前、第三紀のあとのころは海岸でね、この下からは貝がらも出る。いま川の流れているとこに、そっくり塩水が寄せたり引いたりもしていたのだ。このけものかね、これはボスといってね、おいおい、そこ、つるはしはよしたまえ。ていねいに鑿でやってくれたまえ。ボスといってね、いまの牛の先祖で、昔はたくさんいたのさ」 「標本にするんですか」 「いや、証明するに要るんだ。ぼくらからみると、ここは厚い立派な地層で、百二十|万年ぐらい前にできたという証拠もいろいろあがるけれども、ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層に見えるかどうか、あるいは風か水や、がらんとした空かに見えやしないかということなのだ。わかったかい。けれども、おいおい、そこもスコップではいけない。そのすぐ下に肋骨が埋もれてるはずじゃないか」  大学士はあわてて走って行きました。 「もう時間だよ。行こう」カムパネルラが地図と腕時計とをくらべながら言いました。 「ああ、ではわたくしどもは失礼いたします」ジョバンニは、ていねいに大学士におじぎしました。 「そうですか。いや、さよなら」大学士は、また忙しそうに、あちこち歩きまわって監督をはじめました。  二人は、その白い岩の上を、一生けん命汽車におくれないように走りました。そしてほんとうに、風のように走れたのです。息も切れず膝もあつくなりませんでした。  こんなにしてかけるなら、もう世界じゅうだってかけれると、ジョバンニは思いました。  そして二人は、前のあの河原を通り、改札口の電燈がだんだん大きくなって、まもなく二人は、もとの車室の席にすわっていま行って来た方を、窓から見ていました。 八 鳥を捕る人 「ここへかけてもようございますか」  がさがさした、けれども親切そうな、大人の声が、二人のうしろで聞こえました。  それは、茶いろの少しぼろぼろの外套を着て、白い巾でつつんだ荷物を、二つに分けて肩に掛けた、赤髯のせなかのかがんだ人でした。 「ええ、いいんです」ジョバンニは、少し肩をすぼめてあいさつしました。その人は、ひげの中でかすかに微笑いながら荷物をゆっくり網棚にのせました。ジョバンニは、なにかたいへんさびしいようなかなしいような気がして、だまって正面の時計を見ていましたら、ずうっと前の方で、硝子の笛のようなものが鳴りました。汽車はもう、しずかにうごいていたのです。カムパネルラは、車室の天井を、あちこち見ていました。その一つのあかりに黒い甲虫がとまって、その影が大きく天井にうつっていたのです。赤ひげの人は、なにかなつかしそうにわらいながら、ジョバンニやカムパネルラのようすを見ていました。汽車はもうだんだん早くなって、すすきと川と、かわるがわる窓の外から光りました。  赤ひげの人が、少しおずおずしながら、二人に訊きました。 「あなた方は、どちらへいらっしゃるんですか」 「どこまでも行くんです」ジョバンニは、少しきまり悪そうに答えました。 「それはいいね。この汽車は、じっさい、どこまででも行きますぜ」 「あなたはどこへ行くんです」カムパネルラが、いきなり、喧嘩のようにたずねましたので、ジョバンニは思わずわらいました。すると、向こうの席にいた、とがった帽子をかぶり、大きな鍵を腰に下げた人も、ちらっとこっちを見てわらいましたので、カムパネルラも、つい顔を赤くして笑いだしてしまいました。ところがその人は別におこったでもなく、頬をぴくぴくしながら返事をしました。 「わっしはすぐそこで降ります。わっしは、鳥をつかまえる商売でね」 「何鳥ですか」 「鶴や雁です。さぎも白鳥もです」 「鶴はたくさんいますか」 「いますとも、さっきから鳴いてまさあ。聞かなかったのですか」 「いいえ」 「いまでも聞こえるじゃありませんか。そら、耳をすまして聴いてごらんなさい」  二人は眼を挙げ、耳をすましました。ごとごと鳴る汽車のひびきと、すすきの風との間から、ころんころんと水の湧くような音が聞こえて来るのでした。 「鶴、どうしてとるんですか」 「鶴ですか、それとも鷺ですか」 「鷺です」ジョバンニは、どっちでもいいと思いながら答えました。 「そいつはな、雑作ない。さぎというものは、みんな天の川の砂が凝って、ぼおっとできるもんですからね、そして始終川へ帰りますからね、川原で待っていて、鷺がみんな、脚をこういうふうにしておりてくるとこを、そいつが地べたへつくかつかないうちに、ぴたっと押えちまうんです。するともう鷺は、かたまって安心して死んじまいます。あとはもう、わかり切ってまさあ。押し葉にするだけです」 「鷺を押し葉にするんですか。標本ですか」 「標本じゃありません。みんなたべるじゃありませんか」 「おかしいねえ」カムパネルラが首をかしげました。 「おかしいも不審もありませんや。そら」その男は立って、網棚から包みをおろして、手ばやくくるくると解きました。 「さあ、ごらんなさい。いまとって来たばかりです」 「ほんとうに鷺だねえ」二人は思わず叫びました。まっ白な、あのさっきの北の十字架のように光る鷺のからだが、十ばかり、少しひらべったくなって、黒い脚をちぢめて、浮彫りのようにならんでいたのです。 「眼をつぶってるね」カムパネルラは、指でそっと、鷺の三日月がたの白いつぶった眼にさわりました。頭の上の槍のような白い毛もちゃんとついていました。 「ね、そうでしょう」鳥捕りは風呂敷を重ねて、またくるくると包んで紐でくくりました。誰がいったいここらで鷺なんぞたべるだろうとジョバンニは思いながら訊きました。 「鷺はおいしいんですか」 「ええ、毎日|注文があります。しかし雁の方が、もっと売れます。雁の方がずっと柄がいいし、第一手数がありませんからな。そら」鳥捕りは、また別の方の包みを解きました。すると黄と青じろとまだらになって、なにかのあかりのようにひかる雁が、ちょうどさっきの鷺のように、くちばしをそろえて、少しひらべったくなって、ならんでいました。 「こっちはすぐたべられます。どうです、少しおあがりなさい」鳥捕りは、黄いろの雁の足を、軽くひっぱりました。するとそれは、チョコレートででもできているように、すっときれいにはなれました。 「どうです。すこしたべてごらんなさい」鳥捕りは、それを二つにちぎってわたしました。ジョバンニは、ちょっとたべてみて、 とおもいながら、やっぱりぽくぽくそれをたべていました。 「も少しおあがりなさい」鳥捕りがまた包みを出しました。ジョバンニは、もっとたべたかったのですけれども、 「ええ、ありがとう」といって遠慮しましたら、鳥捕りは、こんどは向こうの席の、鍵をもった人に出しました。 「いや、商売ものをもらっちゃすみませんな」その人は、帽子をとりました。 「いいえ、どういたしまして。どうです、今年の渡り鳥の景気は」 「いや、すてきなもんですよ。一昨日の第二限ころなんか、なぜ燈台の灯を、規則以外に間させるかって、あっちからもこっちからも、電話で故障が来ましたが、なあに、こっちがやるんじゃなくて、渡り鳥どもが、まっ黒にかたまって、あかしの前を通るのですからしかたありませんや、わたしぁ、べらぼうめ、そんな苦情は、おれのとこへ持って来たってしかたがねえや、ばさばさのマントを着て脚と口との途方もなく細い大将へやれって、こう言ってやりましたがね、はっは」  すすきがなくなったために、向こうの野原から、ぱっとあかりが射して来ました。 「鷺の方はなぜ手数なんですか」カムパネルラは、さっきから、訊こうと思っていたのです。 「それはね、鷺をたべるには」鳥捕りは、こっちに向き直りました。「天の川の水あかりに、十日もつるしておくかね、そうでなけぁ、砂に三、四日うずめなけぁいけないんだ。そうすると、水銀がみんな蒸発して、たべられるようになるよ」 「こいつは鳥じゃない。ただのお菓子でしょう」やっぱりおなじことを考えていたとみえて、カムパネルラが、思い切ったというように、尋ねました。鳥捕りは、何かたいへんあわてたふうで、 「そうそう、ここで降りなけぁ」と言いながら、立って荷物をとったと思うと、もう見えなくなっていました。 「どこへ行ったんだろう」二人は顔を見合わせましたら、燈台守は、にやにや笑って、少し伸びあがるようにしながら、二人の横の窓の外をのぞきました。二人もそっちを見ましたら、たったいまの鳥捕りが、黄いろと青じろの、うつくしい燐光を出す、いちめんのかわらははこぐさの上に立って、まじめな顔をして両手をひろげて、じっとそらを見ていたのです。 「あすこへ行ってる。ずいぶん奇体だねえ。きっとまた鳥をつかまえるとこだねえ。汽車が走って行かないうちに、早く鳥がおりるといいな」と言ったとたん、がらんとした桔梗いろの空から、さっき見たような鷺が、まるで雪の降るように、ぎゃあぎゃあ叫びながら、いっぱいに舞いおりて来ました。するとあの鳥捕りは、すっかり注文通りだというようにほくほくして、両足をかっきり六十|度に開いて立って、鷺のちぢめて降りて来る黒い脚を両手で片っぱしから押えて、布の袋の中に入れるのでした。すると鷺は、蛍のように、袋の中でしばらく、青くぺかぺか光ったり消えたりしていましたが、おしまいとうとう、みんなぼんやり白くなって、眼をつぶるのでした。ところが、つかまえられる鳥よりは、つかまえられないで無事に天の川の砂の上に降りるものの方が多かったのです。それは見ていると、足が砂へつくや否や、まるで雪の解けるように、縮まってひらべったくなって、まもなく溶鉱炉から出た銅の汁のように、砂や砂利の上にひろがり、しばらくは鳥の形が、砂についているのでしたが、それも二、三|度明るくなったり暗くなったりしているうちに、もうすっかりまわりと同じいろになってしまうのでした。  鳥捕りは、二十|疋ばかり、袋に入れてしまうと、急に両手をあげて、兵隊が鉄砲弾にあたって、死ぬときのような形をしました。と思ったら、もうそこに鳥捕りの形はなくなって、かえって、 「ああせいせいした。どうもからだにちょうど合うほど稼いでいるくらい、いいことはありませんな」というききおぼえのある声が、ジョバンニの隣りにしました。見ると鳥捕りは、もうそこでとって来た鷺を、きちんとそろえて、一つずつ重ね直しているのでした。 「どうして、あすこから、いっぺんにここへ来たんですか」ジョバンニが、なんだかあたりまえのような、あたりまえでないような、おかしな気がして問いました。 「どうしてって、来ようとしたから来たんです。ぜんたいあなた方は、どちらからおいでですか」  ジョバンニは、すぐ返事をしようと思いましたけれども、さあ、ぜんたいどこから来たのか、もうどうしても考えつきませんでした。カムパネルラも、顔をまっ赤にして何か思い出そうとしているのでした。 「ああ、遠くからですね」鳥捕りは、わかったというように雑作なくうなずきました。 九 ジョバンニの切符 「もうここらは白鳥|区のおしまいです。ごらんなさい。あれが名高いアルビレオの観測所です」  窓の外の、まるで花火でいっぱいのような、あまの川のまん中に、黒い大きな建物が四|棟ばかり立って、その一つの平屋根の上に、眼もさめるような、青宝玉と黄玉の大きな二つのすきとおった球が、輪になってしずかにくるくるとまわっていました。黄いろのがだんだん向こうへまわって行って、青い小さいのがこっちへ進んで来、まもなく二つのはじは、重なり合って、きれいな緑いろの両面凸レンズのかたちをつくり、それもだんだん、まん中がふくらみだして、とうとう青いのは、すっかりトパーズの正面に来ましたので、緑の中心と黄いろな明るい環とができました。それがまただんだん横へ外れて、前のレンズの形を逆にくり返し、とうとうすっとはなれて、サファイアは向こうへめぐり、黄いろのはこっちへ進み、またちょうどさっきのようなふうになりました。銀河の、かたちもなく音もない水にかこまれて、ほんとうにその黒い測候所が、睡っているように、しずかによこたわったのです。 「あれは、水の速さをはかる器械です。水も……」鳥捕りが言いかけたとき、 「切符を拝見いたします」三人の席の横に、赤い帽子をかぶったせいの高い車掌が、いつかまっすぐに立っていて言いました。鳥捕りは、だまってかくしから、小さな紙きれを出しました。車掌はちょっと見て、すぐ眼をそらしてというように、指をうごかしながら、手をジョバンニたちの方へ出しました。 「さあ」ジョバンニは困って、もじもじしていましたら、カムパネルラはわけもないというふうで、小さな鼠いろの切符を出しました。ジョバンニは、すっかりあわててしまって、もしか上着のポケットにでも、はいっていたかとおもいながら、手を入れてみましたら、何か大きなたたんだ紙きれにあたりました。こんなものはいっていたろうかと思って、急いで出してみましたら、それは四つに折ったはがきぐらいの大さの緑いろの紙でした。車掌が手を出しているもんですからなんでもかまわない、やっちまえと思って渡しましたら、車掌はまっすぐに立ち直ってていねいにそれを開いて見ていました。そして読みながら上着のぼたんやなんかしきりに直したりしていましたし燈台看守も下からそれを熱心にのぞいていましたから、ジョバンニはたしかにあれは証明書か何かだったと考えて少し胸が熱くなるような気がしました。 「これは三|次空間の方からお持ちになったのですか」車掌がたずねました。 「なんだかわかりません」もう大丈夫だと安心しながらジョバンニはそっちを見あげてくつくつ笑いました。 「よろしゅうございます。南十字へ着きますのは、次の第三時ころになります」車掌は紙をジョバンニに渡して向こうへ行きました。  カムパネルラは、その紙切れが何だったか待ちかねたというように急いでのぞきこみました。ジョバンニも全く早く見たかったのです。ところがそれはいちめん黒い唐草のような模様の中に、おかしな十ばかりの字を印刷したもので、だまって見ているとなんだかその中へ吸い込まれてしまうような気がするのでした。すると鳥捕りが横からちらっとそれを見てあわてたように言いました。 「おや、こいつはたいしたもんですぜ。こいつはもう、ほんとうの天上へさえ行ける切符だ。天上どこじゃない、どこでもかってにあるける通行券です。こいつをお持ちになれぁ、なるほど、こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか、どこまででも行けるはずでさあ、あなた方たいしたもんですね」 「なんだかわかりません」ジョバンニが赤くなって答えながら、それをまたたたんでかくしに入れました。そしてきまりが悪いのでカムパネルラと二人、また窓の外をながめていましたが、その鳥捕りの時々たいしたもんだというように、ちらちらこっちを見ているのがぼんやりわかりました。 「もうじき鷲の停車場だよ」カムパネルラが向こう岸の、三つならんだ小さな青じろい三角標と、地図とを見くらべて言いました。  ジョバンニはなんだかわけもわからずに、にわかにとなりの鳥捕りがきのどくでたまらなくなりました。鷺をつかまえてせいせいしたとよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切符をびっくりしたように横目で見てあわててほめだしたり、そんなことを一々考えていると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持っているものでも食べるものでもなんでもやってしまいたい、もうこの人のほんとうの幸になるなら、自分があの光る天の川の河原に立って百年つづけて立って鳥をとってやってもいいというような気がして、どうしてももう黙っていられなくなりました。ほんとうにあなたのほしいものはいったい何ですかと訊こうとして、それではあんまり出し抜けだから、どうしようかと考えてふり返って見ましたら、そこにはもうあの鳥捕りがいませんでした。網棚の上には白い荷物も見えなかったのです。また窓の外で足をふんばってそらを見上げて鷺を捕るしたくをしているのかと思って、急いでそっちを見ましたが、外はいちめんのうつくしい砂子と白いすすきの波ばかり、あの鳥捕りの広いせなかもとがった帽子も見えませんでした。 「あの人どこへ行ったろう」カムパネルラもぼんやりそう言っていました。 「どこへ行ったろう。いったいどこでまたあうのだろう。僕はどうしても少しあの人に物を言わなかったろう」 「ああ、僕もそう思っているよ」 「僕はあの人が邪魔なような気がしたんだ。だから僕はたいへんつらい」ジョバンニはこんなへんてこな気もちは、ほんとうにはじめてだし、こんなこと今まで言ったこともないと思いました。 「なんだか苹果のにおいがする。僕いま苹果のことを考えたためだろうか」カムパネルラが不思議そうにあたりを見まわしました。 「ほんとうに苹果のにおいだよ。それから野茨のにおいもする」  ジョバンニもそこらを見ましたがやっぱりそれは窓からでもはいって来るらしいのでした。いま秋だから野茨の花のにおいのするはずはないとジョバンニは思いました。  そしたらにわかにそこに、つやつやした黒い髪の六つばかりの男の子が赤いジャケツのぼたんもかけず、ひどくびっくりしたような顔をして、がたがたふるえてはだしで立っていました。隣りには黒い洋服をきちんと着たせいの高い青年がいっぱいに風に吹かれているけやきの木のような姿勢で、男の子の手をしっかりひいて立っていました。 「あら、ここどこでしょう。まあ、きれいだわ」青年のうしろに、もひとり、十二ばかりの眼の茶いろな可愛らしい女の子が、黒い外套を着て青年の腕にすがって不思議そうに窓の外を見ているのでした。 「ああ、ここはランカシャイヤだ。いや、コンネクテカット州だ。いや、ああ、ぼくたちはそらへ来たのだ。わたしたちは天へ行くのです。ごらんなさい。あのしるしは天上のしるしです。もうなんにもこわいことありません。わたくしたちは神さまに召されているのです」黒服の青年はよろこびにかがやいてその女の子に言いました。けれどもなぜかまた額に深く皺を刻んで、それにたいへんつかれているらしく、無理に笑いながら男の子をジョバンニのとなりにすわらせました。それから女の子にやさしくカムパネルラのとなりの席を指さしました。女の子はすなおにそこへすわって、きちんと両手を組み合わせました。 「ぼく、おおねえさんのとこへ行くんだよう」腰掛けたばかりの男の子は顔を変にして燈台看守の向こうの席にすわったばかりの青年に言いました。青年はなんとも言えず悲しそうな顔をして、じっとその子の、ちぢれたぬれた頭を見ました。女の子は、いきなり両手を顔にあててしくしく泣いてしまいました。 「お父さんやきくよねえさんはまだいろいろお仕事があるのです。けれどももうすぐあとからいらっしゃいます。それよりも、おっかさんはどんなに永く待っていらっしゃったでしょう。わたしの大事なタダシはいまどんな歌をうたっているだろう、雪の降る朝にみんなと手をつないで、ぐるぐるにわとこのやぶをまわってあそんでいるだろうかと考えたり、ほんとうに待って心配していらっしゃるんですから、早く行って、おっかさんにお目にかかりましょうね」 「うん、だけど僕、船に乗らなけぁよかったなあ」 「ええ、けれど、ごらんなさい、そら、どうです、あの立派な川、ね、あすこはあの夏じゅう、ツィンクル、ツィンクル、リトル、スターをうたってやすむとき、いつも窓からぼんやり白く見えていたでしょう。あすこですよ。ね、きれいでしょう、あんなに光っています」  泣いていた姉もハンケチで眼をふいて外を見ました。青年は教えるようにそっと姉弟にまた言いました。 「わたしたちはもう、なんにもかなしいことないのです。わたしたちはこんないいとこを旅して、じき神さまのとこへ行きます。そこならもう、ほんとうに明るくてにおいがよくて立派な人たちでいっぱいです。そしてわたしたちの代わりにボートへ乗れた人たちは、きっとみんな助けられて、心配して待っているめいめいのお父さんやお母さんや自分のお家へやら行くのです。さあ、もうじきですから元気を出しておもしろくうたって行きましょう」青年は男の子のぬれたような黒い髪をなで、みんなを慰めながら、自分もだんだん顔いろがかがやいてきました。 「あなた方はどちらからいらっしゃったのですか。どうなすったのですか」  さっきの燈台看守がやっと少しわかったように青年にたずねました。青年はかすかにわらいました。 「いえ、氷山にぶっつかって船が沈みましてね、わたしたちはこちらのお父さんが急な用で二か月前、一足さきに本国へお帰りになったので、あとから発ったのです。私は大学へはいっていて、家庭教師にやとわれていたのです。ところがちょうど十二日目、今日か昨日のあたりです、船が氷山にぶっつかって一ぺんに傾きもう沈みかけました。月のあかりはどこかぼんやりありましたが、霧が非常に深かったのです。ところがボートは左舷の方|半分はもうだめになっていましたから、とてもみんなは乗り切らないのです。もうそのうちにも船は沈みますし、私は必死となって、どうか小さな人たちを乗せてくださいと叫びました。近くの人たちはすぐみちを開いて、そして子供たちのために祈ってくれました。けれどもそこからボートまでのところには、まだまだ小さな子どもたちや親たちやなんかいて、とても押しのける勇気がなかったのです。それでもわたくしはどうしてもこの方たちをお助けするのが私の義務だと思いましたから前にいる子供らを押しのけようとしました。けれどもまた、そんなにして助けてあげるよりはこのまま神の御前にみんなで行く方が、ほんとうにこの方たちの幸福だとも思いました。それからまた、その神にそむく罪はわたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげようと思いました。けれども、どうしても見ているとそれができないのでした。子どもらばかりのボートの中へはなしてやって、お母さんが狂気のようにキスを送りお父さんがかなしいのをじっとこらえてまっすぐに立っているなど、とてももう腸もちぎれるようでした。そのうち船はもうずんずん沈みますから、私たちはかたまって、もうすっかり覚悟して、この人たち二人を抱いて、浮かべるだけは浮かぼうと船の沈むのを待っていました。誰が投げたかライフヴイが一つ飛んで来ましたけれどもすべってずうっと向こうへ行ってしまいました。私は一生けん命で甲板の格子になったとこをはなして、三人それにしっかりとりつきました。どこからともなく三〇六番の声があがりました。たちまちみんなはいろいろな国語で一ぺんにそれをうたいました。そのときにわかに大きな音がして私たちは水に落ち、もう渦にはいったと思いながらしっかりこの人たちをだいて、それからぼうっとしたと思ったらもうここへ来ていたのです。この方たちのお母さんは一|昨年没くなられました。ええ、ボートはきっと助かったにちがいありません、なにせよほど熟練な水夫たちが漕いで、すばやく船からはなれていましたから」  そこらから小さな嘆息やいのりの声が聞こえジョバンニもカムパネルラもいままで忘れていたいろいろのことをぼんやり思い出して眼が熱くなりました。  ジョバンニは首をたれて、すっかりふさぎ込んでしまいました。 「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら、峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから」  燈台守がなぐさめていました。 「ああそうです。ただいちばんのさいわいに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです」  青年が祈るようにそう答えました。  そしてあの姉弟はもうつかれてめいめいぐったり席によりかかって睡っていました。さっきのあのはだしだった足にはいつか白い柔らかな靴をはいていたのです。  ごとごとごとごと汽車はきらびやかな燐光の川の岸を進みました。向こうの方の窓を見ると、野原はまるで幻燈のようでした。百も千もの大小さまざまの三角標、その大きなものの上には赤い点々をうった測量旗も見え、野原のはてはそれらがいちめん、たくさんたくさん集まってぼおっと青白い霧のよう、そこからか、またはもっと向こうからか、ときどきさまざまの形のぼんやりした狼煙のようなものが、かわるがわるきれいな桔梗いろのそらにうちあげられるのでした。じつにそのすきとおった奇麗な風は、ばらのにおいでいっぱいでした。 「いかがですか。こういう苹果はおはじめてでしょう」向こうの席の燈台看守がいつか黄金と紅でうつくしくいろどられた大きな苹果を落とさないように両手で膝の上にかかえていました。 「おや、どっから来たのですか。立派ですねえ。ここらではこんな苹果ができるのですか」青年はほんとうにびっくりしたらしく、燈台看守の両手にかかえられた一もりの苹果を、眼を細くしたり首をまげたりしながら、われを忘れてながめていました。 「いや、まあおとりください。どうか、まあおとりください」  青年は一つとってジョバンニたちの方をちょっと見ました。 「さあ、向こうの坊ちゃんがた。いかがですか。おとりください」  ジョバンニは坊ちゃんといわれたので、すこししゃくにさわってだまっていましたが、カムパネルラは、 「ありがとう」と言いました。  すると青年は自分でとって一つずつ二人に送ってよこしましたので、ジョバンニも立って、ありがとうと言いました。  燈台看守はやっと両腕があいたので、こんどは自分で一つずつ睡っている姉弟の膝にそっと置きました。 「どうもありがとう。どこでできるのですか。こんな立派な苹果は」  青年はつくづく見ながら言いました。 「この辺ではもちろん農業はいたしますけれどもたいていひとりでにいいものができるような約束になっております。農業だってそんなにほねはおれはしません。たいてい自分の望む種子さえ播けばひとりでにどんどんできます。米だってパシフィック辺のように殻もないし十|倍も大きくてにおいもいいのです。けれどもあなたがたのいらっしゃる方なら農業はもうありません。苹果だってお菓子だって、かすが少しもありませんから、みんなそのひとそのひとによってちがった、わずかのいいかおりになって毛あなからちらけてしまうのです」  にわかに男の子がばっちり眼をあいて言いました。 「ああぼくいまお母さんの夢をみていたよ。お母さんがね、立派な戸棚や本のあるとこにいてね、ぼくの方を見て手をだしてにこにこにこにこわらったよ。ぼく、おっかさん。りんごをひろってきてあげましょうか、と言ったら眼がさめちゃった。ああここ、さっきの汽車のなかだねえ」 「その苹果がそこにあります。このおじさんにいただいたのですよ」青年が言いました。 「ありがとうおじさん。おや、かおるねえさんまだねてるねえ、ぼくおこしてやろう。ねえさん。ごらん、りんごをもらったよ。おきてごらん」  姉はわらって眼をさまし、まぶしそうに両手を眼にあてて、それから苹果を見ました。  男の子はまるでパイをたべるように、もうそれをたべていました。またせっかくむいたそのきれいな皮も、くるくるコルク抜きのような形になって床へ落ちるまでの間にはすうっと、灰いろに光って蒸発してしまうのでした。  二人はりんごをたいせつにポケットにしまいました。  川下の向こう岸に青く茂った大きな林が見え、その枝には熟してまっ赤に光るまるい実がいっぱい、その林のまん中に高い高い三角標が立って、森の中からはオーケストラベルやジロフォンにまじってなんとも言えずきれいな音いろが、とけるように浸みるように風につれて流れて来るのでした。  青年はぞくっとしてからだをふるうようにしました。  だまってその譜を聞いていると、そこらにいちめん黄いろや、うすい緑の明るい野原か敷物かがひろがり、またまっ白な蝋のような露が太陽の面をかすめて行くように思われました。 「まあ、あの烏」カムパネルラのとなりの、かおると呼ばれた女の子が叫びました。 「からすでない。みんなかささぎだ」カムパネルラがまた何気なくしかるように叫びましたので、ジョバンニはまた思わず笑い、女の子はきまり悪そうにしました。まったく河原の青じろいあかりの上に、黒い鳥がたくさんたくさんいっぱいに列になってとまってじっと川の微光を受けているのでした。 「かささぎですねえ、頭のうしろのとこに毛がぴんと延びてますから」青年はとりなすように言いました。  向こうの青い森の中の三角標はすっかり汽車の正面に来ました。そのとき汽車のずうっとうしろの方から、あの聞きなれた三〇六番の讃美歌のふしが聞こえてきました。よほどの人数で合唱しているらしいのでした。青年はさっと顔いろが青ざめ、たって一ぺんそっちへ行きそうにしましたが思いかえしてまたすわりました。かおる子はハンケチを顔にあててしまいました。  ジョバンニまでなんだか鼻が変になりました。けれどもいつともなく誰ともなくその歌は歌い出されだんだんはっきり強くなりました。思わずジョバンニもカムパネルラもいっしょにうたいだしたのです。  そして青い橄欖の森が、見えない天の川の向こうにさめざめと光りながらだんだんうしろの方へ行ってしまい、そこから流れて来るあやしい楽器の音も、もう汽車のひびきや風の音にすりへらされてずうっとかすかになりました。 「あ、孔雀がいるよ。あ、孔雀がいるよ」 「あの森|琴の宿でしょう。あたしきっとあの森の中にむかしの大きなオーケストラの人たちが集まっていらっしゃると思うわ、まわりには青い孔雀やなんかたくさんいると思うわ」 「ええ、たくさんいたわ」女の子がこたえました。  ジョバンニはその小さく小さくなっていまはもう一つの緑いろの貝ぼたんのように見える森の上にさっさっと青じろく時々光ってその孔雀がはねをひろげたりとじたりする光の反射を見ました。 「そうだ、孔雀の声だってさっき聞こえた」カムパネルラが女の子に言いました。 「ええ、三十|疋ぐらいはたしかにいたわ」女の子が答えました。  ジョバンニはにわかになんとも言えずかなしい気がして思わず、 「カムパネルラ、ここからはねおりて遊んで行こうよ」とこわい顔をして言おうとしたくらいでした。  ところがそのときジョバンニは川下の遠くの方に不思議なものを見ました。それはたしかになにか黒いつるつるした細長いもので、あの見えない天の川の水の上に飛び出してちょっと弓のようなかたちに進んで、また水の中にかくれたようでした。おかしいと思ってまたよく気をつけていましたら、こんどはずっと近くでまたそんなことがあったらしいのでした。そのうちもうあっちでもこっちでも、その黒いつるつるした変なものが水から飛び出して、まるく飛んでまた頭から水へくぐるのがたくさん見えてきました。みんな魚のように川上へのぼるらしいのでした。 「まあ、なんでしょう。たあちゃん。ごらんなさい。まあたくさんだわね。なんでしょうあれ」  睡そうに眼をこすっていた男の子はびっくりしたように立ちあがりました。 「なんだろう」青年も立ちあがりました。 「まあ、おかしな魚だわ、なんでしょうあれ」 「海豚です」カムパネルラがそっちを見ながら答えました。 「海豚だなんてあたしはじめてだわ。けどここ海じゃないんでしょう」 「いるかは海にいるときまっていない」あの不思議な低い声がまたどこからかしました。  ほんとうにそのいるかのかたちのおかしいことは、二つのひれをちょうど両手をさげて不動の姿勢をとったようなふうにして水の中から飛び出して来て、うやうやしく頭を下にして不動の姿勢のまままた水の中へくぐって行くのでした。見えない天の川の水もそのときはゆらゆらと青い焔のように波をあげるのでした。 「いるかお魚でしょうか」女の子がカムパネルラにはなしかけました。男の子はぐったりつかれたように席にもたれて睡っていました。 「いるか、魚じゃありません。くじらと同じようなけだものです」カムパネルラが答えました。 「あなたくじら見たことあって」 「僕あります。くじら、頭と黒いしっぽだけ見えます。潮を吹くとちょうど本にあるようになります」 「くじらなら大きいわねえ」 「くじら大きいです。子供だっているかぐらいあります」 「そうよ、あたしアラビアンナイトで見たわ」姉は細い銀いろの指輪をいじりながらおもしろそうにはなししていました。  ジョバンニはまるでたまらないほどいらいらしながら、それでも堅く、唇を噛んでこらえて窓の外を見ていました。その窓の外には海豚のかたちももう見えなくなって川は二つにわかれました。そのまっくらな島のまん中に高い高いやぐらが一つ組まれて、その上に一人の寛い服を着て赤い帽子をかぶった男が立っていました。そして両手に赤と青の旗をもってそらを見上げて信号しているのでした。  ジョバンニが見ている間その人はしきりに赤い旗をふっていましたが、にわかに赤旗をおろしてうしろにかくすようにし、青い旗を高く高くあげてまるでオーケストラの指揮者のようにはげしく振りました。すると空中にざあっと雨のような音がして、何かまっくらなものが、いくかたまりもいくかたまりも鉄砲丸のように川の向こうの方へ飛んで行くのでした。ジョバンニは思わず窓からからだを半分出して、そっちを見あげました。美しい美しい桔梗いろのがらんとした空の下を、実に何万という小さな鳥どもが、幾組も幾組もめいめいせわしくせわしく鳴いて通って行くのでした。 「鳥が飛んで行くな」ジョバンニが窓の外で言いました。 「どら」カムパネルラもそらを見ました。  そのときあのやぐらの上のゆるい服の男はにわかに赤い旗をあげて狂気のようにふりうごかしました。するとぴたっと鳥の群れは通らなくなり、それと同時にぴしゃあんというつぶれたような音が川下の方で起こって、それからしばらくしいんとしました。と思ったらあの赤帽の信号手がまた青い旗をふって叫んでいたのです。 「いまこそわたれわたり鳥、いまこそわたれわたり鳥」その声もはっきり聞こえました。  それといっしょにまた幾万という鳥の群れがそらをまっすぐにかけたのです。二人の顔を出しているまん中の窓からあの女の子が顔を出して美しい頬をかがやかせながらそらを仰ぎました。 「まあ、この鳥、たくさんですわねえ、あらまあそらのきれいなこと」女の子はジョバンニにはなしかけましたけれどもジョバンニは生意気な、いやだいと思いながら、だまって口をむすんでそらを見あげていました。女の子は小さくほっと息をして、だまって席へ戻りました。カムパネルラがきのどくそうに窓から顔を引っ込めて地図を見ていました。 「あの人鳥へ教えてるんでしょうか」女の子がそっとカムパネルラにたずねました。 「わたり鳥へ信号してるんです。きっとどこからかのろしがあがるためでしょう」  カムパネルラが少しおぼつかなそうに答えました。そして車の中はしいんとなりました。ジョバンニはもう頭を引っ込めたかったのですけれども明るいとこへ顔を出すのがつらかったので、だまってこらえてそのまま立って口笛を吹いていました。  ジョバンニは熱って痛いあたまを両手で押えるようにして、そっちの方を見ました。  ジョバンニの眼はまた泪でいっぱいになり、天の川もまるで遠くへ行ったようにぼんやり白く見えるだけでした。  そのとき汽車はだんだん川からはなれて崖の上を通るようになりました。向こう岸もまた黒いいろの崖が川の岸を下流に下るにしたがって、だんだん高くなっていくのでした。そしてちらっと大きなとうもろこしの木を見ました。その葉はぐるぐるに縮れ葉の下にはもう美しい緑いろの大きな苞が赤い毛を吐いて真珠のような実もちらっと見えたのでした。それはだんだん数を増してきて、もういまは列のように崖と線路との間にならび、思わずジョバンニが窓から顔を引っ込めて向こう側の窓を見ましたときは、美しいそらの野原の地平線のはてまで、その大きなとうもろこしの木がほとんどいちめんに植えられて、さやさや風にゆらぎ、その立派なちぢれた葉のさきからは、まるでひるの間にいっぱい日光を吸った金剛石のように露がいっぱいについて、赤や緑やきらきら燃えて光っているのでした。カムパネルラが、 「あれとうもろこしだねえ」とジョバンニに言いましたけれども、ジョバンニはどうしても気持ちがなおりませんでしたから、ただぶっきらぼうに野原を見たまま、 「そうだろう」と答えました。  そのとき汽車はだんだんしずかになって、いくつかのシグナルとてんてつ器の灯を過ぎ、小さな停車場にとまりました。  その正面の青じろい時計はかっきり第二時を示し、風もなくなり汽車もうごかず、しずかなしずかな野原のなかにその振り子はカチッカチッと正しく時を刻んでいくのでした。  そしてまったくその振り子の音のたえまを遠くの遠くの野原のはてから、かすかなかすかな旋律が糸のように流れて来るのでした。 「新世界交響楽だわ」向こうの席の姉がひとりごとのようにこっちを見ながらそっと言いました。  全くもう車の中ではあの黒服の丈高い青年も誰もみんなやさしい夢を見ているのでした。  ジョバンニはまた手で顔を半分かくすようにして向こうの窓のそとを見つめていました。  すきとおった硝子のような笛が鳴って汽車はしずかに動きだし、カムパネルラもさびしそうに星めぐりの口笛を吹きました。 「ええ、ええ、もうこの辺はひどい高原ですから」  うしろの方で誰かとしよりらしい人の、いま眼がさめたというふうではきはき談している声がしました。 「とうもろこしだって棒で二尺も孔をあけておいてそこへ播かないとはえないんです」 「そうですか。川まではよほどありましょうかねえ」 「ええ、ええ、河までは二千|尺から六千|尺あります。もうまるでひどい峡谷になっているんです」  そうそうここはコロラドの高原じゃなかったろうか、ジョバンニは思わずそう思いました。  あの姉は弟を自分の胸によりかからせて睡らせながら黒い瞳をうっとりと遠くへ投げて何を見るでもなしに考え込んでいるのでしたし、カムパネルラはまださびしそうにひとり口笛を吹き、男の子はまるで絹で包んだ苹果のような顔いろをしてジョバンニの見る方を見ているのでした。  突然とうもろこしがなくなって巨きな黒い野原がいっぱいにひらけました。  新世界交響楽はいよいよはっきり地平線のはてから湧き、そのまっ黒な野原のなかを一人のインデアンが白い鳥の羽根を頭につけ、たくさんの石を腕と胸にかざり、小さな弓に矢をつがえていちもくさんに汽車を追って来るのでした。 「あら、インデアンですよ。インデアンですよ。おねえさまごらんなさい」  黒服の青年も眼をさましました。  ジョバンニもカムパネルラも立ちあがりました。 「走って来るわ、あら、走って来るわ。追いかけているんでしょう」 「いいえ、汽車を追ってるんじゃないんですよ。猟をするか踊るかしてるんですよ」  青年はいまどこにいるか忘れたというふうにポケットに手を入れて立ちながら言いました。  まったくインデアンは半分は踊っているようでした。第一かけるにしても足のふみようがもっと経済もとれ本気にもなれそうでした。にわかにくっきり白いその羽根は前の方へ倒れるようになり、インデアンはぴたっと立ちどまって、すばやく弓を空にひきました。そこから一|羽の鶴がふらふらと落ちて来て、また走り出したインデアンの大きくひろげた両手に落ちこみました。インデアンはうれしそうに立ってわらいました。そしてその鶴をもってこっちを見ている影も、もうどんどん小さく遠くなり、電しんばしらの碍子がきらっきらっと続いて二つばかり光って、またとうもろこしの林になってしまいました。こっち側の窓を見ますと汽車はほんとうに高い高い崖の上を走っていて、その谷の底には川がやっぱり幅ひろく明るく流れていたのです。 「ええ、もうこの辺から下りです。なんせこんどは一ぺんにあの水面までおりて行くんですから容易じゃありません。この傾斜があるもんですから汽車は決して向こうからこっちへは来ないんです。そら、もうだんだん早くなったでしょう」さっきの老人らしい声が言いました。  どんどんどんどん汽車は降りて行きました。崖のはじに鉄道がかかるときは川が明るく下にのぞけたのです。ジョバンニはだんだんこころもちが明るくなってきました。汽車が小さな小屋の前を通って、その前にしょんぼりひとりの子供が立ってこっちを見ているときなどは思わず、ほう、と叫びました。  どんどんどんどん汽車は走って行きました。室中のひとたちは半分うしろの方へ倒れるようになりながら腰掛にしっかりしがみついていました。ジョバンニは思わずカムパネルラとわらいました。もうそして天の川は汽車のすぐ横手をいままでよほど激しく流れて来たらしく、ときどきちらちら光ってながれているのでした。うすあかい河原なでしこの花があちこち咲いていました。汽車はようやく落ち着いたようにゆっくり走っていました。  向こうとこっちの岸に星のかたちとつるはしを書いた旗がたっていました。 「あれなんの旗だろうね」ジョバンニがやっとものを言いました。 「さあ、わからないねえ、地図にもないんだもの。鉄の舟がおいてあるねえ」 「ああ」 「橋を架けるとこじゃないんでしょうか」女の子が言いました。 「ああ、あれ工兵の旗だねえ。架橋演習をしてるんだ。けれど兵隊のかたちが見えないねえ」  その時|向こう岸ちかくの少し下流の方で、見えない天の川の水がぎらっと光って、柱のように高くはねあがり、どおとはげしい音がしました。 「発破だよ、発破だよ」カムパネルラはこおどりしました。  その柱のようになった水は見えなくなり、大きな鮭や鱒がきらっきらっと白く腹を光らせて空中にほうり出されてまるい輪を描いてまた水に落ちました。ジョバンニはもうはねあがりたいくらい気持ちが軽くなって言いました。 「空の工兵大隊だ。どうだ、鱒なんかがまるでこんなになってはねあげられたねえ。僕こんな愉快な旅はしたことない。いいねえ」 「あの鱒なら近くで見たらこれくらいあるねえ、たくさんさかないるんだな、この水の中に」 「小さなお魚もいるんでしょうか」女の子が談につり込まれて言いました。 「いるんでしょう。大きなのがいるんだから小さいのもいるんでしょう。けれど遠くだから、いま小さいの見えなかったねえ」ジョバンニはもうすっかり機嫌が直っておもしろそうにわらって女の子に答えました。 「あれきっと双子のお星さまのお宮だよ」男の子がいきなり窓の外をさして叫びました。  右手の低い丘の上に小さな水晶ででもこさえたような二つのお宮がならんで立っていました。 「双子のお星さまのお宮ってなんだい」 「あたし前になんべんもお母さんから聞いたわ。ちゃんと小さな水晶のお宮で二つならんでいるからきっとそうだわ」 「はなしてごらん。双子のお星さまが何をしたっての」 「ぼくも知ってらい。双子のお星さまが野原へ遊びにでて、からすと喧嘩したんだろう」 「そうじゃないわよ。あのね、天の川の岸にね、おっかさんお話しなすったわ、……」 「それから彗星がギーギーフーギーギーフーて言って来たねえ」 「いやだわ、たあちゃん、そうじゃないわよ。それはべつの方だわ」 「するとあすこにいま笛を吹いているんだろうか」 「いま海へ行ってらあ」 「いけないわよ。もう海からあがっていらっしゃったのよ」 「そうそう。ぼく知ってらあ、ぼくおはなししよう」  川の向こう岸がにわかに赤くなりました。  楊の木や何かもまっ黒にすかし出され、見えない天の川の波も、ときどきちらちら針のように赤く光りました。まったく向こう岸の野原に大きなまっ赤な火が燃され、その黒いけむりは高く桔梗いろのつめたそうな天をも焦がしそうでした。ルビーよりも赤くすきとおり、リチウムよりもうつくしく酔ったようになって、その火は燃えているのでした。 「あれはなんの火だろう。あんな赤く光る火は何を燃やせばできるんだろう」ジョバンニが言いました。 「蠍の火だな」カムパネルラがまた地図と首っぴきして答えました。 「あら、蠍の火のことならあたし知ってるわ」 「蠍の火ってなんだい」ジョバンニがききました。 「蠍がやけて死んだのよ。その火がいまでも燃えてるって、あたし何べんもお父さんから聴いたわ」 「蠍って、虫だろう」 「ええ、蠍は虫よ。だけどいい虫だわ」 「蠍いい虫じゃないよ。僕博物館でアルコールにつけてあるの見た。尾にこんなかぎがあってそれで螫されると死ぬって先生が言ってたよ」 「そうよ。だけどいい虫だわ、お父さんこう言ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきの蠍がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見つかって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命にげてにげたけど、とうとういたちに押えられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないで、さそりはおぼれはじめたのよ。そのときさそりはこう言ってお祈りしたというの。  ああ、わたしはいままで、いくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだを、だまっていたちにくれてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらんください。こんなにむなしく命をすてず、どうかこの次には、まことのみんなの幸のために私のからだをおつかいください。って言ったというの。  そしたらいつか蠍はじぶんのからだが、まっ赤なうつくしい火になって燃えて、よるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さんおっしゃったわ。ほんとうにあの火、それだわ」 「そうだ。見たまえ。そこらの三角標はちょうどさそりの形にならんでいるよ」  ジョバンニはまったくその大きな火の向こうに三つの三角標が、ちょうどさそりの腕のように、こっちに五つの三角標がさそりの尾やかぎのようにならんでいるのを見ました。そしてほんとうにそのまっ赤なうつくしいさそりの火は音なくあかるくあかるく燃えたのです。  その火がだんだんうしろの方になるにつれて、みんなはなんとも言えずにぎやかな、さまざまの楽の音や草花のにおいのようなもの、口笛や人々のざわざわ言う声やらを聞きました。それはもうじきちかくに町か何かがあって、そこにお祭りでもあるというような気がするのでした。 「ケンタウル露をふらせ」いきなりいままで睡っていたジョバンニのとなりの男の子が向こうの窓を見ながら叫んでいました。  ああそこにはクリスマストリイのようにまっ青な唐檜かもみの木がたって、その中にはたくさんのたくさんの豆電燈がまるで千の蛍でも集まったようについていました。 「ああ、そうだ、今夜ケンタウル祭だねえ」 「ああ、ここはケンタウルの村だよ」カムパネルラがすぐ言いました。 「ボール投げなら僕決してはずさない」  男の子が大いばりで言いました。 「もうじきサウザンクロスです。おりるしたくをしてください」青年がみんなに言いました。 「僕、も少し汽車に乗ってるんだよ」男の子が言いました。  カムパネルラのとなりの女の子はそわそわ立ってしたくをはじめましたけれどもやっぱりジョバンニたちとわかれたくないようなようすでした。 「ここでおりなけぁいけないのです」青年はきちっと口を結んで男の子を見おろしながら言いました。 「厭だい。僕もう少し汽車へ乗ってから行くんだい」  ジョバンニがこらえかねて言いました。 「僕たちといっしょに乗って行こう。僕たちどこまでだって行ける切符持ってるんだ」 「だけどあたしたち、もうここで降りなけぁいけないのよ。ここ天上へ行くとこなんだから」  女の子がさびしそうに言いました。 「天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなけぁいけないって僕の先生が言ったよ」 「だっておっ母さんも行ってらっしゃるし、それに神さまがおっしゃるんだわ」 「そんな神さまうその神さまだい」 「あなたの神さまうその神さまよ」 「そうじゃないよ」 「あなたの神さまってどんな神さまですか」青年は笑いながら言いました。 「ぼくほんとうはよく知りません。けれどもそんなんでなしに、ほんとうのたった一人の神さまです」 「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です」 「ああ、そんなんでなしに、たったひとりのほんとうのほんとうの神さまです」 「だからそうじゃありませんか。わたくしはあなた方がいまにそのほんとうの神さまの前に、わたくしたちとお会いになることを祈ります」青年はつつましく両手を組みました。  女の子もちょうどその通りにしました。みんなほんとうに別れが惜しそうで、その顔いろも少し青ざめて見えました。ジョバンニはあぶなく声をあげて泣き出そうとしました。 「さあもうしたくはいいんですか。じきサウザンクロスですから」  ああそのときでした。見えない天の川のずうっと川下に青や橙や、もうあらゆる光でちりばめられた十字架が、まるで一本の木というふうに川の中から立ってかがやき、その上には青じろい雲がまるい環になって後光のようにかかっているのでした。汽車の中がまるでざわざわしました。みんなあの北の十字のときのようにまっすぐに立ってお祈りをはじめました。あっちにもこっちにも子供が瓜に飛びついたときのようなよろこびの声や、なんとも言いようない深いつつましいためいきの音ばかりきこえました。そしてだんだん十字架は窓の正面になり、あの苹果の肉のような青じろい環の雲も、ゆるやかにゆるやかに繞っているのが見えました。 「ハレルヤ、ハレルヤ」明るくたのしくみんなの声はひびき、みんなはそのそらの遠くから、つめたいそらの遠くから、すきとおったなんとも言えずさわやかなラッパの声をききました。そしてたくさんのシグナルや電燈の灯のなかを汽車はだんだんゆるやかになり、とうとう十字架のちょうどま向かいに行ってすっかりとまりました。 「さあ、おりるんですよ」青年は男の子の手をひき姉は互いにえりや肩をなおしてやってだんだん向こうの出口の方へ歩き出しました。 「じゃさよなら」女の子がふりかえって二人に言いました。 「さよなら」ジョバンニはまるで泣き出したいのをこらえておこったようにぶっきらぼうに言いました。  女の子はいかにもつらそうに眼を大きくして、も一|度こっちをふりかえって、それからあとはもうだまって出て行ってしまいました。汽車の中はもう半分以上も空いてしまいにわかにがらんとして、さびしくなり風がいっぱいに吹き込みました。  そして見ているとみんなはつつましく列を組んで、あの十字架の前の天の川のなぎさにひざまずいていました。そしてその見えない天の川の水をわたって、ひとりのこうごうしい白いきものの人が手をのばしてこっちへ来るのを二人は見ました。けれどもそのときはもう硝子の呼び子は鳴らされ汽車はうごきだし、と思ううちに銀いろの霧が川下の方から、すうっと流れて来て、もうそっちは何も見えなくなりました。ただたくさんのくるみの木が葉をさんさんと光らしてその霧の中に立ち、黄金の円光をもった電気栗鼠が可愛い顔をその中からちらちらのぞいているだけでした。  そのとき、すうっと霧がはれかかりました。どこかへ行く街道らしく小さな電燈の一列についた通りがありました。それはしばらく線路に沿って進んでいました。そして二人がそのあかしの前を通って行くときは、その小さな豆いろの火はちょうどあいさつでもするようにぽかっと消え、二人が過ぎて行くときまた点くのでした。  ふりかえって見ると、さっきの十字架はすっかり小さくなってしまい、ほんとうにもうそのまま胸にもつるされそうになり、さっきの女の子や青年たちがその前の白い渚にまだひざまずいているのか、それともどこか方角もわからないその天上へ行ったのか、ぼんやりして見分けられませんでした。  ジョバンニは、ああ、と深く息しました。 「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでもいっしょに行こう。僕はもう、あのさそりのように、ほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」 「うん。僕だってそうだ」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。 「けれどもほんとうのさいわいはいったいなんだろう」  ジョバンニが言いました。 「僕わからない」カムパネルラがぼんやり言いました。 「僕たちしっかりやろうねえ」ジョバンニが胸いっぱい新しい力が湧くように、ふうと息をしながら言いました。 「あ、あすこ石炭袋だよ。そらの孔だよ」カムパネルラが少しそっちを避けるようにしながら天の川のひととこを指さしました。  ジョバンニはそっちを見て、まるでぎくっとしてしまいました。天の川の一とこに大きなまっくらな孔が、どおんとあいているのです。その底がどれほど深いか、その奥に何があるか、いくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えず、ただ眼がしんしんと痛むのでした。ジョバンニが言いました。 「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たちいっしょに進んで行こう」 「ああきっと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集まってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっ、あすこにいるのはぼくのお母さんだよ」  カムパネルラはにわかに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫びました。  ジョバンニもそっちを見ましたけれども、そこはぼんやり白くけむっているばかり、どうしてもカムパネルラが言ったように思われませんでした。  なんとも言えずさびしい気がして、ぼんやりそっちを見ていましたら、向こうの河岸に二本の電信ばしらが、ちょうど両方から腕を組んだように赤い腕木をつらねて立っていました。 「カムパネルラ、僕たちいっしょに行こうねえ」ジョバンニがこう言いながらふりかえって見ましたら、そのいままでカムパネルラのすわっていた席に、もうカムパネルラの形は見えず、ただ黒いびろうどばかりひかっていました。  ジョバンニはまるで鉄砲丸のように立ちあがりました。そして誰にも聞こえないように窓の外へからだを乗り出して、力いっぱいはげしく胸をうって叫び、それからもう咽喉いっぱい泣きだしました。  もうそこらが一ぺんにまっくらになったように思いました。そのとき、 「おまえはいったい何を泣いているの。ちょっとこっちをごらん」いままでたびたび聞こえた、あのやさしいセロのような声が、ジョバンニのうしろから聞こえました。  ジョバンニは、はっと思って涙をはらってそっちをふり向きました、さっきまでカムパネルラのすわっていた席に黒い大きな帽子をかぶった青白い顔のやせた大人が、やさしくわらって大きな一|冊の本をもっていました。 「おまえのともだちがどこかへ行ったのだろう。あのひとはね、ほんとうにこんや遠くへ行ったのだ。おまえはもうカムパネルラをさがしてもむだだ」 「ああ、どうしてなんですか。ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐに行こうと言ったんです」 「ああ、そうだ。みんながそう考える。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまえがあうどんなひとでも、みんな何べんもおまえといっしょに苹果をたべたり汽車に乗ったりしたのだ。だからやっぱりおまえはさっき考えたように、あらゆるひとのいちばんの幸福をさがし、みんなといっしょに早くそこに行くがいい、そこでばかりおまえはほんとうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ」 「ああぼくはきっとそうします。ぼくはどうしてそれをもとめたらいいでしょう」 「ああわたくしもそれをもとめている。おまえはおまえの切符をしっかりもっておいで。そして一しんに勉強しなけぁいけない。おまえは化学をならったろう、水は酸素と水素からできているということを知っている。いまはたれだってそれを疑やしない。実験してみるとほんとうにそうなんだから。けれども昔はそれを水銀と塩でできていると言ったり、水銀と硫黄でできていると言ったりいろいろ議論したのだ。みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだというだろう、けれどもお互いほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだろう。そして勝負がつかないだろう。けれども、もしおまえがほんとうに勉強して実験でちゃんとほんとうの考えと、うその考えとを分けてしまえば、その実験の方法さえきまれば、もう信仰も化学と同じようになる。けれども、ね、ちょっとこの本をごらん、いいかい、これは地理と歴史の辞典だよ。この本のこの頁はね、紀元前二千二百年の地理と歴史が書いてある。よくごらん、紀元前二千二百年のことでないよ、紀元前二千二百年のころにみんなが考えていた地理と歴史というものが書いてある。  だからこの頁一つが一|冊の地歴の本にあたるんだ。いいかい、そしてこの中に書いてあることは紀元前二千二百年ころにはたいてい本当だ。さがすと証拠もぞくぞく出ている。けれどもそれが少しどうかなとこう考えだしてごらん、そら、それは次の頁だよ。  紀元前一千年。だいぶ、地理も歴史も変わってるだろう。このときにはこうなのだ。変な顔をしてはいけない。ぼくたちはぼくたちのからだだって考えだって、天の川だって汽車だって歴史だって、ただそう感じているのなんだから、そらごらん、ぼくといっしょにすこしこころもちをしずかにしてごらん。いいか」  そのひとは指を一本あげてしずかにそれをおろしました。するといきなりジョバンニは自分というものが、じぶんの考えというものが、汽車やその学者や天の川や、みんないっしょにぽかっと光って、しいんとなくなって、ぽかっとともってまたなくなって、そしてその一つがぽかっとともると、あらゆる広い世界ががらんとひらけ、あらゆる歴史がそなわり、すっと消えると、もうがらんとした、ただもうそれっきりになってしまうのを見ました。だんだんそれが早くなって、まもなくすっかりもとのとおりになりました。 「さあいいか。だからおまえの実験は、このきれぎれの考えのはじめから終わりすべてにわたるようでなければいけない。それがむずかしいことなのだ。けれども、もちろんそのときだけのでもいいのだ。ああごらん、あすこにプレシオスが見える。おまえはあのプレシオスの鎖を解かなければならない」  そのときまっくらな地平線の向こうから青じろいのろしが、まるでひるまのようにうちあげられ、汽車の中はすっかり明るくなりました。そしてのろしは高くそらにかかって光りつづけました。 「ああマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのために、みんなのために、ほんとうのほんとうの幸福をさがすぞ」  ジョバンニは唇を噛んで、そのマジェランの星雲をのぞんで立ちました。そのいちばん幸福なそのひとのために! 「さあ、切符をしっかり持っておいで。お前はもう夢の鉄道の中でなしにほんとうの世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐに歩いて行かなければいけない。天の川のなかでたった一つの、ほんとうのその切符を決しておまえはなくしてはいけない」  あのセロのような声がしたと思うとジョバンニは、あの天の川がもうまるで遠く遠くなって風が吹き自分はまっすぐに草の丘に立っているのを見、また遠くからあのブルカニロ博士の足おとのしずかに近づいて来るのをききました。 「ありがとう。私はたいへんいい実験をした。私はこんなしずかな場所で遠くから私の考えを人に伝える実験をしたいとさっき考えていた。お前の言った語はみんな私の手帳にとってある。さあ帰っておやすみ。お前は夢の中で決心したとおりまっすぐに進んで行くがいい。そしてこれからなんでもいつでも私のとこへ相談においでなさい」 「僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんとうの幸福を求めます」ジョバンニは力強く言いました。 「ああではさよなら。これはさっきの切符です」  博士は小さく折った緑いろの紙をジョバンニのポケットに入れました。そしてもうそのかたちは天気輪の柱の向こうに見えなくなっていました。  ジョバンニはまっすぐに走って丘をおりました。  そしてポケットがたいへん重くカチカチ鳴るのに気がつきました。林の中でとまってそれをしらべてみましたら、あの緑いろのさっき夢の中で見たあやしい天の切符の中に大きな二|枚の金貨が包んでありました。 「博士ありがとう、おっかさん。すぐ乳をもって行きますよ」  ジョバンニは叫んでまた走りはじめました。何かいろいろのものが一ぺんにジョバンニの胸に集まってなんとも言えずかなしいような新しいような気がするのでした。  琴の星がずうっと西の方へ移ってそしてまた夢のように足をのばしていました。  ジョバンニは眼をひらきました。もとの丘の草の中につかれてねむっていたのでした。胸はなんだかおかしく熱り、頬にはつめたい涙がながれていました。  ジョバンニはばねのようにはね起きました。町はすっかりさっきの通りに下でたくさんの灯を綴ってはいましたが、その光はなんだかさっきよりは熱したというふうでした。  そしてたったいま夢であるいた天の川もやっぱりさっきの通りに白くぼんやりかかり、まっ黒な南の地平線の上ではことにけむったようになって、その右には蠍座の赤い星がうつくしくきらめき、そらぜんたいの位置はそんなに変わってもいないようでした。  ジョバンニはいっさんに丘を走って下りました。まだ夕ごはんをたべないで待っているお母さんのことが胸いっぱいに思いだされたのです。どんどん黒い松の林の中を通って、それからほの白い牧場の柵をまわって、さっきの入口から暗い牛舎の前へまた来ました。そこには誰かがいま帰ったらしく、さっきなかった一つの車が何かの樽を二つ載っけて置いてありました。 「今晩は」ジョバンニは叫びました。 「はい」白い太いずぼんをはいた人がすぐ出て来て立ちました。 「なんのご用ですか」 「今日|牛乳がぼくのところへ来なかったのですが」 「あ、済みませんでした」その人はすぐ奥へ行って一本の牛乳瓶をもって来てジョバンニに渡しながら、また言いました。 「ほんとうに済みませんでした。今日はひるすぎ、うっかりしてこうしの柵をあけておいたもんですから、大将さっそく親牛のところへ行って半分ばかりのんでしまいましてね……」その人はわらいました。 「そうですか。ではいただいて行きます」 「ええ、どうも済みませんでした」 「いいえ」  ジョバンニはまだ熱い乳の瓶を両方のてのひらで包むようにもって牧場の柵を出ました。  そしてしばらく木のある町を通って大通りへ出てまたしばらく行きますとみちは十文字になって、その右手の方、通りのはずれにさっきカムパネルラたちのあかりを流しに行った川へかかった大きな橋のやぐらが夜のそらにぼんやり立っていました。  ところがその十字になった町かどや店の前に女たちが七、八人ぐらいずつ集まって橋の方を見ながら何かひそひそ談しているのです。それから橋の上にもいろいろなあかりがいっぱいなのでした。  ジョバンニはなぜかさあっと胸が冷たくなったように思いました。そしていきなり近くの人たちへ、 「何かあったんですか」と叫ぶようにききました。 「こどもが水へ落ちたんですよ」一人が言いますと、その人たちは一斉にジョバンニの方を見ました。ジョバンニはまるで夢中で橋の方へ走りました。橋の上は人でいっぱいで河が見えませんでした。白い服を着た巡査も出ていました。  ジョバンニは橋の袂から飛ぶように下の広い河原へおりました。  その河原の水ぎわに沿ってたくさんのあかりがせわしくのぼったり下ったりしていました。向こう岸の暗いどてにも火が七つ八つうごいていました。そのまん中をもう烏瓜のあかりもない川が、わずかに音をたてて灰いろにしずかに流れていたのでした。  河原のいちばん下流の方へ洲のようになって出たところに人の集まりがくっきりまっ黒に立っていました。ジョバンニはどんどんそっちへ走りました。するとジョバンニはいきなりさっきカムパネルラといっしょだったマルソに会いました。マルソがジョバンニに走り寄って言いました。 「ジョバンニ、カムパネルラが川へはいったよ」 「どうして、いつ」 「ザネリがね、舟の上から烏うりのあかりを水の流れる方へ押してやろうとしたんだ。そのとき舟がゆれたもんだから水へ落っこったろう。するとカムパネルラがすぐ飛びこんだんだ。そしてザネリを舟の方へ押してよこした。ザネリはカトウにつかまった。けれどもあとカムパネルラが見えないんだ」 「みんなさがしてるんだろう」 「ああ、すぐみんな来た。カムパネルラのお父さんも来た。けれども見つからないんだ。ザネリはうちへ連れられてった」  ジョバンニはみんなのいるそっちの方へ行きました。そこに学生たちや町の人たちに囲まれて青じろいとがったあごをしたカムパネルラのお父さんが黒い服を着てまっすぐに立って左手に時計を持ってじっと見つめていたのです。  みんなもじっと河を見ていました。誰も一言も物を言う人もありませんでした。ジョバンニはわくわくわくわく足がふるえました。魚をとるときのアセチレンランプがたくさんせわしく行ったり来たりして、黒い川の水はちらちら小さな波をたてて流れているのが見えるのでした。  下流の方の川はばいっぱい銀河が巨きく写って、まるで水のないそのままのそらのように見えました。  ジョバンニは、そのカムパネルラはもうあの銀河のはずれにしかいないというような気がしてしかたなかったのです。  けれどもみんなはまだ、どこかの波の間から、 「ぼくずいぶん泳いだぞ」と言いながらカムパネルラが出て来るか、あるいはカムパネルラがどこかの人の知らない洲にでも着いて立っていて誰かの来るのを待っているかというような気がしてしかたないらしいのでした。けれどもにわかにカムパネルラのお父さんがきっぱり言いました。 「もう駄目です。落ちてから四十五分たちましたから」  ジョバンニは思わずかけよって博士の前に立って、ぼくはカムパネルラの行った方を知っています、ぼくはカムパネルラといっしょに歩いていたのです、と言おうとしましたが、もうのどがつまってなんとも言えませんでした。すると博士はジョバンニがあいさつに来たとでも思ったものですか、しばらくしげしげジョバンニを見ていましたが、 「あなたはジョバンニさんでしたね。どうも今晩はありがとう」とていねいに言いました。  ジョバンニは何も言えずにただおじぎをしました。 「あなたのお父さんはもう帰っていますか」博士は堅く時計を握ったまま、またききました。 「いいえ」ジョバンニはかすかに頭をふりました。 「どうしたのかなあ、ぼくには一昨日たいへん元気な便りがあったんだが。今日あたりもう着くころなんだが。船が遅れたんだな。ジョバンニさん。あした放課後みなさんとうちへ遊びに来てくださいね」  そう言いながら博士はまた、川下の銀河のいっぱいにうつった方へじっと眼を送りました。  ジョバンニはもういろいろなことで胸がいっぱいで、なんにも言えずに博士の前をはなれて、早くお母さんに牛乳を持って行って、お父さんの帰ることを知らせようと思うと、もういちもくさんに河原を街の方へ走りました。      一  森  グスコーブドリは、イーハトーヴの大きな森のなかに生まれました。おとうさんは、グスコーナドリという名高い木こりで、どんな大きな木でも、まるで赤ん坊を寝かしつけるようにわけなく切ってしまう人でした。  ブドリにはネリという妹があって、二人は毎日森で遊びました。ごしっごしっとおとうさんの木を挽く音が、やっと聞こえるくらいな遠くへも行きました。二人はそこで木いちごの実をとってわき水につけたり、空を向いてかわるがわる山鳩の鳴くまねをしたりしました。するとあちらでもこちらでも、ぽう、ぽう、と鳥が眠そうに鳴き出すのでした。  おかあさんが、家の前の小さな畑に麦を播いているときは、二人はみちにむしろをしいてすわって、ブリキかんで蘭の花を煮たりしました。するとこんどは、もういろいろの鳥が、二人のぱさぱさした頭の上を、まるで挨拶するように鳴きながらざあざあざあざあ通りすぎるのでした。  ブドリが学校へ行くようになりますと、森はひるの間たいへんさびしくなりました。そのかわりひるすぎには、ブドリはネリといっしょに、森じゅうの木の幹に、赤い粘土や消し炭で、木の名を書いてあるいたり、高く歌ったりしました。  ホップのつるが、両方からのびて、門のようになっている白樺の木には、 「カッコウドリ、トオルベカラズ」と書いたりもしました。  そして、ブドリは十になり、ネリは七つになりました。ところがどういうわけですか、その年は、お日さまが春から変に白くて、いつもなら雪がとけるとまもなく、まっしろな花をつけるこぶしの木もまるで咲かず、五月になってもたびたび霙がぐしゃぐしゃ降り、七月の末になってもいっこうに暑さが来ないために、去年|播いた麦も粒の入らない白い穂しかできず、たいていの果物も、花が咲いただけで落ちてしまったのでした。  そしてとうとう秋になりましたが、やっぱり栗の木は青いからのいがばかりでしたし、みんなでふだんたべるいちばんたいせつなオリザという穀物も、一つぶもできませんでした。野原ではもうひどいさわぎになってしまいました。  ブドリのおとうさんもおかあさんも、たびたび薪を野原のほうへ持って行ったり、冬になってからは何べんも大きな木を町へそりで運んだりしたのでしたが、いつもがっかりしたようにして、わずかの麦の粉などもって帰ってくるのでした。それでもどうにかその冬は過ぎて次の春になり、畑にはたいせつにしまっておいた種も播かれましたが、その年もまたすっかり前の年のとおりでした。そして秋になると、とうとうほんとうの饑饉になってしまいました。もうそのころは学校へ来るこどももまるでありませんでした。ブドリのおとうさんもおかあさんも、すっかり仕事をやめていました。そしてたびたび心配そうに相談しては、かわるがわる町へ出て行って、やっとすこしばかりの黍の粒など持って帰ることもあれば、なんにも持たずに顔いろを悪くして帰ってくることもありました。そしてみんなは、こならの実や、葛やわらびの根や、木の柔らかな皮やいろんなものをたべて、その冬をすごしました。  けれども春が来たころは、おとうさんもおかあさんも、何かひどい病気のようでした。  ある日おとうさんは、じっと頭をかかえて、いつまでもいつまでも考えていましたが、にわかに起きあがって、 「おれは森へ行って遊んでくるぞ。」と言いながら、よろよろ家を出て行きましたが、まっくらになっても帰って来ませんでした。二人がおかあさんに、おとうさんはどうしたろうときいても、おかあさんはだまって二人の顔を見ているばかりでした。  次の日の晩方になって、森がもう黒く見えるころ、おかあさんはにわかに立って、炉に榾をたくさんくべて家じゅうすっかり明るくしました。それから、わたしはおとうさんをさがしに行くから、お前たちはうちにいてあの戸棚にある粉を二人ですこしずつたべなさいと言って、やっぱりよろよろ家を出て行きました。二人が泣いてあとから追って行きますと、おかあさんはふり向いて、 「なんたらいうことをきかないこどもらだ。」としかるように言いました。  そしてまるで足早に、つまずきながら森へはいってしまいました。二人は何べんも行ったり来たりして、そこらを泣いて回りました。とうとうこらえ切れなくなって、まっくらな森の中へはいって、いつかのホップの門のあたりや、わき水のあるあたりをあちこちうろうろ歩きながら、おかあさんを一晩呼びました。森の木の間からは、星がちらちら何か言うようにひかり、鳥はたびたびおどろいたように暗の中を飛びましたけれども、どこからも人の声はしませんでした。とうとう二人はぼんやり家へ帰って中へはいりますと、まるで死んだように眠ってしまいました。  ブドリが目をさましたのは、その日のひるすぎでした。  おかあさんの言った粉のことを思い出して戸棚をあけて見ますと、なかには、袋に入れたそば粉やこならの実がまだたくさんはいっていました。ブドリはネリをゆり起こして二人でその粉をなめ、おとうさんたちがいたときのように炉に火をたきました。  それから、二十日ばかりぼんやり過ぎましたら、ある日戸口で、 「今日は、だれかいるかね。」と言うものがありました。おとうさんが帰って来たのかと思って、ブドリがはね出して見ますと、それは籠をしょった目の鋭い男でした。その男は籠の中から丸い餅をとり出してぽんと投げながら言いました。 「私はこの地方の飢饉を助けに来たものだ。さあなんでも食べなさい。」二人はしばらくあきれていましたら、 「さあ食べるんだ、食べるんだ。」とまた言いました。二人がこわごわたべはじめますと、男はじっと見ていましたが、 「お前たちはいい子供だ。けれどもいい子供だというだけではなんにもならん。わしといっしょについておいで。もっとも男の子は強いし、わしも二人はつれて行けない。おい女の子、おまえはここにいてももうたべるものがないんだ。おじさんといっしょに町へ行こう。毎日パンを食べさしてやるよ。」そしてぷいっとネリを抱きあげて、せなかの籠へ入れて、そのまま、 「おおほいほい。おおほいほい。」とどなりながら、風のように家を出て行きました。ネリはおもてではじめてわっと泣き出し、ブドリは、 「どろぼう、どろぼう。」と泣きながら叫んで追いかけましたが、男はもう森の横を通ってずうっと向こうの草原を走っていて、そこからネリの泣き声が、かすかにふるえて聞こえるだけでした。  ブドリは、泣いてどなって森のはずれまで追いかけて行きましたが、とうとう疲れてばったり倒れてしまいました。      二 てぐす工場  ブドリがふっと目をひらいたとき、いきなり頭の上で、いやに平べったい声がしました。 「やっと目がさめたな。まだお前は飢饉のつもりかい。起きておれに手伝わないか。」見るとそれは茶いろなきのこしゃっぽをかぶって外套にすぐシャツを着た男で、何か針金でこさえたものをぶらぶら持っているのでした。 「もう飢饉は過ぎたの? 手伝えって何を手伝うの?」  ブドリがききました。 「網掛けさ。」 「ここへ網を掛けるの?」 「掛けるのさ。」 「網をかけて何にするの?」 「てぐすを飼うのさ。」見るとすぐブドリの前の栗の木に、二人の男がはしごをかけてのぼっていて、一生けん命何か網を投げたり、それを操ったりしているようでしたが、網も糸もいっこう見えませんでした。 「あれでてぐすが飼えるの?」 「飼えるのさ。うるさいこどもだな。おい、縁起でもないぞ。てぐすも飼えないところにどうして工場なんか建てるんだ。飼えるともさ。現におれをはじめたくさんのものが、それでくらしを立てているんだ。」  ブドリはかすれた声で、やっと、 「そうですか。」と言いました。 「それにこの森は、すっかりおれが買ってあるんだから、ここで手伝うならいいが、そうでもなければどこかへ行ってもらいたいな。もっともお前はどこへ行ったって食うものもなかろうぜ。」  ブドリは泣き出しそうになりましたが、やっとこらえて言いました。 「そんなら手伝うよ。けれどもどうして網をかけるの?」 「それはもちろん教えてやる。こいつをね。」男は、手に持った針金の籠のようなものを両手で引き伸ばしました。 「いいか。こういう具合にやるとはしごになるんだ。」  男は大またに右手の栗の木に歩いて行って、下の枝に引っ掛けました。 「さあ、今度はおまえが、この網をもって上へのぼって行くんだ。さあ、のぼってごらん。」  男は変なまりのようなものをブドリに渡しました。ブドリはしかたなくそれをもってはしごにとりついて登って行きましたが、はしごの段々がまるで細くて手や足に食いこんでちぎれてしまいそうでした。 「もっと登るんだ。もっと、もっとさ。そしたらさっきのまりを投げてごらん。栗の木を越すようにさ。そいつを空へ投げるんだよ。なんだい、ふるえてるのかい。いくじなしだなあ。投げるんだよ。投げるんだよ。そら、投げるんだよ。」  ブドリはしかたなく力いっぱいにそれを青空に投げたと思いましたら、にわかにお日さまがまっ黒に見えて逆しまに下へおちました。そしていつか、その男に受けとめられていたのでした。男はブドリを地面におろしながらぶりぶりおこり出しました。 「お前もいくじのないやつだ。なんというふにゃふにゃだ。おれが受け止めてやらなかったらお前は今ごろは頭がはじけていたろう。おれはお前の命の恩人だぞ。これからは、失礼なことを言ってはならん。ところで、さあ、こんどはあっちの木へ登れ。も少したったらごはんもたべさせてやるよ。」男はまたブドリへ新しいまりを渡しました。ブドリははしごをもって次の木へ行ってまりを投げました。 「よし、なかなかじょうずになった。さあ、まりはたくさんあるぞ。なまけるな。木も栗の木ならどれでもいいんだ。」  男はポケットから、まりを十ばかり出してブドリに渡すと、すたすた向こうへ行ってしまいました。ブドリはまた三つばかりそれを投げましたが、どうしても息がはあはあして、からだがだるくてたまらなくなりました。もう家へ帰ろうと思って、そっちへ行って見ますと、おどろいたことには、家にはいつか赤い土管の煙突がついて、戸口には、「イーハトーヴてぐす工場」という看板がかかっているのでした。そして中からたばこをふかしながら、さっきの男が出て来ました。 「さあこども、たべものをもってきてやったぞ。これを食べて暗くならないうちにもう少しかせぐんだ。」 「ぼくはもういやだよ、うちへ帰るよ。」 「うちっていうのはあすこか。あすこはおまえのうちじゃない。おれのてぐす工場だよ。あの家もこの辺の森もみんなおれが買ってあるんだからな。」  ブドリはもうやけになって、だまってその男のよこした蒸しパンをむしゃむしゃたべて、またまりを十ばかり投げました。  その晩ブドリは、昔のじぶんのうち、いまはてぐす工場になっている建物のすみに、小さくなってねむりました。  さっきの男は、三四人の知らない人たちとおそくまで炉ばたで火をたいて、何か飲んだりしゃべったりしていました。次の朝早くから、ブドリは森に出て、きのうのようにはたらきました。  それから一月ばかりたって、森じゅうの栗の木に網がかかってしまいますと、てぐす飼いの男は、こんどは粟のようなものがいっぱいついた板きれを、どの木にも五六枚ずつつるさせました。そのうちに木は芽を出して森はまっ青になりました。すると、木につるした板きれから、たくさんの小さな青じろい虫が糸をつたって列になって枝へはいあがって行きました。  ブドリたちはこんどは毎日|薪とりをさせられました。その薪が、家のまわりに小山のように積み重なり、栗の木が青じろいひものかたちの花を枝いちめんにつけるころになりますと、あの板からはいあがって行った虫も、ちょうど栗の花のような色とかたちになりました。そして森じゅうの栗の葉は、まるで形もなくその虫に食い荒らされてしまいました。  それからまもなく、虫は大きな黄いろな繭を、網の目ごとにかけはじめました。  するとてぐす飼いの男は、狂気のようになって、ブドリたちをしかりとばして、その繭を籠に集めさせました。それをこんどは片っぱしから鍋に入れてぐらぐら煮て、手で車をまわしながら糸をとりました。夜も昼もがらがらがらがら三つの糸車をまわして糸をとりました。こうしてこしらえた黄いろな糸が小屋に半分ばかりたまったころ、外に置いた繭からは、大きな白い蛾がぽろぽろぽろぽろ飛びだしはじめました。てぐす飼いの男は、まるで鬼みたいな顔つきになって、じぶんも一生けん命糸をとりましたし、野原のほうからも四人の人を連れてきて働かせました。けれども蛾のほうは日ましに多く出るようになって、しまいには森じゅうまるで雪でも飛んでいるようになりました。するとある日、六七台の荷馬車が来て、いままでにできた糸をみんなつけて、町のほうへ帰りはじめました。みんなも一人ずつ荷馬車について行きました。いちばんしまいの荷馬車がたったとき、てぐす飼いの男が、ブドリに、 「おい、お前の来春まで食うくらいのものは家の中に置いてやるからな。それまでここで森と工場の番をしているんだぞ。」 と言って、変ににやにやしながら荷馬車についてさっさと行ってしまいました。  ブドリはぼんやりあとへ残りました。うちの中はまるできたなくてあらしのあとのようでしたし、森は荒れはてて山火事にでもあったようでした。ブドリが次の日、家のなかやまわりを片付けはじめましたら、てぐす飼いの男がいつもすわっていた所から古いボール紙の箱を見つけました。中には十冊ばかりの本がぎっしりはいっておりました。開いて見ると、てぐすの絵や機械の図がたくさんある、まるで読めない本もありましたし、いろいろな木や草の図と名前の書いてあるものもありました。  ブドリはいっしょうけんめい、その本のまねをして字を書いたり、図をうつしたりしてその冬を暮らしました。  春になりますと、またあの男が六七人のあたらしい手下を連れて、たいへん立派ななりをしてやって来ました。そして次の日からすっかり去年のような仕事がはじまりました。  そして網はみんなかかり、黄いろな板もつるされ、虫は枝にはい上がり、ブドリたちはまた、薪作りにかかることになりました。ある朝ブドリたちが薪をつくっていましたら、にわかにぐらぐらっと地震がはじまりました。それからずうっと遠くでどーんという音がしました。  しばらくたつと日が変にくらくなり、こまかな灰がばさばさばさばさ降って来て、森はいちめんにまっ白になりました。ブドリたちがあきれて木の下にしゃがんでいましたら、てぐす飼いの男がたいへんあわててやって来ました。 「おい、みんな、もうだめだぞ。噴火だ。噴火がはじまったんだ。てぐすはみんな灰をかぶって死んでしまった。みんな早く引き揚げてくれ。おい、ブドリ、お前ここにいたかったらいてもいいが、こんどはたべ物は置いてやらないぞ。それにここにいてもあぶないからな。お前も野原へ出て何かかせぐほうがいいぜ。」  そう言ったかと思うと、もうどんどん走って行ってしまいました。ブドリが工場へ行って見たときは、もうだれもおりませんでした。そこでブドリは、しょんぼりとみんなの足跡のついた白い灰をふんで野原のほうへ出て行きました。      三 沼ばたけ  ブドリは、いっぱいに灰をかぶった森の間を、町のほうへ半日歩きつづけました。灰は風の吹くたびに木からばさばさ落ちて、まるでけむりか吹雪のようでした。けれどもそれは野原へ近づくほど、だんだん浅く少なくなって、ついには木も緑に見え、みちの足跡も見えないくらいになりました。  とうとう森を出切ったとき、ブドリは思わず目をみはりました。野原は目の前から、遠くのまっしろな雲まで、美しい桃いろと緑と灰いろのカードでできているようでした。そばへ寄って見ると、その桃いろなのには、いちめんにせいの低い花が咲いていて、蜜蜂がいそがしく花から花をわたってあるいていましたし、緑いろなのには小さな穂を出して草がぎっしりはえ、灰いろなのは浅い泥の沼でした。そしてどれも、低い幅のせまい土手でくぎられ、人は馬を使ってそれを掘り起こしたりかき回したりしてはたらいていました。  ブドリがその間を、しばらく歩いて行きますと、道のまん中に二人の人が、大声で何かけんかでもするように言い合っていました。右側のほうのひげの赭い人が言いました。 「なんでもかんでも、おれは山師張るときめた。」  するとも一人の白い笠をかぶった、せいの高いおじいさんが言いました。 「やめろって言ったらやめるもんだ。そんなに肥料うんと入れて、藁はとれるたって、実は一粒もとれるもんでない。」 「うんにゃ、おれの見込みでは、ことしは今までの三年分暑いに相違ない。一年で三年分とって見せる。」 「やめろ。やめろ。やめろったら。」 「うんにゃ、やめない。花はみんな埋めてしまったから、こんどは豆玉を六十枚入れて、それから鶏の糞、百|駄入れるんだ。急がしったらなんの、こう忙しくなればささげのつるでもいいから手伝いに頼みたいもんだ。」  ブドリは思わず近寄っておじぎをしました。 「そんならぼくを使ってくれませんか。」  すると二人は、ぎょっとしたように顔をあげて、あごに手をあててしばらくブドリを見ていましたが、赤ひげがにわかに笑い出しました。 「よしよし。お前に馬の指竿とりを頼むからな。すぐおれについて行くんだ。それではまず、のるかそるか、秋まで見ててくれ。さあ行こう。ほんとに、ささげのつるでもいいから頼みたい時でな。」赤ひげは、ブドリとおじいさんにかわるがわる言いながら、さっさと先に立って歩きました。あとではおじいさんが、 「年寄りの言うこと聞かないで、いまに泣くんだな。」とつぶやきながら、しばらくこっちを見送っているようすでした。  それからブドリは、毎日毎日沼ばたけへはいって馬を使って泥をかき回しました。一日ごとに桃いろのカードも緑のカードもだんだんつぶされて、泥沼に変わるのでした。馬はたびたびぴしゃっと泥水をはねあげて、みんなの顔へ打ちつけました。一つの沼ばたけがすめばすぐ次の沼ばたけへはいるのでした。一日がとても長くて、しまいには歩いているのかどうかもわからなくなったり、泥が飴のような、水がスープのような気がしたりするのでした。風が何べんも吹いて来て、近くの泥水に魚のうろこのような波をたて、遠くの水をブリキいろにして行きました。そらでは、毎日甘くすっぱいような雲が、ゆっくりゆっくりながれていて、それがじつにうらやましそうに見えました。  こうして二十日ばかりたちますと、やっと沼ばたけはすっかりどろどろになりました。次の朝から主人はまるで気が立って、あちこちから集まって来た人たちといっしょに、その沼ばたけに緑いろの槍のようなオリザの苗をいちめん植えました。それが十日ばかりで済むと、今度はブドリたちを連れて、今まで手伝ってもらった人たちの家へ毎日働きにでかけました。それもやっと一まわり済むと、こんどはまたじぶんの沼ばたけへ戻って来て、毎日毎日草取りをはじめました。ブドリの主人の苗は大きくなってまるで黒いくらいなのに、となりの沼ばたけはぼんやりしたうすい緑いろでしたから、遠くから見ても、二人の沼ばたけははっきり境まで見わかりました。七日ばかりで草取りが済むとまたほかへ手伝いに行きました。  ところがある朝、主人はブドリを連れて、じぶんの沼ばたけを通りながら、にわかに「あっ」と叫んで棒立ちになってしまいました。見るとくちびるのいろまで水いろになって、ぼんやりまっすぐを見つめているのです。 「病気が出たんだ。」主人がやっと言いました。 「頭でも痛いんですか。」ブドリはききました。 「おれでないよ。オリザよ。それ。」主人は前のオリザの株を指さしました。ブドリはしゃがんでしらべてみますと。なるほどどの葉にも、いままで見たことのない赤い点々がついていました。主人はだまってしおしおと沼ばたけを一まわりしましたが、家へ帰りはじめました。ブドリも心配してついて行きますと、主人はだまって巾を水でしぼって、頭にのせると、そのまま板の間に寝てしまいました。するとまもなく、主人のおかみさんが表からかけ込んで来ました。 「オリザへ病気が出たというのはほんとうかい。」 「ああ、もうだめだよ。」 「どうにかならないのかい。」 「だめだろう。すっかり五年前のとおりだ。」 「だから、あたしはあんたに山師をやめろといったんじゃないか。おじいさんもあんなにとめたんじゃないか。」  おかみさんはおろおろ泣きはじめました。すると主人がにわかに元気になってむっくり起き上がりました。 「よし。イーハトーヴの野原で、指折り数えられる大百姓のおれが、こんなことで参るか。よし。来年こそやるぞ。ブドリ、おまえおれのうちへ来てから、まだ一晩も寝たいくらい寝たことがないな。さあ、五日でも十日でもいいから、ぐうというくらい寝てしまえ。おれはそのあとで、あすこの沼ばたけでおもしろい手品をやって見せるからな。その代わりことしの冬は、家じゅうそばばかり食うんだぞ。おまえそばはすきだろうが。」それから主人はさっさと帽子をかぶって外へ出て行ってしまいました。  ブドリは主人に言われたとおり納屋へはいって眠ろうと思いましたが、なんだかやっぱり沼ばたけが苦になってしかたないので、またのろのろそっちへ行って見ました。するといつ来ていたのか、主人がたった一人腕組みをして土手に立っておりました。見ると沼ばたけには水がいっぱいで、オリザの株は葉をやっと出しているだけ、上にはぎらぎら石油が浮かんでいるのでした。主人が言いました。 「いまおれ、この病気を蒸し殺してみるところだ。」 「石油で病気の種が死ぬんですか。」とブドリがききますと、主人は、 「頭から石油につけられたら人だって死ぬだ。」と言いながら、ほうと息を吸って首をちぢめました。その時、水下の沼ばたけの持ち主が、肩をいからして、息を切ってかけて来て、大きな声でどなりました。 「なんだって油など水へ入れるんだ。みんな流れて来て、おれのほうへはいってるぞ。」  主人は、やけくそに落ちついて答えました。 「なんだって油など水へ入れるったって、オリザへ病気がついたから、油など水へ入れるのだ。」 「なんだってそんならおれのほうへ流すんだ。」 「なんだってそんならおまえのほうへ流すったって、水は流れるから油もついて流れるのだ。」 「そんならなんだっておれのほうへ水こないように水口とめないんだ。」 「なんだっておまえのほうへ水行かないように水口とめないかったって、あすこはおれのみな口でないから水とめないのだ。」  となりの男は、かんかんおこってしまってもう物も言えず、いきなりがぶがぶ水へはいって、自分の水口に泥を積みあげはじめました。主人はにやりと笑いました。 「あの男むずかしい男でな。こっちで水をとめると、とめたといっておこるからわざと向こうにとめさせたのだ。あすこさえとめれば今夜じゅうに水はすっかり草の頭までかかるからな、さあ帰ろう。」主人はさきに立ってすたすた家へあるきはじめました。  次の朝ブドリはまた主人と沼ばたけへ行ってみました。主人は水の中から葉を一枚とってしきりにしらべていましたが、やっぱり浮かない顔でした。その次の日もそうでした。その次の日もそうでした。その次の日もそうでした。その次の朝、とうとう主人は決心したように言いました。 「さあブドリ、いよいよここへ蕎麦播きだぞ。おまえあすこへ行って、となりの水口こわして来い。」  ブドリは、言われたとおりこわして来ました。石油のはいった水は、恐ろしい勢いでとなりの田へ流れて行きます。きっとまたおこってくるなと思っていますと、ひるごろ例のとなりの持ち主が、大きな鎌をもってやってきました。 「やあ、なんだってひとの田へ石油ながすんだ。」  主人がまた、腹の底から声を出して答えました。 「石油ながれればなんだって悪いんだ。」 「オリザみんな死ぬでないか。」 「オリザみんな死ぬか、オリザみんな死なないか、まずおれの沼ばたけのオリザ見なよ。きょうで四日頭から石油かぶせたんだ。それでもちゃんとこのとおりでないか。赤くなったのは病気のためで、勢いのいいのは石油のためなんだ。おまえの所など、石油がただオリザの足を通るだけでないか。かえっていいかもしれないんだ。」 「石油こやしになるのか。」向こうの男は少し顔いろをやわらげました。 「石油こやしになるか、石油こやしにならないか知らないが、とにかく石油は油でないか。」 「それは石油は油だな。」男はすっかりきげんを直してわらいました。水はどんどん退き、オリザの株は見る見る根もとまで出て来ました。すっかり赤い斑ができて焼けたようになっています。 「さあおれの所ではもうオリザ刈りをやるぞ。」  主人は笑いながら言って、それからブドリといっしょに、片っぱしからオリザの株を刈り、跡へすぐ蕎麦を播いて土をかけて歩きました。そしてその年はほんとうに主人の言ったとおり、ブドリの家では蕎麦ばかり食べました。次の春になると主人が言いました。 「ブドリ、ことしは沼ばたけは去年よりは三分の一減ったからな、仕事はよほどらくだ。そのかわりおまえは、おれの死んだ息子の読んだ本をこれから一生けん命勉強して、いままでおれを山師だといってわらったやつらを、あっと言わせるような立派なオリザを作るくふうをしてくれ。」  そして、いろいろな本を一山ブドリに渡しました。ブドリは仕事のひまに片っぱしからそれを読みました。ことにその中の、クーボーという人の物の考え方を教えた本はおもしろかったので何べんも読みました。またその人が、イーハトーヴの市で一か月の学校をやっているのを知って、たいへん行って習いたいと思ったりしました。  そして早くもその夏、ブドリは大きな手柄をたてました。それは去年と同じころ、またオリザに病気ができかかったのを、ブドリが木の灰と食塩を使って食いとめたのでした。そして八月のなかばになると、オリザの株はみんなそろって穂を出し、その穂の一枝ごとに小さな白い花が咲き、花はだんだん水いろの籾にかわって、風にゆらゆら波をたてるようになりました。主人はもう得意の絶頂でした。来る人ごとに、 「なんの、おれも、オリザの山師で四年しくじったけれども、ことしは一度に四年分とれる。これもまたなかなかいいもんだ。」などと言って自慢するのでした。  ところがその次の年はそうは行きませんでした。植え付けのころからさっぱり雨が降らなかったために、水路はかわいてしまい、沼にはひびが入って、秋のとりいれはやっと冬じゅう食べるくらいでした。来年こそと思っていましたが、次の年もまた同じようなひでりでした。それからも、来年こそ来年こそと思いながら、ブドリの主人は、だんだんこやしを入れることができなくなり、馬も売り、沼ばたけもだんだん売ってしまったのでした。  ある秋の日、主人はブドリにつらそうに言いました。 「ブドリ、おれももとはイーハトーヴの大百姓だったし、ずいぶんかせいでも来たのだが、たびたびの寒さと旱魃のために、いまでは沼ばたけも昔の三分の一になってしまったし、来年はもう入れるこやしもないのだ。おれだけでない。来年こやしを買って入れれる人ったらもうイーハトーヴにも何人もないだろう。こういうあんばいでは、いつになっておまえにはたらいてもらった礼をするというあてもない。おまえも若い働き盛りを、おれのとこで暮らしてしまってはあんまり気の毒だから、済まないがどうかこれを持って、どこへでも行っていい運を見つけてくれ。」そして主人は、一ふくろのお金と新しい紺で染めた麻の服と赤皮の靴とをブドリにくれました。  ブドリはいままでの仕事のひどかったことも忘れてしまって、もう何もいらないから、ここで働いていたいとも思いましたが、考えてみると、いてもやっぱり仕事もそんなにないので、主人に何べんも何べんも礼を言って、六年の間はたらいた沼ばたけと主人に別れて、停車場をさして歩きだしました。      四 クーボー大博士  ブドリは二時間ばかり歩いて、停車場へ来ました。それから切符を買って、イーハトーヴ行きの汽車に乗りました。汽車はいくつもの沼ばたけをどんどんどんどんうしろへ送りながら、もう一散に走りました。その向こうには、たくさんの黒い森が、次から次と形を変えて、やっぱりうしろのほうへ残されて行くのでした。ブドリはいろいろな思いで胸がいっぱいでした。早くイーハトーヴの市に着いて、あの親切な本を書いたクーボーという人に会い、できるなら、働きながら勉強して、みんながあんなにつらい思いをしないで沼ばたけを作れるよう、また火山の灰だのひでりだの寒さだのを除くくふうをしたいと思うと、汽車さえまどろこくってたまらないくらいでした。汽車はその日のひるすぎ、イーハトーヴの市に着きました。停車場を一足出ますと、地面の底から、何かのんのんわくようなひびきやどんよりとしたくらい空気、行ったり来たりするたくさんの自動車に、ブドリはしばらくぼうとしてつっ立ってしまいました。やっと気をとりなおして、そこらの人にクーボー博士の学校へ行くみちをたずねました。するとだれへきいても、みんなブドリのあまりまじめな顔を見て、吹き出しそうにしながら、 「そんな学校は知らんね。」とか、 「もう五六丁行ってきいてみな。」とかいうのでした。そしてブドリがやっと学校をさがしあてたのはもう夕方近くでした。その大きなこわれかかった白い建物の二階で、だれか大きな声でしゃべっていました。 「今日は。」ブドリは高く叫びました。だれも出てきませんでした。 「今日はあ。」ブドリはあらん限り高く叫びました。するとすぐ頭の上の二階の窓から、大きな灰いろの顔が出て、めがねが二つぎらりと光りました。それから、 「今授業中だよ、やかましいやつだ。用があるならはいって来い。」とどなりつけて、すぐ顔を引っ込めますと、中ではおおぜいでどっと笑い、その人はかまわずまた何か大声でしゃべっています。  ブドリはそこで思い切って、なるべく足音をたてないように二階にあがって行きますと、階段のつき当たりの扉があいていて、じつに大きな教室が、ブドリのまっ正面にあらわれました。中にはさまざまの服装をした学生がぎっしりです。向こうは大きな黒い壁になっていて、そこにたくさんの白い線が引いてあり、さっきのせいの高い目がねをかけた人が、大きな櫓の形の模型をあちこち指さしながら、さっきのままの高い声で、みんなに説明しておりました。  ブドリはそれを一目見ると、ああこれは先生の本に書いてあった歴史の歴史ということの模型だなと思いました。先生は笑いながら、一つのとってを回しました。模型はがちっと鳴って奇体な船のような形になりました。またがちっととってを回すと、模型はこんどは大きなむかでのような形に変わりました。  みんなはしきりに首をかたむけて、どうもわからんというふうにしていましたが、ブドリにはただおもしろかったのです。 「そこでこういう図ができる。」先生は黒い壁へ別の込み入った図をどんどん書きました。  左手にもチョークをもって、さっさと書きました。学生たちもみんな一生けん命そのまねをしました。ブドリもふところから、いままで沼ばたけで持っていたきたない手帳を出して図を書きとりました。先生はもう書いてしまって、壇の上にまっすぐに立って、じろじろ学生たちの席を見まわしています。ブドリも書いてしまって、その図を縦横から見ていますと、ブドリのとなりで一人の学生が、 「あああ。」とあくびをしました。ブドリはそっとききました。 「ね、この先生はなんて言うんですか。」  すると学生はばかにしたように鼻でわらいながら答えました。 「クーボー大博士さ、お前知らなかったのかい。」それからじろじろブドリのようすを見ながら、 「はじめから、この図なんか書けるもんか。ぼくでさえ同じ講義をもう六年もきいているんだ。」 と言って、じぶんのノートをふところへしまってしまいました。その時教室に、ぱっと電燈がつきました。もう夕方だったのです。大博士が向こうで言いました。 「いまや夕べははるかにきたり、拙講もまた全課をおえた。諸君のうちの希望者は、けだしいつもの例により、そのノートをば拙者に示し、さらに数箇の試問を受けて、所属を決すべきである。」学生たちはわあと叫んで、みんなばたばたノートをとじました。それからそのまま帰ってしまうものが大部分でしたが、五六十人は一列になって大博士の前をとおりながらノートを開いて見せるのでした。すると大博士はそれをちょっと見て、一言か二言質問をして、それから白墨でえりへ、「合」とか、「再来」とか、「奮励」とか書くのでした。学生はその間、いかにも心配そうに首をちぢめているのでしたが、それからそっと肩をすぼめて廊下まで出て、友だちにそのしるしを読んでもらって、よろこんだりしょげたりするのでした。  ぐんぐん試験が済んで、いよいよブドリ一人になりました。ブドリがその小さなきたない手帳を出したとき、クーボー大博士は大きなあくびをやりながら、かがんで目をぐっと手帳につけるようにしましたので、手帳はあぶなく大博士に吸い込まれそうになりました。  ところが大博士は、うまそうにこくっと一つ息をして、「よろしい。この図は非常に正しくできている。そのほかのところは、なんだ。ははあ、沼ばたけのこやしのことに、馬のたべ物のことかね。では問題に答えなさい。工場の煙突から出るけむりには、どういう色の種類があるか。」  ブドリは思わず大声に答えました。 「黒、褐、黄、灰、白、無色。それからこれらの混合です。」  大博士はわらいました。 「無色のけむりはたいへんいい。形について言いたまえ。」 「無風で煙が相当あれば、たての棒にもなりますが、さきはだんだんひろがります。雲の非常に低い日は、棒は雲までのぼって行って、そこから横にひろがります。風のある日は、棒は斜めになりますが、その傾きは風の程度に従います。波やいくつもきれになるのは、風のためにもよりますが、一つはけむりや煙突のもつ癖のためです。あまり煙の少ないときは、コルク抜きの形にもなり、煙も重いガスがまじれば、煙突の口から房になって、一方ないし四方におちることもあります。」  大博士はまたわらいました。 「よろしい。きみはどういう仕事をしているのか。」 「仕事をみつけに来たんです。」 「おもしろい仕事がある。名刺をあげるから、そこへすぐ行きなさい。」博士は名刺をとり出して、何かするする書き込んでブドリにくれました。ブドリはおじぎをして、戸口を出て行こうとしますと、大博士はちょっと目で答えて、 「なんだ、ごみを焼いてるのかな。」と低くつぶやきながら、テーブルの上にあった鞄に、白墨のかけらや、はんけちや本や、みんないっしょに投げ込んで小わきにかかえ、さっき顔を出した窓から、プイッと外へ飛び出しました。びっくりしてブドリが窓へかけよって見ますと、いつか大博士は玩具のような小さな飛行船に乗って、じぶんでハンドルをとりながら、もううす青いもやのこめた町の上を、まっすぐに向こうへ飛んでいるのでした。ブドリがいよいよあきれて見ていますと、まもなく大博士は、向こうの大きな灰いろの建物の平屋根に着いて、船を何かかぎのようなものにつなぐと、そのままぽろっと建物の中へはいって見えなくなってしまいました。      五 イーハトーヴ火山局  ブドリが、クーボー大博士からもらった名刺のあて名をたずねて、やっと着いたところは大きな茶いろの建物で、うしろには房のような形をした高い柱が夜のそらにくっきり白く立っておりました。ブドリは玄関に上がって呼び鈴を押しますと、すぐ人が出て来て、ブドリの出した名刺を受け取り、一目見ると、すぐブドリを突き当たりの大きな室へ案内しました。  そこにはいままでに見たこともないような大きなテーブルがあって、そのまん中に一人の少し髪の白くなった人のよさそうな立派な人が、きちんとすわって耳に受話器をあてながら何か書いていました。そしてブドリのはいって来たのを見ると、すぐ横の椅子を指さしながら、また続けて何か書きつけています。  その室の右手の壁いっぱいに、イーハトーヴ全体の地図が、美しく色どった大きな模型に作ってあって、鉄道も町も川も野原もみんな一目でわかるようになっており、そのまん中を走るせぼねのような山脈と、海岸に沿って縁をとったようになっている山脈、またそれから枝を出して海の中に点々の島をつくっている一列の山々には、みんな赤や橙や黄のあかりがついていて、それがかわるがわる色が変わったりジーと蝉のように鳴ったり、数字が現われたり消えたりしているのです。下の壁に添った棚には、黒いタイプライターのようなものが三列に百でもきかないくらい並んで、みんなしずかに動いたり鳴ったりしているのでした。ブドリがわれを忘れて見とれておりますと、その人が受話器をことっと置いて、ふところから名刺入れを出して、一枚の名刺をブドリに出しながら「あなたが、グスコーブドリ君ですか。私はこういうものです。」と言いました。見ると、〔イーハトーヴ火山局技師ペンネンナーム〕と書いてありました。その人はブドリの挨拶になれないでもじもじしているのを見ると、重ねて親切に言いました。 「さっきクーボー博士から電話があったのでお待ちしていました。まあこれから、ここで仕事をしながらしっかり勉強してごらんなさい。ここの仕事は、去年はじまったばかりですが、じつに責任のあるもので、それに半分はいつ噴火するかわからない火山の上で仕事するものなのです。それに火山の癖というものは、なかなか学問でわかることではないのです。われわれはこれからよほどしっかりやらなければならんのです。では今晩はあっちにあなたの泊まるところがありますから、そこでゆっくりお休みなさい。あしたこの建物じゅうをすっかり案内しますから。」  次の朝、ブドリはペンネン老技師に連れられて、建物のなかを一々つれて歩いてもらい、さまざまの機械やしかけを詳しく教わりました。その建物のなかのすべての器械はみんなイーハトーヴじゅうの三百幾つかの活火山や休火山に続いていて、それらの火山の煙や灰を噴いたり、熔岩を流したりしているようすはもちろん、みかけはじっとしている古い火山でも、その中の熔岩やガスのもようから、山の形の変わりようまで、みんな数字になったり図になったりして、あらわれて来るのでした。そしてはげしい変化のあるたびに、模型はみんな別々の音で鳴るのでした。  ブドリはその日からベンネン老技師について、すべての器械の扱い方や観測のしかたを習い、夜も昼も一心に働いたり勉強したりしました。そして二年ばかりたちますと、ブドリはほかの人たちといっしょにあちこちの火山へ器械を据え付けに出されたり、据え付けてある器械の悪くなったのを修繕にやられたりもするようになりましたので、もうブドリにはイーハトーヴの三百幾つの火山と、その働き具合は掌の中にあるようにわかって来ました。  じつにイーハトーヴには、七十幾つの火山が毎日煙をあげたり、熔岩を流したりしているのでしたし、五十幾つかの休火山は、いろいろなガスを噴いたり、熱い湯を出したりしていました。そして残りの百六七十の死火山のうちにも、いつまた何をはじめるかわからないものもあるのでした。  ある日ブドリが老技師とならんで仕事をしておりますと、にわかにサンムトリという南のほうの海岸にある火山が、むくむく器械に感じ出して来ました。老技師が叫びました。 「ブドリ君。サンムトリは、けさまで何もなかったね。」 「はい、いままでサンムトリのはたらいたのを見たことがありません。」 「ああ、これはもう噴火が近い。けさの地震が刺激したのだ。この山の北十キロのところにはサンムトリの市がある。今度爆発すれば、たぶん山は三分の一、北側をはねとばして、牛やテーブルぐらいの岩は熱い灰やガスといっしょに、どしどしサンムトリ市におちてくる。どうでも今のうちに、この海に向いたほうへボーリングを入れて傷口をこさえて、ガスを抜くか熔岩を出させるかしなければならない。今すぐ二人で見に行こう。」二人はすぐにしたくして、サンムトリ行きの汽車に乗りました。      六 サンムトリ火山  二人は次の朝、サンムトリの市に着き、ひるごろサンムトリ火山の頂近く、観測器械を置いてある小屋に登りました。そこは、サンムトリ山の古い噴火口の外輪山が、海のほうへ向いて欠けた所で、その小屋の窓からながめますと、海は青や灰いろの幾つもの縞になって見え、その中を汽船は黒いけむりを吐き、銀いろの水脈を引いていくつもすべっているのでした。  老技師はしずかにすべての観測機を調べ、それからブドリに言いました。 「きみはこの山はあと何日ぐらいで噴火すると思うか。」 「一月はもたないと思います。」 「一月はもたない。もう十日ももたない。早く工作してしまわないと、取り返しのつかないことになる。私はこの山の海に向いたほうでは、あすこがいちばん弱いと思う。」老技師は山腹の谷の上のうす緑の草地を指さしました。そこを雲の影がしずかに青くすべっているのでした。 「あすこには熔岩の層が二つしかない。あとは柔らかな火山灰と火山礫の層だ。それにあすこまでは牧場の道も立派にあるから、材料を運ぶことも造作ない。ぼくは工作隊を申請しよう。」  老技師は忙しく局へ発信をはじめました。その時足の下では、つぶやくようなかすかな音がして、観測小屋はしばらくぎしぎしきしみました。老技師は器械をはなれました。 「局からすぐ工作隊を出すそうだ。工作隊といっても半分決死隊だ。私はいままでに、こんな危険に迫った仕事をしたことがない。」 「十日のうちにできるでしょうか。」 「きっとできる。装置には三日、サンムトリ市の発電所から、電線を引いてくるには五日かかるな。」  技師はしばらく指を折って考えていましたが、やがて安心したようにまたしずかに言いました。 「とにかくブドリ君。一つ茶をわかして飲もうではないか。あんまりいい景色だから。」  ブドリは持って来たアルコールランプに火を入れて、茶をわかしはじめました。空にはだんだん雲が出て、それに日ももう落ちたのか、海はさびしい灰いろに変わり、たくさんの白い波がしらは、いっせいに火山のすそに寄せて来ました。  ふとブドリはすぐ目の前に、いつか見たことのあるおかしな形の小さな飛行船が飛んでいるのを見つけました。老技師もはねあがりました。 「あ、クーボー君がやって来た。」ブドリも続いて小屋をとび出しました。飛行船はもう小屋の左側の大きな岩の壁の上にとまって、中からせいの高いクーボー大博士がひらりと飛びおりていました。博士はしばらくその辺の岩の大きなさけ目をさがしていましたが、やっとそれを見つけたと見えて、手早くねじをしめて飛行船をつなぎました。 「お茶をよばれに来たよ。ゆれるかい。」大博士はにやにやわらって言いました。老技師が答えました。 「まだそんなでない。けれども、どうも岩がぼろぼろ上から落ちているらしいんだ。」  ちょうどその時、山はにわかにおこったように鳴り出し、ブドリは目の前が青くなったように思いました。山はぐらぐら続けてゆれました。見るとクーボー大博士も老技師もしゃがんで岩へしがみついていましたし、飛行船も大きな波に乗った船のようにゆっくりゆれておりました。  地震はやっとやみ、クーボー大博士は起きあがってすたすたと小屋へはいって行きました。中ではお茶がひっくり返って、アルコールが青くぽかぽか燃えていました。クーボー大博士は器械をすっかり調べて、それから老技師といろいろ話しました。そしてしまいに言いました。 「もうどうしても、来年は潮汐発電所を全部作ってしまわなければならない。それができれば今度のような場合にもその日のうちに仕事ができるし、ブドリ君が言っている沼ばたけの肥料も降らせられるんだ。」 「旱魃だってちっともこわくなくなるからな。」ペンネン技師も言いました。ブドリは胸がわくわくしました。山まで踊りあがっているように思いました。じっさい山は、その時はげしくゆれ出して、ブドリは床へ投げ出されていたのです。大博士が言いました。 「やるぞ、やるぞ。いまのはサンムトリの市へも、かなり感じたにちがいない。」  老技師が言いました。 「今のはぼくらの足もとから、北へ一キロばかり、地表下七百メートルぐらいの所で、この小屋の六七十倍ぐらいの岩の塊が熔岩の中へ落ち込んだらしいのだ。ところがガスがいよいよ最後の岩の皮をはね飛ばすまでには、そんな塊を百も二百も、じぶんのからだの中にとらなければならない。」  大博士はしばらく考えていましたが、 「そうだ、僕はこれで失敬しよう。」と言って小屋を出て、いつかひらりと船に乗ってしまいました。老技師とブドリは、大博士があかりを二三度振って挨拶しながら、山をまわって向こうへ行くのを見送ってまた小屋にはいり、かわるがわる眠ったり観測したりしました。そして明け方ふもとへ工作隊がつきますと、老技師はブドリを一人小屋に残して、きのう指さしたあの草地まで降りて行きました。みんなの声や、鉄の材料の触れ合う音は、下から風の吹き上げるときは、手にとるように聞こえました。ペンネン技師からはひっきりなしに、向こうの仕事の進み具合も知らせてよこし、ガスの圧力や山の形の変わりようも尋ねて来ました。それから三日の間は、はげしい地震や地鳴りのなかで、ブドリのほうもふもとのほうもほとんど眠るひまさえありませんでした。その四日目の午前、老技師からの発信が言って来ました。 「ブドリ君だな。すっかりしたくができた。急いで降りてきたまえ。観測の器械は一ぺん調べてそのままにして、表は全部持ってくるのだ。もうその小屋はきょうの午後にはなくなるんだから。」  ブドリはすっかり言われたとおりにして山を降りて行きました。そこにはいままで局の倉庫にあった大きな鉄材が、すっかり櫓に組み立っていて、いろいろな器械はもう電流さえ来ればすぐに働き出すばかりになっていました。ペンネン技師の頬はげっそり落ち、工作隊の人たちも青ざめて目ばかり光らせながら、それでもみんな笑ってブドリに挨拶しました。  老技師が言いました。 「では引き上げよう。みんなしたくして車に乗りたまえ。」みんなは大急ぎで二十台の自動車に乗りました。車は列になって山のすそを一散にサンムトリの市に走りました。ちょうど山と市とのまん中どこで、技師は自動車をとめさせました。「ここへ天幕を張りたまえ。そしてみんなで眠るんだ。」みんなは、物をひとことも言えずに、そのとおりにして倒れるようにねむってしまいました。その午後、老技師は受話器を置いて叫びました。 「さあ電線は届いたぞ。ブドリ君、始めるよ。」老技師はスイッチを入れました。ブドリたちは、天幕の外に出て、サンムトリの中腹を見つめました。野原には、白百合がいちめんに咲き、その向こうにサンムトリが青くひっそり立っていました。  にわかにサンムトリの左のすそがぐらぐらっとゆれ、まっ黒なけむりがぱっと立ったと思うとまっすぐに天までのぼって行って、おかしなきのこの形になり、その足もとから黄金色の熔岩がんきらきら流れ出して、見るまにずうっと扇形にひろがりながら海へはいりました。と思うと地面ははげしくぐらぐらゆれ、百合の花もいちめんゆれ、それからごうっというような大きな音が、みんなを倒すくらい強くやってきました。それから風がどうっと吹いて行きました。 「やったやった。」とみんなはそっちに手を延ばして高く叫びました。この時サンムトリの煙は、くずれるようにそらいっぱいひろがって来ましたが、たちまちそらはまっ暗になって、熱いこいしがばらばらばらばら降ってきました。みんなは天幕の中にはいって心配そうにしていましたが、ペンネン技師は、時計を見ながら、 「ブドリ君、うまく行った。危険はもう全くない。市のほうへは灰をすこし降らせるだけだろう。」と言いました。こいしはだんだん灰にかわりました。それもまもなく薄くなって、みんなはまた天幕の外へ飛び出しました。野原はまるで一めんねずみいろになって、灰は一寸ばかり積もり、百合の花はみんな折れて灰に埋まり、空は変に緑いろでした。そしてサンムトリのすそには小さなこぶができて、そこから灰いろの煙が、まだどんどんのぼっておりました。  その夕方、みんなは灰やこいしを踏んで、もう一度山へのぼって、新しい観測の器械を据え着けて帰りました。      七 雲の海  それから四年の間に、クーボー大博士の計画どおり、潮汐発電所は、イーハトーヴの海岸に沿って、二百も配置されました。イーハトーヴをめぐる火山には、観測小屋といっしょに、白く塗られた鉄の櫓が順々に建ちました。  ブドリは技師心得になって、一年の大部分は火山から火山と回ってあるいたり、あぶなくなった火山を工作したりしていました。  次の年の春、イーハトーヴの火山局では、次のようなポスターを村や町へ張りました。 「窒素肥料を降らせます。 ことしの夏、雨といっしょに、硝酸アムモニヤをみなさんの沼ばたけや蔬菜ばたけに降らせますから、肥料を使うかたは、その分を入れて計算してください。分量は百メートル四方につき百二十キログラムです。 雨もすこしは降らせます。 旱魃の際には、とにかく作物の枯れないぐらいの雨は降らせることができますから、いままで水が来なくなって作付しなかった沼ばたけも、ことしは心配せずに植え付けてください。」  その年の六月、ブドリはイーハトーヴのまん中にあたるイーハトーヴ火山の頂上の小屋におりました。下はいちめん灰いろをした雲の海でした。そのあちこちからイーハトーヴじゅうの火山のいただきが、ちょうど島のように黒く出ておりました。その雲のすぐ上を一|隻の飛行船が、船尾からまっ白な煙を噴いて、一つの峯から一つの峯へちょうど橋をかけるように飛びまわっていました。そのけむりは、時間がたつほどだんだん太くはっきりなってしずかに下の雲の海に落ちかぶさり、まもなく、いちめんの雲の海にはうす白く光る大きな網が山から山へ張りわたされました。いつか飛行船はけむりを納めて、しばらく挨拶するように輪を描いていましたが、やがて船首をたれてしずかに雲の中へ沈んで行ってしまいました。  受話器がジーと鳴りました。ペンネン技師の声でした。 「飛行船はいま帰って来た。下のほうのしたくはすっかりいい。雨はざあざあ降っている。もうよかろうと思う。はじめてくれたまえ。」  ブドリはぼたんを押しました。見る見るさっきのけむりの網は、美しい桃いろや青や紫に、パッパッと目もさめるようにかがやきながら、ついたり消えたりしました。ブドリはまるでうっとりとしてそれに見とれました。そのうちにだんだん日は暮れて、雲の海もあかりが消えたときは、灰いろかねずみいろかわからないようになりました。  受話器が鳴りました。 「硝酸アムモニヤはもう雨の中へでてきている。量もこれぐらいならちょうどいい。移動のぐあいもいいらしい。あと四時間やれば、もうこの地方は今月中はたくさんだろう。つづけてやってくれたまえ。」  ブドリはもううれしくってはね上がりたいくらいでした。  この雲の下で昔の赤ひげの主人も、となりの石油がこやしになるかと言った人も、みんなよろこんで雨の音を聞いている。そしてあすの朝は、見違えるように緑いろになったオリザの株を手でなでたりするだろう。まるで夢のようだと思いながら、雲のまっくらになったり、また美しく輝いたりするのをながめておりました。ところが短い夏の夜はもう明けるらしかったのです。電光の合間に、東の雲の海のはてがぼんやり黄ばんでいるのでした。  ところがそれは月が出るのでした。大きな黄いろな月がしずかにのぼってくるのでした。そして雲が青く光るときは変に白っぽく見え、桃いろに光るときは何かわらっているように見えるのでした。ブドリは、もうじぶんがだれなのか、何をしているのか忘れてしまって、ただぼんやりそれをみつめていました。  受話器はジーと鳴りました。 「こっちではだいぶ雷が鳴りだして来た。網があちこちちぎれたらしい。あんまり鳴らすとあしたの新聞が悪口を言うからもう十分ばかりでやめよう。」  ブドリは受話器を置いて耳をすましました。雲の海はあっちでもこっちでもぶつぶつぶつぶつつぶやいているのです。よく気をつけて聞くとやっぱりそれはきれぎれの雷の音でした。  ブドリはスイッチを切りました。にわかに月のあかりだけになった雲の海は、やっぱりしずかに北へ流れています。ブドリは毛布をからだに巻いてぐっすり眠りました。      八 秋  その年の農作物の収穫は、気候のせいもありましたが、十年の間にもなかったほど、よくできましたので、火山局にはあっちからもこっちからも感謝状や激励の手紙が届きました。ブドリははじめてほんとうに生きがいがあるように思いました。  ところがある日、ブドリがタチナという火山へ行った帰り、とりいれの済んでがらんとした沼ばたけの中の小さな村を通りかかりました。ちょうどひるころなので、パンを買おうと思って、一軒の雑貨や菓子を買っている店へ寄って、 「パンはありませんか。」とききました。するとそこには三人のはだしの人たちが、目をまっ赤にして酒を飲んでおりましたが、一人が立ち上がって、 「パンはあるが、どうも食われないパンでな。石盤だもな。」とおかしなことを言いますと、みんなはおもしろそうにブドリの顔を見てどっと笑いました。ブドリはいやになって、ぷいっと表へ出ましたら、向こうから髪を角刈りにしたせいの高い男が来て、いきなり、 「おい、お前、ことしの夏、電気でこやし降らせたブドリだな。」と言いました。 「そうだ。」ブドリは何げなく答えました。その男は高く叫びました。 「火山局のブドリが来たぞ。みんな集まれ。」  すると今の家の中やそこらの畑から、十八人の百姓たちが、げらげらわらってかけて来ました。 「この野郎、きさまの電気のおかげで、おいらのオリザ、みんな倒れてしまったぞ。何してあんなまねしたんだ。」一人が言いました。  ブドリはしずかに言いました。 「倒れるなんて、きみらは春に出したポスターを見なかったのか。」 「何この野郎。」いきなり一人がブドリの帽子をたたき落としました。それからみんなは寄ってたかってブドリをなぐったりふんだりしました。ブドリはとうとう何がなんだかわからなくなって倒れてしまいました。  気がついてみるとブドリはどこかの病院らしい室の白いベッドに寝ていました。枕もとには見舞いの電報や、たくさんの手紙がありました。ブドリのからだじゅうは痛くて熱く、動くことができませんでした。けれどもそれから一週間ばかりたちますと、もうブドリはもとの元気になっていました。そして新聞で、あのときの出来事は、肥料の入れようをまちがって教えた農業技師が、オリザの倒れたのをみんな火山局のせいにして、ごまかしていたためだということを読んで、大きな声で一人で笑いました。  その次の日の午後、病院の小使がはいって来て、 「ネリというご婦人のおかたがたずねておいでになりました。」と言いました。ブドリは夢ではないかと思いましたら、まもなく一人の日に焼けた百姓のおかみさんのような人が、おずおずとはいって来ました。それはまるで変わってはいましたが、あの森の中からだれかにつれて行かれたネリだったのです。二人はしばらく物も言えませんでしたが、やっとブドリが、その後のことをたずねますと、ネリもぼつぼつとイーハトーヴの百姓のことばで、今までのことを話しました。ネリを連れて行ったあの男は、三日ばかりの後、めんどうくさくなったのか、ある小さな牧場の近くへネリを残して、どこかへ行ってしまったのでした。  ネリがそこらを泣いて歩いていますと、その牧場の主人がかわいそうに思って家へ入れて、赤ん坊のお守をさせたりしていましたが、だんだんネリはなんでも働けるようになったので、とうとう三四年前にその小さな牧場のいちばん上の息子と結婚したというのでした。そしてことしは肥料も降ったので、いつもなら厩肥を遠くの畑まで運び出さなければならず、たいへん難儀したのを、近くのかぶら畑へみんな入れたし、遠くの玉蜀黍もよくできたので、家じゅうみんなよろこんでいるというようなことも言いました。またあの森の中へ主人の息子といっしょに何べんも行って見たけれども、家はすっかりこわれていたし、ブドリはどこへ行ったかわからないので、いつもがっかりして帰っていたら、きのう新聞で主人がブドリのけがをしたことを読んだので、やっとこっちへたずねて来たということも言いました。ブドリは、なおったらきっとその家へたずねて行ってお礼を言う約束をしてネリを帰しました。      九 カルボナード島  それからの五年は、ブドリにはほんとうに楽しいものでした。赤ひげの主人の家にも何べんもお礼に行きました。  もうよほど年はとっていましたが、やはり非常な元気で、こんどは毛の長いうさぎを千匹以上飼ったり、赤い甘藍ばかり畑に作ったり、相変わらずの山師はやっていましたが、暮らしはずうっといいようでした。  ネリには、かわいらしい男の子が生まれました。冬に仕事がひまになると、ネリはその子にすっかりこどもの百姓のようなかたちをさせて、主人といっしょに、ブドリの家にたずねて来て、泊まって行ったりするのでした。  ある日、ブドリのところへ、昔てぐす飼いの男にブドリといっしょに使われていた人がたずねて来て、ブドリたちのおとうさんのお墓が森のいちばんはずれの大きな榧の木の下にあるということを教えて行きました。それは、はじめ、てぐす飼いの男が森に来て、森じゅうの木を見てあるいたとき、ブドリのおとうさんたちの冷たくなったからだを見つけて、ブドリに知らせないように、そっと土に埋めて、上へ一本の樺の枝をたてておいたというのでした。ブドリは、すぐネリたちをつれてそこへ行って、白い石灰岩の墓をたてて、それからもその辺を通るたびにいつも寄ってくるのでした。  そしてちょうどブドリが二十七の年でした。どうもあの恐ろしい寒い気候がまた来るような模様でした。測候所では、太陽の調子や北のほうの海の氷の様子から、その年の二月にみんなへそれを予報しました。それが一足ずつだんだんほんとうになって、こぶしの花が咲かなかったり、五月に十日もみぞれが降ったりしますと、みんなはもうこの前の凶作を思い出して、生きたそらもありませんでした。クーボー大博士も、たびたび気象や農業の技師たちと相談したり、意見を新聞へ出したりしましたが、やっぱりこの激しい寒さだけはどうともできないようすでした。  ところが六月もはじめになって、まだ黄いろなオリザの苗や、芽を出さない木を見ますと、ブドリはもういても立ってもいられませんでした。このままで過ぎるなら、森にも野原にも、ちょうどあの年のブドリの家族のようになる人がたくさんできるのです。ブドリはまるで物も食べずに幾晩も幾晩も考えました。ある晩ブドリは、クーボー大博士のうちをたずねました。 「先生、気層のなかに炭酸ガスがふえて来れば暖かくなるのですか。」 「それはなるだろう。地球ができてからいままでの気温は、たいてい空気中の炭酸ガスの量できまっていたと言われるくらいだからね。」 「カルボナード火山島が、いま爆発したら、この気候を変えるくらいの炭酸ガスを噴くでしょうか。」 「それは僕も計算した。あれがいま爆発すれば、ガスはすぐ大循環の上層の風にまじって地球ぜんたいを包むだろう。そして下層の空気や地表からの熱の放散を防ぎ、地球全体を平均で五度ぐらい暖かくするだろうと思う。」 「先生、あれを今すぐ噴かせられないでしょうか。」 「それはできるだろう。けれども、その仕事に行ったもののうち、最後の一人はどうしても逃げられないのでね。」 「先生、私にそれをやらしてください。どうか先生からペンネン先生へお許しの出るようおことばをください。」 「それはいけない。きみはまだ若いし、いまのきみの仕事にかわれるものはそうはない。」 「私のようなものは、これからたくさんできます。私よりもっともっとなんでもできる人が、私よりもっと立派にもっと美しく、仕事をしたり笑ったりして行くのですから。」 「その相談は僕はいかん。ペンネン技師に話したまえ。」  ブドリは帰って来て、ペンネン技師に相談しました。技師はうなずきました。 「それはいい。けれども僕がやろう。僕はことしもう六十三なのだ。ここで死ぬなら全く本望というものだ。」 「先生、けれどもこの仕事はまだあんまり不確かです。一ぺんうまく爆発してもまもなくガスが雨にとられてしまうかもしれませんし、また何もかも思ったとおりいかないかもしれません。先生が今度おいでになってしまっては、あとなんともくふうがつかなくなると存じます。」  老技師はだまって首をたれてしまいました。  それから三日の後、火山局の船が、カルボナード島へ急いで行きました。そこへいくつものやぐらは建ち、電線は連結されました。  すっかりしたくができると、ブドリはみんなを船で帰してしまって、じぶんは一人島に残りました。  そしてその次の日、イーハトーヴの人たちは、青ぞらが緑いろに濁り、日や月が銅いろになったのを見ました。  けれどもそれから三四日たちますと、気候はぐんぐん暖かくなってきて、その秋はほぼ普通の作柄になりました。そしてちょうど、このお話のはじまりのようになるはずの、たくさんのブドリのおとうさんやおかあさんは、たくさんのブドリやネリといっしょに、その冬を暖かいたべものと、明るい薪で楽しく暮らすことができたのでした。  クという名前のねずみがありました。たいへん高慢でそれにそねみ深くって、自分をねずみの仲間の一番の学者と思っていました。ほかのねずみが何か生意気なことを言うとエヘンエヘンと言うのが癖でした。  クねずみのうちへ、ある日、友だちのタねずみがやって来ました。  さてタねずみはクねずみに言いました。 「今日は、クさん。いいお天気です。」 「いいお天気です。何かいいものを見つけましたか。」 「いいえ。どうも不景気ですね。どうでしょう。これからの景気は。」 「さあ、あなたはどう思いますか。」 「そうですね。しかしだんだんよくなるのじゃないでしょうか。オウベイのキンユウはしだいにヒッパクをテイしたそう……。」 「エヘン、エヘン。」いきなりクねずみが大きなせきばらいをしましたので、タねずみはびっくりして飛びあがりました。クねずみは横を向いたまま、ひげを一つぴんとひねって、それから口の中で、 「ヘイ、それから。」と言いました。  タねずみはやっと安心してまたおひざに手を置いてすわりました。  クねずみもやっとまっすぐを向いて言いました。 「先ころの地震にはおどろきましたね。」 「全くです。」 「あんな大きいのは私もはじめてですよ。」 「ええ、ジョウカドウでしたねえ。シンゲンはなんでもトウケイ四十二度二分ナンイ……。」 「エヘン、エヘン。」  クねずみはまたどなりました。  タねずみはまた面くらいましたが、さっきほどではありませんでした。  クねずみはやっと気を直して言いました。 「天気もよくなりましたね。あなたは何かうまい仕掛けをしておきましたか。」 「いいえ、なんにもしておきません。しかし、今度天気が長くつづいたら、私は少し畑の方へ出てみようと思うんです。」 「畑には何かいいことがありますか。」 「秋ですからとにかく何かこぼれているだろうと思います。天気さえよければいいのですがね。」 「どうでしょう。天気はいいでしょうか。」 「そうですね、新聞に出ていましたが、オキナワレットウにハッセイしたテイキアツは次第にホクホクセイのほうへシンコウ……。」 「エヘン、エヘン。」クねずみはまたいやなせきばらいをやりましたので、タねずみはこんどというこんどはすっかりびっくりして半分立ちあがって、ぶるぶるふるえて目をパチパチさせて、黙りこんでしまいました。  クねずみは横の方を向いて、おひげをひっぱりながら、横目でタねずみの顔を見ていましたが、ずうっとしばらくたってから、あらんかぎり声をひくくして、 「へい。そして。」と言いました。ところがタねずみはもうすっかりこわくなって物が言えませんでしたから、にわかに一つていねいにおじぎをしました。そしてまるで細いかすれた声で、 「さよなら。」と言ってクねずみのおうちを出て行きました。  クねずみは、そこであおむけにねころんで、 「ねずみ競争新聞」を手にとってひろげながら、 「ヘッ。タなどはなってないんだ。」とひとりごとを言いました。  さて、「ねずみ競争新聞」というのは実にいい新聞です。これを読むと、ねずみ仲間の競争のことはなんでもわかるのでした。ペねずみが、たくさんとうもろこしのつぶをぬすみためて、大砂糖持ちのパねずみと意地ばりの競争をしていることでも、ハねずみヒねずみフねずみの三匹のむすめねずみが学問の競争をやって、比例の問題まで来たとき、とうとう三匹とも頭がペチンと裂けたことでも、なんでもすっかり出ているのでした。  さあ、さあ、みなさん。失礼ですが、クねずみのきょうの新聞を読むのを、お聞きなさい。 「ええと、カマジン国の飛行機、プハラを襲うと。なるほどえらいね。これはたいへんだ。まあしかし、ここまでは来ないから大丈夫だ。ええと、ツェねずみの行くえ不明。ツェねずみというのはあの意地わるだな。こいつはおもしろい。  天井裏街一番地、ツェ氏は昨夜行くえ不明となりたり。本社のいちはやく探知するところによればツェ氏は数日前よりはりがねせい、ねずみとり氏と交際を結びおりしが一昨夜に至りて両氏の間に多少感情の衝突ありたるもののごとし。台所街四番地ネ氏の談によれば昨夜もツェ氏は、はりがねせい、ねずみとり氏を訪問したるがごとし、と。なお床下通り二十九番地ポ氏は、昨夜深更より今朝にかけて、ツェ氏並びにはりがねせい、ねずみとり氏の激しき争論、時に格闘の声を聞きたりと。以上を総合するに、本事件には、はりがねせい、ねずみとり氏、最も深き関係を有するがごとし。本社はさらに深く事件の真相を探知の上、大いにはりがねせい、ねずみとり氏に筆誅を加えんと欲す。と。ははは、ふん、これはもう疑いもない。ツェのやつめ、ねずみとりに食われたんだ。おもしろい。そのつぎはと。なんだ、ええと、新任ねずみ会議員テ氏。エヘン、エヘン。エン。エッヘン。ヴェイヴェイ。なんだちくしょう。テなどがねずみ会議員だなんて。えい、おもしろくない。おれでもすればいいんだ。えい。おもしろくもない、散歩に出よう。」  そこでクねずみは散歩に出ました。そしてプンプンおこりながら、天井裏街の方へ行く途中で、二匹のむかでが親孝行の蜘蛛の話をしているのを聞きました。  「ほんとうにね、そうはできないもんだよ。」 「ええ、ええ、全くですよ。それにあの子は、自分もどこかからだが悪いんですよ。それだのにね、朝は二時ごろから起きて薬を飲ませたり、おかゆをたいてやったり、夜だって寝るのはいつもおそいでしょう。たいてい三時ごろでしょう。ほんとうにからだがやすまるってないんでしょう。感心ですねえ。」 「ほんとうにあんな心がけのいい子は今ごろあり……。」 「エヘン、エヘン。」と、いきなりクねずみはどなって、おひげを横の方へひっぱりました。  むかではびっくりして、はなしもなにもそこそこに別れて逃げて行ってしまいました。  クねずみはそれからだんだん天井裏街の方へのぼって行きました。天井裏街のガランとした広い通りでは、ねずみ会議員のテねずみがもう一ぴきのねずみとはなしていました。  クねずみはこわれたちり取りのかげで立ちぎきをしておりました。  テねずみが、 「それで、その、わたしの考えではね、どうしてもこれは、その、共同一致、団結、和睦の、セイシンで、やらんと、いかんね。」と言いました。  クねずみは、 「エヘン、エヘン。」と聞こえないようにせきばらいをしました。相手のねずみは、「へい。」と言って考えているようです。  テねずみははなしをつづけました。 「もしそうでないとすると、つまりその、世界のシンポハッタツ、カイゼンカイリョウがそのつまりテイタイするね。」 「エン、エン、エイ、エイ。」クねずみはまたひくくせきばらいをしました。  相手のねずみは、「へい。」と言って考えています。 「そこで、その、世界文明のシンポハッタツ、カイリョウカイゼンがテイタイすると、政治はもちろんケイザイ、ノウギョウ、ジツギョウ、コウギョウ、キョウイク、ビジュツそれからチョウコク、カイガ、それからブンガク、シバイ、ええと、エンゲキ、ゲイジュツ、ゴラク、そのほかタイイクなどが、ハッハッハ、たいへんそのどうもわるくなるね。」テねずみはむつかしいことをあまりたくさん言ったので、もう愉快でたまらないようでした。クねずみはそれがまたむやみにしゃくにさわって、「エン、エン。」と聞こえないように、そしてできるだけ高くせきばらいをやって、にぎりこぶしをかためました。  相手のねずみはやはり「へい。」と言っております。  テねずみはまたはじめました。 「そこでそのケイザイやゴラクが悪くなるというと、不平を生じてブンレツを起こすというケッカにホウチャクするね。そうなるのは実にそのわれわれのシンガイでフホンイであるから、やはりその、ものごとは共同一致団結和睦のセイシンでやらんといかんね。」  クねずみはあんまりテねずみのことばが立派で、議論がうまくできているのがしゃくにさわって、とうとうあらんかぎり、 「エヘン、エヘン。」とやってしまいました。するとテねずみはぶるるっとふるえて、目を閉じて、小さく小さくちぢまりましたが、だんだんそろりそろりと延びて、そおっと目をあいて、それから大声で叫びました。 「こいつは、ブンレツだぞ。ブンレツ者だ。しばれ、しばれ。」と叫びました。すると相手のねずみは、まるでつぶてのようにクねずみに飛びかかってねずみの捕り繩を出して、クルクルしばってしまいました。  クねずみはくやしくてくやしくてなみだが出ましたが、どうしてもかないそうがありませんでしたから、しばらくじっとしておりました。するとテねずみは紙切れを出してするするするっと何か書いて捕り手のねずみに渡しました。  捕り手のねずみは、しばられてごろごろころがっているクねずみの前に来て、すてきにおごそかな声でそれを読みはじめました。 「クねずみはブンレツ者によりて、みんなの前にて暗殺すべし。」クねずみは声をあげてチュウチュウ泣きました。 「さあ、ブンレツ者。あるけ、早く。」と、捕り手のねずみは言いました。さあ、そこでクねずみはすっかり恐れ入ってしおしおと立ちあがりました。あっちからもこっちからもねずみがみんな集まって来て、 「どうもいい気味だね。いつでもエヘンエヘンと言ってばかりいたやつなんだ。」 「やっぱり分裂していたんだ。」 「あいつが死んだらほんとうにせいせいするだろうね。」というような声ばかりです。  捕り手のねずみは、いよいよ白いたすきをかけて、暗殺のしたくをはじめました。  その時みんなのうしろの方で、フウフウと言うひどい音が聞こえ、二つの目玉が火のように光って来ました。それは例の猫大将でした。 「ワーッ。」とねずみはみんなちりぢり四方に逃げました。 「逃がさんぞ。コラッ。」と猫大将はその一匹を追いかけましたが、もうせまいすきまへずうっと深くもぐり込んでしまったので、いくら猫大将が手をのばしてもとどきませんでした。  猫大将は「チェッ。」と舌打ちをして戻って来ましたが、クねずみのただ一匹しばられて残っているのを見て、びっくりして言いました。 「貴様はなんと言うものだ。」クねずみはもう落ち着いて答えました。 「クと申します。」 「フ、フ、そうか、なぜこんなにしているんだ。」 「暗殺されるためです。」 「フ、フ、フ。そうか。それはかあいそうだ。よしよし、おれが引き受けてやろう。おれのうちへ来い。ちょうどおれのうちでは、子供が四人できて、それに家庭教師がなくて困っているところなんだ。来い。」  猫大将はのそのそ歩きだしました。  クねずみはこわごわあとについて行きました。猫のおうちはどうもそれは立派なもんでした。紫色の竹で編んであって中はわらや布きれでホクホクしていました。おまけにちゃあんとご飯を入れる道具さえあったのです。  そしてその中に、猫大将の子供が四人、やっと目をあいて、にゃあにゃあと鳴いておりました。  猫大将は子供らを一つずつなめてやってから言いました。 「お前たちはもう学問をしないといけない。ここへ先生をたのんで来たからな。よく習うんだよ。決して先生を食べてしまったりしてはいかんぞ。」  子供らはよろこんでニヤニヤ笑って口々に、 「おとうさん、ありがとう。きっと習うよ。先生を食べてしまったりしないよ。」と言いました。  クねずみはどうも思わず足がブルブルしました。  猫大将が言いました。 「教えてやってくれ。おもに算術をな。」 「へい。しょう、しょう、承知いたしました。」とクねずみが答えました。  猫大将はきげんよくニャーと鳴いてするりと向こうへ行ってしまいました。  子供らが叫びました。 「先生、早く算術を教えてください。先生。早く。」  クねずみはさあ、これはいよいよ教えないといかんと思いましたので、口早に言いました。 「一に一をたすと二です。」 「そうだよ。」子供らが言いました。 「一から一を引くとなんにもなくなります。」 「わかったよ。」  子供らが叫びました。 「一に一をかけると一です。」 「きまってるよ。」と猫の子供らが目をりんと張ったまま答えました。 「一を一で割ると一です。」 「それでいいよ。」と猫の子供らがよろこんで叫びました。そこでクねずみはすっかりのぼせてしまいました。 「一に二をたすと三です。」 「合ってるよ。」 「一から二を引くと……」と言おうとしてクねずみは、はっとつまってしまいました。  すると猫の子供らは一度に叫びました。 「一から二は引かれないよ。」  クねずみはあんまり猫の子供らがかしこいので、すっかりむしゃくしゃして、また早口に言いました。そうでしょう。クねずみはいちばんはじめの一に一をたして二をおぼえるのに半年かかったのです。 「一に二をかけると二です。」 「そうともさ。」 「一を二で割ると……。」クねずみはまたつまってしまいました。すると猫の子供らはまた一度に声をそろえて、 「一割る二では半分だよ。」と叫びました。  クねずみはあんまり猫の子供らの賢いのがしゃくにさわって、思わず「エヘン。エヘン。エイ。エイ。」 とやりました。すると猫の子供らは、しばらくびっくりしたように、顔を見合わせていましたが、やがてみんな一度に立ちあがって、 「なんだい。ねずめ、人をそねみやがったな。」と言いながらクねずみの足を一ぴきが一つずつかじりました。  クねずみは非常にあわててばたばたして、急いで「エヘン、エヘン、エイ、エイ。」とやりましたがもういけませんでした。  クねずみはだんだん四方の足から食われて行って、とうとうおしまいに四ひきの子猫は、クねずみの胃の腑のところで頭をコツンとぶっつけました。  そこへ猫大将が帰って来て、 「何か習ったか。」とききました。 「ねずみをとることです。」と四ひきがいっしょに答えました。  蜘蛛と、銀色のなめくじとそれから顔を洗ったことのない狸とはみんな立派な選手でした。  けれども一体何の選手だったのか私はよく知りません。  山猫が申しましたが三人はそれはそれは実に本気の競争をしていたのだそうです。  一体何の競争をしていたのか、私は三人がならんでかける所も見ませんし学校の試験で一番二番三番ときめられたことも聞きません。  一体何の競争をしていたのでしょう、蜘蛛は手も足も赤くて長く、胸には「ナンペ」と書いた蜘蛛文字のマークをつけていましたしなめくじはいつも銀いろのゴムの靴をはいていました。又狸は少しこわれてはいましたが運動シャッポをかぶっていました。  けれどもとにかく三人とも死にました。  蜘蛛は蜘蛛暦三千八百年の五月に没くなり銀色のなめくじがその次の年、狸が又その次の年死にました。三人の伝記をすこしよく調べて見ましょう。    一、赤い手長の蜘蛛  蜘蛛の伝記のわかっているのは、おしまいの一ヶ年間だけです。  蜘蛛は森の入口の楢の木に、どこからかある晩、ふっと風に飛ばされて来てひっかかりました。蜘蛛はひもじいのを我慢して、早速お月様の光をさいわいに、網をかけはじめました。  あんまりひもじくておなかの中にはもう糸がない位でした。けれども蜘蛛は 「うんとこせうんとこせ」と云いながら、一生けん命糸をたぐり出して、それはそれは小さな二銭銅貨位の網をかけました。  夜あけごろ、遠くから蚊がくうんとうなってやって来て網につきあたりました。けれどもあんまりひもじいときかけた網なので、糸に少しもねばりがなくて、蚊はすぐ糸を切って飛んで行こうとしました。  蜘蛛はまるできちがいのように、葉のかげから飛び出してむんずと蚊に食いつきました。  蚊は「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。」と哀れな声で泣きましたが、蜘蛛は物も云わずに頭から羽からあしまで、みんな食ってしまいました。そしてホッと息をついてしばらくそらを向いて腹をこすってから、又少し糸をはきました。そして網が一まわり大きくなりました。  蜘蛛はそして葉のかげに戻って、六つの眼をギラギラ光らせてじっと網をみつめて居りました。 「ここはどこでござりまするな。」と云いながらめくらのかげろうが杖をついてやって参りました。 「ここは宿屋ですよ。」と蜘蛛が六つの眼を別々にパチパチさせて云いました。  かげろうはやれやれというように、巣へ腰をかけました。蜘蛛は走って出ました。そして 「さあ、お茶をおあがりなさい。」と云いながらかげろうの胴中にむんずと噛みつきました。  かげろうはお茶をとろうとして出した手を空にあげて、バタバタもがきながら、 「あわれやむすめ、父親が、  旅で果てたと聞いたなら」 と哀れな声で歌い出しました。 「えい。やかましい。じたばたするな。」と蜘蛛が云いました。するとかげろうは手を合せて 「お慈悲でございます。遺言のあいだ、ほんのしばらくお待ちなされて下されませ。」とねがいました。  蜘蛛もすこし哀れになって 「よし早くやれ。」といってかげろうの足をつかんで待っていました。かげろうはほんとうにあわれな細い声ではじめから歌い直しました。 「あわれやむすめちちおやが、  旅ではてたと聞いたなら、  ちさいあの手に白手甲、  いとし巡礼の雨とかぜ。  もうしご冥加ご報謝と、  かどなみなみに立つとても、  非道の蜘蛛の網ざしき、  さわるまいぞや。よるまいぞ。」 「小しゃくなことを。」と蜘蛛はただ一息に、かげろうを食い殺してしまいました。そしてしばらくそらを向いて、腹をこすってからちょっと眼をぱちぱちさせて 「小しゃくなことを言うまいぞ。」とふざけたように歌いながら又糸をはきました。  網は三まわり大きくなって、もう立派な蜘蛛の巣です。蜘蛛はすっかり安心して、又葉のかげにかくれました。その時下の方でいい声で歌うのをききました。 「赤いてながのくぅも、  天のちかくをはいまわり、  スルスル光のいとをはき、  きぃらりきぃらり巣をかける。」  見るとそれはきれいな女の蜘蛛でした。 「ここへおいで。」と手長の蜘蛛が云って糸を一本すうっとさげてやりました。  女の蜘蛛がすぐそれにつかまってのぼって来ました。そして二人は夫婦になりました。網には毎日|沢山食べるものがかかりましたのでおかみさんの蜘蛛は、それを沢山たべてみんな子供にしてしまいました。そこで子供が沢山生まれました。ところがその子供らはあんまり小さくてまるですきとおる位です。  子供らは網の上ですべったり、相撲をとったり、ぶらんこをやったり、それはそれはにぎやかです。おまけにある日とんぼが来て今度蜘蛛を虫けら会の相談役にするというみんなの決議をつたえました。  ある日夫婦のくもは、葉のかげにかくれてお茶をのんでいますと、下の方でへらへらした声で歌うものがあります。 「あぁかい手ながのくぅも、  できたむすこは二百|疋、  めくそ、はんかけ、蚊のなみだ、  大きいところで稗のつぶ。」  見るとそれは大きな銀色のなめくじでした。  蜘蛛のおかみさんはくやしがって、まるで火がついたように泣きました。  けれども手長の蜘蛛は云いました。 「ふん。あいつはちかごろ、おれをねたんでるんだ。やい、なめくじ。おれは今度は虫けら会の相談役になるんだぞ。へっ。くやしいか。へっ。てまえなんかいくらからだばかりふとっても、こんなことはできまい。へっへっ。」  なめくじはあんまりくやしくて、しばらく熱病になって、 「うう、くもめ、よくもぶじょくしたな。うう。くもめ。」といっていました。  網は時々風にやぶれたりごろつきのかぶとむしにこわされたりしましたけれどもくもはすぐすうすう糸をはいて修繕しました。  二百疋の子供は百九十八疋まで蟻に連れて行かれたり、行衛不明になったり、赤痢にかかったりして死んでしまいました。  けれども子供らは、どれもあんまりお互いに似ていましたので、親ぐもはすぐ忘れてしまいました。  そして今はもう網はすばらしいものです。虫がどんどんひっかかります。  ある日夫婦の蜘蛛は、葉のかげにかくれてお茶をのんでいますと、一疋の旅の蚊がこっちへ飛んで来て、それから網を見てあわてて飛び戻って行きました。  すると下の方で 「ワッハッハ。」と笑う声がしてそれから太い声で歌うのが聞えました。 「あぁかいてながのくぅも、  あんまり網がまずいので、  八千二百里旅の蚊も、  くうんとうなってまわれ右。」  見るとそれは顔を洗ったことのない狸でした。蜘蛛はキリキリキリッとはがみをして云いました。 「何を。狸め。一生のうちにはきっとおれにおじぎをさせて見せるぞ。」  それからは蜘蛛は、もう一生けん命であちこちに十も網をかけたり、夜も見はりをしたりしました。ところが困ったことは腐敗したのです。食物がずんずんたまって、腐敗したのです。そして蜘蛛の夫婦と子供にそれがうつりました。そこで四人は足のさきからだんだん腐れてべとべとになり、ある日とうとう雨に流れてしまいました。  それは蜘蛛暦三千八百年の五月の事です。    二、銀色のなめくじ  丁度蜘蛛が林の入口の楢の木に、二銭銅貨の位の網をかけた頃、銀色のなめくじの立派なおうちへかたつむりがやって参りました。  その頃なめくじは林の中では一番親切だという評判でした。かたつむりは 「なめくじさん。今度は私もすっかり困ってしまいましたよ。まるで食べるものはなし、水はなし、すこしばかりお前さんのためてあるふきのつゆを呉れませんか。」と云いました。  するとなめくじが云いました。 「あげますともあげますとも。さあ、おあがりなさい。」 「ああありがとうございます。助かります。」と云いながらかたつむりはふきのつゆをどくどくのみました。 「もっとおあがりなさい。あなたと私とは云わば兄弟。ハッハハ。さあ、さあ、も少しおあがりなさい。」となめくじが云いました。 「そんならも少しいただきます。ああありがとうございます。」と云いながらかたつむりはも少しのみました。 「かたつむりさん。気分がよくなったら一つ相撲をとりましょうか。ハッハハ。久しぶりです。」となめくじが云いました。 「おなかがすいて力がありません。」とかたつむりが云いました。 「そんならたべ物をあげましょう。さあ、おあがりなさい。」となめくじはあざみの芽やなんか出しました。 「ありがとうございます。それではいただきます。」といいながらかたつむりはそれを喰べました。 「さあ、すもうをとりましょう。ハッハハ。」となめくじがもう立ちあがりました。かたつむりも仕方なく、 「私はどうも弱いのですから強く投げないで下さい。」と云いながら立ちあがりました。 「よっしょ。そら。ハッハハ。」かたつむりはひどく投げつけられました。 「もう一ぺんやりましょう。ハッハハ。」 「もうつかれてだめです。」 「まあもう一ぺんやりましょうよ。ハッハハ。よっしょ。そら。ハッハハ。」かたつむりはひどく投げつけられました。 「もう一ぺんやりましょう。ハッハハ。」 「もうだめです。」 「まあもう一ぺんやりましょうよ。ハッハハ。よっしょ、そら。ハッハハ。」かたつむりはひどく投げつけられました。 「もう一ぺんやりましょう。ハッハハ。」 「もうだめ。」 「まあもう一ぺんやりましょうよ。ハッハハ。よっしょ。そら。ハッハハ。」かたつむりはひどく投げつけられました。 「もう一ぺんやりましょう。ハッハハ。」 「もう死にます。さよなら。」 「まあもう一ぺんやりましょうよ。ハッハハ。さあ。お立ちなさい。起こしてあげましょう。よっしょ。そら。ヘッヘッヘ。」かたつむりは死んでしまいました。そこで銀色のなめくじはかたつむりをペロリと喰べてしまいました。  それから一ヶ月ばかりたって、とかげがなめくじの立派なおうちへびっこをひいて来ました。そして 「なめくじさん。今日は。お薬を少し呉れませんか。」と云いました。 「どうしたのです。」となめくじは笑って聞きました。 「へびに噛まれたのです。」ととかげが云いました。 「そんならわけはありません。私が一寸そこを嘗めてあげましょう。なあにすぐなおりますよ。ハッハハ。」となめくじは笑って云いました。 「どうかお願い申します。」ととかげは足を出しました。 「ええ。よござんすとも。私とあなたとは云わば兄弟。ハッハハ。」となめくじは云いました。  そしてなめくじはとかげの傷に口をあてました。 「ありがとう。なめくじさん。」ととかげは云いました。 「も少しよく嘗めないとあとで大変ですよ。今度|又来てももう直してあげませんよ。ハッハハ。」となめくじはもがもが返事をしながらやはりとかげを嘗めつづけました。 「なめくじさん。何だか足が溶けたようですよ。」ととかげはおどろいて云いました。 「ハッハハ。なあに。それほどじゃありません。ハッハハ。」となめくじはやはりもがもが答えました。 「なめくじさん。おなかが何だか熱くなりましたよ。」ととかげは心配して云いました。 「ハッハハ。なあにそれほどじゃありません。ハッハハ。」となめくじはやはりもがもが答えました。 「なめくじさん。からだが半分とけたようですよ。もうよして下さい。」ととかげは泣き声を出しました。 「ハッハハ。なあにそれほどじゃありません。ほんのも少しです。も一分五|厘ですよ。ハッハハ。」となめくじが云いました。  それを聞いたとき、とかげはやっと安心しました。丁度心臓がとけたのです。  そこでなめくじはペロリととかげをたべました。そして途方もなく大きくなりました。  あんまり大きくなったので嬉しまぎれについあの蜘蛛をからかったのでした。  そしてかえって蜘蛛からあざけられて、熱病を起したのです。そればかりではなく、なめくじの評判はどうもよくなくなりました。  なめくじはいつでもハッハハと笑って、そしてヘラヘラした声で物を言うけれども、どうも心がよくなくて蜘蛛やなんかよりは却って悪いやつだというのでみんなが軽べつをはじめました。殊に狸はなめくじの話が出るといつでもヘンと笑って云いました。 「なめくじなんてまずいもんさ。ぶま加減は見られたもんじゃない。」  なめくじはこれを聞いて怒って又病気になりました。そのうちに蜘蛛は腐敗して雨で流れてしまいましたので、なめくじも少しせいせいしました。  次の年ある日|雨蛙がなめくじの立派なおうちへやって参りました。  そして、 「なめくじさん。こんにちは。少し水を呑ませませんか。」と云いました。  なめくじはこの雨蛙もペロリとやりたかったので、思い切っていい声で申しました。 「蛙さん。これはいらっしゃい。水なんかいくらでもあげますよ。ちかごろはひでりですけれどもなあに云わばあなたと私は兄弟。ハッハハ。」そして水がめの所へ連れて行きました。  蛙はどくどくどくどく水を呑んでからとぼけたような顔をしてしばらくなめくじを見てから云いました。 「なめくじさん。ひとつすもうをとりましょうか。」  なめくじはうまいと、よろこびました。自分が云おうと思っていたのを蛙の方が云ったのです。こんな弱ったやつならば五へん投げつければ大ていペロリとやれる。 「とりましょう。よっしょ。そら。ハッハハ。」かえるはひどく投げつけられました。 「もう一ぺんやりましょう。ハッハハ。よっしょ。そら。ハッハハ。」かえるは又投げつけられました。するとかえるは大へんあわててふところから塩のふくろを出して云いました。 「土俵へ塩をまかなくちゃだめだ。そら。シュウ。」塩がまかれました。  なめくじが云いました。 「かえるさん。こんどはきっと私なんかまけますね。あなたは強いんだもの。ハッハハ。よっしょ。そら。ハッハハ。」蛙はひどく投げつけられました。  そして手足をひろげて青じろい腹を空に向けて死んだようになってしまいました。銀色のなめくじは、すぐペロリとやろうと、そっちへ進みましたがどうしたのか足がうごきません。見るともう足が半分とけています。 「あ、やられた。塩だ。畜生。」となめくじが云いました。  蛙はそれを聞くと、むっくり起きあがってあぐらをかいて、かばんのような大きな口を一ぱいにあけて笑いました。そしてなめくじにおじぎをして云いました。 「いや、さよなら。なめくじさん。とんだことになりましたね。」  なめくじが泣きそうになって、 「蛙さん。さよ……。」と云ったときもう舌がとけました。雨蛙はひどく笑いながら 「さよならと云いたかったのでしょう。本当にさよならさよなら。暗い細路を通って向うへ行ったら私の胃袋にどうかよろしく云って下さいな。」と云いながら銀色のなめくじをペロリとやりました。    三、顔を洗わない狸  狸は顔を洗いませんでした。  それもわざと洗わなかったのです。  狸は丁度蜘蛛が林の入口の楢の木に、二銭銅貨位の巣をかけた時、すっかりお腹が空いて一本の松の木によりかかって目をつぶっていました。すると兎がやって参りました。 「狸さま。こうひもじくては全く仕方ございません。もう死ぬだけでございます。」  狸がきもののえりを掻き合せて云いました。 「そうじゃ。みんな往生じゃ。山猫大明神さまのおぼしめしどおりじゃ。な。なまねこ。なまねこ。」  兎も一緒に念猫をとなえはじめました。 「なまねこ、なまねこ、なまねこ、なまねこ。」  狸は兎の手をとってもっと自分の方へ引きよせました。 「なまねこ、なまねこ、みんな山猫さまのおぼしめしどおり、なまねこ。なまねこ。」と云いながら兎の耳をかじりました。兎はびっくりして叫びました。 「あ痛っ。狸さん。ひどいじゃありませんか。」  狸はむにゃむにゃ兎の耳をかみながら、 「なまねこ、なまねこ、みんな山猫さまのおぼしめしどおり。なまねこ。」と云いながら、とうとう兎の両方の耳をたべてしまいました。  兎もそうきいていると、たいへんうれしくてボロボロ涙をこぼして云いました。 「なまねこ、なまねこ。ああありがたい、山猫さま。私のような悪いものでも助かりますなら耳の二つやそこらなんでもございませぬ。なまねこ。」  狸もそら涙をボロボロこぼして 「なまねこ、なまねこ、私のようなあさましいものでも助かりますなら手でも足でもさしあげまする。ああありがたい山猫さま。みんなおぼしめしのまま。」と云いながら兎の手をむにゃむにゃ食べました。  兎はますますよろこんで、 「ああありがたや、山猫さま。私のようないくじないものでも助かりますなら手の二本やそこらはいといませぬ。なまねこ、なまねこ。」  狸はもうなみだで身体もふやけそうに泣いたふりをしました。 「なまねこ、なまねこ。私のようなとてもかなわぬあさましいものでも、お役にたてて下されますか。ああありがたや。なまねこなまねこ。おぼしめしのとおり。むにゃむにゃ。」  兎はすっかりなくなってしまいました。  そこで狸のおなかの中で云いました。 「すっかりだまされた。お前の腹の中はまっくろだ。ああくやしい。」  狸は怒って云いました。 「やかましい。はやく消化しろ。」  そして狸はポンポコポンポンとはらつづみをうちました。  それから丁度二ヶ月たちました。ある日、狸は自分の家で、例のとおりありがたいごきとうをしていますと、狼がお米を三|升さげて来て、どうかお説教をねがいますと云いました。  そこで狸は云いました。 「みんな山ねこさまのおぼしめしじゃ。お前がお米を三升もって来たのも、わしがお前に説教するのもじゃ。山ねこさまはありがたいお方じゃ。兎はおそばに参って、大臣になられたげな。お前もものの命をとったことは、五百や千では利くまいに、早うざんげさっしゃれ。でないと山ねこさまにえらい責苦にあわされますぞい。おお恐ろしや。なまねこ。なまねこ。」  狼はおびえあがって、きょろきょろしながらたずねました。 「そんならどうしたら助かりますかな。」  狸が云いました。 「わしは山ねこさまのお身代りじゃで、わしの云うとおりさっしゃれ。なまねこ。なまねこ。」 「どうしたらようございましょう。」と狼があわててききました。狸が云いました。 「それはな。じっとしていさしゃれ。な。わしはお前のきばをぬくじゃ。な。お前の目をつぶすじゃ。な。それから。なまねこ、なまねこ、なまねこ。お前のみみを一寸かじるじゃ。なまねこ。なまねこ。こらえなされ。お前のあたまをかじるじゃ。むにゃ、むにゃ。なまねこ。堪忍が大事じゃぞえ。なま……。むにゃむにゃ。お前のあしをたべるじゃ。うまい。なまねこ。むにゃ。むにゃ。おまえのせなかを食うじゃ。うまい。むにゃむにゃむにゃ。」  狼は狸のはらの中で云いました。 「ここはまっくらだ。ああ、ここに兎の骨がある。誰が殺したろう。殺したやつは狸さまにあとでかじられるだろうに。」  狸は無理に「ヘン。」と笑っていました。  さて蜘蛛はとけて流れ、なめくじはペロリとやられ、そして狸は病気にかかりました。  それはからだの中に泥や水がたまって、無暗にふくれる病気で、しまいには中に野原や山ができて狸のからだは地球儀のようにまんまるになりました。  そしてまっくろになって、熱にうかされて、 「うう、こわいこわい。おれは地獄行きのマラソンをやったのだ。うう、切ない。」といいながらとうとう焦げて死んでしまいました。         *  なるほどそうしてみると三人とも地獄行きのマラソン競争をしていたのです。  虔十はいつも縄の帯をしめてわらって杜の中や畑の間をゆっくりあるいているのでした。  雨の中の青い藪を見てはよろこんで目をパチパチさせ青ぞらをどこまでも翔けて行く鷹を見付けてははねあがって手をたたいてみんなに知らせました。  けれどもあんまり子供らが虔十をばかにして笑うものですから虔十はだんだん笑わないふりをするようになりました。  風がどうと吹いてぶなの葉がチラチラ光るときなどは虔十はもううれしくてうれしくてひとりでに笑えて仕方ないのを、無理やり大きく口をあき、はあはあ息だけついてごまかしながらいつまでもいつまでもそのぶなの木を見上げて立っているのでした。  時にはその大きくあいた口の横わきをさも痒いようなふりをして指でこすりながらはあはあ息だけで笑いました。  なるほど遠くから見ると虔十は口の横わきを掻いているか或いは欠伸でもしているかのように見えましたが近くではもちろん笑っている息の音も聞えましたし唇がピクピク動いているのもわかりましたから子供らはやっぱりそれもばかにして笑いました。  おっかさんに云いつけられると虔十は水を五百|杯でも汲みました。一日一杯畑の草もとりました。けれども虔十のおっかさんもおとうさんも仲々そんなことを虔十に云いつけようとはしませんでした。  さて、虔十の家のうしろに丁度大きな運動場ぐらいの野原がまだ畑にならないで残っていました。  ある年、山がまだ雪でまっ白く野原には新らしい草も芽を出さない時、虔十はいきなり田打ちをしていた家の人|達の前に走って来て云いました。 「お母、おらさ杉苗七百本、買って呉ろ。」  虔十のおっかさんはきらきらの三本鍬を動かすのをやめてじっと虔十の顔を見て云いました。 「杉苗七百ど、どごさ植ぇらぃ。」 「家のうしろの野原さ。」  そのとき虔十の兄さんが云いました。 「虔十、あそごは杉植ぇでも成長らなぃ処だ。それより少し田でも打って助けろ。」  虔十はきまり悪そうにもじもじして下を向いてしまいました。  すると虔十のお父さんが向うで汗を拭きながらからだを延ばして 「買ってやれ、買ってやれ。虔十ぁ今まで何一つだて頼んだごとぁ無ぃがったもの。買ってやれ。」と云いましたので虔十のお母さんも安心したように笑いました。  虔十はまるでよろこんですぐにまっすぐに家の方へ走りました。  そして納屋から唐鍬を持ち出してぽくりぽくりと芝を起して杉苗を植える穴を掘りはじめました。  虔十の兄さんがあとを追って来てそれを見て云いました。 「虔十、杉ぁ植える時、掘らなぃばわがなぃんだじゃ。明日まで待て。おれ、苗買って来てやるがら。」  虔十はきまり悪そうに鍬を置きました。  次の日、空はよく晴れて山の雪はまっ白に光りひばりは高く高くのぼってチーチクチーチクやりました。そして虔十はまるでこらえ切れないようににこにこ笑って兄さんに教えられたように今度は北の方の堺から杉苗の穴を掘りはじめました。実にまっすぐに実に間隔正しくそれを掘ったのでした。虔十の兄さんがそこへ一本ずつ苗を植えて行きました。  その時野原の北側に畑を有っている平二がきせるをくわえてふところ手をして寒そうに肩をすぼめてやって来ました。平二は百姓も少しはしていましたが実はもっと別の、人にいやがられるようなことも仕事にしていました。平二は虔十に云いました。 「やぃ。虔十、此処さ杉植えるな※てやっぱり馬鹿だな。第一おらの畑ぁ日影にならな。」  虔十は顔を赤くして何か云いたそうにしましたが云えないでもじもじしました。  すると虔十の兄さんが、 「平二さん、お早うがす。」と云って向うに立ちあがりましたので平二はぶつぶつ云いながら又のっそりと向うへ行ってしまいました。  その芝原へ杉を植えることを嘲笑ったものは決して平二だけではありませんでした。あんな処に杉など育つものでもない、底は硬い粘土なんだ、やっぱり馬鹿は馬鹿だとみんなが云って居りました。  それは全くその通りでした。杉は五年までは緑いろの心がまっすぐに空の方へ延びて行きましたがもうそれからはだんだん頭が円く変って七年目も八年目もやっぱり丈が九尺ぐらいでした。  ある朝虔十が林の前に立っていますとひとりの百姓が冗談に云いました。 「おおい、虔十。あの杉ぁ枝打ぢさなぃのか。」 「枝打ぢていうのは何だぃ。」 「枝打ぢつのは下の方の枝山刀で落すのさ。」 「おらも枝打ぢするべがな。」  虔十は走って行って山刀を持って来ました。  そして片っぱしからぱちぱち杉の下枝を払いはじめました。ところがただ九尺の杉ですから虔十は少しからだをまげて杉の木の下にくぐらなければなりませんでした。  夕方になったときはどの木も上の方の枝をただ三四本ぐらいずつ残してあとはすっかり払い落されていました。  濃い緑いろの枝はいちめんに下草を埋めその小さな林はあかるくがらんとなってしまいました。  虔十は一ぺんにあんまりがらんとなったのでなんだか気持ちが悪くて胸が痛いように思いました。  そこへ丁度虔十の兄さんが畑から帰ってやって来ましたが林を見て思わず笑いました。そしてぼんやり立っている虔十にきげんよく云いました。 「おう、枝集めべ、いい焚ぎものうんと出来だ。林も立派になったな。」  そこで虔十もやっと安心して兄さんと一緒に杉の木の下にくぐって落した枝をすっかり集めました。  下草はみじかくて奇麗でまるで仙人たちが碁でもうつ処のように見えました。  ところが次の日虔十は納屋で虫喰い大豆を拾っていましたら林の方でそれはそれは大さわぎが聞えました。  あっちでもこっちでも号令をかける声ラッパのまね、足ぶみの音それからまるでそこら中の鳥も飛びあがるようなどっと起るわらい声、虔十はびっくりしてそっちへ行って見ました。  すると愕ろいたことは学校帰りの子供らが五十人も集って一列になって歩調をそろえてその杉の木の間を行進しているのでした。  全く杉の列はどこを通っても並木道のようでした。それに青い服を着たような杉の木の方も列を組んであるいているように見えるのですから子供らのよろこび加減と云ったらとてもありません、みんな顔をまっ赤にしてもずのように叫んで杉の列の間を歩いているのでした。  その杉の列には、東京|街道ロシヤ街道それから西洋街道というようにずんずん名前がついて行きました。  虔十もよろこんで杉のこっちにかくれながら口を大きくあいてはあはあ笑いました。  それからはもう毎日毎日子供らが集まりました。  ただ子供らの来ないのは雨の日でした。  その日はまっ白なやわらかな空からあめのさらさらと降る中で虔十がただ一人からだ中ずぶぬれになって林の外に立っていました。 「虔十さん。今日も林の立番だなす。」  簑を着て通りかかる人が笑って云いました。その杉には鳶色の実がなり立派な緑の枝さきからはすきとおったつめたい雨のしずくがポタリポタリと垂れました。虔十は口を大きくあけてはあはあ息をつきからだからは雨の中に湯気を立てながらいつまでもいつまでもそこに立っているのでした。  ところがある霧のふかい朝でした。  虔十は萱場で平二といきなり行き会いました。  平二はまわりをよく見まわしてからまるで狼のようないやな顔をしてどなりました。 「虔十、貴さんどごの杉|伐れ。」 「何してな。」 「おらの畑ぁ日かげにならな。」  虔十はだまって下を向きました。平二の畑が日かげになると云ったって杉の影がたかで五寸もはいってはいなかったのです。おまけに杉はとにかく南から来る強い風を防いでいるのでした。 「伐れ、伐れ。伐らなぃが。」 「伐らなぃ。」虔十が顔をあげて少し怖そうに云いました。その唇はいまにも泣き出しそうにひきつっていました。実にこれが虔十の一生の間のたった一つの人に対する逆らいの言だったのです。  ところが平二は人のいい虔十などにばかにされたと思ったので急に怒り出して肩を張ったと思うといきなり虔十の頬をなぐりつけました。どしりどしりとなぐりつけました。  虔十は手を頬にあてながら黙ってなぐられていましたがとうとうまわりがみんなまっ青に見えてよろよろしてしまいました。すると平二も少し気味が悪くなったと見えて急いで腕を組んでのしりのしりと霧の中へ歩いて行ってしまいました。  さて虔十はその秋チブスにかかって死にました。平二も丁度その十日ばかり前にやっぱりその病気で死んでいました。  ところがそんなことには一向構わず林にはやはり毎日毎日子供らが集まりました。  お話はずんずん急ぎます。  次の年その村に鉄道が通り虔十の家から三町ばかり東の方に停車場ができました。あちこちに大きな瀬戸物の工場や製糸場ができました。そこらの畑や田はずんずん潰れて家がたちました。いつかすっかり町になってしまったのです。その中に虔十の林だけはどう云うわけかそのまま残って居りました。その杉もやっと一丈ぐらい、子供らは毎日毎日集まりました。学校がすぐ近くに建っていましたから子供らはその林と林の南の芝原とをいよいよ自分らの運動場の続きと思ってしまいました。  虔十のお父さんももうかみがまっ白でした。まっ白な筈です。虔十が死んでから二十年近くなるではありませんか。  ある日|昔のその村から出て今アメリカのある大学の教授になっている若い博士が十五年ぶりで故郷へ帰って来ました。  どこに昔の畑や森のおもかげがあったでしょう。町の人たちも大ていは新らしく外から来た人たちでした。  それでもある日博士は小学校から頼まれてその講堂でみんなに向うの国の話をしました。  お話がすんでから博士は校長さんたちと運動場に出てそれからあの虔十の林の方へ行きました。  すると若い博士は愕ろいて何べんも眼鏡を直していましたがとうとう半分ひとりごとのように云いました。 「ああ、ここはすっかりもとの通りだ。木まですっかりもとの通りだ。木は却って小さくなったようだ。みんなも遊んでいる。ああ、あの中に私や私の昔の友達が居ないだろうか。」  博士は俄かに気がついたように笑い顔になって校長さんに云いました。 「ここは今は学校の運動場ですか。」 「いいえ。ここはこの向うの家の地面なのですが家の人たちが一向かまわないで子供らの集まるままにして置くものですから、まるで学校の附属の運動場のようになってしまいましたが実はそうではありません。」 「それは不思議な方ですね、一体どう云うわけでしょう。」 「ここが町になってからみんなで売れ売れと申したそうですが年よりの方がここは虔十のただ一つのかたみだからいくら困っても、これをなくすることはどうしてもできないと答えるそうです。」 「ああそうそう、ありました、ありました。その虔十という人は少し足りないと私らは思っていたのです。いつでもはあはあ笑っている人でした。毎日丁度この辺に立って私らの遊ぶのを見ていたのです。この杉もみんなその人が植えたのだそうです。ああ全くたれがかしこくたれが賢くないかはわかりません。ただどこまでも十力の作用は不思議です。ここはもういつまでも子供たちの美しい公園地です。どうでしょう。ここに虔十公園林と名をつけていつまでもこの通り保存するようにしては。」 「これは全くお考えつきです。そうなれば子供らもどんなにしあわせか知れません。」  さてみんなその通りになりました。  芝生のまん中、子供らの林の前に 「虔十公園林」と彫った青い橄欖岩の碑が建ちました。  昔のその学校の生徒、今はもう立派な検事になったり将校になったり海の向うに小さいながら農園を有ったりしている人たちから沢山の手紙やお金が学校に集まって来ました。  虔十のうちの人たちはほんとうによろこんで泣きました。  全く全くこの公園林の杉の黒い立派な緑、さわやかな匂、夏のすずしい陰、月光色の芝生がこれから何千人の人たちに本当のさいわいが何だかを教えるか数えられませんでした。  そして林は虔十の居た時の通り雨が降ってはすき徹る冷たい雫をみじかい草にポタリポタリと落しお日さまが輝いては新らしい奇麗な空気をさわやかにはき出すのでした。 一 午前八時五分  農場の耕耘部の農夫室は、雪からの反射で白びかりがいっぱいでした。  まん中の大きな釜からは湯気が盛んにたち、農夫たちはもう食事もすんで、脚絆を巻いたり藁沓をはいたり、はたらきに出る支度をしていました。  俄かに戸があいて、赤い毛布でこさえたシャツを着た若い血色のいい男がはいって来ました。  みんなは一ぺんにそっちを見ました。  その男は、黄いろなゴムの長靴をはいて、脚をきちんとそろえて、まっすぐに立って云いました。 「農夫長の宮野目さんはどなたですか。」 「おれだ。」  かがんで炉に靴下を乾かしていたせいの低い犬の毛皮を着た農夫が、腰をのばして立ちあがりました。 「何か用かい。」 「私は、今|事務所から、こちらで働らけと云われてやって参りました。」  農夫長はうなずきました。 「そうか。丁度いいところだった。昨夜はどこへ泊った。」 「事務所へ泊りました。」 「そうか。丁度よかった。この人について行ってくれ。玉蜀黍の脱穀をしてるんだ。機械は八時半から動くからな。今からすぐ行くんだ。」農夫長は隣りで脚絆を巻いている顔のまっ赤な農夫を指しました。 「承知しました。」  みんなはそれっきり黙って仕度しました。赤シャツはみんなの仕度する間、入口にまっすぐに立って、室の中を見まわしていましたが、ふと室の正面にかけてある円い柱時計を見あげました。  その盤面は青じろくて、ツルツル光って、いかにも舶来の上等らしく、どこでも見たことのないようなものでした。  赤シャツは右腕をあげて自分の腕時計を見て何気なく低くつぶやきました。 「あいつは十五分|進んでいるな。」それから腕時計の竜頭を引っぱって針を直そうとしました。そしたらさっきから仕度ができてめずらしそうにこの新らしい農夫の近くに立ってそのようすを見ていた子供の百姓が俄かにくすりと笑いました。  するとどう云うわけかみんなもどっと笑ったのです。一斉にその青じろい美しい時計の盤面を見あげながら。  赤シャツはすっかりどぎまぎしてしまいました。そしてきまりの悪いのを軽く足ぶみなどをしてごまかしながらみんなの仕度のできるのを待っていました。 二 午前十二時  る、る、る、る、る、る、る、る、る、る、る。  脱穀器は小屋やそこら中の雪、それからすきとおったつめたい空気をふるわせてまわりつづけました。  小屋の天井にのぼった人たちは、器械の上の方からどんどん乾いた玉蜀黍をほうり込みました。  それはたちまち器械の中で、きれいな黄色の穀粒と白い細長い芯とにわかれて、器械の両側に落ちて来るのでした。今朝来たばかりの赤シャツの農夫は、シャベルで落ちて来る穀粒をしゃくって向うに投げ出していました。それはもう黄いろの小山を作っていたのです。二人の農夫は次から次とせわしく落ちて来る芯を集めて、小屋のうしろの汽缶室に運びました。  ほこりはいっぱいに立ち、午ちかくの日光は四つの窓から四本の青い棒になって小屋の中に落ちました。赤シャツの農夫はすっかり塵にまみれ、しきりに汗をふきました。  俄かにピタッととうもろこしの粒の落ちて来るのがとまりました。それからもう四粒ばかりぽろぽろっところがって来たと思うとあとは器械ばかりまるで今までとちがった楽なような音をたてながらまわりつづけました。 「無くなったな。」赤シャツの農夫はつぶやいて、も一度シャツの袖でひたいをぬぐい、胸をはだけて脱穀小屋の戸口に立ちました。 「これで午だ。」天井でも叫んでいます。  る、る、る、る、る、る、る、る、る、る。  器械はやっぱり凍ったはたけや牧草地の雪をふるわせてまわっています。  脱穀小屋の庇の下に、貯蔵庫から玉蜀黍のそりを牽いて来た二|疋の馬が、首を垂れてだまって立って居ました。  赤シャツの農夫は馬に近よって頸を平手で叩こうとしました。  その時、向うの農夫室のうしろの雪の高みの上に立てられた高い柱の上の小さな鐘が、前后にゆれ出し音はカランカランカランカランとうつくしく雪を渡って来ました。今までじっと立っていた馬は、この時|一緒に頸をあげ、いかにもきれいに歩調を踏んで、厩の方へ歩き出し、空のそりはひとりでに馬について雪を滑って行きました。赤シャツの農夫はすこしわらってそれを見送っていましたが、ふと思い出したように右手をあげて自分の腕時計を見ました。そして不思議そうに、 「今度は合っているな。」とつぶやきました。 三 午后零時五十分  午の食事が済んでから、みんなは農夫室の火を囲んでしばらくやすんでいました。炭火はチラチラ青い焔を出し、窓ガラスからはうるんだ白い雲が、額もかっと痛いようなまっ青なそらをあてなく流れていくのが見えました。 「お前、郷里はどこだ。」農夫長は石炭凾にこしかけて両手を火にあぶりながら今朝来た赤シャツにたずねました。 「福島です。」 「前はどこに居たね。」 「六原に居りました。」 「どうして向うをやめたんだい。」 「一ぺん郷国へ帰りましてね、あすこも陰気でいやだから今度はこっちへ来たんです。」 「そうかい。六原に居たんじゃ馬は使えるだろうな。」 「使えます。」 「いつまでこっちに居るつもりだい。」 「ずっと居ますよ。」 「そうか。」農夫長はだまってしまいました。  一人の農夫が兵隊の古外套をぬぎながら入って来ました。 「場長は帰っているかい。」 「まだ帰らないよ。」 「そうか。」時計ががちっと鳴りました。あの蒼白いつるつるの瀬戸でできているらしい立派な盤面の時計です。 「さあじき一時だ、みんな仕事に行ってくれ。」農夫長が云いました。  赤シャツの農夫はまたこっそりと自分の腕時計を見ました。  たしかに腕時計は一時五分前なのにその大きな時計は一時二十分前でした。農夫長はじき一時だと云い、時計もたしかにがちっと鳴り、それに針は二十分前、今朝は進んでさっきは合い、今度は十五分おくれている、赤シャツはぼんやりダイアルを見ていました。  俄かに誰かがクスクス笑いました。みんなは続いてどっと笑いました。すっかり今朝の通りです。赤シャツの農夫はきまり悪そうに、急いで戸をあけて脱穀小屋の方へ行きました。あとではまだみんなの気のよさそうな笑い声にまじって、 「あいつは仲々気取ってるな。」 「時計ばかり苦にしてるよ。」というような声が聞えました。 四  日暮れからすっかり雪になりました。  外ではちらちらちらちら雪が降っています。  農夫室には電燈が明るく点き、火はまっ赤に熾りました。  赤シャツの農夫は炉のそばの土間に燕麦の稈を一束敷いて、その上に足を投げ出して座り、小さな手帳に何か書き込んでいました。  みんなは本部へ行ったり、停車場まで酒を呑みに行ったりして、室にはただ四人だけでした。と赤シャツは手帳に書きました。 「今夜|積るぞ。」 「一尺は積るな。」 「帝釈の湯で、熊また捕れたってな。」 「そうか。今年は二|疋目だな。」  その時です。あの蒼白い美しい柱時計がガンガンガンガン六時を打ちました。  藁の上の若い農夫はぎょっとしました。そして急いで自分の腕時計を調べて、それからまるで食い込むように向うの怪しい時計を見つめました。腕時計も六時、柱時計の音も六時なのにその針は五時四十五分です。今度はおくれたのです。さっき仕事を終って帰ったときは十分|進んでいました。さあ、今だ。赤シャツの農夫はだまって針をにらみつけました。二人の炉ばたの百姓たちは、それを見てまた面白そうに笑ったのです。  さあ、その時です。いままで五時五十分を指していた長い針が俄かに電のように飛んで、一ぺんに六時十五分の所まで来てぴたっととまりました。 「何だ、この時計、針のねじが緩んでるんだ。」  赤シャツの農夫は大声で叫んで立ちあがりました。みんなもも一度わらいました。  赤シャツの農夫は、窓ぶちにのぼって、時計の蓋をひらき、針をがたがた動かしてみてから、盤に書いてある小さな字を読みました。 「この時計、上等だな。巴里製だ。針がゆるんだんだ。」  農夫は針の上のねじをまわしました。 「修繕したのか。汝、時計|屋に居たな。」炉のそばの年|老った農夫が云いました。若い農夫は、も一度自分の腕時計に柱時計の針を合せて、安心したように蓋をしめ、ぴょんと土間にはね降りました。  外では雪がこんこんこんこん降り、酒を呑みに出掛けた人たちも、停車場まで行くのはやめたろうと思われたのです。 八月十三日  さいかち淵なら、ほんとうにおもしろい。  しゅっこだって毎日行く。しゅっこは、舜一なんだけれども、みんなはいつでもしゅっこという。そういわれても、しゅっこは少しも怒らない。だからみんなは、いつでもしゅっこしゅっこという。ぼくは、しゅっことは、いちばん仲がいい。きょうもいっしょに、出かけて行った。  ぼくらが、さいかち淵で泳いでいると、発破をかけに、大人も来るからおもしろい。今日のひるまもやって来た。  石神の庄助がさきに立って、そのあとから、練瓦場の人たちが三人ばかり、肌ぬぎになったり、網を持ったりして、河原のねむの木のとこを、こっちへ来るから、ぼくは、きっと発破だとおもった。しゅっこも、大きな白い石をもって、淵の上のさいかちの木にのぼっていたが、それを見ると、すぐに、石を淵に落して叫んだ。 「おお、発破だぞ。知らないふりしてろ。石とりやめて、早くみんな、下流へさがれ。」そこでみんなは、なるべくそっちを見ないようにしながら、いっしょに下流の方へ泳いだ。しゅっこは、木の上で手を額にあてて、もう一|度よく見きわめてから、どぶんと逆まに淵へ飛びこんだ。それから水を潜って、一ぺんにみんなへ追いついた。  ぼくらは、淵の下流の、瀬になったところに立った。 「知らないふりして遊んでろ。みんな。」しゅっこが云った。ぼくらは、砥石をひろったり、せきれいを追ったりして、発破のことなぞ、すこしも気がつかないふりをしていた。  向うの淵の岸では、庄助が、しばらくあちこち見まわしてから、いきなりあぐらをかいて、砂利の上へ座ってしまった。それからゆっくり、腰からたばこ入れをとって、きせるをくわいて、ぱくぱく煙をふきだした。奇体だと思っていたら、また腹かけから、何か出した。「発破だぞ、発破だぞ。」とぺ吉やみんな叫んだ。しゅっこは、手をふってそれをとめた。庄助は、きせるの火を、しずかにそれへうつした。うしろに居た一人は、すぐ水に入って、網をかまえた。庄助は、まるで電車を運転するときのように落ちついて、立って一あし水にはいると、すぐその持ったものを、さいかちの木の下のところへ投げこんだ。するとまもなく、ぼぉというようなひどい音がして、水はむくっと盛りあがり、それからしばらく、そこらあたりがきぃんと鳴った。練瓦場の人たちは、みんな水へ入った。 「さあ、流れて来るぞ。みんなとれ。」としゅっこが云った。まもなく、小指ぐらいの茶いろなかじかが、横向きになって流れて来たので、取ろうとしたら、うしろのほうで三郎が、まるで瓜をすするときのような声を出した。六|寸ぐらいある鮒をとって、顔をまっ赤にしてよろこんでいたのだった。「だまってろ、だまってろ。」しゅっこが云った。  そのとき、向うの白い河原を、肌ぬぎになったり、シャツだけ着たりした大人や子どもらが、たくさんかけて来た。そのうしろからは、ちょうど活動写真のように、一人の網シャツを着た人が、はだか馬に乗って、まっしぐらに走って来た。みんな発破の音を聞いて、見に来たのだ。  庄助は、しばらく腕を組んで、みんなのとるのを見ていたが、「さっぱり居なぃな。」と云った。けれども、あんなにとれたらたくさんだ。練瓦場の人たちなんか、三十|疋ぐらいもとったんだから。ぼくらも、一疋か二疋なら誰だって拾った。庄助は、だまって、また上流へ歩きだした。練瓦場の人たちもついていった。網シャツの人は、馬に乗って、またかけて行ったし、子どもらは、ぼくらの仲間にはいろうと、岸に座って待っていた。 「発破かけだら、雑魚撒かせ。」三郎が、河原の砂っぱの上で、ぴょんぴょんはねながら、高く叫んだ。  ぼくらは、とった魚を、石で囲んで、小さな生洲をこしらえて、生き返っても、もう遁げて行かないようにして、また石取りをはじめた。ほんとうに暑くなって、ねむの木もぐったり見えたし、空もまるで、底なしの淵のようになった。  そのころ誰かが、 「あ、生洲、打壊すとこだぞ。」と叫んだ。見ると、一人の変に鼻の尖った、洋服を着てわらじをはいた人が、鉄砲でもない槍でもない、おかしな光る長いものを、せなかにしょって、手にはステッキみたいな鉄槌をもって、ぼくらの魚を、ぐちゃぐちゃ掻きまわしているのだ。みんな怒って、何か云おうとしているうちに、その人は、びちゃびちゃ岸をあるいて行って、それから淵のすぐ上流の浅瀬をこっちへわたろうとした。ぼくらはみんな、さいかちの樹にのぼって見ていた。ところがその人は、すぐに河をわたるでもなく、いかにもわらじや脚絆の汚なくなったのを、そのまま洗うというふうに、もう何べんも行ったり来たりするもんだから、ぼくらはいよいよ、気持ちが悪くなってきた。そこで、とうとう、しゅっこが云った。 「お、おれ先に叫ぶから、みんなあとから、一二三で叫ぶこだ。いいか。  あんまり川を濁すなよ、  いつでも先生云うでなぃか。一、二ぃ、三。」 「あんまり川を濁すなよ、  いつでも先生云うでなぃか。」その人は、びっくりしてこっちを見たけれども、何を云ったのか、よくわからないというようすだった。そこでぼくらはまた云った。 「あんまり川を濁すなよ、  いつでも先生、云うでなぃか。」鼻の尖った人は、すぱすぱと、煙草を吸うときのような口つきで云った。 「この水|呑むのか、ここらでは。」 「あんまり川をにごすなよ、  いつでも先生云うでなぃか。」鼻の尖った人は、少し困ったようにして、また云った。 「川をあるいてわるいのか。」 「あんまり川をにごすなよ、  いつでも先生云うでなぃか。」その人は、あわてたのをごまかすように、わざとゆっくり、川をわたって、それから、アルプスの探険みたいな姿勢をとりながら、青い粘土と赤砂利の崖をななめにのぼって、せなかにしょった長いものをぴかぴかさせながら、上の豆畠へはいってしまった。ぼくらも何だか気の毒なような、おかしながらんとした気持ちになった。そこで、一人ずつ木からはね下りて、河原に泳ぎついて、魚を手拭につつんだり、手にもったりして、家に帰った。 八月十四日  しゅっこは、今日は、毒もみの丹礬をもって来た。あのトラホームの眼のふちを擦る青い石だ。あれを五かけ、紙に包んで持って来て、ぼくをさそった。巡査に押えられるよと云ったら、田から流れて来たと云えばいいと云った。けれども毒もみは卑怯だから、ぼくは厭だと答えたら、しゅっこは少し顔いろを変えて、卑怯でないよ、みみずなんかで、だまして取るよりいいと云って、あとはあんまり、ぼくとは口を利かなかった。その代りしゅっこは、そこら中を、一|軒ごとにさそって歩いて、いいことをして見せるからあつまれと云って、まるで小さなこどもらまで、たくさん集めた。  ぼくらは、蝉が雨のように鳴いているいつもの松林を通って、それから、祭のときの瓦斯のような匂のむっとする、ねむの河原を急いで抜けて、いつものさいかち淵に行った。今日なら、もうほんとうに立派な雲の峰が、東でむくむく盛りあがり、みみずくの頭の形をした鳥ヶ森も、ぎらぎら青く光って見えた。しゅっこが、あんまり急いで行くもんだから、小さな子どもらは、追いつくために、まるで半分|馳けた。みんな急いで着物をぬいで、淵の岸に立つと、しゅっこが云った。 「ちゃんと一|列にならべ。いいか。魚|浮いてきたら、泳いで行ってとれ。とったくらい与るぞ。いいか。」小さなこどもらは、よろこんで顔を赤くして、押しあったりしながら、ぞろっと淵を囲んだ。ぺ吉だの三、四人は、もう泳いで、さいかちの木の下まで行って待っていた。  しゅっこが、大威張りで、あの青いたんぱんを、淵の中に投げ込んだ。それから、みんなしぃんとして、水をみつめて立っていた。ぼくは、からだが上流の方へ動いているような気持ちになるのがいやなので、水を見ないで、向うの雲の峰の上を通る黒い鳥を見ていた。ところがそれからよほどたっても、魚は浮いて来なかった。しゅっこは大へんまじめな顔で、きちんと立って水を見ていた。昨日発破をかけたときなら、もう十|疋もとっていたんだと、ぼくは思った。またずいぶんしばらくみんなしぃんとして待った。けれどもやっぱり、魚は一ぴきも浮いて来なかった。 「さっぱり魚、浮ばなぃよ。」三郎が叫んだ。しゅっこはびくっとしたけれども、まだ一しんに水を見ていた。 「魚さっぱり浮ばなぃよ。」ぺ吉が、また向うの木の下で云った。するともう子どもらは、がやがや云い出して、みんな水に飛び込んでしまった。  しゅっこは、しばらくきまり悪そうに、しゃがんで水を見ていたけれど、とうとう立って、 「鬼っこしないか。」と云った。「する、する。」みんなは叫んで、じゃんけんをするために、水の中から手を出した。泳いでいたものは、急いでせいの立つところまで行って手を出した。しゅっこが、ぼくにもはいらないかと云ったから、もちろんぼくは、はじめから怒っていたのでもないし、すぐ手を出した。しゅっこは、はじめに、昨日あの変な鼻の尖った人の上って行った崖の下の、青いぬるぬるした粘土のところを根っこにきめた。そこに取りついていれば、鬼は押えることができない。それから、はさみ無しの一人まけかちで、じゃんけんをした。ところが、悦治はひとりはさみを出したので、みんなにうんとはやされたほかに鬼になった。悦治は、唇を紫いろにして、河原を走って、喜作を押えたもんだから、鬼は二人になった。それからぼくらは、砂っぱの上や淵を、あっちへ行ったり、こっちへ来たり、押えたり押えられたり、何べんも鬼っこをした。  しまいにとうとう、しゅっこ一人が鬼になった。しゅっこはまもなく吉郎をつかまえた。ぼくらはみんな、さいかちの木の下に居てそれを見ていた。するとしゅっこが、吉郎、汝、上流から追って来い、追え、追え、と云いながら、じぶんはだまって立って見ていた。吉郎は、口をあいて手をひろげて、上流から粘土の上を追って来た。みんなは淵へ飛び込む仕度をした。ぼくは楊の木にのぼった。そのとき吉郎が、たぶんあの上流の粘土が、足についたためだったろう、みんなの前ですべってころんでしまった。みんなは、わあわあ叫んで、吉郎をはねこえたり、水に入ったりして、上流の青い粘土の根に上ってしまった。 「しゅっこ、来。」三郎は立って、口を大きくあいて、手をひろげて、しゅっこをばかにした。するとしゅっこは、さっきからよっぽど怒っていたとみえて、「ようし、見てろ」と云いながら、本気になって、ざぶんと水に飛び込んで、一生けん命、そっちの方へ泳いでいった。子どもらは、すっかり恐がってしまった。第一、その粘土のところはせまくて、みんながはいれなかったし、それに大へんつるつるすべる傾斜になっていたものだから、下の方の四、五人などは上の人につかまるようにして、やっと川へすべり落ちるのをふせいでいた。三郎だけが、いちばん上で落ち着いて、さあ、みんな、とか何とか相談らしいことをはじめた。みんなもそこで、頭をあつめて聞いている。しゅっこは、ぼちゃぼちゃ、もう近くまで行っていた。みんなは、ひそひそはなしている。するとしゅっこは、いきなり両手で、みんなへ水をかけ出した。みんながばたばた防いでいたら、だんだん粘土がすべって来て、なんだかすこうし下へずれたようになった。しゅっこはよろこんで、いよいよ水をはねとばした。するとみんなは、ぼちゃんぼちゃんと一度に水にすべって落ちた。しゅっこは、それを片っぱしからつかまえた。三郎ひとり、上をまわって泳いで遁げたら、しゅっこはすぐに追い付いて、押えたほかに、腕をつかんで、四、五へんぐるぐる引っぱりまわした。三郎は、水を呑んだとみえて、霧をふいて、ごほごほむせて、泣くようにしながら、 「おいらもうやめた。こんな鬼っこもうしない。」と云った。子どもらはみんな砂利に上ってしまった。三郎もあがった。しゅっこは、そっと、あの青い石を投げたところをのぞきながら、さいかちの樹の下に立っていた。  ところが、そのときはもう、そらがいっぱいの黒い雲で、楊も変に白っぽくなり、蝉ががあがあ鳴いていて、そこらは何とも云われない、恐ろしい景色にかわっていた。  そのうちに、いきなり林の上のあたりで、雷が鳴り出した。と思うと、まるで山つなみのような音がして、一ぺんに夕立がやってきた。風までひゅうひゅう吹きだした。淵の水には、大きなぶちぶちがたくさんできて、水だか石だかわからなくなってしまった。河原にあがった子どもらは、着物をかかえて、みんなねむの木の下へ遁げこんだ。ぼくも木からおりて、しゅっこといっしょに、向うの河原へ泳ぎだした。そのとき、あのねむの木の方かどこか、烈しい雨のなかから、 「雨はざあざあ、ざっこざっこ、  風はしゅうしゅう、しゅっこしゅっこ。」 というように叫んだものがあった。しゅっこは、泳ぎながら、まるであわてて、何かに足をひっぱられるようにして遁げた。ぼくもじっさいこわかった。ようやく、みんなのいるねむのはやしについたとき、しゅっこはがたがたふるえながら、 「いま叫んだのはおまえらだか。」ときいた。 「そでない、そでない。」みんなは一しょに叫んだ。ぺ吉がまた一人出て来て、「そでない。」と云った。しゅっこは、気味悪そうに川のほうを見た。けれどもぼくは、みんなが叫んだのだとおもう。 「何の用でここへ来たの、何かしらべに来たの、何かしらべに来たの。」  西の山地から吹いて来たまだ少しつめたい風が私の見すぼらしい黄いろの上着をぱたぱたかすめながら何べんも通って行きました。 「おれは内地の農林学校の助手だよ、だから標本を集めに来たんだい。」私はだんだん雲の消えて青ぞらの出て来る空を見ながら、威張ってそう云いましたらもうその風は海の青い暗い波の上に行っていていまの返事も聞かないようあとからあとから別の風が来て勝手に叫んで行きました。 「何の用でここへ来たの、何かしらべに来たの、しらべに来たの、何かしらべに来たの。」もう相手にならないと思いながら私はだまって海の方を見ていましたら風は親切にまた叫ぶのでした。 「何してるの、何を考えてるの、何か見ているの、何かしらべに来たの。」私はそこでとうとうまた言ってしまいました。 「そんなにどんどん行っちまわないでせっかくひとへ物を訊いたらしばらく返事を待っていたらいいじゃないか。」けれどもそれもまた風がみんな一語ずつ切れ切れに持って行ってしまいました。もうほんとうにだめなやつだ、はなしにもなんにもなったもんじゃない、と私がぷいっと歩き出そうとしたときでした。向うの海が孔雀石いろと暗い藍いろと縞になっているその堺のあたりでどうもすきとおった風どもが波のために少しゆれながらぐるっと集って私からとって行ったきれぎれの語を丁度ぼろぼろになった地図を組み合せる時のように息をこらしてじっと見つめながらいろいろにはぎ合せているのをちらっと私は見ました。  また私はそこから風どもが送ってよこした安心のような気持も感じて受け取りました。そしたら丁度あしもとの砂に小さな白い貝殻に円い小さな孔があいて落ちているのを見ました。つめたがいにやられたのだな朝からこんないい標本がとれるならひるすぎは十字狐だってとれるにちがいないと私は思いながらそれを拾って雑嚢に入れたのでした。そしたら俄かに波の音が強くなってそれは斯う云ったように聞こえました。「貝殻なんぞ何にするんだ。そんな小さな貝殻なんど何にするんだ、何にするんだ。」 「おれは学校の助手だからさ。」私はついまたつりこまれてどなりました。するとすぐ私の足もとから引いて行った潮水はまた巻き返して波になってさっとしぶきをあげながらまた叫びました。「何にするんだ、何にするんだ、貝殻なんぞ何にするんだ。」私はむっとしてしまいました。 「あんまり訳がわからないな、ものと云うものはそんなに何でもかでも何かにしなけぁいけないもんじゃないんだよ。そんなことおれよりおまえたちがもっとよくわかってそうなもんじゃないか。」  すると波はすこしたじろいだようにからっぽな音をたててからぶつぶつ呟くように答えました。「おれはまた、おまえたちならきっと何かにしなけぁ済まないものと思ってたんだ。」  私はどきっとして顔を赤くしてあたりを見まわしました。  ほんとうにその返事は謙遜な申し訳けのような調子でしたけれども私はまるで立っても居てもいられないように思いました。  そしてそれっきり浪はもう別のことばで何べんも巻いて来ては砂をたててさびしく濁り、砂を滑らかな鏡のようにして引いて行っては一きれの海藻をただよわせたのです。  そして、ほんとうに、こんなオホーツク海のなぎさに座って乾いて飛んで来る砂やはまなすのいい匂を送って来る風のきれぎれのものがたりを聴いているとほんとうに不思議な気持がするのでした。それも風が私にはなしたのか私が風にはなしたのかあとはもうさっぱりわかりません。またそれらのはなしが金字の厚い何|冊もの百科辞典にあるようなしっかりしたつかまえどこのあるものかそれとも風や波といっしょに次から次と移って消えて行くものかそれも私にはわかりません。ただそこから風や草穂のいい性質があなたがたのこころにうつって見えるならどんなにうれしいかしれません。        *  タネリが指をくわいてはだしで小屋を出たときタネリのおっかさんは前の草はらで乾かした鮭の皮を継ぎ合せて上着をこさえていたのです。「おれ海へ行って孔石をひろって来るよ。」とタネリが云いましたらおっかさんは太い縫糸を歯でぷつっと切ってそのきれはしをぺっと吐いて云いました。 「ひとりで浜へ行ってもいいけれど、あすこにはくらげがたくさん落ちている。寒天みたいなすきとおしてそらも見えるようなものがたくさん落ちているからそれをひろってはいけないよ。それからそれで物をすかして見てはいけないよ。おまえの眼は悪いものを見ないようにすっかりはらってあるんだから。くらげはそれを消すから。おまえの兄さんもいつかひどい眼にあったから。」「そんなものおれとらない。」タネリは云いながら黒く熟したこけももの間の小さなみちを砂はまに下りて来ました。波がちょうど減いたとこでしたから磨かれたきれいな石は一列にならんでいました。「こんならもう穴石はいくらでもある。それよりあのおっ母の云ったおかしなものを見てやろう。」タネリはにがにが笑いながらはだしでそのぬれた砂をふんで行きました。すると、ちゃんとあったのです。砂の一とこが円くぽとっとぬれたように見えてそこに指をあててみますとにくにく寒天のようなつめたいものでした。そして何だか指がしびれたようでした。びっくりしてタネリは指を引っ込めましたけれども、どうももうそれをつまみあげてみたくてたまらなくなりました。拾ってしまいさえしなければいいだろうと思ってそれをすばやくつまみ上げましたら砂がすこしついて来ました。砂をあらってやろうと思ってタネリは潮水の来るとこまで下りて行って待っていました。間もなく浪がどぼんと鳴ってそれからすうっと白い泡をひろげながら潮水がやって来ました。タネリはすばやくそれを洗いましたらほんとうにきれいな硝子のようになって日に光りました。タネリはまたおっかさんのことばを思い出してもう棄ててしまおうとしてあたりを見まわしましたら南の岬はいちめんうすい紫いろのやなぎらんの花でちょっと燃えているように見えその向うにはとど松の黒い緑がきれいに綴られて何とも云えず立派でした。あんなきれいなとこをこのめがねですかして見たらほんとうにもうどんなに不思議に見えるだろうと思いますとタネリはもう居てもたってもいられなくなりました。思わずくらげをぷらんと手でぶら下げてそっちをすかして見ましたらさあどうでしょう、いままでの明るい青いそらががらんとしたまっくらな穴のようなものに変ってしまってその底で黄いろな火がどんどん燃えているようでした。さあ大変と思ってタネリが急いで眼をはなしましたがもうそのときはいけませんでした。そらがすっかり赤味を帯びた鉛いろに変ってい海の水はまるで鏡のように気味わるくしずまりました。  おまけに水平線の上のむくむくした雲の向うから鉛いろの空のこっちから口のむくれた三|疋の大きな白犬に横っちょにまたがって黄いろの髪をばさばささせ大きな口をあけたり立てたりし歯をがちがち鳴らす恐ろしいばけものがだんだんせり出して昇って来ました。もうタネリは小さくなって恐れ入っていましたらそらはすっかり明るくなりそのギリヤークの犬神は水平線まですっかりせり出し間もなく海に犬の足がちらちら映りながらこっちの方へやって来たのです。 「おっかさん、おっかさん。おっかさん。」タネリは陸の方へ遁げながら一生けん命叫びました。すると犬神はまるでこわい顔をして口をぱくぱくうごかしました。もうまるでタネリは食われてしまったように思ったのです。「小僧、来い。いまおれのとこのちょうざめの家に下男がなくて困っているとこだ。ごち走してやるから来い。」云ったかと思うとタネリはもうしっかり犬神に両足をつかまれてちょぼんと立ち、陸地はずんずんうしろの方へ行ってしまって自分は青いくらい波の上を走って行くのでした。その遠ざかって行く陸地に小さな人の影が五つ六つうごき一人は両手を高くあげてまるで気違いのように叫びながら渚をかけまわっているのでした。 「おっかさん。もうさよなら。」タネリも高く叫びました。すると犬神はぎゅっとタネリの足を強く握って「ほざくな小僧、いるかの子がびっくりしてるじゃないか。」と云ったかと思うとぽっとあたりが青ぐらくなりました。「ああおいらはもういるかの子なんぞの機嫌を考えなければならないようになったのか。」タネリはほんとうに涙をこぼしました。  そのときいきなりタネリは犬神の手から砂へ投げつけられました。肩をひどく打ってタネリが起きあがって見ましたらそこはもう海の底で上の方は青く明くただ一とこお日さまのあるところらしく白くぼんやり光っていました。 「おい、ちょうざめ、いいものをやるぞ。出て来い。」犬神は一つの穴に向って叫びました。  タネリは小さくなってしゃがんでいました。気がついて見るとほんとうにタネリは大きな一ぴきの蟹に変っていたのです。それは自分の両手をひろげて見ると両側に八本になって延びることでわかりました。「ああなさけない。おっかさんの云うことを聞かないもんだからとうとうこんなことになってしまった。」タネリは辛い塩水の中でぼろぼろ涙をこぼしました。犬神はおかしそうに口をまげてにやにや笑ってまた云いました。「ちょうざめ、どうしたい。」するとごほごほいやなせきをする音がしてそれから「どうもきのこにあてられてね。」ととても苦しそうな声がしました。「そうか。そいつは気の毒だ。実はね、おまえのとこに下男がなかったもんだから今日一人|見附けて来てやったんだ。蟹にしておいたがね、ぴしぴし遠慮なく使うがいい。おい。きさまこの穴にはいって行け。」タネリはこわくてもうぶるぶるふるえながらそのまっ暗な孔の中へはい込んで行きましたら、ほんとうに情けないと思いながらはい込んで行きましたら犬神はうしろから砂を吹きつけて追い込むようにしました。にわかにがらんと明るくなりました。そこは広い室であかりもつき砂がきれいにならされていましたがその上にそれはもうとても恐ろしいちょうざめが鉢巻をして寝ていました。タネリはぶるぶるしながら入口にとまっていました。するとちょうざめがううと一つうなりました。タネリはどきっとしてはねあがろうとしたくらいです。「うう、お前かい、今度の下男は。おれはいま病気でね、どうも苦しくていけないんだ。  ぼくらの方の、ざしき童子のはなしです。  あかるいひるま、みんなが山へはたらきに出て、こどもがふたり、庭であそんでおりました。大きな家にだれもおりませんでしたから、そこらはしんとしています。  ところが家の、どこかのざしきで、ざわっざわっと箒の音がしたのです。  ふたりのこどもは、おたがい肩にしっかりと手を組みあって、こっそり行ってみましたが、どのざしきにもたれもいず、刀の箱もひっそりとして、かきねの檜が、いよいよ青く見えるきり、たれもどこにもいませんでした。  ざわっざわっと箒の音がきこえます。  とおくの百舌の声なのか、北上川の瀬の音か、どこかで豆を箕にかけるのか、ふたりでいろいろ考えながら、だまって聴いてみましたが、やっぱりどれでもないようでした。  たしかにどこかで、ざわっざわっと箒の音がきこえたのです。  も一どこっそり、ざしきをのぞいてみましたが、どのざしきにもたれもいず、ただお日さまの光ばかりそこらいちめん、あかるく降っておりました。  こんなのがざしき童子です。 「大道めぐり、大道めぐり」  一生けん命、こう叫びながら、ちょうど十人の子供らが、両手をつないでまるくなり、ぐるぐるぐるぐる座敷のなかをまわっていました。どの子もみんな、そのうちのお振舞によばれて来たのです。  ぐるぐるぐるぐる、まわってあそんでおりました。  そしたらいつか、十一人になりました。  ひとりも知らない顔がなく、ひとりもおんなじ顔がなく、それでもやっぱり、どう数えても十一人だけおりました。そのふえた一人がざしきぼっこなのだぞと、大人が出て来て言いました。  けれどもたれがふえたのか、とにかくみんな、自分だけは、どうしてもざしきぼっこでないと、一生けん命|眼を張って、きちんとすわっておりました。  こんなのがざしきぼっこです。  それからまたこういうのです。  ある大きな本家では、いつも旧の八月のはじめに、如来さまのおまつりで分家の子供らをよぶのでしたが、ある年その一人の子が、はしかにかかってやすんでいました。 「如来さんの祭りへ行きたい。如来さんの祭りへ行きたい」と、その子は寝ていて、毎日毎日|言いました。 「祭り延ばすから早くよくなれ」本家のおばあさんが見舞いに行って、その子の頭をなでて言いました。  その子は九月によくなりました。  そこでみんなはよばれました。ところがほかの子供らは、いままで祭りを延ばされたり、鉛の兎を見舞いにとられたりしたので、なんともおもしろくなくてたまりませんでした。 「あいつのためにひどいめにあった。もう今日は来ても、どうしたってあそばないぞ」と約束しました。 「おお、来たぞ、来たぞ」みんながざしきであそんでいたとき、にわかに一人が叫びました。 「ようし、かくれろ」みんなは次の、小さなざしきへかけ込みました。  そしたらどうです。そのざしきのまん中に、今やっと来たばっかりのはずの、あのはしかをやんだ子が、まるっきりやせて青ざめて、泣きだしそうな顔をして、新しい熊のおもちゃを持って、きちんとすわっていたのです。 「ざしきぼっこだ」一人が叫んでにげだしました。みんなもわあっとにげました。ざしきぼっこは泣きました。  こんなのがざしきぼっこです。  また、北上川の朗妙寺の淵の渡し守が、ある日わたしに言いました。 「旧暦八月十七日の晩、おらは酒のんで早く寝た。おおい、おおいと向こうで呼んだ。起きて小屋から出てみたら、お月さまはちょうどそらのてっぺんだ。おらは急いで舟だして、向こうの岸に行ってみたらば、紋付を着て刀をさし、袴をはいたきれいな子供だ。たった一人で、白緒のぞうりもはいていた。渡るかと言ったら、たのむと言った。子どもは乗った。舟がまん中ごろに来たとき、おらは見ないふりしてよく子供を見た。きちんと膝に手を置いて、そらを見ながらすわっていた。  お前さん今からどこへ行く、どこから来たってきいたらば、子供はかあいい声で答えた。そこの笹田のうちにずいぶんながくいたけれど、もうあきたから他へ行くよ。なぜあきたねってきいたらば、子供はだまってわらっていた。どこへ行くねってまたきいたらば、更木の斎藤へ行くよと言った。岸についたら子供はもういず、おらは小屋の入口にこしかけていた。夢だかなんだかわからない。けれどもきっと本当だ。それから笹田がおちぶれて、更木の斎藤では病気もすっかり直ったし、むすこも大学を終わったし、めきめき立派になったから」  こんなのがざしき童子です。  楢夫は夕方、裏の大きな栗の木の下に行きました。その幹の、丁度楢夫の目位高い所に、白いきのこが三つできていました。まん中のは大きく、両がわの二つはずっと小さく、そして少し低いのでした。  楢夫は、じっとそれを眺めて、ひとりごとを言いました。 「ははあ、これがさるのこしかけだ。けれどもこいつへ腰をかけるようなやつなら、すいぶん小さな猿だ。そして、まん中にかけるのがきっと小猿の大将で、両わきにかけるのは、ただの兵隊にちがいない。いくら小猿の大将が威張ったって、僕のにぎりこぶしの位もないのだ。どんな顔をしているか、一ぺん見てやりたいもんだ。」  そしたら、きのこの上に、ひょっこり三|疋の小猿があらわれて腰掛けました。  やっぱり、まん中のは、大将の軍服で、小さいながら勲章も六つばかり提げています。両わきの小猿は、あまり小さいので、肩章がよくわかりませんでした。  小猿の大将は、手帳のようなものを出して、足を重ねてぶらぶらさせながら、楢夫に云いました。 「おまえが楢夫か。ふん。何|歳になる。」  楢夫はばかばかしくなってしまいました。小さな小さな猿の癖に、軍服などを着て、手帳まで出して、人間をさも捕虜か何かのように扱うのです。楢夫が申しました。 「何だい。小猿。もっと語を丁寧にしないと僕は返事なんかしないぞ。」  小猿が顔をしかめて、どうも笑ったらしいのです。もう夕方になって、そんな小さな顔はよくわかりませんでした。  けれども小猿は、急いで手帳をしまって、今度は手を膝の上で組み合せながら云いました。 「仲々|強情な子供だ。俺はもう六十になるんだぞ。そして陸軍大将だぞ。」  楢夫は怒ってしまいました。 「何だい。六十になっても、そんなにちいさいなら、もうさきの見込が無いやい。腰掛けのまま下へ落すぞ。」  小猿が又笑ったようでした。どうも、大変、これが気にかかりました。  けれども小猿は急にぶらぶらさせていた足をきちんとそろえておじぎをしました。そしていやに丁寧に云いました。 「楢夫さん。いや、どうか怒らないで下さい。私はいい所へお連れしようと思って、あなたのお年までお尋ねしたのです。どうです。おいでになりませんか。いやになったらすぐお帰りになったらいいでしょう。」  家来の二疋の小猿も、一生けん命、眼をパチパチさせて、楢夫を案内するようにまごころを見せましたので、楢夫も一寸行って見たくなりました。なあに、いやになったら、すぐ帰るだけだ。 「うん。行ってもいい。しかしお前らはもう少し語に気をつけないといかんぞ。」  小猿の大将は、むやみに沢山うなずきながら、腰掛けの上に立ちあがりました。  見ると、栗の木の三つのきのこの上に、三つの小さな入口ができていました。それから栗の木の根もとには、楢夫の入れる位の、四角な入口があります。小猿の大将は、自分の入口に一寸顔を入れて、それから振り向いて、楢夫に申しました。 「只今、電燈を点けますからどうかそこからおはいり下さい。入口は少し狭うございますが、中は大へん楽でございます。」  小猿は三疋、中にはいってしまい、それと一緒に栗の木の中に、電燈がパッと点きました。  楢夫は、入口から、急いで這い込みました。  栗の木なんて、まるで煙突のようなものでした。十間置き位に、小さな電燈がついて、小さな小さなはしご段がまわりの壁にそって、どこまでも上の方に、のぼって行くのでした。 「さあさあ、こちらへおいで下さい。」小猿はもうどんどん上へ昇って行きます。楢夫は一ぺんに、段を百ばかりずつ上って行きました。それでも、仲々、三疋には敵いません。  楢夫はつかれて、はあはあしながら、云いました。 「ここはもう栗の木のてっぺんだろう。」  猿が、一度にきゃっきゃっ笑いました。 「まあいいからついておいでなさい。」  上を見ますと、電燈の列が、まっすぐにだんだん上って行って、しまいはもうあんまり小さく、一つ一つの灯が見わかず、一本の細い赤い線のように見えました。  小猿の大将は、楢夫の少し参った様子を見ていかにも意地の悪い顔をして又申しました。 「さあも少し急ぐのです。ようございますか。私共に追いついておいでなさい。」  楢夫が申しました。 「此処へしるしを付けて行こう。うちへ帰る時、まごつくといけないから。」  猿が、一度に、きゃっきゃっ笑いました。生意気にも、ただの兵隊の小猿まで、笑うのです。大将が、やっと笑うのをやめて申しました。 「いや、お帰りになりたい時は、いつでもお送りいたします。決してご心配はありません。それより、まあ、駈ける用意をなさい。ここは最大急行で通らないといけません。」  楢夫も仕方なく、駈け足のしたくをしました。 「さあ、行きますぞ。一二の三。」小猿はもう駈け出しました。  楢夫も一生けん命、段をかけ上りました。実に小猿は速いのです。足音がぐゎんぐゎん響き電燈が矢の様に次から次と下の方へ行きました。もう楢夫は、息が切れて、苦しくて苦しくてたまりません。それでも、一生けん命、駈けあがりました。もう、走っているかどうかもわからない位です。突然眼の前がパッと青白くなりました。そして、楢夫は、眩しいひるまの草原の中に飛び出しました。そして草に足をからまれてばったり倒れました。そこは林に囲まれた小さな明地で、小猿は緑の草の上を、列んでだんだんゆるやかに、三べんばかり廻ってから、楢夫のそばへやって来ました。大将が鼻をちぢめて云いました。 「ああひどかった。あなたもお疲れでしょう。もう大丈夫です。これからはこんな切ないことはありません。」  楢夫が息をはずませながら、ようやく起き上って云いました。 「ここはどこだい。そして、今頃お日さまがあんな空のまん中にお出でになるなんて、おかしいじゃないか。」  大将が申しました。 「いや、ご心配ありません。ここは種山ヶ|原です。」  楢夫がびっくりしました。 「種山ヶ原? とんでもない処へ来たな。すぐうちへ帰れるかい。」 「帰れますとも。今度は下りですから訳ありません。」 「そうか。」と云いながら楢夫はそこらを見ましたが、もう今やって来たトンネルの出口はなく、却って、向うの木のかげや、草のしげみのうしろで、沢山の小猿が、きょろきょろこっちをのぞいているのです。  大将が、小さな剣をキラリと抜いて、号令をかけました。 「集れっ。」  小猿が、バラバラ、その辺から出て来て、草原|一杯もちゃもちゃはせ廻り、間もなく四つの長い列をつくりました。大将についていた二疋も、その中にまじりました。大将はからだを曲げるくらい一生けん命に号令をかけました。 「気を付けっ」「右いおい。」「なおれっ。」「番号。」実にみんなうまくやります。  楢夫は愕いてそれを見ました。大将が楢夫の前に来て、まっすぐに立って申しました。 「演習をこれからやります。終りっ。」  楢夫はすっかり面白くなって、自分も立ちあがりましたが、どうも余りせいが高過ぎて、調子が変なので、又|座って云いました。 「宜しい。演習はじめっ。」  小猿の大将がみんなへ云いました。 「これから演習をはじめる。今日は参観者もあるのだから、殊に注意しないといけない。左向けの時、右向けをした者、前へ進めを右足からはじめた者、かけ足の号令で腰に手をあげない者、みんな後で三つずつせ中をつねる。いいか。わかったか。八番。」  八番の小猿が云いました。 「判りました。」 「よろしい。」大将は云いながら三歩ばかり後ろに退いて、だしぬけに号令をかけました。 「突貫」  楢夫は愕いてしまいました。こんな乱暴な演習は、今まで見たこともありません。それ所ではなく、小猿がみんな歯をむいて楢夫に走って来て、みんな小さな綱を出して、すばやくきりきり身体中を縛ってしまいました。楢夫は余程撲ってやろうと思いましたが、あんまりみんな小さいので、じつと我慢をして居ました。  みんなは縛ってしまうと、互に手をとりあって、きゃっきゃっと笑いました。  大将が、向うで、腹をかかえて笑いながら、剣をかざして、 「胴上げい、用意っ。」といいました。  楢夫は、草の上に倒れながら、横目で見ていますと、小猿は向うで、みんな六疋位ずつ、高い高い肩車をこしらえて、塔のようになり、それがあっちからもこっちからも集って、とうとう小猿の林のようなものができてしまいました。  それが、ずんずん、楢夫に進んで来て、沢山の手を出し、楢夫を上に引っ張りあげました。  楢夫は呆れて、小猿の列の上で、大将を見ていました。  大将は、ますます得意になって、爪立てをして、力一杯延びあがりながら、号令をかけます。 「胴上げい、はじめっ。」 「よっしょい。よっしょい。よっしょい。」  もう、楢夫のからだは、林よりも高い位です。 「よっしょい。よっしょい。よっしょい。」  風が耳の処でひゅうと鳴り、下では小猿共が手をうようよしているのが実に小さく見えます。 「よっしょい。よっしょい。よっしょい。」  ずうっと向うで、河がきらりと光りました。 「落せっ。」「わあ。」と下で声がしますので見ると小猿共がもうちりぢりに四方に別れて林のへりにならんで草原をかこみ、楢夫の地べたに落ちて来るのを見ようとしているのです。  楢夫はもう覚悟をきめて、向うの川を、もう一ぺん見ました。その辺に楢夫の家があるのです。そして楢夫は、もう下に落ちかかりました。  その時、下で、「危いっ。何をする」という大きな声がしました。見ると、茶色のばさばさの髪の巨きな赤い顔が、こっちを見あげて、手を延ばしているのです。 「ああ山男だ。助かった。」と楢夫は思いました。そして、楢夫は、忽ち山男の手で受け留められて、草原におろされました。その草原は楢夫のうちの前の草原でした。栗の木があって、たしかに三つの猿のこしかけがついていました。そして誰も居ません。もう夜です。 「楢夫。ごはんです。楢夫。」とうちの中でお母さんが叫んでいます。 「ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、   さそりの赤眼が 見えたころ、   四時から今朝も やって来た。   遠野の盆地は まっくらで、   つめたい水の 声ばかり。  ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、   凍えた砂利に 湯げを吐き、   火花を闇に まきながら、   蛇紋岩の 崖に来て、   やっと東が 燃えだした。  ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、   鳥がなきだし 木は光り、   青々川は ながれたが、   丘もはざまも いちめんに、   まぶしい霜を 載せていた。  ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、   やっぱりかけると あったかだ、   僕はほうほう 汗が出る。   もう七、八|里 はせたいな、   今日も一日 霜ぐもり。  ガタンガタン、ギー、シュウシュウ」  軽便鉄道の東からの一番|列車が少しあわてたように、こう歌いながらやって来てとまりました。機関車の下からは、力のない湯げが逃げ出して行き、ほそ長いおかしな形の煙突からは青いけむりが、ほんの少うし立ちました。  そこで軽便鉄道づきの電信柱どもは、やっと安心したように、ぶんぶんとうなり、シグナルの柱はかたんと白い腕木を上げました。このまっすぐなシグナルの柱は、シグナレスでした。  シグナレスはほっと小さなため息をついて空を見上げました。空にはうすい雲が縞になっていっぱいに充ち、それはつめたい白光を凍った地面に降らせながら、しずかに東に流れていたのです。  シグナレスはじっとその雲の行く方をながめました。それからやさしい腕木を思い切りそっちの方へ延ばしながら、ほんのかすかに、ひとりごとを言いました。 「今朝は伯母さんたちもきっとこっちの方を見ていらっしゃるわ」  シグナレスはいつまでもいつまでも、そっちに気をとられておりました。 「カタン」  うしろの方のしずかな空で、いきなり音がしましたのでシグナレスは急いでそっちをふり向きました。ずうっと積まれた黒い枕木の向こうに、あの立派な本線のシグナル柱が、今はるかの南から、かがやく白けむりをあげてやって来る列車を迎えるために、その上の硬い腕を下げたところでした。 「お早う今朝は暖かですね」本線のシグナル柱は、キチンと兵隊のように立ちながら、いやにまじめくさってあいさつしました。 「お早うございます」シグナレスはふし目になって、声を落として答えました。 「若さま、いけません。これからはあんなものにやたらに声を、おかけなさらないようにねがいます」本線のシグナルに夜電気を送る太い電信柱がさももったいぶって申しました。  本線のシグナルはきまり悪そうに、もじもじしてだまってしまいました。気の弱いシグナレスはまるでもう消えてしまうか飛んでしまうかしたいと思いました。けれどもどうにもしかたがありませんでしたから、やっぱりじっと立っていたのです。  雲の縞は薄い琥珀の板のようにうるみ、かすかなかすかな日光が降って来ましたので、本線シグナルつきの電信柱はうれしがって、向こうの野原を行く小さな荷馬車を見ながら低い調子はずれの歌をやりました。 「ゴゴン、ゴーゴー、  うすい雲から  酒が降りだす、  酒の中から  霜がながれる。  ゴゴン、ゴーゴー、  ゴゴン、ゴーゴー、  霜がとければ、  つちはまっくろ。  馬はふんごみ、  人もぺちゃぺちゃ。  ゴゴン、ゴーゴー」  それからもっともっとつづけざまに、わけのわからないことを歌いました。  その間に本線のシグナル柱が、そっと西風にたのんでこう言いました。 「どうか気にかけないでください。こいつはもうまるで野蛮なんです。礼式も何も知らないのです。実際私はいつでも困ってるんですよ」  軽便鉄道のシグナレスは、まるでどぎまぎしてうつむきながら低く、 「あら、そんなことございませんわ」と言いましたがなにぶん風下でしたから本線のシグナルまで聞こえませんでした。 「許してくださるんですか。本当を言ったら、僕なんかあなたに怒られたら生きているかいもないんですからね」 「あらあら、そんなこと」軽便鉄道の木でつくったシグナレスは、まるで困ったというように肩をすぼめましたが、実はその少しうつむいた顔は、うれしさにぽっと白光を出していました。 「シグナレスさん、どうかまじめで聞いてください。僕あなたのためなら、次の十時の汽車が来る時|腕を下げないで、じっとがんばり通してでも見せますよ」わずかばかりヒュウヒュウ言っていた風が、この時ぴたりとやみました。 「あら、そんな事いけませんわ」 「もちろんいけないですよ。汽車が来る時、腕を下げないでがんばるなんて、そんなことあなたのためにも僕のためにもならないから僕はやりはしませんよ。けれどもそんなことでもしようと言うんです。僕あなたくらい大事なものは世界中ないんです。どうか僕を愛してください」  シグナレスは、じっと下の方を見て黙って立っていました。本線シグナルつきのせいの低い電信柱は、まだでたらめの歌をやっています。 「ゴゴンゴーゴー、  やまのいわやで、  熊が火をたき、  あまりけむくて、  ほらを逃げ出す。ゴゴンゴー、  田螺はのろのろ。  うう、田螺はのろのろ。  田螺のしゃっぽは、  羅紗の上等、ゴゴンゴーゴー」  本線のシグナルはせっかちでしたから、シグナレスの返事のないのに、まるであわててしまいました。 「シグナレスさん、あなたはお返事をしてくださらないんですか。ああ僕はもうまるでくらやみだ。目の前がまるでまっ黒な淵のようだ。ああ雷が落ちて来て、一ぺんに僕のからだをくだけ。足もとから噴火が起こって、僕を空の遠くにほうりなげろ。もうなにもかもみんなおしまいだ。雷が落ちて来て一ぺんに僕のからだを砕け。足もと……」 「いや若様、雷が参りました節は手前一身におんわざわいをちょうだいいたします。どうかご安心をねがいとう存じます」  シグナルつきの電信柱が、いつかでたらめの歌をやめて、頭の上のはりがねの槍をぴんと立てながら眼をパチパチさせていました。 「えい。お前なんか何を言うんだ。僕はそれどこじゃないんだ」 「それはまたどうしたことでござりまする。ちょっとやつがれまでお申し聞けになりとう存じます」 「いいよ、お前はだまっておいで」  シグナルは高く叫びました。しかしシグナルも、もうだまってしまいました。雲がだんだん薄くなって柔らかな陽が射して参りました。  五日の月が、西の山脈の上の黒い横雲から、もう一ぺん顔を出して、山に沈む前のほんのしばらくを、鈍い鉛のような光で、そこらをいっぱいにしました。冬がれの木や、つみ重ねられた黒い枕木はもちろんのこと、電信柱までみんな眠ってしまいました。遠くの遠くの風の音か水の音がごうと鳴るだけです。 「ああ、僕はもう生きてるかいもないんだ。汽車が来るたびに腕を下げたり、青い眼鏡をかけたりいったいなんのためにこんなことをするんだ。もうなんにもおもしろくない。ああ死のう。けれどもどうして死ぬ。やっぱり雷か噴火だ」  本線のシグナルは、今夜も眠られませんでした。非常なはんもんでした。けれどもそれはシグナルばかりではありません。枕木の向こうに青白くしょんぼり立って、赤い火をかかげている軽便鉄道のシグナル、すなわちシグナレスとても全くそのとおりでした。 「ああ、シグナルさんもあんまりだわ、あたしが言えないでお返事もできないのを、すぐあんなに怒っておしまいになるなんて。あたしもう何もかもみんなおしまいだわ。おお神様、シグナルさんに雷を落とす時、いっしょに私にもお落としくださいませ」  こう言って、しきりに星空に祈っているのでした。ところがその声が、かすかにシグナルの耳にはいりました。シグナルはぎょっとしたように胸を張って、しばらく考えていましたが、やがてガタガタふるえだしました。  ふるえながら言いました。 「シグナレスさん。あなたは何を祈っておられますか」 「あたし存じませんわ」シグナレスは声を落として答えました。 「シグナレスさん、それはあんまりひどいお言葉でしょう。僕はもう今すぐでもお雷さんにつぶされて、または噴火を足もとから引っぱり出して、またはいさぎよく風に倒されて、またはノアの洪水をひっかぶって、死んでしまおうと言うんですよ。それだのに、あなたはちっとも同情してくださらないんですか」 「あら、その噴火や洪水を。あたしのお祈りはそれよ」シグナレスは思い切って言いました。シグナルはもううれしくて、うれしくて、なおさらガタガタガタガタふるえました。  その赤い眼鏡もゆれたのです。 「シグナレスさん、なぜあなたは死ななけぁならないんですか。ね。僕へお話しください。ね。僕へお話しください。きっと、僕はそのいけないやつを追っぱらってしまいますから、いったいどうしたんですね」 「だって、あなたがあんなにお怒りなさるんですもの」 「ふふん。ああ、そのことですか。ふん。いいえ。そのことならばご心配ありません。大丈夫です。僕ちっとも怒ってなんかいはしませんからね。僕、もうあなたのためなら、眼鏡をみんな取られて、腕をみんなひっぱなされて、それから沼の底へたたき込まれたって、あなたをうらみはしませんよ」 「あら、ほんとう。うれしいわ」 「だから僕を愛してください。さあ僕を愛するって言ってください」  五日のお月さまは、この時雲と山の端とのちょうどまん中にいました。シグナルはもうまるで顔色を変えて灰色の幽霊みたいになって言いました。 「またあなたはだまってしまったんですね。やっぱり僕がきらいなんでしょう。もういいや、どうせ僕なんか噴火か洪水か風かにやられるにきまってるんだ」 「あら、ちがいますわ」 「そんならどうですどうです、どうです」 「あたし、もう大昔からあなたのことばかり考えていましたわ」 「本当ですか、本当ですか、本当ですか」 「ええ」 「そんならいいでしょう。結婚の約束をしてください」 「でも」 「でもなんですか、僕たちは春になったら燕にたのんで、みんなにも知らせて結婚の式をあげましょう。どうか約束してください」 「だってあたしはこんなつまらないんですわ」 「わかってますよ。僕にはそのつまらないところが尊いんです」  すると、さあ、シグナレスはあらんかぎりの勇気を出して言い出しました。 「でもあなたは金でできてるでしょう。新式でしょう。赤青眼鏡を二組みも持っていらっしゃるわ、夜も電燈でしょう。あたしは夜だってランプですわ、眼鏡もただ一つきり、それに木ですわ」 「わかってますよ。だから僕はすきなんです」 「あら、ほんとう。うれしいわ。あたしお約束するわ」 「え、ありがとう、うれしいなあ、僕もお約束しますよ。あなたはきっと、私の未来の妻だ」 「ええ、そうよ、あたし決して変わらないわ」 「結婚指環をあげますよ、そら、ね、あすこの四つならんだ青い星ね」 「ええ」 「あのいちばん下の脚もとに小さな環が見えるでしょう、環状星雲ですよ。あの光の環ね、あれを受け取ってください。僕のまごころです」 「ええ。ありがとう、いただきますわ」 「ワッハッハ。大笑いだ。うまくやってやがるぜ」  突然向こうのまっ黒な倉庫が、空にもはばかるような声でどなりました。二人はまるでしんとなってしまいました。  ところが倉庫がまた言いました。 「いや心配しなさんな。この事は決してほかへはもらしませんぞ。わしがしっかりのみ込みました」  その時です、お月さまがカブンと山へおはいりになって、あたりがポカッと、うすぐらくなったのは。  今は風があんまり強いので電信柱どもは、本線の方も、軽便鉄道の方もまるで気が気でなく、ぐうん ぐうん ひゅうひゅう と独楽のようにうなっておりました。それでも空はまっ青に晴れていました。  本線シグナルつきの太っちょの電信柱も、もうでたらめの歌をやるどころの話ではありません。できるだけからだをちぢめて眼を細くして、ひとなみに、ブウウ、ブウウとうなってごまかしておりました。  シグナレスはこの時、東のぐらぐらするくらい強い青びかりの中を、びっこをひくようにして走って行く雲を見ておりましたが、それからチラッとシグナルの方を見ました。シグナルは、今日は巡査のようにしゃんと立っていましたが、風が強くて太っちょの電柱に聞こえないのをいいことにして、シグナレスに話しかけました。 「どうもひどい風ですね。あなた頭がほてって痛みはしませんか。どうも僕は少しくらくらしますね。いろいろお話ししますから、あなたただ頭をふってうなずいてだけいてください。どうせお返事をしたって僕のところへ届きはしませんから、それから僕の話でおもしろくないことがあったら横の方に頭を振ってください。これは、本当は、ヨーロッパの方のやり方なんですよ。向こうでは、僕たちのように仲のいいものがほかの人に知れないようにお話をする時は、みんなこうするんですよ。僕それを向こうの雑誌で見たんです。ね、あの倉庫のやつめ、おかしなやつですね、いきなり僕たちの話してるところへ口を出して、引き受けたのなんのって言うんですもの、あいつはずいぶん太ってますね、今日も眼をパチパチやらかしてますよ、僕のあなたに物を言ってるのはわかっていても、何を言ってるのか風でいっこう聞こえないんですよ、けれども全体、あなたに聞こえてるんですか、聞こえてるなら頭を振ってください、ええそう、聞こえるでしょうね。僕たち早く結婚したいもんですね、早く春になれぁいいんですね、僕のところのぶっきりこに少しも知らせないでおきましょう。そしておいて、いきなり、ウヘン! ああ風でのどがぜいぜいする。ああひどい。ちょっとお話をやめますよ。僕のどが痛くなったんです。わかりましたか、じゃちょっとさようなら」  それからシグナルは、ううううと言いながら眼をぱちぱちさせて、しばらくの間だまっていました。  シグナレスもおとなしく、シグナルののどのなおるのを待っていました。電信柱どもはブンブンゴンゴンと鳴り、風はひゅうひゅうとやりました。  シグナルはつばをのみこんだり、ええ、ええとせきばらいをしたりしていましたが、やっとのどの痛いのがなおったらしく、もう一ぺんシグナレスに話しかけました。けれどもこの時は、風がまるで熊のように吼え、まわりの電信柱どもは、山いっぱいの蜂の巣をいっぺんにこわしでもしたように、ぐゎんぐゎんとうなっていましたので、せっかくのその声も、半分ばかりしかシグナレスに届きませんでした。 「ね、僕はもうあなたのためなら、次の汽車の来る時、がんばって腕を下げないことでも、なんでもするんですからね、わかったでしょう。あなたもそのくらいの決心はあるでしょうね。あなたはほんとうに美しいんです、ね、世界の中にだっておれたちの仲間はいくらもあるんでしょう。その半分はまあ女の人でしょうがねえ、その中であなたはいちばん美しいんです。もっともほかの女の人僕よく知らないんですけれどね、きっとそうだと思うんですよ、どうです聞こえますか。僕たちのまわりにいるやつはみんなばかですね、のろまですね、僕のとこのぶっきりこが僕が何をあなたに言ってるのかと思って、そらごらんなさい、一生けん命、目をパチパチやってますよ、こいつときたら全くチョークよりも形がわるいんですからね、そら、こんどはあんなに口を曲げていますよ。あきれたばかですねえ、僕の話聞こえますか、僕の……」 「若さま、さっきから何をべちゃべちゃ言っていらっしゃるのです。しかもシグナレス風情と、いったい何をにやけていらっしゃるんです」  いきなり本線シグナルつきの電信柱が、むしゃくしゃまぎれに、ごうごうの音の中を途方もない声でどなったもんですから、シグナルはもちろんシグナレスも、まっ青になってぴたっとこっちへ曲げていたからだを、まっすぐに直しました。 「若さま、さあおっしゃい。役目として承らなければなりません」  シグナルは、やっと元気を取り直しました。そしてどうせ風のために何を言っても同じことなのをいいことにして、 「ばか、僕はシグナレスさんと結婚して幸福になって、それからお前にチョークのお嫁さんをくれてやるよ」と、こうまじめな顔で言ったのでした。その声は風下のシグナレスにはすぐ聞こえましたので、シグナレスはこわいながら思わず笑ってしまいました。さあそれを見た本線シグナルつきの電信柱の怒りようと言ったらありません。さっそくブルブルッとふるえあがり、青白く逆上せてしまい唇をきっとかみながらすぐひどく手をまわして、すなわち一ぺん東京まで手をまわして風下にいる軽便鉄道の電信柱に、シグナルとシグナレスの対話がいったいなんだったか、今シグナレスが笑ったことは、どんなことだったかたずねてやりました。  ああ、シグナルは一生の失策をしたのでした。シグナレスよりも少し風下にすてきに耳のいい長い長い電信柱がいて、知らん顔をしてすまして空の方を見ながらさっきからの話をみんな聞いていたのです。そこでさっそく、それを東京を経て本線シグナルつきの電信柱に返事をしてやりました。本線シグナルつきの電信柱はキリキリ歯がみをしながら聞いていましたが、すっかり聞いてしまうと、さあ、まるでばかのようになってどなりました。 「くそっ、えいっ。いまいましい。あんまりだ。犬畜生、あんまりだ。犬畜生、ええ、若さま、わたしだって男ですぜ。こんなにひどくばかにされてだまっているとお考えですか。結婚だなんてやれるならやってごらんなさい。電信柱の仲間はもうみんな反対です。シグナル柱の人たちだって鉄道長の命令にそむけるもんですか。そして鉄道長はわたしの叔父ですぜ。結婚なりなんなりやってごらんなさい。えい、犬畜生め、えい」  本線シグナルつきの電信柱は、すぐ四方に電報をかけました。それからしばらく顔色を変えて、みんなの返事をきいていました。確かにみんなから反対の約束をもらったらしいのでした。それからきっと叔父のその鉄道長とかにもうまく頼んだにちがいありません。シグナルもシグナレスも、あまりのことに今さらポカンとしてあきれていました。本線シグナルつきの電信柱は、すっかり反対の準備ができると、こんどは急に泣き声で言いました。 「あああ、八年の間、夜ひる寝ないでめんどうを見てやってそのお礼がこれか。ああ情けない、もう世の中はみだれてしまった。ああもうおしまいだ。なさけない、メリケン国のエジソンさまもこのあさましい世界をお見すてなされたか。オンオンオンオン、ゴゴンゴーゴーゴゴンゴー」  風はますます吹きつのり、西の空が変に白くぼんやりなって、どうもあやしいと思っているうちに、チラチラチラチラとうとう雪がやって参りました。  シグナルは力を落として青白く立ち、そっとよこ眼でやさしいシグナレスの方を見ました。シグナレスはしくしく泣きながら、ちょうどやって来る二時の汽車を迎えるためにしょんぼりと腕をさげ、そのいじらしいなで肩はかすかにかすかにふるえておりました。空では風がフイウ、涙を知らない電信柱どもはゴゴンゴーゴーゴゴンゴーゴー。  さあ今度は夜ですよ。シグナルはしょんぼり立っておりました。  月の光が青白く雲を照らしています。雲はこうこうと光ります。そこにはすきとおって小さな紅火や青の火をうかべました。しいんとしています。山脈は若い白熊の貴族の屍体のようにしずかに白く横たわり、遠くの遠くを、ひるまの風のなごりがヒュウと鳴って通りました。それでもじつにしずかです。黒い枕木はみな眠り、赤の三角や黄色の点々、さまざまの夢を見ている時、若いあわれなシグナルはほっと小さなため息をつきました。そこで半分|凍えてじっと立っていたやさしいシグナレスも、ほっと小さなため息をしました。 「シグナレスさん、ほんとうに僕たちはつらいねえ」  たまらずシグナルがそっとシグナレスに話しかけました。 「ええ、みんなあたしがいけなかったのですわ」シグナレスが青じろくうなだれて言いました。  諸君、シグナルの胸は燃えるばかり、 「ああ、シグナレスさん、僕たちたった二人だけ、遠くの遠くのみんなのいないところに行ってしまいたいね」 「ええ、あたし行けさえするなら、どこへでも行きますわ」 「ねえ、ずうっとずうっと天上にあの僕たちの婚約指環よりも、もっと天上に青い小さな小さな火が見えるでしょう。そら、ね、あすこは遠いですねえ」 「ええ」シグナレスは小さな唇で、いまにもその火にキッスしたそうに空を見あげていました。 「あすこには青い霧の火が燃えているんでしょうね。その青い霧の火の中へ僕たちいっしょにすわりたいですねえ」 「ええ」 「けれどあすこには汽車はないんですねえ、そんなら僕畑をつくろうか。何か働かないといけないんだから」 「ええ」 「ああ、お星さま、遠くの青いお星さま、どうか私どもをとってください。ああなさけぶかいサンタマリヤ、まためぐみふかいジョウジ スチブンソンさま、どうか私どものかなしい祈りを聞いてください」 「ええ」 「さあいっしょに祈りましょう」 「ええ」 「あわれみふかいサンタマリヤ、すきとおる夜の底、つめたい雪の地面の上にかなしくいのるわたくしどもをみそなわせ、めぐみふかいジョウジ スチブンソンさま、あなたのしもべのまたしもべ、かなしいこのたましいの、まことの祈りをみそなわせ、ああ、サンタマリヤ」 「ああ」  星はしずかにめぐって行きました。そこであの赤眼のさそりが、せわしくまたたいて東から出て来、そしてサンタマリヤのお月さまが慈愛にみちた尊い黄金のまなざしに、じっと二人を見ながら、西のまっくろの山におはいりになった時、シグナル、シグナレスの二人は、祈りにつかれてもう眠っていました。  今度はひるまです。なぜなら夜昼はどうしてもかわるがわるですから。  ぎらぎらのお日さまが東の山をのぼりました。シグナルとシグナレスはぱっと桃色に映えました。いきなり大きな幅広い声がそこらじゅうにはびこりました。 「おい。本線シグナルつきの電信柱、おまえの叔父の鉄道長に早くそう言って、あの二人はいっしょにしてやった方がよかろうぜ」  見るとそれは先ごろの晩の倉庫の屋根でした。倉庫の屋根は、赤いうわぐすりをかけた瓦を、まるで鎧のようにキラキラ着込んで、じろっとあたりを見まわしているのでした。  本線シグナルつきの電信柱は、がたがたっとふるえて、それからじっと固くなって答えました。 「ふん、なんだと、お前はなんの縁故でこんなことに口を出すんだ」 「おいおい、あんまり大きなつらをするなよ。ええおい。おれは縁故と言えば大縁故さ、縁故でないと言えば、いっこう縁故でもなんでもないぜ、が、しかしさ、こんなことにはてめえのような変ちきりんはあんまりいろいろ手を出さない方が結局てめえのためだろうぜ」 「なんだと。おれはシグナルの後見人だぞ。鉄道長の甥だぞ」 「そうか。おい立派なもんだなあ。シグナルさまの後見人で鉄道長の甥かい。けれどもそんならおれなんてどうだい。おれさまはな、ええ、めくらとんびの後見人、ええ風引きの脈の甥だぞ。どうだ、どっちが偉い」 「何をっ、コリッ、コリコリッ、カリッ」 「まあまあそう怒るなよ。これは冗談さ。悪く思わんでくれ。な、あの二人さ、かあいそうだよ。いいかげんにまとめてやれよ。大人らしくもないじゃないか。あんまり胸の狭いことは言わんでさ。あんな立派な後見人を持って、シグナルもほんとうにしあわせだと言われるぜ。まとめてやれ、まとめてやれ」  本線シグナルつきの電信柱は、物を言おうとしたのでしたが、もうあんまり気が立ってしまってパチパチパチパチ鳴るだけでした。倉庫の屋根もあんまりのその怒りように、まさかこんなはずではなかったと言うように少しあきれて、だまってその顔を見ていました。お日さまはずうっと高くなり、シグナルとシグナレスとはほっとまたため息をついてお互いに顔を見合わせました。シグナレスは瞳を少し落とし、シグナルの白い胸に青々と落ちた眼鏡の影をチラッと見て、それからにわかに目をそらして自分のあしもとをみつめ考え込んでしまいました。  今夜は暖かです。  霧がふかくふかくこめました。  その霧を徹して、月のあかりが水色にしずかに降り、電信柱も枕木も、みんな寝しずまりました。  シグナルが待っていたようにほっと息をしました。シグナレスも胸いっぱいのおもいをこめて、小さくほっといきしました。  その時シグナルとシグナレスとは、霧の中から倉庫の屋根の落ちついた親切らしい声の響いて来るのを聞きました。 「お前たちは、全くきのどくだね、わたしたちは、今朝うまくやってやろうと思ったんだが、かえっていけなくしてしまった。ほんとにきのどくなことになったよ。しかしわたしには、また考えがあるから、そんなに心配しないでもいいよ。お前たちは霧でお互いに顔も見えずさびしいだろう」 「ええ」 「ええ」 「そうか、ではおれが見えるようにしてやろう。いいか、おれのあとについて二人いっしょにまねをするんだぜ」 「ええ」 「そうか。ではアルファー」 「アルファー」 「ビーター」「ビーター」 「ガムマー」「ガムマーアー」 「デルター」「デールータァーアアア」  実に不思議です。いつかシグナルとシグナレスとの二人は、まっ黒な夜の中に肩をならべて立っていました。 「おや、どうしたんだろう。あたり一面まっ黒びろうどの夜だ」 「まあ、不思議ですわね。まっくらだわ」 「いいや、頭の上が星でいっぱいです。おや、なんという大きな強い星なんだろう。それに見たこともない空の模様ではありませんか、いったいあの十三|連なる青い星はどこにあったのでしょう、こんな星は見たことも聞いたこともありませんね、僕たちぜんたいどこに来たんでしょうね」 「あら、空があんまり速くめぐりますわ」 「ええ、ああ、あの大きな橙の星は地平線から今上ります。おや、地平線じゃない。水平線かしら。そうです。ここは夜の海の渚ですよ」 「まあ奇麗だわね、あの波の青びかり」 「ええ、あれは磯波の波がしらです、立派ですねえ、行ってみましょう」 「まあ、ほんとうにお月さまのあかりのような水よ」 「ね、水の底に赤いひとでがいますよ。銀水のなまこがいますよ。ゆっくりゆっくり、這ってますねえ、それからあのユラユラ青びかりの棘を動かしているのは、雲丹ですね。波が寄せて来ます。少し遠のきましょう」 「ええ」 「もう、何べん空がめぐったでしょう。たいへん寒くなりました。海がなんだか凍ったようですね。波はもう、うたなくなりました」 「波がやんだせいでしょうかしら。何か音がしていますわ」 「どんな音」 「そら、夢の水車のきしりのような音」 「ああそうだ。あの音だ。ピタゴラス派の天球運動の諧音です」 「あら、なんだかまわりがぼんやり青白くなってきましたわ」 「夜が明けるのでしょうか。いやはてな。おお立派だ。あなたの顔がはっきり見える」 「あなたもよ」 「ええ、とうとう、僕たち二人きりですね」 「まあ、青白い火が燃えてますわ。まあ地面と海も。けど熱くないわ」 「ここは空ですよ。これは星の中の霧の火ですよ。僕たちのねがいがかなったんです。ああ、さんたまりや」 「ああ」 「地球は遠いですね」 「ええ」 「地球はどっちの方でしょう。あたりいちめんの星、どこがどこかもうわからない。あの僕のブッキリコはどうしたろう。あいつは本当はかあいそうですね」 「ええ、まあ、火が少し白くなったわ、せわしく燃えますわ」 「きっと今秋ですね。そしてあの倉庫の屋根も親切でしたね」 「それは親切とも」いきなり太い声がしました。気がついてみると、ああ、二人ともいっしょに夢を見ていたのでした。いつか霧がはれてそら一めんの星が、青や橙やせわしくせわしくまたたき、向こうにはまっ黒な倉庫の屋根が笑いながら立っておりました。  二人はまたほっと小さな息をしました。  盛岡の産物のなかに、紫紺染というものがあります。  これは、紫紺という桔梗によく似た草の根を、灰で煮出して染めるのです。  南部の紫紺染は、昔は大へん名高いものだったそうですが、明治になってからは、西洋からやすいアニリン色素がどんどんはいって来ましたので、一向はやらなくなってしまいました。それが、ごくちかごろ、またさわぎ出されました。けれどもなにぶん、しばらくすたれていたものですから、製法も染方も一向わかりませんでした。そこで県工業会の役員たちや、工芸学校の先生は、それについていろいろしらべました。そしてとうとう、すっかり昔のようないいものが出来るようになって、東京|大博覧会へも出ましたし、二等賞も取りました。ここまでは、大てい誰でも知っています。新聞にも毎日出ていました。  ところが仲々、お役人方の苦心は、新聞に出ているくらいのものではありませんでした。その研究中の一つのはなしです。  工芸学校の先生は、まず昔の古い記録に眼をつけたのでした。そして図書館の二|階で、毎日黄いろに古びた写本をしらべているうちに、遂にこういういいことを見附けました。 「一、山男紫紺を売りて酒を買い候事、 山男、西根山にて紫紺の根を掘り取り、夕景に至りて、ひそかに御城下へ立ち出で候上、材木町生薬商人近江屋源八に一俵二十五|文にて売り候。それより山男、酒屋半之助方へ参り、五|合入程の瓢箪を差出し、この中に清酒一|斗お入れなされたくと申し候。半之助方|小僧、身ぶるえしつつ、酒一斗はとても入り兼ね候と返答致し候|処、山男、まずは入れなさるべく候と押して申し候。半之助も顔色青ざめ委細承知と早口に申し候。扨、小僧ますをとりて酒を入れ候に、酒は事もなく入り、遂に正味一斗と相成り候。山男|大に笑いて二十五文を置き、瓢箪をさげて立ち去り候|趣、材木町|総代より御届け有之候。」  これを読んだとき、工芸学校の先生は、机を叩いて斯うひとりごとを言いました。 「なるほど、紫紺の職人はみな死んでしまった。生薬屋のおやじも死んだと。そうしてみるとさしあたり、紫紺についての先輩は、今では山男だけというわけだ。よしよし、一つ山男を呼び出して、聞いてみよう。」  そこで工芸学校の先生は、町の紫紺染研究会の人達と相談して、九月六日の午后六時から、内丸西洋軒で山男の招待会をすることにきめました。そこで工芸学校の先生は、山男へ宛てて上手な手紙を書きました。山男がその手紙さえ見れば、きっともう出掛けて来るようにうまく書いたのです。そして桃いろの封筒へ入れて、岩手|郡西根山、山男|殿と上書きをして、三|銭の切手をはって、スポンと郵便函へ投げ込みました。 「ふん。こうさえしてしまえば、あとはむこうへ届こうが届くまいが、郵便屋の責任だ。」と先生はつぶやきました。  あっはっは。みなさん。とうとう九月六日になりました。夕方、紫紺染に熱心な人たちが、みんなで二十四人、内丸西洋軒に集まりました。  もう食堂のしたくはすっかり出来て、扇風機はぶうぶうまわり、白いテーブル掛けは波をたてます。テーブルの上には、緑や黒の植木の鉢が立派にならび、極上等のパンやバターももう置かれました。台所の方からは、いい匂がぷんぷんします。みんなは、蚕種取締所設置の運動のことやなにか、いろいろ話し合いましたが、こころの中では誰もみんな、山男がほんとうにやって来るかどうかを、大へん心配していました。もし山男が来なかったら、仕方ないからみんなの懇親会ということにしようと、めいめい考えていました。  ところが山男が、とうとうやって来ました。丁度、六時十五分前に一台の人力車がすうっと西洋軒の玄関にとまりました。みんなはそれ来たっと玄関にならんでむかえました。俥屋はまるでまっかになって汗をたらしゆげをほうほうあげながら膝かけを取りました。するとゆっくりと俥から降りて来たのは黄金色目玉あかつらの西根山の山男でした。せなかに大きな桔梗の紋のついた夜具をのっしりと着込んで鼠色の袋のような袴をどふっとはいておりました。そして大きな青い縞の財布を出して、 「くるまちんはいくら。」とききました。  俥屋はもう疲れてよろよろ倒れそうになっていましたがやっとのことで斯う云いました。 「旦那さん。百八十|両やって下さい。俥はもうみしみし云っていますし私はこれから病院へはいります。」  すると山男は、 「うんもっともだ。さあこれだけやろう。つりは酒代だ。」と云いながらいくらだかわけのわからない大きな札を一|枚出してすたすた玄関にのぼりました。みんなははあっとおじぎをしました。山男もしずかにおじぎを返しながら、 「いやこんにちは。お招きにあずかりまして大へん恐縮です。」と云いました。みんなは山男があんまり紳士風で立派なのですっかり愕ろいてしまいました。ただひとりその中に町はずれの本屋の主人が居ましたが山男の無暗にしか爪らしいのを見て思わずにやりとしました。それは昨日の夕方顔のまっかな蓑を着た大きな男が来て「知って置くべき日常の作法。」という本を買って行ったのでしたが山男がその男にそっくりだったのです。  とにかくみんなは山男をすぐ食堂に案内しました。そして一緒にこしかけました。山男が腰かけた時|椅子はがりがりっと鳴りました。山男は腰かけるとこんどは黄金色の目玉を据えてじっとパンや塩やバターを見つめ〔以下原稿一枚?なし〕 どうしてかと云うともし山男が洋行したとするとやっぱり船に乗らなければならない、山男が船に乗って上海に寄ったりするのはあんまりおかしいと会長さんは考えたのでした。  さてだんだん食事が進んではなしもはずみました。 「いやじっさいあの辺はひどい処だよ。どうも六百からの棄権ですからな。」  なんて云っている人もあり一方ではそろそろ大切な用談がはじまりかけました。 「ええと、失礼ですが山男さん、あなたはおいくつでいらっしゃいますか。」 「二十九です。」 「お若いですな。やはり一年は三百六十五日ですか。」 「一年は三百六十五日のときも三百六十六日のときもあります。」 「あなたはふだんどんなものをおあがりになりますか。」 「さよう。栗の実やわらびや野菜です。」 「野菜はあなたがおつくりになるのですか。」 「お日さまがおつくりになるのです。」 「どんなものですか。」 「さよう。みず、ほうな、しどけ、うど、そのほか、しめじ、きんたけなどです。」 「今年はうどの出来がどうですか。」 「なかなかいいようですが、少しかおりが不足ですな。」 「雨の関係でしょうかな。」 「そうです。しかしどうしてもアスパラガスには叶いませんな。」 「へえ」 「アスパラガスやちしゃのようなものが山野に自生するようにならないと産業もほんとうではありませんな。」 「へえ。ずいぶんなご卓見です。しかしあなたは紫紺のことはよくごぞんじでしょうな。」  みんなはしいんとなりました。これが今夜の眼目だったのです。山男はお酒をかぶりと呑んで云いました。 「しこん、しこんと。はてな聞いたようなことだがどうもよくわかりません。やはり知らないのですな。」みんなはがっかりしてしまいました。なんだ、紫紺のことも知らない山男など一向用はないこんなやつに酒を呑ませたりしてつまらないことをした。もうあとはおれたちの懇親会だ、と云うつもりでめいめい勝手にのんで勝手にたべました。ところが山男にはそれが大へんうれしかったようでした。しきりにかぶりかぶりとお酒をのみました。お魚が出ると丸ごとけろりとたべました。野菜が出ると手をふところに入れたまま舌だけ出してべろりとなめてしまいます。  そして眼をまっかにして「へろれって、へろれって、けろれって、へろれって。」なんて途方もない声で咆えはじめました。さあみんなはだんだん気味悪くなりました。おまけに給仕がテーブルのはじの方で新らしいお酒の瓶を抜いたときなどは山男は手を長くながくのばして横から取ってしまってラッパ呑みをはじめましたのでぶるぶるふるえ出した人もありました。そこで研究会の会長さんは元来おさむらいでしたから考えました。くだものの出たのを合図に会長さんは立ちあがりました。けれども会長さんももうへろへろ酔っていたのです。 「ええ一寸一言ご挨拶申しあげます。今晩はお客様にはよくおいで下さいました。どうかおゆるりとおくつろぎ下さい。さて現今世界の大勢を見るに実にどうもこんらんしている。ひとのものを横合からとるようなことが多い。実にふんがいにたえない。まだ世界は野蛮からぬけない。けしからん。くそっ。ちょっ。」  会長さんはまっかになってどなりました。みんなはびっくりしてぱくぱく会長さんの袖を引っぱって無理に座らせました。  すると山男は面倒臭そうにふところから手を出して立ちあがりました。「ええ一寸一言ご挨拶を申し上げます。今晩はあついおもてなしにあずかりまして千万かたじけなく思います。どういうわけでこんなおもてなしにあずかるのか先刻からしきりに考えているのです。やはりどうもその先頃おたずねにあずかった紫紺についてのようであります。そうしてみると私も本気で考え出さなければなりません。そう思って一生懸命思い出しました。ところが私は子供のとき母が乳がなくて濁り酒で育ててもらったためにひどいアルコール中毒なのであります。お酒を呑まないと物を忘れるので丁度みなさまの反対であります。そのためについビールも一本|失礼いたしました。そしてそのお蔭でやっとおもいだしました。あれは現今西根山にはたくさんございます。私のおやじなどはしじゅうあれを掘って町へ来て売ってお酒にかえたというはなしであります。おやじがどうもちかごろ紫紺も買う人はなし困ったと云ってこぼしているのも聞いたことがあります。それからあれを染めるには何でも黒いしめった土をつかうというはなしもぼんやりおぼえています。紫紺についてわたくしの知っているのはこれだけであります。それで何かのご参考になればまことにしあわせです。さて考えてみますとありがたいはなしでございます。私のおやじは紫紺の根を掘って来てお酒ととりかえましたが私は紫紺のはなしを一寸すればこんなに酔うくらいまでお酒が呑めるのです。  そらこんなに酔うくらいです。」  山男は赤くなった顔を一つ右手でしごいて席へ座りました。  みんなはざわざわしました。工芸学校の先生は「黒いしめった土を使うこと」と手帳へ書いてポケットにしまいました。  そこでみんなは青いりんごの皮をむきはじめました。山男もむいてたべました。そして実をすっかりたべてからこんどはかまどをぱくりとたべました。それからちょっとそばをたべるような風にして皮もたべました。工芸学校の先生はちらっとそれを見ましたが知らないふりをしておりました。  さてだんだん夜も更けましたので会長さんが立って、 「やあこれで解散だ。諸君めでたしめでたし。ワッハッハ。」とやって会は終りました。  そこで山男は顔をまっかにして肩をゆすって一度にはしごだんを四つくらいずつ飛んで玄関へ降りて行きました。  みんなが見送ろうとあとをついて玄関まで行ったときは山男はもう居ませんでした。  丁度七つの森の一番はじめの森に片脚をかけたところだったのです。  さて紫紺染が東京|大博覧会で二等賞をとるまでにはこんな苦心もあったというだけのおはなしであります。  そのとき西のぎらぎらのちぢれた雲のあいだから、夕陽は赤くななめに苔の野原に注ぎ、すすきはみんな白い火のようにゆれて光りました。わたくしが疲れてそこに睡りますと、ざあざあ吹いていた風が、だんだん人のことばにきこえ、やがてそれは、いま北上の山の方や、野原に行われていた鹿踊りの、ほんとうの精神を語りました。  そこらがまだまるっきり、丈高い草や黒い林のままだったとき、嘉十はおじいさんたちと北上川の東から移ってきて、小さな畑を開いて、粟や稗をつくっていました。  あるとき嘉十は、栗の木から落ちて、少し左の膝を悪くしました。そんなときみんなはいつでも、西の山の中の湯の湧くとこへ行って、小屋をかけて泊って療すのでした。  天気のいい日に、嘉十も出かけて行きました。糧と味噌と鍋とをしょって、もう銀いろの穂を出したすすきの野原をすこしびっこをひきながら、ゆっくりゆっくり歩いて行ったのです。  いくつもの小流れや石原を越えて、山脈のかたちも大きくはっきりなり、山の木も一本一本、すぎごけのように見わけられるところまで来たときは、太陽はもうよほど西に外れて、十本ばかりの青いはんのきの木立の上に、少し青ざめてぎらぎら光ってかかりました。  嘉十は芝草の上に、せなかの荷物をどっかりおろして、栃と粟とのだんごを出して喰べはじめました。すすきは幾むらも幾むらも、はては野原いっぱいのように、まっ白に光って波をたてました。嘉十はだんごをたべながら、すすきの中から黒くまっすぐに立っている、はんのきの幹をじつにりっぱだとおもいました。  ところがあんまり一生けん命あるいたあとは、どうもなんだかお腹がいっぱいのような気がするのです。そこで嘉十も、おしまいに栃の団子をとちの実のくらい残しました。 「こいづば鹿さ呉でやべか。それ、鹿、来て喰」と嘉十はひとりごとのように言って、それをうめばちそうの白い花の下に置きました。それから荷物をまたしょって、ゆっくりゆっくり歩きだしました。  ところが少し行ったとき、嘉十はさっきのやすんだところに、手拭を忘れて来たのに気がつきましたので、急いでまた引っ返しました。あのはんのきの黒い木立がじき近くに見えていて、そこまで戻るぐらい、なんの事でもないようでした。  けれども嘉十はぴたりとたちどまってしまいました。  それはたしかに鹿のけはいがしたのです。  鹿が少くても五六|疋、湿っぽいはなづらをずうっと延ばして、しずかに歩いているらしいのでした。  嘉十はすすきに触れないように気を付けながら、爪立てをして、そっと苔を踏んでそっちの方へ行きました。  たしかに鹿はさっきの栃の団子にやってきたのでした。 「はあ、鹿等あ、すぐに来たもな。」と嘉十は咽喉の中で、笑いながらつぶやきました。そしてからだをかがめて、そろりそろりと、そっちに近よって行きました。  一むらのすすきの陰から、嘉十はちょっと顔をだして、びっくりしてまたひっ込めました。六疋ばかりの鹿が、さっきの芝原を、ぐるぐるぐるぐる環になって廻っているのでした。嘉十はすすきの隙間から、息をこらしてのぞきました。  太陽が、ちょうど一本のはんのきの頂にかかっていましたので、その梢はあやしく青くひかり、まるで鹿の群を見おろしてじっと立っている青いいきもののようにおもわれました。すすきの穂も、一本ずつ銀いろにかがやき、鹿の毛並がことにその日はりっぱでした。  嘉十はよろこんで、そっと片膝をついてそれに見とれました。  鹿は大きな環をつくって、ぐるくるぐるくる廻っていましたが、よく見るとどの鹿も環のまんなかの方に気がとられているようでした。その証拠には、頭も耳も眼もみんなそっちへ向いて、おまけにたびたび、いかにも引っぱられるように、よろよろと二足三足、環からはなれてそっちへ寄って行きそうにするのでした。  もちろん、その環のまんなかには、さっきの嘉十の栃の団子がひとかけ置いてあったのでしたが、鹿どものしきりに気にかけているのは決して団子ではなくて、そのとなりの草の上にくの字になって落ちている、嘉十の白い手拭らしいのでした。嘉十は痛い足をそっと手で曲げて、苔の上にきちんと座りました。  鹿のめぐりはだんだんゆるやかになり、みんなは交る交る、前肢を一本環の中の方へ出して、今にもかけ出して行きそうにしては、びっくりしたようにまた引っ込めて、とっとっとっとっしずかに走るのでした。その足音は気もちよく野原の黒土の底の方までひびきました。それから鹿どもはまわるのをやめてみんな手拭のこちらの方に来て立ちました。  嘉十はにわかに耳がきいんと鳴りました。そしてがたがたふるえました。鹿どもの風にゆれる草穂のような気もちが、波になって伝わって来たのでした。  嘉十はほんとうにじぶんの耳を疑いました。それは鹿のことばがきこえてきたからです。 「じゃ、おれ行って見で来べが。」 「うんにゃ、危ないじゃ。も少し見でべ。」  こんなことばもきこえました。 「何時だがの狐みだいに口発破などさ罹ってあ、つまらないもな、高で栃の団子などでよ。」 「そだそだ、全ぐだ。」  こんなことばも聞きました。 「生ぎものだがも知れないじゃい。」 「うん。生ぎものらしどごもあるな。」  こんなことばも聞えました。そのうちにとうとう一疋が、いかにも決心したらしく、せなかをまっすぐにして環からはなれて、まんなかの方に進み出ました。  みんなは停ってそれを見ています。  進んで行った鹿は、首をあらんかぎり延ばし、四本の脚を引きしめ引きしめそろりそろりと手拭に近づいて行きましたが、俄かにひどく飛びあがって、一目散に遁げ戻ってきました。廻りの五疋も一ぺんにぱっと四方へちらけようとしましたが、はじめの鹿が、ぴたりととまりましたのでやっと安心して、のそのそ戻ってその鹿の前に集まりました。 「なじょだた。なにだた、あの白い長いやづあ。」 「縦に皺の寄ったもんだけあな。」 「そだら生ぎものだないがべ、やっぱり蕈などだべが。毒蕈だべ。」 「うんにゃ。きのごだない。やっぱり生ぎものらし。」 「そうが。生きもので皺うんと寄ってらば、年老りだな。」 「うん年老りの番兵だ。ううはははは。」 「ふふふ青白の番兵だ。」 「ううははは、青じろ番兵だ。」 「こんどおれ行って見べが。」 「行ってみろ、大丈夫だ。」 「喰っつがないが。」 「うんにゃ、大丈夫だ。」  そこでまた一疋が、そろりそろりと進んで行きました。五疋はこちらで、ことりことりとあたまを振ってそれを見ていました。  進んで行った一疋は、たびたびもうこわくて、たまらないというように、四本の脚を集めてせなかを円くしたりそっとまたのばしたりして、そろりそろりと進みました。  そしてとうとう手拭のひと足こっちまで行って、あらんかぎり首を延ばしてふんふん嗅いでいましたが、俄かにはねあがって遁げてきました。みんなもびくっとして一ぺんに遁げだそうとしましたが、その一ぴきがぴたりと停まりましたのでやっと安心して五つの頭をその一つの頭に集めました。 「なじょだた、なして逃げで来た。」 「噛じるべとしたようだたもさ。」 「ぜんたいなにだけあ。」 「わがらないな。とにかぐ白どそれがら青ど、両方のぶぢだ。」 「匂あなじょだ、匂あ。」 「柳の葉みだいな匂だな。」 「はでな、息吐でるが、息。」 「さあ、そでば、気付けないがた。」 「こんどあ、おれあ行って見べが。」 「行ってみろ」  三番目の鹿がまたそろりそろりと進みました。そのときちょっと風が吹いて手拭がちらっと動きましたので、その進んで行った鹿はびっくりして立ちどまってしまい、こっちのみんなもびくっとしました。けれども鹿はやっとまた気を落ちつけたらしく、またそろりそろりと進んで、とうとう手拭まで鼻さきを延ばした。  こっちでは五疋がみんなことりことりとお互にうなずき合って居りました。そのとき俄かに進んで行った鹿が竿立ちになって躍りあがって遁げてきました。 「何して遁げできた。」 「気味悪ぐなてよ。」 「息吐でるが。」 「さあ、息の音あ為ないがけあな。口も無いようだけあな。」 「あだまあるが。」 「あだまもゆぐわがらないがったな。」 「そだらこんだおれ行って見べが。」  四番目の鹿が出て行きました。これもやっぱりびくびくものです。それでもすっかり手拭の前まで行って、いかにも思い切ったらしく、ちょっと鼻を手拭に押しつけて、それから急いで引っ込めて、一目さんに帰ってきました。 「おう、柔っけもんだぞ。」 「泥のようにが。」 「うんにゃ。」 「草のようにが。」 「うんにゃ。」 「ごまざいの毛のようにが。」 「うん、あれよりあ、も少し硬ぱしな。」 「なにだべ。」 「とにかぐ生ぎもんだ。」 「やっぱりそうだが。」 「うん、汗臭いも。」 「おれも一遍行ってみべが。」  五番目の鹿がまたそろりそろりと進んで行きました。この鹿はよほどおどけもののようでした。手拭の上にすっかり頭をさげて、それからいかにも不審だというように、頭をかくっと動かしましたので、こっちの五疋がはねあがって笑いました。  向うの一疋はそこで得意になって、舌を出して手拭を一つべろりと嘗めましたが、にわかに怖くなったとみえて、大きく口をあけて舌をぶらさげて、まるで風のように飛んで帰ってきました。みんなもひどく愕ろきました。 「じゃ、じゃ、噛じらえだが、痛ぐしたが。」 「プルルルルルル。」 「舌|抜がれだが。」 「プルルルルルル。」 「なにした、なにした。なにした。じゃ。」 「ふう、ああ、舌|縮まってしまったたよ。」 「なじょな味だた。」 「味無いがたな。」 「生ぎもんだべが。」 「なじょだが判らない。こんどあ汝あ行ってみろ。」 「お。」  おしまいの一疋がまたそろそろ出て行きました。みんながおもしろそうに、ことこと頭を振って見ていますと、進んで行った一疋は、しばらく首をさげて手拭を嗅いでいましたが、もう心配もなにもないという風で、いきなりそれをくわえて戻ってきました。そこで鹿はみなぴょんぴょん跳びあがりました。 「おう、うまい、うまい、そいづさい取ってしめば、あどは何っても怖っかなぐない。」 「きっともて、こいづあ大きな蝸牛の旱からびだのだな。」 「さあ、いいが、おれ歌うだうはんてみんな廻れ。」  その鹿はみんなのなかにはいってうたいだし、みんなはぐるぐるぐるぐる手拭をまわりはじめました。 「のはらのまん中の めつけもの  すっこんすっこの 栃だんご  栃のだんごは   結構だが  となりにいからだ ふんながす  青じろ番兵は   気にかがる。   青じろ番兵は   ふんにゃふにゃ  吠えるもさないば 泣ぐもさない  瘠せで長くて   ぶぢぶぢで  どごが口だが   あだまだが  ひでりあがりの  なめぐじら。」  走りながら廻りながら踊りながら、鹿はたびたび風のように進んで、手拭を角でついたり足でふんだりしました。嘉十の手拭はかあいそうに泥がついてところどころ穴さえあきました。  そこで鹿のめぐりはだんだんゆるやかになりました。 「おう、こんだ団子お食ばがりだじょ。」 「おう、煮だ団子だじょ。」 「おう、まん円けじょ。」 「おう、はんぐはぐ。」 「おう、すっこんすっこ。」 「おう、けっこ。」  鹿はそれからみんなばらばらになって、四方から栃のだんごを囲んで集まりました。  そしていちばんはじめに手拭に進んだ鹿から、一口ずつ団子をたべました。六|疋めの鹿は、やっと豆粒のくらいをたべただけです。  鹿はそれからまた環になって、ぐるぐるぐるぐるめぐりあるきました。  嘉十はもうあんまりよく鹿を見ましたので、じぶんまでが鹿のような気がして、いまにもとび出そうとしましたが、じぶんの大きな手がすぐ眼にはいりましたので、やっぱりだめだとおもいながらまた息をこらしました。  太陽はこのとき、ちょうどはんのきの梢の中ほどにかかって、少し黄いろにかがやいて居りました。鹿のめぐりはまただんだんゆるやかになって、たがいにせわしくうなずき合い、やがて一列に太陽に向いて、それを拝むようにしてまっすぐに立ったのでした。嘉十はもうほんとうに夢のようにそれに見とれていたのです。  一ばん右はじにたった鹿が細い声でうたいました。  「はんの木の   みどりみじんの葉の向さ   じゃらんじゃららんの   お日さん懸がる。」  その水晶の笛のような声に、嘉十は目をつぶってふるえあがりました。右から二ばん目の鹿が、俄かにとびあがって、それからからだを波のようにうねらせながら、みんなの間を縫ってはせまわり、たびたび太陽の方にあたまをさげました。それからじぶんのところに戻るやぴたりととまってうたいました。  「お日さんを   せながさしょえば はんの木も   くだげで光る   鉄のかんがみ。」  はあと嘉十もこっちでその立派な太陽とはんのきを拝みました。右から三ばん目の鹿は首をせわしくあげたり下げたりしてうたいました。  「お日さんは   はんの木の向さ、降りでても   すすぎ、ぎんがぎが   まぶしまんぶし。」  ほんとうにすすきはみんな、まっ白な火のように燃えたのです。  「ぎんがぎがの   すすぎの中さ立ぢあがる   はんの木のすねの   長んがい、かげぼうし。」  五番目の鹿がひくく首を垂れて、もうつぶやくようにうたいだしていました。  「ぎんがぎがの   すすぎの底の日暮れかだ   苔の野はらを   蟻こも行がず。」  このとき鹿はみな首を垂れていましたが、六番目がにわかに首をりんとあげてうたいました。  「ぎんがぎがの   すすぎの底でそっこりと   咲ぐうめばぢの   愛どしおえどし。」  鹿はそれからみんな、みじかく笛のように鳴いてはねあがり、はげしくはげしくまわりました。  北から冷たい風が来て、ひゅうと鳴り、はんの木はほんとうに砕けた鉄の鏡のようにかがやき、かちんかちんと葉と葉がすれあって音をたてたようにさえおもわれ、すすきの穂までが鹿にまじって一しょにぐるぐるめぐっているように見えました。  嘉十はもうまったくじぶんと鹿とのちがいを忘れて、 「ホウ、やれ、やれい。」と叫びながらすすきのかげから飛び出しました。  鹿はおどろいて一度に竿のように立ちあがり、それからはやてに吹かれた木の葉のように、からだを斜めにして逃げ出しました。銀のすすきの波をわけ、かがやく夕陽の流れをみだしてはるかにはるかに遁げて行き、そのとおったあとのすすきは静かな湖の水脈のようにいつまでもぎらぎら光って居りました。  そこで嘉十はちょっとにが笑いをしながら、泥のついて穴のあいた手拭をひろってじぶんもまた西の方へ歩きはじめたのです。  それから、そうそう、苔の野原の夕陽の中で、わたくしはこのはなしをすきとおった秋の風から聞いたのです。  嘉ッコは、小さなわらじをはいて、赤いげんこを二つ顔の前にそろえて、ふっふっと息をふきかけながら、土間から外へ飛び出しました。外はつめたくて明るくて、そしてしんとしています。  嘉ッコのお母さんは、大きなけらを着て、縄を肩にかけて、そのあとから出て来ました。 「母、昨夜、土ぁ、凍みだじゃぃ。」嘉ッコはしめった黒い地面を、ばたばた踏みながら云いました。 「うん、霜ぁ降ったのさ。今日は畑ぁ、土ぁぐじゃぐじゃづがべもや。」と嘉ッコのお母さんは、半分ひとりごとのように答えました。  嘉ッコのおばあさんが、やっぱりけらを着て、すっかり支度をして、家の中から出て来ました。  そして一寸手をかざして、明るい空を見まわしながらつぶやきました。 「爺※ごぁ、今朝も戻て来なぃがべが。家でぁこったに忙がしでば。」 「爺※ごぁ、今朝も戻て来なぃがべが。」嘉ッコがいきなり叫びました。  おばあさんはわらいました。 「うん。けづな爺※ごだもな。酔たぐれでばがり居で、一向仕事|助けるもさないで。今日も町で飲んでらべぁな。うな|は爺※ごに肖るやなぃじゃぃ。」 「ダゴダア、ダゴダア、ダゴダア。」嘉ッコはもう走って垣の出口の柳の木を見ていました。  それはツンツン、ツンツンと鳴いて、枝中はねあるく小さなみそさざいで一杯でした。  実に柳は、今はその細長い葉をすっかり落して、冷たい風にほんのすこしゆれ、そのてっぺんの青ぞらには、町のお祭りの晩の電気菓子のような白い雲が、静に翔けているのでした。 「ツツンツツン、チ、チ、ツン、ツン。」  みそさざいどもは、とんだりはねたり、柳の木のなかで、じつにおもしろそうにやっています。柳の木のなかというわけは、葉の落ちてカラッとなった柳の木の外側には、すっかりガラスが張ってあるような気がするのです。それですから、嘉ッコはますます大よろこびです。  けれどもとうとう、そのすきとおるガラス函もこわれました。それはお母さんやおばあさんがこっちへ来ましたので、嘉ッコが「ダア。」といいながら、両手をあげたものですから、小さなみそさざいどもは、みんなまるでまん円になって、ぼろんと飛んでしまったのです。  さてみそさざいも飛びましたし、嘉ッコは走って街道に出ました。  電信ばしらが、 「ゴーゴー、ガーガー、キイミイガアアヨオワア、ゴゴー、ゴゴー、ゴゴー。」とうなっています。  嘉ッコは街道のまん中に小さな腕を組んで立ちながら、松並木のあっちこっちをよくよく眺めましたが、松の葉がパサパサ続くばかり、そのほかにはずうっとはずれのはずれの方に、白い牛のようなものが頭だか足だか一寸出しているだけです。嘉ッコは街道を横ぎって、山の畑の方へ走りました。お母さんたちもあとから来ます。けれども、この路ならば、お母さんよりおばあさんより、嘉ッコの方がよく知っているのでした。路のまん中に一寸顔を出している円いあばたの石ころさえも、嘉ッコはちゃんと知っているのでした。厭きる位知っているのでした。  嘉ッコは林にはいりました。松の木や楢の木が、つんつんと光のそらに立っています。  林を通り抜けると、そこが嘉ッコの家の豆畑でした。  豆ばたけは、今はもう、茶色の豆の木でぎっしりです。  豆はみな厚い茶色の外套を着て、百列にも二百列にもなって、サッサッと歩いている兵隊のようです。  お日さまはそらのうすぐもにはいり、向うの方のすすきの野原がうすく光っています。  黒い鳥がその空の青じろいはてを、ななめにかけて行きました。  お母さんたちがやっと林から出て来ました。それから向うの畑のへりを、もう二人の人が光ってこっちへやって参ります。一人は大きく一人は黒くて小さいのでした。  それはたしかに、隣りの善コと、そのお母さんとにちがいありません。 「ホー、善コォ。」嘉ッコは高く叫びました。 「ホー。」高く返事が響いて来ます。そして二人はどっちからもかけ寄って、ちょうど畑の堺で会いました。善コの家の畑も、茶色外套の豆の木の兵隊で一杯です。 「汝ぃの家さ、今朝、霜降ったが。」と嘉ッコがたずねました。 「霜ぁ、おれぁの家さ降った。うなぃの家さ降ったが。」善コがいいました。 「うん、降った。」  それから二人は善コのお母さんが持って来た蓆の上に座りました。お母さんたちはうしろで立って談しています。  二人はむしろに座って、 「わあああああああああ。」と云いながら両手で耳を塞いだりあけたりして遊びました。ところが不思議なことは、「わああああ※ああああ。」と云わないでも、両手で耳を塞いだりあけたりしますと、 「カーカーココーコー、ジャー。」という水の流れるような音が聞えるのでした。 「じゃ、汝、あの音ぁ何の音だが覚だが。」  と嘉ッコが云いました。善コもしばらくやって見ていましたが、やっぱりどうしてもそれがわからないらしく困ったように、 「奇体だな。」と云いました。  その時丁度嘉ッコのお母さんが畦の向うの方から豆を抜きながらだんだんこっちへ来ましたので、嘉ッコは高く叫びました。 「母、こう云にしてガアガアど聞えるものぁ何だべ。」 「西根山の滝の音さ。」お母さんは豆の根の土をばたばた落しながら云いました。二人は西根山の方を見ました。けれどもそこから滝の音が聞えて来るとはどうも思われませんでした。  お母さんが向うへ行って今度はおばあさんが来ました。 「ばさん。こう云にしてガアガアコーコーど鳴るものぁ何だべ。」  おばあさんはやれやれと腰をのばして、手の甲で額を一寸こすりながら、二人の方を見て云いました。 「天の邪鬼の小便の音さ。」  二人は変な顔をしながら黙ってしばらくその音を呼び寄せて聞いていましたが、俄かに善コがびっくりする位叫びました。 「ほう、天の邪鬼の小便ぁ永ぃな。」  そこで嘉ッコが飛びあがって笑っておばあさんの所に走って行っていいました。 「アッハッハ、ばさん。天の邪鬼の小便ぁたまげだ永ぃな。」 「永ぃてさ、天の邪鬼ぁいっつも小便、垂れ通しさ。」とおばあさんはすまして云いながら又豆を抜きました。嘉ッコは呆れてぼんやりとむしろに座りました。  お日さまはうすい白雲にはいり、黒い鳥が高く高く環をつくっています。その雲のこっち、豆の畑の向うを、鼠色の服を着て、鳥打をかぶったせいのむやみに高い男が、なにかたくさん肩にかついで大股に歩いて行きます。 「兵隊さん。」善コが叫びながらそっちへかけ出しました。 「兵隊さ※だなぃ。鉄砲持ってなぃぞ。」嘉ッコも走りながら云いました。 「兵隊さん。」善コが又叫びました。 「兵隊さんだなぃ。鉄砲持ってなぃぞ。」けれどもその時は二人はもう旅人の三間ばかりこっちまで来ていました。 「兵隊さん。」善コは又叫んでからおかしな顔をしてしまいました。見るとその人は赤ひげで西洋人なのです。おまけにその男が口を大きくして叫びました。 「グルルル、グルウ、ユー、リトル、ラズカルズ、ユー、プレイ、トラウント、ビ、オッフ、ナウ、スカッド、アウエイ、テゥ、スクール。」  と雷のような声でどなりました。そこで二人はもうグーとも云わず、まん円になって一目散に逃げました。するとうしろではいかにも面白そうに高く笑う声がします。向うの方ではお母さんたちが心配そうに手をかざしてこっちを見ていましたが、やがて一寸おじぎをしました。二人は振り返って見ますとその鼠色の旅人も笑いながら帽子をとっておじぎをして居りました。そして又大股に向うに歩いて行ってしまいました。  お日さまが又かっと明るくなり、二人はむしろに座ってひばりもいないのに、 「ひばり焼げこ、ひばりこんぶりこ、」なんて出鱈目なひばりの歌を歌っていました。  そのうちに嘉ッコがふと思い出したように歌をやめて、一寸顔をしかめましたが、俄かに云いました。 「じゃ、うなぃの爺※ごぁ、酔ったぐれだが。」 「うんにゃ、おれぁの爺※ごぁ酔ったぐれだなぃ。」善コが答えました。 「そだら、うなぃの爺※ごど俺ぁの爺※ごど、爺※ご取っ換ぇだらいがべじゃぃ。取っ換ぇなぃどが。」嘉ッコがこれを云うか云わないにウンと云うくらいひどく耳をひっぱられました。見ると嘉ッコのおじいさんがけらを着て章魚のような赤い顔をして嘉ッコを上から見おろしているのでした。 「なにしたど。爺※ご取っ換ぇるど。それよりもうなのごと山山のへっぴり伯父さ呉でやるべが。」 「じさん、許せゆるせ、取っ換ぇなぃはんて、ゆるせ。」嘉ッコは泣きそうになってあやまりました。そこでじいさんは笑って自分も豆を抜きはじめました。         *  火は赤く燃えています。けむりは主におじいさんの方へ行きます。  嘉ッコは、黒猫をしっぽでつかまえて、ギッと云うくらいに抱いていました。向う側ではもう学校に行っている嘉ッコの兄さんが、鞄から読本を出して声を立てて読んでいました。 「松を火にたくいろりのそばで  よるはよもやまはなしがはずむ  母が手ぎわのだいこんなます  これがいなかのとしこしざかな。第十三課……。」 「何したど。大根なますだど。としこしざがなだど。あんまりけづな書物だな。」とおじいさんがいきなり云いました。そこで嘉ッコのお父さんも笑いました。 「なあにこの書物ぁ倹約教えだのだべも。」  ところが嘉ッコの兄さんは、すっかり怒ってしまいました。そしてまるで泣き出しそうになって、読本を鞄にしまって、 「嘉ッコ、猫ぉおれさ寄越せじゃ。」と云いました。 「わがなぃんちゃ。厭んた※ちゃ。」と嘉ッコが云いました。 「寄越せったら、寄越せ。嘉ッコぉ。わあい。寄越せじゃぁ。」 「厭※たぁ、厭※たぁ、厭※たったら。」 「そだら撲だぐじゃぃ。いいが。」嘉ッコの兄さんが向うで立ちあがりました。おじいさんがそれをとめ、嘉ッコがすばやく逃げかかったとき、俄に途方もない、空の青セメントが一ぺんに落ちたというようなガタアッという音がして家はぐらぐらっとゆれ、みんなはぼかっとして呆れてしまいました。猫は嘉ッコの手から滑り落ちて、ぶるるっとからだをふるわせて、それから一目散にどこかへ走って行ってしまいました。「ガリガリッ、ゴロゴロゴロゴロ。」音は続き、それからバァッと表の方が鳴って何か石ころのようなものが一散に降って来たようすです。 「お雷さんだ。」おじいさんが云いました。 「雹だ。」お父さんが云いました。ガアガアッというその雹の音の向うから、 「ホーォ。」ととなりの善コの声が聞えます。 「ホーォ。」と嘉ッコが答えました。 「ホーォォ。」となりで又叫んでいます。 「ホーォォー。」嘉ッコが咽喉一杯|笛のようにして叫びました。  俄に外の音はやみ、淵の底のようにしずかになってしまって気味が悪いくらいです。  嘉ッコの兄さんは雹を取ろうと下駄をはいて表に出ました。嘉ッコも続いて出ました。空はまるで新らしく拭いた鏡のようになめらかで、青い七日ごろのお月さまがそのまん中にかかり、地面はぎらぎら光って嘉ッコは一寸氷砂糖をふりまいたのだとさえ思いました。  南のずうっと向うの方は、白い雲か霧かがかかり、稲光りが月あかりの中をたびたび白く渡ります。二人は雀の卵ぐらいある雹の粒をひろって愕ろきました。 「ホーォ。」善コの声がします。 「ホーォ。」嘉ッコと嘉ッコの兄さんとは一所に叫びながら垣根の柳の木の下まで出て行きました。となりの垣根からも小さな黒い影がプイッと出てこっちへやって参ります。善コです。嘉ッコは走りました。 「ほお、雹だじゃぃ。大きじゃぃ。こったに大きじゃぃ。」  善コも一杯つかんでいました。 「俺家のなもこの位あるじゃぃ。」  稲ずまが又白く光って通り過ぎました。 「あ、山山のへっぴり伯父。」嘉ッコがいきなり西を指さしました。西根の山山のへっぴり伯父は月光に青く光って長々とからだを横たえました。  よく晴れて前の谷川もいつもとまるでちがって楽しくごろごろ鳴った。盆の十六日なので鉱山も休んで給料は呉れ畑の仕事も一段落ついて今日こそ一日そこらの木やとうもろこしを吹く風も家のなかの煙に射す青い光の棒もみんな二人のものだった。  おみちは朝から畑にあるもので食べられるものを集めていろいろに取り合せてみた。嘉吉は朝いつもの時刻に眼をさましてから寝そべったまま煙草を二、三|服ふかしてまたすうすう眠ってしまった。  この一年に二日しかない恐らくは太陽からも許されそうな休みの日を外では鳥が針のように啼き日光がしんしんと降った。嘉吉がもうひる近いからと起されたのはもう十一時近くであった。  おみちは餅の三いろ、あんのと枝豆をすってくるんだのと汁のとを拵えてしまって膳の支度もして待っていた。嘉吉は楊子をくわいて峠へのみちをよこぎって川におりて行った。それは白と鼠いろの縞のある大理石で上流に家のないそのきれいな流れがざあざあ云ったりごぼごぼ湧いたりした。嘉吉はすぐ川下に見える鉱山の方を見た。鉱山も今日はひっそりして鉄索もうごいていず青ぞらにうすくけむっていた。嘉吉はせいせいしてそれでもまだどこかに溶けない熱いかたまりがあるように思いながら小屋へ帰って来た。嘉吉は鉱山の坑木の係りではもう頭株だった。それに前は小林区の現場監督もしていたので木のことではいちばん明るかった。そして冬|撰鉱へ来ていたこの村の娘のおみちと出来てからとうとうその一本|調子で親たちを納得させておみちを貰ってしまった。親たちは鉱山から少し離れてはいたけれどもじぶんの栗の畑もわずかの山林もくっついているいまのところに小屋をたててやった。そしておみちはそのわずかの畑に玉蜀黍や枝豆やささげも植えたけれども大抵は嘉吉を出してやってから実家へ手伝いに行った。そうしてまだ子供がなく三年|経った。  嘉吉は小屋へ入った。 おみちが膳の上に豆の餅の皿を置きながら云った。嘉吉が云った。 俄かにぱっと顔をほてらせながらおみちは云った。嘉吉はすこしわらって云った。膳ができた。いくつもの峠を越えて海藻の〔数文字空白〕を着せた馬に運ばれて来たてんぐさも四角に切られて朧ろにひかった。嘉吉は子供のように箸をとりはじめた。  ふと表の河岸でカーンカーンと岩を叩く音がした。二人はぎょっとして聞き耳をたてた。  音はなくなった。嘉吉は豆の餅を口に入れた。音がこちこちまた起った。 嘉吉はもうそっちを考えるのをやめて話しかけた。おみちはけれども気の無さそうに返事してまだおもての音を気にしていた。 門口で若い水々しい声が云った。嘉吉は用があったからこっちへ廻れといった風で口をもぐもぐしながら云った。けれどもその眼はじっとおみちを見ていた。 若いかばんを持って鉄槌をさげた学生だった。嘉吉は少しむかっぱらをたてたように云った。 嘉吉は馬鹿にしたように云った。青年はすっかり照れてしまった。 嘉吉は自分も前|小林区に居たので地図は明るかった。学生は地図を渡しながら云われた通りしきいに腰掛けてしまった。おみちはすぐ台所の方へ立って行って手早く餅や海藻とささげを煮た膳をこしらえて来て、 と云った。  学生は立とうとした。嘉吉はおみちの前でもう少してきぱき話をつづけたかったし、学生がすこしもこっちを悪く受けないのが気に入ってあわてて云った。おみちも低く云った。  学生はしばらく立っていたが決心したように腰をおろした。餅を噛み切って呑み下してまた云った。化石も嘉吉は知っていた。学生は何でももう早く餅をげろ呑みにして早く生きたいようにも見えまたやっぱり疲れてもいればこういう款待に温さを感じてまだ止まっていたいようにも見えた。 学生は鞄から敷島を一つとキャラメルの小さな箱を出して置いた。おみちは顔を赤くしてそれを押し戻した。 学生はさっさと出て行った。おみちは急いで草履をつっかけて出たけれども間もなく戻って来た。嘉吉はまたゆっくりくつろいでうすぐろいてんを砕いて醤油につけて食った。  おみちは娘のような顔いろでまだぼんやりしたように座っていた。それは嘉吉がおみちを知ってからわずかに二|度だけ見た表情であった。 嘉吉が云った。 おみちはまだぼんやりして何か考えていた。  嘉吉はかっとなった。 おみちはさぁっと青じろくなってまた赤くなった。 嘉吉はまるで落ちはじめたなだれのように膳を向うへけ飛ばした。おみちはとうとううつぶせになって声をあげて泣き出した。 嘉吉はまたそう云ったけれどもすこしもそれに逆うでもなくただ辛そうにしくしく泣いているおみちのよごれた小倉の黒いえりや顫うせなかを見ていると二人とも何年ぶりかのただの子供になってこの一日をままごとのようにして遊んでいたのをめちゃめちゃにこわしてしまったようでからだが風と青い寒天でごちゃごちゃにされたような情ない気がした。  おみちは泣きじゃくりながら起きあがった。そしてじぶんはまだろくに食べもしなかった膳を片付けはじめた。  嘉吉はマッチをすってたばこを二つ三つのんだ。それから横からじっとおみちを見るとまだ泣きたいのを無理にこらえて口をびくびくしながらぼんやり眼を赤くしているのが酔った狸のようにでも見えた。嘉吉は矢もたてもたまらず俄かにおみちが可哀そうになってきた。  嘉吉はじっと考えた。おみちがさっきのあの顔いろはこっちの邪推かもしれない。  及びもしないあんな男をいきなり一言二言はなしてそんなことを考えるなんてあることでない。そうだとするとおれがあんな大学生とでも引け目なしにぱりぱり談した。そのおれの力を感じていたのかも知れない。それにおれには鉱夫どもにさえ馬鹿にはされない肩や腕の力がある。あんなひょろひょろした若造にくらべては何と云ってもおみちにはおれのほうが勝ち目がある。 嘉吉が云った。  おみちはだまって来て首を垂れて座った。 おみちが甘えるように云った。 おみちは子供のようにうなずいた。嘉吉はまだくしゃくしゃ泣いておどけたような顔をしたおみちを抱いてこっそり耳へささやいた。  おみちの胸はこの悪魔のささやきにどかどか鳴った。それからいきなり嘉吉をとび退いて、 そして爽かに笑った。嘉吉もごろりと寝そべって天井を見ながら何べんも笑った。そこでおみちははじめて晴れ晴れじぶんの拵えた寒天もたべた。餅もたべた。キャラメルの箱と敷島は秋らしい日光のなかにしずかに横わった。 時  一九二〇年代 処  盛岡市郊外 人物 爾薩待 正  開業したての植物医師 ペンキ屋|徒弟 農民 一 農民 二 農民 三 農民 四 農民 五 農民 六 幕あく。 粗末なバラック室、卓子二、一は顕微鏡を載せ一は客用、椅子二、爾薩待正 椅子に坐り心配そうに新聞を見て居る。立ってそわそわそこらを直したりする。 「今日はあ。」 「はぁい。」 爾薩待「ああ、君か、出来たね。」 ペンキ屋「あの、五円三十銭でございます。」 爾薩待「ああ、そうか。ずいぶん急がして済まなかったね。何せ今日から開業で、新聞にも広告したもんだからね。」 ペンキ屋「はあ、それでようございましょうか。」 爾薩待「ああ、いいとも、立派にできた。あのね、お金は月末まで待って呉れ給え。」 ペンキ屋「あのう、実はどちらさまにも現金に願ってございますので。」 爾薩待「いや、それはそうだろう。けれどもね、ぼくも茲でこうやって医者を開業してみれば、別に夜逃げをする訳でもないんだから、月末まで待ってくれたまえ。」 ペンキ屋「ええ、ですけれど、そう言いつかって来たんですから。」 爾薩待「まあ、いいさ。僕だって、とにかくこうやって病院をはじめれば、まあ、院長じゃないか。五円いくらぐらいきっと払うよ。そうしてくれ給え。」 ペンキ屋「だって、病院だって、人の病院でもないんでしょう。」 爾薩待「勿論さ。植物病院さ。いまはもう外国ならどこの町だって植物病院はあるさ。ここではぼくがはじめだけれど。」 ペンキ屋「だって現金でないと私帰って叱られますから。そんなら代金引替ということにねがいます。」 爾薩待「君、君、そう頑固なこと言うんじゃないよ。実は僕も困ってるんだ。先月まではぼくは県庁の耕地整理の方へ出てたんだ。ところが部長と喧嘩してね、そいつをぶんなぐってやめてしまったんだ。商売をやるたって金もないしね、やっとその顕微鏡を友だちから借りてこの商売をはじめたんだ。同情してくれ給え。」 ペンキ屋「だって、そんな先月まで交通整理だかやっていて俄かに医者なんかできるんですか。」 爾薩待「交通整理じゃないよ。耕地整理だよ。けれどもそりぁ、医者とはちがわぁね。しかしね、百姓のことなんざ何とでもごまかせるもんだよ。ぼく、きっとうまくやるから、まあ置いとけよ。置いとけよ。」 ペンキ屋「そうですか。そいじゃ月末にはどうか間ちがいなく。困っちまうなあ。」 爾薩待「大丈夫さ。君を困らしぁしないよ。ありがとう、じゃ、さよなら。」 ペンキ屋徒弟退場。 「申し。」 爾薩待「はあ。」 農民一「稲の伯楽づのぁ、こっちだべすか。」 爾薩待「はあ、そうです。」 農民一「陸稲のごとでもわがるべすか。」 爾薩待「ああ、わかります。私は植物一切の医者ですから。」 農民一「はあ、おりゃの陸稲ぁ、さっぱりおがらなぃです。この位になって、だんだん枯れはじめです、なじょにしたらいが、教えてくな※せ。」 爾薩待「ははあ、あんまり乾き過ぎたな。」 農民一「いいえ、おりゃのあそごぁひでえ谷地で、なんぼ旱でも土ぽさぽさづぐなるづごとのなぃどごだます。」 爾薩待「ははあ、あんまり水のはけないためだ。」 農民一「すた、去年なも、ずいぶん雨降りだたんとも、ずいぶんゆぐ穫れだます、まんつ、おらあだりでば大谷地中でおれのこれぁとったもの無ぃがったます。」 爾薩待「ははあ、あんまり厚く蒔きすぎたな。」 農民一「厚ぐ蒔ぐて全体陸稲づもな、一反歩さなんぼごりゃ蒔げばいのす。」 爾薩待「さうですな。品種や土壌によりますがなあ、さうですなあ、陸稲一反歩となるというと、可成いろいろですがなあ、その塩水撰したやつとしないやつでもちがいますがなあ。」 農民一「はあ、その塩水撰したのです。」 爾薩待「ははあ、塩水撰した陸稲の種子と、土壌や肥料にもよりますがなあ。」 農民一「まんつ、あだり前のどごで、あだり前の肥料してす。」 爾薩待「そうですなあ、それは、ええと、あなたのあたりではなんぼぐらい播きます?」 農民一「まず一反歩四升だなす。おらもその位に播いだんす。」 爾薩待「ははあ、一反歩四升と。少し厚いようですなあ、三升八合ぐらいでしょうな。然し、あなたのとこのは厚蒔のためでもないですなあ。そうすると、やっぱり肥料ですな。肥料があんまり少かったのでしょう。」 農民一「はあ、まぁんつ、人並よりは、やったます。百刈りでば、まずおらあだり一反四|畝なんだ、その百刈りさ、馬肥、十五|駄、豆粕一俵、硫安十貫目もやったます。」 爾薩待「あ、その硫安だ。硫安を濃くして掛けたでしょう。」 農民一「はあ、別段濃いど思わなぃがったが、全体なんぼ位に薄めたらいがべす。」 爾薩待「そうですな。硫安の薄め方となるとずいぶん色々ですがなあ、天気にもよりますしね。」 農民一「曇ってまず、土のさっと湿けだずぎだら、なんぼこりゃにすたらいがべす。」 爾薩待「そうですな。またあんまり薄くてもいかんですな。あなたの処ではどれ位にします。」 農民一「まず肥桶一杯の水さ、この位までて言うます。」 爾薩待「ええ、まあそうですね、けれども、これ位では少し多いかも知れませんね。まあ、こんなんでしょうな。」 農民一「はあ、せどなはおれぁは、もっと入れだます。」 爾薩待「そうですか。そうすればまあ病気ですな。」 農民一「何病だべす。」 爾薩待「ははあ、立枯病ですな。立枯病です。ちゃんと見えています。立枯病です。」 農民一「はでな、病気よりも何が虫だなぃがべすか。」 爾薩待「虫もいますか。葉にですか。」 農民一「いいえ、根にす、小せぁ虫こぁ居るようだます。」 爾薩待「ああなるほど虫だ。ちゃんと根を食ったあとがある。これは病気と虫と両方です。主に虫の方です。」 農民一「はあ、私もそうだと思ってあんすた。」 爾薩待「ええ、そうですとも、これはもう明らかに虫です。しかも根切虫だということは極めて明白です。つまりこの稲は根切虫の害によって枯れたのですな。」 農民一「はあ、それで、その根切虫、無ぐするになじょにすたらいがべす。」 爾薩待「さうですなあ、虫を殺すとすればやっぱり亜砒酸などが一番いいですな。」 農民一「はあ、どこで売ってるべす。」 爾薩待「いや、それは私のとこが病院ですからな。私のとこにあります。いま上げます。」 農民一「はあ。」 爾薩待「何反といいましたですか。」 農民一「五畝歩でごあんす。」 爾薩待「五畝歩とするとどれ位でいいかなあ。これ位でいいな。」 農民一「あの虫のいなぃどごさも掛げるのすか。」 爾薩待「いや、それは、いたとこへだけかけるのです。」 農民一「枯れだどごぁ半分ごりゃだんす。」 爾薩待「ああ、丁度その位へかけるだけです。」 農民一「水さなんぼごりゃ入れるのす。」 爾薩待「肥桶一つへまずこれ位ですなあ。」 農民一「はあ、そうせば、よっぽど叮ねいに掛げなぃやなぃな。まんつお有難うごあんすな。すぐ行って掛げで見ら※す。なんぼ上げだらいがべす。」 爾薩待「そうですな。診察料一円に薬価一円と、二円いただきます。」 農民一「はあ。」 爾薩待「やあ、ありがとう。」 農民一「どうもお有難うごあんした。これがらもどうがよろしぐお願いいだしあんす。」 爾薩待「いや、さよなら。」 爾薩待「ふん。亜砒酸は五十銭で一円五十銭もうけだ。これなら一向訳ないな。向こうから聞いた上でこっちは解決をつけてやる丈だから。」 「もうし。」 爾薩待「はい。」 農民二「植物医者づのぁお前さんだべすか。」 爾薩待「ええ、そうです。」 農民二「陸稲のごとでもわがるべすか。」 爾薩待「ああわかります。私は植物一切の医者ですから。」 農民二「はあ、おりゃの陸稲ぁ、さっぱりおがらなぃです。この位になってだんだん枯れはじめです。」 爾薩待「ああ、そうですか。まあお掛けなさい。ええと、陸稲が枯れるんですか。」 農民二「はあ、斯う言うにならんす。」 爾薩待「ああ、なるほど、これはね、こいつはね、あんまり乾き過ぎたという訳でもない、また水はけの悪いためでもない。」 農民二「はあ、全ぐその通りだんす。」 爾薩待「そうでしょう。またあんまり厚く蒔き過ぎたというのでもない。まあ一反歩四升位|蒔いたでしょう。」 農民二「そうでごあんす、そうでごあんす、丁度それ位蒔ぎあんすた。」 爾薩待「そうでしょう。また肥料があんまり少ないのでもない。また硫安を追肥するのに濃過ぎたのでもない。まあ肥桶一つにこれ位入れたでしょう。」 農民二「はあ、そうでごあんす、そうでごあんす。」 爾薩待「そうでしょう、またこれは病気でもない。ぼく考えるに、どうです、これ位ぐらいのこんな虫が根についちゃいませんか。」 農民二「はあ、おりあんす、おりあんす。」 爾薩待「なるほど、そうでしょう。そいつがいかんのです。」 農民二「なじょにすたらいがべす。」 爾薩待「それはね、亜砒酸という薬をかけるんです。」 農民二「どごで売ってべす。」 爾薩待「いや、勿論私のところにあるのですがね、いまちょっと切れていますから、証明書を書いて上げます。これをもって町の薬屋から買っておいでなさい。硫安と同じ位に薄めて使うんです。」 農民二「はあ、こいづ持ってて薬買って薄めで掛けるのだなす。」 爾薩待「そうです。」 農民二「なんぼお礼上げだらいがべす。」 爾薩待「診察料は一円です。それから証明書代が五十銭です。」 農民二「一円五十銭だなす。さあ、どうもおありがどごあんすた。」 爾薩待「いや、ありがとう。さよなら。」 農民二 退場 農民三 登場 農民三「今朝新聞さ広告出はてら植物医者づのぁ、お前さんだべすか。」 爾薩待「ああ、そうです。何かご用ですか。」 農民三「おれぁの陸稲ぁ、さっぱりおがらなぃです。」 爾薩待「ええ、ええ、それはね、疾うから私は気が付いていましたが、針金虫の害です。」 農民三「なじょにすたらいがべす。」 爾薩待「それはね、亜砒酸を掛けるんです。いま私が証明書を書いてあげますから、これを持って薬店へ行って亜砒酸を買って肥桶一つにこれ位ぐらい入れて稲にかけるんです。」 農民三「はあ、そうですか。おありがどごあんす。なんぼ上げ申したらいがべす。」 爾薩待「一円五十銭です。」 農民三「どうもおありがどごあんすた。」 爾薩待「いや、ありがとう。さよなら。」 農民四、五 登場。 爾薩待「いや、今日は、私は植物医師、爾薩待です。あなた方は陸稲の枯れたことに就いて相談においでになったのでしょう。それは針金虫の害です。亜砒酸をおかけなさい。いま証明書を書いてあげます。」 農民四、五この人ぁ医者ばかりだなぃ。八卦も置ぐようだじゃ。」 爾薩待「ここに証明書がありますからね、こいつをもって薬屋へ行って亜砒酸を買って、水へとかして稲に掛けるんです。ええと、お二人で三円下さい。」 農民四、五「どうもおありがどごあんすた。」 爾薩待「ええ、さよなら。」 農民六 登場。 爾薩待「ああ、この証明書を持って薬屋へ行って亜砒酸を買って水へとかしてあなたの陸稲へおかけなさい。すっかり直りますから。その代り一円五十銭置いてって下さい。」 農民六 爾薩待「どうだ。開業|早々からこううまく行くとは思わなかったなあ。半日で十円になる。看板代などはなんでもない。もう七人目のやつが来そうなもんだがなあ。」 「今日は。」 「はい。」 爾薩待「いや、今日は。私は植物医師の爾薩待です。あなたの陸稲はすっかり枯れたでしょう。」 農民一「はあ。」 爾薩待「それはね、あんまり乾き過ぎたためでもない、あんまり湿り過ぎたためでもない。厚く蒔きすぎたのでもない。まあ一反歩四升ぐらい播いたのでしょう。」 農民一「はあ。」 爾薩待「それでいいのです。また肥料のあまり少ないのでもない。硫安を濃くしてかけたのでもない。肥桶一つへこれ位入れたでしょう。」 農民一「はあ。」 爾薩待「そこでね、それは針金虫というものの害なのです。それをなくするには亜砒酸を水にとかしてかけるのです。」 農民一「はあ、私そうしあんした。」 爾薩待「おや、あなたはさっきの方ですね。こついは失敬しました。どうでした。」 農民一「どうも、ゆぐなぃよだんすじゃ。かげだれば、稲見でるうぢに赤ぐなってしまたもす。」 爾薩待「いや、そんな筈はありません。それは掛けようが悪いのです。」 農民一「掛げよう悪たてお前さんの言うようにすたます。」 爾薩待「いや、そうでないです。第一、日中に掛けるということがありますか。」 農民一「はでな、そいづお前さん言わなぃんだもな。」 爾薩待「言わないたって知れてるじゃありませんか。いやになっちまうな。」 「申し。」 農民二「陸稲さっぱり枯れでしまったます。」 爾薩待「だからね、今も言ってるんだ、こんな天気のまっ盛りに肥料にしろ薬剤にしろかけるという筈はないんだ。」 農民二「何したどす。お前さん、今行ってすぐ掛げろって言ったけぁか。」 爾薩待「それは言った。言ったけれども、君たちのやったようでなく、噴霧器を使わないといけないんだ。」 農民一「虫も死ぬ位だから陸稲さも悪いのでぁあるまぃが。」 農民二「どうもそうだようだます。」 爾薩待「いや、そんなことはない。ちゃんと処方通りやればうまく行ったんだ。」 「今日は。」 農民三「先生、あの薬わがなぃ。さっぱり稲枯れるもの。」 爾薩待「いや、それはね、今も言ってたんだが、噴霧器を使わずに、この日中やったのがいけなかったのだ。」 農民三「はぁでな、お前さま、おれさ叮ねいに柄杓でかげろて言っただなぃすか。」 爾薩待「いやいや、それはね、……」 農民二「なあに、この人、まるでさっきたがら、いいこりゃ加減だもさ。」 農民一「あんまり出来さなぃよだね。」 農民四、五、六 登場 農民四「じゃ、この野郎、山師たがりだじゃぃ。まるきり稲枯れでしまたな。」 農民五「ひでやづだじゃ。春から汗水たらすて、ようやぐ物にすたの、二百刈りづもの、まるっきり枯らしてしまったな。」 農民六「ほんとにひで野郎だ。」 農民二「全体、はじめの話がら、ひょんただたもな。じゃ、うな、医者だなんて、人がら銭まで取ってで、人の稲枯らして済むもんだが。」 爾薩待 農民二「いま、もぐり歯医者でも懲役になるもの、人|欺して、こったなごとしてそれで通るづ筈なぃがべじゃ。」 爾薩待 農民二「六人さ、まるっきり同じごと言って偽こいで、そしてで威張って、診察料よごせだ、全体、何の話だりゃ。」 爾薩待 農民一「じゃ、あんまりそう言うなじゃ、人の医者だて治るごともあれば、療治|後れれば死ぬごともあるだ。あんまりそう言うなじゃ。」 農民三「まぁんつ、運悪がたとあぎらめなぃやなぃな。ひでりさ一年かがたど思たらいがべ。」 農民四「全体、みんな同じ陸稲だったがら悪がったもな。ほがのものもあれば、治る人もあったんだとも。あっはっは。」 農民五「さあ、あべじゃ。医者さんもあんまり、がおれなぃで、折角みっしりやったらいがべ。」 農民六「ようし、仕方なぃがべ。さあ、さっぱりどあぎらめべ。じゃ、医者さん、まだ頼む人もあるだ、あんまり、がおらなぃでおでぁれ。」 農民二「さあ、行ぐべ。どうもおありがどごあんすた。」 一同退場 医師これを見送る。  雪婆んごは、遠くへ出かけて居りました。  猫のような耳をもち、ぼやぼやした灰いろの髪をした雪婆んごは、西の山脈の、ちぢれたぎらぎらの雲を越えて、遠くへでかけていたのです。  ひとりの子供が、赤い毛布にくるまって、しきりにカリメラのことを考えながら、大きな象の頭のかたちをした、雪丘の裾を、せかせかうちの方へ急いで居りました。 ほんとうにもう一生けん命、こどもはカリメラのことを考えながらうちの方へ急いでいました。  お日さまは、空のずうっと遠くのすきとおったつめたいとこで、まばゆい白い火を、どしどしお焚きなさいます。  その光はまっすぐに四方に発射し、下の方に落ちて来ては、ひっそりした台地の雪を、いちめんまばゆい雪花石膏の板にしました。  二|疋の雪狼が、べろべろまっ赤な舌を吐きながら、象の頭のかたちをした、雪丘の上の方をあるいていました。こいつらは人の眼には見えないのですが、一ぺん風に狂い出すと、台地のはずれの雪の上から、すぐぼやぼやの雪雲をふんで、空をかけまわりもするのです。 「しゅ、あんまり行っていけないったら。」雪狼のうしろから白熊の毛皮の三角|帽子をあみだにかぶり、顔を苹果のようにかがやかしながら、雪童子がゆっくり歩いて来ました。  雪狼どもは頭をふってくるりとまわり、またまっ赤な舌を吐いて走りました。 「カシオピイア、  もう水仙が咲き出すぞ  おまえのガラスの水車  きっきとまわせ。」  雪童子はまっ青なそらを見あげて見えない星に叫びました。その空からは青びかりが波になってわくわくと降り、雪狼どもは、ずうっと遠くで焔のように赤い舌をべろべろ吐いています。 「しゅ、戻れったら、しゅ、」雪童子がはねあがるようにして叱りましたら、いままで雪にくっきり落ちていた雪童子の影法師は、ぎらっと白いひかりに変り、狼どもは耳をたてて一さんに戻ってきました。 「アンドロメダ、  あぜみの花がもう咲くぞ、  おまえのラムプのアルコホル、  しゅうしゅと噴かせ。」  雪童子は、風のように象の形の丘にのぼりました。雪には風で介殻のようなかたがつき、その頂には、一本の大きな栗の木が、美しい黄金いろのやどりぎのまりをつけて立っていました。 「とっといで。」雪童子が丘をのぼりながら云いますと、一疋の雪狼は、主人の小さな歯のちらっと光るのを見るや、ごむまりのようにいきなり木にはねあがって、その赤い実のついた小さな枝を、がちがち噛じりました。木の上でしきりに頸をまげている雪狼の影法師は、大きく長く丘の雪に落ち、枝はとうとう青い皮と、黄いろの心とをちぎられて、いまのぼってきたばかりの雪童子の足もとに落ちました。 「ありがとう。」雪童子はそれをひろいながら、白と藍いろの野はらにたっている、美しい町をはるかにながめました。川がきらきら光って、停車場からは白い煙もあがっていました。雪童子は眼を丘のふもとに落しました。その山裾の細い雪みちを、さっきの赤毛布を着た子供が、一しんに山のうちの方へ急いでいるのでした。 「あいつは昨日、木炭のそりを押して行った。砂糖を買って、じぶんだけ帰ってきたな。」雪童子はわらいながら、手にもっていたやどりぎの枝を、ぷいっとこどもになげつけました。枝はまるで弾丸のようにまっすぐに飛んで行って、たしかに子供の目の前に落ちました。  子供はびっくりして枝をひろって、きょろきょろあちこちを見まわしています。雪童子はわらって革むちを一つひゅうと鳴らしました。  すると、雲もなく研きあげられたような群青の空から、まっ白な雪が、さぎの毛のように、いちめんに落ちてきました。それは下の平原の雪や、ビール色の日光、茶いろのひのきでできあがった、しずかな奇麗な日曜日を、一そう美しくしたのです。  子どもは、やどりぎの枝をもって、一生けん命にあるきだしました。  けれども、その立派な雪が落ち切ってしまったころから、お日さまはなんだか空の遠くの方へお移りになって、そこのお旅屋で、あのまばゆい白い火を、あたらしくお焚きなされているようでした。  そして西北の方からは、少し風が吹いてきました。  もうよほど、そらも冷たくなってきたのです。東の遠くの海の方では、空の仕掛けを外したような、ちいさなカタッという音が聞え、いつかまっしろな鏡に変ってしまったお日さまの面を、なにかちいさなものがどんどんよこ切って行くようです。  雪童子は革むちをわきの下にはさみ、堅く腕を組み、唇を結んで、その風の吹いて来る方をじっと見ていました。狼どもも、まっすぐに首をのばして、しきりにそっちを望みました。  風はだんだん強くなり、足もとの雪は、さらさらさらさらうしろへ流れ、間もなく向うの山脈の頂に、ぱっと白いけむりのようなものが立ったとおもうと、もう西の方は、すっかり灰いろに暗くなりました。  雪童子の眼は、鋭く燃えるように光りました。そらはすっかり白くなり、風はまるで引き裂くよう、早くも乾いたこまかな雪がやって来ました。そこらはまるで灰いろの雪でいっぱいです。雪だか雲だかもわからないのです。  丘の稜は、もうあっちもこっちも、みんな一度に、軋るように切るように鳴り出しました。地平線も町も、みんな暗い烟の向うになってしまい、雪童子の白い影ばかり、ぼんやりまっすぐに立っています。  その裂くような吼えるような風の音の中から、 「ひゅう、なにをぐずぐずしているの。さあ降らすんだよ。降らすんだよ。ひゅうひゅうひゅう、ひゅひゅう、降らすんだよ、飛ばすんだよ、なにをぐずぐずしているの。こんなに急がしいのにさ。ひゅう、ひゅう、向うからさえわざと三人連れてきたじゃないか。さあ、降らすんだよ。ひゅう。」あやしい声がきこえてきました。  雪童子はまるで電気にかかったように飛びたちました。雪婆んごがやってきたのです。  ぱちっ、雪童子の革むちが鳴りました。狼どもは一ぺんにはねあがりました。雪わらすは顔いろも青ざめ、唇も結ばれ、帽子も飛んでしまいました。 「ひゅう、ひゅう、さあしっかりやるんだよ。なまけちゃいけないよ。ひゅう、ひゅう。さあしっかりやってお呉れ。今日はここらは水仙月の四日だよ。さあしっかりさ。ひゅう。」  雪婆んごの、ぼやぼやつめたい白髪は、雪と風とのなかで渦になりました。どんどんかける黒雲の間から、その尖った耳と、ぎらぎら光る黄金の眼も見えます。  西の方の野原から連れて来られた三人の雪童子も、みんな顔いろに血の気もなく、きちっと唇を噛んで、お互挨拶さえも交わさずに、もうつづけざませわしく革むちを鳴らし行ったり来たりしました。もうどこが丘だか雪けむりだか空だかさえもわからなかったのです。聞えるものは雪婆んごのあちこち行ったり来たりして叫ぶ声、お互の革鞭の音、それからいまは雪の中をかけあるく九疋の雪狼どもの息の音ばかり、そのなかから雪童子はふと、風にけされて泣いているさっきの子供の声をききました。  雪童子の瞳はちょっとおかしく燃えました。しばらくたちどまって考えていましたがいきなり烈しく鞭をふってそっちへ走ったのです。  けれどもそれは方角がちがっていたらしく雪童子はずうっと南の方の黒い松山にぶっつかりました。雪童子は革むちをわきにはさんで耳をすましました。 「ひゅう、ひゅう、なまけちゃ承知しないよ。降らすんだよ、降らすんだよ。さあ、ひゅう。今日は水仙月の四日だよ。ひゅう、ひゅう、ひゅう、ひゅうひゅう。」  そんなはげしい風や雪の声の間からすきとおるような泣声がちらっとまた聞えてきました。雪童子はまっすぐにそっちへかけて行きました。雪婆んごのふりみだした髪が、その顔に気みわるくさわりました。峠の雪の中に、赤い毛布をかぶったさっきの子が、風にかこまれて、もう足を雪から抜けなくなってよろよろ倒れ、雪に手をついて、起きあがろうとして泣いていたのです。 「毛布をかぶって、うつ向けになっておいで。毛布をかぶって、うつむけになっておいで。ひゅう。」雪童子は走りながら叫びました。けれどもそれは子どもにはただ風の声ときこえ、そのかたちは眼に見えなかったのです。 「うつむけに倒れておいで。ひゅう。動いちゃいけない。じきやむからけっとをかぶって倒れておいで。」雪わらすはかけ戻りながら又叫びました。子どもはやっぱり起きあがろうとしてもがいていました。 「倒れておいで、ひゅう、だまってうつむけに倒れておいで、今日はそんなに寒くないんだから凍えやしない。」  雪童子は、も一ど走り抜けながら叫びました。子どもは口をびくびくまげて泣きながらまた起きあがろうとしました。 「倒れているんだよ。だめだねえ。」雪童子は向うからわざとひどくつきあたって子どもを倒しました。 「ひゅう、もっとしっかりやっておくれ、なまけちゃいけない。さあ、ひゅう」  雪婆んごがやってきました。その裂けたように紫な口も尖った歯もぼんやり見えました。 「おや、おかしな子がいるね、そうそう、こっちへとっておしまい。水仙月の四日だもの、一人や二人とったっていいんだよ。」 「ええ、そうです。さあ、死んでしまえ。」雪童子はわざとひどくぶっつかりながらまたそっと云いました。 「倒れているんだよ。動いちゃいけない。動いちゃいけないったら。」  狼どもが気ちがいのようにかけめぐり、黒い足は雪雲の間からちらちらしました。 「そうそう、それでいいよ。さあ、降らしておくれ。なまけちゃ承知しないよ。ひゅうひゅうひゅう、ひゅひゅう。」雪婆んごは、また向うへ飛んで行きました。  子供はまた起きあがろうとしました。雪童子は笑いながら、も一度ひどくつきあたりました。もうそのころは、ぼんやり暗くなって、まだ三時にもならないに、日が暮れるように思われたのです。こどもは力もつきて、もう起きあがろうとしませんでした。雪童子は笑いながら、手をのばして、その赤い毛布を上からすっかりかけてやりました。 「そうして睡っておいで。布団をたくさんかけてあげるから。そうすれば凍えないんだよ。あしたの朝までカリメラの夢を見ておいで。」  雪わらすは同じとこを何べんもかけて、雪をたくさんこどもの上にかぶせました。まもなく赤い毛布も見えなくなり、あたりとの高さも同じになってしまいました。 「あのこどもは、ぼくのやったやどりぎをもっていた。」雪童子はつぶやいて、ちょっと泣くようにしました。 「さあ、しっかり、今日は夜の二時までやすみなしだよ。ここらは水仙月の四日なんだから、やすんじゃいけない。さあ、降らしておくれ。ひゅう、ひゅうひゅう、ひゅひゅう。」  雪婆んごはまた遠くの風の中で叫びました。  そして、風と雪と、ぼさぼさの灰のような雲のなかで、ほんとうに日は暮れ雪は夜じゅう降って降って降ったのです。やっと夜明けに近いころ、雪婆んごはも一度、南から北へまっすぐに馳せながら云いました。 「さあ、もうそろそろやすんでいいよ。あたしはこれからまた海の方へ行くからね、だれもついて来ないでいいよ。ゆっくりやすんでこの次の仕度をして置いておくれ。ああまあいいあんばいだった。水仙月の四日がうまく済んで。」  その眼は闇のなかでおかしく青く光り、ばさばさの髪を渦巻かせ口をびくびくしながら、東の方へかけて行きました。  野はらも丘もほっとしたようになって、雪は青じろくひかりました。空もいつかすっかり霽れて、桔梗いろの天球には、いちめんの星座がまたたきました。  雪童子らは、めいめい自分の狼をつれて、はじめてお互挨拶しました。 「ずいぶんひどかったね。」 「ああ、」 「こんどはいつ会うだろう。」 「いつだろうねえ、しかし今年中に、もう二へんぐらいのもんだろう。」 「早くいっしょに北へ帰りたいね。」 「ああ。」 「さっきこどもがひとり死んだな。」 「大丈夫だよ。眠ってるんだ。あしたあすこへぼくしるしをつけておくから。」 「ああ、もう帰ろう。夜明けまでに向うへ行かなくちゃ。」 「まあいいだろう。ぼくね、どうしてもわからない。あいつはカシオペーアの三つ星だろう。みんな青い火なんだろう。それなのに、どうして火がよく燃えれば、雪をよこすんだろう。」 「それはね、電気|菓子とおなじだよ。そら、ぐるぐるぐるまわっているだろう。ザラメがみんな、ふわふわのお菓子になるねえ、だから火がよく燃えればいいんだよ。」 「ああ。」 「じゃ、さよなら。」 「さよなら。」  三人の雪童子は、九疋の雪狼をつれて、西の方へ帰って行きました。  まもなく東のそらが黄ばらのように光り、琥珀いろにかがやき、黄金に燃えだしました。丘も野原もあたらしい雪でいっぱいです。  雪狼どもはつかれてぐったり座っています。雪童子も雪に座ってわらいました。その頬は林檎のよう、その息は百合のようにかおりました。  ギラギラのお日さまがお登りになりました。今朝は青味がかって一そう立派です。日光は桃いろにいっぱいに流れました。雪狼は起きあがって大きく口をあき、その口からは青い焔がゆらゆらと燃えました。 「さあ、おまえたちはぼくについておいで。夜があけたから、あの子どもを起さなけあいけない。」  雪童子は走って、あの昨日の子供の埋まっているとこへ行きました。 「さあ、ここらの雪をちらしておくれ。」  雪狼どもは、たちまち後足で、そこらの雪をけたてました。風がそれをけむりのように飛ばしました。  かんじきをはき毛皮を着た人が、村の方から急いでやってきました。 「もういいよ。」雪童子は子供の赤い毛布のはじが、ちらっと雪から出たのをみて叫びました。 「お父さんが来たよ。もう眼をおさまし。」雪わらすはうしろの丘にかけあがって一本の雪けむりをたてながら叫びました。子どもはちらっとうごいたようでした。そして毛皮の人は一生けん命走ってきました。  ゴーシュは町の活動写真館でセロを弾く係りでした。けれどもあんまり上手でないという評判でした。上手でないどころではなく実は仲間の楽手のなかではいちばん下手でしたから、いつでも楽長にいじめられるのでした。  ひるすぎみんなは楽屋に円くならんで今度の町の音楽会へ出す第六|交響曲の練習をしていました。  トランペットは一生けん命歌っています。  ヴァイオリンも二いろ風のように鳴っています。  クラリネットもボーボーとそれに手伝っています。  ゴーシュも口をりんと結んで眼を皿のようにして楽譜を見つめながらもう一心に弾いています。  にわかにぱたっと楽長が両手を鳴らしました。みんなぴたりと曲をやめてしんとしました。楽長がどなりました。 「セロがおくれた。トォテテ テテテイ、ここからやり直し。はいっ。」  みんなは今の所の少し前の所からやり直しました。ゴーシュは顔をまっ赤にして額に汗を出しながらやっといま云われたところを通りました。ほっと安心しながら、つづけて弾いていますと楽長がまた手をぱっと拍ちました。 「セロっ。糸が合わない。困るなあ。ぼくはきみにドレミファを教えてまでいるひまはないんだがなあ。」  みんなは気の毒そうにしてわざとじぶんの譜をのぞき込んだりじぶんの楽器をはじいて見たりしています。ゴーシュはあわてて糸を直しました。これはじつはゴーシュも悪いのですがセロもずいぶん悪いのでした。 「今の前の小節から。はいっ。」  みんなはまたはじめました。ゴーシュも口をまげて一生けん命です。そしてこんどはかなり進みました。いいあんばいだと思っていると楽長がおどすような形をしてまたぱたっと手を拍ちました。またかとゴーシュはどきっとしましたがありがたいことにはこんどは別の人でした。ゴーシュはそこでさっきじぶんのときみんながしたようにわざとじぶんの譜へ眼を近づけて何か考えるふりをしていました。 「ではすぐ今の次。はいっ。」  そらと思って弾き出したかと思うといきなり楽長が足をどんと踏んでどなり出しました。 「だめだ。まるでなっていない。このへんは曲の心臓なんだ。それがこんながさがさしたことで。諸君。演奏までもうあと十日しかないんだよ。音楽を専門にやっているぼくらがあの金沓鍛冶だの砂糖屋の丁稚なんかの寄り集りに負けてしまったらいったいわれわれの面目はどうなるんだ。おいゴーシュ君。君には困るんだがなあ。表情ということがまるでできてない。怒るも喜ぶも感情というものがさっぱり出ないんだ。それにどうしてもぴたっと外の楽器と合わないもなあ。いつでもきみだけとけた靴のひもを引きずってみんなのあとをついてあるくようなんだ、困るよ、しっかりしてくれないとねえ。光輝あるわが金星音楽団がきみ一人のために悪評をとるようなことでは、みんなへもまったく気の毒だからな。では今日は練習はここまで、休んで六時にはかっきりボックスへ入ってくれ給え。」  みんなはおじぎをして、それからたばこをくわえてマッチをすったりどこかへ出て行ったりしました。ゴーシュはその粗末な箱みたいなセロをかかえて壁の方へ向いて口をまげてぼろぼろ泪をこぼしましたが、気をとり直してじぶんだけたったひとりいまやったところをはじめからしずかにもいちど弾きはじめました。  その晩|遅くゴーシュは何か巨きな黒いものをしょってじぶんの家へ帰ってきました。家といってもそれは町はずれの川ばたにあるこわれた水車小屋で、ゴーシュはそこにたった一人ですんでいて午前は小屋のまわりの小さな畑でトマトの枝をきったり甘藍の虫をひろったりしてひるすぎになるといつも出て行っていたのです。ゴーシュがうちへ入ってあかりをつけるとさっきの黒い包みをあけました。それは何でもない。あの夕方のごつごつしたセロでした。ゴーシュはそれを床の上にそっと置くと、いきなり棚からコップをとってバケツの水をごくごくのみました。  それから頭を一つふって椅子へかけるとまるで虎みたいな勢でひるの譜を弾きはじめました。譜をめくりながら弾いては考え考えては弾き一生けん命しまいまで行くとまたはじめからなんべんもなんべんもごうごうごうごう弾きつづけました。  夜中もとうにすぎてしまいはもうじぶんが弾いているのかもわからないようになって顔もまっ赤になり眼もまるで血走ってとても物凄い顔つきになりいまにも倒れるかと思うように見えました。  そのとき誰かうしろの扉をとんとんと叩くものがありました。 「ホーシュ君か。」ゴーシュはねぼけたように叫びました。ところがすうと扉を押してはいって来たのはいままで五六ぺん見たことのある大きな三毛猫でした。  ゴーシュの畑からとった半分熟したトマトをさも重そうに持って来てゴーシュの前におろして云いました。 「ああくたびれた。なかなか運搬はひどいやな。」 「何だと」ゴーシュがききました。 「これおみやです。たべてください。」三毛猫が云いました。  ゴーシュはひるからのむしゃくしゃを一ぺんにどなりつけました。 「誰がきさまにトマトなど持ってこいと云った。第一おれがきさまらのもってきたものなど食うか。それからそのトマトだっておれの畑のやつだ。何だ。赤くもならないやつをむしって。いままでもトマトの茎をかじったりけちらしたりしたのはおまえだろう。行ってしまえ。ねこめ。」  すると猫は肩をまるくして眼をすぼめてはいましたが口のあたりでにやにやわらって云いました。 「先生、そうお怒りになっちゃ、おからだにさわります。それよりシューマンのトロメライをひいてごらんなさい。きいてあげますから。」 「生意気なことを云うな。ねこのくせに。」  セロ弾きはしゃくにさわってこのねこのやつどうしてくれようとしばらく考えました。 「いやご遠慮はありません。どうぞ。わたしはどうも先生の音楽をきかないとねむられないんです。」 「生意気だ。生意気だ。生意気だ。」  ゴーシュはすっかりまっ赤になってひるま楽長のしたように足ぶみしてどなりましたがにわかに気を変えて云いました。 「では弾くよ。」  ゴーシュは何と思ったか扉にかぎをかって窓もみんなしめてしまい、それからセロをとりだしてあかしを消しました。すると外から二十日過ぎの月のひかりが室のなかへ半分ほどはいってきました。 「何をひけと。」 「トロメライ、ロマチックシューマン作曲。」猫は口を拭いて済まして云いました。 「そうか。トロメライというのはこういうのか。」  セロ弾きは何と思ったかまずはんけちを引きさいてじぶんの耳の穴へぎっしりつめました。それからまるで嵐のような勢で「印度の虎狩」という譜を弾きはじめました。  すると猫はしばらく首をまげて聞いていましたがいきなりパチパチパチッと眼をしたかと思うとぱっと扉の方へ飛びのきました。そしていきなりどんと扉へからだをぶっつけましたが扉はあきませんでした。猫はさあこれはもう一生一代の失敗をしたという風にあわてだして眼や額からぱちぱち火花を出しました。するとこんどは口のひげからも鼻からも出ましたから猫はくすぐったがってしばらくくしゃみをするような顔をしてそれからまたさあこうしてはいられないぞというようにはせあるきだしました。ゴーシュはすっかり面白くなってますます勢よくやり出しました。 「先生もうたくさんです。たくさんですよ。ご生ですからやめてください。これからもう先生のタクトなんかとりませんから。」 「だまれ。これから虎をつかまえる所だ。」  猫はくるしがってはねあがってまわったり壁にからだをくっつけたりしましたが壁についたあとはしばらく青くひかるのでした。しまいは猫はまるで風車のようにぐるぐるぐるぐるゴーシュをまわりました。  ゴーシュもすこしぐるぐるして来ましたので、 「さあこれで許してやるぞ」と云いながらようようやめました。  すると猫もけろりとして 「先生、こんやの演奏はどうかしてますね。」と云いました。  セロ弾きはまたぐっとしゃくにさわりましたが何気ない風で巻たばこを一本だして口にくわえそれからマッチを一本とって 「どうだい。工合をわるくしないかい。舌を出してごらん。」  猫はばかにしたように尖った長い舌をベロリと出しました。 「ははあ、少し荒れたね。」セロ弾きは云いながらいきなりマッチを舌でシュッとすってじぶんのたばこへつけました。さあ猫は愕いたの何の舌を風車のようにふりまわしながら入り口の扉へ行って頭でどんとぶっつかってはよろよろとしてまた戻って来てどんとぶっつかってはよろよろまた戻って来てまたぶっつかってはよろよろにげみちをこさえようとしました。  ゴーシュはしばらく面白そうに見ていましたが 「出してやるよ。もう来るなよ。ばか。」  セロ弾きは扉をあけて猫が風のように萱のなかを走って行くのを見てちょっとわらいました。それから、やっとせいせいしたというようにぐっすりねむりました。  次の晩もゴーシュがまた黒いセロの包みをかついで帰ってきました。そして水をごくごくのむとそっくりゆうべのとおりぐんぐんセロを弾きはじめました。十二時は間もなく過ぎ一時もすぎ二時もすぎてもゴーシュはまだやめませんでした。それからもう何時だかもわからず弾いているかもわからずごうごうやっていますと誰か屋根裏をこっこっと叩くものがあります。 「猫、まだこりないのか。」  ゴーシュが叫びますといきなり天井の穴からぽろんと音がして一|疋の灰いろの鳥が降りて来ました。床へとまったのを見るとそれはかっこうでした。 「鳥まで来るなんて。何の用だ。」ゴーシュが云いました。 「音楽を教わりたいのです。」  かっこう鳥はすまして云いました。  ゴーシュは笑って 「音楽だと。おまえの歌は、かっこう、かっこうというだけじゃあないか。」  するとかっこうが大へんまじめに 「ええ、それなんです。けれどもむずかしいですからねえ。」と云いました。 「むずかしいもんか。おまえたちのはたくさん啼くのがひどいだけで、なきようは何でもないじゃないか。」 「ところがそれがひどいんです。たとえばかっこうとこうなくのとかっこうとこうなくのとでは聞いていてもよほどちがうでしょう。」 「ちがわないね。」 「ではあなたにはわからないんです。わたしらのなかまならかっこうと一万云えば一万みんなちがうんです。」 「勝手だよ。そんなにわかってるなら何もおれの処へ来なくてもいいではないか。」 「ところが私はドレミファを正確にやりたいんです。」 「ドレミファもくそもあるか。」 「ええ、外国へ行く前にぜひ一度いるんです。」 「外国もくそもあるか。」 「先生どうかドレミファを教えてください。わたしはついてうたいますから。」 「うるさいなあ。そら三べんだけ弾いてやるからすんだらさっさと帰るんだぞ。」  ゴーシュはセロを取り上げてボロンボロンと糸を合わせてドレミファソラシドとひきました。するとかっこうはあわてて羽をばたばたしました。 「ちがいます、ちがいます。そんなんでないんです。」 「うるさいなあ。ではおまえやってごらん。」 「こうですよ。」かっこうはからだをまえに曲げてしばらく構えてから 「かっこう」と一つなきました。 「何だい。それがドレミファかい。おまえたちには、それではドレミファも第六|交響楽も同じなんだな。」 「それはちがいます。」 「どうちがうんだ。」 「むずかしいのはこれをたくさん続けたのがあるんです。」 「つまりこうだろう。」セロ弾きはまたセロをとって、かっこうかっこうかっこうかっこうかっこうとつづけてひきました。  するとかっこうはたいへんよろこんで途中からかっこうかっこうかっこうかっこうとついて叫びました。それももう一生けん命からだをまげていつまでも叫ぶのです。  ゴーシュはとうとう手が痛くなって 「こら、いいかげんにしないか。」と云いながらやめました。するとかっこうは残念そうに眼をつりあげてまだしばらくないていましたがやっと 「……かっこうかくうかっかっかっかっか」と云ってやめました。  ゴーシュがすっかりおこってしまって、 「こらとり、もう用が済んだらかえれ」と云いました。 「どうかもういっぺん弾いてください。あなたのはいいようだけれどもすこしちがうんです。」 「何だと、おれがきさまに教わってるんではないんだぞ。帰らんか。」 「どうかたったもう一ぺんおねがいです。どうか。」かっこうは頭を何べんもこんこん下げました。 「ではこれっきりだよ。」  ゴーシュは弓をかまえました。かっこうは「くっ」とひとつ息をして 「ではなるべく永くおねがいいたします。」といってまた一つおじぎをしました。 「いやになっちまうなあ。」ゴーシュはにが笑いしながら弾きはじめました。するとかっこうはまたまるで本気になって「かっこうかっこうかっこう」とからだをまげてじつに一生けん命叫びました。ゴーシュははじめはむしゃくしゃしていましたがいつまでもつづけて弾いているうちにふっと何だかこれは鳥の方がほんとうのドレミファにはまっているかなという気がしてきました。どうも弾けば弾くほどかっこうの方がいいような気がするのでした。 「えいこんなばかなことしていたらおれは鳥になってしまうんじゃないか。」とゴーシュはいきなりぴたりとセロをやめました。  するとかっこうはどしんと頭を叩かれたようにふらふらっとしてそれからまたさっきのように 「かっこうかっこうかっこうかっかっかっかっかっ」と云ってやめました。それから恨めしそうにゴーシュを見て 「なぜやめたんですか。ぼくらならどんな意気地ないやつでものどから血が出るまでは叫ぶんですよ。」と云いました。 「何を生意気な。こんなばかなまねをいつまでしていられるか。もう出て行け。見ろ。夜があけるんじゃないか。」ゴーシュは窓を指さしました。  東のそらがぼうっと銀いろになってそこをまっ黒な雲が北の方へどんどん走っています。 「ではお日さまの出るまでどうぞ。もう一ぺん。ちょっとですから。」  かっこうはまた頭を下げました。 「黙れっ。いい気になって。このばか鳥め。出て行かんとむしって朝飯に食ってしまうぞ。」ゴーシュはどんと床をふみました。  するとかっこうはにわかにびっくりしたようにいきなり窓をめがけて飛び立ちました。そして硝子にはげしく頭をぶっつけてばたっと下へ落ちました。 「何だ、硝子へばかだなあ。」ゴーシュはあわてて立って窓をあけようとしましたが元来この窓はそんなにいつでもするする開く窓ではありませんでした。ゴーシュが窓のわくをしきりにがたがたしているうちにまたかっこうがばっとぶっつかって下へ落ちました。見ると嘴のつけねからすこし血が出ています。 「いまあけてやるから待っていろったら。」ゴーシュがやっと二寸ばかり窓をあけたとき、かっこうは起きあがって何が何でもこんどこそというようにじっと窓の向うの東のそらをみつめて、あらん限りの力をこめた風でぱっと飛びたちました。もちろんこんどは前よりひどく硝子につきあたってかっこうは下へ落ちたまましばらく身動きもしませんでした。つかまえてドアから飛ばしてやろうとゴーシュが手を出しましたらいきなりかっこうは眼をひらいて飛びのきました。そしてまたガラスへ飛びつきそうにするのです。ゴーシュは思わず足を上げて窓をばっとけりました。ガラスは二三枚物すごい音して砕け窓はわくのまま外へ落ちました。そのがらんとなった窓のあとをかっこうが矢のように外へ飛びだしました。そしてもうどこまでもどこまでもまっすぐに飛んで行ってとうとう見えなくなってしまいました。ゴーシュはしばらく呆れたように外を見ていましたが、そのまま倒れるように室のすみへころがって睡ってしまいました。  次の晩もゴーシュは夜中すぎまでセロを弾いてつかれて水を一杯のんでいますと、また扉をこつこつ叩くものがあります。  今夜は何が来てもゆうべのかっこうのようにはじめからおどかして追い払ってやろうと思ってコップをもったまま待ち構えて居りますと、扉がすこしあいて一疋の狸の子がはいってきました。ゴーシュはそこでその扉をもう少し広くひらいて置いてどんと足をふんで、 「こら、狸、おまえは狸汁ということを知っているかっ。」とどなりました。すると狸の子はぼんやりした顔をしてきちんと床へ座ったままどうもわからないというように首をまげて考えていましたが、しばらくたって 「狸汁ってぼく知らない。」と云いました。ゴーシュはその顔を見て思わず吹き出そうとしましたが、まだ無理に恐い顔をして、 「では教えてやろう。狸汁というのはな。おまえのような狸をな、キャベジや塩とまぜてくたくたと煮ておれさまの食うようにしたものだ。」と云いました。すると狸の子はまたふしぎそうに 「だってぼくのお父さんがね、ゴーシュさんはとてもいい人でこわくないから行って習えと云ったよ。」と云いました。そこでゴーシュもとうとう笑い出してしまいました。 「何を習えと云ったんだ。おれはいそがしいんじゃないか。それに睡いんだよ。」  狸の子は俄に勢がついたように一足前へ出ました。 「ぼくは小太鼓の係りでねえ。セロへ合わせてもらって来いと云われたんだ。」 「どこにも小太鼓がないじゃないか。」 「そら、これ」狸の子はせなかから棒きれを二本出しました。 「それでどうするんだ。」 「ではね、『愉快な馬車屋』を弾いてください。」 「なんだ愉快な馬車屋ってジャズか。」 「ああこの譜だよ。」狸の子はせなかからまた一枚の譜をとり出しました。ゴーシュは手にとってわらい出しました。 「ふう、変な曲だなあ。よし、さあ弾くぞ。おまえは小太鼓を叩くのか。」ゴーシュは狸の子がどうするのかと思ってちらちらそっちを見ながら弾きはじめました。  すると狸の子は棒をもってセロの駒の下のところを拍子をとってぽんぽん叩きはじめました。それがなかなかうまいので弾いているうちにゴーシュはこれは面白いぞと思いました。  おしまいまでひいてしまうと狸の子はしばらく首をまげて考えました。  それからやっと考えついたというように云いました。 「ゴーシュさんはこの二番目の糸をひくときはきたいに遅れるねえ。なんだかぼくがつまずくようになるよ。」  ゴーシュははっとしました。たしかにその糸はどんなに手早く弾いてもすこしたってからでないと音が出ないような気がゆうべからしていたのでした。 「いや、そうかもしれない。このセロは悪いんだよ。」とゴーシュはかなしそうに云いました。すると狸は気の毒そうにしてまたしばらく考えていましたが 「どこが悪いんだろうなあ。ではもう一ぺん弾いてくれますか。」 「いいとも弾くよ。」ゴーシュははじめました。狸の子はさっきのようにとんとん叩きながら時々頭をまげてセロに耳をつけるようにしました。そしておしまいまで来たときは今夜もまた東がぼうと明るくなっていました。 「ああ夜が明けたぞ。どうもありがとう。」狸の子は大へんあわてて譜や棒きれをせなかへしょってゴムテープでぱちんととめておじぎを二つ三つすると急いで外へ出て行ってしまいました。  ゴーシュはぼんやりしてしばらくゆうべのこわれたガラスからはいってくる風を吸っていましたが、町へ出て行くまで睡って元気をとり戻そうと急いでねどこへもぐり込みました。  次の晩もゴーシュは夜通しセロを弾いて明方近く思わずつかれて楽譜をもったままうとうとしていますとまた誰か扉をこつこつと叩くものがあります。それもまるで聞えるか聞えないかの位でしたが毎晩のことなのでゴーシュはすぐ聞きつけて「おはいり。」と云いました。すると戸のすきまからはいって来たのは一ぴきの野ねずみでした。そして大へんちいさなこどもをつれてちょろちょろとゴーシュの前へ歩いてきました。そのまた野ねずみのこどもときたらまるでけしごむのくらいしかないのでゴーシュはおもわずわらいました。すると野ねずみは何をわらわれたろうというようにきょろきょろしながらゴーシュの前に来て、青い栗の実を一つぶ前においてちゃんとおじぎをして云いました。 「先生、この児があんばいがわるくて死にそうでございますが先生お慈悲になおしてやってくださいまし。」 「おれが医者などやれるもんか。」ゴーシュはすこしむっとして云いました。すると野ねずみのお母さんは下を向いてしばらくだまっていましたがまた思い切ったように云いました。 「先生、それはうそでございます、先生は毎日あんなに上手にみんなの病気をなおしておいでになるではありませんか。」 「何のことだかわからんね。」 「だって先生先生のおかげで、兎さんのおばあさんもなおりましたし狸さんのお父さんもなおりましたしあんな意地悪のみみずくまでなおしていただいたのにこの子ばかりお助けをいただけないとはあんまり情ないことでございます。」 「おいおい、それは何かの間ちがいだよ。おれはみみずくの病気なんどなおしてやったことはないからな。もっとも狸の子はゆうべ来て楽隊のまねをして行ったがね。ははん。」ゴーシュは呆れてその子ねずみを見おろしてわらいました。  すると野鼠のお母さんは泣きだしてしまいました。 「ああこの児はどうせ病気になるならもっと早くなればよかった。さっきまであれ位ごうごうと鳴らしておいでになったのに、病気になるといっしょにぴたっと音がとまってもうあとはいくらおねがいしても鳴らしてくださらないなんて。何てふしあわせな子どもだろう。」  ゴーシュはびっくりして叫びました。 「何だと、ぼくがセロを弾けばみみずくや兎の病気がなおると。どういうわけだ。それは。」  野ねずみは眼を片手でこすりこすり云いました。 「はい、ここらのものは病気になるとみんな先生のおうちの床下にはいって療すのでございます。」 「すると療るのか。」 「はい。からだ中とても血のまわりがよくなって大へんいい気持ちですぐ療る方もあればうちへ帰ってから療る方もあります。」 「ああそうか。おれのセロの音がごうごうひびくと、それがあんまの代りになっておまえたちの病気がなおるというのか。よし。わかったよ。やってやろう。」ゴーシュはちょっとギウギウと糸を合せてそれからいきなりのねずみのこどもをつまんでセロの孔から中へ入れてしまいました。 「わたしもいっしょについて行きます。どこの病院でもそうですから。」おっかさんの野ねずみはきちがいのようになってセロに飛びつきました。 「おまえさんもはいるかね。」セロ弾きはおっかさんの野ねずみをセロの孔からくぐしてやろうとしましたが顔が半分しかはいりませんでした。  野ねずみはばたばたしながら中のこどもに叫びました。 「おまえそこはいいかい。落ちるときいつも教えるように足をそろえてうまく落ちたかい。」 「いい。うまく落ちた。」こどものねずみはまるで蚊のような小さな声でセロの底で返事しました。 「大丈夫さ。だから泣き声出すなというんだ。」ゴーシュはおっかさんのねずみを下におろしてそれから弓をとって何とかラプソディとかいうものをごうごうがあがあ弾きました。するとおっかさんのねずみはいかにも心配そうにその音の工合をきいていましたがとうとうこらえ切れなくなったふうで 「もう沢山です。どうか出してやってください。」と云いました。 「なあんだ、これでいいのか。」ゴーシュはセロをまげて孔のところに手をあてて待っていましたら間もなくこどものねずみが出てきました。ゴーシュは、だまってそれをおろしてやりました。見るとすっかり目をつぶってぶるぶるぶるぶるふるえていました。 「どうだったの。いいかい。気分は。」  こどものねずみはすこしもへんじもしないでまだしばらく眼をつぶったままぶるぶるぶるぶるふるえていましたがにわかに起きあがって走りだした。 「ああよくなったんだ。ありがとうございます。ありがとうございます。」おっかさんのねずみもいっしょに走っていましたが、まもなくゴーシュの前に来てしきりにおじぎをしながら 「ありがとうございますありがとうございます」と十ばかり云いました。  ゴーシュは何がなかあいそうになって 「おい、おまえたちはパンはたべるのか。」とききました。  すると野鼠はびっくりしたようにきょろきょろあたりを見まわしてから 「いえ、もうおパンというものは小麦の粉をこねたりむしたりしてこしらえたものでふくふく膨らんでいておいしいものなそうでございますが、そうでなくても私どもはおうちの戸棚へなど参ったこともございませんし、ましてこれ位お世話になりながらどうしてそれを運びになんど参れましょう。」と云いました。 「いや、そのことではないんだ。ただたべるのかときいたんだ。ではたべるんだな。ちょっと待てよ。その腹の悪いこどもへやるからな。」  ゴーシュはセロを床へ置いて戸棚からパンを一つまみむしって野ねずみの前へ置きました。  野ねずみはもうまるでばかのようになって泣いたり笑ったりおじぎをしたりしてから大じそうにそれをくわえてこどもをさきに立てて外へ出て行きました。 「あああ。鼠と話するのもなかなかつかれるぞ。」ゴーシュはねどこへどっかり倒れてすぐぐうぐうねむってしまいました。  それから六日目の晩でした。金星音楽団の人たちは町の公会堂のホールの裏にある控室へみんなぱっと顔をほてらしてめいめい楽器をもって、ぞろぞろホールの舞台から引きあげて来ました。首尾よく第六交響曲を仕上げたのです。ホールでは拍手の音がまだ嵐のように鳴って居ります。楽長はポケットへ手をつっ込んで拍手なんかどうでもいいというようにのそのそみんなの間を歩きまわっていましたが、じつはどうして嬉しさでいっぱいなのでした。みんなはたばこをくわえてマッチをすったり楽器をケースへ入れたりしました。  ホールはまだぱちぱち手が鳴っています。それどころではなくいよいよそれが高くなって何だかこわいような手がつけられないような音になりました。大きな白いリボンを胸につけた司会者がはいって来ました。 「アンコールをやっていますが、何かみじかいものでもきかせてやってくださいませんか。」  すると楽長がきっとなって答えました。「いけませんな。こういう大物のあとへ何を出したってこっちの気の済むようには行くもんでないんです。」 「では楽長さん出て一寸挨拶してください。」 「だめだ。おい、ゴーシュ君、何か出て弾いてやってくれ。」 「わたしがですか。」ゴーシュは呆気にとられました。 「君だ、君だ。」ヴァイオリンの一番の人がいきなり顔をあげて云いました。 「さあ出て行きたまえ。」楽長が云いました。みんなもセロをむりにゴーシュに持たせて扉をあけるといきなり舞台へゴーシュを押し出してしまいました。ゴーシュがその孔のあいたセロをもってじつに困ってしまって舞台へ出るとみんなはそら見ろというように一そうひどく手を叩きました。わあと叫んだものもあるようでした。 「どこまでひとをばかにするんだ。よし見ていろ。印度の虎狩をひいてやるから。」ゴーシュはすっかり落ちついて舞台のまん中へ出ました。  それからあの猫の来たときのようにまるで怒った象のような勢で虎狩りを弾きました。ところが聴衆はしいんとなって一生けん命聞いています。ゴーシュはどんどん弾きました。猫が切ながってぱちぱち火花を出したところも過ぎました。扉へからだを何べんもぶっつけた所も過ぎました。  曲が終るとゴーシュはもうみんなの方などは見もせずちょうどその猫のようにすばやくセロをもって楽屋へ遁げ込みました。すると楽屋では楽長はじめ仲間がみんな火事にでもあったあとのように眼をじっとしてひっそりとすわり込んでいます。ゴーシュはやぶれかぶれだと思ってみんなの間をさっさとあるいて行って向うの長椅子へどっかりとからだをおろして足を組んですわりました。  するとみんなが一ぺんに顔をこっちへ向けてゴーシュを見ましたがやはりまじめでべつにわらっているようでもありませんでした。 「こんやは変な晩だなあ。」  ゴーシュは思いました。ところが楽長は立って云いました。 「ゴーシュ君、よかったぞお。あんな曲だけれどもここではみんなかなり本気になって聞いてたぞ。一週間か十日の間にずいぶん仕上げたなあ。十日前とくらべたらまるで赤ん坊と兵隊だ。やろうと思えばいつでもやれたんじゃないか、君。」  仲間もみんな立って来て「よかったぜ」とゴーシュに云いました。 「いや、からだが丈夫だからこんなこともできるよ。普通の人なら死んでしまうからな。」楽長が向うで云っていました。  その晩|遅くゴーシュは自分のうちへ帰って来ました。  そしてまた水をがぶがぶ呑みました。それから窓をあけていつかかっこうの飛んで行ったと思った遠くのそらをながめながら 「ああかっこう。あのときはすまなかったなあ。おれは怒ったんじゃなかったんだ。」と云いました。 〔もうでかけましょう。〕たしかに光がうごいてみんな立ちあがる。腰をおろしたみじかい草。かげろうか何かゆれている。かげろうじゃない。網膜が感じただけのその光だ。 〔さあでかけましょう。行きたい人だけ。〕まだ来ないものは仕方ない。さっきからもう二十分も待ったんだ。もっともこのみちばたの青いいろの寄宿舎はゆっくりして爽かでよかったが。 これからまたここへ一遍帰って十一時には向うの宿へつかなければいけないんだ。「何処さ行ぐのす。」そうだ、釜淵まで行くというのを知らないものもあるんだな。〔釜淵まで、一寸三十分ばかり。〕 おとなしい新らしい白、緑の中だから、そして外光の中だから大へんいいんだ。天竺木綿、その菓子の包みは置いて行ってもいい。雑嚢や何かもここの芝へおろしておいていい行かないものもあるだろうから。 「私はここで待ってますから。」校長だ。校長は肥ってまっ黒にいで立ちたしかにゆっくりみちばたの草、林の前に足を開いて投げ出している。 〔はあ、では一寸行って参ります。〕木の青、木の青、空の雲は今日も甘酸っぱく、足なみのゆれと光の波。足なみのゆれと光の波。 粘土のみちだ。乾いている。黄色だ。みち。粘土。 小松と林。林の明暗いろいろの緑。それに生徒はみんな新鮮だ。 そしてそうだ、向うの崖の黒いのはあれだ、明らかにあの黒曜石の dyke だ。ここからこんなにはっきり見えるとは思わなかったぞ。 よしうまい。 〔向うの崖をごらんなさい。黒くて少し浮き出した柱のような岩があるでしょう。あれは水成岩の割れ目に押し込んで来た火山岩です。黒曜石です。〕ダイクと云おうかな。いいや岩脈がいい。〔ああいうのを岩脈といいます。〕わかったかな。 〔わかりましたか。向うの崖に黒い岩が縦に突き出ているでしょう。 あれは水成岩のなかにふき出した火成岩ですよ。岩脈ですよ。あれは。〕 ゆれてるゆれてる。光の網。 〔この山は流紋凝灰岩でできています。石英粗面岩の凝灰岩、大へん地味が悪いのです。赤松とちいさな雑木しか生えていないでしょう。ところがそのへん、麓の緩い傾斜のところには青い立派な闊葉樹が一杯生えているでしょう。あすこは古い沖積扇です。運ばれてきたのです。割合肥沃な土壌を作っています。木の生え工合がちがって見えましょう。わかりましょう。〕わかるだろうさ。けれどもみんな黙って歩いている。これがいつでもこうなんだ。さびしいんだ。けれども何でもないんだ。 後ろで誰かこごんで石ころを拾っているものもある。小松ばやしだ。混んでいる。このみちはずうっと上流まで通っているんだ。造林のときは苗や何かを一杯つけた馬がぞろぞろここを行くんだぞ。 〔志戸平のちかく豊沢川の南の方に杉のよくついた奇麗な山があるでしょう。あすことこことはとても木の生え工合や較べにも何にもならないでしょう。向うは安山岩の集塊岩、こっちは流紋凝灰岩です。石灰や加里や植物養料がずうっと少いのです。ここにはとても杉なんか育たないのです。〕うしろでふんふんうなずいているのは藤原清作だ。あいつは太田だからよくわかっているのだ。 〔尤も向うの杉のついているところは北側でこっちは南と東です。その関係もありますがそうでなくてもこっちは北側でも杉やひのきは生えません。あすこの崖で見てもわかります。この山と地質は同じです。ただ北側なため雑木が少しはよく育ってます。〕いいや駄目だ。おしまいのことを云ったのは結局混雑させただけだ。云わないでおけばよかった。それでもあの崖はほんとうの嫩い緑や、灰いろの芽や、樺の木の青やずいぶん立派だ。佐藤箴がとなりに並んで歩いてるな。桜羽場がまた凝灰岩を拾ったな。頬がまっ赤で髪も赭いその小さな子供。 雲がきれて陽が照るしもう雨は大丈夫だ。さっきも一遍云ったのだがもう一度あの禿の所の平べったい松を説明しようかな。平ったくて黒い。影も落ちている。どこかであんなコロタイプを見た。及川やなんか知ってるんだ。よすかな。いいや。やろう。 〔さあ、いいですか。あすこに大きな黄色の禿げがあるでしょう。あすこの割合上のあたりに松が一本生えてましょう。平ったくてまるで潰れた蕈のようです。どうしてあんなになったんですか。土壌が浅くて少し根をのばすとすぐ岩石でしょう。下へ延びようとしても出来ないでしょう。横に広がるだけでしょう。ところが根と枝は相関現象で似たような形になるんです。枝も根のように横にひろがります。桜の木なんか植えるとき根を束ねるようにしてまっすぐに下げて植えると土から上の方も箒のように立ちましょう。広げれば広がります。〕 「そんだ。林学でおら習った。」何と云ったかな。このせいの高い眼の大きな生徒。 坂になったな。ごろごろ石が落ちている。 「先生この石何て云うのす。」どうせきまってる。 〔凝灰岩。流紋凝灰岩だ。凝灰岩の温泉の為に硅化を受けたのだ。〕 光が網になってゆらゆらする。みんなの足並。小松の密林。 「釜淵だら俺ぁ前になんぼがえりも見だ。それでも今日も来た。」 うしろで云っている。あの顔の赤い、そしていつでも少し眼が血走ってどうかすると泣いているように見える、あの生徒だ。五内川でもないし、何と云ったかな。 けれどもその語はよく分っているぞ。よくわかっているとも。 巨礫がごろごろしている。一つ欠いて見せるかな。うまくいった。パチンといった。〔これは安山岩です。上流の方から流れてきたのです。〕 すっと歩き出せ。関さんだ。「この石は安山岩であります。上流から流れてきたのです。」まねをしている。堀田だな。堀田は赤い毛糸のジャケツを着ているんだ。物を言う口付きが覚束なくて眼はどこを見ているかはっきりしないで黒くてうるんでいる。今はそれがうしろの横でちらっと光る。 そこの松林の中から黒い畑が一|枚出てきます。 なんて誰だったかな、云っていた、あてにならない。こんな畑を云うんだろう。おれのはもっとずっと上流の北上川から遠くの東の山地まで見はらせるようにあの小桜山の下の新らしく墾いた広い畑を云ったんだ。 「全体どごさ行ぐのだべ。」 「なあに先生さ従いでさぃ行げばいいんだじゃ。」また堀田だな。前の通りだ。うしろで黄いろに光っている。みんな躊躇してみちをあけた。おれが一番さきになる。こっちもみちはよく知らないがなあにすぐそこなんだ。路から見えたら下りるだけだ。防火線もずうっとうしろになった。 〔あれが小桜山だろう。〕けわしい二つの稜を持ち、暗くて雲かげにいる。少し名前に合わない。けれどもどこかしんとして春の底の樺の木の気分はあるけれどもそれは偶然性だ。よくわからない。みちが二つに岐れている。この下のみちがきっと釜淵に行くんだ。もうきっと間違いない。 小松だ。密だ。混んでいる。それから巨礫がごろごろしている。うすぐろくて安山岩だ。地質調査をするときはこんなどこから来たかわからないあいまいな岩石に鉄槌を加えてはいけないと教えようかな。すぐ眼の前を及川が手拭を首に巻いて黄色の服で急いでいるし、云おうかな。けれどもこれは必要がない。却って混雑するだけだ。とにかくひどく坂になった。こんな工合で丁度よく釜淵に下りるんだ。遠くで鳥も鳴いているし。下の方で渓がひどく鳴っている。ことによるとここらの下が釜淵だ。一寸のぞいてみよう。 黒い松の幹とかれくさ。みんなぞろぞろ従いてくる。渓が見える。水が見える。波や白い泡も見える。ああまだ下だ。ずうっと下だ。釜淵は。ふちの上の滝へ平らになって水がするする急いで行く。それさえずうっと下なのだ。 この崖は急でとても下りられない。下に降りよう。松林だ。みちらしく踏まれたところもある。下りて行こう。藪だ。日陰だ。山吹の青いえだや何かもじゃもじゃしている。さきに行くのは大内だ。大内は夏服の上に黄色な実習服を着て結びを腰にさげてずんずん藪をこいで行く。よくこいで行く。 急にけわしい段がある。木につかまれ木は光る。雑木は二本雑木が光る。 「じゃ木さば保ご附くこなしだじゃぃ。」誰かがうしろで叫んでいる。どういう意味かな。木にとりつくと弾ね返ってうしろのものを叩くというのだろうか。 光って木がはねかえる。おれはそんなことをしたかな。いやそれはもうよく気をつけたんだ。藪だ。もじゃもじゃしている。大内はよくあるく。 崖だ。滝はすぐそこだし、ここを下りるより仕方ない。さあ降りよう。大内はよく降りて行く。急だぞ。この木は少し太すぎる。灰いろだ。急だぞ、草、この木は細いぞ、青いぞあぶないぞ。なかなか急だ。大丈夫だ。この木は切ってあるぞ。〔ほう、〕そこはあんまり急だ。 おりるのか。仕方ない。木がめまぐるしいぞ。「一人|落ぢればみんな落ぢるぞ。」誰かうしろで叫んでいる。落ちてきたら全くみんな落ちる。大内がずうっと落ちた。 河原まで行ってやっととまった。 おれはとにかく首尾よく降りた。 少し下へさがり過ぎた。瀑まで行くみちはない。 凝灰岩が青じろく崖と波との間に四、五|寸続いてはいるけれどもとてもあすこは伝って行けない。それよりはやっぱり水を渉って向うへ行くんだ。向うの河原は可成広いし滝までずうっと続いている。 けれども脚はやっぱりぬれる。折角ぬらさないためにまわり道して上から来たのだ、飛石を一つこさえてやるかな。二つはそのまま使えるしもう四つだけころがせばいい、まずおれは靴をぬごう。ゴム靴によごれた青の靴下か。〔一寸待って、今|渡るようにしますから。〕 この石は動かせるかな。流紋岩だかなりの比重だ。動くだろう。水の中だし、アルキメデス、水の中だし、動く動く。うまくいった。波、これも大丈夫だ。大丈夫。引率の教師が飛石をつくるのもおかしいがまたえらい。やっぱりおかしい。ありがたい。うまくいった。 ひとりが渡る。ぐらぐらする。あぶなく渡る、二人がわたる。 もう一つはどれにするかな もう四人だけ渡っている。飛石の上に両あしを揃えてきちんと立って四人つづいて待っているのは面白い。向うの河原のを動かそう。影のある石だ。 持てるかな。持てる。けれども一番波の強いところだ。恐らく少し小さいぞ。小さい。波が昆布だ、越して行く。もう一つ持って来よう。こいつは苔でぬるぬるしている。これで二つだ。まだぐらぐらだ。も一つ要る。小さいけれども台にはなる。大丈夫だ。おれははだしで行こうかな。いいややっぱり靴ははこう。面倒くさい靴下はポケットへ押し込め、ポケットがふくれて気持ちがいいぞ。 素あしにゴム靴でぴちゃぴちゃ水をわたる。これはよっぽどいいことになっている。前にも一ぺんどこかでこんなことがあった。去年の秋だ。腐植質の野原のたまり水だったかもしれない。向うに黒いみちがある。崖の茂みにはいって行く。これが羽山を越えて台に出るのかもわからない。帰りに登るとしようかな。いいや。だめだ。曖昧だしそれにみんなも越えれまい。 「先生、この石何す。」一かけひろって持っている。〔ふん。何だと思います。〕「何だべな。」〔凝灰岩です。ここらはみんなそうですよ。浮岩質の凝灰岩。〕 みんなさっきはあしをぬらすまいとしたんだが日が照るし水はきれいだし自分でも気がつかず川にはいったんだ。 もうずんずん瀑をのぼって行く。cascade だ。こんな広い平らな明るい瀑はありがたい。上へ行ったらもっと平らで明るいだろう。けれども壺穴の標本を見せるつもりだったが思ったくらいはっきりはしていないな。多少|失望だ。岩は何という円くなめらかに削られたもんだろう。水苔も生えている。滑るだろうか。滑らない。ゴム靴の底のざりざりの摩擦がはっきり知れる。滑らない。大丈夫だ。さらさら水が落ちている。靴はビチャビチャ云っている。みんないい。それにみんなは後からついて来る。 苔がきれいにはえている。実に円く柔らかに水がこの瀑のところを削ったもんだ。この浸蝕の柔らかさ。 もう平らだ。そうだ。いつかもここを溯って行った。いいや、此処じゃない。けれどもずいぶんよく似ているぞ。川の広さも両岸の崖、ところどころの洲の青草。もう平らだ。みんな大分溯ったな。 〔ここをごらんなさい。岩石の裂け目に沿って赤く色が変っているでしょう。裂け目のないところにも赤い条の通っているところがあるでしょう。この裂け目を温泉が通ったのです。温泉の作用で岩が赤くなったのです。ここがずうっとつちの底だったときですよ。わかりますか。〕 だまっている。波がうごき波が足をたたく。日光が降る。この水を渉ることの快さ。菅木がいるな。いつものようにじっとひとの目を見つめている。 〔ここをごらんなさい。岩に裂け目があるでしょう。ここを温泉が通って岩を変質させたのです。風化のためにもこう云う赤い縞はできます。けれどもここではほかのことから温泉の作用ということがわかるのです。〕 ずいぶん上流まで行った。実際こんなに川床が平らで水もきれいだし山の中の第一流の道路だ。どこまでものぼりたいのはあたりまえだ。 向うの岸の方にうつろう。 「先生この岩何す。」千葉だな。お父さんによく似ている。〔何に似てます。何でできてますか。〕だまっている。〔わかりませんか。礫岩です。礫岩です。凝灰質礫岩。〕及川だな。〔いいですか。これは温泉の作用ですよ。この裂け目を通った温泉のために凝灰岩が変質を受けたんです。〕 みんなわかるんだな。これは。向うにも一つ滝があるらしい。うすぐろい岩の。みんなそこまで行こうと云うのか。草原があって春木も積んである。ずいぶん溯ったぞ。ここは小さな段だ。 「ああ云う岩のすき間のごと何て云うのだたべな。習ったたんとも。」 〔やっぱり裂け目です。裂け目でいいんです。〕習ったというのは節理だな。節理なら多面節理、これを節理と云うわけにはいかない。裂罅だ。やっぱり裂け目でいいんだ。壺穴のいいのがなくて困るな。少し細長いけれどもこれで説明しようか。elongatedpot-hole〔ここがどうしてこう掘れるかわかりますか。石ころ、礫がこれを掘るのです。そら水のために礫がごろごろするでしょう。だんだん岩を掘るでしょう。深いところが一層深くなるはずです。もっと大きなのもあります。〕 日光の波、日光の波、光の網と、水の網。 「ほこの穴こまん円けじゃ。先生。」 ああいい、これはいい標本だ。こいつなら持ってこいだ。 〔さあ、見て下さい。これはいい標本です。そら。この中に石ころが入ってましょう。みんな円くなってるでしょう。水ががりがり擦ったんです。そら。〕 実にいい礫だ。まっ白だ。まん円だ水でぬれている。取ってしまった。誰かがまた掻き廻す。もうない。あとは茶色だし少し角もある。ああいいな。こんなありがたい。あんまり溯る。もう帰ろう。校長もあの路の岐れ目で待っている。 〔ほう。戻れ。ほう。〕向うの崖は明るいし声はよく出ない。聞えないようだ。市野川やぐんぐんのぼって行く。〔ほう、〕「戻れど。お。」「戻れ。」 向いた向いた。一人向けばもういい。川を戻るよりはここからさっきの道へのぼったほうがいい、傾斜もゆるく丁度のぼれそうだ。〔みんなそこからあの道へ出ろ。〕 手を振ったほうがわかるな。わかったわかったわかったようだ。市野川が崖の上のみちを見ている。 うしろの滝の上で誰か叫んでいる。大竹だ。「おら荷物置いてきたがらこっちがら行ぐ。」よかろう。〔よおし。〕もう大竹が滝をおりて行く。すばやいやつだ。二、三人またついて行く。それからも一人おくれてひどく心配そうに背中をかがめて下りていく。斉藤貞一かな。一寸こっちを見たところには栗鼠の軽さもある。ほんとうに心配なんだ。かあいそう。 市野川やみんながぞろぞろ崖をみちの方へ上って行くらしい。 そうすればおれはやっぱり川を下ったほうがいいんだ。もしも誰か途中で止っていてはわるい。尤も靴下もポケットに入っているし必ず下らなければならないということはない、けれどもやっぱりこっちを行こう。ああいい気持だ。鉄槌をこんなに大きく振って川をあるくことはもう何年ぶりだろう。波が足をあらい水はつめたく陽は射している。 「先生ぁ、ずいぶん足ぁ早ぃな。」富手かな、菅木かな、あんなことを云っている。足が早いというのは道をあるくときの話だ。ここも平らで上等の歩道なのだ。ただ水があるばかり。 「先生、あの崖のどご色|変ってるのぁ何してす。」簡だ。崖の色か。 〔あれは向うだけは土が落ちたんです。滑って。〕 うん。あるある。これが裂罅を温泉の通った証拠だ。玻璃蛋白石の脈だ。 〔ここをごらんなさい。岩のさけ目に白いものがつまっているでしょう。これは温泉から沈澱したのです。石英です。岩のさけ目を白いものが埋めているでしょう。いい標本です。〕みんなが囲む。水の中だ。 「取らえなぃがべが。」「いいや、此処このまんまの標本だ。」 「それでも取らえなぃがべが。」〔取ってみますか。取れます。〕 中々|面倒だ。 「先生こっちにもっと大きなのあるんす。」あるある。これならネストと云ってもいい。これなら取れる。ハムマアの尖った方ではだめだ。平たい方は……。 水がぴちゃぴちゃはねる。そっちの方のものが逃げる、ふん。 〔水がはねますか。やっぱりこっちでやるかな。〕 白く岩に傷がついた。二所ついた。 とれる。とれた。うまい。新鮮だ。青白い。 緑簾石もついている。そうじゃないこれは苔だ。〔いいですか。これは玻璃蛋白石です。温泉から沈澱したのです。晶洞もあります。小さな石英の結晶です。持っておいでなさい。〕 誰だ崖の上で叫んでいるのは。 「先生。おら河童捕りしたもや。河童捕り。」藤原健太郎だ。黒の制服を着て雑嚢をさげ、ひどくはしゃいで笑っている。どうしていまごろあんな崖の上などに顔を出したのだ。 「先生。下りで行ぐべがな。先生。よし、下りで行ぐぞ。」 〔うん。大丈夫。大丈夫だ。〕おりるおりる。がりがりやって来るんだな。ただそのおしまいの一足だけがあぶないぞ。裸の青い岩だし急だ。 〔おおい。もう少し斜におりろ。〕おりるおりる。どんどん下りる。もう水へ入った。〔どうしたのです。〕「先生。河童捕りあ※すた。ガバンも何も、すっかりぬらすたも。」〔どこで。……〕 もう下ろう。滝に来た。下りているものもある。水の流れる所は苔は青く流れない所は褐色だ。みんなこわごわ下りて来る。水の流れる所は大丈夫|滑らないんだ。〔水の流れるところをあるきなさい。水の流れるところがいいんです。〕 あれは葛丸川だ。足をさらわれて淵に入ったのは。いいや葛丸川じゃない。空想のときの暗い谷だ。どっちでもいい。水がさあさあ云っている。「いいな。あそごの水の跳ね返る処よ。」 うん、いい早池峯山の七折の滝だってこんなのの大きなだけだろう。 もうみんなおりる。おれもおりる。たった一人あとからやって来る人がある。こわそうだ。 〔水の流れるところをあるくんです。水の流れる所を歩くんですよ。〕 そうだ。そうだ。いい気持ちだ。  楢渡のとこの崖はまっ赤でした。  それにひどく深くて急でしたからのぞいて見ると全くくるくるするのでした。  谷底には水もなんにもなくてただ青い梢と白樺などの幹が短く見えるだけでした。  向う側もやっぱりこっち側と同じようでその毒々しく赤い崖には横に五本の灰いろの太い線が入っていました。ぎざぎざになって赤い土から喰み出していたのです。それは昔山の方から流れて走って来て又火山灰に埋もれた五層の古い熔岩流だったのです。  崖のこっち側と向う側と昔は続いていたのでしょうがいつかの時代に裂けるか罅れるかしたのでしょう。霧のあるときは谷の底はまっ白でなんにも見えませんでした。  私がはじめてそこへ行ったのはたしか尋常三年生か四年生のころです。ずうっと下の方の野原でたった一人|野葡萄を喰べていましたら馬番の理助が欝金の切れを首に巻いて木炭の空俵をしょって大股に通りかかったのでした。そして私を見てずいぶんな高声で言ったのです。 「おいおい、どこからこぼれて此処らへ落ちた? さらわれるぞ。蕈のうんと出来る処へ連れてってやろうか。お前なんかには持てない位蕈のある処へ連れてってやろうか。」  私は「うん。」と云いました。すると理助は歩きながら又言いました。 「そんならついて来い。葡萄などもう棄てちまえ。すっかり唇も歯も紫になってる。早くついて来い、来い。後れたら棄てて行くぞ。」  私はすぐ手にもった野葡萄の房を棄ていっしんに理助について行きました。ところが理助は連れてってやろうかと云っても一向私などは構わなかったのです。自分だけ勝手にあるいて途方もない声で空に噛ぶりつくように歌って行きました。私はもうほんとうに一生けんめいついて行ったのです。  私どもは柏の林の中に入りました。  影がちらちらちらちらして葉はうつくしく光りました。曲った黒い幹の間を私どもはだんだん潜って行きました。林の中に入ったら理助もあんまり急がないようになりました。又じっさい急げないようでした。傾斜もよほど出てきたのでした。  十五分も柏の中を潜ったとき理助は少し横の方へまがってからだをかがめてそこらをしらべていましたが間もなく立ちどまりました。そしてまるで低い声で、 「さあ来たぞ。すきな位とれ。左の方へは行くなよ。崖だから。」  そこは柏や楢の林の中の小さな空地でした。私はまるでぞくぞくしました。はぎぼだしがそこにもここにも盛りになって生えているのです。理助は炭俵をおろして尤らしく口をふくらせてふうと息をついてから又言いました。 「いいか。はぎぼだしには茶いろのと白いのとあるけれど白いのは硬くて筋が多くてだめだよ。茶いろのをとれ。」 「もうとってもいいか。」私はききました。 「うん。何へ入れてく。そうだ。羽織へ包んで行け。」 「うん。」私は羽織をぬいで草に敷きました。  理助はもう片っぱしからとって炭俵の中へ入れました。私もとりました。ところが理助のとるのはみんな白いのです。白いのばかりえらんでどしどし炭俵の中へ投げ込んでいるのです。私はそこでしばらく呆れて見ていました。 「何をぼんやりしてるんだ。早くとれとれ。」理助が云いました。 「うん。けれどお前はなぜ白いのばかりとるの。」私がききました。 「おれのは漬物だよ。お前のうちじゃ蕈の漬物なんか喰べないだろうから茶いろのを持って行った方がいいやな。煮て食うんだろうから。」  私はなるほどと思いましたので少し理助を気の毒なような気もしながら茶いろのをたくさんとりました。羽織に包まれないようになってもまだとりました。  日がてって秋でもなかなか暑いのでした。  間もなく蕈も大ていなくなり理助は炭俵一ぱいに詰めたのをゆるく両手で押すようにしてそれから羊歯の葉を五六枚のせて縄で上をからげました。 「さあ戻るぞ。谷を見て来るかな。」理助は汗をふきながら右の方へ行きました。私もついて行きました。しばらくすると理助はぴたっととまりました。それから私をふり向いて私の腕を押えてしまいました。 「さあ、見ろ、どうだ。」  私は向うを見ました。あのまっ赤な火のような崖だったのです。私はまるで頭がしいんとなるように思いました。そんなにその崖が恐ろしく見えたのです。 「下の方ものぞかしてやろうか。」理助は云いながらそろそろと私を崖のはじにつき出しました。私はちらっと下を見ましたがもうくるくるしてしまいました。 「どうだ。こわいだろう。ひとりで来ちゃきっとここへ落ちるから来年でもいつでもひとりで来ちゃいけないぞ。ひとりで来たら承知しないぞ。第一みちがわかるまい。」  理助は私の腕をはなして大へん意地の悪い顔つきになって斯う云いました。 「うん、わからない。」私はぼんやり答えました。  すると理助は笑って戻りました。  それから青ぞらを向いて高く歌をどなりました。  さっきの蕈を置いた処へ来ると理助はどっかり足を投げ出して座って炭俵をしょいました。それから胸で両方から縄を結んで言いました。 「おい、起して呉れ。」  私はもうふところへ一杯にきのこをつめ羽織を風呂敷包みのようにして持って待っていましたが斯う言われたので仕方なく包みを置いてうしろから理助の俵を押してやりました。理助は起きあがって嬉しそうに笑って野原の方へ下りはじめました。私も包みを持ってうれしくて何べんも「ホウ。」と叫びました。  そして私たちは野原でわかれて私は大威張りで家に帰ったのです。すると兄さんが豆を叩いていましたが笑って言いました。 「どうしてこんな古いきのこばかり取って来たんだ。」 「理助がだって茶いろのがいいって云ったもの。」 「理助かい。あいつはずるさ。もうはぎぼだしも過ぎるな。おれもあしたでかけるかな。」  私は又ついて行きたいと思ったのでしたが次の日は月曜ですから仕方なかったのです。  そしてその年は冬になりました。  次の春理助は北海道の牧場へ行ってしまいました。そして見るとあすこのきのこはほかに誰かに理助が教えて行ったかも知れませんがまあ私のものだったのです。私はそれを兄にもはなしませんでした。今年こそ白いのをうんととって来て手柄を立ててやろうと思ったのです。  そのうち九月になりました。私ははじめたった一人で行こうと思ったのでしたがどうも野原から大分|奥でこわかったのですし第一どの辺だったかあまりはっきりしませんでしたから誰か友だちを誘おうときめました。  そこで土曜日に私は藤原|慶次郎にその話をしました。そして誰にもその場所をはなさないなら一緒に行こうと相談しました。すると慶次郎はまるでよろこんで言いました。 「楢渡なら方向はちゃんとわかっているよ。あすこでしばらく木炭を焼いていたのだから方角はちゃんとわかっている。行こう。」  私はもう占めたと思いました。  次の朝早く私どもは今度は大きな籠を持ってでかけたのです。実際それを一ぱいとることを考えると胸がどかどかするのでした。  ところがその日は朝も東がまっ赤でどうも雨になりそうでしたが私たちが柏の林に入ったころはずいぶん雲がひくくてそれにぎらぎら光って柏の葉も暗く見え風もカサカサ云って大へん気味が悪くなりました。  それでも私たちはずんずん登って行きました。慶次郎は時々向うをすかすように見て 「大丈夫だよ。もうすぐだよ。」と云うのでした。実際山を歩くことなどは私よりも慶次郎の方がずうっとなれていて上手でした。  ところがうまいことはいきなり私どもははぎぼだしに出っ会わしました。そこはたしかに去年の処ではなかったのです。ですから私は 「おい、ここは新らしいところだよ。もう僕らはきのこ山を二つ持ったよ。」と言ったのです。すると慶次郎も顔を赤くしてよろこんで眼や鼻や一緒になってどうしてもそれが直らないという風でした。 「さあ、取ってこう。」私は云いました。そして白いのばかりえらんで二人ともせっせと集めました。昨年のことなどはすっかり途中で話して来たのです。  間もなく籠が一ぱいになりました。丁度そのときさっきからどうしても降りそうに見えた空から雨つぶがポツリポツリとやって来ました。 「さあぬれるよ。」私は言いました。 「どうせずぶぬれだ。」慶次郎も云いました。  雨つぶはだんだん数が増して来てまもなくザアッとやって来ました。楢の葉はパチパチ鳴り雫の音もポタッポタッと聞えて来たのです。私と慶次郎とはだまって立ってぬれました。それでもうれしかったのです。  ところが雨はまもなくぱたっとやみました。五六つぶを名残りに落してすばやく引きあげて行ったという風でした。そして陽がさっと落ちて来ました。見上げますと白い雲のきれ間から大きな光る太陽が走って出ていたのです。私どもは思わず歓呼の声をあげました。楢や柏の葉もきらきら光ったのです。 「おい、ここはどの辺だか見て置かないと今度来るときわからないよ。」慶次郎が言いました。 「うん。それから去年のもさがして置かないと。兄さんにでも来て貰おうか。あしたは来れないし。」 「あした学校を下ってからでもいいじゃないか。」慶次郎は私の兄さんには知らせたくない風でした。 「帰りに暗くなるよ。」 「大丈夫さ。とにかくさがして置こう。崖はじきだろうか。」  私たちは籠はそこへ置いたまま崖の方へ歩いて行きました。そしたらまだまだと思っていた崖がもうすぐ眼の前に出ましたので私はぎくっとして手をひろげて慶次郎の来るのをとめました。 「もう崖だよ。あぶない。」  慶次郎ははじめて崖を見たらしくいかにもどきっとしたらしくしばらくなんにも云いませんでした。 「おい、やっぱり、すると、あすこは去年のところだよ。」私は言いました。 「うん。」慶次郎は少しつまらないというようにうなずきました。 「もう帰ろうか。」私は云いました。 「帰ろう。あばよ。」と慶次郎は高く向うのまっ赤な崖に叫びました。 「あばよ。」崖からこだまが返って来ました。  私はにわかに面白くなって力一ぱい叫びました。 「ホウ、居たかぁ。」 「居たかぁ。」崖がこだまを返しました。 「また来るよ。」慶次郎が叫びました。 「来るよ。」崖が答えました。 「馬鹿。」私が少し大胆になって悪口をしました。 「馬鹿。」崖も悪口を返しました。 「馬鹿野郎。」慶次郎が少し低く叫びました。  ところがその返事はただごそごそごそっとつぶやくように聞えました。どうも手がつけられないと云ったようにも又そんなやつらにいつまでも返事していられないなと自分ら同志で相談したようにも聞えました。  私どもは顔を見合せました。それから俄かに恐くなって一緒に崖をはなれました。  それから籠を持ってどんどん下りました。二人ともだまってどんどん下りました。雫ですっかりぬればらや何かに引っかかれながらなんにも云わずに私どもはどんどんどんどん遁げました。遁げれば遁げるほどいよいよ恐くなったのです。うしろでハッハッハと笑うような声もしたのです。  ですから次の年はとうとう私たちは兄さんにも話して一緒にでかけたのです。 種山ヶ原というのは北上山地のまん中の高原で、青黒いつるつるの蛇紋岩や、硬い橄欖岩からできています。  高原のへりから、四方に出たいくつかの谷の底には、ほんの五、六|軒ずつの部落があります。  春になると、北上の河谷のあちこちから、沢山の馬が連れて来られて、此の部落の人たちに預けられます。そして、上の野原に放されます。それも八月の末には、みんなめいめいの持主に戻ってしまうのです。なぜなら、九月には、もう原の草が枯れはじめ水霜が下りるのです。  放牧される四月の間も、半分ぐらいまでは原は霧や雲に鎖されます。実にこの高原の続きこそは、東の海の側からと、西の方からとの風や湿気のお定まりのぶっつかり場所でしたから、雲や雨や雷や霧は、いつでももうすぐ起ってくるのでした。それですから、北上川の岸からこの高原の方へ行く旅人は、高原に近づくに従って、だんだんあちこちに雷神の碑を見るようになります。その旅人と云っても、馬を扱う人の外は、薬屋か林務官、化石を探す学生、測量師など、ほんの僅かなものでした。  今年も、もう空に、透き徹った秋の粉が一面散り渡るようになりました。  雲がちぎれ、風が吹き、夏の休みももう明日だけです。  達二は、明後日から、また自分で作った小さな草鞋をはいて、二つの谷を越えて、学校へ行くのです。  宿題もみんな済ましたし、蟹を捕ることも木炭を焼く遊びも、もうみんな厭きていました。達二は、家の前の檜によりかかって、考えました。 「達二。居るが。達二。」達二のお母さんが家の中で呼びました。 「あん、居る。」達二は走って行きました。 「善い童だはんてな、おじぃさんど、兄※ど、上の原のすぐ上り口で、草|刈ってるがら、弁当持って行って来。な。それがら牛も連れてって、草|食ぁせで来。な。兄※がら離れなよ。」 「あん、行て来る。行て来る。今|草鞋穿ぐがら。」達二ははねあがりました。  お母さんは、曲げ物の二つの櫃と、達二の小さな弁当とを紙にくるんで、それをみんな一緒に大きな布の風呂敷に包み込みました。そして、達二が支度をして包みを背負っている間に、おっかさんは牛をうまやから追い出しました。 「そだら行って来ら。」と達二は牛を受け取って云いました。 「気ぃ付けで行げ。上で兄※がら離れなよ。」 「あん。」達二は、垣根のそばから、楊の枝を一本|折り、青い皮をくるくる剥いで鞭を拵え、静に牛を追いながら、上の原への路をだんだんのぼって行きました。 「ダーダー、スコ、ダーダー。 夜の頭巾は 鶏の黒尾、 月のあかりは………、  しっ、歩け、しっ。」  日がカンカン照っていました。それでもどこかその光に青い油の疲れたようなものがありましたし、また、時々、冷たい風が紐のようにどこからか流れては来ましたが、まだ仲々暑いのでした。牛が度々立ち止まるので、達二は少し苛々しました。 「上さ行って好い草食え。早ぐ歩げっ。しっ。馬鹿だな。しっ。」  けれども牛は、美しい草を見る度に、頭を下げて、舌をべらりと廻して喰べました。 「歩げ。しっ。歩げ。」  空に少しばかりの、白い雲が出ました。そして、もう大分のぼっていました。谷の部落がずっと下に見え、達二の家の木小屋の屋根が白く光っています。  路が林の中に入り、達二はあの奇麗な泉まで来ました。まっ白の石灰岩は、ごぼごぼ冷たい水を噴き出すあの泉です。達二は汗を拭いて、しゃがんで何べんも水を掬ってのみました。  牛は泉を飲まないで、却って苔の中のたまり水を、ピチャピチャ嘗めました。  達二が牛と、またあるきはじめたとき、泉が何かを知らせる様に、ぐうっと鳴り、牛も低くうなりました。 「雨になるがも知れなぃな。」と達二は空を見て呟きました。  林の裾の灌木の間を行ったり、岩片の小さく崩れる所を何べんも通ったりして、達二はもう原の入口に近くなりました。  光ったり陰ったり、幾重にも畳む丘々の向うに、北上の野原が夢のように碧くまばゆく湛えています。河が、春日大明神の帯のように、きらきら銀色に輝いて流れました。  そして達二は、牛と、原の入口に着きました。大きな楢の木の下に、兄さんの縄で編んだ袋が投げ出され、沢山の草たばがあちこちにころがっていました。  二|匹の馬は、達二を見て、鼻をぷるぷる鳴らしました。 「兄※。居るが。兄※。来たぞ。」達二は汗を拭いながら叫びました。 「おおい。ああい。其処に居ろ。今行ぐぞ。」  ずうっと向うの窪みで、達二の兄さんの声がしました。牛は沢山の草を見ても、格別嬉しそうにもしませんでした。  陽がぱっと明るくなり、兄さんがそっちの草の中から笑って出て来ました。 「善ぐ来たな。牛も連れで来たのが。弁当持ってが。善ぐ来た。今日ぁ午まがらきっと曇る。俺もう少し草|集めて仕舞がらな、此処らに居ろ。おじいさん、今来る。」  兄さんは向うへ行こうとして、振り向いてまた云いました。 「腹減ったら、弁当、先に喰べてろ。風呂敷ば、あの馬さ結付けでおげ。午まになったらまた来るがら。」 「うん。此処に居る。」  そして達二の兄さんは、行ってしまいました。空にはうすい雲がすっかりかかり、太陽は白い鏡のようになって、雲と反対に馳せました。風が出て来て刈られない草は一面に波を立てます。  どうしたのか、牛が俄かに北の方へ馳せ出しました。達二はびっくりして、一生|懸命追いかけながら、兄の方に振り向いて叫びました。 「牛ぁ逃げる。牛ぁ逃げる。兄※。牛ぁ逃げる。」  せいの高い草を分けて、どんどん牛が走りました。達二はどこまでも夢中で追いかけました。そのうちに、足が何だか硬張ってきて、自分で走っているのかどうか判らなくなってしまいました。それからまわりがまっ蒼になって、ぐるぐる廻り、とうとう達二は、深い草の中に倒れてしまいました。牛の白い斑が終りにちらっと見えました。  達二は、仰向けになって空を見ました。空がまっ白に光って、ぐるぐる廻り、そのこちらを薄い鼠色の雲が、速く速く走っています。そしてカンカン鳴っています。  達二はやっと起き上って、せかせか息しながら、牛の行った方に歩き出しました。草の中には、牛が通った痕らしく、かすかな路のようなものがありました。達二は笑いました。そして、と思いました。  そこで達二は、一生懸命それを跡けて行きました。ところがその路のようなものは、まだ百歩も行かないうちに、おとこえしや、すてきに背高の薊の中で、二つにも三つにも分れてしまって、どれがどれやら一向わからなくなってしまいました。達二は思い切って、そのまん中のを進みました。けれどもそれも、時々|断れたり、牛の歩かないような急な所を横様に過ぎたりするのでした。それでも達二は、 と思いながら、ずんずん進んで行きました。  空はたいへん暗く重くなり、まわりがぼうっと霞んできました。冷たい風が、草を渡りはじめ、もう雲や霧が、切れ切れになって眼の前をぐんぐん通り過ぎて行きました。 と達二は思いました。全くその通り、俄に牛の通った痕は、草の中で無くなってしまいました。 達二は胸をどきどきさせました。  草がからだを曲げて、パチパチ云ったり、さらさら鳴ったりしました。霧が殊に滋くなって、着物はすっかりしめってしまいました。  達二は咽喉一杯叫びました。 「兄※。兄※。牛ぁ逃げだ。兄※。兄※。」  何の返事も聞えません。黒板から降る白墨の粉のような、暗い冷たい霧の粒が、そこら一面踊りまわり、あたりが俄にシインとして、陰気に陰気になりました。草からは、もう雫の音がポタリポタリと聞えてきます。  達二は早く、おじいさんの所へ戻ろうとして急いで引っ返しました。けれどもどうも、それは前に来た所とは違っていたようでした。第一、薊があんまり沢山ありましたし、それに草の底にさっき無かった岩かけが、度々ころがっていました。そしてとうとう聞いたこともない大きな谷が、いきなり眼の前に現われました。すすきが、ざわざわざわっと鳴り、向うの方は底知れずの谷のように、霧の中に消えているではありませんか。  風が来ると、芒の穂は細い沢山の手を一ぱいのばして、忙しく振って、 「あ、西さん、あ、東さん、あ西さん。あ南さん。あ、西さん。」なんて云っている様でした。  達二はあんまり見っともなかったので、目を瞑って横を向きました。そして急いで引っ返しました。小さな黒い道が、いきなり草の中に出て来ました。それは沢山の馬の蹄の痕で出来上っていたのです。達二は、夢中で、短い笑い声をあげて、その道をぐんぐん歩きました。  けれども、たよりのないことは、みちのはばが五|寸ぐらいになったり、また三|尺ぐらいに変ったり、おまけに何だかぐるっと廻っているように思われました。そして、とうとう、大きなてっぺんの焼けた栗の木の前まで来た時、ぼんやり幾つにも岐れてしまいました。  其処は多分は、野馬の集まり場所であったでしょう、霧の中に円い広場のように見えたのです。  達二はがっかりして、黒い道をまた戻りはじめました。知らない草穂が静かにゆらぎ、少し強い風が来る時は、どこかで何かが合図をしてでもいるように、一面の草が、それ来たっとみなからだを伏せて避けました。  空が光ってキインキインと鳴っています。それからすぐ眼の前の霧の中に、家の形の大きな黒いものがあらわれました。達二はしばらく自分の眼を疑って立ちどまっていましたが、やはりどうしても家らしかったので、こわごわもっと近寄って見ますと、それは冷たい大きな黒い岩でした。  空がくるくるくるっと白く揺らぎ、草がバラッと一度に雫を払いました。 と達二は、半分思う様に半分つぶやくようにしました。それから叫びました。 「兄※、兄※、居るが。兄※。」  また明るくなりました。草がみな一斉に悦びの息をします。 「伊佐戸の町の、電気|工夫の童ぁ、山男に手足ぃ縛らえてたふうだ。」といつか誰かの話した語が、はっきり耳に聞えて来ます。  そして、黒い路が、俄に消えてしまいました。あたりがほんのしばらくしいんとなりました。それから非常に強い風が吹いて来ました。  空が旗のようにぱたぱた光って翻えり、火花がパチパチパチッと燃えました。  達二はいつか、草に倒れていました。  そんなことはみんなぼんやりしたもやの中の出来事のようでした。牛が逃げたなんて、やはり夢だかなんだかわかりませんでした。風だって一体吹いていたのでしょうか。  達二はみんなと一緒に、たそがれの県道を歩いていたのです。  橙色の月が、来た方の山からしずかに登りました。伊佐戸の町で燃す火が、赤くゆらいでいます。 「さあ、みんな支度はいいが。」誰かが叫びました。  達二はすっかり太い白いたすきを掛けてしまって、地面をどんどん踏みました。楢夫さんが空に向って叫んだのでした。 「ダー、ダー、ダー、ダー、ダースコダーダー。」それから、大人が太鼓を撃ちました。  達二は刀を抜いてはね上りました。 「ダー、ダー、ダー、ダー。ダー、スコ、ダーダー。」 「危なぃ。誰だ、刀抜いだのは。まだ町さも来なぃに早ぁじゃ。」怪物の青仮面をかぶった清介が威張って叫んでいます。赤い提灯が沢山点され、達二の兄さんが提灯を持って来て達二と並んで歩きました。兄さんの足が、寒天のようで、夢のような色で、無暗に長いのでした。 「ダー、ダー、ダー、ダー。ダー、スコ、ダーダー。」  町はずれの町長のうちでは、まだ門火を燃していませんでした。その水松樹の垣に囲まれた、暗い庭さきにみんな這入って行きました。  そして達二はまたうとうとしました。そこで霧が生温い湯のようになったのです。可愛らしい女の子が達二を呼びました。 「おいでなさい。いいものをあげましょう。そら。干した苹果ですよ。」 「ありがど、あなたはどなた。」 「わたし誰でもないわ。一緒に向うへ行って遊びましょう。あなた驢馬を有っていて。」 「驢馬は持ってません。只の仔馬ならあります。」 「只の仔馬は大きくて駄目だわ。」 「そんなら、あなたは小鳥は嫌いですか。」 「小鳥。わたし大好きよ。」 「あげましょう。私はひわを有っています。ひわを一|疋あげましょうか。」 「ええ。欲しいわ。」 「あげましょう。私今持って来ます。」 「ええ、早くよ。」  達二は、一生|懸命、うちへ走りました。美しい緑色の野原や、小さな流れを、一心に走りました。野原は何だかもくもくして、ゴムのようでした。  達二のうちは、いつか野原のまん中に建っています。急いで籠を開けて、小鳥を、そっとつかみました。そして引っ返そうとしましたら、 「達二、どこさ行く。」と達二のおっかさんが云いました。 「すぐ来るがら。」と云いながら達二は鳥を見ましたら、鳥はいつか、萌黄色の生菓子に変っていました。やっぱり夢でした。  風が吹き、空が暗くて銀色です。 「伊佐戸の町の電気工夫のむすこぁ、ふら、ふら、ふら、ふら、ふら、」とどこかで云っています。  それからしばらく空がミインミインと鳴りました。達二はまたうとうとしました。  山男が楢の木のうしろからまっ赤な顔を一寸出しました。 「こりゃ、山男。出はって来。切ってしまうぞ。」達二は脇差しを抜いて身構えしました。  山男がすっかり怖がって、草の上を四つん這いになってやって来ます。髪が風にさらさら鳴ります。 「どうか御免御免。何じょなことでも為んす。」 「うん。そんだら許してやる。蟹を百|疋捕って来。」 「ふう。蟹を百疋。それ丈けでようがすかな。」 「それがら兎を百疋捕って来。」 「ふう。殺してきてもようがすか。」 「うんにゃ。わが※なぃ。生ぎだのだ。」 「ふうふう。かしこまた。」  油断をしているうちに、達二はいきなり山男に足を捉まいて倒されました。山男は達二を組み敷いて、刀を取り上げてしまいました。 「小僧。さあ、来。これから、俺れの家来だ。来う。この刀はいい刀だな。実に焼きをよぐかげである。」 「ばが。奴の家来になど、ならなぃ。殺さば殺せ。」 「仲々ず太ぃやづだ。来ったら来ぅ。」 「行がない。」 「ようし、そんだらさらって行ぐ。」  山男は達二を小脇にかかえました。達二は、素早く刀を取り返して、山男の横腹をズブリと刺しました。山男はばたばた跳ね廻って、白い泡を沢山吐いて、死んでしまいました。  急にまっ暗になって、雷が烈しく鳴り出しました。  そして達二はまた眼を開きました。  灰色の霧が速く速く飛んでいます。そして、牛が、すぐ眼の前に、のっそりと立っていたのです。その眼は達二を怖れて、横の方を向いていました。達二は叫びました。 「あ、居だが。馬鹿だな。奴は。さ、歩べ。」  雷と風の音との中から、微かに兄さんの声が聞えました。 「おおい、達二。居るが。達二。達二。」  達二はよろこんでとびあがりました。 「おおい。居る、居る。兄なぁ。おおい。」  達二は、牛の手綱をその首から解いて、引きはじめました。  黒い路がまたひょっくり草の中にあらわれました。そして達二の兄さんが、とつぜん、眼の前に立ちました。達二はしがみ付きました。 「探したぞ。こんたな処まで来て。何して黙って彼処に居なぃがった。おじいさんうんと心配してるぞ。さ、早く歩べ。」 「牛ぁ逃げだだも。」 「牛ぁ逃げだ。はあ、そうが。何にびっくりしたたがな。すっかりぬれだな。さあ、俺のけら着ろ。」 「一向寒ぐなぃ。兄※のなは大きくて引き擦るがらわが※なぃ。」 「そうが。よしよし。まず歩べ。おじいさん、火たいて待ってるがらな。」  緩い傾斜を、二つ程昇り降りしました。それから、黒い大きな路について、暫らく歩きました。  稲光が二|度ばかり、かすかに白くひらめきました。草を焼く匂がして、霧の中を煙がほっと流れています。  達二の兄さんが叫びました。 「おじいさん、居だ、居だ。達二ぁ居だ。」  おじいさんは霧の中に立っていて、 「ああそうが。心配した、心配した。ああ好がった。おお達二。寒がべぁ、さあ入れ。」と云いました。  半分に焼けた大きな栗の木の根もとに、草で作った小さな囲いがあって、チョロチョロ赤い火が燃えていました。  兄さんは牛を楢の木につなぎました。  馬もひひんと鳴いています。 「おおむぞやな。な。何ぼが泣いだがな。さあさあ団子たべろ。食べろ。な。今こっちを焼ぐがらな。全体何処まで行ってだった。」 「笹長根の下り口だ。」と兄が答えました。 「危ぃがった。危ぃがった。向うさ降りだらそれっ切りだったぞ。さあ達二。団子喰べろ。ふん。まるっきり馬こみだぃに食ってる。さあさあ、こいづも食べろ。」 「おじいさん。今のうぢに草|片附げで来るべが。」と達二の兄さんが云いました。 「うんにゃ。も少し待で。またすぐ晴れる。おらも弁当食うべ。ああ心配した。俺も虎こ山の下まで行って見で来た。はあ、まんつ好がった。雨も晴れる。」 「今朝ほんとに天気好がったのにな。」 「うん。また好ぐなるさ。あ、雨|漏ってきた。草少し屋根さかぶせろ。」  兄さんが出て行きました。天井がガサガサガサガサ云います。おじいさんが、笑いながらそれを見上げました。  兄さんがまたはいって来ました。 「おじいさん。明るぐなった。雨あ霽れだ。」 「うんうん。そうが。さあ弁当食ってで草|片附げべ。達二。弁当食べろ。」  霧がふっと切れました。陽の光がさっと流れて入りました。その太陽は、少し西の方に寄ってかかり、幾片かの蝋のような霧が、逃げおくれて仕方なしに光りました。  草からは雫がきらきら落ち、総ての葉も茎も花も、今年の終りの陽の光を吸っています。  はるかの北上の碧い野原は、今|泣きやんだようにまぶしく笑い、向うの栗の木は、青い後光を放ちました。  ホロタイタネリは、小屋の出口で、でまかせのうたをうたいながら、何か細かくむしったものを、ばたばたばたばた、棒で叩いて居りました。 「山のうえから、青い藤蔓とってきた   …西風ゴスケに北風カスケ…  崖のうえから、赤い藤蔓とってきた   …西風ゴスケに北風カスケ…  森のなかから、白い藤蔓とってきた   …西風ゴスケに北風カスケ…  洞のなかから、黒い藤蔓とってきた   …西風ゴスケに北風カスケ…  山のうえから、…」  タネリが叩いているものは、冬中かかって凍らして、こまかく裂いた藤蔓でした。 「山のうえから、青いけむりがふきだした   …西風ゴスケに北風カスケ…  崖のうえから、赤いけむりがふきだした   …西風ゴスケに北風カスケ…  森のなかから、白いけむりがふきだした   …西風ゴスケに北風カスケ…  洞のなかから、黒いけむりがふきだした   …西風ゴスケに北風カスケ…。」  ところがタネリは、もうやめてしまいました。向うの野はらや丘が、あんまり立派で明るくて、それにかげろうが、「さあ行こう、さあ行こう。」というように、そこらいちめん、ゆらゆらのぼっているのです。  タネリはとうとう、叩いた蔓を一|束もって、口でもにちゃにちゃ噛みながら、そっちの方へ飛びだしました。 「森へは、はいって行くんでないぞ。ながねの下で、白樺の皮、剥いで来よ。」うちのなかから、ホロタイタネリのお母さんが云いました。  タネリは、そのときはもう、子鹿のように走りはじめていましたので、返事する間もありませんでした。  枯れた草は、黄いろにあかるくひろがって、どこもかしこも、ごろごろころがってみたいくらい、そのはてでは、青ぞらが、つめたくつるつる光っています。タネリは、まるで、早く行ってその青ぞらを少し喰べるのだというふうに走りました。  タネリの小屋が、兎ぐらいに見えるころ、タネリはやっと走るのをやめて、ふざけたように、口を大きくあきながら、頭をがたがたふりました。それから思い出したように、あの藤蔓を、また五六ぺんにちゃにちゃ噛みました。その足もとに、去年の枯れた萱の穂が、三本|倒れて、白くひかって居りました。タネリは、もがもがつぶやきました。 「こいつらが  ざわざわざわざわ云ったのは、  ちょうど昨日のことだった。  何して昨日のことだった?  雪を勘定しなければ、  ちょうど昨日のことだった。」  ほんとうに、その雪は、まだあちこちのわずかな窪みや、向うの丘の四本の柏の木の下で、まだらになって残っています。タネリは、大きく息をつきながら、まばゆい頭のうえを見ました。そこには、小さなすきとおる渦巻きのようなものが、ついついと、のぼったりおりたりしているのでした。タネリは、また口のなかで、きゅうくつそうに云いました。 「雪のかわりに、これから雨が降るもんだから、  そうら、あんなに、雨の卵ができている。」  そのなめらかな青ぞらには、まだ何か、ちらちらちらちら、網になったり紋になったり、ゆれてるものがありました。タネリは、柔らかに噛んだ藤蔓を、いきなりぷっと吐いてしまって、こんどは力いっぱい叫びました。 「ほう、太陽の、きものをそらで編んでるぞ  いや、太陽の、きものを編んでいるだけでない。  そんなら西のゴスケ風だか?  いいや、西風ゴスケでない  そんならホースケ、蜂だか?  うんにゃ、ホースケ、蜂でない  そんなら、トースケ、ひばりだか?  うんにゃ、トースケ、ひばりでない。」  タネリは、わからなくなってしまいました。そこで仕方なく、首をまげたまま、また藤蔓を一つまみとって、にちゃにちゃ噛みはじめながら、かれ草をあるいて行きました。向うにはさっきの、四本の柏が立っていてつめたい風が吹きますと、去年の赤い枯れた葉は、一度にざらざら鳴りました。タネリはおもわず、やっと柔らかになりかけた藤蔓を、そこらへふっと吐いてしまって、その西風のゴスケといっしょに、大きな声で云いました。 「おい、柏の木、おいらおまえと遊びに来たよ。遊んでおくれ。」  この時、風が行ってしまいましたので、柏の木は、もうこそっとも云わなくなりました。 「まだ睡てるのか、柏の木、遊びに来たから起きてくれ。」  柏の木が四本とも、やっぱりだまっていましたので、タネリは、怒って云いました。 「雪のないとき、ねていると、  西風ゴスケがゆすぶるぞ  ホースケ蜂が巣を食うぞ  トースケひばりが糞ひるぞ。」  それでも柏は四本とも、やっぱり音をたてませんでした。タネリは、こっそり爪立てをして、その一本のそばへ進んで、耳をぴったり茶いろな幹にあてがって、なかのようすをうかがいました。けれども、中はしんとして、まだ芽も葉もうごきはじめるもようがありませんでした。 「来たしるしだけつけてくよ。」タネリは、さびしそうにひとりでつぶやきながら、そこらの枯れた草穂をつかんで、あちこちに四つ、結び目をこしらえて、やっと安心したように、また藤の蔓をすこし口に入れてあるきだしました。  丘のうしろは、小さな湿地になっていました。そこではまっくろな泥が、あたたかに春の湯気を吐き、そのあちこちには青じろい水ばしょう、牛の舌の花が、ぼんやりならんで咲いていました。タネリは思わず、また藤蔓を吐いてしまって、勢よく湿地のへりを低い方へつたわりながら、その牛の舌の花に、一つずつ舌を出して挨拶してあるきました。そらはいよいよ青くひかって、そこらはしぃんと鳴るばかり、タネリはとうとう、たまらなくなって、「おーい、誰か居たかあ。」と叫びました。すると花の列のうしろから、一ぴきの茶いろの蟇が、のそのそ這ってでてきました。タネリは、ぎくっとして立ちどまってしまいました。それは蟇の、這いながらかんがえていることが、まるで遠くで風でもつぶやくように、タネリの耳にきこえてきたのです。   「火なんか燃えてない。」タネリは、こわごわ云いました。蟇は、やっぱりのそのそ這いながら、  といっています。タネリは、俄かにこわくなって、いちもくさんに遁げ出しました。  しばらく走って、やっと気がついてとまってみると、すぐ目の前に、四本の栗が立っていて、その一本の梢には、黄金いろをした、やどり木の立派なまりがついていました。タネリは、やどり木に何か云おうとしましたが、あんまり走って、胸がどかどかふいごのようで、どうしてもものが云えませんでした。早く息をみんな吐いてしまおうと思って、青ぞらへ高く、ほうと叫んでも、まだなおりませんでした。藤蔓を一つまみ噛んでみても、まだなおりませんでした。そこでこんどはふっと吐き出してみましたら、ようやく叫べるようになりました。 「栗の木 死んだ、何して死んだ、  子どもにあたまを食われて死んだ。」  すると上の方で、やどりぎが、ちらっと笑ったようでした。タネリは、面白がって節をつけてまた叫びました。 「栗の木食って 栗の木死んで  かけすが食って 子どもが死んで  夜鷹が食って  かけすが死んで  鷹は高くへ飛んでった。」  やどりぎが、上でべそをかいたようなので、タネリは高く笑いました。けれども、その笑い声が、潰れたように丘へひびいて、それから遠くへ消えたとき、タネリは、しょんぼりしてしまいました。そしてさびしそうに、また藤の蔓を一つまみとって、にちゃにちゃと噛みはじめました。  その時、向うの丘の上を、一|疋の大きな白い鳥が、日を遮ぎって飛びたちました。はねのうらは桃いろにぎらぎらひかり、まるで鳥の王さまとでもいうふう、タネリの胸は、まるで、酒でいっぱいのようになりました。タネリは、いま噛んだばかりの藤蔓を、勢よく草に吐いて高く叫びました。 「おまえは鴇という鳥かい。」  鳥は、あたりまえさというように、ゆっくり丘の向うへ飛んで、まもなく見えなくなりました。タネリは、まっしぐらに丘をかけのぼって、見えなくなった鳥を追いかけました。丘の頂上に来て見ますと、鳥は、下の小さな谷間の、枯れた蘆のなかへ、いま飛び込むところです。タネリは、北風カスケより速く、丘を馳け下りて、その黄いろな蘆むらのまわりを、ぐるぐるまわりながら叫びました。 「おおい、鴇、  おいらはひとりなんだから、  おまえはおいらと遊んでおくれ。  おいらはひとりなんだから。」  鳥は、ついておいでというように、蘆のなかから飛びだして、南の青いそらの板に、射られた矢のようにかけあがりました。タネリは、青い影法師といっしょに、ふらふらそれを追いました。かたくりの花は、その足もとで、たびたびゆらゆら燃えましたし、空はぐらぐらゆれました。鳥は俄かに羽をすぼめて、石ころみたいに、枯草の中に落ちては、またまっすぐに飛びあがります。タネリも、つまずいて倒れてはまた起きあがって追いかけました。鳥ははるかの西に外れて、青じろく光りながら飛んで行きます。タネリは、一つの丘をかけあがって、ころぶようにまたかけ下りました。そこは、ゆるやかな野原になっていて、向うは、ひどく暗い巨きな木立でした。鳥は、まっすぐにその森の中に落ち込みました。タネリは、胸を押えて、立ちどまってしまいました。向うの木立が、あんまり暗くて、それに何の木かわからないのです。ひばよりも暗く、榧よりももっと陰気で、なかには、どんなものがかくれているか知れませんでした。それに、何かきたいな怒鳴りや叫びが、中から聞えて来るのです。タネリは、いつでも遁げられるように、半分うしろを向いて、片足を出しながら、こわごわそっちへ叫んで見ました。 「鴇、鴇、おいらとあそんでおくれ。」 「えい、うるさい、すきなくらいそこらであそんでけ。」たしかにさっきの鳥でないちがったものが、そんな工合にへんじしたのでした。 「鴇、鴇、だから出てきておくれ。」 「えい、うるさいったら。ひとりでそこらであそんでけ。」 「鴇、鴇、おいらはもう行くよ。」 「行くのかい。さよなら、えい、畜生、その骨汁は、空虚だったのか。」  タネリは、ほんとうにさびしくなって、また藤の蔓を一つまみ、噛みながら、もいちど森を見ましたら、いつの間にか森の前に、顔の大きな犬神みたいなものが、片っ方の手をふところに入れて、山梨のような赤い眼をきょろきょろさせながら、じっと立っているのでした。タネリは、まるで小さくなって、一目さんに遁げだしました。そしていなずまのようにつづけざまに丘を四つ越えました。そこに四本の栗の木が立って、その一本の梢には、立派なやどりぎのまりがついていました。それはさっきのやどりぎでした。いかにもタネリをばかにしたように、上できらきらひかっています。タネリは工合のわるいのをごまかして、 「栗の木、起きろ。」と云いながら、うちの方へあるきだしました。日はもう、よっぽど西にかたよって、丘には陰影もできました。かたくりの花はゆらゆらと燃え、その葉の上には、いろいろな黒いもようが、次から次と、出てきては消え、でてきては消えしています。タネリは低く読みました。 「太陽は、  丘の髪毛の向うのほうへ、  かくれて行ってまたのぼる。  そしてかくれてまたのぼる。」  タネリは、つかれ切って、まっすぐにじぶんのうちへもどって来ました。 「白樺の皮、剥がして来たか。」タネリがうちに着いたとき、タネリのお母さんが、小屋の前で、こならの実を搗きながら云いました。 「うんにゃ。」タネリは、首をちぢめて答えました。 「藤蔓みんな噛じって来たか。」 「うんにゃ、どこかへ無くしてしまったよ。」タネリがぼんやり答えました。 「仕事に藤蔓噛みに行って、無くしてくるものあるんだか。今年はおいら、おまえのきものは、一つも編んでやらないぞ。」お母さんが少し怒って云いました。 「うん。けれどもおいら、一日噛んでいたようだったよ。」  タネリが、ぼんやりまた云いました。 「そうか。そんだらいい。」お母さんは、タネリの顔付きを見て、安心したように、またこならの実を搗きはじめました。  二人の若い紳士が、すっかりイギリスの兵隊のかたちをして、ぴかぴかする鉄砲をかついで、白熊のような犬を二|疋つれて、だいぶ山奥の、木の葉のかさかさしたとこを、こんなことを云いながら、あるいておりました。 「ぜんたい、ここらの山は怪しからんね。鳥も獣も一疋も居やがらん。なんでも構わないから、早くタンタアーンと、やって見たいもんだなあ。」 「鹿の黄いろな横っ腹なんぞに、二三発お見舞もうしたら、ずいぶん痛快だろうねえ。くるくるまわって、それからどたっと倒れるだろうねえ。」  それはだいぶの山奥でした。案内してきた専門の鉄砲打ちも、ちょっとまごついて、どこかへ行ってしまったくらいの山奥でした。  それに、あんまり山が物凄いので、その白熊のような犬が、二疋いっしょにめまいを起こして、しばらく吠って、それから泡を吐いて死んでしまいました。 「じつにぼくは、二千四百円の損害だ」と一人の紳士が、その犬の眼ぶたを、ちょっとかえしてみて言いました。 「ぼくは二千八百円の損害だ。」と、もひとりが、くやしそうに、あたまをまげて言いました。  はじめの紳士は、すこし顔いろを悪くして、じっと、もひとりの紳士の、顔つきを見ながら云いました。 「ぼくはもう戻ろうとおもう。」 「さあ、ぼくもちょうど寒くはなったし腹は空いてきたし戻ろうとおもう。」 「そいじゃ、これで切りあげよう。なあに戻りに、昨日の宿屋で、山鳥を拾円も買って帰ればいい。」 「兎もでていたねえ。そうすれば結局おんなじこった。では帰ろうじゃないか」  ところがどうも困ったことは、どっちへ行けば戻れるのか、いっこうに見当がつかなくなっていました。  風がどうと吹いてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました。 「どうも腹が空いた。さっきから横っ腹が痛くてたまらないんだ。」 「ぼくもそうだ。もうあんまりあるきたくないな。」 「あるきたくないよ。ああ困ったなあ、何かたべたいなあ。」 「喰べたいもんだなあ」  二人の紳士は、ざわざわ鳴るすすきの中で、こんなことを云いました。  その時ふとうしろを見ますと、立派な一軒の西洋造りの家がありました。  そして玄関には RESTAURANT 西洋料理店 WILDCAT HOUSE 山猫軒 という札がでていました。 「君、ちょうどいい。ここはこれでなかなか開けてるんだ。入ろうじゃないか」 「おや、こんなとこにおかしいね。しかしとにかく何か食事ができるんだろう」 「もちろんできるさ。看板にそう書いてあるじゃないか」 「はいろうじゃないか。ぼくはもう何か喰べたくて倒れそうなんだ。」  二人は玄関に立ちました。玄関は白い瀬戸の煉瓦で組んで、実に立派なもんです。  そして硝子の開き戸がたって、そこに金文字でこう書いてありました。 「どなたもどうかお入りください。決してご遠慮はありません」  二人はそこで、ひどくよろこんで言いました。 「こいつはどうだ、やっぱり世の中はうまくできてるねえ、きょう一日なんぎしたけれど、こんどはこんないいこともある。このうちは料理店だけれどもただでご馳走するんだぜ。」 「どうもそうらしい。決してご遠慮はありませんというのはその意味だ。」  二人は戸を押して、なかへ入りました。そこはすぐ廊下になっていました。その硝子戸の裏側には、金文字でこうなっていました。 「ことに肥ったお方や若いお方は、大歓迎いたします」  二人は大歓迎というので、もう大よろこびです。 「君、ぼくらは大歓迎にあたっているのだ。」 「ぼくらは両方兼ねてるから」  ずんずん廊下を進んで行きますと、こんどは水いろのペンキ塗りの扉がありました。 「どうも変な家だ。どうしてこんなにたくさん戸があるのだろう。」 「これはロシア式だ。寒いとこや山の中はみんなこうさ。」  そして二人はその扉をあけようとしますと、上に黄いろな字でこう書いてありました。 「当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはご承知ください」 「なかなかはやってるんだ。こんな山の中で。」 「それあそうだ。見たまえ、東京の大きな料理屋だって大通りにはすくないだろう」  二人は云いながら、その扉をあけました。するとその裏側に、 「注文はずいぶん多いでしょうがどうか一々こらえて下さい。」 「これはぜんたいどういうんだ。」ひとりの紳士は顔をしかめました。 「うん、これはきっと注文があまり多くて支度が手間取るけれどもごめん下さいと斯ういうことだ。」 「そうだろう。早くどこか室の中にはいりたいもんだな。」 「そしてテーブルに座りたいもんだな。」  ところがどうもうるさいことは、また扉が一つありました。そしてそのわきに鏡がかかって、その下には長い柄のついたブラシが置いてあったのです。  扉には赤い字で、 「お客さまがた、ここで髪をきちんとして、それからはきもの  の泥を落してください。」 と書いてありました。 「これはどうも尤もだ。僕もさっき玄関で、山のなかだとおもって見くびったんだよ」 「作法の厳しい家だ。きっとよほど偉い人たちが、たびたび来るんだ。」  そこで二人は、きれいに髪をけずって、靴の泥を落しました。  そしたら、どうです。ブラシを板の上に置くや否や、そいつがぼうっとかすんで無くなって、風がどうっと室の中に入ってきました。  二人はびっくりして、互によりそって、扉をがたんと開けて、次の室へ入って行きました。早く何か暖いものでもたべて、元気をつけて置かないと、もう途方もないことになってしまうと、二人とも思ったのでした。  扉の内側に、また変なことが書いてありました。 「鉄砲と弾丸をここへ置いてください。」  見るとすぐ横に黒い台がありました。 「なるほど、鉄砲を持ってものを食うという法はない。」 「いや、よほど偉いひとが始終来ているんだ。」  二人は鉄砲をはずし、帯皮を解いて、それを台の上に置きました。  また黒い扉がありました。 「どうか帽子と外套と靴をおとり下さい。」 「どうだ、とるか。」 「仕方ない、とろう。たしかによっぽどえらいひとなんだ。奥に来ているのは」  二人は帽子とオーバーコートを釘にかけ、靴をぬいでぺたぺたあるいて扉の中にはいりました。  扉の裏側には、 「ネクタイピン、カフスボタン、眼鏡、財布、その他金物類、  ことに尖ったものは、みんなここに置いてください」 と書いてありました。扉のすぐ横には黒塗りの立派な金庫も、ちゃんと口を開けて置いてありました。鍵まで添えてあったのです。 「ははあ、何かの料理に電気をつかうと見えるね。金気のものはあぶない。ことに尖ったものはあぶないと斯う云うんだろう。」 「そうだろう。して見ると勘定は帰りにここで払うのだろうか。」 「どうもそうらしい。」 「そうだ。きっと。」  二人はめがねをはずしたり、カフスボタンをとったり、みんな金庫のなかに入れて、ぱちんと錠をかけました。  すこし行きますとまた扉があって、その前に硝子の壺が一つありました。扉には斯う書いてありました。 「壺のなかのクリームを顔や手足にすっかり塗ってください。」  みるとたしかに壺のなかのものは牛乳のクリームでした。 「クリームをぬれというのはどういうんだ。」 「これはね、外がひじょうに寒いだろう。室のなかがあんまり暖いとひびがきれるから、その予防なんだ。どうも奥には、よほどえらいひとがきている。こんなとこで、案外ぼくらは、貴族とちかづきになるかも知れないよ。」  二人は壺のクリームを、顔に塗って手に塗ってそれから靴下をぬいで足に塗りました。それでもまだ残っていましたから、それは二人ともめいめいこっそり顔へ塗るふりをしながら喰べました。  それから大急ぎで扉をあけますと、その裏側には、 「クリームをよく塗りましたか、耳にもよく塗りましたか、」 と書いてあって、ちいさなクリームの壺がここにも置いてありました。 「そうそう、ぼくは耳には塗らなかった。あぶなく耳にひびを切らすとこだった。ここの主人はじつに用意|周到だね。」 「ああ、細かいとこまでよく気がつくよ。ところでぼくは早く何か喰べたいんだが、どうも斯うどこまでも廊下じゃ仕方ないね。」  するとすぐその前に次の戸がありました。 「料理はもうすぐできます。  十五分とお待たせはいたしません。  すぐたべられます。  早くあなたの頭に瓶の中の香水をよく振りかけてください。」  そして戸の前には金ピカの香水の瓶が置いてありました。  二人はその香水を、頭へぱちゃぱちゃ振りかけました。  ところがその香水は、どうも酢のような匂がするのでした。 「この香水はへんに酢くさい。どうしたんだろう。」 「まちがえたんだ。下女が風邪でも引いてまちがえて入れたんだ。」  二人は扉をあけて中にはいりました。  扉の裏側には、大きな字で斯う書いてありました。 「いろいろ注文が多くてうるさかったでしょう。お気の毒でした。  もうこれだけです。どうかからだ中に、壺の中の塩をたくさん  よくもみ込んでください。」  なるほど立派な青い瀬戸の塩壺は置いてありましたが、こんどというこんどは二人ともぎょっとしてお互にクリームをたくさん塗った顔を見合せました。 「どうもおかしいぜ。」 「ぼくもおかしいとおもう。」 「沢山の注文というのは、向うがこっちへ注文してるんだよ。」 「だからさ、西洋料理店というのは、ぼくの考えるところでは、西洋料理を、来た人にたべさせるのではなくて、来た人を西洋料理にして、食べてやる家とこういうことなんだ。これは、その、つ、つ、つ、つまり、ぼ、ぼ、ぼくらが……。」がたがたがたがた、ふるえだしてもうものが言えませんでした。 「その、ぼ、ぼくらが、……うわあ。」がたがたがたがたふるえだして、もうものが言えませんでした。 「遁げ……。」がたがたしながら一人の紳士はうしろの戸を押そうとしましたが、どうです、戸はもう一分も動きませんでした。  奥の方にはまだ一枚扉があって、大きなかぎ穴が二つつき、銀いろのホークとナイフの形が切りだしてあって、 「いや、わざわざご苦労です。  大へん結構にできました。  さあさあおなかにおはいりください。」 と書いてありました。おまけにかぎ穴からはきょろきょろ二つの青い眼玉がこっちをのぞいています。 「うわあ。」がたがたがたがた。 「うわあ。」がたがたがたがた。  ふたりは泣き出しました。  すると戸の中では、こそこそこんなことを云っています。 「だめだよ。もう気がついたよ。塩をもみこまないようだよ。」 「あたりまえさ。親分の書きようがまずいんだ。あすこへ、いろいろ注文が多くてうるさかったでしょう、お気の毒でしたなんて、間抜けたことを書いたもんだ。」 「どっちでもいいよ。どうせぼくらには、骨も分けて呉れやしないんだ。」 「それはそうだ。けれどももしここへあいつらがはいって来なかったら、それはぼくらの責任だぜ。」 「呼ぼうか、呼ぼう。おい、お客さん方、早くいらっしゃい。いらっしゃい。いらっしゃい。お皿も洗ってありますし、菜っ葉ももうよく塩でもんで置きました。あとはあなたがたと、菜っ葉をうまくとりあわせて、まっ白なお皿にのせるだけです。はやくいらっしゃい。」 「へい、いらっしゃい、いらっしゃい。それともサラドはお嫌いですか。そんならこれから火を起してフライにしてあげましょうか。とにかくはやくいらっしゃい。」  二人はあんまり心を痛めたために、顔がまるでくしゃくしゃの紙屑のようになり、お互にその顔を見合せ、ぶるぶるふるえ、声もなく泣きました。  中ではふっふっとわらってまた叫んでいます。 「いらっしゃい、いらっしゃい。そんなに泣いては折角のクリームが流れるじゃありませんか。へい、ただいま。じきもってまいります。さあ、早くいらっしゃい。」 「早くいらっしゃい。親方がもうナフキンをかけて、ナイフをもって、舌なめずりして、お客さま方を待っていられます。」  二人は泣いて泣いて泣いて泣いて泣きました。  そのときうしろからいきなり、 「わん、わん、ぐゎあ。」という声がして、あの白熊のような犬が二|疋、扉をつきやぶって室の中に飛び込んできました。鍵穴の眼玉はたちまちなくなり、犬どもはううとうなってしばらく室の中をくるくる廻っていましたが、また一声 「わん。」と高く吠えて、いきなり次の扉に飛びつきました。戸はがたりとひらき、犬どもは吸い込まれるように飛んで行きました。  その扉の向うのまっくらやみのなかで、 「にゃあお、くゎあ、ごろごろ。」という声がして、それからがさがさ鳴りました。  室はけむりのように消え、二人は寒さにぶるぶるふるえて、草の中に立っていました。  見ると、上着や靴や財布やネクタイピンは、あっちの枝にぶらさがったり、こっちの根もとにちらばったりしています。風がどうと吹いてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました。  犬がふうとうなって戻ってきました。  そしてうしろからは、 「旦那あ、旦那あ、」と叫ぶものがあります。  二人は俄かに元気がついて 「おおい、おおい、ここだぞ、早く来い。」と叫びました。  簔帽子をかぶった専門の猟師が、草をざわざわ分けてやってきました。  そこで二人はやっと安心しました。  そして猟師のもってきた団子をたべ、途中で十円だけ山鳥を買って東京に帰りました。  しかし、さっき一ぺん紙くずのようになった二人の顔だけは、東京に帰っても、お湯にはいっても、もうもとのとおりになおりませんでした。  わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。  またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かわっているのをたびたび見ました。  わたくしは、そういうきれいなたべものやきものをすきです。  これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。  ほんとうに、かしわばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。  ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでしょうし、ただそれっきりのところもあるでしょうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。  けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。   大正十二年十二月二十日宮沢賢治 イーハトヴは一つの地名である。しいて、その地点を求むるならば、それは、大小クラウスたちの耕していた、野原や、少女アリスがたどった鏡の国と同じ世界の中、テパーンタール砂漠のはるかな北東、イヴン王国の遠い東と考えられる。 じつにこれは著者の心象中に、このような状景をもって実在したドリームランドとしての日本岩手県である。 そこでは、あらゆることが可能である。人は一瞬にして氷雲の上に飛躍し大循環の風を従えて北に旅することもあれば、赤い花杯の下を行く蟻と語ることもできる。 罪や、かなしみでさえそこでは聖くきれいにかがやいている。 深い椈の森や、風や影、肉之草や、不思議な都会、ベーリング市まで続く電柱の列、それはまことにあやしくも楽しい国土である。この童話集の一列は実に作者の心象スケッチの一部である。それは少年少女|期の終りごろから、アドレッセンス中葉に対する一つの文学としての形式をとっている。 この見地からその特色を数えるならば次の諸点に帰する。 一 これは正しいものの種子を有し、その美しい発芽を待つものである。しかもけっして既成の疲れた宗教や、道徳の残滓を、色あせた仮面によって純真な心意の所有者たちに欺き与えんとするものではない。 二 これらは新しい、よりよい世界の構成材料を提供しようとはする。けれどもそれは全く、作者に未知な絶えざる驚異に値する世界|自身の発展であって、けっして畸形に捏ねあげられた煤色のユートピアではない。 三 これらはけっして偽でも仮空でも窃盗でもない。 多少の再度の内省と分析とはあっても、たしかにこのとおりその時|心象の中に現われたものである。ゆえにそれは、どんなに馬鹿げていても、難解でも必ず心の深部において万人の共通である。卑怯な成人たちに畢竟不可解なだけである。 四 これは田園の新鮮な産物である。われらは田園の風と光の中からつややかな果実や、青い蔬菜といっしょにこれらの心象スケッチを世間に提供するものである。 注文の多い料理店はその十二|巻のセリーズの中の第一冊でまずその古風な童話としての形式と地方色とをもって類集したものであって次の九|編からなる。  目次と…………その説明     1 どんぐりと山猫 山猫拝と書いたおかしな葉書が来たので、こどもが山の風の中へ出かけて行くはなし。必ず比較をされなければならないいまの学童たちの内奥からの反響です。  2 狼森と笊森、盗森 人と森との原始的な交渉で、自然の順違二面が農民に与えた永い間の印象です。森が子供らや農具をかくすたびに、みんなは「探しに行くぞお」と叫び、森は「来お」と答えました。  3 烏の北斗七星 戦うものの内的感情です。  4 注文の多い料理店 二人の青年|紳士が猟に出て路を迷い、「注文の多い料理店」にはいり、その途方もない経営者からかえって注文されていたはなし。糧に乏しい村のこどもらが、都会文明と放恣な階級とに対するやむにやまれない反感です。  5 水仙月の四日 赤い毛布を被ぎ、「カリメラ」の銅鍋や青い焔を考えながら雪の高原を歩いていたこどもと、「雪婆ンゴ」や雪狼、雪童子とのものがたり。  6 山男の四月 四月のかれ草の中にねころんだ山男の夢です。烏の北斗七星といっしょに、一つの小さなこころの種子を有ちます。  7 かしわばやしの夜 桃色の大きな月はだんだん小さく青じろくなり、かしわはみんなざわざわ言い、画描きは自分の靴の中に鉛筆を削って変なメタルの歌をうたう、たのしい「夏の踊りの第三夜」です。  8 月夜のでんしんばしら うろこぐもと鉛色の月光、九月のイーハトヴの鉄道線路の内想です。  9 鹿踊りのはじまり まだ剖れない巨きな愛の感情です。すすきの花の向い火や、きらめく赤褐の樹立のなかに、鹿が無心に遊んでいます。ひとは自分と鹿との区別を忘れ、いっしょに踊ろうとさえします。  この農園のすもものかきねはいっぱいに青じろい花をつけています。  雲は光って立派な玉髄の置物です。四方の空を繞ります。  すもものかきねのはずれから一人の洋傘直しが荷物をしょって、この月光をちりばめた緑の障壁に沿ってやって来ます。  てくてくあるいてくるその黒い細い脚はたしかに鹿に肖ています。そして日が照っているために荷物の上にかざされた赤白だんだらの小さな洋傘は有平糖でできてるように思われます。  そしててくてくやって来ます。有平糖のその洋傘はいよいよひかり洋傘直しのその顔はいよいよ熱って笑っています。  洋傘直しは農園の中へ入ります。しめった五月の黒つちにチュウリップは無雑作に並べて植えられ、一めんに咲き、かすかにかすかにゆらいでいます。  園丁がこてをさげて青い上着の袖で額の汗を拭きながら向うの黒い独乙唐檜の茂みの中から出て来ます。 「何のご用ですか。」 「私は洋傘直しですが何かご用はありませんか。若しまた何か鋏でも研ぐのがありましたらそちらのほうもいたします。」 「ああそうですか。一寸お待ちなさい。主人に聞いてあげましょう。」 「どうかお願いいたします。」  青い上着の園丁は独乙唐檜の茂みをくぐって消えて行き、それからぽっと陽も消えました。  よっぽど西にその太陽が傾いて、いま入ったばかりの雲の間から沢山の白い光の棒を投げそれは向うの山脈のあちこちに落ちてさびしい群青の泣き笑いをします。  有平糖の洋傘もいまは普通の赤と白とのキャラコです。  それから今度は風が吹きたちまち太陽は雲を外れチュウリップの畑にも不意に明るく陽が射しました。まっ赤な花がぷらぷらゆれて光っています。  園丁がいつか俄かにやって来てガチャッと持って来たものを置きました。 「これだけお願いするそうです。」 「へい。ええと。この剪定鋏はひどく捩れておりますから鍛冶に一ぺんおかけなさらないと直りません。こちらのほうはみんな出来ます。はじめにお値段を決めておいてよろしかったらお研ぎいたしましょう。」 「そうですか。どれだけですか。」 「こちらが八|銭、こちらが十銭、こちらの鋏は二|丁で十五銭にいたしておきましょう。」 「ようござんす。じゃ願います。水がありますか。持って来てあげましょう。その芝の上がいいですか。どこでもあなたのすきな処でおやりなさい。」 「ええ、水は私が持って参ります。」 「そうですか。そこのかきねのこっち側を少し右へついておいでなさい。井戸があります。」 「へい。それではお研ぎいたしましょう。」 「ええ。」  園丁はまた唐檜の中にはいり洋傘直しは荷物の底の道具のはいった引き出しをあけ缶を持って水を取りに行きます。  そのあとで陽がまたふっと消え、風が吹き、キャラコの洋傘はさびしくゆれます。  それから洋傘直しは缶の水をぱちゃぱちゃこぼしながら戻って来ます。  鋼砥の上で金鋼砂がじゃりじゃり云いチュウリップはぷらぷらゆれ、陽がまた降って赤い花は光ります。  そこで砥石に水が張られすっすと払われ、秋の香魚の腹にあるような青い紋がもう刃物の鋼にあらわれました。  ひばりはいつか空にのぼって行ってチーチクチーチクやり出します。高い処で風がどんどん吹きはじめ雲はだんだん融けていっていつかすっかり明るくなり、太陽は少しの午睡のあとのようにどこか青くぼんやりかすんではいますがたしかにかがやく五月のひるすぎを拵えました。  青い上着の園丁が、唐檜の中から、またいそがしく出て来ます。 「お折角ですね、いい天気になりました。もう一つお願いしたいんですがね。」 「何ですか。」 「これですよ。」若い園丁は少し顔を赤くしながら上着のかくしから角柄の西洋剃刀を取り出します。  洋傘直しはそれを受け取って開いて刃をよく改めます。 「これはどこでお買いになりました。」 「貰ったんですよ。」 「研ぎますか。」 「ええ。」 「それじゃ研いでおきましょう。」 「すぐ来ますからね、じきに三時のやすみです。」園丁は笑って光ってまた唐檜の中にはいります。  太陽はいまはすっかり午睡のあとの光のもやを払いましたので山脈も青くかがやき、さっきまで雲にまぎれてわからなかった雪の死火山もはっきり土耳古玉のそらに浮きあがりました。  洋傘直しは引き出しから合せ砥を出し一寸水をかけ黒い滑らかな石でしずかに練りはじめます。それからパチッと石をとります。  洋傘直しは石を置き剃刀を取ります。剃刀は青ぞらをうつせば青くぎらっと光ります。  それは音なく砥石をすべり陽の光が強いので洋傘直しはポタポタ汗を落します。今は全く五月のまひるです。  畑の黒土はわずかに息をはき風が吹いて花は強くゆれ、唐檜も動きます。  洋傘直しは剃刀をていねいに調べそれから茶いろの粗布の上にできあがった仕事をみんな載せほっと息して立ちあがります。  そして一足チュウリップの方に近づきます。  園丁が顔をまっ赤にほてらして飛んで来ました。 「もう出来たんですか。」 「ええ。」 「それでは代を持って来ました。そっちは三十三|銭ですね。お取り下さい。それから私の分はいくらですか。」  洋傘直しは帽子をとり銀貨と銅貨とを受け取ります。 「ありがとうございます。剃刀のほうは要りません。」 「どうしてですか。」 「お負けいたしておきましょう。」 「まあ取って下さい。」 「いいえ、いただくほどじゃありません。」 「そうですか。ありがとうございました。そんなら一寸向うの番小屋までおいで下さい。お茶でもさしあげましょう。」 「いいえ、もう失礼いたします。」 「それではあんまりです。一寸お待ち下さい。ええと、仕方ない、そんならまあ私の作った花でも見て行って下さい。」 「ええ、ありがとう。拝見しましょう。」 「そうですか。では。」  その気紛れの洋傘直しと園丁とはうっこんこうの畑の方へ五、六歩|寄ります。  主人らしい人の縞のシャツが唐檜の向うでチラッとします。園丁はそっちを見かすかに笑い何か云いかけようとします。  けれどもシャツは見えなくなり、園丁は花を指さします。 「ね、此の黄と橙の大きな斑はアメリカから直かに取りました。こちらの黄いろは見ていると額が痛くなるでしょう。」 「ええ。」 「この赤と白の斑は私はいつでも昔の海賊のチョッキのような気がするんですよ。ね。  それからこれはまっ赤な羽二重のコップでしょう。この花びらは半ぶんすきとおっているので大へん有名です。ですからこいつの球はずいぶんみんなで欲しがります。」 「ええ、全く立派です。赤い花は風で動いている時よりもじっとしている時のほうがいいようですね。」 「そうです。そうです。そして一寸あいつをごらんなさい。ね。そら、その黄いろの隣りのあいつです。」 「あの小さな白いのですか。」 「そうです、あれは此処では一番大切なのです。まあしばらくじっと見詰めてごらんなさい。どうです、形のいいことは一等でしょう。」  洋傘直しはしばらくその花に見入ります。そしてだまってしまいます。 「ずいぶん寂かな緑の柄でしょう。風にゆらいで微かに光っているようです。いかにもその柄が風に靱っているようです。けれども実は少しも動いておりません。それにあの白い小さな花は何か不思議な合図を空に送っているようにあなたには思われませんか。」  洋傘直しはいきなり高く叫びます。 「ああ、そうです、そうです、見えました。  けれども何だか空のひばりの羽の動かしようが、いや鳴きようが、さっきと調子をちがえてきたではありませんか。」 「そうでしょうとも、それですから、ごらんなさい。あの花の盃の中からぎらぎら光ってすきとおる蒸気が丁度水へ砂糖を溶したときのようにユラユラユラユラ空へ昇って行くでしょう。」 「ええ、ええ、そうです。」 「そして、そら、光が湧いているでしょう。おお、湧きあがる、湧きあがる、花の盃をあふれてひろがり湧きあがりひろがりひろがりもう青ぞらも光の波で一ぱいです。山脈の雪も光の中で機嫌よく空へ笑っています。湧きます、湧きます。ふう、チュウリップの光の酒。どうです。チュウリップの光の酒。ほめて下さい。」 「ええ、このエステルは上等です。とても合成できません。」 「おや、エステルだって、合成だって、そいつは素敵だ。あなたはどこかの化学大学校を出た方ですね。」 「いいえ、私はエステル工学校の卒業生です。」 「エステル工学校。ハッハッハ。素敵だ。さあどうです。一杯やりましょう。チュウリップの光の酒。さあ飲みませんか。」 「いや、やりましょう。よう、あなたの健康を祝します。」 「よう、ご健康を祝します。いい酒です。貧乏な僕のお酒はまた一層に光っておまけに軽いのだ。」 「けれどもぜんたいこれでいいんですか。あんまり光が過ぎはしませんか。」 「いいえ心配ありません。酒があんなに湧きあがり波を立てたり渦になったり花弁をあふれて流れてもあのチュウリップの緑の花柄は一寸もゆらぎはしないのです。さあも一つおやりなさい。」 「ええ、ありがとう。あなたもどうです。奇麗な空じゃありませんか。」 「やりますとも、おっと沢山沢山。けれどもいくらこぼれたところでそこら一面チュウリップ酒の波だもの。」 「一面どころじゃありません。そらのはずれから地面の底まですっかり光の領分です。たしかに今は光のお酒が地面の腹の底までしみました。」 「ええ、ええ、そうです。おや、ごらんなさい、向うの畑。ね。光の酒に漬っては花椰菜でもアスパラガスでも実に立派なものではありませんか。」 「立派ですね。チュウリップ酒で漬けた瓶詰です。しかし一体ひばりはどこまで逃げたでしょう。どこまで逃げて行ったのかしら。自分で斯んな光の波を起しておいてあとはどこかへ逃げるとは気取ってやがる。あんまり気取ってやがる、畜生。」 「まったくそうです。こら、ひばりめ、降りて来い。ははぁ、やつ、溶けたな。こんなに雲もない空にかくれるなんてできないはずだ。溶けたのですよ。」 「いいえ、あいつの歌なら、あの甘ったるい歌なら、さっきから光の中に溶けていましたがひばりはまさか溶けますまい。溶けたとしたらその小さな骨を何かの網で掬い上げなくちゃなりません。そいつはあんまり手数です。」 「まあそうですね。しかしひばりのことなどはまあどうなろうと構わないではありませんか。全体ひばりというものは小さなもので、空をチーチクチーチク飛ぶだけのもんです。」 「まあ、そうですね、それでいいでしょう。ところが、おやおや、あんなでもやっぱりいいんですか。向うの唐檜が何だかゆれて踊り出すらしいのですよ。」 「唐檜ですか。あいつはみんなで、一小隊はありましょう。みんな若いし擲弾兵です。」 「ゆれて踊っているようですが構いませんか。」 「なあに心配ありません。どうせチュウリップ酒の中の景色です。いくら跳ねてもいいじゃありませんか。」 「そいつは全くそうですね。まあ大目に見ておきましょう。」 「大目に見ないといけません。いい酒だ。ふう。」 「すももも踊り出しますよ。」 「すももは墻壁仕立です。ダイアモンドです。枝がななめに交叉します。一中隊はありますよ。義勇中隊です。」 「やっぱりあんなでいいんですか。」 「構いませんよ。それよりまああの梨の木どもをご覧なさい。枝が剪られたばかりなので身体が一向釣り合いません。まるで蛹の踊りです。」 「蛹踊とはそいつはあんまり可哀そうです。すっかり悄気て化石してしまったようじゃありませんか。」 「石になるとは。そいつはあんまりひどすぎる。おおい。梨の木。木のまんまでいいんだよ。けれども仲々人の命令をすなおに用いるやつらじゃないんです。」 「それより向うのくだものの木の踊りの環をごらんなさい。まん中に居てきゃんきゃん調子をとるのがあれが桜桃の木ですか。」 「どれですか。あああれですか。いいえ、あいつは油桃です。やっぱり巴丹杏やまるめろの歌は上手です。どうです。行って仲間にはいりましょうか。行きましょう。」 「行きましょう。おおい。おいらも仲間に入れろ。痛い、畜生。」 「どうかなさったのですか。」 「眼をやられました。どいつかにひどく引っ掻かれたのです。」 「そうでしょう。全体駄目です。どいつも満足の手のあるやつはありません。みんなガリガリ骨ばかり、おや、いけない、いけない、すっかり崩れて泣いたりわめいたりむしりあったりなぐったり一体あんまり冗談が過ぎたのです。」 「ええ、斯う世の中が乱れては全くどうも仕方ありません。」 「全くそうです。そうら。そら、火です、火です。火がつきました。チュウリップ酒に火がはいったのです。」 「いけない、いけない。はたけも空もみんなけむり、しろけむり。」 「パチパチパチパチやっている。」 「どうも素敵に強い酒だと思いましたよ。」 「そうそう、だからこれはあの白いチュウリップでしょう。」 「そうでしょうか。」 「そうです。そうですとも。ここで一番|大事な花です。」 「ああ、もうよほど経ったでしょう。チュウリップの幻術にかかっているうちに。もう私は行かなければなりません。さようなら。」 「そうですか、ではさようなら。」  洋傘直しは荷物へよろよろ歩いて行き、有平糖の広告つきのその荷物を肩にし、もう一度あのあやしい花をちらっと見てそれからすももの垣根の入口にまっすぐに歩いて行きます。  園丁は何だか顔が青ざめてしばらくそれを見送りやがて唐檜の中へはいります。  太陽はいつかまた雲の間にはいり太い白い光の棒の幾条を山と野原とに落します。  ある古い家の、まっくらな天井裏に、「ツェ」という名まえのねずみがすんでいました。  ある日ツェねずみは、きょろきょろ四方を見まわしながら、床下街道を歩いていますと、向こうからいたちが、何かいいものをたくさんもって、風のように走って参りました。そしてツェねずみを見て、ちょっとたちどまって早口に言いました。 「おい、ツェねずみ。お前んとこの戸棚の穴から、金米糖がばらばらこぼれているぜ。早く行ってひろいな。」  ツェねずみは、もうひげもぴくぴくするくらいよろこんで、いたちにはお礼も言わずに、いっさんにそっちへ走って行きました。ところが戸棚の下まで来たとき、いきなり足がチクリとしました。そして、「止まれ、だれかっ。」と言う小さな鋭い声がします。  ツェねずみはびっくりしてよく見ますと、それは蟻でした。蟻の兵隊は、もう金米糖のまわりに四重の非常線を張って、みんな黒いまさかりをふりかざしています。二三十匹は金米糖を片っぱしから砕いたり、とかしたりして、巣へはこぶしたくです。ツェねずみはぶるぶるふるえてしまいました。 「ここから内へはいってならん。早く帰れ。帰れ、帰れ。」蟻の特務曹長が、低い太い声で言いました。  ねずみはくるっと一つまわって、いちもくさんに天井裏へかけあがりました。そして巣の中へはいって、しばらくねころんでいましたが、どうもおもしろくなくて、おもしろくなくて、たまりません。蟻はまあ兵隊だし、強いからしかたもないが、あのおとなしいいたちめに教えられて、戸棚の下まで走って行って蟻の曹長にけんつくを食うとは、なんたるしゃくにさわることだとツェねずみは考えました。そこでねずみは巣からまたちょろちょろはい出して、木小屋の奥のいたちの家にやって参りました。  いたちはちょうど、とうもろこしのつぶを、歯でこつこつかんで粉にしていましたが、ツェねずみを見て言いました。 「どうだ。金米糖がなかったかい。」 「いたちさん。ずいぶんお前もひどい人だね。私のような弱いものをだますなんて。」 「だましゃせん。たしかにあったのや。」 「あるにはあっても、もう蟻が来てましたよ。」 「蟻が、へい。そうかい。早いやつらだね。」 「みんな蟻がとってしまいましたよ。私のような弱いものをだますなんて、償うてください。償うてください。」 「それはしかたない。お前の行きようが少しおそかったのや。」 「知らん、知らん。私のような弱いものをだまして。償うてください。償うてください。」 「困ったやつだな。ひとの親切をさかさまにうらむとは。よしよし。そんならおれの金米糖をやろう。」 「償うてください。償うてください。」 「えい、それ。持って行け。てめえの持てるだけ持ってうせちまえ。てめえみたいな、ぐにゃぐにゃした男らしくもねえやつは、つらも見たくねえ。早く持てるだけ持ってどっかへうせろ。」いたちはプリプリして、金米糖を投げ出しました。ツェねずみはそれを持てるだけたくさんひろって、おじぎをしました。いたちはいよいよおこって叫びました。 「えい、早く行ってしまえ。てめえの取った、のこりなんかうじむしにでもくれてやらあ。」  ツェねずみは、いちもくさんに走って、天井裏の巣へもどって、金米糖をコチコチ食べました。  こんなぐあいですから、ツェねずみはだんだんきらわれて、たれもあんまり相手にしなくなりました。そこでツェねずみはしかたなしに、こんどは、柱だの、こわれたちりとりだの、バケツだの、ほうきだのと交際をはじめました。中でも柱とは、いちばん仲よくしていました。  柱がある日、ツェねずみに言いました。 「ツェねずみさん、もうじき冬になるね。ぼくらはまたかわいてミリミリ言わなくちゃならない。お前さんも今のうちに、いい夜具のしたくをしておいた方がいいだろう。幸いぼくのすぐ頭の上に、すずめが春持って来た鳥の毛やいろいろ暖かいものがたくさんあるから、いまのうちに、すこしおろして運んでおいたらどうだい。僕の頭は、まあ少し寒くなるけれど、僕は僕でまたくふうをするから。」  ツェねずみはもっともと思いましたので、さっそく、その日から運び方にかかりました。  ところが、途中に急な坂が一つありましたので、ねずみは三度目に、そこからストンところげ落ちました。  柱もびっくりして、 「ねずみさん、けがはないかい。けがはないかい。」と一生けん命、からだを曲げながら言いました。ねずみはやっと起き上がって、それからかおをひどくしかめながら言いました。 「柱さん。お前もずいぶんひどい人だ。僕のような弱いものをこんな目にあわすなんて。」  柱はいかにも申しわけがないと思ったので、 「ねずみさん、すまなかった。ゆるしてください。」と一生けん命わびました。  ツェねずみは図にのって、 「許してくれもないじゃないか。お前さえあんなこしゃくなさしずをしなければ、私はこんな痛い目にもあわなかったんだよ。償っておくれ。償っておくれ。さあ、償っておくれよ。」 「そんなことを言ったって困るじゃありませんか。許してくださいよ。」 「いいや、弱いものをいじめるのは私はきらいなんだから、償っておくれ。償っておくれ。さあ、償っておくれ。」  柱は困ってしまって、おいおい泣きました。そこでねずみも、しかたなく、巣へかえりました。それからは、柱はもうこわがって、ねずみに口をききませんでした。  さてそののちのことですが、ちりとりはある日、ツェねずみに半分になった最中を一つやりました。するとちょうどその次の日、ツェねずみはおなかが痛くなりました。さあ、いつものとおりツェねずみは、まどっておくれを百ばかりも、ちりとりに言いました。ちりとりもあきれて、もうねずみとの交際はやめました。  また、そののちのことですが、ある日バケツはツェねずみに、せんたくソーダのかけらをすこしやって、 「これで毎朝お顔をお洗いなさい。」と言いましたら、ねずみはよろこんで次の日から、毎日それで顔を洗っていましたが、そのうちにねずみのおひげが十本ばかり抜けました。さあツェねずみは、さっそくバケツへやって来て、償っておくれ償っておくれを、二百五十ばかり言いました。しかしあいにくバケツにはおひげもありませんでしたし、償うわけにも行かず、すっかり参ってしまって、泣いてあやまりました。そして、もうそれからは、ちょっとも口をききませんでした。  道具仲間は、みんな順ぐりにこんなめにあって、こりてしまいましたので、ついにはだれもツェねずみの顔を見るといそいでわきの方を向いてしまうのでした。  ところがその道具仲間に、ただ一人だけ、まだツェねずみとつきあってみないものがありました。  それは針がねを編んでこさえたねずみ捕りでした。  ねずみ捕りは全体、人間の味方なはずですが、ちかごろは、どうも毎日の新聞にさえ、猫といっしょにお払い物という札をつけた絵にまでして、広告されるのですし、そうでなくても、元来人間は、この針金のねずみ捕りを、一ぺんも優待したことはありませんでした。ええ、それはもうたしかにありませんとも。それに、さもさわるのさえきたないようにみんなから思われています。それですから実は、ねずみ捕りは人間よりはねずみの方に、よけい同情があるのです。けれども、たいていのねずみはなかなかこわがって、そばへやって参りません。ねずみ捕りは、毎日やさしい声で、 「ねずちゃん、おいで。今夜のごちそうはあじのおつむだよ。お前さんの食べる間、わたしはしっかり押えておいてあげるから。ね、安心しておいで。入り口をパタンとしめるようなそんなことをするもんかね。わたしも人間にはもうこりこりしてるんだから。おいでよ。そら。」  なんてねずみを呼びかけますが、ねずみはみんな、 「へん、うまく言ってらあ。」とか、 「へい、へい。よくわかりましてございます。いずれ、おやじや、せがれとも相談の上で。」とか言ってそろそろ逃げて行ってしまいます。  そして朝になると、顔のまっ赤な下男が来て見て、 「またはいらない。ねずみももう知ってるんだな。ねずみの学校で教えるんだな。しかしまあもう一日だけかけてみよう。」と言いながら、新しいえさととりかえるのでした。  今夜も、ねずみ捕りは叫びました。 「おいでおいで。今夜はやわらかな半ぺんだよ。えさだけあげるよ。大丈夫さ。早くおいで。」  ツェねずみが、ちょうど通りかかりました。そして、 「おや、ねずみ捕りさん、ほんとうにえさだけをくださるんですか。」と言いました。 「おや、お前は珍しいねずみだね。そうだよ。えさだけあげるんだよ。そら、早くお食べ。」  ツェねずみはプイッと中にはいって、むちゃむちゃむちゃっと半ぺんを食べて、またプイッと外へ出て言いました。 「おいしかったよ。ありがとう。」 「そうかい。よかったね。またあすの晩おいで。」  次の朝、下男が来て見ておこって言いました。 「えい。えさだけとって行きやがった。ずるいねずみだな。しかしとにかく中にはいったというのは感心だ。そら、きょうは鰯だぞ。」  そして鰯を半分つけて行きました。  ねずみ捕りは、鰯をひっかけて、せっかくツェねずみの来るのを待っていました。  夜になって、ツェねずみはすぐ出て来ました。そしていかにも恩に着せたように、 「今晩は、お約束どおり来てあげましたよ。」と言いました。  ねずみ捕りは少しむっとしたが、無理にこらえて、 「さあ、食べなさい。」とだけ言いました。  ツェねずみはプイッとはいって、ピチャピチャピチャッと食べて、またプイッと出て来て、それから大風に言いました。 「じゃ、あした、また、来て食べてあげるからね。」 「ブウ。」とねずみ捕りは答えました。  次の朝、下男が来て見て、ますますおこって言いました。 「えい。ずるいねずみだ。しかし、毎晩、そんなにうまくえさだけ取られるはずがない。どうも、このねずみ捕りめは、ねずみからわいろをもらったらしいぞ。」 「もらわん。もらわん。あんまり人を見そこなうな。」とねずみ捕りはどなりましたが、もちろん、下男の耳には聞こえません。きょうも腐った半ぺんをくっつけていきました。  ねずみ捕りは、とんだ疑いを受けたので、一日ぷんぷんおこっていました。夜になりました。ツェねずみが出て来て、さも大儀らしく言いました。 「あああ、毎日ここまでやって来るのも、並みたいていのこっちゃない。それにごちそうといったら、せいぜい魚の頭だ。いやになっちまう。しかしまあ、せっかく来たんだからしかたない。食ってやるとしようか。ねずみ捕りさん。今晩は。」  ねずみ捕りは、はりがねをぷりぷりさせておこっていましたので、ただ一こと、 「お食べ。」と言いました。ツェねずみはすぐプイッと飛びこみましたが、半ぺんのくさっているのを見て、おこって叫びました、。 「ねずみとりさん。あんまりひどいや。この半ぺんはくさってます。僕のような弱いものをだますなんて、あんまりだ。償ってください。償ってください。」  ねずみ捕りは、思わず、はり金をりゅうりゅうと鳴らすくらい、おこってしまいました。そのりゅうりゅうが悪かったのです。 「ピシャッ。シインン。」えさについていたかぎがはずれて、ねずみ捕りの入り口が閉じてしまいました。さあもうたいへんです。  ツェねずみはきちがいのようになって、 「ねずみ捕りさん。ひどいや。ひどいや。うう、くやしい。ねずみ捕りさん。あんまりだ。」と言いながら、はりがねをかじるやら、くるくるまわるやら、地だんだふむやら、わめくやら、泣くやら、それはそれは大さわぎです。それでも、償ってください、償ってくださいは、もう言う力がありませんでした。  ねずみ捕りの方も、痛いやら、しゃくにさわるやら、ガタガタ、ブルブル、リュウリュウとふるえました。一晩そうやってとうとう朝になりました。  顔のまっ赤な下男が来て見て、こおどりして言いました。 「しめた。しめた。とうとう、かかった。意地の悪そうなねずみだな。さあ、出て来い。こぞう。」  ある晩、恭一はぞうりをはいて、すたすた鉄道線路の横の平らなところをあるいて居りました。  たしかにこれは罰金です。おまけにもし汽車がきて、窓から長い棒などが出ていたら、一ぺんになぐり殺されてしまったでしょう。  ところがその晩は、線路見まわりの工夫もこず、窓から棒の出た汽車にもあいませんでした。そのかわり、どうもじつに変てこなものを見たのです。  九日の月がそらにかかっていました。そしてうろこ雲が空いっぱいでした。うろこぐもはみんな、もう月のひかりがはらわたの底までもしみとおってよろよろするというふうでした。その雲のすきまからときどき冷たい星がぴっかりぴっかり顔をだしました。  恭一はすたすたあるいて、もう向うに停車場のあかりがきれいに見えるとこまできました。ぽつんとしたまっ赤なあかりや、硫黄のほのおのようにぼうとした紫いろのあかりやらで、眼をほそくしてみると、まるで大きなお城があるようにおもわれるのでした。  とつぜん、右手のシグナルばしらが、がたんとからだをゆすぶって、上の白い横木を斜めに下の方へぶらさげました。これはべつだん不思議でもなんでもありません。  つまりシグナルがさがったというだけのことです。一晩に十四回もあることなのです。  ところがそのつぎが大へんです。  さっきから線路の左がわで、ぐゎあん、ぐゎあんとうなっていたでんしんばしらの列が大威張りで一ぺんに北のほうへ歩きだしました。みんな六つの瀬戸もののエボレットを飾り、てっぺんにはりがねの槍をつけた亜鉛のしゃっぽをかぶって、片脚でひょいひょいやって行くのです。そしていかにも恭一をばかにしたように、じろじろ横めでみて通りすぎます。  うなりもだんだん高くなって、いまはいかにも昔ふうの立派な軍歌に変ってしまいました。 「ドッテテドッテテ、ドッテテド、  でんしんばしらのぐんたいは  はやさせかいにたぐいなし  ドッテテドッテテ、ドッテテド  でんしんばしらのぐんたいは  きりつせかいにならびなし。」  一本のでんしんばしらが、ことに肩をそびやかして、まるでうで木もがりがり鳴るくらいにして通りました。  みると向うの方を、六本うで木の二十二の瀬戸もののエボレットをつけたでんしんばしらの列が、やはりいっしょに軍歌をうたって進んで行きます。 「ドッテテドッテテ、ドッテテド  二本うで木の工兵隊  六本うで木の竜騎兵  ドッテテドッテテ、ドッテテド  いちれつ一万五千人  はりがねかたくむすびたり」  どういうわけか、二本のはしらがうで木を組んで、びっこを引いていっしょにやってきました。そしていかにもつかれたようにふらふら頭をふって、それから口をまげてふうと息を吐き、よろよろ倒れそうになりました。  するとすぐうしろから来た元気のいいはしらがどなりました。 「おい、はやくあるけ。はりがねがたるむじゃないか。」  ふたりはいかにも辛そうに、いっしょにこたえました。 「もうつかれてあるけない。あしさきが腐り出したんだ。長靴のタールもなにももうめちゃくちゃになってるんだ。」  うしろのはしらはもどかしそうに叫びました。 「はやくあるけ、あるけ。きさまらのうち、どっちかが参っても一万五千人みんな責任があるんだぞ。あるけったら。」  二人はしかたなくよろよろあるきだし、つぎからつぎとはしらがどんどんやって来ます。 「ドッテテドッテテ、ドッテテド  やりをかざれるとたん帽  すねははしらのごとくなり。  ドッテテドッテテ、ドッテテド  肩にかけたるエボレット  重きつとめをしめすなり。」  二人の影ももうずうっと遠くの緑青いろの林の方へ行ってしまい、月がうろこ雲からぱっと出て、あたりはにわかに明るくなりました。  でんしんばしらはもうみんな、非常なご機嫌です。恭一の前に来ると、わざと肩をそびやかしたり、横めでわらったりして過ぎるのでした。  ところが愕ろいたことは、六本うで木のまた向うに、三本うで木のまっ赤なエボレットをつけた兵隊があるいていることです。その軍歌はどうも、ふしも歌もこっちの方とちがうようでしたが、こっちの声があまり高いために、何をうたっているのか聞きとることができませんでした。こっちはあいかわらずどんどんやって行きます。 「ドッテテドッテテ、ドッテテド、  寒さはだえをつんざくも  などて腕木をおろすべき  ドッテテドッテテ、ドッテテド  暑さ硫黄をとかすとも  いかでおとさんエボレット。」  どんどんどんどんやって行き、恭一は見ているのさえ少しつかれてぼんやりなりました。  でんしんばしらは、まるで川の水のように、次から次とやって来ます。みんな恭一のことを見て行くのですけれども、恭一はもう頭が痛くなってだまって下を見ていました。  俄かに遠くから軍歌の声にまじって、 「お一二、お一二、」というしわがれた声がきこえてきました。恭一はびっくりしてまた顔をあげてみますと、列のよこをせいの低い顔の黄いろなじいさんがまるでぼろぼろの鼠いろの外套を着て、でんしんばしらの列を見まわしながら 「お一二、お一二、」と号令をかけてやってくるのでした。  じいさんに見られた柱は、まるで木のように堅くなって、足をしゃちほこばらせて、わきめもふらず進んで行き、その変なじいさんは、もう恭一のすぐ前までやってきました。そしてよこめでしばらく恭一を見てから、でんしんばしらの方へ向いて、 「なみ足い。おいっ。」と号令をかけました。  そこででんしんばしらは少し歩調を崩して、やっぱり軍歌を歌って行きました。 「ドッテテドッテテ、ドッテテド、  右とひだりのサアベルは  たぐいもあらぬ細身なり。」  じいさんは恭一の前にとまって、からだをすこしかがめました。 「今晩は、おまえはさっきから行軍を見ていたのかい。」 「ええ、見てました。」 「そうか、じゃ仕方ない。ともだちになろう、さあ、握手しよう。」  じいさんはぼろぼろの外套の袖をはらって、大きな黄いろな手をだしました。恭一もしかたなく手を出しました。じいさんが「やっ、」と云ってその手をつかみました。  するとじいさんの眼だまから、虎のように青い火花がぱちぱちっとでたとおもうと、恭一はからだがびりりっとしてあぶなくうしろへ倒れそうになりました。 「ははあ、だいぶひびいたね、これでごく弱いほうだよ。わしとも少し強く握手すればまあ黒焦げだね。」  兵隊はやはりずんずん歩いて行きます。 「ドッテテドッテテ、ドッテテド、  タールを塗れるなが靴の  歩はばは三百六十尺。」  恭一はすっかりこわくなって、歯ががちがち鳴りました。じいさんはしばらく月や雲の工合をながめていましたが、あまり恭一が青くなってがたがたふるえているのを見て、気の毒になったらしく、少ししずかに斯う云いました。 「おれは電気総長だよ。」  恭一も少し安心して 「電気総長というのは、やはり電気の一種ですか。」とききました。するとじいさんはまたむっとしてしまいました。 「わからん子供だな。ただの電気ではないさ。つまり、電気のすべての長、長というのはかしらとよむ。とりもなおさず電気の大将ということだ。」 「大将ならずいぶんおもしろいでしょう。」恭一がぼんやりたずねますと、じいさんは顔をまるでめちゃくちゃにしてよろこびました。 「はっはっは、面白いさ。それ、その工兵も、その竜騎兵も、向うのてき弾兵も、みんなおれの兵隊だからな。」  じいさんはぷっとすまして、片っ方の頬をふくらせてそらを仰ぎました。それからちょうど前を通って行く一本のでんしんばしらに、 「こらこら、なぜわき見をするか。」とどなりました。するとそのはしらはまるで飛びあがるぐらいびっくりして、足がぐにゃんとまがりあわててまっすぐを向いてあるいて行きました。次から次とどしどしはしらはやって来ます。 「有名なはなしをおまえは知ってるだろう。そら、むすこが、エングランド、ロンドンにいて、おやじがスコットランド、カルクシャイヤにいた。むすこがおやじに電報をかけた、おれはちゃんと手帳へ書いておいたがね、」  じいさんは手帳を出して、それから大きなめがねを出してもっともらしく掛けてから、また云いました。 「おまえは英語はわかるかい、ね、センド、マイブーツ、インスタンテウリイすぐ長靴送れとこうだろう、するとカルクシャイヤのおやじめ、あわてくさっておれのでんしんのはりがねに長靴をぶらさげたよ。はっはっは、いや迷惑したよ。それから英国ばかりじゃない、十二月ころ兵営へ行ってみると、おい、あかりをけしてこいと上等兵|殿に云われて新兵が電燈をふっふっと吹いて消そうとしているのが毎年五人や六人はある。おれの兵隊にはそんなものは一人もないからな。おまえの町だってそうだ、はじめて電燈がついたころはみんながよく、電気会社では月に百|石ぐらい油をつかうだろうかなんて云ったもんだ。はっはっは、どうだ、もっともそれはおれのように勢力|不滅の法則や熱力学第二則がわかるとあんまりおかしくもないがね、どうだ、ぼくの軍隊は規律がいいだろう。軍歌にもちゃんとそう云ってあるんだ。」  でんしんばしらは、みんなまっすぐを向いて、すまし込んで通り過ぎながら一きわ声をはりあげて、 「ドッテテドッテテ、ドッテテド  でんしんばしらのぐんたいの  その名せかいにとどろけり。」 と叫びました。  そのとき、線路の遠くに、小さな赤い二つの火が見えました。するとじいさんはまるであわててしまいました。 「あ、いかん、汽車がきた。誰かに見附かったら大へんだ。もう進軍をやめなくちゃいかん。」  じいさんは片手を高くあげて、でんしんばしらの列の方を向いて叫びました。 「全軍、かたまれい、おいっ。」  でんしんばしらはみんな、ぴったりとまって、すっかりふだんのとおりになりました。軍歌はただのぐゎあんぐゎあんといううなりに変ってしまいました。  汽車がごうとやってきました。汽缶車の石炭はまっ赤に燃えて、そのまえで火夫は足をふんばって、まっ黒に立っていました。  ところが客車の窓がみんなまっくらでした。するとじいさんがいきなり、 「おや、電燈が消えてるな。こいつはしまった。けしからん。」と云いながらまるで兎のようにせ中をまんまるにして走っている列車の下へもぐり込みました。 「あぶない。」と恭一がとめようとしたとき、客車の窓がぱっと明るくなって、一人の小さな子が手をあげて 「あかるくなった、わあい。」と叫んで行きました。  でんしんばしらはしずかにうなり、シグナルはがたりとあがって、月はまたうろこ雲のなかにはいりました。  そして汽車は、もう停車場へ着いたようでした。 ドツテテドツテテ、ドツテテド、 でんしんばしらのぐんたいは はやさせかいにたぐひなし ドツテテドツテテ、ドツテテド でんしんばしらのぐんたいは きりつせかいにならびなし。 ドツテテドツテテ、ドツテテド 二|本うで木の工兵隊 六|本うで木の竜騎兵 ドツテテドツテテ、ドツテテド いちれつ一|万五|千人 はりがねかたくむすびたり ドツテテドツテテ、ドツテテド やりをかざれるとたん帽 すねははしらのごとくなり。 ドツテテドツテテ、ドツテテド 肩にかけたるエボレツト 重きつとめをしめすなり。 ドツテテドツテテ、ドツテテド、 寒さはだへをつんざくも などて腕木をおろすべき ドツテテドツテテ、ドツテテド 暑さ硫黄をとかすとも いかでおとさんエボレツト。 ドツテテドツテテ、ドツテテド、 右とひだりのサアベルは たぐひもあらぬ細身なり。 ドツテテドツテテ、ドツテテド、 タールを塗れるなが靴の 歩はばは三|百六|十尺。 ドツテテドツテテ、ドツテテド でんしんばしらのぐんたいの その名せかいにとゞろけり。      一本木の野原の、北のはずれに、少し小高く盛りあがった所がありました。いのころぐさがいっぱいに生え、そのまん中には一本の奇麗な女の樺の木がありました。  それはそんなに大きくはありませんでしたが幹はてかてか黒く光り、枝は美しく伸びて、五月には白い花を雲のようにつけ、秋は黄金や紅やいろいろの葉を降らせました。  ですから渡り鳥のかっこうや百舌も、又小さなみそさざいや目白もみんなこの木に停まりました。ただもしも若い鷹などが来ているときは小さな鳥は遠くからそれを見付けて決して近くへ寄りませんでした。  この木に二人の友達がありました。一人は丁度、五百歩ばかり離れたぐちゃぐちゃの谷地の中に住んでいる土神で一人はいつも野原の南の方からやって来る茶いろの狐だったのです。  樺の木はどちらかと云えば狐の方がすきでした。なぜなら土神の方は神という名こそついてはいましたがごく乱暴で髪もぼろぼろの木綿糸の束のよう眼も赤くきものだってまるでわかめに似、いつもはだしで爪も黒く長いのでした。ところが狐の方は大へんに上品な風で滅多に人を怒らせたり気にさわるようなことをしなかったのです。  ただもしよくよくこの二人をくらべて見たら土神の方は正直で狐は少し不正直だったかも知れません。      夏のはじめのある晩でした。樺には新らしい柔らかな葉がいっぱいについていいかおりがそこら中いっぱい、空にはもう天の川がしらしらと渡り星はいちめんふるえたりゆれたり灯ったり消えたりしていました。  その下を狐が詩集をもって遊びに行ったのでした。仕立おろしの紺の背広を着、赤革の靴もキッキッと鳴ったのです。 「実にしずかな晩ですねえ。」 「ええ。」樺の木はそっと返事をしました。 「蝎ぼしが向うを這っていますね。あの赤い大きなやつを昔は支那では火と云ったんですよ。」 「火星とはちがうんでしょうか。」 「火星とはちがいますよ。火星は惑星ですね、ところがあいつは立派な恒星なんです。」 「惑星、恒星ってどういうんですの。」 「惑星というのはですね、自分で光らないやつです。つまりほかから光を受けてやっと光るように見えるんです。恒星の方は自分で光るやつなんです。お日さまなんかは勿論恒星ですね。あんなに大きくてまぶしいんですがもし途方もない遠くから見たらやっぱり小さな星に見えるんでしょうね。」 「まあ、お日さまも星のうちだったんですわね。そうして見ると空にはずいぶん沢山のお日さまが、あら、お星さまが、あらやっぱり変だわ、お日さまがあるんですね。」  狐は鷹揚に笑いました。 「まあそうです。」 「お星さまにはどうしてああ赤いのや黄のや緑のやあるんでしょうね。」  狐は又鷹揚に笑って腕を高く組みました。詩集はぷらぷらしましたがなかなかそれで落ちませんでした。 「星に橙や青やいろいろある訳ですか。それは斯うです。全体星というものははじめはぼんやりした雲のようなもんだったんです。いまの空にも沢山あります。たとえばアンドロメダにもオリオンにも猟犬座にもみんなあります。猟犬座のは渦巻きです。それから環状星雲というのもあります。魚の口の形ですから魚口星雲とも云いますね。そんなのが今の空にも沢山あるんです。」 「まあ、あたしいつか見たいわ。魚の口の形の星だなんてまあどんなに立派でしょう。」 「それは立派ですよ。僕水沢の天文台で見ましたがね。」 「まあ、あたしも見たいわ。」 「見せてあげましょう。僕実は望遠鏡を独乙のツァイスに注文してあるんです。来年の春までには来ますから来たらすぐ見せてあげましょう。」狐は思わず斯う云ってしまいました。そしてすぐ考えたのです。ああ僕はたった一人のお友達にまたつい偽を云ってしまった。ああ僕はほんとうにだめなやつだ。けれども決して悪い気で云ったんじゃない。よろこばせようと思って云ったんだ。あとですっかり本当のことを云ってしまおう、狐はしばらくしんとしながら斯う考えていたのでした。樺の木はそんなことも知らないでよろこんで言いました。 「まあうれしい。あなた本当にいつでも親切だわ。」  狐は少し悄気ながら答えました。 「ええ、そして僕はあなたの為ならばほかのどんなことでもやりますよ。この詩集、ごらんなさいませんか。ハイネという人のですよ。翻訳ですけれども仲々よくできてるんです。」 「まあ、お借りしていいんでしょうかしら。」 「構いませんとも。どうかゆっくりごらんなすって。じゃ僕もう失礼します。はてな、何か云い残したことがあるようだ。」 「お星さまのいろのことですわ。」 「ああそうそう、だけどそれは今度にしましょう。僕あんまり永くお邪魔しちゃいけないから。」 「あら、いいんですよ。」 「僕又来ますから、じゃさよなら。本はあげてきます。じゃ、さよなら。」狐はいそがしく帰って行きました。そして樺の木はその時|吹いて来た南風にざわざわ葉を鳴らしながら狐の置いて行った詩集をとりあげて天の川やそらいちめんの星から来る微かなあかりにすかして頁を繰りました。そのハイネの詩集にはロウレライやさまざま美しい歌がいっぱいにあったのです。そして樺の木は一晩中よみ続けました。ただその野原の三時すぎ東から金牛宮ののぼるころ少しとろとろしただけでした。  夜があけました。太陽がのぼりました。  草には露がきらめき花はみな力いっぱい咲きました。  その東北の方から熔けた銅の汁をからだ中に被ったように朝日をいっぱいに浴びて土神がゆっくりゆっくりやって来ました。いかにも分別くさそうに腕を拱きながらゆっくりゆっくりやって来たのでした。  樺の木は何だか少し困ったように思いながらそれでも青い葉をきらきらと動かして土神の来る方を向きました。その影は草に落ちてちらちらちらちらゆれました。土神はしずかにやって来て樺の木の前に立ちました。 「樺の木さん。お早う。」 「お早うございます。」 「わしはね、どうも考えて見るとわからんことが沢山ある、なかなかわからんことが多いもんだね。」 「まあ、どんなことでございますの。」 「たとえばだね、草というものは黒い土から出るのだがなぜこう青いもんだろう。黄や白の花さえ咲くんだ。どうもわからんねえ。」 「それは草の種子が青や白をもっているためではないでございましょうか。」 「そうだ。まあそう云えばそうだがそれでもやっぱりわからんな。たとえば秋のきのこのようなものは種子もなし全く土の中からばかり出て行くもんだ、それにもやっぱり赤や黄いろやいろいろある、わからんねえ。」 「狐さんにでも聞いて見ましたらいかがでございましょう。」  樺の木はうっとり昨夜の星のはなしをおもっていましたのでつい斯う云ってしまいました。  この語を聞いて土神は俄かに顔いろを変えました。そしてこぶしを握りました。 「何だ。狐? 狐が何を云い居った。」  樺の木はおろおろ声になりました。 「何も仰っしゃったんではございませんがちょっとしたらご存知かと思いましたので。」 「狐なんぞに神が物を教わるとは一体何たることだ。えい。」  樺の木はもうすっかり恐くなってぷりぷりぷりぷりゆれました。土神は歯をきしきし噛みながら高く腕を組んでそこらをあるきまわりました。その影はまっ黒に草に落ち草も恐れて顫えたのです。 「狐の如きは実に世の害悪だ。ただ一言もまことはなく卑怯で臆病でそれに非常に妬み深いのだ。うぬ、畜生の分際として。」  樺の木はやっと気をとり直して云いました。 「もうあなたの方のお祭も近づきましたね。」  土神は少し顔色を和げました。 「そうじゃ。今日は五月三日、あと六日だ。」  土神はしばらく考えていましたが俄かに又声を暴らげました。 「しかしながら人間どもは不届だ。近頃はわしの祭にも供物一つ持って来ん、おのれ、今度わしの領分に最初に足を入れたものはきっと泥の底に引き擦り込んでやろう。」土神はまたきりきり歯噛みしました。  樺の木は折角なだめようと思って云ったことが又もや却ってこんなことになったのでもうどうしたらいいかわからなくなりただちらちらとその葉を風にゆすっていました。土神は日光を受けてまるで燃えるようになりながら高く腕を組みキリキリ歯噛みをしてその辺をうろうろしていましたが考えれば考えるほど何もかもしゃくにさわって来るらしいのでした。そしてとうとうこらえ切れなくなって、吠えるようにうなって荒々しく自分の谷地に帰って行ったのでした。      土神の棲んでいる所は小さな競馬場ぐらいある、冷たい湿地で苔やからくさやみじかい蘆などが生えていましたが又所々にはあざみやせいの低いひどくねじれた楊などもありました。  水がじめじめしてその表面にはあちこち赤い鉄の渋が湧きあがり見るからどろどろで気味も悪いのでした。  そのまん中の小さな島のようになった所に丸太で拵えた高さ一間ばかりの土神の祠があったのです。  土神はその島に帰って来て祠の横に長々と寝そべりました。そして黒い瘠せた脚をがりがり掻きました。土神は一羽の鳥が自分の頭の上をまっすぐに翔けて行くのを見ました。すぐ土神は起き直って「しっ」と叫びました。鳥はびっくりしてよろよろっと落ちそうになりそれからまるではねも何もしびれたようにだんだん低く落ちながら向うへ遁げて行きました。  土神は少し笑って起きあがりました。けれども又すぐ向うの樺の木の立っている高みの方を見るとはっと顔色を変えて棒立ちになりました。それからいかにもむしゃくしゃするという風にそのぼろぼろの髪毛を両手で掻きむしっていました。  その時谷地の南の方から一人の木樵がやって来ました。三つ森山の方へ稼ぎに出るらしく谷地のふちに沿った細い路を大股に行くのでしたがやっぱり土神のことは知っていたと見えて時々気づかわしそうに土神の祠の方を見ていました。けれども木樵には土神の形は見えなかったのです。  土神はそれを見るとよろこんでぱっと顔を熱らせました。それから右手をそっちへ突き出して左手でその右手の手首をつかみこっちへ引き寄せるようにしました。すると奇体なことは木樵はみちを歩いていると思いながらだんだん谷地の中に踏み込んで来るようでした。それからびっくりしたように足が早くなり顔も青ざめて口をあいて息をしました。土神は右手のこぶしをゆっくりぐるっとまわしました。すると木樵はだんだんぐるっと円くまわって歩いていましたがいよいよひどく周章てだしてまるではあはあはあはあしながら何べんも同じ所をまわり出しました。何でも早く谷地から遁げて出ようとするらしいのでしたがあせってもあせっても同じ処を廻っているばかりなのです。とうとう木樵はおろおろ泣き出しました。そして両手をあげて走り出したのです。土神はいかにも嬉しそうににやにやにやにや笑って寝そべったままそれを見ていましたが間もなく木樵がすっかり逆上せて疲れてばたっと水の中に倒れてしまいますと、ゆっくりと立ちあがりました。そしてぐちゃぐちゃ大股にそっちへ歩いて行って倒れている木樵のからだを向うの草はらの方へぽんと投げ出しました。木樵は草の中にどしりと落ちてううんと云いながら少し動いたようでしたがまだ気がつきませんでした。  土神は大声に笑いました。その声はあやしい波になって空の方へ行きました。  空へ行った声はまもなくそっちからはねかえってガサリと樺の木の処にも落ちて行きました。樺の木ははっと顔いろを変えて日光に青くすきとおりせわしくせわしくふるえました。  土神はたまらなそうに両手で髪を掻きむしりながらひとりで考えました。おれのこんなに面白くないというのは第一は狐のためだ。狐のためよりは樺の木のためだ。狐と樺の木とのためだ。けれども樺の木の方はおれは怒ってはいないのだ。樺の木を怒らないためにおれはこんなにつらいのだ。樺の木さえどうでもよければ狐などはなおさらどうでもいいのだ。おれはいやしいけれどもとにかく神の分際だ。それに狐のことなどを気にかけなければならないというのは情ない。それでも気にかかるから仕方ない。樺の木のことなどは忘れてしまえ。ところがどうしても忘れられない。今朝は青ざめて顫えたぞ。あの立派だったこと、どうしても忘られない。おれはむしゃくしゃまぎれにあんなあわれな人間などをいじめたのだ。けれども仕方ない。誰だってむしゃくしゃしたときは何をするかわからないのだ。  土神はひとりで切ながってばたばたしました。空を又|一疋の鷹が翔けて行きましたが土神はこんどは何とも云わずだまってそれを見ました。  ずうっとずうっと遠くで騎兵の演習らしいパチパチパチパチ塩のはぜるような鉄砲の音が聞えました。そらから青びかりがどくどくと野原に流れて来ました。それを呑んだためかさっきの草の中に投げ出された木樵はやっと気がついておずおずと起きあがりしきりにあたりを見廻しました。  それから俄かに立って一目散に遁げ出しました。三つ森山の方へまるで一目散に遁げました。  土神はそれを見て又大きな声で笑いました。その声は又青ぞらの方まで行き途中から、バサリと樺の木の方へ落ちました。  樺の木は又はっと葉の色をかえ見えない位こまかくふるいました。  土神は自分のほこらのまわりをうろうろうろうろ何べんも歩きまわってからやっと気がしずまったと見えてすっと形を消し融けるようにほこらの中へ入って行きました。      八月のある霧のふかい晩でした。土神は何とも云えずさびしくてそれにむしゃくしゃして仕方ないのでふらっと自分の祠を出ました。足はいつの間にかあの樺の木の方へ向っていたのです。本当に土神は樺の木のことを考えるとなぜか胸がどきっとするのでした。そして大へんに切なかったのです。このごろは大へんに心持が変ってよくなっていたのです。ですからなるべく狐のことなど樺の木のことなど考えたくないと思ったのでしたがどうしてもそれがおもえて仕方ありませんでした。おれはいやしくも神じゃないか、一本の樺の木がおれに何のあたいがあると毎日毎日土神は繰り返して自分で自分に教えました。それでもどうしてもかなしくて仕方なかったのです。殊にちょっとでもあの狐のことを思い出したらまるでからだが灼けるくらい辛かったのです。  土神はいろいろ深く考え込みながらだんだん樺の木の近くに参りました。そのうちとうとうはっきり自分が樺の木のとこへ行こうとしているのだということに気が付きました。すると俄かに心持がおどるようになりました。ずいぶんしばらく行かなかったのだからことによったら樺の木は自分を待っているのかも知れない、どうもそうらしい、そうだとすれば大へんに気の毒だというような考が強く土神に起って来ました。土神は草をどしどし踏み胸を踊らせながら大股にあるいて行きました。ところがその強い足なみもいつかよろよろしてしまい土神はまるで頭から青い色のかなしみを浴びてつっ立たなければなりませんでした。それは狐が来ていたのです。もうすっかり夜でしたが、ぼんやり月のあかりに澱んだ霧の向うから狐の声が聞えて来るのでした。 「ええ、もちろんそうなんです。器械的に対称の法則にばかり叶っているからってそれで美しいというわけにはいかないんです。それは死んだ美です。」 「全くそうですわ。」しずかな樺の木の声がしました。 「ほんとうの美はそんな固定した化石した模型のようなもんじゃないんです。対称の法則に叶うって云ったって実は対称の精神を有っているというぐらいのことが望ましいのです。」 「ほんとうにそうだと思いますわ。」樺の木のやさしい声が又しました。土神は今度はまるでべらべらした桃いろの火でからだ中燃されているようにおもいました。息がせかせかしてほんとうにたまらなくなりました。なにがそんなにおまえを切なくするのか、高が樺の木と狐との野原の中でのみじかい会話ではないか、そんなものに心を乱されてそれでもお前は神と云えるか、土神は自分で自分を責めました。狐が又云いました。 「ですから、どの美学の本にもこれくらいのことは論じてあるんです。」 「美学の方の本|沢山おもちですの。」樺の木はたずねました。 「ええ、よけいもありませんがまあ日本語と英語と独乙語のなら大抵ありますね。伊太利のは新らしいんですがまだ来ないんです。」 「あなたのお書斎、まあどんなに立派でしょうね。」 「いいえ、まるでちらばってますよ、それに研究室兼用ですからね、あっちの隅には顕微鏡こっちにはロンドンタイムス、大理石のシィザアがころがったりまるっきりごったごたです。」 「まあ、立派だわねえ、ほんとうに立派だわ。」  ふんと狐の謙遜のような自慢のような息の音がしてしばらくしいんとなりました。  土神はもう居ても立っても居られませんでした。狐の言っているのを聞くと全く狐の方が自分よりはえらいのでした。いやしくも神ではないかと今まで自分で自分に教えていたのが今度はできなくなったのです。ああつらいつらい、もう飛び出して行って狐を一裂きに裂いてやろうか、けれどもそんなことは夢にもおれの考えるべきことじゃない、けれどもそのおれというものは何だ結局狐にも劣ったもんじゃないか、一体おれはどうすればいいのだ、土神は胸をかきむしるようにしてもだえました。 「いつかの望遠鏡まだ来ないんですの。」樺の木がまた言いました。 「ええ、いつかの望遠鏡ですか。まだ来ないんです。なかなか来ないです。欧州航路は大分混乱してますからね。来たらすぐ持って来てお目にかけますよ。土星の環なんかそれぁ美しいんですからね。」  土神は俄に両手で耳を押えて一目散に北の方へ走りました。だまっていたら自分が何をするかわからないのが恐ろしくなったのです。  まるで一目散に走って行きました。息がつづかなくなってばったり倒れたところは三つ森山の麓でした。  土神は頭の毛をかきむしりながら草をころげまわりました。それから大声で泣きました。その声は時でもない雷のように空へ行って野原中へ聞えたのです。土神は泣いて泣いて疲れてあけ方ぼんやり自分の祠に戻りました。      そのうちとうとう秋になりました。樺の木はまだまっ青でしたがその辺のいのころぐさはもうすっかり黄金いろの穂を出して風に光りところどころすずらんの実も赤く熟しました。  あるすきとおるように黄金いろの秋の日土神は大へん上機嫌でした。今年の夏からのいろいろなつらい思いが何だかぼうっとみんな立派なもやのようなものに変って頭の上に環になってかかったように思いました。そしてもうあの不思議に意地の悪い性質もどこかへ行ってしまって樺の木なども狐と話したいなら話すがいい、両方ともうれしくてはなすのならほんとうにいいことなんだ、今日はそのことを樺の木に云ってやろうと思いながら土神は心も軽く樺の木の方へ歩いて行きました。  樺の木は遠くからそれを見ていました。  そしてやっぱり心配そうにぶるぶるふるえて待ちました。  土神は進んで行って気軽に挨拶しました。 「樺の木さん。お早う。実にいい天気だな。」 「お早うございます。いいお天気でございます。」 「天道というものはありがたいもんだ。春は赤く夏は白く秋は黄いろく、秋が黄いろになると葡萄は紫になる。実にありがたいもんだ。」 「全くでございます。」 「わしはな、今日は大へんに気ぶんがいいんだ。今年の夏から実にいろいろつらい目にあったのだがやっと今朝からにわかに心持ちが軽くなった。」  樺の木は返事しようとしましたがなぜかそれが非常に重苦しいことのように思われて返事しかねました。 「わしはいまなら誰のためにでも命をやる。みみずが死ななけぁならんならそれにもわしはかわってやっていいのだ。」土神は遠くの青いそらを見て云いました。その眼も黒く立派でした。  樺の木は又何とか返事しようとしましたがやっぱり何か大へん重苦しくてわずか吐息をつくばかりでした。  そのときです。狐がやって来たのです。  狐は土神の居るのを見るとはっと顔いろを変えました。けれども戻るわけにも行かず少しふるえながら樺の木の前に進んで来ました。 「樺の木さん、お早う、そちらに居られるのは土神ですね。」狐は赤革の靴をはき茶いろのレーンコートを着てまだ夏帽子をかぶりながら斯う云いました。 「わしは土神だ。いい天気だ。な。」土神はほんとうに明るい心持で斯う言いました。狐は嫉ましさに顔を青くしながら樺の木に言いました。 「お客さまのお出での所にあがって失礼いたしました。これはこの間お約束した本です。それから望遠鏡はいつかはれた晩にお目にかけます。さよなら。」 「まあ、ありがとうございます。」と樺の木が言っているうちに狐はもう土神に挨拶もしないでさっさと戻りはじめました。樺の木はさっと青くなってまた小さくぷりぷり顫いました。  土神はしばらくの間ただぼんやりと狐を見送って立っていましたがふと狐の赤革の靴のキラッと草に光るのにびっくりして我に返ったと思いましたら俄かに頭がぐらっとしました。狐がいかにも意地をはったように肩をいからせてぐんぐん向うへ歩いているのです。土神はむらむらっと怒りました。顔も物凄くまっ黒に変ったのです。美学の本だの望遠鏡だのと、畜生、さあ、どうするか見ろ、といきなり狐のあとを追いかけました。樺の木はあわてて枝が一ぺんにがたがたふるえ、狐もそのけはいにどうかしたのかと思って何気なくうしろを見ましたら土神がまるで黒くなって嵐のように追って来るのでした。さあ狐はさっと顔いろを変え口もまがり風のように走って遁げ出しました。  土神はまるでそこら中の草がまっ白な火になって燃えているように思いました。青く光っていたそらさえ俄かにガランとまっ暗な穴になってその底では赤い焔がどうどう音を立てて燃えると思ったのです。  二人はごうごう鳴って汽車のように走りました。 「もうおしまいだ、もうおしまいだ、望遠鏡、望遠鏡、望遠鏡」と狐は一心に頭の隅のとこで考えながら夢のように走っていました。  向うに小さな赤剥げの丘がありました。狐はその下の円い穴にはいろうとしてくるっと一つまわりました。それから首を低くしていきなり中へ飛び込もうとして後あしをちらっとあげたときもう土神はうしろからぱっと飛びかかっていました。と思うと狐はもう土神にからだをねじられて口を尖らして少し笑ったようになったままぐんにゃりと土神の手の上に首を垂れていたのです。  土神はいきなり狐を地べたに投げつけてぐちゃぐちゃ四五へん踏みつけました。  それからいきなり狐の穴の中にとび込んで行きました。中はがらんとして暗くただ赤土が奇麗に堅められているばかりでした。土神は大きく口をまげてあけながら少し変な気がして外へ出て来ました。  それからぐったり横になっている狐の屍骸のレーンコートのかくしの中に手を入れて見ました。そのかくしの中には茶いろなかもがやの穂が二本はいって居ました。土神はさっきからあいていた口をそのまままるで途方もない声で泣き出しました。  その泪は雨のように狐に降り狐はいよいよ首をぐんにゃりとしてうすら笑ったようになって死んで居たのです。 むかし、あるところに一|疋の竜がすんでいました。 力が非常に強く、かたちも大層恐ろしく、それにはげしい毒をもっていましたので、あらゆるいきものがこの竜に遭えば、弱いものは目に見ただけで気を失って倒れ、強いものでもその毒気にあたってまもなく死んでしまうほどでした。この竜はあるとき、よいこころを起して、これからはもう悪いことをしない、すべてのものをなやまさないと誓いました。 そして静かなところを、求めて林の中に入ってじっと道理を考えていましたがとうとうつかれてねむりました。 全体、竜というものはねむるあいだは形が蛇のようになるのです。 この竜も睡って蛇の形になり、からだにはきれいなるり色や金色の紋があらわれていました。 そこへ猟師共が来まして、この蛇を見てびっくりするほどよろこんで云いました。 「こんなきれいな珍らしい皮を、王様に差しあげてかざりにしてもらったらどんなに立派だろう。」 そこで杖でその頭をぐっとおさえ刀でその皮をはぎはじめました。竜は目をさまして考えました。 「おれの力はこの国さえもこわしてしまえる。この猟師なんぞはなんでもない。いまおれがいきをひとつすれば毒にあたってすぐ死んでしまう。けれども私はさっき、もうわるいことをしないと誓ったしこの猟師をころしたところで本当にかあいそうだ。もはやこのからだはなげすてて、こらえてこらえてやろう。」 すっかり覚悟がきまりましたので目をつぶって痛いのをじっとこらえ、またその人を毒にあてないようにいきをこらして一心に皮をはがれながらくやしいというこころさえ起しませんでした。 猟師はまもなく皮をはいで行ってしまいました。 竜はいまは皮のない赤い肉ばかりで地によこたわりました。 この時は日がかんかんと照って土は非常にあつく、竜はくるしさにばたばたしながら水のあるところへ行こうとしました。 このとき沢山の小さな虫が、そのからだを食おうとして出てきましたので蛇はまた、 「いまこのからだをたくさんの虫にやるのはまことの道のためだ。いま肉をこの虫らにくれておけばやがてはまことの道をもこの虫らに教えることができる。」と考えて、だまってうごかずに虫にからだを食わせとうとう乾いて死んでしまいました。 死んでこの竜は天上にうまれ、後には世界でいちばんえらい人、お釈迦様になってみんなに一番のしあわせを与えました。 このときの虫もみなさきに竜の考えたように後にお釈迦さまから教を受けてまことの道に入りました。 このようにしてお釈迦さまがまことのために身をすてた場所はいまは世界中のあらゆるところをみたしました。 このはなしはおとぎばなしではありません。 普通中学校などに備え付けてある顕微鏡は、拡大度が六百|倍乃至八百倍ぐらいまでですから、蝶の翅の鱗片や馬鈴薯の澱粉粒などは実にはっきり見えますが、割合に小さな細菌などはよくわかりません。千倍ぐらいになりますと、下のレンズの直径が非常に小さくなり、従って視野に光があまりはいらなくなりますので、下のレンズを油に浸してなるべく多くの光を入れて物が見えるようにします。 二千倍という顕微鏡は、数も少くまたこれを調節することができる人も幾人もないそうです。 いま、一番度の高いものは二千二百五十倍|或は二千四百倍と云います。その見得るはずの大さは、           〇、〇〇〇一四|粍  ですがこれは人によって見えたり見えなかったりするのです。 一方、私|共の眼に感ずる光の波長は、           〇、〇〇〇七六|粍    乃至           〇、〇〇〇四 粍    ですから これよりちいさなものの形が完全に私|共に見えるはずは決してないのです。 また、普通の顕微鏡で見えないほどちいさなものでも、ある装置を加えれば、           約〇、〇〇〇〇〇五|粍  くらいまでのものならばぼんやり光る点になって視野にあらわれその存在だけを示します。これを超絶顕微鏡と云います。 ところがあらゆるものの分割の終局たる分子の大きさは水素が、           〇、〇〇〇〇〇〇一六粍  砂糖の一種が           〇、〇〇〇〇〇〇五五粍  というように 計算されていますから私共は分子の形や構造は勿論その存在さえも見得ないのです。 しかるに、このような、或は更に小さなものをも明に見て、すこしも誤らない人はむかしから決して少くありません。この人たちは自分のこころを修めたのです。 印度のガンジス河はあるとき、水が増して烈しく流されていました。 それを見ている沢山の群集の中に尊いアショウカ大王も立たれました。 大王はけらいに向って「誰かこの大河の水をさかさまにながれさせることのできるものがあるか」と問われました。 けらいは皆「陛下よ、それはとても出来ないことでございます」と答えました。 ところがこの河岸の群の中にビンズマティーと云う一人のいやしい職業の女がおりました。大王の問をみんなが口々に相伝えて云っているのをきいて「わたくしは自分の肉を売って生きているいやしい女である。けれども、今、私のようないやしいものでさえできる、まことのちからの、大きいことを王様にお目にかけよう」と云いながらまごころこめて河にいのりました。 すると、ああ、ガンジス河、幅一|里にも近い大きな水の流れは、みんなの目の前で、たちまちたけりくるってさかさまにながれました。 大王はこの恐ろしくうずを巻き、はげしく鳴る音を聞いて、びっくりしてけらいに申されました「これ、これ、どうしたのじゃ。大ガンジスがさかさまにながれるではないか」 人々は次第をくわしく申し上げました。 大王は非常に感動され、すぐにその女の処に歩いて行って申されました。 「みんなはそちがこれをしたと申しているがそれはほんとうか」 女が答えました。 「はい、さようでございます。陛下よ」 「どうしてそちのようないやしいものにこんな力があるのか、何の力によるのか」 「陛下よ、私のこの河をさかさまにながれさせたのは、まことの力によるのでございます」 「でもそちのように不義で、みだらで、罪深く、ばかものを生けどってくらしているものに、どうしてまことの力があるのか」 「陛下よ、全くおっしゃるとおりでございます。わたくしは畜生同然の身分でございますが、私のようなものにさえまことの力はこのようにおおきくはたらきます」 「ではそのまことの力とはどんなものかおれのまえで話してみよ」 「陛下よ。私は私を買って下さるお方には、おなじくつかえます。武士族の尊いお方をも、いやしい穢多をもひとしくうやまいます。ひとりをたっとびひとりをいやしみません。陛下よ、このまことのこころが今日ガンジス河をさかさまにながれさせたわけでございます」  わたくしはあるひとから云いつけられて、この手紙を印刷してあなたがたにおわたしします。どなたか、ポーセがほんとうにどうなったか、知っているかたはありませんか。チュンセがさっぱりごはんもたべないで毎日考えてばかりいるのです。  ポーセはチュンセの小さな妹ですが、チュンセはいつもいじ悪ばかりしました。ポーセがせっかく植えて、水をかけた小さな桃の木になめくじをたけておいたり、ポーセの靴に甲虫を飼って、二月もそれをかくしておいたりしました。ある日などはチュンセがくるみの木にのぼって青い実を落していましたら、ポーセが小さな卵形のあたまをぬれたハンケチで包んで、「兄さん、くるみちょうだい。」なんて云いながら大へんよろこんで出て来ましたのに、チュンセは、「そら、とってごらん。」とまるで怒ったような声で云ってわざと頭に実を投げつけるようにして泣かせて帰しました。  ところがポーセは、十一月ころ、俄かに病気になったのです。おっかさんもひどく心配そうでした。チュンセが行って見ますと、ポーセの小さな唇はなんだか青くなって、眼ばかり大きくあいて、いっぱいに涙をためていました。チュンセは声が出ないのを無理にこらえて云いました。「おいら、何でも呉れてやるぜ。あの銅の歯車だって欲しけややるよ。」けれどもポーセはだまって頭をふりました。息ばかりすうすうきこえました。  チュンセは困ってしばらくもじもじしていましたが思い切ってもう一ぺん云いました。「雨雪とって来てやろか。」「うん。」ポーセがやっと答えました。チュンセはまるで鉄砲丸のようにおもてに飛び出しました。おもてはうすくらくてみぞれがびちょびちょ降っていました。チュンセは松の木の枝から雨雪を両手にいっぱいとって来ました。それからポーセの枕もとに行って皿にそれを置き、さじでポーセにたべさせました。ポーセはおいしそうに三さじばかり喰べましたら急にぐたっとなっていきをつかなくなりました。おっかさんがおどろいて泣いてポーセの名を呼びながら一生けん命ゆすぶりましたけれども、ポーセの汗でしめった髪の頭はただゆすぶられた通りうごくだけでした。チュンセはげんこを眼にあてて、虎の子供のような声で泣きました。  それから春になってチュンセは学校も六年でさがってしまいました。チュンセはもう働いているのです。春に、くるみの木がみんな青い房のようなものを下げているでしょう。その下にしゃがんで、チュンセはキャベジの床をつくっていました。そしたら土の中から一ぴきのうすい緑いろの小さな蛙がよろよろと這って出て来ました。 「かえるなんざ、潰れちまえ。」チュンセは大きな稜石でいきなりそれを叩きました。  それからひるすぎ、枯れ草の中でチュンセがとろとろやすんでいましたら、いつかチュンセはぼおっと黄いろな野原のようなところを歩いて行くようにおもいました。すると向うにポーセがしもやけのある小さな手で眼をこすりながら立っていてぼんやりチュンセに云いました。 「兄さんなぜあたいの青いおべべ裂いたの。」チュンセはびっくりしてはね起きて一生けん命そこらをさがしたり考えたりしてみましたがなんにもわからないのです。どなたかポーセを知っているかたはないでしょうか。けれども私にこの手紙を云いつけたひとが云っていました「チュンセはポーセをたずねることはむだだ。なぜならどんなこどもでも、また、はたけではたらいているひとでも、汽車の中で苹果をたべているひとでも、また歌う鳥や歌わない鳥、青や黒やのあらゆる魚、あらゆるけものも、あらゆる虫も、みんな、みんな、むかしからのおたがいのきょうだいなのだから。チュンセがもしもポーセをほんとうにかあいそうにおもうなら大きな勇気を出してすべてのいきもののほんとうの幸福をさがさなければいけない。それはナムサダルマプフンダリカサスートラというものである。チュンセがもし勇気のあるほんとうの男の子ならなぜまっしぐらにそれに向って進まないか。」それからこのひとはまた云いました。「チュンセはいいこどもだ。さァおまえはチュンセやポーセやみんなのために、ポーセをたずねる手紙を出すがいい。」そこで私はいまこれをあなたに送るのです。  四つのつめたい谷川が、カラコン山の氷河から出て、ごうごう白い泡をはいて、プハラの国にはいるのでした。四つの川はプハラの町で集って一つの大きなしずかな川になりました。その川はふだんは水もすきとおり、淵には雲や樹の影もうつるのでしたが、一ぺん洪水になると、幅十町もある楊の生えた広い河原が、恐ろしく咆える水で、いっぱいになってしまったのです。けれども水が退きますと、もとのきれいな、白い河原があらわれました。その河原のところどころには、蘆やがまなどの岸に生えた、ほそ長い沼のようなものがありました。  それは昔の川の流れたあとで、洪水のたびにいくらか形も変るのでしたが、すっかり無くなるということもありませんでした。その中には魚がたくさんおりました。殊にどじょうとなまずがたくさんおりました。けれどもプハラのひとたちは、どじょうやなまずは、みんなばかにして食べませんでしたから、それはいよいよ増えました。  なまずのつぎに多いのはやっぱり鯉と鮒でした。それからはやもおりました。ある年などは、そこに恐ろしい大きなちょうざめが、海から遁げて入って来たという、評判などもありました。けれども大人や賢い子供らは、みんな本当にしないで、笑っていました。第一それを云いだしたのは、剃刀を二|梃しかもっていない、下手な床屋のリチキで、すこしもあてにならないのでした。けれどもあんまり小さい子供らは、毎日ちょうざめを見ようとして、そこへ出かけて行きました。いくらまじめに眺めていても、そんな巨きなちょうざめは、泳ぎも浮びもしませんでしたから、しまいには、リチキは大へん軽べつされました。  さてこの国の第一条の 「火薬を使って鳥をとってはなりません、  毒もみをして魚をとってはなりません。」  というその毒もみというのは、何かと云いますと床屋のリチキはこう云う風に教えます。  山椒の皮を春の午の日の暗夜に剥いて土用を二回かけて乾かしうすでよくつく、その目方一|貫匁を天気のいい日にもみじの木を焼いてこしらえた木灰七百匁とまぜる、それを袋に入れて水の中へ手でもみ出すことです。  そうすると、魚はみんな毒をのんで、口をあぶあぶやりながら、白い腹を上にして浮びあがるのです。そんなふうにして、水の中で死ぬことは、この国の語ではエップカップと云いました。これはずいぶんいい語です。  とにかくこの毒もみをするものを押えるということは警察のいちばん大事な仕事でした。  ある夏、この町の警察へ、新らしい署長さんが来ました。  この人は、どこか河獺に似ていました。赤ひげがぴんとはねて、歯はみんな銀の入歯でした。署長さんは立派な金モールのついた、長い赤いマントを着て、毎日ていねいに町をみまわりました。  驢馬が頭を下げてると荷物があんまり重過ぎないかと驢馬追いにたずねましたし家の中で赤ん坊があんまり泣いていると疱瘡の呪いを早くしないといけないとお母さんに教えました。  ところがそのころどうも規則の第一条を用いないものができてきました。あの河原のあちこちの大きな水たまりからいっこう魚が釣れなくなって時々は死んで腐ったものも浮いていました。また春の午の日の夜の間に町の中にたくさんある山椒の木がたびたびつるりと皮を剥かれておりました。けれども署長さんも巡査もそんなことがあるかなあというふうでした。  ところがある朝手習の先生のうちの前の草原で二人の子供がみんなに囲まれて交る交る話していました。 「署長さんにうんと叱られたぞ」 「署長さんに叱られたかい。」少し大きなこどもがききました。 「叱られたよ。署長さんの居るのを知らないで石をなげたんだよ。するとあの沼の岸に署長さんが誰か三四人とかくれて毒もみをするものを押えようとしていたんだ。」 「なんと云って叱られた。」 「誰だ。石を投げるものは。おれたちは第一条の犯人を押えようと思って一日ここに居るんだぞ。早く黙って帰れ。って云った。」 「じゃきっと間もなくつかまるねえ。」  ところがそれから半年ばかりたちますとまたこどもらが大さわぎです。 「そいつはもうたしかなんだよ。僕の証拠というのはね、ゆうべお月さまの出るころ、署長さんが黒い衣だけ着て、頭巾をかぶってね、変な人と話してたんだよ。ね、そら、あの鉄砲打ちの小さな変な人ね、そしてね、『おい、こんどはも少しよく、粉にして来なくちゃいかんぞ。』なんて云ってるだろう。それから鉄砲打ちが何か云ったら、『なんだ、柏の木の皮もまぜておいた癖に、一俵二|両だなんて、あんまり無法なことを云うな。』なんて云ってるだろう。きっと山椒の皮の粉のことだよ。」  するとも一人が叫びました。 「あっ、そうだ。あのね、署長さんがね、僕のうちから、灰を二俵買ったよ。僕、持って行ったんだ。ね、そら、山椒の粉へまぜるのだろう。」 「そうだ。そうだ。きっとそうだ。」みんなは手を叩いたり、こぶしを握ったりしました。  床屋のリチキは、商売がはやらないで、ひまなもんですから、あとでこの話をきいて、すぐ勘定しました。      毒もみ収支計算  費用の部    一、金 二両 山椒皮 一俵    一、金 三十|銭 灰 一俵       計 二両三十銭|也  収入の部    一、金 十三両 鰻 十三|斤    一、金 十両  その他見積り       計  二十三両也  差引勘定     二十両七十銭 署長利益  あんまりこんな話がさかんになって、とうとう小さな子供らまでが、巡査を見ると、わざと遠くへ遁げて行って、 「毒もみ巡査、  なまずはよこせ。」  なんて、力いっぱいからだまで曲げて叫んだりするもんですから、これではとてもいかんというので、プハラの町長さんも仕方なく、家来を六人連れて警察に行って、署長さんに会いました。  二人が一緒に応接室の椅子にこしかけたとき、署長さんの黄金いろの眼は、どこかずうっと遠くの方を見ていました。 「署長さん、ご存じでしょうか、近頃、林野取締法の第一条をやぶるものが大変あるそうですが、どうしたのでしょう。」 「はあ、そんなことがありますかな。」 「どうもあるそうですよ。わたしの家の山椒の皮もはがれましたし、それに魚が、たびたび死んでうかびあがるというではありませんか。」  すると署長さんがなんだか変にわらいました。けれどもそれも気のせいかしらと、町長さんは思いました。 「はあ、そんな評判がありますかな。」 「ありますとも。どうもそしてその、子供らが、あなたのしわざだと云いますが、困ったもんですな。」  署長さんは椅子から飛びあがりました。 「そいつは大へんだ。僕の名誉にも関係します。早速犯人をつかまえます。」 「何かおてがかりがありますか。」 「さあ、そうそう、ありますとも。ちゃんと証拠があがっています。」 「もうおわかりですか。」 「よくわかってます。実は毒もみは私ですがね。」  署長さんは町長さんの前へ顔をつき出してこの顔を見ろというようにしました。  町長さんも愕きました。 「あなた? やっぱりそうでしたか。」 「そうです。」 「そんならもうたしかですね。」 「たしかですとも。」  署長さんは落ち着いて、卓子の上の鐘を一つカーンと叩いて、赤ひげのもじゃもじゃ生えた、第一等の探偵を呼びました。  さて署長さんは縛られて、裁判にかかり死刑ということにきまりました。  いよいよ巨きな曲った刀で、首を落されるとき、署長さんは笑って云いました。 「ああ、面白かった。おれはもう、毒もみのことときたら、全く夢中なんだ。いよいよこんどは、地獄で毒もみをやるかな。」  みんなはすっかり感服しました。  おとら狐のはなしは、どなたもよくご存じでしょう。おとら狐にも、いろいろあったのでしょうか、私の知っているのは、「とっこべ、とら子」というのです。 「とっこべ」というのは名字でしょうか。「とら」というのは名前ですかね。そうすると、名字がさまざまで、名前がみんな「とら」という狐が、あちこちに住んでいたのでしょうか。  さて、むかし、とっこべとら子は大きな川の岸に住んでいて、夜、網打ちに行った人から魚を盗ったり、買物をして町から遅く帰る人から油揚げを取りかえしたり、実に始末におえないものだったそうです。  慾ふかのじいさんが、ある晩ひどく酔っぱらって、町から帰って来る途中、その川岸を通りますと、ピカピカした金らんの上下の立派なさむらいに会いました。じいさんは、ていねいにおじぎをして行き過ぎようとしましたら、さむらいがピタリととまって、ちょっとそらを見上げて、それからあごを引いて、六平を呼び留めました。秋の十五夜でした。 「あいや、しばらく待て。そちは何と申す」 「へいへい。私は六平と申します」 「六平とな。そちは金貸しを業と致しおるな」 「へいへい。御意の通りでございます。手元の金子は、すべて、只今ご用立致しております」 「いやいや、拙者が借りようと申すのではない。どうじゃ。金貸しは面白かろう」 「へい、御冗談、へいへい。御意の通りで」 「拙者に少しく不用の金子がある。それに遠国に参る所じゃ。預かっておいてもらえまいか。もっとも拙者も数々敵を持つ身じゃ。万一途中相果てたなれば、金子はそのままそちに遣わす。どうじゃ」 「へい。それはきっとお預かりいたしまするでございます」 「左様か。あいや。金子はこれにじゃ。そち自ら蓋を開いて一応改めくれい。エイヤ。はい。ヤッ」さむらいはふところから白いたすきを取り出して、たちまち十字にたすきをかけ、ごわりと袴のもも立ちを取り、とんとんとんと土手の方へ走りましたが、ちょっとかがんで土手のかげから、千両ばこを一つ持って参りました。  ははあ、こいつはきっと泥棒だ、そうでなければにせ金使い、しかし何でもかまわない、万一途中相果てたなれば、金はごろりとこっちのものと、六平はひとりで考えて、それからほくほくするのを無理にかくして申しました。 「へい。へい。よろしゅうござります。御意の通り一応お改めいたしますでござります」  蓋を開くと中に小判が一ぱいつまり、月にぎらぎらかがやきました。  ハイ、ヤッとさむらいは千両|函を又一つ持って参りました。六平はもっともらしく又あらためました。これも小判が一ぱいで月にぎらぎらです。ハイ、ヤッ、ハイヤッ、ハイヤッ。千両ばこはみなで十ほどそこに積まれました。 「どうじゃ。これだけをそち一人で持ち参れるのかの。もっともそちの持てるだけ預けることといたそうぞよ」  どうもさむらいのことばが少し変でしたし、そしてたしかに変ですが、まあ六平にはそんなことはどうでもよかったのです。 「へい。へい。何の千両ばこの十やそこばこ、きっときっと持ち参るでござりましょう」 「うむ。左様か。しからば。いざ。いざ、持ち参れい」 「へいへい。ウントコショ、ウントコショ、ウウントコショ。ウウウントコショ」 「豪儀じゃ、豪儀じゃ、そちは左程になけれども、そちの身に添う慾心が実に大力じゃ。大力じゃのう。ほめ遣わす。ほめ遣わす。さらばしかと預けたぞよ」  さむらいは銀扇をパッと開いて感服しましたが、六平は余りの重さに返事も何も出来ませんでした。  さむらいは扇をかざして月に向って、 「それ一芸あるものはすがたみにくし」と何だか謡曲のような変なものを低くうなりながら向うへ歩いて行きました。  六平は十の千両ばこをよろよろしょって、もうお月さまが照ってるやら、路がどう曲ってどう上ってるやら、まるで夢中で自分の家までやってまいりました。そして荷物をどっかり庭におろして、おかしな声で外から怒鳴りました。 「開けろ開けろ。お帰りだ。大尽さまのお帰りだ」  六平の娘が戸をガタッと開けて、 「あれまあ、父さん。そったに砂利しょて何しただす」と叫びました。  六平もおどろいておろしたばかりの荷物を見ましたら、おやおや、それはどての普請の十の砂利俵でした。  六平はクウ、クウ、クウと鳴って、白い泡をはいて気絶しました。それからもうひどい熱病になって、二か月の間というもの、 「とっこべとら子に、だまされだ。ああ欺されだ」と叫んでいました。  みなさん。こんな話は一体ほんとうでしょうか。どうせ昔のことですから誰もよくわかりませんが多分|偽ではないでしょうか。  どうしてって、私はその偽の方の話をも一つちゃんと知ってるんです。それはあんまりちかごろ起ったことでもうそれがうそなことは疑いもなにもありません。実はゆうべ起ったことなのです。  さあ、ご覧なさい。やはりあの大きな川の岸で、狐の住んでいた処から半町ばかり離れた所に平右衛門という人の家があります。  平右衛門は今年の春村会議員になりました。それですから今夜はそのお祝いで親類はみな呼ばれました。  もうみんな大よろこび、ワッハハ、アッハハ、よう、おらおととい町さ行ったら魚屋の店で章魚といかとが立ちあがって喧嘩した、ワッハハ、アッハハ、それはほんとか、それがらどうした、うん、かつおぶしが仲裁に入った、ワッハハ、アッハハ、それからどうした、ウン、するとかつおぶしがウウゥイ、ころは元禄十四年んん、おいおい、それは何だい、うん、なにさ、かつおぶしだもふしばがり、ワッハハアッハハ、まあのめ、さあ一杯、なんて大さわぎでした。ところがその中に一人一向笑わない男がありました。それは小吉という青い小さな意地悪の百姓でした。  小吉はさっきから怒ってばかりいたのです。とうとう小吉がぷっと座を立ちました。  平右衛門が、 「待て、待て、小吉。もう一杯やれ、待てったら」と言っていましたが小吉はぷいっと下駄をはいて表に出てしまいました。  空がよく晴れて十三日の月がその天辺にかかりました。小吉が門を出ようとしてふと足もとを見ますと門の横の田の畔に疫病除けの「源の大将」が立っていました。  それは竹へ半紙を一枚はりつけて大きな顔を書いたものです。  その「源の大将」が青い月のあかりの中でこと更顔を横にまげ眼を瞋らせて小吉をにらんだように見えました。小吉も怒ってすぐそれを引っこ抜いて田の中に投げてしまおうとしましたが俄かに何を考えたのかにやりと笑ってそれを路のまん中に立て直しました。  そして又ひとりでぷんぷんぷんぷん言いながら二つの低い丘を越えて自分の家に帰り、おみやげを待っていた子供を叱りつけてだまって床にもぐり込んでしまいました。  ちょうどその頃平右衛門の家ではもう酒盛りが済みましたので、お客様はみんなでご馳走の残りを藁のつとに入れて、ぶらりぶらりと提げながら、三人ずつぶっつかったり、四人ずつぶっつかり合ったりして、門の処まで出て参りました。  縁側に出てそれを見送った平右衛門は、みんなにわかれの挨拶をしました。 「それではお気をつけて。おみやげをとっこべとらこに取られなぃようにアッハッハッハ」  お客さまの中の一人がだらりと振り向いて返事しました。 「ハッハッハ。とっこべとらこだらおれの方で取って食ってやるべ」  その語がまだ終らないうちに、神出鬼没のとっこべとらこが、門の向うの道のまん中にまっ白な毛をさか立てて、こっちをにらんで立ちました。 「わあ、出た出た。逃げろ。逃げろ」  もう大へんなさわぎです。みんな泥足でヘタヘタ座敷へ逃げ込みました。  平右衛門は手早くなげしから薙刀をおろし、さやを払い物凄い抜身をふり廻しましたので一人のお客さまはあぶなく赤いはなを切られようとしました。  平右衛門はひらりと縁側から飛び下りて、はだしで門前の白狐に向って進みます。  みんなもこれに力を得てかさかさしたときの声をあげて景気をつけ、ぞろぞろ随いて行きました。  さて平右衛門もあまりといえばありありとしたその白狐の姿を見ては怖さが咽喉までこみあげましたが、みんなの手前もありますので、やっと一声切り込んで行きました。  たしかに手ごたえがあって、白いものは薙刀の下で、プルプル動いています。 「仕留めたぞ。仕留めたぞ。みんな来い」と平右衛門は叫びました。 「さすがは畜生の悲しさ、もろいもんだ」とみんなは悦び勇んで狐の死骸を囲みました。  ところがどうです。今度はみんなは却ってぎっくりしてしまいました。そうでしょう。  その古い狐は、もう身代りに疫病よけの「源の大将」などを置いて、どこかへ逃げているのです。  みんなは口々に言いました。 「やっぱり古い狐だな。まるで眼玉は火のようだったぞ」 「おまけに毛といったら銀の針だ」 「全く争われないもんだ。口が耳まで裂けていたからな。崇られまぃが」 「心配するな。あしたはみんなで川岸に油揚を持って行って置いて来るとしよう」  みんなは帰る元気もなくなって、平右衛門の所に泊りました。 「源の大将」はお顔を半分切られて月光にキリキリ歯を喰いしばっているように見えました。  夜中になってから「とっこべ、とら子」とその沢山の可愛らしい部下とが又出て来て、庭に抛り出されたあのおみやげの藁の苞を、かさかさ引いた、たしかにその音がしたとみんながさっきも話していました。 「煙山にエレッキのやなぎの木があるよ。」  藤原|慶次郎がだしぬけに私に云いました。私たちがみんな教室に入って、机に座り、先生はまだ教員室に寄っている間でした。尋常四年の二学期のはじめ頃だったと思います。 「エレキの楊の木?」と私が尋ね返そうとしましたとき、慶次郎はあんまり短くて書けなくなった鉛筆を、一番前の源吉に投げつけました。源吉はうしろを向いて、みんなの顔をくらべていましたが、すばやく机に顔を伏せて、両手で頭をかかえてかくれていた慶次郎を見つけると、まるで怒り出して 「何するんだい。慶次郎。何するんだい。」なんて高く叫びました。みんなもこっちを見たので私も大へんきまりが悪かったのです。その時先生が、鞭や白墨や地図を持って入って来られたもんですから、みんなは俄かにしずかになって立ち、源吉ももう一遍こっちをふりむいてから、席のそばに立ちました。慶次郎も顔をまっ赤にしてくつくつ笑いながら立ちました。そして礼がすんで授業がはじまりました。私は授業中もそのやなぎのことを早く慶次郎に尋ねたかったのですけれどもどう云うわけかあんまり聞きたかったために云い出し兼ねていました。それに慶次郎がもう忘れたような顔をしていたのです。  けれどもその時間が終り、礼も済んでみんな並んで廊下へ出る途中、私は慶次郎にたずねました。 「さっきの楊の木ね、煙山の楊の木ね、どうしたって云うの。」  慶次郎はいつものように、白い歯を出して笑いながら答えました。 「今朝|権兵衛茶屋のとこで、馬をひいた人がそう云っていたよ。煙山の野原に鳥を吸い込む楊の木があるって。エレキらしいって云ったよ。」 「行こうじゃないか。見に行こうじゃないか。どんなだろう。きっと古い木だね。」私は冬によくやる木片を焼いて髪毛に擦るとごみを吸い取ることを考えながら云いました。 「行こう。今日|僕うちへ一遍帰ってから、さそいに行くから。」 「待ってるから。」私たちは約束しました。そしてその通りその日のひるすぎ、私たちはいっしょに出かけたのでした。  権兵衛茶屋のわきから蕎麦ばたけや松林を通って、煙山の野原に出ましたら、向うには毒ヶ森や南晶山が、たいへん暗くそびえ、その上を雲がぎらぎら光って、処々には竜の形の黒雲もあって、どんどん北の方へ飛び、野原はひっそりとして人も馬も居ず、草には穂が一杯に出ていました。 「どっちへ行こう。」 「さきに川原へ行って見ようよ。あそこには古い木がたくさんあるから。」  私たちはだんだん河の方へ行きました。  けむりのような草の穂をふんで、一生けん命急いだのです。  向うに毒ヶ森から出て来る小さな川の白い石原が見えて来ました。その川は、ふだんは水も大へんに少くて、大抵の処なら着物を脱がなくても渉れる位だったのですが、一ぺん水が出ると、まるで川幅が二十間位にもなって恐ろしく濁り、ごうごう流れるのでした。ですから川原は割合に広く、まっ白な砂利でできていて、処々にはひめははこぐさやすぎなやねむなどが生えていたのでしたが、少し上流の方には、川に添って大きな楊の木が、何本も何本もならんで立っていたのです。私たちはその上流の方の青い楊の木立を見ました。 「どの木だろうね。」 「さあ、どの木だか知らないよ。まあ行って見ようや。鳥が吸い込まれるって云うんだから、見たらわかるだろう。」  私たちはそっちへ歩いて行きました。  そこらの草は、みじかかったのですが粗くて剛くて度々足を切りそうでしたので、私たちは河原に下りて石をわたって行きました。  それから川がまがっているので水に入りました。空が曇っていましたので水は灰いろに見えそれに大へんつめたかったので、私たちはあまのじゃくのような何とも云えない寂しい心持がしました。  だんだん溯って、とうとうさっき青いくしゃくしゃの球のように見えたいちばんはずれの楊の木の前まで来ましたがやっぱり野原はひっそりして音もなかったのです。 「この木だろうか。さっぱり鳥が居ないからわからないねえ。」  私が云いましたら慶次郎も心配そうに向うの方からずうっとならんでいる木を一本ずつ見ていました。  野原には風がなかったのですが空には吹いていたと見えてぎらぎら光る灰いろの雲が、所々|鼠いろの縞になってどんどん北の方へ流れていました。 「鳥が来なくちゃわからないねえ。」慶次郎が又云いました。 「うん、鷹か何か来るといいねえ。木の上を飛んでいて、きっとよろよろしてしまうと僕はおもうよ。」 「きまってらあ、殺生石だってそうだそうだよ。」 「きっと鳥はくちばしを引かれるんだね。」 「そうさ。くちばしならきっと磁石にかかるよ。」 「楊の木に磁石があるのだろうか。」 「磁石だ。」  風がどうっとやって来ました。するといままで青かった楊の木が、俄かにさっと灰いろになり、その葉はみんなブリキでできているように変ってしまいました。そしてちらちらちらちらゆれたのです。  私たちは思わず一緒に叫んだのでした。 「ああ磁石だ。やっぱり磁石だ。」  ところがどうしたわけか、鳥は一向来ませんでした。  慶次郎は、いかにもその鷹やなにかが楊の木に嘴を引っぱられて、逆になって木の中に吸い込まれるのを見たいらしく、上の方ばかり向いて歩きましたし、私もやはりその通りでしたから、二人はたびたび石につまづいて、倒れそうになったり又いきなりバチャンと川原の中のたまり水にふみ込んだりもしました。 「どうして今日は斯う鳥がいないだろう。」  慶次郎は、少し恨めしいように空を見まわしました。 「みんなその楊の木に吸われてしまったのだろうか。」私はまさかそうでもないとは思いながら斯う言いました。 「だって野原中の鳥が、みんな吸いこまれるってそんなことはないだろう。」慶次郎がまじめに云いましたので私は笑いました。  その時、こっち岸の河原は尽きてしまって、もっと川を溯るには、どうしてもまた水を渉らなければならないようになりました。  そして水に足を入れたとき、私たちは思わずばあっと棒立ちになってしまいました。向うの楊の木から、まるでまるで百|疋ばかりの百舌が、一ぺんに飛び立って、一かたまりになって北の方へかけて行くのです。その塊は波のようにゆれて、ぎらぎらする雲の下を行きましたが、俄かに向うの五本目の大きな楊の上まで行くと、本当に磁石に吸い込まれたように、一ぺんにその中に落ち込みました。みんなその梢の中に入ってしばらくがあがあがあがあ鳴いていましたが、まもなくしいんとなってしまいました。  私は実際変な気がしてしまいました。なぜならもずがかたまって飛んで行って、木におりることは、決してめずらしいことではなかったのですが、今日のはあんまり俄かに落ちたし事によると、あの馬を引いた人のはなしの通り木に吸い込まれたのかも知れないというのですから、まったくなんだか本当のような偽のような変な気がして仕方なかったのです。  慶次郎もそうなようでした。水の中に立ったまま、しばらく考えていましたが、気がついたように云いました。 「今のは吸い込まれたのだろうか。」 「そうかも知れないよ。」どうだかと思いながら私は生返事をしました。 「吸い込まれたのだねえ、だってあんまり急に落ちた。」慶次郎も無理にそうきめたいと云う風でした。 「もう死んだのかも知れないよ。」私は又どうもそうでもないと思いながら云いました。 「死んだのだねえ、死ぬ前苦しがって泣いた。」慶次郎が又|斯うは云いましたが、やっぱり変な顔をしていました。 「石を投げて見ようか。石を投げても遁げなかったら死んだんだ。」 「投げよう。」慶次郎はもう水の中から円い平たい石を一つ拾っていました。そして力一ぱいさっきの楊の木に投げつけました。石はその半分も行きませんでしたが、百舌はにわかにがあっと鳴って、まるで音譜をばらまきにしたように飛びあがりました。  そしてすぐとなりの少し低い楊の木の中にはいりました。すっかりさっきの通りだったのです。 「生きていたねえ、だまってみんな僕たちのこと見てたんだよ。」慶次郎はがっかりしたようでした。 「そうだよ。石が届かないうちに、みんな飛んだもねえ。」私も答えながらたいへん寂しい気がして向うの河原に向って又水を渉りはじめました。  私たちは河原にのぼって、砥石になるような柔らかな白い円い石を見ました。ほんとうはそれはあんまり柔らかで砥石にはならなかったかも知れませんが、とにかく私たちはそう云う石をよく砥石と云って外の硬い大きな石に水で擦って四角にしたものです。慶次郎はそれを両手で起して、川へバチャンと投げました。石はすぐ沈んで水の底へ行き、ことにまっ白に少し青白く見えました。私はそれが又何とも云えず悲しいように思ったのです。  その時でした。俄かにそらがやかましくなり、見上げましたら一むれの百舌が私たちの頭の上を過ぎていました。百舌はたしかに私たちを恐れたらしく、一段高く飛びあがって、それから楊を二本越えて、向うの三本目の楊を通るとき、又何かに引っぱられたように、いきなりその中に入ってしまいました。  けれどももう、私も慶次郎も、その木の中でもずが死ぬとは思いませんでした。慶次郎は本気に石を投げたのでしたが、百舌は一ぺんにとびあがりました。向うの低い楊の木からも、やかましく鳴いてさっきの鳥がとび立ちました。私はほんとうにさびしくなってもう帰ろうと思いました。 「どこかに、けれど、ほんとうの木はあるよ。」  慶次郎は云いました。私もどこかにあるとは思いましたが、この川には決してないと思ったのです。 「外へ行って見よう。野原のうち、どこか外の処だよ。外へ行って見よう。」私は云いました。慶次郎もだまってあるき出し、私たちは河原から岸の草はらの方へ出ました。  それから毒ヶ森の麓の黒い松林の方へ向いて、きつねのしっぽのような茶いろの草の穂をふんで歩いて行きました。  そしたら慶次郎が、ちょっとうしろを振り向いて叫びました。 「あ、ごらん、あんなに居たよ。」  私もふり向きました。もずが、まるで千疋ばかりも飛びたって、野原をずうっと向うへかけて行くように見えましたが、今度も又、俄かに一本の楊の木に落ちてしまいました。けれども私たちはもう何も云いませんでした。鳥を吸い込む楊の木があるとも思えず、又鳥の落ち込みようがあんまりひどいので、そんなことが全くないとも思えず、ほんとうに気持ちが悪くなったのでした。 「もうだめだよ。帰ろう。」私は云いました。そして慶次郎もだまってくるっと戻ったのでした。  けれどもいまでもまだ私には、楊の木に鳥を吸い込む力があると思えて仕方ないのです。  おかしなはがきが、ある土曜日の夕がた、一郎のうちにきました。 かねた一郎さま 九月十九日 あなたは、ごきげんよろしいほで、けっこです。 あした、めんどなさいばんしますから、おいで んなさい。とびどぐもたないでくなさい。                 山ねこ 拝  こんなのです。字はまるでへたで、墨もがさがさして指につくくらいでした。けれども一郎はうれしくてうれしくてたまりませんでした。はがきをそっと学校のかばんにしまって、うちじゅうとんだりはねたりしました。  ね床にもぐってからも、山猫のにゃあとした顔や、そのめんどうだという裁判のけしきなどを考えて、おそくまでねむりませんでした。  けれども、一郎が眼をさましたときは、もうすっかり明るくなっていました。おもてにでてみると、まわりの山は、みんなたったいまできたばかりのようにうるうるもりあがって、まっ青なそらのしたにならんでいました。一郎はいそいでごはんをたべて、ひとり谷川に沿ったこみちを、かみの方へのぼって行きました。  すきとおった風がざあっと吹くと、栗の木はばらばらと実をおとしました。一郎は栗の木をみあげて、 「栗の木、栗の木、やまねこがここを通らなかったかい。」とききました。栗の木はちょっとしずかになって、 「やまねこなら、けさはやく、馬車でひがしの方へ飛んで行きましたよ。」と答えました。 「東ならぼくのいく方だねえ、おかしいな、とにかくもっといってみよう。栗の木ありがとう。」  栗の木はだまってまた実をばらばらとおとしました。  一郎がすこし行きますと、そこはもう笛ふきの滝でした。笛ふきの滝というのは、まっ白な岩の崖のなかほどに、小さな穴があいていて、そこから水が笛のように鳴って飛び出し、すぐ滝になって、ごうごう谷におちているのをいうのでした。  一郎は滝に向いて叫びました。 「おいおい、笛ふき、やまねこがここを通らなかったかい。」  滝がぴーぴー答えました。 「やまねこは、さっき、馬車で西の方へ飛んで行きましたよ。」 「おかしいな、西ならぼくのうちの方だ。けれども、まあも少し行ってみよう。ふえふき、ありがとう。」  滝はまたもとのように笛を吹きつづけました。  一郎がまたすこし行きますと、一本のぶなの木のしたに、たくさんの白いきのこが、どってこどってこどってこと、変な楽隊をやっていました。  一郎はからだをかがめて、 「おい、きのこ、やまねこが、ここを通らなかったかい。」 とききました。するときのこは 「やまねこなら、けさはやく、馬車で南の方へ飛んで行きましたよ。」とこたえました。一郎は首をひねりました。 「みなみならあっちの山のなかだ。おかしいな。まあもすこし行ってみよう。きのこ、ありがとう。」  きのこはみんないそがしそうに、どってこどってこと、あのへんな楽隊をつづけました。  一郎はまたすこし行きました。すると一本のくるみの木の梢を、栗鼠がぴょんととんでいました。一郎はすぐ手まねぎしてそれをとめて、 「おい、りす、やまねこがここを通らなかったかい。」とたずねました。するとりすは、木の上から、額に手をかざして、一郎を見ながらこたえました。 「やまねこなら、けさまだくらいうちに馬車でみなみの方へ飛んで行きましたよ。」 「みなみへ行ったなんて、二とこでそんなことを言うのはおかしいなあ。けれどもまあもすこし行ってみよう。りす、ありがとう。」りすはもう居ませんでした。ただくるみのいちばん上の枝がゆれ、となりのぶなの葉がちらっとひかっただけでした。  一郎がすこし行きましたら、谷川にそったみちは、もう細くなって消えてしまいました。そして谷川の南の、まっ黒な榧の木の森の方へ、あたらしいちいさなみちがついていました。一郎はそのみちをのぼって行きました。榧の枝はまっくろに重なりあって、青ぞらは一きれも見えず、みちは大へん急な坂になりました。一郎が顔をまっかにして、汗をぽとぽとおとしながら、その坂をのぼりますと、にわかにぱっと明るくなって、眼がちくっとしました。そこはうつくしい黄金いろの草地で、草は風にざわざわ鳴り、まわりは立派なオリーブいろのかやの木のもりでかこまれてありました。  その草地のまん中に、せいの低いおかしな形の男が、膝を曲げて手に革鞭をもって、だまってこっちをみていたのです。  一郎はだんだんそばへ行って、びっくりして立ちどまってしまいました。その男は、片眼で、見えない方の眼は、白くびくびくうごき、上着のような半纒のようなへんなものを着て、だいいち足が、ひどくまがって山羊のよう、ことにそのあしさきときたら、ごはんをもるへらのかたちだったのです。一郎は気味が悪かったのですが、なるべく落ちついてたずねました。 「あなたは山猫をしりませんか。」  するとその男は、横眼で一郎の顔を見て、口をまげてにやっとわらって言いました。 「山ねこさまはいますぐに、ここに戻ってお出やるよ。おまえは一郎さんだな。」  一郎はぎょっとして、一あしうしろにさがって、 「え、ぼく一郎です。けれども、どうしてそれを知ってますか。」と言いました。するとその奇体な男はいよいよにやにやしてしまいました。 「そんだら、はがき見だべ。」 「見ました。それで来たんです。」 「あのぶんしょうは、ずいぶん下手だべ。」と男は下をむいてかなしそうに言いました。一郎はきのどくになって、 「さあ、なかなか、ぶんしょうがうまいようでしたよ。」 と言いますと、男はよろこんで、息をはあはあして、耳のあたりまでまっ赤になり、きもののえりをひろげて、風をからだに入れながら、 「あの字もなかなかうまいか。」とききました。一郎は、おもわず笑いだしながら、へんじしました。 「うまいですね。五年生だってあのくらいには書けないでしょう。」  すると男は、急にまたいやな顔をしました。 「五年生っていうのは、尋常五年生だべ。」その声が、あんまり力なくあわれに聞えましたので、一郎はあわてて言いました。 「いいえ、大学校の五年生ですよ。」  すると、男はまたよろこんで、まるで、顔じゅう口のようにして、にたにたにたにた笑って叫びました。 「あのはがきはわしが書いたのだよ。」  一郎はおかしいのをこらえて、 「ぜんたいあなたはなにですか。」とたずねますと、男は急にまじめになって、 「わしは山ねこさまの馬車|別当だよ。」と言いました。  そのとき、風がどうと吹いてきて、草はいちめん波だち、別当は、急にていねいなおじぎをしました。  一郎はおかしいとおもって、ふりかえって見ますと、そこに山猫が、黄いろな陣羽織のようなものを着て、緑いろの眼をまん円にして立っていました。やっぱり山猫の耳は、立って尖っているなと、一郎がおもいましたら、山ねこはぴょこっとおじぎをしました。一郎もていねいに挨拶しました。 「いや、こんにちは、きのうははがきをありがとう。」  山猫はひげをぴんとひっぱって、腹をつき出して言いました。 「こんにちは、よくいらっしゃいました。じつはおとといから、めんどうなあらそいがおこって、ちょっと裁判にこまりましたので、あなたのお考えを、うかがいたいとおもいましたのです。まあ、ゆっくり、おやすみください。じき、どんぐりどもがまいりましょう。どうもまい年、この裁判でくるしみます。」山ねこは、ふところから、巻煙草の箱を出して、じぶんが一本くわえ、 「いかがですか。」と一郎に出しました。一郎はびっくりして、 「いいえ。」と言いましたら、山ねこはおおようにわらって、 「ふふん、まだお若いから、」と言いながら、マッチをしゅっと擦って、わざと顔をしかめて、青いけむりをふうと吐きました。山ねこの馬車別当は、気を付けの姿勢で、しゃんと立っていましたが、いかにも、たばこのほしいのをむりにこらえているらしく、なみだをぼろぼろこぼしました。  そのとき、一郎は、足もとでパチパチ塩のはぜるような、音をききました。びっくりして屈んで見ますと、草のなかに、あっちにもこっちにも、黄金いろの円いものが、ぴかぴかひかっているのでした。よくみると、みんなそれは赤いずぼんをはいたどんぐりで、もうその数ときたら、三百でも利かないようでした。わあわあわあわあ、みんななにか云っているのです。 「あ、来たな。蟻のようにやってくる。おい、さあ、早くベルを鳴らせ。今日はそこが日当りがいいから、そこのとこの草を刈れ。」やまねこは巻たばこを投げすてて、大いそぎで馬車別当にいいつけました。馬車別当もたいへんあわてて、腰から大きな鎌をとりだして、ざっくざっくと、やまねこの前のとこの草を刈りました。そこへ四方の草のなかから、どんぐりどもが、ぎらぎらひかって、飛び出して、わあわあわあわあ言いました。  馬車別当が、こんどは鈴をがらんがらんがらんがらんと振りました。音はかやの森に、がらんがらんがらんがらんとひびき、黄金のどんぐりどもは、すこししずかになりました。見ると山ねこは、もういつか、黒い長い繻子の服を着て、勿体らしく、どんぐりどもの前にすわっていました。まるで奈良のだいぶつさまにさんけいするみんなの絵のようだと一郎はおもいました。別当がこんどは、革鞭を二三べん、ひゅうぱちっ、ひゅう、ぱちっと鳴らしました。  空が青くすみわたり、どんぐりはぴかぴかしてじつにきれいでした。 「裁判ももう今日で三日目だぞ、いい加減になかなおりをしたらどうだ。」山ねこが、すこし心配そうに、それでもむりに威張って言いますと、どんぐりどもは口々に叫びました。 「いえいえ、だめです、なんといったって頭のとがってるのがいちばんえらいんです。そしてわたしがいちばんとがっています。」 「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。いちばんまるいのはわたしです。」 「大きなことだよ。大きなのがいちばんえらいんだよ。わたしがいちばん大きいからわたしがえらいんだよ。」 「そうでないよ。わたしのほうがよほど大きいと、きのうも判事さんがおっしゃったじゃないか。」 「だめだい、そんなこと。せいの高いのだよ。せいの高いことなんだよ。」 「押しっこのえらいひとだよ。押しっこをしてきめるんだよ。」もうみんな、がやがやがやがや言って、なにがなんだか、まるで蜂の巣をつっついたようで、わけがわからなくなりました。そこでやまねこが叫びました。 「やかましい。ここをなんとこころえる。しずまれ、しずまれ。」  別当がむちをひゅうぱちっとならしましたのでどんぐりどもは、やっとしずまりました。やまねこは、ぴんとひげをひねって言いました。 「裁判ももうきょうで三日目だぞ。いい加減に仲なおりしたらどうだ。」  すると、もうどんぐりどもが、くちぐちに云いました。 「いえいえ、だめです。なんといったって、頭のとがっているのがいちばんえらいのです。」 「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。」 「そうでないよ。大きなことだよ。」がやがやがやがや、もうなにがなんだかわからなくなりました。山猫が叫びました。 「だまれ、やかましい。ここをなんと心得る。しずまれしずまれ。」  別当が、むちをひゅうぱちっと鳴らしました。山猫がひげをぴんとひねって言いました。 「裁判ももうきょうで三日目だぞ。いい加減になかなおりをしたらどうだ。」 「いえ、いえ、だめです。あたまのとがったものが……。」がやがやがやがや。  山ねこが叫びました。 「やかましい。ここをなんとこころえる。しずまれ、しずまれ。」  別当が、むちをひゅうぱちっと鳴らし、どんぐりはみんなしずまりました。山猫が一郎にそっと申しました。 「このとおりです。どうしたらいいでしょう。」  一郎はわらってこたえました。 「そんなら、こう言いわたしたらいいでしょう。このなかでいちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなっていないようなのが、いちばんえらいとね。ぼくお説教できいたんです。」  山猫はなるほどというふうにうなずいて、それからいかにも気取って、繻子のきものの胸を開いて、黄いろの陣羽織をちょっと出してどんぐりどもに申しわたしました。 「よろしい。しずかにしろ。申しわたしだ。このなかで、いちばんえらくなくて、ばかで、めちゃくちゃで、てんでなっていなくて、あたまのつぶれたようなやつが、いちばんえらいのだ。」  どんぐりは、しいんとしてしまいました。それはそれはしいんとして、堅まってしまいました。  そこで山猫は、黒い繻子の服をぬいで、額の汗をぬぐいながら、一郎の手をとりました。別当も大よろこびで、五六ぺん、鞭をひゅうぱちっ、ひゅうぱちっ、ひゅうひゅうぱちっと鳴らしました。やまねこが言いました。 「どうもありがとうございました。これほどのひどい裁判を、まるで一分半でかたづけてくださいました。どうかこれからわたしの裁判所の、名誉判事になってください。これからも、葉書が行ったら、どうか来てくださいませんか。そのたびにお礼はいたします。」 「承知しました。お礼なんかいりませんよ。」 「いいえ、お礼はどうかとってください。わたしのじんかくにかかわりますから。そしてこれからは、葉書にかねた一郎どのと書いて、こちらを裁判所としますが、ようございますか。」  一郎が「ええ、かまいません。」と申しますと、やまねこはまだなにか言いたそうに、しばらくひげをひねって、眼をぱちぱちさせていましたが、とうとう決心したらしく言い出しました。 「それから、はがきの文句ですが、これからは、用事これありに付き、明日出頭すべしと書いてどうでしょう。」  一郎はわらって言いました。 「さあ、なんだか変ですね。そいつだけはやめた方がいいでしょう。」  山猫は、どうも言いようがまずかった、いかにも残念だというふうに、しばらくひげをひねったまま、下を向いていましたが、やっとあきらめて言いました。 「それでは、文句はいままでのとおりにしましょう。そこで今日のお礼ですが、あなたは黄金のどんぐり一|升と、塩鮭のあたまと、どっちをおすきですか。」 「黄金のどんぐりがすきです。」  山猫は、鮭の頭でなくて、まあよかったというように、口早に馬車別当に云いました。 「どんぐりを一升早くもってこい。一升にたりなかったら、めっきのどんぐりもまぜてこい。はやく。」  別当は、さっきのどんぐりをますに入れて、はかって叫びました。 「ちょうど一升あります。」  山ねこの陣羽織が風にばたばた鳴りました。そこで山ねこは、大きく延びあがって、めをつぶって、半分あくびをしながら言いました。 「よし、はやく馬車のしたくをしろ。」白い大きなきのこでこしらえた馬車が、ひっぱりだされました。そしてなんだかねずみいろの、おかしな形の馬がついています。 「さあ、おうちへお送りいたしましょう。」山猫が言いました。二人は馬車にのり別当は、どんぐりのますを馬車のなかに入れました。  ひゅう、ぱちっ。  馬車は草地をはなれました。木や藪がけむりのようにぐらぐらゆれました。一郎は黄金のどんぐりを見、やまねこはとぼけたかおつきで、遠くをみていました。  馬車が進むにしたがって、どんぐりはだんだん光がうすくなって、まもなく馬車がとまったときは、あたりまえの茶いろのどんぐりに変っていました。そして、山ねこの黄いろな陣羽織も、別当も、きのこの馬車も、一度に見えなくなって、一郎はじぶんのうちの前に、どんぐりを入れたますを持って立っていました。  それからあと、山ねこ拝というはがきは、もうきませんでした。やっぱり、出頭すべしと書いてもいいと言えばよかったと、一郎はときどき思うのです。  なめとこ山の熊のことならおもしろい。なめとこ山は大きな山だ。淵沢川はなめとこ山から出て来る。なめとこ山は一年のうち大ていの日はつめたい霧か雲かを吸ったり吐いたりしている。まわりもみんな青黒いなまこや海坊主のような山だ。山のなかごろに大きな洞穴ががらんとあいている。そこから淵沢川がいきなり三百尺ぐらいの滝になってひのきやいたやのしげみの中をごうと落ちて来る。  中山街道はこのごろは誰も歩かないから蕗やいたどりがいっぱいに生えたり牛が遁げて登らないように柵をみちにたてたりしているけれどもそこをがさがさ三里ばかり行くと向うの方で風が山の頂を通っているような音がする。気をつけてそっちを見ると何だかわけのわからない白い細長いものが山をうごいて落ちてけむりを立てているのがわかる。それがなめとこ山の大空滝だ。そして昔はそのへんには熊がごちゃごちゃ居たそうだ。ほんとうはなめとこ山も熊の胆も私は自分で見たのではない。人から聞いたり考えたりしたことばかりだ。間ちがっているかもしれないけれども私はそう思うのだ。とにかくなめとこ山の熊の胆は名高いものになっている。  腹の痛いのにもきけば傷もなおる。鉛の湯の入口になめとこ山の熊の胆ありという昔からの看板もかかっている。だからもう熊はなめとこ山で赤い舌をべろべろ吐いて谷をわたったり熊の子供らがすもうをとっておしまいぽかぽか撲りあったりしていることはたしかだ。熊捕りの名人の淵沢小十郎がそれを片っぱしから捕ったのだ。  淵沢小十郎はすがめの赭黒いごりごりしたおやじで胴は小さな臼ぐらいはあったし掌は北島の毘沙門さんの病気をなおすための手形ぐらい大きく厚かった。小十郎は夏なら菩提樹の皮でこさえたけらを着てはむばきをはき生蕃の使うような山刀とポルトガル伝来というような大きな重い鉄砲をもってたくましい黄いろな犬をつれてなめとこ山からしどけ沢から三つ又からサッカイの山からマミ穴森から白沢からまるで縦横にあるいた。木がいっぱい生えているから谷を溯っているとまるで青黒いトンネルの中を行くようで時にはぱっと緑と黄金いろに明るくなることもあればそこら中が花が咲いたように日光が落ちていることもある。そこを小十郎が、まるで自分の座敷の中を歩いているというふうでゆっくりのっしのっしとやって行く。犬はさきに立って崖を横這いに走ったりざぶんと水にかけ込んだり淵ののろのろした気味の悪いとこをもう一生けん命に泳いでやっと向うの岩にのぼるとからだをぶるぶるっとして毛をたてて水をふるい落しそれから鼻をしかめて主人の来るのを待っている。小十郎は膝から上にまるで屏風のような白い波をたてながらコンパスのように足を抜き差しして口を少し曲げながらやって来る。そこであんまり一ぺんに言ってしまって悪いけれどもなめとこ山あたりの熊は小十郎をすきなのだ。その証拠には熊どもは小十郎がぼちゃぼちゃ谷をこいだり谷の岸の細い平らないっぱいにあざみなどの生えているとこを通るときはだまって高いとこから見送っているのだ。木の上から両手で枝にとりついたり崖の上で膝をかかえて座ったりしておもしろそうに小十郎を見送っているのだ。まったく熊どもは小十郎の犬さえすきなようだった。けれどもいくら熊どもだってすっかり小十郎とぶっつかって犬がまるで火のついたまりのようになって飛びつき小十郎が眼をまるで変に光らして鉄砲をこっちへ構えることはあんまりすきではなかった。そのときは大ていの熊は迷惑そうに手をふってそんなことをされるのを断わった。けれども熊もいろいろだから気の烈しいやつならごうごう咆えて立ちあがって、犬などはまるで踏みつぶしそうにしながら小十郎の方へ両手を出してかかって行く。小十郎はぴったり落ち着いて樹をたてにして立ちながら熊の月の輪をめがけてズドンとやるのだった。すると森までががあっと叫んで熊はどたっと倒れ赤黒い血をどくどく吐き鼻をくんくん鳴らして死んでしまうのだった。小十郎は鉄砲を木へたてかけて注意深くそばへ寄って来てこう言うのだった。 「熊。おれはてまえを憎くて殺したのでねえんだぞ。おれも商売ならてめえも射たなけぁならねえ。ほかの罪のねえ仕事していんだが畑はなし木はお上のものにきまったし里へ出ても誰も相手にしねえ。仕方なしに猟師なんぞしるんだ。てめえも熊に生れたが因果ならおれもこんな商売が因果だ。やい。この次には熊なんぞに生れなよ」  そのときは犬もすっかりしょげかえって眼を細くして座っていた。  何せこの犬ばかりは小十郎が四十の夏うち中みんな赤痢にかかってとうとう小十郎の息子とその妻も死んだ中にぴんぴんして生きていたのだ。  それから小十郎はふところからとぎすまされた小刀を出して熊の顎のとこから胸から腹へかけて皮をすうっと裂いていくのだった。それからあとの景色は僕は大きらいだ。けれどもとにかくおしまい小十郎がまっ赤な熊の胆をせなかの木のひつに入れて血で毛がぼとぼと房になった毛皮を谷であらってくるくるまるめせなかにしょって自分もぐんなりした風で谷を下って行くことだけはたしかなのだ。  小十郎はもう熊のことばだってわかるような気がした。ある年の春はやく山の木がまだ一本も青くならないころ小十郎は犬を連れて白沢をずうっとのぼった。夕方になって小十郎はばっかぃ沢へこえる峯になった処へ去年の夏こさえた笹小屋へ泊ろうと思ってそこへのぼって行った。そしたらどういう加減か小十郎の柄にもなく登り口をまちがってしまった。  なんべんも谷へ降りてまた登り直して犬もへとへとにつかれ小十郎も口を横にまげて息をしながら半分くずれかかった去年の小屋を見つけた。小十郎がすぐ下に湧水のあったのを思い出して少し山を降りかけたら愕いたことは母親とやっと一歳になるかならないような子熊と二|疋ちょうど人が額に手をあてて遠くを眺めるといったふうに淡い六日の月光の中を向うの谷をしげしげ見つめているのにあった。小十郎はまるでその二疋の熊のからだから後光が射すように思えてまるで釘付けになったように立ちどまってそっちを見つめていた。すると小熊が甘えるように言ったのだ。 「どうしても雪だよ、おっかさん谷のこっち側だけ白くなっているんだもの。どうしても雪だよ。おっかさん」  すると母親の熊はまだしげしげ見つめていたがやっと言った。 「雪でないよ、あすこへだけ降るはずがないんだもの」  子熊はまた言った。 「だから溶けないで残ったのでしょう」 「いいえ、おっかさんはあざみの芽を見に昨日あすこを通ったばかりです」  小十郎もじっとそっちを見た。  月の光が青じろく山の斜面を滑っていた。そこがちょうど銀の鎧のように光っているのだった。しばらくたって子熊が言った。 「雪でなけぁ霜だねえ。きっとそうだ」  ほんとうに今夜は霜が降るぞ、お月さまの近くで胃もあんなに青くふるえているし第一お月さまのいろだってまるで氷のようだ、小十郎がひとりで思った。 「おかあさまはわかったよ、あれねえ、ひきざくらの花」 「なぁんだ、ひきざくらの花だい。僕知ってるよ」 「いいえ、お前まだ見たことありません」 「知ってるよ、僕この前とって来たもの」 「いいえ、あれひきざくらでありません、お前とって来たのきささげの花でしょう」 「そうだろうか」子熊はとぼけたように答えました。小十郎はなぜかもう胸がいっぱいになってもう一ぺん向うの谷の白い雪のような花と余念なく月光をあびて立っている母子の熊をちらっと見てそれから音をたてないようにこっそりこっそり戻りはじめた。風があっちへ行くな行くなと思いながらそろそろと小十郎は後退りした。くろもじの木の匂が月のあかりといっしょにすうっとさした。  ところがこの豪儀な小十郎がまちへ熊の皮と胆を売りに行くときのみじめさといったら全く気の毒だった。  町の中ほどに大きな荒物屋があって笊だの砂糖だの砥石だの金天狗やカメレオン印の煙草だのそれから硝子の蠅とりまでならべていたのだ。小十郎が山のように毛皮をしょってそこのしきいを一足またぐと店では又来たかというようにうすわらっているのだった。店の次の間に大きな唐金の火鉢を出して主人がどっかり座っていた。 「旦那さん、先ころはどうもありがどうごあんした」  あの山では主のような小十郎は毛皮の荷物を横におろして叮ねいに敷板に手をついて言うのだった。 「はあ、どうも、今日は何のご用です」 「熊の皮また少し持って来たます」 「熊の皮か。この前のもまだあのまましまってあるし今日ぁまんついいます」 「旦那さん、そう言わなぃでどうか買って呉んなさぃ。安くてもいいます」 「なんぼ安くても要らなぃます」主人は落ち着きはらってきせるをたんたんとてのひらへたたくのだ、あの豪気な山の中の主の小十郎はこう言われるたびにもうまるで心配そうに顔をしかめた。何せ小十郎のとこでは山には栗があったしうしろのまるで少しの畑からは稗がとれるのではあったが米などは少しもできず味噌もなかったから九十になるとしよりと子供ばかりの七人家内にもって行く米はごくわずかずつでも要ったのだ。  里の方のものなら麻もつくったけれども、小十郎のとこではわずか藤つるで編む入れ物の外に布にするようなものはなんにも出来なかったのだ。小十郎はしばらくたってからまるでしわがれたような声で言ったもんだ。 「旦那さん、お願だます。どうが何ぼでもいいはんて買って呉なぃ」小十郎はそう言いながら改めておじぎさえしたもんだ。  主人はだまってしばらくけむりを吐いてから顔の少しでにかにか笑うのをそっとかくして言ったもんだ。 「いいます。置いでお出れ。じゃ、平助、小十郎さんさ二円あげろじゃ」  店の平助が大きな銀貨を四枚小十郎の前へ座って出した。小十郎はそれを押しいただくようにしてにかにかしながら受け取った。それから主人はこんどはだんだん機嫌がよくなる。 「じゃ、おきの、小十郎さんさ一杯あげろ」  小十郎はこのころはもううれしくてわくわくしている。主人はゆっくりいろいろ談す。小十郎はかしこまって山のもようや何か申しあげている。間もなく台所の方からお膳できたと知らせる。小十郎は半分辞退するけれども結局台所のとこへ引っぱられてってまた叮寧な挨拶をしている。  間もなく塩引の鮭の刺身やいかの切り込みなどと酒が一本黒い小さな膳にのって来る。  小十郎はちゃんとかしこまってそこへ腰掛けていかの切り込みを手の甲にのせてべろりとなめたりうやうやしく黄いろな酒を小さな猪口についだりしている。いくら物価の安いときだって熊の毛皮二枚で二円はあんまり安いと誰でも思う。実に安いしあんまり安いことは小十郎でも知っている。けれどもどうして小十郎はそんな町の荒物屋なんかへでなしにほかの人へどしどし売れないか。それはなぜか大ていの人にはわからない。けれども日本では狐けんというものもあって狐は猟師に負け猟師は旦那に負けるときまっている。ここでは熊は小十郎にやられ小十郎が旦那にやられる。旦那は町のみんなの中にいるからなかなか熊に食われない。けれどもこんないやなずるいやつらは世界がだんだん進歩するとひとりで消えてなくなっていく。僕はしばらくの間でもあんな立派な小十郎が二度とつらも見たくないようないやなやつにうまくやられることを書いたのが実にしゃくにさわってたまらない。  こんなふうだったから小十郎は熊どもは殺してはいても決してそれを憎んではいなかったのだ。ところがある年の夏こんなようなおかしなことが起ったのだ。  小十郎が谷をばちゃばちゃ渉って一つの岩にのぼったらいきなりすぐ前の木に大きな熊が猫のようにせなかを円くしてよじ登っているのを見た。小十郎はすぐ鉄砲をつきつけた。犬はもう大悦びで木の下に行って木のまわりを烈しく馳せめぐった。  すると樹の上の熊はしばらくの間おりて小十郎に飛びかかろうかそのまま射たれてやろうか思案しているらしかったがいきなり両手を樹からはなしてどたりと落ちて来たのだ。小十郎は油断なく銃を構えて打つばかりにして近寄って行ったら熊は両手をあげて叫んだ。 「おまえは何がほしくておれを殺すんだ」 「ああ、おれはお前の毛皮と、胆のほかにはなんにもいらない。それも町へ持って行ってひどく高く売れるというのではないしほんとうに気の毒だけれどもやっぱり仕方ない。けれどもお前に今ごろそんなことを言われるともうおれなどは何か栗かしだのみでも食っていてそれで死ぬならおれも死んでもいいような気がするよ」 「もう二年ばかり待ってくれ、おれも死ぬのはもうかまわないようなもんだけれども少しし残した仕事もあるしただ二年だけ待ってくれ。二年目にはおれもおまえの家の前でちゃんと死んでいてやるから。毛皮も胃袋もやってしまうから」  小十郎は変な気がしてじっと考えて立ってしまいました。熊はそのひまに足うらを全体地面につけてごくゆっくりと歩き出した。小十郎はやっぱりぼんやり立っていた。熊はもう小十郎がいきなりうしろから鉄砲を射ったり決してしないことがよくわかってるというふうでうしろも見ないでゆっくりゆっくり歩いて行った。そしてその広い赤黒いせなかが木の枝の間から落ちた日光にちらっと光ったとき小十郎は、う、うとせつなそうにうなって谷をわたって帰りはじめた。それからちょうど二年目だったがある朝小十郎があんまり風が烈しくて木もかきねも倒れたろうと思って外へ出たらひのきのかきねはいつものようにかわりなくその下のところに始終見たことのある赤黒いものが横になっているのでした。ちょうど二年目だしあの熊がやって来るかと少し心配するようにしていたときでしたから小十郎はどきっとしてしまいました。そばに寄って見ましたらちゃんとあのこの前の熊が口からいっぱいに血を吐いて倒れていた。小十郎は思わず拝むようにした。  一月のある日のことだった。小十郎は朝うちを出るときいままで言ったことのないことを言った。 「婆さま、おれも年|老ったでばな、今朝まず生れで始めで水へ入るの嫌んたよな気するじゃ」  すると縁側の日なたで糸を紡いでいた九十になる小十郎の母はその見えないような眼をあげてちょっと小十郎を見て何か笑うか泣くかするような顔つきをした。小十郎はわらじを結えてうんとこさと立ちあがって出かけた。子供らはかわるがわる厩の前から顔を出して「爺さん、早ぐお出や」と言って笑った。小十郎はまっ青なつるつるした空を見あげてそれから孫たちの方を向いて「行って来るじゃぃ」と言った。  小十郎はまっ白な堅雪の上を白沢の方へのぼって行った。  犬はもう息をはあはあし赤い舌を出しながら走ってはとまり走ってはとまりして行った。間もなく小十郎の影は丘の向うへ沈んで見えなくなってしまい子供らは稗の藁でふじつきをして遊んだ。  小十郎は白沢の岸を溯って行った。水はまっ青に淵になったり硝子板をしいたように凍ったりつららが何本も何本もじゅずのようになってかかったりそして両岸からは赤と黄いろのまゆみの実が花が咲いたようにのぞいたりした。小十郎は自分と犬との影法師がちらちら光り樺の幹の影といっしょに雪にかっきり藍いろの影になってうごくのを見ながら溯って行った。  白沢から峯を一つ越えたとこに一疋の大きなやつが棲んでいたのを夏のうちにたずねておいたのだ。  小十郎は谷に入って来る小さな支流を五つ越えて何べんも何べんも右から左左から右へ水をわたって溯って行った。そこに小さな滝があった。小十郎はその滝のすぐ下から長根の方へかけてのぼりはじめた。雪はあんまりまばゆくて燃えているくらい。小十郎は眼がすっかり紫の眼鏡をかけたような気がして登って行った。犬はやっぱりそんな崖でも負けないというようにたびたび滑りそうになりながら雪にかじりついて登ったのだ。やっと崖を登りきったらそこはまばらに栗の木の生えたごくゆるい斜面の平らで雪はまるで寒水石という風にギラギラ光っていたしまわりをずうっと高い雪のみねがにょきにょきつったっていた。小十郎がその頂上でやすんでいたときだ。いきなり犬が火のついたように咆え出した。小十郎がびっくりしてうしろを見たらあの夏に眼をつけておいた大きな熊が両足で立ってこっちへかかって来たのだ。  小十郎は落ちついて足をふんばって鉄砲を構えた。熊は棒のような両手をびっこにあげてまっすぐに走って来た。さすがの小十郎もちょっと顔いろを変えた。  ぴしゃというように鉄砲の音が小十郎に聞えた。ところが熊は少しも倒れないで嵐のように黒くゆらいでやって来たようだった。犬がその足もとに噛み付いた。と思うと小十郎はがあんと頭が鳴ってまわりがいちめんまっ青になった。それから遠くでこう言うことばを聞いた。 「おお小十郎おまえを殺すつもりはなかった」  もうおれは死んだと小十郎は思った。そしてちらちらちらちら青い星のような光がそこらいちめんに見えた。 「これが死んだしるしだ。死ぬとき見る火だ。熊ども、ゆるせよ」と小十郎は思った。それからあとの小十郎の心持はもう私にはわからない。  とにかくそれから三日目の晩だった。まるで氷の玉のような月がそらにかかっていた。雪は青白く明るく水は燐光をあげた。すばるや参の星が緑や橙にちらちらして呼吸をするように見えた。  その栗の木と白い雪の峯々にかこまれた山の上の平らに黒い大きなものがたくさん環になって集って各々黒い影を置き回々教徒の祈るときのようにじっと雪にひれふしたままいつまでもいつまでも動かなかった。そしてその雪と月のあかりで見るといちばん高いとこに小十郎の死骸が半分座ったようになって置かれていた。  思いなしかその死んで凍えてしまった小十郎の顔はまるで生きてるときのように冴え冴えして何か笑っているようにさえ見えたのだ。ほんとうにそれらの大きな黒いものは参の星が天のまん中に来てももっと西へ傾いてもじっと化石したようにうごかなかった。 楢ノ木大学士は宝石学の専門だ。 ある晩大学士の小さな家へ、 「貝の火|兄弟商会」の、 赤鼻の支配人がやって来た。 「先生、ごく上等の蛋白石の注文があるのですがどうでしょう、お探しをねがえませんでしょうか。もっともごくごく上等のやつをほしいのです。何せ相手がグリーンランドの途方もない成金ですから、ありふれたものじゃなかなか承知しないんです。」 大学士は葉巻を横にくわえ、 雲母紙を張った天井を、 斜めに見上げて聴いていた。 「たびたびご迷惑で、まことに恐れ入りますが、いかがなもんでございましょう。」 そこで楢ノ木大学士は、 にやっと笑って葉巻をとった。 「うん、探してやろう。蛋白石のいいのなら、流紋玻璃を探せばいい。探してやろう。僕は実際、一ぺんさがしに出かけたら、きっともう足が宝石のある所へ向くんだよ。そして宝石のある山へ行くと、奇体に足が動かない。直覚だねえ。いや、それだから、却って困ることもあるよ。たとえば僕は一千九百十九年の七月に、アメリカのジャイアントアーム会社の依嘱を受けて、紅宝玉を探しにビルマへ行ったがね、やっぱりいつか足は紅宝玉の山へ向く。それからちゃんと見附かって、帰ろうとしてもなかなか足があがらない。つまり僕と宝石には、一種の不思議な引力が働いている、深く埋まった紅宝玉どもの、日光の中へ出たいというその熱心が、多分は僕の足の神経に感ずるのだろうね。その時も実際困ったよ。山から下りるのに、十一時間もかかったよ。けれどもそれがいまのバララゲの紅宝玉坑さ。」 「ははあ、そいつはどうもとんだご災難でございました。しかしいかがでございましょう。こんども多分はそんな工合に参りましょうか。」 「それはもうきっとそう行くね。ただその時に、僕が何かの都合のために、たとえばひどく疲れているとか、狼に追われているとか、あるいはひどく神経が興奮しているとか、そんなような事情から、ふっとその引力を感じないというようなことはあるかもしれない。しかしとにかく行って来よう。二週間目にはきっと帰るから。」 「それでは何分お願いいたします。これはまことに軽少ですが、当座の旅費のつもりです。」 貝の火兄弟商会の、 鼻の赤いその支配人は、 ねずみ色の状袋を、 上着の内衣嚢から出した。 「そうかね。」 大学士は別段気にもとめず、 手を延ばして状袋をさらい、 自分の衣嚢に投げこんだ。 「では何分とも、よろしくお願いいたします。」 そして「貝の火兄弟商会」の、 赤鼻の支配人は帰って行った。 次の日諸君のうちの誰かは、 きっと上野の停車場で、 途方もない長い外套を着、 変な灰色の袋のような背嚢をしょい、 七キログラムもありそうな、 素敵な大きなかなづちを、 持った紳士を見ただろう。 それは楢の木大学士だ。 宝石を探しに出掛けたのだ。 出掛けた為にとうとう楢ノ木大学士の、 野宿ということも起ったのだ。 三晩というもの起ったのだ。    野宿第一夜 四月二十日の午后四時|頃、 例の楢ノ木大学士が 「ふん、この川筋があやしいぞ。たしかにこの川筋があやしいぞ」 とひとりぶつぶつ言いながら、 からだを深く折り曲げて 眼一杯にみひらいて、 足もとの砂利をねめまわしながら、 兎のようにひょいひょいと、 葛丸川の西岸の 大きな河原をのぼって行った。 両側はずいぶん嶮しい山だ。 大学士はどこまでも溯って行く。 けれどもとうとう日も落ちた。 その両側の山どもは、 一生懸命の大学士などにはお構いなく ずんずん黒く暮れて行く。 その上にちょっと顔を出した 遠くの雪の山脈は、 さびしい銀いろに光り、 てのひらの形の黒い雲が、 その上を行ったり来たりする。 それから川岸の細い野原に、 ちょろちょろ赤い野火が這い、 鷹によく似た白い鳥が、 鋭く風を切って翔けた。 楢ノ木大学士はそんなことには構わない。 まだどこまでも川を溯って行こうとする。 ところがとうとう夜になった。 今はもう河原の石ころも、 赤やら黒やらわからない。 「これはいけない。もう夜だ。寝なくちゃなるまい。今夜はずいぶん久しぶりで、愉快な露天に寝るんだな。うまいぞうまいぞ。ところで草へ寝ようかな。かれ草でそれはたしかにいいけれども、寝ているうちに、野火にやかれちゃ一言もない。よしよし、この石へ寝よう。まるでね台だ。ふんふん、実に柔らかだ。いい寝台だぞ。」 その石は実際柔らかで、 又敷布のように白かった。 そのかわり又大学士が、 腕をのばして背嚢をぬぎ、 肱をまげて外套のまま、 ごろりと横になったときは、 外套のせなかに白い粉が、 まるで一杯についたのだ。 もちろん学士はそれを知らない。 又そんなこと知ったとこで、 あわてて起きあがる性質でもない。 水がその広い河原の、 向う岸近くをごうと流れ、 空の桔梗のうすあかりには、 山どもがのっきのっきと黒く立つ。 大学士は寝たままそれを眺め、 又ひとりごとを言い出した。 「ははあ、あいつらは岩頸だな。岩頸だ、岩頸だ。相違ない。」 そこで大学士はいい気になって、 仰向けのまま手を振って、 岩頸の講義をはじめ出した。 「諸君、手っ取り早く云うならば、岩頸というのは、地殻から一寸頸を出した太い岩石の棒である。その頸がすなわち一つの山である。ええ。一つの山である。ふん。どうしてそんな変なものができたというなら、そいつは蓋し簡単だ。ええ、ここに一つの火山がある。熔岩を流す。その熔岩は地殻の深いところから太い棒になってのぼって来る。火山がだんだん衰えて、その腹の中まで冷えてしまう。熔岩の棒もかたまってしまう。それから火山は永い間に空気や水のために、だんだん崩れる。とうとう削られてへらされて、しまいには上の方がすっかり無くなって、前のかたまった熔岩の棒だけが、やっと残るというあんばいだ。この棒は大抵頸だけを出して、一つの山になっている。それが岩頸だ。ははあ、面白いぞ、つまりそのこれは夢の中のもやだ、もや、もや、もや、もや。そこでそのつまり、鼠いろの岩頸だがな、その鼠いろの岩頸が、きちんと並んで、お互に顔を見合せたり、ひとりで空うそぶいたりしているのは、大変おもしろい。ふふん。」 それは実際その通り、 向うの黒い四つの峯は、 四人兄弟の岩頸で、 だんだん地面からせり上って来た。 楢ノ木大学士の喜びようはひどいもんだ。 「ははあ、こいつらはラクシャンの四人兄弟だな。よくわかった。ラクシャンの四人兄弟だ。よしよし。」 注文通り岩頸は 丁度胸までせり出して ならんで空に高くそびえた。 一番右は たしかラクシャン第一子 まっ黒な髪をふり乱し 大きな眼をぎろぎろ空に向け しきりに口をぱくぱくして 何かどなっている様だが その声は少しも聞えなかった。 右から二番目は たしかにラクシャンの第二子だ。 長いあごを両手に載せて睡っている。 次はラクシャン第三子 やさしい眼をせわしくまたたき いちばん左は ラクシャンの第|四子、末っ子だ。 夢のような黒い瞳をあげて じっと東の高原を見た。 楢ノ木大学士がもっとよく 四人を見ようと起き上ったら 俄かにラクシャン第一子が 雷のように怒鳴り出した。 「何をぐずぐずしてるんだ。潰してしまえ。灼いてしまえ。こなごなに砕いてしまえ。早くやれっ。」 楢ノ木大学士はびっくりして 大急ぎで又横になり いびきまでして寝たふりをし そっと横目で見つづけた。 ところが今のどなり声は 大学士に云ったのでもなかったようだ。 なぜならラクシャン第一子は やっぱり空へ向いたまま 素敵などなりを続けたのだ。 「全体何をぐずぐずしてるんだ。砕いちまえ、砕いちまえ、はね飛ばすんだ。はね飛ばすんだよ。火をどしゃどしゃ噴くんだ。熔岩の用意っ。熔岩。早く。畜生。いつまでぐずぐずしてるんだ。熔岩、用意っ。もう二百万年たってるぞ。灰を降らせろ、灰を降らせろ。なぜ早く支度をしないか。」 しずかなラクシャン第三子が 兄をなだめて斯う云った。 「兄さん。少しおやすみなさい。こんなしずかな夕方じゃありませんか。」 兄は構わず又どなる。 「地球を半分ふきとばしちまえ。石と石とを空でぶっつけ合せてぐらぐらする紫のいなびかりを起せ。まっくろな灰の雲からかみなりを鳴らせ。えい、意気地なしども。降らせろ、降らせろ、きらきらの熔岩で海をうずめろ。海から騰る泡で太陽を消せ、生き残りの象から虫けらのはてまで灰を吸わせろ、えい、畜生ども、何をぐずぐずしてるんだ。」 ラクシャンの若い第|四子が 微笑って兄をなだめ出す。 「大兄さん、あんまり憤らないで下さいよ。イーハトブさんが向うの空で、又笑っていますよ。」 それからこんどは低くつぶやく。 「あんな銀の冠を僕もほしいなあ。」 ラクシャンの狂暴な第一子も 少ししずまって弟を見る。 「まあいいさ、お前もしっかり支度をして次の噴火にはあのイーハトブの位になれ。十二ヶ月の中の九ヶ月をあの冠で飾れるのだぞ。」 若いラクシャン第四子は 兄のことばは聞きながし 遠い東の 雲を被った高原を 星のあかりに透し見て なつかしそうに呟やいた。 「今夜はヒームカさんは見えないなあ。あのまっ黒な雲のやつは、ほんとうにいやなやつだなあ、今日で四日もヒームカさんや、ヒームカさんのおっかさんをマントの下にかくしてるんだ。僕一つ噴火をやってあいつを吹き飛ばしてやろうかな。」 ラクシャンの第三子が 少し笑って弟に云う。 「大へん怒ってるね。どうかしたのかい。ええ。あの東の雲のやつかい。あいつは今夜は雨をやってるんだ。ヒームカさんも蛇紋石のきものがずぶぬれだろう。」 「兄さん。ヒームカさんはほんとうに美しいね。兄さん。この前ね、僕、ここからかたくりの花を投げてあげたんだよ。ヒームカさんのおっかさんへは白いこぶしの花をあげたんだよ。そしたら西風がね、だまって持って行って呉れたよ。」 「そうかい。ハッハ。まあいいよ。あの雲はあしたの朝はもう霽れてるよ。ヒームカさんがまばゆい新らしい碧いきものを着てお日さまの出るころは、きっと一番さきにお前にあいさつするぜ。そいつはもうきっとなんだ。」 「だけど兄さん。僕、今度は、何の花をあげたらいいだろうね。もう僕のとこには何の花もないんだよ。」 「うん、そいつはね、おれの所にね、桜草があるよ、それをお前にやろう。」 「ありがとう、兄さん。」 「やかましい、何をふざけたことを云ってるんだ。」 暴っぽいラクシャンの第一子が 金粉の怒鳴り声を 夜の空高く吹きあげた。 「ヒームカってなんだ。ヒームカって。 ヒームカって云うのは、あの向うの女の子の山だろう。よわむしめ。あんなものとつきあうのはよせと何べんもおれが云ったじゃないか。ぜんたいおれたちは火から生れたんだぞ青ざめた水の中で生れたやつらとちがうんだぞ。」 ラクシャンの第|四子は しょげて首を垂れたが しずかな直かの兄が 弟のために長兄をなだめた。 「兄さん。ヒームカさんは血統はいいのですよ。火から生れたのですよ。立派なカンランガンですよ。」 ラクシャンの第一子は 尚更怒って 立派な金粉のどなりを まるで火のようにあげた。 「知ってるよ。ヒームカはカンランガンさ。火から生れたさ。それはいいよ。けれどもそんなら、一体いつ、おれたちのようにめざましい噴火をやったんだ。あいつは地面まで騰って来る途中で、もう疲れてやめてしまったんだ。今こそ地殻ののろのろのぼりや風や空気のおかげで、おれたちと肩をならべているが、元来おれたちとはまるで生れ付きがちがうんだ。きさまたちには、まだおれたちの仕事がよくわからないのだ。おれたちの仕事はな、地殻の底の底で、とけてとけて、まるでへたへたになった岩漿や、上から押しつけられて古綿のようにちぢまった蒸気やらを取って来て、いざという瞬間には大きな黒い山の塊を、まるで粉々に引き裂いて飛び出す。 煙と火とを固めて空に抛げつける。石と石とをぶっつけ合せていなずまを起す。百万の雷を集めて、地面をぐらぐら云わせてやる。丁度、楢ノ木大学士というものが、おれのどなりをひょっと聞いて、びっくりして頭をふらふら、ゆすぶったようにだ。ハッハッハ。 山も海もみんな濃い灰に埋まってしまう。平らな運動場のようになってしまう。その熱い灰の上でばかり、おれたちの魂は舞踏していい。いいか。もうみんな大さわぎだ。さて、その煙が納まって空気が奇麗に澄んだときは、こっちはどうだ、いつかまるで空へ届くくらい高くなって、まるでそんなこともあったかというような顔をして、銀か白金かの冠ぐらいをかぶって、きちんとすましているのだぞ。」 ラクシャンの第三子は しばらく考えて云う。 「兄さん、私はどうも、そんなことはきらいです。私はそんな、まわりを熱い灰でうずめて、自分だけ一人高くなるようなそんなことはしたくありません。水や空気がいつでも地面を平らにしようとしているでしょう。そして自分でもいつでも低い方低い方と流れて行くでしょう、私はあなたのやり方よりは、却ってあの方がほんとうだと思います。」 暴っぽいラクシャン第一子が このときまるできらきら笑った。 きらきら光って笑ったのだ。 楢ノ木学士が考えた。 暴っぽいラクシャンの第一子が ずいぶんしばらく光ってから やっとしずまって斯う云った。 「水と空気かい。あいつらは朝から晩まで、俺らの耳のそば迄来て、世界の平和の為に、お前らの傲慢を削るとかなんとか云いながら、毎日こそこそ、俺らを擦って耗して行くが、まるっきりうそさ。何でもおれのきくとこに依ると、あいつらは海岸のふくふくした黒土や、美しい緑いろの野原に行って知らん顔をして溝を掘るやら、濠をこさえるやら、それはどうも実にひどいもんだそうだ。話にも何にもならんというこった。」 ラクシャンの第三子も つい大声で笑ってしまう。 「兄さん。なんだか、そんな、こじつけみたいな、あてこすりみたいな、芝居のせりふのようなものは、一向あなたに似合いませんよ。」 ところがラクシャン第一子は 案外に怒り出しもしなかった。 きらきら光って大声で 笑って笑って笑ってしまった。 その笑い声の洪水は 空を流れて遥かに遥かに南へ行って ねぼけた雷のようにとどろいた。 「うん、そうだ、もうあまり、おれたちのがらにもない小理窟は止そう。おれたちのお父さんにすまない。お父さんは九つの氷河を持っていらしゃったそうだ。そのころは、ここらは、一面の雪と氷で白熊や雪狐や、いろいろなけものが居たそうだ。お父さんはおれが生れるときなくなられたのだ。」 俄かにラクシャンの末子が叫ぶ。 「火が燃えている。火が燃えている。大兄さん。大兄さん。ごらんなさい。だんだん拡がります。」 ラクシャン第一子がびっくりして叫ぶ。 「熔岩、用意っ。灰をふらせろ、えい、畜生、何だ、野火か。」 その声にラクシャンの第二子が びっくりして眼をさまし、 その長い顎をあげて、 眼を釘づけにされたように しばらく野火をみつめている。 「誰かやったのか。誰だ、誰だ、今ごろ。なんだ野火か。地面の挨をさらさらさらっと掃除する、てまえなんぞに用はない。」 するとラクシャンの第一子が ちょっと意地悪そうにわらい 手をばたばたと振って見せて 「石だ、火だ。熔岩だ。用意っ。ふん。」 と叫ぶ。 ばかなラクシャンの第二子が すぐ釣り込まれてあわて出し 顔いろをぽっとほてらせながら 「おい兄貴、一吠えしようか。」 と斯う云った。 兄貴はわらう、 「一吠えってもう何十万年を、きさまはぐうぐう寝ていたのだ。それでもいくらかまだ力が残っているのか」 無精な弟は只一言 「ない」 と答えた。 そして又長い顎をうでに載せ、 ぽっかりぽっかり寝てしまう。 しずかなラクシャン第三子が ラクシャンの第|四子に云う 「空が大へん軽くなったね、あしたの朝はきっと晴れるよ。」 「ええ今夜は鷹が出ませんね」 兄は笑って弟を試す。 「さっきの野火で鷹の子供が焼けたのかな。」 弟は賢く答えた。 「鷹の子供は、もう余程、毛も剛くなりました。それに仲々強いから、きっと焼けないで遁げたでしょう」 兄は心持よく笑う。 「そんなら結構だ、さあもう兄さんたちはよくおやすみだ。楢ノ木大学士と云うやつもよく睡っている。さっきから僕等の夢を見ているんだぜ。」 するとラクシャン第四子が ずるそうに一寸笑ってこう云った。 「そんなら僕一つおどかしてやろう。」 兄のラクシャン第三子が 「よせよせいたずらするなよ」 と止めたが いたずらの弟はそれを聞かずに 光る大きな長い舌を出して 大学士の額をべろりと嘗めた。 大学士はひどくびっくりして それでも笑いながら眼をさまし 寒さにがたっと顫えたのだ。 いつか空がすっかり晴れて まるで一面星が瞬き まっ黒な四つの岩頸が ただしくもとの形になり じっとならんで立っていた。    野宿第二夜 わが親愛な楢ノ木大学士は 例の長い外套を着て 夕陽をせ中に一杯浴びて すっかりくたびれたらしく 度々空気に噛みつくような 大きな欠伸をやりながら 平らな熊出街道を すたすた歩いて行ったのだ。 俄かに道の右側に がらんとした大きな石切場が 口をあいてひらけて来た。 学士は咽喉をこくっと鳴らし 中に入って行きながら 三角の石かけを一つ拾い 「ふん、ここも角閃花崗岩」と つぶやきながらつくづくと あたりを見れば石切場、 石切りたちも帰ったらしく 小さな笹の小屋が一つ 淋しく隅にあるだけだ。 「こいつはうまい。丁度いい。どうもひとのうちの門口に立って、もしもし今晩は、私は旅の者ですが、日が暮れてひどく困っています。今夜一晩|泊めて下さい。たべ物は持っていますから支度はなんにも要りませんなんて、へっ、こんなこと云うのは、もう考えてもいやになる。そこで今夜はここへ泊ろう。」 大学士は大きな近眼鏡を ちょっと直してにやにや笑い 小屋へ入って行ったのだ。 土間には四つの石かけが 炉の役目をしその横には 榾もいくらか積んである。 大学士はマッチをすって 火をたき、それからビスケットを出し もそもそ喰べたり手帳に何か書きつけたり しばらくの間していたが おしまいに火をどんどん燃して ごろりと藁にねころんだ。 夜中になって大学士は 「うう寒い」 と云いながら ばたりとはね起きて見たら もうたきぎが燃え尽きて ただのおきだけになっていた。 学士はいそいでたきぎを入れる。 火は赤く愉快に燃え出し 大学士は胸をひろげて つくづくとよく暖る。 それから一寸外へ出た。 二十日の月は東にかかり 空気は水より冷たかった、 学士はしばらく足踏みをし それからたばこを一本くわえマッチをすって 「ふん、実にしずかだ、夜あけまでまだ三時間半あるな。」 つぶやきながら小屋に入った。 ぼんやりたき火をながめながら わらの上に横になり 手を頭の上で組み うとうとうとうとした。 突然頭の下のあたりで 小さな声で物を云い合ってるのが聞えた。 「そんなに肱を張らないでお呉れ。おれの横の腹に病気が起るじゃないか。」 「おや、変なことを云うね、一体いつ僕が肱を張ったね」 「そんなに張っているじゃないか、ほんとうにお前この頃湿気を吸ったせいかひどくのさばり出して来たね」 「おやそれは私のことだろうか。お前のことじゃなかろうかね、お前もこの頃は頭でみりみり私を押しつけようとするよ。」 大学士は眼を大きく開き 起き上ってその辺を見まわしたが 誰れも居らない様だった。 声はだんだん高くなる。 「何がひどいんだよ。お前こそこの頃はすこしばかり風を呑んだせいか、まるで人が変ったように意地悪になったね。」 「はてね、少しぐらい僕が手足をのばしたってそれをとやこうお前が云うのかい。十万二千年|昔のことを考えてごらん。」 「十万何千年前とかがどうしたの。もっと前のことさ、十万百万千万年、千五百の万年の前のあの時をお前は忘れてしまっているのかい。まさか忘れはしないだろうがね。忘れなかったら今になって、僕の横腹を肱で押すなんて出来た義理かい。」 大学士はこの語を聞いて すっかり愕ろいてしまう。 「どうも実に記憶のいいやつらだ。ええ、千五百の万年の前のその時をお前は忘れてしまっているのかい。まさか忘れはしないだろうがね、ええ。これはどうも実に恐れ入ったね、いったい誰だ。変に頭のいいやつは。」 大学士は又そろそろと起きあがり あたりをさがすが何もない。 声はいよいよ高くなる。 「それはたしかに、あなたは僕の先輩さ。けれどもそれがどうしたの。」 「どうしたのじゃないじゃないか。僕がやっと体骼と人格を完成してほっと息をついてるとお前がすぐ僕の足もとでどんな声をしたと思うね。こんな工合さ。もし、ホンブレンさま、ここの所で私もちっとばかり延びたいと思いまする。どうかあなたさまのおみあしさきにでも一寸取りつかせて下さいませ。まあこういうお前のことばだったよ。」 楢ノ木学士は手を叩く。 「ははあ、わかった。ホンブレンさまと、一人はホ※ンブレンドだ。すると相手は誰だろう。わからんなあ。けれども、ふふん、こいつは面白い。いよいよ今日も問答がはじまった。しめ、しめ、これだから野宿はやめられん。」 大学士は煙草を新らしく 一本出してマッチをする 声はいよいよ高くなる。 もっともいくら高くても せいぜい蚊の軍歌ぐらいだ。 「それはたしかにその通りさ、けれどもそれに対してお前は何と答えたね。いいえ、そいつは困ります、どうかほかのお方とご相談下さいと斯んなに立派にはねつけたろう。」 「おや、とにかくさ。それでもお前はかまわず僕の足さきにとりついたんだよ。まあ、そんなこと出来たもんだろうかね。もっとも誰かさんはできたようさ。」 「あてこするない。とりついたんじゃないよ。お前の足が僕の体骼の頭のとこにあったんだよ。僕はお前よりももっと前に生れたジッコさんを頼んだんだよ。今だって僕はジッコさんは大事に大事にしてあげてるんだ。」 大学士はよろこんで笑い出す。 「はっはっは、ジッコさんというのは磁鉄鉱だね、もうわかったさ、喧嘩の相手はバイオタイトだ。して見るとなんでもこの辺にさっきの花崗岩のかけらがあるね、そいつの中の鉱物がかやかや物を云ってるんだね。」 なるほど大学士の頭の下に 支那の六銭銀貨のくらいの みかげのかけらが落ちていた。 学士はいよいよにこにこする。 「そうかい。そんならいいよ。お前のような恩知らずは早く粘土になっちまえ。」 「おや、呪いをかけたね。僕も引っ込んじゃいないよ。さあ、お前のような、」 「一寸お待ちなさい。あなた方は一体何をさっきから喧嘩してるんですか。」 新らしい二人の声が 一緒にはっきり聞え出す。 「オーソクレさん。かまわないで下さい。あんまりこいつがわからないもんですからね。」 「双子さん。どうかかまわないで下さい。あんまりこいつが恩知らずなもんですからね。」 「ははあ、双晶のオーソクレースが仲裁に入った。これは実におもしろい。」 大学士はたきびに手をあぶり 顔中口にしてよろこんで云う。 二つの声が又聞える。 「まあ、静かになさい。僕たちは実に実に長い間|堅く堅く結び合ってあのまっくらなまっくらなとこで一緒にまわりからのはげしい圧迫やすてきな強い熱にこらえて来たではありませんか。一時はあまりの熱と力にみんな一緒に気違いにでもなりそうなのをじっとこらえて来たではありませんか。」 「そうです、それは全くその通りです。けれども苦しい間は人をたのんで楽になると人をそねむのはぜんたいいい事なんでしょうか。」 「何だって。」 「ちょっと、ちょっと、ちょっとお待ちなさい。ね。そして今やっとお日さまを見たでしょう。そのお日さまも僕たちが前に土の底でコングロメレートから聞いたとは大へんなちがいではありませんか。」 「ええ、それはもうちがってます。コングロメレートのはなしではお日さまはまっかで空は茶いろなもんだと云っていましたが今見るとお日さまはまっ白で空はまっ青です。あの人はうそつきでしたね。」 双子の声が又聞えた。 「さあ、しかしあのコングロメレートという方は前にただの砂利だったころはほんとうに空が茶いろだったかも知れませんね。」 「そうでしょうか。とにかくうそをつくこととひとの恩を仇でかえすのとはどっちも悪いことですね。」 「何だと、僕のことを云ってるのかい。よしさあ、僕も覚悟があるぞ。決闘をしろ、決闘を。」 「まあ、お待ちなさい。ね、あのお日さまを見たときのうれしかったこと。どんなに僕らは叫んだでしょう。千五百万年光というものを知らなかったんだもの。あの時鋼の槌がギギンギギンと僕らの頭にひびいて来ましたね。遠くの方で誰かが、ああお前たちもとうとうお日さまの下へ出るよと叫んでいた、もう僕たちの誰と誰とが一緒になって誰と誰とがわかれなければならないか。一向|判らなかったんですね。さよならさよならってみんな叫びましたねえ。そしたら急にパッと明るくなって僕たちは空へ飛びあがりましたねえ。あの時僕はお日さまの外に何か赤い光るものを見たように思うんですよ。」 「それは僕も見たよ。」 「僕も見たんだよ、何だったろうね、あれは。」 大学士は又笑う。 「それはね、明らかにたがねのさきから出た火花だよ。パチッて云ったろう。そして熱かったろう。」 ところが学士の声などは 鉱物どもに聞えない。 「そんなら僕たちはこれからさきどうなるでしょう。」 双子の声が又聞えた。 「さあ、あんまりこれから愉快なことでもないようですよ。僕が前にコングロメレートから聞きましたがどうも僕らはこのまま又土の中にうずもれるかそうでなければ砂か粘土かにわかれてしまうだけなようですよ。この小屋の中に居たって安心にもなりません。内に居たって外に居たってたかが二千年もたって見れば結局おんなじことでしょう。」 大学士はすっかりおどろいてしまう。 「実にどうも達観してるね。この小屋の中に居たって外に居たってたかが二千年も経って見れば粘土か砂のつぶになる、実にどうも達観してる。」 その時|俄かにピチピチ鳴り それからバイオタが泣き出した。 「ああ、いた、いた、いた、いた、痛ぁい、いたい。」 「バイオタさん。どうしたの、どうしたの。」 「早くプラジョさんをよばないとだめだ。」 「ははあ、プラジョさんというのはプラジオクレースで青白いから医者なんだな。」 大学士はつぶやいて耳をすます。 「プラジョさん、プラジョさん。プラジョさん。」 「はあい。」 「バイオタさんがひどくおなかが痛がってます。どうか早く診て下さい。」 「はあい、なあにべつだん心配はありません。かぜを引いたのでしょう。」 「ははあ、こいつらは風を引くと腹が痛くなる。それがつまり風化だな。」 大学士は眼鏡をはずし 半巾で拭いて呟やく。 「プラジョさん。お早くどうか願います。只今気絶をいたしました。」 「はぁい。いまだんだんそっちを向きますから。ようっと。はい、はい。これは、なるほど。ふふん。一寸脈をお見せ、はい。こんどはお舌、ははあ、よろしい。そして第十八へきかい予備面が痛いと。なるほど、ふんふん、いやわかりました。どうもこの病気は恐いですよ。それにお前さんのからだは大地の底に居たときから慢性りょくでい病にかかって大分|軟化してますからね、どうも恢復の見込がありません。」 病人はキシキシと泣く。 「お医者さん。私の病気は何でしょう。いつごろ私は死にましょう。」 「さよう、病人が病名を知らなくてもいいのですがまあ蛭石病の初期ですね、所謂ふう病の中の一つ。俗にかぜは万病のもとと云いますがね。それから、ええと、も一つのご質問はあなたの命でしたかね。さよう、まあ長くても一万年は持ちません。お気の毒ですが一万年は持ちません。」 「あああ、さっきのホンブレンのやつの呪いが利いたんだ。」 「いや、いや。そんなことはない。けだし、風病にかかって土になることはけだしすべて吾人に免かれないことですから。けだし。」 「ああ、プラジョさん。どんな手あてをいたしたらよろしゅうございましょうか。」 「さあ、そう云う工合に泣いているのは一番よろしくありません。からだをねじってあちこちのへきかいよび面にすきまをつくるのはなおさら、よろしくありません。その他風にあたれば病気のしょうけつを来します。日にあたれば病勢がつのります。霜にあたれば病勢が進みます。露にあたれば病状がこう進します。雪にあたれば症状が悪変します。じっとしているのはなおさらよろしくありません。それよりは、その、精神的に眼をつむって観念するのがいいでしょう、わがこの恐れるところの死なるものは、そもそも何であるか、その本質はいかん、生死|巌頭に立って、おかしいぞ、はてな、おかしい、はて、これはいかん、あいた、いた、いた、いた、いた、」 「プラジョさん、プラジョさん、しっかりなさい。一体どうなすったのです。」 「うむ、私も、うむ、風病のうち、うむ、うむ。」 「苦しいでしょう、これはほんとうにお気の毒なことになりました。」 「うむ、うむ、いいえ、苦しくありません。うむ。」 「何かお手あていたしましょう。」 「うむ、うむ、実はわたくしも地面の底から、うむ、うむ、大分カオリン病にかかっていた、うむ、オーソクレさん、オーソクレさん。うむ、今こそあなたにも明します。あなたも丁度わたし同様の病気です。うむ。」 「ああ、やっぱりさようでございましたか。全く、全く、全く、実に、実に、あいた、いた、いた、いた。」 そこでホンブレンドの声がした。 「ずいぶん神経|過敏な人だ。すると病気でないものは僕とクォーツさんだけだ。」 「うむ、うむ、そのホンブレンもバイオタと同病。」 「あ、いた、いた、いた。」 「おや、おや、どなたもずいぶん弱い。健康なのは僕一人。」 「うむ、うむ、そのクォーツさんもお気の毒ですがクウショウ中の瓦斯が病因です。うむ。」 「あいた、いた、いた、いた。た。」 「ずいぶんひどい医者だ。漢方の藪医だな。とうとうみんな風化かな。」 大学士は又新らしく たばこをくわえてにやにやする。 耳の下では鉱物どもが 声をそろえて叫んでいた。 「あ、いた、いた、いた、いた、た、たた。」 みんなの声はだんだん低く とうとうしんとしてしまう。 「はてな、みんな死んだのか。あるいは僕だけ聞えなくなったのか。」 大学士はみかげのかけらを 手にとりあげてつくづく見て パチッと向うの隅へ弾く。 それから榾を一本くべた。 その時はもうあけ方で 大学士は背嚢から 巻煙草を二包み出して 榾のお礼に藁に置き 背嚢をしょい小屋を出た。 石切場の壁はすっかり白く その西側の面だけに 月のあかりがうつっていた。    野宿第三夜 例の楢ノ木大学士が 衣嚢に両手を突っ込んで 少しせ中を高くして つくづく考え込みながら もう夕方の鼠いろの 頁岩の波に洗われる 海岸を大股に歩いていた。 全く海は暗くなり そのほのじろい波がしらだけ 一列、何かけもののように見えたのだ。 いよいよ今日は歩いても だめだと学士はあきらめて ぴたっと岩に立ちどまり しばらく黒い海面と 向うに浮ぶ腐った馬鈴薯のような雲を 眺めていたが、又ポケットから 煙草を出して火をつけた。 それからくるっと振り向いて 陸の方をじっと見定めて 急いでそっちへ歩いて行った。 そこには低い崖があり 崖の脚には多分は涛で 削られたらしい小さな洞があったのだ。 大学士はにこにこして 中へはいって背嚢をとる。 それからまっくらなとこで もしゃもしゃビスケットを喰べた。 ずうっと向うで一列涛が鳴るばかり。 「ははあ、どうだ、いよいよ宿がきまって腹もできると野宿もそんなに悪くない。さあ、もう一服やって寝よう。あしたはきっとうまく行く。その夢を今夜見るのも悪くない。」 大学士の吸う巻煙草が ポツンと赤く見えるだけ、 「斯う納まって見ると、我輩もさながら、洞熊か、洞窟住人だ。ところでもう寝よう。 闇の向うで 涛がぼとぼと鳴るばかり 鳥も啼かなきゃ 洞をのぞきに人も来ず、と。ふん、斯んなあんばいか。寝ろ、寝ろ。」 大学士はすぐとろとろする 疲れて睡れば夢も見ない いつかすっかり夜が明けて 昨夜の続きの頁岩が 青白くぼんやり光っていた。 大学士はまるでびっくりして 急いで洞を飛び出した。 あわてて帽子を落しそうになり それを押えさえもした。 「すっかり寝過ごしちゃった。ところでおれは一体何のために歩いているんだったかな。ええと、よく思い出せないぞ。たしかに昨日も一昨日も人の居ない処をせっせと歩いていたんだが。いや、もっと前から歩いていたぞ。もう一年も歩いているぞ。その目的はと、はてな、忘れたぞ。こいつはいけない。目的がなくて学者が旅行をするということはない、必ず目的があるのだ。化石じゃなかったかな。ええと、どうか第三紀の人類に就いてお調べを願います、と、誰か云ったようだ。いいや、そうじゃない、白堊紀の巨きな爬虫類の骨骼を博物館の方から頼まれてあるんですがいかがでございましょう、一つお探しを願われますまいかと、斯うじゃなかったかな。斯うだ、斯うだ、ちがいない。さあ、ところでここは白堊系の頁岩だ。もうここでおれは探し出すつもりだったんだ。なるほど、はじめてはっきりしたぞ。さあ探せ、恐竜の骨骼だ。恐竜の骨骼だ。」 学士の影は 黒く頁岩の上に落ち 大股に歩いていたから 踊っているように見えた。 海はもの凄いほど青く 空はそれより又青く 幾きれかのちぎれた雲が まばゆくそこに浮いていた。 「おや出たぞ。」 楢ノ木大学士が叫び出した。 その灰いろの頁岩の 平らな奇麗な層面に 直径が一|米ばかりある 五本指の足あとが 深く喰い込んでならんでいる。 所々上の岩のために かくれているが足裏の 皺まではっきりわかるのだ。 「さあ、見附けたぞ。この足跡の尽きた所には、きっとこいつが倒れたまま化石している。巨きな骨だぞ。まず背骨なら二十米はあるだろう。巨きなもんだぞ。」 大学士はまるで雀躍して その足あとをつけて行く。 足跡はずいぶん続き どこまで行くかわからない。 それに太陽の光線は赭く たいへん足が疲れたのだ。 どうもおかしいと思いながら ふと気がついて立ちどまったら なんだか足が柔らかな 泥に吸われているようだ。 堅い頁岩の筈だったと思って 楢ノ木大学士はうしろを向いた。 そしたら全く愕いた。 さっきから一心に跡けて来た 巨きな、蟇の形の足あとは なるほどずうっと大学士の 足もとまでつづいていて それから先ももっと続くらしかったが も一つ、どうだ、大学士の 銀座でこさえた長靴の あともぞろっとついていた。 「こいつはひどい。我輩の足跡までこんなに深く入るというのは実際少し恐れ入った。けれどもそれでも探求の目的を達することは達するな。少し歩きにくいだけだ。さあもう斯うなったらどこまでだって追って行くぞ。」 学士はいよいよ大股に その足跡をつけて行った。 どかどか鳴るものは心臓 ふいごのようなものは呼吸、 そんなに一生けん命だったが 又そんなにあたりもしずかだった。 大学士はふと波打ぎわを見た。 涛がすっかりしずまっていた。 たしかにさっきまで 寄せて吠えて砕けていた涛が いつかすっかりしずまっていた。 「こいつは変だ。おまけにずいぶん暑いじゃないか。」 大学士はあおむいて空を見る。 太陽はまるで熟した苹果のようで そこらも無暗に赤かった。 「ずいぶんいやな天気になった。それにしてもこの太陽はあんまり赤い。きっとどこかの火山が爆発をやった。その細かな火山灰が正しく上層の気流に混じて地球を包囲しているな。けれどもそれだからと云って我輩のこの追跡には害にならない。もうこの足あとの終るところにあの途方もない爬虫の骨がころがってるんだ。我輩はその地点を記録する。もう一足だぞ。」 大学士はいよいよ勢こんで その足跡をつけて行く。 ところが間もなく泥浜は 岬のように突き出した。 「さあ、ここを一つ曲って見ろ。すぐ向う側にその骨がある。けれども事によったらすぐないかも知れない。すぐなかったらも少し追って行けばいい。それだけのことだ。」 大学士はにこにこ笑い 立ちどまって巻煙草を出し マッチを擦って煙を吐く。 それからわざと顔をしかめ ごくおうように大股に 岬をまわって行ったのだ。 ところがどうだ名高い楢ノ木大学士が 釘付けにされたように立ちどまった。 その眼は空しく大きく開き その膝は堅くなってやがてふるえ出し 煙草もいつか泥に落ちた。 青ぞらの下、向うの泥の浜の上に その足跡の持ち主の 途方もない途方もない雷竜氏が いやに細長い頸をのばし 汀の水を呑んでいる。 長さ十間、ざらざらの 鼠いろの皮の雷竜が 短い太い足をちぢめ 厭らしい長い頸をのたのたさせ 小さな赤い眼を光らせ チュウチュウ水を呑んでいる。 あまりのことに楢ノ木大学士は 頭がしいんとなってしまった。 「一体これはどうしたのだ。中生代に来てしまったのか。中生代がこっちの方へやって来たのか。ああ、どっちでもおんなじことだ。とにかくあすこに雷竜が居て、こっちさえ見ればかけて来る。大学士も魚も同じことだ。見るなよ、見るなよ。僕はいま、ごくこっそりと戻るから。どうかしばらく、こっちを向いちゃいけないよ。」 いまや楢ノ木大学士は そろりそろりと後退りして 来た方へ遁げて戻る。 その眼はじっと雷竜を見 その手はそっと空気を押す。 そして雷竜の太い尾が まず見えなくなりその次に 山のような胴がかくれ おしまい黒い舌を出して びちょびちょ水を呑んでいる 蛇に似たその頭がかくれると 大学士はまず助かったと いきなり来た方へ向いた。 その足跡さへずんずんたどって 遁げてさえ行くならもう直きに 汀に涛も打って来るし 空も赤くはなくなるし 足あとももう泥に食い込まない 堅い頁岩の上を行く。 崖にはゆうべの洞もある そこまで行けばもう大丈夫 こんなあぶない探険などは 今度かぎりでやめてしまい 博物館へも断わらせて 東京のまちのまん中で 赤い鼻の連中などを 相手に法螺を吹いてればいい。 大体こんな計算だった。 それもまるきり電のような計算だ。 ところが楢ノ木大学士は も一度ぎくっと立ちどまった。 その膝はもうがたがたと鳴り出した。 見たまえ、学士の来た方の 泥の岸はまるでいちめん うじゃうじゃの雷竜どもなのだ。 まっ黒なほど居ったのだ。 長い頸を天に延ばすやつ 頸をゆっくり上下に振るやつ 急いで水にかけ込むやつ 実にまるでうじゃうじゃだった。 「もういけない。すっかりうまくやられちゃった。いよいよおれも食われるだけだ。大学士の号も一所になくなる。雷竜はあんまりひどい。前にも居るしうしろにも居る。まあただ一つたよりになるのはこの岬の上だけだ。そこに登っておれは助かるか助からないか、事によったら新生代の沖積世が急いで助けに来るかも知れない。さあ、もうたったこの岬だけだぞ。」 学士はそっと岬にのぼる。 まるで蕈とあすなろとの 合の子みたいな変な木が 崖にもじゃもじゃ生えていた。 そして本当に幸なことは そこには雷竜がいなかった。 けれども折角登っても そこらの景色は あんまりいいというでもない、 岬の右も左の方も 泥の渚は、もう一めんの雷竜だらけ 実にもじゃもじゃしていたのだ。 水の中でも黒い白鳥のように 頭をもたげて泳いだり 頸をくるっとまわしたり その厭らしいこと恐いこと 大学士はもう眼をつぶった。 ところがいつか大学士は 自分の鼻さきがふっふっ鳴って 暖いのに気がついた。 「とうとう来たぞ、喰われるぞ。」 大学士は観念をして眼をあいた。 大さ二尺の四っ角な まっ黒な雷竜の顔が すぐ眼の前までにゅうと突き出され その眼は赤く熟したよう。 その頸は途方もない向うの 鼠いろのがさがさした胴まで まるで管のように続いていた。 大学士はカーンと鳴った。 もう喰われたのだ、いやさめたのだ。 眼がさめたのだ、洞穴は まだまっ暗で恐らくは 十二時にもならないらしかった。 そこで楢ノ木大学士は 一つ小さなせきばらいをし まだ雷竜がいるようなので つくづく闇をすかして見る。 外ではたしかに涛の音 「なあんだ。馬鹿にしてやがる。もう睡れんぞ。寒いなあ。」 又たばこを出す。火をつける。 楢ノ木大学士は宝石学の専門だ。 その大学士の小さな家 「貝の火|兄弟商会」の 赤鼻の支配人がやって来た。 「先生お手紙でしたから早速とんで来ました。大へんお早くお帰りでした。ごく上等のやつをお見あたりでございましたか、何せ相手がグリーンランドの途方もない成金ですからありふれたものじゃなかなか承知しないんです。」 大学士は葉巻を横にくわえ 雲母紙を張った天井を 斜めに見ながらこう云った。 「うん探して来たよ、僕は一ぺん山へ出かけるともうどんなもんでも見附からんと云うことは断じてない、けだしすべての宝石はみな僕をしたってあつまって来るんだね。いやそれだから、此度なんかもまったくひどく困ったよ。殊に君注文が割合に柔らかな蛋白石だろう。僕がその山へ入ったら蛋白石どもがみんなざらざら飛びついて来てもうどうしてもはなれないじゃないか。それが君みんな貴蛋白石の火の燃えるようなやつなんだ。望みのとおりみんな背嚢の中に納めてやりたいことはもちろんだったが、それでは僕も身動きもできなくなるのだから気の毒だったがその中からごくいいやつだけ撰んださ。」 「ははあ、そいつはどうも、大へん結構でございました。しかし、そのお持ち帰りになりました分はいずれでございますか。一寸拝見をねがいとう存じます。」 「ああ、見せるよ。ただ僕はあんな立派なやつだから、事によったらもうすっかり曇ったじゃないかと思うんだ。実際蛋白石ぐらいたよりのない宝石はないからね。今日|虹のように光っている。あしたは白いただの石になってしまう。今日は円くて美しい。あしたは砕けてこなごなだ。そいつだね、こわいのは。しかしとにかく開いて見よう。この背嚢さ。」 「なるほど。」 貝の火|兄弟商会の 鼻の赤いその支配人は こくっと息を呑みながら 大学士の手もとを見つめている。 大学士はごく無雑作に 背嚢をあけて逆さにした。 下等な玻璃蛋白石が 三十ばかりころげだす。 「先生、困るじゃありませんか。先生、これでは、何でも、あんまりじゃありませんか。」 楢ノ木大学士は怒り出した。 「何があんまりだ。僕の知ったこっちゃない。ひどい難儀をしてあるんだ。旅費さえ返せばそれでよかろう。さあ持って行け。帰れ、帰れ。」 大学士は上着の衣嚢から 鼠いろの皺くちゃになった状袋を 出していきなり投げつけた。 「先生困ります。あんまりです。」 貝の火兄弟商会の 赤鼻の支配人は云いながら すばやく旅費の袋をさらい 上着の内衣嚢に投げ込んだ。 「帰れ、帰れ、もう来るな。」 「先生、困ります。あんまりです。」 とうとう貝の火兄弟商会の 赤鼻の支配人は帰って行き 大学士は葉巻を横にくわえ 雲母紙を張った天井を 斜めに見ながらにやっと笑う。  むかし、ある霧のふかい朝でした。  王子はみんながちょっといなくなったひまに、玻璃でたたんだ自分のお室から、ひょいっと芝生へ飛びおりました。  そして蜂雀のついた青い大きな帽子を急いでかぶって、どんどん向こうへかけ出しました。 「王子さま。王子さま。どちらにいらっしゃいますか。はて、王子さま」  と、年よりのけらいが、室の中であっちを向いたりこっちを向いたりして叫んでいるようすでした。  王子は霧の中で、はあはあ笑って立ちどまり、ちょっとそっちを向きましたが、またすぐ向き直って音をたてないように剣のさやをにぎりながら、どんどんどんどん大臣の家の方へかけました。  芝生の草はみな朝の霧をいっぱいに吸って、青く、つめたく見えました。  大臣の家のくるみの木が、霧の中から不意に黒く大きくあらわれました。  その木の下で、一人の子供の影が、霧の向こうのお日様をじっとながめて立っていました。  王子は声をかけました。 「おおい。お早う。遊びに来たよ」  その小さな影はびっくりしたように動いて、王子の方へ走って来ました。それは王子と同じ年の大臣の子でした。  大臣の子はよろこんで顔をまっかにして、 「王子さま、お早うございます」と申しました。  王子が口早にききました。 「お前さっきからここにいたのかい。何してたの」  大臣の子が答えました。 「お日さまを見ておりました。お日さまは霧がかからないと、まぶしくて見られません」 「うん。お日様は霧がかかると、銀の鏡のようだね」 「はい、また、大きな蛋白石の盤のようでございます」 「うん。そうだね。僕はあんな大きな蛋白石があるよ。けれどもあんなに光りはしないよ。僕はこんど、もっといいのをさがしに行くんだ。お前もいっしょに行かないか」  大臣の子はすこしもじもじしました。  王子はまたすぐ大臣の子にたずねました。 「ね、おい。僕のもってるルビーの壺やなんかより、もっといい宝石は、どっちへ行ったらあるだろうね」  大臣の子が申しました。 「虹の脚もとにルビーの絵の具皿があるそうです」  王子が口早に言いました。 「おい、取りに行こうか。行こう」 「今すぐでございますか」 「うん。しかし、ルビーよりは金剛石の方がいいよ。僕黄色な金剛石のいいのを持ってるよ。そして今度はもっといいのを取って来るんだよ。ね、金剛石はどこにあるだろうね」  大臣の子が首をまげて少し考えてから申しました。 「金剛石は山の頂上にあるでしょう」  王子はうなずきました。 「うん。そうだろうね。さがしに行こうか。ね。行こうか」 「王さまに申し上げなくてもようございますか」と大臣の子が目をパチパチさせて心配そうに申しました。  その時うしろの霧の中から、 「王子さま、王子さま、どこにいらっしゃいますか。王子さま」  と、年とったけらいの声が聞こえて参りました。  王子は大臣の子の手をぐいぐいひっぱりながら、小声で急いで言いました。 「さ、行こう。さ、おいで、早く。追いつかれるから」  大臣の子は決心したように剣をつるした帯革を堅くしめ直しながらうなずきました。  そして二人は霧の中を風よりも早く森の方へ走って行きました。        *  二人はどんどん野原の霧の中を走って行きました。ずうっとうしろの方で、けらいたちの声がまたかすかに聞こえました。  王子ははあはあ笑いながら、 「さあ、も少し走ってこう。もう誰も追いつきやしないよ」  大臣の子は小さな樺の木の下を通るとき、その大きな青い帽子を落としました。そして、あわててひろってまた一生けん命に走りました。  みんなの声ももう聞こえませんでした。そして野原はだんだんのぼりになってきました。  二人はやっと馳けるのをやめて、いきをせかせかしながら、草をばたりばたりと踏んで行きました。  いつか霧がすうっとうすくなって、お日さまの光が黄金色に透ってきました。やがて風が霧をふっと払いましたので、露はきらきら光り、きつねのしっぽのような茶色の草穂は一面波を立てました。  ふと気がつきますと遠くの白樺の木のこちらから、目もさめるような虹が空高く光ってたっていました。白樺のみきは燃えるばかりにまっかです。 「そら虹だ。早く行ってルビーの皿を取ろう。早くおいでよ」  二人はまた走り出しました。けれどもその樺の木に近づけば近づくほど美しい虹はだんだん向こうへ逃げるのでした。そして二人が白樺の木の前まで来たときは、虹はもうどこへ行ったか見えませんでした。 「ここから虹は立ったんだね。ルビーのお皿が落ちてないか知らん」  二人は足でけむりのような茶色の草穂をかきわけて見ましたが、ルビーの絵の具皿はそこに落ちていませんでした。 「ね、虹は向こうへ逃げるときルビーの皿もひきずって行ったんだね」 「そうだろうと思います」 「虹はいったいどこへ行ったろうね」 「さあ」 「あ、あすこにいる。あすこにいる。あんな遠くにいるんだよ」  大臣の子はそっちを見ました。まっ黒な森の向こう側から、虹は空高く大きく夢の橋をかけていたのでした。 「森の向こうなんだね。行ってみよう」 「また逃げるでしょう」 「行ってみようよ。ね。行こう」  二人はまた歩き出しました。そしてもう柏の森まで来ました。  森の中はまっくらで気味が悪いようでした。それでも王子は、ずんずんはいって行きました。小藪のそばを通るとき、さるとりいばらが緑色のたくさんのかぎを出して、王子の着物をつかんで引き留めようとしました。はなそうとしてもなかなかはなれませんでした。  王子はめんどうくさくなったので剣をぬいていきなり小藪をばらんと切ってしまいました。  そして二人はどこまでもどこまでも、むくむくの苔やひかげのかずらをふんで森の奥の方へはいって行きました。  森の木は重なり合ってうす暗いのでしたが、そのほかにどうも空まで暗くなるらしいのでした。  それは、森の中に青くさし込んでいた一本の日光の棒が、ふっと消えてそこらがぼんやりかすんできたのでもわかりました。  また霧が出たのです。林の中はまもなくぼんやり白くなってしまいました。もう来た方がどっちかもわからなくなってしまったのです。  王子はためいきをつきました。  大臣の子もしきりにあたりを見ましたが、霧がそこらいっぱいに流れ、すぐ眼の前の木だけがぼんやりかすんで見えるだけです。二人は困ってしまって腕を組んで立ちました。  すると小さなきれいな声で、誰か歌いだしたものがあります。 「ポッシャリ、ポッシャリ、ツイツイ、トン。  はやしのなかにふる霧は、  蟻のお手玉、三角帽子の、一寸法師のちいさなけまり」  霧がトントンはね踊りました。 「ポッシャリ、ポッシャリ、ツイツイ、トン。  はやしのなかにふる霧は、  くぬぎのくろい実、柏の、かたい実のつめたいおちち」  霧がポシャポシャ降ってきました。そしてしばらくしんとしました。 「誰だろう。ね。誰だろう。あんなことうたってるのは。二、三人のようだよ」  二人はまわりをきょろきょろ見ましたが、どこにも誰もいませんでした。  声はだんだん高くなりました。それはじょうずな芝笛のように聞こえるのでした。 「ポッシャリ、ポッシャリ、ツイ、ツイ、ツイ。  はやしのなかにふるきりの、  つぶはだんだん大きくなり、  いまはしずくがポタリ」  霧がツイツイツイツイ降ってきて、あちこちの木からポタリッポタリッと雫の音がきこえてきました。 「ポッシャン、ポッシャン、ツイ、ツイ、ツイ。  はやしのなかにふるきりは、  いまにこあめにかぁわるぞ、  木はぁみんな 青外套。  ポッシャン、ポッシャン、ポッシャン、シャン」  きりはこあめにかわり、ポッシャンポッシャン降ってきました。大臣の子は途方に暮れたように目をまんまるにしていました。 「誰だろう。今のは。雨を降らせたんだね」  大臣の子はぼんやり答えました。 「ええ、王子さま。あなたのきものは草の実でいっぱいですよ」そして王子の黒いびろうどの上着から、緑色のぬすびとはぎの実を一ひらずつとりました。  王子がにわかに叫びました。 「誰だ、今歌ったものは、ここへ出ろ」  するとおどろいたことは、王子たちの青い大きな帽子に飾ってあった二|羽の青びかりの蜂雀が、ブルルルブルッと飛んで、二人の前に降りました。そして声をそろえて言いました。 「はい。何かご用でございますか」 「今の歌はお前たちか。なぜこんなに雨をふらせたのだ」  蜂雀はじょうずな芝笛のように叫びました。 「それは王子さま。私どもの大事のご主人さま。私どもは空をながめて歌っただけでございます。そらをながめておりますと、きりがあめにかわるかどうかよくわかったのでございます」 「そしてお前らはどうして歌ったり飛んだりしたのだ」 「はい。ここからは私どもの歌ったり飛んだりできる所になっているのでございます。ご案内いたしましょう」  雨はポッシャンポッシャン降っています。蜂雀はそう言いながら、向こうの方へ飛び出しました。せなかや胸に鋼鉄のはり金がはいっているせいか飛びようがなんだか少し変でした。  王子たちはそのあとをついて行きました。        *  にわかにあたりがあかるくなりました。  今までポシャポシャやっていた雨が急に大粒になってざあざあと降ってきたのです。  はちすずめが水の中の青い魚のように、なめらかにぬれて光りながら、二人の頭の上をせわしく飛びめぐって、 ザッ、ザ、ザ、ザザァザ、ザザァザ、ザザァ、 ふらばふれふれ、ひでりあめ、 トパァス、サファイア、ダイアモンド。  と歌いました。するとあたりの調子がなんだか急に変なぐあいになりました。雨があられに変わってパラパラパラパラやってきたのです。  そして二人はまわりを森にかこまれたきれいな草の丘の頂上に立っていました。  ところが二人は全くおどろいてしまいました。あられと思ったのはみんなダイアモンドやトパァスやサファイアだったのです。おお、その雨がどんなにきらびやかなまぶしいものだったでしょう。  雨の向こうにはお日さまが、うすい緑色のくまを取って、まっ白に光っていましたが、そのこちらで宝石の雨はあらゆる小さな虹をあげました。金剛石がはげしくぶっつかり合っては青い燐光を起しました。  その宝石の雨は、草に落ちてカチンカチンと鳴りました。それは鳴るはずだったのです。りんどうの花は刻まれた天河石と、打ち劈かれた天河石で組み上がり、その葉はなめらかな硅孔雀石でできていました。黄色な草穂はかがやく猫睛石、いちめんのうめばちそうの花びらはかすかな虹を含む乳色の蛋白石、とうやくの葉は碧玉、そのつぼみは紫水晶の美しいさきを持っていました。そしてそれらの中でいちばん立派なのは小さな野ばらの木でした。野ばらの枝は茶色の琥珀や紫がかった霰石でみがきあげられ、その実はまっかなルビーでした。  もしその丘をつくる黒土をたずねるならば、それは緑青か瑠璃であったにちがいありません。二人はあきれてぼんやりと光の雨に打たれて立ちました。  はちすずめがたびたび宝石に打たれて落ちそうになりながら、やはりせわしくせわしく飛びめぐって、 ザッザザ、ザザァザ、ザザァザザザァ、 降らばふれふれひでりあめ ひかりの雲のたえぬまま。  と歌いましたので雨の音はひとしお高くなり、そこらはまたひとしきりかがやきわたりました。  それから、はちすずめは、だんだんゆるやかに飛んで、 ザッザザ、ザザァザ、ザザァザザザァ、 やまばやめやめ、ひでりあめ そらは みがいた 土耳古玉。  と歌いますと、雨がぴたりとやみました。おしまいの二つぶばかりのダイアモンドがそのみがかれた土耳古玉のそらからきらきらっと光って落ちました。 「ね、このりんどうの花はお父さんの所の一等のコップよりも美しいんだね。トパァスがいっぱいに盛ってあるよ」 「ええ立派です」 「うん。僕、このトパァスをはんけちへいっぱい持ってこうか。けれど、トパァスよりはダイアモンドの方がいいかなあ」  王子ははんけちを出してひろげましたが、あまりいちめんきらきらしているので、もうなんだか拾うのがばかげているような気がしました。  その時、風が来て、りんどうの花はツァリンとからだを曲げて、その天河石の花の盃を下の方に向けましたので、トパァスはツァラツァランとこぼれて下のすずらんの葉に落ち、それからきらきらころがって草の底の方へもぐって行きました。  りんどうの花はそれからギギンと鳴って起きあがり、ほっとため息をして歌いました。 「トパァスのつゆはツァランツァリルリン、  こぼれてきらめく サング、サンガリン、  ひかりの丘に すみながら  なぁにがこんなにかなしかろ」  まっ碧な空では、はちすずめがツァリル、ツァリル、ツァリルリン、ツァリル、ツァリル、ツァリルリンと鳴いて二人とりんどうの花との上をとびめぐっておりました。 「ほんとうにりんどうの花は何がかなしいんだろうね」王子はトパァスを包もうとして、一ぺんひろげたはんけちで顔の汗をふきながら言いました。 「さあ私にはわかりません」 「わからないねい。こんなにきれいなんだもの。ね、ごらん、こっちのうめばちそうなどはまるで虹のようだよ。むくむく虹が湧いてるようだよ。ああそうだ、ダイアモンドの露が一つぶはいってるんだよ」  ほんとうにそのうめばちそうは、ぷりりぷりりふるえていましたので、その花の中の一つぶのダイアモンドは、まるで叫び出すくらいに橙や緑に美しくかがやき、うめばちそうの花びらにチカチカ映って言いようもなく立派でした。  その時ちょうど風が来ましたので、うめばちそうはからだを少し曲げてパラリとダイアモンドの露をこぼしました。露はちくちくっとおしまいの青光をあげ碧玉の葉の底に沈んで行きました。  うめばちそうはブリリンと起きあがってもう一ぺんサッサッと光りました。金剛石の強い光の粉がまだはなびらに残ってでもいたのでしょうか。そして空のはちすずめのめぐりも叫びも、にわかにはげしくはげしくなりました。うめばちそうはまるで花びらも萼もはねとばすばかり高く鋭く叫びました。 「きらめきのゆきき  ひかりのめぐみ  にじはゆらぎ  陽は織れど  かなし。  青ぞらはふるい  ひかりはくだけ  風のきしり  陽は織れど  かなし」  野ばらの木が赤い実から水晶の雫をポトポトこぼしながらしずかに歌いました。 「にじはなみだち  きらめきは織る  ひかりのおかの  このさびしさ。  こおりのそこの  めくらのさかな  ひかりのおかの  このさびしさ。  たそがれぐもの  さすらいの鳥  ひかりのおかの  このさびしさ」  この時光の丘はサラサラサラッと一めんけはいがして草も花もみんなからだをゆすったりかがめたりきらきら宝石の露をはらいギギンザン、リン、ギギンと起きあがりました。そして声をそろえて空高く叫びました。 「十力の金剛石はきょうも来ず  めぐみの宝石はきょうも降らず  十力の宝石の落ちざれば、  光の丘も まっくろのよる  二人は腕を組んで棒のように立っていましたが王子はやっと気がついたように少しからだをかがめて、 「ね、お前たちは何がそんなにかなしいの」と野ばらの木にたずねました。  野ばらは赤い光の点々を王子の顔に反射させながら、 「今|言った通りです。十力の金剛石がまだ来ないのです」  王子は向こうの鈴蘭の根もとからチクチク射して来る黄金色の光をまぶしそうに手でさえぎりながら、 「十力の金剛石ってどんなものだ」とたずねました。  野ばらがよろこんでからだをゆすりました。 「十力の金剛石はただの金剛石のようにチカチカうるさく光りはしません」  碧玉のすずらんが百の月が集まった晩のように光りながら向こうから言いました。 「十力の金剛石はきらめくときもあります。かすかににごることもあります。ほのかにうすびかりする日もあります。あるときは洞穴のようにまっくらです」  ひかりしずかな天河石のりんどうも、もうとても踊りださずにいられないというようにサァン、ツァン、サァン、ツァン、からだをうごかして調子をとりながら言いました。 「その十力の金剛石は春の風よりやわらかく、ある時はまるくあるときは卵がたです。霧より小さなつぶにもなれば、そらとつちとをうずめもします」  まひるの笑いの虹をあげてうめばちそうが言いました。 「それはたちまち百千のつぶにもわかれ、また集まって一つにもなります」  はちすずめのめぐりはあまり速くてただルルルルルルと鳴るぼんやりした青い光の輪にしか見えませんでした。  野ばらがあまり気が立ち過ぎてカチカチしながら叫びました。 「十力の大宝珠はある時黒い厩肥のしめりの中に埋もれます。それから木や草のからだの中で月光いろにふるい、青白いかすかな脈をうちます。それから人の子供の苹果の頬をかがやかします」  そしてみんながいっしょに叫びました。 「十力の金剛石は今日も来ない。  その十力の金剛石はまだ降らない。  おお、あめつちを充てる十力のめぐみ  われらに下れ」  にわかにはちすずめがキイーンとせなかの鋼鉄の骨もはじけたかと思うばかりするどいさけびをあげました。びっくりしてそちらを見ますと空が生き返ったように新しくかがやき、はちすずめはまっすぐに二人の帽子におりて来ました。はちすずめのあとを追って二つぶの宝石がスッと光って二人の青い帽子におち、それから花の間に落ちました。 「来た来た。ああ、とうとう来た。十力の金剛石がとうとう下った」と花はまるでとびたつばかりかがやいて叫びました。  木も草も花も青ぞらも一|度に高く歌いました。 「ほろびのほのお 湧きいでて  つちとひととを つつめども  こはやすらけき くににして  ひかりのひとら みちみてり  ひかりにみてる あめつちは  …………………」  急に声がどこか別の世界に行ったらしく聞こえなくなってしまいました。そしていつか十力の金剛石は丘いっぱいに下っておりました。そのすべての花も葉も茎も今はみなめざめるばかり立派に変わっていました。青いそらからかすかなかすかな楽のひびき、光の波、かんばしく清いかおり、すきとおった風のほめことばが丘いちめんにふりそそぎました。  なぜならばすずらんの葉は今はほんとうの柔らかなうすびかりする緑色の草だったのです。  うめばちそうはすなおな、ほんとうのはなびらをもっていたのです。そして十力の金剛石は野ばらの赤い実の中のいみじい細胞の一つ一つにみちわたりました。  その十力の金剛石こそは露でした。  ああ、そしてそして十力の金剛石は露ばかりではありませんでした。碧いそら、かがやく太陽、丘をかけて行く風、花のそのかんばしいはなびらや、しべ、草のしなやかなからだ、すべてこれをのせになう丘や野原、王子たちのびろうどの上着や涙にかがやく瞳、すべてすべて十力の金剛石でした。あの十力の大宝珠でした。あの十力の尊い舎利でした。あの十力とは誰でしょうか。私はやっとその名を聞いただけです。二人もまたその名をやっと聞いただけでした。けれどもこの蒼鷹のように若い二人がつつましく草の上にひざまずき指を膝に組んでいたことはなぜでしょうか。  さてこの光の底のしずかな林の向こうから二人をたずねるけらいたちの声が聞こえて参りました。 「王子|様王子|様。こちらにおいででございますか。こちらにおいででございますか。王子|様」  二人は立ちあがりました。 「おおい。ここだよ」と王子は叫ぼうとしましたが、その声はかすれていました。二人はかがやく黒い瞳を、蒼ぞらから林の方に向けしずかに丘を下って行きました。  林の中からけらいたちが出て来てよろこんで笑ってこっちへ走って参りました。  王子も叫んで走ろうとしましたが、一本のさるとりいばらがにわかにすこしの青い鉤を出して王子の足に引っかけました。王子はかがんでしずかにそれをはずしました。         *  旧暦の六月二十四日の晩でした。  北上川の水は黒の寒天よりももっとなめらかにすべり獅子鼻は微かな星のあかりの底にまっくろに突き出ていました。  獅子鼻の上の松林は、もちろんもちろん、まっ黒でしたがそれでも林の中に入って行きますと、その脚の長い松の木の高い梢が、一本一本空の天の川や、星座にすかし出されて見えていました。  松かさだか鳥だかわからない黒いものがたくさんその梢にとまっているようでした。  そして林の底の萱の葉は夏の夜の雫をもうポトポト落して居りました。  その松林のずうっとずうっと高い処で誰かゴホゴホ唱えています。 「爾の時に疾翔大力、爾迦夷に告げて曰く、諦に聴け、諦に聴け、善くこれを思念せよ、我今|汝に、梟鵄諸の悪禽、離苦解脱の道を述べん、と。  爾迦夷、則ち、両翼を開張し、虔しく頸を垂れて、座を離れ、低く飛揚して、疾翔大力を讃嘆すること三匝にして、徐に座に復し、拝跪して唯願うらく、疾翔大力、疾翔大力、ただ我|等が為に、これを説きたまえ。ただ我等が為に、これを説き給えと。  疾翔大力、微笑して、金色の円光を以て頭に被れるに、その光、遍く一座を照し、諸鳥|歓喜充満せり。則ち説いて曰く、  汝等審に諸の悪業を作る。或は夜陰を以て、小禽の家に至る。時に小禽、既に終日日光に浴し、歌唄跳躍して疲労をなし、唯唯甘美の睡眠中にあり。汝等飛躍してこれを握む。利爪深くその身に入り、諸の小禽、痛苦|又声を発するなし。則ちこれを裂きて擅に※食す。或は沼田に至り、螺蛤を啄む。螺蛤|軟泥中にあり、心|柔※にして、唯温水を憶う。時に俄に身、空中にあり、或は直ちに身を破る、悶乱声を絶す。汝等これを※食するに、又|懺悔の念あることなし。  斯の如きの諸の悪業、挙げて数うるなし。悪業を以ての故に、更に又諸の悪業を作る。継起して遂に竟ることなし。昼は則ち日光を懼れ又人|及諸の強鳥を恐る。心|暫くも安らかなるなし、一度梟身を尽して、又|新に梟身を得、審に諸の苦患を被りて、又|尽ることなし。」  俄かに声が絶え、林の中はしぃんとなりました。ただかすかなかすかなすすり泣きの声が、あちこちに聞えるばかり、たしかにそれは梟のお経だったのです。  しばらくたって、西の遠くの方を、汽車のごうと走る音がしました。その音は、今度は東の方の丘に響いて、ごとんごとんとこだまをかえして来ました。  林はまたしずまりかえりました。よくよく梢をすかして見ましたら、やっぱりそれは梟でした。一|疋の大きなのは、林の中の一番高い松の木の、一番高い枝にとまり、そのまわりの木のあちこちの枝には、大きなのや小さいのや、もうたくさんのふくろうが、じっととまってだまっていました。ほんのときどき、かすかなかすかなため息の音や、すすり泣きの声がするばかりです。  ゴホゴホ声が又起りました。 「ただ今のご文は、梟鵄守護章というて、誰も存知の有り難いお経の中の一とこじゃ。ただ今から、暫時の間、そのご文の講釈を致す。みなの衆、ようく心を留めて聞かしゃれ。折角鳥に生れて来ても、ただ腹が空いた、取って食う、睡くなった、巣に入るではなんの所詮もないことじゃぞよ。それも鳥に生れてただやすやすと生きるというても、まことはただの一日とても、ただごとではないのぞよ、こちらが一日生きるには、雀やつぐみや、たにしやみみずが、十や二十も殺されねばならぬ、ただ今のご文にあらしゃるとおりじゃ。ここの道理をよく聴きわけて、必らずうかうか短い一生をあだにすごすではないぞよ。これからご文に入るじゃ。子供らも、こらえて睡るではないぞ。よしか。」  林の中は又しいんとなりました。さっきの汽車が、まだ遠くの遠くの方で鳴っています。 「爾の時に疾翔大力、爾迦夷に告げて曰くと、まづ疾翔大力とは、いかなるお方じゃか、それを話さなければならんじゃ。  疾翔大力と申しあげるは、施身大菩薩のことじゃ。もと鳥の中から菩提心を発して、発願した大力の菩薩じゃ。疾翔とは早く飛ぶということじゃ。捨身菩薩がもとの鳥の形に身をなして、空をお飛びになるときは、一揚というて、一はばたきに、六千|由旬を行きなさる。そのいわれより疾翔と申さるる、大力というは、お徳によって、たとえ火の中水の中、ただこの菩薩を念ずるものは、捨身大菩薩、必らず飛び込んで、お救いになり、その浄明の天上にお連れなさる、その時火に入って身の毛一つも傷かず、水に潜って、羽、塵ほどもぬれぬという、そのお徳をば、大力とこう申しあげるのじゃ。されば疾翔大力とは、捨身大菩薩を、鳥より申しあげる別号じゃ、まあそう申しては失礼なれど、鳥より仰ぎ奉る一つのあだ名じゃと、斯う考えてよろしかろう。」  声がしばらくとぎれました。林はしいんとなりました。ただ下の北上川の淵で、鱒か何かのはねる音が、バチャンと聞えただけでした。  梟の、きっと大僧正か僧正でしょう、坊さんの講義が又はじまりました。 「さらば疾翔大力は、いかなればとて、われわれ同様|賤しい鳥の身分より、その様なる結構のお身となられたか。結構のことじゃ。ご自分も又ほかの一切のものも、本願のごとくにお救いなされることなのじゃ。さほど尊いご身分にいかなことでなられたかとなれば、なかなか容易のことではあらぬぞよ。疾翔大力さまはもとは一疋の雀でござらしゃったのじゃ。南天竺の、ある家の棟に棲まわれた。ある年非常な饑饉が来て、米もとれねば木の実もならず、草さえ枯れたことがござった。鳥もけものも、みな飢え死にじゃ人もばたばた倒れたじゃ。もう炎天と飢渇の為に人にも鳥にも、親兄弟の見さかいなく、この世からなる餓鬼道じゃ。その時疾翔大力は、まだ力ない雀でござらしゃったなれど、つくづくこれをご覧じて、世の浅間しさはかなさに、泪をながしていらしゃれた。中にもその家の親子二人、子はまだ六つになるならず、母親とてもその大飢渇に、どこから食を得るでなし、もうあすあすに二人もろとも見す見す餓死を待ったのじゃ。この時、疾翔大力は、上よりこれをながめられあまりのことにしばしは途方にくれなされたが、日ごろの恩を報ずるは、ただこの時と勇みたち、つかれた羽をうちのばし、はるか遠くの林まで、親子の食をたずねたげな。一念天に届いたか、ある大林のその中に、名さえも知らぬ木なれども、色もにおいもいと高き、十の木の実をお見附けなされたじゃ。さればもはや疾翔大力は、われを忘れて、十たびその実をおのがあるじの棟に運び、親子の上より落されたじゃ。その十たび目は、あまりの飢えと身にあまる、その実の重さにまなこもくらみ、五たび土に落ちたれど、ただ報恩の一念に、ついご自分にはその実を啄みなさらなんだ、おもいとどいてその十番目の実を、無事に親子に届けたとき、あまりの疲れと張りつめた心のゆるみに、ついそのままにお倒れなされたじゃ。されどもややあって正気に復し下の模様を見てあれば、いかにもその子は勢も増し、ただいたけなく悦んでいる如くなれども、親はかの実も自らは口にせなんじゃ、いよいよ餓えて倒れるようす、疾翔大力これを見て、はやこの上はこの身を以て親の餌食とならんものと、いきなり堅く身をちぢめ、息を殺してはりより床へと落ちなされたのじゃ。その痛さより、身は砕くるかと思えども、なおも命はあらしゃった。されども慈悲もある人の、生きたと見てはとても食べはせまいとて、息を殺し眼をつぶっていられたじゃ。そしてとうとう願かなってその親子をば養われたじゃ。その功徳より、疾翔大力様は、ついに仏にあわれたじゃ。そして次第に法力を得て、やがてはさきにも申した如く、火の中に入れどもその毛一つも傷つかず、水に入れどもその羽一つぬれぬという、大力の菩薩となられたじゃ。今このご文は、この大菩薩が、悪業のわれらをあわれみて、救護の道をば説かしゃれた。その始めの方じゃ。しばらく休んで次の講座で述べるといたす。  南無疾翔大力、南無疾翔大力。  みなの衆しばらくゆるりとやすみなされ。」  いちばん高い木の黒い影が、ばたばた鳴って向うの低い木の方へ移ったようでした。やっぱりふくろうだったのです。  それと同時に、林の中は俄かにばさばさ羽の音がしたり、嘴のカチカチ鳴る音、低くごろごろつぶやく音などで、一杯になりました。天の川が大分まわり大熊星がチカチカまたたき、それから東の山脈の上の空はぼおっと古めかしい黄金いろに明るくなりました。  前の汽車と停車場で交換したのでしょうか、こんどは南の方へごとごと走る音がしました。何だか車のひびきが大へん遅く貨物列車らしかったのです。  そのとき、黒い東の山脈の上に何かちらっと黄いろな尖った変なかたちのものがあらわれました。梟どもは俄にざわっとしました。二十四日の黄金の角、鎌の形の月だったのです。忽ちすうっと昇ってしまいました。沼の底の光のような朧な青いあかりがぼおっと林の高い梢にそそぎ一疋の大きな梟が翅をひるがえしているのもひらひら銀いろに見えました。さっきの説教の松の木のまわりになった六本にはどれにも四疋から八疋ぐらいまで梟がとまっていました。低く出た三本のならんだ枝に三疋の子供の梟がとまっていました。きっと兄弟だったでしょうがどれも銀いろで大さはみな同じでした。その中でこちらの二疋は大分|厭きているようでした。片っ方の翅をひらいたり、片脚でぶるぶる立ったり、枝へ爪を引っかけてくるっと逆さになって小笠原島のこうもりのまねをしたりしていました。  それから何か云っていました。 「そら、大の字やって見せようか。大の字なんか何でもないよ。」 「大の字なんか、僕だってできらあ。」 「できるかい。できるならやってごらん。」 「そら。」その小さな子供の梟はほんの一寸の間、消防のやるような逆さ大の字をやりました。 「何だい。そればっかしかい。そればっかしかい。」 「だって、やったんならいいんだろう。」 「大の字にならなかったい。ただの十の字だったい、脚が開かないじゃないか。」 「おい、おとなしくしろ。みんなに笑われるぞ。」すぐ上の枝に居たお父さんのふくろうがその大きなぎらぎら青びかりする眼でこっちを見ながら云いました。眼のまわりの赤い隈もはっきり見えました。  ところがなかなか小さな梟の兄弟は云うことをききませんでした。 「十の字、ほう、たての棒の二つある十の字があるだろうか。」 「二つに開かなかったい。」 「開いたよ。」 「何だ生意気な。」もう一疋は枝からとび立ちました。もう一疋もとび立ちました。二疋はばたばた、けり合ってはねが月の光に銀色にひるがえりながら下へ落ちました。  おっかさんのふくろうらしいさっきのお父さんのとならんでいた茶いろの少し小型のがすうっと下へおりて行きました。それから下の方で泣声が起りました。けれども間もなくおっかさんの梟はもとの処へとびあがり小さな二疋ものぼって来て二疋とももとのところへとまって片脚で眼をこすりました。お母さんの梟がも一度|叱りました。その眼も青くぎらぎらしました。 「ほんとうにお前たちったら仕方ないねえ。みなさんの見ていらっしゃる処でもうすぐきっと喧嘩するんだもの。なぜ穂吉ちゃんのように、じっとおとなしくしていないんだろうねえ。」  穂吉と呼ばれた梟は、三疋の中では一番小さいようでしたが一番|温和しいようでした。じっとまっすぐを向いて、枝にとまったまま、はじめからおしまいまで、しんとしていました。  その木の一番高い枝にとまりからだ中銀いろで大きく頬をふくらせ今の講義のやすみのひまを水銀のような月光をあびてゆらりゆらりといねむりしているのはたしかに梟のおじいさんでした。  月はもう余程高くなり、星座もずいぶんめぐりました。蝎座は西へ沈むとこでしたし、天の川もすっかり斜めになりました。  向うの低い松の木から、さっきの年老りの坊さんの梟が、斜に飛んでさっきの通り、説教の枝にとまりました。  急に林のざわざわがやんで、しずかにしずかになりました。風のためか、今まで聞えなかった遠くの瀬の音が、ひびいて参りました。坊さんの梟はゴホンゴホンと二つ三つせきばらいをして又はじめました。 「爾の時に、疾翔大力、爾迦夷に告げて曰く、諦に聴け、諦に聴け。善くこれを思念せよ。我今|汝に、梟鵄諸の悪禽、離苦解脱の道を述べんと。  爾迦夷、則ち両翼を開張し、虔しく頸を垂れて座を離れ、低く飛揚して疾翔大力を讃嘆すること三匝にして、徐に座に復し、拝跪して唯願うらく、疾翔大力、疾翔大力、ただ我|等が為にこれを説き給え。ただ我等が為にこれを説き給えと。  疾翔大力|微笑して、金色の円光を以て頭に被れるに、その光|遍く一座を照し、諸鳥|歓喜充満せり。則ち説いて曰く、  汝等審に諸の悪業を作る。或は夜陰を以て小禽の家に至る。時に小禽|既に終日日光に浴し、歌唄跳躍して疲労をなし、唯唯甘美の睡眠中にあり。汝等飛躍してこれを握む。利爪深くその身に入り、諸の小禽痛苦又声を発するなし。則ちこれを裂きて擅に※食す。或は沼田に至り、螺蛤を啄む。螺蛤|軟泥中にあり、心|柔※にして、唯温水を憶う。時に俄に身空中にあり、或は直ちに身を破る、悶乱声を絶す。汝等これを※食するに、又|懺悔の念あることなし。  斯の如きの諸の悪業、挙げて数うるなし。悪業を以ての故に、更に又諸の悪業を作る。継起して遂に竟ることなし。昼は則ち日光を懼れ、又人|及諸の強鳥を恐る。心|暫らくも安らかなることなし、一度梟身を尽して、又|新に梟身を得。審に諸の苦患を被りて又尽くることなし。で前の座では、捨身菩薩を疾翔大力と呼びあげるわけあい又、その願成の因縁をお話いたしたじゃが、次に爾迦夷に告げて曰くとある。爾迦夷というはこのとき我等と同様|梟じゃ。われらのご先祖と、一緒にお棲いなされたお方じゃ。今でも爾迦夷|上人と申しあげて、毎日十三日がご命日じゃ。いずれの家でも、梟の限りは、十三日には楢の木の葉を取て参て、爾迦夷上人さまにさしあげるということをやるじゃ、これは爾迦夷さまが楢の木にお棲いなされたからじゃ。この爾迦夷さまは、早くから梟の身のあさましいことをご覚悟遊ばされ、出離の道を求められたじゃげなが、とうとうその一心の甲斐あって、疾翔大力さまにめぐりあい、ついにその尊い教を聴聞あって、天上へ行かしゃれた。その爾迦夷さまへのご説法じゃ。諦に聴け、諦に聴け。善くこれを思念せよと。心をしずめてよく聴けよ、心をしずめてよく聴けよと斯うじゃ。いずれの説法の座でも、よくよく心をしずめ耳をすまして聴くことは大切なのじゃ。上の空で聞いていたでは何にもならぬじゃ。」  ところがこのとき、さっきの喧嘩をした二疋の子供のふくろうがもう説教を聴くのは厭きてお互にらめくらをはじめていました。そこは茂りあった枝のかげで、まっくらでしたが、二疋はどっちもあらんかぎりりんと眼を開いていましたので、ぎろぎろ燐を燃したように青く光りました。そこでとうとう二疋とも一ぺんに噴き出して一緒に、 「お前の眼は大きいねえ。」と云いました。  その声は幸に少しつんぼの梟の坊さんには聞えませんでしたが、ほかの梟たちはみんなこっちを振り向きました。兄弟の穂吉という梟は、そこで大へんきまり悪く思ってもじもじしながら頭だけはじっと垂れていました。二疋はみんなのこっちを見るのを枝のかげになってかくれるようにしながら、 「おい、もう遁げて遊びに行こう。」 「どこへ。」 「実相寺の林さ。」 「行こうか。」 「うん、行こう。穂吉ちゃんも行かないか。」 「ううん。」穂吉は頭をふりました。 「我今|汝に、梟鵄諸の悪禽、離苦解脱の道を述べんということは。」説教が又続きました。二疋はもうそっと遁げ出し、穂吉はいよいよ堅くなって、兄弟三人分一人で聴こうという風でした。         *  その次の日の六月二十五日の晩でした。  丁度ゆうべと同じ時刻でしたのに、説教はまだ始まらず、あの説教の坊さんは、眼を瞑ってだまって説教の木の高い枝にとまり、まわりにゆうべと同じにとまった沢山の梟どもはなぜか大へんみな興奮している模様でした。女のふくろうにはおろおろ泣いているのもありましたし、男のふくろうはもうとても斯うしていられないというようにプリプリしていました。それにあのゆうべの三人兄弟の家族の中では一番高い処に居るおじいさんの梟はもうすっかり眼を泣きはらして頬が時々びくびく云い、泪は声なくその赤くふくれた眼から落ちていました。  もちろんふくろうのお母さんはしくしくしくしく泣いていました。乱暴ものの二疋の兄弟も不思議にその晩はきちんと座って、大きな眼をじっと下に落していました。又ふくろうのお父さんは、しきりに西の方を見ていました。けれども一体どうしたのかあの温和しい穂吉の形が見えませんでした。風が少し出て来ましたので松の梢はみなしずかにゆすれました。  空には所々雲もうかんでいるようでした。それは星があちこちめくらにでもなったように黒くて光っていなかったからです。  俄かに西の方から一疋の大きな褐色の梟が飛んで来ました。そしてみんなの入口の低い木にとまって声をひそめて云いました。 「やっぱり駄目だ。穂吉さんももうあきらめているようだよ。さっきまではばたばたばたばた云っていたけれども、もう今はおとなしく臼の上にとまっているよ。それから紐が何だか変ったようだよ。前は右足だったが、今度は左脚に結いつけられて、それに紐の色が赤いんだ。けれどもただひとついいことは、みんな大抵寝てしまったんだ。さっきまで穂吉さんの眼を指で突っつこうとした子供などは、腹かけだけして、大の字になって寝ているよ。」  穂吉のお母さんの梟は、まるで火がついたように声をあげて泣きました。それにつれて林中の女のふくろうがみなしいんしいんと泣きました。  梟の坊さんは、じっと星ぞらを見あげて、それからしずかにたずねました。 「この世界は全くこの通りじゃ。ただもうみんなかなしいことばかりなのじゃ。どうして又あんなおとなしい子が、人につかまるような処に出たもんじゃろうなあ。」  説教の木のとなりに居た鼠いろの梟は恭々しく答えました。 「今朝あけ方近くなってから、兄弟三人で出掛けたそうでございます。いつも人の来るような処ではなかったのでございます。そのうち朝日が出ましたので、眩しさに三疋とも、しばらく眼を瞑っていたそうでございます。すると、丁度子供が二人、草刈りに来て居ましたそうで、穂吉もそれを知らないうちに、一人がそっとのぼって来て、穂吉の足を捉まえてしまったと申します。」 「あああわれなことじゃ、ふびんなはなしじゃ、あんなおとなしいいい子でも、何の因果じゃやら。できるなればわしなどで代ってやりたいじゃ。」  林はまたしいんとなりました。しばらくたって、またばたばたと一疋の梟が飛んで戻って参りました。 「穂吉さんはね、臼の上をあるいていたよ。あの赤の紐を引き裂こうとしていたようだったけれど、なかなか容易じゃないんだ。私はもう、どこか隙間から飛び込んで行って、手伝ってあげようと、何べんも何べんも家のまわりを飛んで見たけれど、どこにもあいてる所はないんだろう。ほんとうに可哀そうだねえ、穂吉さんは、けれども泣いちゃいないよ。」  梟のお母さんが、大きな眼を泣いてまぶしそうにしょぼしょぼしながら訊ねました。 「あの家に猫は居ないようでございましたか。」 「ええ、猫は居なかったようですよ。きっと居ないんです。ずいぶん暫らく、私はのぞいていたんですけれど、とうとう見えなかったのですから。」 「そんならまあ安心でございます。ほんとうにみなさまに飛んだご迷惑をかけてお申し訳けもございません。みんな穂吉の不注意からでございます。」 「いいえ、いいえ、そんなことはありません。あんな賢いお子さんでも災難というものは仕方ありません。」  林中の女のふくろうがまるで口口に答えました。その音は二町ばかり西の方の大きな藁屋根の中に捕われている穂吉の処まで、ほんのかすかにでしたけれども聞えたのです。  ふくろうのおじいさんが度々声がかすれながらふくろうのお父さんに云いました。 「もうそうなっては仕方ない。お前は行って穂吉にそっと教えてやったらよかろう、もうこの上は決してばたばたもがいたり、怒って人に噛み付いたりしてはいけない。今日中|誰もお前を殺さない処を見ると、きっと田螺か何かで飼って置くつもりだろうから、今までのように温和しくして、決して人に逆うな、とな。斯う云って教えて来たらよかろう。」  梟のお父さんは、首を垂れてだまって聴いていました。梟の和尚さんも遠くからこれにできるだけ耳を傾けていましたが大体そのわけがわかったらしく言い添えました。 「そうじゃ、そうじゃ。いい分別じゃ。序に斯う教えて来なされ。このようなひどい目におうて、何悪いことしたむくいじゃと、恨むようなことがあってはならぬ。この世の罪も数知らず、さきの世の罪も数かぎりない事じゃほどに、この災難もあるのじゃと、よくあきらめて、あんまりひとり嘆くでない、あんまり泣けば心も沈み、からだもとかく損ねるじゃ、たとえ足には紐があるとも、今ここへ来て、はじめてとまった処じゃと、いつも気軽でいねばならぬ、とな、斯う云うて下され。ああ、されども、されども、とられた者は又別じゃ。何のさわりも無いものが、とや斯う言うても、何にもならぬ。ああ可哀そうなことじゃ不愍なことじゃ。」  お父さんの梟は何べんも頭を下げました。 「ありがとうございます。ありがとうございます。もうきっとそう申し伝えて参ります。斯んなお語を伝え聞いたら、もう死んでもよいと申しますでございましょう。」 「いや、いや、そうじゃ。斯うも云うて下され。いくら飼われるときまっても、子供心はもとより一向たよりないもの、又近くには猫犬なども居ることじゃ、もし万一の場合は、ただあの疾翔大力のおん名を唱えなされとな。そう云うて下され。おお不愍じゃ。」 「ありがとうございます。では行って参ります。」  梟のお母さんが、泣きむせびながら申しました。 「ああ、もしどうぞ、いのちのある間は朝夕二度、私に聞えるよう高く啼いて呉れとおっしゃって下さいませ。」 「いいよ。ではみなさん、行って参ります。」  梟のお父さんは、二三度羽ばたきをして見てから、音もなく滑るように向うへ飛んで行きました。梟の坊さんがそれをじっと見送っていましたが、俄かにからだをりんとして言いました。 「みなの衆。いつまで泣いてもはてないじゃ。ここの世界は苦界という、又忍土とも名づけるじゃ。みんなせつないことばかり、涙の乾くひまはないのじゃ。ただこの上は、われらと衆生と、早くこの苦を離れる道を知るのが肝要じゃ。この因縁でみなの衆も、よくよく心をひそめて聞きなされ。ただ一人でも穂吉のことから、まことに菩提の心を発すなれば、穂吉の功徳又この座のみなの衆の功徳、かぎりもあらぬことなれば、必らずとくと聴聞なされや。昨夜の続きを講じます。  爾の時に疾翔大力、爾迦夷に告げて曰く、諦に聴け、諦に聴け。善くこれを思念せよ。我今|汝に、梟鵄諸の悪禽、離苦解脱の道を述べんと。  爾迦夷、則ち両翼を開張し、虔しく頸を垂れて座を離れ、低く飛揚して疾翔大力を讃嘆すること三匝にして、徐に座に復し、拝跪して唯願うらく、疾翔大力、疾翔大力、ただ我|等が為にこれを説き給え。ただ我等が為にこれを説き給えと。  疾翔大力|微笑して、金色の円光を以て頭に被れるに、その光|遍く一座を照し、諸鳥|歓喜充満せり。則ち説いて曰く、  汝等審に諸の悪業を作る。或は夜陰を以て小禽の家に至る。時に小禽|既に終日日光に浴し、歌唄跳躍して疲労をなし、唯唯甘美の睡眠中にあり、汝等飛躍してこれを握む。利爪深くその身に入り、諸の小禽痛苦又声を発するなし。則ちこれを裂きて擅に※食す。或は沼田に至り螺蛤を啄む。螺蛤|軟泥中にあり、心|柔※にして唯温水を憶う。時に俄に身空中にあり、或は直ちに身を破る、悶乱声を絶す。汝等これを※食するに、又|懺悔の念あることなし。  斯の如きの諸の悪業、挙げて数うるなし。  悪業を以ての故に、更に又諸の悪業を作る。継起して遂に竟ることなし。昼は則ち日光を懼れ、又人|及諸の強鳥を恐る。心|暫らくも安らかなることなし。一度梟身を尽して、又|新に梟身を得、審に諸の患難を被りて、又尽くることなし。  で前の晩は、諸鳥歓喜充満せりまで、文の如くに講じたが、此の席はその次じゃ。則ち説いて曰くと、これは疾翔大力さまが、爾迦夷上人のご懇請によって、直ちに説法をなされたと斯うじゃ。汝等|審に諸の悪業を作ると。汝等というは、元来はわれわれ梟や鵄などに対して申さるるのじゃが、ご本意は梟にあるのじゃ、あとのご文の罪相を拝するに、みなわれわれのことじゃ。悪業というは、悪は悪いじゃ、業とは梵語でカルマというて、すべて過去になしたることのまだ報となってあらわれぬを業という、善業悪業あるじゃ。ここでは悪業という。その事柄を次にあげなされたじゃ。或は夜陰を以て、小禽の家に至ると。みなの衆、他人事ではないぞよ。よくよく自らの胸にたずねて見なされ。夜陰とは夜のくらやみじゃ。以てとは、これに乗じてというがようの意味じゃ。夜のくらやみに乗じてと、斯うじゃ。小禽の家に至る。小禽とは、雀、山雀、四十雀、ひわ、百舌、みそさざい、かけす、つぐみ、すべて形小にして、力ないものは、みな小禽じゃ。その形小さく力無い鳥の家に参るというのじゃが、参るというてもただ訪ねて参るでもなければ、遊びに参るでもないじゃ、内に深く残忍の想を潜め、外又恐るべく悲しむべき夜叉相を浮べ、密やかに忍んで参ると斯う云うことじゃ。このご説法のころは、われらの心も未だ仲々善心もあったじゃ、小禽の家に至るとお説きなされば、はや聴法の者、みな慄然として座に耐えなかったじゃ。今は仲々そうでない。今ならば疾翔大力さま、まだまだ強く烈しくご説法であろうぞよ。みなの衆、よくよく心にしみて聞いて下され。  次のご文は、時に小禽|既に終日日光に浴し、歌唄跳躍して、疲労をなし、唯々甘美の睡眠中にあり。他人事ではないぞよ。どうじゃ、今朝も今朝とて穂吉どの処を替えてこの身の上じゃ、」  説教の坊さんの声が、俄におろおろして変りました。穂吉のお母さんの梟はまるで帛を裂くように泣き出し、一座の女の梟は、たちまちそれに従いて泣きました。  それから男の梟も泣きました。林の中はただむせび泣く声ばかり、風も出て来て、木はみなぐらぐらゆれましたが、仲々|誰も泣きやみませんでした。星はだんだんめぐり、赤い火星ももう西ぞらに入りました。  梟の坊さんはしばらくゴホゴホ咳嗽をしていましたが、やっと心を取り直して、又講義をつづけました。 「みなの衆、まず試しに、自分がみそさざいにでもなったと考えてご覧じ。な。天道さまが、東の空へ金色の矢を射なさるじゃ、林樹は青く枝は揺るる、楽しく歌をばうたうのじゃ、仲よくおうた友だちと、枝から枝へ木から木へ、天道さまの光の中を、歌って歌って参るのじゃ、ひるごろならば、涼しい葉陰にしばしやすんで黙るのじゃ、又ちちと鳴いて飛び立つじゃ、空の青板をめざすのじゃ、又小流れに参るのじゃ、心の合うた友だちと、ただ暫らくも離れずに、歌って歌って参るのじゃ、さてお天道さまが、おかくれなされる、からだはつかれてとろりとなる、油のごとく、溶けるごとくじゃ。いつかまぶたは閉じるのじゃ、昼の景色を夢見るじゃ、からだは枝に留まれど、心はなおも飛びめぐる、たのしく甘いつかれの夢の光の中じゃ。そのとき俄かにひやりとする。夢かうつつか、愕き見れば、わが身は裂けて、血は流れるじゃ。燃えるようなる、二つの眼が光ってわれを見詰むるじゃ。どうじゃ、声さえ発とうにも、咽喉が狂うて音が出ぬじゃ。これが則ち利爪深くその身に入り、諸の小禽痛苦又声を発するなしの意なのじゃぞ。されどもこれは、取らるる鳥より見たるものじゃ。捕る此方より眺むれば、飛躍してこれを握むと斯うじゃ。何の罪なく眠れるものを、ただ一打ととびかかり、鋭い爪でその柔な身体をちぎる、鳥は声さえよう発てぬ、こちらはそれを嘲笑いつつ、引き裂くじゃ。何たるあわれのことじゃ。この身とて、今は法師にて、鳥も魚も襲わねど、昔おもえば身も世もあらぬ。ああ罪業のこのからだ、夜毎夜毎の夢とては、同じく夜叉の業をなす。宿業の恐ろしさ、ただただ呆るるばかりなのじゃ。」  風がザアッとやって来ました。木はみな波のようにゆすれ、坊さんの梟も、その中に漂う舟のようにうごきました。  そして東の山のはから、昨日の金角、二十五日のお月さまが、昨日よりは又ずうっと瘠せて上りました。林の中はうすいうすい霧のようなものでいっぱいになり、西の方からあの梟のお父さんがしょんぼり飛んで帰って来ました。        *  旧暦六月二十六日の晩でした。  そらがあんまりよく霽れてもう天の川の水は、すっかりすきとおって冷たく、底のすなごも数えられるよう、またじっと眼をつぶっていると、その流れの音さえも聞えるような気がしました。けれどもそれは或は空の高い処を吹いていた風の音だったかも知れません。なぜなら、星がかげろうの向う側にでもあるように、少しゆれたり明るくなったり暗くなったりしていましたから。  獅子鼻の上の松林には今夜も梟の群が集まりました。今夜は穂吉が来ていました。来てはいましたが一昨日の晩の処にでなしに、おじいさんのとまる処よりももっと高いところで小さな枝の二本行きちがい、それからもっと小さな枝が四五本出て、一寸盃のような形になった処へ、どこから持って来たか藁屑や髪の毛などを敷いて臨時に巣がつくられていました。その中に穂吉が半分横になって、じっと目をつぶっていました。梟のお母さんと二人の兄弟とが穂吉のまわりに座って、穂吉のからだを支えるようにしていました。林中のふくろうは、今夜は一人も泣いてはいませんでしたが怒っていることはみんな、昨夜どころではありませんでした。 「傷みはどうじゃ。いくらか薄らいだかの。」  あの坊さんの梟がいつもの高い処からやさしく訊ねました。穂吉は何か云おうとしたようでしたが、ただ眼がパチパチしたばかり、お母さんが代って答えました。 「折角こらえているようでございます。よく物が申せないのでございます。それでもどうしても、今夜のお説教を聴聞いたしたいというようでございましたので。もうどうかかまわずご講義をねがいとう存じます。」  梟の坊さんは空を見上げました。 「殊勝なお心掛けじゃ。それなればこそ、たとえ脚をば折られても、二度と父母の処へも戻ったのじゃ。なれども健かな二本の脚を、何|面白いこともないに、捩って折って放すとは、何という浅間しい人間の心じゃ。」 「放されましても二本の脚を折られてどうしてまあすぐ飛べましょう。あの萱原の中に落ちてひいひい泣いていたのでございます。それでも昼の間は、誰も気付かずやっと夕刻、私が顔を見ようと出て行きましたらこのていたらくでございまする。」 「うん。尤じゃ。なれども他人は恨むものではないぞよ。みな自らがもとなのじゃ。恨みの心は修羅となる。かけても他人は恨むでない。」  穂吉はこれをぼんやり夢のように聞いていました。子供がもう厭きて「遁がしてやるよ」といって外へ連れて出たのでした。そのとき、ポキッと脚を折ったのです。その両脚は今でもまだしんしんと痛みます。眼を開いてもあたりがみんなぐらぐらして空さえ高くなったり低くなったりわくわくゆれているよう、みんなの声も、ただぼんやりと水の中からでも聞くようです。ああ僕はきっともう死ぬんだ。こんなにつらい位ならほんとうに死んだ方がいい。それでもお父さんやお母さんは泣くだろう。泣くたって一体お父さんたちは、まだ僕の近くに居るだろうか、ああ痛い痛い。穂吉は声もなく泣きました。 「あんまりひどいやつらだ。こっちは何一つ向うの為に悪いようなことをしないんだ。それをこんなことをして、よこす。もうだまってはいられない。何かし返ししてやろう。」一|疋の若い梟が高く云いました。すぐ隣りのが答えました。 「火をつけようじゃないか。今度|屑焼きのある晩に燃えてる長い藁を、一本あの屋根までくわえて来よう。なあに十本も二十本も運んでいるうちにはどれかすぐ燃えつくよ。けれども火事で焼けるのはあんまり楽だ。何かも少しひどいことがないだろうか。」  又その隣りが答えました。 「戸のあいてる時をねらって赤子の頭を突いてやれ。畜生め。」  梟の坊さんは、じっとみんなの云うのを聴いていましたがこの時しずかに云いました。 「いやいや、みなの衆、それはいかぬじゃ。これほど手ひどい事なれば、必らず仇を返したいはもちろんの事ながら、それでは血で血を洗うのじゃ。こなたの胸が霽れるときは、かなたの心は燃えるのじゃ。いつかはまたもっと手ひどく仇を受けるじゃ、この身終って次の生まで、その妄執は絶えぬのじゃ。遂には共に修羅に入り闘諍しばらくもひまはないじゃ。必らずともにさようのたくみはならぬぞや。」  けたたましくふくろうのお母さんが叫びました。 「穂吉穂吉しっかりおし。」  みんなびくっとしました。穂吉のお父さんもあわてて穂吉の居た枝に飛んで行きましたがとまる所がありませんでしたからすぐその上の枝にとまりました。穂吉のおじいさんも行きました。みんなもまわりに集りました。穂吉はどうしたのか折られた脚をぷるぷる云わせその眼は白く閉じたのです。お父さんの梟は高く叫びました。 「穂吉、しっかりするんだよ。今お説教がはじまるから。」  穂吉はパチッと眼をひらきました。それから少し起きあがりました。見えない眼でむりに向うを見ようとしているようでした。 「まあよかったね。やっぱりつかれているんだろう。」女の梟たちは云い合いました。  坊さんの梟はそこで云いました。 「さあ、講釈をはじめよう。みなの衆座にお戻りなされ。今夜は二十六日じゃ、来月二十六日はみなの衆も存知の通り、二十六夜待ちじゃ。月天子山のはを出でんとして、光を放ちたまうとき、疾翔大力、爾迦夷波羅夷の三尊が、東のそらに出現まします。今宵は月は異なれど、まことの心には又あらはれ給わぬことでない。穂吉どのも、ただ一途に聴聞の志じゃげなで、これからさっそく講ずるといたそう。穂吉どの、さぞ痛かろう苦しかろう、お経の文とて仲々耳には入るまいなれど、そのいたみ悩みの心の中に、いよいよ深く疾翔大力さまのお慈悲を刻みつけるじゃぞ、いいかや、まことにそれこそ菩提のたねじゃ。」  梟の坊さんの声が又少し変りました。一座はしいんとなりました。林の中にもう鳴き出した秋の虫があります。坊さんはしばらく息をこらして気を取り直しそれから厳めしい声で願をたててから昨夜の続きをはじめました。 「梟鵄救護章 梟鵄救護章  諸の仁者掌を合せて至心に聴き給え。我今|疾翔大力が威神力を享けて梟鵄救護章の一節を講ぜんとす。唯願うらくはかの如来大慈大悲我が小願の中に於て大神力を現じ給い妄言綺語の淤泥を化して光明|顕色の浄瑠璃となし、浮華の中より清浄の青蓮華を開かしめ給わんことを。至心欲願、南無仏南無仏南無仏。  爾の時に疾翔大力、爾迦夷に告げて曰く、諦に聴け諦に聴け。善くこれを思念せよ。我今|汝に梟鵄諸の悪禽離苦解脱の道を述べんと。  爾迦夷|則ち両翼を開張し、虔しく頸を垂れて座を離れ、低く飛揚して疾翔大力を讃嘆すること三匝にして、徐に座に復し、拝跪して願うらく疾翔大力、疾翔大力、ただ我|等が為にこれを説き給え。ただ我等が為にこれを説き給えと。  疾翔大力、微笑して金色の円光を以て頭に被れるに、諸鳥|歓喜充満せり。則ち説いて曰く、  汝等|審に諸の悪業を作る。或は夜陰を以て小禽の家に至る。時に小禽|既に終日日光に浴し、歌唄跳躍して疲労をなし、唯唯甘美の睡眠中にあり、汝等飛躍してこれを握む。利爪深くその身に入り、諸の小禽痛苦又声を発するなし、則ちこれを裂きて擅に※食す。或は沼田に至り、螺蛤を啄む。螺蛤|軟泥中にあり、心|柔※にして唯温水を憶う。時に俄に身空中にあり、或は直ちに身を破る、悶乱声を絶す。汝等これを※食するに、又|懺悔の念あることなし。  悪業を以ての故に、更に又諸の悪業を作る。継起して遂に竟ることなし。昼は則ち日光を懼れ又人|及諸の強鳥を恐る。心|暫らくも安らかなることなし。一度梟身を尽して、又|新に梟身を得。審に諸の患難を被りて、又尽くることなし。  で前の晩は、斯の如きの諸の悪業、挙げて数うることなし、まで講じたが、今夜はその次じゃ。  悪業を以ての故に、更に又諸の悪業を作ると、これは誠に短いながら、強いお語じゃ。先刻人間に恨みを返すとの議があった節、申した如くじゃ、一の悪業によって一の悪果を見る。その悪果故に、又新なる悪業を作る。斯の如く展転して、遂にやむときないじゃ。車輪のめぐれどもめぐれども終らざるが如くじゃ。これを輪廻といい、流転という。悪より悪へとめぐることじゃ。継起して遂に竟ることなしと云うがそれじゃ。いつまでたっても終りにならぬ、どこどこまでも悪因悪果、悪果によって新に悪因をつくる。な。斯うじゃ、浮む瀬とてもあるまいじゃ。昼は則ち日光を懼れ、又人|及諸の強鳥を恐る。心|暫らくも安らかなることなし。これは流転の中の、つらい模様をわれらにわかるよう、直かに申されたのじゃ。勿体なくも、我等は光明の日天子をば憚かり奉る。いつも闇とみちづれじゃ。東の空が明るくなりて、日天子さまの黄金の矢が高く射出さるれば、われらは恐れて遁げるのじゃ。もし白昼にまなこを正しく開くならば、その日天子の黄金の征矢に伐たれるじゃ。それほどまでに我等は悪業の身じゃ。又人及諸の強鳥を恐る。な。人を恐るることは、今夜今ごろ講ずることの限りでない。思い合せてよろしかろう。諸の強鳥を恐る。鷹やはやぶさ、又さほど強くはなけれども日中なれば烏などまで恐れねばならぬ情ない身じゃ。はやぶさなれば空よりすぐに落ちて来て、こなたが小鳥をつかむときと同じようなるありさまじゃ、たちまち空で引き裂かれるじゃ、少しのさからいをしたとて、何にもならぬ、げにもげにも浅間しくなさけないわれらの身じゃ。」  梟の坊さんは一寸声を切りました。今夜ももう一時の上りの汽車の音が聞えて来ました。その音を聞くと梟どもは泣きながらも、汽車の赤い明るいならんだ窓のことを考えるのでした。講釈がまた始まりました。 「心|暫らくも安らかなることなしと、どうじゃ、みなの衆、ただの一時でも、ゆっくりと何の心配もなく落ち着いたことがあるかの。もういつでもいつでもびくびくものじゃ。一度梟身を尽して又|新に梟身を得と斯うじゃ。泣いて悔やんで悲しんで、ついには年老る、病気になる、あらんかぎりの難儀をして、それで死んだら、もうこの様な悪鳥の身を離れるかとならば、仲々そうは参らぬぞや。身に染み込んだ罪業から、又梟に生れるじゃ。斯の如くにして百|生、二百生、乃至劫をも亘るまで、この梟身を免れぬのじゃ。審に諸の患難を蒙りて又尽くることなし。もう何もかも辛いことばかりじゃ。さて今東の空は黄金色になられた。もう月天子がお出ましなのじゃ。来月二十六夜ならば、このお光に疾翔大力さまを拝み申すじゃなれど、今宵とて又拝み申さぬことでない、みなの衆、ようくまごころを以て仰ぎ奉るじゃ。」  二十六夜の金いろの鎌の形のお月さまが、しずかにお登りになりました。そこらはぼおっと明るくなり、下では虫が俄かにしいんしいんと鳴き出しました。  遠くの瀬の音もはっきり聞えて参りました。  お月さまは今はすうっと桔梗いろの空におのぼりになりました。それは不思議な黄金の船のように見えました。  俄かにみんなは息がつまるように思いました。それはそのお月さまの船の尖った右のへさきから、まるで花火のように美しい紫いろのけむりのようなものが、ばりばりばりと噴き出たからです。けむりは見る間にたなびいて、お月さまの下すっかり山の上に目もさめるような紫の雲をつくりました。その雲の上に、金いろの立派な人が三人まっすぐに立っています。まん中の人はせいも高く、大きな眼でじっとこっちを見ています。衣のひだまで一一はっきりわかります。お星さまをちりばめたような立派な瓔珞をかけていました。お月さまが丁度その方の頭のまわりに輪になりました。  右と左に少し丈の低い立派な人が合掌して立っていました。その円光はぼんやり黄金いろにかすみうしろにある青い星も見えました。雲がだんだんこっちへ近づくようです。 「南無疾翔大力、南無疾翔大力。」  みんなは高く叫びました。その声は林をとどろかしました。雲がいよいよ近くなり、捨身菩薩のおからだは、十丈ばかりに見えそのかがやく左手がこっちへ招くように伸びたと思ふと、俄に何とも云えないいいかおりがそこらいちめんにして、もうその紫の雲も疾翔大力の姿も見えませんでした。ただその澄み切った桔梗いろの空にさっきの黄金いろの二十六夜のお月さまが、しずかにかかっているばかりでした。 「おや、穂吉さん、息つかなくなったよ。」俄に穂吉の兄弟が高く叫びました。  ほんとうに穂吉はもう冷たくなって少し口をあき、かすかにわらったまま、息がなくなっていました。そして汽車の音がまた聞えて来ました。 「ああそうですか、バキチをご存じなんですか。」 「知ってますとも、知ってますよ。」 「バキチをご存じなんですか。  小学校でご一緒ですか、中学校でご一緒ですか。いいやあいつは中学校なんど入りやしない。やっぱり小学校ですか。」「兵隊で一緒です。」 「ああ兵隊で、そうですか、あいつも一等卒でさね、どうやってるかご存じですか。」「さあ知りません。隊で分れたきりですから。」 「ああ、そうですか、そいじゃ私のほうがやっぱり詳しく知ってます。この間まで馬喰をやってましたがね。今ごろは何をしているか全く困ったもんですよ。」 「どうして馬喰をやめたでしょう。」 「だめでさあ、わっしもずいぶん目をかけました。でもどうしてもだめなんです。あいつは隊をさがってからもとの大工にならないで巡査を志願したのです。」「そして巡査をやったんですか。」 「それぁやりました。けれども間もなくやめたんです。」 「どうしてやめたんだろうなあ、何でも隊に来る前は、大工でとにかく暮していたと云うんですが。」 「それゃうそでさあ大工もほんのちょっとです。土方をやめてなったんです。その土方もまたちょっとです。それから前は知りません。土方ばかりじゃありません、飴屋もやったて云いますよ。」 「巡査をどうしてやめたんです。」「あんな巡査じゃだめでさあ、あのお神明さんの池ね、あすこに鯉が居るでしょう、県の規則で誰にもとらせないんです。ところが、やっぱり夜のうちに、こっそり行くものがあるんです。それぁきっとよく捕れるんでしょう。バキチはそれをきいたのです。毎晩お神明さんの、杉のうしろにかくれていて、来るやつを見ていたそうです、そしていよいよ網を入れて鯉が十|疋もとれたとき、誰だっこらって出るんでしょう、魚も網も置いたまま一目散に逃げるでしょうバキチは笑ってそいつを持って警察の小使室へ帰るんです。」「変だねえ、なるほどねえ。」「何でも五回か六回かそんなことがあったそうです。そしたらある日|署長のとこへ差出人の名の書いてない変な手紙が行ったんです。署長が見たら今のことでしょう、けれども署長は笑ってました。なぜって巡査なんてものは実際月給も僅かですしね、くらしに困るものなんです。」「なるほどねえ、そりゃそうだねえ。」 「ところがねえ、次が大へんなんですよ、耕牧舎の飼牛がね、結核にかかっていたんですがある日とうとう死んだんです。ところが病気のけだものは死んだら棄てなくちゃいけないでしょう。けれども何せ売れば二、三百にはなるんです。誰だって惜しいとは思います。耕牧舎でもこっそりそれを売っているらしいというんです。行って見て来いってうわけでバキチが剣をがちゃつかせ、耕牧舎へやって来たでしょう。耕牧舎でもじっさい困ってしまったのです。バキチが入って行きましたらいきなり一|疋の牛を叩いてあばれさせました。牛もびっくりしましたね、いきなり外に飛び出してバキチに突いてかかったんです。  バキチはすっかりまごついて一目散に警察へ遁げて帰ったんです。そして署長のところへ行って耕牧舎では牛の皮だけはいで肉と骨はたしかに土に埋めていましたって報告したんです。ところがそれが知れたでしょう。  町のものもみんな笑いました。署長もすっかり怒ってしまいある朝|役所へ出るとすぐいきなりバキチを呼び出して斯う申し渡したと云います。バキチ、きさまもだめなやつだ、よくよくだめなやつなんだ。もう少し見所があると思ったのに牛につっかかれたくらいで職務も忘れて遁げるなんてもう今日限り免官だ。すぐ服をぬげ。と来たでしょう。バキチのほうでももう大抵巡査があきていたんです。へえ、そうですか、やめましょう。永々お世話になりましたって斯う云うんです。そしてすぐ服をぬいだはいいんですが実はみじめなもんでした。着物もシャツとずぼんだけ、もちろん財布もありません。小使室から出されては寝む家さえないんです。その昼間のうちはシャツとズボン下だけで頭をかかえて一日小使室に居ましたが夜になってからとうとう警部補にたたき出されてしまいました。バキチはすっかり悄気切ってぶらぶら町を歩きまわってとうとう夜中の十二時にタスケの厩にもぐり込んだって云うんです。  馬もびっくりしましたぁね、おどおどしながらはね起きて身構えをして斯うバキチに訊いたってんです。 バキチが横木の下の所で腹這いのまま云いました。と馬が云いました。」「馬がそう云ったんですか。」「馬がそう云ったそうですよ。わっしゃ馬から聞きやした。ところがタスケの馬も馬でさあ、面白がってオペラのようにふしをつけてだなんてやったもんです。バキチもそこはのんきです。やっぱりふしをつけながら、とうなっていました。そこへ丁度わたしが通りかかりました。おい、おい、バキチ、あんまりみっともないざまはよせよ。一体馬を盗もうってのか。  それとも宿がなくなって今夜|一晩とめてもらいたいと云うのか。バキチが頭を掻きやした。いやどっちもだ、けれども馬を盗むよりとまるよりまず第一に、おれは何かが食いたいんだ。  私が茨海の野原に行ったのは、火山弾の手頃な標本を採るためと、それから、あそこに野生の浜茄が生えているという噂を、確めるためとでした。浜茄はご承知のとおり、海岸に生える植物です。それが、あんな、海から三十里もある山脈を隔てた野原などに生えるのは、おかしいとみんな云うのです。ある人は、新聞に三つの理由をあげて、あの茨海の野原は、すぐ先頃まで海だったということを論じました。それは第一に、その茨海という名前、第二に浜茄の生えていること、第三にあすこの土を嘗めてみると、たしかに少し鹹いような気がすること、とこう云うのですけれども、私はそんなことはどれも証拠にならないと思います。  ところが私は、浜茄をとうとう見附けませんでした。尤も私が見附けなかったからと云って、浜茄があすこにないというわけには行きません。もし反対に一本でも私に見当ったら、それはあるということの証拠にはなりましょう。ですからやっぱりわからないのです。  火山弾の方は、はじが少し潰れてはいましたが、半日かかってとにかく一つ見附けました。  見附けたのでしたが、それはつい寄附させられてしまいました。誰に寄附させられたのかっていうんですか。誰にって校長にですよ。どこの学校? ええ、どこの学校って正直に云っちまいますとね、茨海|狐小学校です。愕いてはいけません。実は茨海狐小学校をそのひるすぎすっかり参観して来たのです。そんなに変な顔をしなくてもいいのです。狐にだまされたのとはちがいます。狐にだまされたのなら狐が狐に見えないで女とか坊さんとかに見えるのでしょう。ところが私のはちゃんと狐を狐に見たのです。狐を狐に見たのが若しだまされたものならば人を人に見るのも人にだまされたという訳です。  ただ少しおかしいことは人なら小学校もいいけれど狐はどうだろうということですがそれだってあんまりさしつかえありません。まあも少しあとを聞いてごらんなさい。大丈夫狐小学校があるということがわかりますから。ただ呉れ呉れも云って置きますが狐小学校があるといってもそれはみんな私の頭の中にあったと云うので決して偽ではないのです。偽でない証拠にはちゃんと私がそれを云っているのです。もしみなさんがこれを聞いてその通り考えれば狐小学校はまたあなたにもあるのです。私は時々|斯う云う勝手な野原をひとりで勝手にあるきます。けれども斯う云う旅行をするとあとで大へんつかれます。殊にも算術などが大へん下手になるのです。ですから斯う云う旅行のはなしを聞くことはみなさんにも決して差支えありませんがあんまり度々うっかり出かけることはいけません。  まあお話をつづけましょう。なあにほんとうはあの茨やすすきの一杯生えた野原の中で浜茄などをさがすよりは、初めから狐小学校を参観した方がずうっとよかったのです。朝の一時間目からみていた方が参考にもなり、又面白かったのです。私のみたのは今も云いました通り、午后の授業です。一時から二時までの間の第五時間目です。なかなか狐の小学生には、しっかりした所がありますよ。五時間目だって、一人も厭きてるものがないんです。参観のもようを、詳しくお話しましょうか。きっとあなたにも、大へん参考になります。  浜茄は見附からず、小さな火山弾を一つ採って、私は草に座りました。空がきらきらの白いうろこ雲で一杯でした。茨には青い実がたくさんつき、萱はもうそろそろ穂を出しかけていました。太陽が丁度空の高い処にかかっていましたから、もうおひるだということがわかりました。又じっさいお腹も空いていました。そこで私は持って行ったパンの袋を背嚢から出して、すぐ喰べようとしましたが、急に水がほしくなりました。今まで歩いたところには、一とこだって流れも泉もありませんでしたが、もしかも少し向うへ行ったら、とにかく小さな流れにでもぶっつかるかも知れないと考えて、私は背嚢の中に火山弾を入れて、面倒くさいのでかけ金もかけず、締革をぶらさげたまませなかにしょい、パンの袋だけ手にもって、又ぶらぶらと向うへ歩いて行きました。  何べんもばらがかきねのようになった所を抜けたり、すすきが栽え込みのように見える間を通ったりして、私は歩きつづけましたが、野原はやっぱり今まで通り、小流れなどはなかったのです。もう仕方ない、この辺でパンをたべてしまおうと立ちどまったとき、私はずうっと向うの方で、ベルの鳴る音を聞きました。それはどこの学校でも鳴らすベルの音のようで、空のあの白いうろこ雲まで響いていたのです。この野原には、学校なんかあるわけはなし、これはきっと俄に立ちどまった為に、私の頭がしいんと鳴ったのだと考えても見ましたが、どうしても心からさっきの音を疑うわけには行きませんでした。それどころじゃない、こんどは私は、子供らのがやがや云う声を聞きました。それは少しの風のために、ふっとはっきりして来たり、又俄かに遠くなったりしました。けれどもいかにも無邪気な子供らしい声が、呼んだり答えたり、勝手にひとり叫んだり、わあと笑ったり、その間には太い底力のある大人の声もまじって聞えて来たのです。いかにも何か面白そうなのです。たまらなくなって、私はそっちへ走りました。さるとりいばらにひっかけられたり、窪みにどんと足を踏みこんだりしながらも、一生けん命そっちへ走って行きました。  すると野原は、だんだん茨が少くなって、あのすずめのかたびらという、一尺ぐらいのけむりのような穂を出す草があるでしょう、あれがたいへん多くなったのです。私はどしどしその上をかけました。そしたらどう云うわけか俄かに私は棒か何かで足をすくわれたらしくどたっと草に倒れました。急いで起きあがって見ますと、私の足はその草のくしゃくしゃもつれた穂にからまっているのです。私はにが笑いをしながら起きあがって又走りました。又ばったりと倒れました。おかしいと思ってよく見ましたら、そのすずめのかたびらの穂は、ただくしゃくしゃにもつれているのじゃなくて、ちゃんと両方から門のように結んであるのです。一種のわなです。その辺を見ますと実にそいつが沢山つくってあるのです。私はそこでよほど注意して又歩き出しました。なるべく足を横に引きずらず抜きさしするような工合にしてそっと歩きましたけれどもまだ二十歩も行かないうちに、又ばったりと倒されてしまいました。それと一緒に、向うの方で、どっと笑い声が起り、それからわあわあはやすのです。白や茶いろや、狐の子どもらがチョッキだけを着たり半ズボンだけはいたり、たくさんたくさんこっちを見てはやしているのです。首を横にまげて笑っている子、口を尖らせてだまっている子、口をあけてそらを向いてはあはあはあはあ云う子、はねあがってはねあがって叫んでいる子、白や茶いろやたくさんいます。ああこれはとうとう狐小学校に来てしまった、いつかどこかで誰かに聴いた茨海狐小学校へ来てしまったと、私はまっ赤になって起きあがって、からだをさすりながら考えました。その時いきなり、狐の生徒らはしいんとなりました。黒のフロックを着た先生が尖った茶いろの口を閉じるでもなし開くでもなし、眼をじっと据えて、しずかにやって来るのです。先生といったって、勿論狐の先生です。耳の尖っていたことが今でもはっきり私の目に残っています。俄かに先生はぴたりと立ちどまりました。 「お前たちは、又わなをこしらえたな。そんなことをして、折角おいでになったお客さまに、もしものことがあったらどうする。学校の名誉に関するよ。今日はもうお前たちみんな罰しなければならない。」  狐の生徒らはみんな耳を伏せたり両手を頭にあげたりしょんぼりうなだれました。先生は私の方へやって来ました。 「ご参観でいらっしゃいますか。」  私はどうせ序だ、どうなるものか参観したいと云ってやろう、今日は日曜なんだけれども、さっきベルも鳴ったし、どうせ狐のことだからまたいい加減の規則もあって、休みだというわけでもないだろうと、ひとりで勝手に考えました。 「ええ、ぜひそう願いたいのです。」 「ご紹介はありますか。」  私はふと、いつか幼年画報に出ていたたけしという人の狐小学校のスケッチを思い出しました。 「画家のたけしさんです。」 「紹介状はお持ちですか。」 「紹介状はありませんがたけしさんは今はずいぶん偉いですよ。美術学院の会員ですよ。」  狐の先生はいけませんというように手をふりました。 「とにかく、紹介状はお持ちにならないですね。」 「持ちません。」 「よろしゅうございます。こちらへお出で下さい。ただ今丁度ひるのやすみでございますが、午后の課業をご案内いたします。」  私は先生の狐について行きました。生徒らは小さくなって、私を見送りました。みんなで五十人は居たでしょう。私たちが過ぎてから、みんなそろそろ立ちあがりました。  先生はふっとうしろを振りかえりました。そして強く命令しました。 「わなをみんな解け。こんなことをして学校の名誉に関するじゃないか。今に主謀者は処罰するぞ。」  生徒たちはくるくるはねまわってその草わなをみんなほどいて居りました。  私は向うに、七尺ばかりの高さのきれいな野ばらの垣根を見ました。垣根の長さは十二間はたしかにあったでしょう。そのまん中に入り口があって、中は一段高くなっていました。私は全くそれを垣根だと思っていたのです。ところが先生が 「さあ、どうかお入り下さい。」と叮寧に云うものですから、その通り一足中へはいりましたら、全く愕いてしまいました。そこは玄関だったのです。中はきれいに刈り込んだみじかい芝生になっていてのばらでいろいろしきりがこさえてありました。それに靴ぬぎもあれば革のスリッパもそろえてあり馬の尾を集めてこさえた払子もちゃんとぶらさがっていました。すぐ上り口に校長室と白い字で書いた黒札のさがったばらで仕切られた室がありそれから廊下もあります。教員室や教室やみんなばらの木できれいにしきられていました。みんな私たちの小学校と同じです。ただちがうところは教室にも廊下にも窓のないことそれから屋根のないことですが、これは元来屋根がなければ窓はいらない筈ですからおまけに室の上を白い雲が光って行ったりしますから、実に便利だろうと思いました。校長室の中では、白服の人の動いているのがちらちら見えます。エヘンエヘンと云っているのも聞えます。私はきょろきょろあちこち見まわしていましたら、先生が少し笑って云いました。 「どうぞスリッパをお召しなすって。只今校長に申しますから。」  私はそこで、長靴をぬいで、スリッパをはき、背嚢をおろして手にもちました。その間に先生は校長室へ入って行きましたが、間もなく校長と二人で出て来ました。校長は瘠せた白い狐で涼しそうな麻のつめえりでした。もちろん狐の洋服ですからずぼんには尻尾を入れる袋もついてあります。仕立賃も廉くはないと私は思いました。そして大きな近眼鏡をかけその向うの眼はまるで黄金いろでした。じっと私を見つめました。それから急いで云いました。 「ようこそいらっしゃいました。さあさあ、どうぞお入り下さい。運動場で生徒が大へん失礼なことをしましたそうで。さあさあ、どうぞお入り下さい。どうぞお入り。」  私は校長について、校長室へ入りました。その立派なこと。卓の上には地球儀がおいてありましたしうしろのガラス戸棚には鶏の骨格やそれからいろいろのわなの標本、剥製の狼や、さまざまの鉄砲の上手に泥でこしらえた模型、猟師のかぶるみの帽子、鳥打帽から何から何まですべて狐の初等教育に必要なくらいのものはみんな備えつけられていました。私は眼を円くして、ここでもきょろきょろするより仕方ありませんでした。そのうち校長はお茶を注いで私に出しました。見ると紅茶です。ミルクも入れてあるらしいのです。私はすっかり度胆をぬかれました。 「さあどうか、お掛け下さい。」  私はこしかけました。 「ええと、失礼ですがお職業はやはり学事の方ですか。」校長がたずねました。 「ええ、農学校の教師です。」 「本日はおやすみでいらっしゃいますか。」 「はあ、日曜です。」 「なるほどあなたの方では太陽|暦をお使いになる関係上、日曜日がお休みですな。」  私は一寸変な気がしました。 「そうするとおうちの方ではどうなるのですか。」  狐の校長さんは青く光るそらの一ところを見あげてしずかに鬚をひねりながら答えました。 「左様、左様、至極ご尤なご質問です。私の方は太陰暦を使う関係上、月曜日が休みです。」  私はすっかり感心しました、この調子ではこの学校は、よほど程度が高いにちがいない、事によると狐の方では、学校は小学校と大学校の二つきりで、或はこの茨海小学校は、中学五年程度まで教えるんじゃないかと気がつきましたので、急いでたずねました。 「いかがですか。こちらの方では大学校へ進む生徒は、ずいぶん沢山ございますか。」  校長さんが得意そうにまるで見当|違いの上の方を見ながら答えました。 「へい。実は本年は不思議に実業志望が多ございまして、十三人の卒業生中、十二人まで郷里に帰って勤労に従事いたして居ります。ただ一人だけ大谷地大学校の入学試験を受けまして、それがいかにもうまく通りましたので、へい。」  全く私の予想通りでした。  そこへ隣りの教員室から、黒いチョッキだけ着た、がさがさした茶いろの狐の先生が入って来て私に一礼して云いました。 「武田金一郎をどう処罰いたしましょう。」  校長は徐ろにそちらを向いてそれから私を見ました。 「こちらは第三学年の担任です。このお方は麻生農学校の先生です。」  私はちょっと礼をしました。 「で武田金一郎をどう処罰したらいいかというのだね。お客さまの前だけれども一寸呼んでおいで。」  三学年担任の茶いろの狐の先生は、恭しく礼をして出て行きました。間もなく青い格子縞の短い上着を着た狐の生徒が、今の先生のうしろについてすごすごと入って参りました。  校長は鷹揚にめがねを外しました。そしてその武田金一郎という狐の生徒をじっとしばらくの間見てから云いました。 「お前があの草わなを運動場にかけるようにみんなに云いつけたんだね。」  武田金一郎はしゃんとして返事しました。 「そうです。」 「あんなことして悪いと思わないか。」 「今は悪いと思います。けれどもかける時は悪いと思いませんでした。」 「どうして悪いと思わなかった。」 「お客さんを倒そうと思ったのじゃなかったからです。」 「どういう考でかけたのだ。」 「みんなで障碍物競争をやろうと思ったんです。」 「あのわなをかけることを、学校では禁じているのだが、お前はそれを忘れていたのか。」 「覚えていました。」 「そんならどうしてそんなことをしたのだ。こう云う工合にお客さまが度々おいでになる。それに運動場の入口に、あんなものをこしらえて置いて、もしお客さまに万一のことがあったらどうするのだ。お前は学校で禁じているのを覚えていながら、それをするというのはどう云うわけだ。」 「わかりません。」 「わからないだろう。ほんとうはわからないもんだ。それはまあそれでよろしい。お前たちはこのお方がそのわなにつまずいて、お倒れなさったときはやしたそうだが、又私もここで聞いていたが、どうしてそんなことをしたか。」 「わかりません。」 「わからないだろう。全くわからないもんだ。わかったらまさかお前たちはそんなことしないだろうな。では今日の所は、私からよくお客さまにお詫を申しあげて置くから、これからよく気をつけなくちゃいけないよ。いいか。もう決して学校で禁じてあることをしてはならんぞ。」 「はい、わかりました。」 「では帰って遊んでよろしい。」校長さんは今度は私に向きました。担任の先生はきちんとまだ立っています。 「只今のようなわけで、至って無邪気なので、決して悪気があって笑ったりしたのではないようでございますから、どうかおゆるしをねがいとう存じます。」  私はもちろんすぐ云いました。 「どう致しまして。私こそいきなりおうちの運動場へ飛び込んで来て、いろいろ失礼を致しました。生徒さん方に笑われるのなら却って私は嬉しい位です。」  校長さんは眼鏡を拭いてかけました。 「いや、ありがとうございます。おい武村君。君からもお礼を申しあげてくれ。」  三年担任の武村先生も一寸私に頭を下げて、それから校長に会釈して教員室の方へ出て行きました。  校長さんの狐は下を向いて二三度くんくん云ってから、新らしく紅茶を私に注いでくれました。そのときベルが鳴りました。午后の課業のはじまる十分前だったのでしょう。校長さんが向うの黒塗りの時間表を見ながら云いました。 「午后は第一学年は修身と護身、第二学年は狩猟術、第三学年は食品化学と、こうなっていますがいずれもご参観になりますか。」 「さあみんな拝見いたしたいです。たいへん面白そうです。今朝からあがらなかったのが本当に残念です。」 「いや、いずれ又おいでを願いましょう。」 「護身というのは修身といっしょになっているのですか。」 「ええ昨年までは別々でやりましたが、却って結果がよくないようです。」 「なるほどそれに狩猟だなんて、ずいぶん高尚な学科もおやりですな。私の方ではまあ高等専門学校や大学の林科にそれがあるだけです。」 「ははん、なるほど。けれどもあなたの方の狩猟と、私の方の狩猟とは、内容はまるでちがっていますからな、ははん。あなたの方の狩猟は私の方の護身にはいり、私の方の狩猟は、さあ、狩猟前業はあなたの方の畜産にでも入りますかな、まあとにかくその時々でゆっくりご説明いたしましょう。」  この時ベルが又鳴りました。  がやがや物を言う声、それから「気をつけ」や「番号」や「右向け右」や「前へ進め」で狐の生徒は一学級ずつだんだん教室に入ったらしいのです。  それからしばらくたって、どの教室もしいんとなりました。先生たちの太い声が聞えて来ました。 「さあではご案内を致しましょう。」狐の校長さんは賢そうに口を尖らして笑いながら椅子から立ちあがりました。私はそれについて室を出ました。 「はじめに第一学年をご案内いたします。」  校長さんは「第一教室、第一学年、担任者、武井甲吉」と黒い塗札の下った、ばらの壁で囲まれた室に入りました。私もついて入りました。そこの先生は私のまだあわない方で実にしゃれたなりをして頭の銀毛などもごく高尚なドイツ刈りに白のモオニングを着て教壇に立っていました。もちろん教壇のうしろの茨の壁には黒板もかかり、先生の前にはテーブルがあり、生徒はみなで十五人ばかり、きちんと白い机にこしかけて、講義をきいて居りました。私がすっかり入って立ったとき、先生は教壇を下りて私たちに礼をしました。それから教壇にのぼって云いました。 「麻生農学校の先生です。さあみんな立って。」  生徒の狐たちはみんなぱっと立ちあがりました。 「ご挨拶に麻生農学校の校歌を歌うのです。そら、一、二、三、」先生は手を振りはじめました。生徒たちは高く高く私の学校の校歌を歌いはじめました。私は全くよろよろして泣き出そうとしました。誰だっていきなり茨海狐小学校へ来て自分の学校の校歌を狐の生徒にうたわれて泣き出さないでいられるもんですか。それでも私はこらえてこらえて顔をしかめて泣くのを押えました。嬉しかったよりはほんとうに辛かったのです。校歌がすみ、先生は一寸挨拶して生徒を手まねで座らせ、鞭をとりました。  黒板には「最高の偽は正直なり。」と書いてあり、先生は説明をつづけました。 「そこで、元来偽というのは、いけないものです。いくら上手に偽をついてもだめなのです。賢い人がききますと、ちゃんと見わけがつくのです。それは賢い人たちは、その語のつりあいで、ほんとうかうそかすぐわかり、またその音ですぐわかり、それからそれを云うものの顔やかたちですぐわかります。ですからうそというものは、ほんの一時はうまいように思われることがあっても、必ずまもなくだめになるものです。  そこでこの格言の意味は、もしも誰かが一つこんな工合のうそをついて、こう云う工合にうまくやろうと考えるとします。そのときもしよくその云うことを自分で繰り返し繰り返しして見ますと、いつの間にか、どうもこれでは向うにわかるようだ、も少しこう云わなくてはいけないというような気がするのです、そこで云いようをすっかり改めて、又それを心の中で繰り返し繰り返しして見ます、やっぱりそれでもいけないようだ、こうしよう、と考えます。それもやっぱりだめなようだ、こうしようと思います。こんな工合にして一生けん命考えて行きますと、とうとうしまいはほんとうのことになってしまうのです。そんならそのほんとうのことを云ったら、実際どうなるかと云うと、実はかえってうまく偽をついたよりは、いいことになる、たとえすぐにはいけないことになったようでも、結局は、結局は、いいことになる。だからこの格言は又 『正直は最良の方便なり』とも云われます。」  先生は黒板へ向いて、前のにならべて今の格言を書きました。  生徒はみんなきちんと手を膝において耳を尖らせて聞いていましたが、この時|一斉にペンをとって黒板の字を書きとりました。  校長は一寸私の顔を見ました。私がどんな風に、今の講義を感じたか、それを知りたいという様子でしたから、私は五六秒|眼を瞑っていかにも感銘にたえないということを示しました。  先生はみんなの書いてしまう間、両手をせなかにしょってじっとしていましたがみんながばたばた鉛筆を置いて先生の方を見始めますと、又講義をつづけました。 「そこで今の『正直は最良の方便』という格言は、ただ私たちがうそをつかないのがいいというだけではなく、又丁度反対の応用もあるのです。それは人間が私たちに偽をつかないのも又最良の方便です。その一例を挙げますとわなです。わなにはいろいろありますけれども、一番こわいのは、いかにもわなのような形をしたわなです。それもごく仕掛けの下手なわなです。これを人間の方から云いますと、わなにもいろいろあるけれども、一番狐のよく捕れるわなは、昔からの狐わなだ、いかにも狐を捕るのだぞというような格好をした、昔からの狐わなだと、斯う云うわけです。正直は最良の方便、全くこの通りです。」  私は何だか修身にしても変だし頭がぐらぐらして来たのでしたが、この時さっき校長が修身と護身とが今学年から一科目になって、多分その方が結果がいいだろうと云ったことを思い出して、ははあ、なるほどと、うなずきました。  先生は 「武巣さん、立って校長室へ行ってわなの標本を運んで来て下さい。」と云いましたら、一番前の私の近くに居た赤いチョッキを着たかあいらしい狐の生徒が、 「はいっ。」と云って、立って、私たちに一寸挨拶し、それからす早く茨の壁の出口から出て行きました。  先生はその間|黙って待っていました。生徒も黙っていました。空はその時白い雲で一杯になり、太陽はその向うを銀の円鏡のようになって走り、風は吹いて来て、その緑いろの壁はところどころゆれました。  武巣という子がまるで息をはあはあして入って来ました。さっき校長室のガラス戸棚の中に入っていた、わなの標本を五つとも持って来たのです。それを先生の机の上に置いてしまうと、その子は席に戻り、先生はその一つを手にとりあげました。 「これはアメリカ製でホックスキャッチャーと云います。ニッケル鍍金でこんなにぴかぴか光っています。ここの環の所へ足を入れるとピチンと環がしまって、もうとれなくなるのです。もちろんこの器械は鎖か何かで太い木にしばり付けてありますから、実際|一遍足をとられたらもうそれきりです。けれども誰だってこんなピカピカした変なものにわざと足を入れては見ないのです。」  狐の生徒たちはどっと笑いました。狐の校長さんも笑いました。狐の先生も笑いました。私も思わず笑いました。このわなの絵は外国でも日本でも種苗目録のおしまいあたりにはきっとついていて、然も効力もあるというのにどう云うわけか一寸不思議にも思いました。  この時校長さんは、かくしから時計を出して一寸見ました。そこで私は、これはもうだんだん時間がたつから、次の教室を案内しようかと云うのだろうと思って、ちょっとからだを動かして見せました。校長さんはそこですっと室を出ました。私もついて出ました。 「第二教室、第二年級、担任、武池清二郎」とした黒塗りの板の下がった教室に入りました。先生はさっき運動場であった人でした。生徒も立って一ぺんに礼をしました。  先生はすぐ前からの続きを講義しました。 「そこで、澱粉と脂肪と蛋白質と、この成分の大事なことはよくおわかりになったでしょう。  こんどはどんなたべものに、この三つの成分がどんな工合に入っているか、それを云います。凡そ、食物の中で、滋養に富みそしておいしく、また見掛けも大へん立派なものは鶏です。鶏は実際食物中の王と呼ばれる通りです。今鶏の肉の成分の分析表をあげましょう。みなさん帳面へ書いて下さい。  蛋白質は十八ポイント五パアセント、脂肪は九ポイント三パーセント、含水炭素は一ポイント二パーセントもあるのです。鶏の肉はただこのように滋養に富むばかりでなく消化もたいへんいいのです。殊に若い鶏の肉ならば、もうほんとうに軟かでおいしいことと云ったら、」先生は一寸唾をのみました、「とてもお話ではわかりません。食べたことのある方はおわかりでしょう。」  生徒はしばらくしんとしました。校長さんもじっと床を見つめて考えています。先生ははんけちを出して奇麗に口のまわりを拭いてから又云いました。 「で一般に、この鶏の肉に限らず、鳥の肉には私たちの脳神経を養うに一番大事な燐がたくさんあるのです。」  こんなことは女学校の家事の本に書いてあることだ、やっぱり仲々程度が高い、ばかにできないと私は思いました。先生は又つづけます。 「その鶏の卵も大へんいいのです。成分は鶏の肉より蛋白質は少し少く、脂肪は少し多いのです。これは病人もよく使います。それから次は油揚です。油揚は昔は大へん供給が充分だったのですけれども、今はどうもそんなじゃありません。それで、実はこれは廃れた食物であります。成分は蛋白質が二二パアセント、脂肪が十八ポイント七パアセント、含水炭素が零ポイント九パアセントですが、これは只今ではあんまり重要じゃありません。油揚の代りに近頃盛んになったのは玉蜀黍です。これはけれども消化はあんまりよくありません。」 「時間がも少しですから、次の教室をご案内いたしましょう。」校長がそっと私にささやきました。そこで私はうなずき校長は先に立って室を出ました。 「第三教室は向うの端になって居ります。」校長は云いながら廊下をどんどん戻りました。さっきの第一教室の横を通り玄関を越え校長室と教員室の横を通ったそこが第三教室で、「第三学年 担任者武原久助」と書いてありました。さっきの茶いろの毛のガサガサした先生の教室なのです。狩猟の時間です。  私たちが入って行ったとき、先生も生徒も立って挨拶しました。それから講義が続きました。 「それで狩猟に、前業と本業と後業とあることはよくわかったろう。前業は養鶏を奨励すること、本業はそれを捕ること、後業はそれを喰べることと斯うである。  前業の養鶏奨励の方法は、だんだん詳しく述べるつもりであるが、まあその模範として一例を示そう。先頃私が茨窪の松林を散歩していると、向うから一人の黒い小倉服を着た人間の生徒が、何か大へん考えながらやって来た。私はすぐにその生徒の考えていることがわかったので、いきなり前に飛び出した。  すると向うでは少しびっくりしたらしかったので私はまず斯う云った。 『おい、お前は私が何だか知ってるか。』  するとその生徒が云った。 『お前は狐だろう。』 『そうだ。しかしお前は大へん何か考えて困っているだろう。』 『いいや、なんにも考えていない。』その生徒が云った。その返事が実は大へん私に気に入ったのだ。 『そんなら私はお前の考えていることをあてて見ようか。』 『いいや、いらない。』その生徒が云った。それが又大へん私の気に入った。 『お前は明後日の学芸会で、何を云ったらいいか考えているだろう。』 『うん、実はそうだ。』 『そうか、そんなら教えてやろう。あさってお前は養鶏の必要を云うがいい。百姓の家には、こぼれて砂の入った麦や粟や、いらない菜っ葉や何か、たくさんあるんだ。又|甘藍や何かには、青むしもたかる。それをみんな鶏に食べさせる。鶏は大悦びでそれをたべる。卵もうむ。大へん得だと斯う云うがいい。』  私が云ったら、その生徒は大へん悦んで、厚く礼を述べて行った。きっとあの生徒は学芸会でそれを云ったんだ。するとみんなは勿論と思って早速養鶏をはじめる。大きな鶏やひよっこや沢山できる。そこで我々は早速本業にとりかかると斯う云うのだ。」  私は実はこの話を聞いたとき、どうしてもおかしくておかしくてたまりませんでした。その生徒というのは私の学校の二年生なのです。先頃学芸会があったのでしたが、その時ちゃんと、狐に遭ったことから何から、みんな話していたのです。ただおしまいが少し違って居りました。それはその生徒の話では 「なんだお前は僕に養鶏をすすめて置いて自分がそれを捕ろうというのか。」と云ったら狐は頭をかかえて一目散に遁げたというのでした。けれどもそれを私は口に出しては云いませんでした。この時丁度、向うで終業のベルが鳴りましたので、先生は、 「今日はここまでにして置きます。」と云って礼をしました。私は校長について校長室に戻りました。校長は又私の茶椀に紅茶をついで云いました。 「ご感想はいかがですか。」  私は答えました。 「正直を云いますと、実は何だか頭がもちゃもちゃしましたのです。」  校長は高く笑いました。 「アッハッハ。それはどなたもそう仰います。時に今日は野原で何かいいものをお見付けですか。」 「ええ、火山弾を見附けました。ごく不完全です。」 「一寸拝見。」  私は仕方なく背嚢からそれを出しました。校長は手にとってしばらく見てから 「実にいい標本です。いかがです。一つ学校へご寄附を願えませんでしょうか。」と云うのです。私は仕方なく、 「ええ、よろしゅうございます。」と答えました。  校長はだまってそれをガラス戸棚にしまいました。  私はもう頭がぐらぐらして居たたまらなくなりました。  すると校長がいきなり、 「ではさよなら。」というのです。そこで私も 「これで失礼|致します。」と云いながら急いで玄関を出ました。それから走り出しました。  狐の生徒たちが、わあわあ叫び、先生たちのそれをとめる太い声がはっきり後ろで聞えました。私は走って走って、茨海の野原のいつも行くあたりまで出ました。それからやっと落ち着いて、ゆっくり歩いてうちへ帰ったのです。  で結局のところ、茨海狐小学校では、一体どういう教育方針だか、一向さっぱりわかりません。  正直のところわからないのです。  私は昨年九月四日、ニュウファウンドランド島の小さな山村、ヒルテイで行われた、ビジテリアン大祭に、日本の信者一同を代表して列席して参りました。  全体、私たちビジテリアンというのは、ご存知の方も多いでしょうが、実は動物質のものを食べないという考のものの団結でありまして、日本では菜食主義者と訳しますが主義者というよりは、も少し意味の強いことが多いのであります。菜食信者と訳したら、或は少し強すぎるかも知れませんが、主義者というよりは、よく実際に適っていると思います。もっともその中にもいろいろ派がありますが、まあその精神について大きくわけますと、同情派と予防派との二つになります。  この名前は横からひやかしにつけたのですが、大へんうまく要領を云いあらわしていますから、かまわず私どもも使うのです。  同情派と云いますのは、私たちもその方でありますが、恰度仏教の中でのように、あらゆる動物はみな生命を惜むこと、我々と少しも変りはない、それを一人が生きるために、ほかの動物の命を奪って食べるそれも一日に一つどころではなく百や千のこともある、これを何とも思わないでいるのは全く我々の考が足らないので、よくよく喰べられる方になって考えて見ると、とてもかあいそうでそんなことはできないとこう云う思想なのであります。ところが予防派の方は少しちがうのでありまして、これは実は病気予防のために、なるべく動物質をたべないというのであります。則ち肉類や乳汁を、あんまりたくさんたべると、リウマチスや痛風や、悪性の腫脹や、いろいろいけない結果が起るから、その病気のいやなもの、又その病気の傾向のあるものは、この団結の中に入るのであります。それですからこの派の人たちはバターやチーズも豆からこしらえたり、又菜食病院というものを建てたり、いろいろなことをしています。  以上は、まあ、ビジテリアンをその精神から大きく二つにわけたのでありますが、又一方これをその実行の方法から分類しますと、三つになります。第一に、動物質のものは全く喰べてはいけないと、則ち獣や魚やすべて肉類はもちろん、ミルクや、またそれからこしらえたチーズやバター、お菓子の中でも鶏卵の入ったカステーラなど、一切いけないという考の人たち、日本ならばまあ、一寸鰹のだしの入ったものもいけないという考のであります。この方法は同情派にも予防派にもありますけれども大部分は予防派の人たちがやります。第二のは、チーズやバターやミルク、それから卵などならば、まあものの命をとるというわけではないから、さし支えない、また大してからだに毒になるまいというので、割合|穏健な考であります。第三は私たちもこの中でありますが、いくら物の命をとらない、自分ばかりさっぱりしていると云ったところで、実際にほかの動物が辛くては、何にもならない、結局はほかの動物がかあいそうだからたべないのだ、小さな小さなことまで、一一|吟味して大へんな手数をしたり、ほかの人にまで迷惑をかけたり、そんなにまでしなくてもいい、もしたくさんのいのちの為に、どうしても一つのいのちが入用なときは、仕方ないから泣きながらでも食べていい、そのかわりもしその一人が自分になった場合でも敢て避けないとこう云うのです。けれどもそんな非常の場合は、実に実に少いから、ふだんはもちろん、なるべく植物をとり、動物を殺さないようにしなければならない、くれぐれも自分一人気持ちをさっぱりすることにばかりかかわって、大切の精神を忘れてはいけないと斯う云うのであります。  そこで、大体ビジテリアンというものの性質はおわかりでしょうから、これから昨年のその大祭のときのもようをお話いたします。  私がニュウファウンドランドの、トリニテイの港に着きましたのは、恰度大祭の前々日でありました。事によると、間に合わないと思ったのが、うまい工合に参りましたので、大へんよろこびました。トルコからの六人の人たちと、船の中で知り合いになりました。その団長は、地学博士でした。大祭に参加後、すぐ六人ともカナダの北境を探険するという話でした。私たちは、船を下りると、すぐ旅装を調えて、ヒルテイの村に出発したのであります。実は私は日本から出ました際には、ニュウファウンドランドへさえ着いたら、誰の眼もみなそのヒルテイという村の方へ向いてるだろう、世界中から集った旅人が、ぞろぞろそっちへ行くのだろうから、もうすぐ路なんかわかるだろうと思って居りました。ところが、船の中でこそ、遇然トルコ人六人とも知り合いになったようなもの、実際トリニテイの町に下りて見ると、どこにもそんなビラが張ってあるでもなし、ヒルテイという名を云う人も一人だってあるでなし、実は私も少し意外に感じたので〔以下原稿数枚なし〕 は町をはなれて、海岸の白い崖の上の小さなみちを行きました、そらが曇って居りましたので大西洋がうすくさびたブリキのように見え、秋風は白いなみがしらを起し、小さな漁船はたくさんならんで、その中を行くのでした。落葉松の下枝は、もう褐色に変っていたのです。  トルコ人たちは、みちに出ている岩にかなづちをあてたり、がやがや話し合ったりして行きました。私はそのあとからひとり空虚のトランクを持って歩きました。一時間半ばかり行ったとき、私たちは海に沿った一つの峠の頂上に来ました。 「もうヒルテイの村が見える筈です。」団長の地学博士が私の前に来て、地図を見ながら英語で云いました。私たちは向うを注意してながめました。ひのきの一杯にしげっている谷の底に、五つ六つ、白い壁が見えその谷には海が峡湾のような風にまっ蒼に入り込んでいました。 「あれがヒルテイの村でしょうか。」私は団長にたずねました。団長は、しきりに地図と眼の前の地形とくらべていましたが、しばらくたって眼鏡をちょっと直しながら、 「そうです。あれがヒルテイの村です。私たちの教会は、多分あの右から三番目に見える平屋根の家でしょう。旗か何か立っているようです。あすこにデビスさんが、住んでいられるんですね。」  デビスというのは、ご存知の方もありましょうが、私たちの派のまあ長老です、ビジテリアン月報の主筆で、今度の大祭では祭司長になった人であります。そこで、私たちは、俄かに元気がついて、まるで一息にその峠をかけ下りました。トルコ人たちは脚が長いし、背嚢を背負って、まるで磁石に引かれた砂鉄とい〔以下原稿数枚なし〕 そうにあたりの風物をながめながら、三人や五人ずつ、ステッキをひいているのでした。婦人たちも大分ありました。又|支那人かと思われる顔の黄いろな人とも会いました。私はじっとその顔を見ました。向うでも立ちどまってしまいました。けれどもその日はとうとう話しかけるでもなく、別れてしまいましたが、その人がやはりビジテリアンで、大祭に来たものなことは疑もありませんでした。私たちは教会に来ました。教会は粗末な漆喰造りで、ところどころ裂罅割れていました。多分はデビスさんの自分の家だったのでしょうが、ずいぶん大きいことは大きかったのです。旗や電燈が、ひのきの枝ややどり木などと、上手に取り合せられて装飾され、まだ七八人の人が、せっせと明後日の仕度をして居りました。  私たちは教会の玄関に立って、ベルを押しました。  すぐ赭ら顔の白髪の元気のよさそうなおじいさんが、かなづちを持ってよこの室から顔〔以下原稿数枚なし〕 が、桃いろの紙に刷られた小さなパンフレットを、十枚ばかり持って入って来ました。 「お早うございます。なあに却って御愛嬌ですよ。」 「お早うございます。どうか一枚拝見。」  私はパンフレットを手にとりました。それは今ももっていますが斯う書いてあったのです。 「◎偏狭非文明的なるビジテリアンを排す。 マルサスの人口論は、今日定性的には誰も疑うものがない。その要領は人類の居住すべき世界の土地は一定である、又その食料品は等差級数的に増加するだけである、然るに人口は等比級数的に多くなる。則ち人類の食料はだんだん不足になる。人類の食料と云えば蓋し動物植物鉱物の三種を出でない。そのうち鉱物では水と食塩とだけである。残りは植物と動物とが約半々を占める。ところが茲にごく偏狭な陰気な考の人間の一群があって、動物は可哀そうだからたべてはならんといい、世界中にこれを強いようとする。これがビジテリアンである。この主張は、実に、人類の食物の半分を奪おうと企てるものである。換言すれば、この主張者たちは、世界人類の半分、則ち十億人を饑餓によって殺そうと計画するものではないか。今日いずれの国の法律を以てしても、殺人罪は一番重く罰せられる。間接ではあるけれども、ビジテリアンたちも又この罪を免れない。近き将来、各国から委員が集って充分商議の上厳重に処罰されるのはわかり切ったことである。又この事実は、ビジテリアンたちの主張が、畢竟自家撞着に終ることを示す。則ちビジテリアンは動物を愛するが故に動物を食べないのであろう。何が故にその為に食物を得ないで死亡する、十億の人類を見殺しにするのであるか。人類も又動物ではないか。」 「こいつは面白い。実に名論だ。文章も実に珍無類だ。実に面白い。」トルコの地学博士はその肥った顔を、まるで張り裂けるようにして笑いました。みんなも笑いました。とにかくみんな寝巻をぬいで、下に降りて、口を漱いだり顔を洗ったりしました。  それから私たちは、簡単に朝飯を済まして、式が九時から始まるのでしたから、しばらくバルコンでやすんで待っていました。  不意に教会の近くから、のろしが一発|昇りました。そらがまっ青に晴れて、一枚の瑠璃のように見えました。その冴みきったよく磨かれた青ぞらで、まっ白なけむりがパッとたち、それから黄いろな長いけむりがうねうね下って来ました。それはたしかに、日本でやる下り竜の仕掛け花火です。そこで私ははっと気がつきました。こののろしは陳氏があげているのだ、陳氏が支那式黄竜の仕掛け花火をやったのだと気がつきましたので、大悦びでみんなにも説明しました。  その時又、今朝のすてきなラッパの声が遠くから響いて参りました。 「来た来た。さあどんな顔ぶれだか、一つ見てやろうじゃないか。」地学博士を先登に、私たちは、どやどや、玄関へ降りて行きました。たちまち一台の大きな赤い自働車がやって来ました。それには白い字でシカゴ畜産組合と書いてありました。六人の、髪をまるで逆立てた人たちが、シャツだけになって、顔をまっ赤にして、何か叫びながら鼠色や茶いろのビラを撒いて行きました。その鼠いろのを私は一枚手にとりました。それには赤い字で斯う書いてありました。 「◎偏狭非学術的なるビジテリアンを排せ。 ビジテリアンの主張は全然|誤謬である。今この陰気な非学術的思想を動物心理学的に批判して見よう。  ビジテリアンたちは動物が可哀そうだから食べないという。動物が可哀そうだということがどうしてわかるか。ただこっちが可哀そうだと思うだけである。全体|豚などが死というような高等な観念を持っているものではない。あれはただ腹が空った、かぶらの茎、噛みつく、うまい、厭きた、ねむり、起きる、鼻がつまる、ぐうと鳴らす、腹がへった、麦糠、たべる、うまい、つかれた、ねむる、という工合に一つずつの小さな現在が続いて居るだけである。殺す前にキーキー叫ぶのは、それは引っぱられたり、たたかれたりするからだ、その証拠には、殺すつもりでなしに、何か鶏卵の三十も少し遠くの方でご馳走をするつもりで、豚の足に縄をつけて、ひっぱって見るがいいやっぱり豚はキーキー云う。こんな訳だから、ほんとうに豚を可哀そうと思うなら、そうっと怒らせないように、うまいものをたべさせて置いて、にわかに熱湯にでもたたき込んでしまうがいい、豚は大悦びだ、くるっと毛まで剥けてしまう。われわれの組合では、この方法によって、沢山の豚を悦ばせている。ビジテリアンたちは、それを知らない。自分が死ぬのがいやだから、ほかの動物もみんなそうだろうと思うのだ。あんまり子供らしい考である。」  私は無理に笑おうと思いましたが何だか笑えませんでした。地学博士も黄いろなパンフレットを読んでしまって少し変な顔をしていました。私たちは目を見合せました。それからだまってお互のパンフレットをとりかえました。黄色なパンフレットには斯う書いてあったのです。 「◎偏狭非学術的なビジテリアンを排せ。 ビジテリアンの主張は全然|誤謬である。今これを生物分類学的に簡単に批判して見よう。ビジテリアンたちは、動物が可哀そうだという、一体どこ迄が動物でどこからが植物であるか、牛やアミーバーは動物だからかあいそう、バクテリヤは植物だから大丈夫というのであるか。バクテリヤを植物だ、アミーバーを動物だとするのは、ただ研究の便宜上、勝手に名をつけたものである。動物には意識があって食うのは気の毒だが、植物にはないから差し支えないというのか。なるほど植物には意識がないようにも見える。けれどもないかどうかわからない、あるようだと思って見ると又実にあるようである。元来生物界は、一つの連続である、動物に考があれば、植物にもきっとそれがある。ビジテリアン諸君、植物をたべることもやめ給え。諸君は餓死する。又世界中にもそれを宣伝したまえ。二十億人がみんな死ぬ。大へんさっぱりして諸君の御希望に叶うだろう。そして、そのあとで動物や植物が、お互同志食ったり食われたりしていたら、丁度いいではないか。」  私はなおさら変な気がしました。  もう一枚茶いろのもあったのです。 「ごらんになったらとりかえましょうか。」  私は隣りの人に云いました。 「ええ、」その人はあわただしく茶いろのパンフレットをよこしました。私も私のをやったのです。それには黒くこう書いてありました。 「◎偏狭非学術的なるビジテリアンを排せ。 ビジテリアンの主張は全然誤謬である、今これを比較解剖学の立場からごく通俗的に説明しよう。人類は動物学上混食に適するようにできている。歯の形状から見てもわかる。草食獣にある臼歯もあれば肉食類の犬歯もある。混食をしているのが人類には一番自然である。そう出来てるのだから仕方ない。それをどう斯う云うのは恩恵深き自然に対して正しく叛旗をひるがえすものである。よしたまえ、ビジテリアン諸君、あんまり陰気なおまけに子供くさい考は。」 「ふん。今度のパンフレットはどれもかなりしっかりしてるね。いかにも誰もやりそうな議論だ。しかしどっかやっぱり調子が変だね。」地学博士が少し顔色が青ざめて斯う云いました。 「調子が変なばかりじゃない、議論がみんな都合のいいようにばかり仕組んであるよ。どうせ畜産組合の宣伝書だ。」と一人のトルコ人が云いました。  そのとき又向うからラッパが鳴って来ました。ガソリンの音も聞えます。正直を云いますと私もこの時は少し胸がどきどきしました。さっそく又一台の赤自動車がやって来て小さな白い紙を撒いて行ったのです。  そのパンフレットを私たちはせわしく読みました。それには赤い字で斯う書いてあったのです。 「ビジテリアン諸氏に寄す。  諸君がどんなに頑張って、馬鈴薯とキャベジ、メリケン粉ぐらいを食っていようと、海岸ではあんまりたくさん魚がとれて困る。折角死んでも、それを食べて呉れる人もなし、可哀そうに、魚はみんなシャベルで釜になげ込まれ、煮えるとすくわれて、締木にかけて圧搾される。釜に残った油の分は魚油です。今は一|缶十セントです。鰯なら一缶がまあざっと七百|疋分ですねえ、締木にかけた方は魚粕です、一キログラム六セントです、一キログラムは鰯ならまあ五百疋ですねえ、みなさん海岸へ行ってめまいをしてはいけません。また農場へ行ってめまいをしてもいけません、なぜなら、その魚粕をつかうとキャベジでも麦でもずいぶんよく穫れます。おまけにキャベジ一つこさえるには、百疋からの青虫を除らなければならないのですぜ。それからみなさんこの町で何か煮たものをめしあがったり、お湯をお使いになるときに、めまいを起さないように願います。この町のガスはご存知の通り、石炭でなしに、魚油を乾溜してつくっているのですから。いずれ又お目にかかって詳しく申しあげましょう。」  この宣伝書を読んでしまったときは、白状しますが、私たちはしばらくしんとしてしまったのです。どうも理論上この反対者の主張が勝っているように思われたのであります。それとて、私も、又トルコから来たその六人の信者たちも、ビジテリアンをやめようとか、全く向うの主張に賛成だとかいうのでもなく、ただ何となくこの大祭のはじまりに、けちをつけられたのが不愉快だったのであります。余興として笑ってしまうには、あんまり意地が悪かったのであります。  ところが、又もやのろしが教会の方であがりました。まっ青なそらで、白いけむりがパッと開き、それからトントンと音が聞えました。けむりの中から出て来たのは、今度こそ全く支那風の五色の蓮華の花でした。なるほどやっぱり陳氏だ、お経にある青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光をやったんだなと、私はつくづく感心してそれを見上げました。全くその蓮華のはなびらは、ニュウファウンドランド島、ヒルテイ村ビジテリアン大祭の、新鮮な朝のそらを、かすかに光って舞い降りて来るのでした。  それから教会の方で、賑やかなバンドが始まりました。それが風下でしたから、手にとるように聞えました。それがいかにも本式なのです。私たちは、はじめはこれはよほど費用をかけて大陸から頼んで来たんだなと思いましたが、あとで聞きましたら、あの有名なスナイダーが私たちの仲間だったんです。スナイダーは、自分のバンドを、そっくりつれてやはり一昨日、ここへ着いたのだそうです。とにかく、式の始まるまでは、まだ一時間もありましたけれども、斯うにぎやかにやられては、とてもじっとして居られません、私たちは、大急ぎで二階に帰って、礼装をしたのです。土耳古人たちは、みんなまっ赤なターバンと帯とをかけ、殊に地学博士はあちこちからの勲章やメタルを、その漆黒の上着にかけましたので全くまばゆい位でした。私は三越でこさえた白い麻のフロックコートを着ましたが、これは勿論、私の好みで作法ではありません。けれども元来きものというものは、東洋風に寒さをしのぐという考も勿論ですが、一方また、カーライルの云う通り、装飾が第一なので結局その人にあった相当のものをきちんとつけているのが一等ですから、私は一向何とも思いませんでした。実際きものは自分のためでなく他人の為です。自分には自分の着ているものが全体見えはしませんからほかの人がそれを見て、さっぱりした気持ちがすればいいのであります。  さて私たちは宿を出ました。すると式の時間を待ち兼ねたのは、あながち私たちだけではありませんでした。教会へ行く途中、あっちの小路からも、こっちの広場からも、三人四人ずついろいろな礼装をした人たちに、私たちは会いました。燕尾服もあれば厚い粗羅紗を着た農夫もあり、綬をかけた人もあれば、スラッと瘠せた若い軍医もありました。すべてこれらは、私たちの兄弟でありましたから、もう私たちは国と階級、職業とその名とをとわず、ただ一つの大きなビジテリアンの同朋として、「お早う、」と挨拶し「おめでとう、」と答えたのです。そして私たちは、いつかぞろぞろ列になっていました。列になって教会の門を入ったのです。一昨日別段気にもとめなかった、小さなその門は、赤いいろの藻類と、暗緑の栂とで飾られて、すっかり立派に変っていました。門をはいると、すぐ受付があって私たちはみんな求められて会員証を示しました。これはいかにも偏狭なやり方のようにどなたもお考えでしょうが、実際今朝の反対宣伝のような訳で、どんなものがまぎれ込んで来て、何をするかもわからなかったのですから、全く仕方なかったのでありましょう。  式場は、教会の広庭に、大きな曲馬用の天幕を張って、テニスコートなどもそのまま中に取り込んでいたようでした。とてもその人数の入るような広間は、恐らくニュウファウンドランド全島にもなかったでしょう。  もう気の早い信徒たちが二百人ぐらい席について待っていました。笑い声が波のように聞えました。やっぱり今朝のパンフレットの話などが多かったのでしょう。  その式場を覆う灰色の帆布は、黒い樅の枝で縦横に区切られ、所々には黄や橙の石楠花の花をはさんでありました。何せそう云ういい天気で、帆布が半透明に光っているのですから、実にその調和のいいこと、もうこここそやがて完成さるべき、世界ビジテリアン大会堂の、陶製の大天井かと思われたのであります。向うには勿論花で飾られた高い祭壇が設けられていました。そのとき、私は又、あの狼煙の音を聞きました。はっと気がついて、私は急いでその音の方教会の裏手へ出て行って見ました。やっぱり陳氏でした。陳氏は小さな支那の子供の狼煙の助手も二人も連れて来ているのでした。そして三人とも、今日はすっかり支那服でした。私は支那服の立派さを、この朝ぐらい感じたことはありません。陳氏はすっかり黒の支度をして、袖口と沓だけ、まばゆいくらいまっ白に、髪は昨日の通りでしたが、支那の勲章を一つつけていました。  それから助手の子供らは、まるで絵にある唐児です。あたまをまん中だけ残して、くりくり剃って、恭しく両手を拱いて、陳氏のうしろに立っていました。陳氏は私の行ったのを見ると本当に嬉しかったと見えて、いきなり手を出して、 「おめでとう。お早う。いいお天気です。天の幸、君にあらんことを。」とつづけざまにべらべら挨拶しました。 「お早う。」私たちは手を握りました。二人の子供の助手も、両手を拱いたまま私に一揖しました。私も全く嬉しかったんです。ニュウファウンドランド島の青ぞらの下で、この叮重な東洋風の礼を受けたのです。  陳氏は云いました。 「さあ、もう一発やりますよ。あとは式がすんでからです。今度のは、私の郷国の名前では、柳雲飛鳥といいます。柳はサリックス、バビロニカ、です。飛鳥は燕です。日本でも、柳と燕を云いますか。」 「云います。そしてよく覚えませんが、たしか私の方にも、その狼煙はあった筈ですよ。いや花火だったかな。それとも柳にけまりだったかな。」 「日本の花火の名所は、東京両国橋ですね。」 「ええそのほか岩国とか石の巻とか、あちこちにもあります。」 「なるほど。さあ、支度。」陳氏は二人の子供に向きました。一人の子は恭しくバスケットから、狼煙玉を持ち出しました。陳氏はそれを受けとってよく調べてから、 「よろしい。口火。」と云いました。も一人の子は、もう手に口火を持って待っていました。陳氏はそれを受けとりました。はじめの子は、シュッとマッチをすりました。陳氏はそれに口火をあてて、急いでのろし筒に投げ込みました。しばらくたって、「ドーン」けむりと一緒に、さっきの玉は、汽車ぐらいの速さで青ぞらにのぼって行きました。二人の子供も、恭しく腕を拱いて、それを見上げていました。たちまち空で白いけむりが起り、ポンポンと音が下って来それから青い柳のけむりが垂れ、その間を燕の形の黒いものが、ぐるぐる縫って進みました。 「さあ式場へ参りましょう。お前たち此処で番をしておいで。」陳氏は英語で云って、それから私らは、その二人の子供らの敬礼をうしろに式場の天幕へ帰りました。  もう式の始まるに、六分しかありませんでした。天幕の入口で、私たちはプログラムを受け取りました。それには表に  ビジテリアン大祭次第 挙祭挨拶 論難|反駁 祭歌合唱 祈祷 閉式挨拶 会食 会員紹介 余興    以上 と刷ってあり私たちがそれを受け取った時丁度九時五分前でした。  式場の中はぎっしりでした。それに人数もよく調べてあったと見えて、空いた椅子とてもあんまりなく、勿論腰かけないで立っている人などは一人もありませんでした。みんなで五百人はあったでしょう。その中には婦人たちも三分の一はあったでしょう。いろいろな服装や色彩が、処々に配置された橙や青の盛花と入りまじり、秋の空気はすきとおって水のよう、信者たちも又さっきとは打って変って、しいんとして式の始まるのを待っていました。  アーチになった祭壇のすぐ下には、スナイダーを楽長とするオーケストラバンドが、半円陣を採り、その左には唱歌隊の席がありました。唱歌隊の中にはカナダのグロッコも居たそうですが、どの人かわかりませんでした。  ところが祭壇の下オーケストラバンドの右側に、「異教徒席」「異派席」という二つの陶製の標札が出て、どちらにも二十人ばかりの礼装をした人たちが座って居りました。中には今朝の自働車で見たような人も大分ありました。  私もそこで陳氏と並んで一番うしろに席をとりました。陳氏はしきりに向うの異教徒席や異派席とプログラムとを比較しながらよほど気にかかる模様でした。とうとう、そっと私にささやきました。 「このプログラムの論難というのは向うのあの連中がやるのですね。」 「きっとそうでしょうね。」 「どうです、異派席の連中は、私たちの仲間にくらべては少し風采でも何でも見劣りするようですね。」  私も笑いました。 「どうもそうのようですよ。」  陳氏が又云いました。 「けれども又異教席のやつらと、異派席の連中とくらべて見たんじゃ又ずっと違ってますね。異教席のやつらときたら、実際どうも醜悪ですね。」 「全くです。」私はとうとう吹き出しました。実際異教席の連中ときたらどれもみんな醜悪だったのです。  俄かに澄み切った電鈴の音が式場|一杯鳴りわたりました。  拍手が嵐のように起りました。  白髯赭顔のデビス長老が、質素な黒のガウンを着て、祭壇に立ったのです。そして何か云おうとしたようでしたが、あんまり嬉しかったと見えて、もうなんにも云えず、ただおろおろと泣いてしまいました。信者たちはまるで熱狂して、歓呼拍手しました。デビス長老は、手を大きく振って又何か云おうとしましたが、今度も声が咽喉につまって、まるで変な音になってしまい、とうとう又泣いてしまったのです。  みんなは又熱狂的に拍手しました。長老はやっと気を取り直したらしく、大きく手を三度ふって、何か叫びかけましたけれども、今度だってやっぱりその通り、崩れるように泣いてしまったのです。祭司次長、ウィリアム・タッピングという人で、爪哇の宣教師なそうですが、せいの高い立派なじいさんでした、が見兼ねて出て行って、祭司長にならんで立ちました。式場はしいんと静まりました。 「諸君、祭司長は、只今既に、無言を以て百千万言を披瀝した。是れ、げにも尊き祭始の宣言である。然しながら、未だ祭司長の云わざる処もある。これ実に祭司長が述べんと欲するものの中の糟粕である。これをしも、祭司次長が諸君に告げんと欲して、敢て咎めらるべきでない。諸君、吾人は内外多数の迫害に耐えて、今日|迄ビジテリアン同情派の主張を維持して来た。然もこれ未だ社会的に無力なる、各個人個人に於てである。然るに今日は既にビジテリアン同情派の堅き結束を見、その光輝ある八面体の結晶とも云うべきビジテリアン大祭を、この清澄なるニュウファウンドランド島、九月の気圏の底に於て析出した。殊にこの大祭に於て、多少の愉快なる刺戟を吾人が所有するということは、最天意のある所である。多少の愉快なる刺戟とは何であるか、これプログラム中にある異教|及異派の諸氏の論難である。是等諸氏はみな信者諸氏と同じく、各自の主義主張の為に、世界各地より集り来った真理の友である。恐らく諸氏の論難は、最|痛烈辛辣なものであろう。その愈々鋭利なるほど、愈々公明に我等はこれに答えんと欲する。これ大祭開式の辞、最後糟粕の部分である。祭司次長ウィリアム・タッピング祭司長ヘンリー・デビスに代ってこれを述べる。」  拍手は天幕もひるがえるばかり、この間デビスはただよろよろと感激して頭をふるばかりでありました。  その拍手の中でデビス長老は祭司次長に連れられて壇を下り透明な電鈴が式場一杯に鳴りました。祭司次長が又祭壇に上って壇の隅の椅子にかけ、それから一寸立って異教徒席の方を軽くさし招きました。  異教徒席の中からせいの高い肥ったフロックの人が出て卓子の前に立ち一寸|会釈してそれからきぱきぱした口調で斯う述べました。 「私はビジテリアン諸氏の主張に対して二個条の疑問がある。  第一植物性食品の消化率が動物性食品に比して著しく小さいこと。尤も動物性食品には含水炭素が殆んどないからこれは当然植物から採らなければならない。然しながらもし蛋白質と脂肪とについて考えるならば何といっても植物性のものは消化が悪い。単に分析表を見て牛肉と落花生と営養価が同じだと云って牛肉の代りにそっくり豆を喰べるというわけにはいかない。人によっては植物蛋白を殆んど消化しないじゃないかと思われることもあるのだ。ビジテリアン諸氏はこれらのことは充分ご承知であろうが尚これを以て多くの病弱者や老衰者並に嬰児にまで及ぼそうとするのはどう云うものであろうか。  第二は植物性食品はどう考えても動物性食品より美味しくない。これは何としても否定することができない。元来食事はただ営養をとる為のものでなく又一種の享楽である。享楽と云うよりは欠くべからざる精神爽快剤である。労働に疲れ種々の患難に包まれて意気銷沈した時には或は小さな歌謡を口吟む、談笑する音楽を聴く観劇や小遠足にも出ることが大へん効果あるように食事も又一の心身回復剤である。この快楽を菜食ならば著しく減ずると思う。殊に愉快に食べたものならば実際消化もいいのだ。これをビジテリアン諸氏はどうお考であるか伺いたい。」  大へん温和しい論旨でしたので私たちは実際本気に拍手しました。すると私たちの席から三人ばかり祭司次長の方へ手をあげて立った人がありましたが祭司次長は一番前の老人を招きました。その人は白髯でやはり牧師らしい黒い服装をしていましたが壇に昇って重い調子で答えたのでした。 「只今の御質疑に答えたいと存じます。  植物性の脂肪や蛋白質の消化があまりよくないことは明かであります。さればといって甚不良なのではなく、ただ動物質の食品に比して幾分劣るというのであります。全然植物性蛋白や脂肪を消化しないという人はまあありますまい、あるとすればその人は又動物性の蛋白や脂肪も消化しないのです。さてどう云うわけで植物性のものが消化がよくないかと云えば蛋白質の方はどうもやっぱりその蛋白質分子の構造によるようでありますが脂肪の消化率の少いのはそれが多く繊維素の細胞壁に包まれている関係のようであります。どちらも次第に菜食になれて参りますと消化もだんだん良くなるのであります。色々実験の成績もございますから後でご覧を願います。又病弱者老衰者嬰児等の中には全く菜食ではいけない人もありましょう、私どもの派ではそれらに対してまで菜食を強いようと致すのではありません。ただなるべく動物|互に相喰むのは決して当然のことでない何とかしてそうでなくしたいという位の意味であります。尤も老人病弱者にても若し肉食を嫌うものがあればこれに適するような消化のいい食品をつくる事に就ては私共只今充分努力を致して居るのであります。仮令ば蛋白質をば少しく分解して割合簡単な形の消化し易いものを作る等であります。  第二に食事は一つの享楽である菜食によってその多分は奪われるとこれはやはり肉食者よりのお考であります。なるほど普通混食をしているときは野菜は肉類より美味しくないのですが、けれどももし肉類を食べるときその動物の苦痛を考えるならば到底美味しくはなくなるのであります。従って無理に食べても消化も悪いのであります。勿論菜食を一年以上もしますなれば仲々肉類は不愉快な臭や何かありまして好ましくないのであります。元来食物の味というものはこれは他の感覚と同じく対象よりはその感官自身の精粗によるものでありまして、精粗というよりは善悪によるものでありまして、よい感官はよいものを感じ悪い感官はいいものも悪く感ずるのであります。同じ水を呑んでも徳のある人とない人とでは大へんにちがって感じます。パンと塩と水とをたべている修道院の聖者たちにはパンの中の糊精や蛋白質|酵素単糖類脂肪などみな微妙な味覚となって感ぜられるのであります。もしパンがライ麦のならばライ麦のいい所を感じて喜びます。これらは感官が静寂になっているからです。水を呑んでも石灰の多い水、炭酸の入った水、冷たい水、又川の柔らかな水みなしずかにそれを享楽することができるのであります。これらは感官が澄んで静まっているからです。ところが感官が荒さんで来るとどこ迄でも限りなく粗く悪くなって行きます。まあ大抵パンの本当の味などはわからなくなって非常に多くの調味料を用いたりします。則ち享楽は必らず肉食にばかりあるのではない。寧ろ清らかな透明な限りのない愉快と安静とが菜食にあるということを申しあげるのであります。」老人は会釈して壇を下り拍手は天幕もひるがえるようでした。祭司次長は立って異教席の方を見ました。異教席から瘠せた顔色の悪いドイツ刈りの男が立ちました。祭司次長は軽く会釈しました。その人も答礼して壇に上ったのです。その人は大へん皮肉な目付きをして式場全体をきろきろ見下してから云いました。 「今朝私どもがみなさんにさしあげて置いた五六枚のパンフレットはどなたも大抵お読み下すった事と思う。私はたしかに評判の通りシカゴ畜産組合の理事で又屠畜会社の技師です。ところが正直のところシカゴ畜産組合がこのビジテリアン大祭を決して苦にするわけはない。何となれば只今前論者の云われたようなトラピスト風の人間というものは今日全人類の一万分一もあるもんじゃない。やっぱりあたり前の人間には肉類は食料として滋養も多く美味である。ビジテリアン諸氏が折角菜食を実行し又宣伝するのを見た処で感服はしても容易に真似はしない。則ち肉類の需要が減ずるものでもなし又私たちの組合がこわれたり会社が破産したりするものではない。だから一向反対宣伝も要らなければこの軽業テントの中に入って異教席というこの光栄ある場所に私が数時間|窮屈をする必要もない。然しながら実は私は六月からこちらへ避暑に来て居りました。そしてこの大祭にぶっつかったのですから職業|柄私の方ではほんの余興のつもりでしたが少し邪魔を入れて見ようかと本社へ云ってやりましたら社長や何かみな大へん面白がって賛成して運動費などもよこし慰労旁々技師も五人|寄越しました。そこで私たちは大急ぎで銘々一つずつパンフレットも作り自働車などまで雇ってそれを撒きちらしましたが実は、なあに、一向あなた方が菜っ葉や何かばかりお上がりになろうと痛くもかゆくもないのです。然しまあやりかけた事ですからこれからも一度あのパンフレットを銘々一人ずつご説明して苦しいご返答を伺おうと思います。実は私の方でもあの通り速記者もたのんであります、ご答弁は私の方の機関雑誌畜産|之友に載せますからご承知を願います。で私のおたずね致したいことはパンフレットにもありました通り動物がかあいそうだからたべないとあなた方は仰っしゃるが動物というものは一種の器械です。消化吸収|排泄循環生殖と斯う云うことをやる器械です。死ぬのが恐いとか明日病気になって困るとか誰それと絶交しようとかそんな面倒なことを考えては居りません。動物の神経だなんというものはただ本能と衝動のためにあるです。神経なんというのはほんの少ししか働きません。その証拠にはご覧なさい鶏では強制肥育ということをやる、鶏の咽喉にゴム管をあてて食物をぐんぐん押し込んでやる。ふだんの五倍も十倍も押し込む、それでちゃんと肥るのです、面白い位|肥るのです。又犬の胃液の分泌や何かの工合を見るには犬の胸を切って胃の後部を露出して幽門の所を腸と離してゴム管に結ぶそして食物をやる、どうです犬は食べると思いますか食べないと思いますか。あっ、どうかしましたか。」  実際どうかしたのでした。あんまり話がひどかった為に婦人の中で四五人卒倒者があり他の婦人たちも大抵歯を食いしばって泣いたり耳をふさいで縮まったりしていたのです。式場は俄に大騒ぎになりシカゴの畜産技師も祭壇の上で困って立っていました。正気を失った人たちはみんなの手で私たちのそばを通って外に担ぎ出され職業の医者な人たちは十二三人も立って出て行きました。しばらくたって式場はしいんとなりました。婦人たちはみんなひどく激昂していましたが何分相手が異教の論難者でしたので卑怯に思われない為に誰も異議を述べませんでした。シカゴの技師ははんけちで叮寧に口を拭ってから又云いました。 「なるほど実にビジテリアン諸氏の動物に対する同情は大きなものであります。も少し言辞に気をつけて申し上げます。ええ、犬はそれを食べます。ぐんぐん喰べます。お判りですか。又家畜を去勢します。則ち生殖に対する焦燥や何かの為に費される勢力を保存するようにします。さあ、家畜は肥りますよ、全く動物は一つの器械でその脚を疾くするには走らせる、肥らせるには食べさせる、卵をとるにはつるませる、乳汁をとるには子を近くに置いて子に呑ませないようにする、どうでも勝手次第なもんです。決して心配はありません。まだまだ述べたいのですが又卒倒されると困りますからここまでに致して置きます。」  その人は壇を下りました。拍手と一処に六七人の人が私どもの方から立ちましたが祭司次長が割合前の方のモオニングの若い人をさしまねきました。その人は落ち着いた風で少し微笑いながら演説しました。 「只今のご質問はいかにもご尤であります。多少御実験などもお話になりましたが実は遺憾乍らそれはみな実験になって居りません。  動物は衝動と本能ばかりだと仰っしゃいましたがまあそうして置きます。その本能や衝動が生きたいということで一杯です。それを殺すのはいけないとこれだけでお答には充分であります。然しながら更に詳しいことは動物心理学の沢山の実験がこれを提供致すだろうと思います。又実は動物は本能と衝動ばかりではないのであります。今朝のパンフレットで見ましても生物は一つの大きな連続であると申されました。人間の心もちがだんだん人間に近いものから遠いものに行われて居ります。人間の苦しいことは感覚のあるものはやっぱりみんな苦しい人間の悲しいことは強い弱いの区別はあってもやっぱりどの動物も悲しいのです。仲々あのパンフレットにある豚のように愉快には行かないのであります。飼犬が主人の少年の病死の時その墓を離れず食物もとらずとうとう餓死した有名な例、鹿や猿の子が殺されたときそれを慕って親もわざと殺されることなど誰でも知っています。馬が何年もその主人を覚えていて偶に会ったとき涙を流したりするのです。前論者の、ビジテリアンは人間の感情を以て強て動物を律しようとするというのに対して、私は実に反対者たちは動物が人間と少しばかり形が違っているのに眼を欺かれてその本心から起って来る哀憐の感情をなくしているとご忠告申し上げたいのであります。誰だって自分の都合のいいように物事を考えたいものではありますがどこ迄もそれで通るものではありません。元来私どもの感情はそう無茶苦茶に間違っているものではないのでありましてどうしても本心から起って来る心持は全く客観的に見てその通りなのであります。動物は全く可哀そうなもんです。人もほんとうに哀れなものです。私は全論士にも少し深く上調子でなしに世界をごらんになることを望みます。」  拍手が強く起りました。拍手の中から髪を長くしたせいの低い男がいきなり異教席を立って壇に登りました。 「私はやはりシカゴ畜産組合の技師です。諸君、今朝のマルサス人口論を基とした議論は読んで下すったでしょう。どうですそれにちがいありますまい。地球上の人類の食物の半分は動物で半分は植物です。そのうち動物を喰べないじゃ食物が半分になる。たださえ食物が足りなくて戦争だのいろいろ騒動が起ってるのに更にそれを半分に縮減しようというのはどんなほかに立派な理くつがあっても正気の沙汰と思われない。人間の半分十億人が食物がなくて死んでしまう、死ぬ前にはいろいろ大騒ぎが起るその時ビジテリアンたちはどうします。自分たちの起した戦争の中へはいってわれらの敵国を打ち亡ぼせと云って鉄砲や剣を持って突貫しますか。それともああこんな筈じゃなかった神よと云ってみんな一緒にナイヤガラかどこかへ飛び込みますか。そんなことをしたって追い付きません。いや、それよりもこんなことになるのはどこの国の政治家でもすぐわかる、これはいかんと云うわけでお気の毒ながら諸君をみんな終身|懲役にしちまいます。まさか死刑にはなりますまいが終身懲役だってそんないいもんじゃありませんよ。どうです。今のうち懺悔してやめてしまっては。」  拍手も笑声も起りました。私たちの方から若い背広の青年が立って行きました。 「あの人は私は知ってますよ。ニュウヨウクで二三|遍話したんです。大学生です。」  その青年は少し激昂した風で演説し始めました。 「ご質問に対してできるだけ簡単にお答えしようと思います。  人類の食料は動物と植物と約半々だ。そのうち動物を食べないじゃ食料が半分に減る。いかにもご尤なお考ではありますが大分乱暴な処もある様であります。動物と植物と半々だ、これがまずいけません。半々というのは何が半々ですか。多分は目方でお測りになるおつもりか知れませんが目方で比較なさるのは大へんご損です。食物の中で消化される分の熱量ででもご比較になったら割合正確だろうと存じます。そう云うふうにしますと一般に動物質の方が消化率も大きいのでありますからよほどお得になります。お得にはなりますがとてもとても半々なんというわけには参りますまい。こんな珍らしい議論の必要が従来あんまりありませんでしたので恐らくこの計算はまだ誰も致しますまいが計算法だけ申し上げて置きましょう。どうぞシカゴ畜産組合の事務所でゆっくり御計算を願います。即ち世界中の小麦と大麦米や燕麦蕪菁や甘藍あらゆる食品の産額を発見して先ず第一にその中から各々家畜の喰べる分をさし引きます。その際あんまりびっくりなさいませんように。次にその残りの各々から蛋白質脂肪含水炭素の可消化量を計算してそれから各の発する熱量を計算して合計します。四千三百兆大カロリーとか何とか大体出て参りましょう。今度は牛羊、豚、馬、鶏|鯨という工合に今の通りやります。合計二千三百兆大カロリーとか何とか出て来ましょう。両方合せてそれをざっと二十億で割って三百六十五で割って営養研究所の方にでも見てお貰いなさい。計算がちがっているかどうか多分ご返事なさるでしょう。  さて、ところが只今までの議論は一向私には何でもないのでありまして第一のご質問の答弁の要点はこの次です。則ち論難者は、そのうち動物を食べないじゃ食料が半分に減ずるというこいつです。冗談じゃありませんぜ。一体その動物は何を食って生きていますか。空気や岩石や水を食べているのじゃないのです。牛や馬や羊は燕麦や牧草をたべる。その為に作った南瓜や蕪菁もたべる。ごらんなさい。人間が自分のたべる穀物や野菜の代りに家畜の喰べるものを作っているのです。牛一頭を養うには八エーカーの牧草地が要ります。そこに一番計算の早い小麦を作って見ましょうか。十人の人の一年の食糧が毎年とれます。牛ならどうです。一年の間に肥る分左様百六十キログラムの牛肉で十人の人が一年生きていられますか。一人一日五十グラムですよ。親指三本の大さですよ。腹が空りはしませんか。  よくおわかりにならないようですがもっと手短かに云いますともし人間が自然と相談して牛肉や豚肉の代りに何か損にならないものをよこして呉れと云えば今よりもっとたくさんの人間が生きて行かれる位多くの喰べものを向うではよこすと斯う云うことです。但しこれは海産物と廃物によって養う分の家畜は論外であります。然しながらそれを計算に入れても又大丈夫です。家畜だってみんな喰べるものばかりでなく羊のように毛を貰うもの馬や牛のように労働をして貰うものいろいろあります。  次に食料が半分になっちゃ人間も半分になる、いかにも面白いですが仲々その食料が半分にならない。減るどころか事によると少し増えるかも知れません。ですから大丈夫戦争も起らなければ無期徒刑をご心配して下さらなくても大丈夫です。却って菜食はみんなの心を平和にし互に正しく愛し合うことができるのです。多くの宗教で肉食を禁ずることが大切の儀式にはつきものになっているのでもわかりましょう。戦争どこじゃない菜食はあなた方にも永遠の平和を齎してせっかく避暑に来ていながら自働車まで雇って変な宣伝をやったり大祭へ踏み込んで来ていやな事を云って婦人たちを卒倒させたりしなくてもいいようになります。又我々だって無期徒刑じゃない、人類の仲間からと哺乳動物組合、鳥類連盟、魚類事務所などからまで勲章や感謝状を沢山贈られる訳です。どうです。おわかりになったらあなたもビジテリアンにおなりなさい。」  すると前の論士が立ちあがりました。大へん悔悟したような顔はしていましたが何だかどこか噴き出したいのを堪えていたようにも見えました。しょんぼり壇に登って来て 「悔悟します。今日から私もビジテリアンになります。」と云って今の青年の手をとったのでした。みんなは実にひどく拍手しました。二人は連れ立って私たちの方へ下り技師もその空いた席へ腰かけて肩ですうすう息をしていました。ところが勿論この事の為に異教席の憤懣はひどいものでした。一人のやっぱり技師らしい男がずいぶん粗暴な態度で壇に昇りました。 「諸君、私の疑問に答えたまえ。  動物と植物との間には確たる境界がない。パンフレットにも書いて置いた通りそれは人類の勝手に設けた分類に過ぎない。動物がかあいそうならいつの間にか植物もかあいそうになる筈だ。動物の中の原生動物と植物の中の細菌類とは殆んど相密接せるものである。又動物の中にだってヒドラや珊瑚類のように植物に似たやつもあれば植物の中にだって食虫植物もある、睡眠を摂る植物もある、睡る植物などは毎晩|邪魔して睡らせないと枯れてしまう、食虫植物には小鳥を捕るのもあり人間を殺すやつさえあるぞ。殊にバクテリアなどは先頃まで度々分類学者が動物の中へ入れたんだ。今はまあ植物の中へ入れてあるがそれはほんのはずみなのだ。そんな曖昧な動物かも知れないものは勿論|仁慈に富めるビジテリアン諸氏は食べたり殺したりしないだろう。ところがどうだ諸君諸君が一寸菜っ葉へ酢をかけてたべる、そのとき諸君の胃袋に入って死んでしまうバクテリアの数は百億や二百億じゃ利けゃしない。諸君が一寸|葡萄をたべるその一|房にいくらの細菌や酵母がついているか、もっと早いとこ諸君が町の空気を吸う一回に多いときなら一万ぐらいの細菌が殺される。そんな工合で毎日生きていながら私はビジテリアンですから牛肉はたべません、なんて、牛肉はいくら喰べたって一つの命の百分の一にもならないのだ、偽善と云おうか無智と云おうかとても話にならない。本とうに動物が可あいそうなら植物を喰べたり殺したりするのも廃し給え。動物と植物とを殺すのをやめるためにまず水と食塩だけ呑み給え。水はごくいい湧水にかぎる、それも新鮮な処にかぎる、すこし置いたんじゃもうバクテリアが入るからね、空気は高山や森のだけ吸い給え、町のはだめだ。さあ諸君みんなどこかしんとした山の中へ行っていい空気といい水と岩塩でもたべながらこのビジテリアン大祭をやるようにし給え。ここの空気は吸っちゃいけないよ。吸っちゃいけないよ。」  拍手は起り、笑声も起りましたが多くの人はだまって考えていました。その男はもう大得意でチラッとさっき懺悔してビジテリアンになった友人の方を見て自分の席へ帰りました。すると私の愕いたことはこの時まで腕を拱いてじっと座っていた陳氏がいきなり立って行ったことでした。支那服で祭壇に立ってはじめて私の顔を見て一寸かすかに会釈しました。それから落ち着いて流暢な英語で反駁演説をはじめたのです。 「只今のご論旨は大へん面白いので私も早速空気を吸うのをやめたいと思いましたがその前に一寸一言ご返事をしたいと存じます。どうぞその間空気を吸うことをお許し下さい。  さて只今のご論旨ではビジテリアンたるものすべからく無菌の水と岩石ぐらいを喰べて海抜二千尺以上ぐらいの高い処に生活すべしというのでありましたが、なるほど私共の中には一酸化炭素と水とから砂糖を合成する事をしきりに研究している人もあります。けれども茲ではまず生物連続が面白かったようですからそれを色々応用して見ます。則ち人類から他の哺乳類鳥類|爬虫類魚類それから節足動物とか軟体動物とか乃至原生動物それから一転して植物、の細菌類、それから多細胞の羊歯類|顕花植物と斯う連続しているからもし動物がかあいそうなら生物みんな可哀そうになれ、顕花植物なども食べても切ってもいかんというのですが、連続をしているものはまだいろいろあります。仮令ば人間の一生は連続している、嬰児期幼児期少年少女期青年処女期壮年期老年期とまあ斯うでしょう、ところが実はこれは便宜上勝手に分類したので実は連続しているはっきりした堺はない、ですから、若し四十になる人が代議士に出るならば必ず生れたばかりの嬰児も代議士を志願してフロックコートを着て政見を発表したり燕尾服を着て交際したりしなければいけない、又小学校の一年生にエービースィーを教えるなら大学校でもなぜ文学より見たる理論化学とか、相対性学説の難点とかそんなことばかりやってエービースィーを教えないか、と斯う云うことになります。或は他の例を以てするならば元来変態心理と正常な心理とは連続的でありますから人類は須く瘋癲病院を解放するか或はみんな瘋癲病院に入らなければいけないと斯うなるのであります。この変てこな議論が一見菜食にだけ適用するように思われるのはそれは思う人がまだこの問題を真剣に考え真実に実行しなかった証拠であります。斯んなことはよくあるのです。  いくら連続していてもその両端では大分ちがっています。太陽スペクトルの七色をごらんなさい。これなどは両端に赤と菫とがありまん中に黄があります。ちがっていますからどうも仕方ないのです。植物に対してだってそれをあわれみいたましく思うことは勿論です。印度の聖者たちは実際|故なく草を伐り花をふむことも戒めました。然しながらこれは牛を殺すのと大へんな距離がある。それは常識でわかります。人間から身体の構造が遠ざかるに従ってだんだん意識が薄くなるかどうかそれは少しもわかりませんがとにかくわれわれは植物を食べるときそんなにひどく煩悶しません。そこはそれ相応にうまくできているのであります。バクテリヤの事が大へんやかましいようでしたが一体バクテリヤがそこにあるのを殺すというようなことは馬を殺すというようなのと非常なちがいです。バクテリヤは次から次と分裂し死滅しまるで速かに速かに変化してるのです。それを殺すと云ったところで馬を殺すというようのとは大分ちがいます。又バクテリヤの意識だってよくはわかりませんがとにかく私共が生れつきバクテリヤについては殺すとかかあいそうだとかあんまりひどく考えない。それでいいのです。又仕方ないのです。但しこれも人類の文化が進み人類の感情が進んだときどう変るかそれはわかりません。印度の聖者たちは濾さない水は呑みません。普通の布の水濾しでは原生動物は通りますまいがバクテリヤは通りましょう。まあこれらについてはいくら理論上何と云われても私たちにそう思えないとお答え致すより仕方ありません。やがて理論的にも又その通り証明されるにちがいありません。私の国の孟子と云う人は徳の高い人は家畜の殺される処又料理される処を見ないと云いました。ごく穏健な考であります。自然はそんなおとしあなみたいなことはしませんから。私共は私共に具わった感官の状態私共をめぐった条件に於て菜食をしたいと斯う云うのであります。ここに於て私は敢て高山に遁げません。」陳氏は嵐のような拍手と一緒に私の処へ帰って来ました。私が陳氏に立って敬意を示している間に演壇にはもう次の論士が立っていました。 「諸君、しずかにし給え。まだそんなによろこぶには早い。なぜならビジテリアン諸君の主張は比較解剖学の見地からして正に根底から顛覆するからである。見給え諸君の歯は何枚あります。三十二枚、そうです。でその中四枚が門歯四枚が犬歯それから残りが臼歯と智歯です。でそんなら門歯は何のため、門歯は食物を噛み取る為臼歯は何のため植物を擦り砕くため、犬歯はそんなら何のためこれは肉を裂くためです。これでお判りでしょう。臼歯は草食動物にあり犬歯は肉食類にある。人類に混食が一番適当なことはこれで見てもわかるのです。則ち人類は混食しているのが一番自然なのです。ですから我々は肉食をやめるなんて考えてはいけません。」  ずいぶんみんな堪えたのでしたがあんまりその人の身振りが滑稽でおまけにいかにも小学校の二年生に教えるように云うもんですからとうとうみんなどっと吹き出しました。私共の席から一人がすぐ出て行きました。 「只今の比較解剖学からのご説はどうも腑に落ちないのであります。まず第一に人類の歯に混食が丁度適当だというのにいろいろ議論も起りましょうがまあこれは大体その通りとしていかがです、その次に、人類に混食が一番自然だから菜食してはいかんというのは。  自然だからその通りでいいということはよく云いますがこれは実はいいことも悪いこともあります。たとえば我々は畑をつくります。そしてある目的の作物を育てるのでありますがこの際一番自然なことは畑|一杯草が生えて作物が負けてしまうことです。これは一番自然です。前論士がもし農場を経営なすった際には参観さして戴きたい。又人間には盗むというような考があります。これは極めて自然のことであります。そんならそのままでいいではないか。と斯うなります。又異教派の方にも大分諸方から鉄道などでお出でになった方もあるようでありますが鉄道で一番自然なこと則ちなるべく人力を加えないようにしまするならば衝突や脱線や人を轢いたりするなどがいいようであります。そんならそれでいいではないかポイントマンだのタブレットだの面倒臭いことやめてしまえと斯う云うことになりますがどなたもご異議はありませんか。」斯う云ってその人はさっさっと席に戻ってしまいました。すると異教席からすぐ又一人立ちました。 「私は実は宣伝書にも云って置いた通り充分詳しく論じようと思ったがさっきからのくしゃくしゃしたつまらない議論で頭が痛くなったからほんの一言申し上げる、魚などは諸君が喰べないたって死ぬ、鰯なら人間に食われるか鯨に呑まれるかどっちかだ。つぐみなら人に食べられるか鷹にとられるかどっちかだ。そのとき鰯もつぐみもまっ黒な鯨やくちばしの尖ったキスも出来ないような鷹に食べられるよりも仁慈あるビジテリアン諸氏に泪をほろほろそそがれて喰べられた方がいいと云わないだろうか。それから今度は菜食だからって一向安心にならない。農業の方では害虫の学問があって薬をかけたり焼いたり潰したりして虫を殺すことを考えている。百姓はみんなそれをやる。鯨を食べるならば一|疋を一万人でも食べられ、又その為に百万疋の鰯を助けることになるのだが甘藍を一つたべるとその為に青虫を百疋も殺していることになる。まるで諸君の考と反対のことばかり行われているのです。いかがです。」  すぐ又一人立ちました。 「私はただ一分でお答えする。第一に魚がどんなに死ぬからってそれが私たちの必ずそれを喰べる理由にはならない。又私たちが魚をたべたからって魚が喜ぶかどうかそんなこともわからない。どうせ何かに殺されるだろうからってこっちが殺してやろうと云う訳には参りません。人間が魚をとらなければ海が魚で埋まってしまうという勘定さえあるがそんなめのこ勘定で往くもんじゃない。結局こんな間接のことまで論じていたんじゃきりがない、ただわれわれはまっすぐにどうもいけないと思うことをしないだけだ。野菜も又|犠牲を払うというがそれはわれわれはよく知っている。だから物を浪費しないことは大切なことなのだ。但し穀作や何かならばそんなにひどく虫を殺したりもしないのだ。極端な例でだけ比較をすればいくらでもこんな変な議論は立つのです。結局我々はどうしても正しいと思うことをするだけなのだ。」  拍手が起りました。その人は壇を下りました。  異教徒席の中から赭い髪を立てた肥った丈の高い人が東洋風に形容しましたら正に怒髪天を衝くという風で大股に祭壇に上って行きました。私たちは寛大に拍手しました。  祭司が一人出てその人と並んで紹介しました。 「このお方は神学博士ヘルシウス・マットン博士でありましてカナダ大学の教授であります。この度はシカゴ畜産組合の顧問として本大祭に御出席を得只今より我々の主張の不備の点を御指摘下さる次第であります。一寸紹介申しあげます。」とこう云うのでありました。私たちは寛大に拍手しました。  マットン博士はしずかにフラスコから水を呑み肩をぶるぶるっとゆすり腹を抱えそれから極めて徐ろに述べ始めました。 「ビジテリアン同情派諸君。本日はこの光彩ある大祭に出席の栄を得ましたことは私の真実光栄とする処であります。  就てはこれより約五分間私の奉ずる神学の立場より諸氏の信条を厳正に批判して見たいと思うのであります。然るに私の奉ずる神学とは然く狭隘なるものではない。私の奉ずる神学はただ二言にして尽す。ただ一なるまことの神はいまし給う、それから神の摂理ははかるべからずと斯うである。これに賛せざる諸君よ、諸君は尚かの中世の煩瑣哲学の残骸を以てこの明るく楽しく流動|止まざる一千九百二十年代の人心に臨まんとするのであるか。今日宗教の最大要件は簡潔である。吾人の哲学はこの二語を以て既に千六百万人の世界各地に散在する信徒を得た。否、凡そ神を信ずる者にしてこの二語を奉ぜざるものありや、細部の諍論は暫らく措け、凡そ何人か神を信ずるものにしてこの二語を否定するものありや。」咆哮し終ってマットン博士は卓を打ち式場を見廻しました。満場|森として声もなかったのです。博士は続けました。 「讃うべきかな神よ。神はまことにして変り給わない、神はすべてを創り給うた。美しき自然よ。風は不断のオルガンを弾じ雲はトマトの如く又|馬鈴薯の如くである。路のかたわらなる草花は或は赤く或は白い。金剛石は硬く滑石は軟らかである。牧場は緑に海は青い。その牧場にはうるわしき牛|佇立し羊群|馳ける。その海には青く装える鰯も泳ぎ大なる鯨も浮ぶ。いみじくも造られたる天地よ、自然よ。どうです諸君ご異議がありますか。」  式場はしいんとして返事がありませんでした。博士は実に得意になってかかとで一つのびあがり手で円くぐるっと環を描きました。 「その中の出来事はみな神の摂理である。総ては総てはみこころである。誠に畏き極みである。主の恵み讃うべく主のみこころは測るべからざる哉。われらこの美しき世界の中にパンを食み羊毛と麻と木綿とを着、セルリイと蕪菁とを食み又|豚と鮭とをたべる。すべてこれ摂理である。み恵みである。善である。どうです諸君。ご異議がありますか。」  博士は今度は少し心配そうに顔色を悪くしてそっと式場を見まわしました。それから、まるで脱兎のような勢で結論にはいりました。 「私はシカゴ畜産組合の顧問でも何でもない。ただ神の正義を伝えんが為に茲に来た。諸君、諸君は神を信ずる。何が故に神に従わないか。何故に神の恩恵を拒むのであるか。速にこれを悔悟して従順なる神の僕となれ。」  博士は最後に大咆哮を一つやって電光のように自分の席に戻りそこから横目でじっと式場を見まわしました。拍手が起りましたが同時に大笑いも起りました。というのは私たちは式場の神聖を乱すまいと思ってできるだけこらえていたのでしたがあんまり博士の議論が面白いのでしまいにはとうとうこらえ切れなくなったのでした。一番前列に居た小さな信者が立ちあがって祭司次長に何か云いました。次長は大きくうなずきました。  その人はこの村の小学校の先生なようでした。落ちついて祭壇に立ってそれから叮寧にさっきのマットン博士に会釈しました。博士はたしかに青くなってぶるぶる顫えていました。その信者は次に式場全体に挨拶しました。拍手は強く起りました。その人は少しニュウファウンドのなまりを入れて演説をはじめました。 「異教論難に対し私はプログラムに許されてある通り宗教演説を以て答えようと思うのであります。  ヘルシウム・マットン博士の御所説は実に三段論法の典型であります。まず博士の神学を挙げて二度これを満場に承認せしめこれを以て大前提とし次にビジテリアンがこれに背くことを述べて小前提とし最後にビジテリアンが故に神に背くことを断定し菜食なる小善の故に神に背くの大罪を犯すことを暗示|致されました。実に簡潔|明瞭なる所論であります。  然るにこの典型的論理に私が多少疑問あることは最遺憾に存ずる次第であります。  第一に博士の一九二〇年代に適するようにクリスト教旧神学中より抽出されました簡潔の神学はただこの語だけで見ますればこれいかにも適当であります。今日|此処に集まりました人人はあながちクリスト教徒ばかりではありません、されどいずれの宗教に於てもこれを云わんと欲するものであります。但しこれ敢て博士の神学でもありません。これ最|普通のことであります。  第二にその神学の解釈に至っては私の最疑義を有する所であります。殊にも摂理の解釈に至っては到底博士は信者とは云われませぬ。摂理なる観念は敢てキリスト教に限らずこれ一般宗教通有のものでありますがその解釈を誤ること我が神学博士のごときもの孰れの宗教に於ても又実に多々あるのであります。今一度博士の所説を繰り返すならば私は筆記して置きましたが、読んで見ます、その中の出来事はみな神の摂理である。総ては総てはみこころである。誠に畏き極みである。主の恵み讃うべく主のみこころは測るべからざる哉、すべてこれ摂理である。み恵みである。善である。と斯うです。これを更に約言するときは斯うなります。現象は総て神の摂理中なるが故に善なりと、まあよろしいようでありますが又ごくあぶないのであります。ここの善というのは神より見たる善であります。絶対善であります。それをもし私たちから見た善と解釈するとき始めて先刻のマットン博士の所説を生じます。現象はみな善である、私が牛を食う、摂理で善である、私が怒ってマットン博士をなぐる、摂理で善である、なぜならこれは現象で摂理の中のでき事で神のみ旨は測るべからざる哉と、斯うなる、私が諸君にピストルを向けて諸君の帰国の旅費をみんな巻きあげる、大へんよろしい、私が誰かにおどされて旅費を巻きあげ損ねそうになる、一発やる、その人が死ぬ、摂理で善である。もっと面白いのはここにビジテリアンという一類が動物をたべないと云っている。神の摂理である善である然るに何故にマットン博士は東洋流に形容するならば怒髪天を衝いてこれを駁撃するか。ここに至って畢竟マットン博士の所説は自家撞着に終るものなることを示す。この結論は実にいい語であります。これ然しながら不肖私の語ではない、実にシカゴ畜産組合の肉食宣伝のパンフレット中に今朝拝見したものである。終に臨んで勇敢なるマットン博士に深甚なる敬意を寄せます。」  拍手は天幕をひるがえしそうでありました。 「大分|露骨ですね、あんまり教育家らしくもないビジテリアンですね。」と陳さんが大笑いをしながら申しました。  ところがその拍手のまだ鳴りやまないうちにもう異教徒席の中から瘠せぎすの神経質らしい人が祭壇にかけ上りました。その人は手をぶるぶる顫わせ眼もひきつっているように見えました。それでもコップの水を呑んで少し落ち着いたらしく一足進んで演説をはじめました。 「マットン博士の神学はクリスト教神学である。且つその摂理の解釈に於て少しく遺憾の点のあったことは全く前論士の如くである。然しながら茲に集られたビジテリアン諸氏中約一割の仏教徒のあることを私は知っている。私も又実は仏教徒である。クリスト教国に生れて仏教を信ずる所以はどうしても仏教が深遠だからである。自分は阿弥陀仏の化身親鸞僧正によって啓示されたる本願寺派の信徒である。則ち私は一仏教徒として我が同朋たるビジテリアンの仏教徒諸氏に一語を寄せたい。この世界は苦である、この世界に行わるるものにして一として苦ならざるものない、ここはこれみな矛盾である。みな罪悪である。吾等の心象中|微塵ばかりも善の痕跡を発見することができない。この世界に行わるる吾等の善なるものは畢竟根のない木である。吾等の感ずる正義なるものは結局自分に気持がいいというだけの事である。これは斯うでなければいけないとかこれは斯うなればよろしいとかみんなそんなものは何にもならない。動物がかあいそうだから喰べないなんということは吾等には云えたことではない。実にそれどころではないのである。ただ遥かにかの西方の覚者救済者阿弥陀仏に帰してこの矛盾の世界を離るべきである。それ然る後に於て菜食主義もよろしいのである。この事柄は敢て議論ではない、吾等の大教師にして仏の化身たる親鸞僧正がまのあたり肉食を行い爾来わが本願寺は代々これを行っている。日本信者の形容を以てすれば一つの壺の水を他の一つの壺に移すが如くに肉食を継承しているのである。次にまた仏教の創設者|釈迦牟尼を見よ。釈迦は出離の道を求めんが為に檀特山と名くる林中に於て六年|精進苦行した。一日米の実一|粒亜麻の実一粒を食したのである。されども遂にその苦行の無益を悟り山を下りて川に身を洗い村女の捧げたるクリームをとりて食し遂に法悦を得たのである。今日牛乳や鶏卵チーズバターをさえとらざるビジテリアンがある。これらは若し仏教徒ならば論を俟たず、仏教徒ならざるも又|大に参考に資すべきである。更に釈迦は集り来れる多数の信者に対して決して肉食を禁じなかった。五種|浄肉となづけてあまり残忍なる行為によらずして得たる動物の肉はこれを食することを許したのである。今日のビジテリアンは実に印度の古の聖者たちよりも食物のある点に就て厳格である。されどこれ畢竟不具である畸形である、食物のみ厳格なるも釈迦の制定したる他の律法に一も従っていない。特にビジテリアン諸氏よくこれを銘記せよ。釈迦はその晩年、その思想いよいよ円熟するに従て全く菜食主義者ではなかったようである。見よ、釈迦は最後に鍛工チェンダというものの捧げたる食物を受けた。その食物は豚肉を主としている、釈迦はこの豚肉の為に予め害したる胃腸を全く救うべからざるものにしたらしい。その為にとうとう八十一歳にしてクシナガラという処に寂滅したのである。仏教徒諸君、釈迦を見ならえ、釈迦の行為を模範とせよ。釈迦の相似形となれ、釈迦の諸徳をみなその二万分一、五万分一、或は二十万分一の縮尺に於てこれを習修せよ。然る後に菜食主義もよろしかろう。諸君の如き畸形の信者は恐らく地下の釈迦も迷惑であろう。」  拍手はテントもひるがえるばかりでした。  私はこの時あんまりひどい今の語に頭がフラッとしました。そしてまるでよろよろ出て行きました。  何を云うんだったと思ったときはもう演壇に立ってみんなを見下していました。  陳氏が一番向うでしきりに拍手していました。みんなはまるで野原の花のように見えたのです。私は云いました。 「前論士は仏教徒として菜食主義を否定し肉食論を唱えたのでありますが遺憾乍ら私は又敬虔なる釈尊の弟子として前論士の所説の誤謬を指摘せざるを得ないのであります。先ず予め茲で述べなければならないことは前論士は要するに仏教特に腐敗せる日本教権に対して一種|骨董的好奇心を有するだけで決して仏弟子でもなく仏教徒でもないということであります。これその演説中|数多如来正※知に対してあるべからざる言辞を弄したるによって明らかである。特にその最後の言を見よ、地下の釈迦も定めし迷惑であろうと、これ何たる言であるか、何人か如来を信ずるものにしてこれを地下にありというものありや、我等は決して斯の如き仏弟子の外皮を被り貢高邪曲の内心を有する悪魔の使徒を許すことはできないのである。見よ、彼は自らの芥子の種子ほどの智識を以てかの無上土を測ろうとする、その論を更に今私は繰り返すだも恥ずる処であるが実証の為にこれを指摘するならば彼は斯う云っている。クリスト教国に生れて仏教を信ずる所以はどうしても仏教が深遠だからであると。クリスト教信者諸氏、処を換えて次の如き命題を諸氏は許容するか、仏教国に生れてクリスト教を信ずる所以はどうしてもクリスト教が深遠だからであると。諸君はその軽薄に不快を禁じ得ないだろう。私から云うならば前論士の如きにいずれの教理が深遠なるや見当も何もつくものではないのである。次に前論士は吾等の世界に於ける善について述べられた。この世界に行わるる吾等の善なるものは畢竟根のない木であると、これは恐らくは如来のみ力を受けずして善はあることないという意味であろう私もそう信ずる。その次にこれは斯うなればよろしいとかこれはこうでなければいけないとかそんなものは何にもならない、とこれも私は如来のみ旨によらずして我等のみの計らいにてはそうであると思う。前論士も又その意味で云われたようである。但しただ速かにかの西方の覚者に帰せよと、これは仏教の中に於て色々|諍論のある処である。今はこれを避ける。ただ我等仏教徒はまず釈尊の所説の記録仏経に従うということだけを覚悟しよう。仏経に従うならば五種浄肉は修業未熟のものにのみ許されたこと楞迦経に明かである。これとても最後|涅槃経中には今より以後|汝等仏弟子の肉を食うことを許されずとされている。その五種浄肉とても前論士の云われた如き余り残忍なる行為によらずしてというごとき簡単なるものではない。仏教中の様々の食制に関する考は他に誰か述べられる予定があったようであるから茲にはこれを略する。但し最後に前論士は釈尊の終りに受けられた供養が豚肉であるという、何という間違いであるか豚肉ではない蕈の一種である。サンスクリットの両音相類似する所から軽卒にもあのような誤りを見たのである。茲に於てか私は前論士の結論を以て前論士に酬える。仏教徒諸君、釈迦を見ならえ、釈迦の相似形となれ、釈迦の諸徳をみなその二万分一、五万分一、或は二十万分一の縮尺に於てこれを習修せよ。ああこの語気の軽薄なることよ。私はこれを自ら言いて更にそを口にした事を恥じる。  私は次に宗教の精神より肉食しないことの当然を論じようと思う。キリスト教の精神は一言にして云わば神の愛であろう。神天地をつくり給うたとのつくるというような語は要するにわれわれに対する一つの譬喩である、表現である。マットン博士のように誤った摂理論を出さなくてもよろしい。畢竟は愛である。あらゆる生物に対する愛である。どうしてそれを殺して食べることが当然のことであろう。  仏教の精神によるならば慈悲である、如来の慈悲である完全なる智慧を具えたる愛である、仏教の出発点は一切の生物がこのように苦しくこのようにかなしい我等とこれら一切の生物と諸共にこの苦の状態を離れたいと斯う云うのである。その生物とは何であるか、そのことあまりに深刻にして諸氏の胸を傷つけるであろうがこれ真理であるから避け得ない、率直に述べようと思う。総ての生物はみな無量の劫の昔から流転に流転を重ねて来た。流転の階段は大きく分けて九つある。われらはまのあたりその二つを見る。一つのたましいはある時は人を感ずる。ある時は畜生、則ち我等が呼ぶ所の動物中に生れる。ある時は天上にも生れる。その間にはいろいろの他のたましいと近づいたり離れたりする。則ち友人や恋人や兄弟や親子やである。それらが互にはなれ又生を隔ててはもうお互に見知らない。無限の間には無限の組合せが可能である。だから我々のまわりの生物はみな永い間の親子兄弟である。異教の諸氏はこの考をあまり真剣で恐ろしいと思うだろう。恐ろしいまでこの世界は真剣な世界なのだ。私はこれだけを述べようと思ったのである。」  私は会釈して壇を下り拍手もかなり起りました。異教徒席の神学博士たちももうこれ以上論じたいような景色も見えませんでした。けれども異教徒席の中にだってみんな神学博士ばかりではありませんでした。丁度ヘッケルのような風をした眉間に大きな傷あとのある人が俄かに椅子を立ちました。私は今朝のパンフレットから考えてきっとあれは動物学者だろうと考えたのです。  その人はまるで顔をまっ赤にしてせかせかと祭壇にのぼりました。我々は寛大に拍手しました。その人はぶるぶるふるえる手でコップに水をついでのみました。コップの外へも水がすこしこぼれました。そのふるえようがあんまりひどいので私は少し神経病の疑さえももちました。ところが水をのむとその人は俄かにピタッと落ち着きました。それからごくしずかに何か云いそうに口をしましたがその語はなかなか出て来ませんでした。みんなはしんとなりました。その人は突然爆発するように叫びました。二三度どもりました。 「な、な、な何が故に、何が故に、君たちはど、ど、動物を食わないと云いながら、ひ、ひ、ひ、羊、羊の毛のシャッポをかぶるか。」その人は興奮の為にガタガタふるえてそれからやけに水をのみました。さあ大へんです。テントの中は割けるばかりの笑い声です。  陳氏ももう手を叩いてころげまわってから云いました。 「まるでジョン・ヒルガードそっくりだ。」 「ジョン・ヒルガードって何です。」私は訊ねました。 「喜劇役者ですよ。ニュウヨーク座の。けれどもヒルガードには眉間にあんな傷痕がありません。」 「なるほど。」  そのあとはもう異教徒席も異派席もしいんとしてしまって誰も演壇に立つものがありませんでした。祭司次長がしばらく式場を見まわして今のざわめきが静まってから落ちついて異教徒席へ行きました。ほかにお立ちの方はありませんかとでも云ったようでしたが誰もしんとして答えるものがありませんでしたので次長は一寸礼をして引き下がりました。 「すっかり参ったようですね。」陳氏が私に云いました。私も実際|嬉しかったのです。あんなに頑強に見えたシカゴ軍があんまりもろく粉砕されたからです。斯う云ってはなんだか野球のようですが全くそうでした。そこで電鈴がずいぶん永く鳴りました。そのすきとおった音に私の興奮した心はもう一ぺん透明なニュウファウンドランドの九月というような気分に戻りました。みんなもそうらしかったのです。陳氏は 「私はもう一発やって来ますから。」と云いながら立ちあがって出て行きました。  その時です。神学博士がまたしおしおと壇に立ちました。そしてしょんぼりと礼をして云ったのです。 「諸君、今日私は神の思召のいよいよ大きく深いことを知りました。はじめ私は混食のキリスト信者としてこの式場に臨んだのでありましたが今や神は私に敬虔なるビジテリアンの信者たることを命じたまいました。ねがわくは先輩諸氏|愚昧小生の如きをも清き諸氏の集会の中に諸氏の同朋として許したまえ。」  そして壇を下って頭を垂れて立ちました。  祭司次長がすぐ進んで握手しました。みんなは歓呼の声をあげ熱心に拍手してこの新らしい信者を迎えたのです。  すると異教席はもうめちゃめちゃでした。まっ黒になって一ぺんに立ちあがり一ぺんに壇にのぼって 「悔い改めます。許して下さい。私どももみんなビジテリアンになります。」と声をそろえて云ったのです。  祭司次長がすぐ進んで一人ずつ握手しました。そして一人ずつ壇を下ってこっちの椅子に座りました。歓呼と拍手とで一杯でした。椅子が丁度うまい工合にあったのです。何だかあんまりみんなうまい工合でした。そのとき外ではどうんと又一発陳氏ののろしがあがりました。その陳氏がもう入って来て私に軽く会釈してまだ立ちながら向うを見て云いました。 「おやおやみんな改宗しましたね、あんまりあっけない、おや椅子も丁度いい、はてな一つあいてる、そうだ、さっきのヒルガードに似た人だけまだ頑張ってる。」  なるほどさっきのおしまいの喜劇役者に肖た人はたった一人異教徒席に座って腕を組んだり髪を掻きむしったりいかにも仰山なのでみんなはとうとうひどく笑いました。 「あの男の煩悶なら一体何だかわからないですな。」陳氏が云いました。  ところがとうとうその人は立ちあがりました。そして壇にのぼりました。 「諸君、私は誤っていた。私は迷っていたのです。私は今日からビジテリアンになります。いや私は前からビジテリアンだったような気がします。どうもさっきまちがえて異教徒席に座りそのためにあんな反対演説をしたらしいのです。諸君許したまえ。且つ私考えるに本日異教徒席に座った方はみんな私のように席をちがえたのだろうと思う。どうもそうらしい。その証拠には今はみんな信者席に座っている。どうです、前異教徒諸氏そうでしょう。」  私の愕いたことは神学博士をはじめみんな一ぺんに立ちあがって 「そうです。」と答えたことです。 「そうでしょう。して見ると私はいよいよ本心に立ち帰らなければならない。私は或はご承知でしょう、ニュウヨウク座のヒルガードです。今日は私はこのお祭を賑やかにする為に祭司次長から頼まれて一つしばいをやったのです。このわれわれのやった大しばいについて不愉快なお方はどうか祭司次長にその攻撃の矢を向けて下さい。私はごく気の弱い一信者ですから。」  ヒルガードは一礼して脱兎のように壇を下りただ一つあいた席にぴたっと座ってしまいました。 「やられたな、すっかりやられた。」陳氏は笑いころげ哄笑歓呼拍手は祭場も破れるばかりでした。けれども私はあんまりこのあっけなさにぼんやりしてしまいました。あんまりぼんやりしましたので愉快なビジテリアン大祭の幻想はもうこわれました。どうかあとの所はみなさんで活動写真のおしまいのありふれた舞踏か何かを使ってご勝手にご完成をねがうしだいであります。